朽ち果つ廃墟の片隅で 第一巻

第1話 病室

全身を鈍く隈なく覆う痛みに目が覚めた。ただただ気怠く瞼が異様に重く感じ、開けることすら億劫に感じる程に気力を起こせない。試しに体を動かしてみようとすると、外からどうかはわからないが、耳の内側で節々がキシキシと音を鳴らして、一緒に鈍いままであった痛みが、一気に勢いを増して私自身に無理をするなと、原始的な信号を送ってくる。
 しかしその頑張りも虚しく報われず、何か硬くて頑丈なもので固定されているのか、いくら力が入らないとはいえ、全く身動きが出来ない。そもそも私は一体最後何をしていたんだっけ?
 動けないのならどうせ暇だしと、一つ考えをまとめてみようとしても、何か頭に強烈なショックを受けたか何かわからないが、うっすらと、しかし全く先を見通せる程ではないくらいの靄が一面に張り付いているようで、ただでさえ気力が湧いてこないのに、雲を掴むような虚しさしか残らなかった。
 さて、もうまどろっこしいのは止めて、覚悟を決めて目を開けるか。
 自分のものに違いないのに他人のを動かすかのように、非常に拙く恐る恐る瞼を開けると、まず目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。近くに強い光源がないためか薄暗く、どこか陰鬱な印象を受けた。
気が付いた時から不思議に思っていた、口の周りの違和感。どうやら吸入器のようなものが設置されていて、生暖かい蒸気を口元に頻りに送り続けている。首も固定されてるので周囲を見渡せなかったが、眼球だけは自由がきいたので、ふと左に動かしてみると何本かのチューブが伸びていて、すぐ脇の点滴台の上部に繋がれているようだった。こちら側からは見えなかったが部屋が薄暗かったお陰で、頭のすぐ脇に置いてある装置には液晶画面があって、断続的に緑色のライトを点滅し続けてるのがわかった。
 流石に頭の働かない私にも、今自分がおかれている状況がうっすらと把握できるようになってきた。
「そうか…ここは病院か…。で、今のこの状況…。」
と誰に言うでもなく、話せるのか確かめてみるのも含めて声に出してみた。ひどく掠れていて、聞き親しんだ自分の声とはとても思えなかったけれど、どうやら短い会話をするくらいは出来そうだ。
 今更ながら病院にいること、そして身体中を固定されていること、さっき無理に動かそうとしたツケに払わされた激痛も、今はやんわり落ち着き鈍痛に戻ったこと、どうやら自分はしこたま全身を打つような事態に遭ったようだった。
 と、こうして幼い子供のように順を追って考えを巡らせていると、ふと暗い部屋の中で精一杯私に向かって手を伸ばし、走り寄ってくる男の子の情景が真っ白な天井をスクリーン代わりにして浮かびだされた。彼は私のよく知る男の子だった。
 その情景がまざまざとはっきり輪郭を持ち始めたその頃、誰かが部屋の外でスタスタと、乾いたスリッパの音を鳴らして歩いてくるのに気づいた。段々と音が大きくなるところを見ると、どうやらこの病室に近づいているようだった。やはり想像通りすぐそこのドアの前で足音は止まり、カラカラと滑らかにスライド式のドアを引いて人が入ってきた。
 薄く目を開けて何者か見極めようと、まだ視界がボヤけているにも関わらず、静かにジッとその人物を見た。ハッキリと判別は出来なかったが、ぱっと見まだ二十代だろう、いかにも新米風な看護師が静かに私が横になっているベッドに近づき、業務に徹していた。
 あらかた片付いたのか、フッと一息ついたと思えば私の頭の上あたりに顔を近づけて来た。目を瞑っていたのだが、気配のようなものを感じすぐに察せられた。そのまま取り敢えず理由もなかったが、まだ混乱してるし急ぐわけでもなかったので落ち着くまで狸寝入りを決め込むつもりだったが、それはすぐに無理になった。
 新米看護師がおそらくそこにあるのであろう、頭に巻かれた包帯に手を伸ばし、おもむろに解こうとした時傷に触れたのか、条件反射で体がビクッと反応した。
「…え?」
私はまだ目を瞑ったままだったが、その声からあからさまに驚いているのが感じられた。
 それから看護師は慌ただしく私の枕元にある、おそらくナースコールだろう、そのボタンを押し、興奮を抑えられない調子で応援を呼んでいた。
 流石にこれ以上無視はできないと観念した私は、覚悟を決めて目を開けたが、それと同時に感じるくらいに、瞬く間に病室は十数人ほどの人々で埋め尽くされた。白衣を着た老若男女、彼等は医者だとすぐに察せられたが、その後ろ少し控えめにこちらを覗き込む、少しヨレヨレのクリーム色したビジネスコートを羽織り、半分心配してくれてるような、半分私に対して警戒、強めに言えば敵対心すら覚えさせるような表情でこちらを見ていた。四十もしくは五十を超えてるかもしれない、街中ですれ違えばすぐ忘れそうな中年のおじさんだったが、あまりにこの空間では異質で、却って悪目立ちをしていた。
そのおじさんと目が合っていたので、視線をそらすのも癪だったからジッと見ていると、人混みをかき分けてベッドの側まで近づいてくる男女がいた。先に出て来た女性は頭を後ろでまとめているが、所々髪の毛がはねていて、慌てて来たのがよくわかる様相だった。普段はしっかりしていて、人前でダラシない姿を見せるのを忌み嫌っていた人とは思えないほどの狼狽振りだった。私のよく知る人だ。母だった。
 母は私の姿を認めると口元に手を当て、気丈でいようとしていたみたいだが堪えきれず大粒の涙をこぼし、途中までゆっくりと静かに近づいて来たが、急にベッドに駆け寄り私の胸あたりの布団に顔を埋めた。
「琴音…琴音!」
母は何か言うでもなく、ひたすら涙声で私の名前を呼びかけ続けた。こんな母を見るのは生まれて物心付いてからは初めて見る姿だった。遅れて近寄って来た男性は、表情に疲れが見えたが、ロマンスグレーの髪の毛はしっかりとセットされていた。が、いつもと違っていたのは男性も他の医者と同じ様に白衣姿であったことだ。そして、周りの医者が男性に向かって深々とお辞儀をしている。今更ながら初めて仕事姿を見て、本当に医者なんだと実感が湧いて来た。父だ。
 父は母と打って変わって何も動じていないかのように微動だにせず立っていたが、顔には憐れみとも、すまなそうともなんとも言えない表情を浮かべて、私の方を口も開かず静かに見ているだけだった。そうか、ここはお父さんの…。
 しばらくすると担当医師と思しき老齢の男性医者が両親に向かって、私の体のことだろう、何か色々と話しこみ始めた。皆の意識が両親と医者に向いたので、改めて独り考えに向かうことが出来た。先ほど思い出した情景はもうハッキリと今となっては思い出せた。どうしてそのようになったのかも。
ふと思いも寄らず、呆れともなんとも言えない苦笑が漏れた。そして誰も聞いていないのをいいことに、何もない天井に向かって、ため息交じりにボソッと声を発した。
「結局死ねなかったよ…義一さん」

第2話 おじさん

「ほら、琴音。起きなさい。もう着いたわよ」
「うーん…」
 目を擦り起きたのは車の後部座席だった。起こしてくれたママは、全身を基本黒い服で纏めていて、今まで見たこと無かった装いだったが、背も高く背筋もピシッとしていて、子供ながらに立ち居振る舞いに無駄がなく精錬されているのがわかった。スラッとしている姿が友達や同級生のママとは違って見えて、自慢だった。
「二人共、何をもたもたしているんだい?早く外に出なさい」
「はい、パパ」
 パパは車のトランクを開けてお花やら紙袋などを取り出しながら、こちらに声を掛けた。
パパもママと似たように黒で統一されたスーツを着て、下のワイシャツは真っ白だったけどネクタイも真っ黒だった。パパも背が高くて、友達のパパとかはお腹が出てたりするのに、ママと同じようにやはりスラッとしていて、また幼いながらにパパが医者をしているというのは凄いことなんだと、事あるごとに近所の大人たちに言われるので、私の中でパパというのは立派で偉い人なんだというのが脳裏にこびりついていた。
 かくいう私も、今日は真っ黒というそんなに好きな色では無かったけれど、襟元が真っ白でよく見るとお花が象られている可愛いワンピースを着ているせいか、普段よりも訳も分からずウキウキしていた。
 デパートに行ってこの服を着た時に、絵本で見た可愛らしい魔女に似ていて、これを買って貰った時は、当時まだ小学校二年になろうかという頃の私には、何よりものプレゼントだった。
 ようやく着れる機会が訪れ、何度も説明されたはずだったけど、てっきり大きなお城があるような遊園地に連れてって貰えると期待していたが、今こうして車から降り周りを見渡して見てガッカリした。たまに車で前を通り過ぎていたお寺だったからだ。
 でも確かにガッカリしたけど子供ながらに、あのパパママにはしっかりしているワガママじゃない子でありたかったから、多分ブー垂れた表情はしていただろうけれど、何も言わずお寺の正面玄関に向かう二人の後についていった。
「今日はお世話になります」
パパは言いながら紙袋から額に入れた写真と位牌を受付のおばさんに渡した。
「どうもお疲れ様です。他の皆様は先に来られてますよ。いつもの控え室にいらしてます」
「そうですか。有り難うございます。ではよろしくお願いします」
 私達は下駄箱で靴を脱ぎスリッパを履いて、私は辿々しく、少し音を立てながらワックスで磨き上げられた廊下を通り控え室へと向かった。
 中に入って見るとパパと同い年くらいの男女が、これもまた同じように黒い服装に身を包み、用意されたお茶やお菓子を食べながら談笑していた。皆私の知らない人達だった。
と一人のおじさんがこっちに気づくと、手をふり笑顔で話しかけてきた。
「やぁやぁ!喪主が一番遅れちゃいけんじゃないか?」
と、やや非難めいた言葉を吐いたが満面の笑みだ。
「そう言わないでくれよ聡兄さん」
「兄さん?」
と私が気になったのでとっさにパパに聞き返した。
「パパのお兄ちゃんなの?」
とパパに聞いたつもりだったが、聡は私に気づくとまた人懐っこい笑顔を浮かべて、私と視線が合うようにしゃがみこみ、そして答えた。
「そうだよ嬢ちゃん。君のパパ、栄一の兄ちゃんだ」
「いやいや違うだろ」
と間髪入れずパパは聡にツッコミを入れた。おウチでは見たことなかったパパの姿に、私は思わず吹き出し笑ってしまった。
「お、嬢ちゃん。笑いがわかってるねぇ。いいぞ」
「ほら、娘が本気にするから。このおじさんはな」
とまだ笑顔を顔に湛えたまま、パパは聡の肩に手を掛けながら私に話した。
「私のパパの妹の子供だよ。つまりは従兄弟さ。琴音、従兄弟はわかるね?」
「うん、なんとなく」
と私がパパの方を見て答えると、また聡が笑顔で親しげに話しかけてきた。
「嬢ちゃん。名前は琴音だったね。今何歳になるの?」
「7歳」
「来月から小学校の二年生だよ」
「は?…あ、そうかい。てことは琴音にとっての爺ちゃんが亡くなった時は…」
「生まれてはいたけど何ヶ月かってとこじゃないかな?」
「そうか。琴音ちゃん、俺の事覚えてるかい?」
「えっと…」
とっさに振られて私は上目遣いでパパを見ると、すぐに察したらしく頭を撫でながら
「何だ、琴音らしくないぞ。覚えてなかったら素直に言えばいいんだ。あなたみたいな中年のおじさんは知らないですって」
「おいおい、ひどいな」
「えっと…覚えて…ないです」
私はパパのスーツの裾を掴み、ドギマギしながら答えた。すると聡はしばらく表情を暗くし、大げさに肩を落とす仕草をしていたが、すぐ笑顔に戻り
「そりゃそうだろうな。なんせ前回は今から三年か四年前だもんな。でも」
聡は話を一旦打切り、控え室をぐるっと見渡すとまた私に視線を戻し
「同じ日付同じ部屋で会ってたんだぜ?」
「へぇ…」
「まぁ俺らが早く来すぎちまっただけだから、まだしばらくあるし、ゆっくりしてなよ。ところで栄一、今日の七回忌なんだが…」
聡は私の頭をひと撫でしたかと思うと、パパを連れ立って部屋の外に出ていってしまった。
 聡との余りに強烈な会話をしたせいで、今自分がどこにいるのか忘れてしまうぐらいに惚けてしまったが、落ち着きを取り戻し周りを見渡すと、同い年の子がいないことに気づいた。つまんないな…そう言えばママは?と、ママの方を見て見ると、こちらもまたママと同じくらいのおばさんと和かに、すっかり私のことを忘れて話し込んでいた。
 すっかり手持ち無沙汰になり、ひとり椅子に座って好きでもない苦くて渋いお茶を、ふうふう息を吹きかけながら飲んでいると、少し慌ただしげに乱暴にドアを開ける音がした。
 音のした方を見ると、また見た事のない男の人がドアの前に立っていた。一瞬辺りは静かになり、皆の視線は男に集中したが、中々話しかける人はいなかった。男は男ではにかみながら頭を掻いていたが、この状況をどうにかしようとはしてないらしく、突っ立っているだけだった。この男も同じように黒い服を着ていたが、どこか他の大人の人とは違って見えた。それはおそらく女の人かと思うくらい肩にかかるかかからないかくらいの長髪だからかも知れない。
 私は男が入って来た時からずっと観察していたら、ふと男と目があった。私はギクッとして視線を逸らそうとしたが、目にかかるほどの前髪をかき上げて笑顔を向けられた時、身に覚えがあるのに気付いた。えっと…誰だっけ?
「おいおい、出入り口に立ってたら邪魔だろ?どいてくれ…っておぉ!」
と何か用事を済ましたらしい聡が戻って来たと思いきや、男を見るなりさっき私に見せた同じ笑顔を男に向けて話しかけた。
「ちゃんと来たか!今回は来ないかと思ったぞ」
「まぁ一応…父さんの七周忌だしね」
と聡の勢いに押されているのか、男は苦笑いを浮かべながら答えた。
「聡兄さんそんなところで何を…あっ」
と遅れて入って来たパパは男の姿を見るなり、何とも言えない、苦々しいとまでは言えないけれど、歓迎はしてない表情をした。男は少しドキドキしてるのか、どうパパに接すればいいのか、距離感がつかめない調子で話しかけた。
「や、やぁ兄さん。久しぶりだな」
「…久しぶりだな、義一」
と感情のない口調で一言挨拶すると、ママたちがまだおしゃべりしている集まりの方へ行ってしまった。一部始終を見ていた聡も流石に苦笑いを浮かべながら
「相変わらずだな、お前ら兄弟は」
「まぁ、いつもの事だからね」
と男も力無い笑みで返した。同じように一部始終を見ていた私も、今来たこの男がパパと話していたこともあり、短い会話の中でどうしても聞き捨てならないところがあったりで、人見知りな性格よりも好奇心の方が勝り、思い切って話しかけてみることにした。椅子から降りて恐る恐る近づくと、数メートル先で二人が私に気づいた。先に口火を切ったのはやはり聡だった。
「お、琴音。何か用かい?ていうか」
聡は親指を立てて、その先を男に向けながら
「こいつに用かな?」
「えっと…そ、そう」
私はモジモジしながら、チラチラ男の方に視線を送りつつ答えた。
「だとよ義一。お前この嬢ちゃんのこと覚えてるかい?」
聡に聞かれた男はさっきまで合わせなかった視線を私にまっすぐ向けた。時折前髪が邪魔なのか、鬱陶しげにかき上げながら。
「あぁ…覚えてるよ。琴音ちゃんだろ?」
「え?私の名前も知ってるの?」
 意外だった。さっき遠くから会話を聞いてた限りでは、私の話題なんか無かったし、当然名前を知るすべは無かったからだ。でも後になって思えば変でも何でもない。何せこの人はパパの弟なんだから。でも、それでもそう思ってしまったのは、この人がこの空間の中で馴染めていなくて浮いていたからだと思う。咄嗟に答えた私の返事に悪い気もしなかったのか、続けて
「そうだよ。確か三回忌の時に君を見たんだけど、流石に覚えてないよね」
「あったりまえだろ!俺の事だって覚えてなかったんだから」
「それは凄いね。こんなにうるさいのに。一度見れば忘れたくても忘れられないよ」
「なんか言ったか?」
聡はパパとの会話と同じように、わざと怒ったように見せたが、すぐ笑顔になって男の背中をバシバシ叩いていた。
「じゃあ改めて自己紹介しないとな。ほら」
と聡は儀一の背中をポンと押し出し、私により近づけさせた。男は部屋に入って来たときと同じハニカミ笑顔で、頭をポリポリ掻きながら
「本当に無茶振りするんだからな…えっと、君のパパ、栄一の弟の義一です」
と言い終わると、今度は聡が私の背中を押して、より近づけさせながら意地悪い笑みを浮かべて
「ほら嬢ちゃん。自己紹介されたら今度は自分がしなくちゃ」
「う、うん…えっと」
と言われたので私も仕方無げに、でもさっきまでの緊張感はなく笑顔で言えた。
「琴音です」
「しっかし、お前なぁ…」
聡はおもむろに義一の髪に手をかけて、梳いたり持ち上げたり遊びながら
「この髪の毛はどうにかならんのか?お前自身もそうだろうが、周りのお前を見る、少なくとも俺には見てるだけで鬱陶しいぞ」
「もちろん僕も鬱陶しいんだけど中々出不精で、今日こそ切りに行くぞと思うんだけど途中で挫折しちゃうんだよ」
「何じゃそれ…?ん?琴音どうした?」
「いや、だって…」
いつの間にか私はクスクスと爆笑とまではいかないまでも、笑いを堪えきれず吹き出してしまった。
「だって、髪切りに行くだけで凄い大変なことしに行くかのように言うんだもん」
「確かになぁ…昔からコイツは何かずれてんだよ」
とまた義一の髪を弄びながら聡は呆れた調子で答えた。
「そうだ義一、ちょっと待ってろ。確かカミさんがヘアゴム持ってたはずだから。おーい」
聡はおもむろにママたちの方へと歩いていき、何か会話をして、集団の中の一人から手渡されたかと思うと、また此方へ戻って来た。
「ほら、後ろを向け。縛ってやる」
「うん…あ、いった」
「我慢しろ。俺だって野郎の髪なんか触りたくないんだから。乱暴されたくなけりゃ、今度からせめて縛ってから来い」
さっき散々パラその男の髪をいじり倒していた人のセリフとは思えなかったが、それでも結局丁寧に肩まであった髪の毛を後ろで綺麗に纏め上げた。
「どうだ、琴音。顔が見える方がいいだろう?」
「…うん。その方がいいよ」
「そうかい?…これぐらいは頑張るか」
「頑張るってほどじゃないだろう」
 聡と義一が笑いあってる傍で、改めて義一の露わになった全貌をマジマジと見た。そうか、どっかで見たことあると思ったら、パパにそっくりなんだ。流石兄弟なんだな…。パパと同じで義一も目や鼻といったパーツが結構はっきりしていて、二人とも痩せ型だから余計に中性的な、下手すると女性に間違われそうな程だ。
 さっきまではにかんだ遠慮がちな笑みしか見せなかったが、今の義一は心なしか、心の底から笑ってるように私には感じた。
「望月さん…」
と、ちょうどその時、部屋のドアがノックされて先程受付をしていたおばさんが静々と中に入って来た。
「ご歓談のところ申し訳ありません。支度が整いましたので、ご本堂までお願いいたします」
本堂に着くと、さっきパパが受付に渡していた位牌と写真がすでに飾られていて、私たち家族と今回来た親戚の分の椅子が、余裕を持って用意されていた。各々椅子に座り、住職が来るのを待つ間、義一の姿を探すと、少し離れた所に独りヒッソリと座っていた。
 住職のお経や挨拶も済み、すぐ裏のお墓までお塔婆や花などを持って行くときも、墓の前で線香あげる時も、いつも一歩離れている感じだった。
 一通り済ませて皆して控え室に戻ると、さっきと違うテーブルが用意されてその上には、たまにポストに来るチラシに書いてあるみたいな寿司が幾つか並べられていた。
「えぇー、今日は忙しい中…」
とパパが献杯の挨拶をしてる時、また義一の方を見ると、義一は義一で写真立て、私が見ることが叶わなかった、私にとってはお爺ちゃんの写真を静かにジッと見ていた。
「では、献杯」

 一度食事が始まるとすぐに和気藹々とした雰囲気になった。さっきはママと話していて、喋れなかったおばさん達が、私が食べている周りを囲んであれやこれやと根掘り葉掘り質問攻めしてきた。正直、両親以外の大人とこんな一遍に会話したことがなかったせいか、すっかりくたびれてしまって、何か理由をつけて逃げ出した。
 どこか落ち着けないかとフラフラしてたら、義一が独り寿司も食べず、ただ片手にビールを注いだコップを手に、相変わらずお爺ちゃんの写真を眺めていた。ふと私の視線に気付いたのか、私の姿を認めると優しく微笑みかけて呼びかけた。
「…やぁ琴音ちゃん。独りかい?」
「うん。まあね」
私は義一が座っている椅子から一つ離れた椅子に座りながら答えた。
「おじさんは何をしていたの?」
「僕かい?僕は…」
義一は私の方を見ていたが、視線を写真の方に向けながら
「父さん…お爺ちゃんを見ていたのさ」
「ふーん…」
私も一緒にお爺ちゃんの写真を眺めながら言った。足をパタパタさせながら
「ねぇ。お爺ちゃんってどんな人だったの?」
「ん?そうだな…」
とここで義一は顎を上げて視線を宙空に投げながら答えた。
「僕と琴音ちゃんのパパにとってのパパ、要はお爺ちゃんだね。名前は、望月誠三郎。琴音ちゃんのパパが勤めてる…仕事してるのは病院だって知ってるかい?」
「知ってるよ。お医者さんなんだもん」
「そう。君のパパは今そこで副院長をしてるんだけど、その病院は元々琴音ちゃんのお爺ちゃんが始めたんだよ」
「へぇー、そうなんだ。じゃあお爺ちゃんも偉かったんだ」
と私が言うと、こちらを少し見て何とも複雑そうな表情を浮かべながらまた続けた。
「『も』か…。まぁ偉かったのかどうかは分からなかったし、今も分からないけど粋人だったよ」
「す…スイジン?あの水の神様の…?」
「え?…あぁ!いや違うよ」
と最初は訝っていたが、ハッと気付いたようで、またすぐ聡と会話してたような笑みを見せた。
「粋人ていうのは、そうだね…なんて言えばいいのか。お洒落?な人かな…わかる?」
「うーん…わかんない」
「だよね…まぁとりあえず、普通の人よりも好きなものが多かったって事かな」
「あぁ、それならわかる!」
「よかった。でも琴音ちゃん、水の神様の水神なんて、よく知ってたね?」
「うん、お家に水の神様の絵が飾ってあったから。前にパパに教えてもらったの」
「あぁ、そっか…あの絵は琴音ちゃん家にあったんだ」
と義一はまた宙空、いやもっと遠くを見るかのように目を細めて呟いた。
その様子を見た私は急に張り切って
「そんなにもし見たいなら、琴音の家に来たらいいよ。おじさんならパパに言って来れるでしょ?」
と何も考えなしで言うと、またさっき私が粋人を間違えたときと同じようにキョトンとしたが、今度は寂しそうな顔をして
「そうだねぇ…アレは元々お爺ちゃんの絵だったんだ。僕も子供の頃よく見ていたから、たまに見たくなるんだけど…まぁ、兄さんの所にあるなら安心だな」
「ねぇおじさん」
と私は今日の一連の流れを見てて、どうしても聞きたいことを義一に投げかけることにした。
 いくら幼いとはいえ、自分でいうのも何だけど両親の顔色をそれなりに伺って過ごしていて、それなりに人の線引きが出来てるつもりでいた。このおじさんは、まだ小学低学年の、本当に幼い私にも気負いなく同じ目線で語りかけてくれたこと、要はとても正直な人だと、私の中では当時印象だけだったけどそう認識した。だから敢えて聞きづらいことを聞くことにした。
「さっき琴音が近づいた時、独りかって聞いたよね?」
「え?…うん、聞いたね」
「でも今日おじさんはずっと独りでいるよね?聡おじさんは除いて」
「…」
「おじさんはみんなと仲良くないの?喧嘩してるの?パパとも?」
最後の方は畳み掛けるように矢継ぎ早に質問してしまった。実はこの頃からすでに私はいわゆる”何でちゃん”だった。
幼稚園の頃、先生の言動に何か疑問が見つかると、今みたいに困らせる気は無くても気になったら、すぐ口から疑問が飛び出してしまう。あまり怒られた記憶はないけれど、幼稚園から帰って何度かママに「あまり先生を困らせるんじゃありません。わかりましたね?」と有無も言わせない感じで、静かに怒られたことがあった。それからは何か疑問に思っても、これはしていい質問なのか?これを聞いたらまた怒られるのか?とこの時よりもっと幼い時から自分で自分を縛り続けて来た。
 それがこんな拍子で発作のように”何でちゃん”が起きてしまうとは、自分でもビックリしていたし、また大人から文句言われて、呆れられちゃうんじゃないかと内心ビクビクだったけれど、とりあえず義一の返事を待つことにした。
 義一はまたぽかんとしていたけれど、しばらくするとふふっと笑い、そして吹き出しそうになるのを堪えながら私に視線をまっすぐ向けて答えた。
「いやぁ、なるほどね!こりゃ一本取られた。確かに独りでいる僕には言われたくなかったよね?いやぁ、失礼失礼」
義一は涙を浮かべるほどに笑顔を浮かべたので、今度は私の方がポカンとする側だった。
そんな様子を気に留めることもなく、義一は続けた。
「仲は悪くないよ。まぁ良くもないけれどね。お互い無関心でいいんじゃないかなぁ。あ、無関心は難しいか…琴音ちゃんのパパも僕も今が一番良いってことさ」
「あ、そ、そうなんだね?」
と聞いたのは私の方なのに、未だ呆気にとられたまま気の抜けた返事しかできなかった。義一はそんな私の様子を見て、少しばかり考えると何か察したようで、今度は優しい笑みで語りかけた。
「何で普通の人なら、もしかしたら怒るかもしれないことを聞いたのに、僕がむしろ笑い出したのに驚いたんだね?」
「う、うん…だって」
と私はもっと幼い頃からの話を、かい摘みながら義一に説明した。最後まで黙って目を瞑りながら義一は聞いていたが、私が話し終わると何かを反芻するように黙りこくり、ゆっくり目を開けたかと思えば、さっきと変わらぬ優しい笑みで話し始めた。少し楽しそうに。
「なるほどねぇ…確かに普通の大人はね、琴音ちゃんみたいな子供が、次から次へと質問をぶつけて来たら参っちゃうんだよ」
「で、でもどうし…!」
と言いかけて私は、大袈裟に口を両手で塞ぎ、その先を言わないように口噤んだ。その様子を見た義一は優しく私の手を取って、口元から外しながら
「ん?途中でやめることはないよ?何を言いかけたんだい?遠慮しなくていいよ?」
「じゃ、じゃあ何で大人に色々質問しちゃいけないの?何でそれで大人は困っちゃうの?」
私は思わず椅子一つ分離れて座っていたのに、身を乗り出したため、義一の隣の椅子に座ったことも気付かず、言葉を投げつけるように言った。興奮している私とは真逆に、冷静ながら微笑み浮かべて、私の頭を撫でながら
「そう。それでいいんだ。むしろそれが大事なことなんだから。そうだな…」
義一は顎に手を当てて考えるポーズをしたと思うと私に視線を戻して答えた。
「それはね…本当は琴音ちゃんが聞いてるその大人も、実のところ良くわかってないからなんだよ」
「…え?どういうこと?」
「つまりまず君自身のことを考えてみればいいのさ。琴音ちゃんが聞くとき、ちゃんと答えをくれると思って聞くよね?」
「うん、それはそうだね」
「それは聞かれてる大人の方もわかっているのさ。だからちゃんと答えてあげないといけないと思う。でももしその大人の人が、正直であればあるほど困ることがある」
「え?何で?」
「それはね、質問に真面目に答えようと、大人は大人で改めて考えて見るんだけど、結局わからなかったらどう?質問に答えられないよね?どうすればいいかな?」
「うーん…琴音だったら素直にわからないっていうかな?」
と私が答えると、ますます義一の表情は優しい笑みになった。
「そうさ。それが本当は正解なんだよ。素直に『今改めて聞かれて私にもわからないんだ。じゃあ君と私とで、何でか一緒に考えよう』って言われたら、質問した琴音ちゃんはどう答える?」
「賛成ー!」
私はその場で両手を上げながら言った。
「そう。さっきも言ったけれどこれが僕も正解だと思うんだ。でも普通の大人は出来ない」
「それはまた何で?」
この頃にはすっかり義一に対して遠慮というものは無くなっていた。でもここで義一はこれまでの勢いを止めるかのように一つ息を吐いて、今度は苦笑いしながら言った。
「これ以上は流石に琴音ちゃんにはある意味難しいな。これは大人のことになってくるから、もう少し琴音ちゃんが大きくなって大人になっても今の疑問を覚えていれば、分かるかもしれないね」
「えぇー。せっかくここまで来たのに?」
と私はほっぺを膨らませて拗ねて見せた。でももちろん本気ではなかった。義一は苦笑から微笑みに表情を変えて、また優しく私の頭を撫でながら言った。
「でもこれだけは忘れないでいてね。どんなに小さな疑問、変だと感じたことはそのままにしちゃいけないよ?むしろ琴音ちゃんが今の歳でこんなにいろんな事に興味を持って、それだけじゃなく疑問に思えるというのが大事なんだ。さっきの水神の話だって、本当に驚いたんだからね。自分の家の何気無く掛かっている絵のことに興味を持って、しかも教えられたことを覚えているんだから。ただもしかしたら、今僕にしたように質問ばかりしたら、多分大人だけじゃなく同い年からも変に思われるかもしれない。これは琴音ちゃん次第だけれど、周りに変だと思われても気にしないで走られるかも大事だよ。…いやぁ」
と私がすぐそばで視線を逸らさずまっすぐ真剣に聞いてるのに恥ずかしくなったのか、はにかみ頭を掻きながら
「流石に小学生に話すような事じゃなかったかな?どうも自分が子供なせいか、相手の歳とか全部無視して喋る癖があるんだ僕は」
「でも何となくだけどおじさんの喋ることは、わかったような気がするよ」
「そうかい?それは良かった。琴音ちゃんは今のままが一番いい…っと」
「え?」
義一が視線を私の背後に流したので、私もその視線の先を見ると、パパが無表情で冷たい視線を投げ掛けながら私たちの方へゆっくり近づいて来た。そばまで来るとパパは静かに、でも重たい調子で
「琴音。いつまでお喋りをしている。そろそろ帰るよ」
「う、うん。でも…」
と私はパパに手を引かれつつ、義一の方へ視線を向けた。何かを察したのか、パパは私に投げかけたよりも、より重たい調子で言った。
「…義一。ウチの娘に何か余計な事を言ったか?」
「…いや、別に。父さんのことだよ。それだけさ」
「…ならいい。娘を見ててくれてありがとう。さぁ帰ろう」
「じゃあまたねおじさん!いつかウチにも遊びに来てね!」
私はパパに手を引かれながらも何とか後ろを振り向きながら挨拶をした。義一も優しく右手を振り返してくれたのは見えたが、正面に顔を向き変える間際、義一の表情笑顔に寂しさが差し、若干曇ったのを幼い私の心は、敏感にも受け取り察したのだった。


「どうだった琴音?久しぶりにおめかし出来て良かったでしょう?」
「う、うん…」
お家に帰る車中、ママは久しぶりに会った親戚との会話の内容などを助手席から、運転しているパパに向かって話しかけていた。一通り話し終えてから私に今度は話を振ったのだった。
「何?なんか元気がないわね?…あ、そうか」
と今度はママは後部座席に座っている私に上体ごと私に向き直り、顔いっぱいに申し訳なさを浮かべて言った。
「ごめんね。やっぱり琴音には法事は退屈だし、つまんなかったわよね?今度また別のおめかしして、琴音の行きたがってた遊園地に行きましょう?丁度春休みだしね」
「うん…とても嬉しいな」
「もう、一体どうしたのよ?そんなに元気なくして…貴方、何か知ってる?」
「え?…あぁ」
とパパはバックミラー越しに後部座席真ん中に座る私の方を、チラッと見ながら
「俺が迎えに行くまで義一とお喋りしてたみたいなんだ」
義一の名前を出すとママは急に辿々しくなった。
「へ、へぇ…義一さんと?琴音、そうなの?」
「…うん、そうだよ」
「ふーん、そっか…」
と言うと、さっきまで止めどなくしていたお喋りがパタンと止み、車内は暫く静寂に包まれた。
 繰り返して言うようだけれど、私は私で線をはっきりと引いて、触れていいもの駄目なものくらいの分別はついてるつもりだった。でもこの時ばかりはリスクを承知で言わずには居れなかった。
「…ねぇ、パパ、ママ?」
「な、何かしら琴音?」
「もし琴音が来て欲しいって言ったら…さぁ」
「…」
「義一おじさん、ウチに遊びに来てくれるかな?…なんて」
「…うーん、どうかな?…ねぇ貴方?」
「…」
また暫く沈黙が続いた。気づくと外は真っ暗になって夜の帳が降りていた。時折通り過ぎる対向車のライト、街灯、前に止まる赤のランプが車内を照らしていた。パパは何かを決断するかのようにフゥッと息を一つ長く吹くと、静かに言った。
「…いや、やっぱりダメだ」
「え!?どうして!?」
私は思わずシートベルトを締めてるのも忘れて前方に乗り出そうとする勢いで、運転席に向かって前のめりになった。
「こら、琴音。危ないからちゃんと座ってなさい」
「ねぇ、どうして駄目なの?パパ!」
「…琴音」
パパは義一に対してしたのと同じ様に低い調子で、静かに諭す様に言った。
「パパがいつも琴音の事を第一に考えているのはわかるね?琴音が義一おじさんと仲良くなるのは、将来琴音の為にならないから反対するんだ。何も意地悪したくて言うんじゃない…わかるね?」
「で、でも…」
それでも幼い私は何とか食い下がろうとしたが、パパはまた一段かい調子を低くして、今度は最後通告を突きつけるかの様に言った。
「…琴音。お前はそんなに聞き分けのない子供だったかい?」
「…ううん。…わかったよパパ」
「は、はい!この話はもうおしまい。せっかく家族で外出したんだから、何か美味しいもの食べて行きましょう」
「そ、そうだね」
 そこから先はよく覚えていない。何か美味しいものを食べたんだろうけど、何も記憶には残っていない。二つだけ鮮明に覚えているのは、家に着いて疲れたからと早々に自分の部屋のベッドに入った時のことだ。ベッドの中には入ったものの、車の中でのやり取りを思い出し、なぜあんなに今日会ったばかりのおじさんに、ここまで入れ込む程肩を持つ様な真似を、今まで大きな反発をしないでいたのに、何故あのおじさんのことで事を荒げる様な真似をしなくちゃいけなかったか、幼心にもあまりに不思議で混乱しっぱなしだった。その影響かどうか分からないけど、ベッドに入ってから涙だけは止まらなかった。
 これも一つの思い出だけど、もう一つある意味決定的な、私自身の価値観を揺るがすキッカケ、キッカケにしてはあまりに強烈だったことが、深夜にたまたま目を覚ました時に起こった。
 眠れないといいつつも少しウトウトしていたのか、自分の中では起き続けていたつもりだったけど、時計を見ると11時を回っていた。トイレに行こうとベッドから出て向かう途中、リビングの前を通った時、ドアの一部が擦りガラスになっていて、そこから光が漏れているのに気付いた。まだパパとママ起きているのか…。考えてみればこんな時間に起きていたことが無かったから知らなくて当然かと、そのまま素通りしようとすると、中からひそひそ声が聞こえた。
 便意よりも興味の方が勝ってしまい、忍び足でドアに近づき耳を直に当てて聞いてみることにした。まず聞こえたのはママの声からだった。
「ねぇ、さっきの車の中でのことだけど…」
「うん…?」
パパもママに合わせてか同じ音量で返事した。
「あの子はまだ小学生、しかもまだ低学年なんだから、もう少し優しく説いてあげてもよかったんじゃない?」
「…」
パパは黙ったままでいる。
「それに前から言われていて、説明もしてもらって、私なりに納得していたつもりだったけれど、貴方は昔から義一さんが絡むといつもと打って変わってしまうんだから…ねぇ」
「うるせぇ…」
「え?」
「うるせぇって言ったんだこのアマ!」
「きゃあ!」
急に怒声が鳴り響いたので、ドア越しに聞いてた私も危うく悲鳴を上げそうになったが、何とかすんでのところで堪えた。
「あ、貴方!あの子が起きちゃう!」
「いいか!分かってないようだからもう一度言う…。アイツはこの家系の面汚しだ。死んだ親父に何故可愛がられたかしらんが、遺産も少し貰い、今アイツが住んでいるのは親父がコレクター保管用に借りた保管庫がわりのボロ小屋だ。アレコレ理屈をこねくり回し、理由をつけては定職につかずにあの歳になっている。アイツも俺の七個下だから今年二十九歳だ。あんなロクデナシと琴音を親しくさせたくない。お前からあの子が幼稚園の頃先生に言われたと、その話を聞いた時に真っ先に頭を過ぎったのはアイツだった。遺伝子なんてものは、俺は医者だが性格的なものまで遺伝するなんて信じていない。いや、馬鹿馬鹿しくて考えたこともない。あれから数年頭の片隅から離れることはなかった。それが何の因果か今日だ!」
とここでまたパパは声を荒げた。ママの声はしない。黙って聞いているようだった。
「アイツの数少ない長所は、分を弁えてるところだった。今日だって初めの方はアイツは自分から進んで一つ離れて過ごしていた。人畜無害のモノとして。それで油断した俺が馬鹿だった。気付けばアイツと琴音が二人で何やら楽しそうに喋ってるじゃないか。遠くからしか見えなかったが琴音のあんなに真剣で、また何かに身を乗り出すような姿を見たのは初めてだった。
それを見た時、新しい一面が見れて嬉しかった反面、身体中に悪寒が走った。すぐに事の重大さが分かった。…それで今日はもう少し寺にいるつもりが、早めに切り上げたんだ…」
ドア越しにまで聞こえるほど、パパは大きな溜め息を吐いた。すすり泣きが聞こえる。ママのようだ。パパはいつもママと私に話しかけるような、いつもの優しい囁きかけるようなトーンで落ち着きを払いながら言った。
「…さっきは怒鳴り声をあげて悪かった。あの子に聞こえてないといいんだが…。さぁ私達も今日は疲れた…今日はもう寝よう」
リビングにあるソファーから立ち上がる気配を感じ、私は足音をなるべく殺しながら自室へと足早に戻った。ベッドに上がり、頭から布団を被り、また思いがけず涙を流した。相変わらず理由は分からなかったが、最初のと理由が違うことだけは分かった。

第3話 再会

「それじゃ先生、さようなら」
「はい、さよなら。気をつけて帰って、ちゃんと練習するのよ」
 あれから三年経って、私は小学五年生になった。今はこうして、お母さんの友達が開いている、自宅から歩いてすぐのピアノ教室に通っていて、今から帰るところだ。考えて見ればあの後すぐからだから、三年間続けている。先生の自宅で開いてる形式で、練習の合間に、手作りのマフィンとかお菓子を出してくれたりするのが、現金だけれどとても気に入っていた。
 それも一つの理由だったけれど、ピアノ弾く事自体に魅力があったのは勿論だ。背も両親に似たのか、グングン伸びていて、背の順では女の子の中では後ろから二番目くらい、男の子と比べても劣らないほどだった。初めて先生に会った時はあまり言われなかったが、最近背が伸びたことを頻りに褒めてくる。ピアノなどの楽器を弾く上では、一つの長所らしい。でも、そもそも私の意志で大きくなった訳じゃないから言われる度に、喜んでいいのか分からず、愛想笑いをとりあえずしとくのだった。
 生まれた頃からこの近所に住んでいた。四、五分歩くと土手が目の前に立ちはだかり、その土手に沿うように高速道路が走っている。えっほえっほと土手を上がると、すぐそこには緩やかに流れる川が流れていて、土手と川の間には草野球やサッカーが出来る、結構本格的に整備された施設があって、土日は親子連れや色んな人々で賑わっていた。
 最近レッスンが終わると、真っ直ぐ帰らずにわざわざ反対方向の土手まで、寄り道して帰るのが日課だった。学校が終わり、二時間くらい受講して、こうして土手に上がると、西の空は太陽がすでに沈んでいるのにまだオレンジ色に明るくて、東の空を見て見れば、そこはすっかり夜になっているのが、とても面白かった。ちょうど自分が立っている所を境に、昼と夜が別れていると言う風に設定して、この世界の今この瞬間、一番幻想的で綺麗な景色に気づいているのが、私だけだという根拠のまるでない優越感が半分、もう半分は東の空から迫る夜に、何処と無く得体の知れない魔物が棲んでいるような怪しい気配を感じ、薄ら寒い気味悪さを覚えていた。
さて…帰ろうかな。踵を返そうと来た道を振り返り見たら、ちょうどその時、土手の斜面に起き上がる人影が見えた。
 あんなところに人が居たんだ…さっき前通ったのに気づかなかったけど。
 西日もすっかり弱まり、辺りは薄暗く、ましてこの辺りには街灯がなかったし、もう五年生だったけど、いつも心の何処かに気味悪さを残しながら家路についていたから、余計に突拍子も無く予想もしてなかった出来事に遭遇して、金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くしていた。
 一体誰だろう…?ヤバイ人だったら逃げ切れるかな…?と、頭の中はこの後起こるかもしれない、最悪の事態に思いを巡らしてると、その起きあがった人物が声を掛けてきた。
「ふぁーあ…え?…アレ?もしかして…琴音ちゃん?」
「…え?」
今起きたところなのだろう。如何にも寝起きな、力の抜けた声を出しながら伸びをし、その一連の流れでたまたま顔がこちらに向いた時、私と視線があった。先程より一層暗闇が濃くなり出していたが、この声、あの長髪、そしてお父さんにそっくりな中性的な顔。見間違える訳が無い。
「もしかして…おじさん?」
「あぁ!やっぱり!いやー、良かった」
義一は適当に上のシャツとジーンズをはたきながら、私のいる土手の上部の遊歩道まで上がって来ながら言った。三年ぶりだし、会うことなんて微塵も想定していなかったから、暗がりでもはっきり顔がわかる距離まで近づいても、私はボーっと呆けていた。そんな私の様子に遠慮なく
「いやー、久しぶりだったからね。体も大きくなってるし、他人の空似で赤の他人だったらどうしようかと内心ビクビクだったよ。今のご時世、僕みたいな如何にも怪しいおじさんに話しかけられたら、ニュースになっちゃうからね。」
と、堰を切ったように、一方的に話していたが、ようやく止まり、あの懐かしい、三年経っても変わってない優しい調子で喋り掛けた。
「久しぶり…琴音ちゃん」
「…久しぶり、おじさん」 
「しっかしまぁ…」
義一は私の全身を見渡しながら顎に手を当てる、あの考える時のポーズをとりながらしみじみと言った。
「本当に大きくなったね。見違えたよ」
「…さっきは一目で私に気付いたでしょうに」
私は咄嗟に生意気な調子で答えてしまった。
「え?…あぁ!ははは、全くその通りだね」
「ふふ」
あれから私達は二人で土手から川と反対側に降り、「送ってあげるよ、すっかりもう暗いからね」と言うので、私の家までの道を並んで歩いていた。
「へぇ、ピアノね。まさに琴音ちゃんにピッタリだ」
「え?なんで?」
「だって…」
進行方向向いていた顔をこちらに向けて、さも大発見をしたかのように得意げに
「名前が”琴音”でしょ?”琴”の”音”。如何にも音楽に関連してそうじゃない?」
「私が習ってるのは”琴”じゃ無くて”ピアノ”なんだけれど?」
と、私も意地悪い表情を作りニヤケながら答えた。義一は大袈裟に落ち込んでみせて、肩を落としたが、すぐ背筋を伸ばし頭の後ろに両手を回しながら
「細かいところ気にするねー。でもまぁ」
再び義一は私の方へ向き、そして微笑を湛えながら
「それでこそ、琴音ちゃんって感じもするなぁ」
「約三年ぶりで、お寺で少し話しただけなのに?わかるの?」
「わかるさ」
義一は今度は子供っぽい悪戯っ子の表情を浮かべた。
「琴音ちゃんがあのまま大きくなったら、こんな感じだろうなぁ…ってあくまで想像だけどね」
「…あっそ」
「あ、生意気だねー」
私は素っ気なく答えたが、内心は何故かは分からなかったけど嬉しかった。
「で、今度は私からの質問だけれど」
「なにかな?」
「何であんな時間、土手に寝っ転がってたの?」
「そうだなぁ…あ!」
 気づくと赤信号につかまり、二人仲良く並んで立ち止まった。住宅街ではあるが、今までの道とは違って二車線の通り、明かりも強くなってお互いの姿も良く見えた。もうここから自宅はすぐそこ、ここからでも見える。ふと義一は私の肩に手を乗せて静かに言った。
「ここからなら大丈夫だね。僕はここで失礼するよ」
「え?でもせっかく…」
と先を言い掛けて慌てて口を噤んだ。三年前の時を思い出したのだ。その私の様子を見て、すぐ察したのか、義一は優しい調子で
「やっぱり琴音ちゃんだね…本当に優しい子だ。さっきも言ったけど、思った通り変わらず育ってくれていて、とても嬉しいよ。…それじゃ」
義一は私の肩から手を話すと、元来た道へ歩み始めた。
「あ、あの!?」
「ん?」
私は慌てて向き直り、信号が青に変わったのに気にせず義一へ駆け寄った。
「また…会えるよね?」
「え!?…うーん」
私の必死の懇願に、先程まで冷静を装っていた義一も若干動揺したようだが、すぐに苦笑いを浮かべ頭を掻いていた。何とか体の良い言い訳を探すかのように少しの間唸っていたが、また優しい調子で言った。
「…そうだね。もし運が良ければ、あの土手で会えるかもしれないかな」
「本当に?行けば良いのね?」
「”運”が良ければだよ」
義一はまたゆっくりと歩き始めた。私はその後ろ姿を見て、今また呼びかけても立ち止まってくれないんだろうな、そしてそれは本当なんだろうと察し、街灯の少ない暗闇に溶けてゆく義一の背中、すっかり見えなくなるまで、信号が変わるのも気にせず見つめ続けた。

玄関の鍵を開けると、その音に気付いたお母さんが、夕食の支度中なのか、エプロン姿で手をタオルで拭きながらやって来た。
「ただいまー」
「お帰りなさい。どうしたの?少し遅かったわね?」
「えーっと…」
当然理由を聞かれると思っていたから、玄関に着くまでアレコレ言い訳考えていたけど、その時は妙案は浮かばなかった。が、改めて聞かれて咄嗟に思いついた。
「しばらく会ってなかった”友達”に会ってね、ちょっと話し過ぎちゃった」
「しょうがないわねー。その顔じゃ、よっぽど楽しかったんでしょ?」
「え?」
お母さんは口調は呆れ気味だったけれど、でも笑顔で思いもしないことを言ったので、私は顔をあちこちイタズラに撫でた。
「でもせっかく携帯持ってるんだから、お喋りが終わってからでも連絡入れなさい」
「うん、次から気をつけるよ」
「じゃあ、さっさと手を洗って来なさい。夕食にしましょう」
「はーい」
半分呆れ顔のお母さんを尻目に、脱衣所にある洗面台に行って手を洗った。ふと目の前の鏡に映る自分の顔を見ると、そこには口角が気持ち上がっているニヤケ顔があった。もっとも他人にはわからないとは思うけど、お母さんにはバレたようだ。
「まさかまた会えるなんて、考えたこともないもんね」
私は両手の人差し指を口角に当て、下に引っ張りながらボソッと呟くと、夕食の用意されているリビングに足取り軽く向かった。

「それじゃあ、いただきまーす」
「はい、召し上がれ」
私とお母さんは向かい合い、お皿に盛り付けられた定番のカレーライスを食べ始めた。何の気もなく時計を見ると、夜の八時半になるところだった。
「ねぇ、お父さんは今日も遅いの?」
と私が聞くと、お母さんも時計の方を見て
「そうねぇ…琴音ももう大きくなったから、少しは分かるだろうけど、お父さん、病院で副院長、二番目に偉い人なのは知ってるわよね?」
「うん」
「お父さんよりも偉い人が、院長といって、いるんだけどね。その人が体調崩されて、もう仕事が出来ないらしいのよ」
「うん、確かお爺ちゃんの一番近くで働いていた、信用できる人だってお父さんも言ってた」
「そう。よく分かっているわね。その人の後をお父さんがやる流れなんだけど」
「てことは、お父さんが一番偉くなるんだね?」
「そうなんだけれど、色々片付けなくちゃいけないことが多くて、大変らしいのよ。お父さんはそれでも頑張ってるんだから、私達も寂しくても我慢してましょうね?」
「うん、分かってるよ」
 
食事を済ませ洗い物も手伝い、お風呂にも入って歯を磨き、お母さんに挨拶をして自室のベッドに入る頃には十時半になっていた。普段より三十分ばかり遅かった。私は仰向けになり、天井を見つめながら今頃まだ病院にいるであろうお父さんのことを想った。でもちょっともしないうちに、義一との再会で頭は占められてしまった。お父さんには済まないけど。
と同時に、先程も一瞬よぎった、三年前の苦い思い出、今考えても、誰にも落ち度があったとは思えないのに、一人残らず何かに苦しんだ三年前。今日の別れ際、義一の見せた、優しい表情の中に滲ませていた、私のことを拒むかの様な表情。そしてあの言葉。義一がもし本当に会いたくないのなら、無理に行くことは無いのかもしれない。でも…どうしても直接本人の口から理由を聞きたい。もし拒んだら、躊躇わずその理由を聞こう。きっと怒ったり、呆れたりすることなく、真剣に、真摯に、真面目に答えてくれる。
 私はここで目を開け天井を見つめ、心に決めたことを確かめる様に呟いた。
「…よし、また会いに行こう。…土手に」

第4話 義一さん

あれから放課後、ピアノのレッスン帰り、思い付きでフラッと土手の方を行ってみたが、義一と会うことは叶わなかった。義一が横たわっていた土手の斜面、川に架かる橋と橋の間を行ったり来たりしても見つけられなかった。男なのにヒョロヒョロしてて、色白く、髪も長い、本人も言っていたけど、中々怪しい姿形しているから、いくら土手が広いとは言え、いたらすぐに見つけられると踏んでいたけど、甘かったようだ。
 最後に会った四月上旬から早三ヶ月、一学期も終わり今日は終業式、明日から夏休みに入ろうとしていた。学校帰り、友達と途中まで一緒に下校し、別れた途端私は駆け足で家に向かった。玄関を開けると人の気配が無かった。まずリビングに行って見ると、テーブルの上にお母さんが残したメモがあった。「ちょっと買い物に行ってきます。もし小腹が空いたら冷蔵庫にオヤツがあるからね。 母より」
 手に取って読んだメモをまたテーブルに戻し、自室に駆け込んでランドセルと持ち帰って来た学校の荷物を降ろし、着替えて、身支度を済まし、部屋を出た。今日貰った通信簿をメモの側に置き、ふと思い付いて、私もメモを残した。「ちょっと友達と遊んで来ます。暗くなる前に帰ります。帰る前に電話するね。 琴音」
 玄関を出ると日が燦々と照り、アスファルトからは目には見えないけどモワモワした熱気を感じた。頭には赤いリボンの付いてる麦わら帽子。当時この帽子がお気に入りで、夏場外に出る時は、必ずと言っていいほど被っていた。
「さぁ、今日から時間があるから、そろそろ見つけ出してやるぞ」
「おい、何をブツブツ言ってんだよ?」
「ん?」
 土手に向かう途中、一人で気合いを入れる意味も含めて独り言を言っていると、後ろから急に話しかけられたので若干ビクッとした。振り向いて見ると、自転車に跨がり、野球帽を被った少年が仏頂面でこちらを見ていた。背丈は私より少し低いくらい、タンクトップに膝が隠れるくらいのジーパンを履いていた。よく知るその姿に、私はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、どうでもいいといった調子で答えた。
「なーんだ、ヒロかー。脅かさないでよ、いきなり話しかけて来て。ビックリするじゃない」
「へっ。お前はいつも大袈裟なんだよ」
と、ヒロは鼻を豪快に擦りながら言った。
ヒロ。森田昌弘。小学校入学時からの付き合いだ。最初出席番号順に席に座っていた時に、私の名字の望月、ヒロの名字の森田、たまたま隣同士になった頃からの腐れ縁で、今はクラスが違うけれど、変わらず関係は続いていた。
「で?何をブツブツ言ってたんだよ?」
「べっつにー。私の勝手でしょ?」
素っ気なく返事を返しながら、ヒロの格好を見て意外に思った。
「ヒロこそ、こんなところで何してるのよ?今日、練習は?」
「練習か?今日はねぇよ」
 ヒロは地元の野球チームに入っていた。練習も試合も河原のグランドでしているらしい。何度もヒロに応援にきてくれと頼まれたけれど、私は別に野球に興味がなかったから、今だに一度もヒロがしてるのを見たことがなかった。ただ、見に行ったという友達の話を聞くと、中々のものだったらしい。まぁ、どうでもいいけど。
「じゃあ何してるのよ?」
と、改めて聞いて見ると、ヒロは両肘を曲げ、手の平を空へ向け、首を大きく横に振りながら
「はぁ…出たよ。琴音の”なんでなんで攻撃”が」
「別に無理に答えなくていいよ。そこまで興味ないんだから」
「あっ!ひっでぇーこというなコイツは…」
「ま、大方ヒマな友達が居なくて自転車で意味もなく走り回ってるってトコでしょ?」
「おいおい…淡々と正解を言うなよ。こっちが何も言えねぇじゃねぇか」
ヒロはうんざりした感じで言ったが、これが私達のいつもの会話なのでお互いに慣れっこだ。
「そこまで言う琴音は、これからどこに行こうってんだよ?」
「わ、私は…」
 私は咄嗟に答えられなかった。あまりよく知らない、どこにいるか分からないおじさんを、当てもないのに捜しに行くだなんて言ったら、益々ヒロは私を小馬鹿にして煽り、からかってくるだろう。少し想像しただけで面倒臭そうだったので、ごまかす事にした。
「別に…ヒロに話す程のことじゃないよ」
「ム…何だよその言い方」
ヒロは私の言ったことの何かに引っかかったのか、ムッとしてたが、ガラッと態度を変えて頼み込むように猫なで声で喋った。
「いいじゃねぇか。教えてくれよー。ヒマなんだよー」
「知らないよ、アンタがヒマかどうかなんて…」
参った。このまま無駄な問答を繰り返してたら、今日一日の計画がパァだ。仕方ない。
「はぁ…ヒロ。ぜっったい私の邪魔をしないと誓う?」
「へ?お、おう。もちろん誓うぜ!」
「絶対よ?ぜぇっったいによ?」
「しつけぇなー。男に二言はねぇよ」
「じゃあ簡単に話すわね?実は…」
私はおじさんのことは避けて、人を探してるとだけ話した。ヒロは分かったような分からないような表情で首を傾げながら
「何となく分かったけどよー…それって面白いか?」
「だーかーらー、無理について来なくていいってば」
「いや、行くぜ!初めに渋ってたとこ見ると、何か他にありそうだからな」
 まったく、変なところで勘が良いんだから…。
「じゃあもう行きましょ。ここは暑くてたまらないわ」
 こうして予想外にできた相棒(?)を連れて、一緒に土手へと向かった。道中ヒロに、その探し人が何で土手にしか現れないんだとか、ある意味普通の質問をしてきてたけど、私にも分からないんだから答えようがなかった。
 土手の上部、遊歩道に辿り着くと、ここまでの道のりとは違って、心地よい風が吹いていて、汗ばんだ体には涼しく、とても気持ちよかった。
「んーん。気持ちいいな琴音」
「そうね…ってヒロ、目的分かってるよね?」
「分かってるよ。早速探そうぜ?で、どんな人なんだ?」
「ふーん…今まで聞いてこなかったから、最初から探す気が無いと思ってたけど、ヤル気はあるのね?」
「当たり前よ!」
ヒロは大きくガッツポーズをして見せた。この能天気さに、危うく流されそうになるのを堪えながら、説明した。
「見た目はそうね…そこそこ背が高くて色白よ」
「ふんふん」
「で、髪の毛が長くて痩せてるの」
「ほう…」
「見た目は実年齢とかなり違って見えるから、これは参考にならないかな」
「美魔女ってやつか?」
「え?」
「…え?違うのか?」
「違うよ。だって男だから」
ヒロは私の最後のセリフを聞くと、一瞬動きが止まったが、すぐまた一段と大きくリアクションを取りながら言った。
「なーんだ、男かよー。期待して損した」
「今までの会話のどこに期待を持たす点があったのよ」
と、冷静にツッこんだが、ヒロは聞いてないようだった。
「じゃあ、もう止める?」
もうここで正直諦めて帰って欲しかったが
「いーや、ここまで来たら、琴音が、あの人嫌いで通ってるあの琴音が探している男…俄然ヤル気が出て来たぜ」
「誰が人嫌いよ。…はぁ、もう勝手にして」
それから二人して土手を隈なく探したが、そもそもこのピーカン照りのせいか、私達以外にはグランドで野球をしている人と、斜面に腰掛けて日傘を差し、読書をしている女性(ヒロはチラチラ後ろを通り過ぎる時に見ていた。ああいうのが好きなのか、スケベめ)、後はチラホラ親子連れがいるだけだった。
「はぁ、ちょっと休もうぜ」
「そうね、休憩しましょ」
私達は土手の斜面に腰掛け、下のグランドの野球している人達を見ていた。ヒロが何か気が付いたように
「…なぁ、あの野球しているの、あの中にいるってことはねぇか?」
「え?…いやー、どうだろう。多分無いと思うけど」
「何だかなー…」
ヒロは後ろに両手をついて、空を見上げるような態勢になりながら愚痴をこぼした。
「そもそも、琴音の情報が少なすぎるんだよな。お前がそもそも、あんまし知らないみたいだし」
「…」
 そう。言われなくても分かっている。でも、どんなに少ない情報を手掛かりにしか探せないとしても、特に根拠はないけど、このチャンスをフイにしたら後悔する。あの三年前、おじさんと出会ってから、今まで月日が経って、おじさん程私の質問、会話を真剣に聞いてくれた人はいなかった。半分諦めていたところでの再会。私の本当の気持ちを分かってくれる、もしかしたら唯一かもしれない。ヒロの言う通り正直おじさんのことわかってるとは言えない。私の中で作り上げた理想なのかも知れない。でも、それを確かめる為にも、私はもう一度おじさんに会わなくちゃいけないんだ。
「…ーい、おーい、おい!琴音!」
「…えっ!?何!?」
「何?じゃねぇよ。急に黙りやがって。どうした?」
「え?…あ、いや…何でもない」
「ったく、熱射病にでもなったかと思ったぜ」
「大丈夫だよ。ちゃんと帽子も…あれ?」
ふと、隣座ってるヒロの向こう、日傘を差して今尚読書を続けている人の横顔を、初めて同じ高さで見えると、どこかで似ている面影が見えて、思わず吸い寄せられるように近寄って行った。
「お、おい、琴音!琴音ってば!ったく」
と、後ろで文句を言ってるヒロの事は気にせずズンズン歩き、ついに手が触れられるほどに近づいた。そして恐る恐る声を掛けた。
「…お、おじさんだよね?そうでしょ?」
丁度ヒロが追いつき、私のすぐ後ろに立った。
「おいおい、探してるのは男だろ?この人は女じゃ…」
「よく気づいたね。さすが琴音ちゃん」
とおもむろに日傘を畳んで現れたのは、白いTシャツに細身のジーパン姿の、まぎれもない義一本人だった。
「おいおい…マジか。男だったのかよ」
と、ヒロは私とは別の意味でショックを受けているようだったが、私はそんなの無視して
「おじさん!」
と何も考えないまま義一に抱きついた。
「おっと…琴音ちゃん、危ないよ。こんな斜面で…」
私達の姿を見て、また新たにヒロが違う理由でショックを受けていることは、私には知る由もなかった。

「いやー、とうとう見つかったか。二人とも喉乾いたでしょ?これ飲む?」
義一は側に置いていたバスケットから水筒を取り出しながら言った。
「…うん、ありがとう」
私は少し落ち着きを取り戻し、ヤケに用意が良いのにはツッこまずに、紙コップに注がれたスポーツドリンクを貰った。魔法瓶に入れていたからなのか、キンキンに冷えていた。私に渡した後、もう一つ紙コップを取り出し、注ぎながら今度はヒロの方を見ながら呑気な調子で
「えーっと…君も飲む?」
「…え!?あっ、はい、じゃあいただきます」
こうして三人は斜面に腰掛けて、端から見てると仲良さげに並んで飲んだ。
 まず何から話せば良いんだろう?おじさんを見つけた時何を話すか、あれこれ考え想定していたはずなのに、いざその時になったら、頭の中を色んな言葉が渦巻いて、上手く拾えず、ただ静かに黙っているしか無かった。そんな私の胸の内を察したか、また呑気な調子でヒロに話しかけた。
「君は、えっと…」
「お、俺は森田昌弘です。琴音の…あ、いや、望月さんの、一年の時からの友達です」
「へぇ、そうかい。中々しっかり挨拶できる、今時珍しい好青年だね?琴音ちゃん?」
「う、うん。私も今初めて知ったけど。こんなに外面がいいなんて」
「おい!余計なこと言うなよー。…で、あのー…」
と、ヒロは義一の顔を覗き込みながら先まで言わずにいると
「あ、僕かい?僕は琴音ちゃんのパパの弟をしている、望月義一といいます。琴音ちゃんからしたら、いわゆる叔父さんだね」
「へぇ、親戚の…」
と言いながら、ヒロは今度は私の方に向き直り眉をひそめながら
「おいおい琴音。初めから教えてくれよー。全然教えてくれないから、初めて見た時変に警戒しちまったじゃねぇか」
「警戒なんてしてたのあなた?」
「警戒?…はははは」
義一はヒロの言葉を聞いても、不機嫌になるどころか、愉快になってるようだった。私は予想通りだったが、予想していなかった、むしろ口を滑らせたことにバツが悪そうにしていたヒロがポカンとしてるのに、それにも構わず
「確かに確かに。私は見ての通り怪しい身なりをしているからね。まぁ自分では、なるべく浮かないようにしてるつもりなんだけど、君の反応はすごく真っ当だよ。はははは」
「…おい、お前のおじさん、かなり変わってるな?」
「まぁね」
ヒロが視線は義一に向けたまま、私の耳元でヒソヒソと言ったので、私も同じ調子で返した。
「さてと…」
義一はおもむろに立ち上がり、お尻をはたいて、両手を上げ大きく伸びをすると、私達の方を向き
「いつまでもこの炎天下にいるのは体に悪いから、とりあえず今日はここで解散しよう」
と言ったので、ヒロも立ち上がったが、私は慌てて
「いやいや、待ってよおじさん!まだ全然話したいことが…」
と言いかけたところで、ヒロが一緒にいることに改めて気づいて、先を言うのを躊躇った。まったく、ヒロがいるせいで…。ここまで付き合ってくれたのに、この心の中の悪態は、ヒロ相手といえども酷いとは思ったが、本心なのだから仕方がない。義一は視線を宙に投げながら、数秒考えていたが、私のそばで急にしゃがみ込み、右手で口元を隠しながらヒソヒソ声で
「琴音ちゃん、取り敢えず友達もいることだし、今日は帰りなさい」
「でも…」
「琴音ちゃん、この近くの区立図書館知ってる?」
「?…うん、知ってるけど」
「そうかい、じゃあ…」
と、今度は私と正面向かい合わせに、しゃがんだまま移動して
「そこに明日昼の一時に待ち合わせよう。都合はどうかな?」
「だ、大丈夫だと思う」
「よし!」
「おいおい、何を二人で話してんだよ?」
「あ、ごめんごめん!さぁ一緒に帰ろう」

 三人して川が見える側とは反対の斜面を降り、その麓に着いたかと思えば義一が
「じゃあ、僕はここで失礼するよ。じゃあね琴音ちゃん、あと森田くんも」
「お、おう。じゃあな、おじさん」
「あ、そうだ」
義一はまたさっきみたいに私の顔に近づき、ヒソヒソと言った。
「琴音ちゃん…夏休みの宿題ってあるよね?」
「うん」
「じゃあ明日家出る時、幾つか持って家を出てきてね?あと、ちゃんとママに図書館に行くこと言うのを忘れずに」
「別にいいけど…なんでまた?」
「いいからいいから、説明は後で。それに…」
と、義一が私から視線を逸らして、顎を一度クイっと向けたので、その方を見ると、ヒロが少し離れた所で腕組み、苛立たしげに爪先をリズム良く上下に動かしこちらを見ていた。
「友達待たしちゃ悪いし」
「おーい、琴音ー!。まだかよー!。置いてくぞー!」
「わ、わかったー!そんなに急いでるんなら、さっさと先帰ればいいでしょ!」
私は駆け足でヒロの方へと向かった。そばに着くと、改めて振り返り右手を大きく義一に見えるように振った。義一もそれに答えて簡単に振り返すとクルリと回って私達と反対方向に歩いて行った。今度は見えなくなるまで、見送らなかった。

「いやー、びっくりした。あんな大人初めて見たぜ」
ヒロは自転車を手で押しながら、しみじみ理解できないといった調子で言った。
「本当に変わってんな、お前の叔父さん」
「ふふ、変わってるでしょ?」
と、何故か得意な調子で答えた。ヒロは私の顔を見ると、何か面白くなさそうな表情で
「何だよ、そんなに伯父さんに会えて嬉しかったのか?」
「え?何でよ?」
と聞くと、ヒロは片手を使って自分の口角を持ち上げながら
「さっきからニヤケっぱなしだぜ?気味が悪い」
「気味が悪くてすみませんねー」
と軽く流しながら、ほっぺの辺りを適当に撫でた。自覚なかったけど、私ってそんなに表情出やすいのかしら?
「まっ、琴音が良かったなら、それでいいけどよ…で?」
「ん?」
「いやー…やっぱいい」
「何よー。変にやめないでよ。何?」
「いやー、お前…」
ヒロは私から顔を逸らしながら、とても言いにくそうに辿々しく言った。
「お前、あの叔父さんの事…どう思ってんの?」
「…え?どう言う意味?」
「どう言う意味って…あっ!」
何かを言い掛けたところで、ヒロは進行方向を向くと急に立ち止まった。私もならって止まると、いつの間にか私の家の前の通りに着いていた。ヒロは少し慌てた調子で
「もうここまでで良いよな?じゃあ、またな!あばよ!」
「あ、ちょっと!」
慌てて呼び止めようとしたのもつかの間、ヒロは自転車に跨り、一瞬も振り向きもせず一目散に通りの向こうへ行ってしまった。
「何だったのよ、アイツは」
はぁ…と大きく一つ息を吐くと、少し見えている自宅へ向かって歩き出した。玄関に手をかけようとしたところで、あっと思い出した。
「そういえば、電話するの忘れてた」

 先に買い物から帰っていたお母さんから軽く小言を頂いたが、平謝りで何とか許してもらえた。まぁ家出る時先に出しておいた通信簿の内容が、そこそこ良かったからかもしれない。成績が下がってたらネチネチまだ言われてたかも。
 この日はお父さんが珍しく夕食どきに帰ってきた。院長に新任されてから初めて、親子三人での夕食だ。ゴタゴタ続き、慌ただしく引き継ぎ、まだ慣れてない院長業務のせいか、目の周りに疲れが見えていたが、家庭に仕事を持ち込まない、愚痴を聞いた事のなかった私は、子供ながらにこの頃はまだ、お父さんを尊敬していた。
 
食事を終え寝る前の準備をして、そそくさとベッドに入った。
「明日はゆっくりと、おじさんとお話し出来るなぁ」
まるで遠足前に、興奮して寝付けずはしゃぐ子供のような心持ちだった。まぁ、まだ子供なんだけど…でも寝なくちゃ。意を決して目を瞑り、ウトウトと寝かかったその時、昼間ヒロに言われた事を、ふと思い出した。
「…おじさんの事どう思うかって?…ヒロの奴、何のつもりで聞いてきたのやら…そりゃ当然…」
と、思いを巡らしてるところで、気づけば寝落ちしてたらしく、目覚めたときには外は明るく、セミがけたたましく鳴いていた。

「それじゃあ、図書館行ってくるね」
「はーい、車に気をつけるのよ」
「うん」
昨日も被った麦わら帽子を身に付け、宿題の入った、白地にヒマワリが一本大きくプリントされたトートバッグを肩にして玄関から外に出た。
「ふぅ…今日もあっついなぁ」
見上げると空には雲一つなく、濃い青一色に塗り潰されていた。真夏日だ。
「まったく、用事がなかったら絶対外出ないのに…」
と一言恨み節を吐くと、図書館へ向かって歩いて行った。
 その図書館はよく知っていた。私の通っている小学校からは五分くらいの距離にあったが、前に授業の一環で担任の先生引率の元よく行ってたからだ。もっともその時会員証を作ってからは、一人でたまに本を借りたり読んだりする為よく通っていたので、勝手を知っていた。
全身に汗を滲ませながらもようやく辿り着き、正面玄関口のドアに手をかけ押すと、冷気が外に向かって出てきて私にも当たり、ここに来るまでにすっかり熱を帯びた体との温度差に、ホッと一息つける気持ち良さだった。中に入るとすぐ手前に受付があり、その脇には何列か等間隔に長テーブルが置いてあり、イスも幾つか置いてあった。ただこのスペースは非会員でも入れるスペースで、会員証を持ってる人は、受付の向こうのまた等間隔にある長テーブルのエリアに入れる。そこは奥に所狭しと並ぶ書庫に近いスペースで、入口付近よりも静かなので、読書や調べ物、勉強や仕事をする人には重宝されていた。
「あれ?琴音ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こんにちは」
受付の方から話しかけてきたのは、いつもここに来ると何かと世話を焼いてくれる女司書さんだ。名札には”やませ”と平仮名で書いてある。初めて会った頃に聞いてもないのに、漢字で”山瀬”と書くと教えてくれた。一緒に下の名前も”絵里”だと教えてくれて、絵里と呼んでと言われたけれど、今だに話す時は、山瀬さんだ。歳はおそらくアラサーなのだろうが、言動や振る舞いで、良くも悪くも大学生でも通じるくらいには若く見えた。中肉中背でハキハキと喋る、あまり図書館には似つかわしくないと思われたけど、私はこの人を少なからず気に入っていた。でもせっかく鼻筋が通っていて、目も細く垂れ目がちで、キャラとは真逆に品を感じるような顔立ちで可愛いのに、マッシュルームカットはどうかと思ってたけど。
「久しぶりじゃない。もう来ないと思ってたよ」
「大袈裟ですね。前来たの、二週間前ですよ」
「その二週間がどんなに長かったかぁ」
「あ、ちょっと…」
山瀬さんは私の顔を両手で抑えると、こねるように弄びながら言った。もう一つある山瀬さんの欠点は、過剰な私へのスキンシップだ。迷惑そうな私の表情で察したか、はたまた単純に満足したのか、ようやく手を離すと、さっきより声の音量を抑えて、悪戯っ子のような笑顔で言った。
「ごめんねぇ。でも琴音ちゃんがそんなに可愛いのがいけないんだぞー?ただでさえ普段は年寄りしか来ないのに、前触れもなく急に来るんだから。アタシとしては、見渡すばかり殺風景の荒れ野の中で、一輪の花を見つけたかのような…」
「はいはい、もう気持ちはよく伝わったので…」
「そう?まだ語り尽くせないんだけどなー。で、今日は借りてく?それともここで読んでくの?」
「いや、今日は…」
「琴音ちゃん、お待たせ」
 背後から呼びかけられたので振り向くとそこには、昨日とまるで同じ格好の義一がそこに立っていた。と、義一の姿を見た山瀬さんが、少し面倒そうな表情を作りつつ
「あれ、ギーさんじゃん?珍しいね、どうしたの?」
「ギーさん?」
と私が声を漏らすと、山瀬さんは興味を持たれたのが嬉しそうに意地悪く笑みを浮かべて、義一のほうを見ながら
「ほら、この人、下の名前義一でしょ?中々珍しい名前だし、漢字の一が伸ばし棒にも見えるじゃない?だから一は発音しないで”ギー”。ギーさん。自分でも結構センスあると思うんだけど、琴音ちゃんどう思う」
「こら、あまり子供を困らせるもんじゃないよ。そんな風に言われたら、違うと思っても同意しちゃうじゃないか。幼気で純粋な子供の心を利用しちゃダメだよ」
「はいはい、すみませんね”お爺ちゃん”」
「二人は知り合いなの?」
と、急に目の前で息のあった漫才(?)を見せられて、図書館の中だというのに吹き出しそうになるのを堪えてから、並ぶ二人を見ながら聞いた。義一が何か言おうとするのを待たずに山瀬さんが
「知り合いというか、大学に通ってた時、ギーさんは私の先輩だったのよ。ね!」
「まったく先輩に敬意を表さない後輩だったけどね」
「まあまあ、堅いことは言いっこなし!」
「へぇ…じゃあ山瀬さんは…」
「あっ、しまった!歳がバレる!…まっ、いっか。ギーさんの一つ下だよ。それ以上は言えませーん」
「もうそれ、言ってるから」
「それはそうと、今度はアタシからの質問」
山瀬さんが今度は私と義一を見て
「お二人はどう言った仲なの?もしかしてギーさん、あんまりモテないからって…」
「あのねぇ…この子は僕の兄さんの娘だよ。姪」
「あぁ、あの高慢ちきの…あ、失礼。へぇー」
一瞬聞こえた単語は聞こえないフリをした私を、マジマジと舐める様に見た後
「確かに言われてみれば似ているかもね。ふーん、世間は狭いね」
「そうだね、絵里が僕の住んでる街で司書してるくらいだから」
「本当本当。あははは!」
「はぁ…じゃあそろそろ出ようか、琴音ちゃん」
「え?あ、うん」
「何、もう帰っちゃうの?」
山瀬さんは不服そうに言ったが、すぐいつもの顔に戻り
「じゃあ琴音ちゃん、またね!いつでも来てくれていいんだから。あっ。ギーさんは別にいいからね」
「はいはい」
外に出ると相変わらず空気は熱気で満ち満ちていた。涼しい図書館にいる間、せっかく体感的な温度を実際の温度までは感じないくらいに”暑さに耐えられるポイント”を貯蓄出来たはずだったのに、一気に消し飛んでしまった。汗がじんわり滲み出してるのがわかる。
 ふと義一の方を見ると、汗一つかいていないで平然としている。見た目は頼りなくヒョロヒョロしてるのに、意外に暑さには強いようだ。図書館の正門前に立っているポールの先の時計を見ると1時半を指していた。
特にアテがある様には見えないが、義一がゆっくりと歩き始めたので、私も隣を一緒に歩いた。
「さてと…どこに入ろうかな?」
「え?…お店に行くの?」
と、私は意外そうに義一に言った。
「ん?お店は嫌かい?でもなぁ、また図書館に戻るのもなんだし、そもそもお喋りできないからなぁ」
「…おじさんの家」
私は少し間を開けてボソッと言った。
「おじさんの家は…ダメかな?」
「…え?」
義一は少したじろぎ、歩みを止めることなく考えていたが、私の顔を見て
「…来ても何もないよ?美味しいものもないし、女の子には汚いかもだし…」
と言ったので、私は少しムッとしながら
「あのね、おじさん。分かってて言ってると思うけど、私はおじさんにそういう”普通”のことは期待してないから。ただ…」
とここで少しうつむきながら
「ただおじさんの家も知らなかったら、また会えなくなるかもしれないでしょ?」
「それは…」
義一は言葉に詰まり、その先を言わなかったが、私は慌てて無理に明るい調子で
「また土手を当てもなく探すのもうんざりだしね!」
と義一の顔を強く見ながら、いたずらする様な表情で言った。すると義一は観念した様な、はたまた背中を押されたかの様な表情になり、笑みをこぼして
「そんな苦労をまたかけるわけにはいかないね。…じゃあそうだね、汚い所だけど来るかい?」
「うん!」

 途中でコンビニに寄り、棒付きアイスとお菓子を少し買って、アイスを二人食べながら義一の家までの道を、他愛の無い会話をしながら歩いた。
「ちゃんとママに言ってから来たかい?」
「うん。それは言ったけど…ちょっといい?」
「ん?」
「昨日会った時も言ってたけど、私もう”ママ”なんて呼んでないよ。”お母さん”」
「あ、そうなのかい?何しろ僕の中では、あのお寺で”ママ、ママ”って連呼してる琴音ちゃんの姿で止まってるから」
「ふーん、昨日言ってたおじさんの想像の中の私は”そこだけ”成長してなかったんだね」
私は意地悪い笑みを浮かべ、下から義一の顔を覗く様にして言った。
「いやはや、面目無い。ちょっと偉そうに叔父さんらしいこと言おうとしたら、コレだよ。あまり慣れないことは、するもんじゃないね」
「ふふ」
「宿題も忘れず持って来てるんだね?」
「うん。あ、今気づいたけど」
私は肩に下げたトートバッグを見ながら
「宿題持って来させたのって、図書館で会うための口実作りだったの?」
「そう、その通り。ご名答」
義一は軽く拍手をしながら言った。
「今琴音ちゃんが言わなかったら、先に訳をいう所だったよ。でも安心して。後でお母さんに詮索されない様に、宿題を見てあげるから。本当は図書館で少ししてから出ようと思ったんだけど、今日が絵里の勤務日だとは思わなくてね。ちょっと疲れちゃったから、外に逃げたんだよ。僕の個人的な事情で振り回してごめんね?」
私は正直呆れかえったけど、これも義一らしさなんだろうなと変に納得しつつ
「私を振り回してるのは、今に限ったことじゃないけどね」
「あ、また墓穴を掘っちゃったか」
義一は頭をかきながら言った。昨日もそうだったが、今日も髪の毛を後ろで縛っている。
「そういえば、今も髪切りに行くのに覚悟がいるの?」
「え?」
「いやだって三年前お寺で、聡おじさんとそんな話をしてたと思ったから」
「へぇー」
と義一は本気で感心したかの様に言った。
「よく覚えてるね。確かにそんなこと言ったかも」
「言ってたよ。あれから色んな大人を見たけど、髪切らない理由に、覚悟がどうの大袈裟なこという人いなかったから。でも今はちゃんと後ろで縛ってるのね」
と言うと、今度は義一が悪戯っぽい笑みで
「そうだよ、誰かさんが後ろで縛ったほうがいいと言ったからね」
「えぇー、よく覚えてるのはそっちもじゃん」
「ははは」
楽しい。本当に久しぶりに会話している様な気がした。義一と最後お寺で別れる時、私に言ってくれた言葉、それを一時足りとも忘れたことは無かった。でも、結局我を通すのは今もだけど子供心に難しく、また元の、両親が望む、教師や顔見知りの大人たちの望む”当たり障りの無い良い子”を演じ続けていた。
それが今だけは素のままでいられる気がした。トートバッグを肩から下げてたけど、そんなの関係なしに肩がすごく軽い気がした。やっぱりおじさんにまた会えて、本当に良かった。

おじさんに連れられるまま歩いていると、昨日も来た土手に出た。とそこから横に切れて、土手に沿って走る高速道路の下をしばらくまた歩いた。すぐ隣の車道には、高速の出入り口が近いからなのか、大きなトラックが引っ切り無しに唸り声をあげて通り過ぎていた。でも基本は何も無い、倉庫らしきものが建ち並ぶだけの人気の少ない寂しい通りだった。しばらくして義一は斜に出ている狭い路地に入ったのでついて行くと、ようやくお目当の場所に辿り着いた。
 そこは平屋だった。今時珍しく屋根にはしっかりとした瓦がのっていたが、所々無くて下地が見えていた。塀の上から木々が鬱蒼としてるのが見えたが、あまりにも密があったので、塀自体の高さはそんなに無いのに視界は遮られ、外から建物の全貌はよく見えなかった。とりあえず年季が相当入ってるのは、幼い私にもわかった。ただお世辞にも綺麗な家とはいえなかった。想像してなかっただけに、マジマジと隅々まで目に入れようとしていると、見かねた義一が玄関前から声を掛けた。
「ほら、琴音ちゃん。そんなところにいないでおいで」
「お邪魔しまーす」
 中に入ると真っ暗だった。靴を脱ぎながらどこか嗅いだことのある、懐かしい様な匂いがした。でもすぐに思い出した。あ、これ、図書館の匂いだ。その間義一が暗闇の中慣れた手つきでスイッチを押すと、何度か点滅してから真上の蛍光灯が灯った。その様子を上を向いて見ていたら、また義一の呼ぶ声がした。
「琴音ちゃん、こっちにおいで」
呼ばれるまま声のする方へ行くと、そこは居間らしかった。らしかったというのは、私の家の居間の半分もないくらいの広さで、キッチンと一緒になってるような間取りだったからだ。でも掃除が行き届いていて、古臭いのは否めなかったが、とても清潔感はあった。私の感想を知ってか知らずか義一は照れ臭そうに
「ごめんね、狭いでしょ?でもまぁ、自由にしててね」
と言うと、コンロとシンクの間にある木製の棚の、ガラス扉を開けて、いくつもある瓶の前で一つ一つ人指し指を当てながら選び、決まったのかその中の一つを取り出した。
かと思うと、止まることなく流れる様に二つのティーカップ、ティーポッドをすぐ隣の食器棚から 取り出し、手際よく先程出した瓶を開け、中の茶葉を適量出してポットの中に入れ、ウォーターサーバーからお湯を出している一連の義一の身のこなしを、キッチンのそばの椅子に座る私はただ黙ってみているだけだった。義一はお盆に茶器一式を乗せると、私の座るところまで持って来て目の前に置いた。よく見ると、真っ白な陶器に濃い青一色でお花の絵が描いてあった。よく分からないけど、高そうだっていうのは分かった。
「待たせて悪いけど、もう少しだけ待っててね」
「う、うん。あの…」
「ん?」
「トイレに行きたいんだけど」
「あぁ、トイレなら今来たドアを出て、向かいだよ」
「ありがとう」
 トイレを済まして居間に戻る途中、少し見上げてみると天井が意外に高いのがわかった。梁が縦横に組み合わさっている。視線を戻すと、さっきは気づかなかったが、ドアがいくつか見えた。物が多いだけで意外と家自体の大きさは普通かもしれないと思いながら居間のドアを開けた。
 戻ると見計らったかの様に、ちょうど義一が二つのカップに紅茶を注いでいる所だった。
「おかえり。今家に何もないから、せめてと思ってね。カッコつけて紅茶を出してみたけど、紅茶で大丈夫だったかい?」
「うん、好きだよ」
「それは良かった。正直こだわりがあったらどうしようかと思ったから、オーソドックスにダージリンにしてみたんだ。召し上がれ」
「いただきます」
 初めて会った時、昨日今日と、改めて気付かされたけど、このおじさん、小学生のこの私に気をまわし過ぎなんじゃない?と、口には出さずに、出された淹れたての紅茶をゆっくりと啜った。確かに口に含んだ時、軽い渋みと共に良い香りが口中に広がって、口を空にし鼻で息を吐くと、余韻が鼻腔を満たした。普段は普通にコンビニで売ってるのしか飲んでないから、具体的な良さは分からなかったけど、それより美味しいのは分かった。
「…うん、美味しい」
「そう、それは良かった」
と、義一もカップを持ち上げ満足そうに笑った。

 お皿にさっき買ったお菓子を置いて、二人仲良く分けて食べた。何故か会話の内容はヒロについてだった。義一がヤケに聞きたがったからだ。
「へぇ、じゃあ今はクラスも違うのに仲良くやってるんだ」
「いやいや、仲良くないよ。ヒロが変に私に突っかかってくるだけ。いい迷惑なんだから」
「ははは。そうかい?これはヒロ君もまだ苦労しそうだね」
「おじさん、ちゃんと話聞いてた?苦労してるのは私の方なんだから」
「ははは、そうだったね。いやぁ、もっと琴音ちゃんの今までの話が聞きたいな。ある意味琴音ちゃん相手だし、今他に誰もいないから言えるんだけど、実はずっと気に掛かってたことがあったんだよ」
「ふーん、それは何で?」
私は新しいお菓子の封を開けながら聞いた。義一は紅茶を一口啜ってから
「お寺での会話がずっと頭に残ってたんだ。まぁ、僕が自分から話した事なんだけど」
と言ってカップを置き、テーブルの上で両手を組ませて、その中心に顎を乗せる様な体勢で、向かいに座る私に、真っ直ぐな視線を送りながら続けた。
「これは勝手に感じた事なんだけど、あの時の琴音ちゃんが昔の僕と、ふと重なったんだよ。なんて言えばいいのかな…懐かしかった?…うーん、この話続けてもいいかな?」
「…うん、続けて」
私も食べかけのお菓子をお皿の上に置いて、義一の顔をじっと見つめた。
「そう…懐かしくもあったんだけど、寧ろずっと会えなかった親友に、ようやく再会出来たような、この感覚に近いかも知れない。どう言う意味か分かるかい?」
「うん」
私の返事を聞くと、義一は穏やかな表情のまま続けた。
「だからついつい、嬉しくなっちゃって年の差忘れて話し込んでしまったんだ。相手は小学校低学年なのにね。でも琴音ちゃん、こう言われてどう思うか分からないけど、はっきり言えば君は、普通の子供達とはだいぶ違う、良く言えば本来の意味で成熟している、悪く言えば、と言うよりそのせいでとても感じやすい、その感受性豊かさ故に、これから生きていく上でかなりツライ思いをしなくちゃいけないんだこの子は、と思ったんだ」
「…つまりそれは、おじさんも?」
と、か細い声で私が問いかけると、優しく微笑むだけで義一は答えず
「だからあの時確か無責任に、そのままでいい、それはかけがえのない財産なんだから大切に誰に何を言われようと自分を信じて、みたいなことを当時の琴音ちゃんに偉そうに語ったと思う」
「…」
「あの瞬間だって『調子に乗って言ってしまった。僕なんかの言葉とは言え、幼い少女の心に余計な楔が刺さってしまってはいないか』と心配だったんだ」
「…うん」
「でも!」
とここで義一はあっけらかんとした、声の調子を出して天井を見上げながら
「昨日友達と一緒にいる琴音ちゃんの楽しそうな姿を見て、『あぁ、良かった。きっと僕の言ったことなんか忘れて、どこにでもいる普通の女の子として生きてるんだ』と安心したんだ。まぁ、今年の四月、土手でまさか再び会うとは思っても見なかったから、また性懲りもなく舞い上がって声をかけちゃったんだけど…。あれだけが誤算だったね。でも実際見れて話せて良かった…ってあれ?琴音ちゃん?」
 義一が心配そうに声を掛けてきた。私は途中から俯きながら泣いてしまい、大粒の涙を流していた。その状態のまま静かに涙交じりの声を出した。
「…楽しくなんかない」
「え?…琴音…ちゃん?」
「何にも楽しくなんか無かったよ!」
私は両肩を怒らせ、ワナワナ震えながら、思わず叫んだ。今まで溜めてた感情が堰を切って溢れ出し、自分でも抑えれないまま、想いを吐露した。
「あの時だって、おじさんは一方的にと言うけれど、私だっておじさんに会うまで、幼いながらに他人とのズレを感じて生きていたんだ!無理して周りに合わせて、友達と同じように、ズルく子供の殻に都合が悪い時は逃げ込んでやり過ごしていたんだ!もうこのままずっと過ごすもんだと諦めていたのに、おじさんに出会って『このままでいいんだ、ありのままの私でいいんだ』初めて”私”を承認してくれた気がして、どんなに当時嬉しかったかおじさんに分かる!?」
「…」
「でもあれからおじさんと会えなくなるし…次第にまた諦め癖が出てきて…元の…おじさんに会う前の仮面を被った”良い子”の私に戻っていった」
私はここでようやく顔を上げ、涙でクシャクシャになった顔を義一に向けて、渇いた笑いを漏らし、自嘲的な笑みを浮かべて
「こう見えて、私って役者なのよ?それも、自分で言うのもなんだけど、名役者なの。放課後ヒロ以外にも遊ぶような友達もいるし、学校の先生にも結構評判がいいの。昨日終業式で通信簿が配られたんだけど、そこの先生のコメントも良いことばかり書いてあったよ。でもそれは所詮私が作った、仮面に対してのコメント。先生だけじゃない。友達だって、いや、お父さんやお母さんだって私の仮面しか見てないの…」
「琴音ちゃん…」
「まぁ仮面を進んで被ったのはこの私。自業自得なんだけど。いつだって友達や大人達の大して興味も無い、ツマラナイ、クダラナイ話題に付き合って、無理して合わせても、結局その演じてた自分が後になるととても恥ずかしくて、嫌悪を催して、胸を引き裂いて中身を全部洗いたくなる衝動に駆られてたの」
「…」
「でも、それでも心の拠り所にしてたのは…おじさん、おじさんアナタとの、お寺でのあの本の一時間かそこらの会話だったんだよ。…それを」
私は自嘲的な笑みを殺し、今度は睨みつけて
「それをおじさんが自分自身が言った言葉、それを私に言ったのが間違いだったなんて…そんなの聞きたくなかった!そんなことをおじさんの口から聞く為に探してたんじゃない!おじさん答えてよ、本当にあの時私に言ってくれた言葉は偽りだったの?正直に答えて!」
ここまで言い終えると、私は椅子の背もたれに寄りかかり、途中から少し俯いて目を閉じ黙って聞いてた義一を見つめ続けた。しばらくは、居間の壁に掛けてある、これまた古ぼけた時計の、規則正しく時を刻む音だけが鳴り響いていた。ふっと短く息を切り、ようやく義一が重い口を開いた。
「…嘘なわけがないさ。偽りのわけがないよ」
義一はまだ睨みつけてる私に怯むことなく、穏やかな表情でこちらをまっすぐ見た。
「それにさっきも言ったよね?僕と琴音ちゃん、君とは似てるって。親友に会ったようだって」
と言うと、今度は優しく微笑みながら
「親友に対して、嘘で固めた偽りの言葉は吐かないよ」
「おじさん…」
「でも、僕自身、僕と君が似てると思うからこそ」
微笑みを消して、真剣な表情で静かに
「僕と同じ道を歩いて欲しくなかったんだ。僕自身は今の僕に満足している。でも詳しくは今言わないけど、だからと言って他人に僕と同じ道を歩むことを決して薦めようとは、絶対に思わない。ましてや親友とも思えた可愛い姪にね」
「…」
「でも…」
 義一は緊張を解いて、さっきまでの穏やかな表情に戻して、やれやれといった動作をしながら
「さっき、琴音ちゃんの決意表明とも捉えられるような宣誓には、正直言って参ったよ。元々低く見てる気は微塵もなかったけど、それでもなお君の事見損なってたみたいだ。僕は僕自身の弱さ、自分の運命に耐える力がなくて、ツライとすぐ弱気になる弱さを棚に上げて、似ていると決め込んでた君まで、巻添えにしてしまっていたんだね」
と言うと立ち上がり、向かいに座っている私の頭を優しく撫でながら
「琴音ちゃん、君は強い子だ。本当の初対面は君が幼稚園に入るかどうかぐらいだったけど、本当に初めて会話した時感じた直感。この子は大きくなったら僕なんかよりも遥かに強くなる。まだまだ君は発展途上で伸び盛り、まだまだ成長するんだろうけど、現時点を見るに、僕の見る目も捨てたもんじゃないって自惚れても良いかな?」
と最後にはにかんだ笑顔を見せたので、私も思わず釣られて笑顔になり、コクっと頷いた。ようやく落ち着いてきた私は、まだ声が掠れていたが構わずに言った。
「あの…おじさん?」
「ん?なんだい?」
「私のこと親友だと言うのなら…またここに遊びにきても良いかな?」
「…」
義一は返事を返さず黙った。腕を組んで考え込んでる様子を見せたが、ハッと目を見開き立ち上がって先程カップを取り出した食器棚へ向かった。
「?」
「えーっと…確かここに…あっ、あった」
食器棚の中段あたりに備え付けてある、小さな引き出しを開けて、ゴソゴソ何かを探していたかと思うと、何かを取り出し、持ってまた戻ってきた。
「おじさん、一体」
「はい、琴音ちゃん」
と義一がテーブルの上においたのは鍵だった。所々錆び付いていたが、鍵としての機能は残ってそうだった。
「これって…」
「見ての通り鍵だよ。…この家のね。これを琴音ちゃんにあげる」
「え!?いいの?」
と、私は思わずガタッと勢いよく立ち上がった。その反動でイスが前後に揺れている。
「うん。もちろん。まぁ普通は、親友だからって合鍵をホイホイ渡したりしないんだろうけど、琴音ちゃんは別だよ。もし何か辛くて逃げ出したくなった時、誰でもいいから思いっきり愚痴を吐きたい時、八つ当たりしたい時」
義一はそこまで言うとスッと私の目の前まで鍵を押し出しながら
「いつでもこの鍵を使って遊びにくるといい。いつでも歓迎だからね」
「うん、ありがとうおじさん!」
と私が嬉々として鍵に手を伸ばそうとしたその時、義一が鍵の上に手をかぶせて取れないように隠した。意味もわからずキョトンとしてると、義一が真剣な調子で言った。
「琴音ちゃん、これを渡すに当たって約束してくれなくちゃいけないことがあるんだ」
「え?何約束って?」
「この鍵の存在を、君のお父さんお母さんにバレてはいけない」
言われて私はハッと気づいた。義一は続けた。
「詳しく直接話したわけじゃないからわからないけど、兄さんが僕と琴音ちゃんが仲良くするのを、すごく嫌がってるのは知ってるんだ。もしこの鍵が何かの拍子で見つかったら、何も聞かなくてもすぐに、特に兄さんはすぐ察するだろうね。もしかしたら聞いたことあるかも知れないけど、この家は僕の父さん、君のお爺ちゃんの持ち物の一つだったんだ。兄さんも何度かこの家の鍵は見たことあるだろうから、すぐに気づいて琴音ちゃんに出所を問いただすと思う。僕自身何言われようとも構わないけど、琴音ちゃんがこの鍵のせいで傷つくのは、とてもじゃないけど耐えられない。だから、琴音ちゃん、君が自分自身のためにも、勿論僕の家に行く事自体も内緒に、出来ればどんなに親しい友達にも隠し通すくらいの覚悟を誓えるかい?」
「…」
私は一瞬口噤んだが、そもそも覚悟なりは、おじさんを探すと決めた時点で決まっていた。
「勿論、誓うよ。鍵を頂戴」
と直接目を見てハッキリ言うと、義一はまた表情を和らげて、手を浮かせて
「じゃあどうぞ。僕と琴音ちゃんの友情の証だ」
「うん、ありがとう」
私は鍵を手に取ると、錆び付いたその鍵を、宝物か何か価値ある物かのように、ひっくり返したり、天井の蛍光灯の明かりに当てて見たりした。その様子をニコニコしながら義一は見ていたがふと、怪訝な表情で私に言った。
「そういえば晴れて友達になった訳だけれども、それで一つ引っ掛かることがあるんだ」
「え?なんだろう?」
「さっき聡兄さんのことを”聡おじさん”って呼んでたよね?」
「え?あぁ、うん。それが何?」
「いやぁ、まぁ大したことじゃないんだけど」
と言うと、義一はホッペを掻きながら言いづらそうに言った。
「いや、聡兄さんは聡おじさんなのに、何で僕に対しては”おじさん”なのかな?って…」
「だって…私にとっては叔父さんで合ってるよね?」
「いや、だから…なんで僕には名前で呼んでくれないのかなって…」
と恥ずかしながら言うので、一瞬意味がわからず、無反応でいたがやっと気づいて
「え、えぇー!あぁ、そう言う意味かー。なぁーんだ。ふふ」
「おいおい、笑わないでくれよ」
「ごめんなさい。あまりにも可愛いことだったから」
「そうやってすぐ面白がって」
「えっと…じゃあ何て呼べばいいのかな?」
「う、うーん…義、義一おじさん?かなぁ…それじゃ聡兄さんと被ってるし、面白くないね」
「面白さねぇ…あ、ギーさんはどう?ギーさん!」
私は悪戯っ子のようにニヤケながら挑戦するように言った。義一は慌てて
「おいおい、それだけは勘弁してくれないかなぁ。そんな呼び名は絵里、アイツだけで十分だよ」
「ごめんごめん。でも他にこれといって…もう単純に義一さんは?義一さんでどう?」
「うーん…まぁ一周回って姪っ子に下の名前を呼ばれるって時点で、変わってるとは言えるかもね」
「よし、決まり!これからそう呼ぶから。改めて宜しくね義一さん」
と、私は右手を差し出しながら、目が泣いたせいで少し腫れてたけど、それでもとびきりの笑顔で言った。義一も笑顔で応えた。
「こちらこそよろしく、琴音ちゃん…あっ!」
「もうっ、今度は何、義一さん?」
「ほら、あれ」
義一が指差した先には時計があり、夕方の四時半を指していた。義一は苦笑いを浮かべながら
「時間は大丈夫かい?ほら…」
と、今度はテーブルの端に置いといた私のトートバッグを指差した。
「え?…あぁ!宿題!」
私は叫んだ後、ゆっくりと振り返り義一を見ると静かに笑ってるだけだった。私が恐る恐る
「やっぱり…やらないとダメ?」
と言うと、義一は明るい調子で答えた。
「勿論。そんなひょんな事で秘密はバレていくんだからね。図書館が閉まるのが確か五時。その時間ギリギリまでやろう!」
「ひえー」

「本当に途中まで送らなくていいの?」
「大丈夫だよ、ここまで難しくなかったし」
 私が玄関で靴を履いていると、その姿を見ながら義一が背後から、心配そうな声を投げかけてくる。つま先をトントンと、足と靴を馴染ませてから、置いてたトートバッグを肩に掛けて、明るく挨拶した。
「じゃあまたね、義一さん」
「うん」
外に出る時義一が点けてくれたのか、優しい光が頭上から降り注いだ。コレも気付かなかったが、剥き出しの裸電球がぶら下がり、薄オレンジ色の光を放っていた。
 高速道路の真下の通りに出て、期待はしてなかったけど、名残惜しそうに振り返って見ると、義一が腕を組み、静かにこっちを見ていた。私は大袈裟に右腕を大きく振ると、義一もゆっくりと振り返した。表情まではわからなかったけど、笑ってくれてたに違いない。
「義一…義一さん…か」
私はボソッと独り言を言い、家でお母さんに泣いた跡がバレないことを祈りながら、足取り軽く家へと帰った。

第5話 宝箱

「さてと…」
 私は若干緊張して、義一の家の玄関前に立っていた。トートバッグから携帯取り出し画面を見ると、昼の一時を示していた。
 前に義一さんに会った時、これくらいの時間だったから、迷惑じゃないよね…。あぁ、義一さんに電話番号聞かなきゃだったな。
 前回初めて義一の家に行ってから三日が経っていた。本当は次の日にでもまた来たかったが、宿題を居間のテーブルで見てもらいながら、義一が
「あ、さっきいつでもとは言ったけど、あまり頻繁に来ちゃダメだよ?急に頻繁に外出が増えると、疑われるからね」
なんて言うもんだから、私なりに調整したのだった。まぁ、ピアノの練習に、たまたま出くわしたヒロにチョッカイかけられたりして、それなりに予定はあったけど。
 私は恐る恐るラッパが描いてあるインターフォンを押すと、ピンポンと鳴るかと思えば、ジィィーっと単調で無骨な音が鳴った。しかも押し続ければ、そのまま鳴りっぱなしの仕様のようだ。あまり慣れてなかったので、使い方があってるのか不安に思いながらも反応を待ってると、ブツッと音がした後に義一の声が聞こえた。
「はい?」
「あ、ぎ、義一、さん?あの…琴音、だけど」
と、私は慣れない調子で拙く答えた。
「あぁ、琴音ちゃん、いらっしゃい。ゴメン、悪いけど勝手に入って来てくれるかな?玄関開けて」
「うん、わかった」
私は筆箱の中から鍵を取り出し、開けて中に入った。
「お邪魔しまーす」
と、前に入った居間の方へ行くと誰も居なかった。
「あれ?義一さん、どこ?」
「あ、こっちこっち」
と部屋の外から声が聞こえた。廊下に戻ると、幾つかあるドアの内、一つが半開きになっていて、そこから光が漏れていた。
「ここにいるの?…!」
ゆっくりとドアを開けると、まず匂いが鼻についた。何とも言えないが、敢えて形容するなら薄甘い匂いだ。私の大好きな匂いだ。古本の匂いだった。
 部屋を見渡すと、四面の壁のうち三面に本がギッシリ詰め込まれていた。文庫本サイズから、辞書や図鑑サイズまで、ジャンルを問わず多種多様の本がそこにはあった。
 なるほど、前に来た時、図書館の匂いがすると思ってたけど、コレだったのね。
 一つだけある、そこから外に出られそうな窓は、ドアから入ると正面に位置し、そこだけは本から解放されていた。その窓の手前には重々しい大き目の机が置いてあり、身長が160センチの私が両手広げたくらいの幅があった。そばには革張りの安楽椅子があり、座ると正面にドアが見える配置になっていた。この二つとも、かなり古そうだったけど、それなりの雰囲気が出てた。部屋の広さは、当時は当然詳しく分からなかったけど、10畳以上はあったと思う。部屋の中心あたりの、フローリングの床には焦げ茶色の絨毯が敷いてあった。周囲を圧倒されながらも見渡してると、壁を背にして何か布で覆われてる物に気付いた。気になり、少しズラしてみると、何とそこにあったのはアップライトピアノだった。私は思わず残りの布も取り払い、ガコッと蓋を開けて見ると、若干埃かぶっていたが細長い赤いカバーがあり、それも外して見ると、綺麗な白と黒の鍵盤が現れた。
…音、鳴るのかしら?試しにドレミで言うところの”ラ”を押すと、鍵盤は普通のより重く、抵抗感を感じたが、外れることなくちゃんと”ラ”が鳴った。調律はしてあるようだった。
「お、早速弾いてるね」
いつの間にか義一が、お洒落な喫茶店のテラスに置いてあるような、二人用の丸テーブルを持ってドアの前に立っていた。それを部屋の中央部に置きながら
「ちゃんと鳴るでしょ?そのピアノ」
「う、うん。ぎ、義一さん弾けるの?」
と、前回は勢いで素直に言えたのに、冷静に改めて面と向かって名前を言おうと思うと、今更だけど小恥ずかしかった。義一は私と違う意味で照れながら
「いやぁ、昔少し習ってただけだから。今でもたまに弾くけど、今熱心に練習している琴音ちゃんとは比べ物にならないよ」
「へぇー、そうなんだ…っていや、なんかもう」
と、私は部屋を見渡したり、義一を見たり、運び込まれたテーブルを見たりと慌ただしく視線を動かしながら
「幾ら私でも、こんなに一遍に新しいことが目の前に起こると、何から聞いたらいいのか混乱しちゃうじゃない!」
と、いかにも困ったふりして言うと、義一は子供っぽい笑顔で得意げに
「ビックリした?僕も琴音ちゃんが急に来てビックリしたから、お返しにと思って機転を利かしたんだ」
「もう…じゃあ早速質問するけど、まずここは何なの?」
「ここかい?ここはね…」
義一は大袈裟に部屋をグルッと見渡してから、勿体ぶって話した。
「僕の父さんの宝箱さ。そして今は僕のね」
「え?宝箱?ここが?」
私もグルッと部屋を見渡しながら返した。
「そう、ここには父さんの大好きだった本が全部置いてあるんだ。古今東西、まだ今みたいに情報がなかった時代に、自分の足で探し回ってかき集めたみたいなんだ。まぁ、今は僕の買った本も混ざっているけどね」
「へぇー、ちなみに何冊くらいあるの?」
「そうだなぁ…」
と、義一はいつもの、顎に手を当てる、考える時のポーズをしながら
「実際はどうか分からないけど、七千くらいって言ってたかな?」
「な、七千!?ほぇー…」
私は驚きながら、改めてまた見渡した。
「だから、ここが何かと聞かれれば、書庫兼書斎と言うことになるだろうね」
と、義一は今度は窓の前の大きな机に手をかけながら言った。私は目を輝かせて
「へぇ、いいなー。壁一面の本なんて、憧れちゃう」
「ふーん、若いのに随分渋いセンスをしてるね。本好きなんだ」
「うん、大好き」
「あ、そう言えば、こないだ図書館で、絵里と仲良さそうにしていたもんね。よく行くんだ?あそこ」
「うん、よくあそこで借りたりしてるんだ。人も少なくて気に入ってるの。でも凄いね、私のお爺ちゃん、そんなに本が好きだったんだ」
と私が言うと、義一は人差し指を立てて、左右に振りながら
「イヤイヤ、これで驚いちゃいけないよ?他の部屋にも本とは別に色んなものがあるんだから。何せお爺ちゃんは…」
「粋人!…でしょ?」
と私がすかさず横槍を入れると、一瞬間が空いて、それからすぐ二人して笑い合った。
「それで?あの今持って来たテーブルは?」
「あぁ、あれ?あれはね」
と、義一は今度は二人用のテーブルに近づき、二回軽く叩きながら
「ほら、これから琴音ちゃんが来た時、あの居間で毎度宿題とかするのは味気ないと思ってね。この部屋だったら本に囲まれて、いかにもって感じで雰囲気出るでしょ?」
「まぁ、私は本読むのも、この古本の匂いも好きだから歓迎だけど」
「なら良かった。本当は琴音ちゃんがくる前に、物置で眠ってたこのテーブルを出すつもりだったんだけど、思いがけず早く来たもんだから、慌てて出すのにちょっと手間取っちゃった。待たせてごめんね?」
「いやいや、全然構わないよ。むしろ色々考えてくれて嬉しい」
と私は満面の笑みで答えた。同じく微笑み返した義一だったが、急にすまなそうな顔で
「ゴメンねついでになんだけど、テーブルはあったんだけどイスが無かったから、今から一緒に居間に行って、食卓のイスを持ってくるの手伝ってくれないかな?」
と言うので、私はクスクス笑いながら返事した。
「いいよ、行きましょ」
 
 二人で居間からイス二つを運び終えると、私はイスに腰掛けトートバッグから宿題と筆記用具を取り出した。義一はそそくさと居間に戻り、こないだと同じように紅茶を作って、ポットとカップ、それに前にコンビニで買って余ったお菓子をお盆に乗せて持って来た。
「あっ、ありがとうー」
「いえいえ。じゃあまず早速」
義一は私の宿題に目を落としながら
「大義名分を果たすかな?」
「ふふ、そうね」
と、義一は私の向かい側に座りかけたが、躊躇して
「そうだ、僕がそばにいると気になるかな?」
と言うので、私は笑いながら
「大丈夫だよ。たかが宿題くらいで。むしろ見てくれるんでしょ?」
と言うと、義一は頭を掻き言った。
「あぁ、そうだった。そこまでが”大義”だったね」
 
 最初の二十分くらいは、早く宿題終わらせて義一とお喋りしたいが為集中していたが、余りに静かなのでふと顔を上げると、義一は静かに背表紙がボロボロの分厚い本を集中して読んでいた。その姿を見て自然と話しかけた。
「…やっぱり義一さんも本が好きなんだね」
「…ん?うん、そうだね。でもやっぱりって?」
「…うん、いや、その」
と私は持ってたシャーペンを一度置いて、それから続きをゆっくり話した。
「前にほら、義一さん言ってたでしょ?私と自分が似てるって」
「うん」
「もし本当に義一さんと私が似てるとしたら、そうかなって。義一さんも私と同じくらい、小さい頃から本が好きだった?」
「…まぁ、そうだねー」
と義一も手に持ってた本を置くとゆっくり話し始めた。
「読んでたよー。それこそ、ここに置いてある本をね」
「へぇー、ここのを…」
と私は義一から顔を逸らして、またグルッと周りを見渡しながら言った。
「うん。琴音ちゃんのお爺ちゃんに、別に強要された訳じゃなかったけど、僕は、そうだね、初めて僕達が会話した、あの時の琴音ちゃんくらいの時から、自分から進んでこの家に遊びに来てたんだ」
義一はその時の情景を思い出すように、遠い目をしながら言った。
「ふーん、私もあの頃からずっと本が好きで読んでたよ。まぁ、お父さんもお母さんも、本を読む分には文句を言わなかったしね」
「へぇー、ところでどんな本を読んでたの?」
と、義一は興味津々といった様子で、身を乗り出すように顔を近づけて聞いて来た。
私もさっきの義一と同じく遠い目をして、思い出しながら言った。
「何だったかなー。色々と読んでたと思うけど、何だか世界文学全集みたいなのを買って貰って、そこに載ってるお話を、片っ端から読んでたような気がする」
「ふーん、兄さんも中々粋なことをしてたんだね。あ、あれか。自分が父さんにしてもらったから、思い出して自分の子供に同じようにしたんだ」
義一は悪戯っぽく笑っていたが、意地悪くじゃなく微笑まし気だった。
「なるほどねー…それで一つ、琴音ちゃんに対する謎が一つ解けたよ」
「え?なになに?」
今度は私が体を乗り出して、食い気味にその先を促した。
「何で琴音ちゃんの話す会話の中身が大人びていて、というより、大人よりも大人びているのか?しかもチョイスが独特で面白いのは何故か」
「えぇー、そうかな?自分じゃ分からないけど」
と予想外のことを言われたので、上手く飲み込めずに返すと、義一は微笑んで
「いやいや、もし気を悪くしたんならごめんよ?むしろ褒めてるんだから。なるほど、やっぱりねぇ」
と一人納得してるらしく、ウンウン頷いていた。だが、ふとバツが悪そうな表情になり、私に向かって苦笑しながら続けた。
「でもどうだろう?さっき僕達同じだと言う前提で話したけど、僕と琴音ちゃんは動機が違う気がするんだ」
「え?どうしてそう思うの?」
今自分でも”なんでちゃん”が起きだしたのがわかった。義一は続けた。
「うん、いや、僕も小学生に上がりたての頃は、さっきも言ったように純粋に本を読むのが好きだったんだ。まぁキッカケはさっき言わなかったけど、やっぱり父さんが読んでいたからなんだ。父さんの事尊敬してたしね。父さんのやることなす事同じくしたくて、真似から入ったんだと思う」
私もこの頃お父さんを尊敬してたけど、そのことは口に出さなかった。義一は続けた。
「で、僕も段々とのめり込んでいったんだけど…いつからなのかな…?キッカケも覚えてないんだけど、急に周りの大人のことが信じられなくなったんだ」
「…え?」
「何だったんだろう?今となっては、自分の事なのに推測するしかないんだけど、父さんに対してではなくて、父さんの周りに集まる大人達、父さんに対して見せる表情、態度が余りに当時の僕にはおぞましく見えたんだ。あ、これがキッカケかな?…続き話していいかい?」
「うん」
「そこからは、なし崩しと言うのかな…丁度今の琴音ちゃんくらいの歳になると、目の前に大人がいたら、色々と観察する癖が付いちゃってたんだ。小学校の先生から始まってね。先生が一番分かりやすかった。教壇の前で僕達生徒に向かって、色々聞こえの良いことをツラツラ澱みなく喋ってるのを聞くたび、僕は思わず『この嘘つき!』と叫びたくなるような衝動に駆られてた。まぁ、結論じみたこと言えば、僕は生意気にも小学生にして、自分のことを棚に上げて大人に対して、また、これから大人になる自分に対して絶望してたんだ」
「…」
ここまで聞いて、私からも話したいことが出来てウズウズしてたけど、今は黙って義一の話に集中した。
「そこで僕が縋ったのが…」
と、義一はさっきみたいに周りを見渡しながら
「父さんが集めたこの本達だった。最初は物語が面白くて読んでいたけれど、段々僕の方が変化していくに連れ、また再び読み返してみると、物語は勿論だけど、軽く読み飛ばしていた、主人公のセリフだとかが目に飛び込んでくるようになって、それが僕の心に沁み渡っていくようだったんだ。僕みたいなちっぽけな子供が、クヨクヨしてるようなことを、物語の主人公、ヒーロー達が果敢に立ち向かっても、結局どうにもならない話が特にね」
義一は今度はまっすぐまた私の顔を見て
「僕はそれらの、ある意味での悲劇を読んだ時、むしろ気が楽になったんだ。今初めてのことじゃなくて、人間昔から全く変わらないんだなぁ…ってね。偉そうに僕は『世の中、僕のことをわかってくれる人はいない、こんなに周りに人がいるのに独りぼっちだ』って塞ぎ込んでいたんだ。でも、僕なんかよりも深く現実を見て、歴史に名を残した偉人達、物語を書いた現実生きてた作者自身も、もがき苦しみ、それでも何か解決策は無いのかと、主人公と一緒に模索していたのに気付いた。で、これは不遜かも知れないけど、本を読むことで、作者と自分を重ね合わせることで孤独が癒されたんだ。それからは、いわゆる小説以外にも手を出して、余計に本読む量が増えて、今度は物理的に引きこもるようになってしまったけれどね」
ここまで話すと、義一は自嘲気味に笑った。
「長々と話しちゃったけど、今の話を聞いて、琴音ちゃんはどうかな?」
と義一が聞いてきたので、少し頭の中を整理するため黙っていたが意を決して
「…うん、義一さんの言う事、よくわかる気がする。…私なりにだけど」
と静かに返した。
「わかる気がするって言ったのはね?今まで何となくでしか感じていなかったことを、今義一さんが言葉にしてまとめてくれたように感じたって意味なの」
とここまで言うと私は、黙って私の言葉を待つ義一をまっすぐ見たが、少し申し訳なさそうに弱々しく
「…うん。多分同じは同じだと思うけど、肝心な所が違うね。私は自他ともに認める”なんでちゃん”でしょ?疑問に思った事をそのままに出来ない。ちゃんと納得いく説明してくれないと我慢出来ない。私は今、義一さんの話を聞いて、私も、周りの大人達が誰一人答えてくれない、一緒に悩んで考えてくれない、それでどうしようもなく追い込まれた先が本だったのかもしれない、と思ったの。でも、私は義一さんとは違う…」
とここまで言うと、少し強い視線を義一に向けながら
「私は昔の義一さんほど絶望していないもの。だって」
私はニッコリ微笑んだ。
「義一さんには義一さんがいなかったけれど、私には義一さんがいるもの」
「琴音ちゃん…」
「…はい、この話はこれでお終い!宿題しなくちゃ!」
私は急に自分が今言った言葉に恥ずかしくなってしまい、誤魔化すようにワザと明るい声出してから、宿題に没頭した。しばらく義一は私に微笑みかけていたが、また読書を再開するのだった。

 持ってきた分の宿題を終えて、時計を見ると丁度三時を指していた。
「んーん、終わったぁ」
「お疲れ様、紅茶を淹れ直したけど飲む?」
「うん、いただきます」
二人でおやつとして、この間買ったお菓子を食べてると、義一が少し物憂いげに
「せっかくのおやつが、これじゃ味気ないねぇ。次から何か用意しとかないと」
と言うので、私は少し考えて
「あ、じゃあこの家でお菓子を作ろうよ、おやつ用の」
「え?でも、僕は当然作れないし…え?まさか琴音ちゃん…」
と義一は心底驚いた様子で
「お菓子作りなんて、女子力高いこと出来るの?」
と言うので、私は少し眉を顰めながら
「何よそれぇ。違う、違うの。私のよく知ってる人で、お菓子作りの名人がいるの。次来る時までに、その人に習っておくから、期待しておいてね」
と言う頭の中には、ピアノの先生の顔が浮かんでいた。
「へぇ。じゃあそれは期待して待ってるよ。…あっ、そういえば」
義一は手に持ったカップを置きながら
「琴音ちゃん、今日来る時鍵開けて来たよね?今更だけど、鍵は普段どこに入れて持ってるの?」
「鍵?いやぁ、悩んだけどねー」
と私はテーブルの上に置いてある筆箱をおもむろに弄り、中から鍵を出して見せながら
「思い付かなかったから、しばらくこの中に入れとくつもり。お父さんもお母さんも、筆箱の中まで見ないとは思うから」
「そうかぁ。いや、僕も渡した後に鍵どうしたか気になってね。一方的に後先考えず渡して、無責任極まりないなぁ、僕は」
と頭を掻きながら言うので
「はぁ、全くもう。だから義一さんに”普通の大人”の対応は期待していないから」
と、ため息混じりに返した。気づけばもう”義一さん”呼びに違和感はなくなっていた。
「いやはや…。でも、”もしも”があるから、僕も考えるけど、琴音ちゃんも、もっといい隠し場所がないか、考えといてね?」
「うん。…あっ!」
私は今の会話に全く関係がない、でも一つ忘れ物をしてるのに気づいた。急に声を上げたので、義一は目をパチクリしてたが、私は落ち着き払って
「そういえば、私達が再開した時、何で土手に、しかも暗くなる時間まで寝っ転がっていたか、まだ答えてもらってなかった!ド忘れするとこだった、危ない危ない。で、何であそこにいたの?」
と聞くと、少しいつもの考える時のポーズをしていたが、ふと苦笑を漏らし、言おうか言わないか迷っているようだったが、表情はそのままに答えた。
「あぁ…アレねぇ…本当に大したことじゃないんだけど…知りたい?」
「もったいぶるなぁー。そこまでタメられたら、余計に気になっちゃうよ!男なんだから、こう、スパッと教えて!」
と私があまりに焦れったくて、同級生に言う調子で言ってしまった。
あっ、生意気に言いすぎたかな?と思ったけど義一の反応を待った。男なんだからと言われたのが身にこたえたかどうかは分からないけど、まだ苦笑をしながら義一は答えた。
「そこまで言われたら引き下がれないね。…よし、琴音ちゃん。今から土手に行こう!」
「え?今から?」
ふと時計を見ると三時半を少し過ぎてるくらいだった。その様子を見て義一が聞いた。
「あ、もしかして、そろそろ帰らなきゃいけない時間かい?」
「んーん、まだ時間は大丈夫だけど…」
「よし、じゃあ…」
と義一は勢いよく立ち上がると明るい調子で言った。
「琴音ちゃん、忘れ物しないようにね?早速土手に行こう」

 私はトートバッグに、持って来た宿題と、鍵を仕舞った筆箱を入れて、玄関前で待っている義一に近寄った。
「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
「よし、じゃあ閉めるよ」
玄関を閉めると、私達二人はゆっくりと歩を進め始めた。空は若干オレンジ掛かった黄色に染まり、夕方に成るのを知らせていたが、暑さは私が義一の家まで来る時と、体感では全く変わってなかった。私は歩いてすぐ大きく溜息を付いたので、義一は空を見上げながら
「しっかし、今日も暑いねぇ。毎年思うけど、去年より今年の方が暑いと思わない?」
「うん…まぁ」
「でも、こうして…」
と義一は、前に土手に持って来てた籐かごバスケットに目をやりながら
「スポーツドリンクに、日傘、あと保冷剤を入れてるから大丈夫だと思うよ?土手に着けば、風も吹いているだろうし」
と得意げに言うので、私が
「ついさっき行くこと決まったのに、随分準備がいいんだね…?」
とツッコんだけど、ニヤニヤ笑ってるだけで何も返さずスルーして言った。
「結局僕が連れ出す形になっちゃったけど、理由を知ってもがっかりしないでね?本当に冗談じゃなく、ツマラナイことなんだから」
「ハイハイ、大丈夫だって。面白いツマラナイじゃなくて、訳さえ知ればそれでいいんだから。いい歳した大人が、平日昼間にあんな所で何故寝っ転がっているのかのね」
「いやいや、中々直球で毒を投げつけてくるね」
と義一はまた苦笑まじりに頭を掻きながら言った。私はしたり顔だ。

 土手に着き、斜面を登りきると、まさに夕陽が一番綺麗に輝く時だった。一瞬目が眩んだが、だんだん慣れてくると、川の向こうの建物が逆光で黒一色になって浮かび上がり、川は太陽を反射して、水面が揺れるたびに光も揺れて、キラキラ輝きを放っていた。土手の下では、今日の練習は終わったのだろう、野球のユニフォームを着た男の子達がグランドの整備、後片付けをしていた。
「おーい、琴音ちゃん。こっちこっち」
と義一はすでに前会った辺りにシートを引いて腰を降ろし、日傘を差して肩と顎で挟みながら、籠から水筒と紙コップを取り出している所だった。
「あ、うん」
私もシートの上に座り、丁度同時に水筒からスポーツドリンクをコップに注いだ義一からそれを受け取った。一口飲んで、日傘を差し、今座っている斜面から、作業をしている野球少年達の姿を黙って見てると、義一も同じように、チビチビ飲みながら静かに目の前の景色を眺めていた。いくら高学年とはいえ、当時の私はまだ小学生だったから流石に沈黙に我慢が出来なくなって声を出した。
「…で?」
「…ん?」
「いやいや、ん?じゃなくて」
私はまた焦らせれてる気がして、急かせるように
「早く、何で土手にいたのかそろそろ教えてよ」
と聞くと、義一は無表情で人差し指を下に向かって指して言った。
「これが答えだよ」
「え?…えぇー」
と語尾を伸ばし、見るからにがっかりして見せて言った。
「これって、何もしてないじゃない」
と言うと、義一はこちらに微笑んで見せてから、正面の川の方へ顔を向けて
「そう、”何もしてない”をしているのさ」
「??」
私は腕を組んで首を傾げ、自分なりに咀嚼してみたが、よく分からなかった。
「”何もしない”をしてる?それってしてるの?してないの?」
と私は自分でも何言ってるかよく分からないまま聞くと、義一は満面の笑みになって
「はははは。いやー、やっぱり期待通りの反応をしてくれるなぁ、琴音ちゃんは」
と言うので、若干ムッとしながら
「こうしているのって何の意味があるの?それとも意味もないの?」
と聞くとまた義一は笑って
「その言い方ね!本当に言葉の使い方が面白い。琴音ちゃんのそう言う所、好きだな」
「そ、そう言うのいいから、早く答えてよ」
と最後のセリフにドギマギしながら先を促した。
「うん。意味があるのかって?勿論意味はあるよ。それはね…」
とここで義一は、両膝を抱えて軽く体育座りをして、私に顔を向けながら、続けた。
「突然質問するようだけど、琴音ちゃんは”逍遥”って言葉知ってるかな?」
「しょ、逍遥?うーん…どこかで聞いたことあるような…あっ!」
と思い出した私は人差し指を上に指しながら、得意げに
「確か大昔の小説家の…坪内…逍遥のこと?」
と答えると、ハトが豆を食らったような表情を一瞬見せたが、すぐ満面の笑みになった。
「はははは、いや違うよ。違うけどでも凄いよ!よく知ってるね、坪内逍遙なんて。学校でも習わないでしょ?」
「い、いやー、図書館でチラッと名前だけ見た気がしたから…」
と、正解を外したのに褒められたことで、どう返したらいいか困っていると、義一はそれには特に気を止めずに
「そうなんだ。いやいや、少し見ただけで覚えているのは大したもんだよ。本当は正解をあげたいんだけど、残念ながら違うんだ。いや、厳密にって意味で、漢字と意味は坪内逍遥と同じだよ」
「へぇ、じゃあどう言う意味?」
「うん、”逍遥”っていうのはね、意味だけ言えば、そこら辺をブラブラ歩くこと。つまり散歩だね。だから話を戻せば、僕はいつもじゃないけど、思い出したらここに逍遥しに来てるんだ」
「へぇ…うん?」
と一瞬納得しかけたが、変な点に気づいて、すかさず突っ込む事にした。
「いや、待って。細かいけど二つばかり納得出来ないんだけれど」
「うん、何だろう?何でも聞いて?」
私は少し強めの言葉で突っ込んでいたつもりだったけど、受けてる義一は今の状況を、心の底から楽しんでいる様子だった。
「一つはすごく細かいけど、今私達はここでジッとしているだけだよね?」
「うん」
「これって散歩とは言わないと思うの。だって歩いてないんだもん」
「なるほど、ごもっともな意見だ。でも…」
とここで義一はニヤっと笑い
「本当に聞きたいのはその事じゃないよね?」
というので、私も少しタメてから聞いた。
「じゃあ聞くけど、今義一さんは『逍遥しに来てる』って言ったよね」
「うん、確かに」
「もし逍遥が散歩って意味なら、『逍遥に来てる』って言うんじゃないかな?しかも、今座ってるこの場を指差して言ったら、座りながら散歩してるって意味になっちゃうでしょ?もしかして…」
とここで少し義一に体を寄せて、まっすぐ目を見ながら
「逍遥にはまた別の意味があって、義一さんはそっちの方を言ってるんじゃないの?」
と言うと、義一はうーんっと唸りながらほっぺを掻いていたが、おもむろに腕を伸ばし私の頭を撫でながら明るい笑顔で答えた。
「…いやー、さすが琴音ちゃん!御名答!大正解!名推理だね。参りました」
「そ、それで結局どう言う意味なの?」
と頭を撫でられるまま答えを待った。義一は手を離すと顔をまた川の方に向けて
「そうだねぇ…何から説明するのがいいのかな?…琴音ちゃん」
と顔をまたこちらに向けて義一は聞いた。
「またしつこいようだけど、聞いて見てもいいかな?」
「う、うん。いいよ」
「じゃあね…逍遥学派って…いや、これはないな…人の名前でアリストテレスって聞いたことある?」
「うーん…何か学校の”倫理”の時間で出て来てたアレ…かな?」
と、急に小難しそうな名前が出て来て、どこに話が行くんだろうと不安になりながら答えた。何かを察したのか、義一も慌てて手を振って
「いやいや、ごめんごめん。何か難しいこと言おうとしているんじゃないんだ。ただここからしか話す術を思いつかなかっただけだから。この、今から大昔も大昔、二千四百年くらい前の、今のギリシャにいた人なんだけれど、この人は言うなれば先生をしていて、生徒達にいろんなことを教えていたんだ。ただその教え方が今からすると変わっていてね」
「どんな風に?」
「普通だったら、どこか教室の中で勉強して教えてもらうと思うでしょ?でもこの人のやり方は違った。生徒達と一緒に散歩をするんだ」
「え?じゃあ何、ぞろぞろみんなで歩き回っているの?」
「そう。って言っても、当然実際見てないから断言できないけれどね。この先生はその日その日に議題を出して、生徒達にそれについて議論をさせたんだ。勿論自分も加わってね。それを一日中していたんだ」
「へぇ。何か、今私がやってるのとは全然違うんだね」
「うん。当然答えが出る時もあるし出ない時もある、でも結論を出すことが必ずしも目的じゃないんだ」
「それじゃあ、一日かけてしても意味ないんじゃないの?」
「と、思うでしょ?でもね、これには何か学ぶ上で一番大事なことが鍛えられるんだ」
「それは何?」
と、聞くと今度は私の肩に手を置いて優しく
「それは琴音ちゃん、君が普段自然とやっていることだよ。自分で疑問点を見つけて、それは何なのか、どういうことなのかを追い求め続ける力だよ」
「あ、あぁー」
「さっき先生がって言ったけど、勿論生徒の方から議題を持ち込んでもいいんだ。普段生活してて、疑問に思ったこと、それについて他のみんなはどう考えてるんだろう?というのを確かめる意味でも、散歩しながら一日中議論をしていたのさ。ちなみに細かいけど、この先生の先生が、そもそも同じことしていて、そのやり方を真似したってことなんだけれどね」
「ふーん、それはよく分かったけれど」
と私は感心しながら聞いてたけれど、肝心の謎が解けていなかった。
「だから、義一さんは独りでここにいるし、しつこいけど散歩もしてないじゃない」
「ごめんごめん、ついつい回りくどくなる、僕の悪い癖が出ちゃったよ。琴音ちゃんが真剣に聞いてくれるから、ついつい僕も、間違いなく、なるべく誤解がないように言おうとしてこうなったんだ。許してね? えーっとつまり、そこからもう一つ、”逍遥”に意味が含まれるようになったんだ。それは」
と義一は一呼吸置いてから
「心を今いる、目に見えるし触れられるような現実の世界の外に遊ばせる。と言う風なね。どう?意味わかるかな?」
と聞いてきたので、
「うーん…分かるような分からないような…つまり、義一さんはたまにここに来て、心をどこかここじゃない、どこかへ飛ばしているってこと?」
とフワフワした自分のあくまで感覚的な感想を答えた。すると義一はまた私の頭を優しく撫でて微笑みながら
「そう、大体そんな感じで合ってるよ。ごめんね、変に難しい話をしちゃって、確か前にも琴音ちゃんに変なことを言ったのを思い出したよ。その時にも言ったかもしれないけど、どうにも琴音ちゃんが僕から見ると、普通の大人なんかよりずっと成熟していて、洗練されてて、とても子供と話している気がなくなっちゃうんだ」
「もう、その妙な褒め方しないでよ、困るから。あ、もっと簡単に言えば、ここに何か考え事をしに来てるってことだね?」
「そう!それが一番分かりやすい正解!よく出来ました」
と義一は小さく拍手をしながら言った。私は呆れながら
「義一さんて一日中ここで考え事しているの?暇なんだね?」
と思わず思ったことが口から滑り出てしまった。
あっ、流石に怒られるかな?っと恐る恐る義一の顔を覗き込んでみると、怒っているどころか、さっきよりも笑顔、知的好奇心に満ち溢れた笑顔だった。
「暇かぁ…うん、暇は暇なんだけれど、逆に琴音ちゃんに聞くけど、暇って悪いことかな?」
想定していなかった質問が飛んできたので、これは遠回しに怒っているのかどうかと、頭の中を堂々巡りしていると、当の義一はあっけらかんとしていて、相変わらず微笑んでいる。
「いや、何か含みがある訳じゃないよ?琴音ちゃんがどう思っているかを聞きたいんだ」
と言うので、私はどうにでもなれと素直に答えた。
「だ、だって…私の周りの大人は、自分がどれだけ忙しいかを競うように自慢し合っているよ?自分がいくら暇かを自慢しているのは聞いたことがない…けど…」
と最後は消え入るように言った。義一はウンウン頷いていたが、相変わらず笑みは絶やさず、そのまま答えた。
「うんうん、なるほどねぇ。いや、僕はそれが間違ってるって言うつもりはないんだ。でもね、暇というのは僕は、忙しいよりも遥かに大事なことだと思っているんだ」
「え?どういうこと?」
「じゃあ仮に考えてみよう。今琴音ちゃんが学校から宿題を沢山もらったとする。それを片付けてる時、自分をどう思う?」
と聞いてきたので
「今の話の流れに沿わせるなら、忙しいと感じてると思う」
「うん、それにやらないと怒られるから、必死に次から次へと片付けていくよね?でも、その時やりながら、琴音ちゃんは何か疑問を感じたり、悩んだりするかな?」
「いやいや」
と私は大袈裟に手を振って否定した。
「宿題終わらすのに必死で、そんな暇なんか…あっ!」
と急に思い当たって、思わず声をあげた。その様子に満足したのか、義一は優しく諭すように話した。
「さっきも念を押したけど、僕は忙しいのと暇なのと、どっちが正しいかを言いたいんじゃないんだ。ただ余りに暇なこと、そう、暇を作ることすら嫌悪されてるのはフェアじゃないから、暇なことにも良いことがあると、特に琴音ちゃんには分かって欲しくて言ったんだ。さっき昔のギリシャの話をしたけど、暇じゃないとアレコレ周りをじっくり見れないし、自分がどこに立ってるのかも、分かりづらくなっちゃう。勿論世の中には何も考えたくない、忙しくしてたいという人間がいる、というより、それが大半だと思う。でもそれはそれ、これは余計なことかもしれないから、言うのを躊躇うんだけど…」
とここでまた考えるポーズをしたが、
「構わないよ。話して」
と私が促したので、義一は今度は私の背中に手を当てながら言った。
「今の世の中があるのは、皆んなが嫌っている”暇な”昔の人間達が、その自分の暇な時間を使って、考え抜いて生み出されたもののおかげなんだ。って言うと、お前もなのかと言われると、申し訳なくて小さくならざるを得ないけど…。一つ誤解しないでね?暇してるから何もしなくて良いんじゃないよ?暇だからこそ、アレコレいろんなものが落ち着いて見れて、忙しい人の代わりに、考えて考えて考えぬける。それを飽きなくやるのが暇してる人の勤めだと、僕は考えてるんだ。ってまた話が長くなったなぁ」
「義一さん…」
と私が言い掛けたその時、遠くの区役所の方から大音響で、誰もが知る、懐かしい童謡が流れてきた。五時になった合図だ。周りを見渡すと、いつの間にかグランドには人っ子一人いなくなり、太陽もとっくに沈んで、真夏の夕方とはいえ、東の空には夜の気配が迫っていた。
 鳴り終わると義一は立ち上がり、伸びを一回したかと思えば、顔いっぱいに申し訳なさを出しながら
「ゴメンね、琴音ちゃん。今日は一方的にくだらない話を延々と聞かせちゃって」
「あ、いや、全然私は…」
と、まだ私は言い掛けてたけど、それを遮るように明るい調子で
「もうこんな時間になっちゃった。ここまで付き合ってくれてありがとう。こないだみたいに、家の近くまで送るよ」
「う、うん」

 私の家までの道、さっきとは違って義一は、今日私が持ってきた宿題や、学校のことなどの世間話を振ってきた。それでも私が浮かない顔をしてるのに気付いた義一は、顔を覗き込むように
「…琴音ちゃん、どうしたんだい?そんな浮かない顔をして?」
と聞いてきたので、私は少し気まずそうに答えた。
「いや、本当にそんなつもりじゃなかったのに…今思い出しても、悪口にしか思えないこと、義一さんに言っちゃったから…」
「もう、琴音ちゃんは…」
と義一は苦笑を漏らしながら私の背中をさすって
「感じやすいのも考えものだねぇ。僕の言えた義理はないかもしれないけれど。…あ、そう言えば」
と義一はポケットから何か取り出した。見るとそれは携帯電話だった。しかも、それは今は懐かしい、旧式の折りたたみ式だった。私がその携帯を見つめていると、義一はパカっと開けて
「今日みたいに突然だと、琴音ちゃんにちゃんと色々と準備出来ないまま、迎えることになるから…」
とまで言うと、義一は仰々しく、ダンスを誘うようにお辞儀をしながら
「私めに、連絡先を教えてくれないでしょうか?お嬢さん?」
と、いくら人通りがないとは言え、道の真ん中でそんなポーズをとったので、私はふふっと堪えきれずに吹き出してしまった。私も笑顔で、トートバッグからスマホを取り出すと、それを頭を下げている義一の顔あたりに近づけて言った。
「こちらこそ、喜んで」
「はぁ…有り難き幸せ、光栄の至りに存じます」
とここで胸に手を当てながら、義一が顔をあげたので、私と目があった。ちょっとの間が空いた後、二人して微笑みあったのだった。

「じゃあ、ここで良いから」
前に再会した時、送ってもらった信号の前で止まって、義一の方を向きながら言った。
「うん、じゃあまた、都合のいい日に遊びに来てね」
と言った後、少し意地悪な顔で
「だいたいいつも、”暇”してるから」
と言った。でももう、私の方も何も気にしなくなっていたので
「はいはい、私も暇を作って、遊びに行くわ」
と、軽く去なした。
「ははは、じゃあね」
「うん、じゃあね」
義一はあの時と同じように街灯の少ない路地に消えて行った。でも前と一つ違ったのは、曲がり角に入る前に、後ろを振り返り、私に手を振ってくれたことだった。

第6話 ”親友”と”心友”

「え?お菓子の作り方を教えて欲しいの?別にいいけど」
と先生は私からの予想外のお願いを聞いて、少し戸惑っていた。
「いいけど、琴音ちゃんはそういうのは興味なかったんじゃない?」
「いや、いつも先生のお菓子を食べてて、自分でも美味しいお菓子が作りたくなっちゃって」
「ふーん…あっ」
と先生は何か察したのか、口元を緩めながら顔を近づけて来て、耳元で小声で
「何?とうとう好きな子が出来た?」
と、変な気を回して聞いてきたので、少し慌てながら
「ち、違いますよ。私はただ純粋に…」
と答えたが、私の弁明は聞いてもらえず先生は一人ウンウン頷いていた。
「いやいや、何も恥ずかしいことじゃないのよ?恋愛して、人生の機微を経験していけば、芸においても深みが出るんだから」
「だから、違いますって」
と言ったが、ちっとも取り合ってくれなかった。
「はいはい、じゃあこちらへいらっしゃい。まず簡単なのから教えてあげる」

 夏休み。私のここ数年の過ごし方は決まっていて、学校が無いのも手伝って、週に二回とピアノを習いに行く回数は変わらないけれど、先生の厚意もあって、平日は夕方から二時間なのを、午前中から夕方になるまで、倍以上の時間を費やしてレッスンをしてくれていた。今は昼の中休み、いつもは昼ご飯食べに一度家に帰るんだけど、この日からは先生の自宅、その居住スペースにお邪魔して、キッチンを借りてお菓子作りも習うのだった。

「義一さん、ちゃんと私が言っておいた材料、買っておいてくれた?」
「もう、これで聞かれたの三度目だよ?大丈夫、ちゃんと用意しているから」
「じゃあ、明日楽しみに待っててね。おやすみなさい」
「おやすみ」

 前と同じく、宿題と筆記用具、もちろん鍵も忘れずにトートバッグに入れて、お母さんには図書館に勉強しに行くと言って家を出た。義一の家までの道すがら、携帯から昨日の晩にやり取りしたメールの文面を見返しながら
「ふふ、これじゃ、どっちが楽しみにしているか、分かったもんじゃ無いな」
と苦笑しながらも足取りは軽かった。時刻はだいたい前回と同じ。昼の一時十分前を示していた。一度携帯をカバンに戻し、次に一切れのメモを取り出した。それは、ピアノの先生に教えてもらったことをメモした、簡単に作れるチョコブラウニーのレシピだった。懸命にメモってる私の姿を見て、微笑んでいた先生の顔がちらつく。
「えぇっと…コレをこうして…出来たコレを…」
と、一応頭に入れたレシピの手順を念入りに確かめるように、メモを覗き込んだ。
 別に義一の家で、見ながら作ればよかったのかもしれないけど、初めて作るのに上手く卒なく作れる所を見てもらいたかった…のかもしれない。思い出しても小ちゃな見栄だけれど、中々我ながら可愛らしかったなぁ…と思う。
 それはともかく、集中してぶつぶつ言いながら歩いていると、後ろの方から自転車のベルをしつこく鳴らしながら近づいて来る、聞き慣れた声が聞こえた。
「おーい、またお前はこんな所で何してんだよ?」
振り向くと、予想通りヒロだった。私は足を止めて、いかにも迷惑そうにしながら
「ゲッ、ヒロじゃない。何?私に何か用?」
「おいおい、ゲッて何だよ、ゲッて。相変わらず冷てぇな」
「何?こんなに暑いから、涼む気で、冷たい私に近づいたの?」
とすかさず突っ込むと、ヒロはため息混じりに
「相変わらず、何言ってんのか、分かんねぇ」
「分からなくて結構。今日はあなたに構ってる暇がないの。じゃあ」
と再び歩き出そうとしたら、ヒロは自転車を手で押しながら、私について来た。
「ちょっと、何で付いてくんのよ?」
と私がジロッと睨みながら言うと、ヒロは私がまだ手に持ってたメモに視線を向けながら
「だって、またこないだみたいに、訳わからんことをしようとしてるんだろ?」
「何よ、訳わからんって。いつものあなたの方が訳わからんわよ」
と毒突いたが易々無視して、メモを指差しながら
「ここ、結構車が来るから、お前みたいに一つのことに集中し出すと、周りが見えなくなる奴は危ないぜ?」
と言うと、一回鼻を指で擦ってから
「だから、俺が付いてってやるってんだよ」
と、ぶっきらぼうに言った。私はシッシッと手を振って
「それは親切にありがとう。気持ちだけ貰っとくから、もういいよ」
と追い返そうとしたが、通じなかったようだ。私のセリフは無視して
「で、今度は一体何事なんだ?また一人でブツブツブツブツ。俺だから良いけど、お前を知ってない奴が見たら、アブナイ奴にしか見えないぜ」
「あなた、私を知ってたの?私はあなたをよく知らないけど」
と、いつもの調子でからかった。するとヒロは少しムッとしながら
「もうそれはいいんだよ!…お前はこれからどこに行くんだ?」
「え?そ、そうねぇ…」
私は尻込みした。義一のことはヒロも一度会ってるから、最悪このまま付いてきても、一から説明しなくて済む分楽だけれど、問題は、私がお母さんに「図書館に行く」と嘘ついて家を出てきてる事。もしヒロが私の事を誰かに喋ったら、バレて全てが水の泡だ。
「おーい、何を黙ってんだよ」
ヒロは私の胸中など知らずに隣で、呑気な声を上げている。私はふと立ち止まり、声の調子を落として、ヒロの目を強く真っ直ぐに見つめながら聞いた。
「…ねぇ、ヒロ。今から私が言う事、誰にも言わないと誓う?」
「おいおい、何だ何だ。やっぱり面白い事を隠して…」
「ねぇ、ヒロ。…どうなの?」
と改めて強い目でヒロの目を射抜いた。するとさっきまでヘラヘラ笑っていたヒロだったが、少し真面目な顔つきになって、そして少し心外な調子で答えた。
「…おい、今までお前と約束して、破ったことが俺にあったか?」
 そうなのだ。ヒロは普段からヘラヘラと笑ってお茶らけやって、良く言えば周りを明るくするムードメイカーで、私とは真逆の性格、混じり合わない水と油だ。本来なら一緒に付き合える筈がないのだが、少なくとも私の立場から言うと、数少ないヒロの長所、本人には絶対言ってあげないけど本当に素敵な長所のおかげで、気を許せていた。それは、私も含めて、誰も裏切ったことがないことだった。
 普段誰かと一緒にいて、思い込みやすれ違いのせいで、している本人はその気が無くても、受け手から見て思っていたことと違う事をされると、多かれ少なかれ、自覚的か無自覚かはともかく、裏切られたと感じるものだ。その原因は細かく言えばキリがないけど、大体お互いに自分を良く見せようとか、下らない見栄をはる、もっと露骨に言ってしまえば”嘘をつきあう”ために起きる。その嘘がずっと続けられれば大丈夫でも、どこかでやっぱり無理が出て来て、アラが出た時に受け手がそれを見て失望する。
 ヒロにはそこがない。良く見られようとか衒うようなことが、まるでない。あまりに能天気で、物事を深刻に考えずやり過ごしてしまう、たまに、いやしょっちゅう後ろから蹴りたいと思うことがあったけど、また褒めるようで癪だけど、自然とブレずに相手と裏なく付き合える性格に、私は何度も救われていたのかも知れない。
私は一回息を深く吐くと、力を抜いて話した。
「…今から、あの…叔父さん家に遊びに行くところなの」
「?叔父さん家…あぁ、この前の!」
と、ヒロは若干引き気味に言った。
「あの変わった叔父さんのところかよー。まぁ、でも、叔父さんだろ?何をそんな隠すんだよ?」
「それは…」
と、また私は口噤んだ。別に何も家庭内の事情を言うことはないからだ。しかも、今にして思えば、色々といわゆる”大人の事情”があったとは言え、過剰にしか見えないほど義一を毛嫌いするお父さんに対して、漠然と違和感を持ち始めていた時期だったこともあって、余計に詳しく言うのを躊躇った。
 私は両手を胸の前で合わせて、頼むポーズをしながら
「…お願い!理由は聞かないで!ただ、私を見たことを内緒にしていて欲しいの!当然これから叔父さんに会いに行くことも」
「え?なん…」
とヒロは先を続けようとしたが、私がさっきのように強く視線を送ると、口を閉めて、少しの間何か考えてるようだったが、急に目を見開くと、言った。
「…よし!しょうがねぇ、わかった!このことは黙っておいてやる」
「ヒ、ヒロ…」
と私がお礼の言葉をかけようとしたその時、ヒロはニヤッと意地悪く笑い
「その代わり、俺も今からその叔父さん家まで付いていくぜ」
「え?…えぇー」
とさっきまでの感謝の感情は消え失せ、いかに不服かを示すために、語尾を伸ばしながら言った。相変わらずヒロはニヤニヤしながら
「別にいいじゃんかぁ。お前の叔父さん俺のこと知ってるし、あまり急に押しかけても、追い返すような人には見えなかったからな」
こいつは意外と人を見る目がある。それが厄介だ。
「それに余計なことはしないで、静かにしてるからさぁ。な、な、いいだろ?」
「あなたが静かにしてるなんて、今から突然冬になるよりあり得ないわよ…まったく」
とここで大きくため息をついた。仕方ないわね、お願いしてるのはこっちだし。
「はぁ、もう、わかったわよ!でも、いい?本当に大人しくしてるのよ?わかった?」
「はーい、ママ」
「誰がママじゃ、誰が」

 再び私は歩き始めた。余計な相棒を連れて。
「はぁ、前もこんな感じだったなぁ…デジャビュよ、まったく…」
「ん?デジャ…え?何だって?」
「もう、なんでもないわよ。そう言えば…」
と隣で自転車を押すヒロに、今更ながら聞いた。
「あなた、今日何か用事があったんじゃないの?」
「ん?今日か?今日は何もない日だ。練習もないしな。家にいてもつまんないから、外に出ただけよ」
「ふーん…ってこれもまたデジャビュ…」
「だからその舌噛みそうなのは、なんだよ?」
「はぁ、あなたって、暇人なのねぇ」
とヒロの質問には答えず、大袈裟に顔中に憐れみの表情を浮かべて言った。するとヒロの方も、いかにもスネたような態度をしながら
「ヘイヘイ、悪かったなぁ。暇人で」
と言ったその時、前に義一に話してもらった内容を思い出した。あの後メールで「あんなに一方的に話してごめんね?話の中身も、あくまで僕の意見だから、参考までにしておいてね」と念に念を押してきたが、良かったのか悪かったのか、義一の思惑とは裏腹に、しっかり私は影響を受けていた。
「…いや、暇なのは悪くないよ。うんうん。ヒロ、良かったねぇ、暇人で」
「おいおい、馬鹿にしてんのか?」
「いやいや、はははは」
「?」
不思議がってるヒロを横目に、私は一人愉快になって歩き進めた。と、今までずっと手に持っていたメモを見ながらヒロが聞いてきた。
「なぁ、ところでその紙はなんだよ?さっきも一人でジッと見てたじゃんか?」
「あ、これ?」
私は少し足を早めてヒロの前に回り込み、とびきり意地悪い笑みを浮かべて言った。
「ふふふ、内緒。教えてあげなーい」
「なんだよー、ケチ」


「さあ、着いたわよ」
「え?ここか?」
義一の家の前に着くと、ヒロは私が初めてきた時と同じ様に、家を色んな方向から舐め回す様に見回した。一通り見てから、玄関前に戻ってくるなりヒソヒソ声で
「すごいな、お前の叔父さん家。ボロボロで、まるでお化け屋敷じゃん」
「あのねぇ…それを本人に言っちゃダメよ?」
「大丈夫だよ。いくら俺でもそれくらいわかってる」
「そう?じゃあ行くわよ」
と私は玄関に手をかけた。一応鍵は持って来ていたが、昨日メールで玄関を開けとくとの旨は聞いていたので、そのまま開けることにした。ガラガラと大きな音を立てて引き戸を開け、中に入ると、今日は初めから電気が付いていた。
「義一さーん、来たよー」
といつもの調子で言うと、居間の方のドアが開いて、義一が姿を見せた。相変わらず白いTシャツにジーンズと、ラフな格好をしていたが、今日はその上にエプロンをしていた。
「おぉ、いらっしゃい…おや?」
とすぐに義一の視線はヒロに向いた。ヒロは私と義一の挨拶に目を丸くしていたが、目が合うと、一度お辞儀してから明るく
「琴音の友達の、森田昌弘です。久しぶりです。お邪魔します」
「え?えぇーっと…?」
と当然の事ながらヒロを見つつ唖然としていた。そして今度は視線を私に向けて説明を求めた。私は無理に笑顔を作って
「た、たまたまここにくる途中で会ったの。何とか追い返そうとしたんだけれど、結局ここまで付いてきちゃって」
と言うと、横からヒロが
「おいおい、俺は野良犬じゃねぇぞ?」
「似た様なもんでしょ?」
二人でしょうもないことを言い合ってると、今まで黙っていた義一が笑みをこぼして、それからヒロに言った。
「いやいや。確かに何も言われてなかったから、多少ビックリはしたけど、琴音ちゃんの友達がせっかく来てくれたんだからね、こんなところだけど歓迎するよ」
「本当ですか?やったー!じゃあ、あらためて、お邪魔しまーす」
とヒロは靴を脱ぎ捨てながら上がり、あちこちを興味津々に見渡していた。
「あ、コラ!ヒロ!…もーう」
と、まるで実の母親かお姉さんの様に、脱ぎ捨てられた靴を整えていると、義一が顔を近付けて来た。そして小声で
「琴音ちゃん…」
と言いかけたので、私も小声でだけど
「義一さん、ごめんなさい!さっきも言ったけれど追い返そうとしても付いてきちゃったの…ごめんなさい、ついこの間約束をして誓ったばかりなのに…」
と慌てて言ったが、義一は優しく落ち着いた調子で
「うんうん、わかってるよ。僕の方もさっき言ったけど、琴音ちゃんの友達なら大歓迎なんだから。ただ…」
と言いかけ視線をヒロに送った。ヒロは何故か、トイレのドアを開けて覗き込んでいる。
「僕のところに、君が遊びに来てること、バレたらまずいね…お母さんに嘘までついてるんだし」
と今度は私のトートバッグに目を移した。私はバッグの紐をぎゅっと一度握ってから義一と目を合わせて
「それなら大丈夫!…だと思う。ここに来るまでに、よく言い聞かせて置いたから」
と多少なりとも自信ありげに言うと、義一はヒロの方を数秒見た後、また私に視線を戻し、そして優しい笑顔で
「そっか…それぐらいまでに、あの子を信用してるんだね?」
と聞いたので、私は強く頷いた。と、その時
「おーい、二人ともー、早くこっち来なよー」
と、ヒロが我が物顔で自分の家の様に振舞って、居間の中からこちらを覗き込みつつ、声をかけてきた。私は呆れて
「あなたねぇ…さっきの静かにしてるって約束はどうしたのよ?」
と私は文句を言いながら、靴を脱ぎ居間の方へ向かった。
「えー?そんな約束してたっけ?」
「あのねぇ…」
「…ふふ」
と義一も微笑みながら、私に続いて居間に入って行った。

 居間に入りキッチンの方を見ると、私が予め頼んで置いたものが、所狭しと並べられていた。私は早速、軽くだけど一つ一つチェックをした。どうやら全部ある様だった。
 その様子をヒロは黙って見ていたが、我慢ができなくなって
「おいおい、これから何をしようってんのさ?」
と言うので、義一は私に
「ん?あれ?ヒロ君には何も言ってなかったのかい?」
「え?」「え?」
私とヒロが、ほぼ同時に声を発した。私が何か言いかけるよりも先に、義一はヒロの反応に気付き、すぐに察した様で、まずヒロに向かって言った。
「あぁ、ごめんごめん。馴れ馴れしかったかな?いや、いつも、君について琴音ちゃんから、楽しそうに話すのを聞くもんだから、勝手に親しくなった気がして、僕も二人で話すときは”ヒロ君”って呼んでたんだよ。嫌だったかい?」
「え?あ、いやー…」
とヒロは何故か変に照れながら私の方を見た。そして義一の方を見て
「いや、大丈夫ですよ。なんと呼んでもらっても。ヒロ君でも、この野郎でも」
と言うと、義一は心から愉快だといった様子で返した。
「ははは、そうかい?じゃあ遠慮なく呼ばせてもらうね」
「あのー、お二人さん?」
と私がつまらなそうにブー垂れながら横槍を入れた。
「私の事、忘れていませんかね?」
「あぁ、いやいや、ごめんごめん。で、なんだっけ?」
「…いや、義一さんがいいなら、それでいいけど」
「ん?うん。あ、じゃあ改めてヒロ君、今日何するか説明するとね…」
義一は材料や食器などを並べてる所を指差しながら
「今日はこれから、二人…いや三人でお菓子作りをしようと思いまーす!」
と陽気な声をあげて、料理番組調に説明した。
「え?えぇー、お菓子作りぃー?」
と言うヒロの顔は如何にも不満そうだ。何を期待して来たんだ、こいつは?
「お菓子作りなんて女臭いことヤダよー。お前、こんな事好きだったの?」
と聞くので、私は腰に手を当てて、胸を張りながら答えた。
「あれ?あなたに言ってなかったっけ?こう見えて私って、女の子なのよ?女臭いことして当然でしょ?」
「うげぇ…」
私達のやり取りを、義一はまた笑顔で黙って聞いていたが
「じゃあヒロ君はそこの食卓で待っていなよ?僕ら二人で作るからさ。琴音ちゃんに教えてもらいながらね?」
と、材料の横に畳んで置いてあった、予備のエプロンを身に付けている私に向きながら言った。
「うん、任せといて。美味しくてびっくりするから」
と私も得意げに答えた。ヒロは少し疑わしげに
「ふーん…じゃあ、大人しく待ってるけど…あの琴音がねぇ…あっ!」
「え!?何!? ちょっとぉ、びっくりさせないでよ」
ヒロが急に素っ頓狂な声をあげたので、グラムを計っていた私はびっくりして言った。私は非難めいた視線を送ったが気にも留めずに、一人納得したように頷きながら言った。
「なるほど、あの時の紙は…」
「あ、わぁーーーーー!!」
とヒロが何を言おうとしてるのかがわかって、今度は私の方が大きな声を出して制した。義一が不思議そうな顔で
「ん?琴音ちゃん?どうかしたかい?」
と聞くので、私は動揺を抑えられないままに答えた。
「な、な、なんでもないよ!さぁ、早く始めましょ?」

「まず湯煎しなくちゃね。義一さん、ボールにお湯を溜めてくれる?」
「うん、わかったよ」
義一が、あらかじめコンロで鍋に入れた水を沸かしていたのを、ボールに移している間に、私は板チョコをパリパリと手で割っていった。思った通り、じっと待っていられなかったヒロが、私の手元で割られていくチョコを見ながら
「いいか、琴音。湯煎って言っても、湯に入れるって意味じゃないからな?」
と余計なボケをかましてきたので、私は若干イライラしながら
「あのねぇ、そんなベタなギャグをするはずないでしょ。ちょっと黙ってて」
「へーい」
「はい、琴音ちゃん。熱いから気をつけるんだよ?」
「うん、ありがとう」
お湯に浮かべた、一回り小さなボールの中に、今砕いた板チョコを入れてヘラで押し潰しながら掻き混ぜた。見る見るうちにチョコは溶けていった。義一の方はバターと砂糖を合わせて、黙々とまた掻き混ぜていたが、義一がハッとしながら
「あ、そういえば、琴音ちゃんに言われた量を用意したけど…」
と視線をヒロの方へ向けて
「この分量で足りるかな?」
と聞くので、私も手元から視線を外し、同じようにヒロを見ながら
「うん、大丈夫。元々四人分の量だったから」
と言うと、義一はニコニコしながら
「へぇ。でも、それだと彼が来てくれて良かったね。とても食べきれなかったよ」
と言うので
「いや、もし余ったら冷蔵庫に入れて、後でまた義一さんに食べてもらおうと思っていたんだけど…、まぁ、結果オーライね」
と私もやれやれと言った調子で笑った。会話を聞いていたヒロだけが、大袈裟に拗ねて見せていた。
 義一は、ボールを一度置いて、卵を溶いて、それをまた加えて混ぜた。
「…よし、こっちは出来たよ」
「うん、こっちもとっくに準備オッケー。じゃあ…」
と私は自分が溶かしたチョコの入ったボールを義一のに近づけ、中身をそっちに注ぎ込んだ。そしてまた義一が混ぜると、茶色と白の二色だったのが、徐々に混ざり合い、段々と中和されてクリーム色になっていった。その様を横目で見つつ、私は小麦粉を篩に掛けていた。それをまた義一が掻き混ぜてるボールに入れると、流石に疲れたのか義一が弱弱しい声を出して
「…琴音ちゃん、お菓子作りをナメていたよ…あとどれくらいかな?」
と聞くので、私は少し意地悪い顔を作ってから
「もう、だらしないんだからぁ。安心して?もう掻き混ぜるのはそれでお終い。お疲れ様でした」
「はぁ…一度置くかな」
義一はテーブルの上にボールをカタンと置いた。どれどれと中を覗くと、ちゃんと先生の所で練習したのと同じのが出来ていた。良かった、大丈夫そうね。と私がホッとしていたのも束の間、急にヒロが立ち上がり
「隙ありっ!」
と腕を伸ばしてボールの中に人差し指を突っ込んだ。
「あっ、コラ!」
と私が怒ったのも後の祭り、ヒロは人差し指の先っぽについたブラウニーの元を口に運んだ。私は苛立たしくしていたが、義一は笑ってヒロに聞いた。
「どうだい、ヒロ君?お味の方は?」
「うーん、多分…まぁまぁ?」
とはっきりしないと言った様子で答えた。私は呆れ口調で
「そりゃまだ焼いてないんだから、そのまま舐めてもそんなにでしょう?もう、汚いなぁ…ほら、早く手を洗って」
「あいよー」
とヒロは返事すると、私達のいるキッチン内部まで来てシンクで手を洗った。義一は相変わらず笑顔のまま私に
「しっかし、コレ、生で食べて大丈夫だった?後でお腹壊したりしない?」
と聞くと、ヒロも
「え!?マジで?」
と手を洗いながらも、器用に私の方を振り返りながら同じく聞いてきた。私はため息一つして、型にクッキングシートを貼りながら答えた。
「大丈夫でしょ?…多分。それよりも、バイ菌まみれの指を突っ込んだことの方が心配よ」

型にさっき作った”元”を流し込み、オーブンに入れて170度に設定してスイッチを入れた。
私はホッとため息ついて
「…よしっ!後は出来上がるのを待つだけ」
と言うと義一は背中をポンと押して
「琴音ちゃん、お疲れ様。よく頑張ったね」
と言うので、私は素直に褒められて嬉しかったが
「いやいや、義一さん。褒めるのはちゃんと出来てからにして」
と恥ずかしいのを誤魔化すように、少しツンとした感じで返した。
 出来上がるまで、義一は余った材料の整理、私とヒロはシンクの前に二人並んで洗い物をした。
「なぁ、どれくらいで出来るんだよ?」
とオーブンから香ってくる、香ばしく焼けるチョコの匂いに、鼻をスンスンと鳴らしながら、ヒロが聞いてきた。
「そうねぇ、大体焼き始めてから四十分くらいかな?」
と私は、シンクの位置から辛うじて見えるタイマーの文字盤を見ながら答えた。するとヒロは、手元でボールを洗いながら顔を上に向け
「えぇー…まだまだ時間があるじゃん。待ってる間暇だよー」
と泣き言を言っていたが、暇になる心配はなかった。
 待っている間、義一がヒロに普段なにやってるか、好きなものは何かなど、根掘り葉掘り質問ぜめをしていたからだ。最初の方は義一の、子供相手でも遠慮しない攻撃に、ヒロはタジタジだったが、野球の話になると、途端に目を輝かせて自分からも進んで話し出した。私は、義一に出して貰った紅茶を飲み、相変わらずの義一と、ソコソコの付き合いのはずだったけれど、普段見たことのない笑顔で話すヒロを見て、微笑みながら横で二人の会話を黙って聞いていた。

チーーン。
作業を終えた事を、明るいベルを鳴らしてオーブンが知らせた。ゾロゾロと私達三人は、そんなに広くないオーブン前に集まり、義一が開けるのを今か今かと待った。すでにあたりには、濃厚な甘い匂いが漂っていた。
「じゃあ、二人とも。危ないから近づかないでね?」
と義一が恐る恐る、中から型の置かれたトレイを引っ張り出し、それを手前のテーブルの上に乗せた。わたしも恐る恐る覗いてみるとそこには、まだ湯気が立って、熱々なのを感じさせる、チョコブラウニーがそこにあった。その茶色い表面に若干ヒビ割れを見せていたが、これは先生の所で作った時にも出来ていたから問題ない。どうやら大成功のようだ。
「おぉー」
ほぼ三人同時に声をあげた。ヒロは湯気に手を近づけ、それを自分の鼻に向かって仰ぐと
「はーぁ、めちゃくちゃいい匂い!」
と満足げな声を上げた。私は嬉しさを噛みしめながら、ふと義一の方を見ると目が合った。義一は目を細めるとすぐに明るい調子で言った。
「よしっ!じゃあ、早速盛り付けて頂こうとしよう!」

 義一が出した小皿を受け取り、各々チョコブラウニーをトレイから取って、食卓に座った。
「さてと…じゃあ」
と、向かいに座った義一が、私の隣に座っていたヒロに向かって微笑みながら言った。
「ヒロ君、琴音ちゃんに”いただきます”を言おうか」
「え、えぇー。いいよいいよ、そんな大袈裟な」
「うーん、まぁ考えてみりゃそっか」
とヒロは私の方を向いて、深々と頭を下げて見せながら
「それでは琴音様、有り難くいただきます!」
「ちょっとー、やめてよー」
私は半分戸惑い、半分引き気味に言った。義一も笑顔で
「うんうん、じゃあ琴音ちゃん、あらためて頂きます」
「め、召し上がれ?」

早速フォークで割って見ると、湯気の塊がモワッと出てきた。どうやら中までちゃんと火が通っているようだ。辺りは余計にチョコの匂いで充満した。私は自分が食べる前に、義一が食べようとするのを見ていた。口に運び、目を瞑りながら咀嚼してるのをドキドキして見ていると
「…おぉー!!美味いじゃん、琴音ー!」
と急に隣でヒロが大声で言ったので、その様を見ながら義一は笑っていた。私も隣のヒロを見て、少し眉を顰めたが、その様子を見ても気にしない様子でヒロは無邪気な笑顔で
「やるなー、女らしさゼロのお前が作る菓子なんて、どんなゲテモノが出てくるかと思えば、なーんだ、やれば出来んじゃん」
と言った。私は呆れ返ったが
「それはそれは、最高の誉め言葉をくれてありがとね」
とトゲを何重にも練りこんで返した。義一は私達二人の様子を見て笑みを浮かべながら
「さすが長年の友達だねぇ。琴音ちゃんのツボが分かっている」
と言うので私は義一にもヒロに対してと同じ調子で
「いやいや、ツボの外し過ぎにも程があるから!ヒロに毎度毎度押される度に、逆に体を壊してるんだから」
と答えた。と、まだ義一の感想を聞いてないのに気付き
「で?義一さんはどう?このチョコブラウニー…」
となるべく調子を変えないように気を遣いながら聞いた。本当のところはドキドキだ。
「そうだなぁ…うーーーーーー…」
と義一は腕を組むと、ヤケに語尾を伸ばして唸っていた。私が続きを待っている時、ヒロも静かに口にブラウニーを含みながら待っていた。と急に目を見開いたかと思うと、満面の笑みで
「ーーーんまい!美味いよ、琴音ちゃん!」
と言ったので、一瞬何も言えなかったが、私は苦笑いを浮かべて
「何よそれぇー。なんか古いよ、そのリアクション」
と言うと、義一は頭を掻きながら、私とは違う意味で苦笑いし
「えぇー…古い、のかぁー。ヒロ君もそう思う?」
と、また一切れ口に運ぼうとしていたヒロに聞いた。ヒロは口に入れてモグモグしながら
「残念だけど叔父さん、リアクションがなっちゃいないなー。まだまだだね」
と誰目線だか分からない調子でヒロが答えた。義一はあからさまにガッカリして見せて
「そうかー、中々だと思ったんだけどなー…」
と呟いて一瞬間が空いた後、三人顔を見合わせて大いに笑いあった。

「二人共、忘れ物ないね?気をつけて帰るんだよ?」
「うん、また来るね」
ブラウニーを食べ終わり、少しまたさっきの会話の続きをしたらすぐ五時になった。今三人は玄関前にいる。
「ヒロ君も」
と義一はヒロの方を向きながら、私に向けるのと同じ笑顔で言った。
「琴音ちゃんといつでもここに来ていいからね?」
「はい、またお邪魔します。じゃあ、さいならー」
 玄関外で立っている義一が見えるギリギリのところまで行き、振り返って手を振り、家路についた。私達は途中、今日作ったブラウニーについて色々お喋りをしたが、一通り終わると、私はヒロに質問を投げかけた。
「ヒロは、ぎい…叔父さんの事どう思う?」
するとヒロは、紫色に暮れた空を見上げ、うーん…、と何を言おうか迷っているようだったが、顔を真っ直ぐに戻して答えた。
「そうだなー…やっぱり第一印象と変わらないな、この人変わってるなっていうのは。でも」
とここでヒロは私の方に顔を向けて言った。視線は逸らしながら。
「まぁ…凄く良い人だよな。俺みたいなガキにも友達みたいに話しかけて来るし。大人のくせにさ。お前が気に入るのも分かるよ」
「そ、そう?ふーん」
と、こっちが聞いたのに、特に興味が無いと言う体で生返事をしたが、正直に言えば、ヒロが義一に対して持っている感想が、純粋に嬉しかった。それから少しだけお互い沈黙したが、ヒロが静かに口を開いた。
「…で、でよー?」
「うん?何?」
「い、いつもアァなのか?」
「アァって、何がよ?」
と私が聞くと、ヒロは一瞬言い淀み、言葉を選んでいる感じだったが、意を決したのか、また静かに私を真っ直ぐ見て聞いた。
「そのー、叔父さんと、名前でいつも呼び合ってるのか?ほ、ほら、今さっきも義一って言いかけていただろ?」
「え?あぁー、その事?そうねぇ…」
と私が今度は空を見上げて、言うか言うまいか考えていたが、ここまで知られたら、今更隠すこともないと悟って、顔をヒロに向け、なんともない調子で答えた。
「まぁ、変わってるっちゃ変わっているよね、私と義一さんの関係は。…ヒロ?」
と私は一回溜めると、また言葉を続けた。
「私と義一さんは、叔父さんと姪っ子というより、心から通じ合える、心の友と書く方の”心友”同士なの」
「し、心友?叔父さんなのに?」
ヒロはあからさまに不信感を顔中に漂わせて言った。私は、その反応は想定内だったから、構わず続けた。
「そう、心友。いくらヒロ相手でも、詳しくは話せないんだけど、私と義一さんの出会いは、叔父さんと姪っ子という、ごく当たり前の関係が出来るようなものじゃなかったの。始まりから変わっていたの」
ヒロは黙って大人しく聞いている。
「しかも今ヒロが言ってくれたように、あの人、私達子供に対して、同年代のように接して来るでしょ?だから、今更叔父さんて呼ぶのもなんだかなって感じになっちゃって、それで名前呼びになっちゃったの。どう、理解した?」
と私は最後にヒロに暗々裏に同意を求める意味合いを込めて聞いた。
結局洗いざらい、丸々正直には話せなかった。でもあながち間違ってはいないし、話した時は本心からのつもりだった。
ヒロは今度は下を向き、うーんと唸っていたが、顔を上げ私の方を見た。その顔はさっきと少しも変わっていなかった。
「うーん…まぁ、俺はさっきも言ったように、お前の叔父さんにイヤな感じはしなかったし、それに何よりお前を信じてるから、お前がそれでいいならいいけどよ…でもよ、琴音」
とここまで言うと、今まで長い付き合いの中、初めて見る真剣な表情を見せて一言だけ言った。
「何とも自分でも分からねぇけどさ…気をつけろよ、琴音?」
「え?」
まさか忠告してくるとは思わなかったので、流石にビックリして聞き返した。
「気をつけろって…何に気をつけるの?」
と聞くとヒロは首筋をポリポリ乱暴に掻きながら答えた。
「だから、俺にも分からねぇってば!でも、わかったな?」
「わ、わかったわよ…あっ!」
「な、何だよ、今度は?」
と私が声を上げたので、ヒロは瞬時に身構え、目を見開きながらこちらを見た。
こうして反応しているのを見ると、こいつって猫みたいね…。などと、場違いな事を思いながら、今度は意地悪い顔を作り、ニヤニヤしながら言った。
「そう言えば、義一さんにヒロの事で話そうと思ってた、とっておきの話があったんだった!忘れてた」
「な、何だよ。とっておきって…」
益々ヒロは私に対して警戒心を高めた。それに相対するように私もニヤケながら言った。
「ほら、あなた、土手で義一さんを初めて見た時、女の人だと勘違いしてたでしょ?」
「あ、オイオイ!あれは…」
と急にヒロは元気になって、私に詰め寄り慌てて返した。
「あれはだってお前、あの叔父さんが男のクセに、女が持ってるような日傘を差して座っていたのが悪いんじゃないかよ!」
「えぇ、別に私はあなたが悪いって言いたいんじゃないよー?ただ、女だと勘違いした挙句、結構タイプだったのか、後ろを通る度にチラチラ見てたって事を、義一さんに教えてあげようってだけだから」
「おいおい、勘弁してくれよぉー」
「えぇー、どうしようかなー」
と言いながら、私は急に前触れもなく駆け出した。それを見たヒロは慌てて自転車に飛び乗ると、ペダルを漕いで私の後を追いかけた。
「おーい、琴音ー。待てってばー」
「待ったなーい」

第7話 絵里さん

あれから何日か経ち、相変わらず私はレッスンの日になると、先生の自宅に行ってピアノを弾いていた。昼の中休みに、お菓子作りを習うのも習慣化してきた。先生は私に
「アレからどうなった?ちゃんとその人に美味しく食べて貰えた?」
と、誰に食べて貰うとか、そんな話は微塵もしていなかったのに、意味深に笑いながら聞いてきたので、私も誤魔化し受け流すのが面倒だったので、当たり障り無く
「えぇ、一応喜んでくれました」
と言うと、頭を手の平でポンポンと軽く叩いてきたのだった。
 義一のところに行くのはどうなったかと言うと、チョコブラウニー作ったあの日、家に帰ってメールをしていると、その中で「そう言えば、これからちょっと立て込んでて、十日間くらい忙しいんだ。だから来て貰っても出られないから、しばらくゴメンね」と言ってきた。メール本文に何故かを書かなかったから、”なんでちゃん”としては当然気になったけど、口にするならともかく、言葉を一々打ち込むのが面倒臭かったし、正直それほどのことじゃなかったから、ただ了承と次の約束の旨だけ書いて返信した。
 だから今は、もう八月に入って今日で一週間になる。レッスンのない日は家でピアノの課題を練習していたのだが、宿題はどうしようと最初は迷った。義一の家に行く動機付けが、無くなっちゃうんじゃないかと思った。でもこないだの事を思い出し、ヒロが偶然居合わせたから、宿題をせっかく持って行ったのに出来なかったけど、別に持って行くだけでやらなくても良いのかと思い至った。
ふと考えて見たら、ほとんど先生の自宅と自分家にしか今年の夏は過ごしていなかった事を思い出し、気分を変えるためにトートバッグを持ち、毎度の帽子を被って、お母さんに図書館に行く事を伝えて家を出た。今回は嘘も偽りも無かったので、気持ち堂々としていた。
 図書館に着き、受付に向かうと、今日は山瀬さんは座っていなかった。考えてみれば当たり前だけれど、いる日もあればいない日もある、当然のことだ。ただ当時、行けば必ず山瀬さんに出くわし、受付の中から明るく挨拶をされていたので、軽く違和感を感じながら、見慣れない司書さんに利用処理をして貰った。
大きな窓から私基準で、適度に離れた長テーブルの端っこ、私がいつも座る特等席に座り、帽子を脱ぎ、バッグの中から宿題と筆記用具を取り出した。準備をしながら、何気無く周りを見渡すと、当時はそこまで分からなかったが、今思えば受験生なのだろう、夏休みなのに制服を着た男女六人くらいが、向かい合って黙々と参考書を広げながら勉強をしていた。その他は取り立てて目を奪うものはなかった。いつも通りだ。
「さて…」
と私は受験生たちに倣ったわけじゃなかったけど、早速宿題をこなし始めた。ここでいきなりこんな事を話すのも何だが、比較的私は夏休みの宿題を早く終わらせる方だったと思う。終業式に貰ったら、もう七月中には全て片付けて、八月に入ったら精々絵日記くらいしかやることがなかった。なのでこうして八月に宿題をしていると言うのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。こんな点でも義一は私に影響を及ぼしていた。やれやれ。
 暫く向こうの受験生グループと私の、硬い机とペンがぶつかるカリカリという音、天井から冷気を吹き付けるエアコンの音、受付で司書さんがパソコンの前で鳴らすタイプのカタカタ音、それ以外には物音一つしなかった。防音がしっかりしているのか、ここに来るまで喧しかった蝉の声が、この中では耳を澄ませないと聞こえない程度に抑えられていた。


 そろそろ持って来た分が終わるかと思ったその時、突然目の前が真っ暗になった。
「?」
私は突然のことで、声も出さずそのままの体勢でじっとしていた。どうやら誰かに両手で目を覆われたようだ。と、その時、背後から聞き慣れた声が聞こえて来た。
「だーれだっ」
誰だと聞かれても、この場で私にこんな幼稚な事を仕掛けて来るのは、ただ一人しかいない。
「…山瀬さん?」
「ブッブー、ハズレー」
と私の顔から手をどかしながら、声の主は明るい調子で答えた。私が振り向いて見ると、やはり山瀬さんだった。私は呆れた調子で
「何がブッブーですか。山瀬さんじゃないですか」
と言うと、山瀬さんは私の顔の前に人差し指だけを立てて、左右に揺らしながら
「いーや、不正解です。”絵里さん”って答えるのが正解だからね」
「何ですかそれ…」
と益々呆れ返る私を余所に、山瀬さんは私の座る隣の椅子を引くと腰を下ろした。山瀬さんはいつもの調子で話しかけた。
「何々?何してるの?あ、宿題?偉いなー。私は最終日までロクに手をつけない派だったよ」
「そうですか。…ところで」
とさっきはちゃんと見てなかったから気づかなかったが、山瀬さんの姿に違和感を覚えた。
あ、エプロンをしていない。
ふと横目で受付の方を見ると、作業中の司書さんはちゃんとエプロンをしていた。濃いグリーンの地味なやつだ。私は聞いてみた。
「山瀬さんは今日仕事だったんですか?服装普通ですけど?」
と私は言ったが、普通でもなかった。と言うより山瀬さんの普段着を見た事がなかったから、分からなかった。薄いグレーのノースリーブブラウスに、白のデニムを着ていた。ここでの山瀬さんしか知らなかったから、普段のキャラを見る限り、もっとボーイッシュなのを想像していた。露わになった二の腕は程良く引き締まり、連日の真夏日だと言うのに真っ白だった。女で、まだ子供だった私が言っては何だが、色っぽかった。と、私の視線に気づいたのか、山瀬さんはテーブルに肘つき、顔に手を当てながら
「なーに?そんなに私の私服が珍しい?どう?色っぽいでしょ?」
とさっき私が思っていた事と同じ事を言ったので、動揺を悟られまいとワザとつっけんどんに
「知りませんよそんな事。だから何で私服でここにいるんですか?」
と聞くと、山瀬はやれやれと大げさに首を振って見せて
「やれやれ、そんな若いうちから焦っちゃダメよ?大人になれば嫌でも月日は早く流れるんだから」
「いや、だから…」
「あ、シっ…」
私が言いかけたのを慌てて口に指を当てて視線を外したので、私も倣ってその先を見て見ると、向こうで勉強していた受験生達の何人かが、こちらをジッと見ていた。山瀬さんは申し訳ない顔を微笑混じりに作って、手でゴメンと謝った。私も頭をペコっと下げた。今度は極力声を抑えて聞いた。
「で、だから何なんですか?何で…」
と言いかけて私は止めた。山瀬さんがさっきと同じように、片手を顔に当てて、テーブルに肘つきこちらを黙って見ていたが、さっきまでの悪戯っ子の表情は影を潜めて、優しく笑いかけていたからだ。私が続きを喋らないのを、確認していたかのように少し間をおくと
「…なるほどねぇ、確かにアヤツの言ってた通りだわ」
「いやだから…え?アヤツ?」
とまだ最初の疑問が解決する前に、また余計に疑問を湧き上がらせるような事を言ってきた。
辟易としている私の表情を見ると、また山瀬さんの顔に悪戯っ子が戻ってきた。
「そうだよー、最近よくうちの図書館に調べ物に来るの。まぁ、毎年この時期は、いつもそうなんだけれど」
「?山瀬さん、一体何の話を…」
「あ、噂をすれば…」
と私の質問を無視して、山瀬さんは視線を正面玄関に向けた。私も釣られて視線をやると、何とそこには義一さんが、相変わらず真っ白の半袖と青いジーンズ姿で、受付の司書さんと話していた。驚きを隠せない私を尻目に、山瀬さんは大きく義一に向かって手を振った。受験生がコチラを迷惑そうに見ている。ふと義一さんもコチラに気づいたのか、視線をこっちに向けると、ゲッと言ったような表情を作った。と視線を少しズラしたかと思うと、遠くから分かるくらい驚いた表情をしていた。暫く立ち尽くしていたが、観念したかのように頭を掻きながら、私達のいるテーブルに近づいてきた。
 向かい側に回ると椅子を引き、腰を下ろしながら気まずそうに私に話しかけた。
「やぁ、琴音ちゃん。奇遇だね?まさかこんな所で会えるとは思わなかったよ」
「う、うん私も」
「ちょっとー、こんなところって何よー」
と山瀬さんは、非難めいた声で愚痴ている。それには相手をせず、私の手元を見ながら
「あ、宿題やってたんだ?ゴメンね、うちが使えなくて」
と言うので私はいつもの調子を取り戻しながら
「んーん、大丈夫だよ。いつもは一人でチャチャッと片しちゃうんだから」
と答えると、義一もいつものように微笑んだ。
「そうかい?ゴメンね、あと少しでいつもみたいに暇になるから」
「あのー、もしもし?」
と私たち二人の様子をジト目で見ていた山瀬さんが、ブツブツと文句を言ってきた。すると義一は大袈裟に驚いて見せて
「あれ?絵里、いつからそこにいたの?」
と聞くので、ますます目を細めながら
「最初からいたよ!大体受付のところで気づいてたでしょうよ?私を見るなり”ゲッ”て顔をした癖に」
「まあね。と言うか絵里こそ何で今日図書館にいるの?今日非番だって言ってなかった?だから今日狙って来たのに」
と義一がまた煽るようなことを言うと、それに山瀬さんがまた乗っかる様に答えた。
「残念でしたねぇ。受付のあの子のように、お淑やかで大人しい司書さんだけじゃなくて。確かに今日非番だったんだけど、ちょっとやり残した仕事があって、それだけ片しに来たの」
「ふーん、そっか」
と返してる義一を余所に私は、こんな簡単なことを中々焦らして教えてくれなかったのかと、呆れながらチラッと山瀬さんの横顔を覗いていた。とここで山瀬さんもこっちを向いたので目が合った。一瞬お互いに視線を外さずにいたが、すぐ何か思いついたといった表情になった。そして次に義一の方を見ると、明るい口調で話し出した。
「あ、そうだ!ギーさん、琴音ちゃん、この後どこかお茶しに行かない?」
「え?」
私と義一、ほぼ同時に声を出した。山瀬さんは構わず続けた。
「うん、それがいい!どう琴音ちゃん?この後時間ある?」
「う、うん、暗くなるまでに帰れれば…」
と未だ戸惑いながら答えると、強くウンウン頷いて
「大丈夫だよ。そんなに時間は取らないから!よしよし、で、ギーさんは大丈夫だから…」
「おいおい、これから調べ物…」
と、私と同じ様に義一が喋りかけたが、山瀬さんは義一のことは眼中にないらしい。
「よし、じゃあ決まり!決まったら二人共、善は急げだよ?さっさと片してしゅっぱーつ!」
と山瀬さんは元気よく立ち上がると、受験生達の冷たい視線も気にする様子なく、受付の司書さんに笑顔で挨拶してズンズン歩き出した。
「はぁ…」
と、私と義一は一緒に大きく肩を下げながらため息をついた。と同時に目が合うと、これまた同じ様に苦笑いをし合った。義一から声を掛けた。
「まったく絵里には困ったもんだね。本当にマイペースなんだから」
「ふふ、山瀬さんも義一さんには言われたくないと思うけど?」
とやり終えた宿題をバッグに詰めながら私は笑顔で返した。
「え?そうかなぁ?…でも琴音ちゃん、大丈夫かい?無理に絵里の無茶に付き合うことはないんだよ?」
「うん、大丈夫よ。この後予定がなかったのは本当だし、せっかく誘ってくれたんだしね!」
トートバッグを肩に下げながら答えた。
「それより義一さんこそいいの?今来たばかりなのに?」
と帽子を被りながら私が聞くと、義一もどっこいしょっと、重い腰を上げながら苦笑混じりに返した。
「まぁ、今回はしょうがないかな。また次回来るよ…絵里がいない時に」
「ふふ」

「おっそーい!」
と山瀬さんは図書館の正面にある時計が乗っかってるポールの下から、今出て来たばかりの私たちに向かって非難を浴びせた。手を顔に向けてパタパタ扇いでいた。
「女の子を一人炎天下で待たせちゃ、男としてダメでしょ!」
と山瀬が言うと、義一はおでこに手を当てて周囲を見渡しながら
「女の子?女の子は琴音ちゃんしかいないけど?」
と言うので、山瀬さんは口を尖らせて言った。
「あ、そういうことを言う?だからギーさん、モテないんだよ」
正直私と山瀬さん、身長が同じくらいだから、私が女の子なら山瀬さんもじゃないかな?などと、二人のやり取りを側から見てて、私は私で微妙にズレてることを考えていた。
「で?」
と義一が山瀬さんに話しかけた。
「これからどこに行くの?この辺りに喫茶店なんてあったっけ?」
「いや、ないよ」
と山瀬さんは声に表情つけずに返した。
「えぇ、じゃあどこに行くのさ?まさかこの炎天下、当てもなく歩き回るなんて言わないよね?」
と最後は私の方に視線を移しながら義一が聞いた。すると山瀬さんは何を今更と言いたげな顔つきで
「ギーさん、あなたは地元っ子でしょ?だったらわかるでしょ?」
と言うと、一旦溜めて、無駄に芝居掛かった調子で続けた。
「ファ・ミ・レ・ス・よ」


「えーっと、私はこのパフェ下さい。ギーさんは良かったよね?」
「うん」
「でー…琴音ちゃん、本当に何もいらないの?遠慮しなくていいのよ?全部ギーさんが払うんだから、ネッ?」
「おいおい、絵里の分もかい?」
「いいでしょ?たまには甲斐性あるところ見せてよ」
「いやいや、いつも僕が払っているけど」
「うーん、どうしようかな…」
とメニューを見ていた私は、上目遣いで義一を見た。義一はさっきまで山瀬さんに見せていた表情を変えて、優しく微笑みながら言った。
「いいんだよ琴音ちゃん、遠慮しないで。食べたいのがあったら言ってみて?」
「あぁ!差別だ、差別!私の時と全然違う!」
「あのー…お客様?」
と私達のテーブルのすぐ横で注文を取っていたウェイトレスさんが、申し訳なさそうに声を掛けてきた。義一が照れながら
「あぁ、すいません。少し待って下さい。…どう、琴音ちゃん?」
「うーん、じゃあ…私も同じパフェを下さい」
と私が言うと、山瀬さんが慌てて付け加えた。
「あっ!後ドリンクバーも三つで!」

注文を繰り返し、ウェイトレスさんが離れて行くと、早速私達は各々ドリンクを取るとテーブルに戻った。
ここは、最寄りの駅の、いわゆる駅ビルの中に入っている全国チェーンのファミレスだ。時間は大体二時半になるところだった。私鉄が一線しか乗り入れていないとはいえ、この辺りの交通の便はそんなに良くなく、他に手段がないのもあって、この辺りに住んでいる人は、とりあえずこの駅に来て、駅ビルの中を周るか、ここから都心に行くかの二択で、いつも人で溢れていた。でも流石に昼飯時を過ぎたばかりで、しかも平日ということもあってか、外歩く人は多くても、今いるこのファミレスは、空席が目立っていた。

「では、今日初めて私と琴音ちゃんがお茶する記念を祝して…かんぱーい」
「乾杯」
と、義一のアイスコーヒー、山瀬さんのアイスティー、私の烏竜茶が入ったグラスを互いに優しくぶつけ合った。一口だけ飲むと一息ついた。山瀬さんも同じだったのか、大きく息を吐いて
「はぁー、ようやく涼めたー。今年の夏もあっついねぇ」
と言うと、義一も手に持っていたグラスを置いて
「暑い暑い。汗かくからすぐに洗濯物が増えちゃうよ。まぁ、天気が良くてすぐ乾くのはありがたいけど」
と答えた。それに対して、山瀬さんがあの悪戯っ子のような表情で
「ギーさんは汗かかないじゃない?しかもいつも同じ服しか着てないし」
と言うので、義一は顎を引いて胸元を見ながら
「いやいや、同じに見えるだろうけど、全部少しずつ違うんだよ」
「へぇー…」
と私は思わず、口にストローを加えたままだったが、声が漏れた。正直山瀬さんと同じように思っていたからだ。
「いや、そう言われても、ぜんっぜん違いが分からないよ。それに比べて…」
と言いながら私の方を見て、言葉を続けた。
「ほら、琴音ちゃんを見てよ?どこまでも真っ白なワンピース、それに今は脱いでいるけど麦わら帽子、まるで絵画に描かれている、どこぞのお嬢様みたいじゃない?」
「ちょ、ちょっと山瀬さん…」
と私はあまりに大袈裟に言う山瀬さんに慌てて注意した。と、視線を感じそっちを見ると、義一も意味深な笑顔で私を見ながら、ウンウンうなづいていた。
「まぁ、それに関しては、僕も同意だけど」
「ちょっとー、義一さんまで」
「ははは」
「私の事を言うなら…」
とここで私は隣に座っていた山瀬さんのブラウスの裾を少し触りながら
「ほら、山瀬さんの方が素敵じゃない?大人の女って感じで」
と、その感想は嘘ではなかったが、私から話題を逸らすために無理やり矛先を山瀬さんに変えるため言った。
「琴音ちゃーん、優しいー!」
「あっ、ちょっと…」
でも、違う悪影響が出た。山瀬さんが両腕を私に巻きつけるように、ギュッと抱きしめてきたのだ。あれだけ炎天下を歩いて来たのに、若干柔軟剤の匂いがしただけだった。
「く、苦しい」
「あ、ごめんねー」
と山瀬さんがようやく私から離れた。そして顔は私に、視線は義一の方に流しながら
「ありがとう、琴音ちゃん。でもね、ギーさんにそんなこと聞いてもダメよ?何せあの通りの朴念仁なんだから」
とボソッと言ったその時、義一はチラッとこちらを見たかと思うと、意地悪な笑顔をしながら
「そうだねー。でもそんな僕でもこれくらいは分かるよ。今日の服装が絵里に似合っていることくらい」
「ほら、何も…え?」
と山瀬さんは、何言われてるか理解していないようだったが、はたから見ていても、徐々にほんのり顔に赤みが差していくのがわかった。山瀬さんにしては珍しく、しどろもどろに
「え?そ、それって、どういう…」
と言うと、相変わらずさっきと同じ意地悪な表情で
「そうだねー、さしずめ、馬子にも衣装ってところかな?」
と言うと、みるみる山瀬さんの表情が元に戻っていき、赤みも急速に引いていった。そしてムッとした表情で聞いた。
「何よそれー、どう言う意味よ?」
「辞書で調べて見るんだね」
「そういう意味で聞いたんじゃないでしょ!…ほらね?」
とムッとした表情そのままに私を見て
「こちらのギーさんはね、この通りじーさんなの。もう枯れちゃってるのよ」
「…ふふふ」
と二人の息合った掛け合いに、私は堪えきれずに吹き出した。その様子を見て、義一と山瀬さんも笑うのだった。

「どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
とウェイトレスさんが、私と山瀬さんの、いわゆるイチゴパフェを持って来て、伝票を置いて行った。私と山瀬さんは声を揃えて言った。
「じゃあ、いただきまーす」
「はい、どうぞ」
と、注文しなかった義一はストローを加えながら返した。
何口か口に入れると、山瀬さんが目をギュッと瞑りながら
「いやー、美味しい。ファミレスのも馬鹿にできないよねー。しかも、人のお金でタダで食べれるとなれば、美味しさ倍増だよ」
と言うので、さすがの義一も
「はいはい、さいですか?良うござんしたね」
と苦笑いで答えるしかないようだった。気を取り直して、私の方を向き
「どう、琴音ちゃん?美味しい?」
と聞くので、私は
「うん、美味しいよ」
と、他に言いようがなかったから、淡々と返すのだった。相変わらずチビチビと、コーヒーをグラスから吸い上げていた義一が、何気なく聞いてきた。
「そういえば、琴音ちゃんは僕と会わない間、何して過ごしてたんだい?」
「あっ、それ、気になるー。琴音ちゃんの夏休み」
と、思った通りというかなんと言うか、山瀬さんが乗っかってきた。私は気にせず
「そうだねー、まぁほとんど室内でピアノを弾いてたかな?後チョロチョロ宿題」
「あー、そういえば前にピアノを習っているって言ってたねー?今度聞かせてよ?」
と山瀬が笑顔で私に聞くと、義一が少しムッとして見せて
「こらこら、ダメだよ。まだ僕が聞かせて貰ってないのに」
と言うので、今度は山瀬さんが大袈裟に引いて見せて
「えぇー、ギーさん、それは余りにも束縛が強過ぎるわ。ヒクー」
なんて、二人で会話をしていたが、私の方はピアノの話をしていたせいで、ふと先生の事を思い出していた。そして目の前に食べかけのパフェがあったので
「…今度先生にパフェの作り方習って見ようかな…」
と、ほとんど無意識にボソッと独り言を言うと、隣にいるからなのか何なのか、すぐに山瀬さんが反応した。
「え?何?琴音ちゃんにはピアノ以外に、料理の先生がいるの?」
「あ、いや…」と私が訂正しようとすると、先に義一が山瀬さんに対するいつもの意地悪い表情で聞いた。
「絵里さんは、ご趣味で料理をなさいませんの?」
「お料理はなっさいませーん」
「あ、いや、違うの」
と、また二人の軽口言い合い合戦が始まりかけたので、慌てて横から割り込んだ。
「ピアノの先生が、レッスンの合間にお菓子作りを教えてくれるの」
「へぇー」
と義一と山瀬さん二人が同時に声を出した。山瀬さんの方は自分が言った後、意外そうに義一の顔を見ていた。私も同じだった。でもすぐ思い直した。
そういえば、誰に習っているのか、言うの忘れてたわ。
「そうなんだー、誰かと思えばピアノの先生だったんだね?てっきり、お母さんだと思っていたよ」
と義一が言ったので、私は一口パフェを食べてから
「んーん。お母さんも料理は得意なんだけれど、お菓子を作っているのを、見たことがなかったから、頼まなかったの。まぁ、私が知らないだけで、実はお菓子も得意かもしれないけどね」
「そうなんだねー」
「はぁ、ギーさん」
と、私と義一のやり取りを黙って見ていた山瀬さんが、大きくため息ついて言った。
「何でギーさんが知らない訳?ガッカリだわー」
「うるさいなぁ」
「で?」
山瀬さんは私の方を向き、顔中で興味津々だと表現しながら聞いてきた。
「何でまたお菓子作りを習っているの?…あ、さては誰か好きな」
「違います」
と、なるべく言葉に表情を出さないように気をつけながら即答した。
 先生もそうだったけど、何で全てをソッチに話を持って行こうとするのか…。この年代の人達はみんなそうなのかな?
 と若干、いや、かなり呆れ気味な表情でいると、義一が代わりに、なんでもない風に答えた。
「いやいや、違うよ。琴音ちゃんが僕の家に来てくれても、何も気の利いたお菓子なんか出せないから困っていたんだけど」
「自覚はあったのか…私が毎度行っても、麦茶一杯しか出してこないから」
と間に山瀬さんが、軽く聞き流せない事をボソッと非難めかして言ったが、義一は無視して続けた。
「そしたら琴音ちゃんが、オヤツ用のお菓子を習いに行ってくるって言ったんだよ」
と言いながらここで、パフェの残りにがっつく私の方を見て
「あの時は本当に有り難がったなぁ、まさかピアノの先生とは思わなかったけど。でね」
と言うと、次は山瀬さんの方に視線を移し
「こないだ僕の家でチョコブラウニーを一緒に作って食べたんだ。たまたま琴音ちゃんの友達も一緒だったから、二人じゃなかったけどね」
と言い終わると、一口分ストローでコーヒーを啜った。すると山瀬さんは今度は、本気とも冗談とも取れるような、ブー垂れた表情で義一を見ながら言った。
「えぇー、なんでそんな面白そうな場に私がいないの?」
「なんでって…呼んでないから」
「もーう。…ていうか」
と山瀬さんは不自然に顔を窓の外に向けてから、先を続けた。
「ギーさん、手作りのお菓子って苦手じゃなかったっけ?」
「え?義一さん、そうだったの?」
と私も反射的に義一に問いかけた。義一は腕を組み首を傾げながら
「あれ?そんなこと言ったっけ?」
と言うと、山瀬さんは顔はそのまま、視線だけを義一に向けてボヤいた。
「はぁ…この男は」
「あ、ごめん。ちょっとトイレ」
急に前触れもなく何かを察したように、義一は席を立ちトイレに向かった。山瀬さんは体勢を正面にゆっくり戻しながら
「逃げたな、あの野郎…」
と低い声で凄んで言った。と、その様子を見てぽかんとしている私に気付くと、妙に照れ臭そうにしながら言った。
「いやー、本当に琴音ちゃんのおじさんは、記憶力がいいんだか何だかわからんね?」
「はは…」
そんなこと言われても、今までの流れを見てて、乾いた笑いをするしか私に術はなかった。
ふと視線をトイレの方に向けると、義一さんが心なしか肩を落として戻って来た。私がすかさず心配そうに聞いた。
「どうしたの、義一さん。何かあった?」
「何?トイレで自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしたの?」
と山瀬さんもすかさずチャチャを入れる。それには無視して静かに答えた。
「…財布を忘れたみたい」
「…え?」
と今度は私と山瀬さんが同時に声を出した。義一は照れる時の癖、頭を掻きながら
「今日は図書館に行くだけのつもりだったから、飲み物買えるくらいの小銭入れは持って来てたんだけど」
「っっもーう!今更ー?」
と山瀬さんがこれでもかってくらいに口を閉じて溜めてから、言葉を吐き出した。その後やれやれと、自分のカバンを弄り始めたが、義一はそれを見て慌てて言った。
「あっ!絵里、いいよ、別に」
「いいよって…いい訳がないでしょうに」
「琴音ちゃん?」
と急に私に話しかけて来た。
「何?」
「まだ時間大丈夫かな?」
と聞かれたので、店内の時計を見ると、三時半を少し過ぎたところだった。
「うん、まだ大丈夫だけど」
「あ、そうかい?じゃあちょっと…」
と義一はレジの向こうの方を見ながら
「一度家に帰って財布を取ってくるよ。三十分くらいでね。あ、でも…」
とまた私に視線を戻して、すまなそうな表情で
「ゴメンね琴音ちゃん、もし帰りたかったらいいんだけど?」
と言うと私は笑顔で
「大丈夫だって。ここで山瀬さんと待ってるよ」
と答えると、片手で私と山瀬さんにもう一度ゴメンとジェスチャーして
「じゃあ絵里、琴音ちゃんを頼むね」
と言うと、鬱陶しそうに
「はいはい、分かったから、早く行ってきなさい」
と山瀬さんは、行きかける義一に手でシッシッと外に追い立てた。義一は出て行った。
「まっっったく、変なところは凄くこだわって細かいのに、日常生活のところで抜けてるんだからなー」
と義一の姿が見えなくなると、山瀬さんがため息混じりに言ったので、私も苦笑いしながら答えた。
「ふふ、そうですね」
「それに…」
と山瀬さんは、改めて私の方を真っ直ぐ向きながら
「大体ギーさんも悪い人だよ。あんな言い方して。あれじゃ、そもそも心根の優しい琴音ちゃんが断れる訳ないのに。本当、母性を上手いことくすぐる、天然タラシだね」
と言ったその声は、結構本気混じりに非難しているようだった。意外だった。こんな言い方はヒドイが、山瀬さんにこんな本気な一面があるとは露ほども考えたことがなかった。
私の事を優しいと言ったのにも、からかいやフザケは混じっていなかった。私は思わず聞いてしまった。
「…優しいって何ですかね?」
と言ってしまった後、慌てて口に手を当てた。しまった!ついやってしまった。さっきまで義一がいたせいか、気が緩み、変な所で”なんでちゃん”が起きだしてしまった。でもこうなると後の祭り、黙って相手の反応を待つしか無かった。
 山瀬さんは隣で黙っていたが、ふっと笑ったか、ため息か、判別できない息を短く吐くとおもむろに立ち上がり、義一が座っていた私の向かいに移動し座った。私は尚、黙って待っていると、山瀬さんは優しく微笑みかけてきながら、ついに話しかけてきた。
「そうだねー…と、その前に、本当にギーさんの言った通り”なんでちゃん”だっけ?なんだねぇ」
「あ、あの…その」
と私は、さっきから普段と雰囲気違う山瀬さんに圧倒されてた上に、”なんでちゃん”の事を指摘されたので、余計にドギマギして
「ご、ごめんなさい」
と、とりあえず謝った。すると少し普段の印象通りの”山瀬さん”に戻りながら
「あ、いや、何で謝るの?何も悪い事していないのに」
と笑顔で返してきた。
「え、でも…」
と私が言いかけるのを制して、そのまま話を続けた。
「いや、私が言ったのはね?ほら、さっきこの時期はギーさんがよくウチの図書館に来るって話したでしょ?」
「う、うん」
「で、その時に私からだったかなぁ?琴音ちゃんの話をそれとなく振ったの。そしたらねぇ」
とここで山瀬さんは、まるで微笑ましい光景を思い出すかのように目を細めて
「琴音ちゃんが如何に自分に面白い疑問を問いかけてくれるか、それに答える事で自分自身にも刺激があって、いい作用がしてるんだって、仕切りに褒めてたんだよ。私はたまに来てくれる、可愛いお人形さんみたいな琴音ちゃんしか知らなかったから、それをギーさんから聞くのは癪だったけど、私も機会があったら、”私の知らない琴音ちゃん”に会いたいなって思っていたんだ」
またもや意外だった。そもそも真面目に話す山瀬さんが意外だったのに、しかもどうもその話し振りから、私の”なんでちゃん”に対して敵意を持っていない様に見えた。今まで、当然嫌いじゃなかったし、どちらかといえば私の作った「大人」と言う枠組みの中では、数少ない、かなり好きな部類に入っていた。でもあくまで仮面の外の話。そう思っていたのが今こうして仮面の内側の話をしようとしている。私はある意味初めての感情が芽生えるのを感じていると
「でね?琴音ちゃん?」
と、また改まった調子で、山瀬さんは私を真っ直ぐ見ながら話を続けた。
「琴音ちゃんはじゃあ…何で”優しい”について疑問に思ったのかな?」
「…えっ?えぇ…っと…」
しつこいようだがまたもや意外だった。そうとしか言えないからしょうがない。考えてみれば、正直この頃の私の”なんで?”は、ほぼ反射的、直感的なもので、とりあえず思いついたら聞こうというスタンスだった。そんないきなり飛んでくる質問に対しても義一は、大体最後は私の納得いく考えを披露してくれたが、今みたいになぜ質問したかについて、理由を聞かれたのはこれが初めてだった。このまだ十分くらいの間に、何となく知ってたつもりだったイメージの中の山瀬さんが、こんなに一遍に百面相のように、様々に姿形を変えられたせいで、すっかり原形を留めていなかった。
 こんな調子で私がまた返答に窮していると、今度は呆れた調子で
「はぁ、やっぱりね。琴音ちゃん、今まで逆に質問された事がなかったんでしょ?」
「あ、いや…必ずしもそういうわけじゃないけど…うん」
と、丁度考えていた事を問われたので、慎重にだけど、これには答えられた。でも、山瀬さんが呆れた感じを見せていたので、やっぱりこうなったかと諦めかけていたが、ふと今まで私から視線を外さなかったのに、急に顔を斜め上あたりに向けて
「やれやれ、ギーさんめ。それじゃ一方的に話してるだけじゃん。まずは琴音ちゃんの疑問の理由から聞いてみなくちゃ…はぁ、ダメねぇ」
とその視線の先には義一がいるのか、宙空に向かって悪態をついていた。どうやら直接私に呆れていた訳ではなかったようだ。と、また顔を正面に戻し、山瀬さんはさっきのように真っ直ぐ私を見て話した。
「琴音ちゃん、琴音ちゃんも誰かに何かを聞くときは、まず曖昧でも構わない、大体でもいいから、大凡の自分の考えを持ってからでなきゃダメよ?ギーさんみたいな”理性の怪物”を相手にする時は特にね」
私はギョッとしながら聞き返した。
「り、理性の怪物…?」
「そう」
とここで山瀬は一旦氷がすっかり溶けたアイスティーを一口啜った。
「琴音ちゃんならもう知っているだろうけれど、ギーさんはあの通り普段から、普通の人なら通り過ぎちゃう様な疑問点、矛盾点を見付け出し、それを掘り下げ続けるような人だよね?それを生き甲斐にしてる。しかもたちの悪い事に、掘り下げれば掘り下げる程道具が鍛えられていくから、どんどんそのまま、あるのかどうかわからない底を目指して突き進めちゃう…私の言いたい事分かるかな?」
「あ、はい…何となくは…その道具っていうのが」
「まぁ、”理性”って事なのかな?」
「なのかなって?」
と、急に自信なさげに言ったので、私も本領を発揮する様に質問した。山瀬さんは少し苦笑まじりに照れながら答えた。
「いや、まるで今までギーさんの事、分かっている様な口振りで喋っちゃったけど、実はこの話、私とギーさんの大学の先生が言ってた事なんだ。その先生がギーさんを見て”理性の怪物”と称してたんだよ」
「へぇー」
「まぁ、ギーさん自身はこの二つ名が付けられてることを、未だに知らないと思うけどね」
「ふーん、そうなんですね」
「まぁだから、自分の考えを持っていなきゃ、 “怪物君”の筋道立った論理的な説明に、簡単に飲み込まれてしまうの。よっぽど気をつけていない限りね」
私はこの時、何故かヒロが「気をつけろ」と言っていたのを思い出していた。
「で、話を戻すけど」
と山瀬さんは続きを話し始めた。
「疑問に感じるのは、とてもいい事だと思うよ?さっきは少し悪く言っちゃったかもしれないけど。でも今から言うのは、なんて言うのかな?理性の怪物的話じゃなくて、気持ちの問題なんだけど。琴音ちゃん、逆に何か質問されて、答えてあげた時、相手がまるで分かっていない様な見当違いのリアクションをされたら、どう思う?」
と聞いてきたので、少し考えたが
「うーん、『この人、何で自分の疑問点をすらよく分かっていないのに、わざわざ聞いてきたのかな』って思うかな…あ」
と言ってるうちに、自分のことを暗に言われているのに気づいた。でもその私の心中を察したのか、首をゆっくり振りながら
「いやいや、別に琴音ちゃんがって言いたいんじゃないよ?さっきも誤解があったかもしれないけど、ギーさんから話を聞く感じ、琴音ちゃんもちゃんとあの”怪物君”の小難しくてややこしい話を理解して聞いてるみたいだったしね。これは並のことじゃないよ?…ちょっと盛って文句を言い過ぎちゃった。何しろ…」
と山瀬さんはそこまで言うと、眉を顰めて見せて
「あの男が、あまりに私に対して無神経すぎるから、八つ当たりしたくなっちゃったの」
と、最後は意地悪く笑って見せて言った。それに釣られて、緊張が解けたのか、私も笑顔を返した。でも、本当は山瀬さんの言うように、何も考えず質問しちゃっていたかもと、一人反省しながら。
「でも今琴音ちゃんが言った通り、ある意味それは質問した相手に対して、不誠実な態度だと思うの。だって、普段から考えていないから、自分の意見を持ってない、だからこそ回答者から言われたことをキチンと受け止められない。それは相手の意見を吟味する材料を持っていないから、その場その場の”気分”に流されて受け止めちゃう。真面目に答えてくれたのにそれを曲解しちゃう。ちゃんと自分でそれなりの意見を持って、相手が違う意見を言ってきたら、どこが違うか吟味して、それから議論をしてみる。これが誠実な態度だと思うのよね。どうかな?」
「はい、私もそう思います」
と私が答えると、ニコッと山瀬さんは微笑んだ。が、ハッとした表情になって
「あ、今のギーさんみたいだったかな?」
といかにもバツが悪いという風に聞かれたので
「はい、そっくりでした」
と私は私で、何となく嫌がるだろうなと見越した上で、敢えて意地悪に答えた。山瀬さんは少し苦笑いを浮かべてホッペを掻きながら
「まぁ私が言いたいのは、簡単に言えば、琴音ちゃんは今の調子でジャンジャン遠慮せず不思議に思ったことを聞けばいいと思うの。ギーさんだけじゃなく私にもね?でも一つ付け加えるなら、あのギーさんを言い負かすくらい、普段から琴音ちゃんにも戦闘準備をしていて欲しいかなぁ?回答に対して、また新しい有意義な疑問を見つけて、ぶつけられるようにね。もちろん無理のない範囲で」
と言ったかと思えば、ここで一瞬溜めて、また普段通りの悪戯っ子な表情を作りながら
「あの”怪物君”が理性なくオタオタするのを見たいじゃない?」
と言い終えた。私は何も返さなかったが、心から同意する様に笑顔で頷いた。


「…さて! 優しさねぇ…」
と、空気を一気に変える様に、いつもの、私が知る普段の山瀬さんに戻った様に明るい調子で声を出した。
「ギーさんみたいに学がある訳でもないし、気の利いたことは言えそうもないなー…」
と言ったところで一旦溜めて、私の事をニヤニヤ見ながら言った。
「私としては、優しいとは”琴音ちゃんの事だ!”って定義したいんだけどね」
「いやいや、それは勘弁してください」
と字面にすると無感情だが、実際の私もニヤけながら返した。
「まぁ、この”優しいとは何か問題”はギーさんにも聞いてみなよ?多分またキテレツな事を真面目に答えてくれるからね。私も次までに考えてみるからさ。今はこれしか言えないけどいいかな?」
「うん、私こそ御免なさい」
と色んな意味を含ませた”御免なさい”を言った。山瀬さんもそれなりに察してくれたのか、何も言わず微笑み返すだけだった。
 と、何の気も無く時計を見ると、四時を少し過ぎたくらいになっていた。一緒に見ていた山瀬さんが
「しっかし、ギーさん遅いねー。もしかして家に帰って寝ちゃってるんじゃないでしょうね?」
と言うので、私はそれに苦笑いで返した。
「いやー、流石にそれはないと思いますけど」
「うーん…あ、なるほど!セリヌンティウスはこんな気持ちだったのか!」
と急に元気よく大発見でもしたかの様に声を上げた。私は急に言われてポカンとしてたが、また苦笑いして
「…あっ、太宰ですか?」
と聞くと、山瀬さんも一瞬呆けていたが、すぐに顔中に嬉しさを滲ませて言った。
「そう!その通り!『走れメロス』だね!いやー、私もこの状況何かに似てるなってずっと考えていたんだけど、これだーって気づいてね!琴音ちゃんに発見を自慢しようとしたら、先に言われちゃった。よく”セリヌンティウス”だけで気づいたね?」
「いや、私も何となく何かに似てるなぁ、とは思ってたんですけど、そのメロスの”セリヌンナントカ”って友達の名前だけ言われてたら、わかりませんでしたよ」
「いやいや、凄いよ。要は、状況なども鑑みて思いついたんだからなぁ。ギーさんが褒めちぎるのも分かる気がする。よっ!可憐な文学少女!」
「いや、あのー…」
と、一向に私に対する絶賛をやめる気配がなかったので、居た堪らなくなって
「まぁもっとも、メロスの友達は山瀬さんと違って、もっとメロスの事信頼していたと思いますけどね」
と無理矢理話を終わらせる意味も込めて、意地悪に突っ込んだ。それを聞いた山瀬さんは苦笑いを浮かべ、ホッペを掻きながら
「いやー、細かいねぇ。でもこれまた一本取られた!」
と、最後におでこに手を当てながら返した。
「そういえば…」
と私は烏龍茶をストローで吸おうと思ったが、もう空になっていたらしく、ズズズとゴボボが混ざった様な音が鳴るだけだった。それを見た山瀬さんがニコリと笑って立ち上がりながら言った。
「まだギーさん来なそうだし、お代わりを取ってこよう!」

山瀬さんはまたアイスティー、私はまた烏龍茶を取って席に戻った。
「しかし、さっきも思ったけど、ドリンクバーで烏龍茶…渋いねぇ」
とストロー咥えながら山瀬が言った
「そうですか?うーん、変ですかね?」
「いや、変じゃないけど、私の中の小学生像は、こんな時はジュースを飲むもんだと思っていたからねぇ」
「うーん…言われてみれば、大体烏龍茶か他のお茶をいつも飲んでる気がします。…小さい頃は苦手でしたけど」
「そうなんだー。琴音ちゃんみたいな可憐な少女が渋いお茶を飲んでるのは、これまたギャップがあっていいね!」
急に太宰を小学生相手に持ち出す方が変わっていると思ったけど、そこを掘り下げると、どんどん深みにはまって、見当違いのところに行くと思ったので、半ば強引に
「義一さんと山瀬さんの仲について、聞いてもいいですか?」
と単刀直入に聞いてみた。ここまで来たら、聞けるところまで聞いてみたかったからだ。
山瀬さんは山瀬さんで、さっきまで持っていたグラスを置いて、少し身を乗り出す様な体勢になり、いかにも乗り気であるのを見せて
「私とギーさん?いいよ…やっぱり、気になる?」
「あっ…いや…まぁ、はい」
とニヤケながらも目の奥から、真っ直ぐ射竦める様な視線を送って来たので、私は若干たじろぎながら答えた。すると、眼光の鋭さは消えて、またいつもの目つきに戻ると話し始めた。
「そうねぇ…何しろもう考えてみれば、十年くらいの付き合いだからねぇ。どういう仲かって聞かれても、正直困るなぁ。まぁでも、今とりあえず言えるのは、私もギーさんも、何も変わっていないって事かな…あっ」
とここで山瀬さんは自分の頭のマッシュルームヘアーに触りながら
「昔はこんな髪型じゃなかったけどね!」
とニコやかに言った。私はそこにも少し踏み込んでみる事にした。すっかりまた”なんでちゃんモード”だ。今思えば本当に反省がない。
「昔って…」
「そうっ!大学生に入りたてまではねぇ。聞いてくれる?」
「あ、はい」
山瀬さんはおもむろに足をテーブルの下で組み、遠くに視線を流しながらしみじみ言った。
「私って今もだけど、結構内気で人見知りが激しい方だったのね」
「え?えぇ…は、はい…」
と冗談なのか本気なのか、反応に困っていると、そんな私の様子に満足したのか、さっきまでの体勢に戻ってイタズラっぽく笑いながら続けた。
「私、中学高校と私立の女子校に通ってたの。周りは同年代の女の子ばかりでしょ?男の子との接点なんて大学入るまで皆無に等しかったから、大学に入ったらまずそれに困っちゃった。
小学生までは当然男子とも話したり遊んでいたけれど、中高抜いて、いきなり大人になってる男の子と付き合わなきゃいけなかったのが、自分でもビックリだったけど、うまく立ち回れなかったのよねぇ…」
とここで山瀬は一瞬躊躇ったが、
「…私、何故か、結構…こう言っちゃあ何だけど…モテたのね?」
と気恥ずかしそうに、歯切れ悪く話した。聞いてて本気だと思ったのは、山瀬さんの耳が真っ赤になっていたからだ。
「…いやー、小学生に話す事じゃないけど…まぁいっか!続けるね?」
「うん」
山瀬さんはまた一口アイスティーを味わう様に口に含み、ゆっくり飲みこむと静かに話を再開した。
「高校と、大学の初めくらいまでは、実は今の琴音ちゃんと同じくらい、肩より少し下に行くくらいまで長かったの。特に理由があった訳ではなかったけど、ロン毛にしてたのね。で、そのー…大学一年の時、サークル…って言っても分からないか…要はクラブだね?運動するクラブに入っていたんだけど、一緒に入っていた先輩に、今思えば在り来たりなんだけど、告白されたの」
「へぇー、本当にモテたんですね意外に」
と、まだこの話をするのに、若干ある意味緊張しながら話している様に見えた私は、適当に茶々を入れて和ませようとした。それを知ってか知らずか山瀬さんは、えぇーっという様な表情を作り
「そうよー。今の私を見ても良くわかるでしょ?変わらずこんなに可愛いんだから」
と冗談だとワザとわかる様に、オーバーなリアクションしながら答えた。
まぁ正直、昔の山瀬さんがどんな容姿をしていたか知らないから、何とも言えないところではあったけど、今と変わらないと言う本人の言葉を信用するなら、それは恐らく本当だったんだろうと思う。まぁ、これも言ってあげないけど。
「冗談はさておき…何まで喋ったっけ?…あぁ、それで、告白されたのなんて初めてだったから断り方も分からず、今思えば酷く相手のプライドを傷つける様にフっちゃったのね」
「えぇー、フっちゃったんですか?どうして?」
と私が聞くと、また悪戯っ子の顔を作り
「だって、あの頃の私は今と同じで硬派を気取っていたからね」
「いや、そういうのはいいです」
と無情にすぐかぶせ気味に突っ込んだ。山瀬さんは少し不満げに見せながらも、すぐ明るい調子に戻って続けた。
「まぁ、そう言わないでよ。で、相手の事嫌いじゃなかったけど、いい加減な気持ちで割り切って付き合おうという、なんというか意欲が私になかったのね。でね、どうもその後そのクラブに居づらくなって、やめちゃったの。でもそれからも、同じ授業を受けてる同学年、はたまた先輩、その何人かにまた告白されてね。その度にやっぱり断っていたの。自覚はなかったんだけど、あとで出会うことになるギーさんに言わせれば、中々目立つ、派手な印象を周りに与えてたみたいなの。私はなんでもなかったのにね。で、自分の意志とは別のところで勝手に人間関係が拗れてきて、ほとほとウンザリしていた時にある時決心して…いや思いつきかな?美容院に行った時たまたま雑誌をパラパラめくっていたら、この髪型をした、中々アクの強い女の子が載っていたの。近寄りがたい様なね。でも何故かその女の子に惹かれちゃって、カットの途中だったけど、美容師さんに『すみません、今からこれにして下さい』と言って出来上がったのが…」
とここでまた山瀬さんはマッシュルームヘアーに触りながら
「これって訳」
と心なしか自慢げに言った。
「へぇー、その時の思いつきを今も続けているんですね?」
「そうなのー、いざやってみると楽でねー。頭も軽いし、首元涼しくて、こんな夏には最適だよ。あっ、でも」
と、ふと山瀬さんは私の頭に手を伸ばし、触るか触らないかの距離を保ち、撫でる様な動作をしながら
「琴音ちゃんはぜっったいしちゃダメ!こんなに綺麗な黒髮で、すごく似合ってるんだから」
と言うので、軽く手を払いながらも少し笑顔で
「頼まれてもやりません」
と答えた。山瀬さんも笑い返しながら
「はははは!うん、それで良し!で、えーっとギーさんの話だよね?あ、その前にさっきの話を済ますとね、この髪型にして大学に行ったら、それはもう面白い様に男の子から話しかけられなくなったの。それはとても有難かったんだけど、一緒に女の子の友達も何人か離れて行ったのね?あれは少しショックだったなぁ。授業が終わればどこかに遊びに行ったりするくらいには仲が良いと思っていたからね…。これもギーさんに後になって話したんだけど、『それはただ、絵里に群がってくる男たち目当てにすり寄ってきてただけじゃない?』って、オブラートに包む事なく、はっきりと面と向かって言ってきたの。言われた時は『何なのこの人、面と向かって言う様なことかな』と苛立っていたんだけど、私も薄々そんな気がしていたから、すぐに怒りは収まって、いやむしろハッキリ口にして言ってくれたお陰で色々吹っ切れたところがあったの。まぁその時はすかさず『私を誘蛾灯みたいに言わないでくれる?』って返したんだけど」
「ふふ…」
と山瀬さんの口ぶりに思わず笑みが漏れた。と、ふと山瀬さんがカバンを見たかと思うと、中からスマホを取り出し、やれやれと言った調子で言った。
「あぁ…あ、いやね、メールが来てるなって思ったら、ギーさんからだったんだけど、それと別に、今から四十分くらい前に電話もしてたみたいなの。気づかなかったなぁ」
「で?義一さんは何て?」
「うん、『今から行きます』だって」
と心底呆れた様に答えた。
「やっぱり、寝てたんじゃない?私達がセリヌンティウスだったら、今頃殺されてるよ」
「じゃあ、戻って来たら問いただしましょう!」
「はは、そうね!」
私と山瀬は顔を近づけて、内緒話、悪巧みをする様な体で笑いあった。
「じゃあ後二十分くらいかなぁ…」
「あっ、でも続きが気になるよ。お願い、後少しだけお話しして?」
と私が頼むと、一瞬山瀬さんは大きく目を見開いて、何かに驚いていた様子だったが、それからまた一瞬優しい微笑みを見せて、そして、またいつもの悪戯っ子に顔を戻した。
「そうだなぁ、まだ”女子会”をお開きにするには時間があるか!じゃあ効率的に話せる様に、逆に琴音ちゃんから私に質問してよ?そうすれば、ギーさんが来るまでに色々簡単に答えられると思うから」
「あ、うん、そうだねぇ…じゃあ」
と私は、一度頭の中で数秒くらい整理していたが、まとまったのでそれを聞いてみる事にした。
「じゃあね、二つだけ取り敢えず聞いてみたいことがあるの」
「”取り敢えず”ねっ?良いよ、何かな?」
「じゃあまず一つ目は…義一さんのお家に何度か行ったことがあるみたいに言っていたんだけど」
「あぁ、それね」
山瀬さんはアイスティーを啜りながら黙って聞いてたが、私が続きを言わないのを確認すると、一旦グラスを置いて、それから答えた。
「そうねぇ…さっきの話の中で分かったから説明は省くけど、琴音ちゃん、あの家にたっくさんの本があるのは知っているよね?」
「うん」
「ギーさんのお父さんのコレクションだって言うんだけど、中々やっぱりと言うか…掘り出し物ばかりなのよっ!」
途中から急に興奮しながら、鼻息荒く身を乗り出さんばかりのテンションで言い切った。
「う、うん…?」
戸惑う私が眼中にない程、山瀬さんの興奮は止まない。
「私のいるあの図書館に幾つか寄贈してくれないか、要は譲ってくれないかを交渉に行ってたの。まぁ、今も行ってるんだけど」
「へ?そういう理由なの?」
「うん、そうだけど…あっ!あぁー」
と山瀬さんは身を乗り出したままの格好で、目を細め、口元を思いっきりニヤニヤさせて、人差し指で私のオデコをチョンと触ってから言った。
「あれぇー、琴音ちゃん?一体何を想像してたのかなぁー?オマセさんねぇー」
「べ、別に、何も、深い意味なんて…」
当時こういう話は同い年の子達と比べると、私は極端に遅れていて、中々すぐには察せなかったけど、どこかで何か恥ずかしいことを聞いてしまったという直感が働いて、意味なくモジモジしていた。
山瀬さんは私の様子を堪能してから、手で”ゴメンゴメン”とジェスチャーをしてから、また話し出した。でも顔はニヤケっぱなしだ。
「もう、さっきも見てて分かってたでしょー?あの通りの朴念仁と私の間でナニがどうなるわけないんだからー」
「そ、それはもう分かったから、つ、次の質問ねっ!」
まだ鏡で自分の顔を見てないから分からなかったけど、耳たぶだけが異様に熱を帯びているのが感じられて、見なくても耳を中心に真っ赤になっているであろうと思いながら、慌てて話を区切る様に言った。
「さっき、義一さんが、手作りのお菓子を食べないみたいなことを言っていたけど…」
とまた私が皆まで言わずに、語尾を少し伸ばして回答を待ったが、山瀬さんはさっきと打って変わって、目をパチクリさせていた。そして私から視線を顔ごとズラし、言うか言うまいかを悩んでいる様子だった。少しして、顔をまた私に向けると、いかにも困ったという表情をして、苦笑交じりに
「…いやぁ、てっきりそこはスルーしてるのかと思ってたのに、いくらこのファミレスの中でのこととはいえ、よくすぐ思い出せるねぇー。いやぁ、お姉さん、本気で感心しちゃうなぁ」
話し始めたが、何やら誤魔化されそうな雰囲気を感じたので
「いやいや、山瀬さん、私を褒めるのはいいから、早くワケを教えて?」
私は逃すまいと聞いた。いやはや、こんなに人に対して本性を出したのは、義一さん以来二人目だった。子供なヒロは置いといて。相手は堪ったもんじゃない、全く困ったもんだと思っていたかも知れないけど、私の立場から言うと、これは私なりに心を開いた証拠みたいなものだった。
 山瀬さんは苦笑のまま、また少し考えていたが、意を決したか、諦めたか、そのどちらとも取れる表情になり、また話し始めた。
「…そうね、まぁ、琴音ちゃん相手なら大丈夫かな?…昔ね、ギーさんに手作りのクッキーを渡そうとしたことがあったの」
「え?…えぇえー!」
と何となく想像はしていたものの、いざ言われると、自分でもビックリなくらいビックリした。
「それって…もしかしてバレン…」
と私が言いかけると、山瀬さんは慌てて身を乗り出し、私の口を塞ぐ様に手をこっちに伸ばしながら
「わぁーっ!違う!違うの!…いや、渡そうとしたのはその日だったけど」
と最後の方は消え入る様な声で、また行儀よく席につきながら答えた。顔はさっき義一に今日の服装を褒められた(?)時くらいに赤くなっている。
「ほ、ほらぁ、今でも流行っているでしょ?”友チョコ”ってヤツ。アレよ、アレ!…さっきも言ったけど、色々と相談に乗ってもらって…まぁ、ギーさん本人も面白がっていたから、そこまで感謝しなくても良かったかもしれないけど、少しと言いつつ、やっぱり本当はかなり落ち込んでいたから、そのお礼も兼ねて、いわゆる友情の印よ!」
「ふーん…で、渡したんだ?」
山瀬さんが長々言った言い訳を軽く流しつつ、肝心要のところを聞いた。すると山瀬さんは、さっきまで赤くなっていたのが嘘の様に無表情になって、ため息交じりに答えた。
「渡そうとしたんだけどね…も、もちろん誤解がない様”と・も・だ・ち”の印だと言ってね…そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
とここで山瀬さんは頭を掻き出した。これはすぐに分かった。義一の物真似だ。
「『え?…これって、手作り?…ゴメンね、僕、他人が作ったモノって苦手で…。わざわざ作ってくれて、嬉しいんだけど受け取れない。本当にゴメンね、気持ちだけ受け取るよ』『あ、あぁ、そ、そうだったん、だねぇ?ははは、こっちこそゴメン、初めから聞いとけば良かった。気にしないでね』…それから少し話して別れたんだけど、何会話してたか覚えてないんだ。で、ギーさんがいなくなった後に…」
山瀬さんが義一の特徴を事細やかに再現してくれたお陰で、その時の状況を目の当たりにしているかの様に私は聞き入っていたが、ここまで話すと山瀬さんはおもむろに、空手の正拳突きをする前の、漫画とかでよく見る力を溜めるポーズをとりながら
「『何が人の作った物が食べられないじゃボケーっ!お前がよく大学の食堂で食べているのも人が作ったもんじゃろがーっ!何訳のわからん断り方しとんねーん!』…って」
小声でだったが、音量を上げればそれはそれは凄い怒鳴り声だろう、怒りをぶちまける様がまざまざと感じられた。ふと、ここで落ち着きを払い、またいつもの笑みを浮かべながら
「一人その場で、我ながら何故かエセ関西弁を屈指しながら心の中でツッコミ倒していたの…これが顛末だよ」
と言い終えると、喋り続けて喉が乾いたのか、残りのアイスティーをストローで一気に吸い上げていった。私は思わず不謹慎にも拍手したくなるくらい、山瀬さんの迫真の演技の余韻に浸っていたが、山瀬さんがこちらを見て無言でまた苦笑いを送ってきたので、私も苦笑いを返した。
「はぁーあ、そんなことがあったんだ。そりゃ百パーセント、義一さんに非があるね!」
「でっしょー?別に食べなくても、とりあえず何も言わずに受け取ればいいじゃんねぇ?まぁ、変なところで真面目というか、社交辞令ってものを極端に嫌うからねぇ。そこが長所といえば長所か」
「うん、らしいお話だったよ」
「だから琴音ちゃん…」
と山瀬さんはテーブルに両肘をつき、両手を組ませて、その上に顎を乗せてから、意地悪な表情で
「分かっているとは思うけど、ギーさんに女心とか人間の感情の細やかさを分かってもらおうたって無駄だからね。なんせ、アヤツは…」
「…あっ」
と、私が言った時には遅かった。
「理性の怪物なんだから」
「誰が理性の怪物だよ…まったく」
「え?」
山瀬さんが振り向くとそこには義一がやれやれと言った表情を浮かべながら立っていた。私の座る位置からは『感情の細やかさ』のあたりを山瀬さんが喋っている所で、義一が近づいているのに気づいていた。でもまぁ、忠告できなかったのはしょうがない。
 山瀬さんは一瞬ビックリしていた様だが、すぐに冷静さを取り戻し
「…どこらへんから聞いてた?」
と聞くと、義一は考えるフリをしてから
「そうだねぇ…『アヤツは理性の怪物なんだから』ってところかな?まったく、琴音ちゃん相手に好き勝手に言って」
と文句を言うと
「もーう。せっかく琴音ちゃんと二人っきりの”女子トーク”を楽しんでたのに、男子が割り込んでこないでよぉ」
と山瀬さんも、文句とはとても言えない文句で返した。
「で?ギーさん、何でこんなに遅かったの?お腹を壊した?日頃の行いが悪いから」
と毎度の山瀬さんの言う軽口は無視して、義一はその隣に座り、
「いやいや、何やら僕からの電話に気づかない程会話に熱中していたみたいだからね、気を遣って二人の時間を作ってあげたのさ。もちろん、琴音ちゃんに迷惑じゃない様に、ギリギリに考えながらね。どう、琴音ちゃん、今ぐらいで?」
と向かいに座る私に聞いて来たので、壁にかけてある時計をチラッと見ると、五時十五分前を示していた。もう少しで図書館が閉まる時間だ。
「うん、今なら大丈夫」
「えぇー、何かそれ、恩着せがましい言い方ー」
と行儀悪くストローで音を立てながら、山瀬さんは義一の隣でブーブー言っている。それには無視して、義一は私に続けて聞いた。
「二人してどんな話をしていたんだい?こんなに長い時間」
「えぇー…」
と言いながら、向かいの山瀬さんと目が合った。示し合わせたわけじゃなかったが、二人の気持ちは同じだった様だ。二人声を揃える様に言った。
「それは内緒ー。私達女二人だけのねー」
「?」

