朽ち果つ廃墟の片隅で 第一巻

遮那

  1. 第1話 病室
  2. 第2話 おじさん
  3. 第3話 再会
  4. 第4話 義一さん
  5. 第5話 宝箱
  6. 第6話 ”親友”と”心友”
  7. 第7話 絵里さん
  8. 第8話 変化
  9. 第9話 師友
  10. 第10話 裕美
  11. 第11話 図書館 絵里さん家 忠告
  12. 第12話 裕美と琴音
  13. 第13話 受験
  14. 第14話 卒業、そして入学
  15. 第15話 新友
  16. 第16話 夏のアレコレ
  17. 第17話 花火大会
  18. 第18話 文化祭
  19. 第19話 社交(表)
  20. 第20話 夢?
  21. 第21話 コンクール(序)
  22. 第22話 聡
  23. 第23話 社交(裏)上
  24. 第24話 社交(裏)下
  25. 第25話 開錠
  26. 第26話 コンクール(上)
  27. 第27話 数寄屋 A
  28. 第28話 数寄屋 a
  29. 第29話 死に屍
  30. 第30話(休題)オーソドックス 六月号より抜粋

第1話 病室

全身を鈍く隈なく覆う痛みに目が覚めた。ただただ気怠く瞼が異様に重く感じ、開けることすら億劫に感じる程に気力を起こせない。試しに体を動かしてみようとすると、外からどうかはわからないが、耳の内側で節々がキシキシと音を鳴らして、一緒に鈍いままであった痛みが、一気に勢いを増して私自身に無理をするなと、原始的な信号を送ってくる。
 しかしその頑張りも虚しく報われず、何か硬くて頑丈なもので固定されているのか、いくら力が入らないとはいえ、全く身動きが出来ない。そもそも私は一体最後何をしていたんだっけ?
 動けないのならどうせ暇だしと、一つ考えをまとめてみようとしても、何か頭に強烈なショックを受けたか何かわからないが、うっすらと、しかし全く先を見通せる程ではないくらいの靄が一面に張り付いているようで、ただでさえ気力が湧いてこないのに、雲を掴むような虚しさしか残らなかった。
 さて、もうまどろっこしいのは止めて、覚悟を決めて目を開けるか。
 自分のものに違いないのに他人のを動かすかのように、非常に拙く恐る恐る瞼を開けると、まず目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。近くに強い光源がないためか薄暗く、どこか陰鬱な印象を受けた。
気が付いた時から不思議に思っていた、口の周りの違和感。どうやら吸入器のようなものが設置されていて、生暖かい蒸気を口元に頻りに送り続けている。首も固定されてるので周囲を見渡せなかったが、眼球だけは自由がきいたので、ふと左に動かしてみると何本かのチューブが伸びていて、すぐ脇の点滴台の上部に繋がれているようだった。こちら側からは見えなかったが部屋が薄暗かったお陰で、頭のすぐ脇に置いてある装置には液晶画面があって、断続的に緑色のライトを点滅し続けてるのがわかった。
 流石に頭の働かない私にも、今自分がおかれている状況がうっすらと把握できるようになってきた。
「そうか…ここは病院か…。で、今のこの状況…。」
と誰に言うでもなく、話せるのか確かめてみるのも含めて声に出してみた。ひどく掠れていて、聞き親しんだ自分の声とはとても思えなかったけれど、どうやら短い会話をするくらいは出来そうだ。
 今更ながら病院にいること、そして身体中を固定されていること、さっき無理に動かそうとしたツケに払わされた激痛も、今はやんわり落ち着き鈍痛に戻ったこと、どうやら自分はしこたま全身を打つような事態に遭ったようだった。
 と、こうして幼い子供のように順を追って考えを巡らせていると、ふと暗い部屋の中で精一杯私に向かって手を伸ばし、走り寄ってくる男の子の情景が真っ白な天井をスクリーン代わりにして浮かびだされた。彼は私のよく知る男の子だった。
 その情景がまざまざとはっきり輪郭を持ち始めたその頃、誰かが部屋の外でスタスタと、乾いたスリッパの音を鳴らして歩いてくるのに気づいた。段々と音が大きくなるところを見ると、どうやらこの病室に近づいているようだった。やはり想像通りすぐそこのドアの前で足音は止まり、カラカラと滑らかにスライド式のドアを引いて人が入ってきた。
 薄く目を開けて何者か見極めようと、まだ視界がボヤけているにも関わらず、静かにジッとその人物を見た。ハッキリと判別は出来なかったが、ぱっと見まだ二十代だろう、いかにも新米風な看護師が静かに私が横になっているベッドに近づき、業務に徹していた。
 あらかた片付いたのか、フッと一息ついたと思えば私の頭の上あたりに顔を近づけて来た。目を瞑っていたのだが、気配のようなものを感じすぐに察せられた。そのまま取り敢えず理由もなかったが、まだ混乱してるし急ぐわけでもなかったので落ち着くまで狸寝入りを決め込むつもりだったが、それはすぐに無理になった。
 新米看護師がおそらくそこにあるのであろう、頭に巻かれた包帯に手を伸ばし、おもむろに解こうとした時傷に触れたのか、条件反射で体がビクッと反応した。
「…え?」
私はまだ目を瞑ったままだったが、その声からあからさまに驚いているのが感じられた。
 それから看護師は慌ただしく私の枕元にある、おそらくナースコールだろう、そのボタンを押し、興奮を抑えられない調子で応援を呼んでいた。
 流石にこれ以上無視はできないと観念した私は、覚悟を決めて目を開けたが、それと同時に感じるくらいに、瞬く間に病室は十数人ほどの人々で埋め尽くされた。白衣を着た老若男女、彼等は医者だとすぐに察せられたが、その後ろ少し控えめにこちらを覗き込む、少しヨレヨレのクリーム色したビジネスコートを羽織り、半分心配してくれてるような、半分私に対して警戒、強めに言えば敵対心すら覚えさせるような表情でこちらを見ていた。四十もしくは五十を超えてるかもしれない、街中ですれ違えばすぐ忘れそうな中年のおじさんだったが、あまりにこの空間では異質で、却って悪目立ちをしていた。
そのおじさんと目が合っていたので、視線をそらすのも癪だったからジッと見ていると、人混みをかき分けてベッドの側まで近づいてくる男女がいた。先に出て来た女性は頭を後ろでまとめているが、所々髪の毛がはねていて、慌てて来たのがよくわかる様相だった。普段はしっかりしていて、人前でダラシない姿を見せるのを忌み嫌っていた人とは思えないほどの狼狽振りだった。私のよく知る人だ。母だった。
 母は私の姿を認めると口元に手を当て、気丈でいようとしていたみたいだが堪えきれず大粒の涙をこぼし、途中までゆっくりと静かに近づいて来たが、急にベッドに駆け寄り私の胸あたりの布団に顔を埋めた。
「琴音…琴音!」
母は何か言うでもなく、ひたすら涙声で私の名前を呼びかけ続けた。こんな母を見るのは生まれて物心付いてからは初めて見る姿だった。遅れて近寄って来た男性は、表情に疲れが見えたが、ロマンスグレーの髪の毛はしっかりとセットされていた。が、いつもと違っていたのは男性も他の医者と同じ様に白衣姿であったことだ。そして、周りの医者が男性に向かって深々とお辞儀をしている。今更ながら初めて仕事姿を見て、本当に医者なんだと実感が湧いて来た。父だ。
 父は母と打って変わって何も動じていないかのように微動だにせず立っていたが、顔には憐れみとも、すまなそうともなんとも言えない表情を浮かべて、私の方を口も開かず静かに見ているだけだった。そうか、ここはお父さんの…。
 しばらくすると担当医師と思しき老齢の男性医者が両親に向かって、私の体のことだろう、何か色々と話しこみ始めた。皆の意識が両親と医者に向いたので、改めて独り考えに向かうことが出来た。先ほど思い出した情景はもうハッキリと今となっては思い出せた。どうしてそのようになったのかも。
ふと思いも寄らず、呆れともなんとも言えない苦笑が漏れた。そして誰も聞いていないのをいいことに、何もない天井に向かって、ため息交じりにボソッと声を発した。
「結局死ねなかったよ…義一さん」

第2話 おじさん

「ほら、琴音。起きなさい。もう着いたわよ」
「うーん…」
 目を擦り起きたのは車の後部座席だった。起こしてくれたママは、全身を基本黒い服で纏めていて、今まで見たこと無かった装いだったが、背も高く背筋もピシッとしていて、子供ながらに立ち居振る舞いに無駄がなく精錬されているのがわかった。スラッとしている姿が友達や同級生のママとは違って見えて、自慢だった。
「二人共、何をもたもたしているんだい?早く外に出なさい」
「はい、パパ」
 パパは車のトランクを開けてお花やら紙袋などを取り出しながら、こちらに声を掛けた。
パパもママと似たように黒で統一されたスーツを着て、下のワイシャツは真っ白だったけどネクタイも真っ黒だった。パパも背が高くて、友達のパパとかはお腹が出てたりするのに、ママと同じようにやはりスラッとしていて、また幼いながらにパパが医者をしているというのは凄いことなんだと、事あるごとに近所の大人たちに言われるので、私の中でパパというのは立派で偉い人なんだというのが脳裏にこびりついていた。
 かくいう私も、今日は真っ黒というそんなに好きな色では無かったけれど、襟元が真っ白でよく見るとお花が象られている可愛いワンピースを着ているせいか、普段よりも訳も分からずウキウキしていた。
 デパートに行ってこの服を着た時に、絵本で見た可愛らしい魔女に似ていて、これを買って貰った時は、当時まだ小学校二年になろうかという頃の私には、何よりものプレゼントだった。
 ようやく着れる機会が訪れ、何度も説明されたはずだったけど、てっきり大きなお城があるような遊園地に連れてって貰えると期待していたが、今こうして車から降り周りを見渡して見てガッカリした。たまに車で前を通り過ぎていたお寺だったからだ。
 でも確かにガッカリしたけど子供ながらに、あのパパママにはしっかりしているワガママじゃない子でありたかったから、多分ブー垂れた表情はしていただろうけれど、何も言わずお寺の正面玄関に向かう二人の後についていった。
「今日はお世話になります」
パパは言いながら紙袋から額に入れた写真と位牌を受付のおばさんに渡した。
「どうもお疲れ様です。他の皆様は先に来られてますよ。いつもの控え室にいらしてます」
「そうですか。有り難うございます。ではよろしくお願いします」
 私達は下駄箱で靴を脱ぎスリッパを履いて、私は辿々しく、少し音を立てながらワックスで磨き上げられた廊下を通り控え室へと向かった。
 中に入って見るとパパと同い年くらいの男女が、これもまた同じように黒い服装に身を包み、用意されたお茶やお菓子を食べながら談笑していた。皆私の知らない人達だった。
と一人のおじさんがこっちに気づくと、手をふり笑顔で話しかけてきた。
「やぁやぁ!喪主が一番遅れちゃいけんじゃないか?」
と、やや非難めいた言葉を吐いたが満面の笑みだ。
「そう言わないでくれよ聡兄さん」
「兄さん?」
と私が気になったのでとっさにパパに聞き返した。
「パパのお兄ちゃんなの?」
とパパに聞いたつもりだったが、聡は私に気づくとまた人懐っこい笑顔を浮かべて、私と視線が合うようにしゃがみこみ、そして答えた。
「そうだよ嬢ちゃん。君のパパ、栄一の兄ちゃんだ」
「いやいや違うだろ」
と間髪入れずパパは聡にツッコミを入れた。おウチでは見たことなかったパパの姿に、私は思わず吹き出し笑ってしまった。
「お、嬢ちゃん。笑いがわかってるねぇ。いいぞ」
「ほら、娘が本気にするから。このおじさんはな」
とまだ笑顔を顔に湛えたまま、パパは聡の肩に手を掛けながら私に話した。
「私のパパの妹の子供だよ。つまりは従兄弟さ。琴音、従兄弟はわかるね?」
「うん、なんとなく」
と私がパパの方を見て答えると、また聡が笑顔で親しげに話しかけてきた。
「嬢ちゃん。名前は琴音だったね。今何歳になるの?」
「7歳」
「来月から小学校の二年生だよ」
「は?…あ、そうかい。てことは琴音にとっての爺ちゃんが亡くなった時は…」
「生まれてはいたけど何ヶ月かってとこじゃないかな?」
「そうか。琴音ちゃん、俺の事覚えてるかい?」
「えっと…」
とっさに振られて私は上目遣いでパパを見ると、すぐに察したらしく頭を撫でながら
「何だ、琴音らしくないぞ。覚えてなかったら素直に言えばいいんだ。あなたみたいな中年のおじさんは知らないですって」
「おいおい、ひどいな」
「えっと…覚えて…ないです」
私はパパのスーツの裾を掴み、ドギマギしながら答えた。すると聡はしばらく表情を暗くし、大げさに肩を落とす仕草をしていたが、すぐ笑顔に戻り
「そりゃそうだろうな。なんせ前回は今から三年か四年前だもんな。でも」
聡は話を一旦打切り、控え室をぐるっと見渡すとまた私に視線を戻し
「同じ日付同じ部屋で会ってたんだぜ?」
「へぇ…」
「まぁ俺らが早く来すぎちまっただけだから、まだしばらくあるし、ゆっくりしてなよ。ところで栄一、今日の七回忌なんだが…」
聡は私の頭をひと撫でしたかと思うと、パパを連れ立って部屋の外に出ていってしまった。
 聡との余りに強烈な会話をしたせいで、今自分がどこにいるのか忘れてしまうぐらいに惚けてしまったが、落ち着きを取り戻し周りを見渡すと、同い年の子がいないことに気づいた。つまんないな…そう言えばママは?と、ママの方を見て見ると、こちらもまたママと同じくらいのおばさんと和かに、すっかり私のことを忘れて話し込んでいた。
 すっかり手持ち無沙汰になり、ひとり椅子に座って好きでもない苦くて渋いお茶を、ふうふう息を吹きかけながら飲んでいると、少し慌ただしげに乱暴にドアを開ける音がした。
 音のした方を見ると、また見た事のない男の人がドアの前に立っていた。一瞬辺りは静かになり、皆の視線は男に集中したが、中々話しかける人はいなかった。男は男ではにかみながら頭を掻いていたが、この状況をどうにかしようとはしてないらしく、突っ立っているだけだった。この男も同じように黒い服を着ていたが、どこか他の大人の人とは違って見えた。それはおそらく女の人かと思うくらい肩にかかるかかからないかくらいの長髪だからかも知れない。
 私は男が入って来た時からずっと観察していたら、ふと男と目があった。私はギクッとして視線を逸らそうとしたが、目にかかるほどの前髪をかき上げて笑顔を向けられた時、身に覚えがあるのに気付いた。えっと…誰だっけ?
「おいおい、出入り口に立ってたら邪魔だろ?どいてくれ…っておぉ!」
と何か用事を済ましたらしい聡が戻って来たと思いきや、男を見るなりさっき私に見せた同じ笑顔を男に向けて話しかけた。
「ちゃんと来たか!今回は来ないかと思ったぞ」
「まぁ一応…父さんの七周忌だしね」
と聡の勢いに押されているのか、男は苦笑いを浮かべながら答えた。
「聡兄さんそんなところで何を…あっ」
と遅れて入って来たパパは男の姿を見るなり、何とも言えない、苦々しいとまでは言えないけれど、歓迎はしてない表情をした。男は少しドキドキしてるのか、どうパパに接すればいいのか、距離感がつかめない調子で話しかけた。
「や、やぁ兄さん。久しぶりだな」
「…久しぶりだな、義一」
と感情のない口調で一言挨拶すると、ママたちがまだおしゃべりしている集まりの方へ行ってしまった。一部始終を見ていた聡も流石に苦笑いを浮かべながら
「相変わらずだな、お前ら兄弟は」
「まぁ、いつもの事だからね」
と男も力無い笑みで返した。同じように一部始終を見ていた私も、今来たこの男がパパと話していたこともあり、短い会話の中でどうしても聞き捨てならないところがあったりで、人見知りな性格よりも好奇心の方が勝り、思い切って話しかけてみることにした。椅子から降りて恐る恐る近づくと、数メートル先で二人が私に気づいた。先に口火を切ったのはやはり聡だった。
「お、琴音。何か用かい?ていうか」
聡は親指を立てて、その先を男に向けながら
「こいつに用かな?」
「えっと…そ、そう」
私はモジモジしながら、チラチラ男の方に視線を送りつつ答えた。
「だとよ義一。お前この嬢ちゃんのこと覚えてるかい?」
聡に聞かれた男はさっきまで合わせなかった視線を私にまっすぐ向けた。時折前髪が邪魔なのか、鬱陶しげにかき上げながら。
「あぁ…覚えてるよ。琴音ちゃんだろ?」
「え?私の名前も知ってるの?」
 意外だった。さっき遠くから会話を聞いてた限りでは、私の話題なんか無かったし、当然名前を知るすべは無かったからだ。でも後になって思えば変でも何でもない。何せこの人はパパの弟なんだから。でも、それでもそう思ってしまったのは、この人がこの空間の中で馴染めていなくて浮いていたからだと思う。咄嗟に答えた私の返事に悪い気もしなかったのか、続けて
「そうだよ。確か三回忌の時に君を見たんだけど、流石に覚えてないよね」
「あったりまえだろ!俺の事だって覚えてなかったんだから」
「それは凄いね。こんなにうるさいのに。一度見れば忘れたくても忘れられないよ」
「なんか言ったか?」
聡はパパとの会話と同じように、わざと怒ったように見せたが、すぐ笑顔になって男の背中をバシバシ叩いていた。
「じゃあ改めて自己紹介しないとな。ほら」
と聡は儀一の背中をポンと押し出し、私により近づけさせた。男は部屋に入って来たときと同じハニカミ笑顔で、頭をポリポリ掻きながら
「本当に無茶振りするんだからな…えっと、君のパパ、栄一の弟の義一です」
と言い終わると、今度は聡が私の背中を押して、より近づけさせながら意地悪い笑みを浮かべて
「ほら嬢ちゃん。自己紹介されたら今度は自分がしなくちゃ」
「う、うん…えっと」
と言われたので私も仕方無げに、でもさっきまでの緊張感はなく笑顔で言えた。
「琴音です」
「しっかし、お前なぁ…」
聡はおもむろに義一の髪に手をかけて、梳いたり持ち上げたり遊びながら
「この髪の毛はどうにかならんのか?お前自身もそうだろうが、周りのお前を見る、少なくとも俺には見てるだけで鬱陶しいぞ」
「もちろん僕も鬱陶しいんだけど中々出不精で、今日こそ切りに行くぞと思うんだけど途中で挫折しちゃうんだよ」
「何じゃそれ…?ん?琴音どうした?」
「いや、だって…」
いつの間にか私はクスクスと爆笑とまではいかないまでも、笑いを堪えきれず吹き出してしまった。
「だって、髪切りに行くだけで凄い大変なことしに行くかのように言うんだもん」
「確かになぁ…昔からコイツは何かずれてんだよ」
とまた義一の髪を弄びながら聡は呆れた調子で答えた。
「そうだ義一、ちょっと待ってろ。確かカミさんがヘアゴム持ってたはずだから。おーい」
聡はおもむろにママたちの方へと歩いていき、何か会話をして、集団の中の一人から手渡されたかと思うと、また此方へ戻って来た。
「ほら、後ろを向け。縛ってやる」
「うん…あ、いった」
「我慢しろ。俺だって野郎の髪なんか触りたくないんだから。乱暴されたくなけりゃ、今度からせめて縛ってから来い」
さっき散々パラその男の髪をいじり倒していた人のセリフとは思えなかったが、それでも結局丁寧に肩まであった髪の毛を後ろで綺麗に纏め上げた。
「どうだ、琴音。顔が見える方がいいだろう?」
「…うん。その方がいいよ」
「そうかい?…これぐらいは頑張るか」
「頑張るってほどじゃないだろう」
 聡と義一が笑いあってる傍で、改めて義一の露わになった全貌をマジマジと見た。そうか、どっかで見たことあると思ったら、パパにそっくりなんだ。流石兄弟なんだな…。パパと同じで義一も目や鼻といったパーツが結構はっきりしていて、二人とも痩せ型だから余計に中性的な、下手すると女性に間違われそうな程だ。
 さっきまではにかんだ遠慮がちな笑みしか見せなかったが、今の義一は心なしか、心の底から笑ってるように私には感じた。
「望月さん…」
と、ちょうどその時、部屋のドアがノックされて先程受付をしていたおばさんが静々と中に入って来た。
「ご歓談のところ申し訳ありません。支度が整いましたので、ご本堂までお願いいたします」
本堂に着くと、さっきパパが受付に渡していた位牌と写真がすでに飾られていて、私たち家族と今回来た親戚の分の椅子が、余裕を持って用意されていた。各々椅子に座り、住職が来るのを待つ間、義一の姿を探すと、少し離れた所に独りヒッソリと座っていた。
 住職のお経や挨拶も済み、すぐ裏のお墓までお塔婆や花などを持って行くときも、墓の前で線香あげる時も、いつも一歩離れている感じだった。
 一通り済ませて皆して控え室に戻ると、さっきと違うテーブルが用意されてその上には、たまにポストに来るチラシに書いてあるみたいな寿司が幾つか並べられていた。
「えぇー、今日は忙しい中…」
とパパが献杯の挨拶をしてる時、また義一の方を見ると、義一は義一で写真立て、私が見ることが叶わなかった、私にとってはお爺ちゃんの写真を静かにジッと見ていた。
「では、献杯」

 一度食事が始まるとすぐに和気藹々とした雰囲気になった。さっきはママと話していて、喋れなかったおばさん達が、私が食べている周りを囲んであれやこれやと根掘り葉掘り質問攻めしてきた。正直、両親以外の大人とこんな一遍に会話したことがなかったせいか、すっかりくたびれてしまって、何か理由をつけて逃げ出した。
 どこか落ち着けないかとフラフラしてたら、義一が独り寿司も食べず、ただ片手にビールを注いだコップを手に、相変わらずお爺ちゃんの写真を眺めていた。ふと私の視線に気付いたのか、私の姿を認めると優しく微笑みかけて呼びかけた。
「…やぁ琴音ちゃん。独りかい?」
「うん。まあね」
私は義一が座っている椅子から一つ離れた椅子に座りながら答えた。
「おじさんは何をしていたの?」
「僕かい?僕は…」
義一は私の方を見ていたが、視線を写真の方に向けながら
「父さん…お爺ちゃんを見ていたのさ」
「ふーん…」
私も一緒にお爺ちゃんの写真を眺めながら言った。足をパタパタさせながら
「ねぇ。お爺ちゃんってどんな人だったの?」
「ん?そうだな…」
とここで義一は顎を上げて視線を宙空に投げながら答えた。
「僕と琴音ちゃんのパパにとってのパパ、要はお爺ちゃんだね。名前は、望月誠三郎。琴音ちゃんのパパが勤めてる…仕事してるのは病院だって知ってるかい?」
「知ってるよ。お医者さんなんだもん」
「そう。君のパパは今そこで副院長をしてるんだけど、その病院は元々琴音ちゃんのお爺ちゃんが始めたんだよ」
「へぇー、そうなんだ。じゃあお爺ちゃんも偉かったんだ」
と私が言うと、こちらを少し見て何とも複雑そうな表情を浮かべながらまた続けた。
「『も』か…。まぁ偉かったのかどうかは分からなかったし、今も分からないけど粋人だったよ」
「す…スイジン?あの水の神様の…?」
「え?…あぁ!いや違うよ」
と最初は訝っていたが、ハッと気付いたようで、またすぐ聡と会話してたような笑みを見せた。
「粋人ていうのは、そうだね…なんて言えばいいのか。お洒落?な人かな…わかる?」
「うーん…わかんない」
「だよね…まぁとりあえず、普通の人よりも好きなものが多かったって事かな」
「あぁ、それならわかる!」
「よかった。でも琴音ちゃん、水の神様の水神なんて、よく知ってたね?」
「うん、お家に水の神様の絵が飾ってあったから。前にパパに教えてもらったの」
「あぁ、そっか…あの絵は琴音ちゃん家にあったんだ」
と義一はまた宙空、いやもっと遠くを見るかのように目を細めて呟いた。
その様子を見た私は急に張り切って
「そんなにもし見たいなら、琴音の家に来たらいいよ。おじさんならパパに言って来れるでしょ?」
と何も考えなしで言うと、またさっき私が粋人を間違えたときと同じようにキョトンとしたが、今度は寂しそうな顔をして
「そうだねぇ…アレは元々お爺ちゃんの絵だったんだ。僕も子供の頃よく見ていたから、たまに見たくなるんだけど…まぁ、兄さんの所にあるなら安心だな」
「ねぇおじさん」
と私は今日の一連の流れを見てて、どうしても聞きたいことを義一に投げかけることにした。
 いくら幼いとはいえ、自分でいうのも何だけど両親の顔色をそれなりに伺って過ごしていて、それなりに人の線引きが出来てるつもりでいた。このおじさんは、まだ小学低学年の、本当に幼い私にも気負いなく同じ目線で語りかけてくれたこと、要はとても正直な人だと、私の中では当時印象だけだったけどそう認識した。だから敢えて聞きづらいことを聞くことにした。
「さっき琴音が近づいた時、独りかって聞いたよね?」
「え?…うん、聞いたね」
「でも今日おじさんはずっと独りでいるよね?聡おじさんは除いて」
「…」
「おじさんはみんなと仲良くないの?喧嘩してるの?パパとも?」
最後の方は畳み掛けるように矢継ぎ早に質問してしまった。実はこの頃からすでに私はいわゆる”何でちゃん”だった。
幼稚園の頃、先生の言動に何か疑問が見つかると、今みたいに困らせる気は無くても気になったら、すぐ口から疑問が飛び出してしまう。あまり怒られた記憶はないけれど、幼稚園から帰って何度かママに「あまり先生を困らせるんじゃありません。わかりましたね?」と有無も言わせない感じで、静かに怒られたことがあった。それからは何か疑問に思っても、これはしていい質問なのか?これを聞いたらまた怒られるのか?とこの時よりもっと幼い時から自分で自分を縛り続けて来た。
 それがこんな拍子で発作のように”何でちゃん”が起きてしまうとは、自分でもビックリしていたし、また大人から文句言われて、呆れられちゃうんじゃないかと内心ビクビクだったけれど、とりあえず義一の返事を待つことにした。
 義一はまたぽかんとしていたけれど、しばらくするとふふっと笑い、そして吹き出しそうになるのを堪えながら私に視線をまっすぐ向けて答えた。
「いやぁ、なるほどね!こりゃ一本取られた。確かに独りでいる僕には言われたくなかったよね?いやぁ、失礼失礼」
義一は涙を浮かべるほどに笑顔を浮かべたので、今度は私の方がポカンとする側だった。
そんな様子を気に留めることもなく、義一は続けた。
「仲は悪くないよ。まぁ良くもないけれどね。お互い無関心でいいんじゃないかなぁ。あ、無関心は難しいか…琴音ちゃんのパパも僕も今が一番良いってことさ」
「あ、そ、そうなんだね?」
と聞いたのは私の方なのに、未だ呆気にとられたまま気の抜けた返事しかできなかった。義一はそんな私の様子を見て、少しばかり考えると何か察したようで、今度は優しい笑みで語りかけた。
「何で普通の人なら、もしかしたら怒るかもしれないことを聞いたのに、僕がむしろ笑い出したのに驚いたんだね?」
「う、うん…だって」
と私はもっと幼い頃からの話を、かい摘みながら義一に説明した。最後まで黙って目を瞑りながら義一は聞いていたが、私が話し終わると何かを反芻するように黙りこくり、ゆっくり目を開けたかと思えば、さっきと変わらぬ優しい笑みで話し始めた。少し楽しそうに。
「なるほどねぇ…確かに普通の大人はね、琴音ちゃんみたいな子供が、次から次へと質問をぶつけて来たら参っちゃうんだよ」
「で、でもどうし…!」
と言いかけて私は、大袈裟に口を両手で塞ぎ、その先を言わないように口噤んだ。その様子を見た義一は優しく私の手を取って、口元から外しながら
「ん?途中でやめることはないよ?何を言いかけたんだい?遠慮しなくていいよ?」
「じゃ、じゃあ何で大人に色々質問しちゃいけないの?何でそれで大人は困っちゃうの?」
私は思わず椅子一つ分離れて座っていたのに、身を乗り出したため、義一の隣の椅子に座ったことも気付かず、言葉を投げつけるように言った。興奮している私とは真逆に、冷静ながら微笑み浮かべて、私の頭を撫でながら
「そう。それでいいんだ。むしろそれが大事なことなんだから。そうだな…」
義一は顎に手を当てて考えるポーズをしたと思うと私に視線を戻して答えた。
「それはね…本当は琴音ちゃんが聞いてるその大人も、実のところ良くわかってないからなんだよ」
「…え?どういうこと?」
「つまりまず君自身のことを考えてみればいいのさ。琴音ちゃんが聞くとき、ちゃんと答えをくれると思って聞くよね?」
「うん、それはそうだね」
「それは聞かれてる大人の方もわかっているのさ。だからちゃんと答えてあげないといけないと思う。でももしその大人の人が、正直であればあるほど困ることがある」
「え?何で?」
「それはね、質問に真面目に答えようと、大人は大人で改めて考えて見るんだけど、結局わからなかったらどう?質問に答えられないよね?どうすればいいかな?」
「うーん…琴音だったら素直にわからないっていうかな?」
と私が答えると、ますます義一の表情は優しい笑みになった。
「そうさ。それが本当は正解なんだよ。素直に『今改めて聞かれて私にもわからないんだ。じゃあ君と私とで、何でか一緒に考えよう』って言われたら、質問した琴音ちゃんはどう答える?」
「賛成ー!」
私はその場で両手を上げながら言った。
「そう。さっきも言ったけれどこれが僕も正解だと思うんだ。でも普通の大人は出来ない」
「それはまた何で?」
この頃にはすっかり義一に対して遠慮というものは無くなっていた。でもここで義一はこれまでの勢いを止めるかのように一つ息を吐いて、今度は苦笑いしながら言った。
「これ以上は流石に琴音ちゃんにはある意味難しいな。これは大人のことになってくるから、もう少し琴音ちゃんが大きくなって大人になっても今の疑問を覚えていれば、分かるかもしれないね」
「えぇー。せっかくここまで来たのに?」
と私はほっぺを膨らませて拗ねて見せた。でももちろん本気ではなかった。義一は苦笑から微笑みに表情を変えて、また優しく私の頭を撫でながら言った。
「でもこれだけは忘れないでいてね。どんなに小さな疑問、変だと感じたことはそのままにしちゃいけないよ?むしろ琴音ちゃんが今の歳でこんなにいろんな事に興味を持って、それだけじゃなく疑問に思えるというのが大事なんだ。さっきの水神の話だって、本当に驚いたんだからね。自分の家の何気無く掛かっている絵のことに興味を持って、しかも教えられたことを覚えているんだから。ただもしかしたら、今僕にしたように質問ばかりしたら、多分大人だけじゃなく同い年からも変に思われるかもしれない。これは琴音ちゃん次第だけれど、周りに変だと思われても気にしないで走られるかも大事だよ。…いやぁ」
と私がすぐそばで視線を逸らさずまっすぐ真剣に聞いてるのに恥ずかしくなったのか、はにかみ頭を掻きながら
「流石に小学生に話すような事じゃなかったかな?どうも自分が子供なせいか、相手の歳とか全部無視して喋る癖があるんだ僕は」
「でも何となくだけどおじさんの喋ることは、わかったような気がするよ」
「そうかい?それは良かった。琴音ちゃんは今のままが一番いい…っと」
「え?」
義一が視線を私の背後に流したので、私もその視線の先を見ると、パパが無表情で冷たい視線を投げ掛けながら私たちの方へゆっくり近づいて来た。そばまで来るとパパは静かに、でも重たい調子で
「琴音。いつまでお喋りをしている。そろそろ帰るよ」
「う、うん。でも…」
と私はパパに手を引かれつつ、義一の方へ視線を向けた。何かを察したのか、パパは私に投げかけたよりも、より重たい調子で言った。
「…義一。ウチの娘に何か余計な事を言ったか?」
「…いや、別に。父さんのことだよ。それだけさ」
「…ならいい。娘を見ててくれてありがとう。さぁ帰ろう」
「じゃあまたねおじさん!いつかウチにも遊びに来てね!」
私はパパに手を引かれながらも何とか後ろを振り向きながら挨拶をした。義一も優しく右手を振り返してくれたのは見えたが、正面に顔を向き変える間際、義一の表情笑顔に寂しさが差し、若干曇ったのを幼い私の心は、敏感にも受け取り察したのだった。


「どうだった琴音?久しぶりにおめかし出来て良かったでしょう?」
「う、うん…」
お家に帰る車中、ママは久しぶりに会った親戚との会話の内容などを助手席から、運転しているパパに向かって話しかけていた。一通り話し終えてから私に今度は話を振ったのだった。
「何?なんか元気がないわね?…あ、そうか」
と今度はママは後部座席に座っている私に上体ごと私に向き直り、顔いっぱいに申し訳なさを浮かべて言った。
「ごめんね。やっぱり琴音には法事は退屈だし、つまんなかったわよね?今度また別のおめかしして、琴音の行きたがってた遊園地に行きましょう?丁度春休みだしね」
「うん…とても嬉しいな」
「もう、一体どうしたのよ?そんなに元気なくして…貴方、何か知ってる?」
「え?…あぁ」
とパパはバックミラー越しに後部座席真ん中に座る私の方を、チラッと見ながら
「俺が迎えに行くまで義一とお喋りしてたみたいなんだ」
義一の名前を出すとママは急に辿々しくなった。
「へ、へぇ…義一さんと?琴音、そうなの?」
「…うん、そうだよ」
「ふーん、そっか…」
と言うと、さっきまで止めどなくしていたお喋りがパタンと止み、車内は暫く静寂に包まれた。
 繰り返して言うようだけれど、私は私で線をはっきりと引いて、触れていいもの駄目なものくらいの分別はついてるつもりだった。でもこの時ばかりはリスクを承知で言わずには居れなかった。
「…ねぇ、パパ、ママ?」
「な、何かしら琴音?」
「もし琴音が来て欲しいって言ったら…さぁ」
「…」
「義一おじさん、ウチに遊びに来てくれるかな?…なんて」
「…うーん、どうかな?…ねぇ貴方?」
「…」
また暫く沈黙が続いた。気づくと外は真っ暗になって夜の帳が降りていた。時折通り過ぎる対向車のライト、街灯、前に止まる赤のランプが車内を照らしていた。パパは何かを決断するかのようにフゥッと息を一つ長く吹くと、静かに言った。
「…いや、やっぱりダメだ」
「え!?どうして!?」
私は思わずシートベルトを締めてるのも忘れて前方に乗り出そうとする勢いで、運転席に向かって前のめりになった。
「こら、琴音。危ないからちゃんと座ってなさい」
「ねぇ、どうして駄目なの?パパ!」
「…琴音」
パパは義一に対してしたのと同じ様に低い調子で、静かに諭す様に言った。
「パパがいつも琴音の事を第一に考えているのはわかるね?琴音が義一おじさんと仲良くなるのは、将来琴音の為にならないから反対するんだ。何も意地悪したくて言うんじゃない…わかるね?」
「で、でも…」
それでも幼い私は何とか食い下がろうとしたが、パパはまた一段かい調子を低くして、今度は最後通告を突きつけるかの様に言った。
「…琴音。お前はそんなに聞き分けのない子供だったかい?」
「…ううん。…わかったよパパ」
「は、はい!この話はもうおしまい。せっかく家族で外出したんだから、何か美味しいもの食べて行きましょう」
「そ、そうだね」
 そこから先はよく覚えていない。何か美味しいものを食べたんだろうけど、何も記憶には残っていない。二つだけ鮮明に覚えているのは、家に着いて疲れたからと早々に自分の部屋のベッドに入った時のことだ。ベッドの中には入ったものの、車の中でのやり取りを思い出し、なぜあんなに今日会ったばかりのおじさんに、ここまで入れ込む程肩を持つ様な真似を、今まで大きな反発をしないでいたのに、何故あのおじさんのことで事を荒げる様な真似をしなくちゃいけなかったか、幼心にもあまりに不思議で混乱しっぱなしだった。その影響かどうか分からないけど、ベッドに入ってから涙だけは止まらなかった。
 これも一つの思い出だけど、もう一つある意味決定的な、私自身の価値観を揺るがすキッカケ、キッカケにしてはあまりに強烈だったことが、深夜にたまたま目を覚ました時に起こった。
 眠れないといいつつも少しウトウトしていたのか、自分の中では起き続けていたつもりだったけど、時計を見ると11時を回っていた。トイレに行こうとベッドから出て向かう途中、リビングの前を通った時、ドアの一部が擦りガラスになっていて、そこから光が漏れているのに気付いた。まだパパとママ起きているのか…。考えてみればこんな時間に起きていたことが無かったから知らなくて当然かと、そのまま素通りしようとすると、中からひそひそ声が聞こえた。
 便意よりも興味の方が勝ってしまい、忍び足でドアに近づき耳を直に当てて聞いてみることにした。まず聞こえたのはママの声からだった。
「ねぇ、さっきの車の中でのことだけど…」
「うん…?」
パパもママに合わせてか同じ音量で返事した。
「あの子はまだ小学生、しかもまだ低学年なんだから、もう少し優しく説いてあげてもよかったんじゃない?」
「…」
パパは黙ったままでいる。
「それに前から言われていて、説明もしてもらって、私なりに納得していたつもりだったけれど、貴方は昔から義一さんが絡むといつもと打って変わってしまうんだから…ねぇ」
「うるせぇ…」
「え?」
「うるせぇって言ったんだこのアマ!」
「きゃあ!」
急に怒声が鳴り響いたので、ドア越しに聞いてた私も危うく悲鳴を上げそうになったが、何とかすんでのところで堪えた。
「あ、貴方!あの子が起きちゃう!」
「いいか!分かってないようだからもう一度言う…。アイツはこの家系の面汚しだ。死んだ親父に何故可愛がられたかしらんが、遺産も少し貰い、今アイツが住んでいるのは親父がコレクター保管用に借りた保管庫がわりのボロ小屋だ。アレコレ理屈をこねくり回し、理由をつけては定職につかずにあの歳になっている。アイツも俺の七個下だから今年二十九歳だ。あんなロクデナシと琴音を親しくさせたくない。お前からあの子が幼稚園の頃先生に言われたと、その話を聞いた時に真っ先に頭を過ぎったのはアイツだった。遺伝子なんてものは、俺は医者だが性格的なものまで遺伝するなんて信じていない。いや、馬鹿馬鹿しくて考えたこともない。あれから数年頭の片隅から離れることはなかった。それが何の因果か今日だ!」
とここでまたパパは声を荒げた。ママの声はしない。黙って聞いているようだった。
「アイツの数少ない長所は、分を弁えてるところだった。今日だって初めの方はアイツは自分から進んで一つ離れて過ごしていた。人畜無害のモノとして。それで油断した俺が馬鹿だった。気付けばアイツと琴音が二人で何やら楽しそうに喋ってるじゃないか。遠くからしか見えなかったが琴音のあんなに真剣で、また何かに身を乗り出すような姿を見たのは初めてだった。
それを見た時、新しい一面が見れて嬉しかった反面、身体中に悪寒が走った。すぐに事の重大さが分かった。…それで今日はもう少し寺にいるつもりが、早めに切り上げたんだ…」
ドア越しにまで聞こえるほど、パパは大きな溜め息を吐いた。すすり泣きが聞こえる。ママのようだ。パパはいつもママと私に話しかけるような、いつもの優しい囁きかけるようなトーンで落ち着きを払いながら言った。
「…さっきは怒鳴り声をあげて悪かった。あの子に聞こえてないといいんだが…。さぁ私達も今日は疲れた…今日はもう寝よう」
リビングにあるソファーから立ち上がる気配を感じ、私は足音をなるべく殺しながら自室へと足早に戻った。ベッドに上がり、頭から布団を被り、また思いがけず涙を流した。相変わらず理由は分からなかったが、最初のと理由が違うことだけは分かった。

第3話 再会

「それじゃ先生、さようなら」
「はい、さよなら。気をつけて帰って、ちゃんと練習するのよ」
 あれから三年経って、私は小学五年生になった。今はこうして、お母さんの友達が開いている、自宅から歩いてすぐのピアノ教室に通っていて、今から帰るところだ。考えて見ればあの後すぐからだから、三年間続けている。先生の自宅で開いてる形式で、練習の合間に、手作りのマフィンとかお菓子を出してくれたりするのが、現金だけれどとても気に入っていた。
 それも一つの理由だったけれど、ピアノ弾く事自体に魅力があったのは勿論だ。背も両親に似たのか、グングン伸びていて、背の順では女の子の中では後ろから二番目くらい、男の子と比べても劣らないほどだった。初めて先生に会った時はあまり言われなかったが、最近背が伸びたことを頻りに褒めてくる。ピアノなどの楽器を弾く上では、一つの長所らしい。でも、そもそも私の意志で大きくなった訳じゃないから言われる度に、喜んでいいのか分からず、愛想笑いをとりあえずしとくのだった。
 生まれた頃からこの近所に住んでいた。四、五分歩くと土手が目の前に立ちはだかり、その土手に沿うように高速道路が走っている。えっほえっほと土手を上がると、すぐそこには緩やかに流れる川が流れていて、土手と川の間には草野球やサッカーが出来る、結構本格的に整備された施設があって、土日は親子連れや色んな人々で賑わっていた。
 最近レッスンが終わると、真っ直ぐ帰らずにわざわざ反対方向の土手まで、寄り道して帰るのが日課だった。学校が終わり、二時間くらい受講して、こうして土手に上がると、西の空は太陽がすでに沈んでいるのにまだオレンジ色に明るくて、東の空を見て見れば、そこはすっかり夜になっているのが、とても面白かった。ちょうど自分が立っている所を境に、昼と夜が別れていると言う風に設定して、この世界の今この瞬間、一番幻想的で綺麗な景色に気づいているのが、私だけだという根拠のまるでない優越感が半分、もう半分は東の空から迫る夜に、何処と無く得体の知れない魔物が棲んでいるような怪しい気配を感じ、薄ら寒い気味悪さを覚えていた。
さて…帰ろうかな。踵を返そうと来た道を振り返り見たら、ちょうどその時、土手の斜面に起き上がる人影が見えた。
 あんなところに人が居たんだ…さっき前通ったのに気づかなかったけど。
 西日もすっかり弱まり、辺りは薄暗く、ましてこの辺りには街灯がなかったし、もう五年生だったけど、いつも心の何処かに気味悪さを残しながら家路についていたから、余計に突拍子も無く予想もしてなかった出来事に遭遇して、金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くしていた。
 一体誰だろう…?ヤバイ人だったら逃げ切れるかな…?と、頭の中はこの後起こるかもしれない、最悪の事態に思いを巡らしてると、その起きあがった人物が声を掛けてきた。
「ふぁーあ…え?…アレ?もしかして…琴音ちゃん?」
「…え?」
今起きたところなのだろう。如何にも寝起きな、力の抜けた声を出しながら伸びをし、その一連の流れでたまたま顔がこちらに向いた時、私と視線があった。先程より一層暗闇が濃くなり出していたが、この声、あの長髪、そしてお父さんにそっくりな中性的な顔。見間違える訳が無い。
「もしかして…おじさん?」
「あぁ!やっぱり!いやー、良かった」
義一は適当に上のシャツとジーンズをはたきながら、私のいる土手の上部の遊歩道まで上がって来ながら言った。三年ぶりだし、会うことなんて微塵も想定していなかったから、暗がりでもはっきり顔がわかる距離まで近づいても、私はボーっと呆けていた。そんな私の様子に遠慮なく
「いやー、久しぶりだったからね。体も大きくなってるし、他人の空似で赤の他人だったらどうしようかと内心ビクビクだったよ。今のご時世、僕みたいな如何にも怪しいおじさんに話しかけられたら、ニュースになっちゃうからね。」
と、堰を切ったように、一方的に話していたが、ようやく止まり、あの懐かしい、三年経っても変わってない優しい調子で喋り掛けた。
「久しぶり…琴音ちゃん」
「…久しぶり、おじさん」 
「しっかしまぁ…」
義一は私の全身を見渡しながら顎に手を当てる、あの考える時のポーズをとりながらしみじみと言った。
「本当に大きくなったね。見違えたよ」
「…さっきは一目で私に気付いたでしょうに」
私は咄嗟に生意気な調子で答えてしまった。
「え?…あぁ!ははは、全くその通りだね」
「ふふ」
あれから私達は二人で土手から川と反対側に降り、「送ってあげるよ、すっかりもう暗いからね」と言うので、私の家までの道を並んで歩いていた。
「へぇ、ピアノね。まさに琴音ちゃんにピッタリだ」
「え?なんで?」
「だって…」
進行方向向いていた顔をこちらに向けて、さも大発見をしたかのように得意げに
「名前が”琴音”でしょ?”琴”の”音”。如何にも音楽に関連してそうじゃない?」
「私が習ってるのは”琴”じゃ無くて”ピアノ”なんだけれど?」
と、私も意地悪い表情を作りニヤケながら答えた。義一は大袈裟に落ち込んでみせて、肩を落としたが、すぐ背筋を伸ばし頭の後ろに両手を回しながら
「細かいところ気にするねー。でもまぁ」
再び義一は私の方へ向き、そして微笑を湛えながら
「それでこそ、琴音ちゃんって感じもするなぁ」
「約三年ぶりで、お寺で少し話しただけなのに?わかるの?」
「わかるさ」
義一は今度は子供っぽい悪戯っ子の表情を浮かべた。
「琴音ちゃんがあのまま大きくなったら、こんな感じだろうなぁ…ってあくまで想像だけどね」
「…あっそ」
「あ、生意気だねー」
私は素っ気なく答えたが、内心は何故かは分からなかったけど嬉しかった。
「で、今度は私からの質問だけれど」
「なにかな?」
「何であんな時間、土手に寝っ転がってたの?」
「そうだなぁ…あ!」
 気づくと赤信号につかまり、二人仲良く並んで立ち止まった。住宅街ではあるが、今までの道とは違って二車線の通り、明かりも強くなってお互いの姿も良く見えた。もうここから自宅はすぐそこ、ここからでも見える。ふと義一は私の肩に手を乗せて静かに言った。
「ここからなら大丈夫だね。僕はここで失礼するよ」
「え?でもせっかく…」
と先を言い掛けて慌てて口を噤んだ。三年前の時を思い出したのだ。その私の様子を見て、すぐ察したのか、義一は優しい調子で
「やっぱり琴音ちゃんだね…本当に優しい子だ。さっきも言ったけど、思った通り変わらず育ってくれていて、とても嬉しいよ。…それじゃ」
義一は私の肩から手を話すと、元来た道へ歩み始めた。
「あ、あの!?」
「ん?」
私は慌てて向き直り、信号が青に変わったのに気にせず義一へ駆け寄った。
「また…会えるよね?」
「え!?…うーん」
私の必死の懇願に、先程まで冷静を装っていた義一も若干動揺したようだが、すぐに苦笑いを浮かべ頭を掻いていた。何とか体の良い言い訳を探すかのように少しの間唸っていたが、また優しい調子で言った。
「…そうだね。もし運が良ければ、あの土手で会えるかもしれないかな」
「本当に?行けば良いのね?」
「”運”が良ければだよ」
義一はまたゆっくりと歩き始めた。私はその後ろ姿を見て、今また呼びかけても立ち止まってくれないんだろうな、そしてそれは本当なんだろうと察し、街灯の少ない暗闇に溶けてゆく義一の背中、すっかり見えなくなるまで、信号が変わるのも気にせず見つめ続けた。

玄関の鍵を開けると、その音に気付いたお母さんが、夕食の支度中なのか、エプロン姿で手をタオルで拭きながらやって来た。
「ただいまー」
「お帰りなさい。どうしたの?少し遅かったわね?」
「えーっと…」
当然理由を聞かれると思っていたから、玄関に着くまでアレコレ言い訳考えていたけど、その時は妙案は浮かばなかった。が、改めて聞かれて咄嗟に思いついた。
「しばらく会ってなかった”友達”に会ってね、ちょっと話し過ぎちゃった」
「しょうがないわねー。その顔じゃ、よっぽど楽しかったんでしょ?」
「え?」
お母さんは口調は呆れ気味だったけれど、でも笑顔で思いもしないことを言ったので、私は顔をあちこちイタズラに撫でた。
「でもせっかく携帯持ってるんだから、お喋りが終わってからでも連絡入れなさい」
「うん、次から気をつけるよ」
「じゃあ、さっさと手を洗って来なさい。夕食にしましょう」
「はーい」
半分呆れ顔のお母さんを尻目に、脱衣所にある洗面台に行って手を洗った。ふと目の前の鏡に映る自分の顔を見ると、そこには口角が気持ち上がっているニヤケ顔があった。もっとも他人にはわからないとは思うけど、お母さんにはバレたようだ。
「まさかまた会えるなんて、考えたこともないもんね」
私は両手の人差し指を口角に当て、下に引っ張りながらボソッと呟くと、夕食の用意されているリビングに足取り軽く向かった。

「それじゃあ、いただきまーす」
「はい、召し上がれ」
私とお母さんは向かい合い、お皿に盛り付けられた定番のカレーライスを食べ始めた。何の気もなく時計を見ると、夜の八時半になるところだった。
「ねぇ、お父さんは今日も遅いの?」
と私が聞くと、お母さんも時計の方を見て
「そうねぇ…琴音ももう大きくなったから、少しは分かるだろうけど、お父さん、病院で副院長、二番目に偉い人なのは知ってるわよね?」
「うん」
「お父さんよりも偉い人が、院長といって、いるんだけどね。その人が体調崩されて、もう仕事が出来ないらしいのよ」
「うん、確かお爺ちゃんの一番近くで働いていた、信用できる人だってお父さんも言ってた」
「そう。よく分かっているわね。その人の後をお父さんがやる流れなんだけど」
「てことは、お父さんが一番偉くなるんだね?」
「そうなんだけれど、色々片付けなくちゃいけないことが多くて、大変らしいのよ。お父さんはそれでも頑張ってるんだから、私達も寂しくても我慢してましょうね?」
「うん、分かってるよ」
 
食事を済ませ洗い物も手伝い、お風呂にも入って歯を磨き、お母さんに挨拶をして自室のベッドに入る頃には十時半になっていた。普段より三十分ばかり遅かった。私は仰向けになり、天井を見つめながら今頃まだ病院にいるであろうお父さんのことを想った。でもちょっともしないうちに、義一との再会で頭は占められてしまった。お父さんには済まないけど。
と同時に、先程も一瞬よぎった、三年前の苦い思い出、今考えても、誰にも落ち度があったとは思えないのに、一人残らず何かに苦しんだ三年前。今日の別れ際、義一の見せた、優しい表情の中に滲ませていた、私のことを拒むかの様な表情。そしてあの言葉。義一がもし本当に会いたくないのなら、無理に行くことは無いのかもしれない。でも…どうしても直接本人の口から理由を聞きたい。もし拒んだら、躊躇わずその理由を聞こう。きっと怒ったり、呆れたりすることなく、真剣に、真摯に、真面目に答えてくれる。
 私はここで目を開け天井を見つめ、心に決めたことを確かめる様に呟いた。
「…よし、また会いに行こう。…土手に」

第4話 義一さん

あれから放課後、ピアノのレッスン帰り、思い付きでフラッと土手の方を行ってみたが、義一と会うことは叶わなかった。義一が横たわっていた土手の斜面、川に架かる橋と橋の間を行ったり来たりしても見つけられなかった。男なのにヒョロヒョロしてて、色白く、髪も長い、本人も言っていたけど、中々怪しい姿形しているから、いくら土手が広いとは言え、いたらすぐに見つけられると踏んでいたけど、甘かったようだ。
 最後に会った四月上旬から早三ヶ月、一学期も終わり今日は終業式、明日から夏休みに入ろうとしていた。学校帰り、友達と途中まで一緒に下校し、別れた途端私は駆け足で家に向かった。玄関を開けると人の気配が無かった。まずリビングに行って見ると、テーブルの上にお母さんが残したメモがあった。「ちょっと買い物に行ってきます。もし小腹が空いたら冷蔵庫にオヤツがあるからね。 母より」
 手に取って読んだメモをまたテーブルに戻し、自室に駆け込んでランドセルと持ち帰って来た学校の荷物を降ろし、着替えて、身支度を済まし、部屋を出た。今日貰った通信簿をメモの側に置き、ふと思い付いて、私もメモを残した。「ちょっと友達と遊んで来ます。暗くなる前に帰ります。帰る前に電話するね。 琴音」
 玄関を出ると日が燦々と照り、アスファルトからは目には見えないけどモワモワした熱気を感じた。頭には赤いリボンの付いてる麦わら帽子。当時この帽子がお気に入りで、夏場外に出る時は、必ずと言っていいほど被っていた。
「さぁ、今日から時間があるから、そろそろ見つけ出してやるぞ」
「おい、何をブツブツ言ってんだよ?」
「ん?」
 土手に向かう途中、一人で気合いを入れる意味も含めて独り言を言っていると、後ろから急に話しかけられたので若干ビクッとした。振り向いて見ると、自転車に跨がり、野球帽を被った少年が仏頂面でこちらを見ていた。背丈は私より少し低いくらい、タンクトップに膝が隠れるくらいのジーパンを履いていた。よく知るその姿に、私はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、どうでもいいといった調子で答えた。
「なーんだ、ヒロかー。脅かさないでよ、いきなり話しかけて来て。ビックリするじゃない」
「へっ。お前はいつも大袈裟なんだよ」
と、ヒロは鼻を豪快に擦りながら言った。
ヒロ。森田昌弘。小学校入学時からの付き合いだ。最初出席番号順に席に座っていた時に、私の名字の望月、ヒロの名字の森田、たまたま隣同士になった頃からの腐れ縁で、今はクラスが違うけれど、変わらず関係は続いていた。
「で?何をブツブツ言ってたんだよ?」
「べっつにー。私の勝手でしょ?」
素っ気なく返事を返しながら、ヒロの格好を見て意外に思った。
「ヒロこそ、こんなところで何してるのよ?今日、練習は?」
「練習か?今日はねぇよ」
 ヒロは地元の野球チームに入っていた。練習も試合も河原のグランドでしているらしい。何度もヒロに応援にきてくれと頼まれたけれど、私は別に野球に興味がなかったから、今だに一度もヒロがしてるのを見たことがなかった。ただ、見に行ったという友達の話を聞くと、中々のものだったらしい。まぁ、どうでもいいけど。
「じゃあ何してるのよ?」
と、改めて聞いて見ると、ヒロは両肘を曲げ、手の平を空へ向け、首を大きく横に振りながら
「はぁ…出たよ。琴音の”なんでなんで攻撃”が」
「別に無理に答えなくていいよ。そこまで興味ないんだから」
「あっ!ひっでぇーこというなコイツは…」
「ま、大方ヒマな友達が居なくて自転車で意味もなく走り回ってるってトコでしょ?」
「おいおい…淡々と正解を言うなよ。こっちが何も言えねぇじゃねぇか」
ヒロはうんざりした感じで言ったが、これが私達のいつもの会話なのでお互いに慣れっこだ。
「そこまで言う琴音は、これからどこに行こうってんだよ?」
「わ、私は…」
 私は咄嗟に答えられなかった。あまりよく知らない、どこにいるか分からないおじさんを、当てもないのに捜しに行くだなんて言ったら、益々ヒロは私を小馬鹿にして煽り、からかってくるだろう。少し想像しただけで面倒臭そうだったので、ごまかす事にした。
「別に…ヒロに話す程のことじゃないよ」
「ム…何だよその言い方」
ヒロは私の言ったことの何かに引っかかったのか、ムッとしてたが、ガラッと態度を変えて頼み込むように猫なで声で喋った。
「いいじゃねぇか。教えてくれよー。ヒマなんだよー」
「知らないよ、アンタがヒマかどうかなんて…」
参った。このまま無駄な問答を繰り返してたら、今日一日の計画がパァだ。仕方ない。
「はぁ…ヒロ。ぜっったい私の邪魔をしないと誓う?」
「へ?お、おう。もちろん誓うぜ!」
「絶対よ?ぜぇっったいによ?」
「しつけぇなー。男に二言はねぇよ」
「じゃあ簡単に話すわね?実は…」
私はおじさんのことは避けて、人を探してるとだけ話した。ヒロは分かったような分からないような表情で首を傾げながら
「何となく分かったけどよー…それって面白いか?」
「だーかーらー、無理について来なくていいってば」
「いや、行くぜ!初めに渋ってたとこ見ると、何か他にありそうだからな」
 まったく、変なところで勘が良いんだから…。
「じゃあもう行きましょ。ここは暑くてたまらないわ」
 こうして予想外にできた相棒(?)を連れて、一緒に土手へと向かった。道中ヒロに、その探し人が何で土手にしか現れないんだとか、ある意味普通の質問をしてきてたけど、私にも分からないんだから答えようがなかった。
 土手の上部、遊歩道に辿り着くと、ここまでの道のりとは違って、心地よい風が吹いていて、汗ばんだ体には涼しく、とても気持ちよかった。
「んーん。気持ちいいな琴音」
「そうね…ってヒロ、目的分かってるよね?」
「分かってるよ。早速探そうぜ?で、どんな人なんだ?」
「ふーん…今まで聞いてこなかったから、最初から探す気が無いと思ってたけど、ヤル気はあるのね?」
「当たり前よ!」
ヒロは大きくガッツポーズをして見せた。この能天気さに、危うく流されそうになるのを堪えながら、説明した。
「見た目はそうね…そこそこ背が高くて色白よ」
「ふんふん」
「で、髪の毛が長くて痩せてるの」
「ほう…」
「見た目は実年齢とかなり違って見えるから、これは参考にならないかな」
「美魔女ってやつか?」
「え?」
「…え?違うのか?」
「違うよ。だって男だから」
ヒロは私の最後のセリフを聞くと、一瞬動きが止まったが、すぐまた一段と大きくリアクションを取りながら言った。
「なーんだ、男かよー。期待して損した」
「今までの会話のどこに期待を持たす点があったのよ」
と、冷静にツッこんだが、ヒロは聞いてないようだった。
「じゃあ、もう止める?」
もうここで正直諦めて帰って欲しかったが
「いーや、ここまで来たら、琴音が、あの人嫌いで通ってるあの琴音が探している男…俄然ヤル気が出て来たぜ」
「誰が人嫌いよ。…はぁ、もう勝手にして」
それから二人して土手を隈なく探したが、そもそもこのピーカン照りのせいか、私達以外にはグランドで野球をしている人と、斜面に腰掛けて日傘を差し、読書をしている女性(ヒロはチラチラ後ろを通り過ぎる時に見ていた。ああいうのが好きなのか、スケベめ)、後はチラホラ親子連れがいるだけだった。
「はぁ、ちょっと休もうぜ」
「そうね、休憩しましょ」
私達は土手の斜面に腰掛け、下のグランドの野球している人達を見ていた。ヒロが何か気が付いたように
「…なぁ、あの野球しているの、あの中にいるってことはねぇか?」
「え?…いやー、どうだろう。多分無いと思うけど」
「何だかなー…」
ヒロは後ろに両手をついて、空を見上げるような態勢になりながら愚痴をこぼした。
「そもそも、琴音の情報が少なすぎるんだよな。お前がそもそも、あんまし知らないみたいだし」
「…」
 そう。言われなくても分かっている。でも、どんなに少ない情報を手掛かりにしか探せないとしても、特に根拠はないけど、このチャンスをフイにしたら後悔する。あの三年前、おじさんと出会ってから、今まで月日が経って、おじさん程私の質問、会話を真剣に聞いてくれた人はいなかった。半分諦めていたところでの再会。私の本当の気持ちを分かってくれる、もしかしたら唯一かもしれない。ヒロの言う通り正直おじさんのことわかってるとは言えない。私の中で作り上げた理想なのかも知れない。でも、それを確かめる為にも、私はもう一度おじさんに会わなくちゃいけないんだ。
「…ーい、おーい、おい!琴音!」
「…えっ!?何!?」
「何?じゃねぇよ。急に黙りやがって。どうした?」
「え?…あ、いや…何でもない」
「ったく、熱射病にでもなったかと思ったぜ」
「大丈夫だよ。ちゃんと帽子も…あれ?」
ふと、隣座ってるヒロの向こう、日傘を差して今尚読書を続けている人の横顔を、初めて同じ高さで見えると、どこかで似ている面影が見えて、思わず吸い寄せられるように近寄って行った。
「お、おい、琴音!琴音ってば!ったく」
と、後ろで文句を言ってるヒロの事は気にせずズンズン歩き、ついに手が触れられるほどに近づいた。そして恐る恐る声を掛けた。
「…お、おじさんだよね?そうでしょ?」
丁度ヒロが追いつき、私のすぐ後ろに立った。
「おいおい、探してるのは男だろ?この人は女じゃ…」
「よく気づいたね。さすが琴音ちゃん」
とおもむろに日傘を畳んで現れたのは、白いTシャツに細身のジーパン姿の、まぎれもない義一本人だった。
「おいおい…マジか。男だったのかよ」
と、ヒロは私とは別の意味でショックを受けているようだったが、私はそんなの無視して
「おじさん!」
と何も考えないまま義一に抱きついた。
「おっと…琴音ちゃん、危ないよ。こんな斜面で…」
私達の姿を見て、また新たにヒロが違う理由でショックを受けていることは、私には知る由もなかった。

「いやー、とうとう見つかったか。二人とも喉乾いたでしょ?これ飲む?」
義一は側に置いていたバスケットから水筒を取り出しながら言った。
「…うん、ありがとう」
私は少し落ち着きを取り戻し、ヤケに用意が良いのにはツッこまずに、紙コップに注がれたスポーツドリンクを貰った。魔法瓶に入れていたからなのか、キンキンに冷えていた。私に渡した後、もう一つ紙コップを取り出し、注ぎながら今度はヒロの方を見ながら呑気な調子で
「えーっと…君も飲む?」
「…え!?あっ、はい、じゃあいただきます」
こうして三人は斜面に腰掛けて、端から見てると仲良さげに並んで飲んだ。
 まず何から話せば良いんだろう?おじさんを見つけた時何を話すか、あれこれ考え想定していたはずなのに、いざその時になったら、頭の中を色んな言葉が渦巻いて、上手く拾えず、ただ静かに黙っているしか無かった。そんな私の胸の内を察したか、また呑気な調子でヒロに話しかけた。
「君は、えっと…」
「お、俺は森田昌弘です。琴音の…あ、いや、望月さんの、一年の時からの友達です」
「へぇ、そうかい。中々しっかり挨拶できる、今時珍しい好青年だね?琴音ちゃん?」
「う、うん。私も今初めて知ったけど。こんなに外面がいいなんて」
「おい!余計なこと言うなよー。…で、あのー…」
と、ヒロは義一の顔を覗き込みながら先まで言わずにいると
「あ、僕かい?僕は琴音ちゃんのパパの弟をしている、望月義一といいます。琴音ちゃんからしたら、いわゆる叔父さんだね」
「へぇ、親戚の…」
と言いながら、ヒロは今度は私の方に向き直り眉をひそめながら
「おいおい琴音。初めから教えてくれよー。全然教えてくれないから、初めて見た時変に警戒しちまったじゃねぇか」
「警戒なんてしてたのあなた?」
「警戒?…はははは」
義一はヒロの言葉を聞いても、不機嫌になるどころか、愉快になってるようだった。私は予想通りだったが、予想していなかった、むしろ口を滑らせたことにバツが悪そうにしていたヒロがポカンとしてるのに、それにも構わず
「確かに確かに。私は見ての通り怪しい身なりをしているからね。まぁ自分では、なるべく浮かないようにしてるつもりなんだけど、君の反応はすごく真っ当だよ。はははは」
「…おい、お前のおじさん、かなり変わってるな?」
「まぁね」
ヒロが視線は義一に向けたまま、私の耳元でヒソヒソと言ったので、私も同じ調子で返した。
「さてと…」
義一はおもむろに立ち上がり、お尻をはたいて、両手を上げ大きく伸びをすると、私達の方を向き
「いつまでもこの炎天下にいるのは体に悪いから、とりあえず今日はここで解散しよう」
と言ったので、ヒロも立ち上がったが、私は慌てて
「いやいや、待ってよおじさん!まだ全然話したいことが…」
と言いかけたところで、ヒロが一緒にいることに改めて気づいて、先を言うのを躊躇った。まったく、ヒロがいるせいで…。ここまで付き合ってくれたのに、この心の中の悪態は、ヒロ相手といえども酷いとは思ったが、本心なのだから仕方がない。義一は視線を宙に投げながら、数秒考えていたが、私のそばで急にしゃがみ込み、右手で口元を隠しながらヒソヒソ声で
「琴音ちゃん、取り敢えず友達もいることだし、今日は帰りなさい」
「でも…」
「琴音ちゃん、この近くの区立図書館知ってる?」
「?…うん、知ってるけど」
「そうかい、じゃあ…」
と、今度は私と正面向かい合わせに、しゃがんだまま移動して
「そこに明日昼の一時に待ち合わせよう。都合はどうかな?」
「だ、大丈夫だと思う」
「よし!」
「おいおい、何を二人で話してんだよ?」
「あ、ごめんごめん!さぁ一緒に帰ろう」

 三人して川が見える側とは反対の斜面を降り、その麓に着いたかと思えば義一が
「じゃあ、僕はここで失礼するよ。じゃあね琴音ちゃん、あと森田くんも」
「お、おう。じゃあな、おじさん」
「あ、そうだ」
義一はまたさっきみたいに私の顔に近づき、ヒソヒソと言った。
「琴音ちゃん…夏休みの宿題ってあるよね?」
「うん」
「じゃあ明日家出る時、幾つか持って家を出てきてね?あと、ちゃんとママに図書館に行くこと言うのを忘れずに」
「別にいいけど…なんでまた?」
「いいからいいから、説明は後で。それに…」
と、義一が私から視線を逸らして、顎を一度クイっと向けたので、その方を見ると、ヒロが少し離れた所で腕組み、苛立たしげに爪先をリズム良く上下に動かしこちらを見ていた。
「友達待たしちゃ悪いし」
「おーい、琴音ー!。まだかよー!。置いてくぞー!」
「わ、わかったー!そんなに急いでるんなら、さっさと先帰ればいいでしょ!」
私は駆け足でヒロの方へと向かった。そばに着くと、改めて振り返り右手を大きく義一に見えるように振った。義一もそれに答えて簡単に振り返すとクルリと回って私達と反対方向に歩いて行った。今度は見えなくなるまで、見送らなかった。

「いやー、びっくりした。あんな大人初めて見たぜ」
ヒロは自転車を手で押しながら、しみじみ理解できないといった調子で言った。
「本当に変わってんな、お前の叔父さん」
「ふふ、変わってるでしょ?」
と、何故か得意な調子で答えた。ヒロは私の顔を見ると、何か面白くなさそうな表情で
「何だよ、そんなに伯父さんに会えて嬉しかったのか?」
「え?何でよ?」
と聞くと、ヒロは片手を使って自分の口角を持ち上げながら
「さっきからニヤケっぱなしだぜ?気味が悪い」
「気味が悪くてすみませんねー」
と軽く流しながら、ほっぺの辺りを適当に撫でた。自覚なかったけど、私ってそんなに表情出やすいのかしら?
「まっ、琴音が良かったなら、それでいいけどよ…で?」
「ん?」
「いやー…やっぱいい」
「何よー。変にやめないでよ。何?」
「いやー、お前…」
ヒロは私から顔を逸らしながら、とても言いにくそうに辿々しく言った。
「お前、あの叔父さんの事…どう思ってんの?」
「…え?どう言う意味?」
「どう言う意味って…あっ!」
何かを言い掛けたところで、ヒロは進行方向を向くと急に立ち止まった。私もならって止まると、いつの間にか私の家の前の通りに着いていた。ヒロは少し慌てた調子で
「もうここまでで良いよな?じゃあ、またな!あばよ!」
「あ、ちょっと!」
慌てて呼び止めようとしたのもつかの間、ヒロは自転車に跨り、一瞬も振り向きもせず一目散に通りの向こうへ行ってしまった。
「何だったのよ、アイツは」
はぁ…と大きく一つ息を吐くと、少し見えている自宅へ向かって歩き出した。玄関に手をかけようとしたところで、あっと思い出した。
「そういえば、電話するの忘れてた」

 先に買い物から帰っていたお母さんから軽く小言を頂いたが、平謝りで何とか許してもらえた。まぁ家出る時先に出しておいた通信簿の内容が、そこそこ良かったからかもしれない。成績が下がってたらネチネチまだ言われてたかも。
 この日はお父さんが珍しく夕食どきに帰ってきた。院長に新任されてから初めて、親子三人での夕食だ。ゴタゴタ続き、慌ただしく引き継ぎ、まだ慣れてない院長業務のせいか、目の周りに疲れが見えていたが、家庭に仕事を持ち込まない、愚痴を聞いた事のなかった私は、子供ながらにこの頃はまだ、お父さんを尊敬していた。
 
食事を終え寝る前の準備をして、そそくさとベッドに入った。
「明日はゆっくりと、おじさんとお話し出来るなぁ」
まるで遠足前に、興奮して寝付けずはしゃぐ子供のような心持ちだった。まぁ、まだ子供なんだけど…でも寝なくちゃ。意を決して目を瞑り、ウトウトと寝かかったその時、昼間ヒロに言われた事を、ふと思い出した。
「…おじさんの事どう思うかって?…ヒロの奴、何のつもりで聞いてきたのやら…そりゃ当然…」
と、思いを巡らしてるところで、気づけば寝落ちしてたらしく、目覚めたときには外は明るく、セミがけたたましく鳴いていた。

「それじゃあ、図書館行ってくるね」
「はーい、車に気をつけるのよ」
「うん」
昨日も被った麦わら帽子を身に付け、宿題の入った、白地にヒマワリが一本大きくプリントされたトートバッグを肩にして玄関から外に出た。
「ふぅ…今日もあっついなぁ」
見上げると空には雲一つなく、濃い青一色に塗り潰されていた。真夏日だ。
「まったく、用事がなかったら絶対外出ないのに…」
と一言恨み節を吐くと、図書館へ向かって歩いて行った。
 その図書館はよく知っていた。私の通っている小学校からは五分くらいの距離にあったが、前に授業の一環で担任の先生引率の元よく行ってたからだ。もっともその時会員証を作ってからは、一人でたまに本を借りたり読んだりする為よく通っていたので、勝手を知っていた。
全身に汗を滲ませながらもようやく辿り着き、正面玄関口のドアに手をかけ押すと、冷気が外に向かって出てきて私にも当たり、ここに来るまでにすっかり熱を帯びた体との温度差に、ホッと一息つける気持ち良さだった。中に入るとすぐ手前に受付があり、その脇には何列か等間隔に長テーブルが置いてあり、イスも幾つか置いてあった。ただこのスペースは非会員でも入れるスペースで、会員証を持ってる人は、受付の向こうのまた等間隔にある長テーブルのエリアに入れる。そこは奥に所狭しと並ぶ書庫に近いスペースで、入口付近よりも静かなので、読書や調べ物、勉強や仕事をする人には重宝されていた。
「あれ?琴音ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こんにちは」
受付の方から話しかけてきたのは、いつもここに来ると何かと世話を焼いてくれる女司書さんだ。名札には”やませ”と平仮名で書いてある。初めて会った頃に聞いてもないのに、漢字で”山瀬”と書くと教えてくれた。一緒に下の名前も”絵里”だと教えてくれて、絵里と呼んでと言われたけれど、今だに話す時は、山瀬さんだ。歳はおそらくアラサーなのだろうが、言動や振る舞いで、良くも悪くも大学生でも通じるくらいには若く見えた。中肉中背でハキハキと喋る、あまり図書館には似つかわしくないと思われたけど、私はこの人を少なからず気に入っていた。でもせっかく鼻筋が通っていて、目も細く垂れ目がちで、キャラとは真逆に品を感じるような顔立ちで可愛いのに、マッシュルームカットはどうかと思ってたけど。
「久しぶりじゃない。もう来ないと思ってたよ」
「大袈裟ですね。前来たの、二週間前ですよ」
「その二週間がどんなに長かったかぁ」
「あ、ちょっと…」
山瀬さんは私の顔を両手で抑えると、こねるように弄びながら言った。もう一つある山瀬さんの欠点は、過剰な私へのスキンシップだ。迷惑そうな私の表情で察したか、はたまた単純に満足したのか、ようやく手を離すと、さっきより声の音量を抑えて、悪戯っ子のような笑顔で言った。
「ごめんねぇ。でも琴音ちゃんがそんなに可愛いのがいけないんだぞー?ただでさえ普段は年寄りしか来ないのに、前触れもなく急に来るんだから。アタシとしては、見渡すばかり殺風景の荒れ野の中で、一輪の花を見つけたかのような…」
「はいはい、もう気持ちはよく伝わったので…」
「そう?まだ語り尽くせないんだけどなー。で、今日は借りてく?それともここで読んでくの?」
「いや、今日は…」
「琴音ちゃん、お待たせ」
 背後から呼びかけられたので振り向くとそこには、昨日とまるで同じ格好の義一がそこに立っていた。と、義一の姿を見た山瀬さんが、少し面倒そうな表情を作りつつ
「あれ、ギーさんじゃん?珍しいね、どうしたの?」
「ギーさん?」
と私が声を漏らすと、山瀬さんは興味を持たれたのが嬉しそうに意地悪く笑みを浮かべて、義一のほうを見ながら
「ほら、この人、下の名前義一でしょ?中々珍しい名前だし、漢字の一が伸ばし棒にも見えるじゃない?だから一は発音しないで”ギー”。ギーさん。自分でも結構センスあると思うんだけど、琴音ちゃんどう思う」
「こら、あまり子供を困らせるもんじゃないよ。そんな風に言われたら、違うと思っても同意しちゃうじゃないか。幼気で純粋な子供の心を利用しちゃダメだよ」
「はいはい、すみませんね”お爺ちゃん”」
「二人は知り合いなの?」
と、急に目の前で息のあった漫才(?)を見せられて、図書館の中だというのに吹き出しそうになるのを堪えてから、並ぶ二人を見ながら聞いた。義一が何か言おうとするのを待たずに山瀬さんが
「知り合いというか、大学に通ってた時、ギーさんは私の先輩だったのよ。ね!」
「まったく先輩に敬意を表さない後輩だったけどね」
「まあまあ、堅いことは言いっこなし!」
「へぇ…じゃあ山瀬さんは…」
「あっ、しまった!歳がバレる!…まっ、いっか。ギーさんの一つ下だよ。それ以上は言えませーん」
「もうそれ、言ってるから」
「それはそうと、今度はアタシからの質問」
山瀬さんが今度は私と義一を見て
「お二人はどう言った仲なの?もしかしてギーさん、あんまりモテないからって…」
「あのねぇ…この子は僕の兄さんの娘だよ。姪」
「あぁ、あの高慢ちきの…あ、失礼。へぇー」
一瞬聞こえた単語は聞こえないフリをした私を、マジマジと舐める様に見た後
「確かに言われてみれば似ているかもね。ふーん、世間は狭いね」
「そうだね、絵里が僕の住んでる街で司書してるくらいだから」
「本当本当。あははは!」
「はぁ…じゃあそろそろ出ようか、琴音ちゃん」
「え?あ、うん」
「何、もう帰っちゃうの?」
山瀬さんは不服そうに言ったが、すぐいつもの顔に戻り
「じゃあ琴音ちゃん、またね!いつでも来てくれていいんだから。あっ。ギーさんは別にいいからね」
「はいはい」
外に出ると相変わらず空気は熱気で満ち満ちていた。涼しい図書館にいる間、せっかく体感的な温度を実際の温度までは感じないくらいに”暑さに耐えられるポイント”を貯蓄出来たはずだったのに、一気に消し飛んでしまった。汗がじんわり滲み出してるのがわかる。
 ふと義一の方を見ると、汗一つかいていないで平然としている。見た目は頼りなくヒョロヒョロしてるのに、意外に暑さには強いようだ。図書館の正門前に立っているポールの先の時計を見ると1時半を指していた。
特にアテがある様には見えないが、義一がゆっくりと歩き始めたので、私も隣を一緒に歩いた。
「さてと…どこに入ろうかな?」
「え?…お店に行くの?」
と、私は意外そうに義一に言った。
「ん?お店は嫌かい?でもなぁ、また図書館に戻るのもなんだし、そもそもお喋りできないからなぁ」
「…おじさんの家」
私は少し間を開けてボソッと言った。
「おじさんの家は…ダメかな?」
「…え?」
義一は少したじろぎ、歩みを止めることなく考えていたが、私の顔を見て
「…来ても何もないよ?美味しいものもないし、女の子には汚いかもだし…」
と言ったので、私は少しムッとしながら
「あのね、おじさん。分かってて言ってると思うけど、私はおじさんにそういう”普通”のことは期待してないから。ただ…」
とここで少しうつむきながら
「ただおじさんの家も知らなかったら、また会えなくなるかもしれないでしょ?」
「それは…」
義一は言葉に詰まり、その先を言わなかったが、私は慌てて無理に明るい調子で
「また土手を当てもなく探すのもうんざりだしね!」
と義一の顔を強く見ながら、いたずらする様な表情で言った。すると義一は観念した様な、はたまた背中を押されたかの様な表情になり、笑みをこぼして
「そんな苦労をまたかけるわけにはいかないね。…じゃあそうだね、汚い所だけど来るかい?」
「うん!」

 途中でコンビニに寄り、棒付きアイスとお菓子を少し買って、アイスを二人食べながら義一の家までの道を、他愛の無い会話をしながら歩いた。
「ちゃんとママに言ってから来たかい?」
「うん。それは言ったけど…ちょっといい?」
「ん?」
「昨日会った時も言ってたけど、私もう”ママ”なんて呼んでないよ。”お母さん”」
「あ、そうなのかい?何しろ僕の中では、あのお寺で”ママ、ママ”って連呼してる琴音ちゃんの姿で止まってるから」
「ふーん、昨日言ってたおじさんの想像の中の私は”そこだけ”成長してなかったんだね」
私は意地悪い笑みを浮かべ、下から義一の顔を覗く様にして言った。
「いやはや、面目無い。ちょっと偉そうに叔父さんらしいこと言おうとしたら、コレだよ。あまり慣れないことは、するもんじゃないね」
「ふふ」
「宿題も忘れず持って来てるんだね?」
「うん。あ、今気づいたけど」
私は肩に下げたトートバッグを見ながら
「宿題持って来させたのって、図書館で会うための口実作りだったの?」
「そう、その通り。ご名答」
義一は軽く拍手をしながら言った。
「今琴音ちゃんが言わなかったら、先に訳をいう所だったよ。でも安心して。後でお母さんに詮索されない様に、宿題を見てあげるから。本当は図書館で少ししてから出ようと思ったんだけど、今日が絵里の勤務日だとは思わなくてね。ちょっと疲れちゃったから、外に逃げたんだよ。僕の個人的な事情で振り回してごめんね?」
私は正直呆れかえったけど、これも義一らしさなんだろうなと変に納得しつつ
「私を振り回してるのは、今に限ったことじゃないけどね」
「あ、また墓穴を掘っちゃったか」
義一は頭をかきながら言った。昨日もそうだったが、今日も髪の毛を後ろで縛っている。
「そういえば、今も髪切りに行くのに覚悟がいるの?」
「え?」
「いやだって三年前お寺で、聡おじさんとそんな話をしてたと思ったから」
「へぇー」
と義一は本気で感心したかの様に言った。
「よく覚えてるね。確かにそんなこと言ったかも」
「言ってたよ。あれから色んな大人を見たけど、髪切らない理由に、覚悟がどうの大袈裟なこという人いなかったから。でも今はちゃんと後ろで縛ってるのね」
と言うと、今度は義一が悪戯っぽい笑みで
「そうだよ、誰かさんが後ろで縛ったほうがいいと言ったからね」
「えぇー、よく覚えてるのはそっちもじゃん」
「ははは」
楽しい。本当に久しぶりに会話している様な気がした。義一と最後お寺で別れる時、私に言ってくれた言葉、それを一時足りとも忘れたことは無かった。でも、結局我を通すのは今もだけど子供心に難しく、また元の、両親が望む、教師や顔見知りの大人たちの望む”当たり障りの無い良い子”を演じ続けていた。
それが今だけは素のままでいられる気がした。トートバッグを肩から下げてたけど、そんなの関係なしに肩がすごく軽い気がした。やっぱりおじさんにまた会えて、本当に良かった。

おじさんに連れられるまま歩いていると、昨日も来た土手に出た。とそこから横に切れて、土手に沿って走る高速道路の下をしばらくまた歩いた。すぐ隣の車道には、高速の出入り口が近いからなのか、大きなトラックが引っ切り無しに唸り声をあげて通り過ぎていた。でも基本は何も無い、倉庫らしきものが建ち並ぶだけの人気の少ない寂しい通りだった。しばらくして義一は斜に出ている狭い路地に入ったのでついて行くと、ようやくお目当の場所に辿り着いた。
 そこは平屋だった。今時珍しく屋根にはしっかりとした瓦がのっていたが、所々無くて下地が見えていた。塀の上から木々が鬱蒼としてるのが見えたが、あまりにも密があったので、塀自体の高さはそんなに無いのに視界は遮られ、外から建物の全貌はよく見えなかった。とりあえず年季が相当入ってるのは、幼い私にもわかった。ただお世辞にも綺麗な家とはいえなかった。想像してなかっただけに、マジマジと隅々まで目に入れようとしていると、見かねた義一が玄関前から声を掛けた。
「ほら、琴音ちゃん。そんなところにいないでおいで」
「お邪魔しまーす」
 中に入ると真っ暗だった。靴を脱ぎながらどこか嗅いだことのある、懐かしい様な匂いがした。でもすぐに思い出した。あ、これ、図書館の匂いだ。その間義一が暗闇の中慣れた手つきでスイッチを押すと、何度か点滅してから真上の蛍光灯が灯った。その様子を上を向いて見ていたら、また義一の呼ぶ声がした。
「琴音ちゃん、こっちにおいで」
呼ばれるまま声のする方へ行くと、そこは居間らしかった。らしかったというのは、私の家の居間の半分もないくらいの広さで、キッチンと一緒になってるような間取りだったからだ。でも掃除が行き届いていて、古臭いのは否めなかったが、とても清潔感はあった。私の感想を知ってか知らずか義一は照れ臭そうに
「ごめんね、狭いでしょ?でもまぁ、自由にしててね」
と言うと、コンロとシンクの間にある木製の棚の、ガラス扉を開けて、いくつもある瓶の前で一つ一つ人指し指を当てながら選び、決まったのかその中の一つを取り出した。
かと思うと、止まることなく流れる様に二つのティーカップ、ティーポッドをすぐ隣の食器棚から 取り出し、手際よく先程出した瓶を開け、中の茶葉を適量出してポットの中に入れ、ウォーターサーバーからお湯を出している一連の義一の身のこなしを、キッチンのそばの椅子に座る私はただ黙ってみているだけだった。義一はお盆に茶器一式を乗せると、私の座るところまで持って来て目の前に置いた。よく見ると、真っ白な陶器に濃い青一色でお花の絵が描いてあった。よく分からないけど、高そうだっていうのは分かった。
「待たせて悪いけど、もう少しだけ待っててね」
「う、うん。あの…」
「ん?」
「トイレに行きたいんだけど」
「あぁ、トイレなら今来たドアを出て、向かいだよ」
「ありがとう」
 トイレを済まして居間に戻る途中、少し見上げてみると天井が意外に高いのがわかった。梁が縦横に組み合わさっている。視線を戻すと、さっきは気づかなかったが、ドアがいくつか見えた。物が多いだけで意外と家自体の大きさは普通かもしれないと思いながら居間のドアを開けた。
 戻ると見計らったかの様に、ちょうど義一が二つのカップに紅茶を注いでいる所だった。
「おかえり。今家に何もないから、せめてと思ってね。カッコつけて紅茶を出してみたけど、紅茶で大丈夫だったかい?」
「うん、好きだよ」
「それは良かった。正直こだわりがあったらどうしようかと思ったから、オーソドックスにダージリンにしてみたんだ。召し上がれ」
「いただきます」
 初めて会った時、昨日今日と、改めて気付かされたけど、このおじさん、小学生のこの私に気をまわし過ぎなんじゃない?と、口には出さずに、出された淹れたての紅茶をゆっくりと啜った。確かに口に含んだ時、軽い渋みと共に良い香りが口中に広がって、口を空にし鼻で息を吐くと、余韻が鼻腔を満たした。普段は普通にコンビニで売ってるのしか飲んでないから、具体的な良さは分からなかったけど、それより美味しいのは分かった。
「…うん、美味しい」
「そう、それは良かった」
と、義一もカップを持ち上げ満足そうに笑った。

 お皿にさっき買ったお菓子を置いて、二人仲良く分けて食べた。何故か会話の内容はヒロについてだった。義一がヤケに聞きたがったからだ。
「へぇ、じゃあ今はクラスも違うのに仲良くやってるんだ」
「いやいや、仲良くないよ。ヒロが変に私に突っかかってくるだけ。いい迷惑なんだから」
「ははは。そうかい?これはヒロ君もまだ苦労しそうだね」
「おじさん、ちゃんと話聞いてた?苦労してるのは私の方なんだから」
「ははは、そうだったね。いやぁ、もっと琴音ちゃんの今までの話が聞きたいな。ある意味琴音ちゃん相手だし、今他に誰もいないから言えるんだけど、実はずっと気に掛かってたことがあったんだよ」
「ふーん、それは何で?」
私は新しいお菓子の封を開けながら聞いた。義一は紅茶を一口啜ってから
「お寺での会話がずっと頭に残ってたんだ。まぁ、僕が自分から話した事なんだけど」
と言ってカップを置き、テーブルの上で両手を組ませて、その中心に顎を乗せる様な体勢で、向かいに座る私に、真っ直ぐな視線を送りながら続けた。
「これは勝手に感じた事なんだけど、あの時の琴音ちゃんが昔の僕と、ふと重なったんだよ。なんて言えばいいのかな…懐かしかった?…うーん、この話続けてもいいかな?」
「…うん、続けて」
私も食べかけのお菓子をお皿の上に置いて、義一の顔をじっと見つめた。
「そう…懐かしくもあったんだけど、寧ろずっと会えなかった親友に、ようやく再会出来たような、この感覚に近いかも知れない。どう言う意味か分かるかい?」
「うん」
私の返事を聞くと、義一は穏やかな表情のまま続けた。
「だからついつい、嬉しくなっちゃって年の差忘れて話し込んでしまったんだ。相手は小学校低学年なのにね。でも琴音ちゃん、こう言われてどう思うか分からないけど、はっきり言えば君は、普通の子供達とはだいぶ違う、良く言えば本来の意味で成熟している、悪く言えば、と言うよりそのせいでとても感じやすい、その感受性豊かさ故に、これから生きていく上でかなりツライ思いをしなくちゃいけないんだこの子は、と思ったんだ」
「…つまりそれは、おじさんも?」
と、か細い声で私が問いかけると、優しく微笑むだけで義一は答えず
「だからあの時確か無責任に、そのままでいい、それはかけがえのない財産なんだから大切に誰に何を言われようと自分を信じて、みたいなことを当時の琴音ちゃんに偉そうに語ったと思う」
「…」
「あの瞬間だって『調子に乗って言ってしまった。僕なんかの言葉とは言え、幼い少女の心に余計な楔が刺さってしまってはいないか』と心配だったんだ」
「…うん」
「でも!」
とここで義一はあっけらかんとした、声の調子を出して天井を見上げながら
「昨日友達と一緒にいる琴音ちゃんの楽しそうな姿を見て、『あぁ、良かった。きっと僕の言ったことなんか忘れて、どこにでもいる普通の女の子として生きてるんだ』と安心したんだ。まぁ、今年の四月、土手でまさか再び会うとは思っても見なかったから、また性懲りもなく舞い上がって声をかけちゃったんだけど…。あれだけが誤算だったね。でも実際見れて話せて良かった…ってあれ?琴音ちゃん?」
 義一が心配そうに声を掛けてきた。私は途中から俯きながら泣いてしまい、大粒の涙を流していた。その状態のまま静かに涙交じりの声を出した。
「…楽しくなんかない」
「え?…琴音…ちゃん?」
「何にも楽しくなんか無かったよ!」
私は両肩を怒らせ、ワナワナ震えながら、思わず叫んだ。今まで溜めてた感情が堰を切って溢れ出し、自分でも抑えれないまま、想いを吐露した。
「あの時だって、おじさんは一方的にと言うけれど、私だっておじさんに会うまで、幼いながらに他人とのズレを感じて生きていたんだ!無理して周りに合わせて、友達と同じように、ズルく子供の殻に都合が悪い時は逃げ込んでやり過ごしていたんだ!もうこのままずっと過ごすもんだと諦めていたのに、おじさんに出会って『このままでいいんだ、ありのままの私でいいんだ』初めて”私”を承認してくれた気がして、どんなに当時嬉しかったかおじさんに分かる!?」
「…」
「でもあれからおじさんと会えなくなるし…次第にまた諦め癖が出てきて…元の…おじさんに会う前の仮面を被った”良い子”の私に戻っていった」
私はここでようやく顔を上げ、涙でクシャクシャになった顔を義一に向けて、渇いた笑いを漏らし、自嘲的な笑みを浮かべて
「こう見えて、私って役者なのよ?それも、自分で言うのもなんだけど、名役者なの。放課後ヒロ以外にも遊ぶような友達もいるし、学校の先生にも結構評判がいいの。昨日終業式で通信簿が配られたんだけど、そこの先生のコメントも良いことばかり書いてあったよ。でもそれは所詮私が作った、仮面に対してのコメント。先生だけじゃない。友達だって、いや、お父さんやお母さんだって私の仮面しか見てないの…」
「琴音ちゃん…」
「まぁ仮面を進んで被ったのはこの私。自業自得なんだけど。いつだって友達や大人達の大して興味も無い、ツマラナイ、クダラナイ話題に付き合って、無理して合わせても、結局その演じてた自分が後になるととても恥ずかしくて、嫌悪を催して、胸を引き裂いて中身を全部洗いたくなる衝動に駆られてたの」
「…」
「でも、それでも心の拠り所にしてたのは…おじさん、おじさんアナタとの、お寺でのあの本の一時間かそこらの会話だったんだよ。…それを」
私は自嘲的な笑みを殺し、今度は睨みつけて
「それをおじさんが自分自身が言った言葉、それを私に言ったのが間違いだったなんて…そんなの聞きたくなかった!そんなことをおじさんの口から聞く為に探してたんじゃない!おじさん答えてよ、本当にあの時私に言ってくれた言葉は偽りだったの?正直に答えて!」
ここまで言い終えると、私は椅子の背もたれに寄りかかり、途中から少し俯いて目を閉じ黙って聞いてた義一を見つめ続けた。しばらくは、居間の壁に掛けてある、これまた古ぼけた時計の、規則正しく時を刻む音だけが鳴り響いていた。ふっと短く息を切り、ようやく義一が重い口を開いた。
「…嘘なわけがないさ。偽りのわけがないよ」
義一はまだ睨みつけてる私に怯むことなく、穏やかな表情でこちらをまっすぐ見た。
「それにさっきも言ったよね?僕と琴音ちゃん、君とは似てるって。親友に会ったようだって」
と言うと、今度は優しく微笑みながら
「親友に対して、嘘で固めた偽りの言葉は吐かないよ」
「おじさん…」
「でも、僕自身、僕と君が似てると思うからこそ」
微笑みを消して、真剣な表情で静かに
「僕と同じ道を歩いて欲しくなかったんだ。僕自身は今の僕に満足している。でも詳しくは今言わないけど、だからと言って他人に僕と同じ道を歩むことを決して薦めようとは、絶対に思わない。ましてや親友とも思えた可愛い姪にね」
「…」
「でも…」
 義一は緊張を解いて、さっきまでの穏やかな表情に戻して、やれやれといった動作をしながら
「さっき、琴音ちゃんの決意表明とも捉えられるような宣誓には、正直言って参ったよ。元々低く見てる気は微塵もなかったけど、それでもなお君の事見損なってたみたいだ。僕は僕自身の弱さ、自分の運命に耐える力がなくて、ツライとすぐ弱気になる弱さを棚に上げて、似ていると決め込んでた君まで、巻添えにしてしまっていたんだね」
と言うと立ち上がり、向かいに座っている私の頭を優しく撫でながら
「琴音ちゃん、君は強い子だ。本当の初対面は君が幼稚園に入るかどうかぐらいだったけど、本当に初めて会話した時感じた直感。この子は大きくなったら僕なんかよりも遥かに強くなる。まだまだ君は発展途上で伸び盛り、まだまだ成長するんだろうけど、現時点を見るに、僕の見る目も捨てたもんじゃないって自惚れても良いかな?」
と最後にはにかんだ笑顔を見せたので、私も思わず釣られて笑顔になり、コクっと頷いた。ようやく落ち着いてきた私は、まだ声が掠れていたが構わずに言った。
「あの…おじさん?」
「ん?なんだい?」
「私のこと親友だと言うのなら…またここに遊びにきても良いかな?」
「…」
義一は返事を返さず黙った。腕を組んで考え込んでる様子を見せたが、ハッと目を見開き立ち上がって先程カップを取り出した食器棚へ向かった。
「?」
「えーっと…確かここに…あっ、あった」
食器棚の中段あたりに備え付けてある、小さな引き出しを開けて、ゴソゴソ何かを探していたかと思うと、何かを取り出し、持ってまた戻ってきた。
「おじさん、一体」
「はい、琴音ちゃん」
と義一がテーブルの上においたのは鍵だった。所々錆び付いていたが、鍵としての機能は残ってそうだった。
「これって…」
「見ての通り鍵だよ。…この家のね。これを琴音ちゃんにあげる」
「え!?いいの?」
と、私は思わずガタッと勢いよく立ち上がった。その反動でイスが前後に揺れている。
「うん。もちろん。まぁ普通は、親友だからって合鍵をホイホイ渡したりしないんだろうけど、琴音ちゃんは別だよ。もし何か辛くて逃げ出したくなった時、誰でもいいから思いっきり愚痴を吐きたい時、八つ当たりしたい時」
義一はそこまで言うとスッと私の目の前まで鍵を押し出しながら
「いつでもこの鍵を使って遊びにくるといい。いつでも歓迎だからね」
「うん、ありがとうおじさん!」
と私が嬉々として鍵に手を伸ばそうとしたその時、義一が鍵の上に手をかぶせて取れないように隠した。意味もわからずキョトンとしてると、義一が真剣な調子で言った。
「琴音ちゃん、これを渡すに当たって約束してくれなくちゃいけないことがあるんだ」
「え?何約束って?」
「この鍵の存在を、君のお父さんお母さんにバレてはいけない」
言われて私はハッと気づいた。義一は続けた。
「詳しく直接話したわけじゃないからわからないけど、兄さんが僕と琴音ちゃんが仲良くするのを、すごく嫌がってるのは知ってるんだ。もしこの鍵が何かの拍子で見つかったら、何も聞かなくてもすぐに、特に兄さんはすぐ察するだろうね。もしかしたら聞いたことあるかも知れないけど、この家は僕の父さん、君のお爺ちゃんの持ち物の一つだったんだ。兄さんも何度かこの家の鍵は見たことあるだろうから、すぐに気づいて琴音ちゃんに出所を問いただすと思う。僕自身何言われようとも構わないけど、琴音ちゃんがこの鍵のせいで傷つくのは、とてもじゃないけど耐えられない。だから、琴音ちゃん、君が自分自身のためにも、勿論僕の家に行く事自体も内緒に、出来ればどんなに親しい友達にも隠し通すくらいの覚悟を誓えるかい?」
「…」
私は一瞬口噤んだが、そもそも覚悟なりは、おじさんを探すと決めた時点で決まっていた。
「勿論、誓うよ。鍵を頂戴」
と直接目を見てハッキリ言うと、義一はまた表情を和らげて、手を浮かせて
「じゃあどうぞ。僕と琴音ちゃんの友情の証だ」
「うん、ありがとう」
私は鍵を手に取ると、錆び付いたその鍵を、宝物か何か価値ある物かのように、ひっくり返したり、天井の蛍光灯の明かりに当てて見たりした。その様子をニコニコしながら義一は見ていたがふと、怪訝な表情で私に言った。
「そういえば晴れて友達になった訳だけれども、それで一つ引っ掛かることがあるんだ」
「え?なんだろう?」
「さっき聡兄さんのことを”聡おじさん”って呼んでたよね?」
「え?あぁ、うん。それが何?」
「いやぁ、まぁ大したことじゃないんだけど」
と言うと、義一はホッペを掻きながら言いづらそうに言った。
「いや、聡兄さんは聡おじさんなのに、何で僕に対しては”おじさん”なのかな?って…」
「だって…私にとっては叔父さんで合ってるよね?」
「いや、だから…なんで僕には名前で呼んでくれないのかなって…」
と恥ずかしながら言うので、一瞬意味がわからず、無反応でいたがやっと気づいて
「え、えぇー!あぁ、そう言う意味かー。なぁーんだ。ふふ」
「おいおい、笑わないでくれよ」
「ごめんなさい。あまりにも可愛いことだったから」
「そうやってすぐ面白がって」
「えっと…じゃあ何て呼べばいいのかな?」
「う、うーん…義、義一おじさん?かなぁ…それじゃ聡兄さんと被ってるし、面白くないね」
「面白さねぇ…あ、ギーさんはどう?ギーさん!」
私は悪戯っ子のようにニヤケながら挑戦するように言った。義一は慌てて
「おいおい、それだけは勘弁してくれないかなぁ。そんな呼び名は絵里、アイツだけで十分だよ」
「ごめんごめん。でも他にこれといって…もう単純に義一さんは?義一さんでどう?」
「うーん…まぁ一周回って姪っ子に下の名前を呼ばれるって時点で、変わってるとは言えるかもね」
「よし、決まり!これからそう呼ぶから。改めて宜しくね義一さん」
と、私は右手を差し出しながら、目が泣いたせいで少し腫れてたけど、それでもとびきりの笑顔で言った。義一も笑顔で応えた。
「こちらこそよろしく、琴音ちゃん…あっ!」
「もうっ、今度は何、義一さん?」
「ほら、あれ」
義一が指差した先には時計があり、夕方の四時半を指していた。義一は苦笑いを浮かべながら
「時間は大丈夫かい?ほら…」
と、今度はテーブルの端に置いといた私のトートバッグを指差した。
「え?…あぁ!宿題!」
私は叫んだ後、ゆっくりと振り返り義一を見ると静かに笑ってるだけだった。私が恐る恐る
「やっぱり…やらないとダメ?」
と言うと、義一は明るい調子で答えた。
「勿論。そんなひょんな事で秘密はバレていくんだからね。図書館が閉まるのが確か五時。その時間ギリギリまでやろう!」
「ひえー」

「本当に途中まで送らなくていいの?」
「大丈夫だよ、ここまで難しくなかったし」
 私が玄関で靴を履いていると、その姿を見ながら義一が背後から、心配そうな声を投げかけてくる。つま先をトントンと、足と靴を馴染ませてから、置いてたトートバッグを肩に掛けて、明るく挨拶した。
「じゃあまたね、義一さん」
「うん」
外に出る時義一が点けてくれたのか、優しい光が頭上から降り注いだ。コレも気付かなかったが、剥き出しの裸電球がぶら下がり、薄オレンジ色の光を放っていた。
 高速道路の真下の通りに出て、期待はしてなかったけど、名残惜しそうに振り返って見ると、義一が腕を組み、静かにこっちを見ていた。私は大袈裟に右腕を大きく振ると、義一もゆっくりと振り返した。表情まではわからなかったけど、笑ってくれてたに違いない。
「義一…義一さん…か」
私はボソッと独り言を言い、家でお母さんに泣いた跡がバレないことを祈りながら、足取り軽く家へと帰った。

第5話 宝箱

「さてと…」
 私は若干緊張して、義一の家の玄関前に立っていた。トートバッグから携帯取り出し画面を見ると、昼の一時を示していた。
 前に義一さんに会った時、これくらいの時間だったから、迷惑じゃないよね…。あぁ、義一さんに電話番号聞かなきゃだったな。
 前回初めて義一の家に行ってから三日が経っていた。本当は次の日にでもまた来たかったが、宿題を居間のテーブルで見てもらいながら、義一が
「あ、さっきいつでもとは言ったけど、あまり頻繁に来ちゃダメだよ?急に頻繁に外出が増えると、疑われるからね」
なんて言うもんだから、私なりに調整したのだった。まぁ、ピアノの練習に、たまたま出くわしたヒロにチョッカイかけられたりして、それなりに予定はあったけど。
 私は恐る恐るラッパが描いてあるインターフォンを押すと、ピンポンと鳴るかと思えば、ジィィーっと単調で無骨な音が鳴った。しかも押し続ければ、そのまま鳴りっぱなしの仕様のようだ。あまり慣れてなかったので、使い方があってるのか不安に思いながらも反応を待ってると、ブツッと音がした後に義一の声が聞こえた。
「はい?」
「あ、ぎ、義一、さん?あの…琴音、だけど」
と、私は慣れない調子で拙く答えた。
「あぁ、琴音ちゃん、いらっしゃい。ゴメン、悪いけど勝手に入って来てくれるかな?玄関開けて」
「うん、わかった」
私は筆箱の中から鍵を取り出し、開けて中に入った。
「お邪魔しまーす」
と、前に入った居間の方へ行くと誰も居なかった。
「あれ?義一さん、どこ?」
「あ、こっちこっち」
と部屋の外から声が聞こえた。廊下に戻ると、幾つかあるドアの内、一つが半開きになっていて、そこから光が漏れていた。
「ここにいるの?…!」
ゆっくりとドアを開けると、まず匂いが鼻についた。何とも言えないが、敢えて形容するなら薄甘い匂いだ。私の大好きな匂いだ。古本の匂いだった。
 部屋を見渡すと、四面の壁のうち三面に本がギッシリ詰め込まれていた。文庫本サイズから、辞書や図鑑サイズまで、ジャンルを問わず多種多様の本がそこにはあった。
 なるほど、前に来た時、図書館の匂いがすると思ってたけど、コレだったのね。
 一つだけある、そこから外に出られそうな窓は、ドアから入ると正面に位置し、そこだけは本から解放されていた。その窓の手前には重々しい大き目の机が置いてあり、身長が160センチの私が両手広げたくらいの幅があった。そばには革張りの安楽椅子があり、座ると正面にドアが見える配置になっていた。この二つとも、かなり古そうだったけど、それなりの雰囲気が出てた。部屋の広さは、当時は当然詳しく分からなかったけど、10畳以上はあったと思う。部屋の中心あたりの、フローリングの床には焦げ茶色の絨毯が敷いてあった。周囲を圧倒されながらも見渡してると、壁を背にして何か布で覆われてる物に気付いた。気になり、少しズラしてみると、何とそこにあったのはアップライトピアノだった。私は思わず残りの布も取り払い、ガコッと蓋を開けて見ると、若干埃かぶっていたが細長い赤いカバーがあり、それも外して見ると、綺麗な白と黒の鍵盤が現れた。
…音、鳴るのかしら?試しにドレミで言うところの”ラ”を押すと、鍵盤は普通のより重く、抵抗感を感じたが、外れることなくちゃんと”ラ”が鳴った。調律はしてあるようだった。
「お、早速弾いてるね」
いつの間にか義一が、お洒落な喫茶店のテラスに置いてあるような、二人用の丸テーブルを持ってドアの前に立っていた。それを部屋の中央部に置きながら
「ちゃんと鳴るでしょ?そのピアノ」
「う、うん。ぎ、義一さん弾けるの?」
と、前回は勢いで素直に言えたのに、冷静に改めて面と向かって名前を言おうと思うと、今更だけど小恥ずかしかった。義一は私と違う意味で照れながら
「いやぁ、昔少し習ってただけだから。今でもたまに弾くけど、今熱心に練習している琴音ちゃんとは比べ物にならないよ」
「へぇー、そうなんだ…っていや、なんかもう」
と、私は部屋を見渡したり、義一を見たり、運び込まれたテーブルを見たりと慌ただしく視線を動かしながら
「幾ら私でも、こんなに一遍に新しいことが目の前に起こると、何から聞いたらいいのか混乱しちゃうじゃない!」
と、いかにも困ったふりして言うと、義一は子供っぽい笑顔で得意げに
「ビックリした?僕も琴音ちゃんが急に来てビックリしたから、お返しにと思って機転を利かしたんだ」
「もう…じゃあ早速質問するけど、まずここは何なの?」
「ここかい?ここはね…」
義一は大袈裟に部屋をグルッと見渡してから、勿体ぶって話した。
「僕の父さんの宝箱さ。そして今は僕のね」
「え?宝箱?ここが?」
私もグルッと部屋を見渡しながら返した。
「そう、ここには父さんの大好きだった本が全部置いてあるんだ。古今東西、まだ今みたいに情報がなかった時代に、自分の足で探し回ってかき集めたみたいなんだ。まぁ、今は僕の買った本も混ざっているけどね」
「へぇー、ちなみに何冊くらいあるの?」
「そうだなぁ…」
と、義一はいつもの、顎に手を当てる、考える時のポーズをしながら
「実際はどうか分からないけど、七千くらいって言ってたかな?」
「な、七千!?ほぇー…」
私は驚きながら、改めてまた見渡した。
「だから、ここが何かと聞かれれば、書庫兼書斎と言うことになるだろうね」
と、義一は今度は窓の前の大きな机に手をかけながら言った。私は目を輝かせて
「へぇ、いいなー。壁一面の本なんて、憧れちゃう」
「ふーん、若いのに随分渋いセンスをしてるね。本好きなんだ」
「うん、大好き」
「あ、そう言えば、こないだ図書館で、絵里と仲良さそうにしていたもんね。よく行くんだ?あそこ」
「うん、よくあそこで借りたりしてるんだ。人も少なくて気に入ってるの。でも凄いね、私のお爺ちゃん、そんなに本が好きだったんだ」
と私が言うと、義一は人差し指を立てて、左右に振りながら
「イヤイヤ、これで驚いちゃいけないよ?他の部屋にも本とは別に色んなものがあるんだから。何せお爺ちゃんは…」
「粋人!…でしょ?」
と私がすかさず横槍を入れると、一瞬間が空いて、それからすぐ二人して笑い合った。
「それで?あの今持って来たテーブルは?」
「あぁ、あれ?あれはね」
と、義一は今度は二人用のテーブルに近づき、二回軽く叩きながら
「ほら、これから琴音ちゃんが来た時、あの居間で毎度宿題とかするのは味気ないと思ってね。この部屋だったら本に囲まれて、いかにもって感じで雰囲気出るでしょ?」
「まぁ、私は本読むのも、この古本の匂いも好きだから歓迎だけど」
「なら良かった。本当は琴音ちゃんがくる前に、物置で眠ってたこのテーブルを出すつもりだったんだけど、思いがけず早く来たもんだから、慌てて出すのにちょっと手間取っちゃった。待たせてごめんね?」
「いやいや、全然構わないよ。むしろ色々考えてくれて嬉しい」
と私は満面の笑みで答えた。同じく微笑み返した義一だったが、急にすまなそうな顔で
「ゴメンねついでになんだけど、テーブルはあったんだけどイスが無かったから、今から一緒に居間に行って、食卓のイスを持ってくるの手伝ってくれないかな?」
と言うので、私はクスクス笑いながら返事した。
「いいよ、行きましょ」
 
