20191204-少女と出会った夏


(一)

 二〇〇〇年代、六月中旬。曇り空の梅雨の午後に、僕は地図も持たず、田舎道で背の低いワゴン車を走らせていた。南足柄市のどこかだと思うが、今となっては定かではない。決して、金太郎の生地などというにぎやかなところではなく、寂しい場所だったので、たぶんどこかの峠道だと思う。
 知らない街へ就職して三年目。ついに、車を買った。中古で、それなりの性能だったが、はじめて自分の働いたお金で買ったので、うれしかった。ひまさえあれば、あちこちの道を探検していた。
 そのワゴン車に乗って、南足柄市の峠道を走っていると、突然自転車に乗った少女が目に入った。あわててハンドルを切るが、驚いた少女の自転車は倒れてしまう。僕は車を止めて、駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 少女は、怒った顔で僕をにらむ。ひざ丈の長いセーラー服を着て、田舎臭い身なりをしているが、百五十センチほどの華奢な身体に、長い髪をたらした美しい顔が座っている。僕は、見とれてしまった。
 彼女は、その美しい顔で、怒ったように言った。
「大丈夫そうに見える?」
「……いいえ。すいません」
「手を、かして」
「はい」
 威圧的な態度に一瞬ひるむが、少女に手をかして助け起こす。
 少女は、スカートのホコリを手ではらっていたが、突然、イタと声をあげた。急いで、スカートをめくってひざ頭を見ると、わずかに血がにじんでいる。
「あーあ……。キズバンは、持ってる?」
「持ってません」
「それじゃ、この道を五キロくらい行くと、雑貨屋があるから、そこで買って」
 少女は、そう言って、さも当然のように助手席に乗り込んだ。僕は、あわてて後部座席を折りたたみ、自転車をのせて運転席に座った。
 車の中はクーラーが効いていて、肌寒いほど涼しい。その風に乗って、少女の甘い香りがして、頭がくらくらする。僕は、自転車を気にしながら、ゆっくりと車を出した。
「いい車ね。幾らくらいするの?」
「中古で、百万くらいです」
「そんなにするの。ところで、あなたはなぜ敬語なの?」
「いや、加害者と被害者の関係だから」
「オーバーだよ。普通に話して」
「わかりました。あ」
 少女は、このときはじめて、声を上げて笑った。子供らしく、アハハハと。
「ところで、あなたは一流企業の人?」
「一流じゃないけど、一応大学出て、研究で就職したから」
「へー、そうなんだ。それで、仕事は楽しい?」
「うーん、難しいな。楽しいか、楽しくないの二択だとしたら、楽しくないのかな?」
「好きな職業に就職したのに、楽しくないの?」
「研究だってピンキリだよ。僕の仕事は、その最低の部類だね」
「難しいのね、好きな仕事につくのって」
「偏差値が、あと十ほどよくて、勤勉ならね」
「それって、七十くらい?」
「そうだね。その上、高い倍率を突破しなきゃいけないんだけどね」
「大変なんだね」
「ねえ、あの店でいいの?」
「うん。駐車場は、向こうにあるから」
 商店街の駐車場に車を止めた。少女について雑貨屋に入ると、僕はカゴを持って、消毒液とガーゼ、それとキズバンを入れてレジに立った。レジのおばさんは、バーコードを読み取ると、コンドームはいらないかいと笑いながら言ったが、ふたりして苦笑いで断った。あきらかに、僕達を冷かしている。気まずくて、ふたりして無言で店を出た。
 車まで来ると、僕は少女にたずねた。
「手当は、車の中でする?」
「うん」
 彼女は助手席に座ると、スカートをめくった。太ももの白い肌が、あらわになる。僕は、あわてて目をそらした。
「ねえ、なにやってるの? 早く手当てをして」
「え? 僕がやるの?」
「だって、自分ですると、怖いじゃない?」
「わかりました。失礼します」
 消毒液をひざにたらすと、一瞬ビクッとしたが、そのあとは傷口をふいても、我慢していた。最後に、キズバンをはって処置は終了した。ケガをさせたおわびに、ついでに買ってきたソフトクリームをあげると、美味しそうになめた。その横顔は、まだ大人になり切れていない少女だった。
 僕は、少女がシートベルトをするのを確認すると、商店街の駐車場から、車をゆっくりと出した。
「ねえ、お兄さん。名前、なんて言うの?」
「大崎太一だけど」
「太一さんか。わたしは、坂木みずき。よろしくね?」
 なにが、よろしくなのかわからないが、僕もよろしくね、みずきちゃんと言った。
「みずきちゃんの家は、どこかな? 送って行くよ?」
「それは、やめた方がいいと思うよ。知らない男の車に乗ったなんて知ったら、お父さまに殺されちゃうから」
 冗談交じりではなく、真剣に言った。僕は、寒気がした。万が一、僕が少女に悪さをしたら、きっと追い詰められて痛い目に合うだろう。そう思わせるのは十分だった。
「バス停までで、いいから」
「わかった」
「ところで、わたしに勉強教えてくれないかなあ?」
 不意に言われたので、とまどった。みずきの顔を見ると、真剣だった。
「それって、もしかして、理数系をただで?」
「そう。だめ?」
 みずきは、おずおずと遠慮深げに、そう言った。
 僕が、怪我をさせた手前、断りづらい。そして、僕がみずきに対して悪さをしないということは、みずきがさっき言った『お父さまに殺されちゃう』の言葉が抑止力になっている。
 この子は、思った以上に頭がいいのだ。
「それで、みずきちゃんは何年生なの?」
「高校二年生」
「それじゃ、余裕で大学入試に間に合うね」
「それって、オーケーってこと?」
「うん」
「ありがとう、大崎先生」
 そう言って、みずきはほほ笑んだ。ああ、この笑顔に弱いのだなと、僕は自覚した。
 平日の昼間に、こんなところを車で流しているなんて、よほど暇人に見えたのか――実のところ、久々の代休だったのだが――僕はみずきの家庭教師を引き受けた。
「ところで、携帯は?」
「お父さまが、持たせてくれません」
「そうなんだ。じゃ、どこかで待ち合わせないと」
「それじゃ、家の近くのバス停で」
「バス停だと、人に見られるんじゃないの?」
「本数が少ないし、めったに、人は利用しませんから」
「了解。それで図書館が、午前九時から午後七時だけど?」
「それじゃ、バス停に午前九時から午後六時まで、おねがいします」
「オーケー」
 彼女の家の近くのバス停に、みずきと自転車を降ろすと、僕は足柄山を下って帰って行った。


(二)

 その週の、六月中旬の土曜日、午前九時。いまにも降りそうな暗い雲が空一面にただよっている。僕が、みずきを彼女の家の近くのバスの停留場にひろいに行くと、長そでのワンピースを着て、カーキ色のカバンを背負って待っていた。その姿は、身体が震えるほど、きれいだった。
「おはよう。待った?」
「九時十分前に着いたから、十分待ったわ。時間通りね」
 みずきは、そう言いながら助手席にまわると、ドアを開いて乗り込んだ。
「時間は、守らないとね」
 みずきが、シートベルトをするのを確認すると、僕は車を出して、峠を下って行った。
「ところで、家の人になんて言って来たの?」
「近所の友達んちで、一日中勉強してくるって」
「そうなんだ。でも、家の人は、友達の家にお礼を言ってくるんじゃんない?」
「大丈夫。仲悪くて、めったに口をきかないから」
 峠を下ると、みずきはそう言って、細い道に立ち並ぶ街並みを見つめていた。古い建物ばかりが、せめぎ合って建っている。みな一様に、色合いが暗いのだ。僕の車は、その細い道をとおって、国道二四六号に乗った。
「二四六も、結構せまいところがあるんだね?」
 みずきは、昔の街道をそのまま国道にしたような箇所を総じてそう言った。この辺は、反対派が頑固で、買収に失敗したのだろう。
 僕は、おどけて言った。
「みずき殿。そうでござるよ。拙者、この界隈の家の者を、なんど説得したかわからんでござるよ。されど、きゃつら頑として動かなかったでござる。しかたなく、このようなしみったれた国道が、できてしまったのござそうろう」
「よく、わかったでござる」
 バカな掛け合い漫才をしている間に、目的地に近づいて来た。僕が、左にハンドルを切るとほどなくして、巨大な建物が見えて来た。
「わあー。大きいね」
「図書館は、その奥だよ。その大きな建物は、文化会館」
「へー、あれか。文化会館よりも小さいけど、なんか現代的な造りだね?」
 みずきは、フロントガラスから図書館を眺めると、つぶやいた。
「誰の設計か知らないけどね。さあ、中に入ったら、小さい声で話してね。それと、僕のことは、お兄さんと呼んでね」
 僕は、そう言って百台は収容できる駐車場に車を止めると、みずきとともに車を降りて歩いた。
 そして、図書館前まで来ると、その横にあるロッカーを指さして言った。
「カバンから勉強道具を出して、このロッカーにカバンを入れて」
「ずいぶん、めんどう臭いんだね?」
「書物の盗難防止だよ」
 百円玉を入れてカギをかけると、ふたりで勉強道具をかかえて図書館の扉を開けた。入口は、二階まで吹き抜けていて、外から見たよりも広く見える。そして中は、本棚群がいくつも重なり、その間を歩いてゆくと、五人は座れる大きなテーブルが五つほどと、外壁に向いてひとりがけの机が二十ほどある。みずきを、その中のひとりがけの机に座らせて、僕は立って話した。
「ここなら、気が散らないでしょ?」
「うん。でも、人の顔が見えないから、寂しいね」
「みずきちゃんは、なにをしに来たのかな?」
「勉強?」
「わかればいいんだ。さて、勉強のしかただけど、全教科共通なのは、まず教科書を読んで練習問題をやる。それも、一冊が終わるまでできるだけつづけてね。そうすれば、記憶がつながるし、頭がその教科に適応するから。一冊が終わったら、違う科目を同様にやる。全教科を三回やったら応用問題に入るけど、難しいから答えを見て書いて覚える。これは、僕が買ってくるからね」
「大変なんだね?」
「教科書なんて薄いから、やっていくと早く終わるようになるよ。教科ごとのコツは、そのつど、教えるから」
 僕は、そう言うと、勉強のしかたをまとめたプリントをみずきに差し出した。
「すごいね。まるで、先生みたい」
「先生は、勝手に教科書やれなんて、言わないけどね。それじゃ、まずやってみて」
「はい」
 まず、一年の数学の教科書を読んで、練習問題を解いてもらった。なんと左ききで、書いた文字が読みづらそうに思えた。しかし、本人は気にしてないようだった。十分ほどで、なんなく解けたのを確認すると、僕はみずきに言った。
「この調子で、教科書を終わらせて」
「はい」
「それじゃあ、英単語帳と、英会話のDVDと、科目ごとの応用問題集を、買ってくる。あ、三年の教科書も買ってこないとね。それじゃ」
 僕はそう言って、水分補給用に百円玉を十枚あずけると、車をとばし本屋に走った。必要なものをかごに入れたついでに、歴史の年表と豆本を押し込んだ。レジに行くと、相当な金額になってしまった。しかし、へんな所へ遊びに行くよりも、有効な使い道だと思うと、おしくはない。助手席に買った物を置くと、車を出した。
 図書館に戻ると、みずきは頭に手を当てて問題を解いていた。顔を見ると、少し赤らんでいるように見える。
「みずきちゃん、ちょっといい」
 みずきの額に手を当てると、少し熱っぽいように感じた。
「忘れていた。ちえ熱が出るんだった」
「ちえ熱?」
「若者が、急に頭を使ったら、慣れていない回路が使われて、発熱するんだ。僕も、かかったよ」
「道理で頭、痛いと思った」
「勉強は中断して、近くの店で、ごはん食べようか。僕は、カゼ薬買ってくるから」
 僕は、みずきの勉強道具をロッカーに入れると、彼女を車に乗せて国道沿いのファミレスへ向かった。この図書館は、不便な所にあると思った。歩いて行ける本屋も、スーパーも、ファミレスも、薬屋もない。あるのは、弁当屋と、飲み物の自動販売機だけだと。それでも、ドクターペッパーが置いてあるのが、うれしいが。
 ファミレスに着くと、みずきを降ろして、近くの薬屋へ自分の足で走った。ひさしぶりに、走ったので息が苦しい。ゼーゼー言いながら、カゼ薬を買って来ると、涼しい冷房の下で、みずきはまだ食べていた。
「お兄さんの分。勝手に、注文しちゃった。カツ丼は好きだよね?」
 みずきは、カツ丼をほおばって、僕に言った。
「うん。大好きだよ」
「私も、大好き。あれ? 愛の告白みたい」
 みずきは、そう言って無邪気にほほ笑むと、カツ丼を食べつくした。
「はー、満足。ごちそうさま」
「いい食べっぷりだ」
 みずきは、ウフフと笑うと、カゼ薬を三粒飲んで、注意深く熱さまシートを自分のひたいにはった。
「ああ、ひんやりする」
 僕は、さっきのみずきの言葉を反すうして、カツ丼に舌鼓を打った。いつにもまして、美味いと感じた。
 食べ終わって、僕がレシートを持って席を立つと、みずきも席を立った。だが、なにかにつまずいて、倒れそうになる。僕は、みずきの腕をつかんでささえた。きゃしゃな腕だった。
「おっと、足元がふらついてるね。大丈夫?」
「なんとか」
 僕の肩につかまり外に出ると、とたんに汗が吹き出る。これじゃ、体調をくずしたら、なかなか治らないと思った。
 再び図書館に戻ると、少し休憩をとって様子を見ることにした。みずきは、イスに座って仰向けになってうたた寝をしている。長い髪が床に向かって、きれいな直線を作っている。誰もいなかったら、触れてしまうだろう。絵画集を広げて気を紛らわした。
 図書館の柱時計の針が午後三時をさすころ、みずきはようやく目を覚ました。思いっきり伸びをして、目をこする。まるで、猫が毛づくろいするように。
「おはよう、太一お兄さん」
「よく眠っていたね」
「ゆうべは、遅くまで小説を読んでいたから」
「そう。でも、睡眠不足で勉強しても、頭に入らないから気をつけて」
「うそよ。本当は、へんな所へ連れて行かれないか心配で、眠れなかったの」
 みずきのいたずらっぽい表情に、一瞬ドキリとする。これくらいの年頃だったら、そういう恐れを感じることはあるだろう。やはり、こういうことはしない方がいいのではと、思った。
 しかし、みずきの何者かになりたいという思いが、その恐れを凌駕したのであろう。彼女の気がすむまで、付き合うことにした。
「きょうは、もうやめにして、ふとんで寝た方がいい」
 こう言うと、みずきは悲しそうな顔をする。もしかして、家にいたくない、わけがあるのかもしれない。しかたなく、図書館で勉強を続けさせた。
 午後六時に図書館を後にするまで、みずきは勉強をつづけた。そして、クマができている目で、満足そうにわらった。
「きょうは、おりこうになった気がする。これを続けたら、きっとなんにでもなれるんだね?」
「そうだといいね。それよりも、必ず理解できるって思って勉強すると、能率が上がるよ」
「本当? それじゃ、今度からそうする」
 帰りの車の中で、無防備でみずきは眠ってしまった。僕は、みずきを彼女の家の近くのバス停で降ろすと、テールランプを三度点滅させて『マタネ』とサインをして、帰路についた。


(三)