「じゃあごちそうさまー」
「ごちそうさまでした」
「いーえ」
私達三人は一緒に仲良く駅ビルの正面出口に出た。周りは丁度帰宅ラッシュなのか、立ち止まる私達を邪魔そうに避けながら人々が通り過ぎて行く。目の前にはロータリーがあり、バスが何台か停まっていて、その停留所にはスーツ姿がズラッと列をなしていた。
「じゃあ僕は途中まで琴音ちゃんを送って行くから」
「うん、分かった」
と義一に返事した山瀬さんは、私の方を向き満面の笑みで
「じゃあ琴音ちゃん、またね!あの図書館で会えるの待ってるから。いつでも来てね」
と小さく手を振り行こうとするので、少し躊躇したが、意を決して山瀬さんに駆け寄った。その様子を黙って見ている義一をよそに
「あっ…あのっ!」
と、声を掛けた。
「ん?何、琴音ちゃん?」
と山瀬さんは振り向いた。私は呼び止めて尚、逡巡していたが、何も言わずバッグの中からスマホを取り出すと、山瀬さんの前に突き出した。山瀬さんは不思議そうに
「えぇっと…琴音ちゃん?」
と聞いてきたので、私は意を決して
「あ、あのぉ…れ、連絡先、教えて、くれませんか?」
と軽く頭を下げて言った。
 何しろ、いくら自分で言うのも何だが大人びていたとはいえ、大人相手に小学生が自分から連絡先を聞くというのは、大人が考えている以上にある意味勇気がいることだ。しかも、これはしつこい様だけど、人との距離加減を、普通の人よりも過敏に考えて生きていた私としては、余計に勇気がいることだった。
 返事がないので、恐る恐る顔をあげると、山瀬さんは山瀬さんで、キョトンとした表情で固まっていた様だった。だが徐々に顔を微笑みで満たして、静かに手を伸ばし、私の頭を帽子越しに撫でながら優しく
「…こーら、さっきまでタメ口で話してくれたのに、また”ですます口調”じゃ、縮まったと思った距離がまた元に戻った様で寂しいぞ?」
と言いながらカバンからスマホを取り出した。
「…またタメ口に戻してくれるなら、連絡先、交換してもいいよ?」
と山瀬さんは、最後はあの意地悪風の笑顔で言った。私は何も言わず、ただ自然となった笑顔のまま頷き、スマホを近づけた。
「…よし、これでオッケー!何かあったらいつでも連絡してね?」
と言うとまた山瀬さんは歩き始めた。と思いきや、また立ち止まり振り返ると
「いつでもって言うのは社交辞令じゃないからねー!」
とニッコリ笑いながら大声を出し、返事を聞こうともせず歩き出そうとした。ここでまた私は言おうか言うまいか迷ったが、一歩前に歩み出し叫んだ。
「じゃあまたねー!…絵里さん!」
「……えっ?」
振り返った絵里をワザと無視して、私は義一の元に駆け寄った。そしてそのまま二人並んで帰ったのだった。こちらからは逆光だったし、一瞬だったのもあってはっきり見えはしなかったが、家に帰ってベッドに入っても、うっすら見えたあの別れ際の、見たこともない絵里の表情を寝付くまで思い出してはクスクス笑っていたのだった。

第8話 変化

最後に義一、絵里、そして私三人で会ってから、メールなどで連絡は取り合っていたが、想像していたよりもその後、そんなに会う機会に恵まれなかった。
 我が家では毎年恒例のこととして、お盆になるとお父さんが一週間ばかり休みを取り、家族水入らずでどこか国内外問わず旅行に行くのが習わしになっていた。今年に限っていえば、お父さんが院長になったばかりだということで、もしかしたら休みがとれないかもとお母さんから聞かされていたが、何のかんの休みが取れたらしく、しっかり旅行に行ってきた。帰ってきても、ヒロに無理矢理外に連れ出されて遊びに行ったり、毎年開催される河原での花火大会、小学校で企画されたお祭り含む催し物に参加したりと、自分で言っては何だが”普通の”小学生らしい夏休みを過ごしていたら、結局最終日になっても直接会うことはなかった。
 義一と再会するまでは、それなりに楽しんでいた夏の風物詩の数々、それなりにワクワクして楽しんでいたはずなのに、今年は何してても、今義一は何してるかがずっと心のどこかで引っかかり、あの古書に囲まれた空間で、古本の匂いに包まれながら本を読んでいるところを想像していたりした。

「へぇー、あの花火大会、わざわざ河原まで行って見たんだ?」
「うん。絵里さんも近所なんだし、見に行ったりしなかったの?」
「うーん、音は聞いてたけど…でも、あの花火大会ってカップルが多いでしょ?職場の人を誘うのも何だし、男の人だと誤解されそうだし、一緒に見に行くいい男もいないしねぇ」
「あ、だったら義一さんを誘えばいいじゃない(笑)」
「ちょっとぉ、今の流れでアヤツの名前を出すのは勘弁してー。あの男と見に行くぐらいなら、一人寂しくテレビで中継見ていた方がいいよ」
「はは(笑)そう言うと思った」
「でもそうねぇ、琴音ちゃんとだったら花火大会参加したいな。…どうしてもって本人が頼み込んで来たら、あの男も一緒に」
「そうだね、三人で遊びたいよ。花火大会に限った話じゃなく色々と」
「いいねぇー。これから色々楽しいこといっぱいしていこう!」
コンコン。

ベッドの上に女の子座りで、クッションを抱えながらスマホをいじっていると、ドアがノックされた。ドアを開けて、廊下に立っていたのはお母さんだった。
「琴音、いたの?いたのなら返事くらいしなさい?」
「うん、ごめんなさい」
「まったく、明日から二学期なんだから、忘れ物ないか確認して、今日は少し早めに寝なさいね?」
とお母さんは、私の部屋の時計を見ながら行った。私もつられて、赤を基調とした、数字が書かれているだけのシンプルな時計を見ると、ちょうど夜の十時だった。
「うん、わかったよ」
と返事する私がずっとスマホを手にしているのをチラッと見たが、特にその事には言及せずに
「じゃあ、お休みなさい」
とお母さんはドアを閉めながら、こちらに微笑みかけて言った。
「うん、おやすみなさい」
バタン。さて、グギも刺された事だしもう寝ようかな?
とスマホを覗き込みながら思っていると、私が返信する前に、絵里がまたメッセージを送ってきていた。さっきまでずっと、ひっきりなしに一分以上の間隔を開けずにやり取りしていたせいか、それについてのメールがきていた。
「今大丈夫?何かあった?」
「いや、何でもない。今お母さんに早く寝なさいって言われちゃった」
「笑。じゃあしょうがないね。私のせいで琴音ちゃんが怒られるのもなんだし、今日はこの辺にしときますか。じゃあまたね、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
私はそう送ると、スマホの電源を切り、眠りについた。

 朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、櫛で髪を梳かしてから朝食を摂った。そしてランドセルを背負うと、キッチンで洗い物しているお母さんに後ろから声をかけて家を出た。
 今日から九月だっていうのに、全く暑さはひくことなく、今日も猛暑日だとテレビの天気予報で報じていた。
はぁ、やんなっちゃうな…。
トボトボと通学路を歩いていると、T字路の突当りの壁を背に寄りかかっている女の子が見えた。終業式の日、一緒に帰った子だ。私の姿を見ると、数メートル先だというのに、元気に手を振ってきた。私もそれに応える。
「久しぶりー、元気にしてた?」
「うん、ボチボチよ」
私達二人は軽く挨拶すると、仲良く並んで学校へと向かった。その途中
「あれぇ?琴音ちゃん、肌白ーい」
と私の腕に自分の腕を合わせながら声を上げた。確かに相手の方は、万遍なく褐色色に染まっていた。
「そういうあなたは綺麗に焼けてるね?海でも行った?」
「…え?」
「…ん?どうかした?」
相手の顔を見ると、想定していなかったものにぶつかったような顔をしていた。その様子を見て私が益々不思議がっていると、女の子は少し言いづらそうに言った。
「な、なんか琴音ちゃん…夏休み明けて変わったね?」
「そう…かなぁ?どの辺が?」
と聞き返すと、まだ何か言いづらそうに答えた。
「い、いや…なんていうか、そのー…大人っぽくなったね?」
「そうかなぁ。変わらないと思うけど?」
「いや、変わったよ。何か、私のお姉ちゃんと話してるみたいだもん…あっ!おーい!」
と、その子は向こうで歩いてる同級生の女子達を見つけると、一目散にそちらに駆け出して行った。追いつくと女子達で月並みの挨拶をしあっていた。私は相変わらずペースを変えずに歩いて、そのグループに追いつくと、何か話した後なのか、女の子達は私にも同じように挨拶をしてきたが、どこか余所余所しい感じだった。いつも一緒にいる仲良しグループだったが、この感覚は初めてだった。
まぁ、いっか。
 それからみんなは何故か早歩きでどんどん歩いて、行ってしまった。
まぁ、どうせ教室で会うんだからね。
今までのまま、走って追いつこうともせず歩いていると、急に背中のランドセルをバンバン叩かれた。
はぁーあ、このノリは…
「よっ!琴音!いい天気だな?」
とヒロが私の隣に来て笑顔でテンション高く話しかけて来た。私は大げさにため息ついて見せて返した。
「そうね。あなたの頭と一緒でね」
「ん?どういう意味だよ?」
「ノーテンキってこと」
「おいおい、登校初日にそりゃねぇぜー…っていいのか?」
「ん?何が?」
「アレよアレ」
とヒロが顎を何度かクイっと向けた先には、さっきの女子達が立ち止まっては振り返り、また歩き出すというのを繰り返していた。
「一緒に混ざらなくてもいいのか?」
と若干心配げに聞いて来た。
「まぁ、いいでしょ?教室でどうせ会うんだから」
「ふーん、まっ、お前がそれでいいならいいけどよ」
それから私達二人は、それぞれの教室に繋がる廊下で別れるまで一緒に登校した。
 教室に着き、同級生達が私の姿を認めると笑顔で挨拶するために寄ってきた。それぞれに私も笑顔で挨拶を返していたが、この時、胸の奥で何か真っ黒な、どっしりと重量感あるものが置かれた感覚に襲われた。
「??」
「どうしたの琴音ちゃん?」
「大丈夫か、望月?」
「…え?あぁ、うん。平気。まだ夏休み明けで呆けてるみたい」
私は軽く胸辺りをさすっていたが、ふと周りを見ると、皆がこちらを見て心配して声をかけてきたので、慌てて戯けながら答えた。すると、一瞬間が空いたがドッと笑いが起きた。
「なぁーんだ、心配させるなよぉ」
「琴音ちゃんって、意外と抜けてるんだから」
「ははは」
「おーい」
ふと声がしたのでそちらを見ると、担任の男性教師がジャージ姿でドアの前に立ち、教壇の周りにたむろしていた私達を見ていた。
「ほら、散って散って。もうすぐ始業式が始まるぞ」

 始業式も終わり下校の準備をしていると、登校の時一番最初に一緒に歩いていた女の子が話しかけてきた。
「あのー、琴音ちゃん?これからみんなで〇〇ちゃんの家に遊びに行くんだけど、一緒にどう?」
「そうだなぁ…。ゴメンっ!今日家に帰ってピアノの練習をしなきゃいけないから、また今度でいい?」
と私が答えると、ほんの一瞬不快感を顔に表したが、すぐ笑顔になって
「あ、う、うん!じゃあまた今度誘うよ!じゃあねー」
というと、私の返事も聞かずに走って行ってしまった。
やれやれ、今日はみんな何か変だな。

 私は一人校門を出た。そして出てすぐの横断歩道で信号待ちをしていると、またランドセルを後ろからバンバン叩かれた。
まったく…他の呼び止め方を知らないのかコイツは。
「…何よヒロ?」
と振り向かずに言うと、背後から私の隣に来て
「よく、わかったな!さすがオレ達の仲だぜ」
と自慢げに言うので
「あのね…私、いきなり声をかけずに後ろから叩いてくるような、お猿さんと友達になった覚えはないんだけど?」
と心底呆れた調子で返した。ヒロは私の抗議にただ笑っていたが、次第に朝に見せた心配げな表情に変えて
「…なぁ?さっき向こうでお前がいつも一緒にいる友達が歩いていたけど、あっちに行かなくていいのか?」
と聞いてきた。
「あぁ、何か私がよく知らない女の子の家に遊びに行くみたいよ?」
と、何を心配されてるのか皆目分からないといった調子で答えた。
「誘われたけど、でも私、帰ってピアノ練習しなきゃだったから、断ったのよ」
「へ、へぇー、そうなんか?」
と、ヒロは心底意外だと言いたげだった。
「何?なんかおかしかった?」
「いや、おかしかねぇけどよ…何か、お前キャラ変わったな?」
「え、そう?そういえばあの子にも、朝言われたわ…あっ」
目の前の信号が変わり、若干音程の外れた童謡が流れた。私達二人は歩き出した。
「変わったって言われたってねぇ、自分じゃわからないよ。…ねぇ、ヒロ?」
と隣を歩くヒロに視線を向けて聞いた。
「私のどこが変わった?言ってみて?」
「うっ!そ、そうだなー…」
自分では気づかなかったが、かなりヒロに接近して質問していたらしい。ヒロは私から視線を逸らしながら、はっきりしない感じで答えた。
「い、いや、俺は”今”のお前を知っているから、変わったとは思ってねぇよ?」
「じゃあ何でさっきは”変わった”なんて言ったのよ」
と、私は余計にヒロに詰め寄った。ヒロは両手を前にして、それ以上近づかないようにとジェスチャーしながら
「それだよそれ!お前のその”なんでなんで攻撃”! いつも俺に対してソレしながら”圧”をかけてくるけど、他の奴ら、学校の奴らはそれに慣れてないんだから、いきなりソレしちゃうと相手は混乱すんだよ」
「何よ”圧”って…それに前から言ってるその”なんでなんで攻撃”って、当たり前のように言ってるけど何の事なのよ?」
「う、うるせぇーなぁ!と、とにかく!」
とヒロは立ち止まった。朝に通ったT字路だ。
「お前のその冷たさは俺しか知らねぇんだから、無闇に他の奴にはするなよ!あっ、いや、ほらっ!さっき言ったように他の奴らはびっくりしちゃうんだからな!」
とここまで言うと急に向こうへ駆け出した。
「早くキャラを戻せよーーーっ!」
と振り返り、捨て台詞を吐きながら。

「…何よアレ?アレで何か忠告したつもりかしら?」
一人残された私はボソッと独り言ちると、自分の家と向かった。
まったく、ヒロったら…好き勝手言ってくれちゃって。まぁ、アイツなりに私のこと心配してくれてるのは分かるけど…キャラがキャラがって、何を訳の分からな…
とここまで考えて、初めてハッとなった。
あれ?夏休み前、私クラスでみんなと、どうやって会話してたっけ?
不思議なことに思い出せなかった。しかもやればやるほど、記憶にかかってる靄が濃くなるようだった。その思い出せないことに一抹の不安があったものの、気にしない事にしてそのまま自宅に帰った。

「ただいまー」
「あ、おかえりー」
居間の椅子に座っていたお母さんをチラッと見て、自分の部屋のある二階に上がろうとすると
「琴音ー、ちょっといい?」
と声をかけてきた。
「何、お母さん?」
と階段に足をかけていたのを戻して、居間へと向かった。
 お母さんは、普段私達が食事をしているテーブルの前に座っていた。近づいて向かい合うような形で座ると、テーブルの上に広げられた何枚かの書類にまず目が行った。
 私が黙って紙の束を見ていると、お母さんから話を切り出した。
「あ、これはねぇ、学習塾のパンフレットなの」
「学習塾?」
私はその中の一枚を手に取り、向かいに座ってから聞いた。
「そう、あなたも今五年生でしょ?そろそろ中学受験のことも考えないとって、お母さんとお父さんで話していたのよ。それで…」
「…えっ!ちょっと待って!」
と、手に持っていた紙を置いて慌てて聞き直した。
「何?私って、受験するの?この近所に行くんじゃなくて?」
と聞くと、お母さんも一枚紙を手にしながら答えた。
「それはそうでしょ?だって、お父さんの同僚の橋本さん知ってるでしょ?予防注射を打ってくれた、お父さんの病院に勤めておいでの。あそこのお子さん、あなたと同じ五年生なんだけど、もう春から塾に通っているのよ。だからあなたも…」
「いやいや、その子のこと知らないからなんとも言えないけど、何で私も真似して塾に行かないといけないの?…あれ?っていうか、ピアノはどうするの?」
急に色々一遍に言われて混乱しながらも、私にとって一番大事な問題について聞いた。
「ピアノ?うん、ピアノは続けてもいいわ」
「え?じゃあ…」
「ちゃんと、両立出来るならね?」
と私の方は見ずに、お母さんは次から次へと、紙を取っては置きを繰り返しながら話した。
「え?…じ、じゃあ…もしやれなかったら…?」
と恐る恐る聞くと、お母さんは手を止めて、私の方を不思議なものを見るようにしながら答えた。
「それは、あなた…ピアノの方をしばらくお休みする事になるわね」
「…」
すぐに言葉が出なかった。今言われた言葉にショックを受け、頭が真っ白になり、言うべきことも見つからなかったからだ。
そ、そんな…ピアノが弾けないなんて…。そんな…そんなの…
「…ヤダ」
「え?何?」
ボソッと消え入るような声で言ったのを、お母さんは聞き返した。すると私は勢いよく立ち上がり、若干涙目になりながら
「そんなのぜぇっったいイヤ!ピアノが出来なくなるなんて、絶対にイヤだからっ!」
と大声で叫んだ。前触れもなく急に激昂している珍しい娘の姿に、お母さんはキョトンとして見ていたが、すぐに半笑いで、手で私を宥めるような動作をしながら
「こ、琴音ちゃん?何もピアノをやめなさいって言ってるんじゃないのよ?もし両立出来なければ、受験が終わるまでお預けって話で、終わったらまた続けて良いんだから」
と言った。でも、そんなこと言われても、私の興奮は収まらない。
「何で塾の方を優先しなくちゃいけないの?私に取っては受験なんかよりも、比べ物にならないくらいピアノが大切なのに!」
「受験なんかって…琴音、あなたねぇ…」
とさっきまで表情をあまり変えてこなかったお母さんの顔に、徐々に苛立ちがさしてくるのが見えた。口調も苛立たしげだ。
「あなた、この時期の受験がどれだけ大事かわかってないの?ピアノなんかいつでも出来るけれど、受験はこの時期にしかないの!あなただってわかってるでしょ…」
「ピアノなんかって何よっ!」
と私はまた激昂した。私達は共に立ち上がり、しばらく視線をぶつけ合っていた。さっきまでの喧騒とは裏腹に、今度は静まり返り、無言がこの場を支配していた。
少しの間均衡状態が続いたが、突然胸に強烈な違和感を感じた。それは先程学校で感じた、真っ黒い形容し難い重さを持ったナニカだった。息苦しいほどだった。私は俯き胸辺りをまたさすり始めた。
 お母さんは私の様子を見て、先程とは変わり、心配そうな表情を浮かべながら聞いてきた。
「…え?こ、琴音?どうしたの?胸が痛むの?大丈夫?」
「だ、大丈夫…痛いわけじゃないから…」
「はぁ…まったく心配させないでよ」
とお母さんはまたイスに座ろうとしながら言った。私も、無言で同じように座った。胸の違和感はまだ強く残っている。
「…まぁ、急にこんな大事なことを言って、今すぐ決めてもらおうとしたお母さんが悪かったわ」
とため息でもつくように言った。お母さんの顔は微笑みとも取れるが、苦笑いだ。
「まぁ、琴音ちゃん。今すぐじゃなく決めなくても良いから、ここに用意した塾の案内だけでも目を通してくれない?」
とバラバラの紙をまとめて、片手でテーブルの上を滑らすように私の前に差し出した。
「そこにも書いてあるんだけど、体験入学っていうのもあるらしいの。それをしてから決めてもいいし…」
「…わかった」
と私は出された紙に、特に興味もないのに意味なく視線を落としながら、絞り出すように声を出して答えた。するとお母さんは軽く手を叩き、調子を明るくしながら私に言った。
「ありがとう、琴音!聞き分けよくしてくれて。さすが私達の娘だわ!」
「う、うん…」
私は俯いたままだったが、おそらくお母さんが満面の笑みであるのはわかった。
「さてと…あぁっ!」
と声を上げたかと思うと、何やらゴソゴソしだし、立ち上がった。
「もうこんな時間!じゃあ琴音、私買い物に行くけど、あなたも一緒に来る?」
と聞いてきたので、私は顔を上げ、力なく笑いながら
「…んーん、留守番してる。ついでにパンフレットでも見ているよ」
と言うと、お母さんは優しい笑みを浮かべながら、私の座っている近くまでわざわざテーブルを回って来て、私のことを抱きしめた。私も思わず抱きしめ返した。ほんの数秒そうしていると、お母さんは笑顔のまま立ち上がり、居間のドアの向こうからこちらに手を振って、外に出て行った。
 玄関がガチャンと大きな音を立てて閉まってから、何分ほどだっただろう、ずっと変わらぬ体勢でいたが、意識している感覚が希薄なまま立ち上がり、トボトボと自分の部屋に引き上げた。もちろん紙の束を忘れすに。

 部屋に入りランドセルを下ろして、紙の束を無造作に学習机の上にばら撒いた。 そしてほとんど無心のままに、詳しく細かく見る事もなく、一枚一枚スラスラと読み飛ばしていった。それぞれにそれなりの工夫が凝らしてあるのは見受けられた。ただデカデカと載っている、授業風景なのだろう、私と同年代と思われる男女が一様に黒板に向き、行儀よく熱心に授業を受けているような写真はどれも同じ構図だった。
「…はぁ」
と力無く溜息を吐き、散らばるのも気にせず大雑把に机に置き、私は顔を枕に埋めるようにベッドに横たわった。
 はぁ…今日はなんか…疲れたなぁ…。
私は枕から顔を起こし、今度は仰向けになり、天井をジッと見つめた。おもむろに今日あった出来事を思い返した。学校でのこと、そしてお母さんとのこと。今更ながら、お母さんに対して、こんなに感情的になって反発したのは初めてだったかもしれない。そして、これも今更ながら、こんなに私の中でピアノを弾くということが、重要な地位を占めてるということに、自分のことながら気づかされた。
私って、思ってた以上にピアノ好きだったのね…。だったらなおさら、何で…
と今度は壁側を向くように横向きになった。
…何で私は好きでもない、みんなが言うところの”勉強”をしなくちゃいけないの?
何で他の同い年、親同士が知り合いってだけで、私も合わせて塾にいかなきゃいけないの…?
 私は一度起き上がり、ランドセルからスマホを取り出すと、それを持ってまたベッドに戻り、さっきと同じ様に壁側を向く様に横になった。殆ど無意識に電話帳を開き、か行のところをタップして、義一の名前を探した。見つけ出し、その表示されてる名前のところを押すと義一のプロフィール画面になった。未だに”ガラケー”の義一のプロフィールは、電話番号とメールアドレスだけと言う、いたってシンプルなものだった。
 表示されているその画面をジッと見つめ、ただ静かに思うのだった。
あぁ…早くまた、義一さんに会いたい…

「…とね…琴音?」
「…ん…?あっ…」
優しく揺すられてるのに気づき、目を擦りながら見ると、そこにはお父さんが微笑みながら、私が横になっている側に座って私の肩に手を置いていた。
「…お父さん」
「琴音、起きたか?夕飯の時間だよ」
「え?」
とまだ惚けながら時計を見ると、八時を少し過ぎてるぐらいだった。どうやらあれから寝落ちしてしまったらしい。
「あ、うん。今起きるよ…お父さん」
「ん?」
と先に部屋を出て行こうとするお父さんを呼び止めた。
「…おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」

「あっ、やっと起きてきたわね?寝坊助さん」
ちょうどテーブルの上に夕食を置いていたお母さんが、私の姿を見ると、いつもと変わらぬ笑顔で迎えた。昼過ぎにあった事は、もう忘れているかの様だった。
「あ、うん。いつの間にか寝ちゃった」
「もーう、しょうがないわねぇ。ちゃんと夕ご飯食べられる?」
「うん、お腹はペコペコ」
とお腹をさすりながら私が答えると、変わらぬ笑顔のまま言った。
「よかった!じゃあ、とりあえず顔洗ってきなさい?ひどい顔になっているわよ?」
「はーい」
 言われた通りに脱衣所に向かい洗面台の前に立った。何の気もなしに鏡を見ると、そこには涙の跡がうっすらと残り、目を腫れぼったくさせている、ブサイクな私がこちらを見つめていた。どうやら寝ながら泣いていたらしい。
何も言われなかったが、おそらくお父さんもお母さんも、理由がわからないとしてもこの顔を見て、私が泣いていたことには気づいていただろう。その事を思うと、無性に恥ずかしくなり、少し乱暴に力任せに何度も冷水で顔を洗うのだった。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 お家にいる時には、食事の号令はお父さんが掛けて、お母さんと私が声を揃える様に続くと言うのが我が家の習慣だった。すぐ近くにテレビがあり、見える位置にあったが、一切つけずに食事をするというのもそうだった。同級生の話を聞く限り、今時珍しい、古風な習慣らしかったが、特にこれといって不平不満ストレスは感じなかった。そもそも普段から熱心にテレビを見ないというのが大きかったかもしれないけど。でも古風と言っても、無言じゃなきゃいけないというわけでもなく、テレビを見ない代わりに会話を楽しむという、直接聞いた訳じゃなかったが、そういった考えを持っていた様だった。主に会話の主導権を握るのは、もっぱらお母さんだったけど。
「あっ、それでね貴方?琴音に今日塾の話をしたんだけど、一応取り敢えず今は”前向きに”考えてみるですって」
「そうなのか?琴音?」
と、お父さんはお椀を持ちながら、向かいに座る私に向かって聞いてきた。
「え?…あっ、あぁ…うん」
と答えると、私は視線を逸らして目の前のご飯に集中するフリをした。歯切れ悪く返答したからかどうか分からないが、隣に座っていたお母さんが場の空気を変える様に、私の返事の続きを引き継ぐ様に明るく言った。
「ほ、ほら、橋本さん。あの奥様がこの間、わざわざパンフレットを持ってきてくれたでしょ?『お宅のお嬢様も、”もちろん”私学に通うのでしょ?もしよろしかったら、いかが?』っておっしゃりながら。あの時頂いたのを琴音に見せたのよ」
「ふーん、そうかい?」
お父さんはお母さんのテンションとは裏腹に、あまり関心が無いかのような態度を見せていた。私はただ、目の前の食事を黙々と集中するように食べていた。
ふと視線を感じたので顔を向けると、お父さんが静かにジっとこちらを見ていた。お父さんは、まるで私と目があうのを待っていたかのように無表情で聞いてきた。
「琴音、お前は本当に受験する気があるのか?」
「…うん、まぁ、今日言われて初めて自覚が湧いたんだけど」
自分でもしまったと思うくらいに、答えるまで不自然に間を空けてしまった。が、そこは私、今まで誤魔化し誤魔化し皆んなの望む”良い子ちゃん”を演じ続けてきた、確固たる芸歴があった。いつもの”良い子ちゃんスマイル”を顔中に浮かべて、何とか答えた。それを知ってか知らずか、今まで無表情を崩さなかったお父さんだったが、若干柔和な笑みを漏らしながら
「…そうか。琴音が望むなら、それで良い」
と言うと、今度はお母さんの方を向いて
「琴音が望んでいるのなら、お母さん、琴音が通いたいと思う塾に行かせてあげなさい」
と言った。
「わかったわ。琴音、ちゃんと自分のことなんだから、よーく考えるのよ?悩んだらいつでも相談して?」
と、お母さんは隣に座る私の頭を優しく撫でながら言った。私はなるべく笑顔を保ちながら
「うん、わかった」
と返答した。それからは、また取り留めのない話をし合ったが、あまりに取り留めがなさすぎて、今の私には何も頭に入ってこなかった。ただ、頭の中にはピアノのこと、そして義一の事しか無かった。
 …結局お父さんもお母さんも、私がピアノをどうするかどうか聞いてこなかったな…
まぁ、分かっていたけれど…
なんて事を思いながら、頭に入ってこない会話に、取り敢えず無難に愛想笑いを振りまく私がそこにいた。二学期最初は、お世辞にも幸先良いスタートを切ったとは言えなかった。

第9話 師友

あれから同じ週の土曜日、私は義一の家の前にいた。午前で終わる学校から、直接来た形だ。相変わらずこの辺りは民家も少ないこともあって、人通りが無いに等しく寂しかった。時折側の高速道路を大型トラックが通るたびに、地響きにも似た音が鳴るだけだった。でも、何だかいつもここに来る時は、一度家の前で立ち止まり、一息付かなきゃインターホンを鳴らせなかったから、人の目を気にしなくても良い点で、ある意味助かっていた。ここに来る旨は、予めメールで話していたから義一が驚く心配は無かったが、理由までは伝えてなかった。
「…さて」
ジーーーー。毎度のごとくブザーの音にも似た、味気の無い無機質な音がボタンを押してる分だけ鳴り続いていた。
「…あ、琴音ちゃん?どうぞ入って」
と、ブツッと音が切れると同時に義一の声が聞こえた。
「うん」
と私も短く返事をすると、ガラガラ音を立てながら、引き戸式のドアを開けて中に入った。玄関で靴を脱ぎ、そのまま直進して、書庫兼書斎の部屋へと向かった。
 中に入ると、義一はあの重厚感のある書斎机の前に座り何やら書類を整理していた。が、私が入ってきたのに気づいたか、ふと顔を上げて、微笑みを湛えながらこちらに向いた。珍しく眼鏡を掛けていた。
「やぁ、ようこそいらっしゃい」
「うん、おじゃまします」
「あ、そこに掛けて掛けて」
と義一が指差したそこには、夏休みの宿題をした、小洒落た椅子とテーブルが、この間と変わらずそのまま置いてあった。薦められるままに座ると、義一も立ち上がり私の向かい側に座った。私は先ほどまで義一が座っていた、書斎机の方を見ながら
「今義一さん、私が来るまで何してたの?」
と聞くと、いつもの頭を掻く癖をしながら
「あぁ、あれ?あれはね、ちょっと人に頼まれてねぇ…ちょっと見てみる?」
「あ、うん」
「よっと…」
ゆっくりと義一は立ち上がると、書斎机に近づき、上においていた書類の何枚かを手に取り、またこちらに戻ってきた。
「これなんだけどね…」
と手渡された物を受け取ると、何やら何十枚あるかと思われる厚さのレポート用紙が、見た事ない大きなホチキスの芯で止められていて、一番上の、表紙なのだろう題名が書いてあったが、日本語で書かれているはずなのに意味が理解できない言葉で書かれていた。
「これって…?」
と表紙と、それから何枚かイタズラに捲りながら聞いた。
「それはね…」
と義一はまた、私の向かいに座りながら答えた。
「ある知り合いに、これを読んでおくように頼まれてね。まぁ仕方無く、それを読み込んでいたところなんだ」
「ふーん…これって義一さんの仕事なの?」
と私は持っているのに疲れて、紙の束を置きながら聞いた。義一はそれを受け取り、また立ち上がって書斎机に戻しながら
「うーん…どうかなぁ?仕事って程じゃないけど…まぁ、頼みごとは断れない、損な性格をしているからね」
と、最後の方は苦笑いを浮かべながら答えて、また私の前に座った。
「…それって、八月に少しの間会えなかったのと関係ある?」
と聞くと、義一はわかりやすく表情で嬉しさを表現しながら答えた。
「さっすが、琴音ちゃん。すぐに察してくれるから有難いよ」
「でも、理由を詳しくは教えてくれないんだね?」
と私は少しブー垂れた顔を作って言った。そうなのだ。あれから何度かそれとなしに、メールなどで聞いてみたが、いつもはぐらかされて教えてもらえずにいた。初めの頃はそんなにでも無かったのに、ここまで勿体振られると、嫌でも気になってしまうのが人の性だ。
 義一はいかにも申し訳なさそうな顔つきで
「うん、ゴメンね?絶対内緒って訳じゃないんだけど…前も言った通り、僕が琴音ちゃんに話す時かと判断したら、ちゃんと教えるって誓うから」
と言うので
「やれやれ、しょうがないな。今の所は我慢してあげるよ。私も大人だからね」
と首を横に振りながらも笑顔で応じた。
「ははは、ありがとね、琴音ちゃん。あっ、忘れていた。ちょっと待ってて?今飲み物取ってくるよ。いつもの紅茶でいい?」
「うん、早くしてね?」
「はいはい」
と義一は居間の方へ行ってしまった。しばらくしていつもの紅茶セット、そしてそれを乗せたお盆を持って戻って来た。それをテーブルの上に置き、座りながら横目でチラッと私の脇に置いてあるランドセルを見ながら
「そういえば、もう夏休みは終わっているんだね?」
と聞くので私もランドセルを見ながら答えた。
「うん、今週から。みんな日焼けしてたりして、結構変わっていたよ」
「そうかー。琴音ちゃんは随分白いまんまだね」
と今度は私の、ノースリーブのシャツから出ている腕を見ながら言った。私は自分の体なのに、初めて触るかのように腕を撫でながら
「うん、まぁほとんど家の中でピアノを弾いていたからねー。…あっ、でも外に一切出なかった訳じゃ無かったのに…うーん、不思議だね」
と私は腕を組み考え込んでしまったので、その様子を見た義一は笑いながら
「いやいや、そんな深く考えないでもいいよ。僕も深い意味を込めて聞いた訳じゃないんだしさ?…そういえば」
と紅茶を一口啜ると、義一が続けて聞いてきた。
「今日、学校から直接来たってことだよね?お母さんにはなんて伝えたの?」
「うん、今日はねー…」
とここで私は腰に手を当て、胸を張り
「今日はそのまま友達と遊んでくるってだけ言ったの。でも、安心して?何も疑われなかったから。何せ私は、普段何にも問題を起こさない、”良いこ”でいるお陰で、こうして直接家に帰らなくても、あまり深く聞かれずに済むの。だから義一さんは、私の日頃の行いの良さに感謝してね?」
と、わざと誇らしげに答えた。義一はまた満面の笑みで言った。
「へぇー、そっか。それは有り難いねぇー。今こうして僕の所に内緒で来るような、本当は悪い子なのに」
「あーーっ、それを言うんだ?」
「ははは」
「…ふふ」
二人顔を見合わせて一頻り笑いあった後、義一は少し真顔に戻って、また紅茶を一口啜ってから切り出した。
「…そういえばメールで言ってたけど、何か話したい事があって僕の所に来たんだよね?一体何かな?」
「え?…あぁ、うん…」
と私も、まだ表面の熱いカップを両手で包むように持ち、それを一口飲み置いてから、無言でランドセルを取り、開けて、中から例のパンフレットの束を出して、テーブルの上に置いた。
 実は今日義一に見てもらうために、家から纏めてランドセルに入れて来たのだった。今日があまり授業が無い土曜日なのが幸いした。
 義一は私が何も言わずに出した紙の束を、腕を伸ばして取り、一枚一枚丁寧に読んでいった。一通り見たのか、テーブルを使ってトントンと束を纏めると、それを私の側に戻して、それから話しかけてきた。
「…これはどうやら、受験向けの学習塾のコマーシャルみたいだけど、これがどうかしたの?」
「うん…あのね?」
私は今までの経緯を話した。両親、特にお母さんが私に中学受験をさせたがっている事、ピアノを続けられるか聞いたら、両立ができるかどうかと言う事、それでカッとなって初めてお母さんと口論しちゃった事。で結局私が折れて、このまま流れで塾に通うことになりそうな事を。今まで黙って目を瞑り、私の話を聞いていた義一だったが、一通り話し終えたのを確認して、また紅茶を一口啜ってから、私に話しかけた。
「…なるほど?話は大体わかったよ。…で、それで僕に実際琴音ちゃんが聞きたい事というのは何なのかな?」
「あ、うん…」
ジッと見つめる義一から一度視線を逸らし、俯きながら私の中で何度も言葉を反芻し、意を決したようにそのままの体勢でゆっくり話し始めた。
「あ、あのね?何で私が周りに歩調を合わせて、全然興味のない、皆んなが言うところの”勉強”をしなくちゃ、いけないのかな?って…い、いや、もちろん、お母さん達が言ってることは子供ながらにわかるの。私に意地悪したくて言ってるんじゃないのも。…でも、私自身のことなのに…好きなピアノを我慢してまで、塾に通わなくちゃいけないなんて、そんなの…」
と、ここまで言うと顔を上げて、変わらずこちらに真っ直ぐな視線を投げかけてくる義一の目をまともに見ながら
「私は納得いかない。好きだとハッキリ自分で言えるピアノを我慢して、中学に入るためってだけで勉強をしなくちゃいけないなんて。この近所にも中学はあるのに。…周りの意図はともかく、訳もわからないまま受験勉強をこれからしなくちゃいけないなんて、他の子には出来ても私には…出来ない」
と最後は消え入るような声で、やっと吐き出すかのように言い切った。義一は私が話している間、小さく相槌を打っていた。話し終えると義一は腕を組み少し考え込んでいたが、腕をほどき紅茶に口をつけると、優しい口調で切り出した。
「…なるほどね。琴音ちゃんの言い分はよーく分かった。そして僕に聞きたい事もね。…うーん、琴音ちゃん?」
「…?何?」
「琴音ちゃんは僕にこう聞きたいんじゃないかな?”何で勉強をしなくちゃいけないのか?”ってね。…勿論、”受験勉強”に限らず」
「…」
まさに図星だった。私が言いたいことをズバリ言ってくれたのも嬉しかったが、それを言い辛いのを察して、率先して言ってくれてるという気遣いも感じ、それまた嬉しさもひとしおだった。
「…うん、その通り」
弱々しくだが、ちゃんと視線を外さずに答えた。すると義一は視線を周りの本達に移して、何かを探すように泳がせていたが、また私に戻すと、優しく微笑みながら聞いてきた。
「…琴音ちゃんは、何で人は勉強しなきゃいけないと思う?」
「え?…それは…」
私は口籠った。今聞かれた義一からの質問は、私の方から聞こうとしていたものだった。いつもだったら聞きっ放しだったが、でも今回は違う。夏休みのあの時、絵里に言われたことを思い出し、私なりの考えを纏めてから、義一に聞こうとこの日まで考えた。が、これといった固まった考えは結局浮かばず、今日を迎えてしまった。
 義一が話しだす様子が無かったので、ボソボソと、小さな声で普段周りで聞かれる有り体な事を答えた。
「…私も今義一さんに話すまで考えたけど、結局分からなかった。自分でも納得いく答えを探したけど見つからなかった。…周りから聞かされるのは『勉強の理由?それは将来苦労しないために今からするんだ』って類いのものだけだったの。でもそんな答えは、微塵も納得いかない。だってその後の話を聞くと、仕事がどうの何だのと、お金がどうのとしか理由を言わないんだもん…私がピアノを弾くのが好きだという気持ちは、お金では計れないもん…」
と最後の方は、頭の中渦巻く無数の言葉の端々を、何とか捕まえてそれを喋っている状態だったが、そんな支離滅裂なまとまりの無い私の言葉を、義一は途中で横槍入れる事もなく、黙って聞いてくれていた。
 義一はしばらく黙ったままだったが、さっきと変わらぬ微笑みを絶やさずに切り出した。
「…うん、難しいよね?いや、よくそこまで琴音ちゃんのその歳で、大人でも裸足で逃げ出す疑問に立ち向かって考えたのは賞賛に値するよ。冷やかしでも何でもなくてね?今琴音ちゃんが言ったように、確かに大人はそうやって子供を諭すんだろう。でも、これは琴音ちゃんだけじゃなく、いや琴音ちゃん程意識的じゃ無いにしても、子供というのは直感で大人のそういうセリフの端々にある、嘘くさい偽善の匂いに敏感に反応するもんだと思うね」
「…じゃあ義一さん」
と先程よりは元気を取り戻し、意志の強さを表す様に語気を若干強めながら聞いた。
「義一さんは何で”勉強をしなきゃいけないと思う?」
「…」
義一はしばらく目を瞑り考えていたが、これは何を言おうか分からずにいるのではなく、この事を私に話そうかどうしようかと、どちらかと言えばそっちで悩んでいるように見えた。と、急に目を開けると、さっきまでの微笑みとは少し変わって、照れ臭そうに頭を掻きながら答えた。
「…いやー、ダメだな。どうしてもこう言わずにはおれない。…琴音ちゃん?前に土手で、”暇”について話したの覚えてる?」
「…え?あ、あぁ、うん…はっきりと覚えているよ」
私は胸の中で、二人土手の斜面に座り、夕焼けを見ながら会話した情景を思い出しながら答えた。
「あの時みたいな話になっちゃうけど、つまらなくても我慢して聞いてね?」
「つまらないなんて…あの時もすごく楽しく聞いてたよ!」
と、本論からはそれてると感じながらも、義一が変に自虐気味に言ったので、私もよく分からないままムキになって言った。少しばかり元気になった私の様子を見て、また優しく微笑みながら話を続けた。
「そうかい?ありがとう琴音ちゃん。勇気をもらったよ。…あの時は確か、アリストテレスを持ち出して話したと思うけど…また人を持ち出してもいいかな?」
「え?う、うん」
「さて…」
義一はおもむろに立ち上がり、部屋の壁三面にギッシリ収められた本棚の一つに近寄り、指で背紙を一つ一つ触っていっていたが、一つの本の前で止めるとそれを引き出し、手に持ってこちらに戻ってきた。そしてそれをテーブルの上に置いた。
「??」
私はその本を手に取り、よく分からないまま中を覗くと、全文が英語で書かれていて、何一つとして分からなかった。ただ、本自体が持つ重厚感などから、この間の土手での難しい話が来るんだと、覚悟だけはした。
「これは…?」
と私が本を置きながら恐る恐る聞くと、義一は微笑んだままでその本を手に取り、少しハニカミ気味に答えた。
「いや、これはね?別に威圧したくて取って来たんじゃなくて、今の琴音ちゃんの、非常に難しいんだけれど、でもとても大事な質問に、簡潔に答えてくれてそうな人の本を出しただけなんだ」
義一はおもむろにペラペラページをめくりながら話した。私は黙ってその様子を見ていたが、御構い無しに
「この人はね?今から何十年も前に活躍していた女性の経済学者なんだけれどね?…あぁ、あった、あった」
と聞いてもないのに著者の説明をしたかと思うと、あるページで捲るのを止めて、私に視線を向けながら話した。
「でこの人は、イギリスのケンブリッジ大学というところで先生をしていたんだ。これはこの人が、前の大戦後すぐインドに行って講演した時が一番最初だったみたいなんだけれど、その後自分の勤めている大学で、入学して来た学生達に言ったセリフだって言うんだけどね…」
「うん、分かったから、その先生が何て言ったの?」
相変わらず前振りが長い義一の話に、思わず食い気味に私は先を促した。義一はそれには取り合わず、少しかしこまりながら言った。
「それはね、こうだったんだ。『経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する出来合いの対処法を得るためではなく、そのようなものを受け売りして経済を語る者にだまされないようにするためである』とね」
「?…ってことはつまり?」
「うん、元もこうもなく要約するとね?『君達が大学に入ってこれから経済学を勉強する理由は、経済学の中身をあれこれ学ぶためというより、君達より先にその世界にいて教えを振りまいている先生たちに”騙されない”ためだ』ってことさ。分かるかい?」
「うーん…あっなるほど!」
と、今まで聞いてて、何で義一がこの話をし出したのか分からなかったが、今になってようやく合点がいった。義一も察したのか、何も言わず微笑んでいる。まるで私の言葉を待つように黙ったままでいたので、ゆっくり話を切り出した。
「要はその先生は、生徒達にその、経済学だっけ?それを学ぼうとしている人達に、何でその勉強をしなくちゃいけないのかを話した訳だね?」
と言うと、義一は何度かゆっくりと頷き
「そう、その通りだね」
と短く返して同意した。私は視線を義一が取ってきた本に目を落としながら
「で、義一さんがわざわざその人の言葉を引用したのは、私が聞きたかった”勉強”する理由にも繋がるからだったのね?」
と言うと、義一はワザとらしく腕を組み考えて見せたが、すぐに明るい口調で答えた。
「…そう!その通り!さすが琴音ちゃん、察しの良さもピカイチだね。そう、つまり僕が言いたかったことは、この人の言葉を借りれば『子供が勉強しなくちゃいけない理由とは、周りの大人達が言うことに容易に騙されないためだ』ということになるね。…これでどうかな?琴音ちゃん?」
と義一が聞いてきたが、すぐには答えられなかった。なぜなら、余りにすんなり義一の言葉が頭に入ってきて、ついさっきまで頭の中がモヤモヤしていたのが、今のこの会話ですっかりなくなってしまっていたからだ。晴れやかな気分だった。でも言われてすぐに同意するのも、納得したようには思われないんじゃないかと、今思えばいらない配慮をしてしまっただけだった。
 私は答えた。
「…うん、私なりにハッキリ納得した。義一さんは私に『周りの大人達に騙されるのが嫌なら、勉強しなさい』って言いたいのね?」
「まぁ、そういうことだね。…ただ」
と義一は答えたが、またハニカミ頭を掻きながら
「”勉強”そのものはそうなんだけれど、”受験勉強”それ自体は、正直僕にも答えられないよ…それはゴメンね?」
と謝ってきた。確かに受験勉強については、納得いかないままだったが、少なくとも、いや大分勉強についてのある種の違和感、それから来る嫌悪感は緩和されていた。なので、私は笑顔で首を横に振りながら
「いいのいいの!少なくとも義一さんは根本のところを解決してくれたんだから!その…ありがとう!」
と恥じらいも臆することも無く素直にお礼を言った。
「そんな大げさだよぉ…でも、どういたしまして」
と義一も戸惑いつつも笑顔で答えた。と、ここであることを思いついたので、私は悪戯っぽく笑いながら
「でもその”周りの大人達”には、義一さんも入っちゃってるのかなー?」
と冗談めかして言った。私はてっきり同じように冗談が返ってくるかと思っていた。でも、義一は微笑んだままだったが、目の奥に真剣さを宿しながら答えた。
「…うん、そうだよ?だから琴音ちゃん、僕とか誰とか関係なしに、嘘を言われた時、素直に騙されないように、どこか言われたところに引っ掛かるところがあれば、そこに噛み付けるように、僕からは繰り返しになるけれど、その為に琴音ちゃんには今まで話してきた意味での”勉強”をしっかりして欲しいな…」
「…う、うん…私も騙されるのは嫌だから、しっかり勉強するよ…」
最後の方は笑顔も隠れて、余りに真剣味を帯びて言うので、私はその様子に驚きながらも、なるべく真摯な態度で返した。義一は数秒そのままジッと私を見ていたが、ふっとまた笑顔に戻って言った。
「…よし!あっ紅茶がもう冷めてるね。ちょっとお代わり取ってくるよ」
「う、うん。お願い」
「お待たせ」
「あ、うん。ありがとう」
義一は持って返ってきたポットから紅茶を二つのカップに注ぎ入れ、二人して何も言わず一口取り敢えず静かに啜った。と、私の視線がパンフレットに行っていたのに気づいたのか、一度カップを置き、その中の一枚を手に取りながら聞いてきた。
「で、琴音ちゃんは、とりあえず”イヤイヤ”でも、ここだったら我慢して行ってあげるという目星は付けてるの?」
「…ふふ、何その考えられる限りの含みをもたせ過ぎて、胸焼けしそうになるような言い方は?そうね…」
と私は義一がお代わりを取りに行ってる五分くらいの間に、嫌々ながらも何とか許容できそうと感じた一枚を手に取った。そして表紙を義一に見せながら答えた。
「ここなんだけど、御茶ノ水にあるみたいでね?ここに載ってる地図を見ると、程よく駅から離れていて、あまり周りが騒がしくなさそうなの。ほら、私って人混み苦手じゃない?まぁ、それだけの理由なんだけど」
「へぇー、どれどれ…」
と私から手渡されたパンフレットをマジマジと見つめ、何やら精査をしている風だった。紙に目を通したまま
「いやー、しかし、さっきあんな話をしといて何だけど、”普通”のこれから受験するって子供の塾選びとは、思えない選択基準だね?」
といかにも呆れたといった口調でボヤいた。最もそれは、私にだけでは無く義一自身に含めてなのはわかっていた。なので
「えぇー、そうかな?私みたいな”普通”の子を捕まえて、その言い草はないんじゃない?」
とワザと膨れて見せながら返した。その反応を見て、義一は笑っていたが、ハッとした表情を作って
「…あっ、さてはまだ、何でこの塾を選んだのか理由があるんだね?」
と言った後、意地悪く悪巧みをしでかしそうな顔つきで聞いてきた。バレてはしょうがない。
「さすが義一さん、不気味過ぎるくらいの名推理だよ。それはね…」
とここで私は、義一を見習って勿体振るように一口紅茶を啜ってから答えた。
「ほら、さっき言ったでしょ?この紙の山は、お母さんがなんか知り合いのオバサンから貰ったって。そのオバサンの所にも、私と同い年の子がいるみたいなんだけど、私はせめて、その子が通っている塾だけには行きたくないのよ。…それがひ弱な力を持たない女の子が、今の所唯一理不尽な大人に対抗できる手段なの!」
と最後の方は、わざと口角を右側だけ上に気持ち持ち上げながらニヤリとして言った。私が正解を言い終えると、義一もウンウン頷きながらも、さっき顔に浮かべた意地悪な表情は崩さないままに
「ははは、なるほどねー。まぁ、琴音ちゃんがひ弱かどうかは若干クエスチョンマークがつくけれども、ははぁー、考えたね?でもよくその子が通っている塾がわかったね?」
と聞いてきたので、待ってましたとばかりに私は胸を張りながら
「それはだねぇ義一くん、私がいかにもその子に興味があるように、それとなくどこに通っているのか聞き出したのだよー」
と、思い返すと中々イタイ感じで答えた。さっきの会話でふっきれたのか、我ながら妙なテンションだ。義一は私のイタさには、優しく目を瞑ってくれたのか、変に乗っかってくることも無く普通に話した。
「そうかそうか!まぁでも、さっきの琴音ちゃんの口ぶりだと、兄さんは琴音ちゃんの意志を尊重するみたいなことを言ってたみたいだし、目論見は成功するだろうねぇ。…まぁ、お母さんはガッカリするかもだけど…」
とここで私達は視線を合わせると、一瞬見つめあった後クスクスと笑いあったのだった。

「それにしてもなぁ…」
と義一は大きく伸びをしながら言った。
「これも感覚の鋭い琴音ちゃんには慎重に言わなきゃならないけど…」
「え?何?長い前フリは今は要らないよ?」
と我ながら突き放したように思わず言った。それには構わず義一は続けた。
「いや、何、前に言った通り僕と琴音ちゃんが似てるとした上で言うんだけど、僕が琴音ちゃんの立場だったら、お母さんと口論した後で、『…分かった』なんて言えないよ。しかも一番大事にしている事をある意味貶されたわけだからねぇ」
「もーう、やっぱり長くなった。何が言いたいの?」
何と無く先が読めたが、褒めてくれようとしてるのがすぐに分かったので、言わなくてもいいチャチャを思わず入れてしまった。その気持ちを知ってか知らずか、ここであの柔らかい微笑みに表情を変えて静かに言った。
「いや…本当にしみじみ…琴音ちゃんて”優しい”なぁって思ってね。もちろん僕が思う本当の意味でね」
「もーう、義一さんは大袈裟…あっ」
そうだ、絵里さんとの約束まだ済ましていなかった!
私はそのワードが義一の口から飛び出した時、ほぼ同時に絵里さんの姿を思い浮かべた。
「…あのー、義一さん?」
「ん?何かな?」
義一はちょうど紅茶に口をつけようとしていた所だった。そのまま飲まずにカップを降ろして、興味津々な表情を浮かべながら聞いてきた。私はさっき質問に答えてもらったばかりというのもあって、少し躊躇ったが、絵里さんとのこともあるからと、よくわからない義理を一身に引き受けた心持ちで、思い切って質問した。
「い、いや義一さんが言うところの…そのー…”優しい”って何かな?」
「えぇー、”優しい”ねぇ…」
「うん」
私はさっきまでゆったり座るため、テーブルから少し離れて座っていたが、中腰になり、イスを近づけながら言った。
「だっていつも私のこと…自分で言うのは恥ずかしいけど…いつも優しい子だって言ってくれるじゃない?あ、いや、別に嫌じゃないの!うん、嫌じゃないんだけれど…いつも言ってもらうと、『その”優しい”ってことは一体なんだろう?みんな、義一さんも含めて、何をもって”優しい”と考えてるんだろう?私のどこを見て判断しているんだろう?』って疑問が膨れちゃって、言われても何だか素直に喜べないの」
これは本心だった。何も絵里と話した時に初めて疑問に感じたわけじゃ無く、その前から幾度となく私は周りの大人、同級生に至るまで”優しい”と言われ続けてきた。こう言うと自意識過剰な痛々しい奴に聞こえるかもしれないけど。でも言われる度に状況が違ったりしても言われる、また状況が同じなのに言われない、この二つが同一人物からだったりすると”なんでちゃん”としては、我ながら面倒だと思っても、気にならずには居れなかった。絵里に言われてから
「…私なりにも考えて見たんだけれどね?」
「うん、言ってみて?」
「うん…考えれば考えるほどわからなくなっちゃった。ほら、似たような言葉に”良い人”って言うのがあるでしょ?これは感覚でしか言えないんだけれど、”良い人”と”優しい人”…どっちも良いことのように思うんだけど、何か根本が決定的に違うと思うんだよねぇ…どうなのかな?」
と、今言える限りの事は話した。持ち物を全部吐き出した感覚だ。私なりに何度も考えて、答えは出なかったけれど、やりきった感はあった。気持ちは楽だった。
義一は先程”勉強”についての話をしていた時のように、腕を組み目を瞑り聞いていたが、私が話し終えるとさっき飲まなかった紅茶を一口啜ると、これまた明るい笑顔になりながら答えた。
「…いやー、本当に琴音ちゃんは偉いね。”優しい”とは何かを単純に考えてもわからなかった時に、近い言葉をみつけて、そこから視点を変えて考察をしてみる…大人でも中々出来る事じゃないよ?素晴らしい!」
と一人でヤケにテンションを上げて言ってきたが、私はため息交じりに苦笑いしながら言った。
「あのねぇ、義一さん?それって多分褒めてくれてるんだろうけど…分かりづらい!少なくとも小学生の私には。いや、私は義一さんの人となりが分かっているから良いけど、普通の小学生に言ったらキョトンとされて、無反応に終わるからね?」
「え?そうかい?でもまぁ琴音ちゃんが分かればそれで良いでしょ?」
「いや、私自身も理解が難しいんだけど…あっいや、違うよ!こんな話じゃなくて」
微妙なノリツッコミみたいなのをかましながら、慌てて軌道修正を試みた。
「義一さんの意見を聞きたいの!」
「そうだねぇ…これまた難しい議題だけれど…」
とさっきまでオフザケモードだったのに、スイッチを切り替えるが如く、一瞬にして”先生モード”に切り替わった。ちなみにこの時思いついた名称だ。
 義一は無言で立ち上がると書斎机に向かい、その上にあるペン置き付きのメモ用紙台から数枚メモ用紙を取り、あとボールペンを持って戻ってきた。そして何やら書き始めたので覗き込んでみると、そこには”優しい”という字と”良い人”という字が書かれていた。二つの字の下には、幾らかスペースが開けられていた。
 私が黙って見ていると、そこまで書いた義一は顔を見上げて、こっちが質問することを見通したのか、聞かれる前に話し始めた。
「これかい?これはねぇ、せっかく琴音ちゃんが論点を出してくれたから、見に見える形で整理するためにこうして書いたんだ」
「ふーん、なるほど」
「あ、これはね、結構使える方法でね?他の人と話す時も、すごく入り組んだ、大事な話なんだけど頭だけで整理するのが難しい時なんかは、アナログだけど手でこうして書くと、相手の言ったことも残しておけるし、そのとき思った考えをメモしておくと、後で頑張って思い出そうとしなくても見返せば済むから楽なんだ」
「なるほどね。言われてみれば当たり前なんだけど、実際やろうと思いつくかは別だもんね」
「そう。まぁその会話の場に書けるものがあるかどうかによっちゃうんだけど。だから僕は外出る時はいつでもペンとメモ帳は欠かせないんだ。…ってまた話が逸れちゃったな。まず何から話そうか…うん、まずいきなり本質、ある種結論めいた意見を言おうかな」
義一はそう言うと、”優しい”の周りをボールペンで雑に丸で囲った。私は黙って見てる。義一は囲った”優しい”の上をボールペンで軽くトントン叩きながら話し出した。
「琴音ちゃん、この優しいという漢字、試しに…」
と義一は丸で囲った”優しい”の下に”優”と書いた。
「これにもし下に…」
と今度は、”優”の下に”れている”と書いた。
「こう書くと、これはなんて読む?」
私は考えるまでもなく即答した。
「これは”優れている”だね?」
「その通り。意味は何かな?」
「意味はそうだね…他の人よりも力が抜きん出ているとか、能力があるとかかな?」
と答えたが、中々義一の言いたいところがはっきり見えて来ないので
「ねぇ義一さん。話が見えて来ないんだけれど…」
と焦ったそうに聞くと、義一は手で大きく宥めるようにジェスチャーをしながら笑顔で答えた。
「まぁまぁ。回りくどくて面倒なように聞こえるかも知れないけれど、こういった難しくて大事な問題は、一つ一つ慎重に吟味しかつ分析しなければ、ほんの数度見る角度が違うだけで、モノの見方がガラッと変わってしまう恐れがあるんだ。だから臆病なほどに慎重を重ねるのはとても良いことなんだよ?それに、『急がば回れ』とも言うしね?」
と最後はウィンクをしながら悪戯っぽく笑った。
「これを見て分かるように、”優しい”の”優”には、”優れている”と言う意味が含まれていることがわかるね?」
「う、うん」
「じゃあ”優しい”と”優れている”には、何か密接な繋がりがあるように思えないかな?」
「うん、それは確かにそう思う…あっ!」
と途中で義一が言いたいことが分かった気がしたので、途中までで打ち切った。
「あぁ、そっか…義一さんはこう言いたいのね?『優しい人とは優れている人のことだ』って?」
と言うと、義一は少しの間私の言葉を何度も噛み砕きながら咀嚼し味わっているようだった。と、カッと目を開けたかと思うと、いつものあの微笑みで私をまっすぐ見ながら答えた。
「…なるほど。幼くしてそうやって纏められるのは、それでこそ”琴音ちゃん”って感じだねぇ。うん、それで正解と言いたいところだけれど、これは世間的に縷々言われている括弧付きの『常識』の罠に落ちることになるから、そこだけ慎重に行こう」
「?う、うん」
 括弧付きだの何だのと、普段聞き慣れない単語が次々に飛び出してきて、私の頭は徐々に混乱してきていたが、それはそれ、私が聞いた質問に真面目に答えてくれている義一に対して真摯に応じたい、途中で投げ出すことなく理解しようとするのを止めちゃいけないと、子供ながらに必死について行こうとしていた。
 また、さっきや、いやその前からも、義一の会話における前フリの長さを、しょっちゅうからかったりしていたが、ちゃんと心の中では、義一の言う事に無駄な部分が無いことは分かっていた。私が普通の大人には答えられない、自分で言うのも何だが、難題をふっかけているからこそ、それを真面目に答えようとすれば、長くなってしまうのは当然だと当時はこれでも弁えていたつもりだった。義一は続けた。
「琴音ちゃんは今、『優しい人とは優れている人のことだ』って話したよね?僕の結論もこれにかなり似ている、いや同じと言っても良いぐらいなんだけれど、少しだけもうちょっと掘り下げてみよう。…多分君も薄々感づいていると思うけど、世の中一般に似たような事が言われているよね?それは…『優しい人は強い』と言うやつさ」
「あぁ、うん。それは色んな所で聞かれるセリフだね。でも…」
と私は途中で止めて、腕を組み首を傾げながらまた続けた。
「さっき私が言ったのと、今義一さんが言ったセリフの間…似ているようだけど全然違く見えるのよねぇ…」
と言いながら私はペンを取り、メモ用紙の空白に『優しい人とは優れている人のことだ』と『優しい人は強い』を縦に並べて書いた。義一はその様子を見て、ただ静かに微笑んでいる。
私は書き終えると、その字の辺りをペンでコツコツ叩きながら言った。
「…うーん、いや違いはすぐにわかるんだけど…でも”優れている”っていうのはこっちの”強い”ってのと同じに考えて、別に構わないと思うし…何だろう、後は順番が逆って事だけど…」
「おっ!」
私がまだ言い終えるかどうかのところで、今まで黙っていた義一が、突然極端に言えば、心の底から感嘆したかのような声をあげた。それに私が驚いていると、義一はまた頭を掻きながら詫びるように言った。
「あ、あぁゴメンね?ついつい、琴音ちゃんが自分の意思でペンを持って書き出して、そして僕と同じ考えに近づいてきたもんだから、嬉しくて思わず声を出しちゃった」
私は自分への賞賛は聞き流したが、ある一文だけ耳に止まった。
「…ということは、順番が大事なのね?」
と言うと、義一は向かい側から腕を伸ばし私の頭を撫でながら微笑んで返した。
「そう、その通り!よく出来ました。まぁ、あくまで僕基準でって意味だから、良いかどうかは分からないけど。…それはともかくそうだね、うん、今琴音ちゃんが言ったように、同じ単語しか無いのに、順番が違うだけで意味合いも違ってきちゃうってことなんだ」
「それはつまり?」
「つまりね?どっちに比重が寄っているかってことなんだ。…あ、いや、分かりづらいかな?」
と聞いてきたので私は少し考えたが、黙ってペンを持ち『優しい人とは優れている人のことだ』の文章の”優れている”、『強い人ほど優しい』の”優しい”を、また丸で囲ってから答えた。
「つまり私が言ったセリフでは”優れている”のが理由になっているけど、世の中の言い方だと”優しい”のが理由に来てるってことだね?」
「御名答!」
義一はもう嬉しくってしょうがないと言った調子で返した。
「ちょっと…いや、大分かな?言葉遊びとも取られかねないことを続けてしまったかも知れないけど、でもこれは”本気で真面目”な遊びだから有意義だと思うよ。…そう言い訳してからあと少しだけ続けると、そう、世の中的には『優しいから強い』、で僕達がさっき話したことで言えば『優れているから優しい』となるね。…ここで確認しておきたいんだけど、琴音ちゃんはこの二つのどっちが筋が通っているかな?これは僕のことは一切考えずに素直に答えてね」
と聞いてきたので、私なりに当然考えは決まっていたからすぐ答えてもよかったけれど、わざわざと言うこともないが、やはり頭の片隅に絵里のことを思い出して、なるべく誠実に答えようと考えを巡らした。
「…私は義一さんと同じく『優れているから優しい』に一票かな?…まぁ、まだ私は選挙権無いけど」
と答えると、義一は一瞬吹き出したが、すぐに立ち直り話した。
「そ、そうかい?それは光栄だけれど、じゃあ逆に、何で世間一般の意見には一票入れなかったんだい?」
「それはね…」
私はすっかり温くなった紅茶を飲み干して一息つけてから答えた。
「うーん…”優しい”が理由になっていることかな?何と無くだけれど。”強さ”や”優れている”とかいうのは、他の人が聞けば反論があるんだろうけど、簡単に言えば分かりやすいと思うのね?」
「うんうん、それで?」
「うん、さっき私が自分で言ったように、比較的簡単に言えちゃうの。だって力とか能力とか、他の人が出来て自分は出来ないとか、良くも悪くもはっきりと実感として認識出来ちゃう…これも私なりにだけど。溝がはっきり見えると言うか…それに比べて優しいっていうのは、今までみたいに考えなくたって、かなり曖昧だよね?だからこそこうして悩んでいるんだけど。そんな人によってマチマチな不確かなものを、理由の一番地に持ってくるのは、その後の話がバラバラにバラけちゃうと思うの。…だから…かな?」
何とか筋道立てて話したつもりだったが、やはり上手くは言えなかった。でも、言いたい事はキチンと言えた感覚はあった。
 義一は例によって、目を瞑り腕を組みながら聞いていた。私が話し終えても暫く黙っていたが、ゆっくりと目を開けるとまた柔和な笑みを浮かべて話した。
「…いや、よく難しい話をまとめて話してくれたね?…これ以上言うとシツコイって嫌われるかもだから言わないほうが良いのかもしれないけれど、でも言わずには居れないな。偉い、偉いし凄いよ琴音ちゃん。よくそこまで辿り着いたね?…あ、そうだね。いや、全く僕も同意見さ。それに付け加えるなら、世の中の人は漠然と優しいという言葉を手放しに”良い言葉”として乱用している節があるんだねぇ。だから取り敢えず『あなたは優しい』と言っておけば、その場は和やかに過ごせるという、いわゆる潤滑剤程度にしか思ってないようなんだ。だから…」
とまで言うと、また義一は腕を伸ばし私の頭を労わるように撫でながら
「琴音ちゃん、君みたいに感じやすい子は、その時その時によって違う意味で話される言葉に振り回されて傷付いちゃうんだね…」
と言うと、義一がおもむろにペンを持ち、最初に書いた”良い人”を今度は丸で囲みながら話を続けた。
「この”良い人”って言い方もね、曲者で混乱の元なんだよねぇ…琴音ちゃん、せっかく答えてもらってすぐで悪いんだけど、この”良い人”って何だろうね?」
と聞いてきた。私は書かれた”良い人”をジッと黙って見つめていたが
「…うーん、ある意味”優しい”よりも、いざ考えてみると難しいかも。…まぁ、今までの話からすれば、”優”と”良”だから優しい方が上なのかなって漠然と思うけれど」
と返すと、義一は少し目を見開いていたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「…なるほどー。応用が効いてるね。それもとても面白い意見だよ。ただそれだけだと”良い人”と言うのは”優しい人”よりも少し劣る人ってことになっちゃうね?これはかなり分かりづらいと思うけど」
「うん、私もこれはちょっと…ていうか、かなり言葉が足りない気がする」
「うん…これも琴音ちゃんが提示してくれたと思うんだけど、”良い人”と”優しい人”の違い…これは僕の憶測だけれど、琴音ちゃんは過去に同じ人からこの二つを言われたから、深く疑問に思っているんじゃないかな?」
その通りだった。一番最初の所では義一に話さなかったが、今言われたような事が大きな一因であるのは間違いなかった。
「…そう、その通り。私のことを見て、同じ状況下でも『君は優しい子だ』とか『君は良い子ね』とか表現する。その人は私の事をよく見てくれてると思うんだけれど、その人ですらこうして雑に言葉を私に投げかける…その時はいつも、『この人本当に私の事見ているのかな?』って思っちゃってたの」
と言いながら私の頭の中には色んな人々の顔がチラついていたが、その中に両親もいた。
 私は自分で言いながら段々落ち込んでいき、終いには危うく泣きそうになるのを堪えながら
「だから、だからこそ、さっきも言ったけど、周りが私に投げかけてくる言葉の意味を、自分が納得する形で知りたいと思うのは…変なのかなぁ…」
と最後まで、自嘲気味ではあったが笑顔を保って言ったつもりだった。でも最後は結局涙声になってしまっていた。私が涙が溢れる前に照れ臭そうに目をこすっている間、義一は黙っていたが、こっちが落ち着いたのを見計らったかのように、語りかけてきた。顔には静かとしか言いようのないモノを帯せながら。
「…変なんかじゃない、変なんかじゃないよ。ちょっと話が逸れちゃうかもしれないけど、僕はこう思うんだ」
「…」
「どーう考えても、何度も自問自答してみても、おかしいとしか思えない事を、ひたすら疑い、答えはないかも知れない、無駄に終わるかも知れなくても、真理を追求しようとしている人に対して、『変わっている』と一言で済ましちゃう程、非情な事はない。余りにその人に対して失礼極まる。…ある元野球選手が言ってたんだけどね?その人は実力がピカイチで、羨望の的だったんだけど、あまりに歯に衣着せぬ物言いをしていたせいで一方で煙たがられていたんだ。その人がインタビュアーから『周りから変わっているって言われてる事について、何か一言ありますか?』って聞かれたんだ。そしたらその人は笑いながらこう答えたんだ。『俺の事を変わっているって思う方が変わっているんじゃないか?だって、俺は自分のやりたい事のために、ただひたすら他の人よりも努力をし続けて生きてきただけ。そんな俺自身を俺は真っ当だと思っている。その真っ当な奴を見て変わっていると思う方が、変わっている奴だと俺は思う』とね。…だから、琴音ちゃん」
と今日何度目になるか、また私の頭を撫でながら続けた。
「前にも同じような事を言ったかも知れないけれど、周りに変だと思われようと気にする事はないよ?勿論常日頃から、人が遊んだり怠けている間も、三倍、四倍、五倍と努力し続けなければいけないけどね?この努力というのも難しい。他人は努力を、ただ時間をかける、やりたくないけど他人に言われて頼まれた事を処理していく事と勘違いしているけれど、それは全然違う。こればかりは譲れないから僕の口から言わせて貰うけど、努力というのは、やれるかどうか分からない、でもそれがもし出来たなら善い事のはずだと自分なりに確信が持てる、そんな無理難題の課題をまず見つけて、それを己自身に課し、それを”死ぬまで”やり続ける事だと僕は思うんだ。身体的、肉体の衰えは別にしてね。だからそれで言うと、”努力した”って言葉は偽りでしかない。だって”終わっている”時点で努力してないのと同じだからだよ…って」
義一はここまで言い終えると、また頭をポリポリ掻きながら苦笑混じりに言った。
「いけない、また一人で話しすぎちゃった。…絵里にも注意されたばかりなのに。まぁ僕が言いたいのは、もし自分で自分がそんな人間だと思えたなら、周りが自分をどう称しようと構わず気にしないでねってこと。さっきの元野球選手じゃないけど、『真面目に妥協しないで生きてる私を変に見えるのなら、変に見えちゃうくらい手を抜いて惰性に怠けて生きている自分自身を反省したらどうだ』くらいの気持ちでいようよってことさ。…いやー、また琴音ちゃんに長いって言われちゃうなぁ」
と最後に戯けながら義一は言ったが、今まで黙って聞いていた私は静かに
「…言わない、言うわけないよ」
と短く、でも心からの偽りのない微笑みを浮かべながら返した。義一もそれに応えるように黙って笑顔で頷いた。
「…さて、僕の悪い癖で話があっち行ったりこっち行ったりしちゃっているけど、何だっけ…」
と言いながらメモ用紙に視線を流すと、明るい声を上げながら続けた。
「あぁ!そうだった!”良い人”の話だったねー。ほら琴音ちゃん、メモしておくと便利でしょう?」
「…ふふ、そうね」
と私はクスクス笑いながら返した。調子が戻ってきていた。

「で、”良い人”ねぇ…」
義一は一度丸で囲ったのを、上から何度もなぞりながら呟いた。
「琴音ちゃんの言う通り、根本から違う意味なのを大半の人が一緒くたに考えちゃうから、良く言って混乱が起きてると思うんだよ」
「良く言ってっていうのは、”もし考えての事ならば”って意味ね?」
と意地悪く笑いながら私は聞いたが、義一は同じような笑みを浮かべるだけだった。
「で、つまり何が言いたいの?」
「うん、これも人の言葉からの引用なんだけど」
「うんうん」
私が先を促すと、義一は何かを思い出すように顔を上げ、天井を見つめた。少しして、といっても数秒ほどで顔を私に向けなおし、”教師モード”の顔になって切り出した。
「僕の大好きな落語家がいるんだけど…あ、落語はわかるかな?」
「え?あ、うん。着物着て、扇子持って、お噺をする人達のことでしょ?」
と答えると、義一はこれまた何とも言えない微妙な表情になり、苦笑いしながら、説明しようか迷っているようだったが、一度軽く息を吐いてから続けた。
「まぁ、本論じゃないから今はそれでも良いかな?その人は、僕が思うだけじゃなくて、ファンの間からすれば、今生きてる落語家の中で類を見ない、実力ナンバーワンの呼び声高い、まぁそんな人がいるんだけどね?でもまぁ、この人も普通の人が言いにくい事をズバッと率直に言っちゃうもんだから、好き嫌いのはっきり別れる落語家なんだ」
「へぇ、その人はさっきの野球の人と同じみたいな人なんだね?」
「そう、その通り。で、この人が舞台で色々、琴音ちゃんが言うところの”お噺”をする前に話すんだけど、その中でちょうど”良い人”とは何かについて喋ってたんだ」
「ふーん、で何て言ってたの?」
「それはね…」
とここまで言うと、義一は眉間にシワを寄せて、その人のモノマネなのか、少しダミ声を出しながら続けた。
「『良い人ってのは簡単に言えば、誰かにとって”都合の”良い人って意味だろう。あの人良い人だなぁって思うってのは、あの人は自分に対して不快な思いをさせないし、気分良くしてくれる、いてくれるだけで”都合がいい”。ただそれだけのモンだろう?』ってね」
言い終えると、無理してダミ声を出したからか、紅茶を一口啜って一息ついていた。私はその間、今の話を簡単に自分の中で咀嚼してから話した。
「なるほどねぇ。じゃあ、その落語家さんが言いたかったのは”良い人”って言葉は、”都合の良い人”の略ってわけね?」
「そう、そういう事を言いたかったようだね。これはさっきまでの”優しい”とは何かよりも、格段に簡単に理解出来ると思うし、僕自身反論はないんだけど、琴音ちゃん、君はどうかな?」
「うん。なんかやけにスッと喉を水が通ったみたいに飲み込めちゃった」
私は喉の辺りを軽く触りながら答えた。
「あまりに単純だから、何か裏を探して反論できれば良いんだけど」
と言うと、義一はクスクス笑いながら返した。
「いやぁ、小学生なのに一々例えを出してくるのは面白いな。…あっ、そう睨まないでよ?褒めてるんだから。じゃあ、少なくとも僕らの間では同意が出来たようだから先に進めると、いよいよこの問題のクライマックスが近づいているみたいだね」
義一は言いながら、メモに書いてある”良い人”の前に(都合の)と、丸括弧にわざわざ入れながら書き入れた。
「ここであと一歩だけ踏み込んで見たいんだけど…良いかな?」
「うん」
私は義一が書いた(都合の)を、ペンで意味なく丸で囲みながら答えた。その様子を微笑ましげに見ながら義一は続けた。
「ある意味これが今回の本質的な所だと思うけど…琴音ちゃん?今まで話してきた事を考えてみて、果たして”優しい人”と良い人”、どっちを目指せばいいのかな?」
「それは…」
ほんの一瞬溜めたが、迷いがある筈もなく
「当然”優しい人”だよ!」
と答えた。すると義一はメモに書いてある、もう丸で囲い過ぎて汚くなっている”優しい”に今度はアンダーラインを引いた。そしてまたペンで数回コツコツ叩くと
「うん、琴音ちゃんだったらそう言うと思った。でも、何で”優しい人”を選んだのかな?何で”良い人”は嫌なんだろう?」
と聞いてきた。何となくそんな質問が来るかとは思っていたけれど、いざ返すとなると、言葉にするのはとても難しかった。今更だけどよくまぁ義一さんは、私のどこを買ってくれてたのか今でもハッキリとは分からないけれど、今までのこの難しい話を小学五年生に向かってしてたなぁって思う。
私は暫く考えた末に、何とか答えた。
「うーん…私個人の感覚だけで言えば、ただの好みの問題かもしれないけど、私は誰かを、周りを気持ち良くしてあげるだけの存在になるくらいなら、煙たがれても、周りの人より優れた人間になりたい…って…事、かなぁ?さっき義一さんが例えに出した、元野球選手や落語家さんみたいに」
最後の方は自信なさそうに話し切った。自信が無かったのはそうだが、なんか上から目線のような、大きな事を言ってしまったような居辛さを感じていたから、余計にはっきりと言えなかったのかも知れない。
 義一はと言うと、最後まで聞く前にすでに顔中に微笑みを湛えて、私をじっと見つめていた。あっ、理由を追加すれば、これも影響あったかもしれない。
 義一は私の話を聞き終えると、ワザとだと思うが、少しだけ間を置いてから話し始めた。
「…いやぁ、これを他人、特に兄さんが聞いたら怒り狂うかもしれないけど、ここまで僕と考えが同じだと、僕としてはこんなに嬉しいことはないなぁ。…って一人で感動してる場合じゃないや。なるほど、そっか。すっごく生意気な事を言えば、琴音ちゃん、さっき僕が出した二人、ついでにおまけで僕も入れさせてもらうと、この四人含む今生きている人間の少数とその他大勢の人間は、そこで結構タイプが鮮明に分かれると思うんだ。つまり”優しい人”を目指すか”良い人”を目指すかでね?…琴音ちゃん」
と、さっきまで微笑んでいたのに、ここで義一はいつだかの真面目な、静かな表情になり、真っ直ぐに私の目を見つめてから続けた。
「琴音ちゃんが話してくれたから言い易いんだけど…今の話にまた補足を入れさせて貰えればね?こうも言えると思うんだ。”優しい人”は”良い人”にならない。そして”良い人”は”優しい人”にはなれない。…琴音ちゃんはどう思うかな?」
義一の話を注意深く聞いていたが、特に疑問は無かったので
「…うん、そうだと思う」
と比較的すんなり答えた。義一は一度笑顔になると、また真顔に戻って続けた。
「多分僕の言い方にも気付いた上で答えてくれたとは思うけど、一応念のために言えば、優しい人は”敢えて”良い人には”ならない”し、良い人は”そもそも”優しい人には”なれない”という言い方を、僕は暗にしたよね?…そう、もっとこれを掘り進めてみるとこうなる。”優しい人”は周りの人を敢えて快適にはしないし、良い人は周りの人を快適にすることしか出来ない。…さっきから繰り返しているだけみたいだけど、我慢して付いて来てね?」
「うん、大丈夫。いらない心配だよ」
と一々聞いてくるのを注意する意味でも、ワザとつっけんどんに言った。義一は続けた。
「ははは、余計なお世話だったね?じゃあお言葉に甘えて…今まで一般論を言ってきたから、今度は具体論を言おうかな?…」
義一は立ち上がり、先ほど持ってきた女性経済学者の本を手に持つと、元あった場所に戻した。そして、これまたさっきと同じ様に本の背紙を指でなぞりながら、また何か別の本を探している様だったが、ある本の前で止めてそれをまた引き抜き、それを手に持って戻ってきた。
 今度はテーブルの上にはおかず、直接そのままページをペラペラめくり、そしてピタッと止まったかと思うと話し始めた。
「しつこい様だけど、また昔の人の言葉で悪いね?この人はプラトンと言ってね、前に話したアリストテレスの先生なんだけど、その人が書いた本の中で今までの話について分かりやすい例えを使っているから、ちょっと借用するね?」
「うん」
「これはプラトンのまた先生、ソクラテスって人が会話していたのをプラトンがまとめたものなんだけど…ややこしいけど付いてきてね?中身さえ頭に入れてくれたら、それで良いから。そのソクラテスが議論するんだけど、相手は当時口が達者で、人々に人気があった演説家だったんだ。で、この人が何でも知ってるといった風な口振りで言い回るもんだから、大勢が今で言う所の”信者”になっていくんだね。その信者の一人がソクラテスの友達で、是非とも紹介したいと二人を会わせるんだ。何でも知ってるって言うから、ソクラテスはその人にアレコレ質問するんだけど、その返答にまたソクラテスが質問する…すると段々相手は答えに窮する様になっていったんだ」
ここまで聞いてた私は、ふと、まるでどこかの誰かさんの話みたいだなぁと、妙な親近感を感じた。
「結局答えられないことが分かると、今度はソクラテスが『何で分かりもしない事を分かったように言い回るんだ?』って聞いたんだ。そしたらその演説家は『別に良いじゃないか。だって俺が喋ると、みんな気持ちが良くなって良い気分になるんだから。それでみんな俺の事を慕ってくれるんだから、良い事をしているに違いない』って半ば開き直りながら答えたんだ」
「えぇー…それまた随分乱暴だなぁ」
と話が途中だったが、思わず声を挟んでしまった。義一は何も言わず微笑んで一度頷いただけだった。
「そこでソクラテスは…」
とここで義一は字で真っ黒に埋められたメモ用紙をひっくり返すと、上部に”医者”と”料理人”と書き込んだ。私は黙って見ている。義一は
「この二つの例を持ち出したんだ」
と言うと、真顔から苦笑いに表情を変えながら
「ここからようやく本題だからね?おまたせ」
と言ったので、私は先を促す意味でも右手を前に出し、無言で縦にヒラヒラ振った。義一は許可を得たと察したか、そのまま先を話し始めた。
「どういうことかと言うとね?この二つはある種共通点があるんだ。何か分かるかな?」
「え?うーん…何だろう?…もしかしてナゾナゾ?」
と聞くと、義一は今度は子供のように無邪気に笑いながら
「いやいやいや、違う違う。でもそうだね、ナゾナゾみたいだよね?あっ、捉えようではナゾナゾに見なくも…」
「義一さん、さきさき!」
「あ、あぁ、ごめんごめん。えーっと…それで…あぁ!そうそう!この二つの共通点はね?…二つとも他者に何かを”与える”ってことなんだ」
私は義一の話を聞いて、少しの間考え込んだ。義一もワザと私の答えを待つように先を話さなかった。ようやく纏まったので切り出した。
「…あぁ、なるほど。医者は病気を治すものを与えて、料理人はそのまま料理を与えるってことね?」
「そう!それにまた補足をすると、医者はお薬を出すし、料理人は料理を出す。で、ソクラテスは演説家に向かって『あなたはこの二つで言う所の”料理人だ”って言ったのさ」
「…ん?それってどう言う意味?」
どう考えても繋がらなかったので、素直にすぐ聞き返した。義一は話すのが楽しいといった調子で返した。
「ははは、これだけ聞いても、流石の琴音ちゃんも分からないよね?そりゃそうだ。じゃあ説明するね?結論から言えばソクラテスはその演説家に対してこう言いたかったんだ。『確かにあなたは美味しい料理を出す料理人みたいに相手の人々を心地良くしてあげているんだろう。でもその人達は美味しい物を食べ過ぎて、体を壊しているじゃないか』とね」
「…あっ、あぁー、なるほどぉ」
と思わず私は急に納得したせいか、一人ボソッと声が漏れた。義一は満足そうに笑いながら続けた。
「こう言うのを聞くと、今も昔も変わらないんだなぁってつくづく思うよね?まぁ料理人自体が悪者にされちゃってる気はあるけど。
 で、自分は…あっ、いや、自分がそうありたいのは”医者”の方だと言ったんだ。つまり『医者は患者の為に苦くて美味しくない、決して患者が望まないものを処方してくる。でもその時には辛くても、将来には体を元気にしてくれる薬な訳だから、結果的に人のためになっているじゃないか』って言ったんだ」
「良薬口に苦しだね?」
と私は悪戯っぽく笑いながら言った。義一もそれに応えるように笑いながら
「そう、その通り!で、いつも通り前口上が長くなったけど…」
と言うと、義一はテーブルに肘をつき、手で顔を支えるような体勢になると
「この話…何で僕が今したのか、分かるかな?」
と聞いてきた。私はちょうど目の前にあるメモ帳に、あれかこれかと書き込みながら整理を始めた。書くのに夢中になっていたから分からなかったが、おそらく先程のように義一はこちらに微笑みをくれていたことだろう。しばらくしてハッとし、顔を勢いよく上げると
「簡単にこの例えに沿って言えば、”医者”は優しい人で”料理人”は良い人ってことね?」
と私は答えた。それを聞いて義一はまた芝居じみた、腕を組み考え込んでるふりをしたが、目を見開くと、心から嬉しそうに笑いながら返した。
「その通り!大正解!いやー、長い道のりだったけど…よく出来ました!
まとめて言うと、良い人というのはその時には場を明るくしたりして皆んなを気持ち良くし快適にしてくれるけれど、後には何も残してくれない。優しい人というのはその時には相手にとって耳が痛い事をズカズカと言うから煙たがれて敬遠されてしまうけど、もしその人がどこかで言われた事を覚えていたら、後々助かることもある。…まぁそういうことだね」
と一口紅茶を飲もうとしていたが、すっかり冷めていたらしい。義一は立ち上がると
「また紅茶のお代わりを取ってくるけど、琴音ちゃんはどう?」
ポットを持ち上げながら聞いてきたので、私は聞かれて初めて意識をし出した。そして小声で
「あ、うん…それは嬉しいんだけど…その間トイレ行っていいかな?」
とモジモジしながら答えた。義一は手に持ったポットをチラッと見ると、一人合点がいった様子で
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!僕の話が長過ぎたのと、紅茶ばかり飲んでいるからそれはそうなるよね。早く行っておいで」
「う、うん。じゃあ借ります」
「僕はその間に淹れておくよ」

トイレを済まし書斎に戻ると、ちょうど義一がポットから紅茶を注いでいる所だった。義一はこちらを見ずに
「あ、おかえりー。今淹れた所だから丁度美味しいんじゃないかな?」
「うん、ありがとう」
と椅子に座りながら返した。ふと時計を見ると四時を少し過ぎた所だった。自分としては濃密な時間を過ごした感覚だったが、確かにここに大体一時半くらいに来たはずだから、それはそれなりに時間が経つもんだと一人納得した。
 二人して一口づつ啜ると、義一から話を振ってきた。
「でまぁ長々と話をしてきたわけだけど、どうかな?何となくでもヒントくらいにはなったかな?」
「うん。話は正直難しかったから、どこまで分かっているのか聞かれたら困るかも知れないけど、今言えるのは、感覚的にしか言えないけど、すっっっごく気分がサッパリしてるってこと!」
最後の方は俯き目一杯溜めてから顔を上げて答えた。義一は黙っていたが、頷き笑顔で紅茶を啜っていた。暫くそうしていたが、ふとまた”教師モード”の顔付きになって、静かに話し始めた。
「…まぁ今まで延々と話してきたけど、これはまた繰り返しになるけど、どうしてもこれは僕の琴音ちゃんに対する一番のお願いだから何度でも言わせてもらうね?」
「う、うん」
義一が急にまたあのモードになったので、飲みかけていた紅茶の入ったカップをテーブルに戻した。
「琴音ちゃんが自分で言った”優しい人になりたい”という言葉、僕はとても嬉しかった反面、やっぱりちょっと心がチクリとしたんだ。君のことだから、あの夏の夕暮れ二人で会話したこと、あれに限らず色んな事について話し合ったけど、全部が共通してるのが分かっていると思う」
「…」
「前にも同じような事言ったけど、もし本当に”優しい人”になろうとするにはこの世はあまりにも生き辛い。…特に今の世はね。…何しろ殆どの人達は”良い人”であろうとする。何故なら嫌な言い方をすれば、何も考えなくても葛藤しなくても、取り敢えずその場をやり過ごせるから。良い人でいれば嫌われないで済むからね。…結局そのままみんなで仲良く揃ってダメになっていくとしても、誰もが良い人であろうとするから、ズルズル沈み込んでいくんだ」
ここまで言うと一口また紅茶を啜り、話を続けた。
「今生きている人間の、ほんのごく一部、今まで話してきた意味での優しい人達、この人達は今に限った話じゃなく、いつの時代も嫌われようとも声を上げたりして戦い続けてきた。…それは敗北の歴史。耳障りな、嫌なことばかり言う優しい人達を煙たがり、闇にみんなで追いやった後、言ってた通りの結末になって誰もが不幸になっても”良い人達”は”優しい人達”に対して反省をしない。ずっと同じことの繰り返し。…今の世の中が余計に辛いって言ったのはね、琴音ちゃん?…今日の話で言えば、今は優しい人達と良い人達が一緒くたになって、生きているってことなんだ。
昔はそうじゃなかった。昔は優しい人達と良い人達が別れて暮らしていた。だから優しい人達は、昔から人数は少なかったけど、少ない人達で固まって議論をし合い、世の中のためにできる事を良い人達の目を気にせずに出来たんだ。それが今は全部が一緒になっちゃった」
義一はさっきのメモ用紙をまた裏返しにして、真っ黒に字で埋め尽くされた面をペンで軽く叩きながら
「君が持った疑問…優しい人と良い人の違い。普通の人はそんな疑問を持つことなく意味を分けずに使っている。でも琴音ちゃんみたいな人はそれをおかしいと思う。実際今まで見てきた通り違うからだ。でもそれを言うと数の少ない”優しい人達”が追放されてしまう。数の暴力の前ではいくら訴えても無力だからね」
ここまで言うと短く息を吐いて、また紅茶を一口啜った。私は黙って俯いている。
「だから琴音ちゃん…」
と義一は腕を伸ばし、向かいに座る私の頭に優しく手を乗せて、口調も穏やかに言った。
「さっきも言ったけど、琴音ちゃん…君が”優しい人”になろうとするのは心から嬉しい、喜ばしい事なんだけれど、これも前に言ったかも知れないけど、その決意を持ったまま生きようとすれば、間違いなく君は苦しんで深く傷ついてしまう…無力感に苛まれて絶望してしまうだろう。それでもまっすぐ立ち続けなければいけない…これは口にするほど簡単じゃない。僕にはどうすることも出来ない…琴音ちゃん?」
呼び掛けられた気がしたので、私は顔を上げて義一の顔を見た。その顔はいつもの柔和な笑顔だ。
「この先その現実を聞かされても…それでもそう生きようと決めるのは君だよ?…その覚悟はあるかな?」
 私はまた俯いた。再会した時にも、その後からもずっと義一と会話してきて、私に対する不純物の混じっていない純粋な慈しみ、憐憫の情をヒシヒシと感じていた。それはどこにも疑いの余地などないものだった。それをまた今義一が私に話しかけている。思いつきで答えて良い訳が無い。訳が無いけど、そんなのは何度聞かれようとも結論は変わるどころか固まるばかりだ。
「…何度聞かれても同じよ?私は”良い人”でいるよりも、たとえ辛くても”優しい人”になりたいの」
私は顔を上げ、真っ直ぐ強く視線を逸らさず義一を見つめた。義一も同じように見つめ返した。暫くそのままの状態が続いた。辺りは古時計の動作音しかしていなかった。ふっと、義一は短く息を吐いたかと思うと、また柔和な表情に戻って言った。
「よくわかったよ、琴音ちゃん…ありがとう、真剣に真面目に答えてくれて」
そしてまた私の頭をそっと撫でた。
「当たり前でしょ?…それに」
私はその手を優しく払い、周りの本棚を見渡しながら
「時代時代では少なくても、こんなに”優しい人達”がいるんだからね」
としみじみ言った。義一も同じように見渡しながら返した。
「…そうだね」
「…義一さんも」
私は少し意地悪くニヤケながら言った。
「…えっ!?あっ…いやー…」
義一は何も答えずに、照れ臭そうに頭を掻くばかりだった。その様子を見て、私も静かにクスクス笑うのだった。

「そういえばさっき、気になることをボソッと言ったよね?」
一息ついて、また二人がいるこの空間には穏やかな空気が流れていた。
「え?何だろう?…何か言ったっけ?」
義一は先程出した本を棚に戻しながら返した。私はその後ろ姿を見ながら
「うん…絵里さんがどうのって」
と言うと、こちらに戻ってくる途中だった義一は、見るからに気まずそうな表情になり、また頭を掻きながら戻ってきた。
「絵里のことかぁー…聞き逃してはくれなかったね」
「うん、地獄耳ですから」
やれやれと座る義一を見ながら紅茶を飲み、澄まし顔で返した。
「まぁ、隠すことでもないんだけどねぇ…八月にほら、三人でファミレスに行ったでしょ?」
「うん」
「あの後絵里は興奮しっぱなしでね?あの日の晩、僕に電話をかけてきて、仕切りに僕が居ない時どんなに楽しく琴音ちゃんと会話したかについて語られたんだよ。で、その中で絵里に言われちゃったんだ。『ギーさん、あなた年齢だけで見れば琴音ちゃんよりも歳上なんだから、琴音ちゃんから話しやすいように気を遣ってあげなくちゃいけないじゃない』ってね」
「へぇー、そんなの気にしなくて良いのに」
と私は何でもないといった調子で返した。義一は苦笑いを浮かべた。
「はぁ…そうやって琴音ちゃんは大人で返すんだもんなぁー…歳上、しかもかなりの歳上なのに、益々立つ瀬がないよ。でも僕も絵里に返したんだけどね。『そういう君も、その話を聞く限りでは、かなり一方的に喋っていたようじゃないか?』ってね。そしたら絵里は口ごもっていたけど、最後は『確かに』って認めていたけど」
その時のことを思い出しているのか、とても得意な調子だった。
「…考えてみれば、おかしいと思っていたのよ」
「ん?何がだい?」
「それはね…」
私はテーブルに両肘をつき、両手でほっぺを覆うようにしながらニヤケて言った。
「最初の方で義一さん、私の事を優しいと言った後にわざわざ『僕が思う本当の意味でね』って言ってたでしょ?」
「あー、うん」
「あれって…私に質問させるために、わざわざ伏線を敷いていたんじゃない?だって、『本当の意味』なんて言われたら、”なんでちゃん”の私が何の意味か聞かないわけないもんね?」
義一はさっきから頭を掻きっぱなしだ。義一の名誉のために言えば、決して不潔だからというわけではない。
「いやー、改めて言われると中々どうして、恥ずかしいもんだね。…そう、琴音ちゃんの言う通りだよ。いやー、参ったな」
「ふふふ。でも私も義一さんに隠し事があったんだけれど、これも言っても大丈夫かな?」
「何だろう?」
「ファミレスで義一さんがいなかった時、絵里さんと私で約束していたの。義一さんに”優しいとはなにか”を聞くっていうね。結局今の今まで聞くの忘れていたから、結果オーライだったんだけど…あっ、もしかしてここまで計算尽くだった?」
と聞くと、義一は右手を大きく横に振りながら
「いやいやいや。それは僕も聞いてなかったからねぇ、これはたまたまだったよ。丁度いいと思ったのは確かだけど。…あぁ、でも、絵里と話してた時、仕切りに琴音ちゃんのことを”優しい””優しい”って連呼していたから、その影響があったのかも知れないなぁ。僕もそれに関しては言われる度に同意していたから」
「もーう、いいからそれは!」
「ははは」
「ふふ…あっ!」
と、時計を見たのも束の間、外から音量小さく童謡が流れてくるのが聞こえた。五時になった合図だ。鳴り終わるまで二人して黙っていたが、終わると義一が優しく微笑みながら切り出した。
「…もう五時だね。今日はもう帰ろうか、琴音ちゃん?」
「…うん、そうだね」
私は時計を見つめながら、名残惜しそうに声を思わず漏らしたように吐き出した。

「じゃあ気を付けて帰るんだよ?」
「うん」
玄関先でランドセルを背負いながら靴を履いている私の後ろから、義一が声をかけてきた。履き終わり立ち上がると玄関に手をかけた。しかし私はそこで手を止めた。
「ん?どうしたの、琴音ちゃん?」
と私の様子を見た義一が話しかけてきた。私の方は言うか言うまいか悩んでいたが、振り返らずそのままの体勢で
「…義一さん、今度あの書斎から本を借りてもいい?今日はパンフレットがあったりで無理だけど」
と目の前のドアを見つめながら言った。そして振り返り義一の顔をまっすぐ見ながら続けた。
「…私、さっきも言ったように”優しい人”になりたいから。…そのー…義一さんみたいに」
「…」
私の言葉に義一は今日一番の驚きの表情を浮かべていた。しかしすぐに、嬉しがっているような、戸惑っているような、何とも言えない笑顔を見せながら返した。
「…あ、あぁ、そうかい?それはもちろん構わないよ。いつでも本を借りる意味でもこの家に遊びに来てね?…ただ」
と今度は照れ臭そうにまた頭を掻きながら続けた。
「僕のようにって言ってくれるのは、も、もちろん気持ちは嬉しいんだけど、そのー…あまりお薦めはしないな。参考までにね?」
「ふふ…一応聞いとくわ」
「…あっ、一つだけ条件があるよ?」
「え?何?」
私が聞き返すと、義一は少し勿体ぶっていたが、廊下を振り返り、廊下の一番奥の書斎の方を向いてから、また私の方に向き直り、悪戯っぽい笑顔で言った。
「来た時に、ピアノを弾いてくれるかな?曲は何でもいいけど、琴音ちゃんのを聞いてみたいから」
「え?…うーん…うんっ!もちろんいいよ!喜んで」
思わぬ提案に私は少し戸惑ってしまったが、初めて書斎のアップライトを見た時から弾いてみたかったし、何より義一から聞きたいと言ってくれた事が嬉しくて、何でもないように冷静に返事するのが大変だった。義一は私の返事に満足そうに笑顔で頷くだけだった。
「じゃあ義一さん、またねー」
「うん、また…あっ」
私は返事を聞く前に勢いよく引き戸を開けると、たまに振り返りつつ、手を振りながら飛び出し帰って行った。義一もその様子にキョトンとしながらも、手だけはヒラヒラと振り返していた。

帰り道、ほとんど何も考えず無心のまま、でも足取りは軽く、夕焼けに染まる見慣れた通りを歩いた。頭は使い過ぎたせいかボーッとしていたが、心地よい疲労感を体全身で感じながら、気づけば自宅の玄関前に立っていた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさーい」
私が靴を脱いでいると、お母さんは居間からわざわざ出迎えに来た。向こうの部屋から今日の夕飯の匂いがここまで漂って来ていた。
「そろそろご飯が出来るから、早く手を洗って来なさいね?」
「はーい」
お母さんは私の返事を聞くと、またキッチンへと戻っていった。私も洗面台のある脱衣所に向かったが、途中で立ち止まり
「あっ、お母さん!」
と呼び止めた。
「ん?なーに?」
とお母さんは私の声に反応して、立ち止まりこちらに振り向いた。
「どうしたの、琴音?」
「私…」
「ん?」
私は一瞬躊躇ったが、一度短く息を吐くと、お母さんの顔をまっすぐ見ながらハッキリ話した。
「…私、決めたから」

第10話 裕美

キーンコーンカーンコーン。
「…はい、じゃあ今日はここまで!」
素っ気なく言い放ち先生が部屋から出て行くと、各々それぞれの生徒達が片づけ始め、バラバラに部屋を出て行った。私はふと、この前お母さんに買ってもらった、淡いピンクのベルトで、時計本体が気持ち小さめの文字盤に目を落とした。夜九時を少し過ぎた所だった。
 さて、私も早く帰るか…。
建物から外に出ると、御茶ノ水という所謂都心部の筈なのに、雑居ビルが多いせいなのか、そしてそのビルに人のいる気配があまり無いせいなのか、寂しい雰囲気だった。街灯の数も少なく、辺りは私の住む近所と変わらないくらい暗かった。最もそれも選んだ理由の一つだったから、別に文句どころかむしろ有り難かったくらいだ。
 あの後お母さんにランドセルの中からクリアファイルを出し、その中に入れていた紙束の一枚、義一に先に言った塾のパンフレットを出して、通うならここが良いと話した。お母さんは何でそれを持ち歩いているのかは特に聞かず、私の主張をのんでくれたけど、表情はあからさまに曇っていた。やはりあの橋本とかいうお母さんの知り合いの子と同じ所に通わせたかったらしい。我ながら意地汚いなと思ったが、正直その様を見てほくそ笑んでいた。それからはすぐにお父さんにも話が通り、お父さんの方はうんともすんとも言わずに、ただ事務的に塾の登校手続きを手早く済ましただけだった。何やら最初に説明会やら、塾に入る前の学力を測るテストなどを受けたが、正直取り上げるまでも無いので割愛する。まぁ、そんなこんなで今私は、御茶ノ水の少し外れ、駅から子供の足で十分くらい歩く所に通っている。
 補足だが、いや私にとってはこっちが本論だけど、ピアノ教室の先生にこの事を相談したら、先生は私なんかより、当たり前っちゃあ当たり前だけど、お母さんの友達というのもあって、私の受験の話がいつ飛び出してくるか待ち構えていたらしい。まずお母さんが電話で軽く伝えて、次のレッスンの時に私からこの話を切り出した。私はお母さんに出された条件、両立出来なければ受験が終わるまでピアノを禁止にする事、それは本当に納得いかないしイヤだけれど、私は私なりに今まで以上に頑張るからという、聞かれてもいないのに決意表明に近い事を、静かに黙って聞いていた先生に対して宣誓した。
その途中から私は我慢していたのに、結局大粒の涙を流しながら、最後は涙声でグズグズになってしまった。先生は私の様子を見てギョッとしていたが、先生は優しく『大丈夫だから』と何度も呟きながら抱き締めてくれた。腕をほどき離れたので、一瞬先生の顔を見たら、私の思い過ごしかも知れないけれど泣いていたように見えた。
 話は変わるが、自分でもビックリなのはこの様な事だ。正直自分で言うのも変だが、私は私の事をもっと冷静で、ヒロが言う様に冷たい冷めた女の子だと思っていた。同級生の女の子が、私からしたら大した事でも無いのに、大袈裟に声を上げて周りの目も気にせずに泣きじゃくる様を見て、心の底からバカにしていた。そんな私が義一と再会してから半年経たないというのに、何度も泣いているような気がする。尤も義一との会話の中では、あまりに私の心の奥底を騒つかせるような話ばかりしていたので、自意識無意識どちらかどうかは別にして、今まで”良い子ちゃん”を演じて生きてきたその中で、押し込めてきた感情なりなんなりが刺激され、溢れ出してきてしまうことの結果で泣いてしまうのだった。それとやっぱり繋がりがあるのか、こうしてピアノに関しても、何か大事なものを侮辱されたと感じたり、守ろうとして気持ちが高ぶる時にも、気づくと泣いてしまうのだった。変な話前よりも、良くも悪くも余計に”感じやすく”なっていると自覚していた。
 
 ついでだからこのピアノの先生、今まで軽くしか触れなかったが、少しだけ踏み込んで話そうと思う。名前は君塚沙恵。歳は三十三歳だった筈。私もそこまで詳しかった訳じゃないし、先生自身があまり自分の過去のことを話さなかったから、はっきりとは言えないけれど、お母さんから聞いた話では、一応ソロで活躍していたピアニストだったらしい。この”ソロ”の意味は、どこか楽団に所属していなくても、コンサート会場を自分の名前だけで一杯に出来ると言う意味だ。そんな彼女だったが、二十代の後半、まだまだこれから、芸において油に油が乗るかという時期に、手首を怪我してしまったらしい。日常生活には支障がないレベルだったらしいが、繊細で正確な動きを求められる”ピアニスト”としては生きていけなくなってしまっていた。自殺まで考えたらしいが、共通の友人にお母さんがいて、彼女の今までの経緯と、これから生きるための目標を失い自暴自棄になってる旨を聞くと『あなた、私の近所で教室開きなさいよ? お義父さんが亡くなって、幾つか遊ばせてある持ち家の一つ、誰も借り手がいなくて困っていたのよ。あなたみたいな才能ある女の人がそれをフイにして生きるなんていけないわ!そうだ、それが良いわ!そうしましょう!』と半ば強引に彼女にそこでピアノ教室を開かせたらしかった。 お母さんらしいエピソードとも言える。それはともかくこの話を聞いた時すぐにハッと気付いた。なるほど、私がピアノを習い出した時と思い切りかぶっていたからだ。つまり、先生の第一号の”弟子”は私と言うことになる。 不肖の弟子だ。学ぶにつれて、私の熱心ぶりを認めてくれたのだろう、先生は私にそれとなくコンクールに出てみないかと打診をするようになった。私は勿論大の大人が、しかも私の数少ない好きな尊敬する大人の人が期待してくれるのは、子供ながらにとても嬉しかったし、この頃は全然自覚していなかったけれど、好きなピアノを、しかもその先生に認められたとあっては、感動も一入だった。でも私は何かにつけて、はぐらかして断った。これはただ単純に人前に自分を晒すのに、この頃から大いに抵抗があったからだ。先生は私が断るたび、少し寂しそうな表情を浮かべながらも笑顔で気にしなくて良いと言ってくれていた。今思えば、先生の事があんなに好きだったんだから、一度くらいコンクールに出てみてもよかったかも知れない。でも今となっては後の祭りだ。

 話がとても大きく逸れたが、結局放課後は塾とピアノのレッスンに費やされる様になり、学校の友達とブラブラ寄り道が出来なくなってしまった。でも幸か不幸か二学期の始業式以来、いつも一緒にいた女の子達とは疎遠になったとまでは言わなくても、放課後に遊ぶ約束を自然としなくなるくらいになっていた。学校でおしゃべりするだけだ。だからある意味すき間が塾で埋まり、結果オーライと言えばそうだった。

 今私は周りとぱっと見見分けのつかない雑居ビルの中から、同年代の子たちに紛れて外に出た。相変わらず目の前の大通りは車が引っ切り無しに通っていたが、人通りは疎らだった。今は十月上旬、すっかり秋空になって夜の九時ともなると、風が吹くたび若干肌寒かった。でも暑がりな私にとって、今までいた熱気の溜まった部屋から出てからのこの空気は、とても心地よかった。
一人静かに若干賑わう最寄りの駅まで向かっていると、急に後ろから声をかけられた。
「あ、あのー…」
「はい?」
と振り向くと、知らない女の子がそこに立っていた。今いる通りはまだ駅前ではなかったので、辺りは薄暗く中々相手の顔を判別するには難しい条件下だったが、少しの間見ていると段々どこかで見たことある様な気がしてきた。あくまで気がした程度だったが。鼻は少し低めだったが、目がクリクリッとパッチリしていて、全体的に”小動物”っぽい雰囲気を醸し出していた。綺麗系かカワイイ系かで聞かれたら、間違いなく後者に票が集まるだろう。髪の毛は男の子がするような短髪だったが、女の私から見ても可愛らしかった。服装を見てみても、私も同じ女の子だというのによく分からなかったが、上は薄ピンクのセーターを着ていて、下は赤チェックのハーフパンツに黒のニーハイソックスを履いていた。いかにも”カワイイ”といった服装だ。私は塾に行くだけだからと、上は似た様なもんだったが、下はピチッとしたジーンズを履いていただけだった。シンプルにして地味だ。
 私がジッと黙って見つめていたので女の子は少したじろいだが、あえて明るくしようと努めるように、笑顔で話しかけてきた。
「あっ、あの!…望月さんだよね?」
急に私の名字を言ってきたので、今度は私がたじろぎ余計に相手の顔をマジマジと見た。見覚えがある程度には感じてきたが、やはり思い出せない。
「えーっと…」
と私がいつまでも思い出さないのにやきもきしていたが
「もーう…まぁしょうがないか。喋るのは初めてだもんね?望月さんと同じ塾の…」
「え?…あぁー」
ようやく思い出した。塾のクラスで一緒の子だ。私の行ってる塾は、最初に受ける実力テストの結果で、いくつか作られているクラスに割り当てられる仕組みだった。勿論その後の成績次第で上がったり下がったりした。
「良かったー。やっと思い出してくれた」
「…」
でも正直変に思った。何でこの子私の名字を知っているんだろう?いや、授業が始まる前に軽く出席を先生が取るから、知ろうと思えば容易に知れるけど、よっぽどその人に興味がなければ覚えてなんか無いはずだった。何しろクラスの中では、同じ学校の友達同士だったらいざ知らず、まず塾に来て友達を作ろうとしている人は、少なくとも私が見る限りいなかった。
皆お互い干渉せずにいる感じだった。それはそれで私も心地よかったが。
「ちょっと、望月さん?」
「…え?」
「もーう、いつまでボーッとしてるの?こんな狭い道で立ち止まっていたら皆んなの邪魔でしょ?早く駅に行こう?」
「あ、あぁ…うん」
ごく当たり前な正論を言われたので、言われるがままに、何故か名も知らない女の子と一緒に帰ることになった。進行方向を向きながら横目でチラッと横顔を見た。カワイイ格好をしている割には、いわゆるガーリーな雰囲気は纏っていなかった。横から見ても中々意志の強そうな目力の強さが伺えた。口をまっすぐ横に真一文字にしているところからも分かる。身長は私よりも幾らか低かった。平均的と言えるぐらいだ。
 黙ってあれこれ分析したが、これ以上は埒が明かないと、ある種の勇気を振り絞って話しかけた。
「で、えーっと…」
「裕美よ」
「え?」
聞き返すと裕美と名乗る女の子は歩きながら私の方へ顔を向けると、悪戯っぽく笑いながら
「え?じゃなくて、裕美よ裕美。私の名前。高遠裕美」
と急に自己紹介をしてきた。私も思わず名前を名乗った。
「あ、私は望月…望月琴音」
「うん、知ってる」
とだけ言うとまた視線を進行方向に戻した。今度は私が顔を高遠さんに向けて聞いた。
「知ってる?…知っているってどう言う意味?」
「だって…同じ学校だもん」
高遠さんはまた悪戯っぽく笑いながらこちらに顔を向けて答えた。
「え?…そうなの?」
こんな子ウチの学校にいたかしら?
丁度大きな通りを渡る駅前の横断歩道の前で立ち止まった。ようやく周囲が明るくなったので、ハッキリとその輪郭が露わになった。さっき分析した時と印象は変わらなかったが、やはり見覚えがない。
「あっ、ほら望月さん!信号青だよ」
「あ、あぁ…うん」
どんどん先に歩いて行く高遠さんの後を理由もなくついていった。

 帰宅ラッシュなのもあるのだろうか、帰りの電車は身動きが取れない程の鮨詰め状態で、碌に会話も出来ない状態が続いたが、ようやく地元の駅に着いて外に出ると、やっと一息が付けた。
改札を出ると、高遠さんは大きく伸びをしながら言った。
「うーーーーん、やっと自由になれた!やっぱり帰りの電車のアレには中々慣れないよね?」
「う、うん。そうだね」
「望月さんて、ここからどっち方面?」
「私は…あっち」
私は素直に帰る道の方向を指差した。
「あっ、おんなじだー。じゃあ途中まで一緒に帰ろ?」
「え、えぇ…」
戸惑う私を尻目に、裕美はどんどん構わず先へと歩を進めて行った。私も仕方ないなと、それでも従順に付いて行った。先程の通りみたいに薄暗い路地を歩いていた。裕美は軽く今日の塾の授業について話しかけていたが、聞かない訳にもいかないので話を打切り、聞いてみることにした。
「で、そろそろ教えてくれない?」
「ん?何を?」
高遠さんは先ほどと同じ笑みを浮かべながら返した。
「いや…こう言ってはなんだけど…悪いけど私、高遠さんのこと見たことないんだけど…」
と言うと、高遠さんはさも意外だって表情を作り、その後大きく肩を落として見せながら言った。
「えぇー…私自分で言っちゃあなんだけど、結構目立つと思うから、見た事ないって言われると、なんだかショックだなぁ」
「あ、いや…」
そう、それがまた謎を呼んでいた。本人は半分冗談で言っていたが、確かに目立ちそうではあった。何しろ見た目がショートヘアーなのに、女らしさを失わない可愛らしさだけじゃなく、喋り方を聞いてみても、いかにも快活な明るい女の子といった感じで、私は彼女と初めて会話した時、真っ先にあのヒロを思い浮かべていた。二人ともいわゆる”ムードメイカー”気質だった。「…ごめん」
と一応謝ると、高遠さんはすぐに無邪気な笑顔に戻って返した。
「冗談冗談!でもそっかー、運動会とかで目立っていたつもりだったから意外だったよ。色んな人が私に声を掛けてくれるしね。まぁでも、同じように目立つ人からすれば気にならないのかも知れないなぁ」
「…え?誰が?誰のこと言ってるの?」
と聞くと、高遠さんは足を止め、顔を私の顔に近づけ、人差し指を私の鼻先のすぐそばまで近づけながら
「望月さん、あなたよ、あ・な・た!もーう!」
と言い終えるとまた歩き出した。私は慌てて追いかけながら聞いた。
「え?私?何でよ?全然人前に出るような事はしないでいたのに、目立つはずないでしょ?」
と追いついて隣を歩きながら言うと、高遠さんは苦笑いを浮かべながら首を横に振り、やれやれといった調子で返した。
「はぁ…あのね?これは私だったから、ただ呆れられるだけで済むだろうけど、他の同級生の女の子に言ってみなさい?すごい嫉妬に会っちゃうから」
「そんなこと言われても…あぁ、一度合唱コンクールでピアノを弾いたけど、あれで悪目立ちしちゃったのかな?」
途中から高遠さんのことを忘れて考え込んでしまうと、高遠さんは一度大きく吹き出し、笑いながら言った。
「あははは!悪目立ちって。望月さんてこんなに面白い人だったんだね?」
「え?そ、そう?」
「うん。…まぁ今望月さんが言ったようにあの時の、地域の学校共同主催のコンクール。あの時の望月さん、綺麗なお姫様みたいなドレスを着て、しかもサラッとピアノを上手に弾いちゃうもんだから、アレでファンは激増したとは思うけど」
「い、いや、ファンって…」
私の弱々しい反論には耳を貸さずに、高遠さんは続けた。
「そんなことがなかったって、普段から登下校の時、男子たちからチラチラ見られているのに…あんたは気付かなかったの?」
「うーん…どうかな?」
私は急に馴れ馴れしく”あんた”と言われた事は一切気にせず、頭の中が少し混乱になりながらも、馬鹿正直に普段の学校の情景を思い浮かべていた。
「とにかく!」
高遠さんは私がウジウジと考えながら出している、ジメジメとした空気を払拭するように声を出した。
「だから私は望月さんの事を知っていたの。でもクラスも違うし、話すこともないだろうなぁって思っていたら、まさか同じ塾に、しかも地元じゃないのにそこで会うなんて、これは運命だろうって思い込んじゃったから、思わず今日勇気を振り絞って声を掛けたって訳!」
と語尾を強く言い切ると、高遠さんはいつも登校の時前を通るマンション前で足を一度止めた。そして前触れも無く、一気にマンションの正面玄関前まで駆けて行った。
「じゃあ、またね望月さん!次は学校で会いましょー!」
と、ポカーンとしている私に向かって大きく手を振り、オートロックの鍵を開けて振り返ることなく中へと消えていった。私は見られてもいないのに小さく手を振り返していた。
「…何だったのよ、あの子は」
 
「あっ、おはよう!」
「…高遠さん」
翌朝通学路を歩いていると、高遠さんが自宅のマンションの前から私に声を掛けてきて、反応を見る前に駆け寄ってきた。
「おはよう」
「何?元気がないね?朝は弱い方?」
「いえ…普通だと思うけれど」
私達は二人並びながら仲良さげに学校へと向かった。
「昨日は望月さんに声を掛けれたってんで、すぐに眠れなかったよ」
「…大袈裟ね…」
私は若干、いや大いに引き気味に返した。その様子を高遠さんは気にする気配がない。
「あ、そうだ!」
と、高遠さんは今何かを思いついたように、これまた大袈裟に声を出して見せた。
「何?」
「これはいきなりでどうかと思うけど…」
「何よ?」
私が聞くと、高遠さんはさっきまでの快活な態度から急変して、照れ臭そうにホッペを掻きながら辿々しく言った。
「…昨日の今日だけど…望月さんの事、琴音ちゃんって呼んでいいかな?」
「え?」
「あ、いや…嫌ならいいんだけど…ほら、私達の名字って長いじゃない?”たかとお”と”もちづき”って四文字だし…下の名前だったらお互い”ひろみ”と”ことね”三文字でしょ?だったら短い方がいいかなって…舌を噛まずに済むし」
と最後に高遠さんは舌をめいいっぱい出して見せて、それを指差しながら言った。私は何言われるんだろうと気構えていたが、ただの名前の呼び方、しかもその理由の阿呆らしさ加減に、私は小さく吹き出し、笑顔になりながら答えた。
「…ふふ。何を言い出すかと思えばそんなこと?」
「…えぇー、そんなことって…かなり重要だと思うけど」
高遠さんは膨れて見せていた。
「ごめんなさい?…そうねー…良いよ!」
「本当!?」
高遠さんは嬉しさを顔中で表現しながら聞いてきた。
「本当よ。あなたのその、そう呼びたい理由にやられたわ」
と私も笑顔で答えた。
「じゃあ私のことも”裕美”って呼んでね?」
「うん、分かったよ裕美」
「うん!琴音ちゃん」
 今考えて見ても不思議だけど、昨日までは、向こうは私のことを知っていたみたいだけど、話した事のなかった者同士、普通に考えれば急に仲良くなる事は無いんだろうけれど、この頃の年代のせいなのか、気軽に下の名前で呼び合うようになっていた。まぁ尤も、私自身は呼び方について、そもそもそこまで抵抗がなかった。何しろ叔父さんを義一さんって下の名前で呼んだり、頼まれたからとはいえ年上の女性に絵里さんと、これまた下の名前で呼んだりと、そういうある種、特殊な私の性質にも依るところがあったんだと思う。それに裕美、私から見てもあまりにも他人との距離の取り方が、上手いとはお世辞にも言えず、ある意味下手に見えた。他の例を知らなかったから断言出来ないが、少なくとも私に対する態度はかなり人を選ぶと思う。
でも、これも後になって気づいた事だが、こういう遠慮なくグイグイ踏み込んで来るタイプの方が私には合ってるように思えた。クラスメイトや、仲良しグループの子達、勿論それなりに楽しく過ごしていたが、何処かみんな私に、自覚があるかはともかく、遠慮しているように感じていた。何か壊れ物を扱うように。私は私で、しつこいようだが、大人しい普通の女の子を演じていたつもりだったから、そもそもこっちが心を開かず余所余所しいんだから、そうなるのも無理はないと納得していた。それが今度のはコレだ。今まで周りにいなかったタイプだった。…いや、ヒロがいるから二人目か。女の子では初めてだった。

 それからは昨日の塾から出された宿題の話などをしていたが、ふと急に背負っていたランドセルを強く数回叩かれた。こんな事をするお猿さんは奴しかいない。ヒロだ。
「よっ琴音!今日も冷めてるかぁ…って、おぉ!」
と私に声を掛けたかと思うと、隣を歩いていた裕美に視線を移して、さも意外そうに言った。
「これまた意外な組み合わせだなぁ。高遠じゃんか」
「おはよう、森田くん!」
ヒロの方を見ると、テンションを上げながら裕美は挨拶をした。
「何?二人共知り合い?」
と私が二人の顔を見ながら聞いた。裕美が答えようとする前に、ヒロが割り込むような形で答えた。
「おう!同じクラスだぜ!なっ?」
「うん!」
裕美も笑顔で明るく答えた。
「ふーん、そうなんだ」
「そういうお前らは何なんだよ?」
と今度はヒロが私達二人を見ながら聞いてきた。
「二人は同じクラスになった事ないだろ?それに仮に同じクラスでも、片や暑苦しくて、片や凍えるほど冷たい…そもそも接点がある無し以前に、仲良くなる理由がないだろ?」
「ちょっと!どういう意味?」
私達二人はほぼ同時に、ほぼ同じ内容でヒロに非難した。二人は顔を見合わせて一瞬キョトンとしたが、すぐにクスクスと笑い合った。ひとしきり笑うと裕美が答えた。
「私達同じ塾に通っているの。そこで初めて会話してね、それで仲良くなったの。ねっ、琴音ちゃん?」
「あ、うん。そうだね。そんなところ」
昨日初めて話したことは伏せた。
「ふーん、そっか…高遠、コイツかなり変わっているけど、根は悪い奴じゃないから仲良くしてやってくれよな?」
ヒロは誰目線なのか、偉そうに腕を組みながら裕美に話していた。裕美も大きく笑いながら
「あははは!分かったよ森田くん、任せといて!」
と元気に答えていた。黙って聞いていたが、私も我慢が出来なくなって言い返した。
「裕美、こちらこそヒロをお願いね?こんなお猿さんと同じクラスじゃ何かと大変だろうけど、こう見えてもしっかり躾はされてると思うから、危害はないと思う」
「おいおい」
とヒロは顔中に不満を滲ませながら抗議してきた。
「まるで俺を猿みたいに言うんじゃねぇよ」
「あら、違うの?」
私は澄まし顔で答えた。
「だって出会い頭に毎度毎度私のランドセルをバンバン叩いてくるもんだから、文明の言葉を使えないお猿さんだと、今の今まで思っていたわ。ごめんなさい」
と最後は深々と大袈裟にお辞儀をして謝って見せた。
「おいおい…」
「あははは!」
私達二人のやり取りを見ていた裕美は、大きく笑い声を上げていた。それを見てヒロは頭を掻き、私は釣られてクスクスと笑っていたのだった。
 
 それからというもの、すっかり何かにつけてこの三人で過ごす事が多くなった。仲良くしていた女の子達とも、クラスの中で軽く挨拶をするくらいで、それ以上親しくすることも無くなった。
 今振り返ってみると、少し何かボタンのかけ違いがあったら、ハブられたりとかイジメにまで発展しかねなかったように思う。当時は別にこれで疎遠になるならそれでいいと軽く考えていたが、思い返すと、私が連んでいた女の子達はある種のスクールカーストの上位者で、私のクラスでは目立つ方だった。
 子供のくせに、カーストだの何だの下らないと大人は思ったりするだろう。大人は確かに仕事場などで人付き合いに失敗して居づらくなっても、最悪そこを辞めればどうにかなる。勿論辞めたくても辞められぬ、大人なりの事情があったりして、容易に言ってはいけないかもしれないけど、ある程度は自由の利く立場にある。でも子供は、まだ大人の庇護の下でなければ生きていけない。それも”学校”なんていう、外には出られぬ”箱庭”で、朝から夕方までいつも同じ子供達と過ごさなければならない。その狭い社会の中で人付き合いに失敗した時、何か運よく、まぁ私のように、好きなもの、熱中出来るものが見つかれば、周りを気にせずそれに打ち込めば済む話ではある。
でもそんな運が良いのは、全体のうちのごく僅か。大抵は自覚あるかはともかく、誰かに嫌われてはいないか、どこかで自分の悪口を囁かれていないか、体があんなに小さくて経験も乏しいのに、日々あれこれ余計なことを考えて過ごしている子もいるのも事実だ。
 話を戻すと当時私は目立つとか何とか何も考えずに、周りに集まって来てくれる人達くらいの意識しか無かったが、もし彼らに逆恨みにでもあったらと思うと、口先では何でもないと言ってはいても、やっぱりそんな状況になったらと思うと背筋が寒くなる。
 私の中ではやっぱり”裕美”という友達が出来たのが大きかった。出会いは摩訶不思議というか、この時はまだ何で裕美が私に声をかけて来たのか、よく分からなかったし腑に落ちていなかったけど。
 私と全く真反対のタイプだ。ヒロの言葉を使うのは癪に障るけど、キャラを作らない時の私は端から見て、感情を表に出さず、話す言葉の節々に嫌味や毒を練り込まずには居られない、良く言って”冷静沈着”、悪く…いや普通に言ってただの”冷たい女”だった。それに比べて裕美は、一言で言えば”女版ヒロ”だった。明るくサッパリしていて、勢い満点な所なんかは特にそうだ。裏表ない長所も同じだった。ヒロは”暑苦しい女”と、鏡を見てみろと突っ込みたくなるようなことを言って裕美を称していたが、正直そう思う事が無きにしも非ずだったけど、でも私なりに言えば”温かい人”だった。この一言に尽きると思う。まぁヒロに対してと同じで、裕美にも絶対に言ってなんかあげないけど。

第11話 図書館 絵里さん家 忠告

その週の土曜日、学校から家に帰って軽く着替えてから、塾用に今は使っているいつものトートバッグを持って図書館へ向かった。正面玄関前の時計の下で裕美と待ち合わせていた。図書館の建物全貌が見えてきて、時計の下の方を見ると、裕美がいるのが見えた。この間のような可愛らしい格好をしていたし、他には人の姿が見えなかったのも相まって、遠くからでも裕美だと分かった。何となく私は手を振ったが応答がない。何やら手元を見ている。
スマホでも見ているのかしら?
近づいて見ると、どうやら見ているのはスマホじゃなく本のようだった。数メートルくらいまで近づいたのにまだ気づかない。よほど集中しているようだった。私は少し駆け足で近寄り、肩にポンと手で叩いてから話しかけた。
「…裕美、何読んでるの?」
「わっ!…あぁ、琴音ちゃんかぁー…びっくりさせないでよ」
「ごめんごめん。でもあなたの予想外にいいリアクションにこっちもビックリしたんだから、これでおあいこにしてよ?」
「何よそれー…まぁいいわ」
裕美は苦笑いで私に応えながら、手元の本を閉じた。表紙をみると、どうやら塾の教科書のようだった。今日私も持ってきていた奴だ。裕美が持っている本に視線を向けながら聞いた。
「へぇー、私が来るまでずっと勉強していたの?」
「え?あ、うん」
裕美は参考書の表紙と裏表紙を交互にひっくり返し見ながら答えた。
「勉強ってほどじゃないけど、暇だったからね。ペラペラめくっていただけ」
「へぇ…とか言っちゃってー。実は先に予習して私よりも先に行こうとしていたなー?」
「ば、バレたかぁ」
私が腰に手を当てて、ワザとジト目で問い詰めるように聞くと、裕美は口でわざわざ『ギクッ』と言うと、胸辺りを抑えながら苦しそうに悶えて見せていた。一頻りやった後二人で笑い合った。
「…さて、行きましょう」
「そうね」

中に入ると今日は初めから受付に絵里が座っていた。昨日のうちに、今日図書館に行く事を伝えてあったからだ。絵里は私の姿を認めると、それまで真面目な事務的な顔つきで目の前のパソコンを睨んでいたのに、パァッと笑顔になってわざわざ立ち上がり、受付の席から出てきて急に私に抱きついてきた。
「琴音ちゃーん、久し振りー」
「いやいや、先週会ったばかりだから」
絵里が顔を私の顔に摺り寄せようとしてきたので、私は両手で絵里の顔を遠のけようともがいていた。私達のそんなしょうもない様子を見て、裕美はただただ唖然とするばかりだった。当然の反応だ。
「もーう、絵里さんいいでしょ?」
「えぇー、まだまだ…おや?」
絵里は今初めて裕美の存在に気づいたかのような反応を示して、ようやく私から離れた。唖然としている裕美に構わず、絵里は自己紹介を始めた。
「あぁ、あなたが話に聞いてた琴音ちゃんの友達ね?私は山瀬絵里。この図書館で司書をしているの。あなたは?」
「…あっ、あ、はい」
裕美はようやく落ち着きを取り戻し、気を取り直すように答えた。
「私は高遠裕美って言います。琴音ちゃんとは同じ塾に通っていて、学校もおんなじです」
ここまで言うと裕美は絵里に向かって頭を下げながら
「今日はよろしく御願いします」
と言った。今度は絵里の方がキョトンとしていたが、すぐに笑顔になって応じた。
「ははは。別に私は何もお構いなんて出来ないけど、まぁゆっくりしていってよ。…琴音ちゃん」
「え?」
絵里は顔を私に向けていたが、視線は裕美に流しながら言った。
「何よー。琴音ちゃんから話を聞いた感じじゃ、中々のお転婆娘かと思っていたのに、すごく礼儀正しいじゃないの。どっかの誰かさんとは違って」
「あっ、いや、そうでもないですよ」
と裕美は少し照れ臭そうに絵里に向かって言った。
…こんなところもヒロに似ているのよねぇ
と一人ニヤケていたが、一人除け者にして二人が笑顔を交わしていたので、少し意地悪してやろうと私はその”誰かさん”の真似をして、少し剥れて見せながら割り込んだ。
「ちょっとお二人さん?もういいかな?そろそろ”誰かさん”は勉強したいんだけれど?」
「あぁ、はいはい。ごめんなさいねぇ。じゃあ二人とも受付の方に来て」
絵里はサラッと私の嫌味を聞き流し、私達二人を受付に案内した。
「さてっと…琴音ちゃんはもうカード持っているから…裕美ちゃん?」
「は、はい」
「裕美ちゃんは…って裕美ちゃんて呼んでも良いかな?」
と絵里が聞くと、裕美は自然な笑顔で答えた。
「はい、大丈夫です。好きに呼んで下さい」
「そう?ありがとう。じゃあウチは区立だからそんなに厳しくないんだけれど、一応この紙に名前と住所を…」
裕美が絵里に教えられるまま会員証を作っている間
絵里さん…私に対して呼び方がどうの聞いてきたっけ?…あっ、あぁ聞いてたか。
などとあまりに暇だったので、どうでも良い事を頭の中で自問自答していた。
「よし、これでオッケー」
と絵里は裕美にカードを渡しながら言った。
「ありがとうございます」
「じゃあ裕美ちゃん、次からウチに来る時はそれを忘れないでね?忘れたら向こうのエリアには行けないから」
と言うと、絵里はここで切って、向こうの書庫で本の整理をしている別の司書さんの方をチラッと見ながら小声で裕美の耳元で囁いた。
「…でももし忘れちゃっても、私が受付にいる時は中に入れてあげる。…本は流石に貸せないけどね?」
「ほらほら絵里さん、悪い顔してるよ」
絵里が言い終わると、ウインクしてニヤニヤ笑っていたので、私はわざと他の司書さんに聞こえるように言った。
「シーーーーーっ」
絵里は慌てて口に指を当てて、静かにするようにジェスチャーした。でも顔はニヤケっぱなしだ。本当にいたずら小僧みたいだ。
 私はその様子を見て大袈裟にため息ついて見せたが、隣で裕美はクスクス音量が出ないように控えめに笑っていた。


「いやー、琴音ちゃんの言ってた通りだね」
「え?何が?」
私達はテーブルを挟んで向かい合いながら座り、各々カバンから教科書と筆記用具をテーブルの上に出していたところだった。ここは毎度毎度のお気に入りの席だ。
 裕美は大人しく受付に座って仕事に戻っている絵里の姿を見ながら
「ほら、あの司書さん。私もうろ覚えだったけど、昔確かに琴音ちゃんが言ってたように、先生に連れられてここに来た時見たような気はしていたけど、その時はいかにもな感じだったから、実際話すまで正直信じられなかったの。でもあんなに明るくて気さくな人でも司書になれるんだね?」
と、最後は嫌味なのか本音なのか分かりづらい事を言ったので、私は思わず吹き出しそうになったが、すぐに冷静を取り戻して
「…ふふ、確かにそうね。でもそれを本人に言っちゃダメよ?私みたいに絡まれちゃうんだから」
チラッと絵里の方を見ながら答えた。裕美は少しテーブルの上に身を乗り出すようにしながら
「…琴音ちゃんとあの司書さん、すっごく仲良さそうに見えたけど、友達なの?」
と、いかにも興味津々と言った顔つきで目をキラキラさせながら聞いて来た。
「ほら裕美、行儀悪いわよ」
私は裕美のおでこを軽くデコピンして言った。裕美は痛くもないだろうに大袈裟におでこを摩りながら席についた。でもまだ聞きたそうな顔をしているので、気乗りのしない表情を作りながら仕方無しに答えた。
「…そうね。友達といえば友達ね」
「えぇー、何その含みのある言い方」
裕美はほっぺを膨らませながら言った。私は澄まし顔で塾の教科書とノートを広げながら
「さっ、勉強しなくちゃ。…そんな顔しないでよ。後で時間があれば話してあげるから」
と返した。
「きっと、きっとだよ?」
と裕美も教科書とノートを広げながら渋々言った。
「はいはい、さて始めよう?」
何でこの子が私なんかのことについて、こんなに興味や関心を抱けるのか不思議でならなかったが、考えてみれば普段の私の”なんでちゃん”と大差ない事に気付いて、バツが悪い思いをして一人苦笑いをするのだった。

「…んーん、疲れた」
伸びをしながら時計を見ると、いつの間にか五時十五分前になっていた。窓の外を見ると、すっかりありとあらゆるものがオレンジ色に染められ、温かな色合いを発していた。図書館の周りに植えられている銀杏の、もう少しで完全に黄色に変わろうとしている葉っぱが、夕陽に照らされて、黄色どころか黄金に輝いて見えた。そろそろ閉館の時刻だ。
「あーあ、そろそろ終わりかな…あっ!」
と、裕美も顔を上げて私と同じように伸びをし時計を見ると、大声にならない程度だったが声を上げた。
「こんな時間になるまで集中していたんだ…びっくりしたわ」
「え?家ではこれくらいしてるんじゃないの?」
と私は意外そうに聞いた。何しろさっきははぐらかされたが、私を待っている間、その短い時間も使って教科書を、話しかけられるまで気付かないくらいに、集中して読み込んでいたくらいだ。それだけでも私よりも”本気”なのがわかった。
 裕美は手に持ったペンを左右に振りながら答えた。
「いやまぁ…家ではそりゃしてるけどさー…大体友達と勉強しようってなって、まず勉強したことがないもん。琴音ちゃんはどう?」
「私は…」
前の仲良しグループの子たちとの事を思い出した。大抵その内の誰かの家に行き、勉強道具を広げるところまではいくが、すぐにおしゃべりが始まりその日はそれで終わるという、あまりに不毛な時間を使うことがほとんどだった。
「…確かにそうね」
「でっしょー?」
と言うと、裕美は今度はペンのお尻を顎に当てながら、つまんなそうな表情で私を見ながら言った。
「私も最初は集中していたんだけど、琴音ちゃんと二人でいるって珍しいから、ついつい話しかけたくなってチラチラ顔を見ていたんだけど、琴音ちゃんったらすごく集中して勉強してるんだもん。私の視線に気付かないくらいに」
ここまで言うと、裕美はまた大袈裟に胸に手を当てて、いかにショックだったかを表現して見せながら言った。
「あぁ…琴音ちゃんにとって私は、いてもいなくてもどうでもいい、虫ケラ程度の存在なんだと考えたら、さみしくなっちゃった」
いやいや、あんたさっき待ち合わせの時、私に気付かなかったでしょう…
と心の中で突っ込んだが、とりあえずそれは言わずに適当に宥める事にした。
「はいはい、気付いてあげれなくてゴメンね。でも勉強しに来てる訳だし、お互い集中出来たってことは、万々歳じゃないの」
「もーう、そんな正論を今言っちゃあダメでしょ?」
と大袈裟に剥れて見せながら返してきた。
「そんな無茶苦茶な」
と私が苦笑いで答えていると、不意に私の隣に座る人がいた。絵里だった。
「二人ともー。勉強は捗ってる?」
「うん、まぁまぁね」
「はい!」
「そっか」
絵里は私と裕美のノートを軽く見比べるように交互に見ながら返した。そしておもむろに私の教科書を手に取るとペラペラページをめくりながら
「いやー、懐かしいなぁ。私もやったわぁ…」
としみじみ言った。私はそれを聞いて、意地悪く笑いながら聞いた。
「絵里さん、それってどれくらい前のこと?」
「うーん?琴音ちゃん、それってどう言う意味かなー?」
絵里はジト目を使いながら私の方を見て批難めいた口調で返した。裕美はさっきと同様に私達の様子を見てクスクス笑っている。
「ところで…」
ひと段落ついたところで、絵里が私に教科書を返してきながら聞いてきた。
「二人とも、どこか志望校とか決まってるの?漠然とでも」
「うーん…私は今ん所特にはないね…裕美は?」
「うん、まだそこまでは考えてないかな?」
「ふーん、そうなんだ。…でも」
絵里はテーブルの上に置かれた教科書の表紙を眺めながら続けた。
「あなた達の教科書、表紙に”特進”って書かれているけど、これって凄いんでしょ?」
「いやぁ、どうなんだろう…」
私がボソッと言うのを無視して絵里は続けた。
「だったら結構上の学校を狙えるんじゃない?二人とも凄いねー。 …特に」
絵里は私に身体をグイグイ寄せてきながら
「琴音ちゃーん、勉強なんて興味無い風にしていたのに、ちゃっかり出来るんじゃーん」
とニヤケ面を晒しながら話しかけてきた。私はされるがままに寄られながら
「いやー…何かの手違いで、そんなクラスに入れられちゃったみたいだけど」
とツンと澄まして淡々と返した。
「いやいや琴音ちゃん、そんな運で入れるクラスじゃないから!他の皆んなが聞いたら、殺意を向けられるよ?」
裕美はまた本気とも冗談とも取れる調子で私に注意してきた。顔は苦笑い気味だ。
「そうよー?今のは『私って努力しなくても、なんでも出来ちゃうの』発言にしか聞こえないからね?…裕美ちゃん」
絵里は椅子に真っ直ぐ座り直すと、向かいの裕美に向かって優しく微笑みながら言った。
「見ての通り、色んな意味で危なっかしいから、初対面のあなたに頼むようで悪いけど、そのー…まぁ色々とフォローをよろしくね?」
「え?は、はい」
「例えば…」
絵里は急に私のほっぺに手を軽く当てながら
「こんなに可愛いのに、フリじゃなくて心の底から素で気付いてない所とか」
と最後は裕美の方を向いて悪戯っぽく笑いながら言った。すると裕美も一瞬ハッとした表情を見せたが、その後すぐ悪戯っぽく笑い返して
「あははは!そうですね、わかりました!」
と返事をしていた。私は一人ムスッとしながら
「…もーう、二人して何の話をしているのよ?」
いつまでもホッペから離そうとしないので、軽く手を払いながら言うと、絵里と裕美は顔を見合わせて
「ほら、これだもんなー」
「気を付けないとですね!」
と苦笑を浮かべながらお互い同じように首を横に振っていた。
「二人してヤな感じねぇ…っていうか絵里さん」
これ以上私の話になるのを避ける意味でも絵里に話を振った。
「私達とおしゃべりしてていいの?サボりじゃない」
「えー、ヒドイこと言うなぁ…いいのよ、ほら!」
絵里が指差した方には時計が掛かっていて、時刻は五時五分前を指していた。
「もう閉館時間だからね」

「じゃあ気を付けて帰りなよ?二人とも」
絵里はわざわざ正面玄関の外まで私達二人を送り出しに出て来てくれた。
「絵里さんはまだ帰らないの?」
と私が聞くと、絵里さんは親指を後ろ方向に向けながら
「一緒に帰りたい所だけど、簡単な片付けをしていかなきゃいけないから、今日はこのまま帰ってね」
と如何にも嫌そうな感情を顔一面に表しながら答えた。
「うん、わかった。じゃあ、またね」
「うん、またね!…裕美ちゃんもいつでも来てね?琴音ちゃんの友達だったらいつでも歓迎するよ」
「はい、また来ますね!」
私と裕美二人は仲良く並んで歩いて、図書館が見えなくなる曲がり角で立ち止まり振り返ると、まだ絵里の姿が見えたので、示し合せる事もなく二人で大きく手を振った。遠くで絵里も子供みたいに大きく振りかえしていた。

「…いやー、楽しかったね!」
隣を歩いていた裕美が満面の笑みで話しかけてきた。私は何のことか当然分かっていたけど
「え?ただ勉強をしていたのに楽しかったの?よっぽど勉強が好きなのね?」
とワザと見当違いなことを返した。それを知ってか知らずか、裕美はほっぺを膨らませながら言った。
「ちーがーうーよ!あの司書さんのこと!」
「あっ、そっち?」
「そっちしかないでしょう!もーう!」
裕美はいつまでも私がしらばっくれるので、埒があかないのにやきもきしていたが、すぐに察して笑顔に戻って続けた。
「こんな私みたいな子供にも、何て言うのかなぁ…同じ目線になってくれるというか…うん!」
ここまで言うと私に顔を向けて、とびきりの笑顔で言い切った。
「すっかりあのお姉さんのファンになっちゃったよ!」
「へぇー、そう?」
私は気のない感じで返した。それが若干不満だったのか、少し膨れながら言った。
「もーう、琴音ちゃんはあの人の友達で近くにいるから分からないんだよ!あの素敵さが!」
あまりにも自分だけが分かっていると言いたげだったので、不思議と何故か『私の方が長く付き合っているんだから、そんな事ぐらいよく知ってる』と言い返したくなる衝動に駆られたが、なんか悔しかったので言わなかった。裕美は続けた。
「それによく見るとすっごい美人だし…はぁー、将来あんな女の人になりたいな」
この短い時間の中で、どこまでこの子は絵里に心酔してるのかと、正直かなり引いていたが、まぁちょっと考えてみれば分かるような気がしなくもなかった。二人ともタイプが似てたからだ。これとは別のことを返した。
「そうね、良く見ればね?」
と少し意地悪く言うと、裕美は少し言いづらそうに答えた。
「うっ!…うん、だってぇ…」
「あの髪型だもんね?」
なかなか煮え切らない裕美に変わって、私がズバッと代わりに言った。するともう遠慮しないで良いと判断したのか、何故かマジメな顔つきで私に続いた。
「ね!?だよね!?何であのお姉さん、あんなに美人なのに頭の上にキノコを乗せているんだろう?」
「…ふふ」
裕美の突然の比喩に思わず吹き出してしまった。さて、訳を知っている私が教えてあげようかどうしようか考えた。私が何も言わずに、絵里に直接聞いてみるよう言えば、裕美と絵里が仲良くなって、私に対する絵里の”可愛がり”が減るんじゃないかと一瞬検討したが、考えるうちに癪だけどだんだん胸がモヤモヤしてきたので、その案は諦めることにした。かといい、私から話すのはもっと違うと考えていると
「…琴音ちゃん?どうしたの?急に黙ったりして?」
と裕美が私の顔を覗き込みながら、心配半分怪訝半分な表情で聞いてきた。
「あ、いや、何でもないの。…そうねぇ」
「え?何?訳を知ってるの?」
裕美はまた目を輝かせながら私に詰め寄った。どうしようかと今まで考えていたが、ふと今思い付いたことを口にした。
「…まぁ”大人の事情”よ。大人には色々とあるの」
とあくまで冷たく澄まし顔でサラッと答えた。
「えぇー…琴音ちゃんだって私と同じ子供じゃん!」
裕美は不貞腐れながら私に抗議してきた。それには構わず
「ほら、大人というのはアレコレと詮索しないものなのよ?」
と私は義一と絵里が聞いたら吹き出しそうなセリフを吐いた。裕美は当然そういう裏のことは知らないので
「チェッ!まぁ、いいわ。言ってることは分かるからね」
とまだ不貞腐れながらも、最後は笑顔で返した。

「じゃあ、またねーっ!」
「えぇ、また」
私達二人は裕美のマンションの前で別れた。

「はははは!やっぱり私の髪型って奇異に映るのね?」
「頭にキノコを乗っけてるって言ってたよ」
「ふふ。中々センスある言い方じゃない?気に入ったわ」
「私も思わず吹き出しちゃった」
「あ、そういえば…」
「ん?何?」
「うーん…あっ!前ファミレスでギーさんが言ってた友達って、あの子のことだったの?」
「え?…あぁ、いやいや、裕美じゃなくて、また別の子」
「ふーん、女の子?」
「いいえ、男の子よ」
「ふーん…あっ、もし」
「違うから」
「ふふ。もーう!その感情殺した声で被せ気味に返さないでよー。まだ何も」
「言わなくても分かるから。違うからね?」
「あははは!そう怒らないでよぉ…あ、そういえば」
コンコン
私はベッドに座り、絵里と電話をしていたが、不意にドアがノックされた。私は慌てて小声で
「ちょっとごめん!少し待ってて」
と言うと、返事も聞かずに枕の下にスマホを隠して、落ち着きを取り戻しながら声を出した。
「はーい」
「開けるわよ」
と言いながらドアを半分だけ開けてきた。お母さんだ。
「そろそろ夕飯が出来るから、早く下りてらっしゃい?」
「うん、すぐ行く」
と笑顔で答えると、お母さんは満足げにドアを閉めて行った。すぐ外で階段を降りる音がする。私はドアに近づき、いなくなったのを確認すると、急いでベッドに飛び乗った。そして枕の下を弄りスマホを手に取ると、通話はもう切れていた。その代わりメールが一通来ていた。
「琴音ちゃん、もし良かったら来月辺りの土曜日空いてないかな?私の方は結構休むのに融通が利きそうなんだ。どこかに行く訳じゃないけど、私の家に来てみない?前に軽く約束したでしょ?受験の事とか何か相談乗れれば乗りたいし。友達として。まぁ余計なお世話かも知れないけどね?笑 とにかく深く考えなくていいから、少し頭の隅に入れといてよ?裕美ちゃんも都合が付けば呼んでいいし。あ、メールが長くなったね?じゃあおやすみ」
うん、本当に長いわ。
私は苦笑いを浮かべながら文面を速読した。私は慌てて了承の返信をすると、部屋を出て一階の居間へと向かった。

 十一月の第一土曜日、私は駅ビルの正面出口前で待っていた。前みたいに学校から一度家に帰り簡単に着替えて、前日に色々と入れた例のトートバッグを下げてここに来たという状況だ。左腕の時計を見た。一時半を指していた。今ちょうど待ち合わせ時間だ。
 おそらく図書館の方から来るものと漠然と考えていたから、そっちの方ばかり見ていたが、中々姿が見えなかった。と、突然目の前が真っ暗になった。誰かに両手で目を覆われているようだった。正直分かり切っていたが、ノッてあげることにした。
「え?誰?」
「さーて、誰でしょー?」
私は少し考えるフリして、ワザとらしくハッとして見せながら答えた。
「あっ!わかった!義一さんでしょ!」
「えぇー、何でよぉ」
手を外しながら声の主は非難めいた声を後ろから投げかけて来た。振り向くと絵里が、不満を隠そうともせず膨れっ面でそこに立っていた。
「あれぇ?絵里さんだったの?全く気付かなかったわ」
私はワザとしつこく、ニヤケながらふざけて見せた。
「あのねぇ、いくら何でも男の声と私の声は間違えないでしょうに」
と絵里はますます不満を露わにして言うので
「ふふふ、ごめんなさい。冗談よ」
と私はとびきりの笑顔で宥めた。絵里はフッと顔の表情を緩めると、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「もーう…ってあれ?」
絵里は周りを見渡しながら言った。
「裕美ちゃんは?裕美ちゃんは来れなかったの?」
「え?あぁ、裕美は…」
私も絵里に倣って、意味もなく周りを見渡しながら答えた。
「聞いてみたんだけど、今日は塾じゃない習い事があるとかで無理だったみたい」
「あら、そう?それは残念ね」
と絵里は私に視線を戻してから返した。
「うん、でもそれは四時くらいに終わるとか言ってて、最後にちょろっと顔出すくらいは出来るって言ってたけど、私が『そこまで無理しなくていいよ。また今度にしよ?』みたいな事を言ったのよ」
「へぇー…じゃあ、しょうがないわね…ところで」
絵里は急に身を屈めて、私を下から見上げると、意地悪く笑いながら
「何で琴音ちゃんは、裕美ちゃんにわざわざそんな事を言ったの?」
と聞いてきた。変なところで勘が良い人だ。女の勘ってやつか?男にそれを使えばいいのに…
などと余計な事を一瞬考えたが、すぐに訳を言うか言うまいか迷った。単純に小っ恥ずかしかった。
「ねぇねぇ、何で?」
絵里は”誰か”のモノマネをしているのだろうか、しつこく聞いてくる。はぁ…
私はそっぽを向きながら
「…それは折角だし、まず私が…そのー…一人で行ってみたかったからね。…と、友達として」
と出来たかどうかはともかく、なるべく感情を表に出さずにそっけなく答えた。するとその直後に、絵里は背後から私に勢いよく抱きついてきた。
「んーーーーーっ!琴音ちゃんって、やっっぱり可愛いーーー!」
「ちょ、ちょっと絵里さん!やめてよ!こんなところで…」
実際どうかは知らなかったが、私達の周りを通り過ぎていく人達に見られて、笑われている気がして、とても恥ずかしかったが、絵里さんは全く気にならないらしい。御構い無しだ。
「はーあ!満足した!」
私から離れた絵里の顔は、言葉の通り、とても満足げだった。
「そ、それは、良かったね…」
「ん?あれ?何でそんなに疲れてるの?顔も若干赤いし」
「な、何でもない」
まったくこの人は…。義一さんの事色々言うけど、絵里さんもかなりの変わり者だよね…まぁ今更だけど。
「?」
私の様子を見て、心の底から不思議そうにしていたが、勝手に一人で気を取り直して切り出した。
「さて、琴音ちゃん。早速私ん家に行こう!ほら…」
絵里はワザと身振りを大きくしながら、どんどん先を歩いて行った。
「さっさと付いて来て?レッツゴー!」
「お、おー…」
私は小声で一応答えてからトボトボと後を追いかけて行った。


私達は線路に沿って走っている道を横に並びながら歩いた。この道は一方通行で、駅に向かって行く車しかなかったから、前だけに注意していれば気楽に歩けた。車自体そんなに来ない道だった。
 絵里は今日は上に黒のニットカーディガンに、下は緑がかったグレーのミモレ丈スカートを穿いていた。前にも思ったが、サバサバしている割には、結構服装に凝っている印象を持った。勝手に決めつけて悪いけど、キャラ的に服装なんかどうでもいいとするタイプかと思っていた。裕美みたいな子が憧れるのも分かる気がした。私は軽くボタンで前を止めるタイプのグレーのセーターに、下は細めのジーンズだった。
 絵里は私の方を見て、ジロジロ舐め回すように顔と一緒に視線を動かしながら、話しかけてきた。
「今日はなかなか大人しい格好をしているね?」
「うん、学校から帰って早く出てきたから、大体そのまんまなの」
「ふーん、そっか!なんか焦らせちゃったみたいでごめんね」
「いいよ、別に」
私の答えにただ笑顔を示したが、ふと今思いついたように切り出してきた。
「そういえば、今日は何てお母さんに行って出て来たの?」
「ん?それはねぇ、まぁ友達と図書館で勉強してくるって言って来たの」
と最後にトートバッグを見ながら答えた。図書館以外は間違っていない。
絵里は少し真剣な顔をして考えていたが、そのままの表情で私の方を見ながら言った。
「ふーん…琴音ちゃん?ついこないだギーさんとも話したんだけれど、ギーさんと会う時もそんな事を言って家を出てるんだね?」
「う、うん、そうだけど…」
さっきから真面目モードの絵里に対して、若干気圧されながらも答えた。この時は何で急にマジになっているのか分かっていなかった。しばらくそのままま絵里は私の顔をジッと見ていたが、フッと急に優しく笑うと、進行方向を向いて明るく言った。
「…まぁ、いっか!後で詳しくは私の家で聞くよ」
「う、うん、分かった」
 それからは他愛のない話、学校の話とか、ピアノの話とか、そういった話をしているうちに、絵里の住むマンションに辿り着いた。
 何と言うか、何とも言えない、何処にでもある、よく見るようなマンションだった。さっきの駅前からは、大体徒歩十分くらいで、図書館までも大体徒歩十分くらい、そんでもって図書館から駅までも十分くらい。何が言いたいかというと、このとき思ったのは、この三つを線で繋ぐと正三角形が出来上がるという、しょうもない事だった。それだけだ。
 そんな事を建物を見上げながら考えていると
「おーい!琴音ちゃん!こっちこっち!」
いつの間にか開けていたのだろう、オートロックを開けて中のエントランスに入っていた絵里が、私に向かって手を振っていた。私は慌てて絵里の元に駆け寄った。
入ってすぐのエレベーターに乗ると、絵里は縦に並んだ数字の羅列の中の”6”を押した。そして着くと、まず心地良い風が、エレベーターからまだ出ていない私達に吹いてきた。外に出て左に出て見ると、周りに高い建物が無いせいか、階自体は高く無いのに遠くまで見渡せた。さっきいた駅がチラッと見えている。図書館は見つけられなかった。
「琴音ちゃん、そんなとこにいないで早くおいで」
絵里は廊下の一番奥に立ち、既に鍵は開けたのか、ドアを開けて手でその状態を保ちながら、私に声を掛けた。
「うん、今行く…じゃあお邪魔しまーす」
「はい、どーぞ」
玄関に入ると、何か甘い香りが立ち込めていた。とても落ち着く良い匂いだ。私が鼻をスンスン鳴らすもんだから、絵里が笑顔で話しかけてきた。
「良い匂いでしょ?これね、お花のラベンダーの匂いなの。私この匂い好きなんだー」
「うん、私もこの匂い好き」
「そう?それは良かった」
靴を脱ぎ、用意してもらったスリッパを履き、二、三個ドアが面した少しばかりの廊下を進みドアを開けると、リビングに出た。キッチンもすぐそこに見える。腰くらいの高さの棚で区切られていた。ここにも薄っすらとラベンダーの香りが充満していた。
部屋はいたってシンプルだった。真っ白な壁には時計が一つあるだけで、リビングには本棚とテレビ、向かいに二人がけソファー、その間に真っ黒のコーヒーテーブル、義一のあの書斎にあるのと同じサイズのテーブルと、椅子が二つあった。床には真っ赤な絨毯が敷いてあった。もう一つ部屋があるようだったが、ドアが閉まっていた。 角部屋のお陰か色んな方向から陽の光が注ぎ込み、電気を点けてなくても十分明るかった。ガサツなイメージとは裏腹に、至る所がかなり几帳面に片付けられていた。一人暮らしの大人の女性の家に先生を除いて初めて来たが、何処もこんな感じなのだろうか?偉そうだけど、子供ながらに中々好みな感じだった。
 お構いなしに気兼ねなくジロジロと部屋を見渡していると
「琴音ちゃん、そんなトコで突っ立ってないで、そこにでも座っていてよ」
と絵里がキッチンで何かゴソゴソしながら苦笑いを浮かべて、こちらに声を掛けてきた。
「はーい」
絵里は今度は冷蔵庫から紙箱を取り出し、私が座った椅子の前のテーブルに置いた。そしてフォークを乗せたお皿二つに、紅茶を入れたカップを二つ持って来た。
「ギーさんから、琴音ちゃんが紅茶が好きだって聞いたから淹れたけど、良かったかな?」
「うん、ありがとう」
私の返事を聞くと、絵里はただ笑顔を見せて向かいに座った。そして徐に紙箱を開けた。中には色んな種類の小ぶりなケーキが入っていた。
「わぁ、すごいね」
「でしょ?」
二人して立ち上がり、中を一緒に覗き込んでいた。
「ここね、駅前にあるケーキ屋さんなんだけど、たまにここで買ってくるのよ。で、琴音ちゃんにも食べてみて欲しくてどうしようかと思ってたんだけど、これなら好き嫌いがあってもどれかはイケるかなって買って来たの」
「へぇー、ありがとう!どれも私好みだよ!うーん…あっ、選んでも良い?」
「ふふ、お好きなのどうぞ?」
絵里は早速紅茶に手をつけている。私は悩んだ挙句、モンブランとイチゴのショートケーキを貰った。絵里はチョコレートケーキとチーズケーキだ。お皿にお互い盛り付けると、絵里は笑顔で私に向き、フォークを横にして、両手で”いただきます”をする時のポーズを作り、親指でそれを持った。私もそれに倣った。私が真似したのを確認すると、絵里は明るく号令をかけた。
「よし!じゃあ、早速いただこうか?いただきまーす!」
「いただきます」

「うーん、やっぱり美味しいなぁ。琴音ちゃんのはどう?」
絵里はチーズケーキを食べ終えると、紅茶を一口啜り、私に聞いてきた。
「うん、これ、本当に美味しい」
私もショートケーキを食べ終えたところで、紅茶に手をつけた。
「そう?良かったー。しかしこれって、本当に”女子会”みたいね?琴音ちゃんは女子会ってする?」
と聞いてきた絵里は、早速チョコレートケーキに手を出している。私はカップをテーブルに戻しながら、苦笑混じりに答えた。
「絵里さん…私を幾つだと思っているの?まだ小五だよ?そんなのやるわけないじゃない」
「あっ、あぁー、そっかー。まだ小五だもんねぇ。あまりに世間の小五とかけ離れているから、ついつい錯覚しちゃうのよ。大人び過ぎているからかな?」
「え?…そうかなー…老け顔って事?」
と私は自分の顔を左手で撫でながら返した。すると絵里は満面の笑みになって、私が触っている反対のホッペを軽くつねりながら
「あははは!そうじゃないよ。そうだなぁ…”大人の色気”っていうのかなぁ。女で年上の私から見ても、羨ましいくらい、もう既に琴音ちゃんはそれを身につけちゃっているんだなぁ」
と言うので、私は絵里の手を払い、目の前のもう一つ、モンブランに手をつけながら返した。
「またそんな訳のわかんないことを言ってー…色気か…色気って何だろうね?」
自然とモンブランを口に含みながら疑問が口から飛び出した。あっ!と思う前に絵里が意地悪く笑いながら、素早く反応を示した。
「おっ?出た出た、琴音ちゃんのクセが。じゃあ、分かっているだろうけど逆に聞くね?色気って何だろう?」
「えー…」
と一瞬考えて見せたが、今回は前とは訳が違う。私も意地悪く笑いながら返した。
「…って、こればかりは私には無理よ。だって…」
ここで私は両手の人差し指を、両方のほっぺに当てながら戯けて続けた。
「まだまだか弱い、小五の女の子だもん!」
私の迫真の、痛々しいぶりっ子振りを目の当たりにした絵里は、冗談じゃなく呆然としていたが、急にプッと吹き出すと、ニヤケながら言った。
「はは、琴音ちゃんもそうやって冗談でもぶりっ子が出来るんだねぇ。いや、御見逸れいたしやした」
と最後は深々とお辞儀をした。私はただでさえ恥ずかしいのを我慢してやって見せたのに、仰々しくやられると、恥ずかしさは倍増だった。私は慌てて
「いやいや、絵里さん!顔をあげてよ。流石の私も恥ずかしすぎる!」
と抗議すると、少し顔をあげ、ニヤッと私にも分かるように見せてから、改めて体勢を元に戻した。そしてやれやれといった調子で
「はぁーあ、まっ、琴音ちゃんのぶりっ子が見れたから、今回はこれぐらいにしとくか!」
と言い終えると、紅茶を一口啜った。
「なーんか、そうすれば私がすんなり許すだろうという目算があるように感じて、子供特有の小賢しさを見せられた感は否めないけど…」
最後に私にジト目を送りながら言った。
「えぇー?そんな事ないよぉ。心外だなー」
と私は思いっきり棒読みでセリフを読むように、淡々と視線をわざと逸らしながら答えた。少し間が空いたが、私が視線を戻すと、丁度絵里と目があい、そこでまた無言で一瞬見つめあったが、お互いに吹き出して笑いあったのだった。

「さてと…色気ねー」
チョコレートケーキを食べ終えた絵里は、カップを手にしながら呟いた。
「あらためて聞かれると…分からないわねぇ…まったく」
絵里はここで一口紅茶を啜ると、カップをテーブルに戻し、そして私に恨みがましい視線を送ってきながら言った。
「また人が困るようなことを意地悪く見つけて、質問してくるんだもんなー…この困ったちゃんめっ!」
「ふふ、ごめんなさい」
他の人に言われたら私は本気にして傷ついただろうが、私と絵里の間には、これを冗談だといちいち言わなくても分かる絆のようなものが醸成されていた。
「でもまぁ、これは絵里さん自身に聞きたいことでもあったの…子供の私から見ても、漠然とだけど、色気があるように感じるし…意外だけど」
と最後の方はボソッと小さく、でも嫌味と分かるように言った。
「ちょっと?聞こえているわよ?…まったく誰に似てそんな、人を巧みに小馬鹿に出来る技術を身につけたんだか…あっ!」
絵里は苦笑いで不平を述べていたが、急に何かを思い出したようにハッとした表情になった。私がその変化を見逃すはずがなかった。
「え?何?何を思い出したの?」
と身を乗り出すように、向かいに座る絵里に近付き聞いた。絵里は少々照れ臭そうにしていたが、私が引く気がない、そもそもそんなキャラじゃないことを思い出したのか、観念したかのように話し出した。
「あー…いやー…ね?…ギーさん関連だから、あまりこの手の話で出したくないんだけど」
「え?何で出したくないの?」
正直私は照れ臭そうに義一の名前をいう絵里の様子を見てすぐに察したが、敢えてズルく詳しく聞き出そうとした。
「ま、まぁいいじゃない!でもそっか…余計に深い意味があるように思わせちゃうよね…よし、じゃあ言うね!」
何やら途中はボソボソ言っていたが、自分自身を奮い立たせるように語気を若干強めて言い放った。
「…あれは、そう…私とギーさんがまだ大学生だった頃の話なんだけど」
「うん」
「私が何かの授業が終わって、友達…前に言った、離れていったのじゃなくて、その後新たに出来た友達ね?この頭にした後の」
絵里は笑顔で自分の頭のキノコに触った。
「…で、その友達と次の授業がある教室まで、十五分くらい時間があったからゆっくり移動していたんだけれど、散歩の意味も含めて、普段人が通らない建物の裏を通って行こうとしたのね?そしたら何やら人の気配がしたの」
「その人っていうのが…」
「そう、ギーさん!…で、声をかけようとしたら、どうも一人じゃないようだったの」
「誰がいたの?」
「遠くから見てたんだけど、すぐに誰か分かったの。それは…私から離れていった友達の一人だったのよ」
「え?えぇー…何でまた?」
と私が心の底から不思議がっていると、絵里は私に優しく微笑みかけてから、続きを話した

「ふふ、さすがの聡明な琴音ちゃんでも分からないか…要はね?ギーさんが私の元友達から告白されていたの」
「え?…えぇーーーーー!」
私は自分でもビックリなくらい大きな声を出した。絵里は笑いながらも私の口を手で押さえながら言った。
「シーーーっ!琴音ちゃん、他の人もここには住んでるから、大声は無しでね?」
「あっ、うん…ごめんなさい」
私が口を押さえられながら謝ると、絵里はまた椅子に座って紅茶に口つけてから続けた。
「ははは、まぁ琴音ちゃんが驚くのも無理はないよ。なんせ私と琴音ちゃんはアヤツの生態を嫌という程知ってるからねぇ。とてもじゃないけど女にモテるとは思えないよねぇ?あんな屁理屈ばっかり言う”理性の怪物”なんて」
「あ、いや、そんな…」
私は無意識に自分でも意味がわからないまま、義一のことをフォローしようとしたが、それは受け入れられなかった。絵里はわざと無視して先を続けた。
「で、その時私は一緒にいた友達に、先に行って席を確保しておくように頼んで教室に向かわせたの。私はそうねぇ…十数メートルくらいは離れていたかな?物陰から興味津々って感じで見守ることにしたの…いや、ただの野次馬ね?」
絵里は悪戯っぽく笑って見せた。
「まぁまぁ距離があったから、何を会話してるのかまでは分からなかったけど、雰囲気的に告白なのは分かったからジッと見てたの。そうね…私の位置からは彼女の顔は見えたけど、ギーさんはこっちを背にしていたから、表情までは分からなかったね。…でね?少しすると、彼女の方がギーさんに急に詰め寄り何か捲し立てていてね。私はその時『あぁ、ギーさん、また何かよく分からない理屈を言って、相手を怒らせちゃったんじゃないでしょうね?』って一人頭を抱えてたの」
私も話を聞いていて、その情景は見てもいないのに、はっきりと浮かぶようだった。
「最後の方は彼女は半泣きでね、最後に何か捨て台詞を吐いて走ってどこかへ行ってしまったの。ギーさんは追いかけようともせずに、頭をポリポリ掻いているだけだったわ。私はやれやれと溜息をついて、静かにギーさんの背後に忍び寄って、手が届く距離まで近づくと声を掛けたの。『…はぁ、何やってんのよギーさん?』急に声を背後から掛けられたもんだから、ギーさんは素早く振り向いてこっちを見たけど、私とすぐにわかると、向こうも大きく溜息をついて言ったわ。『なーんだ、絵里かい?驚かさないでくれよ?』」
絵里がまた前みたいに、特徴をよく捉えた義一のモノマネをしだした。
「『今の子なんだったの?』って私は、ギーさんの抗議には一切耳を貸さずに聞いたの。そしたらギーさんはこうやって頭を掻きながら言ったわ。『いやー…見られてたのか。…どこから見てた?』って、私が覗き見してた事には文句を言わずに質問してきたの。後で思ったんだけど、これって普段からギーさんが私のことを、よく覗き見している趣味の悪い女だって思っているって事だよね?心外だなぁ」
絵里は納得いかないって顔で言った。私はただ、同意ともなんとも言えない感じで、ただ微笑むだけだった。
「ふふ」
「そこは否定してよー…まぁいいや。で、私は『あそこから見てただけだから、声までは聞こえなかったけど、多分…最初から?』って言いながら隠れていた物陰を指差したの。ギーさんもそっちを見ながら『ふーん』って素っ気なく返すだけだったわ。で、なかなか自分から話す様子を見せなかったから、私からギーさんに、肩に腕を回しながらニヤケ面で聞いたの。『そんなことよりさー…ギーさん、隅に置けないねぇ。あんな美人に言い寄られるなんて』この時敢えて、彼女が私の元友達とは言わなかったわ。『で、どうしたの?あの子、なんか最後は怒って帰っちゃった様に見えたけど?』って離れてから聞いたら、最初腕を組んで考えていたけれど、いかにも仕方ないなぁって顔しながら頭掻きつつ教えてくれたの。『いやー…最初はゴメンって断ったんだよ?そもそもあの子の事知らなかったし。そのことも言いながらね。僕なりに何も知らない相手に対して、変に受け入れず誠実に断るのが一応義務かなって思って言ったんだけど』ここまで言うと私の事を見てきてね、ニヤって笑って言ったの。『…どっかのモテモテの誰かさんの真似をしてね』って。私はその嫌味を華麗に無視したわ!」
絵里は手で飛んでいる虫を払うような動きを見せてから、ここで一息ついて絵里は紅茶を飲んだ。
「でね、続きを聞こうとしたらここでチャイムが鳴っちゃったの。授業開始のね?正直無視してその先聞こうとしたんだけれど、ギーさんがパタッと会話を止めてね、これでお終い!って言うのよ」
「えぇー…まさか本当にこれで…?」
と私もずっと黙って聞いている間にモンブランを食べ終え、両手でカップを包むように持ち、紅茶を一口啜りながら聞いた。すると絵里は、大げさに人差し指を胸の前で上に向けるように立てて、口でチッチッチッと言いながら、それを左右に揺らし、そしていつもの悪戯っ子な表情を浮かべて言った。
「いやいやいやいや!この絵里さんが易々このまま引き下がる訳ないでしょ?ちゃんとその後待ち合わせの約束を無理矢理させて、大学近所の喫茶店に入って根掘り葉掘り聞いたわ」
ここまで言い終えた絵里は、すごく誇らしげだ。
「で改めて聞いたわ。『で?結局どんな相手を怒らせる悪い事を言っちゃったの?どうせ今回もギーさんの至らなさの所為に決まっているんだから!』ってズバッと聞いたの。そしたらギーさん、こうやって頭を掻きながら『おいおい、”も”って何だよ”も”って』って苦笑いしてたわ。当然そんな抗議は無視して続きを促したの。ギーさんはやっと話し始めたわ。『いや、何も言ってないと思うんだけどね…ただずっとおんなじ問答が続いて、ふとあの子が急に”じゃあ望月さんのタイプってどんな人なんですか!?”って結構強めに聞いてきたんだ』って言うの。私それを聞いて、あの子…私と友達だった頃は軽薄なチャラい印象だったけど、結構この手の恋愛ものは素直じゃない”なんて、今更かつての友達に対して感心してたんだけど、私はその事も言わないで黙っていたの。ギーさんはそのまま続けたわ。『急に聞かれて困ったんだけどね…まぁ…”色気”…かなぁ?色気がある女性が好きって答えたんだ』って言うの」
「あっ…あぁー」
途中だったけど、私は胸の前で一度パンと両手を叩いて、合点がいったように見せた。
「やっとここで”色気”が出てくるのね?」
と私が言うと、絵里が私に人差し指で指しながら答えた。
「そう!その通り!エクセレーント!」
何故英語?なんてくだらない疑問が一瞬浮かんだが、それをすぐに打ち消して、
「前置きの長さは義一さんと良い勝負ね?」
と意地悪く言うと、絵里は頭を掻く義一のモノマネをしながら続けた。
「えぇー、勘弁してよー…。で、それでね?ギーさんが続けて言うのはね、こうだったの。『”色気?”って、自分から聞いてきたくせにキョトンとしてるんだ』『まぁ、普通の大学生がタイプにあげる第一候補には来ないだろうからね』『そうかなぁ?咄嗟に言った割には自分で納得いってるんだけど…するとね”私はどうですか?私は色気がありませんか?”って言うんだよ』ギーさんは困り果てた顔をしていたわ。私も話を聞いてて、なかなか告白して断られた相手に、ここまで食い下がるのは凄いなぁって単純に感心してたの。もっと違う形だったら、仲良く出来たかもなぁ…なんて思いながらね?で、私が『なんてそれで答えたの?』って聞いたの。そしたらギーさん、これが普通って感じで返してきたのよ…」
絵里は苦笑いだったが、何とも言えないもっと色んな感情が入り混じってそうな笑顔だった。
「『え?…君?そうだなー…うん、無いね』」
「え?えぇー…」
絵里の精巧な義一のモノマネ越しに、そのセリフを聞いたが、いくらこの手の話に疎い私にだって、この返答が酷いことは分かっていた。
「そのたった一言だけ?無いって?」
私が確認するように聞き返すと、絵里は苦笑を解かずにそのまま続けた。
「ね?なかなかでしょ?その時の私も思わずしかめっ面しちゃったもん!”えぇー”って感じで。でもそんなの気にするタマじゃないから、ギーさんは構わず続けたの。『僕がそう言うと、あの子は何を言われたのか分からない感じでいるから、まぁいいやと思ってそのまま続けたんだ。だから君は僕のタイプじゃ無いから、ごめんって。そしたら急に激昂してきて何か喚き立てていたけど、よく聞き取れないままどっかに行っちゃったんだ…で、終わり』って軽く閉められちゃったの。もうね、言うまでも無いけど、心底呆れ返ってね、まぁでも友達だから忠告しなきゃって思って、言ってあげたの」
絵里は足を組み、肘をつき、顎を手の上に乗せて、ジト目で私の方を見てきた。おそらく今ここが、義一と入った喫茶店、という設定なのだろう。
「『ギーさん…友達として一つ忠告しておくね?』『何かな?』『…夜道背後には気をつけるんだね…そのうち刺されるから』ってね!」
途中までは声を低くし、ドスを効かせた声質で話していたが、最後の最後で明るく調子を上げて言い切った。私は黙っていたが、最後の調子が上がる所で、直後に吹き出してしまった。
「…ふふ。ホントだね!よくその人に何かされなかったなって思うよ」
と言うと、絵里はまた元のように座り直し、カップを手にしながら返した。
「でっしょー?正直ね、こんな話はまだいくつかあるのよ?ひっどいでしょー?しかも本人は、微塵も悪気が無いんだからねぇ…悪質極まりないのよ」
「ははは!」
「はぁー…あれ?何でこの話をしてたんだっけ?」
「え?えぇっと…」
私も一瞬何でか理由を忘れかけていたが、すぐに思い出して言った。
「ほ、ほら!”色気”についてだよ!」
「あっ!あぁ、そうだった、そうだった!失敬失敬!」
絵里は片手でゴメンとジェスチャーをしながら謝った。
「そうそう、でね、琴音ちゃんじゃ無いけど気になるじゃない?ギーさんの考える”色気とは”って」
「ふーん…気になるんだー」
私は意味深に笑いながら絵里をジッと見た。絵里は一瞬ハテナを浮かべたが、ハッとすると急にアタフタしながら答えた。顔は若干赤みが差していた。
「ち、違う違う!あんなに好いてくれていた相手に対して、手酷い仕打ちをする程の理由が知りたかっただけだから!」
「ふふふ、ごめんなさい?」
私が頭をわざわざ下げて謝ると、絵里もようやく落ち着きを取り戻し、続きを話し始めた。
「『ギーさんはそう言ったけど、あの子の何処を見て色気がないと思ったの?』って聞きながらその時私の脳裏には、あの子の服装が浮かんでいたの。あ、そうそう、ちょうど今ぐらいの時期でね…あぁ今気付いたけど、もうすぐクリスマスだから…だからか…」
「もしもーし、絵里さーん?」
私は身を乗り出して、急に何やら考え込みだし、ブツブツ言っている絵里の顔の前に手を出して、ヒラヒラして見せた。絵里はハッとすると、照れ笑いを浮かべながら続きを話した。
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!また外れちゃうところだった。で、私は聞きながらあの子の服装を思い浮かべてたんだけど、中々派手な格好をしていてね?上はそこそこ厚めのセーターを着ていたと思うんだけど、下はショートパンツに、なんかタイツ的な物を履いていたのよ。男共としては垂涎物だったと思うよ?まぁ、私は男じゃないからイマイチ分からないけどね?で、あの子もスタイルが良かったから、素直に言って似合っていたの。私の連んでいたグループの中でも一番可愛かったわねー…。おっと、話を戻すと、ギーさんはどう答えようかってな感じで考え込んでいたけど、しばらくしたら答えたの。『うーん…何処って…まぁ一言でいえば、”空っぽ”な事かな』って答えたの」
「…空っぽ」
私はそう呟くと、手元の空になったカップの中をチラッと見た。絵里はそれを見るとすぐに察して
「あぁ、もう紅茶ない?お代わりいる?」
「あ、うん。良ければ」
「はは、遠慮しないでよ!ちょっと淹れてくるね?」
絵里は自分の分と私のを持ってキッチンに行った。そしてすぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ。今淹れたてだから気を付けて飲んでね?」
「うん、いただきます」
私達はお互いふーふー息を吹きかけてから、一口紅茶を啜った。絵里はカップを置くと、はぁッと短く息を吐いて、満足げな表情を浮かべてから、前置きおかずに話を続けた。
「で、えーっと…そうそう!空っぽな所って答えたのよ。私も頭にクエスチョンマークが浮かんでいたんだけど、取り敢えず『空っぽ?』とだけ、さも意味が分からんていう意思表示だけは示したの。それが通じたのか、ギーさんは話を続けたの。『空っぽっていうのはね…うーん…喩えが難しいんだけれど、逆に言えば、中身が色々と詰まっていたら、その中身の片鱗が見え隠れしている…ってことかな?』なんて言うの。琴音ちゃんならわかる?」
急に私に話を振ってきた。振られたからにはそれなりに考えてみたが
「…うーん、分かるような分からないような…」
と最後は苦笑いで返した。絵里も同じく苦笑いだ。
「よく分からないよね?まぁ、聞いたのは私だから、当時それなりに考えてみたけど、サッパリだったから素直に聞いたわ。『…ん?益々意味不明なんだけど?…これって”色気”についての話だよね?』って。そしたらギーさんも私とは別の意味で益々俯き考え込んじゃってねー…まぁ普通の人ならここで呆れて帰っちゃう人もいるかも知れないけど、下手に付き合いがあるせいで、これは相手に対して真摯に誤解がなるべくないように、慎重になっているためだって事がよくよく分かっているからね、黙ってギーさんが考えている間、私も黙って外の景色を見たりしていたの。でもまぁ数分くらいだったと思うけど。暫くしてギーさんは、顔をあげて話始めたわ。『…まぁこれが分かりやすいかどうかはともかく…昔から言われている言葉を使えば、”秘めているものがある”ってことかな…これでどう?』なんて言うの。これはどう?」
また私に振ってきた。
「うーん…さっきよりは分かるかなー…何となくだけど」
「うん、私もそうだったの。『秘めてるものねぇ…あっ!じゃあ、さっき言ってた中身がどうのってこういうこと?』って聞くと、ようやくギーさんは笑顔になって『そう』とだけ短く答えたの。でもすぐ私は疑問が沸いたから聞いたわ。『…えっ、でもさっき片鱗が見えかくれしてるとか何とか言ってなかった?』『うん、言ったよ』『それって…秘めれてないじゃん』って素直に感じたことを聞いたの」
「確かに…秘めてるものって言ってたのに、なんか矛盾してるね」
と私が言うと、絵里も強くウンウン頷いて同意の意を示した。
「それだけ聞くとそう思うよね?でもここでギーさん先生が仰ったの」
絵里は人差し指を立てて、天井に向け、目を閉じながら言った。
「『イヤイヤ、秘めてるのかどうかは、その片鱗を見せてくれなきゃ分からないじゃないか』ってね」
「あぁ、なるほど」
「『元々空っぽだったら何も滲み出てくる訳ないし、逆に中身があると、いくら隠し秘めようとしても、どっかしらから漏れ出てしまうものだからね』ってね、言うのよ。それを聞いてそれなりには納得したけど、一応聞いてみたの。『…じゃあ今言ったのが、ギーさんにとっての”色気”の元なのね?』『そう、まさしくね。だから…さっきの絵里の反応を見て、ようやく悪い事をした気がしてきたんだけれど…』」
「遅ーい!」
と私は、この場にもいないし時間軸もずれている昔の義一に対して、思わずツッコミを入れてしまった。絵里は満面の笑みだ。
「で、ギーさんの続きを言うと『まぁまたあの子に悪い事を言うようだけれど…何も感じなかった。まぁ彼女に限らず、また男女を問わず、何かを僕が感じ取れるような人には中々出会えないんだけれどね?…あっ!』なんか急に何かを思いついたみたいで、ここで声を上げたの。私はびっくりして『な、なに?』とだけ言うと、ギーさんは笑顔で、でもどこか悔しそうに答えたの。『あぁー…あ、いやね?もう一つこんな言葉があったなって』『どんな?』『…秘密を着飾る事で女は綺麗になるってヤツ』ってニコニコしながら言うの。私はそれを聞いて、それ自体には納得したけれど…」
とここまで喋ると、絵里はジト目になって言った。
「こんな表情を作ってね、言ってあげたの。『言いたいことは分かるけど、それってある意味地雷だからね?』『え?どういう意味?』って聞いてきたから、答えてあげたの。『あまり男が女についてあれこれ言うのは、煙たがれるものなのよ。”女とはこういうもんだ”みたいなね。例えそれが的を射た意見だとしてもね。まぁ私は気にしないで、納得いけば受け入れるけど』ってね」
「あぁー…確かに…あっ!」
私はここで初めてさっき絵里が言った言葉を理解した。
「これがさっき絵里さんが言っていた”理屈っぽい男は嫌われる”ってヤツね?」
と聞くと、
「その通り!また一段大人の女への階段を上がったね?」
と絵里は笑顔で若干ふざけ気味に返した。
「まぁ、琴音ちゃんには理解出来ても、あの朴念仁は理解出来なかったみたいだけどねぇ。まぁ”怪物くん”だから仕方ないけど…あぁ、そうだ!」
絵里は紅茶を一口飲みながら落ち着きかけていたが、急に立ち上がると、テレビの方へと歩いて行った。そしてそテレビの両脇に設置してある縦長のタワーラックを開けると、中から大判の本を一冊取り出し、それを持って戻ってきた。そして私にそれを手渡すと
「琴音ちゃん、悪いけどそれちょっと持ってて?テーブルの上を片付けちゃうから」
と言った。
「う、うん、わかった」
とだけ返事する私を尻目に、絵里は手際よくケーキの入っていた紙箱、お皿をキッチンの流しの方へ持っていき、箱はゴミ箱、お皿は洗い桶に入れて水を溜めた。慣れてる感じだ。
 私はその姿を見ていたばかりに、手渡された手元の本の存在を忘れていた。絵里は手をタオルで拭いてからまた戻ってきた。そして向かいに座りながら、私が手渡されたままの状態でいるのを見て
「なーんだ、まだ見てないの?もう見ちゃったと思ったよ」
と微笑みながら言った。私は言われて初めて手元の本を見た。A4判くらいの大きなサイズだ。表紙を見ると、英語で書かれていて、イマイチ分からなかったが、表紙には美人な女性が載っていた。ただし白黒写真だった。
「これって…?」
顔を上げて本をテーブルに置き、向かいに座る絵里に聞くと、絵里は本を置いたままページをおもむろに開きながら答えた。
「これはねぇ…昔の映画スター達の写真を集めた、いわゆる写真集だね」
「へぇー…」
絵里がペラペラページを捲るのを、身を乗り出しながら覗き込んだ。一つもカラーのものは無い。出てる女優の写真は全て白黒だ。中々見る機会が無かったので興味津々に見ていると、絵里は微笑みながら、私がまっすぐ見えるようにひっくり返しながら言った。
「どう?見たことないでしょ?私だってリアルタイムには見たことないスターばっかりだもん。中には戦前から戦後にかけて活躍した女優も多いのよ?」
「はえー…そんな昔の…」
私はペラペラ一枚一枚注意深くページを捲りながらシミジミ言った。夢中になって見ていたが、やはり疑問があったので聞いてみた。
「…で?いや、すごく面白く見てるけれど、これが今までの話とどういう関係があるの?」
「ふ、ふ、ふー、それはねぇ…」
絵里は勿体ぶって得意満面に焦らした。と、ちょうど私が見ていた写真の女優を指差しながら言った。
「ほら、よーく見て考えてみて?今までの話との関連が見えてこない?」
「うーん…あっ、なるほど!」
私は少しだけ考えたが、すぐに思い至った。
「話の流れ的にだけど、ここに載ってる女優達が所謂”色気”のある女って事?」
と言うと、絵里は柔和な笑みを浮かべて、身を乗り出しページを覗き込むようにしながら返した。
「…まぁ、そう言うことになるかな?…実はこれをアナタに見せたのも、ギーさんが具体例として教えてきたからなんだ」
「へ?…へぇー…」
私は尚更ここに載っている女優達に興味が湧いた。
へぇー…あの義一さんが思う、色気ある女性がコレねぇ…
私がマジマジと見ていると、その様子を微笑ましく見ながら、絵里は静かに話し始めた。
「…あれからね、ギーさんもちゃんと説明出来なかったと思ったのか、不完全燃焼だったのか、私にその週だったかな?…私に何本か映画を貸してくれたの。その中の一つが…」
絵里はペラペラページを捲るとある所で止めて、手を大きく広げて、ページが移らないようにしながら押さえて見せた。
「この女優が出ていた映画なんだけど、クリスティー原作の裁判物でね?その中でこの人が本当に名演をしていてさぁ…罪に問われた愛する男を救うために、色々と裏で工作する役だったんだけど…知ってる?」
私は話を聞きながら、写真の余白に簡単な説明文が載っていたので読んでいた。代表的な出演作が羅列されていて、その中の一つに、前に読んだ事のあるクリスティーの作品名が出ていた。
「…うん、これなら本で読んだことあるよ。劇の奴みたいだけど」
視線を本に落としながら言うと、絵里は驚き混じりに、嬉しそうな声で返した。
「…はぁー、駄目元で聞いてみたんだけれど…戯曲まで読んでいるなんて、琴音ちゃんの守備範囲広すぎでしょ」
「い、いや、そんなでもないよ」
一向に私は顔を上げなかったが、絵里の表情は容易に想像出来た。
「でね、この人は…まぁ琴音ちゃんが分かる前提で話すけど、元々ドイツ人でね?本当の理由はよく分かっていないんだけれど、当時の政治体制から逃げるように、アメリカに亡命した人なんだ」
「はぁ…中々暗い人生を歩んだ人なんだね」
私は当時の魅せ方なのだろう、絶妙にボカシ気味の女優の顔をジッと見ながら言った。「そうだね…って別に暗い話をしたかったんじゃなくてね?まぁ話を戻すと、この女優さんも含めて、貸してくれた映画に出ていた女優達に、確かに”色気”の様なものを感じたの。でね?何も言われなかったけど、私に貸したってことは、どこにその色気の秘密があるのか、見つけられるもんなら見つけてみろって事かと思ってね?…私も一応女だし、なんか試されてるようでムカついたけど、こうなったら見つけだして”怪物君”の鼻を明かしてやろうと、躍起になったの。…まんまと術中にハマったわけね」
絵里は自嘲気味に笑いながら言った。
「何かなー?って色々細かく見ていたら、当たり前だけど今の人と違うところがいくつも見つかったの。まず見ての通り白黒でしょ?…あはは、そんなつまんなそうな顔しないでよ?冗談よ。…あと服装。今の人みたいに肌を露出させる様な服は限りなく少ない…今、琴音ちゃんが写真で見た通りにね?うん…ギーさんに簡単に同意するのは嫌なんだけど、でも少し分かったの。確かにギーさんに告白したあの子には悪いけど、あの子に限った事じゃないけど、変に露出度の高い今時の女よりも、露出させてない服を着ているこの女優達の方が”色気”があると感じたの。…でなんだけど、琴音ちゃん?」
「え?」
私は話を振られるとは思っていなかったので、ふと顔を上げた。目の前には笑顔をこちらに向けている絵里の顔があった。
「さて、琴音ちゃん。いつまでも私の話を聞いてないで、琴音ちゃんの意見も聞きたいなぁ」
小五の私に”色気”の事なんて分からないって、さっき言ったのに…逃してはくれなかったか…
と軽く心の中で毒づいたが、まぁ私がきっかけだった事も忘れていなかったので、ノル事にした。
「…もーう、さっき知らないっ!って言ったのに、まだ小五の女の子に聞く気でいるんだからなぁ…まぁいいや!絵里さんが私に色気があるって言ってくれたから、そこにもヒントがあるんでしょ?」
一応問いかけたつもりだったが、絵里は面白そうに笑うだけだったので、先を続けた。
「うーん…何だろう?この女優さん達と私の共通項…ねぇ?」
色々とさっきの義一と絵里との会話も含めて考えてみた。でも正直それらを合わせてみても、何かこれといった答えは出そうにも無かった。
中身が詰まっている?…いや、そもそも私の中身は詰まっているのか?…私を置いといても、この女優達の中に何が詰まっているというの?
ずっと同じところをぐるぐる回っていたが、ふとフザけたブザーの音で無理やり終わらされてしまった。
「…ブッブー!時間切れです。残念でした」
絵里は唇を大きく前に突き出してブザーの音真似をした。悪戯っぽく笑っている。
「…何それー。時間制限あったの?」
私は不満を大いに顔中で表現して見せながら不平を言った。苦笑いだ。
「はいはい、文句を言わない!まぁ琴音ちゃんは写真を見ただけだからね…答えられたら凄すぎるよ!…はいそこー、そんな顔しないでくださーい」
私は後出しジャンケンされた心持ちで、膨れて見せていた。絵里はその様子を見て、少しの間微笑んでいたが、表情そのままに質問を投げかけてきた。
「ふふ…琴音ちゃん、でも分からないなりに考えてみたんでしょ?それを聞かせてくれないかな?」
「え?あ、うん…大した事じゃないけど」
私は先ほど考えた事をそっくりそのまま話した。ずっと同じところを堂々巡りしていた事も。絵里は面白そうに聞いていたが、私が話し終えると、また顔面に微笑をたたえながら切り出した。
「…うん!答えは出なかったみたいだけど、方向性としては正しいよ、あくまで私基準でね?さっすがー!…じゃあ、そうだなぁ…何から言うか…そうだね、その中身の事だけれど、やっぱりさっきみたいに、軽くでも暗い話をしなくちゃいけないんだけど、良いかな?」
「うん、それで解明出来るなら」
「よしっ!その中身の正体からだけど…やっぱり暗い当時の時代背景に起因しているのよ。学校で習ったか、何かの本で読んだかも知れないけど、この本に載っている女優達が生きてた時代は所謂”激動の時代”でね?戦争がひっきりなしにあったり、価値観の真逆同士が平気で殺しあうような時代だったの。愛する人が目の前で簡単に死んでいく…明日は我が身ってね。いつもそばに”死”があった…」
「…」
絵里が低くドスを利かして話すので、思わず私は生唾を飲むのも躊躇うほどに聞き入っていた。
「…て言っても、当然私には実感としては感じられないんだけれど、でも少しでも想像力働かして、その当時の悲惨さを理解しようとすれば、少しでも接近できる。前置きが長くなったけど、何でこの女優達の中に”中身”が詰まっていたのか?それはね…」
絵里は芝居掛かって一度話を止めてから、吐き出すように言った。
「いつ何時でも気を抜かずに”真面目に”生きていたからだと思うの」
「…真面目に」
私はただ無意識にふと呟いた。絵里はコクッと一度頷くと続けた。
「うん。…当然私も”今の時代”に生きているから、これを言うとバカみたいに思われちゃうかもだけど、でもまぁ一言でいえば、今の日本にいる限り、真面目に生きなくても生きていけちゃうんだよ。必死に何か大きな力、運命って言っても良いかも知れない、それに抗おうとしないでも、銃弾が飛び交うような事もないし、目の前で人殺しがあるわけでもない…貧困で喘いでいる人がいるとしても、そんなの大昔から変わっていない。いや、今の方が格段にましなのは確か。…言いたいこと分かるかな?」
「…うん」
私はずっと聞いてきた中で、頭に浮かんだ事をそのまま話した。
「…要するに、いつ死ぬかも知れない、いつもそばに”死”があったからこそ、”生きる”事に対して貪欲になって、必死に色んなものを自分の中に取り込もうとした…って事で良いのかな?」
最後の方は自信なさげに答えたが、間違ってはいないという、根拠のない自信はあった。
 絵里は私の答えを聞くと、真顔で私の顔をジッと見ていたが、フッと緊張を解くように柔和な笑顔を見せてから話した。
「…そう、その通りだね。そうでもしなくちゃ明日、いや、その日にも死んでしまうという恐怖があったんだろうから。…だから意識してなくても皆んな必死に”生きていた”。でも、しつこいようだけど、今日本に生きてる人、まぁ言ってしまえば”大人達”は、そんな必死にならなくても、給料をもらえれば、ふざけていても生きていける。でも、ただ毎年毎年、ただ惰性で生きていると、いつまで経っても歳を重ねても”中身”は空っぽのまま。…言いたいこと分かるね?」
「うん」
「いつまで経っても中身が空のまんまだから、中身が”詰まらない”…そう、つまらない人間としか生きていけなくなっちゃうの。…あっ!」
ここで区切ると、絵里は少し気まずそうな表情で、苦笑混じりに言った。
「別にシャレじゃないからね?」
「…ふふ、分かっているよ」
私はただ和かに答えた。
「えーっと…何だっけ?…あぁ、そうそう!だからようやく結論だけど」
絵里は今開いている、さっき話したドイツ人の女優をトントンと軽く叩きながら言った。
「”色気”とは、この女優達みたいに必死になって生きようと足掻く中で、身に付けたあらゆるモノの片鱗が、隠しきれずに滲み出てきたもの”…って事でどうかな?」
絵里は最後に少し、今まで真面目に話した事を恥ずかしがるかの様に、おどけて見せながら言い終えた。私は何も疑問が浮かばない事に至福を感じて、今の絵里の言葉を噛み締めていた。清々しい気分だった。…ただ、すぐにちょっと意地悪な考えが浮かんだ。それを敢えて口にしてみる事にした。
「…うん、凄く心の底から納得いったよ。気持ち良いくらいに。…でもちょっと良いかな?」
「ん?なによ?」
絵里は私の返事に気を良くして、満面の笑みを浮かべていたが、私の質問風のセリフに、少しだけ警戒心を表した。
「気を悪くしないで欲しんだけれど…」
「なによ?焦れったいなぁ。私達の仲でしょ?遠慮なく言ってよ」
「うん、じゃあ…」
私は一息置いてから続けた。
「…あくまで感覚なんだけれど…話し振りがまるで義一さんみたいね?」
私は短くそう言うと、絵里の反応を黙って待った。絵里も黙ったままホッペを掻いていたが、すぐに苦笑いを浮かべて、やれやれといった調子で返した。
「…やっぱりバレたか。あっ、いや、気なんか悪くしないよー?もーう、琴音ちゃんは本当に”気にしい”なんだから」
絵里は優しく私に微笑みかけた。
「普段はあんなに平気で毒を吐くのにね」
「あ、いや」
私はしどろもどろだ。絵里は今度は明るい調子で言葉を続けた。
「いやー、やっぱり分かるんだね?流石だわ。何で分かったの?」
「あー…うん。義一さんに私の疑問を答えてもらった後の感覚に…うーん、近いから?…としか言いようが無いんだけれど…」
「ふーん…そっか」
私のあまりに抽象的な返答に対して、絵里は何も疑問を持たない感じでこちらに優しく微笑んでいるだけだった。と、絵里はおもむろに両手を上へ向けて伸びをしてから、話し始めた。
「そう!さっき言った様にね、映画を見てアレコレ考えたんだけれど、結局私もあやふやにしか考えが纏まらなかったんだ。で、次の機会にギーさんに会った時、そのまま話したんだよ。そしたらギーさんは私の話に同意してくれてね。それを今私が話していたそのまま、言葉に出来なかったことを、こうしてまとめてくれたんだ」
とここまで言うと、絵里はいつもの意地悪い笑顔を浮かべて言った。
「たまにはあの”理性の怪物”も役に立つよね?」
「…ふふ」
私と絵里は顔を突き合わせて、笑い合った。
「だからまぁ…言い訳みたいになるけど、私の考えも多分に入っていることをお忘れなく!」
と絵里は、なんかよく分からない決めポーズをしながら言った。私はただ”ハイハイ”と笑顔で手をヒラヒラとさせるだけだった。
絵里は笑顔のまま本を手元に引き寄せ、ページをゆっくりと捲りながら
「まぁ、それからね?ギーさんの影響って言いたく無いけど、事実として、こんな写真集を買ってしまうくらいに、昔の映画にハマってしまってねぇ…」
と言うと、今度は顔を上げてテレビの方、この本を取り出したラックの方を見ながら続けた。
「映画もあそこにあるけど、昔の映画のDVDをいっぱい買い漁って見るのが、一番の趣味になっちゃったんだ」
「へぇー…これって絵里さんの私物なんだ」
「うん、これはね?確かギーさんも同じのを持っていたよ。DVDもほとんど被っているけどね…七百本くらい」
「な、七百!?」
私は思わず立ち上がり、テレビ横のラックを覗きに行った。見てみると確かに、天井ギリギリの高さのラックの中に、ギッシリとDVDが隙間なく埋め尽くされていた。
「はぇー…凄いね」
と私は感嘆を漏らすと、紅茶を飲みながら私の様子を見ていた絵里が、意地悪くまた笑いながら付け足した。
「そこにあるのは七百だけど、ギーさんは恐らく千本以上は軽くあるよ」
「せ、千本!?…うーん、想像つかないな」
私は呆然と絵里の方を見ながら返した。絵里はただ笑顔でまた紅茶を啜った。
「はぁー、義一さんて何者なんだろう?」
と椅子に座りながら思わず思ったことを口にしてしまった。一瞬間が空いたが、私自身がしまったと思った頃には、絵里は爆笑していた。
「あははは!いやー、本当だね?何か色んなことに興味を持ち過ぎていて、逆に捉えどころがないよねぇー。…たまに宇宙人じゃないかと思うときあるもん!」
「…ふふ」
私は吹き出しつつも、紅茶を静かに一口啜った。
「いや、ほんとほんと!今更琴音ちゃんに言うまでも無いと思うけど、あの通り、まるで他の人とはかけ離れてズレてるもんねぇ。同じ同世代とはとても思えないよ」
私はただただ笑顔で返していたが、ふとまだ一つ納得いかない事があったので、改めて聞いてみることにした。
「…そういえば、さっきの話の発端なんだけど」
「え?何だったっけ?」
絵里は本を丁度ラックに仕舞おうとしている所だった。私が声を出したので、顔だけこちらに向けてきた。
「うん…自分で言うのは恥ずかしいんだけれど、私のことを色気があるって絵里さんが言ったことなんだけど…」
「うんうん、言った言った!それがどうかしたの?」
絵里はまた席に座ろうとしたが、お互いのカップがからなのに気づくと、私に目線でどうするか聞いてきたので、私は黙って絵里の方にカップを押し出して頭を軽く下げた。絵里は笑顔で頷き返し、私のも持ってキッチンに行き、紅茶を淹れ直して戻ってきた。
「はい琴音ちゃん、お待たせ。…で、何だっけ?」
絵里がフーフーと紅茶に息を吹き掛けながら聞いてきたので、私は暑いカップの周りを軽く両手で火傷しない程度に包みながら話した。
「…うん、大した事がないといえば、大した事じゃないんだけど…今までの話からすると、私にはやっぱり、色気は無いんじゃないかな?だって…」
ここで私は少し俯き加減で続けた。
「私に”中身”があるとは、到底思えないんだもん…」
言い終えてから少しの間沈黙が続いたが、ふと私の頭の上に何かが軽く乗せられた。顔を上げると、絵里が微笑みながら私の頭に手を優しく置いていた。そして私と目が合うと、そのまま私の頭を撫でて言った。
「…琴音ちゃん、アナタは中身が無いどころか、あまりにも色んなものをその歳で詰め込み過ぎているよ。まぁ、だからこそ、色んなことに気づいて気を遣えるのかもしれないけれどね?…さっきの私とギーさんの論に補足を加えるとね?中身の片鱗が見えるだけじゃダメなの。変に自らこれだけいっぱい持ち物があるんだって言い出したら、途端にこの場合で言う所の”色気”は失われちゃう…これはわかるね?」
まだ頭に手が乗っかったままだったが、払うこともせずそのまま、私はただ黙って頷いた。絵里はそっと頭から手を離すと、話を続けた。
「そう、いっぱい持ち物があるんだけれど、それを曝け出すのを極端までに怖がって、何とか必死に隠し通そうとして、それでも叶わず漏れ出てしまうもの…さっきの話をさらに細かく言うと、そういうことになると思うのよねぇ」
「…それは分かるけど、それと私の関係が…」
と、ゆっくり顔を上げながら絵里の方を見ると、さっきと変わらない柔らかな笑みをこっちに向けていた。
「まぁ、今はわからなくてもいいかな?…これから先、私が一々言わなくてもアナタはきっと、自然と自分のことを常に客観的に省みながら生きていくんだろう。そうすれば、自ずと自分の中身がどれだけ詰まっているのか、きっと分かるから」
「…」
私が黙っていると、今度は絵里は私の肩に優しく手を触れて、続きを話した。
「この自分を省みるっていうのはね、口でいうほど簡単じゃないよ?琴音ちゃんに言うのも何だけどね。ちゃんと今の時点でしているから。…でもね」
絵里はここで私の肩から手を離した。
「大抵の人は、私も入れて良いと思うけど、なかなか自分自身を真っ正面から見つめる事が出来ない。すぐに至らない自分にぶち当たることになるのが目に見えてるから。自分に失望するのを怖がっちゃう。琴音ちゃんや、…まぁギーさんも含めて、アナタ達みたいなタイプは、至らぬ己を直視して、何処が足りないのか?どうすれば足りるようになるのか?絶望しながらも努力を怠らないで勇敢にも突き進む。…私みたいな人が端から見るとそう見えるの。でも普通の人は足りない事を知ると、途端に全てが虚しくなって、何やってもしょうがないと、やる前から何かにつけて言い訳を見つけて諦めてやめちゃうのよ。…まっ!私が言いたいのはね?」
急に絵里は、今までの重苦しい空気を払拭するように、わざと明るい声を上げて言った。
「琴音ちゃんもギーさんも、あまりにも自分を過小評価し過ぎてるって事!一歩間違えれば嫌味にうつるほどにね?だからあの時…」
絵里が今度は何時もの悪戯っ子な表情でニヤケながら身を乗り出し、私に顔を近づけて言った。
「自分の事をあまりにも不用意に評価を低く見積もっているから、相手からの率直な好意を素直に受け止められないのよねぇ」
私もつられて笑いながら
「ふふ、そうだね。そうだったかも知れないよ」
と返した。しばらく二人で義一のことを思い浮かべながら笑いあったのだった。

「んーんっと…あっ!」
絵里がふと時計を見たので私も見ると、時刻は三時を十五分ばかり過ぎた所だった。
「いつの間にか結構時間が経っていたねぇ?琴音ちゃんと話していると、あまりに楽しくてあっという間に時間が過ぎちゃうよ!」
「絵里さんは…本当に大袈裟ね」
私は苦笑いをしながら紅茶を啜った。
「まだ時間大丈夫だったよね?」
「うん、まだまだ大丈夫」
と答えると、絵里はテーブルの脇に私が置いたトートバッグを見ながら言った。
「じゃあ、良かったら塾のやつ見せて貰おうかな?持ってきてるんでしょ?」
「あ、うん。持ってきているよ」
私はバッグを膝の上に引っ張り上げ、塾から配られた、所謂学校が纏められて紹介されている冊子を引っ張り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。
 私が足元にトートバッグを下ろしている間、絵里は何も言わずに冊子を手に取り、ペラペラと1ページずつ捲っていっていた。
「見てみたいって言うから持ってきたけど」
と私も向かい側から絵里の手元を覗き込みながら言った。絵里は視線を落としたまま返事した。
「うん、ありがとう!…ふーん、こんなに学校があるのねぇ。…でも所々赤いマジックで学校名の所を丸で囲っているけれど、これは何?」
「あ、それはねぇ」
私は身を乗り出す姿勢のまま答えた。
「お母さんが私に勧めてきた学校なの。…全部女子校なんだけど」
「へぇ…お母さんがねぇ…はい」
一通り見終わったのか、私が見やすいように向きを直して戻してきた。私がそのまま何の気もなしに見ていると、絵里がやれやれといった調子で話しかけてきた。
「見事なまでに丸してあるのは、難関校ばかりだねぇ。まぁ、琴音ちゃんのクラスだったら期待するのは分からなくもないけど」
「いや、だからあれは何かのてち…」
「いや、そういうのはいいから」
私がまだ言いかけていたのに、ピシャリと真顔で話を区切られた。モノマネらしいが、一体誰のモノマネだろう?
「で、前に教えてくれたけど、今度模試があるんだって?」
「あ、うん、来月十二月の頭辺り。初めて受けるんだけど、志望校をいくつか挙げなくちゃいけないみたいで、この中からいくつか選ばないといけないの。受付締め切りは今月末辺りなんだけど」
「ふーん…なるほどねぇ」
絵里は一口紅茶を啜ってから
「で、琴音ちゃん。アナタはもう志望校は絞り込めたの?」
と聞いてきた。私は顔を上げると大きく顔を横に振りながら答えた。
「いや、全く。自分の事だけど、正直どこでもいいかなって感じなの。だってそもそも、絵里さんにも言った通り、全く受験なんてやる気がないんだもん」
「あははは、確かに言ってたね」
時は遡るが、ピアノの先生に話した後、絵里にも受験する事になったと報告を入れていた。だから図書館で勉強していても、驚かれなかったのだ。流石に絵里に報告した時には落ち着いて、泣いてしまうような失態を演じる事はなかった。
「で、これは言ってなかったけど…そのー…」
一瞬逡巡したが、ある意味その為に来た様なものだったので、思い切って言った。
「絵里さん、確か前に私立の女子校に行ってたって話してたよね?だからそのー…参考までに話を聞かせて欲しいんだけど?」
最後は特に狙った訳じゃなかったけど、上目遣いで聞いた。絵里はほっぺを掻きながら、若干照れ気味に答えた。
「…いやぁ、琴音ちゃんみたいな美少女に上目遣いで言われたら、仮にイヤだとしても答えざるを得ないじゃない!もーう…ギーさんと揃いも揃って天然タラシなんだからー」
「いやいや!そんなつもりじゃ…」
「ふふ、冗談よ冗談!…私の学校ねぇ…あんましキャラと違うから、引くかも知れないけど…ちょっとかして貰える?」
「あ、うん」
絵里は最後に何やらブツブツ言っていたが、私から冊子をまた受け取ると、ペラペラとページを捲っていった。そしてある所で止めると、冊子を開いたまま私に手渡してきた。
「そこよ」
見てみるとそこはお母さんが特に重要だという意味で、二重丸で囲っている学校だった。ページには学校の正門と、女子校生何人かが制服姿で写真に写っていた。濃い紺色のセーラー服で、胸元と後襟に赤い錨の刺繍が施されていた。左胸には校章がつけられていた。全体的にシックに纏められた、品のある感じだった。簡易的な地図も載っていたので見ると、そこは四ツ谷駅の目の前にある様な、好立地な場所にある様だった。難易度のところを見ると”難関校”とだけデカデカと書いてあった。
 私が黙ってマジマジと説明文を読んでいると、構わず絵里が話しかけてきた。
「いやぁ…懐かしいな。私が通っていた頃と大差ないよ」
「ねぇ?ここに”都内屈指のお嬢様校”って書いてあるんだけど?」
私はわざと含みを持たせた笑みを浮かべながら、絵里に言った。絵里は苦笑いでほっぺを掻きながら返した。
「もーう!それってどういう意味?私がお嬢様校に通ってちゃいけないって訳?…はい、そうです。キャラじゃないのにここに通っていました」
急に絵里が態度を変えて、どっかのお偉方の謝罪会見風に言ったので、私は思わず吹き出しながら言った。
「…ふふ、ごめんなさい?そこまでは考えていなかったわ。…へぇー、ここに絵里さんがねぇ」
私はしみじみと、急に愛着が湧いた様な気がしながら、その学校の写真を見ていた。絵里も身を乗り出し、覗き込みながら言った。
「まぁでも、なかなか良かったよ?周りからはお嬢様校って、私がいた頃も言われていたけれど、私が見る限り変にお高く止まっている人はいなかったと思うし、…これは過去の思い出を美化し過ぎかも知れないけれど…」
と言うと、絵里は顔を上げた。丁度私の目が合った。そのまま逸らさず絵里は微笑みながら続けた。
「この頃…ここでの六年間が一番今まで生きていて楽しかったなぁ…」
最後に視線をどこか遠くへ流しながら、あまりにしみじみ言うので、私はまた冊子に目を落として、説明文をジッと見つめた。
「…そんなに良かったんだ?」
「うん!良かったよー?…部活にも入ってねぇ…」
絵里の顔はすっかり思い出に没入しているかの様な、柔らかな表情だった。
「へぇ、部活に入っていたんだ。何部だったの?」
と当然の疑問として聞くと、絵里はなぜか照れ臭そうにほっぺを掻きながら答えた。
「うーん…中学に入ったばかりの時はテニス部に入ったりしてたんだけど…」
「入ったり?」
「うん。…でもなんか長続きしなくてね?それから何個か部活に入ったんだけど直ぐに辞めちゃったんだ」
「えぇー…」
「でもね?」
そう言う絵里はまだ何か気恥ずかしそうだ。
「アレは中二の頃だったかなぁ…」
「え?じゃあ、一年でいくつも部活を変えたの?」
と、疑問に思ったことをそのまま何も考えずに口にしてしまった。絵里は意地悪く笑い、私のほっぺを軽くつねりながら言った。
「ツッコミ禁止ー」
手を離すと絵里は、私が大げさにほっぺを撫でるのを無視して続きを話し始めた。
「でね?その中二の時に…今だによく分からないんだけれど、一人で廊下を歩いていたら、急に先輩に声をかけられたの」
「へぇ、なんで?」
「それがね、いきなり一言『あなた、私たちの部活に入らない?』ってね」
「その人は知ってる人なの?」
「うーん…私は知っていたけれど、先輩は私の事当時は知らなかったと思うなぁ」
「え?絵里さんは知ってたんだ?」
と聞くと、当時を思い出したのか、明るい笑顔で返してきた。
「うん。あれは入学してすぐだったなぁ…。入学したばかりの私達に、先輩達が色々と催し物をしてくれたのよ。まぁ、『今から始まる学園生活では、こんなに楽しいことがいっぱいありますよー』みたいなね?色んな部活から、その特色に沿ったアピールをしてたんだけど、その中の一つに演劇があったの」
「へぇー、劇?」
「そう!何の劇だったか、そこまでは覚えてないんだけど、まぁ短い劇だったね。まぁ何しろアピールする為だけだから、限られた時間の中では本格的なのは無理なんだけれど。…でね、その先輩が主役で出ていたんだけれど、凄かったんだぁ…」
絵里はまた遠い目をしている。
「コメディだったんだけれど、変な事をオーバーにするみたいなのじゃなくて、自然にしているはずなのに、見ているこっちが飲み込まれていってね?気づくと先輩が何かする度に笑ってしまってたの。正直今時演劇を見る機会ってそんなにないでしょ?私の子供の頃もそうだったから、初めて目の当たりにしたんだけれど、感動しちゃったの!…コメディなのにね」
「そんなに感動したんなら、何で初めから演劇に入らなかったの?」
私は当然の疑問だとして、紅茶を啜りながら何気無く聞いた。絵里はまた照れ隠しにする、ほっぺを掻く癖をしながら答えた。
「うーん…感動はしたんだけれど、私がやるもんじゃないなって思ったのよ。…だって入ったら、あの先輩と舞台に立つのよ?無理でしょ?」
無理でしょ言われても…
実際に見た事ない私には、何とも言えなかったが、絵里の口調からは当時の感動がリアルタイムに感じられる様だった。
「じゃあ、廊下で話しかけられた時は…」
「勿論、緊張したねぇ…まさか話すことになるとは思わなかったもん。…私の話しぶりでわかると思うけど、もうなんて言うか…テレビに出てくるスターに、しかも向こうからわざわざ話しかけてくれちゃったって感じだったのよ。…もっとも、そんなファンになる様な芸能人はいなかったけど」
「私もいない」
一瞬沈黙が流れたが、すぐにお互い顔を突き合わせてクスクス笑いあった。
「話戻すと、…まぁ急に話しかけられたかと思えば、急に勧誘してきてね?いくら図太い私でもアタフタしちゃって、一度断ったんだけど、中々押しの強い人でね?いつまでも引き下がってくれなかったから、結局、一度部室に伺いますって言って、実際行って、気づけばそのまま部員になってたの」
「はぁ…随分いい加減なのね?」
「あははは!確かに、入部届けを書いた記憶も無いから、もしかしたら先輩が勝手に書いて出したのかも…いやー、面白かったなぁ」
「…ねぇ?」
「ん?」
「その時の写真とか無いの?劇に絵里さんが出てるのとか…」
と私が聞くと、絵里は平静を装っていたが、徐々に耳は見るからに赤くなっていった。でも本人はあくまで澄まし顔で返した。
「…え、えーっと…あったかなぁ…探せばどこかにあるとは思うんだけど…」
煮え切らない返事だ。ここで引き下がる私ではない。
「ここにある事はあるの?じゃあ待っているから、探して見てよ?」
私が追い打ちをかけると、両手を合わせてゴメンとジェスチャーをしながら、参った調子で応えた。
「…琴音ちゃん、ゴメン!もう少し心の準備が整うまで待って?…別に黒歴史なわけじゃないけど、最近私も見てないのに、急に、しかも琴音ちゃんと見るのは…恥ずかし過ぎるから」
今まで見た事のない程、絵里が可愛らしく恥ずかしがっている様を見て、意地悪な言い方だけど、何だか得した様な気になって、この場は勘弁してあげる気になった。
「…ふふ、分かったよ。今日は勘弁してあげる。…次来た時には見せてね?」
と私は満面の笑みで言った。絵里は苦笑いしながら応えた。
「ははは…分かったわ、約束する。その代わり…」
と今度は絵里が満面の笑みになって言った。
「今度琴音ちゃんが弾くピアノを聴かせてね?」
「勿論!構わないわ」
「…あははは!」
「ふふふ」
特に理由もなかっただろうけど、何だか可笑しくてまた二人で笑いあったのだった。