 二人で居間からイス二つを運び終えると、私はイスに腰掛けトートバッグから宿題と筆記用具を取り出した。義一はそそくさと居間に戻り、こないだと同じように紅茶を作って、ポットとカップ、それに前にコンビニで買って余ったお菓子をお盆に乗せて持って来た。
「あっ、ありがとうー」
「いえいえ。じゃあまず早速」
義一は私の宿題に目を落としながら
「大義名分を果たすかな?」
「ふふ、そうね」
と、義一は私の向かい側に座りかけたが、躊躇して
「そうだ、僕がそばにいると気になるかな?」
と言うので、私は笑いながら
「大丈夫だよ。たかが宿題くらいで。むしろ見てくれるんでしょ?」
と言うと、義一は頭を掻き言った。
「あぁ、そうだった。そこまでが”大義”だったね」
 
 最初の二十分くらいは、早く宿題終わらせて義一とお喋りしたいが為集中していたが、余りに静かなのでふと顔を上げると、義一は静かに背表紙がボロボロの分厚い本を集中して読んでいた。その姿を見て自然と話しかけた。
「…やっぱり義一さんも本が好きなんだね」
「…ん?うん、そうだね。でもやっぱりって?」
「…うん、いや、その」
と私は持ってたシャーペンを一度置いて、それから続きをゆっくり話した。
「前にほら、義一さん言ってたでしょ?私と自分が似てるって」
「うん」
「もし本当に義一さんと私が似てるとしたら、そうかなって。義一さんも私と同じくらい、小さい頃から本が好きだった?」
「…まぁ、そうだねー」
と義一も手に持ってた本を置くとゆっくり話し始めた。
「読んでたよー。それこそ、ここに置いてある本をね」
「へぇー、ここのを…」
と私は義一から顔を逸らして、またグルッと周りを見渡しながら言った。
「うん。琴音ちゃんのお爺ちゃんに、別に強要された訳じゃなかったけど、僕は、そうだね、初めて僕達が会話した、あの時の琴音ちゃんくらいの時から、自分から進んでこの家に遊びに来てたんだ」
義一はその時の情景を思い出すように、遠い目をしながら言った。
「ふーん、私もあの頃からずっと本が好きで読んでたよ。まぁ、お父さんもお母さんも、本を読む分には文句を言わなかったしね」
「へぇー、ところでどんな本を読んでたの?」
と、義一は興味津々といった様子で、身を乗り出すように顔を近づけて聞いて来た。
私もさっきの義一と同じく遠い目をして、思い出しながら言った。
「何だったかなー。色々と読んでたと思うけど、何だか世界文学全集みたいなのを買って貰って、そこに載ってるお話を、片っ端から読んでたような気がする」
「ふーん、兄さんも中々粋なことをしてたんだね。あ、あれか。自分が父さんにしてもらったから、思い出して自分の子供に同じようにしたんだ」
義一は悪戯っぽく笑っていたが、意地悪くじゃなく微笑まし気だった。
「なるほどねー…それで一つ、琴音ちゃんに対する謎が一つ解けたよ」
「え?なになに?」
今度は私が体を乗り出して、食い気味にその先を促した。
「何で琴音ちゃんの話す会話の中身が大人びていて、というより、大人よりも大人びているのか?しかもチョイスが独特で面白いのは何故か」
「えぇー、そうかな?自分じゃ分からないけど」
と予想外のことを言われたので、上手く飲み込めずに返すと、義一は微笑んで
「いやいや、もし気を悪くしたんならごめんよ?むしろ褒めてるんだから。なるほど、やっぱりねぇ」
と一人納得してるらしく、ウンウン頷いていた。だが、ふとバツが悪そうな表情になり、私に向かって苦笑しながら続けた。
「でもどうだろう?さっき僕達同じだと言う前提で話したけど、僕と琴音ちゃんは動機が違う気がするんだ」
「え?どうしてそう思うの?」
今自分でも”なんでちゃん”が起きだしたのがわかった。義一は続けた。
「うん、いや、僕も小学生に上がりたての頃は、さっきも言ったように純粋に本を読むのが好きだったんだ。まぁキッカケはさっき言わなかったけど、やっぱり父さんが読んでいたからなんだ。父さんの事尊敬してたしね。父さんのやることなす事同じくしたくて、真似から入ったんだと思う」
私もこの頃お父さんを尊敬してたけど、そのことは口に出さなかった。義一は続けた。
「で、僕も段々とのめり込んでいったんだけど…いつからなのかな…?キッカケも覚えてないんだけど、急に周りの大人のことが信じられなくなったんだ」
「…え?」
「何だったんだろう?今となっては、自分の事なのに推測するしかないんだけど、父さんに対してではなくて、父さんの周りに集まる大人達、父さんに対して見せる表情、態度が余りに当時の僕にはおぞましく見えたんだ。あ、これがキッカケかな?…続き話していいかい?」
「うん」
「そこからは、なし崩しと言うのかな…丁度今の琴音ちゃんくらいの歳になると、目の前に大人がいたら、色々と観察する癖が付いちゃってたんだ。小学校の先生から始まってね。先生が一番分かりやすかった。教壇の前で僕達生徒に向かって、色々聞こえの良いことをツラツラ澱みなく喋ってるのを聞くたび、僕は思わず『この嘘つき!』と叫びたくなるような衝動に駆られてた。まぁ、結論じみたこと言えば、僕は生意気にも小学生にして、自分のことを棚に上げて大人に対して、また、これから大人になる自分に対して絶望してたんだ」
「…」
ここまで聞いて、私からも話したいことが出来てウズウズしてたけど、今は黙って義一の話に集中した。
「そこで僕が縋ったのが…」
と、義一はさっきみたいに周りを見渡しながら
「父さんが集めたこの本達だった。最初は物語が面白くて読んでいたけれど、段々僕の方が変化していくに連れ、また再び読み返してみると、物語は勿論だけど、軽く読み飛ばしていた、主人公のセリフだとかが目に飛び込んでくるようになって、それが僕の心に沁み渡っていくようだったんだ。僕みたいなちっぽけな子供が、クヨクヨしてるようなことを、物語の主人公、ヒーロー達が果敢に立ち向かっても、結局どうにもならない話が特にね」
義一は今度はまっすぐまた私の顔を見て
「僕はそれらの、ある意味での悲劇を読んだ時、むしろ気が楽になったんだ。今初めてのことじゃなくて、人間昔から全く変わらないんだなぁ…ってね。偉そうに僕は『世の中、僕のことをわかってくれる人はいない、こんなに周りに人がいるのに独りぼっちだ』って塞ぎ込んでいたんだ。でも、僕なんかよりも深く現実を見て、歴史に名を残した偉人達、物語を書いた現実生きてた作者自身も、もがき苦しみ、それでも何か解決策は無いのかと、主人公と一緒に模索していたのに気付いた。で、これは不遜かも知れないけど、本を読むことで、作者と自分を重ね合わせることで孤独が癒されたんだ。それからは、いわゆる小説以外にも手を出して、余計に本読む量が増えて、今度は物理的に引きこもるようになってしまったけれどね」
ここまで話すと、義一は自嘲気味に笑った。
「長々と話しちゃったけど、今の話を聞いて、琴音ちゃんはどうかな?」
と義一が聞いてきたので、少し頭の中を整理するため黙っていたが意を決して
「…うん、義一さんの言う事、よくわかる気がする。…私なりにだけど」
と静かに返した。
「わかる気がするって言ったのはね?今まで何となくでしか感じていなかったことを、今義一さんが言葉にしてまとめてくれたように感じたって意味なの」
とここまで言うと私は、黙って私の言葉を待つ義一をまっすぐ見たが、少し申し訳なさそうに弱々しく
「…うん。多分同じは同じだと思うけど、肝心な所が違うね。私は自他ともに認める”なんでちゃん”でしょ?疑問に思った事をそのままに出来ない。ちゃんと納得いく説明してくれないと我慢出来ない。私は今、義一さんの話を聞いて、私も、周りの大人達が誰一人答えてくれない、一緒に悩んで考えてくれない、それでどうしようもなく追い込まれた先が本だったのかもしれない、と思ったの。でも、私は義一さんとは違う…」
とここまで言うと、少し強い視線を義一に向けながら
「私は昔の義一さんほど絶望していないもの。だって」
私はニッコリ微笑んだ。
「義一さんには義一さんがいなかったけれど、私には義一さんがいるもの」
「琴音ちゃん…」
「…はい、この話はこれでお終い!宿題しなくちゃ!」
私は急に自分が今言った言葉に恥ずかしくなってしまい、誤魔化すようにワザと明るい声出してから、宿題に没頭した。しばらく義一は私に微笑みかけていたが、また読書を再開するのだった。

 持ってきた分の宿題を終えて、時計を見ると丁度三時を指していた。
「んーん、終わったぁ」
「お疲れ様、紅茶を淹れ直したけど飲む?」
「うん、いただきます」
二人でおやつとして、この間買ったお菓子を食べてると、義一が少し物憂いげに
「せっかくのおやつが、これじゃ味気ないねぇ。次から何か用意しとかないと」
と言うので、私は少し考えて
「あ、じゃあこの家でお菓子を作ろうよ、おやつ用の」
「え?でも、僕は当然作れないし…え?まさか琴音ちゃん…」
と義一は心底驚いた様子で
「お菓子作りなんて、女子力高いこと出来るの?」
と言うので、私は少し眉を顰めながら
「何よそれぇ。違う、違うの。私のよく知ってる人で、お菓子作りの名人がいるの。次来る時までに、その人に習っておくから、期待しておいてね」
と言う頭の中には、ピアノの先生の顔が浮かんでいた。
「へぇ。じゃあそれは期待して待ってるよ。…あっ、そういえば」
義一は手に持ったカップを置きながら
「琴音ちゃん、今日来る時鍵開けて来たよね?今更だけど、鍵は普段どこに入れて持ってるの?」
「鍵?いやぁ、悩んだけどねー」
と私はテーブルの上に置いてある筆箱をおもむろに弄り、中から鍵を出して見せながら
「思い付かなかったから、しばらくこの中に入れとくつもり。お父さんもお母さんも、筆箱の中まで見ないとは思うから」
「そうかぁ。いや、僕も渡した後に鍵どうしたか気になってね。一方的に後先考えず渡して、無責任極まりないなぁ、僕は」
と頭を掻きながら言うので
「はぁ、全くもう。だから義一さんに”普通の大人”の対応は期待していないから」
と、ため息混じりに返した。気づけばもう”義一さん”呼びに違和感はなくなっていた。
「いやはや…。でも、”もしも”があるから、僕も考えるけど、琴音ちゃんも、もっといい隠し場所がないか、考えといてね?」
「うん。…あっ!」
私は今の会話に全く関係がない、でも一つ忘れ物をしてるのに気づいた。急に声を上げたので、義一は目をパチクリしてたが、私は落ち着き払って
「そういえば、私達が再開した時、何で土手に、しかも暗くなる時間まで寝っ転がっていたか、まだ答えてもらってなかった!ド忘れするとこだった、危ない危ない。で、何であそこにいたの?」
と聞くと、少しいつもの考える時のポーズをしていたが、ふと苦笑を漏らし、言おうか言わないか迷っているようだったが、表情はそのままに答えた。
「あぁ…アレねぇ…本当に大したことじゃないんだけど…知りたい?」
「もったいぶるなぁー。そこまでタメられたら、余計に気になっちゃうよ!男なんだから、こう、スパッと教えて!」
と私があまりに焦れったくて、同級生に言う調子で言ってしまった。
あっ、生意気に言いすぎたかな?と思ったけど義一の反応を待った。男なんだからと言われたのが身にこたえたかどうかは分からないけど、まだ苦笑をしながら義一は答えた。
「そこまで言われたら引き下がれないね。…よし、琴音ちゃん。今から土手に行こう!」
「え?今から?」
ふと時計を見ると三時半を少し過ぎてるくらいだった。その様子を見て義一が聞いた。
「あ、もしかして、そろそろ帰らなきゃいけない時間かい?」
「んーん、まだ時間は大丈夫だけど…」
「よし、じゃあ…」
と義一は勢いよく立ち上がると明るい調子で言った。
「琴音ちゃん、忘れ物しないようにね?早速土手に行こう」

 私はトートバッグに、持って来た宿題と、鍵を仕舞った筆箱を入れて、玄関前で待っている義一に近寄った。
「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
「よし、じゃあ閉めるよ」
玄関を閉めると、私達二人はゆっくりと歩を進め始めた。空は若干オレンジ掛かった黄色に染まり、夕方に成るのを知らせていたが、暑さは私が義一の家まで来る時と、体感では全く変わってなかった。私は歩いてすぐ大きく溜息を付いたので、義一は空を見上げながら
「しっかし、今日も暑いねぇ。毎年思うけど、去年より今年の方が暑いと思わない?」
「うん…まぁ」
「でも、こうして…」
と義一は、前に土手に持って来てた籐かごバスケットに目をやりながら
「スポーツドリンクに、日傘、あと保冷剤を入れてるから大丈夫だと思うよ?土手に着けば、風も吹いているだろうし」
と得意げに言うので、私が
「ついさっき行くこと決まったのに、随分準備がいいんだね…?」
とツッコんだけど、ニヤニヤ笑ってるだけで何も返さずスルーして言った。
「結局僕が連れ出す形になっちゃったけど、理由を知ってもがっかりしないでね?本当に冗談じゃなく、ツマラナイことなんだから」
「ハイハイ、大丈夫だって。面白いツマラナイじゃなくて、訳さえ知ればそれでいいんだから。いい歳した大人が、平日昼間にあんな所で何故寝っ転がっているのかのね」
「いやいや、中々直球で毒を投げつけてくるね」
と義一はまた苦笑まじりに頭を掻きながら言った。私はしたり顔だ。

 土手に着き、斜面を登りきると、まさに夕陽が一番綺麗に輝く時だった。一瞬目が眩んだが、だんだん慣れてくると、川の向こうの建物が逆光で黒一色になって浮かび上がり、川は太陽を反射して、水面が揺れるたびに光も揺れて、キラキラ輝きを放っていた。土手の下では、今日の練習は終わったのだろう、野球のユニフォームを着た男の子達がグランドの整備、後片付けをしていた。
「おーい、琴音ちゃん。こっちこっち」
と義一はすでに前会った辺りにシートを引いて腰を降ろし、日傘を差して肩と顎で挟みながら、籠から水筒と紙コップを取り出している所だった。
「あ、うん」
私もシートの上に座り、丁度同時に水筒からスポーツドリンクをコップに注いだ義一からそれを受け取った。一口飲んで、日傘を差し、今座っている斜面から、作業をしている野球少年達の姿を黙って見てると、義一も同じように、チビチビ飲みながら静かに目の前の景色を眺めていた。いくら高学年とはいえ、当時の私はまだ小学生だったから流石に沈黙に我慢が出来なくなって声を出した。
「…で?」
「…ん?」
「いやいや、ん?じゃなくて」
私はまた焦らせれてる気がして、急かせるように
「早く、何で土手にいたのかそろそろ教えてよ」
と聞くと、義一は無表情で人差し指を下に向かって指して言った。
「これが答えだよ」
「え?…えぇー」
と語尾を伸ばし、見るからにがっかりして見せて言った。
「これって、何もしてないじゃない」
と言うと、義一はこちらに微笑んで見せてから、正面の川の方へ顔を向けて
「そう、”何もしてない”をしているのさ」
「??」
私は腕を組んで首を傾げ、自分なりに咀嚼してみたが、よく分からなかった。
「”何もしない”をしてる?それってしてるの?してないの?」
と私は自分でも何言ってるかよく分からないまま聞くと、義一は満面の笑みになって
「はははは。いやー、やっぱり期待通りの反応をしてくれるなぁ、琴音ちゃんは」
と言うので、若干ムッとしながら
「こうしているのって何の意味があるの?それとも意味もないの?」
と聞くとまた義一は笑って
「その言い方ね!本当に言葉の使い方が面白い。琴音ちゃんのそう言う所、好きだな」
「そ、そう言うのいいから、早く答えてよ」
と最後のセリフにドギマギしながら先を促した。
「うん。意味があるのかって?勿論意味はあるよ。それはね…」
とここで義一は、両膝を抱えて軽く体育座りをして、私に顔を向けながら、続けた。
「突然質問するようだけど、琴音ちゃんは”逍遥”って言葉知ってるかな?」
「しょ、逍遥?うーん…どこかで聞いたことあるような…あっ!」
と思い出した私は人差し指を上に指しながら、得意げに
「確か大昔の小説家の…坪内…逍遥のこと?」
と答えると、ハトが豆を食らったような表情を一瞬見せたが、すぐ満面の笑みになった。
「はははは、いや違うよ。違うけどでも凄いよ!よく知ってるね、坪内逍遙なんて。学校でも習わないでしょ?」
「い、いやー、図書館でチラッと名前だけ見た気がしたから…」
と、正解を外したのに褒められたことで、どう返したらいいか困っていると、義一はそれには特に気を止めずに
「そうなんだ。いやいや、少し見ただけで覚えているのは大したもんだよ。本当は正解をあげたいんだけど、残念ながら違うんだ。いや、厳密にって意味で、漢字と意味は坪内逍遥と同じだよ」
「へぇ、じゃあどう言う意味?」
「うん、”逍遥”っていうのはね、意味だけ言えば、そこら辺をブラブラ歩くこと。つまり散歩だね。だから話を戻せば、僕はいつもじゃないけど、思い出したらここに逍遥しに来てるんだ」
「へぇ…うん?」
と一瞬納得しかけたが、変な点に気づいて、すかさず突っ込む事にした。
「いや、待って。細かいけど二つばかり納得出来ないんだけれど」
「うん、何だろう?何でも聞いて?」
私は少し強めの言葉で突っ込んでいたつもりだったけど、受けてる義一は今の状況を、心の底から楽しんでいる様子だった。
「一つはすごく細かいけど、今私達はここでジッとしているだけだよね?」
「うん」
「これって散歩とは言わないと思うの。だって歩いてないんだもん」
「なるほど、ごもっともな意見だ。でも…」
とここで義一はニヤっと笑い
「本当に聞きたいのはその事じゃないよね?」
というので、私も少しタメてから聞いた。
「じゃあ聞くけど、今義一さんは『逍遥しに来てる』って言ったよね」
「うん、確かに」
「もし逍遥が散歩って意味なら、『逍遥に来てる』って言うんじゃないかな?しかも、今座ってるこの場を指差して言ったら、座りながら散歩してるって意味になっちゃうでしょ?もしかして…」
とここで少し義一に体を寄せて、まっすぐ目を見ながら
「逍遥にはまた別の意味があって、義一さんはそっちの方を言ってるんじゃないの?」
と言うと、義一はうーんっと唸りながらほっぺを掻いていたが、おもむろに腕を伸ばし私の頭を撫でながら明るい笑顔で答えた。
「…いやー、さすが琴音ちゃん!御名答!大正解!名推理だね。参りました」
「そ、それで結局どう言う意味なの?」
と頭を撫でられるまま答えを待った。義一は手を離すと顔をまた川の方に向けて
「そうだねぇ…何から説明するのがいいのかな?…琴音ちゃん」
と顔をまたこちらに向けて義一は聞いた。
「またしつこいようだけど、聞いて見てもいいかな?」
「う、うん。いいよ」
「じゃあね…逍遥学派って…いや、これはないな…人の名前でアリストテレスって聞いたことある?」
「うーん…何か学校の”倫理”の時間で出て来てたアレ…かな?」
と、急に小難しそうな名前が出て来て、どこに話が行くんだろうと不安になりながら答えた。何かを察したのか、義一も慌てて手を振って
「いやいや、ごめんごめん。何か難しいこと言おうとしているんじゃないんだ。ただここからしか話す術を思いつかなかっただけだから。この、今から大昔も大昔、二千四百年くらい前の、今のギリシャにいた人なんだけれど、この人は言うなれば先生をしていて、生徒達にいろんなことを教えていたんだ。ただその教え方が今からすると変わっていてね」
「どんな風に?」
「普通だったら、どこか教室の中で勉強して教えてもらうと思うでしょ?でもこの人のやり方は違った。生徒達と一緒に散歩をするんだ」
「え?じゃあ何、ぞろぞろみんなで歩き回っているの?」
「そう。って言っても、当然実際見てないから断言できないけれどね。この先生はその日その日に議題を出して、生徒達にそれについて議論をさせたんだ。勿論自分も加わってね。それを一日中していたんだ」
「へぇ。何か、今私がやってるのとは全然違うんだね」
「うん。当然答えが出る時もあるし出ない時もある、でも結論を出すことが必ずしも目的じゃないんだ」
「それじゃあ、一日かけてしても意味ないんじゃないの?」
「と、思うでしょ?でもね、これには何か学ぶ上で一番大事なことが鍛えられるんだ」
「それは何?」
と、聞くと今度は私の肩に手を置いて優しく
「それは琴音ちゃん、君が普段自然とやっていることだよ。自分で疑問点を見つけて、それは何なのか、どういうことなのかを追い求め続ける力だよ」
「あ、あぁー」
「さっき先生がって言ったけど、勿論生徒の方から議題を持ち込んでもいいんだ。普段生活してて、疑問に思ったこと、それについて他のみんなはどう考えてるんだろう?というのを確かめる意味でも、散歩しながら一日中議論をしていたのさ。ちなみに細かいけど、この先生の先生が、そもそも同じことしていて、そのやり方を真似したってことなんだけれどね」
「ふーん、それはよく分かったけれど」
と私は感心しながら聞いてたけれど、肝心の謎が解けていなかった。
「だから、義一さんは独りでここにいるし、しつこいけど散歩もしてないじゃない」
「ごめんごめん、ついつい回りくどくなる、僕の悪い癖が出ちゃったよ。琴音ちゃんが真剣に聞いてくれるから、ついつい僕も、間違いなく、なるべく誤解がないように言おうとしてこうなったんだ。許してね? えーっとつまり、そこからもう一つ、”逍遥”に意味が含まれるようになったんだ。それは」
と義一は一呼吸置いてから
「心を今いる、目に見えるし触れられるような現実の世界の外に遊ばせる。と言う風なね。どう?意味わかるかな?」
と聞いてきたので、
「うーん…分かるような分からないような…つまり、義一さんはたまにここに来て、心をどこかここじゃない、どこかへ飛ばしているってこと?」
とフワフワした自分のあくまで感覚的な感想を答えた。すると義一はまた私の頭を優しく撫でて微笑みながら
「そう、大体そんな感じで合ってるよ。ごめんね、変に難しい話をしちゃって、確か前にも琴音ちゃんに変なことを言ったのを思い出したよ。その時にも言ったかもしれないけど、どうにも琴音ちゃんが僕から見ると、普通の大人なんかよりずっと成熟していて、洗練されてて、とても子供と話している気がなくなっちゃうんだ」
「もう、その妙な褒め方しないでよ、困るから。あ、もっと簡単に言えば、ここに何か考え事をしに来てるってことだね?」
「そう!それが一番分かりやすい正解!よく出来ました」
と義一は小さく拍手をしながら言った。私は呆れながら
「義一さんて一日中ここで考え事しているの?暇なんだね?」
と思わず思ったことが口から滑り出てしまった。
あっ、流石に怒られるかな?っと恐る恐る義一の顔を覗き込んでみると、怒っているどころか、さっきよりも笑顔、知的好奇心に満ち溢れた笑顔だった。
「暇かぁ…うん、暇は暇なんだけれど、逆に琴音ちゃんに聞くけど、暇って悪いことかな?」
想定していなかった質問が飛んできたので、これは遠回しに怒っているのかどうかと、頭の中を堂々巡りしていると、当の義一はあっけらかんとしていて、相変わらず微笑んでいる。
「いや、何か含みがある訳じゃないよ?琴音ちゃんがどう思っているかを聞きたいんだ」
と言うので、私はどうにでもなれと素直に答えた。
「だ、だって…私の周りの大人は、自分がどれだけ忙しいかを競うように自慢し合っているよ?自分がいくら暇かを自慢しているのは聞いたことがない…けど…」
と最後は消え入るように言った。義一はウンウン頷いていたが、相変わらず笑みは絶やさず、そのまま答えた。
「うんうん、なるほどねぇ。いや、僕はそれが間違ってるって言うつもりはないんだ。でもね、暇というのは僕は、忙しいよりも遥かに大事なことだと思っているんだ」
「え?どういうこと?」
「じゃあ仮に考えてみよう。今琴音ちゃんが学校から宿題を沢山もらったとする。それを片付けてる時、自分をどう思う?」
と聞いてきたので
「今の話の流れに沿わせるなら、忙しいと感じてると思う」
「うん、それにやらないと怒られるから、必死に次から次へと片付けていくよね?でも、その時やりながら、琴音ちゃんは何か疑問を感じたり、悩んだりするかな?」
「いやいや」
と私は大袈裟に手を振って否定した。
「宿題終わらすのに必死で、そんな暇なんか…あっ!」
と急に思い当たって、思わず声をあげた。その様子に満足したのか、義一は優しく諭すように話した。
「さっきも念を押したけど、僕は忙しいのと暇なのと、どっちが正しいかを言いたいんじゃないんだ。ただ余りに暇なこと、そう、暇を作ることすら嫌悪されてるのはフェアじゃないから、暇なことにも良いことがあると、特に琴音ちゃんには分かって欲しくて言ったんだ。さっき昔のギリシャの話をしたけど、暇じゃないとアレコレ周りをじっくり見れないし、自分がどこに立ってるのかも、分かりづらくなっちゃう。勿論世の中には何も考えたくない、忙しくしてたいという人間がいる、というより、それが大半だと思う。でもそれはそれ、これは余計なことかもしれないから、言うのを躊躇うんだけど…」
とここでまた考えるポーズをしたが、
「構わないよ。話して」
と私が促したので、義一は今度は私の背中に手を当てながら言った。
「今の世の中があるのは、皆んなが嫌っている”暇な”昔の人間達が、その自分の暇な時間を使って、考え抜いて生み出されたもののおかげなんだ。って言うと、お前もなのかと言われると、申し訳なくて小さくならざるを得ないけど…。一つ誤解しないでね?暇してるから何もしなくて良いんじゃないよ?暇だからこそ、アレコレいろんなものが落ち着いて見れて、忙しい人の代わりに、考えて考えて考えぬける。それを飽きなくやるのが暇してる人の勤めだと、僕は考えてるんだ。ってまた話が長くなったなぁ」
「義一さん…」
と私が言い掛けたその時、遠くの区役所の方から大音響で、誰もが知る、懐かしい童謡が流れてきた。五時になった合図だ。周りを見渡すと、いつの間にかグランドには人っ子一人いなくなり、太陽もとっくに沈んで、真夏の夕方とはいえ、東の空には夜の気配が迫っていた。
 鳴り終わると義一は立ち上がり、伸びを一回したかと思えば、顔いっぱいに申し訳なさを出しながら
「ゴメンね、琴音ちゃん。今日は一方的にくだらない話を延々と聞かせちゃって」
「あ、いや、全然私は…」
と、まだ私は言い掛けてたけど、それを遮るように明るい調子で
「もうこんな時間になっちゃった。ここまで付き合ってくれてありがとう。こないだみたいに、家の近くまで送るよ」
「う、うん」

 私の家までの道、さっきとは違って義一は、今日私が持ってきた宿題や、学校のことなどの世間話を振ってきた。それでも私が浮かない顔をしてるのに気付いた義一は、顔を覗き込むように
「…琴音ちゃん、どうしたんだい?そんな浮かない顔をして?」
と聞いてきたので、私は少し気まずそうに答えた。
「いや、本当にそんなつもりじゃなかったのに…今思い出しても、悪口にしか思えないこと、義一さんに言っちゃったから…」
「もう、琴音ちゃんは…」
と義一は苦笑を漏らしながら私の背中をさすって
「感じやすいのも考えものだねぇ。僕の言えた義理はないかもしれないけれど。…あ、そう言えば」
と義一はポケットから何か取り出した。見るとそれは携帯電話だった。しかも、それは今は懐かしい、旧式の折りたたみ式だった。私がその携帯を見つめていると、義一はパカっと開けて
「今日みたいに突然だと、琴音ちゃんにちゃんと色々と準備出来ないまま、迎えることになるから…」
とまで言うと、義一は仰々しく、ダンスを誘うようにお辞儀をしながら
「私めに、連絡先を教えてくれないでしょうか?お嬢さん?」
と、いくら人通りがないとは言え、道の真ん中でそんなポーズをとったので、私はふふっと堪えきれずに吹き出してしまった。私も笑顔で、トートバッグからスマホを取り出すと、それを頭を下げている義一の顔あたりに近づけて言った。
「こちらこそ、喜んで」
「はぁ…有り難き幸せ、光栄の至りに存じます」
とここで胸に手を当てながら、義一が顔をあげたので、私と目があった。ちょっとの間が空いた後、二人して微笑みあったのだった。

「じゃあ、ここで良いから」
前に再会した時、送ってもらった信号の前で止まって、義一の方を向きながら言った。
「うん、じゃあまた、都合のいい日に遊びに来てね」
と言った後、少し意地悪な顔で
「だいたいいつも、”暇”してるから」
と言った。でももう、私の方も何も気にしなくなっていたので
「はいはい、私も暇を作って、遊びに行くわ」
と、軽く去なした。
「ははは、じゃあね」
「うん、じゃあね」
義一はあの時と同じように街灯の少ない路地に消えて行った。でも前と一つ違ったのは、曲がり角に入る前に、後ろを振り返り、私に手を振ってくれたことだった。

第6話 ”親友”と”心友”

「え?お菓子の作り方を教えて欲しいの?別にいいけど」
と先生は私からの予想外のお願いを聞いて、少し戸惑っていた。
「いいけど、琴音ちゃんはそういうのは興味なかったんじゃない?」
「いや、いつも先生のお菓子を食べてて、自分でも美味しいお菓子が作りたくなっちゃって」
「ふーん…あっ」
と先生は何か察したのか、口元を緩めながら顔を近づけて来て、耳元で小声で
「何?とうとう好きな子が出来た?」
と、変な気を回して聞いてきたので、少し慌てながら
「ち、違いますよ。私はただ純粋に…」
と答えたが、私の弁明は聞いてもらえず先生は一人ウンウン頷いていた。
「いやいや、何も恥ずかしいことじゃないのよ?恋愛して、人生の機微を経験していけば、芸においても深みが出るんだから」
「だから、違いますって」
と言ったが、ちっとも取り合ってくれなかった。
「はいはい、じゃあこちらへいらっしゃい。まず簡単なのから教えてあげる」

 夏休み。私のここ数年の過ごし方は決まっていて、学校が無いのも手伝って、週に二回とピアノを習いに行く回数は変わらないけれど、先生の厚意もあって、平日は夕方から二時間なのを、午前中から夕方になるまで、倍以上の時間を費やしてレッスンをしてくれていた。今は昼の中休み、いつもは昼ご飯食べに一度家に帰るんだけど、この日からは先生の自宅、その居住スペースにお邪魔して、キッチンを借りてお菓子作りも習うのだった。

「義一さん、ちゃんと私が言っておいた材料、買っておいてくれた?」
「もう、これで聞かれたの三度目だよ?大丈夫、ちゃんと用意しているから」
「じゃあ、明日楽しみに待っててね。おやすみなさい」
「おやすみ」

 前と同じく、宿題と筆記用具、もちろん鍵も忘れずにトートバッグに入れて、お母さんには図書館に勉強しに行くと言って家を出た。義一の家までの道すがら、携帯から昨日の晩にやり取りしたメールの文面を見返しながら
「ふふ、これじゃ、どっちが楽しみにしているか、分かったもんじゃ無いな」
と苦笑しながらも足取りは軽かった。時刻はだいたい前回と同じ。昼の一時十分前を示していた。一度携帯をカバンに戻し、次に一切れのメモを取り出した。それは、ピアノの先生に教えてもらったことをメモした、簡単に作れるチョコブラウニーのレシピだった。懸命にメモってる私の姿を見て、微笑んでいた先生の顔がちらつく。
「えぇっと…コレをこうして…出来たコレを…」
と、一応頭に入れたレシピの手順を念入りに確かめるように、メモを覗き込んだ。
 別に義一の家で、見ながら作ればよかったのかもしれないけど、初めて作るのに上手く卒なく作れる所を見てもらいたかった…のかもしれない。思い出しても小ちゃな見栄だけれど、中々我ながら可愛らしかったなぁ…と思う。
 それはともかく、集中してぶつぶつ言いながら歩いていると、後ろの方から自転車のベルをしつこく鳴らしながら近づいて来る、聞き慣れた声が聞こえた。
「おーい、またお前はこんな所で何してんだよ?」
振り向くと、予想通りヒロだった。私は足を止めて、いかにも迷惑そうにしながら
「ゲッ、ヒロじゃない。何?私に何か用?」
「おいおい、ゲッて何だよ、ゲッて。相変わらず冷てぇな」
「何?こんなに暑いから、涼む気で、冷たい私に近づいたの?」
とすかさず突っ込むと、ヒロはため息混じりに
「相変わらず、何言ってんのか、分かんねぇ」
「分からなくて結構。今日はあなたに構ってる暇がないの。じゃあ」
と再び歩き出そうとしたら、ヒロは自転車を手で押しながら、私について来た。
「ちょっと、何で付いてくんのよ?」
と私がジロッと睨みながら言うと、ヒロは私がまだ手に持ってたメモに視線を向けながら
「だって、またこないだみたいに、訳わからんことをしようとしてるんだろ?」
「何よ、訳わからんって。いつものあなたの方が訳わからんわよ」
と毒突いたが易々無視して、メモを指差しながら
「ここ、結構車が来るから、お前みたいに一つのことに集中し出すと、周りが見えなくなる奴は危ないぜ?」
と言うと、一回鼻を指で擦ってから
「だから、俺が付いてってやるってんだよ」
と、ぶっきらぼうに言った。私はシッシッと手を振って
「それは親切にありがとう。気持ちだけ貰っとくから、もういいよ」
と追い返そうとしたが、通じなかったようだ。私のセリフは無視して
「で、今度は一体何事なんだ?また一人でブツブツブツブツ。俺だから良いけど、お前を知ってない奴が見たら、アブナイ奴にしか見えないぜ」
「あなた、私を知ってたの?私はあなたをよく知らないけど」
と、いつもの調子でからかった。するとヒロは少しムッとしながら
「もうそれはいいんだよ!…お前はこれからどこに行くんだ?」
「え?そ、そうねぇ…」
私は尻込みした。義一のことはヒロも一度会ってるから、最悪このまま付いてきても、一から説明しなくて済む分楽だけれど、問題は、私がお母さんに「図書館に行く」と嘘ついて家を出てきてる事。もしヒロが私の事を誰かに喋ったら、バレて全てが水の泡だ。
「おーい、何を黙ってんだよ」
ヒロは私の胸中など知らずに隣で、呑気な声を上げている。私はふと立ち止まり、声の調子を落として、ヒロの目を強く真っ直ぐに見つめながら聞いた。
「…ねぇ、ヒロ。今から私が言う事、誰にも言わないと誓う?」
「おいおい、何だ何だ。やっぱり面白い事を隠して…」
「ねぇ、ヒロ。…どうなの?」
と改めて強い目でヒロの目を射抜いた。するとさっきまでヘラヘラ笑っていたヒロだったが、少し真面目な顔つきになって、そして少し心外な調子で答えた。
「…おい、今までお前と約束して、破ったことが俺にあったか?」
 そうなのだ。ヒロは普段からヘラヘラと笑ってお茶らけやって、良く言えば周りを明るくするムードメイカーで、私とは真逆の性格、混じり合わない水と油だ。本来なら一緒に付き合える筈がないのだが、少なくとも私の立場から言うと、数少ないヒロの長所、本人には絶対言ってあげないけど本当に素敵な長所のおかげで、気を許せていた。それは、私も含めて、誰も裏切ったことがないことだった。
 普段誰かと一緒にいて、思い込みやすれ違いのせいで、している本人はその気が無くても、受け手から見て思っていたことと違う事をされると、多かれ少なかれ、自覚的か無自覚かはともかく、裏切られたと感じるものだ。その原因は細かく言えばキリがないけど、大体お互いに自分を良く見せようとか、下らない見栄をはる、もっと露骨に言ってしまえば”嘘をつきあう”ために起きる。その嘘がずっと続けられれば大丈夫でも、どこかでやっぱり無理が出て来て、アラが出た時に受け手がそれを見て失望する。
 ヒロにはそこがない。良く見られようとか衒うようなことが、まるでない。あまりに能天気で、物事を深刻に考えずやり過ごしてしまう、たまに、いやしょっちゅう後ろから蹴りたいと思うことがあったけど、また褒めるようで癪だけど、自然とブレずに相手と裏なく付き合える性格に、私は何度も救われていたのかも知れない。
私は一回息を深く吐くと、力を抜いて話した。
「…今から、あの…叔父さん家に遊びに行くところなの」
「?叔父さん家…あぁ、この前の!」
と、ヒロは若干引き気味に言った。
「あの変わった叔父さんのところかよー。まぁ、でも、叔父さんだろ?何をそんな隠すんだよ?」
「それは…」
と、また私は口噤んだ。別に何も家庭内の事情を言うことはないからだ。しかも、今にして思えば、色々といわゆる”大人の事情”があったとは言え、過剰にしか見えないほど義一を毛嫌いするお父さんに対して、漠然と違和感を持ち始めていた時期だったこともあって、余計に詳しく言うのを躊躇った。
 私は両手を胸の前で合わせて、頼むポーズをしながら
「…お願い!理由は聞かないで!ただ、私を見たことを内緒にしていて欲しいの!当然これから叔父さんに会いに行くことも」
「え?なん…」
とヒロは先を続けようとしたが、私がさっきのように強く視線を送ると、口を閉めて、少しの間何か考えてるようだったが、急に目を見開くと、言った。
「…よし!しょうがねぇ、わかった!このことは黙っておいてやる」
「ヒ、ヒロ…」
と私がお礼の言葉をかけようとしたその時、ヒロはニヤッと意地悪く笑い
「その代わり、俺も今からその叔父さん家まで付いていくぜ」
「え?…えぇー」
とさっきまでの感謝の感情は消え失せ、いかに不服かを示すために、語尾を伸ばしながら言った。相変わらずヒロはニヤニヤしながら
「別にいいじゃんかぁ。お前の叔父さん俺のこと知ってるし、あまり急に押しかけても、追い返すような人には見えなかったからな」
こいつは意外と人を見る目がある。それが厄介だ。
「それに余計なことはしないで、静かにしてるからさぁ。な、な、いいだろ?」
「あなたが静かにしてるなんて、今から突然冬になるよりあり得ないわよ…まったく」
とここで大きくため息をついた。仕方ないわね、お願いしてるのはこっちだし。
「はぁ、もう、わかったわよ!でも、いい?本当に大人しくしてるのよ?わかった?」
「はーい、ママ」
「誰がママじゃ、誰が」

 再び私は歩き始めた。余計な相棒を連れて。
「はぁ、前もこんな感じだったなぁ…デジャビュよ、まったく…」
「ん?デジャ…え?何だって?」
「もう、なんでもないわよ。そう言えば…」
と隣で自転車を押すヒロに、今更ながら聞いた。
「あなた、今日何か用事があったんじゃないの?」
「ん?今日か?今日は何もない日だ。練習もないしな。家にいてもつまんないから、外に出ただけよ」
「ふーん…ってこれもまたデジャビュ…」
「だからその舌噛みそうなのは、なんだよ?」
「はぁ、あなたって、暇人なのねぇ」
とヒロの質問には答えず、大袈裟に顔中に憐れみの表情を浮かべて言った。するとヒロの方も、いかにもスネたような態度をしながら
「ヘイヘイ、悪かったなぁ。暇人で」
と言ったその時、前に義一に話してもらった内容を思い出した。あの後メールで「あんなに一方的に話してごめんね?話の中身も、あくまで僕の意見だから、参考までにしておいてね」と念に念を押してきたが、良かったのか悪かったのか、義一の思惑とは裏腹に、しっかり私は影響を受けていた。
「…いや、暇なのは悪くないよ。うんうん。ヒロ、良かったねぇ、暇人で」
「おいおい、馬鹿にしてんのか?」
「いやいや、はははは」
「?」
不思議がってるヒロを横目に、私は一人愉快になって歩き進めた。と、今までずっと手に持っていたメモを見ながらヒロが聞いてきた。
「なぁ、ところでその紙はなんだよ?さっきも一人でジッと見てたじゃんか?」
「あ、これ?」
私は少し足を早めてヒロの前に回り込み、とびきり意地悪い笑みを浮かべて言った。
「ふふふ、内緒。教えてあげなーい」
「なんだよー、ケチ」


「さあ、着いたわよ」
「え?ここか?」
義一の家の前に着くと、ヒロは私が初めてきた時と同じ様に、家を色んな方向から舐め回す様に見回した。一通り見てから、玄関前に戻ってくるなりヒソヒソ声で
「すごいな、お前の叔父さん家。ボロボロで、まるでお化け屋敷じゃん」
「あのねぇ…それを本人に言っちゃダメよ?」
「大丈夫だよ。いくら俺でもそれくらいわかってる」
「そう?じゃあ行くわよ」
と私は玄関に手をかけた。一応鍵は持って来ていたが、昨日メールで玄関を開けとくとの旨は聞いていたので、そのまま開けることにした。ガラガラと大きな音を立てて引き戸を開け、中に入ると、今日は初めから電気が付いていた。
「義一さーん、来たよー」
といつもの調子で言うと、居間の方のドアが開いて、義一が姿を見せた。相変わらず白いTシャツにジーンズと、ラフな格好をしていたが、今日はその上にエプロンをしていた。
「おぉ、いらっしゃい…おや?」
とすぐに義一の視線はヒロに向いた。ヒロは私と義一の挨拶に目を丸くしていたが、目が合うと、一度お辞儀してから明るく
「琴音の友達の、森田昌弘です。久しぶりです。お邪魔します」
「え?えぇーっと…?」
と当然の事ながらヒロを見つつ唖然としていた。そして今度は視線を私に向けて説明を求めた。私は無理に笑顔を作って
「た、たまたまここにくる途中で会ったの。何とか追い返そうとしたんだけれど、結局ここまで付いてきちゃって」
と言うと、横からヒロが
「おいおい、俺は野良犬じゃねぇぞ?」
「似た様なもんでしょ?」
二人でしょうもないことを言い合ってると、今まで黙っていた義一が笑みをこぼして、それからヒロに言った。
「いやいや。確かに何も言われてなかったから、多少ビックリはしたけど、琴音ちゃんの友達がせっかく来てくれたんだからね、こんなところだけど歓迎するよ」
「本当ですか?やったー!じゃあ、あらためて、お邪魔しまーす」
とヒロは靴を脱ぎ捨てながら上がり、あちこちを興味津々に見渡していた。
「あ、コラ!ヒロ!…もーう」
と、まるで実の母親かお姉さんの様に、脱ぎ捨てられた靴を整えていると、義一が顔を近付けて来た。そして小声で
「琴音ちゃん…」
と言いかけたので、私も小声でだけど
「義一さん、ごめんなさい!さっきも言ったけれど追い返そうとしても付いてきちゃったの…ごめんなさい、ついこの間約束をして誓ったばかりなのに…」
と慌てて言ったが、義一は優しく落ち着いた調子で
「うんうん、わかってるよ。僕の方もさっき言ったけど、琴音ちゃんの友達なら大歓迎なんだから。ただ…」
と言いかけ視線をヒロに送った。ヒロは何故か、トイレのドアを開けて覗き込んでいる。
「僕のところに、君が遊びに来てること、バレたらまずいね…お母さんに嘘までついてるんだし」
と今度は私のトートバッグに目を移した。私はバッグの紐をぎゅっと一度握ってから義一と目を合わせて
「それなら大丈夫!…だと思う。ここに来るまでに、よく言い聞かせて置いたから」
と多少なりとも自信ありげに言うと、義一はヒロの方を数秒見た後、また私に視線を戻し、そして優しい笑顔で
「そっか…それぐらいまでに、あの子を信用してるんだね?」
と聞いたので、私は強く頷いた。と、その時
「おーい、二人ともー、早くこっち来なよー」
と、ヒロが我が物顔で自分の家の様に振舞って、居間の中からこちらを覗き込みつつ、声をかけてきた。私は呆れて
「あなたねぇ…さっきの静かにしてるって約束はどうしたのよ?」
と私は文句を言いながら、靴を脱ぎ居間の方へ向かった。
「えー?そんな約束してたっけ?」
「あのねぇ…」
「…ふふ」
と義一も微笑みながら、私に続いて居間に入って行った。

 居間に入りキッチンの方を見ると、私が予め頼んで置いたものが、所狭しと並べられていた。私は早速、軽くだけど一つ一つチェックをした。どうやら全部ある様だった。
 その様子をヒロは黙って見ていたが、我慢ができなくなって
「おいおい、これから何をしようってんのさ?」
と言うので、義一は私に
「ん?あれ?ヒロ君には何も言ってなかったのかい?」
「え?」「え?」
私とヒロが、ほぼ同時に声を発した。私が何か言いかけるよりも先に、義一はヒロの反応に気付き、すぐに察した様で、まずヒロに向かって言った。
「あぁ、ごめんごめん。馴れ馴れしかったかな?いや、いつも、君について琴音ちゃんから、楽しそうに話すのを聞くもんだから、勝手に親しくなった気がして、僕も二人で話すときは”ヒロ君”って呼んでたんだよ。嫌だったかい?」
「え?あ、いやー…」
とヒロは何故か変に照れながら私の方を見た。そして義一の方を見て
「いや、大丈夫ですよ。なんと呼んでもらっても。ヒロ君でも、この野郎でも」
と言うと、義一は心から愉快だといった様子で返した。
「ははは、そうかい?じゃあ遠慮なく呼ばせてもらうね」
「あのー、お二人さん?」
と私がつまらなそうにブー垂れながら横槍を入れた。
「私の事、忘れていませんかね?」
「あぁ、いやいや、ごめんごめん。で、なんだっけ?」
「…いや、義一さんがいいなら、それでいいけど」
「ん?うん。あ、じゃあ改めてヒロ君、今日何するか説明するとね…」
義一は材料や食器などを並べてる所を指差しながら
「今日はこれから、二人…いや三人でお菓子作りをしようと思いまーす!」
と陽気な声をあげて、料理番組調に説明した。
「え?えぇー、お菓子作りぃー?」
と言うヒロの顔は如何にも不満そうだ。何を期待して来たんだ、こいつは?
「お菓子作りなんて女臭いことヤダよー。お前、こんな事好きだったの?」
と聞くので、私は腰に手を当てて、胸を張りながら答えた。
「あれ?あなたに言ってなかったっけ?こう見えて私って、女の子なのよ?女臭いことして当然でしょ?」
「うげぇ…」
私達のやり取りを、義一はまた笑顔で黙って聞いていたが
「じゃあヒロ君はそこの食卓で待っていなよ?僕ら二人で作るからさ。琴音ちゃんに教えてもらいながらね?」
と、材料の横に畳んで置いてあった、予備のエプロンを身に付けている私に向きながら言った。
「うん、任せといて。美味しくてびっくりするから」
と私も得意げに答えた。ヒロは少し疑わしげに
「ふーん…じゃあ、大人しく待ってるけど…あの琴音がねぇ…あっ!」
「え!?何!? ちょっとぉ、びっくりさせないでよ」
ヒロが急に素っ頓狂な声をあげたので、グラムを計っていた私はびっくりして言った。私は非難めいた視線を送ったが気にも留めずに、一人納得したように頷きながら言った。
「なるほど、あの時の紙は…」
「あ、わぁーーーーー!!」
とヒロが何を言おうとしてるのかがわかって、今度は私の方が大きな声を出して制した。義一が不思議そうな顔で
「ん?琴音ちゃん?どうかしたかい?」
と聞くので、私は動揺を抑えられないままに答えた。
「な、な、なんでもないよ!さぁ、早く始めましょ?」

「まず湯煎しなくちゃね。義一さん、ボールにお湯を溜めてくれる?」
「うん、わかったよ」
義一が、あらかじめコンロで鍋に入れた水を沸かしていたのを、ボールに移している間に、私は板チョコをパリパリと手で割っていった。思った通り、じっと待っていられなかったヒロが、私の手元で割られていくチョコを見ながら
「いいか、琴音。湯煎って言っても、湯に入れるって意味じゃないからな?」
と余計なボケをかましてきたので、私は若干イライラしながら
「あのねぇ、そんなベタなギャグをするはずないでしょ。ちょっと黙ってて」
「へーい」
「はい、琴音ちゃん。熱いから気をつけるんだよ?」
「うん、ありがとう」
お湯に浮かべた、一回り小さなボールの中に、今砕いた板チョコを入れてヘラで押し潰しながら掻き混ぜた。見る見るうちにチョコは溶けていった。義一の方はバターと砂糖を合わせて、黙々とまた掻き混ぜていたが、義一がハッとしながら
「あ、そういえば、琴音ちゃんに言われた量を用意したけど…」
と視線をヒロの方へ向けて
「この分量で足りるかな?」
と聞くので、私も手元から視線を外し、同じようにヒロを見ながら
「うん、大丈夫。元々四人分の量だったから」
と言うと、義一はニコニコしながら
「へぇ。でも、それだと彼が来てくれて良かったね。とても食べきれなかったよ」
と言うので
「いや、もし余ったら冷蔵庫に入れて、後でまた義一さんに食べてもらおうと思っていたんだけど…、まぁ、結果オーライね」
と私もやれやれと言った調子で笑った。会話を聞いていたヒロだけが、大袈裟に拗ねて見せていた。
 義一は、ボールを一度置いて、卵を溶いて、それをまた加えて混ぜた。
「…よし、こっちは出来たよ」
「うん、こっちもとっくに準備オッケー。じゃあ…」
と私は自分が溶かしたチョコの入ったボールを義一のに近づけ、中身をそっちに注ぎ込んだ。そしてまた義一が混ぜると、茶色と白の二色だったのが、徐々に混ざり合い、段々と中和されてクリーム色になっていった。その様を横目で見つつ、私は小麦粉を篩に掛けていた。それをまた義一が掻き混ぜてるボールに入れると、流石に疲れたのか義一が弱弱しい声を出して
「…琴音ちゃん、お菓子作りをナメていたよ…あとどれくらいかな?」
と聞くので、私は少し意地悪い顔を作ってから
「もう、だらしないんだからぁ。安心して?もう掻き混ぜるのはそれでお終い。お疲れ様でした」
「はぁ…一度置くかな」
義一はテーブルの上にボールをカタンと置いた。どれどれと中を覗くと、ちゃんと先生の所で練習したのと同じのが出来ていた。良かった、大丈夫そうね。と私がホッとしていたのも束の間、急にヒロが立ち上がり
「隙ありっ!」
と腕を伸ばしてボールの中に人差し指を突っ込んだ。
「あっ、コラ!」
と私が怒ったのも後の祭り、ヒロは人差し指の先っぽについたブラウニーの元を口に運んだ。私は苛立たしくしていたが、義一は笑ってヒロに聞いた。
「どうだい、ヒロ君?お味の方は?」
「うーん、多分…まぁまぁ?」
とはっきりしないと言った様子で答えた。私は呆れ口調で
「そりゃまだ焼いてないんだから、そのまま舐めてもそんなにでしょう?もう、汚いなぁ…ほら、早く手を洗って」
「あいよー」
とヒロは返事すると、私達のいるキッチン内部まで来てシンクで手を洗った。義一は相変わらず笑顔のまま私に
「しっかし、コレ、生で食べて大丈夫だった?後でお腹壊したりしない?」
と聞くと、ヒロも
「え!?マジで?」
と手を洗いながらも、器用に私の方を振り返りながら同じく聞いてきた。私はため息一つして、型にクッキングシートを貼りながら答えた。
「大丈夫でしょ?…多分。それよりも、バイ菌まみれの指を突っ込んだことの方が心配よ」

型にさっき作った”元”を流し込み、オーブンに入れて170度に設定してスイッチを入れた。
私はホッとため息ついて
「…よしっ!後は出来上がるのを待つだけ」
と言うと義一は背中をポンと押して
「琴音ちゃん、お疲れ様。よく頑張ったね」
と言うので、私は素直に褒められて嬉しかったが
「いやいや、義一さん。褒めるのはちゃんと出来てからにして」
と恥ずかしいのを誤魔化すように、少しツンとした感じで返した。
 出来上がるまで、義一は余った材料の整理、私とヒロはシンクの前に二人並んで洗い物をした。
「なぁ、どれくらいで出来るんだよ?」
とオーブンから香ってくる、香ばしく焼けるチョコの匂いに、鼻をスンスンと鳴らしながら、ヒロが聞いてきた。
「そうねぇ、大体焼き始めてから四十分くらいかな?」
と私は、シンクの位置から辛うじて見えるタイマーの文字盤を見ながら答えた。するとヒロは、手元でボールを洗いながら顔を上に向け
「えぇー…まだまだ時間があるじゃん。待ってる間暇だよー」
と泣き言を言っていたが、暇になる心配はなかった。
 待っている間、義一がヒロに普段なにやってるか、好きなものは何かなど、根掘り葉掘り質問ぜめをしていたからだ。最初の方は義一の、子供相手でも遠慮しない攻撃に、ヒロはタジタジだったが、野球の話になると、途端に目を輝かせて自分からも進んで話し出した。私は、義一に出して貰った紅茶を飲み、相変わらずの義一と、ソコソコの付き合いのはずだったけれど、普段見たことのない笑顔で話すヒロを見て、微笑みながら横で二人の会話を黙って聞いていた。

チーーン。
作業を終えた事を、明るいベルを鳴らしてオーブンが知らせた。ゾロゾロと私達三人は、そんなに広くないオーブン前に集まり、義一が開けるのを今か今かと待った。すでにあたりには、濃厚な甘い匂いが漂っていた。
「じゃあ、二人とも。危ないから近づかないでね?」
と義一が恐る恐る、中から型の置かれたトレイを引っ張り出し、それを手前のテーブルの上に乗せた。わたしも恐る恐る覗いてみるとそこには、まだ湯気が立って、熱々なのを感じさせる、チョコブラウニーがそこにあった。その茶色い表面に若干ヒビ割れを見せていたが、これは先生の所で作った時にも出来ていたから問題ない。どうやら大成功のようだ。
「おぉー」
ほぼ三人同時に声をあげた。ヒロは湯気に手を近づけ、それを自分の鼻に向かって仰ぐと
「はーぁ、めちゃくちゃいい匂い!」
と満足げな声を上げた。私は嬉しさを噛みしめながら、ふと義一の方を見ると目が合った。義一は目を細めるとすぐに明るい調子で言った。
「よしっ!じゃあ、早速盛り付けて頂こうとしよう!」

 義一が出した小皿を受け取り、各々チョコブラウニーをトレイから取って、食卓に座った。
「さてと…じゃあ」
と、向かいに座った義一が、私の隣に座っていたヒロに向かって微笑みながら言った。
「ヒロ君、琴音ちゃんに”いただきます”を言おうか」
「え、えぇー。いいよいいよ、そんな大袈裟な」
「うーん、まぁ考えてみりゃそっか」
とヒロは私の方を向いて、深々と頭を下げて見せながら
「それでは琴音様、有り難くいただきます!」
「ちょっとー、やめてよー」
私は半分戸惑い、半分引き気味に言った。義一も笑顔で
「うんうん、じゃあ琴音ちゃん、あらためて頂きます」
「め、召し上がれ?」

早速フォークで割って見ると、湯気の塊がモワッと出てきた。どうやら中までちゃんと火が通っているようだ。辺りは余計にチョコの匂いで充満した。私は自分が食べる前に、義一が食べようとするのを見ていた。口に運び、目を瞑りながら咀嚼してるのをドキドキして見ていると
「…おぉー!!美味いじゃん、琴音ー!」
と急に隣でヒロが大声で言ったので、その様を見ながら義一は笑っていた。私も隣のヒロを見て、少し眉を顰めたが、その様子を見ても気にしない様子でヒロは無邪気な笑顔で
「やるなー、女らしさゼロのお前が作る菓子なんて、どんなゲテモノが出てくるかと思えば、なーんだ、やれば出来んじゃん」
と言った。私は呆れ返ったが
「それはそれは、最高の誉め言葉をくれてありがとね」
とトゲを何重にも練りこんで返した。義一は私達二人の様子を見て笑みを浮かべながら
「さすが長年の友達だねぇ。琴音ちゃんのツボが分かっている」
と言うので私は義一にもヒロに対してと同じ調子で
「いやいや、ツボの外し過ぎにも程があるから!ヒロに毎度毎度押される度に、逆に体を壊してるんだから」
と答えた。と、まだ義一の感想を聞いてないのに気付き
「で?義一さんはどう?このチョコブラウニー…」
となるべく調子を変えないように気を遣いながら聞いた。本当のところはドキドキだ。
「そうだなぁ…うーーーーーー…」
と義一は腕を組むと、ヤケに語尾を伸ばして唸っていた。私が続きを待っている時、ヒロも静かに口にブラウニーを含みながら待っていた。と急に目を見開いたかと思うと、満面の笑みで
「ーーーんまい!美味いよ、琴音ちゃん!」
と言ったので、一瞬何も言えなかったが、私は苦笑いを浮かべて
「何よそれぇー。なんか古いよ、そのリアクション」
と言うと、義一は頭を掻きながら、私とは違う意味で苦笑いし
「えぇー…古い、のかぁー。ヒロ君もそう思う?」
と、また一切れ口に運ぼうとしていたヒロに聞いた。ヒロは口に入れてモグモグしながら
「残念だけど叔父さん、リアクションがなっちゃいないなー。まだまだだね」
と誰目線だか分からない調子でヒロが答えた。義一はあからさまにガッカリして見せて
「そうかー、中々だと思ったんだけどなー…」
と呟いて一瞬間が空いた後、三人顔を見合わせて大いに笑いあった。

「二人共、忘れ物ないね?気をつけて帰るんだよ?」
「うん、また来るね」
ブラウニーを食べ終わり、少しまたさっきの会話の続きをしたらすぐ五時になった。今三人は玄関前にいる。
「ヒロ君も」
と義一はヒロの方を向きながら、私に向けるのと同じ笑顔で言った。
「琴音ちゃんといつでもここに来ていいからね?」
「はい、またお邪魔します。じゃあ、さいならー」
 玄関外で立っている義一が見えるギリギリのところまで行き、振り返って手を振り、家路についた。私達は途中、今日作ったブラウニーについて色々お喋りをしたが、一通り終わると、私はヒロに質問を投げかけた。
「ヒロは、ぎい…叔父さんの事どう思う?」
するとヒロは、紫色に暮れた空を見上げ、うーん…、と何を言おうか迷っているようだったが、顔を真っ直ぐに戻して答えた。
「そうだなー…やっぱり第一印象と変わらないな、この人変わってるなっていうのは。でも」
とここでヒロは私の方に顔を向けて言った。視線は逸らしながら。
「まぁ…凄く良い人だよな。俺みたいなガキにも友達みたいに話しかけて来るし。大人のくせにさ。お前が気に入るのも分かるよ」
「そ、そう?ふーん」
と、こっちが聞いたのに、特に興味が無いと言う体で生返事をしたが、正直に言えば、ヒロが義一に対して持っている感想が、純粋に嬉しかった。それから少しだけお互い沈黙したが、ヒロが静かに口を開いた。
「…で、でよー?」
「うん?何?」
「い、いつもアァなのか?」
「アァって、何がよ?」
と私が聞くと、ヒロは一瞬言い淀み、言葉を選んでいる感じだったが、意を決したのか、また静かに私を真っ直ぐ見て聞いた。
「そのー、叔父さんと、名前でいつも呼び合ってるのか?ほ、ほら、今さっきも義一って言いかけていただろ?」
「え?あぁー、その事?そうねぇ…」
と私が今度は空を見上げて、言うか言うまいか考えていたが、ここまで知られたら、今更隠すこともないと悟って、顔をヒロに向け、なんともない調子で答えた。
「まぁ、変わってるっちゃ変わっているよね、私と義一さんの関係は。…ヒロ?」
と私は一回溜めると、また言葉を続けた。
「私と義一さんは、叔父さんと姪っ子というより、心から通じ合える、心の友と書く方の”心友”同士なの」
「し、心友?叔父さんなのに?」
ヒロはあからさまに不信感を顔中に漂わせて言った。私は、その反応は想定内だったから、構わず続けた。
「そう、心友。いくらヒロ相手でも、詳しくは話せないんだけど、私と義一さんの出会いは、叔父さんと姪っ子という、ごく当たり前の関係が出来るようなものじゃなかったの。始まりから変わっていたの」
ヒロは黙って大人しく聞いている。
「しかも今ヒロが言ってくれたように、あの人、私達子供に対して、同年代のように接して来るでしょ?だから、今更叔父さんて呼ぶのもなんだかなって感じになっちゃって、それで名前呼びになっちゃったの。どう、理解した?」
と私は最後にヒロに暗々裏に同意を求める意味合いを込めて聞いた。
結局洗いざらい、丸々正直には話せなかった。でもあながち間違ってはいないし、話した時は本心からのつもりだった。
ヒロは今度は下を向き、うーんと唸っていたが、顔を上げ私の方を見た。その顔はさっきと少しも変わっていなかった。
「うーん…まぁ、俺はさっきも言ったように、お前の叔父さんにイヤな感じはしなかったし、それに何よりお前を信じてるから、お前がそれでいいならいいけどよ…でもよ、琴音」
とここまで言うと、今まで長い付き合いの中、初めて見る真剣な表情を見せて一言だけ言った。
「何とも自分でも分からねぇけどさ…気をつけろよ、琴音?」
「え?」
まさか忠告してくるとは思わなかったので、流石にビックリして聞き返した。
「気をつけろって…何に気をつけるの?」
と聞くとヒロは首筋をポリポリ乱暴に掻きながら答えた。
「だから、俺にも分からねぇってば!でも、わかったな?」
「わ、わかったわよ…あっ!」
「な、何だよ、今度は?」
と私が声を上げたので、ヒロは瞬時に身構え、目を見開きながらこちらを見た。
こうして反応しているのを見ると、こいつって猫みたいね…。などと、場違いな事を思いながら、今度は意地悪い顔を作り、ニヤニヤしながら言った。
「そう言えば、義一さんにヒロの事で話そうと思ってた、とっておきの話があったんだった!忘れてた」
「な、何だよ。とっておきって…」
益々ヒロは私に対して警戒心を高めた。それに相対するように私もニヤケながら言った。
「ほら、あなた、土手で義一さんを初めて見た時、女の人だと勘違いしてたでしょ?」
「あ、オイオイ!あれは…」
と急にヒロは元気になって、私に詰め寄り慌てて返した。
「あれはだってお前、あの叔父さんが男のクセに、女が持ってるような日傘を差して座っていたのが悪いんじゃないかよ!」
「えぇ、別に私はあなたが悪いって言いたいんじゃないよー?ただ、女だと勘違いした挙句、結構タイプだったのか、後ろを通る度にチラチラ見てたって事を、義一さんに教えてあげようってだけだから」
「おいおい、勘弁してくれよぉー」
「えぇー、どうしようかなー」
と言いながら、私は急に前触れもなく駆け出した。それを見たヒロは慌てて自転車に飛び乗ると、ペダルを漕いで私の後を追いかけた。
「おーい、琴音ー。待てってばー」
「待ったなーい」

第7話 絵里さん

あれから何日か経ち、相変わらず私はレッスンの日になると、先生の自宅に行ってピアノを弾いていた。昼の中休みに、お菓子作りを習うのも習慣化してきた。先生は私に
「アレからどうなった?ちゃんとその人に美味しく食べて貰えた?」
と、誰に食べて貰うとか、そんな話は微塵もしていなかったのに、意味深に笑いながら聞いてきたので、私も誤魔化し受け流すのが面倒だったので、当たり障り無く
「えぇ、一応喜んでくれました」
と言うと、頭を手の平でポンポンと軽く叩いてきたのだった。
 義一のところに行くのはどうなったかと言うと、チョコブラウニー作ったあの日、家に帰ってメールをしていると、その中で「そう言えば、これからちょっと立て込んでて、十日間くらい忙しいんだ。だから来て貰っても出られないから、しばらくゴメンね」と言ってきた。メール本文に何故かを書かなかったから、”なんでちゃん”としては当然気になったけど、口にするならともかく、言葉を一々打ち込むのが面倒臭かったし、正直それほどのことじゃなかったから、ただ了承と次の約束の旨だけ書いて返信した。
 だから今は、もう八月に入って今日で一週間になる。レッスンのない日は家でピアノの課題を練習していたのだが、宿題はどうしようと最初は迷った。義一の家に行く動機付けが、無くなっちゃうんじゃないかと思った。でもこないだの事を思い出し、ヒロが偶然居合わせたから、宿題をせっかく持って行ったのに出来なかったけど、別に持って行くだけでやらなくても良いのかと思い至った。
ふと考えて見たら、ほとんど先生の自宅と自分家にしか今年の夏は過ごしていなかった事を思い出し、気分を変えるためにトートバッグを持ち、毎度の帽子を被って、お母さんに図書館に行く事を伝えて家を出た。今回は嘘も偽りも無かったので、気持ち堂々としていた。
 図書館に着き、受付に向かうと、今日は山瀬さんは座っていなかった。考えてみれば当たり前だけれど、いる日もあればいない日もある、当然のことだ。ただ当時、行けば必ず山瀬さんに出くわし、受付の中から明るく挨拶をされていたので、軽く違和感を感じながら、見慣れない司書さんに利用処理をして貰った。
大きな窓から私基準で、適度に離れた長テーブルの端っこ、私がいつも座る特等席に座り、帽子を脱ぎ、バッグの中から宿題と筆記用具を取り出した。準備をしながら、何気無く周りを見渡すと、当時はそこまで分からなかったが、今思えば受験生なのだろう、夏休みなのに制服を着た男女六人くらいが、向かい合って黙々と参考書を広げながら勉強をしていた。その他は取り立てて目を奪うものはなかった。いつも通りだ。
「さて…」
と私は受験生たちに倣ったわけじゃなかったけど、早速宿題をこなし始めた。ここでいきなりこんな事を話すのも何だが、比較的私は夏休みの宿題を早く終わらせる方だったと思う。終業式に貰ったら、もう七月中には全て片付けて、八月に入ったら精々絵日記くらいしかやることがなかった。なのでこうして八月に宿題をしていると言うのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。こんな点でも義一は私に影響を及ぼしていた。やれやれ。
 暫く向こうの受験生グループと私の、硬い机とペンがぶつかるカリカリという音、天井から冷気を吹き付けるエアコンの音、受付で司書さんがパソコンの前で鳴らすタイプのカタカタ音、それ以外には物音一つしなかった。防音がしっかりしているのか、ここに来るまで喧しかった蝉の声が、この中では耳を澄ませないと聞こえない程度に抑えられていた。


 そろそろ持って来た分が終わるかと思ったその時、突然目の前が真っ暗になった。
「?」
私は突然のことで、声も出さずそのままの体勢でじっとしていた。どうやら誰かに両手で目を覆われたようだ。と、その時、背後から聞き慣れた声が聞こえて来た。
「だーれだっ」
誰だと聞かれても、この場で私にこんな幼稚な事を仕掛けて来るのは、ただ一人しかいない。
「…山瀬さん?」
「ブッブー、ハズレー」
と私の顔から手をどかしながら、声の主は明るい調子で答えた。私が振り向いて見ると、やはり山瀬さんだった。私は呆れた調子で
「何がブッブーですか。山瀬さんじゃないですか」
と言うと、山瀬さんは私の顔の前に人差し指だけを立てて、左右に揺らしながら
「いーや、不正解です。”絵里さん”って答えるのが正解だからね」
「何ですかそれ…」
と益々呆れ返る私を余所に、山瀬さんは私の座る隣の椅子を引くと腰を下ろした。山瀬さんはいつもの調子で話しかけた。
「何々?何してるの?あ、宿題?偉いなー。私は最終日までロクに手をつけない派だったよ」
「そうですか。…ところで」
とさっきはちゃんと見てなかったから気づかなかったが、山瀬さんの姿に違和感を覚えた。
あ、エプロンをしていない。
ふと横目で受付の方を見ると、作業中の司書さんはちゃんとエプロンをしていた。濃いグリーンの地味なやつだ。私は聞いてみた。
「山瀬さんは今日仕事だったんですか?服装普通ですけど?」
と私は言ったが、普通でもなかった。と言うより山瀬さんの普段着を見た事がなかったから、分からなかった。薄いグレーのノースリーブブラウスに、白のデニムを着ていた。ここでの山瀬さんしか知らなかったから、普段のキャラを見る限り、もっとボーイッシュなのを想像していた。露わになった二の腕は程良く引き締まり、連日の真夏日だと言うのに真っ白だった。女で、まだ子供だった私が言っては何だが、色っぽかった。と、私の視線に気づいたのか、山瀬さんはテーブルに肘つき、顔に手を当てながら
「なーに?そんなに私の私服が珍しい?どう?色っぽいでしょ?」
とさっき私が思っていた事と同じ事を言ったので、動揺を悟られまいとワザとつっけんどんに
「知りませんよそんな事。だから何で私服でここにいるんですか?」
と聞くと、山瀬はやれやれと大げさに首を振って見せて
「やれやれ、そんな若いうちから焦っちゃダメよ?大人になれば嫌でも月日は早く流れるんだから」
「いや、だから…」
「あ、シっ…」
私が言いかけたのを慌てて口に指を当てて視線を外したので、私も倣ってその先を見て見ると、向こうで勉強していた受験生達の何人かが、こちらをジッと見ていた。山瀬さんは申し訳ない顔を微笑混じりに作って、手でゴメンと謝った。私も頭をペコっと下げた。今度は極力声を抑えて聞いた。
「で、だから何なんですか?何で…」
と言いかけて私は止めた。山瀬さんがさっきと同じように、片手を顔に当てて、テーブルに肘つきこちらを黙って見ていたが、さっきまでの悪戯っ子の表情は影を潜めて、優しく笑いかけていたからだ。私が続きを喋らないのを、確認していたかのように少し間をおくと
「…なるほどねぇ、確かにアヤツの言ってた通りだわ」
「いやだから…え?アヤツ?」
とまだ最初の疑問が解決する前に、また余計に疑問を湧き上がらせるような事を言ってきた。
辟易としている私の表情を見ると、また山瀬さんの顔に悪戯っ子が戻ってきた。
「そうだよー、最近よくうちの図書館に調べ物に来るの。まぁ、毎年この時期は、いつもそうなんだけれど」
「?山瀬さん、一体何の話を…」
「あ、噂をすれば…」
と私の質問を無視して、山瀬さんは視線を正面玄関に向けた。私も釣られて視線をやると、何とそこには義一さんが、相変わらず真っ白の半袖と青いジーンズ姿で、受付の司書さんと話していた。驚きを隠せない私を尻目に、山瀬さんは大きく義一に向かって手を振った。受験生がコチラを迷惑そうに見ている。ふと義一さんもコチラに気づいたのか、視線をこっちに向けると、ゲッと言ったような表情を作った。と視線を少しズラしたかと思うと、遠くから分かるくらい驚いた表情をしていた。暫く立ち尽くしていたが、観念したかのように頭を掻きながら、私達のいるテーブルに近づいてきた。
 向かい側に回ると椅子を引き、腰を下ろしながら気まずそうに私に話しかけた。
「やぁ、琴音ちゃん。奇遇だね?まさかこんな所で会えるとは思わなかったよ」
「う、うん私も」
「ちょっとー、こんなところって何よー」
と山瀬さんは、非難めいた声で愚痴ている。それには相手をせず、私の手元を見ながら
「あ、宿題やってたんだ?ゴメンね、うちが使えなくて」
と言うので私はいつもの調子を取り戻しながら
「んーん、大丈夫だよ。いつもは一人でチャチャッと片しちゃうんだから」
と答えると、義一もいつものように微笑んだ。
「そうかい?ゴメンね、あと少しでいつもみたいに暇になるから」
「あのー、もしもし?」
と私たち二人の様子をジト目で見ていた山瀬さんが、ブツブツと文句を言ってきた。すると義一は大袈裟に驚いて見せて
「あれ?絵里、いつからそこにいたの?」
と聞くので、ますます目を細めながら
「最初からいたよ!大体受付のところで気づいてたでしょうよ?私を見るなり”ゲッ”て顔をした癖に」
「まあね。と言うか絵里こそ何で今日図書館にいるの?今日非番だって言ってなかった?だから今日狙って来たのに」
と義一がまた煽るようなことを言うと、それに山瀬さんがまた乗っかる様に答えた。
「残念でしたねぇ。受付のあの子のように、お淑やかで大人しい司書さんだけじゃなくて。確かに今日非番だったんだけど、ちょっとやり残した仕事があって、それだけ片しに来たの」
「ふーん、そっか」
と返してる義一を余所に私は、こんな簡単なことを中々焦らして教えてくれなかったのかと、呆れながらチラッと山瀬さんの横顔を覗いていた。とここで山瀬さんもこっちを向いたので目が合った。一瞬お互いに視線を外さずにいたが、すぐ何か思いついたといった表情になった。そして次に義一の方を見ると、明るい口調で話し出した。
「あ、そうだ!ギーさん、琴音ちゃん、この後どこかお茶しに行かない?」
「え?」
私と義一、ほぼ同時に声を出した。山瀬さんは構わず続けた。
「うん、それがいい!どう琴音ちゃん?この後時間ある?」
「う、うん、暗くなるまでに帰れれば…」
と未だ戸惑いながら答えると、強くウンウン頷いて
「大丈夫だよ。そんなに時間は取らないから!よしよし、で、ギーさんは大丈夫だから…」
「おいおい、これから調べ物…」
と、私と同じ様に義一が喋りかけたが、山瀬さんは義一のことは眼中にないらしい。
「よし、じゃあ決まり!決まったら二人共、善は急げだよ?さっさと片してしゅっぱーつ!」
と山瀬さんは元気よく立ち上がると、受験生達の冷たい視線も気にする様子なく、受付の司書さんに笑顔で挨拶してズンズン歩き出した。
「はぁ…」
と、私と義一は一緒に大きく肩を下げながらため息をついた。と同時に目が合うと、これまた同じ様に苦笑いをし合った。義一から声を掛けた。
「まったく絵里には困ったもんだね。本当にマイペースなんだから」
「ふふ、山瀬さんも義一さんには言われたくないと思うけど?」
とやり終えた宿題をバッグに詰めながら私は笑顔で返した。
「え?そうかなぁ?…でも琴音ちゃん、大丈夫かい?無理に絵里の無茶に付き合うことはないんだよ?」
「うん、大丈夫よ。この後予定がなかったのは本当だし、せっかく誘ってくれたんだしね!」
トートバッグを肩に下げながら答えた。
「それより義一さんこそいいの?今来たばかりなのに?」
と帽子を被りながら私が聞くと、義一もどっこいしょっと、重い腰を上げながら苦笑混じりに返した。
「まぁ、今回はしょうがないかな。また次回来るよ…絵里がいない時に」
「ふふ」

「おっそーい!」
と山瀬さんは図書館の正面にある時計が乗っかってるポールの下から、今出て来たばかりの私たちに向かって非難を浴びせた。手を顔に向けてパタパタ扇いでいた。
「女の子を一人炎天下で待たせちゃ、男としてダメでしょ!」
と山瀬が言うと、義一はおでこに手を当てて周囲を見渡しながら
「女の子?女の子は琴音ちゃんしかいないけど?」
と言うので、山瀬さんは口を尖らせて言った。
「あ、そういうことを言う?だからギーさん、モテないんだよ」
正直私と山瀬さん、身長が同じくらいだから、私が女の子なら山瀬さんもじゃないかな?などと、二人のやり取りを側から見てて、私は私で微妙にズレてることを考えていた。
「で?」
と義一が山瀬さんに話しかけた。
「これからどこに行くの?この辺りに喫茶店なんてあったっけ?」
「いや、ないよ」
と山瀬さんは声に表情つけずに返した。
「えぇ、じゃあどこに行くのさ?まさかこの炎天下、当てもなく歩き回るなんて言わないよね?」
と最後は私の方に視線を移しながら義一が聞いた。すると山瀬さんは何を今更と言いたげな顔つきで
「ギーさん、あなたは地元っ子でしょ?だったらわかるでしょ?」
と言うと、一旦溜めて、無駄に芝居掛かった調子で続けた。
「ファ・ミ・レ・ス・よ」


「えーっと、私はこのパフェ下さい。ギーさんは良かったよね?」
「うん」
「でー…琴音ちゃん、本当に何もいらないの?遠慮しなくていいのよ?全部ギーさんが払うんだから、ネッ?」
「おいおい、絵里の分もかい?」
「いいでしょ?たまには甲斐性あるところ見せてよ」
「いやいや、いつも僕が払っているけど」
「うーん、どうしようかな…」
とメニューを見ていた私は、上目遣いで義一を見た。義一はさっきまで山瀬さんに見せていた表情を変えて、優しく微笑みながら言った。
「いいんだよ琴音ちゃん、遠慮しないで。食べたいのがあったら言ってみて?」
「あぁ!差別だ、差別!私の時と全然違う!」
「あのー…お客様?」
と私達のテーブルのすぐ横で注文を取っていたウェイトレスさんが、申し訳なさそうに声を掛けてきた。義一が照れながら
「あぁ、すいません。少し待って下さい。…どう、琴音ちゃん?」
「うーん、じゃあ…私も同じパフェを下さい」
と私が言うと、山瀬さんが慌てて付け加えた。
「あっ!後ドリンクバーも三つで!」

注文を繰り返し、ウェイトレスさんが離れて行くと、早速私達は各々ドリンクを取るとテーブルに戻った。
ここは、最寄りの駅の、いわゆる駅ビルの中に入っている全国チェーンのファミレスだ。時間は大体二時半になるところだった。私鉄が一線しか乗り入れていないとはいえ、この辺りの交通の便はそんなに良くなく、他に手段がないのもあって、この辺りに住んでいる人は、とりあえずこの駅に来て、駅ビルの中を周るか、ここから都心に行くかの二択で、いつも人で溢れていた。でも流石に昼飯時を過ぎたばかりで、しかも平日ということもあってか、外歩く人は多くても、今いるこのファミレスは、空席が目立っていた。

「では、今日初めて私と琴音ちゃんがお茶する記念を祝して…かんぱーい」
「乾杯」
と、義一のアイスコーヒー、山瀬さんのアイスティー、私の烏竜茶が入ったグラスを互いに優しくぶつけ合った。一口だけ飲むと一息ついた。山瀬さんも同じだったのか、大きく息を吐いて
「はぁー、ようやく涼めたー。今年の夏もあっついねぇ」
と言うと、義一も手に持っていたグラスを置いて
「暑い暑い。汗かくからすぐに洗濯物が増えちゃうよ。まぁ、天気が良くてすぐ乾くのはありがたいけど」
と答えた。それに対して、山瀬さんがあの悪戯っ子のような表情で
「ギーさんは汗かかないじゃない?しかもいつも同じ服しか着てないし」
と言うので、義一は顎を引いて胸元を見ながら
「いやいや、同じに見えるだろうけど、全部少しずつ違うんだよ」
「へぇー…」
と私は思わず、口にストローを加えたままだったが、声が漏れた。正直山瀬さんと同じように思っていたからだ。
「いや、そう言われても、ぜんっぜん違いが分からないよ。それに比べて…」
と言いながら私の方を見て、言葉を続けた。
「ほら、琴音ちゃんを見てよ?どこまでも真っ白なワンピース、それに今は脱いでいるけど麦わら帽子、まるで絵画に描かれている、どこぞのお嬢様みたいじゃない?」
「ちょ、ちょっと山瀬さん…」
と私はあまりに大袈裟に言う山瀬さんに慌てて注意した。と、視線を感じそっちを見ると、義一も意味深な笑顔で私を見ながら、ウンウンうなづいていた。
「まぁ、それに関しては、僕も同意だけど」
「ちょっとー、義一さんまで」
「ははは」
「私の事を言うなら…」
とここで私は隣に座っていた山瀬さんのブラウスの裾を少し触りながら
「ほら、山瀬さんの方が素敵じゃない?大人の女って感じで」
と、その感想は嘘ではなかったが、私から話題を逸らすために無理やり矛先を山瀬さんに変えるため言った。
「琴音ちゃーん、優しいー!」
「あっ、ちょっと…」
でも、違う悪影響が出た。山瀬さんが両腕を私に巻きつけるように、ギュッと抱きしめてきたのだ。あれだけ炎天下を歩いて来たのに、若干柔軟剤の匂いがしただけだった。
「く、苦しい」
「あ、ごめんねー」
と山瀬さんがようやく私から離れた。そして顔は私に、視線は義一の方に流しながら
「ありがとう、琴音ちゃん。でもね、ギーさんにそんなこと聞いてもダメよ?何せあの通りの朴念仁なんだから」
とボソッと言ったその時、義一はチラッとこちらを見たかと思うと、意地悪な笑顔をしながら
「そうだねー。でもそんな僕でもこれくらいは分かるよ。今日の服装が絵里に似合っていることくらい」
「ほら、何も…え?」
と山瀬さんは、何言われてるか理解していないようだったが、はたから見ていても、徐々にほんのり顔に赤みが差していくのがわかった。山瀬さんにしては珍しく、しどろもどろに
「え?そ、それって、どういう…」
と言うと、相変わらずさっきと同じ意地悪な表情で
「そうだねー、さしずめ、馬子にも衣装ってところかな?」
と言うと、みるみる山瀬さんの表情が元に戻っていき、赤みも急速に引いていった。そしてムッとした表情で聞いた。
「何よそれー、どう言う意味よ?」
「辞書で調べて見るんだね」
「そういう意味で聞いたんじゃないでしょ!…ほらね?」
とムッとした表情そのままに私を見て
「こちらのギーさんはね、この通りじーさんなの。もう枯れちゃってるのよ」
「…ふふふ」
と二人の息合った掛け合いに、私は堪えきれずに吹き出した。その様子を見て、義一と山瀬さんも笑うのだった。

「どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
とウェイトレスさんが、私と山瀬さんの、いわゆるイチゴパフェを持って来て、伝票を置いて行った。私と山瀬さんは声を揃えて言った。
「じゃあ、いただきまーす」
「はい、どうぞ」
と、注文しなかった義一はストローを加えながら返した。
何口か口に入れると、山瀬さんが目をギュッと瞑りながら
「いやー、美味しい。ファミレスのも馬鹿にできないよねー。しかも、人のお金でタダで食べれるとなれば、美味しさ倍増だよ」
と言うので、さすがの義一も
「はいはい、さいですか?良うござんしたね」
と苦笑いで答えるしかないようだった。気を取り直して、私の方を向き
「どう、琴音ちゃん?美味しい?」
と聞くので、私は
「うん、美味しいよ」
と、他に言いようがなかったから、淡々と返すのだった。相変わらずチビチビと、コーヒーをグラスから吸い上げていた義一が、何気なく聞いてきた。
「そういえば、琴音ちゃんは僕と会わない間、何して過ごしてたんだい?」
「あっ、それ、気になるー。琴音ちゃんの夏休み」
と、思った通りというかなんと言うか、山瀬さんが乗っかってきた。私は気にせず
「そうだねー、まぁほとんど室内でピアノを弾いてたかな?後チョロチョロ宿題」
「あー、そういえば前にピアノを習っているって言ってたねー?今度聞かせてよ?」
と山瀬が笑顔で私に聞くと、義一が少しムッとして見せて
「こらこら、ダメだよ。まだ僕が聞かせて貰ってないのに」
と言うので、今度は山瀬さんが大袈裟に引いて見せて
「えぇー、ギーさん、それは余りにも束縛が強過ぎるわ。ヒクー」
なんて、二人で会話をしていたが、私の方はピアノの話をしていたせいで、ふと先生の事を思い出していた。そして目の前に食べかけのパフェがあったので
「…今度先生にパフェの作り方習って見ようかな…」
と、ほとんど無意識にボソッと独り言を言うと、隣にいるからなのか何なのか、すぐに山瀬さんが反応した。
「え?何?琴音ちゃんにはピアノ以外に、料理の先生がいるの?」
「あ、いや…」と私が訂正しようとすると、先に義一が山瀬さんに対するいつもの意地悪い表情で聞いた。
「絵里さんは、ご趣味で料理をなさいませんの?」
「お料理はなっさいませーん」
「あ、いや、違うの」
と、また二人の軽口言い合い合戦が始まりかけたので、慌てて横から割り込んだ。
「ピアノの先生が、レッスンの合間にお菓子作りを教えてくれるの」
「へぇー」
と義一と山瀬さん二人が同時に声を出した。山瀬さんの方は自分が言った後、意外そうに義一の顔を見ていた。私も同じだった。でもすぐ思い直した。
そういえば、誰に習っているのか、言うの忘れてたわ。
「そうなんだー、誰かと思えばピアノの先生だったんだね?てっきり、お母さんだと思っていたよ」
と義一が言ったので、私は一口パフェを食べてから
「んーん。お母さんも料理は得意なんだけれど、お菓子を作っているのを、見たことがなかったから、頼まなかったの。まぁ、私が知らないだけで、実はお菓子も得意かもしれないけどね」
「そうなんだねー」
「はぁ、ギーさん」
と、私と義一のやり取りを黙って見ていた山瀬さんが、大きくため息ついて言った。
「何でギーさんが知らない訳?ガッカリだわー」
「うるさいなぁ」
「で?」
山瀬さんは私の方を向き、顔中で興味津々だと表現しながら聞いてきた。
「何でまたお菓子作りを習っているの?…あ、さては誰か好きな」
「違います」
と、なるべく言葉に表情を出さないように気をつけながら即答した。
 先生もそうだったけど、何で全てをソッチに話を持って行こうとするのか…。この年代の人達はみんなそうなのかな?
 と若干、いや、かなり呆れ気味な表情でいると、義一が代わりに、なんでもない風に答えた。
「いやいや、違うよ。琴音ちゃんが僕の家に来てくれても、何も気の利いたお菓子なんか出せないから困っていたんだけど」
「自覚はあったのか…私が毎度行っても、麦茶一杯しか出してこないから」
と間に山瀬さんが、軽く聞き流せない事をボソッと非難めかして言ったが、義一は無視して続けた。
「そしたら琴音ちゃんが、オヤツ用のお菓子を習いに行ってくるって言ったんだよ」
と言いながらここで、パフェの残りにがっつく私の方を見て
「あの時は本当に有り難がったなぁ、まさかピアノの先生とは思わなかったけど。でね」
と言うと、次は山瀬さんの方に視線を移し
「こないだ僕の家でチョコブラウニーを一緒に作って食べたんだ。たまたま琴音ちゃんの友達も一緒だったから、二人じゃなかったけどね」
と言い終わると、一口分ストローでコーヒーを啜った。すると山瀬さんは今度は、本気とも冗談とも取れるような、ブー垂れた表情で義一を見ながら言った。
「えぇー、なんでそんな面白そうな場に私がいないの?」
「なんでって…呼んでないから」
「もーう。…ていうか」
と山瀬さんは不自然に顔を窓の外に向けてから、先を続けた。
「ギーさん、手作りのお菓子って苦手じゃなかったっけ?」
「え?義一さん、そうだったの?」
と私も反射的に義一に問いかけた。義一は腕を組み首を傾げながら
「あれ?そんなこと言ったっけ?」
と言うと、山瀬さんは顔はそのまま、視線だけを義一に向けてボヤいた。
「はぁ…この男は」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
急に前触れもなく何かを察したように、義一は席を立ちトイレに向かった。山瀬さんは体勢を正面にゆっくり戻しながら
「逃げたな、あの野郎…」
と低い声で凄んで言った。と、その様子を見てぽかんとしている私に気付くと、妙に照れ臭そうにしながら言った。
「いやー、本当に琴音ちゃんのおじさんは、記憶力がいいんだか何だかわからんね?」
「はは…」
そんなこと言われても、今までの流れを見てて、乾いた笑いをするしか私に術はなかった。
ふと視線をトイレの方に向けると、義一さんが心なしか肩を落として戻って来た。私がすかさず心配そうに聞いた。
「どうしたの、義一さん。何かあった?」
「何?トイレで自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしたの?」
と山瀬さんもすかさずチャチャを入れる。それには無視して静かに答えた。
「…財布を忘れたみたい」
「…え?」
と今度は私と山瀬さんが同時に声を出した。義一は照れる時の癖、頭を掻きながら
「今日は図書館に行くだけのつもりだったから、飲み物買えるくらいの小銭入れは持って来てたんだけど」
「っっもーう!今更ー?」
と山瀬さんがこれでもかってくらいに口を閉じて溜めてから、言葉を吐き出した。その後やれやれと、自分のカバンを弄り始めたが、義一はそれを見て慌てて言った。
「あっ!絵里、いいよ、別に」
「いいよって…いい訳がないでしょうに」
「琴音ちゃん?」
と急に私に話しかけて来た。
「何?」
「まだ時間大丈夫かな?」
と聞かれたので、店内の時計を見ると、三時半を少し過ぎたところだった。
「うん、まだ大丈夫だけど」
「あ、そうかい?じゃあちょっと…」
と義一はレジの向こうの方を見ながら
「一度家に帰って財布を取ってくるよ。三十分くらいでね。あ、でも…」
とまた私に視線を戻して、すまなそうな表情で
「ゴメンね琴音ちゃん、もし帰りたかったらいいんだけど?」
と言うと私は笑顔で
「大丈夫だって。ここで山瀬さんと待ってるよ」
と答えると、片手で私と山瀬さんにもう一度ゴメンとジェスチャーして
「じゃあ絵里、琴音ちゃんを頼むね」
と言うと、鬱陶しそうに
「はいはい、分かったから、早く行ってきなさい」
と山瀬さんは、行きかける義一に手でシッシッと外に追い立てた。義一は出て行った。
「まっっったく、変なところは凄くこだわって細かいのに、日常生活のところで抜けてるんだからなー」
と義一の姿が見えなくなると、山瀬さんがため息混じりに言ったので、私も苦笑いしながら答えた。
「ふふ、そうですね」
「それに…」
と山瀬さんは、改めて私の方を真っ直ぐ向きながら
「大体ギーさんも悪い人だよ。あんな言い方して。あれじゃ、そもそも心根の優しい琴音ちゃんが断れる訳ないのに。本当、母性を上手いことくすぐる、天然タラシだね」
と言ったその声は、結構本気混じりに非難しているようだった。意外だった。こんな言い方はヒドイが、山瀬さんにこんな本気な一面があるとは露ほども考えたことがなかった。
私の事を優しいと言ったのにも、からかいやフザケは混じっていなかった。私は思わず聞いてしまった。
「…優しいって何ですかね?」
と言ってしまった後、慌てて口に手を当てた。しまった!ついやってしまった。さっきまで義一がいたせいか、気が緩み、変な所で”なんでちゃん”が起きだしてしまった。でもこうなると後の祭り、黙って相手の反応を待つしか無かった。
 山瀬さんは隣で黙っていたが、ふっと笑ったか、ため息か、判別できない息を短く吐くとおもむろに立ち上がり、義一が座っていた私の向かいに移動し座った。私は尚、黙って待っていると、山瀬さんは優しく微笑みかけてきながら、ついに話しかけてきた。
「そうだねー…と、その前に、本当にギーさんの言った通り”なんでちゃん”だっけ?なんだねぇ」
「あ、あの…その」
と私は、さっきから普段と雰囲気違う山瀬さんに圧倒されてた上に、”なんでちゃん”の事を指摘されたので、余計にドギマギして
「ご、ごめんなさい」
と、とりあえず謝った。すると少し普段の印象通りの”山瀬さん”に戻りながら
「あ、いや、何で謝るの?何も悪い事していないのに」
と笑顔で返してきた。
「え、でも…」
と私が言いかけるのを制して、そのまま話を続けた。
「いや、私が言ったのはね?ほら、さっきこの時期はギーさんがよくウチの図書館に来るって話したでしょ?」
「う、うん」
「で、その時に私からだったかなぁ?琴音ちゃんの話をそれとなく振ったの。そしたらねぇ」
とここで山瀬さんは、まるで微笑ましい光景を思い出すかのように目を細めて
「琴音ちゃんが如何に自分に面白い疑問を問いかけてくれるか、それに答える事で自分自身にも刺激があって、いい作用がしてるんだって、仕切りに褒めてたんだよ。私はたまに来てくれる、可愛いお人形さんみたいな琴音ちゃんしか知らなかったから、それをギーさんから聞くのは癪だったけど、私も機会があったら、”私の知らない琴音ちゃん”に会いたいなって思っていたんだ」
またもや意外だった。そもそも真面目に話す山瀬さんが意外だったのに、しかもどうもその話し振りから、私の”なんでちゃん”に対して敵意を持っていない様に見えた。今まで、当然嫌いじゃなかったし、どちらかといえば私の作った「大人」と言う枠組みの中では、数少ない、かなり好きな部類に入っていた。でもあくまで仮面の外の話。そう思っていたのが今こうして仮面の内側の話をしようとしている。私はある意味初めての感情が芽生えるのを感じていると
「でね?琴音ちゃん?」
と、また改まった調子で、山瀬さんは私を真っ直ぐ見ながら話を続けた。
「琴音ちゃんはじゃあ…何で”優しい”について疑問に思ったのかな?」
「…えっ?えぇ…っと…」
しつこいようだがまたもや意外だった。そうとしか言えないからしょうがない。考えてみれば、正直この頃の私の”なんで?”は、ほぼ反射的、直感的なもので、とりあえず思いついたら聞こうというスタンスだった。そんないきなり飛んでくる質問に対しても義一は、大体最後は私の納得いく考えを披露してくれたが、今みたいになぜ質問したかについて、理由を聞かれたのはこれが初めてだった。このまだ十分くらいの間に、何となく知ってたつもりだったイメージの中の山瀬さんが、こんなに一遍に百面相のように、様々に姿形を変えられたせいで、すっかり原形を留めていなかった。
 こんな調子で私がまた返答に窮していると、今度は呆れた調子で
「はぁ、やっぱりね。琴音ちゃん、今まで逆に質問された事がなかったんでしょ?」
「あ、いや…必ずしもそういうわけじゃないけど…うん」
と、丁度考えていた事を問われたので、慎重にだけど、これには答えられた。でも、山瀬さんが呆れた感じを見せていたので、やっぱりこうなったかと諦めかけていたが、ふと今まで私から視線を外さなかったのに、急に顔を斜め上あたりに向けて
「やれやれ、ギーさんめ。それじゃ一方的に話してるだけじゃん。まずは琴音ちゃんの疑問の理由から聞いてみなくちゃ…はぁ、ダメねぇ」
とその視線の先には義一がいるのか、宙空に向かって悪態をついていた。どうやら直接私に呆れていた訳ではなかったようだ。と、また顔を正面に戻し、山瀬さんはさっきのように真っ直ぐ私を見て話した。
「琴音ちゃん、琴音ちゃんも誰かに何かを聞くときは、まず曖昧でも構わない、大体でもいいから、大凡の自分の考えを持ってからでなきゃダメよ?ギーさんみたいな”理性の怪物”を相手にする時は特にね」
私はギョッとしながら聞き返した。
「り、理性の怪物…?」
「そう」
とここで山瀬は一旦氷がすっかり溶けたアイスティーを一口啜った。
「琴音ちゃんならもう知っているだろうけれど、ギーさんはあの通り普段から、普通の人なら通り過ぎちゃう様な疑問点、矛盾点を見付け出し、それを掘り下げ続けるような人だよね?それを生き甲斐にしてる。しかもたちの悪い事に、掘り下げれば掘り下げる程道具が鍛えられていくから、どんどんそのまま、あるのかどうかわからない底を目指して突き進めちゃう…私の言いたい事分かるかな?」
「あ、はい…何となくは…その道具っていうのが」
「まぁ、”理性”って事なのかな?」
「なのかなって?」
と、急に自信なさげに言ったので、私も本領を発揮する様に質問した。山瀬さんは少し苦笑まじりに照れながら答えた。
「いや、まるで今までギーさんの事、分かっている様な口振りで喋っちゃったけど、実はこの話、私とギーさんの大学の先生が言ってた事なんだ。その先生がギーさんを見て”理性の怪物”と称してたんだよ」
「へぇー」
「まぁ、ギーさん自身はこの二つ名が付けられてることを、未だに知らないと思うけどね」
「ふーん、そうなんですね」
「まぁだから、自分の考えを持っていなきゃ、 “怪物君”の筋道立った論理的な説明に、簡単に飲み込まれてしまうの。よっぽど気をつけていない限りね」
私はこの時、何故かヒロが「気をつけろ」と言っていたのを思い出していた。
「で、話を戻すけど」
と山瀬さんは続きを話し始めた。
「疑問に感じるのは、とてもいい事だと思うよ?さっきは少し悪く言っちゃったかもしれないけど。でも今から言うのは、なんて言うのかな?理性の怪物的話じゃなくて、気持ちの問題なんだけど。琴音ちゃん、逆に何か質問されて、答えてあげた時、相手がまるで分かっていない様な見当違いのリアクションをされたら、どう思う?」
と聞いてきたので、少し考えたが
「うーん、『この人、何で自分の疑問点をすらよく分かっていないのに、わざわざ聞いてきたのかな』って思うかな…あ」
と言ってるうちに、自分のことを暗に言われているのに気づいた。でもその私の心中を察したのか、首をゆっくり振りながら
「いやいや、別に琴音ちゃんがって言いたいんじゃないよ?さっきも誤解があったかもしれないけど、ギーさんから話を聞く感じ、琴音ちゃんもちゃんとあの”怪物君”の小難しくてややこしい話を理解して聞いてるみたいだったしね。これは並のことじゃないよ?…ちょっと盛って文句を言い過ぎちゃった。何しろ…」
と山瀬さんはそこまで言うと、眉を顰めて見せて
「あの男が、あまりに私に対して無神経すぎるから、八つ当たりしたくなっちゃったの」
と、最後は意地悪く笑って見せて言った。それに釣られて、緊張が解けたのか、私も笑顔を返した。でも、本当は山瀬さんの言うように、何も考えず質問しちゃっていたかもと、一人反省しながら。
「でも今琴音ちゃんが言った通り、ある意味それは質問した相手に対して、不誠実な態度だと思うの。だって、普段から考えていないから、自分の意見を持ってない、だからこそ回答者から言われたことをキチンと受け止められない。それは相手の意見を吟味する材料を持っていないから、その場その場の”気分”に流されて受け止めちゃう。真面目に答えてくれたのにそれを曲解しちゃう。ちゃんと自分でそれなりの意見を持って、相手が違う意見を言ってきたら、どこが違うか吟味して、それから議論をしてみる。これが誠実な態度だと思うのよね。どうかな?」
「はい、私もそう思います」
と私が答えると、ニコッと山瀬さんは微笑んだ。が、ハッとした表情になって
「あ、今のギーさんみたいだったかな?」
といかにもバツが悪いという風に聞かれたので
「はい、そっくりでした」
と私は私で、何となく嫌がるだろうなと見越した上で、敢えて意地悪に答えた。山瀬さんは少し苦笑いを浮かべてホッペを掻きながら
「まぁ私が言いたいのは、簡単に言えば、琴音ちゃんは今の調子でジャンジャン遠慮せず不思議に思ったことを聞けばいいと思うの。ギーさんだけじゃなく私にもね?でも一つ付け加えるなら、あのギーさんを言い負かすくらい、普段から琴音ちゃんにも戦闘準備をしていて欲しいかなぁ?回答に対して、また新しい有意義な疑問を見つけて、ぶつけられるようにね。もちろん無理のない範囲で」
と言ったかと思えば、ここで一瞬溜めて、また普段通りの悪戯っ子な表情を作りながら
「あの”怪物君”が理性なくオタオタするのを見たいじゃない?」
と言い終えた。私は何も返さなかったが、心から同意する様に笑顔で頷いた。


「…さて! 優しさねぇ…」
と、空気を一気に変える様に、いつもの、私が知る普段の山瀬さんに戻った様に明るい調子で声を出した。
「ギーさんみたいに学がある訳でもないし、気の利いたことは言えそうもないなー…」
と言ったところで一旦溜めて、私の事をニヤニヤ見ながら言った。
「私としては、優しいとは”琴音ちゃんの事だ!”って定義したいんだけどね」
「いやいや、それは勘弁してください」
と字面にすると無感情だが、実際の私もニヤけながら返した。
「まぁ、この”優しいとは何か問題”はギーさんにも聞いてみなよ?多分またキテレツな事を真面目に答えてくれるからね。私も次までに考えてみるからさ。今はこれしか言えないけどいいかな?」
「うん、私こそ御免なさい」
と色んな意味を含ませた”御免なさい”を言った。山瀬さんもそれなりに察してくれたのか、何も言わず微笑み返すだけだった。
 と、何の気も無く時計を見ると、四時を少し過ぎたくらいになっていた。一緒に見ていた山瀬さんが
「しっかし、ギーさん遅いねー。もしかして家に帰って寝ちゃってるんじゃないでしょうね?」
と言うので、私はそれに苦笑いで返した。
「いやー、流石にそれはないと思いますけど」
「うーん…あ、なるほど!セリヌンティウスはこんな気持ちだったのか!」
と急に元気よく大発見でもしたかの様に声を上げた。私は急に言われてポカンとしてたが、また苦笑いして
「…あっ、太宰ですか?」
と聞くと、山瀬さんも一瞬呆けていたが、すぐに顔中に嬉しさを滲ませて言った。
「そう!その通り!『走れメロス』だね!いやー、私もこの状況何かに似てるなってずっと考えていたんだけど、これだーって気づいてね!琴音ちゃんに発見を自慢しようとしたら、先に言われちゃった。よく”セリヌンティウス”だけで気づいたね?」
「いや、私も何となく何かに似てるなぁ、とは思ってたんですけど、そのメロスの”セリヌンナントカ”って友達の名前だけ言われてたら、わかりませんでしたよ」
「いやいや、凄いよ。要は、状況なども鑑みて思いついたんだからなぁ。ギーさんが褒めちぎるのも分かる気がする。よっ!可憐な文学少女!」
「いや、あのー…」
と、一向に私に対する絶賛をやめる気配がなかったので、居た堪らなくなって
「まぁもっとも、メロスの友達は山瀬さんと違って、もっとメロスの事信頼していたと思いますけどね」
と無理矢理話を終わらせる意味も込めて、意地悪に突っ込んだ。それを聞いた山瀬さんは苦笑いを浮かべ、ホッペを掻きながら
「いやー、細かいねぇ。でもこれまた一本取られた!」
と、最後におでこに手を当てながら返した。
「そういえば…」
と私は烏龍茶をストローで吸おうと思ったが、もう空になっていたらしく、ズズズとゴボボが混ざった様な音が鳴るだけだった。それを見た山瀬さんがニコリと笑って立ち上がりながら言った。
「まだギーさん来なそうだし、お代わりを取ってこよう!」