 翌日の、六月中旬の日曜日。この日は、前日と打って変わって、太陽が強く降りそそぎ、とても暑く感じた。みずきは、麦わら帽子に、半そでのピンクのワンピース姿で現れた。麦わら帽子が、いやおうなしに夏の到来を告げる。
「どうしたの?」
「いや、夏だなと思って」
 みずきは、シートベルトをしめて、不思議そうに僕を見つめる。僕は、なんでもなさそうにゆっくりと車を出した。
 みずきは無邪気にラジオのスイッチを入れて、FMの放送局のボタンを押した。雑音交じりにコルトレーンの枯れたサックスが流れる。みずきの身体は、それに合わせてゆれた。
「体調は、よくなった?」
「うん。たっぷり寝たから。それよりも、これ、なんて言う曲?」
「ジョン・コルトレーンのマイ・フェイバリット・シングス。もう、四十年も前の曲だよ」
「ふーん、いいな。こんなに格好よく楽器できるなんて。太一兄さんは、なにかできるの?」
「いや。聴くの専門だよ」
 本当は、いろいろ楽器をやったのだが、下手なのでうそをついた。コルトレーンは、サックスを弾いていて、気持ちいいだろうが、僕はどんな楽器を弾いても気持ちよかったことなど、一度としてなかった。むしろ苦しかった。それでも、いい演奏を聞きわける耳を少なからず持っていることは、唯一の救いだ。
「あー、私もなにかひとつ、誰にも負けないくらい楽器ができたらいいのに」
「それ、僕も思うよ。なにかきっかけがあって楽器を弾いて、それが他人に聴かせるくらいの腕で、それがレコード会社の人の目にとまらないにしても、食える程度の楽器の先生になれたら幸せだよね」
「他人に聴かせるくらいの腕になるのは、簡単じゃないって言いたいんでしょ? わかってるって。だから、勉強しようと思ったんでしょ。まったく、いじわるなんだからー」
「わるかったね。ところで、サックス興味あるの?」
「え? まさか吹けるの?」
「いや、僕は吹けないけど」
「そうか。残念」
 ラジオは、コルトレーンを二曲流した。僕たちは、この会話以降、だまって耳を傾けた。図書館までの距離は、短く感じた。
 大きな駐車場に車を止めると、図書館までの短い距離を歩いた。
「ねえ、あのポスター。太一兄さんに似ているね?」
 みずきは、文化会館の前にある掲示板を指さし、言った。
「そうか?」
 僕は、関心なさそうに、そう言った。サングラスをかけた四人の男を、下からあおっているポスター。そこには、JCカルテットが九月の第一土曜日に大磯のクラブで、千円でコンサートをやると書いてある。
「もしかして、JCって、ジョン・コルトレーンのイニシャル?」
「そうだね。素人が、コルトレーンのまね事をするんだろう」
「ふーん、下手そうだね?」
 僕は、その問いには答えずに、ほほ笑んで図書館に入って行った。机は、昨日使った物が空いていた。みずきは、その席に座ると、勉強道具を広げて、首や手足のストレッチをはじめた。
「お、いいね」
 僕がそう言うと、みずきは笑みをうかべ、「そうでしょう?」と言った。
「きょうは、なにをするの?」
「昨日の続き。一年の数学を、今日中に終わらせるから」
「それが終わったら?」
「二年と三年の数学を平日もやる。みっちりと」
「いいね。半端な時間は、どうする?」
「半端な時間は、英単語を覚える。文法は数学が終わったらはじめる。英会話はそれが終わってからする」
「数学を終わったら、英語、そして化学と物理だね。うん。それで、いいんじゃない」
「ところで、いくら考えてもわからない時は?」
「人に聞く。もちろん、僕も含めてね。わからないのに、ほっとくのはよくないから。ほかに、質問がなかったら、はじめて」
「はい。お兄さん」
 みずきは、そう言うと、勉強をはじめた。僕は、みずきが勉強している間、小説を読んで時間を潰すことにした。
 小説を物色すると、新しい物は少なくて、読みたい本は、なかった。しかたなく、きのうとは違う絵画集を探すと、最近、テレビ番組で取り上げられたヨハネス・フェルメールの絵を見つける。やわらかいタッチで女性が描かれており、とくに『真珠の耳飾りの少女』は、四百年も前に描かれた作品なのに、今にも動き出しそうに、みずみずしい。みずきに少し似ていると思った。
「あれ? 大崎さん」
 一年年上の事務、清水弥生が、小さい子供の手を引いて、近づいてくる。僕は、悪いことでもしているように、あわてて絵画集を閉じた。
「こんにちは、清水さん」
「暑いから、ここで遊ばせにきたんだ。でも、珍しいですね。大崎さんが図書館で調べ物なんて?」
「いや、親戚に子供の勉強見てくれって頼まれたんだ」
 みずきは、急に自分に話題をふられて、あわてて頭を下げる。その拍子に、かわいい消しゴムが、机の上から転げ落ちた。それを、清水弥生が、ひろいあげて、みずきの手に渡した。清水弥生の大きな胸が、ゆれる。
「ありがとうございます。みずきです」
「いいえ、こちらこそごめんなさいね、みずきちゃん。ねえ、大崎さん。ずいぶん、きれいな子ね。もしかして、不純異性交遊?」
 清水さんは、いたずらっぽく僕を、にらむ。
「まさか。こんな不純異性交遊があるかい」
「そうよね。どう見ても、勉強しているよね」
「そんなことよりも、清水さん、子供いたんだ。ショックだな」
 そう言って、僕はアハハと笑った。
「ちがうー。お姉ちゃんの子供だよ」
「へー。かわいいから、てっきり清水さんの子供だと思った」
「またー、口がうまいんだから。それじゃ、あんまり話していたら、いけないから、行くね」
「それじゃ」
 清水弥生は、上機嫌に絵本が置いてあるコーナーに向かった。僕の、緊張はつづくことは、目に見えている。昼食をおごって、懐柔することにした。
「ねえ、みずきちゃん。少し早いけど昼食にしようか?」
「うん。いいよ」
「それで、清水さん、さそっていい?」
「いいですけど」
 みずきは、僕のあとに着いて来た。僕は、清水弥生のいるコーナーへ行って、声をかけた。
「僕たちはこれから、国道沿いのファミレスへ行くけど、清水さんたちも一緒にどう? よかったら、おごらせてよ」
「え。それって、買収? やだよ。共犯になるのは」
「なーんだ。めずらしくおごろうと思ったのに」
「うそうそ。ゴチになります」
「カズキ。おじさんが、おごってくれるって」
「おじさん、ありがと」
「えらいね、僕。ちゃんと、ありがとうが言えて」
 子供は、清水弥生と一緒になって満面の笑顔をうかべた。本当に、親子みたいだ。僕は、一瞬自分が子供のもう片方の手を引いて、歩いている姿を想像してみた。悪くなかった。
 僕の車に乗り合わせて、ファミレスヘ向かうと、清水弥生はみずきに話しかけた。
「ねえ、本当に大崎さんの親戚?」
「そうです。従兄の子供だったっけ?」
「いいや、違う。従兄の奥さんの姪だよ」
「……それって、血がつながっていないんじゃない?」
「そうだね」
「きゃー、えっち」
「なに言ってるんだ、この人?」
「大崎さん、この子。高校何年生?」
「二年です」
「まずいよ、やっぱり。……ねえ、私にしたら?」
 僕は、驚いてルームミラーに映った清水弥生を見ると、うるんだ目で僕をみつめている。
「やだな清水さん、からかっちゃ。それに、みずきちゃんだって、こんなおじさんは嫌だって」
 そう言って笑い飛ばした。
「それに、みずきちゃん、これから偏差値七十目指すから」
「まさかー」
「まあ、それくらい目標にすれば、大体無難な偏差値に落ち着くから」
 僕の失敗は、入試をなめて模試中心に問題をやって、それからもれた基礎的な問題が解けなかったことにある。数学で言えば微積・行列・確率がなんなく解けて、統計・そのたの問題が苦手だったのだ。手抜きで、高い偏差値を保っていたむくいだ。だから、みずきには教科書に書いてある全分野をおさえて、それから応用問題をやろうと思った。
「みずきちゃん、本当?」
「はい。偏差値七十を目指してます」
「それなら、大崎さんに教えてもらうより、プロにまかせる方がいいんじゃない? そう、予備校へ行くとか?」
「私の親は偏屈で、お金は出してくれません」
「そうなんだ。大変だね……」
 僕は、このときおかしなことを考えていた。日替わりのかわいいワンピース、新しいカバン、いつも整った髪。父親は、決してネグレクトではない。むしろ、溺愛している。だが、決して外界との交わりを許してはいない。もしかして、みずきを手元に置いていたいのではないのか。それが、いつか埋めきれないミゾにならなければいいのだがと、僕は危惧した。
 それ以降、皆は黙って、車はファミレスに着いた。車を降りて店に入ると、ウエイトレスに席に案内される。メニューを見ながらも、横目でみずきを見ると、いづらそうにしている。清水弥生を誘わなければよかったと思った。
 そのとき、ふいに清水弥生のほうを見た。彼女が怖い目でみずきをにらんでいたのだ。
 僕は、しまったと思った。清水弥生は、真剣に僕のことが好きだ。それなのに、話の中心をみずきばかりにしてきた。あんなに、人なつっこい清水弥生なのに。そう思うと、彼女に話題を振っていた。
「ねえ、清水さん。どれが、おいしいの?」
「え? 和風ハンバーグとか、美味しいんだよね」
「じゃ、それにしようかな。飲み物は、どうする?」
「私は、紅茶がいいけど?」
「それじゃ、清水さんと同じでいいや」
 それから、ウエイトレスを呼ぶと、和風ハンバーグと紅茶を注文した。清水弥生とみずきも、同じものを注文した。僕は、それからも、なるべく清水弥生に話しかけるように、気をつけた。
 食事が終わって、図書館に戻ると、清水弥生は再び絵本コーナーへささって、子供に絵本を読んで聴かせた。僕は、なるべくみずきに話しかけないように気をつけた。
 清水弥生は、二時間ほどたつと、子供と手をつないで、上機嫌に帰って行った。僕は、ホッとした。みずきの勉強が終わるまで、探しあてた小説を読んだ。


(四)

 翌日の、六月中旬の月曜日。僕は、半そでの制服を着て朝の体操に駐車場に出ると、ミニスカートの制服を着た清水弥生に近づいて行った。
「おはよう、清水さん」
「おはようございます、大崎さん。昨日は、ごちそうさまでした」
「いいえ。こちらこそ、楽しい食事をありがとう」
「……それって、いやみ?」
「そんな。違うよ。それで、会社終わったら、話があるんだけど」
「……うん。わかった」
 午後六時に仕事を終わらせると、中庭の鯉をながめて待っていた清水弥生に声をかけた。
「清水さん。まった?」
「ううん。私も、さっき終わったとこだけど」
「それじゃ、僕の車で行く?」
「どうしようかな……。車取りに戻るの大変だから、二台で行こう?」
「オーケー」
 清水弥生は、僕のあとにおとなしい走りで着いて来た。彼女の車は、僕の車にくらべて、馬力が高くて吹け上りがいい。僕のあとに着いてくるのは、いらだたしいと思うが、それをまったく出さずに着いてくる。
 しばらくすると、車は細く急な坂道を上りはじめた。右に左にハンドルをきって忙しい。その上、対向車に出会う。なれない僕には、けっこうきつかった。
 ようやく、頂上近くの展望台に着くと、駐車場に車をとめて降り立った。そこからでも、十分に夜景は見えるが、展望台にのぼってながめると、下界一面に色とりどりの光が輝いている。
「きれいだね?」
「うん」
「ねえ、清水さん」
「……うん?」
「僕と付き合ってよ」
 僕が、そう言ったとたん、清水弥生は泣き出してしまう。
「断われると思って、覚悟してたんだ」
 そう言って、清水弥生は顔をおおって、大声を出して涙を流した。僕は、彼女の肩を抱いて、泣き止むまでそうしていた。三、四組のカップルが、心配そうに僕らを眺めていた。
 僕が、清水弥生と付き合うわけ。それは、彼女の思いが僕に伝わったからであり、いい身体をしていたからであり、なによりも、僕とみずきの関係を破滅させる臭いがあったからだ。
「ねえ、清水さん」
「やよいって、呼んで」
「弥生。なんだか、てれるね」
「うれしい」
 清水弥生は、そう言って僕のほおにキスしてきた。僕は、彼女の腰を抱きよせると、唇にキスした。彼女の舌が僕の前歯を押しひろげ、舌にからみ着く。頭がしびれるように心地よい。僕は、彼女のあまい唾液を飲み込んだ。
 下半身を彼女のお腹に強く押し当てられ、僕の興奮はさらに登って行く。すぐに、抱きたいと思ったのだが、その前に食事をとらないと、ガス欠になる。
「弥生さん。これから、どこかで、ごはんたべない? どこが、美味しい?」
「この前のファミレスでもいいけど、いやじゃなかったら、安くて美味しい店があるんだ?」
「うん。そこに行こう」
 あのファミレスに行くと、この前のやり取りを思い出してしまうと思ったのだろう。僕は、清水弥生の車に着いて、峠を下って行った。
 隣り町の商店街の一角にある焼き肉屋。そののれんをくぐると、いせいのいい声がした。
「いらっしゃい。あれ? 弥生」
「ただいま、おかあちゃん」
「それで、こちらの方は?」
 清水弥生の母親は、うれしそうにそう言った。
「会社の一年後輩で、大崎太一さん」
「どうも、弥生さんには、いつもお世話になっています」
「いいえ、こちらこそ、こんな娘ですみませんね。きょうは、なんでも、食べてくださいね。ごちそうしますから」
「どうも、すみません」
 どう見ても、だまし討ち。しかし、彼氏と紹介しなかったのは、恋のルールに反すると思ったのだろ。僕は、少しの緊張をしいられたが、清水弥生の母親の優しい言葉に、ホッとした。
「ねえ、適当に頼んじゃっていい?」
「メニューあるんでしょ?」
「うん。あるけど……」
 清水弥生は、少し躊躇してメニューを差し出す。そこには、”韓国焼肉”と書いてある。下を見ると、カルビ、サムギョプサルなどの、見慣れぬ文字が。
 僕は、選択を迫られている。ここは、韓国系のお店。当然、主人も韓国系だろう。そして、その娘もそうだろう。もしも、韓国系と付き合うのがいやだったら、ここでゴメンと言って、あの扉から出ていく。オーケーだったら、メニューから食べたい物を選んで、ビールをいただく。しごく、簡単なことだ。
 僕は、後者を選んだ。当時は、韓国系に対して深く考えたことがなかった。知り合いと言えば、大学の先輩にひとりいたぐらいだ。よく、麻雀をやったのだが、いつもニコニコして、決して声をあらげて怒らなかった人だ。その人から、韓国人は優しい人たちだと、印象が刻まれている。だから、この選択は僕にとっては、ハードルがとても低かったのだ。
「カルビって、アバラなんだ。サムギョプサルは豚肉なんだね。僕は、こういう店は来たことがないから、やっぱりどれを頼んでいいかわからないよ。弥生、選んで?」
 僕がそう言うと、清水弥生はなき笑顔で、わかったと言った。まず、ビールをふたつ頼むと、カルビ、プルコギ(味付き牛肉)をそれぞれ三皿ずつ頼んだ。
「カンパーイ」
 喉を鳴らして飲む。最初のひと口が、美味しいんだ。顔を見合わせて、にっこりとほほ笑んだ。焼肉は美味しくて、ついビールが進んでしまう。酒に弱い僕は、いつのまにか眠ってしまった。
 気がつくと、僕は知らない布団の中で、裸で寝ていた。そして、隣には肩を出した清水弥生がスースーと寝息を立ててる。腕時計を見ると、真夜中の一時半だった。
 僕は、そーっと布団を抜け出して、床にたたまれた中からパンツをひろいあげると、はこうとした。
「あれ、起きちゃったんだね。行くの?」
 清水弥生が、眠そうに目をこすって言った。
「うん。帰ってシャワーあびないと、このままじゃ会社、行けないから」
「うちのシャワー使えばいいでしょう。それよりも、もう一度、抱いて」
「えー、ご両親に聞こえるよ」
「大丈夫。下の部屋で寝てるから」
 清水弥生は、そう言うと、布団を広げて入って来いという。僕は、清水弥生の大きくて形のよい胸に、ゴクリとツバを飲み込むと、布団の中へ戻って行った。