「でもだからかぁ…」
一頻り笑いあった後、私がふと気づいたことを言った。
「ん?何が?」
「絵里さんがさっきとか、今まで会話した中で、義一さんとの思い出を話している時、妙にモノマネが上手いなぁと思っていたの。セリフも、勿論実際に私は見てないから断言出来ないけど、疑問に思わせない程細かく演じ分けていて、当時は寸分違わずこうだったんだろうなぁって、信じ込ませられる程の演技力、聞きながら本当はビックリしてたの。良く特徴を捉えてるなぁって。でも今日、その演技力の原因が解明されたわ」
「解明って…大袈裟ねぇ」
絵里は紅茶を啜りながら引いて見せたが、口元が気持ちばかりニヤケているので、満更でもないのが丸わかりだ。そこら辺は演劇人らしくない。
「でも褒めてくれてるみたいだから、お礼を言うね?有難う」
「どういたしまして」
「でもまぁ」
絵里は改めて冊子に目を落としながら話した。
「私からの紹介はこんな感じ。変わっていなければ、私は胸を張ってオススメするよ。でも、最終的に決めるのは当然の事だけど、琴音ちゃん自身だからね?私の意見は参考程度に留めておいてよ?」
「うん、分かった。色々参考になったよ、有難う」
「いえいえ、どういたしまして…あぁ」
絵里が何気なく時計を見て、ため息交じりに声を漏らしたので、私も見ると四時を少しばかり過ぎた所だった。
「…ところで琴音ちゃん、アナタ何時まで時間大丈夫なの?」
「えぇっと…」
私は瞬時にここから家までのおおよそ掛かる時間と、図書館から家までの時間を比べて計算を求めた。
「うーん…図書館が閉まるのが五時だから…うん、最大五時まで大丈夫だよ」
私はさっきまでの明るい雰囲気のまま、少しおどけて見せながら言ったが、絵里はふと考え込み、しばらく難しい顔をしていたが、私の方を真面目な顔つきで向くと、静かに話しかけてきた。
「…そうだ琴音ちゃん、覚えている?今日ここまで歩いている途中、私が話しかけた事」
「え?…あっ、う、うん」
私は絵里が義一と私のことについて何か言いかけたのを思い出した。ついでにその時も絵里が今みたいな表情をしていたのも。
「…それなんだけれど…これはアナタ達二人の問題だから、私が横槍入れる筋合いがあるのかどうかわからない…でも、これも参考程度にでも聞いて」
絵里は一息つくと、頭の中で言いたいことを整理するかのように、目を瞑り黙っていたが、静かに目を開けると、ゆっくりと話し始めた。
「…前にファミレスで三人お茶をしたでしょ?あの後ギーさんと会った時にお話ししてね、そのー…二人で琴音ちゃんの両親にバレないように会ってるって話を聞いてね?私…ちょっとギーさんに怒っちゃったの」
「…え?」
「口ではやっぱり、琴音ちゃんを傷つけたくないとかなんとか言ってたけど…でもやっぱりそんなの上手くいきっこないもの。あの人に言ったわ。『ギーさん、アナタ琴音ちゃんに自分に正直に生きなさいって言ったんでしょ?それをまた嘘を吐かせるような真似をさせて…アナタ一体琴音ちゃんをどうしようとしてるの?』って…。怒鳴ったわけじゃないけれど、私は静かに怒りを露わにしながら聞いたわ。それでも黙っているから、畳み掛けるようにまた言ったの。『今はまだなんとかなるかも知れない…でも今のままを長く続ければ続けるほど、バレた時にあの子が受けるショックは計り知れないのよ?』ってね」
「い、いやっ、私は!」
私は反論しようとしたが、絵里が黙って射すくめるような視線を送ってきたので、黙る他なかった。
「でもこんだけ言っても、ギーさんは静かに言うだけだったわ。『…でも、これはあの子が全て分かった上で決めた事なんだ…あの子は考え無しにこんなことをするような女の子じゃないよ?…それは絵里、君も分かっているだろう?』ってね」
ここまで言うと、途端に絵里が目元に涙を溜めたので、私はまた初めて見る絵里の姿に唖然としながら、黙って話の続きを待った。
「…そんなの、ギーさんに言われなくたって分かっている。…勿論ギーさんがどういうつもりで言っているのかも分かっている。…でも」
絵里は目を一度擦って、一度溜めてから続けた。
「私も譲れない!…こんなこと本人の前で言うのもおかしな話なんだけれど…」
絵里はまだ涙目だったが、ここで少し柔和な笑みを見せた。
「不思議と初めて見た時からアナタが気になってしょうがなかった。…こんなにおしゃべりする前からね?…前に先生に連れられて、クラスのみんなと図書館に来ていた時、最初は可愛い子がいるなぁ程度だった。アナタはいつもみんなの中心にいたね?…あっ、何も言わないで?ただの私の印象なんだから。…アナタはその中で皆んなに笑顔を振りまいていたわ。はたから見てると、凄く本人も楽しんでるように見えた。
…でもその周りに笑顔を振りまく中で一瞬見せた素の表情…あんなに大勢に囲まれていたのに見せた寂しそうな表情…あれが忘れられないの。…見られてるの気付いてなかったでしょ?」
「う、うん…」
「あの時の印象も、…こんなにいっぱいお喋りするようになってからの印象も、ちっとも変わらない。向こうが透けて見える程に透明感のある、精巧に綺麗に彫られたガラス細工…。全く汚れていなくて、光を乱反射して目を奪う程に綺麗なのに、どこか軽くでもぶつけてしまえば割れてしまうんじゃないかって程に見える脆さ…。あまりに文学的に過ぎるかもしれないけれど、こうとしか言いようが無いんだから許してね?そんな印象をずっと持っていたら、今はギーさん繋がりでここまで親しくなった。…私んちに遊びに来るぐらいにね?」
絵里は軽く部屋を見渡した。
「”なんでちゃん”だっていう、意外な一面も知れた。…これもギーさんから聞いたけど、アナタが自分のこの性質に悩んでいるって聞いた。…いやその性質故に、周りの人間とのズレに悩んでいるって聞いた。…それを聞いた時、どうにか微力だとしても、琴音ちゃん、アナタの力になりたいと心から思ったの。余計なお世話だとしてもね?…しつこいようだけど、疑問でも何でも、傷つくことを恐れずそのまま真っ正面からぶつかって行く琴音ちゃん…それは本当に素敵なことであり、アナタの長所でもある。…でも、壊れやすいガラス細工なのも知っている。…勝手に思い込みで言って悪いけどね」
「…いや、うん」
私が肯定とも否定とも取れる返事をすると、絵里は苦笑いを浮かべながらそのまま続けた。
「…いやぁ、こういう話をするのは苦手なくせに、長々と取り留めの無い事喋っちゃった。…上手く言えないけど、これだけは覚えておいて?私…それにギーさんも、アナタが傷つくところだけは見たくない。これは少なくとも私達が共通してアナタに持っている感情なの。…だから」
「…うん、よく分かったよ」
私は静かに、でも柔らかい笑みを顔中に浮かべながら言った。
私は嬉しかった。まぁ、あまりにも不用意に私のことを目の前で褒めちぎるから、どういう目線で聞けばいいのか戸惑っていたけど、不器用ながら、アレコレ私の事を本当に、本心から心配してくれてるのがヒシヒシと、言葉の端々から痛いほど感じ取れた。こっちまで涙で潤みそうになったほどだ。
言いたい事、感謝の言葉が頭の中を駆け巡っていたが、今私が言えるのはただ一言だった。
「…ありがとう」
「…琴音ちゃん」
絵里はまた少し瞳を潤ませていた。
私もつられて目が潤んだが、正直な気持ちとして感謝と共に、申し訳なかった。義一にしてもそうだが、絵里も私に対して過剰に入れ込みすぎていると、ただ冷静に思っていた。二人が私の事を、何の裏もなく褒めてくれるのは、勿論素直に嬉しい。大好きな二人だから尚更だ。嬉しいけど、どうしても私が私に対して思う事とのギャップがあまりにも大きくあると感じていた。私は然程、いや微塵も自分の事を買っていない。義一と絵里、二人が私に話してくれる”私”の事。どれも素敵で、出来るならそうなりたいとは思うけど、今の私がそうかと言うと、全然かけ離れていると言わざるを得ない。だから、繰り返すようだけど、私が二人の中の”私”じゃないことに対して、申し訳なかった。
そんな事を考えながらも、素直に感謝の気持ちで一杯なのを、少しでも伝わって欲しくて、出来る限りの相応しい笑顔で絵里を見つめた。絵里はまた目を一度擦ると、明るい調子で言った。
「ごめんごめん!私のせいで変に湿っぽくなっちゃった。…あっ!あと一つ具体的な忠告をしたいんだけど、聞いてくれる?」
「うん、聞かせて?」
「うん、それはね…」
絵里は一度ゴホンと咳払いしてから話した。
「なるべくやっぱりギーさんとは、外で会わない方がいいと思うの。…今更だけど。ファミレスに一緒に行った時は事情を知らなかったから、あんな人通りの多い所に行っちゃったけど、あんな地元民が集まる所とかに行ったら、誰に見られてあの高慢ちき…あっ違う、ギーさんのお兄さん…」
「…誤魔化すの下手すぎだから」
私はすかさず絵里にツッコんだ。絵里はただ悪戯っぽく笑っている。
「まぁ琴音ちゃんのお父さん、この近所では一番大きい病院の院長なだけあって、顔が利くからね。患者さんでも何でも、見られて話されたら終わりだからね?」
まさに反論の余地など無い正論だった。こういうことは最初に気付いてなくてはいけなかったのに、義一とお話するのに夢中のあまり、守備の面を疎かにしていた。あんなに口でも、心の中でも義一との繋がりを大切にしたいと思っていたはずなのに、余りにも浅はかな自分の考えの甘さにがっかりする他なかった。
「…いや、本当だね」
と私は自嘲気味に笑みを浮かべながらボソッと言った。絵里はすぐに察したのか
「いやいやいや、琴音ちゃんが悪いんじゃないよ!」
とアタフタしながらフォローをしてくれた。
「…まぁ琴音ちゃんの落ち度がゼロとは言わないけど…」
とここで絵里は、顔は私に向けたまま、視線を斜め上へと向けながら、呆れ気味に喋った。
「それよりもギーさんよ、ギーさん!約束約束言うんだったら、それを守る為にはどうすればいいか、最大限のことを大人が進んで対策練らないといけないのに、こういうところで抜けてるんだからっ!…だから琴音ちゃん?」
斜め上にいたのであろう、義一から視線を私に戻すと、意地悪く笑いながら言った。
「大の大人のはずの人があんなのだから、アナタがしっかりと手綱を締めないといけないよ?こういう常識的な事では当てにならないんだから」
「ふふ、分かっているわ」
私も笑顔で返した。絵里は満足げに頷いていたが、ふとまた柔らかな微笑を浮かべながら言った。
「…もう私はこの事について、二人のことについて何も言わない。…ギーさんというよりも、琴音ちゃん、アナタを信じているからね。これ以上ネチネチ言うと、アナタに対して信用していないと言っているに等しいから」
「…うん、ありがとう」
私はさっきのように、自然に心のままに返事した。それを聞くと、また満足げに頷いていたが
「やるからには、全力で秘密を守り抜こうね?」
と悪戯っ子の表情でニヤケながら言った。私も同じような表情を作って応えた。
「勿論よ!」
また二人して顔を突き合わせると、示し合せる事もなく同時に笑い合ったのだった。

「本当に送らなくてもいいの?」
玄関先で靴を廊下に座りながら、履いている私の背後から、絵里が声を掛けてきた。
「大丈夫だよ!この辺りだって地元なんだから」
私は勢いよく立ち上がりながら答えた。 腕にしている時計を見ると、丁度五時を示していた。絵里はサンダルを履いて、エレベーターホールまでついて来てくれた。
「じゃあ気を付けてね?また連絡するから。またこの家も含めて場所問わず…いや、人気の少ない所で遊んだりお喋りしましょ?」
「うん!…」
その時丁度エレベータが到着した。私は乗り込むと、階数表示の”1”を押した。絵里は笑顔で手を振ってくれたが、ふと思いついて、”開”のボタンを押しながら意地悪く笑い言った。
「絵里さん、次来た時には昔の写真を見せてよね?」
「…ふふ、ハイハイ」
絵里は手を振り続けていたが、私の言葉を聞くと、苦笑いで短く返すだけだった。
「じゃあねー」
私は言い終えるのと同時に”開”のボタンを離し、すぐに”閉”のボタンを押した。ドアが閉まっても縦長の覗き窓があったので、絵里の姿がまだ見えていた。私もやっとそこで手を振り返した。エレベーターはゆっくりと下まで降りて行った。

マンションの正面玄関から出て空を見上げると、西日が赤々と燃えて、チラホラ見える雲に黒い影を作り、今まさに沈んで行こうとしている所だった。もう十一月。陽が沈む時間が、当然のこととは言え、夏と比べるとすっかり早くなった。時折吹く風が肌寒い。
さて、帰るか…。
 私は寄り道せず真っ直ぐ自宅へと向かった。その道中、何度も絵里との会話を思い出していた。そして絵里が私に見せてくれた”初めて”の数々。どれも観れて嬉しかったり、ビックリしたり、悲しかったりしたけど、どれ一つとして無駄な発見は無かった。そして本人にも伝えたが、やはりここまで私の事を想ってくれていたというのは、しつこいようだけど、何度言っても言い足りないくらいに嬉しかった。歳も一回り以上離れているのに、親身に赤の他人の私を気にかけてくれていた。そういう意味では、義一よりも想いを強く感じた。
 あの言葉の一つ一つを思い出すだけで、一人で外を歩いているのに思わず、思い出し泣きをしそうになるのをこらえるのが大変だった。かと言って思い出さないでいるのも嫌だった。この二つの間で葛藤しながら自宅玄関前に辿り着いた。鍵を開け、お母さんがいるのか確認しないまま挨拶をした。
「お母さん、ただいま」
 
「お帰りー」
私が居間を覗くと、お母さんは居間の食卓用に使っているテーブルの上に、雑誌を広げて見ていた。そばにはコーヒーの入ったカップが置かれている。私は自室に入り、荷物を置いてからまた居間に戻った。そしてお母さんの側を通り、キッチンに向かい、冷蔵庫から冷えた緑茶のペットボトルを取り出し、コップに注いで、それを持ってお母さんの向かい側に座った。
 私は冷茶を一口飲むと、お母さんに話しかけた。
「…それってまた日舞の雑誌?」
「え?えぇ、そうよー」
お母さんは顔を上げないまま、生返事をした。
中々珍しい、日本舞踊だけに特化した月刊紙だった。毎月お母さんは通販で取り寄せて、欠かさず読んでいる。私から見てもマニアックな雑誌だ。
 ここで本当に軽くだがお母さんについて触れておく。望月瑠美。歳はお父さんと同じ、この時は三十九歳だった。生まれは浅草橋にある、創業百年を超える有名な呉服問屋の末娘だ。典型的な箱入り娘、お嬢様だった。子供の頃は家の中では着物を着るのが義務だったらしい。普段は私の前では洋服を着ていたが、お家にお父さんの知り合いなど誰かを招き入れた時は、ピシッと綺麗に着物を身に付けて対応するのだった。お母さんの普段の振舞い、背筋がシャンと伸びていたり、ドタバタと動き回らず滑らかに流れるような動作など、どれもやはり子どもの頃から着物で過ごしていたのが、良いように作用しているようだった。
 両親の馴れ初めをさすがの”なんでちゃん”でも、直接聞くのは恥ずかしかったから聞けなかったけど、お母さんのお母さん、つまりお婆ちゃんから聞いた限りでは、これまた古風にお見合いだったらしい。お母さんは中学から、九段にある都内でも有名なお嬢様校に通っていたらしく、大学も付属していたので、そのままエスカレーター式に進学したようだった。そんなずっと女子校で、殆ど男っ気の無いのに心配したのか、今年に引退した前院長と、お母さんのお父さん、つまりお爺ちゃんが友達だったらしく、その繋がりでお見合いした流れだったようだ。何でも隠さず喋るお婆ちゃん、その話を聞いてる時そばにお母さんもいたが、恥ずかしそうにハニカミながら、視線を別の方へ流しているのが印象的だった。
話を少し戻すと、呉服屋の娘だから…とは関係ないだろうが、着物を着るという繋がりで、子どもの頃から日本舞踊を習っていたらしい。それを未だに熱心に続けている。趣味らしい趣味を持たないお母さんの、唯一の趣味と言えるのが日舞だった。

「ふーん…」
と私も向かい側から、文字が反対に見えるのも気にせず一緒に見ていたが、ふとお母さんが顔を上げて、私に話しかけてきた。
「…あっ、そういえば琴音」
「ん?何?」
と私も顔を上げてお母さんの顔を見た。お母さんは淡々と質問をしてきた。
「…あなた、今日はどこに行ってたの?」
「えっ?えぇ、もちろん図書館よ?」
突然の問いかけに、正直面を食らってしどろもどろになった。平静を装うのに精一杯だった。ついさっき絵里と会話したことが思い出された。まさか急にこんな早くピンチが訪れるとは思っても見なかった。
「な、何でそんなこと聞くの?」
私は内心ドキドキが止まらなかったが、そんな私を他所に、お母さんは普段と変わらぬ調子で話を続けた。
「いやね、私の友達の一人が今日の昼頃、駅前であなたと綺麗な女の人が一緒に話しているのを見たって言うのよ」
言われてすぐ『あっ』と思った。絵里が公衆の面前で私に抱きついてきたこと…やっぱり周りは見てたんだ…。
さっきとは違う意味でドキドキして、恥ずかしさの余り若干顔が赤らむのを感じながらも、冷静に答えた。
「あぁ、あの人ね?あの人は図書館の司書さんよ」
「え?司書さん?」
意外だったのか、お母さんはキョトンとした顔でこちらを見ている。
「そうよ。何かと私に親切にしてくれてね?向こうの昼休みと私の都合が合ったから、ついでだし一緒に行こうって話になって、それで駅前で待ち合わせしてたの」
咄嗟にその場の思い付きで、スラスラと言葉が後から後から流れるように出てきた。自分でもびっくりしたが、内容を見てもちゃんと筋が通っている様に思えた。
お母さんは一瞬怪訝そうな表情で私をジッと見ていたが、フッと普段の表情に戻ると
「…へぇー、今時珍しく子供と仲良く接する司書さんなのねぇ」
と少し感心してる様な調子で話した。私はホッとしたが、調子を変えると何か勘付かれると思い、なるべく変えずに話した。
「そうなの、まるでお姉ちゃんが出来たみたいでね」
これは本心だった。何か昔読んだ本の中の主人公が『詐欺師というのは八割から九割本当の事を言って、最後の一割で騙したいがため嘘をつく』と言っていたを思い出していた。
「ふーん、まぁあなたが言うならそうなんでしょうけど」
とここでお母さんは一度区切って、少し溜めてから先を続けた。
「その人はともかく、あまり赤の他人、大人の人と必要以上に仲良くするんじゃありませんよ?昔と違って物騒な世の中なんだから」
「うん、分かっているよ」
と私が答えると、お母さんは少し意地悪くニヤケながら、向かいに座る私に顔を近づけて言った。
「…まぁ中々他人に懐かないあなたが、そこまで親しくしているんだから、よっぽどその人は良い人なんでしょうね?」
と言い終えると、お母さんは立ち上がり、キッチンの方へ向かった。私はその背中に向かって、さも不満そうに返した。
「…なんかそれ、前にヒロにも同じ様なこと言われたよ。『お前は人嫌いで通っている』って」
「あははは!ヒロ君らしいわね」
お母さんはエプロンをしながら、私に相変わらず意地悪な笑みを送ってきた。
私はテーブルに上体だけうつ伏せになり、全身で不満げな態度を表していたが、ふと今何でわざわざ居間に降りてきたのかの理由を思い出した。
私は立ち上がり、キッチンで夕食の準備をしているお母さんに近寄った。
「…お母さん?」
「ん?なーに?」
お母さんは陽気な調子で、食材を切りながら応えた。
「側によると危ないわよ?」
「あのね、私…」
お母さんからの忠告を無視して、そのまま言葉を続けた。
「私、行きたい学校決まったから」

第12話 裕美と琴音

「…へぇ、じゃあもう決めたんだ?今度の模試の参加記入用紙に書く学校」
「えぇ、一応ね?」
絵里のマンションに行った次の週、月曜日に裕美と朝、こうして一緒に通学している。特に約束したわけでもないのに、いつの間にか裕美のマンション前で落ち合うのが習慣化していた。
「で?何処にしたの?」
「え?えぇっとね…」
私は絵里の通っていた学校名と、後は滑り止めと言うのか、いくつかお母さんが煩くなさそうな女子校名を言った。
私が言い終えると、裕美はなんだか納得いかない顔で話した。
「へぇー…っていうかさぁ、琴音ちゃん?」
「ん?何よ?」
「…何で勝手にどんどん先に行っちゃうかなー?」
裕美はほっぺを膨らませて見せながら言った。私は隣に歩く裕美の足元を見ながら
「…?同じペースで今歩いているじゃない?」
と言うと、裕美はジト目で私を軽くにらみながら言った。
「もーう、そういう意味じゃないでしょ!」
「ははは、ごめんごめん」
私はおどけながら平謝りをした。裕美の機嫌はまだ直らないようだ。
「もーうっ!せっかく琴音ちゃんと相談し合いながら、じっくり決めようと思っていたのに」
「…あっ、そうだったの?」
「そうだよー…まっ!」
裕美は目を瞑り、両手を頭の後ろに回しながら、やれやれと言った調子で続けた。
「言わなかった私が悪いんだけど…察して欲しかったなー」
最後は私側の目だけを器用に開けて、私の方に視線を流しながら言った。
「相変わらず無茶を言うわね」
私はそれを聞いて、苦笑いするしか成す術は無かった。私のその様子を見て満足したのか、裕美は途端に機嫌を直して、とびきりの笑顔を向けながら嬉しそうに言った。
「でも偶然ね!私の第一志望もそこよ!」
「…え?ほんと?」
私はその可能性を正直微塵も考えてなかったので、素直に驚いた。裕美は私の様子をどう解釈したのか、慌てて言い訳するように続けた。
「あっ!イヤイヤイヤイヤ!別に琴音ちゃんの真似がしたくて、今思いつきで言ったんじゃないよ?…うーん」
裕美は先を話そうか、考えあぐねているようだった。これは言い訳が見つからなくて困っているというより、固く心に思っていることを私に話そうか迷っている感じだった。
裕美は決心がついたのか、顔をまっすぐ私に向けると真剣な面持ちで話した。
「…琴音ちゃん、今日一緒に塾に行かない?」
「え?え、えぇ、それは勿論構わないけど…」
一体何の話か理解が追い付かないでいるのに、構わず裕美は続けた。
「じゃあ改札前に四時待ち合わせでいい?」
「あ、うん…」
と訳も分からないまま了承すると、裕美は先程までの笑顔に戻った。
「良かった!じゃあこの話は後でね」
と言うと急にガラッと話題を変えて、裕美がいるクラスの中の四方山話をし出した。私ははぐらかされた感は否めなかったが、後で話すという言葉を信じて、今は裕美の話に付き合うことにした。

学校が終わり放課後、各々家に帰り塾の道具一式が入ったカバンを持って改札前に来た。この地元の駅は改札が一つしかないので、漠然と待ち合わせをしても、会えないような心配は無かった。そろそろ帰宅時間なのか、改札からは人がドッと引っ切り無しに出て来る。スーツ姿、学生服、普段着などなど様々だ。
 流石にごった返しているので、見つけるのは難しいと思っていたがすぐに見つけた。裕美はいくつかある柱の内の一つに寄り掛かり、また図書館の時のように教科書を見ていた。この前の教訓で、どうせ気付かないことは分かっていたので、側に近寄り軽く肩を叩いた。
「やあやあ、精が出ますね」
「あっ、琴音ちゃん!おっそーい!」
と開口一番裕美が文句を言ってきたので、左手首の時計を見てみると、四時五分前だった。
私も不満げな顔を作りながら
「あのねー…むしろ約束五分前に来ているんだから、褒められて然るべきだと思うんだけど?」
と言ったが、通用しないらしい。裕美はワザとらしくツンとして見せながら言った。
「私はそれよりも早く来たんだから、あなたはもっと早く来ていなきゃダメでしょ!それでも私の恋人なの!?」
こ、恋人?…あぁ、なるほど。
まだ一ヶ月も経たない付き合いだが、一つ裕美について分かった事がある。一つの冗談を言うのに一芝居をうってくることだ。初めの頃は訳わからずキョトンとしていたが、すかさず裕美からツッコミが入ったので、理解(?)がやっとできたという感じだ。…裕美には悪いけど、ヒロの言った『裕美は暑苦しい女』の意味を理解した。別に嫌いじゃないけど。
「…はぁ、誰が恋人よ誰が。仮に恋人だとしたら、アナタはかなりメンド臭い恋人でしかないわね」
と冷たくあしらうと、裕美の方は何故か満面の笑みで返してきた。
「えぇー、それを琴音ちゃんが言うー?」
「…どういう意味ですかねぇ?」
私は笑ったが、絶対零度の微笑だった。裕美は爆笑だ。私のその様子が面白いらしい。
「あははは!ごめんってば!さぁ、琴音ちゃん!くだらない事をいつまでもしてないで、早く行こうよ」
と言うと突然改札に向かって歩き出した。
「…はぁ、そのくだらないのを始めたのはアンタでしょうに…」
私はさっきと同じ様に一人苦笑しながら、どんどん歩いていく裕美の後を追った。

「…やぁー、行きの電車は空いてていいね!帰りは地獄だけど」
「そうね」
私達は都心に向かう電車に乗っている。中は空席が目立っていた。夕方のこの時間帯は、まずこの電車が混むことは無かった。時折すれ違う下り電車を見ると、既につり革手すりに掴まる人が大勢いた。私達が帰り乗る頃には、あの倍以上になっているのだから堪らなかった。なるべく帰りの混雑は考えない様にしていた。塾のある御茶ノ水まで、乗り換え入れて四十分程かかる。
いつまで経っても話そうとしないので、時間が勿体無いと私から聞き出すことにした。
「…で?一体何の話をするんで、こんなに先延ばしにしたの?」
と単刀直入に聞くと、相変わらず裕美は隣に座る私から視線を逸らし、うなじ辺りを手で触り、上下に何度か動かす照れ隠しの動作を見せた。いつも裕美がそれをやると、後ろの短髪が逆立ち、あちこちに跳ねてしまうのが特徴だ。もっともすぐに手で梳かして直していた。
今回も手で髪を直して、その手を膝上に戻し、意を決したように話し始めた。視線は手元に落として。
「…じゃあ、話すけど…笑わない?」
「…え?」
私の想定していない言葉が聞こえた。確か受験関連の話をするはずだったのに、笑う笑わないってどういうことだろう?私は意味が分からなかったが
「…え、えぇ、笑わないわ」
とだけ短く返した。相変わらず裕美は手元を見ていたが、声も小さく話し始めた。
「…あ、あのね?…私将来、お医者さんになりたいんだ」
「…ん?へ、へぇー…」
これが笑うことなのか?
私はさっき念を押されたせいか、自然な反応が取れなかった。でも裕美はツラツラと先を続けた。
「…今朝琴音ちゃんが言った第一志望校ね、知ってるかどうか分からないけど、都内の女子校では屈指の医学部合格率を誇る学校なの」
「へぇー」
さっきから私は『へぇー』としか言ってなかったが、他に言うべき言葉が見つからなかった。
そんな私の態度に気分を害することなく、裕美は続ける。
「だから私は琴音ちゃんと同じ学校に行きたいの!真似したいからとか、そんな理由じゃなくて」
「いやいや、私はそんなアナタが真似してるだなんて、これっぽっちも思ってなんかいないわよ」
私は苦笑いで、親指と人差し指で何かをつまむようにして、二つの指の間に若干隙間を作って見せながら応えた。そう言うと、裕美は小さく「そっか」と言うだけで、あとは私と視線を合わせて、静かに笑うだけだった。私はまだ続きがあると思って待っていると、なかなか続きを話そうとしないので
「…で?これで終わり?」
と正直に質問してしまった。流石の私もこれは、相手がやっと意を決して話した事に対して酷すぎるとは思ったけど、後の祭りだった。
私の心配を他所に、裕美はキョトンと、ある意味正しい反応を示していたが、ふと小さく噴き出すと、苦笑い気味に私に話しかけてきた。
「…ふふ。これで終わりって、ひっどいなー。けっっこう勇気を出して言ったのに」
と最後は意地悪く笑いながら言った。私は結構本気で申し訳なく思ったので
「…ごめん、そんなつもりじゃ無かったんだけど…」
と言い訳にもなっていない弁明をしたが、裕美は変わらぬ笑みで返した。
「はははは!やめてよ、しんみりするのはー。まぁ、確かに酷いと言えば酷いし、今の反応は人を選ぶと思うけど…まぁまだ一ヶ月くらいしか友達してないけど、アンタが悪気が無くそういうことを言っちゃうっていうのは分かってきたからねー…許してあげる!」
「裕美…」
「なーんてね!私は全然気にしてなんかないよ?それより…」
裕美は急に優しい微笑みを顔中に湛えながら言った。
「…私の夢に対して、茶化さず笑わないで聞いてくれてありがとう」
…?…あぁ、笑わないでってこの事だったのか。…ん?
私は一応言葉の真意を教えてもらった筈だったが、全然疑問が解消されていなかった。さっき謝ったばかりなのに、懲りずに聞いてしまった。
「…え?どういう意味?」
「え?あ、いや…」
当たり前だが、先程丁寧にお礼を言ったばかりだというのに、なぜお礼を言ったかについて質問されるのは想定外だろう。裕美は心底困っているようだったが、苦笑まじりに答えてくれた。
「その私の夢について笑わないで…」
「それよそれ…あっ」
私が言いかけた時、ちょうど電車が乗り換え駅のホームに滑り込んだ所だった。降りない訳にはいかないので、私達二人は黙って立ち上がり、ドアのそばに立ち、ドアが開くのを待った。

電車から降りて、今度は地下鉄に乗り換えるためにどんどん下へとエスカレーターを幾つか乗り継いだが、その道中、あまり歩きながらする話題でもないと知りつつも、”なんでちゃん”としては黙って居れなかった。
「そもそも何で私がアナタの夢を聞いて笑わなくちゃいけないの?」
「え?えぇ…っとねぇ…」
裕美は見るからに顔中に困惑の色を深めていった。何とか話題を変えようとしている節が見えたが、私が歩きながらもまっすぐ強めに視線を合わせていたので、とうとう折れざるを得なくなったか、若干引き気味に答えた。
「だ、だってぇ…自分の夢を語るのって…ダサいと思われるでしょ?」
「…誰が?」
「え?」
「誰がダサいと思うって言うの?」
「いやー…大体みんなそうだと思うけれど」
と裕美が言うと、ちょうど乗り換える地下鉄のホームに辿り着いた。
「みんなって…」
私が質問を続けようとした所、丁度電車が来るアナウンスが流れて、それと同時に電車が来たため、そのけたたましい音に私の声はかき消されてしまった。仕方なくそのまま私達は、揃って地下鉄に乗り込んだ。ここから御茶ノ水まで、かかって十五分くらいだ。普段はこの電車は座れない程度の混み具合だったが、今日は運よく座る事が出来た。
 私は一人クールダウンして反省していた。少し調子に乗ってあれこれ聞きすぎた。何しろ義一や絵里に対しては、年上というのもあって、世代間の感覚的な違いを少しばかり感じていたが、初めて同い年の、しかも比較的私の話を真面目に聞いてくれる友達が初めて出来たと、嬉しいあまり思わず暴走してしまった。
私が急に大人しくなったのをおかしく思ったのか、今度は裕美の方から話しかけてきた。
「…琴音ちゃんて、”本当”に周りの目を気にしないでいられるんだね」
「…え?」
私は思わず隣に座る裕美の顔を凝視した。裕美は微笑みながら視線を合わせていたが、ふと顔を正面に向けて、知らないスーツ姿のビジネスマンの方を見ながら返した。勿論言うまでも無く、そのビジネスマンのことは見ていなかった。
「…私ってさぁ、琴音ちゃんは知らなかったみたいだけど、結構同学年では目立つ方だって言ったよね?恥じらいもなく」
裕美は最後に悪戯っぽく笑いながら言った。
「え、えぇ」
それはここ一ヶ月、嫌という程わかった。何故なら登下校の時、すれ違う同級生の大体の人から声を掛けられていたからだ。その後私の顔を見ると、彼らは何とも言えない表情をこちらに向けて、そのまま黙って去って行くの繰り返しだった。
「…でもね、一度目立っちゃうと、中々もう飽きたからやーめたって出来ないのよ。そのまま続けなくちゃいけないの」
私はついこないだまでの”私”を思い浮かべていた。
「…これはある意味、琴音ちゃん相手には嫌味にならないから言えるんだけど…私みたいにクラスの中心にいるとね、それらしく振舞わなくちゃいけない…ダサい事なんか以ての外」
「…」
私の中で”意見”がいくつも沢山頭の中で生まれていたが、また話し過ぎちゃうと、私にしては珍しく抑えて、裕美の話の続きを待った。
「何でもいいんだけど、何かに対して”マジ”になるのは”ダサい”ということになってるのよ。…琴音ちゃんはさっきの口ぶりも含めて、今までお喋りして見た限り、そんなダサいかどうか、曖昧な他人の基準なんて気にならないみたいだけれどね」
「まぁ…うん」
なるべく誤解がないように、短く返した。
と、その時車内アナウンスが流れ、間も無く御茶ノ水に到着する旨を伝えた。
「…じゃあ、琴音ちゃん降りようか?」
「えぇ…」
色々と訂正したかったが、もう着いてしまった事実は覆しようが無いので、不完全燃焼のまま、異様に長いエスカレーターに乗り、地上に出て、二人仲良く並んで塾へ向かった。
途中まで、今日あった学校の出来事の話などを喋りあっていたが、塾の目の前の横断歩道の前で立ち止まると、裕美が仕方ないなといった調子で喋り掛けてきた。
「…もう、しょうがないなぁ。さっきの話、まだ話し足りないんでしょ?」
「あっ、いや、まぁ…うん」
私はぎこちなく答えた。一応それなりに世間話に笑顔で相槌を打っていたつもりだったが、どうも顔に出ていたようだった。
私の返答を聞くと、裕美は通りの向こうを見ながら、苦笑まじりに諭すような口調で言った。
「後で話に付き合ってあげるから、今は我慢しなさい?」
私は隣で並んで信号を待つ裕美の横顔をチラッと覗いたが、表情は自然な笑顔なだけで、言葉の真意をはかる事が出来なかった。
私も合わせて、不満げに返した。
「…なーんか上から目線だなぁ。あんたは私のお母さんかい?」
「えぇー…こんな面倒な娘はこっちから願い下げだよ…あっ!」
声を上げるのと同時に裕美は急に駆け出した。信号を見ると青に変わっていた。
「ちょっとー、待ちなさいよ」
私も不満タラタラに声を掛けたが、顔は自分でも分かるくらいにニヤケていた。通りを渡り終えた後、お互いに軽く息を弾ませていたが、無言で顔を見合わせると、途端に二人で笑い合った。そしてそのまま塾のある雑居ビルの中へと入って行った。

「…もう、やんなっちゃう!」
「ふふ、今日もキツかったね」
私と裕美は地元の駅に降り立っていた。時刻は十時十五分前だ。この日もいつもと変わらぬ混雑具合だった。前にも言ったように、この駅には各駅しか停まらない、路線が一つしか無いような規模の小さな駅だったが、この駅は区役所から一番の最寄駅だという利点があって、どんなに車両の奥まった所にいても、皆が一斉に降りるので、わざわざ人をかき分けて出なくて済むのが、唯一の救いだった。
私達は人の進む流れに合わせて改札を出て、バスを待つ人でごった返すロータリーを抜け、帰宅の途についた。
ロータリーを出るまでは、満員電車に対する文句や、今日の授業の事などを言い合っていたが、私の堪え性の無さが出てきて、今までの脈絡を無視して、さっき疑問点をぶつけて見ることにした。
「…ところで、さっきの話なんだけど…やっぱり納得いかないのよねぇ」
「おっ!来たね?”なんでなんで攻撃”が」
「え?それって…」
裕美がいきなり”なんでなんで攻撃”と言ってきたので、出鼻を挫かれた形になったが、まずそこから片付けざるを得なくなった。
「それって、ヒロが言ってる奴…」
「え?あぁ、そうそう!」
怪訝な表情の私とは違い、裕美はあどけなく笑いながら応えた。
「森田君が学校で琴音ちゃんの話をする時に、質問攻めをされると文句を言う中で、そういう名前で言ってたの。…あっ、もしかして嫌だった?」
裕美は途中で私の曇った表情に気づいたのか、少し申し訳なそうにしながら、私の顔を覗き込むように聞いてきた。私は首をゆっくり横に振りながら、でも苦虫を潰したような表情はそのままに答えた。
「…いえ、裕美に対しては文句はないわよ?当然ね?…ヒロったら、そんな訳わからない事を他の人にも言いふらしてるのね」
と私は、曇っているせいで星や月の見えない真っ暗な夜空を見上げ、そこに意地悪くバカ笑いをしているヒロを思い浮かべながら毒づいた。裕美は私の様子を見て、隣りでクスクス笑っていたが、半笑いのまま私に訂正してきた。
「いやいや!森田君は私が知る限り、私にしか話してなかったよ」
「そ、そう?」
「うん。そもそも…」
裕美は私にいつもの意地悪風な笑顔を向けながら続けた。
「前にも言ったけど、アンタはかなり目立つんだから、森田君もあまり簡単に名前を出せないのよ」
「またぁー、そうやってなんでも大袈裟にして」
「いやいや…はぁ、ここまで自覚が無いと、こんなに困らされるなんて思わなかったなぁ」
「何よぉー」
「あははは」
裕美は私が不貞腐れるのを気にせず、一人愉快そうにしていたが、ふと何かに気付いたのか、今度は申し訳無さそうに聞いてきた。
「あっ!…気付いたら、アンタって呼んじゃってたね?変に馴れ馴れしかったかな?」
「へ?」
私は変な気の遣われ方をされて、一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔になって返した。
「…ははは!そんなの今更よ?前から度々私の事を”アンタ”呼びしてたのに」
「え?えぇー、そうだったっけ?」
裕美は本気で驚いているようだった。そして、うなじ辺りをポリポリ掻きながら照れ臭そうに言った。
「いやー、琴音ちゃんじゃ無いけど、結構大人しめで上品な感じでいようとしてたのに、そんな言葉遣いをしていたなんて」
なんて言うので、私は心底呆れたといった調子で言った。
「あのねぇ…あなたはそういう衒わない着飾らないのが良いところなんだから、無駄なことはやめなさい?…まぁ、そもそも出来てなかったけど」
最後は意地悪く笑いながら言い切った。
「…えぇー…ってかそれ褒めてるの?貶してるの?」
言われた裕美は、何とも言えない、どういった反応をしたら良いか戸惑ってる調子で返してきた。最も顔には笑顔を浮かべていた。
「さぁって、どっちでしょ?」
「もーう!」
「…ふふ」
「あははは!」
暗い夜道、明かりの少ない住宅街を私達二人は愉快に微笑みながら歩いた。

「…はぁーあ、ってもう着いちゃうね?」
裕美の視線の先には、もうマンションが見えていた。もう別れる時間だ。
「そうね。…はぁ、じゃあまた明日ね?」
「うん…ほら、そんな顔をしないでよ?明日付き合ってあげるから。…アンタの”なんでなんで攻撃”に」
「あっ!また言ったわね?」
と私が文句を言い切る前に、裕美はマンションのエントランスへ向かって一目散に逃げ込んだ。そして中に入りこちらに向き直ると、大きく手を振りながら大きな声をかけてきた。
「じゃあまた明日ねー!」
私も仕方なく、胸の前で小さく手を降りながら答えたのだった。
「ははは…うん、また明日」

次の日、いつものように裕美と落ち合ってから登校した。会って早々聞こうかと思ったが、流石にちょっと朝一、しかも短い登校時間で聞くことが叶わない事を、ある意味昨日で学習したので、そこには敢えて触れずにお喋りをした。すると裕美の方から察して触れてきた。
「今日姫は静かね?早速質問責めにあうと思っていたんだけど」
裕美は昨日と変わらぬ意地悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。私は大袈裟に肩を落として見せて返した。
「姫って誰がよ?全く…んーん、今はやめとく」
「え?何?」
裕美は心底意外と言った表情で私を見た。
「せっかく裕美とちゃんとお話出来るのに、こんな短い時間で適当に済ますのは勿体なくてね」
と素直な気持ちのままに答えた。すると裕美は私の腕に組んできながら、明るく言った。
「…もーう!本当に琴音ちゃんは相手が嬉しがる事を、ややこしく分かりづらく言うんだからなぁー。もっと子供らしく素直に言ってよぉ」
「いや、私はいつも素直なつもりなんだけど…」
いつまでも裕美が腕を組んでじゃれ合うのをやめないので、少し歩きづらかったが、何故か振りほどく気にはならなかったので、そのままにしといた。
すると後ろから私達に大声で声を掛けてくるのがいた。顔を見なくてもすぐわかる。
「おーい!お前ら道端で何をイチャイチャしてんだよ?」
「あっ、森田くん!おはよう!」
裕美はようやく私から離れると、ヒロに向かって元気に明るく挨拶をした。
「おはよう、ヒロ。今日も朝からうるさいわね」
「おいおい、うるさいとは何だよー。せめて”賑やか”って言ってくれ」
「ごめんなさい。”騒がしい”の間違いだったわ」
「おい、それ訂正出来てないぞ?」
「あははは!」
「おーい!」
向こうから不意に私達に声を掛けてくる軍団があった。見ると、いつもヒロと連んでいる賑やかな男子グループだった。その中にはヒロと同じ野球チームの男の子が何人かいた。
「昌弘ー!何朝っぱらから女子と喋ってるんだよー!ムッツリ!」
「ば、バカ!そんなんじゃねぇよ!…じゃあまたな」
と私達二人に一言言うと、一目散に男子の集団へ向かって駆けて行った。その集団もヒロから逃げるように駆けて行ってしまった。
「…やっぱり騒がしいだけじゃない」
静かになって暫くしてから、私はポツリと言った。隣で裕美はクスクス笑っていた。
「まぁ、そう言わないであげてよ。森田君はあの明るさが取り柄なんだから」
と、ヒロをかばうようなことを言ったので
「…まぁね。あなたとヒロはそっくりだからね」
と意地悪く嫌味のつもりで言った。私はてっきり裕美がブー垂れながら返事してくるものと思っていたが、予想とは違い、裕美は何故かモジモジして、ほんのり赤くなりながら返した。
「…え?そ、そう?私と森田君って…に、似てる?」
「え?え、えぇ…。なんか良く言ってムードメイカーなトコとか」
裕美が予想外な反応を示したので、私も若干戸惑いながら答えた。
「そっか…そっか!」
と独り言を言いながら、学校に向かい一人歩いて行った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
私は慌てて後を追った。もっとも歩きでだったので、すぐに追いつき隣についた。早速そのリアクションの訳を聞こうと思ったが、何故か実際に聞き出そうという気が起きなかった。すっかり感興を削がれてしまった。とここで不意に一つの考えが浮かんだ。早速裕美に聞いてみることにした。
「…裕美は今日、学校が終わった後用事ある?」
「え?今日?うーん…」
裕美は腕を組み目を瞑って、首を傾げながら考えていたが、パッと目を開けると私に視線を合わせながら答えた。
「…うん、今日は大丈夫。習い事もないし」
「そう?」
考えてみたら、裕美が何の習い事をしているのかも、まだ聞いたことが無かった。そんなつもりは無かったが、質問魔の私が聞かないのは、何だか相手に対して興味がないことを表明しているようで、一人で気まずい思いをしていた。勿論興味があったから、機会があればこのことも聞かなくちゃだった。
それは置いといて、私は続きを話した。
「じゃあ、今日放課後私にちょっと付き合ってくれない?…小学生でもゆっくりお話が出来るいい場所があるの」
「へぇー…」
裕美は少し躊躇したように見えたが、すぐにパッと明るい笑顔を見せながら答えた。
「…うん、いいよ!じゃあ放課後校門前で待ち合わせね?」
「えぇ、約束よ」
それから私達は取り止めのない会話をしながら、学校へと向かった。

「お待たせー」
裕美は途中まで誰か、友達なのだろう、女子何人かと途中まで歩いていたが、私の姿を認めるとその子たちに何か言い、手を振ってから私の元に駆け寄って来た。
「うん」
私は校門のすぐ脇にある桜の木の下で、持って来ていた文庫サイズの小説を読んでいた。
裕美は私の手元の本を見ながら言った。
「あれー?今何読んでたの?」
「これ?…これはね」
私は表紙を見せただけで、何かは言わなかった。
 因みにこれは、義一の本棚から借りたものだった。塾に通うようになってから、めっきり義一と話し込む機会が減ってしまったけど、ピアノのレッスンの帰りなどに義一の家に寄って、少しピアノを弾いて見せてから、本を借りていくという習慣が出来上がっていた。貸してあげるとは言われたけど、あまりに本の数が膨大だったので、選ぶのに困っていると、『僕はね、琴音ちゃんくらいの歳からは十九世紀の海外の作家ばかり読んでいたけど…もし参考にしてくれるなら、これから試しに読んでみると良いよ』と義一が色々薦めてきたのを、そのまま従順に読み込んでいった。今はトルストイを中心に読んでいた。
「とるすとい?…あぁ、名前は聞いたことある」
裕美は特に興味はないようだった。私は黙って本をランドセルに仕舞うと、早速裕美に話しかけた。
「よし、じゃあ行こうか」
私は返事を聞く前に歩き始めた。
「ちょっと待ってよー」
裕美が慌てて私の隣に来た。
「もーう、勝手なんだから。…で、今からどこに行くの?」
「え?うん、今からねぇ…」
私は進行方向の先を、漠然と指差しながら答えた。
「今から土手に行くよ」
「…え?えぇー…」
裕美は私が言うと、露骨に嫌な顔をして見せた。想像と違っていたようだ。
「え?嫌だった?」
「いやー…嫌じゃないけど」
と裕美はダジャレか何なのか分からないリアクションを取りながらも、相変わらず微妙と言いたげな顔で返してきた。
そんな顔をされても、他人の迷惑にならずに小学生の身分で友達と深く語らうとしたら、義一とも来た土手しか思い付かなかった。
「でも私達が人目を気にしないでお喋り出来るのは、土手ぐらいしか思い付かなかったんだけど?」
と私が質問調で言うと、裕美は慌てて返してきた。
いや、別に不満があるんじゃないよ?ただ意外だったからさ。そんなに”圧”をかけてこないでよ」
裕美は凍えて寒がっているように、両手を交差させて自分の両肩をさすりながら、大袈裟に怯えて見せた。私は苦笑いを浮かべて
「もーう、ヒロと同じことを言わないでよー」
「ははは、ゴメンゴメン!」
ヒロと似ているということを試しに仄めかしてみたが、裕美は今朝のような意味深な反応を示さなかった。
校門から十分ちょっと歩くと、土手の前まで来た。今日は平日の火曜日というのもあって、人影は疎らだった。もう十一月だから寒くないかと若干不安だったが、この日に限っていえば、風はそよそよ吹くだけで、空には目立って大きな雲も無く、陽射しは燦々と降り注ぎ、中々心地いい秋晴れの日だった。
私は裕美を連れて、義一が度々考え込みに来る、あの土手の斜面まで来た。私は何も言わずその場に尻餅ついた。裕美は服が汚れるのを気にしたのか、少しばかり躊躇していた。確かにこういう日に限って、いやいつもそうだが、可愛い服を着ていた。地べたに座るの?と言いたげだ。しかし私が躊躇いも無くストンと座ったのを見て、諦めがついたのか、あと下はジーンズを履いていたのも手伝って、私のすぐ横に同じように座った。二人して目の前を流れる川を眺めていた。
「…風が気持ちいいね」
裕美はさっきまで土手に来るのも、地べたに座るのも嫌がっていたのに、今ではすっかり満喫していた。一度障害を乗り越えたら、あとはいつまでもネチネチ引き摺らない、そんなサッパリした性格も裕美の美点だった。
「…ね?気持ちいいもんでしょ?」
と私はバタンと斜面に、仰向けに寝っ転がりながら言った。流石に私には倣わず、裕美は両膝を抱えながら答えた。
「ふふふ、そうね!…琴音ちゃんは、よく此処に来るの?」
裕美は私の事を見下ろしながら聞いた。
「えぇ。…ピアノのレッスンの後、ここまでわざわざ来て、しばらく佇んでいるのが好きなの」
義一の事は話さなかったが、嘘は言っていない。
「へぇ…」
裕美はまた川の方へ視線を戻しながら言った。
「中々乙な事をしているのね?…」
と言うとまたこっちに顔を向けた。顔は今から悪戯を仕掛けてきそうな表情だ。
「アンタ…本当に小学生?」
「…あなたもね?普通”乙”なんて言葉、日常会話で使わないわよ?」
「…誰かさんの影響かもね?」
「…ふふふ」
「あははは!」
私達は一瞬間を置いた後、お互いその姿勢のまま笑いあった。

「さてと…何で土手に来たんだっけ?」
私は惚けて言ってみせた。裕美は私にジト目を流しながら、不満げに答えた。
「…ふふ、ちょっとー、勘弁してよぉ。私に何か聞きたいことがあったんじゃないのぉ?」
裕美は最後まで固い表情を保てず、結局最後はニヤケながら非難してきた。私も思わず吹き出してから、平謝りして、それから質問することにした。
「いやね?やっぱり気になるじゃない?そのー…自分の夢を語ると、えぇっとー…ダサいだっけ?今考えてみてもよく分からないのよ」
「よく分からないって言われてもなぁ…昨日言ったまんまだし…やっぱり琴音ちゃんは」
裕美は未だ寝っころがっている私の方を、両膝に自分の顔の片側を乗せながら笑顔で言った。
「普通の子とは違うね。少し…いや、大分変わっている」
言われたこの時、私は苦笑いを浮かべていた。だが、正直色んな意味でがっかりしていた。早合点していたのだ。久しぶりに幼稚園の頃、先生やお母さんに失望されたのを思い出していた。確かにまだそんなに付き合いが長いわけでもないのに、あまりに急に”私”を曝け出しすぎたのかもしれない。最近、義一に始まり、絵里さんという、言い方が難しいが、どちらかと言えば”普通”に属する人に受け入れられたという出来事が、根拠のない自信をいつの間にか私に植え付けてしまっていた様だった。
「変わってる」と言われたこの瞬間、頭の中をこんな考えが巡り巡って、悪い方悪い方へと泥沼に向かうように気分が落ち込んでいくのが、自分の事なのに客観的に感じられた。
正直疎遠気味になった、昔の仲良しグループの女子達に、現時点でどう思われようと、どうでもよくなっていたが、今裕美にまで離れられたら、正直自分が真っ直ぐ立っていられる自信が全く無かった。ということにこの時気付いたのだった。
「…ちょっとー、それは言い過ぎじゃない?傷つくわぁ」
今まで考えていた事を悟られない様に、私はワザと大袈裟に不満げに見せて言った。裕美は当然冗談だと思っているので
「いやぁ、変わっているよー」
と繰り返し言った。私はここでも早合点してガッカリしていたが、裕美はその先を続けた。私に微笑みながら。
「…まぁ、変わっているからこそ”面白い”んだけどねぇー」
「…え?」
私は思わず上体を起こすと、裕美の顔を凝視した。裕美は構わず続けた。
「琴音ちゃんは面白いよ。今まで私の周りに全くいなかったタイプだもん。そりゃたまにキッツいこと言うなぁって思う事もあったけど、他の子と一緒に居ては得られない…うーん、感情っていうのかな?なんか私の中に湧きあがる様な気がするんだ。…また繰り返すのは馬鹿バカしいんだけど、クラスで私の周りに集まって来る同級生達、…まぁ悪い人は居ないんだけど、その分というか…みんな同じ反応しかしないから”ツマラナイ”のよ。で、繰り返すようだけど琴音ちゃん、アンタは私が付き合ってきた人の中で、とびっっきり面白い人なの!予想外な反応しかしない点でね!…ってあれ?」
裕美はここまで言うと、急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤に赤らめながら続けた。顔が赤いのは夕陽のせいでは無かった。
「…もーう!琴音ちゃんがそんなだから、いつの間にかこんな恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!いつもなら絶対に言わないのに、もう最悪ー!」
裕美は私から顔を背けて、反対側に向けてしまって動かさなかった。
私は今のを聞いて、まず最初に絵里のことを思い浮かべた。二人が話しているのを見て、直感的に二人が似ているとは思っていたが、まさかここまで親和性があるとは思わなかった。という理屈は置いといて、勿論素直に、裕美が私の事をそう形容してくれたことが嬉しかった。私が他人に対して隠し通そうとしてきた本来の”私”。それを誰もが”変”と一言で片してしまうのを、裕美は面白がってくれていた。
正直この時私は、そっぽを向いている裕美に、自分でもよく理由が分からなかったが、無性に抱きつきたかった。でも流石にそこまで恥ずい事は、裕美の言葉じゃないけど出来なかった。
代わりにただ一言ボソッと言っただけだった。
「…裕美、ありがとう」
「だーかーらー!」
裕美は勢いよく私に振り向くと、不満を顔全面に示しながら言った。
「そういう恥ずいのはナシだって!…もういいでしょ!この話は終わりー!」
裕美が強引に話を終わらせたので、私も微笑みながら従った。
「で?何の話だっけ?…あぁダサいがどうのって」
「そうそう。でもまぁそれは分かったわ。理解は出来ないけど」
と私は一人勝手に打ち切った。
「またこの子は…そんなややこしい言い回しして」
裕美は文句を言っていたが、顔は笑顔だった。私も笑顔を返していたが、今度は唐突に裕美の方から私に質問してきた。
「私ばっかりズルイよ。今度は私の番ね?」
「何よ?」
裕美はさっきみたいに、顔を膝に当てながら聞いた。
「…琴音ちゃんの将来の夢は何?」
「…え?」
私が聞き返すと、裕美は背筋を伸ばして私と視線の高さを同じにしてから続けた。
「だって、私だけ将来の夢、お医者さんになりたいって喋ったのに、琴音ちゃんだけ話してくれないのは不公平よ」
「不公平って、あのねぇ…でも、言われてみればそうか」
私は裕美の言い分に納得して、初めて考えてみた。というのも、正直自分の事なのに一切考えてみたことが無かったからだ。いつも周りの事象に対して疑問を感じ追いかけるだけで、肝心要の己自身をほったらかしにしていた。だから受験についても、未だに同い年の子達と比べて、何も考えていないに等しかった。
でもいくら考えても、というより今急に考えてみても何も思いつかなかった。周りについて疑問に感じて興味を持っても、それはポジティブな興味というより、ネガティブな所からスタートしているが為、自分なりに結論が出ると、途端にその事について興味を失くしてしまう。遊び飽きるまでそのオモチャで遊んで、仕組みが分かったらもう遊ばなくなるのに似ていた。飽きたらもう一切手をつけない。ある意味幼稚性とも言えた。
ピアノは数少ない、飽きないどころか、やればやるほど奥深く、なかなか抜け出せない底なし沼のような魅力で私の心を掴んで離さなかったものだった。『その事について知れば知るほど、分からなくなる』最近義一に借りた本の中で、詩人のゲーテが言っていた。私の好きな言葉の一つだ。まさに私にとってのピアノそのものだった。前に一度言った通り、人前で弾くのは心の底から嫌だった。繰り返しになるが、自分の体を人前に、動物園のお猿さんのように晒すくらいなら、冗談じゃなく死んだほうがマシとさえ思っていた。だから、ピアノはやり続けたくても、職業としてはそれでは成り立たないので、いわゆる”将来の夢”からは除外せざるを得なかった。
とまぁ、こんな感じのことをウンウン唸りながら考えていた。が、ふと一つの考えが浮かんだ。裕美は私の顔の変化を読み取ったのか、私に改めて質問してきた。
「…あっ、何?何か見つかった?」
裕美は目を輝かせて、興味津々具合を顔中で示しながら言った。
「えぇ。…でもあなたの言う将来の夢とは違うかもだけど」
「もーう!勿体ぶるの禁止ー!早く教えて?」
裕美が急かすので、笑顔の表情そのままに答えた。
「…先に言っとくけど、将来の夢…つまり将来就きたい仕事が今はないの」
「え?じゃあ…」
「いえ、最後まで聞いて?」
「う、うん…」
裕美は訳わからないって顔で私を見ていた。私は構わず続けた。
「私はねぇ…将来こうなりたい人ならいるわ」
「…え?」
裕美はますます訳わからないって顔を深めて私を見た。頭の上に実際にハテナマークが見えるようだった。
「…それって、将来の仕事には関係ないの?」
「うーん…どうだろう?今の世の中では無いかな?」
「えぇー…じゃあ未来にはあるの?」
「多分…無いと思う」
「何それぇー。じゃあ過去にはあったって言うの?」
私はそんなつもりはなかったが、裕美としては考え得る答えとは掛け離れていたらしく、また私の答えが要領を得ないと感じたのか、焦ったそうに聞き続けてくる。
「うーん…」
この時私は、義一の書斎の本達のことを思い浮かべていた。
「…そうね。過去には幾らかあったかも」
「あったかもって?」
「…簡単に言えば、その職業はほぼこの世から消え去っているんだもの」
私は対岸の方、太陽との逆光で真っ黒に遠くで聳え立つ、ビル群を見つめながら答えた。
「…えぇー、訳わかんなーい」
裕美は今まで表情で表していた感情を、ようやく言葉に翻訳して口から出した。私は顔を見なかったが、ブー垂れていたことだろう。と、裕美は両手を後ろにして土手に手をつき、真上を見上げながら、しょうがないといった調子で言った。
「…まぁ、それでいいわ!琴音ちゃんがこういうことで、ふざけて茶化して私をからかうような真似をする、軽薄な人じゃ無いことはよくわかっているからね!」
裕美は私に顔をくしゃっとした、愛嬌のある満面の笑顔を向けた。私は何も言わず、同じような笑顔を返すだけだった。そろそろ日が暮れる。
「さぁってと!」
私はおもむろに立ち上がると、伸びをしながら裕美に話しかけた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「ふふふ、そうだね」
私達はお互いに身体中、特にお尻辺りをはたき合って埃を払い、二人仲良く並んで家に帰る事にした。空は薄っすら暗くなって、宵の明星が西天に輝いているのが見えたが、まだ遠くの区役所からアナウンスが聞こえないところをみると、まだ五時にはなっていないようだった。
「そういえば、絵里さん…あの司書さんがいる図書館に、今週の土曜日勉強しに行こうと思うんだけど、裕美はどうする?」
「え?今週の土曜かぁ…」
裕美は視線を上にして、何か頭の中のスケジュール帳を見ている風だったが、私に視線を戻すと、両手を顔の前で合わせて、目をギュッと瞑りながら応えた。
「…ごめん!今週も習い事で忙しくて行けないわ。また今度誘ってよ」
「えぇ、それは構わないけど…」
おっと、忘れるところだった。
私は自分に課した使命を思い出し、それを裕美にぶつけて見る事にした。
「今までそういえば聞いた事なかったけど…あなたの習い事ってなんなの?」
「え?」
裕美は大袈裟に仰け反り、驚いて見せた。今私達がいる通りが、人気がなくて助かった。
私は仕返しとばかりに、裕美に詰め寄った。
「ほらー、あなたは私がピアノをしてるって知っているじゃない?でも私は知らない。これって”不公平”なんじゃないかなー?」
と私がニヤケながら言うと、裕美は照れ臭そうにいつもの癖をしながら返した。
「まぁそうねぇ…不公平かぁ。こんなに早く”ブーメラン”が帰ってくるとは思わなかったわ」
「ふふ」
私は一人笑っていたが、今度は裕美もニヤケながら私に顔を近づけてきてから言った。
「ほんっっとに私の事を知らないのね?」
とだけ言うと、裕美はゆっくりと歩き始めた。私も慌てて合わせて歩いた。
「何?それってどういう意味?」
私が質問すると、裕美は笑顔を絶やさぬままに返してきた。
「そのまんまの意味よ。…そうねぇ」
裕美は今度は顎に人差し指を当てて、トントンと何度か叩いていた。と、何か思いついたのか私の方へ向き直り、笑顔で話し出した。
「ヒント!…私がなぜ琴音ちゃんを知っていたか?」
「ヒ、ヒント?っていうか、いつ問題出したのよ?」
と不平を述べたが、もちろん裕美の真意をそれなりに察したので、そのまま考えてみた。すぐに結論は出た。
「…あなたが言うには、私が目立っていて、それに合唱コンクールで私がピアノを弾いたってことよね?」
「そのとおーり!」
裕美はまたまた大袈裟に反応して見せた。
「…ん?つまり、どういうこと?」
と私が未だ分からずにいると
「ブッブー、時間切れー、タイムアップ!残念でした!」
と裕美はさっきと同じテンションで言い放った。私は膨れながら言った。
「何よー?じゃあ一体なんだって言うの?」
私が不満を露わに返したが、裕美はさっきまでのテンションとは打って変わって、頭を何度もゆっくり左右に振りながら答えた。
「やれやれ…この姫は下界のことなんぞ興味を示されないんだからなぁ」
「ちょっと、どう言う意味よ?それにその”姫”って言うの、固定化しようとしないでよ」
と言う私の抗議は、裕美の耳には一切届かないようだった。
「あのね…自分で言うのが恥ずかしいから、色々とヒントを出したんだから、そろそろ察してくれてもいいんじゃない?」
「え?あ、うん。ご、ごめんなさい?」
裕美がジト目でまた顔を近づけてきながら言ったので、私は訳もわからぬまま一応謝った。すると裕美は、それで一応満足したのか、人懐っこい笑顔に戻って話し始めた。
「しょうがないなぁ…去年の十二月!全校生徒の出る朝の朝礼!…それでも分からない?」
「…朝礼?十二月?うーん…」
何かあったっけ?…あぁ、なんか誰かが体育館の壇上に上がって、校長先生から表彰されてたっけ?あの時のことを言いたいのかな?
「…誰かが、なんか朝礼で表彰されてたような…」
「私」
「…え?」
裕美を見ると、自分の顔に指を差しながらアピールしていた。
「え?じゃなくて私よ、わ・た・し!もーう、そりゃ私を知らない訳だわー」
裕美は先程と同じく何度も首を左右に振りながら言った。
「あっ、そうだったの。へぇー…で、なんで表彰されてたの?」
「…もーう!」
裕美は短髪の頭の側面をゴシゴシと乱暴に掻いて見せたが、ふと掻くのを止めて、苦笑いを浮かべながら私に答えた。
「それはそうね。私が壇上に上がったことも知らなかったぐらいだもん、中身を知ってる訳ないか。あれはね…」
裕美は一瞬口籠もったが、絞り出すように言い切った。
「…去年のその時、私東京都の東部ブロック水泳大会で、女子十歳の部で”最優秀選手賞”っていうのを貰ったの」
「…へ?…えぇーーー!」
私は我ながら大きなリアクションだと思ったが、正直心の底から驚いたのだから仕方がない。思わず大きな声を出してしまった。人通りが無くてよかった。
裕美は妙に恥ずかしがっていたが、私の反応を見て、満足そうにしながら続きを話した。
「だから私が何の習い事をしてるかっていう問題の正解は、”水泳”でしたー」
「へぇー…水泳だったんだ」
私は感心していたが、ふと今更ながら気付いた。裕美は絵里の髪型を見て、愛着が湧く意味も含めて”キノコ”と称していたが、裕美の頭もそれに擬えれば”イガグリ頭”だった。それほどに短髪だったが、それが妙に、初めて見た時からだからかも知れないが、裕美によく似合って見えた。
でもそうか…短髪なのは水泳の為なのか。
他の水泳をしている女子がどうかまでは知らなかったが、私の中でこの二つを合わせると、キレイにパズルが合わさるようにシックリと嵌った。
「なるほどねぇ…っていうか凄いじゃない!」
私は裕美の肩をポンポンと何度か軽く叩きながら言った。
「要は都大会で優勝したようなものでしょ?何で言ってくれなかったの?」
と私が熱っぽく聞くと、今まで私が興奮しているのを見たことが無かったせいか、裕美は私をポカンと間の抜けた表情で見つめていたが、我に返り苦笑まじりに、言いづらそうに答えた。
「い、いやー…だってぇー…。今更去年の事を持ち出して言うのはダサいし、恥ずかしいじゃない?なんか昔のことを引き摺って偉ぶるみたいで、そんなの嫌でしょ?だから去年表彰されたけど、自分からは絶対に言ってやるもんかって、変に意固地になっていたの」
言い終えた裕美は、汚い話、何かを吐瀉した後のような顔つきでいた。私の方は、裕美の意外な一面、もちろん水泳をしていて、しかも優勝するほどだというのにも驚いたが、何より裕美の考え方に強い共感を覚えていた。
「…あなたの言う事はわかるけど、でも水泳をしてるって事くらい、教えてくれてもいいんじゃない?」
と私が言うと、裕美はバツが悪いというような表情を見せて、相変わらず言いづらそうに答えた。
「うーん…何て言うのかなぁ?…今だに同級生には『水泳頑張って!』みたいな、事あるごとに口先だけの応援を言ってくれる人が結構いるのね?…ちょっと嫌な言い方しちゃったかもだけど。琴音ちゃん相手だから隠さず言うけど、中には『まだ水泳頑張ってるの?』みたいな声をかけてくる人もいるのね?本人は悪気が無い…いや、”悪気すら無い”って言った方が正しいかも。…とにかく、私が何かにつけて冗談で『私は目立つし、顔が知られていて有名』みたいな事を言ったと思うけど、理由としてはこれだったの。ねっ?ある意味琴音ちゃんと共通点があったでしょ?」
「え、えぇ…」
私はそれよりも、意外と言っちゃあ悪いと思うけど、裕美が自分のことを私が思う以上に客観的に見れていることに感動していた。
「でもね…」
裕美は続けた。
「琴音ちゃん、今日も含めて昨日の電車の中とか…んーん、初めて会話をした時にも薄々感じていたけど、アンタと話す時には自分を全部晒してもいいんじゃないかって思えたの。他のみんなみたいに、クラスの中心にいる”自分”を演じなくても良いってね?」
「え?じゃあ尚更…」
私はすかさず間にツッコミを入れた。
「そう思ってくれたんなら、さっさと話してくれれば良かったのに」
と言うと、裕美は少し何故か寂しそうな顔をして答えた。
「…うん、その通りなんだけど、さっき話したでしょ?この水泳の話をすると、何も分からない、何も分かろうとしない人達が寄ってくるだけって。…そんな話を琴音ちゃんとは…んー、何となく…し辛かった…のかな?」
「裕美…」
と私が言いかけると、裕美は途端にまた顔を真っ赤にして、アタフタしながら
「…ほらー!また恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!今日はこんなのばっか!」
と言うと、またソッポを向いてしまった。私は微笑んでその様子を見ていた。

「じゃあ、今週だけじゃなく先週の土曜も無理だったのは…」
「そう。私が所属する水泳クラブに行ってたの」
私達はまた帰宅の途についていた。裕美は何の気もなしに答えていたが、心なしか表情が晴れやかに見えた。ついさっきあんな話をしていたからだろうか。
「でね?」
裕美はもう私が聞かなくても、自分から話してくれていた。
「さっき私は去年、十歳の部で最優秀賞を貰ったって言ったでしょ?」
「えぇ」
「今年も大会に勿論出るつもりなんだけど、私達って今十一歳じゃない?だから去年の部は当然出れないから、また別のに出るの。それはね…」
裕美はここで一度溜めてから、また続きを話した。
「女子十一歳から十二歳の平泳ぎに出るのよ。…だから」
裕美は私をチラッと見て、すぐに進行方向に目をずらした。
「もう大会がすぐそこだから、今必死に最後の追い込みをしているの。…来年は受験だから、小学生最後になりそうだしね?」
裕美はそう言うと、照れ隠しなのか、大きく伸びをして見せた。
「…ねぇ?」
「んー?何?」
「その大会っていつなの?」
「えーっと…今月末の日曜日だけど?」
「…えぇーー!もうすぐそこじゃない!」
「だから言ってるでしょ?」
裕美は私が興奮しているのを、戸惑いながら苦笑いを浮かべていた。
今月末の日曜日かぁ…うん、よしっ!
「…それって、関係者以外の人も見に行って良いの?」
「え?…あー、うん、多分大丈夫だったと思うけど?」
それを聞いて、私は決意を固めた。
「…私、その大会観に行っても良いかな?」
「…え?」
戸惑いを隠せない裕美を他所に、私は畳み掛けるように言った。
「だって、そんな話を聞いちゃったら、俄然興味が湧いてくるじゃない!しかも小学生最後って言うし!…ねぇ、ダメかな?」
こう言っている間、私は勝手に裕美と自分を重ね合わせて見ていた。最も私は先生に薦められながらも、何度も話しているあの理由で、結局一度も小学生のうちにコンクールには出なかった。これも言ったと思うけど、若干先生の事を思うと、一度くらい出れば良かったと、極端に言えば後悔していたとも言えなくもなかった。
それを目の前にいる裕美は、ジャンルは違えど必死に自分の好きな事に全力で努力をして、しっかり結果を残し、それに慢心せず、こうして今また大会に向けて頑張っている。身勝手だけれど、今更何言うかと思うかもしれないけど、私はこの目で裕美の泳いでいる姿を見たいと、心の底から欲していた。
「…いやぁ…うーん」
中々裕美が煮え切らないので、私はダメ押しで詰め寄り、まっすぐ強い視線を裕美に向けながら頼んだ。
「…裕美、お願い」
「ーーーーーーっ!」
裕美は私があまりに近くに寄ってきたので、両手を前に出し、どうどうと私を宥めるように押し出した。それでもなお、私が見つめるのを止めないでいると、裕美は俯き大きく溜息つきながら答えた。
「…はぁー、わかったよ!琴音ちゃん、是非観に来てちょうだい」
「裕美、本当に良いのね?」
私が重ね重ね念を押すように聞くと、裕美は苦笑交じりに返した。
「本当も本当!それに姫にあんな顔で頼まれたら、女の私でも折れずにはいられないからね」
「ふふ、ありがとう」
裕美が言った軽口は無視して、素直に礼を言った。

それから色々水泳についてのアレコレを裕美に質問攻めしながら聞いた。最初の方は参っていたようだが、やはり好きな水泳、しかも私が自分で言うのは何だけど、熱心に興味を示して聞いてくるので、途中からは裕美自ら聞いていない事まで詳しく話してくれた。
ふと頭には、義一に野球について熱く語っていたヒロの姿がよぎっていた。

また私は一つのことを改めて再認識した。私は誰かが本気で好きだというものを語るその話が、ジャンルを問わず好きだということだ。大抵の人は、自分でアレコレ好きだと言っても、色々聞き出そうとすると、口を噤むものだ。あまり多くを語らない、言挙げしないのが美徳だという、我々日本人の本能的な点に由来するのかも知れない。だから私はある意味日本人らしくないのかも知れない。それでも私は繰り返すようだけど、この子供の頃からそういった話を聞くのが大好きだった。
私の個人的な考えで言えば、本当に本気で好きな物、好きな事があるとして、それについて色々訊かれたら、周りが引こうとも、止めに入って来ようとも、堰を切ったように、いかに自分がその事についてどれだけ好きかを話し続けちゃうもんだと思う。周りを気にしないくらい盲目的になる、これが本気で好きだと自ら言えることの条件だろう。

「じゃあ、また明日ね」
「えぇ、また明日」
私達は裕美のマンション前まで来ると、そこで二人でお互い笑顔で手を振りながら別れようとした。私が背を向けて自宅へ帰ろうと歩を進めると、背後から絵里が声をかけてきた。
「琴音ちゃーん!」
「え?何?」
私が振り返って裕美を見ると、裕美との距離はまだ数メートル離れていただけだった。まだマンションの敷地内だった。裕美はわざわざ私の元まで走り寄ってきて、私に話しかけた。
「言い忘れていたわ。その大会ね?去年も応援に来てくれた人が一人だけいるの。その人も今年来てくれるみたいなんだけど…良いよね?」
「えぇ、もちろん!仮に嫌だとしても、私がダメとか言う権利なんかないわよ」
私は少し苦笑気味に、でも笑顔で返事した。裕美はホッとしたような表情だ。
「そう?良かったぁ」
「で?その人はどんな人なの?」
と聞くと、裕美はニヤッと意地悪く笑いながら答えた。
「それはねぇ…」


「よう!遅かったな」
十一月の最後の週の日曜日の昼前、私が地元の駅前の待ち合わせ場所に着くと、ヒロが腕を組んでむすっとした表情で迎えてきた。上は無地のTシャツと下はジーパン、手ぶらで来ていた。私は前にお母さんから貰ったオレンジ色のミニボストンを持って、上は白と黒のストライプ柄の厚めなカーディガン、下は暗いワインレッドのロングスカートを穿いていた。
私もむすっとした顔を返しながら言った。
「…はぁ、本当にあなただったとは」
「それはこっちのセリフだぜ」
私達が二人で軽口を言い合っていると、その後ろで一緒に来ていた私のお母さんとヒロのお母さんが、笑顔ではしゃぎながらお喋りをしていた。
「あら、久しぶりね瑠美さーん!」
「久しぶりー」
「早速で悪いけど、今日はお願いね?」
ヒロのお母さんは私のことをチラチラ見ながら、お母さんに向かって言った。
「えぇ、任せといて!私も久し振りにヒロ君と一緒にいれて嬉しいわ」
同じ様に私の事を見ながら答えていた。
あの後お母さんに今日の事を言うと、最初は意外そうな顔で、私の顔を凝視していたが、すぐ後パァっと笑顔を咲かせながら、食い気味に根掘り葉掘り裕美について聞いてきた。説明すればするほど、お母さんは裕美に会ってもないのに、好感を持つ様だった。そして、ヒロのことも説明した。一緒に観に行くという旨だ。すると早速お母さんはヒロの家に電話して、今日の事を聞き出していた。丁度というか、ヒロのお母さんは去年はヒロに付き添って大会を見に行った様だが、今年はどうしても外せない用事があったとかで、仕方ないから他の信用できる親戚か誰かに付き添いを頼むつもりだったらしい。するとお母さんが率先して”子守”の役回りを引き受けたのだった。
「じゃあ、よろしくー」
ヒロのお母さんは去り際に私とヒロの頭を優しく撫でてから、どこかへ行ってしまった。
「…さて!行きましょうか」

私達は早速電車に乗り、二、三度乗り換えて、いわゆる湾岸エリアにある大きな水泳競技場に着いた。会場前の辺りは既に多くの人でごった返していた。
早速裕美から貰ったパスを係員に見せて中に入り観客席に着くと、見たことのない様な大きなプールがデンとあり、すでにその中を何人かが泳いでいた。大会自体はもう始まっていた様だった。裕美が出る部はまだだった。
「…はぁ、初めて来たけど、こんな感じなのね」
私がボソッと言うと、隣に座ったヒロが何故か誇らしそうに話しかけてきた。
「だろ?俺は去年もここに来たんだぜ!」
「…なんであなたが自慢げなのよ?」
「お待たせー」
お母さんが何処かにある自販機から私達二人の分の飲み物を買って戻ってきた。私は焙じ茶、ヒロはコーラーだ。
「ありがとう、おばさん!…おいおい」
ヒロは丁度私が飲もうとしているところを、苦々しげに見ながら言った。
「お前は相変わらずそんな苦い物を飲んでんのかよ?渋すぎ」
「あなたが子供舌なだけでしょ?」
「…そういやよぉ?」
ヒロはコーラーを、炭酸だというのにグビグビ飲むと、一息ついて私に話しかけた。
「お前スポーツ見るの興味なかったんじゃないのか?」
「…え?」
私は掲示板に表示されている、ローマ字表記の”HIROMI TAKATOO"をジッと見ていたので、急に振られて何言われてるのか分からなかった。
「何て?」
「だからよぉ…」
ヒロは何故か言いにくそうだ。何か納得いかないといった調子で続けた。
「今回高遠にお前が来るって聞いてよ、すっっごく意外だったんだわ」
「うーん…話が見えてこないんだけど?」
「だーかーらー!」
ますますヒロは不機嫌になるばかりだ。お母さんは隣で微笑ましげに私達のやり取りを見ている。
「…俺の試合には一度も見に来てねぇじゃんか」
「…あっ、そういえばそうね」
私はとぼけて見せた。
「そういえばって…お前なぁ…」
「あははは!ごめんなさいね、ヒロ君?ウチの娘がこんなんで」
堪えきれなくなったのか、お母さんは吹き出し、ヒロに笑顔を向けながら”何故か”謝っていた。ヒロは途端にお母さんに対して恐縮していた。私は無視して視線を掲示板に戻した。

そんなくだらないやり取りをした後、久し振りなせいか、お母さんはやたらとヒロに話しかけていた。ヒロも”外面良く”返事したりしている。私は黙ってお茶を飲みながら、今か今かと待っていた。
しばらくするとアナウンスが流れた。裕美が出る試合だ。アナウンスがあった後少し間が空いた後、ラップタオルや巻きタオルを巻いたままの女の子達がぞろぞろプールサイドに入って来た。目を凝らして見ると、グレーの地味めなラップタオルを身に付けている裕美がいた。
「おーい!高遠ー!頑張れー!」
隣でヒロは急に立ち上がると大声で叫んだ。出場者の親御さんやらなにやらが、ヒロの事を見て笑っていたが、その後ヒロに続く様に各々が十人十色な声援を掛けていた。
…なるほど、こういう時はこいつの底抜けの騒がしさが役に立つのか。
妙に感心しながらも、特に私はノらず、ジッと座席に座って裕美を見つめていた。各々がタオルを脱いで、競泳水着姿になると、腕を伸ばしたり準備体操をしていた。裕美を少しも視線を逸らさず見ていたが、裕美は会場の歓声など聞こえてないかの様に黙々と準備をしていた。只の準備なのに、私はすでにその姿に見惚れていた。
アナウンスでスタートの体勢をとる様に言われると、裕美含む数名の女子が数字の書かれた飛び込み台の上に立ち、飛び込む体勢を取り、スタートの合図を待った。私まで緊張感が伝わって、いつの間にか両手をキツく握りしめていた。少しの間、さっきまでの喧騒とは裏腹に、会場はシーンと静まり返っていた。
すると、なにやら機械音が聞こえて…

突然だが、ここで話を区切るのを許して欲しい。正直本論とは逸れてきているし、それに何より…このまま話すと裕美の頑張りを、”私の話”の味付け程度の扱いにしかねない。…それは私としては耐えられない事だ。そのー…大切な友達として。もし機会がある様なら、何処かで別に裕美自身の話を、私の知る限りに置いて、改めて話そうと思う。
ただこれだけだと中途半端だから、一つ、ヒントになるかならないかという補足を一つ言わせて頂くと、試合が終わり、裕美から貰ったパスのお陰で、関係者以外入れないロッカールームに入れたので、男子のヒロには外で待って貰って、私とお母さんで会いに行った。丁度プールサイドから帰ってきた裕美とロッカールームの外の廊下で出くわした。水泳キャップを取ったひろみの頭は、短髪のせいか、アチコチに無造作にピョンピョン跳ねて爆発していた。試合が終わったばかりなので、身体中から水が滴っていた。
裕美は私の姿を認めると
「…琴音ちゃーん!」
と大きな声で私の名前を呼んだ。最初は笑顔だけだったが、見る見るうちに目元に涙が溜まっていき、遂にダムが決壊した様にタラタラと両眼から止め処なく流れ出した。でも相変わらず笑顔のままだったので、言い方がいいかどうか分からないが、泣いてるのか笑っているのか判断しずらいクシャクシャな顔だった。
「…裕美、頑張ったわね」
私はこういう時、どんな言葉を掛ければいいのか皆目検討がつかなかったので、色々短時間で考えた挙句、結局月並みだけど、その様なことを言って優しく微笑みかけた。
私の言葉を聞くと、裕美は私の元に駆け寄ってきて、そのまま私に抱きついてきた。若干私の方が身長が高いせいか、私の胸に顔を埋める形になった。私はまたこういう時どうすればいいのか知らなかったが、知らなくとも無意識に、でも恐る恐るそーっと裕美の背中に腕を回し、私も抱きしめ返した。まだ水分を多分に含んだ競泳水着越しにも分かる程、裕美は小刻みに震えていた。私はなにも言わず優しく背中をさするだけだった。
しばらくして私達二人は離れた。と、裕美が私の服を見て「あっ!」と言ったので、私も自分の胸元を見て見ると、考えなくても当たり前だが、まだ水着姿の裕美と抱き合ったせいで、私の服の上が水浸しになっていた。下のワインレッドのロングスカートも、まぁ…いわゆる”おもらし”でもしたかの様になっていた。近くでずっと私達の一連の様子を、黙って微笑みながら見守っていたお母さんも「あっ!」とだけ声を漏らした。
裕美はさっきまでとはまた違った、申し訳なさを顔中に浮かべながら私を見ていたが、私はスカートを大袈裟に広げて、無言で裕美に濡れてる部分を見せつける様にしてから、パァッと渾身の満面の笑顔を浮かべて見せた。そんな笑顔でいる私の様子を見た途端、裕美もつられて同じ様に満面の笑みを返してきたのだった。お母さんも満足そうに笑っていた。

今話せるのはこんなところだ。裕美の試合の結果については…秘密だ。ご想像にお任せする。

それからは着替えた裕美に自分が所属する水泳クラブの面々を紹介してもらい、また気付かなかったが、裕美の後ろに先程から立っていた人が、実は裕美のお母さんだと教えてくれた。ビックリするくらい裕美にソックリだった。似ている点をあげるとキリがないほどだったが、まず最初に目についたのは、裕美と同じ様に頭を短髪にしていたことだった。普通お年を召した女の人には中々似合わない髪型だと思うが、しつこい様だけど裕美とそっくりなせいか、よく似合っていた。裕美と同じで体育会系なのだろう、スラッとしていて無駄な贅肉が削ぎ落とされているように見えた。
裕美のお母さんは私のことを裕美に紹介されると、急に私の両肩を掴み軽く揺すりながら「君が琴音ちゃんか!裕美が言ってたように、本当に可愛いね!いつも裕美から話を聞いてるよ」とテンション高めに話しかけてきた。「ちょっと母さーん!やめてよー!」と裕美が心底困ったといった調子で返していた。私とお母さんは顔を見合わせると、クスッと笑いあったのだった。
ヒロと合流して、そのままの流れで競技場近くのファミレスに入って、軽く雑談したりした。せっかくの大きな大会に参加した後だっていうのに、随分打ち上げが質素だと思われるかも知れないが、これは聞かなくてもクラブの人が教えてくれた。この人が裕美のコーチだった。大会の成績がどうなるか、当日にならないと分からないから、本格的な打ち上げはまた後日ちゃんとするんだそうだ。「あなたもどう?裕美の友達なら歓迎よ?」と誘って貰ったが、丁寧に断った。裕美の大事な”居場所”を土足で入り込む程には、さすがの私も厚顔無恥では無かった。
 地元の駅まで皆んな揃って帰った。駅前の時計を見ると五時をちょっと過ぎた辺りだった。そこで他のクラブの人とは別れた。お母さんは駅前のスーパーで買い物をしてから帰るというので、私と裕美と裕美のお母さん、そしてヒロとで帰ることになった。駅に近いところに住んでいるヒロとは、自宅である一軒家の前で別れて、残る三人で帰ることになった。
裕美のマンションが見えるところまで来たが、ふと裕美は立ち止まり、私の方を見て話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、この後少し時間ある?」
「…え?えぇ、大丈夫よ」
「母さん」
裕美は私の返事を聞くとすぐにそのまま、今度は自分のお母さんに顔を向けると聞いた。
「…少し琴音ちゃんと、公園でお喋りしてっていい?」
裕美が指差した先には、遊具の無いこじんまりとした、公園と言うより猫の額ほどの広場があった。
「…えぇ、良いわよ?あまり遅くならないようにね?」
裕美のお母さんはそう言うと、今度は私に近寄り、先程みたいに私の肩を掴んで優しく微笑みながら言った。今度は揺らされなかった。
「じゃあね、琴音ちゃん!今度ウチに遊びにきなさいね?遠慮せずにいつでも良いから」
「…はい、必ず」
私も微笑み返しながら答えた。裕美のお母さんは満足そうに頷くと、私の肩から手を離し、そのまま何も言わずマンションの方へと行ってしまった。でも去って行くとき、振り返らずも手を振り続けていた。
「…なんか裕美のお母さんって、カッコイイね?」
素直な感想を裕美に言った。裕美はそれを聞くと、苦笑交じりに返した。
「…まぁ…ね?あの歳になってもカッコつけてるから」
裕美はそれから何も言わず公園の中に入って行った。私も後に続いた。
「…私ね、いつも水泳の練習後そのまま家に帰らず、一度このベンチに座ってボーッとしてるの」
裕美は二つしかないベンチの一つに座りながら言った。私も適当な距離を取って隣に座った。
「へぇ、そうなんだ?」
「うん。…水泳ってやっぱりすごく疲れるでしょ?大会前の練習なんか特にでね。でも終わってここに座ってボーッとしてると…」
裕美は言いながら真上を見上げた。そこにはベンチの裏に植わっている大きな木が、ベンチの上に屋根を作るように枝を縦横無尽に張り巡らしていた。この小さな公園は、その規模の割に大きな木が何本も植わっていた。幹の太さで予想するに、どれも樹齢が何年も経ってそうに思えた。
「気持ちいいのよ。程よい気だるさも手伝ってね。…まぁでも」
裕美は顔を戻し私の方を見ると、いたずらっぽく笑いながら続けた。
「夏になると毛虫が落ちてこないかヒヤヒヤなんだけどね?」
「ふふ、そうなんだ」
今度は私が真上を見ながら答えた。もう冬が近いからか、枝しか無かったが、それでも密集具合が凄かった。空が見辛いほどだ。
「…今日は応援に来てくれてありがとうね?」
「え?…うん」
と私は短く答えた。
「私がせがんだんだしね」
「…いやー!」
裕美は急に照れる時のくせ、うなじ辺りを掻きながら恥ずかしそうに言った。
「最近ほんと琴音ちゃんといると、なんか妙に恥ずい事を平気でしちゃってる気がするなぁー」
「…?あっ!あぁ…」
私はニヤケながら先を続けた。
「私に抱きついて来た事?」
「わぁーーーー!やめてーーー!」
裕美は両耳を手で押さえて、大袈裟に反応をして見せていた。
「あははは!」
「あははじゃないよ、もーう!」
抗議をしてきた裕美の顔は笑顔だった。
「でも前にも言ったかもだけど、琴音ちゃんの前だと、恥ずい事を言ったりしたりしても、言うほど嫌じゃないんだよねぇ…なんでかな?」
「ふふ、私に聞かないでよ?」
私はまた笑顔で返したが、ふと両足をバタバタさせながら、別の話題、裕美が泳いでいるのを見て、その時感じた事を話すことにした。
「…いやー、でもあなたに嫉妬しちゃうなぁ」
「え?嫉妬?なんでまた」
裕美は座る位置を変えず、上体だけ私に近寄り、両手をベンチにつきながら聞いた。私は正面を向きながら続けた。
「えへへ…だって、こんなに一生懸命になれる事があるというのは、やっぱりズルイ…いや、素直に羨ましくて」
私は顔だけ裕美に向けた。笑顔だ。
「だから嫉妬しちゃう」
私は冗談交じりに言ったが、裕美は何やら真剣に考え込んでいるようだった。と、ハッとした表情になると、すぐ何とも言えない微妙だって顔を作りながら返した。
「…うーん。そう改めてハッキリ言われると、またまた恥ずいんだけど…でも琴音ちゃん」
裕美はここで表情を変え、微笑みながら続けた。
「アンタにはピアノがあるじゃない?」
こういう返答は予想していたので、私は包み隠さず今までのピアノ遍歴を披露した。何故薦められたのに、コンクールに出なかったのかも。
裕美は黙って聞いていたが、私が言い終えると途端に苦笑いを浮かべて返してきた。
「…ふふふふ。何だかこれぞ”琴音ちゃん”っていうエピソードだね?”らしい”感じだよ」
裕美は今度は少し表情を暗くしながら先を続けた。
「…でも私と何も変わらないと思うなぁ。私も初めは何だか人前に出たく無かったもん。…それに競技用とはいえ水着だしね?」
裕美はニヤッと笑って見せた。がすぐに表情を戻して続けた。
「ただ私は琴音ちゃんほど何も考えてなくて、ただ周りの人が私を褒めてくれて、また必要としてくれてるって事で、じゃあそれならって、流れみたいなものにただ乗っかっていただけかもしれないなぁ…って今初めて考えて、思いついた事を言ってるだけなんだけど」
言い終えると、裕美はまた照れ臭そうにしていた。
「そっか…まぁ」
私も照れ隠しに意地悪く笑いながら応えた。
「私もなんか変な影響受けちゃったよ。…コンクール一度くらい出とけばよかったなぁって」
「…ぷっ!あははは!…イヤイヤ、今からでも出れるでしょ?出てなかっただけで、今も変わらず努力し続けているんだから」
裕美も意地悪く笑い返してきたが、目の奥は優しい光を宿して私を見つめていた。
私も見つめ返して黙っていたが、お互いに恥ずかしくなり、誤魔化すように二人で笑いあった。
「…よし、じゃあ琴音ちゃんそろそろ帰ろうか?」
裕美は立ち上がり、両腕をめいいっぱい空に向けて大きく伸びをしながら言った。
「えぇ…ねぇ?」
私は腰を浮かそうとしたが、またストンと腰を落とし、裕美の事を見上げながら聞いた。
「ん?何?」
裕美はこちらを見下ろしながら、伸びの体勢のままに聞き返した。
「…何で私の名前を言う時”ちゃん付け”なの?」
「…え?」
裕美は予想外だったのか、両腕をストンと降ろして、私の顔をまじまじと見ながら聞き返した。
「だって私が”裕美”って呼び捨てなのに」
「えぇー…いやぁ…だってぇ」
裕美はまた私の隣に座り直した。そして、中腰になって先程よりもこっちに近付いて来てから続けた。
「なぁんか琴音ちゃんって…普段は凄く大人っぽいから”お姉ちゃん”って感じだけど、たまに弱々しく脆い感じに見える時があるから、印象強い”か弱さ”が目立って思わず”ちゃん付け”しちゃうんだよ」
と言い終えると、裕美は顔をクシャッとさせながら無邪気に笑った。
「何よその理由はー…。しかも本人を前にして」
私は苦笑い気味に非難をして見せた。すると裕美は私の肩に自分の肩を軽くぶつけて、頭をチョンとこれも軽く私の肩に当てながら返した。
「別にいいでしょー?アンタには何も隠し事をしなくても良いんだからぁ」
「…もーう」
私は苦笑いだったが、心の内がバレないように誤魔化すためでもあった。正直そう言ってくれて嬉しかった。
「…でもあなた、私の事を”琴音ちゃん”って呼ぶくせに、”アンタ”なんて言葉遣いはなんか…整合性が無いように感じるのだけど」
私は裕美を優しく押し返しながら言った。
「えぇー…まぁ言われてみればそうねぇ。…じゃあどうしよっかなぁ?」
「…ふふ、『どうしよっかなぁ』じゃなくて…」
私は柔らかく笑いながら、ひろみの顔を直視して言った。
「”琴音”って呼び捨てにしてよ」
「…うん、わかったよ”琴音”」
「ふふ…それで良いのよ裕美」
私達はお互いの名前を呼び合うと、一瞬黙って顔を見合わせたが、すぐその後さっきみたいに笑いあったのだった。

第13話 受験

裕美の大会が終わった次の週の日曜日、初めての模試を受けることになった。これといった準備をして受けた訳ではなかったので、大して結果を期待していなかった。でも意外なことにというか、自分でも予想外な程に良い結果が出た。具体的には一番良い判定ではなかったが、次点の判定で、今のまま続けていけば合格圏内に入るだろうと、手紙で来た模試の結果が書かれた紙にはコメントが書かれていた。
年末冬休みに入り、塾の冬期講習に出たりしていたが、クリスマスには裕美のお家にお呼ばれされた。今まで私は、最も裕美もそうだったらしいが、クリスマスはクラスメイトと大人数で騒いで過ごすのが定例だったが、今年は裕美と大人しく粛々と二人っきりで過ごすという、珍しさから来る新鮮さを楽しんだ。普通だったら物足りなさを感じたりするのだろうが、寂しさなど一切感じず、ただただ充実感を味わっていた。
その後私は家族と、これまた恒例の家族旅行に行ってしまったので、裕美と大晦日に会ったり、元旦含む三箇日に一緒に初詣には行けなかったが、旅行先で連絡取り合ったりしていたので、そんなに別々にいる感じはそれほどしなかった。
三学期に入るとそのまま変わらぬ日常が始まり、私は相変わらず義一さん家、先生の家、図書館、時々絵里の家、そしてついでに塾通いと、こう書き出してみると中々に忙しい一週間を毎週同様に過ごしていた。そんなこんなで毎日毎週ルーティンをこなしていたら、もう四月を迎えて、晴れて六年生になり、最後の小学生生活を迎えていた。

「…いやー、緊張するなぁ」
「ふふ、何によ?」
四月の終わり、ゴールデンウィークに入る前の最後の登校日、午前中までの土曜日の放課後、私と裕美はお互い一度家に帰り軽く着替えて、勉強道具を一応持って絵里のマンションに向かっていた。前々から裕美は絵里の家に行きたがっていたので、ようやく叶った形になった。
裕美は私の方にジト目で流してきながら答えた。
「…いや、アンタは緊張なんかしないだろうけど、私は初めて会ってからも図書館でしか会話をしたことが無いんだからぁー。…そりゃ緊張するわよ、一人暮らしの女性の家なんて」
「…ふふ、まるで初めて彼女ができた男が、その彼女の家にお呼ばれに行くみたいな事を言うのね?」
私は意地悪くニヤケながら言った。裕美は言われたすぐ後には照れてうなじあたりを掻いていたが、
「…えぇー、何ー?経験豊富なお姫様は過去にそんな男がいたことがありましたの?まだ小学生ですのに?」
とよく分からない似非貴族風な口調で、途端に同じように意地悪く笑い返しながら答えた。私はそのノリには乗らず、淡々と表情を殺して返した。
「…何言ってんのよ?私の事を見ていれば、そんな事と縁遠いことくらい分かるでしょうに」
「…うん、分かってて敢えて聞いた」
「…」
お互い顔を見合わせて一瞬黙ったが、その後何も言わずクスクス笑いあっただけだった。
「…はぁーあ。ところであなたはすっかり私の事を姫呼ばわりするのが定着してるけど、仮に私が姫ならあなたは何なのよ?」
「え?私?…そりゃ当然…」
裕美は胸を大きく張り、威風堂々といった調子で返してきた。
「姫の成長を優しく見守る、慈悲深い女王陛下ってとこかしら?」
「…また随分大きく出たわね」
私は苦笑まじりに返した。
「見守るだけなら、乳母でも侍女でも良いじゃないの?」
「…えぇー」
裕美は顔だけでなく、体全体を使って不満を表して見せた。
「何で私がアンタの側で仕えなくちゃいけないのー?」
「…だったら何で私が姫なのかも考えて欲しかったわ…あっ!あれよ」
そんな無駄話をしていると、いつの間にか絵里のマンションが目の前に現れていた。
こんな事私が言うのはおかしい…というより生意気だけど、何の変哲も無い平均的な見た目と中身のマンションなのに、裕美はうろちょろしながら、あらゆるところから建物を眺めていた。
…ふふ、いつだったかの私みたいね。初めて義一さんの家を見た時の。
なんて事を思っていたが、私は早速オートロックの前まで行って絵里の部屋番号を押した。これもまた在り来たりなチャイムが鳴ったかと思うと、すぐに絵里の声が聞こえてきた。
「…あぁ琴音ちゃんね?今開けるから、いらっしゃい?部屋のドアは開けてあるから」
言い終えるのと同時にすぐ横の自動ドアが開いた。
「うん、今行く…おーい裕美ー、行くよー?」
「あ、うーん!」
裕美は私の元に駆け寄って来た。それからエレベーターに乗り、六階で降り、出て左に曲がり突き当たりにある絵里の部屋に向かった。
私は率先して前を歩いていたが、後ろから人の気配がしなかったので振り返ってみると、裕美は通路の手すりにつかまり外の景色を見ていた。
今日は春のうららかな陽気で、吹いてくる風は若干肌寒いくらいだったが、子供の頃の体温が高めな私達には丁度良い心地よさだった。
「琴音ー!気持ち良いよ?」
「…ふふ、そうね」
私はやれやれといった感じで裕美のそばに寄った。あれから私は何度も来ているが、絵里の部屋に行く前に私も一度立ち止まり、よくここからの景色を見ていた。
「…さ、もう行くよ?」
「うん」
私は早速絵里の部屋のドアノブを回して入った。
「絵里さーん、来たよー?」
「お、お邪魔しまーす」
裕美は少し恐縮しながら私の後から中に入って来た。
「はーい、いらっしゃーい」
向こうのドアが開いた音がしたかと思うと、絵里が廊下に出て来たのが見えた。絵里は着すぎて首元がヨレヨレになったグレーのTシャツに、濃い青のスキニージーンズを履いていた。本来ならだらしないという印象を与えるのだろうが、絵里が着ると首元のヨレ具合がヤケに色っぽく見えた。
「よく来たわね!ささ、上がって上がって」
絵里はズンズンと向こうへ行ってしまった。私達二人も後に続いた。

リビングに入ると、既にあのテーブルの上にはお皿とコップが人数分椅子の前に置かれていた。椅子に関して言えば、一つだけ折りたたみ式の簡易的な物だった。
「じゃあ適当に座って?」
「は、はい」
まだ裕美は緊張が解けない様子で、遠慮したのか折りたたみ椅子に座ろうとした。すると慌てて絵里が裕美の肩を掴むと、そのまま普通の二つお揃いの椅子まで押して座らせた。
「ダメよ遠慮しちゃ?そこには私が座るから」
絵里は座った裕美の顔の高さに合わせて腰を曲げ、顔を近づけながら言った。顔はニヤケている。
「は、はい」
その絵里のニヤケ面が功を奏したか、裕美の顔にも明るさが徐々に戻って来ていた。
私はその様子を微笑ましげに見ながら、無言で普段ここに来たときに座る定位置に座った。私と裕美が真向かい、絵里が座るのは私から見て左側、目の前にキッチンが見える場所だった。
「この椅子どうしたの?」
私は冷蔵庫から何か取り出している絵里に声を掛けた。絵里は作業をしたまま、こちらに顔を向けないままに答えた。
「それー?それはねー、琴音ちゃんは見た事無かったかもしれないけど、前々からあったのよー?二人以上の時に出すのー」
絵里は間伸び気味に言いながら、私が一番最初にここに来た時と同じケーキ屋さんのロゴがプリントされた紙箱を持って、テーブルの中心に置いた。
裕美は紙箱の側面に描かれているロゴを見ると「あっ!」と声を上げた。その反応を見た絵里がすかさず裕美に声を掛けた。
「え?裕美ちゃん、この店を知ってるの?」
「あっ、はい!これって駅ナカのヤツですよね?」
裕美はロゴを見つめながら答えた。絵里はまたキッチンに戻りながら話した。
「その通り!よく知っていたわねぇ。もしかして食べたことあった?」
「いえいえ!いつもお店の前を通るだけで、食べたことはないです!はぁー」
裕美はまだ中身さえ見てないというのに、既に幸せそうな表情を浮かべていた。裕美には悪いけど、私はそんな裕美に若干だけど引いていた。
そんな私の心中を知るわけもなく、既に絵里と裕美とで会話が盛り上がっていた。
「はぁー、やっぱり小学生でも分かるんだねぇ。…いやぁ、私は」
絵里はオレンジジュースと紅茶の準備をしながら、私の方へ流し目を送りつつ続けた。
「身近で親しい小学生が琴音ちゃんしか居ないから、小学生のイメージがこの子で固定化されちゃってるのよー。琴音ちゃんはそこまでいいリアクションをしてくれなかったし」
「えぇー?ちゃんと美味しかったって言ったと思うけど?」
私は肘つきほっぺを膨らませて見せながら抗議した。絵里は満面の笑顔だ。
「そういう意味ではないんだけどなぁー…ねぇ裕美ちゃん?」
「あははは!そうですね」
さっきまで緊張して居たのが嘘みたいに、すっかりいつもの裕美に戻って明るく元気に笑って話していた。
「でもダメですよー?」
裕美も絵里と同じ様に私に流し目を送ってきながら言った。
「この子を基準に小学生を見たら。…この子は良くも悪くも”変わり者”なんですから!」
それを聞くと、絵里は裕美用のジュースと、紅茶の入ったポットを持ってきながら返した。
「ふふふ、それもそうね?いやぁ、私も薄々そうなんじゃないかって思ってたんだけど」
「…もーう、二人して本人前にして何話してるのよ?」
「あら?もしかして聞こえちゃってた?」
私は先程から表情を崩さず、不満タラタラにブツブツ言ったが、絵里がワザとらしく惚けながら返した。
その後絵里が私の前にセットされていたティーカップに紅茶を注いでくれようとしたので、慌ててカップを手に取りポットの注ぎ口に近づけた。
「ありがとう」
「いーえー」
絵里は私のに注ぎ終わると、自分のカップに注ぎながら裕美に話しかけた。
「…そういえば、裕美ちゃんは図書館でも聞いたけど、紅茶じゃなくて良かったんだよね?一応カップだけは用意しといたけど」
「あ、はい。私はジュースのほうがむしろ良かったです!…琴音は」
裕美は絵里に笑顔で答えてから、私のほうをチラッと見て話しかけてきた。
「いつもお茶を飲んでるねぇ?私もたまに飲むけど、進んで飲もうとは思わないから」
「えぇ。なーんか渋かったり苦かったりするのが好きなのよねぇ」
「ふふ、本当に変わってるわよねー。まぁ私としては、紅茶に付き合ってくれるから嬉しいけど…」
絵里はおもむろに紙箱を開けて、そして角っこを綺麗に割いてバラして見せた。露わになった箱の中身は、私が初めて来た時と同じ種類と、後は何周りも小さいミニチュアみたいな苺のホールケーキが入っていた。「わぁー」と裕美は感嘆の声を上げた。
「じゃあ二人共、各々好きなのを手に取るがいい」
絵里は何やら芝居掛かった口調で慇懃な調子で言った。私と裕美はそれを聞いてニヤニヤしながら、軽く相談しあいながらも揉める事なく手に取りお皿に乗せた。
「…よし、みんなに渡ったね?じゃあ”初女子会”を祝して、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
掛け声と共に私と絵里のカップ、裕美のコップをカツンと軽く当てた。
他のいわゆる”女子会”で乾杯するのかは知らない。ただ私がここに来る度に、まぁいつもおやつがある訳じゃなかったけど、紅茶の入ったカップを軽くぶつけて乾杯するのが習わしになっていた。…まぁ尤も喫茶店で乾杯する事はまず無いから、変わってることは変わっているんだろう。
「じゃあ頂きまーす」
「召し上がれー」
各々嬉々としてお皿のケーキにかぶりついた。私はスフレチーズケーキとモンブランタルト、裕美はチョコレートケーキとモンブランノエル、絵里は抹茶プリンとチョコのムースだった。

「…あー、おいしー」
裕美は私の向かいで食べていたが、手につけていたチョコレートケーキを小振りとはいえ、ペロッと平らげてしまっていた。その様子を見た絵里は微笑みながら裕美に話しかけた。
「良かったわぁー、そんなに美味しそうに食べてくれて。買ってきた甲斐があったよ」
「いやー本当に美味しいんで、すぐ食べちゃいました」
「ふふ」
絵里は一口紅茶を啜った。
「いやぁ、さっきも言ったけど私って小学生と言えば琴音ちゃんしか知らないじゃない?今時の小学生ってどんな話をしてるのか興味があるのよ。まぁ私も図書館で子供を相手にしてるんだけど、深いところまでは当然ながら話せないからね」
「そうですねぇ…うーん」
裕美はフォークを咥えながら少し考え込んでいた。
「…まぁでもこれと言って面白い話はしてないですよ?よっぽど」
裕美はここで私の方を見ると、意地悪くニヤケながら続けた。
「この姫様と話している方が面白いですもん!」
「あっ、こら裕美!そんなことを言ったら…」
私は慌てて裕美を制止したが遅かった。顔は裕美に向けたまま視線だけ絵里に向けると、案の定、絵里の顔一面に悪戯小僧が出現していた。
「…えぇー?何その”姫様”って?琴音ちゃん、学校ではお姫様に祭り上げられてるの?」
「い、いや違…」
「そうなんですよー」
裕美は私の言葉を遮って、呑気にジュースを飲みながら答えていた。
「イヤイヤ、違うでしょ。何が『そうなんですよー』なのよ」
私は裕美を思いっきり睨んだが、裕美は全く意に介していないようだった。私はため息交じりに絵里に言った。
「…はぁ、本当に違うの。裕美が勝手に一人で言ってるだけなんだから」
「ふーん…」
私の必死の抗議にも、絵里は変わらずニヤケているだけだった。
「じゃあ私が二人目になろうかな?」
「あっ!是非!」
「…もう勝手にして」
絵里と裕美が結束している横で、肘を付きソッポを向きながらボソッと言った。視線を感じたから、おそらく二人は私を見て微笑み合っていたことだろう。
「あははは!琴音ちゃん、そんなにいじけないでよー?冗談やからかいじゃなくて、本心から言ってるだけなんだから。ねっ、裕美ちゃん?」
「そうですよー。…琴音、中々”姫”なんてアダ名つけられて、反発がないのは珍しいんだからむしろ光栄に思ってよー?」
「…ははは」
私は半目で空笑いをしながら顔を二人に戻した。
「ところで姫は…」
絵里が何の違和感もないといった調子で、私に話しかけてきた。
「姫って自然に言わないでよー」
無駄だと知りつつ反発したが、難なく抗議は無視された。
「相変わらず”王子”にしても良いと思う、眼鏡にかなう男子は見つからないの?」
「…王子がどうのって今日初めて聞かれたけど…」
私は淡々とツッコミ、チーズケーキを口に含みながら返した。すると裕美が予想外に身を乗り出すように話しかけてきた。
「そうよー。誰か好きな人いないの?気になる人とか」
「えぇー…そんなの」
私はここでなぜか咄嗟に義一のことを思い浮かべていた。自分でもギョッとしたが、すぐに冷静に分析した。私が出会った男性の中で、私の興味を惹く人が義一以外に居なかったという、異様に低い恋愛偏差値の成せた業だと納得した。
「…居ないわねぇ」
「あっ!何その間?意味深ー」
裕美はフォークの先端を私に向けてきながら、口元をニヤケさせつつ言った。
「こら裕美。人にフォークを向けてはいけません」
「はぐらかさないでよー」
そんな私達の様子を絵里は微笑ましく見ながら、抹茶プリンをスプーンで掬っていた。私はまた一口チーズケーキを口に含むと裕美に聞いた。
「…そんなあなたはどうなのよ?」
「…え?」
裕美は二つ目のモンブランノエルに手をつけていたが、ふと顔を上げて私のことを凝視し声を漏らした。
「だってあなた、いつも私のことばかり聞いてきて自分のことを一切話さないじゃない?」
「あら、そうなの?」
絵里もスプーンを咥えながら、私の言葉に反応した。
「どうなの?」
「どうなのって…ねぇ」
裕美は視線だけを斜め上へ逃がしながら口籠もった。
「あっ!何その反応?意味深ー」
私は裕美のモノマネをしながら言った。
「意味深ー」絵里も乗っかってきた。
「もーう、からかわないでよー」
裕美は笑顔でごまかしていたが、顔は真っ赤だった。
「ふふふ、裕美ちゃん可愛いねぇ」
「裕美ったら、お可愛いですこと」
絵里は両肘をつき、顎を組ませた両手の上に乗せるようにしながら、裕美を和かに見ていた。私は澄まし顔で紅茶を啜っていた。
「…もーう、アンタ後で覚えときなさいよぉ」
裕美が薄目で私をジトーっと見ながら言った。
「あーら、怖い。お気をつけ遊ばすことにしますわ」
「…ぷっ、アンタそれって言葉遣いあってる?」
「あははは!」絵里は一人で凄くご機嫌だ。
こうなれば絵里も巻き添えだと私から振ろうかと思ったが、思いがけず裕美に先を越された。
「そういえば司書さんは…」
「絵里でいいわ。っていうかお願い?」
絵里はウィンクをバチっと決めて、昭和のアイドル風な雰囲気を醸しながら言った。普通だったらイタイ…いや、絵里でも充分イタイタしかったが、底抜けに明るいキャラのお陰で致命傷には至っていなかった。…多分。
裕美は一瞬きょとんとしていたが、ハッとした表情を見せると、今度はまたここにきた時とはまた別な感じにオドオドしながら答えた。ウンウン、気持ち分かるよ裕美。
「…え?本当に良いんですか?」
「えぇ、モチのロン!」
ワザと敢えて空気を読まないかの様に、絵里はまだお目目をパチクリして戸惑っている裕美を他所に、テンション高めに返した。
「じ、じゃ、じゃあえぇっと…え、絵里…さん?」
「うん!よろしい!」
「絵里さんは…そのー…」
いくら自由闊達な裕美でも、中々先を言い出せない様だった。自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、私だったらすんなり聞いちゃうところだけど、いくら水泳などで傑出していたとしても、それ以外は普通の小学生である裕美には、大の大人、しかも詳しくは聞いていないが憧れの女性に対して、”こういう”話題は振りづらいのかも知れない。
それを知ってか知らずか、絵里は微笑みながら先を促す。
「何よー?なんでも遠慮しないで聞いて?」
「あ、はい」
裕美は『遠慮しないで』が効いたのか、漸く、でもまだモジモジしながら聞いた。
「絵里さんて…恋人いるんですか?」
「…え?」
絵里はキョトンとして”見せた”。わざわざ点々で囲ったのは、色々気の回せる絵里のことだ、ここまで裕美がモジモジしながら聞こうとした事、それに今までの会話の流れから、どんな質問が来るか当然わかっているに決まっていると思ったからだ。敢えてワザとそう表現してみた。
「こ、恋人ねぇ…なんでそんな事を聞きたいのかな?」
「え?…そ、それは…」
それから絵里と裕美が相手の出方を伺う様に、モジモジと沈黙し合っていたので、私は我慢できずに切り出すことにした。
「…それはね絵里さん、裕美が絵里さんのこと初めて見た時に憧れちゃったみたいなのよ。だからその憧れの女性が好きになって付き合う男性がどんなだか、知りたいんじゃないの?ねぇ、裕美?」
と私が事も無げに言い終え、残りのチーズケーキを口に入れた。私はある意味この”冷戦”状態を脱してあげたつもりで、良い事をしたと思っていたが、どうやら二人にとっては微妙だった様だ。
絵里と裕美は私が言い終えると、ほぼ同時に同じ様に苦笑を浮かべた。そして二人して私を見ながら言った。
「…ふふ、ほんっと琴音ちゃんは空気を読んでくれないんだからなぁ」
「アンタ…流石だわ」
「それは褒めてるのよね、二人共?」
「さぁってね」
この様なやりとりがあった後、三人でクスクスと笑いあった。
空気読めない女という名誉ある称号を貰ったので、そのまま力を発揮することにした。
「だからほら絵里さん、裕美が勇気を出して聞いたんだから答えてあげてよ?ねっ、裕美?」
「え?あ、う、うん…」
裕美はそこから先を言わなかったが、無言で絵里を見つめていた。絵里はすっかりタジタジになりながら答えた。
「…もうっ、小学生が二人して大の大人を困らせるんじゃないよぉ…困ったなぁ、こんなに引っ張っちゃ、逆に言いづらくなっちゃったよ…いません!」
絵里はしなくても良いのに、大袈裟に頭を下げて見せてから答えた。言われた裕美もアタフタしていた。
「あ、あの、顔を上げてください」
「そうよ、そんな大袈裟な…」
あくまで私は冷たく突き放すように見せながら、つっけんどんに言った。絵里は顔を上げると、苦笑いを万遍なく浮かべて私に非難めいた視線を向けながら言った。
「あのねぇ、アナタのせいで言い出しづらくなっちゃったのよ」
「えぇー…」
「そうだそうだ!」
何故か裕美が絵里に乗っかって、一緒になって抗議してきた。私が納得いかない表情をしている側で、絵里と裕美はまた二人だけで微笑みあっていた。まるで共通の敵を見つけた様な、戦友同士の友情劇を私は見せつけられていた。
「さ、て、とっ!まぁ、冗談はさておき…」
絵里は大人らしく、なんとも言えない微妙な場の空気を払拭する様に声を出して、それから改めて先を続けた。
「裕美ちゃん…ありがとうね?私なんかに憧れてくれて」
「…え?あ、いやぁ」
裕美はまた顔を真っ赤にしていた。絵里はその様子を見て、微笑ましげに続けた。
「誰かさんのせいで微妙な感じになっちゃったけど」
「でもまぁ良かったじゃない?想いを伝えれて」
私は構わずモンブランタルトに手をつけながら言った。裕美はさっきから苦笑しっぱなしだったが、そのまま呆れ返ったといった様子で返してきた。
「はぁ…まぁ確かに結果オーライかもね?…絵里さん?」
「は、はい?」
絵里は突然裕美から話しかけられて、一回り以上歳下に対する反応とはかけ離れたリアクションを取った。裕美はそのまま構わず続けた。
「絵里さん程可愛くて綺麗な女性は、どんな男性がタイプなんですか?」
「え、えぇっと…」
裕美のこのど直球の激賞に、絵里はただ狼狽えるだけだった。この場合は極端だとしても、普段から褒められ慣れていない人の反応だった。これも中々新鮮だった。裕美の方は良くも悪くも開き直っているのか、赤みが引いていた。真っ直ぐに絵里を見つめている。
「参ったなぁ」絵里はいつものように照れ隠しにホッペを掻いていた。
「絵里さん、私も聞いたことが無かったから教えてよ?」
本当は助け舟を出してあげようと思ったが、急に気が変わった。”なんでちゃん”が起き出してしまったのだ。考えてみたら聞いたことが無かった。というのも、聞いたら逆に質問されるのが分かっていたからだ。
流石の絵里も、裕美相手には質問をし返すという考えには至らなかったようだ。
絵里も私が助けてくれると踏んでいたのか、私が思惑とは裏腹に裕美に乗っかったので、ジト目で私を見ながら答えた。
「えぇー…そうねぇ…って、あっ!」
「ん?」
絵里は何かに気づいたのか、今度は打って変わってニヤニヤしだした。
「…そういう琴音ちゃんのタイプも聞いたことが無かったなぁ?」
「ゲッ」
思った通りというか、気付いていたのにそのまま墓穴を掘ったようだ。絵里が反撃に打って出た。
「教えてよ琴音ちゃーん」
「あっ!私もタイプについては聞いたことなかった!」
やはり裕美も乗っかってきた。私も慌てて今度は裕美に振った。
「いやいや、私もアナタのタイプを聞いたことが無かったわ」
「え!?あぁ…いやー」
裕美は照れてまた口を噤んだが、何やら私と絵里とは違い反応が柔らかかった。
…あ、これはイケるかも。
言い方が酷いが、特別興味があった訳では無いけど、戦略上これ以上火の粉が広がる前に、まだ言う気がありそうな裕美を攻める為に、畳み掛けるように聞いた。
「さっきも何か意味深に言いかけて無かった?それに絵里さんにわざわざ聞くって事は、アナタ自身に好きな人がいるか、それとも少なくとも”願望”はあるってことじゃない?」
「ヴっ!」
裕美は何やら言葉にならない声を出した。図星のようだった。
絵里は?と何処からともなくツッコミが入ってそうだが、絵里は違う。
違うというか、これまた自分で言うのは恥ずかしいが、絵里の場合単純に私に対する強烈な興味の延長線上の事でしかない。一言で言えば、”お節介お姉さん”なだけだ。
裕美は観念したかの様に大きく溜息をつくと、さっきから変わらずしている苦笑いのまま私を見て言った。
「…はぁ、もう分かったわよ!言うからそれで勘弁してね?これ以上三人で斬り合ってもラチが明かないもの」
どうやらこの場で一番”大人”なのは裕美だったらしい。
前からわかってはいたが、ここまで絵里が自分の恋バナを苦手にしてるとは思わなかった。絵里は大人な態度で自己犠牲を被ろうとしている裕美に、申し訳なさそうに声を掛けた。
「…裕美ちゃん、ごめんね?」
「あ、いえいえ。絵里さんは何も悪くないです。どっかの誰かさんが空気を読まない所から始まったんですから」
最後に裕美はチラッと私のことを見た。私は咄嗟に視線を逸らした。裕美はまた大きく溜息をつくと、そのまま話し始めた。
「…まぁそうね。さっきアンタが言った推理、今は肯定もしなければ否定もしないわ。…それで二人がどう思うかはお任せするね」
「うん。…で、裕美ちゃんはどんなタイプが好きなの?」
絵里はすっかり先程までのしっちゃかめっちゃかだった状況が無かったかの様に冷静さを取り戻し、興味津津といった表情で、上体を軽くテーブルの上に被さりながら聞いた。私も同じような体勢を取った。裕美も落ち着きを取り戻して話を続けた。
「まぁ…タイプって言うのかな?もしかしたら恋愛とは違うかも知れないからハッキリとは言えないけど」
「うんうん」私と絵里は同じ反応を示して、先を促した。
「そうだなぁ…うん、こう言えるかな?…私が良い時でも悪い時でも、態度を変えずに側に居てくれる人」
流石に落ち着きを取り戻したと言っても、言い終えると裕美は途端にうなじ辺りを掻きだし、照れ臭そうに笑顔を浮かべていた。
「…はぁー、裕美ちゃんってすっごく”大人”なんだねぇ」
聞き終えると絵里が感心したような調子でしみじみ言った。一緒に聞いていた私も同じ感想だった。
「い、いえいえ!私はそんな…」
裕美は絵里に言われて嬉しそうに照れていたが、何かを決意したかの様にフッと顔の表情を緩めたかと思うと、静かにまた話し始めた。
「…もうここまで来たら言っても良いかなぁ…実は実際に好きな人も…いるの」
「へぇー」
「え?…えーー!」
「琴音ちゃん、シーーーーっ」
「あ、ごめん…」
思わず絵里の家で声を上げたのは、初めて来た時以来だった。裕美の言葉に絵里は笑顔で反応していたが、私は自分でもビックリする程大きな衝撃を受けていた。前まで仲良く遊んでいた仲良しグループの女の子達ともこんな話はしていたが、軽く聞き流していたせいか、何にも感じなかった。が、裕美から聞かされた、実は好きな人がいるという告白には、心の底から驚いてしまった。
私は改めて問い質してみる事にした。
「それって、私の知ってる人?」
「え?えぇ…っと…ねぇ、…内緒」
裕美は可愛らしくハニカミながら誤魔化したが、それはもう言ってるに等しかった。
私の知ってる人か…
後々になって見れば、こんなに分かりやすいことも無いだろうと思うけど、当時の私にとっては、まさかのまさか過ぎて候補の一人にも上がっていなかった。だから…
うーん…誰かいたかな?今裕美が挙げた様な人。
「…そんな人私の周りにいた?裕美が今言った条件満たしている人」
「…ほっ。あ、いや、分からなければそれでいいんじゃないかなぁ」
裕美は私が何一つとして勘付いていないことに、心底ホッとした表情を浮かべていた。
「何よ、その『ホッ』は?」
私は不満タラタラに言ったが、裕美は笑って誤魔化すのみだった。
「あははは、内緒ー!これでお終い!」
裕美の鶴の一声で、一連のこの意味なくわちゃわちゃした一騒動は一旦の結末を迎えた。

「いやぁ、しっかし」
絵里は一口紅茶を啜ると、シミジミと感慨深げに呟いた。
「女子会ってのは、こんなに疲れるものだったのねぇ」
「イヤイヤ」
私も同じく一口啜ると、苦笑まじりに返した。
「ただ単に私達がいわゆる”恋バナ”に向いてないのが、致命的な原因だと思うよ?」
「あははは、違いないわね」
裕美もジュースを一口飲むと言った。
私達はあらかたケーキを食べ終えて、テーブルの上に散らかった物を片付けて今落ち着いていた所だった。
”女子会”に一区切りがつくと、絵里が唐突にパン!っと手を一回叩いて、私と裕美に向かって話しかけてきた。
「さて二人共!お疲れの所なんだけど、今から勉強タイムに入るわよー?」
「えぇー」
私と裕美は二人声を合わせて不満げな声を上げた。絵里は構わず私の足元にあるカバンをチラッと見ながら続けた。
「しょうがないでしょー?あなた達は受験生なんだからね?私と遊んだせいで落ちたと思われたら、私の立場がないじゃない?」
「絵里さんがどういう立場だって言うのよ?」
と生意気に軽く反論しながらも、私は素直にカバンから勉強道具を出すのだった。そんな私の様子を見て、裕美も同じ様に取り出すのだった。
「あははは!まぁ良いじゃないの!ちゃんと分からない所があれば私が教えてあげるからね?」
「はーい、先生。期待してますよ?」
「付き合ってもらって、ありがとうございます」
裕美が慇懃に畏まって絵里に言った。絵里は優しく微笑み返した。
「良いのよぉ?そんなに畏まらないでよ。あと心配しないで?私こう見えて先生になれる一歩手前まで行ったことがあるんだから、何でも遠慮せず聞いて頂戴?」
「えっ?手前ってどういう…」
「…”仮免”ってことよ」
裕美が感嘆の声を上げて、憧れの視線を絵里に向けたので、なぜか意地悪したくなった私はすかさず、ニヤニヤしながら横槍を入れたのだった。絵里もホッペを掻きながら、照れ臭そうに答えた。
「…まぁ、今琴音ちゃんが言った通り、所謂仮免までだったんだけどねぇ。まだ時間があるし軽くだけ触れるとね?」
私はチラッと時計を見た。時刻はまだ二時半丁度になる所だった。ここに来てまだ一時間弱しか経っていない。あのグダグダした騒ぎを体感的には長く感じていたが、全然時間は経っていなかった。唯一の救いは、時間を無駄に極力消費をしなかった事だった。
「大学で私は文学部だったんだけど…まぁ、よく分からなくても大丈夫だから聞き流してね?で、授業の中にそれを受講していると、中学高校の”国語”の先生になれるってヤツがあったの。まぁその授業の時間帯は私も暇だったし受けてみたのよ」
「へぇー、そんな気軽に学校の先生なんてなれるんですね?」
裕美はこんな呑気なことを返していた。絵里は苦笑いを浮かべながら答えた。
「うーん…簡単、かなぁ?…まぁ確かに”思ってたより”かは簡単だったね。…でね?その後教育実習っていうのがあるんだけど…」
ここで絵里は一度話を打ち切り、紅茶を一口啜った。そしてカップを置いたが、その先を話す前にその情景を思い浮かべていたのか、顔はまさしく苦虫を潰したような表情を浮かべていた。私と裕美二人は黙って絵里が続きを話すのを待った。
「…もうね、それが最悪だったの。…教育実習ってんで、琴音ちゃんの言う”仮免”状態、先生としては半人前の状態で、私立の中高一貫校に行ったんだけどね」
「絵里さんみたいな人が先生で来たら、男子は大喜びだったんだろうね?」
裕美は悪意の無い爽やかな笑顔を絵里に向けた。純粋な子供の笑顔の前では、流石の絵里も軽口を返すことは出来なかったようだ。ただただ苦笑をしている。
「…いやぁ、どうだろう?あっ、いや、それはさておき、…授業自体は楽しくやれたんだけどねぇ。その後職員室で色々とそこに勤めている先生達と喋ったんだけど…それが酷かった」
「ふーん…。たまにニュースの特集で、うまく授業が回せなくてナンチャラみたいなのを聞くけど?」
私はもう温くなった紅茶を一気に飲み干してから言った。絵里はゆっくりと首を横に振った。
「うん、私もそんなのを見たことがあったけどねぇ。…たまたま私が行った学校がそうなのかも知れないけど、私みたいな半人前には”監視役”としてベテランの先生がつくのよ」
「うん、なんかで見たことがあるかも知れない」
「でその人はおばさんの先生だったんだけど、どうも生徒指導の先生らしくてね?見てると生徒達から煙たがられていたみたいなんだけど…いや、そんな事は良いか。結論から言えばね、その先生に職員室でブーブー文句を言われたのよ」
「えぇ、何でですか?」
「何かヘマをしちゃったの?」
「うん、私も何か授業の落ち度を注意されるかと思ったのよ」
絵里はここで何かのモノマネをしだした。そのおばさん先生だろうか。
「『ちょっと良いかしら、山瀬さん?』なんて言ってくるから、私もすぐにそう察して低頭平身にしてたんだけど、そしたらねぇ」
絵里は掛けてもいないのに眼鏡をクイッとあげるフリをしながら続きを話した。そのおばさん先生の癖なのだろう。
「『あなた、生徒達に色目を使わないで下さる?』『…は?』私はすぐには言われたことを理解出来なくて、ただ唖然としながらやっとそう返したの」
「い、色目?」
流石の私も予想の斜め上を行っていたので、絵里と一緒にキョトンとする他なかった。はっきり言って、年齢関係なしに絵里が男に色気を使うっていうワードが繋がらなさ過ぎて、違和感しかなかった。私の反応に少し機嫌を直したのか、若干表情を緩め気味に続けた。
「ね?意味がわからないでしょ?でもあのおばさん、呆れて何も言わない私を無視して他にも色々言ってきたの!えぇっと…そう『あなたはまだ大学生でしょうけど、生徒達にとっては紛いなりにも先生なんですから、”変に”生徒達と仲良くしすぎないようにして下さい』とか…」
「絵里さんは実際どうしてたんですか?」
今度は裕美が途中に割って入って質問した。絵里は裕美を向くと苦笑まじりに答えた。
「んー?別にただ休み時間に、私が受け持った生徒達が親しげに声をかけて来てくれたから、それに私も笑顔で対応しただけだよ…モチロン男女問わずにね?」
「…色目を使う云々とは関係ないね」
私は淡々と言った。
「でっしょー?まぁおばさんから見れば、大学生の私の対応が生徒達と大差なかったかも知れないけどね」
よっぽど根に持っているのか、「おばさん」を強調しながら苦々しげに話を続けた。
「後ねぇ…そうそう『お化粧が濃い』って言われたの。『あまり生徒達に良い影響を与えないから控えてください』ってね。実際は今と変わらないくらいだったのに」
と絵里が言うので、マジマジと顔を見てみた。正直褒めてるのか悪口になるのか判断つきかねるけど、素直に言って今の絵里が化粧をしてるかどうか分からなかった。それぐらいに自然体だった。気付くと裕美も私と同じように絵里の顔を見ていた。ふと私と目が合った。裕美は私に向かってなぜか頷くと、絵里に話しかけた。
「…普通にナチュラルメイクじゃないですかぁ。何の因縁ですかそれ」
「あははは…本人の方が濃い化粧だったのに」
絵里は何か最後にボソッと言うと、私達の反応を見る前に先を続けた。
「まぁそんなこんなで、結局その場はやり過ごしたんだけど、…そのー…」
絵里は一旦切ると、言い辛そうにしていたが、何とか絞り出すような口調で話した。
「…それからは一度も教育実習に行かなかったの。因みにその学校が1校目でね?他にも行く学校があったんだけど…辞めちゃったの」
「えぇー…でもまぁ、私でもそうするかな?」
私は一瞬引いて見せたが、すぐに同調する意を表した。すると何故か絵里は苦笑まじりに応えた。
「ふふふふ、ありがとう。まぁ琴音ちゃんは耐えられないだろうね」
「アンタは確かに無理そう」
「な、何よぉ?」
絵里と裕美が二人揃ってニヤケながら何やら私に対して言ってきたので、私は短く抗議した。しかし予想通り軽くあしらわれ、私以外の二人がクスクス顔を見合わせて笑い合うのだった。私も仕方ないと苦笑で応じた。
「だからね?」
一頻りしたあと、絵里がまた続けた。
「まぁ、簡単に説明すると、先生になるにはその実習をこなさなくちゃダメなんだけど、私は最後まで終えてないから、実質教員免許は持ってないの。だから勝手に私は自分の事を”仮免”って呼んでるのよ」
「…もう、駄目な大人だなぁ」
「あっれー?さっきは肯定してくれてなかった?…ごめんなさい」
私が軽く毒を吐くと、絵里は最初は惚けていたが途端に深々と頭を下げた。でも顔を上げた時舌をぺろっと出しながらニヤケていたので、私と裕美は釣られて同時に笑い合ったのだった。

「はぁーあ!…あっ」
絵里は伸びをしながら時計を見た。時刻は三時ピッタリを指していた。絵里はまたさっきみたいにパンと一度手を打つと陽気に言った。
「さっ、二人共!主に私のせいで時間を潰してしまったけど、今からは本当に勉強しましょう」
「…自覚があるなら、何も言えないわね」
「ふふ、そうね?」
私達はお互いに顔を近づけて、内緒話の音量でボソボソ言い合った。
「二人してなにをコソコソ話してるの?」
絵里は目と鼻の先の私達の話を聞こえなかったフリをしながら聞いてきた。私と裕美はまた顔を見合わせて、うんっと一度頷き合うと一緒に絵里の方を向いて明るく答えた。
「何でもありませーん!」

「…うんうん、そうそう、それでこれをね」
「…あぁ、なるほど」
絵里に教えてもらって、裕美は本当に理解した事を示すように首を縦に振っていた。
私達二人は、あれから一時間ばかり勉強を教えて貰っていた。途中途中で、自分の時はどうしてたか、こんな風に言うと怒られるけど、小学生の頃程大昔の事もよく鮮明に覚えているらしく、事細やかに経験を踏まえた方法論を展開したりしていた。主に裕美に語っていたが、私も目の前の、今日やる分だと決めて持って来ていた教材を片付けながらも、ついつい聞き耳を立てていた。尤も、私が個人で聞いた時のと大差のないものだったが、裕美に対して話す時とはニュアンスが違ったりして、同じ事でも新たな発見が見つかるのが面白かった。
絵里は先程自分を説明する時におちゃらけて話していたが、実際絵里はとても教え上手だった。
私も何度かここにお邪魔して、たまに絵里に言われるままに勉強道具を持って来て、そして教えてもらっていたが、その上手さ分かり易さに口にせずとも感嘆していた。 正直言っては何だが、複数人を相手に満遍なく平均的事務的に教えてくる塾講師よりも、ハッキリ分かりやすいと言えた。
まぁだからと言って学校の先生に向いているかといえば、そうとも思わなかった。 勿論いくら大人ぶっていても所詮は子供だから、いわゆる大人の仕事面に関しては当然無知だったけど、でも小学校や塾の先生とは根本的に絵里は違って見えた。
急に出すようで悪いが、義一もそうだ。この二人はタイプは違うが、私にとって大事な友達であり、尊敬できる先生だった。
これは全くの私見だが、教師と生徒の関係とはいえ結局人間対人間、相手に対して尊敬の念が無ければ、当然教えて貰う側だって真剣に話を聞こうだなんて思わないだろう。いくら周りの大人、教師、はたまた両親に至るまで、口先で頭ごなしに言う事を聞きなさいと言われても、子供と雖も意思を持つ故に、無理強いされても反発しか生まない。子供達は具体的には分からなくても、言ってる大人達自身が中身の無い軽薄な人間で、人生経験に基づく何か後の世代に遺したいような価値観思想を持たず、徒に月日を過ごしているだけだという事を見抜いているからだ。そんな大人達が偉そうにすればするほど、不満が積りに積もって反抗期になるのは当然の流れだろう。
とまぁそんな訳で、私にとって尊敬してるが故に、全幅の信頼を置いて相談したり話を進んで聴ける身の回りの大人は、義一と絵里、それにピアノの先生この三人だけだった。…いや”だけ”じゃなく、三人”も”いるという幸運に感謝をしなければバチが当たるだろう。
そんな事を私が考えてるなんて知る余地の無い裕美は、絵里に笑顔で明るく言っていた。
「…いやー、絵里さん。すっごく分かりやすいよ!本当の先生だったら良かったのに」
「あははは、ありがとう裕美ちゃん!…でもね、さっきは恨み言をツラツラ話しちゃったけど、今思えばこれで良かったって思うのよねぇ」
「へぇ、何ですか?」
裕美が手を止めて、顔を上げ絵里の方を見た。
「まぁさっきの続きだけど、あれで途中でハッキリ言えば色々御託を並べたけど、私は逃げたのよねぇ…その所謂大人の世界から」
「絵里さんは逃げてなんて…」
裕美は自分のことのようにシュンとなっていた。絵里はその様子を見て、なぜか私の方をチラッと見て、まるで私と裕美を見比べるかの様にしてから、微笑みつつ続けた。
「ありがとう。裕美ちゃんは優しいね。…でも一般的には逃げたのと一緒に思われちゃうのよ。で、私も当時それを受け入れていた。…でもね?」
とここまで言うと、また私の方を意味深にチラっと視線だけ向けて、それからまた裕美に戻して続けた。
「”ある人”にね、事のあらましを話したのよ。…まぁ相談したの。…いやぁ、ただの愚痴だったかな?」
絵里は悪戯っぽく笑っている。ちなみにこの時既に、私には”ある人”の正体があらかた分かっていた。
「その人がね、こう言ってくれたのよ。『絵里、君は何でも無い様な風に言っていたけど、その授業を取ってる時楽しそうにしてたじゃないか。それなりに本気だったんだろ?』『えぇ、そりゃあ…ね?』って私は返したの。この人ね、普段からいけ好かなかったんだ。色々理由があるんだけど、一番の理由はね?相手の心理を驚くほど間違いなく読んでくる事なの。もうね、エスパーかってくらいに」
「絵里さん、絵里さん」
私が横槍を入れて制した。
「段々と”その人”の話になってってるから」
「あ、あぁ、そうね」
絵里は私が敢えて”ある人”の名前を出さなかったのが面白かったのか、クスッと小さく笑ってから、気を取り直して話を続けた。
「でね?その人が私から何も言わなくても、何かを察してくれて言ってくれたのよ。『絵里、君は大げさに言えば、子供達の成長をそばで見たいって事じゃ無いのかな?だったらさ…図書館の司書にでもなればいいんじゃない?』ってね。『…図書館司書かぁ』思わずシミジミ言ってしまったのよ。なんせ私は自分が図書館で働くっていう姿を、一度たりとも想像したことが無かったからね。それを初めてその人に言われて…凄くしっくり来たのよねぇ…シャクだけど」
「…ふふ」
裕美は反応しなかったが、私は思わず吹き出してしまった。これは絵里の言った軽口にも原因があるけど、それと一緒に私でも初めて聞く、絵里の図書館司書になった経緯を面白く聞いていたというのも遠因にあった。
裕美は何事かと私を見ている。絵里は構わず続けた。
「でね?もうそれからは猪突猛進っていうのかな、ガムシャラに司書の勉強をして資格を取って今に至る訳!」
絵里はそう言い切ると、紅茶を一気に飲み干した。と、私のカップに紅茶が無いのに気付いたのか、私にお代わりがいるかを聞いてきた。私が欲しいと答えると、今度は裕美にも聞いた。裕美のコップも中が空になっていたからだ。裕美は遠慮がちだったが、お代わりをお願いしていた。それを聞くと絵里はテーブルの上のポットと裕美のコップをを持って台所へ行き、ポットには紅茶を淹れて、コップにはジュースを入れてからまた戻ってきた。
そしてまず私のカップに紅茶を注ぎながら
「だからまぁ、私は逃げたんだけど、こうして司書として働いて良かったなぁって思うよ。何せ…」
「え?…わっ」
絵里はポットを置き、ジュースの入ったコップを裕美の側に置くと、私と裕美が無造作にテーブルの上に出していた手、私の左手と裕美の右手の上に自分の手をそっと置いた。
「琴音ちゃんや裕美ちゃんみたいな、可愛い子達と知り合えたんだからね!」
絵里は私と裕美の顔を交互に見てから微笑んで言った。私は内心を隠す様に、迷惑そうにして見せながら返した。
「…絵里さん、あんまし恥ずかしい事を言わないでよぉ。言われた私達が困っちゃう」
「…ふふふ、アンタがそういう事を言う?」私が言い終えた途端に、裕美がプッと吹き出してこちらに意地悪く笑みを向けながら言った。
「え?どういうこと?」
案の定というか何というか、絵里が期待通りに食いついていた。ニヤケ面だ。
裕美は何となく自分と気持ちが同じだと直感したのか、顔の表情そのままに、絵里に少し顔を近づける様にして話した。
「それがですね?この子ったら平気で私達が口にしない”恥ずい”事を口にしちゃうんですよぉ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる様な事を。…でも不思議と嫌な感じはしないんですよねぇー…でついつい釣られてというか、私も同じ様に真面目な恥ずい事を話しちゃうんです…」
裕美はここまで言うと、何かを思い出したのか、顔を真っ赤にしていた。おそらく先程の恋バナ(?)をしていた時の自分の態度を思い出していたのだろう。
絵里はその様子には特に触れる事もなく、微笑ましげに私の方を見ながら裕美に返した。
「…そうなのよねぇー。私がどう思われているかはともかく、私ですら普段はそんなに深い話は自分からしないんだけど、琴音ちゃん相手には臆する事なく話せちゃうのよね」
「あぁ、分かります分かります!」
裕美はうんうんと大きく頷きながら同意を示して、私の方を苦笑いなのか何なのか例えづらい表情で見ていた。
「…多分ね?」
絵里は私から視線を外さず、そのまま裕美に応えた。
「この子はね、普通の人よりも真面目に、真剣に話を聞こうとしてくれてるからじゃないかなぁって思うのよ」
「…あぁー」
裕美は短く、でも同意の意味だと汲み取れる声を上げた。絵里は続けた。
「普通はね裕美ちゃん、こんなに他人が自分の話を熱心に聞いてくれる事なんて、滅多にない事なの。まぁ、私達大人の世界だけじゃなくて、裕美ちゃん達子供の世界もそうかも知れないけど。…裕美ちゃん?」
絵里は途中で一口紅茶を啜ると、今度は裕美の方に顔を向けて、少し真面目な、でも微笑みを絶やさずに話しかけた。
「それってとても素敵なことなんだよ?裕美ちゃんは言われなくても分かっているかもしれないけどね。今時ね、中々心を割って話せる人が出来るのは本当に難しいの。大人になってからだと尚更ね。裕美ちゃんが言う”恥ずい話”だってね、本当は誰かと”恥ずい話”をしたくても出来ない人がごまんといるのよ。要は、相談したくても出来る相手がいないってことね。まだまだ若い、これから私よりも生きるあなた達にいうのもアレだけれど、年寄りくさい事を言えばね?ますますこれから人と人との繋がりが希薄になっていって、一人一人がフワフワ当て所なく水面に浮かぶ睡蓮の様に、風に吹かれるまま虚しく漂う他なくなっちゃう気がするの。…今すでにそうと言えばそうなんだけど…私の言ってる事わかるかな?」
「は、はい」
裕美は突然振られて戸惑っていたが、しっかりと返事をした。私は余計なお世話に、絵里が話している間、裕美の方を見て反応を見ていた。この手の話は老若男女問わず、すぐに飽きるか、退屈してるという意志表示をするものだったからだ。この考えは明らかに義一に由来している。
しかし絵里が話している間、裕美は食い入る様に絵里の方を見つめ熱心に身を乗り出す様に聞き入っていた。私はその様子を見てホッとしたのと同時に、無性に嬉しかった。
裕美の返事に絵里は満足げな笑顔を浮かべ、そのまま続きを話した。
「だから”仮免先生”が二人に言いたいのはね、お互いに恥ずい話が出来る相手がいるなんて、何物にも代えがたいくらい貴重なんだから、今の関係を大切にしてって欲しい…ってことかなぁ。…どう二人共?」
聞かれた私達は、真顔でお互いの顔を見合わせたが、示し合せる事もなく頷きあい、そのまま二人で絵里の方を向いて頷いた。何も言わなかったが、絵里も察したか、微笑みながら力強く頷き返しただけだった。

「はぁ…興が削がれちゃったなぁ。…まぁ私のせいだけど」
私はおもむろに時計を見ると、時刻を見ると四時半少し前だった。
「いえいえ、大変面白い話を聞かせて頂きました」
裕美が慇懃に絵里に答えた。絵里は悪戯っぽく笑いながら裕美に話した。
「…もうちょっと軽ーい感じに出来ない?すっごく肩が凝っちゃうんだけど」
「え?えぇっと…」
裕美はただ戸惑うという、小学六年生として当然のリアクションを取っていた。
私がすかさずため息交じりに助け舟を出した。
「…はぁ、何言ってんの絵里さん?普通小学生が一回りも二回りも上に人と対等に話せる訳ないでしょ?」
と私が突っ込むと、これまた素早く反応を示して私にジト目を使いながら返してきた。
「ちょっとぉ…私はあなた達より二周りも歳離れていないんだけど!」
そこに食いついてきたか…
絵里は私が言いたかった点じゃない、明後日の方角に吠えていた。
…まぁワザとそう仕向けたんだけど。
「…ちょっとぉ?聞こえてるんですけど?」
「…え?」
「そのワザとがナントカって」
どうやら口に出ていたらしい。
「ごめんなさい、ドジっ子だから許して?」
私はまたワザと首を傾げて上目遣いで絵里を見つめた。
「…あのねぇ、ドジっ子はそんな意地悪な悪意まみれの間違いはしないんだけど」
「…プッ、あははは!」
絵里が薄目で私を見ながら突っ込むと、裕美が途端に吹き出し遠慮なく笑っていた。その様を見た私と絵里も一度顔を見合わせると、同じ様に笑うのだった。

「そういえば裕美に言ってたっけ?」
笑いが収まり、一呼吸を入れる意味でも一口紅茶を飲みながら聞いた。
「ん?何のこと?」
裕美は呑気な声を上げると、ジュースに口をつけた。
「…絵里さんの出身校が、私達二人の第一志望校だって話」
「…え?えーーー!そうなんですか!?」
「え、えぇ」
これまた呑気に我関せずと言った感じで紅茶を飲んでいた絵里だったが、突然裕美が興奮してすぐ脇に座る自分に向かって身を乗り出す様に来たので、ただただ戸惑いつつ答えていた。
絵里はしかしすぐに落ち着くと、裕美のおでこを人差し指で軽く押し、椅子に座らせる様にしつつ言った。
「しーーーーっ!裕美ちゃん声が大っきい」
「あっ!ごめんなさい」
裕美は先程のテンションとは真逆の、シュンとした態度で絵里に軽く謝っていた。絵里は鼻から勢いよくフンッと息を出すと、苦笑交じりに切り出した。
「もーう、気をつけてよ?…何だっけ?あっ、そうだったそうだった!うん、そう。私はソコの卒業生なの」
「へぇー、いいなぁ」
裕美はすぐに明るく戻り、絵里に目を輝かせながら言った。絵里はその裕美の反応に、最初の時の様に戸惑っていた。
「…しかも演劇部だったみたいよ?」
私は顔を逸らしながら淡々と情報を加えた。裕美が余計に食いつくことが分かっていたからだ。面白半分だ。案の定裕美は、余計に絵里に食いついていった。
「へぇー、絵里さん演劇部だったんですか?」
「え、えぇ…」
絵里は答えながら視線は私に向けていた。視線は少し非難めいていたが、困り顔だ。私は相変わらず澄まし顔を維持していた。何だか面白くなってきたので、私は火に油を注ぐことにした。
「絵里さん、裕美にも見せてあげてよ。昔舞台に出てた時の写真を」
「あっ!写真があるんですか?見たーい!」
「えぇっと…」
絵里は変わらず私に視線を流していたが、もう非難というより助けを求める目だ。
もういいかと思ったが、最後の一押しだけして見ることにした。私は初めて絵里の家に来て、その次来た時に渋々ながら当時の写真を見せて貰っていた。

後の展開を見れば分かることだが、都合上あえてこの場を借りて、話が大きく逸れることを恐れずその写真の中身を話してみようと思う。勝手で悪いがここしか言える場所が無いからだ。許して欲しい。
写真は綺麗に丁寧にアルバムに纏められていた。その中身は練習風景半分、実際の舞台が半分、具体的な枚数は数えてないから分からなかったけど、最低でも五十枚以上はあった。絵里以外にも当然他の演劇部員が写っていた。練習風景はみんな各々地味な服装をしていた。無地の半袖Tシャツに下はヨレヨレのジャージ、髪の毛は長い子は単純に後ろで縛り、それ以外は頭をタオルで巻いていた。舞台の上では言い方が正しいか分からないが、皆んな澄まし顔で平気だと言う風に何でもなさげに自然体で演技していたが、練習風景はみんな汗だくになっていた。当時本で戯曲は読んでいたけど子供だったし、演劇の裏側を知る機会が無かったから、実際写真を見て、こんなに肉体労働的だとは思っても見なかった。そんな所を変に感心しながら見ていた。ゆっくりじっくりと念入りに穴が開くほど熱心に見ていたので、最初は早くページをめくりたがっていたが、私にからかう意図がない事がわかると、ある種開き直りとも言えるが、絵里が途中から率先して一枚一枚背景を説明してくれた。劇の内容だったり、練習の時のエピソード、失敗談等々だ。
ふと一際目立つ美人な女子が目についた。絵里に聞くと彼女が先輩だった。何と例えて言えば良いのか。写真写真が様々な格好をしてたりするから、捉えどころが無いと言うのが第一印象だった。まぁ尤も演劇部の写真だから当たり前なのだが。髪型は今の絵里と同じくらい短かった。説明してくれた時に教えて貰ったが、この髪型は”マニッシュショート”と言うらしい。マッシュルームヘアーとは言わないみたいだ。まぁどうでも良いけど。因みに絵里はというと、制服を着ている普段の写真があったので見てみた。前に話してくれた様に、写真で見る絵里はロングヘアーにしていた。前髪ありのパッツンだ。ストンと胸辺りに後ろ髪を持ってくる、典型的な髪型ではあった。
練習中なのだろう、頭にタオルを巻いている、今と不気味なほどに顔が変わらない絵里と、先輩が笑顔で汗だくになりながら立ち並ぶ写真があったので背丈もわかった。大体同じに見えたが、若干先輩の方が大きかった。単純に身長差で考えるなら、実際は兎も角感覚から言えば私と同じくらいに見えた。絵里はこの頃から目がクルンと大きく、典型的な二重瞼だったが、先輩は一重ではあったけど、横に綺麗に品良く切れていて、鼻筋もシュッとしていたから、例えるなら美人さんな日本人形って見た目だった。写真で見る限り、絵里から聞く陽気で気さくでサバサバしてたと言う人物像とは必ずしも一致しなかった。でも、当事者が語るのだから、まぁそうなのだろう。
余談に次ぐ余談だが、絵里の先輩、この人とは高校の卒業とともに離れてしまったらしい。大学の進学先も別々だった様だ。尤もお互い卒業後も会っていたらしいが、途中で先輩は大学を辞めて、本格的に演劇にのめり込んでいったらしい。今も生きていれば、国内か国外で演技を続けているだろうと言うのが絵里の言葉だ。
この話も含めて、どこかで機会があれば絵里と先輩の話も、私の知る限りにおいて話そうと思う。長くなったがそんな感じだった。

それからは何度かせがんでも見せて貰えなかったから、久しぶりに見たくなってしまったのだ。正直裕美がどうのは関係なかった。私の都合だ。
「ほらぁ、絵里さん。こんなに頼まれてるんだから…」
「いやほら、もう時間もないし」
絵里の小さな抵抗を受け、チラッと時計を見ると、確かに五時十五分前、あまり時間は無かった。でも、私は諦めなかった。
「…じゃあ次来る時にでも見せてあげてよ?私にも見せてくれたんだから、今更でしょ?」
「…でもねぇ」
絵里はホッペを掻きながらも、中々しぶとく渋っていた。
よし、じゃあ…
「じゃあ絵里さん、次お邪魔した時に写真を見せてあげるか、また”恋バナ”をするかどっちにする?あっ、勿論恋バナは絵里さんの話でね?」
「あっ!それ両方気になるー。どれだけの恋愛をこなしてきたのか」
裕美が私に乗っかってきた。良い兆候だ。
絵里はますます困り果てたという表情を顔中に湛えていた。そして腕を組み首を傾げて考え唸っていたが、はぁっと一度息を吐くと、力も無げに私に苦笑まじりに応えた。
「…はぁ、分かったわよ。裕美ちゃんがそこまで熱心に興味を持ってくれるなら、見せるのもやぶさかじゃ無いよ」
最後の方は小さな抵抗として刺々しく言っていたが、とりあえず我々小学生チームの勝利だ。
「ありがとうございます!次また来るのを楽しみにしています!」
まぁ尤も、裕美の純粋無垢な憧れの表現の前では、さすがの絵里も折れざるを得ないというのが実情だろう。
「はいはい、またいらっしゃい。…しっかし」
「え?」
絵里はさっきからそうだったが、苦笑いを浮かべながら私の方を見た。私が何かとすっとぼけていると、苦々しげに切り出した。
「ホンットにこの子ときたら…琴音ちゃん、あなたは悪魔の子かい?」
「え?何よそれぇ…」
「違いますよ、絵里さん!」
何故か横から裕美が得意げに口を挟んできた。顔はニヤケ面である。
「え?何が違うの?」
絵里もキョトンとしながら裕美に聞いた。裕美は絵里の耳元に、口元を私から見えない様に右手で隠しながら”私にわざと聞こえる様に”言った。
「この子は悪魔じゃなく小悪魔なんです!」
「…ねぇ裕美、丸聞こえなのも含めてツッコミたいんだけど」
私は一度溜めてから突っ込んだ。
「私が自分の悪口に訂正するのも変だけど…それって、意味合いおかしくない?」
「あら、ホントだ!」
裕美は口元で右手を広げて見せて、あっ!と驚いた表情を見せながら声をあげた。すると絵里が大袈裟にイスの背もたれに寄り掛かり天井を見ながら笑い声を上げた。私と裕美も一度顔を見合わせ、それからクスクスと笑うのだった。

「じゃあまたね、絵里さん」
「また来ます!」
「いつでもおいでー」
絵里はいつも通りエレベーターホールまで見送りに出てくれた。そしてエレベータが来ると乗り込み、ドアが閉まり、縦長の窓からお互いに手を振りあって別れて一階に降りた。外に出た頃には空は紫色に染まっていた。カラスが鳴きながら空に黒い影を作りつつ、どこか寝ぐらへ向かって飛んで帰っていた。
「…はぁーあ」
裕美は暮れた空を見上げながら大袈裟にため息ついて見せた。
「どうしたのよ?」
「いやぁ…」
裕美は正面に向き直り、そして私の方を向くと晴れやかな笑顔で答えた。
「絵里さんってやっぱり素敵だなぁって。あのキャラは図書館でだけだと思ってたけど、普段も変わらず私達みたいな子供と同じ目線で話してくれるし。それに…」
裕美はゆっくりと進行方向に顔を戻すと、静かにボソッと続けた。
「…しかも赤の他人なのに、あんなに真面目に大事な事を、恥ずかしがらずに話せる所とかね」
「…えぇ」
私は他の言葉は不要だと、短く、でもハッキリと同意の意を示した。
すると裕美は勢いよくまた私の方を向くと、悪戯っぽく笑った。
「あの”オンオフ”の切り替えが凄いよね?しかも…見た目あんなに美人なのにお高く止まってないし、むしろ”恋バナ”に対してあんなに苦手なんてね。なんだか親近感が湧くよ」
「ふふ、まぁ絵里さんが特殊だとは思うけどね」
私は裕美に微笑み返すと、そのままの表情で正面を向いた。それを聞いた裕美は、顔は見なかったが、隣で力強く頷いているのがわかった。
「…あっ!」
「今度は何?」
裕美がまた突然隣で声を上げたので、私は呆れて見せながら聞いた。裕美はそんな私の様子に構う事なく、素っ頓狂な声で言い放った。
「何であんな変な髪型にしてるのか、聞くのを忘れてた!」

これから先は特に話すこともない。毎週毎週をほぼ同じルーティンで回していただけだからだ。まぁでもこのまま終わるのは味気ないし、せっかくだから冒頭に話した事を少し細かく話してみようと思う。
まず義一関係の事。家に行き、その時はまず借りた本の感想を話して、その後義一の意見を聞き、それぞれの考えを照らし合わせながら話し合い、その後また借りる本を選定して貰って、まだ時間がある様なら、数曲あの部屋にあるアップライトピアノを弾いて見せてた。その度に義一が喜んでくれるので、私は尚更褒めてもらいたくなってしまって、曲のレパートリーを増やしたり、自分の弾ける曲の完成度を高めようと一生懸命練習した。今思えばここに人前で演奏して見せる意義の一つがあるのかも知れない。これまで私は先生の前でだけ弾いて、褒められればそれで満足していた。それはそれで学習意欲は絶えることなく湧いてきていたが、違う人にも聞いてもらうというのが、こんなに良い作用をするとは思っても見なかった。勿論聞き手の”質”が良くなければ意味がない。義一はクラシック音楽にも造詣が深かった。音楽室の壁によく掛けられてる肖像画達、バッハやモーツァルト、ベートーベンにショパン、いわゆる”バロック”、”ウィーン古典派”、”ロマン派”などの有名どころだけじゃなく、ルネッサンス期の作曲家達まで深く知っていた。よく時間の余す限り私にアレコレと、昔活躍していた演奏家達の古いフィルムを見せながら話してくれた。でも義一はいわゆる”スノッブ”では無かった。知ったかぶりの頭でっかちでは無かった。先ほど言ったルネッサンス期に書かれた曲を、たまに私に代わってピアノの前に座り、ピアノに合わせて編曲したのを、恥ずかしがりながらも聞かせてくれたからだ。初めてこのピアノを見た時、鍵盤のカバーには埃が溜まっていた割に、鍵盤自体は綺麗に手入れがなされていて、いつでも弾ける状態だったのを思えば、誰かが定期的に弾いてるだろう事は想像出来ても良かった。がしかし、当時子供だった私には、そこまで状況証拠を組み合わせて、推論をたてるような事は無理な相談だった。勿論定期的に弾いていたのは、義一本人だ。ピアノに限らず、芸術芸能関係の事を話す義一の顔は、本当に少年の様な、裏のない純粋な笑顔を全体に浮かべるのが印象的だった。本当に心から好きだと言う気持ちがありありと感じられた。
この繋がりでピアノの先生の事。先生は以前にも増してピアノのレッスンに熱意を込めて打ち込む私に、勿論嬉しがってはくれていたが、それと同時にすごく心配そうに気を遣ってきた。前にも話した通り、先生は私の事情を全部分かっていた。両立出来なければ、ピアノの方を暫く辞める様な事だ。それを知っているから恐らく先生は、私が意固地になって無理して頑張っているんじゃないかと思ったらしい。勿論その推察は半分くらいは正しかった。…というより、初めは単純にそんな理由だったかも知れない。でも心配してくれながらも、先生は私がアレ弾きたいコレ弾きたいとせがめば、喜んで手元に楽譜がない場合なんかはわざわざ取り寄せてくれたりした。これは私の想像だけど、恐らく先生は私の知らないところで、改めて昔の勘を取り戻すべく練習をしていたみたいだった。それを証拠に、顔の表情は私がせがむ度に苦笑を浮かべていたが、普段のどこか遠くを見つめる様な、達観した表情を浮かべることが少なくなったからだ。顔に充実した明るみが差していた。
…あんまり関連づけて話したくないが、受験勉強の事。これも後になって思い至った事だが、ピアノに打ち込んだ事が寧ろ、勉強に於いても良い影響を与えていた様だった。あくまで私個人の場合という注釈付きだけど。他にも似た様な話は聞くが、要はピアノに打ち込むことによって、俗世間から受けるストレスを発散する事が出来、まっさらな気持ちで受験勉強が出来る。で当然ストレスがたまっていくが、ピアノを弾く事によって心身ともに洗い清められて、また要らない受験勉強に打ち込める…という様な良い循環が出来ていた様だ。勿論ストレス発散の為にピアノを弾いていた訳ではないが、結果的にはそういう意味もあったという事だ。
塾にも休まず通った。…正直何度もサボりたい衝動に駆られたが、これはある意味裕美に助けられたのかも知れない。登校時だけではなく、放課後もほぼ毎日裕美と過ごす様になっていた。お互いの教室の前で待ち合わせ、たまにヒロも居たりしたが、基本的に二人で仲良く帰っていた。塾に行く時もそうだ。いつも渋る私を引っ張ってってくれたのは裕美だった。私の無駄に強固な心の壁を力任せに粉砕し、深い居住区まで来て土足で上がり込み、縮こまる私を無理矢理立たせて外へと連れ出す。その厚かましさに私は救われていた。
一応言っておくが、今話したのは私から裕美に送る最大限の賛辞だ。
あと毎週とまではいかなかったが、絵里のことも触れないわけにはいかないだろう。前にも話したが、私一人で何度も絵里の家を訪れては、お喋りしたり、勉強を見てもらったりしていた。勿論都合がつく限り、図書館に行った時にも挨拶と軽い会話くらいはした。そして裕美が初めて絵里の家に行ってからは、三人それぞれ同時に都合が合った時に絵里の家に行き、お喋りをして、私と裕美の勉強を見て貰っていた。勿論約束通り、絵里の演劇部時代の写真を見せて貰ったりした。何度も見せてるのに、絵里は一向に慣れる気配が無かった。そして”恋バナ”も。これも後になって気づいたが、冒頭に話した様に、初めての模試で想像以上の成績を出す事が出来たのは、絵里に起因するところが大きかったのかも知れない。途中からは二対一で勉強していたが、それまではマンツーマンで事細やかに教えて貰っていた。私個人は何も勉強のスタイルを変えては無かったから、どう考えてみても絵里の教え方が良かったとしか思えない。本当につくづく私は、周囲の人間に恵まれて助けられてるなぁと、当時から既にシミジミ感じる次第だった。
夏休みに入ると、当然というか夏期講習で潰れた。…いや、変に真面目ぶる事もないだろう。夏休みの間は何だかんだで結構遊んだ。去年の様に家族で丸々一週間旅行に行く様なことは無かったが、近場の海沿いにある温泉地に一泊二日、私とお母さん、裕美と裕美のお母さんと旅行に行った。裕美の出場した大会に観戦に行って以来、同じ受験の娘、しかも志望校が同じと、共通点がたくさんあった為か、すっかり二人は私達娘の知らないところで仲良くなっていた。海水浴したり、温泉に入ったりと比較的呑気に過ごしていた。この夏休みの間の事も話すとキリがないので、割愛させて貰うのを許して欲しい。これも機会があったら話したいとは思っている。
…うーん、まぁこれも良いか。ヒロの事だ。遂にというかやっとというか、ヒロの所属する野球チームが、都内の東部地区代表として夏の大会に出るといってたが、私は案の定観に行く気が無かった。この場を借りて言い訳をさせて貰えば、何せ応援に行くと言っても炎天下の中、屋根の無い観客席に座っていなければならない。これも随分前に言ったが、そんな苦行をしてまで、そこまで興味のない野球の試合を観るのは…無理だった。
ヒロとは言え、流石に毎度の様に断って悪いとは思っていたけれど。しかし何故か裕美に強く薦められたので、重たい腰を上げたのだった。私は知らなかったが、裕美はずっとヒロの試合を、毎度の様に見に行っていた様だった。その縁があって、応援に来てくれるお礼も含めて、ヒロも裕美の大会には、毎度の様に応援に行っていた様だった。それこそ裕美が都大会で優勝する様になるずっと前からだ。裕美が言うには、いつでも変わらず、ずっと応援に来てくれたのはヒロだけだったという話しだ。こういうところはヒロの良い所だ。癪でも認めざるを得ない。この話も割愛させて貰うが、どーーーしてもと言うなら、機会があれば話す事もあるかも知れない。ただ一つ感想を言えば、ヒロが炎天下の中あちこち動き回っている姿を初めて観て…そのー…ま、まぁ悪くは無かった。それだけ。
あっ、あと一つ補足すれば、裕美がヒロに対する呼び方が、『森田君』から『ヒロ君』に変わった事だ。今まで裕美はヒロの事を『森田君』と、名字で呼んでいた。ヒロの方は何度も名前で呼んでくれと頼んでいたみたいだけど。ヒロの言い分は、お互いの試合を応援し合うほどに仲良くなったのに、下の名前で呼び合わないのは、まだなんか距離を感じるという理由らしかった。確かに私との間でも、かなり早い段階で下の名前で呼び合っていた。一年生の頃からだと思う。ヒロの試合を私と一緒に観戦に行った帰り、地元で三人仲良く帰っていた時に、私がおもむろに裕美に言ったのだった。『遠慮しなくても良いのよ?ヒロ相手に控え目でいる必要なんて無いんだから。まぁ確かにいきなり男子に、下の名前で呼ぶのは抵抗あるかもだけど、まぁ本人があぁ言ってるんだからさ?』裕美は最初ウジウジしていたが、その日をキッカケに徐々に『ヒロ君』と呼ぶようになっていった。

夏休みの間、義一とまた一週間ちょっとの間、会えないし連絡が取れない事もあった。去年と同じだ。ただ去年と違って私も受験で忙しかったから、ようやく会える様になっても、久し振りな感じはしなかった。何が言いたいかというと、”なんでちゃん”が起きてくる程ヒマじゃ無かったという事だ。絵里と去年一緒に行きたいと言っていた花火大会も、私の都合で見に行けなかった。私は薦めたが、結局義一と二人で一緒に見に行かなかったみたいだ。残念。
この辺りは目まぐるしく、月日が早く過ぎてく様に”初めて”感じた。よく大人が『子供の頃は一日一日が長く感じたけど、大人になると年単位で早く過ぎるよ』と言っていたのをよく耳にしていたが、何を言っているのかイマイチ分からなかった。でも夏休み明けから年が明けるまで、本当に月日が早く過ぎるのを実感出来た。受験とは全く関係無かったが、この時期の私の印象に残った、数少ない得られた経験の一つだった。
駆け足で済まないが、繰り返す様だがなんだかんだ言って受験生、そこまで特筆すべき話す様な事も無かった。寧ろ自分で言うのも何だが、”色々”あった方だと思っている。
そんな言い訳は置いといて、この年の年末は珍しく家で静かに過ごした。人によっては嫌味に聞こえるかも知れないが、事実として家でのんびり過ごす珍しさを存分に楽しんだ。
一月二日、三箇日。私と裕美、お互いのお母さん二人合わせて四人で、近所にある全国的に有名な真言宗の大師に初詣に行った。初めて行ったが、人でごった返していて、息をするのがやっとといった感じだった。何とかお賽銭にお金を投げ入れお参りし、帰りに合格祈願のお守りを買って帰った。因みに私と裕美二人共、何とか成績は少しずつとはいえ順調に伸ばし、合格圏内を維持出来ていた。後は本番で、ドジを踏まないかどうかだけが心配だった。
そうこうしている間に、気づけば二月になり、とうとう受験日を迎えた。

「忘れ物は無い?受験票はしっかり持った?」
「うん、持ってる」
木枯らしが吹き荒ぶ二月二日。私とお母さんは揃って駅までの道を歩いている。今日は平日。学校は休みを取って、これから試験会場である四ツ谷まで電車に乗って行くところだ。それぞれの学校が試験会場になっている。受験期間はどの学校もお休みになっていた。
「…もう一度確認したら?」
隣を歩くお母さんは一人で何だか落ち着きが無い。さっきから何度も私に確認する様言ってくる。まるでこれからお母さんが受験しに行くみたいだった。それに引き換え私は自分でもびっくりするほど冷めていた。空気が寒いのは関係ないだろう。
「…もーう、大丈夫だから。お母さん、少しは落ち着いて?」
私は苦笑交じりにお母さんに言った。
「そ、そうね」
お母さんがそう短く答えるかと同時に、駅前の広場に着いた。今は丁度七時。スーツ姿のサラリーマン姿がちらほら見えたが、まだそんなに目立っていない。これから時間が経つにつれ、勤務先のある都心に向かい、ドッとスーツ姿の大人達でいっぱいになるのだろう。朝ラッシュと若干ズレてるらしく、それだけでも気は楽になった。もう暫くは、あの塾帰りの時の混雑具合は経験したく無い。
「…あっ、おーい琴音!」
私達よりも先にこちらに気付いたのか、裕美が大きく手を振っているのが見えた。
「…いよいよね」
私は胸の前で小さく手を降りながら近づいた。裕美は表情に若干の緊張を漂わせながらも、笑顔を作って頷いた。一瞬見せた本気の表情は、あの水泳大会のスタート前のに酷似していた。
予め私と裕美は待ち合わせをしていた。今日受ける学校は試験後に面接があるというので、普段より若干おめかし気味だ。私は寒さ対策でグレーのコートを着ていたが、下は紺のブレザーにグレーと黒の地味目なチェック柄の膝が隠れる程度のスカート、厚手のタイツを穿いていた。たまたまというか、何というか、裕美も同じ様な出で立ちだった。尤も裕美のコートは淡いクリーム色だった。チラッと見えるスカートは真っ黒、タイツも真っ黒だった。一月に今いるこの面子で、都心のデパートにわざわざ出かけて、一緒に買ったものだった。…結果はまだ言わないが、もし二人とも合格、もしくは不合格じゃ無かったらと思うと、ゾッとする。これでどっちかだけが合格した日には、殺伐とした空気が両陣営の間に流れたことだろう。私達本人とは別のところで。
それはさておき、挨拶もそこそこに、早速私達は電車に乗り込んだ。殆ど塾までと変わらない道のりだった。電車はギリギリ座れないくらいの混み様だった。私と裕美はドアの手摺り付近に立った。お母さん達は少し離れた所にいた。
「…いやー、緊張するな」
裕美は外を流れる景色を見ながらボソッと呟いた。
「…ふふ、大会とどっちが緊張する?」
私も同じ様に外を眺めながら言った。すると裕美はチラッと私の方を見ると、何か不思議なものを見る様な表情で返した。
「…アンタ、今日みたいな時でも、そんな軽口叩けるんだねぇ…いやぁ、凄いわ」
「ふふ、褒めてくれて有難う」
私は心から感謝を述べて、微笑みながらまた顔を外に向けた。裕美は鼻で短く息を吐くと、苦笑交じりに言った。
「…まぁ褒めてるっちゃあ褒めてる…かなぁ?私はやっぱり緊張してるもの…下手したら大会より」
「え?そうなの?」
「うん…あ、いや、勿論初めて大会に出れた時は…もう、何をしてたか思い出せないくらいに緊張してたけどね。おかげさまでというか、何度か出るうちに慣れてくもんだから」
「ふーん、そんなもんか」
私は呑気な調子で返した。
「そんなもんよ。…でも今日は初めてでしょ?しかも最初で最後。…あぁ、自分で言ってて、また緊張がぶり返してきた」
裕美は暖房の効いてる車内だというのに、両腕を手でさすっていた。見兼ねた私は、おもむろに裕美の右腕を一緒に数回摩りながら言った。
「…もーう、今から緊張してどうするのよ?今まで精一杯やってきたんでしょ?だったら今は過去の自分を信じるしかないじゃない。私は自分を誰よりも信じてる。…まぁ尤も」
私は裕美の腕から手を離し、そのままほっぺに持っていってポリポリ掻きながら続けた。
「駄目かもしれない自分のことも信じてるけどね?」
「…ぷっ!何それぇ」
裕美は吹き出した。薄眼を使いながらニヤケている。
「それじゃあ駄目じゃーん」
「私は駄目な私も好きなの。…懸命に努力した結果であればね」
「…うん、そうだね」
そう返してきた裕美の顔は、先程までの強張った表情から打って変わって、何やら解放されたかの様な柔らかい微笑みを浮かべていた。
「…ありがとうね」
「…ん?何が?」
私はワザとすっとぼけて見せた。裕美は目をギュッと瞑りながら、明るく切り返した。
「もーう!何でもないっ!」

四ツ谷駅に着き改札を出ると、辺りには私達と同い年くらいの女子達が、お母さんらしき人と一緒にゾロゾロと同じ方向へ歩いていっていた。彼等はみんな恐らく同じ受験生だろう。皆んな一様に暗い表情でいるか、全くの無表情そのどちらかだった。私と裕美みたいに表情が柔らかいのはザラだった。
歩いて二分くらいで学校の正門前に着いた。その前では何やら色んな大人達が子供達に向けてエールを送っていた。私達はスルーして行こうとしたら、見覚えのある人に捕まってしまった。塾での私達の先生だ。何やら色々言われた。『お前達は俺達がついてるぞ』云々。正直この先生には悪いけど、なーんにも思い入れが無いせいで、どんな美辞麗句も何一つ私の心の琴線に触れる事は無かった。さすが”大人”な裕美は、それなりに先生の相手をこなしていた。私の分までしてくれて、とても助かった。お母さん達も軽く先生に挨拶していたが、そろそろ私達の時間が迫っていたので、お暇することにした。私は全く相手にしてなかったのに、一人でドッと疲れていた。何とか絵里の事など思い出して、気を取り直した。
朝起きて携帯を見たら、義一と絵里からメールが来ていた。義一からは一言『ほどほどにね』だった。私は「らしいなぁ」とニヤケながら独り言を漏らしていた。絵里からも一言だけだった。『楽しんできてね』。これまたいかにも”絵里”といった調子だったから、またニヤケてしまった。普通が何だか私には分からないけど、恐らく安直に『頑張れ』が一般的なのだろう。私はこんな性格なので、裏をどうしても読もうとしちゃうから、偽善の匂いを感じ取ってしまう。 それらを理解し踏まえた上での、義一と絵里のメールだった。たった一言の中にどれだけの私への気遣いがあるか、計り知れなかった。それで十分だった。…これのおかげで当日緊張しないで済んだのかも知れない。

「携帯電話の持ち込みは禁止です」
無感情なアナウンスがひっきりなしに鳴り響いていた。私と裕美はカバンからスマホを取り出し、自分のお母さんに預けた。細長い簡易的な看板が立っていた。そこには『受験生』『保護者』と書かれていて、それぞれの字の上に矢印が書かれていた。左が受験生で、右が保護者だ。ここで別れるらしかった。
裕美とおばさんが何やら会話をしてる間、お母さんも私の肩に手をそっと置きながら話しかけた。顔は朝とは違い柔らかかった。
「…じゃあ琴音、頑張ってくるのよ?」
「…うん。行ってきます」
私も優しく微笑み返して、裕美とともに入試会場へと向かった。中は土足厳禁だったので、持ってきていた上履きを履いて中に入った。受験番号で教室が割り振られており、裕美の方が番号が小さかったので、一つ隣の部屋に入って行った。入る時黙って私を見ると、力強く頷いたので、私も同じ様に強く頷き返した。それを見ると、裕美は一瞬微笑んで見せて、中へと消えて行った。
私達が受ける試験科目は四科目だった。国語、算数、理科、社会だ。全ての科目を受け終えても、そのまま待たされた。何故ならこの後に面接があったからだ。面接は受験番号順に行われるので、裕美の方が私よりも先に受けるはずだった。
その間ちょうど十二時を過ぎていたので、周りの受験生が各々カバンからお弁当を出し、それを食べ始めていた。私も倣って持ってきたお弁当を食べた。お母さんが朝に持たせてくれたものだった。久しぶりにお母さんの手作り弁当を食べたので、この状況下でそう思うのはどうかとは思ったが、やはり素直にお母さんの作るご飯は美味しいと、実に良く味わいながら食べた。
一時半になろうかと言う頃部屋のドアを開けて、スーツを着た三十代程の女の人が、私の番号を含む数字を呼んだ。番号順に座っていたので、私の前後数人が同時に立ち上がり、カバンに荷物を片付けて持ち、そして女の人の後を一斉について行った。ある部屋の前に椅子が何個か置かれていた。女の人はここで座って待つように言うので、私達は黙ってそのまま番号順に座った。女の人は見届けると、どこかへ行ってしまった。
廊下は薄暗かった。廊下の突き当たりに大きな磨りガラスがあるらしく、外からの自然光が漏れて、廊下に一本の光の筋が出来ていた。それ以外には弱々しげな蛍光灯が点いているだけだった。
私の前にいた女の子が部屋の中から無表情で出て来た。そしてそのまま出口の方へとスタスタ歩いて行ってしまった。その後ろ姿をぼーっと見ていると、開けっ放しのドアからさっきとは別のスーツ姿の女性が出て来た。
「〇〇番さん、どうぞ中へ」
「はい」
私は足元に転がしていたカバンを手に取り、言われるまま誘われるままに、部屋の中に入って行った。そこは日当たりが良いらしく、一瞬目がくらむ程だった。中には人が先程の女性を入れて三人いた。皆女性だ。私を呼んだ女性はドアの脇に直立していた。残り二人の女性は年配の女性だった。二人は長テーブルを前に、等間隔で座っていた。いかにも教師といった容姿だった。二人共に顔に微笑を湛えていた。
「どうぞお掛けください」
そのうちの一人が私に、上品な調子で声を掛けた。
「失礼します」
座れば二人が真正面になるように設置された、一つだけポツンと置かれた椅子に、一言断ってから座った。もう一人の女性は何やら紙を捲り、ペンを手に持つと、もう一人の女性と同じ様に微笑みながら私を見ていた。
「まずは自己紹介をお願いできますか?」
私に座る様薦めた女性が、私に話しかけてきた。
「…私は望月琴音といいます」
「望月琴音さんね」
隣の女性はカリカリと、何やら書き始めた。
「面会時間は約三分間です。よろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします」
私は深々とその場で座りながらお辞儀した。顔を上げると、先程から話しかけてくる女性は微笑みながら、優しい口調で言った。
「緊張しなくても大丈夫ですよ?楽しい会話をする様にしましょう」
「はい」
私は一応恐縮して見せながら答えた。
女性はニコッと笑うと、隣でずっとメモをしている女性の手元をチラッと見ると、早速質問を投げかけてきた。内容は『思いやりを感じた体験、もしくは心に残っている体験』だった。実は予め面接直前に質問の書かれたカードを手渡されていたので、急に聞かれても困らない様な救済処置がなされて居た。私に言わせれば予定調和だった。
これは前に一度だけ裕美と学校の説明会に来た時に、この学校の教頭が登壇して、去年の面接内容はどうだったかを説明していたが、それと大体一緒だった。 説明会の会場、その場に居た他の子達は、裕美もそうだったみたいだが、この漠然とした問いにどう答えるのが良いのか困っていた様だった。私はまた別の意味で困っていた。寧ろ話したいことが多過ぎたからだ。説明会でも制限時間が三分だと聞いていたので、当たり障り無く”私”を殺してどう答えるのかが、鍵になるだろうと思っていた。でもいざ本番になってみると、急に頭の中に義一と絵里、ピアノの先生の姿が思い浮かんできた。…うーん
「では話して頂けるかしら?」
女性は顔中に興味津々だと言う感情を、万遍なく浮かべて見せながら聞いてきた。隣に座ってメモを取ろうとしている女性も同じだ。
私は少し躊躇したが、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。
「はい、私は…」

「では失礼します」
私は一礼して部屋の外へと出た。そして前の人がそうした様に私も出口に向かって歩いて行った。途中から大きな矢印の書かれた紙が廊下の壁に貼ってあり、その下に『出口』と『控え室』と書かれていた。
私は『控え室』と書かれている矢印に従って進んだ。
「琴音!」
控え室に使われている講堂の中に入ると、遠くの方で私の名前を呼ぶ者がいた。お母さんだ。側には裕美のお母さん、そして一足早く面接を終えた裕美の姿もあった。 私はゆっくりとした足取りでお母さん達の元へ近づいた。お母さんは優しく微笑みながら、私の両肩に手を置いた。
「琴音…お疲れ様」
「うん」
何だかんだ私も自分で思う以上にやはり緊張していたのか、一気に脱力感に襲われつつも、ただ短く、でも明るく努めて笑顔で返した。
「お疲れ様、琴音ちゃん」
裕美のお母さんも私の背中に手をやりながら、優しく労ってくれた。
「お疲れ様、琴音」
裕美も満面の笑みで私を迎えてくれた。私は意地悪く笑いながら返した。
「…お互いにね?」
「あははは!そうね」
すっかりいつもの裕美に戻っていた。と、ここでおばさんはお母さんに声を掛けた。
「…じゃあ瑠美さん、いつまでもここにいてもしょうがないから、帰りますか?」
「あっ、そうね。そうしましょう」
「じゃあ二人共ー!行くわよー!」
「はーい!」
私達四人が講堂を出て、正門を抜け、四ツ谷駅のホームに着いた頃には二時半になっていた。 ここまでの道中、せっかく都心まで出てきたんだから、この辺りで軽く食事する案が出ていたが、第一志望の受験が終わったとは言え、まだ二校ほど入試が残っていたこともあり、今日のところは大人しく帰り、地元に着いたら軽く食事をする案に落ち着いた。
電車の中、真昼間だからか余り人気が無かった。余裕で座れた。お母さん達と向かい合って座る形になった。とは言ってもお互いの会話が、詳しくは聞き取れないほどには離れていた。
「いやー…ひとまず終わったね!」
裕美は電車の中だというのに、座りながら大きく両手を上に伸ばしながら言った。私達の背後の窓から、冬の太陽の陽気が光と共に降り注いでいた。
「…そうね」
「ん?何?どうしたの?」
「え?…んーん、何でもないわ」
私はなるべく悟られないように答えた。裕美は「ふーん」と言ったきりで、それ以上は聞いてこなかった。
私の頭の中には、今日の面接の風景が思い出されていた。用意していた答えとは全く違う事を答えてしまったのを、今になって後悔していた。
…アレが影響したら…どうしよう。
流石の私も一応それなりに、裕美ほどじゃ無いにしろ頑張ってきた自負があったから、こんなつまらない事で落ちたりしたらと思うと、気が気じゃ無かった。…今ここで言うことでは無いかもしれないが、正直ここまで来たら絶対に合格したかった。口が裂けても恥ずかしいから言えないけど、…もちろん初めは絵里の出身校だと言うんで、興味を持ったというのが動機だったが今は…単純に裕美と同じ学校に通いたいという気持ち一心だった。合格発表はすぐ明日に迫っている。
そんな私の何かを察したか何なのか、裕美はおもむろに面接の話を振ってきた。
「いやー、想定通りの質問で助かったね」
「…うん、そうね」
私は顔を後ろの窓に向け、外を眺めながら答えた。すると裕美は何を勘違いしたのか、ツンとして見せながら言った。
「まぁアンタは良いよねぇー。仮に想定外の質問が飛んできても、易々と答えてしまうんだから。何せ普段からあんなに弁が立つんだし」
「…ふふ、何よそれ」
私は苦笑交じりに返したが、心中は穏やかではなかった。仮に裕美の言う通りだとしたら、その弁が立つせいで、暴走してしまった可能性を否めなかったからだ。
「そういえば、アンタが面接終えて出て来るまでじっとしてたんだけどね」
「…うん」
私は上の空で返した。
「周りの子達の会話が聞こえてきたの」
「…なんて言ってたの?」
「なんかねぇ…」
裕美は何だかつまらなそうにしながら、先を続けた。
「正直面接って合否には関係しないみたいなのよ」
「…え?」
私は一瞬裕美が何を言ったのか理解出来ず、思わず聞き直してしまった。
「それって、どういうこと?」
「なんかね…」
私が見るからに動揺しているのにも気に留めず、裕美は淡々と続きを話した。
「その子達が言うには、この面接の目的は合否に関係無く、いわゆる子供の自主性ってヤツを見るためにしているんだって。話していた女の子のお姉さんが在学中らしいんだけど、そのお姉さんに教えて貰ったらしいのよ。『実はな…』みたいにね」
裕美は急に私の耳元に顔を近づけ、内緒話をする真似事をした。
「ほら、面接前に質問が書いてあるカードを貰ったじゃない?アレを見て、子供達が面接までに自主的に考えるのを促進してるんだって。だから面接する本意はそこにあるらしいのよ。面接内容は、どうでも良いとは言わないまでも、そこまで重要視はされないんだって」
「…はぁーー」
私は大きく肩を落としながら、ため息をついた。
「え?何々、どうしたのよ?」
裕美は不思議そうに私を見ていた。
「…んーん、何でもありませーん」
私は車内が空いているのを良いことに、足を前に無造作に投げ出し、大きく伸びをしながら返した。その名も知らない女の子の話、お姉さんに聞いたと言う不確定事項、しかもただの又聞きに対して信頼をおくのはどうかと思ったけど、話に筋が通っていたし、まぁ心理的に安心したいが為に、藁にもすがった感は否めなかったが、ホッとしたのも確かだ。
私はすっかり晴れやかな気分になっていた。自然に笑みも溢れた。もうすっかり覚悟を決めて、明日の合否発表を迎える準備が出来上がった。
それに反して私の反応のせいで、裕美は見るからにモヤモヤしていたようだった。ゴメンね、裕美。

第14話 卒業、そして入学

「…よし!」
私は自分の部屋にある等身大サイズの姿鏡の前で、最後の身だしなみの確認をした。バッチリだ。入試の面接時に着ていた紺のブレザーに、グレーと黒のチェックスカートは地味といえば地味だったが、今回は首元に赤いリボンを付けているので、ちょっとしたアクセント効かしが入って、派手過ぎず地味過ぎず、程よくバランスが取れていた。
何故こんなお堅い格好をしているのかといえば、何を隠そう今日は、六年間通っていた小学校の卒業式だからだ。三月も真ん中を過ぎた頃、もうすっかり春めいた陽気にみちているのが、部屋の中にいても感じられた。私は朝食を済ませてから最後の確認をしていたので、満足するとそのまま鞄を持って部屋を出た。そして階段を降りて居間を覗いた。
お母さんはキッチンで何やら整理をしていたが、姿格好はすっかり余所行き仕様になっていた。着物姿だ。淡い水色の付け下げで、袖模様は四季折々の草花があしらわれていた。帯は山鳩色地に金を載せた地色に、華やかな華紋と花唐草などが刺繍と螺鈿のような細工で表現されていた。ビシッとキマっていたが家事中の為か、たすき掛けをしていた。
お母さんは初めは一般的な服装、落ち着いた紺か黒の様な色合いのジャケットとスカートのツーピースで行くつもりだったみたいだが、私がわざわざ着物でと頼んだのだった。言われた直後は苦笑いで渋っていたが、私が必死に頼んだのが効いたのか、はたまた自分の好きな物を、娘から人前に見せるように頼まれたのが嬉しかったのか、最終的にはこうしてキチンと身に付けてくれたのだった。
しばらく我が母ながらその着物姿に見惚れていたが、ずっと見てる訳にもいかないので、後ろから声を掛けた。
「じゃあお母さん、私そろそろ行くね?」
「あぁー、はいはい」
お母さんは一度蛇口を閉め、手の水気をタオルで拭き取りながら、こちらに振り向いた。言い忘れていたが、お母さんの髪型も着物仕様になっていた。綺麗に纏まった編み込みスタイルだ。一本だけ刺した簪は、小さく控え目なお花の飾り付きだった。
お母さんは黙って私を舐めるように上から下、下から上と顔を動かしながら見ていたが、私のそばまで寄ると、私の首元の赤いリボンに触れながら笑顔で言った。
「…よし!流石私の娘だわぁ。カッコ可愛くキマってるわよ」
「…ふふ、お母さんこそ」
私達二人はクスクスと笑い合った。それからお母さんは一度襷を解いて、カメラを手に持ち私と一緒に外に出た。そしてタイマーをセットして二人の写真を撮ったのだった。

「じゃあいってきまーす!」
「はーい、また後でねー」
玄関先から手を振るお母さんに手を振り返し、私は最後の通学路を味わうように歩いた。
普段と変わらない通学路。というか、普段から歩いている変哲の無い見栄えの無い道だというのに、今日というこの日に限っては、若干町の色合いがいつもと違って見えた。なーんて妙な文学調のしおらしい、らしく無い心持ちでいた。自他共に冷えてると評価されている私でも、感慨深くならざるを得なかった。
「おーい!」
マンションの正面玄関前から、裕美がこちらに手を振ってきた。そしてそのまま歩道にいる私まで歩み寄って来た。私も胸の前で小さく手を振り返す。
「おはよう、裕美」
「うん、おはよう!」
裕美はいつになくハイテンションだった。私達は合流すると挨拶もそこそこに、学校へ向けて歩き始めた。
「…ふふ」
裕美は歩き始めてすぐ、一人でクスクス笑い出した。
「何よ裕美?何がおかしいの?」
「だってぇ」
裕美は今朝のお母さんみたいに、私の姿を舐め回すように見てから続けた。
「私達こうして並ぶと、昔の漫才師みたいなんだもん」
「…あっ」
私も言われて、改めてお互いの服装を見比べて見た。裕美も私と同様に、あの受験の時と同じ格好をしていた。違いがあるとすれば、私がチェックのスカートなのに対し、裕美はブレザーと同じ黒だという点だった。今日は小春日和で暖かな気温だったので、真冬の寒さだった入試の時とは違い、コートなどの上着を羽織っていなかったから、側から見ると仲の良い姉妹みたいだった。
「確かにそうね」
苦笑交じりに返した。裕美は悪戯っ子のように笑いながら言った。
「あははは。私達同じクラスじゃなくて良かったね?同じだったら周りにどれだけからかわれるか、わかったもんじゃないもの」
「…ふふ、本当ね。特にあの馬鹿に見られた日には…」
「おーっす!」
私がまだ言い終わらない時に、後ろから底抜けの明るい声を上げながら、誰かが勢いよくガバッと二人の肩に腕を回して来た。
私と裕美はビックリして振り返った。…『誰か』と言ったが、本当は誰かは当然すぐに分かっていた。ヒロだった。黒のスーツを着ていた。仕方ないと言えば仕方ないけど、着せられてる感が強かった。個人的な感想を言えば、余りにも子供っぽ過ぎる普段を知っているせいで、チグハグに見えた。まぁこれは、ヒロに限ったことではないが。
裕美はそのまま固まっていたが、私は鬱陶しそうに乱暴に振り解きながら悪態ついた。
「…あなた、最後の最後になってまで碌な挨拶が出来ないの?」
「細かいことは気にすんなよ!」
ヒロはそっと裕美から離れながら答えた。裕美は呆然としている。
「気にすんなって、加害者のあなたが言う台詞じゃないでしょ…」
私はゴミを見る目でヒロを見たが、見られ慣れているせいか、一向に気にしない様子だ。
ヒロは私達の服装を見て、大袈裟に驚いて見せながら言った。
「お、おぉー!中々オシャレにしてんな二人共!えぇー…っとぉ」
ヒロは唸りながら頭を抱えて見せた。と、すぐ顔を上げると、自信満々に言い放った。
「…あっ、あれだ!馬の耳に念仏」
「…誰が人の話を聞かないっていうのよ?」
私はヒロが何を言い出すのかと身構えていたが、期待通りというか案の定というか、まるで見当違いの事を言ってきたので、心底呆れながら返した。
「それを言うなら、馬子にも衣装でしょ」
「ん?…あぁ!それだそれ!」
ヒロは私を指差しながら、笑顔で返した。一人合点がいったようだ。
「はぁ…何で私があなたの軽口に対して、訂正をしなきゃいけないのよ?」
私が脱力気味に文句を言っていると、それまで私とヒロのやり取りを黙って聞いていた裕美が、我慢出来なくなったのか、大きく吹き出し笑い転げていた。
「あははは!おっかしー!…でも琴音?」
「何よ?」
表情そのままに今度は裕美を見た。裕美は笑顔を保ったままだ。そのまま瞼を薄めがちに開いて見せながら言った。
「…あながちヒロ君の言ったのは、間違ってないかもよ?」
「…ちょっとぉ、それどういう意味よ?」
私は抗議をしたが、口元は自分でも分かるほどニヤケていた。それから少し間をおくと、私と裕美は歩きつつ、進行方向を向きながら笑い合ったのだった。ヒロは私達の後ろを退屈そうに、でもどこかに行くでもなく、付かず離れず後ろに付いて歩いていた。
今日でこの三人で通学するのも最後だ。

校門前に着くと、脇に大きく『卒業式』と書かれた看板が置いてあった。気の早い卒業生と母親なりが、その前で記念撮影をしていた。私達三人はなるべく邪魔にならないように気を遣い、足早に脇を抜け、各々の教室に向かった。裕美とヒロは同じクラスだったが、私だけ違ったので、廊下で式が終わった後どこで落ち合うかの確認だけ済ませて別れた。
私が自分の教室に入ると、どうも一番最後だったらしく、みんなの視線が私に注がれた。尤もみんなテンションが高めなせいか、ガヤガヤザワつきは止まないままだった。いつも通り家を出て、いつもの感じで通学路を歩いて来たつもりだったが、どうも知らず知らずペースを緩めてゆっくりと歩いていたらしかった。それだけ自分が思う以上に名残惜しかったようだ。
私が自分の席に着くと、何人かの綺麗に正装した男女が、私に話しかける為近づいて来てくれたが、何の前触れも無く教室に入って来た、これまた普段はジャージ姿しか見た事がないのに、最後の最後でビシッとスーツを身につけた男性担任が入って来たので、みんな一斉に席に着いた。
正直…これを言うと『またお前は何でそんなに冷めているんだ』と非難されそうだけど、本心から言えば全くワクワクなどしていなかった。何故なら今日という本番を迎えるまで、二月の終わりくらいから、何度も卒業式の練習をしていたからだ。卒業証書を受け取る事まで練習した。…まぁこれは各クラスの代表者の一人だけが、体育館に集められた私達の前で壇上に上がるだけだったが。
私はこの時から一連の茶番にうんざりしていたが、一つだけ驚いたことがあった。隣のクラスの代表者として壇上に上がったのが裕美だったからだ。裕美はリハーサルだというのに、緊張した面持ちで壇上に上がっていた。
その練習の帰り早速訳を聞き出してみると、裕美が言うのには本来各クラスの学級委員が代表者になるのが普通だったのに、直前になって急遽裕美に白羽の矢が立ったようだった。一昨年に全校生徒の前で表彰された事、また去年も二連覇したのに学校の都合で朝礼の時出来なかったが、元々また表彰するつもりだった事、これらを全部教師側が鑑みて、裕美のクラスの代表者だけ学級委員ではなくなったと言う話らしかった。
勿論と言うか、当然裕美は何度も断ったらしい。ヒロも含む同級生全員に言われても断り続けたらしいが、とうとう学級委員本人にも頼まれてしまった事が決定打となり、渋々恥ずかしがりながら引き受けたという経緯だったらしい。 私は一連の話を聞いて『まぁ折角だし楽しみなよ』と無責任な言葉を送った。裕美は苦笑だったが、そこで吹っ切れたようだった。それで今に至る。
私達生徒は練習通り、筋書きに沿って卒なく式を完遂した。式自体は特に話すことは無い。…まぁ型通りの式典なんてそんなものだろう。生徒にとっては式なんかよりも、教室に戻ってからが本番だ。
教室に戻り自分達の席に着くと、そのすぐ後から担任が入ってきた。…これ言うとまた顰蹙を買うだろうが、事実として担任が余りにもありきたりな事を話すもんだから、何一つとして心に言葉が残らなかった。
ただ一つだけ…これもまた自分に対してだから、そこまで関係無いのだけど、我ながら自身に感心した事があった。隣の席の女子が担任の話を聞いてる途中で嗚咽を漏らし始めた。ついこの間までの私だったら、前にもちょろっと話したかも知れないが、この手のすぐに感情的になって、人前だというのにも関わらず、平気で泣くような女を心の底から軽蔑していたが、驚いたことに苛立ちや不快感を催すどころか、その女子に釣られて視界がボヤけてしまった事だった。これを成長というのか、心が弱くなったと言うのか、視点の位置により見方が変わると思うけど、この日の私は取り敢えず前者に一票を投じたのだった。
担任は話し終えると、学校生活終了の宣言をした。途端にみんなは一斉に立ち上がり、歓声とも咆哮とも取れる声を上げた。今までの堅苦しい空気を払いのけるかのようだった。
先ほど担任が急に入ってきたせいでお話出来なかった同級生達が、私の周りを取り囲むと、一緒に同じクラスで卒業出来た歓びを分かち合う様に、男の子は握手を求め、女の子は抱きついてきた。私も笑顔で対応したが、正直心底この状況にびっくりしていた。想像していたのとかけ離れていて、想定していなかったからだ。
今までの、ここまでの私の話し振りから想像出来ていたと思うが、ある意味義一との再会、絵里と仲良くなりだしたぐらいから、勝手に私の中で線引きをして、前よりも同級生達と一定の距離を取ろうと意識的にしてきた。勿論みんなの望む”私”を演じ続けてはいたが、前ほど進んで演じようとはしていなかった。前ほど進んで何かを提案したり、引っ張っていこうという積極性は、影を潜めていた。一方的に線引きして壁を作っているうちに、よくある話だが、段々と相手の方でも自分と同じ様にこちらと距離を取ろうとして、最終的には疎遠になろうとしているんじゃないかと思い込んでしまっていた。 それが今の状況だ。
まるで今まで何も変わらず一緒に過ごしてきたかの様に振る舞う級友たちに、度肝を抜かれたと共に、不思議と何故か感謝の念が胸に去来し、それが溢れそうな程大きく膨れていくのを感じていた。
あらかた皆んなと挨拶したり写真撮ったりしていたが、ふと視線を感じたのでそちらに振り向くと、そこにはかつて一緒に連んでいた”元”仲良しグループの面々が、私の方を一様に静かな視線を向けていた。実際は一秒ほどだろうが、長い事見つめ合った様な感覚だった。と、表情そのままに皆して私の方へと近寄って来た。そして私を取り囲む様に立った。私は今から何されるんだろうと、後ろめたいことも無いのに内心ビクビクしていたが、為す術もなく相手の出方を待つ他に無かった。沈黙を破る様に、私の前に意を決した様に立った者がいた。それは、覚えているだろうか、裕美との前に、いつも一緒に登下校をしていたあの子だった。彼女は表情固めに緊張を顔に表してジッと私を見てきたので、私も合わせて見つめ返していた。暫くして私は急にドキッとした。何故ならこちらを強く見つめるその両目が、見る見るうちに潤んで行き、仕舞いにはそのまま溢れ出すままに大粒の涙を流し始めたからだ。私はぎょっとして、先ほどまでとは別の意味で立ち居振る舞いに困っていると、我慢していた感情を解き放つ様に、突然私に抱きついてきた。
「琴音ちゃーーん!今までありがとーう!」
「琴音ちゃーん!」
一人が抱きついたのを合図に、他のみんなも一斉に抱きついてきた。私はこの不測の事態に、ただただ唖然とするばかりだった。みんな私よりも若干背が小さいので、私は冷静に周りを見渡す事が出来た。気付けばみんながこちらに注目していた。十人十色の表情を浮かべていたが、共通していたのはどの顔も微笑ましげな笑顔だった事だ。ふとドアの方を見ると、裕美とヒロが、何とも言えない笑みを浮かべてこっちを見ていた。
私は途端に恥ずかしくなって、取り敢えず一旦解こうとしたが、一対複数で勝てる訳もなく、されるがままでいる他なかった。 私の胸に顔を埋めながら、嗚咽まじりに各々私に声を掛けてきた。はっきりとは聞き取れなかったが、『一緒に卒業できて嬉しい』、『今まで友達で居てくれてありがとう』、『琴音ちゃんも含めて遊んだ思い出は忘れないよ』といったものだった。私は困り果てた感じで、それぞれの背中を撫でて居たが、次第にまたもや視界がボヤけてきた。先程と同じだ。しかも今回のは強烈だった。何故ならいくら冷静を気取っていても、気付いた頃にはホッペを涙が伝っていたからだ。私はそのまま考えないままにみんなの背中に覆い被さるように、大きく腕を広げて纏めて抱き締め返した。私自身声を上げたか記憶に無い。ただ皆んなの嗚咽が、余計に大きくなったのだけは今も憶えている。

彼女達と各人数分、そして全員の入った写真を取り、それぞれと笑顔で挨拶を交わし教室を出た。一部始終を見ていた裕美とヒロと合流し、そのまま母親達と約束した場所に向かった。その道中二人は見たことについて何も言わないでいてくれたが、やけに優しい眼差しを向けてくるのが無性に恥ずかしかった。まだ軽口叩いてくれた方が良かったくらいだ。まさかその目を止めてとは、流石に言えない。
待ち合わせ場所は校門の前だった。私達は最後の方だったのか、思ったよりかは空いていた。それでも大体保護者は皆んな同じ様な格好をしていたので、なかなか見つけられないんじゃ無いかと思っていたが、余計な心配だった。すぐにお母さんは見つかった。暗い服装が多い中で、薄い水色の着物が綺麗に映えていた。お母さんの脇を通る人々が皆して通り過ぎた後、振り返って見ていた。そんな周りの羨望を気にする事なく、凛として立っていた。そして側にいる裕美とヒロのお母さん達と談笑していた。私は何度もお母さんの着物姿を見た事があったが、家の中でお父さんの知り合いに、おもてなしする所作振る舞いしか見た事が無かったから、こうして外で改めて見ると、色々価値観の違いを感じる時があっても、やっぱり私のお母さんはカッコいいなと素直に思った。
「…おっ、ようやく来たね?」
先に裕美のお母さんが私達三人に気付いた。その直後に私のお母さんと、ヒロのお母さんもこちらに振り向いた。 三人各様にフォーマルな格好をしていた。でもやはり今日においては、三人の中ではお母さんがダントツに綺麗だった。裕美とヒロのお母さん達も、私に近寄るなり、勿論というか何というか、私の姿も褒めてくれたが、一様にお母さんの着物姿を、これでもかってほどに褒めちぎっていた。その度に流石のお母さんも、ほんのり顔を赤らめて、気持ち俯き加減に恐縮していた。
今日の式についてアレコレ私達を交えて軽く談笑した後、まず各々家庭分の写真を撮った。お母さん達は自分の子供の分だけ初めは撮っていたが、最後に私達三人を看板脇に立たせて、気の済むまで自分のカメラで撮ったのだった。
それからは学校の近所のファミレスで二時間弱会食した後、予定があるとかでそこでヒロと、ヒロのお母さんと別れた。別れ際に三人で、卒業の記念に遊ぶ約束をしてから。
私と裕美のお母さんはもう暫くお喋りすると言うので、私と裕美は先に帰ることにした。時刻は三時を過ぎた所だった。
「…はぁー、終わっちゃったなぁ」
裕美は空を見上げながら、ため息交じりに呟いた。
「…そうねぇ」
私も倣って空を見上げながら返した。
「…来月には私達中学生だね」
裕美は正面に顔を戻すと、私の方を向きながらしみじみ言った。
「えぇ、実感無いけどね」
私もまた同じ様に裕美に返した。

ここでネタバレというか、今ここで入試の結果を述べようと思う。こんなに引っ張るつもりは無かったが、話の関係上中々話せる機会が無かった、ただそれだけだ。勿体ぶっていたわけでは無い事は理解して欲しい。
とまぁ、見苦しい聞き苦しい言い訳はこの辺で辞める事にして、結果から言えば、晴れて私と裕美は同じ女子校に通える事になった。入試の帰りの電車の中での会話、勿論言った様に安心したのはその通りだったが、実際のところは当然分からなかったので、我ながら可愛らしくその晩は、中々寝付けなかった。そして次の日、合格発表は学校のホームページに朝の九時から発表されるという話だったが、この日も平日、他に願書を出した学校の入試日ではなかったので、普段通り学校に通った。裕美ともいつもの様に朝会ったが、裕美も普段の明るさに影が差していた。冗談を言う顔も、気持ち表情が曇っていた。会話も中々弾まなかった。昼休み、給食を呑気に食べていると、急に裕美が私のいる教室のドアを乱暴に開けた。手にはスマホを持っていた。クラスメイトは皆んなして、何事かと裕美に視線を注いでいた。すぐに私の周りからひそひそ声が聞こえて来た。皆んな口々に裕美の名前を言っていた。どうやら本当に有名人らしかった。私は変わらず呑気にスプーンを咥えながら周りを見渡し、そんな事を考えていたが、裕美は私の姿を認めると、私の元に脇目も振らず一直線に向かって来た。そして私の机の前に立つと、無言で私の手を引っ張った。
「えっ、ち、ちょっと!裕美!何だって言うのよ?」
私の抗議に一切反応しないまま、力任せに私を教室の外に連れ出した。クラスメイト達は何が起きているのか分からんと言った感じに、私達二人の姿を目で追うだけだった。
「もう、何なの?」
廊下の突き当たり、階段の踊り場まで来ると、私は裕美の手を力任せに振りほどいた。辺りは昼休みとは言え、普段は一斉に給食を食べている時間なので、人気もなく静まり返っていた。意味も分からず連れ出されて、しかも無駄に目立つことをさせられたので、若干…いやかなり怒っていた。私の感情を感じ取れない訳は無かったが、裕美はふと手に持っていたスマホを弄りだした。私はその様子を黙って見ていたが、ふと裕美はスマホの液晶を私に向けてきた。そして、息も切れ切れに興奮を抑えられないと言った調子で答えた。
「…こ、琴音…私達…う、う、うか…」
「…え?」
裕美の言った最後の言葉がよく聞き取れず、私は聞き直した。すると裕美は一度俯いて見せたが、勢いよく顔をあげた。その顔は今まで見たことのない満面の笑顔だった。興奮のあまり顔が上気していた。そして私の両肩に手を一度置くと、力強く言い放った。
「私達二人共受かっているよ!」
「…え?本当?」
私は今裕美の言ったことよりも、テンションの大きな差に戸惑っていた。そのまま立ち尽くす私に、裕美はそのまま抱きついてきた。
「受かったぁー!受かったよ琴音ぇー!」
裕美は抱きつきながらその場で飛び跳ねていた。私はようやく実感が湧いてきたが、どちらにしろそのまま呆然と立ち尽くす他なかった。
「ほ、本当に?本当に受かってる?」
私がたどたどしく問い直すと、裕美は笑顔のままスマホの画面を私の顔すぐそばまで近付けて見せた。そこには何桁かの数字がズラーッと並んでいたが、その中である数字がズームアップされていた。それが裕美の受験番号だという話だった。私は淡々と数字の羅列を見ていたが
「…私の受験番号なんだっけ?」
と我ながら惚けた声を出してしまった。裕美は私に薄目を流し、スマホを受け取りながら苦笑交じりに言った。
「アンタねぇ…昨日の今日な上に、今日が合否発表なの知ってるんだから、番号控えときなさいよぉ」
そう言いながら裕美は、別の数字に焦点を合わせる様にズームアップした。そしてまた私にスマホを渡してきた。そこには先程とは違う数字が大きく出ていた。私がそれを見ている間、裕美はポケットから小さなメモ用紙を取り出した。そしてそれを広げて、書いてある方を私に向けながら言った。
「アンタ昨日帰る途中ファミレスに寄った時、受験票を見せてくれたじゃない?これがその時のメモよ!…ほら、数字を見比べて見て?」
私は穴が開くほど裕美のメモを見つめ、何度もスマホ画面と見比べた。…確かに何度も見ても同じ数字だ。一文字足りとも間違っていない。
「…本当だ…本当に受かってる…」
「だからそう言ってるでしょう?」
裕美は落ち着いてきたのか、私からスマホを受け取ると、メモと共にポケットにしまった。その時私は勢いよく裕美に抱きついた。そしてそのまま揺ら揺らと左右に揺れた。
「…んーーーー!やったわ、裕美!」
「う、うん!やったわ!」
裕美は私の反応に戸惑いながらも、元気よく答えた。
あなたが最初に同じ様な事したんでしょうに、何驚いてるのよ?
と心の中で突っ込んだが、それは口にせず、二人して改めて合格の喜びを分かち合った。
教室に戻ると、クラスメイト達はジッと私の方を見つめてきていたが、さっきとは打って変わって、一切視線が気にならなかった。席に戻り携帯を見ると、お母さんからメールが来ていた。合格したとの報告だった。メールの文面からも、喜びが伝わってくるようだった。
家に帰り、お母さんと改めて抱き合い喜びあった。お母さんは泣いていた。初めて…いや久し振りにお母さんの泣いてる姿を見た。ここまで話を聞いてくれた人には、何の事を言ってるのか分かると思う。その日の夜、お父さんが帰ってきた。何やらお土産を持って来ていた。
居間の普段食事をするテーブル前で帰ってくるのを待っていた私に、お父さんは無言で側まで寄り、顔の表情を綻ばせると私の事を優しく抱きしめた。私は座ったままだったが、そのままの体勢で抱き返した。
ここで『頑張ったな』などの言葉を掛けないのが、お父さんらしかった。言葉にできないことは言わない、首尾一貫していたことだった。
お土産の箱を開けて見ると、そこにはいくつもの大小様々なサイズのブックカバーが入っていた。全て純革製だった。黒、赤、紫、茶色の四色が、文庫本サイズから図鑑サイズまであった。表面も無地ではなく、全てのカバーの模様が違い、西洋の絵画のような模様だったり、イスラム系の幾何学模様だったりと、バラエティーに富んでいた。私がずっと欲しがっていたヤツだった。…尤も”純革製”みたいな高級品は強請ってなかったけど。普通の女の子が何を欲しがるのかは知らないけど、私にとっての最高のプレゼントだった。後でお母さんに聞いた話だと、お父さんはお母さんから連絡が来た時に、何とか病院を抜け出し、銀座の方まで出て、わざわざ買って来たとのことだった。物を買ってくれたというよりも、言い方が悪いが、普段無感情に病院経営に勤しんでいるお父さんが、その何よりも大事な仕事を後回しにして、目星を付けていたお店にわざわざ行って、買って来てくれたという事実のほうが、尚更嬉しかった。それだけ普段は無関心のフリをしていても、内心は心配していたのだろう。
寝る前に布団の中でスマホを見てみると、着信が二通あった。義一と絵里だった。この二人には昼休みのうちに連絡を入れていた。私は普段からスマホを持ち歩いてはいるが、余りしょっちゅう弄るようなクセが無かったので、いつも気付くのが寝る前になる事が多かった。
『おめでとう!後輩!』
絵里の文面はこうだった。いかにも”らしい”ものだった。
『神の御加護があらん事を』
義一の文面はこうだった。いかにも”らしい”、何重にも意味を練り込んだ言葉だった。一つ種明かしをすると、私が今回合格した女子校は、いわゆるミッションスクール、カトリック系の学校だったので、それらを踏まえたセリフだったのだろう。…相変わらず分かりづらい事この上なかった。勿論私はこれを初め見た時、しばらくその真意を汲み取るのに苦労した。何となく察した後も、苦笑いする他なかった。「らしいなぁ」と思わず独り言ちた程だ。
絵里には「ありがとう」と返したが、義一には「分かりづらい(笑)」と返した。

「…琴音?」
「ん?」
私がボーッとしているのを見て、 裕美が不思議そうな表情で話しかけてきた。
「何か言った?」
「ふふふ、もーう」
裕美は呆れながらも、優しい口調で同じ内容を繰り返した。
「だから、このまま別れるのも何だから、公園にちょっと寄って行かないかって聞いたのよ」
「あ、あぁなるほど。いいわねぇ、そうしましょう」
それから私達は裕美のマンション近くの、あの小さな公園に向かった。中に入りあのベンチに仲良く、お互いに近く寄りながら座った。見上げるとそこには、桜が見事に咲き誇っていた。最初に裕美と来た時、裕美の大会に行った帰りの時、あの時は十二月の寒空の下、草一つも無かったのに、今私達の頭上に広がっているのは、青天井ならぬ”桜天井”だった。空など見えないくらいに埋め尽くされていて、時折吹く強風に煽られ、花びらがチラチラ私達に向かって舞い降りてくるのだった。毎年例年より開花の時期が早まっていると、天気予報で言っていたのを思い出した。
「…綺麗ね」
私は見上げたまま、ポツリと呟いた。
「…本当ね」
裕美も同じ様に返した。前にも話した様に、ベンチ裏に植わっているこの桜木、幹の太さから見て中々の老木だと思うのだけど、毎年毎年こうして私の生まれる前から変わらず咲き誇っていた様だった。こんなに立派な桜なのに、平日の為なのか、人っ子一人いなかった。私と裕美の貸切状態だ。
「…お母さん達ね?」
裕美がまだ見上げたまま、静かに話しかけた。
「私達が中学に入った後の事を話し合ってるみたいよ?」
「…何であなたが知ってるの?」
私も先程から変わらぬ姿勢のまま聞いた。
「うふふ、お母さんに写真を撮って貰ってる時に聞いたのよ。だからあんた達は先に帰って頂戴って。だからアンタを誘ったってわけ」
「なるほどねぇ」
全くなるほどじゃない程どうでも良かったが、今は桜天井の下、言いようの無い多幸感に包まれているのを感じていたので、一々軽口を言う気にもなれなかった。
「…そうだ!」
裕美は急に立ち上がると、私を見下ろしながら言った。
「せっかく私達二人しか居ないんだし、写真撮ろうよ写真!」
「えぇ、良いわね」
私もゆっくりと立ち上がった。各々カバンからスマホを取り出し、今座っていたベンチの背もたれにあった深めの傷に、二人のスマホを差し込んだ。恐らく私達よりも先に方法を思いついて、公共物だというのに傷を作った人がいたのだろう。ピッタリだった。
向かいにも立派な桜があったので、ロケーションとしてはバッチリだった。自分達のスマホのピントなどを合わせてから、タイマーをセットし、慌てて二人で決めた所定位置に立った。私は手をおへその前辺りで軽く組み、足は軽く交差させた。裕美は私の腕を組んできた。まるで付き合い始めの彼女みたいに。この場合は私が彼氏になるのだろう。…まぁ気にしてない。
ぴ、ぴ、ぴ、電子音が三度鳴るとカシャっと音がした。急いでベンチに駆け寄り、お互いのスマホの写真を見てみると、どちらも綺麗にボヤける事なく写っていた。私は静かな笑みを浮かべていた。裕美は底抜けに明るい満面の笑みをこちらに向けていた。後ろで桜が咲き誇る姿も、全体とまでは当然いかないが、味良く写っていた。良い写真だった。
私達はお互いにスマホを見せ合い、満足げにまたベンチに座った。
暦上では春でも、まだまだ冬の気配が残っているせいなのか、徐々に日も暮れて来ると、やはり肌寒さは残っていた。でもまだ桜の元から離れる気にならなかった。何でも率先して思い切りよく、やろうと決めた事はすぐに実行する、そんなタイプの裕美が私に行こうと言い出さないところを見ると、気持ちは同じの様だった。
コツン。すぐ隣に座っていた裕美が、私の肩に頭を預けてきた。私は一瞬ビクッとしたが、何も言わずそのままにした。それからしばらくまた沈黙が流れた後、裕美はそのまま私に話しかけた。
「…新しい学校で上手くやれるかなぁ」
「…ふふ」
私はふと花天井を見上げながら返した。
「あなたなら大丈夫よ。誰とでも隔たり無く付き合う事が出来るんだもの…私ですらね?」
最後に私は自嘲気味に笑いながら言うと、裕美は離れて私の顔を見た。最初の一瞬、寂しそうな表情に見えたが、すぐに意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「本人にそう言って貰えると、自信が万倍だわぁ。ありがとう」
裕美は大袈裟に上体だけ倒して見せた。
「…お礼言われるより、否定して欲しかったんだけど?」
私がいじけた風に返すと、裕美はゆっくり上体を起こした。そして顔を見合わせるとクスクス笑いあったのだった。
「そう言えば」
私はふと、前々から気になっていた疑問点を思い出した。和やかな雰囲気に任せて聞いてみることにした。
「裕美、あなた初めて私に話しかけてきた時、前から私と喋りたいみたいな事を言ってたけど、それはどういう理由なの?」
裕美は文字通り目を見開きキョトンとしていた。私が何の意図を持って聞いているのか理解出来ない様子だった。暫くそのままだったが、途端に顔全体に苦笑いを浮かべて、口調も苦笑交じりに言った。
「いきなり何言い出すかと思えば…脈絡が無いにも程があるでしょ?一瞬何言われてるのかわからなかったもん」
「ご、ごめん…つい癖で」
私は衒いもなく素直に謝った。裕美は私の様子を見て、短く鼻から息を吐くと
「やれやれ…私よりもアンタの方が、新しい環境で上手くやれるのか、心配になってきたわよ」
首を横に振りながら言ったが、顔は笑顔だった。
「その時はフォローよろしくね?」
私も笑顔で返した。裕美は如何にも嫌そうな表情を見せながらも、笑顔は絶やさずに応えた。
「しょうがないわねぇ…姫様は一人じゃ危なっかしくて、見てらんないから、私が見守るしか無いかぁ」
「期待してるわ」
「何で他人事なのよぉ」
「…ふふ」
「あははは」

「で何だっけ?…あぁ、確かにそんな事を言ったかもなぁ」
裕美はまた上を見上げると、思い出したのか懐かしげに応えた。そして隣の私に向き直り言った。
「よくそんな事覚えていたねぇ…うーん」
裕美は腕を組み考え始めた。言うか言うまいか、悩んでいる様だった。
「んーー…あのね、実は…あっ!」
「え?何?」
裕美は何か言いかけたが、急に打ち切ったので、咄嗟に私は声を上げた。
「何よぉ?」
「え?あぁ…いやぁ」
裕美は照れる時の癖をしながら言い澱み
「この話は…もっとちゃんと落ち着いて話したいなぁ…だめ?」
と私に上目遣いを向けながら聞いてきた。
「いや、その、別に…うーん」
もっと軽く話してくれるものとばかり思っていたので、裕美の反応に正直困惑していた。私に初めて話しかけるのに、そんな照れる様な理由が存在するとは思っても見なかった。
「今無理なら、いつかで勿論構わないよ」
私は為す術もなく妥協案を出した。それを聞くと裕美は心底ホッとした表情を浮かべて言った。
「ごめんね?そんなに気になるなら、いつか必ず…そうね、私達がもう少し大人になってから話すわ。…それでもいい?」
「さっきも言ったでしょ?それで構わないって。…こちらこそゴメン。そんなに裕美を困らせたくて聞いたんじゃなかったのに…」
私が俯き加減にそう言うと、裕美は慌てて返してきた。
「いやいや、私が変なリアクション取っちゃっただけだから気にしないで?」
「えぇ。…じゃあもうこの話は終わりっ!」
「うん、終わりっ!」
無理やり話を切り上げた後、場に流れてしまった微妙な空気を払拭する様に笑い合い、そして公園を出てから別れたが、私の中で疑問が益々膨らむのを感じていた。しかし今は裕美が話す気がないのでは、如何ともし難かった。自分の気持ちは、取り敢えず何処かへ置いとく他無かった。裕美の方でも何か思う事があっただろうけど、現時点で私に心中察する術は無かった。
こんなやり取りをしたのを忘れたかの様に、春休みはヒロもたまに入れて、三人で一緒に遊んだ。学校の指定の制服を買ったり、何なり準備をしているうちに入学式を迎えた。

ここで予め、毎度の事ながら割愛する事をおわびしたい。何故なら正直、取り立てて話すような事が無かったからだ。人によっては異論があるだろうが、制服を着ていること以外は流れとして、小学校の卒業式と違いがあまり無いからだ。なのでスラスラと流していくので、ご容赦願いたい。
入学式当日。私と裕美は新な制服を着て、お互いの母親達と一緒に電車に乗り学校へ向かった。裕美のお母さんは卒業式の時と変らない、薄いピンクで統一された体のラインに沿ったワンピースとジャケットを羽織っていた。白薔薇のコサージュを付けていた。私のお母さんは今日は着物では無かった。白で統一されたワンピーススーツだった。黒のリボンテープで縁取られた、首元をホックで留める仕様のノーカラージャケットだった。これはこれで身長の高いお母さんに似合っていた。でも私は正直着物姿のお母さんが大好きだったから、また着て欲しかった。
学校に着くと受付が設けられていて、おそらく在学生なのだろう、同じ制服着た女生徒が率先して受付業務をこなしていた。そこでプリントを一枚配られた。クラス表だ。私の名前を探すとC組の枠内に書かれていた。裕美の方を見ると、どうやら同じらしかった。その時は二人して手を取り合って喜んだが、後になって、どうやら同じ出身地区か、同じ塾かでクラスが分けられている事がわかった。まぁ理由はどうあれ、裕美と一緒のクラスになれたことは、小学校では叶わなかったので、素直に喜ばしいことだった。
その受付前でお母さん達とは別れて、私と裕美は揃って講堂へと向かった。
入学式が始まった。クラスに別れて座らされていたが、私達の正面に、舞台を背にこちらを向いて女教諭が立っていた。この人が私達のクラスの担任だった。どこかで見た事があるとこのとき思ったが、後になって知った。この人が入試時、私を面接会場まで案内したその人だった。その担任はおもむろに、一人一人出席番号順に出席を取り始めた。みんな元気に返事をしていたので、私も倣って返事をした。次に新入生代表挨拶があった。どういう基準か、おそらく入試試験で良い成績を納めたとかとかだろうが、舞台下中央に置かれたマイクスタンドの前に立ち、何やらそれらしい言葉を話していた。それから在校生の言葉も終わり、式が滞りなく執り行なわれた。その後ゾロゾロ一斉にそれぞれの教室へと向かった。これまた出席番号順に席に座った。私は窓際の真ん中辺りだった。裕美は真ん中の列の真ん中、ど真ん中だった。
後から式で出席をとっていた担任が教室に入って来た。そして黒板に名前を書いてから自己紹介をした。『有村志保』と書かれていた。年恰好は三十代後半といった所か。背丈は大体裕美と同じ、160ちょっとだろう、私よりも気持ち低いくらいだった。白のブラウスに薄オレンジのコサージュを付けていた。ハキハキとした口調でこれから先の連絡事項と、これからの学園生活の心得的な事を話していた。窓際にいたせいか、暖かな春の陽気に軽い眠気を覚えながら話を聞いていた。これから中学生としての生活が始まる。

第15話 新友

入学式後はバタバタと、忙しくしていた。その次の日にまた一年生は講堂に集められて、クラブのオリエンテーションが行われた。絵里が話していたヤツだった。約四十の団体が趣向を凝らした紹介をしていた。その中には絵里の所属していた、演劇部もあった。話を聞いていた通り、短い時間しか与えられなかった都合上、パントマイムを交えた喜劇を上演していた。絵里の時のクオリティーがどの程度だったか、口ぶりでは中々のものだったらしいが、今目の前で繰り広げられている劇も、生意気な言い方だが、普通に面白かった。時折講堂のあちこちで笑いが起きていた。
その後また教室に戻ると、担任から改めて説明を受けた。学園の中での一日の過ごし方や勉強のやり方などだ。説明された中で変わっていたのは、清掃の手順というものだった。全員お揃いの白いエプロンが配られた。そして早速机と椅子を教室の端に寄せて、早速皆んなでお掃除をした。それでこの日は終わった。
それから三日後、多目的教室に集まり、次の週に行われる新一年生の宿泊研修会に向けてのオリエンテーションをした。大まかな説明を聞いた後、教室に戻り五人の班決めをした。私と裕美はすぐに決まったが、他の人とは当然初対面なので、うまく班を作れるか少し心配だったが、そこはある意味裕美に助けられた。裕美の中では大体決めていたらしく、気づけばクラスの中で一番先に班が決まった。
それから私達は机を動かし、お互いの顔が見えるように寄せ合って、研修会の打ち合わせを行なった。各々先ほどの説明会で貰ったしおりを、机の上に広げたがその前に、軽くそれぞれが自己紹介をすることにした。
率先して手を挙げた一人目。小柄な…と言っても、私と比べてという意味だが、中々可愛らしい子だった。少し丸顔で、笑うとえくぼが出来る所など愛嬌があり、人好きのする雰囲気だった。お目目がクリクリなところとかは、小動物を思わせた。前髪は若干短めのパッツンだったが、後ろ髪は肩のラインより長く、胸よりは上程で、私と同じくらいの長さだった。私はそのままにしていたが、彼女は襟足あたりで一つに結んでいた。手を下げると話し始めた。幼さが残る、高めの可愛い声だった。
「はーい!私の名前は並木藤花って言います!藤花って呼んでね。この子と小学校から友達で、いわゆる”エスカレーター組”です!よろしくね」
藤花は向かいに座る女の子を見ながら、そう言い切った。そう、この学園は幼稚園から高校までの一貫校なのだった。
何となく私含めて、藤花が軽く触れたその子に視線が集まった。彼女は藤花と真逆のタイプだった。まず大柄だった。後で聞いた話では、身長が168㎝もあるらしい。同年代の女子で、私よりも大きい人を見たのは久しぶりだった。しかし全体的に細いというか、第一印象を言えば”薄い”体格をしていたので、いうほど威圧感は受けなかった。マッシュウルフというらしいが、これは裕美に負けず劣らずのショートヘアーだった。所々跳ねてる点も似ている。表情は暗めで、小さなお鼻と薄めの唇、一重の切れ長で薄目がちな目つき、全体的にアンニュイな雰囲気を醸し出していた。裕美の一つ後ろの席だった。裕美は入学早々彼女に話し掛けたらしい。何でも私に、雰囲気がそっくりだからという理由らしかった。彼女は一斉に視線が注がれているのを、気にしない様子で、淡々と話し始めた。
「…次は私?…うん、わかった。私は富田律って言います。…藤花があぁ言ったから、私も言うか…私のことは普通に律と呼んで欲しい。…富田って名字で呼ばれ慣れてないから。…まぁ、よろしく」
律は時々独り言なのか判断しずらい話し方をしながらも、ゆっくりと静かに言い切った。声は低めだったが、品があるように感じた。最後に私達をぐるっと見渡すと、手元の資料に目を落とした。どうやら裕美には、私がこう映っているらしい。皆さん、どう思います?
次は裕美が自己紹介し、その時に藤花と似たような話の流れで私を出したので、次に率先して私も軽く自己紹介をした。後に残るは一人だ。彼女は私が誘った…というか、向こうからも誘って来た。彼女はメガネをかけていた。奥二重の端は軽く釣り上がり、第一印象は性格キツ目と取られかねない感じだった。でもそんな見た目と裏腹に、率先して周りの初対面の子達に話しかけていた。私も話しかけられた一人だ。彼女の席は私の一つ前だった。で何故か彼女は特に私に入学式以来、何かと後ろをわざわざ振り向き、話しかけてくるのだった。このグイグイくる感じ、もし私と律が似ていると言うのなら、裕美と彼女もそっくりだった。顔立ちはそれ以外はどこにでもいる女子学生といった感じだ。中肉中背で、身長も藤花よりは高かったが、私や律よりはもちろん、裕美よりも気持ち低かった。
髪型は前髪作らない、天然パーマのカールボブで、毛先がピョンピョン外に跳ねていた。彼女は一度咳払いをすると、何やらしおりの余白に何かを書いて、それを私達に見せながら、ハキハキとした口調で話し始めた。
「私の名前は宮脇紫って言います。”むらさき”じゃなくて”ゆかり”です。えぇっと…」
彼女は私を含めて皆の顔を眺めてから続けた。
「どうやら皆んな呼び方まで話したみたいだから、私からも言えば、小学校では”ゆかり”と呼ばれたり、漢字をそのまま素直に読んで”むらさき”と呼ばれたりしました。どちらでも構わないので、好きに呼んで下さい。…以上!」
最後に紫はそう言い切ると、キツ目の目元を若干緩めるように笑った。途端に藤花が身を乗り出し、紫が書いたしおりの余白を覗き込みながら、感心した風で言った。
「ふーん、これで”ゆかり”って読むんだぁー。不思議ー」
「ふふ、変わってるでしょ?」
しばらくはみんなで紫の名前で盛り上がった。でも担任の有村先生が、こちらに近づいて来たので、私達は慌ててしおりに目を落とし、話し込んでるフリをした。近くを通り過ぎると、私達五人は顔を近付けあって、クスクス笑いあったのだった。