山瀬さんはまたアイスティー、私はまた烏龍茶を取って席に戻った。
「しかし、さっきも思ったけど、ドリンクバーで烏龍茶…渋いねぇ」
とストロー咥えながら山瀬が言った
「そうですか?うーん、変ですかね?」
「いや、変じゃないけど、私の中の小学生像は、こんな時はジュースを飲むもんだと思っていたからねぇ」
「うーん…言われてみれば、大体烏龍茶か他のお茶をいつも飲んでる気がします。…小さい頃は苦手でしたけど」
「そうなんだー。琴音ちゃんみたいな可憐な少女が渋いお茶を飲んでるのは、これまたギャップがあっていいね!」
急に太宰を小学生相手に持ち出す方が変わっていると思ったけど、そこを掘り下げると、どんどん深みにはまって、見当違いのところに行くと思ったので、半ば強引に
「義一さんと山瀬さんの仲について、聞いてもいいですか?」
と単刀直入に聞いてみた。ここまで来たら、聞けるところまで聞いてみたかったからだ。
山瀬さんは山瀬さんで、さっきまで持っていたグラスを置いて、少し身を乗り出す様な体勢になり、いかにも乗り気であるのを見せて
「私とギーさん?いいよ…やっぱり、気になる?」
「あっ…いや…まぁ、はい」
とニヤケながらも目の奥から、真っ直ぐ射竦める様な視線を送って来たので、私は若干たじろぎながら答えた。すると、眼光の鋭さは消えて、またいつもの目つきに戻ると話し始めた。
「そうねぇ…何しろもう考えてみれば、十年くらいの付き合いだからねぇ。どういう仲かって聞かれても、正直困るなぁ。まぁでも、今とりあえず言えるのは、私もギーさんも、何も変わっていないって事かな…あっ」
とここで山瀬さんは自分の頭のマッシュルームヘアーに触りながら
「昔はこんな髪型じゃなかったけどね!」
とニコやかに言った。私はそこにも少し踏み込んでみる事にした。すっかりまた”なんでちゃんモード”だ。今思えば本当に反省がない。
「昔って…」
「そうっ!大学生に入りたてまではねぇ。聞いてくれる?」
「あ、はい」
山瀬さんはおもむろに足をテーブルの下で組み、遠くに視線を流しながらしみじみ言った。
「私って今もだけど、結構内気で人見知りが激しい方だったのね」
「え?えぇ…は、はい…」
と冗談なのか本気なのか、反応に困っていると、そんな私の様子に満足したのか、さっきまでの体勢に戻ってイタズラっぽく笑いながら続けた。
「私、中学高校と私立の女子校に通ってたの。周りは同年代の女の子ばかりでしょ?男の子との接点なんて大学入るまで皆無に等しかったから、大学に入ったらまずそれに困っちゃった。
小学生までは当然男子とも話したり遊んでいたけれど、中高抜いて、いきなり大人になってる男の子と付き合わなきゃいけなかったのが、自分でもビックリだったけど、うまく立ち回れなかったのよねぇ…」
とここで山瀬は一瞬躊躇ったが、
「…私、何故か、結構…こう言っちゃあ何だけど…モテたのね?」
と気恥ずかしそうに、歯切れ悪く話した。聞いてて本気だと思ったのは、山瀬さんの耳が真っ赤になっていたからだ。
「…いやー、小学生に話す事じゃないけど…まぁいっか!続けるね?」
「うん」
山瀬さんはまた一口アイスティーを味わう様に口に含み、ゆっくり飲みこむと静かに話を再開した。
「高校と、大学の初めくらいまでは、実は今の琴音ちゃんと同じくらい、肩より少し下に行くくらいまで長かったの。特に理由があった訳ではなかったけど、ロン毛にしてたのね。で、そのー…大学一年の時、サークル…って言っても分からないか…要はクラブだね?運動するクラブに入っていたんだけど、一緒に入っていた先輩に、今思えば在り来たりなんだけど、告白されたの」
「へぇー、本当にモテたんですね意外に」
と、まだこの話をするのに、若干ある意味緊張しながら話している様に見えた私は、適当に茶々を入れて和ませようとした。それを知ってか知らずか山瀬さんは、えぇーっという様な表情を作り
「そうよー。今の私を見ても良くわかるでしょ?変わらずこんなに可愛いんだから」
と冗談だとワザとわかる様に、オーバーなリアクションしながら答えた。
まぁ正直、昔の山瀬さんがどんな容姿をしていたか知らないから、何とも言えないところではあったけど、今と変わらないと言う本人の言葉を信用するなら、それは恐らく本当だったんだろうと思う。まぁ、これも言ってあげないけど。
「冗談はさておき…何まで喋ったっけ?…あぁ、それで、告白されたのなんて初めてだったから断り方も分からず、今思えば酷く相手のプライドを傷つける様にフっちゃったのね」
「えぇー、フっちゃったんですか?どうして?」
と私が聞くと、また悪戯っ子の顔を作り
「だって、あの頃の私は今と同じで硬派を気取っていたからね」
「いや、そういうのはいいです」
と無情にすぐかぶせ気味に突っ込んだ。山瀬さんは少し不満げに見せながらも、すぐ明るい調子に戻って続けた。
「まぁ、そう言わないでよ。で、相手の事嫌いじゃなかったけど、いい加減な気持ちで割り切って付き合おうという、なんというか意欲が私になかったのね。でね、どうもその後そのクラブに居づらくなって、やめちゃったの。でもそれからも、同じ授業を受けてる同学年、はたまた先輩、その何人かにまた告白されてね。その度にやっぱり断っていたの。自覚はなかったんだけど、あとで出会うことになるギーさんに言わせれば、中々目立つ、派手な印象を周りに与えてたみたいなの。私はなんでもなかったのにね。で、自分の意志とは別のところで勝手に人間関係が拗れてきて、ほとほとウンザリしていた時にある時決心して…いや思いつきかな?美容院に行った時たまたま雑誌をパラパラめくっていたら、この髪型をした、中々アクの強い女の子が載っていたの。近寄りがたい様なね。でも何故かその女の子に惹かれちゃって、カットの途中だったけど、美容師さんに『すみません、今からこれにして下さい』と言って出来上がったのが…」
とここでまた山瀬さんはマッシュルームヘアーに触りながら
「これって訳」
と心なしか自慢げに言った。
「へぇー、その時の思いつきを今も続けているんですね?」
「そうなのー、いざやってみると楽でねー。頭も軽いし、首元涼しくて、こんな夏には最適だよ。あっ、でも」
と、ふと山瀬さんは私の頭に手を伸ばし、触るか触らないかの距離を保ち、撫でる様な動作をしながら
「琴音ちゃんはぜっったいしちゃダメ!こんなに綺麗な黒髮で、すごく似合ってるんだから」
と言うので、軽く手を払いながらも少し笑顔で
「頼まれてもやりません」
と答えた。山瀬さんも笑い返しながら
「はははは!うん、それで良し!で、えーっとギーさんの話だよね?あ、その前にさっきの話を済ますとね、この髪型にして大学に行ったら、それはもう面白い様に男の子から話しかけられなくなったの。それはとても有難かったんだけど、一緒に女の子の友達も何人か離れて行ったのね?あれは少しショックだったなぁ。授業が終わればどこかに遊びに行ったりするくらいには仲が良いと思っていたからね…。これもギーさんに後になって話したんだけど、『それはただ、絵里に群がってくる男たち目当てにすり寄ってきてただけじゃない?』って、オブラートに包む事なく、はっきりと面と向かって言ってきたの。言われた時は『何なのこの人、面と向かって言う様なことかな』と苛立っていたんだけど、私も薄々そんな気がしていたから、すぐに怒りは収まって、いやむしろハッキリ口にして言ってくれたお陰で色々吹っ切れたところがあったの。まぁその時はすかさず『私を誘蛾灯みたいに言わないでくれる?』って返したんだけど」
「ふふ…」
と山瀬さんの口ぶりに思わず笑みが漏れた。と、ふと山瀬さんがカバンを見たかと思うと、中からスマホを取り出し、やれやれと言った調子で言った。
「あぁ…あ、いやね、メールが来てるなって思ったら、ギーさんからだったんだけど、それと別に、今から四十分くらい前に電話もしてたみたいなの。気づかなかったなぁ」
「で?義一さんは何て?」
「うん、『今から行きます』だって」
と心底呆れた様に答えた。
「やっぱり、寝てたんじゃない?私達がセリヌンティウスだったら、今頃殺されてるよ」
「じゃあ、戻って来たら問いただしましょう!」
「はは、そうね!」
私と山瀬は顔を近づけて、内緒話、悪巧みをする様な体で笑いあった。
「じゃあ後二十分くらいかなぁ…」
「あっ、でも続きが気になるよ。お願い、後少しだけお話しして?」
と私が頼むと、一瞬山瀬さんは大きく目を見開いて、何かに驚いていた様子だったが、それからまた一瞬優しい微笑みを見せて、そして、またいつもの悪戯っ子に顔を戻した。
「そうだなぁ、まだ”女子会”をお開きにするには時間があるか!じゃあ効率的に話せる様に、逆に琴音ちゃんから私に質問してよ?そうすれば、ギーさんが来るまでに色々簡単に答えられると思うから」
「あ、うん、そうだねぇ…じゃあ」
と私は、一度頭の中で数秒くらい整理していたが、まとまったのでそれを聞いてみる事にした。
「じゃあね、二つだけ取り敢えず聞いてみたいことがあるの」
「”取り敢えず”ねっ?良いよ、何かな?」
「じゃあまず一つ目は…義一さんのお家に何度か行ったことがあるみたいに言っていたんだけど」
「あぁ、それね」
山瀬さんはアイスティーを啜りながら黙って聞いてたが、私が続きを言わないのを確認すると、一旦グラスを置いて、それから答えた。
「そうねぇ…さっきの話の中で分かったから説明は省くけど、琴音ちゃん、あの家にたっくさんの本があるのは知っているよね?」
「うん」
「ギーさんのお父さんのコレクションだって言うんだけど、中々やっぱりと言うか…掘り出し物ばかりなのよっ!」
途中から急に興奮しながら、鼻息荒く身を乗り出さんばかりのテンションで言い切った。
「う、うん…?」
戸惑う私が眼中にない程、山瀬さんの興奮は止まない。
「私のいるあの図書館に幾つか寄贈してくれないか、要は譲ってくれないかを交渉に行ってたの。まぁ、今も行ってるんだけど」
「へ?そういう理由なの?」
「うん、そうだけど…あっ!あぁー」
と山瀬さんは身を乗り出したままの格好で、目を細め、口元を思いっきりニヤニヤさせて、人差し指で私のオデコをチョンと触ってから言った。
「あれぇー、琴音ちゃん?一体何を想像してたのかなぁー?オマセさんねぇー」
「べ、別に、何も、深い意味なんて…」
当時こういう話は同い年の子達と比べると、私は極端に遅れていて、中々すぐには察せなかったけど、どこかで何か恥ずかしいことを聞いてしまったという直感が働いて、意味なくモジモジしていた。
山瀬さんは私の様子を堪能してから、手で”ゴメンゴメン”とジェスチャーをしてから、また話し出した。でも顔はニヤケっぱなしだ。
「もう、さっきも見てて分かってたでしょー?あの通りの朴念仁と私の間でナニがどうなるわけないんだからー」
「そ、それはもう分かったから、つ、次の質問ねっ!」
まだ鏡で自分の顔を見てないから分からなかったけど、耳たぶだけが異様に熱を帯びているのが感じられて、見なくても耳を中心に真っ赤になっているであろうと思いながら、慌てて話を区切る様に言った。
「さっき、義一さんが、手作りのお菓子を食べないみたいなことを言っていたけど…」
とまた私が皆まで言わずに、語尾を少し伸ばして回答を待ったが、山瀬さんはさっきと打って変わって、目をパチクリさせていた。そして私から視線を顔ごとズラし、言うか言うまいかを悩んでいる様子だった。少しして、顔をまた私に向けると、いかにも困ったという表情をして、苦笑交じりに
「…いやぁ、てっきりそこはスルーしてるのかと思ってたのに、いくらこのファミレスの中でのこととはいえ、よくすぐ思い出せるねぇー。いやぁ、お姉さん、本気で感心しちゃうなぁ」
話し始めたが、何やら誤魔化されそうな雰囲気を感じたので
「いやいや、山瀬さん、私を褒めるのはいいから、早くワケを教えて?」
私は逃すまいと聞いた。いやはや、こんなに人に対して本性を出したのは、義一さん以来二人目だった。子供なヒロは置いといて。相手は堪ったもんじゃない、全く困ったもんだと思っていたかも知れないけど、私の立場から言うと、これは私なりに心を開いた証拠みたいなものだった。
 山瀬さんは苦笑のまま、また少し考えていたが、意を決したか、諦めたか、そのどちらとも取れる表情になり、また話し始めた。
「…そうね、まぁ、琴音ちゃん相手なら大丈夫かな?…昔ね、ギーさんに手作りのクッキーを渡そうとしたことがあったの」
「え?…えぇえー!」
と何となく想像はしていたものの、いざ言われると、自分でもビックリなくらいビックリした。
「それって…もしかしてバレン…」
と私が言いかけると、山瀬さんは慌てて身を乗り出し、私の口を塞ぐ様に手をこっちに伸ばしながら
「わぁーっ!違う!違うの!…いや、渡そうとしたのはその日だったけど」
と最後の方は消え入る様な声で、また行儀よく席につきながら答えた。顔はさっき義一に今日の服装を褒められた(?)時くらいに赤くなっている。
「ほ、ほらぁ、今でも流行っているでしょ?”友チョコ”ってヤツ。アレよ、アレ!…さっきも言ったけど、色々と相談に乗ってもらって…まぁ、ギーさん本人も面白がっていたから、そこまで感謝しなくても良かったかもしれないけど、少しと言いつつ、やっぱり本当はかなり落ち込んでいたから、そのお礼も兼ねて、いわゆる友情の印よ!」
「ふーん…で、渡したんだ?」
山瀬さんが長々言った言い訳を軽く流しつつ、肝心要のところを聞いた。すると山瀬さんは、さっきまで赤くなっていたのが嘘の様に無表情になって、ため息交じりに答えた。
「渡そうとしたんだけどね…も、もちろん誤解がない様”と・も・だ・ち”の印だと言ってね…そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
とここで山瀬さんは頭を掻き出した。これはすぐに分かった。義一の物真似だ。
「『え?…これって、手作り?…ゴメンね、僕、他人が作ったモノって苦手で…。わざわざ作ってくれて、嬉しいんだけど受け取れない。本当にゴメンね、気持ちだけ受け取るよ』『あ、あぁ、そ、そうだったん、だねぇ?ははは、こっちこそゴメン、初めから聞いとけば良かった。気にしないでね』…それから少し話して別れたんだけど、何会話してたか覚えてないんだ。で、ギーさんがいなくなった後に…」
山瀬さんが義一の特徴を事細やかに再現してくれたお陰で、その時の状況を目の当たりにしているかの様に私は聞き入っていたが、ここまで話すと山瀬さんはおもむろに、空手の正拳突きをする前の、漫画とかでよく見る力を溜めるポーズをとりながら
「『何が人の作った物が食べられないじゃボケーっ!お前がよく大学の食堂で食べているのも人が作ったもんじゃろがーっ!何訳のわからん断り方しとんねーん!』…って」
小声でだったが、音量を上げればそれはそれは凄い怒鳴り声だろう、怒りをぶちまける様がまざまざと感じられた。ふと、ここで落ち着きを払い、またいつもの笑みを浮かべながら
「一人その場で、我ながら何故かエセ関西弁を屈指しながら心の中でツッコミ倒していたの…これが顛末だよ」
と言い終えると、喋り続けて喉が乾いたのか、残りのアイスティーをストローで一気に吸い上げていった。私は思わず不謹慎にも拍手したくなるくらい、山瀬さんの迫真の演技の余韻に浸っていたが、山瀬さんがこちらを見て無言でまた苦笑いを送ってきたので、私も苦笑いを返した。
「はぁーあ、そんなことがあったんだ。そりゃ百パーセント、義一さんに非があるね!」
「でっしょー?別に食べなくても、とりあえず何も言わずに受け取ればいいじゃんねぇ?まぁ、変なところで真面目というか、社交辞令ってものを極端に嫌うからねぇ。そこが長所といえば長所か」
「うん、らしいお話だったよ」
「だから琴音ちゃん…」
と山瀬さんはテーブルに両肘をつき、両手を組ませて、その上に顎を乗せてから、意地悪な表情で
「分かっているとは思うけど、ギーさんに女心とか人間の感情の細やかさを分かってもらおうたって無駄だからね。なんせ、アヤツは…」
「…あっ」
と、私が言った時には遅かった。
「理性の怪物なんだから」
「誰が理性の怪物だよ…まったく」
「え?」
山瀬さんが振り向くとそこには義一がやれやれと言った表情を浮かべながら立っていた。私の座る位置からは『感情の細やかさ』のあたりを山瀬さんが喋っている所で、義一が近づいているのに気づいていた。でもまぁ、忠告できなかったのはしょうがない。
 山瀬さんは一瞬ビックリしていた様だが、すぐに冷静さを取り戻し
「…どこらへんから聞いてた?」
と聞くと、義一は考えるフリをしてから
「そうだねぇ…『アヤツは理性の怪物なんだから』ってところかな?まったく、琴音ちゃん相手に好き勝手に言って」
と文句を言うと
「もーう。せっかく琴音ちゃんと二人っきりの”女子トーク”を楽しんでたのに、男子が割り込んでこないでよぉ」
と山瀬さんも、文句とはとても言えない文句で返した。
「で?ギーさん、何でこんなに遅かったの?お腹を壊した?日頃の行いが悪いから」
と毎度の山瀬さんの言う軽口は無視して、義一はその隣に座り、
「いやいや、何やら僕からの電話に気づかない程会話に熱中していたみたいだからね、気を遣って二人の時間を作ってあげたのさ。もちろん、琴音ちゃんに迷惑じゃない様に、ギリギリに考えながらね。どう、琴音ちゃん、今ぐらいで?」
と向かいに座る私に聞いて来たので、壁にかけてある時計をチラッと見ると、五時十五分前を示していた。もう少しで図書館が閉まる時間だ。
「うん、今なら大丈夫」
「えぇー、何かそれ、恩着せがましい言い方ー」
と行儀悪くストローで音を立てながら、山瀬さんは義一の隣でブーブー言っている。それには無視して、義一は私に続けて聞いた。
「二人してどんな話をしていたんだい?こんなに長い時間」
「えぇー…」
と言いながら、向かいの山瀬さんと目が合った。示し合わせたわけじゃなかったが、二人の気持ちは同じだった様だ。二人声を揃える様に言った。
「それは内緒ー。私達女二人だけのねー」
「?」

「じゃあごちそうさまー」
「ごちそうさまでした」
「いーえ」
私達三人は一緒に仲良く駅ビルの正面出口に出た。周りは丁度帰宅ラッシュなのか、立ち止まる私達を邪魔そうに避けながら人々が通り過ぎて行く。目の前にはロータリーがあり、バスが何台か停まっていて、その停留所にはスーツ姿がズラッと列をなしていた。
「じゃあ僕は途中まで琴音ちゃんを送って行くから」
「うん、分かった」
と義一に返事した山瀬さんは、私の方を向き満面の笑みで
「じゃあ琴音ちゃん、またね!あの図書館で会えるの待ってるから。いつでも来てね」
と小さく手を振り行こうとするので、少し躊躇したが、意を決して山瀬さんに駆け寄った。その様子を黙って見ている義一をよそに
「あっ…あのっ!」
と、声を掛けた。
「ん?何、琴音ちゃん?」
と山瀬さんは振り向いた。私は呼び止めて尚、逡巡していたが、何も言わずバッグの中からスマホを取り出すと、山瀬さんの前に突き出した。山瀬さんは不思議そうに
「えぇっと…琴音ちゃん?」
と聞いてきたので、私は意を決して
「あ、あのぉ…れ、連絡先、教えて、くれませんか?」
と軽く頭を下げて言った。
 何しろ、いくら自分で言うのも何だが大人びていたとはいえ、大人相手に小学生が自分から連絡先を聞くというのは、大人が考えている以上にある意味勇気がいることだ。しかも、これはしつこい様だけど、人との距離加減を、普通の人よりも過敏に考えて生きていた私としては、余計に勇気がいることだった。
 返事がないので、恐る恐る顔をあげると、山瀬さんは山瀬さんで、キョトンとした表情で固まっていた様だった。だが徐々に顔を微笑みで満たして、静かに手を伸ばし、私の頭を帽子越しに撫でながら優しく
「…こーら、さっきまでタメ口で話してくれたのに、また”ですます口調”じゃ、縮まったと思った距離がまた元に戻った様で寂しいぞ?」
と言いながらカバンからスマホを取り出した。
「…またタメ口に戻してくれるなら、連絡先、交換してもいいよ?」
と山瀬さんは、最後はあの意地悪風の笑顔で言った。私は何も言わず、ただ自然となった笑顔のまま頷き、スマホを近づけた。
「…よし、これでオッケー!何かあったらいつでも連絡してね?」
と言うとまた山瀬さんは歩き始めた。と思いきや、また立ち止まり振り返ると
「いつでもって言うのは社交辞令じゃないからねー!」
とニッコリ笑いながら大声を出し、返事を聞こうともせず歩き出そうとした。ここでまた私は言おうか言うまいか迷ったが、一歩前に歩み出し叫んだ。
「じゃあまたねー!…絵里さん!」
「……えっ?」
振り返った絵里をワザと無視して、私は義一の元に駆け寄った。そしてそのまま二人並んで帰ったのだった。こちらからは逆光だったし、一瞬だったのもあってはっきり見えはしなかったが、家に帰ってベッドに入っても、うっすら見えたあの別れ際の、見たこともない絵里の表情を寝付くまで思い出してはクスクス笑っていたのだった。

第8話 変化

最後に義一、絵里、そして私三人で会ってから、メールなどで連絡は取り合っていたが、想像していたよりもその後、そんなに会う機会に恵まれなかった。
 我が家では毎年恒例のこととして、お盆になるとお父さんが一週間ばかり休みを取り、家族水入らずでどこか国内外問わず旅行に行くのが習わしになっていた。今年に限っていえば、お父さんが院長になったばかりだということで、もしかしたら休みがとれないかもとお母さんから聞かされていたが、何のかんの休みが取れたらしく、しっかり旅行に行ってきた。帰ってきても、ヒロに無理矢理外に連れ出されて遊びに行ったり、毎年開催される河原での花火大会、小学校で企画されたお祭り含む催し物に参加したりと、自分で言っては何だが”普通の”小学生らしい夏休みを過ごしていたら、結局最終日になっても直接会うことはなかった。
 義一と再会するまでは、それなりに楽しんでいた夏の風物詩の数々、それなりにワクワクして楽しんでいたはずなのに、今年は何してても、今義一は何してるかがずっと心のどこかで引っかかり、あの古書に囲まれた空間で、古本の匂いに包まれながら本を読んでいるところを想像していたりした。

「へぇー、あの花火大会、わざわざ河原まで行って見たんだ?」
「うん。絵里さんも近所なんだし、見に行ったりしなかったの?」
「うーん、音は聞いてたけど…でも、あの花火大会ってカップルが多いでしょ?職場の人を誘うのも何だし、男の人だと誤解されそうだし、一緒に見に行くいい男もいないしねぇ」
「あ、だったら義一さんを誘えばいいじゃない(笑)」
「ちょっとぉ、今の流れでアヤツの名前を出すのは勘弁してー。あの男と見に行くぐらいなら、一人寂しくテレビで中継見ていた方がいいよ」
「はは(笑)そう言うと思った」
「でもそうねぇ、琴音ちゃんとだったら花火大会参加したいな。…どうしてもって本人が頼み込んで来たら、あの男も一緒に」
「そうだね、三人で遊びたいよ。花火大会に限った話じゃなく色々と」
「いいねぇー。これから色々楽しいこといっぱいしていこう!」
コンコン。

ベッドの上に女の子座りで、クッションを抱えながらスマホをいじっていると、ドアがノックされた。ドアを開けて、廊下に立っていたのはお母さんだった。
「琴音、いたの?いたのなら返事くらいしなさい?」
「うん、ごめんなさい」
「まったく、明日から二学期なんだから、忘れ物ないか確認して、今日は少し早めに寝なさいね?」
とお母さんは、私の部屋の時計を見ながら行った。私もつられて、赤を基調とした、数字が書かれているだけのシンプルな時計を見ると、ちょうど夜の十時だった。
「うん、わかったよ」
と返事する私がずっとスマホを手にしているのをチラッと見たが、特にその事には言及せずに
「じゃあ、お休みなさい」
とお母さんはドアを閉めながら、こちらに微笑みかけて言った。
「うん、おやすみなさい」
バタン。さて、グギも刺された事だしもう寝ようかな?
とスマホを覗き込みながら思っていると、私が返信する前に、絵里がまたメッセージを送ってきていた。さっきまでずっと、ひっきりなしに一分以上の間隔を開けずにやり取りしていたせいか、それについてのメールがきていた。
「今大丈夫?何かあった?」
「いや、何でもない。今お母さんに早く寝なさいって言われちゃった」
「笑。じゃあしょうがないね。私のせいで琴音ちゃんが怒られるのもなんだし、今日はこの辺にしときますか。じゃあまたね、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
私はそう送ると、スマホの電源を切り、眠りについた。

 朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、櫛で髪を梳かしてから朝食を摂った。そしてランドセルを背負うと、キッチンで洗い物しているお母さんに後ろから声をかけて家を出た。
 今日から九月だっていうのに、全く暑さはひくことなく、今日も猛暑日だとテレビの天気予報で報じていた。
はぁ、やんなっちゃうな…。
トボトボと通学路を歩いていると、T字路の突当りの壁を背に寄りかかっている女の子が見えた。終業式の日、一緒に帰った子だ。私の姿を見ると、数メートル先だというのに、元気に手を振ってきた。私もそれに応える。
「久しぶりー、元気にしてた?」
「うん、ボチボチよ」
私達二人は軽く挨拶すると、仲良く並んで学校へと向かった。その途中
「あれぇ?琴音ちゃん、肌白ーい」
と私の腕に自分の腕を合わせながら声を上げた。確かに相手の方は、万遍なく褐色色に染まっていた。
「そういうあなたは綺麗に焼けてるね?海でも行った?」
「…え?」
「…ん?どうかした?」
相手の顔を見ると、想定していなかったものにぶつかったような顔をしていた。その様子を見て私が益々不思議がっていると、女の子は少し言いづらそうに言った。
「な、なんか琴音ちゃん…夏休み明けて変わったね?」
「そう…かなぁ?どの辺が?」
と聞き返すと、まだ何か言いづらそうに答えた。
「い、いや…なんていうか、そのー…大人っぽくなったね?」
「そうかなぁ。変わらないと思うけど?」
「いや、変わったよ。何か、私のお姉ちゃんと話してるみたいだもん…あっ!おーい!」
と、その子は向こうで歩いてる同級生の女子達を見つけると、一目散にそちらに駆け出して行った。追いつくと女子達で月並みの挨拶をしあっていた。私は相変わらずペースを変えずに歩いて、そのグループに追いつくと、何か話した後なのか、女の子達は私にも同じように挨拶をしてきたが、どこか余所余所しい感じだった。いつも一緒にいる仲良しグループだったが、この感覚は初めてだった。
まぁ、いっか。
 それからみんなは何故か早歩きでどんどん歩いて、行ってしまった。
まぁ、どうせ教室で会うんだからね。
今までのまま、走って追いつこうともせず歩いていると、急に背中のランドセルをバンバン叩かれた。
はぁーあ、このノリは…
「よっ!琴音!いい天気だな?」
とヒロが私の隣に来て笑顔でテンション高く話しかけて来た。私は大げさにため息ついて見せて返した。
「そうね。あなたの頭と一緒でね」
「ん?どういう意味だよ?」
「ノーテンキってこと」
「おいおい、登校初日にそりゃねぇぜー…っていいのか?」
「ん?何が?」
「アレよアレ」
とヒロが顎を何度かクイっと向けた先には、さっきの女子達が立ち止まっては振り返り、また歩き出すというのを繰り返していた。
「一緒に混ざらなくてもいいのか?」
と若干心配げに聞いて来た。
「まぁ、いいでしょ?教室でどうせ会うんだから」
「ふーん、まっ、お前がそれでいいならいいけどよ」
それから私達二人は、それぞれの教室に繋がる廊下で別れるまで一緒に登校した。
 教室に着き、同級生達が私の姿を認めると笑顔で挨拶するために寄ってきた。それぞれに私も笑顔で挨拶を返していたが、この時、胸の奥で何か真っ黒な、どっしりと重量感あるものが置かれた感覚に襲われた。
「??」
「どうしたの琴音ちゃん?」
「大丈夫か、望月?」
「…え?あぁ、うん。平気。まだ夏休み明けで呆けてるみたい」
私は軽く胸辺りをさすっていたが、ふと周りを見ると、皆がこちらを見て心配して声をかけてきたので、慌てて戯けながら答えた。すると、一瞬間が空いたがドッと笑いが起きた。
「なぁーんだ、心配させるなよぉ」
「琴音ちゃんって、意外と抜けてるんだから」
「ははは」
「おーい」
ふと声がしたのでそちらを見ると、担任の男性教師がジャージ姿でドアの前に立ち、教壇の周りにたむろしていた私達を見ていた。
「ほら、散って散って。もうすぐ始業式が始まるぞ」

 始業式も終わり下校の準備をしていると、登校の時一番最初に一緒に歩いていた女の子が話しかけてきた。
「あのー、琴音ちゃん?これからみんなで〇〇ちゃんの家に遊びに行くんだけど、一緒にどう?」
「そうだなぁ…。ゴメンっ!今日家に帰ってピアノの練習をしなきゃいけないから、また今度でいい?」
と私が答えると、ほんの一瞬不快感を顔に表したが、すぐ笑顔になって
「あ、う、うん!じゃあまた今度誘うよ!じゃあねー」
というと、私の返事も聞かずに走って行ってしまった。
やれやれ、今日はみんな何か変だな。

 私は一人校門を出た。そして出てすぐの横断歩道で信号待ちをしていると、またランドセルを後ろからバンバン叩かれた。
まったく…他の呼び止め方を知らないのかコイツは。
「…何よヒロ?」
と振り向かずに言うと、背後から私の隣に来て
「よく、わかったな!さすがオレ達の仲だぜ」
と自慢げに言うので
「あのね…私、いきなり声をかけずに後ろから叩いてくるような、お猿さんと友達になった覚えはないんだけど?」
と心底呆れた調子で返した。ヒロは私の抗議にただ笑っていたが、次第に朝に見せた心配げな表情に変えて
「…なぁ?さっき向こうでお前がいつも一緒にいる友達が歩いていたけど、あっちに行かなくていいのか?」
と聞いてきた。
「あぁ、何か私がよく知らない女の子の家に遊びに行くみたいよ?」
と、何を心配されてるのか皆目分からないといった調子で答えた。
「誘われたけど、でも私、帰ってピアノ練習しなきゃだったから、断ったのよ」
「へ、へぇー、そうなんか?」
と、ヒロは心底意外だと言いたげだった。
「何?なんかおかしかった?」
「いや、おかしかねぇけどよ…何か、お前キャラ変わったな?」
「え、そう?そういえばあの子にも、朝言われたわ…あっ」
目の前の信号が変わり、若干音程の外れた童謡が流れた。私達二人は歩き出した。
「変わったって言われたってねぇ、自分じゃわからないよ。…ねぇ、ヒロ?」
と隣を歩くヒロに視線を向けて聞いた。
「私のどこが変わった?言ってみて?」
「うっ!そ、そうだなー…」
自分では気づかなかったが、かなりヒロに接近して質問していたらしい。ヒロは私から視線を逸らしながら、はっきりしない感じで答えた。
「い、いや、俺は”今”のお前を知っているから、変わったとは思ってねぇよ?」
「じゃあ何でさっきは”変わった”なんて言ったのよ」
と、私は余計にヒロに詰め寄った。ヒロは両手を前にして、それ以上近づかないようにとジェスチャーしながら
「それだよそれ!お前のその”なんでなんで攻撃”! いつも俺に対してソレしながら”圧”をかけてくるけど、他の奴ら、学校の奴らはそれに慣れてないんだから、いきなりソレしちゃうと相手は混乱すんだよ」
「何よ”圧”って…それに前から言ってるその”なんでなんで攻撃”って、当たり前のように言ってるけど何の事なのよ?」
「う、うるせぇーなぁ!と、とにかく!」
とヒロは立ち止まった。朝に通ったT字路だ。
「お前のその冷たさは俺しか知らねぇんだから、無闇に他の奴にはするなよ!あっ、いや、ほらっ!さっき言ったように他の奴らはびっくりしちゃうんだからな!」
とここまで言うと急に向こうへ駆け出した。
「早くキャラを戻せよーーーっ!」
と振り返り、捨て台詞を吐きながら。

「…何よアレ?アレで何か忠告したつもりかしら?」
一人残された私はボソッと独り言ちると、自分の家と向かった。
まったく、ヒロったら…好き勝手言ってくれちゃって。まぁ、アイツなりに私のこと心配してくれてるのは分かるけど…キャラがキャラがって、何を訳の分からな…
とここまで考えて、初めてハッとなった。
あれ?夏休み前、私クラスでみんなと、どうやって会話してたっけ?
不思議なことに思い出せなかった。しかもやればやるほど、記憶にかかってる靄が濃くなるようだった。その思い出せないことに一抹の不安があったものの、気にしない事にしてそのまま自宅に帰った。

「ただいまー」
「あ、おかえりー」
居間の椅子に座っていたお母さんをチラッと見て、自分の部屋のある二階に上がろうとすると
「琴音ー、ちょっといい?」
と声をかけてきた。
「何、お母さん?」
と階段に足をかけていたのを戻して、居間へと向かった。
 お母さんは、普段私達が食事をしているテーブルの前に座っていた。近づいて向かい合うような形で座ると、テーブルの上に広げられた何枚かの書類にまず目が行った。
 私が黙って紙の束を見ていると、お母さんから話を切り出した。
「あ、これはねぇ、学習塾のパンフレットなの」
「学習塾?」
私はその中の一枚を手に取り、向かいに座ってから聞いた。
「そう、あなたも今五年生でしょ?そろそろ中学受験のことも考えないとって、お母さんとお父さんで話していたのよ。それで…」
「…えっ!ちょっと待って!」
と、手に持っていた紙を置いて慌てて聞き直した。
「何?私って、受験するの?この近所に行くんじゃなくて?」
と聞くと、お母さんも一枚紙を手にしながら答えた。
「それはそうでしょ?だって、お父さんの同僚の橋本さん知ってるでしょ?予防注射を打ってくれた、お父さんの病院に勤めておいでの。あそこのお子さん、あなたと同じ五年生なんだけど、もう春から塾に通っているのよ。だからあなたも…」
「いやいや、その子のこと知らないからなんとも言えないけど、何で私も真似して塾に行かないといけないの?…あれ?っていうか、ピアノはどうするの?」
急に色々一遍に言われて混乱しながらも、私にとって一番大事な問題について聞いた。
「ピアノ?うん、ピアノは続けてもいいわ」
「え?じゃあ…」
「ちゃんと、両立出来るならね?」
と私の方は見ずに、お母さんは次から次へと、紙を取っては置きを繰り返しながら話した。
「え?…じ、じゃあ…もしやれなかったら…?」
と恐る恐る聞くと、お母さんは手を止めて、私の方を不思議なものを見るようにしながら答えた。
「それは、あなた…ピアノの方をしばらくお休みする事になるわね」
「…」
すぐに言葉が出なかった。今言われた言葉にショックを受け、頭が真っ白になり、言うべきことも見つからなかったからだ。
そ、そんな…ピアノが弾けないなんて…。そんな…そんなの…
「…ヤダ」
「え?何?」
ボソッと消え入るような声で言ったのを、お母さんは聞き返した。すると私は勢いよく立ち上がり、若干涙目になりながら
「そんなのぜぇっったいイヤ!ピアノが出来なくなるなんて、絶対にイヤだからっ!」
と大声で叫んだ。前触れもなく急に激昂している珍しい娘の姿に、お母さんはキョトンとして見ていたが、すぐに半笑いで、手で私を宥めるような動作をしながら
「こ、琴音ちゃん?何もピアノをやめなさいって言ってるんじゃないのよ?もし両立出来なければ、受験が終わるまでお預けって話で、終わったらまた続けて良いんだから」
と言った。でも、そんなこと言われても、私の興奮は収まらない。
「何で塾の方を優先しなくちゃいけないの?私に取っては受験なんかよりも、比べ物にならないくらいピアノが大切なのに!」
「受験なんかって…琴音、あなたねぇ…」
とさっきまで表情をあまり変えてこなかったお母さんの顔に、徐々に苛立ちがさしてくるのが見えた。口調も苛立たしげだ。
「あなた、この時期の受験がどれだけ大事かわかってないの?ピアノなんかいつでも出来るけれど、受験はこの時期にしかないの!あなただってわかってるでしょ…」
「ピアノなんかって何よっ!」
と私はまた激昂した。私達は共に立ち上がり、しばらく視線をぶつけ合っていた。さっきまでの喧騒とは裏腹に、今度は静まり返り、無言がこの場を支配していた。
少しの間均衡状態が続いたが、突然胸に強烈な違和感を感じた。それは先程学校で感じた、真っ黒い形容し難い重さを持ったナニカだった。息苦しいほどだった。私は俯き胸辺りをまたさすり始めた。
 お母さんは私の様子を見て、先程とは変わり、心配そうな表情を浮かべながら聞いてきた。
「…え?こ、琴音?どうしたの?胸が痛むの?大丈夫?」
「だ、大丈夫…痛いわけじゃないから…」
「はぁ…まったく心配させないでよ」
とお母さんはまたイスに座ろうとしながら言った。私も、無言で同じように座った。胸の違和感はまだ強く残っている。
「…まぁ、急にこんな大事なことを言って、今すぐ決めてもらおうとしたお母さんが悪かったわ」
とため息でもつくように言った。お母さんの顔は微笑みとも取れるが、苦笑いだ。
「まぁ、琴音ちゃん。今すぐじゃなく決めなくても良いから、ここに用意した塾の案内だけでも目を通してくれない?」
とバラバラの紙をまとめて、片手でテーブルの上を滑らすように私の前に差し出した。
「そこにも書いてあるんだけど、体験入学っていうのもあるらしいの。それをしてから決めてもいいし…」
「…わかった」
と私は出された紙に、特に興味もないのに意味なく視線を落としながら、絞り出すように声を出して答えた。するとお母さんは軽く手を叩き、調子を明るくしながら私に言った。
「ありがとう、琴音!聞き分けよくしてくれて。さすが私達の娘だわ!」
「う、うん…」
私は俯いたままだったが、おそらくお母さんが満面の笑みであるのはわかった。
「さてと…あぁっ!」
と声を上げたかと思うと、何やらゴソゴソしだし、立ち上がった。
「もうこんな時間!じゃあ琴音、私買い物に行くけど、あなたも一緒に来る?」
と聞いてきたので、私は顔を上げ、力なく笑いながら
「…んーん、留守番してる。ついでにパンフレットでも見ているよ」
と言うと、お母さんは優しい笑みを浮かべながら、私の座っている近くまでわざわざテーブルを回って来て、私のことを抱きしめた。私も思わず抱きしめ返した。ほんの数秒そうしていると、お母さんは笑顔のまま立ち上がり、居間のドアの向こうからこちらに手を振って、外に出て行った。
 玄関がガチャンと大きな音を立てて閉まってから、何分ほどだっただろう、ずっと変わらぬ体勢でいたが、意識している感覚が希薄なまま立ち上がり、トボトボと自分の部屋に引き上げた。もちろん紙の束を忘れすに。

 部屋に入りランドセルを下ろして、紙の束を無造作に学習机の上にばら撒いた。 そしてほとんど無心のままに、詳しく細かく見る事もなく、一枚一枚スラスラと読み飛ばしていった。それぞれにそれなりの工夫が凝らしてあるのは見受けられた。ただデカデカと載っている、授業風景なのだろう、私と同年代と思われる男女が一様に黒板に向き、行儀よく熱心に授業を受けているような写真はどれも同じ構図だった。
「…はぁ」
と力無く溜息を吐き、散らばるのも気にせず大雑把に机に置き、私は顔を枕に埋めるようにベッドに横たわった。
 はぁ…今日はなんか…疲れたなぁ…。
私は枕から顔を起こし、今度は仰向けになり、天井をジッと見つめた。おもむろに今日あった出来事を思い返した。学校でのこと、そしてお母さんとのこと。今更ながら、お母さんに対して、こんなに感情的になって反発したのは初めてだったかもしれない。そして、これも今更ながら、こんなに私の中でピアノを弾くということが、重要な地位を占めてるということに、自分のことながら気づかされた。
私って、思ってた以上にピアノ好きだったのね…。だったらなおさら、何で…
と今度は壁側を向くように横向きになった。
…何で私は好きでもない、みんなが言うところの”勉強”をしなくちゃいけないの?
何で他の同い年、親同士が知り合いってだけで、私も合わせて塾にいかなきゃいけないの…?
 私は一度起き上がり、ランドセルからスマホを取り出すと、それを持ってまたベッドに戻り、さっきと同じ様に壁側を向く様に横になった。殆ど無意識に電話帳を開き、か行のところをタップして、義一の名前を探した。見つけ出し、その表示されてる名前のところを押すと義一のプロフィール画面になった。未だに”ガラケー”の義一のプロフィールは、電話番号とメールアドレスだけと言う、いたってシンプルなものだった。
 表示されているその画面をジッと見つめ、ただ静かに思うのだった。
あぁ…早くまた、義一さんに会いたい…

「…とね…琴音?」
「…ん…?あっ…」
優しく揺すられてるのに気づき、目を擦りながら見ると、そこにはお父さんが微笑みながら、私が横になっている側に座って私の肩に手を置いていた。
「…お父さん」
「琴音、起きたか?夕飯の時間だよ」
「え?」
とまだ惚けながら時計を見ると、八時を少し過ぎてるぐらいだった。どうやらあれから寝落ちしてしまったらしい。
「あ、うん。今起きるよ…お父さん」
「ん?」
と先に部屋を出て行こうとするお父さんを呼び止めた。
「…おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」

「あっ、やっと起きてきたわね?寝坊助さん」
ちょうどテーブルの上に夕食を置いていたお母さんが、私の姿を見ると、いつもと変わらぬ笑顔で迎えた。昼過ぎにあった事は、もう忘れているかの様だった。
「あ、うん。いつの間にか寝ちゃった」
「もーう、しょうがないわねぇ。ちゃんと夕ご飯食べられる?」
「うん、お腹はペコペコ」
とお腹をさすりながら私が答えると、変わらぬ笑顔のまま言った。
「よかった!じゃあ、とりあえず顔洗ってきなさい?ひどい顔になっているわよ?」
「はーい」
 言われた通りに脱衣所に向かい洗面台の前に立った。何の気もなしに鏡を見ると、そこには涙の跡がうっすらと残り、目を腫れぼったくさせている、ブサイクな私がこちらを見つめていた。どうやら寝ながら泣いていたらしい。
何も言われなかったが、おそらくお父さんもお母さんも、理由がわからないとしてもこの顔を見て、私が泣いていたことには気づいていただろう。その事を思うと、無性に恥ずかしくなり、少し乱暴に力任せに何度も冷水で顔を洗うのだった。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 お家にいる時には、食事の号令はお父さんが掛けて、お母さんと私が声を揃える様に続くと言うのが我が家の習慣だった。すぐ近くにテレビがあり、見える位置にあったが、一切つけずに食事をするというのもそうだった。同級生の話を聞く限り、今時珍しい、古風な習慣らしかったが、特にこれといって不平不満ストレスは感じなかった。そもそも普段から熱心にテレビを見ないというのが大きかったかもしれないけど。でも古風と言っても、無言じゃなきゃいけないというわけでもなく、テレビを見ない代わりに会話を楽しむという、直接聞いた訳じゃなかったが、そういった考えを持っていた様だった。主に会話の主導権を握るのは、もっぱらお母さんだったけど。
「あっ、それでね貴方?琴音に今日塾の話をしたんだけど、一応取り敢えず今は”前向きに”考えてみるですって」
「そうなのか?琴音?」
と、お父さんはお椀を持ちながら、向かいに座る私に向かって聞いてきた。
「え?…あっ、あぁ…うん」
と答えると、私は視線を逸らして目の前のご飯に集中するフリをした。歯切れ悪く返答したからかどうか分からないが、隣に座っていたお母さんが場の空気を変える様に、私の返事の続きを引き継ぐ様に明るく言った。
「ほ、ほら、橋本さん。あの奥様がこの間、わざわざパンフレットを持ってきてくれたでしょ?『お宅のお嬢様も、”もちろん”私学に通うのでしょ?もしよろしかったら、いかが?』っておっしゃりながら。あの時頂いたのを琴音に見せたのよ」
「ふーん、そうかい?」
お父さんはお母さんのテンションとは裏腹に、あまり関心が無いかのような態度を見せていた。私はただ、目の前の食事を黙々と集中するように食べていた。
ふと視線を感じたので顔を向けると、お父さんが静かにジっとこちらを見ていた。お父さんは、まるで私と目があうのを待っていたかのように無表情で聞いてきた。
「琴音、お前は本当に受験する気があるのか?」
「…うん、まぁ、今日言われて初めて自覚が湧いたんだけど」
自分でもしまったと思うくらいに、答えるまで不自然に間を空けてしまった。が、そこは私、今まで誤魔化し誤魔化し皆んなの望む”良い子ちゃん”を演じ続けてきた、確固たる芸歴があった。いつもの”良い子ちゃんスマイル”を顔中に浮かべて、何とか答えた。それを知ってか知らずか、今まで無表情を崩さなかったお父さんだったが、若干柔和な笑みを漏らしながら
「…そうか。琴音が望むなら、それで良い」
と言うと、今度はお母さんの方を向いて
「琴音が望んでいるのなら、お母さん、琴音が通いたいと思う塾に行かせてあげなさい」
と言った。
「わかったわ。琴音、ちゃんと自分のことなんだから、よーく考えるのよ?悩んだらいつでも相談して?」
と、お母さんは隣に座る私の頭を優しく撫でながら言った。私はなるべく笑顔を保ちながら
「うん、わかった」
と返答した。それからは、また取り留めのない話をし合ったが、あまりに取り留めがなさすぎて、今の私には何も頭に入ってこなかった。ただ、頭の中にはピアノのこと、そして義一の事しか無かった。
 …結局お父さんもお母さんも、私がピアノをどうするかどうか聞いてこなかったな…
まぁ、分かっていたけれど…
なんて事を思いながら、頭に入ってこない会話に、取り敢えず無難に愛想笑いを振りまく私がそこにいた。二学期最初は、お世辞にも幸先良いスタートを切ったとは言えなかった。

第9話 師友

あれから同じ週の土曜日、私は義一の家の前にいた。午前で終わる学校から、直接来た形だ。相変わらずこの辺りは民家も少ないこともあって、人通りが無いに等しく寂しかった。時折側の高速道路を大型トラックが通るたびに、地響きにも似た音が鳴るだけだった。でも、何だかいつもここに来る時は、一度家の前で立ち止まり、一息付かなきゃインターホンを鳴らせなかったから、人の目を気にしなくても良い点で、ある意味助かっていた。ここに来る旨は、予めメールで話していたから義一が驚く心配は無かったが、理由までは伝えてなかった。
「…さて」
ジーーーー。毎度のごとくブザーの音にも似た、味気の無い無機質な音がボタンを押してる分だけ鳴り続いていた。
「…あ、琴音ちゃん?どうぞ入って」
と、ブツッと音が切れると同時に義一の声が聞こえた。
「うん」
と私も短く返事をすると、ガラガラ音を立てながら、引き戸式のドアを開けて中に入った。玄関で靴を脱ぎ、そのまま直進して、書庫兼書斎の部屋へと向かった。
 中に入ると、義一はあの重厚感のある書斎机の前に座り何やら書類を整理していた。が、私が入ってきたのに気づいたか、ふと顔を上げて、微笑みを湛えながらこちらに向いた。珍しく眼鏡を掛けていた。
「やぁ、ようこそいらっしゃい」
「うん、おじゃまします」
「あ、そこに掛けて掛けて」
と義一が指差したそこには、夏休みの宿題をした、小洒落た椅子とテーブルが、この間と変わらずそのまま置いてあった。薦められるままに座ると、義一も立ち上がり私の向かい側に座った。私は先ほどまで義一が座っていた、書斎机の方を見ながら
「今義一さん、私が来るまで何してたの?」
と聞くと、いつもの頭を掻く癖をしながら
「あぁ、あれ?あれはね、ちょっと人に頼まれてねぇ…ちょっと見てみる?」
「あ、うん」
「よっと…」
ゆっくりと義一は立ち上がると、書斎机に近づき、上においていた書類の何枚かを手に取り、またこちらに戻ってきた。
「これなんだけどね…」
と手渡された物を受け取ると、何やら何十枚あるかと思われる厚さのレポート用紙が、見た事ない大きなホチキスの芯で止められていて、一番上の、表紙なのだろう題名が書いてあったが、日本語で書かれているはずなのに意味が理解できない言葉で書かれていた。
「これって…?」
と表紙と、それから何枚かイタズラに捲りながら聞いた。
「それはね…」
と義一はまた、私の向かいに座りながら答えた。
「ある知り合いに、これを読んでおくように頼まれてね。まぁ仕方無く、それを読み込んでいたところなんだ」
「ふーん…これって義一さんの仕事なの?」
と私は持っているのに疲れて、紙の束を置きながら聞いた。義一はそれを受け取り、また立ち上がって書斎机に戻しながら
「うーん…どうかなぁ?仕事って程じゃないけど…まぁ、頼みごとは断れない、損な性格をしているからね」
と、最後の方は苦笑いを浮かべながら答えて、また私の前に座った。
「…それって、八月に少しの間会えなかったのと関係ある?」
と聞くと、義一はわかりやすく表情で嬉しさを表現しながら答えた。
「さっすが、琴音ちゃん。すぐに察してくれるから有難いよ」
「でも、理由を詳しくは教えてくれないんだね?」
と私は少しブー垂れた顔を作って言った。そうなのだ。あれから何度かそれとなしに、メールなどで聞いてみたが、いつもはぐらかされて教えてもらえずにいた。初めの頃はそんなにでも無かったのに、ここまで勿体振られると、嫌でも気になってしまうのが人の性だ。
 義一はいかにも申し訳なさそうな顔つきで
「うん、ゴメンね?絶対内緒って訳じゃないんだけど…前も言った通り、僕が琴音ちゃんに話す時かと判断したら、ちゃんと教えるって誓うから」
と言うので
「やれやれ、しょうがないな。今の所は我慢してあげるよ。私も大人だからね」
と首を横に振りながらも笑顔で応じた。
「ははは、ありがとね、琴音ちゃん。あっ、忘れていた。ちょっと待ってて?今飲み物取ってくるよ。いつもの紅茶でいい?」
「うん、早くしてね?」
「はいはい」
と義一は居間の方へ行ってしまった。しばらくしていつもの紅茶セット、そしてそれを乗せたお盆を持って戻って来た。それをテーブルの上に置き、座りながら横目でチラッと私の脇に置いてあるランドセルを見ながら
「そういえば、もう夏休みは終わっているんだね?」
と聞くので私もランドセルを見ながら答えた。
「うん、今週から。みんな日焼けしてたりして、結構変わっていたよ」
「そうかー。琴音ちゃんは随分白いまんまだね」
と今度は私の、ノースリーブのシャツから出ている腕を見ながら言った。私は自分の体なのに、初めて触るかのように腕を撫でながら
「うん、まぁほとんど家の中でピアノを弾いていたからねー。…あっ、でも外に一切出なかった訳じゃ無かったのに…うーん、不思議だね」
と私は腕を組み考え込んでしまったので、その様子を見た義一は笑いながら
「いやいや、そんな深く考えないでもいいよ。僕も深い意味を込めて聞いた訳じゃないんだしさ?…そういえば」
と紅茶を一口啜ると、義一が続けて聞いてきた。
「今日、学校から直接来たってことだよね?お母さんにはなんて伝えたの?」
「うん、今日はねー…」
とここで私は腰に手を当て、胸を張り
「今日はそのまま友達と遊んでくるってだけ言ったの。でも、安心して?何も疑われなかったから。何せ私は、普段何にも問題を起こさない、”良いこ”でいるお陰で、こうして直接家に帰らなくても、あまり深く聞かれずに済むの。だから義一さんは、私の日頃の行いの良さに感謝してね?」
と、わざと誇らしげに答えた。義一はまた満面の笑みで言った。
「へぇー、そっか。それは有り難いねぇー。今こうして僕の所に内緒で来るような、本当は悪い子なのに」
「あーーっ、それを言うんだ?」
「ははは」
「…ふふ」
二人顔を見合わせて一頻り笑いあった後、義一は少し真顔に戻って、また紅茶を一口啜ってから切り出した。
「…そういえばメールで言ってたけど、何か話したい事があって僕の所に来たんだよね?一体何かな?」
「え?…あぁ、うん…」
と私も、まだ表面の熱いカップを両手で包むように持ち、それを一口飲み置いてから、無言でランドセルを取り、開けて、中から例のパンフレットの束を出して、テーブルの上に置いた。
 実は今日義一に見てもらうために、家から纏めてランドセルに入れて来たのだった。今日があまり授業が無い土曜日なのが幸いした。
 義一は私が何も言わずに出した紙の束を、腕を伸ばして取り、一枚一枚丁寧に読んでいった。一通り見たのか、テーブルを使ってトントンと束を纏めると、それを私の側に戻して、それから話しかけてきた。
「…これはどうやら、受験向けの学習塾のコマーシャルみたいだけど、これがどうかしたの?」
「うん…あのね?」
私は今までの経緯を話した。両親、特にお母さんが私に中学受験をさせたがっている事、ピアノを続けられるか聞いたら、両立ができるかどうかと言う事、それでカッとなって初めてお母さんと口論しちゃった事。で結局私が折れて、このまま流れで塾に通うことになりそうな事を。今まで黙って目を瞑り、私の話を聞いていた義一だったが、一通り話し終えたのを確認して、また紅茶を一口啜ってから、私に話しかけた。
「…なるほど?話は大体わかったよ。…で、それで僕に実際琴音ちゃんが聞きたい事というのは何なのかな?」
「あ、うん…」
ジッと見つめる義一から一度視線を逸らし、俯きながら私の中で何度も言葉を反芻し、意を決したようにそのままの体勢でゆっくり話し始めた。
「あ、あのね?何で私が周りに歩調を合わせて、全然興味のない、皆んなが言うところの”勉強”をしなくちゃ、いけないのかな?って…い、いや、もちろん、お母さん達が言ってることは子供ながらにわかるの。私に意地悪したくて言ってるんじゃないのも。…でも、私自身のことなのに…好きなピアノを我慢してまで、塾に通わなくちゃいけないなんて、そんなの…」
と、ここまで言うと顔を上げて、変わらずこちらに真っ直ぐな視線を投げかけてくる義一の目をまともに見ながら
「私は納得いかない。好きだとハッキリ自分で言えるピアノを我慢して、中学に入るためってだけで勉強をしなくちゃいけないなんて。この近所にも中学はあるのに。…周りの意図はともかく、訳もわからないまま受験勉強をこれからしなくちゃいけないなんて、他の子には出来ても私には…出来ない」
と最後は消え入るような声で、やっと吐き出すかのように言い切った。義一は私が話している間、小さく相槌を打っていた。話し終えると義一は腕を組み少し考え込んでいたが、腕をほどき紅茶に口をつけると、優しい口調で切り出した。
「…なるほどね。琴音ちゃんの言い分はよーく分かった。そして僕に聞きたい事もね。…うーん、琴音ちゃん?」
「…?何?」
「琴音ちゃんは僕にこう聞きたいんじゃないかな?”何で勉強をしなくちゃいけないのか?”ってね。…勿論、”受験勉強”に限らず」
「…」
まさに図星だった。私が言いたいことをズバリ言ってくれたのも嬉しかったが、それを言い辛いのを察して、率先して言ってくれてるという気遣いも感じ、それまた嬉しさもひとしおだった。
「…うん、その通り」
弱々しくだが、ちゃんと視線を外さずに答えた。すると義一は視線を周りの本達に移して、何かを探すように泳がせていたが、また私に戻すと、優しく微笑みながら聞いてきた。
「…琴音ちゃんは、何で人は勉強しなきゃいけないと思う?」
「え?…それは…」
私は口籠った。今聞かれた義一からの質問は、私の方から聞こうとしていたものだった。いつもだったら聞きっ放しだったが、でも今回は違う。夏休みのあの時、絵里に言われたことを思い出し、私なりの考えを纏めてから、義一に聞こうとこの日まで考えた。が、これといった固まった考えは結局浮かばず、今日を迎えてしまった。
 義一が話しだす様子が無かったので、ボソボソと、小さな声で普段周りで聞かれる有り体な事を答えた。
「…私も今義一さんに話すまで考えたけど、結局分からなかった。自分でも納得いく答えを探したけど見つからなかった。…周りから聞かされるのは『勉強の理由?それは将来苦労しないために今からするんだ』って類いのものだけだったの。でもそんな答えは、微塵も納得いかない。だってその後の話を聞くと、仕事がどうの何だのと、お金がどうのとしか理由を言わないんだもん…私がピアノを弾くのが好きだという気持ちは、お金では計れないもん…」
と最後の方は、頭の中渦巻く無数の言葉の端々を、何とか捕まえてそれを喋っている状態だったが、そんな支離滅裂なまとまりの無い私の言葉を、義一は途中で横槍入れる事もなく、黙って聞いてくれていた。
 義一はしばらく黙ったままだったが、さっきと変わらぬ微笑みを絶やさずに切り出した。
「…うん、難しいよね?いや、よくそこまで琴音ちゃんのその歳で、大人でも裸足で逃げ出す疑問に立ち向かって考えたのは賞賛に値するよ。冷やかしでも何でもなくてね?今琴音ちゃんが言ったように、確かに大人はそうやって子供を諭すんだろう。でも、これは琴音ちゃんだけじゃなく、いや琴音ちゃん程意識的じゃ無いにしても、子供というのは直感で大人のそういうセリフの端々にある、嘘くさい偽善の匂いに敏感に反応するもんだと思うね」
「…じゃあ義一さん」
と先程よりは元気を取り戻し、意志の強さを表す様に語気を若干強めながら聞いた。
「義一さんは何で”勉強をしなきゃいけないと思う?」
「…」
義一はしばらく目を瞑り考えていたが、これは何を言おうか分からずにいるのではなく、この事を私に話そうかどうしようかと、どちらかと言えばそっちで悩んでいるように見えた。と、急に目を開けると、さっきまでの微笑みとは少し変わって、照れ臭そうに頭を掻きながら答えた。
「…いやー、ダメだな。どうしてもこう言わずにはおれない。…琴音ちゃん?前に土手で、”暇”について話したの覚えてる?」
「…え?あ、あぁ、うん…はっきりと覚えているよ」
私は胸の中で、二人土手の斜面に座り、夕焼けを見ながら会話した情景を思い出しながら答えた。
「あの時みたいな話になっちゃうけど、つまらなくても我慢して聞いてね?」
「つまらないなんて…あの時もすごく楽しく聞いてたよ!」
と、本論からはそれてると感じながらも、義一が変に自虐気味に言ったので、私もよく分からないままムキになって言った。少しばかり元気になった私の様子を見て、また優しく微笑みながら話を続けた。
「そうかい?ありがとう琴音ちゃん。勇気をもらったよ。…あの時は確か、アリストテレスを持ち出して話したと思うけど…また人を持ち出してもいいかな?」
「え?う、うん」
「さて…」
義一はおもむろに立ち上がり、部屋の壁三面にギッシリ収められた本棚の一つに近寄り、指で背紙を一つ一つ触っていっていたが、一つの本の前で止めるとそれを引き出し、手に持ってこちらに戻ってきた。そしてそれをテーブルの上に置いた。
「??」
私はその本を手に取り、よく分からないまま中を覗くと、全文が英語で書かれていて、何一つとして分からなかった。ただ、本自体が持つ重厚感などから、この間の土手での難しい話が来るんだと、覚悟だけはした。
「これは…?」
と私が本を置きながら恐る恐る聞くと、義一は微笑んだままでその本を手に取り、少しハニカミ気味に答えた。
「いや、これはね?別に威圧したくて取って来たんじゃなくて、今の琴音ちゃんの、非常に難しいんだけれど、でもとても大事な質問に、簡潔に答えてくれてそうな人の本を出しただけなんだ」
義一はおもむろにペラペラページをめくりながら話した。私は黙ってその様子を見ていたが、御構い無しに
「この人はね?今から何十年も前に活躍していた女性の経済学者なんだけれどね?…あぁ、あった、あった」
と聞いてもないのに著者の説明をしたかと思うと、あるページで捲るのを止めて、私に視線を向けながら話した。
「でこの人は、イギリスのケンブリッジ大学というところで先生をしていたんだ。これはこの人が、前の大戦後すぐインドに行って講演した時が一番最初だったみたいなんだけれど、その後自分の勤めている大学で、入学して来た学生達に言ったセリフだって言うんだけどね…」
「うん、分かったから、その先生が何て言ったの?」
相変わらず前振りが長い義一の話に、思わず食い気味に私は先を促した。義一はそれには取り合わず、少しかしこまりながら言った。
「それはね、こうだったんだ。『経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する出来合いの対処法を得るためではなく、そのようなものを受け売りして経済を語る者にだまされないようにするためである』とね」
「?…ってことはつまり?」
「うん、元もこうもなく要約するとね?『君達が大学に入ってこれから経済学を勉強する理由は、経済学の中身をあれこれ学ぶためというより、君達より先にその世界にいて教えを振りまいている先生たちに”騙されない”ためだ』ってことさ。分かるかい?」
「うーん…あっなるほど!」
と、今まで聞いてて、何で義一がこの話をし出したのか分からなかったが、今になってようやく合点がいった。義一も察したのか、何も言わず微笑んでいる。まるで私の言葉を待つように黙ったままでいたので、ゆっくり話を切り出した。
「要はその先生は、生徒達にその、経済学だっけ?それを学ぼうとしている人達に、何でその勉強をしなくちゃいけないのかを話した訳だね?」
と言うと、義一は何度かゆっくりと頷き
「そう、その通りだね」
と短く返して同意した。私は視線を義一が取ってきた本に目を落としながら
「で、義一さんがわざわざその人の言葉を引用したのは、私が聞きたかった”勉強”する理由にも繋がるからだったのね?」
と言うと、義一はワザとらしく腕を組み考えて見せたが、すぐに明るい口調で答えた。
「…そう!その通り!さすが琴音ちゃん、察しの良さもピカイチだね。そう、つまり僕が言いたかったことは、この人の言葉を借りれば『子供が勉強しなくちゃいけない理由とは、周りの大人達が言うことに容易に騙されないためだ』ということになるね。…これでどうかな?琴音ちゃん?」
と義一が聞いてきたが、すぐには答えられなかった。なぜなら、余りにすんなり義一の言葉が頭に入ってきて、ついさっきまで頭の中がモヤモヤしていたのが、今のこの会話ですっかりなくなってしまっていたからだ。晴れやかな気分だった。でも言われてすぐに同意するのも、納得したようには思われないんじゃないかと、今思えばいらない配慮をしてしまっただけだった。
 私は答えた。
「…うん、私なりにハッキリ納得した。義一さんは私に『周りの大人達に騙されるのが嫌なら、勉強しなさい』って言いたいのね?」
「まぁ、そういうことだね。…ただ」
と義一は答えたが、またハニカミ頭を掻きながら
「”勉強”そのものはそうなんだけれど、”受験勉強”それ自体は、正直僕にも答えられないよ…それはゴメンね?」
と謝ってきた。確かに受験勉強については、納得いかないままだったが、少なくとも、いや大分勉強についてのある種の違和感、それから来る嫌悪感は緩和されていた。なので、私は笑顔で首を横に振りながら
「いいのいいの!少なくとも義一さんは根本のところを解決してくれたんだから!その…ありがとう!」
と恥じらいも臆することも無く素直にお礼を言った。
「そんな大げさだよぉ…でも、どういたしまして」
と義一も戸惑いつつも笑顔で答えた。と、ここであることを思いついたので、私は悪戯っぽく笑いながら
「でもその”周りの大人達”には、義一さんも入っちゃってるのかなー?」
と冗談めかして言った。私はてっきり同じように冗談が返ってくるかと思っていた。でも、義一は微笑んだままだったが、目の奥に真剣さを宿しながら答えた。
「…うん、そうだよ?だから琴音ちゃん、僕とか誰とか関係なしに、嘘を言われた時、素直に騙されないように、どこか言われたところに引っ掛かるところがあれば、そこに噛み付けるように、僕からは繰り返しになるけれど、その為に琴音ちゃんには今まで話してきた意味での”勉強”をしっかりして欲しいな…」
「…う、うん…私も騙されるのは嫌だから、しっかり勉強するよ…」
最後の方は笑顔も隠れて、余りに真剣味を帯びて言うので、私はその様子に驚きながらも、なるべく真摯な態度で返した。義一は数秒そのままジッと私を見ていたが、ふっとまた笑顔に戻って言った。
「…よし!あっ紅茶がもう冷めてるね。ちょっとお代わり取ってくるよ」
「う、うん。お願い」
「お待たせ」
「あ、うん。ありがとう」
義一は持って返ってきたポットから紅茶を二つのカップに注ぎ入れ、二人して何も言わず一口取り敢えず静かに啜った。と、私の視線がパンフレットに行っていたのに気づいたのか、一度カップを置き、その中の一枚を手に取りながら聞いてきた。
「で、琴音ちゃんは、とりあえず”イヤイヤ”でも、ここだったら我慢して行ってあげるという目星は付けてるの?」
「…ふふ、何その考えられる限りの含みをもたせ過ぎて、胸焼けしそうになるような言い方は?そうね…」
と私は義一がお代わりを取りに行ってる五分くらいの間に、嫌々ながらも何とか許容できそうと感じた一枚を手に取った。そして表紙を義一に見せながら答えた。
「ここなんだけど、御茶ノ水にあるみたいでね?ここに載ってる地図を見ると、程よく駅から離れていて、あまり周りが騒がしくなさそうなの。ほら、私って人混み苦手じゃない?まぁ、それだけの理由なんだけど」
「へぇー、どれどれ…」
と私から手渡されたパンフレットをマジマジと見つめ、何やら精査をしている風だった。紙に目を通したまま
「いやー、しかし、さっきあんな話をしといて何だけど、”普通”のこれから受験するって子供の塾選びとは、思えない選択基準だね?」
といかにも呆れたといった口調でボヤいた。最もそれは、私にだけでは無く義一自身に含めてなのはわかっていた。なので
「えぇー、そうかな?私みたいな”普通”の子を捕まえて、その言い草はないんじゃない?」
とワザと膨れて見せながら返した。その反応を見て、義一は笑っていたが、ハッとした表情を作って
「…あっ、さてはまだ、何でこの塾を選んだのか理由があるんだね?」
と言った後、意地悪く悪巧みをしでかしそうな顔つきで聞いてきた。バレてはしょうがない。
「さすが義一さん、不気味過ぎるくらいの名推理だよ。それはね…」
とここで私は、義一を見習って勿体振るように一口紅茶を啜ってから答えた。
「ほら、さっき言ったでしょ?この紙の山は、お母さんがなんか知り合いのオバサンから貰ったって。そのオバサンの所にも、私と同い年の子がいるみたいなんだけど、私はせめて、その子が通っている塾だけには行きたくないのよ。…それがひ弱な力を持たない女の子が、今の所唯一理不尽な大人に対抗できる手段なの!」
と最後の方は、わざと口角を右側だけ上に気持ち持ち上げながらニヤリとして言った。私が正解を言い終えると、義一もウンウン頷きながらも、さっき顔に浮かべた意地悪な表情は崩さないままに
「ははは、なるほどねー。まぁ、琴音ちゃんがひ弱かどうかは若干クエスチョンマークがつくけれども、ははぁー、考えたね?でもよくその子が通っている塾がわかったね?」
と聞いてきたので、待ってましたとばかりに私は胸を張りながら
「それはだねぇ義一くん、私がいかにもその子に興味があるように、それとなくどこに通っているのか聞き出したのだよー」
と、思い返すと中々イタイ感じで答えた。さっきの会話でふっきれたのか、我ながら妙なテンションだ。義一は私のイタさには、優しく目を瞑ってくれたのか、変に乗っかってくることも無く普通に話した。
「そうかそうか!まぁでも、さっきの琴音ちゃんの口ぶりだと、兄さんは琴音ちゃんの意志を尊重するみたいなことを言ってたみたいだし、目論見は成功するだろうねぇ。…まぁ、お母さんはガッカリするかもだけど…」
とここで私達は視線を合わせると、一瞬見つめあった後クスクスと笑いあったのだった。

「それにしてもなぁ…」
と義一は大きく伸びをしながら言った。
「これも感覚の鋭い琴音ちゃんには慎重に言わなきゃならないけど…」
「え?何?長い前フリは今は要らないよ?」
と我ながら突き放したように思わず言った。それには構わず義一は続けた。
「いや、何、前に言った通り僕と琴音ちゃんが似てるとした上で言うんだけど、僕が琴音ちゃんの立場だったら、お母さんと口論した後で、『…分かった』なんて言えないよ。しかも一番大事にしている事をある意味貶されたわけだからねぇ」
「もーう、やっぱり長くなった。何が言いたいの?」
何と無く先が読めたが、褒めてくれようとしてるのがすぐに分かったので、言わなくてもいいチャチャを思わず入れてしまった。その気持ちを知ってか知らずか、ここであの柔らかい微笑みに表情を変えて静かに言った。
「いや…本当にしみじみ…琴音ちゃんて”優しい”なぁって思ってね。もちろん僕が思う本当の意味でね」
「もーう、義一さんは大袈裟…あっ」
そうだ、絵里さんとの約束まだ済ましていなかった!
私はそのワードが義一の口から飛び出した時、ほぼ同時に絵里さんの姿を思い浮かべた。
「…あのー、義一さん?」
「ん?何かな?」
義一はちょうど紅茶に口をつけようとしていた所だった。そのまま飲まずにカップを降ろして、興味津々な表情を浮かべながら聞いてきた。私はさっき質問に答えてもらったばかりというのもあって、少し躊躇ったが、絵里さんとのこともあるからと、よくわからない義理を一身に引き受けた心持ちで、思い切って質問した。
「い、いや義一さんが言うところの…そのー…”優しい”って何かな?」
「えぇー、”優しい”ねぇ…」
「うん」
私はさっきまでゆったり座るため、テーブルから少し離れて座っていたが、中腰になり、イスを近づけながら言った。
「だっていつも私のこと…自分で言うのは恥ずかしいけど…いつも優しい子だって言ってくれるじゃない?あ、いや、別に嫌じゃないの!うん、嫌じゃないんだけれど…いつも言ってもらうと、『その”優しい”ってことは一体なんだろう?みんな、義一さんも含めて、何をもって”優しい”と考えてるんだろう?私のどこを見て判断しているんだろう?』って疑問が膨れちゃって、言われても何だか素直に喜べないの」
これは本心だった。何も絵里と話した時に初めて疑問に感じたわけじゃ無く、その前から幾度となく私は周りの大人、同級生に至るまで”優しい”と言われ続けてきた。こう言うと自意識過剰な痛々しい奴に聞こえるかもしれないけど。でも言われる度に状況が違ったりしても言われる、また状況が同じなのに言われない、この二つが同一人物からだったりすると”なんでちゃん”としては、我ながら面倒だと思っても、気にならずには居れなかった。絵里に言われてから
「…私なりにも考えて見たんだけれどね?」
「うん、言ってみて?」
「うん…考えれば考えるほどわからなくなっちゃった。ほら、似たような言葉に”良い人”って言うのがあるでしょ?これは感覚でしか言えないんだけれど、”良い人”と”優しい人”…どっちも良いことのように思うんだけど、何か根本が決定的に違うと思うんだよねぇ…どうなのかな?」
と、今言える限りの事は話した。持ち物を全部吐き出した感覚だ。私なりに何度も考えて、答えは出なかったけれど、やりきった感はあった。気持ちは楽だった。
義一は先程”勉強”についての話をしていた時のように、腕を組み目を瞑り聞いていたが、私が話し終えるとさっき飲まなかった紅茶を一口啜ると、これまた明るい笑顔になりながら答えた。
「…いやー、本当に琴音ちゃんは偉いね。”優しい”とは何かを単純に考えてもわからなかった時に、近い言葉をみつけて、そこから視点を変えて考察をしてみる…大人でも中々出来る事じゃないよ?素晴らしい!」
と一人でヤケにテンションを上げて言ってきたが、私はため息交じりに苦笑いしながら言った。
「あのねぇ、義一さん?それって多分褒めてくれてるんだろうけど…分かりづらい!少なくとも小学生の私には。いや、私は義一さんの人となりが分かっているから良いけど、普通の小学生に言ったらキョトンとされて、無反応に終わるからね?」
「え?そうかい?でもまぁ琴音ちゃんが分かればそれで良いでしょ?」
「いや、私自身も理解が難しいんだけど…あっいや、違うよ!こんな話じゃなくて」
微妙なノリツッコミみたいなのをかましながら、慌てて軌道修正を試みた。
「義一さんの意見を聞きたいの!」
「そうだねぇ…これまた難しい議題だけれど…」
とさっきまでオフザケモードだったのに、スイッチを切り替えるが如く、一瞬にして”先生モード”に切り替わった。ちなみにこの時思いついた名称だ。
 義一は無言で立ち上がると書斎机に向かい、その上にあるペン置き付きのメモ用紙台から数枚メモ用紙を取り、あとボールペンを持って戻ってきた。そして何やら書き始めたので覗き込んでみると、そこには”優しい”という字と”良い人”という字が書かれていた。二つの字の下には、幾らかスペースが開けられていた。
 私が黙って見ていると、そこまで書いた義一は顔を見上げて、こっちが質問することを見通したのか、聞かれる前に話し始めた。
「これかい?これはねぇ、せっかく琴音ちゃんが論点を出してくれたから、見に見える形で整理するためにこうして書いたんだ」
「ふーん、なるほど」
「あ、これはね、結構使える方法でね?他の人と話す時も、すごく入り組んだ、大事な話なんだけど頭だけで整理するのが難しい時なんかは、アナログだけど手でこうして書くと、相手の言ったことも残しておけるし、そのとき思った考えをメモしておくと、後で頑張って思い出そうとしなくても見返せば済むから楽なんだ」
「なるほどね。言われてみれば当たり前なんだけど、実際やろうと思いつくかは別だもんね」
「そう。まぁその会話の場に書けるものがあるかどうかによっちゃうんだけど。だから僕は外出る時はいつでもペンとメモ帳は欠かせないんだ。…ってまた話が逸れちゃったな。まず何から話そうか…うん、まずいきなり本質、ある種結論めいた意見を言おうかな」
義一はそう言うと、”優しい”の周りをボールペンで雑に丸で囲った。私は黙って見てる。義一は囲った”優しい”の上をボールペンで軽くトントン叩きながら話し出した。
「琴音ちゃん、この優しいという漢字、試しに…」
と義一は丸で囲った”優しい”の下に”優”と書いた。
「これにもし下に…」
と今度は、”優”の下に”れている”と書いた。
「こう書くと、これはなんて読む?」
私は考えるまでもなく即答した。
「これは”優れている”だね?」
「その通り。意味は何かな?」
「意味はそうだね…他の人よりも力が抜きん出ているとか、能力があるとかかな?」
と答えたが、中々義一の言いたいところがはっきり見えて来ないので
「ねぇ義一さん。話が見えて来ないんだけれど…」
と焦ったそうに聞くと、義一は手で大きく宥めるようにジェスチャーをしながら笑顔で答えた。
「まぁまぁ。回りくどくて面倒なように聞こえるかも知れないけれど、こういった難しくて大事な問題は、一つ一つ慎重に吟味しかつ分析しなければ、ほんの数度見る角度が違うだけで、モノの見方がガラッと変わってしまう恐れがあるんだ。だから臆病なほどに慎重を重ねるのはとても良いことなんだよ?それに、『急がば回れ』とも言うしね?」
と最後はウィンクをしながら悪戯っぽく笑った。
「これを見て分かるように、”優しい”の”優”には、”優れている”と言う意味が含まれていることがわかるね?」
「う、うん」
「じゃあ”優しい”と”優れている”には、何か密接な繋がりがあるように思えないかな?」
「うん、それは確かにそう思う…あっ!」
と途中で義一が言いたいことが分かった気がしたので、途中までで打ち切った。
「あぁ、そっか…義一さんはこう言いたいのね?『優しい人とは優れている人のことだ』って?」
と言うと、義一は少しの間私の言葉を何度も噛み砕きながら咀嚼し味わっているようだった。と、カッと目を開けたかと思うと、いつものあの微笑みで私をまっすぐ見ながら答えた。
「…なるほど。幼くしてそうやって纏められるのは、それでこそ”琴音ちゃん”って感じだねぇ。うん、それで正解と言いたいところだけれど、これは世間的に縷々言われている括弧付きの『常識』の罠に落ちることになるから、そこだけ慎重に行こう」
「?う、うん」
 括弧付きだの何だのと、普段聞き慣れない単語が次々に飛び出してきて、私の頭は徐々に混乱してきていたが、それはそれ、私が聞いた質問に真面目に答えてくれている義一に対して真摯に応じたい、途中で投げ出すことなく理解しようとするのを止めちゃいけないと、子供ながらに必死について行こうとしていた。
 また、さっきや、いやその前からも、義一の会話における前フリの長さを、しょっちゅうからかったりしていたが、ちゃんと心の中では、義一の言う事に無駄な部分が無いことは分かっていた。私が普通の大人には答えられない、自分で言うのも何だが、難題をふっかけているからこそ、それを真面目に答えようとすれば、長くなってしまうのは当然だと当時はこれでも弁えていたつもりだった。義一は続けた。
「琴音ちゃんは今、『優しい人とは優れている人のことだ』って話したよね?僕の結論もこれにかなり似ている、いや同じと言っても良いぐらいなんだけれど、少しだけもうちょっと掘り下げてみよう。…多分君も薄々感づいていると思うけど、世の中一般に似たような事が言われているよね?それは…『優しい人は強い』と言うやつさ」
「あぁ、うん。それは色んな所で聞かれるセリフだね。でも…」
と私は途中で止めて、腕を組み首を傾げながらまた続けた。
「さっき私が言ったのと、今義一さんが言ったセリフの間…似ているようだけど全然違く見えるのよねぇ…」
と言いながら私はペンを取り、メモ用紙の空白に『優しい人とは優れている人のことだ』と『優しい人は強い』を縦に並べて書いた。義一はその様子を見て、ただ静かに微笑んでいる。
私は書き終えると、その字の辺りをペンでコツコツ叩きながら言った。
「…うーん、いや違いはすぐにわかるんだけど…でも”優れている”っていうのはこっちの”強い”ってのと同じに考えて、別に構わないと思うし…何だろう、後は順番が逆って事だけど…」
「おっ!」
私がまだ言い終えるかどうかのところで、今まで黙っていた義一が、突然極端に言えば、心の底から感嘆したかのような声をあげた。それに私が驚いていると、義一はまた頭を掻きながら詫びるように言った。
「あ、あぁゴメンね?ついつい、琴音ちゃんが自分の意思でペンを持って書き出して、そして僕と同じ考えに近づいてきたもんだから、嬉しくて思わず声を出しちゃった」
私は自分への賞賛は聞き流したが、ある一文だけ耳に止まった。
「…ということは、順番が大事なのね?」
と言うと、義一は向かい側から腕を伸ばし私の頭を撫でながら微笑んで返した。
「そう、その通り!よく出来ました。まぁ、あくまで僕基準でって意味だから、良いかどうかは分からないけど。…それはともかくそうだね、うん、今琴音ちゃんが言ったように、同じ単語しか無いのに、順番が違うだけで意味合いも違ってきちゃうってことなんだ」
「それはつまり?」
「つまりね?どっちに比重が寄っているかってことなんだ。…あ、いや、分かりづらいかな?」
と聞いてきたので私は少し考えたが、黙ってペンを持ち『優しい人とは優れている人のことだ』の文章の”優れている”、『強い人ほど優しい』の”優しい”を、また丸で囲ってから答えた。
「つまり私が言ったセリフでは”優れている”のが理由になっているけど、世の中の言い方だと”優しい”のが理由に来てるってことだね?」
「御名答!」
義一はもう嬉しくってしょうがないと言った調子で返した。
「ちょっと…いや、大分かな?言葉遊びとも取られかねないことを続けてしまったかも知れないけど、でもこれは”本気で真面目”な遊びだから有意義だと思うよ。…そう言い訳してからあと少しだけ続けると、そう、世の中的には『優しいから強い』、で僕達がさっき話したことで言えば『優れているから優しい』となるね。…ここで確認しておきたいんだけど、琴音ちゃんはこの二つのどっちが筋が通っているかな?これは僕のことは一切考えずに素直に答えてね」
と聞いてきたので、私なりに当然考えは決まっていたからすぐ答えてもよかったけれど、わざわざと言うこともないが、やはり頭の片隅に絵里のことを思い出して、なるべく誠実に答えようと考えを巡らした。
「…私は義一さんと同じく『優れているから優しい』に一票かな?…まぁ、まだ私は選挙権無いけど」
と答えると、義一は一瞬吹き出したが、すぐに立ち直り話した。
「そ、そうかい?それは光栄だけれど、じゃあ逆に、何で世間一般の意見には一票入れなかったんだい?」
「それはね…」
私はすっかり温くなった紅茶を飲み干して一息つけてから答えた。
「うーん…”優しい”が理由になっていることかな?何と無くだけれど。”強さ”や”優れている”とかいうのは、他の人が聞けば反論があるんだろうけど、簡単に言えば分かりやすいと思うのね?」
「うんうん、それで?」
「うん、さっき私が自分で言ったように、比較的簡単に言えちゃうの。だって力とか能力とか、他の人が出来て自分は出来ないとか、良くも悪くもはっきりと実感として認識出来ちゃう…これも私なりにだけど。溝がはっきり見えると言うか…それに比べて優しいっていうのは、今までみたいに考えなくたって、かなり曖昧だよね?だからこそこうして悩んでいるんだけど。そんな人によってマチマチな不確かなものを、理由の一番地に持ってくるのは、その後の話がバラバラにバラけちゃうと思うの。…だから…かな?」
何とか筋道立てて話したつもりだったが、やはり上手くは言えなかった。でも、言いたい事はキチンと言えた感覚はあった。
 義一は例によって、目を瞑り腕を組みながら聞いていた。私が話し終えても暫く黙っていたが、ゆっくりと目を開けるとまた柔和な笑みを浮かべて話した。
「…いや、よく難しい話をまとめて話してくれたね?…これ以上言うとシツコイって嫌われるかもだから言わないほうが良いのかもしれないけれど、でも言わずには居れないな。偉い、偉いし凄いよ琴音ちゃん。よくそこまで辿り着いたね?…あ、そうだね。いや、全く僕も同意見さ。それに付け加えるなら、世の中の人は漠然と優しいという言葉を手放しに”良い言葉”として乱用している節があるんだねぇ。だから取り敢えず『あなたは優しい』と言っておけば、その場は和やかに過ごせるという、いわゆる潤滑剤程度にしか思ってないようなんだ。だから…」
とまで言うと、また義一は腕を伸ばし私の頭を労わるように撫でながら
「琴音ちゃん、君みたいに感じやすい子は、その時その時によって違う意味で話される言葉に振り回されて傷付いちゃうんだね…」
と言うと、義一がおもむろにペンを持ち、最初に書いた”良い人”を今度は丸で囲みながら話を続けた。
「この”良い人”って言い方もね、曲者で混乱の元なんだよねぇ…琴音ちゃん、せっかく答えてもらってすぐで悪いんだけど、この”良い人”って何だろうね?」
と聞いてきた。私は書かれた”良い人”をジッと黙って見つめていたが
「…うーん、ある意味”優しい”よりも、いざ考えてみると難しいかも。…まぁ、今までの話からすれば、”優”と”良”だから優しい方が上なのかなって漠然と思うけれど」
と返すと、義一は少し目を見開いていたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「…なるほどー。応用が効いてるね。それもとても面白い意見だよ。ただそれだけだと”良い人”と言うのは”優しい人”よりも少し劣る人ってことになっちゃうね?これはかなり分かりづらいと思うけど」
「うん、私もこれはちょっと…ていうか、かなり言葉が足りない気がする」
「うん…これも琴音ちゃんが提示してくれたと思うんだけど、”良い人”と”優しい人”の違い…これは僕の憶測だけれど、琴音ちゃんは過去に同じ人からこの二つを言われたから、深く疑問に思っているんじゃないかな?」
その通りだった。一番最初の所では義一に話さなかったが、今言われたような事が大きな一因であるのは間違いなかった。
「…そう、その通り。私のことを見て、同じ状況下でも『君は優しい子だ』とか『君は良い子ね』とか表現する。その人は私の事をよく見てくれてると思うんだけれど、その人ですらこうして雑に言葉を私に投げかける…その時はいつも、『この人本当に私の事見ているのかな?』って思っちゃってたの」
と言いながら私の頭の中には色んな人々の顔がチラついていたが、その中に両親もいた。
 私は自分で言いながら段々落ち込んでいき、終いには危うく泣きそうになるのを堪えながら
「だから、だからこそ、さっきも言ったけど、周りが私に投げかけてくる言葉の意味を、自分が納得する形で知りたいと思うのは…変なのかなぁ…」
と最後まで、自嘲気味ではあったが笑顔を保って言ったつもりだった。でも最後は結局涙声になってしまっていた。私が涙が溢れる前に照れ臭そうに目をこすっている間、義一は黙っていたが、こっちが落ち着いたのを見計らったかのように、語りかけてきた。顔には静かとしか言いようのないモノを帯せながら。
「…変なんかじゃない、変なんかじゃないよ。ちょっと話が逸れちゃうかもしれないけど、僕はこう思うんだ」
「…」
「どーう考えても、何度も自問自答してみても、おかしいとしか思えない事を、ひたすら疑い、答えはないかも知れない、無駄に終わるかも知れなくても、真理を追求しようとしている人に対して、『変わっている』と一言で済ましちゃう程、非情な事はない。余りにその人に対して失礼極まる。…ある元野球選手が言ってたんだけどね?その人は実力がピカイチで、羨望の的だったんだけど、あまりに歯に衣着せぬ物言いをしていたせいで一方で煙たがられていたんだ。その人がインタビュアーから『周りから変わっているって言われてる事について、何か一言ありますか?』って聞かれたんだ。そしたらその人は笑いながらこう答えたんだ。『俺の事を変わっているって思う方が変わっているんじゃないか?だって、俺は自分のやりたい事のために、ただひたすら他の人よりも努力をし続けて生きてきただけ。そんな俺自身を俺は真っ当だと思っている。その真っ当な奴を見て変わっていると思う方が、変わっている奴だと俺は思う』とね。…だから、琴音ちゃん」
と今日何度目になるか、また私の頭を撫でながら続けた。
「前にも同じような事を言ったかも知れないけれど、周りに変だと思われようと気にする事はないよ?勿論常日頃から、人が遊んだり怠けている間も、三倍、四倍、五倍と努力し続けなければいけないけどね?この努力というのも難しい。他人は努力を、ただ時間をかける、やりたくないけど他人に言われて頼まれた事を処理していく事と勘違いしているけれど、それは全然違う。こればかりは譲れないから僕の口から言わせて貰うけど、努力というのは、やれるかどうか分からない、でもそれがもし出来たなら善い事のはずだと自分なりに確信が持てる、そんな無理難題の課題をまず見つけて、それを己自身に課し、それを”死ぬまで”やり続ける事だと僕は思うんだ。身体的、肉体の衰えは別にしてね。だからそれで言うと、”努力した”って言葉は偽りでしかない。だって”終わっている”時点で努力してないのと同じだからだよ…って」
義一はここまで言い終えると、また頭をポリポリ掻きながら苦笑混じりに言った。
「いけない、また一人で話しすぎちゃった。…絵里にも注意されたばかりなのに。まぁ僕が言いたいのは、もし自分で自分がそんな人間だと思えたなら、周りが自分をどう称しようと構わず気にしないでねってこと。さっきの元野球選手じゃないけど、『真面目に妥協しないで生きてる私を変に見えるのなら、変に見えちゃうくらい手を抜いて惰性に怠けて生きている自分自身を反省したらどうだ』くらいの気持ちでいようよってことさ。…いやー、また琴音ちゃんに長いって言われちゃうなぁ」
と最後に戯けながら義一は言ったが、今まで黙って聞いていた私は静かに
「…言わない、言うわけないよ」
と短く、でも心からの偽りのない微笑みを浮かべながら返した。義一もそれに応えるように黙って笑顔で頷いた。
「…さて、僕の悪い癖で話があっち行ったりこっち行ったりしちゃっているけど、何だっけ…」
と言いながらメモ用紙に視線を流すと、明るい声を上げながら続けた。
「あぁ!そうだった!”良い人”の話だったねー。ほら琴音ちゃん、メモしておくと便利でしょう?」
「…ふふ、そうね」
と私はクスクス笑いながら返した。調子が戻ってきていた。

「で、”良い人”ねぇ…」
義一は一度丸で囲ったのを、上から何度もなぞりながら呟いた。
「琴音ちゃんの言う通り、根本から違う意味なのを大半の人が一緒くたに考えちゃうから、良く言って混乱が起きてると思うんだよ」
「良く言ってっていうのは、”もし考えての事ならば”って意味ね?」
と意地悪く笑いながら私は聞いたが、義一は同じような笑みを浮かべるだけだった。
「で、つまり何が言いたいの?」
「うん、これも人の言葉からの引用なんだけど」
「うんうん」
私が先を促すと、義一は何かを思い出すように顔を上げ、天井を見つめた。少しして、といっても数秒ほどで顔を私に向けなおし、”教師モード”の顔になって切り出した。
「僕の大好きな落語家がいるんだけど…あ、落語はわかるかな?」
「え?あ、うん。着物着て、扇子持って、お噺をする人達のことでしょ?」
と答えると、義一はこれまた何とも言えない微妙な表情になり、苦笑いしながら、説明しようか迷っているようだったが、一度軽く息を吐いてから続けた。
「まぁ、本論じゃないから今はそれでも良いかな?その人は、僕が思うだけじゃなくて、ファンの間からすれば、今生きてる落語家の中で類を見ない、実力ナンバーワンの呼び声高い、まぁそんな人がいるんだけどね?でもまぁ、この人も普通の人が言いにくい事をズバッと率直に言っちゃうもんだから、好き嫌いのはっきり別れる落語家なんだ」
「へぇ、その人はさっきの野球の人と同じみたいな人なんだね?」
「そう、その通り。で、この人が舞台で色々、琴音ちゃんが言うところの”お噺”をする前に話すんだけど、その中でちょうど”良い人”とは何かについて喋ってたんだ」
「ふーん、で何て言ってたの?」
「それはね…」
とここまで言うと、義一は眉間にシワを寄せて、その人のモノマネなのか、少しダミ声を出しながら続けた。
「『良い人ってのは簡単に言えば、誰かにとって”都合の”良い人って意味だろう。あの人良い人だなぁって思うってのは、あの人は自分に対して不快な思いをさせないし、気分良くしてくれる、いてくれるだけで”都合がいい”。ただそれだけのモンだろう?』ってね」
言い終えると、無理してダミ声を出したからか、紅茶を一口啜って一息ついていた。私はその間、今の話を簡単に自分の中で咀嚼してから話した。
「なるほどねぇ。じゃあ、その落語家さんが言いたかったのは”良い人”って言葉は、”都合の良い人”の略ってわけね?」
「そう、そういう事を言いたかったようだね。これはさっきまでの”優しい”とは何かよりも、格段に簡単に理解出来ると思うし、僕自身反論はないんだけど、琴音ちゃん、君はどうかな?」
「うん。なんかやけにスッと喉を水が通ったみたいに飲み込めちゃった」
私は喉の辺りを軽く触りながら答えた。
「あまりに単純だから、何か裏を探して反論できれば良いんだけど」
と言うと、義一はクスクス笑いながら返した。
「いやぁ、小学生なのに一々例えを出してくるのは面白いな。…あっ、そう睨まないでよ?褒めてるんだから。じゃあ、少なくとも僕らの間では同意が出来たようだから先に進めると、いよいよこの問題のクライマックスが近づいているみたいだね」
義一は言いながら、メモに書いてある”良い人”の前に(都合の)と、丸括弧にわざわざ入れながら書き入れた。
「ここであと一歩だけ踏み込んで見たいんだけど…良いかな?」
「うん」
私は義一が書いた(都合の)を、ペンで意味なく丸で囲みながら答えた。その様子を微笑ましげに見ながら義一は続けた。
「ある意味これが今回の本質的な所だと思うけど…琴音ちゃん?今まで話してきた事を考えてみて、果たして”優しい人”と良い人”、どっちを目指せばいいのかな?」
「それは…」
ほんの一瞬溜めたが、迷いがある筈もなく
「当然”優しい人”だよ!」
と答えた。すると義一はメモに書いてある、もう丸で囲い過ぎて汚くなっている”優しい”に今度はアンダーラインを引いた。そしてまたペンで数回コツコツ叩くと
「うん、琴音ちゃんだったらそう言うと思った。でも、何で”優しい人”を選んだのかな?何で”良い人”は嫌なんだろう?」
と聞いてきた。何となくそんな質問が来るかとは思っていたけれど、いざ返すとなると、言葉にするのはとても難しかった。今更だけどよくまぁ義一さんは、私のどこを買ってくれてたのか今でもハッキリとは分からないけれど、今までのこの難しい話を小学五年生に向かってしてたなぁって思う。
私は暫く考えた末に、何とか答えた。
「うーん…私個人の感覚だけで言えば、ただの好みの問題かもしれないけど、私は誰かを、周りを気持ち良くしてあげるだけの存在になるくらいなら、煙たがれても、周りの人より優れた人間になりたい…って…事、かなぁ?さっき義一さんが例えに出した、元野球選手や落語家さんみたいに」
最後の方は自信なさそうに話し切った。自信が無かったのはそうだが、なんか上から目線のような、大きな事を言ってしまったような居辛さを感じていたから、余計にはっきりと言えなかったのかも知れない。
 義一はと言うと、最後まで聞く前にすでに顔中に微笑みを湛えて、私をじっと見つめていた。あっ、理由を追加すれば、これも影響あったかもしれない。
 義一は私の話を聞き終えると、ワザとだと思うが、少しだけ間を置いてから話し始めた。
「…いやぁ、これを他人、特に兄さんが聞いたら怒り狂うかもしれないけど、ここまで僕と考えが同じだと、僕としてはこんなに嬉しいことはないなぁ。…って一人で感動してる場合じゃないや。なるほど、そっか。すっごく生意気な事を言えば、琴音ちゃん、さっき僕が出した二人、ついでにおまけで僕も入れさせてもらうと、この四人含む今生きている人間の少数とその他大勢の人間は、そこで結構タイプが鮮明に分かれると思うんだ。つまり”優しい人”を目指すか”良い人”を目指すかでね?…琴音ちゃん」
と、さっきまで微笑んでいたのに、ここで義一はいつだかの真面目な、静かな表情になり、真っ直ぐに私の目を見つめてから続けた。
「琴音ちゃんが話してくれたから言い易いんだけど…今の話にまた補足を入れさせて貰えればね?こうも言えると思うんだ。”優しい人”は”良い人”にならない。そして”良い人”は”優しい人”にはなれない。…琴音ちゃんはどう思うかな?」
義一の話を注意深く聞いていたが、特に疑問は無かったので
「…うん、そうだと思う」
と比較的すんなり答えた。義一は一度笑顔になると、また真顔に戻って続けた。
「多分僕の言い方にも気付いた上で答えてくれたとは思うけど、一応念のために言えば、優しい人は”敢えて”良い人には”ならない”し、良い人は”そもそも”優しい人には”なれない”という言い方を、僕は暗にしたよね?…そう、もっとこれを掘り進めてみるとこうなる。”優しい人”は周りの人を敢えて快適にはしないし、良い人は周りの人を快適にすることしか出来ない。…さっきから繰り返しているだけみたいだけど、我慢して付いて来てね?」
「うん、大丈夫。いらない心配だよ」
と一々聞いてくるのを注意する意味でも、ワザとつっけんどんに言った。義一は続けた。
「ははは、余計なお世話だったね?じゃあお言葉に甘えて…今まで一般論を言ってきたから、今度は具体論を言おうかな?…」
義一は立ち上がり、先ほど持ってきた女性経済学者の本を手に持つと、元あった場所に戻した。そして、これまたさっきと同じ様に本の背紙を指でなぞりながら、また何か別の本を探している様だったが、ある本の前で止めてそれをまた引き抜き、それを手に持って戻ってきた。
 今度はテーブルの上にはおかず、直接そのままページをペラペラめくり、そしてピタッと止まったかと思うと話し始めた。
「しつこい様だけど、また昔の人の言葉で悪いね?この人はプラトンと言ってね、前に話したアリストテレスの先生なんだけど、その人が書いた本の中で今までの話について分かりやすい例えを使っているから、ちょっと借用するね?」
「うん」
「これはプラトンのまた先生、ソクラテスって人が会話していたのをプラトンがまとめたものなんだけど…ややこしいけど付いてきてね?中身さえ頭に入れてくれたら、それで良いから。そのソクラテスが議論するんだけど、相手は当時口が達者で、人々に人気があった演説家だったんだ。で、この人が何でも知ってるといった風な口振りで言い回るもんだから、大勢が今で言う所の”信者”になっていくんだね。その信者の一人がソクラテスの友達で、是非とも紹介したいと二人を会わせるんだ。何でも知ってるって言うから、ソクラテスはその人にアレコレ質問するんだけど、その返答にまたソクラテスが質問する…すると段々相手は答えに窮する様になっていったんだ」
ここまで聞いてた私は、ふと、まるでどこかの誰かさんの話みたいだなぁと、妙な親近感を感じた。
「結局答えられないことが分かると、今度はソクラテスが『何で分かりもしない事を分かったように言い回るんだ?』って聞いたんだ。そしたらその演説家は『別に良いじゃないか。だって俺が喋ると、みんな気持ちが良くなって良い気分になるんだから。それでみんな俺の事を慕ってくれるんだから、良い事をしているに違いない』って半ば開き直りながら答えたんだ」
「えぇー…それまた随分乱暴だなぁ」
と話が途中だったが、思わず声を挟んでしまった。義一は何も言わず微笑んで一度頷いただけだった。
「そこでソクラテスは…」
とここで義一は字で真っ黒に埋められたメモ用紙をひっくり返すと、上部に”医者”と”料理人”と書き込んだ。私は黙って見ている。義一は
「この二つの例を持ち出したんだ」
と言うと、真顔から苦笑いに表情を変えながら
「ここからようやく本題だからね?おまたせ」
と言ったので、私は先を促す意味でも右手を前に出し、無言で縦にヒラヒラ振った。義一は許可を得たと察したか、そのまま先を話し始めた。
「どういうことかと言うとね?この二つはある種共通点があるんだ。何か分かるかな?」
「え?うーん…何だろう?…もしかしてナゾナゾ?」
と聞くと、義一は今度は子供のように無邪気に笑いながら
「いやいやいや、違う違う。でもそうだね、ナゾナゾみたいだよね?あっ、捉えようではナゾナゾに見なくも…」
「義一さん、さきさき!」
「あ、あぁ、ごめんごめん。えーっと…それで…あぁ!そうそう!この二つの共通点はね?…二つとも他者に何かを”与える”ってことなんだ」
私は義一の話を聞いて、少しの間考え込んだ。義一もワザと私の答えを待つように先を話さなかった。ようやく纏まったので切り出した。
「…あぁ、なるほど。医者は病気を治すものを与えて、料理人はそのまま料理を与えるってことね?」
「そう!それにまた補足をすると、医者はお薬を出すし、料理人は料理を出す。で、ソクラテスは演説家に向かって『あなたはこの二つで言う所の”料理人だ”って言ったのさ」
「…ん?それってどう言う意味?」
どう考えても繋がらなかったので、素直にすぐ聞き返した。義一は話すのが楽しいといった調子で返した。
「ははは、これだけ聞いても、流石の琴音ちゃんも分からないよね?そりゃそうだ。じゃあ説明するね?結論から言えばソクラテスはその演説家に対してこう言いたかったんだ。『確かにあなたは美味しい料理を出す料理人みたいに相手の人々を心地良くしてあげているんだろう。でもその人達は美味しい物を食べ過ぎて、体を壊しているじゃないか』とね」
「…あっ、あぁー、なるほどぉ」
と思わず私は急に納得したせいか、一人ボソッと声が漏れた。義一は満足そうに笑いながら続けた。
「こう言うのを聞くと、今も昔も変わらないんだなぁってつくづく思うよね?まぁ料理人自体が悪者にされちゃってる気はあるけど。
 で、自分は…あっ、いや、自分がそうありたいのは”医者”の方だと言ったんだ。つまり『医者は患者の為に苦くて美味しくない、決して患者が望まないものを処方してくる。でもその時には辛くても、将来には体を元気にしてくれる薬な訳だから、結果的に人のためになっているじゃないか』って言ったんだ」
「良薬口に苦しだね?」
と私は悪戯っぽく笑いながら言った。義一もそれに応えるように笑いながら
「そう、その通り!で、いつも通り前口上が長くなったけど…」
と言うと、義一はテーブルに肘をつき、手で顔を支えるような体勢になると
「この話…何で僕が今したのか、分かるかな?」
と聞いてきた。私はちょうど目の前にあるメモ帳に、あれかこれかと書き込みながら整理を始めた。書くのに夢中になっていたから分からなかったが、おそらく先程のように義一はこちらに微笑みをくれていたことだろう。しばらくしてハッとし、顔を勢いよく上げると
「簡単にこの例えに沿って言えば、”医者”は優しい人で”料理人”は良い人ってことね?」
と私は答えた。それを聞いて義一はまた芝居じみた、腕を組み考え込んでるふりをしたが、目を見開くと、心から嬉しそうに笑いながら返した。
「その通り!大正解!いやー、長い道のりだったけど…よく出来ました!
まとめて言うと、良い人というのはその時には場を明るくしたりして皆んなを気持ち良くし快適にしてくれるけれど、後には何も残してくれない。優しい人というのはその時には相手にとって耳が痛い事をズカズカと言うから煙たがれて敬遠されてしまうけど、もしその人がどこかで言われた事を覚えていたら、後々助かることもある。…まぁそういうことだね」
と一口紅茶を飲もうとしていたが、すっかり冷めていたらしい。義一は立ち上がると
「また紅茶のお代わりを取ってくるけど、琴音ちゃんはどう?」
ポットを持ち上げながら聞いてきたので、私は聞かれて初めて意識をし出した。そして小声で
「あ、うん…それは嬉しいんだけど…その間トイレ行っていいかな?」
とモジモジしながら答えた。義一は手に持ったポットをチラッと見ると、一人合点がいった様子で
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!僕の話が長過ぎたのと、紅茶ばかり飲んでいるからそれはそうなるよね。早く行っておいで」
「う、うん。じゃあ借ります」
「僕はその間に淹れておくよ」