 翌日、僕はいつわりの仮面をかぶって、研究室を徘徊していた。昨夜、清水弥生を抱いたのだが、目をつむるとみずきを抱いているような錯覚におちいった。何度、『みずき』と呼んでしまいそうになったか、わからない。清水弥生を抱いたら、すべてが丸く収まると思ったのに、こんなに、みずきを好きになっていたのかと、困惑する。
 しかし、清水弥生を抱くことによって、心のバランスをとっているのは明らかだった。
「先輩。顔色が悪いですね?」
 新人の武田やすしが、話しかけてきた。
「なにか、あったんですか?」
 この男は、さも心配するようなふりをして、人の秘密をだれかれかまわず、言いふらす。一度なぐろうとしたが、先輩に止められた過去がある。それ以来、適当にあしらっている。
「武田くん。じつは、大きな隕石が、落ちてくるらしいよ」
「まさか……?」
「あと、数時間で大気圏に突入すると、NASAが発表した」
 僕が、力なくそう言うと、後輩は研究所の窓から、上空を見上げて、何度も『まさか……』とつぶやいた。僕は、後輩をほったらかしにして、アルマゲドンのテーマソングを口ずさみながら、NMR(核磁気共鳴装置)の測定室へ入って行った。
 一日の仕事が終わると、僕はむしょうに清水弥生を抱きたくなった。人のいない研究室のテーブルの上に、事務の清水弥生をおさえつけて、名前を間違えないように明るい電灯の下、彼女の身体を犯した。
「ねえ、コンドームしないけど、子供ができたらどうするの?」
 三日目になって、清水弥生は僕にたずねた。さすがに、心配になったのだろう。
「子供ができたら、結婚しよう」
「うれしい」
 清水弥生は、そう言って、ザーメン臭い唇で、キスしてきた。僕は、なるようになれ。そう、心の中でつぶやいた。
「あれま。なにやってるの!」
 見ると、会社の寮のおばさんが、怖い顔をして、立っている。
「すみません」
「まったく、若いんだから。でも、ここでするのは、やめてね。私が、責任取らされちゃうから」
「はい」
 僕たちは、服を急いで着ると、研究室のカギをかけた。その晩は、僕のアパートで、電灯は消さないでつづきをやった。


(五)

 次の六月下旬の土曜日は、土砂降りだった。みずきを迎えに行くと、白いレインコートを着て、赤い色の長靴をはいて、赤い傘をさして待っていた。
「早く乗って」
 僕が、そう言うよりも早く、みずきは車のドアを開けて、助手席に乗り込んだ。髪から、しずくがしたたり落ちる。僕は、洗いたてのタオルを頭にかけた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 みずきは、髪をふきながらそう言った。僕の呼び方が、お兄さんから、お兄ちゃんに変わった。
「すごい雨だね」
「台風が、低気圧を刺激しているからね」
 自分の声が、うれしくて震えているのが、わかる。しかし、みずきは気づいてないようだった。僕は、ひそかに息を吐いて車を出した。
「えー、進路からずれているんでしょ? それで、これ?」
「きょうは、やめる?」
「いや! 絶対勉強つづける」
「よく言った」
「でも、覚えた先から忘れるの。私って、おバカなのかな?」
「数学もそうだけど、三周くらいすると、だいたい覚えられるから、気にせずにつづけたらいいよ」
「わかった。つづけるよ」
 話してみると、平日の授業時間もかくれて教科書のつづきをやっていたらしい。数学のⅠ、Ⅱ、Ⅲは終わって、これから英語の文法に入ると言った。僕は、みずきの集中力に満足した。
 図書館に着くと、雨は小降りになって、雲間から太陽がさしてきた。もうすぐ七月になろうとしている。あと少しで、梅雨が明ける。みずきは、レインコートを脱いで傘をささずに歩いた。
「うあ! 太陽が、まぶしい」
「雨が降ると、空中のちりを洗い流してしまうからだろうね」
「そうなの?」
 みずきは、そう言って、水たまりの上を飛び越えて行った。かろやかに。本当に、かろやかに。
 図書館に入ると、みずきはいつものように、勉強を始める。勉強のしかたにもなれて、ちえ熱で頭が痛くなるようなことはなかった。僕は、本だなの中の読みかけの小説を探し当て、つづきを読んだ。
「お兄ちゃん? ねえ、お兄ちゃん?」
 気づくと、みずきが僕の肩をゆらして、小さな声でささやいている。息がかかるほど近い。
「あれ? 僕、寝てたのか?」
「そうだよ。大きなイビキかいて」
「うそ?」
「冗談だよ」
「よかった。ところで、今は……」
 柱時計を見ると、午後の二時すぎだった。無理もない。連日のように、清水弥生を遅くまで抱いている。
「ごめんね。すぐ食べに行こう」
「うん」
 外へ出ると、雨は小降りになったが、あいかわらず降っていた。僕は、ひとり傘をさして車に乗り込むと、図書館の前に車を止めた。それを待っていたみずきは、傘を差さずに走って来た。
「ぬれたでしょう?」
「たいしたこと、ないわ。それよりも、きょうはファストフードのお店がいいな」
「わかった」
 ファストフードのお店へ着くと、みずきは、うれしそうに店の中に走って行った。僕が、遅れて中に入ると、夢中でメニューから選んでいた。よほど、食べたかったのだろう。子供のように感じた。僕は、普段食べないので同じものを選んで、みずきが取ってくれた席に座って待っていた。
 そう言えば、みずきに話さないといけないことがある。僕は、言いづらそうに、口を開いた。
「ところで、……僕のことだけど」
「なに?」
「この前、図書館にきていた清水さんと、付き合うことにしたから」
 そう言うと、みずきの表情は見る見るうちに青ざめていった。
「みずきちゃん、心配しないで。みずきちゃんの勉強は、僕が見つづけるから」
「本当?」
「本当だよ」
「よかった」
 みずきは、心から安心しているようだった。そのことに、僕は少なからず落胆した。予想していたことではあるが、僕はみずきの兄のような存在であるのだ。決して、恋人として僕を見ていたわけではない。僕は、笑顔を作って言った。
「もう、この間みたいなことは、ないから」
「もしかして、そのために付き合うの?」
「いや、前からいいなーと思っていたんだ」
「そうなんだ……。おめでとう、そしてありがとう、お兄ちゃん」
 そのとき、ちょうどウエイトレスが、オーダーしたメニューを持ってきてくれた。僕たちは、ありがとうと言うと、笑顔でハンバーガーにかぶりついた。ひさしぶりに食べたハンバーガーは美味くて、夢中で食べた。そして、もう一つ頼もうかとメニューをながめていた。
 そのとき、僕の肩を叩く奴がいた。
「え?」
「やっぱり、大崎や」
「えーと、江波?」
 なつかしい顔――と言っても、二年と半年ぶりではあるが――の江波圭太が、笑っている。その後ろには、東伸一と、長船五郎が笑っている。彼らは、大学時代に、神楽坂のジャズクラブで意気投合して、JCカルテットを組んでつるんでいた。しかし、大学を終わると同時に、僕は音信を絶ったのだ。
「まだ、仲良くつるんでいるのか?」
「おう、そうや。俺ら、九月の第一土曜日に、セッションやるんやぞ?」
「知ってるよ。近くの文化会館にポスターはってあるの、見たから」
「どうよ? 格好よく写っていたやろ?」
「ふざけるな。昔の写真だろう?」
「ばれたか。気に入ってるんだ」
 僕たちの乾いた笑い声がひびく。
「ところで、このお嬢ちゃんは、誰なのかな?」
 そう言って、ぞろぞろとトレーを持ってこちらのテーブルに移動してきた。まるで、白状しないと、帰さないぞと言っているように。
「しょうがないなー。一応、大学出て恥ずかしくない職業についている奴らだけど、紹介していい?」
「……うん」
 多少の動揺はあるようだが、みずきは作り笑顔でそう言った。
「親戚の子で、坂木みずきちゃん。高校二年生。家庭教師を頼まれたんだ」
 僕が、そう紹介すると、奴らは我先に自己紹介をする。言葉が、かぶってなにを言っているのかわからない。それでも、みずきは彼らの名前を言い当てた。
「みずきちゃんは、すごいね。まるで、聖徳太子や」
 江波の関西弁は、どこかおかしい。彼の言い分では、小学校低学年まで関西に住んでいたかららしい。僕の父親の広島弁も、正式な広島弁とかけ離れているので、そういうもんだと思っている。
「で、本題にはいるけど」
「なんだよ。急にかしこまって?」
「実は、ピアノ頼んでた奴が、工場の立ち上げでインド行っちゃったんだ」
「そりゃ、ついてないね」
「そうなのよ。それで、九月の第一土曜日。ピアノ、弾いてくれへんか?」
「やだよ。下手だし、もう、二年も触ってないから」
「頼むよー、ごしょうだ」
 江波は、そう言って、おがむ真似をする。
「だめだよ」
「そうか。しかたないな」
「なんだよ?」
「お前、みずきちゃんとは、どういう親戚なんや?」
「従兄の奥さんの姪だよ」
「おかしいなー。そんなに離れた親戚に、こんなかわいい子をあずけるなんて。俺だったら、警戒してふたりきりでは、絶対に合わせへんよ」
 僕は、失敗したと思った。もし、近い親戚だと嘘をつけば、すぐにバレる。そう思って、遠い親戚としたのだが、親の気持ちを考えなかった。
 しかし、ここは、言い張るしかない。
「その子の親に、もしも悪さしたら、殺すって言われているから」
「それでも、あずけないね、親だったら」
 僕は、ぐうの音も出なかった。確かにそうだ。僕は、みずきと一緒にいたくて、心の中でごまかしていたのかもしれない。
「なあ、頼むよ。弾いてくれよ」
「……負けたよ」
 完全に敗北したのだった。江波たちは、喜んで僕に握手を求めた。僕は、いやいやそれに応じた。
「あのー、本当ですか?」
 みずきが、半信半疑の顔で、江波にたずねた。
「ん、なにが?」
「お兄ちゃんが、ピアノ弾けるなんて?」
「なんや、知らんのか? 大学時代は、その腕で、次々と女をとっかえひっかえ……」
「こら、江波。いい加減にしろよ」
「と言うのは嘘で、聡子一筋……。あ、わるい」
 今井聡子は、大学時代の恋人だったが、卒業とともに別れを言われた。田舎に就職が決まると、とたんに将来が見えなくなったと言われたのだ。彼女には、田舎暮らしがどうしても、受け入れられなかったのだろう。
「ところで、お前ら、なんでこんなところで、俺を待ち伏せていたの?」
 東伸一が、頭をかいて口を開いた。
「いや、お前の実家から住所と携帯電話の番号聞いたんだけど、電話したら絶対逃げるって、長船が言うし……。それで、地図見ながらきたんだけど、わかりづらいし……。雨は、中々やまないし……。疲れて、腹減ったし……。そしたら、見な慣れた看板が」
 そう言って、東伸一は自分のトレーからポテトをつまむと、口に入れた。
「お前ら、小学生か?」
「すみません……」
 三人は、そろって頭を下げた。そのあとは、食べる暇がないほど、みずきを質問攻めだった。かわいいけど、スカウトされない? お姉さんはいるの? 将来スターになったときのために、サインいい? 大崎といると、タレントとマネージャーだと見られない? など。まったく困ったものだ。
 慣れない質問攻めに閉口したのか、みずきがトイレに立つと、三人は僕にたずねた。
「おい、いくら高校生とはいえ、あんなかわいい子に手を出せないなんて、地獄だな?」
「そうだな。自分の心をごまかすのは、つらいよ」
「やっぱり。で、本当は手を出したんかい?」
「いいや、出してないよ」
「つらいなー」
「つらいから、会社の先輩に手を出して、今、付き合ってる」
 僕がそう言うと、三人はだまってポテトの残りを、僕にくれた。
 食事が終わると、三人は電話番号を置いて、おとなしく帰って行った。僕は、みずきを車に乗せて、図書館に向かった。
「お兄ちゃん」
「はい?」
「ひどいよ。楽器弾けるじゃん」
「ごめんね。でも、他人にいばれるほど、うまくないから」
「それで、ピアノだけ?」
「いいえ。ギターも少し」
「今度、聴かせてね?」
「今は、ピアノは、持っていない」
「じゃー、今度練習するとき、連れてって」
「……はい。わかりました」
 この日は、図書館に清水弥生は来なかった。おねえさんの子供をあずかるのは、たまになのか、それとも、気をつかって来なかったのかわからないが、いずれにしても、ホッとした。


(六)

 翌日の、六月下旬の日曜日。僕は、いつものようにみずきを迎えに行った。だが、今日連れて行くところは、いつもと違う。大磯の貸しスタジオへ向かった。
 大磯に近づいて行くと、夏の湿った風に乗って海の香りがする。僕は、大きく息を吸い込んだ。
「潮の香りがするね?」
「ほんと?」
 みずきは、そう言うと、窓をあけて思い切り風を吸い込む。彼女の髪が軽やかにゆれた。
「ああ。これが、海の匂いなんだね?」
「なんだ。行ったことないのか?」
「そうなんだよね。ちょっと行ったら湘南なのに」
「それじゃ、練習を早めにきりあげて、海で泳ぐか?」
「えー。私、水着を持ってないし、女の子は準備することが、いろいろあるのよ」
「ムダ毛の処理とか?」
「……えっち」
「わるかったね。でも、海に足をつけるくらいだったら、できるよね?」
「それだったら、行くー」
 みずきはそう言うと、窓をしめずに、風を受けていた。僕は、エアコンをあきらめて、窓を半分開けて、車のスピードを下げた。その後、車はT字路にぶち当たって、それを左折していく。右手には、人をさそうように湘南の青い海が広がっている。みずきは、その風景をこれで最後であるかのように、目に焼き付けていた。
 大磯の町に入ると、江波が教えてくれた目印を頼りに、貸しスタジオを探した。
「あった。ここだ」
 その貸しスタジオは、コンビニのとなりに建っていた。窓が、極端に小さい。きっと、防音のためだろう。誰かの高級車の隣りに車を止めると、重い扉をあけて、僕とみずきは中へと入った。
「すみません」
 僕が、カウンターで声をあげると、奥の部屋からアフロ頭のゴツイ男があらわれた。その男は、身長が百八十センチほどあり、半そでのデニム生地のジャケットを身に着けている。表に止めてあるチョッパータイプのいかついバイクは、きっと彼のだろう。
「あの、JCカルテットは、入ってますか?」
「ああ、入っているよ。あそこの三番の部屋だ」
 アフロ頭は、不愛想に指さした。その男には、それが似合っていた。『はいそうです。あちらの部屋になってます』とか言われたら、きっと吹き出してしまっただろう。
 僕は、「どうも」と言って、No3と書いてある部屋の扉を、重いノブをまわして開けた。
「よう。きたか!」
「なんだ。江波だけか?」
「そう言うなよ。みんな大変なんだよ」
「わかってるって。それで、ピアノは、これ?」
「ああ、そうみたいだ」
 そこには、アップライトのピアノが置かれていた。キーをたたくと、一応調律してある。僕は、指を鳴らすと、イスに座ってコルトレーンのマイ・フェイバリット・シングスを弾きはじめた。しかし、コード進行だけでいつまでたっても、サックスは加わってこない。江波を見ると、だまって聞いている。
「おい、入って来いよ?」
「まあ、まってろ。腕が衰えていないか、聴いているから」
「ちぇ。えらそうに」
 僕が、そう言うと、江波はニンマリとほほ笑んだ。
 僕の音が、揃っていないのはわかっている。それに、音量が出てない。
 小さいころピアノを習いはじめ、中学でやめてしまったが、気が向いたら時々練習曲や歌謡曲を弾いていた。大学でジャズに出会いジャズ・ピアノをはじめて、大学卒業とともにあきらめてしまった。夢の残骸が、今、下手な音を鳴らしている。
 四分ほど弾くと、江波のソプラノ・サックスが加わってきた。それほど、悪くはない。ただ、時々僕がキーを外すが。
 そこに、東伸一と長船五郎が、ベースとドラムをかかえてやっと到着した。急いで、準備をする。まず、ベースが加わり、大分遅れて、ドラムが加わった。本物には見劣りするが、JCカルテットの完成だ。
 一曲十三分。ひさしぶりの演奏で非常に疲れた。肩で息をしていると、みずきが江波にかけよった。
「すごいです!」
「いや、そんなたいしたことないよ」
「そんなことないです。かっこういいです」
 僕は、このとき思った。サックスが、みずきの中では一番カッコウいいのだと。ほかは、目に入らない。サックスに、ほれたんだと。
 江波たちも、気づいたらしい。みずきは、楽器を弾く僕たちにほれたのではなく、楽器にほれたと。
「教えてください!」
 必死で江波に頼み込むみずきは、はっきりいって怖かった。と言うのは、大げさであるが、みずきにサックスを教えてと言われる江波を、僕を含め三人は、羨望と嫉妬のまなざしで見ていた。
「わかった。よろこんで教えるよ」
 そう江波がこたえると、みずきは奴に抱きついた。その時間があまりに長いので、しびれを切らした僕は声をかけた。
「それで、今までは土日で午前九時から午後六時まで勉強していたけど、その最後の二時間だけ、サックスの練習にあてるってのは、どう?」
「はい。それでいいです」と、みずきはうるんだ目で言った。
「俺も、オーケー。そうすると、JCカルテットの練習は、土日の遅くだな?」江波は、うれしそうにそう言った。
「俺も、いいよ」東伸一と長船五郎は、声を合わせてそう言った。
「それじゃ、そういうことで、よろしく」僕は、最後にそう言った。
 それからが、早かった。すぐに、めいめいの高級車で楽器店に乗りつけると、江波はアルト・サックスをみずきに選んでいた。いきなりソプラノ・サックスは、オーボエみたくていややろうと言って。
 ここで、みずきが左ききだとわかり、みんな驚く。しかし、サックスでは左きき用はなくて、左ききでも、右ききと同じように弾くらしい。みずきも、それで納得した。
 購入したアルト・サックスは、値段六万円。はじめ三十万円の奴をみんなで買おうとして、みずきに止められていた。恥かしくない職業につとめる江波たちには、なんでもない金額だろうが、僕やみずきの貨幣価値では、おそれ多かった。
 そして、購入したサックスだが、僕があずかることに決まった。みずきの送り迎えをする僕には、適任だろうと。
 最後に、大磯のビーチをみんなでワーワー言って、遊んだ。みずきは、はじめてのことで感激していたが、僕たちは子供のころに戻ったようにはしゃいでいた。
 そして、お別れを言って、僕はみずきを車に乗せて、帰路についた。ふと、気づくと、みずきは眠っていた。やはり、彼女にとって信頼できるのは僕であって、その信頼を裏切ってはならないと、心に刻んだ。