「じゃあ私達はこっちだから…」
「じゃあまったねぇー!」
律は控えめに無表情で、胸の前で小さく手を振り、藤花は大きく手を左右に振っていた。私達は放課後五人一緒に正門から出た。二人は私達と違って、地下鉄組だったので、学校から少し近い地下連絡口の前で別れた。残ったのは私と裕美と、紫の三人だった。
「じゃあ行こうか」
私達は駅構内に入り、ホームへと降りて、千葉に向かう黄色ラインの入った電車に乗った。
「紫は何処に住んでるの?」
「ん?私はね…」
今は夕方の四時。チラホラ学生服姿の男女が目立つ車両に私達はいた。中々混み合っていて、ドア付近に固まって立っている他なかった。紫はドアの上の路線図に腕を伸ばし、そこに記載されている中の、一つの駅名の所を直接触りながら答えた。
「ここよ」
そこは秋葉原よりも三つ先にいった所だった。
「へぇー。でも乗り換えなくていいね」
私は紫の指差した先を見上げながら言った。裕美も私の後に続く。
「ほんとほんと!私達は秋葉原で一度乗り換えなきゃだし、めっちゃ混むのよぉ」
ため息交じりにウンザリだと顔中に浮かべながら言った。
紫はニヤニヤしながら見ていたが、裕美と同じようにため息交じりに返した。
「でもこの電車も大変だよ?五時とか過ぎたら、あとはずーーっと混みっぱなしなんだから!」
紫は強調するように伸ばしながら言った。そして私達二人を、まとめて見ながら続けた。
「それにさぁ…そっち二人は仲良く一緒に地元まで帰るんだろうけど、私はあなた達と別れたら一人よ?その時間は十分くらいだけど、寂しいは寂しいもんよ」
不満げだが、口元はニヤケていた。
「いくらそっちが、この先家に帰るまで掛かってもね?」
「そういうもんかねぇ」
裕美はまた路線図を見上げながら答えた。
それからは軽く今日話し合った研修会のことを話すと秋葉原に着いたので、大量に降りる他の乗客と共に降りた。人の流れに抗い何とか振り返ると、紫もこちらに気付き手を振ってきたので、邪魔になるとは思ったが、私と裕美は手を振り返した。そして地元の最寄りまで直通している列車の来る、地下鉄ホームへと下りて行った。

「何かあっという間だったね?」
裕美は真っ暗な窓の外を見ながら呟いた。
「何が?」
私は裕美が何を言いたいか当然わかっていたが、敢えてワザと惚けて見せて返した。
私達は通路の奥ほどに立ち、吊革に掴まって二人して真っ暗闇の窓に映る自分たちの姿を、漠然と見つめながら会話をしていた。ロングシートは埋まっていて、座れなかった。まぁ座れないのには、塾に行ってた関係で慣れてはいた。というか、早い段階で諦めをつけることが出来ていた。嫌な慣れだ。
裕美は窓の外、地下鉄のトンネルの壁を見つめながら言った。一々横を見なくても、窓に映る裕美の表情を見ればすぐに分かる。毎度の苦笑いだ。
「そりゃ当然入学式からよ」
「…そうねぇ」
私はしみじみ答えた。まだ授業らしい授業をしていないのに、慣れるのが大変なのと、決まり切った型通りの、一連のオリエンテーションをこなすような苦行を耐えるのに、普段使わない神経を使っているせいか、肉体的にというより精神的に疲れていた。これからは満員電車のように、学園生活にも諦めながら慣れるしかない。子供の頃からある種、諦めるのは得意だ。
「今日一緒の班になった子達…中々みんなキャラが立ってて面白かったね?」
「そうねぇ。退屈することはなさそう」
私が淡々と返すと、裕美も正面向きながら、窓に映る私を見て笑顔で答えた。
「えぇ、これからあの子達ともっと仲良くなったら、楽しい学園生活を送れそう」
裕美が満足そうに最後頷いたので、私は何も言わず、ただ笑顔でうんうん頷き返しただけだった。
それから一週間はやっと授業らしいものが始まった。とは言っても、まだ本格的ではなく、これから先どういうペースで授業が進むのか、そんな類の話で終始した。その合間合間で研修会の打ち合わせは何度も重ねられ、正直学校にこのために来てるんじゃないかと錯覚しそうになる程だった。でもまぁまだ新一年生だし、初めは大体こんなものなのだろう。そんな焦って色々詰め込まなくても良いという、世間からは校則厳しいお嬢様校で、進学校だという噂とは裏腹に、結構ゆとりのある校風のようだった。多分。そして午前中を使った最後のミーティングを済ませて、いよいよ明日から一年生全員と、二泊三日のお泊まり研修会だ。

「見て琴音!海よ、海!」
「…ふふ、見れば分かるわよ」
裕美は大きな窓におでこを押し付けるようにして、外を見ていた。今私達は大型観光バスの車中の人となっていた。
朝早く学校の正門前に集められ、一クラス一台、既にスタンバイしていた四台の観光バスに乗り込んだ。バスは二列二列の座席配置だったので、どうしても一人が別れる事になってしまうのだが、そこは率先して紫が私と裕美の一つ前の席に、別の余った子と座ってくれた。しつこいようだが、見た目はキツ目なのに、気遣いの出来る心の広い子だった。少し軽く言ってしまったが、進行方向左から藤花と律、通路を挟んで私と裕美という風に座った。トランプで遊んだりしてたが、春の陽気に車内も程よくポカポカ暖まっていた事もあって、一人スヤスヤしだすと、連鎖的に次々と寝落ちしていった。班の中では何故か私だけ眠くならなかったので、持って来ていた本を読んでいた。三半規管が強いのか、ただの慣れなのか、走る車内で読書をしても酔うことは無かった。バスは首都高湾岸線を通り、羽田空港の脇を抜け、川崎辺りから長い長い海底トンネルに入った。車内が暗くなったので読書を諦め、カバンにしまうと裕美越しに窓の外を見ていた。等間隔に設置されたオレンジの灯りが、後ろに流れていくのを何も考えずに見つめながら、ゴーッというような、壁に跳ね返り倍増された車の走る騒音を聞き流していた。
十五分くらいずっと同じ景色が続いたが、ふと急に外が明るくなったので、目の前がホワイトアウトした。裕美含む他の班員も、突如の明るさに目を覚ました。ここで冒頭へと戻る。
目が慣れるか慣れないかというところで、バスはサービスエリアに止まった。先生がここで三十分くらい止まる旨を伝えると、皆ゾロゾロと軽い手荷物と貴重品だけ持って、バスの外に出た。ここは洋上に建設された浮島で、東京と千葉のほぼ真ん中あたりに位置していた。遠くに川崎と木更津が見えていた。
「琴音ー!みんなー!早く早く!」
裕美は我慢出来ないといった調子で、海の見渡せる展望台へと駆け出して行った。
「もーう、しょうがないわねぇ」
私は苦笑交じりに独り言を言った。
「ずいぶん元気一杯ね?」
右隣を見ると紫が裕美の後ろ姿を見つめながら言った。顔は笑顔だ。
「えぇ、あの子海が好きなのよ。まぁ海に限らず、川とか水系が好きなんだけどね」
「へぇー。理由とかあるの?」
私と紫は並んでゆっくりと、裕美の後を追った。勿論歩きだ。
「あの子ね、実は…」
私は裕美が都大会を二連続で優勝する程の水泳選手で、本人曰くだから好きだと言ってる旨を言った。勿論、全ての水泳競技者がそうかは知らないと注釈を入れて。
紫が私の話を聞くと、驚きの表情を浮かべて何か話しかけたが、突然左隣にヌっと並んで、話しかけて来た者がいた。律だ。
「…ねぇ、裕美ってスポーツ好きなの?」
顔を見ると表情は変わらなかったが、目の奥にはいつにも増して強い光が宿っているように見えた。
「え、えぇ、まぁ」
「そう…」
私が戸惑いつつ答えると、律は急に裕美に向かって駆け出して行った。私と紫がポカーンとしていると、いつの間にいたのか、藤花が左隣に来ていた。そして悪戯っぽく笑いながら言った。
「ごめんねー、驚いたでしょ?急にテンションを上げてきたから」
「え、えぇ…まぁ」
私と紫があやふやに答えづらそうに返した。そんな様子を気にする事もなく、藤花はそのまま顔を変えずに続けた。
「律はねぇ、普段は無表情の石仮面なんだけど、スポーツの事となると目の色が変わるというか、人が変わってしまうの。律は実は地元でバレーボールをしていてね、あの身長を活かしているのよ。それが影響しているのかなんなのか分からないけど、だから今裕美ちゃんの話を聞いた律は、もっと話を聞こうとあの通りになっているのよ」
「へぇ…バレーボールねぇ。体育会系なんだ」
律は裕美に追いつき、何やら色々と捲し立てるように話しかけていた。裕美は私のところからでも分かるほど、戸惑っているように見えたが、すぐに律のテンションに合わせて会話をして、意気投合しているように見えた。 同じ体育会系同士、通づるものがあるのだろう。
私は微笑ましい気持ちでその様子を見ていると、急に背中をグイグイ押された。振り向くと藤花が、力任せに私と紫の背中を押していた。私と視線が合うと、藤花はニヤァっと笑うと、そのままに押しながら言った。
「ほらほら、二人共!いつまでもボーッとしてないで、あの二人に追いつくよ!」
「えぇー…ちょっと」
「じゃあ二人共お先にー」
私が躊躇していると、今まで隣でおとなしくしていた紫が、急に私達に視線を流しながら駆け出して行った。私が呆然としていると、藤花もパンッと私の背中を叩くと笑顔で紫の後を追った。それでもなお一瞬逡巡していたが、一度フッと笑うと、二人の後を駆け足で追いかけるのだった。
私達三人は裕美と律に合流すると、そのまま展望台に向かい、そこで海と遠くに見える千葉県をバッグに五人揃って写真を撮った。たまたま側にいた有村先生に、頼んで撮ってもらったのだ。五人それぞれのスマホで撮ってもらったので、時間は少し掛かったが、それも含めていい思い出が出来た。
集合の号令が掛かり、バスに戻った。それからはノンストップで、研修会先の宿泊施設へと向かった。車内ではもう誰も眠る事なく、喋りっ通しだった。同じくらいの時間だったはずなのに、学校からあのサービスエリアまでと比べて、あっという間に過ぎ去った感覚があった。それでも宿泊施設までの道はずっと海沿い、春の陽光をキラキラ反射している浦賀水道を臨める道を走っていたので、その間は皆してワイワイ言いながら眺めていた。
施設に着いたその日は、そのまますぐ夕食を摂り、後はみんな疲れていたのか、布団を敷いて横になるなりそのまま眠った。
ここからは、軽く何したかだけ触れようと思う。翌朝起きると、部屋着のまま一階にある食堂に行き、バイキング形式の朝食を摂った。それからは学校指定のジャージに着替えてから、この近辺の観光名所を訪れた。鋸山に登って、切り立った崖に突き出した展望台から、暗く深い青色をした東京湾を見下ろした。
それから次に向かったのは富津公園だった。ここでは潮干狩りをした。ジャージの裾を膝上まで捲り、配給された長靴を履いて、ずっと先まで干上がった泥の中をみんな散りじりに広がりながら、アサリを掘り出した。考えてみれば、これが初の潮干狩りだった。映像では見たことがあったが、何が面白いのか、正直理解が出来なかったけど、いざやってみると、中々に面白いものだった。まぁ尤も、こうしてみんなとワイワイやるからっていうのもあるだろうけど。その後一時間ばかり自由時間があったので、私達五人は同じ公園内の海水浴場に向かった。一応みんなタオルを持参していたので、靴と靴下を脱ぎ、足だけ入ってみることにした。言うまでもないようだが、裕美は先程から私達五人の中で圧倒的にテンションが上がっていた。
小学六年生の時、私と裕美、お母さん達と一泊の旅行をしたと言ったが、その時も行った温泉地が海沿いだったので、今の裕美と変わらないくらいテンションが高かった。正直あの時に初めて裕美の豹変した姿を見たので、私は唖然とする他なかったが、改めて私は、自分が好きな物について、周りに引かれる事も厭わず、素直に好きだという気持ちを表現している様を見るのが、好きだというのに気付かされた。それは今も変わらない。
後は王道のマザー牧場に行った。乳牛の乳搾り、新鮮な牛乳で作られたアイスクリームを食べたりして過ごした。…もう分かるだろうが、研修会とは名ばかりで、要はただクラスメイトとひたすら遊んでいるだけだった。まぁ修学旅行だって、修学しようと行く人など、いたとしたらかなり奇特な人で、ワイワイ仲のいい友達と過ごすのが本分なのだから、楽しんだもん勝ちだ。
三時のおやつなのか、鋸山近辺の農園に行き、ビニールハウス内でイチゴ狩りをした。皆して一心不乱に、ちぎって食べ、ちぎって食べをしてるのを冷静に見ると、中々シュールな絵面だったが、同じことをしている、そう思う私も側から見ればそう映っていただろう。後は宿泊施設に戻り、夕食を摂って、お風呂に入り、部屋着に着替えて、それぞれ班の部屋へと戻って行った。
自分達で布団を敷いた。三対二という感じに並べて、枕の位置は顔が向かい合うように設置した。片方は藤花と律、もう片方は紫、私、裕美の順で並べた。昨日は疲れてそのまま寝てしまったが、この日は少しお喋りをしていた。
まず藤花が口火を切った。
「そういえば私と律以外は外部生だよね?何か色々と違うでしょ?どんな事があった?そのー…男の子とか」
前にも触れたが、藤花と律は学園付属小学校から上がってきた組で、しかもその小学校も女子しかいなかった。男子との接点が全くないに等しかったから、余計に色々と気になるらしかった。紫がまず答えた。
「うーん…別に男子がいるからって何もないけどなぁ。むしろ私のとこでは、男子と女子とで抗争していたよ。やっぱり何かと合わないところはあるからねぇ」
「ふーん、そんなもんかぁ」
藤花は若干期待ハズレといった調子で返した。その隣で相変わらず律は、無表情で聞いていたが、興味があるのを示すかのように、気持ち枕よりも前に乗り出していた。と、次に藤花は私と裕美を見ながら聞いてきた。
「琴音ちゃんと裕美ちゃんは同じ学校なんだよね?二人のところはどうだった?」
「うーん…そうねぇ…」
漠然とした質問にどう答えようか迷った。正直紫のところ程では無いと思うけど、私達の学校でもそこまで仲良く男女が、遊んだり連んだりしていた記憶は無かった。
私がなんて答えようかと考えていると、裕美がチラッと私を見てから、ニヤケ気味に答えた。
「まぁ私達のところも、紫のところと変わりなかったけど、けど唯一違うとしたら…」
裕美は不意に私の肩に手を置くと、そのまま続けた。
「この子!琴音の周りにはよく男女問わず人が集まっていたんだけど、この子の周りではみんな仲良くしていたのよ。この姫を中心に回っていた感じだったなぁ」
「ひ、姫!?」
「ちょ、ちょっとぉ」
何を急に言い出すのかと、私が慌てて訂正しようとしたが、遅かった。
「へ、へぇー…姫ねぇ。なんか分かるかも」
「うんうん、簡単に想像できるわ」
「…うん、納得」
藤花、紫、律の順に、裕美に対して共感を示していた。私一人で頑張って抵抗するしかなかった。
「…もーう、みんなして私をからかってぇ」
私は膨れながら抗議したが、他の四人はニヤニヤするだけだった。律まで表情を和らげていた。
藤花は私に手を振りながら明るく話しかけてきた。
「あははは!ごめんごめん!半分はからかっちゃった。でも私達のいるこの学園、世間からはお嬢様校だなんて言われてるみたいだけど、そんなことは無いって内部の人間の素直な感想として思っていたのに、まさか”姫”が入学されるなんて、やっぱりこの学園って、お嬢様校かどうかはともかく、格式高いのは間違いないみたいねぇ」
律は口元を気持ちニヤケながら頷いている。
「もう勘弁してよぉ」
「あははは!」
私の抗議も虚しく、私以外の四人は明るい声を上げて笑いあっていた。
「はぁー…さて、じゃあここから本題だけど…」
一頻り笑った後で、藤花は枕に顎を乗せると、声を潜めて低い声を出し聞いてきた。
「…三人は誰か好きな男子いた?」
「…うーん」
私が唸りながら藤花の隣をチラッと見ると、律も同じような体勢を取り、無言で向かいの私達をチラチラ見ていた。
さっきから思っていたが、パッと見堅物な、いわゆる恋バナには興味なさそうなのに、こうして気持ち興味を示しているのを見ると、そのギャップがなんだか可愛く見えてきた。
まず紫が答えた。いかにも苦々しげだ。
「私はダメ。小学校の時の私の男子からのあだ名は”むらさき”か”オトコ女”だったから。正直私は女の子と遊ぶよりも、男の子達と走り回って遊ぶのが好きだったんだけど、ある年代ぐらいになると、急にみんなヨソヨソしくなって遊んでくれなくなっちゃったの。でね、一緒に遊んでいた時には言わなかったのに、遊ばなくなると私の事をオトコ女って言うようになったのよねぇー…。そんな意地悪なことを言われ出してからは、女の子達とよく遊ぶようになったの。いざ遊んで見ると、それはそれで面白かったしね。…以上です」
紫は最後に笑顔を見せると、そのままの姿勢のまま頭を深く下げた。みんな黙って興味津々に聞いていたが、話が終わると私はボソッと言った。
「…なるほど。そこに紫の仁義なき男との抗争が始まるわけね」
「え?」
紫はキョトンとした表情で私の方を見てきた。周りを見ると藤花と律も同じだった。裕美だけ肩を震わせながら、笑いを堪えていた。私もどうしようかと戸惑っていたが、フイに同時に三人がクスクス笑い出した。紫が初めに私に話しかけてきた。
「いやぁ、面白いね琴音!その言葉づかいと言葉選び、女子中学生にあるまじきセンスだよ!」
「うーん…変かなぁ?」
「いやいや、センスが良いってこと!」
紫は隣にいた私の肩に手を置いて、満面の笑顔で言った。向かいを見ると、藤花も律までもが、こちらに頷きながら微笑んでいた。
「まぁそうかも知れないねぇー。…で?」
一頻り笑った後、私と裕美を見ながら紫が聞いてきた。
「琴音と裕美はどうなの?」
藤花と律も、目を輝かせながらこちらを見ている。
「うーん…何かあったかなぁ?」
「何かあったでしょ?」
「…うん」
「お教え下さい、お姫様」
藤花と律が言った後、紫が余計な事を言ったので、私は無言で肩を小突いた。紫はヘラヘラと笑っている。紫も律とは別の意味で、見た目と違って中々ひょうきんな性格だった。今は寝る前だというんでメガネを外していたが、そのメガネのフレームが、教育ママがしてそうな所謂”ザマス眼鏡”だったのも、性格キツそうに見える遠因に違いなかった。
私はこれ以上相手してもしょうがないと、質問についてあれこれ考えたが、いくら考えても、そもそも初恋すらまだ無い私に、何か思いつける筈がなかった。
「…うん、無いなぁ」
「えぇー、つまんなーい」
藤花は口を前に突き出しながら言った。そう言われても、無いもんはしょうがない。
「ねぇ裕美、お姫様は実際学校でどうだったの?」
紫は裕美に話を振った。裕美は顎に人差し指を当てて、如何にも何かを思い出そうとしながら答えた。
「うーん…私が聞いた話では、男子みんなで噂をしていたんだけど、何か遠い存在って感じで、気持ちを殺して遠くから眺めていようって人が多かったなぁ」
「へぇー」
「なるほどねぇー。そんな事実際あるんだ」
「ふーん」
紫、藤花、律の順に、裕美の話を疑いもなく真に受けていた。何故皆んなが、まだ付き合いの浅い裕美の話を信じるのか理解が出来なかったが、無駄だと知りつつ反論しない訳にはいかなかった。
「いやいや、何でみんなそんな簡単に信じちゃうのよ?」
「だってぇ…」
藤花はその先を言わずに、後はニヤニヤ笑うだけだった。紫も律も同じ様な表情だった。私は仕方なく、裕美をチラッと見ながら抗議の続きをした。
「そもそも裕美、あなたとは一度も同じクラスになった事無いじゃない」
「へ?そうなの?」
紫が声を上げると、三人が今度は一斉に裕美の方を見た。私も少しは狼狽えてるかと裕美を見たが、本人はいたって整然としていた。裕美は動揺もせず淡々と答えた。
「うん、琴音と一緒のクラスにはなった事がないよ。なのに別のクラスの男子がこの子の噂を頻りにしていたの!それだけ言えば分かるでしょ?」
何が『分かるでしょ?』よ。何を察して欲しいのやら…
私は裕美を呆れた顔で見ていたが、私以外の反応は違っていた。
「うんうん、琴音ちゃんってモテモテだったんだね」
藤花が私からすれば見当違いの反応を示していた。私はコントの様にずっこけるところだった。そんな私の様子を他所に話が勝手に盛り上がっていく。
「そうなのよぉー。本人は最後まで自覚が無かったけどね」
「えぇー、何でそんな勿体なーい。女子なら一度は憧れるじゃない」
紫も乗っかってきた。先程まで”男女抗争”の話をしていたのを忘れているみたいだ。
「…共学かぁ」
律がボソッと独り言ちた。私以外は気付いてなかったみたいだが、その台詞の中にどんな意味が込められていたか図りかねたので、触れないことにした。
これ以上話が広がるのを恐れた私は、裕美に無理やり軌道修正する事にした。
「私の事はもういいじゃない!ほ、ほら、次は裕美の番よ」
「仕方ないなぁ…今日はこんなところで勘弁してあげよう!」
藤花がそう言うと、紫と律も笑顔で頷き同意していた。そして漸く私から視線が外れて、今度は裕美に注目が集まった。先に私が話す事にした。先手必勝だ。
「私のことを色々言ってたけど、裕美あなただってそうだったじゃない?寧ろ私よりもいつも周りに人がいたわよ」
「ふーん、そうなんだ」
「…水泳の大会で優勝したりしたんでしょ?それで?」
律が珍しく自ら声を上げて、裕美に話を振った。裕美は私に少し視線を流してから
「うーん、どうだろう?まぁ優勝させて貰ったことには貰ったけど」
と、律に向かっていつもの照れる時の癖をしながら答えた。私含めて四人共、何も声を出さず、ただ興味を顔面に示して、話の続きを促していた。無言の圧力を感じながら、裕美はたどたどしく言った。
「…うーん、面白くない答えで悪いけど、好きな人はいなかったわ」
「え、えぇー」
「そんなのつまんなーい!最後の希望だったのにぃ」
紫と藤花は二人揃ってジト目になりながら返していた。律は無言で頷いている。裕美は苦笑いを浮かべながら平謝りをしていた。
私は当然『ん?』っと思った。初めて二人で絵里の家に遊びに行った時に、好きな人がいる事を聞いていたからだ。
現に今三人に対応している裕美自身、たまにチラチラ私のことを見てきていた。でも私は同時に卒業式の日、桜の咲いていた公園でのことを思い出していた。二人で交わしたある種の約束、私達二人がもう少し大人になってから、話すと裕美が約束してくれた。話し振りからしてこの話は、裕美にとってかなりナイーブな問題である事は、私にも察する事ができていた。だからこの時私は何も言わなかった。他の三人に合わせる事にした。
「まぁ所詮、小学校の時の共学なんてそんなものよ。向こうからしたら女子なんて何考えてるのか分からん生き物だろうし、私達から見れば男子なんて、お猿さんと何ら変わりが無いんだから」
私は話を打ち切るように、少し論点をまとめるように言った。それが伝わったのか、藤花も律も、それ以上には詮索してこなかった。後同時にこの時、担任の有村先生が部屋に入ってきた。私達が昼間に着ていた、学校指定のジャージを着ていた。部屋着代わりらしい。
「ほらあなた達!今何時だと思ってるの?もう消灯時間を過ぎていますよ?」
先生は大股で立ち、腰に手を当てながら、大きな声で言った。スマホの時計を見ると、十時を十分過ぎるところだった。今更だが実は班長だった紫が、私達を代表して謝った。
「すみませーん。もう寝まーす」
でも間延び気味だ。先生はやれやれと首を左右に振ると、苦笑交じりに早く寝るよう念を押すと、部屋を出て行った。
それから私達は大人しく部屋の電気を消し、寝る事にした。ウトウトしてきて、そろそろ眠りに落ちそうだというところで、不意にスマホが震えた。眠気まなこで見てみると、それは隣で布団を被っている裕美からだった。そこには一文だけあった。
『私に好きな人がいることを、黙っていてくれて有難う』
私は一人、文面見ながら微笑むと、電源を切り、そのまま眠りに落ちた。

これで二泊三日の研修会の話は終わりだ。次の日はそのまま東京に戻っただけだからだ。
それからは取り立てて話す事もない。この時を境に普段行動する時は、この五人で過ごす事が多くなった。”いつも”と言わなかったのは、それぞれ部活に入ったり、校外活動に勤しんでいたからだ。
例えば律は、意外というかなんというか、バレーボール部に入った。なぜ意外に思ったかと言うと、てっきり律はもともと所属している、地元のバレーボールクラブ一辺倒なものと思っていたからだ。本人が言うには、『クラブも部活も両立して見せる。出来るかどうかを試してみる』とのことらしい。中々男らしいと言えば失礼かもしれないが、ストイックな所が同年代から見てもカッコ良かった。ゴリゴリの体育会系だ。
この繋がりでいうと、裕美の話は外せない。裕美も律と同様、部活に出来るなら入りたかったらしいが、残念な事にこの学園には水泳部というものが無かった。元々プール自体が無かった。尤も裕美は、そんな事百も承知で受験したので、入った後になってがっかりするようなヘマはしなかった。裕美はそのまま、小学校から所属している地元のクラブに、今も足繁く通っている。近々、ゴールデンウィーク明けの日曜日に、女子十一歳から十二歳の部の平泳ぎに出るべく、日々練習を重ねている。それでも私と一緒に帰るのは変わらない。ただ地元の駅に着いて、そこで別れるだけだ。
ついでと言っちゃあ何だが、残り二人も紹介しておこう。
まず紫。紫は地元の小学校で、朝礼などで演奏する、吹奏楽部に入っていたらしい。パートはトランペットだった。朝礼のある日は、一般生徒よりも一時間以上早く学校に登校しなくてはいけないのが玉に瑕だったらしいが、余程気に入っていたらしく、そんなきつく辛い事も良い思い出になっているらしかった。中学に入っても続けたい、いや寧ろもっと本格的にやりたいと思いだし、丁度部活では無いが、”管弦楽同好会”というのがあったので、そこに今は所属している。大会などには出ないので、思ったよりも本気度は無かったらしいが、小学校の延長というので、それなりに満足し満喫しているらしい。
次は藤花。これまた意外と言っては何だが、藤花は学園近所にある、大きなカトリック教会の聖歌隊に所属していた。前にも本人が触れたが、学園付属の小学校に律と通っていた訳だが、この学園自体カトリックの学校だ。元々両親共にクリスチャンだった関係もあってか、藤花もしっかり洗礼を受けている程の、生粋の”本物”だった。因みに律はクリスチャンじゃないらしい。それはともかく、小学校低学年から聖歌隊に入り、これまで欠かさず毎週日曜日のミサには、同じくらいの子供達と賛美歌を歌ってきたらしい。それは今も続いている。失礼を承知で言えば、厳かなミサのイメージと、いつも明るく天真爛漫な藤花とは結びつかなかった。でもこれはすぐに解消された。
律に誘われて日曜日、他の四人揃ってミサの行われる主聖堂に行くことになった。入ってまず目に付いたのは天井だった。それは蓮の花に象られていて、ガラス張りなのか、外からの柔らかな陽光が差し込んできていた。壁には著名な日本画家の原画を元に、計十二枚のステンドグラスが、円形の主聖堂の壁に、等間隔ではめ込まれていた。初めて教会というところに来たが、何も教えとか知らなくても、自然と厳かな気持ちにさせられた。都内でも有名なせいか、驚くほどの人で埋め尽くされていた。こんなに東京にキリスト教徒がいるとは知らなかった。教会のしおりを見ると、固定席で七百と書かれていた。
何故律が誘って来たのかというと、藤花自身は教えてくれなかったが、丁度この日、研修会から帰ってすぐの日曜日、初めてこの大人数の前で独唱するとの事だった。普段は他の聖歌隊と一緒に賛美歌を歌うものだが、これは大抜擢といえた。話を聞いた時、私は真っ先に行くことを立候補した。ここまで話を聞いてくれた人には繰り返しになるが、私は誰かが本気で一生懸命に何かをする姿が大好きなので、そんな話を聞いたら、居ても立っても居られなかった。裕美の時と同じだ。勿論私のすぐ後に、残りの二人も名乗りを上げた。そして本番当日だ。
司祭がまず出て来て、聖堂中心に設置された祭壇の前で説教を始めた。私は気付かなかったが、隣にいた律に教えてもらった。祭壇の脇、真っ白な衣装に身を包んだ一団が列を成して座っていた。どうやらあの人達が聖歌隊のようだった。その最前列、司祭に近い所にチョコンと小さく座っている女の子の姿を見つけた。それが律の話では、藤花との事だった。確かに周りの大人達と比べると、遠くから見ても小さく見える。あそこに座って出番を待っているようだった。確かに言われて気づいたが、目を凝らしてよーく見ると、藤花は見たことのない真面目な表情で、司祭のことを見つめながら真剣に説教を聞いていた。成る程、天真爛漫の裏にはこういう顔が隠されていたんだなぁっと、まだ本番を見る前から感心していた。そして本番だ。
司祭は説教を終えると、その後ろに置かれている椅子に座った。これがある意味合図だった。いつの間に置かれたのか、祭壇から数メートル脇にマイクスタンドが置かれていた。おもむろに藤花は立ち上がり、ゆっくりとマイクの前に進み出た。しばらく私達入れた少なくとも七百人余りが黙って藤花の一挙一動を見守っていた。すると何処からかストリング主体の音楽が流れてきた。金管も聞こえている。すぐに何の曲だか分かった。世間一般ではカッチニー作曲と言われている”アヴェ・マリア”だった。細かい話をさせて貰えれば、真の作曲家はウラディーミル・ヴァヴィロフという旧ソ連の作曲家だ。それは置いといて、私はびっくりしていた。こんなガチな賛美歌を歌うだなんて思っても見なかった。プロのソリストが独唱するような難曲だ。これを藤花が歌うのか?私は親族ではないが、友達としてドキドキしながら歌うのを待った。でもすぐいらない心配だと気づいた。第一声にやられてしまった。どこまでも透き通るような、どこまでも伸びやかな歌声だった。そのままガラス張りの天井から、歌声がどこまでも飛んで行ってしまうんじゃないかと錯覚させられる程だ。技術的にいえば、抑揚も完璧だった。息づかいも分からぬ程で、ずっと息継ぎせず、歌い切っているのではないかと思わされた。理屈はもういらない。ただ単純に聞き惚れ、単純に感動していた。マイクの前で微動だにせず、真剣な表情で集中して歌う藤花の姿、白い衣装が天井からの自然光を反射し、輝いて崇高さを増していた。観客はジッと一部始終、藤花の歌声に耳を傾けていた。隣を見ると、裕美も紫も、門外漢だというのに、すっかり私と同じく聞き惚れていた。ただ一人、律だけがうんうん頷きながら、口元を緩ませ目元を柔らかく、気持ち誇らしげに藤花を見つめていた。
藤花が歌い終わり、演奏も終わると一瞬静けさが辺りを支配した。が、藤花が一歩後ろに下がり、深々と頭を下げると、初めはポツポツだったのが、相乗的に大きくなっていき、最終的には観客の多数が立ち上がる、スタンディングオベーションが起きた。藤花は遠くから見ても恐縮しっぱなしな様子で、今度はペコペコ頭を下げながら、元の聖歌隊席に戻ろうとしたが、一人の年配の聖歌隊員が、優しく微笑みながら、また向こうに行くようにジェスチャーをした。藤花はチラッと司祭の顔を伺ったが、司祭も穏やかな笑みを浮かべて、手で前に出るよう示した。藤花は促されるままにまた一度マイクスタンドの近くに行き、深々とまた頭を下げると、今度は駆け足で席に戻って行った。
私達全員も立ち上がって拍手を送った。みんな律以外は涙目だった。…いや、律もそうだったかも知れない。
それからは一連の流れが終わり、ミサが終わった。信者達はそのまま帰宅の途についたが、私達は流れに逆らう様に、聖歌隊の席に近寄って行った。
藤花は同じ白服を着た聖歌隊員達に囲まれて、笑い合いながら握手したり抱き合ったりしていた。その中で普通の服装の一般人がいた。どうやら藤花の両親のようだ。お母さんの方は言い方難しいが、どこにでもいる専業主婦と言った見た目だった。入学式で着るようなフォーマルな装いでいた。ただお父さんの方は違った。赤のチェックシャツに、履き潰したジーパン。お母さんと並ぶと言いようの無いチグハグ加減だった。それより印象的だったのは、鼻の下にチョビヒゲを生やしていたことだった。色んな意味で只者じゃ無い感を醸し出していた。藤花は『パパ』『ママ』と呼んでいた。
少し離れて立ち止まり、暫く喜び合っている様子を伺っていたが、ふと隣で律が大きな声を出した。
「藤花!」
藤花はふとこちらに顔を向けた。見る見るうちに、驚きと戸惑いと恥ずかしさを、同時に顔中に浮かべた。それもそのはずだ。何せ誰も藤花に、聴きに行くとは言ってなかったからだ。少しの間お互いに顔を見合わせていたが、途端に藤花の顔が歪んでいった。涙を堪える顔だ。しかし目元には既に涙が溢れでていた。
「…律ぅーーー!」
藤花は名前を叫びながら、律の胸下に飛び込んだ。かなりの勢いだったが、律は何でもなさげに、冷静に真正面から受け止めた。藤花は仕切りに律の名前を呼んでいたが、律もまた見たことのない、柔和な微笑を顔に湛えながら、藤花の頭を優しく撫でて
「…良くやったね、藤花」
と囁きかけていた。その様子を見て私達を含む、聖歌隊員達までもが目元を潤ませていた。私も視界がボヤけながらも、ふと思った。
あぁ…これとは違うだろうけど、裕美の言ってたことが分かった気がする。この二人と、私と裕美の関係性が似ているんだ、と。勿論裕美が言ったのは、私と律が雰囲気似ているというだけだったが。
それからは私と裕美、紫が藤花に駆け寄り、思いつく限りの礼賛の言葉を浴びせた。まだ藤花は何故私達がここに居るのか理解が出来ずに、混乱しているようだったが、素直に私達の言葉に感謝を返していた。それから藤花の両親にも挨拶した。
話を聞いたら藤花のお父さんは、いわゆる建築士らしい。 自分の事務所を持っていて、中には国から依頼されることもあるのだと言う。流石に口にはしなかったが、見た目によらないとはこの事だと、失礼なことを考えていた。
それからは他の聖歌隊の人達とも話した。藤花も聖歌隊の一員として、今日の分の独唱はこれで終わりらしいが、午後の礼拝にも参加しなくちゃいけないらしく、両親共に残るみたいだった。私は後でゆっくりと、何故どうやってその歌唱力を身に付けたのか、しっかり教えてもらうことを何度も、藤花が引くほどにしつこく約束し、律含む私達も帰る事にした。
とまぁ、こんな所だ。思いがけず藤花の話が膨らみ過ぎてしまったが、こればかりはしょうがない。同じ音楽の道を志している、同年代の子に出逢えた喜びは、これでも書ききれないほどだった。当然この後約束通り何度も教えてもらった。練習に使っているスタジオにまで押し掛けたこともあった。藤花も初めは戸惑っていたが、私がピアノを弾くことを知ると、途端に藤花も私に興味を示し始め、スタジオにあったグランドピアノを弾いて見せたり、歌を聞かせて貰ったりした。藤花は私のピアノを褒めてくれた。私はこんな性格だから、素直に言葉を受け入れられなかったけど、次第に社交辞令じゃない事が分かると、素直に有難うと返したのだった。藤花は知る余地が無いが、私に密かな自信を付けてくれた事にも感謝した。
余りに四人について話し過ぎたから、私の事はサラッと述べたい。対して代わり映えもしないから、それで良いのだ。正直私は何も変わらない。もう塾に行かなくて良いことぐらいだ。元々何とか両立していたつもりだったが、受験が終わった事により前と同じくらい、いや、前よりも一層力を入れてピアノのレッスンに力を入れていた。その事は既に何処かで話していると思う。卒業式が終わり入学式までの間、本当なら暇なはずだったが、先生の厚意で朝十時から夕方六時までのピアノのレッスンを週四、義一の家と絵里に会いに図書館へ、たまに裕美とヒロと遊んだりしていたら、一日たりとも一日中家にいる日が無かった。でも今までの鬱憤を晴らすように動き回っていたので、疲れよりも清々しさの方が強かった。学園生活の始まった今、春休みのような生活は当然不可能になったが、それでも何とかうまく切り盛りして、遜色ないように過ごしていた。
…これはまだ先生にも話していないが、私が納得いく力を身に付けたと自覚出来たら、試しにどこかのコンクールに出てみたいと思っている。…この話はまた後の話だ。
…元々何の話だったか、私の話が長過ぎて覚えておられないだろうが、一応言うと、私合わせた五人はそれぞれ自分のやりたい事が明確にあるので、各々その道を邁進しているのだが、いつも放課後はこの内の誰かと過ごした。五人全員で過ごすのも、別に珍しい事じゃない。直接聞いた訳ではないが、皆それぞれに、この五人の関係を守りたいと考えているようだった。都合がつくようなら、率先して集まるようにしていた感があった。外部からある意味隔離された、女子校と言う名の箱庭。外から見れば息苦しそうにも感じるだろうけど、中にいる当人達は別段不自由を感じていなかった。むしろ学園という大きな力に守られてる事によって、他のことを気にせず、やりたい事をやれるだけやれた。中には息苦しく、退屈で、不自由を感じていた人もいたろうけど、そういう人は好きな事を見つけられないばかりに、箱庭の壁ばかりが目に付いて、その壁が実際どの程度己を制限しているのかは考えない。その程度の認識だ。毎度の如く話は逸れたが、こんな調子で一学期は瞬く間に通り過ぎて行った。そして中学になって初めての夏休みが始まる。

第16話 夏のアレコレ

「へぇー、そんなに歌の上手い子がいるんだ」
「はい。”アヴェ・マリア”を、それはもう綺麗に歌い上げていましたよ」
私は卵と砂糖を入れたボールを手に持ち、掻き混ぜていた。今日は夏休み入ってからの最初の土曜日。ピアノのレッスンの日だ。今は昼の中休み。先生と一緒にキッチンに立って、こうして相変わらずお菓子作りにも勤しんでいる。レパートリーも大分増えた。
先生は冷蔵庫から牛乳を取り出し、ボールの中に適量を流し入れた。
「ふーん、すごい子もいるのねぇ。しかも琴音ちゃんのお眼鏡にかなうほどのね」
そう言うと、また冷蔵庫に牛乳を戻した。私はまた掻き混ぜつつ、苦笑まじりに返した。
「イヤイヤ先生、私はそんな大層な眼鏡はかけてませんよ」
「うふふ。相変わらずの言い回しの旨さね?」
先生はクスクス笑いながら、冷蔵庫から今度はマグカップを二つ取り出した。これは予め作っといたもので、底にはキャラメルソースが溜まっていた。それを私の作業する脇に置いた。この時ふと、正面にある大きめな鏡が目に付いた。こうして見ると、仲のいい姉妹のようだった。先生も絵里と同じくらい、ベビーフェイスのせいか、実年齢よりもはるかに下に見えた。年齢は絵里よりも二つ年上だったはずだけど。ただ一つ絵里と根本的に違う所は、背丈だ。絵里は平均的、いや平均よりは若干高めの160ちょっとくらいだったが、先生は私よりも10センチほど高い、175もあった。だから尚更鏡に映る二人の姿が、姉妹に見えたのだった。肩幅は若干あったが、目は二重の少しタレ目気味、顔の一つ一つのパーツが小ぶりで、和系美人の典型みたいな顔付きで、スラっとしているモデル体型だった。因みに髪型は、胸のトップにかかるほどの、前髪ありのストレートヘアーだった。中休み時は下ろしているが、レッスン時は後ろで縛ってアップさせていた。こうしたルックスは、女の私から見ても男がほっておかないだろうと見受けられるけど、話を聞く限りでは、交際人数は片手で数える程もいないらしい。ずっと手首を痛めて引退するまでは、ピアノ一筋に生きてきた、典型的な芸術家肌だったらしく、今更どう異性と接していいのか分からないと、いつだったかお母さんを交えた食事会で、顔を真っ赤にしながら答えていた。お節介焼きな性格のお母さんが、何人か紹介してきたようだが、いずれも丁寧に、しかし頑固に断り続けたらしい。
そんなこんなで先生は、私のお爺ちゃんの持ち家を借りながら、悠々自適な独身ライフを満喫している訳だ。
「…よし!後はチンして終わり!」
先生はマグカップにボール内の液体を淵より少し下くらいまで流し込むと、それをレンジに入れて、スイッチを入れた。勘のいい人ならもうお気づきかもしれないが、今日作っているのは、マグカップを容器にしたプリンだ。バニラエッセンスの香りが、微かにあたりに漂っていた。その間先生と一緒に身の回りの片付けをした。
チン!
音がしたので先生が、五本指が使える鍋つかみの様な厚手の手袋をはめて、レンジからマグカップを取り出した。そしてそれにアルミホイルを被せ、布巾でそれぞれ包んだ。
先生は腰に手を当てて、鼻で息を短く吐くと言い放った。
「…うん!後は十分くらい待ったら出来上がり!」

私と先生はマグカップを持ちながら、中に出来上がったプリンをスプーンで掬いながら食べていた。味自体は変哲の無いプリンだったが、先生と一緒に自分の手で作ったという事実が、味に何層ものコーティングを施し、美味しさを何倍にも増加させていた。一口に言えば、手作りは失敗しない限り、何よりも美味しいということだ。
先生は食べながら午後の課題について、私に軽く確認を取った。最近は他のピアノ教室でやる様な、一般的な練習曲は全て弾ききってしまったので、先生自ら私のために、幾つも自作の練習曲を作曲してくれていた。この時点で二十曲以上はあったと思う。指の使い方、アクセントの付け方、ペダルの使い方などなど、先生の考える、ピアノを弾く上で大事なエッセンスが、ふんだんに盛り込まれていた。最近は課題曲を弾く前に、指の準備体操として、この練習曲をいくつか弾くところから始めるのが、日課になっていた。先生に怒られた記憶はほぼほぼ無いが、私が弾くすぐ脇で、私の手元を穴が空くほど、何も言わず見つめてくるその熱視線は、口で言われる以上の何かがあった。良い意味での緊張感が流れていた。でも一旦休憩に入ると、これ以上無いほど私に優しくしてくれた。このオンオフの切り替えの良さが、私には心地良かった。
「ねぇ、琴音ちゃん?」
「はい?」
私はスプーンを咥えながら答えた。先生は手元にある自作の楽譜を見ながら続けた。
「今度機会があったら、その子の歌っているのを聞いて見たいなぁ。そんなにあなたが褒めちぎるんだから」
「ふふふ、そうですね。私も実際に見て頂きたいです」
「じゃあ、いつかその教会に行って見ましょう」
先生は優しく微笑みながら言った。私も微笑み返して、またプリンを食べ始めた。
この夏休み中のレッスンの次の日、日曜日に二人で電車に乗り四ツ谷まで行った。先生も藤花の歌声に聞き惚れ、それからは信者でも無いのに、藤花が独唱すると予め分かる時に限って、たまに私と一緒に教会まで聞きに行くことになる。これはまた別の話だ。

「じゃあ、さようなら」
「えぇ、気をつけて帰ってね」
いつも通り玄関を出た所まで見送ってくれる先生に手を振り、私は寄り道せずそのまま帰った。もし時間がある様だったら、義一の家に寄ることも考えていたが、思った以上に今日は課題に手こずり、時間が遅くなってしまったので、また別の日に行くことにした。こうして義一のことを考えると、いつもあの小学五年生の夏休みを思い出していた。

「ただいま」
「おかえりなさーい」
私は玄関で靴を脱ぎながら挨拶した。姿は見えないが、お母さんの声が聞こえた。居間に行くと、ちょうど夕食の準備に取り掛かっている所だった。私は食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から麦茶を出して中に注いだ。私は何気なく、お母さんの料理をしている手元を見ていた。詳しいことはよく分からないが、それでもお母さんの料理の腕は、並の主婦とは一線を画している事ぐらいはわかった。まな板の周りにあらかじめ処理した材料が、小降のボールにそれぞれ綺麗に並べられていた。まるでテレビで見る料理番組の様だった。手間の様だが、スムーズにことを運ぶための手間なので、結果的にはこの方が合理的に早く済ますことが出来るらしかった。
お母さんは私の視線に気づいて、チラッと私を見てまた手元に視線を戻し、明るく笑いながら話しかけてきた。
「…なーに?そんなにお腹が空いた?」
「え?いやまぁ…それもあるけど」
私は手元の麦茶を、一口飲んでから言った。
「やっぱりお母さんは料理上手だなぁって」
素直に衒うことなく、感想を言った。お母さんは手元に目を落としながらも、嬉しそうにハニカミながら返した。
「なーに、急に?そんな褒めてもお小遣いは増やさないわよー?」
「いやいや!そんなつもりで言ったんじゃ無いよ!」
「あははは!冗談よ」
私がムキになって返すのを、お母さんはサラリと流したが、ふと手元を止めて私の方を向くと聞いてきた。
「そういえば琴音、あなた今日も沙恵さんのトコでお菓子を作ったの?」
「うん、今日はプリンを作ったの。しかもマグカップの中に」
「へぇー、洒落てるわねぇ。今度私にも教えて?」
「うん、いいよ」
そう。元々は義一の家でおやつを食べる為に、先生に教えて貰ったのが始まりだったが、当然といえば当然で、先生がお母さんにお菓子作りをしている事を話したらしく、早速その晩にお母さんに根掘り葉掘り聞かれたのだった。当然義一の件は隠したが、どうもお母さんも先生と同じ様に、私が誰か好きな人が出来て、その人の為にお菓子作りを習い出したと考えた様だった。義一のことを勘繰られなかったのはよかったが、好きな人云々という恋愛がらみの事は、正直言って対処するのが面倒だった。だがまぁ、秘密を守る為にはこれぐらいの犠牲はしょうがないと、開き直ることにしていた。それ以来、先生に教えて貰ったお菓子を、私一人で作って見せたり、また二人一緒に作ったりした。お父さんにも食べて貰った。お父さんは実は甘いものが、義一と違って苦手だったが、愛娘の作った物、またそんなに量が無かったのが救いで、全部食べてくれたのだった。繰り返す様だが、元々義一との為に習い始めた事だったが、結果的には私達家族の団欒に、ひとつの新たなスパイスとして盛り込まれ、家族間の絆が深まっていくのを感じた。
「…あっ、そうだわ!」
お母さんはまた料理にしながら、私に話しかけてきた。私は一度自室に戻り、荷物を置いてまた居間に戻り、食卓テーブルにお皿を置いている所だった。
「何?どうしたの?」
「あ、いや…そうねぇ」
お母さんは後ろを振り向き、私の方を見ながら答えた。
「今日はお父さん早く帰って来るから、その時に話すわ」
「…?うん、分かった」
私達はそれぞれ、また自分達の作業に戻った。

「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
いつも通りお父さんの号令と共に、夕食を摂り始めた。今日の献立は、鰤の照り焼き、金平ごぼうと揚げ出し豆腐、大根の味噌汁といった物だった。和食一色だ。前々からそうだったが、ここ最近顕著になっていた。お母さんはこの頃すっかり和食に凝っていた。、でも誰も文句は言わなかった。なぜなら単純に美味しかったからだ。
私とお父さんは口数少なめに、黙々食べていたが、相変わらずお母さんが率先して話していた。
いつもお父さんが家で一緒に食べられる訳ではないので、大体三人一緒に食べる時は、お母さんは今まで話していなかった何日分かの話のネタを、一気にこの時に話す様にしていた。 我が母の事ながら、止めどなく、しかも順序立てて次から次へと話をしていく様を見る度に、毎度毎度驚かされていた。よくもまぁ、そんなに細かい事を覚えているもんだという事だ。何処かにネタを書き留めている様な気配は無いのに、素直に心から感心していた。
あらかた話し終えたのか、暫く食事に集中していたが、「あっ!」と不意に声を上げると、お父さんにまた話しかけ始めた。
「そういえばあなた、そろそろあの事を琴音に話す時かしら?」
「ん?…あぁ、アレか」
「アレ?」
私は二人の顔を交互に見ながら言った。お父さんが何か言いかけたが、お母さんが先に私に答えた。
「えぇ…あなたにはまだ話した事が無かったと思うけど、実はあなたには、高校に入るか入らないかくらいの時に、一人暮らしをしてもらおうと思っているの」
「…え?一人暮らし?」
私は全く想定していない話が飛んできたので、何も考えられないままに、ただ言われた事を繰り返した。お母さんは私の戸惑いを知ってか知らずか、話を続けた。
「えぇ、一人暮らし。私達望月家はね、お父さん、お爺ちゃん、そのもっと前々から子供達に、ある一定の年齢を迎えたら、一人暮らしをさせる習わしになっているのよ。…ね、あなた?」
「…あぁ」
お父さんはご飯とおかずを食べ終え、味噌汁をゆっくり味わうように啜っていた。そしてそのお碗をテーブルの上におくと、静かな眼差しを私に向けてきながら、口調も緩やかに話し始めた。
「爺さんやそのまたもっと前は、どのくらいの年齢でしていたのか、実はよく分かっていないんだが、少なくとも私は高校に上がると同時に一人暮らしをさせられたんだ」
「へ、へぇー…」
じゃあ義一さんも?と思わず聞きそうになったが、既の所で止まる事が出来た。しかしホッとしたのも束の間、今現時点でいきなり大きな問題が持ち上がっていたので、それどころでは無かった。私は当然の疑問をぶつけた。
「…え?じゃあ私、高校生になったらどこか住むところを探さなきゃいけないの?…学費は?光熱費とか食費とかは?…ま、まさか…どこか仕事に出なくちゃいけないの?」
私は矢継ぎ早に、思いつくまま疑問を二人に飛ばした。後になって思えば、やはりと言うか当たり前というか、流石の私も混乱していたのだろう。
お父さんとお母さんは静かに私の質問を聞いていたが、二人はそのまま顔を見合わせると、まずお母さんがクスッと笑顔を漏らした。普段仏頂面のお父さんまでも、その後静かに目を瞑りながら微笑んでいた。私がその様子を見て、不満げに膨れていると、お母さんが笑顔で話しかけてきた。
「あははは。いやぁ、琴音ゴメンね?いきなりこんな話をしちゃって。流石のあなたでも困惑したわよねぇ?…んーん、違うのよ。ちゃんと説明するわね?」
お母さんは大袈裟にゴホンと、咳払い一つしてから話し出した。
「あなた、駅前が大分様変わりしたのを知っているでしょう?」
「え?う、うん。…大分前からだったけど」
私は昔の事を思い出していた。私の地元は、私が小学校低学年くらいまで駅前でも、寂れていた。特徴的だったのは、駅前に大きな工場が建っていたことだった。稼働してるのかしてないのか、そもそも何の工場だか分からないままでいた。それが何時頃からか、急にその工場が解体されて、後に残った膨大な跡地にショッピングモールや、大型スーパー、そして今時のデザインのマンションが何棟か建設されたのだった。以前軽く話した、お母さんが駅前で買い物云々の話は、この新しく出来たスーパーで買い物するという意味だった。全部出来たのが二年くらい前だったと思う。義一と再開した時と被っていた。
「そう!でね?あそこのマンションが出来た時にお父さんがね、一室マンションを買ったのよ」
「…え?えぇーーー!そうなの?」
私は思わず声を上げた。まぁマンションを買ったという話を、わざわざ年端の行かぬ娘に話す事でもないとは思うけど、これまた予想外の事実を話されて仰天してしまった。お父さんは何も言わず、私に優しい視線を向けてくるばかりだった。お母さんは続けた。
「うふふ、ビックリしたでしょ?ビックリついでにもっとビックリさせるとね…」
お母さんはまた一度わざわざ区切った。
「…そのマンションを買ったのは琴音、あなたが高校生になった時に住む場所を確保するためだったのよ!」
「…へ?」
流石の私も、もう声を上げて驚かなかった。人間本気で驚くと、声さえ上げられず、間抜けな力の抜ける言葉を発することしか出来ないことを、この時に知った。
「じ、じゃあ私はあそこのマンションに、高校生になったら一人で住むのね?」
私はまだ心が落ち着かず、たどたどしく話すのがやっとだった。と、今まで黙っていたお父さんが、いつの間にかお母さんに出されていた、湯飲みに入ったお茶をズズズと音を立てて啜ると、私を見ながら静かに話した。
「…今お母さんが話した通りだ。琴音、お前は高校に上がったら、あのマンションに一人で暮らすことになる。私もそうした。…尤も当然私が子供の頃だから同じ所ではないが、私の父が既に持っていた持ち家の一つ、マンションを与えられて、そこで大学卒業するまで暮らしたんだ。勿論、お金の心配はしなくて良い。光熱費やら食費は全部、お小遣いも含めて後で新しく作る口座に振り込むから。学費も当然だ。だから琴音…」
お父さんはこれまたいつの間にか片付けられて、何も残っていないテーブルの上に両肘をつき、私の方へ身体を若干乗り出すようにしながら、語りかけた。
「お前は高校までの約三年間、一人で炊事洗濯その他の家事、まとめて出来るように、お母さんに一から色々教えて貰うんだ。なぁ、母さん?」
お父さんはまた一度姿勢良く座り直してから、台所で食器を洗っているお母さんに話しかけた。お母さんは一度水道を止め、タオルで手を拭き、こちらに振り向いてから返事した。
「えぇ、その通りよ。私がみっちり叩き込んであげるから、覚悟しなさいよぉー?」
最後に両手を腰に当てて、上体を前に少し倒し、意地悪く笑いながら私に話しかけてきた。
「う、うん」
そんな冗談ぽく言われても、まだ動揺しっ放しな私はそう答える他なかった。
「でも母さん、何でまたこのタイミングで、その話を琴音にしたんだい?」
お父さんがそう問うと、お母さんは今度は、悪戯っぽく笑いながら返した。
「いえね、最近ほら、沙恵さんの所でこの子、お菓子作りを教わっているじゃない?それを見て、何も先延ばしにしなくても、この子自身に興味があるのなら、こういうことは早めが良いかと思って、思い切って話してみたのよ」
「なるほどなぁ」
お父さんは顎に手を当てて、ウンウン頷きながら納得していた。
確かにお菓子作りをしてみて初めて気づいたが、私は料理全般に興味や関心があったようだった。だから今日も、ついついお母さんの手元をジッと見つめてしまったのだった。
「…どうだ、琴音」
お父さんは、先程と変わらぬ静かな調子で、しかし目の奥に柔らかな光を宿しながら聞いた。
「まだ中学に入ったばかりのお前に、無理をさせてしまうようで、本当は乗り気ではないんだが…もしお前が自分の意思で求めるのなら、どうだ?…やってみるか?」
「…」
私は考えた。…が、お父さんとお母さんの話ぶりからして、これは既定だというのは分かりきっていた。仮に嫌だと言っても、そう簡単には覆らないだろう。でも、そもそもそんな心配は無用だった。初めて聞いた時しつこいようだが、そりゃ驚き慌てふためいたが、同時に心の何処かでワクワクした自分もいた。
私一人でどこまでやれるのか。勿論、私の心配していた”お金”の問題は結局お父さん達に依存する訳だから、いわゆる”自立”には程遠かったが、それでもそれ以外では一人で全部やらなくてはならない。私は幼い頃からそうだったが、義一と深く付き合うようになって、余計に『”自分”とは何者なのか?』『一体自分に何が出来るのか?』という自己意識が、自分で言うのも何だが、同年代の子たちと比べて抜きん出ているように感じていた。それを具体的に実証できる、またとない機会。誤解を恐れずにいえば、一般家庭に生まれていたら、このような機会には恵まれなかっただろう。仮にお金に余裕があっても、わざわざ新築と言って良いマンションを、お父さんは言ってなかったけど明らかに意図としては、子供の自立心を育むためだけに買い与えるような、そんな発想には他の家庭じゃ至らなかっただろう。
今までは面子しか気にしない、お金で測った薄っぺらで、汚れた価値基準しか持っていないように見えたこの家系、その中で唯一純粋で綺麗な、真面目に誠実にまっすぐ生きようと足掻きもがいている義一を、蔑ろにする様なこの家系をこの歳で既に憎み切っていたが、現金な言い方で、私が最も忌み嫌う価値観の一つを孕むことだけど、今回初めてこの『望月家』に生まれて、良かったと思えた。ほんの少しだが。
私は少し間を置いたが、心は決まっていた。
「…うん、私やってみる」
「…そうか」
お父さんはそれだけ言うと中腰で立ち上がり、腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を優しく撫でた。気付くとお母さんも洗い物を終えて隣に座り、私を優しく抱き寄せるのだった。私もそれに応じた。


「へぇー、中々楽しそうだねぇー」
義一はスマホの画面を見ながら、向かいに座る私に言った。今日は七月最後の金曜日。相変わらずお母さんには”図書館”に行くと言って、家を出ていた。
今のところまだ疑われる要素は無かった。何故なら、まだ見せてと言われた事が無かったが、借りてきた本を見せてと言われたとしても、義一の家から借りた本をそのまま見せれば良かったからだ。何せ中にはボロボロの本も多数あったので、如何にもな代物だらけだった。古本の中には、戦後すぐの図書館から買い取ったものもあったりで、ページの一番最後にその判子が押してあるのもあった。お母さんの性格的に、そこまで事細やかに調べる事が無いことは、十年以上娘をやってるので、だいたい予測が出来た。
忘れている人もいるだろうが一応話しておくと、合鍵の隠し場所も心配いらなかった。小学校時代、塾に行くまでは中々苦心していた。結局ずっと筆箱の中に入れていた。しかし塾に通うようになって、お外に行く用の財布を買って貰った事により、その中にしまうことに成功した。いくつもポケットが付いていたからだ。そもそもお金以外に入れないだろうと思い込んで、他に何か入れてるだろうとは、夢にも思わない事が分かっていた。これも普段から、両親を細かく観察し分析してきた事の成果故だった。億劫だった塾通いも、こんな所で貢献していた。怪我の功名だ。
それでも当然慢心する事なく、警戒は怠らなかった。最近はお母さんが日舞の稽古に行く時を、なるべく見計らうようにしていた。何故ならお母さんの稽古先が目黒にあるので、どうしたって片道一時間くらいはかかる距離に行く。行ったり来たりの移動時間、稽古の時間、終わった後の仲間との団欒時間を全て足すと、少なくとも六時までは帰って来ない計算になるからだ。ただ一つ難点なのは、お母さんが稽古に行く日取りが、固まっていない事だった。今日は金曜日だが、毎週金曜日に稽古がある訳では無い。たまたまだ。お母さんの話では、先生の都合でズレてしまうらしかった。その稽古場には他の先生もいるらしかったが、お母さんはどうしてもその先生に教わりたいようだった。
前に絵里に言われてから、かなり私なりに事細かく計画を練るようになった。策士策に溺れるようでは元もこうも無いので、しつこいようだが、油断することだけは意識して避けるようにしていた。いつもお母さんの稽古に合わせている訳では無い。それでは変に思われて、疑われるリスクが高まるからだ。とまぁ、ざっとこんな所だ。
アレコレ策を練るのは楽しかったが、何処かでやはり罪悪感が無いかと問われれば、正直あるというのが本音だった。でも今の所は止めるつもりはない。

今私はいつも通り義一の”宝箱”の中で、あのテーブルに座り、向かい合いながら紅茶を飲んでいる。初めて飲んでからずっと同じ”ダージリン”だ。義一は他にも色々飲ませたかったらしいが、この頃の私としては、少ない時間を義一と沢山お話ししたかったという気持ちが強すぎて、勿論気遣いは嬉しかったけど、種類を気にするほどには、まだ興味が無かった。
義一の見た目も変わらない。相変わらず髪を切りに行くのが億劫らしかった。伸ばしかけの前髪を、敢えて後れ毛として残すポニーテールだ。ぴっちり纏めてない分、アンニュイな印象を与えていた。ある意味義一の性格を表しているようで、私個人の感想を言えば、大変似合っていると思う。でも義一には言わなかった。何となくだけど、見た目の事を言われるのはそんなに好きではなさそうだったからだ。私もそれぐらいの気遣いは出来る。
また私の前では、眼鏡でいる事が多くなった。元々そんなに目が良くないようだった。でも外にいる時は、本を読んだりメモをつけたりする以外は、裸眼でいるのが普通だった。何で外でだけ眼鏡をしないのか聞くと、義一は『見え過ぎると、世の中や他人の汚いところや欠点ばかりに気が付いて、それらが何故そうなのか、何故そうするのかが気になってしょうがなくなっちゃうから』だと、照れ臭そうに答えてくれた。何だか難しくてややこしい、義一らしい答えと言えた。一応理屈の通った、理路整然とした納得のいく答えだった。種類は丸みを帯びた逆台形型で正方形型に近い、いわゆる”ウェリントン型”というヤツだった。
余談だが義一は、この型の眼鏡をいくつか色違いを含めて持っていたが、全部絵里と一緒に買いに行った時の物らしい。あまりに眼鏡を粗雑に扱うのを見て、絵里は毎年義一の誕生日になると、家の外へと連れ出し、都心の繁華街にある絵里の行きつけのメガネショップまで、買いに行くみたいだった。義一の持ってる全ての眼鏡が、絵里からのプレゼントだった。私は初めてその話を聞いた時、理由は言わないが、何だか気持ちがほっこりした。光景が目に浮かぶようだった。 尤も眼鏡をプレゼントした後は、せっかく都心まで足を伸ばしたんだからと、義一に夕飯を奢って貰うまでがセットらしかった。二人らしい、オチのあるエピソードだった。

いつも通り大きく話が逸れたが、遅ればせながら今義一と何をしていたかと言うと、普段ならまず借りていた本を返し、その感想を私が言う所から始まるが、今日は夏休み始まってから初めての訪問ということもあって、一学期の思い出話をしていた所だった。
勿論入学してからも暇を見つけて、月に平均三、四回くらいの頻度でここに来ていたが、前にも話した通り、本を返し、感想を言い、義一の意見を聞き、たまにピアノを頼まれるままに弾いたりすると、何だかんだ学校の話をする時間が無かった。…いや正直に言えば、先程も言ったように義一に会うと、他の人とは話せない故溜まりに溜まった話のタネが、一気に口の先から次から次へと迸っていって、すべて吐き出すことに終始してしまう。勿論新たに始まった学園生活の事も、話そうと思って会いに行くのに、いざ義一と会うと忘却してしまうのだった。貯め込んでいたネタを、一気に話してしまう所は、私もお母さんに似ているのかも知れない。帰り道で一人冷静な時に、はたと思い出すまでがテンプレートだ。会わない時も連絡は取り合っているから、どうにか出来そうだと思われるかも知れないけど、画像を送ろうにも義一は”ガラケー”持ちだ。それ故に、画像ファイルを見る事が叶わなかった。こればかりは義一がスマホにしてくれないと、どうしようもない。私の制服姿を見せようとして、絵里とピアノの先生には写真を撮って送ったが、義一には何とか暇を見つけて、わざわざその姿を見せるためだけに学校帰りに直接行った。
だから今日こうして、お母さんの稽古日と上手く重なったから、忘れないうちに着いて直ぐスマホを取り出して、義一に見せているという現況だ。
四月の研修会という名の、クラスメイトとの親睦旅行、六月の球技大会の時撮った写真を見せた。義一は慣れない調子で、スマホを操作しながらスライドしていっていた。何枚か五人全員で写真を撮ったが、その中の一つ、洋上のサービスエリアで撮った写真を私に見せながら、話しかけてきた。
「みんな可愛い女の子ばかりだねぇ」
義一は微笑ましげに言った。
「…なーんか、誤解を招く言い方だなぁ」
私はワザと意地悪く笑いながら返した。義一は何も言わず、照れ臭そうに苦笑を返すだけだった。
それからは椅子を義一の隣に運び、隣り合って一緒に見た。 義一が一枚一枚質問してくるのを、私も一々丁寧に説明するのだった。
藤花の写真はどれも満面の笑みを浮かべて、動かずとも天真爛漫さが表れていた。前に初めて藤花の歌声を聞いた後、直ぐに義一にも教えたが、歌だけではなく普段の話し声もアニメのような、キラキラした高めの声だということを話した。
律はどれもパッと見無表情だったが、これは直接会って見ている私だから気付いたが、眉間のシワの寄り具合、眉毛や口角の微妙な上がり下がり具合、これらを注意して見ていると、思った以上に感情が顔に出ているのが分かってきた。その事も義一に話した。低くて威厳の感じる、宝塚の男役みたいな声をしている事も。義一は写真の律を見て、妙に納得していた。
紫の写真は、どれも快活そうな笑顔を浮かべていた。中々目元が緩むほどには笑っていなかったが、義一に言われる前に色々フォローを入れた。性格のキツそうな見た目だけど、かなり率先して冗談を言うし、私達が逆に冗談を言うと的確なツッコミで返してくる事も。そしてその能力を買われて、私たちの間でのツッコミ役になっている事も話した。悪口でも何でもなく特にそれ以外に、目を見張るような能力がある訳ではないけれど、紫がいてくれるお陰で、他の四人が纏まれる事も。当然と言えば当然だが、まず初めに義一が食いついてきたのが”紫”の名前だった。”紫”と書いて”ゆかり”と読むのは相当珍しかったからだ。義一は『紫なんて、中々風流な名前だね』と呑気な感想をくれた。
さて、最後に裕美だ。勿論義一は裕美の存在を知っていた。私が何かにつけて、小学生時代に話していたからだ。水泳の都大会で、優勝するような強豪だという事も話していた。
…少しばかり話が逸れるようだが、ここでしか話せる場所がなさそうなので、この場を借りて五月の都大会の結果について言っておこうと思う。当然この試合を私は観に行った。もちろん応援を兼ねてだ。勿論というか、この時も一緒にヒロが来ていた。ヒロは地元の公立中学に入り、野球部に所属していた。元々スポーツ刈りで短かったが、久し振りに会ったヒロの頭は、丸坊主になっていた。 会場に着くまでは、キャップを被っていたから分からなかった。でも中に入り観客席に座ると帽子を脱いだので、そこで初めて知った。何かヒロは私に喋りかけていたが、私は呆然とヒロの頭を見つめていた。そして何故か無性にその頭を撫でたい衝動に襲われた。そして遂に我慢出来ず欲望のままに、突然私はヒロの頭を撫で回し始めてしまった。ヒロは最初ビックリして、私の手を払いのけようとしていたが、次第に辞める気配がないことを悟ったのか、最後は私にされるがままになっていた。ヒロは無表情でいたが、顔は若干赤みを帯びていた。確かにこんな公衆の面前で、女子の私に良い様に弄くり回されるのは、男子のヒロとしてはプライドが傷つく事だったろうと、当時の私は思っていた。心の中では、いくらヒロ相手とはいえやり過ぎたと反省していたが、実際には平謝りをしただけだった。
…いや、ヒロのことは今はどうでも良い。それよりも裕美の話だ。結果を言ってしまうと、三位に終わった。レースが終わり、メダルを受賞されると、裕美はそのまま奥へと帰って行った。当初の予定では、今いる観客席に着替えた裕美が来ることになっていたから、少しの間待っていたが、私はいてもたってもいられなくなって、ヒロにそのまま待つように言うと、一目散にロッカールームへと急いだ。前回と同じようにパスを貰っていたので、それを使ってロッカールームへと向かうと、その途中で裕美と合流した。裕美は既に着替え終えていて、まだ水気を含み湿った短髪が、通路の灯りを反射し、艶やかに煌いていた。裕美はすぐに私に気付いて、明るい笑顔で手を振りながら近づいて来た。私は思いがけず元気な様子の裕美に呆気に取られながらも、同じ様に手を振り返した。でもこんなに明るく振る舞っていても、心はすごく落ち込んでいると思うと、何だかテンションが同じ様には上がらなかった。裕美も察したのか、私の肩に手を置くと、苦笑交じりに声を掛けてきた。『なーんで私じゃなく、アンタがそんなにしょげてるのよ?』『だ、だって…』私はこういう時に、なんて声をかければいいのか分からずにウジウジしていると、裕美は肩をポンポンと二度軽く叩いてから言った。『…いいのよ、私は今回の結果に納得してるんだから!ちょっと言い訳になっちゃうけど、前回の大会が終わってから、受験があったりで全然泳げて無かったからねぇ。大会に出れるのかも疑問だったけど、それが何とか決勝まで漕ぎ着けて、しかも三位なんていうメダルを受け取れる位置までいけたってのは、とても喜ばしいことなのよ?だから今私は寧ろ嬉しいの!だから一緒に喜んでくれない?』『裕美…』私は少しはホッとしたが、それでも額面通りには受け取れなかった。裕美は私の気持ちを察したのか、肩に置いた手をそのまま腕に沿って下ろして、手の所まで来るとそのまま私の手を握り、握手する様な形を取った。そしてそのまま顔には柔らかい笑顔を浮かべて、私に語った。『私だって三位の成績に甘んじる気は毛頭無いわよ?今回は準備不足が響いたけど、次回までに練習をこなして、次こそは優勝に返り咲いて見せるんだから!』そう言い切る裕美の目は、メラメラ燃える炎を宿し、既に未来に焦点が定まっていた。
とまぁ、以上が裕美のゴールデンウィークに於ける大会のあらましだ。この事は、今回初めて義一に話した。義一は興味深げに熱心に聞いていた。義一は裕美に対して、私の口を通してだけど、それなりに印象が良いようだった。私は裕美の事を義一が気に入っている事実が、無性に嬉しかった。いっその事、義一と裕美を会わせてみようか?そう考えたのは、一度や二度じゃない。小学校以来、中学に入学してからも何度も考えてみた。もう既にヒロには知られている…。今更もう一人、裕美に知られたところで変わらないんじゃないか?ヒロにだけ知られて、裕美には知らせないというのも如何なものかと葛藤する自分がいた。板挟み状態のままそんなこんなで、とりあえずこの時までこの問題には、手を付けずにいた。
義一は裕美という友達が出来た事を話すと、心から喜んでくれた。…いや、この事に限らず、まず私が誰かの話をすると、それだけで喜んでくれてたと思う。その理由は漠然とは理解していたつもりだったけど、はっきりと分かるのはもっと後になっての事だ。

「…うん、ありがとう」
義一は微笑みながら、隣に座る私にスマホを返してきた。それから義一は紅茶のお代わりを取りに行ったので、その間に私は椅子を元の位置に戻した。何だか二人しかいないのに、いつまでも隣り合って座るのが、気恥ずかしかったからだ。叔父さん相手に恥ずかしがっても、詮無い事だけれど。
義一は紅茶の入ったポットを持って戻ってきた。椅子の位置が変わった事には触れず、私の向かいに座ると、空のカップに紅茶を注ぎ入れた。少し渋めの豊かな茶葉の香りが、湯気と共にあたりに充満していった。
お互いに一口ずつ啜ると、私から話を振る事にした。勿論話題は、お父さん達と話した事だった。
「ねぇ、義一さん」
「ん?何だい?」
「あのね、…」
私はこの間の夕飯時、お父さん達と話した会話の中身を、事細やかに話した。義一はカップをテーブルの上に置いていたが、取っ手に指をかけたまま聞いていた。
「でね?義一さんは…」
私は当夜の話を終えると、そのまま続けて義一に聞いてみる事にした。
「お父さんと同じように、高校生になってから一人暮らしをした?どこか部屋を借りて」
義一は一瞬天井を見上げて、何か思い出そうとしていたが、すぐ視線を私に戻し、柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「うん。僕も兄さんと同じように、高校生から一人暮らしを始めたよ。理由も兄さんが言ったままでね」
義一は言い終えると目を瞑り、紅茶をじっくり味わうように啜っていた。
「へぇー、義一さんもしたんだぁー…生活力無さそうなのに」
私は意地悪く笑いながら言った。義一は何故か照れて、頭を掻いている。
「ひどいこと言うなぁー。…でもその通りだから、反論できないや」
「ふふふ」
「でも琴音ちゃん、見てよ?」
義一は突然両腕を広げて見せた。顔は得意満面だ。
「今こうして僕は、ここで一人で生活しているじゃないか?という事は僕だって、一人で暮らしていけるって事だよ」
「…三十過ぎた大の大人が、そんな事で自慢げに言わないでよ」
私が先程から表情を変えずに言うと、義一は今度は右手を頭の後ろに回して、いかにも参ったといった表情を浮かべた。私はその様を見て、クスクス笑うのだった。

「でも義一さんは、どこで暮らしていたの?」
「僕?僕はねぇ…」
義一は書斎をぐるっと見渡してから、答えた。
「僕は高校生からずっと、この家に住んでいるんだ」
「え?高校生からここにずっと?」
「うん、そう」
私は改めて、義一に倣って同じ様に見渡した。
義一はここに、ずっと一人で住んでいたのか…。
何故か感慨深くなり、しみじみと見渡していた。義一はそんな私の様子を微笑んで見つめながら、話を続けた。
「だからこの家とは十五年以上…いや、そろそろ二十年近くになるのかな?」
「やっぱりこの家にしたのは…」
「そうだよー。前にも言ったように、父さんに子供の頃から連れて来てもらっていたからね。父さんに一人暮らしの旨を、急に言われた時に真っ先に思いついたのが、この家だったんだ。父さんは、兄さんが琴音ちゃんにしたように、既にどこかに用意してたみたいなんだけど、僕がここを指定したのにビックリしていたねぇ…」
義一は今度は、天井を一度見上げて、そしてまた顔を私に戻すと、表情は微笑んだまま先を続けた。
「父さんも僕が書斎を含めたこの家を、気に入っていたのは頭に入っていただろうけど、まさか住みたがるとは思わなかったみたいでね?何せ僕が子供の頃には既にボロかったから」
「この家って、建ってからどのくらいになるの?」
「うーん、どうだったかなぁ?確か…この家を買ったのが、戦後すぐくらいって言ってたかな?」
「え!?じゃあこの家って、建ってから七十年近く経ってるの?」
私は驚きの声を上げながら、また辺りを見渡した。確かにボロ屋だとは思っていたが、まさかそんなに経ってるものだとは、思ってもみなかった。
義一は私の反応を面白そうに見ていたが、明るい笑顔のまま答えた。
「いやいやいや。流石にそこまでは経ってないよ」
「え?だって、さっき…」
「うん。だから僕が住むって言うんで、一度大規模にリフォームをしたんだ」
「あっ、なーるほどぉ」
私は納得して、紅茶を一口啜った。義一は続けた。
「父さん自身、いつかこの物置代わりのボロ屋を改装しなきゃって思っていたらしくて、そこで僕が住むなんて言ったもんだから、いい機会だと快くリフォームしたんだ」
「…え?でも…」
流石の私もすぐには言い出せなかったが、どうしても突っ込まずには居れなかった。
「その割には…ボロいまんまなんだけど…?」
と私が言うと、言われた直後は私の事をきょとんとした表情で見て来たが、すぐに満面の笑みになり、面白そうに答えた。
「あははは!君ならそう言うと思ったよ。まぁタネを明かすとね、僕がワガママを言ったんだよ。…なるべく見た目は変えないでってね」
「へぇ、なるほどぉ。でも、何でまた?」
「うん。僕はこの家の外見が好きだったんだ。それは今もね。いわゆるこの家は”日本家屋”と呼ばれる形式だけれど、今時こんな風情のある家は、一から建てようとしたら大変なんだよ。職人も少なくなって来てるしね。当時はそこまで考えていた訳じゃないけど、腕の良い職人のいるうちに、リフォームして貰って良かったよ」
義一はずっとニコニコしている。
「見た目はボロのままだけど、この部屋だって実は壁の中に遮音材をふんだんに挟んでいてね、ピアノをいくら弾いても外に漏れるのはほんの僅かに抑えられてるんだよ」
「ふーん…」
私は義一の後ろにある、蓋の閉められたアップライトピアノを、チラッと見た。
「だから見た目はボロく古臭くても、中身はしっかりと見えない所で改善されているから、他の家とは変わらないくらい耐久力があるし、天災が起きても他の建屋程には持ちこたえるよ」
ここでまた義一が妙に自信満々に言うので、私は思わず吹き出しながら返した。
「ふふ、じゃあ安心ね?一人で寂しく家に潰される心配もないね」
私が冗談交じりに言うと、義一も私に笑顔を返した。ただこの時、一瞬義一の顔に影が差したのを、当時の私には察し切れなかった。
それからはいつも通りの流れになった。私はカバンから借りた本を取り出した。お父さんにプレゼントされた、カバーを付けたままだ。義一の目の前でカバーをそっと慎重に外した。それぐらい表紙がボロボロだからだ。義一はその様子を、紅茶を飲みながら微笑まし気にただ見ていた。そして手渡した後、本の内容について話し合った。因みにこの時の議題は、アルフォンス・ドーデの “最後の授業”だった。読んだ事がある人はそれで良いが、もし読んだことがない人は、興味を持ったら是非手に取って見て欲しい。
「琴音ちゃんは、読んでみて何処が印象深かった?」
義一はペラペラページを捲りながら聞いてきた。私は視線を若干上に向けて、思い出しながら話した。
「そうねぇ…色んなエピソードが語られていて、どれも面白かったけどやっぱり…」
正確に言うと義一に借りた本の正式名は、“風車小屋だより、及び月曜物語”という短編集だった。だから色んなエピソードと言った訳だが、その中の一つ、”最後の授業”について軽くあらすじだけを、話の都合上述べさせて頂こう。現在のフランス北東部、アルザス地方の話だ。場所柄時代によって、ドイツ領になったり、フランス領になったりしていた。この小説内での今日、現実にあった普仏戦争によってこの地方がフランス領からドイツ領へと変わり、主人公の僕の先生、アメル先生がフランス語で最後の授業をするという話だ。
「やっぱり義一さんも薦めてた最後の授業かなぁ。…主人公と、アメル先生の思いが、たった十五ページの短編なのに、凄く胸を打ってくるのよねぇ。何度も戦果を受けている地域なのに、時間が経つとすぐに過去にあった事を忘れてしまう…。今も、この小説の書かれた十九世紀も変わらないなぁって、改めて感じたよ。主人公が遅刻して来て、普段だったら物で叩かれたりするのに、この日は 叩かれなかった。先生は明日も”普段”が来るんだったら叱るところなんだけど、もうフランス語で授業が出来なくなるというんで、こう言うのよね。『明日からはドイツ語でしか授業が出来なくなりました。だから今日はどうか一生懸命授業を聞いて下さい』って。いつもは言う事を聞かず騒がしい生徒達も、この時ばかりは真面目に聞くのよね。勉強嫌いの主人公も、心の中でプロイセンに対して毒突きながら、今まで大嫌いだった教科書や聖書を宝のように見るのよ。先生は先生で、今までもっと大切に時間を使って授業すれば良かったと、ある意味後悔を述べていたわ」
「うん、そうだね」
「…あっ、ちょっと良い?」
私は義一から本を受け取ると、ページを捲り覚えていた箇所をそのままに読んだ。
「先生がいかにフランス語が、どんなに美しい言語かを述べた後に言うのよねぇ。それが一番印象に残っているの。『こんなに素晴らしいフランス語を僕達が守り続け、決して忘れてはならない。何故なら民族が奴隷になった時、国語さえしっかり守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものなのだから…』。このセリフをまた、明日に旅たつ先生が言うっていうのが…悲しいよねぇ」
義一は黙って私のことを見ながら聞いていた。と、話が終わったと気づくと、優しく微笑みながら言った。
「…うん、僕もそのセリフが印象深いし、大好きなんだ。で、琴音ちゃん、君のことだから、何で僕がその本を読んでご覧と薦めたのかも、分かっているよね?」
そうなのだ。義一は決して意味なく私に本を貸してはこない。何かしら深い意図を持って貸してくるのだ。
私は少しワザと間を空けて、それから答えた。
「…うん、何となく。今世の中的には、又聞きでしかないけど、これから先、私が大学生になるくらいには、日本語で授業をするのを止めて、英語で授業をしようって話が出ているでしょ?いや既に小学校の時、私の周りに英会話教室に通っている子が何人もいたもの。これからもっと英語偏重が進むのは目に見えてる。…で、この話に擦り合わせてみると、この小説の中では、自国の言葉というのがいかに大事で、国語で授業が出来ないのがどれ程の屈辱的なことなのかを、何度も繰り返し書いてあるよね?でも今の日本は、自ら進んで、戦争に負けた訳じゃない、負けたのだって何十年も昔のことなのに、自国の国語を何も考えずに平気で捨てようとしている…どれ程それが、取り返しのつかないことかも気づかず…なんか自分で話していて、ムカつきが止まらないんだけど」
「あははは!」
義一は仏頂面で肩を落とす私を見ると、何とも底抜けな笑い声を上げた。私はその笑いが、同意の意ということを知っていたから、そのまま義一が話し出すのを待った。
「いや、笑ってゴメンゴメン。あまりに僕と考えが同じで嬉しくてねぇ、言い回しも含めて笑っちゃったんだ。…そうだね、まさに君が言った通りだよ。まぁ琴音ちゃんはちゃんとそこまで分かっているから、そういう意味で楽しく読めたかもしれないね。でも他の人は読んでもそこまで何も感じず、読み飛ばしちゃうんだろうけど。僕が子供の頃…うーん、小学生か中学生の頃の国語の教科書に、この話が載ってたんだけど」
「え?そうなの?気付かなかった…」
私は今回初めて読んだ様に感じた事を、恥ずかしく思った。もし覚えていたら、もう少し義一と共感出来たと思ったからだ。テンションが下がったのを見て察したか、義一は
首を振りながら返した。
「いやいや、さっき言いかけたけど、僕の知り合いに学校の先生をしている人がいてね?たまたまドーデの話をしていて、懐かしいなって言ったらその人に教えて貰ったんだ。今の教科書には“最後の授業”が載ってないってね」
「…なーんだ、私が忘れてたって訳じゃないのね?脅かさないでよー」
私が思いっきりブー垂れて見せると、義一は愉快そうに返してきた。
「あはは。僕はまだ何も言って無かったと思うけど?…まぁいいや!それで理由は何でか聞いたら、その人もよく分からなかったみたいだけど、推測としては、ナショナリズム…うーん、分かりやすく言うと民族自決的思想に染まりかねないから、削除されたってことみたいなんだけれど」
「えぇー…そんなのが理由になるの?寧ろ民族自決なんていいことじゃないの」
私は思わず身を乗り出し、義一に詰め寄る様にして聞いた。義一は苦笑いだ。
「僕もそう思うんだけどねぇ…前にも君に言ったけど、今の日本は、昔からといえばそうなんだけれど、何も自分で考えたくない人でいっぱいだって話はしたよね?その弊害がこんなところにも出てるんだ…分かるよね?」
聞かれたので、私は正しく座り直して即答した。何度もこの話は聞いていたからだ。
「うん。…何も考えたくないのに民族“自決”…自決なんて考えないと出来ないんだから、したがる訳ないよね」
「ご名答」
微笑みながら言ったが、義一の顔はどこか寂しげだ。
「そう、だから何かを考えるように促進する様な本とかを、意識的に遠くに置こうとするんだねぇ…滅びていくにも関わらず…」
義一は静かに言うと紅茶を一口啜った。先生モードだ。
「そういえば、琴音ちゃんはもう中学生なんだね?」
「え?え、えぇ勿論」
ごく当たり前の事実を確認されたので、少し戸惑い気味に答えた。何を言われるのか、さっぱり分からなかったからだ。義一は続けた。
「…今まで君に色んな本を貸してきたけど、何か共通点があるのに気付いたかな?」
そう急に聞かれたので、私は今初めて何か理由がある事を知った。さっき私は知ってる様に言ったけど、それは一冊一冊の話であって、全体的に共通項があるとは考えても見なかった。
私は取り敢えず、前に本人から言われた事を繰り返した。
「前に義一さんは、十九世紀の作家を私ぐらいの歳には読んでたからって、薦めてくれたわよね?…」
私は先程の本を取り、解説に書いてある紹介文を確認して続けた。
「この本だって十九世紀に書かれた物だし…他にも日本人作家、私の読んだ事の無かった荷風とか、それ以外のその辺りの時代に活躍した作家達のも沢山借りた。…まぁそれだけじゃなく今ではゲーテだとか、はたまたシェイクスピアまで借りたし…あっ!それを言うなら鴨長明とか日本の古典も借りたけど…」
私はそこまで言うと本を置き、紅茶を啜りながら視線を落とした。今まで借りてきた本をさらっとなぞれば、何か共通点が見つかるかと思ったが、特に何も見つからなかった。ただ国内外問わず、我ながらかなりの本を借りて読んだという事実を確認しただけだった。義一の反応を待った。ふと顔を上げると、義一と視線が合った。何だか気持ち嬉しそうにしていた。そのままの表情で義一は話し始めた。
「…いやぁ、良く覚えていてくれたね?嬉しいよ。確かに僕はそう言った。この間君がいくら借りて読んだかと単純計算して見たんだ。最初に借りたのが、君がまだ小五で、確か九月の終わり辺りだったと記憶しているけど、毎月僕の所に三度から四度来てたよね?で毎回多い時で三冊くらい借りていってたから少なくとも…」
義一はそこでワザと溜めてから言い放った。
「なんと二百冊の本を読んだ事になるんだよ」
「へ?…へぇーーーー!」
私は自分の事なのに、他人事の様に驚いた。確かに沢山読んだ気はしていたが、そこまでとは想像していなかった。驚きを隠せない私を他所に、義一は笑顔で先を話した。
「でね?話を戻すと、その二百冊…まだこれから先、同じ共通の本を貸してあげたいと思ってるんだけど…見つけるのは難しいよね?」
義一が悪戯っぽく笑うので、私は逆に意地悪くニヤケながら答えた。
「そりゃあね?二百冊を今急に思い返しても、精々分かるのは、全部が最後の大戦以前のモノって位だけだよ」
「あはは!それが分かるだけ上出来だよ、上出来!」
先程チラッと見せた先生モードは影を潜めていた。が、ここでまた先生モードに戻ると、静かに話し始めた。
「そろそろ勿体ぶらずにタネを明かすとね?タネって程大層な事じゃないんだけど、共通点っていうのは…文章って事なんだ」
「…?」
何を当たり前のことを…という表情で、黙って義一を見つめた。義一は一人愉快そうにしながら言った。
「あははは!そんなの当たり前じゃないかって思ってるね?うん、僕は敢えてある言葉を省いて言ったんだ。…ふふ、後出しジャンケンみたいな事しないでって顔だね?ゴメンゴメン!いつもあまりにすぐ察せられちゃうから、たまには意地悪く言葉少なめに言いたくなっちゃうんだ。許してね?…その省いた言葉を足して、改めて言うと…上質な文章と内容って事なんだ」
「…上質な文章と内容…」
私は義一の言葉を、ただおうむ返しをした。…うーん。意味は分かるし、言いたい事も分かる気がするけど、言葉にしようとすると困ってしまった。
そんな私の心中を察したか、義一は優しく微笑みながら解説した。
「…あまりに抽象的すぎて、中々意味を掴むのが難しいよね?でも今から話すことを聞いたら、合点がいくかも知れないよ?僕と琴音ちゃんが同じ考えならね?…じゃあ説明してみるとね、少し脱線しちゃうんだけど…」
義一が語尾を伸ばしながら私の顔を伺ってきたので、私は苦笑混じりに答えた。
「…義一さんが脱線するのはいつものことでしょ?いいから先を話して?」
義一は返事を聞くと、頭を掻きながら話を続けた。
「あはは、ありがとう琴音ちゃん。じゃあ遠慮なく話すとね…偉そうに言うと教育についてという話になるんだ」
「うん」
私は構わず話して欲しいという意思表示のつもりで、短く相槌を打った。
「というのはね、今の教育があまりにもガタガタだからなんだ。…お粗末とでも言うべきか。あるアメリカの教育学の先生がこんな事を言ってたんだ。『最近有名大学を卒業した社会人で、面白い奴らがいなくなった。中学高校時代から進学競争をしていく中で、一点の差で一喜一憂していくうちに、酷く打算的に動き回る様になっている。試験でいくら良い点を取ろうが、創造力、思考力には何の関係もない。道徳性を身に付けないから、価値判断能力が無いに等しい』ってね?後もう一つ言っていたんだけど…」
「それは?」
私は義一が話し始めた時に、カバンから一枚一枚切れるメモ用紙を取り出し、ペンでメモを取っていた。義一に教わった中の一つ、議論をする上での技術だった。今では私も、何かあるとすぐにメモを取る習慣が身についていた。義一は続けた。
「それはね、こうだった。『1960年代の学生達は、自分が何をやりたいのか分からないけど、“idea of goodness”つまり“真善美”、自分に何が可能かを試すために入学してきた。でも最近入学してくる学生達というのは、人から”successful ”に、つまり“成功者”に見られているかどうかを気にする。基準はあくまで他人。そんな輩が卒業して、括弧付きのエリートとして政治の中枢に入り込んでいく。ペラペラペラペラ口が回るけど、その時その時良い事だろうと悪い事だろうとそんな価値基準はどうでも良くて、いかに自分の支持が増えるかどうかという考えで、発言をコロコロ平気で変える。しかもタチが悪い事に、本人は上手く状況に適応して立ち回ってる気になっている。勿論本人は罪悪感など微塵も感じていない。結論としては、何が善かという価値基準を一切持たない偽善者が世に蔓延っている』と嘆いていたんだ」
義一はここまで言い切ると、落ち着く様に紅茶を啜った。私はウンウン頷きながらメモを取っていた。それを見返しながら義一に話しかけた。
「…なるほど。いや、その先生の意見は本当に心から同意するけど、それと“上質な文章と内容”がどう繋がるの?」
「ふふ、そうだねぇ…。君が同意してくれたから、話しやすいんだけど…」
義一は持っていたカップを置くと、また話し始めた。
「さっき紹介した先生の意見、要は僕と琴音ちゃんが話した事に結びつけると、こうなると思うんだ。何でそんな上部ばかりを気にする、空っぽな個人が増えているのか?それはね?…一口に言えば教養というものを一切身に付けていないからなんだ」
「教養…」
私は呟きながら、紙に新たに書き込んだ。
「そう、“教養”。この先生の言葉に僕が付け加えるなら、道徳的価値基準が無ければ、どこに向かっていけば良いのか、目標とすべきゴールを定められないって事なんだ。今の時代、確かに技術は進歩して便利な世の中ではあるんだけど、何のために進歩をしているのか、本当に必要なモノを作り出し生み出しているのか、基準が無いために矢鱈めたらにデタラメしているんじゃないかと思うんだ」
「…なるほど」
私はメモをつけ終えると、それを見ながら返した。
「道徳って今まで何だろうと思ってたけど、こんな意味合いがあるんだねぇ」
「そう、一例としてね」
義一は私の反応に嬉しそうに返した。
「昔十九世紀にフランスで外交官をしていて、保守思想家でもあったトクヴィルって人は、道徳、つまり伝統についてこう言ったんだ。『もし伝統を手放してしまうことがあったなら、それは真っ暗な夜道をランプを持たずに彷徨う事に等しい』ってね」
「…あっ!ちょっと待って」
私は相変わらずメモを取っていたが、疑問点を見つけたので突っ込む事にした。
「軽く流されそうになったけど、何で道徳と伝統を同じように扱ったの?」
私がそう聞くと、義一は思惑通りにことが進んで嬉しいといった調子で、笑顔を顔に浮かべていた。
「…やっぱり!君なら突っ込んでくれると思っていたよ。これは道徳とは何かって話になるね…よっと」
義一はおもむろに立ち上がると、書斎机から同じようにメモ用紙を持って来て、そこに“道徳”と、その英訳“moral”と書いた。そしてその下に“mores”と“morale”を書いた。私はその様子をジッと固唾を飲んで見ていた。正直まだ何が書かれているのか、そしてそれがどう関係しているのかサッパリだったが、いつも義一の話には知的好奇心をくすぐられるナニカがあった。
この時も小難しい話なのに、ワクワクが止まらなかった。
「これは勿論琴音ちゃんを見縊ってるんじゃないと、誤解しないで聞いてくれると思うけど、道徳というのは、中々大人ですら表面的なことしか述べられないから、先に僕なりの意見を話させてもらうね?…僕のいつもの癖で語源からたどるのを許して欲しい。ここに書いた”moral"と“mores”と“morale”。これは全部関連語なんだ。moralは言うまでもなく道徳のことだよね?」
「うん」
「で、このmoresという言葉の意味は”習俗、習慣”の意味なんだ」
「へぇー…あっ!」
私はこの時点で気付いて思わず声を上げた。義一も私の様子を見て、察したのに気づいた様に微笑ましげにこちらを見てきたが、そこには特に言及せず先を続けた。
「でね?あと一つのmorale。これは士気やる気って意味なんだ。これらを繋げて言うとね?」
義一は紙に書いたこれらの単語を、矢印で円環させて言った。
「道徳とはその国民の歴史に培われた習俗習慣、今までの話に絡めれば伝統も入れて良いと思うけど、それらの中に具体的にでは無くとも、少なくとも方向を指し示されてるモノと言えると思うんだよ。で、この道徳が無いと目標が示されないばかりに、士気やる気が湧いてこないとも言える。人間何か目標が無いのに、活力豊かに走り続けるなんて不可能だからね。例え抽象的でアヤフヤな物だとしても、目標は必要不可欠だから。…今までの話が全部連関しているのが、君なら分かるよね?」
「うん、分かるよ」
私は義一のメモを見ながら答えた。相変わらず義一の話を聞くと、頭の中が綺麗に整頓されていく感覚に陥る。清々しい晴れやかな気分だ。
義一は私の返答に、それ以上は何も聞かず、ただ笑顔で頷くだけだった。
「…でも面白いなぁー言葉って。前々から義一さんがそうやるのを見て聞いてきたけど、私達普段何気無く言葉を話しているけど、こういう話を聞くと何も知らないで話してたんだって気付かされるよ。ドーデの話じゃ無いけど、やっぱり言葉って大切なんだねぇ」
私がしみじみ言ったのを聞いた義一は、また知的好奇心に満ちた無邪気な笑顔を見せて、私の言葉の後を続ける様に話した。
「…なんかいつも通り、どんどん主題から離れて行っちゃうけど、大事な話だから今の話に補足すると…そう!今君が言った通りだよ。何しろ言葉というのは大昔から使われてきて、しかも色んな当時の人間たちの思いが込められているわけだからね。それを今生きる僕たちが、蔑ろにして良い資格なんか有りはしない。少なくともそんな不遜な真似は、僕は出来ないね」
そう言い切った義一の表情はあくまで穏やかだったが、目の奥には静かな苛立ちが見て取れた。静かに怒っていた。しかし、ふと気まずそうな苦笑いを浮かべて、今度は本に軽く手を乗せながらまた話し始めた。
「ここで漸くスタート地点に戻ってきた。…何で琴音ちゃんに、僕なりの共通点、”上質な文章と内容”の本を読んで貰っていたか。…今までの話を含めながら言えばね?…いや、まず僕の琴音ちゃんに対する願いから言った方が良いかな…」
トントン。
話し途中で不意に考え事に耽り出したので、私は何も言わずペンでテーブルを叩いた。義一は途端にハッとし、呆れ顔の私に照れ臭そうに笑いながら、先を続けた。
「…あっ、ゴメンゴメン。また思考の海にダイブしちゃってたよ。えーっと…うん、まず君に願う事は今のことで言えばただ一つ、それは…今の空虚な教育に毒されないでって事。理由はさっきアメリカの先生を引き合いに出したから分かるよね?」
「…うん」
「あまりに非生産的で打算的なクダラナイ人間…いや、人間と呼ぶのもおぞましい、今生きる大多数のナニカになってしまうのは、見るに忍びないんだ。…たとえキツくともね」
「…」
私は両手をテーブルの上で軽く組ませながら、静かに、真剣に義一の話を聞いていた。
「これ以上はしつこいってきっと言われるし、しつこく聞くと君の事を”自律”した一人の”人間”として見てないことになってしまうから言わないけど、覚悟を持って生きていくとしたら、今まで話した”道徳”を身に付けなければならない…でもね?」
先生モードの義一の目は、パッと見静かで表情がなさそうだったが、どこか眼光が鋭く何物よりも熱く感じた。
「これも今まで話した事だけれど、今生きてる人間達、つまり大人達に子供に道徳を教えられる様なのは、残念ながら一人もいない。…僕を含んでね」
「…」
私は正直慌てて訂正を入れたかったが、義一が受け入れてくれなそうだったので止めた。
「…で、辛うじて代わりになってくれそうなのが、過去の本達…つまりは”古典”というわけさ」
義一はいつだったか前にもした様に、壁一面の本を見渡しながら言った。
「…前にも同じ事を話していたね?」
私も同じ様に見渡しながら言った。当然これは嫌味などでは無かった。心情からいえば、一切ブレずに同じ事を言っているのを、大袈裟に言えば賞賛している意味合いだった。
義一はそれを知ってか知らずか何も突っ込まず、ただ目元を緩めて見つめてくるだけだった。余計な事と知りつつ、敢えて義一の心を代弁すれば『僕の言葉をここまで真面目に聞いてくれて、しかも約三年前の話を覚えてくれてるなんて…』と変なところで卑屈だから、思っていたに違いなかった。
義一はそのままの表情で続けた。
「そう、結局全部繋がっているからね。…だから古典の時代、一生懸命に生きなければ生き残れなかった時代、その時代に書かれた文章や内容には大袈裟じゃなく、何か生命の力強さの様なものが沢山含まれている。…生きるためのヒントがね。大昔に書かれたはずなのに、今読んでも新鮮さを失っていない。まるで今生きてる人が書いたかのように。…僕の個人的な見解だけど、そんな上質な本、特に十九世紀に書かれた本を中心に、最低でも十代のうちに読んでおくことが大事だと思うんだ。今の空虚が蔓延している”空気”に毒されないためにね。だから…」
「私にそれらの本を読ませたのね?」
私は淡々と口を挟んで答えた。目元を緩ませながら。
「まるで義一さん、あなたがそうしてきたように…」
私がまた小学校時代の話を引っ張り出したので、なるべく変えないようにしていたみたいだが、義一の表情は喜びに満ちていた。
「…そうだね。参考までに僕と同じ意見の人を捕捉的に入れるとね、その人はこう言ってたんだ。小学校までは”国語”を中心に、中学校は”歴史”を中心に、高校まで行くと”思想”を中心に学ぶべきだってね。勿論中学に入ったら国語をやめても良いなんてことじゃなくて、国語を続けた上で歴史を学ぶみたいに、段々重層的に積み上げていくイメージなんだけどね。…僕はここまで厳密にしなくても良いとは思うけど、ただ考え方自体には賛成なんだ」
「…なるほど、義一さんが言いたかったのは私が中学生になったんだから、そろそろ次のステップ、歴史の本を中心に読んで見たらどうって事ね?」
私は得意満面に言い切った。ここまで長い前置きを話されて、間違いようがなかったからだ。義一も満足げにウンウン頷いている。
「だから今日からは、歴史の本も一緒に借りて見てよ?…もし良かったらだけど」
と義一は若干挑戦的な視線を向けてきながら言った。そんな真似をしなくても、私の心、決意はとっくに固まっている。
「勿論!遠慮なく借りていくわ。…ただ」
「ただ?何かな?」
義一が不思議そうに聞いてきた。私は溜めてから、ニヤケつつ言い切った。
「…ちゃんと今度は、何故歴史が大事かを教えてね?」
義一は何事かと構えていた様だったが、私の言葉を聞くと途端に笑顔で返した。
「…あはは!うん、勿論!」
それからほんの一瞬そのまま見つめあったが、どちらが先とも言えないくらいに同時に吹き出し、笑いあったのだった。
この日はまだ時間があったので、久しぶりにたっぷりとピアノを弾こうとカバーを外した。義一は私が準備している間に、新たに紅茶を入れ直し、ピアノの側にテーブルごと近づけた。私が飲みやすいようにだ。これも毎度のルーティンだ。この日はショパンの協奏曲ホ短調の第一から第三楽章の、ピアノが盛り上がる所を弾いて見せた。義一用の短縮バージョンだ。当然義一はこれらの元を知っていたが、私なりの編成を面白がりながら聞いてくれて、褒めてくれた。いつも褒めてくれるから、逆に不安になる事もあったが、素直に嬉しいので受け入れるように努めるのまでが日課だ。
細かい話はともかく弾き終えると約束通り、新たな小説と一緒に歴史の本を借りて帰った。当然ながら、いつもよりもカバンがズッシリと重かった。でも心は晴れやかのまま家路を急いだのだった。

第17話 花火大会

「おっそーい!」
裕美は私にジト目を送ってきながら苦情を言った。
今日は八月の初旬。雲一つないピーカン照りの真夏日だ。裕美のマンション前に来ている。裕美は白地に英語の書かれたTシャツに、膝より気持ち短い花柄のスカートを穿いていた。キャップを被っていたが、少し伸びた髪がのぞいていた。小学校の頃と比べるとだいぶ伸びていた。尤も”ショートレイヤー”と飛ばれるような、前髪を長めにとって、長い部分と短い部分の段差を付けたスタイルだった。元々可愛い系だった裕美に、よく似合っていた。対する私は、ギンガムチェックのバルン袖に白のサロペットを合わせたのを着ていた。ゆったり目の服だった。それにいつもの、小学校時代から愛用している麦わら帽をしていた。
私は時計を見ると、待ち合わせの五分前、昼の一時前だった。
「…予定より早いくらいじゃないの?」
と私もジト目を返して言った。すると裕美はほっぺを膨らましながら答えた。
「あのねぇー、私みたいな可憐な女の子を炎天下にいつまでも待たせたら、そのうち天罰が下るからね?」
「…何が”可憐な女の子”よ。私と比べ物にならないくらいに体育会系のクセに」
「ヴっ…それを姫に言われたら、何も言い返せないわ」
「誰が姫よ、誰が」
このような一連の儀礼(?)を済ますと、顔を見合わせ笑い合い、早速絵里のいる図書館へと向かった。絵里と会う約束をしていたのだった。いつだったか…そうそう、もう覚えられていないかも知れないが、初めて私と義一と絵里とでファミレスに行った時と、状況としては同じだった。どういうことかというと、絵里は今日仕事で図書館にいるというより、あの時と同じで、ただ整理しに寄っているだけだった。つまり休みというわけで、この日がたまたま三人共暇な日だったから、絵里の整理が終わり次第久しぶりにお家にお邪魔することになっていた。話じゃ一時頃には大方片付いているという話だった。
「…焼けたわねぇ」
私は露わになった裕美の腕を見ながら言った。褐色色に万遍なく焼けていた。健康的な色だ。
「…そういうアンタは変わらず真っ白ね?」
裕美も私の腕を見ながら言った。そして私と自分の腕を重ね合わせた。確かに自分でも不健康に思える程真っ白だった。
「…そうねぇ、ほとんど部屋でピアノを弾くか、読書するかしかしてなかったからねぇ」
「…ずるいなぁー」
裕美は両手を頭の後ろに回しながら、ため息交じりに言った。
「何がずるいのよ?あなたの方が夏を満喫してるじゃない?」
「…まぁ海に行ったりしたけど」
前に小学校時代の友達と、久し振りに集まって海に行ってきたことを教えてくれていた。
裕美はなぜかブー垂れながら返してきた。
「…そりゃそうだけどさぁ、アンタの肌ってモデルの人みたいにきめ細やかで、真っ白って言っても”キレイな”白さじゃない?透明感のある」
恐らく裕美は口調は腹立たしげだが、褒めてくれている事はわかっていたが、正直モデルも芸能人も、ましてや服装にすら同年代と比べると興味が無いせいで、何一つピンと来なかった。
「…よく言ってる意味が分からないんだけど?」
「…はぁ、もういいわよ」
裕美は心底呆れたといった感じで、苦笑交じりに言った。私は一人首を傾げていた。
その後図書館に向かう途中、裕美の海に行った話になった。
「…でね?友達の水着姿を見たんだけど、みんな線が細くて女の子らしかったの」
「…へぇー」
私は相変わらず、裕美の”女子トーク”に馴染めずにいた。それには構わず裕美は先を話した。
「…でもほら、私ってさぁ」
裕美はテンションを下げて、自分の方から腕にかけて手で摩りながら言った。
「肩幅あるし、腕も筋肉付いてるから太めじゃない?だから友達と隣にいると、少しだけ恥ずかしい…いや、恥ずかしいわけでは無いけど…うん、そうだったのよ」
何だか最後の方は、裕美にしては珍しく歯切れ悪く話していた。私はやはり意味が分からなかったので、当然のように疑問をぶつけてみた。
「…ふーん、それって何が恥ずかしいの?」
「…出た」
裕美はあからさまに眉を顰めて見せながら言った。勿論冗談だった。
「またアンタの”なんでなんで攻撃”が」
すっかり裕美とヒロの間で、この名称が定着してしまっていた。私はこれが学園の藤花、律、紫にまで広まらないことを祈るばかりだった。…が恐らく時間の問題だろう。私も”なんで”を自粛しなくてはいけないわけだけど、ボロが出るのは分かりきっていた。
「だっていいじゃない?あなたが水泳を頑張って出来た結果なんだから。誇りに思うことこそあっても、恥じる必要なんて微塵もないじゃない?」
私がそう言うと、裕美は苦笑交じりにうなじ辺りをさすっていた。どうやら照れているらしい。
「…アンタはホント、そんな恥ずい事を臆面も無く言えるよねぇ?感心するわ」
「…褒めてるのそれ?」
「褒めてる褒めてる」
裕美は今度はニヤケながら答えた。私はイマイチ合点が行かなかったが、今度は私が裕美の様に、肩から腕にかけて摩りながら言った。
「私もピアノの特訓の成果が出てきたのか、肩幅と腕回りが逞しくなってきたのよねぇ」
「…ほーう、どれどれ」
裕美は手で望遠鏡を模して、そこから私の腕を覗き込んできた。そしてすぐに目を外すと、なんとも言えない、微妙と言いたげな顔をしてきた。
「…今まで気付かなかったけど、アンタって確かに肩幅は意外とあるわねぇ。…腕はそうでもないけど」
「え?…そーう?」
私は自分の腕を見つめながら、渋々返した。
「結構筋肉付いたと思うんだけどなぁ…」
「…ぷっ」
私が不満げでいるのが可笑しかったのか、裕美は隣で吹き出していた。
「…アンタやっぱり変わっているわ。普通の年頃の女子なら、むしろ喜ぶところだと思うけれど」
「…うーん、分からない」
私は大げさに腕を組み、首を傾げてみせた。それを見て尚更愉快といった調子で言った。
「まぁアンタはそのままでいてよ!そうでなきゃツマラナイもの」
「…何よそれぇ。私はあなたを楽しませる為に、大きくなったんじゃないのよ?」
「あははは!」
「いや、『あははは』じゃ無しに」
…こんな雑談をしながら、焼けるアスファルトの匂いを嗅ぎつつ、日陰の少ない図書館までの道を歩いて行った。

丁度中間地点、後五分のところまで来たところで不意に後ろから、自転車のベルをけたたましく鳴らしながら近づいて来る者がいた。裕美は思わず振り返っていたが、私は振り返らなかった。存在するだけで騒がしい人間は、私の周りにそうはいなかったからだ。
「…よっ!お二人さん」
「久しぶり!ヒロ君!」
裕美が明るく声を掛けていた。裕美が立ち止まったので、私も立ち止まらざるを得なかった。そして振り向き、苦々しげな表情で挨拶した。
「久しぶりね、ヒロ」
ヒロは真っ白な野球のユニフォームを着ていた。肌が褐色どころか真っ黒に焼けていたので、そのコントラストが映えていた。そのユニフォームの胸元に地元の中学校の文字が、ローマ字で書かれていた。自転車の籠の中には収まりきっていない黒のスポーツバッグとグローブ、背中にはバッドの入ったケースを下げていた。
ヒロは入学した地元中学の野球部に入っていた。そして小学時代に所属していた野球チームにも在籍していた。二足の草鞋だ。中々話を聞いてる限りではキツそうだが、本人は持ち前の能天気っぷりで、『周りが笑おうとも、己の限界に挑戦するんだ!』と息巻いていた。聞いた時直ぐに、律のことを思い起こしていた。前にも言ったように、律も子供の頃から在籍している地元のバレーボールクラブを継続しつつ、学園の部活にも入っていたからだ。私の周りには、根性の座った体育会系が揃っていた。当の本人は文化系だというのにだ。不思議な縁もあるもんだと、他人事のように感心していたのを思い出す。ついでといっては何だが、小五までは私の方が背が高かったのに、中学に入ってとうとう抜かれてしまった。…まぁそれだけだ。
「あなたはこれから練習?この暑い中」
私は大袈裟に手で団扇の真似事をして、パタパタして見せながら聞いた。するとヒロも私の真似をして、パタパタさせながら答えた。
「おうよ!これからこのクソ暑い中練習さ。今日は学校の方のな。…お前らはこれからどこに行くんだよ?」
「私達?私達はこれから図書館に行くところよ」
「…えぇー」
ヒロは私の言葉を聞くと、大仰に上体を仰け反らせて、目を半目にしながら見るからに引いて見せた。 そして一度空を見上げて、視線を私達に戻してから言った。
「こんないい天気だってのに、お前らは図書館なんて退屈な所で過ごすのかよぉ?せっかくの夏休みなんだし、もっと有意義に過ごそうぜ?」
「…あなた、”有意義”なんて日本語、いつの間に覚えたの?」
私はヒロの嫌味を無視して、心の底から感心した風に返した。ヒロは野球帽を取り、苦笑交じりに頭を掻くばかりだった。と、先程からクスクス笑っている裕美の方に視線を移すと、不思議そうな顔で聞いていた。
「…まぁ、本の虫であるインドア派の琴音は分かるけど、なんでバリバリ体育系の裕美まで一緒に行くんだよ?…あっ!アレか?」
ヒロは上体を倒し、裕美に顔を近づけながら言った。
「…琴音に何か脅されているのか?…あっ!いてててて!」
私が横からすかさず耳を引っ張ると、ヒロは大袈裟に痛がって見せて裕美から離れた。裕美はヒロが近づいて来た瞬間ビクッとしていたが、離れると息を整えて、落ち着きを取り戻してから笑顔で答えた。
「…ふぅ。…あっ、いやいや、違うよ!私も図書館に用があって行くの!…それに」
裕美は私に視線を流しながら言った。
「私が琴音に脅される心配なんてないわ!」
「そうか?なら良いけどよ」
「…どうそれに反応したら良いのよ?」
皆一様の反応を示した後、炎天下の中仲良さげに笑いあったのだった。

「…あっ!そっか!」
ヒロはまた下らないことを思いついた表情を浮かべた。そして裕美にニヤケながら言った。
「…なるほど、あまりに暑いから図書館に涼みに行くんだな?」
「へ?」
裕美は呆れを通り越したキョトン顔だ。ヒロは構わず続けた。
「そうだろ?だってじゃなきゃ、お前が進んで図書館に行く訳がないもんな?」
「…ねぇ琴音?」
ヒロが一人愉快になっているのに対し、裕美は無表情で私に顔を向けて来た。
「…私も耳を引っ張っても良い?」
「…思いっきりやってあげて頂戴」
私は意地悪くニヤケながら言った。すると裕美は言った割には、初めは少し遠慮がちにしていた。
それもそうだろう。普通同い年の男子の耳を、引っ張る経験はそうは無いからだ。というよりも耳に限らず、そもそも体の一部に触る事自体が無い。抵抗あって然るべしだろう。逆に言えば平気な私は、ヒロに対して男女という関係を超えるほど、近付き過ぎてるとも言えた。それを証拠に、仮にヒロ以外の男子の耳を触れと言われても、平気で触るような情景を思い浮かべられなかったからだ。
しかしすぐに裕美はオドオドしながらヒロの耳を触って、横に強目に引っ張った。
「いてててて!」
ヒロはまた大袈裟に痛がりながら、横に倒れそうにしていた。
「私だって琴音と同じ学校に通っているんだから、同じ扱いしてよねぇ?」
「わ、わかった!わかったからもう離してくれー!」
「あははは!」
私は一人愉快にそのやり取りを見て、笑うのだった。
「…いってぇー。…これだから体育会系のゴリラ女は」
一連のやりとりが終わり、ヒロは耳たぶを摩りながらボソッと言った。
「ん?何か言った?」
裕美は無表情で、右手で何かを摘むような形を作った。
「い、いいえ、なんでもありません」
ヒロは怯えて見せながら、耳全体を手でガードした。私はさっきから笑いっぱなしだ。
「…はぁーあ、じゃあ私達もう行くから」
「あっ、そうね。じゃあまたね、ヒロくん」
私達はそのまま行こうとすると、ヒロは今まで跨いでいた自転車から降りて、手で押しつつ、何も言わずそのまま後を付いて来た。
「…何で付いてくんのよ?」
私はすかさず後ろを振り向き、ヒロに文句を言った。が、言われた本人はヘラヘラしている。
「俺もたまには図書館寄ってみようと思ってよ!」
「ヒロくん、時間は大丈夫なの?」
裕美が当然の疑問を投げかけた。ヒロはしてもいないのに、腕時計を見るフリをしながら答えた。
「おう!練習は二時からなんだけれどよぉ。家にいてもつまんないから、早めに出て、グランドで自主練でもしてようかと思ってたんだけどさ。さっき自分で言ってて、図書館に行くのも悪くねぇと思ってよ」
「…あなた、涼みに行くだけなのね」
私は蔑みの目でヒロを見ながら、トーンを低めに言った。ヒロは相変わらずヘラヘラしている。
「まぁ、良いじゃねぇか!どっちにしろ、方向は同じなんだからよ?」
「…はぁ、勝手にしなさい」
私は根負けして、ヒロの同行を許す羽目になった。…小学時代もそうだが、夏休みによくコイツと遭遇している気がする。…そういう運のない星の元に生まれたのかしら?
こうして三人で、夏休みの過ごし方を含む雑談をしながら歩くと、あっという間に図書館に着いた。 ここは昔から変わらない見た目で、本物かイミテーションか分からない、赤レンガ風な外壁が、太陽の光を目が眩むほどに反射していた。周りに遮蔽物が無いせいで、日当たりが良過ぎた。冬場だったらありがたいのだけど。
早速私を先頭に正面玄関から中に入った。自動ドアが空いた瞬間、中の冷気が火照った素肌に纏わり付くように吹き付け、今まで熱気の中を歩いて来たせいか、体感温度は実際よりもひんやり低く感じた。ここに夏場来る時は、この一瞬が幸せに感じる一時だった。
私の後に続き裕美、ヒロの順に中に入った。ヒロは早速帽子を脱ぎ、坊主頭を晒して、手でパタパタと顔に向けて扇ぎながら、大袈裟に深呼吸をして見せた。
「…おぉー、すっずしいー!たまには来て見るもんだな?」
「シッ!声が大きい」
私は早速指を口に当てて、ヒロを制した。あまりにも想定内過ぎるリアクションに、呆れるばかりだった。ヒロはこれまた大仰に両手で手を塞いで見せた。息苦しそうなのもセットだ。私はそれを無視して、絵里の姿を探した。が、姿は見えなかった。
私と裕美は会員証を持って来ていたので、奥の専用ブースに行けたが、なんせ今回は余計な邪魔者が居たせいで行けなかった。…いや、私はコイツを無視して中に行こうとしたが、何も言わずとも察したらしく、裕美が私の腕を軽く触りながら、懇願の視線を送ってきた。私は予想外のリアクションをされたので、受け入れる他になかった。
一般向けに開放しているブースの、窓に面した五人がけのテーブルに座った。ヒロは大きなスポーツカバンを床に置き、何も言われなくとも裕美の横に座った。これは私とヒロの習慣のようなもので、まず二人でテーブルに座る時は向かい合って座っていた。…まぁ習慣ってほどのことじゃなく、当たり前と言えば当たり前の事だけれど。
ヒロが隣に座ったと同時に、急に裕美は立ち上がり、私とヒロの分を含む図書館から無料で提供されていた麦茶を取りに行った。言ってくれれば、私が行っても良かったのに。
なんて事を考えていると、器用に三つの紙コップを持って戻ってきた。そして丁寧に私とヒロの正面に置いていった。
「おっ、サンキュー!」
「ありがとう」
「いーえ」
裕美は笑顔だったが、何処かぎこちなくヒロの隣に戻った。そしてそれぞれ麦茶を飲んだ。
それからまた、ここに来るまで話していた雑談の続きを始めたが、不意にヒロが意味がわからないといった顔で、私達に聞いてきた。
「…ん?あれ、お前らってここに本を読みに来たんじゃないのか?さっきからお喋りばかりして」
「あぁ、それは…」
と裕美が言いかけたが、私も同時に言ったので一瞬お互いの顔を見合わせた。でもすぐ裕美が私に譲ってくれたことが分かったので、そのまま答えることにした。
「…あなたが図々しくここまで付いて来るとは思っていなかったから、話すつもりが無かったんだけど…まぁいっか?実はね、今ここで人と待ち合わせているの。でね、その人とお喋りする事があるから、来たのよ」
「え?誰だよ、その人って…あっ!」
ヒロが何かに気付いて、目を見開いた所を見たのを最後に、目の前が真っ暗になった。目の周りに手のひらの生暖かな温もりを感じた。何も言わずともすぐ分かる。
「…絵里さん、いつから私達の挨拶が相手の目を隠すことになったの?」
「あっちゃー…バレたか」
そう言うのと同時に手を私から外して、私の隣に座って来た。当然絵里だった 。
絵里はいつの間にか、自分の分の麦茶を用意していたらしい。わざわざ私に目隠しをするために、お茶を隣のテーブルに置いていたらしかった。それはまたご苦労な事だった。こんなくだらない事で。
今日は首元がザックリ空いた、肩の上部まで見えるほどのワインレッドの半袖カットソーに、紺色のパンツを履いていた。
絵里は座ると麦茶を一口飲んでから、裕美にも挨拶をした。
「裕美ちゃーん、久しぶりー。元気にしてた?」
「はい、ボチボチと」
裕美は明るく答えた。
「そっかぁ、ボチボチかぁ…うん、ボチボチ、程よくが一番だね!…ところで」
絵里は視線を横にずらして、なぜか落ち着きの無い様子を見せているヒロに向けながら聞いてきた。
「そこの如何にもな野球少年は誰かな?…あっ!もしかしてー…」
裕美が語尾を伸ばしながら視線を送ってきたので、私は半目でジロっと見返しながら、静かに答えた。
「…絵里さん、いくら寛容な私でも、怒る時は怒るんだよ?」
「え?いつあなたが寛容な時があったの?」
絵里は冗談で返してきたが、つまらなそうだった。私は私で、当人は恋バナが苦手なくせに、すぐ性懲りも無くそっちに絡めて来る絵里に呆れていた。
そんな私を尻目に、今度は裕美に聞いていた。
「なーんだ、ツマンナイ…じゃあ、裕美ちゃんだ」
「…え?何がですか?」
裕美はテーブルの上で、紙コップを両手で包むようにしていたが、絵里の質問の意図に気付いてない様子だった。絵里が畳み掛けた。
「だーかーらー…彼って裕美ちゃんの彼氏?」
「…へ?」
「ぶっ!」
裕美は間の抜けた声を漏らし、その隣でヒロが吹き出していた。私は何だかんだニヤケながら、一連の流れを見守っていた。
「え、絵里さん!急に何言い出すんですか!?」
「裕美ちゃん、シーーーっ」
絵里は裕美の抗議には取り合わず、裕美の口元に指を当てて制した。裕美はすぐに大人しく言う事を聞いた。
「急に何言うんですか?」
裕美は小声だったが、それでも頑張って大きな声を出している感じだった。
「そ、そうですよ。コイツらと俺とはそのー…何なんだ、俺たちは?」
ヒロは自分から答えようとしていたのに、わからなかったらしい。私に救いを求めてきた。
私はヤレヤレと首を横に振りながら、教えてあげた。
「あのねぇ…まぁ、いわゆる幼馴染ってヤツじゃ無いかしら?」
「あっ!そうそう!それそれ!」
ヒロは一人合点がいったと、私に指をさしてきながら言った。私はその指を腕ごと無言で退かした。
「へぇー…幼馴染ねぇ。…えぇっと、君の名前は…」
「あっ!自分は森田昌弘って言います!第二中で野球部に所属しています!」
ヒロは珍しく場を弁えた挨拶をした。絵里はヒロの礼儀正しさに一瞬きょとんとしていたが、すぐに明るい笑顔になって、私に話しかけた。
「結構良い子みたいじゃなーい?あなたと裕美ちゃんとの会話を聞く限り、べらんめぇ口調だったけど、礼儀正しいし」
「…外面が良いだけのカメレオン男よ」
「おいおい、余計なことを言うなよぉ」
ヒロが不満げに口を尖らせながら言った。ヒロ以外のその場にいた私達は、小さく笑いあったのだった。
でもこの時、私はあることに気づいていた。それは、絵里が裕美とヒロを見比べて、口元はにやけながらも、目元は柔らかく緩ませていたのを。ただ何故か後になっても、絵里に直接なんであの時、あんな表情で二人を見ていたのかは聞けなかった。

「さてと!じゃあ早速打ち合わせをしますか?」
「うん」
「さんせーい!」
絵里の問いかけに、私と裕美が答えた。
そばでヒロが居心地悪そうにしていたので、言ってあげた。
「ここからは女だけの話なんだから、あなたはもう帰って良いよ?」
「言い方ひでぇなぁ…あっ!すみません、今何時ですか?」
「え?今?そうねぇ…」
ヒロがわざわざ腕時計をしている私を無視して、絵里に時間を聞いていた。絵里は図書館内の、壁に掛けてある時計を首を伸ばすように見た。
「今は大体一時四十分くらいだけど」
「え!?あっ、ヤッベェ」
ヒロは途端に慌ただしく荷物を整頓し背負うと、急に立ち上がった。そして私と裕美を交互に見てから言った。
「じゃあ二人共、またな!また連絡するぜ!」
「ハイハイ」
「うん」
ヒロのテンションとは裏腹に、私と裕美はあくまで冷静に返した。
「じゃあ、えっとぉ…失礼します!」
絵里に対して何か言いかけたが、口をつぐむと慌てて出て行こうとした。が、何を思ったのか、絵里がヒロを呼び止めた。
「…あっ、そうだ!ちょっと良い?」
「は、はい?」
ヒロは出口付近でこちらを振り向き、絵里の元に戻った。
「な、何すか?」
「いや、大したことじゃ無いんだけど…」
絵里は俯き言葉を一度溜めたが、すぐに顔をあげてヒロを直視し、何事かとオドオドしているヒロに向かって、笑顔を向けながら聞いた。
「私も琴音ちゃんや裕美ちゃんみたく、君のことをヒロくんって呼んでいい?」
「へ?」
「え?」
「ん?」
あまりにも意外な問いかけに、ヒロ、裕美、そして私は声を漏らすだけだった。が、時間に追われていたのもあってか、ヒロはすぐに笑顔を返しながら答えた。
「あ、あぁ、全然構わないですよ!好きに呼んでください!」
その返答に満足したのか、絵里は一度大きく頷くと、顔中に申し訳なさを表しながら言った。
「ごめんねぇー、こんなことで呼び止めちゃって。…じゃあ、いってらっしゃい!」
「え?あ、はい、いって…きます?」
急に送り出されたヒロは、最後に謎の疑問形で返して、そのまま一目散に外へと出て行った。

ヒロの姿が見えなくなった後、早速私は絵里に聞いてみた。
「…今のって、何の意味があったの?」
「え?えぇっとねぇ…」
絵里は何故か裕美に視線を流しつつ、私の問いに答えた。
「まぁ特に意味が無いっちゃあ無いんだけど…あなた達二人が仲良くしている子とは、私も仲良くしたいからね。それで呼び方から入ろうとしたってわけ」
私は納得いくようないかないような、何とも言えないモヤモヤ感は否めなかったが、今までの絵里のやり方、私や絵里にいきなり下の名前で呼び、自分の名前も歳上だというのに下の名前で馴れ馴れしく呼ばせたりした経緯があったので、今の所は額面通りに受け取った。裕美を見ると、どうやら私と同じような感覚を持ち、そう結論に達したようだった。
そんな私達の心中を推し量らないまま、絵里は呑気に私の耳元に顔を近づけて、ボソッと聞いてきた。
「…ねぇ、随分前にギーさんとこに一緒に遊びに行ったって子は、あの子のこと?」
「…え?」
私は、よくそんな昔のこと覚えてるもんだと感心しながらも、またよからぬ誤解を受けそうな気がしたので、なるべく素っ気なく答えた。
「え、えぇ、そうよ」
「…そっか」
何故か私の返答を聞くと、意味深ともとれる優しい微笑を顔に湛えながら、短く息を吐くように言った。
「…もしもーし?」
とその時、向かいに座る裕美が半目で私と絵里を見ながら、無表情の声音で話しかけてきた。
「二人して何の内緒話をしているの?」
「いやいや別に大したことじゃないよ」
「そうそう、くだらない事を絵里さんが言いかけたから、文句を言ったってだけだから」
「あっ!何それぇー、ひっどーい」
「ふーん…まぁいっか」
裕美の大人な引き際の良さで、この場は上手く収まった。

「…で、やっと本題だけど」
絵里が新たにお代わりした麦茶を飲みつつ、切り出した。ヒロのせいで、何しにこうして図書館に来たのか忘れるところだった。
私達は会員証を使って、ゲートの内部に入っていた。そして普段は入らないが、いわゆる”パソコンルームへと案内された。ここはパソコン一台につき一部屋と区切られており、身長よりも高い壁で仕切られているので、個人情報などを気にせず気楽に利用出来るというので人気があった。
早速絵里が率先してパソコンの正面に座り、その脇を私と裕美で固めた。電源を入れて、ブラウザを開くと、一般的な検索エンジンのホーム画面が現れた。
「夏休み、何して遊ぼうか?」
絵里はキーボードに両手を置いたまま聞いてきた。私と裕美は上体を少し後ろにそらし、絵里の背中越しに顔を見合わせて、軽く頷きあってからまた上体を戻すと、まず私が口火を切った。
「…うーん、裕美とも色々と話したんだけれど、特にこれといって妙案は浮かばなかったのよねぇー…ね?」
「うん。思いつくことは思いつくんだけれど、どれも別に友達とすれば良いような事しか思いつかなかったから。…せっかく絵里さんと遊べるんだから、特別な事をしたいからねぇ」
と裕美は絵里の顔を覗き込み、無邪気な笑みを浮かべた。絵里は感無量といった表情を見せて、裕美の背中を矢鱈に摩りながら言った。
「…もーうっ!裕美ちゃんは本当に嬉しい事を言ってくれるんだからぁ」
「え、絵里さん、いたいいたい!」
そういう裕美の顔は、満更でもないようだった。私は特に気を止めず、ホーム画面の中に出ている”夏休み特集”と見出しを眺めていた。そして無線のマウスを手に持ち、そのままバーナーをクリックした。そこにはこれでもかってくらいに、夏休みのレジャー情報で溢れていた。二人も気づいて、何も言わずモニターを見つめていた。
「…どれも日帰りは厳しいなぁー」
いつの間にか絵里が私の(?)マウスを手に取り、率先してアレコレページを飛んでいたが、これといった情報には辿り着けていなかった。
「やっぱり遊ぶにしても、あなた達は中学に上がったばっかりだしねぇ。…親御さん達と話し合わなくちゃいけないけど、急に私みたいな何処の馬の骨とも分からない人に、すぐに信頼を寄せて預けてくれるとは到底思えないからなぁ…」
絵里はモニターを見つめながら、最後は独り言ともとれる調子でボソッと呟いた。
「…うーん、やっぱり難しいか…ん?」
私は絵里に賛同しかけたが、ふとそのページの上部に花火特集とデカデカな見出しが目に付いた。そこでハッとした。そして今更そこに気付くとは、私も何とも呑気でぼーっとした人間だなぁーっと一人自分に呆れながら、絵里に声をかけた。
「…ねぇ?別にどこか遠くに遠出しなくても良いんじゃない?例えばコレとか」
私は言いながらさっき見た見出しを直接モニターに指差しながら言った。それを聞いた絵里と裕美は、その”花火特集”に顔を近づけた。そして裕美は絵里の顔越しに私を見ると、明るい笑顔で話しかけてきた。
「…うん、良いわね!それにアンタが言ってるのって、毎年近所でやってる花火大会のことでしょ?」
「そう、その通り!」
私も笑顔で返した。
「確かにこの花火大会なら近所だし、母さん達の許しもいらない。それに絵里さんとって事考えても理にかなっているわね。何せこの花火大会は規模が小さいけど、その分地元民のお祭り感があるものね!」
「どう、絵里さん?小五からの約束が、漸く果たせそうよ」
「え?そうなの?」
裕美が聞いてきたが、私は軽く頷くだけで絵里の返答を待った。絵里は少し顎に手を当てて考えていたが、何か覚悟を決めたように目を見開くと、私と裕美を交互に見て、そしてモニターに目を戻しながら明るい調子で答えた。
「…そうねっ!私としては特別な夏休みの思い出を作りたかったから、何処か行けるなら遠出をして見たかったけれど、現実を見るとそれが一番良い案かもね!」
と最後に私を、いつもの悪戯っ子のような笑みで見てきた。正直私は気づいていた。何故絵里が逡巡していたのかを。絵里は口では遠出したいなんて無責任な事を言っていたが、それはブラフだった。いつもはすぐにおちゃらけて見せる絵里だったが、私達子供に対して持つ責任感は人一倍あった。何度も言ったが、何度言っても言い足りないので敢えてまた言うと、絵里はいつでも私の事を考えてくれていた。
だから私と義一、今回のことで言えば私と絵里が地元で遊び、それを誰かお父さんの病院関係者か、患者、はたまたただの知り合いですら見られたら、そこから巷間伝わって両親の耳に入り、要らぬ詮索が私に及ぶとも限らない 。そこまで考えての”遠出”発言だったのに、繰り返すようだが私は気づいていた。でも私も、地元の花火大会に行こうと言ったのは、確かに小五からの約束もあったが、もう一つの考えがあったからだ。
「でね、絵里さん。一つお願いがあるんだけれど」
「え?何よ琴音ちゃん?」
「それはね…」
私は一度溜めてから、少し控えめに言った。
「…その花火大会を、絵里さんのマンションから見たいの」
「…へ?」
想定外の提案だったのか、絵里は鳩が豆鉄砲をくらったような表情を見せた。
そう。絵里のマンションだったら、地元の人から見られる心配は限りなく少なかった。見られるにしても、絵里のマンションまでの話だ。後はずっと絵里のマンションにいれば良いのだから、大丈夫だろうという寸法だった。肝心の花火も大丈夫そうだった。この地元の花火大会は河川敷で行われていたが、絵里の部屋は角部屋で、二方向に向いていたベランダの一つが、土手の方を真正面に向いていた。絵里のマンションの周りには高い建物もなく、前にそこから外を覗くと、川に沿って走る高速道路が見えるほどに見晴らしが良かった。
それにベランダ自体も、絵里の部屋にあるテーブルを仮に出したとしても、まだ余裕があるほどのスペースがあった。絵里自身は前に、花火を見ずに音だけを聞いていたなんて言っていたが、見ようと思えば、こんなに良い物件は地元民と雖もそうは無かった。
「…だめ…かな?」
私は上目遣いに駄目押しをした。ふと裕美を見ると、私と同じようにしていた。思いは同じ様だった。
「…私も出来たら、絵里さん家から…見たいなぁ」
「…はぁ、あなた達には負けるわ」
絵里は最大限に苦笑いを見せて、ため息混じりに言った。でもその後すぐに、満面の笑みを浮かべながら続けた。
「私の所なんかで良ければ、歓迎するよ」
「ヤッタァーー!」
裕美は思わず立ち上がり、喜びを体全体で表現した。絵里は窘めようとして手を伸ばしていたが、すぐにその手を引っ込めると、苦笑まじりに裕美の様子を眺めていたのだった。

「じゃあこの日はせっかくだから、みんなで浴衣を着ない?」
「あっ、良いですねぇー!」
「うん、良いんじゃない?」
私達はネットで花火特集を次々渡り見ながら話していた。
「…あ、でも…」
私はふと、絵里に向かって不安点を指摘した。
「絵里さんって、浴衣持っているの?」
当然の疑問だ。まだ仲良くなって数年だが、絵里の行動範囲的に浴衣を着る機会など無さそうだったからだ。
絵里は不満げな表情を見せて、口を尖らせながら言った。
「なーに、それ?私がまるで浴衣を着る事なんてあり得ない、ガサツな女だとでも言いたいの?」
「え?あぁ、いやいや、”そこまで”は考えてなかったよ」
点々の所をワザと強調しながら答えた。
「…ちょっとぉー、全面的に否定してよぉー」
絵里は文句たらたらだが、口元はにやけていた。そして胸を張り、腰に手を当てながら堂々と言った。
「ちゃんとこう見えても”女”だからねぇー。…うーん」
「?」
途中から急に唸り出したので、私と裕美は揃って頭の上にハテナマークを浮かべた。
「どうしたんですか?」
「…まぁいっか…この二人になら…」
裕美が思わず心配げに聞いていた。これは恐らく、今になって絵里の家が使えなくなったのかを心配する風だった。そんな裕美の心配を他所に、絵里はボソボソ独り言を言っていたが、ふと何か決心した様子で、私達二人を見てから答えた。
「…よし!じゃあ二人共、後は私の家にいつ来るか時間を決めよう!」
「あ、う、うん…」
急にハイテンションな絵里に押されて、それからは雪崩式に次々とことが決まっていった。
待ち合わせ時間は五時半頃に決まった。花火大会の開始時間は夜の七時半だったから、早めの時間帯だった。提案してきたのは絵里だった。訳を当然尋ねたが、悪巧みしている様な笑みを浮かべるだけで、教えてくれなかった。まぁ当日になってからのお楽しみにしよう。
「さてと後は…あっ!」
絵里はパソコンの電源を落としながら、私達二人を見て言った。
「もし誰か誘いたい人がいたら、各人一人まで誘っても良いよぉ」
「…え?」
「ふふ、もしも”誰か”がいればの話だけどねぇ?」
絵里はネットリとしたイヤラシイ口調で言いながら、何故か最後は裕美に視線を流していた。こちらからは見えなかったが、絵里の目から何か察したのか、裕美は少し顔を赤らめて、口調もたどたどしく答えた。
「…は、はい…絵里さんがそう言うなら、”誰か”連れて来ます」
「…ん!よろしい!」
絵里は反対に底抜けに明るく返していた。二人だけに分かる空気感が辺りに漂い、私が付け入る隙が無い感じだった。
仕方がないので、私は私で誰かいないか考えて見た。
うーん…誰かって言われてもなぁ。ヒロは喧しくてイヤだし、なんか絵里さんに鼻の下伸ばしていたし…アイツは論外でしょ?…学園の子達も、絵里さんに紹介して見たいっていうのはあるんだけど…OBだしねぇー…でもさっき裕美が言った様に、これは私達三人が同じ地元にいるからって理由で決めたんだから、今更あの子達の中から呼ぶっていうのもねぇー…そもそも一人だし。全員がダメじゃ意味無いよねぇ…うーん誰か…あっ!
私はふと、一人の最重要人物を思いついた。裕美がどう反応するか、裕美と出会う事でどんな化学反応が起き、私の身の回りにどんな変化を及ぼすのか不安が残っていたけど、こうしたタイミングで話が湧いた事に、何か意味があるんじゃないかとこの時に思った。
「…うん、私も決めた」
淡々と言うと、絵里と裕美が勢いよく私の方を向いてきた。裕美の顔は興味津々といった感じだ。目の中がキラキラしていた。絵里はというと、裕美とは反対に呆気にとられていた。失礼な話、私は別に気にしないが、私が誰か連れて来る様な人がいるとは、思っても見なかったと言いたげだった。
「…えっ!琴音、アンタ花火大会に一緒に行きたい様な人がいたの?」
「…ごめん、琴音ちゃん。まさかそういう人がいないと思って、敢えてあなたには振らなかったわ」
絵里は心底驚いている様子だった。
「えぇ!誰々?私の知っている人?」
絵里を他所に、裕美が早速質問攻めしてきた。想定範囲内だ。
「…いーえ、知らない人よ」
私は意味有り気に、短く返した。裕美は何故か私の返答に、心なしかホッとしていた様だった。ついでに絵里もホッとしている様子だった。何故か。
そうしたのも束の間、裕美は顎に人差し指を当て、考えて見せながら聞いた。
「えぇー、私の知らない人ぉ?…うーん、誰なんだろう?じゃあ…歳上?それとも年下?」
「…えーっとねぇー…」
私は絵里に視線を流しながら、一瞬口元をニヤケさせた。絵里は先程から、私に対して怪訝な表情を向けてくる。何か分かる様なわからない様なって風だ。
「…歳上よ」
「えぇーー!歳上?」
「しっ!…裕美、声がデカイわ」
「あっ…ごめん」
裕美は大袈裟に口元を両手で塞いだ。でも目元は緩んでいる。なんだか楽しそうだ。それに引き換え絵里の様子は違った。先程の半目で私を見ていた時とは違い、今は何かに気付いたのか、目を大きく開かせていた。そして今度は絵里が聞いてきた。恐る恐るだ。
「…ねぇ琴音ちゃん、私からも質問していい?」
「えぇ、もちろん!」
私はキャラに似合わず、”キャピキャピ”しながら応えた。絵里はそんな私の様子を突っ込む余裕が無いらしい。トーンをそのままに聞いてきた。
「その人って…男性なんだよね?」
「えぇ、一応ね?」
絵里は肩を落として、溜息をついた。裕美は今何が起きているのか分からず、戸惑っている感じだ。絵里は力無く、最後の質問を投げかけてきた。
「…それって、裕美ちゃんは知らなくても…私は知ってる人?」
「…」
私はすぐには答えなかった。わざと数秒ほど溜めた。絵里の肩越しに、裕美の好奇心に満ちた顔が見えていた。私は大きく頷くと、満面の笑顔で答えた。
「…えぇ、もしかしたら私よりもね!」
「…」
「へぇー、そうなんだー。誰だろう?…あっ!もしかして図書館の人とか?」
無言で固まる絵里を置いて、裕美は何故かテンション高く、呑気に的外れな推理を繰り広げていた。私は笑顔のまま裕美に返した。
「違う違う、そうじゃないわ。…まぁ、その日になってからのお楽しみよ」
「えぇー」
「えぇーーーー」
裕美と絵里が同時に声を上げた。勿論二人の意味合いは違っていたが。
絵里は苦虫を潰した様な表情を、顔中に広げながら、私に言ってきた。
「…どうしても呼んじゃうのぉー?」
「…えぇ」
私は先程からニヤケっぱなしだ。
「そもそも約束してたでしょ?”そのこと”も」
「…あれは約束というより、あなたの一方的な希望だったと思うんだけど…」
絵里は相変わらずネチネチ言ってたが、状況が好転しないことを悟ると、大きく溜息をついて見せて、大息つきながら観念したかの様に言った。
「…もーう、わかったわよ。あなたが呼びたいんなら、どうぞお呼びになって?」
「…ふふ、ありがとう」
「…?」
私は和かに、対照的に苦笑いな絵里の様子を、何の話か飲み込めない裕美が二人の様子を交互に見比べて、首をかしげるのだった。

「私ちょっと買い物してから帰るから、ここでね?」
私達は図書館を出て、帰宅の途についていた。ここは図書館と駅との中間時点。右に曲がれば駅への道で、左は私と裕美の家方面だ。本当はこの後絵里の家に寄る予定だったが、思いの外図書館に長居をしてしまい、次回へ持ち越しとなった。
「えぇ、分かったわ」
「じゃあね、絵里さん!次は花火の日に!」
そして私達はお互い手を振りながら別れた。しばらく絵里の歩く後ろ姿を眺めてから、私と裕美は帰ることにした。
「花火楽しみねぇー」
裕美は如何にも楽しみだといった調子で、口調明るく言った。
「えぇ、そうね」
「…琴音にしては、いい提案だったじゃない」
裕美は上体を前に倒し頭を低くして、下から私の顔を覗き込む様にしながら、ニヤケつつ言った。
「”しては”は余計よ」
私も文句で返したが、顔は笑顔だ。と、ここで早速裕美に質問をぶつけてみた。
「…ところで裕美、あなたが連れてくる人って誰のことなの?」
「え?」
裕美は声を上げると、何やらモジモジしだした。
この時は何故こんな反応をしたのか分かっていなかったが、後々になって考えてみると、然もありなんだった。何せ絵里との会話の流れで呼ぶ人を決めたんで、どう考えてもその人に対して、何かしらの特別な感情を抱いているのは丸わかりだったからだ。…まぁ、丸わかりと言っても、私は丸分からなかった訳だけど。
「うーん…」
裕美は唸りつつ俯いて、言うか言うまいか悩んでいたが、途端に顔を上げると、私を向いて答えた。顔は意地悪い笑顔だったが、若干顔は赤かった。熱射病というわけではない。
「…内緒っ!あんたがさっき言った様に、当日になってからのお楽しみよ!」
「…えぇー、何よそれー。教えなさいよぉー」
私は答えてくれないことを知りつつ、聞いた。裕美もそれを知っているので、ワザと私から顔を逸らして、声の表情を殺しながら間伸び気味に返した。
「…ふふ、教えなーい」

二十二日、花火大会当日。いつも通りというか、毎度の様に裕美のマンション前で待ち合わせをした。
今日この日を迎えるに当たって、ある意味一番舞い上がっていたのは、お母さんだった。本当は一緒に付いて来たがったが、私が何とか説き伏せた。中々押しの強い人だったが、無理やり意地でも空気を読まずにやる程の勝手な人では無かったので、最後はすぐに退いてくれた。まぁ私が何とか諦めさせる理由はいくつもあるが、本当の理由はおいおい分かることだろう。尤もお母さんの気持ちを考えると、私なりに胸がチクっとしない訳でもなかった。 お母さんは自分が着物を好きなのもあって、娘と揃って着てどこかに出掛けるのを喜びとしていた。小学生の頃など、裕美と出会うまで毎年、何故かヒロも一緒に花火大会に行ったものだった。その度に着物浴衣を新調して、着付けて行くのだった。私も毎年その時くらいにしか着る機会が無かったので、口にはせずとも楽しみにはしていた。でも受験があった。これはお母さんが仕向けた事だから同情の余地は無かったが、その受験が終わっての二年ぶりの花火大会。お母さん自身も受験中は着付けず見にも行かなかったから、もしかしたら今年の花火大会は楽しみにしていたのかも知れない。でもそれと同時に、同年代の友達と出かけると言うのを聞いたお母さんの顔は、寂しそうなのと同時に嬉しそうだった。口では言っていなかったけど。”親の心子知らず”とはよく言うけれど、子供は子供なりに親の事に気を遣っているって事を、この場を借りて言っておきたい。…まぁ括弧付きでだけど。
話が逸れた。こんなところまで義一に似てきてしまった。それはさておき、恐らくそんな私の推測も外れてはいなかったのだろう、折角友達と花火見に行くんだからと、出かける一時間以上前に着付けてもらった。髪型までばっちしだ。浴衣は青みのある紫色地に、水色の流水模様だ。珍しいピンクの紫陽花があしらわれていた。帯は僅かに燻んだ黄緑色に葡萄蔦模様が入っていた。髪は全てお母さんにして貰ったからよく分からなかったが、要は三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げられていった。アップに纏めているので、普段は肩甲骨まである後ろ髪を、そのまま流しているだけだったので、首元がかなり涼しかった。それが私のこの髪型に対する感想だった。お母さんには素直に感謝を告げて、たまたま居間にいたお父さんにも姿を見せた。最近になって益々表情が変わらなくなったお父さんだったが、自分で言うのも恥ずかしいけど、娘の浴衣姿を見ると、口元は真横一文字だったが、目を大きく見開き、上から下までを何度も往復させて見ていた。そして一度大きく頷くと、写真を撮っていいかを聞いてきたので、私は快く了承した。
お父さんは食卓に座っていたが、わざわざ立ち上がり、こっちが恥ずかしいくらいに真剣な表情で何度も携帯で写真を撮ってきた。これが私のお父さんだった。 そしていつだったか、そう、裕美の大会に初めて見に行った時に持っていたミニバッグを持ち、下駄を履いて待ち合わせ場所へと急いだ。
着くまえに既にエントランス前で、私と同じ様なミニバッグを両手で腿の前で持ち、他所を向いて待ちぼうけている着物姿の少女が見えた。裕美だった。
私は気づかれない様にそおっと近寄り、肩を軽くトンっと叩いた。
「…お待たせ、裕美!」
「…あぁっ、琴音ー!」
裕美は一瞬ビクッとしていたが、私と認めるとすぐにテンション高めに返してきた。
裕美もすっかり花火仕様になっていた。約束通り浴衣だった。濃いオレンジ色地に、赤く細いラインが入っていた。満開の鉄線の花が、白と黄色の二色で飾られていた。帯はシンプルな濃い青色だった。髪は私ほど長く無いので、簡易的にアップに纏めていた。
まず私達はお互いの浴衣姿を目で堪能した。一通り見渡した後、まず裕美の方から口火を切った。
「…いやぁ、さっすが姫!浴衣でも何でも、似合っちゃうんだもんなぁー」
「…褒めてくれてる様だから、今だけ姫は許してあげる」
私の事というより、何だかお母さんを褒められた気がして、寧ろそれが嬉しかった。…別に良い子ちゃんぶっている訳ではない。
「そういうあなたも、似合っているわよ?浴衣着てるだけで、しおらしく見えるもの」
「…それは褒めてるのぉ?」
裕美は私にジト目を向けてきた。私はあっけらかんと返すだけだった。
「…そうよぉー?ありがたく受け取りなさい」
「…やっぱり姫様じゃない?」
「何か言った?」
「べっつにぃー」
いつものこのやり取りを終えると、意味もなくどちらが先ともなく笑いあったのだった。
何で毎度のことで笑いあえるのかと、冷めた目線で見ないで欲しい。何かが転がればそれだけで笑ってしまうほどには幼くなくても、この時期の私達としては、気の合う人と馴れ合うだけで、満たされた気になるもんなのだ。自分でいうのも何だが、私みたいな理屈屋でもだ。…まぁ単純にこのお祭り気分に、酔っていただけとも言える。
一頻り終えてから、私達二人は早速絵里のマンションへと向かった。

途中地元としては賑わっている繁華街を通った。いつもそれなりに人通りは多かったが、この日ばかりは雰囲気から違っていた。
警察に交通規制がなされていて、車道を堂々と歩けた。 普段からの仲良しなのだろう、男女が普段着で大会開始の二時間以上前だというのに、既にハイテンションに騒いでいた。この車道、そのまま進めば土手に出る道だったが、ずっと先まで屋台が出ていた。やはり地元開催、日頃は夏祭りらしい祭りをしない地域だったので、ここぞとばかりに一斉に盛り上がるのだ。出ている屋台は全て、普段は地元の飲食店を営んでいる人達が、お店の商品を屋台形式にアレンジして提供しているのだ。だから”たこ焼き”だとかそういう”屋台メニュー”が皆無な分、それぞれ特色が出ていて他には無い持ち味が出ていた。
そんないつもと違う地元の雰囲気を味わいながら、屋台を眺めつつ歩いていた。私は何度も履いているから慣れていたが、裕美は履き慣れていないせいか、下駄からたまに変な音をさせながら歩いていた。
「…やっぱり普段履かないと、違和感あるわよね?」
私は裕美の足元を見ながら言った。すると裕美も私の足元を見ながら返した。
「うん…アンタは平気そうね?」
「まあね。お母さんと何度か揃って、着物と一緒に履いてたし」
「やっぱりお嬢様は違うわぁー」
裕美は顔を上げると、しみじみ空中に向かって吐いた。
「…姫もだけど、お嬢様ってのもやめてよねぇ」
私は口を尖らせながら不平を述べた。まぁ聞き流されるのがオチだけど。
さて、ここまで私の話を聞いてくれた人の中で、ずっとどこかしっくり来なかった点があったかも知れない。それは『将来医者になりたい裕美は、私のお父さんが病院の院長をしている事を知っているのか?』と言う事だ。これはいつか話したいと思っていたが、私の話し下手なのも含めて、中々話せる時を逃してしまっていた。それを今述べることを許して欲しい。今裕美が私に対して軽口を言った事によって、偶々チャンスが巡って来た。これを利用させて頂く。
結論から言えば、知っている。それも小学六年の夏休み。そう、丁度去年のことだ。覚えておられるだろうか?私と裕美、そしてお母さん達と四人で、近場の海沿いの温泉地に一泊旅行をしたことを。泊まった宿で夜の事、あの時にお母さん達が当然の会話として、お互いの夫の職業について話したのだった。そしてその場に私と裕美がいた。ついでと言っては何だが、そこで裕美のお父さんが広告代理店に勤めているのを知った。職業柄定時に帰ることは出来ず、夕飯を共にすることも少ないらしかった。尤もそれは私達も同じなので、そこでお母さん達は意気投合していた。私達を他所に、盛り上がっているので退屈していると、裕美が私を宿の廊下にある休憩所の様なところへ連れ出した。言われるままについて行った。その休憩所は名ばかりで、向かい合う様に置かれた肘掛付きの椅子が二つ、すぐそばに自販機が一台あるだけだった。人気もなく、ひどく寂しかったのを覚えている。私と裕美は向かい合って座った。しばらく…と言っても一分あるか無いかだとは思うが沈黙が流れた。私はわざわざ連れ出したのだから、裕美の方から何か言うだろうと出方を待っていた。と、裕美は私を静かな表情で見ながら切り出した。
「…アンタの父さんって、お医者さんだったのねぇ?しかも病院の院長さん」
この時初めて『あっ!』と思った。本当は裕美に医者になりたいと言われた時に、言うべきことだった。ただ私としては、他人に自分の父親が医者、しかも病院の院長をしている事を、なるべくなら話したく無かった。言えば言うほど私に対する見方にバイアスが掛かって、余計なイメージが付くのを恐れていた。それに昔、義一に話してもらった”子供の頃に大人を信用出来なくなった”話が、ずっと脳裏に焼き付いていたのも大きかった。だからいくら裕美相手でも、すぐには言い出せずにいた。でも、こんな話をしても多分理解されないだろうと、端から諦めていたらここまで伸ばしてしまい、益々言い出しづらい状況になってしまっていた。そのツケが回って来た感があった。
「え、えぇ…ごめん、裕美!…でもね」
私が慌てて言い訳をしようとすると、裕美は下を向きながら右腕を前に大きく突き出し、こちらに手のひらを見せる様にした。私を制するポーズだ。私はおとなしく言いかけた言葉を飲み込み、そのまま黙り、裕美の反応を待った。すごく長く感じた。裕美にひどく失望されているだろうと想像していた。自分が裕美の立場だったら、騙されたと思ってもおかしく無いだろう。裕美としては恥ずかしい気持ちを押し込めて、意を決して私に話した将来の夢。聞いた私の父親が、その夢である医者だという事を話さずにいたというのは、そういう事だと解釈されて不思議じゃない。私は一人で後悔の念に駆られていると、不意に裕美が顔を上げた。私はその顔を見て驚いてしまった。
何故なら裕美は顔いっぱいに微笑を湛えていたからだ。
私が呆然としているのには構わず、優しい口調で話し始めた。
「…琴音、アンタってやっぱり良い奴なんだね」
私は益々混乱した。責められこそすれ、まさかの賞賛の言葉だったからだ。裕美は続けた。
「アンタは余計な事では口が回るのに、こういった相手の深層に触れるようなことは一切口にしないんだからね。…私が夢だと言った時、言い出しづらかったでしょ?」
「…え、えぇ」
根本的な理由では無かったが、かなり正鵠を射ていた。一々口にせずともここまで分かってくれている事に、不謹慎かもしれないが感心し、そして感動していた。
私の短い返答を聞くと、目を細めて益々柔らかく笑いながら言った。
「他の人の場合は知らないけど、私はさっきアンタの母さんの話を聞いて、何故かすぐにアンタの気遣いを感じたのよ。『あぁ、この子は私が下手すると、嫉妬してくるのを恐れたんじゃないか?』とね。それに…」
裕美は言いかけながら椅子ごと前に出て、上体を屈めて私の顔を覗き込みながら続けた。顔はニヤケていた。
「『医者の娘であるにも関わらず、特に夢がない割には医者にもなりたくないのに、そんなの本人に言えない』ってね!」
最後は明るく言い切ると、満面の笑みを浮かべた。
私は呆然したままだったが、何故か不意に泣きそうになってしまった。理由は様々考えられたが、どれも違って見えた。理由はともあれ、涙が出そうなのだけが確かだった。
裕美は私のそんな様子を見て、裕美なりに色々と察したのか、今度は苦笑い気味に言った。
「…ちょっとぉ、何泣きそうになっているのよ?むしろ私は感謝してるんだから、素直に受け取りなさい?」
「…誰が泣いているって?」
私は説得力ない言葉を吐きながら、目を擦った。裕美は畳み掛けるように意地悪く言ったのだった。
「…ふふ。アンタによ、”お嬢様”」
この時初めて”お嬢様”呼びをされた。もっともこれは裕美の中でしっくり来なかったようだ。この時以来一度も言われたことが無いように思う。”姫”の方が気に入ったようだった。
とまぁただ回想を述べるつもりが、やけに事細やかに話してしまったが、この時だろうか…本当にこの”裕美”という新たに出来た友達との繋がりを、大事にしていこうと決意したのは。
もちろんこれまでも話したように、私の”性質”に対して面白がってくれた事、初めて大会を見に行った時に見せた、好きなものに対して真摯に向き合っている事、それ以外にもいくつもあったが、今述べた出来事、これが最後の決め手となって”本気”でそう思えるようになった。
…これでようやく本編に戻れる。お待たせしました。

「だってアンタはお嬢様じゃない?よっ!この院長令嬢!」
「…終いには怒るよ?」
私は低い声で凄んで見せた。すると裕美は私の肩を軽く叩きながら、明るく返した。
「あははは!冗談だって冗談!怒っちゃあいやーよ?」
裕美はいつにも増してぶりっ子ぶってくる。私は力が抜けるように大きく溜息をついた。
「…もーう、分かったわよ。もうこの話はおしまい」
「うん!」
それから私達はまた和かに絵里のウチへと急いだのだった。

「どうぞー」
オートロック前のインターフォンから、絵里の陽気な声が聞こえた。そして目の前の自動ドアが開き、誘われるままに絵里の部屋へと向かった。
ピンポーン。
チャイムを押して待っていると、すぐにガチャッとシリンダーの作動音と共に玄関が開けられた。
「いらっしゃーい!入って入って!」
絵里が満面の笑みで迎え入れてくれた。
「お邪魔しまーす!」
私と裕美は下駄を脱ぎ、用意された畳地のサンダルを履いて中に入った。
絵里もすっかり浴衣に着替えていた。白い生成り地に、淡い紫と黄色の朝顔が染められていた。帯は黒に献上柄の単衣帯だった。全体的にスッキリした印象を与えたが、それが寧ろ着ている本人の、色香を際立たせる効果を生み出していた。
私達は絵里の後をついて行ったが、その後ろ姿は背筋を真っ直ぐにしながら、歩き方にも品が溢れていた。この時になって初めて気付きハッとなったが、確かに普段から絵里の立居振舞いはどこか、色香のようなものが漂っていた。今も昔も髪型はきのこ頭のままだったが、それでも女性らしさが漂っていたのは、こういう所作からかも知れない。普段の竹を割ったような言動のせいで、中々感じられなかったが、今改めてヒシヒシと感じ取れたのだった。
そして同時にこの時思い出したのは、お母さんの事だった。着物では無いが、浴衣を着た絵里を見て初めて気づいた。
リビングへのドアを開けると、いつものテーブルの上には飲み物や食器、グラスなどが所狭しと置かれていた。
「じゃあとりあえずそこに座ってて?」
絵里は私達に声をかけると、慣れた手つきでたすきをかけていた。そして台所で何やら作業をしている。
私はその一連の動作を見ていたが、見れば見るほどそれは、普段から着物などを来慣れていないと出来ない動きを見せていた。これは普段お母さんを見ている私だからこそ、気づけたことかも知れない。呉服屋の娘として生まれ、物心ついた頃から家の中で着物を着ていたからこそ身に付いた所作を、絵里も完全にマスターしているように見えた。
私は早速その事について聞いてみようと思ったが、まだ忙しそうに作業をしていたので、何気なく部屋を見渡した。先程から何か違和感があったからだ。
と、やっと違和感の正体が分かった。普段私達が来た時にいつも閉められているドアが、今日ばかりは開けられていたからだ。私は思わず立ち上がり、何事かと視線を送ってくる裕美は無視して、その開いているドアに向かって行った。そして中に入ると、ビックリした。
五畳ほどの部屋だったが、中には桐で出来た天井スレスレぐらいの大きさの着物箪笥があったからだ。そしてそのすぐ脇、西日の入った窓の近くには撞木、別の言い方では反物掛け、それに別の浴衣が掛けてあった。その部屋にはベッドがあり、寝室としても使われているようだったが、幅が一メートル近くありそうな姿見もあり、どちらかというと寝室よりも衣装部屋と言った方が適切な気がする程に、着物関係で埋め尽くされていた。
「…うわぁー」
結局私に続いた裕美が、私の背後から部屋を覗きながら感嘆の声を上げた。
「凄いねぇ、浴衣とかそんなのばっかり」
裕美はベッドの上を見ながら言った。確かにそれには触れなかったが、そこには着物や帯以外に白足袋、和装肌着、舞扇と手拭いが置かれていた。これらは全てお母さんも持っているものだった。正直この部屋は細かい所はともかく、あまりにも自宅のお母さんの部屋に酷似していた。
まさか…
「…ちょっとぉ、あまり一人暮らしの女性の部屋をジロジロ見ないでよぉ」
声を掛けられたので振り返ると、絵里がドアのヘリに手をかけながら、意地悪い笑みを浮かべつつそこに立っていた。
「…絵里さん、これって…」
私は構わず部屋を一度見渡してから、質問を投げかけた。すると絵里はほっぺを掻きながら、少し照れ臭そうに部屋の中に入り、ベッドの上の物を整理し出しつつ答えた。
「…あーあ、とうとうバレちゃったか…。まぁ今日はそもそも、初めからバラすつもりだったけど。…琴音ちゃんならもう気づいているよね?前にお母さんの話を聞かせてくれたし。…そう、これらは全て日舞の為の道具だよ。この部屋にある全てがね」
「…え?日舞ってあの…日本舞踊のことですか?」
裕美がいつの間にか部屋の中に入り、腰を曲げて整理している絵里の背後に立ち、聞いていた。絵里は振り向かずそのままの姿勢で淡々と整理していたが、口調明るく返した。
「そうだよー。…あまり普段のキャラじゃないから、自分で説明するのは恥ずかしいんだけれど…二人共?」
絵里は上体を起こすと、腰をトントンと叩きながら私達に言った。
「この片付けはすぐに終わるから、あのテーブルで待っててくれる?」
私達は言われた通りに座って待っていた。ドアは開けっ放だったので、絵里の姿が見えていた。二人してその様子を見ていたが、ものの一、二分で片付け終えたのかこちらに戻って来た。そして椅子に座る前に、冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出すと、それを持って私たちの元へと来た。そして空いてる椅子に座り、テーブルの上のグラスに注ぎながら、ようやく話し始めた。
「いやーごめんねぇ?自分から早めの時間帯に約束したのに、今日実は午前中用事が出来ちゃって、慌てて帰ってきて整理していたら間に合わなかったんだ。普段はあんなに散らかってはいないのよ?」
絵里は今は閉められたドアの方を見ながら言った。そんな事は初めてここに来た時から分かっている。表向きはガサツな性格風であるけれど、部屋を見れば全てが几帳面に、部屋のサイズに合わせた収納術を屈指して整理されている点を見れば、普段から綺麗にしている事は丸分かりだった。そんな事よりも突っ込む所は、数多にあった。
「…もしかして、私達を早めの時間帯に呼んだのって、あれを見せるためだったの?」
私も絵里に合わせてドアの方を見た。裕美も黙って見ている。裕美はまたほっぺを掻きつつ、決まり悪そうに答えた。
「…まぁそういうことかなぁ。…予定では綺麗なところを見せるつもりだったけど」
絵里は苦笑をしている。
「いつもここに来ても見せてくれなかったのに、今日見せてくれる気になったのは、皆んなして浴衣を着る事になったからなのね?」
私は昼間にやっている、刑事ドラマの主人公になった気分で問い質していた。絵里は笑顔で頷きながら答えた。
「…まぁそんなところよ。隠しているつもりはなかったんだけど、普段私の話にはならないし、ならないのに自分から話すのも、さっき言った様に恥ずかしいしね…言えなかったんだぁ」
私はふと、裕美に対して自分の父親のことを話せなかった時の事を思い起こしていた。まぁ、中身の質は違っていたけど。
「でもそう、今あなたが言った通り、今日だったら二人に話せるいい機会かなって思って、それで身勝手で悪いけど、二人を早めにここに呼んだの。…これを逃すとまたいつになるか分かったもんじゃないからね」
「なるほどー」
今まで黙って話を聞いていた裕美が、ようやく口を開いた。
「でも日舞って良いですねぇー。なんか”The 大人の女性”って趣味じゃないですか?琴音の母さんも習っているしで、私憧れてるんですよ」
「ふふ、ありがとう」
目を輝かせながら言う裕美に、笑顔で返していた。
「でもね…」
絵里はふと、少し顔を曇らせながら言った。
「私の場合はねぇ…習い事ではないのよ」
「え?どう言う意味?」
今度は私が聞いた。
「習い事じゃないんだったら、何だっていうの?」
「…うーん」
絵里は唸りつつ視線を私達から逸らした。まだここまで来て言い兼ねていたようだった。が、私達に再び視線を戻すと、一度短く息を吐き、意を決したように先を続けた。
「…私、実は日本舞踊の名取なのよ」
「…な、名取?」
「…え?へぇーーー!」
裕美はよく分かっていないようだったが、私はすぐに分かったので、素直に驚いた。もちろん流石に学習したので、声は抑え気味にだ。
「意外だった?」
絵里さんは私の驚きようを、満足げに見ながら言った。私は自分でもわかるくらいに、目を見開きながら返した。
「そりゃそうよ。だって普段図書館司書をしている人が、日舞の名取だなんて思いもつかないもの」
「…ねぇねぇ、名取って何なの?」
一人取り残されて、置いてけぼりを食らったように感じたのか、裕美は一人半目で私と絵里を交互に見ながら聞いてきた。絵里は視線で聞いてきたが、私は横に首を振ったので、絵里が微笑みながら裕美に説明した。
「名取っていうのはね、…あっ!その前に、日舞にはいくつか流派があるんだけれど、そのトップに君臨する家元という人に舞を見てもらって、その技芸がある程度のレベルに達していると認められると、その流儀固有の名前をもらう事…うーん、分かりやすく言うと芸名だね。それをもらえた人の事を名取と言うの」
「へぇー!すっごく本格的なんだね!」
裕美は何というか、呑気な解釈をして意味を飲み込んだようだった。絵里は笑顔で頷いている。
「まぁ本格的っちゃあ、本格的だね。…まぁもう気付いているだろうけど、敢えて私から説明すれば、実は私の実家が目黒で日舞の稽古場を開いていて、私の父が名取の上、つまり師範をしているのよ。つまり私の実家は日舞を生業としているの」
「へぇーー」
今度は私と裕美同時に声をあげた。
絵里さんが日舞の名取?しかも両親が師範?…はぁー、人は普段の見かけに寄らないんだなぁー…
などと考えていたが、ふと絵里が言った事に引っかかった。
…ん?目黒?目黒って確か…
そんな偶然があるのかと、私は思いついた考えを払拭するように、一人頭を横に振っていた。
裕美はそれからは、何かと絵里を質問責めにしていた。
「はぁー。…でも目黒って凄いですねぇ!絵里さんって本当は良いところのお嬢様じゃないですか?」
「や、やめてよぉ裕美ちゃーん!そんな言い方するのぉー。…もーう、こんな勘違いされるから、言わないでいたのにー」
なんて会話をしていた。私は水をかけるように、少し気になる事を聞く事にした。
「…てことは、絵里さんは今でも日舞を舞ったり、教えたりしてるの?」
「え?えぇ、親に頼まれたら補助役として今でも、目黒の実家に行ってるよ。親とは言っても、日舞においては師匠だからね。日舞関係で頼まれたら、素直に従うのよ。…本当はまだあくまでも名取だから、師範になってからでないと正式には教えれないんだけれどね。…まぁ、バイト感覚よ」
絵里はまた照れ臭そうに言った。
「ふーん…そっか」
正直そのままお母さんのことを聞こうとも思ったけど、別に聞かなくても良いと思った。色んな理由はあったけど、流石に空気が読めない私でも、このまま機の向くままに質問していけば、すでに場に満ちている祭の雰囲気を壊しかねなかったので、自粛する事にした。

「さてと…」
絵里がおもむろに時計を見た。時刻は六時半になるところだった。
外はまだ薄っすらと、陽光の残影が西の空に辛うじて残っていたが、空の九割がたが夜の様相を呈していた。天気は予報通り快晴のままだった。
「そういえば裕美ちゃん?」
絵里は時計から視線を外すと、裕美に話しかけた。
「あなたが誘った人って、いつ頃来るの?…いやそもそも、ここの場所知っているのかな?」
「えぇっとぉ…」
裕美はミニバッグからスマホを取り出すと、何やら確認をしていた。そして画面に視線を落としたまま答えた。
「…あぁ、はい!大体分かるみたいです。…ただ流石に細かくは知らないので、近くまで来たら連絡してと言ってあります」
「そう?なら良いけど。…で、琴音ちゃん?」
「何?」
先程まで和かに話していたのに、絵里はふと眉間にシワ寄せながら嫌々そうに言った。
「…ところで彼奴は…いつ来るって?」
「え?えぇっとねぇ」
私はその様子を、さも愉快げに見ながら大きな笑顔で返した。
「確か七時には行くって言ってたよ?」
「…はぁー、…あっそ」
絵里は素っ気なく返したが、ふと胸元をチラッと見た。浴衣の状態を確認したかのようだった。
「…ふふ、なーに?やっぱり気になる?」
私は途端に悪戯っぽく笑みを浮かべながら、ねちっこく言った。裕美は私が何を言い出したのか分からない風でいたが、当の本人、絵里はすぐに察したのか顔を赤らめて慌てて訂正した。
「んなっ!?な、何をい、言ってるのよ!?何とも思うわけ無いじゃない?」
「あははは!ごめんなさい」
「…もーう」
絵里は自分を奮い立たせるように、スクッと立ち上がると明るく声を上げた。
「じゃあ二人共!野郎二人が来る前に、準備を済ませちゃおう!」
「はーい!」
私と裕美は同時に手を挙げて賛成の意を示した。

それから十五分ぐらいは慌ただしかった。時間指定で注文していたのだろう、宅配のピザなり何なりいわゆるオードブルが来たりして、それを受け取り、用意したお皿に盛り付けたりすると、あっという間に七時になった。
「…おっそいなぁ」
裕美はさっきから何度もスマホを確認している。
「何裕美ちゃん、まだその人と連絡つかないの?」
絵里も心配そうに声を掛けていた。
「…はい。今から十分前に家を出たみたいな事を言っていたんですけど…私っ!」
裕美は玄関の方を見ながら、居ても立っても居られないといった調子で言った。
「ちょっと下に行って、待っていようかなぁ?」
「…まぁまぁ裕美」
私は呑気に窓を全開にしたベランダの外で、手すりに手を掛けながら振り返り言った。
「連絡は来てたんでしょ?だったらもう少し待ってみてからで良いんじゃない?」
「で、でも…」
よっぽど気になるのか、私の軽薄な慰めも何の足しにもならなかったようだ。と、その時。
ピンポーン。
これはエントランスのチャイムだ。絵里がインターフォンに近付くと、外部との音声を繋いだ。小さな画面に映し出されている光景を見て「げっ!」と言った。と、スピーカーからは、それに反応する様に、耳慣れた声が聞こえてきた。
「…おいおい、聞こえているよ?」
何とも呑気な調子だ。絵里の側に近寄った裕美は、その位置からは見えないらしく、焦ったそうにしていたが、聞こえる声が違ったせいか、落胆の色を隠さなかった。
その様子をチラッと見た絵里も、少し気の毒そうに裕美を見ていたが、とりあえず今目の前の問題を片すことにしたようだ。
「…はぁ、そんなところにいても他の人の邪魔になるから、早く上がって来て?」
そう言うと、オートロックの解除ボタンを押した。するとその人は何か悪巧みをしているかの様に言った。
「ありがとう。…あっ、そういえば、たまたま近所で知り合いに会ったから、ついでに一緒に連れて行くね?」
「…へ?あっ!ちょっと!」
絵里が慌てて呼びかけたが虚しく、既にその人の姿は消えていた。
「…何だって言うのよ、まったく…」
絵里は静かになったインターフォンに一人毒づいていた。
数分すると、玄関のチャイムが鳴った。絵里は力無く応答したのだった。
「…空いているわよ。歓迎しないけど、招待してあげるわ」
「あはは」
モニターの向こうから笑い声がしたかと思うと、玄関の方でドアの開く音がした。そしてワイワイ靴を脱ぐ音がしたかと思うと、ズンズン廊下を進みこのリビングに入って来た。
ここまで引っ張る必要は無かったかもしれないが、予想通りだろう、そこには浴衣姿の義一が立っていた。髪の毛をいつも通りに纏めていたが、服装のせいかいつもと違って見え、むしろ今の方が似合っていた。パッと見グレーの浴衣だったがよく見ると、千鳥柄になっていた。それに真っ黒の帯を締めていた。
私は思わずベランダから室内に戻り、義一に挨拶しようとすると、その後ろからこれまた見慣れた坊主頭が現れた。
これも言わずとも分かるだろう。ヒロだった。ヒロは白い生地に何か英字がプリントされた半袖Tシャツに、下は膝より下くらいの長さのジーンズを履いていた。何やら居心地悪そうに部屋をキョロキョロしていた。
「ヒロくん、よく来たね!」
裕美が嬉しそうにヒロに駆け寄り挨拶をした。ヒロも何か挨拶を返していた。
「ようこそヒロくん!ゆっくりして行ってね?」
絵里もヒロに優しい言葉を掛けた。
「あ、はい!今日はよろしくお願いします!」
ヒロは頭を深々と下げていた。
「あははは!そんなに畏まらないでよ?今日は花火大会なんだから!」
絵里はそう言うと、ヒロの背中を軽く叩いた。ヒロは頭を掻きながら笑っていた。
その間私は裕美に近づき、耳元に顔を近づけ聞いた。
「…何でヒロがここに居るのよ?」
「え?」
裕美はキョトン顔で私を見てきた。
「当然でしょ?私とアンタ共通の友達を呼ぶとしたら、ヒロくんしかいないじゃない?」
裕美は不思議そうに首を傾げながら答えた。声が聞こえたのか、絵里に構われていたヒロが、こちらを向いて笑顔で頷いている。
「…はぁ、まぁ今日はお祭りみたいなものだからね。ああいう能天気な男が一人くらい居た方が盛り上がるのかも」
「おーい、聞こえているぞ?」
ヒロが目を細めながら抗議してきた。
「あったりまえでしょ?聞こえる様に言っているんだから」
「まぁまぁ」
こんな私達の様子を、義一と絵里は揃って微笑ましげに見ていた。
「そういえば義一さん」
私は今度はリビングの入り口付近の、立ちっぱでいる義一に声を掛けた。
「何でヒロと一緒に来たの?まさか待ち合わせて?」
私としてはとても不思議だった。何故なら初めてヒロと義一の家に行った以来、ヒロはそれから私と一緒に一、二度くらいしか会ってなかったはずだったからだ。それもたまたま出会した形だけだ。とても連絡先を交換出来るほど、仲良くなっていたとは思えなかった。
義一は視線をヒロに向けながら、愉快な調子で答えた。
「いやいや、まさか!僕は君に誘われてこの近所まで来たんだけど、なんかどこかで見たことのある顔に出くわしたんだ。誰だっけなぁって思い出していたら、すっかり大きくなって逞しくなったヒロくんだったから、久しぶりに見たと嬉しくなって、思わず声をかけたのさ。ねぇ、ヒロくん?」
声をかけられたヒロは、苦笑まじりに答えた。
「ちょっと早めに来すぎちゃったからよぉ、少しこの辺りで待っていようと思ったすぐ後に、お前の叔父さんに急に背後から声を掛けられたんだ。そりゃーもう、驚いたのなんのって!まさか誰かに声を掛けられるとは思わねぇからさぁ。この近所には友達も住んでいないしよ。近所まで来たら裕美が連絡してって言ってくれてたから、裕美でもないだろうしってんで…表通りはあの通りのお祭り騒ぎだけどよ、ちょっと裏に入ると何処も暗いだろ?だから慌てて身構えちまったよぉー…叔父さん」
ヒロは腰に手を当てると、やれやれと首を横に振りつつ言った。
「今度からは気配を消して、後ろから声を掛けないでくれよ?さっきも言ったけど」
「あははは!ごめんよ」
義一は一人で愉快といった調子で答えた。
「…え?叔父さん?」
さっきまでヒロの側にいたが、いつの間にか私の横に立っていた裕美が、義一の方を見ながら言った。
「そうよ。私のお父さんの弟。つまり私の叔父さんなの!」
私は祭りの雰囲気もあってか、若干テンション高めに答えた。紹介された義一は裕美に向かって会釈をした。
「あぁ、君が裕美ちゃんだね?いつも琴音ちゃんから話を聞いてるよ。これからも仲良くしてあげてね?」
「あっ、はい!分かりました!」
裕美は咄嗟のことだったので、ドギマギしつつも元気に答えていた。義一は満足そうに頷いている。
「…義一さん、そんな叔父さんらしいセリフは似合わないよ」
私はすかさずニヤケながら突っ込んだ。と、その後すぐ私に乗っかる形で、絵里もジト目を流しながら言った。
「そうよギーさん。あんまり慣れない事をすると、すぐにメッキが剥げるんだから止した方が身の為よ?」
「おいおい、あんまりな事を言うなよぉー…まぁ実際そうだけど」
「…ふふふ」
いつもの義一と絵里のやり取りに、思わず私が吹き出すと、義一と裕美も顔を見合わせ笑い出した。何の事だか説明不足すぎて訳が分からなかっただろうが、雰囲気のなせる技で、裕美とヒロも顔を見合わせると笑い出すのだった。

「ちょっとぉー、ギーさん。それはこっち!」
「え?じゃあこれは?」
「もーう!それはあっちだって言ってたでしょう?」
義一と絵里は最後の準備に追われていた。私と裕美はテレビに向かっている二人掛けのソファーに座り、その様子を見ていた。ヒロは早速ベランダに出て、河原の方を眺めていた。
「…ねぇ?」
「うん?」
裕美が二人の様子を眺めながら聞いてきた。
「何?」
「あのさぁ…」
裕美は私の耳元で囁く様に言った。
「あの二人って、付き合ってるの?」
「え?」
私は思わず間の抜けた声を出した。変わらず準備に四苦八苦している二人の様子を眺めつつ、私も裕美の耳元に近付き小声で答えた。
「…いーや、付き合ってはいないみたいだけど…お似合いよね?」
「あっ、そうなの?…ふーん、でもあんたの言う通り、お似合いね」
裕美はクスクス笑いながら、焦ったそうに眉間にシワを寄せ文句を言う絵里と、それを涼しい顔で軽く躱し続ける義一を見ていた。
「それにアンタの叔父さん…カッコいいしね?絵里さんみたいな美人にも、見劣りしないし」
「…ダメよぉ、狙っちゃあ?私としては、絵里さんと一緒になって貰いたいんだから」
私は義一の事を、中身ではなく容姿とはいえ、褒められて嬉しいのを抑えながら、半分冗談のつもりで返した。が、反応が無いので裕美の顔を見ると、笑ってはいたが真剣味を帯びていた。そして静かな調子で、でもにこやかに答えた。
「…あはは、心配しないでよ!私もアンタと同じ気持ちなんだから!…まぁ今日初めて見たんだけど」
「…ふふ、初めて見てそこまで分かるのは、あなた、案外男を見る目があるわよ」
私は軽く隣に座る裕美の肩を、ポンポン叩いた。が、裕美はあんまり嬉しくなさそうだった。
「…はぁ、そのセリフを他の女子なりに言われたら、どんなに励みになる事やら…。恋愛経験なく、初恋もまだで、こんな場に絵里さんの事があるとは言っても、自分の叔父さんを連れて来ちゃう様な女の子に言われても…正直微妙よ」
「なによぉー」
私は不満げに言ったが、口元のニヤケを抑えられなかった。終いにはまた、裕美と二人でクスクス笑い合うのだった。

そろそろ七時半になろうという時、私達全員はベランダにいた。いつものテーブルを外に出し、その上に宅配で来たオードブルの盛り合わせなり全てを乗せた。お皿や箸フォークも完備だ。そして人数分のグラスに飲み物を注いだ。大人チームの義一絵里ペアはお酒だった。義一はビール、絵里はレモンサワーだった。対して私達子供チーム。私はこの日はサイダーにした。裕美はオレンジの炭酸水、ヒロはコーラーだった。
各々グラスを持って、たまに会話を交わしながら、今か今かと開始を待った。
今まで何度もこの地元の花火大会は見てきたが、過去に一緒に過ごした人々、その時間には申し訳ないが、この年が一番ワクワクしていた。予定を組んだその日からだ。今までこれ程の高揚感は無かった。あまり表に感情を出すのが恥ずかしいタチのせいで、素直に表に出せないから、下手するとつまらなそうに見えてたかも知れないが、心の底ではこの場にいる誰よりも楽しみにしていた自負があった。まぁ尤もこの場には、一々私の説明を要する人間は、一人もいなかったけど。
それはさておき、ふと隣の他のマンションが見えたので、見て見ると、どの部屋の住民もベランダに出ているのだろう、部屋から漏れる明かりを背に黒い人影が、それぞれのベランダで蠢いていた。その各各所で、各々のスタイルで花火大会を今か今かと待っているのだろう。
さっきからずっと手元のスマホを覗いていた絵里が「あっ!」と声を出したかと思えば、目の前河原の辺りから、ヒューっと音がして、その後大きな音と共に大輪の花が、遮る物ない夜空に煌々と咲いて花火大会の開始を告げた。

この花火大会は約一時間ばかりの”火花”のショーだ。始めにオーソドックスな花火が上がり、その後に”和火”という徳川家康公から始まる、オレンジ色の炭の火の粉の花火が上がった。私は子供の頃から、他の花火の煌びやかな多種多様のよりも、オレンジ一色、でも何だか心の安らぐ優しい光を放つ”和火”が好きだった。今述べた様な蘊蓄を知ってから、ますます好きになったのは言うまでもない。その”伝統ゾーン”が終わると、次は夜空一面を薄紅色に染め上げる様な、桜をイメージした”千輪”が打ち上がった。ある程度距離のある私達のベランダまで、薄紅色に染め上げた。もちろん私も感動したが、他の女性陣、ヒロも含めて此処一番に盛り上がった。そして次は”糸柳先鋒”。これは一度打ち上がって爆発した後も、しばらく光を失わないまま落ちていくので、その様が柳に見えるという、中々風流な花火だった。これもシンプルかつオレンジ色の花火だったから、私好みだった。次が最後の”黄金の枝垂れ桜”。これまた名前は風流だが、ラストというのもあって、ありったけの花火を立て続けに打ち上げるという物だった。最後を飾るに相応しい賑やかさだった。話じゃ四千発を一気に打ち上げていたらしい。驚きの数だった。
…何故そんなに詳しいのかと疑問に思う人もいるだろう。私はこんな性格なので、表には出せないが、さっきも言った様に楽しみにしていた…いや、し過ぎていたので、毎年毎年こんなことを一度もしたことは無かったが、事前に何が打ち上がるのかを調べたり、その名前を覚えたりしたからだった。花火の歴史まで調べてしまった。その結果が今述べた通りだ。
別に当日ドヤ顔で知識を披瀝する事なんかはしない。ただ胸にそれらを秘めて、一人楽しむだけだった。
今述べた通り一つ一つにテーマがあり、それぞれの花火が終わると五分から十分ほどの中休みがあった。その間に河原組はトイレに行ったり談笑したりするのだ。
今回の私達も同じだった。終わるたびに各々近くの人と感想を言い合い、食事をしたり飲んだりするのだった。ベランダは花火が上がらない時は、せいぜい弱々しい月の光しか光源がなく、背後からさす部屋の明かりでは辺りを照らすには無理があったが、その程良い暗さが私達の間の壁を取っ払い、気持ちを素直にさせてくれてる様だった。それぞれこの間は、心のままに会話を楽しんでいた様に思う。義一と絵里、裕美とヒロ時々私、大笑いして騒ぎこそしなかったが、笑顔が絶えることは無かった。最高に充実感を味わっていた。

八時半を少し過ぎた頃、花火大会は空に硝煙の雲を残しつつ幕を閉じた。
ちょうど私達の食事も終わり、一度テーブルを部屋に戻したりと、今度は私達子供チームも加わり片付けを手伝った。ものの五分ほどで終わったので、私達子供はベランダのへりに手を掛けて、残りの飲み物を手に持ちながら、すっかり真っ暗になった花火の上がった辺りを漠然と眺めながら、しばらく雑談した。予定では九時に解散だったから、後二十分ほどあった。義一と絵里は椅子をベランダに出し座って、手にお酒の残りを持ちながら、そちらはそちらで談笑をしていた。
「いやー、楽しかったね!こんなに楽しいのは、今年が初めてだよ!」
裕美は興奮冷めやらぬといった調子で言った。私も全く同じ気持ちだったので大きく頷いた。
立ち位置としては部屋の中から見たとして、右端にヒロ、裕美、私の順に立ち、私の左に絵里、そして義一が座っていた。
「確かになぁー。俺もこんなにじっくり観たのは初めてかもしんねぇ」
ヒロはグビッとコーラーを飲むと言った。
「いやー正直裕美に誘われた時、どうなることかと思っていたんだけどよ?いざ今日になったら、ただただ楽しくて、むしろ早く終わりそうになっちまうもんだから、『まだ終わらないでくれー!』って、心の中で叫んだぜ!」
「あははは!」
裕美は頷きながら笑い声をあげていた。私も癪だけど、ヒロと是また全く同じことを考えていたので、サイダーに口つけながら頷いた。
「…でもよー」
ふと先程までのテンションとは裏腹に、ヒロは私達の方を見ると、マジマジと姿を眺めてきた。顔の左半分が部屋の明かりで浮かび上がっていた。目は半目気味だ。
「…お前らが浴衣で来るならよぉー…俺も母ちゃんに何か頼むんだったぜ」
そう言うと、私の向こうで談笑している義一と絵里の方を見ていた。確かにこの場で普段着はヒロだけだった。
私はそれには取り合わず、見えているかは無視して、意地悪くニヤケながら裕美の肩に手を置き、裕美の顔のそばに自分の顔を寄せながら言った。裕美は急に私が寄ったので、ビクッとした後、私の顔をまじまじと見ていた。
「…あなた、こんなに可愛いい女の子が二人も揃って浴衣を着ているのに、口から出てくるセリフがそれなの?ねぇ、裕美?」
「え!?…あ、あぁ、うん…」
裕美は何故かドギマギしながら答えた。そして気持ち俯き加減にヒロを見ていた。私の位置からは、裕美の表情は窺い知れ無かった。
この時の私は、いきなり話題を振ったので、それでタジタジになっているものとばかり思っていた。我ながら本当に、恋愛偏差値が低かったなと、今になって反省する。
ヒロは私と裕美を暫くの間見比べていたが、ヒロはニヤニヤしながら答えた。
「…俺は琴音のよりか、裕美、お前のが綺麗に見えるな」
「…え?」
裕美はボソッと短く声を漏らすのがやっとといった感じだった。この時まだ私は、裕美の肩に手を置いていたので、見る見るうちに体全体に力が入っていくのが分かった。同時に浴衣越しにもわかるほど、体温が上がっていくのが分かった。
当時の私はそれには気に留めず、ヒロにその訳を聞くことにした。
「なーんで私じゃなく裕美なの?確かに裕美も似合っていて可愛いけど、私のも紫陽花があって可愛いでしょうに」
私は裕美から手を離すと、その場で一回クルッと回った。両肘を軽く曲げ、指で袖を軽く摘み、膝を軽く曲げて可愛子ぶって見せた。
そんな私のぶりっこぶりに対して、ヒロは冷ややかな目を向けてきながら答えた。
「…そんなこと言われてもよぉ…見えねぇんだよ」
「…何が?」
と聞き返すと、ヒロは私を指差しながら続けた。
「…お前が言った模様がどうの、暗すぎて分からねぇんだよ。…暗い色過ぎて」
「…は?」
私と、今度は裕美までもが同じ反応を示した。構わずヒロはその指先を裕美に今度は向けると、続けて言った。
「それに引き換え裕美のは、こんなに暗くてもちゃーんと何の柄かが分かるほどに、明るい生地じゃねぇか。濃いオレンジでよ。裕美、それって名前は分からねぇけど、花弁が五つあるだろう?」
「え?…あ、あぁ、うん…そうだね」
裕美は先程までの様子とは打って変わって、冷静も冷静に、いや冷めきった調子で答えていた。その変化に気付かないヒロは、一人明るくそのままの調子で続けた。
「ほらな?だから琴音みたいな見辛い辛気臭い物よりも、裕美みたいな明るい、暗くても模様まで分かる様なのが、俺好みだよ。…ってあれ?どうしたんだよ、二人共?」
私と裕美は力が抜けたように、ダラーっと棒立ちになっていた。そして二人で顔を見合わせると、示し合わせたわけでは無いが二人同時に大きく溜息を吐いた。
「…ダメだわこいつは。中学に入っても、何にも成長していない」
「…はぁーあ。なんだか一気に気が抜けちゃったなぁ」
「な、なんだよぉー」
ヒロは決まり悪そうに、片方の眉だけを持ち上げつつ言った。その本気で困っている様子が面白かったので、私と裕美は顔を見合わせて、くすくすと笑うのだった。
それからは、裕美が何故か四六時中身体に帯びせていた、ある種の緊張感が解れていったので、しっかり普段通りの二人に戻っていた。二人して仲良く、それぞれ自分の学校についてお喋りしだしたので、私は二人から離れて義一と絵里の元へと行った。
二人は呑気にお酒を飲みながら、相変わらず談笑を楽しんでいた。
「二人共、楽しそうね?」
私はベランダの壁に寄りかかりながら言った。
「お?琴音ちゃんじゃーん!今日は楽しかった?」
絵里は酎ハイの入ったグラスを私に向けてきながら、陽気な調子で言った。普段から明るく陽気だったが、こんなに語尾を伸ばすように、ゆったりした口調で話すのは初めて聞いた。ほろ酔いしているようだった。
考えてみれば、二人がお酒を飲んでいるのを見るのは、この時が初めてだった。
「…うん、思っていたよりもね」
私はそう答えると、手に持ったすっかりヌルい、サイダーをチビっと飲んだ。我ながら素直じゃなくて、可愛く無い。
「あははは!素直じゃないんだからなぁー。どっかの偏屈のように」
絵里は上体をかがめると、隣にいる義一の顔を覗き込むように言った。表情までは分からなかったが、恐らくニヤケていただろう。
「おいおい、一体誰が偏屈なのさ?」
義一は手に持ったビールを一口ちょっと舐める様に飲んでから答えた。義一はこの暗さもあるかも知れないが、隣に座る絵里と違い、全くの素面に見えた。絵里の顔は若干赤みを帯び、目元もトローンと緩んでいたが、義一はなんら変化が無かった。敢えて違いを言えば、声のトーンが気持ち普段よりも高めなくらいだった。
「ところで…」
義一も絵里と同じくらいに少し屈んで、両腕を膝の上に置き、両手を軽く組ませながら私を見て言った。
「今日は、僕を誘ってくれて有難うね?久しぶりに、この花火大会を楽しんだよ」
「ふふふ、どーいたしまして!」
私は見えてるか分からなかったが、とびきりの笑顔で返した。
「…ほーんと、琴音ちゃんに感謝なさいよねぇー?こーんなに浴衣美女が一遍に集まるところに居れたんだから」
絵里は薄眼を使って、義一のことを見た。言われた義一は私の向こうにいる、ヒロと談笑をしている裕美を見て、そして視線を私に向けると、優しく微笑みながら、柔らかい口調で言った。
「…うん、琴音ちゃん。…その紫の浴衣、すっごく良く似合っているよ」
「…あ、ありがとう」
私にとっては、形式的にはただの叔父さんなのに、そんな言葉を掛けられただけで、自分でも顔が火照って行くのが分かった。私はその恥ずかしさを誤魔化すために、無理やり絵里の方を見ながら聞いた。
「わ、私のことよりもさ!ほ、ほら、絵里さんは?絵里さん!流石に日舞の名取なだけあって、すっごく似合っているじゃない?」
「ち、ちょっとぉ、琴音ちゃん?」
酔いが回っていたのか、少しぼーっとしていた絵里だったが、途端にシャンとなって、私を慌てて制した。そんな絵里の様子を他所に、義一は隣の絵里を舐め回す様に、顎に手を当てながら見ていた。
視線に気づいた絵里がふと、隣の義一の様子を見ると、慌てて胸元を隠す様なポーズをとり、少し気持ち離れながら見ていた。表情は恐らく、思いっきり引いて見せていたことだろう。
「うーん…」
義一は大袈裟に唸って見せていたが、顎から手を離すと、私に微笑み掛けてきながら言った。
「…そりゃそうだよ。僕は琴音ちゃんよりも、絵里との付き合いが長いからねぇ…」
そこまで言うと今度は大きく上体を屈めて、下から絵里の顔を覗き込む様にして言った。義一の顔は、薄暗がりの中でも分かる程に真顔だった。
「絵里に着物や浴衣が似合っているなんて、初めて出逢ったぐらいから知っているんだから、今更僕の口からいう事なんて無いよ」
そう言い終えると、なんでも無い調子でまたビールをチビっと呑んだ。
話を聞いた私は、顔がボッと熱くなった。なんて台詞を真顔で何気なく言うんだこの人は…。
私はそっと絵里の顔を覗いてみると、案の定、義一の方を見る体勢のまま固まっていた。
と、ハッとした表情になると、義一から顔を逸らして、椅子の肘掛けに右肘を置き、顎を手に乗せていた。口元も若干隠していた。顔はこの暗がりの中でも分かる程、真っ赤だった。
「…コレだからこの”天然誑し”は…」
視線は鋭くどこか別の方を向けながら、ボソッと恨みったらしく言った。恐らく義一には聞こえていなかっただろう。幸か不幸か私だけが、絵里の渾身の愚痴を聞いた。私は思わず、一人でクスッと小さく笑うのだった。

そうこうしている間に九時になった。絵里の号令と共に、花火大会観覧会は御開きとなった。
最後の後片付けを少し手伝ってから、絵里を含めた全員でマンションの外へと出た。流石に時間が経ったせいか、裏道とはいえここに来た時は、すぐそこまで賑わいを感じられる程だったのに、すっかり普段の閑静な住宅街へと戻っていた。
絵里以外の私達はマンション前の道に出て、一度振り返り挨拶をした。絵里も笑顔で手を振っていた。さて、そろそろ行こうかという時に、ふと肩を抑えられた。絵里だった。
私は何事かと目を見開いたが、絵里は構わず私の耳元に顔を近づけると、ボソッと言った。
「…琴音ちゃん、今日みたいな心臓に悪い事は控えてね?ビックリするから」
「…ふふふ、分かったわ」
私も小声で、全く分かってない調子で意地悪く笑いながら答えた。それを見て絵里も笑っている。
「…? おーい、琴音ちゃーん!行くよー?」
義一が他のみんなと、十数メートル離れた所から声をかけていた。
「うーん!今行くー!…じゃあ、またね絵里さん!…そのー」
私は一瞬躊躇ったが、やはりハッキリ言ったほうが良いと思ったので、思い切って言った。
「…今日は”本当は”楽しかった。…そのー…ありがとう」
「琴音ちゃん…」
「じゃあね!」
私は恥ずかしくなって、義一たちの元へと駆け出そうとしたその時、
「…私こそありがとう」
と背後からボソッと声が聞こえた。私はまた後ろを振り向いたが、絵里は笑顔で私に、胸の前で小さく手を振っているだけだった。…気のせいかしら?
私は少し訝ったが、気を取り直して笑顔で大きく手を振り返した。そして今度は振り返らず、皆んなの元へと駆けて行った。
義一とは大通りの手前で別れた。そしてすぐに駅近に住んでいるヒロとも別れた。
最後に裕美に向かって「今日は俺を誘ってくれてありがとう!」とぶっきらぼうに言うと、返事を聞かないまま駆け出してしまった。裕美はポカン顔で、手だけ振っていたが、徐々に顔に喜びが溢れてくるのが、はたから見てても分かった。まぁなにはともあれ、裕美自身が良かったなら、それで良かった。

私と裕美だけの帰り道。裕美はミニバッグをプラプラ揺らしながら、機嫌が良さそうに歩いていた。
「…いやー、楽しかったね琴音!この夏一番の思い出になったよ!」
「…ふふ、それは良かったわ。…私もね」
「ふふ」
今歩いている道は街灯も少なく、絵里の近所よりも閑静だった。道路に向かった窓のある家な一つもなく、高い塀に囲まれた家が多いせいで、余計に暗さが増していた。
「…それに珍しいものも見れたしね?」
裕美は私の前に回ると、後ろ歩きをしながら言った。
「珍しいもの?…何かしら?」
全く思い当たる節がなかったので、素直に聞き直した。裕美はクスッと笑うと、また私の隣に戻って来ながら言った。
「それはねぇー…アンタがあんなに人と楽しそうに話している姿よ!…あの叔父さんとね」
「…え?」
私は裕美が不意に義一の事を触れたので、瞬時に身構えた。何を言うのか、また何を言われるのかが怖かったからだ。そんな私の胸の内を知る由も無い裕美は、私の隣で明るい調子で言った。
「アンタが私とヒロくんから離れて、絵里さんたちの方へ行ってから、ちょくちょく様子を伺っていたんだけれど、凄く楽しげな表情で話しているのが見えたのよ。ほら、アンタはベランダの壁を背にしていたから、部屋の明かりが直で当たっていたじゃない?それでハッキリと見えたのよ。…なんか初めてアンタの底抜けの笑顔を見た気がしたよ」
「そ、そう?」
気付かなかった。そうか、裕美の方でも私のことを見ていたのか。
「…それ程あの叔父さんの事、好きなんだねぇ」
「んな!?何言って…ケホケホ」
裕美がしみじみと唐突に言うので、私は慌てる余りに噎せてしまった。裕美は苦笑いで私の背中をさすった。
「ちょっとぉー、大丈夫ー?なに噎せてんのよぉ?」
「あ、あなたが突然妙なことを言うからでしょう…」
私は息絶え絶えに返した。裕美は何の事か分からないといった表情を浮かべていたが、すぐにハッとして、顔中に満遍なく笑顔を作りながら、今度は私の背中をバシバシ叩きつつ言った。
「…あ、あぁ!なるほどー…あはははは!ちょっとぉー、琴音ー?そんな意味の訳無いじゃなーい。ライクよ、ラ・イ・ク!ラブな訳ないでしょー!もーう、おっかしー」
裕美のツボに入ったのか、大きな笑い声を上げ続けていた。閑静な住宅街に裕美の笑い声が反響して聞こえる様だった。
私はムスッとして見せていたが、ふと、今の内に話しておくべきだろうと思い至り、電柱に掛けられた街灯の下まで来たところで、私はふと立ち止まり、いつまでも笑っている裕美を呼び止めた。道路に楕円形の光の影が出来ている。その中心に立っていた。
「…あのね、裕美?ちょっと良い?」
「な、何よいきなり…」
急に真剣な面持ちになった私の表情に気圧されたか、裕美は途端に笑いを止め、不思議を露わに言った。
私は一度深く息を吐くと、ゆっくりと話し始めた。
「…この事はヒロと絵里さん以外に、誰も教えていないんだけど…あなたを信用して今から話そうと思う…のだけど、裕美、あなた、今から私が話す事を誰にも話さないと誓える?」
「な、何よ?藪から棒に…それって紫達にもって事?」
私は返答しなかったが、真顔で大きく頷くだけだった。裕美にはそれだけで、どれだけ大事な事を話されるのか認識した様だった。裕美は裕美で、さっきまでとは裏腹に、真剣な面持ちで答えた。
「…分かったわ。アンタがそこまで言うなら、他言はしない。…友達だもの」
裕美は恥ずかしさを押し殺しながら、最後のセリフを吐いた。
普段から友達だの友情だのという美辞麗句を、口にするのを”恥ずい”と嫌悪している裕美が、自らの口から覚悟を示すために恥ずい言葉を吐いたのだ。私にはそれだけで充分だった。
「…じゃあ、言うわね?実は…」
私はほとんど全てのことを話した。お父さんが義一の事を、憎むくらいに嫌っている事。でもこんな”なんでちゃん”の私を、その質問を含めて真正面から受け止めてくれたのは、義一だけだったってこと。だからどんなにお父さんが嫌がろうとも、私には義一が何よりも必要なこと。知識面だけではなく、精神面での支えにもなっている事。
ナドナドを大体…そう、十分少々かけて話したと思う。裕美は真剣な表情を変えず、間に茶々を入れる事無く、最後まで真摯に聞いてくれた。勿論、何で義一が嫌われているのかまでは、言わなかった。
…小学二年生の春休み、あの法事の晩、お父さんがお母さんに義一の事で怒りに任せて捲し立てていた晩。あの事がある種のトラウマとなって、中学に入った今でも鮮明に覚えていたが、何度も考えてる内に、お父さんが口にした事以外に大きな別の理由があるんじゃないかと、最近は思い始めていた。この問題は義一にすら話せない、という事は誰にも話せない問題、私自身で結論を出さなければいけない問題だった。そういう理由もあり、ヒロに話さなかったときとはまた別に増えた理由で、そこには触れなかった。
「…って事なの」
私が話し終えると、辺りはまた静まり返った。あるのは絶えず頭上から注がれる街灯の灯りと、目には見えずとも微かに秋の虫の鳴き声が、微かに何処からか聞こえていた。まだ八月だというのに、気の早い虫もいたもんだと、言いたい事を言い切ってスッキリした私は、変に呑気な事を考えていた。
「…うん。叔父さんとアンタ達家族の話は分かったけど」
裕美は言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「…で、その話を私に聞かせて、アンタは私にどうして欲しいの?」
裕美は真っ直ぐな視線を投げかけていた。そこには建前など許さない、本気の目だった。
私もその目に応えるべく、同じ視線を返しながら言った。
「…私が頼む事自体は、単純な事。…さっきも言ったけど、この話を誰にも言わないで欲しいの…”絶対に”。…私こんなんだから、この話をしちゃったアナタに対して、色々と相談する事があるかもしれないけど…お願い、誰にも言わないで?…お願い」
私は最後は力無くボソッと言い終えるのがやっとだった。ただ手だけは力強く、浴衣をギュッと握り締めていた。顔を伏せていたので見えなかったが、裕美は静かに私をジッと見ていたようだった。痛いくらいに視線を感じた。
「…琴音、顔を上げて?」
裕美は柔らかな調子で、話しかけた。雑音がほとんどない通りのせいか、小さな声だったが、私の耳にクッキリとした輪郭の言葉が届いた。
言う通りに顔をあげると、そこには柔らかな笑みを浮かべた裕美の姿があった。私と目が合うと、一度大きく息を吐いてから、言い掛けた。
「…琴音。…そんなに大事な話を、私なんかに話してくれて有難う」
裕美はクシャッとした笑顔を見せた。声は心なしか涙声のようだった。少し掠れている。
「…え?」
私は思いがけない言葉に声が漏れた。そんな私の声は、裕美以上に掠れていた。
「…そんな大きな話を、まさかこんな立ち話形式に話されるとは、思っても見なかったけど」
「…ごめんなさい。今しかないと思って…」
私はまた俯き加減に言った。そんな私を見ると、裕美は明るい調子で返してきた。
「…もーう!責めてる訳じゃないんだから、落ち込むのはナシにしてよ?…ほーんと、このお姫様は感じやすいんだから」
「…姫じゃないわ」
私は顔を上げると、ボソッとだが何とか突っ込めた。裕美は私のツッコミには何も返さず、悪戯っぽく笑うだけだった。私もようやく笑みで返せた。
「それはともかく…」
裕美はおもむろに歩き始めた。私も後をついていく。
「…わかったよ。アンタのことは誰にも言わない」
「…ありがとう」
私は裕美の隣に着くと、なるべく柔らかい口調を意識して返した。裕美は私の方を向くと、明るい笑顔を作りながら頷いた。
「…でもアンタって、やっぱり勇気があるなぁー」
「…え?」
裕美が急に放った言葉に理解が出来なく、間の抜けた声を出してしまった。裕美は一度私を向いてから、また進行方向に視線を戻して言った。
「…だって、私にはアンタみたいに、言っちゃあ悪いけど他人に対して、そこまで腹を割って話せないもの。…いやー、私が空っぽだからそれを誰かに知られたくないから、何も持っていない癖に隠そうとしちゃうのかも」
「そ、そんな事…」
『そんな事無いよ』と言いかけたが、口にしたらただ気を遣って、社交辞令的に取られかねない程に軽く聞こえるのを恐れて、言うのを止めた。
その代わり私は、絵里とあのマンションで、”色気”について話した事を思い出していた。
「…アンタはやっぱり、私と同い年なのに、色んなものをその体に詰め込んでいるんだろうねぇ」
裕美は私に優しい視線を投げかけながら言った。そして私の反応を見る前に、また視線を戻すと、ボソッと呆れた調子で言った。
「…だから…は琴音の事…」
「…え?何?私が何なの?」
私は正直自分の名前を言ったことしか分からなかったので、聞き直した。だが裕美は眉をひそめながら笑うだけで、答えてはくれなかった。
「…んーん、何でもないよ!私もアンタに負けないように、色々とこの身体に詰め込んでいかなきゃなぁって思っただけ!」
裕美は私の前にまた回り込むと、立ち止まり、さっきみたいにクシャッとした満面の笑顔を見せた。
「…何よそれぇ?意味が分からないわ」
私は言いながら、人差し指で裕美のおでこを軽く小突いた。
「イッタァー!」
裕美は私の隣に戻ると、オデコを大袈裟に撫でて見せていた。私は笑いながら、今度は自分の肩を裕美の肩に軽く当ててから言った。
「大袈裟なのよ、あなたは」
「なにをー…えいっ!」
裕美もお返しと、私に肩を当ててきた。数回繰り返すと、どちらからともなく止めて、お互いを労わるように笑い合ったのだった。
後は元通りに普段の私達に戻った。そして裕美のマンション前に着いたので、挨拶して別れることにした。
「じゃあ裕美、今日は色々と楽しかったわね?」
「…えぇ、色々とね?」
私と裕美は顔を見交わすと、またクスクスと笑い合った。
「…じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おや…あっ!」
私が自宅への道を進もうとすると、裕美が声をあげたので、思わず振り返って聞いた。
「え?何?どうしたの?」
「あっ…え?あ、い、いやぁ…何でもないっ!おやすみなさい!」
裕美は誤魔化すように笑顔で大きく手を振ると、逃げるようにマンション内へ消えて行った。
「…何なのよ、まったく」
私は苦笑交じりに独り言ちると、気を取り直して家路を急いだ。

家に着いたのは九時半を少し過ぎたところだった。花火が終わったのが八時半過ぎくらいだったから、約一時間ばかり経っていた。でもお母さんからは、軽く遅い事を注意されただけだった。何故なら花火が終わった後、少し土手で話してから帰るかもと、予めに言っておいたからだ。それに地元の人は花火が終わっても、屋台がまだ出ていたりするので、すぐに帰ろうとはせずにグダグダとクダを巻いたりしていた。普段は夜になると真っ暗な土手も、花火が終わるとすぐに撤去作業が始まるというんで、その為の工事現場にある様な作業灯が、煌々と辺りを照らしているので、中高生くらいの子達はその間よく屯していた。
それらをよく知っていたので、少しお喋りしてくると言っても文句は言われなかった。それでも少し遅くはなったが。
お父さんは病院に出てると言うんで、私は早速浴衣を脱ぎ、風呂に入り、歯磨きなどの寝支度を済ませ、お母さんに挨拶をしてから自室に入った。風呂に入っていた時から、気持ちの良い疲れが全身を包んでいたので、余計な事はせず直接ベッドに入った。
ただ寝る前に、普段の習慣ってほどでもないが、スマホをチェックした。すると何件かメールが着ていた。絵里、義一、ヒロ、そして裕美の順番で着ていた。私は眠りそうなのを堪えて、着た順に見てみることにした。
まずは絵里と義一。何故二件を纏めたかというと、細かくは当然違っていたが、内容自体は同じだったからだ。『無事に家に着いたか?』『今日は楽しかったね』といった、大雑把に言えばそんな内容だった。私はまず二人に返信する事にした。私からも二件とも、同じ様な内容だ。『無事に帰って、今から寝る事』『今日は本当に楽しかった。またこんな感じで、みんなでまた遊びたいなぁ』といった内容だ。絵里にだけは、義一のことをサラッと滲ませておいた。
送った後に見たのはヒロからのだ。ヒロからのも大体二人と似通っていた。…が、一つだけ違っていた文章があった。その内容は…うーん、まぁいいか。それは私の浴衣姿を、褒める様な内容だった。何やら色々とぶっきら棒に書かれていたので、言わんとする所が掴めなかった。ただ一点だけ読んでいて、ニヤケた一文があった。そこには『馬子にも衣装』と書かれていた。私はすぐに、あの卒業式の情景を思い浮かべていた。勿論あの時だってワザと間違えていた訳だが、今回は正しい使い方(?)をしていたので、義一達に出したのと同じ様な文章を打った後、『今回は間違えず、よくできました』と付け加えた。はなまるのスタンプ付きだ。
最後は裕美だ。だが裕美のはメールでは無い。電話の着信だった。
私は横になりながら、早速電話をかけてみる事にした。
プルルルル、プルルルル。
何度か鳴っても出ないので、今日は諦めるかと切りかけたその時、ブツッと音がしたかと思うと、向こうから声が聞こえた。裕美の声だった。
「…あぁ、もしもし琴音ー?まだ起きていた?」
「…えぇ、一応ね。…もうベッドで横になっているけど」
「あぁー、そうなんだ?じゃあまた今度がいいかな?」
私は部屋の時計を見た。十時半になろうって刻だった。
「いえ、大丈夫よ。疲れてはいたけど、まだ眠れそうになかったもの」
「あははは!今日は楽しかったもんねぇー!私もあんなに大勢で集まってワイワイやるの、考えて見たら初めてだったよ!」
「ふふ、パーティーだったよね?」
「そう!パーティーだったよね!?…私初パーティだったからさぁー…ねぇ、アンタはした事あった?」
「え?パーティーの事?…うーん、極たまーにお父さんに連れられたことが…一、二度あったかなぁ?」
「あっ、そうなんだぁー。さっすが”お嬢様”は違うね!」
「だーかーらー、お嬢様じゃないって言ってるでしょ?」
「あははは!ごめんごめん!」
「もーう…」
「でもさ?…私にとっては初物尽くしで…今年の夏は忘れないと思うなぁ…」
「…えぇ、私も」
「またみんなで遊びたいわね?」
「そうねぇ…ところでさ?」
「ん?何?」
「いや『何?』じゃなくて、わざわざ電話してきたのは、何か私に用があったんじゃなかったの?」
私が聞くと、受話器の向こうでしばし沈黙が流れた。数秒してから裕美は、声の調子を少し落として言った。
「い、いやぁ…帰ってから風呂に入っていた時にね?今日の帰り、アンタと話したことを思い出していたんだけど、ふと絵里さんの事を思い出したの」
「…へぇ」
私もあの時に思い出していたが、アレはまだ裕美が絵里のマンションに行く前のことだったから、別のことを思い出しているんだろうとすぐに察した。
「ほら、アンタなら覚えていると思うけど…絵里さん、いつだったか言ってたじゃない?『大きくなると、一から恥ずい話しをするのが難しくなる。腹を割って相談の出来る友達が、出来にくくなる。だからあなた達二人はそんな恥ずい話をし合える、貴重な友達同士なんだから、今の関係を大切にしなさい』って」
「…うん、勿論覚えているよ」
「…うん」
と短く言った後、裕美は少し黙り込んだ。向こうで考えている様だった。私はジッと、小さなザーッという音を耳にして待っていた。しばらくして溜め息を吐く音が聞こえたかと思うと、変わらぬ調子で裕美の声が聞こえた。
「…さっき別れる時に言おうと思っていたんだけれど、面と向かってはなんか言えなくてさ…さっきも言った通り、アンタみたいにはまだ恥ずい事を素直に言えないのよ。…でも言わずにいたらモヤモヤしてくるし…もしかしたら明日になったら、忘れちゃうかもしれない…だから少し聞いてくれる?」
「…えぇ」
「…うん、ありがとう。…まぁここまで伸ばすほどの事じゃないんだけれど…アンタ、さっき話した中で端折ったでしょ?…叔父さんが何で嫌われているのか」
「…」
私が今度は黙り込んだ。先ほども言った様に、考えていた事だったからだ。まさかこんなすぐに指摘されるとは、思ってもみなかったから、度肝を抜かれただけだった。
私はすぐに落ち着きを取り戻すと、ゆっくりと、でもしっかりとした口調で返した。
「…うん、その通り。…でも勘違いしないで欲しいんだけれど、隠そうとしていた訳じゃないの。…まだ私の中で答えが出てないから、言えなかっただけ。…だからもし何かしらの答えが見つかったら、いの一番に言うから…それじゃダメ…かな?」
「…」
受話器の向こうは黙り込んだ。かすかに呼吸音が聞こえるだけだ。それだけでそこにまだ、裕美が居るのを感じられた。とその時、プッと息を吹き出す音がしたかと思うと、裕美は陽気な声で返してきた。
「本当にアンタは生真面目なんだから。…ダメも何もないよ。…私がわざわざこの話を振ったかっていうとね?…ほら、私もアンタにまだ話せていなかった事あったでしょ?…なんで面識の無かったアンタにワザワザ話しかけたのを」
「…えぇ、そういえばそうね」
「…ふふ、だからね?これである意味二人の立場はイーブンになったと思うの」
「…?…え、えぇ」
「だからね?…私の話もアンタの話も、前に桜の下で話した様に、お互いが大人に…うん、体だけじゃなく心も大人になった時に、その話をしようって約束したかったの。…どうかな?」
「…」
私はすぐには答えなかった。でも提案された瞬間、答えは自然と出ていた。裕美の言い回しなどを含めて、素敵な提案だと思った。
人それぞれ、赤の他人同士が仲良く一緒にいて、相手を気遣うことが増えれば増えるほど、良くも悪くも秘密が増えていくものだ。今はまだ二年以上の付き合いになったとはいえ、私達二人の関係は、まだまだ火傷するほど熱を持った、赤黒く光る鉄の様なものだ。少しの外的な要因衝撃に、鉄とはいえども容易に変形したり壊れたりする程脆い状態だ。
でもいつか必ずちゃんと熱が引いて、強い衝撃にもめげない程に練磨された鉄の様になった時、昔にやり過ごした宿題をこなそうという約束を誓い合うというのは、繰り返し言うようだけど素敵な事に思えた。
「…うん。勿論私は大賛成よ」
「…良かったぁー」
裕美は受話器越しにも分かるほど、安堵した様子で返した。
「…アンタはどう思っていたか知れないけど、あの桜の下での会話がずっと心に引っかかっていたのよ。…アンタに対して誠実に出来なかったんじゃないかってね」
「…ふふ、まだまだ柔いとはいっても、そこまで鉄は脆くはないわよ」
「…ん?鉄がどうしたって?」
「んーん!なんでもなーい!」
私は言うと、一人クスクス笑った。
「…?まぁ、いーや!…じゃあ二人で話せるように、お互いに早く大人になろうね?」
「…えぇ、お互いにね」
それから私達は明るく笑いあった後、軽く挨拶して電話を切った。私は先程までとは違って目が冴えてしまったが、ベッドから出る気は起きず、そのまま仰向けになり天井を無心で見つめていた。こうして、中学に入って最初の夏休みは幕を閉じた。

第18話 文化祭

九月に入り、二学期が始まった。始業式の日。
夏休みにも何度か会ったが、やはり久しぶりの感は否めなかったので、紫、藤花、律との再会をお互いに喜び合った。何せ我々のグループは、ガッツリな体育会系と文化系だったから、みんなそれぞれに忙しくしていた。
律は夏休み中は地元のクラブ、そして学園の部活練習と、ほぼ毎日バレーボール漬けだったようで、何度か遊んだが片手で数えられるくらいだった。
裕美もそうだ。勿論花火大会も含めて遊んだには遊んだが、午前中だけ遊んで午後からは水泳の練習…そんなこんなで、思った程遊んだ記憶は無かった。
藤花も何だかんだ日曜日は教会で讃美歌を歌い、それ以外も自分の口からは教えてくれなかったが、律が言うのには、他の日も隠れて練習をしていたようだった。前にも言ったように、パッと見イメージではフワフワしていて、いかにも可愛らしいキャラクターだったが、意外と言うか、そんなのは通り越すほどに歌に関してストイックだった。その様子は孤独な競技者を思わせるほどだった。私にも良い刺激を与えてくれている。
残るは紫。紫が一番夏休みに会っていたかも知れない。中学までは人に連れられるままに動いていただけで、正直何がどこにあるのかを都民でありながら、全くと言って良いほど知らなかった。自分の意志ではあまり地元から出ないで生活して来た私を、紫は何かと気を掛けてくれて、あちこちに連れ回してくれた。定番中の定番、新宿、池袋、渋谷などを案内してくれた。定番と言っても滅多に来たことが無かったので、行く度にすっかり御上りさん状態になっていた。紫はそんな私の様子を見て面白そうに笑っていた。が、私は知っていた。紫自身も滅多にそういった繁華街に、行ったことが無いって事を。何せ私達はこれでもまだ、中学に入ったばかりの女学生。ついこの間まで小学生だったのに、繁華街や遊び場に詳しい訳がなかった。寧ろ詳しかったら問題あるし、もしそうなら私は幻滅して、二度と一緒に遊ばないだろう。
私は紫の”知ったか振り”を、からかう気にはならなかった。私の為に…いや当然自分の為ではあるんだろうけど、モタモタして相手を退屈にさせないように、前日まで緻密に調べて計画していたからだ。…まぁ私が何も考えて来ないことを、知っていたからだとも言える。まだ半年にもならない付き合いなのに、よく私の習性を見抜いていた。
それで何故それが分かるかというと、ブラブラしている途中でチョクチョクスマホを覗いていたからだ。『それはその時に調べているだけだ』と言われる人もいるかも知れない。でも違う。何故なら一々検索エンジンで一からキーワードを打ち込んでいるというより、予めブックマークしていたのを開いている感じだったからだ。お陰で普通の女学生らしい(?)夏休みを過ごした。紫の近所で買い物したり、食事したりもした。が、八月に入ると紫も何やら忙しくなりだして、私、そして他のメンバーとも会う頻度が極端に少なくなった。この理由が、この後の話に大きく影響することになる。
学校は午前までだったので、先生の話が終わると、何故かみんなして窓際に座る私と、前に座る紫の周りに集まって来た。
開口一番、裕美が口を開いた。
「…で、どうする?この後」
「私は大丈夫よ」
カバンを整理しながら答えた。
「あなた達みんなは?」
私は顔を上げると、立ったままの裕美、藤花、律に聞いた。
「私は大丈夫よ!」
「私もダイジョーブー!」
「…うん、平気」
「じゃあ久し振りに五人で、どこか寄って行こうか」
と言いながら私はカバンを肩に掛けて立ち上がったが、紫はまだ座ったままだった。
「…あれ?紫、どうしたの?」
「…?」
他の三人はすでにドアの前に行っていた。皆してこちらを見ていた。
紫は顔の前で両手をパンッと音が鳴るほどに合わせて、目をギュッと強く瞑りながら言った。
「…ゴメン!今日も管楽の練習があるんだ…だから今日は他のみんなで行ってきてよ?」
「…あぁ、そっかぁ。今月だもんね」
私はふと、黒板横に掛けられたカレンダーを見ながら言った。
「…うん。だからゴメン、みんなで楽しんできて?」
紫は私の背後に視線を向けると、裕美達にも聞こえるように言った。
「あぁ、そっかー。ならしょうがないよねぇー…じゃあ練習頑張ってね!」
「本番楽しみにしてるからねぇー!」
「…落ち着いたら、また行こう」
藤花、裕美、律の順にそう言い残しながら、手を振りつつそれぞれ教室の外へと出て行った。
「じゃあ私も行くね?…練習、頑張って!」
「うん」
私は微笑みながら紫の肩にポンと手を置くと、同じように手を振りながら教室を出た。紫も微笑み返しながら、私に手を振り続けていた。