トイレを済まし書斎に戻ると、ちょうど義一がポットから紅茶を注いでいる所だった。義一はこちらを見ずに
「あ、おかえりー。今淹れた所だから丁度美味しいんじゃないかな?」
「うん、ありがとう」
と椅子に座りながら返した。ふと時計を見ると四時を少し過ぎた所だった。自分としては濃密な時間を過ごした感覚だったが、確かにここに大体一時半くらいに来たはずだから、それはそれなりに時間が経つもんだと一人納得した。
 二人して一口づつ啜ると、義一から話を振ってきた。
「でまぁ長々と話をしてきたわけだけど、どうかな?何となくでもヒントくらいにはなったかな?」
「うん。話は正直難しかったから、どこまで分かっているのか聞かれたら困るかも知れないけど、今言えるのは、感覚的にしか言えないけど、すっっっごく気分がサッパリしてるってこと!」
最後の方は俯き目一杯溜めてから顔を上げて答えた。義一は黙っていたが、頷き笑顔で紅茶を啜っていた。暫くそうしていたが、ふとまた”教師モード”の顔付きになって、静かに話し始めた。
「…まぁ今まで延々と話してきたけど、これはまた繰り返しになるけど、どうしてもこれは僕の琴音ちゃんに対する一番のお願いだから何度でも言わせてもらうね?」
「う、うん」
義一が急にまたあのモードになったので、飲みかけていた紅茶の入ったカップをテーブルに戻した。
「琴音ちゃんが自分で言った”優しい人になりたい”という言葉、僕はとても嬉しかった反面、やっぱりちょっと心がチクリとしたんだ。君のことだから、あの夏の夕暮れ二人で会話したこと、あれに限らず色んな事について話し合ったけど、全部が共通してるのが分かっていると思う」
「…」
「前にも同じような事言ったけど、もし本当に”優しい人”になろうとするにはこの世はあまりにも生き辛い。…特に今の世はね。…何しろ殆どの人達は”良い人”であろうとする。何故なら嫌な言い方をすれば、何も考えなくても葛藤しなくても、取り敢えずその場をやり過ごせるから。良い人でいれば嫌われないで済むからね。…結局そのままみんなで仲良く揃ってダメになっていくとしても、誰もが良い人であろうとするから、ズルズル沈み込んでいくんだ」
ここまで言うと一口また紅茶を啜り、話を続けた。
「今生きている人間の、ほんのごく一部、今まで話してきた意味での優しい人達、この人達は今に限った話じゃなく、いつの時代も嫌われようとも声を上げたりして戦い続けてきた。…それは敗北の歴史。耳障りな、嫌なことばかり言う優しい人達を煙たがり、闇にみんなで追いやった後、言ってた通りの結末になって誰もが不幸になっても”良い人達”は”優しい人達”に対して反省をしない。ずっと同じことの繰り返し。…今の世の中が余計に辛いって言ったのはね、琴音ちゃん?…今日の話で言えば、今は優しい人達と良い人達が一緒くたになって、生きているってことなんだ。
昔はそうじゃなかった。昔は優しい人達と良い人達が別れて暮らしていた。だから優しい人達は、昔から人数は少なかったけど、少ない人達で固まって議論をし合い、世の中のためにできる事を良い人達の目を気にせずに出来たんだ。それが今は全部が一緒になっちゃった」
義一はさっきのメモ用紙をまた裏返しにして、真っ黒に字で埋め尽くされた面をペンで軽く叩きながら
「君が持った疑問…優しい人と良い人の違い。普通の人はそんな疑問を持つことなく意味を分けずに使っている。でも琴音ちゃんみたいな人はそれをおかしいと思う。実際今まで見てきた通り違うからだ。でもそれを言うと数の少ない”優しい人達”が追放されてしまう。数の暴力の前ではいくら訴えても無力だからね」
ここまで言うと短く息を吐いて、また紅茶を一口啜った。私は黙って俯いている。
「だから琴音ちゃん…」
と義一は腕を伸ばし、向かいに座る私の頭に優しく手を乗せて、口調も穏やかに言った。
「さっきも言ったけど、琴音ちゃん…君が”優しい人”になろうとするのは心から嬉しい、喜ばしい事なんだけれど、これも前に言ったかも知れないけど、その決意を持ったまま生きようとすれば、間違いなく君は苦しんで深く傷ついてしまう…無力感に苛まれて絶望してしまうだろう。それでもまっすぐ立ち続けなければいけない…これは口にするほど簡単じゃない。僕にはどうすることも出来ない…琴音ちゃん?」
呼び掛けられた気がしたので、私は顔を上げて義一の顔を見た。その顔はいつもの柔和な笑顔だ。
「この先その現実を聞かされても…それでもそう生きようと決めるのは君だよ?…その覚悟はあるかな?」
 私はまた俯いた。再会した時にも、その後からもずっと義一と会話してきて、私に対する不純物の混じっていない純粋な慈しみ、憐憫の情をヒシヒシと感じていた。それはどこにも疑いの余地などないものだった。それをまた今義一が私に話しかけている。思いつきで答えて良い訳が無い。訳が無いけど、そんなのは何度聞かれようとも結論は変わるどころか固まるばかりだ。
「…何度聞かれても同じよ?私は”良い人”でいるよりも、たとえ辛くても”優しい人”になりたいの」
私は顔を上げ、真っ直ぐ強く視線を逸らさず義一を見つめた。義一も同じように見つめ返した。暫くそのままの状態が続いた。辺りは古時計の動作音しかしていなかった。ふっと、義一は短く息を吐いたかと思うと、また柔和な表情に戻って言った。
「よくわかったよ、琴音ちゃん…ありがとう、真剣に真面目に答えてくれて」
そしてまた私の頭をそっと撫でた。
「当たり前でしょ?…それに」
私はその手を優しく払い、周りの本棚を見渡しながら
「時代時代では少なくても、こんなに”優しい人達”がいるんだからね」
としみじみ言った。義一も同じように見渡しながら返した。
「…そうだね」
「…義一さんも」
私は少し意地悪くニヤケながら言った。
「…えっ!?あっ…いやー…」
義一は何も答えずに、照れ臭そうに頭を掻くばかりだった。その様子を見て、私も静かにクスクス笑うのだった。

「そういえばさっき、気になることをボソッと言ったよね?」
一息ついて、また二人がいるこの空間には穏やかな空気が流れていた。
「え?何だろう?…何か言ったっけ?」
義一は先程出した本を棚に戻しながら返した。私はその後ろ姿を見ながら
「うん…絵里さんがどうのって」
と言うと、こちらに戻ってくる途中だった義一は、見るからに気まずそうな表情になり、また頭を掻きながら戻ってきた。
「絵里のことかぁー…聞き逃してはくれなかったね」
「うん、地獄耳ですから」
やれやれと座る義一を見ながら紅茶を飲み、澄まし顔で返した。
「まぁ、隠すことでもないんだけどねぇ…八月にほら、三人でファミレスに行ったでしょ?」
「うん」
「あの後絵里は興奮しっぱなしでね?あの日の晩、僕に電話をかけてきて、仕切りに僕が居ない時どんなに楽しく琴音ちゃんと会話したかについて語られたんだよ。で、その中で絵里に言われちゃったんだ。『ギーさん、あなた年齢だけで見れば琴音ちゃんよりも歳上なんだから、琴音ちゃんから話しやすいように気を遣ってあげなくちゃいけないじゃない』ってね」
「へぇー、そんなの気にしなくて良いのに」
と私は何でもないといった調子で返した。義一は苦笑いを浮かべた。
「はぁ…そうやって琴音ちゃんは大人で返すんだもんなぁー…歳上、しかもかなりの歳上なのに、益々立つ瀬がないよ。でも僕も絵里に返したんだけどね。『そういう君も、その話を聞く限りでは、かなり一方的に喋っていたようじゃないか?』ってね。そしたら絵里は口ごもっていたけど、最後は『確かに』って認めていたけど」
その時のことを思い出しているのか、とても得意な調子だった。
「…考えてみれば、おかしいと思っていたのよ」
「ん?何がだい?」
「それはね…」
私はテーブルに両肘をつき、両手でほっぺを覆うようにしながらニヤケて言った。
「最初の方で義一さん、私の事を優しいと言った後にわざわざ『僕が思う本当の意味でね』って言ってたでしょ?」
「あー、うん」
「あれって…私に質問させるために、わざわざ伏線を敷いていたんじゃない?だって、『本当の意味』なんて言われたら、”なんでちゃん”の私が何の意味か聞かないわけないもんね?」
義一はさっきから頭を掻きっぱなしだ。義一の名誉のために言えば、決して不潔だからというわけではない。
「いやー、改めて言われると中々どうして、恥ずかしいもんだね。…そう、琴音ちゃんの言う通りだよ。いやー、参ったな」
「ふふふ。でも私も義一さんに隠し事があったんだけれど、これも言っても大丈夫かな?」
「何だろう?」
「ファミレスで義一さんがいなかった時、絵里さんと私で約束していたの。義一さんに”優しいとはなにか”を聞くっていうね。結局今の今まで聞くの忘れていたから、結果オーライだったんだけど…あっ、もしかしてここまで計算尽くだった?」
と聞くと、義一は右手を大きく横に振りながら
「いやいやいや。それは僕も聞いてなかったからねぇ、これはたまたまだったよ。丁度いいと思ったのは確かだけど。…あぁ、でも、絵里と話してた時、仕切りに琴音ちゃんのことを”優しい””優しい”って連呼していたから、その影響があったのかも知れないなぁ。僕もそれに関しては言われる度に同意していたから」
「もーう、いいからそれは!」
「ははは」
「ふふ…あっ!」
と、時計を見たのも束の間、外から音量小さく童謡が流れてくるのが聞こえた。五時になった合図だ。鳴り終わるまで二人して黙っていたが、終わると義一が優しく微笑みながら切り出した。
「…もう五時だね。今日はもう帰ろうか、琴音ちゃん?」
「…うん、そうだね」
私は時計を見つめながら、名残惜しそうに声を思わず漏らしたように吐き出した。

「じゃあ気を付けて帰るんだよ?」
「うん」
玄関先でランドセルを背負いながら靴を履いている私の後ろから、義一が声をかけてきた。履き終わり立ち上がると玄関に手をかけた。しかし私はそこで手を止めた。
「ん?どうしたの、琴音ちゃん?」
と私の様子を見た義一が話しかけてきた。私の方は言うか言うまいか悩んでいたが、振り返らずそのままの体勢で
「…義一さん、今度あの書斎から本を借りてもいい?今日はパンフレットがあったりで無理だけど」
と目の前のドアを見つめながら言った。そして振り返り義一の顔をまっすぐ見ながら続けた。
「…私、さっきも言ったように”優しい人”になりたいから。…そのー…義一さんみたいに」
「…」
私の言葉に義一は今日一番の驚きの表情を浮かべていた。しかしすぐに、嬉しがっているような、戸惑っているような、何とも言えない笑顔を見せながら返した。
「…あ、あぁ、そうかい?それはもちろん構わないよ。いつでも本を借りる意味でもこの家に遊びに来てね?…ただ」
と今度は照れ臭そうにまた頭を掻きながら続けた。
「僕のようにって言ってくれるのは、も、もちろん気持ちは嬉しいんだけど、そのー…あまりお薦めはしないな。参考までにね?」
「ふふ…一応聞いとくわ」
「…あっ、一つだけ条件があるよ?」
「え?何?」
私が聞き返すと、義一は少し勿体ぶっていたが、廊下を振り返り、廊下の一番奥の書斎の方を向いてから、また私の方に向き直り、悪戯っぽい笑顔で言った。
「来た時に、ピアノを弾いてくれるかな?曲は何でもいいけど、琴音ちゃんのを聞いてみたいから」
「え?…うーん…うんっ!もちろんいいよ!喜んで」
思わぬ提案に私は少し戸惑ってしまったが、初めて書斎のアップライトを見た時から弾いてみたかったし、何より義一から聞きたいと言ってくれた事が嬉しくて、何でもないように冷静に返事するのが大変だった。義一は私の返事に満足そうに笑顔で頷くだけだった。
「じゃあ義一さん、またねー」
「うん、また…あっ」
私は返事を聞く前に勢いよく引き戸を開けると、たまに振り返りつつ、手を振りながら飛び出し帰って行った。義一もその様子にキョトンとしながらも、手だけはヒラヒラと振り返していた。

帰り道、ほとんど何も考えず無心のまま、でも足取りは軽く、夕焼けに染まる見慣れた通りを歩いた。頭は使い過ぎたせいかボーッとしていたが、心地よい疲労感を体全身で感じながら、気づけば自宅の玄関前に立っていた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさーい」
私が靴を脱いでいると、お母さんは居間からわざわざ出迎えに来た。向こうの部屋から今日の夕飯の匂いがここまで漂って来ていた。
「そろそろご飯が出来るから、早く手を洗って来なさいね?」
「はーい」
お母さんは私の返事を聞くと、またキッチンへと戻っていった。私も洗面台のある脱衣所に向かったが、途中で立ち止まり
「あっ、お母さん!」
と呼び止めた。
「ん?なーに?」
とお母さんは私の声に反応して、立ち止まりこちらに振り向いた。
「どうしたの、琴音?」
「私…」
「ん?」
私は一瞬躊躇ったが、一度短く息を吐くと、お母さんの顔をまっすぐ見ながらハッキリ話した。
「…私、決めたから」

第10話 裕美

キーンコーンカーンコーン。
「…はい、じゃあ今日はここまで!」
素っ気なく言い放ち先生が部屋から出て行くと、各々それぞれの生徒達が片づけ始め、バラバラに部屋を出て行った。私はふと、この前お母さんに買ってもらった、淡いピンクのベルトで、時計本体が気持ち小さめの文字盤に目を落とした。夜九時を少し過ぎた所だった。
 さて、私も早く帰るか…。
建物から外に出ると、御茶ノ水という所謂都心部の筈なのに、雑居ビルが多いせいなのか、そしてそのビルに人のいる気配があまり無いせいなのか、寂しい雰囲気だった。街灯の数も少なく、辺りは私の住む近所と変わらないくらい暗かった。最もそれも選んだ理由の一つだったから、別に文句どころかむしろ有り難かったくらいだ。
 あの後お母さんにランドセルの中からクリアファイルを出し、その中に入れていた紙束の一枚、義一に先に言った塾のパンフレットを出して、通うならここが良いと話した。お母さんは何でそれを持ち歩いているのかは特に聞かず、私の主張をのんでくれたけど、表情はあからさまに曇っていた。やはりあの橋本とかいうお母さんの知り合いの子と同じ所に通わせたかったらしい。我ながら意地汚いなと思ったが、正直その様を見てほくそ笑んでいた。それからはすぐにお父さんにも話が通り、お父さんの方はうんともすんとも言わずに、ただ事務的に塾の登校手続きを手早く済ましただけだった。何やら最初に説明会やら、塾に入る前の学力を測るテストなどを受けたが、正直取り上げるまでも無いので割愛する。まぁ、そんなこんなで今私は、御茶ノ水の少し外れ、駅から子供の足で十分くらい歩く所に通っている。
 補足だが、いや私にとってはこっちが本論だけど、ピアノ教室の先生にこの事を相談したら、先生は私なんかより、当たり前っちゃあ当たり前だけど、お母さんの友達というのもあって、私の受験の話がいつ飛び出してくるか待ち構えていたらしい。まずお母さんが電話で軽く伝えて、次のレッスンの時に私からこの話を切り出した。私はお母さんに出された条件、両立出来なければ受験が終わるまでピアノを禁止にする事、それは本当に納得いかないしイヤだけれど、私は私なりに今まで以上に頑張るからという、聞かれてもいないのに決意表明に近い事を、静かに黙って聞いていた先生に対して宣誓した。
その途中から私は我慢していたのに、結局大粒の涙を流しながら、最後は涙声でグズグズになってしまった。先生は私の様子を見てギョッとしていたが、先生は優しく『大丈夫だから』と何度も呟きながら抱き締めてくれた。腕をほどき離れたので、一瞬先生の顔を見たら、私の思い過ごしかも知れないけれど泣いていたように見えた。
 話は変わるが、自分でもビックリなのはこの様な事だ。正直自分で言うのも変だが、私は私の事をもっと冷静で、ヒロが言う様に冷たい冷めた女の子だと思っていた。同級生の女の子が、私からしたら大した事でも無いのに、大袈裟に声を上げて周りの目も気にせずに泣きじゃくる様を見て、心の底からバカにしていた。そんな私が義一と再会してから半年経たないというのに、何度も泣いているような気がする。尤も義一との会話の中では、あまりに私の心の奥底を騒つかせるような話ばかりしていたので、自意識無意識どちらかどうかは別にして、今まで”良い子ちゃん”を演じて生きてきたその中で、押し込めてきた感情なりなんなりが刺激され、溢れ出してきてしまうことの結果で泣いてしまうのだった。それとやっぱり繋がりがあるのか、こうしてピアノに関しても、何か大事なものを侮辱されたと感じたり、守ろうとして気持ちが高ぶる時にも、気づくと泣いてしまうのだった。変な話前よりも、良くも悪くも余計に”感じやすく”なっていると自覚していた。
 
 ついでだからこのピアノの先生、今まで軽くしか触れなかったが、少しだけ踏み込んで話そうと思う。名前は君塚沙恵。歳は三十三歳だった筈。私もそこまで詳しかった訳じゃないし、先生自身があまり自分の過去のことを話さなかったから、はっきりとは言えないけれど、お母さんから聞いた話では、一応ソロで活躍していたピアニストだったらしい。この”ソロ”の意味は、どこか楽団に所属していなくても、コンサート会場を自分の名前だけで一杯に出来ると言う意味だ。そんな彼女だったが、二十代の後半、まだまだこれから、芸において油に油が乗るかという時期に、手首を怪我してしまったらしい。日常生活には支障がないレベルだったらしいが、繊細で正確な動きを求められる”ピアニスト”としては生きていけなくなってしまっていた。自殺まで考えたらしいが、共通の友人にお母さんがいて、彼女の今までの経緯と、これから生きるための目標を失い自暴自棄になってる旨を聞くと『あなた、私の近所で教室開きなさいよ? お義父さんが亡くなって、幾つか遊ばせてある持ち家の一つ、誰も借り手がいなくて困っていたのよ。あなたみたいな才能ある女の人がそれをフイにして生きるなんていけないわ!そうだ、それが良いわ!そうしましょう!』と半ば強引に彼女にそこでピアノ教室を開かせたらしかった。 お母さんらしいエピソードとも言える。それはともかくこの話を聞いた時すぐにハッと気付いた。なるほど、私がピアノを習い出した時と思い切りかぶっていたからだ。つまり、先生の第一号の”弟子”は私と言うことになる。 不肖の弟子だ。学ぶにつれて、私の熱心ぶりを認めてくれたのだろう、先生は私にそれとなくコンクールに出てみないかと打診をするようになった。私は勿論大の大人が、しかも私の数少ない好きな尊敬する大人の人が期待してくれるのは、子供ながらにとても嬉しかったし、この頃は全然自覚していなかったけれど、好きなピアノを、しかもその先生に認められたとあっては、感動も一入だった。でも私は何かにつけて、はぐらかして断った。これはただ単純に人前に自分を晒すのに、この頃から大いに抵抗があったからだ。先生は私が断るたび、少し寂しそうな表情を浮かべながらも笑顔で気にしなくて良いと言ってくれていた。今思えば、先生の事があんなに好きだったんだから、一度くらいコンクールに出てみてもよかったかも知れない。でも今となっては後の祭りだ。

 話がとても大きく逸れたが、結局放課後は塾とピアノのレッスンに費やされる様になり、学校の友達とブラブラ寄り道が出来なくなってしまった。でも幸か不幸か二学期の始業式以来、いつも一緒にいた女の子達とは疎遠になったとまでは言わなくても、放課後に遊ぶ約束を自然としなくなるくらいになっていた。学校でおしゃべりするだけだ。だからある意味すき間が塾で埋まり、結果オーライと言えばそうだった。

 今私は周りとぱっと見見分けのつかない雑居ビルの中から、同年代の子たちに紛れて外に出た。相変わらず目の前の大通りは車が引っ切り無しに通っていたが、人通りは疎らだった。今は十月上旬、すっかり秋空になって夜の九時ともなると、風が吹くたび若干肌寒かった。でも暑がりな私にとって、今までいた熱気の溜まった部屋から出てからのこの空気は、とても心地よかった。
一人静かに若干賑わう最寄りの駅まで向かっていると、急に後ろから声をかけられた。
「あ、あのー…」
「はい?」
と振り向くと、知らない女の子がそこに立っていた。今いる通りはまだ駅前ではなかったので、辺りは薄暗く中々相手の顔を判別するには難しい条件下だったが、少しの間見ていると段々どこかで見たことある様な気がしてきた。あくまで気がした程度だったが。鼻は少し低めだったが、目がクリクリッとパッチリしていて、全体的に”小動物”っぽい雰囲気を醸し出していた。綺麗系かカワイイ系かで聞かれたら、間違いなく後者に票が集まるだろう。髪の毛は男の子がするような短髪だったが、女の私から見ても可愛らしかった。服装を見てみても、私も同じ女の子だというのによく分からなかったが、上は薄ピンクのセーターを着ていて、下は赤チェックのハーフパンツに黒のニーハイソックスを履いていた。いかにも”カワイイ”といった服装だ。私は塾に行くだけだからと、上は似た様なもんだったが、下はピチッとしたジーンズを履いていただけだった。シンプルにして地味だ。
 私がジッと黙って見つめていたので女の子は少したじろいだが、あえて明るくしようと努めるように、笑顔で話しかけてきた。
「あっ、あの!…望月さんだよね?」
急に私の名字を言ってきたので、今度は私がたじろぎ余計に相手の顔をマジマジと見た。見覚えがある程度には感じてきたが、やはり思い出せない。
「えーっと…」
と私がいつまでも思い出さないのにやきもきしていたが
「もーう…まぁしょうがないか。喋るのは初めてだもんね?望月さんと同じ塾の…」
「え?…あぁー」
ようやく思い出した。塾のクラスで一緒の子だ。私の行ってる塾は、最初に受ける実力テストの結果で、いくつか作られているクラスに割り当てられる仕組みだった。勿論その後の成績次第で上がったり下がったりした。
「良かったー。やっと思い出してくれた」
「…」
でも正直変に思った。何でこの子私の名字を知っているんだろう?いや、授業が始まる前に軽く出席を先生が取るから、知ろうと思えば容易に知れるけど、よっぽどその人に興味がなければ覚えてなんか無いはずだった。何しろクラスの中では、同じ学校の友達同士だったらいざ知らず、まず塾に来て友達を作ろうとしている人は、少なくとも私が見る限りいなかった。
皆お互い干渉せずにいる感じだった。それはそれで私も心地よかったが。
「ちょっと、望月さん?」
「…え?」
「もーう、いつまでボーッとしてるの?こんな狭い道で立ち止まっていたら皆んなの邪魔でしょ?早く駅に行こう?」
「あ、あぁ…うん」
ごく当たり前な正論を言われたので、言われるがままに、何故か名も知らない女の子と一緒に帰ることになった。進行方向を向きながら横目でチラッと横顔を見た。カワイイ格好をしている割には、いわゆるガーリーな雰囲気は纏っていなかった。横から見ても中々意志の強そうな目力の強さが伺えた。口をまっすぐ横に真一文字にしているところからも分かる。身長は私よりも幾らか低かった。平均的と言えるぐらいだ。
 黙ってあれこれ分析したが、これ以上は埒が明かないと、ある種の勇気を振り絞って話しかけた。
「で、えーっと…」
「裕美よ」
「え?」
聞き返すと裕美と名乗る女の子は歩きながら私の方へ顔を向けると、悪戯っぽく笑いながら
「え?じゃなくて、裕美よ裕美。私の名前。高遠裕美」
と急に自己紹介をしてきた。私も思わず名前を名乗った。
「あ、私は望月…望月琴音」
「うん、知ってる」
とだけ言うとまた視線を進行方向に戻した。今度は私が顔を高遠さんに向けて聞いた。
「知ってる?…知っているってどう言う意味?」
「だって…同じ学校だもん」
高遠さんはまた悪戯っぽく笑いながらこちらに顔を向けて答えた。
「え?…そうなの?」
こんな子ウチの学校にいたかしら?
丁度大きな通りを渡る駅前の横断歩道の前で立ち止まった。ようやく周囲が明るくなったので、ハッキリとその輪郭が露わになった。さっき分析した時と印象は変わらなかったが、やはり見覚えがない。
「あっ、ほら望月さん!信号青だよ」
「あ、あぁ…うん」
どんどん先に歩いて行く高遠さんの後を理由もなくついていった。

 帰宅ラッシュなのもあるのだろうか、帰りの電車は身動きが取れない程の鮨詰め状態で、碌に会話も出来ない状態が続いたが、ようやく地元の駅に着いて外に出ると、やっと一息が付けた。
改札を出ると、高遠さんは大きく伸びをしながら言った。
「うーーーーん、やっと自由になれた!やっぱり帰りの電車のアレには中々慣れないよね?」
「う、うん。そうだね」
「望月さんて、ここからどっち方面?」
「私は…あっち」
私は素直に帰る道の方向を指差した。
「あっ、おんなじだー。じゃあ途中まで一緒に帰ろ?」
「え、えぇ…」
戸惑う私を尻目に、裕美はどんどん構わず先へと歩を進めて行った。私も仕方ないなと、それでも従順に付いて行った。先程の通りみたいに薄暗い路地を歩いていた。裕美は軽く今日の塾の授業について話しかけていたが、聞かない訳にもいかないので話を打切り、聞いてみることにした。
「で、そろそろ教えてくれない?」
「ん?何を?」
高遠さんは先ほどと同じ笑みを浮かべながら返した。
「いや…こう言ってはなんだけど…悪いけど私、高遠さんのこと見たことないんだけど…」
と言うと、高遠さんはさも意外だって表情を作り、その後大きく肩を落として見せながら言った。
「えぇー…私自分で言っちゃあなんだけど、結構目立つと思うから、見た事ないって言われると、なんだかショックだなぁ」
「あ、いや…」
そう、それがまた謎を呼んでいた。本人は半分冗談で言っていたが、確かに目立ちそうではあった。何しろ見た目がショートヘアーなのに、女らしさを失わない可愛らしさだけじゃなく、喋り方を聞いてみても、いかにも快活な明るい女の子といった感じで、私は彼女と初めて会話した時、真っ先にあのヒロを思い浮かべていた。二人ともいわゆる”ムードメイカー”気質だった。「…ごめん」
と一応謝ると、高遠さんはすぐに無邪気な笑顔に戻って返した。
「冗談冗談!でもそっかー、運動会とかで目立っていたつもりだったから意外だったよ。色んな人が私に声を掛けてくれるしね。まぁでも、同じように目立つ人からすれば気にならないのかも知れないなぁ」
「…え?誰が?誰のこと言ってるの?」
と聞くと、高遠さんは足を止め、顔を私の顔に近づけ、人差し指を私の鼻先のすぐそばまで近づけながら
「望月さん、あなたよ、あ・な・た!もーう!」
と言い終えるとまた歩き出した。私は慌てて追いかけながら聞いた。
「え?私?何でよ?全然人前に出るような事はしないでいたのに、目立つはずないでしょ?」
と追いついて隣を歩きながら言うと、高遠さんは苦笑いを浮かべながら首を横に振り、やれやれといった調子で返した。
「はぁ…あのね?これは私だったから、ただ呆れられるだけで済むだろうけど、他の同級生の女の子に言ってみなさい?すごい嫉妬に会っちゃうから」
「そんなこと言われても…あぁ、一度合唱コンクールでピアノを弾いたけど、あれで悪目立ちしちゃったのかな?」
途中から高遠さんのことを忘れて考え込んでしまうと、高遠さんは一度大きく吹き出し、笑いながら言った。
「あははは!悪目立ちって。望月さんてこんなに面白い人だったんだね?」
「え?そ、そう?」
「うん。…まぁ今望月さんが言ったようにあの時の、地域の学校共同主催のコンクール。あの時の望月さん、綺麗なお姫様みたいなドレスを着て、しかもサラッとピアノを上手に弾いちゃうもんだから、アレでファンは激増したとは思うけど」
「い、いや、ファンって…」
私の弱々しい反論には耳を貸さずに、高遠さんは続けた。
「そんなことがなかったって、普段から登下校の時、男子たちからチラチラ見られているのに…あんたは気付かなかったの?」
「うーん…どうかな?」
私は急に馴れ馴れしく”あんた”と言われた事は一切気にせず、頭の中が少し混乱になりながらも、馬鹿正直に普段の学校の情景を思い浮かべていた。
「とにかく!」
高遠さんは私がウジウジと考えながら出している、ジメジメとした空気を払拭するように声を出した。
「だから私は望月さんの事を知っていたの。でもクラスも違うし、話すこともないだろうなぁって思っていたら、まさか同じ塾に、しかも地元じゃないのにそこで会うなんて、これは運命だろうって思い込んじゃったから、思わず今日勇気を振り絞って声を掛けたって訳!」
と語尾を強く言い切ると、高遠さんはいつも登校の時前を通るマンション前で足を一度止めた。そして前触れも無く、一気にマンションの正面玄関前まで駆けて行った。
「じゃあ、またね望月さん!次は学校で会いましょー!」
と、ポカーンとしている私に向かって大きく手を振り、オートロックの鍵を開けて振り返ることなく中へと消えていった。私は見られてもいないのに小さく手を振り返していた。
「…何だったのよ、あの子は」
 
「あっ、おはよう!」
「…高遠さん」
翌朝通学路を歩いていると、高遠さんが自宅のマンションの前から私に声を掛けてきて、反応を見る前に駆け寄ってきた。
「おはよう」
「何?元気がないね?朝は弱い方?」
「いえ…普通だと思うけれど」
私達は二人並びながら仲良さげに学校へと向かった。
「昨日は望月さんに声を掛けれたってんで、すぐに眠れなかったよ」
「…大袈裟ね…」
私は若干、いや大いに引き気味に返した。その様子を高遠さんは気にする気配がない。
「あ、そうだ!」
と、高遠さんは今何かを思いついたように、これまた大袈裟に声を出して見せた。
「何?」
「これはいきなりでどうかと思うけど…」
「何よ?」
私が聞くと、高遠さんはさっきまでの快活な態度から急変して、照れ臭そうにホッペを掻きながら辿々しく言った。
「…昨日の今日だけど…望月さんの事、琴音ちゃんって呼んでいいかな?」
「え?」
「あ、いや…嫌ならいいんだけど…ほら、私達の名字って長いじゃない?”たかとお”と”もちづき”って四文字だし…下の名前だったらお互い”ひろみ”と”ことね”三文字でしょ?だったら短い方がいいかなって…舌を噛まずに済むし」
と最後に高遠さんは舌をめいいっぱい出して見せて、それを指差しながら言った。私は何言われるんだろうと気構えていたが、ただの名前の呼び方、しかもその理由の阿呆らしさ加減に、私は小さく吹き出し、笑顔になりながら答えた。
「…ふふ。何を言い出すかと思えばそんなこと?」
「…えぇー、そんなことって…かなり重要だと思うけど」
高遠さんは膨れて見せていた。
「ごめんなさい?…そうねー…良いよ!」
「本当!?」
高遠さんは嬉しさを顔中で表現しながら聞いてきた。
「本当よ。あなたのその、そう呼びたい理由にやられたわ」
と私も笑顔で答えた。
「じゃあ私のことも”裕美”って呼んでね?」
「うん、分かったよ裕美」
「うん!琴音ちゃん」
 今考えて見ても不思議だけど、昨日までは、向こうは私のことを知っていたみたいだけど、話した事のなかった者同士、普通に考えれば急に仲良くなる事は無いんだろうけれど、この頃の年代のせいなのか、気軽に下の名前で呼び合うようになっていた。まぁ尤も、私自身は呼び方について、そもそもそこまで抵抗がなかった。何しろ叔父さんを義一さんって下の名前で呼んだり、頼まれたからとはいえ年上の女性に絵里さんと、これまた下の名前で呼んだりと、そういうある種、特殊な私の性質にも依るところがあったんだと思う。それに裕美、私から見てもあまりにも他人との距離の取り方が、上手いとはお世辞にも言えず、ある意味下手に見えた。他の例を知らなかったから断言出来ないが、少なくとも私に対する態度はかなり人を選ぶと思う。
でも、これも後になって気づいた事だが、こういう遠慮なくグイグイ踏み込んで来るタイプの方が私には合ってるように思えた。クラスメイトや、仲良しグループの子達、勿論それなりに楽しく過ごしていたが、何処かみんな私に、自覚があるかはともかく、遠慮しているように感じていた。何か壊れ物を扱うように。私は私で、しつこいようだが、大人しい普通の女の子を演じていたつもりだったから、そもそもこっちが心を開かず余所余所しいんだから、そうなるのも無理はないと納得していた。それが今度のはコレだ。今まで周りにいなかったタイプだった。…いや、ヒロがいるから二人目か。女の子では初めてだった。

 それからは昨日の塾から出された宿題の話などをしていたが、ふと急に背負っていたランドセルを強く数回叩かれた。こんな事をするお猿さんは奴しかいない。ヒロだ。
「よっ琴音!今日も冷めてるかぁ…って、おぉ!」
と私に声を掛けたかと思うと、隣を歩いていた裕美に視線を移して、さも意外そうに言った。
「これまた意外な組み合わせだなぁ。高遠じゃんか」
「おはよう、森田くん!」
ヒロの方を見ると、テンションを上げながら裕美は挨拶をした。
「何?二人共知り合い?」
と私が二人の顔を見ながら聞いた。裕美が答えようとする前に、ヒロが割り込むような形で答えた。
「おう!同じクラスだぜ!なっ?」
「うん!」
裕美も笑顔で明るく答えた。
「ふーん、そうなんだ」
「そういうお前らは何なんだよ?」
と今度はヒロが私達二人を見ながら聞いてきた。
「二人は同じクラスになった事ないだろ?それに仮に同じクラスでも、片や暑苦しくて、片や凍えるほど冷たい…そもそも接点がある無し以前に、仲良くなる理由がないだろ?」
「ちょっと!どういう意味?」
私達二人はほぼ同時に、ほぼ同じ内容でヒロに非難した。二人は顔を見合わせて一瞬キョトンとしたが、すぐにクスクスと笑い合った。ひとしきり笑うと裕美が答えた。
「私達同じ塾に通っているの。そこで初めて会話してね、それで仲良くなったの。ねっ、琴音ちゃん?」
「あ、うん。そうだね。そんなところ」
昨日初めて話したことは伏せた。
「ふーん、そっか…高遠、コイツかなり変わっているけど、根は悪い奴じゃないから仲良くしてやってくれよな?」
ヒロは誰目線なのか、偉そうに腕を組みながら裕美に話していた。裕美も大きく笑いながら
「あははは!分かったよ森田くん、任せといて!」
と元気に答えていた。黙って聞いていたが、私も我慢が出来なくなって言い返した。
「裕美、こちらこそヒロをお願いね?こんなお猿さんと同じクラスじゃ何かと大変だろうけど、こう見えてもしっかり躾はされてると思うから、危害はないと思う」
「おいおい」
とヒロは顔中に不満を滲ませながら抗議してきた。
「まるで俺を猿みたいに言うんじゃねぇよ」
「あら、違うの?」
私は澄まし顔で答えた。
「だって出会い頭に毎度毎度私のランドセルをバンバン叩いてくるもんだから、文明の言葉を使えないお猿さんだと、今の今まで思っていたわ。ごめんなさい」
と最後は深々と大袈裟にお辞儀をして謝って見せた。
「おいおい…」
「あははは!」
私達二人のやり取りを見ていた裕美は、大きく笑い声を上げていた。それを見てヒロは頭を掻き、私は釣られてクスクスと笑っていたのだった。
 
 それからというもの、すっかり何かにつけてこの三人で過ごす事が多くなった。仲良くしていた女の子達とも、クラスの中で軽く挨拶をするくらいで、それ以上親しくすることも無くなった。
 今振り返ってみると、少し何かボタンのかけ違いがあったら、ハブられたりとかイジメにまで発展しかねなかったように思う。当時は別にこれで疎遠になるならそれでいいと軽く考えていたが、思い返すと、私が連んでいた女の子達はある種のスクールカーストの上位者で、私のクラスでは目立つ方だった。
 子供のくせに、カーストだの何だの下らないと大人は思ったりするだろう。大人は確かに仕事場などで人付き合いに失敗して居づらくなっても、最悪そこを辞めればどうにかなる。勿論辞めたくても辞められぬ、大人なりの事情があったりして、容易に言ってはいけないかもしれないけど、ある程度は自由の利く立場にある。でも子供は、まだ大人の庇護の下でなければ生きていけない。それも”学校”なんていう、外には出られぬ”箱庭”で、朝から夕方までいつも同じ子供達と過ごさなければならない。その狭い社会の中で人付き合いに失敗した時、何か運よく、まぁ私のように、好きなもの、熱中出来るものが見つかれば、周りを気にせずそれに打ち込めば済む話ではある。
でもそんな運が良いのは、全体のうちのごく僅か。大抵は自覚あるかはともかく、誰かに嫌われてはいないか、どこかで自分の悪口を囁かれていないか、体があんなに小さくて経験も乏しいのに、日々あれこれ余計なことを考えて過ごしている子もいるのも事実だ。
 話を戻すと当時私は目立つとか何とか何も考えずに、周りに集まって来てくれる人達くらいの意識しか無かったが、もし彼らに逆恨みにでもあったらと思うと、口先では何でもないと言ってはいても、やっぱりそんな状況になったらと思うと背筋が寒くなる。
 私の中ではやっぱり”裕美”という友達が出来たのが大きかった。出会いは摩訶不思議というか、この時はまだ何で裕美が私に声をかけて来たのか、よく分からなかったし腑に落ちていなかったけど。
 私と全く真反対のタイプだ。ヒロの言葉を使うのは癪に障るけど、キャラを作らない時の私は端から見て、感情を表に出さず、話す言葉の節々に嫌味や毒を練り込まずには居られない、良く言って”冷静沈着”、悪く…いや普通に言ってただの”冷たい女”だった。それに比べて裕美は、一言で言えば”女版ヒロ”だった。明るくサッパリしていて、勢い満点な所なんかは特にそうだ。裏表ない長所も同じだった。ヒロは”暑苦しい女”と、鏡を見てみろと突っ込みたくなるようなことを言って裕美を称していたが、正直そう思う事が無きにしも非ずだったけど、でも私なりに言えば”温かい人”だった。この一言に尽きると思う。まぁヒロに対してと同じで、裕美にも絶対に言ってなんかあげないけど。

第11話 図書館 絵里さん家 忠告

その週の土曜日、学校から家に帰って軽く着替えてから、塾用に今は使っているいつものトートバッグを持って図書館へ向かった。正面玄関前の時計の下で裕美と待ち合わせていた。図書館の建物全貌が見えてきて、時計の下の方を見ると、裕美がいるのが見えた。この間のような可愛らしい格好をしていたし、他には人の姿が見えなかったのも相まって、遠くからでも裕美だと分かった。何となく私は手を振ったが応答がない。何やら手元を見ている。
スマホでも見ているのかしら?
近づいて見ると、どうやら見ているのはスマホじゃなく本のようだった。数メートルくらいまで近づいたのにまだ気づかない。よほど集中しているようだった。私は少し駆け足で近寄り、肩にポンと手で叩いてから話しかけた。
「…裕美、何読んでるの?」
「わっ!…あぁ、琴音ちゃんかぁー…びっくりさせないでよ」
「ごめんごめん。でもあなたの予想外にいいリアクションにこっちもビックリしたんだから、これでおあいこにしてよ?」
「何よそれー…まぁいいわ」
裕美は苦笑いで私に応えながら、手元の本を閉じた。表紙をみると、どうやら塾の教科書のようだった。今日私も持ってきていた奴だ。裕美が持っている本に視線を向けながら聞いた。
「へぇー、私が来るまでずっと勉強していたの?」
「え?あ、うん」
裕美は参考書の表紙と裏表紙を交互にひっくり返し見ながら答えた。
「勉強ってほどじゃないけど、暇だったからね。ペラペラめくっていただけ」
「へぇ…とか言っちゃってー。実は先に予習して私よりも先に行こうとしていたなー?」
「ば、バレたかぁ」
私が腰に手を当てて、ワザとジト目で問い詰めるように聞くと、裕美は口でわざわざ『ギクッ』と言うと、胸辺りを抑えながら苦しそうに悶えて見せていた。一頻りやった後二人で笑い合った。
「…さて、行きましょう」
「そうね」

中に入ると今日は初めから受付に絵里が座っていた。昨日のうちに、今日図書館に行く事を伝えてあったからだ。絵里は私の姿を認めると、それまで真面目な事務的な顔つきで目の前のパソコンを睨んでいたのに、パァッと笑顔になってわざわざ立ち上がり、受付の席から出てきて急に私に抱きついてきた。
「琴音ちゃーん、久し振りー」
「いやいや、先週会ったばかりだから」
絵里が顔を私の顔に摺り寄せようとしてきたので、私は両手で絵里の顔を遠のけようともがいていた。私達のそんなしょうもない様子を見て、裕美はただただ唖然とするばかりだった。当然の反応だ。
「もーう、絵里さんいいでしょ?」
「えぇー、まだまだ…おや?」
絵里は今初めて裕美の存在に気づいたかのような反応を示して、ようやく私から離れた。唖然としている裕美に構わず、絵里は自己紹介を始めた。
「あぁ、あなたが話に聞いてた琴音ちゃんの友達ね?私は山瀬絵里。この図書館で司書をしているの。あなたは?」
「…あっ、あ、はい」
裕美はようやく落ち着きを取り戻し、気を取り直すように答えた。
「私は高遠裕美って言います。琴音ちゃんとは同じ塾に通っていて、学校もおんなじです」
ここまで言うと裕美は絵里に向かって頭を下げながら
「今日はよろしく御願いします」
と言った。今度は絵里の方がキョトンとしていたが、すぐに笑顔になって応じた。
「ははは。別に私は何もお構いなんて出来ないけど、まぁゆっくりしていってよ。…琴音ちゃん」
「え?」
絵里は顔を私に向けていたが、視線は裕美に流しながら言った。
「何よー。琴音ちゃんから話を聞いた感じじゃ、中々のお転婆娘かと思っていたのに、すごく礼儀正しいじゃないの。どっかの誰かさんとは違って」
「あっ、いや、そうでもないですよ」
と裕美は少し照れ臭そうに絵里に向かって言った。
…こんなところもヒロに似ているのよねぇ
と一人ニヤケていたが、一人除け者にして二人が笑顔を交わしていたので、少し意地悪してやろうと私はその”誰かさん”の真似をして、少し剥れて見せながら割り込んだ。
「ちょっとお二人さん?もういいかな?そろそろ”誰かさん”は勉強したいんだけれど?」
「あぁ、はいはい。ごめんなさいねぇ。じゃあ二人とも受付の方に来て」
絵里はサラッと私の嫌味を聞き流し、私達二人を受付に案内した。
「さてっと…琴音ちゃんはもうカード持っているから…裕美ちゃん?」
「は、はい」
「裕美ちゃんは…って裕美ちゃんて呼んでも良いかな?」
と絵里が聞くと、裕美は自然な笑顔で答えた。
「はい、大丈夫です。好きに呼んで下さい」
「そう?ありがとう。じゃあウチは区立だからそんなに厳しくないんだけれど、一応この紙に名前と住所を…」
裕美が絵里に教えられるまま会員証を作っている間
絵里さん…私に対して呼び方がどうの聞いてきたっけ?…あっ、あぁ聞いてたか。
などとあまりに暇だったので、どうでも良い事を頭の中で自問自答していた。
「よし、これでオッケー」
と絵里は裕美にカードを渡しながら言った。
「ありがとうございます」
「じゃあ裕美ちゃん、次からウチに来る時はそれを忘れないでね?忘れたら向こうのエリアには行けないから」
と言うと、絵里はここで切って、向こうの書庫で本の整理をしている別の司書さんの方をチラッと見ながら小声で裕美の耳元で囁いた。
「…でももし忘れちゃっても、私が受付にいる時は中に入れてあげる。…本は流石に貸せないけどね?」
「ほらほら絵里さん、悪い顔してるよ」
絵里が言い終わると、ウインクしてニヤニヤ笑っていたので、私はわざと他の司書さんに聞こえるように言った。
「シーーーーーっ」
絵里は慌てて口に指を当てて、静かにするようにジェスチャーした。でも顔はニヤケっぱなしだ。本当にいたずら小僧みたいだ。
 私はその様子を見て大袈裟にため息ついて見せたが、隣で裕美はクスクス音量が出ないように控えめに笑っていた。


「いやー、琴音ちゃんの言ってた通りだね」
「え?何が?」
私達はテーブルを挟んで向かい合いながら座り、各々カバンから教科書と筆記用具をテーブルの上に出していたところだった。ここは毎度毎度のお気に入りの席だ。
 裕美は大人しく受付に座って仕事に戻っている絵里の姿を見ながら
「ほら、あの司書さん。私もうろ覚えだったけど、昔確かに琴音ちゃんが言ってたように、先生に連れられてここに来た時見たような気はしていたけど、その時はいかにもな感じだったから、実際話すまで正直信じられなかったの。でもあんなに明るくて気さくな人でも司書になれるんだね?」
と、最後は嫌味なのか本音なのか分かりづらい事を言ったので、私は思わず吹き出しそうになったが、すぐに冷静を取り戻して
「…ふふ、確かにそうね。でもそれを本人に言っちゃダメよ?私みたいに絡まれちゃうんだから」
チラッと絵里の方を見ながら答えた。裕美は少しテーブルの上に身を乗り出すようにしながら
「…琴音ちゃんとあの司書さん、すっごく仲良さそうに見えたけど、友達なの?」
と、いかにも興味津々と言った顔つきで目をキラキラさせながら聞いて来た。
「ほら裕美、行儀悪いわよ」
私は裕美のおでこを軽くデコピンして言った。裕美は痛くもないだろうに大袈裟におでこを摩りながら席についた。でもまだ聞きたそうな顔をしているので、気乗りのしない表情を作りながら仕方無しに答えた。
「…そうね。友達といえば友達ね」
「えぇー、何その含みのある言い方」
裕美はほっぺを膨らませながら言った。私は澄まし顔で塾の教科書とノートを広げながら
「さっ、勉強しなくちゃ。…そんな顔しないでよ。後で時間があれば話してあげるから」
と返した。
「きっと、きっとだよ?」
と裕美も教科書とノートを広げながら渋々言った。
「はいはい、さて始めよう?」
何でこの子が私なんかのことについて、こんなに興味や関心を抱けるのか不思議でならなかったが、考えてみれば普段の私の”なんでちゃん”と大差ない事に気付いて、バツが悪い思いをして一人苦笑いをするのだった。

「…んーん、疲れた」
伸びをしながら時計を見ると、いつの間にか五時十五分前になっていた。窓の外を見ると、すっかりありとあらゆるものがオレンジ色に染められ、温かな色合いを発していた。図書館の周りに植えられている銀杏の、もう少しで完全に黄色に変わろうとしている葉っぱが、夕陽に照らされて、黄色どころか黄金に輝いて見えた。そろそろ閉館の時刻だ。
「あーあ、そろそろ終わりかな…あっ!」
と、裕美も顔を上げて私と同じように伸びをし時計を見ると、大声にならない程度だったが声を上げた。
「こんな時間になるまで集中していたんだ…びっくりしたわ」
「え?家ではこれくらいしてるんじゃないの?」
と私は意外そうに聞いた。何しろさっきははぐらかされたが、私を待っている間、その短い時間も使って教科書を、話しかけられるまで気付かないくらいに、集中して読み込んでいたくらいだ。それだけでも私よりも”本気”なのがわかった。
 裕美は手に持ったペンを左右に振りながら答えた。
「いやまぁ…家ではそりゃしてるけどさー…大体友達と勉強しようってなって、まず勉強したことがないもん。琴音ちゃんはどう?」
「私は…」
前の仲良しグループの子たちとの事を思い出した。大抵その内の誰かの家に行き、勉強道具を広げるところまではいくが、すぐにおしゃべりが始まりその日はそれで終わるという、あまりに不毛な時間を使うことがほとんどだった。
「…確かにそうね」
「でっしょー?」
と言うと、裕美は今度はペンのお尻を顎に当てながら、つまんなそうな表情で私を見ながら言った。
「私も最初は集中していたんだけど、琴音ちゃんと二人でいるって珍しいから、ついつい話しかけたくなってチラチラ顔を見ていたんだけど、琴音ちゃんったらすごく集中して勉強してるんだもん。私の視線に気付かないくらいに」
ここまで言うと、裕美はまた大袈裟に胸に手を当てて、いかにショックだったかを表現して見せながら言った。
「あぁ…琴音ちゃんにとって私は、いてもいなくてもどうでもいい、虫ケラ程度の存在なんだと考えたら、さみしくなっちゃった」
いやいや、あんたさっき待ち合わせの時、私に気付かなかったでしょう…
と心の中で突っ込んだが、とりあえずそれは言わずに適当に宥める事にした。
「はいはい、気付いてあげれなくてゴメンね。でも勉強しに来てる訳だし、お互い集中出来たってことは、万々歳じゃないの」
「もーう、そんな正論を今言っちゃあダメでしょ?」
と大袈裟に剥れて見せながら返してきた。
「そんな無茶苦茶な」
と私が苦笑いで答えていると、不意に私の隣に座る人がいた。絵里だった。
「二人ともー。勉強は捗ってる?」
「うん、まぁまぁね」
「はい!」
「そっか」
絵里は私と裕美のノートを軽く見比べるように交互に見ながら返した。そしておもむろに私の教科書を手に取るとペラペラページをめくりながら
「いやー、懐かしいなぁ。私もやったわぁ…」
としみじみ言った。私はそれを聞いて、意地悪く笑いながら聞いた。
「絵里さん、それってどれくらい前のこと?」
「うーん?琴音ちゃん、それってどう言う意味かなー?」
絵里はジト目を使いながら私の方を見て批難めいた口調で返した。裕美はさっきと同様に私達の様子を見てクスクス笑っている。
「ところで…」
ひと段落ついたところで、絵里が私に教科書を返してきながら聞いてきた。
「二人とも、どこか志望校とか決まってるの?漠然とでも」
「うーん…私は今ん所特にはないね…裕美は?」
「うん、まだそこまでは考えてないかな?」
「ふーん、そうなんだ。…でも」
絵里はテーブルの上に置かれた教科書の表紙を眺めながら続けた。
「あなた達の教科書、表紙に”特進”って書かれているけど、これって凄いんでしょ?」
「いやぁ、どうなんだろう…」
私がボソッと言うのを無視して絵里は続けた。
「だったら結構上の学校を狙えるんじゃない?二人とも凄いねー。 …特に」
絵里は私に身体をグイグイ寄せてきながら
「琴音ちゃーん、勉強なんて興味無い風にしていたのに、ちゃっかり出来るんじゃーん」
とニヤケ面を晒しながら話しかけてきた。私はされるがままに寄られながら
「いやー…何かの手違いで、そんなクラスに入れられちゃったみたいだけど」
とツンと澄まして淡々と返した。
「いやいや琴音ちゃん、そんな運で入れるクラスじゃないから!他の皆んなが聞いたら、殺意を向けられるよ?」
裕美はまた本気とも冗談とも取れる調子で私に注意してきた。顔は苦笑い気味だ。
「そうよー?今のは『私って努力しなくても、なんでも出来ちゃうの』発言にしか聞こえないからね?…裕美ちゃん」
絵里は椅子に真っ直ぐ座り直すと、向かいの裕美に向かって優しく微笑みながら言った。
「見ての通り、色んな意味で危なっかしいから、初対面のあなたに頼むようで悪いけど、そのー…まぁ色々とフォローをよろしくね?」
「え?は、はい」
「例えば…」
絵里は急に私のほっぺに手を軽く当てながら
「こんなに可愛いのに、フリじゃなくて心の底から素で気付いてない所とか」
と最後は裕美の方を向いて悪戯っぽく笑いながら言った。すると裕美も一瞬ハッとした表情を見せたが、その後すぐ悪戯っぽく笑い返して
「あははは!そうですね、わかりました!」
と返事をしていた。私は一人ムスッとしながら
「…もーう、二人して何の話をしているのよ?」
いつまでもホッペから離そうとしないので、軽く手を払いながら言うと、絵里と裕美は顔を見合わせて
「ほら、これだもんなー」
「気を付けないとですね!」
と苦笑を浮かべながらお互い同じように首を横に振っていた。
「二人してヤな感じねぇ…っていうか絵里さん」
これ以上私の話になるのを避ける意味でも絵里に話を振った。
「私達とおしゃべりしてていいの?サボりじゃない」
「えー、ヒドイこと言うなぁ…いいのよ、ほら!」
絵里が指差した方には時計が掛かっていて、時刻は五時五分前を指していた。
「もう閉館時間だからね」

「じゃあ気を付けて帰りなよ?二人とも」
絵里はわざわざ正面玄関の外まで私達二人を送り出しに出て来てくれた。
「絵里さんはまだ帰らないの?」
と私が聞くと、絵里さんは親指を後ろ方向に向けながら
「一緒に帰りたい所だけど、簡単な片付けをしていかなきゃいけないから、今日はこのまま帰ってね」
と如何にも嫌そうな感情を顔一面に表しながら答えた。
「うん、わかった。じゃあ、またね」
「うん、またね!…裕美ちゃんもいつでも来てね?琴音ちゃんの友達だったらいつでも歓迎するよ」
「はい、また来ますね!」
私と裕美二人は仲良く並んで歩いて、図書館が見えなくなる曲がり角で立ち止まり振り返ると、まだ絵里の姿が見えたので、示し合せる事もなく二人で大きく手を振った。遠くで絵里も子供みたいに大きく振りかえしていた。

「…いやー、楽しかったね!」
隣を歩いていた裕美が満面の笑みで話しかけてきた。私は何のことか当然分かっていたけど
「え?ただ勉強をしていたのに楽しかったの?よっぽど勉強が好きなのね?」
とワザと見当違いなことを返した。それを知ってか知らずか、裕美はほっぺを膨らませながら言った。
「ちーがーうーよ!あの司書さんのこと!」
「あっ、そっち?」
「そっちしかないでしょう!もーう!」
裕美はいつまでも私がしらばっくれるので、埒があかないのにやきもきしていたが、すぐに察して笑顔に戻って続けた。
「こんな私みたいな子供にも、何て言うのかなぁ…同じ目線になってくれるというか…うん!」
ここまで言うと私に顔を向けて、とびきりの笑顔で言い切った。
「すっかりあのお姉さんのファンになっちゃったよ!」
「へぇー、そう?」
私は気のない感じで返した。それが若干不満だったのか、少し膨れながら言った。
「もーう、琴音ちゃんはあの人の友達で近くにいるから分からないんだよ!あの素敵さが!」
あまりにも自分だけが分かっていると言いたげだったので、不思議と何故か『私の方が長く付き合っているんだから、そんな事ぐらいよく知ってる』と言い返したくなる衝動に駆られたが、なんか悔しかったので言わなかった。裕美は続けた。
「それによく見るとすっごい美人だし…はぁー、将来あんな女の人になりたいな」
この短い時間の中で、どこまでこの子は絵里に心酔してるのかと、正直かなり引いていたが、まぁちょっと考えてみれば分かるような気がしなくもなかった。二人ともタイプが似てたからだ。これとは別のことを返した。
「そうね、良く見ればね?」
と少し意地悪く言うと、裕美は少し言いづらそうに答えた。
「うっ!…うん、だってぇ…」
「あの髪型だもんね?」
なかなか煮え切らない裕美に変わって、私がズバッと代わりに言った。するともう遠慮しないで良いと判断したのか、何故かマジメな顔つきで私に続いた。
「ね!?だよね!?何であのお姉さん、あんなに美人なのに頭の上にキノコを乗せているんだろう?」
「…ふふ」
裕美の突然の比喩に思わず吹き出してしまった。さて、訳を知っている私が教えてあげようかどうしようか考えた。私が何も言わずに、絵里に直接聞いてみるよう言えば、裕美と絵里が仲良くなって、私に対する絵里の”可愛がり”が減るんじゃないかと一瞬検討したが、考えるうちに癪だけどだんだん胸がモヤモヤしてきたので、その案は諦めることにした。かといい、私から話すのはもっと違うと考えていると
「…琴音ちゃん?どうしたの?急に黙ったりして?」
と裕美が私の顔を覗き込みながら、心配半分怪訝半分な表情で聞いてきた。
「あ、いや、何でもないの。…そうねぇ」
「え?何?訳を知ってるの?」
裕美はまた目を輝かせながら私に詰め寄った。どうしようかと今まで考えていたが、ふと今思い付いたことを口にした。
「…まぁ”大人の事情”よ。大人には色々とあるの」
とあくまで冷たく澄まし顔でサラッと答えた。
「えぇー…琴音ちゃんだって私と同じ子供じゃん!」
裕美は不貞腐れながら私に抗議してきた。それには構わず
「ほら、大人というのはアレコレと詮索しないものなのよ?」
と私は義一と絵里が聞いたら吹き出しそうなセリフを吐いた。裕美は当然そういう裏のことは知らないので
「チェッ!まぁ、いいわ。言ってることは分かるからね」
とまだ不貞腐れながらも、最後は笑顔で返した。

「じゃあ、またねーっ!」
「えぇ、また」
私達二人は裕美のマンションの前で別れた。

「はははは!やっぱり私の髪型って奇異に映るのね?」
「頭にキノコを乗っけてるって言ってたよ」
「ふふ。中々センスある言い方じゃない?気に入ったわ」
「私も思わず吹き出しちゃった」
「あ、そういえば…」
「ん?何?」
「うーん…あっ!前ファミレスでギーさんが言ってた友達って、あの子のことだったの?」
「え?…あぁ、いやいや、裕美じゃなくて、また別の子」
「ふーん、女の子?」
「いいえ、男の子よ」
「ふーん…あっ、もし」
「違うから」
「ふふ。もーう!その感情殺した声で被せ気味に返さないでよー。まだ何も」
「言わなくても分かるから。違うからね?」
「あははは!そう怒らないでよぉ…あ、そういえば」
コンコン
私はベッドに座り、絵里と電話をしていたが、不意にドアがノックされた。私は慌てて小声で
「ちょっとごめん!少し待ってて」
と言うと、返事も聞かずに枕の下にスマホを隠して、落ち着きを取り戻しながら声を出した。
「はーい」
「開けるわよ」
と言いながらドアを半分だけ開けてきた。お母さんだ。
「そろそろ夕飯が出来るから、早く下りてらっしゃい?」
「うん、すぐ行く」
と笑顔で答えると、お母さんは満足げにドアを閉めて行った。すぐ外で階段を降りる音がする。私はドアに近づき、いなくなったのを確認すると、急いでベッドに飛び乗った。そして枕の下を弄りスマホを手に取ると、通話はもう切れていた。その代わりメールが一通来ていた。
「琴音ちゃん、もし良かったら来月辺りの土曜日空いてないかな?私の方は結構休むのに融通が利きそうなんだ。どこかに行く訳じゃないけど、私の家に来てみない?前に軽く約束したでしょ?受験の事とか何か相談乗れれば乗りたいし。友達として。まぁ余計なお世話かも知れないけどね?笑 とにかく深く考えなくていいから、少し頭の隅に入れといてよ?裕美ちゃんも都合が付けば呼んでいいし。あ、メールが長くなったね?じゃあおやすみ」
うん、本当に長いわ。
私は苦笑いを浮かべながら文面を速読した。私は慌てて了承の返信をすると、部屋を出て一階の居間へと向かった。

 十一月の第一土曜日、私は駅ビルの正面出口前で待っていた。前みたいに学校から一度家に帰り簡単に着替えて、前日に色々と入れた例のトートバッグを下げてここに来たという状況だ。左腕の時計を見た。一時半を指していた。今ちょうど待ち合わせ時間だ。
 おそらく図書館の方から来るものと漠然と考えていたから、そっちの方ばかり見ていたが、中々姿が見えなかった。と、突然目の前が真っ暗になった。誰かに両手で目を覆われているようだった。正直分かり切っていたが、ノッてあげることにした。
「え?誰?」
「さーて、誰でしょー?」
私は少し考えるフリして、ワザとらしくハッとして見せながら答えた。
「あっ!わかった!義一さんでしょ!」
「えぇー、何でよぉ」
手を外しながら声の主は非難めいた声を後ろから投げかけて来た。振り向くと絵里が、不満を隠そうともせず膨れっ面でそこに立っていた。
「あれぇ?絵里さんだったの?全く気付かなかったわ」
私はワザとしつこく、ニヤケながらふざけて見せた。
「あのねぇ、いくら何でも男の声と私の声は間違えないでしょうに」
と絵里はますます不満を露わにして言うので
「ふふふ、ごめんなさい。冗談よ」
と私はとびきりの笑顔で宥めた。絵里はフッと顔の表情を緩めると、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「もーう…ってあれ?」
絵里は周りを見渡しながら言った。
「裕美ちゃんは?裕美ちゃんは来れなかったの?」
「え?あぁ、裕美は…」
私も絵里に倣って、意味もなく周りを見渡しながら答えた。
「聞いてみたんだけど、今日は塾じゃない習い事があるとかで無理だったみたい」
「あら、そう?それは残念ね」
と絵里は私に視線を戻してから返した。
「うん、でもそれは四時くらいに終わるとか言ってて、最後にちょろっと顔出すくらいは出来るって言ってたけど、私が『そこまで無理しなくていいよ。また今度にしよ?』みたいな事を言ったのよ」
「へぇー…じゃあ、しょうがないわね…ところで」
絵里は急に身を屈めて、私を下から見上げると、意地悪く笑いながら
「何で琴音ちゃんは、裕美ちゃんにわざわざそんな事を言ったの?」
と聞いてきた。変なところで勘が良い人だ。女の勘ってやつか?男にそれを使えばいいのに…
などと余計な事を一瞬考えたが、すぐに訳を言うか言うまいか迷った。単純に小っ恥ずかしかった。
「ねぇねぇ、何で?」
絵里は”誰か”のモノマネをしているのだろうか、しつこく聞いてくる。はぁ…
私はそっぽを向きながら
「…それは折角だし、まず私が…そのー…一人で行ってみたかったからね。…と、友達として」
と出来たかどうかはともかく、なるべく感情を表に出さずにそっけなく答えた。するとその直後に、絵里は背後から私に勢いよく抱きついてきた。
「んーーーーーっ!琴音ちゃんって、やっっぱり可愛いーーー!」
「ちょ、ちょっと絵里さん!やめてよ!こんなところで…」
実際どうかは知らなかったが、私達の周りを通り過ぎていく人達に見られて、笑われている気がして、とても恥ずかしかったが、絵里さんは全く気にならないらしい。御構い無しだ。
「はーあ!満足した!」
私から離れた絵里の顔は、言葉の通り、とても満足げだった。
「そ、それは、良かったね…」
「ん?あれ?何でそんなに疲れてるの?顔も若干赤いし」
「な、何でもない」
まったくこの人は…。義一さんの事色々言うけど、絵里さんもかなりの変わり者だよね…まぁ今更だけど。
「?」
私の様子を見て、心の底から不思議そうにしていたが、勝手に一人で気を取り直して切り出した。
「さて、琴音ちゃん。早速私ん家に行こう!ほら…」
絵里はワザと身振りを大きくしながら、どんどん先を歩いて行った。
「さっさと付いて来て?レッツゴー!」
「お、おー…」
私は小声で一応答えてからトボトボと後を追いかけて行った。


私達は線路に沿って走っている道を横に並びながら歩いた。この道は一方通行で、駅に向かって行く車しかなかったから、前だけに注意していれば気楽に歩けた。車自体そんなに来ない道だった。
 絵里は今日は上に黒のニットカーディガンに、下は緑がかったグレーのミモレ丈スカートを穿いていた。前にも思ったが、サバサバしている割には、結構服装に凝っている印象を持った。勝手に決めつけて悪いけど、キャラ的に服装なんかどうでもいいとするタイプかと思っていた。裕美みたいな子が憧れるのも分かる気がした。私は軽くボタンで前を止めるタイプのグレーのセーターに、下は細めのジーンズだった。
 絵里は私の方を見て、ジロジロ舐め回すように顔と一緒に視線を動かしながら、話しかけてきた。
「今日はなかなか大人しい格好をしているね?」
「うん、学校から帰って早く出てきたから、大体そのまんまなの」
「ふーん、そっか!なんか焦らせちゃったみたいでごめんね」
「いいよ、別に」
私の答えにただ笑顔を示したが、ふと今思いついたように切り出してきた。
「そういえば、今日は何てお母さんに行って出て来たの?」
「ん?それはねぇ、まぁ友達と図書館で勉強してくるって言って来たの」
と最後にトートバッグを見ながら答えた。図書館以外は間違っていない。
絵里は少し真剣な顔をして考えていたが、そのままの表情で私の方を見ながら言った。
「ふーん…琴音ちゃん?ついこないだギーさんとも話したんだけれど、ギーさんと会う時もそんな事を言って家を出てるんだね?」
「う、うん、そうだけど…」
さっきから真面目モードの絵里に対して、若干気圧されながらも答えた。この時は何で急にマジになっているのか分かっていなかった。しばらくそのままま絵里は私の顔をジッと見ていたが、フッと急に優しく笑うと、進行方向を向いて明るく言った。
「…まぁ、いっか!後で詳しくは私の家で聞くよ」
「う、うん、分かった」
 それからは他愛のない話、学校の話とか、ピアノの話とか、そういった話をしているうちに、絵里の住むマンションに辿り着いた。
 何と言うか、何とも言えない、何処にでもある、よく見るようなマンションだった。さっきの駅前からは、大体徒歩十分くらいで、図書館までも大体徒歩十分くらい、そんでもって図書館から駅までも十分くらい。何が言いたいかというと、このとき思ったのは、この三つを線で繋ぐと正三角形が出来上がるという、しょうもない事だった。それだけだ。
 そんな事を建物を見上げながら考えていると
「おーい!琴音ちゃん!こっちこっち!」
いつの間にか開けていたのだろう、オートロックを開けて中のエントランスに入っていた絵里が、私に向かって手を振っていた。私は慌てて絵里の元に駆け寄った。
入ってすぐのエレベーターに乗ると、絵里は縦に並んだ数字の羅列の中の”6”を押した。そして着くと、まず心地良い風が、エレベーターからまだ出ていない私達に吹いてきた。外に出て左に出て見ると、周りに高い建物が無いせいか、階自体は高く無いのに遠くまで見渡せた。さっきいた駅がチラッと見えている。図書館は見つけられなかった。
「琴音ちゃん、そんなとこにいないで早くおいで」
絵里は廊下の一番奥に立ち、既に鍵は開けたのか、ドアを開けて手でその状態を保ちながら、私に声を掛けた。
「うん、今行く…じゃあお邪魔しまーす」
「はい、どーぞ」
玄関に入ると、何か甘い香りが立ち込めていた。とても落ち着く良い匂いだ。私が鼻をスンスン鳴らすもんだから、絵里が笑顔で話しかけてきた。
「良い匂いでしょ?これね、お花のラベンダーの匂いなの。私この匂い好きなんだー」
「うん、私もこの匂い好き」
「そう?それは良かった」
靴を脱ぎ、用意してもらったスリッパを履き、二、三個ドアが面した少しばかりの廊下を進みドアを開けると、リビングに出た。キッチンもすぐそこに見える。腰くらいの高さの棚で区切られていた。ここにも薄っすらとラベンダーの香りが充満していた。
部屋はいたってシンプルだった。真っ白な壁には時計が一つあるだけで、リビングには本棚とテレビ、向かいに二人がけソファー、その間に真っ黒のコーヒーテーブル、義一のあの書斎にあるのと同じサイズのテーブルと、椅子が二つあった。床には真っ赤な絨毯が敷いてあった。もう一つ部屋があるようだったが、ドアが閉まっていた。 角部屋のお陰か色んな方向から陽の光が注ぎ込み、電気を点けてなくても十分明るかった。ガサツなイメージとは裏腹に、至る所がかなり几帳面に片付けられていた。一人暮らしの大人の女性の家に先生を除いて初めて来たが、何処もこんな感じなのだろうか?偉そうだけど、子供ながらに中々好みな感じだった。
 お構いなしに気兼ねなくジロジロと部屋を見渡していると
「琴音ちゃん、そんなトコで突っ立ってないで、そこにでも座っていてよ」
と絵里がキッチンで何かゴソゴソしながら苦笑いを浮かべて、こちらに声を掛けてきた。
「はーい」
絵里は今度は冷蔵庫から紙箱を取り出し、私が座った椅子の前のテーブルに置いた。そしてフォークを乗せたお皿二つに、紅茶を入れたカップを二つ持って来た。
「ギーさんから、琴音ちゃんが紅茶が好きだって聞いたから淹れたけど、良かったかな?」
「うん、ありがとう」
私の返事を聞くと、絵里はただ笑顔を見せて向かいに座った。そして徐に紙箱を開けた。中には色んな種類の小ぶりなケーキが入っていた。
「わぁ、すごいね」
「でしょ?」
二人して立ち上がり、中を一緒に覗き込んでいた。
「ここね、駅前にあるケーキ屋さんなんだけど、たまにここで買ってくるのよ。で、琴音ちゃんにも食べてみて欲しくてどうしようかと思ってたんだけど、これなら好き嫌いがあってもどれかはイケるかなって買って来たの」
「へぇー、ありがとう!どれも私好みだよ!うーん…あっ、選んでも良い?」
「ふふ、お好きなのどうぞ?」
絵里は早速紅茶に手をつけている。私は悩んだ挙句、モンブランとイチゴのショートケーキを貰った。絵里はチョコレートケーキとチーズケーキだ。お皿にお互い盛り付けると、絵里は笑顔で私に向き、フォークを横にして、両手で”いただきます”をする時のポーズを作り、親指でそれを持った。私もそれに倣った。私が真似したのを確認すると、絵里は明るく号令をかけた。
「よし!じゃあ、早速いただこうか?いただきまーす!」
「いただきます」

「うーん、やっぱり美味しいなぁ。琴音ちゃんのはどう?」
絵里はチーズケーキを食べ終えると、紅茶を一口啜り、私に聞いてきた。
「うん、これ、本当に美味しい」
私もショートケーキを食べ終えたところで、紅茶に手をつけた。
「そう?良かったー。しかしこれって、本当に”女子会”みたいね?琴音ちゃんは女子会ってする?」
と聞いてきた絵里は、早速チョコレートケーキに手を出している。私はカップをテーブルに戻しながら、苦笑混じりに答えた。
「絵里さん…私を幾つだと思っているの?まだ小五だよ?そんなのやるわけないじゃない」
「あっ、あぁー、そっかー。まだ小五だもんねぇ。あまりに世間の小五とかけ離れているから、ついつい錯覚しちゃうのよ。大人び過ぎているからかな?」
「え?…そうかなー…老け顔って事?」
と私は自分の顔を左手で撫でながら返した。すると絵里は満面の笑みになって、私が触っている反対のホッペを軽くつねりながら
「あははは!そうじゃないよ。そうだなぁ…”大人の色気”っていうのかなぁ。女で年上の私から見ても、羨ましいくらい、もう既に琴音ちゃんはそれを身につけちゃっているんだなぁ」
と言うので、私は絵里の手を払い、目の前のもう一つ、モンブランに手をつけながら返した。
「またそんな訳のわかんないことを言ってー…色気か…色気って何だろうね?」
自然とモンブランを口に含みながら疑問が口から飛び出した。あっ!と思う前に絵里が意地悪く笑いながら、素早く反応を示した。
「おっ?出た出た、琴音ちゃんのクセが。じゃあ、分かっているだろうけど逆に聞くね?色気って何だろう?」
「えー…」
と一瞬考えて見せたが、今回は前とは訳が違う。私も意地悪く笑いながら返した。
「…って、こればかりは私には無理よ。だって…」
ここで私は両手の人差し指を、両方のほっぺに当てながら戯けて続けた。
「まだまだか弱い、小五の女の子だもん!」
私の迫真の、痛々しいぶりっ子振りを目の当たりにした絵里は、冗談じゃなく呆然としていたが、急にプッと吹き出すと、ニヤケながら言った。
「はは、琴音ちゃんもそうやって冗談でもぶりっ子が出来るんだねぇ。いや、御見逸れいたしやした」
と最後は深々とお辞儀をした。私はただでさえ恥ずかしいのを我慢してやって見せたのに、仰々しくやられると、恥ずかしさは倍増だった。私は慌てて
「いやいや、絵里さん!顔をあげてよ。流石の私も恥ずかしすぎる!」
と抗議すると、少し顔をあげ、ニヤッと私にも分かるように見せてから、改めて体勢を元に戻した。そしてやれやれといった調子で
「はぁーあ、まっ、琴音ちゃんのぶりっ子が見れたから、今回はこれぐらいにしとくか!」
と言い終えると、紅茶を一口啜った。
「なーんか、そうすれば私がすんなり許すだろうという目算があるように感じて、子供特有の小賢しさを見せられた感は否めないけど…」
最後に私にジト目を送りながら言った。
「えぇー?そんな事ないよぉ。心外だなー」
と私は思いっきり棒読みでセリフを読むように、淡々と視線をわざと逸らしながら答えた。少し間が空いたが、私が視線を戻すと、丁度絵里と目があい、そこでまた無言で一瞬見つめあったが、お互いに吹き出して笑いあったのだった。

「さてと…色気ねー」
チョコレートケーキを食べ終えた絵里は、カップを手にしながら呟いた。
「あらためて聞かれると…分からないわねぇ…まったく」
絵里はここで一口紅茶を啜ると、カップをテーブルに戻し、そして私に恨みがましい視線を送ってきながら言った。
「また人が困るようなことを意地悪く見つけて、質問してくるんだもんなー…この困ったちゃんめっ!」
「ふふ、ごめんなさい」
他の人に言われたら私は本気にして傷ついただろうが、私と絵里の間には、これを冗談だといちいち言わなくても分かる絆のようなものが醸成されていた。
「でもまぁ、これは絵里さん自身に聞きたいことでもあったの…子供の私から見ても、漠然とだけど、色気があるように感じるし…意外だけど」
と最後の方はボソッと小さく、でも嫌味と分かるように言った。
「ちょっと?聞こえているわよ?…まったく誰に似てそんな、人を巧みに小馬鹿に出来る技術を身につけたんだか…あっ!」
絵里は苦笑いで不平を述べていたが、急に何かを思い出したようにハッとした表情になった。私がその変化を見逃すはずがなかった。
「え?何?何を思い出したの?」
と身を乗り出すように、向かいに座る絵里に近付き聞いた。絵里は少々照れ臭そうにしていたが、私が引く気がない、そもそもそんなキャラじゃないことを思い出したのか、観念したかのように話し出した。
「あー…いやー…ね?…ギーさん関連だから、あまりこの手の話で出したくないんだけど」
「え?何で出したくないの?」
正直私は照れ臭そうに義一の名前をいう絵里の様子を見てすぐに察したが、敢えてズルく詳しく聞き出そうとした。
「ま、まぁいいじゃない!でもそっか…余計に深い意味があるように思わせちゃうよね…よし、じゃあ言うね!」
何やら途中はボソボソ言っていたが、自分自身を奮い立たせるように語気を若干強めて言い放った。
「…あれは、そう…私とギーさんがまだ大学生だった頃の話なんだけど」
「うん」
「私が何かの授業が終わって、友達…前に言った、離れていったのじゃなくて、その後新たに出来た友達ね?この頭にした後の」
絵里は笑顔で自分の頭のキノコに触った。
「…で、その友達と次の授業がある教室まで、十五分くらい時間があったからゆっくり移動していたんだけれど、散歩の意味も含めて、普段人が通らない建物の裏を通って行こうとしたのね?そしたら何やら人の気配がしたの」
「その人っていうのが…」
「そう、ギーさん!…で、声をかけようとしたら、どうも一人じゃないようだったの」
「誰がいたの?」
「遠くから見てたんだけど、すぐに誰か分かったの。それは…私から離れていった友達の一人だったのよ」
「え?えぇー…何でまた?」
と私が心の底から不思議がっていると、絵里は私に優しく微笑みかけてから、続きを話した

「ふふ、さすがの聡明な琴音ちゃんでも分からないか…要はね?ギーさんが私の元友達から告白されていたの」
「え?…えぇーーーーー!」
私は自分でもビックリなくらい大きな声を出した。絵里は笑いながらも私の口を手で押さえながら言った。
「シーーーっ!琴音ちゃん、他の人もここには住んでるから、大声は無しでね?」
「あっ、うん…ごめんなさい」
私が口を押さえられながら謝ると、絵里はまた椅子に座って紅茶に口つけてから続けた。
「ははは、まぁ琴音ちゃんが驚くのも無理はないよ。なんせ私と琴音ちゃんはアヤツの生態を嫌という程知ってるからねぇ。とてもじゃないけど女にモテるとは思えないよねぇ?あんな屁理屈ばっかり言う”理性の怪物”なんて」
「あ、いや、そんな…」
私は無意識に自分でも意味がわからないまま、義一のことをフォローしようとしたが、それは受け入れられなかった。絵里はわざと無視して先を続けた。
「で、その時私は一緒にいた友達に、先に行って席を確保しておくように頼んで教室に向かわせたの。私はそうねぇ…十数メートルくらいは離れていたかな?物陰から興味津々って感じで見守ることにしたの…いや、ただの野次馬ね?」
絵里は悪戯っぽく笑って見せた。
「まぁまぁ距離があったから、何を会話してるのかまでは分からなかったけど、雰囲気的に告白なのは分かったからジッと見てたの。そうね…私の位置からは彼女の顔は見えたけど、ギーさんはこっちを背にしていたから、表情までは分からなかったね。…でね?少しすると、彼女の方がギーさんに急に詰め寄り何か捲し立てていてね。私はその時『あぁ、ギーさん、また何かよく分からない理屈を言って、相手を怒らせちゃったんじゃないでしょうね?』って一人頭を抱えてたの」
私も話を聞いていて、その情景は見てもいないのに、はっきりと浮かぶようだった。
「最後の方は彼女は半泣きでね、最後に何か捨て台詞を吐いて走ってどこかへ行ってしまったの。ギーさんは追いかけようともせずに、頭をポリポリ掻いているだけだったわ。私はやれやれと溜息をついて、静かにギーさんの背後に忍び寄って、手が届く距離まで近づくと声を掛けたの。『…はぁ、何やってんのよギーさん?』急に声を背後から掛けられたもんだから、ギーさんは素早く振り向いてこっちを見たけど、私とすぐにわかると、向こうも大きく溜息をついて言ったわ。『なーんだ、絵里かい?驚かさないでくれよ?』」
絵里がまた前みたいに、特徴をよく捉えた義一のモノマネをしだした。
「『今の子なんだったの?』って私は、ギーさんの抗議には一切耳を貸さずに聞いたの。そしたらギーさんはこうやって頭を掻きながら言ったわ。『いやー…見られてたのか。…どこから見てた?』って、私が覗き見してた事には文句を言わずに質問してきたの。後で思ったんだけど、これって普段からギーさんが私のことを、よく覗き見している趣味の悪い女だって思っているって事だよね?心外だなぁ」
絵里は納得いかないって顔で言った。私はただ、同意ともなんとも言えない感じで、ただ微笑むだけだった。
「ふふ」
「そこは否定してよー…まぁいいや。で、私は『あそこから見てただけだから、声までは聞こえなかったけど、多分…最初から?』って言いながら隠れていた物陰を指差したの。ギーさんもそっちを見ながら『ふーん』って素っ気なく返すだけだったわ。で、なかなか自分から話す様子を見せなかったから、私からギーさんに、肩に腕を回しながらニヤケ面で聞いたの。『そんなことよりさー…ギーさん、隅に置けないねぇ。あんな美人に言い寄られるなんて』この時敢えて、彼女が私の元友達とは言わなかったわ。『で、どうしたの?あの子、なんか最後は怒って帰っちゃった様に見えたけど?』って離れてから聞いたら、最初腕を組んで考えていたけれど、いかにも仕方ないなぁって顔しながら頭掻きつつ教えてくれたの。『いやー…最初はゴメンって断ったんだよ?そもそもあの子の事知らなかったし。そのことも言いながらね。僕なりに何も知らない相手に対して、変に受け入れず誠実に断るのが一応義務かなって思って言ったんだけど』ここまで言うと私の事を見てきてね、ニヤって笑って言ったの。『…どっかのモテモテの誰かさんの真似をしてね』って。私はその嫌味を華麗に無視したわ!」
絵里は手で飛んでいる虫を払うような動きを見せてから、ここで一息ついて絵里は紅茶を飲んだ。
「でね、続きを聞こうとしたらここでチャイムが鳴っちゃったの。授業開始のね?正直無視してその先聞こうとしたんだけれど、ギーさんがパタッと会話を止めてね、これでお終い!って言うのよ」
「えぇー…まさか本当にこれで…?」
と私もずっと黙って聞いている間にモンブランを食べ終え、両手でカップを包むように持ち、紅茶を一口啜りながら聞いた。すると絵里は、大げさに人差し指を胸の前で上に向けるように立てて、口でチッチッチッと言いながら、それを左右に揺らし、そしていつもの悪戯っ子な表情を浮かべて言った。
「いやいやいやいや!この絵里さんが易々このまま引き下がる訳ないでしょ?ちゃんとその後待ち合わせの約束を無理矢理させて、大学近所の喫茶店に入って根掘り葉掘り聞いたわ」
ここまで言い終えた絵里は、すごく誇らしげだ。
「で改めて聞いたわ。『で?結局どんな相手を怒らせる悪い事を言っちゃったの?どうせ今回もギーさんの至らなさの所為に決まっているんだから!』ってズバッと聞いたの。そしたらギーさん、こうやって頭を掻きながら『おいおい、”も”って何だよ”も”って』って苦笑いしてたわ。当然そんな抗議は無視して続きを促したの。ギーさんはやっと話し始めたわ。『いや、何も言ってないと思うんだけどね…ただずっとおんなじ問答が続いて、ふとあの子が急に”じゃあ望月さんのタイプってどんな人なんですか!?”って結構強めに聞いてきたんだ』って言うの。私それを聞いて、あの子…私と友達だった頃は軽薄なチャラい印象だったけど、結構この手の恋愛ものは素直じゃない”なんて、今更かつての友達に対して感心してたんだけど、私はその事も言わないで黙っていたの。ギーさんはそのまま続けたわ。『急に聞かれて困ったんだけどね…まぁ…”色気”…かなぁ?色気がある女性が好きって答えたんだ』って言うの」
「あっ…あぁー」
途中だったけど、私は胸の前で一度パンと両手を叩いて、合点がいったように見せた。
「やっとここで”色気”が出てくるのね?」
と私が言うと、絵里が私に人差し指で指しながら答えた。
「そう!その通り!エクセレーント!」
何故英語?なんてくだらない疑問が一瞬浮かんだが、それをすぐに打ち消して、
「前置きの長さは義一さんと良い勝負ね?」
と意地悪く言うと、絵里は頭を掻く義一のモノマネをしながら続けた。
「えぇー、勘弁してよー…。で、それでね?ギーさんが続けて言うのはね、こうだったの。『”色気?”って、自分から聞いてきたくせにキョトンとしてるんだ』『まぁ、普通の大学生がタイプにあげる第一候補には来ないだろうからね』『そうかなぁ?咄嗟に言った割には自分で納得いってるんだけど…するとね”私はどうですか?私は色気がありませんか?”って言うんだよ』ギーさんは困り果てた顔をしていたわ。私も話を聞いてて、なかなか告白して断られた相手に、ここまで食い下がるのは凄いなぁって単純に感心してたの。もっと違う形だったら、仲良く出来たかもなぁ…なんて思いながらね?で、私が『なんてそれで答えたの?』って聞いたの。そしたらギーさん、これが普通って感じで返してきたのよ…」
絵里は苦笑いだったが、何とも言えないもっと色んな感情が入り混じってそうな笑顔だった。
「『え?…君?そうだなー…うん、無いね』」
「え?えぇー…」
絵里の精巧な義一のモノマネ越しに、そのセリフを聞いたが、いくらこの手の話に疎い私にだって、この返答が酷いことは分かっていた。
「そのたった一言だけ?無いって?」
私が確認するように聞き返すと、絵里は苦笑を解かずにそのまま続けた。
「ね?なかなかでしょ?その時の私も思わずしかめっ面しちゃったもん!”えぇー”って感じで。でもそんなの気にするタマじゃないから、ギーさんは構わず続けたの。『僕がそう言うと、あの子は何を言われたのか分からない感じでいるから、まぁいいやと思ってそのまま続けたんだ。だから君は僕のタイプじゃ無いから、ごめんって。そしたら急に激昂してきて何か喚き立てていたけど、よく聞き取れないままどっかに行っちゃったんだ…で、終わり』って軽く閉められちゃったの。もうね、言うまでも無いけど、心底呆れ返ってね、まぁでも友達だから忠告しなきゃって思って、言ってあげたの」
絵里は足を組み、肘をつき、顎を手の上に乗せて、ジト目で私の方を見てきた。おそらく今ここが、義一と入った喫茶店、という設定なのだろう。
「『ギーさん…友達として一つ忠告しておくね?』『何かな?』『…夜道背後には気をつけるんだね…そのうち刺されるから』ってね!」
途中までは声を低くし、ドスを効かせた声質で話していたが、最後の最後で明るく調子を上げて言い切った。私は黙っていたが、最後の調子が上がる所で、直後に吹き出してしまった。
「…ふふ。ホントだね!よくその人に何かされなかったなって思うよ」
と言うと、絵里はまた元のように座り直し、カップを手にしながら返した。
「でっしょー?正直ね、こんな話はまだいくつかあるのよ?ひっどいでしょー?しかも本人は、微塵も悪気が無いんだからねぇ…悪質極まりないのよ」
「ははは!」
「はぁー…あれ?何でこの話をしてたんだっけ?」
「え?えぇっと…」
私も一瞬何でか理由を忘れかけていたが、すぐに思い出して言った。
「ほ、ほら!”色気”についてだよ!」
「あっ!あぁ、そうだった、そうだった!失敬失敬!」
絵里は片手でゴメンとジェスチャーをしながら謝った。
「そうそう、でね、琴音ちゃんじゃ無いけど気になるじゃない?ギーさんの考える”色気とは”って」
「ふーん…気になるんだー」
私は意味深に笑いながら絵里をジッと見た。絵里は一瞬ハテナを浮かべたが、ハッとすると急にアタフタしながら答えた。顔は若干赤みが差していた。
「ち、違う違う!あんなに好いてくれていた相手に対して、手酷い仕打ちをする程の理由が知りたかっただけだから!」
「ふふふ、ごめんなさい?」
私が頭をわざわざ下げて謝ると、絵里もようやく落ち着きを取り戻し、続きを話し始めた。
「『ギーさんはそう言ったけど、あの子の何処を見て色気がないと思ったの?』って聞きながらその時私の脳裏には、あの子の服装が浮かんでいたの。あ、そうそう、ちょうど今ぐらいの時期でね…あぁ今気付いたけど、もうすぐクリスマスだから…だからか…」
「もしもーし、絵里さーん?」
私は身を乗り出して、急に何やら考え込みだし、ブツブツ言っている絵里の顔の前に手を出して、ヒラヒラして見せた。絵里はハッとすると、照れ笑いを浮かべながら続きを話した。
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!また外れちゃうところだった。で、私は聞きながらあの子の服装を思い浮かべてたんだけど、中々派手な格好をしていてね?上はそこそこ厚めのセーターを着ていたと思うんだけど、下はショートパンツに、なんかタイツ的な物を履いていたのよ。男共としては垂涎物だったと思うよ?まぁ、私は男じゃないからイマイチ分からないけどね?で、あの子もスタイルが良かったから、素直に言って似合っていたの。私の連んでいたグループの中でも一番可愛かったわねー…。おっと、話を戻すと、ギーさんはどう答えようかってな感じで考え込んでいたけど、しばらくしたら答えたの。『うーん…何処って…まぁ一言でいえば、”空っぽ”な事かな』って答えたの」
「…空っぽ」
私はそう呟くと、手元の空になったカップの中をチラッと見た。絵里はそれを見るとすぐに察して
「あぁ、もう紅茶ない?お代わりいる?」
「あ、うん。良ければ」
「はは、遠慮しないでよ!ちょっと淹れてくるね?」
絵里は自分の分と私のを持ってキッチンに行った。そしてすぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ。今淹れたてだから気を付けて飲んでね?」
「うん、いただきます」
私達はお互いふーふー息を吹きかけてから、一口紅茶を啜った。絵里はカップを置くと、はぁッと短く息を吐いて、満足げな表情を浮かべてから、前置きおかずに話を続けた。
「で、えーっと…そうそう!空っぽな所って答えたのよ。私も頭にクエスチョンマークが浮かんでいたんだけど、取り敢えず『空っぽ?』とだけ、さも意味が分からんていう意思表示だけは示したの。それが通じたのか、ギーさんは話を続けたの。『空っぽっていうのはね…うーん…喩えが難しいんだけれど、逆に言えば、中身が色々と詰まっていたら、その中身の片鱗が見え隠れしている…ってことかな?』なんて言うの。琴音ちゃんならわかる?」
急に私に話を振ってきた。振られたからにはそれなりに考えてみたが
「…うーん、分かるような分からないような…」
と最後は苦笑いで返した。絵里も同じく苦笑いだ。
「よく分からないよね?まぁ、聞いたのは私だから、当時それなりに考えてみたけど、サッパリだったから素直に聞いたわ。『…ん?益々意味不明なんだけど?…これって”色気”についての話だよね?』って。そしたらギーさんも私とは別の意味で益々俯き考え込んじゃってねー…まぁ普通の人ならここで呆れて帰っちゃう人もいるかも知れないけど、下手に付き合いがあるせいで、これは相手に対して真摯に誤解がなるべくないように、慎重になっているためだって事がよくよく分かっているからね、黙ってギーさんが考えている間、私も黙って外の景色を見たりしていたの。でもまぁ数分くらいだったと思うけど。暫くしてギーさんは、顔をあげて話始めたわ。『…まぁこれが分かりやすいかどうかはともかく…昔から言われている言葉を使えば、”秘めているものがある”ってことかな…これでどう?』なんて言うの。これはどう?」
また私に振ってきた。
「うーん…さっきよりは分かるかなー…何となくだけど」
「うん、私もそうだったの。『秘めてるものねぇ…あっ!じゃあ、さっき言ってた中身がどうのってこういうこと?』って聞くと、ようやくギーさんは笑顔になって『そう』とだけ短く答えたの。でもすぐ私は疑問が沸いたから聞いたわ。『…えっ、でもさっき片鱗が見えかくれしてるとか何とか言ってなかった?』『うん、言ったよ』『それって…秘めれてないじゃん』って素直に感じたことを聞いたの」
「確かに…秘めてるものって言ってたのに、なんか矛盾してるね」
と私が言うと、絵里も強くウンウン頷いて同意の意を示した。
「それだけ聞くとそう思うよね?でもここでギーさん先生が仰ったの」
絵里は人差し指を立てて、天井に向け、目を閉じながら言った。
「『イヤイヤ、秘めてるのかどうかは、その片鱗を見せてくれなきゃ分からないじゃないか』ってね」
「あぁ、なるほど」
「『元々空っぽだったら何も滲み出てくる訳ないし、逆に中身があると、いくら隠し秘めようとしても、どっかしらから漏れ出てしまうものだからね』ってね、言うのよ。それを聞いてそれなりには納得したけど、一応聞いてみたの。『…じゃあ今言ったのが、ギーさんにとっての”色気”の元なのね?』『そう、まさしくね。だから…さっきの絵里の反応を見て、ようやく悪い事をした気がしてきたんだけれど…』」
「遅ーい!」
と私は、この場にもいないし時間軸もずれている昔の義一に対して、思わずツッコミを入れてしまった。絵里は満面の笑みだ。
「で、ギーさんの続きを言うと『まぁまたあの子に悪い事を言うようだけれど…何も感じなかった。まぁ彼女に限らず、また男女を問わず、何かを僕が感じ取れるような人には中々出会えないんだけれどね?…あっ!』なんか急に何かを思いついたみたいで、ここで声を上げたの。私はびっくりして『な、なに?』とだけ言うと、ギーさんは笑顔で、でもどこか悔しそうに答えたの。『あぁー…あ、いやね?もう一つこんな言葉があったなって』『どんな?』『…秘密を着飾る事で女は綺麗になるってヤツ』ってニコニコしながら言うの。私はそれを聞いて、それ自体には納得したけれど…」
とここまで喋ると、絵里はジト目になって言った。
「こんな表情を作ってね、言ってあげたの。『言いたいことは分かるけど、それってある意味地雷だからね?』『え?どういう意味?』って聞いてきたから、答えてあげたの。『あまり男が女についてあれこれ言うのは、煙たがれるものなのよ。”女とはこういうもんだ”みたいなね。例えそれが的を射た意見だとしてもね。まぁ私は気にしないで、納得いけば受け入れるけど』ってね」
「あぁー…確かに…あっ!」
私はここで初めてさっき絵里が言った言葉を理解した。
「これがさっき絵里さんが言っていた”理屈っぽい男は嫌われる”ってヤツね?」
と聞くと、
「その通り!また一段大人の女への階段を上がったね?」
と絵里は笑顔で若干ふざけ気味に返した。
「まぁ、琴音ちゃんには理解出来ても、あの朴念仁は理解出来なかったみたいだけどねぇ。まぁ”怪物くん”だから仕方ないけど…あぁ、そうだ!」
絵里は紅茶を一口飲みながら落ち着きかけていたが、急に立ち上がると、テレビの方へと歩いて行った。そしてそテレビの両脇に設置してある縦長のタワーラックを開けると、中から大判の本を一冊取り出し、それを持って戻ってきた。そして私にそれを手渡すと
「琴音ちゃん、悪いけどそれちょっと持ってて?テーブルの上を片付けちゃうから」
と言った。
「う、うん、わかった」
とだけ返事する私を尻目に、絵里は手際よくケーキの入っていた紙箱、お皿をキッチンの流しの方へ持っていき、箱はゴミ箱、お皿は洗い桶に入れて水を溜めた。慣れてる感じだ。
 私はその姿を見ていたばかりに、手渡された手元の本の存在を忘れていた。絵里は手をタオルで拭いてからまた戻ってきた。そして向かいに座りながら、私が手渡されたままの状態でいるのを見て
「なーんだ、まだ見てないの?もう見ちゃったと思ったよ」
と微笑みながら言った。私は言われて初めて手元の本を見た。A4判くらいの大きなサイズだ。表紙を見ると、英語で書かれていて、イマイチ分からなかったが、表紙には美人な女性が載っていた。ただし白黒写真だった。
「これって…?」
顔を上げて本をテーブルに置き、向かいに座る絵里に聞くと、絵里は本を置いたままページをおもむろに開きながら答えた。
「これはねぇ…昔の映画スター達の写真を集めた、いわゆる写真集だね」
「へぇー…」
絵里がペラペラページを捲るのを、身を乗り出しながら覗き込んだ。一つもカラーのものは無い。出てる女優の写真は全て白黒だ。中々見る機会が無かったので興味津々に見ていると、絵里は微笑みながら、私がまっすぐ見えるようにひっくり返しながら言った。
「どう?見たことないでしょ?私だってリアルタイムには見たことないスターばっかりだもん。中には戦前から戦後にかけて活躍した女優も多いのよ?」
「はえー…そんな昔の…」
私はペラペラ一枚一枚注意深くページを捲りながらシミジミ言った。夢中になって見ていたが、やはり疑問があったので聞いてみた。
「…で?いや、すごく面白く見てるけれど、これが今までの話とどういう関係があるの?」
「ふ、ふ、ふー、それはねぇ…」
絵里は勿体ぶって得意満面に焦らした。と、ちょうど私が見ていた写真の女優を指差しながら言った。
「ほら、よーく見て考えてみて?今までの話との関連が見えてこない?」
「うーん…あっ、なるほど!」
私は少しだけ考えたが、すぐに思い至った。
「話の流れ的にだけど、ここに載ってる女優達が所謂”色気”のある女って事?」
と言うと、絵里は柔和な笑みを浮かべて、身を乗り出しページを覗き込むようにしながら返した。
「…まぁ、そう言うことになるかな?…実はこれをアナタに見せたのも、ギーさんが具体例として教えてきたからなんだ」
「へ?…へぇー…」
私は尚更ここに載っている女優達に興味が湧いた。
へぇー…あの義一さんが思う、色気ある女性がコレねぇ…
私がマジマジと見ていると、その様子を微笑ましく見ながら、絵里は静かに話し始めた。
「…あれからね、ギーさんもちゃんと説明出来なかったと思ったのか、不完全燃焼だったのか、私にその週だったかな?…私に何本か映画を貸してくれたの。その中の一つが…」
絵里はペラペラページを捲るとある所で止めて、手を大きく広げて、ページが移らないようにしながら押さえて見せた。
「この女優が出ていた映画なんだけど、クリスティー原作の裁判物でね?その中でこの人が本当に名演をしていてさぁ…罪に問われた愛する男を救うために、色々と裏で工作する役だったんだけど…知ってる?」
私は話を聞きながら、写真の余白に簡単な説明文が載っていたので読んでいた。代表的な出演作が羅列されていて、その中の一つに、前に読んだ事のあるクリスティーの作品名が出ていた。
「…うん、これなら本で読んだことあるよ。劇の奴みたいだけど」
視線を本に落としながら言うと、絵里は驚き混じりに、嬉しそうな声で返した。
「…はぁー、駄目元で聞いてみたんだけれど…戯曲まで読んでいるなんて、琴音ちゃんの守備範囲広すぎでしょ」
「い、いや、そんなでもないよ」
一向に私は顔を上げなかったが、絵里の表情は容易に想像出来た。
「でね、この人は…まぁ琴音ちゃんが分かる前提で話すけど、元々ドイツ人でね?本当の理由はよく分かっていないんだけれど、当時の政治体制から逃げるように、アメリカに亡命した人なんだ」
「はぁ…中々暗い人生を歩んだ人なんだね」
私は当時の魅せ方なのだろう、絶妙にボカシ気味の女優の顔をジッと見ながら言った。「そうだね…って別に暗い話をしたかったんじゃなくてね?まぁ話を戻すと、この女優さんも含めて、貸してくれた映画に出ていた女優達に、確かに”色気”の様なものを感じたの。でね?何も言われなかったけど、私に貸したってことは、どこにその色気の秘密があるのか、見つけられるもんなら見つけてみろって事かと思ってね?…私も一応女だし、なんか試されてるようでムカついたけど、こうなったら見つけだして”怪物君”の鼻を明かしてやろうと、躍起になったの。…まんまと術中にハマったわけね」
絵里は自嘲気味に笑いながら言った。
「何かなー?って色々細かく見ていたら、当たり前だけど今の人と違うところがいくつも見つかったの。まず見ての通り白黒でしょ?…あはは、そんなつまんなそうな顔しないでよ?冗談よ。…あと服装。今の人みたいに肌を露出させる様な服は限りなく少ない…今、琴音ちゃんが写真で見た通りにね?うん…ギーさんに簡単に同意するのは嫌なんだけど、でも少し分かったの。確かにギーさんに告白したあの子には悪いけど、あの子に限った事じゃないけど、変に露出度の高い今時の女よりも、露出させてない服を着ているこの女優達の方が”色気”があると感じたの。…でなんだけど、琴音ちゃん?」
「え?」
私は話を振られるとは思っていなかったので、ふと顔を上げた。目の前には笑顔をこちらに向けている絵里の顔があった。
「さて、琴音ちゃん。いつまでも私の話を聞いてないで、琴音ちゃんの意見も聞きたいなぁ」
小五の私に”色気”の事なんて分からないって、さっき言ったのに…逃してはくれなかったか…
と軽く心の中で毒づいたが、まぁ私がきっかけだった事も忘れていなかったので、ノル事にした。
「…もーう、さっき知らないっ!って言ったのに、まだ小五の女の子に聞く気でいるんだからなぁ…まぁいいや!絵里さんが私に色気があるって言ってくれたから、そこにもヒントがあるんでしょ?」
一応問いかけたつもりだったが、絵里は面白そうに笑うだけだったので、先を続けた。
「うーん…何だろう?この女優さん達と私の共通項…ねぇ?」
色々とさっきの義一と絵里との会話も含めて考えてみた。でも正直それらを合わせてみても、何かこれといった答えは出そうにも無かった。
中身が詰まっている?…いや、そもそも私の中身は詰まっているのか?…私を置いといても、この女優達の中に何が詰まっているというの?
ずっと同じところをぐるぐる回っていたが、ふとフザけたブザーの音で無理やり終わらされてしまった。
「…ブッブー!時間切れです。残念でした」
絵里は唇を大きく前に突き出してブザーの音真似をした。悪戯っぽく笑っている。
「…何それー。時間制限あったの?」
私は不満を大いに顔中で表現して見せながら不平を言った。苦笑いだ。
「はいはい、文句を言わない!まぁ琴音ちゃんは写真を見ただけだからね…答えられたら凄すぎるよ!…はいそこー、そんな顔しないでくださーい」
私は後出しジャンケンされた心持ちで、膨れて見せていた。絵里はその様子を見て、少しの間微笑んでいたが、表情そのままに質問を投げかけてきた。
「ふふ…琴音ちゃん、でも分からないなりに考えてみたんでしょ?それを聞かせてくれないかな?」
「え?あ、うん…大した事じゃないけど」
私は先ほど考えた事をそっくりそのまま話した。ずっと同じところを堂々巡りしていた事も。絵里は面白そうに聞いていたが、私が話し終えると、また顔面に微笑をたたえながら切り出した。
「…うん!答えは出なかったみたいだけど、方向性としては正しいよ、あくまで私基準でね?さっすがー!…じゃあ、そうだなぁ…何から言うか…そうだね、その中身の事だけれど、やっぱりさっきみたいに、軽くでも暗い話をしなくちゃいけないんだけど、良いかな?」
「うん、それで解明出来るなら」
「よしっ!その中身の正体からだけど…やっぱり暗い当時の時代背景に起因しているのよ。学校で習ったか、何かの本で読んだかも知れないけど、この本に載っている女優達が生きてた時代は所謂”激動の時代”でね?戦争がひっきりなしにあったり、価値観の真逆同士が平気で殺しあうような時代だったの。愛する人が目の前で簡単に死んでいく…明日は我が身ってね。いつもそばに”死”があった…」
「…」
絵里が低くドスを利かして話すので、思わず私は生唾を飲むのも躊躇うほどに聞き入っていた。
「…て言っても、当然私には実感としては感じられないんだけれど、でも少しでも想像力働かして、その当時の悲惨さを理解しようとすれば、少しでも接近できる。前置きが長くなったけど、何でこの女優達の中に”中身”が詰まっていたのか?それはね…」
絵里は芝居掛かって一度話を止めてから、吐き出すように言った。
「いつ何時でも気を抜かずに”真面目に”生きていたからだと思うの」
「…真面目に」
私はただ無意識にふと呟いた。絵里はコクッと一度頷くと続けた。
「うん。…当然私も”今の時代”に生きているから、これを言うとバカみたいに思われちゃうかもだけど、でもまぁ一言でいえば、今の日本にいる限り、真面目に生きなくても生きていけちゃうんだよ。必死に何か大きな力、運命って言っても良いかも知れない、それに抗おうとしないでも、銃弾が飛び交うような事もないし、目の前で人殺しがあるわけでもない…貧困で喘いでいる人がいるとしても、そんなの大昔から変わっていない。いや、今の方が格段にましなのは確か。…言いたいこと分かるかな?」
「…うん」
私はずっと聞いてきた中で、頭に浮かんだ事をそのまま話した。
「…要するに、いつ死ぬかも知れない、いつもそばに”死”があったからこそ、”生きる”事に対して貪欲になって、必死に色んなものを自分の中に取り込もうとした…って事で良いのかな?」
最後の方は自信なさげに答えたが、間違ってはいないという、根拠のない自信はあった。
 絵里は私の答えを聞くと、真顔で私の顔をジッと見ていたが、フッと緊張を解くように柔和な笑顔を見せてから話した。
「…そう、その通りだね。そうでもしなくちゃ明日、いや、その日にも死んでしまうという恐怖があったんだろうから。…だから意識してなくても皆んな必死に”生きていた”。でも、しつこいようだけど、今日本に生きてる人、まぁ言ってしまえば”大人達”は、そんな必死にならなくても、給料をもらえれば、ふざけていても生きていける。でも、ただ毎年毎年、ただ惰性で生きていると、いつまで経っても歳を重ねても”中身”は空っぽのまま。…言いたいこと分かるね?」
「うん」
「いつまで経っても中身が空のまんまだから、中身が”詰まらない”…そう、つまらない人間としか生きていけなくなっちゃうの。…あっ!」
ここで区切ると、絵里は少し気まずそうな表情で、苦笑混じりに言った。
「別にシャレじゃないからね?」
「…ふふ、分かっているよ」
私はただ和かに答えた。
「えーっと…何だっけ?…あぁ、そうそう!だからようやく結論だけど」
絵里は今開いている、さっき話したドイツ人の女優をトントンと軽く叩きながら言った。
「”色気”とは、この女優達みたいに必死になって生きようと足掻く中で、身に付けたあらゆるモノの片鱗が、隠しきれずに滲み出てきたもの”…って事でどうかな?」
絵里は最後に少し、今まで真面目に話した事を恥ずかしがるかの様に、おどけて見せながら言い終えた。私は何も疑問が浮かばない事に至福を感じて、今の絵里の言葉を噛み締めていた。清々しい気分だった。…ただ、すぐにちょっと意地悪な考えが浮かんだ。それを敢えて口にしてみる事にした。
「…うん、凄く心の底から納得いったよ。気持ち良いくらいに。…でもちょっと良いかな?」
「ん?なによ?」
絵里は私の返事に気を良くして、満面の笑みを浮かべていたが、私の質問風のセリフに、少しだけ警戒心を表した。
「気を悪くしないで欲しんだけれど…」
「なによ?焦れったいなぁ。私達の仲でしょ?遠慮なく言ってよ」
「うん、じゃあ…」
私は一息置いてから続けた。
「…あくまで感覚なんだけれど…話し振りがまるで義一さんみたいね?」
私は短くそう言うと、絵里の反応を黙って待った。絵里も黙ったままホッペを掻いていたが、すぐに苦笑いを浮かべて、やれやれといった調子で返した。
「…やっぱりバレたか。あっ、いや、気なんか悪くしないよー?もーう、琴音ちゃんは本当に”気にしい”なんだから」
絵里は優しく私に微笑みかけた。
「普段はあんなに平気で毒を吐くのにね」
「あ、いや」
私はしどろもどろだ。絵里は今度は明るい調子で言葉を続けた。
「いやー、やっぱり分かるんだね?流石だわ。何で分かったの?」
「あー…うん。義一さんに私の疑問を答えてもらった後の感覚に…うーん、近いから?…としか言いようが無いんだけれど…」
「ふーん…そっか」
私のあまりに抽象的な返答に対して、絵里は何も疑問を持たない感じでこちらに優しく微笑んでいるだけだった。と、絵里はおもむろに両手を上へ向けて伸びをしてから、話し始めた。
「そう!さっき言った様にね、映画を見てアレコレ考えたんだけれど、結局私もあやふやにしか考えが纏まらなかったんだ。で、次の機会にギーさんに会った時、そのまま話したんだよ。そしたらギーさんは私の話に同意してくれてね。それを今私が話していたそのまま、言葉に出来なかったことを、こうしてまとめてくれたんだ」
とここまで言うと、絵里はいつもの意地悪い笑顔を浮かべて言った。
「たまにはあの”理性の怪物”も役に立つよね?」
「…ふふ」
私と絵里は顔を突き合わせて、笑い合った。
「だからまぁ…言い訳みたいになるけど、私の考えも多分に入っていることをお忘れなく!」
と絵里は、なんかよく分からない決めポーズをしながら言った。私はただ”ハイハイ”と笑顔で手をヒラヒラとさせるだけだった。
絵里は笑顔のまま本を手元に引き寄せ、ページをゆっくりと捲りながら
「まぁ、それからね?ギーさんの影響って言いたく無いけど、事実として、こんな写真集を買ってしまうくらいに、昔の映画にハマってしまってねぇ…」
と言うと、今度は顔を上げてテレビの方、この本を取り出したラックの方を見ながら続けた。
「映画もあそこにあるけど、昔の映画のDVDをいっぱい買い漁って見るのが、一番の趣味になっちゃったんだ」
「へぇー…これって絵里さんの私物なんだ」
「うん、これはね?確かギーさんも同じのを持っていたよ。DVDもほとんど被っているけどね…七百本くらい」
「な、七百!?」
私は思わず立ち上がり、テレビ横のラックを覗きに行った。見てみると確かに、天井ギリギリの高さのラックの中に、ギッシリとDVDが隙間なく埋め尽くされていた。
「はぇー…凄いね」
と私は感嘆を漏らすと、紅茶を飲みながら私の様子を見ていた絵里が、意地悪くまた笑いながら付け足した。
「そこにあるのは七百だけど、ギーさんは恐らく千本以上は軽くあるよ」
「せ、千本!?…うーん、想像つかないな」
私は呆然と絵里の方を見ながら返した。絵里はただ笑顔でまた紅茶を啜った。
「はぁー、義一さんて何者なんだろう?」
と椅子に座りながら思わず思ったことを口にしてしまった。一瞬間が空いたが、私自身がしまったと思った頃には、絵里は爆笑していた。
「あははは!いやー、本当だね?何か色んなことに興味を持ち過ぎていて、逆に捉えどころがないよねぇー。…たまに宇宙人じゃないかと思うときあるもん!」
「…ふふ」
私は吹き出しつつも、紅茶を静かに一口啜った。
「いや、ほんとほんと!今更琴音ちゃんに言うまでも無いと思うけど、あの通り、まるで他の人とはかけ離れてズレてるもんねぇ。同じ同世代とはとても思えないよ」
私はただただ笑顔で返していたが、ふとまだ一つ納得いかない事があったので、改めて聞いてみることにした。
「…そういえば、さっきの話の発端なんだけど」
「え?何だったっけ?」
絵里は本を丁度ラックに仕舞おうとしている所だった。私が声を出したので、顔だけこちらに向けてきた。
「うん…自分で言うのは恥ずかしいんだけれど、私のことを色気があるって絵里さんが言ったことなんだけど…」
「うんうん、言った言った!それがどうかしたの?」
絵里はまた席に座ろうとしたが、お互いのカップがからなのに気づくと、私に目線でどうするか聞いてきたので、私は黙って絵里の方にカップを押し出して頭を軽く下げた。絵里は笑顔で頷き返し、私のも持ってキッチンに行き、紅茶を淹れ直して戻ってきた。
「はい琴音ちゃん、お待たせ。…で、何だっけ?」
絵里がフーフーと紅茶に息を吹き掛けながら聞いてきたので、私は暑いカップの周りを軽く両手で火傷しない程度に包みながら話した。
「…うん、大した事がないといえば、大した事じゃないんだけど…今までの話からすると、私にはやっぱり、色気は無いんじゃないかな?だって…」
ここで私は少し俯き加減で続けた。
「私に”中身”があるとは、到底思えないんだもん…」
言い終えてから少しの間沈黙が続いたが、ふと私の頭の上に何かが軽く乗せられた。顔を上げると、絵里が微笑みながら私の頭に手を優しく置いていた。そして私と目が合うと、そのまま私の頭を撫でて言った。
「…琴音ちゃん、アナタは中身が無いどころか、あまりにも色んなものをその歳で詰め込み過ぎているよ。まぁ、だからこそ、色んなことに気づいて気を遣えるのかもしれないけれどね?…さっきの私とギーさんの論に補足を加えるとね?中身の片鱗が見えるだけじゃダメなの。変に自らこれだけいっぱい持ち物があるんだって言い出したら、途端にこの場合で言う所の”色気”は失われちゃう…これはわかるね?」
まだ頭に手が乗っかったままだったが、払うこともせずそのまま、私はただ黙って頷いた。絵里はそっと頭から手を離すと、話を続けた。
「そう、いっぱい持ち物があるんだけれど、それを曝け出すのを極端までに怖がって、何とか必死に隠し通そうとして、それでも叶わず漏れ出てしまうもの…さっきの話をさらに細かく言うと、そういうことになると思うのよねぇ」
「…それは分かるけど、それと私の関係が…」
と、ゆっくり顔を上げながら絵里の方を見ると、さっきと変わらない柔らかな笑みをこっちに向けていた。
「まぁ、今はわからなくてもいいかな?…これから先、私が一々言わなくてもアナタはきっと、自然と自分のことを常に客観的に省みながら生きていくんだろう。そうすれば、自ずと自分の中身がどれだけ詰まっているのか、きっと分かるから」
「…」
私が黙っていると、今度は絵里は私の肩に優しく手を触れて、続きを話した。
「この自分を省みるっていうのはね、口でいうほど簡単じゃないよ?琴音ちゃんに言うのも何だけどね。ちゃんと今の時点でしているから。…でもね」
絵里はここで私の肩から手を離した。
「大抵の人は、私も入れて良いと思うけど、なかなか自分自身を真っ正面から見つめる事が出来ない。すぐに至らない自分にぶち当たることになるのが目に見えてるから。自分に失望するのを怖がっちゃう。琴音ちゃんや、…まぁギーさんも含めて、アナタ達みたいなタイプは、至らぬ己を直視して、何処が足りないのか?どうすれば足りるようになるのか?絶望しながらも努力を怠らないで勇敢にも突き進む。…私みたいな人が端から見るとそう見えるの。でも普通の人は足りない事を知ると、途端に全てが虚しくなって、何やってもしょうがないと、やる前から何かにつけて言い訳を見つけて諦めてやめちゃうのよ。…まっ!私が言いたいのはね?」
急に絵里は、今までの重苦しい空気を払拭するように、わざと明るい声を上げて言った。
「琴音ちゃんもギーさんも、あまりにも自分を過小評価し過ぎてるって事!一歩間違えれば嫌味にうつるほどにね?だからあの時…」
絵里が今度は何時もの悪戯っ子な表情でニヤケながら身を乗り出し、私に顔を近づけて言った。
「自分の事をあまりにも不用意に評価を低く見積もっているから、相手からの率直な好意を素直に受け止められないのよねぇ」
私もつられて笑いながら
「ふふ、そうだね。そうだったかも知れないよ」
と返した。しばらく二人で義一のことを思い浮かべながら笑いあったのだった。