(七)

 翌日の、七月初旬の月曜日。太陽がサンサンとかがやき、アスファルトを焼いている。もう、梅雨が明けたみたいだ。クーラーのきいている食堂で、仕出し弁当を食べていると、清水弥生と仲間の女性が三人、同じく仕出し弁当をもってとなりの席に座った。
「へへへ。来ちゃった」
 清水弥生は、そう言ってニコニコする。
「いつも仲良さそうですね、女性陣は?」
 男どもは、マージャンをするときくらいだ、仲がいいのは。
「でも、きれいな女性ばかり、こんなに集まったら、後ろから刺されそうで怖いよ」
「あら? そんなにきれい?」
 三十代の既婚の女性が、そう言って笑う。歳のわりには、きれいだ。そして、胸も驚くほど大きい。
「でも、そんな口きいたら、勘違いしてしまうでしょ?」
 なるほど、これは清水弥生に対する後押しだ。しかし、彼女たちは知っているのだろうか。清水弥生が、韓国系だと。それでも、僕はそれほど気にしてないのだが。
「わかりました。そう言うことは、弥生さんにだけ言いますから」
 僕がそう言うと、食堂は祝福ムードになった。それは、別の見方をすると、どうでもいい男女がくっついたと思われたのだ。むなしい。
 食事が終わって、事務の女性陣とわかれて研究棟に向かって歩いていると、突然、ごつい男に身体ごとかつがれて、研究棟の裏に連れて行かれた。
「チクショー! なんで、お前なんだよー」
 名前も知らないその工場棟の男は、きっと清水弥生を好きだったのだろう。そんなに好きだったら、なぜ、思いのたけをぶつけなかったのか。しかし、そう言う僕も、みずきに告白できずに、手近の女で満足している。そう思うと、僕は彼の気がすむまで、心の叫びを聞いた。
 彼は、最後に悪かったなと言って、去って行った。あの叫びは、きっと自分に対する怒りだと思った。少しは、怒りが収まることを願った。
「おい、大崎。どうした?」
 先輩の永田修が、駆け寄ってきた。口をぬぐうと、血が出ている。
「なにか、あったのか?」
「いいえ。これは、そこで転んだんですよ」
「嘘つくなよ。本当か?」
「はい」
「わかったから、すぐに医務室に行け」
 研究棟の表にまわると、すでに彼はいなかった。僕はほっとして事務所の二階に行くと、医務室の扉をたたいた。
「すみません?」
「はい。どうしました? あら? 大崎さん」
「ちょっと、口の中を切っちゃって」
 僕はそう言って、三十すぎの独身、竹田順子先生の前においてある丸イスに座った。彼女は、白いワイシャツと黒いミニスカートの上に白衣をはおって、タバコを吹かしていたが、それをもみ消した。
「どれ? 見せて見なさい?」
 先生は、胸のポケットからペンライトを出すと、スイッチを押して口の中を覗いた。香水と共にタバコの香りがする。先生は、傷口の深さを確かめるように、ヘラで押した。
「いはい!」
「ごめんね。もうしないから」
 涙目になって、口をもごもごする。
「ちょっと、口の中を切っただけね。ほっとけば、なおる」
「やっぱり、そうですか。永田さんに言われたから、見せに来ただけなんですよ」
「それだったら、一応写真撮らせてもらうね?」
「なんのために?」
「ねんのためよ。ハイ。チーズ」
 口を開けて思わず笑顔を作るが、撮ったのは口の中だった。
「それって、あとでもめた時用にですか?」
「そう言うこと」
「それは、ないと思うけど?」
「万が一よ」
 そのあと、コーヒーを入れるわと言われたが、丁寧に断った。あまりに暇で、話し相手を必要としていたのだろう。お礼を言うと、医務室の扉を開けて、一階に降りて行った。
 そのとき、事務所で働く清水弥生と目が合った。彼女は、作り笑顔をするが、きっと竹田順子先生になにか用事だろうかと思ったに違いない。最悪、医務室の密室で、乳繰り合っていたと思われかねない。僕は、そう思って事務所の扉をたたくと、事務所の所長、加藤久に声をかけた。
「加藤さん。聞いてくださいよ」
「えーと、大崎くんだっけ? なんだ? 面倒ごとか?」
 加藤事務所所長は、老眼鏡を使って読んでいた新聞から目を離すと、迷惑そうにそう言った。
「さっき、ちょっとつまずいて、ドアに横っ面をぶつけたですよ。そしたら、口の中から血が出ているんです。ほっとけば、なおるって思ったんですけど、先輩に勤務時間内の怪我だから、一応、医務室で見てもらえって。そう言うもんですかね?」
「大崎くん。それは、そうだよ。万が一、そのあと、急死したりなんかしたら、警察呼んだり、労災使わなくっちゃいけないし」
「急死って……。上の人は、いろいろ大変ですね……」
「そうなんだよ。だから、ほら。はげちゃった」
 加藤事務所所長は、そう言って、はげ頭をたたいて、豪快に笑った。自分をネタに笑いを取る。年の功だと思った。僕は、清水弥生と目を合わせてほほ笑むと、事務所をあとにした。
 午後六時に仕事を終わらせて、スーツに着がえて研究棟のロビーへ降りて行くと、清水弥生がキャミソールに着がえてソファーに座って待っていた。そのキャミソールは、細い肩ひもで胸をつっている、反則ぎみの服である。
「清水さん。お疲れさま」
「お疲れさま。大崎さん」
「きょうは、夜食、食べていないんだ。どこかで、食べない?」
「うん。いいよ」
 僕と清水弥生は、二台の車で、近くの居酒屋に乗りつけた。「いらっしゃい!」の威勢のいい掛け声を聞いて、テーブルに座ると、ビールを頼み、食べたい物をそれぞれ頼んだ。
「帰りは、タクシーだね?」
「まじめね?」
「いや。ひとりだったら、運転しちゃうけど、清水さんがいると、捕まると思うから」
「それって、どういう意味?」
 清水弥生は、頬をふくらませてそう言った。そのとき、ビールが二杯、ジョッキで届いた。僕たちは、とりあえずカンパイをして、ビールに口をつけた。
「あー、うまいねー」
「ほんとよね」
「それで、さっきの話だけど。僕、スピード違反も飲酒運転も、まだ捕まったことないんだよね。一度も」
「あー、いるよね、そういう人。でも、一度捕まったら、止まらないのよ。これが」
「えー、びびるなー」
「それで、あっというまに違反点数がたまって、免停だよ」
「えー、怖い。ねえ、怖いよー」
 お腹がふくれて、ビールが三杯目に突入した時だった。
「私、聞いちゃったんだよね」
「なにを聞いたのさ?」
「私を抱いているとき、みずきって私を呼んだのよ! このロリコン!」
 そう叫んで、清水弥生は大声で泣いた。今まで言わずに我慢していたのだろう。それが、酒に酔って、あふれてしまったようだ。
 僕は、清水弥生を抱きしめると、言った。
「ごめん、弥生ちゃん。でも、僕が抱くのは弥生ちゃんだけだよ。そして、心から安心できるのも弥生ちゃんだけだよ」
「ほんと?」
「本当だよ。でも、今はみずきをいい大学に入れることに、命かけているから、結婚はそれが終わってからでいい?」
「ひっく、ひっく。それじゃ、あと二年待たないといけないじゃん」
「ごめん。でも、愛してるのは、弥生だけだよ」
 そう言って、僕は清水弥生を抱きしめ、口づけをした。
 まわりの酔っ払いが、拍手やら、ガンバレヨーだとか、オーと言う雄たけびをあげる。
 僕は、彼らにアリガトーと言うと、店員に運転代行サービスを呼んでもらった。僕のアパートに着くと、待ちきれないように清水弥生と愛し合った。
 みずきのもう一つの夢。サックスのことは、話さなかった。


(八)

 七月最初の土曜日。天気はあいかわらずの好天で、地上は蜃気楼が立っている。だが、峠の頂上はいくぶん涼しかった。みずきは、麦わら帽子に白いワンピースを着て、待っていた。ゆるやかな風が、みずきの髪をなびかせる。
「おはよう、みずきちゃん」
「おはよう、お兄ちゃん」
 そう言って、みずきは助手席に座った。
「サックスは?」
「ちゃんと、つんでいるよ」
 ワゴン車のラゲッジスペース(荷物を収納するスペース)に、ネットをかけて固定しているサックスのハードケース。その存在を、みずきに見せた。
「ちゃんと、あるね。それにしても、後ろは暗いね?」
「それは、盗難防止に、後ろの方は外から見えないように、スモークフィルムを張ったからね」
「なんか、えっちだね?」
 そう言って、みずきは顔を赤らめる。
「なんだよ。みずきのために一生懸命張ったのに」
「ごめん、ごめん」
「まったく」
 怒ったふりをして車を出した。スモークフィルムは、僕が挑戦したくて張ったのだが、それは内緒だ。所々、フィルムが重なって、シワになってしまった。
「ところで、もうすぐ夏休みなんだけど?」
「あ、そうだった。いつから?」
「七月二十日からだよ」
「すぐじゃないか。どうしよう?」
「こっちが、聞きたいんだけど……」
「僕らは、あいかわらず、土日しか休みじゃないんだ。だから、平日は家で一日中勉強するしかないね?」
「やっぱり、そうなる?」
「みずきは、どうしたいの?」
「なるべく、家にいたくない」
「そうなのか……」
 僕は、すこしの間、考えたが、いい考えは浮かばなかった。いったん、あずかって対策を考えることにした。
 みずきが、なるべく家にいたくない。その理由は、怖くて聞けなかった。たんに、反抗期における、親をうとましく思う気持ちなのか。それとも、なにか重大な問題を内包しているのか。そのことを、みずきが話してくれるのを待つのか、僕がみずきに聞くのか、いずれかを選択しなくてはならない。僕は、悩んだ。
 みずきは、その日の午後四時まで勉強して、大磯の貸しスタジオに連れて行った。待ちきれないように、江波圭太、東伸一、長船五郎の三人が待っていた。
「なんで、みんないるんだ?」
「いやあ、江波だけにまかせると、危ないから」
「なんだよ。せっかく、ふたりきりで手取り足取り教えようと思ったのに」
 それは、冗談だろうが、みんなみずきと一緒にいたかったのだ。
「みずき、本気にとるなよ。だいたい、江波はホモだから」
「えー!」
「あら? ビックリした? だから、安心してね?」
 江波は、そう言って、みずきにウインクした。
「さて、冗談はこれくらいにして、はじめようか?」
「え? え?」
 みずきは、首をひねって考えていたが、アルト・サックスをハードケースから出すと、顔つきが変わった。
 僕と東、長船は、音を立てず、だまって練習風景を見ていた。熱心にサックスの仕組みを聴くみずきは、ほかのことは耳に入らないくらい、集中していた。もしかしたら、僕たちは名サックス奏者を発掘したのではないのかと、思うほどだ。僕たちも、みずきに触発されて、十分をすぎるころ、そーっと部屋を抜け出すと、別の部屋を借りて、九月の第一土曜日に演奏する曲を、一つずつ合わせて行った。
 夢中で練習していたが、時計を見ると午後六時を大きく回っていた。あわてて、部屋から出るとすでにみずきは待っていた。
「わるい」
「いいよ。少しくらいなら」
「それじゃ、行こうか?」
「うん」
 みずきを乗せて、急いで帰路に着いた。
「疲れたよ」
「そうだろう?」
「でも、楽しかった」
「よかったね」
 返事がないので、助手席を見ると、みずきは舟をこいで眠っていた。僕は、そっとみずきの首をヘッドレストにつけると、ラジオのボリュームをさげた。みずきは、足柄山のバス停に着くまで、起きなかった。
「みずき。着いたよ」
「ん? うーーん、着いたのか」
「忘れものない?」
 不意に、みずきの顔が近づいてきた。よける暇もなく、僕の頬にキスした。
「それじゃ、また明日」
 みずきは、いたずらっぽくほほ笑んで、車を降りると駆けて行った。唖然と見送る僕。なにを考えているのかわからず、おじいちゃんに孫が、プレゼントのお礼として、頬にキスしたんだと思うことにした。
 気を取り直して、僕はふたたび大磯にむかって車を飛ばした。そして、二時間ほど江波たちと合わせると、自分のアパートへ帰って行った。眠りについたのは、午前零時をすぎていた。


(九)