「…はぁー、しっかしやんなっちゃうわよねぇ」
裕美は目の前のアイスティーに入ったストローを、クルクル回しながら言った。その度に中の氷が、カランコロンと音を鳴らしていた。
「何がよ?」
私も同じく頼んだアイスティーを一口啜りつつ、横を見ながら聞いた。裕美は薄目で店内を見渡しながら、不満げに答えた。
「…だってぇー…お茶するのにわざわざ離れた所に行かなきゃなんだもん!」
ここは学園から電車で一駅、御苑近くの全国チェーンの喫茶店だ。個室のテーブル席に座っている。私と裕美が隣同士、向かいに藤花と律が座る形だった。あまり周りに会社や学校が無いからなのか、空いてるとまではいかなくても、息苦しく感じるほどでは無かった。店内も静かだったので、落ち着いてお喋りが出来た。周りには私達と同じ制服姿は見えない。
「…だもんって」
私は苦笑交じりに返した。すると裕美の向かいに座る藤花が、無邪気に笑いながら言った。
「あははは!確かにワザワザここまで来るのは、めんどくさいよねぇー。学校の近所にもファミレスとかあるのに、そこには行けないんだから」
そうなのだ。…いや、行けないという訳ではないのだが、いわゆる暗黙の了解という奴だった。”校則はそこまで厳しくない”と、いつだったか言ったと思う。それは間違ってはいないのだが、校則には書かれていない”校則”が存在したのだ。これは”小学校組”の藤花達に教えてもらった。それは何かと言うと、”この学園の生徒である以上、その制服を着ている自分が外の人間にどう思われているか?学園に相応しい立ち居振る舞いをしているか?それを心掛けて普段を過ごしなさい”というものだった。確かに入学式の時、壇上で学園長と思しきオールドミスがしきりに言っていたのを覚えていた。聞いたときはまさかと思ったが、廊下でたまに先生とすれ違うと、全員では無いし毎度では無かったが、今のようなセリフを言われた事が何度もあった。藤花達の話では、もし一年生ぐらいの新人が学園近所のファミレスに、立ち寄っていた所を先生なり先輩に見られたら、その子の親の所に連絡が行って、厳重に注意されるらしかった。校則が無い代わりに、お互いに目を光らせて秩序を守っているというのが、実状のようだった。こうしてみると何だか、おどろおどろしく思われるかも知れないが、これは一年生だけの試練みたいなもので、学年が上がり後輩が出来れば、学園の近所で堂々とお店に入ってお茶が出来るみたいだった。
これは部活に入っている紫と律の話だが、二人の部活の先輩は堂々と学園周りのお店に立ち寄っているらしい。線引きがイマイチよく分からないし、許される理由もよく分からないが、とりあえずこの一年だけの辛抱のようだった。因みに今いるお店を紹介してくれたのは、律の部活の先輩らしい。代々一年生が周りの目を盗むために、この店を利用しているって話だそうだ。変なところで伝統のようなものを感じた。
裕美は尚不満げに見せながら、手元のグラスを覗き込みつつボヤいた。
「…こういう所が、お嬢様って事なのかなぁ?」
「…違うと思う」
今まで黙ってホットコーヒーを啜っていた律が、静かにボソッと突っ込んだ。
「…もーう、そんなことは言われなくても分かってるんだよぉー」
裕美はほっぺを膨らませて見せてから、言った。私を含む他の三人は、顔を見合わせるとクスクス笑い合ったのだった。
その時手元の円形の機械が、赤い光を点滅させながら震えた。テーブルが共振して大きな音を出していた。注文の品が出来上がった合図だった。裕美は慌てて手に取ると、藤花を引き連れ商品引き渡し口へと向かった。そしてしばらくして二人は、お盆二つを分けて持ってきた。四人ともパフェだったが、中身がそれぞれ違ったので、仲良く分け合いながら食べた。食べてる間は目の前のパフェの事とか、それに関連して何処そこのスウィーツが美味しいなどの話をした。…話していて気付いたが、女子校だから男子の話などはしなかったけど、思えば立派な”女子会”をしていたのだった。私自身のキャラから客観的に見て、こんな風に同い年の女の子達とスウィーツを突っつき合うような、”普通の女学生”の生活を送る事になろうとは思っても見なかった。何も生産性の無い会話だらけだが、こういうのも悪くないなと素直に思っていた。
「…あーあ、美味しかった!」
藤花は背もたれに凭れながら、満足げな声を上げた。既にみんなは食べ終えており、藤花が最後だった。
「あんまり美味しくて調子のって食べちゃうと、太っちゃうかも」
裕美は意地悪く笑いながら、アイスティーのお代わりを飲んで言った。私達は同意する様に笑ったが、ふと藤花が先程の裕美の様に不満をあらわにしながら言った。
「…でもさー、ここにいる私以外のみんなは、そんな心配要らないでしょ?裕美ちゃんも律も、スポーツしているからかスラッとしてるし、琴音もなんだか知らないけど痩せてるし」
私達みんなに万遍なく視線を流しながら、オレンジジュースをストローから啜っていた。
ここで一つ補足すると、藤花はある意味わかりやすい性格をしていて、自覚あるかはともかく、心を許している人には呼び捨てにする習性があった。律のことは言うまでもないが、最近になって私の名前も呼び捨てにするようになった。おそらく…というか間違いなく、あの教会での独唱を聞いて以来の、私の積極的なアプローチが身を結んだのだろう。前にも言ったように、藤花の練習場に何度かお邪魔をしていたからか、夏休み入る直前くらいから”ちゃん付け”と呼び捨てが混ざるようになり、二学期に入ってからはずっと呼び捨てになっていた。このグループの中では、藤花に呼び捨てにされているのは律と私だけだった。…まぁ、それだけのことだ。
「いやいや、アンタだって充分すぎるくらい痩せてるじゃない」
裕美は藤花に苦笑を送りながら言った。裕美もいつの間にかこのグループのみんなに”アンタ”呼びが定着していた。私に対しては中々定着しなかったけど、もう一学期の中間テストがあったぐらいには、みんなに対して”アンタ”と呼んでいた。…これもまぁ、それだけのことだ。
確かに裕美の言う通りだ。私達の中では若干丸顔だったが、その他の手足や腰回りなどは細かった。四月の研修会旅行の時、宿泊所で班ごとにお風呂に入る事になったが、その時みんな当然裸になるので、まじまじと見た訳ではないがどうしても目に入るので見てみると、裕美と律のスタイルが良いのはともかく、意外と藤花も身体が小さいなりにスタイルが良かった。何よりも目を見張ったのは、お腹に綺麗な縦筋が浮き出ていた事だった。裕美と律は如何にもスポーツマンな腹筋が浮き出ていたが、藤花のは女性らしいモノだった。私はその時思わず藤花のソレを褒めたが、私以外のみんなに『アンタが言うな』と何故か怒られてしまった。…因みに余計な事を言えば、胸はみんな形に違いはあれど同じ様なサイズだったが、紫が一人だけ大きかった。…これはまぁ、余計な話だ。
「…そんなに気になるなら、私と一緒にトレーニングする?」
律は隣を見ながら言った。顔は無表情だったが、声に熱がこもっていた。
藤花は上体ごと隣の律に向けると、両腕を前に突き出し手を振りながら慌てて答えた。
「いやいやいや!律のトレーニングなんて、ついていける訳ないでしょ?痩せるどころか、死んじゃうよ!」
「…大袈裟な」
律は澄まし顔だったが、声はしょぼくれていた。私と裕美は顔を見合わせ、クスッと笑った。
「あーあ、この場に紫ちゃんがいれば私に加勢してくれたのになぁー」
藤花はまだ自分だけ太っていると思い込んでいるのか、不貞腐れながら言った。
「ふふ…あっ、そういえば」
私は思い出したような声を上げてから言った。
「紫と言えば、そろそろ文化祭ね」
「そうだねぇー」
藤花はさっきまでの不機嫌さはどこに行ったのか、いつもの無邪気に戻って言った。
「そうかぁ、もう文化祭かぁ」
「…今月末」
裕美と律も私に反応した。
「この中で関係しているのは、主に紫と律ね」
「…うん」
律は私の言葉にコクンと頷き、短く同意を示した。
そう。私達の学園の文化祭は今月末、つまり九月末の土日に催される事になっていた。都内の学校の中ではかなり早めな方だった。他もそうらしいが、女子校ならではの”招待券制”で、一人当たり八枚程のチケットを配布されることになっていた。いや、もうこの時期には配られていた。そこに呼びたい人の素性まで書かなければならないという、随分と厳しい規制がかかっていた。まぁこれも仕方ない事なのだろう。
ここで漸く、紫のことを話せる時が来た。紫はご存知のように、”管弦楽同好会”に所属していた。前にも言ったように大会などに出場する様な事は無かったが、学園内で催しなどがあった時には、必ずと言っていいほど駆り出されていた。朝礼時での校歌も、”管楽”の生演奏をバックに歌っていた。だから大会に向けての練習はしていなかったが、何気にいつも忙しそうにしていたのだった。今回は文化祭の開始時に、校庭に全校生徒が集まり、学園長が壇上に上がり、文化祭の開始を宣言するのと同時に、管楽がファンファーレをする事になっていた。しかもそれで終わりではなく、文化祭中も一日目に体育館で、何度か生演奏を披露する事になっていた様だった。みんなで一度は聞きに行く約束をしていた。というわけで、夏休みの中盤から紫と遊べなくなった理由は、学校で文化祭に向けての練習に明け暮れていたからだった。
序でに律も何故関係しているのかというと、文化祭の二日目に体育館で、他校との交流試合があったからだ。これは律、そして律の先輩達が自ら言うから言い易いのだが、ハッキリ言って我が校のバレーボール部は弱いらしく、また人手人材不足も相まって、一年生の入部したての律が急遽、先輩たちに混じってレギュラーを張っていたのだった。ぽっと出の一年が、他の先輩を差し置いてレギュラーになるのは、何かしらの反発があるものと予想されるのだが、律に対しては無かったらしい。入部したての時に全部員が見ている前で、サーブなりスパイクをして見せたら、顧問の先生初め先輩から何からが律を推したという、これは律と仲の良い先輩の弁だ。でもやはり大会にいきなり出るというのは、フォーメーションやチームワークとの兼ね合いで、夏にも大会があったが、そこではベンチを温めていたらしい。しかしその背後でレギュラーの先輩達と何度も練習を繰り返していたようだ。そして今回、お試しというのも含めて、律にとっては部活上初の試合出場と相成った。これも既に私達全員で観に行く約束をしていた。
「二人とも頑張ってよー」
裕美はにこやかに明るい調子で律に言った。律は私に対してと同じ様に、コクンと頷いた。が、顔を上げて裕美に向けた視線は、私に対してよりも力強かった。裕美も視線を合わせたまま、小さく笑顔で頷いた。体育系同士の意思疎通を感じた。
「…琴音」
「…ん?何?」
と急に話しかけられたので、短くそう聞き返した。藤花は身を乗り出し私に顔を近付けて、一度薄目で律と裕美を見てから、ボソッと耳打ちする様に言った。
「私達文化部も負けてらんないわ!紫をしっかり応援するわよ」
藤花の顔は和かだった。
「…ふふ。それは勿論だけど…文化部って何よ?」
私も同じ様な表情を返しつつ、口調は戸惑いげに突っ込んだ。藤花は無邪気な笑顔を見せるだけだった。仕方なく私も笑った。気づくとそんな私達を、裕美と律も微笑みながら見ていた。
これから文化祭の準備が始まる。

「それでは皆さん、怪我には気をつけて、礼節大事に秩序を保ちながら、文化祭を盛り上げましょう」
壇上の学園長がそう言葉を結ぶと、お辞儀をした。すると脇でずっと待機していた管弦楽同好会が、各々の楽器を空に向けるようにしながら、ファンファーレを鳴らした。
楽員はみんなして、統一した服装を着ていた。白のワイシャツに黒のスキニーパンツ、それに赤と黒のチェック柄ベストを羽織っていた。トランペットを吹いている紫の姿が見える。お祭り開始の合図だ。
ここは校庭。都心の学校らしく、地面は全てが人工芝だ。空は生憎の曇り空。朝家を出た時は晴れていたのに、女心と秋の空は変わりやすい、まさにその言葉通りにグレーの雲に覆われていた。私自身女の筈だが女心は分からないので、言葉の意味が素直に飲み込めないが。そんな余計な事はともかく、周りは天気が悪くなったのを残念がっていたが、私は曇り空が大好きだったから、むしろ気分が高揚していた。勿論天気だけでなく、今の紫もそうだが、他に律の初試合が控えていたからだ。それを楽しむためだけに、学校に来たようなものだった。何しろ私自身のことでいうと、もう文化祭は実質終わっていた。何故なら一年生の出し物は、毎年四月の研修旅行の発表と決まっていたからだ。
文化祭開始の二週間前、授業は全てが短縮されて、全校生徒が一丸となって準備に熱を入れる。二年生から上は、それぞれ模擬店などを企画したり、部活毎では屋台を出したり、律の所みたいに試合があったりした。先ほども言った通り一年生の全クラスは、どこか部活に所属している人は別にして、ボール紙にその時の写真を貼って、それを倉庫から持ってきた移動式のパネルに貼り付けて、後は適当に手作りの花飾りなどで教室を彩っただけだった。後は形ばかりの受付係を、クラスの三分の一を占める帰宅部で回すだけなので、もう正直やることが無かった。とりあえず初日は紫の演奏会が体育館で控えていたので、その開始時刻まで私、裕美、藤花でブラブラ回ることにした。律は今日が試合じゃないので、一緒にどうかと誘ったが、明日の試合に向けて最後のミーティングがあるらしく、一緒に回る事は叶わなかった。私達は律に対して、簡単にとは言えエールを送ったのだった。

紫の演奏会は午後からだったので、それまでどうやって時間を潰そうかと思っていたが、要らぬ心配だった。中高一貫校な上、一つの校舎にまとめて入っているので、全部の模擬店なり屋台を回ろうとしたら、時間がいくつあっても足りなかった。…まぁこれは大袈裟だとしてもだ。
こう言うと、また変に冷めてるなと思われるかも知れないが、文化祭のような催し物は、やる側の人間達が楽しむもので、受け手側、客側としては正直…それ程でもない。 ケチをつけたいんじゃなくて、客観的な事実だ。ではどうやって時間を潰したのかというと、文化祭自体というより別の要因があったからだ。
屋台でお菓子を買ったりしながら、私達三人は当てもなく各教室を覗き込んだりして過ごした。と、その時。
「琴音、裕美ちゃん、久しぶりー」
後ろから声を掛けられたので、振り返って見るとそこには、私のお母さんと裕美のお母さんが、こちらに手を振りつつ笑顔で近寄って来ていた。
「久し振りです、おばさん」
私は裕美のお母さんに挨拶した。裕美はミディアムくらいまで髪が伸びたというのに、昔と変わらずショートヘアーのままだった。
おばさんは私の肩をポンポン叩きながら、陽気な調子で返した。
「久し振りー!元気にしてた?」
「えぇ」
向こうでは裕美とお母さんが、同じような挨拶をし合っていた。
私はまず招待券を、お母さんに渡していた。というのも、招待券の中に”親類親族用”というものがあったからだ。大体の新入生はこの券を使って、自分の親を招待するのが習わしになっていた。私達のクラスに見に来るほぼ全員が、保護者の方ばっかりだった。その為の”研修旅行発表”なのだと思う。
「…ところで」
お母さんは、一人手持ち無沙汰で惚けていた藤花を見ながら言った。
「この可愛らしいお嬢さんはどなた?琴音のお友達?」
「うん。紹介するね」
私は藤花の背後に回ると、お母さん達の前に押し出すようにしながら続けた。
「この子は藤花。ほらお母さん、あの…」
「ん?…あぁ!」
お母さんは途端に満面の笑みを浮かべると、藤花の両肩をガシッと掴みながら言った。
「あなたが歌の上手い藤花ちゃんね?いつも琴音があなたのことを話してくれるのよ!」
「は、はい…。わ、私は並木…藤花と言います」
あの普段は天真爛漫で、向かうところ敵なしといった調子の藤花が、お母さんに対してはタジタジとなっていた。確かにお母さんのスキンシップは、過剰だと思う。173も身長があるお母さん相手では、ただ成されるままでいる他ないようだった。
「ほらほら瑠美さん、この子困っちゃってるよ?」
お母さんの隣で、おばさんが苦笑交じりに注意した。
お母さんは慌てて手を離すと、同じように苦笑いを浮かべながら謝った。
「ごめんなさいねぇ?何せうちの子と来たら、滅多に周りの友達の話をしないもんだから。それが中学に入ってから、急にあなたや他の友達の話を自分から話すようになってくれてね?私としてはそれが嬉しくってねぇー、だから藤花ちゃん?これからも裕美ちゃんと同じように、仲良くしてあげてね?」
あまりにお母さんが一方的に喋り倒すので、ぽかんとしていたが、そう言われた藤花は途端に吹き出すと、無邪気な笑みを浮かべながら返事をしていた。
「…プッ、わ、分かりました。こちらこそです!」
「…もーう!いいからお母さん、そんな話は!」
私は自分でも顔が火照ってるのが分かるくらいだったが、それを誤魔化すようにお母さんの背中を押して行った。
「ちょっとぉー、琴音?」
「向こうに保護者が休むような場所があるから、そこに行きましょう!」
私はお母さんの言葉を無視してそう言うと、今度は振り返り、裕美達に向かって言った。
「ほら!みんなで行きましょう!」
私は答えを聞かないまま、ズンズン先へ進んで行った。最後まで見なかったが、あらかた分かる。裕美、おばさん、藤花の三人はこちらの様子を微笑ましげに見ていたからだ。私はそれを無視する他になかった。
その休憩所は視聴覚室を解放している所で、入るとお母さん達と同い年ぐらいの男女が、思い思いに座って談笑を楽しんでいた。ポットとティーバッグ、後は普通の水が用意されていた。
私達も空いているスペースに座り、軽く雑談を楽しんだ。藤花は私のだけじゃなく、裕美のお母さんとも改めて挨拶をしていた。と、その時何かを思いついたのか、ハッとした表情になり、お母さん達に断って何処かに電話を掛けていた。数分ほどすると、この休憩所に藤花のお母さんが入って来た。こちらに笑顔で手を振っている。と、その後ろには見たことのない女性が立っていた。これまた随分背の高い人だった。藤花のお母さんは平均的な身長、150後半位だと思うが、後ろの女性は余裕で頭の上からこちらを静かに見てきていた。お母さんよりも背が高い…おそらくピアノの先生くらいだと思った。でもすぐ誰か察した。何せ一重瞼で横に長く切れていて、半目がちな眼差し、髪こそ長かったが間違いようが無かった。
「あっ!ママー!おばさーん!こっちこっち!」
藤花は立ち上がり声を上げると、大きく手招きをして呼び寄せた。と、藤花がそう言うと、おもむろにお母さんと裕美のお母さんも立ち上がって、藤花のお母さん達を迎えていた。
四人ともそれぞれに自己紹介をしていた。やはりと言うか思った通り、この背の高い女性は律のお母さんだった。ただ見た目はソックリだったが、話し方はハキハキと喋るタイプで、表情も意外に豊か、性格は見た目に反して明るめのようだった。
お母さん達は私達の自己紹介の時のように、どうやら下の名前で呼び合うことに決まったようだった。ということで今更ながら、こんなに”お母さん”達が増えてきたので、私が話すときも便宜上、お母さん達を言う時、下の名前の”さん付け”呼びで統一しようと思う。
まず裕美のお母さん。名前は久美子だ。藤花のお母さんの名前は陽子だ。そして律のお母さん。名前は恵というらしい。紫のお母さんは、まだここでは出てこないので追々だ。
私達子供をそっちのけで盛り上がり始めたので、軽く声を掛けてからお暇することにした。

「…いやぁ、律にソックリだったね」
裕美は体育館に向かう廊下の途中で、ボソッと言った。
「でっしょー?でもあの通り、性格は真逆なのよねぇ」
藤花は足取り軽く私たちの進行上に躍り出ながら、笑顔で答えた。
「…性格はじゃあ、お父さん譲りかな?」
私は思いつきでポロっと漏らした。すると後ろ歩きでいた藤花は、私に指をビシッと向けながら言った。
「…そう!その通り!良く分かったねぇー」
藤花は私の隣に戻ってきた。私を挟むようにして歩いている。藤花は続けた。
「あぁ見えてというか、見たまんまだけど、律のお家はね、結構厳格なお家でさぁ…お父さんが国立大で教授をしてるんだよ」
「へぇー、教授」
「何を専門としているの?」
私が聞くと、藤花は腕を組み必死に思い出そうとしているようだった。
「うーん…とねぇー…確か物理の何かだったと思うよ」
「…ふふ、何かねぇ」
「物理学者かぁ…面白そう」
裕美は空中にボソッと声を漏らした。藤花は無邪気に笑いながら若干前傾になり、私の向こうの裕美に明るく言った。
「直接会うと、もっと面白いよー?さっきまで普通に会話していたのに、急に一人で考え事が見つかると、周りをそっちのけで急に考え込むんだからぁ」
「へぇー…如何にもなエピソードね?」
「ふーん…」
私の脳裏には、当然というか義一が瞬時に思い浮かんだ。
なるほどー…世の中にはあんな奇特な人が、何人かいるんだなぁ。
などと思いを巡らせていると、話題はすでに私と裕美のお母さんについてに変わっていた。
適当に藤花からの質問に答えていたら、何だかんだ時間が潰れて、体育館に着く頃には演奏会開始時刻十分前だった。
体育館に入ると、壇上には扇を広げたかのように椅子が並べられていた。端にドラムと、ベースアンプが置かれていた。会場には所狭しとパイプ椅子が並べられていた。舐めていた訳ではなかったが、思ったよりも大規模なものだった。こんな景色は入学式以来だった。既に点々と座る人の姿が見えた。大概は前の方に固まっていたが。小学生くらいの女の子と保護者らしき女性の姿も良く見えた。私達は横並びになるように、空いている最前列に座った。が、ものの数分後には、後ろがガヤガヤしだしたので振り返って見ると、既に学生や外部生、先程言った親子連れの姿で埋め尽くされていた。変な熱気に満ちていた。学園側としては、文化祭はいいコマーシャルの機会だと思っているらしい。その上での毎年の目玉が、一日目の”文化系”での管楽演奏、二日目の”体育系”としての他校試合ということみたいだ。
そんな学園経営方針など、生徒の私達にはどうでも良い。そろそろ開始時間だ。

壇上のライトが点いたかと思うと、管楽楽員達が淡々と袖脇から出てきた。総勢三十人程の編成だ。その中に神妙な面持ちの紫の姿も見えた。会場からは拍手が起きている。私達も同じように拍手をした。楽員達はそれぞれの持ち場に付くと、一度お辞儀してから座った。そして顧問の先生だろう、少し遅れて入ってきて、こちらに一度大きくお辞儀をすると、指揮者台に登った。そしてドラムに合図を送ると、ドラムはカウントをスティックで入れてから、キッカケを始めた。
カウベルの軽快な音から一曲目が始まった。『宝島』だ。今にも踊りだしてしまいそうな、陽気なリズムだ。思わずその場で足踏みしてしまった。周りを見てみると、それぞれが思い思いにリズムに乗っていた。
それからは『アルセナール』、テンポは流石に落としていたがテンションの上がる『エル・クンバンチェロ』、迫力有りつつ緩急あるメロディが特徴の『エル・カミーノ・レアル』、サンバかカーニバルの雰囲気の『コパカバーナ』、そして最後はハッピーエンドで終わった映画のエンディングに流れてきそうな『センチュリア』で終わった。
計四十分くらいの演奏だった。最後の曲が終わり楽員達は椅子から立ち上がり、指揮者も会場に向くと、一斉に深々とお辞儀をした。すると体育館は割れんばかりの拍手に包まれた。鳴りやむのを待たずに、楽員達はやり切った笑顔を見せつつも、恥ずかしがりながらいそいそと舞台袖へと消えて行った。そして壇上のライトが消されると、周囲の人達は思い思いの感想を言いながら、出口へと消えて行った。私達はその場に座ったままでいた。
人が疎らになった頃、私の右に座っていた裕美が、私と藤花に話しかけてきた。
「…いやぁー、思ってたよりも楽しかったね!”管楽”と”吹奏楽”の違いも分からないような、私みたいな門外漢に楽しめるのかなって思ってたんだけど、予想以上にノリノリの曲ばっかで、楽しめたよ!…お二人さんみたいな音楽を”ガチ”でやってる人から見ると、どんな感想になるの?」
裕美はそう言うと、意地悪く挑戦的な視線を送ってきながら、ニヤケていた。
「…何よぉ、その角のある言い方は?」
私は苦笑いで返す他なかった。
「そうだそうだ!」
私の左に座る藤花も、右腕を”えいえいおー”といった調子で曲げ伸ばしして抗議した。顔はニヤケていたけど。裕美も笑顔で返した。
「あははは!…で、どうなのよ実際?」
「いやいや!そんな大層な審美眼なんか持っていないから!…そうねぇ、私は素直に楽しかったわ!ねっ、藤花?」
と私は満足げな笑みを浮かべつつ、藤花に振った。すると藤花も力強く頷きつつ応えた。
「うんうん!よかったよぉー!…まだ紫ちゃんは出てこないよね?」
「うん、まだみたい」
裕美は壇上脇の閉ざされたドアの方を見ていた。そこは普段は簡易的な物置に使われているが、今日この日だけは管楽の楽屋代わりに使われていた。私達はここで紫と待ち合わせをしていた。
「まぁ別に紫ちゃんがいても、構わないんだけど…」
藤花は私をチラチラ見つつ、裕美に言った。何だか照れ臭そうに。
「ほら、…って言っても分からないかもしれないけど、誤解を恐れずに言えばね、私と琴音のしているタイプとは少し違うのよ。私も琴音もしているというか、目指しているのが所謂”ソリスト”ってやつでね?勿論オーケストラの皆さんと合わせなくちゃいけないんだけど、中にいるよりかはある程度自由が利くの。…でも自由が利く分、失敗したりしたらかなりの責任が私達ソリストにのしかかって来るものなのよ。周りがどう思おうがね?…あぁ、なんか」
藤花は途中から真剣な面持ちで話していたが、ハッとした表情を見せると、話す直前の苦笑いに戻って言った。
「いやぁー、ゴメンゴメン!ついつい夢中になって喋っちゃった。ダメだなぁー…音楽の事となると、なーんか自分でも気付かないうちに熱くなっちゃうのよ」
「んーん!すごく楽しく聞いてたよ!ねっ、琴音?」
「えぇ。私も同意見だし」
実際私は藤花の話を聞きながら、仕切りに頷いていた。すると藤花は余計に恥ずかしそうにしながら、また話し始めた。
「…そーう?まぁ琴音が同意してくれるんなら、話した甲斐があったけど…いや、何が言いたいかっていうとね?こうやって皆んな一斉に息を合わしてやるのも、良いもんだなぁって羨ましく思っただけ!」
藤花は力強く言い切ると、普段の無邪気な笑顔を見せた。
「そっか!それなら私も分かるわ!」
「そうねぇ、あなたは水泳だもの。一人で全部やらなきゃね?」
私が裕美にさっきのお返しと、挑戦的な視線を送りつつニヤケながら言った。
「うん!そーゆー事!」
裕美はそれを素直に笑顔で返してきた。それから三人は明るく笑い合うと、そのまま暗くなった舞台上を眺めつつ談笑をした。
それから数分程すると、制服に着替えた紫達が出てきた。私達は早速立ち上がると、紫の元へ駆け寄った。
「あっ、皆んなー!ちゃんと見てくれた?」
紫はまだ熱が篭っているのか、顔を赤く上気させていた。紫は他の楽員達に先に行くように促してから、眼鏡をクイっと上げると、
「…私達、ちゃーんとカッコ良かった?」
悪戯っ子な表情で聞いてきた。私達三人は一度顔を見合わせると、同時に紫に顔を向けて元気に答えた。
「うんうん!めっちゃカッコ良かった!」
「思わずリズム取っちゃったもん!」
「うんうん」
先に裕美と藤花が感想を言っちゃうもんだから、私は満足げに頷くしかなかった。
紫は心から嬉しそうに、顔を綻ばせていた。
「紫ー」
とその時後ろから声を掛けて来る人がいた。振り向くとそこには一人の女性が立っていた。黒いスーツを着ていた。いかにもキャリアウーマン風だ。仕事から直接来た感が、ありありとあった。背は平均的だった。藤花より少し高いくらいだった。紫のしている眼鏡と同じフレームのを掛けていた。後は…余計な事だとは思うが、スーツの上からでも見て分かる程に、胸が大きかった。遺伝がどこまで影響しているのか分からないけど、証拠として示されれば、納得いくものだった。因みに私はこの女性を知っている。夏休み中に二度程、紫の地元で会っているからだ。ここまで引っ張る必要は無かったかもしれないが、そうこの人は
「…お母さん!」
紫はそう言うと、お母さんの元へと駆け寄った。それを笑顔で迎えている。勝気で性格キツそうな顔つきがソックリだった。尤も黒のスーツをビシッと決めているのと、紫と同じ眼鏡をしているせいだったが。
「よく今日来れたね?」
「えぇ、何とか早めに片してね。せっかくの紫の晴れ舞台なんだもん。初めからちゃーんとこの目で見ないとね?」
紫のお母さんは自分の目に指を指して見せながら言った。それから親子二人は微笑み合っていた。
「まぁこの後また戻らないとなんだけど」
「あ、そうなんだ…あっと、そうそう!」
紫はこちらの方を振り向くと、私達の事を紹介してくれた。私達がそれぞれ自己紹介すると、紫のお母さんは仰々しく腰を大きく曲げてお辞儀して見せてから、微笑みつつ返した。
「私は紫の母、宮脇香織といいます。皆んなの事はしょっちゅう聞いてるよ。これからも皆んな、紫をヨロシクね?」
「はい」
私達は揃って元気に返事した。香織さんは満足そうに笑っている。
そんな様子を見ていた紫は、少し気恥ずかしそうにお母さんに言った。
「無理して来てくれてありがとう、お母さん。でもほら、仕事に戻らなきゃなんでしょ?」
「え、えぇそうね、そろそろ戻らなきゃ」
「でしょ?じゃあ皆んな」
紫はやけに早口で捲し立てるように言った。
「ちょっと外までお母さんを送っていくから、少し待ってて?」
「う、うん、分かった」
「ほらお母さん、送っていくから」
「ハイハイ…もーう、何を恥ずかしがってるのこの子は」
紫は香織さんの背中をグイグイ押しながら言うと、後ろを振り向きながら、苦笑交じりに言っていた。
「…ふふ、いつだかの誰かさんに似ていません?藤花さん?」
「えぇ、たしかに見覚えがありますことよ?裕美さん」
さっきまで私の隣にいたのがいつの間にか、裕美と藤花は数歩下がって大きなひそひそ話をしていた。私は振り返りジト目を流しながら、
「一体誰の事を言ってるの、あなた達ー?」
語尾を伸ばして、徐々に音程を上げながら言った。すると二人は顔を見合わせると、クスッと笑ってまた私に向き直り、明るい調子で答えた。
「何でもありませーーん!」

一日目が終わり、二日目だ。今日は紫を入れた四人で早速体育館へと向かった。入ると昨日あったパイプ椅子はすべて撤去され、代わりにネットが二つ設置されていた。コートを二面使うようだった。下は競技者しか使えなかったので、私達は二階部分、コートを見下ろせる渡り廊下に陣取った。既に他校の女子生徒も含めた子達が、手摺りに掴まり下の様子をワイワイ言いながら見ていた。ちょうどコート二つの中間地点が空いていたので、裕美、私、藤花、紫の順に横並びになった。ふと視線を感じて顔を上げると、向かいの渡り廊下に律のお母さんがいた。こちらに笑顔で手を振っている。私はみんなに知らせると、揃って手を振り返した。
渡り廊下が色んな制服姿で埋め尽くされた頃、ふとざわつき始めたのでコートを見ると、いつの間にか選手達が出ており、思い思いに準備体操をしていた。
今日は私達の学園含めた四校で行われる、トーナメント方式だった。二回勝てば優勝と言うことだ。負けても二位、三位決定戦が行われる。律の話では、毎年同じ学校同士でするらしいが、毎回ビリけつに終わるらしい。これは律の先輩に聞かされた話だが、今回は律がいるから少しはマシな成績になるんじゃないかと期待しているようだった。言われているその時の律の表情は、見た目から言えば普段以上に冷めてるようだった。そんなこんなで今になる。
「律ぅー!ガンバレー!」
藤花が突然大声で声援を送った。準備体操を終え、ベンチに座りながらスポーツドリンクを飲んでいた律は、ふと顔を見上げて私達の方を見ると、表情のないまま此方に静かに手を振っていた。ユニフォームは全身真っ黒だった。前後ろに番号が書かれている。膝用サポーターまで黒一色の徹底ぶりだ。他の三校は赤や黄色などの、明るめの色合いだった。そんな中だから、逆に目立っていた。
藤花の声がキッカケとなったか、他校の応援にきた生徒達も大声で母校の選手達に声援を送っていた。紫と裕美も大声を出していた。私はジッと律の一挙一動を見守っていた。小学生の時、裕美の大会に応援に行った時もそうだったが、勿論本番に競技をする姿も面白かったが、それに向かうまでの準備をしている姿を見るのも、私は好きだった。
ピーーーーーっ!
ホイッスルが鳴り響いた。瞬時に先程まで騒ついていたのが収まり、しーんと静まり返って、あたりには緊張感が流れた。と、四校の選手達はそれぞれ円陣を組むと、それぞれ特徴のある掛け声をあげた。士気を高め合っていた。
審判が合図すると、それぞれの相手チームの選手達と握手を交わし、自分のポジションに着いた。こうして上から見ると、勿論中には低い人もいたが基本的には律と変わらないくらいの身長だった。まぁ尤も、律以外殆どは先輩達だろうけど。
どう見ればいいのか、最初にサーブを打つのは何と一年の律だった。余程律が飛び抜けて上手いのか、我が母校が弱すぎるのか、どちらかだった。
ピーーーーーっ!
さっきと変わらぬホイッスルの音が鳴り響いた。試合開始の合図だ。途端にさっきまで静まり返っていた観客達は騒ぎ始めた。隣の裕美達も声援を送っている。
律は落ち着くように、俯き加減に手に持つボールを見て、深く息を吐いたかと思うとボールを高くあげ、それに追いつこうとするかの様に飛び上がった。そしてそのままサーブを打ったのだった。

「いやぁー、面白かったねぇ」
紫は声を明るく同意を求めるように言った。
「えぇ。…結果は残念だったけどね」
私も微笑みながら返した。
私達は学園本校舎の屋上に来ていた。最近の学校にしては珍しく、屋上を開放している。しかも其処彼処に草花の植えられた花壇があり、ベンチもあって、さながら空中庭園の体をなしていた。そんな所だから、普段は昼休みなど生徒でごった返していて、とてもじゃないけどのんびり出来るような雰囲気は無かったが、今は文化祭の終盤、みんなはおそらく”後夜祭”の執り行われる体育館に集まっているのだろう、今この場には私達しかいなかった。勿論私達も後から行くつもりだが、ここで律と待ち合わせていたのだ。今頃部員達と、喜びと悲しみを共有しあっている事だろう。
試合の結果から言えば、我がバレーボール部は三位だった。一回戦は勝ったが、二回戦で前回の優勝校に負け、二位決定戦では勝負は拮抗していたが、惜しくも負けてしまった。両チームがネットに近付き、深く礼をして挨拶を交わしていたが、その後の律の表情は遠くからでも分かる程に暗かった。それとは反対に周りの部員達は、体全体で喜びを表していた。飛び跳ねている者がいたり、抱き合っている者もいた。それでも一人肩を落としている律を見兼ねたのか、前に私と会話をした事のある部長さんを筆頭に、他のスターティングメンバーが律の周りを取り囲んだ。何を会話しているのかまでは、遠くからではわからなかったが、ふと部長さんが抱きつくと、一斉に他の部員達も抱きついた。律は見るからにますます戸惑いの表情を深めていたが、次第に顔を柔和に綻ばせて笑みを浮かべていた。顔を上げると丁度私達と視線が合った。すると藤花が無邪気な笑みで、大声で頻りに律の名前を呼んでいた。裕美と紫も後に続いた。私も微笑みつつ大きく手を振った。他の部員達も私達に気付いて、見上げていた。流石の律も恥ずかしそうだったが、照れ臭そうな笑みを浮かべつつ手を振り返していた。
「でも毎年ビリケツだったのが三位で、しかも最後のあの試合すっごく白熱してたもんね」
裕美はまだ興奮冷めやらぬといった調子で言った。
「うんうん!…まぁチームプレイだから律一人のお陰ってことでは無いかもだけど、でも何かしらの影響を与えたのは間違いないもんね!」
藤花も裕美に同調するように言った。
この時はまだ知る由もなかったが、どうやら藤花の言った通りだったようだ。この後でたまたま律の先輩、つまりバレーボール部の部長さんに聞いたのだが、律が入部して来るまではそれなりに練習していると思っていたらしい。それが律が入部して来て、その実力にも驚いたらしいが、それよりも驚いたのはバレーボールに向き合う姿勢だった。誰よりも早く体育館に来て準備をし、練習が終わっても最後まで残っていたのが律だった。後みんなはトス上げやサーブ練習、スパイクの練習などをしたがって、なかなか基礎練習をしたがらなかったが、律はまず学園の外周を三、四十分走ってきてから、そういう練習をしてたらしい。雨の日なんかは私達が観戦していた二階部分の渡り廊下を、何周もグルグル飽く事無く走ることを怠けなかったようだ。
最初はそんな律の姿を見て、部員の反応は冷ややかだった。チームプレイのスポーツなのに、一緒に仲良く練習しようとはせず自主トレをしているのが、自分勝手に映ったからみたいだ。またチームの”和”を乱す異端者とすら思う人もいたという。しかし次第にその真面目な姿勢に絆されていったようで、律のランニングに一人、また一人、最終的には部長も含む全部員が取り組むようになっていったらしい。それでこの結果が生まれた。この話をあの御苑近くの喫茶店で聞いていたが、律はその間ずっと、窓の外の景色を見ていた。素っ気無い態度をとっていたが、それが逆に照れ隠しだと分かり易すぎるほどに分かり易かった。私以外に藤花もいたが、そんな様子を部長さんを含めた三人で微笑みあったのだった。
ガチャ。
屋上への連絡扉が開いた音がした。私達四人は一斉に音の方を向いた。そこには制服姿の律が立っていた。夕日が顔に当たり、眩しそうに目を細めている。
「律ーー!」
藤花は律だと認識すると、途端に駆け寄って行った。そして律にドンと勢い良く飛びついた。前に教会で見た光景と丸切り同じだ。ただ違うのは、教会の時は藤花が主人公だったって事と、飛び付かれた律が若干フラついたって事だ。教会の時は微動だにしなかったのに、それだけ試合後って事で疲れていたのだろう。
それからは私達も律のもとへと駆け寄った。そして思い思いの激励の言葉を投げかけていた。律は表情少なく対応していたが、一重の切れ長な目は気持ち下に垂れ下がり、口元も柔らかく微笑んでいた。顔の色も普段は私と変わらないくらいに色白だったが、この時ばかりは赤みを指していた。これは夕陽のせいだけでは無かっただろう。

第19話 社交(表)

「…さぁ、中に入って」
お母さんは玄関脇の上部にあるブレーカーを触りながら言った。
「うん」
私は玄関で靴を脱ぐと、用意されていたスリッパを履いた。とその時、電気が入ったのか明かりが点いて、周囲の様子が良く見えた。
ここは地元の駅前の再開発時に出来た、まだ新築と言っていいほどのマンションだ。そう、前にお父さん達に話して貰ったそのマンションだ。十五階建ての十階の角部屋だ。オートロックで、廊下を歩くとすぐに突き当たりがあり、そこには扉付きの物置があった。そこで右に曲がり、トイレを右側に見つつ行くとリビングだった。入ってすぐ右側は、カウンター付きのキッチンだった。そのカウンターにはシンクとコンロが設置されており、そこからリビングが見渡せた。LDKは合わせて十二畳ほどらしい。何もまだ無いせいもあるだろうが、私一人で暮らすには広すぎる様に感じた。二つ洋室があったが、そのうちの一つの壁はウォールドアと言って、可動式の壁だった。もしもっとリビングを広く使いたかったら、壁を収納する事が出来た。それぞれ広さが約六畳と約五畳で、五畳の方の壁が収納出来る方だ。クローゼットも完備されている。
私はそれぞれ浴室なども見てから、最後にベランダに出た。出て見ると目の前は拓けていた。周りには高い建物も無く、都心のビル群まで見えていた。絵里のマンションとはまた違った見晴らしの良さだった。
「どう?琴音。初めて来た感想は?」
後ろから声がしたので振り向くと、お母さんは窓のヘリに手を掛けながら、笑顔だった。
「…うん、何も文句なんか無いんだけど」
私はベランダの壁を背にしながら、少し辿辿しげに答えた。
「…こんなに綺麗で広い部屋に、私一人で住んでいいのかなぁ?」
「…まぁそれは、お母さんも思うんだけどねぇー」
お母さんは言いながらベランダに出て来た。そして私のそばに立つと、外の景色を眺めながら続けた。
「でもまぁそれだけ貴方のお父さんは、こんなに良い部屋を用意するくらいに、娘を愛しているってことじゃない?」
お母さんは悪戯っぽくそう言うと、私を見て微笑んだ。私は何も言わずに、微笑み返すだけだった。
今日は休日の土曜日。普段は土曜日も学校があるので暇が無かったが、今日がたまたま休みだということで、急遽今朝お母さんに誘われて、ここまで足を伸ばしたという訳だ。
「…じゃあそろそろ帰りましょうか?」
「うん」
私とお母さんはマンションのエントランスを出ると、そのまま自宅へと直帰した。
その道中、お母さんは私の姿をジリジリと舐め回すように見てから聞いてきた。
「…琴音、今日この後何があるか忘れてないわよね?」
「うん。勿論」
私は短く気負いもなく答えた。
「…そっか」
お母さんは満足そうに返した。
そう。今日の本当の予定はこの後にあった。マンションを見に行くのは、ただのお母さんの思いつきだったが、その後の予定は随分前から決まっていた。
予定を告げられたのは約二週間前、十月に入ったばかりの土曜日だ。お父さんは私が小五の時に、病院の院長になった訳だが、それからは土曜日になると外に出る事が殆どになった。本人曰く、接待を受けに行くという事だった。一総合病院の院長ともなると、医者医学関係のみならず、中には地元から出馬している国会議員とも食事したりしなくてはいけないらしい。お父さんがそれをどう思っているかはともかく、私には話を聞くだけで、面倒な上に疲れそうだというのが素直な感想だった。ひっきりなしになんの職に就いているかくらいしか、分からない素性の人達と、和かに会話しなくちゃいけないなんて、想像するだけで辟易した。そうした矢先、この日の土曜日は珍しくお父さんが接待から早く帰って来た。夜の八時をすぎたくらいだ。私はその時防音された練習部屋で、グランドピアノを弾いていたが、内線のチャイムが鳴ったので、一度休んで出てみると、お父さんが話があると言うんで、部屋を出て行ったのだった。
「おかえりー。早かったね?」
私はお父さんが食卓の前に座っていたので、その向かいの椅子を引いて座った。
「あぁ。…なんか今日は興が削がれてね」
「はい、どうぞ」
お母さんはお父さんに瓶ビールを注いだ。
「ねぇ、私はー?」
と私が聞くと、お母さんは
「貴方が自分で出しなさーい」
と意地悪くニヤケながら答えた。
「はーい」
私はワザとテンション低めに答えると、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、グラスに注いでからまた席についた。
それからしばらくはお母さんも入れて、他愛の無い雑談をしていたが、ふとお父さんは私の顔をマジマジと見てきた。
「なーに、お父さん?急に私の顔をジロジロ見たりして?…何か顔についてる?」
私はほっぺや口周りを触りながら聞いた。するとお父さんはハッとした表情をすると、首を横に振りながら答えた。
「…ん?あ、あぁいや、何でもない。…なぁ、琴音」
「え?何?」
私は冷茶の入ったグラスを両手で包むようにしながら聞いた。お父さんはほんの一瞬躊躇いの表情を浮かべていたが、気を取り直したのか私の目をまっすぐ見てきながら聞いてきた。
「…なぁ琴音。…再来週の土曜日、空けられるか?」
「え?再来週?…えぇーっとぉ…」
私は聞かれるがままに、頭の中のスケジュール帳を調べた。
「…特に何も無かったと思うけど」
本当は義一の家に遊びに行こうかと思っていたことは、当然伏せといた。
お父さんは私の返事を聞くと、幾分か安心したような表情を浮かべていた。
「じゃあ琴音…」
お父さんは続けた。
「再来週の土曜日、空けといてくれるか?」
「え?え、えぇ、別にいいけど…何で?」
私は冷茶を一口飲むと返した。お父さんもビールを一口飲むと、少し陽気な様子で答えた。
「いや何、俺が今日も含めて会っている連中にね、お前の事を色々話したんだよ。…お、そんなに怪訝な目で見ないでくれよ?悪い意味じゃ無かったんだから。…でな、前に浴衣の写真を撮らせてくれたろ?」
お父さんはそう言うと、おもむろにポケットからスマホを取り出した。そして何やら操作をすると、私にモニターを見せてきた。そこには紫の浴衣を着て、髪型もばっちし決めてる私の姿が写っていた。それを数秒間見せた後、前触れも無くまたそれをポケットにしまいながら続けた。
「これを仲間内に見えたらさぁ、今度機会があったらぜひ連れてきて欲しいって言うんだよ。…他の奴らには、そう頼まれたからって『ハイそうですか』と娘を見せびらかすことは無いんだが、俺の信用している連中だから、是非紹介してあげたいんだよ。…ダメかな?」
「…」
私は急にこんなことを言われたというのもあったが、その他にも連鎖的に考える材料が湧いてきたのを処理しなければならなかったので、しばらく黙り込む他なかった。
何度も話して恐縮だが、前々からお父さんに抱いていた疑問…いや強目に言って”不信感”の様なものは、時が経つにつれ薄れるどころか、膨れていくばかりだった。理由は言うまでも無いだろう。それを私は意識的に見ないように、感じないようにしてきた。普段は無口で表情の変化が乏しいけれど、その一つ一つのお父さんの言動振る舞いから、私への”愛情”を感じ取ろうと意識して過ごしていた。実際間違ってはいないと思う。
だからこそ生意気な様だが、今まで全編生意気だと自覚しているから見逃してくれとは言わないが、あえて言わせてもらえれば提案された時、この機会を利用すればお父さんの本質的な中身を見極められるのではないかと思った。先程言った”不信感”…。ここまで強めに言っといて、急に弱気なことを言うようだが私としては、お父さんはコレぐらいだろうと見定めた”レベル”よりも、”上”である事を心より望んでいた。まぁ勿論身内というのもあるし、何より当然”肉親”という点で、計るための”基準”は贔屓目に甘めに設けていた。もっと素直に単純に言えば、普段は品行方正、亭主関白、一家の大黒柱、本人が自覚してるかはともかく、反対意見を許さない、周りの人を一つ下に見たような物言いなど例をあげればきりが無いが、そこまでプライドを高く持つお父さんの、外での姿を見てみたかった。
私は以上のような事をグルグル考えた挙句、お父さんの目をまっすぐ見ると、あえて明るい調子で乗り気なフリして言った。
「…うん。せっかくの招待だし、行ってみるよ!」
最後に満面の笑みも付け加えた。お父さんは私の返事を聞くと、久しぶりに見るような柔和な笑みを浮かべて、短く「ありがとう」とだけ言った。私も笑顔のまま頷いただけだった。

「心配しなくて良いからね?」
私とお母さんは自宅すぐ近くの、信号機の前で停まった。信号は赤だった。お母さんはマンションからここまで、どんな人がその場に来るのかをずっと説明してきた。
「私も何度かお邪魔しているけど、皆さん偉い先生達ばかりなのに、陽気に親切にお話下さってくれたから。…だから琴音、何も緊張しなくて良いのよ?」
お母さんは笑顔で私に話しかけてきたが、目の奥にはしっかりと不安の色が見えていた。
「…もーう、お母さんったら!この何日間で、それで何回目よ?大丈夫!…分かってるから」
私は苦笑交じりに答えるだけだった。お母さんは笑顔は崩さなかったが、目の奥にも変化は無かった。ちょうど信号が変わったので、そのまま微妙な空気感のまま帰宅した。
自室に入ったのは午後の三時ちょっと前だった。話では五時くらいに迎えの車が来るようだったので、初めはピアノの練習をしようかとも思ったが、やはり中途半端になってしまうと思い直し、結局は義一から借りた本を読んで過ごした。

四時頃になると私は軽くシャワーを浴び、前日に用意した外行きの服を身に付けた。それはレースのワンピースだった。やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。地が白だったので、黒の花柄のレースがよく映えていた。このワンピースはノースリーブだったので、その上には黒のポンチョを羽織った。これは先週くらいにお母さんの行きつけの、フォーマル服専門店のような所で買ったものだった。着替えると自室を出て、下に降りて居間に行った。行くとそこには、さっき私達が帰ってきた時にはいなかったお父さんが、紺のスーツに幾何学模様が施されたネクタイを締め、ソファーに座って何かの雑誌を読んでいた。お父さんは私の姿を見て何かを言いかけたが、すぐに私はお母さんに背中を押されて、パウダールームへと連れて行かれた。そこでお母さんに髪型をセットされた。尤も今日の服装に合わせてだったので、コテで軽くウェーブをかけただけだった。そして改めて居間に戻ってきて、お父さんに姿を見せた。私はサービスに一回転して見せた。回るとスカートの裾がふわりと広がった。お父さんは前屈みになってその様子を見ていたが、ふと笑みを浮かべて私の姿を褒めてくれた。そして浴衣の時と同じ様に、様々な角度から真剣な眼差しで、携帯で写真を何枚も取るのだった。

ピンポーン。
それまで親子三人で談笑していたが、不意にインターフォンが鳴った。お母さんはいそいそと応対に出る。時計を見ると、丁度五時だった。
「…はい、では今出ますね?」
お母さんはそう言うと切り、私に出る準備をする様に言った。尤も準備も何も終わっていたので、ハンカチやスマホ、化粧品などの入った普段学生鞄にも入れているポーチの入ったミニバッグを提げて、玄関でリボンとレースの付いたフォーマルシューズを履いて、お父さんと共に外に出た。玄関から外の通りまでの約十メートルほどの距離、そこには道代わりにレンガが敷き詰められていたが、その脇の駐車スペースに見知らぬ車が停まっていた。その運転席脇に一人の男が立っていた。歳は三十台後半くらいだろう、どこかで見覚えがありそうだったが思い出せずにいた。よく見ると、運転席には誰かが座っているのが見えた。どうやら女性の様だった。男はお父さんを見ると、パァッと笑みを浮かべたかと思うと、一度大きくお辞儀をして、それから話しかけてきた。
「いやぁ、望月先生!お待たせして申し訳ありませんでした」
そう言われたお父さんは、左手首の時計をチラッと見ると、静かな調子で返した。
「…いやいや、五時丁度じゃないか。時間通りだよ」
「あっ、そうでしたか!…ではでは早速、どうぞお乗り下さい」
「うん」
男が後部座席のドアを開けたので、お父さんは短く返事をすると車に乗り込んだ。私は少し戸惑っていると、男は私に満面の笑みを浮かべながら、優しい調子で声をかけてきた。後部ドアを手で抑えたままだった。
「さあさあ”お嬢様”。遠慮せずにお乗り下さい!」
「…え?…あっ、は、はい!」
私は一瞬”お嬢様”と言われて、自分の事とは認識出来ず、また”色々な”思いが胸に去来したが、ふと背中をお母さんに軽く押されたので、誘われるままに車に乗り込んだ。最後に男が車の前方を回り込み、助手席に座ると、運転席の女性は淡々と発進させた。後ろを振り向くと、お母さんがこちらに手を振っていた。私も、見えるかどうか分からなかったが、一応振り返したのだった。

「今日はいつものしゃぶしゃぶ屋ですよ」
助手席から男は後ろを振り返らずに、お父さんに向けて言った。
今私達の乗った車は、土手に沿って走る高速道路の下の道を走っていた。土曜日の夕方だからか、普段は大型トラックがひっきりなしに走っていたが、今日はガラガラに空いていた。お気付きの人もいるだろうが、この通りは義一の家に行く道だった。実際すぐ近くを通ったので、思わずその方向を見てしまったが、幸いにも隣のお父さんには気付かれなかったようだ。男とのお喋りに夢中になっていたからかも知れない。
「…またか。味は悪くはないんだが、如何せん毎度の事では流石に飽きてくる」
お父さんはため息混じりに返した。
「あははは!確かにそうですが、まぁ普通は食べたくても簡単には行けないところなんですから、文句を言ったらバチが当たると言うもんですよ?」
男はあくまで陽気に返してきていた。お父さんはまた一度大きくため息をつくと、今度は運転席に座る女性に話しかけた。
「いやぁ奥さん、毎度毎度すみませんねぇ。いつもこうして送って貰っちゃって」
「いーえ、先生!」
”奥さん”と呼ばれた女性は、前方から視線を逸らさないまま、バックミラーでお父さんをチラッと見つつ返した。
「構いませんわ!先生のような人に、ウチの人が良くして下さっているんですもの」
「いやいや、私こそ助かっているんですよ?」
お父さんと女性が社交辞令的なやりとりをしている間、私は窓の外を流れる景色を眺めていたが、ふと視線を感じたので見てみると、助手席から上体ごと後ろに向かせて、男が私に微笑みかけてきていた。私が何も言わず見つめ返していると、男は笑顔のまま声をかけてきた。
「琴音ちゃんだよね?僕のこと覚えているかなぁ?昔にあった事があるんだけれど」
男は自分に向けて人差し指を指しながら、人好きのする笑顔で聞いた。
私は先程まで”お嬢様”と呼んできたのを”琴音ちゃん”と馴れ馴れしく変えてきた事には無視して、改めて男の顔をじっと見た。第一印象もそうだったが、確かに何処かで見た事のある感覚があった。が、やはりいくら考えても思い出せなかった。
私は黙って首を横に振ると、男は見るからに肩を落として落ち込んで見せた。すると女性が若干呆れ気味に、男に声をかけた。
「…あなた、そりゃ覚えてないわよ。だって最後に会ったの、彼女がまだ幼稚園か小学校に上がるかぐらいだったもの。ねっ、先生?」
「あぁ、言われてみればそうだねぇ」
お父さんは私に、柔らかな視線を向けつつ言った。
「琴音、お前は当然覚えていないだろうが、この二人はね、お前が俺の病院で生まれたばかりの時に、たまたまその時出勤していて、赤ん坊だったお前を抱きかかえたりしたんだよ。…かなり長い付き合いだろう?」
お父さんは珍しく、悪戯っぽい笑顔を見せた。私は話の内容よりも、お父さんのその笑顔が義一にそっくりなのに驚いた。でもすぐに兄弟だからと納得したが、それを踏まえても良く似ていた。と、私は考えていたが、助手席の男に一応話を振ってみることにした。
「…じゃあオジサンは、お医者さんなの?」
「…え?」
男は呆気に取られていたが、すぐに明るい笑い声を上げると、さも面白げに答えた。
「あははは!やっぱり覚えていないよねぇ?…そうだよ。君のお父さんのお父さんが院長をしている時から、あの病院に勤めているんだ。因みに君が幼稚園児の時、僕が診察したこともあるんだよー?僕は内科医だからね」
「…へぇ」
そう言われて、また記憶の海の中を攫って見たが、何も引っかかるものが無かった。男は構わず続けた。
「で、この車を運転している彼女は、僕の妻でね。あの病院で看護婦をしていたんだ。今は辞めてしまっているけどね?」
「…あなた、今はもう看護婦なんて言ったらダメなのよ?看護師って言わなきゃ」
女性は注意するように言ったが、口調自体は冗談風だった。男はやれやれといった調子で、頭を掻いていた。そんなこんなの話をしていると、車は大きな駐車場に入った。どうやら目的地に着いたようだった。


車から降りてお店を見てみると、それはたまにお父さんの運転する車で前を通るお店だった。このお店は、都内をぐるっと回る幹線道路脇に構えていた。建物は昔ながらの日本家屋を模して作られていた。見た目だけで言えば、趣が無いとは言えない、いかにも料亭風な雰囲気を醸しだしていた。
私がボーッと建物を眺めている間、お父さんは女性に対してお礼を述べていた。
「…琴音ちゃん」
急に話しかけられたので振り返ると、男がにこやかに近づいてきて、私の隣に並んだ。
「君も昔何度かここに来たんだけれど、覚えてない?」
さっきから覚えてるかどうか聞いてくるの、鬱陶しいな…
と私は何故かいつもニコニコしているこの男に反感を覚えていた。だがその感情はおくびにも出さずに、淡々と答えた。
「…はい、覚えていません」
「…そっか」
男はそう言うと、ふと私の背中に軽く手を当てた。私は急だったのと、嫌悪感を感じてビクッとしたが、男は構わず笑顔を向けてきながら言った。
「じゃあ今日また新しく、楽しい思い出が出来ると良いね!」
そう言うと、まだ車の前で談笑しているお父さん達の方へと行ってしまった。私は大きく溜息
「はい」
私は外向き用に、『うん』ではなく『はい』と返事をし、深々と頭を下げてお礼を言った。女性は少々恐縮していたが、お父さんに”私”の礼儀正しさを褒めちぎっていた。そして改めてお父さんに挨拶すると、軽く男に飲みすぎない様忠告して、私に笑顔で手を振ってから車に乗り込み、元来た道を戻って行った。
軽く三人で見送った後、男が笑顔でお店の方を見ながら言った。
「…では先生方、そろそろ参りましょう」

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
玄関にかけてある暖簾を潜ると、着物姿の女性が数人私達を出迎えてきた。その中の一人、お年を召した品の漂う初老の女性が、お父さんに静かな笑みを浮かべながら話しかけていた。
「今日もわざわざ当店に御足を運びいただき、有難うございます先生」
この店の女将なのだろう、腰を低くし行く手を手で指し示しながら言った。
「先生の所からは、遠くございましょう?」
「いや、女将さん。大した事はないよ。…精々二、三十分程なものだ」
お父さんは威厳を示すかの様に、淡々と低い声で答えた。
「そうで御座いますか。皆様方は今か今かと、先生方のお着きをお待ちしておられます」
「そうか。…まぁ今日は少し遅れたな」
そう言うとお父さんは、後ろから黙ってついてくる私を、微笑みつつチラッと見た。隣を歩いていた女将もこちらに振り返ると、何も言わず柔和な笑顔を向けてきた。私は黙って、軽く会釈しただけだった。
大分建物の奥まった所まで案内された。玄関入ってから少しの間は、言い方がいいのか悪いのか分からないが、一般的なレストランと内装と雰囲気が変わらない様な、アットホームで庶民的なエリアが続いた。が、少し裏に入るとガラリと雰囲気は一変して、オレンジ色の暗めな照明が特徴的な廊下を歩いて行った。壁は中学生の教養の無い私にはよく分からなかったが、何やら表面が和紙の様な見た目の、いかにも品がある様な趣向が凝らされていた。これも言い方がどうかと思うが、このエリアには始終、高級な線香のような匂いが立ち込めていた。
廊下の突き当たりに着くと、女将は振り返り、そこにある引戸を指しながら静かに言った。
「今日のお部屋はこちらで御座います。ではどうぞ御緩りとお過ごし下さいませ」
そして静かにゆっくりと開けたのだった。

まずお父さんが入り、後ろから促されて私も中に入り、その後ろから男が続いた。
中に入ってすぐ目の前には、ふすまが閉められていた。脇には下駄箱があり、すでにそこには何足もの靴で埋め尽くされていた。お父さんが何も言わず靴を脱ぎ始めたので、私も倣って靴を脱いだ。そして下駄箱の空いてるスペースにしまった。
お父さんは襖に手をかけると、私の方を振り返りながら微笑みつつ言った。
「じゃあ開けるけど、良い子にしてるんだぞ?」
「うん…じゃなくて、はい」
と私も悪戯っぽく舌を出して見せながら答えた。お父さんは一瞬満面の笑みを見せたかと思うと、すぐに真顔に表情を戻し、襖をゆっくりと開けた。
開くとまず聴覚が刺激された。閉まっている時は気付かなかったが、内部はガヤガヤ騒がしかった。その場には声からして老若男女がいたようだが、それぞれ近くの人と思い思いに好き勝手くっちゃべっていたようだった。しかしお父さんが中に足を踏みいれると、途端にざわつきが止んだ。お父さんが入り口付近で仁王立していたので、私はその脇から何とか中に入り込んだ。そこには総勢十六名程のスーツなどを着込んだフォーマルな面々が、コップだけ置かれた長テーブルの両脇を固めるように、八対八で座布団に座っていた。ここは畳の部屋だった。まだ張り替えたばかりらしく、料理がまだ出てないせいもあってか、気分の落ち着くようない草の香りがしていた。皆一斉にお父さんを見ていた。中には私の存在に気づいた人達もいて、こちらに向けて笑みを浮かべていた。私は何だか気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
と、掛け軸のある壁側のそばに座っていた、恐らく五十から六十くらいの年齢と思われる男が立ち上がると、お父さんの側まで寄って来た。男はお父さんに一礼すると、先ほどの女将みたいな仕草をしながら言った。
「先生、お待ちしていました。どうぞ彼方へ」
「ん」
お父さんは返事とも取れない言葉を発すると、促された方向に足を進めた。お父さんがそばを通る度に、近くの面々は『先生』とそれぞれ各様に挨拶を投げかけていた。その度にお父さんは『ん』とだけ短く返すのだった。そして掛け軸の真ん前に座った。私はどうすれば良いのかとまごついていると、男は私に微笑みかけながら、お父さんの方を指し示した。
「先生のお嬢様。お嬢様も先生の横にお座り下さい」
「は、はい」
私達を迎えに来た男と同じ様な、慇懃に畏まった態度に戸惑いつつ、促されるままお父さんの側へと向かった。
その途中、その場にいた全員は私の一挙一動を見守っていた。私は気持ち足早にお父さんの隣に座った。 テンパっていたので座ってから気づいたが、今座っている場所はこの場にいる全員が見渡せる場所で、後ろに掛け軸があったり床の間がある点を見ると、よく考えなくても上座ということが分かった。私はますます恐縮しかけたが、していてもしょうがないと開き直り、顔を上げて真っ正面から人々の顔を直視した。先程私達と共にここまで来た男は、お父さんから一番遠くの末席に座っている。お父さんを招き入れた男は、私のすぐ近くに座った。私はこの様な”大人の慣習”なるものには疎かったし、そもそも興味が無いのだが、上座に座るお父さんのそばに座るという事は、このおじさんともおじいさんとも取れる男が、なかなかの地位にいる事は容易に察せられた。男はお父さんと話していたが、たまに私の方にも視線を向けてきた。私は取り敢えず気付かぬふりをしていた。
長く感じたが、恐らく私が座ってから数分しか経っていなかっただろう。ふと襖が開くと、先程の女将が入り口付近の外から、お伺いをする様に手を付きつつ聞いた。
「そろそろお食事をお運びしても、よろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
入り口付近に座っていた末席の男が、和かな調子で答えていた。女将は深くお辞儀をすると襖はそのままに、一度引っ込んだかと思うと、後から後から着物姿の女給達が料理を運び込んで来た。気付けばテーブルの上は料理で埋め尽くされていた。今末席に座っているあの男の話では、しゃぶしゃぶのお店という話だったが、しゃぶしゃぶは出て来なかった。懐石料理だ。
猪口、八寸、向付、蓋物諸々種類が多過ぎて、何から手を付けたらいいのか分からない程だった。どれが何なのかも、ほとんど分からなかった。唯一わかったのは、桜鱒の燻製焼きと鯛御飯くらいなものだった。給仕の女性達が料理を運び終えると、次は大きな瓶に入ったビールと、升に入った日本酒などを運び入れて、それぞれの人々の前に丁寧に置いていった。お父さんには女将自ら、ビールを運んできてコップに注いでいた。終わると女将は私に微笑みながら聞いてきた。
「お嬢様、お嬢様は何を御飲まれになりますか?」
いつの間に用意していたのか、飲み物のメニュー表を手渡してきた。私は軽く会釈しながら、おずおずと受け取り中身を見た。一つも写真は載っていなかった。ただ筆で書いた様な名前だけが、ズラッと羅列されているだけだった。お父さんが見守る中悩んだ挙句、焙じ茶を頼むことにした。女将は少し意外だという表情を示したが、すぐに笑顔に戻ると大きく頷き、了承の意を伝えて立ち上がり行ってしまった。すぐに別の給仕の女性が、大層な焼き物の急須と湯飲みを持ってきた。そして私の目の前で仰々しく淹れるのだった。
全員に料理と飲み物が行き届いたのを確認すると、お父さんはその場で立ち上がり、ビールの入ったコップを手に持ち言った。
「では皆、今日もよく集まってくれた。口上を述べるのは抜きにして、早速音頭を取らせてもらう。コップを持ったか?…では、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
お父さんの合図と共に、各一人一人は隣や向かいに座る人と、グラスなり何なりを軽くぶつけ合っていた。私は一人静かに、湯飲みに入った焙じ茶を啜るのだった。普段飲んでいるよりも、濃いめの薫りがした。味も若干渋めだ。如何にも良い物のようだった。
隣に座るお父さんの元には、会の出席者がひっきりなしに乾杯しに来ていた。何やらお父さんを褒め称えるような辞令を述べていた。私は冷ややかな視線を向けつつ、目の前の豪華な懐石料理に、舌鼓を打っていた。
「…名前は、琴音ちゃんだよね?」
私のすぐ側に座っていた、お父さんを招き入れた男が話しかけてきた。私は一度箸を置くと、微笑みを意識しながら答えた。
「は、はい。琴音といいます」
「よかったぁ、合っていた。今は幾つになるの?」
男は人好きのする様な笑みを浮かべつつ、尚聞いてきた。
「今は中学一年生で、今年で十三歳になります」
「ほぉー、大きくなったねぇ。…ねぇ、院長?」
「ん?あぁ」
お父さんは挨拶を一通り終えて、やっと目の前の食事に手を付けるところだった。私をチラッと見てから答えた。
「そうだな。君がこの子を見たのは、生まれたばかりの赤ん坊だった頃か?」
お父さんがそう聞くと、男が苦笑まじりに顔を横に振りながら答えた。
「いえいえ。あれは確か…お嬢さんがまだ幼稚園に入るか入らないかの時に、奥様と一緒にこの場に来られて以来ですよ」
「…あぁ、そうだったな。忘れていたよ」
「琴音ちゃん。私のことは覚えているかな?」
男は先程と表情を変えずに、興味津々といった顔つきで聞いてきた。正直そう聞かれると思っていたので、思い出そうとしていたのだが、やはりこの人も見覚えがなかった。寧ろここまで一緒に来た、今は末席で周りの人とお喋りしている男を、何故見覚えがある程度には認識出来ていたのかを、今この時に自覚していた。土曜日にお父さんを毎回迎えに来ていたのだろう、たまたま私が家にいる時に、玄関口であの男が待っているのを、興味が無いなりにチラ見したその姿が、脳裏のどこかに残っていたからなのだろうと納得した。
「…すみません」
私は軽く頭を垂れながら、口調を落として答えた。すると男は愉快だというように大声で笑いながら返した。
「それはそうだよね!覚えていたら凄いもんねー。…あれから私の見た目も大分変わってしまったし」
男は薄くなった関係で、短く刈り上げられた頭を摩りながら言った。私はリアクションに困って、ただ愛想笑いをしていると、お父さんはお椀を手に持ちご飯を食べながら言った。
「この人はね琴音、ウチの病院で内科部長をしているんだ。こう見えて、病院の中では偉い部類の人なんだよ」
「…へぇ」
「こう見えてっていうのは、余計ですよ院長ー…。そう、今院長から紹介預かりました、内科部長をさせて頂いている新井誠一といいます。えーっと…あぁ、あった。よろしくね?」
新井と自己紹介した男は、おもむろに財布を取り出すと中から名刺を取り出し、私に差し出して来た。そんな経験が無かったから、私は受け取るものかどうか迷っていると、お父さんが笑顔で受け取るように言ったので、まごつきながら名刺を受け取った。そして取り敢えずテーブルの空きスペースに置いといた。
「一緒に来た男がいるだろう?アイツの上司が新井さんなんだ」
「へぇー」
私は興味が湧かないせいか、へぇとしか答えようが無かった。そんな気の無い返事を私がしているのにも関わらず、新井さんは気を悪くしたような素振りを見せず、相変わらず終始ニコニコしているだけだった。もしかしたら気づいていないだけかも知れない。
それからはお父さんの近くに座っていた、これまた新井さんと同い年くらいに見える、ロマンスグレーの髪型が目立った男とも話した。男の名前は村上信雄。こちらは外科部長らしい。新井さんは典型的な中年太りをしていたが、村上さんはスラッとしていた。どこかお父さんと雰囲気も含めて似ていた。
この人からも何故か名刺を頂いたので、新井さんの名刺の上に重ねた。その後暫くは私を其方退けで、病院の内部の話を延々としていた。私はまた黙々と食事を摂ったのだった。
出席者が粗方食べ終わったのを見計らったかの様に、先ほどの女将たちが部屋に入って来た。手元のおぼんには食後のデザートが乗っていた。黒糖シャーベットだった。全ての人の前に配膳されたので、すぐまた退がるのかと思ったが、年の若そうな給仕だけが部屋から出て、女将だけが残った。そしてツカツカとこちらの方へ歩み寄り、お父さんの側に座ると、一度畳に指を付き深く頭を垂れながら聞いた。
「…先生方、今日も当店を御利用下さいまして有難う御座います。…本日の御食事は如何だったでしょうか?」
「あぁ、相変わらず美味しかったよ」
お父さんは女将の方を見ながら、優しい口調で返した。
「勿体無いお言葉、有難う御座います」
女将は顔を上げると、満足げな笑みを浮かべた。
その後の十五分ほどは、グダグダとあちこちでまだお喋りが続いていた。先ほどは食事中ともあって、私と話さなかった面々が色々と話しかけてきた。あまりにも杓子定規なやり取りだったので、話すまでも無いから割愛するが、要は今日集まった面々は、お父さんの病院の勤務医と、提携している他の病院の関係者の集まりだという事だった。どの人もまず私の容姿を無闇矢鱈に褒めてきてから、頻りに受験の話を振ってきた。どの人も私の通っている学園の事をすでに知っており、何かと学園の事を褒めてきた。後は頻りにお父さんの病院での手腕を讃えるばかりだった。…正直言って表面的過ぎる会話ばかりで辟易した。退屈のあまり、あくびをしない様にするのがやっとだった。…あと眉間に皺を寄せたり、ジト目で相手を見ることも。

「またのご来店を、お待ちしております」
玄関口で女将がそう送った。その後ろには今日給仕してくれた女性達が勢揃いで並んでいた。女将が大きくお辞儀をすると、ワンテンポ遅れて給仕達も、深くお辞儀をしたのだった。
「では院長、私はこれで」
「あぁ、今日はお疲れ様」
「じゃあまたね、琴音ちゃん。また今度ゆっくりと話しましょう」
お父さんにだけでなく、私にも面々が挨拶をしてきた。結局この場にいた全員から名刺を受け取ってしまった。私は名刺を手に持ちながら、一人一人の社交辞令に笑顔で丁寧に対応した。
久しぶりに猫を被り続けたせいか、ひどく疲れてしまっていた。料亭特有の、堅苦しい雰囲気のせいでは無かった。
この時からふと、懐かしい感覚を憶えていた。あの小五の夏休み明け、クラスメイト達と会話した時に生じた違和感。あの後家に帰って、お母さんと初めて口論をした時にも感じたモノだ。どこまでも深くどす黒い、得体の知れないナニカ。やたらに胸に重くのし掛かってきたアレだ。あれからここ暫くは鳴りを潜めていたが、今日この日になって急にまた、顔を覗かせて来ていた。しかしまだあの時ほどに、息苦しくなるほどでは無かったが、小さいながらも存在感を示してきていた。
そんな感覚を味わいつつも、私は無視して挨拶が終わると、お父さんの側に寄った。
正直先程も言った様に、疲れ果てたのでもう家に帰りたかった。
お父さんの側には私達を迎えに来たあの男が、携帯で何処かに電話を掛けていた。
「お父さん」
私が声を掛けると、お父さんは私に笑いかけながら応えた。
「お、琴音。少し待っていてくれ。今コイツがタクシーを呼んでいるから」
「タクシーで帰るの?」
私は意外な調子で返した。さっきの女性が迎えに来るものと、何と無く思っていたからだ。
お父さんは首を横に振りつつ、まだ電話をしている男に目を向けながら言った。
「ん?あ、いや、これからもう一軒目に行くところでな。そこにも出来れば琴音、お前にも付き合って欲しいんだが…」
お父さんはここで先を言うのを止めたが、いかにも同意を促してきていた。私はさっきも言った通り疲れていたので、アラが出て墓穴が出る前に帰りたかったが、乗り掛かった船、ここまで来たら最後まで行こうと決心した。
「…私は別に構わないよ?私が邪魔にならなければだけど」
私は悪戯っぽく笑いながら答えた。お父さんは私の返答に気を良くしたのか、微笑みつつ何かを言おうとしていたが、途中で横槍が入った。
「邪魔だなんて、そんな事は無いよぉ。僕等としては喜ばしいくらいさ!ねっ、先生?」
いつの間にか電話が終わったのか、男は私の側に寄りつつ無邪気な笑みを浮かべながら言った。
「勿論だ。…同意してくれて有難う、琴音」
「う、うん」
ここまで感謝の意を向けられると、今更退く事は出来なかった。
「で、竹下、タクシーは捕まったのか?」
お父さんは男に聞いた。竹下と呼ばれた男は、胸を張って自信ありげに返した。
「えぇ!休日の夕方なんでどうかと思いましたが、意外にすぐに捕まりました!」
「…そうか、よかった」
「ねぇ、お父さん?」
私は駐車場にまだ残っている、会の出席者達を見渡しながら聞いた。
「他の方々も、一緒に移動するの?」
「ん?あぁ、違うよ」
お父さんは”竹下”さんの方を見ながら答えた。
「あの人らはここでサヨナラさ。ここからはコイツと一緒に行くよ」
すると竹下さんはワザとらしくウンザリ気味に、お父さんに言った。
「そういや先生。…今日は橋本の奴も来るそうですよ?」
「別にいいじゃないか、彼が来ても。久しぶりだし」
お父さんは苦笑交じりに答えた。と、竹下は何故か私をチラッと見てから、お父さんに表情を崩さず返した。
「…まぁ、今日久しぶりに顔を出してくる理由は分かっているんですけど」
「…ふふ」
「…?」
竹下とお父さんが笑いあっている中、私一人で首を傾げているとその時、駐車場に一台のワゴン車が入ってきた。どうやらタクシーが来た様だった。

「では先生、お疲れ様でした!」
「あぁ。みんなもお疲れ様」
お父さんは窓を開けて、挨拶してくる面々に返事をしていた。そしてドライバーに合図すると、ゆっくりとお店を後にしたのだった。
来たタクシーは、パッと見ではタクシーと分からなかった。辛うじて助手席の上部辺りに、小さなエンブレムがあるお陰で認識出来る程度だった。黒塗りのワゴン車だった。運転手を覗いて、最大六人乗れるサイズだった。助手席には竹下さんが座り、後部座席の一列目に私とお父さんが座った。
タクシーは行きの道とはまた別の、いわゆる表通りを走っていた。この道は私にも馴染みのある道だった。
私は外の景色を見ながら、お父さんに聞いた。
「…あれ?このままだと、お家に着いちゃうんじゃない?」
「ん?…あぁ、そうそう」
お父さんは私の方を見ながら答えた。すっかり外は暗くなり、車内は外を走る車のヘッドライトや、テールライトの白や赤の光に照らされているだけだった。私とお父さんの目の前の、緑色の光を発している電光時計は、七時十五分前を示していた。
薄暗い車内ではお父さんの表情までは、はっきり見えず分からなかったが、口調は明るく答えた。
「まぁ、着いてからのお楽しみだよ」

それから十分ほどした後、タクシーが停まった。どうやら着いたようだ。助手席の竹下さんが料金を払っている間、私とお父さんは車外に出た。そこは馴染み深い所だった。
地元の駅前だった。タクシー乗り場で降ろされたのだった。
お父さんは竹下さんを待たずに、スタスタと歩いて行ってしまった。私は少しタクシーの方を見ていたが、すぐにその後を追った。
駅前といっても普段は歩かない裏路地を歩いていた。この駅前は、表向きは整理されてる風だったが、ちょっと横道に入ると、途端に昭和ながらのゴチャゴチャした、昔ながらの居酒屋などが犇めく地区になっていた。まだお酒と縁のない私には、この辺りには用事もなく、地元といってもまず近寄らないので、知らない街に来た感覚に陥っていた。
だいぶ奥まった所まで来たが、ふと一軒のお店の前で足を止めた。パッと見た時の第一印象は、小さなお店というものだった。何せ目の前のドアの一回り分くらいしか、建物の幅が無かったからだ。そのドアの前に掛けられている暖簾には、平仮名で”きく”と書かれていた。周りのお店がこれでもかって程に、ケバケバしく多種多様な色合いのネオンで飾っている中、地味な店構えではあったが、それが逆にこの界隈では目立っていた。
お父さんは何も言わず、いつも通りと言った感じで店内に入って行った。私も続いて中に入った。
まず匂いが鼻腔を刺激した。お酢の匂いと魚介の匂いだ。店内は縦に細長かった。入って左手にカウンターがあり、座ったら足が届かない位に高めな椅子が、十二、三個並んでいた。一人の男性がチビチビとお酒を飲んでいる。カウンターの前には透明なケースがあり、その中には色んな魚の切り身なり、貝なりが入っていた。少し曇っているところを見ると、内部は程よく冷えているようだった。カウンターの向かいには六人掛けのテーブルが三つ程あり、その内の二つにはサラリーマン風のお客さんが座っていた。ここまで引っ張る必要は無かったが、察しの通りここはお寿司屋さんだった。
「あっ、先生いらっしゃい!」
「いらっしゃい先生!」
カウンターの中で作業をしていた、五十代と見られる男女が、明るい声を上げてお父さん達を笑顔で迎え入れた。
「あぁ、今日も世話になるよ」
お父さんは慣れた調子で返していた。とその時、私達が入って来たのに気づいたカウンターの男は、こちらの方に人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「あぁ!遅いですよ先生ー。もう先に始めていますよ?」
男はそう言うと、お猪口を手に持ち、こちらに見せながら言った。
「おいおい、もう呑んでいるのか?」
お父さんは苦笑いを浮かべながら、男の横に座った。私もその隣に座った。気付かなかったが遅れていた竹下さんも追いついた様で、私の隣に座った。
皆が座り終えると、それを見計らったかの様にご主人が、小皿に入ったお通しを出してきた。タコワサだった。
「…さてとっ!先生方、今日は食事どうします?」
ご主人はパンッといい音を鳴らして手を打つと、お父さんに聞いてきた。
「いやぁ大将、悪いけど今日はもう済ませてきたから、お酒を飲ませておくれ」
お父さんは苦笑いを浮かべながら答えた。すると大将と呼ばれた男は眉を潜めながら、不満げな表情で言った。だが、口調は柔らかかった。
「えぇー、先生、そりゃ無いよぉー…まぁ、しょーがないねぇー。じゃあどうぞ、何か注文をして下さい!次はちゃんと食べに来て下さいよぉ?」
言い終えると、大将はクシャッとした笑顔を見せていた。
「あははは。分かったよ。代わりにツマミを頼むから、今日の所は許してくれ」
お父さんも笑顔で大将に対応していた。
「って、あらぁ」
おカミさんは私を見ると、妙に明るい表情で笑顔を作りながら言った。
「今日はまた随分可愛いお客様がいるのねぇ?」
「あ、あの…」
私が答えに困っていると、隣に座ったお父さんが代わりに答えた。
「こいつね、俺の娘なんだ。今年中学に入ったばかりだよ」
お父さんは、やたらに砕けた調子で答えた。おカミさんは私達一人一人の前に、後ろからおしぼりとお茶、先程のお通し、それにお箸を置きながら返した。
「あらぁー、そうなんですかぁ?随分可愛いお嬢様をお持ちで。お名前は?」
「ほら、琴音。自己紹介をしなさい」
「う、うん…いや、はい」
私は危うく猫をかぶるのを忘れかけたが、何とか感覚を思い出しつつ答えた。
「私は望月琴音と言います」
私はそう短く自己紹介をすると、頭をぺこりと下げた。今日だけで何度自分の名前を言ったのだろうか。
「あっらぁー、礼儀までしっかりしていて。先生に似てお利口さんなのねぇー?それに随分大人っぽいわぁー。色気があるものー。入ってきた時、先生んトコの女医さんかと勘違いしたわぁ」
おカミさんは先程からだが、やけに甘ったるい口調でお父さんに媚びるように言った。
お父さんも合わせると言うほどではないが、物腰柔らかげに返した。
「いやー、こいつはまだまだだよ。まぁ他の同年代の子たちと比べたら大分ませてるけど、大人っぽいってだけで、まだまだ大人じゃなく子供だよ」
「あったりまえですよ先生ー。それを言っちゃあ、お終いですよ?」
「そうかぁ?あははは」
お父さんとおカミさんは、愉快に笑い合っていた。その様子を見ていた他の医者たちも笑っている。私だけ聞こえないフリしながら、苛立ちを隠すように俯き加減に、出された安っぽいお茶を啜っていた。
目の前に立てかけられたメニューを見ると、私が飲める飲み物がジュースくらいしか無かったので、仕方なくそこに書かれていたオレンジジュースを頼むことにした。他の三人は来慣れた調子で、次々にお酒とツマミを頼んでいった。おカミさんは注文を手書きでメモると、カウンター内にいる大将にその紙を渡していた。
飲み物を待つ間ふと後ろを見ると、先程までテーブル席にいたサラリーマン風の人達が居なくなってた。店内には大将とお上さん以外、私達だけとなっていた。ふと、ガラガラと音を立てながらドアが横に開いたので、他のお客さんかと思って見ていたら、いつの間に外に行っていたのか、大将が暖簾を下げている所だった。ふと私と目が合った。ほんの数秒ほど見つめ合ってしまったが、忽ち先程にも見せたクシャッとした笑顔を浮かべて、聞いてもないのに私に話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、これはねぇ、店じまいというのを見せるために仕舞うんだ」
そんな事は知っている。何故私達がまだ中に居るのに仕舞うのかを、どうせなら聞きたかったのに…。というような事は、私からは聞かなかった。何故か”なんでちゃん”の私でも、積極的に聞く気が起きなかったのだ。これはそばにお父さんが居ることとは、根本的なところでは違う気がした。
そんな私の心中を、察したのかどうなのか分からないが、大将は暖簾を畳みながら続けた。
「いつも先生達が来るとな?こうしてお店を閉めちゃうのよ。先生達にはお世話になってるんでな、こうして来て貰った時には、貸切状態にしてしまうのよ」
「でもその分、御足は弾んでいるだろう?」
お父さんはタコワサを食べながら、大将に陽気な調子で返していた。私の位置からはお父さんの表情が見えなかったが、恐らく意地悪い笑みを浮かべていたことだろう。
大将は「違えねぇ!」と言うと、ガハハハと大きく笑いながら畳んだ暖簾を持って、お店の裏へと消えて行った。と同時に、おカミさんが私達のテーブルに注文した飲み物の各品を運んできた。他の皆んなはいつも同じ物なのだろう、確認せずとも勝手にドンドン置いていった。最後に私の目の前にオレンジジュースをおくと、「ごゆっくりー」と語尾を伸ばしながら言いつつ、大将の入った勝手口の中へと消えて行った。
「さてと、では改めて…」
お父さんは自分の頼んだ日本酒を、升ごと手に持つと、その中のグラスを器用に別の手で持ち上げながら言った。上手い事やろうとしていたみたいだが、テーブルの上にお酒が少し滴っていた。と、お父さんの合図と共に、他のお医者達も各々のお酒の入ったグラスを手に持ち出したので、私も真似てオレンジジュースのグラスを持った。そんな私の様子を視線を流しつつ見たお父さんは、一度フッと短く息を吐くと、先程のしゃぶしゃぶ屋ではしなかったような、明るい口調で声を上げた。
「では…カンパーイ!」
「カンパーイ!!」
各々は隣にいた人と、思い思いにグラスをぶつけ合っていた。前のお店とは違い、皆んな遠慮無しに、大きな音を立てていた。
おっして各々奇異に飲み干す者もいれば、チビッと唇を湿らす程度に留めたりと、様々な形でお酒を飲んだ。私はストローで軽く啜った。
「…ふーう、生き返った」
お父さんは大きく息を吐くと、やれやれといった調子でシミジミ言った。
「協会のお金で食べるから、あんな堅苦しい所でも進んで行くが、やはり俺達としてはこの店ぐらいが似合っているなぁ」
すると私の左隣の竹下さんが、私越しにお父さんに声を掛けた。
「そうですよー。あんなとこ、タダ飯だから行くんです。何が悲しくて知らない人達や、年寄り達と食事しなきゃいけないんですかぁ?」
「お酒を注いだりしなきゃだしな」
お父さんの向こうに座っていた男が、上体を仰け反らせながら、竹下さんに対してニヤケながら言った。言われた竹下さんは、眉間に皺を寄せ、不満げに見せながら返した。
「お前…今日もズル休みしたろー?今日も俺一人で大変だったんだから」
「お前が馬鹿正直に出てくれるお陰で、俺が出ないで済んでるよ、ありがとう」
男は意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「…ったくー、しょうがないんだからなぁ」
「あははは…あっ、そういえば」
お父さんは愉快そうに笑いながら、私の方をチラッと見てから男の方を見た。
「琴音、まだこいつの事紹介してなかったよな?」
「う、うん」
お父さんがここに来てから、ヤケに砕けた調子でいたので、私も猫をかぶるのを若干緩めていた。
「…え、俺ですか?」
男はお通しを食べながら聞き返した。
「俺でも、琴音ちゃんとは初対面じゃないっすよ?ねっ、琴音ちゃん?」
「え?…えぇっと」
私はキザな笑顔を向けてくる男を凝視したが、何となく見たことがある気がするだけで、見当はつかなかった。
すると、すぐにお父さんが助け舟を出してくれた。
「…あのなぁ、何年前だと思ってるんだよ?まだこいつが低学年の頃だぞ?」
お父さんが呆れ口調で言うと、男はさも不満げな顔つきを見せつつ返していた。
「えぇー、だって俺が憶えているのに、琴音ちゃんが憶えてないのは不公平っすよぉ」
「子供と何張り合ってるんだよ?…琴音、こいつが言うように初対面じゃないんだ。こいつが昔勤めていた内科医院でな、お前は予防注射を打って貰ったことがあったんだ」
「へぇー…」
私はお父さんの向こうで、自分の腕に注射を打つジェスチャーをしている男を改めて見たが、何と無く言われてみれば、そんな事もあったかなぁ程度の感想しか起きなかった。
そんな私に構わず、お父さんは紹介を続けた。
「まぁその一度しか打って貰ったことがないから、憶えていないのも無理はない。基本的にお前は、ウチの病院で予防接種を受けていたからな。…まぁ俺が院長になってから、コイツを元いた医院から引っ張ってきたから、実質まだ新入りなんだよ」
そう言うと、お父さんは男の肩に腕を回した。男も楽しげに返していた。
「…二人って、仲良しなんだね?」
私はボソッと、素直な印象を述べた。料亭にいたどの面々よりも、仲睦まじげだったからだ。
するとお父さんは、家では滅多に見せない満面の笑みを浮かべながら、そのままの体勢で答えた。
「…そう見えるか?あははは!そうかそうか!…まぁ仲は良いな。何故ならこいつと、そいつは俺の大学時代の後輩だからさ」
お父さんは私の隣で、チビチビお酒を飲んでいる竹下さんに指差しながら言った。私が振り向き見ると、竹下さんは口にグラスを付けながら笑顔で私に頷いた。
「…へぇー」
私はまたお父さんに向き直りながら言った。
「ちょっと先輩?」
男はお父さんの肩を、指先でトントンと軽く叩きながら話しかけた。
「俺のこと、まだ紹介終わってませんけど?」
そう言うと、お父さんは面倒臭そうな表情を浮かべながら言い切った。
「後は面倒だから、お前が自分で自己紹介しろ」
「そんなぁー…まぁ、いっか!」
男は少しだけ椅子を後ろに引くと、体ごと私の方に向けて、胸を張りつつ自信ありげに言った。
「俺の名前は橋本真司。君のお父さんトコに勤めている内科医だよ。そこにいる竹下と同じさ。…今度は忘れないでくれよ?」
橋本と名乗る男は、最後にキザなウィンクをかまして来ながら言った。
…橋本?どこかで聞いた名前だな…あっ、そうか!
私は男の名前を聞いて、どこか懐かしい気持ちになったが、すぐに思い出した。そう、お母さんに私が受験するよう働きかけた、その女性の夫がこの人だった。こんな所で、こんな調子で出会う事になるとは思っても見なかった。
それからは大将とおカミさんが戻ってきて、注文していたツマミの品々を次々に出してきた。大トロの切り身の上に焼き塩と芽ネギを添えたモノや、スズキの切り身と純菜に土佐酢をかけたモノ、天然稚鮎の煮物などバリエーションが豊かだった。いわゆる”いつもの”というものらしい。
私達は出されたツマミを味わうように食べていたが、当然というか何というか、話の流れは自然と私の進学話に流れていった。
「先輩から聞いたけど、琴音ちゃん凄いねー。女子校御三家の一角に進学するなんて」
「…いえ」
私はストローでジュースを啜りながら返した。
「私自身は大した事ないです。学園は凄いのかもしれないけど」
我ながら捻くれた返答をしたもんだと思ったが、正直自分の通う学校で判断されるのは、我慢がならなかった。
橋本さんは予想外の反応をされたからなのか、目を丸くして私を見ていたが、すぐに和かな顔つきになった。
「中々面白い子だねぇ、琴音ちゃんは。普通こうやって言われたら、褒めてもらったんだから素直に喜ぶところだと思うんだけど、なんか嫌そうに応えるんだからな」
「…変わってるんだよ、こいつは」
お父さんはボソッと、カウンターの向こうを見ながら言った。顔までは見えなかったが、おそらく呆れ返った表情を浮かべていただろう。
この時の私は、そんなお父さんの小さな変化には気を止めなかった。先程もチラッと言ったが、普段の感情を出さないようにしているかの様な淡泊ではなく、自分の事を”私”ではなく”俺”と呼んだり、それに合わせて口調が乱暴粗雑になっている所とかに、気を取られていたからだ。…勿論普段でもたまに”俺”呼びはしていたが、それに伴って言葉遣いまで乱れることは無かった。それが今はこんな調子だ。要はお父さんは、少なくとも私の前では、家族だというのに猫をかぶっていた訳だった。本人が自覚しているかどうかは兎も角、普段は偉そうに尊大な態度を見せているだけに、今のお父さんが滑稽に見えて仕方なかった。
それからは竹下さん、橋本さんが、お父さんとの大学時代の話を聞かせてくれた。授業をサボって競馬場に行った話、流石のお父さんも気まずそうな顔を表した女遊びをした話など、しょうもない話を延々と聞かされた。私は話の内容というよりも、本来なら黒歴史と見られるエピソードを、嬉々として話すお父さんの後輩達自身の方に、興味というか疑問が湧いていた。
何故自信満々に誇らしげに話すのだろう?自分の失敗談を話して、教訓にするように言うなら分かるけど、そんな気配は微塵もなかった。
あらかた話が終わったのか、ふと橋本さんが、カウンターでまな板などを洗っていた大将に話しかけていた。
「…でさぁ、どうも株が今日も乱高下をしているんだよ」
「へぇー、そうなのかい?」
大将は、さも興味を示すように相槌を打っていた。
橋本さんは自分が株をやっていること、それでいくら儲けた損したという話を、寿司屋の大将に向けて延々と話していた。途中からお父さんと竹下さんも加わり、株の話から病院経営の話まで、話が広がっていた。たまに私にも話を振ってきたが、それは株とはこういうもんだとか、経営とはこういうもんだとか、そんな類の話を、私が分からないと高を括って講釈を垂れていた。
さっきまでおちゃらけていたかと思えば、変わって急に些末な話を飽きもせず、これまた延々と同じ内容を繰り返し話していた。大将も感心してるのか、ただのフリなのか分からなかったが、いちいち笑顔で対応していた。今初めてでは無かったが、最初のお店にいる時よりも、会話の内容の浅さに耳を塞ぎたくなる衝動に駆られていた。先程から存在感を増してきている、真っ黒で重たいナニカが、胸を圧迫して息苦しさを私に与えていた。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
「また来て下さいね、先生!」
「あぁ、また寄らせて貰うよ」
あれから一時間程して、この店ではお開きになった。そしてまた駅前のロータリーまで行くと、タクシー乗り場まで歩いた。駅前に立つポールの上の時計を見ると、丁度九時になる所だった。
「じゃあ俺達はもう少し呑んでいくから、お前はもう帰りなさい。ここからは一人で帰れるだろう?」
「え?…う、うん、勿論」
私は家まで伸びる通りを振り返りつつ答えた。
「じゃあ気を付けて帰れよ」
お父さんは、ポンと私の頭に手を乗せてから声をかけた。
「琴音ちゃん、今日は楽しかった!また今度ゆっくりお話ししようね!」
「またね、琴音ちゃん!」
竹下さんと橋本さんは私に向かって、呑気な笑顔を浮かべつつ大きく手を振っていた。お父さんも無表情で軽く手を上げている。…いや、もしかしたら笑顔だったかも知れないが、何だか無表情に見えた。私の感情によって、ある種のバイアスが掛かった結果なのだろう。
私は何とか笑顔を作りつつ、胸の前で小さく手を振り返すと、それからは一度も振り返らず家路を急いだ。
街灯の少ない道を、淡々と歩いていた。私以外に通行人はいなかった。少し心細かったが、今はそれが助かった。今の私の表情は、おそらく人に見せられたものでは無かっただろう。鏡を見てないから具体的には分からなかったが、おそらく眉間に深いシワを作り、目元をピクピクさせて、如何にもイラつきを抑えられない様相でいただろうからだ。近寄り難い雰囲気を出していただろう。それは一人で良かった点だったが、悪い点は周りに気をとられることが無かったせいで、どうしても今日の出来事を反芻しない訳にはいかず、その度に益々苛立ちが募るばかりだったことだった。
…私は今日、何をしていたんだろう?
こんなにおめかしして、ピアノの練習も碌にせず、義一さんから借りた本も読めないままに、客寄せパンダよろしくヌケヌケと人前に出て行って…。私の最も忌み嫌っていたことでは無いのか? 今回は致し方なかったとはいえ…。いや、そんな事は分かって行ったはずだ。こんな目に会う事は分かっていて行ったはずだ。…目的はなんだった?…そう、お父さんのことを見極めるために行ったんだ。…はぁ、今までもその片鱗が無かったとは言えなかったから、たとえ想像通りだとしても、ガッカリする事は無いと思っていたけど、ここまで酷いとは思っても見なかった。
義一さんが言ってた様に、その人を見る上で一番の尺度になるのは、その人が口先で偉そうに自分を良く見せようとする為だけの、上辺だけ着飾った話ぶりなどでは無い。どんな善き人を尊敬し、どんな善き人と付き合い、どんな善き書物に出逢って影響を受けているのかというのが、その人が何者なのかを測る上で大事な事だ。それで言えば、単刀直入に言ってしまえば、お父さんは…酷かった。お父さんの身の回りの人間達の話す内容、それに笑顔で対応するお父さん。社交辞令で対応するならまだしも、その会話に合わせる事が”分かっている”カッコいい大人とでも言いたげに、ウンウン頷いていたお父さん。それを見て益々増長した他の大人達の、内容空疎な金儲けの話を延々とし続けれる浅ましさ。そんな会話をする上での、恥じらいの無さ。…終いには寿司屋の大将に向かってまで、自分が成功者に見られたいが為に、株だの何だのと宣う馬鹿馬鹿しさ。…私のお父さんは、そんな連中と付き合うほどに下らなかったのか。…仕事上の付き合いだけではなく、自ら親しくしている連中までがその程度だというのに。
…そんな程度のクセに、義一さんをバカにし、卑しめ、無き者の様に扱うのか…。あれ程中身の詰まった人間を、空っぽな人間が馬鹿にするのか…。
私はふとここまで思いを巡らせていると、ほっぺを伝う暖かな液体に気づいた。涙だった。自分の父が下らなかった事実が分かった事へなのか、義一さんの事を想ってなのか、それとも両方なのか、涙の原因はハッキリしなかったが、次から次へと手間なく流れてくるのは事実だった。
胸の内のナニカは、今だにソコに存在感を示してはいたが、先程よりかは小さく纏まり、ほんの少し違和感を生じさせているだけだった。
我慢せずに、涙を流したお陰かも知れない。
私は怒りと哀しみの混じり合った、何とも表現し難い感情を胸に秘めながら、自宅へと足を進めるのだった。

第20話 夢?

「うーん…あれ?」
いつの間にか真っ暗闇の中に私はいた。
…って当たり前だな、瞼を開けていないのだから。
そんな当たり前のことを一々確認しなければ分からないなんて、自分でも気付かないうちに随分ノンビリとした性格になってしまった様だ。
…ん?でも一体どうして今こんな状態に置かれているのだろう?
…あぁ、そうか…お父さん達と別れて家に帰って、私の帰りを待っていたお母さんにアレコレと、”社交”について質問されたのだった。私なりに何とか、例の”違和感”をしっかりハッキリクッキリと胸に感じつつも、笑顔で卒なく受け答えが出来た筈だ。何故ならそんな私の返しを聞いて、お母さんはさも満足げな笑顔を浮かべていたからだ。でも正直…そこから先は、自分がどうしたかまるで覚えていない。でもこうして横になってるって事は、いまの私には思い出せないが、自室に入りベッドに横たわり、そのまま寝落ちをしてしまったという事だろう。
…うん、何となくまだ起きたばかりのせいかボーッとしている頭で考えた割には、ある程度は筋が通ってる様に見えるけど…でもまだ拭いきれない違和があった。それは、いま私が横たわっているベッド”らしき”モノのせいだった。自室にある使い慣れているベッドとは、似ても似つかない感触を背に感じていた。普段使いのベッドは、スプリングが程良く効いた寝心地のよい代物だったが、今私が横になっているのは、ベッドと呼ぶには程遠い、スプリングがどうの以前に、例えるなら木製の簀の子の上に寝そべっている様な感覚に近かった。…まぁ尤も、私自身は簀の子の上に寝転がった経験は、残念ながらまだ無いのだけれど。でも今背中に感じる、等間隔に空けられた溝らしきものを確かに感じるので、あながち間違いではないだろう。
…いや、そんな無意味な予測推測をする暇があったら、実際に今すぐ目を開けて見ればいいじゃないか。…勿論、自分でもそう思うし、そうしたいのは山々だったから、こんなクダラナイ自問自答をしている間も何度も試みてはいるのだけれど、どういうわけか、自分の瞼だというのに中々開けられなかった。目の周りには、何か別の感触がある訳でも無いから、拘束されている訳でも無さそうだけれども、不思議と幾ら開けようと意識しても、まるで自分のでもないかの様に自由が利かない。
…ふふ、しかし自分の家にいて拘束されたかどうかなんて、そんな事が頭を過るなんて…
と、自分の想像力の豊かさに少しの間自嘲していたが
まさか、寝ている間に誘拐されたりなんかしてないわよね…?
なんて事を、自分でも突拍子もないとは思ったが、あり得ないとも言い切れない様に感じるほど、あらゆる感覚が麻痺していた。
…でもいつまでもこのままではいられない。何とかまず目を開けないことには始まらないのだから
パチ
そんな事を今までよりも気持ち強めに思った途端、先程までの不自由さが嘘の様にいつも通り(?)に軽く開けられたのだった。
まず目に飛び込んできたのは薄暗がりの中の天井だった。まぁ、仰向けでいるのだから当然と言えば当然だが。…いや、そんな事より、今はこんなに冷静に話しているが、初めてこの光景を見た時の私の衝撃と言ったらなかった。まだ眼球を動かしてもいなかったから、全体を把握するには至っていなかったが、すぐにここが私の部屋でないことに気づいた。
…え?ここは…一体どこ?
まったく身に覚えのない場所だった。私はまだ身動きひとつ、視線を動かす事すらしていなかったが、気は動転していた。と、それに追い打ちをかける様に、今度は鼻腔を刺激された。何と言えばいいのか…そう、何年も使われていない部屋の中の様な、要は埃っぽい臭いだった。
…え?大袈裟?うん確かに、それだけだったら”追い打ち”とは表現しなかっただろう。ここまで辛抱強く聞いてくれた方なら察する人がいるかも知れないが、そう、今までずっと目を開けられなかった訳だったけど、鼻には何も詰められてはいなかったのに、こうして目を開けるまで鼻も利いていなかった事に気付いたからだった。
これには驚いた。視覚と嗅覚が同期して動くという事があるのだろうか?…いや、聞いた事がない。
私は試しに耳を澄ませてみた。…いくら待っても微かな物音、空気の流れる音、そして何と自分の体内から発せられる筈の音まで聞こえてこなかった。
その事実、現状を認識すると、また新たに気が動転していると”思っている”のだが、しかし不思議と焦りや恐怖感はまるで無かった。意識が起きた時から今まで、確かに事あるごとに一々驚いたりはしていたが、そこから出て来るはずの”感情”が湧いて来ないのだ。
何故だろう…?
そう思った私は、ここでやけに自分が今まで”客観的”に現状を観察しているのに気付いた。まるで己の事ではなく、他人事の様に感じていたのだ。 一口に言って、そんな感覚でいるせいで”リアリティー”が微塵も無かった。今の所まだジッと動かないままではあったが、これまでの事を鑑みた結果、漸く今がどういう状況なのかが理解出来た。
…そうか、夢かこれは。
なーんだと呆れ気味に溜息をつくと、今度は体全体に生気が漲っていくのを感じた。今までも無理すれば動けそうだと考えていたが、目を中々開けられなかった事を思い出し、状況が自然と転じていくのを待つスタンスでいたのだ。それが功を奏したのかは分からないが、肉体だけではなく精神的にも起き上がる気力が湧いてきたので、ゆっくり慎重ではあったが、のっそりと手を付きつつ上体を起こした。
もうすっかり普段通りに体が思った通りに動いてくれる様になってる様だ。頭もいつも程度には働いてくれてる様だ。聴覚も、今はハッキリと心音などの体内の音が聞き取れるので、戻っている様だ。
だが、戻ったらしい聴覚を持ってしても、周囲の音は相変わらず物音一つ感じ取れなかった。ということは、改めて言うまでもないが、元からこの空間には物音ひとつしていなかったということだった。

さて、すっかり自由の身になった私は、興味深げに周囲を注意深く見渡した。窓一つ無く、光源も見当たらないのに、当然明るくは無かったが、その場にある一つ一つが何か判別出来るほどではあった。さっきも言った、所謂”薄暗がり”という表現がピッタリだった。
では早速身近な所から見てみよう。
まず横たわっていた場所。先程は簀の子と例えを出したが、それはあながち間違っては無かった。マットレスを置く前の、骨組み段階のパイプベッドというのが正解に近いだろう。違う点を上げれば、一般的なパイプベッドよりも、隙間が埋められているくらいだった。こんなのでは、私のベッドと違って感じるのは当たり前だ。
その次に見てみたのは…
…いや、裸のパイプベッドの他には目ぼしい物は何も見当たらなかった。強いて他に何か取り上げて説明を試みるならば、今私がいるのが、どうやら五畳ほどの小部屋らしい事、臭いからも分かった様に、床一面に埃がたんまりと積もっていた事、その床、天井、そして四方の壁には幾筋ものヒビ割れや亀裂が所々重なり交差しつつ縦横無尽に走っていた事、そして上体を起こした目の前の壁には、この薄暗がりの、敢えて色で表現するならば灰色一色の空間の中ではあまりに異質過ぎる、赤茶色の、見るからに錆びついた鉄製の扉があるだけだった。
この部屋の中で、何か私から変化を与えられそうなのがその扉しかなかったので、早速腰を上げて歩み寄ってみた。近づくと、途端に錆び独特の臭いが鼻を刺激した。表面を撫でてみると、所々ささくれの様になった部分がボロボロと容易に剥がれ落ちてしまった。これらの様相から、最近錆びたのではなく、下手すると何十年も前からこの状態だという様に推測する事が出来たのだった。
試しに取っ手らしき物に手を掛けて動かそうとしたが、鍵が外から掛けられているのか、それともそもそも錆びすぎて機能しなくなっているのか、要因は定かではなかったが、取り敢えず今はっきりしているのは、現状ではこの扉を開ける事は叶わないという事だけだった。
仕方ない…。
私は横たわっていた元いた場所に戻り、腰を落とし、暫くはまた周囲を見渡していたが特に変化も見られなかったので、一番初めと同じ様に仰向けになり、少しまた天井を見つめてから静かに瞼を閉じた。

「うーん…ん?」
瞼越しにも分かる程、周囲が明るさに満ちているのに気づいた。
ゆっくりと目を開けて見ると、そこには見慣れた天井が現れた。首を左右に振って見ると、どこもかしくも慣れ親しんだ光景が広がっていた。
どうやら私の部屋の様だ。
カーテンを閉め切っていたが、その厚手の布地をも透過して、朝日が部屋の中に温もりのある光を提供していた。
やっぱり夢だったか…。
「んーんっ!」と私は声を出しつつ大きくその場で伸びをした。そしてバタンと両腕を同時に降ろし、両手を布団の上にバスンと落とした時、ふとある事に気付いた。あの夢の情景、五畳ほどの窓一つない小部屋、簀の子の様な感覚、あのむせる様な埃っぽい臭い、あの錆びついた鉄の臭い…。何と夢の中で経験した感覚が、脳裏にはっきりと思い出されたのだった。この事実を認識した瞬間、自分で自分に驚いた。過去にもあまりに印象的な夢ならば、起きた後も暫く覚えていた時もあったが、その記憶はあくまで何となく漠然としたものだった。だが今回の様に、実際には経験してないはずの出来事が、現実だったんじゃないかと錯覚を覚えさせる程だったのだ。
私は暫く呆然としたまま、ベッドから出る事もなく上体だけ起こしていたが、ふとある一つの考えが浮かぶなり勢いよくベッドから抜け出し、学習机に向かった。机備え付けの引き出しを開け、その中にあった未使用のキャンパスノートを取り出すと、そこにさっき見た夢の詳細を書き込んでいった。咄嗟の思いつきだったが、何だかこのまま忘れるのが惜しく感じたのと、それに関連して、すっかり義一のおかげで何かにつけてメモやノートをつけておく習慣が身に付いていたから、この行動はある意味で自然なものと言えた。ただ見た夢の内容を書いただけだったが、自分でも驚くほど無心のまま飽くこと無くペンをスラスラと白紙のページに書きなぐっていった。書き終えて見ると、なるべく隙間の無いように書いたつもりだったが、ノートにして四ページほどの分量に達していた。
それを読み返して見ると、自分の夢ながら不思議な内容が書かれていたが、何か自分にとって大きな影響を及ぼす”ナニカ”の気配を感じずには居れなかった。因みに、こんな不思議で明瞭な夢を見たのが関係しているかどうかはわからないが、昨夜に久しぶりに気配を感じた”ナニカ”は、一夜明けた今となってはまた鳴りを潜めていた。
私は書いたノートを引き出しにしまった時、ふと義一を思い浮かべた。こんな不思議な夢の中身を話したら、どんな意見を聞かせてくれるのだろうと、一瞬好奇心が湧いてきたが、その直後に絵里のことも思い出した。そして結局、自分なりのこの夢に対する解釈が出来てから、義一、そして絵里にも話してみようと心に決めてから、朝食を食べる為に部屋を出て一階の居間の方へと階段を降りたのだった。

第21話 コンクール(序)

「…よし、午前はここまでにしようか」
先生は楽譜に書き込みを入れると、私に笑顔を向けながら明るく言った。
「はい、先生」
私も手元の楽譜に、先生の書き込みと同じことをメモると、笑顔で返した。
今日は十一月の第一日曜日。いつもの様に先生のお家にお邪魔して、午前中から稽古をつけてもらっている。
そしてこれも習慣化した事、つまりは昼の中休みにお菓子作りをする為に、私達は揃ってキッチンに向かった。私がエプロンを身につけている間、先生はすでに用意してあった材料をテーブルの上に取り出していた。今日作るのはチョコクッキーだった。
今でも週三のペースでここに来ていたが、学校がある都合上、午前と午後のレッスンがあるのは毎週日曜日のみだった。だからこうしてお菓子作りを習うのは、日曜日だけとなる。それでも毎週毎週違うメニューを教えてくれるので、後どのくらい先生の頭の中にレシピがあるのか、気になるのと同時に尊敬するばかりだった。こんな注釈は要らないだろうが、勿論ピアノの次にだ。実は今までのメニューは全て、自作のノートにつけていた。普通のキャンパスノートだ。表紙には『簡単!お菓子レシピ!』と、そのまんまの題名を、色んな色のマジックペンで書いていた。今までピアノのレッスン用には作っていたが、頭で覚えるのが限界に感じ、とうとうお菓子用にも作ってしまった。大体いつもオーブンを使う事が多かったので、その間にメモるのだった。
先生は私の前にボールを置くと、その中にホットケーキミックス、サラダ油、砂糖、そして溶き卵を入れた。
「…よし!じゃあ琴音ちゃん、かき混ぜて」
「はーい」
私は言われるがままに、丹念にかき混ぜた。その間に先生が私の隣で、包丁を使って丁寧に板チョコを刻んでいた。粉っぽさが無くなり、生地が出来あがってくると、先生は自分が刻んだ板チョコをボールの中に加えた。またかき混ぜるように言うので、私がまたかき混ぜている間、先生は天板にクッキングシートを丁寧に敷き詰めていた。先生がチョクチョク、ボールの中を監視していたが、ある程度までいくと笑顔で頷いたので、私はテーブルの上に置いた。私が顔中に疲労感を滲ませつつ、大袈裟に両手をプラプラさせて見せると、先生はその様子を見て無邪気な笑顔を見せていた。私もクスッと笑うのだった。
先生と私は用意されたビニール手袋をはめて、二人一緒にボールの中の生地を適量取って、クッキーの形になるように天板の上に置いていった。勿論ある程度くっ付かないほどに距離をおいてだ。生地全部が無くなるほどに作ると、先生はそれをオーブンの中に入れた。そして500wに設定し、十五分に設定すると、スタートボタンを押した。後は焼きあがるまで待つのみだ。その間先生と一緒に、流し台でボールなどを洗い流して、先ほども触れたように空いた時間で、改めて先生の口からレシピを言ってもらい、それをメモするのだった。
オーブンから、焼き上がりを知らせるチャイムが鳴った。ちょうど私がメモを取り終わった頃合いだった。先生がオーブンに寄ろうとしたので、私も慌てて付いて行こうとしたが、先生は優しい笑顔で押し留めた。ノートと筆記用具を片せという事だった。私が言われた通りに整理をしていると、先生がオーブンの扉を開けたので、キッチンに焼けたチョコレートの甘い香りが充満した。とても優しい香りだった。片し終えると、私は早足で先生の元へと行った。ちょうど先生は大皿の近くに、まだ余熱を発している天板を置くところだった。先生の隣から中を見ると、そこにはよくお店などで見るオーソドックスなチョコレートクッキーが、所狭しと出来上がっていた。感動しているのも束の間、先生は笑顔で私に菜箸を渡してきた。私も笑顔で受け取ると、二人でクッキーが崩れないように食べる分だけ大皿に移した。残りは先生と私とで分ける予定だ。出来上がった約半分を取り分けると、私がそれを食卓に持って行った。先生は私の分の牛乳、自分の分のコーヒーを運んでくれた。
そして二人して向かい合って座ると、先生が胸の前でパンッと大きな良い音を鳴らしながら両手を合わせて、頭を軽く下げながら言った。
「じゃあ早速、いただきまーーす!」
私も先生を真似て、胸の前で両手を合わせると、明るい調子で続いた。
「いただきまーーす!

「…はぁ、美味しかったぁ!」
私は牛乳の入ったコップを持ち、中身を飲み干すと言った。二人合わせて正味三十個以上はあったろうが、綺麗にペロリと完食してしまった。今更ながらお昼ご飯が手作りお菓子だけっていうのは、不健康極まりないのだろうが、毎週土曜日のお昼だけだから…と、私と先生は誰に言うのでもなく言い訳をするのだった。
「やっぱり手作りは良いねぇー。…普通のクッキーでも美味しく食べれるし」
先生はコーヒーを啜りながら、心身ともにリラックスした調子で応えた。
普段こうして食べてる間は、音楽の話からは離れて、主に普段の私の生活について、先生が色々と質問してくるのを答えることが多かった。尤も学園生活の話のついでに、どうしても音楽関係の話に成らざるを得なかったけど。やはり藤花の話中心になってしまうのだった。
藤花はすっかり私と同じ中一だというのに、初演の大成功のお陰か、頻繁にと言っても月一くらいだったが、その若さで独唱する機会が多くなっていた。前にも何度か言ったように、私も何度か藤花の練習に付き合ったりしていたが、私が言うのは変かも知れないけど、メキメキと実力は向上していく一方だった。ただでさえ元々上手かったのに、技なり表現力なりが凄みを増していっていた。これでも、ほぼ独学だと言うから恐れ入る。私に見せる練習の、そのまた裏での普段の生活の中で、どれほどの努力をしているのかを思うと、聞いてもあの無邪気な笑顔で誤魔化されるのが分かっているから聞かないけれど、同い年とか関係無く感銘受けずには居れなかった。
…ついつい藤花の話で長くなってしまった。これも何度か言った通り、同じ音楽という芸の道を志している者が、こんなに身近にいるのが嬉しくて、ついつい繰り返し話したくなってしまうのだ。許して欲しい。先生も今だに私から藤花が独唱する日程を聞き出して、わざわざレッスンを休みにした日曜日に会って、四ツ谷の教会まで聞きに行くのも習慣化していた。教会ではいつも律と落ち合っていた。初めての時は、当然律にキチンと先生を紹介した。最初はいつもの無表情ながら戸惑っていたみたいだったが、事情や先生の経歴などを軽く伝えると、むしろ好意的に先生を受け入れてくれた。独唱が終わってからも、都合がつくようならば、わざわざ藤花に挨拶しに行った。藤花も初めて私の先生だと紹介すると恐縮していたが、先生が余りにもあっけらかんと褒めるので、初めは赤くなって照れながらも、どうやら先生を気に入ってくれたようだった。律の場合と違って、前評判を伝えてあったのが良かったのかも知れない。
…また話が長くなってしまったが、何が言いたいのかというと、この日も途中からずっと藤花の話題で持ちきりだったという事だ。それがひと段落してからの会話となる。
私はふと時計を見た。昼の一時五分前だった。午後のレッスンは一時半から始めるのが習慣だった。特に決めていた訳ではなかったが、自然とそうなっていた。まだレッスン開始まで今日は三十分以上と、だいぶ時間が余っていたので、今までの会話の流れでも不自然じゃないと、私はこれを機会に、あの話題を振ってみることにした。
「…そういえば先生」
「…ん?なーに?」
先生はテーブルの隅に置いてあった雑誌をパラパラと捲っていたが、私が話しかけると大きくそのページを開いたまま、私に微笑みかけてきた。
私は今までの事も含め、急にこの話を持ちかけるのに流石に気が引けて、なかなか口から言葉を紡ぎ出せずにいたが、今しかチャンスは無いと思い切って話しかけた。
「…あのね、先生…先生に聞いて欲しいことがあるんだけど…」
「何よ急に?そんな改まっちゃって。…どんな事でも良いから話してご覧なさい?私とあなたの仲でしょ?」
先生は普段の柔和な笑顔を見せた。私はおかげで漸く決心がついた。最後の一押しを貰った。
「…私ね、そのー…コンクール…にね?…で、出てみようかと…お、おも、思っているんですけど…どう思いますか?」
何とか決心して言った割には、結局こんな調子で辿々しくなってしまった。ただ話し方はどうあれ、何とか思いの丈は言えた。
私は言い終えると俯いた。後は先生のリアクションを待つだけだ。
「…」
しかし、暫くしても何の反応もなかった。私は痺れを切らして、ゆっくりと顔を上げた。そして先生の顔を見ると、先生は大きく目を見開き、私の事を凝視していた。おそらく私が言ってから、ずっとそのままの状態でいたのだろう。目が乾くのを心配してしまうくらいに、瞬きが少なかった。
と、私と目が合い数秒ほどすると、先生は静かにコーヒーを、目を閉じながら味わうように啜り、ゆっくりとカップを置くと、私の方に冷静な眼差しを向けてきながら、静かに口を開いた。
「…今の話は、本気なの?」
「…は、はい…」
私は普段と違う雰囲気を身に纏う先生に圧倒されつつも、目を逸らさず何とか短く返事をした。先生は表情を変えずに続けた。
「そう…でもまた急にどうしてコンクールに出て見る気になったの?…今まであれだけ拒み続けてきたじゃない…?」
尤もな反応だった。前にも何度か言ったような、コンクールに出たくない理由を、先生にも伝えてはいた。
もちろん、『人前で自分の姿を、動物園のパンダみたいに晒し者にされるのは、死んでもゴメンだ』という風には流石に言わなかったけど、オブラートに包んでそれとなしに話していた。そんな私が急にこんな事を言い出したのだ。先生は私の性格を熟知している。一度言ったことを訂正する事を、信念を曲げるような事を言うのを、何よりも嫌がる事を分かっていた。だからこそ、こんなにしつこく確認を取ってくるのだ。それはそれで、先生が私の事を、本質的な部分まで理解してくれていることは喜ばしいことだったけれど、正直心の何処かで、コンクールに出たい旨を言えば、何だかんだ先生は手放しで喜んでくれるものと期待していただけに、この尋問はかなり私には重く辛かった。
「そ、それは…」
先程までの、クッキーを作って食べたような明るい雰囲気は消え失せて、どんよりとした重苦しい雰囲気の中、私は絞り出すように俯きつつ先を続けた。
「…た、確かに人前に出るのは…うん、今でも正直…い、嫌だけど…でも!」
私は勢いよく顔を上げ、先ほどから変わらぬ、私の事を見定めるかの様な、静かな表情のままの先生を、強い視線で見つめ返しながら続けた。
「先生も知ってる様に、色んな同世代の子達と親しくなって、その子達がまた自分の好きな事に全力で努力して、大会に出たり人前に出て頑張っているのを見て、そのー…私は今まで嫌な事から色んな理由を付けて、逃げていただけの甘えん坊だと気づいたの!そのー…先生も知ってる藤花や律、…後話した事があった裕美や紫達のお陰で!みんなそれぞれの場所で頑張っているのに、私だけ逃げ続けるのは恥ずかしいと、単純に思えたの!…それだけ…です」
途中までは自然と熱くなって語気荒く話していたが、最後の方で不意に先生の無表情が怖くなって、途端に熱が引き、何とかボソボソ声になりながらも言い切るのがやっとだった。そしてまた少し俯いてしまった。また先生の反応を待つ他なかった。でも、理路整然では無かったかもしれないが、言いたい事、伝えたい事は言えた様な気がする。
「…」
先生はまた無言で暫くいたが、ふとまたコーヒーを一口啜ると
「…琴音ちゃん、顔を上げて?」
と、先程とは打って変わって、あまり聞いた事のない、慈愛に満ちた声音で私に話しかけてきた。
これは二度しか無かったが、前回は…そう、受験の影響で両立出来なければピアノを休止しなくてはいけない旨を、先生に話し、私自身は絶対に嫌だと駄々をこねた時に、話しかけてくれた時以来だった。
私は恐る恐る顔を上げると、思わずギョッとしてしまった。先生は優しく微笑みかけてきていたが、目には涙を多く湛えていた。今にも何かの拍子に、こぼれ落ちて来てしまいそうな程だった。前回も涙を湛えてはいたが、今ほどでは無かった。
私が呆然していると、先生はそのままの表情で、ゆっくりと話しかけてきたのだった。
「…そうか。…ようやく決心してくれたんだね」
先生は目を細めて笑った。その反動で、とうとう涙が流れ落ちてしまった。
先生は少し照れ臭そうに拭いながらも続けた。
「…私はどうしても琴音ちゃんに、コンクールに出てみて欲しかった。…それはね?これは勝手な言い方だけど、琴音ちゃんと初めて会った時、その時のあなたの様子が、幼い頃の私とかぶって見えていたからなの」
「…え?」
私は思いがけない告白に、思わず気の抜けた声を出してしまった。そして瞬時に、義一のことを思い出していた。義一も私に対して、今先生が言った事と同じような事を話していたからだ。
先生は私が声を上げても、先を話さない事を確認すると、そのまま先を続けた。
「初めてあなたが瑠美さん…お母さんに手を引かれてこの家にきた時、私はまだここの家に来て、一ヶ月も経ってないくらいだったわ。…私がここでピアノ教室を開く顛末になった話は、知ってるよね?…うん、そう。正直まだ自分の夢自体を諦めきれずに、まだ自暴自棄になってたままだった。…でもあなたを瑠美さんが紹介して来た時、ふと、瑠美さんの後ろに隠れてモジモジしている姿を見て、何だか懐かしい気持ちになったの。…でね、すぐに思い至ったわ。…まるで昔の自分みたいだなってね?」
先生は一息つく様に、また一口コーヒーを啜った。私は黙ったままジッと話の先を待った。突然の身の上話が始まったので、先程までの恐縮加減は影を潜め、好奇心が湧いてきてしまうという、悪癖が出て来てしまっていた。先生は続けた。
「…うん。でね、この直感は段々と正しいんだと確信に至るようになったの。…琴音ちゃん、あなた初めてここに来てから、今よりも多いペースで来ていた事は覚えてる?」
「…え?は、はい、…確か週四以上は来ていたと思います」
そうなのだ。前に軽く触れたように、覚えておられるか分からないが、義一と初めて法事の為にお寺で出会ってからすぐ、その後に先生のところに通うようになったのだ。義一に出会ってから、再会後ほどでは無いにしても、友達付き合いが苦手になってしまっていた。毎日のように同級生達と遊んでいたのに、放課後はすぐに家に帰る事が多くなっていった。それを心配したのかどうかは兎も角、そんな時にお母さんが私に『もし友達と遊ぶ用事がないなら、試しにピアノでも習ってみない?』と提案されたのがキッカケだった。私は何も考えず、当時は何故こんなに人付き合いが苦手になったのか、自分でよく分かっていない上、その分からない状態にストレスが溜まり、そのはけ口を探していた事もあったので、すぐに了承したのだった。
私は先生にコクンと小さく頷いた。先生も微笑みつつ頷いた。
「でね、そのー…琴音ちゃんと私の中だから言えるんだけど」
先生は頬を掻きながら、言いづらそうに苦笑を浮かべていたが、私が変わらず真っ直ぐな視線を向けていたので、後ろを押されるかの様に先を続けたのだった。
「…あんなにほぼ毎日私の所に来るって事は、放課後に遊ぶ友達が控えめに言って…そのー…少ないんじゃないかって思ったの」
「…」
私は気にせずに先を話して欲しいと、その意思表示のために、気を悪くしたかの様に取られないために、少し顔に微笑みを湛えて見せただけだった。先生は私の心中を察したのか、同じ様に微笑んだ。
「…それってね、ズバリ当時の琴音ちゃんと同い年の頃の私と、状況を含めてソックリだったのよ」
先生は気持ち嬉しげとも取れる様な調子で言った。
「…え?」
私はさっきと同じ様に、間抜けな声を上げるだけだった。我ながらリアクションのボキャブラリーが少ないなとは思うが、『え?』としか言えないのだからしょうがない。
何せここまで私の話を聞いてくれた人なら分かってくれると思うが、先生はピアノの先生であるのと同時に、私が思い描く”理想の女性像”そのものだった。絵里は違うのかと言われると困ってしまうが、何にせよ、周りの大人の女性達の中では一番本当に”格好いい”女性だった。私の為も含めて、言ってはくれないけれども、夢破れた今でも鍛錬を欠かさず積んでいたり、それに驕り昂ぶる事も無く謙虚な姿勢で居るところなど、過去の栄華…それも取るに足らない、たまたま運良く他人にチヤホヤされただけの思い出にしがみ付く、浅ましい人間達が多い中で先生は、本当に努力を積み重ねる事で手にした本物の栄華に、自身を寄りかからせる様な事は無かった。それが何とも言い難いほどに、格好付けていないのに格好良かった。そんな憧れの先生が、私と自分を重ねて、しかも似ているだなんて言ってくれてる事自体、初耳なのも含めて益々唖然とする他なかった。
先生はこれについては察しきれなかったのか、また苦笑いを浮かべつつ続けた。
「…まぁ私に急に似ているだなんて言われても、困るだろうけれどね」
「…!そ、そんな事…!」
私は慌てて訂正を入れようとしたが、受け入れてくれなかった。先生は表情そのまま、向かいに座る私の唇に人差し指を軽く当てた。私は大人しく黙る他なかった。
先生は何事もなかったかの様に続けた。
「…私も琴音ちゃんと初めて会った時ぐらいの歳の時は、学校に友達が…いなかった訳では無かったけど、その友達の家まで遊びに行くほどの子は居なかったの。…だからいつも放課後は、一人ぼっちで帰っていたわ。…でね、幼稚園の頃から習っていたピアノに、寂しさを紛らわすかのように、のめり込んでいったの」
…私とおんなじだ。寂しかったかどうかはともかく。
「お陰でというか、自分で言うのも恥ずかしいけれど、メキメキと上達していったわ。それに背が急にある時期から伸び出していって、ピアノを弾くのも楽になっていった気がしていったから、余計に弾くのが楽しくなっていって、益々のめり込むようになったの」
これも私と同じだ。私も先生に昔褒められた事があったと、軽く触れた事を覚えているだろうか?その時は身長が伸びたのは、私の努力のおかげでは無いから素直に喜べなかったが、確かに今まで届かなかったポジションに容易に届くようになって、今まで苦労して弾いていた難曲が、楽々弾けるようになり、それが嬉しく楽しくて、余計にのめり込んでいったのを覚えている。こればかりは肉体的特長と絡んでくる話だし、中には体が大きくなって運指がうまいこと出来なくなる人も居るから単純には言えないが、少なくとも私、それに先生は、それが上手いこと作用してくれたみたいだった。
「その時ね、ある日先生が提案してきたの…」
先生はテーブルに肘をつくと、視線を斜め上に向けて、どこか遠くを見るような眼差しになりながら言った。
「…そう、あれは私が小学校四年生の頃だったかなぁ?先生が突然私に、コンクールに出てみないかって誘ってきたのよ。…私は最初は断ったんだけどね?…どっかの誰かさんとは理由は違ったけど」
先生は意地悪くニヤケながら言った。私は途端に恐縮しつつ「…ごめんなさい」とだけ言ったが、先生は腕を伸ばし、私の頭を優しく撫でながら笑顔で言った。
「あははは!御免なさいね?冗談のつもりで言ったんだけど、流石に今のは私が空気を読めていなかったわ。…えぇっと…あぁ、そうそう!私の場合はコンクールに出る程の実力があると、自分で思っていなかったのよ。…勇気が無かったの。でもあまりにも強く薦めてくるもんだから、根負けした形で出る事にしたの…あっ!ちょっと待ってもらえるかな?」
「は、はい」
私が答えると、先生は一度ニッコリと笑い、席を立つと何処かへ行ってしまった。階段を上る音がするから、二階に上がったのだろう。ドアを開ける音、ガサガサ何かを漁る音、また階段を降りて来る音、それらを何するでもなく、ただジッとしたまま聞いていた。時刻はもう、一時半を過ぎようとしていた。
「…ごめんねぇ、お待たせして?」
「あ、いえ…」
先生は微笑み返しながら、また向かいに座った。手には綺麗に装丁された大きな本を持っていた。どうやらアルバムの様だった。先生がおもむろにページを開こうとしたので、私は慌て飲み物を脇にやった。先生は私にお礼の意味で微笑むと、一つのページを大きく開いて、私がよく見える様にひっくり返して見せてくれた。それを身を乗り出す様に覗き込んで見ると、そこには煌びやかなドレスに身を包み、ホールの壇上に一つだけ置かれたピアノに向かって、一心不乱に弾き込んでいる一人の少女の姿があった。その一枚の写真をジッとみて居ると、先生はいつの間に淹れたのか、コーヒーを飲みながら言った。
「…その不器用に、全身に力を無駄に入れて、余裕も無く厳しい表情で弾いてるのが、私よ。小四のね」
「…へぇー」
先生は自嘲気味に紹介してくれたが、まず私は写真の女の子が小四だという事実に驚かされていた。…小四?いやいや、少なくとも中学生…いや高校生くらいにも見える。顔付きは今と然程変わらなかった。
慌てて付け加えれば、当時の先生が老けていた訳ではなく、むしろ今の先生が老けなさ過ぎるだけの事だ。
そう。動画じゃ無い、動かない静止画にもかかわらず、その写真からは躍動する両腕両手をはっきり感じ取れ、今にも動き出しそうに思えるのと同時に、何とも言えぬ、大人の女性でも中々身に付けられていない色香を、写真からこの少女は醸し出していたのだ。一口に言えば、”完成”されてる作品を見ているかの様だった。
私があまりにも凝視していたので、先生は少々照れていた。
「…もーう、そんなにジッと見られたら恥ずかしいわ。…でね」
先生は一つページを捲った。そしてその中の一枚に、指を指した。それはどうやら表彰式の写真らしく、先生の胸には金メダルの様な物が掛けられ、両手にはトロフィーを抱えていた。そして同じ写真の中に、胸に銀メダルを提げて、先生のよりも一回り小さなトロフィーを抱えた、仏頂ズラの女の子が写っていた。先生よりも少し小柄だった。先生の指はゆっくりと、その女の子の顔に移動した。
「…その子とね、このコンクールで初めて出会ったの」
先生の声は、郷愁を含む穏やかさに満ちていた。
「…このコンクールはね、結構歴史があるもので、一番古いんじゃなかったかなぁ…あ、いや、それはともかく、全国規模でやってるヤツでね?北海道から九州沖縄まで、全国津々浦々同年代の子供達がしのぎを削り合いながら、決勝まで上り詰めていくの。…でね、この子は関西の地方予選から勝ち上がって来た子なのよ。決勝は東京の晴海にあるホールで成されたんだけど、そこの楽屋で初めて出逢ったの。…第一印象は、最悪だったなぁー」
先生が苦笑まじりに言うので、思わず「何でですか?」と口を挟んでしまった。
すると先生は、今度は意地悪く笑いながら答えた。
「…決勝はね、全国各地から一人ずつしか出れないから、人数少なくてね、用意された楽屋が一つだけで、そこで参加者十人くらいが一緒にいるのよ。それでね、各自各々本番に向けて色々と準備をしていたの。私も予め提出していた曲目を、楽譜を見つつ最終確認をしていたら、ふと私の側に立つ人がいたの。顔を上げるとそこにいたのが…」
先生は仏頂面の女の子の顔を、指でトントン叩いた。
「この女の子だったのよ。『…何?』私は戸惑いつつ聞いたわ。まさか本番前に、他の出場者に声をかけられるなんて、思っても見なかった事だったから、自分でもちょっとツンとした態度で接しちゃったかなってすぐ後悔したけど、でもしょうがないと開き直っていたの。因みにこの子の事は知ってたの。関西方面ではピアノファンからしたら、当時から有名人でね?このコンクール優勝の最有力候補だったの。私も先生にビデオを貰ってね、…ふふ、当時はビデオだったのよ。それを繰り返し見たりしていたから、私の方では知っていたの。他のみんなもそうだったみたいでね、この子が私に話しかけたもんだから、参加者の視線が一斉に私達に向いたの。そんな様子には目もくれずにね、この子いきなり私に冷たい視線を送って来ながら、こう言い放ったの」
先生は腰に手を当てて、ジト目を私に送ってきた。恐らくその子のモノマネなのだろう。
「『…沙恵さん、アンタが何者かは知らないけれど、私絶対に負けないから!』ってね。周りの子達は勿論、私もビックリしていたの。何でこの子は私の名前を知っているのかなってね?…勿論プログラム表とかには、出場者の名前が書かれているから、名前自体は知っていてもおかしくないけど、名前と顔が一致する筈が無かったのよ。…まだ本番前だと言うんで、名札に近いものは、まだ衣装に付けていなかったし。…それを有名人に、しかも下の名前で名指しされるなんて、何が起きたんだろうと呆然とする他無かったわ。でもそれからは話しかけて来なかったから、私も平常心を取り戻して、冷静にコンクールに臨めたんだけどね。…後は端折って言うけど、何と私がこのコンクールで優勝してしまったの。その結果を楽屋のモニターを見つめながら皆で聞いていたんだけれど、その発表があった瞬間、他の出場者たちが私の周りを取り囲んでね、一緒になって喜んでくれたの。あれは嬉しかったなぁ…。『良くやった!』とか何とか、そんな類の言葉をくれていたわ。でもふとね、人の隙間から向こうを見ると、さっきの女の子が呆然としたまま、モニター画面を見つめ続けていたのよ。静かにほっぺに涙を伝わせながらね。…噂で聞いてたんだけれど」
先生は一息つくように一口コーヒーを啜ると、ため息まじりに言った。
「…私に対してしたような態度は、初めてじゃないみたいでね?何かと色んなコンクールに出ては、その時の優勝候補者に近寄っては、挑戦的な暴言をよく吐いていたらしいの。それでいつも優勝しちゃうもんだから、他の常連の参加者からしたら、鼻につくムカつく奴だっていうのが共通認識としてあったようなの。だからあの時、他の参加者達が私の周りを取り囲んだのだって、その子をやっと打ち負かしてくれたっていうだけだったのよ。それを証拠にね?」
先生は暗い表情になった。
「…私がその子の方に視線を向けるとね、私を囲んだ同い年の男女が口々に悪口を言い始めたのよ。…『いつもあんな態度を取っていたから、バチが当たったんだ』とか『いい気味だ』とかね。私は聞いてて、段々イライラしてきたの。勿論そんな態度を取っていた事は知っていたし、それ自体はどうかとも思ったけど、それでも私は一緒になって悪口言おうとは思わなかった。…だって、先生がくれたビデオに映るその子の演奏は、誰よりも洗練されてて、優雅で、私も思わず見惚れてしまうほどだったんだもん」
先生は当時を思い出しているのか、遠い目をしていた。
「…コンクールの演奏だってね、順番が丁度私の一つ前だったんだけど、舞台袖で待っている間、プロのスポーツ選手みたいに準備運動をずっと続けていたの。…ふふ、ドレス姿のままでね。腕だけじゃなくて屈伸したりするもんだから、その度にドレスの裾がめくれるんじゃないかって、私としてはヒヤヒヤ見ていたの。…でもアレは大事な事なのよねぇ。ピアノっていうのは琴音ちゃん、あなたにこんな事一から話す事は無いんだけど、優雅に演奏してるように見せているからそう見られないけど、広義で打弦楽器と言われるくらいなもんで、かなり力や体力のいる楽器でしょ?」
確かに、先生はいつも準備の重要性を説いていた。だから毎回ここに来ると、まず先生と組んで、準備体操を一通り十五分くらいかけてしてから、先生の作った練習曲を弾いてウォームアップをするのだった。
「だからその子のやり方は、かなり理に適っていたのよね。私はそれを見て、『なるほどなぁ』って一人感心してね、その子の出番の間、私もずっと準備運動をしていたのよ。それが今まで続いているって訳!」
先生は私に満面の笑みを向けた。私も静かに笑い返した。
「人一倍努力しているんだから、他の人よりも実力あって当たり前。実際この際だから言うけどね、初めて他の参加者の演奏を聞いたけど…私が言うのもなんだけど、てんでなっていなかったの。演奏自体よりも動きを大きく見せたりするのに躍起になっていたり、何だか格好付けてるだけの演奏ばかりだったのよ。動作大きくって言うのはね、大きく顔で表情を作ったりなんかして、悲壮感を音よりも顔や体全体で、演奏家自身で表現しようとしていたって事なの。…それはともかく、『人一倍努力しているんだから上手いんだという、その当たり前に目を瞑って、普段の態度がキツかったり悪かったりする事を引き合いに出して、貶めようとするなんて愚の骨頂じゃない! 私からしたら、そんなの細かすぎるしどうでもいい事。もしそれが気に食わないんだったら、あの子以上に努力して見せて、実力を追い抜いて見せてから文句を言いなさいよ!』って、私は一人静かに周りを取り囲む子達を睨みながら、心の中で毒づいたの。でね、ふとその中の一人と目が合ったから、その人を無言で押し退けてね、一人で俯いているあの子の元に歩み寄ったの。皆は何事かと私のことを視線で追っていたわ。あの子は当然悪口が聞こえていたみたいで、肩を震わせつつ俯きながら泣いていたわ。これは優勝できなかった悔しさの涙か、自分よりも格下だと思っていた人達に、公然と悪口を言われての悔しさの余りの涙か、もしくは両方か、判別は出来なかったわ。それはともかく、私が近寄ると、涙でくしゃくしゃになった顔を無造作に私に一度向けるとね、目を乱暴にこすりながらソッポを向いたの。私はでも意地になってね、前に回り込んでね…握手を求めたんだ」
先生は私に握手を求める恰好をした。そしてすぐ手を引っ込めると、今度は柔和な笑みを浮かべつつ続けた。
「丁度手をね、俯いているその子の顔の前にくる様に出したから、ゆっくりと顔を上げて私を見たわ。その顔には、一面に驚きと戸惑いを浮かべていたわ。…目をこーんなに見開いてね?」
先生はワザとらしく、指で両目を大きく開かせて見せていた。
「私はそんな様子に構わずにね、手を差し出したまま、ただこう言ったの。『…今回は私が優勝したけれど、私はまだあなたに勝っただなんて思っていないわ。…だからこれからも、お互いに負けない様に頑張って行きましょう?…ね、京子さん?』てね」
先生はここまで言うと、またコーヒーを飲んだ。私はふと今先生が言った、『京子』という名前に引っかかった。聞き覚えがあったからだ。よくある名前と言えばそれまでだが、話の流れ上、もしかしたらという事もあって、先生に聞いてみることにした。
「…先生、その”京子さん”って…」
私がおずおず聞くと、先生はニンマリと意地悪そうに笑いながら、少し勿体つけて答えた。
「…そうよぉ、フルネームは矢野京子っていうの…知ってる?」
知ってるも何も、ピアノをする人からすれば、すごい有名人だった。フランスを中心に活動しているピアニストだった。たまにクラシック雑誌の表紙を飾っていた。演奏力は当然ながら、その雑誌の中のコラムが、ウィットや、フランスに因んで言えば”エスプリ”が効いてて、私はとても好きだった。一つ簡単に例えを言えば、クラシックの雑誌なのに、歯に衣着せぬ物言いで、平気で今の業界批判を延々と書き連ねていたりしていた。まぁこれは、それを載せる事を許す雑誌社の懐の深さを褒めるべきかもしれないけど。
「も、勿論知ってます!…へぇ、先生とそんな繋がりが」
「…ふふ、見直した?」
先生はウィンクして見せながら、悪戯っぽく言った。
「い、いえいえいえいえ!そ、そんな!これとは関係無くっ…」
私は慌てて否定にかかったが、先生が優しく唇にまた指を優しく当ててきたので、黙った。
先生は優しく微笑みつつ、先を続けた。
「でね、さっきの続きだけど、私がそう言ったらあの子ったら、しばらく何を言われたのか分からなかったみたいに呆けてたんだけど、プッと吹き出してね、大笑いをするのを我慢する様に私から顔を逸らして肩を震わしてさ、笑いが収まると私に向き直ってね、まだ涙で顔はクシャクシャだったけど、とびきりの笑顔を私に見せてくれながら、右手を出してくれたの。でね、目だけ薄目を使いつつ、太々しく言って来たの。『…あったりまえでしょ?私だって”今回は”負けを認めてあげなくもないけど、これで終わりじゃないんだからね。…次は返り討ちにしてあげるわ!』そう言うと京子は私の右手を勢い良く掴むと、力強く握手してきたわ。…痛いぐらいにね」
先生は苦笑いで、右手をプラプラさせて見せた。
「私もお返しと、目一杯強く握り返したわ。…もうね、お互いピアノで鍛えあげられていたから、握力が女子にはあるまじきレベルにあったのねぇー…。一分も握り合っていなかったんだろうけど、お互いに根負けして手を離してさ、こうやってプラプラさせてたの。でね、お互いに相手の様子を見ると、示し合わせる事もなく、今度は大声で笑いあったの。…他の子達は、相変わらず呆然と私たちの様子を見ていたけどね」
先生は話している間、今まで私が見たことの無いくらいに、リラックスした笑顔を浮かべていた。私に対してなのか何なのか、それは分からなかったけれど、何か憑き物が落ちた様な表情を浮かべていた。
「…それからね、勿論向こうは…確か神戸だったかな?で、私は東京でしょ?そんなにしょっちゅうは会えなかったけど、当時はお互いに、親に無理を言って携帯を買って貰ってね、それで毎日メールをし合っていたの。…これ言うと、他の人には不思議がられるんだけど、決して繋がりが途切れることは無かったの。…むしろ京子は今日はこんな曲に挑戦しただとか、一々そんな進捗情報を自慢げに送ってきたからね、私も負けじと、今まで以上に練習に打ち込む様になったの。まぁそれからは…何やかんやあって、高校卒業を境に私はドイツ、京子はフランスに”武者修行”に行くことになったの。…で、未だに付き合いが続いているって訳」
先生はそう言うと、言いたい事は言い切ったのか、満足げにコーヒーを味わう様に啜るのだった。私は初め何の話だったか忘れかけていたが、それよりも先生の身の上話をじっくりと聞けて、それはそれで大満足していた。私はそのままにしておく気だったが、先生はアルバムに写る、先程の二人の写真をみると、ハッとした様な表情になり、私に照れ臭そうに話しかけた。
「…まぁ長々と私の身の上話をしてしまったわけだけれども…何が言いたかったかって言うとね?…私は小学校の頃一人ぼっちだった。さっきも言った様に、会話をするぐらいの子はいたけど、あくまで”同級生”止まりで”友達”では無かった。…私はだから、大好きなピアノにのめり込むしか無かったんだけど、こうしてコンクールに出てみて、そこで初めて心から信頼出来る…照れないで堂々と言える”親友”に出会えたの。…もう二十年以上も続くね」
先生は優しい視線をアルバムに落としていた。私も何するでもなく、同じ様に見ていた。
と、不意に先生は私に顔を向けると、少し寂しげな表情を浮かべつつ、口調は柔らかく言った。
「だから話を戻すと、あなたが小学生の時、何度もコンクールに出てみないかって聞いたのはね、勿論その実力を身につけていたからというのもあったんだけど、もう一つの大きな理由は…」
「…え?」
私はボソッと声を出してしまった。先生が不意に、テーブルの上に無造作に置いていた私の手を、優しく上から包む様に触れたからだ。先生の手は、若干ひんやりとしていて、何だか心地良かった。
先生は手をそのままにして、私に薄眼で微笑みかけてきながら言った。
「あなたがもし、当時の私と同じ様に孤独だったとしたら、それを癒してくれる…ううん、同じ様な孤独を抱えている、同じ目標を持つ”同士”の様な人と、出逢えるんじゃないかって思ったのよ。その孤独を癒し分かち合える様な…私達みたいにね?」
先生はまた、視線をアルバムに落とした。
先程はあの、コンクール表彰式の写真に写る京子さんの表情が、仏頂面に見えていたのだが、今こうして先生の話を聞いた後に改めて見てみると、顔が曇っている事は曇っていたが、口元をよく見ると緩んでいるのが分かった。どこか満足げにも見えたのだった。
「でもあなたは違ったみたいね…」
先生は、私から手を離しながら言った。
「あなたは一人なんかじゃ無かった。…あなたは気付かれてないと思っていたかも知れないけど、先生をナメちゃダメよ?…あなたが練習後たまに、どこかへ寄り道してるの知ってたんだから」
そう言う先生は、悪戯っぽく笑っていた。反対に私はドギマギしていた。
何故バレたんだろう?
「…な、何故分かったんですか?」
「…ふっふっふー、それはねー?」
先生はニヤケつつ、人差し指を立てて、ノリノリでそれを左右に揺らしながら答えた。
「玄関先まで送っていたのは知ってると思うけど、実はあなたが道を曲がって姿が見えなくなるまで、見送っていたのよ」
「…え?」
私は思わずまた声を上げてしまった。
考えてみれば、玄関先まで出てきて見送ってくれた先生に手を振ってからは、いつもその後は振り返らずにいたかも知れない。
私はきっと申し訳なさが顔に出ていたのだろう、先生は明るい調子で話しかけてきた。
「別に気にしてないわよー?私が好きでしていただけなんだから!…でね、ある時同じ様に見送っていたら、あなたは曲がる道の辺りで、不意に周りをキョロキョロし出したの。私は何だろうと思ったけど、そのまま何気なく見ていたら、あなたがふと、帰り道と反対方向に曲がって行っちゃったから、なんだか不安になって、慌てて後を追ったのよ」
「…」
私はもう何もリアクションが取れなかった。頭をフル回転していたからだ。
一体いつの事だろう?…もし義一さん家に行く時だったら?…どうしよう。
私が内心混乱している事は、当然知り得ない先生は、呑気な調子で話を続けた。
「そしたら小さな公園に入って行くじゃない。…何の用だろうと、公園の入り口の草陰から中を伺ったら、なんとあなたと同い年くらいの短髪の女の子と、親しげに話しているじゃないの。…ちょっと私がいた場所が遠かったから、話自体は聞き取れなかったけど、あなたが友達と親しげに話しているのを見て…うん、心からホッとしたし、嬉しかったの」
先生はまた私に微笑みかけていた。
「それから私は、そーっとバレない様に後にしたの。…御免なさいね、スパイまがいのことをしてしまって」
「あっ、い、いえ、私は別に…」
先生が突然謝ってきたので、私も慌てて気にしてないと返した。
…そっか。義一さんの事じゃなくて、裕美の事だったかぁ…。そういえば、今だに二人は会ったことないもんね…。
私が義一の事では無かったことにホッとしていると、先生はまた、静かに微笑を顔に湛えながら、話を続けた。
「…でね、それからは…なんと言うかー…そこまで積極的にコンクールに出る事も無いかと思い始めたのよ」
確かに、一時期…そう、言われてみれば裕美に出会ってからは、受験の事もあっただろうけど、受験が終わってからも、コンクールの話を先生からして来なくなっていた。
「…こればかりはねぇ、最後は本人の意志が当然大事だから、私の時とは違うと分かった今、無理して薦める理由も無くなったのよ…。勿論”何故か”急にピアノの練習に、益々熱が入った事には驚いたと同時に嬉しかったけど、それはてっきり、あの藤花ちゃんに良い影響を受けたからだと思っていたから、今日こうしてあなた自身から、コンクールに出たいだなんて言われるなんて、思っても見なかった…」
「…!せ、先生…」
先生はまた目頭を押さえていた。また両目には涙が溜まってきていた。
私は狼狽つつも、その先の言葉を待った。先生は少し照れ臭そうに笑いながら続けた。
「…ふふ、今日はなんか変ねぇー。…私、こんなに涙脆いはずは無かったんだけど…誰かさんが不用意に、嬉しいことを言ってくれたからかな?」
先生は瞼をゴシゴシ擦ったので、目の周りは若干赤みを帯びていた。
「…さて!琴音ちゃん?」
先生は気を取り直す様に明るい声を上げると、今度は普段のレッスン時の様な、真面目な視線を私に向けてきながら言った。
「コンクールに出るのはいいけど…準備やら何やらで大変よ?…瑠美さん達ご両親にも話さなきゃだし。…まだ、この事は話してないんでしょ?」
「は、はい…」
「…だよね。…もしそれで許しが出ても、大体のコンクールは課題曲があったりで、普段私達がしてる様な、好き勝手自由にやってる様には出来ないよ?…どんなに好きじゃ無い曲目でも、完璧に近いくらいに弾けるまで練習をしなくちゃいけない…それに耐える覚悟はある?」
先生は今日一番の強い視線を向けてきた。妥協や逃げを許さない眼差しだった。
私はこの先生の射竦める様な視線が、正直苦手だった。私自身は素直に真正直に生きてるつもりでも、先ほどの義一の件があったりで、隠し事が少なくとも一つあるせいで、”本当に”胸を張れるかと言われれば、怪しい点があるのは否めなかった。それを見抜かれている気にさせられていたからだ。
でも今回ばかりは違った。揺るぎない確かな覚悟だったからだ。元々前にも言った様に、何度も薦められていた時から、心は徐々にだが突き動かされてはいた。それでも後一歩が踏み出せなかった。でもまず裕美に出会い、中学に入ってから藤花、律、意味合いは違うが紫とも出会って、本人達は当然意図なんかしていなかった訳だけど、その普段の姿勢に最後の一押しを貰ったのは確かだった。だからあながち、先生の指摘も見当違いでは無かった。
私はある意味、先生に初めてコンクールに出る様に薦められてから、何年も悩み続けてきたのだ。ここまで熟成された覚悟や想いは、ちょっとやそっとじゃ揺らぐ気がしなかった。
私も同じ様に強く見返しながら、口調もハッキリと答えた。
「…はい!その覚悟も踏まえた上での事です…」
私はおもむろに立ち上がると、テーブルを廻って向かいの先生の前まで行き、深々とお辞儀しながら強い口調でダメ押しした。
「だから、不束な弟子である私ですが、これからもずっと、私にご教授ご鞭撻の程、よろしくお願いします!」
私は目をギュッと強く瞑った。しばらく辺りは沈黙に包まれていた。いや、微かに時計が時を刻む、リスミカルな音だけはしていた。
長く感じたが、おそらく一分も経っていなかっただろう。ふと、先生は何も言わず椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いた。
私が思わず顔をあげると、目の前には優しく微笑む先生の顔があった。そして静かに口を開いたのだった。
「…琴音ちゃん、よく言ってくれたね…私は嬉しいよ」
先生は、とても晴れやかな笑顔を見せていたが、ここでふと、意地悪くニヤケつつ、腰に両手を当てながら、若干前傾気味に言った。
「…さて、”不束な弟子”と言うからには、”師匠”としてビシバシしごいていくから、覚悟しなさいよぉー?」
「…!は、はい!…え、えぇっと…し、師匠!」
私が慣れない調子で”師匠”呼びすると、師匠の方でも慣れないのか、照れ臭そうにほっぺを掻きながらボソッと言った。
「…はぁ、私が弟子を持って、師匠なんて呼ばれる様になるなんてねぇー…。京子が聞いたら、爆笑するだろうなぁ」
そう言う師匠はどこか誇らしげで、普段よりも生気に満ちた顔色になっていた。

「さてと…あっちゃあ」
師匠はふと時計を見た。私もつられて見ると、なんと午後の三時に差し掛かろうとする所だった。
「…すっかり時間が経ってしまったわねぇー…。誰かさんが急に決心を露わにするもんだから」
「ふふふ、御免なさい師匠」
私はジト目を送ってくる師匠に、おどけて見せながら返した。この場には、発言がすぐに冗談かどうか分かるくらいの、緩やかな空気が流れていた。
師匠は笑顔で返すと、私と自分のグラスとカップを取ると、流し台の方へ歩みながら言った。
「…さぁーってと!後二時間くらいしかないけど、今日の分の課題は済ませてしまいましょう!…少しでも実力を向上させないとね?」
最後に流し台の方から振り返り、悪戯っぽく目をギュッと瞑りながら言った。
私も満面の笑顔で「はい!」と答えるのだった。

「じゃあ、今からでも間に合うようなコンクールを探しておくから、琴音ちゃん…いや琴音、あなたは今まで通り…ううん、今まで以上に研鑽を積みなさいね?」
「はい!分かりました、師匠!」
私はいつも通り、玄関先まで見送りに出てくれる師匠に向かって、元気に返事をした。
今は夕方の五時を少し過ぎた頃。目の前は車一台通れない様な裏路地だったが、チラホラ家路を急ぐ人々の姿があった。
先生は周囲を見渡しながら照れ臭そうに、ほっぺを掻きつつ苦笑交じりに言った。
「…私も、これから琴音に”師匠”って呼ばれるのに慣れなきゃいけないなぁ」
「…ふふ、早く慣れてくださいよ?し・しょ・う?」
「…もーう、大人をからかうもんじゃありませんよ?」
「すいませーん」
私が平謝りで返すと、師匠はプッと吹き出して笑うので、私もつられて笑った。
そして笑顔で手を振りあうと、私はいつもの様に裏路地から表通りへと向かった。念の為、曲がるところで振り返って見ると、案の定、師匠がまだ腕を組みつつこちらを見ていたので、私は大きく最後に手を振った。百メートルほど離れていたから、ハッキリとは見えなかったが、師匠も笑顔で、胸の前で小さく手を振ってくれていた。私は名残惜しそうにゆっくり表通りに入りながら、見えなくなるまで手を振り続けた。



それから次の週の木曜日の夜。私はお父さん達と食卓を囲んでいた。
あまり詳しくは聞いていないので、ハッキリとは言えないが、私の住む地区の医者というのは木曜日が”休診日”と一般的になっているらしく、病院は別だろうとも思ったが、 お父さんは自主的に休みを取ろうとしている様だった。 とは言っても、全く顔を出さないという訳にもいかないらしく、昼から午後にかけて顔を出していた。だからこうして、夕食時には家族揃うことが出来ていた。
いつも通り、お父さんの号令と共に夕食を摂った。その間ずっと、お母さんが喋り倒しているのも日常通りだった。
そして食事が終わり、お母さんが洗い物をしている間、お父さんはお母さんに注いでもらったビールをチビチビ飲んでいた。私はさっき話した、京子さんがコラムを載せている音楽雑誌の最新号を読んでいた。
「…あ、そうだ。琴音、ちょっといいか?」
「…ん?なーに、お父さん?」
私は雑誌から顔を上げると、お父さんを見た。お父さんは、まだビールが少し残るグラスを弄びつつ続けた。
「…前にもチョロっと言ったと思うが、今度初めてお母さんと”学会旅行”に行ってくるんだけど」
「うん、そんなことも言ってたね」
私は今更感を出しながら返した。
そう。当然これは説明がいるだろう。まぁ、簡単な事だ。要はお父さんは、私が小五の時に院長を引き継いだ訳だが、それからは毎月に一度、”学会旅行”と称して、東京近辺の温泉地やリゾート施設に、一泊から二泊の旅行をしに行っていたのだ。これは私の住む区にある、様々な病院の幹部クラスが総出で参加するというものだった。お父さんはまだ副院長の頃は、そんなのに出席するのは面倒だと、いつも代役を立てていたのだが、流石に院長ともなると”サボる”訳にもいかないというんで、イヤイヤながらも毎回出席していた。その内容を軽く聞いた限りでは、私達の”研修会旅行”や”修学旅行”と大差ない様だった。要は”らしい”建前ありきの、親睦旅行の様だった。それが証拠に、毎度の思い出話は旅館の美味しい食事と、一日中ゴルフをしていたというものだったからだ。
…話を少し戻そう。お父さんがわざわざ”お母さん”の名前を出してきたのには、理由があった。お父さんとご一緒する先生達は、いつも夫人を同伴していたようだった。お父さんもお母さんを同伴したがっていたし、周りの先生達もお母さんの事を知っているというんで、毎回毎回せっつかれていたらしい。因みに何故お母さんの事を、他の病院の幹部達が知っていたかというと、前にチラッと触れたが、たまにお父さんが家に人を呼んでいたという話をしたと思う。それがこの先生達だったのだ。で、毎回毎回お母さんがビシッと着物を着付けて応対していたもんだから、見た目と、品のある所作振る舞いが印象に残っていたらしく、…これは我が母親の事だから恥ずかしいのだけど、お父さんの弁を借りれば”隠れ”お母さんファンが多いという話だった。そのお母さんの話に尾ひれが付いて、瞬く間に区内の医者連中に評判が広まったという事らしい。誰かが着物姿のお母さんの写真を見せたらしく、余計にファン(?)達は、実際に見たい願望に取り憑かれてしまった様だった。
でも暫くは”どうしても”オアズケにならざるを得なかった。何故かというと、お父さんの院長就任と、私の受験とが被ってしまったからだ。お父さんもお母さんを誘う様な真似は、そもそもしなかったが、お母さん自身もその旅行に対して関心を見せなかった。
…受験のことで、私はお母さんを悪く言い過ぎた点もあったかも知れないが、基本的にはお母さんには何も不満など無かったし、それは今でもだ。
同じ様な事を何度も言ってるようだが、お母さんなりに”院長夫人”としての役回りをこなしているだけだという事は、子供ながらに分かっているつもりだ。ただ、理解してあげたくないだけだ。正直私とは何にも関係がないことだからだ。…それは置いといて、自分で私に受験するように仕向けた負い目か、その間は色々なことを我慢してくれていた。これも前に触れた、花火大会に行くことだとか、これは言わなかったが旅行にも行かないことだとかだ。
小学校の時の話を覚えておられる中には、察してくれていた人もいただろう。そう、私達家族は、夏休みや冬休みなどの大型連休中のどこかで、一週間ばかり旅行に行くのが習慣化していた。私も毎回楽しみにしていたが、誰よりも楽しみにしていたのがお母さんだった。大人なのに、子供の私よりも出発一週間前くらいから、口から出る話題は旅行先の話で持ちきりになる程だった。そんなお母さんが、娘の受験の為に大好きな旅行に行かずに我慢してくれていた事には、納得いかない気持ちは残るけれども、素直に感謝をしていた。…まぁ、親なんだから当たり前だろうという、余計な一言は付け加えさせて貰う。
で、漸く私の受験が終わり、お母さんとお父さんの都合が合いだしたのが、今回という事のようだった。わざわざこんな言い方をしたのは、今回だけではなく、これから毎月出来るだけ同伴する様に、お母さんの方でスケジュールを組み直したからだった。お母さんは実家の呉服屋を、たまに手伝っていたが、その都合がついたという話だった。

「ちゃんと一人でお留守番できるか?」
お父さんは字面では心配する父親風に見えるが、これはいわゆる”テンプレート”を言っただけだった。私はそんな事は見え見えだったので、敢えて反発せずに素直に答えた。
「大丈夫だよ。あれからお母さんに炊事、洗濯、お掃除、お片付け、その他諸々をしっかり教えて貰っているし…ね、お母さん?」
「うん、そうねぇー」
洗い物などの片づけが終わったのか、お母さんは日本酒の入ったグラスを手に持ち、こちらに近づいて来るところだった。そして私の隣に座ると、顔はお父さんの方に向け、手で背中をさすってきながら続けた。
「やっぱり私の娘だからかなぁ?物覚えが凄くいいのよ。…凄く勉強熱心だしね?」
「でっしょー?」
私は大袈裟に胸を張って見せた。するとお母さんがクスクス笑い出したので、私も一緒になって笑い返した。お父さんは目を瞑りビールをチビっと飲んだが、表情は緩んでいた。
そう。また話が逸れるようだが、お付き合い願いたい。師匠の所でも話したが、お母さんに色々と教えて貰う上で、それ用にもう一つノートを作っていた。これにも表紙に、色んな色のマジックペンで名前を書いた。”家事指南書”だ。我ながら古臭くて、無駄に格式高くて気に入っている。…別に同意を求めている訳ではないので、感想は胸に秘めといて下さい。
…ごほん。これは師匠の所で話しそびれたが、この何でもノートを作る習慣。これは明らかに義一の影響だった。ご存知のように初めは当然、会話をしながらメモを取ることからだった。それは今でも続けているし、そのメモはとっといてあるので、もう大分手元には、真っ黒に字で埋め尽くされたメモ帳が、数冊あった。正直かさばるし、置き場所に困るようなら、その内対処をしなくちゃだけれど、今の所は捨てる気が一切起きないのだった。使い切ったメモ帳を覗くたびに、妙な達成感に包まれるのが嬉しいっていうのもあったし、…やっぱり何よりも、あの”宝箱”での義一さんとの濃密な時間の軌跡が記されているのだと思うと、とてもじゃないけど手放す事など考えられなかった。
…また逸れた。話を戻すと、炊事から何から何でもノートに書き付けてあるので、何か困った事があっても、それを見返せば切り抜けられそうだった。料理のレシピまで事細やかに書いていた。

「…この子ったら、私の話している側からノートを取り出して、アレコレ細かく聞いて来るもんだから、私も一から勉強し直しちゃったわよ。…実家のお母さんにも聞いてね?」
「…どうりで、最近、前以上に美味しくなったのか」
お父さんはしみじみと言いながら、お母さんを見た。するとお母さんは少しツンとして見せながら
「…それってあなた、前までは”そんな”でも無かったってことー?」
と語尾を伸ばしながら聞いた。するとお父さんは表情を変えることなく、スパッと言い切った。
「…ん?何を言ってるんだ?お前のご飯が美味しくない訳ないだろう?」
そう言うと、お父さんはまたチビっとビールを飲んだ。お母さんは若干顔を赤らめながら、しどろもどろになっていた。赤いのは日本酒のせいだけではないだろう。
「もーう…、たまーにそういうことを言うんだから…」
お母さんは、お父さんに聞こえるかどうかってくらいの音量でボソッと言うと、日本酒をこれまたチビっと舐めるように飲んだ。隣で聞いていた私は一人クスッとすると、目の前のお茶を二人に合わせるように、チビっとだけ飲んだ。
この場で私がなぜクスッと笑ったかの理由を、知るものはいないだろう。…何故私が両親を見て、義一と絵里を思い出していたかなんて。

第22話 聡

「…ごめんっ!今日急にクラブでミーティングが入っちゃって、行かなきゃいけなくなっちゃったの」
「あら、そうなの?…まぁ、そういうことなら仕方ないわね。…また、今度にしましょ?」
「本当にごめーん。じゃあ、また今度ね?」
「えぇ」
ガチャッ
ふぅ…、急に暇になっちゃったなぁ。
今日は日曜日。お父さん達と”学会旅行”について話してから、三日後の事だ。今朝は早起きしてしまい、起きて軽く近所を散歩してから、師匠に出された課題曲の練習を、間に朝食を挟みながら五時間ばかり済ましてしまった。今日は久し振りに休みを貰い、その代わりに宿題を課せられたのだった。それらをこなして終えたのは、十一時半くらいだった。防音を施された練習部屋から出ると、人の気配が無かった。一瞬不審に思ったが、すぐに思い至った。今日お母さんは、私と朝食を摂った後、実家の呉服屋を手伝うために、浅草橋に行っていたのだった。私は私で、午後に裕美と会う約束をしていたのだったが、丁度用意されていた昼食を食べ終え、洗い物をしていると電話が来て、今に至るというわけだった。
…さて、今日はどうしようかしら。
時計を見ると、まだ十二時半だった。今日は裕美と会って、地元をブラブラする予定だったから、オジャンになった後の事は考えていなかった。このまま家で本を読んだりして、のんびり過ごしても良かったのだが、元々外に行く予定を今更変えるのも気持ち悪かったので、当てもなく外に出て見る事にした。
「…いい天気」
私は小さなカバンに最低限の物だけ入れて、身軽な格好で外に出た。十一月も半ばだが、秋晴れと言うには余りにも日差しが強く感じた。夏とまでは当然言わなくても、秋らしいかと言えばそうは言えない、なんとも表現し難い陽気だった。一瞬紫達と会う事も考えたが、みんなそれぞれ離れて住んでいるし、仮に急なお誘いに乗ってきたとしても、私自身が電車を使ってまでは外には行きたくなかった。…まぁ、女心と秋の空はホニャララって言うし、そういうことで納得してもらえませんかね?
…などと心の中で、どうでもいい事に思いを巡らせながら歩いていた。
図書館は?と聞かれそうだが、今日は絵里がシフトに入っていないことを知っていた。確か絵里も今日は、目黒にある実家で、日舞の指導を行なっているはずだった。
この問題、…絵里の実家の日舞教室と、お母さんの行ってるところが同じかどうかということ。これもいつか機会があれば、確認してみたいところだったが、急ぐ話でもないので、しばらく保留しておくつもりだ。
義一の家。…フラッと立ち寄る体で行っても良いんだろうし、義一自身からも遊びに暇つぶしにきて良いと言われているから、行く選択肢もあったけれど、何だか行こうとは思わなかった。ついつい義一の所に行くと、普段漠然と感じている疑問点がフツフツ湧いてきて、それを話したくなってしまうのだ。これは今更言うことではないかも知れないけど。昔絵里に言われた事も影響しているのだろうが、ある程度自分なりに疑問点、その論点を整理しないままに義一の家には、気楽な気持ちでは近寄れなかった。”友達”だというなら気にせず寄っても良いんだろうけど、やはり義一さんは私にとって”友達”であるのと同時に”師”でもある、つまり”師友”だったから、何の心の準備をしないままには、何だか行けなかった。…これがある意味、義一と再会した後、お家に伺う初めの数回の間、まず玄関前で気持ちを落ち着けてからインターフォンを押す時の、小学生の私の心理だったかもしれない。今では合鍵でインターフォンを鳴らさずに、遠慮せずに入るのが習慣化していたが、心境としては何も変わっていないと思う。
だから私は本当に行き場が無かった。仕方なしにブラブラ歩いていると、土手の下に出た。他の同年代の子の場合は知らないが、私はやっぱりこの土手が一番お気に入りだった。考えてみたら、小学生の頃はよく一人でここに来ていたが、間に受験を挟んだりして、そして今は昔以上にピアノに打ち込んでいるもんだから、レッスンが終わると直接家に帰っていたのもあって、正直ここに来るのは久しぶりだった。
土手の上に出て見ると、眼下には休日のせいか、老若男女問わず多くの人々が、思い思いに過ごしているのが見えた。斜面に腰掛けている人も多い。散歩している人もいれば、走っている人、ロードバイクを走らせている人など、言い切れない程だった。グランドでは私と同い年くらいの子達が、白球を追いかけていた。
…そういえば、ヒロは今日土手で練習しているって言ってたなぁ。
私はいつも腰掛けている場所まで行き、ハンカチを軽く敷いてから座った。そしてグランドの方を無心になりながら見ていたのだった。でも、前にも言ったように、そこまで野球に興味がない私は、念のため持って来ていた本をカバンから取り出すと、それを読み始めた。若干陽の光がページに反射して眩しかったが、それ以上に時折吹いてくる涼しい風のおかげで、陽射しの温かみとのバランスがとても気持ち良く、思った以上に集中して読書が出来ていた。
それからどれくらいの時間が経っただろう?私が集中して読んでいると、不意に遠くから私の名前を呼ぶ声がした。一々確かめなくても分かる声だった。ヒロだった。
「おーい、琴音ー!…こんな所で何してんだよ?」
声が遠くでしてからも、無視して本に目を落としていたが、不意にページに影が出来たので、顔を上げざるを得なかった。ヒロは私の脇に斜面に対して、バランスよく立っていた。ユニフォーム姿だった。夏休みに会った時に来ていたのと同じ物だった。胸には中学名がアルファベットで書かれている。スライディングしたりしたからなのか、土埃で汚れていた。肩にはあの時と同じ大きなスポーツバッグを掛けていた。
ヒロは前屈みになると、私の手元を見ながら言った。
「…何だよ、こんな良い天気だっていうのに、わざわざ土手まで来てまで本を読んでいるのかよぉ?」
「…そうよ?むしろ良い天気だから、ここで読んでいるんじゃない。…悪かったら外でなんか読まないわ」
私は何だか非難めいたことを言われたと思ったので、少しつっけんどんに返した。
ヒロは私の言葉には肩を大きく竦めて見せただけで、苦笑を浮かべていたが、私が許可する前に、勝手に隣にドスンと無作法に座った。私は少し体を避けながら、引き気味の表情でヒロを見たが、ヒロはヒロで何も言わず、向こうで流れる川を見ているだけだった。
暫くそのままだったが、私の方が沈黙に耐えられなくなって、思わず話題を振ってしまった。
「…あなたは今日練習だったのね?」
「…ん?あぁ、このあいだ言ったようにな」
ヒロはさも疲れたといったリアクションを取りながら答えた。
「…その格好を見る限り、中学の方みたいだけど、何で今日は土手でやってるのよ?いつもは中学のグランドを使うんでしょ?」
私がそう聞くと、ヒロは良くぞ聞いてくれましたと言いたげに、顔中に不満を満たしながら答えた。
「…そうなんだけれどよぉ、なんかサッカー部がグランドを占拠しててさ。…俺達のスペースが無いってんで、こうして追い出されるようにここで練習してたんだよ」
「…へぇー、そう」
私は言葉少なめに、テンション落として応えた。何度も言うように、正直興味が無いのだから、これ以上に言うべき言葉が見つからなかったからだ。
そんな私の冷たい反応は慣れているヒロは、構わず話を続けた。
「…まっ、俺はこのグランドの方が、ガキの頃から使い慣れているから、全然構わないんだけどな」
「そう言えばそうね」
私は流石に悪いと思い、取り敢えず軽く笑顔を作って見せて上げながら応えた。
それからも、おそらく数分くらいなもんだろうが、そのまま目の前の景色を見つつ、とりとめのない会話をしていた。その合間合間に私たちの後ろを通る人に、ヒロが話し掛けられていた。私もチラッと振り向いて見ると、今ヒロが来ているユニフォームと同じものを着ていた。どうやら同じ中学の部活動仲間らしい。
ヒロは私と一緒にいるところを、色んな言い方でからかわれていた。「彼女か?」とかまぁ、そんな類のものだ。私は取り敢えず、ヒロの友達だからってんで、否定もせずただ挨拶のつもりで小さく頷いただけだった。それがまた誤解の元だったらしい。私の反応がどうやら、ヒロの彼女と肯定したように受け取られたらしかった。ヒロはその度に顔を赤らめながらムキになって否定していたが、『みんなコイツの見た目に騙されてるけど、こんな見た目をしてても中身は”チンチクリン”なんだぞ?誰がこんなメンドくさいチンチクリンを…って、イテテテ!』『誰がチンチクリンよ』と、そうヒロが言った時だけは、わざわざ立ち上がってヒロの耳たぶを引っ張ったのだった。そんな私達の様子を見ると、その部員達は微笑みをこちらに向けてきながら、川の反対側を降りて行ってしまったのだった。
「…行ってしまったわね」
私はまた綺麗にハンカチを引き直してから座った。ヒロもまた私の隣に座った。
「…はぁ、明日学校でちゃーんと誤解と解かなきゃな」
ヒロはため息交じりに言った。私はその様子が可笑しかったので、クスッと笑った。ヒロもしょうがないと、帽子を取り、坊主頭を掻きながら笑うのだった。
とその時、ヒロは私の背後に視線を流すと、スクッと立ち上がり深くお辞儀をした。
「あっ!監督。お疲れ様です!」
「おう!…何だ森田、まだここにいたのか?」
「…監督?」
私はヒロの方を見つつ、その向こうの人物を見た。日差しを背にしていたので、若干逆光になっており、すぐにはその人物の様相は把握出来なかったが、徐々に目が慣れた。
その人物も、ヒロと同じユニフォームに身を包んでいたが、お腹が前にせり出していて、如何にもな中年男性の体型だった。頭は角刈りにしていて、顔含む肌の露出している部分は、こんがりと良く日に焼けていた。私はふと、この人物を見た時妙な懐かしさを覚えていた。見た目は大分膨よかになっていたが、声の感じなど昔と何も変わっていなかった。
しかし、まさか…
と思っていると、その人物から私に声をかけてきた。
「…って、あれ?…お前、まさか…琴音か?」
男は逆光でも分かる程、驚きの表情を浮かべていた。私もゆっくりと立ち上がり、お尻を軽く叩きながら、戸惑いつつも返した。
「もしかして…聡おじさん?」
すると男は満面の笑みを浮かべながら、私の近くに歩み寄って来た。
そして私の両肩に手をかけると、明るい調子で言った。
「…しばらく見ねぇ間に、大っきくなったなぁー、琴音」
「…久しぶり、おじさん」
私も何とか笑みを作りながら応じた。
…流石に覚えておられる人は、いないかも知れない。私ですら、我ながらよく思い出せたと感心していたくらいだった。このおじさんはそう、私が小二の頃、直接は会った事のないお爺ちゃんの七周忌の時に、お寺で会った人だ。あの時のお父さんの紹介をそのまま引用すれば、お爺ちゃんの妹さんの息子だという話だった。つまりはお父さん、そして義一にとっての従兄弟となる。あの法事以来、一度も会っていなかったが、こうして不意打ちのように再会しても、おじさんの身に付けている従来のキャラの濃さのおかげか、見た瞬間と言っていいくらいに、すぐ思い出せた。
聡はニコニコしっ放しのまま、今度は私の肩を強めに叩きながら、愉快そうに言った。
「はははは!久しぶりってもんじゃねぇよぉ。そうだなぁ…どんくらいだ?」
とぼけたことを聞いてきたので、私はジト目を向けて見せながら、呆れた調子で答えた。
「…もーう、自分で振ったんだから、ちゃんと答えてよ?えーっとねぇ…私がまだ二年生の時だったから…大体五年くらい?…かなぁ?」
「…何だよ、生意気なことを言う割には、お前だってハッキリしたこと言えてねぇじゃねぇか」
そういう聡の顔は先ほどから変わらない。私は何も返さずクスクス笑うだけだった。
「…お、おい琴音」
「え?」
私達のやり取りを、ヒロは呆然としながら側で見ているだけだったが、私の隣にピタッと着くと、聡と私の顔を交互に見比べながら聞いてきた。
「お、お前って、監督と知り合いなのか?」
「…知り合いっていうか」
私は聡との関係性を、軽く掻い摘んで説明した。その間見る見るうちに、ヒロは目ん玉を大きく見開かせていった。よっぽど驚いていた様子だった。
説明し終えると、相変わらずヒロは私達二人の顔を見比べつつ言った。
「…はぁー、世間は狭いなぁ。まさか監督とお前が親戚同士だったなんてよ」
「はははは!それを言うなら森田…」
聡はヒロを見ると、意地悪くニヤケ顔を作りながら返した。
「俺からしたら、お前と琴音が仲良しだという方が、世間が狭いというもんだけどな?」
「仲良しではないよ」「仲良しなんかではありません!」
私とヒロは同時に、似たようなセリフで答えた。その後すぐ私達は顔を見合わせて、薄目を向け合っていたが、その様子を聡は愉快だという調子で豪快に笑っていたのだった。

「…はぁーあ、さてと!お二人さん、そろそろ帰るか?」
「え?今何時?」
私が慌ててスマホを取り出そうとした。今日は腕時計を身に付けては来なかったのだ。
すると聡は自分の腕にしていた時計を見ると、すぐに答えてくれた。
「今か?今はぁ…昼の十四時を回った所だな」
「あ、そうなの?うーん…」
私は腕を組み少し考え込んだ。まだ家に帰るには早過ぎると感じていたからだ。
どうしよう…。折角おじさんに久し振りに会えたんだから、このまま帰り道一緒にしてもいいんだけど…早過ぎるしなぁ
などと考えていると、聡は私の顔を覗き込むようにしながら聞いてきた。
「…ん?何だよ?この後何か用事でもあんのか?」
「…え?あ、いや…用事なんかないけどー…」
私がまだウジウジしているのを見て、聡はフゥーっと長く溜息をついてから、私に向かって優しい笑顔を見せながら聞いてきた。
「…じゃあー、何だ…アレだ、この後用事がないんだったらよ、琴音、お前これからちょっと食事に付き合え!」
「…へ?」
我ながら間の抜けた声が出た。私がなおキョトンとしていたが、聡は構わず続けた。
「何しろ五年ぶりだからなぁー。すっかりおっさんの俺の五年は、大した変化なんぞ起きないが、お前はすっかり大人…いや、”大人っぽく”なりやがったからよぉ。この五年間、どんな経験を積んで、どんな出会いがあって、どんな友達が出来たのか話してくれよ?」
言い終えると、聡は年に似合わない様な少年の様な笑顔を私に向けてきた。それによって私の戸惑いの感情は、吹き飛ばされた様だ。
「…うん、じゃあそうする。…お食事に付き合ってあげるわ」
私はワザと高飛車に返した。
「…お前がこの五年間で、どうしてそんなに小生意気な小娘に育ったのかも聞かねぇとな?」
聡は苦笑まじりに返してきた。私はまた微笑み返すだけだった。
「…ねぇ監督ー、…俺は?」
ヒロは今までのやり取りをおとなしく黙って聞いてきたが、我慢出来なくなったのか、自分の顔に人さし指を向けながら、期待に満ちた表情を浮かべつつ聞いていた。
すると聡は帽子の上からヒロの頭を掴むと、乱暴に帽子ごと撫で回しながら笑顔で答えた。
「…馬鹿野郎、今日は姪っ子と久しぶりの再会なんだぞぉー?そんな感動場面に水を差すんじゃねぇ。…今日のところは大人しく帰りな?」
「…はーい」
ヒロはブー垂れながら、唇を尖らしつつ答えた。聡はヒロの頭から手を離すと、私にした様に、ヒロの顔を覗き込みながら後を付け加えた。
「…それによ、他の部員にはしないで、お前一人にする訳にもいかねぇだろ?だから、今日の所は我慢しな?」
そう言うと、聡はヒロの返事を聞かずにドンドン歩いて行ってしまった。私とヒロは顔を一度見合わせると、何も言わないまま後を追ったのだった。

「…へぇー、お前ら小一からの付き合いなのか?」
聡は隣を歩く、私とヒロの方を見ながら聞いてきた。
ここは土手を下りてから、駅まで一直線に続く通り上だった。あの花火大会の時、ズラッと屋台が並んでいた通りだ。今は当然何も店は出ていなかったが、珍しく車の通りも少なかった。今歩いている所は、歩道らしい歩道が無く、白線が引かれているだけで、普段はあまり歩きたくない通りだった。車の往来に気をつけていないと、いけなかったからだ。もう少し駅に近づいていけば、整備された歩道が出てくる。そんな通りを歩いていた。
「…まぁね。腐れ縁ってやつよ」
私はヒロの方をチラッと見てから答えた。するとすかさずヒロが私に反応してきた。
「…何だよぉ、腐ってんのか?まだまだ発酵段階じゃねぇのかよ?」
…ふーん、中々頭を使った様な、捻りのある返しをしてきたわね?
などと意味なく感心しながらも、私からもすかさずジト目を向けながら返した。
「…そんな段階はとっくに過ぎてるでしょ?…それに念の為に言ってあげるけど、発酵食品だって、ちゃーんと腐るのよ?」
と噛んで含める様に言うと、ヒロはツンと私から視線を逸らしながら応えた。
「分かってるわ、そんぐらい!…馬鹿にしやがってぇー」
「…プッ、あははは!」
私とヒロのクダラナイやり取りを見ていた聡は、吹き出すと大きく笑っていた。
「…あーあ、何だお前ら、本当に仲が良いんだなぁー。…まるで夫婦漫才を見ているみたいだ」
「…誰と誰が夫婦よ、まったく」
「そ、そ、そうですよ監督!誰がこんなチンチクリンと、ふ、夫婦なんて…」
「…あなた、私を”チンチクリン”呼ばわりするの、定着したり誰かにさせたりしたら許さないからね?」
私はヒロを思いっきり睨みながら、私なりにドスを利かせつつ言った。この時には、ヒロが無駄にオロオロしながら、聡に反応した事には突っ込まなかった。
「私達の事よりさ、おじさん?」
「ん?」
私はさっきから気になっている事を聞いてみた。
「おじさんこそ、ヒロとはどういう関係なの?」
私がそう言うと、聡とヒロは一瞬顔を見合わせた。そしておじさんは、途端に意地悪な笑みを顔に浮かべると、ねちっこく言ってきた。
「…なーんだ、まだ気づいていなかったのか?”アイツ”がお前の事を仕切りに褒めるもんだから、何も言わなくても察すると思ったのによ」
…あいつ?
「…ねぇおじさん、アイツって一体誰の事を言ってるの?」
私はすかさず聞いてみたが、聡は微笑み返すだけで、それには答えてくれなかった。代わりにニヤケつつ、ヒロの方を見ながら言った。
「…このユニフォームを見てもわからねぇか?森田と同じユニフォームを着てて、”監督”だなんて呼ばれてるんだから、わかりそうなもんだけどなぁー」
中々勿体ぶって、種明かしをしてくれなかったが、私だって初めからそれぐらいは察してはいた。ただそれを、聡の口から聞きたかっただけだったのだ。
まぁ、そんなことを一々言っても詮無いことなので、そのまま何食わぬ顔で返す事にした。
「…もしかしておじさんって、中学校の先生なの?」
私が”ワザと”辿々しく聞くと、聡は満面の笑みをたたえながら、一度大きく頷き、明るい口調で答えた。
「…そう!そのとおーーり!やっと分かったか」
聡はやれやれという風に、顔を横に振りながら言ったので、流石の私もソレをスルー出来る程大人では無かっから、少し意地になりながら返したのだった。
「…初めから分かっていたけど、おじさんと”学校の先生”が繋がらなかっただけだよ」
私は少し意地悪めに言い切った。すると聡は帽子を脱ぎ、頭をポリポリ掻きながら苦笑交じりに返した。
「…それを言われるとキッツいなぁー。中々痛い所を突いてきやがる」
おじさんは、まるでそう見えない風で答えていた。顔はにやけっぱなしだ。
「俺は森田の通っている”第二中”で、現代文を教えてるんだ。まぁ、古文、漢文も教えてはいるんだが、割り振り的には現代文を中心にだ。そんで…」
「わっ!」
ヒロは、不意に聡に肩を組まれたので、思わず声を上げていた。聡はそのまま私に視線を流してきながら続けた。
「コイツのクラスを担任しているんだ。なっ、森田?」
「…相変わらず、スキンシップ過剰なんだからなぁー、”片桐”先生は」
そう言うヒロの顔は苦笑いだった。
「…?…あっ」
そうか。いや、何で私と名字が、親戚同士なのに違うのかと一瞬訝ったが、考えてみなくてもすぐ分かることだった。お爺ちゃんの娘が親ということは、どこかに嫁いで産まれたのが聡という訳で、名字が違うのは不思議じゃないどころか、よっぽどの偶然が無い限りは寧ろあり得なかった。
そんな事を、ふと考えていると、聡は私が声を上げたのに気付いて、笑顔のまま私に聞いてきた。
「…ん?どうした琴音?」
「…え?う、ううん、何でも無いよ!」
私は誤魔化す様に、明るい声で応えた。
聡は納得いかない表情だったが、フンッと短く息を吐くと、何事も無かったかの様に、それからは学校でのヒロの事を話してくれた。ヒロはその間ずっと、居心地悪そうな表情を浮かべて、話を聞いていないフリをしていた。私はその様子を愉快げに横目で見つつ、聡の話を聞いていたのだった。

「じゃあ監督、俺はここで」
「おう、また明日なー!気をつけて帰れよー!」
ここはヒロの家の玄関先だ。前にも何度か言ったが、ヒロの家は駅から程近くにあり、丁度土手から駅までの道なりの途上にあった。
ヒロは自宅玄関前で帽子を一旦脱ぎ、頭を深く下げてお辞儀していた。先程は”片桐先生”呼びをしていたのに、また”監督”に戻っていた。
そしてふと私の方を見ると、何気ない、いつもの調子で声をかけてきた。
「じゃあ琴音、お前もまたな!」
「えぇ、またね」
私が素っ気なく返し、聡を促して行こうとすると、不意にヒロは、思いっきり悪戯っ子な笑みを浮かべつつ言い放った。
「…あんま監督に”なんでなんで攻撃”をして、困らせるんじゃねぇぞ?…”チンチクリンなお姫様”?」
「…あ?あなた今何か言っ…」
「じゃあなー!」
「あっ!ちょ、ちょっと…」
バタン
ヒロは私が文句を言う前に、家の中にスルリと逃げ込むと、バタンとドアを閉めてしまった。
私は少し呆然と閉められたドアを見ていたが、大きくため息を吐きつつボヤいた。
「…はぁーー、まったく、やってくれるわね…今度会ったら、タダじゃおかないから」
「…やっぱりお前ら、仲が良いんだな」
一部始終を見ていた聡は、口元にゲンコツを当てつつ、笑いを堪える様にしながら言った。
「…おじさんねぇ、”仮にも”教師をやっているんだったら、今の私達を見て、仲が良いとは言えないと思うんだけど?」
私は恨めしそうに、聡にジト目を送りながら言った。
すると聡はまた帽子を脱ぎ頭を?きつつ、苦笑を浮かべながら返した。
「…本当、アイツの言う通り、向こうっ気の強いガキに育っちまったもんだなぁ…え?お姫様?」
「…」
聡がまた謎の”アイツ”というワードを出してきたので、頭ではそっちが気になって仕方がなかったが、口からは全く違う言葉が出てきた。
「…いくらおじさんでも、”お姫様”呼びは許さないからね?」
私はなるべく、ドスを利かす事を意識しながら言った。
「あははは!悪い悪い!まぁ、いつまでもここで立ち話は何だし、そろそろ行くか?」
聡は疑問形を向けてきたにも関わらず、私の返答を聞く前にどんどん先へと歩いてしまった。
「…はぁーあ、まったくー…。しょうがないんだからぁ」
仕方がないので、私も苦笑を浮かべつつ、後について行ったのだった。

言っていなかったが、私と聡が向かっていたのは、前に私、義一、絵里とで行った、あの駅中のファミレスだった。そこに向かう途中、聡はさっきの続き、ヒロの学校での話を聞かせてくれた。
野球部では当然レギュラーでは無かったが、あの通り、野球部特製のユニフォームを着れるほどの立ち位置らしかった。私は当然ピンときていなかったが、聡の話し振りから察するに、まだ一年生のペーペーが着れるというのは、ヒロ入れて後一人しかいないみたいだった。どれほどの倍率か分からないが、部員がどんなに少なくても、野球が出来る人数は最低いるはずなので、まぁ…中々といった所の様だった。
聡は監督としてはヒロに期待している風なことは言っていたが、担任としてはもう少し勉学に励んで欲しいと、”何故か”私に訴えてきた。私に言われても困る。私はヒロにとって何者でもない、”ただの小一から続く腐れ縁の幼馴染”だと返した。その返答には、聡はただ単純に、優しく微笑むだけだった。

「…じゃあ、それで」
「では、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
そう言うと、店員さんは一礼してから何処かへ行ってしまった。
聡はメニューを戻しつつ、私に聞いてきた。
「…本当に良いのか、そんなサラダだけで?」
「うん。私実は、お昼済ましてあるもの」
何も遠慮している訳ではなかった。ただ単純に、お腹が空いてなかっただけだった。
「…そっか」
聡は微笑みながら返した。
久し振りの来店だった。もしかしたらこのファミレスに来たのは、あの卒業式以来かも知れない。…そう聞くと、まだ一年も経っていないから、そんなでもないと思われるかも知れないけど、そもそも私達家族は、誤解を恐れずに言えば、ファミレスとは縁が遠かった。何か食べに行くかと家族間で話が出ても、選択肢にファミレスが出てこないのだ。何もお高く止まっていた訳ではないだろうが、事実としてそうだった。そんな中でも、このファミレスは例外として、思入れが深かった。勿論卒業式の時に来たからでは無い。たった一度とはいえ、義一達三人で来たという事。絵里と会話した内容が濃かった故だった。…もし叶うなら、もう一度このファミレスに、三人で来たいと密かに思っていた。
「…お待たせしました」
先ほど注文を取りに来た店員さんが、商品名を言いながら私の前にサラダを置いた。そして間髪入れずに、聡の頼んだ鉄火丼が出て来た。それを聡の前に置くと、注文が以上かを聞いてきたので、聡が応じると、店員さんは伝票を置いて帰って行った。
「…さーて、じゃあ頂きまーす!」
「…頂きます」
聡は明るい声で挨拶すると、鉄火丼をかき込む様に、ハイペースで平らげていった。私はその様子を、サラダにフォークを刺したのを忘れたまま見ていたのだった。気持ちの良いほどの食べっぷりだった。そして私が何口か食べるか食べないかというくらいに、聡はドンブリを、ご飯粒残さずに綺麗に完食した。そして今は味わう様に、味噌汁を飲んでいる。
「…ふー、こんなファミレスでも、鉄火丼は何故か美味いんだよなぁー。俺の舌に合ってんのかな?」
聡は私が聞いてもいないのに、鉄火丼の感想を言ってきた。そういう言い方されたら、聞いてあげない訳にもいかなかった。
「…おじさんはいつもファミレスに来ると、鉄火丼を頼むの?」
私がそう聞くと、聡は味噌汁の入ったお椀を一度置いて笑顔で答えた。
「あぁ、そうさ。普通に考えりゃ、こんなナマモノ、こういうチェーン店で頼むのは地雷に見えんだけどよ、何故かどこで食べても、そこそこに食えるんだよなぁー」
「…ふーん」
聞いといてなんだが、やはり特段興味があった訳では無かったので、軽く流した。
すると聡は残りの味噌汁を一気に飲み干すと、ニヤニヤしながら私に振ってきた。
「…ま、お前んとこみたいな良い所の奴等は、こんな事は知らないんだろうけどな」
「…」
普通に聞いたら、かなりの嫌味を含む言い方だったが、何となく久し振りの再会とはいえ、あのお寺の情景を段々と思い出してきており、これは私なりの観察による分析だが、聡自身、私のお父さん含む”望月家”の雰囲気に、良い印象を持っていない様に見受けられていた。なので、この時点ではまだハッキリと確信した訳では無かったが、恐らく私と聡の心情は、同じくしているんじゃないかと推測していた。
だから私は、それに対して嫌な顔をせずに淡々と返したのだった。
「…うん。確かにあまりお父さんとお母さんとは、こういうところに来ないから」
「やっぱりそうかい」
聡も自分で嫌味を言った自覚が無いのか、私に合わせる様に淡々と言ったのだった。

「…さてと」
聡は空になった私のお皿を見ると、視線をドリンクバーの方へ流した。
「やっと飲み物取りに行けるな?」
聡は私に、出来もしないのにウィンク紛いのことをしてきた。
「…ふふ、そうだね」
私も笑顔で応えた。
注文を取ってもらった後、早速飲み物を取りに行こうとしたら、何やら大学生くらいの集団で渋滞していて、とてもじゃないが、その中に入って行く気が起きなかった。聡を見ると、どうやら気持ちは同じな様で、苦笑いを浮かべていた。
私のサラダが来る間、軽く言っていたが、もしただイタズラに屯しているだけだったら、注意しに行くつもりだったが、ただ単純に人数が多すぎて、うまいこと流れなかっただけだと見て、押しとどまった様だった。それでも私には、『…しっかし、あんだけ大きくなって、あんなに非効率にしか動けないのは、色々と問題ではあるけどな』とボヤいたので、私はただ笑顔で頷いて、同意の意を示したのだった。
それから私は数あるティーパックの内からダージリンを、聡は単純にホットコーヒーを取ってきた。
お互い席に着くと、何も言わずに各々一口飲んだ。そしてこれまた同じ様に一息つくと、まず聡が私のカップを見ながら言った。
「…しっかし、当たり前だけど、月日が経てば変わるもんだなぁー。お前に対する一つの記憶として、あのお寺で不味そうにお茶を飲んでいたってのがあったが、結構すすんで今ではお茶を飲んでいるらしいじゃねぇか?」
「…え?…あぁ、うん、確かに昔は苦手だったけど、今じゃこの渋味みたいのが好きになっちゃったんだよねぇ…」
と私は記憶を手繰る様に応えた。が、その前に引っ掛かった…というか、先程より気になっている事を含めて、聞いてみることにした。
「…ねぇ、おじさん?」
「ん?」
聡はコーヒーに息を吹きかけつつ言った。
「何だよ?」
「…あのさぁ、”アイツ”って誰のこと?」
「…」
聡は答えてくれなかったが、私は構わず続けた。
「さっき聞いても答えてくれなかったけど、やっぱり気になるよ。…その人って誰なの?何で私のことを知ってるの?」
私は畳み掛けるように聞いた。そのまま先は喋らず、聡の顔をまっすぐ見つめていた。
肝心の聡はおもむろに腕を組むと、何やら考えているポーズを取っていたが、急にパッと目を開けると、私に人懐っこい笑顔を向けてきながら、明るい調子で話しかけた。
「…普通のガキだったら、そのまま流してしまうってのに、アイツの言う通り、お前はちゃーんと覚えていて、疑問をそのままにしとかないんだな。…ウンウン、感心感心!」
と一人満足げに頷いているので、私は焦ったそうに先を促した。
「もーう…そういうのは良いから、早く教えてよ。…誰なの?」
「…誰ってお前、…もう気づいているだろ?」
聡はそう言うと、私にニヤケ面を晒しながら続けた。
「勿論…義一だよ」
「…」
やっぱり。勿論聡の言う通り、そうじゃないかとは薄々思ってはいたが、正直義一と聡とが容易に繋がらなかった。あのお寺での二人の会話を聞く限り、仲が良いのは分かってはいたが、それはたまに会うという前提の元での話で、あの日の二人しか知らないが、冠婚葬祭以外にも親しくしてるという風景が、思い浮かべられなかった。だから本当の所を確かめたくて、何度も聞いたのだった。
「…やっぱりね。…でも何で二人でそんな話をしていたの?そんなにしょっちゅう話しているの?」
私は攻撃の手を緩めることなく、また質問をした。それでも聡は相変わらず笑顔を絶やさなかった。聡は一口コーヒーを啜ると答えた。
「…あぁ、しょっちゅう会ってるぞ。そうだなぁー…とは言っても月に二、三度といったところか」
「…結構会ってるね?」
私は何気ない調子で返した。でも私は少し複雑な気持ちでいた。何せ義一からこの話を、一度たりとも話してもらった事がなかったからだ。勿論会う度に、その間どんな人に会ってたかなんて、束縛の強いメンドウ臭い彼女じゃないのだから、一々報告する必要は無いのはそうなのだが、何だか…うん、複雑だった。
そんな私の心中を知る由もない聡は、もう私から聞かなくてもツラツラと話し続けていた。
「お前の親父とは本当に会わなくなっちゃったけどな。義一と会うとよ、ここ数年はずっとお前の話ばかりだよ」
「…へぇー」
私はなるべく声のトーンを変えないように気を付けながら答えた。さっきまでの複雑な感情、それは勿論今も変わらないのだが、何だか義一が私の知らない所で自分の話をしてくれていると知っただけで、我ながら単純だと思うが、嬉しく思い少し心が軽くなっていくのを感じていた。
「…例えばどんな話?」
「そうだなぁ…」
聡は顎に手を当てると、思い出すように目を瞑っていたが、すぐに目をまた開けて、笑みを浮かべながら答えた。
「もう色々だよ。お前に下の名前で呼ばせてるとかな。…まぁ正直初めて聞いた時は引いたが、理由を聞いたら、まぁ…変わり者同士、それで良いのかなって納得したよ。後は…なんだ、お前に色んな本を貸してあげてるって話だとかな。…そうそう、最近で言えばお前にドーデの本を貸したってんで、その話になったんだが、義一が『昔教科書で読んだよねぇ』なんて懐かしがっていたからよ、『…すべてかどうか知らんが、今はもう教科書にないぞ』と教えてやったんだ。アイツ…笑っていたが、寂しそうにしてたなぁ」
聡はそうしみじみと言うと、またコーヒーを啜っていた。
…なるほど。これもまさかとは思っていたが、あの情報源はおじさんだったのか。
私は独り合点していたが、これを黙っているのもなんだと思い、そのまま口にした。
「…そうか、前に義一さんがその事を、先生をしている人に聞いたって教えてくれたけど、その”学校の先生”っていうのが、おじさんの事だったんだね?」
そう言うと、聡は少しハニカミつつ返してきた。
「なんだ?アイツ、そんな事をお前に話していたのか?俺の名前は伏せて?…相変わらずアイツは、変なところに気を回すんだからなぁー…別に俺の名前を伏せとく必要なんぞ無いだろうに」
「…ふふ、確かに」
私は聡の発言に、全面的に同意だと言う意味を込めて、微笑んだ。聡もそれを見て笑い返すのだった。
「他にも色々話してくれたぞ?ピアノが大好きで、いつもウチに来ると弾いてくれるだとか、それに何より…」
聡は先程までのガサツな笑いは潜めて、優しく微笑みつつ、私に指を差しながら続けた。
「…何でも疑問に思ったら、どんな些細な事でも有耶無耶にせずに妥協しないで、しつこい位に質問攻めして来て”くれる”ってな」
聡は点々の所を強調しつつ言った。
「俺と会う度に、この間はコレを聞かれた、アレを聞かれたって愉快げに言うんでな?『…なーんだ、昔のお前と同じじゃねぇか?』って言ったんだ」
「…義一さんはなんて?」
私は待ちきれないような調子で先を促した。聡は表情を変える事なく続けた。
「そしたらな、『…うん、よく似てるんだ。…怖いくらいにね?』ってガキっぽく笑いながら言うんだよ。俺は少し驚いたね」
「え?何で?」
私がすかさず口を挟むと、聡は今度は眉毛を片方だけ上げて見せつつ答えた。
「…アイツはあの通り、いつも感情を表には出さないようなキャラだがよ、アイツが唯一って言っても良い嫌がる事が、誰かと比べられる事なんだ」
「…ふーん」
私は初めて聞いたが、何となく分かる気がしたので、声を漏らす所で止めた。
聡は続けた。
「勿論、ちゃーんと吟味した上で比べられるなら構わないんだが、アイツはああなんだとか、いわゆるレッテルを貼られて片付けられるのが耐えられないって事らしい」
「…私もだな」
私は独り言のように言ったが、聞こえていたらしく、聡は何も言わず微笑んでから先を続けた。
「まぁ俺もアイツの性質は分かっているつもりだから、何も言わなかったが、あまりにそのまま額面通りに受け取るもんだから、驚いたって話さ」
「…ふーん」
私は先ほどと同じ様に、理由の定かではない嬉しさを堪えるために、ワザとツンとした態度で返した。聡はそんな私の事をとっくに見抜いているのだろう、何も言わずに笑顔を私に向けて来るだけだった。
「…しっかし」
聡は空気を入れ替える様に、態度を先程までの”ガサツな”調子に戻しつつ言った。
「まさかあの時会った琴音が、ここまで大きくなるなんてなぁ」
聡はさっきも言ったのに、また同じ事を言った。
「あん時は見るからに”良いとこのお嬢様”って格好していたし…正直、直接会うまでは義一の言う事を信じれなかったんだよ。…こんな質問魔になってるとはな」
「…良かったね?おじさんのクラスに私がいなくて」
私は聡が本気で言っているわけではないのが、久しぶりに会ったというのに分かったので、軽口を叩いて見せる事が出来た。久しぶりに会ったのに、初めからタメ語で話せた点など、これは偏に、聡が纏っている雰囲気に寄る所が大きかったのだろう。久しぶりという感覚を、意識的かどうかは兎も角、感じさせず容易く私の”心の壁”を壊してくれてた様だった。…尤も、あのお寺でのやり取りの時点で、壁が崩れていたと言えばその通りだが。
聡は私の軽口を聞くと、一瞬困った様な表情を見せていたが、すぐに明るい笑顔を見せて返してきた。
「あははは!もしかしたらそうだったかも知れねぇが、お前もアイツと同じで、普段はなるべく質問魔を抑えているんだろ?聞いたぞ?」
聡は何だか、秘密を暴いてやったぞと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
私は敢えて”参った”という風に肩を大袈裟に下げて見せた。
「…まぁね。でもね…ただ一つ間違えている点があるわ」
「…ん?何だろう?」
聡は興味深げに、考える表情を作りつつ聞き返してきた。
私は意地悪く思いっきりニヤケて見せつつ答えた。
「…私はあのお寺の時点で、質問魔だったのよ」

「…そういやお前の親父は元気にしてるか?」
あの後一頻り笑い合ったが、ちょうど二人共飲み物が無くなったので、同じ物をお代わりしてまた席に着いた所だ。
「…うん。元気にはしてるよ」
私は普通に答えたつもりだったが、聡には何かが引っかかったらしい。
「…その言い方だと、元気でいるのが不満みたいだぜ?」
「え?あ、あぁ、いやぁ、そんなつもりじゃ…」
私は慌てて訂正しようとしたが、聡の笑い声に遮られてしまった。
「あははは!冗談だ冗談!…そっか、元気にしてるか。…なら良い」
聡はお代わりしたばかりで湯気の立つコーヒーを、ズズッと啜ってから返した。
「うん。おじさんは知ってるか知らないけど、今お父さんは院長していて、色々と毎日忙しくしているよ。…今度学会旅行なるものに、お母さんと連れ立って行くらしいし」
「…そっか、アイツ今や院長先生だもんなぁ」
聡は私の顔を見ていたが、目つきは何処か遠くを見るように、気持ち細めていた。
と、そう言った直後、視線や目つきはそのままに、私に向かってしみじみと言った。
「…しっかし、お前も苦労するなぁ」
「…ん?何の事?」
私も聡に倣って紅茶を飲んでいたので、すぐには答えず、ワンテンポ置いてから聞き返した。
「何って…当然、義一とお前の親父との事さ」
聡は先程までの陽気さとは打って変わって、真面目な表情で言った。
「…」
私が黙ったままでいると、聡はそのまま先を続けるのだった。
「…ほんと、あの二人には困ったもんだよ。…まぁお前も知っているだろうが、一方的に栄一が義一を毛嫌いしているだけなんだが」
不意にお父さんの名前を出したので、一瞬違和感を感じながらも続きを待った。何せ私が知る限り、お父さんの事を下の名前で呼ぶのを、聞いた事がなかったからだ。
私は良い機会だと思い、この数年、ずっと気になっていた、義一にすら詳しく聞けなかった事を聞いてみた。
「…あの二人って、昔から”あぁ”なの?」
「…ん?そうだなぁー…」
聡は言いづらそうに逡巡していたが、ホッペを掻きつつ、苦笑まじりに答えてくれた。
「そうさなぁ…。子供の頃なんかはあそこまででは無かった筈だがな。…うん、義一が中学に上がるか上がらないかって時に、栄一は医大生になったんだが、その頃くらいから栄一の方から毛嫌いし出したんだ」
「…その原因って、おじさん分かる?」
私は好奇心のあまりに暴走しないよう気をつけながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
聡は少し首を傾げたが、すぐに表情はそのままに続けた。
「…いやぁ、俺も直接聞いたわけでもないから、”コレ”という風に決め付けは出来ないけども…うん、これはお前の爺ちゃん、つまりあの二人の父ちゃんが俺にふと話してくれたんだがな?」
聡はここで一息入れるように、コーヒーをまた一口だけ啜ると先を続けた。
「何でも中学に入りたての時に、担任に爺さんが呼び出された事が何度かあったらしくてな。この話はその最初の時の話なんだけれどよ、爺さんは何事かとイソイソと学校まで行ったんだ。 そしたら学校の正門前で義一が待ってたみたいなんだ。担任に親父が来るまで待つよう言われたらしい。この日は土曜日だったらしく、授業が午前までだったんだな。みんな生徒が帰って、部活動の生徒以外は校舎にいない状況だったようだ。それで誰もいない義一のクラスに行くとな?その教室の真ん中に、四つの机だけを向かい合わせてくっ付けて、その一方に担任が座っていたらしい。担任は爺さんの顔を見ると、笑顔で丁寧に迎え入れたらしいんだな。で、爺さんと義一は促されるままに担任の向かいに座ったらしい。で、この担任の先生ってのが、まずはってんで、雑談ぽい事を話しだしたらしいんだなぁ。爺さんの病院の事とか。でも爺さんとしては早く聞きたいわけじゃんか。長男はこんな事無かったのに、なぜ次男坊のために呼び出されなきゃいけないってのがさ?」
「うん」
私は無駄な相槌は打つまいと、ごく短く返しただけだった。聡は続けた。
「爺さんは担任の話を遮るように聞いたらしいんだ。『…先生、うちの子が何かしましたか?学校にご迷惑かけるような事を』ってな。…これは爺さんの弁だが、当時の爺さんとしては、晴天の霹靂だったらしい。昔から少々変わった点はあったが、人に迷惑かけたり傷つけたりする様な子では無いと思っていたから、急に呼び出しを食らって、どんな悪さをしたのかと、行きの電車の中ではヒヤヒヤもんだったらしい」
私は聞いてて、ふと前に絵里が私に話してくれたエピソードを思い出した。あの大学での”告白話”だ。多くは言うまい。
「そしたら担任は爺さんの隣に座っていた義一を見ながら、こう言ったらしいんだ。『いえいえ、問題という問題は起こしていませんよ。喧嘩沙汰なども無いですし、普段の学校生活自体は何も問題ありません』」
「…へ?じゃあ何で…あっ」
気付いた時には遅かった。無意識に”なんでちゃん”が起き出してしまったようだ。段々相手に心を開いていくと、気が緩み、ついついこの子が起き出してしまう隙を作ってしまうのだった。 私は慌てて口に手を当てたが、その様子を聡は微笑んで見ていた。
口を挟まれて気を悪くするどころか、何だか”いつもの”といった風で、何も意外に感じていないようだった。
でも少々呆れて見せながら続けた。
「もう少しだから、ちょっとの間黙ってて貰えますか、お姫様?…あははは!そう睨むなよぉ。冗談冗談!…えぇーっと?何だっけ…あぁ、そうそう、まぁ今のお前みたいに、爺さんもそう聞いたんだな。『では何で私は呼び出されたんですか?』ってね。そしたら担任は困り顔を作って答えたらしい」
聡はここで一呼吸置いた。聡自身も困り顔を作っていた。
「『…いやぁ、望月君は授業態度に難がありましてね?…あぁ!いやいや!変に騒いだりして授業を妨害して来るわけではないんです。寧ろそうしてくれた方が対処し易いと言いますか…幾らでも方法はあるのですが、望月君の場合は違うんです』『…と、言いますと?』この辺は爺さんもかなり焦ったかったらしい。何を言いづらそうにしてるんだってな。…まぁ、先に同じ教師の俺が軽く代弁すると、中々そんな義一みたいな生徒はいないから、対処法が分からない。でも自分は教師としてのプライドもある。…そのプライドが高ければ高いほどに、認めたくないんだなぁ…一人の生徒に対応出来ない自分を」
「…」
私は聡と久しぶりに会ったせいか、さっきからずっとあのお寺での事を思い出していた。そして今は、義一との初めての会話の内容を思い出していたのだった。
「それはさておき、その担任はこう答えたらしい。『…望月君は出席番号順で窓際の列に座っているんですが、私だけではなく他の先生の授業中、ふと気付くとずっと窓の外をボーッと見ているんです』てな」
「…それだけ?」
私はふと『…あ、私と同じ様な座り位置だ』などと呑気な事を考えていたが、名字が同じなのだから当たり前(?)だと納得していた。が、その理由を聞くと、思わず声をあげない訳にはいかなかった。聡の方でも苦笑を浮かべている。
「そう、それだけ。爺さんも俺に対して話してくれた時、苦笑いだったよ。…でもな、流石に爺さんはそう言えなかったらしく、仕方なくその場で義一に聞いたらしい。『そうなのか?』って。義一は義一で『うーん…まぁ』って、肯定とも否定とも取れない風に答えるだけだったらしい。その後爺さんはふと、窓の外を見てみたようだ。その学校は都内屈指の国立の進学校だったんだが、校舎はちょっとした高台にあってな? 窓の外には遠くに都心のビル群が見えていたらしい。まぁ見晴らしが悪いとは言わんが、そう何度も見惚れるほどでは無かったらしいんだ。『なーんだ、そんなに見るものも無いのに、うちの子は何を授業中だというのに呆けていたのか?けしからーん!』と、普通の家庭ならそうなったんだろうが、爺さんは違った。爺さんはまぁ当たり前だが、親父としてよーく義一の習性を知り尽くしていた。…いや、それだけではダメだが、決定的なのは、爺さん自体が義一の習性を面白がっているという点だった。で、その習性ってのはな…」
聡はここで一度溜めると、勿体振りながら言った。
「…当時の家の軒先で、よく一人でボーッと何かを見るんでもなく、何時間も飽きもせずに空想に耽っているって事だった」
「…ボーッと何時間も」
私はただ聡が言ったことを、鸚鵡返ししただけだった。何か返した方が良いと思ったからだった。でも頭の中は、まだ写真などで見た事のない、幼少の頃の義一の姿を想像し、その子が日差しの温もりの中、縁側でボーッとしている姿を思い描いていた。
私の呟きをどう解釈したのか、聡は優しく微笑みつつ、先を述べた。
「…そう。昔からそんな義一の姿を見ていたから、担任に言われた時、爺さんとしてはある意味ホッとしたらしい。『なーんだ、そんな事か』ってな」
…私のお父さんだったら、何て思うだろう?
「爺さんに俺は、『何で義一がそんなボーッとふけているのを、そのままにしてたんだ?』って聞いたんだよ。俺はその時には教育実習を済ましていて、来季から今勤めている学校に、国語教師として行くことが決まっていたからな。そしたら爺さんは陽気に笑って言ったんだよ。『…他の子の場合は知らんが、あの子はアレで良いんだよ。アイツはその前に色んな本を読んだりしていて、それからインスピレーションを導き出し、それをただの”思いつき”として終わらせる事をせずに、そこから思索を深めていくんだ。あの土手近くの倉庫、お前も知ってるだろう?あそこに連れて行って、コレクションの蔵書をその場で読んだり、持ち帰ってから読んだりした後は、いつも縁側でボーッとしてたんだ。小学校の頃からな?俺も初めはこの担任の様に少し不安になってな、何を呆けているのかそれとなしに聞いてみたんだ。そしたらさ、急にある本の一部分を暗唱して見せたかと思うと、何やら疑問点があったらしく、俺が質問したってのに、逆に『父さん、ここの部分どう思う?』だなんて聞いてきたんだ。 俺はその時は何とか、それらしい考えを答えられたが、それからだね、…アイツには何か一つの事を、思索し続けられる天分がある。それを俺含む凡人が、他の子と違うからって、邪魔しちゃダメだ。ほっとかなくちゃって思ったんだ』ってな」
ここまで長く、お爺ちゃんの言葉を引用した聡は、また少し温くなったコーヒーを一気に飲み干すと、何も言わずまたお代わりを取りに行った。
その間私は、聡の言葉を何度も反芻していた。
…お爺ちゃん、会えなかったけど、そこまで義一さんの本質をしっかり見抜いて、それを生かしてあげようと苦心してあげてたんだね…。
私は遺影でしか見たことがなかったお爺ちゃんに初めて、畏敬の念を覚えていた。

「よっこいせっと…」
聡が戻ってきたが、カップを二つ持ってきていた。「ほら、お前の分」とぶっきら棒に渡してきたのは、私の分の紅茶だった。私は「ありがとう」と短く言うと、笑顔でそれを受け取った。
「…ふぅ、さてどこまで話したっけかな?…あぁ、そうだ」
聡は手元のカップをテーブルに置くと、また話し始めた。
「それからは教師側と爺さん側とで埒が明かない感じだったから、爺さんが無理やり担任の前で、これから気を付けます的なことを言わせて、その場は落ち着いたらしい」
聡はここまで言うと、またコーヒーで一息付けた。
聡はカップを置くと、ニコリと優しく笑いながら続けた。
「でな、帰りは親子二人仲良く帰ったらしいんだが、流石の義一も申し訳なく思ったのか、口数が少なめだったらしい。それを見た爺さんが焦ったそうに、こう言ったんだとよ。『…お前は気にしなくて良い。…お前はお前の道を行け』ってな」
「…お爺ちゃん」
私は先程も言った様に、すっかりお爺ちゃんの懐の深さ、器の大きさに畏敬の念を禁じ得て無かったから、思わずそう呟いたのだった。
そんな私の様子を微笑ましげに、ただ見ていた聡だったが、ふと意地悪くニヤッと笑うと先を続けた。
「でもな、このセリフには先があるんだよ。そう言った後で爺さんはこう付け加えたんだと。『…ただし、決して妥協なんかするなよ?…やるからには死ぬ物狂いでやれ』ってな」
「…義一さんは 、それに対して何て答えたの?」
「アイツはただ単に頷いただけらしい。でも爺さんはそれで満足と笑顔で頷き返したんだってさ。それからはまた普段通りに戻ったらしいんだが…問題はこの後だ」
聡は見る見るうちに表情を曇らせていった。
「…うん」
私もその表情に導かれる様に、顔を強張らせた。…忘れていなかった。何故こんな話を、前置きとして聡が振っていたのかを。いよいよ核心部分に触れるんだと、身構えた。
聡は少し声のトーンを落としつつ言った。
「二人が家に帰ると、すでに栄一の奴が大学から帰っていたらしい。それでその日に初めて母親から、父親が弟の為に学校に呼び出されていた事を知らされたらしいんだ。…一々言うまでもなく、これも爺さんから聞いた事だから断言出来ないが、どうも栄一は凄く不機嫌だったようだ。それを他所に爺さんが呑気に『ただいま…お、もう帰ってたのか?』なーんて声を掛けるもんだから、そこで栄一の堪忍袋の緒が切れたらしく、色々と捲し立てたらしい。まぁ初めは、主に義一に対してな。『何をしでかしたんだお前は!』ってな具合によ。言われた本人は、何を激昂しているのかと、興味深げにジッと兄貴の顔を見てるだけだったらしい」
…容易に想像が出来る反応だ。
「慌てて爺さんが理由を説明したんだが、そしたら今度は爺さんに刃先が向いた。『…親父、だから俺はいつも言ってたじゃないか!コイツの奇癖を治さない限り、俺達までが同類の変人に見られちまうって!…コイツがこんな変なせいで、家に碌に友達を呼べもしない…』」
「…」
…その頃からなのか。…というか、話ぶりからして、もっと以前からそんな風にお父さんは、義一さんの事を、そう見ていたのか…。
私は酷い哀しみと、後から湧いてきた怒りの感情この二つに包まれながら、聡の話を黙って聞いていた。
「『…こら栄一!いくら何でも実の弟に対して、その言い草はなんだ!』。義一が何も言わないから、代わりにというか、爺さんが栄一に対して怒ったらしいんだが、そしたら栄一の方も後に引けないってんで、『…まーたこれだ!いつもそうやって親父が義一の事を庇って甘やかすから、こんなヘンテコでチンチクリンな奴に育ったんじゃないか!』ってな具合に…まぁ”いつものヤツ”ってんでな、これが初めてではなく、こんな言い争いは昔から何度も親父と栄一の間で繰り広げられていたって事だ」
聡はこれで全て言い終えたと、それを知らせる様に視線を何処かに流しながらコーヒーを啜った。
「…なるほど、つまり」
私はなるべく言葉を吟味しつつ言った。
「お父さんは義一さんに対して、恥ずかしい存在だと認識していて、外聞を気にするあまりに、毛嫌いどころか憎むようにさえなったんだね…?またお爺ちゃんも、そんな弟に対して味方ばかりするから、ある種の嫉妬も混じっていたのかも知れないって事ね?」
私が憶測をつらつら述べている間、聡は私の事を無表情で見つめてきていた。
言い終えると少しの間時間が流れたが、無表情だった顔をフッと緩ませると、聡は柔らかく笑いながら私に声をかけた。
「…まぁそんなモンだろうなぁ。…栄一はガキの頃から、親父が一代で病院をおっ立てたのが誇りだったらしくてな。周りの大人達も頻りに父親を褒めてくるもんで、次第に自分まで偉くなったと勘違い…しちゃっているように見えたなぁ」
聡はキャラに似合わず、少し言いづらそうに辿々しく言った。
…私もお寺で義一さんに初めて会うまで、そこまででは無いとしても、ちょっと同じように勘違いしていたかもなぁ。
「そんなだから、ガキの頃から他人の視線にはかなり敏感だったよ。…どう見られているのかってな。だから…義一みたいな他の子とあらゆる意味で違うのに、人一倍反感を持ったんだろう」
「…」
私は返すべき言葉が見つからなかったので、同意の意を示す為に強く一度頷いたのだった。
聡はそんな私の反応を見て、優しく微笑んでくれたが、その笑みはどこか寂しげだった。自分の意見に私が強く同意した事によって、聡の心に複雑な感情が芽生えていたようだった。
そんな気持ちを払拭するように、聡は途端に底抜けに明るい笑顔を見せたかと思うと
「…今俺が言った事、栄一には内緒だぜ?…こんな話、正直話すのお前が初めてなんだからな」
と、ニヤケ面を私に向けてきつつ言ってきた。私もついさっきまで真剣な表情でいたが、聡が急に表情を和らげたので、合わせて崩した。
そしてこっちは少し呆れた表情を見せつつ、口調も顔に合わせて答えた。
「…流石の私だって、こんな話お父さんに言えるわけないでしょ?…義一さんにすら言い辛いわ」
そう言うと、聡はウンウン強く頷き、満面の笑みを浮かべつつ返した。
「あははは!そりゃそうだ、ちげぇねぇ!」
「…ふふ」
あまりに豪快に笑うので、私もつられて、吹き出し笑うのだった。笑う事で今までの話によって流れた雰囲気を、二人で手分けして洗い流そうとでもするように。

「はぁーあっと…もう四時か」
聡はふと店内に掛けてある時計を見ると呟いた。
「…お前はまだ時間大丈夫か?」
「え?う、うん、まだまだ大丈夫だよ」
私はそう言うと、今は家にお父さんは病院関係で、お母さんは実家に手伝いに行っている話をした。
「そうか。…いや、長く引き留めようってんじゃ無いんだが…あっ、そういえば」
聡はふと何かを閃いたように、ハッとした表情を浮かべた。
「何?」
私がすかさずそう聞くと、聡は少し前に身を乗り出すようにしてきながら聞いてきた。
「いや、さっきお前、何か言っていたよな?親父達が学会旅行に行くとか何とか」
「え?えぇ、確かに言ったけど。…一泊二日の旅行みたいだよ?」
「…一泊二日かぁ。その間は琴音は一人でお留守番か?」
「う、うん…その予定だけど」
聡が何故そんなことを聞いてくるのか、その意図が全く分からなかったので、少し戸惑いつつ答えた。すると聡は腕を組み、話すべきかどうか悩んでいる風だったが、そのまま私を真っ直ぐ見て聞いてきた。
「…琴音、お前…義一のこと、もっと色々と知りたくないか?」
「…え?どういうこと?」
私は思わず聞き返したが、聡は表情を変えずに無言で見つめてくるだけだった。
…知りたくないかって?…そんなの決まっているじゃない。
「…勿論それは…知りたいけど…」
私がそう言うと、聡は途端に無邪気な笑顔を浮かべた。そして明るい調子で聞いてきた。
「そうかそうか!…ちなみに琴音、栄一達のその旅行っていつなんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
私は何故義一のことと、お父さん達の旅行を絡めて言うのか理解が追いつかなかったが、頭の中の記憶を手繰り寄せて答えた。
「確か今月末の最終土曜日と、日曜日の二日間だったと思うよ?」
私がそう答えると、聡はスマホを取り出し、そこで何かを打ち込んでいた。どうやらメモをしていたようだった。
「…よし!じゃあ琴音」
聡はスマホを仕舞いつつ、私に笑顔を向けながら言った。
「この土日…いや、土曜日だな、この日の午後ちょっと空けられるか?」
「へ?…え、えぇ、別に構わない…あっ、でも…」
「ん?何か用事があったか?」
「…うん。えぇっとねぇ…」
私は義一の家に行く予定だった事を話した。土曜日は午前一杯学校に行き、この日は久し振りにレッスンを休みにして貰って、放課後に少し裕美達とブラブラしてから、地元に戻って会いに行くつもりだった。
その旨をそのまま話すと、聡は表情を明るくした。そして御機嫌な調子で私に返してきた。
「…あぁ、じゃあ学校終わって友達と遊んで、その後にアイツん所に行く気だったと?…じゃあ大丈夫だ」
聡はそう言い切ると、またコーヒーをゆっくりと啜った。
「…?何が大丈夫なの?」
私がそう聞くと、聡は悪戯っぽい笑みを顔中に浮かべて、変に勿体付けながら答えた。
「まぁまぁ…それは当日になってからのお楽しみだ。そうだなぁ…四時には家にいるか?」
「よ、四時?…うん、その頃には帰って来てると思うけど」
一体何の話か、この段階ではまだ何一つ分からなかったので、一々躊躇しながら答えるのが精一杯だった。そんな私の様子を面白がりながら、聡は明るく一方的に言うのだった。
「じゃあそんくらいになったら、お前ん家に迎えに行くから待っててくれ。…ちゃーんと、お父さんとお母さんには内緒にしとくんだぞ?」
「え?えぇ、分かったわ」
何も分かっていなかったが、とりあえずそう答えると、聡は満足そうに頷き、何も言わずに荷物を持ち、伝票を持ってレジの方へと歩き出してしまった。
勝手だなぁ…。と私は苦笑いを浮かべつつ、身支度をして、聡の後を追うのだった。