「んーんっと…あっ!」
絵里がふと時計を見たので私も見ると、時刻は三時を十五分ばかり過ぎた所だった。
「いつの間にか結構時間が経っていたねぇ?琴音ちゃんと話していると、あまりに楽しくてあっという間に時間が過ぎちゃうよ!」
「絵里さんは…本当に大袈裟ね」
私は苦笑いをしながら紅茶を啜った。
「まだ時間大丈夫だったよね?」
「うん、まだまだ大丈夫」
と答えると、絵里はテーブルの脇に私が置いたトートバッグを見ながら言った。
「じゃあ、良かったら塾のやつ見せて貰おうかな?持ってきてるんでしょ?」
「あ、うん。持ってきているよ」
私はバッグを膝の上に引っ張り上げ、塾から配られた、所謂学校が纏められて紹介されている冊子を引っ張り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。
 私が足元にトートバッグを下ろしている間、絵里は何も言わずに冊子を手に取り、ペラペラと1ページずつ捲っていっていた。
「見てみたいって言うから持ってきたけど」
と私も向かい側から絵里の手元を覗き込みながら言った。絵里は視線を落としたまま返事した。
「うん、ありがとう!…ふーん、こんなに学校があるのねぇ。…でも所々赤いマジックで学校名の所を丸で囲っているけれど、これは何?」
「あ、それはねぇ」
私は身を乗り出す姿勢のまま答えた。
「お母さんが私に勧めてきた学校なの。…全部女子校なんだけど」
「へぇ…お母さんがねぇ…はい」
一通り見終わったのか、私が見やすいように向きを直して戻してきた。私がそのまま何の気もなしに見ていると、絵里がやれやれといった調子で話しかけてきた。
「見事なまでに丸してあるのは、難関校ばかりだねぇ。まぁ、琴音ちゃんのクラスだったら期待するのは分からなくもないけど」
「いや、だからあれは何かのてち…」
「いや、そういうのはいいから」
私がまだ言いかけていたのに、ピシャリと真顔で話を区切られた。モノマネらしいが、一体誰のモノマネだろう?
「で、前に教えてくれたけど、今度模試があるんだって?」
「あ、うん、来月十二月の頭辺り。初めて受けるんだけど、志望校をいくつか挙げなくちゃいけないみたいで、この中からいくつか選ばないといけないの。受付締め切りは今月末辺りなんだけど」
「ふーん…なるほどねぇ」
絵里は一口紅茶を啜ってから
「で、琴音ちゃん。アナタはもう志望校は絞り込めたの?」
と聞いてきた。私は顔を上げると大きく顔を横に振りながら答えた。
「いや、全く。自分の事だけど、正直どこでもいいかなって感じなの。だってそもそも、絵里さんにも言った通り、全く受験なんてやる気がないんだもん」
「あははは、確かに言ってたね」
時は遡るが、ピアノの先生に話した後、絵里にも受験する事になったと報告を入れていた。だから図書館で勉強していても、驚かれなかったのだ。流石に絵里に報告した時には落ち着いて、泣いてしまうような失態を演じる事はなかった。
「で、これは言ってなかったけど…そのー…」
一瞬逡巡したが、ある意味その為に来た様なものだったので、思い切って言った。
「絵里さん、確か前に私立の女子校に行ってたって話してたよね?だからそのー…参考までに話を聞かせて欲しいんだけど?」
最後は特に狙った訳じゃなかったけど、上目遣いで聞いた。絵里はほっぺを掻きながら、若干照れ気味に答えた。
「…いやぁ、琴音ちゃんみたいな美少女に上目遣いで言われたら、仮にイヤだとしても答えざるを得ないじゃない!もーう…ギーさんと揃いも揃って天然タラシなんだからー」
「いやいや!そんなつもりじゃ…」
「ふふ、冗談よ冗談!…私の学校ねぇ…あんましキャラと違うから、引くかも知れないけど…ちょっとかして貰える?」
「あ、うん」
絵里は最後に何やらブツブツ言っていたが、私から冊子をまた受け取ると、ペラペラとページを捲っていった。そしてある所で止めると、冊子を開いたまま私に手渡してきた。
「そこよ」
見てみるとそこはお母さんが特に重要だという意味で、二重丸で囲っている学校だった。ページには学校の正門と、女子校生何人かが制服姿で写真に写っていた。濃い紺色のセーラー服で、胸元と後襟に赤い錨の刺繍が施されていた。左胸には校章がつけられていた。全体的にシックに纏められた、品のある感じだった。簡易的な地図も載っていたので見ると、そこは四ツ谷駅の目の前にある様な、好立地な場所にある様だった。難易度のところを見ると”難関校”とだけデカデカと書いてあった。
 私が黙ってマジマジと説明文を読んでいると、構わず絵里が話しかけてきた。
「いやぁ…懐かしいな。私が通っていた頃と大差ないよ」
「ねぇ?ここに”都内屈指のお嬢様校”って書いてあるんだけど?」
私はわざと含みを持たせた笑みを浮かべながら、絵里に言った。絵里は苦笑いでほっぺを掻きながら返した。
「もーう!それってどういう意味?私がお嬢様校に通ってちゃいけないって訳?…はい、そうです。キャラじゃないのにここに通っていました」
急に絵里が態度を変えて、どっかのお偉方の謝罪会見風に言ったので、私は思わず吹き出しながら言った。
「…ふふ、ごめんなさい?そこまでは考えていなかったわ。…へぇー、ここに絵里さんがねぇ」
私はしみじみと、急に愛着が湧いた様な気がしながら、その学校の写真を見ていた。絵里も身を乗り出し、覗き込みながら言った。
「まぁでも、なかなか良かったよ?周りからはお嬢様校って、私がいた頃も言われていたけれど、私が見る限り変にお高く止まっている人はいなかったと思うし、…これは過去の思い出を美化し過ぎかも知れないけれど…」
と言うと、絵里は顔を上げた。丁度私の目が合った。そのまま逸らさず絵里は微笑みながら続けた。
「この頃…ここでの六年間が一番今まで生きていて楽しかったなぁ…」
最後に視線をどこか遠くへ流しながら、あまりにしみじみ言うので、私はまた冊子に目を落として、説明文をジッと見つめた。
「…そんなに良かったんだ?」
「うん!良かったよー?…部活にも入ってねぇ…」
絵里の顔はすっかり思い出に没入しているかの様な、柔らかな表情だった。
「へぇ、部活に入っていたんだ。何部だったの?」
と当然の疑問として聞くと、絵里はなぜか照れ臭そうにほっぺを掻きながら答えた。
「うーん…中学に入ったばかりの時はテニス部に入ったりしてたんだけど…」
「入ったり?」
「うん。…でもなんか長続きしなくてね?それから何個か部活に入ったんだけど直ぐに辞めちゃったんだ」
「えぇー…」
「でもね?」
そう言う絵里はまだ何か気恥ずかしそうだ。
「アレは中二の頃だったかなぁ…」
「え?じゃあ、一年でいくつも部活を変えたの?」
と、疑問に思ったことをそのまま何も考えずに口にしてしまった。絵里は意地悪く笑い、私のほっぺを軽くつねりながら言った。
「ツッコミ禁止ー」
手を離すと絵里は、私が大げさにほっぺを撫でるのを無視して続きを話し始めた。
「でね?その中二の時に…今だによく分からないんだけれど、一人で廊下を歩いていたら、急に先輩に声をかけられたの」
「へぇ、なんで?」
「それがね、いきなり一言『あなた、私たちの部活に入らない?』ってね」
「その人は知ってる人なの?」
「うーん…私は知っていたけれど、先輩は私の事当時は知らなかったと思うなぁ」
「え?絵里さんは知ってたんだ?」
と聞くと、当時を思い出したのか、明るい笑顔で返してきた。
「うん。あれは入学してすぐだったなぁ…。入学したばかりの私達に、先輩達が色々と催し物をしてくれたのよ。まぁ、『今から始まる学園生活では、こんなに楽しいことがいっぱいありますよー』みたいなね?色んな部活から、その特色に沿ったアピールをしてたんだけど、その中の一つに演劇があったの」
「へぇー、劇?」
「そう!何の劇だったか、そこまでは覚えてないんだけど、まぁ短い劇だったね。まぁ何しろアピールする為だけだから、限られた時間の中では本格的なのは無理なんだけれど。…でね、その先輩が主役で出ていたんだけれど、凄かったんだぁ…」
絵里はまた遠い目をしている。
「コメディだったんだけれど、変な事をオーバーにするみたいなのじゃなくて、自然にしているはずなのに、見ているこっちが飲み込まれていってね?気づくと先輩が何かする度に笑ってしまってたの。正直今時演劇を見る機会ってそんなにないでしょ?私の子供の頃もそうだったから、初めて目の当たりにしたんだけれど、感動しちゃったの!…コメディなのにね」
「そんなに感動したんなら、何で初めから演劇に入らなかったの?」
私は当然の疑問だとして、紅茶を啜りながら何気無く聞いた。絵里はまた照れ隠しにする、ほっぺを掻く癖をしながら答えた。
「うーん…感動はしたんだけれど、私がやるもんじゃないなって思ったのよ。…だって入ったら、あの先輩と舞台に立つのよ?無理でしょ?」
無理でしょ言われても…
実際に見た事ない私には、何とも言えなかったが、絵里の口調からは当時の感動がリアルタイムに感じられる様だった。
「じゃあ、廊下で話しかけられた時は…」
「勿論、緊張したねぇ…まさか話すことになるとは思わなかったもん。…私の話しぶりでわかると思うけど、もうなんて言うか…テレビに出てくるスターに、しかも向こうからわざわざ話しかけてくれちゃったって感じだったのよ。…もっとも、そんなファンになる様な芸能人はいなかったけど」
「私もいない」
一瞬沈黙が流れたが、すぐにお互い顔を突き合わせてクスクス笑いあった。
「話戻すと、…まぁ急に話しかけられたかと思えば、急に勧誘してきてね?いくら図太い私でもアタフタしちゃって、一度断ったんだけど、中々押しの強い人でね?いつまでも引き下がってくれなかったから、結局、一度部室に伺いますって言って、実際行って、気づけばそのまま部員になってたの」
「はぁ…随分いい加減なのね?」
「あははは!確かに、入部届けを書いた記憶も無いから、もしかしたら先輩が勝手に書いて出したのかも…いやー、面白かったなぁ」
「…ねぇ?」
「ん?」
「その時の写真とか無いの?劇に絵里さんが出てるのとか…」
と私が聞くと、絵里は平静を装っていたが、徐々に耳は見るからに赤くなっていった。でも本人はあくまで澄まし顔で返した。
「…え、えーっと…あったかなぁ…探せばどこかにあるとは思うんだけど…」
煮え切らない返事だ。ここで引き下がる私ではない。
「ここにある事はあるの?じゃあ待っているから、探して見てよ?」
私が追い打ちをかけると、両手を合わせてゴメンとジェスチャーをしながら、参った調子で応えた。
「…琴音ちゃん、ゴメン!もう少し心の準備が整うまで待って?…別に黒歴史なわけじゃないけど、最近私も見てないのに、急に、しかも琴音ちゃんと見るのは…恥ずかし過ぎるから」
今まで見た事のない程、絵里が可愛らしく恥ずかしがっている様を見て、意地悪な言い方だけど、何だか得した様な気になって、この場は勘弁してあげる気になった。
「…ふふ、分かったよ。今日は勘弁してあげる。…次来た時には見せてね?」
と私は満面の笑みで言った。絵里は苦笑いしながら応えた。
「ははは…分かったわ、約束する。その代わり…」
と今度は絵里が満面の笑みになって言った。
「今度琴音ちゃんが弾くピアノを聴かせてね?」
「勿論!構わないわ」
「…あははは!」
「ふふふ」
特に理由もなかっただろうけど、何だか可笑しくてまた二人で笑いあったのだった。

「でもだからかぁ…」
一頻り笑いあった後、私がふと気づいたことを言った。
「ん?何が?」
「絵里さんがさっきとか、今まで会話した中で、義一さんとの思い出を話している時、妙にモノマネが上手いなぁと思っていたの。セリフも、勿論実際に私は見てないから断言出来ないけど、疑問に思わせない程細かく演じ分けていて、当時は寸分違わずこうだったんだろうなぁって、信じ込ませられる程の演技力、聞きながら本当はビックリしてたの。良く特徴を捉えてるなぁって。でも今日、その演技力の原因が解明されたわ」
「解明って…大袈裟ねぇ」
絵里は紅茶を啜りながら引いて見せたが、口元が気持ちばかりニヤケているので、満更でもないのが丸わかりだ。そこら辺は演劇人らしくない。
「でも褒めてくれてるみたいだから、お礼を言うね?有難う」
「どういたしまして」
「でもまぁ」
絵里は改めて冊子に目を落としながら話した。
「私からの紹介はこんな感じ。変わっていなければ、私は胸を張ってオススメするよ。でも、最終的に決めるのは当然の事だけど、琴音ちゃん自身だからね?私の意見は参考程度に留めておいてよ?」
「うん、分かった。色々参考になったよ、有難う」
「いえいえ、どういたしまして…あぁ」
絵里が何気なく時計を見て、ため息交じりに声を漏らしたので、私も見ると四時を少しばかり過ぎた所だった。
「…ところで琴音ちゃん、アナタ何時まで時間大丈夫なの?」
「えぇっと…」
私は瞬時にここから家までのおおよそ掛かる時間と、図書館から家までの時間を比べて計算を求めた。
「うーん…図書館が閉まるのが五時だから…うん、最大五時まで大丈夫だよ」
私はさっきまでの明るい雰囲気のまま、少しおどけて見せながら言ったが、絵里はふと考え込み、しばらく難しい顔をしていたが、私の方を真面目な顔つきで向くと、静かに話しかけてきた。
「…そうだ琴音ちゃん、覚えている?今日ここまで歩いている途中、私が話しかけた事」
「え?…あっ、う、うん」
私は絵里が義一と私のことについて何か言いかけたのを思い出した。ついでにその時も絵里が今みたいな表情をしていたのも。
「…それなんだけれど…これはアナタ達二人の問題だから、私が横槍入れる筋合いがあるのかどうかわからない…でも、これも参考程度にでも聞いて」
絵里は一息つくと、頭の中で言いたいことを整理するかのように、目を瞑り黙っていたが、静かに目を開けると、ゆっくりと話し始めた。
「…前にファミレスで三人お茶をしたでしょ?あの後ギーさんと会った時にお話ししてね、そのー…二人で琴音ちゃんの両親にバレないように会ってるって話を聞いてね?私…ちょっとギーさんに怒っちゃったの」
「…え?」
「口ではやっぱり、琴音ちゃんを傷つけたくないとかなんとか言ってたけど…でもやっぱりそんなの上手くいきっこないもの。あの人に言ったわ。『ギーさん、アナタ琴音ちゃんに自分に正直に生きなさいって言ったんでしょ?それをまた嘘を吐かせるような真似をさせて…アナタ一体琴音ちゃんをどうしようとしてるの?』って…。怒鳴ったわけじゃないけれど、私は静かに怒りを露わにしながら聞いたわ。それでも黙っているから、畳み掛けるようにまた言ったの。『今はまだなんとかなるかも知れない…でも今のままを長く続ければ続けるほど、バレた時にあの子が受けるショックは計り知れないのよ?』ってね」
「い、いやっ、私は!」
私は反論しようとしたが、絵里が黙って射すくめるような視線を送ってきたので、黙る他なかった。
「でもこんだけ言っても、ギーさんは静かに言うだけだったわ。『…でも、これはあの子が全て分かった上で決めた事なんだ…あの子は考え無しにこんなことをするような女の子じゃないよ?…それは絵里、君も分かっているだろう?』ってね」
ここまで言うと、途端に絵里が目元に涙を溜めたので、私はまた初めて見る絵里の姿に唖然としながら、黙って話の続きを待った。
「…そんなの、ギーさんに言われなくたって分かっている。…勿論ギーさんがどういうつもりで言っているのかも分かっている。…でも」
絵里は目を一度擦って、一度溜めてから続けた。
「私も譲れない!…こんなこと本人の前で言うのもおかしな話なんだけれど…」
絵里はまだ涙目だったが、ここで少し柔和な笑みを見せた。
「不思議と初めて見た時からアナタが気になってしょうがなかった。…こんなにおしゃべりする前からね?…前に先生に連れられて、クラスのみんなと図書館に来ていた時、最初は可愛い子がいるなぁ程度だった。アナタはいつもみんなの中心にいたね?…あっ、何も言わないで?ただの私の印象なんだから。…アナタはその中で皆んなに笑顔を振りまいていたわ。はたから見てると、凄く本人も楽しんでるように見えた。
…でもその周りに笑顔を振りまく中で一瞬見せた素の表情…あんなに大勢に囲まれていたのに見せた寂しそうな表情…あれが忘れられないの。…見られてるの気付いてなかったでしょ?」
「う、うん…」
「あの時の印象も、…こんなにいっぱいお喋りするようになってからの印象も、ちっとも変わらない。向こうが透けて見える程に透明感のある、精巧に綺麗に彫られたガラス細工…。全く汚れていなくて、光を乱反射して目を奪う程に綺麗なのに、どこか軽くでもぶつけてしまえば割れてしまうんじゃないかって程に見える脆さ…。あまりに文学的に過ぎるかもしれないけれど、こうとしか言いようが無いんだから許してね?そんな印象をずっと持っていたら、今はギーさん繋がりでここまで親しくなった。…私んちに遊びに来るぐらいにね?」
絵里は軽く部屋を見渡した。
「”なんでちゃん”だっていう、意外な一面も知れた。…これもギーさんから聞いたけど、アナタが自分のこの性質に悩んでいるって聞いた。…いやその性質故に、周りの人間とのズレに悩んでいるって聞いた。…それを聞いた時、どうにか微力だとしても、琴音ちゃん、アナタの力になりたいと心から思ったの。余計なお世話だとしてもね?…しつこいようだけど、疑問でも何でも、傷つくことを恐れずそのまま真っ正面からぶつかって行く琴音ちゃん…それは本当に素敵なことであり、アナタの長所でもある。…でも、壊れやすいガラス細工なのも知っている。…勝手に思い込みで言って悪いけどね」
「…いや、うん」
私が肯定とも否定とも取れる返事をすると、絵里は苦笑いを浮かべながらそのまま続けた。
「…いやぁ、こういう話をするのは苦手なくせに、長々と取り留めの無い事喋っちゃった。…上手く言えないけど、これだけは覚えておいて?私…それにギーさんも、アナタが傷つくところだけは見たくない。これは少なくとも私達が共通してアナタに持っている感情なの。…だから」
「…うん、よく分かったよ」
私は静かに、でも柔らかい笑みを顔中に浮かべながら言った。
私は嬉しかった。まぁ、あまりにも不用意に私のことを目の前で褒めちぎるから、どういう目線で聞けばいいのか戸惑っていたけど、不器用ながら、アレコレ私の事を本当に、本心から心配してくれてるのがヒシヒシと、言葉の端々から痛いほど感じ取れた。こっちまで涙で潤みそうになったほどだ。
言いたい事、感謝の言葉が頭の中を駆け巡っていたが、今私が言えるのはただ一言だった。
「…ありがとう」
「…琴音ちゃん」
絵里はまた少し瞳を潤ませていた。
私もつられて目が潤んだが、正直な気持ちとして感謝と共に、申し訳なかった。義一にしてもそうだが、絵里も私に対して過剰に入れ込みすぎていると、ただ冷静に思っていた。二人が私の事を、何の裏もなく褒めてくれるのは、勿論素直に嬉しい。大好きな二人だから尚更だ。嬉しいけど、どうしても私が私に対して思う事とのギャップがあまりにも大きくあると感じていた。私は然程、いや微塵も自分の事を買っていない。義一と絵里、二人が私に話してくれる”私”の事。どれも素敵で、出来るならそうなりたいとは思うけど、今の私がそうかと言うと、全然かけ離れていると言わざるを得ない。だから、繰り返すようだけど、私が二人の中の”私”じゃないことに対して、申し訳なかった。
そんな事を考えながらも、素直に感謝の気持ちで一杯なのを、少しでも伝わって欲しくて、出来る限りの相応しい笑顔で絵里を見つめた。絵里はまた目を一度擦ると、明るい調子で言った。
「ごめんごめん!私のせいで変に湿っぽくなっちゃった。…あっ!あと一つ具体的な忠告をしたいんだけど、聞いてくれる?」
「うん、聞かせて?」
「うん、それはね…」
絵里は一度ゴホンと咳払いしてから話した。
「なるべくやっぱりギーさんとは、外で会わない方がいいと思うの。…今更だけど。ファミレスに一緒に行った時は事情を知らなかったから、あんな人通りの多い所に行っちゃったけど、あんな地元民が集まる所とかに行ったら、誰に見られてあの高慢ちき…あっ違う、ギーさんのお兄さん…」
「…誤魔化すの下手すぎだから」
私はすかさず絵里にツッコんだ。絵里はただ悪戯っぽく笑っている。
「まぁ琴音ちゃんのお父さん、この近所では一番大きい病院の院長なだけあって、顔が利くからね。患者さんでも何でも、見られて話されたら終わりだからね?」
まさに反論の余地など無い正論だった。こういうことは最初に気付いてなくてはいけなかったのに、義一とお話するのに夢中のあまり、守備の面を疎かにしていた。あんなに口でも、心の中でも義一との繋がりを大切にしたいと思っていたはずなのに、余りにも浅はかな自分の考えの甘さにがっかりする他なかった。
「…いや、本当だね」
と私は自嘲気味に笑みを浮かべながらボソッと言った。絵里はすぐに察したのか
「いやいやいや、琴音ちゃんが悪いんじゃないよ!」
とアタフタしながらフォローをしてくれた。
「…まぁ琴音ちゃんの落ち度がゼロとは言わないけど…」
とここで絵里は、顔は私に向けたまま、視線を斜め上へと向けながら、呆れ気味に喋った。
「それよりもギーさんよ、ギーさん!約束約束言うんだったら、それを守る為にはどうすればいいか、最大限のことを大人が進んで対策練らないといけないのに、こういうところで抜けてるんだからっ!…だから琴音ちゃん?」
斜め上にいたのであろう、義一から視線を私に戻すと、意地悪く笑いながら言った。
「大の大人のはずの人があんなのだから、アナタがしっかりと手綱を締めないといけないよ?こういう常識的な事では当てにならないんだから」
「ふふ、分かっているわ」
私も笑顔で返した。絵里は満足げに頷いていたが、ふとまた柔らかな微笑を浮かべながら言った。
「…もう私はこの事について、二人のことについて何も言わない。…ギーさんというよりも、琴音ちゃん、アナタを信じているからね。これ以上ネチネチ言うと、アナタに対して信用していないと言っているに等しいから」
「…うん、ありがとう」
私はさっきのように、自然に心のままに返事した。それを聞くと、また満足げに頷いていたが
「やるからには、全力で秘密を守り抜こうね?」
と悪戯っ子の表情でニヤケながら言った。私も同じような表情を作って応えた。
「勿論よ!」
また二人して顔を突き合わせると、示し合せる事もなく同時に笑い合ったのだった。

「本当に送らなくてもいいの?」
玄関先で靴を廊下に座りながら、履いている私の背後から、絵里が声を掛けてきた。
「大丈夫だよ!この辺りだって地元なんだから」
私は勢いよく立ち上がりながら答えた。 腕にしている時計を見ると、丁度五時を示していた。絵里はサンダルを履いて、エレベーターホールまでついて来てくれた。
「じゃあ気を付けてね?また連絡するから。またこの家も含めて場所問わず…いや、人気の少ない所で遊んだりお喋りしましょ?」
「うん!…」
その時丁度エレベータが到着した。私は乗り込むと、階数表示の”1”を押した。絵里は笑顔で手を振ってくれたが、ふと思いついて、”開”のボタンを押しながら意地悪く笑い言った。
「絵里さん、次来た時には昔の写真を見せてよね?」
「…ふふ、ハイハイ」
絵里は手を振り続けていたが、私の言葉を聞くと、苦笑いで短く返すだけだった。
「じゃあねー」
私は言い終えるのと同時に”開”のボタンを離し、すぐに”閉”のボタンを押した。ドアが閉まっても縦長の覗き窓があったので、絵里の姿がまだ見えていた。私もやっとそこで手を振り返した。エレベーターはゆっくりと下まで降りて行った。

マンションの正面玄関から出て空を見上げると、西日が赤々と燃えて、チラホラ見える雲に黒い影を作り、今まさに沈んで行こうとしている所だった。もう十一月。陽が沈む時間が、当然のこととは言え、夏と比べるとすっかり早くなった。時折吹く風が肌寒い。
さて、帰るか…。
 私は寄り道せず真っ直ぐ自宅へと向かった。その道中、何度も絵里との会話を思い出していた。そして絵里が私に見せてくれた”初めて”の数々。どれも観れて嬉しかったり、ビックリしたり、悲しかったりしたけど、どれ一つとして無駄な発見は無かった。そして本人にも伝えたが、やはりここまで私の事を想ってくれていたというのは、しつこいようだけど、何度言っても言い足りないくらいに嬉しかった。歳も一回り以上離れているのに、親身に赤の他人の私を気にかけてくれていた。そういう意味では、義一よりも想いを強く感じた。
 あの言葉の一つ一つを思い出すだけで、一人で外を歩いているのに思わず、思い出し泣きをしそうになるのをこらえるのが大変だった。かと言って思い出さないでいるのも嫌だった。この二つの間で葛藤しながら自宅玄関前に辿り着いた。鍵を開け、お母さんがいるのか確認しないまま挨拶をした。
「お母さん、ただいま」
 
「お帰りー」
私が居間を覗くと、お母さんは居間の食卓用に使っているテーブルの上に、雑誌を広げて見ていた。そばにはコーヒーの入ったカップが置かれている。私は自室に入り、荷物を置いてからまた居間に戻った。そしてお母さんの側を通り、キッチンに向かい、冷蔵庫から冷えた緑茶のペットボトルを取り出し、コップに注いで、それを持ってお母さんの向かい側に座った。
 私は冷茶を一口飲むと、お母さんに話しかけた。
「…それってまた日舞の雑誌?」
「え?えぇ、そうよー」
お母さんは顔を上げないまま、生返事をした。
中々珍しい、日本舞踊だけに特化した月刊紙だった。毎月お母さんは通販で取り寄せて、欠かさず読んでいる。私から見てもマニアックな雑誌だ。
 ここで本当に軽くだがお母さんについて触れておく。望月瑠美。歳はお父さんと同じ、この時は三十九歳だった。生まれは浅草橋にある、創業百年を超える有名な呉服問屋の末娘だ。典型的な箱入り娘、お嬢様だった。子供の頃は家の中では着物を着るのが義務だったらしい。普段は私の前では洋服を着ていたが、お家にお父さんの知り合いなど誰かを招き入れた時は、ピシッと綺麗に着物を身に付けて対応するのだった。お母さんの普段の振舞い、背筋がシャンと伸びていたり、ドタバタと動き回らず滑らかに流れるような動作など、どれもやはり子どもの頃から着物で過ごしていたのが、良いように作用しているようだった。
 両親の馴れ初めをさすがの”なんでちゃん”でも、直接聞くのは恥ずかしかったから聞けなかったけど、お母さんのお母さん、つまりお婆ちゃんから聞いた限りでは、これまた古風にお見合いだったらしい。お母さんは中学から、九段にある都内でも有名なお嬢様校に通っていたらしく、大学も付属していたので、そのままエスカレーター式に進学したようだった。そんなずっと女子校で、殆ど男っ気の無いのに心配したのか、今年に引退した前院長と、お母さんのお父さん、つまりお爺ちゃんが友達だったらしく、その繋がりでお見合いした流れだったようだ。何でも隠さず喋るお婆ちゃん、その話を聞いてる時そばにお母さんもいたが、恥ずかしそうにハニカミながら、視線を別の方へ流しているのが印象的だった。
話を少し戻すと、呉服屋の娘だから…とは関係ないだろうが、着物を着るという繋がりで、子どもの頃から日本舞踊を習っていたらしい。それを未だに熱心に続けている。趣味らしい趣味を持たないお母さんの、唯一の趣味と言えるのが日舞だった。

「ふーん…」
と私も向かい側から、文字が反対に見えるのも気にせず一緒に見ていたが、ふとお母さんが顔を上げて、私に話しかけてきた。
「…あっ、そういえば琴音」
「ん?何?」
と私も顔を上げてお母さんの顔を見た。お母さんは淡々と質問をしてきた。
「…あなた、今日はどこに行ってたの?」
「えっ?えぇ、もちろん図書館よ?」
突然の問いかけに、正直面を食らってしどろもどろになった。平静を装うのに精一杯だった。ついさっき絵里と会話したことが思い出された。まさか急にこんな早くピンチが訪れるとは思っても見なかった。
「な、何でそんなこと聞くの?」
私は内心ドキドキが止まらなかったが、そんな私を他所に、お母さんは普段と変わらぬ調子で話を続けた。
「いやね、私の友達の一人が今日の昼頃、駅前であなたと綺麗な女の人が一緒に話しているのを見たって言うのよ」
言われてすぐ『あっ』と思った。絵里が公衆の面前で私に抱きついてきたこと…やっぱり周りは見てたんだ…。
さっきとは違う意味でドキドキして、恥ずかしさの余り若干顔が赤らむのを感じながらも、冷静に答えた。
「あぁ、あの人ね?あの人は図書館の司書さんよ」
「え?司書さん?」
意外だったのか、お母さんはキョトンとした顔でこちらを見ている。
「そうよ。何かと私に親切にしてくれてね?向こうの昼休みと私の都合が合ったから、ついでだし一緒に行こうって話になって、それで駅前で待ち合わせしてたの」
咄嗟にその場の思い付きで、スラスラと言葉が後から後から流れるように出てきた。自分でもびっくりしたが、内容を見てもちゃんと筋が通っている様に思えた。
お母さんは一瞬怪訝そうな表情で私をジッと見ていたが、フッと普段の表情に戻ると
「…へぇー、今時珍しく子供と仲良く接する司書さんなのねぇ」
と少し感心してる様な調子で話した。私はホッとしたが、調子を変えると何か勘付かれると思い、なるべく変えずに話した。
「そうなの、まるでお姉ちゃんが出来たみたいでね」
これは本心だった。何か昔読んだ本の中の主人公が『詐欺師というのは八割から九割本当の事を言って、最後の一割で騙したいがため嘘をつく』と言っていたを思い出していた。
「ふーん、まぁあなたが言うならそうなんでしょうけど」
とここでお母さんは一度区切って、少し溜めてから先を続けた。
「その人はともかく、あまり赤の他人、大人の人と必要以上に仲良くするんじゃありませんよ?昔と違って物騒な世の中なんだから」
「うん、分かっているよ」
と私が答えると、お母さんは少し意地悪くニヤケながら、向かいに座る私に顔を近づけて言った。
「…まぁ中々他人に懐かないあなたが、そこまで親しくしているんだから、よっぽどその人は良い人なんでしょうね?」
と言い終えると、お母さんは立ち上がり、キッチンの方へ向かった。私はその背中に向かって、さも不満そうに返した。
「…なんかそれ、前にヒロにも同じ様なこと言われたよ。『お前は人嫌いで通っている』って」
「あははは!ヒロ君らしいわね」
お母さんはエプロンをしながら、私に相変わらず意地悪な笑みを送ってきた。
私はテーブルに上体だけうつ伏せになり、全身で不満げな態度を表していたが、ふと今何でわざわざ居間に降りてきたのかの理由を思い出した。
私は立ち上がり、キッチンで夕食の準備をしているお母さんに近寄った。
「…お母さん?」
「ん?なーに?」
お母さんは陽気な調子で、食材を切りながら応えた。
「側によると危ないわよ?」
「あのね、私…」
お母さんからの忠告を無視して、そのまま言葉を続けた。
「私、行きたい学校決まったから」

第12話 裕美と琴音

「…へぇ、じゃあもう決めたんだ?今度の模試の参加記入用紙に書く学校」
「えぇ、一応ね?」
絵里のマンションに行った次の週、月曜日に裕美と朝、こうして一緒に通学している。特に約束したわけでもないのに、いつの間にか裕美のマンション前で落ち合うのが習慣化していた。
「で?何処にしたの?」
「え?えぇっとね…」
私は絵里の通っていた学校名と、後は滑り止めと言うのか、いくつかお母さんが煩くなさそうな女子校名を言った。
私が言い終えると、裕美はなんだか納得いかない顔で話した。
「へぇー…っていうかさぁ、琴音ちゃん?」
「ん?何よ?」
「…何で勝手にどんどん先に行っちゃうかなー?」
裕美はほっぺを膨らませて見せながら言った。私は隣に歩く裕美の足元を見ながら
「…?同じペースで今歩いているじゃない?」
と言うと、裕美はジト目で私を軽くにらみながら言った。
「もーう、そういう意味じゃないでしょ!」
「ははは、ごめんごめん」
私はおどけながら平謝りをした。裕美の機嫌はまだ直らないようだ。
「もーうっ!せっかく琴音ちゃんと相談し合いながら、じっくり決めようと思っていたのに」
「…あっ、そうだったの?」
「そうだよー…まっ!」
裕美は目を瞑り、両手を頭の後ろに回しながら、やれやれと言った調子で続けた。
「言わなかった私が悪いんだけど…察して欲しかったなー」
最後は私側の目だけを器用に開けて、私の方に視線を流しながら言った。
「相変わらず無茶を言うわね」
私はそれを聞いて、苦笑いするしか成す術は無かった。私のその様子を見て満足したのか、裕美は途端に機嫌を直して、とびきりの笑顔を向けながら嬉しそうに言った。
「でも偶然ね!私の第一志望もそこよ!」
「…え?ほんと?」
私はその可能性を正直微塵も考えてなかったので、素直に驚いた。裕美は私の様子をどう解釈したのか、慌てて言い訳するように続けた。
「あっ!イヤイヤイヤイヤ!別に琴音ちゃんの真似がしたくて、今思いつきで言ったんじゃないよ?…うーん」
裕美は先を話そうか、考えあぐねているようだった。これは言い訳が見つからなくて困っているというより、固く心に思っていることを私に話そうか迷っている感じだった。
裕美は決心がついたのか、顔をまっすぐ私に向けると真剣な面持ちで話した。
「…琴音ちゃん、今日一緒に塾に行かない?」
「え?え、えぇ、それは勿論構わないけど…」
一体何の話か理解が追い付かないでいるのに、構わず裕美は続けた。
「じゃあ改札前に四時待ち合わせでいい?」
「あ、うん…」
と訳も分からないまま了承すると、裕美は先程までの笑顔に戻った。
「良かった!じゃあこの話は後でね」
と言うと急にガラッと話題を変えて、裕美がいるクラスの中の四方山話をし出した。私ははぐらかされた感は否めなかったが、後で話すという言葉を信じて、今は裕美の話に付き合うことにした。

学校が終わり放課後、各々家に帰り塾の道具一式が入ったカバンを持って改札前に来た。この地元の駅は改札が一つしかないので、漠然と待ち合わせをしても、会えないような心配は無かった。そろそろ帰宅時間なのか、改札からは人がドッと引っ切り無しに出て来る。スーツ姿、学生服、普段着などなど様々だ。
 流石にごった返しているので、見つけるのは難しいと思っていたがすぐに見つけた。裕美はいくつかある柱の内の一つに寄り掛かり、また図書館の時のように教科書を見ていた。この前の教訓で、どうせ気付かないことは分かっていたので、側に近寄り軽く肩を叩いた。
「やあやあ、精が出ますね」
「あっ、琴音ちゃん!おっそーい!」
と開口一番裕美が文句を言ってきたので、左手首の時計を見てみると、四時五分前だった。
私も不満げな顔を作りながら
「あのねー…むしろ約束五分前に来ているんだから、褒められて然るべきだと思うんだけど?」
と言ったが、通用しないらしい。裕美はワザとらしくツンとして見せながら言った。
「私はそれよりも早く来たんだから、あなたはもっと早く来ていなきゃダメでしょ!それでも私の恋人なの!?」
こ、恋人?…あぁ、なるほど。
まだ一ヶ月も経たない付き合いだが、一つ裕美について分かった事がある。一つの冗談を言うのに一芝居をうってくることだ。初めの頃は訳わからずキョトンとしていたが、すかさず裕美からツッコミが入ったので、理解(?)がやっとできたという感じだ。…裕美には悪いけど、ヒロの言った『裕美は暑苦しい女』の意味を理解した。別に嫌いじゃないけど。
「…はぁ、誰が恋人よ誰が。仮に恋人だとしたら、アナタはかなりメンド臭い恋人でしかないわね」
と冷たくあしらうと、裕美の方は何故か満面の笑みで返してきた。
「えぇー、それを琴音ちゃんが言うー?」
「…どういう意味ですかねぇ?」
私は笑ったが、絶対零度の微笑だった。裕美は爆笑だ。私のその様子が面白いらしい。
「あははは!ごめんってば!さぁ、琴音ちゃん!くだらない事をいつまでもしてないで、早く行こうよ」
と言うと突然改札に向かって歩き出した。
「…はぁ、そのくだらないのを始めたのはアンタでしょうに…」
私はさっきと同じ様に一人苦笑しながら、どんどん歩いていく裕美の後を追った。

「…やぁー、行きの電車は空いてていいね!帰りは地獄だけど」
「そうね」
私達は都心に向かう電車に乗っている。中は空席が目立っていた。夕方のこの時間帯は、まずこの電車が混むことは無かった。時折すれ違う下り電車を見ると、既につり革手すりに掴まる人が大勢いた。私達が帰り乗る頃には、あの倍以上になっているのだから堪らなかった。なるべく帰りの混雑は考えない様にしていた。塾のある御茶ノ水まで、乗り換え入れて四十分程かかる。
いつまで経っても話そうとしないので、時間が勿体無いと私から聞き出すことにした。
「…で?一体何の話をするんで、こんなに先延ばしにしたの?」
と単刀直入に聞くと、相変わらず裕美は隣に座る私から視線を逸らし、うなじ辺りを手で触り、上下に何度か動かす照れ隠しの動作を見せた。いつも裕美がそれをやると、後ろの短髪が逆立ち、あちこちに跳ねてしまうのが特徴だ。もっともすぐに手で梳かして直していた。
今回も手で髪を直して、その手を膝上に戻し、意を決したように話し始めた。視線は手元に落として。
「…じゃあ、話すけど…笑わない?」
「…え?」
私の想定していない言葉が聞こえた。確か受験関連の話をするはずだったのに、笑う笑わないってどういうことだろう?私は意味が分からなかったが
「…え、えぇ、笑わないわ」
とだけ短く返した。相変わらず裕美は手元を見ていたが、声も小さく話し始めた。
「…あ、あのね?…私将来、お医者さんになりたいんだ」
「…ん?へ、へぇー…」
これが笑うことなのか?
私はさっき念を押されたせいか、自然な反応が取れなかった。でも裕美はツラツラと先を続けた。
「…今朝琴音ちゃんが言った第一志望校ね、知ってるかどうか分からないけど、都内の女子校では屈指の医学部合格率を誇る学校なの」
「へぇー」
さっきから私は『へぇー』としか言ってなかったが、他に言うべき言葉が見つからなかった。
そんな私の態度に気分を害することなく、裕美は続ける。
「だから私は琴音ちゃんと同じ学校に行きたいの!真似したいからとか、そんな理由じゃなくて」
「いやいや、私はそんなアナタが真似してるだなんて、これっぽっちも思ってなんかいないわよ」
私は苦笑いで、親指と人差し指で何かをつまむようにして、二つの指の間に若干隙間を作って見せながら応えた。そう言うと、裕美は小さく「そっか」と言うだけで、あとは私と視線を合わせて、静かに笑うだけだった。私はまだ続きがあると思って待っていると、なかなか続きを話そうとしないので
「…で?これで終わり?」
と正直に質問してしまった。流石の私もこれは、相手がやっと意を決して話した事に対して酷すぎるとは思ったけど、後の祭りだった。
私の心配を他所に、裕美はキョトンと、ある意味正しい反応を示していたが、ふと小さく噴き出すと、苦笑い気味に私に話しかけてきた。
「…ふふ。これで終わりって、ひっどいなー。けっっこう勇気を出して言ったのに」
と最後は意地悪く笑いながら言った。私は結構本気で申し訳なく思ったので
「…ごめん、そんなつもりじゃ無かったんだけど…」
と言い訳にもなっていない弁明をしたが、裕美は変わらぬ笑みで返した。
「はははは!やめてよ、しんみりするのはー。まぁ、確かに酷いと言えば酷いし、今の反応は人を選ぶと思うけど…まぁまだ一ヶ月くらいしか友達してないけど、アンタが悪気が無くそういうことを言っちゃうっていうのは分かってきたからねー…許してあげる!」
「裕美…」
「なーんてね!私は全然気にしてなんかないよ?それより…」
裕美は急に優しい微笑みを顔中に湛えながら言った。
「…私の夢に対して、茶化さず笑わないで聞いてくれてありがとう」
…?…あぁ、笑わないでってこの事だったのか。…ん?
私は一応言葉の真意を教えてもらった筈だったが、全然疑問が解消されていなかった。さっき謝ったばかりなのに、懲りずに聞いてしまった。
「…え?どういう意味?」
「え?あ、いや…」
当たり前だが、先程丁寧にお礼を言ったばかりだというのに、なぜお礼を言ったかについて質問されるのは想定外だろう。裕美は心底困っているようだったが、苦笑まじりに答えてくれた。
「その私の夢について笑わないで…」
「それよそれ…あっ」
私が言いかけた時、ちょうど電車が乗り換え駅のホームに滑り込んだ所だった。降りない訳にはいかないので、私達二人は黙って立ち上がり、ドアのそばに立ち、ドアが開くのを待った。

電車から降りて、今度は地下鉄に乗り換えるためにどんどん下へとエスカレーターを幾つか乗り継いだが、その道中、あまり歩きながらする話題でもないと知りつつも、”なんでちゃん”としては黙って居れなかった。
「そもそも何で私がアナタの夢を聞いて笑わなくちゃいけないの?」
「え?えぇ…っとねぇ…」
裕美は見るからに顔中に困惑の色を深めていった。何とか話題を変えようとしている節が見えたが、私が歩きながらもまっすぐ強めに視線を合わせていたので、とうとう折れざるを得なくなったか、若干引き気味に答えた。
「だ、だってぇ…自分の夢を語るのって…ダサいと思われるでしょ?」
「…誰が?」
「え?」
「誰がダサいと思うって言うの?」
「いやー…大体みんなそうだと思うけれど」
と裕美が言うと、ちょうど乗り換える地下鉄のホームに辿り着いた。
「みんなって…」
私が質問を続けようとした所、丁度電車が来るアナウンスが流れて、それと同時に電車が来たため、そのけたたましい音に私の声はかき消されてしまった。仕方なくそのまま私達は、揃って地下鉄に乗り込んだ。ここから御茶ノ水まで、かかって十五分くらいだ。普段はこの電車は座れない程度の混み具合だったが、今日は運よく座る事が出来た。
 私は一人クールダウンして反省していた。少し調子に乗ってあれこれ聞きすぎた。何しろ義一や絵里に対しては、年上というのもあって、世代間の感覚的な違いを少しばかり感じていたが、初めて同い年の、しかも比較的私の話を真面目に聞いてくれる友達が初めて出来たと、嬉しいあまり思わず暴走してしまった。
私が急に大人しくなったのをおかしく思ったのか、今度は裕美の方から話しかけてきた。
「…琴音ちゃんて、”本当”に周りの目を気にしないでいられるんだね」
「…え?」
私は思わず隣に座る裕美の顔を凝視した。裕美は微笑みながら視線を合わせていたが、ふと顔を正面に向けて、知らないスーツ姿のビジネスマンの方を見ながら返した。勿論言うまでも無く、そのビジネスマンのことは見ていなかった。
「…私ってさぁ、琴音ちゃんは知らなかったみたいだけど、結構同学年では目立つ方だって言ったよね?恥じらいもなく」
裕美は最後に悪戯っぽく笑いながら言った。
「え、えぇ」
それはここ一ヶ月、嫌という程わかった。何故なら登下校の時、すれ違う同級生の大体の人から声を掛けられていたからだ。その後私の顔を見ると、彼らは何とも言えない表情をこちらに向けて、そのまま黙って去って行くの繰り返しだった。
「…でもね、一度目立っちゃうと、中々もう飽きたからやーめたって出来ないのよ。そのまま続けなくちゃいけないの」
私はついこないだまでの”私”を思い浮かべていた。
「…これはある意味、琴音ちゃん相手には嫌味にならないから言えるんだけど…私みたいにクラスの中心にいるとね、それらしく振舞わなくちゃいけない…ダサい事なんか以ての外」
「…」
私の中で”意見”がいくつも沢山頭の中で生まれていたが、また話し過ぎちゃうと、私にしては珍しく抑えて、裕美の話の続きを待った。
「何でもいいんだけど、何かに対して”マジ”になるのは”ダサい”ということになってるのよ。…琴音ちゃんはさっきの口ぶりも含めて、今までお喋りして見た限り、そんなダサいかどうか、曖昧な他人の基準なんて気にならないみたいだけれどね」
「まぁ…うん」
なるべく誤解がないように、短く返した。
と、その時車内アナウンスが流れ、間も無く御茶ノ水に到着する旨を伝えた。
「…じゃあ、琴音ちゃん降りようか?」
「えぇ…」
色々と訂正したかったが、もう着いてしまった事実は覆しようが無いので、不完全燃焼のまま、異様に長いエスカレーターに乗り、地上に出て、二人仲良く並んで塾へ向かった。
途中まで、今日あった学校の出来事の話などを喋りあっていたが、塾の目の前の横断歩道の前で立ち止まると、裕美が仕方ないなといった調子で喋り掛けてきた。
「…もう、しょうがないなぁ。さっきの話、まだ話し足りないんでしょ?」
「あっ、いや、まぁ…うん」
私はぎこちなく答えた。一応それなりに世間話に笑顔で相槌を打っていたつもりだったが、どうも顔に出ていたようだった。
私の返答を聞くと、裕美は通りの向こうを見ながら、苦笑まじりに諭すような口調で言った。
「後で話に付き合ってあげるから、今は我慢しなさい?」
私は隣で並んで信号を待つ裕美の横顔をチラッと覗いたが、表情は自然な笑顔なだけで、言葉の真意をはかる事が出来なかった。
私も合わせて、不満げに返した。
「…なーんか上から目線だなぁ。あんたは私のお母さんかい?」
「えぇー…こんな面倒な娘はこっちから願い下げだよ…あっ!」
声を上げるのと同時に裕美は急に駆け出した。信号を見ると青に変わっていた。
「ちょっとー、待ちなさいよ」
私も不満タラタラに声を掛けたが、顔は自分でも分かるくらいにニヤケていた。通りを渡り終えた後、お互いに軽く息を弾ませていたが、無言で顔を見合わせると、途端に二人で笑い合った。そしてそのまま塾のある雑居ビルの中へと入って行った。

「…もう、やんなっちゃう!」
「ふふ、今日もキツかったね」
私と裕美は地元の駅に降り立っていた。時刻は十時十五分前だ。この日もいつもと変わらぬ混雑具合だった。前にも言ったように、この駅には各駅しか停まらない、路線が一つしか無いような規模の小さな駅だったが、この駅は区役所から一番の最寄駅だという利点があって、どんなに車両の奥まった所にいても、皆が一斉に降りるので、わざわざ人をかき分けて出なくて済むのが、唯一の救いだった。
私達は人の進む流れに合わせて改札を出て、バスを待つ人でごった返すロータリーを抜け、帰宅の途についた。
ロータリーを出るまでは、満員電車に対する文句や、今日の授業の事などを言い合っていたが、私の堪え性の無さが出てきて、今までの脈絡を無視して、さっき疑問点をぶつけて見ることにした。
「…ところで、さっきの話なんだけど…やっぱり納得いかないのよねぇ」
「おっ!来たね?”なんでなんで攻撃”が」
「え?それって…」
裕美がいきなり”なんでなんで攻撃”と言ってきたので、出鼻を挫かれた形になったが、まずそこから片付けざるを得なくなった。
「それって、ヒロが言ってる奴…」
「え?あぁ、そうそう!」
怪訝な表情の私とは違い、裕美はあどけなく笑いながら応えた。
「森田君が学校で琴音ちゃんの話をする時に、質問攻めをされると文句を言う中で、そういう名前で言ってたの。…あっ、もしかして嫌だった?」
裕美は途中で私の曇った表情に気づいたのか、少し申し訳なそうにしながら、私の顔を覗き込むように聞いてきた。私は首をゆっくり横に振りながら、でも苦虫を潰したような表情はそのままに答えた。
「…いえ、裕美に対しては文句はないわよ?当然ね?…ヒロったら、そんな訳わからない事を他の人にも言いふらしてるのね」
と私は、曇っているせいで星や月の見えない真っ暗な夜空を見上げ、そこに意地悪くバカ笑いをしているヒロを思い浮かべながら毒づいた。裕美は私の様子を見て、隣りでクスクス笑っていたが、半笑いのまま私に訂正してきた。
「いやいや!森田君は私が知る限り、私にしか話してなかったよ」
「そ、そう?」
「うん。そもそも…」
裕美は私にいつもの意地悪風な笑顔を向けながら続けた。
「前にも言ったけど、アンタはかなり目立つんだから、森田君もあまり簡単に名前を出せないのよ」
「またぁー、そうやってなんでも大袈裟にして」
「いやいや…はぁ、ここまで自覚が無いと、こんなに困らされるなんて思わなかったなぁ」
「何よぉー」
「あははは」
裕美は私が不貞腐れるのを気にせず、一人愉快そうにしていたが、ふと何かに気付いたのか、今度は申し訳無さそうに聞いてきた。
「あっ!…気付いたら、アンタって呼んじゃってたね?変に馴れ馴れしかったかな?」
「へ?」
私は変な気の遣われ方をされて、一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔になって返した。
「…ははは!そんなの今更よ?前から度々私の事を”アンタ”呼びしてたのに」
「え?えぇー、そうだったっけ?」
裕美は本気で驚いているようだった。そして、うなじ辺りをポリポリ掻きながら照れ臭そうに言った。
「いやー、琴音ちゃんじゃ無いけど、結構大人しめで上品な感じでいようとしてたのに、そんな言葉遣いをしていたなんて」
なんて言うので、私は心底呆れたといった調子で言った。
「あのねぇ…あなたはそういう衒わない着飾らないのが良いところなんだから、無駄なことはやめなさい?…まぁ、そもそも出来てなかったけど」
最後は意地悪く笑いながら言い切った。
「…えぇー…ってかそれ褒めてるの?貶してるの?」
言われた裕美は、何とも言えない、どういった反応をしたら良いか戸惑ってる調子で返してきた。最も顔には笑顔を浮かべていた。
「さぁって、どっちでしょ?」
「もーう!」
「…ふふ」
「あははは!」
暗い夜道、明かりの少ない住宅街を私達二人は愉快に微笑みながら歩いた。

「…はぁーあ、ってもう着いちゃうね?」
裕美の視線の先には、もうマンションが見えていた。もう別れる時間だ。
「そうね。…はぁ、じゃあまた明日ね?」
「うん…ほら、そんな顔をしないでよ?明日付き合ってあげるから。…アンタの”なんでなんで攻撃”に」
「あっ!また言ったわね?」
と私が文句を言い切る前に、裕美はマンションのエントランスへ向かって一目散に逃げ込んだ。そして中に入りこちらに向き直ると、大きく手を振りながら大きな声をかけてきた。
「じゃあまた明日ねー!」
私も仕方なく、胸の前で小さく手を降りながら答えたのだった。
「ははは…うん、また明日」

次の日、いつものように裕美と落ち合ってから登校した。会って早々聞こうかと思ったが、流石にちょっと朝一、しかも短い登校時間で聞くことが叶わない事を、ある意味昨日で学習したので、そこには敢えて触れずにお喋りをした。すると裕美の方から察して触れてきた。
「今日姫は静かね?早速質問責めにあうと思っていたんだけど」
裕美は昨日と変わらぬ意地悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。私は大袈裟に肩を落として見せて返した。
「姫って誰がよ?全く…んーん、今はやめとく」
「え?何?」
裕美は心底意外と言った表情で私を見た。
「せっかく裕美とちゃんとお話出来るのに、こんな短い時間で適当に済ますのは勿体なくてね」
と素直な気持ちのままに答えた。すると裕美は私の腕に組んできながら、明るく言った。
「…もーう!本当に琴音ちゃんは相手が嬉しがる事を、ややこしく分かりづらく言うんだからなぁー。もっと子供らしく素直に言ってよぉ」
「いや、私はいつも素直なつもりなんだけど…」
いつまでも裕美が腕を組んでじゃれ合うのをやめないので、少し歩きづらかったが、何故か振りほどく気にはならなかったので、そのままにしといた。
すると後ろから私達に大声で声を掛けてくるのがいた。顔を見なくてもすぐわかる。
「おーい!お前ら道端で何をイチャイチャしてんだよ?」
「あっ、森田くん!おはよう!」
裕美はようやく私から離れると、ヒロに向かって元気に明るく挨拶をした。
「おはよう、ヒロ。今日も朝からうるさいわね」
「おいおい、うるさいとは何だよー。せめて”賑やか”って言ってくれ」
「ごめんなさい。”騒がしい”の間違いだったわ」
「おい、それ訂正出来てないぞ?」
「あははは!」
「おーい!」
向こうから不意に私達に声を掛けてくる軍団があった。見ると、いつもヒロと連んでいる賑やかな男子グループだった。その中にはヒロと同じ野球チームの男の子が何人かいた。
「昌弘ー!何朝っぱらから女子と喋ってるんだよー!ムッツリ!」
「ば、バカ!そんなんじゃねぇよ!…じゃあまたな」
と私達二人に一言言うと、一目散に男子の集団へ向かって駆けて行った。その集団もヒロから逃げるように駆けて行ってしまった。
「…やっぱり騒がしいだけじゃない」
静かになって暫くしてから、私はポツリと言った。隣で裕美はクスクス笑っていた。
「まぁ、そう言わないであげてよ。森田君はあの明るさが取り柄なんだから」
と、ヒロをかばうようなことを言ったので
「…まぁね。あなたとヒロはそっくりだからね」
と意地悪く嫌味のつもりで言った。私はてっきり裕美がブー垂れながら返事してくるものと思っていたが、予想とは違い、裕美は何故かモジモジして、ほんのり赤くなりながら返した。
「…え?そ、そう?私と森田君って…に、似てる?」
「え?え、えぇ…。なんか良く言ってムードメイカーなトコとか」
裕美が予想外な反応を示したので、私も若干戸惑いながら答えた。
「そっか…そっか!」
と独り言を言いながら、学校に向かい一人歩いて行った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
私は慌てて後を追った。もっとも歩きでだったので、すぐに追いつき隣についた。早速そのリアクションの訳を聞こうと思ったが、何故か実際に聞き出そうという気が起きなかった。すっかり感興を削がれてしまった。とここで不意に一つの考えが浮かんだ。早速裕美に聞いてみることにした。
「…裕美は今日、学校が終わった後用事ある?」
「え?今日?うーん…」
裕美は腕を組み目を瞑って、首を傾げながら考えていたが、パッと目を開けると私に視線を合わせながら答えた。
「…うん、今日は大丈夫。習い事もないし」
「そう?」
考えてみたら、裕美が何の習い事をしているのかも、まだ聞いたことが無かった。そんなつもりは無かったが、質問魔の私が聞かないのは、何だか相手に対して興味がないことを表明しているようで、一人で気まずい思いをしていた。勿論興味があったから、機会があればこのことも聞かなくちゃだった。
それは置いといて、私は続きを話した。
「じゃあ、今日放課後私にちょっと付き合ってくれない?…小学生でもゆっくりお話が出来るいい場所があるの」
「へぇー…」
裕美は少し躊躇したように見えたが、すぐにパッと明るい笑顔を見せながら答えた。
「…うん、いいよ!じゃあ放課後校門前で待ち合わせね?」
「えぇ、約束よ」
それから私達は取り止めのない会話をしながら、学校へと向かった。

「お待たせー」
裕美は途中まで誰か、友達なのだろう、女子何人かと途中まで歩いていたが、私の姿を認めるとその子たちに何か言い、手を振ってから私の元に駆け寄って来た。
「うん」
私は校門のすぐ脇にある桜の木の下で、持って来ていた文庫サイズの小説を読んでいた。
裕美は私の手元の本を見ながら言った。
「あれー?今何読んでたの?」
「これ?…これはね」
私は表紙を見せただけで、何かは言わなかった。
 因みにこれは、義一の本棚から借りたものだった。塾に通うようになってから、めっきり義一と話し込む機会が減ってしまったけど、ピアノのレッスンの帰りなどに義一の家に寄って、少しピアノを弾いて見せてから、本を借りていくという習慣が出来上がっていた。貸してあげるとは言われたけど、あまりに本の数が膨大だったので、選ぶのに困っていると、『僕はね、琴音ちゃんくらいの歳からは十九世紀の海外の作家ばかり読んでいたけど…もし参考にしてくれるなら、これから試しに読んでみると良いよ』と義一が色々薦めてきたのを、そのまま従順に読み込んでいった。今はトルストイを中心に読んでいた。
「とるすとい?…あぁ、名前は聞いたことある」
裕美は特に興味はないようだった。私は黙って本をランドセルに仕舞うと、早速裕美に話しかけた。
「よし、じゃあ行こうか」
私は返事を聞く前に歩き始めた。
「ちょっと待ってよー」
裕美が慌てて私の隣に来た。
「もーう、勝手なんだから。…で、今からどこに行くの?」
「え?うん、今からねぇ…」
私は進行方向の先を、漠然と指差しながら答えた。
「今から土手に行くよ」
「…え?えぇー…」
裕美は私が言うと、露骨に嫌な顔をして見せた。想像と違っていたようだ。
「え?嫌だった?」
「いやー…嫌じゃないけど」
と裕美はダジャレか何なのか分からないリアクションを取りながらも、相変わらず微妙と言いたげな顔で返してきた。
そんな顔をされても、他人の迷惑にならずに小学生の身分で友達と深く語らうとしたら、義一とも来た土手しか思い付かなかった。
「でも私達が人目を気にしないでお喋り出来るのは、土手ぐらいしか思い付かなかったんだけど?」
と私が質問調で言うと、裕美は慌てて返してきた。
いや、別に不満があるんじゃないよ?ただ意外だったからさ。そんなに”圧”をかけてこないでよ」
裕美は凍えて寒がっているように、両手を交差させて自分の両肩をさすりながら、大袈裟に怯えて見せた。私は苦笑いを浮かべて
「もーう、ヒロと同じことを言わないでよー」
「ははは、ゴメンゴメン!」
ヒロと似ているということを試しに仄めかしてみたが、裕美は今朝のような意味深な反応を示さなかった。
校門から十分ちょっと歩くと、土手の前まで来た。今日は平日の火曜日というのもあって、人影は疎らだった。もう十一月だから寒くないかと若干不安だったが、この日に限っていえば、風はそよそよ吹くだけで、空には目立って大きな雲も無く、陽射しは燦々と降り注ぎ、中々心地いい秋晴れの日だった。
私は裕美を連れて、義一が度々考え込みに来る、あの土手の斜面まで来た。私は何も言わずその場に尻餅ついた。裕美は服が汚れるのを気にしたのか、少しばかり躊躇していた。確かにこういう日に限って、いやいつもそうだが、可愛い服を着ていた。地べたに座るの?と言いたげだ。しかし私が躊躇いも無くストンと座ったのを見て、諦めがついたのか、あと下はジーンズを履いていたのも手伝って、私のすぐ横に同じように座った。二人して目の前を流れる川を眺めていた。
「…風が気持ちいいね」
裕美はさっきまで土手に来るのも、地べたに座るのも嫌がっていたのに、今ではすっかり満喫していた。一度障害を乗り越えたら、あとはいつまでもネチネチ引き摺らない、そんなサッパリした性格も裕美の美点だった。
「…ね?気持ちいいもんでしょ?」
と私はバタンと斜面に、仰向けに寝っ転がりながら言った。流石に私には倣わず、裕美は両膝を抱えながら答えた。
「ふふふ、そうね!…琴音ちゃんは、よく此処に来るの?」
裕美は私の事を見下ろしながら聞いた。
「えぇ。…ピアノのレッスンの後、ここまでわざわざ来て、しばらく佇んでいるのが好きなの」
義一の事は話さなかったが、嘘は言っていない。
「へぇ…」
裕美はまた川の方へ視線を戻しながら言った。
「中々乙な事をしているのね?…」
と言うとまたこっちに顔を向けた。顔は今から悪戯を仕掛けてきそうな表情だ。
「アンタ…本当に小学生?」
「…あなたもね?普通”乙”なんて言葉、日常会話で使わないわよ?」
「…誰かさんの影響かもね?」
「…ふふふ」
「あははは!」
私達は一瞬間を置いた後、お互いその姿勢のまま笑いあった。

「さてと…何で土手に来たんだっけ?」
私は惚けて言ってみせた。裕美は私にジト目を流しながら、不満げに答えた。
「…ふふ、ちょっとー、勘弁してよぉ。私に何か聞きたいことがあったんじゃないのぉ?」
裕美は最後まで固い表情を保てず、結局最後はニヤケながら非難してきた。私も思わず吹き出してから、平謝りして、それから質問することにした。
「いやね?やっぱり気になるじゃない?そのー…自分の夢を語ると、えぇっとー…ダサいだっけ?今考えてみてもよく分からないのよ」
「よく分からないって言われてもなぁ…昨日言ったまんまだし…やっぱり琴音ちゃんは」
裕美は未だ寝っころがっている私の方を、両膝に自分の顔の片側を乗せながら笑顔で言った。
「普通の子とは違うね。少し…いや、大分変わっている」
言われたこの時、私は苦笑いを浮かべていた。だが、正直色んな意味でがっかりしていた。早合点していたのだ。久しぶりに幼稚園の頃、先生やお母さんに失望されたのを思い出していた。確かにまだそんなに付き合いが長いわけでもないのに、あまりに急に”私”を曝け出しすぎたのかもしれない。最近、義一に始まり、絵里さんという、言い方が難しいが、どちらかと言えば”普通”に属する人に受け入れられたという出来事が、根拠のない自信をいつの間にか私に植え付けてしまっていた様だった。
「変わってる」と言われたこの瞬間、頭の中をこんな考えが巡り巡って、悪い方悪い方へと泥沼に向かうように気分が落ち込んでいくのが、自分の事なのに客観的に感じられた。
正直疎遠気味になった、昔の仲良しグループの女子達に、現時点でどう思われようと、どうでもよくなっていたが、今裕美にまで離れられたら、正直自分が真っ直ぐ立っていられる自信が全く無かった。ということにこの時気付いたのだった。
「…ちょっとー、それは言い過ぎじゃない?傷つくわぁ」
今まで考えていた事を悟られない様に、私はワザと大袈裟に不満げに見せて言った。裕美は当然冗談だと思っているので
「いやぁ、変わっているよー」
と繰り返し言った。私はここでも早合点してガッカリしていたが、裕美はその先を続けた。私に微笑みながら。
「…まぁ、変わっているからこそ”面白い”んだけどねぇー」
「…え?」
私は思わず上体を起こすと、裕美の顔を凝視した。裕美は構わず続けた。
「琴音ちゃんは面白いよ。今まで私の周りに全くいなかったタイプだもん。そりゃたまにキッツいこと言うなぁって思う事もあったけど、他の子と一緒に居ては得られない…うーん、感情っていうのかな?なんか私の中に湧きあがる様な気がするんだ。…また繰り返すのは馬鹿バカしいんだけど、クラスで私の周りに集まって来る同級生達、…まぁ悪い人は居ないんだけど、その分というか…みんな同じ反応しかしないから”ツマラナイ”のよ。で、繰り返すようだけど琴音ちゃん、アンタは私が付き合ってきた人の中で、とびっっきり面白い人なの!予想外な反応しかしない点でね!…ってあれ?」
裕美はここまで言うと、急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤に赤らめながら続けた。顔が赤いのは夕陽のせいでは無かった。
「…もーう!琴音ちゃんがそんなだから、いつの間にかこんな恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!いつもなら絶対に言わないのに、もう最悪ー!」
裕美は私から顔を背けて、反対側に向けてしまって動かさなかった。
私は今のを聞いて、まず最初に絵里のことを思い浮かべた。二人が話しているのを見て、直感的に二人が似ているとは思っていたが、まさかここまで親和性があるとは思わなかった。という理屈は置いといて、勿論素直に、裕美が私の事をそう形容してくれたことが嬉しかった。私が他人に対して隠し通そうとしてきた本来の”私”。それを誰もが”変”と一言で片してしまうのを、裕美は面白がってくれていた。
正直この時私は、そっぽを向いている裕美に、自分でもよく理由が分からなかったが、無性に抱きつきたかった。でも流石にそこまで恥ずい事は、裕美の言葉じゃないけど出来なかった。
代わりにただ一言ボソッと言っただけだった。
「…裕美、ありがとう」
「だーかーらー!」
裕美は勢いよく私に振り向くと、不満を顔全面に示しながら言った。
「そういう恥ずいのはナシだって!…もういいでしょ!この話は終わりー!」
裕美が強引に話を終わらせたので、私も微笑みながら従った。
「で?何の話だっけ?…あぁダサいがどうのって」
「そうそう。でもまぁそれは分かったわ。理解は出来ないけど」
と私は一人勝手に打ち切った。
「またこの子は…そんなややこしい言い回しして」
裕美は文句を言っていたが、顔は笑顔だった。私も笑顔を返していたが、今度は唐突に裕美の方から私に質問してきた。
「私ばっかりズルイよ。今度は私の番ね?」
「何よ?」
裕美はさっきみたいに、顔を膝に当てながら聞いた。
「…琴音ちゃんの将来の夢は何?」
「…え?」
私が聞き返すと、裕美は背筋を伸ばして私と視線の高さを同じにしてから続けた。
「だって、私だけ将来の夢、お医者さんになりたいって喋ったのに、琴音ちゃんだけ話してくれないのは不公平よ」
「不公平って、あのねぇ…でも、言われてみればそうか」
私は裕美の言い分に納得して、初めて考えてみた。というのも、正直自分の事なのに一切考えてみたことが無かったからだ。いつも周りの事象に対して疑問を感じ追いかけるだけで、肝心要の己自身をほったらかしにしていた。だから受験についても、未だに同い年の子達と比べて、何も考えていないに等しかった。
でもいくら考えても、というより今急に考えてみても何も思いつかなかった。周りについて疑問に感じて興味を持っても、それはポジティブな興味というより、ネガティブな所からスタートしているが為、自分なりに結論が出ると、途端にその事について興味を失くしてしまう。遊び飽きるまでそのオモチャで遊んで、仕組みが分かったらもう遊ばなくなるのに似ていた。飽きたらもう一切手をつけない。ある意味幼稚性とも言えた。
ピアノは数少ない、飽きないどころか、やればやるほど奥深く、なかなか抜け出せない底なし沼のような魅力で私の心を掴んで離さなかったものだった。『その事について知れば知るほど、分からなくなる』最近義一に借りた本の中で、詩人のゲーテが言っていた。私の好きな言葉の一つだ。まさに私にとってのピアノそのものだった。前に一度言った通り、人前で弾くのは心の底から嫌だった。繰り返しになるが、自分の体を人前に、動物園のお猿さんのように晒すくらいなら、冗談じゃなく死んだほうがマシとさえ思っていた。だから、ピアノはやり続けたくても、職業としてはそれでは成り立たないので、いわゆる”将来の夢”からは除外せざるを得なかった。
とまぁ、こんな感じのことをウンウン唸りながら考えていた。が、ふと一つの考えが浮かんだ。裕美は私の顔の変化を読み取ったのか、私に改めて質問してきた。
「…あっ、何?何か見つかった?」
裕美は目を輝かせて、興味津々具合を顔中で示しながら言った。
「えぇ。…でもあなたの言う将来の夢とは違うかもだけど」
「もーう!勿体ぶるの禁止ー!早く教えて?」
裕美が急かすので、笑顔の表情そのままに答えた。
「…先に言っとくけど、将来の夢…つまり将来就きたい仕事が今はないの」
「え?じゃあ…」
「いえ、最後まで聞いて?」
「う、うん…」
裕美は訳わからないって顔で私を見ていた。私は構わず続けた。
「私はねぇ…将来こうなりたい人ならいるわ」
「…え?」
裕美はますます訳わからないって顔を深めて私を見た。頭の上に実際にハテナマークが見えるようだった。
「…それって、将来の仕事には関係ないの?」
「うーん…どうだろう?今の世の中では無いかな?」
「えぇー…じゃあ未来にはあるの?」
「多分…無いと思う」
「何それぇー。じゃあ過去にはあったって言うの?」
私はそんなつもりはなかったが、裕美としては考え得る答えとは掛け離れていたらしく、また私の答えが要領を得ないと感じたのか、焦ったそうに聞き続けてくる。
「うーん…」
この時私は、義一の書斎の本達のことを思い浮かべていた。
「…そうね。過去には幾らかあったかも」
「あったかもって?」
「…簡単に言えば、その職業はほぼこの世から消え去っているんだもの」
私は対岸の方、太陽との逆光で真っ黒に遠くで聳え立つ、ビル群を見つめながら答えた。
「…えぇー、訳わかんなーい」
裕美は今まで表情で表していた感情を、ようやく言葉に翻訳して口から出した。私は顔を見なかったが、ブー垂れていたことだろう。と、裕美は両手を後ろにして土手に手をつき、真上を見上げながら、しょうがないといった調子で言った。
「…まぁ、それでいいわ!琴音ちゃんがこういうことで、ふざけて茶化して私をからかうような真似をする、軽薄な人じゃ無いことはよくわかっているからね!」
裕美は私に顔をくしゃっとした、愛嬌のある満面の笑顔を向けた。私は何も言わず、同じような笑顔を返すだけだった。そろそろ日が暮れる。
「さぁってと!」
私はおもむろに立ち上がると、伸びをしながら裕美に話しかけた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「ふふふ、そうだね」
私達はお互いに身体中、特にお尻辺りをはたき合って埃を払い、二人仲良く並んで家に帰る事にした。空は薄っすら暗くなって、宵の明星が西天に輝いているのが見えたが、まだ遠くの区役所からアナウンスが聞こえないところをみると、まだ五時にはなっていないようだった。
「そういえば、絵里さん…あの司書さんがいる図書館に、今週の土曜日勉強しに行こうと思うんだけど、裕美はどうする?」
「え?今週の土曜かぁ…」
裕美は視線を上にして、何か頭の中のスケジュール帳を見ている風だったが、私に視線を戻すと、両手を顔の前で合わせて、目をギュッと瞑りながら応えた。
「…ごめん!今週も習い事で忙しくて行けないわ。また今度誘ってよ」
「えぇ、それは構わないけど…」
おっと、忘れるところだった。
私は自分に課した使命を思い出し、それを裕美にぶつけて見る事にした。
「今までそういえば聞いた事なかったけど…あなたの習い事ってなんなの?」
「え?」
裕美は大袈裟に仰け反り、驚いて見せた。今私達がいる通りが、人気がなくて助かった。
私は仕返しとばかりに、裕美に詰め寄った。
「ほらー、あなたは私がピアノをしてるって知っているじゃない?でも私は知らない。これって”不公平”なんじゃないかなー?」
と私がニヤケながら言うと、裕美は照れ臭そうにいつもの癖をしながら返した。
「まぁそうねぇ…不公平かぁ。こんなに早く”ブーメラン”が帰ってくるとは思わなかったわ」
「ふふ」
私は一人笑っていたが、今度は裕美もニヤケながら私に顔を近づけてきてから言った。
「ほんっっとに私の事を知らないのね?」
とだけ言うと、裕美はゆっくりと歩き始めた。私も慌てて合わせて歩いた。
「何?それってどういう意味?」
私が質問すると、裕美は笑顔を絶やさぬままに返してきた。
「そのまんまの意味よ。…そうねぇ」
裕美は今度は顎に人差し指を当てて、トントンと何度か叩いていた。と、何か思いついたのか私の方へ向き直り、笑顔で話し出した。
「ヒント!…私がなぜ琴音ちゃんを知っていたか?」
「ヒ、ヒント?っていうか、いつ問題出したのよ?」
と不平を述べたが、もちろん裕美の真意をそれなりに察したので、そのまま考えてみた。すぐに結論は出た。
「…あなたが言うには、私が目立っていて、それに合唱コンクールで私がピアノを弾いたってことよね?」
「そのとおーり!」
裕美はまたまた大袈裟に反応して見せた。
「…ん?つまり、どういうこと?」
と私が未だ分からずにいると
「ブッブー、時間切れー、タイムアップ!残念でした!」
と裕美はさっきと同じテンションで言い放った。私は膨れながら言った。
「何よー?じゃあ一体なんだって言うの?」
私が不満を露わに返したが、裕美はさっきまでのテンションとは打って変わって、頭を何度もゆっくり左右に振りながら答えた。
「やれやれ…この姫は下界のことなんぞ興味を示されないんだからなぁ」
「ちょっと、どう言う意味よ?それにその”姫”って言うの、固定化しようとしないでよ」
と言う私の抗議は、裕美の耳には一切届かないようだった。
「あのね…自分で言うのが恥ずかしいから、色々とヒントを出したんだから、そろそろ察してくれてもいいんじゃない?」
「え?あ、うん。ご、ごめんなさい?」
裕美がジト目でまた顔を近づけてきながら言ったので、私は訳もわからぬまま一応謝った。すると裕美は、それで一応満足したのか、人懐っこい笑顔に戻って話し始めた。
「しょうがないなぁ…去年の十二月!全校生徒の出る朝の朝礼!…それでも分からない?」
「…朝礼?十二月?うーん…」
何かあったっけ?…あぁ、なんか誰かが体育館の壇上に上がって、校長先生から表彰されてたっけ?あの時のことを言いたいのかな?
「…誰かが、なんか朝礼で表彰されてたような…」
「私」
「…え?」
裕美を見ると、自分の顔に指を差しながらアピールしていた。
「え?じゃなくて私よ、わ・た・し!もーう、そりゃ私を知らない訳だわー」
裕美は先程と同じく何度も首を左右に振りながら言った。
「あっ、そうだったの。へぇー…で、なんで表彰されてたの?」
「…もーう!」
裕美は短髪の頭の側面をゴシゴシと乱暴に掻いて見せたが、ふと掻くのを止めて、苦笑いを浮かべながら私に答えた。
「それはそうね。私が壇上に上がったことも知らなかったぐらいだもん、中身を知ってる訳ないか。あれはね…」
裕美は一瞬口籠もったが、絞り出すように言い切った。
「…去年のその時、私東京都の東部ブロック水泳大会で、女子十歳の部で”最優秀選手賞”っていうのを貰ったの」
「…へ?…えぇーーー!」
私は我ながら大きなリアクションだと思ったが、正直心の底から驚いたのだから仕方がない。思わず大きな声を出してしまった。人通りが無くてよかった。
裕美は妙に恥ずかしがっていたが、私の反応を見て、満足そうにしながら続きを話した。
「だから私が何の習い事をしてるかっていう問題の正解は、”水泳”でしたー」
「へぇー…水泳だったんだ」
私は感心していたが、ふと今更ながら気付いた。裕美は絵里の髪型を見て、愛着が湧く意味も含めて”キノコ”と称していたが、裕美の頭もそれに擬えれば”イガグリ頭”だった。それほどに短髪だったが、それが妙に、初めて見た時からだからかも知れないが、裕美によく似合って見えた。
でもそうか…短髪なのは水泳の為なのか。
他の水泳をしている女子がどうかまでは知らなかったが、私の中でこの二つを合わせると、キレイにパズルが合わさるようにシックリと嵌った。
「なるほどねぇ…っていうか凄いじゃない!」
私は裕美の肩をポンポンと何度か軽く叩きながら言った。
「要は都大会で優勝したようなものでしょ?何で言ってくれなかったの?」
と私が熱っぽく聞くと、今まで私が興奮しているのを見たことが無かったせいか、裕美は私をポカンと間の抜けた表情で見つめていたが、我に返り苦笑まじりに、言いづらそうに答えた。
「い、いやー…だってぇー…。今更去年の事を持ち出して言うのはダサいし、恥ずかしいじゃない?なんか昔のことを引き摺って偉ぶるみたいで、そんなの嫌でしょ?だから去年表彰されたけど、自分からは絶対に言ってやるもんかって、変に意固地になっていたの」
言い終えた裕美は、汚い話、何かを吐瀉した後のような顔つきでいた。私の方は、裕美の意外な一面、もちろん水泳をしていて、しかも優勝するほどだというのにも驚いたが、何より裕美の考え方に強い共感を覚えていた。
「…あなたの言う事はわかるけど、でも水泳をしてるって事くらい、教えてくれてもいいんじゃない?」
と私が言うと、裕美はバツが悪いというような表情を見せて、相変わらず言いづらそうに答えた。
「うーん…何て言うのかなぁ?…今だに同級生には『水泳頑張って!』みたいな、事あるごとに口先だけの応援を言ってくれる人が結構いるのね?…ちょっと嫌な言い方しちゃったかもだけど。琴音ちゃん相手だから隠さず言うけど、中には『まだ水泳頑張ってるの?』みたいな声をかけてくる人もいるのね?本人は悪気が無い…いや、”悪気すら無い”って言った方が正しいかも。…とにかく、私が何かにつけて冗談で『私は目立つし、顔が知られていて有名』みたいな事を言ったと思うけど、理由としてはこれだったの。ねっ?ある意味琴音ちゃんと共通点があったでしょ?」
「え、えぇ…」
私はそれよりも、意外と言っちゃあ悪いと思うけど、裕美が自分のことを私が思う以上に客観的に見れていることに感動していた。
「でもね…」
裕美は続けた。
「琴音ちゃん、今日も含めて昨日の電車の中とか…んーん、初めて会話をした時にも薄々感じていたけど、アンタと話す時には自分を全部晒してもいいんじゃないかって思えたの。他のみんなみたいに、クラスの中心にいる”自分”を演じなくても良いってね?」
「え?じゃあ尚更…」
私はすかさず間にツッコミを入れた。
「そう思ってくれたんなら、さっさと話してくれれば良かったのに」
と言うと、裕美は少し何故か寂しそうな顔をして答えた。
「…うん、その通りなんだけど、さっき話したでしょ?この水泳の話をすると、何も分からない、何も分かろうとしない人達が寄ってくるだけって。…そんな話を琴音ちゃんとは…んー、何となく…し辛かった…のかな?」
「裕美…」
と私が言いかけると、裕美は途端にまた顔を真っ赤にして、アタフタしながら
「…ほらー!また恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!今日はこんなのばっか!」
と言うと、またソッポを向いてしまった。私は微笑んでその様子を見ていた。

「じゃあ、今週だけじゃなく先週の土曜も無理だったのは…」
「そう。私が所属する水泳クラブに行ってたの」
私達はまた帰宅の途についていた。裕美は何の気もなしに答えていたが、心なしか表情が晴れやかに見えた。ついさっきあんな話をしていたからだろうか。
「でね?」
裕美はもう私が聞かなくても、自分から話してくれていた。
「さっき私は去年、十歳の部で最優秀賞を貰ったって言ったでしょ?」
「えぇ」
「今年も大会に勿論出るつもりなんだけど、私達って今十一歳じゃない?だから去年の部は当然出れないから、また別のに出るの。それはね…」
裕美はここで一度溜めてから、また続きを話した。
「女子十一歳から十二歳の平泳ぎに出るのよ。…だから」
裕美は私をチラッと見て、すぐに進行方向に目をずらした。
「もう大会がすぐそこだから、今必死に最後の追い込みをしているの。…来年は受験だから、小学生最後になりそうだしね?」
裕美はそう言うと、照れ隠しなのか、大きく伸びをして見せた。
「…ねぇ?」
「んー?何?」
「その大会っていつなの?」
「えーっと…今月末の日曜日だけど?」
「…えぇーー!もうすぐそこじゃない!」
「だから言ってるでしょ?」
裕美は私が興奮しているのを、戸惑いながら苦笑いを浮かべていた。
今月末の日曜日かぁ…うん、よしっ!
「…それって、関係者以外の人も見に行って良いの?」
「え?…あー、うん、多分大丈夫だったと思うけど?」
それを聞いて、私は決意を固めた。
「…私、その大会観に行っても良いかな?」
「…え?」
戸惑いを隠せない裕美を他所に、私は畳み掛けるように言った。
「だって、そんな話を聞いちゃったら、俄然興味が湧いてくるじゃない!しかも小学生最後って言うし!…ねぇ、ダメかな?」
こう言っている間、私は勝手に裕美と自分を重ね合わせて見ていた。最も私は先生に薦められながらも、何度も話しているあの理由で、結局一度も小学生のうちにコンクールには出なかった。これも言ったと思うけど、若干先生の事を思うと、一度くらい出れば良かったと、極端に言えば後悔していたとも言えなくもなかった。
それを目の前にいる裕美は、ジャンルは違えど必死に自分の好きな事に全力で努力をして、しっかり結果を残し、それに慢心せず、こうして今また大会に向けて頑張っている。身勝手だけれど、今更何言うかと思うかもしれないけど、私はこの目で裕美の泳いでいる姿を見たいと、心の底から欲していた。
「…いやぁ…うーん」
中々裕美が煮え切らないので、私はダメ押しで詰め寄り、まっすぐ強い視線を裕美に向けながら頼んだ。
「…裕美、お願い」
「ーーーーーーっ!」
裕美は私があまりに近くに寄ってきたので、両手を前に出し、どうどうと私を宥めるように押し出した。それでもなお、私が見つめるのを止めないでいると、裕美は俯き大きく溜息つきながら答えた。
「…はぁー、わかったよ!琴音ちゃん、是非観に来てちょうだい」
「裕美、本当に良いのね?」
私が重ね重ね念を押すように聞くと、裕美は苦笑交じりに返した。
「本当も本当!それに姫にあんな顔で頼まれたら、女の私でも折れずにはいられないからね」
「ふふ、ありがとう」
裕美が言った軽口は無視して、素直に礼を言った。

それから色々水泳についてのアレコレを裕美に質問攻めしながら聞いた。最初の方は参っていたようだが、やはり好きな水泳、しかも私が自分で言うのは何だけど、熱心に興味を示して聞いてくるので、途中からは裕美自ら聞いていない事まで詳しく話してくれた。
ふと頭には、義一に野球について熱く語っていたヒロの姿がよぎっていた。

また私は一つのことを改めて再認識した。私は誰かが本気で好きだというものを語るその話が、ジャンルを問わず好きだということだ。大抵の人は、自分でアレコレ好きだと言っても、色々聞き出そうとすると、口を噤むものだ。あまり多くを語らない、言挙げしないのが美徳だという、我々日本人の本能的な点に由来するのかも知れない。だから私はある意味日本人らしくないのかも知れない。それでも私は繰り返すようだけど、この子供の頃からそういった話を聞くのが大好きだった。
私の個人的な考えで言えば、本当に本気で好きな物、好きな事があるとして、それについて色々訊かれたら、周りが引こうとも、止めに入って来ようとも、堰を切ったように、いかに自分がその事についてどれだけ好きかを話し続けちゃうもんだと思う。周りを気にしないくらい盲目的になる、これが本気で好きだと自ら言えることの条件だろう。

「じゃあ、また明日ね」
「えぇ、また明日」
私達は裕美のマンション前まで来ると、そこで二人でお互い笑顔で手を振りながら別れようとした。私が背を向けて自宅へ帰ろうと歩を進めると、背後から絵里が声をかけてきた。
「琴音ちゃーん!」
「え?何?」
私が振り返って裕美を見ると、裕美との距離はまだ数メートル離れていただけだった。まだマンションの敷地内だった。裕美はわざわざ私の元まで走り寄ってきて、私に話しかけた。
「言い忘れていたわ。その大会ね?去年も応援に来てくれた人が一人だけいるの。その人も今年来てくれるみたいなんだけど…良いよね?」
「えぇ、もちろん!仮に嫌だとしても、私がダメとか言う権利なんかないわよ」
私は少し苦笑気味に、でも笑顔で返事した。裕美はホッとしたような表情だ。
「そう?良かったぁ」
「で?その人はどんな人なの?」
と聞くと、裕美はニヤッと意地悪く笑いながら答えた。
「それはねぇ…」


「よう!遅かったな」
十一月の最後の週の日曜日の昼前、私が地元の駅前の待ち合わせ場所に着くと、ヒロが腕を組んでむすっとした表情で迎えてきた。上は無地のTシャツと下はジーパン、手ぶらで来ていた。私は前にお母さんから貰ったオレンジ色のミニボストンを持って、上は白と黒のストライプ柄の厚めなカーディガン、下は暗いワインレッドのロングスカートを穿いていた。
私もむすっとした顔を返しながら言った。
「…はぁ、本当にあなただったとは」
「それはこっちのセリフだぜ」
私達が二人で軽口を言い合っていると、その後ろで一緒に来ていた私のお母さんとヒロのお母さんが、笑顔ではしゃぎながらお喋りをしていた。
「あら、久しぶりね瑠美さーん!」
「久しぶりー」
「早速で悪いけど、今日はお願いね?」
ヒロのお母さんは私のことをチラチラ見ながら、お母さんに向かって言った。
「えぇ、任せといて!私も久し振りにヒロ君と一緒にいれて嬉しいわ」
同じ様に私の事を見ながら答えていた。
あの後お母さんに今日の事を言うと、最初は意外そうな顔で、私の顔を凝視していたが、すぐ後パァっと笑顔を咲かせながら、食い気味に根掘り葉掘り裕美について聞いてきた。説明すればするほど、お母さんは裕美に会ってもないのに、好感を持つ様だった。そして、ヒロのことも説明した。一緒に観に行くという旨だ。すると早速お母さんはヒロの家に電話して、今日の事を聞き出していた。丁度というか、ヒロのお母さんは去年はヒロに付き添って大会を見に行った様だが、今年はどうしても外せない用事があったとかで、仕方ないから他の信用できる親戚か誰かに付き添いを頼むつもりだったらしい。するとお母さんが率先して”子守”の役回りを引き受けたのだった。
「じゃあ、よろしくー」
ヒロのお母さんは去り際に私とヒロの頭を優しく撫でてから、どこかへ行ってしまった。
「…さて!行きましょうか」

私達は早速電車に乗り、二、三度乗り換えて、いわゆる湾岸エリアにある大きな水泳競技場に着いた。会場前の辺りは既に多くの人でごった返していた。
早速裕美から貰ったパスを係員に見せて中に入り観客席に着くと、見たことのない様な大きなプールがデンとあり、すでにその中を何人かが泳いでいた。大会自体はもう始まっていた様だった。裕美が出る部はまだだった。
「…はぁ、初めて来たけど、こんな感じなのね」
私がボソッと言うと、隣に座ったヒロが何故か誇らしそうに話しかけてきた。
「だろ?俺は去年もここに来たんだぜ!」
「…なんであなたが自慢げなのよ?」
「お待たせー」
お母さんが何処かにある自販機から私達二人の分の飲み物を買って戻ってきた。私は焙じ茶、ヒロはコーラーだ。
「ありがとう、おばさん!…おいおい」
ヒロは丁度私が飲もうとしているところを、苦々しげに見ながら言った。
「お前は相変わらずそんな苦い物を飲んでんのかよ?渋すぎ」
「あなたが子供舌なだけでしょ?」
「…そういやよぉ?」
ヒロはコーラーを、炭酸だというのにグビグビ飲むと、一息ついて私に話しかけた。
「お前スポーツ見るの興味なかったんじゃないのか?」
「…え?」
私は掲示板に表示されている、ローマ字表記の”HIROMI TAKATOO"をジッと見ていたので、急に振られて何言われてるのか分からなかった。
「何て?」
「だからよぉ…」
ヒロは何故か言いにくそうだ。何か納得いかないといった調子で続けた。
「今回高遠にお前が来るって聞いてよ、すっっごく意外だったんだわ」
「うーん…話が見えてこないんだけど?」
「だーかーらー!」
ますますヒロは不機嫌になるばかりだ。お母さんは隣で微笑ましげに私達のやり取りを見ている。
「…俺の試合には一度も見に来てねぇじゃんか」
「…あっ、そういえばそうね」
私はとぼけて見せた。
「そういえばって…お前なぁ…」
「あははは!ごめんなさいね、ヒロ君?ウチの娘がこんなんで」
堪えきれなくなったのか、お母さんは吹き出し、ヒロに笑顔を向けながら”何故か”謝っていた。ヒロは途端にお母さんに対して恐縮していた。私は無視して視線を掲示板に戻した。

そんなくだらないやり取りをした後、久し振りなせいか、お母さんはやたらとヒロに話しかけていた。ヒロも”外面良く”返事したりしている。私は黙ってお茶を飲みながら、今か今かと待っていた。
しばらくするとアナウンスが流れた。裕美が出る試合だ。アナウンスがあった後少し間が空いた後、ラップタオルや巻きタオルを巻いたままの女の子達がぞろぞろプールサイドに入って来た。目を凝らして見ると、グレーの地味めなラップタオルを身に付けている裕美がいた。
「おーい!高遠ー!頑張れー!」
隣でヒロは急に立ち上がると大声で叫んだ。出場者の親御さんやらなにやらが、ヒロの事を見て笑っていたが、その後ヒロに続く様に各々が十人十色な声援を掛けていた。
…なるほど、こういう時はこいつの底抜けの騒がしさが役に立つのか。
妙に感心しながらも、特に私はノらず、ジッと座席に座って裕美を見つめていた。各々がタオルを脱いで、競泳水着姿になると、腕を伸ばしたり準備体操をしていた。裕美を少しも視線を逸らさず見ていたが、裕美は会場の歓声など聞こえてないかの様に黙々と準備をしていた。只の準備なのに、私はすでにその姿に見惚れていた。
アナウンスでスタートの体勢をとる様に言われると、裕美含む数名の女子が数字の書かれた飛び込み台の上に立ち、飛び込む体勢を取り、スタートの合図を待った。私まで緊張感が伝わって、いつの間にか両手をキツく握りしめていた。少しの間、さっきまでの喧騒とは裏腹に、会場はシーンと静まり返っていた。
すると、なにやら機械音が聞こえて…

突然だが、ここで話を区切るのを許して欲しい。正直本論とは逸れてきているし、それに何より…このまま話すと裕美の頑張りを、”私の話”の味付け程度の扱いにしかねない。…それは私としては耐えられない事だ。そのー…大切な友達として。もし機会がある様なら、何処かで別に裕美自身の話を、私の知る限りに置いて、改めて話そうと思う。
ただこれだけだと中途半端だから、一つ、ヒントになるかならないかという補足を一つ言わせて頂くと、試合が終わり、裕美から貰ったパスのお陰で、関係者以外入れないロッカールームに入れたので、男子のヒロには外で待って貰って、私とお母さんで会いに行った。丁度プールサイドから帰ってきた裕美とロッカールームの外の廊下で出くわした。水泳キャップを取ったひろみの頭は、短髪のせいか、アチコチに無造作にピョンピョン跳ねて爆発していた。試合が終わったばかりなので、身体中から水が滴っていた。
裕美は私の姿を認めると
「…琴音ちゃーん!」
と大きな声で私の名前を呼んだ。最初は笑顔だけだったが、見る見るうちに目元に涙が溜まっていき、遂にダムが決壊した様にタラタラと両眼から止め処なく流れ出した。でも相変わらず笑顔のままだったので、言い方がいいかどうか分からないが、泣いてるのか笑っているのか判断しずらいクシャクシャな顔だった。
「…裕美、頑張ったわね」
私はこういう時、どんな言葉を掛ければいいのか皆目検討がつかなかったので、色々短時間で考えた挙句、結局月並みだけど、その様なことを言って優しく微笑みかけた。
私の言葉を聞くと、裕美は私の元に駆け寄ってきて、そのまま私に抱きついてきた。若干私の方が身長が高いせいか、私の胸に顔を埋める形になった。私はまたこういう時どうすればいいのか知らなかったが、知らなくとも無意識に、でも恐る恐るそーっと裕美の背中に腕を回し、私も抱きしめ返した。まだ水分を多分に含んだ競泳水着越しにも分かる程、裕美は小刻みに震えていた。私はなにも言わず優しく背中をさするだけだった。
しばらくして私達二人は離れた。と、裕美が私の服を見て「あっ!」と言ったので、私も自分の胸元を見て見ると、考えなくても当たり前だが、まだ水着姿の裕美と抱き合ったせいで、私の服の上が水浸しになっていた。下のワインレッドのロングスカートも、まぁ…いわゆる”おもらし”でもしたかの様になっていた。近くでずっと私達の一連の様子を、黙って微笑みながら見守っていたお母さんも「あっ!」とだけ声を漏らした。
裕美はさっきまでとはまた違った、申し訳なさを顔中に浮かべながら私を見ていたが、私はスカートを大袈裟に広げて、無言で裕美に濡れてる部分を見せつける様にしてから、パァッと渾身の満面の笑顔を浮かべて見せた。そんな笑顔でいる私の様子を見た途端、裕美もつられて同じ様に満面の笑みを返してきたのだった。お母さんも満足そうに笑っていた。

今話せるのはこんなところだ。裕美の試合の結果については…秘密だ。ご想像にお任せする。

それからは着替えた裕美に自分が所属する水泳クラブの面々を紹介してもらい、また気付かなかったが、裕美の後ろに先程から立っていた人が、実は裕美のお母さんだと教えてくれた。ビックリするくらい裕美にソックリだった。似ている点をあげるとキリがないほどだったが、まず最初に目についたのは、裕美と同じ様に頭を短髪にしていたことだった。普通お年を召した女の人には中々似合わない髪型だと思うが、しつこい様だけど裕美とそっくりなせいか、よく似合っていた。裕美と同じで体育会系なのだろう、スラッとしていて無駄な贅肉が削ぎ落とされているように見えた。
裕美のお母さんは私のことを裕美に紹介されると、急に私の両肩を掴み軽く揺すりながら「君が琴音ちゃんか!裕美が言ってたように、本当に可愛いね!いつも裕美から話を聞いてるよ」とテンション高めに話しかけてきた。「ちょっと母さーん!やめてよー!」と裕美が心底困ったといった調子で返していた。私とお母さんは顔を見合わせると、クスッと笑いあったのだった。
ヒロと合流して、そのままの流れで競技場近くのファミレスに入って、軽く雑談したりした。せっかくの大きな大会に参加した後だっていうのに、随分打ち上げが質素だと思われるかも知れないが、これは聞かなくてもクラブの人が教えてくれた。この人が裕美のコーチだった。大会の成績がどうなるか、当日にならないと分からないから、本格的な打ち上げはまた後日ちゃんとするんだそうだ。「あなたもどう?裕美の友達なら歓迎よ?」と誘って貰ったが、丁寧に断った。裕美の大事な”居場所”を土足で入り込む程には、さすがの私も厚顔無恥では無かった。
 地元の駅まで皆んな揃って帰った。駅前の時計を見ると五時をちょっと過ぎた辺りだった。そこで他のクラブの人とは別れた。お母さんは駅前のスーパーで買い物をしてから帰るというので、私と裕美と裕美のお母さん、そしてヒロとで帰ることになった。駅に近いところに住んでいるヒロとは、自宅である一軒家の前で別れて、残る三人で帰ることになった。
裕美のマンションが見えるところまで来たが、ふと裕美は立ち止まり、私の方を見て話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、この後少し時間ある?」
「…え?えぇ、大丈夫よ」
「母さん」
裕美は私の返事を聞くとすぐにそのまま、今度は自分のお母さんに顔を向けると聞いた。
「…少し琴音ちゃんと、公園でお喋りしてっていい?」
裕美が指差した先には、遊具の無いこじんまりとした、公園と言うより猫の額ほどの広場があった。
「…えぇ、良いわよ?あまり遅くならないようにね?」
裕美のお母さんはそう言うと、今度は私に近寄り、先程みたいに私の肩を掴んで優しく微笑みながら言った。今度は揺らされなかった。
「じゃあね、琴音ちゃん!今度ウチに遊びにきなさいね?遠慮せずにいつでも良いから」
「…はい、必ず」
私も微笑み返しながら答えた。裕美のお母さんは満足そうに頷くと、私の肩から手を離し、そのまま何も言わずマンションの方へと行ってしまった。でも去って行くとき、振り返らずも手を振り続けていた。
「…なんか裕美のお母さんって、カッコイイね?」
素直な感想を裕美に言った。裕美はそれを聞くと、苦笑交じりに返した。
「…まぁ…ね?あの歳になってもカッコつけてるから」
裕美はそれから何も言わず公園の中に入って行った。私も後に続いた。
「…私ね、いつも水泳の練習後そのまま家に帰らず、一度このベンチに座ってボーッとしてるの」
裕美は二つしかないベンチの一つに座りながら言った。私も適当な距離を取って隣に座った。
「へぇ、そうなんだ?」
「うん。…水泳ってやっぱりすごく疲れるでしょ?大会前の練習なんか特にでね。でも終わってここに座ってボーッとしてると…」
裕美は言いながら真上を見上げた。そこにはベンチの裏に植わっている大きな木が、ベンチの上に屋根を作るように枝を縦横無尽に張り巡らしていた。この小さな公園は、その規模の割に大きな木が何本も植わっていた。幹の太さで予想するに、どれも樹齢が何年も経ってそうに思えた。
「気持ちいいのよ。程よい気だるさも手伝ってね。…まぁでも」
裕美は顔を戻し私の方を見ると、いたずらっぽく笑いながら続けた。
「夏になると毛虫が落ちてこないかヒヤヒヤなんだけどね?」
「ふふ、そうなんだ」
今度は私が真上を見ながら答えた。もう冬が近いからか、枝しか無かったが、それでも密集具合が凄かった。空が見辛いほどだ。
「…今日は応援に来てくれてありがとうね?」
「え?…うん」
と私は短く答えた。
「私がせがんだんだしね」
「…いやー!」
裕美は急に照れる時のくせ、うなじ辺りを掻きながら恥ずかしそうに言った。
「最近ほんと琴音ちゃんといると、なんか妙に恥ずい事を平気でしちゃってる気がするなぁー」
「…?あっ!あぁ…」
私はニヤケながら先を続けた。
「私に抱きついて来た事?」
「わぁーーーー!やめてーーー!」
裕美は両耳を手で押さえて、大袈裟に反応をして見せていた。
「あははは!」
「あははじゃないよ、もーう!」
抗議をしてきた裕美の顔は笑顔だった。
「でも前にも言ったかもだけど、琴音ちゃんの前だと、恥ずい事を言ったりしたりしても、言うほど嫌じゃないんだよねぇ…なんでかな?」
「ふふ、私に聞かないでよ?」
私はまた笑顔で返したが、ふと両足をバタバタさせながら、別の話題、裕美が泳いでいるのを見て、その時感じた事を話すことにした。
「…いやー、でもあなたに嫉妬しちゃうなぁ」
「え?嫉妬?なんでまた」
裕美は座る位置を変えず、上体だけ私に近寄り、両手をベンチにつきながら聞いた。私は正面を向きながら続けた。
「えへへ…だって、こんなに一生懸命になれる事があるというのは、やっぱりズルイ…いや、素直に羨ましくて」
私は顔だけ裕美に向けた。笑顔だ。
「だから嫉妬しちゃう」
私は冗談交じりに言ったが、裕美は何やら真剣に考え込んでいるようだった。と、ハッとした表情になると、すぐ何とも言えない微妙だって顔を作りながら返した。
「…うーん。そう改めてハッキリ言われると、またまた恥ずいんだけど…でも琴音ちゃん」
裕美はここで表情を変え、微笑みながら続けた。
「アンタにはピアノがあるじゃない?」
こういう返答は予想していたので、私は包み隠さず今までのピアノ遍歴を披露した。何故薦められたのに、コンクールに出なかったのかも。
裕美は黙って聞いていたが、私が言い終えると途端に苦笑いを浮かべて返してきた。
「…ふふふふ。何だかこれぞ”琴音ちゃん”っていうエピソードだね?”らしい”感じだよ」
裕美は今度は少し表情を暗くしながら先を続けた。
「…でも私と何も変わらないと思うなぁ。私も初めは何だか人前に出たく無かったもん。…それに競技用とはいえ水着だしね?」
裕美はニヤッと笑って見せた。がすぐに表情を戻して続けた。
「ただ私は琴音ちゃんほど何も考えてなくて、ただ周りの人が私を褒めてくれて、また必要としてくれてるって事で、じゃあそれならって、流れみたいなものにただ乗っかっていただけかもしれないなぁ…って今初めて考えて、思いついた事を言ってるだけなんだけど」
言い終えると、裕美はまた照れ臭そうにしていた。
「そっか…まぁ」
私も照れ隠しに意地悪く笑いながら応えた。
「私もなんか変な影響受けちゃったよ。…コンクール一度くらい出とけばよかったなぁって」
「…ぷっ!あははは!…イヤイヤ、今からでも出れるでしょ?出てなかっただけで、今も変わらず努力し続けているんだから」
裕美も意地悪く笑い返してきたが、目の奥は優しい光を宿して私を見つめていた。
私も見つめ返して黙っていたが、お互いに恥ずかしくなり、誤魔化すように二人で笑いあった。
「…よし、じゃあ琴音ちゃんそろそろ帰ろうか?」
裕美は立ち上がり、両腕をめいいっぱい空に向けて大きく伸びをしながら言った。
「えぇ…ねぇ?」
私は腰を浮かそうとしたが、またストンと腰を落とし、裕美の事を見上げながら聞いた。
「ん?何?」
裕美はこちらを見下ろしながら、伸びの体勢のままに聞き返した。
「…何で私の名前を言う時”ちゃん付け”なの?」
「…え?」
裕美は予想外だったのか、両腕をストンと降ろして、私の顔をまじまじと見ながら聞き返した。
「だって私が”裕美”って呼び捨てなのに」
「えぇー…いやぁ…だってぇ」
裕美はまた私の隣に座り直した。そして、中腰になって先程よりもこっちに近付いて来てから続けた。
「なぁんか琴音ちゃんって…普段は凄く大人っぽいから”お姉ちゃん”って感じだけど、たまに弱々しく脆い感じに見える時があるから、印象強い”か弱さ”が目立って思わず”ちゃん付け”しちゃうんだよ」
と言い終えると、裕美は顔をクシャッとさせながら無邪気に笑った。
「何よその理由はー…。しかも本人を前にして」
私は苦笑い気味に非難をして見せた。すると裕美は私の肩に自分の肩を軽くぶつけて、頭をチョンとこれも軽く私の肩に当てながら返した。
「別にいいでしょー?アンタには何も隠し事をしなくても良いんだからぁ」
「…もーう」
私は苦笑いだったが、心の内がバレないように誤魔化すためでもあった。正直そう言ってくれて嬉しかった。
「…でもあなた、私の事を”琴音ちゃん”って呼ぶくせに、”アンタ”なんて言葉遣いはなんか…整合性が無いように感じるのだけど」
私は裕美を優しく押し返しながら言った。
「えぇー…まぁ言われてみればそうねぇ。…じゃあどうしよっかなぁ?」
「…ふふ、『どうしよっかなぁ』じゃなくて…」
私は柔らかく笑いながら、ひろみの顔を直視して言った。
「”琴音”って呼び捨てにしてよ」
「…うん、わかったよ”琴音”」
「ふふ…それで良いのよ裕美」
私達はお互いの名前を呼び合うと、一瞬黙って顔を見合わせたが、すぐその後さっきみたいに笑いあったのだった。