 翌日の、七月最初の日曜日は雨だった。だが、風がおだやかでレインコートと長靴は必要なかった。みずきは、ワンピースを着て、赤い傘をクルクル回して待っていたが、僕の車に気づくと、駆けてきた。そして、助手席のドアを開けると、乗り込んだ。
「おはよう。みずきちゃん」
「おはよう。お兄ちゃん」
 みずきは、そう言って、僕の用意したタオルで髪をふいた。僕は、みずきにシートベルトを注意すると、車を出した。
「あ、サックスは?」
「ちゃんと、つんでいるよ」
「よかった。ありがとう、お兄ちゃん」
「ところで、夏休みのことだけどね。いい考えは、浮かばなかった。悪いけど、家で勉強してくれないか?」
「そう言うと、思った。どこかのアパートを借りるって言っても、そこで変なことしてるんじゃないかって、疑われると面倒だしね」
「ごめんね、みずきちゃん」
「しょうがないよ」
 みずきは、しばらくの間、ウィンドーにあたって落ちる雨を眺めていたが、息をはいて言った。
「お兄ちゃん、私のことを話すね。本当は、最初に言えばよかったのに、怖くてできなかったの。でも、お兄ちゃんが、私が考えたよりも、ずっと紳士的で私のしあわせを考えてくれるのがわかったの。ありがとう、お兄ちゃん」
 そう言って、みずきは頭を下げた。紳士的だという、みずきの言葉に少し戸惑った。本当は、もっとドロドロした膿を隠しているのだが。そう口に出かかったが、話の腰を折るようで、やめた。
「よしてくれよ。それで?」
「はい……。私の家では代々、女は十八歳で本家の嫁になることに決まっています。それが、いやで、私は父たちがそう言えないように、いい大学へ進もうと考えました。それで、あなたを利用して勉強をはじめたんです。本当に、すみませんでした」
「いや、そのことはいいんだ。僕も、リベンジの意味で、よろこんで教えているから」
「そう言っていただけると、うれしいです。でも、少しずつ考えが変わったんです。……私は、あなたのことが好きなりました」
 みずきは、涙目になって言った。
 僕が、みずきを好きなことは、僕がみずきのためにしてきたことから、きっとわかっていただろう。それでも、幼いみずきが告白するのは、勇気のいることだったろう。
「いや、そう言ってもらうのはうれしいよ。だけどね、君は歳が若すぎるし、きれいだし、どう考えても、不釣り合いだよ」
「でも、私がサックス奏者になったら、どうです? そして、一緒に演奏できたら、きっとあなたは私と、離れられなくなる。ねえ、そうでしょ?」
「……そうかな……。十年後も、同じことを言うかな……。もし、かりに、そうだったとしても、それまで僕は高校生の君に、手を出さないとは、とうてい考えられない」
「それだったら……」
「抱いていいと?」
「……はい」
 僕は、ここで笑い出してしまった。みずきは、顔をまっかにして、怒ってしまった。
「ごめん、ごめん。でも、大人の恋愛は汚いから、それを知ったら、みずきちゃん、きっと幻滅するよ。それに、僕は清水弥生と付き合っているから」
「それだったら、私が十八歳になったときに……」
「清水弥生をすてて、君と付き合えと? できないね。そんな酷いことは」
 僕たちは、黙ってしまった。車のワイパーの音がやけに、耳につく。
「さあ、この話は、おしまい。きょうも、元気に勉強しよう」
「ごめんなさい、わがまま言って」
「いや、うれしいよ。こんな若い子に、そう言ってもらえて。ところで、サックスはやめないよね?」
「はい。絶対にやめません」
「安心したよ。僕も、それに江波たちも、がっかりすると思うから」
 あくまでも、大人の対応で、話した。心の中では、みずきを抱きたいと思うが、その一方では、純真なままでいてほしいのだ。
 そして、十八で本家の嫁にということが、引っかかった。果たして、そんな家が、まだあるのかと思ってしまう。
「あ、それから、頬にキスはやめてほしい。うれしいけど、歯止めがきかなくなりそうで怖いから」
「わかりました。すみませんでした」
 重い空気を変えようと、僕はラジオのスイッチを入れた。FMから、ルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』が流れていた。ベトナム戦争(一九五五年から一九七五年)当時の一九六七年に発売されたこの曲は、反戦のために書かれた曲だという。決して、戦争反対と歌っているのではなく、『花や木々が君のために咲いている、なんて素晴らしい世界なんだろう』と歌っている。六十六歳のだみ声だが暖かい声が、身体全体にしみわたる。
 ふたりして、この曲を聴いた。
「いい曲だろう?」
「はい。心が暖かくなります」
「そうか。趣味が同じだね? って言いすぎか。一回りも違うのに」 
「十才です」
「え? なんで僕の歳、知ってるの?」
「江波さんに教えてもらいました」
「そうか。ところで、みずきの部屋にCDプレーヤーはある?」
「ありますよ。中学入学のお祝いで買ってもらいましたから」
「だったら、こんど、貸すよ?」
「うれしい」
 よかった。みずきの機嫌がなおって。
 車は、二四六を左折して、文化会館が見えて来た。雨の中、僕はみずきを図書館の前に降ろすと、駐車場に車をとめて、図書館に走った。
 そして午後四時には、ひとり図書館を出て、駐車場にとめてある車に走った。雨は、激しくなって、水しぶきが白くたっている。僕が、車を図書館前につけると、みずきは急いで乗ってきた。
「なに、この雨? 台風じゃないよね?」
「強い勢力の低気圧だって」
 そう言って僕は、タオルを渡した。
「ありがと。あー下着まで、ビジョビジョだよ」
「……行くのやめとく?」
「やだ。絶対行く」
「そう言うと、思った」
 僕は、大磯方面に車を出した。視界が悪いので、ライトをつけた。
「それにしても、みずきはいつも、ワンピースだね?」
「これは、小さいころから、着ていて、そう、決して強制されてません。変ですか?」
「いいや。似合っているよ。とっても」
「そうでしょ?」
「でも、ほかの洋服も、着せたいな」
「いいですよ。連れてってください」
「でも、家の人が誰に買ってもらったって、聞かれたらどうする?」
「それじゃ、お兄ちゃんの家で、着がえます」
「却下」
「えー、どうして?」
「だめだよ。男の部屋に、そんなに簡単に入っちゃ」
 みずきは、このあと、いじけて口をきかなかった。しかし、大磯の貸しスタジオに着くと、忘れたようにサックスを右肩にかけて、傘を広げて駆けて行った。
 僕は、江波圭太に一言だけことわって、別の部屋へ行こうとした。しかし、そこには、タオルで身体をふいているみずきと共に、東伸一、長船五郎がいたのだが、彼らとは別に、知らないヒゲの男が腕を組んで待っていた。僕は、足をとめた。
「お、大崎。ちょっと待てよ」
「なんだ、江波?」
「この人が、お前のピアノ、聴いてみたいって」
「突然、すみません」
 ヒゲの男は、そう言って、名刺を差し出した。よくわからないが、音楽系のプロデューサーらしい。
「あなたたちの、録音した音源を聴いて、そのなかであなたの演奏が耳に残って。それで、ぜひ会ってみたくなりました」
「僕は、プロにはなるつもりは、ありません」
「そんな、固くならないで。私のバンドのピアノを休みの日に録音してもらえばいいですから」
「あいにく、休みの日は、つねに予定が入っていますから」
「そうですか、残念だな」
「それじゃ、練習があるので」
「気が変わったら、いつでも電話してください」
 僕のあとを追って、東伸一と長船五郎が駆け寄ってきた。そして、なぜかカウンターのアフロ頭が、頭をさげる。
「すみません。余計なことしちゃって」
「そうか、あなたでしたか」
「でも、なんでプロにならないんですか?」
「たとえ、いっとき小銭を稼げても、すぐにだめになるんだよ。だいたい、いまどき、オールドジャズなんて、みんな興味ないさ。だから、僕たちは趣味でやっているのさ」
 僕たちは、みんなわかりきっていた。だから、江波圭太は某省のキャリア、東伸一は弁護士、長船五郎は医者とそれぞれ仕事を持って、休日に夢を見ている、一九六〇年代のオールドジャズに取りつかれた奴らだ。


(十)

 七月二十日。みずきは、夏休みに入った。予定どおり、迫りくる十八歳に向けて、勉強をつづけているだろう。焦りが、みずきの勉強意欲にマイナスにならないとよいが。
 そして、七月下旬の月曜日。雨はあいかわらず、しとしとと降っていた。天気予報では、もうじき晴れると言った。
「梅雨が終わったのに、今日も雨だねえ……」
 声に気づいて目を覚ますと、竹田順子先生が白衣を着て、窓にあたる雨を見つめていた。
「え? ここは?」
「あら。やっと、おめざめ? 医務室よ」
「僕、もしかして、倒れた?」
「ええ、そうよ」
「……」
「ただし、大いびきをかいてね。それに、あなた、お酒臭かったわ」
 そうだった、あれからみずきを送ったあとに、江波圭太たちと練習もせずに、一晩中飲んでいた。そのあと、ずる休みするはずだったのに、惰性で出社してしまった。そこまで、思い出してボーっとしていた。
「思い出した?」
「……はい」
「きょうは、もう休みにして、家に帰りなさい」
「わかりました」
「じゃ、私が送って行くわね?」
 先生は、そう言って、車のキーをポケットに入れると、僕の腕をだいて、連れて行こうとした。先生の大きな胸が、僕の腕に当たって、気持ちがいい。
「ちょ、ちょっと、待って。タクシーで帰るから」
「遠慮しなくていいのよ。さあ、行きましょ?」
 そのとき、医務室の扉が静かに開いて、清水弥生が現れた。
「なにしてるんですか?」
 清水弥生の冷たい声がひびく。
「いいところに、来たねえ、清水さん。送ってくださいよ?」
「わかりました。先生、余計なことまで、ありがとうございました」
「いいえ……」
 清水弥生は、僕の腕をつかんで、下の事務室に行くと、加藤久事務所所長の前に立って言った。
「今から、大崎さんを送って行きます。それから、私は早退します」
 清水弥生は、タイムカードを乱暴に押すと、僕の腕をつかんで玄関に歩いて行った。
「あの、」
「なにも言わないで!」
「はい……」
 清水弥生の車に乗って、アパートへ向かった。清水弥生の横顔を見ると、あきらかに怒っている。どうして、僕なんかを好きになったのだろうか。ほかに、ずっと顔がよくて、お金持ちはいるのに。
「ねえ、弥生?」
「なによ?」
「もしも、僕が売れないミュージシャンだったら、好きになっていた?」
「難しいわね。でも、私に笑って話しかけてくれるなら、好きになっていたかも」
 そうか、たったそれだけのことか。人に好かれるということは。僕は、ごく自然に顔がほころび言った。
「愛しているよ、弥生」
「やだ、急になに言ってるのよ。本当に」
 そう言えば、付き合ってと言ったが、愛しているとは言ってなかった。そう考えている間に、清水弥生の両眼から、大粒の涙が流れた。
「ああ、もうやんなっちゃう」
 そう言って、清水弥生は非常灯を点滅させると、道のわきに車を止めて泣きつづけた。
「私も、愛しているわ」
 僕は、清水弥生を抱きしめた。後ろの車のクラクションがうるさくて、清水弥生はすぐに涙をティッシュでふくと、車を出した。
 そして、僕のアパートに着くと、僕の腕を抱いて、階段をのぼった。
「カギは?」
「は、はい」
「今、布団しくね」
 清水弥生は、僕を布団に寝かせると、エプロンをしてトントントンと音を立てている。その音を、子守歌代わりに眠った。
 僕が目覚めると、清水弥生が子供を寝かしつけるように添い寝して、僕の髪をなでていた。部屋の中は、すでに薄暗くなっている。彼女は、僕の指に自分の指をからめると、口づけした。
「おはよう」
「やっと、起きたわね」
「おなか、減った」
「できてるわよ」
 清水弥生は立ち上がると、蛍光灯のひもを引っ張った。薄暗いところから、急に電灯をともされたので、僕はまぶしくて目を細めた。それでも、急いで立ち上がって言った。
「トイレ行ってくる」
 小便を、勢いよく音を立てて放出すると、ほっと一息する。トイレから出ると、台所で顔を洗い、うがいをした。
「ふー、さっぱりした」
 僕が、顔をふいてテーブルに着くと、美味しそうなオカズと、湯気のたっているみそ汁が、それぞれふたつずつ。ゴクリと、ツバを飲み込む。
「はい、ごはん」
「ありがとう」
 僕には茶わん一杯に、彼女はこころもち少なくよそおった。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
 みそ汁をひと口飲むと、よく出汁のきいたなんともいえない風味がする。この味は、アサリだろう。
「美味しい!」
 そう言って、僕はオカズにハシを伸ばす。どれも、おいしくてハシがとまらず、すぐにお代わりをした。
「よかった。口に合って」
 そう言って、清水弥生はうれしそうに笑った。
 僕は、こんな光景をずっと望んでいた。それが、簡単に手に入ったのだ。ただひとこと、愛していると言っただけで。
 うれしいと思う反面、この幸せを離したくないと感じたし、その責任をおもく感じた。
 僕は、はじめて結婚を意識した。しかし、自由になる時間も金も少なくなる。みずきを教えている僕には、向いてない。しかも、大学への学費などを出さなくてはいけなくなると、なおさら考えられない。清水弥生には申し訳ないが、みずきとの約束が、僕には最優先なのだ。
 その晩は、立たなかった。ごめんと言うと、「いいのよ。そんな日もあるわ」と言ってくれた。余計、申し訳なく思って、腕枕をして眠った。


(十一)

 七月最後の土曜日。勢力の大きな台風が過ぎ去り、殺人的な暑さとなった。ところどころ、台風がつめあとを残していたが、それさえも忘れるほどの猛暑だった。僕は、その中で会社が臨時休業だったので、酒の飲みすぎでグズグズになった体調が完全に回復した。
 なにごともなかったように、バス停にみずきを迎えに行くと、日傘代わりに雨傘をさして待っていた。彼女は助手席に乗り込むと、エアコンの出口に、胸元をパタパタさせて言った。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、みずき。きょうも、暑いね?」
 僕はそう言って、車を出した。
「ええ、本当に。でも、私の家は大きなイチョウの木に囲まれていて、涼しいですよ?」
「そうか。よさそうな家だね。それに、秋には、ギンナンがなるし」
「はい。ギンナンを母と一緒にとって食べるんです」
「お母さんと、仲いいんだね?」
「はい。とっても」
 そう言って、みずきはうれしそうに笑った。
 はじめて、母親のことを口にした。たぶん、その母親がみずきをかばっているのだろう。そうでなければ、こんなに頻繁に家をでることは、考えられない。
 だが、一方では、果たしてみずきの言うことを百パーセント信じていい物かと思ってしまう。本当は、家を頻繁に空ける放蕩少女なのかもしれない。僕は、はじめて疑念を持った。
「ところで、教科書は一周した?」
「はい。今、一周と半分くらいです。中々終わりませんね」
「大丈夫。二回目、三回目と早く終わるから」
「はい。ガンバリます」
 僕は、このときホッとした。みずきは、僕と同じように平凡な頭脳しか持ち合わせていないと。僕は、そのことを確かめると、いつものように図書館に着いて、みずきの勉強を見守った。
 勉強は、いつものように昼食をはさんで午後四時までつづいた。僕は、みずきを車に乗せると、急いで大磯の貸しスタジオへ向かった。
「きょうは、乗っていたね?」
「ええ、この調子だったら、教科書三周は、二か月かからないかも」
「そうなったら、ついに応用問題集だね?」
「はい。なんだか、ドキドキしますね?」
「はじめは、難しいと思うけど、答えを見て何回か書いたら、理解できるよ」
「そうだと、いいんですが」
「解答例が載っているし、僕もいるからね」
 そのとき、前の車がタバコの吸い殻を道路にぶちまけた。タールのなんとも言えぬ悪臭が、エアコンから流れ込む。
「あ! ひどい! ねえ、クラクションならしてよ」
「いや、やめとくよ。きっと、逆切れしてケンカになるから」
「お兄ちゃん。ケンカ弱いの?」
「うん。というか、したことない」
「なんだー」
「ガッカリした?」
「うん。でも、ケガしないから、そのほうがいいかも?」
「そうだよ。みずきのためにもね」
「ありがとうね、お兄ちゃん」
 みずきは、気分転換なのか、ラジオをロックに合わせて、ボリュームをあげた。めずらしく、オジー・オズボーンの『ミスター・クローリー』がかかっていた。一九八〇年代に、天才ギタリストである、ランディ・ローズと組んで、ハード・ロックはこうであるべきと世界に知らしめた曲である。
 驚くことに、みずきはその曲に合わせて、首をたてに振って、ヘッドバンギングしている。曲名も知らないのに、みょうに楽しそうに。
「知らない曲だけど、なんだか勝手に身体が動くの。もしかして、コッコの呪い?」
 Coccoとは、一九九六年にデビューしたシンガーソング・ライターで、神秘的な歌詞と、広がりのある歌声、そして激しいヘッドバンギングで熱狂的な信者を産んだ歌手である。
「そうかもね?」
 大磯の貸しスタジオに着くと、みずきと江波圭太がその話をして、盛り上がっている。ふたりして、ヘッドバンキングしてゲラゲラ笑っている。
「お前ら、笑いのツボ、同じなのかよ?」と、僕は、あきれる。
「そうなのよ」と、みずきと江波は、なお一層笑い声をあげた。
「そうだ。コッコの曲をサックスで吹いたら、どうなるか、やってみて?」と、みずきは、江波に言った。
「ごめん。俺、コッコっていう歌手、実は知らないんだ。オジー・オズボーンは知っているけど」と、江波は頭をかいた。
「えー、こういう曲だよ」
 みずきは、コッコの『強く儚い者たち』をサックスで吹きはじめた。音がひっくり返ったりするが、どうにか前奏は吹けた。だが、つぎに僕たちは、みずきの喉から発せられる声に驚くことになる。
 音が厚くて、伸びやかな歌声。
 そう、まるで、天から降りそそぐような歌声。
 僕は、このとき鳥肌が立った。すぐにピアノの伴奏を合わせる。うれしそうに歌うみずきが、とてもきれいだった。あわてて江波たちが、サックス、ベース、ドラムを合わせてくる。みずきは、気持ちよさそうに一番を歌い、その場にしゃがんでしまった。
「みずき、どうした?」
「だって……気持ちいいんだもん」
 そう言ってみずきは、声をあげて泣いた。僕たちは、笑顔でうなずいた。その中で、江波は、あごに指を立てて考えていたが、ぽろっと言った。
「ねえ、みずきちゃん。俺らのコンサートで、一曲だけ歌わない?」
「ジャズのコンサートで、歌謡曲?」
 みずきが、口をへの字にまげて言った。
「それだったら、『マイ・フェイバリット・シングス』の英語の歌は?」
 普段、あまり話をしない長船五郎が、ボソッと言って、みずきを見る。
「やめとく。前に、江波さんに聞かせてもらったけど、サックスとは全然イメージが違うし」
「そのとおりです」長船五郎はうなだれた。
「でも、誰かにスカウトされて、歌手デビューできるかも?」
 東伸一が、みずきを下から上に眺めてそう言った。
「そして、誰かが作った好きでもない曲を歌うんだ?」
「そうか。残念」
 東伸一は、本当に残念そうだった。
「お兄ちゃんが作ってくれたら、歌いたい」
「うーん。みずきらしい曲を、作らなくっちゃいけないんだ……」
「宿題だよ」
「そうだ。宿題だ」と江波圭太と東伸一が、声を合わせて悔しまぎれに言った。
「え? 冗談で言ったんだけど?」
「いや、大学時代に二曲だけ作ったんだけど、中々よかったんだ」
「誰に?」
「今井聡子さんに……」
「わかった。もういい。みずきが、本当に曲を作ってほしいなら、イメージを書いてほしい。これは、みずきの宿題」
「……わかったよ」
 かなりいやそうだったが、シブシブ言ったみたいだった。
「ところで、江波さん。サックスが全然うまくならないんだけど、どうして?」
「毎日練習したら、もっと上達すると思うけど?」
「これ以上、無理だよ」
「まあ、気長にやるんだね」
 あこがれと、才能が乖離しているみたいに、葛藤している。しかし、彼女の夢は、いい大学に入って、自分の足で生きて行くことだろう。僕は、この欲張りな少女に嫉妬した。