第23話 社交(裏)上

十一月最終土曜日。私は聡との約束通り、裕美達と少しお喋りしてから家に帰って来た。三時丁度といったところだ。朝は両親と共に朝食をとったが、私が学校に行ってる間に出てしまったようで、家には人の気配がなかった。
あの後駅前で聡と別れたわけだが、その間際に連絡先を交換していた。しかし今日まで一度も連絡は取り合っていなかった。こっちから一々連絡取るのもなんだと思ったから、そのままにしていたら当日になってしまった。
私は本当に聡が来るのか、一抹の不安というか、若干疑いつつも制服から普段着に着替えて待っていた。
上は無地のTシャツ、下は細身のジーパンに着替えた丁度その頃、スマホの液晶が光った。見てみると聡からだった。電話だったので早速通話に切り替えた。
「…もしもし、おじさん?」
私がそう問いかけると、電話の向こうで聡の音割れする程に明るい声が聞こえてきた。
「おぉ、琴音か?今もう家にいるか?」
「えぇ、それで今普段着でいるけど…私は何か、準備とかしないで良いの?」
「準備ぃー?あははは!いらんいらん!荷物だとかも特にいらんぞ。まぁ…お前も女の子だから、何かしら持ち物はあるのかも知れんが、特にそれ以外は何も持たなくて良いから」
「そう?分かった。じゃあ家で待ってるから」
「おう。俺も今から車で行く」
ブツッ
聡はそう言うと、返答を待たずに切ってしまった。やれやれと時計を見ると、時刻は三時四十五分を指していた。私は夏休みに紫と買い物に行った時に買った黒のミニバッグを取り出し、中にハンカチやスマホ、メモ帳に筆記用具など最低限の物を入れた。そうそう、腕時計も忘れずに。
ピンポーン。
入れ終えると丁度その時インターフォンが鳴った。自室の部屋の壁に備え付けてある、外部カメラを見てみると、そこには画面一杯に聡の顔が映し出されていた。私は外部マイクのボタンを押すと、
「…あ、おじさん。今行くよ」
とだけ言うと、身支度を済ませて玄関へと向かった。
近所をぶらつく時用の、履き潰されたスニーカーを履いて外に出た。するとすぐ目の前に聡が大股広げて立ちはだかっていた。
「…よっ!久しぶり!」
聡は私の顔を見ると、途端に笑顔を作って、右腕を軽く上げながら声をかけてきた。
「…久しぶりってほどじゃないでしょ?」
と私は苦笑まじりに返しながら、ふと聡の背後に視線を流した。
そこは駐車スペースだったが、ウチの車以外の見た事のない車が停められていた。それは軽自動車で、色は白だったが、少々年季が入っているのかところどころ生傷が見え、色も全体的にくすんで見えた。
私の視線に気付いたのか、聡は後ろを振り向くと、口調明るめに言った。
「…あぁ、アレか?そう、アレが俺の愛車よ。今からアレに乗って行くんだ」
「…そう」
私は、今だに今日何をするのか何も言われず仕舞いだったので、問いただしたい気満々だったが、雰囲気的に、聞いてもおチャラ化されて終わるのは目に見えていたので、この時も聞かずに置いた。
久しぶりに会ったおじさんだったが、私は不思議と聡に対して、強めの信頼を持っていたようだった。やはり…我ながら単純だと笑うしかないが、聡が義一に対して好意的であるというのが大きいようだった。私の中ではすっかり、相手のことを判断する上で、義一の事をどう評価しているのかが、かなりの比重を占めていた。そしてその判断は今の所、まだサンプルは異様に少ないが、間違ってはいないようだった。
聡は私の姿をチラッと見ると、口調に表情つけないまま、軽い調子で言った。
「うんうん、ラフな格好で出て来たな?それで良い。…変に着飾って出て来たら、先方の方が困っちまうからよ」
そう言うと、聡は何も言わないままに車に乗り込もうとした。
「…え、誰かと会う訳?っていうか本当にこれから何処に行…」
「ほら琴音ー。いつまでボサッと突っ立ってんだよ?早く行くぞー?」
私がそう言いかけると、聡は運転席に座りつつ、ドアを開けっ放しにして片足を外に出しながら、私に呑気な調子で声を掛けてきた。
…しょうがないなぁー。
私は首を大きく横に数回振ると、いつの間にか開けられていた助手席の方へと回って、乗り込んだ。
私がドアを閉めると、相変わらず気の抜ける調子を崩さないまま言った。
「よし、ドアを閉めたか?シートベルト締めて…そうそう。では、しゅっぱーつ!」
聡が急に右腕を、天井に当たらない程度に上げて声を上げたので、私も控えめに腕を上げつつ続いた。
「…しゅっぱーつ…」

聡の車の中は外見ほどには汚れていなかったが、タバコの匂いで満たされていた。いわゆる”オヤジ”の匂いだ。顔には出していなかった筈だが、聡は車を発進させながら声を掛けてきた。
「はははは!”少々”汚くて悪いな。何せ普段は俺しか使わんし乗らんから、碌に掃除してないんだよ」
「…ふふ、何も言ってないじゃない?」
私は自分でも不思議なくらいに、そう言う聡が微笑ましく感じて、目の前のフロントガラスを見ながらだったが笑顔で返した。聡は、ただ豪快に笑い返すだけだった。
車は家の敷地内を出ると、土手の方への道をゆっくり行った。土手の麓に辿り着くと、土手に沿って走る高速道路の下を走った。その間、聡は何かと学校の話を聞きたがったが、私は外の景色に気を取られて、生返事しか出来なかった。正直聡に話を持ちかけられた時、すぐに頭を一つの考えが過ぎったが、敢えて口にしないで置いた。が、今、車が辿っているこの道のり、もう間違いようが無かった。今向かっているのは…。

「…よし、ちょっとここに寄ってくぞ?」
聡はそう言うと車を路肩に停めた。そしてエンジンを切ると、一足先に車外に出るのだった。
私も反対側から車を降りると、目の前には見慣れた塀があった。車と塀の隙間を、体を横にしながら出ると、そこにはこれまた、見慣れた玄関があった。もう分かるだろう。そう、義一の家だった。
ジーーーーーっ
聡はイタズラに玄関脇のベルを長押ししていた。その分ずっと鳴りっぱなしだった。
と、その時、扉の向こうで声がした。
「…相変わらず喧しいな、聡兄さんは…今開けるよ」
ガララララ。
大きな音を立てて引き戸が開けられると、そこには義一が、いつものラフな姿で立っていた。髪はいつもの様に纏めていて、メガネをしていた。
義一は最初は、呑気に笑顔を浮かべつつ手を振る聡を見ていたが、すぐにその後ろにいる私に気付くと、いつだかの絵里と図書館で、出会した時の表情を浮かべていた。懐かしい反応だった。
「…ってあれ?琴音ちゃん?」
「…義一さん、こんにちは」
義一が目を見開いたまま声をかけてきたので、私も何だか変に気まずくなりながらも応えた。
聡一人が二人の様子を見て、ヘラヘラ笑うのだった。

「…聡兄さん、どういうこと?」
義一はひとまず私と聡を中に招き入れた。今私達は玄関スペースの上がり框に腰掛けている。靴は履いたままだ。義一は履いていたサンダルを脱ぐと、取次ぎから見下ろすように聡に聞いた。
「…僕、何も聞いてないんだけど?」
口調は心底呆れ気味で、ため息つきながら話している感じだ。
聡は体を捻るようにして、顔を義一に向けながら答えた。先程から変わらずニヤケ面だ。
「どうもこうも…こういう事さ!まぁ、お前にも確かに言ってなかったな」
「…”も”?」
義一はそう呟くと、私の方に視線を流した。私は隣に座る聡に視線を流しつつ、同じ様に溜息交じりに答えた。
「…そうなの。私も何も聞かされないままに、ここに連れてこられたのよ」
「ふーん…っていや、それだけじゃなくて他にも色々と聞きたいことが…」
「ほーら、義一?」
義一がまだ何か色々と言いかけていたが、聡が強引に横槍を入れて遮った。
義一が非難の視線を向けていたが、聡は構わず自分の腕時計を指でトントンと叩いた。
「その話はくわーーしく道中で琴音が話してくれるから、お前は今はとっとと支度を済ませてきてくれ」
「…はぁー、分かったよ。琴音ちゃん、ちょっと待ってて貰える?」
「え?あ、あぁ、うん、もちろん」
「…じゃあ、待ってて」
義一は一瞬力無く私に笑顔を向けると、どこか奥へと消えていった。そして数分もしないうちにまた戻ってきた。”支度”を済ませたはずだったが、見た目に変化は見られなかった。…いや、足元を見ると靴下を履いていた。メガネもしたままだった。
…ん?
私は思わず突っ込みたくなったが、また聡の豪快な声に先を越されてしまった。
「…相変わらずお前の格好は、見栄えが変わらねぇなぁー…まぁ、俺も人のこと言えた筋合はねぇけど…よし、役者は揃った!ほら、さっさと行くぞ!」
そう言い終えると、聡はズンズンと外に出て行ってしまった。
私と義一は顔を見合わせると、共に苦笑いを向け合い、義一が靴を履くまで待って、ゆっくりと立ち上がり、二人で外に出たのだった。この時もあの小五の夏、三人でファミレスに行くまでの事を思い出したのは言うまでもない。

「よし、みんな乗り込んだな?じゃあ、しゅっぱーつ!」
「し、しゅっぱーつ…」
聡の号令に、私と義一が小さい声で応えると、車はゆっくりと発進して、元来た道を戻るのだった。私と義一は後部座席に座っていた。発進するのと同時に、義一が聡に話かけた。
「…あまりに急な事が多すぎて、何から聞けば良いのか途方に暮れているんだけど…」
「…私も」
私も力無くか細い声で、義一に続いた。聡はバックミラーを使って、後部座席の私達二人をチラッと見てから、心から愉快だと言わんばかりに陽気に答えた。
「あははは!二人して驚いたろ?いやぁ、良かった。二人があまりに達観していて、どんな事にも動じませんって顔つきで普段いるもんだから、ひと泡食わせてやりたかったのよ。いやぁー、良かった、良かった」
「…ぷっ、なんだよそれはー…っていや、だから一体全体どうなってるんだよ、この状況は?」
「まぁまぁ、これから三、四十分車を走らせるんだから、その間に色々と聞けば良いじゃないか?時間はまだあるぜ?」
「…は?」
義一が短く声を漏らすと、丁度車は信号で停まった。右側に土手が見えているが、聡は右ウィンカーを点滅させていた。左に曲がれば私の家だった。
「…あれ?左に行くんじゃないのか?琴音ちゃんちは左だよ?」
義一はそのウィンカーを見た瞬間、少し驚きを隠せない調子で聡に聞いた。
聡は聡で、その質問自体が意外だと言わんばかりに、驚いて見せつつ答えた。
「…は?いや、何で琴音の家に向かわなきゃいけないんだよ?」
「…え?だって、まずは琴音ちゃんを家に届けるんじゃないのか?」
「…いーやー?」
聡は、まだ信号が赤なのを良い事に、後ろを振り返りつつ、ニヤニヤしながら答えた。
「…琴音もあそこに連れて行ってやろうと思ってな?」
「え?今なんて…うわっ!」
義一は思わず身を乗り出しながら聞きなおそうとしたが、その時信号が青に変わったので、おそらくワザとだろう、聡が急発進してみせたので、義一は途端に座席の背もたれに戻されてしまった。
車は土手の斜面に沿うような坂道を上がり、登り切ると、川に架かる橋をそのまま渡って行くのだった。もう完全に家とは反対方面へ向かっていた。
「…琴音ちゃんを、あそこに連れて行くって?」
身を乗り出すのは危険だと判断したのか、義一は背もたれに、ちゃんと背中をくっつけながら聞いた。
「あそこって?」
私はすかさず聞いてみたが、その質問は取り上げられず、聡は前を向きつつ陽気に答えた。
「あぁ、そうさ。今日は栄一達が家にいねぇしな」
「…あ、あぁ、そういえばそうだったね」
義一は私に顔を向けながら言った。私はそれにただ小さく頷いただけだった。
そう。元々今日は義一の家に行くつもりだったから、予め両親がいない旨を伝えてあったのだ。これに関しては、寝耳に水では無かっただろう。ただ、直前に私は『行けるかどうか分からない。”意味がわからない用事”が入っちゃって』とだけメールを送っていた。義一は当然色々と心配してくれたが、私が何も心配いらないと言うと、一応は納得してくれていたみたいだった。今こうして、その”意味がわからない用事”に、一緒に遭遇しているという訳だった。義一も直ぐに察したか、私に苦笑まじりに聞いてきたのだった。
「…あぁ、これかぁ。前に言ってた”意味が分からない用事”っていうのは」
「うん、そうだよ」
「…へ?…あぁ、あはははは!」
運転中の聡は、当然ながら正面を見つつも、いつもの様に豪快に笑って見せた。
「意味が分からない用事かぁー、そりゃちげぇねぇ、あははは!」
「お、おい、聡兄さん!運転しっかり頼むよ?」
「大丈夫だって、心配すんな」
義一の言葉を他所に、鼻歌交じりに運転をしていた。
「…はぁ、というか君達、いつの間にそんなに親しくなってたんだい?僕の知る限り、父さんの法事以来会ってなかったでしょ?」
「え?…あぁ、そういえば」
忘れていた。丁度一週間前の事であったし、この間もメールのやり取りはしていたが、すっかり聡の事を言うのを度忘れしていた。
「…それはね、義一さん」
私はこれまでの事を話した。土手でたまたま会ったこと、その後あのファミレスに行って、そこで色々と話をした事。細かいことは端折りつつ言った。
話を黙って聞いていた義一は、私の説明を聞き終えると、それなりに察したのか「ありがとう、琴音ちゃん」と私に言うと、今度は聡に向かって言った。
「大体流れは分かったけど…でもだからって、琴音ちゃんをあそこに連れて行くのはどうかなぁー…。まだ早すぎやしないかな?」
「んー…そうか?」
聡は一瞬考えて見せたが、すぐに義一に返した。
「まぁ確かに、お前があそこに行ったのは、確か…高校生になったばかりだったよな?俺が今みたいに連れて行った。…それと比べると、確かにまだ中一って事を考えると早い気がしないでも無いが…」
とここまで言うと、聡はまた、バックミラー越しに義一を見つつ続けた。
「…お前も分かってるんだろ?俺はいつもお前の口から聞いてて、お前が琴音の事を高く買っているってのは、よく分かっているんだよ。お前は人を見る目がピカイチだからなぁ…それに身内だからって、メガネを曇らす様な奴でも無いことも分かっているから、そのお前が言うんだから間違いないと思ったんだよ」
「…そんな見え透いたお世辞を言われてもなぁ」
そう言う義一は、顔を窓の外に向けていたが、声のトーンを聞く限り、満更でもなさそうだった。私も色んな意味で照れ臭かった。
そんな私達二人の事を、見ずとも分かっていたのだろう、聡はまた愉快に笑いつつ言った。
「あははは!まぁ、そう言うなよぉ。これはある意味、琴音からのお願いでもあるんだから…な、琴音?」
バックミラー越しに、今度は私を見ながら言った。
「…へ?」
義一も聡の言葉に、短く気の抜ける様な声を発すると、隣に座る私の顔を見た。
急に振られた上に、中々小っ恥ずかしいネタだったので、少しの間モジモジしてしまったが、こういう時に見逃してくれない事は分かっていたので、観念して義一の方を向きながら、若干辿々しく言った。
「…う、うん。そのー…何だろう、まぁ、おじさんにこう聞かれたのよ。『義一の事を知りたくないか?』って。…それで…ね?私は…ただ『知りたい』って答えたの。…だって!」
徐々に日が沈むにつれて、車内もだんだん薄暗くなる中、相手の顔がはっきりとは見辛くなってきていたが、こちらに真っ直ぐな、射竦める様な視線を向けてくる義一の顔半分には、フロントガラスから差し込んでくる陽光が当たり、周りが暗い分、余計に浮き立たせていた。
その視線にせっつかれる様に、思わず昂りながら続けた。
「だって義一さん、私に今まで色んな事を教えてくれたりしたけど、肝心の自分の事は話してくれて無かったじゃない?私から聞くのも何だと思って、あなたが話してくれるのを待っていたけれど、いつまで経っても話してくれない…。毎年あの夏休みの時だって」
私は話しながら、ふと思い出した事を重ねて言った。
「何日か会えない時があったよね?それも義一さんが、他のことは色々話してくれるあなたが言わないのだから、今の所は聞かないでおこうと、ここまで先延ばしにしてきたの。…でもダメ。…これは堪え性のない私のせいでもあるけれど、でも変に勿体ぶって話してくれないんだから、”なんでちゃん”としては、これ以上は見て見ぬ振りが出来ないの!…勿論、義一さんが私の事を大事に思ってくれているのは、すごく分かっているつもり。…そんなあなたが、私に話そうと中々してくれないって事は、私のためを想っての事とも思わなくは無い…。これはもしかしたら、義一さんにとって”大事な場所”を土足で上がる真似になるかもとも思ったけど…」
ここまで言うと、視線を今度は運転している聡の背中に向けた。
「おじさんにそんな風に聞かれた時、私は思わず即答しちゃったの。…だって!」
私はまた顔を義一に向け直すと、そのまま先を続けた。
「だっておじさんの言う通りにすれば、もしかしたら、もっとあなたに近づけると思ったから!…そのー…」
ここで私は急にテンションを落としながら、
「…何処かに行くとは聞いてなかったけど、それでも私は、このまま二人について行くよ」
と言い終えた。その後はホンの数秒くらいだろうが、車内は静まり返った。車の走行音だけが聞こえていた。私は、夢中になって捲し立てていたせいで、途中から、聡がそばにいたことを失念してしまっていた。それに気付くと途端に恥ずかしくなり、余計に何も言えなくなってしまった。先ほどと同じ様に、私が話している間黙って聞いていた義一だったが、話終えた私の言葉を吟味する様に目を瞑っていた。が、ゆっくりと目を開けると、私に柔和な笑みを向けてきた。それは薄暗い車内でもはっきり分かる程だった。
「…琴音ちゃん、ありがとう。そこまで僕に興味を持ってくれて。…変に自虐的だって、普段の様に突っ込まないでね?これは本心からなんだから。…いや、普段も本心からなんだけれども」
義一は照れ臭そうに笑った。
「…でも、そっかぁ。…確かに八月のアレは、君に話した事が無かったね?」
「…あぁ、アレかぁ」
運転していた聡も、静かに呟いた。
義一はまた柔らかい笑みに戻り続けた。
「別に隠すつもりは無かったんだよ。…ただ、さっきも僕が言った様に、君が知るには少し早すぎる様な気がしたからなんだ。…僕の関わっている”人達”に会うのはね?」
「…人達?」
私は反射的に突っ込んだ。義一はそれに大きく縦に頷くだけだった。
「僕としては、まだ若い君が僕たちの様な集まりに関わると、本格的に”普通の”女の子に戻れなくなってしまうんじゃ無いかって恐れていたんだ…。おっと、そう睨まないでくれよ?…うん、僕だって君が生半可な気持ちで、僕と深く関わろうとしてるんじゃ無いって事は、これでも分かっているつもりなんだ。…ただ僕が、ビビリなだけなのさ。…君があまりに真っ直ぐに、僕に純真な想いをぶつけて来るもんだからね…。前にお寺で言ったことを、君のことだから覚えているだろうけど、あの時言ったいわゆる”大人の一般論”、僕自身も嫌悪しながら、知らず知らずに同類に陥ってしまってたんだね。…僕は今だに君の事を、”普通の女の子”と同じだと、型に嵌めて見てしまっていたのかも知れない。…僕の進む道に巻き込んで、万が一僕ら側にも、普通の側にも戻れなくなってしまって、どっちつかずになってしまったら、どう責任を取ればいいんだなんて考えてしまっていたんだ。でも今…」
義一は表情そのままに、私の肩にそっと手を置いた。私は少しビクッとしてしまった。それには触れずに、義一は続けた。
「琴音ちゃん、君が今述べた事を聞いて、漸く僕も腹を括れたよ。『琴音ちゃんは、一人の”自律”した人間』。…これは君にも直接言ったけど、この言葉に嘘は一滴も含まれてはいないし、それは今だに変わらない。ただ自分で言ってて、本質の部分で分かってなかったみたいだ。もし本当に、君を自律してると思うんだったら、僕がわざわざ責任を負おうとするのは、ある意味君への侮辱だったかも知れないね。だってそれは、君が自分で決めた事に責任を負えないんだと、暗に認めた事になるから…。君が望むなら、僕らの集まりだって何だって、勿体付けずに、試しに連れて行ってあげれば良かったんだ。もし気に食わなかったりして合わなかったら、後は近づけない様にしてあげればいいだけなんだから」
「義一さん…」
私は、何か返すべきだと思い言葉を探したが、今の心情に合う様な言葉は、あいにく持ち合わせていなかった。それを知ってか知らずか、私に思いっきり目を瞑るほどの笑みを見せると、今度は聡に向かって、
「…さて、聡兄さん。話はまとまったんだから、後はとっとと”お店”に行こうよ」
と明るい調子で話しかけた。すると聡は、先程の私と義一の様に、呆れた調子で苦笑交じりに返してきた。
「…まったく、調子が良いもんだぜ。お前らのイチャイチャ具合を、この狭い空間で見せつけられる俺の身にもなってくれ」
「…っ!い、いやいや!イチャイチャなんて…」
「…ぷっ、あははは!」
私は反射的に聡に反論しようとしたが、隣で呑気に義一が笑うので、私もすぐに諦め、一緒になって笑うのだった。気づけば聡も、一緒になって笑っていた。
「…あっ、そういえば」
ひとしきり笑い合った後、義一は私の方を向きながら聞いてきた。
「琴音ちゃん、昔は聡兄さんの事、”聡おじさん”って呼んでなかった?今日聞いてたら、”おじさん”とだけ呼んでたね?」
…本当によくまぁ、そんなくだらない事まで覚えているもんだなぁ。
などと、呆れるとも感心とも取れる感想を持った。 もっともこの時は、私自身も覚えていたということに、気づいてはいなかったが。
「…よく覚えてるねぇ、そんな昔のこと」
私は呆れ口調だったが、見えるか分からないまでも、笑顔で答える事にした。
「”聡おじさん”だと、何だか普通に会話する上では、かなり言い辛かったから”おじさん”って呼ぶ事にしたんだ」
「…ふふ、なるほどねぇ」
「何だよぉー、そんなクダラナイ理由だったのか?」
聡も運転席から話に加わってきた。
「もっとなんか理由があるのかと思ってたのによ」
「…ふふ」
「…ん?何?」
ふと、隣でクスッと義一が笑うので、私も微笑みつつ聞いた。
「どうしたの?」
「…え?…いや、何でもないよ」
義一は答えてくれず、もうすっかり暗くなった車内で私に、微笑んでくれてるだろう気配を漂わせるだけだった。私はこの時、ある事を思い出し、微笑み返したのだった。
義一の微笑みと、私が微笑んだ理由が、同じだったら良いのだけれど…。

この様な会話をしている間、車は暫く繁華街、都心部を走っていたが、会話にひと段落がつき、車外を見てみると、明かりの少ない路地を走っている様だった。何だか地元と雰囲気が似ていた。良くも悪くも何も無い、閑静な住宅地の様だった。チラッとスマホのモニターを見ると、時刻は五時半を過ぎるところだった。義一の家から四、五十分来た計算になる。都内の様だが、一般道をこんなに長く行く様な経験はまだ無かった。
そうこうしているうちに、聡の運転する車は、ある駐車場へと滑り込んだ。
エンジンを切り、聡がドアを開けたので車内ランプが点き、薄オレンジの柔らかい光が辺りを包んだ。
「…よし、二人共降りてくれ」
「うん」
私と義一は同様に返事をすると、お互いに近いドアを開けて外に出た。一応持ってきたミニバッグを忘れずに。
外に出ると、何の変哲もない駐車場だった。パッと見はコインパーキングに見えた。車の周りを見てみると、私達の以外に四、五台ほど停まっていた。尤もその台数で満車の様だった。無理すれば、他に何台か止められそうだったが、駐車を安易にするためか、スペースを示す白線が台数分しか書かれていなかった。どの車も線からはみ出る事なく、綺麗に停まっていた。
私は何故か気になったので、他の車の側まで近づき見てみると、正直車の知識はまるで無かったが、外車なのだけは分かった。駐車場に備え付けてある、一つだけの灯に照らされたその車達は、どれも黒か、黒と見間違えるほどの青だったりして、どれも何だか高級感が溢れていた。
「…おーーい、琴音ーー。いつまでそんな所にいるんだ?そろそろ行くぞーー?」
聡が駐車場の外に出て、義一と並んで立っていた。二人して私に手を振っている。
「うーーん、今行くーー」
私も間延び気味に返すと、そそくさと二人の元へ早歩きで近寄った。
「…よし、じゃあ行くか」
聡はそう言うと、街灯少ない路地を先頭切って歩いて行った。その後を、私と義一は追うのだった。
車の中からは気付かなかったが、ここは住宅地のど真ん中に位置しているような場所だった。当時は当然分からないし、気にもしていなかったが、駐車場までの道は一方通行だったようで、道の幅自体も、車が一台通ると、歩行者と自転車はかなりストレスを感じるくらいだった。聡の軽ならまだしも、あそこに停まっていた他の車では、ここまで来るのに神経を使うだろうと予想された。
…このような事に思いを馳せつつ、すぐに二人のどちらかに「ここはどこなの?」と聞こうと思ったが、そんな短い質問さえ出来ずに終わった。何故なら聡が歩き始めてから一分もしないうちに足を止めたからだ。すぐ後ろを歩いていた私と義一も、同じ様に足を止めた。
聡の視線の先を見ると、そこには古びた喫茶店が建っていた。いわゆる”純喫茶”と呼ばれていた形式のものだった。正面から見ると、この間お父さん達と行ったお寿司屋さんくらいのサイズだった。要は、幅がとても狭かった。三メートル程しか無かった様に見える。でもそれだけだったら、ただの小ぢんまりとした喫茶店だったが、ここは少し様子が変だった。中が見えるはずの大きな窓が一つあったが、真っ暗だった事だ。いや、それだけじゃなく、外観も正直、営業しているのかどうか疑わしい程寂れていた。そもそも看板も出ていない。少し迫り出した雨よけには、当時の名残なのか、店名らしきアルファベットが書かれていたが、時の流れに侵食されて、すっかり掠れてしまい、一文字も読めなかった。
とまぁ、軽く外観を眺めていたのだが、第一印象としては、…何だかレトロ好きの物好きがお金を叩いて、取り敢えず昭和の香りを残そうとしている風だった。まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物…いわゆる”トマソン”にしか見えなかった。そんな感想を覚えるくらいだから、内部に人がいる様な気配は感じなかった。

カランカラン。
聡がこれまたレトロ感溢れる磨りガラスが取り付けてあるドアを引くと、牛の首につける様なカウベルの音と共に開いた。聡が中に入るのを見て、私は少々得体の知れない感に気圧されて続けて入るのを渋っていると、背中をそっと押された。振り向くとそこには義一の微笑みがあった。義一は何も言わずに頷くと、またさらに優しく背中を押した。私はやっと安心出来たのか、促されるままに建物の中へと入って行った。
中に入った第一印象は、”一応ちゃんとしたお店なんだ”というものだった。これまた絵に描いたような、レトロなバーといった感じだった。店内には何処からか、小粋なジャズが流れていた。勿論私はお酒が飲めないので、実際には見たことがなかったが、絵里に借りて見た昔の映画でしょっちゅう見た事があった。だから変な言い方をすれば、”見慣れて”はいたが、どうも現実感が無かった。まるで映画のセットの中に、紛れ込んでしまったかの様な錯覚に陥った。
店内は比べるのはどうかと思ったが、あの寿司屋と大まかには似ていた。尤も内装の配置という点でだ。入ってすぐ左手にはカウンターがあり、イスが幾つか並んでいた。十とちょっとといったところだろう。テーブルも二つばかりあり、四人掛けらしく、椅子が四つ置かれてあった。計八つだ。カウンターとテーブル席両方共、誰も座っていなかった。カウンター内には、”それ風な”制服(?)を着た男女がいた。歳はいくつほどだろう、五十代と見られる男性が、何やら手元を見ながら作業をしていた。清潔感のあるカラーシャツに、黒の蝶ネクタイを締め、黒のカマーベストを羽織っていた。下には典型的な同色のソムリエエプロンを身につけていた。もう一人の女性の方も、着ている服自体は、側から見てると全く同じに見えた。ネクタイを締めていないというだけだった。恐らく男性と同じくらいの歳だと思うが、動きやこの店の雰囲気と相まって、年齢不詳な、いい意味で妖しい雰囲気を身に纏っていた。二人共、酸いも甘いもかみ分ける、人生の達人風であった。カウンター内の壁には棚が設置されており、所狭しとお酒のボトルが置かれていた。洋酒から日本酒、東西問わず揃えてある様だった。
店内は薄暗い明かりで満たされており、天井にぶら下がるシーリングファンはゆっくりと回転していた。そこに一緒に付いている数個の光源からは、柔らかなオレンジ色、つまり電光色の光を発していた。壁にもいくつか、アンティーク調のランプが掛けられていた。どれも朝顔を模した様な、同じ型をしていた。そこからも、天井からのと同じ色の光を発していた。この空間の光源はそんなものだった。なるべく最小限に抑えようとする意図が見えていた。が、これは勿論、節約がどうのとは全く関係が無い。店内の雰囲気を壊さない様にという、ある種の気遣いの結果だった。見ようによっては暗く感じるかも知れないが、初めて来た私でも、今くらいの薄暗さが”程良い”ということは分かる気がした。
奥には店の幅程の赤いカーテンが引かれており、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたボードが掛けられていた。中の特徴としては、そのくらいだろうか。
「…いらっしゃい」
聡がカウンターに近付くと、中で作業していた男は一旦手を止めて、顔を上げチラッと見ながら声を掛けていた。渋い声で、落ち着いた口調だ。
「おう。今日も世話になるぜ」
「ゆっくりしていってね」
女性も柔らかな口調で聡に声を掛けた。物腰はゆったりだったが、音楽の掛かる店内でもはっきりと響く声質だったので、私の耳にも聞こえた。聡は「おう」と微笑みつつ答えていた。
「…あら、義一さんもいらっしゃい」
女性は今度は義一を認めると、微笑みつつ言った。
「うん」
義一は側から見ると、かなり素っ気なく見える様な短い返事をした。が、その後二人がお互いに微笑み合っていたので、そういう態度が許容出来る程度には親しいことが分かった。
「…って、あら?」
女性は義一の後ろにいた私を見ると、若干声を明るめに調子を上げながら言った。
「後ろにいる可愛らしいお嬢さんは、どなた?」
「あぁ、この子はね…」
義一は軽く私の紹介をしてくれた。その言葉の中には、お父さんの事などは含まれていなかった。主にあの”宝箱”での、二人のやり取りについてだった。
と、今まで静かにグラスを拭いていた男性が、手を止めて私と義一の方に向きながら話しかけてきた。
「…義一さん、いいのかい?そんなお嬢さんを、この場に連れて来て?」
「…」
私はなんだかこの場に居るのがいけないと、暗に言われた気がして少し萎縮してしまった。
すると、今度は聡が男性に向かって底抜けに明るく笑いながら答えた。
「あははは!心配ないって。…俺がコイツを連れて来たんだから」
聡は何だか自信ありげだ。私はそれを聞いて、なんの根拠になるんだと単純に思ったが、男性は少々違ったようだ。
「…まぁ、その子を受け入れるかは他の方々が決める事だから、私からは何も言わないがね」
男性は渋い声で淡々と言った。聡は男性に無言で、悪戯っぽく笑うだけだった。
「はいはい、みんな、こんな所で立ち話もなんだから、三人共早くあっちに行って」
女性はまた落ち着いたトーンで、店の奥のカーテンを指し示しながら言った。あの”立入禁止”のボードが掛けられている所だ。
「あぁ、そうだな。じゃあ早速失礼するよ」
「うん。じゃあ行こうか、琴音ちゃん?」
「…う、うん」
聡が口火を切ると、義一が私に声を掛けてきたので、私はまだこの店内の雰囲気になれないままに、辿々しく返した。
聡はツカツカとカーテンのそばまで寄ると、ゆっくりとカーテンを横にズラした。そこには磨りガラスの両開きタイプのドアが現れた。ガラス越しに内部の明かりが漏れてきていた。こちらと灯の種類は同じな様だった。聡が両手を扉に掛けると、そのまま押しながら前に出た。扉は大きく開け放たれて、聡は振り返る事なく中へ入ってしまった。扉が自然に閉まろうとしたので、義一が片方のドアを抑えて、私を視線で中に入るように促した。私は厚意に甘えて義一より先に入った。
そこには広い空間が広がっていた。内装や灯りは向こうと変わらなかったが、何だか急に拓けた所に出たので、別の建物かと錯覚するほどだった。そこには長テーブルが二つと、ワインレッドのソファーがぐるっとそれを囲むように設置されていた。もし満席だったら、二、三十人は座れそうな程だった。天井にはスピーカーがぶら下がっており、そこからは向こうでも流れていたジャズが流れてきていた。あと、部屋の隅の方に、グランドピアノが置かれていた。蓋は閉められたままになっていた。…いや、ついついピアノに目が行ってしまったが、他にもドラムなり何なりと、多種多様な楽器とアンプ類も置かれていた。
その様な空間の中で、テーブルの一つの方に固まって、既に男女数人が座っており、にこやかに談笑していた。
「よっ!みなさん、お揃いで」
聡は人懐っこい笑みを浮かべながら、一群に近づいて行った。ソファーに座った人々は、聡に各々会釈なり挨拶なりしていた。
と、聡はソファーの一番奥に座った、年配の老人に顔を向けると、深々とお辞儀して見せた。
「…先生、今晩は。今日はお早いですね?」
普段のキャラとはまた違う、控えめな調子で挨拶した。すると老人は柔和な笑みを浮かべると、口調をはっきりに応えた。
「まぁね。…今日は久しぶりに、君から義一君以来の新しい人を紹介して貰えるっていうんで、早めに来たんだ。…あっ、義一君」
「先生、今晩は。お元気そうで、何よりです」
声を掛けられた義一も、聡と同じように深々と頭を下げてから挨拶した。
老人は綺麗に剃り上げられた頭を掻きつつ、苦笑いを浮かべながら応えた。
「…何が元気なものかね?今日も体が痺れてるってんで、漢方治療を受けてからきたっていうのに」
「それでもこうして、お酒の席に出て来るというのは、元気な証拠ですよ」
聡はニヤケながら返した。老人はバツが悪そうに、また頭を掻くだけだった。義一も笑っている。老人は小柄だった。座っているので詳しくは分からなかったが、それでも隣に座る男性よりも、ひとまわりか小さく見えた。老人だからというだけではあるまい。ジャケットを身に付け、ネクタイを締めてはいたが、フォーマルな服装では無かった。いかにも普段着だという風に着こなしていた。年のせいか皺が深く刻まれていたが、目鼻立ちがくっきりしていて、若かった頃はモテたであろう顔立ちをしていた。
と、老人はふと、私の方に視線を流した。そして興味深げにジロジロ見てきながら、ボソッと聞いてきた。
「…で、そこに控えめに立っている可愛いお嬢さんは、どこのどなたかな?」
「あぁ、そうでした」
義一はそっと、私の背中を押して来たので、それにつられて何歩か前に出た。老人以外に、この場にいた他の人々にもジロジロ好奇の視線を向けられていた。私の一挙一動を見逃すまいとしているかの様だった。
「…琴音ちゃん、自己紹介して貰えるかな?」
義一が微笑みながらそう聞いてきたので、私はこくんと頷くと、ソファーに座る顔顔を見渡してから、自己紹介した。
「…私の名前は、望月琴音と言います。…えぇーっと…今晩は」
私は他に何を言えばいいのか分からなかったので、間を埋めるように取り敢えず挨拶をした。
「…へぇー、じゃああなた、義一君の娘?」
私の挨拶を聞いた直後、老人よりも少し離れた位置に座っていた、少しふっくらとした小柄な女性が、立っている私と義一を見比べつつ聞いてきた。
隣にいた義一は一瞬ポカーンと呆けていたが、すぐに大きく首を横に振り、苦笑まじりに答えていた。
「いやいやいやいや、違うよ美保子さん。この子は僕の姪っ子、僕の兄さんの一人娘さ」
「へぇー、姪っ子なの」
「…なーんだ、美保子さん。聞いてなかったのか?」
老人はテーブルに肘をつきながら、意地悪くニヤケつつ言った。
「聞いてませんよぉー。聡君は『誰か連れて来る』としか。…ねっ、百合子ちゃん?」
「…えぇ」
”美保子”と老人に呼ばれた女性は、隣に座る女性に声を掛けると、”百合子ちゃん”と呼ばれた女性は、チラッと私の事を見て、静かにオドオドしながら答えていた。
薄暗い照明の中でもはっきり分かる程に、美人だった。目はずっと薄めがちで鼻は小ぶり、透き通るほどの色白具合、いわゆる薄幸美人といった印象だった。彼女も座っていたので、はっきりと断言は出来ないが、おそらく私と同じくらいの背丈だろう。でも、身に纏っているオーラというのか、何だか実際の背丈以上に”大きく”見えた。口調も物静かで、態度もどこかオドオドしているので、普通は目立たない筈だったが、最初この部屋に入ってまず目に付いたのが彼女だった。でもこの時、何故こんなに彼女に目が奪われたのかすぐに分かった。それは彼女の身に纏っているオーラが、絵里に借りて見ている、白黒映画時代の女優達と全く同じだったからだ。
「えぇ、聞いてない筈です」
聡は横から入るように、老人に話しかけた。
「何故なら義一の姪っ子だというのは、先生にしか教えてないからです」
「あぁ、そうなのかい?なら仕方ないね」
「…そろそろさ」
老人が頷きながら答えていると、老人と薄幸美人の間に挟まれるように座っていた、黒シャツを、胸元のボタンをいくつか開けてだらしなく着ている男が、黒縁メガネをクイッと持ち上げつつ言った。歳はおそらく還暦を過ぎたところだろうが、妙に若々しい格好をしていた。
「そんな所に立ってないで、座ったらどうだい?」
「あぁ、そうだね。三人共、好きな所に、楽に座ってくれ」
「はい」
促されるままに、既に座っていた面々と向かい合うようにしながら、老人に近い方から、聡、義一、そして私の順に座った。私の向かいには、”美保子さん”と呼ばれていた小柄の膨よかな女性と、”百合子ちゃん”と呼ばれていた美人さんが座っていて、美保子はニコニコ笑いながら、百合子は無表情のままにこちらを見てきていた。
「…さてと」
私達が座ったのを確認すると、黒シャツはテーブルの上の卓上ベルをチリンと鳴らした。するとすぐに、先程私達が通った扉が開かれ、そこからカウンターにいた女性が笑顔で入ってきた。
「どうしました、先生方?」
「あぁ、とりあえず、さっき注文した飲み物を、そろそろ持ってきて貰おうかな?ねぇ、神谷さん?」
黒シャツの男は、老人に”神谷さん”と呼びながらお伺いを立てた。
「そうだねぇ。…じゃあマダム、今来た三人にも注文取ってくれるかい?」
「はい、分かりました。…はい、どうぞ」
マダムは後ろにずっと持っていたのだろう、メニューを開いて、こちらが見やすいように反転させながら渡してきた。聡がそれを受け取った。メニューの表紙は茶色の革張りだったが、何も書かれていなかった。
聡、義一とすぐに注文が決まり、最後は私の番となった。義一から渡されたメニューを見ると、お店の雰囲気で察せられたことだったが、載っているのはお酒の名前ばかりだった。
私がそれでも何とか、ノンアルコールのものを探していると、義一も察したのか、ゆっくりと私からメニューを取り上げつつ言った。
「…あっ、そうか。琴音ちゃん、ゴメンね?…マダムさん」
注文をずっと待っているマダムに振り返りつつ、申し訳無さそうに言った。マダムも『あっ』という表情を浮かべると、私に苦笑まじりに軽くお辞儀をしながら言った。
「…あっ、そうか、ゴメンねお嬢ちゃん。全部お酒のこのメニューじゃ、飲めるものないよね?今、”昼間”のメニューを取ってくるから、少しの間待ってて?」
「…え?」
マダムの言葉を聞いた面々は、私の顔を見つつ、驚きの声を漏らしていた。
「あ、はい」
私はそんな周りの反応を無視しつつそう答えると、マダムはニコッと笑いつつ早歩きで部屋を出て行った。そして一分とかからぬうちに、別のメニューを持ってきた。手渡されたメニューの表紙は抹茶色一色で、赤字で”数寄屋”と書かれていた。開いて見ると、飲み物は勿論のこと、サンドウィッチなどの軽食までが載っていた。本当によく見る喫茶店のメニューのようだった。色々ある中で、結局無難なアイスティーを頼むことにした。様々な種類のホットティーがあったが、周りがみんなお酒なのを考えて、自分だけが湯気の立つ飲み物では変だろうと、妙な気遣いをした結果でもあった。
「…はい、かしこまりました。ではみなさん、少しばかり待っていてね?」
マダムは私からメニューを受け取り、そう言うと、また一度笑みを浮かべてから部屋を出て行った。
マダムが出ていくのを見計らったかの様に、美保子が私に話しかけてきた。
「…あれ?あなた、お酒はダメな人?」
「…はい?」
あまりに想定外の質問が飛んで来たので、失礼ながらも気の抜けた返事をしてしまった。
「…ぷっ」
隣に座った義一は吹き出したかと思うと、少し愉快そうに、私の代わりに答えるのだった。
「いやいやいや。美保子さん、何を勘違いしてるか知らないけど、この子、琴音ちゃんはまだ中学一年生なんだよ」
「…え?」
また一同が私を一斉に凝視した。老人と聡だけはニヤケていたが、それ以外は呆け顔だ。
「…はぁー、見えないわね」
美保子は私に視線を向けながら、体を隣の百合子に寄せつつ言った。
「…えぇ」
話しかけられた百合子も、私を凝視しながら短く返していた。
「…ふーん、今時こんな子も、まだ居るんだなぁ」
黒シャツの男も、遠慮なく私に疑惑の視線を向けてきつつボヤいていた。
「…へぇー」
隣の方からふと声が聞こえたので、少し上体を前に倒して見ると、老人と聡の間に座っていた、ロマンスグレーの髪を真ん中で分けた、目が始終ぎょろぎょろ泳いでいるような、パッと見近寄りがたい雰囲気を持った男性がコチラを、これまた遠慮なく凝視してきていた。恐らく六十は越えているのだろうが、正直年齢不詳だった。さらに異様に映ったのは、この中で唯一の和服、着物を着ていたからだった。部屋に入って来たときは、ソファーの背もたれに体の大部分が隠れていたし、何だか初対面で周りをジロジロ見渡すのもなんだと思い、よく見ていなかったから気づかなかった。私は軽く会釈すると、また元どおりの体勢に戻した。
…ここまで聞いてくれた人は察してくれていると思うが、この集まりはかなり奇妙奇天烈なものだった。まず誰一人として、”普通”の雰囲気を持っている人がいなかった。
義一とはまた違った、得体のしれない異様な雰囲気を身に纏っていた。それぞれの主張激しいオーラが、この部屋の中で見えない形で鬩ぎ合っているかのようだった。でも場の雰囲気がピリピリしているわけでもなく、むしろこの場を流れる空気はかなり緩やかなものだった。 ”普通”の人から見たらどうかは知らないが、義一で慣れているせいか、居心地の良さのようなものを感じていた。少なくとも、お父さんに連れられて行った社交の場よりかは、比べ物にもならないほどだった。

しばらくして、部屋に男性とマダムが、トレイを乗せたカートを押しながら入ってきた。そこには多種多様な飲み物が乗っていた。まず男性とマダムが手分けして、各々の前にコースターを置いた。そして男性がトレイから、一番奥に座っている老人から順に、グラスに入った日本酒を、老人の右隣に座るロマンスグレーの男性、黒シャツの男性という順に置いていった。それを見たマダムは、美保子、百合子の順に、まず空のグラスを置き、カートの上からワインボトルを取り出すと、コルクを手慣れた手つきで開け、グラスに注ぎ入れたのだった。私は当然よく分からなかったが、その洗練された動きに見惚れて、事の次第を見つめていた。と、私の視線に気付いたマダムは、ボトルの口を整えながら微笑みかけていた。ふと隣を見ると、聡と義一の前には、既に冷えたビールジョッキが置かれていた。
「…はい、えぇーっと…琴音ちゃん、だよね?はい!どうぞー」
マダムは私の前にアイスティーを置きながら言った。
「あ、はい。有難うございます」
私が辞令的に頭を軽く下げると、マダムは一瞬キョトンとしていたが、途端に笑顔になり、首を横に振ってから、トレイの上を整理している男性に視線を流しつつ言った。
「うふふふ。お礼なら、あそこに居るマスターに言ってね?今の時間はお酒以外は出した事がないから、急だったんで準備してなかったんだけど、こうして作ってくれたんだからね」
マダムは最後にウィンクをくれた。このマダム…、見た目や口調のトーンなどから判断するに、冗談を言いそうにない感じだったが、意外におチャラけたキャラクターのようだった。
私は笑顔で頷くと、マスターの方に振り返り、微笑みつつ「有り難うございます。頂きます」と感謝の意を伝えた。マスターはこくんと小さく頷いただけだった。目元も変化は無かったが、ふと口元を見ると、若干口角が上に向いているようだった。どうやら微笑んでくれてるみたいだった。個人的な事で言えば、何だか律のことを思い出して、こんな所で感情を表に出さない人の感情の動きの察し方が生きるとは、思ってもみなかったので、一人で愉快な気持ちになっていた。

「…えぇー、ではみんな」
老人は着座のまま、手にグラスを持ちつつ、一同を見渡しつつ声を掛けた。
「今晩もよく集まってくれた。…まぁ、約一名まだ来てないようだが、あいつが遅れて来るのは、いつもの事だろう。いや、そんな事は置いといて、いつもなら何も言わず乾杯するのだが…」
老人はここまで言うと、ジッと私のことを見てきた。顔には微笑を湛えている。他のみんなも、釣られるようにしてこちらを見てきた。義一と聡までもだ。皆それぞれの思いを顔に出していた。老人は続けた。
「久しぶりに新しい人が来てくれたと言うんで、何か一言言おうと思ったが、何を言うんだったかなぁ…」
「…先生よぉ?」
老人が言い淀んでいると、黒シャツの男性が呆れ声を出しながら口を挟んだ。
「あんまり長いと、酒が不味くなっちまうぞ?」
「そうですよ、先生」
聡も乗っかった。老人は二人に一瞥を投げたが、不意に悪戯小僧宜しくニヤケ顔になった。
「…まぁ、そうだな。…では、新しい訪問者が、新しい同士になってくれる事を祈って…乾杯」
「かんぱーい」
老人の挨拶と共に、各人隣にいた人とグラスやジョッキを軽くぶつけ合った。私は義一と聡とぶつけ合ったが、ふと向かいに気配を感じたのでそちらを見ると、美保子がこちらに笑顔を向けてきながら、ワイングラスを差し出してきていた。遅れて百合子も、身を乗り出す様にして同じ様にグラスを向けてきていた。顔には微笑を湛えている。私は少し照れ臭くなったが、二人の好意に甘える様にしてグラスを当てた。それからは流れ作業の様にこなしていった。ふと背後に気配を感じたので、振り返り見ると、ロマンスグレーの男性がこちらを見下ろす様にして、何も言わずにジッと見つめていた。流石の私もびっくりして戸惑ったが、手に持ったグラスをゆっくりとした手つきで向けてきたので、私も笑顔を意識しつつ軽く当てた。
男性は満足そうに初めて目を細めると、何も言わずに席に戻って行った。
「…お嬢ちゃん、俺ともだ」
急に話しかけられたので、声の方を見ると、黒シャツの男性だった。私が部屋に来た時から、この男性は苦虫をかみ潰した様な表情で見てきたので、てっきり初対面から理由なく嫌われていたのかと思ったが、どうやらこの人の素の表情がそれらしい。これが分かるまで少し時間が掛かった。男性はわざわざ立ち上がると、バランスを保つため、テーブルに左手をつき、右手に持ったグラスをこちらに、目一杯腕を伸ばして向けてきた。私もその場で立ち上がり、グラスを同じ様に目一杯伸ばしてぶつけた。男性はニヤッと笑うと、満足そうに目を瞑りながら座った。私も同じく座ろうと思ったが、まだ奥の老人としていないことに気付き、義一と聡の前を失礼して、近寄って行った。
老人は丁度、美保子と百合子と順に乾杯していたところだった。そして二人が去った時を同じくして、私が老人の側まで寄った所だった。
老人は私に人懐っこい笑顔を向けながら、声を掛けてきた。
「…ようこそ、我々の集まりに」
と言いながら、グラスを軽く前に突き出してきたので、何て返せばいいのか迷ったが、
「…は、はい。…宜しくお願いします」
と言うと、コンっとガラスを当てたのだった。老人は何も言わずに、笑顔を絶やさずこちらを見つめてきていた。私は足元を注意する様に、下を見ながら元の席に戻るのだった。

「…さて」
老人は私が座ったのを確認すると、一同を見渡しつつ話しかけた。
「さっきも言ったが、今日は久し振りに新しい人を迎えたんだから、彼女に自己紹介をしていこうじゃないか。…誰からいこうか?」
「…それなら」
黒シャツの男性が私を見つつ言った。
「やはり、新顔からするのが筋でしょう?さっきは義一君の姪っ子としか、分からなかったし」
「ん、そうか…琴音ちゃん」
老人は柔和な笑みを浮かべつつ、私に声をかけてきた。
「そういう訳だから、一応君から自己紹介して貰えるかな?」
「は、はい。…えぇっとー」
私は一度軽く咳払いをしてから、着座の上で言った。 尤も、内容をわざわざここで話すほどの事はない。先程のマスターとマダムに義一が説明したような事を、少しだけ補足して紹介しただけだったからだ。
私が話している間、義一や聡まで含んで、一同が耳を澄ませて黙って聞いていた。ただ好奇な視線は一様に向けられていたが。
私が言い終え、その場で座ったまま軽く頭を下げると、早速向かいに座る美保子が、真ん丸な顔に笑顔を湛えながら話しかけてこようとしたが、老人にピタッと遮られた。
「…美保子さん、質問は我々が自己紹介してからにしよう。夜はまだまだ長いんだから」
老人は笑顔だ。
「…はーい」
美保子は頭の後ろに両腕を回しつつ、間延び気味に答えた。
そんな様子には気を止めずに、老人はまた一同を軽く見渡しながら言った。
「…さて、琴音ちゃんが若いにも関わらず、理路整然とした自己紹介をしてくれた訳だけれども、我々の中では誰からしようか?…あ、義一君と聡君は必要無いよね?」
「はい」
義一がすかさず答えた。
「…じゃあ、レディーファーストでいいんじゃないかな?」
黒シャツの男性が左隣に固まって座る、美保子と百合子を見つつ言った。
美保子は男にジト目を流しつつ、口調も不満げに返した。
「…ふん、なーにが”レディーファースト”ですか?都合の良い時だけ、そう言うんですからねぇー…まぁいっか!じゃあ百合子ちゃん、私からでいい?」
「…えぇ、構わないわ」
百合子は消え入りそうな声で応えた。それとは反対に、美保子は笑顔で大きく頷くと、向かいの私へ向きながら、陽気な調子で自己紹介をした。
「…ゴホンっ。私の名前は岸田美保子っていうの。”美保子”って呼んでね?」
「は、はい、美保子さん」
私は勢いに戸惑いつつ返した。初めて見た時から感じていたが、背丈は私より十センチ以上低そうに見えるのに、ふっくらしてるのもあるのだろうが、迫り来る様な威圧感があった。本人は始終笑顔でいるにも関わらずだ。口調の荒い黒シャツよりも、断然迫力があった。
私が名前を呼ぶと、「あははは!ヨロシクねぇー!」と、美保子は目の前にいる私に、まるで船を見送るかの様に大きく手を振っていた。
「美保子さんはね?」
ふと、隣に座る義一が話しかけてきた。
「今日はたまたま日本にいたから、この集まりに来れたんだ。…うーんっとねぇー…」
義一はここで一度区切ると、腕を組みつつ言い澱んでいた。…が、すぐに私と美保子を見比べる様にしてから、先を続けた。
「美保子さんはね、シカゴとニューヨークで活動している、ジャズシンガーなんだ」
「へぇー」
私は途端に美保子に興味を持ち、熱い視線を彼女に送った。
見つめられたのに照れたのか、美保子は少し決まりが悪そうにしつつ言った。
「…まぁねー。琴音ちゃん、あそこに楽器が色々とあるでしょ?」
美保子は私に顔を向けつつ、視線だけ先程話した部屋の奥に流した。
「あそこでね、興が乗ってきた時なんかは歌ったりするんだよ。…まぁ、この集まりで、私の歌う曲を演奏出来る人がいないから、私がヘボピアノを弾きつつ歌うんだ」
「へぇー」
私はいつだかの様に、簡単な相槌だけを打った。関心無いように見られないために、スパイスとして、笑顔だけは絶やさない様にした。
と、ここで、不意に義一が、私の背中に軽く手を触れると、美保子に向かって意気揚々と話しかけた。
「…そうだ!さっき琴音ちゃんは言わなかったけど、この子、めちゃくちゃピアノが上手いんだよ。ストレッチのいる様な協奏曲でもなんでも、軽々と弾きこなしちゃうんだから」
「ちょ、ちょっと義一さん!」
私は慌てて義一を窘めたが、遅かった。美保子の顔に、興味の色が強く出てきたからだ。
「へぇーー!…義一みたいな”粋人”が、身内とはいえ、そこまで褒めちぎるんだから、上手いんでしょうねぇー」
そう言う美保子の目は、どこか品定めをする様でもあったが、その目を途端に細めつつ、明るい笑顔を浮かべながら言った。
「じゃあさ!別に今日じゃなくても良いけど、お互いに興が乗った時に、あそこで二人で演奏しましょう?楽譜もあるし、協奏曲が弾けるくらいなら、簡単に一目でイケると思うし。きっと楽しいわよー?」
「…は、はい。…考えときます」
そう応じる私は、顔は正面に向けつつ、視線だけ隣の義一に向けていた。勿論非難めいた視線だ。肝心の当人は”気付かないフリ”をしていた。視線に気付いても、悪戯っぽく笑うだけだった。
「あははは!うん、考えといてねぇー!…さて次は」
美保子は、右隣に座る、チビチビと赤ワインを飲んでいた百合子に、ニヤニヤしながら声をかけた。
「お待ちかねの、百合子の番ね?」
「…誰が待ちかねてたのよ?…まぁ、いいや」
百合子は薄めがちの目を私に向けてきながら、自己紹介を始めた。
「…えぇっと…私は百合子、小林百合子っていうの。…うん、私の事はどうとでも呼んでくれて構わないのだけど、…うん、じゃあ美保子さんみたいに下の名前で呼んでね」
「…はい、拍手ーー!」
百合子が言い終えるのと同時に、美保子がそう言いながら、笑顔で拍手をし出したので、私を含む一同は、戸惑いつつも拍手をした。
「はいはい、お疲れーー!…琴音ちゃん、この子はね?」
美保子は百合子の肩に腕を回しつつ、声をかけてきた。当の百合子は、気にする風でもなく、またチビチビとワインを飲むのだった。
「実はね、こう見えて…っていうか、ある意味見たまんまかな?百合子ちゃんはねぇ…女優をしてるの」
「…へ?女優さんなの?」
私は思わず声を上げると、マジマジと改めて百合子の顔を見た。
…なるほど。先程見た目の印象は話したと思うが、女優をしているというのは至極納得出来ることだった。繰り返し言えば、百合子が身に纏っているオーラが、映画全盛期時代に活躍した、往年の大女優達と似通っていたからだ。よく見ると、目元には程よく涙袋が有り、それがまた色気にアクセントを入れていた。
前にも言ったが、私は正直、昔からだが全くテレビを見ないせいか、今時の流行りのタレントを誰一人として知らなかった。…あるとしても、紫などから雑誌を見せて貰ったりするだけで、その雑誌に載ってる人物の動いてる所を見たことが無かった。でも一つだけ確実に言えることがあった。それは、見せて貰った男女問わないタレント達には、どれもピンと来なかったことだ。色々異論はあろうけど、言わせてもらえれば、絵里に見せて貰った往年の女優達のプロマイドと比べると、あまりにも貧相なオーラしか纏っていなかった。…いや、そんなのでも纏っているのがマシなくらいだった。大半はそこら辺にいる”素人”と、見分けが付かない”一般人”ばかりだった。こう見えても私は、少しは空気が読めるから、紫達の会話に合わせていたけど、正直何でわざわざお金を出してまで、”素人”のやる事を、見たり聞いたりするのか不思議でしょうがなかった。
…いや、話を戻そう。変に通ぶって恥ずかしい限りだが、恥を忍んで言わせて頂ければ、百合子は今時のどんな女優と比べても、”良い意味”で異色だった。私は初めて、”今生きている”女優に対して興味を持った。
「…琴音ちゃん、悪いんだけど…」
百合子は、この薄暗い明かりの下でも分かる程に、ほんのりホッペを赤らめつつ言った。
「…そんなに見つめられたら、流石の私も照れて困るわ」
「…あっ、ごめんなさい」
と私が素直に謝ると、百合子は口元をフッと緩ませた。演技では無い、自然な”微笑”だった。
私はドキッとした。勿論その色気満載の微笑に対してだったが、もう一つ理由があった。
それは義一の事だった。前に絵里が話してくれた義一のタイプ、”色気のある女性”、百合子がズバリそれじゃないかと思ったからだ。余計な気を回していることは重々承知だったが、私は恐る恐る、チラッと義一の方を見た。義一は、百合子と美保子の方を、微笑ましげに見ていたが、それは普段と変わらぬものだった。
私が一人頭を軽く振っていると、ふと黒シャツが話しかけてきた。
「…お嬢ちゃん、コイツを侮っちゃあいけねぇぜ?今の姿だけを見てな」
「…え?い、いやぁ、私は…」
急に何を言い出すんだろうと、私がドギマギしていると、
「…ちょっとマサさん?琴音ちゃんはそんな事、一言も言ってませんけどー?」
と美保子が、間に挟まっていた百合子越しに、男に声を掛けた。さっきと同じジト目だ。
だが”マサさん”と呼ばれた男は、美保子を相手にせず、そのまま私に話を続けた。
「コイツをお嬢ちゃんは知らねぇかなぁ?いっ時は、端役だがテレビドラマを中心に出たり、CMにも出てたりしてたんだけどよ?」
…端役?百合子さんが?こんなに存在感を持ってるのに?
私は信じられないと、”マサさん”には目をくれず、百合子の方に視線を向けた。当の百合子は、私と視線が合うと、少し照れ臭そうに苦笑するだけだった。
私はマサさんに視線を戻しつつ、ボソッと言った。
「…そうだったんですか?もし見た事があったら、百合子さんの事は忘れられないと思いますけど」
「…!ちょ、ちょっと、琴音ちゃん!」
と、急に聞き覚えのない大きな声がしたので、思わずその方を見ると、何と百合子だった。
…いや、”何と”と思うのが間違いなのだろう。当たり前だ、何せ彼女は女優なのだから、今までの会話してた様な声量じゃ、流石にいくら上質なオーラを持っていても、演技にならないだろう。
百合子は戸惑いの表情を浮かべていたが、面白い程に、急に先程までの薄幸な表情に戻ると、
「…そう言ってくれて嬉しいんだけど、目の前で衒いもなく言われると…照れるわ」
と言いつつ、最後には朗らかな笑みを見せた。今度は私の方がどう反応をしたら良いのかと困っていると、
「…あははは!しょうがないよ、マサさん」
と、義一の明るい笑い声に、空気を切られてしまった。まぁ助かったから良しとした。
「ん?どういう事だよ?」
「それはねぇ…」
義一は先を言う前に、『自分で言うかい?』的な視線を向けてきた。すぐに察した私は、何も言わずに頭を横に振るだけだった。
そんな私の様子を見て、義一は一度私に微笑みかけると、マサさんに向き直り先を続けてた。
「だってそもそも、琴音ちゃんは全くテレビを見ないんだよ。いつもピアノの練習をしているか、そうじゃなきゃ僕の所から借りた本を読んだり、白黒時代を含む古い映画を見たりしてるんだから」
「…へぇー」
と反応したのは、何と聡を除く全員だった。そして一同がまた、私に視線を集中させた。私は訳が分からず、縮こまる他に無かった。
「そうなんだぁー…変わってるねぇ」
美保子があっけらかんとした調子で言った。
「…えぇ、私達も他人のことを言えないけど」
続けて百合子も、私に微笑みかけてきながら言った。
「…なるほどなぁー。でも、そっかぁ」
マサは腕組みつつ、うんうん頷いていたが、腕を解くと先程の体勢に戻してから続けた。
「それなら百合子のことを知らなくて当然だなぁ。…しつこい様だが、舞台上でのコイツは凄いぞ?」
マサはそう言うと、隣に座る百合子の肩に腕を回した。百合子は拒むのでもなく、そのままにしている。
私はこの様子を見た時も若干ギョッとしたが、それ以前からマサの百合子に対する態度に違和を感じていた。ここまで聞いてくれた人なら分かると思うが、マサの百合子に対する態度が、あまりに近い様に見えたからだ。”コイツ”呼ばわりをしていたり、また当の百合子が、それを難なく受け入れている様だった。これを見て、この二人に何かあるんじゃないかと、邪推しない方が無理ってもんだ。
そんな考えが頭を過ぎっていたが、そんなの関係なしに、マサは話を続けた。
「その変貌ぶりには、共演者や演出者、終いにゃ脚本、監督までもが度胆を抜かれるんだから」
マサは顎をさすりながら、しみじみと言った。
「お嬢ちゃんは分かるかなー…舞台前に稽古をするんだが、そん時に”本読み”ってのをやるんだ。コイツがそうさなぁー…なぁ、俺達が初めて会ったのって、お前が幾つの時だっけか?」
「え?…あ、はい…そうですねぇー」
不意に声を掛けられた百合子は、人差し指を顎に当てつつ、視線を天井に流しながら考えていたが、
「…確かアレが私の初舞台でしたから、十五歳くらいだったと思いますねぇ…今からもう二十五年前にもなりますか」
と、マサに視線を戻してから答えた。
…え?二十五年前?…って事は…。
私はまた、百合子の容姿をジロジロ眺めてしまった。そしてポロっと、思ったことをつい口走ってしまった。
「…あれ?って事は、百合子さんって今、…丁度四十歳なの?」
「…え?」
私の言葉に反応した百合子は、私の前で初めて大きく目を見開いた。やはり、私の見立て通り、見開いた目はとても大きかった。
いや、そんな事はともかく、私自身も言ってしまった直後に、後悔した。いくら私でも、女性に年齢の話を、不躾に聞いて良い事じゃないのは、世間の常識として知っていたからだ。
私は百合子の視線に耐えられなくなって、スッと逸らすと、気付けば一同が私にことを凝視していた。義一と聡までもだ。私は目のやり場に困り、終いには軽く俯いてしまったが、その直後、向かいの席からクスクス笑い声が聞こえてきた。私がその笑いの主を見ようと顔を上げると、何とその主は百合子だった。そしてそれを合図にするかの様に、その場の一同もクスクスと笑い出すのだった。私一人が、何事かと呆けていた。
百合子は軽く握った手の甲を、口元に軽く当てながら、少し顔を逸らし気味に笑っていた。
と、私の視線に気付いた百合子は、私に初めて柔和な笑顔を見せてきながら言った。
「…ふふふ、そうよ、今年で四十になったの。結構おばさんでしょ?」
「…え?あ、い、いえ!全然!全くそうは見えませんよ!」
私はまさかの反応にしどろもどろだった。よく近所のおばさんなどが、この手の返しをしていたが、それは自虐に見せかけた、上辺だけの事で、その言葉からは、本心では無いと言うメッセージが見え隠れしていたが、百合子さんのそれは違っていた。あくまで自然体だった。嫌味も衒いもなかった。
「…ふふ、ありがとう」
百合子は両目を静かに細めつつ、笑顔で言った。
「…ふふ、そうねぇ」
隣でにこやかに、私達二人のやりとりを見ていた美保子が口を開いた。
「百合子ちゃんも今年で四十かぁー…。私も歳を取るわけだわ」
「…ふふ、まぁ美保子さんと私はそんなに歳が違わないけどね?確か…四つ上でしょ?」
百合子はまた、私の見たことの無い、悪戯っぽい表情を浮かべながら美保子に言った。
「そうよぉー?」
そう答えた美保子は、何故かふくよかな胸を大きく前にせり出させながら、誇らしげにしていた。
「もうね、やーーっと四十代に成れたから、ここ数年嬉しくて楽しくてしょうが無いのよ!思った通り、今が一番充実してるしね」
「ふふふ、美保子さん昔から言ってたものね?」
「…え?どういうこと?」
私はまた、ふと思った疑問を、そのまま口から滑らせてしまった。しかもほぼ初対面の相手に対して、タメ口でだ。…我ながら、締まりの無い口で辟易とする。呆れるしかないが、言ってしまったものはしょうがない、”なんでちゃん”をコントロールしきれていない私は、取り敢えず空気を読まずに質問をぶつける他無いのだ。またあくまで直感だったが、普段の”普通”の人付き合いと違って、この場なら”なんでちゃん”でいても、許されそうな雰囲気を感じた。普段何とか抑えられているのも、私の意志の力が強いと言うよりかは、周りの環境に影響されているからなのだと、この頃くらいから自覚し始めていた。
そんな事はともかく、先ほどの例もあったので、変に萎縮することも無いだろうと、質問後も二人の顔を直視していた。
すると、美保子と百合子は一度顔を見合わせると、ニコッと一度笑い合い、また私に顔を向けると、笑顔のまま美保子が私に語りかけてきた。二人共、タメ口の私の馴れ馴れしさに、嫌な顔を一つ見せなかった。
「…ふふ、それはねー、こういうことなの。…これは私の持論なんだけどね?」
「うん」
私は気持ち前に体を倒しながら聞いた。美保子は一度ワインで口を濡らすと、先を続けた。
「同じ芸をしている琴音ちゃんにも、良かったら参考にして貰いたいけど…こうなの。結論から言うとね?芸というのは恐らく、四十を越えだしてからやっと円熟してくる様なものだと思うの。これは私や琴音ちゃんに関係してる音楽だけじゃなく、絵画や彫刻…それに演劇にしてもね?」
そう言うと、美保子はまた先程のように、百合子の肩に腕を回した。百合子は笑顔でチラッと美保子の顔を見ると、味わうようにワインを飲んでいた。
美保子はゆっくりと百合子から離れると、また先を続けた。
「もちろんね、四十というのは、あくまで参考ではあるんだよ?まぁ付け加えればね、大体遅くても十代のうちから芸事を始めたとして、その一芸を毎日毎日鍛錬を欠かさず積んでこれたとしたら、初めて四十になって円熟期に入れるって思うの。…あっ、勿論、円熟期に入ったからって、もう鍛錬しなくて良いという訳じゃなくて、今まで通り、日々休まずに続けなくちゃいけないんだけど、前よりかは充実感を感じられるようになってるから、以前よりかは苦痛じゃなくなってるのよ」
美保子はそう言い切ると、私に一度ウィンクをして見せてから、ワインを一口飲んだ。
「…なるほど。…美保子さんの言いたい事は、初めて聞いたのに素直に理解出来たけど、それでも他に何か裏付けがあるんでしょ?」
私も美保子に倣って、アイスティーをストローからチビっと啜ってから聞いた。もうすっかり調子に乗って、タメ口が常習化していた。
「…ふふ」
美保子はプッと軽く吹き出してから、クスクス笑うと言った。
「琴音ちゃん、あなた、まだ中学に入りたての年齢なのに、随分小難しく、ややこしい言い回しをするんだねぇ。まるで…」
美保子はチラッと、視線を義一に逸らしながら言った。
「どっかの誰かさんみたいだわ」
そう言われた当人は、愉快げにニヤケているだけだった。
これ以上からかってても意味無いと、一方的に打ち切ると、美保子はまた視線を私に戻し、先程の問いに答えた。
「えぇっと…そうそう、裏付けがあるかって質問だったよね?…うんっ!勿論、あるよー」
美保子はとても楽しそうにしていた。
「まぁさっきも言ったように、全てに当てはまるわけでは無いけどね、少なくとも二十世紀に入ってから活躍した偉人達は大体ね、三十代までを四苦八苦しながらもがき苦しみ抜いて、それで四十になってから、深みのある作品を作り上げていたのよ。それこそ、琴音ちゃんの浸かっているクラシックでも、また私のいるジャズ界でも、…まぁジャンル分けなんかする事自体、私は大反対なんだけど、まぁ総じてそんな感じなのよね」
「へぇー…あっ!」
私は美保子の話に納得しかけたが、ふとある事実を思い出したので、そのことについて意見を聞いて見ることにした。
「でも美保子さん?」
「ん?何かな、琴音ちゃん?」
私が質問してきたのを、心から歓迎するかのように、笑顔で返してきた。
私はカバンからメモ帳を出したい欲求に駆られたが、少し不躾だと思い、頭の中で必死に整理しつつ聞いた。
「えぇっと…うん、さっきも言ったように、美保子さんの意見には、概ね賛成なんだけど…そうそう、ジャンル分けをして、徒にその間に溝を作ることに対する意見にもね」
「…ふふ、私の意見に、あなたの意見を加えてくれて有難う」
美保子は興味が湧いてくるのを、隠そうともしないで、表情柔らかく先を促した。
「う、うん。…私は何となく理由は分かってはいるんだけど、ただ言葉にして説明出来ないの。…それはね、例えばモーツアルトがいるでしょう?確かモーツアルトは三十五歳で亡くなってるよね?美保子さんの説にはちゃんと”二十世紀では”って入っているから、”十八世紀”に生きていたモーツァルトを持ち出すのは厳密には当然違うんだけれど、これは一つの興味として、もし美保子さんが、『四十に入る前に、彼があれ程の曲を生み出せたのは何故だ?』って仮に聞かれたとしたら、なんて答える?」
私の質問している間、気付くと一同が私達二人の様子を静かに見守っていた。話を途中で切られた形のマサさんまでもが、興味深げに、時折頷いたりしながら聞いていた。
質問を聞き終えると、てっきり少しは悩むのかと思っていたが、美保子は途端にニヤニヤしつつも、私に感嘆の意を示してきながら言った。
「…へぇー、流石、義一君と聡君が連れて来ただけの事はあるねぇ。この歳で、キチンと自分の感じた疑問点を、己の持ってる知識で補い整理してから、改めて相手に疑問をぶつけるなんて、しかも歳の離れた相手に堂々とやれるとは…中々出来る事じゃないよ?」
「…」
私は不意に褒められたので、少し照れつつ、軽く俯きながらうなじ辺りを手で撫でていた。直接は見ていなかったが、この場にいたみんなも、軽く頷いたりしながら、美保子の意見に同意の意を示しているのが、気配で感じられた。
照れている私を他所に、美保子はそのまま私の質問に答えるのだった。
「…うん、確かに、分かりやすいところで言えば、モーツァルト。…彼は確かに三十五で亡くなっているよね?でも、琴音ちゃんは言わなかったけど、あれ程のクオリティーの高い曲を、この世に送り出している。…今あなたが補足してくれたけど、あえてまた言えば、確かに私は二十世紀に限定して言ったわ。…勿論これは、今、つまり二十一世紀にも当てはまるって事。では、それ以前は?十九世紀の所謂”ロマン派”の時代、十八世紀の、モーツァルトや、それだけじゃなく、ハイドン、ベートーヴェンなどが活躍していた”ウィーン古典派”の時代…当然もっと順に遡っていけば、大バッハまでの”バロック”、それ以前にもどんどん遡れるわけだけれど、これ以上はキリがないから割愛するとして、…そうねぇ、…琴音ちゃん?」
美保子はツラツラと以上の事を言いながら、思い出すように顔を斜め上に上げていた。
間に挟んで、今の話を聞いていた私の感想を言えば、素直に感心していた。
美保子自身が言っていた、ジャンル分けをする事自体に疑問を持っている事、それをただの”疑問”で終わらせるような真似はせず、口先だけではなく、ジャズの世界に身を置きつつも、己の信念通りに他ジャンルの方面にも、しっかりと視野を広げていたからだ。これは口で言うほど簡単な事ではない。私としては、普段は何と無く意識に上らないレベルで感じていた疑問を、今日こうして明らかにされた、これだけでも大収穫だったが、合ってるかどうかは分からない…いや、そもそも”答え”があるのかすら疑わしい大問題を、普段から不断に悩み続けているからこそ、こうして私からの急な質問にも、途端に返す事が出来る、その美保子の、有言実行な姿勢を垣間見れたのにも感心していた。
私はそんな想いを心に秘めつつも、真っ直ぐな視線を美保子に送っていた。
美保子は不意に、右手でピースサインを作って見せつつ、先を続けた。
「…この話をする上で、二つ大事な論点があると思うの…って、そうだ、先生?」
これから核心部に入ろうって時に、美保子は急に話を打ち切ると、老人の方を見ながら、若干苦笑まじりに聞いた。
「…そういえば、すいませーん。今ってただの自己紹介をしましょうって事でしたよね?…琴音ちゃんのせいにするのも何だけど…」
美保子は私に、悪戯をした後のような、気恥ずかしそうな笑みを向けていた。
そしてまた老人に顔を向き直しつつ、続けた。
「この子があまりにも的確で、痒い所に手が届く様な質問をしてくれたものだから、空気を読まずに持論を展開してしまいました。…しかも、まだ途中なんですが…どうしましょ?」
美保子はそう言い終えると、控えめに舌をベーっと出して見せた。
美保子からの言い訳を聞いた老人は、すぐに笑顔になりながら、愉快だという調子で返した。
「いやいやいやいや、美保子さん。確かに今は自己紹介って話だったし、美保子さんの芸談は、これまでも何度か興味深く聞かせて貰っていたけど、最近は聞いてなかったから、これを機会に、そのまま話を続けてくれるかい?」
「あ、はい…でもー」
美保子は老人にそう言われ、ホッとした様な表情を浮かめていたが、
「先生を含めて、まだマサさんと、勲さんの紹介がまだなのに…」
と、マサさんと、着物の男に視線を向けつつ言った。
「…俺?あぁ、俺はまだ良いよ。というより、俺の話が途中で切られた形になっちまったが、面白い話を聞かせて貰っているからよ、ここまで来たら最後まで話してくれ。…なっ、勲さん?」
「…うん、二人共」
”勲さん”と呼ばれた着物の男性は、少し前に乗り出しながら、私と美保子さんを交互に見つつ言った。
「…そのまま話を続けて」
そう短く言うと、また元の体勢に戻った。
「…という訳だから、二人共、そのまま議論を続けてよ」
老人は両隣の男性陣を見てから、陽気な調子で言った。
美保子は少し恐縮しつつも、笑顔で軽く、老人やマサさん、勲さんに会釈をしてから、私に改めて顔を戻すと、先を続けた。
「ではお言葉に甘えて。…ゴホン、では琴音ちゃん、あなたに質問されたから、私なりの考えを披露するとね、さっきの続きだけれど、二つの視点から考えられると思うのね?」
「うん」
私は早く先を聞きたい一心で、余計な相槌は打つまいと、短く返したのだった。
美保子は続けた。
「まず一番分かりやすい点から。…琴音ちゃんは既に先程の口ぶりから見ると、もう知ってるみたいだけど、敢えて確認の為に言えば、モーツァルトはもう…それこそ、物心がつく前からチェンバロを弾き始めていたよね?」
「うん」
「それが確か三歳くらい…で、五歳の頃にして、初めて作曲までしていた…」
「…うん、アンダンテ Cメジャーだったよね?…この時は確か、お父さんが楽譜に起こしたはずだけど」
「…」
私がそう言うと、美保子は大きく目を見開いて、こちらを凝視してきた。大袈裟でもなんでもなく、心底驚いている様子だった。
そして美保子は、ため息交じりに私に声をかけた。
「…いやいや、琴音ちゃん、あなたは本当に心から音楽が好きなんだねぇー。…知識の量だけでは測れないけれども、それでもこうした何気無い会話の中で、パッとそういう知識を思い出せるというのは、誤魔化しようのない証拠だと思うよ」
「え、あ、い、いやいや!…美保子さん、私のことはどうでも良いから、早く先を続けて?」
私は相変わらず、褒められることに耐性がまるで出来ていなかったので、早く逃れたいが為に、無理やり話を戻す様に仕向けた。
美保子は、そんな私のあたふたしている様子を微笑ましく見てから、また先を続けた。
「あははは。…うん、でね、まずこの幼少期から才能を徐々に開かせて言った訳だけれども、…これは琴音ちゃんも知ってる様に、一重に、ザルツブルクの宮廷作曲家で、かつヴァイオリニストだった、父、レオポルト・モーツァルトの教育のお陰でもあった訳だよ」
「…うん、我が子アマデウスの為に、ヴァイオリン奏法って名前の理論書を書いているくらいだもの」
私はまた、美保子にあれこれ言われるだろう事を恐れていたが、知っているだけの知識は全部話してしまいたいという悪い癖が抑えられず、ついつい又、口を挟んでしまった。
ここでまた、私の事を話させて頂くと、今言ったレオポルトの本、実は私は既に読んだ事があった。勿論それは、師匠経由でだ。
先程、美保子に感心したという文脈で、芸談がどうのという話をしたと思うが、当然師匠とも、それこそ数え切れない程に芸談をした事はあった。あの昼の中休みの時にだ。ただ師匠との会話というのは、いわゆる”音楽”に限定されたもので、”芸”そのもの、本質に関してというものでは無かった。でもここで慌てて付け加えさせて貰えれば、何も師匠が細かい些細な問題ばかりに目がいく様な、近視眼的な人間と言いたいわけでは無い。師匠がこうした、本質的な話をしてこなかったのは、私が思うに、まず基本的な技術を身に付けなければならない間は、そういった話をするには時期尚早と考えての事だと推測している。
それはともかく、受験が終わった辺りから、私は意識的に、ピアノのレッスンに益々打ち込み出した訳だが、あらかたの課題曲を弾き終えたくらいから、師匠がこの様な本を貸してくれる様になっていった。つまり、繰り返して言えば、師匠が私に貸し与えてくれていたのだ。ただ、まだ未熟の私には、エッセイや日記、書簡なら兎も角、古来から受け継がれてきた様な、珠玉の芸の極致が記されているような本を読み切るのは難しすぎたので、それらについては師匠が色々と優しく解きほぐす様な、事細やかで分かりやすい注釈の書かれたメモ用紙を、ページの間々に挟んで入れてくれていた。お陰で何とか読破することが出来たのだ。
因みに、レオポルトのだけではなく、これまでも、大バッハの次男坊…実際は三男らしいが、”ベルリン、ハンブルクのバッハ”と称される、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの『正しいクラヴィーア奏法』、かのフリードリッヒ大王のフルート教師として有名な、ヨハン ヨアヒム クヴァンツの『フルート奏法』、バロック期のフランスの作曲家、フランソワ・クープランの『クラブサン奏法』を読み終えていた。今は進行形で、一気に時代が遡り、アリストテレスの門弟であった、アリストクセノスの『ハルモニア原論』を、勿論師匠の注釈付きで読んでいる所だった。
当たり前の事を繰り返すようだが、これらの本は、全て師匠の蔵書だった。私への注釈もそうだったが、それ以前から、ページの余白に、師匠のものらしき書き込みがあちこちに散見された。つまり、師匠も修行時代に、今私が読んでいる本を、丹念に読み込んでいたという訳だ。そんな努力の跡に対し、師匠は「汚くてごめんね?」と照れ臭そうに笑いながら言っていたが、私としては、尊敬する師匠がこんだけ努力をしたんだというのを、肌身に感じることが出来て、見る度にヤル気を湧き上がらせてくれていた。
と、ここまで話が長くて恐縮だが、中にはこうおっしゃる方もいると思う。『何でピアノを弾いているお前が、他ジャンルの本をそんなに読む必要があるんだ?もっと他に、やることがあるんじゃないか』と。こういった意見は一般論としてあろうけれども、ここまでの話を慎重に聞いてくれた方には、私がどう返したいかは、簡単に推測できると思う。
そう、それは美保子との話にも関連してくる訳だが、つまりこうだ。『そもそもジャンル分けをすること自体が、馬鹿らしい。一つの事だけを、他の事には一切目をくれずにやろうとすれば、必ずどこかで限界が来る。深く掘り下げて行こうとする為には、道具がいる。その道具というのは、掘り下げて行こうとするモノ自体ではない。その他の、一見何の関係も無いような、他ジャンルの中にこそ、転がっているものだ』という事だ。これは、私が若干脚色しているが、この言葉は実は、師匠が以前に私に話してくれたことだった。ある意味、師匠が話してくれた、唯一と言っていい”本質的な芸”についての話とも言える。
と、ここで、初めて聞いた人には、反発を買うかも知れない。『そんなこと言ったって、”広く浅く”よりも、”狭く深く”がいいに決まっている。限界が有ろうと無かろうと、”専門家””スペシャリスト”でなければ、いかんじゃないか』と、私の話を理解せぬまま、ツッコミを入れてくる方もいようと思う。ではこの話は、ある戦後日本を代表する哲学者の言葉を引用して、失礼しようと思う。
『広く浅い知識がなければ、深く一つのことを知れない』


話を戻そう。美保子もしつこく何度も言及することも無いかと思ったのか、私に一度大きく笑うと、そのまま先を続けた。
「うんうん、そう、その通り!だからモーツアルトは、お父さんからの英才教育の元、メキメキと実力を蓄えていった訳よね?勿論、彼自身に才能がなければ、無理な話だけれど。…まぁ、一つ目についての結論めいたことを言えば、古の偉人達というのは、大方、英才教育を受けてきたか、そうでなきゃ、大バッハと同時代のヘンデル、時代が後だけどワーグナーみたいに、己自身を教師に見立てて、妥協をしないで独学で努力し続けてきた訳だけど、だからこそ早い時期に円熟に達することが出来たと言えると思うの。…一つ目の理由としては、これで終わりだけれど、取り敢えずは納得してくれたかな?」
美保子がそう聞いてきたので、私はすぐに大きく頷いてから、
「うん、それに関しては、異論は無いよ」
と笑みを浮かべつつ返した。美保子は私の反応に、満足そうに微笑んでいた。
「それで、もう一つというのは何なの?」
私はすかさず、質問を続けた。
すると、美保子の方でも待ってましたと言わんばかりに、即座に答えてきたのだった。
「うん、もう一つというのはねぇ…当然全ての話は繋がっているから、一つ目の理由と関連しているのだけれど、それはねぇ…一口に言ってしまえば、”時代”という事になると思うの」
「時代…」
「そう、時代…」
美保子はここで、話っぱなしで乾いた喉を潤すように、ワインを一口啜ると、先を続けた。
「十九世紀までというのは、琴音ちゃんも義一君から借りた本なんかで知ってると思うけど、ずっと当時の人々のすぐ側には、いつでも”死”が横たわっていたよね?まず生まれて来るまでが命懸けだし、生まれてからも、今と違って劣悪な環境下で、幼い頃に命を落とすなんてことは、ざらにあった訳でしょ?モーツァルトは確か、七番目の末っ子だったはずだけど、上の兄弟の五人は幼児期に亡くなってしまって、残ったのは姉一人だった。…そんな中、人々はいつでも、嫌でも死を意識しながら、生きていかなければならなかった」
…前に義一さんや、絵里さんと話したのと同じ話だ。
私はその時の情景を思い出しながら、美保子の話を聞いていた。
「察しの良いあなたなら、もう、私が何が言いたいか分かると思うけど、つまりこういう事なの」
とここで言葉を切ると、一度溜めて見せてから、静かに先を述べた。
「…確かに今、特に二十世紀以降の大戦後の世界は、大きな戦争もなく、途上国などでは餓死や何やらと問題は山積みだけれど、先進国は命の危険という意味では緩和されているよね?でもね、そのお陰で、誰も普段の生活の中で、死を認識出来なくなっちゃっているの。…するとどうなると思う?」
「…死を普段から考えない人は、何か一つのことに対して、真摯に努力しなくなっちゃうと思う。…だって、別に”今”何か必死に努力しようとしなくても、明日になったらやれば良いや…いや、明日やらなくても来週、いや来年、いやもっと先って、呑気に惰性に”ただ”生きてく他に無くなっちゃうから。…だって、まさか明日死ぬなんて、その人達は思っても見ないんだから」
話を振られたと思ったので、私はすかさず、過去での義一と絵里との話を思い出しつつ、私見を織り交ぜながら、慎重にゆっくりと言葉を紡いだ。その間、一同は真剣な面持ちで、私の事を凝視していた。どちらかというと、見守っていると言うより、品定めをしているような視線だった。当然向けられた私としては、居心地が決して良くはなかったが、それでも何とか言いきった。
それからほんの数秒だろうか、スピーカーから鳴っていたジャズの音色が、遠のくような錯覚に陥っていたが、フッと表情を和らげたかと思うと、美保子が口を切った。
「…ふふ、まさしくその通り。よくその歳で、そこまで死のことを認識し、考えられたね」
「え、あ、いやぁ…」
私一人では無い、この場で言えば、義一との会話のお陰だと返したかったが、ふと覗き見るように義一を見ると、義一の方もこちらを見てきたが、その顔は何も言わなくて良いよと言いたげな、柔和な微笑を浮かべていた。周りを見渡すと、一同が一人残らず私に、義一と同じような優しい微笑みを送ってくれていた。
「そう、いや、今の世に生きていたって、死を認識して生きていく事は可能だけれど、それはかなりの労力を要する。…外からの要因に頼れれば、それが一番楽で良い方法なのだけれど、そうもいかないとすれば、自分で自分を追い込む他に無くなる。…でもこれは、口でいうのは簡単だけれど、いざやろうとすると、とても一筋縄では行かない。…だって、外的なものだったら、耐え切れなくなったら逃げれば済む話だけれど、内的要因、つまり自分からは、どうやったって逃げる事は出来ない」
「うん…」
私は囁くように、同意の声を出した。
「…でもまぁ」
美保子は、先程までの緊張感あふれる声のトーンを変えて、あっけらかんとした、自己紹介をしていた時のような口調に、途端に戻すと、苦笑まじりに言った。
「それを呪っても仕方ないしねぇー…、そんな世の中に生まれてしまったんだから、取り敢えず嫌々ながらも、己を自ら追い込みつつ、技芸を磨いていくしか無いんだよねぇー」
「…はい、私もそうしたいと思っています」
私は真剣さを見せようと、後で少し小賢しかったかと思ったが、丁寧語を使いつつ、美保子の顔を真っ直ぐ見て返した。
そんな私の様子を見て、美保子も、ついでに視界に入っていた百合子の目も大きく見開かれていたが、二人ともほぼ同時に目元を緩ませたかと思うと、美保子が微笑を浮かべつつ言った。
「…ふふ、まぁ取り敢えず、『何故昔の、名の残る偉人の成熟が早くて、現代の芸を志す者の成熟が遅いか?』問題は、これで一応収束を見たという事で…琴音ちゃん含めて、みんなも良いかな?」
美保子はそう話を結ぶと、一同を一通り見渡した。
すると、今まで美保子の隣で、黙って聞いていた百合子が、微笑を湛えつつ発言した。
「…ふふ、久しぶりとは言え、美保子さんの芸についての認識は、枝葉の違いはあっても、本質的な、根っこの部分では、この集まりに来るような人たちの間では、共通の認識だと思うよ?…今回初めて来た琴音ちゃんが、賛同してくれるかどうか 、それに掛かってるんじゃないかな?」
百合子はそう言うと、私の方を向いて、ニコッと柔らかく微笑んできたのだった。
百合子は先程来ずっと、声を上げるほどではないにしても、笑顔を見せることが多くなっていた。尤も、ずっと”芸”についての話題が続いていたからかも分からない。
私はそんな百合子の様子を見て、美保子ほど多弁では無いにしても、心の奥には、芸に対する情熱の炎を、密やかに燃え上がらせているのを感じ取れた。
「…そうだな」
百合子に続くように、今度はマサさんが声を立てた。
「ここに集まる奴等ってのは、各々身を置いている世界は違っても、”芸”と言う点においては同じにしてるからな。…あ、そうそう」
マサさんは大袈裟にハッとして見せると、私に悪戯っぽい笑みを向けてきながら言った。
「申し遅れたな。俺の名前は石橋正良。たまに映画を撮ったりしているが、本業は脚本家だ。今までを見てればわかるだろうが、俺は人から”マサさん”って呼ばれている。…だからお嬢ちゃん、お前も俺の事を、マサさんって呼んでくれな?外でなら良いんだが、この空間で、”石橋さん”とかみたいに、他人行儀に言われると、違和感しか感じないからさ。よろしく頼むよ」
「は、はい。…マサさん」
急に馴れ馴れしく言うのもなんだと思ったが、本人立っての希望とあれば仕方ない。私はそう呼ぶと、今まで不機嫌そうな表情だったのが、クシャッと顔のシワを寄せるような、好々爺の笑みを一瞬見せてきた。
そしてその後すぐに不機嫌そうな表情に戻したが、正直やっと、マサの雰囲気に慣れてきた。先程も言ったが、どこか他人を値踏みするかのような視線を、ずっと向けてきていたので、初対面の人に向けるようなものかと、正直内心イライラしていたが、こうして向こうが心を開いてくれると、中々にあのべらんめぇ口調が、こちらの緊張を緩ませるのに貢献しているのに気づいた。
「…あれ?って事は…」
私は不意にある事に気付き、顔はマサさんに向けたまま、視線を百合子に向けつつ聞いた。
「百合子さんと、マサさんって何か関係が?」
「…ん?」
マサは一瞬あっけに取られたような反応を示したが、ふと隣に座る百合子の方を向いた。百合子の方でもキョトンと私の方を見ていたが、ほぼ同時にマサの方を向いたので、二人は向かい合う形になった。と、不意にマサがクスッと笑うと、私に顔を戻しつつ答えた。百合子も微笑ましげに私を見てきていた。
「あははは!まぁ、普通に考えて、同じ場に、脚本家と役者が居れば、何か関係があるように思うのは当然の事だな。俺と百合子の関係?…そりゃぁ勿論、あり、あり大有りだよ。…さっき、俺がコイツの事を話していた時、初めて見た時の印象を話しただろ?」
マサはまた、馴れ馴れしく百合子の肩に手を置いた。百合子は、いつもの事だと、一顧だにしない。
「うん」
「その舞台の脚本を、俺が手掛けていたんだが、要はコイツの初舞台に俺が深く関わっていたって事だ。それ以来、何故か付かず離れずの関係が続いていてな、お互いの都合が合う時には、舞台でも映画でも、ドラマでも一緒に仕事をする機会が増えていったんだ。…コイツの話を信用すると、もう二十五年の付き合いになる訳だ」
そう言い終えると、マサは百合子に笑顔を向けつつ、肩をポンポンと叩いていた。百合子は何も言わず、やらせるままにしていたが、顔はこれまた、柔和な笑顔だった。もしかしたら、二人は心の中で、今まで一緒にしてきた仕事を、思い返していたのかもしれない。
…だから初めの時、舞台だとか、本読みがどうとか言ってたのねぇ。
私は一人納得しつつ、それは口に出さずに置いた。
「…さて、折角自己紹介の流れに戻ってきたのだから、順番的に勲さん、次はアンタの番だよ」
「…そうだね」
勲さんはボソッとそう答えると、少し前のめりになりつつ、聡と義一越しに私の方を向きながら言った。
「…僕の名前は、川島勲。…しがない物書きをしています。呼び方は、何でもいいよ…よろしく」
勲はそう短く言うと、またソファーの背もたれに凭れかかる様にして座った。
「…は、はい、よろしくお願いします」
思ったよりも短く終わったので、今までと違う意味で戸惑いつつ、私からも返した。
「…勲さんはね」
やれやれといった調子で、先程まで一言も喋らず大人しかった聡が、不意に私の方を向きつつ、話しかけてきた。
「自分で”しがない物書き”って言ってたけど、要はこの人は、小説家なんだ。…この人、昔に大きな賞を獲って文壇に踊り出たんだけど、その賞はな…」
聡が言ったその賞は、とても有名なものだった。明治の文豪の名前が冠された賞だった。昔から続く賞だったが、今だに若手の小説家にとっての憧れとなっていた。
「…でな、この先生、本名の川島勲名義で書いているんだが、お前は知らないか?」
「…え?えぇっと…」
私は一応思い出そうとする”フリ”をしていたが、そもそも思い出せる訳が無かった。それは…
「…ごめんなさい。…だって、私って、物心ついた時から、義一さんと再会するまでは、お父さんに買ってもらった”世界文学全集”と”日本文学全集”を読んでいただけだったし、再会後は、義一さんから、これまた古い本ばかりを借りて読んでただけだから…すみません、存じ上げてませんでした」
最後の方は、本人を前にして何て言えば分からなかったが故の、苦しい言い方だった。
勲は、私が『ごめんなさい』と言った時から、また身を乗り出すようにしつつ、顔だけを私に向けてきていた。そしてあのぎょろぎょろした目付きで、私の言葉を注意深く聞いていたのだった。何も考えずに勲の様子を見たら、私の発言に対して怒っているかの様に見えただろう。実際、私も、怒っているとまではいかないまでも、不機嫌にはなっているかもくらいには思っていた。
私が言い終えてからも、体勢を変えずに、目を見開きつつ私を凝視してきていたが、フッと目元を緩ませたかと思うと、話しかけてきた。
「…ふふ、それでは知らなくて当然だね。…うんうん、いや、それで正しいと思うよ?…勿論、僕の本を読んだことがない、いや、僕の名前すら知らないというのは、寂しい限りだけれど」
「…ご、ごめんなさい」
私が慌てて、また非礼を詫びると、勲は首をゆっくりと横に振って、柔らかな笑みを浮かべつつ言った。
「いやいや、さっきも言った通り、構わないんだ。…そうか、義一君に薦められてねぇ…」
勲は一瞬、義一の方に視線を流してから、また私に戻した。
「…うんうん、流石は義一君と言いたいところだけれど、それについて行く、ちゃんと読み込んで行こうとする、琴音ちゃん、君も今時の子としては、色んな意味で並外れているね」
「…え?あ、いや、そんな…」
マサの時もそうだったが、まさか私を褒めてくる様には見えなかった御仁に言われると、どうしたって戸惑わずには居れなかった。
自分で言うのは馬鹿馬鹿しいが、義一含むその周りの人達は総じて、私のことを褒めてくれていたが、まるで慣れる気配は無かった。
他の人なら、もしかしたら不用意に素直に喜ぶのかも知れないが、これで何度目になるか、私は自身に対して、微塵も評価していなかったから、褒められれば褒められるほど、居た堪れない気持ちになるのだった。
私の照れている姿をどう見たか、勲はそのまま何気無く言葉を続けた。
「…うん、他の子達が出来るかどうかは兎も角、早い時期、そう、大体小学生の間には、所謂古典文学に触れて置くのが、とても大事なんだ」
…前に義一さんが話してくれた事と、同じ内容だ。
「…あ、先生」
勲はここで言葉を止めると、ふと、隣に座る老人に目を移し、少し申し訳無さげに言うのだった。
「…先生、また少し話しがそれてしまいますが、どうしましょう?」
問われた老人は、すぐに顔中に微笑を湛えると、口調もそれに合わせるが如くに言った。
「あぁ、構わんよ?こうして、話がどんどん逸れていく…これも、我々らしいからね」
そう言い終えると、明るい笑い声を発するのだった。それに釣られる様に、一同もクスクスと笑うのだった。私まで釣られた。
勲は老人に感謝の意を伝えると、私にまた向き直り、先を続けた。
「せっかくなんでも吸収出来る時期に、今時の、内容薄くて分かりやすい、大して読解力の無い読者を相手にしている様な、所謂”大衆文学”、そればかりをいくら読んだって、上質な”センス”を培うことが出来ない」
「上質なセンス…」
私は、それが大事なキーワードだと察したので、改めて自分の口で呟いてみたのだった。そして、これ以上は、頭だけで整理するのは難しくなりそうだと判断した私は、おもむろにカバンから、メモ帳と筆記用具を取り出して、今言った様なワードを書き出していった。ここで慌てて言い訳をさせて頂く。今が初めてではなく、先程も散々パラ、美保子と芸談をしていたのに、その時にはメモを取らなかったのは何故かという事だ。これに対する答えは簡単だ。美保子と話した内容は、常日頃から、私が考えていたことでもあったからだ。勿論、その中身には、師匠や義一との会話で出た事も、織り交ぜていた。なので、美保子の話し方にも助けられた部分があったのだろうが、私はただ、頭の中で整理した考えを、相手に合わせて披瀝しつつ、深めていけば良かっただけなので、そこまでメモの必要性を感じられなかったからだ。…いや、それでも、メモを取っても良かった、むしろ正直に言えば取りたい気もあったが、それは前にも言った通り、いきなり初対面の方々の前で、いきなりメモを取り出すのもなんだと思ったからだ。しかし今回は、そうもいかなそうだった。
勲が触れた内容、これは何度か義一と話していた事ではあったが、彼は小説家、私と義一とは、また違った視点を見せてくれるんじゃ無いかと思い、遂にメモを取ろうと決心したのだった。
ふと、中々勲が話を進めてくれないので、顔を上げると、勲だけではなく一同が、一斉に私の手元を、黙って見てきていた。私はそんな周りの状況にギョッとしたが、それとは反対に、一同は私と目が合うと、それぞれ各様の微笑みを浮かべるのだった。
そしてその後、ますます私を仰天させる事が起きた。勲が着物の胸元、その内側から、表紙が和紙で繕わられたメモ帳を取り出したのだ。私が呆気に取られているのを無視して、また胸元を弄り、ペンを取り出した。そして、私に一度笑みを浮かべると、何かを軽くメモりつつ先を続けた。
「そう、上質なセンス。だから、琴音ちゃん、君がさっきチラッと言った、子供向けの文学全集を、和洋問わずに読んだり、義一君の蔵書を読んだりするというのは、とても大事な事なんだ。それら上質な文章を読むことによって、読解力が身に付き、もっと難しい本に出くわしたとしても、恐れ怯えず、また読み違える事が少なく済ませる事が出来るんだ。…だから」
勲はまた、ギョロギョロした目つきを和らげて言った。
「僕の書いた小説を読む暇があるなら、そういった古典を読む方が、よっぽど君の人間形成に役に立つのだから、それで構わないって事さ」
そう言い終えた勲の表情は、今日一番の柔らかさだった。私は、そんな勲に合わせて微笑み返したが、ふと、やはり気になってしまったので、触れざるを得なく、質問せざるを得なかった。
私は顔を、メモ帳に落としながら聞いた。
「…勲さん、さっきから出ているキーワード…”上質なセンス”…そのー…センスって何ですかね?」
私は最初、勲のことを何て呼びかければいいのか迷ってしまった。本人が自己紹介の時、何でもいいと言ったからだった。なので仕方なく、一同が揃っていってる呼び方に、私も合わせる事にしたのだった。
勲は少しばかり腕を組み、考えて見せたが、義一含む他の方々は、私と勲を交互に見つつ、とても愉快だと言いたげな笑みを浮かべていた。今更だが、この場に集まる人達というのは、こういった話が大好きなようだった。
勲は漸く腕を解くと、先程出したメモ帳に、何かを軽く書き付けてから、私に話しかけた。
「センスねぇ…あ、いや、先程の、美保子さんと君の会話を聞いていて、恐らくこの話題に、食らいついてくれるんじゃ無いかと思っていたんだ。試す様な真似してゴメンよ?…うん、そうだねぇ…琴音ちゃん、君は”センス”を、どう捉えてるかな?」
「…そうですねぇ」
私は急に話を振られたが、特に慌てることは無かった。今更説明する必要もないだろうが、一応言えば、絵里のおかげで、何か質問する時には、予め、考えたり調べたりしていたからだ。そして、試行錯誤をしても納得いく結論が出ない時には、それを義一を含む、誰かに質問して、議論の材料にと、ストックをしていたのだった。丁度”センス”は、そのストックしていたモノの一つだった。
「…私は先程紹介して頂いた通り、芸の道を志している者ですが、まずぶつかる疑問の一つが、コレだったんです。…センス。…これは言葉として存在している限りは、”意味”が当然ある訳ですよね?私達がこうして会話出来るのも、その言葉一つ一つについて、共通の意味を理解しているという前提があるから、成立する訳ですけど…、この”センス”に限らないけど、何だかこの手の話になると、途端に、『それは人それぞれだから』だとか、それで議論を打ち切られちゃうんです。…あ、いや」
私はここまで話したが、ふと、勲の質問からずれてきていることに気付き、少し恥ずかしくなって、打ち切ってしまった。
「…すみません。話が段々逸れて、答えるつもりが、ただの愚痴になってしまいました」
そう私が照れながら言うと、勲は静かな声で優しげに声をかけてきた。
「…イヤイヤ、興味深いから、続けて?…ねぇ、先生?」
「あぁ、そうだね」
勲に話しかけられた老人は、先程から変わらない、人懐っこい笑みを崩す事なく、私に向けていた。
「琴音ちゃん、そのまま先を話して?」
と老人が先を促すので、一度他の人々を見渡してから、静かに話を続けた。
「は、はい。えぇーっと…あ、そうそう、いつも議論をそこで打ち切られちゃってたんですけど、でも、そんなの全く納得出来なかったんです。…だって、”センス”というのも、言葉である限り、例外なく、他の人と共有している…いや、すべき意味があるはずなのに、それを『人それぞれ』だなんて言っちゃうと、何だか…すごく虚しくなる気がするんです」
「虚しくなるねぇ…。琴音ちゃん、そこら辺を、もっと詳しくお願い出来るかな?」
老人が、私に声をかけてきた。表情はさっきと変わらなかったが、よく見ると、目の奥にだけ、真剣な鋭さを宿していた。それを見た私は、生半可な言葉は許されないと感じ、少し頭の中で思考を吟味しつつ、促されるままに続けた。
「はい…。えぇっと…だって、みんなで共通の言葉を話して、理屈だけではなく、感情のやり取りも、言葉を中心にやりとりしている…その話している言葉の解釈を、根っこの本質的な意味を話し合おうというのに、それすら放棄されてしまうと、…うーん、上手く言えないけど…それじゃあ、私達が普段話している事って何なんだろうって思っちゃうんです。…人それぞれと言ってしまえば、何言っても無意味じゃないかって…はい」
流石の私も、勲さんと話していたつもりだったから、急に、老人に話し掛けられて、しかも、虚しさの要因を尋ねられるとは思っても見なかったから、こればかりは一発本番で答えざるを得なかった。中々難しい質問だったけれど、私が何気なく言った”虚しさ”こそ、今の議題の本質的な部分だと気づいた。何とか返した後、それに気づいた瞬間、パッと、視線を老人に向けた。相変わらず目の奥に、鋭い眼光を宿していた。一同から”先生”と呼ばれていたこの男性、パッと見は笑顔の絶えない好々爺の典型みたいな御仁だったが、中々に鋭いなと、素直に感嘆していた。と同時に、どこか義一と似た雰囲気も、今更ながら感じたのだった。
老人は、静かに日本酒で唇を濡らすと、表情そのままに話しかけてきた。
「ふんふん…なるほどねぇ…。いやいや琴音ちゃん、君くらいの年齢で、こんな概念的な問題に関心持てるのは、並大抵の事ではないよ?…まぁ、本人としては照れるだろうから、賞賛はこの辺りにして…うん、君の意見に訂正するところは無いと思うけど、少し付け加えてみてもいいかね?」
「は、はい、お願いします」
私は何故か、少し緊張していたが、とても心地良かった。この感覚も、義一と二人で議論している時に、酷似していた。
老人はふと、テーブルの上に置いてあったナプキンを何枚か取ると、いつのまに出していたのか、ペンで何かを書いたかと思うと、視線をそこに落としつつ、口を開いた。
「その虚しさだけど…何から言えばいいかなぁ…琴音ちゃん、少しばかり難しくなってしまうけど、構わないかね?」
「えぇ、もちろん、一向に構いません」
私は力強く頷きつつ返した。
老人は一瞬、くしゃっとした様な、愛嬌のある笑みを作ったかと思うと、またすぐに表情を戻して続けた。
「ありがとう。ではお言葉に甘えて…その”虚しさ”についてだけど、いま君が言った様なことは、昔の偉人達も同じ様に悩んで、苦しんでいたんだよ」
「…」
老人は、私が話についてくる意思があるのかを、確かめる様に、ここで一呼吸を置いたが、私は、そんなの言うまでもない、早く先を続けてと言わんばかりに、何も言わずジッと、真剣な視線を送った。
察してくれたのか、一度ニコッとして見せてから先を続けた。
「チラッと聞いただけだけれど、君は義一君の蔵書を、沢山読み込んでいるらしいから、話すのが楽なんだけど、そんな君なら分かるだろう?…昔…特に十九世紀に生きた、いわゆる知識人だけでなく、芸術家から何から、”共有していたはずの価値観”を失い、途方に暮れていたというのを」
「…はい」
老人に、意見を求められた様な気がしたので、私は義一から借りた、数多の本達を思い出しつつ答えた。
「十九世紀の初頭に生まれたという意味で、フランスでは”レミゼラブル”のユゴー、アメリカではポー、ロシアで言えば、西欧化とスラブの間に厳然と存在した矛盾と葛藤した、ゴーゴリに始まり、言うまでもなく、ドストエフスキー、トルストイ…いや、もう、名前を挙げたらキリがないけど、みんな総じて、その当時の人々が、頭で理解していたかどうかは兎も角、どの人の書く作品も、その時代の世相を浮き彫りにした様な作品だらけですよね?」
私は途中から、『これだけ本を沢山読んでます』自慢と、受け取られかねないくらいに、読書遍歴を披露しそうになったのを、なんとかギリギリの所で押し留めた。
そこいらの恥ずべき人種に見られていないかと、内心ヒヤヒヤしていたが、老人はまた私にニコッと笑うと、その後を受ける様に続けた。
「…あぁ、その通りだね。途方に暮れつつも、それでもその時代に生まれてしまっている。…そんな疑いようの無い事実に、真っ向から、大した武器を持たないというのに、ドンキホーテよろしく、ガムシャラにぶつかって行って、そして当然の如く、当たって砕けた訳だね。…いや、そんな細々とした事を話したかった訳ではなく、昔から…特に、具体的に言えば、ルイ16世が処刑されることになった、あのフランス革命以降から、世の中にいわゆる”虚しさ”…言い換えると”虚無感”…もっと言えば、”ニヒリズム”が、欧州を中心にジワジワ広がって行ったんだよ」
「…」
私は、老人の話している事を、後で何か新たな疑問が生まれた時に質問しやすい様に、自分なりに解釈しつつメモを取っていたが、ふと顔を上げると、何と、この場にいる一同、聡を除く、美保子と百合子までが、いつの間にか各々メモ帳を取り出して、私と同じ様に何かを書き込んでいた。私は当然、唖然としたが、今はそんなことより、老人の話に頭が占められていたので、そんな些細な事に、わざわざ突っ込む気が起きなかった。
「人名で恐縮だが…」
老人は、また日本酒をチビっと舐めると、話を進めた。
「かの有名なニーチェの、これまた有名なセリフが思い出されるね?ニーチェは”ニヒリズム”の事を、こう表現していた。『近代人の、戸口に立つ不気味な訪問者』とね」
「…不気味な訪問者」
私は、当然ニーチェの名前は知っていたし、実際に、義一の”宝箱”の中でも、全集があるのを見た事があったが、まだ義一としては、私に貸すのは時期尚早と考えていたらしく、まだ実際に読んだことは無かった。義一と話している時でさえ、軽く名前が挙がる程度で、詳しくは聞いた事がなかったから、今老人が話す内容に、益々心が奪われていった。
老人は続けた。
「そう、まぁニーチェの名前を出したのは、分かりやすいからというだけだけれど、ニーチェに限らず、当時の”至極真っ当な”哲学者なり思想家は、この”ニヒリズム”に、どう立ち向かおうかと四苦八苦していた訳だね。…うーん」
老人は、ここで一度、自分のメモを覗き込みながら唸り出した。ほんの数秒間、それを見つつホッペを掻いていたが、ふと私に顔を向けると、苦笑まじりに言った。
「…いやはや、久しぶりに一から話そうと思うと、中々上手くいかないものだねぇ…そういえば」
老人はふと、隣に座る勲に顔を向けると、照れ臭そうにしながら言った。
「勲さん、すまんねぇ。…ついつい私の悪い癖で、その時に最も関心のある話題が出て来てしまうと、横から入り込んで、色々と議論をしたくなってしまうんだ」
「…イヤイヤ、先生」
勲は、ギョロつく目を、心から呆れた様子で細めつつ、口調も合わせる様にして返した。
「先生の、その感じは、いつもの事ですから、今更断らなくても大丈夫ですよ?」
「あははは」
勲がそう言うと、一同も呆れ顔ではあったが、明るく笑うのだった。
「いつも勉強になりますし」
と、今までずっと静かだった義一が、老人に尊敬の眼差しを向けながら言った。
そんな義一の言葉に、老人は照れて、益々バツが悪そうにしていたが、それを誤魔化すかのごとく私の顔を直視すると、話を続けた。
「いや、義一君ありがとう。…さて、琴音ちゃん、このニヒリズム、今までの我々の議論の中で、大まかにはどういうものなのか、ハッキリせずとも輪郭が見えてきた様に思うんだけれど、どうかな?」
老人はまた先程の、目の奥に鋭い光を宿しながら見つめてきたので、私は今までの話を吟味しつつ、また手元のメモ帳を見ながら慎重に言葉を吐き出すように言った。
「はい…私の疑問と、これまでの話を合わせてみると、私の言う虚しさ、…せ、先生の言われるニヒリズムというのは、私達が普段、此れという共通の価値観、…過去から紡がれて来た価値観を、”人それぞれ”といった風に、何も考えず、いとも容易く捨て去ってしまったから、民族同士で共有していたはずの、価値観を入れておく容器が空になって、何が良いのか悪いのか判断が出来なくなって、それで全てが虚しくなるんだと…思います。…あくまで私が、ですけど…」
私は途中、老人のことをどう呼べば良いのか迷い、逡巡した末、みんなが共通してしている”先生”呼びを、少しビクビクしながら使った。それから後は、自分でも驚くほどに、言葉がスラスラ流れる様に出てきた。これはひとえに、普段から義一と議論してきたお陰だった。内容自体も、何度も二人で話し合った内容だった。これだけ止め処なく、自信も少し持ちながら話せたのは、それだけ私の血肉になっている証拠だったので、話しながらも満足していた。その最中、チラッと義一の顔を覗き込んだが、向こうの方でも私のことを見てきていて、軽く目が合った。義一は、私が必死に言葉を紡いているのを、微笑ましげに見ていたのだった。
私が言い終えると、暫くシーンとしていた。スピーカーからも、いつからなのか、小粋なジャズが流れていたはずなのに、今では何も流れていなかった。これも数秒だったろうが、ひどく長く感じた。
老人の方を見てみると、彼は静かな視線を私に投げかけていた。わたしが向くまで、そうしていたのだろう。
と、私と視線が合うと、老人は、今までにまだ見せた事が無いような、柔和な笑みを私に向けて、次に、聡の方を向くと、少し意地悪くニヤケながら言った。
「…いやいや、聡君に君の事を話して貰って、一体どんな子だろうと、半分期待、そして半分は…本人を前にして言うのは失礼だが、忌憚なく言うと、警戒していたんだ。…いや、聡君、そんな苦々しい顔をしないでくれよ?…うん、君の事は心から信頼しているさ。何せ…」
老人は、ふと視線を義一に流しながら言った。
「義一君みたいな、今時珍しい、”誠実”な男を紹介してくれたんだからね」
「あ、え、い、いやいや先生!」
と、義一は、途端に周章狼狽して見せながら言った。
「もう先生!そういうのはナシですって!」
「あははは!照れるな、照れるな!」
「…ふふ」
義一がそう言うと、老人は豪快に笑いながら、日本酒をグイッと飲むのだった。と同時に、また一同は先程の様に、各々がそれぞれの形で笑うのだった。私も、普段からかう時に見せる狼狽具合とは、また一味違った様子を見れて、クスクスと思わず笑ってしまうのだった。義一は、私のそんな様子を見て、仕方ないなと言わんばかりに苦笑を浮かべ、あのいつもの癖、照れ隠しに頭をポリポリと掻くのだった。
「はぁーあ…さて」
老人は、場が一旦収まったのを見計らうと、表情を元に戻し、私に顔を向けてから話を続けた。
「…琴音ちゃん、ズバリ、今君が話してくれた通りだよ。…よくそこまで纏めれたねぇ…。あ、いや、照れないでくれよ?…ふふ、二人揃って照れ屋なんだからなぁ。…うん、今君が話してくれた見解に、少しだけ付け加えさせて貰えれば、こうなると思うんだ」
「はい」
私は、老人が言う様に、少し照れていたが、急に真面目モードになったので、慌ててメモ帳に書き込む準備をした。…まぁでも、別に気負っていたわけでは無い事を、念のために言っておく。心持ち自体はリラックスしていた。
「それはね…人々が、自覚あるかどうかは兎も角、自分が何か偉くなったと過信して、”絶対”なモノを信じない…何が”善い”のかなんて、人それぞれでいいじゃないかと吐き捨てる…人それぞれで良いと言うのは、『人の指図なんか、受けたくないよ。伝統?慣習?そんな七面倒な事に係りあいたくないよ。個人個人で好きにさせてよ』って事だよね?」
「あ、はい!その通りです!」
私は、我が意を得たりと、思わず声を上げた。
老人は私に微笑みつつ、先を続けた。
「でもね?…突き詰めても人間というのは結局、”社会的動物”で、どうしたって一人では生きていけない。…こんなのは、巷でも良く話されている事だよね。…でも、口ではそう言う癖に、片や言われるのは、”個人の自由が大事”だとか、もっと酷いのになると、”全てのしがらみを取っ払えば、人間性が解放されて、世の中がもっと良くなる”という、いわば”プロパガンダ”の様なモノまで流布されてしまっている。…あ、琴音ちゃん、プロパガンダって分かるかな?」
メモの途中だったが、話を振られたので、顔を上げると、何でもない調子で答えた。
「あ、はい。…えぇっと、”政治的宣伝文句”…で、合ってますか?」
「あぁ、その通りだね」
老人は、一瞬、クシャッとした様な笑顔を見せた。私も合わせる様に微笑んだ。
因みに、私が何故そんな事をすぐに答えられたかというと、こんなタネがあった。…覚えておられるだろうか?私が小学生の時、そう、私が受験戦争に巻き込まれそうになっている時期に、義一の家に赴いて、『何で勉強しなくちゃいけないか?』を聞いたのを。…あの時、義一は、ある女流経済学者の言葉を引用して見せてくれた訳だったが、あの後、別の日に、『こんな事も別に言ってたよ』と言いながら、また別の言葉を雑談の中で教えてくれたのだ。それは『あらゆる経済学者の学説というのは、プロパガンダだ。だから、それを聞く側は、そのつもりで用心しなければならない』というものだった。要は、特定の利益者に合わせて、高等数学を弄り返し、さもそれが”科学”かの様に振る舞うのが、”経済学”というものなのだ、との主張だった。…いや、この場で経済学批判をしたい訳ではない。話を戻そう。
その時に一緒に、プロパガンダの意味を教えて貰ったので、すぐに答えられたという事だ。
「…うん、でも、いくら文明が進んで、技術が進歩したとしても、その時代に生きている人類までもが、”善い”方に進歩してると見るのは、些か傲慢に過ぎると思うんだ。…私がこう言うと、中にはこう返す人もいる。『そんな事は分かってるんだ。偉そうに、自分だけわかった様に言うな』ってね」
老人は、お茶目にウィンクをして見せた。が、すぐに真顔に戻ると、先を続けた。
「でもね…それは”分かっている”んじゃない。ただ”知っている”だけなんだよ…知っている癖に、それを我が物として吸収し、血肉にしなければ、本当に理解した事にはならない」
「はい…それは分かります」
私はこの時、目に入る、口先だけ立派な、高邁な事をのたまう癖に、そう言う本人が実際に実行していない様な、”その他大勢”の大人達の姿を思い浮かべていた。
と、その時、老人はまた、おもむろに日本酒を飲もうとしていたが、どうやら空になっていたらしく、カタンとグラスをテーブルに置くと、腕時計を覗いた。すると、老人は大袈裟に目を見開きながら、驚いた様な口調で声を上げた。
「…って、ありゃありゃ…。いつの間にか、こんな時間になってしまったな。…まだ、食事を運んでくれていないところを見ると、マスター達…、私らが、あまりに議論に集中しているもんだから、空気を読んで待っていてくれているのかも知れないな」
私も思わず腕時計を覗いてみた。時刻は七時十五分を指していた。…確かに、これは驚いて不思議じゃなかった。何せ、私達三人がこの部屋に入ってから、少なくと一時間半以上は、飲み物を飲むだけで、後はずっと喋りっぱなしだったからだ。確かに、それなりに”深い”話を、のっけからしていたので、そこそこに時間は経っているのだろうなくらいには思っていたが、予想以上だった。
「そりゃそうでしょう」
と、今まで静かだったマサさんが、呆れ顔の呆れ口調で返した。
「いつも我々が話し出すと、止まらないんで、マスターはいつも、料理を作るタイミングを取り兼ねているんですから」
「…いやいや、面目無いなぁ」
老人は、綺麗に剃り上げられた頭を、撫でつつ照れ臭そうに笑っていた。それにつられる様に、一同も、近くの人と顔を見合わせつつ、微笑み合うのだった。ただ、私だけ、自覚は無かったが、恐らく一人ぶすっとした表情を浮かべていただろう。何せ、これからって時に、これで議論が終わりそうだったからだ。
そんな私から滲み出る、不平の雰囲気を察し取ったか、老人は少し前かがみになり、私に顔を近づける様な素振りを見せつつ、申し訳無さげだったが、笑顔で話しかけてきた。
「…ふふ、琴音ちゃん、そんなつまらなそうな顔をしないでくれよ?…勿論、この話は、これで終わりにするつもりは無いよ?ただ…」
老人は、空のグラスを弄びつつ言った。
「…君が言った”虚しさ”、そして私が言った”ニヒリズム”…これはね、君もどこかで理解しているとは思うけど、中々に、この短い時間で、一遍に片付けられる様な問題では無いんだ。…何せ、ここ二百年あまりにも亘って、全体の少数派、これが大問題だと認識してきた少数派が、何度も打ち破られてきて、それが今だに続いているんだからね。…それも、今では、昔以上に少数派になっているときている…」
「…」
老人は、最後の方は、まるで独り言の様にボソッと言ったが、私は聞き漏らさなかった。 …だが、老人が、あまりにも力無げな表情を、一瞬浮かべたので、何か言おうかと思ったが、そのまま黙っている事にした。
「…あ、いや、あははは!」
老人は、自分が暗い表情を浮かべていたのに気付いたか、無理して陽気になろうとするが如く、あのクシャッとした好々爺の表情を浮かべつつ言った。
「またまた話が逸れるところだった…。あ、いや、そもそも、最初の議題は、”虚しさについて”じゃなくて、”センスとは何か?”だったよね?いやはや…どうもいかんなぁー…この歳になっても、多弁症が治らないときている。…まだまだ、成熟には程遠いなぁ」
そう言い終えると、老人はまた頭を撫でるのだった。
「…ふふ、そう言えばそうでした」
と、私も吹き出しつつ、メモをチラッと見てから返した。
「いやぁ、むしろ謝るのは私の方です。私が、勲さんを始めとする、この場にいらっしゃる皆さんの厚意に甘えて、好き勝手に、思い付いたり疑問に思った事を喋ってしまった事が、根本の原因なんですから」
「…ふふ、そうだね」
と、私が言い終えるのを見計らった様に、これまた今まで静かだった義一が、私に意地悪な笑みを向けつつ言った。
「そういえば、今日は琴音ちゃん、初対面の面々の前だというのに、何の気兼ねもなく”なんでちゃん”を表に出していたね?」
「ちょ、ちょっと、義一さん…」
と、慌てて遮ろうとしたが、遅かった。
「え?何、その”なんでちゃん”っていうのは?」
「…妙に、可愛い言葉の響きね」
義一の発言を聞いた途端に、まず美保子がニヤニヤしながら、私の顔を覗き見つつ義一に聞き、そして隣の百合子は、初めて見た時の様に落ち着いた、目を半目にしながらの、憂いを秘めた様な目付きだったが、その奥の瞳には、しっかりと好奇心の光を見せていた。
私は、アタフタしながら、横目で軽く義一を睨んで見せてから、恥を忍んで、掻い摘んで仕方なく説明した。今回ばかりは諦めた。何せ、この発端は、私にあるのだから。
それに、何故か…と前置きするのはワザとらしいが、この場にいる面子には、他人に対して私が壁を作る、根本的な要因の”なんでちゃん”について、隠し立てをする必要を感じなかったのが大きかった。先程も似たような事を言ったかも知れないが、この場に集まる面々、どれも個性的で、それぞれの業界で頑張っているような、普通に考えたら相入れないところもあろうと思うけれども、どこか…そう、印象だけで言えば、皆んな共通して、義一と同じような”匂い”を醸し出していたからだった。いわゆる”普通”の人から見てどうかは分からないが、少なくとも、私にとっては、とても居心地の良い”場”であった。
説明もひと段落ついた頃、老人は私に一度笑顔を向けてから、一同を見渡し言い放った。
「取り敢えず今はこのくらいにして、ご飯にしようか?」

第24話 社交(裏)下

「…では皆さん、ごゆっくりー」
マダムは、テーブルに料理と飲み物のお代わりを並べ終えると、陽気な声を発してから部屋を出て行った。
「では頂きます」
老人は、マダムが出て行ったのと同時に、何の前置きもなく、いつものといった風で挨拶した。「頂きます」と、各々方も、軽く挨拶してから、用意された小皿に取り分けて、好きな様に食事を楽しんでいた。私も加わることにした。
テーブル上の品々は、如何にもお酒の肴に相応しい物ばかりだった。自家製なのだろう、梅干しのドレッシングで和えたカルパッチョ。梅干しとガーリックが絡んだ鯵の刺身が、とても合っていた。ご飯が欲しくなるほどだったが、そこはやはり、原則はおつまみということで、子供の私には物足りなさがどうしてもあったが、それはそれ、とても美味しかった。ふと、顔を上げると、ワインを飲んでいた女性陣が好んで食べていたのは、牡蠣を、オイスターソースで炒め煮した物だった。美保子と百合子は、用意されたクラッカーに乗せつつ食べていた。と、私と視線が合った美保子は、私にも食べるかと聞いてきたが、私はそもそも牡蠣が苦手だったので、丁重にお断りした。これは美保子が、その後教えてくれたが、この牡蠣料理は、ボジョレーの時期になると、フランスでよく作られている料理らしい。言わば、伝統料理の様だった。その他は、鶏肉の生姜甘味噌焼き、ガーリックシュリンプ等々、全部で五品以上の、和洋中を網羅した様な料理の豊富さだった。確かに、先程私は、ご飯が欲しいと言ったが、これだけ料理があると、ご飯が無くて正解だと後で思った。
「…美味しいだろ、琴音?」
聡が、少し前のめりになりつつ、私の顔を覗く様にしてきながら聞いてきた。
「うん。どの料理も美味しいよ。…牡蠣だけは、どうしても無理だけど」
そう言いつつ、女性陣の方をチラッと見ると、美穂子も百合子も、私に微笑みをくれていた。
「それは良かった」
話を聞いていたのか、老人が日本酒をチビっと遣りつつ言った。
「後で、マスターとママにも言ってあげてね?」
「はい、勿論です」
私は、年相応(?)に、明るく元気に返した。
すると、聡は手に持った箸を、行儀悪く空中でクルクル回しながら、話しかけてきた。
「…まぁ、ここの料理が美味いのは、当たり前っちゃあ当たり前なんだよ」
「…ん?どういうこと?」
私も、行儀悪く、シュリンプを口に頬張りながら聞いた。
「それはな?」
聡は、妙に勿体つけながら先を話した。
「ここのマスターはな…」
その後に言った固有名詞は、紀尾井町にある有名なホテルの名だった。
「そこの中にあるフランス料理店で、何年かパリで修行して来てから、確か…二十年近く勤めて、最終的には副料理長までしていたんだ」
「へぇ…」
と、一応のリアクションはとったが、当然イマイチ、ピンと来なかったのは事実だ。だが、そのホテルの名前は、私ですら知ってる程だったし、日本の中でも格式の高い事で知られていたので、あまりネームバリューで判断したくないのだが、それでも、そこで副料理長を勤めることが、如何に狭き門をくぐって来たのかくらいは、容易に想像がついた。
私の当たり障りのない反応に、気を悪くする事もなく、聡は話を続けた。
「でもな、凄いのはマスターだけじゃないんだぜ?あのママ、時にはお淑やかでいたり、時には無邪気さを演じたりと、中々掴み所の無いような女性だが、彼女も実は、そこのホテルの、マスターと同じフレンチの店で、専属のソムリエをしていたんだ。…あ、お前はソムリエって分かるか?」
と、聞いてきたので、私はすぐに答えた。
「うん、ワインの給仕人の事でしょ?」
知識しかない分、少し堅めな返答になってしまったが、聡はこれで満足したようだった。
「そうそう!でな、ここで出されるお酒は全部、彼女が吟味して…中には、わざわざ味を確かめる為に、現地まで訪れて仕入れてくる徹底振りなんだ。ワインなら、欧州や、遠い所では南米…日本酒だったら、全国津々浦々を行脚してな。だから、ここに出されるお酒は、ママが本当に美味しいと思ったのだけを置いてあるんだよ。…まぁ、こればかりはお前には分からんだろうがな」
「へぇ」
我ながら、ボキャブラリーの無さに泣けてくる。と、ここまで言うと、聡は少しニヤつきながら続けた。
「そんでまぁ…下世話な事を言うようだが、そこで、マスターとママは出会って、付き合い、結婚したって訳なんだ」
「へぇー…」
こう言っては何だが、誰でも、二人でお店を切り盛りしているのを見れば、いくら恋愛に疎い私ですら、それくらいの事は想像するのに難く無かった。
「やっぱりそうなんだ」
「ちょっと、聡君?」
美保子が、ふと、聡にジト目を向けつつ言った。
「あまり人の事を言ってはダメよ?」
「はいはい、すみません」
聡は大袈裟に頭を下げて見せつつ、平謝りをした。ほぼ同い年のせいか、この二人の距離感も、中々近そうに見えた。その様子を見て、私は微笑ましげに笑ったが、ふと、一つの疑問が湧いてきた。
「ふふ。…ん?でも、あれ?」
「どうした、琴音?」
聡は顔を上げると、私の顔をまた覗き込みながら聞いてきた。
「あ、うん…あのさ」
私は、多種多様な料理の数々を見渡しつつ続けた。
「マスターって、フレンチのシェフだったんだよね?でも、ここにあるのは、フレンチだけじゃなくて、和食から中華から有るじゃない?しかも、私はそこまで味の事は分からないけど、個人の感想で言えば、どれも、かなりのクオリティーを持ってるように感じるのだけど、それはどうしてなのかっていうのと…いや」
私はここで一度切ると、右手の指を折りながら先を続けた。
「それだけじゃなくて、ママも、ソムリエだったというなら、何でここまで、専門外のことにまで詳しくなろうとしたのか…あ、いや」
私はずっと、聡の顔を見て話していたので、実際の所は分からなかったが、ここでふと、美保子と百合子の方から視線を感じて、先程の会話の事を思い出し、言い止まった。
「…勿論、変に専門に特化するあまり、視野が狭まるというのがあるから、批判したいんじゃなく、むしろ、子供の私が偉そうな事を言うようだけど、幅広く知見を広めようとしている向上心を賞賛したいって事なんだけど…あ、いや、そんな事を言いたいんじゃなくてー…」
私は、これ以上言うと、益々墓穴を掘り、要らないことを話してしまいそうだったので、早々に打ち切った。
「あ、後、これも…言い方が難しいんだけれど、何でそんな一流ホテルに勤めていた二人が、こんな小ぢんまりした店を構えているのかっていうのが…うん、疑問なんだけど…」
気づくと、いつの間にかこの場にいた一同が一人残らず、私の話に耳を傾けていた。どの顔も無表情に”見えた”。だから、私は最後の方で、少し調子を弱めてしまったのだ。また、何か要らないことを言ってしまったんじゃないかと、不安になったからだった。
また私が、少し俯き加減になりかけた時、老人が私に、優しいトーンで話しかけてきた。
「…ウンウン、確かに、何でそんな二人が、こんな”小汚い”喫茶店だか、バーだか判らない店を構えているのか、初めて来た琴音ちゃんからしたら、意味がわからないよね?」
「…え?あ、いや、私は、そこまでは…」
急に老人が、そんな事を言い出したので、正直私もそう思わない訳ではなかったが、あまりに歯に衣着せぬ物言いをしたので、慌てて訂正しようとしたが、途端に、一同が大笑いをしたので、それに遮られてしまった。
私が呆気に取られていると、聡が老人の言葉の後を引き継ぐように言った。
「あははは!…いや、琴音、その疑問は、後で直接本人達に聞いてごらん?」
「う、うん…」
一同の笑いが未だ絶えない中、私一人が頭上にハテナマークを浮かべていたのは、言うまでもない。また、正直この時は、まだ事情を知らなかったので、初めてこの場の面々に対して、反発心が生まれたのも言うまでもないだろう。

「…さて、琴音ちゃん」
あれだけあった大量の料理が、あらかた無くなってきた頃、不意に老人が私に話しかけてきた。
「後でマスター達に、君の疑問に答えて貰うとして、…その前に、先程途中だった、これも君からの疑問、そう、”センスとは何か?”について、一応の決着を着けたいと思うのだけれど、いいかな?」
「あ、はい、勿論です!」
私は、待ってましたとばかりに応えた。
老人が話し始めようとする頃、それまで、それぞれ近くの人とおしゃべりしていた面々は、ピタッと止め、静まり返るほどではないにしろ、静かに話す老人の言葉を聞き漏らすまいと、辺りにある種の、先程と同じような心地よい緊張が漂った。
老人も、場の雰囲気に合わせるように、先刻と変わらぬ調子で始めた。
「…まぁ、今までの話の流れ、それを君が汲み取ってくれてると信じて、前置きなく言ってしまうと、我々の流儀、まず”センス”という言葉自体から、考えてみようと思う」
「はい」
私は、まだ食器が片されていないので、何とかメモを置くスペースを作り、書く準備をした。老人は続けた。
「よし。…うん、まぁ、これ自体は簡単な事なんだ。…センスというのはね、原義を尋ねると、”感じる”という事なんだ」
「感じる…」
私は、一応メモしたものの、何だか腑に落ちなかった。
「…何だか、フワッとしてますね?」
と、ペンの底を、おでこにトントンと当てつつ言った。
すると、そんな返しは想定内だという風に、老人は表情を変える事なく…いや、少し微笑ましくしつつ返した。
「ふふ、そう、その通りだね。だから、ここで止まらずに、もう少し思索を重ねなくてはならない。…つまりね、こういう事だよ」
老人は、ここで一度切り、少し溜めてから先を述べた。
「まず原義を尋ねた…これは、その言葉を、古人が、どんな考え、どんな思索、どんな感情を託さんが為に作ったかを知るための作業だよ。…でね、これはその言葉によって違うけど、原義からヒントが得られなかった場合は、その次にやるべき事は、その後の時代時代の人々が、それをどのように解釈してきたかを辿るべきなんだ」
「…はい」
私は、今老人が話した事を、漏らさずそのままメモした。
正直、初めの頃は、てっきりセンスの意味を、そのまま教えてくれるものだと思っていたから、途中から、言葉の解釈についての話になったので、このままどこに行くのだろうと不安になったが、この不安感は、義一との会話の中でも度々感じていたのと同種のものだったので、すぐに考えを改めて、このまま老人の話について行く事にした。
「…でね、こういう時に、コレが役に立つんだ」
「…え?」
と、私が思わず声を上げたのは、老人が何処からか、電子辞書を取り出したからだった。それも最新のものでは無さそうだった。なぜ一眼で分かったかというと、その電子辞書の表面が煤ボケてる様に見える程くすんでいて、すっかり使い込まれているのが、この部屋の弱めの照明下でも分かる程だったからだった。
そんな私の視線を他所に、老人は手慣れた感じで単語を打ち込み、それを開いたまま、私に渡してきた。見てみると、その液晶には、senseが表示されていた。その見える範囲、一番上部の、senseの脇に原義が載っていた。老人の言った通り、そこには”感じる”と出ていた。
私がジッと見ていると、老人が話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、そこには、沢山の意味が載ってるでしょう?」
「はい」
私はチラッと顔を上げて見ると、老人は私と目が合うのを待っていたかの様に、そのまま先を述べた。
「その数が、多ければ多いだけ、それだけ色んな時代の人々が、アレコレと解釈しながら、この現代まで言葉を受け継がせてきたんだよ」
「…」
私は、特に返すべき言葉が見つからなかったので、黙ったまま、辞書のモニターを覗き込み、下にゆっくりとスクロールしていった。
老人は、返答がないのを、全く気にする様なそぶりを見せずに、そのまま先を続けた。
「でね、…やっと、センスの意味について話すところまで辿り着いたわけだけれども…琴音ちゃん」
「はい?」
不意に話し掛けられたので、また顔を上げて老人の方を見た。老人はニコッと目を細める様にして笑いかけてから、聞いてきた。
「君は、そこに羅列されている”sense”の意味の中で、腑に落ちるものはあるかな?先程、原義を言った時は、納得いかない様子だったけど」
「え?…うーん、えぇっと…」
これまた急に問い掛けられたので、さっきはチラッと見ただけだったが、真剣に一つ一つを吟味して見る事にした。一番上に表示されているのは、”感覚”というものだったが、これは原義と変わりがないので、そのまた下を、どんどん見ていった。…と、暫くして、あるところに目が止まった。そして、それを見た瞬間、今までの議論の中身も含めて、急にモヤが晴れて行く様な感覚に襲われた。そう、この感覚は、義一と会話していく中で味わうものと、全く同じ物だった。
恐らくそんな心境が顔に表れていたのだろう、老人が面白げに私に話し掛けてきた。
「…おっ、その様子じゃあ、何か、引っかかる…いや、納得のいく答えが見つかったかな?」
「はい。…少なくとも、私にはですけど」
ハイと答えたものの、やはり何処か自信が無かったのか、余計な言葉を付け加えたのだった。
老人は、そんな私の返答に対して、一々突っ込む様な真似はせずに、
「では、それは、どういった事だったかな?」
と尋ねてきた。
私は、見つかった解釈の部分が、モニターの中心に来るようにセットしてから、老人に辞書を手渡しながら答えた。
「それは…その真ん中辺りにある、”良識、思慮分別”という所です」
「…」
辞書を渡された老人は、モニターをジッと見ていたが、フッと顔を上げると、私に静かな表情を向けつつ聞いた。
「…という事は、君は”センス”という言葉を、”良識、思慮分別”という風に解釈したという事になるのだけれども、…それは何故だい?」
「それは…」
私はまた、試されているかの様に感じ、少し萎縮しかけたが、先程感じた、晴れやかな感覚を信じて、そのまま答える事にした。
「これは答えになってないかも知れないですが…、先程も言ったように、私は今の様にピアノをやり始めてから、ずっとこの”センスとは何か?”について、考えてきました。…しかし、今の今まで、これといった答えが見出せなかった、これもさっき言った通りです。…でも、この”良識、思慮分別”という解釈を見た瞬間、”これだ”と思ったんです。そう、今まで何処かで感じながらも、言葉に出来なかったものが、こうして目の前に提示されているかの様に。…いやぁ」
とここで、私は少し恥ずかしくなりながらも、先を続けた。
「さっきは、原義に対して、フワフワしたものだと、少し小馬鹿にしてしまった様な物言いをしてしまいましたが、でも、そう感じたとしか言いようが無いんです。…これが一応、私の理由なんですが」
「…」
老人は、私が話し終えても、腕を組み俯いたままだった。そのほかの者達も、老人が声を出さない事には、何も言えないかの様な空気を、そこはかとなく作り出していた。
どれほどだろう、恐らく十秒ほどだったかも知れないが、とてもそんな短くは感じられなかった。
と、ふと老人が顔を上げたが、その顔には柔和な笑みが溢れていた。そして、不思議とこの場に満ちていた緊張の糸を切る様に、明るい調子で私に話しかけてきた。
「…ふふ、よくそのように自分の意見を纏めれたね?照れるだろうけど、敢えて言わずには居れないから、賛辞を送る事を許して欲しい」
「…という事は?」
「…うん、僕も君と同意見さ。…ここに集う皆んなもね」
そう老人が言うので、ふと周りを見渡すと、義一を含む一同それぞれが、視線が合うたびに、コクンと笑顔で頷くのだった。
「…まぁ、勿論、これが絶対だという答えは有り得ない…だからこそ、これだけ時代時代に多様な解釈が生まれているわけだからね」
そう言うと、老人は日本酒をチビっと舐めた。
「でもね」
老人は続けた。
「絶対的な答えは無くとも、それでも言葉が存在する限り、解釈し、そして使っていく訳だから、この問いを放棄してはいけない」
「はい」
私は同意を示すために、短く、しかしハッキリと返した。
老人は、そう言った私に微笑みつつ、先を続けた。
「だから、今の時代に生きる我々が、その言葉をどう解釈して使っていたか、それを何らかの形…それは、詩だったり、小説だったり、評論だったり…いや、書物だけではなく、口述でも何でも、やり方は構わない」
そう言いながら、老人は勲やマサさんを見て、そして一同をグルっと見渡していた。そしてまた私に顔を戻すと、変わらぬ調子で続けた。
「それを先人達がした様に、我々も後の世代の為に、何らかの形で残していかなければならない。…この様にね」
老人は、子供の様な笑みを浮かべながら、電子辞書を軽々とフラフラして見せた。私も笑顔で、頷き返すだけだった。
少しの間、同じ様に微笑んでいたが、ふと、老人は、何故か決まり悪そうな苦笑いを浮かべると言った。
「…ふふ、琴音ちゃん、こう言うことをいきなり言われると、じゃあ今までの話は何だったんだと思うかも知れないが…いいかな?」
「…?はい」
「それはね」
老人は、敢えて大袈裟に言えば、一息を長く吹く様にしてから、先を述べた。
「…それ程、語源に拘っていると、それはそれで視野を狭める事になってしまうという事だよ」
「へ?」
私は思わず、気の抜ける様な声を上げてしまった。隣に居た義一も、私と似た様な表情で老人を見つめていた。そんな表情は、義一だけでは無く、この場にいた皆がそうだった。しかし、すぐに分かった。私以外の皆んなは、私と違った意味で困惑していたのを。ただ、この時は、その理由までは分からなかったが、それもすぐに知れる事となる。
「先生…」
「ん?」
ふと、勲が老人に静かに話しかけた。
「何かな、勲さん?」
問われた勲さんは、私のことをチラチラ盗み見しつつ言った。
「いや、先生、まだこんな子供には、その事を話すのは早いんじゃないですか?…確かにこの子は利発では有りますが、その矛盾点を理解して貰うっていうのは…」
「矛盾…」
と、私は思わず呟いた。確かに、老人も今自分で述べた様に、今の発言は、矛盾と受け取られても仕方ない様に見えた。そう指摘されて当然だった。が、繰り返しになるが、勲さんが指摘したのは、その矛盾についてというよりかは、それを話す事自体にある様だった。それは一同が共有している認識の様だった。が、そんな指摘にも、老人は何も言い返さず、笑顔で勲に対応し、そのままの表情で私に話しかけた。
「そんな大袈裟なぁ…、琴音ちゃん、今私が言った、一見矛盾している…この種明かし、話してもいいかな?」
「…え?それはもう、当然お願いします!」
私は何を今更と思い、失礼なのは承知の上で、つい強い口調で返してしまったが、そんな返答された老人は、どういう訳か、心から嬉しそうに微笑むと、話し始めた。
「それはね、…これは大事な事だと思うから、何度も繰り返して確認するんだけど、そうだな…」
と、せっかく話し始めたかと思いきや、顎に手を当てて、少しの間考え込んでしまった。が、私は何の感想をも抱かずに、ジッと老人が、また話始めるのを待った。何せこちとら、毎度義一に付き合っているお陰で、この手の事には慣れっこだったからだ。
老人は数秒ほど考えていたが、フッと視線をまた私に合わせて、話を始めた。
「…うん、今まで何故語源を辿るのが大事なのかは、僕から説明させて貰ったし、そして君も同意してくれたよね?」
「はい」
私は、力強く頷いた。
「うん。で、それを、過去の人々がどう解釈してきたかを見て行く事も大事だと、それも納得してくれたと思う。…でもね」
と、ここまで、気持ち和かな笑みを浮かべつつ話していたのが、ここで急に、真剣な面持ちになって続けた。
「この方法に拘り続けると、今度は”言葉”自体の奴隷になってしまうんだ」
「奴隷…」
「そう。…いやぁ」
と、ここでまた一転して、老人は顔一面に苦渋を含む様な苦笑いを浮かべて言った。
「んー…どうしても、軽くでも小難しい話を挟まないと説明出来ないんだが…構わんかね?」
「あ、…はい、勿論です」
老人が、先程と同じ事を確認してきたのにも関わらず、私はうんざりした様な表情を見せずに、寧ろ柔和な笑みを意識して見せた。
これも繰り返しになるが、こういった事例は、義一との付き合いで慣れっこだった。何度も同じ事を確認してくるのは、何も自分が言ったことを忘れてのことではない事は、言うまでもない。それだけ相手に、気を遣ってのことなのは、子供の私でも理解できた。自分ばかりが一方的に話すことへの、ある種の後ろめたさも影響していたのだと思う。
それはさておき、老人は私の表情につられる様に、若干顔を緩めつつ続けた。
「…また哲学者の名前を出して恐縮だが、ハイデッガーという哲学者が昔いて、その人が人間の”存在”について、難しい話をした事があったんだ」
「人間の存在?」
私は、確かに老人の言う通り、かなり難しい話になろうとしていたので、少し警戒を張った。
だが、老人は、そんな私の心境をすぐに計ったのだろう、緩んでいた表情を、もう少しだけ緩めて言った。
「…ふふ、いやいや、そこから踏み込んで、難しい話をしようって訳ではないんだ。ただ、便宜上引用したに過ぎないんだから。…でね、この人が何を言ったかというと、正確な引用では無いが、こうなんだ」
老人は少しここで溜めてから、先を述べた。
「『言葉とは、人間という存在の住処である』とね。…つま」
「住処…。ということは…あっ」
思わず浮かんだ考えを述べようとして、慌てて口を噤んだ。老人の話がまだ途中だったというのに、遮ってしまった。私は一人決まり悪そうにし、老人もこちらを一瞬ジッと、何かを見透かそうとするかの様に見てきたが、フッと表情を緩めて、話しかけてきた。
「…ふふ、いや、いいよ。何か考えが浮かんだのなら、遠慮せずに言ってごらん?」
「は、はい」
そう言われたので、緊張の解れた私は、促されるまま思い付きをツラツラ述べる事にした。
「…つまり、こういうことですよね?言葉というのは確かに、人間という存在にとって、掛け替えのないものであるのは間違い無いけど、”あくまで”住処であって、存在そのものではないと」
「そう、その通り!」
と、私が話し終えるのを待ちきれない様に、老人は見るからに途中からソワソワして見せていたが、私が言い終えたのと同時に、大きな声で賛成の意を示したのだった。あまりの大袈裟なリアクションに、私は戸惑うばかりだったが、そんな様子に意を介さず、老人は、その明るい調子を保ちつつ、私の言葉の後を受け持った。
「あははは!いや、ゴメンよ琴音ちゃん。先程から君の事を褒めっぱなしだけれど、ここまでちゃんと私の話を、その中の意図まで漏らさずに汲み取りつつ理解してくれた事が嬉しくてねぇ。…私は昔、ある旧帝大で先生をしていた事があったんだが、そこでもキチンと、僕の話を聞いてくれる生徒は、言っちゃあなんだけど、殆どいなかったからね、だから尚更、喜びも一入って訳さ。…さて」
老人は、顔一面に愉快だと言いたげな、朗らかな笑顔を見せていたが、急にまた、先程までの表情に逆戻ししつつ、先を続けた。
「…そう、今君が言った通り、ハイデッガーが言いたかったのは、僕なりに解釈すると、そういう事になるんだ。人間は言葉なしでは生きていけない…でもあくまで住処なのだから、人間イコール言葉といった風に勘違いしてはいけないってね。…うん、ここでまた急に問いかける様だけど、琴音ちゃん?」
「はい?」
私は語尾が上がる様な調子で返事をしてしまったが、こういった急な問いかけは、しつこい様だけど、義一で慣れっこだったので、少し身構えるだけで済んだ。
「…今言った一つ前の会話、『言葉は大事だ。何故なら、人間が人間で有る為には、言語によって思考をしていく訳で、その言語をテキトーに使えば、ありとあらゆる思考も出鱈目になってしまうから。それに、人間というのは、歴史を背負わずに生きてはおれない。生まれた瞬間から、自らの過去を引きずって人生を歩んで行くのだから』」
「…はい」
私は、先程までのメモと、老人の今のまとめを照らし合わせつつ、短くボソッと相槌を打った。
「『もし己の過去を否定、若しくは亡失してしまったとしたら、その人は人格的に崩壊してしまう…。これは当然社会にも言える。何せ、社会というのは過去の人間達の歴史の積み重ねの上に成り立っているのだから。その社会が、過去を否定し始めたら、崩壊していくのは、火を見るよりも明らか。…話を戻そう。言葉の一つ一つに、絶対という基準を設けるのは不可能…若しくは難しいとしても、出来る限り、最新の注意を払いつつ使用していかねばならない』」
老人はここまで言い終えると、一息つく様に、日本酒をまたチビっと遣ってから、先を述べた。
「とまぁ、そんな話をし合って、大まかに、琴音ちゃんも同意をしてくれたと思う」
「はい、その通りです」
私は頷きつつ、老人が改めて纏めてくれたので、有り難く真っ新のページに、一連の事をメモした。
紙に目を落としていたので見なかったが、微笑みかけてくれていただろう、老人は、口調優しげに、語りかける様に先を続けた。
「うん、良かった。…しかしだね、今こうして新たに会話してきた内容は、『そこまで言語言語と言うんじゃない。言語はあくまで住処なんだ。人間そのものじゃない』なーんて話だった。…そうだ、まだ聞いてなかったね?…琴音ちゃん、この結論に対しては賛成出来るかな?それとも、何か反論があるかな?あったら遠慮せずに言ってごらん?」
「あ、はい…」
私は考えてみたが、正直、先程の老人の話を聞いた時点で、疑問点は特に見つからなかった。
まぁ、私の理解力の乏しさに原因があるのかもしれなかったが、引っかかる事なく、すんなりと頭に染み込んでいったので、反論の余地は無かった。
…が、もし仮に何かあるとすれば、それは老人と勲の会話だった。老人が話そうとしていた事を、勲は『矛盾』だと言った。それに対して反論するならまだしも、老人は呑気に、勲のその意見に賛同している様に見せていた。ということは、老人も今の話に対して、本心がどうかは兎も角、少なくとも矛盾だと指摘される事は、織り込み済みだという事になる。…つまり、何が言いたいかというと、そんなやり取りが目の前で繰り広げられた後で、私なりの考えがあるとはいっても、こんなに歳の離れた人間達に対して、それらを振りほどきつつ、自分の意見を述べようとするのは、ひどく骨の折れる事だという事だ。
「…”それ”にも、私は同意します」
私は迷った末、ある種の細やかな保険を入れつつ返した。
老人は、今点々で囲った所を吟味していた様だったが、フッと表情を緩ませたかと思うと、おもむろに話を始めた。
「…ふふ、君は本当に、その歳で細かく丁寧に思考を働かせるんだねぇ…、君はアレだろう?勲さんが僕に、矛盾がなんだと言った事に引っ掛かって、素直に言えないんだろう?」
老人は、隣の勲に視線を流しつつ言った。視線を向けられた勲は、特にこれといったリアクションは取らなかった。
「いや、まぁ…そのー…、そうです」
私は、何か気の利いた遠慮をしようと思ったが、特に思いつかなかったのと、あと、今日初めてこの場に来た訳だが、他の場…例えば、お父さんに連れられて行った様な”社交の場”で振る舞う様な、猫をかぶる様な真似はしないで良いよと、誰かに言われた訳では無いので勝手な解釈だが、この場に流れる空気が、私にそう言ってくれている様な気がして、ありのまま素直な感想を述べる事にした。
私がそう返すと、途端に一同がクスッと小さく笑うのだった。その中には、老人と、あと勲も入っていた。
「あははは。まぁ、そうだよね」
一頻り笑った後、老人は笑顔のまま言った。
「確かに、あの前置きは不味かったかも知れないね。要らぬ警戒を相手に与えてしまうのだから。…許してほしい」
と、老人に満面の笑顔で言われたので、私も思わず顔が緩み、微笑み返しつつ「全く構いませんよ」と、短く返したのだった。
「…さて」
老人は静かな表情に戻ると、また話し始めた。
「今君が同意してくれた事…簡単に言えば、『言語に拘るな、言語に埋没するな』という事になるのだが…琴音ちゃん、勲さんがフライングして指摘した、一見すると矛盾してる様に見える二つの考え…君はどう思うかな?」
「…」
どう思うかなどと、これまた随分とザックリとした問いを投げつけられたが、確かに考える余地は幾らもあった。
一方では『言語を大事に、出来る限り慎重かつ厳密に扱おう』と主張しているのに対し、また一方では『言語に拘り”過ぎる”な、言語に埋没するな』と主張している訳だから、パッと見では、確かに矛盾している様に見えるが、実は…そもそも私は、この二つの話を初めて聞いた時、勿論何も考えずに聞いたので、私も矛盾だと感じた訳だったが、後の老人の話を聞いてるうちに、そんな考えは消え去り、寧ろ矛盾点を見つけられなくなっていた。
…ただ、今こうして問いかけられて、いざそれを説明してみようとすると、中々難しい事に気付いたのだった。
結局此れという答えは見つけられず、仕方なく、感覚的な返答を試みたのだった。
「…そうですねぇ、私も勲さんが言われた様に、矛盾に感じた訳ですけど…でも、今こうして議論を重ねていく中で、そのー…本当に、今のこの二つの論点に、矛盾がそもそもあるのかと、感じ始めてしまったんです…」
と、おずおず言うと、
「…うん、まだもう少し言えるかな?」
と、老人が静かな表情で話しかけてきた。
私は小さく頷くと、また言葉をひねり出す様に先を述べた。
「えぇっと…さっきも言った様に、感覚的に言うしか出来ないんですけど、何て言えば良いのかなぁー…二つとも、反対意見の様ですけど、その両方とも、何も引っ掛からずにすんなり飲み込めて…うーん」
”うん”と頷いたのは良いものの、案の定、これといって、自分の考えを表してくれる様な言葉に巡り会えずにいた。その間も、老人だけでなく、隣に座る義一含む一同の視線が、纏めて私に降り注がれていた。何を言うのかと、たかだか中学一年生の私に対して、ある種の期待感を持たせたものだった。今更降りるわけにもいかない空気を、ヒシヒシと感じていた。とその時、ふと、前に義一さんが、あの”宝箱”の中で見せてくれたドキュメンタリーに出ていた、物理学者のセリフの一つを思い出した。
それが頭をよぎった時、私自身フッと、腑に落ちたので、それをそのまま引用して話してみる事にした。
「…前に、あるドキュメンタリー番組を見た時に、ある物理学者が話した事が印象的だったので、それを話してみても良いですか?」
「…続けて」
老人は、淡々とした調子で促した。義一含む一同は、急に何を言い出すのかと、私の方へ、益々好奇の視線を向けてきた。
私は臆する事なく続けた。
「はい。…細かい事はともかく、簡単に背景を説明すると、相対性理論に次ぐ、世界観を変えかねない新しい理論が出てきたそうです。でもそれはまだ不十分なものだったそうですが、ただ、どの物理学者も、それが今後の世界を変える偉大な理論に成り得ると判断して、ありとあらゆる物理学者がシャカリキになって、理論の発展を目論んでいたそうです。でも結局、物理学者の数だけ、元から発展した理論が別に生まれてしまった。…当時の物理学者たちは、この理論こそが、ありとあらゆる理論を統一出来るものと、そこまで考えていたので、統一できるハズの理論が、幾つも出てきてはオカシイと、みんなして頭を悩ませていたそうです。それはそうですよね?統一理論が統一していなければ、自己矛盾してしまうんですから」
と、ここまで話している間も、一同は私をジッと見つつ、耳を傾けてくれていた。ただ一人、義一だけは、すぐに私の話から察したらしく、この場の中ではただ一人、表情を和らげていた。ここまで話した内容が、ほとんど義一からの受け売りだった事もあっただろう。
「そこである一人の物理学者が、名乗りをあげるんです。その人が、私がさっき述べた人な訳です。彼はこう言いました」
ここで一度話を切り、ここまで話しといて何だが、本当にこの話題が、問いかけられたことと外れていないかの最終確認をした。そして、私なりに良いと判断したので、先を述べたのだった。
「『統一理論へと近づけると思われる理論に、これだけのバリエーションが生まれてしまうというのは、一つの理論に対して、様々な方向から見ているからに過ぎないんじゃないか』と」
「…それがどういう意味か、そして、それがどう今までの話と繋がるのか、説明してくれるかい?」
と、そう聞いてきたのは、隣で微笑ましげに私を見てきていた義一だった。私は、普段通りの義一の笑みに、気持ちが緩むのを感じ、そのまま穏やかな心地で返答した。
「えぇ。…この物理学者がこう言った後で、例え話をしたんだけれど、それがまた分かりやすいから引用するとね?確か…こんなのだったわ」
私の口調も、普段通りに戻っていた。義一に話しかけられてから、顔は義一にまっすぐ向いていたが、ふと、視界の隅に、老人の顔も入っていた。老人は、私と義一を交互に見つつ、微笑んでいたのが印象的だった。
「『あるチェリストの演奏を聞いていると、不協和音がしていた。見てみると、どうも一人しかいないと思っていた演奏者が、幾人もいるらしく、それぞれが自分勝手に演奏するものだから、全く噛み合わず、それ故に不協和が生じていた。でもそれは、見た目だけでなく、音まで含めて我々の勘違いで、何人もの演奏者がいる様に見えたのは、そのチェリストが、合わせ鏡の前で演奏していたからに過ぎない。…つまり、我々は、演奏者自身を見ていたのではなく、鏡に映ったのを、真実だと取り違えていただけなのだ。合わせ鏡がある事に気付いて、その鏡の背後に回り、その上から見下ろせば、鏡の前で演奏している、ただ一人のチェリストが見えるはずだ』とね」
私がそうまず言い終えると、老人含む一同が、「へぇ」とか「ふーん」といった様な、感心なのかなんなのか判断が難しいリアクションをとっていたが、少なくとも、悪い感触は無かった。
と、ふと老人と義一が視線を合わせると、老人が微笑みつつ頷き、こちらから義一の顔は見えなかったが、義一も頷き返すと、私に向き直り、さっきの様に、問いかけてきた。
「なるほど。その話はとても面白かったけど、それがどう今までの話と絡むのかな?」
とても面白かったって、あなたが私に見せてくれたんじゃない。
などと、我ながら可愛くない考えが頭を過ぎったが、普段だったら即突っ込むのを、まだ慣れていない場という事もあって、あえて突っ込まずに、聞かれたままに返答する事にした。
「うん。要はこういう事なの。…同じ事だから繰り返しになっちゃうんだけれど、今まで私たちが会話していた内容だって、ある一つの事を、この場合は言語ね、それを其々違う視点から眺めたから、違う意見が出てきて、それらの間に矛盾が生じている”様に”見えたんだけど、それは 誤解を恐れずに言えば、勘違いじゃないかという事なの。だから、表面的に見ると、ぱっと見矛盾している様なんだけれど、見方が違うだけだから、本質的には何も違いがないというのが、私の意見…です」
と、途中までは、普段義一と話す様にタメ口だったが、最後に老人とふと視線があったので、形ばかりの丁寧語を付け加えて、発言を終えた。
それからはまた数秒ほど誰も声を上げなかったが、やはり最初に口火を切ったのは、老人だった。老人は、今日一番の優しい笑みを見せつつ、口調も穏やかに、私に話しかけた。
「…ふふ、さっき義一君も言ってたけど、興味深い話を絡めつつ、上手いこと話をしてくれたね」
とここまで言うと、老人は頭を軽く撫でつつ続けた。
「いやぁ、本当はもっと中学生向きに簡単な話をしようと思っていたんだが、君がそんな相応しい具体例を披露してくれたものだから、私から話すべき内容が無くなってしまったよ」
「…ということは?」
私は老人のイタズラがバレた後に子供が見せるような、照れ笑いを見て、気持ちが少し楽になったが、口調は辿々しく聞いた。
すると老人は、フッと真顔に戻ると、また柔和な微笑みを見せつつ言った。
「あぁ、君が今言った通りだよ。僕が言った事には矛盾が無い。…だろ、勲さん?」
「…え?え、えぇ、その通りです…」
急に話を振られた勲さんは、私の事を先程まで目をギョロつかせつつ見ていたが、老人の方へ向き、何だかしどろもどろといった調子で返していた。そんな様子を気にとめる様子を見せずに、老人は今度は陽気な笑みを零しつつ、私にまた話しかけた。
「あははは。…まぁ、勲さんが矛盾に感じていないのは、ハナから分かっていた事だから、それは良しとして…琴音ちゃん、ではまず私の考える、今までの議論のまとめを言わせて貰っても構わないかな?」
「あ、はい。お願いします」
私はそう答えつつ、老人に顔を向けたまま、右手に持ったペンをメモの上に置いた。
「うん、ありがとう。…まぁ、軽くだけ言うと、語源を辿るのが大事と私は言った。そしてその後すぐに、言葉に括ってるだけでもいけないと言った。…さっきも確認したけれども、君含めたこの場の人間は納得してくれたかと思う。…ではこれらの議論で、何が言いたかったかというとね、言葉にこだわり過ぎるのがいけないと知りつつも、今のご時世、あまりに現代に生きる人間達が言葉を蔑ろにして、意識的か無意識的かは兎も角、折角の魂宿る言葉達を抹殺してきたから、その反動とでもいうのか、私達が人間であるために、歴史を引き継いで、その引き継いだものを子孫に残そうとするならば、壊れて散らばった言葉の数々を丁寧に拾い上げ、それらを再構築するためには、他人から見たら奇異に見えるほどに、言葉の原点を辿るほか無いんじゃないかという事なんだが…どうだろう?」
私は途中から、老人の話の肝となりそうなところをメモしていたが、話し終えた途端また話しかけてきたので、ふと顔を上げ、迷わずスッと答えた。
「全く疑問の余地はありません」
私はそう答えた後、メモを覗きつつ続けた。
「繰り返しになりますけど…私なりに解釈すると、こうなります。本来なら言葉の一つ一つに拘るは無いんだけれど、ここまで原型を留めないほどに壊れてしまったものを復元しようとしたら、細か過ぎるくらいに元を辿る必要があるという事ですよね?」
「…あぁ、その通りだよ」
老人は先程から変わらぬ微笑を私に向けてくれていた。視界の端に見えていた勲の顔も、いつからか、同じ様な笑みをこちらに向けていた。先程のギョロつかせる様な目は、鳴りを潜めていた。
「うーん、そうかぁ。…琴音ちゃんが今言ってくれたみたいに易しくいえば、もっと分かりやすいんだねぇ」
と、老人がしみじみとした調子で言うと、今まで静かだった聡が意地悪く笑いつつ横槍を入れた。
「あははは。まぁ確かに、先生の言う事は回りくどくて、分かりづらいですからねぇー」
「あのなぁ…」
聡の歯に衣着せぬ物言いに、若干ムッとした表情を見せたが、険悪な雰囲気は出ていなかった。いつもの調子といった感じだった。それを証拠に、すぐに苦笑いを浮かべて返していた。
「はぁ…聡君、君は僕の教え子だった筈なのに、一向に僕の話を真剣に聞いてくれた事が無かったねぇ」
「へ?」
そう言われた聡は、大袈裟に目を大きく見開かせて、さも心の底から驚いたといった調子を見せていたが、すぐにおちゃらけて返した。
「いやいやぁー、先生、僕は昔と変わらず、今もずっと真面目に話を聞いていますってー」
「どうだか」
老人は眉間にしわを寄せて見せたが、すぐにニコッと笑った。それが合図かの様に、この場にいた面々も、愉快だと言った調子で笑うのだった。内情に詳しくない私も、妙に愉快になって、釣られる様にクスクス笑うのだった。
が、ふと、一つ大きな忘れ物をしている事に気づいた。
それを早速老人にぶつけて見る事にした。
「そういえばあのー…先生?」
私はまだ、この”先生”呼びに慣れないまま、おずおずと言った。
「…ふふ、何かね?」
しかし老人の方でも、さっきもそうだったが、私に先生と呼ばれるのが、少し照れ臭い様だった。おあいこの様だった。
それに気づくと気持ちも軽くなり、力も抜けつつ問いを続けた。
「さっき先生は、旧帝大の先生をしていたと言ってましたよね?」
「え?…あ、あぁ、大昔ね」
「二十年近く前だよ」
聡がすかさず付け足した。
「へぇ…二十年前…あ、いや」
聡が不意に入ってきたので、そのままの流れで聡と会話を続けそうになったのを、何とか踏みとどまり、老人に視線を戻しつつ続けた。
「何が聞きたいか…いや、確認したいのはですね、そこにいる聡さんと先生との関係性。それと…」
私は何故か、自分でもわからないまま言いづらくて、ここで一度言葉を止めたが、一息入れると辿々しく聞いた。
「まだそのー…先生の名前すら教えてもらってないんですけど」
「…」
私が言い終えると、ふっと一瞬静寂が訪れたが、私以外の皆がほぼ同時に吹き出したのだった。
「あははは!そういえばそうだ」
「まだ先生、自己紹介してませんでしたねぇ」
「まったく、人にやらせといて、自分がしないなんて、…まぁ、らしいっちゃあらしいけど」
などなど、各々が思い思いに笑いながら口々に言っていた。
老人もはたと気づいたと見えて、照れ臭そうに苦笑いを浮かべつつ、頭を撫でていた。そして一同の笑いが収まりかけたのを見計らったかの様に、私に笑顔を見せつつ言った。
「いやいやいやいや、すまんねぇ、そういえばまだ自己紹介もしていなかったよ。言い出しっぺだというのにね」
「いつもの事ですよ。本論から逸れてアッチコッチに言ってしまうのは」
マサさんは顔一面に呆れた表情を浮かべつつ、ため息交じりに言った。その言葉に、また面々が賑やかに笑いそうになったので、それを抑えるかの様に間髪入れずに老人は、マサさんの事は無視して、一度頭をその場で深々と下げると、笑みを浮かべつつ自己紹介をしたのだった。
「…ゴホン、私の名前は神谷有恒(ありつね)。宜しくね、琴音ちゃん」

こうして全員分の自己紹介を終えて、また一つの議論もひと段落がついたという事で、また各々は目の前の残りの料理をつまみつつ、団欒を過ごしていた。
お酒や飲み物が切れた頃だろうと察したか、マスターとママがトレイを押しつつ部屋に入ってきた。お代わりの人にはそのまま継ぎ足し、私にはグラスごと新しいアイスティーをくれた。取り敢えず今の所は別の注文は無いと聞くと、マスターとマダムは不意に前掛けを外し、私達のテーブルとは別だったが、すぐそばのもう一つのテーブルの席に腰掛け、自分達のお酒をテーブルに置くと、一息ついたとお互いに軽く乾杯して一口飲むのだった。私が腕を伸ばせば手が届く距離にママさん、テーブル挟んでその向かいにマスターが座る形だった。
「いやぁ、二人共お疲れ様。今日の食事も美味しかったよ」
まず声を掛けたのは神谷さんだった。すると、二人は何かに気づいた様にハッとして、同時に立ち上がり、そそくさと神谷さんの方まで行くと、乾杯を求めた。
「いえいえ、そんな滅相もない。ねぇ、あなた?」
コクン。
ママに明るい調子で話しかけられたマスターは、黙ってまっすぐ神谷さんを見ると、大きく頷いて見せた。神谷さんは、最初の頃の様な好々爺の笑顔を見せていた。
そしてコツンとグラスを当てた後は、先ほどの私達のように、一人一人と軽くグラスを当てていくのだった。一人一人が二人に、今日の食事やお酒の感想を軽く話しかけていた。主にママが笑顔で対応していた。私の番になった時、ママは戯けた笑顔で乾杯してくれた。マスターも、無表情だったが、目元を気持ち緩ませていたか、優しいタッチで私のグラスに当てたのだった。
ある種の儀式が終わり、二人が席に着くと、不意に神谷さんが私に話しかけてきた。
「そういえば琴音ちゃん、何か二人に聞きたいことがあったんじゃなかった?」
「…え?」
私は急に話しかけられたので、何の事だかすぐには思い出せなかった。普通だったら、私のそんな様子を見れば、すぐに何の事かと助け舟を出してくれそうなものだが、神谷さんはニコニコしたまま、私が思い出すのを待っていた。それまでの議論が濃すぎて、その前の話を思い出すのに苦労したが、マスターとママを見て、会話が甦ってきた。
「…あぁ!はいはい!」
と、思い出した調子で、中々に生意気な言葉使いをしてしまったが、神谷さんは笑顔を崩さなかったので、そのまま二人に疑問をぶつけて見る事にした。
「あのー…」
「ん?何かな、琴音ちゃん?」
ママは、陽気な笑顔を見せつつ言った。
「私達に何か聞いてみたいことがあった?答えられる範囲でなら答えるよ。ね?」
「…ん?あ、あぁ」
ママが急に話を振るので、若干キョトンとしつつも、私の方をチラッと見てから返していた。
私は、新しく貰ったアイスティーをズズッと啜ってから、二人の顔を交互に見つつ、質問をぶつけた。
有名なホテルの中のフレンチのお店で、二人が働いていた事、それを聡に聞いたということ。それらを前置きとして話していると、マスターはともかく、ママが一々私に同意の合いの手を入れてきた。またそうしつつ、初めに座った位置よりも、少しずつ私に近づいて来ているようだった。左隣に座る義一と同じくらいの距離まで近づいたママに、少しペースを乱されつつも、私は本題をぶつけた。
「それでそのー…、何でそんな二人が、…うーん」
流石の私も、先程の聡が言ったような事をそのままには、本人達を前にして躊躇った。普通に考えれば、失礼な事だったからだ。それも、今日が初対面だというのにだ。
「なーに?遠慮せずに、今心にある事話してみてよ?」
と、痺れを切らしたのか、ママはふと、私の右肩に軽く手を置くと、一同を軽く見つつ言った。
「何だってここは、世間的な建前からは解放された空間なんだから。…ね、先生?」
そう話しかけられた神谷さんは、静かに笑いつつ、小さく頷いた。気付けばみんなは、黙って私の方を、表情柔らかく見ていた。
「ほら、琴音ちゃん。聞いてみて?」
ママさんが最後の後押しをしてくれたので、私も遠慮する事ないかとママの方を直視しながら聞いた。
「何でそんな二人が、こういった”趣のある”古いお店を構えるようになったの?」
「…うーん」
ママは私の質問を聞くと、腕組み唸ってしまった。私なりに気を遣って、やんわりと言ったつもりだったが、気に障ったかとチラチラ表情を伺っていたが、
「先生?」
と、不意に顔を神谷さんに話しかけた。
「この子って…この集まりが何だか知ってるんですか?」
「…ん?えぇっとー…どうなんだ、聡君?」
「…へ?」
神谷さんはそこまでは聞かされていなかったらしく、聡に質問した。さっきまでとは打って変わって、一同の視線は一斉に聡に注がれた。
当の本人は、なぜか照れ臭そうにしつつ、頭を掻きながら答えた。
「いやぁ…教えてません」
「…は?」
聡の言葉を聞いた面々は、各々のやり方で一斉に呆れた表情を作っていた。それには、マスターとママも含まれた。
「なーに、琴音ちゃん?」
と、ため息交じりに呆れ口調で口火を切ったのは美保子だった。
「あなた何も聞かされないまま、この場に連れて来られたの?」
「え?あ、はい」
と私が戸惑いつつ返すと、美保子だけではなく、義一と神谷さんを除く一同が、ますます聡に呆れた表情を向けていた。
聡は一瞬たじろいで見せたが、すぐに飄々とした、いつもの調子で私の方を見つつ言った。
「ん?…あははは!いやぁ、みんなを驚かせようと思って、あれこれ内緒にしていたら、言うタイミングを逃しちゃったんだよ」
そう言い終えると、照れ臭そうに頭を掻いて見せていた。
「…あのなぁ」
と今度は、マサさんが呆れた表情をそのままに聡に向かって言った。
「中学入りたてのガキに何も説明しないまま、選りに選ってこんな”うるさ方”の集まる場所に連れて来たのか」
「僕も、何も聞かされないまま、それで今です」
義一も、聡に対して非難するなら今がチャンスと、マサさんの発言に乗っかる様に即答した。
聡も照れ臭そうなふりをやめないまま、私の方をまたチラチラ見つつ言った。
「いやいや、でも、こいつをここに連れてきて間違いじゃなかったでしょ?コイツみたいに、変に聡くて、色んな物事に目が行き、それから生じる疑問を素通り出来ない…」
とここまで言うと、聡は一同をぐるっと見渡してから、意地悪く笑いつつ続けた。
「そんな世の中から省かれる、忌避される、馴染めないし受け入れられない人達の集まりが、心を休ませる居場所として必要だと思って連れてきたら、案の定」
聡は、私に目を細めつつ優しい口調で言った。
「琴音自身も心の殻が外れて、こんなに長いこと、うるさ方に対して引くこと無く、堂々と議論を展開していったんだからさ。…な、琴音?」
「…え?う…う、うん?」
その発言に対して何と答えれば良いのか分からず、取り敢えずは、同意とも何とも取れない様な返事をしただけだった。
聡が話している間、一同は静かに聞いていたが、聞き終えると、また揃って呆れた表情を見せていたが、今度のは微笑みを含んだものだった。
「…まぁいいわ」
口を開いたのは美保子だ。
「私達を”うるさ方””社会に受け入れてもらえない人種”、そう表現したのも当たってるから否定はしないけど…」
とここまで言うと、美保子は意地悪く笑いつつ、聡に指を向けながら
「あなたもソレに含まれてるの、忘れないでよ?」
と言った。聡は何も返さず、ヘラヘラ笑っているだけだった。
「あははは!」
ふと、声を上げて豪快に笑ったのは神谷さんだった。神谷さんは、聡に笑顔を向けつつ言った。
「確かに我々は、決して多数派になれない人種の集まりだからなぁー…でもね、琴音ちゃん?」
と今度は、私の方に視線を向け、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべつつ続けた。
「これは自己弁護のための、言い訳じみて聞こえるかも知れないけどね、歴史を振り返り見る限り、この世で多数派が正しかった事は、まず見当たらないんだよ」
そう言い終えると、目をギュッと瞑って見せた。顔のシワが際立つ程だ。その様子が、余りにも子供じみていて、今まで小難しい話をしていた人なのかと、その不整合さに、思わず私もクスクスと笑ってしまった。周りの人達も、私につられたのか、それぞれが柔和な笑みを浮かべていた。
「まぁ尤も」
神谷さんは、笑いが収まるのを待たずに、軽い調子で言った。
「今だに語り継がれる偉人達というのも、その当時は受け入れられなかったのが大半だし、我々が話している事も、何も有史以来初めて話されてる事ではなく、『そんな偉人達が話していた事を繰り返しているだけなんだ』『そうだ、今現時点で受け入れられずに少数派に甘んじているけど、そんな先達が話し合っていた事と同じ事を、僕らも話し合ってるんだ』と思えれば、何も孤独に沈む事なく、格好つけていえば、孤高として誇り高く生きていけるんじゃないかって思うんだ」
「…なるほどー」
私は思わず、何とも気の利かない相槌を打ってしまった。が、何の衒いもなく本心からボソッと出てしまったのだから、そこに嘘も偽りもない。素直な感想だった。全くの同意だった。まぁ尤も、普段義一と会話してる中でもよく話し合う事だから、すぐに同意出来たというのもあるけれど。
私のそんなリアクションを見て、神谷さんは笑顔で黙って頷くだけだった。
「…それは良いんですけどぉ」
と、会話にひと段落ついたと判断したのか、ママが不意に切り出した。
眉を片方だけ上げるような、一種の不満げな表情を浮かべていたが、それ以外は緩みっぱなしだったので、怒ってないのは明白だった。
「私が話を振ったのはそうなんですけど…今は、私と彼の話じゃ無かったでしたっけ?」
ママはそう言いながら、マスターの方へ指を指していた。マスターの方は我関せずといった感じで、黙々とグラスに入ったブランデーをチビチビと飲んでいた。
ここまで話を聞いてくれた人なら、私と同じ感想を抱いている事だと思う。それは何かと言うと、寡黙なマスターは兎も角、ママと私達の、ある種の”距離感”が異様に近いという事だ。元もこうもない事を言えば、私達は客で、マスターとママはお店の人、確かにお父さんに連れられて行った寿司屋で、お父さん達と大将さん達も仲良さげにしていたが、今回の場合はそれ以上の親密感が漂っていた。”なんでちゃん”の私としては、気にならずにはいられなかった。
「あははは!いやぁスマンスマン、そうだったね」
老人はまた豪快に笑うと、ママに軽く頭を下げてから、
「ではママ、琴音ちゃんの質問に答えて上げて?」
「もーう、しょうがないですねぇー…分かりました」
ママは今度は拗ねて見せていたが、見るからに冗談と分かる感じだった。そして、すぐ隣に座る私に顔を戻すと、笑顔で何か話し始めようとしたが、ふとまた腕を組み、少しの間唸っていた。
「さて、…うーん、何から話せば良いかなぁ…先生」
と、ママはまた先生の方に顔を向けた。
「この集まりの事も、私の口から触れても良いんでしょうかね?」
ママがそう聞くと、神谷さんはコクンと笑顔で小さく頷いた。それを確認すると、ママはまた私に顔を戻し、笑顔を湛えつつ話し始めた。
「じゃあ、そうだねぇ…。まず私と彼が、前の職場を辞める事になった事から話そうかな?…ふふ、琴音ちゃん、そんな真剣な表情を向けてこないでよ?辞めた話は軽く流すつもりなんだから」
「あ、いや、…ごめんなさい」
私は一応謝ったが、平謝りだった。言い終えた後、思わず舌をペロッと出してしまうほどだったが、そこまで急に打ち解けた調子出すのもなんだと、それだけは思い止まった。自分勝手な感想を言えば、それだけこの空間が居心地よく、意識しないままに心の壁が崩されていたようだった。そのせいで私の本性の片鱗が出てしまっていた。
それは兎も角、私のそんな様子をむしろ面白がりつつ、ママは話を続けた。
「まぁ、簡単に説明するとね、私と彼は、琴音ちゃんが言った通り、自分で言うのも恥ずかしいんだけれど、一流ホテル内の高級フレンチで働いていたの。…下世話な話をするとね、一流なりの給料を頂いていたから、それには文句なんか無かったんだけれど」
後段の方でママが、少し言いづらそうにしてるのが印象的だった。
「でね?そのー…ねぇあなた、私だけが説明して良いのかしら?」
ママはふと、変わらず黙り込んでいたマスターに話しかけた。
話しかけられたマスターは、コンっとグラスをテーブルに置くと、ママの方に顔を向け、目元を少し緩ませつつ、
「…あぁ、構わんよ。私は…口下手だし」
そう言いながら、軽くほおを掻いていた。何だかその情景は、微笑ましかった。
それを見たママはニコッとマスターに笑いかけ、私に顔を戻し先を続けた。
「さて、続きよねぇ…あぁ、そうそう、聡さんから聞いたみたいだけど、そう、私達二人が結婚したくらいからかなぁー…二人揃ってね、何だかその職場が息苦しく感じてきていたの」
「息苦しく?」
「そう。なんて言えば良いのかなぁ…うん、結論から言ってね、さっきの先生達の話に合わせて言えば、たまたまなんだけれど、私達二人とも揃って、どうも世の中から”ハブられる”素質が備わっていたらしいのよ」
「…ふふ」
ママの言い回しが可笑しく、私は思わずクスッと笑ってしまった。その後すぐにママの顔を伺ったが、ママも満面の笑みだった。
「ふふ、それがどういうことかと言うとね、どうも上司から言われる事を納得しないままに、その通りにこなしていくというのに…向いてなかったって事なの。でもそこに勤めている以上、言われるがままにこなしていかなくちゃでしょ?それに耐えていくのに、私達二人は限界だったの。でね、どうなるか分からないけど、このまま勤めていても良い事ないと、二人で相談してね、二人でいつ辞めようかって話をしていた矢先に」
ママはここまで言うと、一度話を切り、一同をぐるっと見渡してから言った。
「今”まだ”この場には来てないけど、知り合いの知り合い…つまり、その時点では他人だったんだけど、知り合いに相談していた時に、その人を紹介して貰ったの」
「…”まだ”?」
私はすぐさま、点々で囲った部分に噛み付いた。
「まだと言うことは、その人も来るのね?」
「…ふふ、琴音ちゃん?」
「…!」
ママはふと、私の唇に軽く指を当てて黙るようにジェスチャーした。
顔は意地悪な笑顔だ。
「慌てないで、その話はまた後でね?」
そう言うと、唇から指を話した。私は照れ臭そうに見せつつ謝った。
ママは笑顔で軽く首を横に振ると、先を続けた。
「でね、その人と初めて、私達も二人揃って会ったんだけれど、もう話が通ってたのねぇ…急にね、『あなた方、お店を構える気はないかな?』なーんて聞いてきたの」
「へ?初対面なのに?」
「ふふ、そうなの。ね、あなた?…でね、呆気に取られて何も返せなかったんだけれど、それに構わずツラツラ一方的に言うのよ。なんだったかなぁ…ん、そうそう、『君達にいきなり言ってもわからんだろうが、あるお店を開きたくてねぇ。君達はあのホテルで働いてるのだろ?その二人の転職先としては、どうかと思うんだが…』って言いつつ、懐から写真を出して見せてきたの。それがこのお店だったのよ」
ママは今度は上を見上げつつ、室内を軽く見渡しながら言った。私もつられて見渡した。
ママはまた顔を私に向けると、少し意地悪く笑いつつ続けた。
「古い趣きのあるお店って、あなたは表現してくれたけど…率直に言ってボロ臭いでしょ?」
「あ、いやぁ…」
心の緩んだ私でも、流石に素直には答えられなかった。
そんな様子を愉快だと言いたげに笑いつつ、ママは続けた。
「これでもまだマシになった方なんだよぉ?写真を見せて貰った時もだったけど、その後すぐに実際にここに連れて来られて見せられたんだけど…まぁー、ボロ臭かったわ」
ママの口癖なのか、ボロ臭いと言うセリフを、しかも強調しつつ繰り返し言った。
「その人の言うにはね、その時点で何年か前に前のオーナーが手放していて、しかも誰も打ち壊す人がいなかったから、そのままになってたみたいなの。それをたまたま、前を通りかかったその人はね、何だかピンと来たものがあったらしいの。でね、そのまま色々と手続きをして、自分の物にしちゃったって話していたわ」
「ふーん。何でだろ?…その人の年齢は知らないけど、もしお年寄りだったら、何だか懐かしく思えたのかなぁ?」
「へぇー」
私が思いついたままにボソッと言うと、隣にいたママがいつの間にか、私の顔を覗き込んできていた。
その様子にビックリして、軽く仰け反ってしまったが、それには構わず、目を大きく爛々と見開かせていた。
「名推理だよ琴音ちゃん。よく分かったねぇー」
「あ、いや…よく見る昔の映画に出て来るようなお店に、ここの外観がソックリだったから…」
と私が慌てて説明してると、今度は向かいから熱い視線を感じた。顔をママに向けつつ、視線だけそっちに流すと、何と百合子が、薄目がちな目を、これまた大きくして見せつつ、私に視線を送っていたのだった。何か話したくてウズウズしている…そんな子供に見えた。
まぁこの理由はすぐに分かった。昔の映画の話が出たからだ。しっかし…、こんなに軽くポッと出ただけなのに、あんなに好奇心の眼差しを向けてくるなんて、…生意気なようだけど、百合子さんは本当に映画、芝居、演劇が好きなんだなぁと、この瞬間に思ったのだった。
私は百合子には何も言わず、そのまま視線を戻すと、それを待っていたかの様に、それと同時にママがまた話し始めた。
「でね、折角買ったのは良いものの、使い道まで深くは考えていなかったみたいで、どうしようかと思っていた矢先に、私達の話をたまたま耳にしたらしいの。これはいざお店を始めるに当たって、何度か会議って言うのかなぁ…それをしていく中で話してくれたんだけど、こう言ったの。『私はね、昔…そうだなぁ…昭和の真ん中辺りに流行っていた、所謂知識人、文芸人、芸術家などがたむろする様なお店を構いたいんだよ。…まぁ、この物件を買った時から考えていた事では無いんだけどね。君達二人の事を紹介してくれた時に、不意にそれを思いついたんだ。そしたらどうも、思い付きとはいえ、何とも素晴らしい考えじゃないかって思いだしてね…だから、そんなお店にしたいから、今言った様な店のコンセプトだけは頭に入れておいて欲しい。それから逸れないでいてくれさえいれば、後はお二人が好きな様に切り盛りして良いからさ』てね。それからはね、その言葉通りに好きな様に弄らせて貰えたの。やれあの調理器具が欲しいの、やれあのワインセラーが欲しいのといった感じでね。そりゃあもう…幾らかかったのか、聞くのも怖いくらいにお金を出してくれたの」
「へぇ…」
私は思わず、当然の疑問として、そんな大金をポッと出せる”その人”って何者?っと聞きたくなったが、別にママに乗っかる訳ではないが、私も”お金”絡みの話は、中学生の私でも口にするのを憚られていた。無粋だとか何だとか、理由はいくつもあれど、最大の原因は、お父さんにあったと思う。…ここでは、これ以上付け加えるのはヨシとしよう。
私の短い相槌には特に反応せず、ママはそのまま先を続けた。
「そこに楽器があるでしょ?それはその人が自分の趣味だからって置かせてくれって言うもんだから、それは構わないと、折角だからこの部屋を防音にしたりしたの。で、そういった施設の調達が終わった頃にね、最後は、お店の内外装はどうしようかって話になったの。その人はさっきも言った様に、好きにして良いって言ってくれたんだけどね、…結局、少し汚れを落としたり、お店として許可が貰えるほどにクリーニングしただけで終わったの。…いやぁ」
ママはふと、なぜか照れ臭そうにしつつ話した。
「私も琴音ちゃんみたいに、こんなボロ臭い店をやるのは、正直どうかなぁって思ったよ?…これは話してないかもだけど、それでも夫婦でどっかでお店を開くというのが、一番の理想でもあったし…それにね、これは言いづらかったから言わなかったんだけど、敢えて今言えば、その人がね、『給料の心配はしなくて良い。ちゃんと前の職場と同じ金額を、最低限保証するから』って言ってくれたから、流石に余りにもムシが良すぎる話だと思ったけど、まぁいっか、乗ってみようかと、そんな軽はずみな考えで引き受けたんだー…あ、話を戻すとね、何だか何度もこの店に通ってるうちにさ…このレトロな風合いが良く思えてきてねぇ…それはこの人も同じ考えだったみたいで、見た目はそのままで行こうって話に纏まったの」
私はここで、チラッとマスターの方を見ると、マスターは一人で何度も小さく頷いていた。
「まぁでも…初めはビックリしたよー?」
ママはそう間延び気味に言うと、また一同をぐるっと見渡した。
「開店初日にね、その人が説明もなく連れて来たのが、ここにいる面々と、その時は…他の人がいたかな?」
とママが疑問調で言うと、
「…今日来ているメンツでは無かったなぁ。そん時にはまだ居なかったのばかりよ」
と急にマサさんが、ほろ酔いなのか、前よりも余計にべらんめえ口調で答えていた。
「あ、マサさん、そうだっけ?…そうそう、その時からマサさんは来てくれてたねぇ」
ママは私に視線を向けたままだったが、どこか遠い過去を見ている様に見受けられた。
ママもマサさんに触発されたのか、自分の分のワインを一口飲むと、先ほどの調子を取り戻しつつ、話を続けた。
「…そうそう、何がビックリしたってね、見るからに一癖も二癖もありそうなのが、どんどん入って来てさ、その人の言いつけ通り料理を振る舞ったり、お酒を選定したりしてる時、聞こえてくる会話が…まぁー濃いのなんのって」
「へ、へぇ…」
私がこうして戸惑いつつ返したのは、初めてこの店に入った時に挨拶したときとは、ママの様子が変わっていたからだった。最初の印象としてはお淑やかで、物静かな印象を受けていたが、途中から天真な印象、そして今はアッケラカンとしたサバサバした印象を受けていた。三変化だ。後で義一にコソッと聞いた所によると、ママは各々にお酒を出す時、毎回まず自分で味を確かめてから出しているらしかった。大体毎度同じ物を注文されるらしかったが、それでも、味が落ちてるのではないかと、知ったかぶりで言えばプロ意識の様なものなのだろう、自分で納得いく物を出したいあまりの行動の様だった。前の勤め先では、やりたくても出来なかったというんで、ようやくこの店を切り盛りし出してから、夢が叶った形の様だった。ただ…ママは自分でも知らなかったらしいが、思ってるほどお酒に強くは無かったみたいだ。味見程度とはいえ、いくつもある酒、度数もてんでバラバラのを飲む訳で、そうしてるうちにほろ酔い気分になり、そして今は本酔いになってるという事だった。尤も、そこは節度を弁えてるので乱れる事は無かった。寧ろ、何だか愛嬌が増して、私個人の感想としては、どのママも嫌いじゃ無かった。
「…でもね」
ママはまたワインを一口飲むと、話を続けた。
「どの話も刺激的で面白かったの。私なんか学が無いからねぇ…テレビの討論番組だって、当時はそれさえ難しくて見るのを避けていたのに、もっと難しい話をしてる筈なのに、ここに集まる先生方の話に関しては、私なりに理解して飲み込めることが出来たのよ」
「そりゃやっぱり、俺らと同じ人種ってのも大きいんじゃないか?」
聡がふと、会話に割り込んできた。顔はニヤケ面だ。
ママも負けじと意地悪く笑って見せて返していた。
「うるさいわねぇー…まぁ、そうかもね。…あぁ、そうそう、この店についてだったわね?だからー…まぁ、無理やり纏めると、その人に誘われて、あの人とお店を構えた訳だけど…ここに集まるのは”うるさ方”ばかりだからねぇ…ふふ。みんな顔が知れてくると、好き勝手にアレ食べたいコレ食べたいって、あの人の専門のフレンチを一切注文しなかったりするのよ。その度にこの人は…またこの人が生真面目過ぎて変人に見られるタイプだからねぇ、中途半端なものは食べさせられないと、昔の杵柄というのか、伝手を頼って、その道のプロの元にまで赴いて、色んなジャンルを勉強してたの。…側から見てて、そりゃー…大変そうだった」
そう言いつつ、後半部分から一同を見渡してると、お年寄り組を除く面々が、ママとマスターに向かって仰々しく頭を下げていた。が、顔は満面の笑顔だった。「すんません!」と声に出したのは聡だけだった。
「ねぇー、あなた?」
本酔い特有の、妙に明るいトーンで話しかけられたマスターは、いつもの事なのだろう、驚く事なく対応していたが、でも本人もお酒が入ってるせいか、前よりももっと表情に出して笑って見せていた。
「でね、”本当に”纏めると、夜はこうして、毎度毎度違うメンツの先生方の為に、今いるこの部屋でもてなしているんだけど、それは毎日じゃなくてね、毎週土曜日の夜だけなのよ。週一の経営って訳ね。さっきチラッと言ったけど、その人はここを、会員制のバーの様にしたかったらしくてね、お客さんといえば、その人つながりの人だけだったのよ。その事についても、あらかじめ聞いていたから、珍しくて何だか面白そうだと思って乗っかったんだけど…ふふ、我ながら考えなしよね?暫く週一経営が続いていたのだけれど…退屈してきちゃったのよ。いや、初めの頃は助かったのよ?ようやく好きな様に理想を追い求められるって。コレも聞いたかも知れないけど、それこそこの人は、さっきも言った通り勉強してたし、食材も良いものを求めて飛び回ったり、私も恥ずかしながら、ふんだんな時間を大いに利用して、国内外問わず、美味しいお酒を求めて飛び回ったりしてね。それはそれで楽しかったんだけれど、私も彼も、それぞれ美味しい所と繋がりができると、一々出向かなくても送ってくれる様になったの。それでも一年のうちに何度かは、直接出向いたりとかはするんだけれど、また自由な時間が増えてしまったから、どうしようって二人で話し合ってね、二人で出した結論というのが…」
ママはそこまで言うと、ふと私の前にある、アイスティーの入ったグラスを指差した。
「コレって訳よ。…つまり、前のオーナーがしていたみたいに、平日は喫茶店を開こうってね。…よいしょっと」
ママは掛け声をつけて、ゆっくり立ち上がると、まだ出して置いたままのトレイに近づき、そこから私が初めに見たメニューをわざわざ持ってきた。そして座り、私にメニューの表紙が見える様に手に持ちつつ言った。抹茶色一色の表紙に、赤字で『数寄屋』と書かれたものだ。
「ここに書いてある様に、『数寄屋』って言うの。この店名で喫茶店をやり始めたらね、途端に近所の年配の人達が来店して来てね、どうも前のオーナーの時の常連らしくて、看板を新しく作って出したものだから、口々に懐かしいって言いながら来てくれる様になったの。でね、その人達に折角だから、昔どんなメニューがあったか聞いてさ、それをこの人が、これまた熱心にメモして再現していったら、こんなにメニューが豊富になったの。…小さい声で言うけど」
ママは内緒話をするかの様に、私の耳元に近付き、手を軽く添えつつ言った。
「いざあの人が作ったら、よっぽどあの人の方が美味しいって評判なの」
そう言い私から離れて元の体勢に戻ったママの顔は、心から嬉しそうな表情だった。こんな言い方は失礼なのだろうが、素直な感想を言わせてもらえれば、一流ホテルの高級フレンチで働いていた人が、街中の個人喫茶の軽食メニューと張り合い競えば、私の浅い考えからすれば、勝負が見えていると思うのだが、ママがそんな表情を見せるので、よっぽど旦那を褒められる事…いや、旦那の”腕”を褒められるのが本当に嬉しいんだなと感じさせられた一コマだった。
と、そんな感想を思った訳だが、ふと疑問に感じた事があったので、聞いてみる事にした。
「…あれ?でも待って下さい」
「ん?なーに?」
ママは間延びで返事をした。私は構わず、部屋のドアを振り向きつつ聞いた。
「今外に看板ありませんでしたよね?それはどこにあるんですか?」
「あぁ看板ねぇー…それはね」
ママは、無駄にと言っては何だが、ワインをゆっくりと味わう様に飲んでから答えた。
「ずっと出して置くと、ここがお店だと思っちゃうでしょ?…あ、いや、お店と思われても良いし、実際喫茶店だからお店なんだけれど…」
酔いが回ってるのか、辿々しくなりつつ、何とか話をまとめる様に努力をしていた。
「うーん…あ、ほら、土曜日は休みにしてるのね?だから常連さん達が間違えない様に看板を週一だけ、中にわざわざ仕舞うのよ。また看板をしまっちゃえば、初めて見た人だと、昔はお店だったんだろうけど、まさか今も店だとは思えない風貌でしょ?しかも店内の明かりが弱いし、通りに面した窓も磨りガラスになってるから、外からだと人の気配すらしないから、会員制バー風にはもってこいなのよ。誰も寄り付かないって意味でね」
ママはここで切ると、またワインを口にした。何だか見るからに、飲むペースが上がっている様だった。
「…まぁ、結局まとまりのない話をしちゃったけど…これで説明は良いかな?答えになってる?」
そう言いつつ、ママはトローンとなった目で私を見つめてきた。
色っぽかったが、私は言うまでもなく女だったので、ドキッとして
たじろぐ事も無く、自然な笑顔で返した。
「はい、よーく分かりました」
「ふふ、良かったー」
ママは言い終えると同時に、またワインを一口飲むと、メニューの表紙に書いてある店名を、指でトントン叩いて見せながら言った。
「ここの昼の店の名前はねー…初めは私達で考えていたんだけれど、ほら、今までずっと、元からあるお店で働いていたものだから、こういうの考えるセンスを鍛えてなかったのねぇ…しっくり来るものが思いつかなかったんだけれど、そこで」
ママは急に勢いよく、神谷さんの方に腕を伸ばして見せてから続けた。
「『数寄屋』なんてどう?って提案してくれたのが、先生だったの」
「へぇー、そうなんですか」
私は素の感想を、神谷さんに向けて言った。
「まあね」と神谷さんは少し照れ臭そうに笑いつつ、短く答えた。
「とても響きがいいでしょ?後で数寄屋の意味を聞いたら、そもそも数寄の意味が『和歌や茶の湯、生け花など風流を好むこと』らしくてね、今日はたまたまだけど、琴音ちゃんも入れて、こうして芸に携わる人が集まるのが似つかわしいでしょ?」
「う、うん」
酔いのせいかどんどんテンションが上がって来るので、若干ついて行けない感じになりつつも、相槌を打ちつつ、向かいに座る美保子と百合子をチラッと見た。その時ちょうど視線があったからか、二人とも私に一瞬笑顔を送ってくれた。
「それにね…」
ママは一瞬溜めたが、テンションを落ち着かせて、静かに、しかし誇らしげに言った。
「そこから派生した言葉らしいんだけれど、この店名の『数寄屋』、この意味はね…『好みに合わせて作った家』といった意味で、茶室を意味してるんだって」
「へぇー」
私は神谷さんを見つつ、代わり映えの無い反応をしてしまったが、心から感心していた。まさにこの店に相応しい名前だった。
「本当に良い名前ですよねー」
不意にそう言ったのは、酔いの回った聡だった。
「まさに”コレだっ!”って奴じゃないですかぁ。…先生、そっちの道でもいけましたね?」
「うるさいよ聡君」
そう返す神谷さんは、満更でもないといった表情だった。聡もニヤケるのを止める気配が無かった。
「…さて!」
ママはそんな空気を変える為か、パンっと一度拍手を打つと、一同を軽く見渡して、私の顔を経由して、それから最後に神谷さんの方を見ながら言った。
「私達の話はこれで終わったんですから、今度は先生方が、この集まりについて説明する番ですよ?」

「うーん…そうだねぇ」
話を振られた神谷さんは、チビっと升に入った日本酒を飲むと、私に柔らかな視線を向けてきた。
「まぁ結論から言うとー…」
神谷さんは一同を見渡したり、身の回りを見たりしていたが、
「…あぁそうか、まだ来てなかったんだったな」
とボソッと独り言ちると、今度はママの方に顔を向けて言った。
「ママさん、悪いけど我々の雑誌をいくつか持って来てくれるかな?」
「…我々の雑誌?」
と私は思わず言葉を漏らしたが、それには関せずに
「はーい、分かりました。今取って来ます」
と陽気な調子で応えると、おもむろに立ち上がり、部屋の隅にある本棚の方へと向かった。
前にこの部屋を紹介した時には、部屋の隅に本棚がある事を言ってなかったが、それは別に特段紹介する程でもないと判断したからだった。本棚には一般的な雑誌サイズの本がズラッと並べられていたが、てっきりイミテーションの飾りと思っていたのだ。いわゆるお洒落を演出するためだけの物のように。
それは置いといて、ママはそこから二、三冊取り出すと、それを持って戻って来た。そして神谷さんが言わずとも、ママは私にそれらの本を手渡してきた。渡されるままに受け取り、表紙を見てみると、その上部に『orthodox』と書かれていた。どうやら雑誌の名前のようだった。そのほかには、日本のどこかの風景写真が載せられていて、右端にズラッと、小さな字で人名が書かれていた。どうやらそれらの人達が、その雑誌の中に寄稿しているようだった。
…こう言ってはなんだが、第一印象は…『雑誌という体は成していたけど、何だか安っぽい作りをしてるな』というものだった。同年代の子達とは比べ物にならないくらいに、普段から雑誌を読まなかったが、それでも今手元にあるのがどの程度の物かくらいは判断出来る。
はっきり言ってしまえば、コンビニなどで売られている”ムック本”レベルにしか見えなかった。
そんな感想を抱きつつ、ふと顔を上げると、全員が興味深げに私の反応を待っているかの様だった。その気配を感じたので、私は恐る恐る口を開いた。
「…あのー、これって…?」
と、感想を言わずに疑問を漏らしてみた。
すると神谷さんは、半分誇らしげな、もう半分は少し照れ臭そうな、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「…ふふ、それはねー…」
と、少し勿体振って見せたかと思うと、一同をぐるっと見渡してから質問に答えた。
「ここにいる面々だけじゃないが、この店に集まる人間達で、その雑誌を作ってるんだよ」
「へぇー、そうなんですか」
良かったぁ…感想言わなくて
などと一人でホッとしながら、改めて何冊かの一冊、さっきも言った一冊の表紙を、今度は入念に見た。右端に書かれた寄稿者の列、よーく見たが、皆んな知らない名前が羅列されていたが、神谷有恒の名前が一番下に出ていた。
「…ん?あれ?!」
と、私は思わず声を上げてしまった。今日ここに来て一番驚いたかも知れない。
何故なら、その寄稿者欄の中、神谷有恒の名前の上に、何と”望月義一”の名前が出ていたからだった。私は目を大きく見開いたまま、思わず隣の義一に視線を向けたが、義一は何食わぬ顔で平然としていた。
「ふふ、ちょっと見せてくれる?」と、私の反応を楽しんでるかの様に、愉快げに神谷さんが聞くので、私は動転したまま中腰で立ち上がり、手渡したのだった。
受け取った神谷さんは、愛おしそうに表紙を眺めて、それから徐ろにページをめくり出した。
「…あぁ、そっかぁー…。この号は、テーマを政治に特化させたから、今いる面子に書いてもらってないんだったねぇ」
そう言い終えると同時に雑誌を閉じて、隣にいた勲に手渡すと、何も言われていないのに、隣にいた聡に渡し、それから義一を経由して私の手元に戻ってきた。
「…ふふ、ママさん」
神谷さんは、私に雑誌が戻るまで黙っていたが、私が受け取ったのと同時に笑いながらママに話しかけた。
「どうせだったら、今日いる人達が寄稿してるのを見せてあげればいいのに」
「え?あらぁ…ありますよ?」
ママはそう言いながら、私がテーブルに置いた残りの内の一つを取り上げ、
「ほら琴音ちゃん、この号が、今この場にいる方々が寄稿したものだよ」
と私の手元のものと交換する様に手渡してきた。
渡されたものを見てみると、相変わらず表紙の上部にorthodoxと名前が書かれていて、どこかの風景写真が載っていたが、右端の寄稿者欄を見てみると、いくつかある人名の中に、石橋正良、川島勲、岸田美保子、小林百合子、そして最後の方にやはり、望月義一、神谷有恒の名前が出ていた。
そして今度は少しページを捲り、目次を見てみると、ここにいる面々が、それぞれの世界について思う事を書いている様が、まだしっかり読んでなくても、その題名だけで見て取れた。まぁ、短い時間とは言え、あれだけ濃い議論をしたのだから、想像するのは難くなかった。
義一の所を見てみると、やはり芸について寄稿している様だった。尤も、題名を見る限り、本質的な、大局的な内容だとすぐに分かった。
と、私がチラホラ見ている間、面々は静かに見守っていたが、私がふと顔を上げたのを合図にしたかの様に、
「…まぁ、それ見て分かるように」
と神谷さんが、私がまだ質問しないままに、先回りして話しかけてきた。
「そして今までの話を纏めて、君の質問に対しての答えらしい答えをするとだね、端的に言えば、その雑誌を作るための集まりだと言っても過言では無い…つまりそう言う事なんだ」
「先生、それだけじゃ誤解があるぜ?」
と、マサさんが不意に神谷さんの話に続けて入ってきた。
「orthodoxありきで集まった訳では、必ずしも無いでしょう?…俺なんかは、この雑誌ができるずっと前からの付き合いなんだから」
マサさんはそう言うと、今度は私に顔を向けて、パッと見では怒ってるかのように勘違いを受ける様な素の表情のまま話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、さっきママが言った事を受けて話せば、この集まりの最前提はな、今の時代の中、元もこうも無い事を言ってしまえば、資本主義、もっと露骨に言えば、質はどうあれチープでもなんでも大衆に受けさえすれば良い、儲かれば良いという量重視の商業主義に、力無くも真っ向から反発していこうとする…聡が言う所を俺なりに言い換えれば”社会不適合者”って事なんだ。で、今はまだ来てないが、大昔から連んでいた中に”西川さん”って人がいてな、その人が…」
マサさんは不意に、隣の神谷さんの肩に、手を軽く乗せつつ続けた。
「この先生が雑誌を作りたがってるって話を聞いてな、その西川さんも是非にと乗り気になってな、ポケットマネーを叩いて雑誌を刊行してくれる様になったんだ」
と言い切り、前触れもなく話を打ち切ると、マサさんはまたチビチビと日本酒を飲み始めるのだった。
「…まぁ、そんな所だよ」
と、今度は義一が私に微笑みかけてきつつ言った。
「大袈裟で、少しカッコつけた言い方すればね?…大雑把な言い方になるんだけれど、今の世の中の風潮について疑問に感じ、憤懣やる方ない、でもここまで時代が流れるがままに来てしまった…もうどうしようもない、なす術がない、手の施しようがないと、端的に言えば絶望している集団なんだけれど、それでもこうして否応無く生を受けて産まれて生きている。…いくら絶望してようと、取り敢えず生きなきゃいけない訳で、それならば『おもしろきなき世を おもしろく』ってなもんで、せめて死ぬその時に『あぁ、クダラナイ世に生まれて生きてしまったが、まぁそれなりに抗い、何度自問自答しても正しいと思われる事をしてきたのだから、生きた甲斐はあったかな?』と思えれば上々だろう…そんな人生観を共有している集まりなんだ。でね?」
義一はスッと、テーブルの上に重ねて置かれた雑誌の一つを手に取り、さっきの神谷さんの様に表紙を愛おしそうに見つめながら言った。
「世の風潮に抗う、その具体的な行動が現れて形になったのが、この雑誌ってわけさ。…分かりづらいだろうけど、理解できた?」
そう聞いてきながら私の顔を覗き込んできたので、
「…うん、みんなの話を聞いて、ようやく理解出来たよ」
と、義一に笑顔を見せつつ返した。
まぁ尤も、ここまで辛抱強く聞いてくれた方なら、今義一が話してくれた内容が、耳にタコが出来るほどに、私に話聞かせてくれた内容だという事に、すぐ気が付かれたことだろう。すんなりと理解出来るのは当たり前だった。
「…それは良かった」
神谷さんがボソッと、私に微笑みかけてきつつ言った。
私もそれに合わせて顔を向けて微笑み返したが、その時
ガチャっ
唐突に部屋のドアが開いた。急に予期せぬ音が聞こえたので振り返って見ると、そこには一人の老人が満面の笑みで立っていた。
歳は七十そこそこといったところだろう、髪型はオールバックに撫で付けられていて、剃り上げられた神谷さんとは見た目が正反対に見えたが、同い年くらいに見えた。服装は、量販店でよく売られている様なセーターに緩めのジーンズと、Tシャツにスキニージーンズの私が言うのもなんだが、随分とラフな格好をしていた。
と、一同が老人の姿を認めるなり「おぉー」といった様な声を上げて歓迎した。皆して笑顔だった。
「いやぁー、すまんすまん」
老人は謝るジェスチャーをしつつ、私達の座るソファーへ近寄って来た。同時に勲が右に寄って来たので、必然的に私も一席分右に寄る事になった。移動が終わったのとほぼ同時に、老人はソファーの隙間をすり抜けて、神谷さんと勲の間にドカッと座った。
「あぁーいやいや…」
「…ふふ、オーナー?」
ママは私の気付かない間に立ち上がっており、老人の側まで笑顔で近寄っていた。
「今日は何飲まれます?」
そう聞くと、老人は隣の神谷さんの前にある、升に入った日本酒を見ると、オールバックの頭を撫でつつ
「この人と同じものを頼むよ」
と人懐っこい笑みを浮かべながら返した。
ママは黙って頷くと、出したままのカートを押して部屋の外へ出て行った。
「はぁーあ」
”オーナー”とママに呼ばれた老人は、ハンカチを取り出し顔を拭いていたが、隣にいた神谷さんがジト目を向けつつ話しかけた。
「はぁーあ、じゃ無いよ。随分遅い登場じゃないか?」
「え?そうかなぁ?」
老人はふとポケットから金色の懐中時計を取り出し、時刻を確認した。私も何の気もなしに腕時計を見てみると、時計は八時半過ぎを指していた。
「そうだよー」
神谷さんは、ジト目を向けるのを変えるつもりは無いらしく、そのままの表情で、視線だけ私にチラッと向けてから言った。
「前に話しただろ?何年かぶりに新しい人が尋ねて来てくれるって」
「あぁ、勿論覚えていたさ」
私はこの時、二人の会話を聞いて、神谷さんが今日初めてくだけた調子を見せていたので、口調そのものは非難めいたものだったが、心安い間柄なのは、簡単に見て取れた。
ガチャっ
とその時、ママがトレイに一人分のお酒だけを乗せて部屋に戻って来た。「おぉー!」と、それを見た老人は、神谷さんとの会話中だというのに、ママが運んで来る日本酒を、今か今かと待ち受けていた。
「はい、オーナー」
ママは笑顔で、老人の前のテーブルの空きスペースに、ゆったりとした手つきで、まず空の升を置き、そこに瓶に入った日本酒を、両手を使って注ぎ入れた。
「おっとっとっと…うん、ありがとう」
「ごゆっくりね、オーナー?」
ママは瓶の口を綺麗にし、蓋を閉めながら言った。そして瓶を抱えつつ、また部屋の外に出て行ったのだった。
「さてと…」
と、老人はスッとその場を立ち上がると、升を胸元の高さで持ちながら、陽気な声を上げた。
「皆々方、遅れてすまんかったね!当然もう乾杯は済ませてるんだろうが、悪いけどもう一度付き合ってくれるかい?…あー、いやいや、飲みかけでも構わないよ。格好がつけば、それで良いんだから」
と、黙って立ち上がったマスターを見るなり、何も言わなくても何かを感じ取ったらしい、升を持たない左手で座る様にジェスチャーしつつ言った。マスターは気持ち恐縮しつつ座るのだった。
老人は調子を変えないまま、私の方をチラッと見て、おもむろに、言ってはなんだが下手くそなウィンクをして、後はそのまま音頭を取った。
「では…かんぱーい!」
「かんぱーい」
本日2度目の乾杯を済ませると、早速老人が私に話しかけてきた。
「おぉっと、君が”例の”新入り君だね?…ふーん」
と、老人は目を細めつつ、私の事をくまなくジロジロ見つめてきた。
「…あ、あのぉ」
と私が言いかけたその時、
「…おいおい、良い加減にしないか敏文」
と、これまた神谷さんが、先ほどと変わらないジト目を向けつつ、老人を制した。
「あまり年端も行かない女の子を、いい歳こいた年寄りがジロジロ見るもんじゃないよ」
「あははは!分かってるよ、ツネさん」
老人は神谷さんの言葉を一顧だにしない感じで、軽く受け流しつつ、また私に話しかけてきた。
「中々、話で聞いていたよりも、ずっと可愛いお嬢さんだったものだから、ついつい凝視をしてしまったんだよ…ゴメンね?」
「あ、いえ…」
義一と同じで、容姿を褒められる事に抵抗があった私だったが、それよりも突然現れた、強烈な個性を持った老人が目の前に現れた事によって、すっかり動揺していたのだろう、この時ばかりは抵抗を感じる事なく、ただ単純に目の前の老人に、徐々にだが、興味が湧いてきていた。
「…あ、そうだ」
私はまだ自己紹介をしてない事に気づき、この部屋に来て初めてした様な自己紹介をした。老人はウンウンと頷きながら聞いていた。
自己紹介が終わると、老人はなぜかニヤニヤしながら、一度手で拳骨を作り、口の前に持っていってゴホンと咳払いをすると、話し始めた。
「私の名前は西川敏文と言います。さっきママが僕に言ってたけど…そう、この店のオーナーなんだ。まぁ、こんな年寄りだけど、年の差なんか気にせずに、ゆったりと一緒に過ごしておくれね?」
西川さんはそう言い終えると、何故か照れ臭そうにしつつ、髪を流れのままに撫で付けた。どうやらこれが、彼の癖の様だった。
「は、はい…よろしくお願いします」
私はなるべく微笑みを意識してしながら挨拶を返した。
「西川さんはねぇ?」
と、不意に義一が私に話しかけてきた。そして本人の方を向きつつ続けた。
「もう分かり切ってるだろうけど、この人がこの店を作った、さっきのママの話に出てきた本人なんだ。そして…」
義一はまたおもむろに、雑誌の一つを手に取り、表紙を私に見せてきつつ言った。
「さっきも話が出てたけど、この雑誌を出すにあたって、一番出資してくれたのも西川さんなんだよー」
「へぇー」
私はそう返しつつ、義一から雑誌を受け取り、一番後ろに書いてある発行元のあたりを注意深く見た。”西川敏文”の名前は書いてなかったが、代わりに、私でも知っているホテルチェーンの名前が書かれていた。マスターやママの勤めていたホテルとは、そのー…言ってはなんだが、格がいくつか下の、言い方が難しいが良く言えば”庶民派”で、気軽に利用出来ると、それなりに世間に認知されていたものだった。
「ここには、出版社とこのホテル名しか出てないけど?」
私は指でそこを指しながら、義一の顔を見つめた。
すると、何も声を発していなかったが、義一の顔越しに見えている西川さんが、愉快といった調子で、ニヤけているのか、微笑んでいるのか表現しにくい表情をこちらに送っていた。
義一に視線を戻すと、これまた同じ様な表情を見せていた。
「あはは。…そう、そこに書いてあるホテルこそが、西川さんに”大変”所縁があるんだよ」
「…?どういう事?」
「それはねぇ」
義一はふと、西川さんの方を見つつ先を続けた。
「そのホテルというのが元々、ここにいる西川さんが、一から創業したからだよ」
「へぇー!」
私の一本槍、へぇーと声を上げたが、自分でも分かる程に目が開かれていた。
先程のママの話を聞いて、ポケットマネーで建物を買い、人を雇ってお店を開き、利益などは度外視に、キチンと給料も前の職場と遜色無く払う…そんな真似が出来るのは、並大抵のお金持ちでは無いだろうくらいには、当時の中一の私でも想像出来たが、まさか誰もが知るホテルの創業者だとは夢にも思わなかったからだ。
私も義一と同じ様に、西川さんの方を向いた。西川さんは私達に手をヒラヒラ振って見せていたが、やはり何処か照れ臭そうにしていた。
「あははは!そんな大した事ないよ!今はもう引退して、息子に継がせちゃったから、厳密には私ともう関係無いしね」
西川さんは、その表情のまま大きな声で応えた。
「ホテルを創業したからって、別に私が偉くて出来たんじゃなくて、たまたま当時は、庶民向けのホテルが少なかったから、ここまで大きくなっただけだよ」
「またまた謙遜をー」
と聡が応対していた。
私は心の中で密かに感心していた。素直な感想を言えば、西川さんに対する第一印象は、決して良いとは言えないものだった。決して悪くもなかったが…ズバッと行ってしまえば、何だか胡散臭い雰囲気を身に纏っていたからだ。見た目にケチつけて何だが、年寄りでオールバックにしている男性を見慣れていないせいか、それが余計に拍車をかけていたのかも知れない。しかし、今聞いての通り、世間一般的には誰もが羨む”成功者”であるはずの西川さんが、自分の事を、背後に自尊心が見え隠れする様な見え透いた自虐をするのでもなく、ただ自然と謙遜して見せた事で、私の中での第一印象が消えてなくなり、我ながら単純だと思うが、好印象に変わっていた。
「この店だって…」
西川さんは、ソファーの背もたれに手をかけて、天井を軽く見上げつつ
「私のただの懐古趣味で、昔ながらのバーを開きたかっただけなんだから」
と話すその口調は、どこか寂しさを聞いてる方に感じさせるものだった。
それを聞いてて、私は思わず自分から話しかけてしまった。
「…あ、あのー」
「ん?何だい?えぇっと…そうそう、琴音ちゃん?」
西川さんは、さっきまでの寂しげな雰囲気は何処へやら、陽気な調子で返してきた。私は構わず続けた。
「えぇっとぉ…さっきママさんから話を聞いたんですけど…この店を開く上で、そのー…昔に実際にあったバーを手本にしてるって…それって、どんなのだったんですか?」
私はママの話を思い出しつつ、辿々しく言葉を紡いだが、最終的に自分が本当に聞きたかった事から逸れてしまった。だが、今言った事も当然興味があったので、そのままにしておいて、西川さんの返答を待った。
「んー?…そうだなぁー」
西川さんは、また軽く上を見上げつつ、記憶を辿る様にゆっくりと話した。
「…まぁ、そのバー自体は特別なものでは無かったよ。銀座にあったんだが、当時の基準からしても寂れていてねぇー。…よっぽど、ここの方が綺麗だよ」
そう言いつつ、また室内をぐるっと見渡し、最後に私に顔を合わせた。そしてニコッとしたかと思うと、
「…ねっ?ツーネさん?」
と、マサさんと会話していた神谷さんの肩に手を置くと、少しチャラケ気味に話しかけた。
一瞬ビクッとしていた神谷さんだったが、すぐに不機嫌そうな表情を浮かべつつ、言葉を返した。
「なんだい急に?…あぁ、会話は聞こえていたから分かるよ。…そうだなぁ」
と今度は神谷さんまでもが、遠くに視線を流す様に目を軽く細めつつ、しみじみと言った。
「そうそう、まぁ店自体は、お世辞にも良いとは言えないシロモノだったけど…あの頃は私も君も若造だったが、ツテであのバーに行かせて貰って、中に入った時の高揚感は忘れられないねぇ」
「へぇー…それは具体的にどんな感じだったんですか?」
私は神谷さんに対し、視線を真っ直ぐ挑発気味に飛ばし、少し食い気味にもっと話を聞き出そうとした。
またいらないことを言えば、皆さんもご承知の通り、心を許した相手に対して図々しくなるという悪癖が私にはあるので、すっかり壁を感じなくなった神谷に対しては、グイグイと押し出しを強く出れる様になっていた。まぁ…相手はたまったもんじゃないかも知れないけど。
そんな生意気な私の態度に、一々反応する事もなく、これは主観的判断だが、神谷さんは私のそんな調子を愉快だと思ってくれてる様だった。
「…ふふ、そんなに慌てないで」
神谷さんは、手でなだめる様なジェスチャーをして見せてから話した。「そうだなぁ…まぁ具体的にと言われると、返答に困ってしまうけど…うん、端的に言ってしまえば、そこに集う人間達が醸す雰囲気がバーの中をぐるぐる回って、それがなんとも言いようの無い空気を形成していたんだ。…分かるかい?」
そう聞く神谷の表情は、どこか少年チックな面影をチラつかせていた。私も思わずクスッと笑うと、「はい、何と無くですけど分かる気がします」とだけ答えた。神谷さんもニコッと何も言わず笑い返すのみだった。
「…とまぁ」
と、良い頃合いだと判断したのか、西川さんが不意に話を切り出した。
「もしかしたら、もう既にここにいる彼らに話を聞いたかも知れないけど、正確に言えば、この建物の外観を見た時に、自分の若かりし時…そう、青春時代を思い出してねぇ…でまた、こんな住宅街の隅っこで忘れ去られた様にポツンっと建っている姿を見たら、居た堪れなくなってね、ついつい買ってしまったのだが、買った当初は使い道など微塵も考えてなかったんだよ。でもね、少ししてからふと、久しぶりに昔を思い出したせいか、さっき言った例のバーの事を思い出してねぇ…それで『そうだ!普段は通らない道を通って、たまたまここを見つけたのも何かの縁だろう。この際だから、あのバーを再現出来ないかな?』って思いついて、今に至るわけさ」
「へぇー…そうだったんですね」
私はママの話に、細かいところまで説明を加えて貰えて満足したが、折角なので、
「ところで、そのー…」
もう少し話を聞き出してみる事にしたが、ふと、西川さんの事を何て呼べば良いのか、この時になって迷ってしまった。
それを察してくれたか、「私の呼び方は、何でもいいよ?」と言ってくれたので、私は今まで話してきたように”西川さん”で統一する事にした。
「あ、はい…では、西川さん…そのー、そのバー自体は今もあるんですか?」
と私が聞くと、今まで和かだった西川さんの顔に薄っすらと影は差したように見えた。これは店内の薄暗い照明のせいではなかっただろう。その隣に座っていた神谷さんの顔も、同じように見えた。
「…んーん、無いよ」
西川さんは目を閉じながら、ゆっくりと顔を左右に振りつつ、力無げに言った。
「あれはどれくらい前だろうねぇ」
と今度は、神谷さんが顎をさすりつつボソッと言った。
するとその時、今まで会話に入ってきてなかったマサさんが、「三十年以上前だよ」と小さな声で言った。
「…三十年以上も」
私も意識して合わせた訳では無かったが、マサさんの声のトーンに合わせるようにして、独り言ちた。
するとそれに気付いたマサさんは、厳つい顔を若干緩めつつ私に話しかけた。
「そうだよ、お嬢ちゃん。…今この先生方が思い出をポロッと話してたが、序でに俺の事も言わせて貰えりゃ、俺はその時まだ駆け出しのペーペーでな?先輩達に連れられて何度か行かせて貰ったんだよ。ただ…俺の世代までがギリギリ間に合ったんだが、俺より下が来る頃には、そんな”粋人”が集まるようなバーは、目立つ所にはもう消えて無くなってしまっていたんだ」
「そうなんだ…」
その語り口が余りに哀愁漂う調子だったので、聞いてる私まで寂しい気持ちになり、ついつい目上への気遣いとしての丁寧語を忘れてしまっていた。私自身この時気付いてなかったが、マサさんもそれを聞いても表情を変えなかったので、キャラクターとは裏腹に、細かい事に一々指摘してくるタイプでは無いようだった。
「あぁ、そうなんだよ。…しっかしなぁー」
マサさんは今度は、頭の後ろに腕を回しつつ、軽く見上げつつ愚痴るように言った。
「俺だってそこまで知ってた訳じゃ無いけど、すっかり銀座も”子供”の街になっちまったなぁ」
「またいつもの始まった、マサさんの愚痴が」
とすかさず神谷さんが、苦笑い気味に言った。
「そのバーはね、銀座にあったんだよ」
と、隣の義一が私の耳元に近付き、小声で教えてくれた。
「先生方だって分かるでしょうよ?俺よりもっと早い時期から過ごしていたんだから」
マサさんは、ハタから見てて一人熱が入っていた。
「昔は今で言う所じゃなく、昔ながらの大人、ある種の格を持ち合わせてなければ、夜の銀座は歩けなかったのに、今や昼夜問わず、どんな人種だか分からねぇような連中が大きな顔して歩いてるんだからなぁ」
「あははは!まぁ、マサさんの言いたい事は分かるよ」
とここで、西川さんが乗り気になり出したのを瞬時に察した神谷さんは、「私を間に挟んで盛り上がらんでくれ」と苦笑気味に抗議し、西川さんと座る位置を入れ替えた。席一つ分、私に近づいた形だ。
それからマサさんと西川さんは、今の銀座への思いをツラツラ話していたが、そこから拡大して、昔話に花咲かせている様だった。
「やれやれ…」
と、そんな様子を横目に、わざと大きくため息ついて見せた。
「年寄りは、すぐに空気を読まずに昔話をしてイケナイねぇー…」
と言うと、今度は私の方を見て、苦笑交じりに話しかけてきた。
「いやぁ、ゴメンね琴音ちゃん。今みたいな話、退屈だったろ?」
「いえいえ、そんな…面白かったですよ?」
と笑顔で返すと、
「そうかい?…琴音ちゃんは良い子だねぇ」
と、あたかも自分の孫を見るかの様な慈悲に満ちた視線を向けつつ言った。私も取り敢えず微笑み返したが、これは何も気を遣った訳では無かった。単純に、お年寄り…いや、”老人”の話す昔話が好きだったのだ。
ここで私が、何故”年寄り”と”老人”と分けたか、少し説明がいるだろう。すぐ終わるから心配ない。と言っても、あくまで自分の感覚的な問題なのだが、”老い”という字に対して、世間とは真逆の印象をこの歳にして抱いていた。世間的には”老いる”事は何においても”悪”だとされている様だが、私自身としては寧ろ”善いこと”だと思っていた。何故なら…いや、変に勿体ぶらなくとも、私と義一の会話、そして今日の、美保子と私の会話を聞いた人なら、勘付くのもいるだろう。それを敢えて、今までとは違う視点で説明すると、一つ”老”を含む漢字で”老師”というものがある。これは日本語でも中国語でも、年老いた先生くらいの意味で使われているのだが、もう一つの意味がある。それは『学徳のある僧を敬っていう語』というものだ。これは…これまた義一との会話の中で、雑学としてふと教えてくれた事だったが、今現代における最高の小説家と称される人が言ってた事らしいが、こう言ったというのだ。『今の人々は、何故か老いる事に対して、非常に過敏に反応し、どうにか抗おうと無駄な努力をしている様だが、いつから老いが忌避される様になったのだろう?老いるというのは素晴らしい事じゃありませんか?私なんか80超えてますけど、老人と称されると、そこまで成熟していないあまりに、気恥ずかしくなってしまうんですよ』と。
義一はこの流れの中で、老師の例えを出しつつ話をしてくれたのだが、何が言いたいのかっていうと、歳を重ねるのにも貴賎上下があって、ただ毎年何も考えずに、”ただ”生きてきた人を”年寄り”と称して、先にも言った様に、毎年毎年研鑽を積んで自分を磨き続けた、まるで学徳のある僧侶の様な人を”老人”と称したいという事だ。
…前にも言ったが、すっかり義一の癖…いや、義一は義一で、神谷さんの影響を受けていたのが今日になって初めて分かったが、どうも話があっち行ったりこっち行ったりしてしまう。しかし、今言った私の定義に異論反論がある人もいるだろうが、取り敢えず私の言いたかった事は、分かってくれただろうと、これまた自分勝手な判断をして、この話を切らせて頂く。
「…あっ」
ふと目に雑誌の表紙が目に入ったとき、今更ながらハタと気付いた。と言うよりも、質問するにを忘れていたことに気付いたのだった。
「あのー」
「ん?」
神谷さんは、チビっと日本酒を飲みつつ言った。
「何かな?」
「はい、これなんですけど…」
私はメモを膝の上に置き、『orthodox』の一つを手に取ると、表紙を見せつつ聞いた。
「今更ながら聞くのは、恥ずかしいんですけど…この雑誌の名前になってる”orthodox”ってどんな意味なんですか?」
「んー?」
神谷さんは、今まさに飲もうとしていた日本酒の入った升をテーブルに置くと、マジマジと私の手にある雑誌の表紙を見た。
自分が出している雑誌だというのに、まるで初めて見るかのように興味深そうに見ていたが、ふと体勢を元に戻すと、笑顔で話しかけてきた。
「あははは!何も恥ずかしがることないよ。『聞くはいっ時の恥、聞かぬは一生の恥』ってね?…そうだなぁ」
神谷さんは、一度テーブルに置いた升酒を手に取ると、一口飲み、そしてまたテーブルに戻してから、話し始めた。
「ふぅ…さてと。…あぁ、オーソドックスの意味だったね?で、琴音ちゃんが本当に聞きたいのは、何故そういう名前を付けたのかって事だよね?」
「はい、その通りです」
私は雑誌をテーブルに戻しつつ素直に答えた。何せ、この店の名付け親である神谷さんが、どうしてその名を付けたのか、とても興味があったからだ。
「まぁ…これまた単純なんだけど…」
神谷さんは話しながら、先程の電子辞書を取り出すと、そこで何かを打ち込んでいた。
そして私にまた手渡してきながら言った。
「オーソドックスにはね…そこに出てるように、第一義に『正統』って意味があるんだ」
「正統…?」
私はそれを見つつ、ボソッと呟いた。正直ピンと来なかった。いきなり”正統”と言われても、どういう意味なのか、そもそもの所、よく分からなかったからだ。
私が電子辞書を返す時、そんな顔をしていたのだろう、神谷さんは和かに受け取りしまうと、笑顔でまた話しかけてきた。
「うーん、いきなり”正統”と言われても、スッと理解が出来ないのも無理はないね。そう、これにも少しばかり説明がいるんだ…」
と神谷さんが話している間、私は紙に”正統”とだけ書いて、それを強調するように、丸で囲っていた。
「逆にね、正統という言葉を英語に翻訳してみると、もう一つ、”legitimacy”って単語が出てくる」
「れ、れじてぃましぃ?」
また新たな聞き覚えの無い英単語が出て来たので、顔を上げて神谷さんの顔を直視した。神谷さんは、そんな私の反応に対して、少し照れ気味に、話を続けた。
「そう。…あぁ、いやいや、これは話を便宜的に進める上で出しただけだから、今は深く掘り下げないよ?…ふふ、もしどうしても気になるなら、後で隣の義一君に聞いてみてね?」
「…はーい」
私はそう答えた後、隣の義一を盗み見ると、義一は私に顔を向けつつ、微笑ましげに見てきていたのだった。
「…さて」
神谷さんは続けた。
「話を戻すと、今言った”legitimacy”…今説明したように、オーソドックスと同じ意味を含んでいるわけだが、もう一つ意味が込められている。それは…”嫡出”って意味なんだ。…あっ、君は嫡出って分かる?」
「あ、はい。しっかりと手続きを踏んだ婚姻をした夫婦間の出生って意味ですよね?」
私は今のセリフを、少し吃りつつ答えた。何故なら、嫡出の意味自体は知っていても、何故急にそんな話を降ってきたのか、これまた理解が追いつかなかったからだ。
それを知ってか知らずか、神谷さんは愉快そうに話を続けた。
「そう、よく知ってるねー。流石は義一君の姪っ子だ!…え?関係無いって?あははは!…さて、そう、今君が説明してくれたように、嫡出にはそんな意味がある。…で、ここで一つ分かったことは、”正統”と”嫡出”には、多大な共通点があるって事。…それは同意してくれるかな?」
「はい、分かります」
私は”正統”の隣に、新たに”嫡出”を書き加えた。
「うん、良かった。では改めて纏めてみると、正統というのは、『過去から変わらぬ慣習に則り、伝統的な教義、学説、方法論を受け継ぐさま』と見たんだが、これについてはどうだろう?」
「…はい、まさしく、その通りだと思います」
私はそう答えつつ、神谷さんが今言った言葉を、私なりに纏めつつメモをした。
ここで一つ、言い訳では無いが、もしかしたら勘違いされてる人も居るかもしれないので、弁明させて頂く。それは、神谷さんが言う度に、それを”何も考えず咀嚼しないまま”メモをして、言われた事そのままに受け入れて居るだけではないか?ということだ。それは違う。これを言うのは初めてかもしれないが、私は誰かに心から心酔したという経験が無い。側から見ていれば、義一に対して、ついでに言えば師匠に対してそうじゃないかと見えるかもしれない。だが、例えで出したこの二人が、仮に何か引っ掛かる、何か矛盾に感じさせる言葉を言ったらば、これまでも容赦無く私はツッコミを入れてきた。何が言いたいのかというと、単純に、今の場合で言えば、神谷さんの話す内容が、私一人の感想としては、非の打ち所が無かっただけの事だ。
これは私の想像だが、今の話、今までの話、いやそれに止まらないだろうが、この神谷さんという老人は、色んなテーマについて何度も自分の中で問答を繰り返し、その内容について何度も他人と議論を深めて言った上で、自分の納得できる結論を導き出してきたのだろう。言うなればその一つ一つに”時間の重み”が感じられた。時間の重みとは”言葉の重み”という事だ。ただ、時間をかければ良いという訳でもない…ここまで聞いてくれた人なら分かってくれるはずだ。
また話が逸れた。
それはさておき、神谷さんは笑顔を絶やさぬまま
「で、肝心のオーソドックスの意味…そして、それを何故この雑誌の名前にしたのか、もう分かってくれたね?」
と聞いてきた。今また改めて、同意するかどうかを聞かれても、そんなの返答は一つしか無かった。
「…はい、今だけではなく、これまでの話を伺ってきたので、尚更ストンと腑に落ちました。何故この様な名前が付けられてるのかの」
と笑顔で答えた。
すると神谷さんは、私から見ると大袈裟に見えるほどに喜びを露わにしつつ
「そうかい?気に入ってもらえたようで嬉しいよ」
と言うのだった。
それからはしばらく談笑していたが、ふと今まで静かだった聡が席を立ち、今では美保子と百合子も混ざっての昭和の時代を回顧してお喋りしている、西川さん達の方へ席を移ったので、その分をまた神谷さんが詰め寄る形になった。勲さんも静かに私たち二人の話を聞いていたが、聡の様に席を替える気は無いようだった。
「…あっ、そうだ」
神谷さんは雑談の途中ハッとして見せてから、おもむろに先程メモに使ったナフキンを手に取り、それを見つつ言った。
「ついでと言ってはなんだが、大分前まで話が戻るが、まだ”矛盾”についての話が終わってなかったね。これは”ニヒリズム”の話よりかは、すぐに済むから、今この話をしても良いかな?」
何がついでだか分からなかったが、その提案は願ったり叶ったりだったので、私も改めてメモに目を落としてから、
「はい、お願いします」
と明るい表情で返した。
「まぁ、一々仰々しく言う事はないんだが…」
神谷さんは自分で言った事に恥かしがりつつ、話を始めた。
「もう散々話した後だから、今は何故矛盾に感じられる話を振ったのかを説明しようと思う。それはね…”普通”の人はそう前置きをされて話を聞くと、途端にその人の話す内容を真面目に取り合おうとせず、その後慌てて種明かしをしても、全く聞く耳を持とうとしてくれないんだ。まして、我々みたいな見るからに少数派の話なんかだとね」
神谷さんはおどけて見せたが、私の心中は冷めきっていた。それは勿論、神谷さんに対してではない。
「…」
「まぁある意味、琴音ちゃん、君が果たして”どちら側”の人間なのか、試してしまったのだけれど…許してくれるかい?」
と言いつつ、神谷さんが軽く頭を下げたので、
「い、いえいえ!そんな許すかどうかなんて…」
と、私は慌てて対応した。
顔を戻した神谷さんは、優しくこちらに微笑みかけてきつつ、話を続けた。
「…ふふ、これを聞いても嫌な顔一つしない君は、やはり義一君や聡君が話していた通り、”いい意味で”普通の人とは違うんだねぇ」
神谷さんがそう言うので、私は向かいでお喋りしている聡をチラッと見てから、隣の義一に顔を向けた。義一は相変わらず、余計なことを言わないままに、静かに微笑みをくれるだけだった。
「まぁ勿論、相手がどんな人間かを試すような真似をする、私に非があるのは間違い無いんだがね?…だけど」
神谷さんはここまで明るい調子で話していたが、ふと寂しい表情をしつつ先を続けた。
「今私が言った”普通”の人々…その大概が物事の一側面しか見ようとしない、”近視眼”的な視点しか持ち合わせてないような人々…」
「近視眼的…?…あっ!近くの物しか見ようとしない人って意味ですね?”群盲象を評す”の様な…」
と、私はまた空気を読めずに、自分勝手に割り込んでしまったが、神谷さんは、そんな若輩の私に静かに微笑みかけてくれた。
「そう、その通り。いやぁ、よくそんなインド発祥の寓話なんか知ってるねぇ?…でも、そんな君ならもう、その年齢にして気付いているよね?物事にはありとあらゆる側面があるって事を」
神谷さんが、一見今までの会話と関わりの無さそうなことを言ったので、一瞬考え込んでしまったが、すぐにハッとして、また答えを求められた気もしたので、応じた。
「…はい。そのー…近視眼的な視点しか持たない人というのは、一側面を見るだけに留まらず、その一面を拡大解釈して、その物の本質だとまで思い込んじゃう…って事でしょうか?」
この時は、私は気付いてなく、後で義一と聡に聞いたのだったが、この辺りから向かいでお喋りしていた他の面々が、ピタッと会話をやめ、私と神谷さんの議論を見守りつつ、耳を傾けていたのだった。
神谷さんは、また日本酒をチビっと遣ってから、私の返答に応えた。
「ふふ、そう、その通りだよ。でも彼らだって、我々と同じ様に、『世の中というのは、とても複雑で、難解で、人生というのは難しい』と、平気で口にする割りには、こちらが物事に対して『コレコレこう思うけど、あなたはどう思う?』と意見を求めると、途端に面倒くさそうな表情を浮かべて、議論から逃げてしまうんだ。口では人生は難しいと言ってたのにね」
私は今の話を聞いて、自然とこれまでの義一との会話を思い出し、妙な寂寥たる感情に包まれて、「…はい」と短く答えるのがやっとだった。
「世の中だけではなく」
神谷さんは、私の短い相槌をそのままに、先を続けた。
「人というのは、そもそも、矛盾を孕んでいる不思議な生き物…こんな事、偉そうに言わなくても、誰もが知るところだよね?」
神谷さんは力ない笑顔だった。
「清濁併せ持つ生き物と言ってもいいのかも知れない。…でも自然の掟に照らし合わせてみれば、普通矛盾を抱えた生き物は、淘汰されていくのが摂理だよね?」
私は短く頷いた。
「でも、こうして我々は生存している」
神谷さんは、胸を撫で下ろしつつ言った。
「ということは、そうした矛盾を抱えつつも、どこか”芯”の様なものがどこかにあって、それがあっちこっち明後日の方向に向いているものを束ねているから、こうして存在することが出来るんじゃないかね?…ちょっと分かりづらいかな?」
と、力無げな笑顔そのままに聞いてきた。
私はゆっくり首を横に振りつつ
「…いえ、分かるし、その通りだと思います」
と、合わせた訳ではないが、自然と力無げな笑みで答えた。
しばらくお互いにそのままだったが、不意に神谷さんが照れ臭そうに頭を撫でつつ、話しかけてきた。
「いやぁ…本当に我ながら多弁症で困るよ。君みたいに、真剣な眼差しを向けてきつつ、ちゃんと一語一句漏らさずに聞いてくれる人は希なものだから、ついつい話してしまうんだ」
そう言われた時、前に義一と絵里にも同じ様な事を言われたのを思い出していた。
「だからまぁ無理やり纏めるとだね、世の中、社会の中の矛盾…それらの大きな要因である、これまた大きな矛盾を抱えている”人間”、その矛盾の事を”業”と呼んだ今も存命で尊敬する人がいて、私も同意なんだけれど、その業と上手く付き合っていかなければならない。…それは、目を背けて逃げる事ではなく、苦痛ながらもそれらを見つめて、四苦八苦しながらどうにか纏めて生きて行こうという姿勢。…たとえ徒労に終わろうともね。その苦行…無駄に高尚ぶって言えば『山岳を行く修行僧の様な歩みに、どうかご一緒して頂けませんか?どうか付き合ってくれませんか?』と世間に訴えかけているのが…」
神谷さんはここまで言うと、おもむろに雑誌を取り上げ、私に笑顔で表紙を見せてきながら、
「この雑誌、”orthodox”と言うわけさ!」
と力強く言った。私はすぐに反応出来なかったが、ふと、勇しく言い切った割りには、神谷さんは途端に苦笑交じりに言うのだった。
「…いや、全然纏められてないばかりか、ただの雑誌の宣伝になってしまったな」
「…ふふ」
その様子があまりにも、言い方悪いが、時代劇などで見る、お調子者のうっかり者にそっくりだったので、思わず吹き出してしまった。
それに合わせる様に、神谷さん、義一、ずっと黙って会話を聞いていた勲さんまでもがクスクスと笑うのだった。
ふと、他からも笑い声が聞こえてきたので、音のする方を見ると、なんと向かいに座っていたそれ以外の一同も、同様に笑みを零していたのだった。私はここで、初めて皆んなが私達の会話を聞いていた事に気付いたのだった。
「いやぁー、興味深い」
笑った後、第一声を上げたのは西川さんだった。
「興味深いって…」
早速神谷さんが、苦笑交じりに突っ込んだ。
「何度も話した様な内容だろう?何を今更、今日初めて聞いたように…」
「え?…あははは!それはそうだけどさ、ツネさん、私が言ったのは…」
「…え?」
不意に西川さんが、前触れも無く私に満面の笑みを向けてきたので、思わず声を上げてしまったが、それをまともに取り合わず話を続けた。
「彼女の事だよツネさん、琴音ちゃんの事。いやぁ、ここに集まる口煩いメンツの中に混じっても、恐縮する事なく、その親玉であるツネさんの話す内容に、しっかりと分かったフリをするのでもなく、しっかりと付いて行くんだからねぇー、いやー大したもんだ」
西川さんはそう言うと、腕を組み、ウンウンと頷いていた。
「…へ?あ、いや」
私は不意打ちに褒められたので、何か言おうと思ったが、何も言葉が浮かばず狼狽える他に無かった。
そんな私を尻目に、今度は待ちきれないと言わんばかりに、何故か少し興奮気味に美保子が西川さんに話しかけた。
「今だけじゃないんですよぉ?西川さんが来るまで、ずぅーーっと私や百合子さんとかと、所謂”芸談”に花咲かせていたんですけど、彼女は、それはもーう、この若さにして、しっかりとした芸に関する認識を持っているんですよ。西川さんにも聞いてもらいたかったなぁ」
「…そうね」
と、話を振られてないのに、百合子も私を静かに見つめてきつつ、ボソッと加勢した。
私一人が唖然としている中、西川さんのテンションは上がって行く一方だった。
「そうなのかぁー。…いやぁ、編集者が今日いたら、そのまま字に起こして貰うのになぁ」
西川さんは、心から残念だと言うのを精一杯表そうとでもする様に、大袈裟に肩を落として見せつつボヤいた。
「…編集?」
と、誰も聞こえないだろう音量でボソッと言うと、義一が私に、これまたボソッと話しかけてきた。
「あれ?言ってなかったかな?雑誌の中のコーナーで、この店での会話が載ってるって」
「あ、あぁ、それが今西川さんが言った事なのね?」
私が義一から話を聞いている間も、私本人の事をそちのけに、他の面々は私の事だとか、雑誌がどうのと盛り上がっていた。ふと目にチラッと時計の文字盤が入ってきた、九時四十五分を指していた。
そんな私の視線に気付いたのだろう、義一も私の左手首をチラッと見ると、ハッとした表情になり、その場ですくっと立ち上がると、少し声の音量を大きく言うのだった。
「盛り上がっている所すみませんが、僕と琴音ちゃんは、今日の所はこの辺で失礼します」