第13話 受験

裕美の大会が終わった次の週の日曜日、初めての模試を受けることになった。これといった準備をして受けた訳ではなかったので、大して結果を期待していなかった。でも意外なことにというか、自分でも予想外な程に良い結果が出た。具体的には一番良い判定ではなかったが、次点の判定で、今のまま続けていけば合格圏内に入るだろうと、手紙で来た模試の結果が書かれた紙にはコメントが書かれていた。
年末冬休みに入り、塾の冬期講習に出たりしていたが、クリスマスには裕美のお家にお呼ばれされた。今まで私は、最も裕美もそうだったらしいが、クリスマスはクラスメイトと大人数で騒いで過ごすのが定例だったが、今年は裕美と大人しく粛々と二人っきりで過ごすという、珍しさから来る新鮮さを楽しんだ。普通だったら物足りなさを感じたりするのだろうが、寂しさなど一切感じず、ただただ充実感を味わっていた。
その後私は家族と、これまた恒例の家族旅行に行ってしまったので、裕美と大晦日に会ったり、元旦含む三箇日に一緒に初詣には行けなかったが、旅行先で連絡取り合ったりしていたので、そんなに別々にいる感じはそれほどしなかった。
三学期に入るとそのまま変わらぬ日常が始まり、私は相変わらず義一さん家、先生の家、図書館、時々絵里の家、そしてついでに塾通いと、こう書き出してみると中々に忙しい一週間を毎週同様に過ごしていた。そんなこんなで毎日毎週ルーティンをこなしていたら、もう四月を迎えて、晴れて六年生になり、最後の小学生生活を迎えていた。

「…いやー、緊張するなぁ」
「ふふ、何によ?」
四月の終わり、ゴールデンウィークに入る前の最後の登校日、午前中までの土曜日の放課後、私と裕美はお互い一度家に帰り軽く着替えて、勉強道具を一応持って絵里のマンションに向かっていた。前々から裕美は絵里の家に行きたがっていたので、ようやく叶った形になった。
裕美は私の方にジト目で流してきながら答えた。
「…いや、アンタは緊張なんかしないだろうけど、私は初めて会ってからも図書館でしか会話をしたことが無いんだからぁー。…そりゃ緊張するわよ、一人暮らしの女性の家なんて」
「…ふふ、まるで初めて彼女ができた男が、その彼女の家にお呼ばれに行くみたいな事を言うのね?」
私は意地悪くニヤケながら言った。裕美は言われたすぐ後には照れてうなじあたりを掻いていたが、
「…えぇー、何ー?経験豊富なお姫様は過去にそんな男がいたことがありましたの?まだ小学生ですのに?」
とよく分からない似非貴族風な口調で、途端に同じように意地悪く笑い返しながら答えた。私はそのノリには乗らず、淡々と表情を殺して返した。
「…何言ってんのよ?私の事を見ていれば、そんな事と縁遠いことくらい分かるでしょうに」
「…うん、分かってて敢えて聞いた」
「…」
お互い顔を見合わせて一瞬黙ったが、その後何も言わずクスクス笑いあっただけだった。
「…はぁーあ。ところであなたはすっかり私の事を姫呼ばわりするのが定着してるけど、仮に私が姫ならあなたは何なのよ?」
「え?私?…そりゃ当然…」
裕美は胸を大きく張り、威風堂々といった調子で返してきた。
「姫の成長を優しく見守る、慈悲深い女王陛下ってとこかしら?」
「…また随分大きく出たわね」
私は苦笑まじりに返した。
「見守るだけなら、乳母でも侍女でも良いじゃないの?」
「…えぇー」
裕美は顔だけでなく、体全体を使って不満を表して見せた。
「何で私がアンタの側で仕えなくちゃいけないのー?」
「…だったら何で私が姫なのかも考えて欲しかったわ…あっ!あれよ」
そんな無駄話をしていると、いつの間にか絵里のマンションが目の前に現れていた。
こんな事私が言うのはおかしい…というより生意気だけど、何の変哲も無い平均的な見た目と中身のマンションなのに、裕美はうろちょろしながら、あらゆるところから建物を眺めていた。
…ふふ、いつだったかの私みたいね。初めて義一さんの家を見た時の。
なんて事を思っていたが、私は早速オートロックの前まで行って絵里の部屋番号を押した。これもまた在り来たりなチャイムが鳴ったかと思うと、すぐに絵里の声が聞こえてきた。
「…あぁ琴音ちゃんね?今開けるから、いらっしゃい?部屋のドアは開けてあるから」
言い終えるのと同時にすぐ横の自動ドアが開いた。
「うん、今行く…おーい裕美ー、行くよー?」
「あ、うーん!」
裕美は私の元に駆け寄って来た。それからエレベーターに乗り、六階で降り、出て左に曲がり突き当たりにある絵里の部屋に向かった。
私は率先して前を歩いていたが、後ろから人の気配がしなかったので振り返ってみると、裕美は通路の手すりにつかまり外の景色を見ていた。
今日は春のうららかな陽気で、吹いてくる風は若干肌寒いくらいだったが、子供の頃の体温が高めな私達には丁度良い心地よさだった。
「琴音ー!気持ち良いよ?」
「…ふふ、そうね」
私はやれやれといった感じで裕美のそばに寄った。あれから私は何度も来ているが、絵里の部屋に行く前に私も一度立ち止まり、よくここからの景色を見ていた。
「…さ、もう行くよ?」
「うん」
私は早速絵里の部屋のドアノブを回して入った。
「絵里さーん、来たよー?」
「お、お邪魔しまーす」
裕美は少し恐縮しながら私の後から中に入って来た。
「はーい、いらっしゃーい」
向こうのドアが開いた音がしたかと思うと、絵里が廊下に出て来たのが見えた。絵里は着すぎて首元がヨレヨレになったグレーのTシャツに、濃い青のスキニージーンズを履いていた。本来ならだらしないという印象を与えるのだろうが、絵里が着ると首元のヨレ具合がヤケに色っぽく見えた。
「よく来たわね!ささ、上がって上がって」
絵里はズンズンと向こうへ行ってしまった。私達二人も後に続いた。

リビングに入ると、既にあのテーブルの上にはお皿とコップが人数分椅子の前に置かれていた。椅子に関して言えば、一つだけ折りたたみ式の簡易的な物だった。
「じゃあ適当に座って?」
「は、はい」
まだ裕美は緊張が解けない様子で、遠慮したのか折りたたみ椅子に座ろうとした。すると慌てて絵里が裕美の肩を掴むと、そのまま普通の二つお揃いの椅子まで押して座らせた。
「ダメよ遠慮しちゃ?そこには私が座るから」
絵里は座った裕美の顔の高さに合わせて腰を曲げ、顔を近づけながら言った。顔はニヤケている。
「は、はい」
その絵里のニヤケ面が功を奏したか、裕美の顔にも明るさが徐々に戻って来ていた。
私はその様子を微笑ましげに見ながら、無言で普段ここに来たときに座る定位置に座った。私と裕美が真向かい、絵里が座るのは私から見て左側、目の前にキッチンが見える場所だった。
「この椅子どうしたの?」
私は冷蔵庫から何か取り出している絵里に声を掛けた。絵里は作業をしたまま、こちらに顔を向けないままに答えた。
「それー?それはねー、琴音ちゃんは見た事無かったかもしれないけど、前々からあったのよー?二人以上の時に出すのー」
絵里は間伸び気味に言いながら、私が一番最初にここに来た時と同じケーキ屋さんのロゴがプリントされた紙箱を持って、テーブルの中心に置いた。
裕美は紙箱の側面に描かれているロゴを見ると「あっ!」と声を上げた。その反応を見た絵里がすかさず裕美に声を掛けた。
「え?裕美ちゃん、この店を知ってるの?」
「あっ、はい!これって駅ナカのヤツですよね?」
裕美はロゴを見つめながら答えた。絵里はまたキッチンに戻りながら話した。
「その通り!よく知っていたわねぇ。もしかして食べたことあった?」
「いえいえ!いつもお店の前を通るだけで、食べたことはないです!はぁー」
裕美はまだ中身さえ見てないというのに、既に幸せそうな表情を浮かべていた。裕美には悪いけど、私はそんな裕美に若干だけど引いていた。
そんな私の心中を知るわけもなく、既に絵里と裕美とで会話が盛り上がっていた。
「はぁー、やっぱり小学生でも分かるんだねぇ。…いやぁ、私は」
絵里はオレンジジュースと紅茶の準備をしながら、私の方へ流し目を送りつつ続けた。
「身近で親しい小学生が琴音ちゃんしか居ないから、小学生のイメージがこの子で固定化されちゃってるのよー。琴音ちゃんはそこまでいいリアクションをしてくれなかったし」
「えぇー?ちゃんと美味しかったって言ったと思うけど?」
私は肘つきほっぺを膨らませて見せながら抗議した。絵里は満面の笑顔だ。
「そういう意味ではないんだけどなぁー…ねぇ裕美ちゃん?」
「あははは!そうですね」
さっきまで緊張して居たのが嘘みたいに、すっかりいつもの裕美に戻って明るく元気に笑って話していた。
「でもダメですよー?」
裕美も絵里と同じ様に私に流し目を送ってきながら言った。
「この子を基準に小学生を見たら。…この子は良くも悪くも”変わり者”なんですから!」
それを聞くと、絵里は裕美用のジュースと、紅茶の入ったポットを持ってきながら返した。
「ふふふ、それもそうね?いやぁ、私も薄々そうなんじゃないかって思ってたんだけど」
「…もーう、二人して本人前にして何話してるのよ?」
「あら?もしかして聞こえちゃってた?」
私は先程から表情を崩さず、不満タラタラにブツブツ言ったが、絵里がワザとらしく惚けながら返した。
その後絵里が私の前にセットされていたティーカップに紅茶を注いでくれようとしたので、慌ててカップを手に取りポットの注ぎ口に近づけた。
「ありがとう」
「いーえー」
絵里は私のに注ぎ終わると、自分のカップに注ぎながら裕美に話しかけた。
「…そういえば、裕美ちゃんは図書館でも聞いたけど、紅茶じゃなくて良かったんだよね?一応カップだけは用意しといたけど」
「あ、はい。私はジュースのほうがむしろ良かったです!…琴音は」
裕美は絵里に笑顔で答えてから、私のほうをチラッと見て話しかけてきた。
「いつもお茶を飲んでるねぇ?私もたまに飲むけど、進んで飲もうとは思わないから」
「えぇ。なーんか渋かったり苦かったりするのが好きなのよねぇ」
「ふふ、本当に変わってるわよねー。まぁ私としては、紅茶に付き合ってくれるから嬉しいけど…」
絵里はおもむろに紙箱を開けて、そして角っこを綺麗に割いてバラして見せた。露わになった箱の中身は、私が初めて来た時と同じ種類と、後は何周りも小さいミニチュアみたいな苺のホールケーキが入っていた。「わぁー」と裕美は感嘆の声を上げた。
「じゃあ二人共、各々好きなのを手に取るがいい」
絵里は何やら芝居掛かった口調で慇懃な調子で言った。私と裕美はそれを聞いてニヤニヤしながら、軽く相談しあいながらも揉める事なく手に取りお皿に乗せた。
「…よし、みんなに渡ったね?じゃあ”初女子会”を祝して、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
掛け声と共に私と絵里のカップ、裕美のコップをカツンと軽く当てた。
他のいわゆる”女子会”で乾杯するのかは知らない。ただ私がここに来る度に、まぁいつもおやつがある訳じゃなかったけど、紅茶の入ったカップを軽くぶつけて乾杯するのが習わしになっていた。…まぁ尤も喫茶店で乾杯する事はまず無いから、変わってることは変わっているんだろう。
「じゃあ頂きまーす」
「召し上がれー」
各々嬉々としてお皿のケーキにかぶりついた。私はスフレチーズケーキとモンブランタルト、裕美はチョコレートケーキとモンブランノエル、絵里は抹茶プリンとチョコのムースだった。

「…あー、おいしー」
裕美は私の向かいで食べていたが、手につけていたチョコレートケーキを小振りとはいえ、ペロッと平らげてしまっていた。その様子を見た絵里は微笑みながら裕美に話しかけた。
「良かったわぁー、そんなに美味しそうに食べてくれて。買ってきた甲斐があったよ」
「いやー本当に美味しいんで、すぐ食べちゃいました」
「ふふ」
絵里は一口紅茶を啜った。
「いやぁ、さっきも言ったけど私って小学生と言えば琴音ちゃんしか知らないじゃない?今時の小学生ってどんな話をしてるのか興味があるのよ。まぁ私も図書館で子供を相手にしてるんだけど、深いところまでは当然ながら話せないからね」
「そうですねぇ…うーん」
裕美はフォークを咥えながら少し考え込んでいた。
「…まぁでもこれと言って面白い話はしてないですよ?よっぽど」
裕美はここで私の方を見ると、意地悪くニヤケながら続けた。
「この姫様と話している方が面白いですもん!」
「あっ、こら裕美!そんなことを言ったら…」
私は慌てて裕美を制止したが遅かった。顔は裕美に向けたまま視線だけ絵里に向けると、案の定、絵里の顔一面に悪戯小僧が出現していた。
「…えぇー?何その”姫様”って?琴音ちゃん、学校ではお姫様に祭り上げられてるの?」
「い、いや違…」
「そうなんですよー」
裕美は私の言葉を遮って、呑気にジュースを飲みながら答えていた。
「イヤイヤ、違うでしょ。何が『そうなんですよー』なのよ」
私は裕美を思いっきり睨んだが、裕美は全く意に介していないようだった。私はため息交じりに絵里に言った。
「…はぁ、本当に違うの。裕美が勝手に一人で言ってるだけなんだから」
「ふーん…」
私の必死の抗議にも、絵里は変わらずニヤケているだけだった。
「じゃあ私が二人目になろうかな?」
「あっ!是非!」
「…もう勝手にして」
絵里と裕美が結束している横で、肘を付きソッポを向きながらボソッと言った。視線を感じたから、おそらく二人は私を見て微笑み合っていたことだろう。
「あははは!琴音ちゃん、そんなにいじけないでよー?冗談やからかいじゃなくて、本心から言ってるだけなんだから。ねっ、裕美ちゃん?」
「そうですよー。…琴音、中々”姫”なんてアダ名つけられて、反発がないのは珍しいんだからむしろ光栄に思ってよー?」
「…ははは」
私は半目で空笑いをしながら顔を二人に戻した。
「ところで姫は…」
絵里が何の違和感もないといった調子で、私に話しかけてきた。
「姫って自然に言わないでよー」
無駄だと知りつつ反発したが、難なく抗議は無視された。
「相変わらず”王子”にしても良いと思う、眼鏡にかなう男子は見つからないの?」
「…王子がどうのって今日初めて聞かれたけど…」
私は淡々とツッコミ、チーズケーキを口に含みながら返した。すると裕美が予想外に身を乗り出すように話しかけてきた。
「そうよー。誰か好きな人いないの?気になる人とか」
「えぇー…そんなの」
私はここでなぜか咄嗟に義一のことを思い浮かべていた。自分でもギョッとしたが、すぐに冷静に分析した。私が出会った男性の中で、私の興味を惹く人が義一以外に居なかったという、異様に低い恋愛偏差値の成せた業だと納得した。
「…居ないわねぇ」
「あっ!何その間?意味深ー」
裕美はフォークの先端を私に向けてきながら、口元をニヤケさせつつ言った。
「こら裕美。人にフォークを向けてはいけません」
「はぐらかさないでよー」
そんな私達の様子を絵里は微笑ましく見ながら、抹茶プリンをスプーンで掬っていた。私はまた一口チーズケーキを口に含むと裕美に聞いた。
「…そんなあなたはどうなのよ?」
「…え?」
裕美は二つ目のモンブランノエルに手をつけていたが、ふと顔を上げて私のことを凝視し声を漏らした。
「だってあなた、いつも私のことばかり聞いてきて自分のことを一切話さないじゃない?」
「あら、そうなの?」
絵里もスプーンを咥えながら、私の言葉に反応した。
「どうなの?」
「どうなのって…ねぇ」
裕美は視線だけを斜め上へ逃がしながら口籠もった。
「あっ!何その反応?意味深ー」
私は裕美のモノマネをしながら言った。
「意味深ー」絵里も乗っかってきた。
「もーう、からかわないでよー」
裕美は笑顔でごまかしていたが、顔は真っ赤だった。
「ふふふ、裕美ちゃん可愛いねぇ」
「裕美ったら、お可愛いですこと」
絵里は両肘をつき、顎を組ませた両手の上に乗せるようにしながら、裕美を和かに見ていた。私は澄まし顔で紅茶を啜っていた。
「…もーう、アンタ後で覚えときなさいよぉ」
裕美が薄目で私をジトーっと見ながら言った。
「あーら、怖い。お気をつけ遊ばすことにしますわ」
「…ぷっ、アンタそれって言葉遣いあってる?」
「あははは!」絵里は一人で凄くご機嫌だ。
こうなれば絵里も巻き添えだと私から振ろうかと思ったが、思いがけず裕美に先を越された。
「そういえば司書さんは…」
「絵里でいいわ。っていうかお願い?」
絵里はウィンクをバチっと決めて、昭和のアイドル風な雰囲気を醸しながら言った。普通だったらイタイ…いや、絵里でも充分イタイタしかったが、底抜けに明るいキャラのお陰で致命傷には至っていなかった。…多分。
裕美は一瞬きょとんとしていたが、ハッとした表情を見せると、今度はまたここにきた時とはまた別な感じにオドオドしながら答えた。ウンウン、気持ち分かるよ裕美。
「…え?本当に良いんですか?」
「えぇ、モチのロン!」
ワザと敢えて空気を読まないかの様に、絵里はまだお目目をパチクリして戸惑っている裕美を他所に、テンション高めに返した。
「じ、じゃ、じゃあえぇっと…え、絵里…さん?」
「うん!よろしい!」
「絵里さんは…そのー…」
いくら自由闊達な裕美でも、中々先を言い出せない様だった。自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、私だったらすんなり聞いちゃうところだけど、いくら水泳などで傑出していたとしても、それ以外は普通の小学生である裕美には、大の大人、しかも詳しくは聞いていないが憧れの女性に対して、”こういう”話題は振りづらいのかも知れない。
それを知ってか知らずか、絵里は微笑みながら先を促す。
「何よー?なんでも遠慮しないで聞いて?」
「あ、はい」
裕美は『遠慮しないで』が効いたのか、漸く、でもまだモジモジしながら聞いた。
「絵里さんて…恋人いるんですか?」
「…え?」
絵里はキョトンとして”見せた”。わざわざ点々で囲ったのは、色々気の回せる絵里のことだ、ここまで裕美がモジモジしながら聞こうとした事、それに今までの会話の流れから、どんな質問が来るか当然わかっているに決まっていると思ったからだ。敢えてワザとそう表現してみた。
「こ、恋人ねぇ…なんでそんな事を聞きたいのかな?」
「え?…そ、それは…」
それから絵里と裕美が相手の出方を伺う様に、モジモジと沈黙し合っていたので、私は我慢できずに切り出すことにした。
「…それはね絵里さん、裕美が絵里さんのこと初めて見た時に憧れちゃったみたいなのよ。だからその憧れの女性が好きになって付き合う男性がどんなだか、知りたいんじゃないの?ねぇ、裕美?」
と私が事も無げに言い終え、残りのチーズケーキを口に入れた。私はある意味この”冷戦”状態を脱してあげたつもりで、良い事をしたと思っていたが、どうやら二人にとっては微妙だった様だ。
絵里と裕美は私が言い終えると、ほぼ同時に同じ様に苦笑を浮かべた。そして二人して私を見ながら言った。
「…ふふ、ほんっと琴音ちゃんは空気を読んでくれないんだからなぁ」
「アンタ…流石だわ」
「それは褒めてるのよね、二人共?」
「さぁってね」
この様なやりとりがあった後、三人でクスクスと笑いあった。
空気読めない女という名誉ある称号を貰ったので、そのまま力を発揮することにした。
「だからほら絵里さん、裕美が勇気を出して聞いたんだから答えてあげてよ?ねっ、裕美?」
「え?あ、う、うん…」
裕美はそこから先を言わなかったが、無言で絵里を見つめていた。絵里はすっかりタジタジになりながら答えた。
「…もうっ、小学生が二人して大の大人を困らせるんじゃないよぉ…困ったなぁ、こんなに引っ張っちゃ、逆に言いづらくなっちゃったよ…いません!」
絵里はしなくても良いのに、大袈裟に頭を下げて見せてから答えた。言われた裕美もアタフタしていた。
「あ、あの、顔を上げてください」
「そうよ、そんな大袈裟な…」
あくまで私は冷たく突き放すように見せながら、つっけんどんに言った。絵里は顔を上げると、苦笑いを万遍なく浮かべて私に非難めいた視線を向けながら言った。
「あのねぇ、アナタのせいで言い出しづらくなっちゃったのよ」
「えぇー…」
「そうだそうだ!」
何故か裕美が絵里に乗っかって、一緒になって抗議してきた。私が納得いかない表情をしている側で、絵里と裕美はまた二人だけで微笑みあっていた。まるで共通の敵を見つけた様な、戦友同士の友情劇を私は見せつけられていた。
「さ、て、とっ!まぁ、冗談はさておき…」
絵里は大人らしく、なんとも言えない微妙な場の空気を払拭する様に声を出して、それから改めて先を続けた。
「裕美ちゃん…ありがとうね?私なんかに憧れてくれて」
「…え?あ、いやぁ」
裕美はまた顔を真っ赤にしていた。絵里はその様子を見て、微笑ましげに続けた。
「誰かさんのせいで微妙な感じになっちゃったけど」
「でもまぁ良かったじゃない?想いを伝えれて」
私は構わずモンブランタルトに手をつけながら言った。裕美はさっきから苦笑しっぱなしだったが、そのまま呆れ返ったといった様子で返してきた。
「はぁ…まぁ確かに結果オーライかもね?…絵里さん?」
「は、はい?」
絵里は突然裕美から話しかけられて、一回り以上歳下に対する反応とはかけ離れたリアクションを取った。裕美はそのまま構わず続けた。
「絵里さん程可愛くて綺麗な女性は、どんな男性がタイプなんですか?」
「え、えぇっと…」
裕美のこのど直球の激賞に、絵里はただ狼狽えるだけだった。この場合は極端だとしても、普段から褒められ慣れていない人の反応だった。これも中々新鮮だった。裕美の方は良くも悪くも開き直っているのか、赤みが引いていた。真っ直ぐに絵里を見つめている。
「参ったなぁ」絵里はいつものように照れ隠しにホッペを掻いていた。
「絵里さん、私も聞いたことが無かったから教えてよ?」
本当は助け舟を出してあげようと思ったが、急に気が変わった。”なんでちゃん”が起き出してしまったのだ。考えてみたら聞いたことが無かった。というのも、聞いたら逆に質問されるのが分かっていたからだ。
流石の絵里も、裕美相手には質問をし返すという考えには至らなかったようだ。
絵里も私が助けてくれると踏んでいたのか、私が思惑とは裏腹に裕美に乗っかったので、ジト目で私を見ながら答えた。
「えぇー…そうねぇ…って、あっ!」
「ん?」
絵里は何かに気づいたのか、今度は打って変わってニヤニヤしだした。
「…そういう琴音ちゃんのタイプも聞いたことが無かったなぁ?」
「ゲッ」
思った通りというか、気付いていたのにそのまま墓穴を掘ったようだ。絵里が反撃に打って出た。
「教えてよ琴音ちゃーん」
「あっ!私もタイプについては聞いたことなかった!」
やはり裕美も乗っかってきた。私も慌てて今度は裕美に振った。
「いやいや、私もアナタのタイプを聞いたことが無かったわ」
「え!?あぁ…いやー」
裕美は照れてまた口を噤んだが、何やら私と絵里とは違い反応が柔らかかった。
…あ、これはイケるかも。
言い方が酷いが、特別興味があった訳では無いけど、戦略上これ以上火の粉が広がる前に、まだ言う気がありそうな裕美を攻める為に、畳み掛けるように聞いた。
「さっきも何か意味深に言いかけて無かった?それに絵里さんにわざわざ聞くって事は、アナタ自身に好きな人がいるか、それとも少なくとも”願望”はあるってことじゃない?」
「ヴっ!」
裕美は何やら言葉にならない声を出した。図星のようだった。
絵里は?と何処からともなくツッコミが入ってそうだが、絵里は違う。
違うというか、これまた自分で言うのは恥ずかしいが、絵里の場合単純に私に対する強烈な興味の延長線上の事でしかない。一言で言えば、”お節介お姉さん”なだけだ。
裕美は観念したかの様に大きく溜息をつくと、さっきから変わらずしている苦笑いのまま私を見て言った。
「…はぁ、もう分かったわよ!言うからそれで勘弁してね?これ以上三人で斬り合ってもラチが明かないもの」
どうやらこの場で一番”大人”なのは裕美だったらしい。
前からわかってはいたが、ここまで絵里が自分の恋バナを苦手にしてるとは思わなかった。絵里は大人な態度で自己犠牲を被ろうとしている裕美に、申し訳なさそうに声を掛けた。
「…裕美ちゃん、ごめんね?」
「あ、いえいえ。絵里さんは何も悪くないです。どっかの誰かさんが空気を読まない所から始まったんですから」
最後に裕美はチラッと私のことを見た。私は咄嗟に視線を逸らした。裕美はまた大きく溜息をつくと、そのまま話し始めた。
「…まぁそうね。さっきアンタが言った推理、今は肯定もしなければ否定もしないわ。…それで二人がどう思うかはお任せするね」
「うん。…で、裕美ちゃんはどんなタイプが好きなの?」
絵里はすっかり先程までのしっちゃかめっちゃかだった状況が無かったかの様に冷静さを取り戻し、興味津津といった表情で、上体を軽くテーブルの上に被さりながら聞いた。私も同じような体勢を取った。裕美も落ち着きを取り戻して話を続けた。
「まぁ…タイプって言うのかな?もしかしたら恋愛とは違うかも知れないからハッキリとは言えないけど」
「うんうん」私と絵里は同じ反応を示して、先を促した。
「そうだなぁ…うん、こう言えるかな?…私が良い時でも悪い時でも、態度を変えずに側に居てくれる人」
流石に落ち着きを取り戻したと言っても、言い終えると裕美は途端にうなじ辺りを掻きだし、照れ臭そうに笑顔を浮かべていた。
「…はぁー、裕美ちゃんってすっごく”大人”なんだねぇ」
聞き終えると絵里が感心したような調子でしみじみ言った。一緒に聞いていた私も同じ感想だった。
「い、いえいえ!私はそんな…」
裕美は絵里に言われて嬉しそうに照れていたが、何かを決意したかの様にフッと顔の表情を緩めたかと思うと、静かにまた話し始めた。
「…もうここまで来たら言っても良いかなぁ…実は実際に好きな人も…いるの」
「へぇー」
「え?…えーー!」
「琴音ちゃん、シーーーーっ」
「あ、ごめん…」
思わず絵里の家で声を上げたのは、初めて来た時以来だった。裕美の言葉に絵里は笑顔で反応していたが、私は自分でもビックリする程大きな衝撃を受けていた。前まで仲良く遊んでいた仲良しグループの女の子達ともこんな話はしていたが、軽く聞き流していたせいか、何にも感じなかった。が、裕美から聞かされた、実は好きな人がいるという告白には、心の底から驚いてしまった。
私は改めて問い質してみる事にした。
「それって、私の知ってる人?」
「え?えぇ…っと…ねぇ、…内緒」
裕美は可愛らしくハニカミながら誤魔化したが、それはもう言ってるに等しかった。
私の知ってる人か…
後々になって見れば、こんなに分かりやすいことも無いだろうと思うけど、当時の私にとっては、まさかのまさか過ぎて候補の一人にも上がっていなかった。だから…
うーん…誰かいたかな?今裕美が挙げた様な人。
「…そんな人私の周りにいた?裕美が今言った条件満たしている人」
「…ほっ。あ、いや、分からなければそれでいいんじゃないかなぁ」
裕美は私が何一つとして勘付いていないことに、心底ホッとした表情を浮かべていた。
「何よ、その『ホッ』は?」
私は不満タラタラに言ったが、裕美は笑って誤魔化すのみだった。
「あははは、内緒ー!これでお終い!」
裕美の鶴の一声で、一連のこの意味なくわちゃわちゃした一騒動は一旦の結末を迎えた。

「いやぁ、しっかし」
絵里は一口紅茶を啜ると、シミジミと感慨深げに呟いた。
「女子会ってのは、こんなに疲れるものだったのねぇ」
「イヤイヤ」
私も同じく一口啜ると、苦笑まじりに返した。
「ただ単に私達がいわゆる”恋バナ”に向いてないのが、致命的な原因だと思うよ?」
「あははは、違いないわね」
裕美もジュースを一口飲むと言った。
私達はあらかたケーキを食べ終えて、テーブルの上に散らかった物を片付けて今落ち着いていた所だった。
”女子会”に一区切りがつくと、絵里が唐突にパン!っと手を一回叩いて、私と裕美に向かって話しかけてきた。
「さて二人共!お疲れの所なんだけど、今から勉強タイムに入るわよー?」
「えぇー」
私と裕美は二人声を合わせて不満げな声を上げた。絵里は構わず私の足元にあるカバンをチラッと見ながら続けた。
「しょうがないでしょー?あなた達は受験生なんだからね?私と遊んだせいで落ちたと思われたら、私の立場がないじゃない?」
「絵里さんがどういう立場だって言うのよ?」
と生意気に軽く反論しながらも、私は素直にカバンから勉強道具を出すのだった。そんな私の様子を見て、裕美も同じ様に取り出すのだった。
「あははは!まぁ良いじゃないの!ちゃんと分からない所があれば私が教えてあげるからね?」
「はーい、先生。期待してますよ?」
「付き合ってもらって、ありがとうございます」
裕美が慇懃に畏まって絵里に言った。絵里は優しく微笑み返した。
「良いのよぉ?そんなに畏まらないでよ。あと心配しないで?私こう見えて先生になれる一歩手前まで行ったことがあるんだから、何でも遠慮せず聞いて頂戴?」
「えっ?手前ってどういう…」
「…”仮免”ってことよ」
裕美が感嘆の声を上げて、憧れの視線を絵里に向けたので、なぜか意地悪したくなった私はすかさず、ニヤニヤしながら横槍を入れたのだった。絵里もホッペを掻きながら、照れ臭そうに答えた。
「…まぁ、今琴音ちゃんが言った通り、所謂仮免までだったんだけどねぇ。まだ時間があるし軽くだけ触れるとね?」
私はチラッと時計を見た。時刻はまだ二時半丁度になる所だった。ここに来てまだ一時間弱しか経っていない。あのグダグダした騒ぎを体感的には長く感じていたが、全然時間は経っていなかった。唯一の救いは、時間を無駄に極力消費をしなかった事だった。
「大学で私は文学部だったんだけど…まぁ、よく分からなくても大丈夫だから聞き流してね?で、授業の中にそれを受講していると、中学高校の”国語”の先生になれるってヤツがあったの。まぁその授業の時間帯は私も暇だったし受けてみたのよ」
「へぇー、そんな気軽に学校の先生なんてなれるんですね?」
裕美はこんな呑気なことを返していた。絵里は苦笑いを浮かべながら答えた。
「うーん…簡単、かなぁ?…まぁ確かに”思ってたより”かは簡単だったね。…でね?その後教育実習っていうのがあるんだけど…」
ここで絵里は一度話を打ち切り、紅茶を一口啜った。そしてカップを置いたが、その先を話す前にその情景を思い浮かべていたのか、顔はまさしく苦虫を潰したような表情を浮かべていた。私と裕美二人は黙って絵里が続きを話すのを待った。
「…もうね、それが最悪だったの。…教育実習ってんで、琴音ちゃんの言う”仮免”状態、先生としては半人前の状態で、私立の中高一貫校に行ったんだけどね」
「絵里さんみたいな人が先生で来たら、男子は大喜びだったんだろうね?」
裕美は悪意の無い爽やかな笑顔を絵里に向けた。純粋な子供の笑顔の前では、流石の絵里も軽口を返すことは出来なかったようだ。ただただ苦笑をしている。
「…いやぁ、どうだろう?あっ、いや、それはさておき、…授業自体は楽しくやれたんだけどねぇ。その後職員室で色々とそこに勤めている先生達と喋ったんだけど…それが酷かった」
「ふーん…。たまにニュースの特集で、うまく授業が回せなくてナンチャラみたいなのを聞くけど?」
私はもう温くなった紅茶を一気に飲み干してから言った。絵里はゆっくりと首を横に振った。
「うん、私もそんなのを見たことがあったけどねぇ。…たまたま私が行った学校がそうなのかも知れないけど、私みたいな半人前には”監視役”としてベテランの先生がつくのよ」
「うん、なんかで見たことがあるかも知れない」
「でその人はおばさんの先生だったんだけど、どうも生徒指導の先生らしくてね?見てると生徒達から煙たがられていたみたいなんだけど…いや、そんな事は良いか。結論から言えばね、その先生に職員室でブーブー文句を言われたのよ」
「えぇ、何でですか?」
「何かヘマをしちゃったの?」
「うん、私も何か授業の落ち度を注意されるかと思ったのよ」
絵里はここで何かのモノマネをしだした。そのおばさん先生だろうか。
「『ちょっと良いかしら、山瀬さん?』なんて言ってくるから、私もすぐにそう察して低頭平身にしてたんだけど、そしたらねぇ」
絵里は掛けてもいないのに眼鏡をクイッとあげるフリをしながら続きを話した。そのおばさん先生の癖なのだろう。
「『あなた、生徒達に色目を使わないで下さる?』『…は?』私はすぐには言われたことを理解出来なくて、ただ唖然としながらやっとそう返したの」
「い、色目?」
流石の私も予想の斜め上を行っていたので、絵里と一緒にキョトンとする他なかった。はっきり言って、年齢関係なしに絵里が男に色気を使うっていうワードが繋がらなさ過ぎて、違和感しかなかった。私の反応に少し機嫌を直したのか、若干表情を緩め気味に続けた。
「ね?意味がわからないでしょ?でもあのおばさん、呆れて何も言わない私を無視して他にも色々言ってきたの!えぇっと…そう『あなたはまだ大学生でしょうけど、生徒達にとっては紛いなりにも先生なんですから、”変に”生徒達と仲良くしすぎないようにして下さい』とか…」
「絵里さんは実際どうしてたんですか?」
今度は裕美が途中に割って入って質問した。絵里は裕美を向くと苦笑まじりに答えた。
「んー?別にただ休み時間に、私が受け持った生徒達が親しげに声をかけて来てくれたから、それに私も笑顔で対応しただけだよ…モチロン男女問わずにね?」
「…色目を使う云々とは関係ないね」
私は淡々と言った。
「でっしょー?まぁおばさんから見れば、大学生の私の対応が生徒達と大差なかったかも知れないけどね」
よっぽど根に持っているのか、「おばさん」を強調しながら苦々しげに話を続けた。
「後ねぇ…そうそう『お化粧が濃い』って言われたの。『あまり生徒達に良い影響を与えないから控えてください』ってね。実際は今と変わらないくらいだったのに」
と絵里が言うので、マジマジと顔を見てみた。正直褒めてるのか悪口になるのか判断つきかねるけど、素直に言って今の絵里が化粧をしてるかどうか分からなかった。それぐらいに自然体だった。気付くと裕美も私と同じように絵里の顔を見ていた。ふと私と目が合った。裕美は私に向かってなぜか頷くと、絵里に話しかけた。
「…普通にナチュラルメイクじゃないですかぁ。何の因縁ですかそれ」
「あははは…本人の方が濃い化粧だったのに」
絵里は何か最後にボソッと言うと、私達の反応を見る前に先を続けた。
「まぁそんなこんなで、結局その場はやり過ごしたんだけど、…そのー…」
絵里は一旦切ると、言い辛そうにしていたが、何とか絞り出すような口調で話した。
「…それからは一度も教育実習に行かなかったの。因みにその学校が1校目でね?他にも行く学校があったんだけど…辞めちゃったの」
「えぇー…でもまぁ、私でもそうするかな?」
私は一瞬引いて見せたが、すぐに同調する意を表した。すると何故か絵里は苦笑まじりに応えた。
「ふふふふ、ありがとう。まぁ琴音ちゃんは耐えられないだろうね」
「アンタは確かに無理そう」
「な、何よぉ?」
絵里と裕美が二人揃ってニヤケながら何やら私に対して言ってきたので、私は短く抗議した。しかし予想通り軽くあしらわれ、私以外の二人がクスクス顔を見合わせて笑い合うのだった。私も仕方ないと苦笑で応じた。
「だからね?」
一頻りしたあと、絵里がまた続けた。
「まぁ、簡単に説明すると、先生になるにはその実習をこなさなくちゃダメなんだけど、私は最後まで終えてないから、実質教員免許は持ってないの。だから勝手に私は自分の事を”仮免”って呼んでるのよ」
「…もう、駄目な大人だなぁ」
「あっれー?さっきは肯定してくれてなかった?…ごめんなさい」
私が軽く毒を吐くと、絵里は最初は惚けていたが途端に深々と頭を下げた。でも顔を上げた時舌をぺろっと出しながらニヤケていたので、私と裕美は釣られて同時に笑い合ったのだった。

「はぁーあ!…あっ」
絵里は伸びをしながら時計を見た。時刻は三時ピッタリを指していた。絵里はまたさっきみたいにパンと一度手を打つと陽気に言った。
「さっ、二人共!主に私のせいで時間を潰してしまったけど、今からは本当に勉強しましょう」
「…自覚があるなら、何も言えないわね」
「ふふ、そうね?」
私達はお互いに顔を近づけて、内緒話の音量でボソボソ言い合った。
「二人してなにをコソコソ話してるの?」
絵里は目と鼻の先の私達の話を聞こえなかったフリをしながら聞いてきた。私と裕美はまた顔を見合わせて、うんっと一度頷き合うと一緒に絵里の方を向いて明るく答えた。
「何でもありませーん!」

「…うんうん、そうそう、それでこれをね」
「…あぁ、なるほど」
絵里に教えてもらって、裕美は本当に理解した事を示すように首を縦に振っていた。
私達二人は、あれから一時間ばかり勉強を教えて貰っていた。途中途中で、自分の時はどうしてたか、こんな風に言うと怒られるけど、小学生の頃程大昔の事もよく鮮明に覚えているらしく、事細やかに経験を踏まえた方法論を展開したりしていた。主に裕美に語っていたが、私も目の前の、今日やる分だと決めて持って来ていた教材を片付けながらも、ついつい聞き耳を立てていた。尤も、私が個人で聞いた時のと大差のないものだったが、裕美に対して話す時とはニュアンスが違ったりして、同じ事でも新たな発見が見つかるのが面白かった。
絵里は先程自分を説明する時におちゃらけて話していたが、実際絵里はとても教え上手だった。
私も何度かここにお邪魔して、たまに絵里に言われるままに勉強道具を持って来て、そして教えてもらっていたが、その上手さ分かり易さに口にせずとも感嘆していた。 正直言っては何だが、複数人を相手に満遍なく平均的事務的に教えてくる塾講師よりも、ハッキリ分かりやすいと言えた。
まぁだからと言って学校の先生に向いているかといえば、そうとも思わなかった。 勿論いくら大人ぶっていても所詮は子供だから、いわゆる大人の仕事面に関しては当然無知だったけど、でも小学校や塾の先生とは根本的に絵里は違って見えた。
急に出すようで悪いが、義一もそうだ。この二人はタイプは違うが、私にとって大事な友達であり、尊敬できる先生だった。
これは全くの私見だが、教師と生徒の関係とはいえ結局人間対人間、相手に対して尊敬の念が無ければ、当然教えて貰う側だって真剣に話を聞こうだなんて思わないだろう。いくら周りの大人、教師、はたまた両親に至るまで、口先で頭ごなしに言う事を聞きなさいと言われても、子供と雖も意思を持つ故に、無理強いされても反発しか生まない。子供達は具体的には分からなくても、言ってる大人達自身が中身の無い軽薄な人間で、人生経験に基づく何か後の世代に遺したいような価値観思想を持たず、徒に月日を過ごしているだけだという事を見抜いているからだ。そんな大人達が偉そうにすればするほど、不満が積りに積もって反抗期になるのは当然の流れだろう。
とまぁそんな訳で、私にとって尊敬してるが故に、全幅の信頼を置いて相談したり話を進んで聴ける身の回りの大人は、義一と絵里、それにピアノの先生この三人だけだった。…いや”だけ”じゃなく、三人”も”いるという幸運に感謝をしなければバチが当たるだろう。
そんな事を私が考えてるなんて知る余地の無い裕美は、絵里に笑顔で明るく言っていた。
「…いやー、絵里さん。すっごく分かりやすいよ!本当の先生だったら良かったのに」
「あははは、ありがとう裕美ちゃん!…でもね、さっきは恨み言をツラツラ話しちゃったけど、今思えばこれで良かったって思うのよねぇ」
「へぇ、何ですか?」
裕美が手を止めて、顔を上げ絵里の方を見た。
「まぁさっきの続きだけど、あれで途中でハッキリ言えば色々御託を並べたけど、私は逃げたのよねぇ…その所謂大人の世界から」
「絵里さんは逃げてなんて…」
裕美は自分のことのようにシュンとなっていた。絵里はその様子を見て、なぜか私の方をチラッと見て、まるで私と裕美を見比べるかの様にしてから、微笑みつつ続けた。
「ありがとう。裕美ちゃんは優しいね。…でも一般的には逃げたのと一緒に思われちゃうのよ。で、私も当時それを受け入れていた。…でもね?」
とここまで言うと、また私の方を意味深にチラっと視線だけ向けて、それからまた裕美に戻して続けた。
「”ある人”にね、事のあらましを話したのよ。…まぁ相談したの。…いやぁ、ただの愚痴だったかな?」
絵里は悪戯っぽく笑っている。ちなみにこの時既に、私には”ある人”の正体があらかた分かっていた。
「その人がね、こう言ってくれたのよ。『絵里、君は何でも無い様な風に言っていたけど、その授業を取ってる時楽しそうにしてたじゃないか。それなりに本気だったんだろ?』『えぇ、そりゃあ…ね?』って私は返したの。この人ね、普段からいけ好かなかったんだ。色々理由があるんだけど、一番の理由はね?相手の心理を驚くほど間違いなく読んでくる事なの。もうね、エスパーかってくらいに」
「絵里さん、絵里さん」
私が横槍を入れて制した。
「段々と”その人”の話になってってるから」
「あ、あぁ、そうね」
絵里は私が敢えて”ある人”の名前を出さなかったのが面白かったのか、クスッと小さく笑ってから、気を取り直して話を続けた。
「でね?その人が私から何も言わなくても、何かを察してくれて言ってくれたのよ。『絵里、君は大げさに言えば、子供達の成長をそばで見たいって事じゃ無いのかな?だったらさ…図書館の司書にでもなればいいんじゃない?』ってね。『…図書館司書かぁ』思わずシミジミ言ってしまったのよ。なんせ私は自分が図書館で働くっていう姿を、一度たりとも想像したことが無かったからね。それを初めてその人に言われて…凄くしっくり来たのよねぇ…シャクだけど」
「…ふふ」
裕美は反応しなかったが、私は思わず吹き出してしまった。これは絵里の言った軽口にも原因があるけど、それと一緒に私でも初めて聞く、絵里の図書館司書になった経緯を面白く聞いていたというのも遠因にあった。
裕美は何事かと私を見ている。絵里は構わず続けた。
「でね?もうそれからは猪突猛進っていうのかな、ガムシャラに司書の勉強をして資格を取って今に至る訳!」
絵里はそう言い切ると、紅茶を一気に飲み干した。と、私のカップに紅茶が無いのに気付いたのか、私にお代わりがいるかを聞いてきた。私が欲しいと答えると、今度は裕美にも聞いた。裕美のコップも中が空になっていたからだ。裕美は遠慮がちだったが、お代わりをお願いしていた。それを聞くと絵里はテーブルの上のポットと裕美のコップをを持って台所へ行き、ポットには紅茶を淹れて、コップにはジュースを入れてからまた戻ってきた。
そしてまず私のカップに紅茶を注ぎながら
「だからまぁ、私は逃げたんだけど、こうして司書として働いて良かったなぁって思うよ。何せ…」
「え?…わっ」
絵里はポットを置き、ジュースの入ったコップを裕美の側に置くと、私と裕美が無造作にテーブルの上に出していた手、私の左手と裕美の右手の上に自分の手をそっと置いた。
「琴音ちゃんや裕美ちゃんみたいな、可愛い子達と知り合えたんだからね!」
絵里は私と裕美の顔を交互に見てから微笑んで言った。私は内心を隠す様に、迷惑そうにして見せながら返した。
「…絵里さん、あんまし恥ずかしい事を言わないでよぉ。言われた私達が困っちゃう」
「…ふふふ、アンタがそういう事を言う?」私が言い終えた途端に、裕美がプッと吹き出してこちらに意地悪く笑みを向けながら言った。
「え?どういうこと?」
案の定というか何というか、絵里が期待通りに食いついていた。ニヤケ面だ。
裕美は何となく自分と気持ちが同じだと直感したのか、顔の表情そのままに、絵里に少し顔を近づける様にして話した。
「それがですね?この子ったら平気で私達が口にしない”恥ずい”事を口にしちゃうんですよぉ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる様な事を。…でも不思議と嫌な感じはしないんですよねぇー…でついつい釣られてというか、私も同じ様に真面目な恥ずい事を話しちゃうんです…」
裕美はここまで言うと、何かを思い出したのか、顔を真っ赤にしていた。おそらく先程の恋バナ(?)をしていた時の自分の態度を思い出していたのだろう。
絵里はその様子には特に触れる事もなく、微笑ましげに私の方を見ながら裕美に返した。
「…そうなのよねぇー。私がどう思われているかはともかく、私ですら普段はそんなに深い話は自分からしないんだけど、琴音ちゃん相手には臆する事なく話せちゃうのよね」
「あぁ、分かります分かります!」
裕美はうんうんと大きく頷きながら同意を示して、私の方を苦笑いなのか何なのか例えづらい表情で見ていた。
「…多分ね?」
絵里は私から視線を外さず、そのまま裕美に応えた。
「この子はね、普通の人よりも真面目に、真剣に話を聞こうとしてくれてるからじゃないかなぁって思うのよ」
「…あぁー」
裕美は短く、でも同意の意味だと汲み取れる声を上げた。絵里は続けた。
「普通はね裕美ちゃん、こんなに他人が自分の話を熱心に聞いてくれる事なんて、滅多にない事なの。まぁ、私達大人の世界だけじゃなくて、裕美ちゃん達子供の世界もそうかも知れないけど。…裕美ちゃん?」
絵里は途中で一口紅茶を啜ると、今度は裕美の方に顔を向けて、少し真面目な、でも微笑みを絶やさずに話しかけた。
「それってとても素敵なことなんだよ?裕美ちゃんは言われなくても分かっているかもしれないけどね。今時ね、中々心を割って話せる人が出来るのは本当に難しいの。大人になってからだと尚更ね。裕美ちゃんが言う”恥ずい話”だってね、本当は誰かと”恥ずい話”をしたくても出来ない人がごまんといるのよ。要は、相談したくても出来る相手がいないってことね。まだまだ若い、これから私よりも生きるあなた達にいうのもアレだけれど、年寄りくさい事を言えばね?ますますこれから人と人との繋がりが希薄になっていって、一人一人がフワフワ当て所なく水面に浮かぶ睡蓮の様に、風に吹かれるまま虚しく漂う他なくなっちゃう気がするの。…今すでにそうと言えばそうなんだけど…私の言ってる事わかるかな?」
「は、はい」
裕美は突然振られて戸惑っていたが、しっかりと返事をした。私は余計なお世話に、絵里が話している間、裕美の方を見て反応を見ていた。この手の話は老若男女問わず、すぐに飽きるか、退屈してるという意志表示をするものだったからだ。この考えは明らかに義一に由来している。
しかし絵里が話している間、裕美は食い入る様に絵里の方を見つめ熱心に身を乗り出す様に聞き入っていた。私はその様子を見てホッとしたのと同時に、無性に嬉しかった。
裕美の返事に絵里は満足げな笑顔を浮かべ、そのまま続きを話した。
「だから”仮免先生”が二人に言いたいのはね、お互いに恥ずい話が出来る相手がいるなんて、何物にも代えがたいくらい貴重なんだから、今の関係を大切にしてって欲しい…ってことかなぁ。…どう二人共?」
聞かれた私達は、真顔でお互いの顔を見合わせたが、示し合せる事もなく頷きあい、そのまま二人で絵里の方を向いて頷いた。何も言わなかったが、絵里も察したか、微笑みながら力強く頷き返しただけだった。

「はぁ…興が削がれちゃったなぁ。…まぁ私のせいだけど」
私はおもむろに時計を見ると、時刻を見ると四時半少し前だった。
「いえいえ、大変面白い話を聞かせて頂きました」
裕美が慇懃に絵里に答えた。絵里は悪戯っぽく笑いながら裕美に話した。
「…もうちょっと軽ーい感じに出来ない?すっごく肩が凝っちゃうんだけど」
「え?えぇっと…」
裕美はただ戸惑うという、小学六年生として当然のリアクションを取っていた。
私がすかさずため息交じりに助け舟を出した。
「…はぁ、何言ってんの絵里さん?普通小学生が一回りも二回りも上に人と対等に話せる訳ないでしょ?」
と私が突っ込むと、これまた素早く反応を示して私にジト目を使いながら返してきた。
「ちょっとぉ…私はあなた達より二周りも歳離れていないんだけど!」
そこに食いついてきたか…
絵里は私が言いたかった点じゃない、明後日の方角に吠えていた。
…まぁワザとそう仕向けたんだけど。
「…ちょっとぉ?聞こえてるんですけど?」
「…え?」
「そのワザとがナントカって」
どうやら口に出ていたらしい。
「ごめんなさい、ドジっ子だから許して?」
私はまたワザと首を傾げて上目遣いで絵里を見つめた。
「…あのねぇ、ドジっ子はそんな意地悪な悪意まみれの間違いはしないんだけど」
「…プッ、あははは!」
絵里が薄目で私を見ながら突っ込むと、裕美が途端に吹き出し遠慮なく笑っていた。その様を見た私と絵里も一度顔を見合わせると、同じ様に笑うのだった。

「そういえば裕美に言ってたっけ?」
笑いが収まり、一呼吸を入れる意味でも一口紅茶を飲みながら聞いた。
「ん?何のこと?」
裕美は呑気な声を上げると、ジュースに口をつけた。
「…絵里さんの出身校が、私達二人の第一志望校だって話」
「…え?えーーー!そうなんですか!?」
「え、えぇ」
これまた呑気に我関せずと言った感じで紅茶を飲んでいた絵里だったが、突然裕美が興奮してすぐ脇に座る自分に向かって身を乗り出す様に来たので、ただただ戸惑いつつ答えていた。
絵里はしかしすぐに落ち着くと、裕美のおでこを人差し指で軽く押し、椅子に座らせる様にしつつ言った。
「しーーーーっ!裕美ちゃん声が大っきい」
「あっ!ごめんなさい」
裕美は先程のテンションとは真逆の、シュンとした態度で絵里に軽く謝っていた。絵里は鼻から勢いよくフンッと息を出すと、苦笑交じりに切り出した。
「もーう、気をつけてよ?…何だっけ?あっ、そうだったそうだった!うん、そう。私はソコの卒業生なの」
「へぇー、いいなぁ」
裕美はすぐに明るく戻り、絵里に目を輝かせながら言った。絵里はその裕美の反応に、最初の時の様に戸惑っていた。
「…しかも演劇部だったみたいよ?」
私は顔を逸らしながら淡々と情報を加えた。裕美が余計に食いつくことが分かっていたからだ。面白半分だ。案の定裕美は、余計に絵里に食いついていった。
「へぇー、絵里さん演劇部だったんですか?」
「え、えぇ…」
絵里は答えながら視線は私に向けていた。視線は少し非難めいていたが、困り顔だ。私は相変わらず澄まし顔を維持していた。何だか面白くなってきたので、私は火に油を注ぐことにした。
「絵里さん、裕美にも見せてあげてよ。昔舞台に出てた時の写真を」
「あっ!写真があるんですか?見たーい!」
「えぇっと…」
絵里は変わらず私に視線を流していたが、もう非難というより助けを求める目だ。
もういいかと思ったが、最後の一押しだけして見ることにした。私は初めて絵里の家に来て、その次来た時に渋々ながら当時の写真を見せて貰っていた。

後の展開を見れば分かることだが、都合上あえてこの場を借りて、話が大きく逸れることを恐れずその写真の中身を話してみようと思う。勝手で悪いがここしか言える場所が無いからだ。許して欲しい。
写真は綺麗に丁寧にアルバムに纏められていた。その中身は練習風景半分、実際の舞台が半分、具体的な枚数は数えてないから分からなかったけど、最低でも五十枚以上はあった。絵里以外にも当然他の演劇部員が写っていた。練習風景はみんな各々地味な服装をしていた。無地の半袖Tシャツに下はヨレヨレのジャージ、髪の毛は長い子は単純に後ろで縛り、それ以外は頭をタオルで巻いていた。舞台の上では言い方が正しいか分からないが、皆んな澄まし顔で平気だと言う風に何でもなさげに自然体で演技していたが、練習風景はみんな汗だくになっていた。当時本で戯曲は読んでいたけど子供だったし、演劇の裏側を知る機会が無かったから、実際写真を見て、こんなに肉体労働的だとは思っても見なかった。そんな所を変に感心しながら見ていた。ゆっくりじっくりと念入りに穴が開くほど熱心に見ていたので、最初は早くページをめくりたがっていたが、私にからかう意図がない事がわかると、ある種開き直りとも言えるが、絵里が途中から率先して一枚一枚背景を説明してくれた。劇の内容だったり、練習の時のエピソード、失敗談等々だ。
ふと一際目立つ美人な女子が目についた。絵里に聞くと彼女が先輩だった。何と例えて言えば良いのか。写真写真が様々な格好をしてたりするから、捉えどころが無いと言うのが第一印象だった。まぁ尤も演劇部の写真だから当たり前なのだが。髪型は今の絵里と同じくらい短かった。説明してくれた時に教えて貰ったが、この髪型は”マニッシュショート”と言うらしい。マッシュルームヘアーとは言わないみたいだ。まぁどうでも良いけど。因みに絵里はというと、制服を着ている普段の写真があったので見てみた。前に話してくれた様に、写真で見る絵里はロングヘアーにしていた。前髪ありのパッツンだ。ストンと胸辺りに後ろ髪を持ってくる、典型的な髪型ではあった。
練習中なのだろう、頭にタオルを巻いている、今と不気味なほどに顔が変わらない絵里と、先輩が笑顔で汗だくになりながら立ち並ぶ写真があったので背丈もわかった。大体同じに見えたが、若干先輩の方が大きかった。単純に身長差で考えるなら、実際は兎も角感覚から言えば私と同じくらいに見えた。絵里はこの頃から目がクルンと大きく、典型的な二重瞼だったが、先輩は一重ではあったけど、横に綺麗に品良く切れていて、鼻筋もシュッとしていたから、例えるなら美人さんな日本人形って見た目だった。写真で見る限り、絵里から聞く陽気で気さくでサバサバしてたと言う人物像とは必ずしも一致しなかった。でも、当事者が語るのだから、まぁそうなのだろう。
余談に次ぐ余談だが、絵里の先輩、この人とは高校の卒業とともに離れてしまったらしい。大学の進学先も別々だった様だ。尤もお互い卒業後も会っていたらしいが、途中で先輩は大学を辞めて、本格的に演劇にのめり込んでいったらしい。今も生きていれば、国内か国外で演技を続けているだろうと言うのが絵里の言葉だ。
この話も含めて、どこかで機会があれば絵里と先輩の話も、私の知る限りにおいて話そうと思う。長くなったがそんな感じだった。

それからは何度かせがんでも見せて貰えなかったから、久しぶりに見たくなってしまったのだ。正直裕美がどうのは関係なかった。私の都合だ。
「ほらぁ、絵里さん。こんなに頼まれてるんだから…」
「いやほら、もう時間もないし」
絵里の小さな抵抗を受け、チラッと時計を見ると、確かに五時十五分前、あまり時間は無かった。でも、私は諦めなかった。
「…じゃあ次来る時にでも見せてあげてよ?私にも見せてくれたんだから、今更でしょ?」
「…でもねぇ」
絵里はホッペを掻きながらも、中々しぶとく渋っていた。
よし、じゃあ…
「じゃあ絵里さん、次お邪魔した時に写真を見せてあげるか、また”恋バナ”をするかどっちにする?あっ、勿論恋バナは絵里さんの話でね?」
「あっ!それ両方気になるー。どれだけの恋愛をこなしてきたのか」
裕美が私に乗っかってきた。良い兆候だ。
絵里はますます困り果てたという表情を顔中に湛えていた。そして腕を組み首を傾げて考え唸っていたが、はぁっと一度息を吐くと、力も無げに私に苦笑まじりに応えた。
「…はぁ、分かったわよ。裕美ちゃんがそこまで熱心に興味を持ってくれるなら、見せるのもやぶさかじゃ無いよ」
最後の方は小さな抵抗として刺々しく言っていたが、とりあえず我々小学生チームの勝利だ。
「ありがとうございます!次また来るのを楽しみにしています!」
まぁ尤も、裕美の純粋無垢な憧れの表現の前では、さすがの絵里も折れざるを得ないというのが実情だろう。
「はいはい、またいらっしゃい。…しっかし」
「え?」
絵里はさっきからそうだったが、苦笑いを浮かべながら私の方を見た。私が何かとすっとぼけていると、苦々しげに切り出した。
「ホンットにこの子ときたら…琴音ちゃん、あなたは悪魔の子かい?」
「え?何よそれぇ…」
「違いますよ、絵里さん!」
何故か横から裕美が得意げに口を挟んできた。顔はニヤケ面である。
「え?何が違うの?」
絵里もキョトンとしながら裕美に聞いた。裕美は絵里の耳元に、口元を私から見えない様に右手で隠しながら”私にわざと聞こえる様に”言った。
「この子は悪魔じゃなく小悪魔なんです!」
「…ねぇ裕美、丸聞こえなのも含めてツッコミたいんだけど」
私は一度溜めてから突っ込んだ。
「私が自分の悪口に訂正するのも変だけど…それって、意味合いおかしくない?」
「あら、ホントだ!」
裕美は口元で右手を広げて見せて、あっ!と驚いた表情を見せながら声をあげた。すると絵里が大袈裟にイスの背もたれに寄り掛かり天井を見ながら笑い声を上げた。私と裕美も一度顔を見合わせ、それからクスクスと笑うのだった。

「じゃあまたね、絵里さん」
「また来ます!」
「いつでもおいでー」
絵里はいつも通りエレベーターホールまで見送りに出てくれた。そしてエレベータが来ると乗り込み、ドアが閉まり、縦長の窓からお互いに手を振りあって別れて一階に降りた。外に出た頃には空は紫色に染まっていた。カラスが鳴きながら空に黒い影を作りつつ、どこか寝ぐらへ向かって飛んで帰っていた。
「…はぁーあ」
裕美は暮れた空を見上げながら大袈裟にため息ついて見せた。
「どうしたのよ?」
「いやぁ…」
裕美は正面に向き直り、そして私の方を向くと晴れやかな笑顔で答えた。
「絵里さんってやっぱり素敵だなぁって。あのキャラは図書館でだけだと思ってたけど、普段も変わらず私達みたいな子供と同じ目線で話してくれるし。それに…」
裕美はゆっくりと進行方向に顔を戻すと、静かにボソッと続けた。
「…しかも赤の他人なのに、あんなに真面目に大事な事を、恥ずかしがらずに話せる所とかね」
「…えぇ」
私は他の言葉は不要だと、短く、でもハッキリと同意の意を示した。
すると裕美は勢いよくまた私の方を向くと、悪戯っぽく笑った。
「あの”オンオフ”の切り替えが凄いよね?しかも…見た目あんなに美人なのにお高く止まってないし、むしろ”恋バナ”に対してあんなに苦手なんてね。なんだか親近感が湧くよ」
「ふふ、まぁ絵里さんが特殊だとは思うけどね」
私は裕美に微笑み返すと、そのままの表情で正面を向いた。それを聞いた裕美は、顔は見なかったが、隣で力強く頷いているのがわかった。
「…あっ!」
「今度は何?」
裕美がまた突然隣で声を上げたので、私は呆れて見せながら聞いた。裕美はそんな私の様子に構う事なく、素っ頓狂な声で言い放った。
「何であんな変な髪型にしてるのか、聞くのを忘れてた!」

これから先は特に話すこともない。毎週毎週をほぼ同じルーティンで回していただけだからだ。まぁでもこのまま終わるのは味気ないし、せっかくだから冒頭に話した事を少し細かく話してみようと思う。
まず義一関係の事。家に行き、その時はまず借りた本の感想を話して、その後義一の意見を聞き、それぞれの考えを照らし合わせながら話し合い、その後また借りる本を選定して貰って、まだ時間がある様なら、数曲あの部屋にあるアップライトピアノを弾いて見せてた。その度に義一が喜んでくれるので、私は尚更褒めてもらいたくなってしまって、曲のレパートリーを増やしたり、自分の弾ける曲の完成度を高めようと一生懸命練習した。今思えばここに人前で演奏して見せる意義の一つがあるのかも知れない。これまで私は先生の前でだけ弾いて、褒められればそれで満足していた。それはそれで学習意欲は絶えることなく湧いてきていたが、違う人にも聞いてもらうというのが、こんなに良い作用をするとは思っても見なかった。勿論聞き手の”質”が良くなければ意味がない。義一はクラシック音楽にも造詣が深かった。音楽室の壁によく掛けられてる肖像画達、バッハやモーツァルト、ベートーベンにショパン、いわゆる”バロック”、”ウィーン古典派”、”ロマン派”などの有名どころだけじゃなく、ルネッサンス期の作曲家達まで深く知っていた。よく時間の余す限り私にアレコレと、昔活躍していた演奏家達の古いフィルムを見せながら話してくれた。でも義一はいわゆる”スノッブ”では無かった。知ったかぶりの頭でっかちでは無かった。先ほど言ったルネッサンス期に書かれた曲を、たまに私に代わってピアノの前に座り、ピアノに合わせて編曲したのを、恥ずかしがりながらも聞かせてくれたからだ。初めてこのピアノを見た時、鍵盤のカバーには埃が溜まっていた割に、鍵盤自体は綺麗に手入れがなされていて、いつでも弾ける状態だったのを思えば、誰かが定期的に弾いてるだろう事は想像出来ても良かった。がしかし、当時子供だった私には、そこまで状況証拠を組み合わせて、推論をたてるような事は無理な相談だった。勿論定期的に弾いていたのは、義一本人だ。ピアノに限らず、芸術芸能関係の事を話す義一の顔は、本当に少年の様な、裏のない純粋な笑顔を全体に浮かべるのが印象的だった。本当に心から好きだと言う気持ちがありありと感じられた。
この繋がりでピアノの先生の事。先生は以前にも増してピアノのレッスンに熱意を込めて打ち込む私に、勿論嬉しがってはくれていたが、それと同時にすごく心配そうに気を遣ってきた。前にも話した通り、先生は私の事情を全部分かっていた。両立出来なければ、ピアノの方を暫く辞める様な事だ。それを知っているから恐らく先生は、私が意固地になって無理して頑張っているんじゃないかと思ったらしい。勿論その推察は半分くらいは正しかった。…というより、初めは単純にそんな理由だったかも知れない。でも心配してくれながらも、先生は私がアレ弾きたいコレ弾きたいとせがめば、喜んで手元に楽譜がない場合なんかはわざわざ取り寄せてくれたりした。これは私の想像だけど、恐らく先生は私の知らないところで、改めて昔の勘を取り戻すべく練習をしていたみたいだった。それを証拠に、顔の表情は私がせがむ度に苦笑を浮かべていたが、普段のどこか遠くを見つめる様な、達観した表情を浮かべることが少なくなったからだ。顔に充実した明るみが差していた。
…あんまり関連づけて話したくないが、受験勉強の事。これも後になって思い至った事だが、ピアノに打ち込んだ事が寧ろ、勉強に於いても良い影響を与えていた様だった。あくまで私個人の場合という注釈付きだけど。他にも似た様な話は聞くが、要はピアノに打ち込むことによって、俗世間から受けるストレスを発散する事が出来、まっさらな気持ちで受験勉強が出来る。で当然ストレスがたまっていくが、ピアノを弾く事によって心身ともに洗い清められて、また要らない受験勉強に打ち込める…という様な良い循環が出来ていた様だ。勿論ストレス発散の為にピアノを弾いていた訳ではないが、結果的にはそういう意味もあったという事だ。
塾にも休まず通った。…正直何度もサボりたい衝動に駆られたが、これはある意味裕美に助けられたのかも知れない。登校時だけではなく、放課後もほぼ毎日裕美と過ごす様になっていた。お互いの教室の前で待ち合わせ、たまにヒロも居たりしたが、基本的に二人で仲良く帰っていた。塾に行く時もそうだ。いつも渋る私を引っ張ってってくれたのは裕美だった。私の無駄に強固な心の壁を力任せに粉砕し、深い居住区まで来て土足で上がり込み、縮こまる私を無理矢理立たせて外へと連れ出す。その厚かましさに私は救われていた。
一応言っておくが、今話したのは私から裕美に送る最大限の賛辞だ。
あと毎週とまではいかなかったが、絵里のことも触れないわけにはいかないだろう。前にも話したが、私一人で何度も絵里の家を訪れては、お喋りしたり、勉強を見てもらったりしていた。勿論都合がつく限り、図書館に行った時にも挨拶と軽い会話くらいはした。そして裕美が初めて絵里の家に行ってからは、三人それぞれ同時に都合が合った時に絵里の家に行き、お喋りをして、私と裕美の勉強を見て貰っていた。勿論約束通り、絵里の演劇部時代の写真を見せて貰ったりした。何度も見せてるのに、絵里は一向に慣れる気配が無かった。そして”恋バナ”も。これも後になって気づいたが、冒頭に話した様に、初めての模試で想像以上の成績を出す事が出来たのは、絵里に起因するところが大きかったのかも知れない。途中からは二対一で勉強していたが、それまではマンツーマンで事細やかに教えて貰っていた。私個人は何も勉強のスタイルを変えては無かったから、どう考えてみても絵里の教え方が良かったとしか思えない。本当につくづく私は、周囲の人間に恵まれて助けられてるなぁと、当時から既にシミジミ感じる次第だった。
夏休みに入ると、当然というか夏期講習で潰れた。…いや、変に真面目ぶる事もないだろう。夏休みの間は何だかんだで結構遊んだ。去年の様に家族で丸々一週間旅行に行く様なことは無かったが、近場の海沿いにある温泉地に一泊二日、私とお母さん、裕美と裕美のお母さんと旅行に行った。裕美の出場した大会に観戦に行って以来、同じ受験の娘、しかも志望校が同じと、共通点がたくさんあった為か、すっかり二人は私達娘の知らないところで仲良くなっていた。海水浴したり、温泉に入ったりと比較的呑気に過ごしていた。この夏休みの間の事も話すとキリがないので、割愛させて貰うのを許して欲しい。これも機会があったら話したいとは思っている。
…うーん、まぁこれも良いか。ヒロの事だ。遂にというかやっとというか、ヒロの所属する野球チームが、都内の東部地区代表として夏の大会に出るといってたが、私は案の定観に行く気が無かった。この場を借りて言い訳をさせて貰えば、何せ応援に行くと言っても炎天下の中、屋根の無い観客席に座っていなければならない。これも随分前に言ったが、そんな苦行をしてまで、そこまで興味のない野球の試合を観るのは…無理だった。
ヒロとは言え、流石に毎度の様に断って悪いとは思っていたけれど。しかし何故か裕美に強く薦められたので、重たい腰を上げたのだった。私は知らなかったが、裕美はずっとヒロの試合を、毎度の様に見に行っていた様だった。その縁があって、応援に来てくれるお礼も含めて、ヒロも裕美の大会には、毎度の様に応援に行っていた様だった。それこそ裕美が都大会で優勝する様になるずっと前からだ。裕美が言うには、いつでも変わらず、ずっと応援に来てくれたのはヒロだけだったという話しだ。こういうところはヒロの良い所だ。癪でも認めざるを得ない。この話も割愛させて貰うが、どーーーしてもと言うなら、機会があれば話す事もあるかも知れない。ただ一つ感想を言えば、ヒロが炎天下の中あちこち動き回っている姿を初めて観て…そのー…ま、まぁ悪くは無かった。それだけ。
あっ、あと一つ補足すれば、裕美がヒロに対する呼び方が、『森田君』から『ヒロ君』に変わった事だ。今まで裕美はヒロの事を『森田君』と、名字で呼んでいた。ヒロの方は何度も名前で呼んでくれと頼んでいたみたいだけど。ヒロの言い分は、お互いの試合を応援し合うほどに仲良くなったのに、下の名前で呼び合わないのは、まだなんか距離を感じるという理由らしかった。確かに私との間でも、かなり早い段階で下の名前で呼び合っていた。一年生の頃からだと思う。ヒロの試合を私と一緒に観戦に行った帰り、地元で三人仲良く帰っていた時に、私がおもむろに裕美に言ったのだった。『遠慮しなくても良いのよ?ヒロ相手に控え目でいる必要なんて無いんだから。まぁ確かにいきなり男子に、下の名前で呼ぶのは抵抗あるかもだけど、まぁ本人があぁ言ってるんだからさ?』裕美は最初ウジウジしていたが、その日をキッカケに徐々に『ヒロ君』と呼ぶようになっていった。

夏休みの間、義一とまた一週間ちょっとの間、会えないし連絡が取れない事もあった。去年と同じだ。ただ去年と違って私も受験で忙しかったから、ようやく会える様になっても、久し振りな感じはしなかった。何が言いたいかというと、”なんでちゃん”が起きてくる程ヒマじゃ無かったという事だ。絵里と去年一緒に行きたいと言っていた花火大会も、私の都合で見に行けなかった。私は薦めたが、結局義一と二人で一緒に見に行かなかったみたいだ。残念。
この辺りは目まぐるしく、月日が早く過ぎてく様に”初めて”感じた。よく大人が『子供の頃は一日一日が長く感じたけど、大人になると年単位で早く過ぎるよ』と言っていたのをよく耳にしていたが、何を言っているのかイマイチ分からなかった。でも夏休み明けから年が明けるまで、本当に月日が早く過ぎるのを実感出来た。受験とは全く関係無かったが、この時期の私の印象に残った、数少ない得られた経験の一つだった。
駆け足で済まないが、繰り返す様だがなんだかんだ言って受験生、そこまで特筆すべき話す様な事も無かった。寧ろ自分で言うのも何だが、”色々”あった方だと思っている。
そんな言い訳は置いといて、この年の年末は珍しく家で静かに過ごした。人によっては嫌味に聞こえるかも知れないが、事実として家でのんびり過ごす珍しさを存分に楽しんだ。
一月二日、三箇日。私と裕美、お互いのお母さん二人合わせて四人で、近所にある全国的に有名な真言宗の大師に初詣に行った。初めて行ったが、人でごった返していて、息をするのがやっとといった感じだった。何とかお賽銭にお金を投げ入れお参りし、帰りに合格祈願のお守りを買って帰った。因みに私と裕美二人共、何とか成績は少しずつとはいえ順調に伸ばし、合格圏内を維持出来ていた。後は本番で、ドジを踏まないかどうかだけが心配だった。
そうこうしている間に、気づけば二月になり、とうとう受験日を迎えた。

「忘れ物は無い?受験票はしっかり持った?」
「うん、持ってる」
木枯らしが吹き荒ぶ二月二日。私とお母さんは揃って駅までの道を歩いている。今日は平日。学校は休みを取って、これから試験会場である四ツ谷まで電車に乗って行くところだ。それぞれの学校が試験会場になっている。受験期間はどの学校もお休みになっていた。
「…もう一度確認したら?」
隣を歩くお母さんは一人で何だか落ち着きが無い。さっきから何度も私に確認する様言ってくる。まるでこれからお母さんが受験しに行くみたいだった。それに引き換え私は自分でもびっくりするほど冷めていた。空気が寒いのは関係ないだろう。
「…もーう、大丈夫だから。お母さん、少しは落ち着いて?」
私は苦笑交じりにお母さんに言った。
「そ、そうね」
お母さんがそう短く答えるかと同時に、駅前の広場に着いた。今は丁度七時。スーツ姿のサラリーマン姿がちらほら見えたが、まだそんなに目立っていない。これから時間が経つにつれ、勤務先のある都心に向かい、ドッとスーツ姿の大人達でいっぱいになるのだろう。朝ラッシュと若干ズレてるらしく、それだけでも気は楽になった。もう暫くは、あの塾帰りの時の混雑具合は経験したく無い。
「…あっ、おーい琴音!」
私達よりも先にこちらに気付いたのか、裕美が大きく手を振っているのが見えた。
「…いよいよね」
私は胸の前で小さく手を降りながら近づいた。裕美は表情に若干の緊張を漂わせながらも、笑顔を作って頷いた。一瞬見せた本気の表情は、あの水泳大会のスタート前のに酷似していた。
予め私と裕美は待ち合わせをしていた。今日受ける学校は試験後に面接があるというので、普段より若干おめかし気味だ。私は寒さ対策でグレーのコートを着ていたが、下は紺のブレザーにグレーと黒の地味目なチェック柄の膝が隠れる程度のスカート、厚手のタイツを穿いていた。たまたまというか、何というか、裕美も同じ様な出で立ちだった。尤も裕美のコートは淡いクリーム色だった。チラッと見えるスカートは真っ黒、タイツも真っ黒だった。一月に今いるこの面子で、都心のデパートにわざわざ出かけて、一緒に買ったものだった。…結果はまだ言わないが、もし二人とも合格、もしくは不合格じゃ無かったらと思うと、ゾッとする。これでどっちかだけが合格した日には、殺伐とした空気が両陣営の間に流れたことだろう。私達本人とは別のところで。
それはさておき、挨拶もそこそこに、早速私達は電車に乗り込んだ。殆ど塾までと変わらない道のりだった。電車はギリギリ座れないくらいの混み様だった。私と裕美はドアの手摺り付近に立った。お母さん達は少し離れた所にいた。
「…いやー、緊張するな」
裕美は外を流れる景色を見ながらボソッと呟いた。
「…ふふ、大会とどっちが緊張する?」
私も同じ様に外を眺めながら言った。すると裕美はチラッと私の方を見ると、何か不思議なものを見る様な表情で返した。
「…アンタ、今日みたいな時でも、そんな軽口叩けるんだねぇ…いやぁ、凄いわ」
「ふふ、褒めてくれて有難う」
私は心から感謝を述べて、微笑みながらまた顔を外に向けた。裕美は鼻で短く息を吐くと、苦笑交じりに言った。
「…まぁ褒めてるっちゃあ褒めてる…かなぁ?私はやっぱり緊張してるもの…下手したら大会より」
「え?そうなの?」
「うん…あ、いや、勿論初めて大会に出れた時は…もう、何をしてたか思い出せないくらいに緊張してたけどね。おかげさまでというか、何度か出るうちに慣れてくもんだから」
「ふーん、そんなもんか」
私は呑気な調子で返した。
「そんなもんよ。…でも今日は初めてでしょ?しかも最初で最後。…あぁ、自分で言ってて、また緊張がぶり返してきた」
裕美は暖房の効いてる車内だというのに、両腕を手でさすっていた。見兼ねた私は、おもむろに裕美の右腕を一緒に数回摩りながら言った。
「…もーう、今から緊張してどうするのよ?今まで精一杯やってきたんでしょ?だったら今は過去の自分を信じるしかないじゃない。私は自分を誰よりも信じてる。…まぁ尤も」
私は裕美の腕から手を離し、そのままほっぺに持っていってポリポリ掻きながら続けた。
「駄目かもしれない自分のことも信じてるけどね?」
「…ぷっ!何それぇ」
裕美は吹き出した。薄眼を使いながらニヤケている。
「それじゃあ駄目じゃーん」
「私は駄目な私も好きなの。…懸命に努力した結果であればね」
「…うん、そうだね」
そう返してきた裕美の顔は、先程までの強張った表情から打って変わって、何やら解放されたかの様な柔らかい微笑みを浮かべていた。
「…ありがとうね」
「…ん?何が?」
私はワザとすっとぼけて見せた。裕美は目をギュッと瞑りながら、明るく切り返した。
「もーう!何でもないっ!」

四ツ谷駅に着き改札を出ると、辺りには私達と同い年くらいの女子達が、お母さんらしき人と一緒にゾロゾロと同じ方向へ歩いていっていた。彼等はみんな恐らく同じ受験生だろう。皆んな一様に暗い表情でいるか、全くの無表情そのどちらかだった。私と裕美みたいに表情が柔らかいのはザラだった。
歩いて二分くらいで学校の正門前に着いた。その前では何やら色んな大人達が子供達に向けてエールを送っていた。私達はスルーして行こうとしたら、見覚えのある人に捕まってしまった。塾での私達の先生だ。何やら色々言われた。『お前達は俺達がついてるぞ』云々。正直この先生には悪いけど、なーんにも思い入れが無いせいで、どんな美辞麗句も何一つ私の心の琴線に触れる事は無かった。さすが”大人”な裕美は、それなりに先生の相手をこなしていた。私の分までしてくれて、とても助かった。お母さん達も軽く先生に挨拶していたが、そろそろ私達の時間が迫っていたので、お暇することにした。私は全く相手にしてなかったのに、一人でドッと疲れていた。何とか絵里の事など思い出して、気を取り直した。
朝起きて携帯を見たら、義一と絵里からメールが来ていた。義一からは一言『ほどほどにね』だった。私は「らしいなぁ」とニヤケながら独り言を漏らしていた。絵里からも一言だけだった。『楽しんできてね』。これまたいかにも”絵里”といった調子だったから、またニヤケてしまった。普通が何だか私には分からないけど、恐らく安直に『頑張れ』が一般的なのだろう。私はこんな性格なので、裏をどうしても読もうとしちゃうから、偽善の匂いを感じ取ってしまう。 それらを理解し踏まえた上での、義一と絵里のメールだった。たった一言の中にどれだけの私への気遣いがあるか、計り知れなかった。それで十分だった。…これのおかげで当日緊張しないで済んだのかも知れない。

「携帯電話の持ち込みは禁止です」
無感情なアナウンスがひっきりなしに鳴り響いていた。私と裕美はカバンからスマホを取り出し、自分のお母さんに預けた。細長い簡易的な看板が立っていた。そこには『受験生』『保護者』と書かれていて、それぞれの字の上に矢印が書かれていた。左が受験生で、右が保護者だ。ここで別れるらしかった。
裕美とおばさんが何やら会話をしてる間、お母さんも私の肩に手をそっと置きながら話しかけた。顔は朝とは違い柔らかかった。
「…じゃあ琴音、頑張ってくるのよ?」
「…うん。行ってきます」
私も優しく微笑み返して、裕美とともに入試会場へと向かった。中は土足厳禁だったので、持ってきていた上履きを履いて中に入った。受験番号で教室が割り振られており、裕美の方が番号が小さかったので、一つ隣の部屋に入って行った。入る時黙って私を見ると、力強く頷いたので、私も同じ様に強く頷き返した。それを見ると、裕美は一瞬微笑んで見せて、中へと消えて行った。
私達が受ける試験科目は四科目だった。国語、算数、理科、社会だ。全ての科目を受け終えても、そのまま待たされた。何故ならこの後に面接があったからだ。面接は受験番号順に行われるので、裕美の方が私よりも先に受けるはずだった。
その間ちょうど十二時を過ぎていたので、周りの受験生が各々カバンからお弁当を出し、それを食べ始めていた。私も倣って持ってきたお弁当を食べた。お母さんが朝に持たせてくれたものだった。久しぶりにお母さんの手作り弁当を食べたので、この状況下でそう思うのはどうかとは思ったが、やはり素直にお母さんの作るご飯は美味しいと、実に良く味わいながら食べた。
一時半になろうかと言う頃部屋のドアを開けて、スーツを着た三十代程の女の人が、私の番号を含む数字を呼んだ。番号順に座っていたので、私の前後数人が同時に立ち上がり、カバンに荷物を片付けて持ち、そして女の人の後を一斉について行った。ある部屋の前に椅子が何個か置かれていた。女の人はここで座って待つように言うので、私達は黙ってそのまま番号順に座った。女の人は見届けると、どこかへ行ってしまった。
廊下は薄暗かった。廊下の突き当たりに大きな磨りガラスがあるらしく、外からの自然光が漏れて、廊下に一本の光の筋が出来ていた。それ以外には弱々しげな蛍光灯が点いているだけだった。
私の前にいた女の子が部屋の中から無表情で出て来た。そしてそのまま出口の方へとスタスタ歩いて行ってしまった。その後ろ姿をぼーっと見ていると、開けっ放しのドアからさっきとは別のスーツ姿の女性が出て来た。
「〇〇番さん、どうぞ中へ」
「はい」
私は足元に転がしていたカバンを手に取り、言われるまま誘われるままに、部屋の中に入って行った。そこは日当たりが良いらしく、一瞬目がくらむ程だった。中には人が先程の女性を入れて三人いた。皆女性だ。私を呼んだ女性はドアの脇に直立していた。残り二人の女性は年配の女性だった。二人は長テーブルを前に、等間隔で座っていた。いかにも教師といった容姿だった。二人共に顔に微笑を湛えていた。
「どうぞお掛けください」
そのうちの一人が私に、上品な調子で声を掛けた。
「失礼します」
座れば二人が真正面になるように設置された、一つだけポツンと置かれた椅子に、一言断ってから座った。もう一人の女性は何やら紙を捲り、ペンを手に持つと、もう一人の女性と同じ様に微笑みながら私を見ていた。
「まずは自己紹介をお願いできますか?」
私に座る様薦めた女性が、私に話しかけてきた。
「…私は望月琴音といいます」
「望月琴音さんね」
隣の女性はカリカリと、何やら書き始めた。
「面会時間は約三分間です。よろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします」
私は深々とその場で座りながらお辞儀した。顔を上げると、先程から話しかけてくる女性は微笑みながら、優しい口調で言った。
「緊張しなくても大丈夫ですよ?楽しい会話をする様にしましょう」
「はい」
私は一応恐縮して見せながら答えた。
女性はニコッと笑うと、隣でずっとメモをしている女性の手元をチラッと見ると、早速質問を投げかけてきた。内容は『思いやりを感じた体験、もしくは心に残っている体験』だった。実は予め面接直前に質問の書かれたカードを手渡されていたので、急に聞かれても困らない様な救済処置がなされて居た。私に言わせれば予定調和だった。
これは前に一度だけ裕美と学校の説明会に来た時に、この学校の教頭が登壇して、去年の面接内容はどうだったかを説明していたが、それと大体一緒だった。 説明会の会場、その場に居た他の子達は、裕美もそうだったみたいだが、この漠然とした問いにどう答えるのが良いのか困っていた様だった。私はまた別の意味で困っていた。寧ろ話したいことが多過ぎたからだ。説明会でも制限時間が三分だと聞いていたので、当たり障り無く”私”を殺してどう答えるのかが、鍵になるだろうと思っていた。でもいざ本番になってみると、急に頭の中に義一と絵里、ピアノの先生の姿が思い浮かんできた。…うーん
「では話して頂けるかしら?」
女性は顔中に興味津々だと言う感情を、万遍なく浮かべて見せながら聞いてきた。隣に座ってメモを取ろうとしている女性も同じだ。
私は少し躊躇したが、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。
「はい、私は…」

「では失礼します」
私は一礼して部屋の外へと出た。そして前の人がそうした様に私も出口に向かって歩いて行った。途中から大きな矢印の書かれた紙が廊下の壁に貼ってあり、その下に『出口』と『控え室』と書かれていた。
私は『控え室』と書かれている矢印に従って進んだ。
「琴音!」
控え室に使われている講堂の中に入ると、遠くの方で私の名前を呼ぶ者がいた。お母さんだ。側には裕美のお母さん、そして一足早く面接を終えた裕美の姿もあった。 私はゆっくりとした足取りでお母さん達の元へ近づいた。お母さんは優しく微笑みながら、私の両肩に手を置いた。
「琴音…お疲れ様」
「うん」
何だかんだ私も自分で思う以上にやはり緊張していたのか、一気に脱力感に襲われつつも、ただ短く、でも明るく努めて笑顔で返した。
「お疲れ様、琴音ちゃん」
裕美のお母さんも私の背中に手をやりながら、優しく労ってくれた。
「お疲れ様、琴音」
裕美も満面の笑みで私を迎えてくれた。私は意地悪く笑いながら返した。
「…お互いにね?」
「あははは!そうね」
すっかりいつもの裕美に戻っていた。と、ここでおばさんはお母さんに声を掛けた。
「…じゃあ瑠美さん、いつまでもここにいてもしょうがないから、帰りますか?」
「あっ、そうね。そうしましょう」
「じゃあ二人共ー!行くわよー!」
「はーい!」
私達四人が講堂を出て、正門を抜け、四ツ谷駅のホームに着いた頃には二時半になっていた。 ここまでの道中、せっかく都心まで出てきたんだから、この辺りで軽く食事する案が出ていたが、第一志望の受験が終わったとは言え、まだ二校ほど入試が残っていたこともあり、今日のところは大人しく帰り、地元に着いたら軽く食事をする案に落ち着いた。
電車の中、真昼間だからか余り人気が無かった。余裕で座れた。お母さん達と向かい合って座る形になった。とは言ってもお互いの会話が、詳しくは聞き取れないほどには離れていた。
「いやー…ひとまず終わったね!」
裕美は電車の中だというのに、座りながら大きく両手を上に伸ばしながら言った。私達の背後の窓から、冬の太陽の陽気が光と共に降り注いでいた。
「…そうね」
「ん?何?どうしたの?」
「え?…んーん、何でもないわ」
私はなるべく悟られないように答えた。裕美は「ふーん」と言ったきりで、それ以上は聞いてこなかった。
私の頭の中には、今日の面接の風景が思い出されていた。用意していた答えとは全く違う事を答えてしまったのを、今になって後悔していた。
…アレが影響したら…どうしよう。
流石の私も一応それなりに、裕美ほどじゃ無いにしろ頑張ってきた自負があったから、こんなつまらない事で落ちたりしたらと思うと、気が気じゃ無かった。…今ここで言うことでは無いかもしれないが、正直ここまで来たら絶対に合格したかった。口が裂けても恥ずかしいから言えないけど、…もちろん初めは絵里の出身校だと言うんで、興味を持ったというのが動機だったが今は…単純に裕美と同じ学校に通いたいという気持ち一心だった。合格発表はすぐ明日に迫っている。
そんな私の何かを察したか何なのか、裕美はおもむろに面接の話を振ってきた。
「いやー、想定通りの質問で助かったね」
「…うん、そうね」
私は顔を後ろの窓に向け、外を眺めながら答えた。すると裕美は何を勘違いしたのか、ツンとして見せながら言った。
「まぁアンタは良いよねぇー。仮に想定外の質問が飛んできても、易々と答えてしまうんだから。何せ普段からあんなに弁が立つんだし」
「…ふふ、何よそれ」
私は苦笑交じりに返したが、心中は穏やかではなかった。仮に裕美の言う通りだとしたら、その弁が立つせいで、暴走してしまった可能性を否めなかったからだ。
「そういえば、アンタが面接終えて出て来るまでじっとしてたんだけどね」
「…うん」
私は上の空で返した。
「周りの子達の会話が聞こえてきたの」
「…なんて言ってたの?」
「なんかねぇ…」
裕美は何だかつまらなそうにしながら、先を続けた。
「正直面接って合否には関係しないみたいなのよ」
「…え?」
私は一瞬裕美が何を言ったのか理解出来ず、思わず聞き直してしまった。
「それって、どういうこと?」
「なんかね…」
私が見るからに動揺しているのにも気に留めず、裕美は淡々と続きを話した。
「その子達が言うには、この面接の目的は合否に関係無く、いわゆる子供の自主性ってヤツを見るためにしているんだって。話していた女の子のお姉さんが在学中らしいんだけど、そのお姉さんに教えて貰ったらしいのよ。『実はな…』みたいにね」
裕美は急に私の耳元に顔を近づけ、内緒話をする真似事をした。
「ほら、面接前に質問が書いてあるカードを貰ったじゃない?アレを見て、子供達が面接までに自主的に考えるのを促進してるんだって。だから面接する本意はそこにあるらしいのよ。面接内容は、どうでも良いとは言わないまでも、そこまで重要視はされないんだって」
「…はぁーー」
私は大きく肩を落としながら、ため息をついた。
「え?何々、どうしたのよ?」
裕美は不思議そうに私を見ていた。
「…んーん、何でもありませーん」
私は車内が空いているのを良いことに、足を前に無造作に投げ出し、大きく伸びをしながら返した。その名も知らない女の子の話、お姉さんに聞いたと言う不確定事項、しかもただの又聞きに対して信頼をおくのはどうかと思ったけど、話に筋が通っていたし、まぁ心理的に安心したいが為に、藁にもすがった感は否めなかったが、ホッとしたのも確かだ。
私はすっかり晴れやかな気分になっていた。自然に笑みも溢れた。もうすっかり覚悟を決めて、明日の合否発表を迎える準備が出来上がった。
それに反して私の反応のせいで、裕美は見るからにモヤモヤしていたようだった。ゴメンね、裕美。

第14話 卒業、そして入学

「…よし!」
私は自分の部屋にある等身大サイズの姿鏡の前で、最後の身だしなみの確認をした。バッチリだ。入試の面接時に着ていた紺のブレザーに、グレーと黒のチェックスカートは地味といえば地味だったが、今回は首元に赤いリボンを付けているので、ちょっとしたアクセント効かしが入って、派手過ぎず地味過ぎず、程よくバランスが取れていた。
何故こんなお堅い格好をしているのかといえば、何を隠そう今日は、六年間通っていた小学校の卒業式だからだ。三月も真ん中を過ぎた頃、もうすっかり春めいた陽気にみちているのが、部屋の中にいても感じられた。私は朝食を済ませてから最後の確認をしていたので、満足するとそのまま鞄を持って部屋を出た。そして階段を降りて居間を覗いた。
お母さんはキッチンで何やら整理をしていたが、姿格好はすっかり余所行き仕様になっていた。着物姿だ。淡い水色の付け下げで、袖模様は四季折々の草花があしらわれていた。帯は山鳩色地に金を載せた地色に、華やかな華紋と花唐草などが刺繍と螺鈿のような細工で表現されていた。ビシッとキマっていたが家事中の為か、たすき掛けをしていた。
お母さんは初めは一般的な服装、落ち着いた紺か黒の様な色合いのジャケットとスカートのツーピースで行くつもりだったみたいだが、私がわざわざ着物でと頼んだのだった。言われた直後は苦笑いで渋っていたが、私が必死に頼んだのが効いたのか、はたまた自分の好きな物を、娘から人前に見せるように頼まれたのが嬉しかったのか、最終的にはこうしてキチンと身に付けてくれたのだった。
しばらく我が母ながらその着物姿に見惚れていたが、ずっと見てる訳にもいかないので、後ろから声を掛けた。
「じゃあお母さん、私そろそろ行くね?」
「あぁー、はいはい」
お母さんは一度蛇口を閉め、手の水気をタオルで拭き取りながら、こちらに振り向いた。言い忘れていたが、お母さんの髪型も着物仕様になっていた。綺麗に纏まった編み込みスタイルだ。一本だけ刺した簪は、小さく控え目なお花の飾り付きだった。
お母さんは黙って私を舐めるように上から下、下から上と顔を動かしながら見ていたが、私のそばまで寄ると、私の首元の赤いリボンに触れながら笑顔で言った。
「…よし!流石私の娘だわぁ。カッコ可愛くキマってるわよ」
「…ふふ、お母さんこそ」
私達二人はクスクスと笑い合った。それからお母さんは一度襷を解いて、カメラを手に持ち私と一緒に外に出た。そしてタイマーをセットして二人の写真を撮ったのだった。

「じゃあいってきまーす!」
「はーい、また後でねー」
玄関先から手を振るお母さんに手を振り返し、私は最後の通学路を味わうように歩いた。
普段と変わらない通学路。というか、普段から歩いている変哲の無い見栄えの無い道だというのに、今日というこの日に限っては、若干町の色合いがいつもと違って見えた。なーんて妙な文学調のしおらしい、らしく無い心持ちでいた。自他共に冷えてると評価されている私でも、感慨深くならざるを得なかった。
「おーい!」
マンションの正面玄関前から、裕美がこちらに手を振ってきた。そしてそのまま歩道にいる私まで歩み寄って来た。私も胸の前で小さく手を振り返す。
「おはよう、裕美」
「うん、おはよう!」
裕美はいつになくハイテンションだった。私達は合流すると挨拶もそこそこに、学校へ向けて歩き始めた。
「…ふふ」
裕美は歩き始めてすぐ、一人でクスクス笑い出した。
「何よ裕美?何がおかしいの?」
「だってぇ」
裕美は今朝のお母さんみたいに、私の姿を舐め回すように見てから続けた。
「私達こうして並ぶと、昔の漫才師みたいなんだもん」
「…あっ」
私も言われて、改めてお互いの服装を見比べて見た。裕美も私と同様に、あの受験の時と同じ格好をしていた。違いがあるとすれば、私がチェックのスカートなのに対し、裕美はブレザーと同じ黒だという点だった。今日は小春日和で暖かな気温だったので、真冬の寒さだった入試の時とは違い、コートなどの上着を羽織っていなかったから、側から見ると仲の良い姉妹みたいだった。
「確かにそうね」
苦笑交じりに返した。裕美は悪戯っ子のように笑いながら言った。
「あははは。私達同じクラスじゃなくて良かったね?同じだったら周りにどれだけからかわれるか、わかったもんじゃないもの」
「…ふふ、本当ね。特にあの馬鹿に見られた日には…」
「おーっす!」
私がまだ言い終わらない時に、後ろから底抜けの明るい声を上げながら、誰かが勢いよくガバッと二人の肩に腕を回して来た。
私と裕美はビックリして振り返った。…『誰か』と言ったが、本当は誰かは当然すぐに分かっていた。ヒロだった。黒のスーツを着ていた。仕方ないと言えば仕方ないけど、着せられてる感が強かった。個人的な感想を言えば、余りにも子供っぽ過ぎる普段を知っているせいで、チグハグに見えた。まぁこれは、ヒロに限ったことではないが。
裕美はそのまま固まっていたが、私は鬱陶しそうに乱暴に振り解きながら悪態ついた。
「…あなた、最後の最後になってまで碌な挨拶が出来ないの?」
「細かいことは気にすんなよ!」
ヒロはそっと裕美から離れながら答えた。裕美は呆然としている。
「気にすんなって、加害者のあなたが言う台詞じゃないでしょ…」
私はゴミを見る目でヒロを見たが、見られ慣れているせいか、一向に気にしない様子だ。
ヒロは私達の服装を見て、大袈裟に驚いて見せながら言った。
「お、おぉー!中々オシャレにしてんな二人共!えぇー…っとぉ」
ヒロは唸りながら頭を抱えて見せた。と、すぐ顔を上げると、自信満々に言い放った。
「…あっ、あれだ!馬の耳に念仏」
「…誰が人の話を聞かないっていうのよ?」
私はヒロが何を言い出すのかと身構えていたが、期待通りというか案の定というか、まるで見当違いの事を言ってきたので、心底呆れながら返した。
「それを言うなら、馬子にも衣装でしょ」
「ん?…あぁ!それだそれ!」
ヒロは私を指差しながら、笑顔で返した。一人合点がいったようだ。
「はぁ…何で私があなたの軽口に対して、訂正をしなきゃいけないのよ?」
私が脱力気味に文句を言っていると、それまで私とヒロのやり取りを黙って聞いていた裕美が、我慢出来なくなったのか、大きく吹き出し笑い転げていた。
「あははは!おっかしー!…でも琴音?」
「何よ?」
表情そのままに今度は裕美を見た。裕美は笑顔を保ったままだ。そのまま瞼を薄めがちに開いて見せながら言った。
「…あながちヒロ君の言ったのは、間違ってないかもよ?」
「…ちょっとぉ、それどういう意味よ?」
私は抗議をしたが、口元は自分でも分かるほどニヤケていた。それから少し間をおくと、私と裕美は歩きつつ、進行方向を向きながら笑い合ったのだった。ヒロは私達の後ろを退屈そうに、でもどこかに行くでもなく、付かず離れず後ろに付いて歩いていた。
今日でこの三人で通学するのも最後だ。

校門前に着くと、脇に大きく『卒業式』と書かれた看板が置いてあった。気の早い卒業生と母親なりが、その前で記念撮影をしていた。私達三人はなるべく邪魔にならないように気を遣い、足早に脇を抜け、各々の教室に向かった。裕美とヒロは同じクラスだったが、私だけ違ったので、廊下で式が終わった後どこで落ち合うかの確認だけ済ませて別れた。
私が自分の教室に入ると、どうも一番最後だったらしく、みんなの視線が私に注がれた。尤もみんなテンションが高めなせいか、ガヤガヤザワつきは止まないままだった。いつも通り家を出て、いつもの感じで通学路を歩いて来たつもりだったが、どうも知らず知らずペースを緩めてゆっくりと歩いていたらしかった。それだけ自分が思う以上に名残惜しかったようだ。
私が自分の席に着くと、何人かの綺麗に正装した男女が、私に話しかける為近づいて来てくれたが、何の前触れも無く教室に入って来た、これまた普段はジャージ姿しか見た事がないのに、最後の最後でビシッとスーツを身につけた男性担任が入って来たので、みんな一斉に席に着いた。
正直…これを言うと『またお前は何でそんなに冷めているんだ』と非難されそうだけど、本心から言えば全くワクワクなどしていなかった。何故なら今日という本番を迎えるまで、二月の終わりくらいから、何度も卒業式の練習をしていたからだ。卒業証書を受け取る事まで練習した。…まぁこれは各クラスの代表者の一人だけが、体育館に集められた私達の前で壇上に上がるだけだったが。
私はこの時から一連の茶番にうんざりしていたが、一つだけ驚いたことがあった。隣のクラスの代表者として壇上に上がったのが裕美だったからだ。裕美はリハーサルだというのに、緊張した面持ちで壇上に上がっていた。
その練習の帰り早速訳を聞き出してみると、裕美が言うのには本来各クラスの学級委員が代表者になるのが普通だったのに、直前になって急遽裕美に白羽の矢が立ったようだった。一昨年に全校生徒の前で表彰された事、また去年も二連覇したのに学校の都合で朝礼の時出来なかったが、元々また表彰するつもりだった事、これらを全部教師側が鑑みて、裕美のクラスの代表者だけ学級委員ではなくなったと言う話らしかった。
勿論と言うか、当然裕美は何度も断ったらしい。ヒロも含む同級生全員に言われても断り続けたらしいが、とうとう学級委員本人にも頼まれてしまった事が決定打となり、渋々恥ずかしがりながら引き受けたという経緯だったらしい。 私は一連の話を聞いて『まぁ折角だし楽しみなよ』と無責任な言葉を送った。裕美は苦笑だったが、そこで吹っ切れたようだった。それで今に至る。
私達生徒は練習通り、筋書きに沿って卒なく式を完遂した。式自体は特に話すことは無い。…まぁ型通りの式典なんてそんなものだろう。生徒にとっては式なんかよりも、教室に戻ってからが本番だ。
教室に戻り自分達の席に着くと、そのすぐ後から担任が入ってきた。…これ言うとまた顰蹙を買うだろうが、事実として担任が余りにもありきたりな事を話すもんだから、何一つとして心に言葉が残らなかった。
ただ一つだけ…これもまた自分に対してだから、そこまで関係無いのだけど、我ながら自身に感心した事があった。隣の席の女子が担任の話を聞いてる途中で嗚咽を漏らし始めた。ついこの間までの私だったら、前にもちょろっと話したかも知れないが、この手のすぐに感情的になって、人前だというのにも関わらず、平気で泣くような女を心の底から軽蔑していたが、驚いたことに苛立ちや不快感を催すどころか、その女子に釣られて視界がボヤけてしまった事だった。これを成長というのか、心が弱くなったと言うのか、視点の位置により見方が変わると思うけど、この日の私は取り敢えず前者に一票を投じたのだった。
担任は話し終えると、学校生活終了の宣言をした。途端にみんなは一斉に立ち上がり、歓声とも咆哮とも取れる声を上げた。今までの堅苦しい空気を払いのけるかのようだった。
先ほど担任が急に入ってきたせいでお話出来なかった同級生達が、私の周りを取り囲むと、一緒に同じクラスで卒業出来た歓びを分かち合う様に、男の子は握手を求め、女の子は抱きついてきた。私も笑顔で対応したが、正直心底この状況にびっくりしていた。想像していたのとかけ離れていて、想定していなかったからだ。
今までの、ここまでの私の話し振りから想像出来ていたと思うが、ある意味義一との再会、絵里と仲良くなりだしたぐらいから、勝手に私の中で線引きをして、前よりも同級生達と一定の距離を取ろうと意識的にしてきた。勿論みんなの望む”私”を演じ続けてはいたが、前ほど進んで演じようとはしていなかった。前ほど進んで何かを提案したり、引っ張っていこうという積極性は、影を潜めていた。一方的に線引きして壁を作っているうちに、よくある話だが、段々と相手の方でも自分と同じ様にこちらと距離を取ろうとして、最終的には疎遠になろうとしているんじゃないかと思い込んでしまっていた。 それが今の状況だ。
まるで今まで何も変わらず一緒に過ごしてきたかの様に振る舞う級友たちに、度肝を抜かれたと共に、不思議と何故か感謝の念が胸に去来し、それが溢れそうな程大きく膨れていくのを感じていた。
あらかた皆んなと挨拶したり写真撮ったりしていたが、ふと視線を感じたのでそちらに振り向くと、そこにはかつて一緒に連んでいた”元”仲良しグループの面々が、私の方を一様に静かな視線を向けていた。実際は一秒ほどだろうが、長い事見つめ合った様な感覚だった。と、表情そのままに皆して私の方へと近寄って来た。そして私を取り囲む様に立った。私は今から何されるんだろうと、後ろめたいことも無いのに内心ビクビクしていたが、為す術もなく相手の出方を待つ他に無かった。沈黙を破る様に、私の前に意を決した様に立った者がいた。それは、覚えているだろうか、裕美との前に、いつも一緒に登下校をしていたあの子だった。彼女は表情固めに緊張を顔に表してジッと私を見てきたので、私も合わせて見つめ返していた。暫くして私は急にドキッとした。何故ならこちらを強く見つめるその両目が、見る見るうちに潤んで行き、仕舞いにはそのまま溢れ出すままに大粒の涙を流し始めたからだ。私はぎょっとして、先ほどまでとは別の意味で立ち居振る舞いに困っていると、我慢していた感情を解き放つ様に、突然私に抱きついてきた。
「琴音ちゃーーん!今までありがとーう!」
「琴音ちゃーん!」
一人が抱きついたのを合図に、他のみんなも一斉に抱きついてきた。私はこの不測の事態に、ただただ唖然とするばかりだった。みんな私よりも若干背が小さいので、私は冷静に周りを見渡す事が出来た。気付けばみんながこちらに注目していた。十人十色の表情を浮かべていたが、共通していたのはどの顔も微笑ましげな笑顔だった事だ。ふとドアの方を見ると、裕美とヒロが、何とも言えない笑みを浮かべてこっちを見ていた。
私は途端に恥ずかしくなって、取り敢えず一旦解こうとしたが、一対複数で勝てる訳もなく、されるがままでいる他なかった。 私の胸に顔を埋めながら、嗚咽まじりに各々私に声を掛けてきた。はっきりとは聞き取れなかったが、『一緒に卒業できて嬉しい』、『今まで友達で居てくれてありがとう』、『琴音ちゃんも含めて遊んだ思い出は忘れないよ』といったものだった。私は困り果てた感じで、それぞれの背中を撫でて居たが、次第にまたもや視界がボヤけてきた。先程と同じだ。しかも今回のは強烈だった。何故ならいくら冷静を気取っていても、気付いた頃にはホッペを涙が伝っていたからだ。私はそのまま考えないままにみんなの背中に覆い被さるように、大きく腕を広げて纏めて抱き締め返した。私自身声を上げたか記憶に無い。ただ皆んなの嗚咽が、余計に大きくなったのだけは今も憶えている。