(十二)

 七月最後の日曜日。あいかわらず猛暑だ。こんな日は、デパートで買い物するか、パチンコをやって時間をつぶすのがいい。そんなことを考えながら、みずきを迎えに行った。
「おはよう。本当、暑いね?」
「その分だったら、宿題はやってきてないな?」
 僕は、ゆっくりと車を出した。
「そんなことないよ。はい」
 そう言ってみずきは、カバンの中から大学ノートを左手で差し出した。
「え! もう書いたのか?」
「うん。でも、笑わないでね」
「はじめは、みんな下手だから」
「そうだよね」
「どんな歌詞か、言ってみてよ」
「えー、緊張するな。ええと、」

 ねえ、あなた。元気でいる?
 私は、あれから酷かったんだよ
 あなたにフラれてから、なん日も泣いていたんだよ
 部屋の窓から、いつまでも流れて行く雲を見上げていたわ
 もしも、私が鳥だったなら、どこまでも飛んで行けるのに
 青い空、白い雲、涼しい風、その中を私は、飛んでいく
 新しい自分に生まれ変わって、明日も明後日も生きるんだ

 みずきは、大学ノートに書いてある、その一番の歌詞を言った。それも、後半はメロディーを付けて歌っていた。僕は、このとき才能が開花したと思った。隠していたが、鳥肌が立った。
「メロディーの書き方、しってる?」
「うん。一応、譜面の見方の勉強をしたから」
「じゃあ書いて。できなかったら、録音すればいいから」
「で、どうだった?」
「いいんじゃない? その調子で二番、三番を作ったらいいね?」
「わかった」
 それにしても、この歌詞はみずき本人のことなのか? そうだとしたら、みずきが今まで言って来た『代々、本家に嫁ぐことになっている』ということと、大分イメージが違うのだが。僕は、そう思っても言わなかった。なにか、知らないことがあるようで、怖かったから。
 みずきは、そのあともハミングして、なにかイメージしていた。果たして、二番三番ができるものなのか、わからない。その曲は、今の歌詞で完結しているように思えたのだが。
 車が図書館に着くと、みずきは急いで車を降り、図書館に走って行った。僕が、遅れて入って行くと、みずきが左手で一心不乱に大学ノートに書いていた。僕は、だまってみずきを見守った。
「できた!」
「どれ、見せてみて?」
「やだ。お兄ちゃんには見せないよーだ」
 そう言ってみずきは、アッカンベーをした。
「しょうがないなー。コンサートに間に合わなくなるよ?」
「いいの。あのコンサートは、ジャズのコンサートだから」
「なんだ、やらないのか。残念」
「さてと、勉強はじめますか」
 みずきは、いつものように図書館で勉強して、大磯の貸しスタジオに入った。僕が、遅れて入って行くと、江波圭太がみずきにつめ寄っていた。
「え! みずきちゃん、歌わないの?」
「やっぱ、やめとく。ジャズのコンサートに歌謡曲なんて、場違いもいいところだから」
「でも、ムサイ男たちがジャズやるより、ずっといいと思うんやけど」
「もう、いいから、練習やるよ」
「はい」
 どうやら、みずきの優先順位は、一番になったようだ。僕たちは、ぞろぞろと違う部屋に入って、コンサートの練習をはじめた。だが、みずきのことでがっかりしたのか、みんな音に活気がない。まるで、死んだ魚のように。僕は、この空気を変えたくて、みずきの歌詞を適当なメロディーに乗せて歌った。
「おい、この曲、もしかして、みずきちゃんの作った曲だろう?」
 東伸一が、言いづらそうに、そう言った。
「ああ、作詞作曲みずき。編曲大崎太一だ」
「もったいないな」
「うん。でも、本人がやりたくないって言っているのに、なにができる?」
「……」
 みずきの話は、そこで終わって練習に集中した。そう言えば、東たちの演奏が、大学時代と異なっている。弾き込んでいくほど、そのほうがいいと思ったのだろう。そうだ、僕たちはコルトレーンのバンドのコピーだが、決して本物に負けを認めたわけじゃない。そして、新しいナニカを求めているのかもしれない。僕は、このとき真剣に作曲を考えた。
 練習が終わって、みずきを車に乗せて送って行くと、めずらしく、寝ないでなにかを考えていた。
「ねえ? お兄ちゃん」
「なんだい、みずき?」
「あの歌詞は、私自身だから、もうやめてもいい?」
「好きにしたらいいよ。でも、作詞家は自分をけずって書き上げるときがあるよね?」
「それでも、書いちゃいけないこともあるよね? ストレートすぎちゃったんだよね、私」
 僕は、それ以上みずきを追求しなかった。ラジオのスイッチを入れて、今はやりの音楽を聴いた。だが、思ったよりもよくはなかった。やはり、きょう聞いたみずきの音が耳に残っていて、その曲を口ずさんで、考え事をした。
 世の中に、多くの才能を持った者がいたとする。その才能に翻弄されて、どれも中途半端になることが危惧される。みずきは、それを本能的に感じとって、セーブしているのだろう。それこそ、最も大切な才能かもしれない。


(十三)

 夏休みも、あとわずかで終わろうとしている。僕は、盆休みも実家に帰らずに、だらだらとパチンコを打っていた。夏は、クーラーのきいている場所は、いろいろあるが、長い時間すごせるのは、やはりパチンコ屋である。勝つ日もあるが、トントンのことが多かった。
 大学時代、バイトをやって生活費を稼いでいたが、ある日友達にさそわれてパチンコを打ってみると、そこそこ勝てた。それ以来、バイトをやめてパチンコをつづけた。釘とその台の出方を分析すると、安定して勝てた。バイトよりも、ずっと効率のいい仕事だった。だが、仕事だと思うと、全然楽しくない。無気力に打っていた。
 あれから、就職してパチンコの必要はなくなったが、たまに時間つぶしかクーラーを求めて打っている。たまに打つので、台の出方を分析できないので、トントンか少し稼げるくらいだ。
「おい、あんちゃん」
 振り向くと、スクエア型のサングラスをかけた背の高いトッポイ男が、クチャクチャとガムを噛みながら立っていた。
「なんでしょうか?」
「さっきから、球がへらんな。なにか、左手に持っとるやろ。だせや」
 そう言って男はすごんだ。
 僕は、両手を開いて男に見せた。
「なんや。悪さしとるって、ほかの客が言うから。悪かったな」
「いいえ」
 男は、それから冷たい缶コーヒーを置いて行った。
 こういうヤカラは時々いる。悪さをする客を店に突き出して、自分はいい客だと思わせたいのだ。
 僕は、そのあともその球が減らない台で時間をつぶした。
 午後七時になって、もうそろそろ涼しくなった。メシでも食おうかと、少し増えた出玉をメダルにかえて、換金しようと外の小屋に並んでいるときだった。
「よお、あんちゃん。一日、あの台で打っていたな。おもろなかったやろ?」
 振り返ると、さっきの男が、たくさんメダルを持って、上機嫌に立っていた。たぶん、十万はあるだろう。
「いいえ。僕はたまに打つくらいで、負けなかったのは、運がよかったんです」
 僕はそう言って、釘があまかったことをかくした。
「そうか? 見たところ、あんちゃんは今日一日店の出玉をチェクした。あしたは、本格的に狩りをおっぱじめようとしとるのやろ?」
「まさか。あしたは、デートです」
 僕がそう言うと、男はわざとらしくガクッと膝を折って、ころぶまねをした。その間に、僕はメダルを換金して、じゃと言って行こうとした。
「あんちゃん。ちょっと、待っててや」
 そう男は言って、メダルを換金した。
「おまたせ。これから、メシでもおごらせてくれや」
「そんな、悪いですよ」
「きょうは、たんまり儲かったんや。さっきのおわびや。おごらせて―な」
 そう言って男は、僕が逃げないように、肩をくんでスモークフィルムが助手席にもはってある車に乗せた。そして、シートベルトもせずに車を出した。
 さっきから鼻につく関西弁。最悪、梁山泊かもしれない。僕の背中をいやな汗が流れた。
「そういや、名前言ってなかったなあ。ワシは、江波圭吾。よろしくな」
「……もしかして、江波圭太の親戚の方?」
「え! 兄のこと知っとるんけ?」
「はい。バンド仲間です」
「そうやったんですか」
「僕は、大崎太一です」
 ようやく、笑顔で言えた。
 それから、居酒屋に入って晩ごはんとビールをいただいた。
「いや、世間てのは、狭いですね」
「本当ですね」
「ところで、パチンコは本当にたまにしか打たないんですか?」
「はい、大学時代はバイトの代わりに打ってましたが、就職してからは、本当にたまにしか打ってません」
「そうか、残念やね。ワイは、中央大中退して、きままにパチンコ暮らしや。実は、兄とワイとは、母親が違うんや。その結果、頭のいい兄と、頭の悪い俺が生まれたんや。それで、無理して中央大学入ったけど、ついてゆけず、めでたく中退や。東大出て某省のキャリアになった兄とは、月とスッポンや。つらいなー」
 そう言って江波圭吾は、ビールを飲み干した。すかさず、おかわりをする。
「それで、ここ一週間こっちで打っていたんやけど、どうも出が悪いみたいやけど? きょうは、たまたま出たけどなぁ」
「どこから、来たんですか?」
「横浜からですわ」
「それだったら、激戦区だから、かなわないでしょう?」
「やっぱり、そうか。ほな、場所、変えないといかんなー」
 江波圭吾は、一時間ほど、僕と飲んで、ほやなと言って飲酒運転で帰って行った。僕は、送るという圭吾の申し出を丁重に断って、二キロぐらい歩いて、アパートへ帰った。
 きょうは、おかしな日だなと思いながらシャワーをあびると、思い立って江波圭太の携帯にかけた。
「もしもし、江波?」
「なんや、大崎。めずらしいな、自分が電話するなんて」
「どうしてた?」
「実家に帰って、ノンビリ寝てたよ」
「なんだ、キャリアさんは、よゆうで海外旅行じゃないのか?」
「そんな気力、あるかい」
「そうか。ところで、江波さー、弟いるの?」
「おお、圭吾っていうはじけた奴がおるよ。それが、どうしたんや?」
「いや、それがきょう、パチンコ屋で偶然会ったんだ」
「あほいいな。そんな偶然、あるかい」
「やっぱり。で、なんで、接触してきたんだ?」
「さあー?」
 江波圭吾は、家を出て現在行方不明だと言う。もし、もう一度江波圭吾と会ったら、居場所か携帯を聞き出してくれと頼まれた。僕は、わかったと言って電話を切った。
 そのあと、思い立って、みずきの書いたあの歌詞の意味を考えた。
 もしも、その”あなた”が、江波圭吾であったなら、大学を中退して自分の未来に希望が見えなくて、みずきに別れを言った。みずきは、理由もなしに別れを言われたので、見た目がいいだけの自分が悪かったんだと思って、勉強に、サックスに力を入れて、新しい自分に変わろうとしている。
 そして、江波圭吾が僕に接触してきたのは、僕が悪い人間でないと確かめるためだとしたら。
 僕は、この仮定をたぶん合っているだろうと思った。だが、それがわかったところで、自分はなにも変わらないだろう。みずきを好きなことも、清水弥生と別れないことも。


(十四)