「えぇー」と各々が各々のやり方で不満げな声を上げたが、義一が、私がまだ中学入りたての未成年だから早めに帰さなくてはいけない、むしろ長居し過ぎたとの旨を言うと、一同が初対面の時の様な、意外と言いたげな調子で、私の事をジロジロ見てきた。私もまた、最初の頃の様に、若干恐縮したが、初めほどの苦痛は全く無かった。
義一が「帰る」と立ち上がって言った時、ずっと黙って静かに呑んでいたマスターは、すくっと立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。私が彼の背中を視線で追ってると、ママが笑顔で「今主人が、あなた達二人が帰るために、タクシーを呼んでいるところだから」と教えてくれた。
…ところで、この話の序盤から、単純な疑問を持ち続けてこられた方もいるかも知れない。それは、ここがバーで、当然皆んなお酒を飲んでいるのに、どうやって帰るのかという事だ。…そう、察しの通り、聡が自分の車を停めた駐車場は、この店のものだった。当然、先に停まっていた車は、全て今ここにいる人達のだった。これも後で聞いた話だが、百合子の車と、マサさんの車、そしてマスターとママ夫婦の車との事だった。神谷さんはここまで実の娘さんに、勲さんも家族の誰かに送り迎えをして貰っているとの話だ。遅れて来た西川さんも似た様なものだという。美保子は、話を聞いての通り、普段はアメリカにいるので、日本に来た時は、いつも百合子の所に泊めて貰っているらしい。
とまぁそんな細かい話はこれくらいにして、いや、今言うのも細かい話だけど、一応言っておいた方が良いだろう。当然百合子とマサさんは、お酒が入っているので運転出来ないが、所謂こういう時の為の”運転代行サービス”というのを使って、代わりに誰かに車を運転して貰って帰っているらしい。まぁ、まだ運転免許どころか、そもそも免許を取れる年齢に達していない私とは、縁のない話である。
タクシーが来るまで待つ間、誰が言うとも無しに、自然と皆して部屋を出て、”喫茶店”スペースで各々好きに座った。誰も何も言わなかったが、見送ってくれるとの事だった。その間面々は、まず義一にアレコレ挨拶した後、私にも挨拶をしにきてくれた。
まずマサさんが、ぶっきらぼうながら、「また来いよ」的な事を言ってくれたので、私も笑顔で返事した。社交辞令で無いことを、感じ取れたからだった。次に勲さんだ。例の”矛盾”の話に関して、”何故か”「悪いことをしたね」と謝ってきたので、私は慌てて気にしてない旨を伝えた。すると勲さんは、相変わらず目をギョロつかせていたが、優しいトーンで「また来てね」と言ってくれた。これにも私は笑顔で返事した。次は美保子と百合子だ。美保子がまず話しかけてきた。内容は今日の”芸談”に軽く触れ、そして、『今度私が帰国した時、良かったら一緒に演奏しましょう?』と言ってくれたので、私は心の底から楽しみだというのを示さんがために、とびきりの笑顔で返した。
次に百合子だ。百合子はすっかり初対面の時の、薄幸美人な雰囲気に身を包んでいたが、目元は軽く緩んでいた。
「今日はすっかり美保子さんに話を取られちゃったけど…」
と、すぐ隣にいる美保子を横目で見つつ言った。その瞬間、美保子が意地悪い笑顔で、肘で百合子の横腹を小突いた。百合子はチラッと抗議する様な表情を見せていたが、やはり口元はニヤケていた。
「次会う時は、私ともたくさんお喋りしましょう?…あなた、さっき聡君に聞いたら、小説だけじゃなく戯曲も読んでいるんだってね?例えばチェーホフだとか、イプセンだとか」
「あ、はい。一応は…」
何だか百合子が芝居掛かって見えたので、その迫力に少し尻込みしつつ返した。すると、途端に百合子は目を大きく見開かせながら言った。
「じゃあ今度は、私とそんな話をしましょ?中々周りに話が通じる人がいなくて、どうしてもこのお店関連の人としか話せないもんだから…」
最後の方を話す百合子も芝居掛かっていたが、妙に色っぽい反面、可愛らしさも覗かせていたので、何故だかそのアンマッチさに面白くなり、笑顔で了承したのだった。それからは二人から連絡先を求められたので、私は快く応じたのだった。先回りして軽く触れれば、美保子は日本に帰ってきたら必ず、百合子も月一程度に会うような間柄になる事になる。
さて、そして最後に訪れてくれたのは、神谷さんと西川さんだ。 二人ともすっかり気の抜けた、好々爺の笑みを湛えていた。まず西川さんが私に握手を求めてきた。 言われるがままに手を握ると、西川さんは強く握ってきつつ、優しいトーンで話しかけてきた。
「またいつでも気軽においで。いや、君の家は遠いから気軽にと言っても簡単では無いだろうけど、もし近くに寄ったらいつでもおいで?昼だって喫茶店をしているのだから、構いはしないよ?」
そう言い終えると、西川さんは、カウンターの中で何か整理をしているマスターとママの方を見た。二人とも、また前掛けを身に付けていた。
と、私と視線が合うと、ママは満面の笑みで大きく頷いていた。マスターも、一瞬手を止め私を見ると、相変わらず無表情だったが、軽く口角を持ち上げていた。そしてまた黙々と作業に戻るのだった。
「琴音ちゃん?」
話しかけてきたのは、神谷さんだった。初めて私を見た時の笑顔のまま続けた。
「今日は我々の集まりに来てくれて有難う。いやぁ、みんな口々に君が、またこの店に来ることが決まりみたいに断言していたから、もしかしたら君の内心では困っていたかも知れないけど…でも」
と神谷さんは、ふと周りを見渡して、一同の顔を見てから続けた。
「ここにいる皆んなは、社交辞令で言ってるわけでは無いことは分かって欲しい。本心から、また君と会って、今日した様な”健全な”会話なり議論をしたいのだから」
「そうそう。それに…」
と、今度は西川さんが、さっきの神谷さんと同じ様に面々を見渡してから、悪戯っ子の様な笑顔で言った。
「ここに集まる面々は、そもそも社交辞令なんか出来ない連中なんだから」
「…違えねぇ」
とマサさんも意地悪く笑いながら続くと、それをキッカケに一斉にみんなが笑うのだった。私も自然と笑みがこぼれた。義一はその間、軽く優しく私の腰に手を添えていた。

お店の前に車が止まった気配がしたかと思うと、一人の男が店内に入って来た。見るからにタクシーの運転手だった。
それからは、また一人一人と握手を交わし、義一が外まで出なくて良いと伝えて、手を振る面々が閉まるドアで見えなくなるまで、私も手を振り返していた。
そして義一と二人タクシーに乗り込むと、義一が行き先を運転手に伝え、運転手は地理に疎いと見えて、備え付けのカーナビに目的地を入れると、ゆっくりと車を発進させた。
ガイダンスに従いつつ、夜が更けてきた故に、来た時よりも一層寂れた世田谷の住宅地を、タクシーが走るのだった。
「どうだった?」
すっかり真っ暗な車内、すぐ近くの相手の顔も判別出来ないほどだったが、義一がこちらを向いている事くらいは分かった。
「何が?」
と私は返したが、当然何のことを聞かれているのか分かっていたので、すぐに答えたのだった。
「…ふふ、どうだったって聞かれてもなぁー…うん」
私は進行方向を向きつつ、大きく頷き、そして義一に向きながら言った。
「面白かったとしか、言いようがないよ」
「ふーん…面白かった…か。うん、それは良かった」
そう言う義一の姿は、影の塊としか認識出来なかったが、大きく頷いてるのは分かった。
普段から別にお気兼ねなくしているから、別に暗闇だからとする訳では無いけど、私は思いきし意地悪く笑いながら言った。
「話の内容もそうだけれど…何より、義一さんみたいな変わった人が、あんなに一つの場所に集まる場所があるのを知れたからねぇ」
「ふふ、あれだけじゃないよ?確かー…今あそこに集まって来る人は、総勢五十名くらいはいるはずだけどね」
「へぇー!五十人もいるの?そのー…変わっている人が」
相変わらず私がおどけて見せつつ言うと、義一は腕を組みつつ、
「…どっかの誰かさんを忘れてないですかね?」
と呆れ口調で言うので、
「ひっどーい!誰の事よー?」
と間延び気味に返した。ほんの数秒沈黙が流れたが、どちらからともなくクスクス笑い合うのだった。
それから私は、あれ程まで個性の強い異様な人達と一遍に会話したという事実、その感動が今になって沸々と蘇ってきて、その胸の内を義一に一方的に話したのだった。何せ、あの店の中での私は、初めてというのもあったが、次々に繰り出される議題について行くのがやっとで、”良い意味で”リラックスする事なく、緊張に包まれた濃密な時間を過ごしたからだった。義一は軽く相槌を打ってきながら、ウンウン頷いていた。暗くて見えなかったが、いつもの微笑みをくれていた事だろう。それくらいの事は見えずとも分かる。
そんな話をしている間、タクシーは聡が運転して来た道をそのままなぞる様に、世田谷の住宅街を抜け、いつの間にか都心の繁華街に差し掛かっていた。
私の感情の吐露もひと段落つき、暫しのブレイクタイム代わりに外の景色を眺めていたが、ふと、来た時とまた同じだったせいか、眺めているうちに、前々から聞きたかった事が蘇ってきた。
そして早速それをぶつけて見る事にした。
「…あっ、そういえば義一さん」
「ん?何だい?」
義一はドアの手すり部分に肘をついて、私と同じ様に流れて行く外の景色を眺めていたが、私が話しかけたので、こちらの方を向いた。お店の周りと違って、繁華街の中を通っているせいか、外から入り込んで来る、目映いばかりのネオンの明かりで車内は若干明るみを増し、義一の顔の表情が読み取れるほどになっていた。
「それはね…」
私は聞くのを躊躇った訳では無かったが、一応ワンクッションを置いてから、質問をしてみる事にした。
「…来る時も聞いたけど毎年の八月、義一さんが一週間とちょっと、留守というか何というか、私と会えない時期があるでしょ?それって…この集まり、いや、それだけじゃなく、あの雑誌が関係してるの?」
「…んー」
義一は困った様な、悪戯がバレて恥ずかしがっている子供の様な、何とも言えない表情をしていたが、困った分を薄めつつ答えた。
「…ま、そういう事になるね」
「…あの雑誌の表紙に義一さんの名前があったけど、そこに原稿を載せるんで、それで?」
「そう。もうすっかり、分かられちゃってるんだねぇ」
義一の顔には、もう困惑の影は消えていて、すっかり陽気な笑顔を見せていた。
「さっきの会話の中で、先生が説明して無かった気がしたから、今僕が説明するとね?オーソドックスは隔月刊誌なんだ。二ヶ月に一度のペースって事だね。週刊誌や月刊誌と違って、時間的に余裕があるから、普段からノンビリと原稿を書いてるんだけど、八月のだけは、先生からの要望で、僕に充てられる雑誌内のページ数が膨大になるもんで、必然的に原稿の量も増えて、少しの間を集中的に書き上げないと間に合わないから、自主的に缶詰になって外部との接触を避けた結果…」
義一は目を細める様に笑うと
「琴音ちゃんとも会えなくなってしまうって訳だったのさ」
と言った。
「なるほどねぇ…あっ、だから」
フッと昔の事を思い出したので、ついでに聞いてみた。
「いつだったか私が義一さんの家に行った時、英語で書かれた小難しそうな論文を読んでいたのね?」
「え?」
義一は何の事を聞かれているのか分かっていなかった様だが、不意に目を気持ち大きくして、大袈裟に驚いて見せつつ言った。
「…あー、あー、そうそう!たまにね、原稿を書くにあたって、先生からテーマを頂く事もあるんだけど、あの時も『これをまず読んでみてくれ。それで、書評をしてくれないか?』なんて無茶を言われたもんだから、仕方なくその論文を読み込んでいたって訳だよ」
そう言う義一の口調はため息混じりだったが、顔は満面の笑みだった。「書評までしているのね。…ねぇ、義一さんって何者なの?」
何度もあの”宝箱”の中でしている質問を、義一に上半身だけ近づけ、シートに両手をつき、ジト目を向けつつ、意地悪な口調で聞いた。
「えー…?うーん…確かに、僕は一体、何者なんだろう?」
と、義一はこれまたいつもの調子で、少し寂しげな表情を覗かせつつ、それを隠そうとしているみたいに、困り顔の混ざった笑顔で答えるのだった。まだこの時の私は、いま言った様な細かい義一の心理を、その表情から読み解くことは叶わなかった。ただ単純に、はぐらかされたとしか思わなかったのだった。
それはさておき、私はせっかくなので、もっと踏み込んだ事を聞いてみる事にした。
「ちょっと、踏み込んだ事聞いても良い?」
「…ふふ、何だい急に?そんな前置きされたら、ドキドキしちゃうね」
義一はちゃらけつつ言った。
それに合わせた訳では無いが、私も何でも無い風で聞いた。
「それはねー…あの店にいた人達、皆さんは神谷さんの事を”神谷さん”と呼んだり”神谷先生”と呼んだりしていたけど、義一さんは今喋った時もだけど、”先生”呼びで統一していたよね?それって…何でなのかな?おじさんが”先生”呼びなのは、元教師と教え子の関係だったんだから分かるんだけれど、義一さんは違うんでしょ?」
私はいつもの癖というか、義一にはどうしても甘えてしまって、畳み掛ける様に質問を並べてしまったが、その間も義一は笑みを消さなかった。
「…んー、琴音ちゃんは本当に良く周りの事を見ているねぇー。感心するよ」
とおどけて見せながら言うので、
「そんな見え透いたお世辞はいらないから、教えてよ」
と私は白けて見せつつ、言葉にも少しばかりの棘を含ませて返した。”いつもの”ってヤツだ。
義一はニヤケ面を向けてきながら答えた。
「そうそう、聡兄さんは先生が大学に籍を置いていた時の、実質最後の生徒だったんだ。一応は師弟関係と言えるね。…まぁ、こう言っちゃあ悪いけど、聡兄さんが先生から何か薫陶を得ているとは見えないんだけれどね?」
義一は子供っぽく笑った。
「で、僕だけど…うーん、確かに言われてみると、僕くらいしか”先生”呼びで統一してないかもねぇー。…うん、僕は先生の大学に通ってた訳じゃないし、仮に通っていたとしても、とっくに辞められていたから、聡兄さんにあの集まりに誘われてなかったら、今だに接点が無かったかも知れないよ。…うーん、答えになってるか分からないけど、僕自身は先生の事を勝手にこう思っているんだ」
そう言う義一は、不意に照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。
「…僕の師匠だってね」
「…え?師匠?」
思わぬ言葉に、私は少しばかり面を食らってしまった。あのお店の中での、神谷さんに対する義一の接し方を見えば、尊敬の念を持っているだろう事は、容易に想像がついていたけれど、師匠だと心酔してるほどだとは思っても見なかったからだった。
義一は私の相槌にニコッと笑って返すと、進行方向を向きつつ話し始めた。
「…そう。いつだったか…君に話したかと思うけど、僕が高校生の頃、まだずっとその頃まで変わらずに、周りの大人達に対しての不信感から解放されずにいたんだ」
「…うん」
私は短く相槌を打ってる間、初めて宝箱を訪れた時の事を思い出していた。
「でまぁ、簡単に言うと、ある時、今の中学に新任したばかりの聡兄さんに突然誘われてね…ふふ、今回の君みたいにね?その時の僕も、なぜ素直に付いて行ったのか分からないんだけど、まぁ…大袈裟に言えば信用していたのかなぁ?それであのお店に連れて行かれて、先生と出会ったんだ」
義一は、ここでまた私に顔を向けて、穏やかな表情のまま続けた。
「これもまぁ…琴音ちゃんなら、容易に想像できると思うよ?何せ、今日の君がした様な事を僕もしたんだからね。つまり…初対面の、年の離れた人に対して、高校生の僕が質問攻めしたんだから」
「…なーんか、含みのある言い方ね?」
と、私はワザと膨れて見せながら返した。義一はケラケラと笑った。
「いやいや、何も裏なんか無いよ?ふふ…。でね、そしたら先生は、嫌な顔一つせずに真摯に答えてくれたんだ。それが僕には新鮮で、嬉しくなっちゃってねぇ、ついついそこから、今まで心の中に溜め込んできた自論を、ここぞとばかりに全力でぶつけてみたんだ」
「…なーんだ、それじゃ私と違うわね」
私は呆れ交じりの声質で言うと、そのすぐ後には意地悪く笑いつつ続けた。
「だって私は、ちゃーんと遠慮しながら会話していたもの」
「…アレで?」
と義一が呆れて見せたので
「何よー?」
と私が返した後、途端に二人でクスクスと笑い合うのだった。
「…でもね」
ひと段落ついた後、義一はまた穏やかな表情に戻り、先を続けた。
「そんないきなりの不躾な僕の、高校生という若輩の浅薄な自論にも、丁寧に的確に返してきてくれたんだ。その物の見方には、当時も驚いたよ。あまりにも多面的でね。それに多方面から一つの物を見てるんだけど、芯がちっともブレなかったんだ。これも前に言ったかもしれないけど、僕がそれまで見てきた大人達というのは、自分の発言に対して無責任で、前と言ってた事が丸っきり違っていても平気な顔をしている様なのばかりだった。でも先生は違った。…先生の知識の量、見解の広さにも目を見張ったけど、真っ先に惹かれたのは、その”ブレなさ”だったねぇ」
「へぇー」
私は今の話を聞いていて、それこそ真っ先に思ったのは、この話って義一のことではないのかという事だった。まさに、私が義一に関して抱いている、そのものだったからだ。
「…でも、その点では義一さんも同じだね?」
そう思っていたものだから、自然とこの様に口走ってしまった。
すると義一は一瞬目を大きくして驚いて見せたが、すぐに慌てつつ返した。
「え?…いやいやいやいや!僕なんかと先生を比べるのは、先生に失礼だよ。いや、そう言ってくれるのは有り難いけど…ね」
そう言った後、例の照れた時にする癖をしている義一を見ながら、言い方がおかしいかも知れないけど、尊敬している人に対して分を弁えているその姿が、とても微笑ましく、またその自然な謙虚さに感銘を受けるのだった。
義一はやっと落ち着くと、顔をまた前方に向けつつ話を続けた。
「僕はその初対面の日の後、聡兄さんに色々と先生の事を聞いたんだ。そしたら本を何冊も出していると言うんで、僕の父さんに頼んで買ってもらって、その全著作を読んでみる事にしたんだ。…正直、高校生の僕には大変に難しかったけれど、でもやはり僕の先生に対する印象が間違ってなかったことだけは確実に分かったんだ」
「それは何で?」
「それはねー…先生の処女作から、その当時の最新作までの間、世の中の見方に一切ブレが見られなかった事なんだ。つまり…何十年も前から同じ事を世間に訴え続けてきたということだね」
「何十年も…」
確かにパッと見では、義一と神谷さんがとても似通って見えていたが、何十年もの歳月を経ても、一切ブレないのは、そんじょそこらの”変わり者”ではないと思わされた話だった。
「今年も本を上梓されたから、正確に言えば…」
義一はまた話を続けた。その様はどこか誇らしげだ。
「えぇっと…あぁ、今年で丁度四十年か…最初のが確か、先生が三十四歳の時だったから」
義一は指を折り曲げてからボソッと言った。私は私で、頭の中で単純な足し算をした。そうか…神谷さんは今、七十四歳なのか。
「まぁ、それはさておき」
義一は一人で気を取り直してから、少し陽気な調子で言った。
「琴音ちゃんが奇しくも形容してくれたけど、それから僕は、先生の様な思考の術を身に付けたくて、直接本人に言わないまでに、勝手に私淑しているという訳だよ。だから先生呼びなわけ」
「なるほどねー…」
私はそうリアクションを取ってる間、あのお店の中で感じた、神谷さんに対する印象が間違いでは無かったことが確認出来て、心持ちがスッキリしていた。
「でも、類は友を呼ぶというのかなぁ」
「え?」
私がボソッとそんな事を言ったので、義一は表情を柔らかに、しかし怪訝気味に顔を向けてきつつ聞いた。
私も顔を合わせると、少し意地悪な笑みを零しつつ返した。
「だって、私は今日来ていた人しか知らないけど、どの人も自分の専門分野以外にも明るかったじゃない?ほら!”類は友を呼ぶ”よ」
「…ふふ、なるほどねぇ」
義一は腕を組みつつ、ウンウン頷いていたが、ふとまた私に顔を向けると、お返しのつもりか、意地悪くニヤケつつ言った。
「その”類”には、君も入っているんじゃないかなぁ?」
「…ふふ、そうかもね」
ここで普段のノリなら、不機嫌になって見せながら、生意気な返事をするところだったが、この時はそんな気分に何故かなれなかった。自分でも驚くほど、素直に返事をしたのだった。義一も意外だったのだろう。私が義一と神谷さんが似ていると言った時と同じくらいに目を見開いていたが、その後は何も言わず、珍しく普段よりも声を若干上げて笑うのだった。私も思わずクスクスと笑い返すのだった。
タクシーはいつの間にか繁華街を抜けていて、川に架かる橋を渡っているところだった。土手には照明が無いせいで、どこまでが川岸で、どこからが川か分からない程に、暗闇に包まれていた。笑い合った後は、お互いに示し合わせたわけでもないのに、そんな見慣れた風景を、それぞれの近くの窓から黙って眺めていた。
もうあと数分で私の家に着く。

第25話 開錠

「んー…ん?」
何気なく目を擦りながら開けると、どこかで見覚えのある煤けたヒビ割れ放題の天井が見えた。
あぁ…久し振りに来たな。
私はやれやれと動作をゆっくりに、裸のパイプベッドの上で起き上がった。あの五畳ほどの埃っぽい部屋だ。
因みに久し振りとは言ったが、初めて来た時から実は今回で四度目になっていた。二度目の時は勿論驚いた。何せ一度目の時と寸分違わぬ夢だったからだ。他の事例は知らないが、少なくとも私史上こんな事は初めての経験だった。ただ一度目の時と違ったのは、今回もそうだが、すんなりと目を開けれたし、スクッと身軽に起き上がれた事だった。ただそれ以外は、何も進展はしなかった。あの赤錆びた扉も開かないままだった。二度目はそれで終わり、三度目も大体同じ様なものだった。もし強いて違いを取り上げるとすれば、一度、二度、三度、そして今回の四度目と、相変わらずの薄暗い明るさだったが、微妙に毎回明度が違って見えた事だ。これは何を意味するのだろう?夢判断の専門家に聞けば、もしかしたら何か面白い見解が聞けるかもしれない。でも結局まだ誰にも…義一や絵里、それに師匠に対してもまだこの夢の話をしないでいた。ただこの夢から醒めた後には、すぐにベッドから起き上がり、ノートにその時見た夢の内容を事細やかに、自分で新たに発見した些細な事まで書き込むのだった。自分でも不思議に思うが、元々目覚めのいい方ではあったが、ことこの夢を見た後は驚く程に頭がクリアになっていて、ノートに書き込みつつ、普段感じる身の回りや世の中に対する疑問や何やらに対して、全く関係が無さそうな作業をしているというのに、自分なりの筋の通った考えが浮かぶことがしょっちゅうあった。その様に浮かんだ考えを忘れない様に、新たに予備の新品のノートを取り出し、そこに書きなぐるのだった。
しかしこの時の私は前回まで以上にうんざりしていた。前にも言ったが、ただでさえ何も無い五畳ほどの室内、前回前々回と相も変わらず閉ざされたままの扉…正直なところ、この夢に飽きてきていた。当然だろうと同意してくれるものと思う。
…ただもう少し注意深く見渡して見ると、今までとは少し勝手が違っていう様だった。
私は一度正面の扉を見た後、これも習慣と化していたぐるっと部屋を見渡す事をした後にまた正面に視線を戻すと、なんと扉の脇に、さっきまで確実に無かった筈の長テーブルが置かれていた。
私は一瞬驚いたが、やっと見るからに変化が現れたという嬉しさの方が勝って、警戒しないままにテーブルまで歩いて行った。
近づいて見るとその上には、カンテラと金属製の油さしという、ファンタジーの世界に出てきそうな時代錯誤の代物が置かれていた。恐る恐るとまずカンテラを手に取って見ると、中身が空のせいか重厚な見た目の割に嘘みたいに軽かった。基本ガラス製っぽかったので、両手で慎重に持ちつつも、ひっくり返して底の部分を調べたりしたが、妙に軽い以外に特に変わった点を見つけられなかった。…とその時、光源が発せられる場所であろう透明なガラス部分をよく見ると、漢字で”義”と一文字が、薄く掠れてはいたが書いてあるのが見つかった。薄暗い中で見ていたせいか、初めはガラスについた煤などの汚れだと思い気付かなかったのだ。
「…”義”?」
私は口に出して見たが、それでその意味するところが分かりはしなかった。本当はこの時に初めて、実際に声を出してみた訳だったが、殆ど無意識でした事だったので、自分でそれには気付かずに、手に持ったカンテラをテーブルに戻し、今度は油さしを手に持った。これはカンテラとは打って変わって、中身がたんと詰まっているのか、やけにどっしりとしていた。カンテラとは別の意味で両手で持たざるを得なかった。詳しくは分からなかったが、感覚から言えば二リットルのペットボトルよりも若干重かったくらいだった。手に取るまで感じなかったが、急に灯油独特の鼻をツーンとさせる臭いが鼻腔を刺激した。これも初回と同様、五感を働かせるためのスイッチが入った為に起きた事だろうと推察した。流石にカンテラとは違ってひっくり返したりは出来なかったから、クルクルと横にスライドさせつつ側面を見ると、ある所まで回した所でまた漢字が書かれているのに気付いた。それも薄く掠れていたが、”神”と辛うじて読めた。
「”神”…?」
私はまた声に出してみたが、相変わらず何かいい考えが浮かぶことは無かった。
カンテラが”義”で、油が”神”?…うーん、ナゾナゾかしら?
私は一先ず油差しを元の位置に戻してから、その場で立ったまま腕を組みつつ考えに耽った。
どうでも良い自慢をさせて貰えば、私はナゾナゾを解くのが好きだったし、自分では得意だと思っていたが、何度考えてもそれぞれの関連性に気付くことは出来なかった。
私は一旦保留して、取り敢えずこうして新たに出現した”道具”を、早速活用してみる事にした。私自身の夢なのに他人事の様に言うようだが、こうして出てきたということは『使え』という暗示なのは明らかだった。なので私はまずカンテラの口を開けて、次に油差しを手に取り、注ぎ口を近づけて、迅速かつ慎重に灯油と思しき液体をカンテラ内に注ぎ入れてみた。
トトトト…
小気味の良い液体の溜まっていく音が室内に反響して、思ったよりも大きく感じた。と、ここで初めて私は、また新たな変化が起きているのに気付いた。それは、ここにきて初めて体の外の音が聞こえたという事だった。ベッドから起き上がったり、部屋の中を歩き回った時でさえ、今まで物音一つしていなかったからだ。そんな感想を抱きつつ、しかし手を休める事なく作業を続けた。
どれほど続けた事だろう。明らかにカンテラの大きさと油さしの大きさを比べてみるに、そんな大量の燃料が入るとは思えなかったが、いくら注ぎ入れても中々満タンになる気配が見られなかった。両手で持たざるを得なかったほどの重さがあった油さしは、今では片手で余裕に持てるほどまで中身が減っていた。色んな意味で心配になりつつ、それでも注ぎ続けた。
そしてとうとう油さしの中身が尽きかけた頃、ようやくカンテラの口付近に液体の表面が見えてきた。最後の一滴まで出すと、カンテラの方も口上部から一、二センチほどの水位で止まったのだった。
私は油差しを置くと、早速カンテラに手を伸ばした。私の予想では、油さしの中身を全部入れたのだから、入れたは良いものの気軽に持てるのかと当然の心配をした。しかし、その心配は徒労に終わった。
実際手に持ってみると、何も入ってない時と比べれば若干の重量が増えていたが、それでも悠々と片手で持てるほどの重さしかなかった。さっきも言った様に少し覚悟して力を入れつつ持ち上げたので、予想外の軽さに勢いがつきすぎた程だった。
私は自分でも分かる程に目を丸くして少しの間カンテラを見ていたが、その後すぐに『そうだ、これは夢だった』と一人合点がいって、その場でウンウンと頷いたのだった。
しかし同時に『これが夢なんだったら、もっと私に都合よくいかないものかなぁ?…油を一々自分で一から入れなきゃいけなかったり』と、自分の夢に対して心の中で愚痴ていたのも本当だ。
それはともかく、持ち運ぶ事への不安はすぐに解消されたわけだったが、直後にまた、ある意味最も重要な問題があるのに気付いた。
…あれ?これ、どうやって灯せば良いんだろう…?
そうなのだ。最初に見た時も思わないでも無かったが、改めて長テーブルの上を探して見ても、カンテラを灯すための”種火”の様なものが見当たらなかった。妙な所でリアルを追求してくる夢だからと、ひょっとしたら落ちているのかもとテーブルの下も隈なく探して見たが、結局見つからなかった。
「はぁーあ…」
と大きくため息を吐きつつまた立ち上がり大きく伸びをした。
…なーんだ、これじゃ何も意味がないじゃない…
と大きく肩を落とし諦めかけたその時、突然テーブルの上に一時的に置いていたカンテラが、何の前触れも無く突然光を発し始めたのだ。私は予期せぬ出来事に動揺しつつ、慌ててその光の元に近づいた。カンテラは、オレンジとも、薄めの黄色とも、いやそれらが混ざり合った様な柔らかな光を煌々と発し、部屋を明るく照らし出したのだった。光を発するガラス面、そこに書かれた”義”の字が、今ではハッキリと見て取れた。
…もーう、何だって言うのよぉー。
私は一人鼻からフッと小さく息を出してから苦笑いを浮かべた。
まるで自分の夢に馬鹿にされつつ振り回されてる様な感覚を覚えていたが、しかしまぁ、何はともあれカンテラが灯ったのは良い兆候だった。
その兆候を読み取ったのは合っていたらしく、私が早速カンテラを手に持つと、それと同時にすぐ脇の錆びた扉から『ガチャッ』と鍵が開いた様な音が聞こえた。今さっきに不思議な出来事を目にしたせいか、これにはそれ程驚く事もなく、左手でカンテラを持ったまま右手で扉を押してみた。
ギィーーーーー…。
何とも耳障りな、油を注したりする様な手入れをなされていない金属物特有の音が耳を劈いた。正直両手で耳を塞ぎたいくらいだったが、カンテラを持っていた事もあって何とかその場で何もしないまま我慢した。
開くと同時に、気圧の変化が起きたせいか、扉の外から空気が一気になだれ込んできて、一瞬強い空気の流れを感じた。その風からは、室内と変わらない埃っぽい臭いがした。
部屋の外も中と対して変わらない事を予感させた。
風が数秒ほどで収まったので、早速恐る恐る扉の淵まで歩み寄り外を見てみると、そこには漆黒の闇が広がっていた。音は相変わらずしなかったが、そんな様子だというのに何故か、何者かがいる気配だけが感じられた。カンテラを持った左腕だけを怯えつつ扉の外に出して、試しに周囲を照らしてみようと試みたが、空間が広がっているのかどうかは知らないが、光を反射する様なものが無かった。そんな中で何者かの気配だけが感じるなど、自分では同世代の中では男女問わず度胸が座っている方だと自負していたが、そんな見通し効かない先行き不安な出発は出来ないと、中々最初の一歩が踏み出せずにいた。かといって、いつまでもここに止まる訳にもいかない…。この時の私は、すっかりこれが夢だというのを忘れて、これからどうしようと真剣に悩み考えていた。
扉の縁に掴まり、少し俯き加減で悩んでいたその時、何故か気持ちカンテラの光度が増した様に感じたので、ふと手元を見た。
いくら夢だからとはいえカンテラが話しだしたりはしなかったが、その柔らかく暖かな光からは、何か励ましの様なものを送ってくれてる様に感じた。実際ジッとその光を見つめていると、クサイ言い方で恐縮だが”勇気”の様なものが湧いてくるのを漠然と感じたのだった。
私は手元のカンテラに言葉の代わりに一瞬微笑みかけると、顔を上げて目の前に広がる真っ暗な闇を見据えた。先程までのような恐怖は全てとは言わないがだいぶ薄れていた。
…これならイケる。
私はその場で大きく頷いて、また一度手元のカンテラに目を落とし、そして正面に目を据えると、力強く一歩を扉の外に向かって踏み出し歩いて行った。

ここまで来たところで今回は目を覚ました。
もうすっかり冬だと言うのに、薄っすらと脂汗をかいていて部屋着が軽く身体にまとわりつくのを感じた。
本来ならそのような状態は気持ち悪いはずなのだが、それには一切気を向けずに、忘れないように今回の出来事もノートに書き付けたのだった。

第26話 コンクール(上)

初めてあのお店に行ってから、その次の週には師走に入っていた。
この頃からではなく、既に十一月に入った頃くらいから、街はすっかり早めのクリスマスムードで彩られていた。毎年変わらずに、どこか一箇所で電飾でモニュメントを飾り立てたかと思えば、順々に波状的に、どこもかしくもイルミネーションが始まるのだった。
それは私の通う学園も例外ではない。外部からお嬢様学校と目されているのが理由なのかは分からないが、表の通りに面している植木や花壇を控え目に飾る程度に抑えていたが、元々キリスト教学校であったから、実はかなりの力の入れようで、中庭に面した校舎部分に、電飾だけでクリスマスツリーを模したイルミネーションが付けられ、すっかり日の落ちるのが早くなったこの時期、五時を軽く過ぎるくらいまで部活や何かの用事で居残った生徒達は、そのツリーが光またたく光景を目にするのだった。私も何度か鉢合わせたことがある。
そんなこんなで、まして私達は新一年生、誰も彼もどこか浮ついた空気を醸し出していたが、残念な事に十二月の初めから期末テストが始まった関係で、そこまで心から楽しめてる生徒はいなかった。
しかしテスト期間が終わってしまえば、それからはテスト休みという、終業式までの一週間とちょっと程の、謎の休みがあったので、そこで思いおもいに年末の雰囲気を楽しむのだった。
私がいつも連んでいる、裕美、紫、藤花、律、このいつもの面子で少し羽を伸ばそうって話になったが、藤花が一人忙しいというんで、全員揃って遊ぶことは出来なかった。しかしその理由を聞いて、さもありなんと思った。前にも話した通り、藤花は学園から目と鼻の先の教会で、讃美歌を歌う団員の一人だ。この時はクリスマスシーズン真っ只中。教会が一番忙しい時だと言っても過言ではない。
藤花が一人忙しなくしているのを横目に、他の四人は呑気にたまにイルミネーションを見に学校で待ち合わせたりして過ごしていた。
ここまで聞いてくれた方なら、お気づきだと思うが、クリスマスの予定は自然と、残りの四人で藤花の歌を聞きに教会に行こうという話で纏まった。…一ヶ月ほど前だろうか、前に話した学校から少し離れた所にある喫茶店に入り、他の子も含めて我ながら気が早いと思うが、五人でクリスマスをどうするかって話になった。
一般的な女学生の様に、誰かの家に集まってワイワイやろうという話に当初はなったが、藤花が申し訳なさそうに、今話した様な内容を説明したのだった。そしたら律も、まぁこの二人の仲なら仕方ないとは思うけど、自分も藤花の歌を聞きたいっていうんで、今回はパスすると言い出した。それを聞いた私、裕美、紫は当然、形だけだが「えぇー」と不満げな表情を見せたが、後で聞いたら皆の心は同じ様に固まっていたらしい。ほぼ同時に声を揃える様にして、私達三人も聞きに行くとテンション高めに伝えた。それを聞いた瞬間、途端に律は目元を緩ませ、口元も若干ニコッとして見せたが、藤花は違った。ポカーンと口を「え?」と言いたげな形で固まっていたかと思うと、すぐその後に、両手を前に突き出し、大きく横に振りながら慌て気味に断ってきた。
「…へ?…あ、いやいやいやいや!いいよー別にー、そんな気を使わないでー」
「でもねぇー」
そんな藤花に対し、真っ先に返したのは裕美だ。
「そういえば、四月の終わりくらいだっけ…?あれから何だかんだ言って、藤花の歌を直に聞いてないもん。これを機会に久々に聞きたいわ。ねっ?」
と、私を挟んで向こうに座る紫に同意を求めた。因みに座り方も、毎度同じだ。片方に藤花と律が座り、もう片方に裕美、私、紫の順に座るのが、暗黙の了解となっていた。この喫茶店に限らず、何かにつけてこの順だ。遡れば、あの研修会旅行、あの時の布団の並べ方、あれがどうやら皆共通して心地良かったのか、それからずっと定着してしまっていた。
「そうそう!」
紫も裕美のテンションに合わせる様に、明るくハキハキと応えた。
「それに、別に藤花に気を使った訳じゃないよー。クリスマスを教会で過ごす…何だかロマンティックじゃない?」
「そうそう!紫、さっすが分かってるぅー」
すっかり裕美と紫が、私を挟んで盛り上がっていた。私と律は、お互いに目を合わせると、少し呆れ気味な表情を浮かべたが、軽く微笑むのだった。
藤花も苦笑交じりに言った。
「何だか分からないけど…そーう?…まぁ、裕美と紫…あと琴音もそれで良いって言うんだったら…」
「勿論」
藤花がまだ途中だったが、私は待ちきれず割り込む様にして言った。
「私もあなたの歌を聞きに行くのは大賛成よ。それに…」
私はチラッと隣の紫を見てから続けた。
「紫じゃないけど、クリスマスの日に讃美歌を聞いて過ごすなんて、ロマンティックそのものじゃない?」
私はそう言い終えると、ニヤッと意地悪く笑った。
「ちょっとー、遠回しにプレッシャーをかけてこないでよぉ」
藤花は先程から変わらず苦笑いを浮かべていた。
「…はぁーあ、でもそっか…うん、分かったわ」
藤花は「うん」と、”何か”に対して覚悟を決める様に言ってから、普段の天真爛漫な笑顔と口調で、気持ち良く了承してくれたのだった。
因みに、細かい変化があった事に気付かれただろうか。そう、藤花が裕美と紫を呼ぶ時に、”ちゃん付け”でなくなっていたのだ。先にも軽く触れた様に、藤花はまだ馴染みのない人相手には”さん付け”をする習慣があったらしいが、流石に半年以上もベッタリと仲良く付き合っていると、何も意識せずとも、すっかり下の名前を呼び捨てで呼び合う仲にまで打ち解けていた。これにより、この”グループ”がグループとして固まったと言えるだろう。
それはさておき、そういう顛末があってからの、クリスマス当日だ。
師匠も当然誘ったが、「大変行きたいけれども、琴音達の邪魔をしたくないから、行くにしてもコッソリ行くわ。行ったとしてもあなた達に合流する気は無いから、変に探さないでね?」とだけ言われた。クリスマスの時はとっくに冬休みに入っているので、それぞれ思い思いの私服で四ツ谷駅前で待ち合わせ、揃って教会に行ったのだった。
前にも入った主聖堂の中は、今まで見た中で一番の混み合い具合だった。チラッと話に出した様に、藤花が独唱をする日を狙って、たまに師匠と連れ立って何度か来ていたが、私と律以外は初めて来た時以来だったので、口々に人出の多さに対して感想を漏らしていた。
普段からそうだといえばそうだったが、いつも以上に厳かな雰囲気に満ちながらミサが執り行われた。
この日の司祭の説教は二部に分かれており、一部が終わると讃美歌隊の歌が始まった。四月の時の様に、皆して遠くから眺める席にいたが、そこからでも一際目立って小柄な少女が見えたので、すぐにそれが藤花だと判別出来た。両手で譜面を持ちながら、微動だにせず合唱をしていた。
それからまた司祭の説教が始まり、そして終わるといよいよ藤花の出番だ。普段と同じ様に、献金の時間を利用しての舞台だった。
これまた普段通り、祭壇脇にマイクスタンドが置かれ、おもむろに藤花が聖歌隊の列から歩み出て、その前に立った。そしてその場で藤花が軽く俯くと、何処からともなく大バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一巻』の『前奏曲 第1番 ハ長調』が流れてきた。これを聞いた瞬間、私はすぐに何の曲が歌われるのか分かった。十九世紀に活躍したフランスの作曲家シャルル・グノーが、前段に言ったバッハの曲を伴奏に、ラテン語の聖句『アヴェ・マリア』を歌詞に用いて書いた声楽曲だった。一般の人にはどうでもいいだろうが、細かい話をすれば、グノーが引用した伴奏譜は、バッハとは別の者が前奏曲1番の22小節目の後に1小節新しい音形を挿入したものだ。
そんな誰が得するとも分からない説明はともかく、これまた偉く難しい曲にチャレンジしたものだと、第一声を待ち構える私は一人で内心少しドキっとした。しかし、四月に初めて聞いたのもそうだったが、あれほどの難曲を歌いこなしていた藤花、それ以降も何度か聞きにここへ来たが、そのどれもが負けず劣らずの難曲ぞろいだったのに、それをまた見事に歌いこなすのを見ていた。そのある種の経験を積んだお陰で、そんな伴奏を聞いても、初めての時ほどにはドキドキしていなかった。それほどに、藤花の歌唱力に対して”信頼”していたのだ。そしてその信頼は、崩される事なく、むしろまた新たに重ね塗られていくのだった。
藤花の歌を聴く時は毎度そうだが、第一声目でやられる。藤花の持ち味とも言える、何処までも透き通り、何処までも伸びやかな高音、それもまったく無理して出している様には見えない代物だった。この曲の最高音部分も楽々出して、抑揚もいつも通り完璧だった。三分弱の曲だったが、それが永遠とも感じられる程だった。この場に集まった人々も聞き入っていたせいか、隣から回ってくる献金袋が来てるのにも、すぐに気付かず、中々スムーズに事が進んでいなかった。今回に限らず、藤花が独唱する時はこの献金時だったが、どうも上手いこと行っていない点を毎度見ていたので、『献金を回収する時に、藤花に歌わせるのは寧ろ悪手ではないかな?』と余計な事を思ったりしていた。
四月に来た時は、信者でもないのだからと献金をしなかった。これは別に、信者だろうとなかろうと、自由だったからだ。
しかし、それ以降ここに来る時は、小遣いから捻出した千円を献金する事にしていた。その理由としては、そもそも月に一度の藤花の独唱がある日にしか行かなかったというのもあったし、藤花が照れるだろうから本人には言ってないが、お小遣いから出す程くらいには藤花の実力を、偉そうに言えば認めていたからだった。良いものを聴かせてもらったという意味での献金だ。これを聞いたら信者は怒るかもしれないが、本心なのだからしょうがない。
…本当はこの辺りの話は軽く流すつもりだったのだが、どうしても”芸能”、それも”音楽”の事となると、どうしても知らず知らずに熱くなって語ってしまう。私の悪い癖だ。もうすぐで終わるから、もう暫く我慢して頂きたい。
それはさておき、藤花の歌が終わると、これもいつもの事だったが万雷の拍手が聖堂を満たした。厳かな顔つきで神妙に歌っていた藤花だったが、拍手が湧くのと同時に照れ臭そうにハニカミつつ、大きくお辞儀を三度ほど、聖堂の各方面に向けてしてから、早足で聖歌隊の席に戻るのだった。四月から月一で歌っていたので、今回が九度目になるはずだったが、一向に慣れる様子が見られなかった。まぁ尤も、こういった称賛に足元を掬われる事なく、自分の事を過大評価して見失わずに、謙虚にペースを守る所は、藤花の数ある美点の一つだった。
それからは淡々と進行していき、ミサが終わると、四人で一斉に藤花に駆け寄った。四月以来の懐かしい感じだ。藤花は私達の姿を認めると苦笑いを浮かべていたが、皆一斉に抱きつくと、満更でも無いような笑みを零していた。
今日の所は後は暇だというのを知っていたので、このまま電車で紫の家に行く事になっていた。中学生の女の子らしい、誰かの家に集まって泊まるというアレだ。話す事でもないと触れなかったが、紫以外の四人は、それぞれ軽めのお泊まりセットを持参して来ていた。
ここで一つ補足させて貰うと、この日は二十五日、クリスマス当日だった。もしこの日がイブだったら、藤花は夜通しで教会に留まる為に、一緒に過ごせなかったが、クリスマス当日ともなると、前日からこの日にかけて大体の事は終わっているので、ミサが終わるともう自由になるらしかった。他の教会がどうとかはしらないが、少なくともここではそうだった。
藤花が着替えるのを待ってる間、久し振りに藤花の親御さんと会ったので、世間話をした。
紫には『藤花をよろしくね?』と言いながら、藤花のお父さんが何やらお土産を手渡していた。どうやらお菓子のようだった。藤花のお母さんはお母さんで、まず幼馴染の律に近況を軽く聞いてから、今度は私とお喋りをした。藤花のお母さんは、私がピアノを弾いているのを知っていたので、それに関係する話で終始していた。藤花の今日の出来を聞いてきたので、「最高でした」と何の衒いもなく自然な笑みで答えたのだった。
ちょうどそのくらいの時に、藤花が出てきたので、親御さん達に挨拶してから紫のお家へと向かった。
紫の家は、最寄駅から徒歩五分ほどの距離にある高層マンションの上部にあった。八十平米ほどもある、中々に広々とした作りになっていた。夏休みの所でも話したが、私は何度か一人でも訪れていた。文化祭にも来ていた、掛けているメガネの種類も含めて紫とソックリなお母さんが、ちょうど料理をテーブルに並べている所だった。入って来た私達に気付くと、笑顔で迎え入れてくれた。お父さんは、こんな年末だというのに、仕事で留守にしているようだった。
パッと見、このグループの中では一番庶民派な雰囲気を身に纏っている紫だったが、こんなタワーマンションに住んでるだけあって、中々の家庭だった。お母さんは一般企業に勤めているようだったが、お父さんの方は霞が関の経産省に勤める高級官僚だった。詳しくは知らない…というより、それを教えてくれた紫自身もはっきりと把握していないらしかったが、毎年年末もこうして忙しくしているらしかった。お母さんの方も、二十五日にこうして時間が取れたのは珍しい事のようだった。私達は早速紫の部屋に行き、思い思いに荷物を置き、リビングに戻って用意してもらった如何にもクリスマスらしい料理を食べるのだった。その間、紫のお母さんは、藤花のお父さんから貰ったお土産をお皿に盛り付けていた。思った通りお菓子だった。それも洒落たクッキーやチョコの詰め合わせのようだった。食事を終えると、それぞれ順番にお風呂を頂き、その時に持参していた寝間着がわりの服に着替えた。私は部屋にいる時も細身の服が好きなので、体のラインが出る長袖Tシャツと伸縮性のあるレギンスを身につけた。因みに他の子達のはどうか軽く触れてみよう。まず裕美。裕美とは何度かお互いの家でお泊まり会をしていたので、どんな格好をしているのか知っていた。スポーツ系女子らしく、冬場でも、勿論暖房が効いているのが大前提だが、上は大きめな長袖の灰色パーカーにショートパンツという、元気さと色気を併せ持った格好をしていた。一応念の為、寒かった場合を予測して、私のと似たようなレギンスを用意しているというのは本人の弁だ。次は実質今日の主役だった藤花。これまたイメージ通りというか何というか、上下がお揃いの、見るからにフワフワしていて、如何にも暖かそうなフリースだった。正面のチャックの開け閉めで着る形式のもので、下には別にTシャツを着ている様だった。普通の女の子が着たら、何を可愛子ぶってるんだと顰蹙買うこともありそうな格好だったが、藤花ほどまでに似合っていたら何も言われないだろう。お次は律。これもまぁ…想像していた通りだったが、コットン素材の黒と間違うほどに暗い紺色をしたワンピースパジャマだった。大人な雰囲気の律にマッチしていた。シャツの様にボタンを一つ一つとめる形式の上部分は、膝上五センチ程くらいまでの長さがあった。下はこれまたスポーツ系らしく、同色のショートパンツらしかったが、当然上がそこまで長いと、下に何か履いている様にはパッと見分からない風になっていた。つまり、上にシャツを羽織っているだけの様に見える訳だ。それが律本人の雰囲気と相まって、妙に大人っぽい色気を演出していた。本人は無自覚だったが、女の私から見ても、妙なエロさもあった。そして最後はホストの紫だ。これもまた紫のイメージ通りの、シンプルなものだった。上下が薄ピンク色のスウェットジャージだった。普段の紫を知っているせいか、可愛さを狙っていないスウェットに身を包んでいても、ダサくは感じなかった。誤解を恐れずに言えば、紫によく似合っていた。
とまぁ、風呂から上がり各々その様な部屋着を身につけた訳だが、暫くはお互いの部屋着について褒めあったりしていた。その時ドアをノックして紫のお母さんが、先ほどお皿に盛り付けたお菓子と、あらかじめ用意して頂いたのだろうその他のお菓子、そして人数分のグラスとジュースの入ったペットボトルを持って来てくれた。私達は行儀よく座り直しお礼を言うと、その代わりと言っては何だが、おばさんはおばさんで、私達の格好を褒めてくれた。
おばさんが出て行った後は、取り止めのない話に終始した。
比べるのも何だと思うが、十一月末の、あのお店での密度の濃い会話も私を興奮させ、知的好奇心が満たされるのを感じ幸せだったが、こうした何気ない、何の為にもならない会話も大好きだった。尤も、私の付き合う彼女達は、正直普通の子とも言えないのかも知れない。何故なら、前にも言ったように、紫を除いて、今現時点でやりたい事、目指したいものが明白にあるからだ。慌てて付け加えれば、何も紫を仲間外れにして貶めたい訳ではない。これも前に言った通りだ。それはさておいて、私が彼女達との会話が楽しかったのは、取り止めのない雑談もそうなのだが、結局それぞれの彼女達が従事している”道”に関して、それについての彼女達の想いも含めて聞く事だった。だから、これまた顰蹙を買うような事を言えば、彼女らが極々普通の女の子だったとしたら、ここまで仲良く付き合えなかったかも知れない。
それからは出されたお菓子を突きつつ、ジュースを飲みながら、誰も得意ではないのに恋話なども織り交ぜつつ会話を楽しんだ。この時も、裕美は決して胸の内を明かそうとはしなかった。周囲に合わせて明るく振る舞いはしゃいでいるだけだった。私も一緒になってはしゃぐ傍ら、横目で何度かチラチラと裕美を盗み見たのだった。
私含めて行儀正しいというのか、また健全な体育会系が混ざっているせいか、まず今日の大舞台をこなした藤花が寝落ちして、次に裕美と律が船を漕ぎ出したので、まだ目が冴えていた私と紫だったが、お互いに目を合わせると、示し合わせるのでもなくクスッと苦笑気味に笑い合うと、それぞれが手分けして、まず藤花を起こし、裕美と律の肩をポンポンと軽く叩いて、せめて寝るなら支度してからにしようと提案した。それからは順番に歯を磨き、戻って来た人から用意してもらった布団を敷いて、その上に横になった。布団の並べ方も研修会旅行時と全く同じだった。…いや、今回の場合は、紫だけ自分のベッドがあったので、それだけが違う点だった。藤花は一度起きたものの、布団の中に入ると、誰に言うでもなくボソッと「おやすみ…」と言うなりスヤスヤと寝てしまった。裕美と律も似たようなものだった。暫く敷布団に横になった私と、ベッドに入った紫とでお喋りしたが、周りに気を使っての会話はそう長くは続かず、すぐにお互いに挨拶してから寝てしまった。
これだけの人数で一緒の部屋で寝るのは久しぶりだったので、月並みだが良い思い出になった。これから先も何度かしたいなと、キャラに似合わない事まで思ったのだった。
それから二日ばかり経つと、我が家の恒例の家族旅行で海外に行ってしまったので、それからの冬休みは誰とも合わなかった。私を除く他の皆んなで、初詣に行ったらしい。私が海外の滞在先にいる時、四人がくれた、年が明けての”明けましておめでとう”のメッセージと一緒に、その時の写真が添えられていた。皆んな晴れ着でなく普段着だったが、その写真からでも十分正月の雰囲気が伝わってくるようだった。少し時間が後になるが、私も正月の挨拶と一緒に羨ましがって見せると、他の四人が気を使って、始業式後に学園から近い小さな神社に一緒に行って、私の初詣に付き合ってくれた。こうして三学期が始まった。


「…いやぁ、美味しかった!」
師匠は笑顔で明るくそう言うと、ズズッとコーヒーを啜った。
「はい、ごちそうさまでした」
私も笑顔で返すと、ホットミルクを同じ様に啜った。
二月の第一日曜日。一応念のために言えば、毎週日曜日は午前と午後を使うレッスンの日だ。この日は中休みに、前にも作った簡単なマフィンを、少し趣向を変えて拵えた。そして今はこうして食べ終え、ゆったりとしている所だ。
初めて私の想いを師匠に吐露して以来、この中休み中にお菓子を食べ終えた後、密かに進めている”コンサートに出てみる計画”の進捗具合を話し合うのが日課になっていた。
トントン。
師匠はおもむろに紙の束の底を、テーブルを使って揃えてから、ペラペラとメモを大量に書き込んだ楽譜を捲っていた。
「さてと…うん、大分片付いてきたねぇ」
師匠は不意にメガネをクイッと上げつつ、ボソッと独り言の様に言った。私が小学六年生になったくらいから、先生はピアノのレッスン時にメガネを掛けだしていたが、それ以外は裸眼で過ごしていた。だが、私がコンクールに出てみると言い出してからは、こうして家の中ではずっとメガネをしている時間が特段に増えていた。
そのメガネをフッと外し、それをテーブルの上に置きつつ続けた。
「今のペースでいけば、コンクールの地区予選の応募が始まる四月の頭には間に合いそうだね」
これは当然説明がいるだろう。私が出場してみようとしているコンクールは、日本でもかなりの歴史がある、伝統的なものだった。そしてこのコンクールは、過去に師匠が出たものと同じだった。これは一応言い訳じみたことを言わせて頂ければ、そんな縁があったからと、数あるコンクールの中から選んだ訳では無い。このコンクールに出てみる事を、師匠と二人で話し合って決めた訳だが、そもそも決め手になったのは、そのコンクールで出されている課題曲にあった。その課題曲のリストを見た時にピンと来たのだ。
まず地区予選の課題は、大きく分けて二つ設定されていた。まずそのうちの一つ目は、バロック・クラシック・ロマン・近現代のスタイルの作品から出場者自身がプログラムして演奏して見せろというものだった。これらはそもそも、ここまで話を聞いてくれた方なら分かると思うが、義一との話の絡みもあって、師匠から色濃くレッスンを受けていた類のものだったし、それにこの出場者の音楽に対する考え方を見ようとしている様な姿勢が見え隠れしていて、それが大いに気に入った。
そして二つ目は、これまた同じ様に出演者に二十分以上のプログラムを作成しろというものだった。ただ、全二十七曲あるショパンのエチュード(練習曲)から、二つばかりの具体的な課題曲を必ず入れる様にという指定だけがあった。しかしこれも、前々から師匠に、運指のトレーニング代わりに、それこそ何度も何度も弾かされ鍛え上げられてきたという自信があったので、これも決め手の一つだった。
そしてそれらの予選を通過した者が出れるセミファイナル、要は地区本戦だが、それには具体的な課題曲が発表されていた。それはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタから、1つ以上の楽章を、これまた四十分以上のプログラムになる様に演奏しろというものだった。ここまで辛抱強く聞いてくれた人なら分かるだろう。前にも言ったから重複するが、このコンクールは出場者に対して、かなりの自主性を求めている事に。他の人は知らないが、具体的な課題曲の指定も含めて、こういった趣旨のものは、私にはもってこいだと感じられた。師匠も同意見の様だった。
これこそ気が早いが、一応念のためファイナルの課題曲を見ると、モーツァルトやベートーヴェンに始まる、あまりクラシックに造形の深く無い人からしても知ってるビッグネームから、その他にも珠玉な曲を世に送り出した偉大な作曲達の名前が、総勢十二人もの名前が羅列されていた。それらの偉人達が作曲した独奏曲の中から、それぞれの年代から一曲ずつ、計三曲を選ぶというものだった。
…ここだけの話、当時の私は試しにコンクールに出場してみるという浅はかな気持ちがあっただけで、正直ファイナルに出てみる、ましてや優勝しようなどとは微塵も考えていなかった。師匠の本心はどうかは知らないけれども。だからと言って、レッスンに手を抜いていたわけでは無い。当然師匠からの難しい要望にも、なんとか応えようと必死に取り組んではいた。だが、普通に考えて、私も予想がついていた事だったが、このコンクールに特化して、幼い頃から猛特訓をしてきた様な同年代の男女がごまんといると聞いて、しおらしく言うつもりはないが、そんな中に生半可な気持ちの私が混じって良いのだろうかという、漠然たる気持ちがあったのも事実だった。それを直接師匠に話してみると、苦笑いをして見せて「私もそうだった」と言ってくれたので、幾分かは気分が軽くなったという次第だ。それに…うん、一つ正直なところを話した方が良いだろう。いや、今まで話した事も本心だったわけだが、どこかでファイナルまで出て見たいという欲求があった。ここで慌てて付け加えなければいけないだろうが、何度も言うように、私は優勝を狙うが為に言ってるわけではない。私が惹かれたのは、その課題曲の欄の隅に書かれていた、ある一文だった。それは、『成績によって、後にオーケストラとの共演があります』というものだった。これには目を見張った。ある種この”オーケストラ”と一緒に演奏するということが、初めてピアノを弾き始めた頃くらいからの夢だったからだ。そこには備考も記載されていて、直前に指揮者合わせ及びリハーサルの時間があると出ていた。知る人からすれば当然なのかも知れないが、中々に本格的なプロの演奏者気分を味わえるということらしい。繰り返す様だが、これには惹かれた。長年…といってもまだ大した期間をピアノと過ごした訳でもないし、そもそもまだ生まれたばかりの様なものだろうが、それでも条件付きだが夢の一つが叶う可能性があるなんて、それこそ夢にも思わなかったから、私の心内としては、何としてもファイナルまで行きたいなと、固く強く思うのだった。
それで今に至る。話を戻そう。
私は師匠の手元にある楽譜群を、テーブルの向かいから覗き込む様にしつつ、両手でホットミルクの入ったマグカップを口につけていた。因みにこのマグカップは、師匠と一緒にいつだったか…そう、藤花の歌を初めて一緒に聴きに四ツ谷まで足を伸ばしたその帰りに、どこか量販店で買って頂いたものだった。「折角二人で初めて地元以外に足を伸ばしたのだから」と、師匠が子供っぽく無邪気に笑っていたのを思い出す。
「ふふ…あっ、そういえば」
師匠は折角綺麗にまとめた楽譜の束を、無造作と言うほどではないが”適当に”テーブルに置いて、またコーヒーに口つけていたが、何かを思い出した様な表情を見せた。そして少し困り顔になって見せつつ話しかけてきた。
「琴音…、まだ瑠美さん達にこの事を話してないんでしょ?」
「え?…は、はい…」
私はそう答えつつ、手元のマグカップ内の牛乳に目を落とした。
そう。師匠に決意表明したのが去年の十一月上旬、今は翌年の二月の上旬…丁度三ヶ月ばかりの月日が経っていた。その間、いくらでも、少なくともお母さんには話せるだけの機会は幾らもあったが、結局この日まで言えず仕舞いだった。中には何故だと聞かれる人もおられるだろう。…いや、もしかしたらそれが大半なのかも知れない。だが、あの受験の時の、私とお母さんとの一悶着…それを思い出して頂くだけですぐに思い至る方も多かろうと思う。あとついでに言えば、裕美にも内緒にしていた。これについては、まだ本当に師匠からGOサインが出るまでは胸張って言えないというのがあったし、あとは…ただ単純に伝えるのが恥ずかしかったというのも事実だ。何となく、裕美や藤花の気持ちが初めて分かった気がした。
「…そっか」
師匠は優しく微笑むと、また一口コーヒーを啜った。私も黙ってミルクを飲んだ。それから一分弱静寂が流れたが、フイに師匠は顔を上げると、思いついたような調子で聞いてきた。
「…今日は瑠美さん、お家にいるの?」
「え?…は、はい、いるはずです…けど?」
私は急にこう聞かれたので、その質問の意味を考えつつ答えたから、何故か語尾が疑問調になってしまった。因みにお父さんは留守にしている。
すると師匠は明るい笑みを浮かべて言った。
「…よしっ!琴音!今日は午後の練習を少し早めに切り上げて、あなたのお家に行こう!」
「…へ?」
青天の霹靂とはまさにこの事で、私はさっき以上に間抜けな顔して声を上げてしまった。
「それって…」
なんとなく理由は分かっていたが、念のために確かめる意味で聞き返した。すると、師匠は相変わらず笑みを絶やさずに答えた。
「勿論、瑠美さんにこの事を伝える為によ!」
「…えぇー」
私は思わず、自分でも分かる程の苦虫を潰したような表情を浮かべて、不平の含んだ声を漏らしてしまった。
すると師匠は、ジト目を向けてきつつ、しかし口元は緩めたまま言い足した。
「だってー、あなた、こうでもしないと、いつまで経っても瑠美さん達にこの事を伝えないでしょ?応募の時期がまだ二ヶ月あるとはいえ、まだあなたは未成年なんだし、いざ応募しようとするその直前に行ったら、当然混乱が起きるでしょ?…『何でこんな大切な事を今まで言わなかったの!?』って、私が瑠美さん達に怒られるのは別に構わないんだけれど、あなたも同じ様に怒られるだろうし…」
「…いや、そのー…勿論分かってるんですけど…」
途中から結局、教え諭す様な調子で師匠が言ってきたので、私はミルクの入ったマグカップをテーブルに置き、目を伏せ、両太腿の辺りに視線を落とした。
私はすぐに今言ったことに対して反応が返ってくるかと思い黙っていたが、いつまで経っても何も言ってこない。私は少し不思議に思って顔を上げると、そこには、優しい微笑を浮かべた師匠の顔があった。
私と視線が合うまで待っていたのか、静かに口を開いた。
「…ふふ、勿論、あなたが…特に瑠美さんね?瑠美さんにこの事を言い辛いのは、簡単に言うのは何だけど、私なりに理解しているつもりよ?何せ…受験の事で、普段は大人しい”フリ”しているあなたが、自分の母親とあんな一悶着を起こしたのだから」
師匠の口調からは、敢えて細かいことは言わないでおこうとする”気遣い”が感じられた。最低限の情報だけ盛り込み、相手に、この場合私だが、それとなく伝わる様に練られた、中々に高度なセリフだった。
私は言うまでもなく、師匠のことを当然尊敬し慕っているわけだが、そんな私でも感銘を受けずに居れなかった。
「…な、何で…?」
先程からと変わらず、私は最後まで敢えて言い切らずにいると、師匠はその微笑のままに、柔和な声で言った。
「何でって…それくらい分かるわよ。だって…私はあなたの師匠であり、そしてあなたは私にとっての、初めての弟子なんだもの」
そのセリフを黙って聞いていた私は、思わず視界がウルっと歪まずにはいられなかった。以前にも話した様に、私は人前で涙を流すのを、毛嫌いするどころか想像するだけで嫌悪を催していたのだが、理由が自分でも分からなかったが、思わず涙腺が緩んでしまったのだった。勿論師匠の裏表のない純粋な想いを直接聞けた事は、いつでもとても感動的な出来事なのだが、これに限らず普段から、師匠が私に施してくれる、厳しくも暖かな思いやりに満ちた”しごき”から、十分過ぎるほどに”情”を感じていたので、今更それを口にされただけで、ここまで脆くなるものなのかと、とても不思議な気持ちでいた。
そんな私の心境はともかく、師匠は少し表情に明るさを取り戻して、口調も明るめに言った。
「だから琴音、私がついて行ってどう好転するのかは分からないけど、でももし少しでもあなたの心の負担を分けられるのだとしたら、一緒に行こうと思うのだけれど…どう?」
師匠は最後の方で、少し顔に不安げな色を差し込みつつ言い終えた。
私はほんの数秒黙って、考えもしたが、自分の師匠が、ここまで弟子の私の事を心配して言ってくれてるのだから、そんなの答えは決まっていた。
「…はい、一緒にお願いします」
私は何とかカラ元気気味でも明るさを意識して答えた。笑顔も忘れずにだ。後になって考えれば、ここまで私の事を分かってくれてる、数少ない大人の一人の師匠に対して、こんな変な気遣いを私からしたら、余計に相手に心配させてしまうという事に、当時はそこまで気が回らなかった。
師匠は、その当時の私が気付かないほどに、ほんの一瞬寂しげな表情を見せてから、ニコッと満面の笑みを浮かべつつ「そう、良かった!」と大きな声を上げつつ、向かいに座る私の肩をポンポンと優しく数回叩くのだった。それに対しても私は、同じ様な満面の笑みでニコッと返すだけだった。
それからは、まだ片付けていなかった食器類、またすでに飲み終えて中身が空になった、お互いのマグカップをシンクまで運び、二人並んで仲良くそれらを洗った。それからはレッスン部屋に直行し、師匠に言われた通り、普段なら夕方の五時までみっちりやるのを、四時には外に出れる様に、それを目安にして短めの特訓をしたのだった。
実際には三時四十分に切り上げて、先生が自分が部屋着のままだからと、少し身支度して来る間、私は玄関でジッと待っていた。余計な事を言えば、師匠は自分の格好を、『部屋着だから外には出れないし、しかもお世話になってる瑠美さんに会うなら尚更だ』と言っていたが、私から見ると、表を歩いている誰よりも、綺麗な格好をしている様に見えた。上に着ていた無地のTシャツは、確かに着古した感が出ていたが、決して見すぼらしくはなかった。師匠も私と同じで、体型が出る様な細身の服装が好みだったので、家の中でも細めのジーンズを着ていた。前にも言った通り、師匠は175センチと長身で、本人曰くピアノを弾いているからと少し肩幅があったが、とてもスタイルがよかったので、師匠に対するバイアスが”すごく”かかっている様に聞こえるかもしれないが、それでも繰り返す様だけど、小綺麗にお洒落をしていると言う並の人々よりも、よっぽど師匠がお洒落…というよりそれよりも、”洗練”されて見えた。
…なーんて事を、ボーッと考えていると、師匠が自分のプライベートな自室から出て来た。顔はハニカミつつ照れ臭げだ。髪型はレッスン時と変わらず、ロングヘアーを後ろで束ねていた。服装は上にコートを羽織っただけのシンプルな装いだった。下のTシャツだけ、新しいのに着替えたらしいが、それをコートの前を開けて見せられても、正直違いが分からなかった。…さっきまでの服装で良かったんじゃないかと思わず突っ込みたくなったが、何とか抑えて、二人並んで靴を履き、一足先に師匠が外に出た。そして振り返り、玄関のドアを閉まらない様に抑えたまま、私が出るのを待っていた。私は立ち上がり、ふと下駄箱の上にある置き時計をチラッと見た。丁度四時を指していた。


師匠と私は二人仲良く並んで、私の家までの道を歩いていた。晴れやかで朗らかな天気だったが、まだ二月に入ったばかりのせいか、時折強く吹き抜ける風は、思わず首に巻いてるマフラーに顔を埋めたくなるほどだった。師匠の家から私の家までは、約五分ちょっとの距離があった。向かう間は、私の学校生活の話などに終始し、体感的にはあっという間に自宅玄関前についてしまった。
私は自分の家だというのに、ドアの手すりに手をかけるのを逡巡していたが、フッと後ろから肩に手をかけられたので振り返りみると、師匠が微笑を湛えながら、不安げな私と目が合うと、コクンとそのまま何も言わずに頷いて見せた。その無言の励ましに背中を押された心地を感じつつ、鍵穴に鍵を差し込み、回し中に入り、普段の調子を思い出しつつ声を上げた。
「た、ただいまー」
「あら?おかえりー」
と、居間の方からお母さんの声が聞こえた。そして居間のドアがガチャっと開けられると、何か洗い物をしていたのか、タオルで手を吹きつつ玄関まで出てきた。
「今日は早いわね…って、あら?」
お母さんは、私の背後に立っている師匠の姿を認めると、途端に明るい笑顔になりつつ、声をかけた。
「あらー、沙恵さんじゃなーい。久しぶりねぇ」
「ご無沙汰してます、瑠美さん」
と師匠も、お母さんに合わせた様な笑みを浮かべつつ返した。
お母さんはその笑顔のまま、タオルを持たない片方の手を、手前に向けてパタパタ動かしつつ言った。
「ほら、せっかく来てくれたのに立ち話も何だし、そんな所にいつまでも立ってないで、早く上がって上がって!」
「ふふ…。では、お邪魔します」
師匠はそう言うと、おもむろに靴を脱ぎ出したので、私も合わせる様に同時に靴を脱ぎ上がって、居間の方へと向かった。
「ほら、座って座って!」
居間に入ると、既にお母さんはキッチンにいて、何やらゴソゴソとカップを出したり忙しなくしつつ、こちらを見る事なく言った。
「今お茶を淹れるから。えぇっと…お茶はいいけど、茶菓子があったかしら…?」
「あ、そんな、お気遣いなく…」
師匠は初めは、お母さんの言いつけ通り、いつも食事を取っている食卓の一角に座りかけたが、お母さんがそんな事を呟きながら作業をしていたので、また立ち上がり、キッチンの方へと歩み出そうとしていた。こちらにずっと背を向けつつ作業をしていたので、気付く訳は無かったはずだが、気配を感じたのか、一旦手を止めて師匠の方を見て、見方によってはジト目に見れる様な視線を向けつつ、しかし口調は陽気に言った。
「あー、ダメダメ!沙恵さんは客人なんだから、そこで座って待っててよ」
「は、はい…」
師匠はお母さんの勢いにやられた形で、苦笑いを浮かべつつ、今度はちゃんと椅子に座ったのだった。師匠はコートを脱いで隣の椅子に掛け、私は急いで自室に戻して来た。
お母さんが言っていたが、考えて見たら、師匠がこうしてこの家に来るのは、かなり久し振りだった。勿論師匠とお母さんは友達だというんで、しょっちゅう私の知らない所で会っている様だったが、それは外のどこかのお店だったり、私がいない時の師匠のお家だったりだからだ。
最後に来たのは…そう、忘れもしない、皆さんも覚えておられるだろうか?私がどうしてもピアノを辞めたくないと、師匠のお家で、終いには泣きつつ訴えたあの日を。師匠も私の訴えに、微笑みを浮かべつつ慰めてくれながら、目元を潤ませてくれたあの日だ。あの時もその後、師匠が私の家まで付いて来て、その時は今のように上がらず玄関先での事だったが、私が顔を伏せて黙っている間、師匠がお母さんに『瑠美さんの考えも尤もだと思いますが、琴音ちゃんの気持ちも痛いほどに分かるんです。瑠美さんは私の過去を知っているから、お分かりでしょ?…いえ、何か言いたいんでは無いんです。お受験の事はお邪魔しません。ただ…邪魔しない範囲で留めて置くので、琴音ちゃんがピアノを続けるのを許して上げて下さい』と言い終えると、頭を深々と下げてくれたのだった。下げられたお母さんは、少し…いや、大分動揺しつつ、慌てて師匠に頭を上げるように言っていた。まぁ尤も、事の顛末を覚えておられる人なら分かると思うが、お母さんは何も今すぐにピアノを辞めろと言っていた訳ではなく、成績が落ちたらと一応条件を出していたのだった。だから、お母さんの中でも実際に辞めさせるつもりはこの時は無かったので、師匠には前々から私に受験させようという話はしていたようだったが、この条件のことまでは話していなかったようなのだ。しかしまだ幼い…いや、中学に入りたての私を見たら、今でも十分に幼いのだろうが、まだ小学生だった私に取ってはとても大きな問題だった訳で、被害妄想が膨らみに膨らみ、それを師匠にぶつけた結果が、こうなったという話だ。ここで慌てて自己弁護すると、以前にも話したが、この頃あたりから胸の奥に、あの真っ黒で重みのある、形容のしようが無い”ナニカ”が存在しだした時期だったので、自分で思っていたよりも混乱していたのだろうと付け加えさせて頂く。それはさておき、お母さんもお母さんで、ここまで大事になるとは思わなかったのだろう、師匠にそのまま玄関先で、出した条件について説明をすると、見るからに力が抜けていくような様相を見せて、師匠は私に力なく笑いつつ、何も言わずに頭をクシャクシャっと撫でてきたのだった。
とまぁ私の被害妄想のせいで、こんな事態にまで発展した訳だったが、もしかしたら師匠が頭を下げてくれたお陰で、お母さんの設けた条件が緩くなったのかも知れないと、後付けだがそう思っている。話を戻そう。

「はい、どうぞー。沙恵さんは紅茶に、何も要らない人だったわよね?」
「あっ、はい、そうです。すみません」
師匠が座ったまま軽くお辞儀をした前には、紅茶の入ったカップ三つと、クッキーやらチョコやらが盛り付けられたお皿がトレイに乗せられていた。因みにこのクッキーは、前に師匠と共に作ったものと同じヤツだった。家でもたまに、こうして作ることもあった。つい最近作ったものを、こうしてお母さんが出してくれたのだ。
師匠もすぐに気付いたらしく、
「…あれ?これって…」
と、向かいに座る私の顔を覗いてきた。
それに答えようと私が口を開きかけたその時、
「あぁ、それはね…この子が最近作ってくれた物なの」
と言いつつ、お母さんは私の隣に座った。ここで補足すると、今師匠が座っている位置に、普段はお父さんが座っている。
それはともかく、お母さんは途端に機転を利かしてくれたのだろう、師匠にこうして、私が一人で作ったクッキーを出してくれたのだから。師匠はそのクッキーを手に取り、マジマジとなぜか感心したように見ていたが、ふとお母さんの視線に気付くと、少し気まずそうな、照れ臭そうな表情を見せつつ「いただきます」と言いながら一口分を口に入れた。
「召し上がれー。…って、私が作った訳では無いんだけれど」
お母さんはそう言いながら、隣に座る私にニヤッと笑顔を向けた。私も無言で笑顔を返した。
師匠は少しの間、目を瞑り黙ってクッキーを味わって噛んでいたが、不意に目を大きく開けて、笑顔で私に話しかけた。
「…ウンウン、私の所で作った時よりも、もっと上手く作れているね」「あっ、そうですか?」
師匠に褒められたので、私は思わず当初の目的を忘れかけて、明るく笑顔で返した。そして自分も一つ手に取り、食べるのだった。
「あら、そうなのー?」
お母さんも、見るからに普段よりもテンション高めに声を上げつつ、同じ様にクッキーを一つ取り口に入れた。昔から分かっていた事だったが、お母さんも私に負けず劣らず師匠の事を気に入っている様だった。もちろん、私とは方向性が違っているけど。
お母さんは口の中を空にしてから、紅茶を一口啜りつつ言った。
「いやー、本当我が子ながら料理が好きな上に上手くて安心するわー。私に似たのねぇ」
そう言うと、お母さんは私の背中をポンポンと叩いた。お母さんの口癖だ。言われる度私としては、こそばゆいと言うのか何というのか、何とも形容のしようが無い気分になるのだった。師匠は笑顔で対応している。
お母さんは私の背中から手を離すと、師匠にまた顔を向けつつ言った。「あなたに感化されたのも大きいのだろうけど、今ではお菓子以外にも色々と作れる様になってるのよ」
「…あぁ、一人暮らしをする為の準備ってやつですか?」
師匠はそう言いながら、顔をお母さんに向けつつ視線だけ私に向けた。私は何故か視線を逸らすように、カップの中の紅茶に目を落とした。
この時初めて、師匠が私が高校生になった時に一人暮らしをするという事を知っているというのを知ったのだった。これに関しては、誰から先に伝わってもいい問題だったので、お母さんが裏で師匠に言ってても別に構わないし、何も感じなかった。
「そうなの。まだまだ先ではあるんだけど…親バカに見えるかも知れないけどね?この子ってこの通り、ヤケに大人びていてしっかりしてるでしょ?まぁ…頑固とも言えるけどね?」
お母さんはチラッと、私に意地悪い笑みでニヤッと笑った。
「でもそんな子だから、まったく心配していないのよ。…まぁ、また一つ短所を言えば、何でも一人で抱え込んじゃう所があるって事かな?」
お母さんはまた先程と同じ笑みを向けてきたが、私はそれを聞いて少しビクッとしてしまった。我が母ながら、よく見ているなぁ…と、生意気な感想を持ったのだった。
「…ふふ、そうですね」
師匠も、お母さんと似たようなタイプの笑みを私に向けてから応えた。
「琴音は賢い子ですから、何でも一人で解決しようとするあまり、大人でも参るような事まで抱え込んじゃうんですよねぇー。…もう少し、周りにいる人に頼って欲しいんですけれど」
「し、師匠ったらー」
私は何だか話の方向がおかしな方に行っているような気がしたので、慌てて軌道修正を図った。そんな私のあたふたしている様子を見て、お母さんと師匠は一瞬顔を見合わせたかと思うと、クスッとほぼ同時に吹き出し、そして笑い合うのだった。私は膨れて見せていたが、その後はやれやれといった調子で苦笑いをするのみだった。

「はぁーあ、さて…」
笑いが収まった頃合いになると、お母さんがおもむろに口火を切った。
「沙恵さん、あなたは今日は一体なんの用事があってここに来たのかしら?普段から来るならまだしも、珍しく立ち寄ってくれたって事は、何かしらの意味があるわけよね?それも琴音と一緒に連れ立って…」
先程までとは打って変わって、少し声のトーンを落とし気味に話し出したお母さんに対して、師匠は別に気にしない風に変わらぬ調子で「えぇまぁ…」と短く答えた。
「もしかして…琴音が何かしたのかしら?」
お母さんは私に目をくれる事無く、師匠から視線を外さずに聞いた。
それを聞いた師匠は、一瞬目を丸くしていたが、笑うのを堪えるように口元に手を持って行きつつ、明るく答えた。
「…ふふ、まさか。琴音が、少なくとも私の所に来て問題を起こした事なんて、今までに一度もありませんよ」
「あら、そう?…では、何なのかしら?」
何故だかお母さんは、警戒心を露わにしていた。過剰に見える程だった。師匠は師匠で、そんな様子に気後れするどころか、まったく気にも留めてないといった風で、今度は静かな笑みをまず私に向けてきた。私と視線が合っても何も言わずにいたが、その目から『自分から話す?』といったメッセージが見て取れた。少し悩みつつ、私は少し視線を外して隣に座るお母さんの横顔を盗み見たが、そこから何かしらの事を察したらしい、師匠は静かに紅茶を一口啜ると、お母さんに答えた。
「まぁ端的に言えばですね…琴音が、コンクールに出たがっているんですよ」
「…え?」
そう声を漏らしたお母さんの顔は、隣に座る私からは見ることが叶わなかったが、その口調からして凄く驚いているのが感じ取れた。
その後は暫しの沈黙が居間に流れた。お母さんは自分の中で情報を処理するのに黙っていたし、師匠も冷静な風で紅茶を音も立てずに啜っていた。私も当然、黙ったままだった。
どれほどだっただろう、もしかしたら三十秒も経ってなかったかも知れないが、体感的には十分ほどにも感じられた。
お母さんがゆっくりと顔を私に向けて、静かに声をかけてきた。
「…琴音、本当なの?」
その声は、私が勝手に感じていただけだったが、ピンと張りつめたこの場の空気に似つかわしい、何とも重みのあるものだった。
私は俯き加減でいたが、その体勢から小さくコクンと頷いた。
「…琴音?」
お母さんが少し疑問調で話しかけてきたので、思わず私はお母さんの方に顔を向けた。見たお母さんの顔は、いつに無く真剣な面持ちで、受験がどうのと話をしていた時以上に、ピリッとした顔つきをしていた。
「頷くだけじゃなく…琴音、あなたの口からちゃーんと聞きたいの。…あなた、本当にコンクールに出たいの?」
「…うん、私…コンクールに…出たい」
私は絞り出すようにやっとそう答えると、またそのまま俯いて、太もも辺りを見ていた。
「何でまた急に?」
そう聞いてきたお母さんの声のトーンは、さっきよりかは緊張が緩和されていたので、私も少しは気持ちも軽く答えられそう…だったが、いざその理由を問われると、色々な要因が絡み合い過ぎて、一口に説明しようとすると、困難だというのに今更ながら気づいた。初めて師匠に話したときの内容を、そのまま話せば良いとも思ったが、師匠にも言わなかった別の要因、ピアノを弾く上での一番のモチベーションとなっていたのは…そう、あの宝箱で義一に弾いて見せて、褒められたいが為でもあったのだ。ピアノを弾く事の、難しく中々上手くなれない事への苦痛感、課題を乗り越えたかと思えば、また新たな課題が増えてくる事による際限無い事への漠然とした不安感、でも振り返れば、真面目に取り組んだことへのご褒美、一昨年よりも去年、去年よりも今年と、確実に前進しているという達成感を感じられる、何物にも代え難い”面白さ”、それらは全て師匠から教えて貰って、今もそれは継続中な訳なのだが、このピアノに関しても、義一の存在が大きかった事は否めなかった。
そういう訳で、別に義一のことに触れずとも話せるのだが、師匠の場合と違って、直接関係のあるお母さんに話す場合とは勝手が違っていたのである。
しかし、いつまでも黙っているわけにも、聞かれたから今から理由を考えてるのかと思われてしまうのは本意では無かったので、結局師匠に話したそのままを、辿々しくではあったが、チラチラお母さんの顔を伺いつつ、ツラツラと想いを述べたのだった。
お母さんはその間、黙って微動だにせずに私の話を聞いていた。
私が話し終えると、また暫く沈黙が流れたが、今回は少し早めにお母さんがまた口を開いた。
「…なるほどねぇー。裕美ちゃん達の…」
お母さんは独り言のようにそう漏らすと、ずっと私に向けていた顔を今度は師匠に向けて聞いた。
「沙恵さん、あなたも今と同じ様な事を聞かされたの?」
「はい」
そう答える師匠の顔には、気持ち微笑が見えていた。
「そう…」
お母さんも、別に合わせた訳では無いだろうが、短くそう言うと、途端に「ふふ」と笑い声を漏らした。私は当然不審に思い、思わず顔を上げてお母さんの顔を見ると、やはり柔らかな微笑を浮かべて私を見ていた。
「琴音…あなた、良い友達に恵まれたわねぇ」
「え?…あ、う、うん…」
突然に裕美達の事を褒められたので、訳も分からないまま素直に同意した。お母さんは、私の返答に対して、満足げに頷いていた。
「そっか…。沙恵さん?」
お母さんは、微笑みつつ師匠に話しかけた。
「…良かったわね、ようやくこの子が決心してくれて」
「…え?」
お母さんが急に目を細めつつ、その様な事を言い出したので、私は驚いて声を上げたが、「…えぇ、そうですね」と師匠もお母さんにほほえみ返していたので、私一人が置いてけぼり状態になった。
「それって、どういう…?」
私は動揺を隠せないまま、おずおずと二人の顔を交互に見つつ言うと、まずお母さんが師匠に目配せをした。すると師匠は、ただ黙って笑みを返して紅茶を飲み出したので、一度大きく頷くと、私に顔を向けてから話し始めた。
「…ふふ、琴音?あなたは私と沙恵さんが仲の良い友達だというのは知ってるでしょ?あなたがいつ頃だったかしら…あ、そうそう!あなたが小学校のニ年生になったばかりの時に、沙恵さんの所にピアノを習いに行き出したのよね?」
「う、うん…」
これまた急に、昔を回想し出したので付いていけてはいなかったが、何となく相槌だけは打っておいた。お母さんは続けた。
「それでアレは…習い始めてから二年くらい経った頃かしら?…ねぇ?沙恵さん、あなたがこの子にコンクールに出てみて欲しいと言い出したのは」
「えぇっとー…えぇ、大体そのくらいの時期だと思いますね」
師匠は一瞬どこかに視線を飛ばしつつ考えて見せていたが、思い出した様な表情を見せつつ答えた。
因みに、当事者の私が細かい事を付け加えれば、初めて師匠にそんな事を提案されたのは、四年生の年末だったと思う。
私も初めて言われた頃のことを思い起こしていたが、それに構わず話は進んで行った。
「初めは当然琴音に最初に話した様だけれど、中々口説いてもオッケーの返事を出してくれないというんで、その後に私が相談を受けていたのよ」
「…へ?」
その言葉には、私が思い出に浸るのを遮るほどの力があった。
お母さんも、この話を聞かされていたんだ…。
と、一瞬それを不思議に思ったが、別に現実的に考えてみたら普通だというのに気づいた。何せ私はまだ未成年だ。
何度も繰り返しになってしまうが、当人の私が未成年だから、こうしてわざわざ師匠まで家まで来てもらって話をしているという訳で、裏でお母さんに話が通っていても、何も不思議では無かった。義一を始めとして、色んな人に”大人っぽい”だとか”自律してる”だとかと煽てられる事が多かったせいか、自分でも勘違いして、どうも自分が所謂”未成年”だというのを、たまに無自覚なまま忘れてしまう様だった。だからこんなに生意気な女の子になってしまったのだろう。
これも良い機会だから付け加えると、例のあのお店、”数寄屋”に聡に誘われて行った日、あの日はピアノのレッスンを休んでまで行ったのだが、その時にも話した通り、師匠には『”友達”と息抜きに遊ぶんで、休みを下さい』とちゃんと断った。その時にお父さんに連れ立って”医者の集まり旅行”に行ったお母さんにも、ちゃんと”友達”と遊ぶ旨は伝えてあった。何が言いたいのかというと、もし裏で師匠がこの事についてお母さんと話したとしても、何も問題は無かったという事だ。中にはどうなっているのかと思っておられる人が居るかも知れないので、この場を借りて補足させて貰った。話を戻すとしよう。
「…そうなんだ」
さっきも触れた様に、私はすぐに納得しつつ師匠の顔を見てみると、師匠は相変わらず何も言わないまま黙って、しかし微笑みを絶やさないまま紅茶のカップに口をつけていた。
「私もね?」
お母さんにしては行儀悪く、テーブルに肘をつき、顎を手に乗せながら、私にニヤケ面を見せつつ言った。
「初めて沙恵さんにその事を聞いた時、素敵じゃないって思ったのよ?私は呉服屋の娘だから、そんな煌びやかな世界とは縁遠い、”地味”な世界の中で少女時代、青春時代を過ごしていた訳だけれども、それを娘のあなたがその世界に出れるかも知れない、しかも沙恵さんの様な実力あって目の肥えたピアニストの方に推薦されるなんて、凄いことじゃない!っと思ったのよ」
途中から何故だか見るからにテンションを上げていきつつ話して、最後の方では興奮が最高潮に達していた。それを聞いていた師匠は
「い、いやいや!私なんか、もう引退した身ですし…それに、充分呉服屋の娘というだけで、中々のものだと思いますけど」
と慌てて謙虚な対応を見せていた。私も、何だか居心地が悪くなって、肩をすくめる他に無かった。お母さんは恐らく、私の実力がほんの二年余りの間に、コンクールに出れる程の実力を身につけたんだと思った様だったが、私は知っての通り師匠から事の顛末を聞いていたので、それはまるで違うなと思ったからだった。訂正してもよかったが、何だかそんなツッコミを入れると、話が脇道に逸れて、余計にややこしくなりそうな気がしたので、自重をしたというわけだ。
「そう?」と、何だか不満げに師匠に言うと、また気持ちを落ち着けて、今度は私の背中に手をそっと添えてきてから、打って変わって静かに柔和な笑みをこぼしつつ話し出した。
「コホン。…うん、だからー…なんて言えば良いのかなぁ?…琴音、あなたが本当に自分からコンクールに出たいと思ったのなら、それは私にとっても、とても喜ばしく嬉しい事なのよ?…いや、私だけではなく、お父さんにとってもね?ただこうして何度も確認を取るのもね、あなたが…」
ここでお母さんは、私の背中を上下にゆっくりと摩ってきながら目を細める様に笑みを見せつつ言った。
「周りの目を気にして、周りからの期待に応えようとするあまり、無理してやりたくも無い様な事をやろうとしているんじゃ無いかってね?…そう心配しちゃうのよ」
「お母さん…」
私はボソッと、お母さんの目を見つつ呟いた。と、これはハタから見たら、親子がお互いの心を通わせつつある微笑ましげな風景に映っていたのだろうが、当の私の心境としては違った。そのセリフ自体はとても美しく、慈愛に満ちてるとは思ったし、感じないわけでも無かったが、今までの過去の出来事を振り返ると、とてもじゃないが額面通りに受け入れる訳にもいかなかった。つまりこの時の私の心は、大目に見ても六割方は冷めていたのだった。我ながら情がないと思うが、こればかりは仕方ない。
それはともかく、その後は急に場の空気が一変して、お母さんがアレコレと師匠に対して質問攻めにしていた。現状の私はコンクールに出てどうなのかだとか、保護者である私はどの様な準備をすればいいのかと言った風にだ。どこからかメモ用紙を取ってきて、ボールペンで色々と書きなぐっていた。矢継ぎ早のお母さんからの質問に、師匠は一つ一つ真摯に答えていた。時折苦笑いを見せつつだったが。
私のコンクール出場に関する話に満足したのか、それからは取り止めのない雑談をしていたが、ふとお母さんが居間にある時計を見ると「あっ!」と驚いて声を上げた。私もつられて見ると、夕方の五時半を過ぎた所だった。
お母さんは慌てて立ち上がると、師匠に苦笑交じりに謝りつつ「今日はこの辺りにしましょう」と声をかけた。お母さんが言うのには、私と師匠がきた時に、ちょうどシンク周りを整理した後で、これから夕飯の買い物に行こうと駅前のスーパーに行こうとしていた所だったらしい。それが急の来客、それも師匠という珍しい客人だったという事もあって、嬉しさのあまりついつい夕飯の事をすっかり忘れてしまったという話だった。その説明を受けた師匠は、恐縮しつつペコっと頭を下げて、連絡なしの突然の来訪に対して謝っていたが、お母さんはお母さんで、最初に「本当よー」とジョークを飛ばしてから、そんなの気にしないでとフォローを入れていた。
「ちょっと待っててね?どうせなら一緒に出ましょう?」
とお母さんが言うので、お母さんが軽く外出用に着替えて来る間、師匠と二人でコートを着て居間で待っていた。私はこの間、少し師匠に今回の事について話そうかと思ったが、思ったより早くお母さんの支度が終わったので、それは叶わなかった。
それからは三人仲良く外に出た。もうすっかり暗くなっており、目の前の通りの街灯が、等間隔に列をなして光瞬いていた。西の空にさえ、陽の光の残光がもう消えかかっていた。二月とはいえ、空気も真冬と変わらぬ体感で、まだまだ防寒着は手放せなさそうだった。
お母さんは自転車に跨ると、「師匠にわざわざここまで来て貰ったのだから、家まで送っていきなさい」
と言った。私はすぐに同意して、師匠を連れ立って行こうとしたら、一歩踏み出す前に呼び止められた。「なに?」と聞き返すと、
「送った後で、スーパーに来てくれる?折角だから買い物に付き合って欲しいのよ」
と言うので、私はお母さんが何が言いたいのかすぐに察して、私も自転車を出した。
それを見たお母さんは、満足げに大きく一度頷くと、
「じゃあ先にスーパーに行ってるから。慌てずにゆっくり、車に気をつけて来るのよー?」と私に声を掛けてから、
「じゃあまたね、沙恵さん!また近々お茶でもしましょーう!」
と師匠にも声を掛けると、ペダルに足をかけて、何も言わずに数回私達に向かって大きく手を振りつつ、ゆっくりと自転車を発進させた。駅の方へと向かうお母さんの後ろ姿を、師匠と二人で眺めていたのだった。
お母さんがすぐの曲がり角を曲がったのを見届けた師匠は、私に顔を向け、優しい笑みを零しつつ言った。
「ふふ、じゃあ私達もそろそろ行こうか?」

「いやー、しかし…瑠美さんは相変わらずだなぁ」
師匠は愉快だと言いたげな調子で正面を見ながら言った。
駅の方とは逆方向の、師匠の家までの道をゆっくりと二人並んで歩いていた。私は自転車を両手で押してる形だ。
「あんなに底抜けに天真で居るかと思えば、着物を着付けたら途端に凛とした表情になって、背筋もピンと…いや、普段から背筋は伸びているけれど、そんな佇まいを見せるんだもんなぁ…そのギャップが良いよね?」
と、ふと私の方に顔を向けて、笑顔で聞いてきたので、私は少し困りつつ苦笑気味に返した。
「…師匠ー、これでもあの人の娘なんだから、母親のことを面と向かってそこまで褒められると、なんて答えたら良いのやら困ってしまいますよ?」
「え?…あぁ、そっか、そっか!そりゃそうだよねー。失礼しました」
アハハと師匠は、困り顔の私を尻目に明るく声を上げて笑うのだった。私もそれに合わせる様に笑みを浮かべたが、すぐに引っ込めて、先程お母さんの支度を待つ間に話そうと思っていた事を言おうと、口を開いた。
「…師匠」
「んー?何かな?…って、何だか外で『師匠』と呼ばれると、恥ずかしいわねぇ…」
師匠は照れ笑いを浮かべて言った。私も思わずまた合わせて笑いそうになったが、なんとか堪えて、その場で軽く頭を下げつつ言った。
「…今日は、ここまで付いて来て下さって、有難うございました」
「…へ?…ち、ちょ、ちょっとー、やめてよー、そんな仰々しく他人行儀なー…」
師匠がそう返すので顔を上げて表情を見てみると、確かに声の調子と同じ様に少し困り顔で笑って見せていた。
まぁでも確かに、師匠の言われた通り、少しばかり芝居掛かってしまったかなと思わないでも無かったが、当時の私は、弟子というのは師匠に対してこう接するものだという、ある種の刷り込みを施されていたので、別に違和感などは無かった。その原因を作ったのは…やはりと言うか、当然のように義一だった。
初めて話を聞いたのは五年生の時だったが、私が六年生に上がった頃辺りから、私がしている”音楽”という”芸”の話から、たまに別の…この場合でいうと”お笑い”という芸についてお喋りした事があった。その会話の中で、何かにつけて持ち出してきたのが”落語”だった。初めのうちは、幾ら義一が落語の話をしてきても、さほど興味が湧いてはこなかったが、私が一番当時興味を向けていた義一という男が、そこまで肩入れするほど落語の事をしょっちゅう話してくるものだから、知らず知らずの内に、いつの間にやら私自身も落語に興味を持つ様になっていった。…本人が自覚的かはともかく、義一が撒いた餌に飛び付いた形になってしまった。それからというもの、義一の宝箱に行くと、時間があったらという制約付きだが、義一のコレクション、それも今時の落語家ではなく、昭和の時代に活躍した”名人”達の映像を何本も見せて貰った。悪いことに(?)、何度も見ていく内に、すっかり落語の虜となってしまっていた。それからまた追い討ちを義一からかけられた。義一が今生きる落語家の中で一番好きな…いや、落語家としてだけではなく、その存在そのものに対して尊敬してると言って憚らない、老齢なその人の書いた”芸談”の本を借りて読まされた。…いや、途中から私が望んで借りて読んだのだった。
…うん、これ以上話すと、どんどん今度は芸談の方へと話が逸れてしまって、本来の筋に戻れなくなってしまうので、取り敢えず今回はこの辺りにしよう。これに関する話は、否応無く後々に話すことになるのだから。それはともかく、この話をした事によって何が言いたかったのかというと、繰り返しの様になるが、落語の映像ばかり見て来たものだから、師匠に対しては弟子はこう接するものだと思い込んでしまっていたので、こんな対応になってしまうという事だ。漸く結論に辿り着いた。話を戻そう。
私もお礼を言えたので、少し笑みを零しつつ続けた。
「でも、こういう時、何て師匠に対して言えば良いのか分からないんですもん」
そう言い終えると、少し挑戦的で生意気な笑顔を見せつけた。それを見た師匠は途端にウンザリげなジェスチャーを見せていたが、愉快な調子を抑えきれていなかった。師匠は不意に右手の人差し指を立てて、それを空に向かって指しつつ、目を瞑りながら
「そういう時はねー…有難うございましたで良いのよ!」
と、何故か得意げに言った。その様子を見て、私はクスッと笑ってから、改めて「今日は有難うございました」と言ったのだった。それを聞いた師匠は、その得意げな表情を崩す事なく「どういたしましてー」と、語尾を間延び気味に返すのだった。それからはまた二人で顔を見合わせつつ、クスクスと笑うのだった。
「さてと…あっ、着いたわね」
「はい」
これほどの短い会話をしただけで、もう師匠のお家の前に着いてしまった。まぁそれは仕方がない。何せ私の家から師匠の家まで、徒歩五分ほどの距離だったからだ。これでも普段よりかはゆっくりと歩いてきたのに、あっという間に感じられた。
私は自転車があったのでそこで良いと、門扉の辺りで足を止められた。師匠は玄関の鍵穴に鍵を差し込んだ…かと思うと、「あっ、そうだ」と私に聞こえる程の独り言を言ったすぐ後に、ふと後ろを振り返り、何かを思い出した様な顔つきで、私のいる所まで戻ってきた。私は師匠が家の中に入るのを見届けようとジッと立っていたのだが、何事かと少し身構えた。
私のすぐ側、門扉に手を掛けつつ師匠は顔だけ私に近付けて、優しく柔らかな声で言った。
「…琴音、ほら、試しに言ってみるもんでしょ?…これを機に、何もかも抱え込もうとしないで、私も含めて、頼りないかも知れないけど、もうちょっとだけ周りの大人を信用してみてね?…じゃあ、気をつけて帰…あ、いや、違うか…気をつけてスーパーに行くのよー!」
「え、あ、いや、ちょっと…」
「じゃあ、またねー!」
師匠は呆然としている私をほっといて、自分はいそいそと差しっぱなしの鍵を回してドアを開け、入り際にまた私に笑顔を向けつつ閉めて中に入ってしまった。私はそのまま変わらず呆然と立ち尽くし、閉められたドアをボーッと見ていたが、思わず知らずフッと鼻から力の抜ける息が漏れて、それを合図にその場で苦笑をするのだった。
師匠が私に急に話しかけた内容に対して、驚きと嬉しさが同時に胸の中を渦巻いて、どう自分でそれを解釈すればいいのか分からずに漏れた笑みだったが、もう一つの理由として、師匠が今見せた振る舞い行動に対して微笑ましく思ったのも事実だった。何せ正式に師弟の間柄になったのはついこの間だったが、付き合い自体は私が小学二年生に上がったのと同時くらいだったから、ほぼ五年の月日を互いに過ごしてきたのだった。大人にとってはあっという間だろうが、子供にとっての五年は簡単に言えるほどには短くないのである。とまぁそんな訳だから、師匠があの振る舞い方をした理由が、照れ隠しから来てることはすぐに分かってしまうのだ。向こうからしても私自身気づいていないクセを知っているのだろうけど。
それはさておき、今の情景を思い出し笑いしつつも、今頃夕方の買い物時で混み合うスーパーの中を、カゴを持って品定めをしているであろうお母さんの元へ向かうため、ペダルに足をかけ、少し強めに漕ぎ出したのだった。

第27話 数寄屋 A

「良かったねぇ、お母さん達が了承してくれて」
「うん」
あれから丁度一週間が経った日曜日の夜。絵里から電話が来たので、こうしてお喋りをしている所だった。
あの日の夜私は、義一、絵里、それに美保子と百合子にもこの事を知らせた。皆それぞれに、『頑張ってね』的な有りがちな文面を送ってきたけど、送り主が送り主なだけに素直に嬉しかった。今述べたように絵里にも伝えたし、励ましのメールもくれた筈だったが、久し振りに声が聞きたいと、こうして電話をしてきてくれたとの事だった。考えてみれば、いつもの絵里の冗談とは違って、本当に久し振りだった。もちろん、連絡はしょっちゅう取り合っていたが、絵里の言う通り声を聞くのは久し振りだった。何せ今までのルーティンでは、学校以外の活動としては、裕美達と遊んだり、義一の家に行ったり、図書館に行ったり、絵里の家にも行ったり、そしてピアノのレッスンと、それを月の中で回していたのだが、師匠にコンクールの旨を話した時から、今まで以上にピアノに比重が持っていかれて、どんどんスケジュールが圧迫していき、最終的に図書館と絵里の家に行く時間が削られてしまう結果になった。私は申し訳なく思い、その事について電話ではあったが詫びると、『あははは!そんなの気にしないでよー。…まぁ、少しだけ私が寂しくなるのは事実だけれど、そもそも琴音ちゃん、あなたには学校での素敵なお友達も”今は”いるんだし、これだけ明快な目標を持てて、それに邁進することが出来る様になったんだから、それだけで私は凄く嬉しいのよ?だから…暫くはちゃーんと練習に専念して、たまーに暇が出来て何もやる事がないなって思ったら、その時に私に連絡してねー?』と終始明るくサバサバとした調子で言ってくれたのだった。嬉しかった。大袈裟に言えば、絵里が言ってくれたその言葉も、私が気を取られる事なく練習に専念することが出来た要因の一つには違いなかった。
「はぁー…私も琴音ちゃんが弾くところ見てみたいなぁ」
「ふふ、何度か弾いて見せたじゃない?」
約束を果たす為とは大袈裟すぎるが、何度か絵里の前でも弾いて見せたことがあった。場所は…そう、勿論義一の宝箱の中でだ。本当は一人きりでじっくりと聞きたかったらしいが、ピアノが自由に使える場所がそこしか無かったので、仕方なかった。
絵里としては、誰か他にいるにしても、義一がいるのが我慢ならないと、本人を前にして膨れて見せていたが、いくらそう言っても、この二人の間に険悪な空気が流れるのはまず無かった。…いや、不可能とまで言い切っても良いほどに、どんなキツめの冗談でも微動だにしない、熟成された関係性が見て取れるのだった。
「あははは!そりゃあそうだけどさぁー…だって琴音ちゃん…あなたは当日、ちゃーんとおめかしして行くんでしょ?」
「え?あ、あぁ、うん。過去の写真を師匠に見せて貰ったんだけれど、どうも一次予選から皆ドレスアップして出るみたい」
「いいなぁー…いやだってさぁー、私は確かに何度か聴かせてもらったけれど、普段着のいつもの琴音ちゃんの姿なんだもの」
「ふふ、ラフな格好で見窄らしい姿を晒して、申し訳ありませんでしたね?」
「…そういう所、益々ギーさんに似てきたね」
その声にはウンザリ感を隠そうともしない、ため息混じりな口調だった。電話だというのに、表情まで容易に思い浮かべられた。
「いや、普段の格好で弾いて見せてくれたのも良かったよー?初めての時にも感想言ったでしょ?特にあなた、どんどんまた近頃身長が伸びてきて、それに伴って四肢も伸びるもんだから、それが上下左右に忙しなく、でも変に急いでないから優雅でもあって思わず見とれちゃったって」
「ふふ、相変わらず急に詩人みたいな表現をしてくるんだから」
「んー…まぁ、文学部出身故なのかな?」
「違うと思う」
私は口調だけでも伝わる様に、なるべく声に表情を持たせずにピシャッと言った。絵里は受話器越しにクスクス笑っている。
「まぁそんな事はともかく、そっかぁ…まぁ演奏の光景を見れないのは残念だけれど、もし写真が撮れるようだったら、誰か…この場合はお母さんかな?お母さんに撮って貰った写真でも今度見せてよ」
「うん、勿論構わないわ」
「そう、良かったぁー…って、琴音ちゃん!時計を見て」
「え?…」
そう言われたので、部屋の壁に掛かっている時計を見ると、十時半になる所だった。
「そっか、もうこんな時間なんだね」
「そう、良い子な中学生はもう寝なくちゃ」
「ふふ、じゃあ絵里さん、お休みなさい」
「うん、おやすみー」
ガチャッ。
受話器の向こうでツーツー音が鳴ったので、私の方も電話を切った。
久し振りにそうだなー…合計三十分は話しただろうか?声しか聞けなかったが、何も変わらない絵里の様子に、安堵と同時に嬉しさも相まって、色々な自分でも気付いていなかったストレスが和らいだ気がした。この日はそのままベッドに潜り込んだが、途端にスヤスヤと眠りに落ちた。
因みに裕美…いや、その他の友達、紫、律、それに藤花にも、私がコンクールに出ることをまだ話していなかった。前にも言ったと思うので重複する様だが、今まで人前に出たくないと特に裕美に話していたので、今更出場する話をするのも気が引けたというのもあったが、この時期の私の気持ちで大半を占めていたのは、何て言ったら良いのか…まだ予選すら始まってない時期に、そんなに慌てて発表することも無いだろうというものだった。これは認めたくないが、…裕美に関して言えば、裕美は小学生時代、二大会連続で都大会を優勝した様なスイマーな訳だが、片や漸くコンクールに出る決心がついて、まだ通るかどうかも分からない予選に挑む私とでは、正直…裕美は何とも思わないだろうけど、競技は違えど少しばかり引け目を感じているんじゃないかと指摘されたなら、私は渋々頷く他にない。そんな自分でも嫌になる卑屈さも、素直に裕美達に話せない要因であるのだろう。

この頃の学園生活自体は、取り立てて話すほどの話題は無かった。まぁそれだけ平穏に日々を過ごしたという事だが、相変わらず全員が集まる事は、それぞれに忙しいせいもあって中々無かったが、それでも毎日誰か最低一人とは一緒に過ごしていた。三学期に入ったかと思えば、いつの間にか期末テストの時期になり、この時期だけはクラブ活動も休止となるので、放課後教室に裕美達全員と集まって、試験勉強をした。当然面白い訳はなかったが、久し振りに全員が集まり、机を向かい合わせにして顔を突き合わせるというのは、貴重な時間であるのには違いなかった。まぁこれまでも、一学期から今までのテスト期間中もしてきた事だったが、それこそ取り上げる必要性を感じなかったから割愛してきたが、今回は何となく取り上げて見ることにした。まぁざっとこんなものだった。
それからは春休みに入り、ピアノのレッスンの合間、裕美達と会ったり、義一の家に行ったり、そしてこの休み期間中、一度だけだったが絵里の家にも遊びに行けた。美味しいケーキと紅茶を頂いたのだった。
そんなこんなで過ごしていると、三月も終わり、そしてとうとうコンクールの申し込み期間が訪れた。

師匠が言うのには、私が出場しようとしているコンクールは歴史が深いだけあって、全国から応募が殺到するらしく、申し込みにも人数制限があるとの事だった。なので、四月一日になった日の午後、師匠がまたわざわざ私の家まで来て、今度は私の部屋の中に入ってきた。何故なら、私の部屋には一台のパソコンがあったからだ。他の部屋、お父さんやお母さんの部屋にも一台ずつパソコンがあったが、私の事なのだからどうせならと、私の部屋のを使うことにしたのだ。それは置いといて、私の想像では何か必要書類を取り寄せ、それにペンか何かで必要事項を書き込み、それを郵送か何かで送る様なものだと思っていたが、師匠が受けた当時はそんな事もあったらしいが、今ではネットで気軽に申し込めるのが常套のやり方の様だった。先生が側で見守る中、私はキーボードを叩きつつ、モニター内に表示された要件を一つ一つ潰していった。そうしている中、どうでもいい事だが私の心中は少し冷めていた。私も”今時”の子な筈だったが、何だかボタンを押して気軽に作業をこなしていくのに違和を感じずには居れなかった。何せそれなりに覚悟して出場を決めたというのに、繰り返すようだが気軽に処理されてしまうと、私の気持ちの置き所がない様に感じたからだ。…まぁ尤も、そんなのコンクール自体とは何も関係が無いじゃないかと言われれば、それはそうだと頷く他にない。ただ個人的な気持ちの問題だ。だからやめろと言いたいのではなく、こんな心持ちの人もいるんだと言いたかっただけだ。これで終わりにする。
最後の方になると、師匠はお母さんを呼んだ。お母さんにはもう既に話が通っていたらしく、手には財布を持っていた。そして私の側まで来ると中からクレジットカードを取り出し、それを私に手渡してきた。私はそれを受け取ると、そこに記載されている番号を、間違わない様に注意深く慎重に打ち込んでいった。打ち終わると、カードをお母さんに返した。お母さんはそれからは、手続きが終わるまで、そのまま私のそばに立っていた。そして画面に”完了しました”と表示されると、私達三人は顔を見合わせて、少し間を置いてから微笑みあったのだった。
「お茶淹れるわねー。沙恵さんも飲むでしょー?」
「あ、はい。頂きます」
師匠がそう返答すると、満足そうに笑いつつ私の部屋を出て、下の階の居間へと降りて行った。
私が黙ってパソコンの電源を落としていると、不意に師匠が私の肩に手をかけて「いよいよね」と優しく落ち着いた口調の中に、力強さを感じる話し方で声を掛けてきたので、「はい」と私も微笑みつつだったが、声だけは少し語気を強めに返したのだった。それからは、示し合わせたのでも無いのに強く頷きあい、二人揃って居間の方へと向かったのだった。

新学期が始まるのと同時に、私は中学二年生になった。まぁ当たり前だが。
他の私立も大抵同じだろうが、この学園も一年毎にクラス替えをする。その結果は、始業式の朝、学校に来て見るまで分からないという、”ムダ”にバラエティー性のある制度だった。毎朝とまではいかないまでも、今だに小学生時代の様に裕美のマンション前で待ち合わせをして、そこから仲良く通学していた。前にも触れたが、小学生時代と制服姿以外の違う点は、裕美の髪型がベリーショートからショートボブに変化しているくらいだった。身長も伸びているのだろうが、ずっと一緒にいるし、それに私も伸びてる訳だから、自分達としては大して伸びてる実感が無いのが実情だった。
学園までの、乗り換え入れての約四十五分の通学時間、その間の話題はこの日に限ってはクラス替えについてに占められた。裕美は「また一緒だと良いね!勿論、紫達も」などと口調は明るかったが顔は心配げに言っていたのを、私は苦笑交じりに宥めつつ同調していたが、心の中では勿論同じ気持ちだった。途中の秋葉原で紫と落ち合い、そこから乗り換え無しの学園の最寄駅まで約十五分、三人仲良く電車に揺られていたが、その間の話題もクラス替えについてだった。四ツ谷に着き改札を出ると、すぐ近くの地下鉄連絡口の前に、藤花と律が揃って立っていた。紫もそうだが、普段はたまの思い付きでしかわざわざ待ち合わせないのだが、皆同じ気持ちという事なのだろう、誰が言い出したか忘れてしまったが、始業式の日は皆で登校しようという約束になったのだった。二人とも軽く挨拶して、ほんの五分ほどの距離にある学園目指して、二列に並んで歩いて行った。因みにどうでもいい事を話すと、こういった場合も、何だか取り決めたわけでも無いのに、いつも同じだった。前方を左から裕美、藤花、紫といった順に並び、その後ろを私、律と並ぶのが習慣化していた。
まぁ単純に、背が平均的なのが前方に行き、私や律の様なノッポが後ろに回っているというだけだ。…厳密には、前方は三列じゃないかというツッコミは受け付けないのでご容赦。それはさておき、前方では三人揃ってやはりクラス替えについて黄色い声を上げつつお喋りしていた。そんな様子を見て、私はまるで保護者の様な目線を送っていたが、ふと隣の律の顔を見てみると、同様の微笑みを向けていた。と、ふと私と目が合うと、相変わらず無表情を送ってきていたが、フッと小さな音で息を漏らすと、アンニュイな微笑みを私に見せてきた。私もつられて、同じように出来たかはともかく、気持ち的には合わせて微笑み返すのだった。
学園に着くと、早速正面玄関の前に長テーブルが設置されていて、その上に六つの紙の束がドカッと置かれていた。近づいて見ると、それぞれの前に学年の名前が書かれていた。要するにこの紙に、その年どこのクラスに自分が在籍するかが書かれているという訳だ。私たちは早速”新中学二年生”と書かれたその後ろの紙を、それぞれ一枚ずつ取って、皆で邪魔にならないようにその場から少し離れた。そして円陣を組むように顔を突き合わせ、誰か一人が大きく息を吐いたので、釣られるようにして皆で同じ様に大きく息を吐いてからその紙を見た。暫くは沈黙が流れた。それも仕方がないだろう。何故なら一学年に5クラスがあり、それぞれに四十人近くの生徒がいるので、いざ一から自分の名前を探すとなると大変なのだ。
とは言っても一分ほどだっただろうか、まず声を上げたのは藤花だった。
「…私、2組だったわ。…みんなは?」
「私も2組ー」
と紫が、紙をヒラヒラさせながら笑顔で答えた。それを聞いた途端、藤花は笑顔で「おぉー!」と言いながら紫の肩を叩いていた。
「…おっ、私もだ」
と裕美は、紙に目を落としたまま呟いた。
「…え?」
と、それを聞いた私は思わず顔を上げて、隣にいた裕美の横顔を覗いた。そんなぁ…
私のこの時の心境を他所に、裕美は藤花と紫から熱烈な歓迎を受けていた。流石の裕美も、二人のテンションには付いて行けないらしく、苦笑気味に返していた。…うーん。
「ほら、後はそこの二人だけだよ!」
藤花はその場で子供の様にピョンピョン飛び跳ねるんじゃないかと思わせるくらいにテンション高めに話しかけてきた。
…正直、藤花ほどではなかったが、とっくに私の名前は見つけていた…ただ、こんな雰囲気の中では言い出せなかっただけだ。まぁここまできたらしょうがない。そもそも、言うまでもなく決めたのは私ではないのだ。
「私はー…1組だった」
私は力無げに、紫の様に紙をヒラヒラさせて見せた。ただ紫と違うのは、紫は笑顔でだったが、私は笑顔は笑顔でも呆れた様子を滲ませた苦笑いだった事だ。
「…えぇー!」
暫く…と言っても数秒ほどだが、私の返答を聞くと、三人共が私の顔を目を丸くしつつ凝視してきた。そして三人はほぼ同時に、かぶりつく様にまた紙に目を通していた。そんな様子を、私は少し白けた視線で見守っていた。そうなるのも仕方ないだろう。何せいくら確認しても、私の名前は1組にあるのだから。
「…ホントだー!」
「えぇー何でー!」
「そんなぁー…」
と、藤花、紫、そして裕美の順に、私に向けて、憐れみともなんとも言えない表情をしてきていた。私はそれに、変わらぬ苦笑で返す他になかった。と、その時、
「…私も1組」
ふと裕美とは逆の私の隣にいた律がボソッと言った。
「…え?」
と、私にずっと憐憫の表情を向けてきていた藤花が、これまた大きく目を見開きながら律を見た。律はパッと見無表情ではあったが、やはり少し元気なさげに、字の書いてある側を他の四人に見える様にして見せた。勿論これは言うまでもない事だけれど、中身を見て貰おうとその側を向けた訳ではなかった。
それは置いといて、急に前置きなく律がそんな事を言うもんだから、同じクラスが決まった三人組がまた一斉に紙にかぶり付いたが、私もまた改めて”1組”の欄を覗いて見た。すると確かに、真ん中辺りに”富田律”の字が書かれていた。
「…えぇー、律までぇー?」
と、これまた先に声を上げたのは藤花だった。思いっきり肩をストンと落として見せていた。裕美と紫も同様だった。
「琴音と律がねぇー…」
「やっぱり上手く行かないもんだねぇ」
そんなリアクションをしつつガッカリするその傍らで、当人である私と律は、顔を見合わせると、ここまで来た時と似た様な苦笑を向け合うだけだった。
「…まっ、しょうがないか!」
と不意に裕美が、腰に手を当て伸びをしつつ言った。
「これで私たちはクラスで二つに別れた訳だけれども、それはクラスでってだけであって、私たちの付き合い自体は変わらないよ」
そう言い終えると、ふと裕美は私に悪戯っぽい子供らしい笑みを向けてきた。それを聞いた藤花も、この中では小さめな身体で大きく裕美の様に伸びをしつつ言った。
「そうだよねぇー!それに、この年度だけであって、もしかしたら来年度…私たちはまた同じクラスになるかもだしね!」
そう言い終えると、藤花は藤花で律に向けて、裕美と似た様な笑みを送った。
律はほっぺを掻きつつ”分かり辛く”笑っていた。
「気が早いなー」
と紫は笑いつつ、すぐ隣にいる藤花の肩に自分の肩をぶつけて言った。そして両手を腰に当てて、胸を張りつつ続けた。
「裕美も藤花も良いこと言うじゃない!」
「ふっふっふー、でっしょー?」
と裕美と藤花は示し合わせたかのように似た様なリアクションを取った。二人自身お互いに意外だったのか、一瞬顔を見合わせたが、すぐに大袈裟にはしゃいで見せつつじゃれ合い笑い合うのだった。
とここで裕美は、何か思いついた様な表情をしたかと思うと、途端にまた悪戯っ子な笑みを浮かべつつ私と律を見比べる様に見てから言った。
「まぁこれはこれで面白いかもね!何せこの中での”似た者同士”が揃って同じクラスになったんだから」
「あぁー、確かにー」
と今度は藤花と紫が似た様なリアクションを取り、これまた同じ様にじゃれ合い笑い合うのだった。途中から裕美も加わった。
そんな様子を私と律は、また顔を見合わせつつ何も言わないまま苦笑いを向け合うのだった。この日はお互いに、それしかしてない様な気がした。

始業式が終わり、それぞれの教室に入って、担任から事務的な話を聞いた。入学当初とは比べ物にならなかったが、内容は多かれ少なかれ同じ様なものだった。私と律のクラス、1組の担任は、一年生の頃と同じの有村先生だった。…んー、”有村先生”とは言ったが、正直生徒で彼女の事をそう呼ぶ人は稀だった。常日頃は面と向かって”志保ちゃん”と下の名前で呼んでいたのだ。呼ばれた本人が、正直のところどう感じていたのかは分からないが、私たち生徒側の意見を言わせて貰うと、親しみ易く心を許している証拠としての呼び名だった。別に馬鹿にして下に見ての事ではないのは分かって欲しい。…って、こんな所で言ってもしょうがないんだけれども。裕美たちのクラス、2組の担任は、”安野宏枝”という、五十代半ばで眼鏡を掛けた、身長も藤花と同じくらいと、言ってはなんだがどこにでもいる普通の”おばさん”といった印象の先生だった。どうやら今年の中学二年生の学年主任も勤めるらしい。そんな話をしていたと、後で裕美たちに聞いた。
ここで少し紹介がてら脇道に逸れるのを許して欲しい。ちょうど良い機会だから、少し先生たちの話をしようと思う。私に限らず、裕美たち全員が実は、安野先生の事をだいぶ前から知っていた。なぜなら、入試の時の面接官の一人が実は、安野先生だったからだ。たまたま私たち五人を担当していたのだ。安野先生は社会科を担当していて、一年生の時も歴史を教えに来ていたから、私たちは皆先生を見た瞬間に気付いたのだった。初めて授業を受けたその後の話題は、それで持ちきりだったのは言うまでもない。私たちグループのみんなは、その”面接官”に対してかなりの印象を植え付けられていたらしい。一応補足させて貰うと、”悪い”点ではない。因みに”志保ちゃん”が、あの時面接会場の教室まで案内してくれた黒服の女性だったのも、前にも触れたがまた付け加えさせて頂く。
とまぁそんなこんなで、皆が一緒のクラスにはなれなく残念だったが、これも一つの経験として受け入れ過ごしていこうと思った四月の上旬だった。

「何気に久しぶりだなぁ」
運転席から聡が声をかけてきた。
「まぁね」
私は生意気にツンとした態度で返すのだった。
今日は四月の第四土曜日。世間的にはゴールデンウィークの入口だ。今日は聡が今言ったように、久し振りに”数寄屋”に行く約束をしていた。久しぶりと言うか、そもそも去年の十一月に初めてあのお店に行って以来、なんだかんだで一度も行けてなかった。当初の予定通り、毎月一度の医者の慰安旅行にお母さんもほぼ毎度付いて行っていたので、そっちの心配は無用だったが、そもそも今年は初のコンクールの出場の事があったから、師匠からは何もこれといって言われていた訳では無かったが、私が自らを甘やかさないようにと、土曜日の午前で終わる学校から直接師匠の家まで出向いてレッスンを受けていたのだった。だから仮に両親二人ともが家を留守にしたとしても関係が無かったのだ。では何故今回は久し振りに休みにしたのかというと、当初の予定ではこの日もレッスンを受けるつもりだったのだが、師匠が四月の中旬あたりに「そろそろ予選が始まる訳だけれども、この数ヶ月間はそれまでよりも何倍も根を詰めて練習してきたのだから、ゴールデンウィークくらいは少し息抜きしなさい」と微笑みつつ”命令”してきたので、私はその心遣いに甘えて笑顔で了承したのだった。だからこの大型連休中は、久し振りに裕美、紫、藤花、律達と揃ってどこかに遊びに行く手筈が整っていた。私含めて五人が一斉に揃うのは、繰り返すようだけれど久し振りだったので今から楽しみにしていた。誰かの家で”お泊まり会”をする予定も入っていた。
前にも触れたようにクラス替えで二組に別れてしまった訳だが、少し離れてしまった分、皆それぞれが、この居心地の良いせっかく出来上がった関係性を壊したくない想いから、一年の時以上になるべく時間の都合がつく限り集まろうとする意志が強まっているのを”私は”感じていた。希望を含めてだが、私以外の皆も同じ想いだと信じている。
ついでと言ってはなんだが、久し振りに連休の最後あたりに、裕美と二人で絵里のマンションに遊びに行くことにもなっていた。これも当然今から楽しみにしていた。
…っと、話が大きく逸れてしまった、いけない、いけない…。
とまぁ師匠から羽根を伸ばす許可を頂いたので、何も”後ろめたい”気を起こす事なく早速義一に連絡を入れた。すると丁度両親二人が留守するこの日に”数寄屋”に行くというので、私からすれば願ったり叶ったりと付いて行っていいかと聞いた。すると家は大丈夫かの確認はされたが、大丈夫の旨を伝えると快く了承してくれた。それで今に至る。
「先生達も琴音と中々会えないって寂しがっていたぞー?」
と聡がバックミラー越しに私にニヤケつつ言うと、
「そう言われても仕方ないよねぇ?」
と義一が私に微笑みつつ
「だってもう本番まであと少しなんだから」
と言うその口調は、あまり表情を感じさせるものでは無かった。
何も知らない人が聞くと、何て冷たく突き放したように言うんだろうと怒り出す人もいるかも知れない調子だったが、言われた私としてはそれが心地良かった。入試の時のメールもそうだったが、義一は決して私に”頑張れ”といったような言葉は一切投げかけて来なかった。これから予選に挑む今もそれは変わらない。義一が何を思って私にそう接するのか、私なりの解釈を述べても構わないだろうが今は止めておく。私の話を聞いてくれた人の中には、わざわざ説明しなくても察してくれる方もいるだろうし。
…でもまぁ敢えてヒントらしい事を最後に付け加えさせて貰うと、義一が今私に対して「これから琴音ちゃんにとって大事なコンクールが控えているのだから、それに向けて頑張らないと」と”敢えて”言わなかった事に尽きると言っておこう。
「まぁね!」
と私も、義一よりかは感情の起伏を入れつつ返した。
そんな私達のやり取りを聞いていた聡は、尚も少しワザとらしく不満げに見せつつ、
「そりゃあ義一経由ではあるけど、琴音の事情は皆んな知ってる訳なんだがよぉ?」
と、まるで質問でもするみたいに語尾を挙げ気味に言い終えた。それをした事によって何かの効果を狙っている訳でも無さそうだったから、私は義一と顔を見合わせて、クスッと笑うのだった。それに釣られて義一も笑い返してくれた。
因みに今日は数寄屋に久し振りに行くにあたって色々と楽しみにしている事があった。義一が先生と慕う神谷さんに会うのも当然楽しみだったが、それと同時に美保子と百合子とも会える予定だったからだ。
美保子について言えば、丁度この日にアメリカから帰国するとの話を、私は直接本人から聞いた。覚えておられるだろうか?前回帰りのタクシーを待っていた頃、その場にいた美保子と百合子と連絡先を交換したお陰で、間に誰かを介さなくても、しょっちゅうとはいかないまでも途切れる事なく連絡を取り合っていた。頻繁では無かった理由は、何しろ時差もあるし、子供の私が生意気に急に親しげに連絡を寄越して良いものかと、流石の私でも考えたからだった。それはともかく、そういった経緯があったから今回の話も聞けたのだった。
話の流れ的に、百合子の事も軽く触れておこう。百合子とは、日本にいるお陰か、何気に美保子よりも頻繁に連絡を取り合っていた。その中で今年に入ってすぐくらいの時に一度メールで、『近々新しい劇を演るから、良かったら観に来ない?もしその気があったら、義一くん経由でチケットをプレゼントしたいのだけれど』と丁寧なお誘いを貰った。私は是非観に行きたいと本心から思ったが、何せコンクールの準備が煮詰まってきていた時期でもあったし、そして何より言うまでもなく私は未成年だったから、自分の時間を自由に使おうと思っても無理な話だった。その旨を丁寧に説明して渋々断りの返事を送ると、百合子さんはわざわざ電話を掛けてくれて、あのアンニュイな色っぽい口調で笑いつつ逆に謝ってきたのだった。
本人が言うのには、私と話していると、ついつい中学生を相手にしてるのを忘れてしまうとの事だった。当然私は、それにどう返せば良いのか分からなかったので笑って誤魔化したのは言うまでも無い。電話で話したのはそれきりで、やり取りはメール一本だったが、その内容は殆どが演劇についての話に尽きていた。百合子さんは演劇の裏側を色々と教えてくれた。それと、連絡先を交換した時にした約束通りというか、チェーホフなり何なりの今だに語り継がれ世界中で好まれて演られている戯曲についても語り合った。元々演劇部で、それと関係してるのかはイマイチ分からないが、古典にも詳しい絵里とも散々この様な会話はしてきていたが、もう一人、それも本業の人とお喋り出来たのがとても嬉しく楽しかった。
…とまぁそんなこんなで、軽く触れるつもりが長々と話してしまう何時もの調子になってしまったが、細かい話はともかく、それだけ私が二人と会うのを楽しみにしている事を感じて頂けたらそれで満足だ。また話を戻そう。
それからは他愛の無い雑談をしつつ、私は時折窓の外を流れる風景を見ていた。連休初日だからだろうか、前にも通った都心付近の繁華街を眺めていると、そこらじゅうが人で溢れ返っていた。歩道もパンパンだ。前回と同じくらいの時間…つまり夕方の五時半くらいだったが、こんなに混むものなのかと物珍しさに雑踏を眺めていたのだった。
歩道はこの通り混み合っていたが、車道はそうでもなく、予定通りというか前回と同じほどの時間をかけて、例の駐車場に辿り着いた。時刻は六時丁度を指していた。駐車場には見覚えのある車が停めてあった。この時に初めて教えて貰ったが、百合子の車との事だった。
聡はエンジンを掛けたまま私と義一を降ろすと、自分は降りずに窓だけ下ろした。車の中での雑談の中で出た事だったが、この後すぐに戻らなくてはいけないとの事だ。
もちろん車を降りてから、私は笑顔でここまで送ってくれた事についてお礼を言った。聡は何も返さず、人懐っこい笑顔を見せただけだった。そして軽く手を振るとそのまま車を発進させたのだった。
私と義一は聡の車が見えなくなるまで見送った後、すぐ脇の”数寄屋”のドアの前に立った。看板はこの日も中に仕舞われていた。
義一は一瞬私に目配せをしてきてから何も言わずドアを開けた。そして中に入って行ったので私も後に続いた。
中に入ってすぐ目に入ったのは、前回と同様、”表の顔”である喫茶店部分、そのカウンター内で何やら作業をしているマスターと、カウンターの上にトレイを置いて、その上で飲み物の準備をしていたママの姿だった。今日もビシッと服装が決まっていた。
私たちが入ると同時にマスターとママもこちらに気付いた。
「あら、いらっしゃい!」とママは手に持ったグラスをトレイに戻してから、手ぶらでわざわざ玄関近くまで寄って来てくれた。
「義一さんいらっしゃい!…琴音ちゃんも久しぶり!」
ママはまず義一に顔を向けた後、少し後ろに立っていた私にも同様に挨拶をしてくれた。なんと言えば良いのか…素直な感想を言ってしまえば、前回から何だかんだ半年近くが経っていて、そこそこ中身のある会話をした記憶はあったがこっちが覚えているだけで相手は覚えていないだろうと思っていたのが、私の名前までキチンと覚えられていた事に、大げさの様だが感動していた。
「はい、お久し振りです」
「うふふ、元気にしてたー?」
「はい、それはもう…あっ」
ママに合わせる様にして明るく返事をしていた時、視界の隅にマスターの顔が見えた。手は作業台に置いたままだったが、目は私の方にジッと向けてきていた。
「お、お久し振りです」
ママだけにでなくマスターにも挨拶しなくちゃと、少しママの後ろに隠れてしまっていたので若干体を横にずらし、何故か吃りつつ声をかけた。すると、前回と変わらぬ仏頂面だった表情が、少し緩くなったかと思うと、
「いらっしゃい」
バスの様な低いトーン…しかし優しげな柔らかい口調で返してくれた。前回の初対面時の様な、警戒心を隠そうともしない様な様子とは一転していた。マスターなりに気を許してくれたのだろう。それが分かって私も気持ちがほっこりした。
と、その時、
「…もーう、あなたったらー」
とママはその場で一回転したかと思うと、腰に手を当ててさも呆れたといった調子を見せつつ言った。
「そんな無表情でいるから、琴音ちゃんがこの通り緊張しちゃうんじゃなーい」
「え?あ、いや…」
突然何を言い出すんだと思い、慌てて訂正しようと思ったが、ママはその隙を与えないかの様に私に振り返り、「ねぇー?」と悪戯っぽくウィンクを向けてきた。
ねぇー?って言われても…。
と戸惑いつつも、何とか誤解を解こうと思ったが
「うーん…すまん」
とマスターは、私たちに視線を合わせずに、誰に向けたか分からない調子でボソッと言った。義一は一連の流れを黙って見ていたが、私の横でクスクスと笑っていた。
と、マスターの謝罪(?)を聞いたそのすぐ後で、「さてと!」と声を上げたかと思うと、ママは私と義一の背後に素早く回って、それぞれの背中を強めに強引に押してきた。
「ほらほら二人とも!こんな所でいつまでも突っ立ってないで、中に入った、入った!」
「え、あの、ちょっと…」
私と義一は背中を押されるままに、カーテンで仕切られた喫茶店部分の奥まで追いやられた。私は当然突然の事だったので驚いていたが、義一は依然として微笑みつつされるがままでいた。ママにこうされるのも日常茶飯事だという風だった。
しかし、余計な事を言えば、初めてママを見たときはお淑やかで如何にも上品なオーラを身に纏っていたが、今のママは前回の後半程の、お酒が入った時の陽気さ以上にはっちゃけて見えた。…いや、初対面のイメージと違うからといって文句を言いたいのでは無い。こういったサバサバして、妙にボディータッチをしてくる馴れ馴れしさは、絵里で十分に耐性が付いていたし、これまた絵里のお陰と言えるのか、そういった属性の人に対して好印象を抱ける様になっていた。勿論突然来られたら驚き戸惑うわけだが…。
それはさておき、カーテンの前まで押すとママはまた何食わぬ顔で作業に戻って行った。義一も今の出来事について感想を述べる事も無く、何も無かったかのようにカーテンを引いて、中から現れた両開きのドアの片方に手をかけ、そしてゆっくりと開けた。そして今度は私を振り返る事もなくそのまま中に入って行った。私もすぐ後に続いた。

「おっ、来たね?」
中に入るなり声を掛けられた。義一の真後ろにいたので姿はまだ見ていなかったがすぐに分かった。神谷さんだった。
「それに琴音ちゃんも、久し振り」
「はい、お久し振りです」
私は義一の陰に隠れていたのを、一旦横にズレてから改めて神谷さんの方を向いて言った。
「座ったままで、許しておくれよ?」
と神谷さんは表情は苦笑気味に、両膝あたりを摩りながら済まなそうに言った。服装は前回と似たような格好だったが、心なしか元気がなさそうに見えた。覇気が薄くなったとも言ってもいいかも知れない。
この時の私は、当然まだこれで顔を合わせるのが漸く二度目になったばかりだったので、神谷さんのそんな小さな異変が何を意味するかなどそ知る由もなかった。…これはまた別の話だ。
「いえいえ先生、先生は座っていて下さい」
義一はそんな事を微笑みつつ言いながら、前回と同じ座り位置に歩いて行くのだった。
私も合わせて後を付いて行こうとすると、駆け足で近づいてくる者がいた。実は神谷さんを見ていたその視界の脇で、すでに私の方を見つつ、その場で立ち上がっていた姿を見ていた。その人影は暫くの間そのままジッとしていたのだが、今か今かと動き出すのを我慢するかの様にウズウズしているのが、ハタから見て取れるほどだった。
背は私より低いが膨よかな迫力のある体型…もう言うまでも無いだろう。
「琴音ちゃーん、久し振りー!」
「うん…って、わっ!」
美保子が駆け寄って来てそのまま私に抱きついて来た。その勢いで少しよろけてしまった。豊満な胸が私を圧迫してくる。美保子の身体からは、いかにも海外製の物と思われる香水の匂いがした。
「元気にしてたー?」
美保子は笑顔で私の方をバシバシと強めに叩きつつ聞いた。
「う、うん、ぼちぼち…」
と私は、予想以上の熱烈な歓迎に戸惑いつつ、何とか冷静を保って返した。それを聞いた美保子は手を止めると、そのまま腰に当てて満足げに頷きつつ「そっか、そっか!」と言うとソファーに向かい、これまた前回と同じ位置に座るのだった。私も後について行き、以前と同じ義一の隣に座ると、
「…ふふ、驚いたでしょ?」
と柔和な口調で話しかけられた。これも説明するまでも無いだろう。
「う、うん…まぁね」
「ふふ…いきなり抱きつかれたら、誰でも驚くわよね?」
百合子は私に微笑みかけると、隣の美保子に視線を向けつつ言った。
「まぁ美保子さんの事、許してあげてよ。この人、あなたも知ってるだろうけど今日シカゴから帰って来たばかりなのよ。ほら…アメリカと日本ってだいぶ時差があるでしょ?美保子さんは時差ボケになると何故か妙にテンションが高くなって、やることなす事が大袈裟に大胆になってしまうのよ」
「そういうこと!」
美保子はここで百合子から急に言葉を引き継いだ。
「何て言うのかなぁー…そうそう、分かりやすく言えば徹夜明けのテンションってヤツね!…って、これはまだ琴音ちゃんには分かり辛いか」
「…ふふ、こう見えて私は夜更かしをした事が無いからね」
私はようやく普段の調子を取り戻し、約半年ぶりに会うというのに美保子、それに百合子に対しても、何の緊張感もなく話せる様になっていた。効果を狙った訳ではないだろうが、美保子の先制攻撃がこういった点で功を奏していた。
私が悪戯っぽく笑いつつそう言うと、美保子は声をあげて笑い、百合子も上品に口に手を当ててだがクスクスと笑っていた。
「何だか順番が、誰かさんのせいでアベコベになってしまったけど…」百合子さんはそう言いつつ、隣の美保子にジト目を向けた。
「何よー?」と美保子も子供の様にほっぺを膨らませて不満げに見せていた。そんな美保子のリアクションに構う事なく、正面を向いて私に微笑みかけてきながら「久し振りね、琴音ちゃん」と話しかけてきたので、私も微笑みつつ「うん、久し振り」とタメ口で馴れ馴れしく生意気に答えるのだった。その受け答えを聞いた二人は、嫌な顔をする事もなく、同じ様な笑みを見せて何も言わずに大きく頷いて見せたのだった。
前回以来、この二人がそう仕向けてくれたのかも知れないが、すっかり二周り以上の歳の差を忘れさせる様な心持ちを私に持たせてくれていた。先ほども言った様に、実際会うのはこれが二度目だったが、電話なりメールなりはやりとりしていたので、また一から信頼関係を築かなくてはいけない様な手間をしないで済んだのだった。楽しみにしていた事も述べたが、そうは言いつつ実際会った時に、私たちの間に流れる空気が変わっていたら嫌だなと、そうした漠然とした不安はあったのだが、何も変わっていなかった事に安堵したのは言うまでもない。そんな私たち三人のやり取りを見ていたのだろう、神谷さんは挨拶にひと段落がついたと見たのか、テーブルの上に置いてある卓上ベルをチリンと鳴らした。すると十秒もしないうちにドアが開けられ、ママが顔だけひょこっと出して見せた。ママが何かを言いかけたが、「ママさん、そろそろ頼むよ」と神谷さんが声をかけると、「はーい」と間延び気味に返しつつ、ドアの向こうに消えて行った。もう既にドアの向こうで準備をしていたのだろう、これまた間を置く事なくママはカートを押しながら入ってきた。上にはお酒類が乗せられていた。ママはカートを適当な位置に停めると、そこから手際良く、神谷さんには升に入れた日本酒を、美保子と百合子には赤ワイン、そして義一には生ビールと、お酒には当然疎い私だったが、前回も似た様なメニューだった事は覚えていた。でも然程おかしくは思わなかった。それだけ好きなのだろうと、取り立てて言うほどでもない感想を抱いたのだった。
「…はい、琴音ちゃん」
全員にお酒を配り終えた後、ママは私に笑顔であのメニューを手渡してきた。そう、このお店の昼の顔、喫茶店のメニューだった。
「はい、すみません」
私は一応お礼を言いつつメニューを開いた。ソフトドリンクと括られたページを数秒間眺めていたが、「…じゃあ私は、アイスティーを下さい」とメニューを閉じて手渡しつつ言った。
「…えー、またー?」
ママはメニューを受け取りつつ、驚いて見せながら言った。
「前回もアイスティーじゃなかった?良いのよ、他のを頼んでも?」
「あ、いやー…」
と私が答えようとした時、
「いや、琴音ちゃんはこれで良いんだよ」
と義一が口を挟み込んできた。
「この子はね、紅茶が好きなんだ。…というより、お茶全般が好きなんだよ。それも渋めのもね」
「うん、そうなの」
と思わず私もタメ口でママに応えた。こんな事で口を挟まれた事に対して、肩透かしを食らった分イラっとしなかった訳ではなかったが、義一の話した内容は事実だったので嫌味は言わない事にした。
「あら、そうなんだー。…ってごめんね?変な言い方をして。そんな気を回さないで良いよと言いたかったのだけれど、不躾な言い方になっちゃった」
と本気か演技か分かりづらい表情を見せたので、
「んーん、気にしてないよ?」
と私も、無意識的にタメ口が定着しつつ返した。
ママはそんな私の態度の変化に気付いてるのかどうか知らないが、
「うふふ、じゃあ少しの間だけ待っててねー?」
と普段と変わらぬ調子で笑顔で明るく言い放つと、メニューを小脇に抱えて部屋の外に出て行った。
ついでと言っては何だが、ハタから見てるとママの口ぶりも失礼ではないかと思われた人もいると思う。「またー?」と言うのは、何だか『またそれを頼むの?』という主張が見え隠れしているからだ。普段だったら私もそう思わないでも無かったろうが、この時の私はそれよりも、半年前に来ただけの私が注文した飲み物を覚えていた事に感心していたので、何も不快な思いはしなかったのだった。
それに今見た通り大袈裟な言い方だが非礼を詫びてきたので、むしろ小娘の私としては『気にしてないのに』と申し訳ない気持ちが湧いてくるほどだった。
それはさておき、『少しの間』の言葉の通り、ママはトレイにアイスティーを乗せて入ってきた。そして私の目の前のテーブルの上にコースターを敷いてから、その上に置きつつ「じゃあ今夜もゆっくりと楽しんでね?」とウィンクをしながら言った。
「はい、いただきます」と私も笑顔で返すと、ママは笑顔のまま何も言わずにゆったりとした動作で部屋を出て行ったのだった。

「さてと…」
ママが部屋を出て行くと、神谷さんがその場に座ったまま右手に今まで日本酒の入った升の中に入っていたグラスを手に持つと、お酒が滴らないようにオシボリで周りを包んだ。それを見た他の一同も、それぞれ自分のグラスを手に持った。わたしもそれに倣った。
神谷さんはそんな皆の様子を見渡してから、先を続けた。
「今日は最近の中では一番集まりの少ない日になったが…たまには良いだろう」
ここまで言うと、神谷さんは笑顔で私の方をチラッと見た。
「今日は久しぶりの客人が”二人”も見えるんだからね」
「…え?」
と私は思わず声を上げて周りを見渡した。確かに…というかまだここに来るのが二回目だから平均してどれだけの人がここに集まるのか知らなかったが、それでも”久し振り”と言うに相応しいのは私くらいじゃないかという予測くらいは立てられた。しかしこの時はすぐに『あぁ、美保子さんの事か』と自分なりに納得して、実際は黙って美保子の方を見たのだった。そんな私の様子を微笑ましげに、美保子は視線を返してきた。
神谷さんは、声を上げた私に何か話しかけるでもなく、手に持ったグラスを先ほどよりも高く掲げつつ言い放った。
「では…かんぱーい」
「かんぱーい」
神谷さんの音頭の後、それぞれ各々が近い席の人から順にコツンとグラスを当てあった。前回と変わらぬ光景だった。…いや、前回までと違う点を述べるとすれば、言うまでも無いことだがマサさんと勲がいない事だった。それ以外は聡を除いて前回と同じメンツで構成されていた。
…正直なところを言えば、その点だけは一人で勝手にがっかりしていた。勿論何度も言ったように、美保子や百合子と久しぶりに会えるというのはとても嬉しかったのだが、その他にもまだ会ったことのないここに集まる別の人達とも会えるのではないかと期待していたのに、代わり映えのしない面子だったからだ。前回から義一に、この集まりの骨子の一つである雑誌”オーソドックス”の過去の号を借りて読ませて貰っていた。隔月号で出された一つ一つの雑誌は、前にも感想を述べたが見た目的には、言ってはなんだが表紙の材質がとても安っぽくて、もし本屋で見かけても手に取ろうと思わせるような見た目をしていなかった。だが、中身を一度開いて見ると、他の雑誌では読めないような内容の濃い、義一が昔私に言った言葉を借りれば”上質な文章”で埋め尽くされていた。毎号毎号テーマが決まっているらしく、政治なら政治、経済なら経済、文化なら文化、中には天文物理化学、数学などなど、それぞれのジャンルに精通した人々が、これでもかと言わんばかりに、自分の専門分野に限らず、その時の世相に対する独自の考えなども書き切っていたのだった。文化的なことならまだしも、政治や経済などの細かい話にはついていけない部分が多々あったが、それでも世相を両断していく様な切れ味鋭い物の見方が書かれた部分は、とてもスリリングで、読む度に新しい考え方が頭に染み渡っていくのを感じるのだった。
…相変わらず話が長くなったが、話を戻すと、その文章を書いている本人達に会えると漠然と思っていたので、繰り返すようだが一人で少しだけガッカリしたのだった。ただその感情はほんの一時的なもので、乾杯後にはすっかり薄れてしまっていた。
一通り全員と乾杯した後、私は早速誰か特定の人に向けた風でなく、一同を軽く見渡した後、最後に左隣の義一に顔の向きを止めて聞いた。「さっき先生も言われていたけど、今日は前より人が少ないね?」
「うん、そうだねー…」
義一はビールを一口飲んでから、応えた。そして義一も同じ様に一同を見渡して、少しの間神谷さんの方を見てからまた私に視線を戻して続けた。
「確かあの時は…マサさんと、勲さんがいたんだったよね?」
「うん」
「あの二人も今日は来たがっていたんだけれどねぇー。マサさんなんかは、小生意気な小娘と久し振りに会えるというんで、楽しげに言ってたんだけれど」
「うふふ」
苦虫を潰した様な渋い表情を浮かべつつ話しているマサさんの姿が、目に浮かぶ様だった。
「でもねー…」
義一は思い出そうとしているかの様に、少し視線を上に向けつつ言った。
「今マサさんが手掛けている劇の脚本が煮詰まって来ている様でね、何とか今日一日くらい暇が取れる様に頑張ったらしいんだけれど、とうとう無理だってんで欠席してるんだよ」
「そうなんだ」
「うん。ついでと言っては何だけど、勲さんも今新作を書き上げてるってんで、どこかで缶詰状態にあるらしいんだ。だから今日は来れないって連絡があったんだよ」
「そうかー…、そりゃ残念だったね」
私はそう返しつつ、ストローから一口分アイスティーを啜った。
「…ふふ、そのマサさんが今手掛けている脚本というのがね」
と、不意に声を漏らしたのは、向かいに座る百合子だった。
私が視線を向けると、百合子は一呼吸を置く様に一口ワインを飲んでから続けた。
「今度の秋頃に私が出る予定の劇の物なの。イプセン原作の『人形の家』を現代風にアレンジしてね」
「へぇー!イプセンかぁー」
私は思わずテンション高めに声を上げた。自分で言うのは恥ずかしいが、文学少女の血が騒いだのだった。
「…という事は、百合子さんは”ノーラ”役ね?」
「んー…まぁ正直出来上がって見ないことには何とも言えないけれど…うん、打ち合わせ段階で話を聞いた限りでは、私にノーラ役を宛てがいたいと言ってたわ」
そう答える百合子は、少しばかり気恥ずかしそうにしていた。
その様子を見た私は、
「ふーん、そうなんだぁ」
と、自分でも理由がはっきりしなかったが、若干ニヤケ気味に返したのだった。まぁそれでも推測するに、他人事の様に話していた百合子が、実はその役を演る旨を話す間、嬉しさを隠しきれなかったのを見たからなのだろう。因みに、この後会話の中で少しだけ内容に触れるが、もしまだ『人形の家』を読んでなくて気になる方がいる様なら、これを機会に読んでみる事をお勧めする。
「毎回なんだけれど…」
とまた前触れもなく口を開いたのは神谷さんだった。
私が神谷さんの方を向くと、テーブルに置いたグラスを手で軽く弄びつつ言った。
「二月くらいだったかなぁー…?この場にマサさんが来た時、見るからに不機嫌そうな面持ちでいるもんだから、理由を聞いたんだよ」
「あの人が不機嫌そうなのは、毎度の事ですけどねー?」
と美保子は間髪入れずにスパッと口を挟んだ。顔は意地悪な笑みを浮かべていた。
話を遮られた形になってしまっていたが、別段それを不愉快に思ってないらしく、それどころか同意する様に同じ様な笑みを美保子に返しつつ続けた。
「ふふ、まぁね。でもその時は、普段のにもう一回り輪をかけて機嫌が悪かったよ。でね、その理由を聞いたらさ…ゆっくりと吐き捨てるかの様にツラツラと述べ始めたんだ」
その場にいなかったのは私だけだったのか、神谷さんはこちらの方ばかり見つつ言った。
「何でも今回そんな話が来たというんで、まずその興行主とどういう風な劇にするかの大まかな話し合いをして、それでその後、一人になった時に久し振りに『人形の家』を読み返したらしいんだ。マサさん本人も前回に読んだ時とはだいぶ時間が過ぎていた事もあってか、初めて読むかの様な新鮮な心持ちでジックリ味わいつつ読めたらしいんだが、ふとここで大きな問題…というよりも疑問にぶつかったらしいんだ」
「…疑問?」
私は行儀悪くストローを加えつつポロっと声を漏らした。言い訳をさせて貰えれば、最後までジッと黙って聞く気でいたから、自分でもまさか飲み物を飲んでいる時に口を挟むとは思っても見なかったのだ。…いや、言い訳になってないかな?
それはともかく、そんな態度の私に対して顔を一瞬でも曇らせる事なく、変わらない微笑を湛えつつ先を続けた。
「そう。でね、私も今の琴音ちゃんみたいに聞き直したんだ。そしたらね、『世間に広まってる”人形の家”のイメージと大分違うんだよなぁ』って言うんだよ」
「へぇー…イメージねぇー…ってそれって?」
この時は気付かなかったが、私は知らず知らず、義一と会話している様なテンションで神谷に返してしまった。それだけ神谷さんは、相手を萎縮させる様な雰囲気を持っていなかったのだった。前回も再三言ったが、まさに好々爺の典型の様な老人だった。
その好々爺の表情のまま、神谷さんは先を続けた。
「うん。私もまた聞き直したんだが、そしたら面倒臭そうにしつつ言ったんだ。『世間的には”人形の家”は、フェミニズム運動の勃興と共に語られるんだが、どーも世間一般に言われてる”フェミニズム”とは、この作品が直接的に関係してる様には思えないんだよ』ってね。…あっ、琴音ちゃんはフェミニズムって分かるかな?」
「…え?あ、あぁはい、えぇっと…何というか、今までの人間社会は男性が支配してきたという見方をして、その仕組みを組み換えようとする考え方…でしょうか?」
と私が戸惑いつつ答えると、
「…うん、大体その様な意味だね。よく自分の言葉でキチンと言えたね、流石だよ」
「え、あ、いや…」
と私は、前回の時の様に神谷さんが私を褒めてきたので、照れ隠しにホッペを掻きつつ返した。少し辿々しく答えてしまったが、然もありなんだと思う。今まで演劇…イプセンの”人形の家”について会話が始まると思っていたので、不意に”フェミニズムとは?”と話を振られると、誰でも戸惑うのは仕方ないと思う。…いや、私がまだ未熟だからかな?
それは置いといて、神谷さんはそんな私の様子を微笑ましげに見てから、また話の本筋に戻った。
「でまぁその時は…そうそう、確かその時この店に来ていたのはこの中では義一くんだけだったかな?」
「んー…あ、確かにそうです先生」
義一は少しの間考えて見せていたが、ふと勢いよく神谷さんの方を向くと口調も明るくそう返すのだった。それを聞いた私も思わず義一の方を向いた。
…なーんだ、私の思い違いだったのね。
とんだ一人の早合点に密かに苦笑をしてから、何気無く向かいに座る美保子と百合子を見た。ちょうどその時二人と視線が合い、微笑みをくれたので、私も何も言わず微笑み返すのだった。
とそんな微笑みをくれた美保子は、今度は神谷さんに視線を移して話しかけた。
「そうですねぇー…その時の話は後になって聞きましたよ。えぇーっと…あ、そうそう!私が前回こっちに戻ってきた時だから、三月の頭辺りですねぇー。あの時にここで直接マサさんに愚痴を聞かされたんでした」
「んー…あぁ、確かにそうだったね」
神谷さんも美保子のテンションに合わせる様に陽気に返した。
それにはニコッと何も言わずに返した美保子は、今度は隣に座る百合子に話しかけた。
「そういえばあなたも、その場に居なかったのね?でも三月の時再会して、ここで一緒にいた時には既に、事の詳細が分かっていたみたいだけど」
そう話しかけられた百合子は、クスッと上品に笑って、そのままチラッと私に視線を送りつつ答えた。
「…ふふ、だってさっきも彼女に話したけど、今話題に出ている作品は私が出る予定のものなんだもの…。私が知っていてもおかしくないでしょ?それに、私とマサさんとの間柄では尚更ね」
「あはは、それもそうね!」
美保子は自分で疑問を吹っかけた割にはすぐに納得したらしく、上機嫌にワインを飲むのだった。
と、ここまでの一連の話を聞いて、私はまた一つ大きな早合点をしていた事に気付いた。
…あぁそうか。美保子さん、前に私に三月頃日本に帰るって連絡くれたんだったなぁ。そうか…それでこのお店にも来てた訳だ…ん?
とここまで思考を巡らせていると、今度は一つの疑問が湧き上がって来た。
…あれ?じゃあ先生が話していた”久し振りの客人二人”…一人は私だとして、もう一人は誰だろう?
私の中に新たな疑問が湧いていたが、今は取り敢えず置いといて、この話題に集中する事にした。
「でまぁ、まとめると…」
美保子と百合子の会話が落ち着いたと見るや、神谷さんはまた私の方を向きつつ話を続けた。
「マサさんがその時に悩んでいたのは、世間のイメージを引き摺った興行主に合わせて作品を作るべきか、それとも自分で新たに見つけた認識を元にして、今までに無かった作品を模索するべきかって事だったんだ」
「…なるほどー」
と私は大きく何度か頷いて見せてから、間を作る為にアイスティーをまた一口分啜った。
勿論私には演劇の裏側の部分は知らなかったが、神谷さん経由ではあるが、マサさんの悩みも分かる様な気がしていた。というのも、ご存知の通り私は今コンクールに向けて準備をしているのだが、その課題曲、それらは当然今から百五十年以上前に書かれた曲が中心な訳で、それらを演奏する上で今までの長い歴史が積み上げられていて、ある種の演奏法の様なものが確立されているのだ。コンクールともなると、いくつかある審査基準の中に、それらの奏法にマッチしているかも大きな比重を占められているのだ…っと、私は師匠から聞かされていた。ただ、他の人は当然違うのだろうが、勿論好き勝手という訳にはいかなかったが、師匠は私にある程度の自由を与えてくれていたのだと思う。コンクールの心得の様なものは、この様な練習をし始める初期段階で聞かされていたが、それ以降はそれほど口の端に上ることは無いに等しかった。恐らく、私がそもそもコンクールに出る事自体に意義を見出しているのを、流石の師匠は何も言わずとも察して、それに合わせた練習プランを練っていたのだと思う。もし雁字搦めに練習を押し付けられていたら、やめることは無いにしても、相当の割合でピアノ…いや、下手すると音楽含めた芸能自体に嫌気がさしていたかも分からない。
…また話が長くなったが、そんな事もあって神谷さんの今話した内容は、何の戸惑いもなくスッと飲み込めたのだった。
「因みにね?」
と不意に義一が私に話しかけてきた。
「二月のその日に何故美保子さん達がいなかったかって言うとね、その日の議題は予め決まっていて、その時の世情についての話と、いわゆる政治についてという大雑把で大まかな物だったんだ。だから、文化芸能の時には対談に出席して貰っているけど、この時にはお誘いしなかったんだよ」
「ふーん」
「まぁ尤も、芸能に携わっている人でも、当然どんな議題だろうと出席して頂きたいのだけれどもね…いつも参加をしてくれるのは、マサさんくらいだよ。後たまに勲さんとか」
義一はそう言うと、ふと向かいの美保子達に恨めしそうな視線を向けた。すると途端に美保子が初めは軽い笑顔を見せつつ「マサさんはどっちかって言うと、お酒目的な気がするけどね?」と返していたが、不意に私に視線を向けると、苦笑交じりに話しかけてきた。
「んー…、いや、話自体は面白いから、その場に行く事自体は良いんだけれど、意見を求められたりするからさぁー…教養の無い私みたいな芸人では気の利いた事を返せないし、場の雰囲気を壊すだけだと思って遠慮してるだけなのよ。…ねっ、あなたもそうでしょ?」
話しかけられた百合子は、手に持ったワイングラスをテーブルに置いてから、「…そうね、私もそんなところ」と答えると、これまた何とも言えないアンニュイな笑みをこちらに向けていた。
「…こう言って逃げられちゃうんだよー…」
義一は納得いかない調子で、苦笑い気味にビールをグビッと飲むのだった。とここで、私は今日のも含めた義一の態度を見て、一つの事を思いついたので、早速ぶつけて見る事にした。
「…義一さんってさぁ…オーソドックスの編集をしてるの?」
「…へ?」
私の言葉を聞いた義一は、ビールを吹き出さんばかりに驚いて、口からジョッキを離し、私の顔を目を大きく見開いていた。
するとその後には、神谷さんも含む一同が、それぞれの仕方でクスクスと笑うのだった。
私一人が状況を飲み込めずにキョトンとしていると、まず美保子が笑い交じりに話しかけてきた。
「あははは!そうだよねぇー!義一君は確かに編集者って感じがするよ」
「ある意味…」
と今度は神谷さんが、優しい笑みを零しつつ言った。
「ここに集まる面子の中で、一番この雑誌…いや、この集まり自体を大切に想ってくれてるのは、義一君かも知れないねぇ」
「いやー…。あ、いや、琴音ちゃん?」
神谷さんに言われた言葉に対して、照れ臭そうに頭を掻いていたが、義一は私に視線を戻すと苦笑気味に返すのだった。
「僕はこの雑誌を編集してないよ。また別に、編集の人はいるんだ。西川さんが見つけてきた敏腕の方のね」
お忘れの方がいるかも知れないので一応念のために補足しておくと、西川さんはこのお店のオーナー兼雑誌の筆頭スポンサーだ。神谷さんの大学時代の後輩にあたる。
「その人は普段はここに来られないんだけど、雑誌のコーナの一つ、対談コーナーを書き起こす為にここに来るんだ。因みに、二月の事についてより詳しく説明すると、雑誌のコーナー内対談の本番時だったんだけれどね」
「…ふーん、なーんだ、違うんだね」
私は義一からの細かい情報には反応せずにガックシして見せたが、特にそれについての感慨は無かった。ただのポーズだった。それは義一も承知の上だった。
それからまた、今度は私も含めて笑い合ったのだが、ふと今までの話の流れを思い出し、誰に言うでもなくボソッと声を出した。
「…あっ、それで、マサさんの悩みの話はどうなったの?」
それを聞いた神谷さんは、苦笑気味に照れ臭そうにしながら受けた。
「…あぁ、そういえばまだ話の途中だったね。今ちょうどその時の集まりのことが出たから話しやすいんだが…そう、今義一君が言った様に、その時に集っていたのは、この雑誌の中でも”政治”…いや、もっといえば”政治思想”に見識のある人々だったんだ。だから、初めは雑誌の中身について話し合う前の雑談の一つとして、マサさんに話を聞いたんだが、中々にその中身が面白かったもんで、そのまま暫く”人形の家”について、その場にいた全員でお喋りを始めたんだ」
「…へぇー、政治を専門にしている様な方々でも、イプセンとかの古典を読むんですね?」
私は他意のない素直な感想をポロッと漏らした。
すると今まで和かだった神谷さんの顔つきが変わった。
尤も、マイナスの意味ではなく、前回にも見せた好奇心に満ちた笑みだった。
その顔つきのまま神谷さんは私に話しかけてきた。
「んー…琴音ちゃん、君は何でそういった感想を持ったのかな?」
「…え?…え、えぇっと…」
まさかそんな所に食いつかれるとは思わなかったので、少しドギマギしてしまった。だがすぐに答えるのが礼儀だと思ったので、動揺が収まらないままに応えた。
「そうですねぇ…うん、たまにしかテレビは見ないんですけど、テレビでやってる討論番組…って言うんですかね?それをたまに見ると、そこに出てくる出演者達は、大学教授だとか何々の専門家だとか大層な肩書きを名乗って出てくるんですけど、その人達の口から話される言葉というのがそのー…生意気な言い方ですけど、何か自分の専門分野についてペラペラと口が良く回るんですけど、そのー…内容空疎にしか感じなかったんです」
途中から、神谷さんの質問に答えてるつもりがズレていってしまってる事に気付きはしたが、そのままここまで話し切ってしまった。
神谷さん…いや、この場にいた全員がいつの間にかこちらに注目してきていたが、私が話し終えると、神谷さんは先程と変わらぬ表情のまま聞いてきた。
「…ふんふん、それで、そこから何で君が、政治を専門にしている人が古典を読んでいる事について疑問に思ったという話になるのかな?」
神谷さんの眼差しは、パッと見は優しげだったが、一方で射竦められるほどまっすぐな視線だったので、また私は少しタジタジになった。だが理由はそれだけではなく、そろそろ自分の頭の中だけでは限界がきている様に感じていたのだ。要するに、ここでメモ帳を取り出していいものかどうかを考えていたのだった。久しぶりというのもあってか、少しばかり悩んでしまったが、よく考えて見れば、前回も途中からメモを使っていたし、この場にいる全員もそれぞれメモを取っていたので、遠慮をすることはないと気付いたのだった。
私はおもむろに前回も持参したミニバッグから、これまた前回の時に使ったメモ帳を取り出すと、そこに今までの話の流れを書き込んだ。
とここで、前回もしたのだから良いだろうと思ったけど、一応断ってからのほうが良かったかと思い、恐る恐る顔を上げると、神谷さんは私に微笑みかけていた。そして手元には、いつの間にかメモ用紙一枚を置いて、すでにそこに何か書き込んでいた。
ふと周りを見渡すと、他の一同も皆それぞれのメモ帳を取り出し、何かを書き込んだ後らしく、ペンを握ったまま、これまた神谷さんと同じ様にこちらに微笑みを送っていた。隣にいた義一もだった。
と、少し長めにキョロキョロ見渡していたのだろう、神谷さんは私に苦笑気味に、
「続きをお願い出来るかな?特に最後に言った”内容空疎”と感じた訳についても」と促してきた。
その言葉にハッとし、少し照れ臭くなりつつ先を続けた。
「は、はい…。内容空疎と感じた訳は…その時もそうだったし、今でもそうなんですけど…うん、何というか話している言葉の数が絶望的に少なかったんです。…うーん、そう感じたとしか言えないんですけど…」
「…ふーん、なるほどねぇー」
神谷さんはまた何かを紙に書き込んだが、顔を上げると、真っ直ぐな視線を向けてきつつ質問してきた。
「言葉の数が足りない…それは要するに”語彙”が少ないと君が感じたという事だよね?…じゃあ、それが一体どうして内容空疎に繋がるのかな?」
「あっ、それは…」
今思えば、神谷さんが上手いこと疑問を呈して、私が一人では纏めて言葉に出来なかった考えを引き出してくれたのだろう。そう質問されてからはスラスラと言葉を紡いで返せた。何故なら…ここまで我慢強く話を聞いてくれた人ならお気付きだろう。…といっても大分昔の話だからお忘れの人もいるかも知れない。
”語彙”が大事…この様な話は既に、義一と何度も会話した内容だったからだった。義一が言った言葉、『子供の頃に、上質の文章に触れておかなければならない』この上質な文章という言葉から、今の話に合う様に少し発展させて言うと『上質な文章の条件の一つには、過去に生み出されてきた多種多様の”語彙表現”が含まれている事』となる。ここでまた一つ思い出して欲しい。これまで義一と二人で…いや、前回のここでの議論の中でも出た”言葉”の重要性。それらを要約して言うと、『自分が持っていて且つ使いこなしている言葉の数…言い換えるとそれが”語彙”となる訳だが、もし仮にその語彙の数が百しかないとしたら、百通りの考えしか出来ないというのと同じ意味になる』となる。人は物事を考える時、当然言葉を屈指し組み合わせつつ考えている訳だが、その言葉自体が少ないと、考えの幅がそれだけ小さくなってしまうという事なのだ。
と、ここまで述べてきた様な内容をツラツラと私は一人で話し続けていた。そして…
「…だから、勿論専門的な知識は当然私は持っていませんけど、その人の話す言葉自体に何て言うのか…”重さ”の様なものがない時点で、どんなに調子よく喋っているのを聞いても、空疎に感じて聞くに値しないと…思った…んです」
私は最後の方で急に自信が無くなってしまい、周りの顔色を伺いつつ途切れ途切れになってしまった。後、話し終えた直後に、今否定的に話していた人種に、自分がなってしまっていないかと自戒してしまったのだった。
少し熱っぽく話していたせいか、周りの様子が見えていなかったが、話し終えると辺りは静まり返っていた。時折一同がチラチラと、私と神谷さんの顔を見比べてたくらいだった。暫く神谷さんは手元のメモ用紙に目を落としていたが、ふと顔を上げた。その顔は初めの頃は無表情とも言っていい顔つきだったが、徐々に和らげていき、遂には普段の好々爺な笑みを浮かべていた。そして口調も柔らかく私に話しかけた。
「…ふふ、なるほど、君の言い分はよーく分かったよ。その番組を直接見た訳ではないけれど、大凡の見当は付く…うん、君の様な見解は、この場にいる…いや、ここに集うみんなの共通した見方だよ」
「…じゃあ」
「そう、反論の余地どころか、諸手を挙げて同意するよ。…ただ、私に同意されたからといって、何だと言われたら何も言い返せないんだけれどね」
神谷さんはまるで悪戯がバレた時の子供がする様な笑顔を見せつつ言った。私も合わせる様に笑顔を返したが、内心はホッとしていた。
神谷さんはああ言ったが、私としても、この様な考え方が世間一般ではないことくらいよく分かっているつもりだった。だからこそ、何度考えても正しいとしか思われないし、義一と何度も議論を重ねてもますます確信を深める結果になったとしても、その考え方を誰かに話すときは緊張してしまうのだ。分かられないばかりか、変人扱いされてしまう…世間に変人扱いされてしまうと、いくら我を張っていこうとしても、楽に生きるのは不可能に近いということは、様々な例…一番近くで言えば義一を見ればすぐに察しがつく。私も、何度めになるか忘れたが、幼稚園の時に変人扱いされて以来、なるべく周りに合わせて、悪目立ちをしない様に生きてきたつもりだ。だから、義一相手にもそうだったが、いくら意識の上ではこの場では”普通の子”を演じなくても良いことは分かっているつもりでも、幼稚園の頃からの”癖”は中々抜けないものなのだ。だからやはり緊張をしてしまう。
「しっかしまぁ…」
神谷さんは、やれやれと言いたげな呆れ顔で、私と義一を交互に見てから、まず義一に話しかけた。
「高校生の時に初めて義一君に出会った訳だが、その時にも君に対して、色々な物の見方について若年ながら深い見識に舌を巻いたものだったが、それと同時に何だか可哀想な気がしたものだった。…これは、初めから君に直接言っている事だね?…うん、さて…」
と今度は私に視線の向きを変えた。
「そして琴音ちゃん…君だよ。さっき義一君を形容したのと被ってしまうのだが、君はまだ中学生だというのに、既にそこまでの考え方…いや、もっとハッキリと言えばその歳にして、”思想”をしっかりと身に付けている。…これは嫌味で言いたい訳では無いことは、君なら分かってくれると思うが、勿論まだまだその”芽”が出て来た位のものではあるのだがね」
「はぁ…」
と私は何と答えていいのか分からずに、溜息とも受け取られかねない間の抜けた返事をしてしまった。これも前回から感じていた事だったが、気を遣ってくれているのは分かるのだが、中々に直ぐには分かり辛い言い回しのせいで、素直に喜んでいいのかどうしたらいいのか、受け手の私としては図りかねる所なんかは、本当に神谷さんと義一はそっくりだった。口ぶりでは”非公式”らしいが、流石は師弟といったところだろうか。
そんな私の反応には与せずに、神谷さんは言葉を続けた。
「…おほん。少し逸れてしまったが、琴音ちゃん、君はそんな若い歳にして、そこまで身の回りを含む世の中の矛盾を直ぐに嗅ぎつけて、しかも普通の人が流すところを君はその未発達な体を屈指してぶつかって行ってる様に見える…」
「…」私は黙って聞いていた。が、神谷さんがそんな話をし出したのと同時に、私は昔の懐かしい思い出に浸っていた。そう、今彼が話してくれている内容は、小学生の頃、義一が私に何度も話してくれた内容だったからだ。最近は流石に、義一本人が話し飽きたのか、それとも私が無意識に、何度も同じな話をされる故にうんざりな表情をしてしまったのか理由は定かでは無いが、この様な内容を話してくる事はなくなっていた。
なので、久しぶりという事で、ある意味新鮮な心持ちで真剣味を帯びつつ話を聞けた。
もしかしたら、先程に言った表情をしてしまったのか知らないが、急にここで話を止め、神谷さんは剃り上げられた頭を撫でつつ照れ臭そうに言った。
「…っと、いやー…こんな話をしたかった訳では無かったのだが、ついつい偉そうに一方的な人物評をしてしまった…。本人を前にしているのに、琴音ちゃんゴメンね?」
「え?あ、あぁ、いえ…」
と私は急に謝られたので、すかさず気にしてない旨を、少しばかり微笑を交えつつ伝えた。
「むしろ、そう気を遣って頂いて嬉しいです」
「ふふ、ありがとう。…でも、そういう君の今の言葉も、相当私に気を遣ってくれてるね?」
「あ、いや、その」
「あははは!ごめんよ?からかったつもりは…無い事もないけど、ついつい君が”出来過ぎ”な返しをしてくるものだから、こうしてからかい気味な言葉を放ってしまうんだ」
「はぁー…」
今回のコレは、無意識ではなく意識的に漏らした溜息だった。
そんな私の様子を愉快げに見ていた神谷さんだったが、その笑顔のまま続けた。
「まぁ前回にも…いや、言ったかな?ちょっと覚えてないから重なってしまうかも知れないけど、一つだけ言わせて貰えれば、君みたいなそんな一般から見たら過剰に敏感過ぎる様に見える精神が、せめてこの場にいる間は休めると良いなと、私は勝手に願っているという事を、頭の片隅に置いてくれるかな?」
そう言い終えると、神谷さんは目を瞑り、顔のシワが寄り集まってクシャッとした様な笑顔を見せた。その様子があまりにも明け透けで、失礼な言い方かも知れないが、可愛いとさえ思えて、私も思わず自然な微笑みで返した。とここまで静かに私達の話を聞いていた一同も、一緒になって笑い合うのだった。
と、今までの会話も、自分で大事だと思った点は漏らさずメモしてきた訳だったが、ふと、メモに目を落とすと、ある一つの言葉が目に付いた。それと同時に、またもや私の中の”なんでちゃん”が目を覚ますのを感じるのだった。こうなると聞かない。一応抑えようとしたのだが、時すでに遅く、口から声が漏れてしまった。
「…”思想”って」
「…ん?何かな?」
神谷さんは先程よりかは落ち着いた雰囲気の中、升に入った日本酒に口をつけた所だった。
私はこの一瞬のうちで、何とか先を述べるのを抑えて、結果的に黙り込んでしまったが、何かを察したか、神谷さんは柔和な微笑みを見せつつ話しかけてきた。
「…ふふ、さっきも言ったじゃないか?この場では遠慮は要らないと。それに…」
とここで神谷さんは、少し意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「君は稀代の質問魔だそうじゃないか?」
「…へ?」
私は思わず声を上げたが、その後すぐに隣の義一に視線を向けた。そんな事を言いそうなのは、義一か聡のどちらかだったからだ。でもこの時何故か、そう言ったのは聡ではなく義一だと直感が働いた。それは今でもどこから来たものかは分からない。ただそう思ったが故に、すかさず義一を見たのだった。
私から熱い視線を向けられていた当の義一は、私に振り向く事なく、明るい調子で代わりに、
「そうなんですよー。琴音ちゃんは”なんでちゃん”なんですから」
と神谷さんに返すと、その直後に向かいに座る美保子が
「あぁー!前にも確か言ってたね?琴音ちゃんの事を”なんでちゃん”って」
と、少し酔いが回ってきてるのか、語気を少し強めに言い、その後に私に笑顔を向けてきた。私は一人タジタジとなっていた。
…余計なお世話かも知れないが、もしかしたら誤解されている人がいるかも知れないので、念の為言わせて頂く。ここまでの単純なやり取り…もしこれが例えば…うん、お父さん達がとぐろを巻いている”社交”の場において、私を称して今の様な会話がなされたら、憤りと同時に深く傷を負っただろうが、この場合は違う。義一はそれこそ初めて出会った頃からそうだったが、先程も神谷さんが言ってくれた様に、私にとっては多過ぎるほどに”本当の私”に対して最大限に気を遣う姿を見せてくれていた。その上での今の様な冗談めかした会話。当然からかいの気があったのは事実だが、それはそれ、私にとって最重要な事…そのからかいの中に”悪意”もしくは”敵意”の様なものが含まれていなければ、私も素直に冗談を受け止めることが”今では”出来るようになっていた。だから、タジタジとなっていたが、これは単純に、場に充満する冗談を言う雰囲気に、どう合わせればいいのかに戸惑っているだけだった。
それを知ってか知らずか…いや、勿論知っててしてるのだろう、私が苦笑いしてホッペを掻いているのを、皆して微笑ましげとも言える程に笑いが続いたが、ふと神谷さんはまた柔和な顔つきに戻って私に話しかけた。
「…だから琴音ちゃん、遠慮せずに何でも疑問に思ったら、どんなことでも良いから質問をぶつけてみなさい?質問された方としても、改めて色々と分かった気でいた事のなかから、新たな発見が見いだせるかも知れないのだしね?…我々の為にも頼むよ?それに…」
神谷さんはそう言い終えると、一瞬間を開けたかと思うとまた先程にも見せた意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「…前回の君は、初めから全開で私達に質問攻めをしてきていたじゃないか?」
「…ふふ」
痛いところを突かれた私は、自分でも分からないまま何故か笑みを零し、その直後に苦笑に変わった表情を神谷さん…そして一同にも向けた。皆は特にこれといった動作は見せなかったが、何も言わずとも顔に『その通りだ』と出ているのを私は察した。それで益々気まずくはなったのだが、萎縮する様なものでは無かったので、神谷さんの言葉には触れる事なく、言われるままに質問をぶつけてみる事にした。
「えぇっと…し、思想って何ですかね?」
「…ほぉー」
私の言葉を聞いた神谷さんは、感心とも何とも言えない様な表情で声を漏らした。ふと視線を感じたので、目だけを隣に向けると、義一も声は漏らしていなかったが、神谷さんと同じくらいに口を開けていた。
「うーん…思想かぁ…」
神谷さんはそう呟きながら、紙に何かを書き付けていた。私の位置からは見えなかったが、おそらく”思想”とだけ書いたのだと思う。
「…これまた難しい質問が飛んで来たねぇ」
そう漏らす神谷さんの表情は苦笑気味だったが、何故か口調は楽しげだった。
「琴音ちゃん以外にも、今日はもう一人大事な客人が来られるんだけれども…」
「…え?」
ふと神谷さんが独り言の様に言った発言に、私はすぐに引っかかった。ん?もう一人この場に誰か来るのか?しかも、あんなにしみじみと、しかも”大事な”だなんて枕詞を添えてまで…。一体誰の事で、どんな人なんだろう?
と、私としては当然の事のように頭の中をそんな思考が渦を巻いていたが、折角の質問の機会、これを逃すわけにはいかないと、新たに湧いた虫を何とか抑え込み、神谷さんの先を待った。
「…っと、思想についてだったね?んー…あっ」
とここまで見るからにどうまとめて説明しようか思案している様子だったが、神谷さんはこれまたあからさまに何かを思いついたような様子を見せると、表情は前回の時の様に柔らかくはあっても眼光だけは鋭めに私のことをまっすぐ見ながら静かに言った。
「…琴音ちゃん、思想という言葉に触れる前に、少し寄り道というか、考えるヒントとして一つ上げたい言葉があるんだ。…思想と似たような言葉に”哲学”というのがあるね?」
「あ、はい」
私はさっき紙に書いた思想の横に、新たに”哲学”の言葉を書き足しつつ返した。
「思想と哲学…この二つの違いって何だと思う?」
「え?…んー」
私は手をメモ帳の上に置いたまま顔を上げて、一度神谷さんの顔を見てからまた目を落とし考え込んだ。
思想と哲学。この両者について今まで考えない事は無かった。そのきっかけは勿論、私と義一が再開したての頃に、義一が私に何故平日の昼間から土手で”逍遥”しているのかを説明してもらった時からだった。あの時は、アリストテレスを引き合いに出しつつ説明をしてくれた訳だったが、それ以降も度々色々な名前を引き合いに出して、その人の持つ哲学や思想を教え聞かせてくれていた。また、義一が宝箱の中から貸し出してくれた、今に語り継がれる珠玉の文学の数々。それらの中身どれを見ても、物語の中の随所で主人公やその他の登場人物らが突然自分の哲学や思想を語り始めるのだった。勿論物語自体にも引き込まれるのだが、ポツポツと述べられるその言葉の端々に、一々感心したり感動したり、大げさに言えば啓蒙されてる気がするのだった。
ここで一つ、よく言われる事なので、その事について反論したいが為に、勝手にここで述べさせて頂くことを許してもらいたい。…よく世間一般的な言い方の一つで、私みたいなのが物語の登場人物の言葉を引き合いに出して話すと、『小説などの物語というのは、”嘘”が書かれているんだから、本気で真面目に捉えるんじゃない』と、知ったかぶったしたり顔の大人達がよく言うものだが、私の考えは全く違う。勿論、”嘘”いう表現が正しいかどうかは置いといて、小説はフィクションと言う位のものだから中身を丸々信じてしまうのはどうかと思うけど、小説に限らず物語というものは全ての全てが作り話ではない。過去の文豪誰一人として、現実にあった出来事を元ネタに書かなかったのはいなかったのだ。何か一つの出来事にインスピレーションを刺激されて、それを書いてみようという意欲が湧き上がり、出来事自体はそのまま現実として存在する訳だが、それを見た作者自身の考え方…言ってしまえば各々の持っている独自のフィルターを通して見るから、ありのままを書いているつもりでも差異が生じてきて、そこに面白みが生まれるというものなのだ。それをまるで物語を全てが虚構の物と何も考えないまま”極論”を押し付けて来る”一般常識”をそのまま述べる大人達というのは、害悪でしかないとハッキリ言ってしまいたい。己の持てる全てを削りながら描ききっている作品には、読み手に何かしらの新しい考え、もしくは考え方を教えてくれるものなのだ。
…いや、日頃の鬱憤…もしくは義一との会話の中で築かれた文学についての見方が急に溢れ出してきて、止め処なく終わりを見つけることも出来ないままに無駄に話を長くしてしまった。…ただ、全員とは言わないが、ここまで辛抱強く私の話を聞いてくれた人なら、何となくでも私の言わんとする意図が分かって頂けると信じてこれで終える。
話を戻そう。神谷さんの問いかけについて、この時実際に頭を過ぎったのは、実はフレデリック・ショパンの事だった。それは何故かというと、ショパンが友人知人達に書き送っている所謂書簡集の様なものを、例によって師匠の蔵書の中から借りて読んだのだが、その中の一節にこんな言葉があったのだ。それは正確な引用ではないが『音楽家は哲学的であらねばならない』というものだった。勿論これは何気無く書かれた言葉であるし、ショパン自身がこの言葉についてどれほどの思索を重ねていたのかは判断つきかねるが、取り敢えずこの場で言いたかったのは、”音楽の詩人”と称されるショパンが、多かれ少なかれ”哲学”と”音楽”を絡ませて考えていたという事だ。課題曲なのも理由ではあるが、前にも言った様に散々エチュードを今まで好んで弾いてきた身としても、この見解は私にも大きな影響を与えていた。まとめを言うと、興味の発端は義一からだったが、師匠の蔵書を読み込んでいくうちに、尚更自分に”哲学”というものに本格的に触れたいという欲求が高まっていた時期だったという事だ。
また前置きが長くなった。話を戻そう。
私も私なりに、哲学と思想の違いを考えたことがあった訳ではなかったが、少なくとも哲学については興味がある事だけでも示そうと、経緯を話してみる事にした。
「…自信を持って述べられる程には深く思索したことは無かったんですけれど…哲学については、それなりに興味がありました」
この様な前置きを述べた上で、前段で長々と話した様なことを、私なりに頑張って纏めて掻い摘んで説明した。簡単に言えば、義一の件と師匠の件だ。
私の話を神谷さんを始め、一同が真剣な眼差しを向けてきつつ耳を傾けていた。考えてみたら、私の口から率先してこの類の事について話す事は無かったので、義一も真面目な顔をしてこちらを見てきていたが、好奇心を抑えられないのか目が爛々と輝きを放っていた。しかし妙な所で恥ずかしがり屋なので、義一の件の所を話すと、遮りはしなかったが、一人気まずそうに苦笑いを浮かべていたのだった。
私が話し終えると、一同は黙々とメモを取っていたので、辺りはテーブルとペンが当たるカリカリ音だけが、しばらく…およそ十秒間ほど鳴り響いていた。
予想では神谷さんから何か反応があるのかと思っていたが、まず口を開いたのは美保子さんだった。
「…なるほどねぇ、確かにショパンがそんな事をどっかで書いているのを見たことがあったわ…」
美保子はそう言う間、自分のメモに目を落としたままだったが、ふと顔を上げると、義一ばりの好奇心に満ちた眼差しを向けつつ言った。
「今まで何だかんだ…、いや、ふた回り以上年上の私が図図しく聞くのも、もしかしたらあなたに負担かもと思って敢えて聞いてこなかったんだけれども…あなたの師匠って何者なの?」
「え?」
まぁ師匠の話にも触れたから、話の方向がそっちにも及ぶかなくらいには思っていたが、いざこうして直接問われると、少し面を食らってしまった。
…確かに、初めの方でも言ったが、美保子や百合子にはまだ、私の師匠がどんな人で、どんな経歴を持っているかは話していなかった。といっても、何も秘密主義でした訳でもないし、何か後ろめたい事があったからでもない。何と言うか…今美保子が自分の口で言っていたが、そこまで聞かれることが無かったので、私も私で、連絡は取り合っていたといっても、直接会うのはこれで二度目というのがあって、ズケズケと自分を自ら曝け出す様な真似は…それなりに私も恥ずかしかったのか、話せなかったのだ。勿論私に”師”がいる事は話していたが、どの様な教えを請いていたかはまだだったのだ。繰り返しになるが、聞かれたらで良いと思った、ただそれだけだった。
美保子の質問にどこまで答えれば良いのか…いや、時間の許す限りにおいて粗方話しても良いと個人的には思ってはいたが、ただでさえ話が逸れてきているのに益々逸れてしまうんじゃないかと気が気じゃ無かった。結局、師匠の遍歴を話すのは時間が後であったら話すと前置きをおいて、師匠の蔵書には、その様な所謂ロマン派辺りまでの作曲家なり演奏家が書き残した芸論なりエッセイが大量にあって、それをちょくちょく借りている旨を説明するに終わった。その間は美保子だけではなく、百合子も神谷さんも興味津々に聞いていた。ただ義一だけは、この件に関しては何度か話したことがあったので、なんとか必死に纏めて話そうとしている私の横顔を、黙って微笑みつつ見ているだけだった。
取り敢えずのところ美保子が納得してみせると、今度は神谷さんが表情柔らかく話しかけてきた。
「なるほどねぇ…いや、この場では美保子さんは流石と言うべきか知っていたみたいだけれど、私は今初めて聞いて、深く感銘を受けたよ。…また嫌な顔をされるかも知れないけれど、それを今話した琴音ちゃん、君に対してもね?…ふふ。さて、それは置いといてだ、君は今話してくれたけど、敬愛しているショパンが哲学について触れたということで、音楽という芸能…ある種、言葉を使わない芸能にいるという立ち位置から考えれば、そんなに関係ないと思っていた”哲学”について関心を”深めた”のだね?」
神谷さんが最後の点々で囲った部分を強調して話してくれたので、私もその意図を容易に察して、すぐさま返答した。
「はい、その通りです。今先生の言われた通り、深めたのはそうですが…発端というかキッカケになったのは、ここにいる義一さんです」
私は話の途中から、神谷さんから義一へと顔の向きを変えつつ喋っていた。話題に取り上げられた当人は、何も言わず照れ臭そうに頭を掻いていた。神谷さんも私から視線を義一に変えて、そのまま話しかけた。
「なるほどー…そうそう、義一君からだと話していたね?義一君…今聞いたら、琴音ちゃんがまだ小学校五年生だったって話じゃないか?そんな年端もいかない…いや、今の年齢でもこの様な話についてこれるだけで凄いんだけれど、小学生の女の子に対して”アリストテレス”だの”逍遥”だのは無いんじゃないかね?」
字面にすると下手すれば叱っている様に見えるかも知れないが、実際は神谷さんの表情や口調は、苦笑いが三割、残り七割は心から愉快だといった調子だった。神谷さんがそう言い終えると、その他の美保子や百合子は顔を見合わせながら「そうそう!」だとか「義一君らしい!」と黄色い声を上げながら言い合っていた。私も場の雰囲気に流されたのか、自然と愉快になって「そうですよねー?」と乗っかったのだった。まぁ私の場合は、先ほどの”なんでちゃん”の事をイジられた”お返し”の意味合いもあったのは事実だった。
そんな中、義一は相変わらず苦笑いで照れ臭そうに頭を掻いているだけだったが、笑いが落ち着いてくると、口調も苦笑まじりにチラチラとたまに私に視線だけ流してきながら神谷さんに言った。
「いやー、今この場には僕の味方がいない様で、琴音ちゃんまで乗っかっちゃうから、言い訳しても言い訳にすら捉えてくれなさそうですがね?うーん…まぁちょっと卑怯に聞こえるかも知れませんが”事実”だけ言うと、琴音ちゃんにせがまれたんですよ…。っと、ここで慌てて付け加えれば、何も彼女を敵役にしようと企ててる訳ではなくて…うーん、まぁ一口に言うとですね、琴音ちゃんと話をしていて、ふと色々と質問をしてくれた時に、ついつい真剣味を帯びた目付きで見つめてくるものだから、聞かれたこっちも、相手の年齢の事を忘れて、大の大人だって面倒臭がって逃げ出す様な話で返してしまったんですよー…。先生だって…、それに美保子さん、百合子さんだってそうじゃありませんか?」
義一は途中までは何とか今の劣勢を乗り切ろうと、あれやこれやと辿々しく言葉を紡いでいっていたが、途中から何かに気づいたのか、あからさまに元気になって、最後には神谷さんと女性陣二人に向かって、強めに言い放って見せたのだった。…こう言うと語弊があったかも知れないが、勿論冗談交じりの臭目の演技だった。
「…ふふ、まぁそうだなぁー…。今回もそうだが、前回も大分深く込み入った本質的な議論をしてしまった」
そう答える神谷さんも、先程までの義一と同じように照れ臭そうに頭を撫でていた。
「ふふ、そう言われたら私もそうだわ」
「…私も」
美保子と百合子もそう口から漏らすと、こちらは男性陣と違って、そんな自分の事が自分で愉快だと言いたげに笑顔を見せていた。
しかしここでまた困ったのは私だった。また目の前で私の事を話されてしまったので、どういう態度、どういう表情でいれば良いのか皆目分からなかった。自分では当然見れていなかったが、おそらく何とも形容のしようの無い表情を浮かべていた事だろう。
場の雰囲気も、何とも言えない微妙としか言いようのない空気が流れたが、不意にその空気を入れ替えるように、神谷さんが口火を切った。「まぁこの話は、この場にいる全員が”有罪”ということにして…決して開き直る訳ではないが、こうして琴音ちゃん自身が望んで質問を投げかけてくれたのだから、話を戻そうと思う。…良いかな琴音ちゃん?」
「はい、是非!」
私は待ってましたと、意気揚々とペンを開いたメモ帳のページの上に置いた。準備は万端だ。
そんな私の様子を見て、一瞬愉快げに笑ったかと思うと、例の柔和な表情を浮かべつつ、静かで鋭い視線を向けてきながら話し始めた。
「さて…。まず確認なのだが、義一君、今までずっと彼女は君の書庫から本を借りて読んでいるって話だったが、話ぶりから察するに、まだ哲学やら思想の類の本は貸してないようだね?」
「はい。…でも、ほんの数年で古典文学の”王道”と見られる所は網羅し始めたので、今は”歴史”を中心に貸して上げています」
「ほっほぉー…文学から今は歴史ねぇ…」
神谷さんは、そんな事を呟くと、一度私と義一の顔を見比べるように交互に見てから、また義一に話しかけた。
「…それは、谷さんの説だね?」
「はい、その通りです」
「…谷さんって?」
新たな名前が出てきたので、慌てて私は横槍を入れた。何となくそのまま流れてしまいそうでもあったからだ。
すると義一は私の方に振り返ると、柔らかな笑みを浮かべつつ答えた。
「ほら琴音ちゃん、覚えていないかなぁ…君に何故まず古典文学を貸して、そして今は歴史の本を中心に読んでもらっている理由」
「勿論覚えているよ」
私は若干ムキになってすかさず返した。義一には悪気など露ほどもなかったのだろうが、こう躍起になって応えたのは…まぁ単純に私自身がまだまだ精神的に未熟だったのだろう。
「アレでしょ?確か数学者だって人が、これに括る事は無いんだけれど、一応の目安として、まず文学を修めて、次に歴史、その次に哲学や思想を中心に修めた方が良いって言ってたって」
私はまだ興奮が冷めやらないままに、鼻息荒くそう応えた。
義一はそんな私の様子を、これまた微笑ましげに見つつ聞いていたが、その表情のまま声も明るく返した。
「そうそう!流石の琴音ちゃん。ちゃーんと覚えていたんだね」
「…もーう、良いからそれは。…あっ、って事はその数学者っていうのは…」
「そう!今話に出た谷さんの事なんだ」
義一はお茶目”ぶって”ウィンクをしてきながら言った。
「ふーん」と私もつい素っ気なく返したが、ふと周りを見て我に帰った。とここで、もっと詳しくその”谷さん”の詳細を聞こうと思ったが、義一が途中から宝箱での普段の調子を見せるものだから、ついつい私も忘れて普段の気の抜けた感じになっているのに気づいた。神谷さん含む一同は、これまた微笑ましげな表情で私と義一の事を見てきていた。私は少し気恥ずかしくなったが、義一は違うらしく平然としていた。こういったところで、私と義一の感性が違っていた。また新たな不思議要素が追加されて、また”なんでちゃん”が目を覚ますのを感じたが、流石にここでまた疑問を発すると、もしかしたら今夜中に話が終わらなくなってしまうのでは無いかと、大袈裟ではなく危惧したので、何とか踏みとどまる事にした。
それはともかく、黙って私たち二人の会話を聞いていた神谷さんだったが、終わったと見たのか、また静かに口を開いた。「…なるほど、義一君はその真意まで話した上で貸しているんだね?」
「…あっ、いや、それはまだです!」
私は慌ててまた口を挟んだ。こうして一々話を止めるのは無作法なのは承知しているが、それでは話がズレてしまうと思ったから、失礼だと思っても訂正しない訳にはいかなかったのだ。
「ん?何がだい?」
「はい、私はまだ、何故文学の次に触れておくべきものが歴史なのか、その訳をまだ教えてもらってません」
「…え?…あぁ、そうなんだねぇ」
神谷さんはそう言いながら、視線だけを義一に向けた。
義一は一瞬面を食らったような様子を見せていたが、すぐに神谷さんに説明した。
「…ふふ、流石よく覚えているなぁ琴音ちゃんは。そうです、何だかんだ訳を説明するのが遅れてしまったんです。別に変に出し惜しんで先送りにしていた訳では無かったんですが…」
「ふーん、そうなのかい?えぇっと…」
とここで神谷さんは何故か時間を確認しだした。羽織っていたジャケットの裏ポケットから懐中時計を取り出し、文字盤を見ながら「まだ大丈夫かな…?」と呟いたので、私もつられるように腕時計で時刻をか確認した。七時になるところだった。
神谷さんは顔を上げると義一に穏やかな調子で話しかけた。
「…ではまぁ、まだ時間に余裕がある事だし、義一君、折角だから今説明して上げたら?私から話してもいいけど、それまでの経緯を詳しく知っている訳では無いから、ここは君が説明するのが良いと思うんだ」
「そ、そうですか…?いや、まぁ僕はそれで構わないのですが…」
と義一は言葉をここで止めると、向かいに座る美保子と百合子の方を向いた。すると二人とも、別に構わないと笑顔で了承した。
それを見た義一は少し躊躇い気味に私の顔を直視して、そして微笑みとも苦笑とも受け取れる、何とも言えない笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「んー…少しだけ言い訳させて貰うと、さっき先生にも言ったけど出し惜しみをしていた訳では無かったんだ。ただ…”色々”な出来事が起きたおかげで、タイミングがなかっただけなんだよ」
「ふふ、そんなの一々言われなくても分かっているよ」
義一の表情が少しだけ陰りを見せつつあったので、私は明るく笑いつつそう返した。義一は本当にこれまで見てきた人なら分かると思うが、大変に不器用なくせに、こうして相手に気を遣う事を忘れない人だから、何だか分かり辛い言葉や気の回し方をしてしまうのだった。他の人はどう感じるか知らないが、私はそんな義一の、昔に二人で議論しあった”本当の意味での優しさ”が大好きだった。勿論こんな、裕美のセリフじゃ無いけど『恥ずい』セリフは本人には言ってあげないけど。
「そうかい?じゃあ…」
義一は私の反応を見て安心したのか、こういう時に良く見せる、落ち着いた軽く微笑を湛えた様な表情をこちらに向けて来つつ、話し始めた。
「どこから話そうかなぁ…。あっ、琴音ちゃん、前に君と話している時に、『道徳とは何か?』について議論をしたことを覚えているかな?」
「もちろん!」
今度はムキにならずに自然体で返した。当然覚えていた。
「道徳とは何かを考えるに当たって、ヒントとして英語のmoralの語源を辿ることから始めたのよね…」
私はここで、以前…具体的に言えば去年の夏休みに義一と議論し、お互いに一応納得のいった答えに至るまでの道筋を掻い摘んで話した。その間私は隣に座る義一の顔をジッと見つめながら話していたので、視界の隅に見えた、僅かに微笑を浮かべている神谷さんの顔の他は、この時点では見えなかった。
と、私が話し終えると、そのすぐ後で向かいに座る美保子がため息交じりに口を開けた。
「…琴音ちゃん、よくもまぁその隣に座る”変人君”の話す内容を、そこまで自分の物にして、それを今みたいに順序立てて話せるねぇ…。しかもよりによって道徳についてだなんて」
「あ、いや…」
「ほらほら美保子さん?」
私がまた言い淀んでいると、今回は義一が横から助けに入ってきた。
「彼女は善いことをした事について褒められるのを、一番恥ずかしいと思う、本当の意味で謙虚な人間なんだから、あまり面と向かって褒めてあげないでよ」
と義一は呆れ顔でそう言ったが、すると美保子も意地悪く笑いつつ
「それはあなたも琴音ちゃんにしてる事でしょー?」
と返すもんだから、私もすかさず間に割り込み
「二人ともだから!」
と慌てて突っ込んだ。その後はほんの一瞬間が空いたが、すぐにその場の一同…私も入れてお互いに顔を見合わせたりしながら笑い合うのだった。
「はぁー…さてと」
笑いがひと段落つくと、義一はまたさっきの表情に戻り私に話しかけた。
「そう、今君が話してくれた様に、僕らの間では道徳についてその様な解釈が出来ると了解したね?…ちなみに一応念のために言っておくと、この場に集まる人らは皆同じ認識を持っているよ。ただそれを具体的にどう捉えるかで、それぞれに若干見方が違うだけでね?…君が前回ここに来た時に問題提起の一つとして話してくれた、本当の意味での”人それぞれ”という事だね」
「うん」
私は前回ここで、勲さん、そして神谷さんと”センス”について議論しあったのを思い出していた。
「…さて、ここで改めて歴史を学ばなければならない理由を話す前に、また一つ確認しておきたい事があるんだ。…いいかい?」
「うん」
私はメモに一度目を落としてから返した。準備は万端だ。
「そう…。では話すとね、これはキチンと口にして言ったことが無かったように思うけど、でも君には一々言わなくても大丈夫と思って省いていたんだ。…それはね、何故小学生の頃から”国語”…もっと言えば”文字”に親しんでおかなければならないのかって事なんだ」
「…ん?」
私は一応今義一が話した内容の中で重要だと思われる、点々で囲った部分だけをメモに書いたが、すぐに突っ込んだ。
「…いや、その理由はもう議論しあったし、お互いに了解してるのに、何でまた繰り返すの?」
「…ふふ」
私が若干ジト目気味の視線を送りつつ聞いたのに対し、義一は何も変える事なく答えた。
「いやいや、初めに断ったでしょ?君には一々言わなくても大丈夫と思ったって。…あぁ、まずこう言っとかなきゃいけなかったねぇ…”一般論”って。そう、今から僕が言う事は、あくまで一般論として聞いてくれるかな?」
「う、うん」
後出しジャンケンされた気分は拭えなかったが、今はそんな下らない事で時間を浪費してる場合じゃ無かった。先を促した。
義一は私の心境を察したか、少し照れ臭そうにしてから、すぐにまた表情に冷静さを取り戻すと、私の要望通り先を続けた。
「さて…。僕が君に文学…特に古典を読むように薦めた理由は、よく理解してくれてると思う。…でもこれも、本来はいきなり小学生に薦めるべき事では無かった…というのに、後で気付いたんだ」
「え?どういうこと?」
私は一瞬にして顔を曇らせたのは言うまでもない。では今までの話は何だったのか?
そんな私の表情を見て、想定内だと言わんばかりに義一は表情を変えずに落ち着いた様子で続けた。
「ふふ、さっきから言ってるでしょ?あくまで一般論だって。…また不用意に褒めてしまうことになるかも知れないけど、当時も言ったかなぁ…今の君も相当他の同年代の子達とは比べ物にならない程に成熟しているけど、当時…小学生の頃から君は、子供としては相当精神が成育していたんだ。…覚えているかな?君の繰り出す言葉一つ一つが、実によく練られていて、慎重に選び取って話している…その言葉遣いが面白いって」
確かに言われた覚えはあった。…それも一度ならずも。義一の他からも、例えば絵里、裕美、師匠からも。みんな同じ様に、飽きれて馬鹿にするのではなく、面白んでくれた。
「その言葉遣いを褒めた時にも言ったと思うけど、その源泉には、昔から…僕とここまで親しくなる以前から、しっかりと古典を読んでいたことにあって、しかもそれを自分の血肉にしていたからこその芸当だろうってね」
「血肉…」
私は思わず自分の体を見渡した。同じ様な事を言われたのを覚えてはいたが、改めて言われると、それがどういう意味を含んでいるのか考えると、すぐには飲み込めないことに気づいた。
義一はそんな私の様子を優しく見守る様な視線を向けつつ、先を続けた。
「うん。…ここで人の名前を急に出して悪いけど、十九世紀を代表する歴史家にして保守思想家と称されるヨハン・ホイジンガが言った言葉を参照させて貰うね。…それは、こんなだった。『今の時代…』これは勿論一九世紀当時の事だね?『過去の経験を絶する”一般国民教育”という名の、ありとあらゆる知識が大衆にもたらされている。だが大衆は、その知識を生活のなかにとりこむことが出来ずに戸惑う。消化しきれぬ知識は判断を阻害し、知恵のゆくてをはばむ。一般国民教育(オンデルワイス)、すなわち下等の賢さ(オンデルワイス)。これは忌むべき言葉のあそびではある。だが、不幸にも、この意味するところは深い』ってね」
「オンデルワイス…」
私は今の義一の話した内容を、聞きつつその場で要約し、それを紙に書き込んでいった。そしてキーワードである”オンデルワイス”という聞き覚えのない単語を恐る恐る呟いてみた。だからといって、別に急に親しみを覚える事は現時点では無かったが。それよりも今は、何故義一がこの話を私にしてくれたのかを考えた。しかし、当たり前といえば当たり前だが、すぐにはその意図を汲み取ることは叶わなかった。だが、義一は普段から、本人も認めている様に、少しばかり前フリなどが長くなってしまう兆候があったが、その話す内容どれ一つ取っても、無駄なものなど無いばかりか、結果的にキチンと何故その話をしたのかを納得させてくれていた。だから、今回の話も、関係がなさそうに見えて関係があるだろう事は十分推察できた。だが結局…
「んー…今の話はとても面白かったし、参考にもなって、十分納得のいく事だったけど、これが今までの話とどう関係してくるわけ?」
と素直に疑問をぶつける事にした。
すると義一は、普段”宝箱”で私に見せる、好奇心に満ち溢れた子供の様な笑みを一瞬浮かべてからゆっくりと話始めた。
「ふふ、それはねぇ…今名前を出したホイジンガ…彼が指摘したのは、大衆たちは以前と比べたら確かに学校で教育を受けてるから、覚えた知識の数は多くなったけれど、要は覚えただけで、それを自分の人生に全く生かせていけてないって事なんだ。つまり…頭でっかちになっただけで、血肉には出来てないって事なんだよ。で、ここからが本題…何故彼ら…いや当然今の時代の大衆にも言える事なんだけど、何故に折角覚えたはずの知識を生かせないのか…?それは…」
「…あっ」
とここまで黙って聞いていたのだが、ふと義一の説明を聞いて、一つの考えが浮かんだ。それで思わず声を上げたのだった。
そんな私の様子を見て、義一は話を中断し、私の言葉を待った。いつもこうして義一は、私に考えを述べる隙を作ってくれる。
私はゆっくりと、思いついた事を話した。
「それって…要はテストで良い点取るためには必死に覚えるけれど、テストが終わってしまえば、その時に覚えたものを忘れてしまうっていうのと…同じ事なのかな?」
「…ふふ、そう、その通り!」
義一は大袈裟に喜びを見せつつ返してきた。ふと、義一の肩越しにチラッと見えた神谷さんもが、和かにこちらに笑みを向けてきてるのが見えた。
「あぁ、確かにねぇー」
言葉を発したのは美保子だ。
美保子は、ワインの入ったグラスを揺らし、中の液体を攪拌させつつ言った。
「確かにそんな感じだったわぁ。…テストが終わっちゃうと、もう忘れちゃってるの」
「…美保子さん、それって何年前のこと?」
静かな調子だが毒っ気を多く含ませて言ったのは百合子だ。顔は雰囲気に似合わず多少意地悪な笑みを浮かべていた。初めて見た表情だった。すると美保子は薄目で百合子を見て、「あなただって、私と変わらない歳でしょー?」と言いながら肩を軽くぶつけていた。その直後には二人で笑い合っていた。
そんな二人がじゃれ合っているのを見ていると、義一がコホンっと一度咳払いを小さくしてから、私に和やかな表情を向けつつ続けた。
「…とまぁ、とりあえず、今君が具体例を示してくれたけど、次はその理由を考えて見なければならない。…それはね、こうだと僕は思うんだよ。今君と美保子さんが言った様に、そもそも試験が終わるなり忘れてしまうの自体どうかと思うけど…」
「いやぁ…」
美保子は照れ笑いを浮かべていた。私もそれを見てクスッとしたが、義一は一瞥をくれただけで調子を変えずに続けた。
「まぁそれ自体にフォーカスを当てて考えると、マニュアル通りにしか教える事が出来ない教師だとか、それ用にしか作られていない教科書…それらの複合的な原因によって生み出される、試験でいい点を取ることしか考えていない”打算的”な生徒…っていう具合に、どんどん話が逸れていってしまうから、この辺で止めとくけど…じゃあもしそれらの問題が全部一掃されたら、知識や知恵が”血肉”になる様になるかというと…必ずしもそうは思えないんだ。そこで出てくるのが…文字に親しむ力…読解力なんだ」
「…あぁー」
ここに来るのかぁー…っと、私はそこまでは言わずに、声を漏らしただけに留めた。また話を中断させてしまうのは意図するところではなかったからだ。その意を汲み取ってか、少し陽気な顔を見せつつ先を続けた。
「…ふふ、何故かって言うとね?もし皆が漸く今までの”教育法”に誤りがあったと認めて、いざ過去から続けられてきた”正攻法”に取り組もうとしても、読解力…いや、もっと単純に言って、文字がズラッと並んでいる文章を見て、嫌気が差さず、我慢強く辛抱して、何百ページもある本を、一編ではないにしても、読破できるほどの基礎体力がなくちゃ、とてもじゃないけど、本当の意味での”学ぶ”ことが出来ないんだ」
本当の…
これが義一が撒いた餌だというのは、仮に付き合いが浅くても分かりそうなものだったが、こういう時はいつも”敢えてわざと”その餌に食らいつくのが習慣になっていた。
「学ぶ…ねぇ…。”本当の”だなんて枕を一々ワザとらしく置いたって意図は、説明してくれるんでしょ?」
と私は少し挑戦的な視線を向けて、生意気な相手を試す様なニヤケ面を見せた。ここまでが”普段通り””いつものやつ”だった。
待ってましたとばかりにニコッと満面に笑みを浮かべると、また一段明るく調子を上げて言った。
「うん、その通り。…って、この”学ぶ”については君と深く議論をしてみたかった事なんだけれど…まぁ、遅かれ早かれ自分でも君なら、今から僕が話す程度のことは到達していただろうから、このまま言おうかな?…コホン、それはねぇ…またいつもの様に語源を辿って見るとヒントが見つかるんだ。…はは、そんな目をしてこなくても、ちゃんと話すから待ってて?…この”学ぶ”の語源はねぇ…”まねぶ”から来てるんだよ」
「マネブ?」
私は一応メモにそう書いてから、また先程の様に口に出してみた。確かに”まなぶ”と似ているといえば似ているが、それが何を意味してるのかまではまだ分からなかった。
「…ん?あはは!そうそう…まねぶ」
義一はふと私のメモを見ると、私の手から何も言わずペンを取り、そして”マネブ”と書いた字の下に”真似ぶ”と書き入れて、ペンを私に返した。「…あぁー」と私はすぐにその字を見て一人納得しかけていたが、そんな私の様子を見つつ、それには触れずに話を続けた。
「そう、もう君はどこかで気づいたかも知れないけど、改めてこれに僕の意見を付け加えつつ説明すればこうなんだ。”学ぶ”とは、過去に生きた先人達の残した技芸を真似ることにある…ってね」
「…そっか、真似るという事は、既にその対象が存在していなくてはならない…だって、今無いものを真似ようったって、そんなの不可能だもん。…だから必然的に、学ぶという事は、過去の叡智を真似るという事になるんだね」
「そっ!ご名答ー」
義一はそう声をかけてきながら、私の背中を優しく何度か撫でた。この時はまた、さっきみたいに”宝箱”にいる時と変わらず振舞っていたので、ついつい今が”数寄屋”にいるって事を忘れていた。だから、それなりに心を許している人たちの前とはいえ、普段だったらすぐに恥ずかしがっちゃう所だったが、この時はそのまま義一にされるがままになっていた。
義一は私の背中から手を離すと、また調子を戻してゆっくりと話し始めた。
「だから少し話を戻すと、”正攻法”で学ぼうとしたら必然的に過去の文献なり古典文学なりを読まざるを得ないわけだけど、そもそも字がいっぱい並んでいるのを見ただけでゲンナリしちゃう様な子供が、我慢して一冊一冊の本を読めると思うかい?」
「無理ね」
私は即答した。そんな間髪入れない返答が愉快だと言いたげに、また少し表情を明るくしつつ続けた。
「…ふふ、まぁだから人文社会科学系を学ぶにしても、天文物理化学生物系を学ぶにしても、まず先人達の研究成果なり何なりを学ぶところから始まるわけで、それをキチンと成る可く誤読しない様にする為には、まず読解力を磨かなくてはならない…全てはそこから始まると思うんだよね」
「…うん、それは分かった…っていうかまた一つ何で”国語”が大事かの理由が付け加えられて、とても満足なんだけど…」
と私は、今までの話をメモしたページを見つつ言った。
「それは良いんだけど…それで次に”歴史”が来るっていうのはどういう事なの?…いや、今までの話を聞いてて、読解力を身に付けてなければ歴史書だろうと何だろうと読み込めないと言いたいだろう事は、何となくでは分かるんだけど、それをもっと分かる様に説明して欲しいな」
「んー…」
私がそう言うと、義一はここにきて、この先のことをどう説明したら良いのか迷っている素振りを見せた。
しかし、自分で言うのも何だが私が視線を逸らさず真っ直ぐに見据えていたせいか、「ふぅ…」っと一度短くため息をついて見せてから観念した様に話し始めた。
「んー…いや勿論、これまで話してきたこと…僕の家の中で二人で話し合ってきたこと、そこで僕が発言した事は一切の誤魔化しもない本心を話してきたつもりだけど…やはり今だに、君にこれ以上ある種の”理想”を押し付けるのに引け目を感じてしまってるんだ」
「理想…」
「そう、理想…。今話してきた事だって、まず今の教育システムが瓦解してくれない事にはどうにもならない訳だけど、瓦解させるにはどうすれば良いのか、見当もつかないんだ…ここ数寄屋で何度も繰り返し繰り返し議論し話し合っているのにも関わらずね?」
「…」
義一の発言を受けて、私は思わずその向こうの神谷さんの顔を見た。神谷さんは笑顔だったが、少し寂しそうに気落ちしている様にも見えた。
「だからって、諦めてる訳ではないんだよ?折角さっきホイジンガの事に触れたから、彼の印象的な言葉…彼の発言の中で一番好きな言葉を引用させて貰うとね、この様なフレーズだったんだ。『私がこの世に対してどう見ているのかを書いたり話したりすると、絶望を振りまくな、そんな気が重くなる事ばかりを言うんじゃないとよく言われる。確かに彼らの言う通り、私が話す内容というのは絶望に満ちているのかもしれない、だが私は、私自身に対してとても”楽観主義者”だと考えている。何故なら…こんなに今の世に絶望しているのにも関わらず、私は死ぬ事なくこうしてペンを取り、書物を書き表したり、人前で話したりしているからだ』とね。ここで少し僕なりに補足すると、何故死なずにいて、絶望してても書いたり話したりしているのが”楽観的だ”と彼が称したのか…それは、絶望しつつも、もしかしたらこうして発言をし続けていれば、そのうち心のある少数の人々の耳に届いて、そこから何かしら救いが生まれるのではないかと言いたかったんじゃないかって思うんだ」
「…なるほど、確かに良い言葉ね」
私は今義一が引用したホイジンガの言葉をメモに書き加え、そして顔を上げてまた義一の顔を真っ直ぐ見つめて感慨深げに言った。少し微笑みを混ぜたと思う。義一は満足そうに笑うと、また続きを話した。
「彼は『朝の陰の中に』の前文に書いているんだけど、このフレーズが僕は大好きでねぇー…何度励まされたか知れないよ。僕らのやろうとしている事も、決して無駄ではないんだとね」
「…?僕らのやろうとしている事?」
と私が思わずその点について話を聞こうと試みたその時、
「義一君…」
と静かな声が投げかけられた。声の主は神谷さんだった。
その聞いたことの無い声の調子に、思わずまだ神谷さんの顔を見たが、その時にはいつもの好々爺な笑みを浮かべていた。
義一も神谷さんの顔に振り向いた。それと同時に神谷さんが呆れ笑いを交えつつ義一に言った。
「その話もいいけど…またどんどん話が逸れていってしまってるよ?何故歴史が大事かを説明してあげるのではなかったかな?」
「あっ、そうでした」
義一はワザとらしく頭を掻いて見せた。これは、本当に照れた時の動作でない事は、私には分かった。
それはともかく、”師”にそう突っ込まれた義一は少しバツが悪そうな表情を浮かべつつ、また私の方に向き直り話を続けた。
「ふふ、ゴメンね琴音ちゃん。また話が大きく逸れちゃった…。さて、話を戻すと、読解力を身に付けた後で何故次に歴史が大事になってくるのか…君はさっき”何となくはわかる”ってポロッと零していたね?…ふふ、僕はこう見えて人を見る目だけは自信があるんだ。何が言いたいかっていうと、君のその直感に近い感覚は間違っていないだろうって推測する事が出来るって事さ。君はこの様な思考回路を有していて、この様に答えを導き出すだろうってね?…はは、そんな呆れた顔をしないでよ?すぐに本題に入るから。…うん、この様な話をした時に、僕が言った言葉を繰り返させて貰うと、小学校に入ったら国語を、中学校に入ったら歴史を、そして高校に入ったら思想を中心に学ぶべきだ…この様な事だったと思う。…さっき先生が触れられていたけど、元ネタは、このお店に集まる一人、数学者の谷さんの言葉だったわけだけどね」
義一の顔つきは、すっかり宝箱で時折見せる”先生モード”だった。この場で見るのは初めてだった。神谷さんに遠慮してか、さっきまでの会話でも普段の表情を崩していなかったが、私と同じく、すっかり自宅にいる様な気になっていたのだろう。
「で、その時も言ったと思うけど、基本的には谷さんの言い分には賛成なんだけど、そこまで厳密にする必要はないんじゃ無いかとも思ってるんだ。いや勿論、小学生の時に大量に並ぶ文字に慣れる意味も含めて、国語を学ぶというのは大賛成なんだけどね。…さて、何故次に歴史を何故学ばなければならないのかだけど…琴音ちゃん、さっき君に、道徳について話を振ったよね?その時に二人で出した結論についての確認もしたと思うんだけど」
「え、えぇ…」
私は一応念のため、メモ帳の一つ前のページを見て確認した。ようやくここまで戻ってきたというわけだ。
「それでだけど…」
義一も私の開いたページを覗き見つつ、静かに声をかけてきた。
「何で僕が歴史の話をしようという時に、道徳とな何かについての確認を取ったと思うかい?」
「え?…んー」
私に考えさせる種をぶつけて来るタイミングも、いつも通りだった。本当に宝箱の中にいる気にさせられる。
私は少し考えては見たが、それはどちらかというと確認に近かった。それなりの考えは浮かんでいたのだ。何故なら…というか言うまでもなく、あらかじめ義一が”道徳”と”歴史”の間に親和性がある事を示唆して見せていたからだった。そしてこれは今に始まった事ではなく、既に”道徳”について話し合っていた時にもヒントが出ていたのだった。
私はスッと顔を上げると、義一の顔をまた直射する様に見つめつつ答えた。
「…義一さん、あなたは私にいつもの様に語源を辿って見せて、今回の場合は”道徳”について教えてくれたよね?道徳…つまり英語では”moral”なわけだけど、これの関連語の一つとして”mores”という言葉があるのを教えてくれた」
ここまで話した時、ふと私はこれまで誰も…神谷さんが義一に突っ込んだ以外に誰も言葉を発してないのに気付いた。一度ここで軽く区切り、何気無く周りを見渡して見ると、神谷さんもそうだったが、美保子と百合子までが何かをメモしていたのだった。と、ここで二人と目が合ったが、その目はとても真剣味を帯びていて、こっちが怖気てしまうほどだったが、すぐに思い直してまた義一に視線を戻した。思い直したのには色々理由があるが、敢えて一つだけ言えば、前回の時も、この二人は真剣にメモを取っていたのを思い出したのだった。
「それで…この”mores”という言葉の意味が”習俗、習慣”って意味なのも教えてくれたでしょ?」
「…うん、その通り」
義一はあの”モード”のまま、静かな、しかし優しげな口調で返した。
「それで、えぇっと…そうそう、道徳が何故大切かというと、昔から語り継がれてきた”善い”と信じられてきた事を重んじる事によって、その中を一貫して通っていた”道”の延長線上に、私達の向かうべき目的地があるんじゃないか、それを目標にして歩んでいくために色々と努力や研鑽を積んでいけば良いんじゃないか…そんな結論が出てたよね?」
「…うん、その通りだね。しかし…」
「う、うん…そ、それでね」
義一がまた私を褒めてきそうな雰囲気を醸し出してきたので、私は慌てて先を続けた。
「そこで歴史が出て来るんだと思うんだけど…うーん、ここからなのよねぇ」
私はメモしたものに目を落としつつ、ほおをペンの底で軽く押しながら呟いた。
「いや、何となく分かるのよ?習俗習慣が歴史に関係しているのは明らかだから、そこから何かを抽き出さなくてはいけないのだけれど…それが何かと聞かれたら、今の私じゃどう言えばいいのか…分からないわ」
そう言い終えると、今度は少しそのまま手元のメモに視線を落としたままの体勢でいた。何も後ろめたかった訳では無かったが、何故かこういう時は、こうして少し俯いて、黙って義一の発言を待つのが、これまた習慣の様になっていた。
ふとその時、私の背中に優しく義一が手を添えてきた。私が思わず勢いよく義一の方をみると、あの柔和で優しい微笑を顔一面に湛えていた。そして口調も合わせる様に、静かに声をかけてきた。
「…琴音ちゃん、君は嫌がるだろうけど、少しだけ褒めさせてね?
ほんと…今に始まった事じゃないから、これで何度目になるか分からないほどだけど、よくまぁその歳で、自分で言うのも馬鹿みたいだけど僕の様な分かり辛い物言いにも辛抱強く付き合って、終いにはそこまで深く理解し、そして今やって見せてくれた様に、自分なりの考えを付言するなんて…今この場にいる人も、皆して驚いていると思うよ?」
義一の言った通り、私は自分でも分かる程苦渋に満ちた苦笑いを浮かべていただろうが、そんな事を言うもんで、思わず一同をふと見渡すと、神谷さん、美保子、百合子と、それぞれが柔らかな笑みを浮かべていて、私と目が合うと、それぞれが一度づつ大きく頷くのだった。一周してまた義一の顔に戻ると、また静かに話し始めた。
「…さて、その話はこれくらいにして、今君が話してくれた事…ズバリ、それら全てが答えと言っても過言では無いんだよ」
「…え?どういう事?」
私は思わぬ言葉に、大きく目を見開かせながら聞いた。
「ふふ、それはねぇ…」
義一はまた軽く”先生モード”に戻ってから、先を述べた。
「まぁこれは…結論から話した方が分かりやすいと思うから言うとね、道徳というのは大事だ…それは僕たちだけではなく、一般論としてもそれは共有している価値観だと思う。ただ…琴音ちゃん、一口に道徳と言っても、”これ”という絶対的な定義というのは決められないんだよ」
「え?それって、どういう事?」
「うん、それはね?簡単に言えば、ある出来事が起きた時に、”絶対に”こう行うことが道徳的に正しいと、それこそマニュアル本に纏められるような代物ではないって意味なんだ」
「んー…」
今までの議論を引っくり返されるのかと早合点して、少し身構えたのだが、こうして説明されると、確かにそれは納得のいくものだった。
「確かに、そういう事はよくあるかも…。例えば…戦争だとか?」
と私は瞬間的に思いついた言葉を吐き出したが、それに対し、一瞬驚いた様な表情を見せたが、すぐに今度は和かな表情で私に話しかけてきた。
「そうそう!それが一番分かりやすい例えだよ。…戦争。確かに人を殺すというのは、人道的にも法的にもしてはいけないのは、人々が共有している価値観だと思うけど、でも戦争はどうだろう?もし自国の民を…いや、そんな大げさに言わなくても、自分の家族、恋人、友人達を守る為だったら、戦争で敵国民を殺す事も正義と言える…いや、少なくとも人類史を見れば、そんな争いばかりだったよね?」
「う、うん…」
ここで私が少し言い淀んだのは、若輩のくせして安易に戦争の話を振ってしまったという後悔…それも少しはあったのだが、それよりもふと、『そもそも何で、人を殺しちゃいけないのか?』という疑問が湧き上がってきたからだった。しかし流石に内容が内容だけに、普段…そう、宝箱で義一と二人っきりの時だったら、義一ならそんな質問をぶつけられても、流石に苦笑は禁じ得ないだろうが、辛抱強く私と一緒に考えてくれる、もしくは既に自分なりに導き出している考えを披瀝してくれるだろうとは思ったが、この場で”ついで”の様な形で質問するのは、とても勿体無い気がして、何とか思いとどまったのだった。
またこの時もう一つ、少し変わった事が私の中で起きていた…のに気づいた。それは、”私”の奥底に巣食っている、どす黒く、重さを持った、形容し難い”ナニカ”…それが、そんな疑問を思いついたと同時に、目を覚ました様な感覚を受けたからだった。だからといってこの時は、息苦しくなる様な事は起きなかった。だが、何か疑問を感じたと同時にその様な感覚を受けたのは初めてだったので、こうして記憶の中に鮮明に残っていたのだった。話を戻そう。
「…っと、先生」
義一はふと、神谷さんに振り向き話しかけた。
「まだ時間は大丈夫ですかね?」
「あっ、そうだねぇ…」
神谷さんはまたジャケットのポケットから懐中時計を取り出した。私もまたさっきと同じ様に、つられる様にして腕時計を見た。時刻は八時を過ぎた所だった。義一と二人で話している時も、そして前回の時もそうだったが、異様に時間が過ぎるのが早く感じた。
「…んー、まだ大丈夫…かなぁ?…琴音ちゃん?」
「あ、はい」
急に話しかけられたので、少しまごつきつつ返した。
すると神谷さんは、少し申し訳無さそうなので表情で言った。
「御免ね、まだ食事を出して貰ってなくて。…もうお腹がぺこぺこだろう?」
「え…あ、あぁ、いいえ…」
言われて気づいたが、まだ食事が運ばれていなかった。何度も言うように、ここに来るのは二度目だから、まだ色々なシステムを把握していたわけではなかったが、確かにそれにしても随分と料理が出るのが遅く感じられた。
「大丈夫です。こうして色々と話しているのが、何よりも楽しいですから」
と心からの笑みを神谷さんに送った。すると神谷さんは愉快だと言いたげに、あははと大きく笑うのだった。
一同もそれに合わせて笑う中、私は義一の耳元に口を近づけ小声で聞いた。
「ところでさぁ…そのもう一人って、一体誰が来るの?」
「え?」
義一は一瞬離れたが、私がそのままの体勢で動かないと見ると、またすぐに私の口元に耳を近づけた。
「だってさぁ…気になるじゃない?この場では一番のまとめ役であるはずの神谷さんが、こうして何だか”その人”に対して気を遣ってるように見えるんだもん」
「あぁー、確かにねぇー」
義一は一瞬神谷さんに視線を向けたかと思うと、今度は私の耳元に口を近づけて、小声で、しかし楽しげにこう言ったのだった。
「それはねぇ…内緒だよ。ただ…もしかしたら、その人を見たら琴音ちゃん、君も驚くか、もしかしたら喜ぶかもしれないよ?」