彼女達と各人数分、そして全員の入った写真を取り、それぞれと笑顔で挨拶を交わし教室を出た。一部始終を見ていた裕美とヒロと合流し、そのまま母親達と約束した場所に向かった。その道中二人は見たことについて何も言わないでいてくれたが、やけに優しい眼差しを向けてくるのが無性に恥ずかしかった。まだ軽口叩いてくれた方が良かったくらいだ。まさかその目を止めてとは、流石に言えない。
待ち合わせ場所は校門の前だった。私達は最後の方だったのか、思ったよりかは空いていた。それでも大体保護者は皆んな同じ様な格好をしていたので、なかなか見つけられないんじゃ無いかと思っていたが、余計な心配だった。すぐにお母さんは見つかった。暗い服装が多い中で、薄い水色の着物が綺麗に映えていた。お母さんの脇を通る人々が皆して通り過ぎた後、振り返って見ていた。そんな周りの羨望を気にする事なく、凛として立っていた。そして側にいる裕美とヒロのお母さん達と談笑していた。私は何度もお母さんの着物姿を見た事があったが、家の中でお父さんの知り合いに、おもてなしする所作振る舞いしか見た事が無かったから、こうして外で改めて見ると、色々価値観の違いを感じる時があっても、やっぱり私のお母さんはカッコいいなと素直に思った。
「…おっ、ようやく来たね?」
先に裕美のお母さんが私達三人に気付いた。その直後に私のお母さんと、ヒロのお母さんもこちらに振り向いた。 三人各様にフォーマルな格好をしていた。でもやはり今日においては、三人の中ではお母さんがダントツに綺麗だった。裕美とヒロのお母さん達も、私に近寄るなり、勿論というか何というか、私の姿も褒めてくれたが、一様にお母さんの着物姿を、これでもかってほどに褒めちぎっていた。その度に流石のお母さんも、ほんのり顔を赤らめて、気持ち俯き加減に恐縮していた。
今日の式についてアレコレ私達を交えて軽く談笑した後、まず各々家庭分の写真を撮った。お母さん達は自分の子供の分だけ初めは撮っていたが、最後に私達三人を看板脇に立たせて、気の済むまで自分のカメラで撮ったのだった。
それからは学校の近所のファミレスで二時間弱会食した後、予定があるとかでそこでヒロと、ヒロのお母さんと別れた。別れ際に三人で、卒業の記念に遊ぶ約束をしてから。
私と裕美のお母さんはもう暫くお喋りすると言うので、私と裕美は先に帰ることにした。時刻は三時を過ぎた所だった。
「…はぁー、終わっちゃったなぁ」
裕美は空を見上げながら、ため息交じりに呟いた。
「…そうねぇ」
私も倣って空を見上げながら返した。
「…来月には私達中学生だね」
裕美は正面に顔を戻すと、私の方を向きながらしみじみ言った。
「えぇ、実感無いけどね」
私もまた同じ様に裕美に返した。

ここでネタバレというか、今ここで入試の結果を述べようと思う。こんなに引っ張るつもりは無かったが、話の関係上中々話せる機会が無かった、ただそれだけだ。勿体ぶっていたわけでは無い事は理解して欲しい。
とまぁ、見苦しい聞き苦しい言い訳はこの辺で辞める事にして、結果から言えば、晴れて私と裕美は同じ女子校に通える事になった。入試の帰りの電車の中での会話、勿論言った様に安心したのはその通りだったが、実際のところは当然分からなかったので、我ながら可愛らしくその晩は、中々寝付けなかった。そして次の日、合格発表は学校のホームページに朝の九時から発表されるという話だったが、この日も平日、他に願書を出した学校の入試日ではなかったので、普段通り学校に通った。裕美ともいつもの様に朝会ったが、裕美も普段の明るさに影が差していた。冗談を言う顔も、気持ち表情が曇っていた。会話も中々弾まなかった。昼休み、給食を呑気に食べていると、急に裕美が私のいる教室のドアを乱暴に開けた。手にはスマホを持っていた。クラスメイトは皆んなして、何事かと裕美に視線を注いでいた。すぐに私の周りからひそひそ声が聞こえて来た。皆んな口々に裕美の名前を言っていた。どうやら本当に有名人らしかった。私は変わらず呑気にスプーンを咥えながら周りを見渡し、そんな事を考えていたが、裕美は私の姿を認めると、私の元に脇目も振らず一直線に向かって来た。そして私の机の前に立つと、無言で私の手を引っ張った。
「えっ、ち、ちょっと!裕美!何だって言うのよ?」
私の抗議に一切反応しないまま、力任せに私を教室の外に連れ出した。クラスメイト達は何が起きているのか分からんと言った感じに、私達二人の姿を目で追うだけだった。
「もう、何なの?」
廊下の突き当たり、階段の踊り場まで来ると、私は裕美の手を力任せに振りほどいた。辺りは昼休みとは言え、普段は一斉に給食を食べている時間なので、人気もなく静まり返っていた。意味も分からず連れ出されて、しかも無駄に目立つことをさせられたので、若干…いやかなり怒っていた。私の感情を感じ取れない訳は無かったが、裕美はふと手に持っていたスマホを弄りだした。私はその様子を黙って見ていたが、ふと裕美はスマホの液晶を私に向けてきた。そして、息も切れ切れに興奮を抑えられないと言った調子で答えた。
「…こ、琴音…私達…う、う、うか…」
「…え?」
裕美の言った最後の言葉がよく聞き取れず、私は聞き直した。すると裕美は一度俯いて見せたが、勢いよく顔をあげた。その顔は今まで見たことのない満面の笑顔だった。興奮のあまり顔が上気していた。そして私の両肩に手を一度置くと、力強く言い放った。
「私達二人共受かっているよ!」
「…え?本当?」
私は今裕美の言ったことよりも、テンションの大きな差に戸惑っていた。そのまま立ち尽くす私に、裕美はそのまま抱きついてきた。
「受かったぁー!受かったよ琴音ぇー!」
裕美は抱きつきながらその場で飛び跳ねていた。私はようやく実感が湧いてきたが、どちらにしろそのまま呆然と立ち尽くす他なかった。
「ほ、本当に?本当に受かってる?」
私がたどたどしく問い直すと、裕美は笑顔のままスマホの画面を私の顔すぐそばまで近付けて見せた。そこには何桁かの数字がズラーッと並んでいたが、その中である数字がズームアップされていた。それが裕美の受験番号だという話だった。私は淡々と数字の羅列を見ていたが
「…私の受験番号なんだっけ?」
と我ながら惚けた声を出してしまった。裕美は私に薄目を流し、スマホを受け取りながら苦笑交じりに言った。
「アンタねぇ…昨日の今日な上に、今日が合否発表なの知ってるんだから、番号控えときなさいよぉ」
そう言いながら裕美は、別の数字に焦点を合わせる様にズームアップした。そしてまた私にスマホを渡してきた。そこには先程とは違う数字が大きく出ていた。私がそれを見ている間、裕美はポケットから小さなメモ用紙を取り出した。そしてそれを広げて、書いてある方を私に向けながら言った。
「アンタ昨日帰る途中ファミレスに寄った時、受験票を見せてくれたじゃない?これがその時のメモよ!…ほら、数字を見比べて見て?」
私は穴が開くほど裕美のメモを見つめ、何度もスマホ画面と見比べた。…確かに何度も見ても同じ数字だ。一文字足りとも間違っていない。
「…本当だ…本当に受かってる…」
「だからそう言ってるでしょう?」
裕美は落ち着いてきたのか、私からスマホを受け取ると、メモと共にポケットにしまった。その時私は勢いよく裕美に抱きついた。そしてそのまま揺ら揺らと左右に揺れた。
「…んーーーー!やったわ、裕美!」
「う、うん!やったわ!」
裕美は私の反応に戸惑いながらも、元気よく答えた。
あなたが最初に同じ様な事したんでしょうに、何驚いてるのよ?
と心の中で突っ込んだが、それは口にせず、二人して改めて合格の喜びを分かち合った。
教室に戻ると、クラスメイト達はジッと私の方を見つめてきていたが、さっきとは打って変わって、一切視線が気にならなかった。席に戻り携帯を見ると、お母さんからメールが来ていた。合格したとの報告だった。メールの文面からも、喜びが伝わってくるようだった。
家に帰り、お母さんと改めて抱き合い喜びあった。お母さんは泣いていた。初めて…いや久し振りにお母さんの泣いてる姿を見た。ここまで話を聞いてくれた人には、何の事を言ってるのか分かると思う。その日の夜、お父さんが帰ってきた。何やらお土産を持って来ていた。
居間の普段食事をするテーブル前で帰ってくるのを待っていた私に、お父さんは無言で側まで寄り、顔の表情を綻ばせると私の事を優しく抱きしめた。私は座ったままだったが、そのままの体勢で抱き返した。
ここで『頑張ったな』などの言葉を掛けないのが、お父さんらしかった。言葉にできないことは言わない、首尾一貫していたことだった。
お土産の箱を開けて見ると、そこにはいくつもの大小様々なサイズのブックカバーが入っていた。全て純革製だった。黒、赤、紫、茶色の四色が、文庫本サイズから図鑑サイズまであった。表面も無地ではなく、全てのカバーの模様が違い、西洋の絵画のような模様だったり、イスラム系の幾何学模様だったりと、バラエティーに富んでいた。私がずっと欲しがっていたヤツだった。…尤も”純革製”みたいな高級品は強請ってなかったけど。普通の女の子が何を欲しがるのかは知らないけど、私にとっての最高のプレゼントだった。後でお母さんに聞いた話だと、お父さんはお母さんから連絡が来た時に、何とか病院を抜け出し、銀座の方まで出て、わざわざ買って来たとのことだった。物を買ってくれたというよりも、言い方が悪いが、普段無感情に病院経営に勤しんでいるお父さんが、その何よりも大事な仕事を後回しにして、目星を付けていたお店にわざわざ行って、買って来てくれたという事実のほうが、尚更嬉しかった。それだけ普段は無関心のフリをしていても、内心は心配していたのだろう。
寝る前に布団の中でスマホを見てみると、着信が二通あった。義一と絵里だった。この二人には昼休みのうちに連絡を入れていた。私は普段からスマホを持ち歩いてはいるが、余りしょっちゅう弄るようなクセが無かったので、いつも気付くのが寝る前になる事が多かった。
『おめでとう!後輩!』
絵里の文面はこうだった。いかにも”らしい”ものだった。
『神の御加護があらん事を』
義一の文面はこうだった。いかにも”らしい”、何重にも意味を練り込んだ言葉だった。一つ種明かしをすると、私が今回合格した女子校は、いわゆるミッションスクール、カトリック系の学校だったので、それらを踏まえたセリフだったのだろう。…相変わらず分かりづらい事この上なかった。勿論私はこれを初め見た時、しばらくその真意を汲み取るのに苦労した。何となく察した後も、苦笑いする他なかった。「らしいなぁ」と思わず独り言ちた程だ。
絵里には「ありがとう」と返したが、義一には「分かりづらい(笑)」と返した。

「…琴音?」
「ん?」
私がボーッとしているのを見て、 裕美が不思議そうな表情で話しかけてきた。
「何か言った?」
「ふふふ、もーう」
裕美は呆れながらも、優しい口調で同じ内容を繰り返した。
「だから、このまま別れるのも何だから、公園にちょっと寄って行かないかって聞いたのよ」
「あ、あぁなるほど。いいわねぇ、そうしましょう」
それから私達は裕美のマンション近くの、あの小さな公園に向かった。中に入りあのベンチに仲良く、お互いに近く寄りながら座った。見上げるとそこには、桜が見事に咲き誇っていた。最初に裕美と来た時、裕美の大会に行った帰りの時、あの時は十二月の寒空の下、草一つも無かったのに、今私達の頭上に広がっているのは、青天井ならぬ”桜天井”だった。空など見えないくらいに埋め尽くされていて、時折吹く強風に煽られ、花びらがチラチラ私達に向かって舞い降りてくるのだった。毎年例年より開花の時期が早まっていると、天気予報で言っていたのを思い出した。
「…綺麗ね」
私は見上げたまま、ポツリと呟いた。
「…本当ね」
裕美も同じ様に返した。前にも話した様に、ベンチ裏に植わっているこの桜木、幹の太さから見て中々の老木だと思うのだけど、毎年毎年こうして私の生まれる前から変わらず咲き誇っていた様だった。こんなに立派な桜なのに、平日の為なのか、人っ子一人いなかった。私と裕美の貸切状態だ。
「…お母さん達ね?」
裕美がまだ見上げたまま、静かに話しかけた。
「私達が中学に入った後の事を話し合ってるみたいよ?」
「…何であなたが知ってるの?」
私も先程から変わらぬ姿勢のまま聞いた。
「うふふ、お母さんに写真を撮って貰ってる時に聞いたのよ。だからあんた達は先に帰って頂戴って。だからアンタを誘ったってわけ」
「なるほどねぇ」
全くなるほどじゃない程どうでも良かったが、今は桜天井の下、言いようの無い多幸感に包まれているのを感じていたので、一々軽口を言う気にもなれなかった。
「…そうだ!」
裕美は急に立ち上がると、私を見下ろしながら言った。
「せっかく私達二人しか居ないんだし、写真撮ろうよ写真!」
「えぇ、良いわね」
私もゆっくりと立ち上がった。各々カバンからスマホを取り出し、今座っていたベンチの背もたれにあった深めの傷に、二人のスマホを差し込んだ。恐らく私達よりも先に方法を思いついて、公共物だというのに傷を作った人がいたのだろう。ピッタリだった。
向かいにも立派な桜があったので、ロケーションとしてはバッチリだった。自分達のスマホのピントなどを合わせてから、タイマーをセットし、慌てて二人で決めた所定位置に立った。私は手をおへその前辺りで軽く組み、足は軽く交差させた。裕美は私の腕を組んできた。まるで付き合い始めの彼女みたいに。この場合は私が彼氏になるのだろう。…まぁ気にしてない。
ぴ、ぴ、ぴ、電子音が三度鳴るとカシャっと音がした。急いでベンチに駆け寄り、お互いのスマホの写真を見てみると、どちらも綺麗にボヤける事なく写っていた。私は静かな笑みを浮かべていた。裕美は底抜けに明るい満面の笑みをこちらに向けていた。後ろで桜が咲き誇る姿も、全体とまでは当然いかないが、味良く写っていた。良い写真だった。
私達はお互いにスマホを見せ合い、満足げにまたベンチに座った。
暦上では春でも、まだまだ冬の気配が残っているせいなのか、徐々に日も暮れて来ると、やはり肌寒さは残っていた。でもまだ桜の元から離れる気にならなかった。何でも率先して思い切りよく、やろうと決めた事はすぐに実行する、そんなタイプの裕美が私に行こうと言い出さないところを見ると、気持ちは同じの様だった。
コツン。すぐ隣に座っていた裕美が、私の肩に頭を預けてきた。私は一瞬ビクッとしたが、何も言わずそのままにした。それからしばらくまた沈黙が流れた後、裕美はそのまま私に話しかけた。
「…新しい学校で上手くやれるかなぁ」
「…ふふ」
私はふと花天井を見上げながら返した。
「あなたなら大丈夫よ。誰とでも隔たり無く付き合う事が出来るんだもの…私ですらね?」
最後に私は自嘲気味に笑いながら言うと、裕美は離れて私の顔を見た。最初の一瞬、寂しそうな表情に見えたが、すぐに意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「本人にそう言って貰えると、自信が万倍だわぁ。ありがとう」
裕美は大袈裟に上体だけ倒して見せた。
「…お礼言われるより、否定して欲しかったんだけど?」
私がいじけた風に返すと、裕美はゆっくり上体を起こした。そして顔を見合わせるとクスクス笑いあったのだった。
「そう言えば」
私はふと、前々から気になっていた疑問点を思い出した。和やかな雰囲気に任せて聞いてみることにした。
「裕美、あなた初めて私に話しかけてきた時、前から私と喋りたいみたいな事を言ってたけど、それはどういう理由なの?」
裕美は文字通り目を見開きキョトンとしていた。私が何の意図を持って聞いているのか理解出来ない様子だった。暫くそのままだったが、途端に顔全体に苦笑いを浮かべて、口調も苦笑交じりに言った。
「いきなり何言い出すかと思えば…脈絡が無いにも程があるでしょ?一瞬何言われてるのかわからなかったもん」
「ご、ごめん…つい癖で」
私は衒いもなく素直に謝った。裕美は私の様子を見て、短く鼻から息を吐くと
「やれやれ…私よりもアンタの方が、新しい環境で上手くやれるのか、心配になってきたわよ」
首を横に振りながら言ったが、顔は笑顔だった。
「その時はフォローよろしくね?」
私も笑顔で返した。裕美は如何にも嫌そうな表情を見せながらも、笑顔は絶やさずに応えた。
「しょうがないわねぇ…姫様は一人じゃ危なっかしくて、見てらんないから、私が見守るしか無いかぁ」
「期待してるわ」
「何で他人事なのよぉ」
「…ふふ」
「あははは」

「で何だっけ?…あぁ、確かにそんな事を言ったかもなぁ」
裕美はまた上を見上げると、思い出したのか懐かしげに応えた。そして隣の私に向き直り言った。
「よくそんな事覚えていたねぇ…うーん」
裕美は腕を組み考え始めた。言うか言うまいか、悩んでいる様だった。
「んーー…あのね、実は…あっ!」
「え?何?」
裕美は何か言いかけたが、急に打ち切ったので、咄嗟に私は声を上げた。
「何よぉ?」
「え?あぁ…いやぁ」
裕美は照れる時の癖をしながら言い澱み
「この話は…もっとちゃんと落ち着いて話したいなぁ…だめ?」
と私に上目遣いを向けながら聞いてきた。
「いや、その、別に…うーん」
もっと軽く話してくれるものとばかり思っていたので、裕美の反応に正直困惑していた。私に初めて話しかけるのに、そんな照れる様な理由が存在するとは思っても見なかった。
「今無理なら、いつかで勿論構わないよ」
私は為す術もなく妥協案を出した。それを聞くと裕美は心底ホッとした表情を浮かべて言った。
「ごめんね?そんなに気になるなら、いつか必ず…そうね、私達がもう少し大人になってから話すわ。…それでもいい?」
「さっきも言ったでしょ?それで構わないって。…こちらこそゴメン。そんなに裕美を困らせたくて聞いたんじゃなかったのに…」
私が俯き加減にそう言うと、裕美は慌てて返してきた。
「いやいや、私が変なリアクション取っちゃっただけだから気にしないで?」
「えぇ。…じゃあもうこの話は終わりっ!」
「うん、終わりっ!」
無理やり話を切り上げた後、場に流れてしまった微妙な空気を払拭する様に笑い合い、そして公園を出てから別れたが、私の中で疑問が益々膨らむのを感じていた。しかし今は裕美が話す気がないのでは、如何ともし難かった。自分の気持ちは、取り敢えず何処かへ置いとく他無かった。裕美の方でも何か思う事があっただろうけど、現時点で私に心中察する術は無かった。
こんなやり取りをしたのを忘れたかの様に、春休みはヒロもたまに入れて、三人で一緒に遊んだ。学校の指定の制服を買ったり、何なり準備をしているうちに入学式を迎えた。

ここで予め、毎度の事ながら割愛する事をおわびしたい。何故なら正直、取り立てて話すような事が無かったからだ。人によっては異論があるだろうが、制服を着ていること以外は流れとして、小学校の卒業式と違いがあまり無いからだ。なのでスラスラと流していくので、ご容赦願いたい。
入学式当日。私と裕美は新な制服を着て、お互いの母親達と一緒に電車に乗り学校へ向かった。裕美のお母さんは卒業式の時と変らない、薄いピンクで統一された体のラインに沿ったワンピースとジャケットを羽織っていた。白薔薇のコサージュを付けていた。私のお母さんは今日は着物では無かった。白で統一されたワンピーススーツだった。黒のリボンテープで縁取られた、首元をホックで留める仕様のノーカラージャケットだった。これはこれで身長の高いお母さんに似合っていた。でも私は正直着物姿のお母さんが大好きだったから、また着て欲しかった。
学校に着くと受付が設けられていて、おそらく在学生なのだろう、同じ制服着た女生徒が率先して受付業務をこなしていた。そこでプリントを一枚配られた。クラス表だ。私の名前を探すとC組の枠内に書かれていた。裕美の方を見ると、どうやら同じらしかった。その時は二人して手を取り合って喜んだが、後になって、どうやら同じ出身地区か、同じ塾かでクラスが分けられている事がわかった。まぁ理由はどうあれ、裕美と一緒のクラスになれたことは、小学校では叶わなかったので、素直に喜ばしいことだった。
その受付前でお母さん達とは別れて、私と裕美は揃って講堂へと向かった。
入学式が始まった。クラスに別れて座らされていたが、私達の正面に、舞台を背にこちらを向いて女教諭が立っていた。この人が私達のクラスの担任だった。どこかで見た事があるとこのとき思ったが、後になって知った。この人が入試時、私を面接会場まで案内したその人だった。その担任はおもむろに、一人一人出席番号順に出席を取り始めた。みんな元気に返事をしていたので、私も倣って返事をした。次に新入生代表挨拶があった。どういう基準か、おそらく入試試験で良い成績を納めたとかとかだろうが、舞台下中央に置かれたマイクスタンドの前に立ち、何やらそれらしい言葉を話していた。それから在校生の言葉も終わり、式が滞りなく執り行なわれた。その後ゾロゾロ一斉にそれぞれの教室へと向かった。これまた出席番号順に席に座った。私は窓際の真ん中辺りだった。裕美は真ん中の列の真ん中、ど真ん中だった。
後から式で出席をとっていた担任が教室に入って来た。そして黒板に名前を書いてから自己紹介をした。『有村志保』と書かれていた。年恰好は三十代後半といった所か。背丈は大体裕美と同じ、160ちょっとだろう、私よりも気持ち低いくらいだった。白のブラウスに薄オレンジのコサージュを付けていた。ハキハキとした口調でこれから先の連絡事項と、これからの学園生活の心得的な事を話していた。窓際にいたせいか、暖かな春の陽気に軽い眠気を覚えながら話を聞いていた。これから中学生としての生活が始まる。

第15話 新友

入学式後はバタバタと、忙しくしていた。その次の日にまた一年生は講堂に集められて、クラブのオリエンテーションが行われた。絵里が話していたヤツだった。約四十の団体が趣向を凝らした紹介をしていた。その中には絵里の所属していた、演劇部もあった。話を聞いていた通り、短い時間しか与えられなかった都合上、パントマイムを交えた喜劇を上演していた。絵里の時のクオリティーがどの程度だったか、口ぶりでは中々のものだったらしいが、今目の前で繰り広げられている劇も、生意気な言い方だが、普通に面白かった。時折講堂のあちこちで笑いが起きていた。
その後また教室に戻ると、担任から改めて説明を受けた。学園の中での一日の過ごし方や勉強のやり方などだ。説明された中で変わっていたのは、清掃の手順というものだった。全員お揃いの白いエプロンが配られた。そして早速机と椅子を教室の端に寄せて、早速皆んなでお掃除をした。それでこの日は終わった。
それから三日後、多目的教室に集まり、次の週に行われる新一年生の宿泊研修会に向けてのオリエンテーションをした。大まかな説明を聞いた後、教室に戻り五人の班決めをした。私と裕美はすぐに決まったが、他の人とは当然初対面なので、うまく班を作れるか少し心配だったが、そこはある意味裕美に助けられた。裕美の中では大体決めていたらしく、気づけばクラスの中で一番先に班が決まった。
それから私達は机を動かし、お互いの顔が見えるように寄せ合って、研修会の打ち合わせを行なった。各々先ほどの説明会で貰ったしおりを、机の上に広げたがその前に、軽くそれぞれが自己紹介をすることにした。
率先して手を挙げた一人目。小柄な…と言っても、私と比べてという意味だが、中々可愛らしい子だった。少し丸顔で、笑うとえくぼが出来る所など愛嬌があり、人好きのする雰囲気だった。お目目がクリクリなところとかは、小動物を思わせた。前髪は若干短めのパッツンだったが、後ろ髪は肩のラインより長く、胸よりは上程で、私と同じくらいの長さだった。私はそのままにしていたが、彼女は襟足あたりで一つに結んでいた。手を下げると話し始めた。幼さが残る、高めの可愛い声だった。
「はーい!私の名前は並木藤花って言います!藤花って呼んでね。この子と小学校から友達で、いわゆる”エスカレーター組”です!よろしくね」
藤花は向かいに座る女の子を見ながら、そう言い切った。そう、この学園は幼稚園から高校までの一貫校なのだった。
何となく私含めて、藤花が軽く触れたその子に視線が集まった。彼女は藤花と真逆のタイプだった。まず大柄だった。後で聞いた話では、身長が168㎝もあるらしい。同年代の女子で、私よりも大きい人を見たのは久しぶりだった。しかし全体的に細いというか、第一印象を言えば”薄い”体格をしていたので、いうほど威圧感は受けなかった。マッシュウルフというらしいが、これは裕美に負けず劣らずのショートヘアーだった。所々跳ねてる点も似ている。表情は暗めで、小さなお鼻と薄めの唇、一重の切れ長で薄目がちな目つき、全体的にアンニュイな雰囲気を醸し出していた。裕美の一つ後ろの席だった。裕美は入学早々彼女に話し掛けたらしい。何でも私に、雰囲気がそっくりだからという理由らしかった。彼女は一斉に視線が注がれているのを、気にしない様子で、淡々と話し始めた。
「…次は私?…うん、わかった。私は富田律って言います。…藤花があぁ言ったから、私も言うか…私のことは普通に律と呼んで欲しい。…富田って名字で呼ばれ慣れてないから。…まぁ、よろしく」
律は時々独り言なのか判断しずらい話し方をしながらも、ゆっくりと静かに言い切った。声は低めだったが、品があるように感じた。最後に私達をぐるっと見渡すと、手元の資料に目を落とした。どうやら裕美には、私がこう映っているらしい。皆さん、どう思います?
次は裕美が自己紹介し、その時に藤花と似たような話の流れで私を出したので、次に率先して私も軽く自己紹介をした。後に残るは一人だ。彼女は私が誘った…というか、向こうからも誘って来た。彼女はメガネをかけていた。奥二重の端は軽く釣り上がり、第一印象は性格キツ目と取られかねない感じだった。でもそんな見た目と裏腹に、率先して周りの初対面の子達に話しかけていた。私も話しかけられた一人だ。彼女の席は私の一つ前だった。で何故か彼女は特に私に入学式以来、何かと後ろをわざわざ振り向き、話しかけてくるのだった。このグイグイくる感じ、もし私と律が似ていると言うのなら、裕美と彼女もそっくりだった。顔立ちはそれ以外はどこにでもいる女子学生といった感じだ。中肉中背で、身長も藤花よりは高かったが、私や律よりはもちろん、裕美よりも気持ち低かった。
髪型は前髪作らない、天然パーマのカールボブで、毛先がピョンピョン外に跳ねていた。彼女は一度咳払いをすると、何やらしおりの余白に何かを書いて、それを私達に見せながら、ハキハキとした口調で話し始めた。
「私の名前は宮脇紫って言います。”むらさき”じゃなくて”ゆかり”です。えぇっと…」
彼女は私を含めて皆の顔を眺めてから続けた。
「どうやら皆んな呼び方まで話したみたいだから、私からも言えば、小学校では”ゆかり”と呼ばれたり、漢字をそのまま素直に読んで”むらさき”と呼ばれたりしました。どちらでも構わないので、好きに呼んで下さい。…以上!」
最後に紫はそう言い切ると、キツ目の目元を若干緩めるように笑った。途端に藤花が身を乗り出し、紫が書いたしおりの余白を覗き込みながら、感心した風で言った。
「ふーん、これで”ゆかり”って読むんだぁー。不思議ー」
「ふふ、変わってるでしょ?」
しばらくはみんなで紫の名前で盛り上がった。でも担任の有村先生が、こちらに近づいて来たので、私達は慌ててしおりに目を落とし、話し込んでるフリをした。近くを通り過ぎると、私達五人は顔を近付けあって、クスクス笑いあったのだった。

「じゃあ私達はこっちだから…」
「じゃあまったねぇー!」
律は控えめに無表情で、胸の前で小さく手を振り、藤花は大きく手を左右に振っていた。私達は放課後五人一緒に正門から出た。二人は私達と違って、地下鉄組だったので、学校から少し近い地下連絡口の前で別れた。残ったのは私と裕美と、紫の三人だった。
「じゃあ行こうか」
私達は駅構内に入り、ホームへと降りて、千葉に向かう黄色ラインの入った電車に乗った。
「紫は何処に住んでるの?」
「ん?私はね…」
今は夕方の四時。チラホラ学生服姿の男女が目立つ車両に私達はいた。中々混み合っていて、ドア付近に固まって立っている他なかった。紫はドアの上の路線図に腕を伸ばし、そこに記載されている中の、一つの駅名の所を直接触りながら答えた。
「ここよ」
そこは秋葉原よりも三つ先にいった所だった。
「へぇー。でも乗り換えなくていいね」
私は紫の指差した先を見上げながら言った。裕美も私の後に続く。
「ほんとほんと!私達は秋葉原で一度乗り換えなきゃだし、めっちゃ混むのよぉ」
ため息交じりにウンザリだと顔中に浮かべながら言った。
紫はニヤニヤしながら見ていたが、裕美と同じようにため息交じりに返した。
「でもこの電車も大変だよ?五時とか過ぎたら、あとはずーーっと混みっぱなしなんだから!」
紫は強調するように伸ばしながら言った。そして私達二人を、まとめて見ながら続けた。
「それにさぁ…そっち二人は仲良く一緒に地元まで帰るんだろうけど、私はあなた達と別れたら一人よ?その時間は十分くらいだけど、寂しいは寂しいもんよ」
不満げだが、口元はニヤケていた。
「いくらそっちが、この先家に帰るまで掛かってもね?」
「そういうもんかねぇ」
裕美はまた路線図を見上げながら答えた。
それからは軽く今日話し合った研修会のことを話すと秋葉原に着いたので、大量に降りる他の乗客と共に降りた。人の流れに抗い何とか振り返ると、紫もこちらに気付き手を振ってきたので、邪魔になるとは思ったが、私と裕美は手を振り返した。そして地元の最寄りまで直通している列車の来る、地下鉄ホームへと下りて行った。

「何かあっという間だったね?」
裕美は真っ暗な窓の外を見ながら呟いた。
「何が?」
私は裕美が何を言いたいか当然わかっていたが、敢えてワザと惚けて見せて返した。
私達は通路の奥ほどに立ち、吊革に掴まって二人して真っ暗闇の窓に映る自分たちの姿を、漠然と見つめながら会話をしていた。ロングシートは埋まっていて、座れなかった。まぁ座れないのには、塾に行ってた関係で慣れてはいた。というか、早い段階で諦めをつけることが出来ていた。嫌な慣れだ。
裕美は窓の外、地下鉄のトンネルの壁を見つめながら言った。一々横を見なくても、窓に映る裕美の表情を見ればすぐに分かる。毎度の苦笑いだ。
「そりゃ当然入学式からよ」
「…そうねぇ」
私はしみじみ答えた。まだ授業らしい授業をしていないのに、慣れるのが大変なのと、決まり切った型通りの、一連のオリエンテーションをこなすような苦行を耐えるのに、普段使わない神経を使っているせいか、肉体的にというより精神的に疲れていた。これからは満員電車のように、学園生活にも諦めながら慣れるしかない。子供の頃からある種、諦めるのは得意だ。
「今日一緒の班になった子達…中々みんなキャラが立ってて面白かったね?」
「そうねぇ。退屈することはなさそう」
私が淡々と返すと、裕美も正面向きながら、窓に映る私を見て笑顔で答えた。
「えぇ、これからあの子達ともっと仲良くなったら、楽しい学園生活を送れそう」
裕美が満足そうに最後頷いたので、私は何も言わず、ただ笑顔でうんうん頷き返しただけだった。
それから一週間はやっと授業らしいものが始まった。とは言っても、まだ本格的ではなく、これから先どういうペースで授業が進むのか、そんな類の話で終始した。その合間合間で研修会の打ち合わせは何度も重ねられ、正直学校にこのために来てるんじゃないかと錯覚しそうになる程だった。でもまぁまだ新一年生だし、初めは大体こんなものなのだろう。そんな焦って色々詰め込まなくても良いという、世間からは校則厳しいお嬢様校で、進学校だという噂とは裏腹に、結構ゆとりのある校風のようだった。多分。そして午前中を使った最後のミーティングを済ませて、いよいよ明日から一年生全員と、二泊三日のお泊まり研修会だ。

「見て琴音!海よ、海!」
「…ふふ、見れば分かるわよ」
裕美は大きな窓におでこを押し付けるようにして、外を見ていた。今私達は大型観光バスの車中の人となっていた。
朝早く学校の正門前に集められ、一クラス一台、既にスタンバイしていた四台の観光バスに乗り込んだ。バスは二列二列の座席配置だったので、どうしても一人が別れる事になってしまうのだが、そこは率先して紫が私と裕美の一つ前の席に、別の余った子と座ってくれた。しつこいようだが、見た目はキツ目なのに、気遣いの出来る心の広い子だった。少し軽く言ってしまったが、進行方向左から藤花と律、通路を挟んで私と裕美という風に座った。トランプで遊んだりしてたが、春の陽気に車内も程よくポカポカ暖まっていた事もあって、一人スヤスヤしだすと、連鎖的に次々と寝落ちしていった。班の中では何故か私だけ眠くならなかったので、持って来ていた本を読んでいた。三半規管が強いのか、ただの慣れなのか、走る車内で読書をしても酔うことは無かった。バスは首都高湾岸線を通り、羽田空港の脇を抜け、川崎辺りから長い長い海底トンネルに入った。車内が暗くなったので読書を諦め、カバンにしまうと裕美越しに窓の外を見ていた。等間隔に設置されたオレンジの灯りが、後ろに流れていくのを何も考えずに見つめながら、ゴーッというような、壁に跳ね返り倍増された車の走る騒音を聞き流していた。
十五分くらいずっと同じ景色が続いたが、ふと急に外が明るくなったので、目の前がホワイトアウトした。裕美含む他の班員も、突如の明るさに目を覚ました。ここで冒頭へと戻る。
目が慣れるか慣れないかというところで、バスはサービスエリアに止まった。先生がここで三十分くらい止まる旨を伝えると、皆ゾロゾロと軽い手荷物と貴重品だけ持って、バスの外に出た。ここは洋上に建設された浮島で、東京と千葉のほぼ真ん中あたりに位置していた。遠くに川崎と木更津が見えていた。
「琴音ー!みんなー!早く早く!」
裕美は我慢出来ないといった調子で、海の見渡せる展望台へと駆け出して行った。
「もーう、しょうがないわねぇ」
私は苦笑交じりに独り言を言った。
「ずいぶん元気一杯ね?」
右隣を見ると紫が裕美の後ろ姿を見つめながら言った。顔は笑顔だ。
「えぇ、あの子海が好きなのよ。まぁ海に限らず、川とか水系が好きなんだけどね」
「へぇー。理由とかあるの?」
私と紫は並んでゆっくりと、裕美の後を追った。勿論歩きだ。
「あの子ね、実は…」
私は裕美が都大会を二連続で優勝する程の水泳選手で、本人曰くだから好きだと言ってる旨を言った。勿論、全ての水泳競技者がそうかは知らないと注釈を入れて。
紫が私の話を聞くと、驚きの表情を浮かべて何か話しかけたが、突然左隣にヌっと並んで、話しかけて来た者がいた。律だ。
「…ねぇ、裕美ってスポーツ好きなの?」
顔を見ると表情は変わらなかったが、目の奥にはいつにも増して強い光が宿っているように見えた。
「え、えぇ、まぁ」
「そう…」
私が戸惑いつつ答えると、律は急に裕美に向かって駆け出して行った。私と紫がポカーンとしていると、いつの間にいたのか、藤花が左隣に来ていた。そして悪戯っぽく笑いながら言った。
「ごめんねー、驚いたでしょ?急にテンションを上げてきたから」
「え、えぇ…まぁ」
私と紫があやふやに答えづらそうに返した。そんな様子を気にする事もなく、藤花はそのまま顔を変えずに続けた。
「律はねぇ、普段は無表情の石仮面なんだけど、スポーツの事となると目の色が変わるというか、人が変わってしまうの。律は実は地元でバレーボールをしていてね、あの身長を活かしているのよ。それが影響しているのかなんなのか分からないけど、だから今裕美ちゃんの話を聞いた律は、もっと話を聞こうとあの通りになっているのよ」
「へぇ…バレーボールねぇ。体育会系なんだ」
律は裕美に追いつき、何やら色々と捲し立てるように話しかけていた。裕美は私のところからでも分かるほど、戸惑っているように見えたが、すぐに律のテンションに合わせて会話をして、意気投合しているように見えた。 同じ体育会系同士、通づるものがあるのだろう。
私は微笑ましい気持ちでその様子を見ていると、急に背中をグイグイ押された。振り向くと藤花が、力任せに私と紫の背中を押していた。私と視線が合うと、藤花はニヤァっと笑うと、そのままに押しながら言った。
「ほらほら、二人共!いつまでもボーッとしてないで、あの二人に追いつくよ!」
「えぇー…ちょっと」
「じゃあ二人共お先にー」
私が躊躇していると、今まで隣でおとなしくしていた紫が、急に私達に視線を流しながら駆け出して行った。私が呆然としていると、藤花もパンッと私の背中を叩くと笑顔で紫の後を追った。それでもなお一瞬逡巡していたが、一度フッと笑うと、二人の後を駆け足で追いかけるのだった。
私達三人は裕美と律に合流すると、そのまま展望台に向かい、そこで海と遠くに見える千葉県をバッグに五人揃って写真を撮った。たまたま側にいた有村先生に、頼んで撮ってもらったのだ。五人それぞれのスマホで撮ってもらったので、時間は少し掛かったが、それも含めていい思い出が出来た。
集合の号令が掛かり、バスに戻った。それからはノンストップで、研修会先の宿泊施設へと向かった。車内ではもう誰も眠る事なく、喋りっ通しだった。同じくらいの時間だったはずなのに、学校からあのサービスエリアまでと比べて、あっという間に過ぎ去った感覚があった。それでも宿泊施設までの道はずっと海沿い、春の陽光をキラキラ反射している浦賀水道を臨める道を走っていたので、その間は皆してワイワイ言いながら眺めていた。
施設に着いたその日は、そのまますぐ夕食を摂り、後はみんな疲れていたのか、布団を敷いて横になるなりそのまま眠った。
ここからは、軽く何したかだけ触れようと思う。翌朝起きると、部屋着のまま一階にある食堂に行き、バイキング形式の朝食を摂った。それからは学校指定のジャージに着替えてから、この近辺の観光名所を訪れた。鋸山に登って、切り立った崖に突き出した展望台から、暗く深い青色をした東京湾を見下ろした。
それから次に向かったのは富津公園だった。ここでは潮干狩りをした。ジャージの裾を膝上まで捲り、配給された長靴を履いて、ずっと先まで干上がった泥の中をみんな散りじりに広がりながら、アサリを掘り出した。考えてみれば、これが初の潮干狩りだった。映像では見たことがあったが、何が面白いのか、正直理解が出来なかったけど、いざやってみると、中々に面白いものだった。まぁ尤も、こうしてみんなとワイワイやるからっていうのもあるだろうけど。その後一時間ばかり自由時間があったので、私達五人は同じ公園内の海水浴場に向かった。一応みんなタオルを持参していたので、靴と靴下を脱ぎ、足だけ入ってみることにした。言うまでもないようだが、裕美は先程から私達五人の中で圧倒的にテンションが上がっていた。
小学六年生の時、私と裕美、お母さん達と一泊の旅行をしたと言ったが、その時も行った温泉地が海沿いだったので、今の裕美と変わらないくらいテンションが高かった。正直あの時に初めて裕美の豹変した姿を見たので、私は唖然とする他なかったが、改めて私は、自分が好きな物について、周りに引かれる事も厭わず、素直に好きだという気持ちを表現している様を見るのが、好きだというのに気付かされた。それは今も変わらない。
後は王道のマザー牧場に行った。乳牛の乳搾り、新鮮な牛乳で作られたアイスクリームを食べたりして過ごした。…もう分かるだろうが、研修会とは名ばかりで、要はただクラスメイトとひたすら遊んでいるだけだった。まぁ修学旅行だって、修学しようと行く人など、いたとしたらかなり奇特な人で、ワイワイ仲のいい友達と過ごすのが本分なのだから、楽しんだもん勝ちだ。
三時のおやつなのか、鋸山近辺の農園に行き、ビニールハウス内でイチゴ狩りをした。皆して一心不乱に、ちぎって食べ、ちぎって食べをしてるのを冷静に見ると、中々シュールな絵面だったが、同じことをしている、そう思う私も側から見ればそう映っていただろう。後は宿泊施設に戻り、夕食を摂って、お風呂に入り、部屋着に着替えて、それぞれ班の部屋へと戻って行った。
自分達で布団を敷いた。三対二という感じに並べて、枕の位置は顔が向かい合うように設置した。片方は藤花と律、もう片方は紫、私、裕美の順で並べた。昨日は疲れてそのまま寝てしまったが、この日は少しお喋りをしていた。
まず藤花が口火を切った。
「そういえば私と律以外は外部生だよね?何か色々と違うでしょ?どんな事があった?そのー…男の子とか」
前にも触れたが、藤花と律は学園付属小学校から上がってきた組で、しかもその小学校も女子しかいなかった。男子との接点が全くないに等しかったから、余計に色々と気になるらしかった。紫がまず答えた。
「うーん…別に男子がいるからって何もないけどなぁ。むしろ私のとこでは、男子と女子とで抗争していたよ。やっぱり何かと合わないところはあるからねぇ」
「ふーん、そんなもんかぁ」
藤花は若干期待ハズレといった調子で返した。その隣で相変わらず律は、無表情で聞いていたが、興味があるのを示すかのように、気持ち枕よりも前に乗り出していた。と、次に藤花は私と裕美を見ながら聞いてきた。
「琴音ちゃんと裕美ちゃんは同じ学校なんだよね?二人のところはどうだった?」
「うーん…そうねぇ…」
漠然とした質問にどう答えようか迷った。正直紫のところ程では無いと思うけど、私達の学校でもそこまで仲良く男女が、遊んだり連んだりしていた記憶は無かった。
私がなんて答えようかと考えていると、裕美がチラッと私を見てから、ニヤケ気味に答えた。
「まぁ私達のところも、紫のところと変わりなかったけど、けど唯一違うとしたら…」
裕美は不意に私の肩に手を置くと、そのまま続けた。
「この子!琴音の周りにはよく男女問わず人が集まっていたんだけど、この子の周りではみんな仲良くしていたのよ。この姫を中心に回っていた感じだったなぁ」
「ひ、姫!?」
「ちょ、ちょっとぉ」
何を急に言い出すのかと、私が慌てて訂正しようとしたが、遅かった。
「へ、へぇー…姫ねぇ。なんか分かるかも」
「うんうん、簡単に想像できるわ」
「…うん、納得」
藤花、紫、律の順に、裕美に対して共感を示していた。私一人で頑張って抵抗するしかなかった。
「…もーう、みんなして私をからかってぇ」
私は膨れながら抗議したが、他の四人はニヤニヤするだけだった。律まで表情を和らげていた。
藤花は私に手を振りながら明るく話しかけてきた。
「あははは!ごめんごめん!半分はからかっちゃった。でも私達のいるこの学園、世間からはお嬢様校だなんて言われてるみたいだけど、そんなことは無いって内部の人間の素直な感想として思っていたのに、まさか”姫”が入学されるなんて、やっぱりこの学園って、お嬢様校かどうかはともかく、格式高いのは間違いないみたいねぇ」
律は口元を気持ちニヤケながら頷いている。
「もう勘弁してよぉ」
「あははは!」
私の抗議も虚しく、私以外の四人は明るい声を上げて笑いあっていた。
「はぁー…さて、じゃあここから本題だけど…」
一頻り笑った後で、藤花は枕に顎を乗せると、声を潜めて低い声を出し聞いてきた。
「…三人は誰か好きな男子いた?」
「…うーん」
私が唸りながら藤花の隣をチラッと見ると、律も同じような体勢を取り、無言で向かいの私達をチラチラ見ていた。
さっきから思っていたが、パッと見堅物な、いわゆる恋バナには興味なさそうなのに、こうして気持ち興味を示しているのを見ると、そのギャップがなんだか可愛く見えてきた。
まず紫が答えた。いかにも苦々しげだ。
「私はダメ。小学校の時の私の男子からのあだ名は”むらさき”か”オトコ女”だったから。正直私は女の子と遊ぶよりも、男の子達と走り回って遊ぶのが好きだったんだけど、ある年代ぐらいになると、急にみんなヨソヨソしくなって遊んでくれなくなっちゃったの。でね、一緒に遊んでいた時には言わなかったのに、遊ばなくなると私の事をオトコ女って言うようになったのよねぇー…。そんな意地悪なことを言われ出してからは、女の子達とよく遊ぶようになったの。いざ遊んで見ると、それはそれで面白かったしね。…以上です」
紫は最後に笑顔を見せると、そのままの姿勢のまま頭を深く下げた。みんな黙って興味津々に聞いていたが、話が終わると私はボソッと言った。
「…なるほど。そこに紫の仁義なき男との抗争が始まるわけね」
「え?」
紫はキョトンとした表情で私の方を見てきた。周りを見ると藤花と律も同じだった。裕美だけ肩を震わせながら、笑いを堪えていた。私もどうしようかと戸惑っていたが、フイに同時に三人がクスクス笑い出した。紫が初めに私に話しかけてきた。
「いやぁ、面白いね琴音!その言葉づかいと言葉選び、女子中学生にあるまじきセンスだよ!」
「うーん…変かなぁ?」
「いやいや、センスが良いってこと!」
紫は隣にいた私の肩に手を置いて、満面の笑顔で言った。向かいを見ると、藤花も律までもが、こちらに頷きながら微笑んでいた。
「まぁそうかも知れないねぇー。…で?」
一頻り笑った後、私と裕美を見ながら紫が聞いてきた。
「琴音と裕美はどうなの?」
藤花と律も、目を輝かせながらこちらを見ている。
「うーん…何かあったかなぁ?」
「何かあったでしょ?」
「…うん」
「お教え下さい、お姫様」
藤花と律が言った後、紫が余計な事を言ったので、私は無言で肩を小突いた。紫はヘラヘラと笑っている。紫も律とは別の意味で、見た目と違って中々ひょうきんな性格だった。今は寝る前だというんでメガネを外していたが、そのメガネのフレームが、教育ママがしてそうな所謂”ザマス眼鏡”だったのも、性格キツそうに見える遠因に違いなかった。
私はこれ以上相手してもしょうがないと、質問についてあれこれ考えたが、いくら考えても、そもそも初恋すらまだ無い私に、何か思いつける筈がなかった。
「…うん、無いなぁ」
「えぇー、つまんなーい」
藤花は口を前に突き出しながら言った。そう言われても、無いもんはしょうがない。
「ねぇ裕美、お姫様は実際学校でどうだったの?」
紫は裕美に話を振った。裕美は顎に人差し指を当てて、如何にも何かを思い出そうとしながら答えた。
「うーん…私が聞いた話では、男子みんなで噂をしていたんだけど、何か遠い存在って感じで、気持ちを殺して遠くから眺めていようって人が多かったなぁ」
「へぇー」
「なるほどねぇー。そんな事実際あるんだ」
「ふーん」
紫、藤花、律の順に、裕美の話を疑いもなく真に受けていた。何故皆んなが、まだ付き合いの浅い裕美の話を信じるのか理解が出来なかったが、無駄だと知りつつ反論しない訳にはいかなかった。
「いやいや、何でみんなそんな簡単に信じちゃうのよ?」
「だってぇ…」
藤花はその先を言わずに、後はニヤニヤ笑うだけだった。紫も律も同じ様な表情だった。私は仕方なく、裕美をチラッと見ながら抗議の続きをした。
「そもそも裕美、あなたとは一度も同じクラスになった事無いじゃない」
「へ?そうなの?」
紫が声を上げると、三人が今度は一斉に裕美の方を見た。私も少しは狼狽えてるかと裕美を見たが、本人はいたって整然としていた。裕美は動揺もせず淡々と答えた。
「うん、琴音と一緒のクラスにはなった事がないよ。なのに別のクラスの男子がこの子の噂を頻りにしていたの!それだけ言えば分かるでしょ?」
何が『分かるでしょ?』よ。何を察して欲しいのやら…
私は裕美を呆れた顔で見ていたが、私以外の反応は違っていた。
「うんうん、琴音ちゃんってモテモテだったんだね」
藤花が私からすれば見当違いの反応を示していた。私はコントの様にずっこけるところだった。そんな私の様子を他所に話が勝手に盛り上がっていく。
「そうなのよぉー。本人は最後まで自覚が無かったけどね」
「えぇー、何でそんな勿体なーい。女子なら一度は憧れるじゃない」
紫も乗っかってきた。先程まで”男女抗争”の話をしていたのを忘れているみたいだ。
「…共学かぁ」
律がボソッと独り言ちた。私以外は気付いてなかったみたいだが、その台詞の中にどんな意味が込められていたか図りかねたので、触れないことにした。
これ以上話が広がるのを恐れた私は、裕美に無理やり軌道修正する事にした。
「私の事はもういいじゃない!ほ、ほら、次は裕美の番よ」
「仕方ないなぁ…今日はこんなところで勘弁してあげよう!」
藤花がそう言うと、紫と律も笑顔で頷き同意していた。そして漸く私から視線が外れて、今度は裕美に注目が集まった。先に私が話す事にした。先手必勝だ。
「私のことを色々言ってたけど、裕美あなただってそうだったじゃない?寧ろ私よりもいつも周りに人がいたわよ」
「ふーん、そうなんだ」
「…水泳の大会で優勝したりしたんでしょ?それで?」
律が珍しく自ら声を上げて、裕美に話を振った。裕美は私に少し視線を流してから
「うーん、どうだろう?まぁ優勝させて貰ったことには貰ったけど」
と、律に向かっていつもの照れる時の癖をしながら答えた。私含めて四人共、何も声を出さず、ただ興味を顔面に示して、話の続きを促していた。無言の圧力を感じながら、裕美はたどたどしく言った。
「…うーん、面白くない答えで悪いけど、好きな人はいなかったわ」
「え、えぇー」
「そんなのつまんなーい!最後の希望だったのにぃ」
紫と藤花は二人揃ってジト目になりながら返していた。律は無言で頷いている。裕美は苦笑いを浮かべながら平謝りをしていた。
私は当然『ん?』っと思った。初めて二人で絵里の家に遊びに行った時に、好きな人がいる事を聞いていたからだ。
現に今三人に対応している裕美自身、たまにチラチラ私のことを見てきていた。でも私は同時に卒業式の日、桜の咲いていた公園でのことを思い出していた。二人で交わしたある種の約束、私達二人がもう少し大人になってから、話すと裕美が約束してくれた。話し振りからしてこの話は、裕美にとってかなりナイーブな問題である事は、私にも察する事ができていた。だからこの時私は何も言わなかった。他の三人に合わせる事にした。
「まぁ所詮、小学校の時の共学なんてそんなものよ。向こうからしたら女子なんて何考えてるのか分からん生き物だろうし、私達から見れば男子なんて、お猿さんと何ら変わりが無いんだから」
私は話を打ち切るように、少し論点をまとめるように言った。それが伝わったのか、藤花も律も、それ以上には詮索してこなかった。後同時にこの時、担任の有村先生が部屋に入ってきた。私達が昼間に着ていた、学校指定のジャージを着ていた。部屋着代わりらしい。
「ほらあなた達!今何時だと思ってるの?もう消灯時間を過ぎていますよ?」
先生は大股で立ち、腰に手を当てながら、大きな声で言った。スマホの時計を見ると、十時を十分過ぎるところだった。今更だが実は班長だった紫が、私達を代表して謝った。
「すみませーん。もう寝まーす」
でも間延び気味だ。先生はやれやれと首を左右に振ると、苦笑交じりに早く寝るよう念を押すと、部屋を出て行った。
それから私達は大人しく部屋の電気を消し、寝る事にした。ウトウトしてきて、そろそろ眠りに落ちそうだというところで、不意にスマホが震えた。眠気まなこで見てみると、それは隣で布団を被っている裕美からだった。そこには一文だけあった。
『私に好きな人がいることを、黙っていてくれて有難う』
私は一人、文面見ながら微笑むと、電源を切り、そのまま眠りに落ちた。

これで二泊三日の研修会の話は終わりだ。次の日はそのまま東京に戻っただけだからだ。
それからは取り立てて話す事もない。この時を境に普段行動する時は、この五人で過ごす事が多くなった。”いつも”と言わなかったのは、それぞれ部活に入ったり、校外活動に勤しんでいたからだ。
例えば律は、意外というかなんというか、バレーボール部に入った。なぜ意外に思ったかと言うと、てっきり律はもともと所属している、地元のバレーボールクラブ一辺倒なものと思っていたからだ。本人が言うには、『クラブも部活も両立して見せる。出来るかどうかを試してみる』とのことらしい。中々男らしいと言えば失礼かもしれないが、ストイックな所が同年代から見てもカッコ良かった。ゴリゴリの体育会系だ。
この繋がりでいうと、裕美の話は外せない。裕美も律と同様、部活に出来るなら入りたかったらしいが、残念な事にこの学園には水泳部というものが無かった。元々プール自体が無かった。尤も裕美は、そんな事百も承知で受験したので、入った後になってがっかりするようなヘマはしなかった。裕美はそのまま、小学校から所属している地元のクラブに、今も足繁く通っている。近々、ゴールデンウィーク明けの日曜日に、女子十一歳から十二歳の部の平泳ぎに出るべく、日々練習を重ねている。それでも私と一緒に帰るのは変わらない。ただ地元の駅に着いて、そこで別れるだけだ。
ついでと言っちゃあ何だが、残り二人も紹介しておこう。
まず紫。紫は地元の小学校で、朝礼などで演奏する、吹奏楽部に入っていたらしい。パートはトランペットだった。朝礼のある日は、一般生徒よりも一時間以上早く学校に登校しなくてはいけないのが玉に瑕だったらしいが、余程気に入っていたらしく、そんなきつく辛い事も良い思い出になっているらしかった。中学に入っても続けたい、いや寧ろもっと本格的にやりたいと思いだし、丁度部活では無いが、”管弦楽同好会”というのがあったので、そこに今は所属している。大会などには出ないので、思ったよりも本気度は無かったらしいが、小学校の延長というので、それなりに満足し満喫しているらしい。
次は藤花。これまた意外と言っては何だが、藤花は学園近所にある、大きなカトリック教会の聖歌隊に所属していた。前にも本人が触れたが、学園付属の小学校に律と通っていた訳だが、この学園自体カトリックの学校だ。元々両親共にクリスチャンだった関係もあってか、藤花もしっかり洗礼を受けている程の、生粋の”本物”だった。因みに律はクリスチャンじゃないらしい。それはともかく、小学校低学年から聖歌隊に入り、これまで欠かさず毎週日曜日のミサには、同じくらいの子供達と賛美歌を歌ってきたらしい。それは今も続いている。失礼を承知で言えば、厳かなミサのイメージと、いつも明るく天真爛漫な藤花とは結びつかなかった。でもこれはすぐに解消された。
律に誘われて日曜日、他の四人揃ってミサの行われる主聖堂に行くことになった。入ってまず目に付いたのは天井だった。それは蓮の花に象られていて、ガラス張りなのか、外からの柔らかな陽光が差し込んできていた。壁には著名な日本画家の原画を元に、計十二枚のステンドグラスが、円形の主聖堂の壁に、等間隔ではめ込まれていた。初めて教会というところに来たが、何も教えとか知らなくても、自然と厳かな気持ちにさせられた。都内でも有名なせいか、驚くほどの人で埋め尽くされていた。こんなに東京にキリスト教徒がいるとは知らなかった。教会のしおりを見ると、固定席で七百と書かれていた。
何故律が誘って来たのかというと、藤花自身は教えてくれなかったが、丁度この日、研修会から帰ってすぐの日曜日、初めてこの大人数の前で独唱するとの事だった。普段は他の聖歌隊と一緒に賛美歌を歌うものだが、これは大抜擢といえた。話を聞いた時、私は真っ先に行くことを立候補した。ここまで話を聞いてくれた人には繰り返しになるが、私は誰かが本気で一生懸命に何かをする姿が大好きなので、そんな話を聞いたら、居ても立っても居られなかった。裕美の時と同じだ。勿論私のすぐ後に、残りの二人も名乗りを上げた。そして本番当日だ。
司祭がまず出て来て、聖堂中心に設置された祭壇の前で説教を始めた。私は気付かなかったが、隣にいた律に教えてもらった。祭壇の脇、真っ白な衣装に身を包んだ一団が列を成して座っていた。どうやらあの人達が聖歌隊のようだった。その最前列、司祭に近い所にチョコンと小さく座っている女の子の姿を見つけた。それが律の話では、藤花との事だった。確かに周りの大人達と比べると、遠くから見ても小さく見える。あそこに座って出番を待っているようだった。確かに言われて気づいたが、目を凝らしてよーく見ると、藤花は見たことのない真面目な表情で、司祭のことを見つめながら真剣に説教を聞いていた。成る程、天真爛漫の裏にはこういう顔が隠されていたんだなぁっと、まだ本番を見る前から感心していた。そして本番だ。
司祭は説教を終えると、その後ろに置かれている椅子に座った。これがある意味合図だった。いつの間に置かれたのか、祭壇から数メートル脇にマイクスタンドが置かれていた。おもむろに藤花は立ち上がり、ゆっくりとマイクの前に進み出た。しばらく私達入れた少なくとも七百人余りが黙って藤花の一挙一動を見守っていた。すると何処からかストリング主体の音楽が流れてきた。金管も聞こえている。すぐに何の曲だか分かった。世間一般ではカッチニー作曲と言われている”アヴェ・マリア”だった。細かい話をさせて貰えれば、真の作曲家はウラディーミル・ヴァヴィロフという旧ソ連の作曲家だ。それは置いといて、私はびっくりしていた。こんなガチな賛美歌を歌うだなんて思っても見なかった。プロのソリストが独唱するような難曲だ。これを藤花が歌うのか?私は親族ではないが、友達としてドキドキしながら歌うのを待った。でもすぐいらない心配だと気づいた。第一声にやられてしまった。どこまでも透き通るような、どこまでも伸びやかな歌声だった。そのままガラス張りの天井から、歌声がどこまでも飛んで行ってしまうんじゃないかと錯覚させられる程だ。技術的にいえば、抑揚も完璧だった。息づかいも分からぬ程で、ずっと息継ぎせず、歌い切っているのではないかと思わされた。理屈はもういらない。ただ単純に聞き惚れ、単純に感動していた。マイクの前で微動だにせず、真剣な表情で集中して歌う藤花の姿、白い衣装が天井からの自然光を反射し、輝いて崇高さを増していた。観客はジッと一部始終、藤花の歌声に耳を傾けていた。隣を見ると、裕美も紫も、門外漢だというのに、すっかり私と同じく聞き惚れていた。ただ一人、律だけがうんうん頷きながら、口元を緩ませ目元を柔らかく、気持ち誇らしげに藤花を見つめていた。
藤花が歌い終わり、演奏も終わると一瞬静けさが辺りを支配した。が、藤花が一歩後ろに下がり、深々と頭を下げると、初めはポツポツだったのが、相乗的に大きくなっていき、最終的には観客の多数が立ち上がる、スタンディングオベーションが起きた。藤花は遠くから見ても恐縮しっぱなしな様子で、今度はペコペコ頭を下げながら、元の聖歌隊席に戻ろうとしたが、一人の年配の聖歌隊員が、優しく微笑みながら、また向こうに行くようにジェスチャーをした。藤花はチラッと司祭の顔を伺ったが、司祭も穏やかな笑みを浮かべて、手で前に出るよう示した。藤花は促されるままにまた一度マイクスタンドの近くに行き、深々とまた頭を下げると、今度は駆け足で席に戻って行った。
私達全員も立ち上がって拍手を送った。みんな律以外は涙目だった。…いや、律もそうだったかも知れない。
それからは一連の流れが終わり、ミサが終わった。信者達はそのまま帰宅の途についたが、私達は流れに逆らう様に、聖歌隊の席に近寄って行った。
藤花は同じ白服を着た聖歌隊員達に囲まれて、笑い合いながら握手したり抱き合ったりしていた。その中で普通の服装の一般人がいた。どうやら藤花の両親のようだ。お母さんの方は言い方難しいが、どこにでもいる専業主婦と言った見た目だった。入学式で着るようなフォーマルな装いでいた。ただお父さんの方は違った。赤のチェックシャツに、履き潰したジーパン。お母さんと並ぶと言いようの無いチグハグ加減だった。それより印象的だったのは、鼻の下にチョビヒゲを生やしていたことだった。色んな意味で只者じゃ無い感を醸し出していた。藤花は『パパ』『ママ』と呼んでいた。
少し離れて立ち止まり、暫く喜び合っている様子を伺っていたが、ふと隣で律が大きな声を出した。
「藤花!」
藤花はふとこちらに顔を向けた。見る見るうちに、驚きと戸惑いと恥ずかしさを、同時に顔中に浮かべた。それもそのはずだ。何せ誰も藤花に、聴きに行くとは言ってなかったからだ。少しの間お互いに顔を見合わせていたが、途端に藤花の顔が歪んでいった。涙を堪える顔だ。しかし目元には既に涙が溢れでていた。
「…律ぅーーー!」
藤花は名前を叫びながら、律の胸下に飛び込んだ。かなりの勢いだったが、律は何でもなさげに、冷静に真正面から受け止めた。藤花は仕切りに律の名前を呼んでいたが、律もまた見たことのない、柔和な微笑を顔に湛えながら、藤花の頭を優しく撫でて
「…良くやったね、藤花」
と囁きかけていた。その様子を見て私達を含む、聖歌隊員達までもが目元を潤ませていた。私も視界がボヤけながらも、ふと思った。
あぁ…これとは違うだろうけど、裕美の言ってたことが分かった気がする。この二人と、私と裕美の関係性が似ているんだ、と。勿論裕美が言ったのは、私と律が雰囲気似ているというだけだったが。
それからは私と裕美、紫が藤花に駆け寄り、思いつく限りの礼賛の言葉を浴びせた。まだ藤花は何故私達がここに居るのか理解が出来ずに、混乱しているようだったが、素直に私達の言葉に感謝を返していた。それから藤花の両親にも挨拶した。
話を聞いたら藤花のお父さんは、いわゆる建築士らしい。 自分の事務所を持っていて、中には国から依頼されることもあるのだと言う。流石に口にはしなかったが、見た目によらないとはこの事だと、失礼なことを考えていた。
それからは他の聖歌隊の人達とも話した。藤花も聖歌隊の一員として、今日の分の独唱はこれで終わりらしいが、午後の礼拝にも参加しなくちゃいけないらしく、両親共に残るみたいだった。私は後でゆっくりと、何故どうやってその歌唱力を身に付けたのか、しっかり教えてもらうことを何度も、藤花が引くほどにしつこく約束し、律含む私達も帰る事にした。
とまぁ、こんな所だ。思いがけず藤花の話が膨らみ過ぎてしまったが、こればかりはしょうがない。同じ音楽の道を志している、同年代の子に出逢えた喜びは、これでも書ききれないほどだった。当然この後約束通り何度も教えてもらった。練習に使っているスタジオにまで押し掛けたこともあった。藤花も初めは戸惑っていたが、私がピアノを弾くことを知ると、途端に藤花も私に興味を示し始め、スタジオにあったグランドピアノを弾いて見せたり、歌を聞かせて貰ったりした。藤花は私のピアノを褒めてくれた。私はこんな性格だから、素直に言葉を受け入れられなかったけど、次第に社交辞令じゃない事が分かると、素直に有難うと返したのだった。藤花は知る余地が無いが、私に密かな自信を付けてくれた事にも感謝した。
余りに四人について話し過ぎたから、私の事はサラッと述べたい。対して代わり映えもしないから、それで良いのだ。正直私は何も変わらない。もう塾に行かなくて良いことぐらいだ。元々何とか両立していたつもりだったが、受験が終わった事により前と同じくらい、いや、前よりも一層力を入れてピアノのレッスンに力を入れていた。その事は既に何処かで話していると思う。卒業式が終わり入学式までの間、本当なら暇なはずだったが、先生の厚意で朝十時から夕方六時までのピアノのレッスンを週四、義一の家と絵里に会いに図書館へ、たまに裕美とヒロと遊んだりしていたら、一日たりとも一日中家にいる日が無かった。でも今までの鬱憤を晴らすように動き回っていたので、疲れよりも清々しさの方が強かった。学園生活の始まった今、春休みのような生活は当然不可能になったが、それでも何とかうまく切り盛りして、遜色ないように過ごしていた。
…これはまだ先生にも話していないが、私が納得いく力を身に付けたと自覚出来たら、試しにどこかのコンクールに出てみたいと思っている。…この話はまた後の話だ。
…元々何の話だったか、私の話が長過ぎて覚えておられないだろうが、一応言うと、私合わせた五人はそれぞれ自分のやりたい事が明確にあるので、各々その道を邁進しているのだが、いつも放課後はこの内の誰かと過ごした。五人全員で過ごすのも、別に珍しい事じゃない。直接聞いた訳ではないが、皆それぞれに、この五人の関係を守りたいと考えているようだった。都合がつくようなら、率先して集まるようにしていた感があった。外部からある意味隔離された、女子校と言う名の箱庭。外から見れば息苦しそうにも感じるだろうけど、中にいる当人達は別段不自由を感じていなかった。むしろ学園という大きな力に守られてる事によって、他のことを気にせず、やりたい事をやれるだけやれた。中には息苦しく、退屈で、不自由を感じていた人もいたろうけど、そういう人は好きな事を見つけられないばかりに、箱庭の壁ばかりが目に付いて、その壁が実際どの程度己を制限しているのかは考えない。その程度の認識だ。毎度の如く話は逸れたが、こんな調子で一学期は瞬く間に通り過ぎて行った。そして中学になって初めての夏休みが始まる。

第16話 夏のアレコレ

「へぇー、そんなに歌の上手い子がいるんだ」
「はい。”アヴェ・マリア”を、それはもう綺麗に歌い上げていましたよ」
私は卵と砂糖を入れたボールを手に持ち、掻き混ぜていた。今日は夏休み入ってからの最初の土曜日。ピアノのレッスンの日だ。今は昼の中休み。先生と一緒にキッチンに立って、こうして相変わらずお菓子作りにも勤しんでいる。レパートリーも大分増えた。
先生は冷蔵庫から牛乳を取り出し、ボールの中に適量を流し入れた。
「ふーん、すごい子もいるのねぇ。しかも琴音ちゃんのお眼鏡にかなうほどのね」
そう言うと、また冷蔵庫に牛乳を戻した。私はまた掻き混ぜつつ、苦笑まじりに返した。
「イヤイヤ先生、私はそんな大層な眼鏡はかけてませんよ」
「うふふ。相変わらずの言い回しの旨さね?」
先生はクスクス笑いながら、冷蔵庫から今度はマグカップを二つ取り出した。これは予め作っといたもので、底にはキャラメルソースが溜まっていた。それを私の作業する脇に置いた。この時ふと、正面にある大きめな鏡が目に付いた。こうして見ると、仲のいい姉妹のようだった。先生も絵里と同じくらい、ベビーフェイスのせいか、実年齢よりもはるかに下に見えた。年齢は絵里よりも二つ年上だったはずだけど。ただ一つ絵里と根本的に違う所は、背丈だ。絵里は平均的、いや平均よりは若干高めの160ちょっとくらいだったが、先生は私よりも10センチほど高い、175もあった。だから尚更鏡に映る二人の姿が、姉妹に見えたのだった。肩幅は若干あったが、目は二重の少しタレ目気味、顔の一つ一つのパーツが小ぶりで、和系美人の典型みたいな顔付きで、スラっとしているモデル体型だった。因みに髪型は、胸のトップにかかるほどの、前髪ありのストレートヘアーだった。中休み時は下ろしているが、レッスン時は後ろで縛ってアップさせていた。こうしたルックスは、女の私から見ても男がほっておかないだろうと見受けられるけど、話を聞く限りでは、交際人数は片手で数える程もいないらしい。ずっと手首を痛めて引退するまでは、ピアノ一筋に生きてきた、典型的な芸術家肌だったらしく、今更どう異性と接していいのか分からないと、いつだったかお母さんを交えた食事会で、顔を真っ赤にしながら答えていた。お節介焼きな性格のお母さんが、何人か紹介してきたようだが、いずれも丁寧に、しかし頑固に断り続けたらしい。
そんなこんなで先生は、私のお爺ちゃんの持ち家を借りながら、悠々自適な独身ライフを満喫している訳だ。
「…よし!後はチンして終わり!」
先生はマグカップにボール内の液体を淵より少し下くらいまで流し込むと、それをレンジに入れて、スイッチを入れた。勘のいい人ならもうお気づきかもしれないが、今日作っているのは、マグカップを容器にしたプリンだ。バニラエッセンスの香りが、微かにあたりに漂っていた。その間先生と一緒に身の回りの片付けをした。
チン!
音がしたので先生が、五本指が使える鍋つかみの様な厚手の手袋をはめて、レンジからマグカップを取り出した。そしてそれにアルミホイルを被せ、布巾でそれぞれ包んだ。
先生は腰に手を当てて、鼻で息を短く吐くと言い放った。
「…うん!後は十分くらい待ったら出来上がり!」

私と先生はマグカップを持ちながら、中に出来上がったプリンをスプーンで掬いながら食べていた。味自体は変哲の無いプリンだったが、先生と一緒に自分の手で作ったという事実が、味に何層ものコーティングを施し、美味しさを何倍にも増加させていた。一口に言えば、手作りは失敗しない限り、何よりも美味しいということだ。
先生は食べながら午後の課題について、私に軽く確認を取った。最近は他のピアノ教室でやる様な、一般的な練習曲は全て弾ききってしまったので、先生自ら私のために、幾つも自作の練習曲を作曲してくれていた。この時点で二十曲以上はあったと思う。指の使い方、アクセントの付け方、ペダルの使い方などなど、先生の考える、ピアノを弾く上で大事なエッセンスが、ふんだんに盛り込まれていた。最近は課題曲を弾く前に、指の準備体操として、この練習曲をいくつか弾くところから始めるのが、日課になっていた。先生に怒られた記憶はほぼほぼ無いが、私が弾くすぐ脇で、私の手元を穴が空くほど、何も言わず見つめてくるその熱視線は、口で言われる以上の何かがあった。良い意味での緊張感が流れていた。でも一旦休憩に入ると、これ以上無いほど私に優しくしてくれた。このオンオフの切り替えの良さが、私には心地良かった。
「ねぇ、琴音ちゃん?」
「はい?」
私はスプーンを咥えながら答えた。先生は手元にある自作の楽譜を見ながら続けた。
「今度機会があったら、その子の歌っているのを聞いて見たいなぁ。そんなにあなたが褒めちぎるんだから」
「ふふふ、そうですね。私も実際に見て頂きたいです」
「じゃあ、いつかその教会に行って見ましょう」
先生は優しく微笑みながら言った。私も微笑み返して、またプリンを食べ始めた。
この夏休み中のレッスンの次の日、日曜日に二人で電車に乗り四ツ谷まで行った。先生も藤花の歌声に聞き惚れ、それからは信者でも無いのに、藤花が独唱すると予め分かる時に限って、たまに私と一緒に教会まで聞きに行くことになる。これはまた別の話だ。

「じゃあ、さようなら」
「えぇ、気をつけて帰ってね」
いつも通り玄関を出た所まで見送ってくれる先生に手を振り、私は寄り道せずそのまま帰った。もし時間がある様だったら、義一の家に寄ることも考えていたが、思った以上に今日は課題に手こずり、時間が遅くなってしまったので、また別の日に行くことにした。こうして義一のことを考えると、いつもあの小学五年生の夏休みを思い出していた。

「ただいま」
「おかえりなさーい」
私は玄関で靴を脱ぎながら挨拶した。姿は見えないが、お母さんの声が聞こえた。居間に行くと、ちょうど夕食の準備に取り掛かっている所だった。私は食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から麦茶を出して中に注いだ。私は何気なく、お母さんの料理をしている手元を見ていた。詳しいことはよく分からないが、それでもお母さんの料理の腕は、並の主婦とは一線を画している事ぐらいはわかった。まな板の周りにあらかじめ処理した材料が、小降のボールにそれぞれ綺麗に並べられていた。まるでテレビで見る料理番組の様だった。手間の様だが、スムーズにことを運ぶための手間なので、結果的にはこの方が合理的に早く済ますことが出来るらしかった。
お母さんは私の視線に気づいて、チラッと私を見てまた手元に視線を戻し、明るく笑いながら話しかけてきた。
「…なーに?そんなにお腹が空いた?」
「え?いやまぁ…それもあるけど」
私は手元の麦茶を、一口飲んでから言った。
「やっぱりお母さんは料理上手だなぁって」
素直に衒うことなく、感想を言った。お母さんは手元に目を落としながらも、嬉しそうにハニカミながら返した。
「なーに、急に?そんな褒めてもお小遣いは増やさないわよー?」
「いやいや!そんなつもりで言ったんじゃ無いよ!」
「あははは!冗談よ」
私がムキになって返すのを、お母さんはサラリと流したが、ふと手元を止めて私の方を向くと聞いてきた。
「そういえば琴音、あなた今日も沙恵さんのトコでお菓子を作ったの?」
「うん、今日はプリンを作ったの。しかもマグカップの中に」
「へぇー、洒落てるわねぇ。今度私にも教えて?」
「うん、いいよ」
そう。元々は義一の家でおやつを食べる為に、先生に教えて貰ったのが始まりだったが、当然といえば当然で、先生がお母さんにお菓子作りをしている事を話したらしく、早速その晩にお母さんに根掘り葉掘り聞かれたのだった。当然義一の件は隠したが、どうもお母さんも先生と同じ様に、私が誰か好きな人が出来て、その人の為にお菓子作りを習い出したと考えた様だった。義一のことを勘繰られなかったのはよかったが、好きな人云々という恋愛がらみの事は、正直言って対処するのが面倒だった。だがまぁ、秘密を守る為にはこれぐらいの犠牲はしょうがないと、開き直ることにしていた。それ以来、先生に教えて貰ったお菓子を、私一人で作って見せたり、また二人一緒に作ったりした。お父さんにも食べて貰った。お父さんは実は甘いものが、義一と違って苦手だったが、愛娘の作った物、またそんなに量が無かったのが救いで、全部食べてくれたのだった。繰り返す様だが、元々義一との為に習い始めた事だったが、結果的には私達家族の団欒に、ひとつの新たなスパイスとして盛り込まれ、家族間の絆が深まっていくのを感じた。
「…あっ、そうだわ!」
お母さんはまた料理にしながら、私に話しかけてきた。私は一度自室に戻り、荷物を置いてまた居間に戻り、食卓テーブルにお皿を置いている所だった。
「何?どうしたの?」
「あ、いや…そうねぇ」
お母さんは後ろを振り向き、私の方を見ながら答えた。
「今日はお父さん早く帰って来るから、その時に話すわ」
「…?うん、分かった」
私達はそれぞれ、また自分達の作業に戻った。

「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
いつも通りお父さんの号令と共に、夕食を摂り始めた。今日の献立は、鰤の照り焼き、金平ごぼうと揚げ出し豆腐、大根の味噌汁といった物だった。和食一色だ。前々からそうだったが、ここ最近顕著になっていた。お母さんはこの頃すっかり和食に凝っていた。、でも誰も文句は言わなかった。なぜなら単純に美味しかったからだ。
私とお父さんは口数少なめに、黙々食べていたが、相変わらずお母さんが率先して話していた。
いつもお父さんが家で一緒に食べられる訳ではないので、大体三人一緒に食べる時は、お母さんは今まで話していなかった何日分かの話のネタを、一気にこの時に話す様にしていた。 我が母の事ながら、止めどなく、しかも順序立てて次から次へと話をしていく様を見る度に、毎度毎度驚かされていた。よくもまぁ、そんなに細かい事を覚えているもんだという事だ。何処かにネタを書き留めている様な気配は無いのに、素直に心から感心していた。
あらかた話し終えたのか、暫く食事に集中していたが、「あっ!」と不意に声を上げると、お父さんにまた話しかけ始めた。
「そういえばあなた、そろそろあの事を琴音に話す時かしら?」
「ん?…あぁ、アレか」
「アレ?」
私は二人の顔を交互に見ながら言った。お父さんが何か言いかけたが、お母さんが先に私に答えた。
「えぇ…あなたにはまだ話した事が無かったと思うけど、実はあなたには、高校に入るか入らないかくらいの時に、一人暮らしをしてもらおうと思っているの」
「…え?一人暮らし?」
私は全く想定していない話が飛んできたので、何も考えられないままに、ただ言われた事を繰り返した。お母さんは私の戸惑いを知ってか知らずか、話を続けた。
「えぇ、一人暮らし。私達望月家はね、お父さん、お爺ちゃん、そのもっと前々から子供達に、ある一定の年齢を迎えたら、一人暮らしをさせる習わしになっているのよ。…ね、あなた?」
「…あぁ」
お父さんはご飯とおかずを食べ終え、味噌汁をゆっくり味わうように啜っていた。そしてそのお碗をテーブルの上におくと、静かな眼差しを私に向けてきながら、口調も緩やかに話し始めた。
「爺さんやそのまたもっと前は、どのくらいの年齢でしていたのか、実はよく分かっていないんだが、少なくとも私は高校に上がると同時に一人暮らしをさせられたんだ」
「へ、へぇー…」
じゃあ義一さんも?と思わず聞きそうになったが、既の所で止まる事が出来た。しかしホッとしたのも束の間、今現時点でいきなり大きな問題が持ち上がっていたので、それどころでは無かった。私は当然の疑問をぶつけた。
「…え?じゃあ私、高校生になったらどこか住むところを探さなきゃいけないの?…学費は?光熱費とか食費とかは?…ま、まさか…どこか仕事に出なくちゃいけないの?」
私は矢継ぎ早に、思いつくまま疑問を二人に飛ばした。後になって思えば、やはりと言うか当たり前というか、流石の私も混乱していたのだろう。
お父さんとお母さんは静かに私の質問を聞いていたが、二人はそのまま顔を見合わせると、まずお母さんがクスッと笑顔を漏らした。普段仏頂面のお父さんまでも、その後静かに目を瞑りながら微笑んでいた。私がその様子を見て、不満げに膨れていると、お母さんが笑顔で話しかけてきた。
「あははは。いやぁ、琴音ゴメンね?いきなりこんな話をしちゃって。流石のあなたでも困惑したわよねぇ?…んーん、違うのよ。ちゃんと説明するわね?」
お母さんは大袈裟にゴホンと、咳払い一つしてから話し出した。
「あなた、駅前が大分様変わりしたのを知っているでしょう?」
「え?う、うん。…大分前からだったけど」
私は昔の事を思い出していた。私の地元は、私が小学校低学年くらいまで駅前でも、寂れていた。特徴的だったのは、駅前に大きな工場が建っていたことだった。稼働してるのかしてないのか、そもそも何の工場だか分からないままでいた。それが何時頃からか、急にその工場が解体されて、後に残った膨大な跡地にショッピングモールや、大型スーパー、そして今時のデザインのマンションが何棟か建設されたのだった。以前軽く話した、お母さんが駅前で買い物云々の話は、この新しく出来たスーパーで買い物するという意味だった。全部出来たのが二年くらい前だったと思う。義一と再開した時と被っていた。
「そう!でね?あそこのマンションが出来た時にお父さんがね、一室マンションを買ったのよ」
「…え?えぇーーー!そうなの?」
私は思わず声を上げた。まぁマンションを買ったという話を、わざわざ年端の行かぬ娘に話す事でもないとは思うけど、これまた予想外の事実を話されて仰天してしまった。お父さんは何も言わず、私に優しい視線を向けてくるばかりだった。お母さんは続けた。
「うふふ、ビックリしたでしょ?ビックリついでにもっとビックリさせるとね…」
お母さんはまた一度わざわざ区切った。
「…そのマンションを買ったのは琴音、あなたが高校生になった時に住む場所を確保するためだったのよ!」
「…へ?」
流石の私も、もう声を上げて驚かなかった。人間本気で驚くと、声さえ上げられず、間抜けな力の抜ける言葉を発することしか出来ないことを、この時に知った。
「じ、じゃあ私はあそこのマンションに、高校生になったら一人で住むのね?」
私はまだ心が落ち着かず、たどたどしく話すのがやっとだった。と、今まで黙っていたお父さんが、いつの間にかお母さんに出されていた、湯飲みに入ったお茶をズズズと音を立てて啜ると、私を見ながら静かに話した。
「…今お母さんが話した通りだ。琴音、お前は高校に上がったら、あのマンションに一人で暮らすことになる。私もそうした。…尤も当然私が子供の頃だから同じ所ではないが、私の父が既に持っていた持ち家の一つ、マンションを与えられて、そこで大学卒業するまで暮らしたんだ。勿論、お金の心配はしなくて良い。光熱費やら食費は全部、お小遣いも含めて後で新しく作る口座に振り込むから。学費も当然だ。だから琴音…」
お父さんはこれまたいつの間にか片付けられて、何も残っていないテーブルの上に両肘をつき、私の方へ身体を若干乗り出すようにしながら、語りかけた。
「お前は高校までの約三年間、一人で炊事洗濯その他の家事、まとめて出来るように、お母さんに一から色々教えて貰うんだ。なぁ、母さん?」
お父さんはまた一度姿勢良く座り直してから、台所で食器を洗っているお母さんに話しかけた。お母さんは一度水道を止め、タオルで手を拭き、こちらに振り向いてから返事した。
「えぇ、その通りよ。私がみっちり叩き込んであげるから、覚悟しなさいよぉー?」
最後に両手を腰に当てて、上体を前に少し倒し、意地悪く笑いながら私に話しかけてきた。
「う、うん」
そんな冗談ぽく言われても、まだ動揺しっ放しな私はそう答える他なかった。
「でも母さん、何でまたこのタイミングで、その話を琴音にしたんだい?」
お父さんがそう問うと、お母さんは今度は、悪戯っぽく笑いながら返した。
「いえね、最近ほら、沙恵さんの所でこの子、お菓子作りを教わっているじゃない?それを見て、何も先延ばしにしなくても、この子自身に興味があるのなら、こういうことは早めが良いかと思って、思い切って話してみたのよ」
「なるほどなぁ」
お父さんは顎に手を当てて、ウンウン頷きながら納得していた。
確かにお菓子作りをしてみて初めて気づいたが、私は料理全般に興味や関心があったようだった。だから今日も、ついついお母さんの手元をジッと見つめてしまったのだった。
「…どうだ、琴音」
お父さんは、先程と変わらぬ静かな調子で、しかし目の奥に柔らかな光を宿しながら聞いた。
「まだ中学に入ったばかりのお前に、無理をさせてしまうようで、本当は乗り気ではないんだが…もしお前が自分の意思で求めるのなら、どうだ?…やってみるか?」
「…」
私は考えた。…が、お父さんとお母さんの話ぶりからして、これは既定だというのは分かりきっていた。仮に嫌だと言っても、そう簡単には覆らないだろう。でも、そもそもそんな心配は無用だった。初めて聞いた時しつこいようだが、そりゃ驚き慌てふためいたが、同時に心の何処かでワクワクした自分もいた。
私一人でどこまでやれるのか。勿論、私の心配していた”お金”の問題は結局お父さん達に依存する訳だから、いわゆる”自立”には程遠かったが、それでもそれ以外では一人で全部やらなくてはならない。私は幼い頃からそうだったが、義一と深く付き合うようになって、余計に『”自分”とは何者なのか?』『一体自分に何が出来るのか?』という自己意識が、自分で言うのも何だが、同年代の子たちと比べて抜きん出ているように感じていた。それを具体的に実証できる、またとない機会。誤解を恐れずにいえば、一般家庭に生まれていたら、このような機会には恵まれなかっただろう。仮にお金に余裕があっても、わざわざ新築と言って良いマンションを、お父さんは言ってなかったけど明らかに意図としては、子供の自立心を育むためだけに買い与えるような、そんな発想には他の家庭じゃ至らなかっただろう。
今までは面子しか気にしない、お金で測った薄っぺらで、汚れた価値基準しか持っていないように見えたこの家系、その中で唯一純粋で綺麗な、真面目に誠実にまっすぐ生きようと足掻きもがいている義一を、蔑ろにする様なこの家系をこの歳で既に憎み切っていたが、現金な言い方で、私が最も忌み嫌う価値観の一つを孕むことだけど、今回初めてこの『望月家』に生まれて、良かったと思えた。ほんの少しだが。
私は少し間を置いたが、心は決まっていた。
「…うん、私やってみる」
「…そうか」
お父さんはそれだけ言うと中腰で立ち上がり、腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を優しく撫でた。気付くとお母さんも洗い物を終えて隣に座り、私を優しく抱き寄せるのだった。私もそれに応じた。


「へぇー、中々楽しそうだねぇー」
義一はスマホの画面を見ながら、向かいに座る私に言った。今日は七月最後の金曜日。相変わらずお母さんには”図書館”に行くと言って、家を出ていた。
今のところまだ疑われる要素は無かった。何故なら、まだ見せてと言われた事が無かったが、借りてきた本を見せてと言われたとしても、義一の家から借りた本をそのまま見せれば良かったからだ。何せ中にはボロボロの本も多数あったので、如何にもな代物だらけだった。古本の中には、戦後すぐの図書館から買い取ったものもあったりで、ページの一番最後にその判子が押してあるのもあった。お母さんの性格的に、そこまで事細やかに調べる事が無いことは、十年以上娘をやってるので、だいたい予測が出来た。
忘れている人もいるだろうが一応話しておくと、合鍵の隠し場所も心配いらなかった。小学校時代、塾に行くまでは中々苦心していた。結局ずっと筆箱の中に入れていた。しかし塾に通うようになって、お外に行く用の財布を買って貰った事により、その中にしまうことに成功した。いくつもポケットが付いていたからだ。そもそもお金以外に入れないだろうと思い込んで、他に何か入れてるだろうとは、夢にも思わない事が分かっていた。これも普段から、両親を細かく観察し分析してきた事の成果故だった。億劫だった塾通いも、こんな所で貢献していた。怪我の功名だ。
それでも当然慢心する事なく、警戒は怠らなかった。最近はお母さんが日舞の稽古に行く時を、なるべく見計らうようにしていた。何故ならお母さんの稽古先が目黒にあるので、どうしたって片道一時間くらいはかかる距離に行く。行ったり来たりの移動時間、稽古の時間、終わった後の仲間との団欒時間を全て足すと、少なくとも六時までは帰って来ない計算になるからだ。ただ一つ難点なのは、お母さんが稽古に行く日取りが、固まっていない事だった。今日は金曜日だが、毎週金曜日に稽古がある訳では無い。たまたまだ。お母さんの話では、先生の都合でズレてしまうらしかった。その稽古場には他の先生もいるらしかったが、お母さんはどうしてもその先生に教わりたいようだった。
前に絵里に言われてから、かなり私なりに事細かく計画を練るようになった。策士策に溺れるようでは元もこうも無いので、しつこいようだが、油断することだけは意識して避けるようにしていた。いつもお母さんの稽古に合わせている訳では無い。それでは変に思われて、疑われるリスクが高まるからだ。とまぁ、ざっとこんな所だ。
アレコレ策を練るのは楽しかったが、何処かでやはり罪悪感が無いかと問われれば、正直あるというのが本音だった。でも今の所は止めるつもりはない。

今私はいつも通り義一の”宝箱”の中で、あのテーブルに座り、向かい合いながら紅茶を飲んでいる。初めて飲んでからずっと同じ”ダージリン”だ。義一は他にも色々飲ませたかったらしいが、この頃の私としては、少ない時間を義一と沢山お話ししたかったという気持ちが強すぎて、勿論気遣いは嬉しかったけど、種類を気にするほどには、まだ興味が無かった。
義一の見た目も変わらない。相変わらず髪を切りに行くのが億劫らしかった。伸ばしかけの前髪を、敢えて後れ毛として残すポニーテールだ。ぴっちり纏めてない分、アンニュイな印象を与えていた。ある意味義一の性格を表しているようで、私個人の感想を言えば、大変似合っていると思う。でも義一には言わなかった。何となくだけど、見た目の事を言われるのはそんなに好きではなさそうだったからだ。私もそれぐらいの気遣いは出来る。
また私の前では、眼鏡でいる事が多くなった。元々そんなに目が良くないようだった。でも外にいる時は、本を読んだりメモをつけたりする以外は、裸眼でいるのが普通だった。何で外でだけ眼鏡をしないのか聞くと、義一は『見え過ぎると、世の中や他人の汚いところや欠点ばかりに気が付いて、それらが何故そうなのか、何故そうするのかが気になってしょうがなくなっちゃうから』だと、照れ臭そうに答えてくれた。何だか難しくてややこしい、義一らしい答えと言えた。一応理屈の通った、理路整然とした納得のいく答えだった。種類は丸みを帯びた逆台形型で正方形型に近い、いわゆる”ウェリントン型”というヤツだった。
余談だが義一は、この型の眼鏡をいくつか色違いを含めて持っていたが、全部絵里と一緒に買いに行った時の物らしい。あまりに眼鏡を粗雑に扱うのを見て、絵里は毎年義一の誕生日になると、家の外へと連れ出し、都心の繁華街にある絵里の行きつけのメガネショップまで、買いに行くみたいだった。義一の持ってる全ての眼鏡が、絵里からのプレゼントだった。私は初めてその話を聞いた時、理由は言わないが、何だか気持ちがほっこりした。光景が目に浮かぶようだった。 尤も眼鏡をプレゼントした後は、せっかく都心まで足を伸ばしたんだからと、義一に夕飯を奢って貰うまでがセットらしかった。二人らしい、オチのあるエピソードだった。

いつも通り大きく話が逸れたが、遅ればせながら今義一と何をしていたかと言うと、普段ならまず借りていた本を返し、その感想を私が言う所から始まるが、今日は夏休み始まってから初めての訪問ということもあって、一学期の思い出話をしていた所だった。
勿論入学してからも暇を見つけて、月に平均三、四回くらいの頻度でここに来ていたが、前にも話した通り、本を返し、感想を言い、義一の意見を聞き、たまにピアノを頼まれるままに弾いたりすると、何だかんだ学校の話をする時間が無かった。…いや正直に言えば、先程も言ったように義一に会うと、他の人とは話せない故溜まりに溜まった話のタネが、一気に口の先から次から次へと迸っていって、すべて吐き出すことに終始してしまう。勿論新たに始まった学園生活の事も、話そうと思って会いに行くのに、いざ義一と会うと忘却してしまうのだった。貯め込んでいたネタを、一気に話してしまう所は、私もお母さんに似ているのかも知れない。帰り道で一人冷静な時に、はたと思い出すまでがテンプレートだ。会わない時も連絡は取り合っているから、どうにか出来そうだと思われるかも知れないけど、画像を送ろうにも義一は”ガラケー”持ちだ。それ故に、画像ファイルを見る事が叶わなかった。こればかりは義一がスマホにしてくれないと、どうしようもない。私の制服姿を見せようとして、絵里とピアノの先生には写真を撮って送ったが、義一には何とか暇を見つけて、わざわざその姿を見せるためだけに学校帰りに直接行った。
だから今日こうして、お母さんの稽古日と上手く重なったから、忘れないうちに着いて直ぐスマホを取り出して、義一に見せているという現況だ。
四月の研修会という名の、クラスメイトとの親睦旅行、六月の球技大会の時撮った写真を見せた。義一は慣れない調子で、スマホを操作しながらスライドしていっていた。何枚か五人全員で写真を撮ったが、その中の一つ、洋上のサービスエリアで撮った写真を私に見せながら、話しかけてきた。
「みんな可愛い女の子ばかりだねぇ」
義一は微笑ましげに言った。
「…なーんか、誤解を招く言い方だなぁ」
私はワザと意地悪く笑いながら返した。義一は何も言わず、照れ臭そうに苦笑を返すだけだった。
それからは椅子を義一の隣に運び、隣り合って一緒に見た。 義一が一枚一枚質問してくるのを、私も一々丁寧に説明するのだった。
藤花の写真はどれも満面の笑みを浮かべて、動かずとも天真爛漫さが表れていた。前に初めて藤花の歌声を聞いた後、直ぐに義一にも教えたが、歌だけではなく普段の話し声もアニメのような、キラキラした高めの声だということを話した。
律はどれもパッと見無表情だったが、これは直接会って見ている私だから気付いたが、眉間のシワの寄り具合、眉毛や口角の微妙な上がり下がり具合、これらを注意して見ていると、思った以上に感情が顔に出ているのが分かってきた。その事も義一に話した。低くて威厳の感じる、宝塚の男役みたいな声をしている事も。義一は写真の律を見て、妙に納得していた。
紫の写真は、どれも快活そうな笑顔を浮かべていた。中々目元が緩むほどには笑っていなかったが、義一に言われる前に色々フォローを入れた。性格のキツそうな見た目だけど、かなり率先して冗談を言うし、私達が逆に冗談を言うと的確なツッコミで返してくる事も。そしてその能力を買われて、私たちの間でのツッコミ役になっている事も話した。悪口でも何でもなく特にそれ以外に、目を見張るような能力がある訳ではないけれど、紫がいてくれるお陰で、他の四人が纏まれる事も。当然と言えば当然だが、まず初めに義一が食いついてきたのが”紫”の名前だった。”紫”と書いて”ゆかり”と読むのは相当珍しかったからだ。義一は『紫なんて、中々風流な名前だね』と呑気な感想をくれた。
さて、最後に裕美だ。勿論義一は裕美の存在を知っていた。私が何かにつけて、小学生時代に話していたからだ。水泳の都大会で、優勝するような強豪だという事も話していた。
…少しばかり話が逸れるようだが、ここでしか話せる場所がなさそうなので、この場を借りて五月の都大会の結果について言っておこうと思う。当然この試合を私は観に行った。もちろん応援を兼ねてだ。勿論というか、この時も一緒にヒロが来ていた。ヒロは地元の公立中学に入り、野球部に所属していた。元々スポーツ刈りで短かったが、久し振りに会ったヒロの頭は、丸坊主になっていた。 会場に着くまでは、キャップを被っていたから分からなかった。でも中に入り観客席に座ると帽子を脱いだので、そこで初めて知った。何かヒロは私に喋りかけていたが、私は呆然とヒロの頭を見つめていた。そして何故か無性にその頭を撫でたい衝動に襲われた。そして遂に我慢出来ず欲望のままに、突然私はヒロの頭を撫で回し始めてしまった。ヒロは最初ビックリして、私の手を払いのけようとしていたが、次第に辞める気配がないことを悟ったのか、最後は私にされるがままになっていた。ヒロは無表情でいたが、顔は若干赤みを帯びていた。確かにこんな公衆の面前で、女子の私に良い様に弄くり回されるのは、男子のヒロとしてはプライドが傷つく事だったろうと、当時の私は思っていた。心の中では、いくらヒロ相手とはいえやり過ぎたと反省していたが、実際には平謝りをしただけだった。
…いや、ヒロのことは今はどうでも良い。それよりも裕美の話だ。結果を言ってしまうと、三位に終わった。レースが終わり、メダルを受賞されると、裕美はそのまま奥へと帰って行った。当初の予定では、今いる観客席に着替えた裕美が来ることになっていたから、少しの間待っていたが、私はいてもたってもいられなくなって、ヒロにそのまま待つように言うと、一目散にロッカールームへと急いだ。前回と同じようにパスを貰っていたので、それを使ってロッカールームへと向かうと、その途中で裕美と合流した。裕美は既に着替え終えていて、まだ水気を含み湿った短髪が、通路の灯りを反射し、艶やかに煌いていた。裕美はすぐに私に気付いて、明るい笑顔で手を振りながら近づいて来た。私は思いがけず元気な様子の裕美に呆気に取られながらも、同じ様に手を振り返した。でもこんなに明るく振る舞っていても、心はすごく落ち込んでいると思うと、何だかテンションが同じ様には上がらなかった。裕美も察したのか、私の肩に手を置くと、苦笑交じりに声を掛けてきた。『なーんで私じゃなく、アンタがそんなにしょげてるのよ?』『だ、だって…』私はこういう時に、なんて声をかければいいのか分からずにウジウジしていると、裕美は肩をポンポンと二度軽く叩いてから言った。『…いいのよ、私は今回の結果に納得してるんだから!ちょっと言い訳になっちゃうけど、前回の大会が終わってから、受験があったりで全然泳げて無かったからねぇ。大会に出れるのかも疑問だったけど、それが何とか決勝まで漕ぎ着けて、しかも三位なんていうメダルを受け取れる位置までいけたってのは、とても喜ばしいことなのよ?だから今私は寧ろ嬉しいの!だから一緒に喜んでくれない?』『裕美…』私は少しはホッとしたが、それでも額面通りには受け取れなかった。裕美は私の気持ちを察したのか、肩に置いた手をそのまま腕に沿って下ろして、手の所まで来るとそのまま私の手を握り、握手する様な形を取った。そしてそのまま顔には柔らかい笑顔を浮かべて、私に語った。『私だって三位の成績に甘んじる気は毛頭無いわよ?今回は準備不足が響いたけど、次回までに練習をこなして、次こそは優勝に返り咲いて見せるんだから!』そう言い切る裕美の目は、メラメラ燃える炎を宿し、既に未来に焦点が定まっていた。
とまぁ、以上が裕美のゴールデンウィークに於ける大会のあらましだ。この事は、今回初めて義一に話した。義一は興味深げに熱心に聞いていた。義一は裕美に対して、私の口を通してだけど、それなりに印象が良いようだった。私は裕美の事を義一が気に入っている事実が、無性に嬉しかった。いっその事、義一と裕美を会わせてみようか?そう考えたのは、一度や二度じゃない。小学校以来、中学に入学してからも何度も考えてみた。もう既にヒロには知られている…。今更もう一人、裕美に知られたところで変わらないんじゃないか?ヒロにだけ知られて、裕美には知らせないというのも如何なものかと葛藤する自分がいた。板挟み状態のままそんなこんなで、とりあえずこの時までこの問題には、手を付けずにいた。
義一は裕美という友達が出来た事を話すと、心から喜んでくれた。…いや、この事に限らず、まず私が誰かの話をすると、それだけで喜んでくれてたと思う。その理由は漠然とは理解していたつもりだったけど、はっきりと分かるのはもっと後になっての事だ。

「…うん、ありがとう」
義一は微笑みながら、隣に座る私にスマホを返してきた。それから義一は紅茶のお代わりを取りに行ったので、その間に私は椅子を元の位置に戻した。何だか二人しかいないのに、いつまでも隣り合って座るのが、気恥ずかしかったからだ。叔父さん相手に恥ずかしがっても、詮無い事だけれど。
義一は紅茶の入ったポットを持って戻ってきた。椅子の位置が変わった事には触れず、私の向かいに座ると、空のカップに紅茶を注ぎ入れた。少し渋めの豊かな茶葉の香りが、湯気と共にあたりに充満していった。
お互いに一口ずつ啜ると、私から話を振る事にした。勿論話題は、お父さん達と話した事だった。
「ねぇ、義一さん」
「ん?何だい?」
「あのね、…」
私はこの間の夕飯時、お父さん達と話した会話の中身を、事細やかに話した。義一はカップをテーブルの上に置いていたが、取っ手に指をかけたまま聞いていた。
「でね?義一さんは…」
私は当夜の話を終えると、そのまま続けて義一に聞いてみる事にした。
「お父さんと同じように、高校生になってから一人暮らしをした?どこか部屋を借りて」
義一は一瞬天井を見上げて、何か思い出そうとしていたが、すぐ視線を私に戻し、柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「うん。僕も兄さんと同じように、高校生から一人暮らしを始めたよ。理由も兄さんが言ったままでね」
義一は言い終えると目を瞑り、紅茶をじっくり味わうように啜っていた。
「へぇー、義一さんもしたんだぁー…生活力無さそうなのに」
私は意地悪く笑いながら言った。義一は何故か照れて、頭を掻いている。
「ひどいこと言うなぁー。…でもその通りだから、反論できないや」
「ふふふ」
「でも琴音ちゃん、見てよ?」
義一は突然両腕を広げて見せた。顔は得意満面だ。
「今こうして僕は、ここで一人で生活しているじゃないか?という事は僕だって、一人で暮らしていけるって事だよ」
「…三十過ぎた大の大人が、そんな事で自慢げに言わないでよ」
私が先程から表情を変えずに言うと、義一は今度は右手を頭の後ろに回して、いかにも参ったといった表情を浮かべた。私はその様を見て、クスクス笑うのだった。