 あっという間に夏休みは終わって、みずきは二学期に突入した。教科書も終わって、すでに応用問題集に取りかかっている。僕は、その間、江波圭吾のことは、みずきに話さなかった。終わった事ならば、そっとしておくのがいいだろうと思ったし、もし僕がきっかけになって、ふたりがまた付き合うことにでもなったら、僕がピエロになるからだ。
 そう思って、僕はみずきに隠し事をして、九月第一土曜日、大磯のクラブでコンサートへ行こうと、みずきをひろいに行った。
「おはよう、みずき」
「おはよう、お兄ちゃん。いよいよですね?」
 みずきは、ほほ笑んでそう言うと、助手席に座った。きょうは、いつものワンピースではなくて、ジーンズにブルーのワイシャツだった。細い腰と、形のよい胸が、強調されている。僕は、車を出すと、みずきに言った。
「きょうは、いつもの服装と違うね?」
「そうでしょ? 一九六〇年代のファッションをイメージしたんだ。おかしい?」
「いや。よく似合ってるよ」
「よかった」
「で、どうだった? 学力テスト」
「はい。それが、偏差値五十三いったんだ。今までは、四十五が精いっぱいだったのに」
「おめでとう。でも、そのくらいは当然だよ。これから、応用問題集をやっていくと、偏差値六十どころか、六十五、へたしたら七十も夢じゃないかもしれない」
「すごい。それで、偏差値の上限は?」
「全教科満点で、七十五ぐらいじゃないのかな? でも、そんなに取ったら、医学部受けなくちゃ、もったいないね」
 僕はそう言って、笑った。
「学費は、いくらぐらいなんだろう?」
「六年で、確か国立で三百五十万くらいだよ」
「六年!」
「そうだよ。医学部は六年だよ」
 僕がそう言うと、みずきの眉は下がった。
「若いみずきには、六年くらいたいしたことないよ」
「そうしたら、お兄ちゃんが三十四か……」
 まだ、みずきは僕のことを、あきらめていなかった。僕は、なにか言おうと口を開こうとしたが、みずきの声にかき消される。
「でも、いいんだ。お兄ちゃんと同じ大学に入ることが、目標だから」
「だめだよ、みずき」
「どうして?」
「もう、清水弥生さんと結婚するって約束したんだよ。それに、今から目標を下に設定するのは、みずき。君の可能性を殺すようで、僕にはできない」
「でも、」
「これが聞けないなら、もうやめにしよう。いい予備校を、紹介するから」
「いやだ!」
 会ったころの威圧的な態度だったら、すぐに切ってしまっただろう。だが、弱々しい少女がそこにいた。おまけに、はじめて付き合った男にすてられて、毎日泣き暮らしていたのだ。
「わかった。今までどおりに勉強しよう?」
「うん」
 みずきの顔は、無理に笑っているように見えた。本当は、思いどおりにならない現実を、必死で受け止めようとしているのかもしれない。少女に、このような試練を与えることに、僕は困惑した。だが、今はいい答えは見つからなかった。
「それから、三年になってからは模試も受けてもらうよ。新しい問題が、出ているかもしれないから」
「うん。わかった」
 それからみずきは、英語の単語帳を見ていた。移動時間はいつもは、なにか話しをする時間なのに。もしかして、愛想つかしたのではないかと思った。そのほうが、気持ちが軽くなると思ったが、やはり寂しさがまさった。
 もしも、初めて会ったときに、思いにまかせて付き合っていたら、こんなことにはならなかった。
 そう思う一方で、こんな若い子を、僕のドロドロした汚い欲望で汚さないでよかったと思う。たとえ、その前に処女を失っていたとしても。
 そう思ったとき、急に身体を熱い感情が突き抜けた。抱きしめたい。そして、僕の熱い思いをぶつけたい。たまらず、手が震えた。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
 そう言うのが精いっぱいだった。僕は、深く息をはいて、手の震えをどうにか抑えた。
 大磯のクラブ――海の見える、収容人数五十の会場――にようやく着いた。クラブの中に入ろうと、みずきとともに車を降りると、江波圭太たちがぞろぞろと高級車で乗りつけて来た。
「おはよう。眠いね」江波圭太が、目をこすりながら言った。
「どうせ、遅くまで残業して、きょうの仕事を終わらせたんだろう。休めよ」僕は、笑いながら言った。
「悪いな。そんじゃ、ちょっと横になる」江波圭太はそう言って、クラブの待合室に入ると、ソファーで眠りについた。本当は、江波圭太の音が、一番不安なのだがしかたがない。東伸一と長船五郎と三人で合わせた。
「うーん。どうも、感じがでないね。みずきちゃん。ちょっと合わせてよ?」
 東伸一はそう言って僕から車のカギを奪うと、急いでサックスを取りに行って、みずきに渡した。
「みずき。どうせ、サックスは眠ってるんだ。吹かせてもらいなよ」
 僕がそう言うと、それまではイヤイヤをしていたみずきは、ハードケースからアルト・サックスを取り出した。そして、ポケットにしまってあったリードケースからリードを一枚取り出すと、マウスピースに装着した。落ち着いてロングトーンで音程を合わせると、オーケーですと言った。
 みずきは、『セイ・イット』と言って吹きはじめた。アルト・サックスのかれた音がゆっくりと流れる。それに合わせて、僕のピアノがたどたどしく伴奏をする。東伸一のベースが、ズシーンと床に響いてくる。それにつづいて、長船五郎のドラムのハイハットの音が優しくつつむ。いい感じだ。
 それを聞いていたクラブのスタッフは、ホウッとため息をつく。そして、隣りのオーナーに耳打ちする。多分、こう言っているのだろう。
「彼女、かわいい上に、まだ、たどたどしいけれど、いい音を出しますよね。センスがいいのかな。まだデビューしていないみたいだから、あとでサインをもらっておいてくださいよ」
 そんなアフレコを入れてみた。だが、持ち曲はこれだけで、ほかはやっていなかった。
 ふと、気がつくと、いつのまにか江波圭太は起きていて、うっとりと聞いていた。
「おい、江波」
「はい。なによ?」
「みずきに、一曲だけゆずってくれないか?」
「ああ。ビール一杯で手を打つ」
「ありがとう。みずき、よかったね?」
「ええーーー、本当ですか?」
 突然の出演に、みずきは驚きをかくしきれなかった。それは、そうである。サックスを持って、わずか二か月のことだった。
 そのとき、いかにも業界人と思われる四十くらいの男が、近づいて来た。
「あのー、私、ここのオーナーやらせてもらってますオオツと言います」
「JCカルテットの江波といいます。どうぞよろしく」
 ふたりは、名刺を交換した。もちろん、江波の名刺は、JCカルテット リーダーと書いてあって、ほかの肩書は書いてない。
「それで、きょうの演奏。録音してもかまわないですか? もちろん、勝手に使わないですから」
「はい。こちらこそ、よろしく、おねがいします」
「それで、練習から録音しても、かまわないでしょうか?」
「ええ、いいですよ」
 オーナーは、ありがとうと言うと、ヘッドフォンをしたスタッフに指示して、録音を開始した。
「なんか、緊張するな。へ、出たらどうしよう?」
 江波が、声をうわずらせて、そう言った。その途端、みんな笑って肩の力が抜けたようだ。やはり、この男は頭がいい。生まれながらのリーダーと感じた。もしかして、残業で寝ていないというのは、江波の嘘かもしれない。だが、それを指摘したところで、誰も得をしない。むしろ、みずきが気兼ねをするだけだ。きっと、東も長船も気づいているだろ。これは、みずきを気持ちよく吹かせるための、江波の気配りなのだと。僕はそう思って、音合わせをつづけた。
 開演の三十分前、お客がポツポツと入店してきた。ビールを頼む者、ツマミにソーセージを頼む者と思い思いに楽しんでいる。中には、スコッチを注文する者もいて、コンサートの終わりの方には、きっとでき上がっていることだろう。へたをしたら、ヤジが飛んでくるかもしれない。そう思って、直前練習を終えて、ビールを飲んで休憩していた江波に言った。
「江波」
「なんだ?」
「みずきは、最初の方に出るようにしたいんだけど?」
「ああ、いいよ。どうせ、酔っ払い対策だろう?」
「ありがとう。じゃ、二曲目で」
「オーケー。みんな、聞こえた?」
 東伸一も、長船五郎も、オーケーと言った。


(十五)

 開演の午後六時。客席に、少しの空席はあるが、なんとか八割がたうまった。きっと、つぎも呼んでくれるだろう。江波圭太は、マイクに手をかざすと、まわりを見渡して言った。
「こんばんは。JCカルテットです」
 拍手と口笛が響く。よく見たら、大学時代の客だった。江波は、そちらの方に会釈をすると、MCをつづけた。
「ご存じの方もいるでしょうが、JCカルテットとは、一九六〇年代に一世を風靡(ふうび)したジャズの聖人、ジョン・コルトレーンをパクったバンドです。あ、聖人については、深く考えないでね」
 いっせいに笑いが起こる。それが、静かになると江波は、さらにつづけた。
「私たちは、大学時代に活動していましたが、就職とともに自然消滅しました。でも、今回私のゴリ押しで、ようやくコンサートにこぎつけました。私を、ほめてやってください」
 あはははと、笑いが起こる。
「それでは、まず一曲目。おなじみの『マイ・フェイバリット・シングス』」
 ピアノの軽快な音ではじまる前奏部。そして、牧歌的なフレーズの四分音符の三拍子。と見せかけ、八分音符の六拍子。そして、壮大な展開部。まるで、モーツアルトを弾いているように感じる。
 この曲だけは、練習なしに合わせられる。それくらい、弾き込んだ曲だ。それでも、きょうの江波の展開部の即興は、少し気合が入りすぎているようだ。みずきの師匠として、いいところを見せたいのだろう。アップアップしたところで、僕のピアノにバトンタッチした。
 わざとオーバーアクションで、キーをたたく。しかし、主題は入れて、アルペジオで飾る。あくまでも出すぎず、わずかスリーフレーズ演奏しただけでベースにふった。
 あわてて、東伸一が受け取ると、低い音に強弱をつけて、ベースの音をきわ立たせる。それも、しっかりしたテンポで。この音があるから、僕たちは安心して、即興を楽しめる。
 そして、長船五郎のドラムにバトンタッチした。はじめは、ハイハットをスティックでたたいて、存在をアピールする。だが、すぐにスネアドラムで、静かに音をきざんだ。長船らしい落ち着きのあるビートだった。
 そして、最後は江波圭太がしめた。最初のフレーズに戻って、牧歌的に。そして、軽快なシャウトをきかせて終わりに持ってきた。八分弱の『マイ・フェイバリット・シングス』だった。店には、惜しみない拍手が起こった。
「えー、どうもありがとうございます。この拍手と、冷たいビールのために私たちは、こりずにやっています」
 江波は、笑いながらそう言った。そして、そでに向かって、オイデ、オイデと合図すると、遠慮深げにみずきが現れた。
「実は、この子。きょうがデビューなんです。名前を、ミズキといいます。え? みょうじは? 彼女は、かたかなでミズキでデビューしますので、そこんところ、よろしく。それでは、『セイ・イット』」
 みずきは、深く息を吸い込むと、『セイ・イット』を吹きはじめた。それに合わせて、僕、東、長船が、静かに溶け込む。まるで、湖に浮かぶ小舟のように。練習のときよりも、いくぶん遅いテンポは、僕たちに新しい世界を見せてくれた。優しく、優しく包み込む。たかだか、サックスをはじめて二か月の少女の音に、酔ってしまった。
 ときおり、みずきの視線がからみつく。愛の言葉のように。ああ、僕も愛しているよと、僕は目をつむってみずきに応えた。
 その時、ガラスのコップが割れる音がした。驚いて、出口の方を見ると、そこには、走って行く清水弥生の後ろ姿が見えた。僕は、観客がざわつく中、ステージから飛び降りて、清水弥生を追って外に出た。しかし、清水弥生はいまにも車道に飛び出てしまうところだった。必死に右手を伸ばすが、はるかに届かない。心臓が、はげしく鼓動する。僕は、弥生と叫んだ。
 そのとき、大きな人影が、清水弥生の身体に飛びつき、道路わきへ倒れ込んだ。ホッとして駆け寄ると、見知った顔だった。
「圭吾さん!」
 江波圭吾は、いててててと言って、笑った。
「圭吾さん……」
 僕は、身体が震えて、泣きそうだった。自分のせいで、清水弥生を殺すところだった。それが、江波圭吾によって救われたのだ。彼には涙がでるほど、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「大崎さん。携帯出して」
「はい?」
 なにをするのか見ていたら、電話番号を交換していた。
「よし。あとから連絡するから、戻って、つづけなよ」
「でも……」
「いいから、ここは僕にまかせて」
 江波圭吾は、そう言って笑った。
 僕は、何度も振り返り、ふたりを目で追った。彼らは、道路脇の停留所に腰かけると、話をしていた。きっと、身体はどこも痛くないかとか、聞いているに違いない。念のために病院へ行ってくれと思った。
 そのとき、クラブから外に出て、ことのなりゆきを見守っていた江波圭太が言った。
「大事なくてよかった。圭吾にまかせれば、安心や。あれでも、しっかりした奴やから」
 江波圭太のその言葉に安心して、クラブに戻った。なにが起こったかわからず、ざわついている観客に向かって、江波圭太はマイクを使って軽い口調で言った。
「大崎が、今、女を泣かしました。かわいそうに。みなさん、この男に、気を付けてくださいね。それじゃ、ミズキちゃん。デビューなのにお騒がせしてごめんね。次回も、よろしくね」
 そうして、みずきを拍手で見送ると、なにごともなかったようにつぎの曲を演奏した。そして、八曲すべて――時間にして一時間弱――が終わると、僕たちは、立って感謝の挨拶をして、コンサートは終わった。
 客が帰ってあらかた片付けが終わると、江波圭太は、僕から弟圭吾の携帯番号を受け取ると、弟に電話をかけた。――このときは、江波圭吾のことを、みずきに隠していることを、僕は忘れていた。きっと、全部聞かれてしまっただろう――。
「ああ、圭吾? 今、どこにおるんや?」
「なに? 彼女を送って、今、焼き肉屋におるんか?」
「それで、両親に感謝されて、今、焼き肉をごちそうになっているんかい? 美味いって……。よく食えるなー」
「え? じゃあねって、おまえ。え? ……うん……うん、わかった。あ……」
「電話、切れてしまったわ。そういうわけで、しばらく彼女をひとりにしないと、両親と約束したそうや……」
 僕は、江波圭太に泣きながら感謝をした。僕がまいた種なのに、江波圭太はわざわざ渦中に飛び込んだ、弟の圭吾とともに。そして、ことが無事おさまることに、尽力している。僕は、彼らに感謝しつつも、清水弥生と話をしたいと思ったが、それは無理なことがわかっている。今、彼女を刺激することは、はげしく危険だと思うからだ。
 江波圭太は、僕の肩に手を置いて、言った。
「大崎。これから、みずきちゃんを送って行けそうか?」
「ああ、なんとか行けそうだよ」
「無理するなよ。お前が事故ったら、みずきちゃんもケガするんやから。もし、無理なら俺が送って行くわ?」
「私は、お兄ちゃんと事故るなら、いいわ」
「おいおい……」
「たぶん、大丈夫だから。それじゃ、みずき行こうか?」
「気をつけてな」
「うん。きょうは、いろいろありがとう」そう言って、僕は頭を下げた。
「そんなこと、よせよ。もとをただせば、俺たちが大崎に無理言って、コンサートに出させたのがいけないんだ」
 そうだった。清水弥生は、僕がみずきに勉強を教えることは、なんとか受け入れてくれた。しかし、僕とバンドを組むことは、想定していなかったと思う。
 仮に、このコンサートのホームページに僕の名前を見つけ、こっそり見に来ていたとしたら、突然、みずきがサックスを吹いたことに、驚いただろうし、はげしく動揺したことは痛いほどわかる。
 つくづく、自分の浅はかさを呪う。
「いや、もとをただせば、僕がいけないんだ」
 みんな、この言葉に静かになる。
「そんな終わったこと言ったって、しかたないねん。さあ、みずきちゃんを無事に送ってな」
 僕とみずきは、江波圭太たちに見送られて、帰路についた。なにか、話そうとするが、みずきから別れを言われそうでできなかった。ふたり黙ったままで、バス停への道をただ走った。街灯が薄暗くともるバス停に、みずきを降ろすと、僕はやっと「それじゃ」と言って、車を出した。
 だが、そのとき、みずきの必死の声が響く。
「あした、迎えに来てよ! 絶対だよ!」
 そう絶叫して、みずきは僕の車が見えなくなるまで、見送っていた。
 僕は、こんなになっても、みずきと清水弥生を失いたくなかった。みずきには無償の愛を与え、清水弥生には夫婦のような愛を分かち合う。その、ふたつとも手に入れることは、不可能だと気づかずに。
 このときの僕は、そんなこともわからずに、女性を愛していると思っていた。


(十六)

 コンサートの翌日、みずきを迎えに行くと、いつものようにバス停で待っていた。みずきは、無理して笑顔を作ると、「おはよう。お兄ちゃん」と言って、車に乗り込んだ。
 ふたりで、たわいもない話題で会話をつなぐ。どこかギコチなく感じた。それは、自然とわき上がる言葉ではなくて、無理をしてつないだ言葉だからだろう。それがわかっていても、ふたりとも話をやめなかった。
 本当なら、ラジオのスイッチを押せば、会話しなくてすむのに、みずきとの絆が切れそうで怖かった。みずきも、きっと同じ思いだろう。
 だが、その会話が、ひどく苦痛に感じた。僕は、図書館までの道を、はやく着け、はやく着けと祈って、必死で車を運転した。
 ようやく、図書館に着いて、ホッとした。これで、会話をしなくていいと。だが、そうとわかって、無性に寂しい気持ちになった。こんなに愛しているのに、声を聞きたくないだと?
 僕は、このとき、はじめて、清水弥生の存在がジャマだと感じた。僕の、欲望を受け入れてくれて、心の平穏をもたらしてくれる、天使のような清水弥生を。
 僕は、はたして清水弥生を切ることができるのか? そう思うと、身体が震えた。それは、罪悪感からであり、劣情の深さからであり、そして少しの愛情ゆえであった。結局、考えに行きづまった。
 しかたなく、僕たちは無理してたわいない会話をして昼食をとり、たわいない会話をしてみずきを送って行った。とても、疲れた日曜だった。僕は、また、土日がくるのが怖かった。
 眠れぬ夜が続き、身体が悲鳴をあげた。たまらず医務室に駆け込んだ。
「あら、どうしたの、大崎さん?」
「竹田先生。それが、眠れないんです」
「まあ、ここへ座りなさい」
 丸イスに腰かけた。だが、バランスをくずして、竹田順子先生の胸に頭をあずけてしまった。ツンと消毒液の香りがする。
「ちょっと、しっかりしなさい」
 竹田順子先生は、僕の肩をつかみ、診察ベッドに座らせた。その勢いでふたりは、倒れ込む。
 竹田順子先生の光彩が金色に輝いている。その目が閉じて、顔が近づいてくる。
「先生。竹田先生」
「あら、ごめんね。つい……」
 つい、なんだと言うのか。もうろうとした頭で僕は、先生に言った。
「睡眠薬をください」
「わかったわ。でも、どこか、異常がないか、診察させてね」
 僕が、返事をする前に、先生は僕のシャツのボタンをはずして、聴診器で胸と腹部の音を聴いた。そして、爪がきれいに整えられた指で、触診をはじめた。だが、触られている感じがしない。まるで、麻酔をかけられたように。
「臓器が、少しはれているようね。でも、睡眠不足のせいだとしたら、睡眠導入剤が必要ね。本当は、精密検査が必要だけど、とりあえず、睡眠導入剤一週間分でようすを見ましょう」
「ありがとうございます」
 そう言ったとたん、意識が遠のいた。
 気が付いたのは、あたりがすっかり闇につつまれて、先生が白衣を脱いでいるときだった。
「先生」
「あら、起こしちゃった?」
「すいません。僕のせいで、こんな時間まで」
「寝ている間に、点滴したわよ」
「え?」
「大丈夫。生食とブトウ糖だけだから」
「ありがとうございます。それじゃ、行きます」
「ここで、寝てもいいのよ。でも、できるなら帰って寝た方がいいけど、運転して行ける? もし、よかったら私の家で寝る? その方が、安心だし……」
 早口で、先生はそう言って、僕の袖をひっぱった。
「大丈夫です。なんとか帰れそうです」
 僕は睡眠導入剤を半ば奪って、車でアパートへ帰った。パジャマに着がえ、睡眠導入剤一錠を服用して、ベッドに入った。
 目をつむって竹田順子先生のことを考えた。清水弥生と付き会うのとほぼ同時に、竹田順子先生は僕にからんできた。もしも、竹田順子先生と付き合っていたら、違う人生が待っていたのかもしれない。しかし、医者の竹田順子先生とは、うまくいくとは到底思えない。つくづく、自分はくだらないプライドに縛られていると思った。そこまで考えて、僕の意識は遠のいて行った。
 そうやって、なんとか日々の仕事をこなして帰宅すると、郵便受けにみずきから手紙が届いていた。急いで部屋に入り、封を切って手紙を取り出すと、三枚あった。僕は、生唾を飲み込むと、読みはじめた。