「さて、まだ話の途中だったね」
笑いが収まりかけた頃、義一がおもむろに口を開いた。
「そう、今君が例として戦争を出してくれたけど、これを少しまとめの様な形で言うとね、こうなると思うんだ。個人個人では正義だとしても、集団または全体として見ると不正義になったり、また逆に、個人対個人で見れば犯罪でも、集団対集団では”正義”となり得る…これは勿論戦争の事だけど、そう、こういったある種の矛盾が世の中にはあるわけだね」
「また一つ余計な付け足しをさせてもらえれば…」
とここで不意に話に入ってきたのは神谷さんだ。
神谷さんは口を挟んだ事について、今更になって恥ずかしそうにしていたが、そのまま話しだした。
「昔…そう、今から約百年前に活躍した経済学者…いや、厳密には違うんだが、イギリスにケインズって人がいてね…」
「あっ、ケインズ」
私は思わず知らず、その名前をおうむ返ししてしまった。そのすぐ後でハッとなったが後の祭り、神谷さんが目を大きめに開きつつ、興味を抑えきれないと言った様相で私の顔を覗き込む様にしながら聞いてきた。
「おっ、琴音ちゃん、ケインズを知ってるのかい?」
「え、あ、いえ…」
とここで義一の顔を盗み見ると、義一が笑顔で黙って大きく頷いたので、私は一度大きく息を吐いてから、説明した。
昔に義一に『勉強を何故しないといけないのか?』と質問した時に、ある女流経済学者の言葉を引用して見せてくれた事、その経済学者の師匠がケインズって人だと言うのを後で教えて貰った事などだ。敢えて、受験をするのが嫌だと、訴えつつだった事は伏せといた。言う必要を感じなかったし、何よりも…流石の私でもあの時の自分が熱くなりすぎていた様に感じて、今思い起こしても恥ずかしかったからだった。
私の説明を聞くと、神谷さんは一度義一に、感心した様な、呆れた様な、その二つをミックスさせた様な笑みを向けると、今度は私に向き直り、こちらには明るい笑顔を向けてきながら話しかけてきた。
「ふふ、なるほどねぇー。…では、そのケインズが何を言ったのかというとね、…”合成の誤謬”という言葉だったんだ」
「合成の誤謬…?」
私はまた口に出して見つつ、メモにその言葉を書いた。何だか一目では、またどんどん話が逸れて言ってる様に感じない訳では無かったが、一々その話の一つ一つが面白くて、ついつい夢中になって聞いてしまうのだった。
神谷さんは大きく一度頷くと先を続けた。
「そう、合成の誤謬…。これがどういう意味かと言うとね、さっき義一君が話したことの繰り返しになってしまうんだけれど、個々では正しくても、それらを合わせて集団として見ると、間違いになると言うことがあるって話なんだよ。…ふふ、少し分かり辛いね?んー…じゃあ一つ例を挙げると、ケインズに合わせて経済で考えてみようか?…ん?あははは!そんな難しい顔をしないでおくれよ、経済なんてとても簡単で単純な事なんだから。特に聡明な君ならすぐに理解出来るような話だよ。そもそもありとあらゆる学問と呼ばれるものの中で、最も簡単で、最も単純で、そして最もクダラナイ学問なのだから…。あ、いや、そんなことはどうでも良いね…さて、そんな経済の観点から考えてみよう。まず経済というのは単純に言えば、お金が世の中をどこかに停滞する事なく、グルグル循環する事によって成り立つと言って良いと思う。これを大前提として考えてみてね?…うん、で、あともう一つ、これはもしかしたら固定概念に囚われていると受け入れ難いかも…いや、君くらい若ければ大丈夫かな?この話は大人になればなるほど受け入れてくれない類いの話だからね…ゴホン、今我々は善かれ悪しかれ資本主義の世界に生きている。…うん、この資本主義とは何かについて語ると、とてもじゃないけど時間が足りないから、これも単純化して今の所は勘弁して貰うけど、取り敢えず資本主義というのを”誰かがまず借金をして何かに投資することから始まる”と頭に入れておいてね?…ふふ、頷いてくれてありがとう。では、今挙げた二つの大前提…経済とは世の中をお金がグルグル循環する事、あともう一つは、資本主義とは誰かが借金して、工場建てたりお店を構えたりする事から始まる…とここで琴音ちゃん?」
「…へ?あ、はい」
一心不乱にメモを書き付けていたので、まさか話を振られるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
それには特に触れずに、神谷さんは和やかな微笑をこちらに向けてきつつ聞いてきた。
「さて琴音ちゃん…今私が話した内容から、これまでの話も引っくるめて、何か思うところはあるかな?」
「え?…えぇっと…」
こりゃまたアヤフヤなフワッとした話題を振られたな…
と内心とても戸惑っていたが、ここでよく分かりませんと言うのも何だか癪だったので、何とか神谷さんの質問の意図を汲み取ろうと必死になって考えた。
「んー…まず思う所というか、こういう点でだろうなと思った点があって…それはですね、何で大人には受け入れられ辛いのかといった点なんです」
「うん、続けて?」
神谷さんは、あの柔和な笑みを浮かべつつも眼光は冷たく鋭い、例の表情をこちらに向けてきつつ言った。私は臆する事なくそのまま視線をぶつけつつ、チラチラたまにメモを見ながら続けた。
「はい、えぇっと…まぁ当たり前と言えば当たり前なんですけど、普通は借金というのは成る可くならしたくないものですよね?言うまでもなく。でも今先生が言われた様に、資本主義というのは誰かが借金をして投資…?と言うんですかね?それをしない事には経済が回らない…そんなことを話されたと思うんですけど、私は今聞いて素直に受け入れましたけど、確かに一般的な大人達は反発するだろうと思うんです。だって、個人で考えたら借金なんて”悪”に決まっているのに、社会全体で見たら、借金する事が”善”だなんて、単純に考えれば矛盾にしか思えないだろうからです」
「…うん、そうだねぇ」
神谷さんは、あの鋭い目を細めて、ニコリと笑みを浮かべつつ返した。
「…そう、それが合成の誤謬なんだ。個々においては良いとされている事でも、良い物を集めたからって、それで出来上がった物が良い物だとは限らないって事なんだよ。…君なら、これらの話を理解出来るよね?」
「はい、それはもう…」
危うく”簡単に”分かりますと言いそうになった。この時何故か、誰かに言われたわけでもないのに、容易くそう答えるべきではないと思い留まったのだった。
「さて…」
とこれまで黙って神谷さんの話を聞いていた義一が、ここでふと口を開いた。
「ここでグッと話を戻して、君が出してくれた疑問…何故歴史を次に読み込まなければならないのか…?これについてようやく準備が整った様だから、話し合ってみよう」
「う、うん」
毎度毎度の事だが、一つの疑問を出す度に、義一はいきなりどこか遠くの話をし始めてしまうので、ついつい元々何について会話していたのか忘れかける事がよくあった。その為にも、メモが手放せないのだった。だが別に不便だとか、ウンザリするだとかの感情を抱いた事は一度もなかった。何せ、今ではこの店に集まる人々と繋がりが出来たから、その限りでは無いが、義一が話す内容は、どれも初めて耳にする事ばかりで、しかも難しい話にも関わらず興味を惹かれる事ばかりだったからだ。…っと、この様な話は何度もしていたか、失敬失敬。
義一は一度神谷さんに振り向き、私には分からないような方法で何かの確認を取っていたが、神谷さんが何も言わずにコクンと頷いたのを見ると、また私に向き直り、そしてまた軽めの”先生モード”に戻りつつ話を始めた。
「さて…今確認したのは、さっきも同じような事を言ったけど、それに付け加える形で改めて言えば、道徳と一口に言っても、その状況状況によって何が正しいのか、変わってきてしまうといった様な事だったと思う…そこまではいいかい?」
「うん」
私は自分の取ったメモを確認しつつ応えた。
「良かった。…さて、ここからが本題、何故順番的に歴史を学ばなくてはいけないのか?…それはね、歴史に名を残した人物、もしくは国家が、その都度起きた危機に対して、どう対抗し、処理し、治めようとしてきたのか、その具体例が示されているからなんだよ」
「…」
私は変に相槌を打つ事なく、黙ったまま今までの話をメモを見返しつつ、今の義一の発言も合わせて考えた。
…なるほど
「なるほどぉー…。私なりに言い直せば、道徳が大事といくら言っても、いざ現実に生きてる私達が危機に直面した時に、どのように対処したらいいのか…それが導き出せない様では、道徳という言葉が空と化してしまう。それを知るには自分でアレコレ考える前に、まずは過去に似たような事例がないかを思い起こし、当時の人々がどう必死に当たっていたのかを知る必要があるってわけね?」
私がそう言い終えると、少しの間この場に静寂が流れた。その誰もが私に視線を注いでいたが、ふと隣同士で顔を見合わせるので、もしかして変な事を言ってしまったかと少しばかり不安になったが、ふとまた先程のように義一が私の背中に手を添えてきた。隣を見ると、義一はあの優しい微笑をこちらに向けてきていた。
私と視線が合うと、手をゆっくりと離してから柔らかな口調で語りかけてきた。
「…ふふ、良くこんなあっち行ったりこっち行ったりした会話の中で、そこまで自分の中で纏め上げる事が出来たね。…うん、その通りだよ。過去のいわゆる”道徳家”達は、道徳とは何かを説明しようとした時には、古今東西問わずに、過去の事例を引いていたんだ。琴音ちゃん、君でも知っていそうな所で言えば、西洋だったらいわゆる”五賢帝”とかカトーを持ち出したり、東洋…この場合は古代の中国だけど、”聖王”と現代まで崇められてる”文王””武王”親子だとかね、そういった実際の現実に対処して”政”をしてきた事例を紐解けば、ソックリそのままは当然時代も何も全然違うからやれないけれども、少なくともヒントはあるはずだ…って考えられていたんだ。そういった考え方自体は、今の世でも通用すると思うんだけどね?…これで大体説明としては終わりなんだけど…どう?納得してくれたかな?」
「…うん」
私は余計な言葉を付け加えることは無いだろうと、短く、しかしハッキリと目を合わせて答えた。
それを見た義一は、目を細めてニコッと笑いかけてきたが、ふと何かを思い出したような表情になると、表情は和かなまま言った。
「そうだなぁー…まぁ、ここまで話したのだから言ってしまってもいいか…。琴音ちゃん、ついでだからさっきの事も説明するとね?…さっきというのは、谷さん程には厳密にする事はないだろうという事なんだけど…つまり、国語教育は大前提として初期段階で学ぶべきなのはそうなんだけど、後は何も歴史にだけ括るんじゃなくて、同時に”思想”を学んでも良いんじゃないかって事なんだ」
「…あ」
私はここで、何で今までこんな話をしていたのかを思い出した。
そうだった…哲学と思想について質問していたんだった…。
まぁでも先程も言った事だが、あっちこっちに話が行くもんで、元の話が分からなくなってしまうのはよくあったし、仮に私が忘れてしまっても、こうして本線に戻してくれるので、そこまで私が心配する必要は無かった。
「…察しのいい君の事だからもう薄々と分かってるんだろうけど、敢えて言うとね?歴史を学ぶというのは、今までの話を引っ括めて端的に言えば、過去の人々がどんな”哲学や思想”を持って、それらをどう現実世界に活かしていったのかを見極めるためだったよね?…そう、つまりしっかり読解力を身に付けたこの段階まで来たら、歴史だけに拘らず、哲学書などに手を伸ばして読むのも良いだろうって事なんだよ。むしろ、その時代時代の人々が、どんな哲学書や思想に影響されたのかを知っておいた方が、もっと深く学べると思うんだよね」
「うん、私もそれには賛成ー…ってあれ?」
当然というか今の発言に引っ掛かったので、すぐさま疑問をぶつけた。「…でも義一さん、そう言ってるけど、まだ私、義一さんから”それ”関係の本を貸して貰ってないんだけれど…?」
と聞くと、義一はあからさまに苦虫を潰したような、しまったと言いたげな表情を見せた。そして、おデコに手を当てつつ苦笑気味に答えた。
「…アイタタタ、痛い所を突かれたなぁー…。うん、君の言う通り、まだ僕は君に”それら”を貸したことは無かったね…?うーん…言い訳にもならないかも知れないけど、今話した事は本心からで、普段からそう思っているんだけれど、でもどこかで谷さんの言った事に支配されていたのかもねぇ…ゴメン」
義一は言い終えると大袈裟にその場で頭を下げてきた。私はそれが、いつもの義一なりの”ジョーク”なのを知っていたので、特に合わせるまでもなく、ただ普通に「気にしてないから」と声をかけたのだった。「次からはちゃんと、それらも貸してよね?」と付け加えながら。義一は何も言わずに、ただ笑顔で頷くだけだった。
それに対して私も微笑み返していると、「…ゴホン」と咳払いが聞こえた。音の方を見ると神谷さんだった。顔は笑顔だったが、口調は静かに声をかけてきた。
「…さて、こうして”意義”のある”遠回り”をしてきた訳だが、ここでようやく本来の話…琴音ちゃん、君から貰った疑問…『思想とは何か?』について入ろうと思う。…いいかな?」
「はい、もちろんです」
私はメモ帳に手を置きつつ返した。
私の返事を聞いた神谷さんは、一度ニコッと目を細めると静かに話を始めた。
「そうかい?良かった…。さて、話をグッと戻そう。私達は思想とは何かを考えようとした時に、その考えるヒントとして、似たような言葉”哲学”について考えようとしていたんだったね?」
「はい」
「さて、今までの君と義一君の会話や、前回の君の態度から察するに、語源から辿るのに対して違和感が無いようだから、そのままその方法を取らせて貰おうか…。”哲学”…これも勿論、明治以降に入ってきた外来語を訳して出来た言葉な訳だけれど、英語では“Philosophy”と言うんだ」
「…」
私は知っていたが、それに一々反応する事は無いだろうと、俯きつつ書きながら頷いて見せた。
神谷さんも私からの反応を期待してなかったようで、そのまま澱みなく先を続けた。
「これはギリシャ語の”Philosophia”に由来していてね、sophia(智)をphilein(愛する)という意味なんだ。つまり、知を愛するって事だね」
「知を愛する…」
私はそう呟くと、そう書いた字を眺めつつ、その意味を汲み取ろうと考えた。その姿をどう解釈したか、神谷さんは少し口調を和らげつつ言った。
「…ふふ、まぁ元の意味というのは押し並べて曖昧模糊とした、抽象的なものだから、すぐにハッと本質を掴むのは至難の業だよ。…さて、今のを聞いて君はどう感じたか…いや、そんな構えなくて大丈夫だよ?これは君にまた考えを聞こうとしたんでないからね。…先程の誰かさんのように、あくまで一般論として言うと、哲学と聞くと、普通は何だか観念的で、フワッとした、現実的で無い夢想する学問だと捉えられがちなんだが、今の語源を見る限り、それは違ってないかな?」
「…はい、そんな狭いモノでは無いように見えます」
私は慎重にそう答えつつ、頭の中で”一般論”の代表者…お父さんやその周りの人々を思い浮かべていた。
「同意してくれてありがとう。…では同意してくれたのだから、先へ進もう。…おっと、ちょっとここで一つ寄り道…と言ってもすぐに終わるけど、良いかな?これもあくまで軽く触れるけど…昔、そう、古代ギリシャ・ローマ時代からルネサンス期にかけてね、一般教養を目的とした諸学科があったんだ。その名もラテン語で”Artes Liberales”…英語では”Liberal arts”…原義では”人を自由にする学問”と呼ばれるものなんだけれど…」
「…あぁ、なんだか聞いたことがあります。…それだけですけど」
私は今まで黙って聞いていたので、ふと聞いた事のある言葉が出てくると、意識をしないまま口を挟んでしまった。特段それについて話す内容を持っていないというのにだ。口にしてしまった瞬間、余計なことをしてしまったと反省したが、当の神谷さんはニコニコと笑いながら返すのだった。
「ふーん、何だろう…?あっそうか、今やたらと色んな所で”リベラルアーツ”が云々と、言葉だけがそこら中で乱用されているから、それが耳に入ったのかもねぇー?…ふふ、さて、話を戻そうか…?リベラルアーツ…”自由七科”と訳されてるんだが、七科と呼ばれるくらいだから、七つの学科が含まれている。文法、基本的には演説の技術で近代では廃れてしまった修辞学、思考の形式及び法則である”論理”を成り立たせるつながりを明確にし、論証を過不足なく行う為にどうしたら良いかを研究する論理学、以上の三学に、算術、幾何学、天文学そして…音楽の四科を加えた合計七科の事なんだ」
「へぇー」
神谷さんが”ワザと”溜めてから”音楽”と言ったので、私は思わず顔を上げ神谷さんを見つつ声を上げた。他の六つは何となく共通性が見えたが、あまりにもこの中では音楽が異質に見えたからだ。
神谷さんも狙い通りの反応が返ってきたからか、表情からは窺い知れなかったが口調からはご機嫌な様子が取れた。
「ふふ、そう、音楽も入ってるんだよ。興味を持ってくれたようだから、ついでに付け加えると…”藝術”という言葉があるよね?…ふふ、言われんでもって顔しないでおくれよ?この藝術って言葉は実は明治以降に出来た言葉でね、啓蒙家として著名だった西周が、このリベラルアーツを訳した時に造った言葉だったんだ」
「へぇー」
私は声の調子を先程よりも上げただけで、それ以外は全く変わらない反応をするのみだった。…またすぐに突っ込まれそうだから、敢えて予めに話しておくと、前にも言ったが、人間本当に驚いたり感心したりすると、言葉数が少なくなるものなのだ。…グルメ番組などでのリポーターの様に、アレコレと口数多くぺちゃくちゃ喋るのは、それだけその対象に驚いていない証なのだ…と私は思っている。とまぁそんな無駄な批評は兎も角、それだけ私は感心し、また神谷さんの言う通り、このリベラルアーツに対して興味を深めたのは言うまでも無い。
実際神谷さん自身、私の大して代わり映えのないリアクションに対して、すっかり気分が良くなった様に見受けられた。その証拠に、また少しだけ声のトーンを上げつつ続きを話したのだった。
「これ以上詳しくは、まぁ話の流れに沿うようだったら触れるけど、一先ず今は置いといて、何故今この…先ほども言ったように、一般教養を身につける為を目的としたリベラルアーツに触れたかというとだね、この一般教養と伝統的に見られていた七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられたのが…そう、哲学だったんだ。今までの事をお浚いがわりにまとめると、哲学というのは現代で一般的に言われている様なものではなく、ありとあらゆる知識、知恵、教養などを網羅しようとするものと、取り敢えずは定義する事が出来ると思う」
「つまり…」
ここで不意に義一が話に入ってきた。神谷さんの話を引き継ぐ形で、私の方を向きつつ言った。
「今の琴音ちゃんにはまだ馴染みがないだろうけど、日本では文系、理系などという、まるで意味のない分け方をしているんだけど、そんな中で哲学は文系に分類されるんだ。でも今までの話を聞いたら分かるよね?」
「う、うん」
私は手元のメモを見つつ、また、義一に話を取られた形になった神谷さんの顔を覗いて見たが、相変わらず穏やかな表情でいたので、私は安心して答えた。
「私なりに文系と理系って分けているのは知ってるけど、今までの話を聞いていたら、その分け方自体が無意味なのはよーく分かったよ。さっき先生が話されたリベラルアーツで見たって、文系に分けられるものと理系に分けられるものが一括りにされている点からして一目瞭然だし、もっと簡単な所から見れば、そもそも語源が”知を愛する”って時点で、文系も何もない…ありとあらゆる知識に向けられているのだから、そんな細かい分類なんて意味が無いのは良く分かるよ」
”良く分かる”を連発してしまったが、それは私の語彙の少なさによるものだ。しかしながら、それでも素直な心の内を話せたと思う。変に神谷さんや義一に媚びて、言われたことを鵜呑みにしたわけではない事は、前にも同じ様なことを言った気がするが、何度でも確認の意味を込めて繰り返すのも無駄ではないだろう。
…それはさておき、私がそう答えると、義一だけではなく神谷さんまでもが、こちらに向かって微笑を送ってくるのだった。それを送られた私はと言うと、変な事を言ってないのだと安心するばかりだった。
少しだけ不自然な間が空いたが、静かに神谷さんが表情をまた元に戻してから口火を切った。
「…そう、今君と義一君が話してくれた通りだよ。文系理系だなんて無粋な分け方には、なんの意味もない。…そもそも海外にはそんな分け方が存在してない…少なくとも英語圏には存在してないから、向こうの人には説明のしようがないんだよ。…とまぁそんな雑学めいた事は置いといて、哲学について、大まかとはいえ概略は見えてきたと思う。少し今までに出た結論に付け加えると、あらゆる学問の裏側には、哲学が潜んでいる…」
「リベラルアーツ…この場合は藝術って意味でですけど、音楽もって事ですね?」
私は少し真面目なトーンを自分で演出しつつ口を挟んだ。これに関しては、自分で言うのは恥ずかしいが、それなりに変な横槍では無かったと思う。
神谷さんは大きく頷いてみせてから続きを話した。
「そう、その通り。だから…さっき君が話してくれた、ショパンが哲学に関して、少なくとも関心を抱いていた事を披露してくれたけど…これについてまた、私なりの解釈を話しても良いかな?」
「あ、はい!是非!」
「ふふ、ありがとう。…まぁそんなに大した事を話そうっていうんじゃないから、気楽に聞いて欲しいけど…簡単に言ってしまえば、当時…そう、ショパンだけで無く、それこそ音楽に限らず、それ以外の芸に従事していた凡そ十九世紀までに活躍していた芸術家たちというのは、皆して哲学書を読み込んでいたりしていたものなんだよ」
「…あっ」
私はここで今更ながら、フツフツと過去に読んだ本達を思い出していた。それは義一のに限らず、師匠から借りて読んだのも含まれていた。義一から借りたのは、当然古典文学ばかりだったが、これは大分前にも触れた様に、どの作者も作品の主人公にいわゆる哲学を話させていたし、師匠から借りて読んだ過去の作曲家達の日記なり書簡集なりでも、先程はショパンしか思い出せなかったが、それこそ同時代の作曲家達は、並べてそれぞれが自分の曲にどんな”哲学”的な意味を含ませているのかを書いていた。私がよく練習で弾くフランツ・リスト、彼について特にこの時は思い起こしていた。最愛の父が亡くなった後、失意の中二年間ばかり表に出なかった。その間何をしていたのかというと、猛烈に読書に耽っていたのだった。聖書を含めたありとあらゆる哲学書、ありとあらゆる古典文学など広範にわたっていた。幼少期はレッスン漬けの毎日を送っていたお陰で、さっきチラッと義一が触れていたが、その”一般教育”なるものを受けてこなかったリストは、それらを補うかのように猛烈に独学で”リベラルアーツ”を勉強していたのだった。
…とまぁそんな事柄を思い出したので、特に聞かれたわけでもないのに、ついつい声を上げた後に、いま話したような内容をツラツラと話してしまった。その間は自然と一同に向かって視線を配っていたので、それまでそんなに視線を向けていなかった美保子や百合子の表情も見る事が出来た。二人は相変わらず、若輩の私の話を時折「へぇー」などの在り来たりな相槌を打ちつつ、真剣な面持ちで耳を傾けてくれていた。それによってツイツイ私も口が滑らかに滑るのだった。
かかったと言っても二、三分だろう、私が話し終えるとほんの数秒ほど一同は各々それぞれ思いに耽っていた。
とここで、やはりと言うか…当然の事として神谷さんが静かに口を開いた。目を細めつつ眼差しは優しげだった。
「…なるほどねぇ、君のその直ぐに議題に合った内容を思い出して披露する事ができる能力も流石だけど、さっき美保子さんが言ったように、君の師匠さん…”なかなか”の人らしいね」
「あ、い、いや…あ、あぁ、はい!その通りです!」
しつこいようだが周りがしつこいから言わざるを得ない訳だが、また私のことを軽く褒めだしたのかと一瞬身構えたのだが、その後に不意に師匠のことを褒められたので、直ぐに我が事のように嬉しくなり、そのような感情のブレによって、この様なへんてこりんな反応になってしまった。そんなあたふたしている私の様子を見て、義一を含めた一同はクスッと笑うのだった。
「本当に機会があったら、一度お会いしてみたいわぁ」
まだ笑いの続く中でそう漏らしたのは美保子だ。美保子はテーブルに空になったワイングラスを置いてから、私に笑顔を見せつつ言ったのだった。
私はこの瞬間、頭の中を色んな考えが去来していたが、直ぐにはまとめられずに、結局苦笑いしながら頭を掻くのみだった。実際に見はしなかったが、義一の視線はヒシヒシと感じていた。
「さて琴音ちゃん…」
朗らかな空気がまだ流れる中、神谷さんは私を直視しつつ静かに声をかけてきた。今度はあの議論の時に見せる表情に戻っていた。察した私を含む他の一同は、シンと静まり返る…との表現は大袈裟だとしても、先程までの空気と比べたら、そんな気がしないことも無かった。
「またここで確認の意味を込めてまとめさせて貰えれば、哲学というのは、ありとあらゆる学問のベースになるもので、逆に言えば、哲学の無い学問なんぞ学問の名に値しない…こう言えるというのには、異論はないかな?」
「はい」
私は一度手元のメモに目を落としてから、また視線を戻して返した。
神谷さんは一度大きく頷くと先を続けた。
「うん…。さて、ここで漸く君の最初の疑問について答える段階まで辿り着いた…そう、『思想とは何か?』という疑問に」
「…」
私は真っ黒に書き込まれたメモのページを、数ページめくり戻し、”思想について”とだけ書いたページを開いた。
神谷さんは私がこうして手元を覗くと、毎回では無いが、この様に時と場合によって一度言葉を止める事があった。神谷さんの座り位置からは見えないだろうが、何が為に手元を覗いているのかくらいの事は分かるらしい。その気遣いは、まだまだ若輩の私でも察する事が出来た。
「思想とは何か…ふふ、予め前置きしておいた様に、ある意味今まで散々それについてのある種の答えを求めて、似た様な言葉である哲学について議論をしてきた訳だから、正直言ってもうこの議論の着地点は目の前とも言える」
「…”哲学と思想の違いは?”という点でですね?」
と私が相槌代わりに返すと、神谷さんは一瞬笑顔を見せつつ頷いた。
とこの時、不意に何かを思い出した様な表情を見せると、一旦顔をドアの方に向けて、そしてまた時間を確認した。私もまた時計を覗くと、八時半を過ぎた所だった。
神谷さんは少し苦笑いを浮かべると、
「いやぁーもうこんな時間か…。まぁここまでキチンと出来たから良いかな…?っと」
といったような言葉を独り言の様に呟いていたが、不意に私と目が合うと、何だか済まなそうな顔持ちで私に話しかけてきた。
「ふふ、そんな怪訝な表情をしなくても、最後までキチンと続けるから心配しないでおくれ?…おほん、さっきも言った通り、もうゴールは間近なのだからね。…ここからは、私が言う内容に同意してくれるか、それとも反論があるかどうか、聞いた上で正直に応えておくれね?」
「は、はい」
私がそう返すと、神谷さんは一度日本酒を口に含んでから話し始めようとしたが、ふとその前に、私から視線を外したかと思うと、何かを思い出すかの様に遠くを見る様な目で義一に微笑みかけた。そして何も言わないまま、また私に視線を戻すと、表情はそのままに話を始めた。
「…ふふ、懐かしいなぁー…ここに来て今思い出したけど、こんな話は義一君、君がここに出入りする様になった最初の頃以来だねぇー」
「…はい、勿論覚えていますよ。僕が高校生の頃でした」
顔は見なかったが、口調から思い出に浸っている様子が知れた。
「まさかこうして君の姪っ子とも、この様な話をする事になるだなんてねぇ…。しかもその子が中学生の段階にして、ここまで深い議論について来るばかりか、新たな見方を提供してくれるのだからねぇ…」
「…」
私は早く先を話してくれと、この時ばかりは一々反応せずに、無言を貫いたのだった。
その意図が汲み取られたらしく、神谷さんはまた前の調子に戻って先を続けた。
「…っとそうだ、ここで慌てて言っておかなければならないのだが…君も了解してくれてる様に、今回に限らず、我々…少なくとも私とここにいる義一君は、まずその対象について考える時に、まずその言葉の定義から始める、大袈裟に言えば流儀な訳だけれども、こと思想については、何とも語源を辿ろうにも辿れないという点は、了承しておいて欲しい…良いかね?」
「あー…はい」
気持ちの上ではもっと気を遣って答えたつもりだったが、こうして字面を見ると、不満タラタラなのが見え見えだったと、今初めて気づいた。自分では当然分からなかったが、表情の上では出ていたのだろう、神谷さんは苦笑まじりに自分の頭を撫でつつ言った。
「すまんねぇ…何故辿れないかはすぐに済む話なんだが、話の流れ上関らふ暇が今は無いもんでね。…後で時間がある様だったら、私か義一君に遠慮なく聞いておくれよ…今はそれで良いかい?…うん、有難う。さて、さっきも触れた様に、まだ高校生だった義一君に質問された時に、こう答えたんだというのを話させてもらうよ。確かあの時は…そうそう、あの時もまず『哲学って何ですかね?』と聞かれたんだったね?」
「そうです。話の流れとしては私が薄っぺらかったせいか全く違っていて、今回の方がよっぽど内容が深かったですけど。…質問者のクオリティーのお陰でしょうか」
義一はそう言うと、私をチラッと見た。私はあくまで無表情で見つめ返した。
「…ふふ、で、それに対して私はこう答えたはずなんだ…『哲学というのは”論理”…”在るモノ”の定義をして、その定義の下で”在るモノ”を論証したり説明したりするものなんだ』とね」
「はい、確かにそうでした。それで当時の僕は『あぁ、”ヨーロッパ的”なんですね?』と、先程まで議論に出ていた古代ギリシャ・ローマ時代の哲学者の名前を出して見せながら、恥なく偉そうにくっちゃべったのを覚えています」
そう卑下して返しても、そこからは”裏”を感じられなかった。返す義一の顔つきが、如何にも昔の黒歴史を話した時の様な苦笑具合だったからかも知れない。
…高校生の時点で先生の話を理解して、咄嗟に哲学者の名前を列挙する事のどこが”薄っぺらい”のよ…?
と感想を覚えたのは勿論だ。
「うんうん、…まぁ尤も、それ以前から君は自分からアレコレと気後れする事なく話す方だったから、この時もそう話してくれて、私は楽しかったけれどねぇー。…他の人はどうだったか知らないけれど。…っと、思い出話はそれくらいにして、当時の私も君のその相槌に同意しつつ、次に思想についてはこう答えたんだ」
「…」
私は何も言わなかったが、待ってましたとばかりに神谷さんに熱い視線を送った。そんな私とは対照的に、神谷さんはあくまでも穏やかな様子を崩さずに先を続けたのだった。
「『思想というのは、何か物事を単に論理的に説明するのでは無くて、そこに一種の”情”の様なモノが入ってくる…つまり論理だけではなく、そこに感情の様なものが入ってくるんだ。この”感情”というのは、個人個人が人生を生きて来た中で、情念の様なものが生じて形成されていくわけだけど、現実世界ではどうしてもこの二つはぶつかり合ってしまう。つまり、論理的にはこうだけど、感情的には許せない、受け入れられない…そういった事というのは多々あるものだよね?」
「…はい、それは今日の今までの議論の中でもよく分かる話です」
私はメモを見ずに、今日の議論を反芻しながら答えた。
そんな私からの変哲も無い返答に、神谷さん…そして何故か義一までもが満足そうに頷いて見せていた。
「ふふ…。だから思想というのはこういった部分で内部で矛盾を抱えているものな訳だけど、それを”表現”のレベルで、論理的なモノと感情的なモノを混ぜ合わせていく他に無いんだ…つまり思想というのは”表現”というものと結びつくんだ』…といった風に、結局曖昧で抽象的で、フワッとした返しをしたんだけれども…琴音ちゃん、今のを聞いて…いや、今までの長い議論をしてきた上で、今の話を君はどう思ったかな?」
神谷さんは途中までは…例えるなら静かな表情としか言いようの無い面持ちで話していたが、最後の方で少し照れ臭そうにはにかみつつ話していたのが印象的だった。
私は今の神谷さんの話を、私なりにまとめてメモを取っていたが、ふとそう話を振られたので、少し自分の頭の中で整理しつつ口を開いた。尤も、意見を求められたから少し考えただけで、同意するかしないかでいったら言わずもがなだった。
「…はい、とても難しかったですけど…私なりに納得していると思います…何故か他人事の様な言い方になってしまいましたが」
「そうかい?…それは良かった」
神谷さんは辞令的ではなく、本心からホッとして見せたので、私はそれに対してまた驚いてしまったが、すぐさま一つだけ確認したかった事があったので、忘れないうちにと
「それで…せ、先生…?」
と、まだ正直呼び慣れない調子で声をかけた。
「ん?何だい?」
「あのー…一つだけ確認したいんですけど、良いですか?」
「あぁ、言ってごらん?」
日本酒をチビチビとやりだした神谷さんは、普段の好々爺に戻っていた。
「そのー…”表現”って所なんですけど…」
「うん」
私はここで一度また、自分の頭に浮かんだ考えを反芻して見てから、静かな調子でおずおずと言った。
「この表現には…音楽などの芸能も含まれているんでしょうか?」
「…」
この時ちょうど口にグラスをつけていた所だったせいか、少し返答に時間がかかった。が、ゆっくりと口からグラスを離すと、神谷さんは柔和な笑みを浮かべて、これまたゆっくりとした動作で一度頷いて見せてから答えた。
「…そう、その通りだよ。まぁ当時義一君に説明した時に想定していたのは、いわゆる評論だとかそういった狭苦しい範囲だったけれどね。でも今君が言った通り…いや、ある種最も思想を語るのに向いているのは、芸術なのかも知れないよ。詩だとか文学などは勿論のこと、絵画や彫刻それに…音楽もね?」
いつだかみたいに、神谷さんは最後のセリフを言う前に一度溜めてきたので、一人でにデジャブ感を覚えていた訳だったが、それを聞いた私は自然と笑みが溢れて、ただ一言「よく分かりました」と返したのだった。そう返す頭の中には、ショパンの事やリストの事…それ以外の音楽家たち…それと同時に過去の偉大な文学者たちの事も思い出していた。それらについても何か触れるべきかと一瞬思ったが、すぐに一人頭を振った。今無粋にそんな話を振るのは”違う”と言うことくらいは、さすがの私でも理解していた。それに一々心情を吐露しなくても、神谷さんが黙って笑顔で頷いてくれた事によって、伝わっている事が分かっただけで十分だった。

ようやく大きな議題がひと段落ついたとして、一同で軽く雑談をし始めてきた頃、そう…時計を見ていた訳では無かったから正確ではないが、その間五分も無かっただろう、不意にドアが少し開けられた。
そして隙間からママが顔を出したのだが、薄暗い部屋の照明下でもわかるほど、若干テンションが上がっている様に見受けられた。実際その見立ては正しかったらしく、口調も普段以上に明るめに言い放った。
「先生方、ご歓談中申し訳ありませんが、今”師匠”が来られました!」

第28話 数寄屋 a

「師匠、どうぞ」
「…え?師匠?」
ママが言った”師匠”と言う単語に、私は過剰なまでに反応した。そして隣に座る義一の顔を覗き見たが、義一はジッと体をくねらせてドアの方をジッと見ているのだった。
仕方ないので私も黙ってドアの方に向き直ると、ママが大きく扉を開けて、閉まらない様に保っているその腕の向こうに、一人の老人と、二人の若者…いや、若者と言っても老人と比べたらという意味で、恐らくは四、五十代なのだろう、男性が神妙な面持ちで立っていた。
老人はパッと見弱々しい…例えるなら大病をした後の様なやつれ具合をしていたが、そんな見た目にもかかわらず、その身にまとったオーラからは、そんな見た目を払拭させられる程のものがあった。豊富な銀色の髪を短く刈り込んだ髪型をしており、よく年寄りがしている様な大きな縁のメガネをしていて、その下には気難しい人特有の眉間のシワが、そしてそんな雰囲気にも関わらず可愛らしい円らな瞳を有していた。格好は無地の長袖シャツとジーパンという、特に特徴の無い格好をしていた。後ろに立つ若者二人も、同じ様な地味な格好をしていた。この二人は何も喋らなかったが、その振る舞いから、心底この老人を尊敬し、大切に扱おうとしているのが手に取るように見て取れた。
老人は部屋にゆっくりと少しフラつきながら入ってきて、少し周りを見渡していたが、しばらくして
「おぉー!師匠ー!」
と声をかける者がいた。神谷さんだった。
神谷さんもお歳のせいかゆっくりとだったがその場で立ち上がり嬉しさを前面に出しながら、老人に向かって手招きをしていた。その様子を見た老人は力無くニコッと笑い右手をふと上げて見せたが、ふと後ろを振り向き「お前らは今日はこの辺でいい…」と静かな、しかし威厳のある感じで話しかけた。声は酷い掠れ声で、この部屋は静かだったから聞き取れたが、おそらく街中、雑踏の中では聞き取れない様な類の声質だった。「はいっ!」と男二人はまるで十代のよく教育された体育系の部員の様に元気にハキハキと返事をすると、一同…そこには私も入るが一度見渡してから「では師匠をよろしくお願いします!」と言って深々と頭を下げてから、その後は速やかに部屋を出て行くのだった。もちろん去り際に、ママさんにも挨拶するのを忘れずに。
「では師匠、今飲み物をお持ちしますね。今日はお酒は…」
とママが聞くと、「あぁ、今日はせっかくだから飲むよ」と少し表情を和らげつつ返していた。「じゃあ”いつもの”持ってきますねぇー」とママは間延び気味に上機嫌で言うと、スタコラサッサと部屋を出て行ってしまった。
「ささ、師匠、そんな所に立っていても何だから…」
と神谷さんは、相手に気を使う口調で老人に話しかけた。
老人は一瞬ニコッとしてから「おう」と短く返事をして、
促されるままに神谷さんと義一の間に座るのだった。
と、老人が座るや否や、ふと美保子がこれまた嬉しそうな調子で
「師匠!お久し振りですー」
と話しかけると、老人は美保子の方に顔を向けて
「おう、久し振りだなぁ…一年ぶりくらいか?」
と少し感あげるそぶりを見せてから返していた。
「そうですよー…お見舞いに行って以来です」
「そうかー…」
老人は少し疲れている様子で、一応笑顔を見せていたが、肩はストンと落としていた。
「師匠…」
と次に声を掛けたのは百合子だった。表情は相変わらずアンニュイな、物憂げな面持ちだったが、目の奥がキラキラと輝いている様に見えた。「おう、百合子、これまた久し振りだなぁ」
老人は美保子を相手にしていた時と同じ様に、一瞬ニコッとして見せつつ対応していた。
その後は老人は義一とも挨拶していたが、その間わたしは、まさかの出来事に目を丸くして黙っている他に無かった。それもそのはず…
…義一さんは私が驚くだろうって言ってたから誰だろうと思っていたけれど、これは…
と今の状況を整理するのに必死だったから、ふと義一から声を掛けれたのに気付かなかった。
「…とねちゃん、琴音ちゃん?」
「…えっ!あ、あぁ、うん、何?」
私はハッとなりながら義一の顔を見つつ返した。そんな様子を義一は愉快げに笑うのだった。
「何って琴音ちゃん…ほら、君も自己紹介をして?」
義一はそう言ってから身体の向きは私のまま、顔だけを老人の方に向けた。私もつられてそっちの方を見ると、老人は無表情ではあったが、好奇心を抑えられないといった感じで、円らな瞳を容赦無く私に向けてきていた。
私は少し慌てて身なり…と言っても老人と大差無いような長袖シャツとジーパンだったから治す必要もなかったけれど、一応整えるフリをして見せてから静々と
「は、初めまして”師匠”、私は望月琴音です。…前々から存じ上げていました」と慇懃に自己紹介をしたのだった。
…そう、私はこの”師匠”のことを知っていた。…いや、知り過ぎていたと言っても過言では無い…と思う。勿論直接お目にかかるのは初めてだけど。”すごく”勘のいい方なら推測が立っている人もいるだろうが、改めて言うと、この方は何度も義一との会話の中で出てきた”落語家”さん本人だった。何度も義一が私にこの人の落語…もっと言えば”芸”に対する考え方などを教えてもらったりしていた。以前にも話したが、初めて聞いた時はそれ程”落語”に対して興味が持てなかったのだが、義一の口からこの人の考え方や、振る舞い方、その他の色々な人騒がせなエピソードを聞いているうちに、まずこの人自身に興味が湧いてきて、この人の書いた芸人にしては膨大の”芸”についての本を義一から借りて読んだりした。そしてそれを入り口にして最終的に落語を聞くようになり、今ではこの”師匠”だけではなく、その他の”昔”の落語家のテープなり、映像があれば映像を、これまた義一から借りたり、思いついた時にインターネットの動画サイトで検索して見たりしていた。因みに先程まで師匠に付いていた男二人もよく知っていた。師匠は落語界で一番多くの弟子を抱えていたが、その中でもトップクラスの実力を持つと言われる、いわゆる”三羽烏”の内の二人だった。今一番の売れっ子だった。私は何度も言ってるがテレビをまず見ないので知らないが、バラエティーなどにも出ているらしい。もしこの二人だけだったら、それはそれなりに私はテンションが上がっただろうが、やはり師匠の前では霞みざるを得なかった。
とまぁ当時の私の心情の吐露はこれくらいにして、話を戻そう。
私がそう辿々しく自己紹介をすると、少しの間老人は繁々と私の様子を眺めていた。まるで品定めでもするかの様な視線だ。この師匠も最近はまず滅多にテレビなどには出ていないらしいが、昔…といっても私の生まれる前の話らしいが、その時分までは良くテレビなどのマスメディアにも露出をしていたらしい。その時の映像を義一に見せてもらっていたが、その時の師匠の視線は今と変わらなかった…という事を思い出していた。
「望月?…あぁ」
師匠はふと私達の名字を言ったかと思うと、ふと義一に視線を向けて話しかけた。
「義一…アンタが前に言ってた姪っ子っていうのはこの子の事かい?」
「えぇ、そうですよ」
義一はそう答えつつ、そっと私の背中に手を置いた。
「ほぉー…」
師匠はまた改めてと、私の全身…と言っても座っているしテーブルが邪魔だから全ては物理的に無理だっただろうが、それでもそれをしようという意気込みだけは感じられた。
「随分と…」
師匠は満足したのか、ソファーに深く腰掛けて、息でも吐く様な調子で言った。
「人形の様な整った顔をした美人さんじゃないか。…アンタも含めて、そっちの家系はなんだ、美形が生まれる血筋なのか?」
「いやぁー…そんな事聞かれても分かりませんよぉ」
義一は慣れてるのか軽く往なしていたが、誤解を恐れずに言えば、久しぶりに面と向かって見た目を褒められたので、不意に恥ずかしさからかなんだか判断が難しいが、なんとも居た堪れなくなって顔を背けるのだった。そんな当時の私の心情もあって詳しくは述べないが、義一も含めた”望月家が何故美形なのか?”という、よく分からない話題で盛り上がっていた。
それからはママが部屋に入ってきて、”いつもの”というやつなのだろう、バカラグラスにウイスキーを入れたのを師匠の前に置いた。そして他の一同にもお酒の注文を取っていった。結局みんなは同じお酒をリクエストした様だった。私も聞かれたので、アイスティーのお代わりを頼んだ。ママは笑顔で注文を取り終えると、今度は神谷さんに料理が終わり次第運び入れても構わないかと聞いた。神谷さんがすぐに心よく了承すると、ママは機嫌良さそうに足取り軽く出て行くのだった。
ふとこの時時計を覗くと、時刻は九時を過ぎた辺りだった。
それから十五分ほど経っただろうか、扉が大きく開け放たれたかと思うと、次々と前回と同じ様な様々な趣向を凝らした料理が運ばれて来た。この時は、これまた前回と同じ様に、マスター自らも配膳をしていくのだった。テーブルの上に所狭しと置かれた料理は、これまた多種多様なモノだった。
軽くだけ触れると、プロセスチーズと大葉を豚肉でクルクル巻いたもの、ニラをこれでもかって程にふんだんに盛り込んだチヂミ、これは前回にも出た、牡蠣をオイスターソースやお酒などで炒め煮にしたもの…これは美保子と百合子の大好物の様だった。いつだかの雑談の中で聞いたが、毎回この店に来た時は作って貰っているらしい。これ以降の紹介は、牡蠣の炒め煮と一緒で前回と被っているので割愛させて頂く。
とまぁつい先程も触れたが、このお店では皆の好物の品が何品か出されるという仕組みになっている様で、今回の品々…前回には出されなかったチヂミなどなどは、どうやら師匠の好物の様だった。
と、お代わりのお酒などが渡ったと見るや、神谷さんは着座のまま手にグラスを持ち、顔は正面だったが時折師匠に視線を送りつつ
「ではかんぱーい」と音頭を取ったのだった。私たちもすぐさま後に続いた。師匠も声は出てなかったが、口はちゃんと動かしていた。

乾杯を終えると、先程は神谷さんに対してだったが、今度は師匠に乾杯をする為に美穂子と百合子が近寄って行っていた。
私もそれに倣おうと立ち上がろうとしたが、ちょうどその頃隣で義一が、女子力(?)高くイソイソと神谷さんの分と師匠の分を小皿に取り分けていたので、何も急ぐ事はないかと、その作業が終わるまで待った。ついでに私の分までしてくれたので少し時間が掛かってしまったが、ようやく師匠の元へと行けた。
私が近づくと、師匠はまたこちらを値踏みする様な視線を向けてきたが、私がグラスを向けると、少し顔を緩めてコツンとぶつけ、「…よろしくな、お嬢ちゃん」と声をかけてくれたのだった。この時初めてだった訳だが、顔には出てなかったと思うが内心では舞い上がっていた。その自分に対して自分で驚いてもいたが、いつだかの時の様に、この時になって改めて、この師匠の事が好きなんだと認識出来たのだった。ついでにと言っては何だが、私の友達の中で、特に”ミーハー”なのは裕美と紫だったが、普段この二人が流行について盛り上がっているのを見て、ハタから見ると大した事じゃないのに何でそこまで熱中出来るのかと不思議に思っていたが、それもこの時になって初めて、少しは理解出来るような気がした。
「は、はい…」
私は何故か逃げるように自分の席に戻った。
「…あぁーあ、やっぱり仕事の後のお酒は美味いなぁ」
と小指を立てつつ一口飲み、口を離すと同時に声を上げた師匠は、その後一同をぐるっと見渡したかと思うと、誰に言うでもなく独り言のように口を開いた。
「…そういや今日は何だか人が少ねぇな?他の人はどうした?」
「あぁ、それはね師匠…」
神谷さんは師匠のそんな発言に対して、間髪入れないようにしているが如くすぐに先程してくれた様な説明をそのまましていた。
聞き終えると師匠は少しつまらなそうな表情を作ってから「なーんだ」と漏らした。
「てっきり今日は久々にマサにも会えるかと思ってたのによぉー…」
師匠は最後にチラッと百合子の方を見て言い終えた。
百合子も何かを察してか、静かにゆっくりとしたテンポで、マサの来れない理由の詳細を話した。その間師匠はウンウン頷いたりしていたが、最終的には苦笑とも見える笑みを浮かべたので、納得した様だった。
「…まぁいっか。俺の最後の高座の日…その日に変に祝られたりするんじゃなく、こうして静かにいつもと変わらない調子で気の置ける奴らと飲んだりするってのが…俺らしいや。まぁ若干”気の置ける仲間”が足りねぇ様だが」
と師匠は、前回私が来た時にマサが座っていた今は空席の辺りを横目でチラッと見るのだった。どうやら大体みんなの座り位置も決まっている様だ。
とここで「フッ」と短く息を漏らしたかと思うと、神谷さんは師匠に苦笑混じりに言った。
「あのねぇ師匠、我々だって…特に私なんかは、貴方に対して祝いたい気は満々なんだよ?今日だって…」
とここで神谷さんが述べたのは、千代田区隼町にある有名な演芸場だった。
「…で演るっていうから、最後だって言うし本当は行きたかったのに、師匠、貴方は薄情にも『来ないでくれ』と言うんだから…」
神谷さんは最後に声を細めると、恨めしそうに目も細めて見せたが、この時ここに来てから初めて師匠は人懐っこい、こう言っても伝わらないだろうが良く写真や映像で見たことのある笑みを浮かべていた。
「まぁまぁ先生、そんな顔をしないでくれよ?前にもちゃんと説明したじゃないか、何で来て欲しくないかって」
「…何で?」
「ん?」
師匠はふと笑顔を少し抑えつつ私のことを見た。神谷さんもこちらを見ている。私自身もすぐにしまったと思った。神出鬼没の”なんでちゃん”だ。まぁ尤も今回に関しては”出てくる”事は容易に想像できた。先程来師匠が話す言葉の一つ一つが、全て疑問に捉えられたからだ。しかし何とか自制出来ていたと思っていたのだが、ここに来てタガが緩んで外れてしまった様だった。
師匠と神谷さん二人とも、何も話さないところをみると、どうやら私の言葉を待っている様だと察したので、私は少し遠慮気味にゆっくりと言葉を紡ぐ様に話した。
「あ…いや、そのー…ですね?何で最後の高座という、そのー…私みたいな素人でも分かるような”大きな時”なのに、こうして見るのは勿論初めてですけど、そんな私から見てもこうして仲が良く見えるのに、来たいというのを断ったりしたんですか?…っていや!」
とここで私は開き直ったせいか、変なスイッチが入り余計に感情の動きをコントロールが取れないままに、熱くなって続けた。
「そもそも師匠、今日が最後の高座だったんですか!?どうしてですか!?まだまだ演れそうに見えますのに…って、あ、いや…」
ここで一気に急に熱が冷めたのは、ふと師匠が私にまたあの視線を向けてきていたからだった。何だか私の本心を見透かそうとしている様で、何だか落ち着かない心持ちになったが、ふとここで私自身も、何も気後れすることなど無い、今まで話したことは全て本心、本音だったんだからと思い直し、
「…その理由を教えて下さい。…”一ファン”からのお願いです」
私は最後まで視線を逸らさずに言い切る事が出来た。後は相手の出方次第だ。
師匠はしばらく私をそのままの調子で見つめてきていたが、ふとウヰスキーを一口飲んだかと思うと、こちらに向かって笑顔を見せてくれた。それはさっき神谷さんに見せたのと同じものだった。
それから師匠は今度は義一に顔を向けると、少し意地悪な笑みを浮かべつつ言った。
「…お前さんの言ってた通り、この嬢ちゃんはこんなに若いのに俺のことを知っているんだな」
「だから言ったでしょう?」
義一も何故か誇らしげに返していた。
「そうか…お嬢ちゃん」
「え、は、はい」
声を掛けられたので慌てて返事をすると、師匠は少し微笑みを浮かべつつ聞いてきた。
「お嬢ちゃんは…落語が好きかい?」
「は、はい…もちろんです」
その質問の裏側にどんな意図が隠されているのかと邪推する何時ものくせが出てしまい、素直にポッと返せなかった。言った後で、相手に気を使っての社交辞令と取られやしないかと思ったが、師匠はニコッと笑って「そっか…」とさも嬉しげに呟いた。
「まぁそうだなぁー…別にこれといって大きな理由がある訳でも無いんだが…」
と横目で隣に座る神谷さんの事をチラッと見てからまた私に視線を戻して、苦笑気味に言うのだった。
「まずこの先生を呼ばなかったのはなぁー…俺の醜態を見せたくなかったからなんだよ」
「…え?醜態?」
思わぬ言葉が出たので、私は思わず聞き直した。師匠は柔らかな表情のまま一度頷くと続けた。
「…そっ、醜態。…お嬢ちゃん、アンタは俺の事を”まだまだ演れそう”ってさっき言ってくれてたが、それは”いつの頃の俺”を見ての意味だったんだ?」
「え?…えぇっと…」
私は少し言葉に詰まった。何故なら、師匠の高座の姿というのは義一から借りた映像だとか、ネット上の動画サイトで見ただけだったから、実際に高座を生で見た事が無かったのだ。尤も、先ほど来ていたお弟子さん達の高座もだったけど…。
私は言おうか言うまいか困っていていたが、隣に座る義一が助け舟を出してくれそうな気配は無かったし、師匠は黙って私が話すのを待っていたので、観念してそのような旨をそのまま伝えることにした。
師匠は相槌をすることなく聞いていたが、私が話し終えると少し呆れたような笑みを漏らしつつ言った。
「…そんなこったろうと思ったぜー…あ、いや、そんなにシュンとしないでくれよ?別に怒っている訳じゃねぇんだから。…義一、お前さんが言ってたように、どうもこの嬢ちゃんは色々と過敏すぎるなぁ…難儀なもんだが、だけどまぁ俺はそんなタイプは嫌いじゃないぜ」
「え、あ、その…」
何か変な気の使わせ方をしてしまったかと、私は少し申し訳ない気持ちになったが、それと同時に嬉しくもあった。
師匠は私に一度ニコッと笑って見せると、先を続けた。
「でもそっかぁ…今アンタが話していた俺というのは、今から二十年前から十年くらい前までの俺の事だなぁ。…懐かしいなぁ、一番芸に油が乗ってる頃だもんなぁー…」
「…確か師匠は今七十八歳でしたよね?」
と私が確認をすると師匠は今度は子供っぽく笑うと、隣の神谷さんの肩にポンっと手を乗せると「そっ、先生の三つ上だ」と答えるのだった。
「って事は、師匠が自分自身の芸が乗ってる時期だったと認識していたのは、ご自身が五十八から六十八の頃だという事ですか?」
「ん?…ふふ、何だか随分と頭でっかちで難しい言い方をされたから、すぐには飲み込めなかったが、そうさなぁ…まぁ俺がいい加減な言い方をしてしまったようだが、もっとアヤフヤに言えば、五十代から六十代までという事だ」
「なるほどー…あっ、ちょっといいですか?」
「ん?」
私はこれがいつでもこの身に降りかかるチャンスだとは思っていなかったので、この少ない機会を利用して、直接色々と芸について聞いてみたいと思ったのだ。
私はチラッと牡蠣をちょうど口に入れるところだった美保子を見てから、前回に彼女と会話した内容を含めての『芸と年齢』についての考えを述べる事にした。私が話し始めると、直接は見えてなかったが、向かいの席から強い視線を感じていた。恐らく美保子…だけでなく百合子までもがこちらに興味の視線を投げかけてきていたのだろう。
師匠はその間、チヂミとウイスキーを楽しみつつ、しかしこちらに向けてくる目は爛々としていた。私は約三分ほど一人で話していた。
「…とまぁこんな話を美保子さんと話していたんですけど、落語という芸では、成熟するのは五十代から六十代なんでしょうか?」
「ん?…んー…」
師匠は口を一度おしぼりで拭ってから、腕を組み首を傾げつつ考えて見せた。そして腕を外して両手を下に降ろすと、少し困り顔を浮かべつつ答えた。
「そのー…なんだ、義一、お前が言ってた通り、この嬢ちゃんの質問は容赦無いところを突いてくるなぁー。しかもまだガキだというのに、こんなしっかりとした芸に対する認識を持ってるなんてよ?」
「ふふ、そうでしょう?」
そう返す義一は、またしても誇らしげだ。
「…こんな質問は迷惑でしたか?」
と流石の私も、褒められたような気はしたのだが、それよりもいきなり調子に乗りすぎたかと反省をしたが、ふと師匠の顔を見ると、今度は好奇心に満ちた明るい笑顔を見せていた。
「…いーや?」
師匠は大きく首を横に振って見せると、穏やかな調子で答えた。
「迷惑も何も、俺はこういう芸談だとか、嘘や偽りのない本質的な議論が大好きなんだよ。…だから長年こうして先生とも付き合ってるんだがよ」
師匠は横目でチラッと神谷さんの方を見た。神谷さんは神谷さんで、特に顔を合わせたりしなかったが、顔に微笑みを湛えつつ黙って料理に舌鼓を打っていた。
「…さてと、何から話せば良いのかなぁ…うん、思いつくままでいっか。嬢ちゃん、アンタはどうやら昔の…と言っても俺もその”昔”かも知らんが、昔の落語家をよく映像で見たりして、詳しいらしいじゃないか?」
「い、いや、詳しいだなんて…」
と私は慌てて返したが、それには目もくれずに話を続けた。
「昔…もう五十年くらい前になるか、俺自身の師匠よりまた少し上の世代に三遊亭圓生って人がいてな、色々な師匠にお世話になったが、その中の一人だったんだ。俺が書いた本の中でも”昭和最後の名人”と称させてもらったんだがね」
「あっ、圓生知ってます。映像でも”包丁”だとか”百川”だとか…もうそれこそ数え切れない程に見ました。師匠のその本も読みましたし…」
とついまた私の悪い癖が出て、色々とその道のプロの前で知識を少しとはいえ披瀝してしまった。こんな時はすぐに自己嫌悪に陥るのだが、なかなか学習しない自分に対してもそうなるのだった。
しかし当の師匠はそんな私の言葉を聞いて、気を悪くするどころか見るからに機嫌が良くなっていた。
「そうそうそうそう!その圓生だよ。いやー、本当に落語が好きなんだなぁー。そうそう、あの師匠はな…」
とここで師匠も、何かのスイッチが入ってしまったらしく、次から次へと圓生との思い出話や噺について話すのだった。私が口を挟む遑がない程だった。仕方なく黙って聞いていたが、その内容一つ一つが面白かった。中には本の内容と重複するところもあったが、それより何より、これは久し振りに言うようだが、やはり私は何か一つのことに熱中して生きてる人が、その内容を楽しげに話しているのを聞いているのが、とても好きなのを認識した。勿論それを実際にしているのを見るのも好きなのは言うまでもない。あと一つ、これはもしかしたら師匠に対して失礼にあたるかも知れないが…やはりこの人は落語が好きなんだなぁーっと平凡な感想を持ったのだった。
何分くらいだろうか、少なくとも五分は喋り倒していたが、不意にハッとした顔つきになって、途端に恥ずかしそうにしつつ調子を落ち着けながら言った。
「…って、あ、いやぁー…ついつい嬉しくなっちまって話し過ぎてしまった。こんな若いのに芸に対して興味を持ってくれること自体が珍しいし、それにそこまで真剣な顔つきで聞いてくれるのもいないからよー…ついな?」
「ふふ、いや、面白かったです」
生意気な様だが、後半部分の様な褒められ方は慣れていたので、これに対しては恥ずかしくなる様なことは無かった。
「そうか?」と師匠はまた一度大きく笑って見せると、またさっきまでの穏やかな表情に戻り、ゆっくりと続きを話した。
「…ああ、その圓生師匠だがよ、あの師匠の有名なセリフで『死ぬまで勉強です』なんてのがあるんだが…」
「知ってます…あ、いや、すみません」
とまたついつい口を挟んでしまったが、師匠がにこやかにしていたので、前ほどは必要以上に恐縮する事は無かった。
師匠は何事もなかったかの様に続けた。
「おう…でな、そのセリフは如何にも圓生師匠らしい台詞だと思ったんだが、まぁ七十九歳で、しかも高座を終えた直後に心筋梗塞で亡くなるってんだから、まぁ本当の意味で死ぬまで噺をしたって点ではその通りだがよ、それでもやはり死ぬ直前には衰えは見えていた…贔屓目で見てもな?何が言いたいかっていうとよ、圓生師匠も、俺は直接見てきたから分かるが、やはり五十に入ってから六十を半ばくらいまで来たくらいのが、絶品…全盛期だったと思うねぇ…」
「歌でも近いものですよ」
とここで不意に口を開いたのは美保子だった。
「…さっき琴音ちゃんが話してくれましたけど、一概には当然言えませんが今の時代のレベルで言えば、作曲家なり、演奏者なり、私の様な歌い手などは、何とかずっと研鑽を積んできて初めて四十代に入ってから油が乗りだすんですからー。…ただまぁ、その説は私も何度も直接聞いてきましたけど、単純計算で私達の稼業は二十年くらいと見積もっているのに、落語家さんの場合は全盛期が十年そこそこなんですねぇ?」と、たまに私に笑みを向けて来つつ明るげに話していた。
師匠は少し決まりが悪そうに笑いつつ
「…まぁ、俺が見てきた師匠連中を見てみたら、そんな感じだったって、それだけの話なんだがよ」
と返していた。
「でまぁ、今たまたま圓生師匠の話をしたわけだが、考えてみたら俺は今七十八、師匠が亡くなったのが七十九、もしかしたら何かの縁で、俺も来年あたりにおっ死んじまうかも知れねぇなぁ」
「…え?」
師匠が不意にそんな事を、しかも心から面白く愉快だという風に言うので、私は面を食らったがすぐその後に、えも言われぬ寂しさに襲われた。おそらく顔に出ていたのだろう、隣にいた義一が私の方をチラッと見ると、すぐさま師匠に苦笑まじりに言うのだった。
「…ちょっと師匠ー…またそんな事を言うんだからー…ちょっとは…」とまだ何か言いかけていたが、ここで急に師匠が意地悪く笑いつつ口を挟んだ。
「別にいいだろう?こんくらいの事を言ったって。何度もアンタらの前でも言ってる事だし…。まぁ今日は珍しく見ない顔が居るけれども…。と言ったって、誰が聞いてようがどう思おうが、俺の決意は変わらねぇんだからよ」
私は自分でも分かる程に顔が強張っていくのを感じたが、それは勿論師匠が突然”死”について触れたからだった。
当時の心情を軽く描写すると、せっかくこうしてふとした色々な"偶然”が重なって、数少ない大好きな、しっかりと本当の”芸”を持ってる”真”の”芸能人”と出会い、そしてもしかしたらあわよくばこれ以降お近づきになれるかもと思っていた矢先での発言だったので、それが大きな要因の一つには違いなかった。だがそれと同時に、もう一つの大きな要因として、この時にまたふと胸の奥底に"ヤツ”がウズっと動きをみせたのを感じたからでもあった。前回の”何で人を殺しちゃいけないのか?”という疑問が湧いた時と似た様なものだろうと、当時はそこまで分解出来ていた訳では無かったが、漠然とはいえそれくらいの予測は容易に立てていたのだった。…っと、この話はこれくらいで終えておこう。
師匠は一度ウイスキーを飲むと、あくまで呑気な調子を崩さずに続けた。
「正直俺は長すぎる程に生き過ぎた。…あ、お嬢ちゃん、アンタの質問に答える…いや、答えになるかどうかは分からねぇが、それらしい事を話させてもらうよ。そう、アンタが聞き返してきた”醜態”って意味についてだ。今少し話した様に、俺が思う…落語に限って言えば五十代から六十代にかけてが円熟期にして全盛期に入れると思っているんだが、自分で言うのもなんだが、確かに己の芸を振り返り見ると、その頃あたりが一番良かったとハッキリ言えるんだ。何か根拠があるのかと聞かれると少し困るが、一つだけ確実に言えるのは、演った後はいつもって訳じゃなかったが、それでも俺の芸人人生の中では終えた後に気持ちよく、出来に満足いって気分が良かった事が多かったんだ。言うなれば…『どんなもんでぇっ!』ってな心持ちだな!」
師匠はその場で胸を張って見せた。がすぐに少し前屈みになり、片方の眉だけ上げつつ、しかし笑みを絶やさぬまま続けた。
「その出来の良し悪しもな?…ゼロとは言わねぇが、基準は客では必ずしもないんだよ。稽古してる時も、普段の生活の時も四六時中噺の事ばかり考えていて、それが何かの拍子に新たな解釈を見つけたとする …それを次にはぶっつけ本番で高座で演ってみる…これを俺は五十年近く続けてきたんだが、いくら芸歴を積もうと、図太い俺でも不安を抱えて上がるんだ」
「…五十年でもですか?」
と私が無意識に近いままに相槌を打つと、師匠は微笑を湛えつつ一度大きく力強く頷いて見せてから答えた。
「そっ、五十年演っても何が正解だか分からねぇ…そうやって未練たらたら言いながら死んでいくんだろうなぁー」
「そんな…」
あまりに諦観めいた口調で言ったので、何か気の利いた言葉を返そうとしたが、何も思いつかなかった。結局黙ってしまったが、しかし何も言わずとも私の心中を察したのか、師匠は少し困り顔で笑って見せただけだった。
とその時、師匠はふと何かを思いついたといった風体で私に話しかけた。
「…あ、そうだ。お嬢ちゃん、俺はさっき善し悪しの基準を必ずしも客には置いてねぇと言ったが、それをアンタはどう思う?」
「どうって…」
これまたフワッとした質問だった。同時に思い出したのは神谷さんだった。仲良しなのが原因か、それとも元からなのかは定かでは無いが、こんな所でも似た者同士だった。
少し考えた挙句、結局は単純な返答をする事にした。
「…まぁ、言わんとする事は分かる気がします。…そもそも私は、師匠の本を読んでいますし…」
「…クク、そうかい?」
師匠はまたあの品定めをする様な目つきで見てきていたが、私がそう返答すると、途端に機嫌良さげに返してきた。
「なるほどなぁー…。ここですぐに”同意します”みてぇな事を単純に答えねぇ所が、また気に入った!」
「あ、いや、まぁ…」
「そうでしょー?琴音ちゃんは…」
もういいだろう、細かく描写するのは。義一がこれで何度目になるかってくらいに誇らしげに言ったのだ。私は一人冷め気味にアイスティーをストローで吸い上げていた。
その一連の流れが終わると、師匠はまたさっきまでの雰囲気に戻って私に話しかけた。
「まぁ暗に同意してくれたと思って話を続けよう。…お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは話を聞く限りじゃ、まだ人前では演奏をしてない様だが、それでもどうしてそう俺の意見に”同意もどき”をしてくれたんだ?…いやまぁ嬉しくもあり照れ臭かったんだが、俺の本を読んでと話してはくれたが、それ以外からの見方で答えて欲しいね」
「え?…んー…」
これまた中々に難しい質問を投げかけられたものだ…。
今回に限っては、私の暴走が招いた事では無かったので、ほんの少しばかり心の中で毒づいてしまったが、これに関しては…ちょっとややこしい言い方になってしまうが、ピアノの師匠に借りた本の中に今の話題に合う様な面白い本があったのを思い出し、取り敢えずはソレを話してみる事にした。
「…前に私のピアノの師匠から借りた本の中に、『音楽の聞き方』というのがあったんです。ちょっと生意気に言えば、素人向けの本で、これからクラシックを聞いてみようか、それとも何かの拍子に手に取って読んで、そこからクラシックに興味を持って貰おうっていうような主旨の本だったんですけど…何でも師匠のお友達が書いたというんで、私がまだ小学生の頃に貸してくれたんです。…あっ、で、内容としては大まかな音楽の歴史が書かれていて、因みに私はその本から”音楽史”を学び始めたんですけれど…あ、いや、そんな事を話したかったんじゃなくて、つまり何が言いたいのかというとですね…?」
私が”いつものように”テンパりつつ話している間、師匠だけでなくこの場にいた一同は、静かに、間に何か茶々を入れるのでもなく、静かに、そしてまるで私を見守るように聞いてくれていた。
「…その本の骨子を言うと、こうだと私は思ったんです。『確かにクラシック音楽というのは、巷に溢れているし、名前とメロディーが一致しなくても知られているのは沢山ある。それなりに世間に受け入れられ、受け継がれている感が無くはない。ただ…その知名度の高いメロディーというのは、ある曲の中の一部であってそれが全てじゃないし…そもそも巷で流れてはいるが、それが果たして”作曲家の意図”を汲み取った上での使い方かどうか、甚だ疑問を禁じ得ない。音楽を聞くにしても、これまで色んな時代の人々が作曲家の意思を、実際出来ていたかは兎も角、気持ちの上ではなるべく尊重しようとしつつ、色んな想いを持って現代まで、演奏法から解釈から何から受け継ぎ伝えてきたのに、それを現代の人々が”メンドくさい”と”聞くため”の何の努力もせず”惰性”で聞いてアレコレ好き勝手判断していいのだろうか?そしてそんな不勉強で、そのいっ時の気分に流され好みも大きく振れるような客に媚びて、音楽家たちが演奏していいのだろうか…?』」
とここまで話したのだが、ふと”相変わらず”まとまりが無くなってしまったのに気づいて、途端に素に戻って恥ずかしくなり、無理矢理にまとめる事にした。
「だ、だからそのー…師匠、あなたの言われた『客が基準ではない』という考えには、…ここまでくれば私も恥なく言えると思いますが、ハッキリと”同意します”」
と言い終えると、少しでも話が終わった事が伝わるようにアイスティーを一気に半分以下まで飲んだのだった。
その間、私の啜る音だけが鳴っていたが、「くっ」と音がしたのでその音源の方を見ると、その主は師匠だった。
師匠は「くっくっくっくっ」と少し息苦しそうに…典型的な呼吸器系が弱っている人風の笑い声を漏らしつつ、にこやかに私に話しかけてきた。
「…っく、いやぁー嬢ちゃん、いや、琴音、決してワザとでは無かったんだが俺が今したような質問に対して、よくもまぁそこまで深い返しをしてきたなぁ。…いやぁー、驚いた」
「い、いえ…そんな」
何度か似たような褒められ方はされた事があったから、もっと何気無く流せるようなもんだと思われる人もいるかも知れないが、師匠からは初めてだったし、やはり何より、何十年も落語の世界では誰よりも芸の事だけを考えて生きてきた人からの感想だったからこそ、重みを感じて、自分で言うのも変な話だが、何だか今までの中でトップスリーに入るくらいにキョドッてしまった。”お嬢ちゃん”呼びから、”琴音”と下の名前で呼んでもらったのにも気付かなかった程だった。
そんな大袈裟なリアクションを久しぶりに見たせいか、隣の義一も私のそんな様子を和かに微笑ましげに見つめてきていた。その他の神谷さん、美保子、百合子も同様だったのは言うまでもない(?)。
暫く場の雰囲気は和気藹々としたものだったが、ふと師匠はまた表情を戻すと私に話しかけてきた。
「でもそっかぁー…俺が親しくしている中じゃ、いわゆる音楽という芸に勤しんでいるのがジャズの美保子しかいなかったからよぉー…今の話は面白く聞かせてもらったよ。…まぁ面白かったってのは色々あったが、何よりもやっぱり落語も、お前さんのクラシック音楽も、根底では変わらねぇんだなぁーってトコだな」
「…そうだねぇ」
とここで口を挟んだのは、今まで食事を摂りつつ静かに話を黙って聞いていた神谷さんだった。
神谷さんは一口日本酒で唇を濡らしてから続けた。
「…師匠と琴音ちゃん二人の深くて興味深い芸談に、もしかしたら水を差しちゃうかも知れないけど、ちょっと思い出した事があったから…良いかね?」
神谷さんはそう言い終えると、私と師匠を交互に見た。すると師匠は少し声のトーンを上げ気味に…予め、これは師匠のことをバカにして言う訳ではないと一応保険をさせて頂くが、トーンを上げても正直上がりきらない掠れ声で
「おう、折角だから話してくれよ先生!…なぁ琴音、アンタもいいだろ?」
「え?あ、はい、もちろんです」
正直それまでは、いわゆる壁を感じない訳でもなかったが、ここにきて急に師匠の方から壁を取っ払って近寄ってきてくれたので、面を食らいつつも微笑みつつ答えたのだった。その笑みは愛想笑いでは無く、嬉しさからくる自然なものだった事は付け加えさせて頂く。
「そうかい?じゃあ…」
と神谷さんがまたメモの切れ端を何処からか取り出したので、私もすかさずソファーの上に置いていたメモ帳を手に取り、準備を整えた。ふと視線を感じたので其方に目を向けると、師匠が興味深げに私の事を見つめてきていたが、ふと目が合うと、何も言わずただ微笑んでくるのだった。
「さて…私は君たち…いや、他の美保子さんや百合子さんみたいに芸に実際従事してる訳じゃないから、何だか毎度の事とはいえ話すのは恥ずかしいのだけれど…まぁいいか。私はこの通り頭でっかちで固い考えしか出来ないから、字引的で申し分けないけれど…今師匠が言った、『落語とクラシックが似ている』というセリフ…実は本質を射っていると思うんだ。それは何故かと言うとね二人とも…、そもそも落語とクラシック音楽には共通点が…ん?何かな琴音ちゃん?」
「…え?」
急に神谷さんが話しかけてきた。私はふと顔を上げると、そこには好奇心に満ち溢れた好々爺の笑みがあった。
「いやなに、君が一瞬私と目が合った気がしたもんでね?…何かまた思い当たる節があるんじゃないかと思ってね」
はぁ…良く見てるもんだなぁー…。
確かにあることを思い出し、不意に顔を一瞬上げて、その時に神谷さんと目が合ったのは事実だった。
ここまで見抜かれたら仕方ないと、また出しゃばって話すつもりは無かったのだが、こう勧められちゃあ仕方ないと観念して話す事にした。「まぁこれは…義一さんと何度か会話した中で出た事なんですけど…というか義一さんの説なんですが」
義一がまた要らぬ事で口を挟んできそうだと察知し、予めこうして予防線を張っといたのだった。
「うん、続けて」
「はい。…まぁ落語とクラシックの最大の共通点を言えば、ある意味二つとも言うなれば”台本”が初めからあって、それを再現するという芸術の類に分類されるんじゃないかって事なんです」
「…再現か」
師匠はボソッと呟いた。とここで、内心がどうかは兎も角、今のままでは師匠の”芸”に対する見方とズレている様に勘違いされそうだったので、すかさず続きを話した。
「再現って言っても、何も前の人達がしてきた事をそのまま再現するって意味じゃないんです。その時代時代に生きていた人々…この場合は演者って意味ですけど、どうしたって時代は流れて変化をしていく…それに抵抗しようと、古いままの昔ながらのやり方を頑固に続けていれば、いわゆるアナクロに落ち込み、通”ぶった”訳知り顔の客相手にするだけの”伝統芸能”に落ち込んでしまう…これは師匠、あなたが高座や本の中で再三仰ってた事ですよね?」
と私が微笑みつつ声をかけると、師匠は見るからにタジタジになりつつ、「お、おう」と答えるその顔は、照れからきたものか、それともまた別のからか判断しづらい苦笑いだった。
私はその様子を見て、自然と笑みが溢れつつ、
「とまぁ、以上の様な点でこの両者は深い本質的な所で共通しているんじゃないかと…思った次第です」
と最後に神谷さんに顔を戻しつつ終えた。
それから暫くは「へぇー」とか「ほぉー」となどの、特に意味のない声が漏れていたが、不意に師匠が意地悪い悪戯っ子の様な笑みを浮かべてきつつ、少し前のめりになりながら声をかけてきた。
「琴音…お前さんは今いくつになるんだ?」
「え?」
急に何を言い出すんだろうと驚きを隠せなかったが、聞かれたので答える事にした。
「い、今は十三歳で、今年で十四歳になります」
「…今年で十四歳かぁー」
師匠はそう呟きながら、私の全体を、初めて顔を合わした時の様にジロジロと見てきた。
だが、さっきの様な値踏みをする様な目つきではなく、これまた自分で言うのは恥ずかしいが、感心した様な目つきであった。
「十四かぁ…俺が師匠の所に弟子入りしたくらいの歳だなぁー」
師匠は私から目を離さないまま、何処か遠くを見る様な目つきをするのだった。
「あん時の俺は、ただ落語が好きってだけの、芸の事なんぞ何も分かっていなかったハナタレ小僧だったが…義一」
「はい?」
義一は呑気にビールを飲んでいたが、話しかけられたので口からジョッキを離して応じた。師匠は呆れた表情を浮かべつつ続けた。
「…お前さんの”変人”具合には舌を巻いたが、その姪っ子…この子も大概に”変人”だなぁ」
「ふふ、お褒めいただき有難うございます」
と義一は最大限に慇懃に返すのだった。私は一瞬固まったが、次の瞬間には笑みが漏れていた。それを見たからか、師匠も少し喉を辛そうにしていたが、くっくっと特徴のある笑い方を見せていた。
…この時にはまだ気づいてない…いや正確に言うと自覚をしていなかった事があったのに、後で気づいた。それは…あれだけ昔の、幼稚園以来から続く”変人に見られてはダメ”というある種のトラウマにも似た強迫観念が、この頃もまだ大分マシになっていたとはいえ残っていたのだが、こうして師匠に言われても何とも思わなかった事だった…いや寧ろ、この時ばかりは若干誇らしくも感じたのだった。何故なら、この師匠…私が生まれる前の事だから、この目や耳では直接知らないのだが、色々とやんちゃな事をしてきた様で、日本中からバッシングを受ける様なこともしてきたらしいのだ。落語の芸はピカイチなのに、世間をやたらと引っ掻き回すこの師匠を、同時代の人は”鬼才”と称したり、”時代の異端児”と称したりしてたらしい。…もう何が言いたいのかお分かりだろう。そう、そんな”異端”であると”思われている”事を屁とも思わず、自分の信念を貫いて五十年以上芸を磨いてきた…そんな師匠に”変人”呼ばわりされたという事実に対して、誇らしく思う以外の何があるだろうか?
…とついつい又熱くなるあまりに話が逸れそうになったが…あと一つ、と言うよりこれが本題なのだが、それは…そう、この”変人”呼ばわりされる時、明快に私の中で線引きがなされているという事実だった。『あれ?今更何を言うんだ?』と思われる方もいるかも知れない。
確かに散々パラしつこいくらいに話してきた様に、義一に始まり、師匠、絵里、裕美、まだそんな言われたことが無いせいか感覚としては乏しいが紫、藤花、律、この三人の学園での友人たち、そして数寄屋に集まる面々…彼らにそう称されても特段に嫌な思いはせず、キチンと冗談として受け入れられていた訳だが、全員に共通しているのは、私が心を許しているという事だった。…ここで久し振りにというか、そもそも引用したく無いのだが、分かりやすく使い勝手が良いので止む無く使わせて貰うと、ヒロが以前に私を”人間嫌い”と称していたのを覚えている方も…恐らくおられると思う。言われたその度に文句で返しはしていたが、その事自体は私なりに自覚はしていた。まぁ正確に言えば、自分で言うのも馬鹿馬鹿しいが、中々他人に心を開かないという事だ。でもその分…いや他の事例は知らないが、私に限って言えば、簡単に心を許さない分、許した時はかなり自分で認識出来るという事だ。…さて、長々とまたくだらない話をしてしまっている様だが、もう少しだけお付き合い願いたい。もうすぐに終わる。
まとめると、要は私が心を許した相手に変人扱いされる分には別に構わないと思う所まで脱却出来てきていたという事だ。
そしてこれ等から後で何が分かったかというと…そう、肉親であるはずのお父さんやお母さんから変人扱いをされる…そんな事を想像しただけで、今だにまるで幼稚園…そして義一と初めて出会った日の夜を思い出してしまい、吐き気を伴う嫌悪感にも似た気分に苛まれる…つまり何も進歩していないという事実だった。…ここまで言えば、私が何が言いたいのかお分かりだろう。これ以上私の口から話すのは辛すぎるので、勝手だがここで終わらせて頂く…。
話を戻そう。
「…いやぁ」
場の和やかな雰囲気にもひと段落がつき始めたその時、神谷さんがおもむろに、感心してるとも呆れてるとも捉えられる様な何とも表現し難い笑みを浮かべつつ口を開いた。
「琴音ちゃんにそこまで具体的に言われてしまっては、もう私から言うべき事なんて無くなってしまったよ」
「…え、じゃあ」
と私が短くそう言うと、神谷さんは一度だけ頷いて、それからは笑顔で返した。
「私が言いたかった、そのままだよ。…と言うより、流石と言うべきか、その”道”を歩んでいる人ならではの話をして貰って、とても嬉しかったよ。美保子さんや百合子さんも、何も言わないところを見るに、どうやら君の意見に同意らしいしね」
神谷さんがそう言うので、思わず向かいの席を見ると、二人ともが私に頷いて見せたり微笑んで見せたりしてくれていた。私も自然と微笑み返そうとしたその時、
「…そういえばアンタ」
と師匠が不意に声をかけてきた。瞬時にそちらの方に顔を合わせると、師匠は子供の様に好奇心に満ちた笑みを浮かべて見てきていた。
「…さっき話してくれた内容の中で”伝統芸能に落ちぶれてしまう”ってセリフを…いや、確かに俺が普段から言ってることだし、それを引用して話してくれたが…敢えてもう少し聞いてみたいな。…そう、今アンタが触れてくれたが、そのニュアンスからでも分かるだろ…?そう、ズバッと言やぁ、俺はいわゆる”伝統主義”ってもんが気にくわねぇんだ。…いや、もっとちゃんと言やぁ、俺が演じている落語を”伝統主義”って言葉で称されるのが、たまらなく嫌なんだ。それが俺が色んな噺を毎回毎回演出変えて演ってしまう大きな理由の一つではあるが…いや、そんな事はともかく、アンタはどうも同意してくれてる様だが、では何故その種の芸能に属しているのに、伝統芸能…”伝統主義”に”落ちぶれ”てはいけないんだろうな?」
「…」
最初にこの時の私の心情を話しておくと、ただ単純に『待ってました!』といった感じだった。何故そう思ったのかというと、何度も繰り返し言ってる様に、憧れだった”師匠”とこうして顔を突き合わせて”芸談”が出来るという僥倖に接せられたというのもあったが、もう一つの理由として、これは師匠に対しても…いやソレ以外の方にも失礼にあたるかも知れないが、もう一人新たに語らえられる人に出会えたということに対しての、単純な嬉しさにあった。
本当は私の師匠ともそこら辺の”深い”所をお話しして見たかったが、そこはやはり”本当の”師匠と弟子、勿論小二からの付き合いだから二人の間に壁は無いのだけれども、こうして本格的な師弟関係になってしまうと、昔の様にはいかないものだった。いつも師匠の方から振ってくれないと、中々芸談らしい芸談は出来なかった。前にも言った様に、直接聞いたわけでは無かったが、恐らく今はその段階ではないと判断しての事だろうと、弟子としては見ていた。しかし別にそう判断されたからといって、師匠に対して不満など一切湧かなかった。
これは暗に何度か言われた事だったが、今はひたすら何にも増して”基礎”を、まずは私自身が率先して自分の中に叩き込むのが先決だとの考えを持っている様で、それには勿論私自身その通りだと思っていたので、その方針にはすんなり納得していたのだ。今はただ、いつか私が少しは成熟した時に、今こうしてしている”芸談”が出来る日を楽しみにしているのだった。
…また話が逸れた。まぁ要するに『待ってました』と思った具体的な理由で言えば、この話も何度か義一としていた事だったからだ。
私は一度深く息を吐き出してから、調子を上擦らせない様に気をつけながら話し始めた。
「これもまた義一さんと何度か話した事なんですけど…」
とまずこの最初の所で、私はチラッと義一を見た。丁度義一はジョッキから口を離したところだったが、私の事を見ると、ふぅ…と溜息交じりの微笑を浮かべるのみだった。この時の私には、その溜息の意味するところを把握しきれなかった…が、構わずそのまま話を続けた。
「今師匠が言われた”伝統主義”…これについては雑談的に話したので、何だかフワッとした結論しか出なかったんですけど…良いですかね?」「おう、構わねぇから、早く続きを話してくれ」
師匠は腰を曲げて、前屈みになりつつ言った。どうやらこれが師匠のスタイルの様だった。その姿を見ていて、腰は大丈夫かと要らぬ心配が頭を過ぎったが、促されるままに続きを話した。
「ちょうどその前に二人であるドキュメンタリーを見てまして、それは上野の池の端にある”つげ櫛”を商っている職人さんの話だったんです。インタビュアーが一人いまして、その人がアレコレと質問していって、それに対して、うーん…大体七十くらいの職人のお爺さんが、静かにだけど優しげに微笑みつつ受けごたえをしていて、和気藹々とした調子で番組が進んでいったんです。…でも、最後の最後で、少し棘が残る感じで番組が終わってしまったんです。何故かというと…本当に最後の方、エンドロールが流れ始めた辺りで、インタビュアーが取材に感謝してからその流れでふとこう言ったんです。『今は櫛でも何でも機械化してしまっていて、”伝統工芸”であるつげ櫛は大変でしょうけど、頑張ってください』と。インタビュアーは悪気もないのでニコニコしてましたが、今まで微笑んでいた職人さんの顔がほんの少し曇ったかと思うと、ボソッとこう呟いたんです。『…伝統伝統って…まるで俺らが何もしてないみてぇじゃねぇか…』と。番組自体はエンドロールが流れていたくらいですから、その後すぐに締められたんですけど、辛うじて聞こえた職人さんの呟きに、その時の私は何故か惹かれて、その後すぐに義一さんと話し合ったんです」
「ふーん…なるほどなぁ」
師匠は腕を組みつつ、目を瞑りながらウンウンと頷いていた。
「その職人…会ったことも見たこともねぇが、言いたい事は分かる気がするなぁ」
と私に遠くを見る様な視線を投げかけながら言った。
「でまぁその時に色々と話したり教えて貰ったりしたんですが…ここからは別に義一さんが話しても良いと思うんですけど…」
私はわざと恨めしげに義一にジト目を向けた。義一は何食わぬ顔でビールを煽っている。
「…いや」
と師匠が、テーブルに肘をつきつつ言った。
「俺はアンタの口から聞きたいなぁ」
「え、あ、はい…分かりました」
師匠があまりにも柔らかな表情で言ってきたので、思わず驚きキョドりつつ返してしまったが、気を取り直して先を続けた。
「えぇっと…そうそう、まず最初に考えたのは、私たち…この場合は私と義一さんですけど、私たちの考えている”伝統”と、この職人さん含む世間一般の考えている”伝統”が違うんじゃないかって事なんです」
「ほぉー…」
「師匠も、神谷さんと仲良さそうなので、その”やり方”はご存知だと思いますが…」
私は二人並んで座る師匠と神谷さんを交互に見つつ言った。
「まず伝統って言葉の意味から考え始めたんです。で、そのやり方は…そう、まず源流を訪ねることから始めました。これは義一さんに教えて貰ったんですが、そもそも伝統という言葉は日本語には無かったらしいんです。伝えて統べる…こういった呼び方は、例によって明治以降に新しく作られた言葉らしいですが、とは言っても実は”でんとう”という言葉自体が無かった訳ではなく、私たちに親しみのある漢字とは違う形で延々と日本語の中で使われていたらしいんです。それは…伝えて統べるではなく、”伝える”の”でん”に火へんに登ると書く”燈”…この二つを合わせて”伝燈”と読んでいた様なんです」
「へぇー」
とここで、義一を除く一同全てが感心して見せてくれた。
私は相変わらずこういう時どうしていたら良いかわからなかったので、軽く辺りを見渡していたが、その間にふと意外な出来事が起きていたのに気づいた。それは、他の人たちと同じ様に神谷さんも同じ様な反応を示していたからだった。何故それに対して驚いたのかというと、義一が知っている事は、自然と神谷さんも知っているものと、漠然と思っていた事だった。何せ義一が”心”の師と慕うほどの人物だ。だからそう早合点しても仕方ないと自分でも思うのだが、後々で考えて見たら、そういう事があってもおかしくなかった。だが、この時ばかりは少しだけ面を食らったのだった。
「”伝燈”かぁ…なるほどねぇー…」
神谷さんは義一に微笑みを向けてから、そのまま横に流し、私にも向けてきた。
「その先を続けてくれるかな?」
そう声をかける神谷さん、そして黙ってこちらを見てくる師匠…。
二人とも言うまでもなく違う顔の形をしているのだが、浮かべている表情が同じ過ぎて、危うく兄弟に見間違いそうになる程だった。…言い過ぎかな?
私はそんなことを考えてから、促されるまま先を続け…ようとしたが、この先の説明は難しかったので、義一に目配せをして救援を頼んだ。
義一はこれにはすぐに察してくれて、私の代わりに少しばかり助っ人を買って出てくれた。
「そうそう、で、そもそも伝燈というのは燈火、燈明のことで、仏教からきている言葉なんだよねぇ。その昔、お釈迦様が亡くなられる時、弟子たちはお釈迦様に、『我々は明日から何を拠り所に生きていけばいいのですか?』と問うた時に、こう返したんだよね。『仏の真理や教えを志す自分の心の拠り所、私の問いた教えを燈火としなさい。自燈明、法燈明』とね。それ以降、仏教では、 師から弟子に教えを伝える事を「伝燈」、教えの記録を「伝燈録」と言う様になる訳だけれど」
「…なんだい、義一君」
とここまで話が来たところで、ふと神谷さんが口を挟んだ。顔はなんとも言いようの無い、嬉しさと感心に満ちた、和やかな満面の笑みだった。
「君はいつの間に仏教の方まで手を伸ばしてたんだね?」
「あっ…いやぁー」
と義一は見るからに困り顔を作って、思いっきり照れて見せた。
「い、いやぁー…アレですよ、最近”能”や”狂言”や”歌舞伎”…それに茶道について研究してまして、そこから得られた話なんです。これらの話は今言った芸能の世界ではよく知られている事らしくて、それでそのー…ほらこの子、琴音ちゃん、彼女がここ数年ずっと”芸”についての関心を深めて行くので、それについて行こうと、ただの学問的知識ですけど、彼女に影響されてですね…」
と義一は途中から私の背中に手を当てつつ、こういった脈略のない言い訳(?)を慌てつつ繰り広げていた。
なんだか途中から巻き込まれた感じになったので、少しばかり不満だったが、そんな義一の様子を見ていたら、そんな些細な不満は消し飛び、「…ふふ」と思わず吹き出してしまった。それを合図にしたか、私以外の一同…神谷さんと師匠も含めてクスクスと義一に向かってニヤケたり微笑んだりするのだった。義一はただひたすら頭を掻いて苦笑するのみだった。
「はぁー…さて」
場が落ち着いて来た頃、神谷さんは義一と私に話の続きを促した。
『君が続きを言うかい?』と聞きたげな視線を向けてきたが、私が何も言わず軽く横に首を振ると、義一はそのまま続きを話した。
「で、ですね…えぇっと…あ、そうだ、でまぁその「伝燈」を象徴しているものとして、比叡山延暦寺には”不滅の法燈”という、最澄が比叡山延暦寺を開山した時に燈して以来、約千二百年間一度も消えていない”燈”(ともしび)があるんですけど…いや、それは今は置いといて…要は油を常に注ぎ入れていないと、この燈は消えてしまうわけですから、そこからまぁ僕と琴音ちゃんとで出た一つの結論としては、”伝統”の本質は『型にはまった、昔っから変わらない…』といった様な、ひたすら過去にしがみつくような偏狭なものなんかじゃなく、常に”新しい”油を注ぎ足して守り、伝えていく事…つまり時代時代に即して、”大事な根っこの部分”を壊さない事を前提に、”改善”し続けていく事…という結論になったんです。…琴音ちゃん、この”新しい油”というのがポイントなんだよね?」
「…え?あ、あぁ、うん、そうだよ」
私は今までの話をメモしてまとめていた所で不意に声を掛けられたので、すぐには対応出来なかったが、義一が言わんとしているところが分かったので、すぐに引き継いだ。
「油を注ぎ足すといっても、その時代時代によって油の種類が違ってくる訳だけど、そんな違う油を注ぎ入れたからといって、それで燈が消えてしまう訳ではないし、その時代時代の異なる油を燃料にして燃えるその火の色は、多種多様で面白い姿を見せてくれる…そんな話をしたよね?」
「うん、その通りだね」
「なるほど」
とまた一同は私たちの会話を聞いて感心したような声を漏らしていたが、不意に義一が、今度はニヤケながら話を振ってきた。
「…そういえば琴音ちゃん、この話の流れで、あの時僕に面白い話をしてくれたよね?あの話もみんなにしてあげなよ?」
「へ?…あ、あぁー…」
急に何を言い出すのかと思ったが、すぐにその時のことを思い出し、自分でも分からず恥ずかしい気持ちになりながら、神谷さんと師匠の方に顔を向けて話すことにした。
「えぇーっとぉ…まぁその時に思い出したっていうのは、また私の師匠に借りた本からの引用なんですけれど…。作曲家のグスタフ・マーラーの言葉なんですが、伝統についてこんな話をしていたんです。『伝統というのは、灰を博物館に飾って、それを拝むことではない。その灰に新たに火をつけてやる、それこそが伝統だ』と。…今の話にも通ずる事だと思ったんですけれど…」
「確かに!」
とここですぐさま同意を示してくれたのは美保子だった。
美保子は少し興奮気味に続けた。
「そうそう!私も今思い出したわ!確かマーラーは…その話をするのに、まず周りから、『あなたは先進的な音楽家だ』云々かんぬんと褒めそやされた時の反論という形だったと思ったわ。…そうよねぇー、当時の作曲家達は、すでに時代が近代化してきていて、社会には文化を受け入れる余裕もなければ余地も無くなってしまって、既に全てが商業主義に堕ちていっていて、分かり易いものか、それともなければ聞いたことも無いような新奇な物に流れる客に合わせた様な曲が溢れていったのよねぇ」
「うん」
と私は相槌を打った。美保子は一度笑顔でウンと頷くとまだ続けた。
「そんな中でも、まだマーラーなんかは何とか”クラシック音楽”を保とうと頑張った結果として、あぁいった今までに無かった様な一度聴いただけでは全貌が捉えられない様な曲を書いていった訳だけれども、今言った様に、何も新奇な物を狙って作った訳ではなく、伝統を守ろうとした結果だとも言える訳よね」
「うん!」
私は少し話が脱線してきているのにも関わらず、前よりも強めに同意をした。それが拍車をかける結果になったか、美保子も鼻息荒く先を続けた。
「マーラーに限らず、調性音楽を脱して無調に入って、十二音技法を創始した同時代のシェーンベルクだって、自分の事を”保守的な音楽家”だと称していたし、少し時代が後だけど、イーゴリ・ストラヴィンスキーも自分の事を”伝統的な作曲家”だと称していたしね」
「うん…あっ!」
と私はここで余計な事を思い出し、そのまま述べる事にした。
何せ、自分の好きな音楽について、しかも自分の話題にキチンと付いてきて共通の話題で盛り上がれる機会は、師匠や藤花との技術的な話題とはまだ別にして、そう無かったので、ついついテンションが上がってしまい、普段電話で話すノリになってしまっていた。
「ストラヴィンスキーはまた、周りが自分の事を進歩的だと言うのに反発して、いかに自分が”保守的”かというのを、本を何冊も書いて述べているよね。その中で確か…そうそう、推理小説家にして保守思想家のチェスタートンのセリフを引用したのが残ってるの。こんなのだったわ。『出来るだけ、周りから頑固と思われる程に真っ直ぐに立とう。なーに、どんなに頑張ってまっすぐ立とうとしたって、自然が丁度良い具合に腰を曲げさせてくれる』ってね。これをストラヴィンスキーは好意的に引用して、大好きな言葉と言ってるんだけれど、私もこれ好きだなぁ」
「あぁー、あれ良いよねぇ」
私と美保子で微笑みあい盛り上がっていると、「…ちょっと良いかな?お嬢さん方?」と声を掛けられた。見てみると、言うまでもなく神谷さんだった。
「そろそろ本題に戻していいかな?」と言うその顔は、少し呆れ顔が混じっていたが、基本的に陽気な笑みを浮かべていた。それなりに私と美保子の会話を楽しんでくれた様だった。その他の皆も同様だった。
取り敢えず私と美保子は「ごめんなさい」と軽く謝っておいた。
すると今度は、これまた楽しそうに笑う師匠が口を開いた。
「…いやぁー、良いなぁー…。俺はやっぱり、違うジャンルとはいえ、こうした芸の話を話したり聞いたりするのが、何よりも大好きだ…」
「私も…」
私はほぼ無意識に声を漏らした。自分でも分かる程に自然な笑みを浮かべながら。
「私も大好きです」
と構わず続けて言うと、師匠は静かにニコッと笑うと「そっか…」と声を掛けてくれた。私はそれにまた微笑み返した。
「ゴホン」とここで神谷さんが咳払いして見せると、途端に師匠は意地悪くニヤケながら、隣の神谷さんに寄りかかる様にしながら、「ゴメンゴメン、先生、もうこれ以上悪い事しないから許してぇ」と、落語の”女”を使いながら言うので、私は思わず笑ってしまった。
と同時に、目の前で芸を見せて貰って、その後にすぐ一人感動していたのだった。
神谷さんはやれやれと言いたげな顔で師匠を押し戻すと、少し笑みを浮かべたまま言った。
「…さて、伝統とは何かという問いに対しての君達の答えは分かった。…どうやら師匠も同意してくれて…ふふ、頷いているから聞くまでもないね」
その言葉につられる様に師匠の顔を見た。確かに神谷さんが言われた通り頷いていたが、ふと浮かべていた笑みの中で、眉間に一瞬シワが寄ったのを見たのだった。それに気づいているか、気付かぬふりをしているのか、神谷さんは先を続けた。
「…んー、ここまで本当に深い、途中から美保子さんも参加しての芸談義、これで取り敢えずお開き…すれば綺麗なんだけれども、ここで年寄りの特権を乱用させて貰って、少し私の得意分野からの視点を入れさせても構わないかな?」
「ふふ、はい、お願いします」
神谷さんの言い回しが面白かったのか、はたまた先程の師匠の芸に触発されて、笑いやすくなっているのか分からなかったが、自然と微笑みつつ返した。
神谷さんも柔らかい笑みで頷くと、そのまま話を続けた。
「うん、有難う。伝統…僕はどうしても最初に字引的な見方から始めてしまうんだが、許して欲しい。…今更かもしれないけれどもね?さて、伝統…これは琴音ちゃん、君が説明してくれた様に明治以降に作られた言葉な訳だけれども、それの意味は色々だろうが、その一つの理由に、この”伝統”という言葉も翻訳されたものだろう事が予想される。でだ、伝統という言葉はそもそも何という単語の翻訳かを見てみると…」
とここで神谷さんはおもむろに何時もの電子辞書を取り出した。それに何かを打ち込むと、また私に開いたまま回してきた。受け取り見ると、そこには”Traditional”と出ていた。そして原義には”引き渡されたもの”と書かれていた。
「引き渡されたもの…」
そう呟きつつ神谷さんに辞書を返した。
「そう、そう書いてあるね」
神谷さんはそう返しつつ受け取った。
「確認のために言えば、伝統という言葉は明治以降に作られた言葉なわけだが、この英語を訳したものと考えられる。…で、今君が読んでくれたように、原義では”引き渡されたもの”と書かれていたね?これはとても興味深く面白くて、似たような言葉に”Trade”という言葉がある。君もこの単語の意味を知っているだろう?そう、よく使われている訳し方で言えば、貿易だとかの意味になるわけだが、この原義もまた面白い。それはね…”道”なんだ」
「道…」
私は先ほどからまたメモを取り始めていた。紙に目を落としていたので実際には見ていなかったが、それでも視界の端で神谷さんが頷いていそうな気配を感じていた。
「そう、”道”…。これらから何が分かるか、私が何が言いたいのか、君ならもう察しているだろうけれど、敢えて言えば、『”伝統”とは、その時代時代の人々が、その前の時代の人々から”引き渡された”習慣や習俗などを受け取り、それを後の子孫に受け渡してきた、この途切れることなく連続した”流れ”…それを”道”と称してもいいと思うが、その一連の動きの事だと言える』となると思う。…どうかな?何かおかしい所や、反論の余地はあるかね?」
「んー…いえ、ありません」
小細工など必要なかっただろうが、何だか即答してしまっては、変に気を使ったと受け取られて、”取り敢えず同意しました”的な印象を持たれてしまうのは私の意図としたところでは無かったので、敢えて一度溜めてからはっきりとした口調で返した。
まぁ尤も、まだこうして神谷さんと会話し議論するのは二度目だったから断言すべきでは無いとは思うが、それでもこの時点で、私は神谷さんについてある種の”信用”を置いていたので、こんな保険を敷く必要は無かったのかもしれなかったが、さっきはああ言ったが、とはいえ過去の呪縛が残っているのだと感じずには居れなかった。
私の返答に神谷さんは笑顔でまた頷くと、続きを話した。
「君と義一君の話とも関連すると思うが、今私が言った”道”…これは確かに現代まで延長されてきた訳だけれども、ただ単純に後ろを振り返り、すでに出来上がった道を眺めているだけではいけない…。君が教えてくれた、マーラーが言ったという、博物館の灰を拝むように、何も生み出さない、昔をただ懐かしむだけの”懐古主義”に落ち込んでしまう。それでは結局今出来ている道路で終わってしまうだけで、もしかしたら将来的にもっと伸びたかも知れない可能性をみすみす潰してしまう事になる。昔の人を敬うつもりで過去に思いを馳せて、ただ眺めているだけというのは、むしろ先人達のしてきた事を否定しかねない…」
「…昔の人達は、受け継いできただけでなく、その道の先端から少しづつ新たに増築して延長してきたんですもんね」
と私が相槌を入れると、神谷さんは今度は明るく目を細めて笑って見せた。満足げだ。
「その通り。…まぁ最初にも断ったけど、正直君たちの議論に付け加えることは無かったんだが、少しでもアクセントにでもなればと思って、口を挟んでみた」
と、話が終わった事を示すように、神谷さんはまた好々爺の表情を浮かべて、クシャッと少し照れ臭そうに笑った。
私はこの場合は何も返すべきでは無いと判断して、微笑みつつ顔を左右に振るだけだった。
それからほんの少しの間和やかな時が流れたが、「…んー」と痰を切るかのような掠れ声で唸り声を上げた人がいた。言うまでもなく、その主は師匠だった。
その声に一同は一斉に師匠の方を向いた。師匠は眉間にシワをぐっと寄せて、腕を組み考えこむポーズを取っていた。
と、皆に注目されているのに気付いた師匠は、はたと唸り声を止めて、まず神谷さん、義一、そして最後に私に視線を向けると、静かに口を開いた。
「いやぁー…今の先生の話もそうだし、俺自身頷いて見せたように、義一…そして琴音の話した”伝統”について、反論があるどころか、勉強にもなったし、心の底まで納得させて貰ったから、今更何か言おうというんじゃねぇんだけれどもよー…、ただ今みたいな話は、”ここ”という特別な連中の集まる場では共有出来る事ではあるが…」
師匠は人差し指を下に向けて言った。
「その他の所謂”世間”には通用しない…。どんなに正論だとしてもな。やはり、好き嫌いは抜きにしても、否応無く俺ら芸人は、そんな事微塵も考えた事ないような…いやそんな七面倒くさい事なんぞ考えたくない大衆を相手に演らなければならないという、言うなれば”悲哀”の様なものはどうしても解決が出来ない…そうだろ?」
これには私だけではなく、美保子と百合子も静かな面持ちで何も言わずに頷いた。
「んー…。さっきお前が触れた職人の話…伝統的と言われたら、それは過去の物を何の疑問を持たずに、アナクロだろうと何だろうと、明らかに無理が出てきているのにも関わらず、無視を決め込んで頑なに方法を変えようとしない事だと認識していたな?…正直俺もそうだったんだが…。その”世間”が一向にそういう認識を持つ限りは、こっちも仕方なしに嫌々ながらも付き合いつつ抗わなけりゃいけねぇ。…んー」
師匠はここまで言うと、急に頭をボリボリと乱暴に掻いて見せて、少しバツが悪そうに笑いつつ、
「…何だかこんがらがってきちまった…。いや、俺が言いたかったのは、それでも今の所は世間のそんな認識に合わせつつ、且つ俺みたいな奴等の事をアナクロだと断じる輩について、はっきりと正面切って戦おうって事だ」
と言い終えた。その瞬間、私と美保子、そして百合子と顔を見合わせると、ほんの一瞬間があったが、申し合わせたわけでもないのにフッと微笑み合おうと、「はい」と同意と決意の意を含んだ返事をしたのだった。師匠はそれを受けて”何故か”照れ臭そうに笑うだけだった。

ここでまた和やかな空気が流れ始めようとしたその瞬間、イヤに良いタイミングで、カートを押しながらマスターとママが部屋に入ってきた。そして前回同様空いたお皿を手際良く片していくのだった。
まるで今までの会話を、何処かで聞いていたみたいなタイミングね…
などと当時は思ったりしたが、私が知らないだけで、もしかしたら何処かにマイクか何かがあって、それをマスターとママは別室で聞いてたりしているのかも知れない…なんて事まで妄想を膨らませたりしていた。でももしかしたら下衆の勘ぐりって事で、どこか正鵠を射ているかも知れない。
そんな話はともかく、マスターとママは一同にお代わりの注文をとってから、カートを押して外に出て行った。そしてその数分後には二人して飲み物を乗せたトレイを持って部屋に戻ってきて、それらを配り終えた後、これまた前回と同様に、部屋を出て行かずにそのままもう一つのテーブルの席に向かい合って座り、前掛けだけを外して、自分たちの分のお酒を用意して、そして今度は二人を加えての再度乾杯をしたのだった。
それからは取り止めのない雑談を、それぞれ近くの人達で会話し合った。師匠はしばらく神谷さんと二人で静かな笑みをお互いに浮かべ合いながらおしゃべりしていた。その間私は、百合子の最近の舞台の話を聞いたり、美保子の近況を聞いたりと、それこそ今ここで取り上げるまでも無い…って言ったら二人に悪いかも知れないけれど、そんな話をし合って時を過ごしていた。義一はママとマスターの二人と、何故か料理談義に花を咲かせていた。
「そっかー…確か六月なんだよね?」
「うん」
話題は私のコンクールに移っていた。
美保子と百合子には勿論伝えてはいたが、面と向かって報告するのは初めてだったからか、二人とも興味を示してくれていた。
嬉しかった…いや、電話口なり何なりでも反応は同じだったが、この時も変わらず、私に対して”頑張れ”という言葉を投げてこなかった。ただひたすらに、そのコンクールの会場に見にいけないことに対して、二人して若干ふざけ合いつつ悔しんで見せていただけだった。その様子を私は苦笑まじりに見ているだけだった。
この手の話も何度もしたので触れないが、義一や絵里と似たような思考を持ってくれている美保子と百合子に対して、益々親近感が湧いたのは言うまでもない。
それからはまた美保子が百合子についての話題を振った。美保子が言うのには、前回この店に来た時にマサさんに説明されたように、百合子はある時期からめっきりテレビの仕事を引き受けなくなって、舞台演劇一辺倒にしているとの事だった。これを美保子が話している時は百合子は照れ臭そうにしていたが、元々視聴者的にはルックスで評判を得ていたのだが、テレビに出なくなってから益々”美”に磨きがかかってきたというんで、依頼自体は今でも頻繁に来ているらしいが、それを百合子は頑なに断り続けているという事だった。
この時に私がマジマジと見過ぎたせいか、百合子は照れ臭そうに苦笑いを浮かべつつ、こちらに話しかけてきた。
「良いのよ、テレビなんて…。それに、仮にテレビドラマだとかに出たとしても、肝心の今一番演技の感想を聞いてみたい人が、そもそもテレビを見てないんじゃ意味が無いからね」
そう言い終えると、私に軽くウィンクをしてきた。普段は哀愁を纏うような表情を浮かべているのに、途端にお茶目な顔つきになって、そんな仕草をされたので、自分が女だというのを忘れてドギマギした。因みに今の百合子の発言は、まだ付き合いが浅い私の感想は新鮮味があって良いって意味に受け取った。
それは置いといて、その後は美保子が話を引き継いだ。日本に住んでいた時にはそんなにテレビを見なかったらしいが、今はアメリカに住んでいるために、本人の弁をそのまま言えば『普段あまり日本語の番組を見ないせいか、無性に見たくなる時があるのよ』とのことで、取り敢えず一通り百合子に撮り溜めして貰って、こうして帰ってきた時に纏めて見るらしい。
「…でも結局、見れば見るほどつまらなくて、正直全て見終える前に飽きちゃってやめちゃうのよねぇー」
「…もーう、そんな事言うんなら、もう録ってあげないよ?」
「あぁー!ゴメンゴメン!つまらなくて良いから、録画お願いー!」
「ふふ…」
二人の仲良さげなやり取りを見て、思わず笑ってしまったが、不意に遠くから声を掛けられた。
「…ふーん、お嬢ちゃん、アンタはテレビを見ないのか?」
声の主は師匠だった。師匠は手元でクルクルとバカラグラスを弄んでいた。口元はニヤケている。
「はい」
と私はすぐに返した。若干また”お嬢さん”呼びになっていたのには引っ掛かったが、過去に師匠が出ていたテレビを見ていたら、親しい相手にもコロコロと呼び方を変えていたので、言うほどには気にならなかった。
「そっかー…今時はそうなのかな?」
と師匠が誰に対してというのでもない調子でボソッと言うと、
「…いやぁー」
と返したのは美保子だった。美保子は意地悪目な笑みを浮かべて視線だけ私に向けてきつつ、顔は師匠に向けたまま言った。
「確かに今時の若い子がテレビから離れつつあるって話は、良くそこかしこから聞かれますがねぇ…、そのテレビ離れしてる子達というのは、ネットの方に流れているわけですけれども、琴音ちゃんの場合は…ネットもロクにしてないようなんですよ。…ねっ、琴音ちゃん?」
「あ、ああ、うん、まぁ…ね」
目の前で自分の事を説明されて、居心地の悪さを感じつつそう返すと、師匠は先程のように少し前かがみになって、私の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。
「ふーん…。いや、俺も当然というか…ネットがどうのとか全く分からねぇんだがよ…?今時では珍しいんだろ?…琴音は普段は何してるんだ?そのー…ピアノの練習以外には」
「え?…えぇっとー…」
そんな質問をされたので、こんな話で時間を使って良いものかと考えたりしながら、時折義一に目配せしつつ、学校の事とか、絵里のこと…これは一応”知り合いの図書館司書”だと誤魔化しておきつつ話したり、後は義一にたくさんの本を借りて、それをひたすら読んだりしている旨を言った。
私が言い終えると、「ほぉー」と師匠は私に感心した様な表情で初めは見てきつつ、その次に義一に顔を向けると、そちらには呆れ顔が少し混じった笑みを浮かべていた。
だがそれだけで、それ以上は特段何も声をかけないのだった。
「…今時よ」
と師匠は不意に隣の神谷さんに声をかけた。視線は私と義一二人に向けたままだ。
「世間の流行に目もくれずに、自分の好きなモノに一心に向かうなんて、今みてぇな物が豊富な時代では勿論希少だろうが、俺らがガキの頃の様な、戦争直後の物の無い時代ですら珍しい存在だなぁ」
「…ふふ、本当だね」
と微笑みつつ神谷さんは返した。師匠と同じ様に視線を私たち二人に向けながら。
「今日来てる中では美保子さんも百合子さんも、そして当然師匠あなたも、そんな”希少”な部類の人種だろうけど、個人的には”この二人”に対して、尚更そんな感覚を覚えるんだよ。義一君は高校に入りたての頃からの付き合いだし、琴音ちゃんに至っては、まだ中学一年生の頃からという…何の因果か、私としてはとても幸運に恵まれて二人と出会えた…。この二人を通して、希少な人種がどの様に幼少期、思春期…青春を過ごしていくのか、もしくはいけるのか、誤解を恐れずに言えば、とても面白く見させて貰っているんだ。こんな経験…いかに昔の”上等”な時代にいたとしても、中々経験が出来ないよ」
「”上等”…”Classic”ですね?」
義一は照れてるのを隠す様に、神谷さんの発言の中からわざわざ今取り上げなくても良い様な点を拾い上げて言った。
無闇に私を褒めてくる自分だって、褒められるのが苦手なくせに…
などと思いつつ、自然と口元だけをニヤケさせつつ義一の様子を見ていたが、ふと今の相槌に対して興味が湧いたので、それに乗っかることにした。
「…え?それってどういう事?」
「うん、それはねぇ…先生お願いします」
と義一が流れる様に神谷さんにスルーパスをした。
神谷さんは呆れた笑いで私たち二人を眺めていたが、ため息交じりに話し始めた。
「やれやれ…。では私が代わりに答えよう。琴音ちゃん、君はクラシック音楽という芸能の中にいるわけだが、そもそもクラシックってどういう意味だろう?」
「え?クラシックですか?うーん…日本語にすると、一般的には古典とかになるんですかねぇ?」
私はあやふやながらそう答えた。それを聞いた神谷さんはウンウンと頷いて見せてから言った。
「そうそう。確かに一般的には古典と訳されることが多いんだけれど、それは一番の意味では無いんだ…」
とここで言い辞めて、ふと懐を弄ろうとしたが、面倒そうな表情を一瞬浮かべると、私に苦笑交じりに言った。
「本当はまた辞書を見てもらうのが一番なんだが…宴もここまで深まっているのに、ここでお堅い辞書を取り出すのは流石に無粋だから、悪いけど話すだけでいいかな?」
「はい、確かに言われる所は分かりますから」
と、私は思った事を素直にそのまま返した。残念と言えば残念だが、今もこうしてさり気なくメモを取っているわけだし、それを後で自分で確認とれば良いだけだと思い至ったので、快く了承したのだった。
神谷さんは何も言わず表情だけで感謝の意を示すと、続きを話した。
「ゴホン…さて、確かに一般的には古典的だとか、そう言った風に訳されることが多いのだが、辞書において一番上の訳語は”最高級”と出てるんだ」
「最高級…?」
「そう、最高級。そもそも”Classic”のそのまた元の字を辿ると”Class”なんだ」
「Class…」
私は神谷さんが喋るままに書き込んだ。気付けばこの場で声を発しているのは私と神谷さんだけになっていた。この時ばかりは私だけがメモを取っていて、それ以外の人はただ穏やかな表情で会話を聞いていた。これは後で分かった事だが、この時に誰もメモを取っていなかったのは、何度も神谷さんが話していたかららしい。
「そう、Class。この場合のClassは、教室のクラス分けとかで使う意味ではなくて、この場合は”階級”の意味なんだ」
「階級…」
「そう、だからそこから派生したクラシックの原義を見てみても、ハッキリと”最高級”と出ているんだ。要は階級が上の人…古来から続く由緒ある、言うなれば貴族階級の”スタイル”がクラシックとも言えると思うね」
「なるほど…」
クラシック…これに関してはあまりにも身近過ぎて、クラシックの意味など疑問に思った事も無かった。だからこの様に解説をして貰って、今回に限らないが、大げさな言い方かも知れないが”啓蒙”されてると強く感じるのだった。
そんな感嘆している私の様子を微笑ましげに見ていた神谷さんだったが、不意に少し表情を暗くしつつ、
「うーん…これを話したんだから、少しだけ踏み込んで話したほうがいいと思うんだけれど…」
と言いかけて、隣の師匠に視線を流した。
師匠はそれにすぐに気が付き、ニヤッと笑いつつ「俺に構わず先を話してくれ」と言った。
それを聞いた神谷さんは軽く感謝を示したが、表情はまだ少しくらいままだった。
「…うん、何を話そうとしてるかって言うとね?この繋がりで”文化とは何か?”という、ある種とても遠大な議題なんだ。琴音ちゃん…、今までの話と少しズレる様だけれど、総てが繋がっているから、我慢して議論に付き合ってね?」
「はい」
今までだってズレてる様で全てが繋がっているのを見せて聞かせて貰っていたので、今更何を…と言いたげな調子で答えた。
神谷さんは師匠に対してした様に、私にも感謝を示すと、穏やかな表情を浮かべつつ話し始めた。
「…”文化”これを考えるにあたって、少し変わったアプローチをしてみたい。文化…これも例によって明治以降に翻訳して作られた、一説によれば坪内逍遥がそう訳したんじゃないかって説もあるくらいだけれど…」
この話を聞いた時、言うまでもなく小学生時代の夕方の土手を思い出したのは言うまでもない。
「まずはこの字が漢字で書かれている点から、何故こう称されてるのかを解いて見たい。これは元々略字でね、これも色んな説があるんだが、意味合いからして有力だと思われる説を取れば元の字は”文治教化”って言葉なんだ」
「…」
義一が助手の様に、すかさず自分の紙に”文治教化”と書いてくれたので、私はそれを書き写した。そんな様子を確認してから、神谷さんは続けた。
「文治教化は”口訓や威力を用いないで導き教える”って意味なんだ。対義語として”武化”って言葉があるけど、それは今は置いておこう…。今ではこの様な意味合いでは文化って言葉を使っていないね。…さて、ここでいつも通りというか、明治に訳された言葉なわけだけれど、その単語が何か辿ってみると…そう”Culture”だね。これはラテン語の”Colere”からきてるんだけど、その意味は”耕す”って意味なんだ」
「へぇー…」
先程からずっと義一が、私が分からないであろうと予測して単語を書いてくれていたので、それを書い移しつつ相槌だけ打った。勿論いい加減なものではなく、深い感心から来るものだった。
「そこからきて英語のCultureにもその意味が付されて、その延長として”洗練された”という意味合いを持つ様になったんだ。…ここまでは納得してくれてると思う。…ふふ、頷いてくれてありがとう。さて、こうして見ると、漢字文化圏と西洋文化圏…一見なんの繋がりも無さそうに見えるが、結局行き着く結論は一緒なのに気づくと思う。なかなか面白いよね?…さて、文化とは何かについて触れたわけだけれど、何故そうしたか?それは…人間性を”耕す”様な人材も、その担い手を養う貴族のような”階級”も、両方とも今では死滅してしまっているという否定しようの無い哀しい点からなんだ」
そう言い終えると、神谷さんはますます表情を曇らせるのだった。
口では点々で囲った部分を別段強調して話していたわけでは無かったが、ここまで注意深く聞いていた私はすぐに、そこが確信部分だと気付き、メモにも書き入れたのだった。
神谷さんは少し力無げに声のトーンを若干落としつつ続けた。
「そもそも古来から、文化を守ってきたのは貴族たちだった。一般論として、庶民が毎日汗水垂らして働いているのに、貴族は何もせずにお城や屋敷に引きこもって、領民から吸い上げた税金で贅沢の限りを尽くした…言ってしまえば労働者の敵だと見做されている…。勿論そんな側面もあったろう事は認めない訳ではないが、何も貴族は何もしていなかった訳ではない…。そう、何もしないから庶民が忙しくて考える暇も無いところを補う形で、国や領地のことを考えていたんだ。…文化の事もね」
「…」
またこの時も、あの夕方の土手を思い出していたのは勿論だ。
「それが近代に入って、民主主義だと言って十八世紀の終わり頃から徐々に貴族社会を根底から壊して排除していった。それでもまだ十九世紀の中頃まではイナーシャ(慣性)とでも言うのか、まだその名残があったんだが、とうとう二十世紀に入って全てが流れ落ちてしまった」
「…文明が進み過ぎて」
とここで不意に口を挟んだのは師匠だ。師匠も神谷さんと同じように、気持ち沈み込んだような表情を浮かべていた。
「文化を守ろうとしたり、受け入れる隙がなくなっちまって、今この瞬間のものでしかない文明を守ろうとするあまりに、加速度的に文化をぶっ壊しちまう…」
「そういえば…」
と次に口を挟んだのは義一だ。義一は前の二人と違って笑みを浮かべてはいたが、一言で言い表すと自嘲的なものだった。
「僕の大好きなロマン派の詩人で保守思想家でもあった、サミュエル・テイラー・コールリッジ が…」
「あ…」
と私は思わず小声を漏らした。義一に借りた古典の作家の中でも、最も好きな一人だったからだ。あと…これは今が初めてでは無かったが、義一…それに神谷さんが引用する人物のマクラによく置いていた”保守思想家”という言葉にも反応したのだ。”保守思想”…、勿論これを言う時の義一と神谷さんの話し振りから、すごく大切なワードだというのは分かっていたから、聞くたんびにそれが何なのか質問しようと考えたことがあったが、自分でもハッキリとは言えないが、何だか片手間に聞いていい様なものでは無いと感じさせられたというのがあって、今まで聞けずじまいだった。そしてこの時も、そのまま黙って今の話に集中しようと判断した。
「こんな面白い事を言っていたのを思い出しましたよ。…『文明が過剰になると色々な弊害が出てきたりするが、文化がいくら過剰になっても悪い事など無い』とね」
「まさしくその通りだね」
神谷さんが穏やかな笑みを浮かべつつ同意した。
この議論の間、全体的に沈み込んだ雰囲気が流れていたが、仕方のない事だろう。しかしこの場にいる、私を入れた全員が今の内容に対して全幅の同意をしていたのは間違いなかった。新参者の私でもそれは直ぐに感じ取れた。とその時、
「…んー、まぁ取り敢えずよ!」
と師匠が見るからに無理やり明るい調子で声を上げつつ言った。
「さっきの話でも出たけれどよ、そんな絶望的な状態な訳だけれど、そんな客に媚びずに己の信じる”道”を貫き通せば、まぁもしかしたらそれに感化された観客どもが増えていって、”芸”全体のレベルも相乗的に上がって行くんじゃないかって…そこだけは楽観的に考えてんだ」
師匠は途中から何気無く私の方を見ながら話している様に見えたので、私もこの話は私に向かって語りかけてくれてる物と受け取り
「はい」
とだけ短く、しかし力強く返したのだった。それを見た師匠は、ニコッと目を細めつつ穏やかな笑みをこちらに向けていた。
この場にいた一同…マスターやママまでもが、私たちのそんな様子を微笑ましげに見ているのだった。
それからはまたガラリと雰囲気が変わって、テレビを何故見ないかという話に流れていった。
「んー…何でって聞かれてもなぁ」
と私は砕けた口調で答えた。
「…単純につまらないんだもん」
そう言うと、師匠が「そうかそうか!」と愉快げに笑いながら言った。
「アレ、テレビに出ている芸人って、何て称されるの?」
美保子がおもむろに百合子に話しかけた。百合子は少し考えて見せてから
「…テレビ…芸人かしら…?」
とボソッと自信無げに答えた。
「テレビ芸人…ねぇー」
美保子は納得している様なしてない様なハッキリしない感じで漏らすと、頭の後ろで腕を組み天井を見上げた。
「まぁ見てて退屈なのは間違いないよね」
と義一が笑いながら私に話しかけた。
「うん」と私は返した。
「だって、全てがワンパターンっていうか…先の展開が何となく読めちゃうんだもん。一時間番組でも何でも、最初の五分か十分くらいで分かっちゃうから、その先を見る気が失せちゃうのよねぇ」
「ははは、なるほどねぇ」
と義一が返すと、それを皮切りに一同がお互いに顔を見合わせたりしながら笑いあった。私もつられて笑うのだった。
「こんな事師匠に聞くとは失礼だけれど…」
と神谷さんは師匠に話しかけた。
「今の芸人達を見て、『もっとしっかりとしろっ!』って気持ちにならない?」
「んー…」
「あのね」
師匠が腕を組んで考えてる間に、義一が私に話しかけた。
「今のお笑い界の中では、年齢のこともあるけど、芸の内容からしても誰も師匠に頭が上がらないんだよ。テレビに出ているという枠組みの中で大衆に支持されてるベテラン達でもね」
「勘弁してくれ…」
ふと師匠が義一に、思いっきりバツが悪そうな苦笑を浮かべつつ呟いた。「あ、すみません師匠」と義一も苦笑交じりに頭を下げるのだった。
師匠はしばらく苦笑いを浮かべていたが、ふと隣の神谷さんに顔を向けて、今度は呆れたという様な、はたまた寂しげとも取れる様な笑みを浮かべて答えた。
「まぁ今の俺の心情を言えと聞かれたら、『勝手にしろっ』ってところかなぁ…。義一はああ言ってくれたが、仮にそれが事実だとして、俺の事を尊敬していると言ってたり思っていたりしてたって、俺が今まで勉強してきた事をなぞろうともしないで、ただ口先だけでそう言われたって、俺からしたら『なーんだ、俺ってその程度にしか見られてないのか』ってな風に忸怩たる思いに駆られちまうんだ」
そう言う師匠は、これでもかって程に恥ずかしがって見せた。映像などで幾らでも見たことがあったが、こうして目の前で見ると、益々師匠に対して僭越ながら好印象の度合いを深めるのだった。
「まぁでも、話じゃあテレビの影響なり視聴率なりが下がってるって聞くが、それでもまだこれだけの人間が、本心はどうあれ、暇潰しにそんな退屈にしか見えない番組を見るんだから、今更俺が遠くから文句を言ったって無視されて終わりだからよ、もう一度言うが『勝手にしろっ』これに尽きる」
そう言い終えると師匠はチビっとウイスキーを飲んだ。
とここで不意に一つの疑問…というか聞いて見たい事を思いついたので、今聞いても構わないだろうと冷静(?)な判断をして聞いてみることにした。
「…師匠」
「ん?」
「…芸人と一般人の違いって、どこですかね?」
「…それはどう意味だ?」
師匠はまた前屈みになりつつ、顔には好奇心をめいいっぱい湛えながら返してきた。
「それはですね…。今ふと退屈な理由を自分で考えてみたんですけれど、思いついた事があったんです。それは…テレビに出てくる芸人と、普段私が接したり見たりしている、いわゆるムードメイカーと称される様な同級生と、何も変わらないからじゃないかって事なんです」
この時私に脳裏に浮かんでいたのはヒロだった。だからといって何もヒロの事を貶めたい目的でない事は、大丈夫だろうけど念の為に言っておく。
「ほう…」師匠は見るからに益々好奇心を擽られた様子だった。これは後で聞いた話だが、他のみんなも同様だったらしい。
「なるほどなぁ」
師匠はチビっとまたウイスキーをやってから、私に優しく話しかけた。「…流石の目方と言いてぇトコだなぁ。…そう、他のパンピーの本心は知る由がねぇが、テレビに出てくる様な奴等のことを、俺は”素人芸人”と称してるんだ。客とお手手繋いで仲良くする様なのをな」
「あぁ…素人、言い得て妙ですね」
私は生意気かなと思いつつも、素直な感想を述べた。それに対し師匠は嫌な顔をせず、むしろ面白そうに笑いつつ言った。
「クク…。あぁ、後、ネット内にあったって…これは誰に聞いたんだっけなぁー…確か弟子に聞いたんだったと思うが、上手いこと表現するなってフレーズがあったからそれを引用させて貰えりゃ、男女問わず”マジメ系クズ”が芸人やタレントと自称してのさばっているって事だな」「マジメ系クズ…?何ですか、それ?」
と私が質問すると、意外だったのか師匠は目を大きく見開かせてこちらを見てきた。だが、すぐに気付いたらしく、ニヤケながら言った。
「…あぁ、そっかそっか。アンタは普段ネットをしないんだったな?現代っ子のくせに。…クック、いや、いいんだ。さてと、芸人と一般人の違いねぇー…」
師匠はまた腕を組んで考えるポーズをして見せたが、これは今考えているというよりも、何から話そうかと悩んでそうに見えた。
しばらくして師匠はウンと頷くと、口を開いた。
「…あっ、そうだ。いや、ある奴が言ってたのを思い出したんだがな…?」
そう言った後に具体名が出された。その名前は普段テレビを見てない、芸能界に疎い私でも知っていた。尤も、その理由は師匠と深い関わりがある人物だったからだった。歳は確か師匠の丁度一回り下だった筈だ。その人物は関西で活躍していたお笑い芸人で、限界が見えたと言って十年以上前に引退してしまって隠居しているが、今だに関西のお笑い界では重鎮として慕われているらしい。深い関わりというのも、この人は心から師匠のことを慕って、本来は違うのだが本当の弟子の様に付き合っていたらしいのだ。個人的に分かりやすく表現すれば、義一と神谷さんの関係にとても似ていた。
「…でな、奴がある番組内で久し振りにテレビに出た俺と対談していた時に言った言葉を思い出したんだがな、会話の前後は忘れたがこんなだったんだ。『師匠、師匠がテレビに出てくれた事は本当に嬉しいですわ。この際ですからね、師匠には高座で見せるような”話芸”は封印して貰ってですね、楽屋ネタ内輪ネタでも構わんので、そんな普段は見せない素の姿を視聴者に見せて頂きたいんですよ』なーんてゴマスリ風な事を言いやがったんだ。で俺は特に返す言葉が無かったから『うーん…』って曖昧に漏らしたんだがな、それから…間に何か話したと思うがそれを思い出せねぇから…ちょっと脈絡が無くなっちまうけど勘弁してくれ?…で、奴がふとこう言ったんだ。『今時のテレビで、話芸の達人がその芸を見せたところで視聴者は分からないし、分からないから面白くないんですよ。今のテレビの中で面白くなりそうなのを考えると二つしかありません。”達人がプライベートを晒す”か、”素人が何かをする”かです』ってな」
「あぁー…」
私は師匠が何故その話題を振ったのか今分かり、その通りのリアクションをした。因みに、この時もその後も特にこちらからアレコレ言わなかったが、その番組を見た事があった。
師匠の自他共に認める芸における円熟期…つまり全盛期の九十年代に放映されていた深夜番組だった。もちろんリアルタイムでは見た事が無かったが、例によって義一に録画した映像を見して貰っていたのだった。
「…その様子じゃあ、俺の言いたい事が分かってると思うが…」
と、私は一言も発してないのに、師匠は意地悪げにニヤケつつそう言ってから先を続けた。私はというと、ただ苦笑を浮かべるしか無かった。「まず俺の考えを言う前に、さっきお前が触れた事の後付けのような事をさせて貰うとだな、俺は奴がそう言った時また唸って見せただけだったが、テレビのことについちゃあアッチがプロだからよ、そんなもんだろうなぁって思ったのよ。今から…もう二十年前ばかしの昔の時点で、素人ばかりを集めて番組を作って、そんでその番組に素人を出していたんだから、今ではもっとそれが進んでいるんだろう。…だから、お前が言った『テレビを見てても、素人しか見ない』ってのは正しいよ」
そう言い切ると、師匠はクシャッと顔にシワを浮かび上がらせながら無邪気な笑みを浮かべた。私は、これ言うと失礼の様だが、その様子が可愛く見えて、クスッと思わず笑ってしまいながら
「…私はそこまでハッキリ言ってませんけれどね」
とワザと生意気娘調に返すのだった。師匠は何も言わず、そのまま変わらぬ笑みを浮かべるだけだった。
ひと段落ついて、師匠はまた少し前かがみになってから話を進めた。
「はぁーあ、さて、次はお前さんの質問に答えてみようか。…”芸人と素人の違い”ねぇー…さっき散々パラ伝統についてお喋りしたわけだが、図らずもそれとモロ被りというか、かなり重なる部分がある…。俺が普段思っている事を話そうとは思うが、被っても我慢して聞いてくれ?」
「ふふ…はい」
師匠がワザとらしく哀願するような真似をしてきたので、私はまた思わず吹き出しながらそう返した。
「そうか…では話してみるかな?んー…久し振りにこの手の芸談を話すもんでなぁー…よし、さっきのお前さんが言ったことに引きつけてみよう。俺の時代ですらそうだったが…確かに学校のクラスには必ず一人や二人、盛り上げ役をするひょうきんな奴がいるもんだよな?因みに俺は違ったが…いや、それはともかく、言うまでもなくこのひょうきんな奴は、当然素人ということになる…お前もそのつもりで例えに出したよな?…じゃあ琴音、なんでそいつらの事を素人だと思ったんだ?」
「え?…んー」
私は師匠の真似をしたつもりでは無かったが、無意識に腕を組みつつ考えた。急に振られたというのもあったが、あまりに単純に見えたせいで、いざ考えてみると難しいという事にこの時になって初めて知らされたからでもあった。
それでも私は辿々しく何とか答えた。
「んー…今すぐに思いついたのは、彼らにはそれなりに楽しませて貰ったりしてますけど…それについての対価、いわゆるお金を払ってないって事ですかね…?下世話な答えで恥ずかしいですけれど…」
そう言った通り、終わった後で実際に恥ずかしくなったが、それを聞いた師匠はさも面白いといった明るい表情を見せて、口調も合わせて言った。
「クックック…。あ、いや、悪い、何せ今時銭の話しをするのを恥ずかしがるような奴がまだいる事を知って面白くてなぁ。まぁお前はまだ自分で稼いでない訳だが、それでも逆にその歳にして、お金の話を表立って話すのを恥ずかしがれるってのは、とても日本人的でいいぞ!…あ、いや、何が言いたいかってぇとな?俺も大体お前の今の意見には賛成ってこった。そう、一番分かりやすい、芸人と素人の違いっていうのは、対価として生活の為のお金を貰うかどうかと言えるな。今風というか、合わせてもっと分かりやすく言えば、”プロかアマチュアか”ってな具合で考えりゃ、もっとしっくりくると思う。…クック、そんな表情すんなよ?もちろんこれで終わりって訳じゃないさ。これは今度は芸についてっていう大袈裟な話に入っちまうんだが、俺がそれを話すには今日は少し疲れたからなぁ…」
と語尾を伸ばし気味に、ふと隣の神谷さんに目を流した。それにすぐに気づいた神谷さんは、自分に指を指して見せた。すると師匠が満面の笑みで頷くと、神谷さんは指を向けたまま一同をぐるっと見渡した。一同は神谷さんに何も言わず微笑み返すだけだった。最後に私と目が合った。心情としてはそのまま師匠に話してもらえたら御の字だったが、すぐに『今日はそういえば最後の高座を終えられて、疲れているところでの今だから、無理をさせてしまうような我儘は言えないな』と思い至って、他のみんなと同じ様に微笑み返した。
すると見るからにホッとした様子を見せると、また隣の師匠に視線を戻して、今度は苦笑まじりに言った。
「まったく…さっきも言ったけど、私みたいな者が本職の人達の前で偉そうに語るっていうのは、かなり勇気がいる事なんだけれど…」
「いやいや」
とここですかさず師匠はニヤニヤしながら
「先生、アンタはいつも結構語っているぜ?なぁ、みんな?」
と突っ込んでから、さっきの神谷さんの様に一同を見渡した。今回は出遅れる事なく、皆と一緒に笑顔で頷いた。
すると神谷さんは「何だよみんなしてー…」としょげて見せていたが、すぐにまた苦笑まじりに”語り”始めるのだった。
「やれやれ…。まぁ師匠からのお願いなら断れないからねぇー…琴音ちゃん、今度は芸についてという、また遠大で途方も無い事についてどう考えているかを、参考に話させて貰うね?…ふふ、ありがとう。これもさっきの伝統についてと同じで…いや、今日はまた君と義一君が新たな視点を加えてくれたけれど、基本的な所で我々の雑誌に集う人々の間では共有している考え方には変わりない…だから今から私が言う話もそうだというのを頭の片隅に置いといて欲しい。…さて、能書きはこのくらいにして、今さっき文化について考えて見る時に、漢字から辿ってみたから、折角だし今回もそこから入ってみよう。いいかな?」
「はい」
と私は手元に紙を用意してから返事した。いつもと違って漢字から辿って見るこの手法が珍しさと同時に面白かったので、大袈裟ではなくワクワクしていた。
神谷さんは返事を聞くと、少しの間微笑んで見せてから、いつもの静かな表情になって話し始めた。
「さて芸についてだが…そもそもこの漢字というのは省略された形で、元々は違う字だったんだ」
「え?」
「大戦前までは普通に使われていたんだけれど、戦後にいわゆる国語改革なる物がなされてね、難しい漢字だと思われるものは勝手に教育の場から排除されてしまったんだ」
「…!!あぁ…」
と私は思わず”ある”思いに駆られて声を漏らした。”言葉”についての議論を思い出したからだ。
神谷さんはそんな私に柔和な笑みを向けてきながら「ふふ」と笑った。
「今までたくさん話してきた事を覚えていてくれて嬉しいよ。しかもこの様な話題の時に瞬時に思い出してくれたのなら尚更ね?…ふふ、さて、話を戻してっと…義一君、口で説明するのは難しいから、本来の方の字を彼女に教えてあげてくれるかな?」
「はい。えぇっとねぇー…」
義一は自分の紙面に”藝”と書いた。私は見慣れないその字を注意深く観察しながら書き写した。パッと見”執”に見えたが、空目だと気づいて慎重になったのだった。作業が終わった事を確認したか、神谷さんはまた話し始めた。
「そう、見て分かると思うけど、”草冠”と”云う”の字の間に見慣れない漢字が挟まってるよね?これはね、二つ呼び方があるんだけれど、一つ目は”げい”…うん、芸と同じ読み方だよね?音読みではそう言うんだけれど、訓読みだとね…”うえる”と読むんだ」
「うえる…?」
「そう。字を分解するとね、人が跪いて両手を差し伸べたさまで、もう少し具体的に言うと、人が植物を土に植えて育てる意を示しているんだ。園芸ってあるだろう?あの芸の原字なんだ」
「へぇー」
私は感心しつつメモを取った。
「これで分かる様に、ある種一番大事な部分を略してしまったから、芸とは何かと考えようと試みようにも、取っ掛かりがない状態なんだ。言葉を見くびって安易に壊してしまった事による典型的な弊害と言えるね。さて琴音ちゃん、以上の事から君なりに整理して見て欲しいんだけれど…お願い出来るかな?」
「は、はい…」
私は自分のメモとにらめっこをしつつ、頭の中で整理した。
そしてゆっくりと口を開いたのだった。
「先生の話を聞いていた時に、不意にこんな情景を思い浮かべたのですが…それを話してみようと思います。えぇっと…私はふと農作業をしている農家の方達の姿が浮かんだんです。先祖伝来の土地を耕し、そこに種を植えて、育てて、実りの秋に収穫する姿が…」
この時頭にあったのは、ミレーの”落穂拾い”の絵だった。
とここであまりにも妄想が過ぎたかと、急に恥ずかしくなったが、ここまで話してしまったんだからと、そのまま話を続けた。
「つ、つまり何が言いたいかっていうと、芸というのは、過去から受け継がれて耕されてきた”土地”を廃らせる事なく守り、そこに現代の”品種”を撒き、それをまた現代風の手法や、伝統的な手法を織り交ぜつつ育て、出来た作物を収穫する…この一連の流れを総称して”藝”と呼ぶんじゃないでしょうか…?」
私は話し終えると、少しの間沈黙が流れた。一同は側の人と顔を見合わせたりしていた。とその時、フッと短く息を吐いたかと思うと、神谷さんが柔らかな笑みをこちらに向けてきながら話しかけてきた。
「…ふふ、さすが…まさしくその通りだよ。こりゃまたよくその様にまとめてくれたねぇ?先程の”伝統”についての議論まで踏まえてね。それに、途中でなかなか詩的な表現まで織り交ぜてくれて…」
「あ、いや、それは…」
また前半部分から褒めてきたので、またしても恥ずかしくなってきていたが、不意に妄想部分にも触れてきたので、その瞬間に褒められていた事を忘れて、別の意味で恥ずかしさが上塗りされたのだった。
そんな心境を察したのか、私以外のみんなはクスッと和やかに笑うのだった。私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
少しして、神谷さんはまだ笑みが収まらないまま言った。
「そう、私たちが共有している”藝”に関しての考え方は、今君が言ってくれたのと全くの同じと言っても過言では無いよ。…師匠は今の琴音ちゃんの発言について、反論はあるかな?」
と神谷さんは師匠に顔を向けつつ聞いた。
すると師匠は腕を組み、眉間にシワを寄せて考え始めたので、私は少しずつ不安な気持ちになった。が、ふと勢い良く顔を上げたかと思うと、底抜けに明るい調子で言うのだった。顔もそんな調子だった。
「…反論も何もありゃしねぇーよ!俺だってこの店と深く関わっているんだ。…いや、それはさておいても、そんなの関係無く、今の琴音の定義には、全くの同意だよ!…さてと」
と師匠はここで急に落ち着きを払うと、また好奇心旺盛な子供の様な顔つきになりながら言った。
「芸についての議論もひと段落ついた事だし、元の議題に戻ろうか。…今までの事を引っくるめて言うと、芸人ってぇのは、そんな芸を身に付けるべく日々…俺は小っ恥ずかしくてあまり言いたくない言葉ではあるが、敢えて言えば、努力や研鑽を積んでいかなきゃいけねぇって事になるな?…圓生師匠が言った様に、『死ぬまで勉強』…これだよ」とここまで言うと、一息入れるように一口ウイスキーを飲んだ。
「んー…さてと、”芸人と素人の違い”…この質問に対して、大体は答えられたかな?」
「…はい。つまり…」
私は少し言い辛そうに口籠もりつつ言った。
「やはり結論としては変わらず、今テレビに出てくるような人達というのは、タレントだとか何だとかジャンルなど関係無く、総じて素人という事になります…ね?」
と最後だけ間を置いて質問調に気持ち語尾を上げつつ言うと、師匠は無邪気な笑みを浮かべつつ「そういう事!」と明るく言い切るのだった。その直後には、何故だかみんなで一斉にまた笑うのだった。が、これは恐らくこの場にいた皆が共有していた心情だと思うが、仕方無いという、ズバッと言ってしまえば諦観交じりの笑いであったのは間違いない。
ここで一つのインターバルになり、ママにそれぞれお代わりを頼んだ。皆同じお酒を頼んでいた。私もそうだった。
ママが私に新しいアイスティーを持って来てくれたので、お礼を言ったその時、
「…あっ」
とふと目に紙面が入って、同時に一つの単語が目に付いた。
そういえば、これが何の事なのか聞いてない。
「師匠…」
と早速私はまた師匠に話しかけた。
「おう、何だ?」
「そのー…」
と私はまた一度手元のメモに視線を落としてから、また師匠に視線を戻して聞いた。
「マジメ系クズって何なんですか?いや、今までの話の流れで、何となくは分かるんですけれど…」
「ん?…あぁ、それかぁ」
師匠は新たなウイスキーをチビチビやりながら言った。
「上手い言葉だよなぁー。マジメ系クズ…俺なりに解説すると、普段はマジメぶっているくせに、実は裏では怠けていて、何もせずに時間をいたずらに潰しながら生きている…そんな連中の事を指している言葉だと思うなぁ。…さっきの話で言う所の”素人”って事だ」
「あぁー…」
と私は行儀悪くストローを齧りながら声を漏らした。すっかり私の方で勝手に緊張が緩んでいた。しかしそんな態度でも師匠は嫌そうな顔をしないでくれた。むしろこの時はまた悪戯っぽくニタァーっと笑いながら続けるのだった。
「でな、そこからヒントを得てよ、新しい…ってほどの大層なものじゃ無いんだが、その対義語として作ったのがあるんだ。それはな…”クズ系マジメ”って言葉なんだよ」
「ふふ」
と直後に吹き出したのは、美保子だった。美保子は半笑いのまま師匠に言った。
「師匠ー…それってただ単に反対に入れ替えただけじゃないですかぁー」
「…だからよぉ」
師匠は不満げにジト目を美保子に向けつつ返した。
「大層なもんじゃねぇって言っただろう?…まぁいいや。琴音…これを言うとまた遠くから突っ込まれるかも知れねぇが、それでも言わせて貰うぜ?これは…俺たちの事を指している言葉なんだ。…この店に集う奴らのな」
「ここの…」
私は意味無いとは思ったが、無意識に部屋を見渡しつつ呟いた。
「そう。…まぁさっきの反対を言うだけなんだが、つまり、ぱっと見側から見てると世の風潮に逆らうし、何かにつけて空気を読まずに噛み付くから世間から除け者にされて外れ者になる…いわゆる”クズ”と見られてしまうが、実のところ、自分というもの…カッコつけて言えば、簡単にはブレない”芯”の様なものをしっかりと持っていて、また恥ずかしい言葉を繰り返せば、毎日周りの状況に流される事なく真剣に努力し研鑽している…そんな奴こそ本当の意味で”真面目な奴”と言えるんじゃないか…まぁ、あまりにも自分達について過剰評価も甚だしいが、そうありたいって願望も込めての言葉なんだが…どうよ?」
「…ふふ」
途中から本当に照れ臭そうに話す師匠の姿が微笑ましくて思わず笑みが溢れたが、そのまま
「私も…そうありたいと思います。…クズ系マジメに」
と答えて、最後に悪戯っぽく笑った。すると師匠も合わせて似た種類の笑みを返してくれた。他のみんなも同じく笑ってくれたが、神谷さんがウンウン頷いていたのが、何だか印象的だった。
「しっかしよぉー…」
穏やかな雰囲気がまた流れ出した頃、カランカランとバカラグラスの中の氷を鳴らしつつ、師匠は不満げに言った。
「本当に今時の自称芸人どもってぇのは勉強しねぇからなぁー…。勉強もしないし、その上俺に何も聞きに来ねぇんだからよぉ」
「それは師匠…」
とまた美保子がニタニタ笑いながら返した。
「師匠があまりに怖いからじゃないですかねぇー。…今時の子は、師匠みたいなタイプは近寄れないんですよ」
「はぁー…そんなもんかねぇ」
師匠はますます不満げにしながら呟くのだった。
とその時、この時の師匠の様子を見て、どういうわけか私は今なら聞いてもいいだろうと計算して、質問をぶつけてみたのだった。
「師匠、師匠は若手の頃、どんな勉強をしたんですか?」
「んー?…そうだなぁ」
この時はたまたま私の目論見が当たったか、師匠は少し機嫌良さそうに反応を示した。…が、途端に恥ずかしそうに頭を掻きつつ答えた。
「いやぁー…自分で言っといて何だが、時代のせいか知らんが、何だか勉強してるって言うのが恥ずかしいんだよ。でもまぁ、そうだなぁー…まぁそれこそ寝食忘れて噺を覚えたりしていたが…それはだって、自分で好きでやってた事だからなぁー…何も苦痛に感じずに飽く事なくずっと復習ってたよ」
「へぇ…」
この時少しまた意識の齟齬があると感じたので、ついついそれについて議論をしてみたくなってしまったが、この時ばかりは何とか抑えて、そのまま流れに合わせた。
「後は具体的にって言えば…やっぱり”ジョーク”かなぁ?」
「あぁ!」
と私は思わずテンションを上げて言った。
「師匠の高座を見ていると、よくマクラに小噺…ジョークを振ってますもんね」
と言うと、師匠は見るからに嬉しそうに笑みを浮かべつつ「おぉー!」と声を上げた。
「本当に俺の高座を…映像でとはいえ見てくれてんだなぁー。そうそう、俺はよく高座でジョークを演るが…っていうのもな、ジョークってのは俺が思うに、西洋版の落語じゃないかってガキの頃に思ったのよ」
「え?それってどういう…」
「それはな?」
師匠はここでまた区切りを付けるように一口ウイスキーを飲んでから続けた。
「ジョークってのは、それこそ有史以来ずっと作られ続けられてきたわけなんだが、一応元ネタがあったりするんだ」
「あぁ、それはシェイクスピアなんかもそうですね…あっ」
と思わず口を挟んでしまい、慌てて口に両手を当てたが遅かった。師匠は一瞬きょとんとした表情を浮かべていたが、すぐに笑顔になって「あははは!こうやってすぐに、しかもシェイクスピアなんぞ飛び出すなんて…変わり者にも程が有るぞ?」
と言いつつ、私と、そして何故か義一両方を交互に見比べるように見てきた。気まずくて視線を外した先に百合子の顔があり、百合子はテーブルの上にワイングラスを乗せたまま、グラスに指を這わせつつ、こちらに静かな笑みを向けてきていた。それはそれで恥ずかしくなって、また師匠に顔を戻したのだった。
「クック…まぁシェイクスピアはさておき」
師匠はまだ笑いが収まらないままに話を続けた。
「これは落語もそうでな、日本だとか中国とかの小噺にどんどん肉付けされて今の形で伝わって来てるんだが、ジョークも同じ様に、その時代時代に合わせた形で肉付けされたり、また逆に削がれたりしながら現代に伝わってるんだ。…な?似ているだろ?」
「はい」
「最初はー…そうそう、俺が真打になるかならないかくらいの時に、たまたま何かの雑誌を読んでいてな、あまり目立たない所にふとジョークが載っていたんだ。普通の奴なら素通りしそうなくらいに小さかったんだがな、何故か初めて見たその瞬間に魅了されてしまってよ、それからは本屋をハシゴして、片っ端から古今東西のジョーク集を買い漁ったんだ。…それが”勉強”といえば勉強だったかなぁ」
「へぇー…。それで、具体的には自分でどんな事が身に付いたと思います?」
と私が調子に乗って質問を続けると、師匠は途端にまた明るく笑った。「クックック、まるで芸能リポーターの様だな」
「あ、いや、そんなつもりじゃ…」
「いやいや」
と師匠は途端に優しい笑みにシフトチェンジすると、口調も柔らかく言った。
「芸能リポーターだって、そんな事俺に質問なんぞしてこねぇんだからな…むしろ褒めたつもりで言ったんだぜ?…まぁいいや。そうだなぁー…まぁ一つだけハッキリと言えるのは、ジョークをたらふく落語の噺と同様に気に入ったモノ…数えたことは無いが大体三百以上のジョークを覚え込んでいく過程で、噺の作り…その構成手法をアレコレ考えなくても気付いたら身に付いていたって事かなぁ」
「…あぁー」
とその言葉を聞いた瞬間に声が漏れた。何故なら私はアレコレと師匠の落語を見たのだが、同じ噺でも同じ内容のが一つとして無かったからだ。語弊があったかも知れないので、慎重に付け加えると、筋は同じだが、所々に入る”くすぐり”だとか、声の調子、登場人物の噺の内容に関わりの無い範囲での台詞回しの違いがあったりしたのだ。他の落語家にも無くはないのだが、この傾向は師匠が圧倒的だった。師匠は、このキャラクターにも原因があるが、落語家としての評価もかなり割れるタイプの落語家だったが、こんな所にもあったのだろう。だが、個人的な感想で言えば、そんな師匠の落語の方が、”藝”の本質に沿ったものだと、生意気ながら思っていた。
何故かというと、一緒にしたら師匠に失礼だが、私自身、ピアノを弾くにあたって、大体毎回録音をして、その後”私の師匠”と一緒に聞き直すのだが、一度とて同じ演奏が出来なかった。それに悩んだ時期があったが、師匠はそんな私の演奏を褒めてくれた。『演奏というのは、生身の人間が演る限りはズレるのが当たり前。勿論程度の差はあるけど、むしろそのズレから人は情感を感じたりするものなの。メトロノームの様な演奏を聞きたかったら、AIにでも弾かせれば良いのよ。これから先はどうなるかは分からないけれど、今の段階においては、人の心に訴えかける様な”ズレ”は再現できない。これこそが人間に残された最後の砦だと思うの』と、途中から少し話”も”ズレながらも、そう言って励ましてくれたのだ。考えてみれば、コレも数少ない師匠からの”本質的な”芸談だったとも言えるかも知れない。
…おっと、話を戻そう。
私は前段のくだりを、少し端折りながら師匠に話した。
すると師匠は、まず私の観察を褒めてくれた後、その次に私の師匠を褒めてくれた。
「…琴音、良い師匠を持ったな」
しみじみと、柔和な笑みで言ってくれたので、私自身が褒められる時よりも、何倍も嬉しかった。
それからは軽く私のピアノ遍歴を話したりしていたが、ふと義一が手元を見て「あっ」と声を上げた。私も思わず腕時計を見ると、何と十二時を五分ほど越えた辺りだった。体感的にもそこそこ時間が経っているのだろうくらいには思っていたが、予想以上に時が経っていた様だ。
義一がそろそろお暇する旨を伝えると、前回と同じ様に美保子と百合子が不満げな声を上げて”くれた”。
「あぁ、もうこんな時間か。まだ中学生の琴音ちゃんに、こんな夜分遅くまで付き合わせてしまって悪いね…」
と神谷さんが頭を下げそうな動作に入ったので、私は慌てて
「き、気にしないでください!」
と声をかけた。
そんなやり取りがあった中、ふと師匠はソファーから立ち上がり、そして静かに
「俺もそろそろ帰るよ」
と言い出した。これにまた美保子たちが声を上げたが、この場合は意外だといった風だった。驚きの声だった。
「いやいや…」
と師匠が何かを言いかけると、今度は大きな咳を断続的にした。その声は、聞いてるだけでも息苦しいものだった。これには私を含む皆で一斉に心配した。この時私の脳裏には、今日会ってすぐくらいの時の師匠の台詞がよぎっていた。
「師匠…」
師匠の咳が収まり始めた頃、心配げなトーンで話しかけたのは神谷さんだった。
「そういえば今日は一度も薬を飲んでいなかったね?」
「あ、そういえば」
と、私以外の一同が口々にそんな言葉を掛けていた。
いつの間に取りに行っていたのだろうか、ママがこれまた真剣な面持ちで、コップに入れた水を師匠に手渡した。「ありがとうママ…」と力無く言う師匠の声は、咳を頻りにしたせいか、もともと聞き取り辛かった声が、その何倍も掠れてしまっていた。でもそんなの気にする者はこの場にはいない。
師匠はママに空のグラスを手渡し、「弟子に連絡してくれ…」と頼むと、ママはコクンと頷き、マスターに目配せをし、二人して部屋を出て行った。
「何で…」
と神谷さんは、哀れみ半分、非難が半分といったトーンで話しかけた。
「何で師匠、薬を持ってこなかったんだい…?」
「…んだよ」
「え?」
何か師匠が言った気がしたが、すっかり掠れてしまって、付き合いの長いはずの他の皆も聞き取れなかった様だ。
すると急に師匠は大きく両手を真上に上げる様な伸びをして見せると、周りを見渡し、見るからに無理して明るく調子を上げつつ笑顔で言った。
「良いんだよ」
「…え?良いって何が…」
流石の神谷さんも、理解が出来ないといった風で、そう聞き返したが、師匠は笑顔のまま「良いんだよ」と繰り返すばかりだった。
そして、一向に一様に不安げな表情を浮かべる私たちを尻目に、
「ほら、ここにいねぇで、喫茶店の方で待ってようぜ?俺の事を送り出してくれるだろ?」
と言いながら、意気揚々とドアの方へと歩いて行った。
「何せ今日…あ、昨日か、昨日が俺の芸能生活の最後の日だったんだからよ」
そう言うと勢いよくドアを開け、こちらを振り返る事なく部屋の外に消えていった。師匠が出ていってから暫く…といってもほんの数秒だろうが、シーンと張り詰めた沈黙に包まれた。
と、ふと神谷さんが深呼吸の様に息を深く吐き出すと、一同を見渡し、苦笑交じりに言った。
「…まぁ師匠は”ああいう”人だからね…。琴音ちゃん達と一緒に送り出そうか」

ママ達は師匠のお弟子さんに連絡した後に、私たちのタクシーも呼んでくれた旨を教えてくれた。まずそのことに関してお礼を言い、そしてその後に、今日のもてなしについてもお礼を言った。ママは先程の深刻そうな表情とは打って変わって、普段通りの顔つきに戻っていた。マスターにも食事のお礼を言うと、マスターは無言ながら反応をして見せてくれた。
そして次に美保子と百合子にも挨拶をした。美保子は開口一番「今日は残念だったねぇ」と言ったので、私も「うん」と返した。
というのも、実は今日の事で、一つの約束をしていたのだ。何かと言うと…そう、今日この会の中で、どこかで隙が出来たら、一緒に演奏しようと計画していたのだった。これは義一にも内緒にしていた約束だった。私はその誘いに、『お誘いは嬉しいけど、美保子さんと演るには私が実力不足だと思う』と伝えたが、それでも構わないと言ってくれたので、快く了承したのだった。それからは何を演るかと相談しあって、私の知ってるジャズナンバーに曲目は決まり、楽譜をメールで送って貰ったのだった。当然の様にジャズは、普段から好んで聞いていたのが、弾くのはこれが初めてだった。だが、特にこの半年ばかりはずっとコンクールの練習に没頭していたので、ジャズの練習が良い気分転換になっていた。とまぁそんなわけで、だから今日は色んな議論をしつつも、頭のどこかにはずっとその事があったのだ。そしてさっき、場が落ち着いてきて、ちょうど私のピアノ遍歴の話になったので、そろそろかと思ってた矢先に、義一が時間に気づいて、この通り、オジャンとなってしまったのだった。
「仕方ない。これが最後って訳じゃないんだし、また次回にしましょう!」と美保子が笑顔で明るく言うので、私も笑顔で「うん!」と明るく返すのだった。
百合子は、「久し振りだというのに、そんなにお話出来なかったね」と言うので、私はまた今日も調子乗って喋り過ぎた事を、この時になって反省し、少しトーンを落とし気味に「うん…」と返すと、百合子は天真爛漫な笑みを珍しく…というか初めて私の前で見せつつ「気にしないで」と、これまた聞いた事の無い、普段の声の一オクターブ分くらい高めのトーンで返してきた。あまりの変貌ぶりにキョトンとしてしまったが、すぐに百合子なりに気を使ってくれたんだと察すると、私も明るい笑顔を作って「今度またお話ししましょう!」と声をかけた。すると百合子は、途端にまた普段のアンニュイな雰囲気を身に纏い、口調も戻して静かに笑みを浮かべつつ「えぇ…」と返してきた。そんなやり取りを見ていた美保子が百合子に戯れ付きだしたので、そこから離れると、次に神谷さんと師匠を探した。
二人が喫茶店のカウンターに横並びに座り、師匠はお代わりを貰ったのだろう、ゆっくりとグラスに入った水を飲んでおり、それを神谷さんがジッと静かに見つけていた。
と私が側に寄ると、神谷さんは明らかに作りましたという笑みを浮かべると「今日も面白かったよ。また今度は出来ればあまり間を置かずに来てね?」と冗談交じりに言ってくれたので、私もなるべく明るい笑顔で「はいっ!」と元気に返事した。それを見て神谷さんは満足げに頷いていたが、ふと師匠が私に顔を向けると、ほんの数秒の間、無表情で見つめてきた。私は思わぬことに少し緊張をしてしまったが、師匠はふと神谷さんに顔を向けると「…少しこの子と二人にしてくれ」と言った。この言葉に私が益々戸惑っている中、神谷さんは柔らかい眼差しを私と師匠に交互に向けてから、一度頷くと、「…分かった」と短く返事をし、席を外して何処かへ行ってしまった。
その後ろ姿を見てたが、ふと師匠が「…こっちに座ってくれるか?」と言うので、言われるままにカウンターの隣に座った。
私が隣に座ってからほんの数秒は何も言わずに水を飲んでいたが、ふとカウンター内正面のコーヒー豆が置いてある棚の方を見たまま口を開いた。
「…今日は楽しませて貰ったよ。…ありがとな」
「え?…あ、え、い、いえいえ!私こそありがとうございました!」
急にしんみりとした調子でそんな事を言われたので、私としては恐縮して返さざるを得なかった。
「クク…」
師匠は例の特徴ある笑みを漏らすと、ようやく顔をこちらに向けた。その顔には今日一番の柔和な笑みを浮かべていた。
師匠はそのまま無言で私の背中をポンポンと二度ほど軽く叩くと、声も穏やかに語りかける様に話しかけてきた。声質も、水を飲んだりして落ち着いたからか、さっきまで話していた程度には戻っていた。
「あーあ…俺がもう少し若いか、お前さんがもう少し早く生まれていたら、俺の良い時を見せられたのになぁー…」
その声の調子は、私では無い誰かに語るかの様だった。その目もどこか焦点があやふやで、遠き過去を見るかの様だった。
「…本人を前にして言うのは恥ずかしいがな」
師匠はさっきの咳で体力を消耗したのか、力無げに笑いつつ、しかし茶目っ気を含めて言った。私もそれに対して笑いかえしたはずだが、不自然ではなく、ちゃんと笑えてただろうかと今になっても思う時がある。
とその時、不意に目を大きく開かせたかと思うと、私にまた話しかけてきた。
「そういえばお前…俺のビデオを見てると言って、ジョークの話をした時に、興味を示していたな?」
「え?」
私は”ビデオ”という単語を師匠が使うのを聞いて、”いい意味で”時代を感じたが、思いもかけない言葉をかけられたので面を食らった。
「それって…?」
「あぁいや、あん時のお前さん、表情がパッと明るくなった様に見えたからよ、ジョークに興味があるんじゃないかと思ってな」
「…」
私は思わず自分の顔を手で摩って見せた。自分では分からなかったが、どうやら顔に出ていたらしい。確かに、師匠が言った様に私はジョークに少なからぬ関心があった。勿論それは、師匠の影響なわけだったが。
師匠はホッペをさする私の様子を見て、ニコッとこれまた優しい笑顔を見せたが、ふいに表情に影が差したかと思うと、声は柔らかめに言った。
「じゃあよ…その内俺にとって要らなくなったらよ、俺の持っているジョーク集…全てお前にやるよ」
「…え?」
『俺にとっていらなくなった時…』この言葉に真っ先に引っ掛かったが、師匠が私に向けてくる表情なりが、その質問をこっちにさせなかった。だから私はそう声を漏らすのが精一杯だった。師匠は表情なり何なりをそのままに続けた。
「あぁ…。まぁ、なんだ、俺って芸人のくせにマニアな部分があるから、貴重な資料が沢山あるのよ。この店に集まる面子には、それぞれあげる物が決まっているんだがな、今のところジョーク集を欲しがる奴がいないからさ…早い者勝ちって事で、貰ってくれるか?」
「…」
私は今何の話をされているのか、分からない…いや、勿論どこかで分かってはいたが、その不吉な考えを認めたくない私が別にいて、見ないよう見ないよう、誤魔化し誤魔化し
「…まぁ、師匠がそうしてくれると言うのなら、私は勿論喜んで頂きます」
と、ここでまた何とか笑みを作って返すのだった。この時は、自分でも分かる程に顔が引き攣り緊張しているのが感じられた。
それを師匠ほどに観察眼の優れた人が気づかない訳がないと思うが、ただ微笑みつつ、また私の背中にそっと手を置いて「…良かった」と呟くのだった。
それからは、そのジョーク集がいかに昔の本で、ありとあらゆるジョークを網羅していて、絶版というのもあって貴重な代物なんだと力説されていたが、不意に店の前に車が停まった気配がして、その瞬間玄関が開けられた。タクシーの運転手だった。
去り際に、また改めてそれぞれと挨拶を交わした。師匠にも最後に挨拶をすると、ただハニカミながら手を軽く上げるのみだった。本当に実際会う前に持っていたイメージ通りのシャイな人だと思った。
先に義一が外に出て、私もその後に続こうとしたその時、「琴音」と声をかけられた。師匠だった。
師匠はツカツカっと私に歩み寄ると、ふと私に耳元に顔を近付けたので、私も気持ち近寄った。師匠は何気にというか、昔の人にしては背が高めで、168ある私よりも少しあった。
師匠は手を口元に当てて、内緒話風な格好を取ると、小声で話しかけてきた。
「お前さん…人から褒められた時は、逃げずに、上手に受け取るか受け流す術を身に付けないといけないよ?」
「…へ?」
これまた予想外な言葉をかけられたので、思わず身を起こして師匠の顔を凝視した。すると師匠は明るく笑ってから、そのまま愉快げに続けた。
「恥ずかしいのは分かる。…それがマトモで、人として正当な反応だからな。…善いことをして褒められるってのは、何よりも恥ずかしいことだからよ。お前なら…何を意味してるか分かるよな?…ただな、俺も昔、尊敬していて付き合いのあった小説家先生にな、『君は僕が褒めれるとすぐに逃げるね』って怒られた事があったんだ…」
「おーい、琴音ちゃーん?そろそろ行くよー?」
とその時、義一が玄関のすぐ外から顔を覗かせて声をかけてきた。
「うーん、今行くー!」
と返事をすると、師匠に顔を戻して、
「…はい、何となくですけど、師匠が何を言いたいのか、私なりに分かった気がします。肝に銘じときますね」
と我ながら生意気な小娘っぽく意地悪げな笑みを浮かべつつ返した。
それを聞いた師匠は、両肩を少し持ち上げて見せて、呆れたという表情を見せたが、口元は笑っていた。
それから急に私の背後に回ったかと思うと、若干強めに背中を押して「ほら、叔父さんが待ってるんだ。早く行ってやりな!」と言うので、私は「今日は楽しかったです。ありがとうございました!」と改めて言い、深々とお辞儀をして、店内を振り返りつつ、手を振りながら外へと駆けて行った。
神谷さん含む皆は笑顔で手を振ってくれたが、師匠だけがまたハニカミつつ、恥ずかしげに軽く手を上げているのが印象的だった。
「すっかり遅くなってしまったねぇ…。僕がもっと早く気付けば良かったんだけれど…大丈夫かい?」
車内が真っ暗だったので、表情までは見えなかったが、声の調子から心配げなのが伝わってきた。
「うん、大丈夫だよ」
私は相手の顔が見えなくても、一応その方向に顔を向けて微笑みつつ返した。
タクシーに乗り込み、明かりの少ない住宅街の角をいくつか曲がった時、不意に義一が話しかけてきたのだった。
「そう?なら良いけど…」と義一はまだ心配が抜け切らないといった調子で言ったが、ふと急にトーンを変えて、少し意地悪げに話しかけてきた。
「ところで…今日はどうだった?」
「どうだったも何も…」
私は見えないのを承知でジト目を向けつつ答えた。
「そりゃあビックリしたわよ。まさか師匠が目の前に現れるなんて、思ってもみなかったんだから。…”誰かさん”は、その事を承知で内緒にするし…」
「ふふ、目論見通り驚いてくれた様だね」
その声は心から愉快だと言いたげだった。
「だって、そもそも…」
私はため息交じりに言った。
「義一さんが師匠と知り合いだったなんて…私、聞いてないよ?」
「あれ、そうだっけ?」
そうなのだ。今まで話を聞いてくれた中で、覚えておられる方がいるだろうか。私が小学生の頃に、義一が初めて師匠の言葉を引用してくれたから存在を知った訳だったが、それ以降、何度も一緒に師匠について話したり何なりしたというのに、一度も親しくしてるだなんて事を言わなかったし、素ぶりすらも見せなかったのだ。今回以前の私と同様の”一ファン”だと思っていたのだ。それが尚更驚くのに拍車をかける形となった。
「そうだよぉー」
と、これも相手から見えてるか分からなかったが、窓の方を向いてツンとして見せた。その間義一は、クスクスと控え目だったが暫く笑うのをやめなかった。
「もーう…まぁいいわ!」
イジけてツンとするフリにも飽きた私は、また義一の方に顔を向けて話しかけた。
「今回も前回同様に、色々と議論したりお喋りしたりして面白かったし、言うまでもないけど、師匠を交えて芸について深く語らえたんだもの。…あっ!」
今晩の数寄屋での出来事を思い返して余韻に浸っていると、突然ある事が放ったらかしのままであるのに気づいた。
私が急に素っ頓狂な声を上げたので、義一が苦笑交じりに「どうしたの?」と聞いてきた。
私は肩を落として、残念さを演出するために、普段よりもいくつかトーンを下げて答えた。
「…マサさんが悩んでいたっていう、イプセンの”人形の家”の話の続きを聞くの忘れてた…」
「…?…あっ、あぁー…」
義一もすぐにでは無かったが、気付いたようだった。
そう、今この時も、深夜だというのに仕上げるのに葛藤しているであろう、今秋に百合子が主演予定の”人形の家”…マサさんが言ったという悩みについて、どのように議論したのか聞くのを忘れていたのだ。
その話を聞いた時、もしチャンスがあれば観に行きたいと瞬時に思わされただけに、その後の濃い議論と会話のせいで忘却してしまっていたが、ふとこうして思い出してしまうと、急にフツフツと欲求が高まっていくのを感じるのだった。
「まぁー…」
義一は苦笑い気味の口調を変えないまま、私に諭すような口調で言った。
「後数日で、その議論を字に起こした文章が載っている”オーソドックス”の最新号が発売されるけど、今度それを君にあげるから、取り敢えずは自分でそれを読んでみてよ?読んでみて、どこか変に思ったり、疑問に感じたりした時は…いつでも”宝箱”においで。いつも通り、僕と二人で議論しよう」
「んー…分かったよ」
と私は、言葉の裏に妥協を匂わせつつ、しかし快く承諾したという風を漂わせるのを忘れずに返した。
それからは、私の家に着くまで取り留めのない雑談をして過ごした。心の内に、まだ聞くタイミングではないと判断した、普段から義一…そして神谷さんが言う”保守”とは何かという疑問を孕みながら。

第29話 死に屍

「…ん?」
気付くと私は暗闇の中を、ゆっくりとした歩調で進んでいた。変な言い回しになるが、真っ暗闇だというのに、初めのうちは視界がボヤけていたのが、徐々にはっきりしてくる感覚を覚え、それと同時に今自分が歩いているのに気付いたといった次第だった。
尤も、真っ暗闇と言うのも誇張かもしれない。何故なら、手元には例のカンテラを持っていたからだ。カンテラからは、柔らかなオレンジ色の光が、ボーッと漏れて、私の足元、半径一メートル周辺を照らしていた。試しに顔の辺りまでカンテラを持ち上げ、周囲に光が行くようにして見たが、相変わらず広い空間が広がっているようで、何も反射する個体が見つからなかった。
…あぁ、あそこか。
視界とともに頭もハッキリし、今の状況を把握することが出来た。まぁ尤も、”頭がはっきり”という表現は、正確には間違っているのかも知れない。何故なら、これは夢なのだから。
自分の夢の事ながら、前回までいたあの部屋を出て、今いる時点がどのくらいの時間歩いて来た辺りなのかは、把握することが出来なかった。前回と変わらず、暗闇の中で時折何者かが蠢いている気配を感じてはいたが、初めのうちは一々ビクッと恐れ戦いていたのに、慣れというのは恐ろしいというか有り難いもので、『またか…』てな具合に流せる程にはなっていた。しかしここでまた別の問題が生じてきていた。私がこの身に孕んでいる最大の”悪弊”もしくは”弊害”…そう、”なんでちゃん”がずっと胸の内で存在を現してきていて、『蠢いているその正体を暴こうよ』と頻りに訴え続けてきていたのだ。目を覚ましている時とは比べ物にならない位に、アピールしてきていた。まるで、胸の内側から強くノックしてくるかの様で、実際に胸が痛く苦しく、思わずカンテラを持たない手で、胸の辺りを摩ったり抑えたりしなくてはならない程だった。とこの時、現実世界でもこんな事があったのを思い出したりしていた。そう、最近になってまた存在を現してきていた”黒く重く重量を持った形容のし難いナニカ”の事だ。一応補足をすると、これまでにも二度ほど今と似た様な事があった。小学生時代と、お父さんに連れられて所謂”社交デビュー”をしたその時だ。まぁ今だにコレの正体が掴めずにいるのだが、それでも今この夢の中で起きている胸の苦しさからは、形容し難かったソレが、少し具体性を帯びている様に感じていたのだった。
…とまぁ、あまりにも長い時間暗闇の中をひたすら目標物も見つけられないまま歩き続けていたので、ついつい思考が捗り、その広大な海の中にドップリと沈み込んでいたのだった。
どれほど歩いた頃なのか、ふと遠くでボーッと光る灯りが見えた。その光は今にも消えそうな程に頼りなく弱々しく、またユラユラ揺れていたので、最初見た時は火の玉か何かかと思い、久し振りにビックリ驚き恐怖を覚えたが、待ちに待った新鮮味のある大きな変化だという事で、何とか必死に勇気を奮い起こして、怯えつつもゆっくり慎重にその光源を目指して歩くことにした。
向こうの方で、歩いているのかどうだか判断は難しかったが、仮に歩いていたとしても余程遅いペースなのか、こちらがそんなに急いで歩み寄っていなかったのにも関わらず、気付けば凡そ二十メートル程にまで近付いていた。近付く分、その頼りない灯りが気持ち強まるのを感じていた。
とその時、突然私の周囲でタッタッタッタという、恐らく足音だろう、何人分かの足音が聞こえて、すぐ脇を通り抜けたかと思うと、その灯りに向かって駆けて行った。
何事だろう?
と私は思わず歩みを止めて、進行方向の先、灯りの方をジッと見ていた。
ふと足音が止んだので、何の根拠らしい根拠は持ち合わせていなかったが、何となく数人が灯りの周りを取り囲んでいるのだろうと思い描いていた。
それからどれくらい経っただろう…?恐らく数分ってとこだろうが、その間は、さっきの慌ただしい足音とは打って変わって、それ以前のと同様の静寂が辺りを支配していた。
先程から”なんでちゃん”が起きていたので、息苦しくなるほどの好奇心に見舞われていたが、この時は得体の知れない恐怖心の方が勝って、その場から一歩も踏み出せずにいた。
とその時、ヒューっと私の周囲に空気の流れを感じ、生暖かいヌルッとしたジメッとした風がホッペを撫でたかと思うと、目の前で瞬いていた灯りが倒れるかの様な動きを見せたその直後には、ドサっという、実際に何かが倒れる音がした。そしてその数秒後には灯りもスッと消えたのだった。
私はこれまた突然の出来事が目の前で起きたので、暫くはそのまま灯りがあった辺りを見ていたが、恐る恐るその辺りに向かって足を前に動かした。
摺り足に近い方法で徐々に近づくと、ふと私のカンテラが灯す足元の向こうに、ボロボロのスニーカーとズボンが見えた。
私はギョッとした。それだけしか見なくても、それが人間の下半身だと分かったからだ。流石に触りはしなかったが、その中にはちゃんと”モノ”が入ってそうに見えた。細すぎるとは思ったが、どうやら身に付けられている状態の様だった。靴の角度なりズボンの様子を見て、うつ伏せになっている事も判断出来た。
ギョッとしたと言ったが、もし目が覚めていたら、ここまで驚きはしなかっただろう。少しは驚き心配をするだろうけど。では何故この時にそんなに驚いたかというと、何せここまで私以外の、人どころか”有機物”自体に出会えてなかったのだ。急展開に感じて驚愕するのも無理はないだろう。
それから私はカンテラの明かりをソレに当てつつ、ゆっくりと慎重にもっと近付いた。とその時、私は思わず「キャッ!」と短い悲鳴を上げてしまった。カンテラの柔らかな光に浮かび上がったのは、真っ白な髑髏だったからだ。当然というか、実際に見た事が無かったし知識も無いから何となくでしか言えないが、周りに付いているはずの肉が綺麗に無くなっているところを見ると、亡くなってからかなり時間が経っている様に推測された。真っ先に頭部に目が行ったので後になって気付いたが、シャツの袖から出ている手も、綺麗に骨だけになっていた。わざわざ確認する気は起きなかったが、おそらく下半身も綺麗に白骨化しているのだろうと思った。
と、骸の手元から少し離れた所に、今私が手に持っているのと同じ型に見えるカンテラが転がっているのが目に入った。火はもう消えていた。
最初こそ恐怖のあまり、駆け出したいくらいの心持ちでいたが、人間慣れというのは恐ろしいもので、しばらくすると落ち着いてその亡骸を慎重にじっくりと観察できる程の余裕が出てきていた。寧ろ…こう言うと”不謹慎”だと言われそうだが、この時の正直な気持ちを述べれば、自分が置かれた状況を楽しみだしていたのだ。
何せ、状況証拠から見て、さっきも言った通り本来だったら死後幾日も経ってそうに見えるのに、恐らくさっきのユラユラ揺れて動いていた灯りの持ち主は、そこに転がっているカンテラを見れば明らかで…という事は、白骨のこの御仁がこの姿のまま、暗闇の中をカンテラを持ちながら彷徨っていたという事になる。
…普通に考えたら”ホラー”だし、周りからどう見られているか分からないが、自己申告させて貰えれば、本来の私はホラーが得意な方では無かった。 寧ろ嫌いと言っても良い。 だが、これが夢だと確信出来ていたのが大きかったのだろう、恐怖心よりも好奇心が勝り始めていた。
…先程”慣れ”と言ったが、一つまた別の視点から話すと、実は慣れてくるのと同時に、何故かこの屍に対して”懐かしさ”の様なものを感じていた。馬鹿な事を話すなと言われるかも知れないが、当然いくら骨を見ても面影など分かるものではないし、ボロボロになった服装を見ても、そんな格好をした人に見覚えは無かったのにも関わらずだ。私はこの段階になると、この屍が誰かという疑問と同時に、根拠も無いのに懐かしさや親しみを感じ始めている”自分自身”に対して、面白がりだしていた。
…この骸がカンテラを持って彷徨っていたのよね…?で、今こうして倒れていると…。んー…っと、確かあの時、見えない複数のナニカが駆け寄って行った様に感じられたけど…それと何か関係があるのかしら…?…あるに決まっているわよねぇ…。
先程も言ったが、不思議な事とはいえ、新しい出来事がようやく起きたので、こういった具合に推理したり、思いを巡らしたりと頭をフル回転させていた訳だったが、不意にここで、何か生温かな液体のような物がホッペを伝うのを感じた。不思議に思い、拭って、跡を辿って見ると、その出所は目からの様だった。そう、それは涙だった。
確かにこの屍に親しみを感じてはいたが、涙を流す程だったのかと私はまた大いにビックリした。これも夢という現実離れした世界の為せる技なのか、拭っても拭っても涙が止め処なく流れ出てくるのだった。終いには私はそのままにしてしまった。何故なら、別に流しっぱなしにしても、視界がぼやけるような事は無かったからだ。
一体…これはどういう事だろう…?今私が涙を流した事も含めて、今回の一連の流れには、どんな意味が隠されてるの…?
とまた私は頑張って何とか解明しようとしてみたが、どう考えても”材料”が足らな過ぎて、結局同じ所を堂々巡りするだけだったので、一旦ここで諦めて、もう少し何かプラスになるものはないかと、屍の周りを観察する事にした。しかし、やはり流石に気味が悪くて直接に屍は触れなかったので、火の消えたカンテラを調べてみる事にした。そう決意したその瞬間、さすが私自身の夢だと言うべきか、都合良く涙もピタッと止まったのだった。
早速私はカンテラを手に取り、自分ので光を当てて見ると、やはりというか、このカンテラのガラス部分にも字が書かれていた。ただ結構月日が経っている上に、風雨に晒されたりしたのか、掠れてなかなか読み辛くはなっていた。なので私は顔をそれに近付けて凝視した。
えぇーっと、なになにー…えっ?”藝”…?

「藝…?…え?」
私は自分の呟きで目が覚めた。見慣れた天井がボヤけて見える。
頭だけを部屋の方に向けると、カーテンの隙間から陽の光が差し込んできていた。どうやら天気は快晴らしい。
ふと枕元近くのサイドテーブルに乗っているデジタル時計を見ると、日曜日の朝という表示と、九時半過ぎを示していた。
自慢では無いが、私はいくら遅くに寝ても早起きをしてしまうタイプなのだが、これだけの遅い時間に目を覚ましたのは、物心ついてから初めてだった…と記憶している。
もうこんな時間かぁー…。まぁ帰って色々と済ましてからベッドに入ったのは、確か二時を過ぎていたもんねぇ…。
などと思いながらゆっくりと上体を起こし、両腕を真上に上げて伸びをし、その先の手を合わせて左右に振ったりしてストレッチをしていたが、この時ふと、視界のボヤけが中々引かないばかりか、瞼自体も動かしにくくなっているのに気付いた。その様な軽い異変に気付いたのと同時に、ほっぺも何かが張り付いている様な違和感を覚えた。
私はまず軽く目を擦りつつベッドから抜け出て、それから部屋にある姿見の前まで歩み寄った。そこには寝間着姿の私が映っていた。
よく見える様にグッと顔を近づけると、驚いてしまった。何故なら、そこにいたのは目の下に幾筋も涙の跡を残す私の顔だったからだ。目も軽く充血していた。
…そっか、夢の中だけでは無かったのね。あーあ…こんなになっちゃって…。
この時の私はそれ程重大視せずに、ひどい顔をしている自分の顔を暫く撫で回してから、机に向かい、この夢を見たときのルーティンワークの一つ、ノートに夢の内容を書き込み始めた。
今回は内容豊富だったので、書く量も若干多かったが、ペンは滑らかに滑っていった。
と、最後の段になって、灯の消えたカンテラを調べる辺りを書き終えたその時、ふとペンの底を顎に当てつつ考え込んでしまった。
…あれって、どういう意味だったんだろう?


二巻へ続く

第30話(休題)オーソドックス 六月号より抜粋


石橋(一応確認すると、マサさんの事)
「…てなわけでよ、世間的には”人形の家”は、フェミニズム運動の勃興と共に語られるんだが、どーも世間一般に言われてる”フェミニズム”とは、この作品が直接的に関係してる様には思えないんだよ」
神谷「なるほどねぇー…あ、そうだ。少しコレについて話し合ってみようか。中々に面白い議題だよ」
望月(言うまでもなく義一の事)
「そうですね。珍しくこの面子の中にいて、積極的に声を出してくれた事ですし」
石橋「うるせぇ」
中山(フルネームは中山武史。三十八歳。京都の国立大学で准教授をしている。政治思想が専門。それ以上はここでは紹介出来ないが、追々物語に直接出てくる事になる。)
「私も構いませんよ。人形の家かぁ…。懐かしいね」
神谷「よし、決まりだ。折角だから、石橋さん、人形の家の粗筋を読者のために話してくれるかな?」
石橋「あぁ、いいよ。主人公の女ノーラは、弁護士ヘルメルの奥さんだった。ノーラは無邪気に人間を信じるたちで、貧しい者に対して何かを分け与えずにはいられない様な気質の持ち主だった。そんなノーラに対してヘルメルは”大切に”扱っていた。まるで猫を可愛がるかのように。同じ人間に対しての愛情とは少し違った質を感じながらも、ノーラは気付いてないフリしながら日々を過ごしていた。
そんなある日、夫の部下クロクスタが家に訪れてきた。こいつは馴れ馴れしい態度を取ったとかで、もうじき解雇になる予定だった。それを取り消して貰うように嘆願にきた。ノーラは勿論断ろうとするんだが、この部下は彼女の弱みを握っていた。それは昔病魔に侵されていた夫のために金銭が不足して、苦肉の策にこの部下にお金を借りたんだが、その際に借用証書を偽造してしまったんだ。もしコレを夫にバラされたら、猫可愛がりとはいえ悠々自適な生活を送っていたのに、全てが破滅してしまうと恐れたノーラは、夫に解雇を取り消すように頼む。でも夫の意思は固く、部下を解雇してしまった。約束通りというか、元部下は暴露する手紙を元上司に送った。事実を知った夫は激怒した。もしコレが外に漏れたら、自分の評判まで落としてしまうんじゃないかと思ったからだ。…もうこの時点で話が長くなってしまったが、ここで少し省略すると、元部下はある事がきっかけで改心し、捏造の証拠だった借用証書を送る。つまり、コレで元部下が強請ってくる心配は無くなったというわけだ。心配のタネが無くなった途端、激怒していた夫がコロッとまた態度を変えて、以前のようにノーラを可愛がろうとしてきた。でもこの時ノーラは、夫が自分を対等な人間とは見ていなくて、まるで意思を持たない”人形”くらいにしか考えていない事に改めて思い知らされ絶望し、自分は人形から人間にならなくてはと強く想い、子供が三人もいたにも関わらず、夫の制止を振り切って家を出る。…とまぁ、頼まれたからとはいえ、長々と話してしまったが、粗筋としてはこんなもんだよ」
神谷「いや、ありがとう。流石脚本家、あれ程の作品の粗筋を、うまいこと纏めてくれた。…さて、それこそ十九世紀以来、この作品を通して、幾度も幾度も幾人も幾人もが議論を交わしてきた訳だが、最近では珍しいから、むしろ我々で過去の人の様に議論して見ようじゃないか。さっき石橋さんが言った様に、この作品はフェミニズムに絡めて話される事が多いけど、まずは一般的なフェミニズムっていうのを話してくれるかな?」
石橋「あぁ。んーそうだなぁ…まぁ今までの女というのは男から抑圧を受けてきた…それから解放される為に運動しようって事だとは思うんだが、ある意味”人形の家”の”一側面”は捉えているから、そういう判断になってる…というのは分かるんだけれどもよ」
神谷「うん、中々の難しい問いかけに答えてくれてありがとう。そう、私もうる覚えだが、確かに今石橋さんが言った様に、一側面は捉えている。ただ…今ふと何故あなたが世間の人形の家に対する認識と、自分の感覚がズレてると感じたのか、思い付いたことがあるんだが…というのもね、実際作者のイプセン自身が、そもそもそんな考えの元に書いたのかが疑問だからではないのかな?」
石橋「んー…?…あぁ、そうかもしれんね」
神谷「同意してくれたところで、では少し他の人にも話を振ってみよう。望月君、君は”人形の家”を読んだ事があるよね?」
望月(他の号でもそうだが、何度も自分の名字が出てくるたびにドキッとしてしまう)
「はい、もちろんです」
神谷「流石だね。では、今までの私と石橋さんの会話から感じ思った事でもいいし、何か全く別の視点からでも良いから話してくれるかな?」
望月「はい。そうですねぇ…まぁ今までの話と関連してるかは分からないのですが、フェミニズムについて考える前に、もう少し”人形の家”について、いやもっと言えば、今先生が言われた様に、作者であるイプセンがどの様な視点で書こうとしたのか、ここを掘り下げてみたいと思うんです」
神谷「続けて?」
望月「はい。今石橋さんが粗筋を述べてくれたので、僕は少し具体的な所…つまり本文の中身を精査して見るところから始めたいと思います。私も先生の様にうろ覚えだったんですが、つい最近、石橋さんと懇意な間柄である”とある女優”さんから、同じ話を聞きまして(笑)それで久し振りに興味を持ち、たまたまつい最近読み直した所だったんです。まさか、こうしてそれについて議論する事になるとは思いませんでしたが…。まぁそれはともかく、『お前は妻であり母なんだ。幼い子供もいるのに自分の都合のためだけに好きな事をしてはいけない』だとか、そういった世間的常識を持って必死に夫は説得しようとするのですが、夫のそんな本性に気づいたノーラは、一切聞き耳を持とうとしませんでした。何かにつけて『自分は独り立ちしなくてはならない』だとか、『誰の指図も受けない。自分自身と世界を知る為には、自分一人で考えなくてはならないのです。今までの常識だとか、書物に書いてある事などは、今の私には何の標準にもなり得ません』と言ってました。このノーラの頑なな態度は、今までのしがらみに対する、急激な反動と取れるわけです。とても単純なものです。恐ろしいほどに。こうして180度反対に触れたという事は、それだけ何んだかんだ夫に対して信頼が厚かった証拠だとも言えるわけですけど、今物語中でノーラが話したセリフを聞いての通り、繰り返しますが、ただの今までに対しての反動であって、そこには何も思想なり理念なりが一切ありません。『自分自身を知りたい』『世界がどうなっているのか知りたい』などと大仰な事を何度も繰り返し話してましたが、それは何処かでそう述べている自分自身の言説に対して自信がない現れとも取れます。…っと、何が言いたいのかというと、まず、このノーラを通してイプセンが描きたかったのは、分かりやすいところで言えば、フランス革命から始まる近代の混乱ではなかったのか?…という点なんです」
神谷「なるほど。いや、ありがとう。ではそこから考えてみようか。確かに今君が話してくれたから、また少し昔に読んだ記憶が蘇ってきたけど、そうだね、主人公のノーラは今までの価値観が真逆に触れてしまった、そして何かから逃げる様に家を出る…。これは此れ迄我々が何度も議論したりしてきた事の裏付けになる事例だと思うね。どういう事かというと、思想を持ってない、もしくは失ってしまった人間というのは、何か一つの大きなショックを与えられると、途端に不安になり、不安定になり、何とか倒れかけている自分を立て直そうとすると、加減を司る価値観を持っていないものだから、こうして真反対に倒れる事になるんだよね。で、その倒れてしまった状態、今望月君が言ってくれた様に、これはイプセンが世の中の情勢を、その鋭い感性によって具に観察し、ノーラという近代の鬼っ子を生み出した…と言える訳だね。どうかな、石橋さんは今までの議論を聞いて?」
石橋「おう、別にこれといった反論はねぇよ。納得いく話だ」
中山「ついでに私もです」
神谷「それは良かった。という事は、何もイプセンは女性の社会進出という、今現代で言われている様な皮相的な事を描いた訳ではない事が、少なくともこの場においては共有出来たという訳だね」
望月「ついでにと言っては何ですが、ある事を思い出したので、今の議論に裏付けする形で、ここでもう一つ具体例を述べたいと思います。それは、イプセンの代表的なもう一つの戯曲”民衆の敵”の事です。これも読者のために少しばかり粗筋を述べる事を許して頂きたいですが…」
神谷「ふふ、いいよ続けて?」
望月「ありがとうございます。それはこうでした。ノルウェーの田舎町で温泉が発見されて、(一応念のために言っておくと、イプセンはノルウェーの人です)町の人々は観光による町興しを目論みます。しかしこの時開業医を営んでいた主人公の男は、自分の義理の父が経営している製革所からの廃液が、浴場を汚染しているのに気づきます。主人公は兄である町長に源泉の使用を止める様に言いますが、目先の利益を優先する為に却下され、それでもめげずに現実を訴える為に開かれた町民集会でも、彼の意見は抹殺されてしまいます。彼のその様な昔由来の道徳的な倫理観や正義感は、善悪問わずに利益最優先思考に冒された民衆にとっては敵でしかなかった…。そうして彼とその家族は次第に孤立していく…って話でした。何故今この話を引いたか、そしてそこから何を言いたいかというと、イプセンはノーラの様な近代的な今までにいなかった”新人類”の出現を、勿論具体的には言及していませんが、少なくとも両手を上げて歓迎などはしていなかった…いやもしろ懐疑的だったと言えるんじゃなかって事なんです。一つの事実として、人形の家を書き上げた後、詳しくは忘れましたが確かすぐに”民衆の敵”の制作に取り掛かっていたはずです。何せ、人形の家の三年後には、民衆の敵を発表していたのですから。…これを言うと、色々な方面から反論が予想されますけど、少なくとも私個人の認識では、この民衆の敵を書いていた時のイプセンの精神性は”保守的”だったと言っても過言ではないと思います。…どうでしょうか?」
中山「なるほどね。確かに民衆の敵、私も大昔に読んだ事があったけど、言われてみれば”保守的”と言えなくもないな」
神谷「私も今望月君が話してくれた事に同意するよ。”保守”の点もね。二人はどうかな?」
中山「私は賛成です」
石橋「どうかなって言われてもなぁ…。保守かどうかなんて、門外漢の俺には判断出来ないけど、少なくとも先生がそう言うんなら、俺も取り敢えず賛意を示すよ。何せこう見えても、俺は先生の事を”信用”しているからな。それは置いといて、俺に分かるところで言えば、今望月が話した事、俺なりに纏めれば”人形の家”のノーラと、”民衆の敵”の主人公の男とでは、性格が真逆という事だよな?そこから推測出来るのは、百歩譲って世間の言う通り人形の家がフェミニズム運動の旗振り役になったとしても、それは作者のイプセンの狙った点では全く無いって事で、今少し自覚したのは、俺の違和感の正体の一つがそれだろうって事だ。反論があるかって問われたなら、勿論俺は”無い”に一票投じるぜ」
望月「ありがとうございます(笑)」
神谷「さて、また一同で同意が出来たところで、折角だしもう少し議論を深めてみたいと思う。とその前に…まだ時間はあるよね?」
望月「えぇっと…はい、残り二人が来るまでまだ少しばかりあります」
神谷「そうかい?では少し良いかな…?今石橋さんがある種の本質的な所に触れた…。それは、作者の意図とは違うところで、物語の一面が大きく解釈されて膨らまされて、その解釈が流布されて影響を及ぼした。勿論再三議論してきた様に、解釈を受け入れる下地が世間にあった事は異論を待たないだろう。さて、ノーラには思想も確固たる価値観も流れ出してしまって無くなってしまった…そんな事を話し合った訳だが、ただ一つだけ、恐らく現実にノーラがいたら、こんな反論をしてくることが予想される。それは『私は要は自由になりたかったの。自由を愛する…それこそが私の価値観よ』てな調子のものだ。さて、こんな反論をされたら、君たちならどう返す?」
望月「そうですねぇー…今出された議題は”自由とは何か?”とも言えると思うんですけど…まぁそこまで広げると、限られた時間ではとてもじゃ無いけど語り尽くせないので、ここは一つ、いつも先生が引用されている福沢諭吉の言葉を借りつつ答えようかと思います。『ノーラ、君は自由が好きだ、愛してるだなんて言うが、君は本当に自由というものを知っているのかい?知らない?それを知る為にも家を出ていくと言うんだね?でも待って欲しい。君は少なくとも自由は”良いもの”だという考えを持っていて、だからこそそれを手に入れんが為に行動しようとしているんだろ?だったら、自由が”どう良いものなのか”くらいの目星を立ててなければオカシイじゃないか?…正直に言おう。僕は君が自由がなんたるか、知れる訳がないと思ってるんだよ。少なくとも今のまま家を出てしまえばね。もし夫の鼻につく偽善にも我慢し、毎日繰り返しの刺激の少ない家事をし続ける家庭に戻るならば、それなら君は自由というものを、それが何かという答えが出るかはともかくとして、少なくとも自由にはいられるんだ。…意味が分からないって顔してるね?では説明しよう。昔福沢諭吉がこんな事を言ったんだ。『自由とは、不自由の際より生じる』とね。どういう意味かと言うと、自由というのは、不自由の中にいて、その限界のところまでいかないと認識出来ないって事なんだ。仮に生まれた時から自由な空間にいたとしたら、いくら周りが『君は自由なんだ』って言ったって、本人からしたらずっとそうだったんだから、何も実感なんか湧かないだろう?つまり、自由というのは、雁字搦めの身動きが取れない様なのでは困るけど、ある程度確立した、もしくはされた枠組みの中でしか実現しないって事なんだ。君みたいに、『何でも自分一人でやるんだ』『人の考えなんか一切入れないで、自分の頭だけで考えて行動するんだ』なんて事をした日には、結局如何ともし難い不完全な”自分”にぶつかり、何も無い荒野の真ん中で呆然として立ち尽くす事しか出来ないだろう…。そんな未来が君はお望みなのかい?』と。…あ、いやー、ついついまた長話をしてしまいました。よく読者の方から『一人で話しすぎ』『一々クドイ』とお叱りを頂くのに」
神谷「ははは。それは君だけでなく私もだよ。でもありがとう、少なくとも私は異論なんて無いよ。…同意ばかりで読者はつまらないだろうがね。また聞くけど、君たち二人はどうかな?」
中山「私も退屈な意見で申し訳ありませんが、同意です(笑)」
石橋「…っと、すまんすまん!ついつい義一…あ、いや、望月の話が面白くて、今書いている脚本の参考にとメモしていた所だったから…。で、何だっけ?…あぁ、それはよ、こうしてメモしてるくらいだから分かるだろ?勿論同意だよ」
神谷「それは良かった。浜岡さん、これだけでも結構字が埋まったんじゃない?(フルネームは浜岡洋次郎。文芸批評家にして、地元鎌倉の小さな博物館の館長をしている。雑誌”オーソドックス”の編集長兼、毎号の対談の字起こしをしている。この人も追々物語に軽く入ってくる事になる)…ふふ、まだだって?まだこの後二人ばかり来るから、彼らのために紙を残してあげた方が良いのかも知れないな…え?少しページを増やしても構わない?…ふふ、こういった所が、大手の雑誌には無い融通の利く所だよね。今のこの会話も載るんだろう?」
石橋「…え?あ、そうか、じゃあ俺の言葉も名前付きで載るんだな…。参ったなぁ、関係者に見られたらどうしよ…。まぁいっか、成るように成るだろう!」
神谷「…ふふ、じゃあ折角だし、今我々の中で一番発言の少なかった中山くん、今までの議論に関連しても良いし、しなくても良いから、何か発言を求めたいんだけれど」
中山「私ですか?そうですねぇー…まぁ私は政治思想が専門なんで、ふと今までの話を聞いてて、ある事を思い出したんです。それはある種、フェミニズム…この場合で言うと”女性の社会進出”にも関係してくるのですが」
神谷「あぁ、その話がまだ途中だったね」
中山「そうです(笑)最近訳あって、先程のイプセンに対する見方と同じ様に、これまた色々と見方が別れる人ですが、少なくとも我々の中では”保守思想家”と看做しているオスヴァルト・シュペングラー の書いた”西洋の没落”を読み返していたんですけれどね、その中で面白い事を再発見したんですよ。シュペングラーは当時二十世紀に入ったばかりの当時も、少子化問題にヨーロッパが直面していたというんで、それに伴う人口減少を没落の徴候の一つに数えてました。ここで手前味噌ですが、私見を述べさせて頂くと、当時のヨーロッパの出生率の低下の原因の一つに、識字率の上昇に伴う結婚年齢の上昇が考えられると思います。そしてそれは、百年後の今でも変わらずに起きている事ですよね?」
一同「確かに」
中山「ここでシュペングラーが…まぁここに集まりの皆さんもご存知の通り、あのような人物ですから、かなり大胆な説を言ったんですけど、彼によれば、『そもそも文明化した人間というのは、子供を産まなくなるものなのである。文明化した人間は、覚醒存在(知性)が肥大化し、現存在(自然)が弱体化しているために、出産という自然的なものが衰えるのだ』と言うんですよね。そしてその延長で『個人としては生きようとするが、型として、群れとしては最早生きようとは欲しない』とも論じていました」
望月「それはさっきのノーラにも通ずるね?」
中山「そう、その通り!で、またシュペングラーを持ち出して恐縮だけれど、彼はこうも言っていた。『子供が生まれないというのは、単に子供が不可能になったばかりでなく、特に極度にまで強化された知性が、最早子供の存在理由を見出さないからである』とね」
神谷「なるほど、いや、私も勿論彼の本は読んでいたんだけれども、歳のせいかそこまで覚えていなかった。いやー、面白い話を聞かせて貰ったよ。やはり望月君と中山君二人の話す論点が、最も面白いなぁ」
二人「ふふ、ありがとうございます」
神谷「さて、石橋さん、そんなつまんなそうな顔をしないでおくれよ?」
石橋「…え?いや、そんな顔はしてないよ。面白く聞かせて貰ってたさ」
神谷「そうかい?まぁいいや。これから少しアナタの前半の話に関わらせて話すから。と言うのもね、今中山君が話してくれた、シュペングラーの、少子化の原因を個人主義的な価値観の蔓延や教育水準の向上に帰する議論というのは、とかくフェミニストからの批判を招きやすいものなんだ。女性をかつての様に伝統的な共同体に束縛したり、あるいは女性に対する教育を不要としたりする事を是とする、前近代的な価値観を擁護しているように見えるからね」
中山「先生のおっしゃる通りです。で、また確認の為にまた彼の言葉を引用すると、案の定、彼は男性と女性は異なる本質を持つ存在と考えていました。『女性的なものは、宇宙的なものにより近い。それは土により深く結びついており、自然の大循環の中により直接に入り込んでいる。男性的なものは、より自由であり、より動物的であり、感覚に於いても理解に於いてもより覚醒的で、より緊張している』と書いています」
石橋「へぇー、まぁ小難しい言葉が並んでいたが、パッと見では男尊女卑に聞こえなくも無いな」
中山「はい、確かにここだけ聞いていると、そう捉えられても仕方ないと思います。当時もそう受け取る人が少なくなかったようですが、一つ先程触れた彼の言葉を思い出して頂きたいんです。そこから分かるのは、彼自身、覚醒存在(知性)を現存在(自然)より優位にあるべきものとは考えていなかったからです。何も彼は、ああいう名前の書物を記しましたが、それは別に没落を望んでいた訳では無かったんです。まぁ、この場でそのような補足は蛇足でしょうけど(笑)彼が言いたかったのは、知性偏重もダメだし、自然偏重もいけないという事です。敢えて言えば、彼は文化に偏重していたんです。文化とは、彼の言う知性と自然がバランス良く結合している状態とも言ってます。知性が自然に対して支配的になる事は、それこそ文明の没落を意味していたんです。…長々と一人で話して恐縮ですが、後もう少し辛抱下さい」
神谷「面白いから良いよ。そのまま続けて」
中山「ありがとうございます。したがって、フェミニストが怒るのはお門違いというものです。彼は現存在(自然)的なものを尊重していました。つまりそれは女性という事です。それが当時、そして今尚”男性的なもの”つまりは覚醒存在(知性)が優位を保っている…これを見る限り、前近代の方が”女性的”なものを尊重し、近代は”男性的なもの”を尊重しているのだから、どちらの時代の方が女性優位なのか…それらを含めて、もう少し考えなくてはいけないと思うんですが…どうでしょう?」
望月「んー…すぐに答えるのは憚られるけど、僕は中山さんの、過去の女性が本当に軽んじられてきたのかという疑問に対しては、賛成します」
神谷「うん、確かにこれについては、シュペングラーに限らず、古今東西の様々な人々が考え議論をしてきて、そして今尚し続けている訳だから、この場ですぐに答えるのは慎重を要するけど、今望月君が言った意味では、賛意を示しても良いと思うね」
石橋「…確かにな。…まぁ、今までの議論は、俺の個人的な悩み、世間のいわゆる”一般論”に対しての疑問が発端だった訳だが、俺自身気づかぬ間にその”一般論”に冒されていたらしい。何が言いたいかっていうと、理屈では今中山が言った事は納得するんだが、今すぐには素直に飲み込めないって事だ。これは括弧付きの常識に冒された俺の責任で、アンタは関係ない事だがね。取り敢えず、俺の漏らした愚痴から、ここまで色々と深く興味深く面白い話を聞けるとは思ってもみなかった。先生、そして若い二人、どうもありがとう」
若い二人「いえいえ、どういたしまして」
神谷「ふふ。…おっと、漸く来たね?さぁ、入って入って。既に場は暖まっているよ」

抜粋終わり

朽ち果つ廃墟の片隅で 第一巻

朽ち果つ廃墟の片隅で 第一巻

物心がついた頃から、同年代の子達との”ズレ”を感じていた琴音。 良くも悪くも聡かった彼女は、世間から”変人”に見られては今の世の中では排除される現実を知り、 ”本性”を晒しては生きていけない事を幼いながらに悟り、仕方なく”良い子”を演じながら日々を過ごしていた。 ”本当の自分”を押し込めて隠し誤魔化し通していたある日、運命的な出逢いを果たす事となる。 それをキッカケに、目に入る景色が灰色一色だったのが、徐々に色彩を帯びていき、それにより少しずつ歓びを覚えていくのだった。 …ある大きな対価を払いながら。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-03

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  1. 第1話 病室
  2. 第2話 おじさん
  3. 第3話 再会
  4. 第4話 義一さん
  5. 第5話 宝箱
  6. 第6話 ”親友”と”心友”
  7. 第7話 絵里さん
  8. 第8話 変化
  9. 第9話 師友
  10. 第10話 裕美
  11. 第11話 図書館 絵里さん家 忠告
  12. 第12話 裕美と琴音
  13. 第13話 受験
  14. 第14話 卒業、そして入学
  15. 第15話 新友
  16. 第16話 夏のアレコレ
  17. 第17話 花火大会
  18. 第18話 文化祭
  19. 第19話 社交(表)
  20. 第20話 夢?
  21. 第21話 コンクール(序)
  22. 第22話 聡
  23. 第23話 社交(裏)上
  24. 第24話 社交(裏)下
  25. 第25話 開錠
  26. 第26話 コンクール(上)
  27. 第27話 数寄屋 A
  28. 第28話 数寄屋 a
  29. 第29話 死に屍
  30. 第30話(休題)オーソドックス 六月号より抜粋