「でも義一さんは、どこで暮らしていたの?」
「僕?僕はねぇ…」
義一は書斎をぐるっと見渡してから、答えた。
「僕は高校生からずっと、この家に住んでいるんだ」
「え?高校生からここにずっと?」
「うん、そう」
私は改めて、義一に倣って同じ様に見渡した。
義一はここに、ずっと一人で住んでいたのか…。
何故か感慨深くなり、しみじみと見渡していた。義一はそんな私の様子を微笑んで見つめながら、話を続けた。
「だからこの家とは十五年以上…いや、そろそろ二十年近くになるのかな?」
「やっぱりこの家にしたのは…」
「そうだよー。前にも言ったように、父さんに子供の頃から連れて来てもらっていたからね。父さんに一人暮らしの旨を、急に言われた時に真っ先に思いついたのが、この家だったんだ。父さんは、兄さんが琴音ちゃんにしたように、既にどこかに用意してたみたいなんだけど、僕がここを指定したのにビックリしていたねぇ…」
義一は今度は、天井を一度見上げて、そしてまた顔を私に戻すと、表情は微笑んだまま先を続けた。
「父さんも僕が書斎を含めたこの家を、気に入っていたのは頭に入っていただろうけど、まさか住みたがるとは思わなかったみたいでね?何せ僕が子供の頃には既にボロかったから」
「この家って、建ってからどのくらいになるの?」
「うーん、どうだったかなぁ?確か…この家を買ったのが、戦後すぐくらいって言ってたかな?」
「え!?じゃあこの家って、建ってから七十年近く経ってるの?」
私は驚きの声を上げながら、また辺りを見渡した。確かにボロ屋だとは思っていたが、まさかそんなに経ってるものだとは、思ってもみなかった。
義一は私の反応を面白そうに見ていたが、明るい笑顔のまま答えた。
「いやいやいや。流石にそこまでは経ってないよ」
「え?だって、さっき…」
「うん。だから僕が住むって言うんで、一度大規模にリフォームをしたんだ」
「あっ、なーるほどぉ」
私は納得して、紅茶を一口啜った。義一は続けた。
「父さん自身、いつかこの物置代わりのボロ屋を改装しなきゃって思っていたらしくて、そこで僕が住むなんて言ったもんだから、いい機会だと快くリフォームしたんだ」
「…え?でも…」
流石の私もすぐには言い出せなかったが、どうしても突っ込まずには居れなかった。
「その割には…ボロいまんまなんだけど…?」
と私が言うと、言われた直後は私の事をきょとんとした表情で見て来たが、すぐに満面の笑みになり、面白そうに答えた。
「あははは!君ならそう言うと思ったよ。まぁタネを明かすとね、僕がワガママを言ったんだよ。…なるべく見た目は変えないでってね」
「へぇ、なるほどぉ。でも、何でまた?」
「うん。僕はこの家の外見が好きだったんだ。それは今もね。いわゆるこの家は”日本家屋”と呼ばれる形式だけれど、今時こんな風情のある家は、一から建てようとしたら大変なんだよ。職人も少なくなって来てるしね。当時はそこまで考えていた訳じゃないけど、腕の良い職人のいるうちに、リフォームして貰って良かったよ」
義一はずっとニコニコしている。
「見た目はボロのままだけど、この部屋だって実は壁の中に遮音材をふんだんに挟んでいてね、ピアノをいくら弾いても外に漏れるのはほんの僅かに抑えられてるんだよ」
「ふーん…」
私は義一の後ろにある、蓋の閉められたアップライトピアノを、チラッと見た。
「だから見た目はボロく古臭くても、中身はしっかりと見えない所で改善されているから、他の家とは変わらないくらい耐久力があるし、天災が起きても他の建屋程には持ちこたえるよ」
ここでまた義一が妙に自信満々に言うので、私は思わず吹き出しながら返した。
「ふふ、じゃあ安心ね?一人で寂しく家に潰される心配もないね」
私が冗談交じりに言うと、義一も私に笑顔を返した。ただこの時、一瞬義一の顔に影が差したのを、当時の私には察し切れなかった。
それからはいつも通りの流れになった。私はカバンから借りた本を取り出した。お父さんにプレゼントされた、カバーを付けたままだ。義一の目の前でカバーをそっと慎重に外した。それぐらい表紙がボロボロだからだ。義一はその様子を、紅茶を飲みながら微笑まし気にただ見ていた。そして手渡した後、本の内容について話し合った。因みにこの時の議題は、アルフォンス・ドーデの “最後の授業”だった。読んだ事がある人はそれで良いが、もし読んだことがない人は、興味を持ったら是非手に取って見て欲しい。
「琴音ちゃんは、読んでみて何処が印象深かった?」
義一はペラペラページを捲りながら聞いてきた。私は視線を若干上に向けて、思い出しながら話した。
「そうねぇ…色んなエピソードが語られていて、どれも面白かったけどやっぱり…」
正確に言うと義一に借りた本の正式名は、“風車小屋だより、及び月曜物語”という短編集だった。だから色んなエピソードと言った訳だが、その中の一つ、”最後の授業”について軽くあらすじだけを、話の都合上述べさせて頂こう。現在のフランス北東部、アルザス地方の話だ。場所柄時代によって、ドイツ領になったり、フランス領になったりしていた。この小説内での今日、現実にあった普仏戦争によってこの地方がフランス領からドイツ領へと変わり、主人公の僕の先生、アメル先生がフランス語で最後の授業をするという話だ。
「やっぱり義一さんも薦めてた最後の授業かなぁ。…主人公と、アメル先生の思いが、たった十五ページの短編なのに、凄く胸を打ってくるのよねぇ。何度も戦果を受けている地域なのに、時間が経つとすぐに過去にあった事を忘れてしまう…。今も、この小説の書かれた十九世紀も変わらないなぁって、改めて感じたよ。主人公が遅刻して来て、普段だったら物で叩かれたりするのに、この日は 叩かれなかった。先生は明日も”普段”が来るんだったら叱るところなんだけど、もうフランス語で授業が出来なくなるというんで、こう言うのよね。『明日からはドイツ語でしか授業が出来なくなりました。だから今日はどうか一生懸命授業を聞いて下さい』って。いつもは言う事を聞かず騒がしい生徒達も、この時ばかりは真面目に聞くのよね。勉強嫌いの主人公も、心の中でプロイセンに対して毒突きながら、今まで大嫌いだった教科書や聖書を宝のように見るのよ。先生は先生で、今までもっと大切に時間を使って授業すれば良かったと、ある意味後悔を述べていたわ」
「うん、そうだね」
「…あっ、ちょっと良い?」
私は義一から本を受け取ると、ページを捲り覚えていた箇所をそのままに読んだ。
「先生がいかにフランス語が、どんなに美しい言語かを述べた後に言うのよねぇ。それが一番印象に残っているの。『こんなに素晴らしいフランス語を僕達が守り続け、決して忘れてはならない。何故なら民族が奴隷になった時、国語さえしっかり守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものなのだから…』。このセリフをまた、明日に旅たつ先生が言うっていうのが…悲しいよねぇ」
義一は黙って私のことを見ながら聞いていた。と、話が終わったと気づくと、優しく微笑みながら言った。
「…うん、僕もそのセリフが印象深いし、大好きなんだ。で、琴音ちゃん、君のことだから、何で僕がその本を読んでご覧と薦めたのかも、分かっているよね?」
そうなのだ。義一は決して意味なく私に本を貸してはこない。何かしら深い意図を持って貸してくるのだ。
私は少しワザと間を空けて、それから答えた。
「…うん、何となく。今世の中的には、又聞きでしかないけど、これから先、私が大学生になるくらいには、日本語で授業をするのを止めて、英語で授業をしようって話が出ているでしょ?いや既に小学校の時、私の周りに英会話教室に通っている子が何人もいたもの。これからもっと英語偏重が進むのは目に見えてる。…で、この話に擦り合わせてみると、この小説の中では、自国の言葉というのがいかに大事で、国語で授業が出来ないのがどれ程の屈辱的なことなのかを、何度も繰り返し書いてあるよね?でも今の日本は、自ら進んで、戦争に負けた訳じゃない、負けたのだって何十年も昔のことなのに、自国の国語を何も考えずに平気で捨てようとしている…どれ程それが、取り返しのつかないことかも気づかず…なんか自分で話していて、ムカつきが止まらないんだけど」
「あははは!」
義一は仏頂面で肩を落とす私を見ると、何とも底抜けな笑い声を上げた。私はその笑いが、同意の意ということを知っていたから、そのまま義一が話し出すのを待った。
「いや、笑ってゴメンゴメン。あまりに僕と考えが同じで嬉しくてねぇ、言い回しも含めて笑っちゃったんだ。…そうだね、まさに君が言った通りだよ。まぁ琴音ちゃんはちゃんとそこまで分かっているから、そういう意味で楽しく読めたかもしれないね。でも他の人は読んでもそこまで何も感じず、読み飛ばしちゃうんだろうけど。僕が子供の頃…うーん、小学生か中学生の頃の国語の教科書に、この話が載ってたんだけど」
「え?そうなの?気付かなかった…」
私は今回初めて読んだ様に感じた事を、恥ずかしく思った。もし覚えていたら、もう少し義一と共感出来たと思ったからだ。テンションが下がったのを見て察したか、義一は
首を振りながら返した。
「いやいや、さっき言いかけたけど、僕の知り合いに学校の先生をしている人がいてね?たまたまドーデの話をしていて、懐かしいなって言ったらその人に教えて貰ったんだ。今の教科書には“最後の授業”が載ってないってね」
「…なーんだ、私が忘れてたって訳じゃないのね?脅かさないでよー」
私が思いっきりブー垂れて見せると、義一は愉快そうに返してきた。
「あはは。僕はまだ何も言って無かったと思うけど?…まぁいいや!それで理由は何でか聞いたら、その人もよく分からなかったみたいだけど、推測としては、ナショナリズム…うーん、分かりやすく言うと民族自決的思想に染まりかねないから、削除されたってことみたいなんだけれど」
「えぇー…そんなのが理由になるの?寧ろ民族自決なんていいことじゃないの」
私は思わず身を乗り出し、義一に詰め寄る様にして聞いた。義一は苦笑いだ。
「僕もそう思うんだけどねぇ…前にも君に言ったけど、今の日本は、昔からといえばそうなんだけれど、何も自分で考えたくない人でいっぱいだって話はしたよね?その弊害がこんなところにも出てるんだ…分かるよね?」
聞かれたので、私は正しく座り直して即答した。何度もこの話は聞いていたからだ。
「うん。…何も考えたくないのに民族“自決”…自決なんて考えないと出来ないんだから、したがる訳ないよね」
「ご名答」
微笑みながら言ったが、義一の顔はどこか寂しげだ。
「そう、だから何かを考えるように促進する様な本とかを、意識的に遠くに置こうとするんだねぇ…滅びていくにも関わらず…」
義一は静かに言うと紅茶を一口啜った。先生モードだ。
「そういえば、琴音ちゃんはもう中学生なんだね?」
「え?え、えぇ勿論」
ごく当たり前の事実を確認されたので、少し戸惑い気味に答えた。何を言われるのか、さっぱり分からなかったからだ。義一は続けた。
「…今まで君に色んな本を貸してきたけど、何か共通点があるのに気付いたかな?」
そう急に聞かれたので、私は今初めて何か理由がある事を知った。さっき私は知ってる様に言ったけど、それは一冊一冊の話であって、全体的に共通項があるとは考えても見なかった。
私は取り敢えず、前に本人から言われた事を繰り返した。
「前に義一さんは、十九世紀の作家を私ぐらいの歳には読んでたからって、薦めてくれたわよね?…」
私は先程の本を取り、解説に書いてある紹介文を確認して続けた。
「この本だって十九世紀に書かれた物だし…他にも日本人作家、私の読んだ事の無かった荷風とか、それ以外のその辺りの時代に活躍した作家達のも沢山借りた。…まぁそれだけじゃなく今ではゲーテだとか、はたまたシェイクスピアまで借りたし…あっ!それを言うなら鴨長明とか日本の古典も借りたけど…」
私はそこまで言うと本を置き、紅茶を啜りながら視線を落とした。今まで借りてきた本をさらっとなぞれば、何か共通点が見つかるかと思ったが、特に何も見つからなかった。ただ国内外問わず、我ながらかなりの本を借りて読んだという事実を確認しただけだった。義一の反応を待った。ふと顔を上げると、義一と視線が合った。何だか気持ち嬉しそうにしていた。そのままの表情で義一は話し始めた。
「…いやぁ、良く覚えていてくれたね?嬉しいよ。確かに僕はそう言った。この間君がいくら借りて読んだかと単純計算して見たんだ。最初に借りたのが、君がまだ小五で、確か九月の終わり辺りだったと記憶しているけど、毎月僕の所に三度から四度来てたよね?で毎回多い時で三冊くらい借りていってたから少なくとも…」
義一はそこでワザと溜めてから言い放った。
「なんと二百冊の本を読んだ事になるんだよ」
「へ?…へぇーーーー!」
私は自分の事なのに、他人事の様に驚いた。確かに沢山読んだ気はしていたが、そこまでとは想像していなかった。驚きを隠せない私を他所に、義一は笑顔で先を話した。
「でね?話を戻すと、その二百冊…まだこれから先、同じ共通の本を貸してあげたいと思ってるんだけど…見つけるのは難しいよね?」
義一が悪戯っぽく笑うので、私は逆に意地悪くニヤケながら答えた。
「そりゃあね?二百冊を今急に思い返しても、精々分かるのは、全部が最後の大戦以前のモノって位だけだよ」
「あはは!それが分かるだけ上出来だよ、上出来!」
先程チラッと見せた先生モードは影を潜めていた。が、ここでまた先生モードに戻ると、静かに話し始めた。
「そろそろ勿体ぶらずにタネを明かすとね?タネって程大層な事じゃないんだけど、共通点っていうのは…文章って事なんだ」
「…?」
何を当たり前のことを…という表情で、黙って義一を見つめた。義一は一人愉快そうにしながら言った。
「あははは!そんなの当たり前じゃないかって思ってるね?うん、僕は敢えてある言葉を省いて言ったんだ。…ふふ、後出しジャンケンみたいな事しないでって顔だね?ゴメンゴメン!いつもあまりにすぐ察せられちゃうから、たまには意地悪く言葉少なめに言いたくなっちゃうんだ。許してね?…その省いた言葉を足して、改めて言うと…上質な文章と内容って事なんだ」
「…上質な文章と内容…」
私は義一の言葉を、ただおうむ返しをした。…うーん。意味は分かるし、言いたい事も分かる気がするけど、言葉にしようとすると困ってしまった。
そんな私の心中を察したか、義一は優しく微笑みながら解説した。
「…あまりに抽象的すぎて、中々意味を掴むのが難しいよね?でも今から話すことを聞いたら、合点がいくかも知れないよ?僕と琴音ちゃんが同じ考えならね?…じゃあ説明してみるとね、少し脱線しちゃうんだけど…」
義一が語尾を伸ばしながら私の顔を伺ってきたので、私は苦笑混じりに答えた。
「…義一さんが脱線するのはいつものことでしょ?いいから先を話して?」
義一は返事を聞くと、頭を掻きながら話を続けた。
「あはは、ありがとう琴音ちゃん。じゃあ遠慮なく話すとね…偉そうに言うと教育についてという話になるんだ」
「うん」
私は構わず話して欲しいという意思表示のつもりで、短く相槌を打った。
「というのはね、今の教育があまりにもガタガタだからなんだ。…お粗末とでも言うべきか。あるアメリカの教育学の先生がこんな事を言ってたんだ。『最近有名大学を卒業した社会人で、面白い奴らがいなくなった。中学高校時代から進学競争をしていく中で、一点の差で一喜一憂していくうちに、酷く打算的に動き回る様になっている。試験でいくら良い点を取ろうが、創造力、思考力には何の関係もない。道徳性を身に付けないから、価値判断能力が無いに等しい』ってね?後もう一つ言っていたんだけど…」
「それは?」
私は義一が話し始めた時に、カバンから一枚一枚切れるメモ用紙を取り出し、ペンでメモを取っていた。義一に教わった中の一つ、議論をする上での技術だった。今では私も、何かあるとすぐにメモを取る習慣が身についていた。義一は続けた。
「それはね、こうだった。『1960年代の学生達は、自分が何をやりたいのか分からないけど、“idea of goodness”つまり“真善美”、自分に何が可能かを試すために入学してきた。でも最近入学してくる学生達というのは、人から”successful ”に、つまり“成功者”に見られているかどうかを気にする。基準はあくまで他人。そんな輩が卒業して、括弧付きのエリートとして政治の中枢に入り込んでいく。ペラペラペラペラ口が回るけど、その時その時良い事だろうと悪い事だろうとそんな価値基準はどうでも良くて、いかに自分の支持が増えるかどうかという考えで、発言をコロコロ平気で変える。しかもタチが悪い事に、本人は上手く状況に適応して立ち回ってる気になっている。勿論本人は罪悪感など微塵も感じていない。結論としては、何が善かという価値基準を一切持たない偽善者が世に蔓延っている』と嘆いていたんだ」
義一はここまで言い切ると、落ち着く様に紅茶を啜った。私はウンウン頷きながらメモを取っていた。それを見返しながら義一に話しかけた。
「…なるほど。いや、その先生の意見は本当に心から同意するけど、それと“上質な文章と内容”がどう繋がるの?」
「ふふ、そうだねぇ…。君が同意してくれたから、話しやすいんだけど…」
義一は持っていたカップを置くと、また話し始めた。
「さっき紹介した先生の意見、要は僕と琴音ちゃんが話した事に結びつけると、こうなると思うんだ。何でそんな上部ばかりを気にする、空っぽな個人が増えているのか?それはね?…一口に言えば教養というものを一切身に付けていないからなんだ」
「教養…」
私は呟きながら、紙に新たに書き込んだ。
「そう、“教養”。この先生の言葉に僕が付け加えるなら、道徳的価値基準が無ければ、どこに向かっていけば良いのか、目標とすべきゴールを定められないって事なんだ。今の時代、確かに技術は進歩して便利な世の中ではあるんだけど、何のために進歩をしているのか、本当に必要なモノを作り出し生み出しているのか、基準が無いために矢鱈めたらにデタラメしているんじゃないかと思うんだ」
「…なるほど」
私はメモをつけ終えると、それを見ながら返した。
「道徳って今まで何だろうと思ってたけど、こんな意味合いがあるんだねぇ」
「そう、一例としてね」
義一は私の反応に嬉しそうに返した。
「昔十九世紀にフランスで外交官をしていて、保守思想家でもあったトクヴィルって人は、道徳、つまり伝統についてこう言ったんだ。『もし伝統を手放してしまうことがあったなら、それは真っ暗な夜道をランプを持たずに彷徨う事に等しい』ってね」
「…あっ!ちょっと待って」
私は相変わらずメモを取っていたが、疑問点を見つけたので突っ込む事にした。
「軽く流されそうになったけど、何で道徳と伝統を同じように扱ったの?」
私がそう聞くと、義一は思惑通りにことが進んで嬉しいといった調子で、笑顔を顔に浮かべていた。
「…やっぱり!君なら突っ込んでくれると思っていたよ。これは道徳とは何かって話になるね…よっと」
義一はおもむろに立ち上がると、書斎机から同じようにメモ用紙を持って来て、そこに“道徳”と、その英訳“moral”と書いた。そしてその下に“mores”と“morale”を書いた。私はその様子をジッと固唾を飲んで見ていた。正直まだ何が書かれているのか、そしてそれがどう関係しているのかサッパリだったが、いつも義一の話には知的好奇心をくすぐられるナニカがあった。
この時も小難しい話なのに、ワクワクが止まらなかった。
「これは勿論琴音ちゃんを見縊ってるんじゃないと、誤解しないで聞いてくれると思うけど、道徳というのは、中々大人ですら表面的なことしか述べられないから、先に僕なりの意見を話させてもらうね?…僕のいつもの癖で語源からたどるのを許して欲しい。ここに書いた”moral"と“mores”と“morale”。これは全部関連語なんだ。moralは言うまでもなく道徳のことだよね?」
「うん」
「で、このmoresという言葉の意味は”習俗、習慣”の意味なんだ」
「へぇー…あっ!」
私はこの時点で気付いて思わず声を上げた。義一も私の様子を見て、察したのに気づいた様に微笑ましげにこちらを見てきたが、そこには特に言及せず先を続けた。
「でね?あと一つのmorale。これは士気やる気って意味なんだ。これらを繋げて言うとね?」
義一は紙に書いたこれらの単語を、矢印で円環させて言った。
「道徳とはその国民の歴史に培われた習俗習慣、今までの話に絡めれば伝統も入れて良いと思うけど、それらの中に具体的にでは無くとも、少なくとも方向を指し示されてるモノと言えると思うんだよ。で、この道徳が無いと目標が示されないばかりに、士気やる気が湧いてこないとも言える。人間何か目標が無いのに、活力豊かに走り続けるなんて不可能だからね。例え抽象的でアヤフヤな物だとしても、目標は必要不可欠だから。…今までの話が全部連関しているのが、君なら分かるよね?」
「うん、分かるよ」
私は義一のメモを見ながら答えた。相変わらず義一の話を聞くと、頭の中が綺麗に整頓されていく感覚に陥る。清々しい晴れやかな気分だ。
義一は私の返答に、それ以上は何も聞かず、ただ笑顔で頷くだけだった。
「…でも面白いなぁー言葉って。前々から義一さんがそうやるのを見て聞いてきたけど、私達普段何気無く言葉を話しているけど、こういう話を聞くと何も知らないで話してたんだって気付かされるよ。ドーデの話じゃ無いけど、やっぱり言葉って大切なんだねぇ」
私がしみじみ言ったのを聞いた義一は、また知的好奇心に満ちた無邪気な笑顔を見せて、私の言葉の後を続ける様に話した。
「…なんかいつも通り、どんどん主題から離れて行っちゃうけど、大事な話だから今の話に補足すると…そう!今君が言った通りだよ。何しろ言葉というのは大昔から使われてきて、しかも色んな当時の人間たちの思いが込められているわけだからね。それを今生きる僕たちが、蔑ろにして良い資格なんか有りはしない。少なくともそんな不遜な真似は、僕は出来ないね」
そう言い切った義一の表情はあくまで穏やかだったが、目の奥には静かな苛立ちが見て取れた。静かに怒っていた。しかし、ふと気まずそうな苦笑いを浮かべて、今度は本に軽く手を乗せながらまた話し始めた。
「ここで漸くスタート地点に戻ってきた。…何で琴音ちゃんに、僕なりの共通点、”上質な文章と内容”の本を読んで貰っていたか。…今までの話を含めながら言えばね?…いや、まず僕の琴音ちゃんに対する願いから言った方が良いかな…」
トントン。
話し途中で不意に考え事に耽り出したので、私は何も言わずペンでテーブルを叩いた。義一は途端にハッとし、呆れ顔の私に照れ臭そうに笑いながら、先を続けた。
「…あっ、ゴメンゴメン。また思考の海にダイブしちゃってたよ。えーっと…うん、まず君に願う事は今のことで言えばただ一つ、それは…今の空虚な教育に毒されないでって事。理由はさっきアメリカの先生を引き合いに出したから分かるよね?」
「…うん」
「あまりに非生産的で打算的なクダラナイ人間…いや、人間と呼ぶのもおぞましい、今生きる大多数のナニカになってしまうのは、見るに忍びないんだ。…たとえキツくともね」
「…」
私は両手をテーブルの上で軽く組ませながら、静かに、真剣に義一の話を聞いていた。
「これ以上はしつこいってきっと言われるし、しつこく聞くと君の事を”自律”した一人の”人間”として見てないことになってしまうから言わないけど、覚悟を持って生きていくとしたら、今まで話した”道徳”を身に付けなければならない…でもね?」
先生モードの義一の目は、パッと見静かで表情がなさそうだったが、どこか眼光が鋭く何物よりも熱く感じた。
「これも今まで話した事だけれど、今生きてる人間達、つまり大人達に子供に道徳を教えられる様なのは、残念ながら一人もいない。…僕を含んでね」
「…」
私は正直慌てて訂正を入れたかったが、義一が受け入れてくれなそうだったので止めた。
「…で、辛うじて代わりになってくれそうなのが、過去の本達…つまりは”古典”というわけさ」
義一はいつだったか前にもした様に、壁一面の本を見渡しながら言った。
「…前にも同じ事を話していたね?」
私も同じ様に見渡しながら言った。当然これは嫌味などでは無かった。心情からいえば、一切ブレずに同じ事を言っているのを、大袈裟に言えば賞賛している意味合いだった。
義一はそれを知ってか知らずか何も突っ込まず、ただ目元を緩めて見つめてくるだけだった。余計な事と知りつつ、敢えて義一の心を代弁すれば『僕の言葉をここまで真面目に聞いてくれて、しかも約三年前の話を覚えてくれてるなんて…』と変なところで卑屈だから、思っていたに違いなかった。
義一はそのままの表情で続けた。
「そう、結局全部繋がっているからね。…だから古典の時代、一生懸命に生きなければ生き残れなかった時代、その時代に書かれた文章や内容には大袈裟じゃなく、何か生命の力強さの様なものが沢山含まれている。…生きるためのヒントがね。大昔に書かれたはずなのに、今読んでも新鮮さを失っていない。まるで今生きてる人が書いたかのように。…僕の個人的な見解だけど、そんな上質な本、特に十九世紀に書かれた本を中心に、最低でも十代のうちに読んでおくことが大事だと思うんだ。今の空虚が蔓延している”空気”に毒されないためにね。だから…」
「私にそれらの本を読ませたのね?」
私は淡々と口を挟んで答えた。目元を緩ませながら。
「まるで義一さん、あなたがそうしてきたように…」
私がまた小学校時代の話を引っ張り出したので、なるべく変えないようにしていたみたいだが、義一の表情は喜びに満ちていた。
「…そうだね。参考までに僕と同じ意見の人を捕捉的に入れるとね、その人はこう言ってたんだ。小学校までは”国語”を中心に、中学校は”歴史”を中心に、高校まで行くと”思想”を中心に学ぶべきだってね。勿論中学に入ったら国語をやめても良いなんてことじゃなくて、国語を続けた上で歴史を学ぶみたいに、段々重層的に積み上げていくイメージなんだけどね。…僕はここまで厳密にしなくても良いとは思うけど、ただ考え方自体には賛成なんだ」
「…なるほど、義一さんが言いたかったのは私が中学生になったんだから、そろそろ次のステップ、歴史の本を中心に読んで見たらどうって事ね?」
私は得意満面に言い切った。ここまで長い前置きを話されて、間違いようがなかったからだ。義一も満足げにウンウン頷いている。
「だから今日からは、歴史の本も一緒に借りて見てよ?…もし良かったらだけど」
と義一は若干挑戦的な視線を向けてきながら言った。そんな真似をしなくても、私の心、決意はとっくに固まっている。
「勿論!遠慮なく借りていくわ。…ただ」
「ただ?何かな?」
義一が不思議そうに聞いてきた。私は溜めてから、ニヤケつつ言い切った。
「…ちゃんと今度は、何故歴史が大事かを教えてね?」
義一は何事かと構えていた様だったが、私の言葉を聞くと途端に笑顔で返した。
「…あはは!うん、勿論!」
それからほんの一瞬そのまま見つめあったが、どちらが先とも言えないくらいに同時に吹き出し、笑いあったのだった。
この日はまだ時間があったので、久しぶりにたっぷりとピアノを弾こうとカバーを外した。義一は私が準備している間に、新たに紅茶を入れ直し、ピアノの側にテーブルごと近づけた。私が飲みやすいようにだ。これも毎度のルーティンだ。この日はショパンの協奏曲ホ短調の第一から第三楽章の、ピアノが盛り上がる所を弾いて見せた。義一用の短縮バージョンだ。当然義一はこれらの元を知っていたが、私なりの編成を面白がりながら聞いてくれて、褒めてくれた。いつも褒めてくれるから、逆に不安になる事もあったが、素直に嬉しいので受け入れるように努めるのまでが日課だ。
細かい話はともかく弾き終えると約束通り、新たな小説と一緒に歴史の本を借りて帰った。当然ながら、いつもよりもカバンがズッシリと重かった。でも心は晴れやかのまま家路を急いだのだった。

第17話 花火大会

「おっそーい!」
裕美は私にジト目を送ってきながら苦情を言った。
今日は八月の初旬。雲一つないピーカン照りの真夏日だ。裕美のマンション前に来ている。裕美は白地に英語の書かれたTシャツに、膝より気持ち短い花柄のスカートを穿いていた。キャップを被っていたが、少し伸びた髪がのぞいていた。小学校の頃と比べるとだいぶ伸びていた。尤も”ショートレイヤー”と飛ばれるような、前髪を長めにとって、長い部分と短い部分の段差を付けたスタイルだった。元々可愛い系だった裕美に、よく似合っていた。対する私は、ギンガムチェックのバルン袖に白のサロペットを合わせたのを着ていた。ゆったり目の服だった。それにいつもの、小学校時代から愛用している麦わら帽をしていた。
私は時計を見ると、待ち合わせの五分前、昼の一時前だった。
「…予定より早いくらいじゃないの?」
と私もジト目を返して言った。すると裕美はほっぺを膨らましながら答えた。
「あのねぇー、私みたいな可憐な女の子を炎天下にいつまでも待たせたら、そのうち天罰が下るからね?」
「…何が”可憐な女の子”よ。私と比べ物にならないくらいに体育会系のクセに」
「ヴっ…それを姫に言われたら、何も言い返せないわ」
「誰が姫よ、誰が」
このような一連の儀礼(?)を済ますと、顔を見合わせ笑い合い、早速絵里のいる図書館へと向かった。絵里と会う約束をしていたのだった。いつだったか…そうそう、もう覚えられていないかも知れないが、初めて私と義一と絵里とでファミレスに行った時と、状況としては同じだった。どういうことかというと、絵里は今日仕事で図書館にいるというより、あの時と同じで、ただ整理しに寄っているだけだった。つまり休みというわけで、この日がたまたま三人共暇な日だったから、絵里の整理が終わり次第久しぶりにお家にお邪魔することになっていた。話じゃ一時頃には大方片付いているという話だった。
「…焼けたわねぇ」
私は露わになった裕美の腕を見ながら言った。褐色色に万遍なく焼けていた。健康的な色だ。
「…そういうアンタは変わらず真っ白ね?」
裕美も私の腕を見ながら言った。そして私と自分の腕を重ね合わせた。確かに自分でも不健康に思える程真っ白だった。
「…そうねぇ、ほとんど部屋でピアノを弾くか、読書するかしかしてなかったからねぇ」
「…ずるいなぁー」
裕美は両手を頭の後ろに回しながら、ため息交じりに言った。
「何がずるいのよ?あなたの方が夏を満喫してるじゃない?」
「…まぁ海に行ったりしたけど」
前に小学校時代の友達と、久し振りに集まって海に行ってきたことを教えてくれていた。
裕美はなぜかブー垂れながら返してきた。
「…そりゃそうだけどさぁ、アンタの肌ってモデルの人みたいにきめ細やかで、真っ白って言っても”キレイな”白さじゃない?透明感のある」
恐らく裕美は口調は腹立たしげだが、褒めてくれている事はわかっていたが、正直モデルも芸能人も、ましてや服装にすら同年代と比べると興味が無いせいで、何一つピンと来なかった。
「…よく言ってる意味が分からないんだけど?」
「…はぁ、もういいわよ」
裕美は心底呆れたといった感じで、苦笑交じりに言った。私は一人首を傾げていた。
その後図書館に向かう途中、裕美の海に行った話になった。
「…でね?友達の水着姿を見たんだけど、みんな線が細くて女の子らしかったの」
「…へぇー」
私は相変わらず、裕美の”女子トーク”に馴染めずにいた。それには構わず裕美は先を話した。
「…でもほら、私ってさぁ」
裕美はテンションを下げて、自分の方から腕にかけて手で摩りながら言った。
「肩幅あるし、腕も筋肉付いてるから太めじゃない?だから友達と隣にいると、少しだけ恥ずかしい…いや、恥ずかしいわけでは無いけど…うん、そうだったのよ」
何だか最後の方は、裕美にしては珍しく歯切れ悪く話していた。私はやはり意味が分からなかったので、当然のように疑問をぶつけてみた。
「…ふーん、それって何が恥ずかしいの?」
「…出た」
裕美はあからさまに眉を顰めて見せながら言った。勿論冗談だった。
「またアンタの”なんでなんで攻撃”が」
すっかり裕美とヒロの間で、この名称が定着してしまっていた。私はこれが学園の藤花、律、紫にまで広まらないことを祈るばかりだった。…が恐らく時間の問題だろう。私も”なんで”を自粛しなくてはいけないわけだけど、ボロが出るのは分かりきっていた。
「だっていいじゃない?あなたが水泳を頑張って出来た結果なんだから。誇りに思うことこそあっても、恥じる必要なんて微塵もないじゃない?」
私がそう言うと、裕美は苦笑交じりにうなじ辺りをさすっていた。どうやら照れているらしい。
「…アンタはホント、そんな恥ずい事を臆面も無く言えるよねぇ?感心するわ」
「…褒めてるのそれ?」
「褒めてる褒めてる」
裕美は今度はニヤケながら答えた。私はイマイチ合点が行かなかったが、今度は私が裕美の様に、肩から腕にかけて摩りながら言った。
「私もピアノの特訓の成果が出てきたのか、肩幅と腕回りが逞しくなってきたのよねぇ」
「…ほーう、どれどれ」
裕美は手で望遠鏡を模して、そこから私の腕を覗き込んできた。そしてすぐに目を外すと、なんとも言えない、微妙と言いたげな顔をしてきた。
「…今まで気付かなかったけど、アンタって確かに肩幅は意外とあるわねぇ。…腕はそうでもないけど」
「え?…そーう?」
私は自分の腕を見つめながら、渋々返した。
「結構筋肉付いたと思うんだけどなぁ…」
「…ぷっ」
私が不満げでいるのが可笑しかったのか、裕美は隣で吹き出していた。
「…アンタやっぱり変わっているわ。普通の年頃の女子なら、むしろ喜ぶところだと思うけれど」
「…うーん、分からない」
私は大げさに腕を組み、首を傾げてみせた。それを見て尚更愉快といった調子で言った。
「まぁアンタはそのままでいてよ!そうでなきゃツマラナイもの」
「…何よそれぇ。私はあなたを楽しませる為に、大きくなったんじゃないのよ?」
「あははは!」
「いや、『あははは』じゃ無しに」
…こんな雑談をしながら、焼けるアスファルトの匂いを嗅ぎつつ、日陰の少ない図書館までの道を歩いて行った。

丁度中間地点、後五分のところまで来たところで不意に後ろから、自転車のベルをけたたましく鳴らしながら近づいて来る者がいた。裕美は思わず振り返っていたが、私は振り返らなかった。存在するだけで騒がしい人間は、私の周りにそうはいなかったからだ。
「…よっ!お二人さん」
「久しぶり!ヒロ君!」
裕美が明るく声を掛けていた。裕美が立ち止まったので、私も立ち止まらざるを得なかった。そして振り向き、苦々しげな表情で挨拶した。
「久しぶりね、ヒロ」
ヒロは真っ白な野球のユニフォームを着ていた。肌が褐色どころか真っ黒に焼けていたので、そのコントラストが映えていた。そのユニフォームの胸元に地元の中学校の文字が、ローマ字で書かれていた。自転車の籠の中には収まりきっていない黒のスポーツバッグとグローブ、背中にはバッドの入ったケースを下げていた。
ヒロは入学した地元中学の野球部に入っていた。そして小学時代に所属していた野球チームにも在籍していた。二足の草鞋だ。中々話を聞いてる限りではキツそうだが、本人は持ち前の能天気っぷりで、『周りが笑おうとも、己の限界に挑戦するんだ!』と息巻いていた。聞いた時直ぐに、律のことを思い起こしていた。前にも言ったように、律も子供の頃から在籍している地元のバレーボールクラブを継続しつつ、学園の部活にも入っていたからだ。私の周りには、根性の座った体育会系が揃っていた。当の本人は文化系だというのにだ。不思議な縁もあるもんだと、他人事のように感心していたのを思い出す。ついでといっては何だが、小五までは私の方が背が高かったのに、中学に入ってとうとう抜かれてしまった。…まぁそれだけだ。
「あなたはこれから練習?この暑い中」
私は大袈裟に手で団扇の真似事をして、パタパタして見せながら聞いた。するとヒロも私の真似をして、パタパタさせながら答えた。
「おうよ!これからこのクソ暑い中練習さ。今日は学校の方のな。…お前らはこれからどこに行くんだよ?」
「私達?私達はこれから図書館に行くところよ」
「…えぇー」
ヒロは私の言葉を聞くと、大仰に上体を仰け反らせて、目を半目にしながら見るからに引いて見せた。 そして一度空を見上げて、視線を私達に戻してから言った。
「こんないい天気だってのに、お前らは図書館なんて退屈な所で過ごすのかよぉ?せっかくの夏休みなんだし、もっと有意義に過ごそうぜ?」
「…あなた、”有意義”なんて日本語、いつの間に覚えたの?」
私はヒロの嫌味を無視して、心の底から感心した風に返した。ヒロは野球帽を取り、苦笑交じりに頭を掻くばかりだった。と、先程からクスクス笑っている裕美の方に視線を移すと、不思議そうな顔で聞いていた。
「…まぁ、本の虫であるインドア派の琴音は分かるけど、なんでバリバリ体育系の裕美まで一緒に行くんだよ?…あっ!アレか?」
ヒロは上体を倒し、裕美に顔を近づけながら言った。
「…琴音に何か脅されているのか?…あっ!いてててて!」
私が横からすかさず耳を引っ張ると、ヒロは大袈裟に痛がって見せて裕美から離れた。裕美はヒロが近づいて来た瞬間ビクッとしていたが、離れると息を整えて、落ち着きを取り戻してから笑顔で答えた。
「…ふぅ。…あっ、いやいや、違うよ!私も図書館に用があって行くの!…それに」
裕美は私に視線を流しながら言った。
「私が琴音に脅される心配なんてないわ!」
「そうか?なら良いけどよ」
「…どうそれに反応したら良いのよ?」
皆一様の反応を示した後、炎天下の中仲良さげに笑いあったのだった。

「…あっ!そっか!」
ヒロはまた下らないことを思いついた表情を浮かべた。そして裕美にニヤケながら言った。
「…なるほど、あまりに暑いから図書館に涼みに行くんだな?」
「へ?」
裕美は呆れを通り越したキョトン顔だ。ヒロは構わず続けた。
「そうだろ?だってじゃなきゃ、お前が進んで図書館に行く訳がないもんな?」
「…ねぇ琴音?」
ヒロが一人愉快になっているのに対し、裕美は無表情で私に顔を向けて来た。
「…私も耳を引っ張っても良い?」
「…思いっきりやってあげて頂戴」
私は意地悪くニヤケながら言った。すると裕美は言った割には、初めは少し遠慮がちにしていた。
それもそうだろう。普通同い年の男子の耳を、引っ張る経験はそうは無いからだ。というよりも耳に限らず、そもそも体の一部に触る事自体が無い。抵抗あって然るべしだろう。逆に言えば平気な私は、ヒロに対して男女という関係を超えるほど、近付き過ぎてるとも言えた。それを証拠に、仮にヒロ以外の男子の耳を触れと言われても、平気で触るような情景を思い浮かべられなかったからだ。
しかしすぐに裕美はオドオドしながらヒロの耳を触って、横に強目に引っ張った。
「いてててて!」
ヒロはまた大袈裟に痛がりながら、横に倒れそうにしていた。
「私だって琴音と同じ学校に通っているんだから、同じ扱いしてよねぇ?」
「わ、わかった!わかったからもう離してくれー!」
「あははは!」
私は一人愉快にそのやり取りを見て、笑うのだった。
「…いってぇー。…これだから体育会系のゴリラ女は」
一連のやりとりが終わり、ヒロは耳たぶを摩りながらボソッと言った。
「ん?何か言った?」
裕美は無表情で、右手で何かを摘むような形を作った。
「い、いいえ、なんでもありません」
ヒロは怯えて見せながら、耳全体を手でガードした。私はさっきから笑いっぱなしだ。
「…はぁーあ、じゃあ私達もう行くから」
「あっ、そうね。じゃあまたね、ヒロくん」
私達はそのまま行こうとすると、ヒロは今まで跨いでいた自転車から降りて、手で押しつつ、何も言わずそのまま後を付いて来た。
「…何で付いてくんのよ?」
私はすかさず後ろを振り向き、ヒロに文句を言った。が、言われた本人はヘラヘラしている。
「俺もたまには図書館寄ってみようと思ってよ!」
「ヒロくん、時間は大丈夫なの?」
裕美が当然の疑問を投げかけた。ヒロはしてもいないのに、腕時計を見るフリをしながら答えた。
「おう!練習は二時からなんだけれどよぉ。家にいてもつまんないから、早めに出て、グランドで自主練でもしてようかと思ってたんだけどさ。さっき自分で言ってて、図書館に行くのも悪くねぇと思ってよ」
「…あなた、涼みに行くだけなのね」
私は蔑みの目でヒロを見ながら、トーンを低めに言った。ヒロは相変わらずヘラヘラしている。
「まぁ、良いじゃねぇか!どっちにしろ、方向は同じなんだからよ?」
「…はぁ、勝手にしなさい」
私は根負けして、ヒロの同行を許す羽目になった。…小学時代もそうだが、夏休みによくコイツと遭遇している気がする。…そういう運のない星の元に生まれたのかしら?
こうして三人で、夏休みの過ごし方を含む雑談をしながら歩くと、あっという間に図書館に着いた。 ここは昔から変わらない見た目で、本物かイミテーションか分からない、赤レンガ風な外壁が、太陽の光を目が眩むほどに反射していた。周りに遮蔽物が無いせいで、日当たりが良過ぎた。冬場だったらありがたいのだけど。
早速私を先頭に正面玄関から中に入った。自動ドアが空いた瞬間、中の冷気が火照った素肌に纏わり付くように吹き付け、今まで熱気の中を歩いて来たせいか、体感温度は実際よりもひんやり低く感じた。ここに夏場来る時は、この一瞬が幸せに感じる一時だった。
私の後に続き裕美、ヒロの順に中に入った。ヒロは早速帽子を脱ぎ、坊主頭を晒して、手でパタパタと顔に向けて扇ぎながら、大袈裟に深呼吸をして見せた。
「…おぉー、すっずしいー!たまには来て見るもんだな?」
「シッ!声が大きい」
私は早速指を口に当てて、ヒロを制した。あまりにも想定内過ぎるリアクションに、呆れるばかりだった。ヒロはこれまた大仰に両手で手を塞いで見せた。息苦しそうなのもセットだ。私はそれを無視して、絵里の姿を探した。が、姿は見えなかった。
私と裕美は会員証を持って来ていたので、奥の専用ブースに行けたが、なんせ今回は余計な邪魔者が居たせいで行けなかった。…いや、私はコイツを無視して中に行こうとしたが、何も言わずとも察したらしく、裕美が私の腕を軽く触りながら、懇願の視線を送ってきた。私は予想外のリアクションをされたので、受け入れる他になかった。
一般向けに開放しているブースの、窓に面した五人がけのテーブルに座った。ヒロは大きなスポーツカバンを床に置き、何も言われなくとも裕美の横に座った。これは私とヒロの習慣のようなもので、まず二人でテーブルに座る時は向かい合って座っていた。…まぁ習慣ってほどのことじゃなく、当たり前と言えば当たり前の事だけれど。
ヒロが隣に座ったと同時に、急に裕美は立ち上がり、私とヒロの分を含む図書館から無料で提供されていた麦茶を取りに行った。言ってくれれば、私が行っても良かったのに。
なんて事を考えていると、器用に三つの紙コップを持って戻ってきた。そして丁寧に私とヒロの正面に置いていった。
「おっ、サンキュー!」
「ありがとう」
「いーえ」
裕美は笑顔だったが、何処かぎこちなくヒロの隣に戻った。そしてそれぞれ麦茶を飲んだ。
それからまた、ここに来るまで話していた雑談の続きを始めたが、不意にヒロが意味がわからないといった顔で、私達に聞いてきた。
「…ん?あれ、お前らってここに本を読みに来たんじゃないのか?さっきからお喋りばかりして」
「あぁ、それは…」
と裕美が言いかけたが、私も同時に言ったので一瞬お互いの顔を見合わせた。でもすぐ裕美が私に譲ってくれたことが分かったので、そのまま答えることにした。
「…あなたが図々しくここまで付いて来るとは思っていなかったから、話すつもりが無かったんだけど…まぁいっか?実はね、今ここで人と待ち合わせているの。でね、その人とお喋りする事があるから、来たのよ」
「え?誰だよ、その人って…あっ!」
ヒロが何かに気付いて、目を見開いた所を見たのを最後に、目の前が真っ暗になった。目の周りに手のひらの生暖かな温もりを感じた。何も言わずともすぐ分かる。
「…絵里さん、いつから私達の挨拶が相手の目を隠すことになったの?」
「あっちゃー…バレたか」
そう言うのと同時に手を私から外して、私の隣に座って来た。当然絵里だった 。
絵里はいつの間にか、自分の分の麦茶を用意していたらしい。わざわざ私に目隠しをするために、お茶を隣のテーブルに置いていたらしかった。それはまたご苦労な事だった。こんなくだらない事で。
今日は首元がザックリ空いた、肩の上部まで見えるほどのワインレッドの半袖カットソーに、紺色のパンツを履いていた。
絵里は座ると麦茶を一口飲んでから、裕美にも挨拶をした。
「裕美ちゃーん、久しぶりー。元気にしてた?」
「はい、ボチボチと」
裕美は明るく答えた。
「そっかぁ、ボチボチかぁ…うん、ボチボチ、程よくが一番だね!…ところで」
絵里は視線を横にずらして、なぜか落ち着きの無い様子を見せているヒロに向けながら聞いてきた。
「そこの如何にもな野球少年は誰かな?…あっ!もしかしてー…」
裕美が語尾を伸ばしながら視線を送ってきたので、私は半目でジロっと見返しながら、静かに答えた。
「…絵里さん、いくら寛容な私でも、怒る時は怒るんだよ?」
「え?いつあなたが寛容な時があったの?」
絵里は冗談で返してきたが、つまらなそうだった。私は私で、当人は恋バナが苦手なくせに、すぐ性懲りも無くそっちに絡めて来る絵里に呆れていた。
そんな私を尻目に、今度は裕美に聞いていた。
「なーんだ、ツマンナイ…じゃあ、裕美ちゃんだ」
「…え?何がですか?」
裕美はテーブルの上で、紙コップを両手で包むようにしていたが、絵里の質問の意図に気付いてない様子だった。絵里が畳み掛けた。
「だーかーらー…彼って裕美ちゃんの彼氏?」
「…へ?」
「ぶっ!」
裕美は間の抜けた声を漏らし、その隣でヒロが吹き出していた。私は何だかんだニヤケながら、一連の流れを見守っていた。
「え、絵里さん!急に何言い出すんですか!?」
「裕美ちゃん、シーーーっ」
絵里は裕美の抗議には取り合わず、裕美の口元に指を当てて制した。裕美はすぐに大人しく言う事を聞いた。
「急に何言うんですか?」
裕美は小声だったが、それでも頑張って大きな声を出している感じだった。
「そ、そうですよ。コイツらと俺とはそのー…何なんだ、俺たちは?」
ヒロは自分から答えようとしていたのに、わからなかったらしい。私に救いを求めてきた。
私はヤレヤレと首を横に振りながら、教えてあげた。
「あのねぇ…まぁ、いわゆる幼馴染ってヤツじゃ無いかしら?」
「あっ!そうそう!それそれ!」
ヒロは一人合点がいったと、私に指をさしてきながら言った。私はその指を腕ごと無言で退かした。
「へぇー…幼馴染ねぇ。…えぇっと、君の名前は…」
「あっ!自分は森田昌弘って言います!第二中で野球部に所属しています!」
ヒロは珍しく場を弁えた挨拶をした。絵里はヒロの礼儀正しさに一瞬きょとんとしていたが、すぐに明るい笑顔になって、私に話しかけた。
「結構良い子みたいじゃなーい?あなたと裕美ちゃんとの会話を聞く限り、べらんめぇ口調だったけど、礼儀正しいし」
「…外面が良いだけのカメレオン男よ」
「おいおい、余計なことを言うなよぉ」
ヒロが不満げに口を尖らせながら言った。ヒロ以外のその場にいた私達は、小さく笑いあったのだった。
でもこの時、私はあることに気づいていた。それは、絵里が裕美とヒロを見比べて、口元はにやけながらも、目元は柔らかく緩ませていたのを。ただ何故か後になっても、絵里に直接なんであの時、あんな表情で二人を見ていたのかは聞けなかった。

「さてと!じゃあ早速打ち合わせをしますか?」
「うん」
「さんせーい!」
絵里の問いかけに、私と裕美が答えた。
そばでヒロが居心地悪そうにしていたので、言ってあげた。
「ここからは女だけの話なんだから、あなたはもう帰って良いよ?」
「言い方ひでぇなぁ…あっ!すみません、今何時ですか?」
「え?今?そうねぇ…」
ヒロがわざわざ腕時計をしている私を無視して、絵里に時間を聞いていた。絵里は図書館内の、壁に掛けてある時計を首を伸ばすように見た。
「今は大体一時四十分くらいだけど」
「え!?あっ、ヤッベェ」
ヒロは途端に慌ただしく荷物を整頓し背負うと、急に立ち上がった。そして私と裕美を交互に見てから言った。
「じゃあ二人共、またな!また連絡するぜ!」
「ハイハイ」
「うん」
ヒロのテンションとは裏腹に、私と裕美はあくまで冷静に返した。
「じゃあ、えっとぉ…失礼します!」
絵里に対して何か言いかけたが、口をつぐむと慌てて出て行こうとした。が、何を思ったのか、絵里がヒロを呼び止めた。
「…あっ、そうだ!ちょっと良い?」
「は、はい?」
ヒロは出口付近でこちらを振り向き、絵里の元に戻った。
「な、何すか?」
「いや、大したことじゃ無いんだけど…」
絵里は俯き言葉を一度溜めたが、すぐに顔をあげてヒロを直視し、何事かとオドオドしているヒロに向かって、笑顔を向けながら聞いた。
「私も琴音ちゃんや裕美ちゃんみたく、君のことをヒロくんって呼んでいい?」
「へ?」
「え?」
「ん?」
あまりにも意外な問いかけに、ヒロ、裕美、そして私は声を漏らすだけだった。が、時間に追われていたのもあってか、ヒロはすぐに笑顔を返しながら答えた。
「あ、あぁ、全然構わないですよ!好きに呼んでください!」
その返答に満足したのか、絵里は一度大きく頷くと、顔中に申し訳なさを表しながら言った。
「ごめんねぇー、こんなことで呼び止めちゃって。…じゃあ、いってらっしゃい!」
「え?あ、はい、いって…きます?」
急に送り出されたヒロは、最後に謎の疑問形で返して、そのまま一目散に外へと出て行った。

ヒロの姿が見えなくなった後、早速私は絵里に聞いてみた。
「…今のって、何の意味があったの?」
「え?えぇっとねぇ…」
絵里は何故か裕美に視線を流しつつ、私の問いに答えた。
「まぁ特に意味が無いっちゃあ無いんだけど…あなた達二人が仲良くしている子とは、私も仲良くしたいからね。それで呼び方から入ろうとしたってわけ」
私は納得いくようないかないような、何とも言えないモヤモヤ感は否めなかったが、今までの絵里のやり方、私や絵里にいきなり下の名前で呼び、自分の名前も歳上だというのに下の名前で馴れ馴れしく呼ばせたりした経緯があったので、今の所は額面通りに受け取った。裕美を見ると、どうやら私と同じような感覚を持ち、そう結論に達したようだった。
そんな私達の心中を推し量らないまま、絵里は呑気に私の耳元に顔を近づけて、ボソッと聞いてきた。
「…ねぇ、随分前にギーさんとこに一緒に遊びに行ったって子は、あの子のこと?」
「…え?」
私は、よくそんな昔のこと覚えてるもんだと感心しながらも、またよからぬ誤解を受けそうな気がしたので、なるべく素っ気なく答えた。
「え、えぇ、そうよ」
「…そっか」
何故か私の返答を聞くと、意味深ともとれる優しい微笑を顔に湛えながら、短く息を吐くように言った。
「…もしもーし?」
とその時、向かいに座る裕美が半目で私と絵里を見ながら、無表情の声音で話しかけてきた。
「二人して何の内緒話をしているの?」
「いやいや別に大したことじゃないよ」
「そうそう、くだらない事を絵里さんが言いかけたから、文句を言ったってだけだから」
「あっ!何それぇー、ひっどーい」
「ふーん…まぁいっか」
裕美の大人な引き際の良さで、この場は上手く収まった。

「…で、やっと本題だけど」
絵里が新たにお代わりした麦茶を飲みつつ、切り出した。ヒロのせいで、何しにこうして図書館に来たのか忘れるところだった。
私達は会員証を使って、ゲートの内部に入っていた。そして普段は入らないが、いわゆる”パソコンルームへと案内された。ここはパソコン一台につき一部屋と区切られており、身長よりも高い壁で仕切られているので、個人情報などを気にせず気楽に利用出来るというので人気があった。
早速絵里が率先してパソコンの正面に座り、その脇を私と裕美で固めた。電源を入れて、ブラウザを開くと、一般的な検索エンジンのホーム画面が現れた。
「夏休み、何して遊ぼうか?」
絵里はキーボードに両手を置いたまま聞いてきた。私と裕美は上体を少し後ろにそらし、絵里の背中越しに顔を見合わせて、軽く頷きあってからまた上体を戻すと、まず私が口火を切った。
「…うーん、裕美とも色々と話したんだけれど、特にこれといって妙案は浮かばなかったのよねぇー…ね?」
「うん。思いつくことは思いつくんだけれど、どれも別に友達とすれば良いような事しか思いつかなかったから。…せっかく絵里さんと遊べるんだから、特別な事をしたいからねぇ」
と裕美は絵里の顔を覗き込み、無邪気な笑みを浮かべた。絵里は感無量といった表情を見せて、裕美の背中を矢鱈に摩りながら言った。
「…もーうっ!裕美ちゃんは本当に嬉しい事を言ってくれるんだからぁ」
「え、絵里さん、いたいいたい!」
そういう裕美の顔は、満更でもないようだった。私は特に気を止めず、ホーム画面の中に出ている”夏休み特集”と見出しを眺めていた。そして無線のマウスを手に持ち、そのままバーナーをクリックした。そこにはこれでもかってくらいに、夏休みのレジャー情報で溢れていた。二人も気づいて、何も言わずモニターを見つめていた。
「…どれも日帰りは厳しいなぁー」
いつの間にか絵里が私の(?)マウスを手に取り、率先してアレコレページを飛んでいたが、これといった情報には辿り着けていなかった。
「やっぱり遊ぶにしても、あなた達は中学に上がったばっかりだしねぇ。…親御さん達と話し合わなくちゃいけないけど、急に私みたいな何処の馬の骨とも分からない人に、すぐに信頼を寄せて預けてくれるとは到底思えないからなぁ…」
絵里はモニターを見つめながら、最後は独り言ともとれる調子でボソッと呟いた。
「…うーん、やっぱり難しいか…ん?」
私は絵里に賛同しかけたが、ふとそのページの上部に花火特集とデカデカな見出しが目に付いた。そこでハッとした。そして今更そこに気付くとは、私も何とも呑気でぼーっとした人間だなぁーっと一人自分に呆れながら、絵里に声をかけた。
「…ねぇ?別にどこか遠くに遠出しなくても良いんじゃない?例えばコレとか」
私は言いながらさっき見た見出しを直接モニターに指差しながら言った。それを聞いた絵里と裕美は、その”花火特集”に顔を近づけた。そして裕美は絵里の顔越しに私を見ると、明るい笑顔で話しかけてきた。
「…うん、良いわね!それにアンタが言ってるのって、毎年近所でやってる花火大会のことでしょ?」
「そう、その通り!」
私も笑顔で返した。
「確かにこの花火大会なら近所だし、母さん達の許しもいらない。それに絵里さんとって事考えても理にかなっているわね。何せこの花火大会は規模が小さいけど、その分地元民のお祭り感があるものね!」
「どう、絵里さん?小五からの約束が、漸く果たせそうよ」
「え?そうなの?」
裕美が聞いてきたが、私は軽く頷くだけで絵里の返答を待った。絵里は少し顎に手を当てて考えていたが、何か覚悟を決めたように目を見開くと、私と裕美を交互に見て、そしてモニターに目を戻しながら明るい調子で答えた。
「…そうねっ!私としては特別な夏休みの思い出を作りたかったから、何処か行けるなら遠出をして見たかったけれど、現実を見るとそれが一番良い案かもね!」
と最後に私を、いつもの悪戯っ子のような笑みで見てきた。正直私は気づいていた。何故絵里が逡巡していたのかを。絵里は口では遠出したいなんて無責任な事を言っていたが、それはブラフだった。いつもはすぐにおちゃらけて見せる絵里だったが、私達子供に対して持つ責任感は人一倍あった。何度も言ったが、何度言っても言い足りないので敢えてまた言うと、絵里はいつでも私の事を考えてくれていた。
だから私と義一、今回のことで言えば私と絵里が地元で遊び、それを誰かお父さんの病院関係者か、患者、はたまたただの知り合いですら見られたら、そこから巷間伝わって両親の耳に入り、要らぬ詮索が私に及ぶとも限らない 。そこまで考えての”遠出”発言だったのに、繰り返すようだが私は気づいていた。でも私も、地元の花火大会に行こうと言ったのは、確かに小五からの約束もあったが、もう一つの考えがあったからだ。
「でね、絵里さん。一つお願いがあるんだけれど」
「え?何よ琴音ちゃん?」
「それはね…」
私は一度溜めてから、少し控えめに言った。
「…その花火大会を、絵里さんのマンションから見たいの」
「…へ?」
想定外の提案だったのか、絵里は鳩が豆鉄砲をくらったような表情を見せた。
そう。絵里のマンションだったら、地元の人から見られる心配は限りなく少なかった。見られるにしても、絵里のマンションまでの話だ。後はずっと絵里のマンションにいれば良いのだから、大丈夫だろうという寸法だった。肝心の花火も大丈夫そうだった。この地元の花火大会は河川敷で行われていたが、絵里の部屋は角部屋で、二方向に向いていたベランダの一つが、土手の方を真正面に向いていた。絵里のマンションの周りには高い建物もなく、前にそこから外を覗くと、川に沿って走る高速道路が見えるほどに見晴らしが良かった。
それにベランダ自体も、絵里の部屋にあるテーブルを仮に出したとしても、まだ余裕があるほどのスペースがあった。絵里自身は前に、花火を見ずに音だけを聞いていたなんて言っていたが、見ようと思えば、こんなに良い物件は地元民と雖もそうは無かった。
「…だめ…かな?」
私は上目遣いに駄目押しをした。ふと裕美を見ると、私と同じようにしていた。思いは同じ様だった。
「…私も出来たら、絵里さん家から…見たいなぁ」
「…はぁ、あなた達には負けるわ」
絵里は最大限に苦笑いを見せて、ため息混じりに言った。でもその後すぐに、満面の笑みを浮かべながら続けた。
「私の所なんかで良ければ、歓迎するよ」
「ヤッタァーー!」
裕美は思わず立ち上がり、喜びを体全体で表現した。絵里は窘めようとして手を伸ばしていたが、すぐにその手を引っ込めると、苦笑まじりに裕美の様子を眺めていたのだった。

「じゃあこの日はせっかくだから、みんなで浴衣を着ない?」
「あっ、良いですねぇー!」
「うん、良いんじゃない?」
私達はネットで花火特集を次々渡り見ながら話していた。
「…あ、でも…」
私はふと、絵里に向かって不安点を指摘した。
「絵里さんって、浴衣持っているの?」
当然の疑問だ。まだ仲良くなって数年だが、絵里の行動範囲的に浴衣を着る機会など無さそうだったからだ。
絵里は不満げな表情を見せて、口を尖らせながら言った。
「なーに、それ?私がまるで浴衣を着る事なんてあり得ない、ガサツな女だとでも言いたいの?」
「え?あぁ、いやいや、”そこまで”は考えてなかったよ」
点々の所をワザと強調しながら答えた。
「…ちょっとぉー、全面的に否定してよぉー」
絵里は文句たらたらだが、口元はにやけていた。そして胸を張り、腰に手を当てながら堂々と言った。
「ちゃんとこう見えても”女”だからねぇー。…うーん」
「?」
途中から急に唸り出したので、私と裕美は揃って頭の上にハテナマークを浮かべた。
「どうしたんですか?」
「…まぁいっか…この二人になら…」
裕美が思わず心配げに聞いていた。これは恐らく、今になって絵里の家が使えなくなったのかを心配する風だった。そんな裕美の心配を他所に、絵里はボソボソ独り言を言っていたが、ふと何か決心した様子で、私達二人を見てから答えた。
「…よし!じゃあ二人共、後は私の家にいつ来るか時間を決めよう!」
「あ、う、うん…」
急にハイテンションな絵里に押されて、それからは雪崩式に次々とことが決まっていった。
待ち合わせ時間は五時半頃に決まった。花火大会の開始時間は夜の七時半だったから、早めの時間帯だった。提案してきたのは絵里だった。訳を当然尋ねたが、悪巧みしている様な笑みを浮かべるだけで、教えてくれなかった。まぁ当日になってからのお楽しみにしよう。
「さてと後は…あっ!」
絵里はパソコンの電源を落としながら、私達二人を見て言った。
「もし誰か誘いたい人がいたら、各人一人まで誘っても良いよぉ」
「…え?」
「ふふ、もしも”誰か”がいればの話だけどねぇ?」
絵里はネットリとしたイヤラシイ口調で言いながら、何故か最後は裕美に視線を流していた。こちらからは見えなかったが、絵里の目から何か察したのか、裕美は少し顔を赤らめて、口調もたどたどしく答えた。
「…は、はい…絵里さんがそう言うなら、”誰か”連れて来ます」
「…ん!よろしい!」
絵里は反対に底抜けに明るく返していた。二人だけに分かる空気感が辺りに漂い、私が付け入る隙が無い感じだった。
仕方がないので、私は私で誰かいないか考えて見た。
うーん…誰かって言われてもなぁ。ヒロは喧しくてイヤだし、なんか絵里さんに鼻の下伸ばしていたし…アイツは論外でしょ?…学園の子達も、絵里さんに紹介して見たいっていうのはあるんだけど…OBだしねぇー…でもさっき裕美が言った様に、これは私達三人が同じ地元にいるからって理由で決めたんだから、今更あの子達の中から呼ぶっていうのもねぇー…そもそも一人だし。全員がダメじゃ意味無いよねぇ…うーん誰か…あっ!
私はふと、一人の最重要人物を思いついた。裕美がどう反応するか、裕美と出会う事でどんな化学反応が起き、私の身の回りにどんな変化を及ぼすのか不安が残っていたけど、こうしたタイミングで話が湧いた事に、何か意味があるんじゃないかとこの時に思った。
「…うん、私も決めた」
淡々と言うと、絵里と裕美が勢いよく私の方を向いてきた。裕美の顔は興味津々といった感じだ。目の中がキラキラしていた。絵里はというと、裕美とは反対に呆気にとられていた。失礼な話、私は別に気にしないが、私が誰か連れて来る様な人がいるとは、思っても見なかったと言いたげだった。
「…えっ!琴音、アンタ花火大会に一緒に行きたい様な人がいたの?」
「…ごめん、琴音ちゃん。まさかそういう人がいないと思って、敢えてあなたには振らなかったわ」
絵里は心底驚いている様子だった。
「えぇ!誰々?私の知っている人?」
絵里を他所に、裕美が早速質問攻めしてきた。想定範囲内だ。
「…いーえ、知らない人よ」
私は意味有り気に、短く返した。裕美は何故か私の返答に、心なしかホッとしていた様だった。ついでに絵里もホッとしている様子だった。何故か。
そうしたのも束の間、裕美は顎に人差し指を当て、考えて見せながら聞いた。
「えぇー、私の知らない人ぉ?…うーん、誰なんだろう?じゃあ…歳上?それとも年下?」
「…えーっとねぇー…」
私は絵里に視線を流しながら、一瞬口元をニヤケさせた。絵里は先程から、私に対して怪訝な表情を向けてくる。何か分かる様なわからない様なって風だ。
「…歳上よ」
「えぇーー!歳上?」
「しっ!…裕美、声がデカイわ」
「あっ…ごめん」
裕美は大袈裟に口元を両手で塞いだ。でも目元は緩んでいる。なんだか楽しそうだ。それに引き換え絵里の様子は違った。先程の半目で私を見ていた時とは違い、今は何かに気付いたのか、目を大きく開かせていた。そして今度は絵里が聞いてきた。恐る恐るだ。
「…ねぇ琴音ちゃん、私からも質問していい?」
「えぇ、もちろん!」
私はキャラに似合わず、”キャピキャピ”しながら応えた。絵里はそんな私の様子を突っ込む余裕が無いらしい。トーンをそのままに聞いてきた。
「その人って…男性なんだよね?」
「えぇ、一応ね?」
絵里は肩を落として、溜息をついた。裕美は今何が起きているのか分からず、戸惑っている感じだ。絵里は力無く、最後の質問を投げかけてきた。
「…それって、裕美ちゃんは知らなくても…私は知ってる人?」
「…」
私はすぐには答えなかった。わざと数秒ほど溜めた。絵里の肩越しに、裕美の好奇心に満ちた顔が見えていた。私は大きく頷くと、満面の笑顔で答えた。
「…えぇ、もしかしたら私よりもね!」
「…」
「へぇー、そうなんだー。誰だろう?…あっ!もしかして図書館の人とか?」
無言で固まる絵里を置いて、裕美は何故かテンション高く、呑気に的外れな推理を繰り広げていた。私は笑顔のまま裕美に返した。
「違う違う、そうじゃないわ。…まぁ、その日になってからのお楽しみよ」
「えぇー」
「えぇーーーー」
裕美と絵里が同時に声を上げた。勿論二人の意味合いは違っていたが。
絵里は苦虫を潰した様な表情を、顔中に広げながら、私に言ってきた。
「…どうしても呼んじゃうのぉー?」
「…えぇ」
私は先程からニヤケっぱなしだ。
「そもそも約束してたでしょ?”そのこと”も」
「…あれは約束というより、あなたの一方的な希望だったと思うんだけど…」
絵里は相変わらずネチネチ言ってたが、状況が好転しないことを悟ると、大きく溜息をついて見せて、大息つきながら観念したかの様に言った。
「…もーう、わかったわよ。あなたが呼びたいんなら、どうぞお呼びになって?」
「…ふふ、ありがとう」
「…?」
私は和かに、対照的に苦笑いな絵里の様子を、何の話か飲み込めない裕美が二人の様子を交互に見比べて、首をかしげるのだった。

「私ちょっと買い物してから帰るから、ここでね?」
私達は図書館を出て、帰宅の途についていた。ここは図書館と駅との中間時点。右に曲がれば駅への道で、左は私と裕美の家方面だ。本当はこの後絵里の家に寄る予定だったが、思いの外図書館に長居をしてしまい、次回へ持ち越しとなった。
「えぇ、分かったわ」
「じゃあね、絵里さん!次は花火の日に!」
そして私達はお互い手を振りながら別れた。しばらく絵里の歩く後ろ姿を眺めてから、私と裕美は帰ることにした。
「花火楽しみねぇー」
裕美は如何にも楽しみだといった調子で、口調明るく言った。
「えぇ、そうね」
「…琴音にしては、いい提案だったじゃない」
裕美は上体を前に倒し頭を低くして、下から私の顔を覗き込む様にしながら、ニヤケつつ言った。
「”しては”は余計よ」
私も文句で返したが、顔は笑顔だ。と、ここで早速裕美に質問をぶつけてみた。
「…ところで裕美、あなたが連れてくる人って誰のことなの?」
「え?」
裕美は声を上げると、何やらモジモジしだした。
この時は何故こんな反応をしたのか分かっていなかったが、後々になって考えてみると、然もありなんだった。何せ絵里との会話の流れで呼ぶ人を決めたんで、どう考えてもその人に対して、何かしらの特別な感情を抱いているのは丸わかりだったからだ。…まぁ、丸わかりと言っても、私は丸分からなかった訳だけど。
「うーん…」
裕美は唸りつつ俯いて、言うか言うまいか悩んでいたが、途端に顔を上げると、私を向いて答えた。顔は意地悪い笑顔だったが、若干顔は赤かった。熱射病というわけではない。
「…内緒っ!あんたがさっき言った様に、当日になってからのお楽しみよ!」
「…えぇー、何よそれー。教えなさいよぉー」
私は答えてくれないことを知りつつ、聞いた。裕美もそれを知っているので、ワザと私から顔を逸らして、声の表情を殺しながら間伸び気味に返した。
「…ふふ、教えなーい」

二十二日、花火大会当日。いつも通りというか、毎度の様に裕美のマンション前で待ち合わせをした。
今日この日を迎えるに当たって、ある意味一番舞い上がっていたのは、お母さんだった。本当は一緒に付いて来たがったが、私が何とか説き伏せた。中々押しの強い人だったが、無理やり意地でも空気を読まずにやる程の勝手な人では無かったので、最後はすぐに退いてくれた。まぁ私が何とか諦めさせる理由はいくつもあるが、本当の理由はおいおい分かることだろう。尤もお母さんの気持ちを考えると、私なりに胸がチクっとしない訳でもなかった。 お母さんは自分が着物を好きなのもあって、娘と揃って着てどこかに出掛けるのを喜びとしていた。小学生の頃など、裕美と出会うまで毎年、何故かヒロも一緒に花火大会に行ったものだった。その度に着物浴衣を新調して、着付けて行くのだった。私も毎年その時くらいにしか着る機会が無かったので、口にはせずとも楽しみにはしていた。でも受験があった。これはお母さんが仕向けた事だから同情の余地は無かったが、その受験が終わっての二年ぶりの花火大会。お母さん自身も受験中は着付けず見にも行かなかったから、もしかしたら今年の花火大会は楽しみにしていたのかも知れない。でもそれと同時に、同年代の友達と出かけると言うのを聞いたお母さんの顔は、寂しそうなのと同時に嬉しそうだった。口では言っていなかったけど。”親の心子知らず”とはよく言うけれど、子供は子供なりに親の事に気を遣っているって事を、この場を借りて言っておきたい。…まぁ括弧付きでだけど。
話が逸れた。こんなところまで義一に似てきてしまった。それはさておき、恐らくそんな私の推測も外れてはいなかったのだろう、折角友達と花火見に行くんだからと、出かける一時間以上前に着付けてもらった。髪型までばっちしだ。浴衣は青みのある紫色地に、水色の流水模様だ。珍しいピンクの紫陽花があしらわれていた。帯は僅かに燻んだ黄緑色に葡萄蔦模様が入っていた。髪は全てお母さんにして貰ったからよく分からなかったが、要は三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げられていった。アップに纏めているので、普段は肩甲骨まである後ろ髪を、そのまま流しているだけだったので、首元がかなり涼しかった。それが私のこの髪型に対する感想だった。お母さんには素直に感謝を告げて、たまたま居間にいたお父さんにも姿を見せた。最近になって益々表情が変わらなくなったお父さんだったが、自分で言うのも恥ずかしいけど、娘の浴衣姿を見ると、口元は真横一文字だったが、目を大きく見開き、上から下までを何度も往復させて見ていた。そして一度大きく頷くと、写真を撮っていいかを聞いてきたので、私は快く了承した。
お父さんは食卓に座っていたが、わざわざ立ち上がり、こっちが恥ずかしいくらいに真剣な表情で何度も携帯で写真を撮ってきた。これが私のお父さんだった。 そしていつだったか、そう、裕美の大会に初めて見に行った時に持っていたミニバッグを持ち、下駄を履いて待ち合わせ場所へと急いだ。
着くまえに既にエントランス前で、私と同じ様なミニバッグを両手で腿の前で持ち、他所を向いて待ちぼうけている着物姿の少女が見えた。裕美だった。
私は気づかれない様にそおっと近寄り、肩を軽くトンっと叩いた。
「…お待たせ、裕美!」
「…あぁっ、琴音ー!」
裕美は一瞬ビクッとしていたが、私と認めるとすぐにテンション高めに返してきた。
裕美もすっかり花火仕様になっていた。約束通り浴衣だった。濃いオレンジ色地に、赤く細いラインが入っていた。満開の鉄線の花が、白と黄色の二色で飾られていた。帯はシンプルな濃い青色だった。髪は私ほど長く無いので、簡易的にアップに纏めていた。
まず私達はお互いの浴衣姿を目で堪能した。一通り見渡した後、まず裕美の方から口火を切った。
「…いやぁ、さっすが姫!浴衣でも何でも、似合っちゃうんだもんなぁー」
「…褒めてくれてる様だから、今だけ姫は許してあげる」
私の事というより、何だかお母さんを褒められた気がして、寧ろそれが嬉しかった。…別に良い子ちゃんぶっている訳ではない。
「そういうあなたも、似合っているわよ?浴衣着てるだけで、しおらしく見えるもの」
「…それは褒めてるのぉ?」
裕美は私にジト目を向けてきた。私はあっけらかんと返すだけだった。
「…そうよぉー?ありがたく受け取りなさい」
「…やっぱり姫様じゃない?」
「何か言った?」
「べっつにぃー」
いつものこのやり取りを終えると、意味もなくどちらが先ともなく笑いあったのだった。
何で毎度のことで笑いあえるのかと、冷めた目線で見ないで欲しい。何かが転がればそれだけで笑ってしまうほどには幼くなくても、この時期の私達としては、気の合う人と馴れ合うだけで、満たされた気になるもんなのだ。自分でいうのも何だが、私みたいな理屈屋でもだ。…まぁ単純にこのお祭り気分に、酔っていただけとも言える。
一頻り終えてから、私達二人は早速絵里のマンションへと向かった。

途中地元としては賑わっている繁華街を通った。いつもそれなりに人通りは多かったが、この日ばかりは雰囲気から違っていた。
警察に交通規制がなされていて、車道を堂々と歩けた。 普段からの仲良しなのだろう、男女が普段着で大会開始の二時間以上前だというのに、既にハイテンションに騒いでいた。この車道、そのまま進めば土手に出る道だったが、ずっと先まで屋台が出ていた。やはり地元開催、日頃は夏祭りらしい祭りをしない地域だったので、ここぞとばかりに一斉に盛り上がるのだ。出ている屋台は全て、普段は地元の飲食店を営んでいる人達が、お店の商品を屋台形式にアレンジして提供しているのだ。だから”たこ焼き”だとかそういう”屋台メニュー”が皆無な分、それぞれ特色が出ていて他には無い持ち味が出ていた。
そんないつもと違う地元の雰囲気を味わいながら、屋台を眺めつつ歩いていた。私は何度も履いているから慣れていたが、裕美は履き慣れていないせいか、下駄からたまに変な音をさせながら歩いていた。
「…やっぱり普段履かないと、違和感あるわよね?」
私は裕美の足元を見ながら言った。すると裕美も私の足元を見ながら返した。
「うん…アンタは平気そうね?」
「まあね。お母さんと何度か揃って、着物と一緒に履いてたし」
「やっぱりお嬢様は違うわぁー」
裕美は顔を上げると、しみじみ空中に向かって吐いた。
「…姫もだけど、お嬢様ってのもやめてよねぇ」
私は口を尖らせながら不平を述べた。まぁ聞き流されるのがオチだけど。
さて、ここまで私の話を聞いてくれた人の中で、ずっとどこかしっくり来なかった点があったかも知れない。それは『将来医者になりたい裕美は、私のお父さんが病院の院長をしている事を知っているのか?』と言う事だ。これはいつか話したいと思っていたが、私の話し下手なのも含めて、中々話せる時を逃してしまっていた。それを今述べることを許して欲しい。今裕美が私に対して軽口を言った事によって、偶々チャンスが巡って来た。これを利用させて頂く。
結論から言えば、知っている。それも小学六年の夏休み。そう、丁度去年のことだ。覚えておられるだろうか?私と裕美、そしてお母さん達と四人で、近場の海沿いの温泉地に一泊旅行をしたことを。泊まった宿で夜の事、あの時にお母さん達が当然の会話として、お互いの夫の職業について話したのだった。そしてその場に私と裕美がいた。ついでと言っては何だが、そこで裕美のお父さんが広告代理店に勤めているのを知った。職業柄定時に帰ることは出来ず、夕飯を共にすることも少ないらしかった。尤もそれは私達も同じなので、そこでお母さん達は意気投合していた。私達を他所に、盛り上がっているので退屈していると、裕美が私を宿の廊下にある休憩所の様なところへ連れ出した。言われるままについて行った。その休憩所は名ばかりで、向かい合う様に置かれた肘掛付きの椅子が二つ、すぐそばに自販機が一台あるだけだった。人気もなく、ひどく寂しかったのを覚えている。私と裕美は向かい合って座った。しばらく…と言っても一分あるか無いかだとは思うが沈黙が流れた。私はわざわざ連れ出したのだから、裕美の方から何か言うだろうと出方を待っていた。と、裕美は私を静かな表情で見ながら切り出した。
「…アンタの父さんって、お医者さんだったのねぇ?しかも病院の院長さん」
この時初めて『あっ!』と思った。本当は裕美に医者になりたいと言われた時に、言うべきことだった。ただ私としては、他人に自分の父親が医者、しかも病院の院長をしている事を、なるべくなら話したく無かった。言えば言うほど私に対する見方にバイアスが掛かって、余計なイメージが付くのを恐れていた。それに昔、義一に話してもらった”子供の頃に大人を信用出来なくなった”話が、ずっと脳裏に焼き付いていたのも大きかった。だからいくら裕美相手でも、すぐには言い出せずにいた。でも、こんな話をしても多分理解されないだろうと、端から諦めていたらここまで伸ばしてしまい、益々言い出しづらい状況になってしまっていた。そのツケが回って来た感があった。
「え、えぇ…ごめん、裕美!…でもね」
私が慌てて言い訳をしようとすると、裕美は下を向きながら右腕を前に大きく突き出し、こちらに手のひらを見せる様にした。私を制するポーズだ。私はおとなしく言いかけた言葉を飲み込み、そのまま黙り、裕美の反応を待った。すごく長く感じた。裕美にひどく失望されているだろうと想像していた。自分が裕美の立場だったら、騙されたと思ってもおかしく無いだろう。裕美としては恥ずかしい気持ちを押し込めて、意を決して私に話した将来の夢。聞いた私の父親が、その夢である医者だという事を話さずにいたというのは、そういう事だと解釈されて不思議じゃない。私は一人で後悔の念に駆られていると、不意に裕美が顔を上げた。私はその顔を見て驚いてしまった。
何故なら裕美は顔いっぱいに微笑を湛えていたからだ。
私が呆然としているのには構わず、優しい口調で話し始めた。
「…琴音、アンタってやっぱり良い奴なんだね」
私は益々混乱した。責められこそすれ、まさかの賞賛の言葉だったからだ。裕美は続けた。
「アンタは余計な事では口が回るのに、こういった相手の深層に触れるようなことは一切口にしないんだからね。…私が夢だと言った時、言い出しづらかったでしょ?」
「…え、えぇ」
根本的な理由では無かったが、かなり正鵠を射ていた。一々口にせずともここまで分かってくれている事に、不謹慎かもしれないが感心し、そして感動していた。
私の短い返答を聞くと、目を細めて益々柔らかく笑いながら言った。
「他の人の場合は知らないけど、私はさっきアンタの母さんの話を聞いて、何故かすぐにアンタの気遣いを感じたのよ。『あぁ、この子は私が下手すると、嫉妬してくるのを恐れたんじゃないか?』とね。それに…」
裕美は言いかけながら椅子ごと前に出て、上体を屈めて私の顔を覗き込みながら続けた。顔はニヤケていた。
「『医者の娘であるにも関わらず、特に夢がない割には医者にもなりたくないのに、そんなの本人に言えない』ってね!」
最後は明るく言い切ると、満面の笑みを浮かべた。
私は呆然したままだったが、何故か不意に泣きそうになってしまった。理由は様々考えられたが、どれも違って見えた。理由はともあれ、涙が出そうなのだけが確かだった。
裕美は私のそんな様子を見て、裕美なりに色々と察したのか、今度は苦笑い気味に言った。
「…ちょっとぉ、何泣きそうになっているのよ?むしろ私は感謝してるんだから、素直に受け取りなさい?」
「…誰が泣いているって?」
私は説得力ない言葉を吐きながら、目を擦った。裕美は畳み掛けるように意地悪く言ったのだった。
「…ふふ。アンタによ、”お嬢様”」
この時初めて”お嬢様”呼びをされた。もっともこれは裕美の中でしっくり来なかったようだ。この時以来一度も言われたことが無いように思う。”姫”の方が気に入ったようだった。
とまぁただ回想を述べるつもりが、やけに事細やかに話してしまったが、この時だろうか…本当にこの”裕美”という新たに出来た友達との繋がりを、大事にしていこうと決意したのは。
もちろんこれまでも話したように、私の”性質”に対して面白がってくれた事、初めて大会を見に行った時に見せた、好きなものに対して真摯に向き合っている事、それ以外にもいくつもあったが、今述べた出来事、これが最後の決め手となって”本気”でそう思えるようになった。
…これでようやく本編に戻れる。お待たせしました。

「だってアンタはお嬢様じゃない?よっ!この院長令嬢!」
「…終いには怒るよ?」
私は低い声で凄んで見せた。すると裕美は私の肩を軽く叩きながら、明るく返した。
「あははは!冗談だって冗談!怒っちゃあいやーよ?」
裕美はいつにも増してぶりっ子ぶってくる。私は力が抜けるように大きく溜息をついた。
「…もーう、分かったわよ。もうこの話はおしまい」
「うん!」
それから私達はまた和かに絵里のウチへと急いだのだった。

「どうぞー」
オートロック前のインターフォンから、絵里の陽気な声が聞こえた。そして目の前の自動ドアが開き、誘われるままに絵里の部屋へと向かった。
ピンポーン。
チャイムを押して待っていると、すぐにガチャッとシリンダーの作動音と共に玄関が開けられた。
「いらっしゃーい!入って入って!」
絵里が満面の笑みで迎え入れてくれた。
「お邪魔しまーす!」
私と裕美は下駄を脱ぎ、用意された畳地のサンダルを履いて中に入った。
絵里もすっかり浴衣に着替えていた。白い生成り地に、淡い紫と黄色の朝顔が染められていた。帯は黒に献上柄の単衣帯だった。全体的にスッキリした印象を与えたが、それが寧ろ着ている本人の、色香を際立たせる効果を生み出していた。
私達は絵里の後をついて行ったが、その後ろ姿は背筋を真っ直ぐにしながら、歩き方にも品が溢れていた。この時になって初めて気付きハッとなったが、確かに普段から絵里の立居振舞いはどこか、色香のようなものが漂っていた。今も昔も髪型はきのこ頭のままだったが、それでも女性らしさが漂っていたのは、こういう所作からかも知れない。普段の竹を割ったような言動のせいで、中々感じられなかったが、今改めてヒシヒシと感じ取れたのだった。
そして同時にこの時思い出したのは、お母さんの事だった。着物では無いが、浴衣を着た絵里を見て初めて気づいた。
リビングへのドアを開けると、いつものテーブルの上には飲み物や食器、グラスなどが所狭しと置かれていた。
「じゃあとりあえずそこに座ってて?」
絵里は私達に声をかけると、慣れた手つきでたすきをかけていた。そして台所で何やら作業をしている。
私はその一連の動作を見ていたが、見れば見るほどそれは、普段から着物などを来慣れていないと出来ない動きを見せていた。これは普段お母さんを見ている私だからこそ、気づけたことかも知れない。呉服屋の娘として生まれ、物心ついた頃から家の中で着物を着ていたからこそ身に付いた所作を、絵里も完全にマスターしているように見えた。
私は早速その事について聞いてみようと思ったが、まだ忙しそうに作業をしていたので、何気なく部屋を見渡した。先程から何か違和感があったからだ。
と、やっと違和感の正体が分かった。普段私達が来た時にいつも閉められているドアが、今日ばかりは開けられていたからだ。私は思わず立ち上がり、何事かと視線を送ってくる裕美は無視して、その開いているドアに向かって行った。そして中に入ると、ビックリした。
五畳ほどの部屋だったが、中には桐で出来た天井スレスレぐらいの大きさの着物箪笥があったからだ。そしてそのすぐ脇、西日の入った窓の近くには撞木、別の言い方では反物掛け、それに別の浴衣が掛けてあった。その部屋にはベッドがあり、寝室としても使われているようだったが、幅が一メートル近くありそうな姿見もあり、どちらかというと寝室よりも衣装部屋と言った方が適切な気がする程に、着物関係で埋め尽くされていた。
「…うわぁー」
結局私に続いた裕美が、私の背後から部屋を覗きながら感嘆の声を上げた。
「凄いねぇ、浴衣とかそんなのばっかり」
裕美はベッドの上を見ながら言った。確かにそれには触れなかったが、そこには着物や帯以外に白足袋、和装肌着、舞扇と手拭いが置かれていた。これらは全てお母さんも持っているものだった。正直この部屋は細かい所はともかく、あまりにも自宅のお母さんの部屋に酷似していた。
まさか…
「…ちょっとぉ、あまり一人暮らしの女性の部屋をジロジロ見ないでよぉ」
声を掛けられたので振り返ると、絵里がドアのヘリに手をかけながら、意地悪い笑みを浮かべつつそこに立っていた。
「…絵里さん、これって…」
私は構わず部屋を一度見渡してから、質問を投げかけた。すると絵里はほっぺを掻きながら、少し照れ臭そうに部屋の中に入り、ベッドの上の物を整理し出しつつ答えた。
「…あーあ、とうとうバレちゃったか…。まぁ今日はそもそも、初めからバラすつもりだったけど。…琴音ちゃんならもう気づいているよね?前にお母さんの話を聞かせてくれたし。…そう、これらは全て日舞の為の道具だよ。この部屋にある全てがね」
「…え?日舞ってあの…日本舞踊のことですか?」
裕美がいつの間にか部屋の中に入り、腰を曲げて整理している絵里の背後に立ち、聞いていた。絵里は振り向かずそのままの姿勢で淡々と整理していたが、口調明るく返した。
「そうだよー。…あまり普段のキャラじゃないから、自分で説明するのは恥ずかしいんだけれど…二人共?」
絵里は上体を起こすと、腰をトントンと叩きながら私達に言った。
「この片付けはすぐに終わるから、あのテーブルで待っててくれる?」
私達は言われた通りに座って待っていた。ドアは開けっ放だったので、絵里の姿が見えていた。二人してその様子を見ていたが、ものの一、二分で片付け終えたのかこちらに戻って来た。そして椅子に座る前に、冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出すと、それを持って私たちの元へと来た。そして空いてる椅子に座り、テーブルの上のグラスに注ぎながら、ようやく話し始めた。
「いやーごめんねぇ?自分から早めの時間帯に約束したのに、今日実は午前中用事が出来ちゃって、慌てて帰ってきて整理していたら間に合わなかったんだ。普段はあんなに散らかってはいないのよ?」
絵里は今は閉められたドアの方を見ながら言った。そんな事は初めてここに来た時から分かっている。表向きはガサツな性格風であるけれど、部屋を見れば全てが几帳面に、部屋のサイズに合わせた収納術を屈指して整理されている点を見れば、普段から綺麗にしている事は丸分かりだった。そんな事よりも突っ込む所は、数多にあった。
「…もしかして、私達を早めの時間帯に呼んだのって、あれを見せるためだったの?」
私も絵里に合わせてドアの方を見た。裕美も黙って見ている。裕美はまたほっぺを掻きつつ、決まり悪そうに答えた。
「…まぁそういうことかなぁ。…予定では綺麗なところを見せるつもりだったけど」
絵里は苦笑をしている。
「いつもここに来ても見せてくれなかったのに、今日見せてくれる気になったのは、皆んなして浴衣を着る事になったからなのね?」
私は昼間にやっている、刑事ドラマの主人公になった気分で問い質していた。絵里は笑顔で頷きながら答えた。
「…まぁそんなところよ。隠しているつもりはなかったんだけど、普段私の話にはならないし、ならないのに自分から話すのも、さっき言った様に恥ずかしいしね…言えなかったんだぁ」
私はふと、裕美に対して自分の父親のことを話せなかった時の事を思い起こしていた。まぁ、中身の質は違っていたけど。
「でもそう、今あなたが言った通り、今日だったら二人に話せるいい機会かなって思って、それで身勝手で悪いけど、二人を早めにここに呼んだの。…これを逃すとまたいつになるか分かったもんじゃないからね」
「なるほどー」
今まで黙って話を聞いていた裕美が、ようやく口を開いた。
「でも日舞って良いですねぇー。なんか”The 大人の女性”って趣味じゃないですか?琴音の母さんも習っているしで、私憧れてるんですよ」
「ふふ、ありがとう」
目を輝かせながら言う裕美に、笑顔で返していた。
「でもね…」
絵里はふと、少し顔を曇らせながら言った。
「私の場合はねぇ…習い事ではないのよ」
「え?どう言う意味?」
今度は私が聞いた。
「習い事じゃないんだったら、何だっていうの?」
「…うーん」
絵里は唸りつつ視線を私達から逸らした。まだここまで来て言い兼ねていたようだった。が、私達に再び視線を戻すと、一度短く息を吐き、意を決したように先を続けた。
「…私、実は日本舞踊の名取なのよ」
「…な、名取?」
「…え?へぇーーー!」
裕美はよく分かっていないようだったが、私はすぐに分かったので、素直に驚いた。もちろん流石に学習したので、声は抑え気味にだ。
「意外だった?」
絵里さんは私の驚きようを、満足げに見ながら言った。私は自分でもわかるくらいに、目を見開きながら返した。
「そりゃそうよ。だって普段図書館司書をしている人が、日舞の名取だなんて思いもつかないもの」
「…ねぇねぇ、名取って何なの?」
一人取り残されて、置いてけぼりを食らったように感じたのか、裕美は一人半目で私と絵里を交互に見ながら聞いてきた。絵里は視線で聞いてきたが、私は横に首を振ったので、絵里が微笑みながら裕美に説明した。
「名取っていうのはね、…あっ!その前に、日舞にはいくつか流派があるんだけれど、そのトップに君臨する家元という人に舞を見てもらって、その技芸がある程度のレベルに達していると認められると、その流儀固有の名前をもらう事…うーん、分かりやすく言うと芸名だね。それをもらえた人の事を名取と言うの」
「へぇー!すっごく本格的なんだね!」
裕美は何というか、呑気な解釈をして意味を飲み込んだようだった。絵里は笑顔で頷いている。
「まぁ本格的っちゃあ、本格的だね。…まぁもう気付いているだろうけど、敢えて私から説明すれば、実は私の実家が目黒で日舞の稽古場を開いていて、私の父が名取の上、つまり師範をしているのよ。つまり私の実家は日舞を生業としているの」
「へぇーー」
今度は私と裕美同時に声をあげた。
絵里さんが日舞の名取?しかも両親が師範?…はぁー、人は普段の見かけに寄らないんだなぁー…
などと考えていたが、ふと絵里が言った事に引っかかった。
…ん?目黒?目黒って確か…
そんな偶然があるのかと、私は思いついた考えを払拭するように、一人頭を横に振っていた。
裕美はそれからは、何かと絵里を質問責めにしていた。
「はぁー。…でも目黒って凄いですねぇ!絵里さんって本当は良いところのお嬢様じゃないですか?」
「や、やめてよぉ裕美ちゃーん!そんな言い方するのぉー。…もーう、こんな勘違いされるから、言わないでいたのにー」
なんて会話をしていた。私は水をかけるように、少し気になる事を聞く事にした。
「…てことは、絵里さんは今でも日舞を舞ったり、教えたりしてるの?」
「え?えぇ、親に頼まれたら補助役として今でも、目黒の実家に行ってるよ。親とは言っても、日舞においては師匠だからね。日舞関係で頼まれたら、素直に従うのよ。…本当はまだあくまでも名取だから、師範になってからでないと正式には教えれないんだけれどね。…まぁ、バイト感覚よ」
絵里はまた照れ臭そうに言った。
「ふーん…そっか」
正直そのままお母さんのことを聞こうとも思ったけど、別に聞かなくても良いと思った。色んな理由はあったけど、流石に空気が読めない私でも、このまま機の向くままに質問していけば、すでに場に満ちている祭の雰囲気を壊しかねなかったので、自粛する事にした。

「さてと…」
絵里がおもむろに時計を見た。時刻は六時半になるところだった。
外はまだ薄っすらと、陽光の残影が西の空に辛うじて残っていたが、空の九割がたが夜の様相を呈していた。天気は予報通り快晴のままだった。
「そういえば裕美ちゃん?」
絵里は時計から視線を外すと、裕美に話しかけた。
「あなたが誘った人って、いつ頃来るの?…いやそもそも、ここの場所知っているのかな?」
「えぇっとぉ…」
裕美はミニバッグからスマホを取り出すと、何やら確認をしていた。そして画面に視線を落としたまま答えた。
「…あぁ、はい!大体分かるみたいです。…ただ流石に細かくは知らないので、近くまで来たら連絡してと言ってあります」
「そう?なら良いけど。…で、琴音ちゃん?」
「何?」
先程まで和かに話していたのに、絵里はふと眉間にシワ寄せながら嫌々そうに言った。
「…ところで彼奴は…いつ来るって?」
「え?えぇっとねぇ」
私はその様子を、さも愉快げに見ながら大きな笑顔で返した。
「確か七時には行くって言ってたよ?」
「…はぁー、…あっそ」
絵里は素っ気なく返したが、ふと胸元をチラッと見た。浴衣の状態を確認したかのようだった。
「…ふふ、なーに?やっぱり気になる?」
私は途端に悪戯っぽく笑みを浮かべながら、ねちっこく言った。裕美は私が何を言い出したのか分からない風でいたが、当の本人、絵里はすぐに察したのか顔を赤らめて慌てて訂正した。
「んなっ!?な、何をい、言ってるのよ!?何とも思うわけ無いじゃない?」
「あははは!ごめんなさい」
「…もーう」
絵里は自分を奮い立たせるように、スクッと立ち上がると明るく声を上げた。
「じゃあ二人共!野郎二人が来る前に、準備を済ませちゃおう!」
「はーい!」
私と裕美は同時に手を挙げて賛成の意を示した。

それから十五分ぐらいは慌ただしかった。時間指定で注文していたのだろう、宅配のピザなり何なりいわゆるオードブルが来たりして、それを受け取り、用意したお皿に盛り付けたりすると、あっという間に七時になった。
「…おっそいなぁ」
裕美はさっきから何度もスマホを確認している。
「何裕美ちゃん、まだその人と連絡つかないの?」
絵里も心配そうに声を掛けていた。
「…はい。今から十分前に家を出たみたいな事を言っていたんですけど…私っ!」
裕美は玄関の方を見ながら、居ても立っても居られないといった調子で言った。
「ちょっと下に行って、待っていようかなぁ?」
「…まぁまぁ裕美」
私は呑気に窓を全開にしたベランダの外で、手すりに手を掛けながら振り返り言った。
「連絡は来てたんでしょ?だったらもう少し待ってみてからで良いんじゃない?」
「で、でも…」
よっぽど気になるのか、私の軽薄な慰めも何の足しにもならなかったようだ。と、その時。
ピンポーン。
これはエントランスのチャイムだ。絵里がインターフォンに近付くと、外部との音声を繋いだ。小さな画面に映し出されている光景を見て「げっ!」と言った。と、スピーカーからは、それに反応する様に、耳慣れた声が聞こえてきた。
「…おいおい、聞こえているよ?」
何とも呑気な調子だ。絵里の側に近寄った裕美は、その位置からは見えないらしく、焦ったそうにしていたが、聞こえる声が違ったせいか、落胆の色を隠さなかった。
その様子をチラッと見た絵里も、少し気の毒そうに裕美を見ていたが、とりあえず今目の前の問題を片すことにしたようだ。
「…はぁ、そんなところにいても他の人の邪魔になるから、早く上がって来て?」
そう言うと、オートロックの解除ボタンを押した。するとその人は何か悪巧みをしているかの様に言った。
「ありがとう。…あっ、そういえば、たまたま近所で知り合いに会ったから、ついでに一緒に連れて行くね?」
「…へ?あっ!ちょっと!」
絵里が慌てて呼びかけたが虚しく、既にその人の姿は消えていた。
「…何だって言うのよ、まったく…」
絵里は静かになったインターフォンに一人毒づいていた。
数分すると、玄関のチャイムが鳴った。絵里は力無く応答したのだった。
「…空いているわよ。歓迎しないけど、招待してあげるわ」
「あはは」
モニターの向こうから笑い声がしたかと思うと、玄関の方でドアの開く音がした。そしてワイワイ靴を脱ぐ音がしたかと思うと、ズンズン廊下を進みこのリビングに入って来た。
ここまで引っ張る必要は無かったかもしれないが、予想通りだろう、そこには浴衣姿の義一が立っていた。髪の毛をいつも通りに纏めていたが、服装のせいかいつもと違って見え、むしろ今の方が似合っていた。パッと見グレーの浴衣だったがよく見ると、千鳥柄になっていた。それに真っ黒の帯を締めていた。
私は思わずベランダから室内に戻り、義一に挨拶しようとすると、その後ろからこれまた見慣れた坊主頭が現れた。
これも言わずとも分かるだろう。ヒロだった。ヒロは白い生地に何か英字がプリントされた半袖Tシャツに、下は膝より下くらいの長さのジーンズを履いていた。何やら居心地悪そうに部屋をキョロキョロしていた。
「ヒロくん、よく来たね!」
裕美が嬉しそうにヒロに駆け寄り挨拶をした。ヒロも何か挨拶を返していた。
「ようこそヒロくん!ゆっくりして行ってね?」
絵里もヒロに優しい言葉を掛けた。
「あ、はい!今日はよろしくお願いします!」
ヒロは頭を深々と下げていた。
「あははは!そんなに畏まらないでよ?今日は花火大会なんだから!」
絵里はそう言うと、ヒロの背中を軽く叩いた。ヒロは頭を掻きながら笑っていた。
その間私は裕美に近づき、耳元に顔を近づけ聞いた。
「…何でヒロがここに居るのよ?」
「え?」
裕美はキョトン顔で私を見てきた。
「当然でしょ?私とアンタ共通の友達を呼ぶとしたら、ヒロくんしかいないじゃない?」
裕美は不思議そうに首を傾げながら答えた。声が聞こえたのか、絵里に構われていたヒロが、こちらを向いて笑顔で頷いている。
「…はぁ、まぁ今日はお祭りみたいなものだからね。ああいう能天気な男が一人くらい居た方が盛り上がるのかも」
「おーい、聞こえているぞ?」
ヒロが目を細めながら抗議してきた。
「あったりまえでしょ?聞こえる様に言っているんだから」
「まぁまぁ」
こんな私達の様子を、義一と絵里は揃って微笑ましげに見ていた。
「そういえば義一さん」
私は今度はリビングの入り口付近の、立ちっぱでいる義一に声を掛けた。
「何でヒロと一緒に来たの?まさか待ち合わせて?」
私としてはとても不思議だった。何故なら初めてヒロと義一の家に行った以来、ヒロはそれから私と一緒に一、二度くらいしか会ってなかったはずだったからだ。それもたまたま出会した形だけだ。とても連絡先を交換出来るほど、仲良くなっていたとは思えなかった。
義一は視線をヒロに向けながら、愉快な調子で答えた。
「いやいや、まさか!僕は君に誘われてこの近所まで来たんだけど、なんかどこかで見たことのある顔に出くわしたんだ。誰だっけなぁって思い出していたら、すっかり大きくなって逞しくなったヒロくんだったから、久しぶりに見たと嬉しくなって、思わず声をかけたのさ。ねぇ、ヒロくん?」
声をかけられたヒロは、苦笑まじりに答えた。
「ちょっと早めに来すぎちゃったからよぉ、少しこの辺りで待っていようと思ったすぐ後に、お前の叔父さんに急に背後から声を掛けられたんだ。そりゃーもう、驚いたのなんのって!まさか誰かに声を掛けられるとは思わねぇからさぁ。この近所には友達も住んでいないしよ。近所まで来たら裕美が連絡してって言ってくれてたから、裕美でもないだろうしってんで…表通りはあの通りのお祭り騒ぎだけどよ、ちょっと裏に入ると何処も暗いだろ?だから慌てて身構えちまったよぉー…叔父さん」
ヒロは腰に手を当てると、やれやれと首を横に振りつつ言った。
「今度からは気配を消して、後ろから声を掛けないでくれよ?さっきも言ったけど」
「あははは!ごめんよ」
義一は一人で愉快といった調子で答えた。
「…え?叔父さん?」
さっきまでヒロの側にいたが、いつの間にか私の横に立っていた裕美が、義一の方を見ながら言った。
「そうよ。私のお父さんの弟。つまり私の叔父さんなの!」
私は祭りの雰囲気もあってか、若干テンション高めに答えた。紹介された義一は裕美に向かって会釈をした。
「あぁ、君が裕美ちゃんだね?いつも琴音ちゃんから話を聞いてるよ。これからも仲良くしてあげてね?」
「あっ、はい!分かりました!」
裕美は咄嗟のことだったので、ドギマギしつつも元気に答えていた。義一は満足そうに頷いている。
「…義一さん、そんな叔父さんらしいセリフは似合わないよ」
私はすかさずニヤケながら突っ込んだ。と、その後すぐ私に乗っかる形で、絵里もジト目を流しながら言った。
「そうよギーさん。あんまり慣れない事をすると、すぐにメッキが剥げるんだから止した方が身の為よ?」
「おいおい、あんまりな事を言うなよぉー…まぁ実際そうだけど」
「…ふふふ」
いつもの義一と絵里のやり取りに、思わず私が吹き出すと、義一と裕美も顔を見合わせ笑い出した。何の事だか説明不足すぎて訳が分からなかっただろうが、雰囲気のなせる技で、裕美とヒロも顔を見合わせると笑い出すのだった。

「ちょっとぉー、ギーさん。それはこっち!」
「え?じゃあこれは?」
「もーう!それはあっちだって言ってたでしょう?」
義一と絵里は最後の準備に追われていた。私と裕美はテレビに向かっている二人掛けのソファーに座り、その様子を見ていた。ヒロは早速ベランダに出て、河原の方を眺めていた。
「…ねぇ?」
「うん?」
裕美が二人の様子を眺めながら聞いてきた。
「何?」
「あのさぁ…」
裕美は私の耳元で囁く様に言った。
「あの二人って、付き合ってるの?」
「え?」
私は思わず間の抜けた声を出した。変わらず準備に四苦八苦している二人の様子を眺めつつ、私も裕美の耳元に近付き小声で答えた。
「…いーや、付き合ってはいないみたいだけど…お似合いよね?」
「あっ、そうなの?…ふーん、でもあんたの言う通り、お似合いね」
裕美はクスクス笑いながら、焦ったそうに眉間にシワを寄せ文句を言う絵里と、それを涼しい顔で軽く躱し続ける義一を見ていた。
「それにアンタの叔父さん…カッコいいしね?絵里さんみたいな美人にも、見劣りしないし」
「…ダメよぉ、狙っちゃあ?私としては、絵里さんと一緒になって貰いたいんだから」
私は義一の事を、中身ではなく容姿とはいえ、褒められて嬉しいのを抑えながら、半分冗談のつもりで返した。が、反応が無いので裕美の顔を見ると、笑ってはいたが真剣味を帯びていた。そして静かな調子で、でもにこやかに答えた。
「…あはは、心配しないでよ!私もアンタと同じ気持ちなんだから!…まぁ今日初めて見たんだけど」
「…ふふ、初めて見てそこまで分かるのは、あなた、案外男を見る目があるわよ」
私は軽く隣に座る裕美の肩を、ポンポン叩いた。が、裕美はあんまり嬉しくなさそうだった。
「…はぁ、そのセリフを他の女子なりに言われたら、どんなに励みになる事やら…。恋愛経験なく、初恋もまだで、こんな場に絵里さんの事があるとは言っても、自分の叔父さんを連れて来ちゃう様な女の子に言われても…正直微妙よ」
「なによぉー」
私は不満げに言ったが、口元のニヤケを抑えられなかった。終いにはまた、裕美と二人でクスクス笑い合うのだった。

そろそろ七時半になろうという時、私達全員はベランダにいた。いつものテーブルを外に出し、その上に宅配で来たオードブルの盛り合わせなり全てを乗せた。お皿や箸フォークも完備だ。そして人数分のグラスに飲み物を注いだ。大人チームの義一絵里ペアはお酒だった。義一はビール、絵里はレモンサワーだった。対して私達子供チーム。私はこの日はサイダーにした。裕美はオレンジの炭酸水、ヒロはコーラーだった。
各々グラスを持って、たまに会話を交わしながら、今か今かと開始を待った。
今まで何度もこの地元の花火大会は見てきたが、過去に一緒に過ごした人々、その時間には申し訳ないが、この年が一番ワクワクしていた。予定を組んだその日からだ。今までこれ程の高揚感は無かった。あまり表に感情を出すのが恥ずかしいタチのせいで、素直に表に出せないから、下手するとつまらなそうに見えてたかも知れないが、心の底ではこの場にいる誰よりも楽しみにしていた自負があった。まぁ尤もこの場には、一々私の説明を要する人間は、一人もいなかったけど。
それはさておき、ふと隣の他のマンションが見えたので、見て見ると、どの部屋の住民もベランダに出ているのだろう、部屋から漏れる明かりを背に黒い人影が、それぞれのベランダで蠢いていた。その各各所で、各々のスタイルで花火大会を今か今かと待っているのだろう。
さっきからずっと手元のスマホを覗いていた絵里が「あっ!」と声を出したかと思えば、目の前河原の辺りから、ヒューっと音がして、その後大きな音と共に大輪の花が、遮る物ない夜空に煌々と咲いて花火大会の開始を告げた。

この花火大会は約一時間ばかりの”火花”のショーだ。始めにオーソドックスな花火が上がり、その後に”和火”という徳川家康公から始まる、オレン