 太一お兄ちゃん、こんにちは。
 はじめは、言葉で伝えようと思いましたが、うまく言えそうもありません。そして、メールを送ることも考えましたが、番号を聞いていなかったことに気づきました。本当は、携帯を持っているのに、父に持たされていないという設定にしたことを恨めしく思いました。
 それで、書きなれない手紙を書いたのです。

 太一お兄ちゃん。私は、うそをついていました。ごめんなさい。
 まず、私が十八才になったら、本家に嫁に行かされると言うのは、うそです。あなたにそう言ったのは、私をかわいそうに思って、私が変わるための手助けをしてくれると思ったからです。本当にごめんなさい。
 でも、私は変わりたかった。弱い自分から。なんのとりえもなくて、ただ見てくれがいいだけの自分から。そのために、あなたを利用して、勉強を教えてもらい、サックスや歌に挑戦したのです。
 はじめは、あなたが優しく誠実な方だと確信して利用しましたが、しだいに知れば知るほど、あなたの優しさに心打たれました。私は、あなたが、好きです。いいえ、それ以上に、あなたを愛しています。

 そして、江波圭吾さんのことです。
 私は二年前に、ひとりの男性に出会いました。それが、江波圭吾さんです。彼は、Coccoのコンサートに渋谷へ行って出会いました。背が高く、どこか頼りなく見えますが、誠実な人です。私たちは、すぐに恋に落ちました。
 しかし、あるときから、ぱったり連絡が取れなくなりました。私は、深く悲しみ、死のうとさえ思いましたが、死にきれませんでした。自殺未遂したことは、父と母には、ずいぶん心配をかけました。いまだに、私をハレ物にでもさわるようにして、わがままをさせてもらっています。落ち着いたら、心を開いて、話そうかと思います。
 それで、大学で圭吾さんの名前を言って探すと、すでに大学をやめていました。留年が決まって退学届けを出したそうです。そのとき、私は思いました。私をしあわせにする自信を失って、私の前からいなくなったと。
 そのこともあって、私自身が自立できる女性になりたいと強く思うようになりました。そんなとき、あなたと偶然出会い、利用しました。本当に、ごめんなさい。

 しかし、いくら愛していると言っても、あなたは私の思いに答えてはくれませんでした。それでも、私はあなたのあとを追って勉強に、サックスに打ち込みました。もちろん、嫌々じゃありません。私は、よろこんでそれらのことに、打ち込みました。
 けれど、今回のことは、ショックでした。私の思いが、やっとあなたに伝わったと思ったら、突然、グラスが割れる音がして、私を現実に呼び戻したのです。

 なぜ、ですか?
 なぜ、あなたは、私ひとりを愛さないのですか? 私は、あなたひとりを愛していると言うのに。

 今度の土曜日に、答えを待っています。
 言っておきますが、私はもうすでに男を知っています。ですから、あなたに愛される用意は、できています。
 
 僕は、この手紙を読んで、自分のおろかさが、ようやくわかった。みずきを愛していて、清水弥生に欲望をぶつける。それが、どれだけ女性を侮辱した行為なのか、わかっていなかった。それも、みずきが僕を愛しているのに。
 今度の土曜日に、決着を着けよう。誰と別れて、誰と付き合うのかを。


(十七)

 九月の第二土曜日、みずきに会いに行くと、いつものようなワンピースに、カーキ色のカバンを背負って、待っていた。彼女は、僕の車がとまると、いくぶん緊張して、「おはよう、お兄ちゃん」と言った。
「おはよう、みずき」
 だが、いつものように乗ってはこない。あきらかに、返事を待っているようだった。
 僕は、ふかく息をはくと、車から降りて、口からにがい言葉を押し出した。
「……ごめん。清水弥生をすてることは、できない。……僕たち、もう、会わないようにしよう」
 その言葉を待っていたように、みずきは言った。
「そう言うと思った。お兄ちゃん、優しすぎるから」
 声が震えている。足は、地面にふんばって、ようやく立っているようだった。
 ――いや、本当は違うんだ。君を汚してしまうのが怖いんだ。君にいつか嫌われるのが怖いんだ。君を殺してしまいそうで怖いんだ――。
 そう叫んで、心の中をさらけ出せばいいのに、その勇気がなかった。
 僕は、震える身体をだまして、車のラゲッジスペースからサックスを取り出すと、みずきに差し出した。
「これ」
「ありがとう」
 みずきが、サックスを右肩で抱えると、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
 僕には、その涙で十分だった。
「さようなら、みずき」
「さよなら、お兄ちゃん」
 みずきはそう言って、無理して笑顔を作ると、左手を差し出した。
 僕は、その手に引きつけられるように、左手を差し出す。
 そのとき、みずきの腕にふいに力が入って、僕の身体は引き寄せられる。みずきの唇が、愛らしい唇が、僕の唇に近づいてくる。ゆっくりと。
 さえぎることは、容易にできた。だが、僕の身体はまるで催眠術にかかったように、言うことを聞かない。僕の唇と、みずきの唇がかさなった。時間で、ほんの数秒。
 彼女の唇は、やわらかくて、冷たくて、そして、涙の味がした。
 みずきは、涙をぬぐうと、大事そうにサックスを右肩に抱えて歩いて行った。そして、木の陰にかくれて、見えなくなった。
 僕は、その姿を見届けると、車に乗ってキーを回した。だが、涙で前が見えない。しかたなく、涙がとまるまでバス停で待っていた。
 もう少しで、夏が終わる。僕のプラトニック・ラブも、終焉となった。僕は、涙をふくと、車を出した。もう、来ることもない、峠にお別れをした。

 僕は、その足で、清水弥生の家をめざした。清水弥生は、あの日いらい、会社を休んでいる。僕は、一度ようすを江波圭太に聞いてもらって以降、電話もせずにいる。
 だが、きょう、みずきと別れて、ようやく決心した。僕は、清水弥生のご両親に殴られることを覚悟して、今、会いに行こうとしている。そして、結婚させてくださいと頭を下げるのだ。
 僕は、商店街の駐車場に車を止めると、焼き肉屋の前に立った。中から、笑い声がする。僕は、勇気を出して、扉を開けた。
「すみません」
「まだ空いていませんよって、大崎さん」
「江波圭吾さん!」
「おやっさん。ちょっと、出てきます」
 奥の方から、野太い声で、「ああ、あんまり遅くなるなよ」と言った。
 僕は、江波圭吾のあとに着いて、近所の喫茶店に入った。
「おはようさん、マスター。ホットツーね」
「はいよ、江波ちゃん」
 その会話で、江波が常連であることがわかった。僕に、ひとつの疑念が生まれた。言うか、言わないか迷った。けれど、どうしても、確かめなくてはならない。僕は、江波圭吾に質問した。
「圭吾さん。もしかして、焼き肉屋で働いているの?」
「そうや。焼き肉屋になるべく修行をしてるんや」
「まさか……」
「ああ、そうや。ワイは、清水弥生と結婚して、焼き肉屋をつぐんや」
 僕は、声が出なかった。今、みずきと別れて来たのに、もう僕を必要とする清水弥生は、いないのだ。ポッカリ胸に穴が開いたように感じた。
「大崎さんには、事後報告で悪かったけど、会って言いたかったんや。ワイは、清水弥生にほれてしもたんや」
 その言葉に、テレや後悔の響きはなかった。江波圭吾は、本当にうれしそうに言ったのだ。
「おめでとう。そして、すまなかった」
 僕は、頭を下げて言った。このとき、清水弥生を江波圭吾に取られて、悲しいと思う気持ちはなかった。ただ、すまない気持ちでいっぱいだった。
「ありがとうな、大崎さん。ああ、もうこんな時間や。大崎さん、悪いけどコーヒー二杯飲んでや。それじゃ」
 江波圭吾は、あわただしく喫茶店を出て行った。その後ろ姿を見て、僕は思った。彼が、急いで喫茶店を出て行ったのは、僕がこれ以上言葉を出して、みっともない姿をさらさせないためだと。最悪、涙を流して、許しをこう姿をさせないためだと。
 僕は、江波圭吾に感謝して、二杯のにがいコーヒーを飲み干した。


(十八)

 みずきと清水弥生、ふたりと別れて、一か月がたったときだった。あいかわらず、睡眠導入剤を飲んで、やっと睡眠をとっていたが、その夜は違った。仕事が、明け方の三時に終わって、出社までもう五時間もない。睡眠導入剤を飲もうか、飲まずに寝ないで出社しようか迷った。だが、身体は睡眠を欲している。僕は、昼出社を予定して、睡眠導入剤を飲んで眠った。
 目覚ましが七時になった。きっと、もうろうとしていつもの時間に目覚ましをセットしたのだろう。だが、そのことに気づかなかった。いつものように、八時にアパートを出ると、会社へ向かった。会社まで約二十分。始業時間の八時三十分には余裕で間に合うはずだった。
 だが、突然、視界がグルグルと回転して僕は、ブレーキを踏んだ。
 そのあとの記憶はない。気がつくと、病院のベッドにいた。それも、点滴が四本もつながって。
「あら、気がついたのね」
 ズボンをはいた看護師が声をかけた。歳は三十すぎで、栗色の髪を後ろにまとめ、丸い目をしてる。新モンゴロイドだと思った。
 その新モンゴロイドのかわいい顔で、看護師は言った。
「あなた、人を殺したいの?」
 なんのことなのか、わからない。自分は、誰も傷つけるつもりはないのに。なぜ、そんなことを言うのか、聞いた。
「睡眠導入剤を飲んで車を運転するなんて、人殺しと同じだよ」
 そのとき、急に恐ろしくなり身体が震えた。
「まったく、頭いいんだから、そのくらいわかるよね?」
「はい。すみませんでした」
「謝るのは、あなたがひきそうになった子供にしてよね」
 子供と聞いて、首をひねっていたが、看護師に話を聞いてようやくわかった。僕は、意識がなくなる直前、少年の目の前で車をとめた。あとわずかで、少年をひいていたらしい。その少年は、僕の異変に気づき、救急車を呼んだ。僕は、病院へ運ばれて、処置を受ける。栄養失調と、薬物依存だった。
「わかりました。身体が回復したら、謝りに行きます」
「わかれば、よろしい。それじゃ、ごはん食べてね」
 どんぶりめしに、みそ汁、豚のしょうが焼き、そしてデザートのメロンがトレーいっぱいにあった。僕は、胃酸をおさえる胃薬を頼むと、豚のしょうが焼きから無理やり胃袋に入れた。
 すべて食べ終えて、歯を磨いていると、看護師が胃薬を持って戻ってきた。
「はい、ガスター10。私の自腹よ」
 薬の処方は、医者や薬剤師がするもので、看護師は薬を出してはならないという話だ。そのとき、はじめて看護師の名札を見た。沼津公子。
「ありがとうございます。今、財布を。はい。歯ブラシなんかのお礼です」
 一万円を渡した。
「そのぶんなら、カウンセリングは必要ないわね?」
「いえ、おねがいします」
 僕は、あの日以来、みずきが車にひかれる悪夢を見るのだ。そのために、睡眠導入剤の量が増えていったのだ。それは、今のままではなおりそうもなかった。ワラにもすがりつくような思いで、カウンセリングをおねがいした。
 沼津さんは、それからも僕の担当をしてくれた。悪い癖だが、入院三日目で、沼津さんのことが気になってきた。それとなく、ほかの看護師に聞いてみると、息子さんがひとりいる母子家庭らしい。もしも、僕が彼女と結婚したら、いきなり子持ちとなる。僕のテンションは下がった。
 だが、入院四日目に、少年が僕の病室に訪ねて来た。年齢は十歳に届かないくらいだが、顔を見ると、しっかりした子だ。
「お兄ちゃん、よかったね、たいしたことなくて」
「ありがとう。それで、君は?」
「僕が、救急車を呼んだんだよ」
 こんな小さな子が、なんてしっかりしてるんだ。そう思っていると、携帯電話をかざした。よく見ると、裏にプリクラがはってある。その少年と、沼津公子の顔だった。
「ありがとう。お礼しなくっちゃいけないね?」
「ねえ、お母さん美人だろ?」
「うん、そうだね」
「お兄ちゃん、僕の父さんになってくれないかな?」
「えー」
 僕は、驚いてしまった。話を聞くと、突然、少年の前で意識を失って、救急車を呼んだら、お母さんの担当になったそうだ。運命的な出会いと思ったのも当然である。
 どう返事しようか迷っていたら、沼津さんがワゴンを押して病室に入ってきた。
「あら。勝手に病室に入ったらいけないと言ったでしょう?」
「ごめん、母さん。でも、このお兄ちゃんの見舞いに来たから」
「お騒がせして、すみませんね」
「いいえ。今、この子に救急車を呼んでもらったって聞きました。お礼を言っていたところなんですよ」
「そうでしたか」
「しっかりしたお子さんですね?」
「そうでしょう? 夫の忘れ形見ですから」
 そう言って沼津さんは少年の頭をなでた。
 ああ、この親子は亡くなった旦那さんを心の支えとして生きているんだ。そう思う一方で、そんなに誇示しなきゃいけないほど生きることに必死なんだと思った。
「そうだ。僕を助けてくれたお礼に、どこかに連れてってあげたいんだけど?」
「ディズニーランド!」
「よーし、約束だぞ。でも、病気がなおったらね」
「うん。ねえ、お母さんも行こうよ?」
「そうだね。お母さんが来ないと、連れて行ってあげれないね?」
「しかたがないわね。私も、行くわ」
「わーい」
 少しでも、この親子の支えになろうと思った。そのためには、僕が早く回復しなければ。
 だが、その一方で、僕のはげみになっていたことは、まぎれもない事実だった。


(十九)

 あれから、僕は沼津親子と寄り添って、生きてきた。そして、二十九才のとき結婚をして、三十三のこの歳には、子供をひとりさずかった。幼かった少年とは、だいぶ歳が離れているが、家族四人で仲良くやっている。
 出世もして、はたから見たら、いい人生を送っていると思うだろう。だが、ときどき無性に人ごみが恋しくなって、人がごった返すこの町田に出向くのだ。買い物と遊びに、人が大勢集まる町田へと。
 ふと見ると、歩道橋の設置工事が行われている。僕は、その中のひとりに目をとめる。長い髪をバレッタでまとめ、ヘルメットをまぶかにかぶって、少し大きめの作業着を着ている。振り向いた顔は、はたして坂木みずきの大人びた顔だった。
 僕は、思わず『みずき』と口に出した。
「はい? あ!」
 みずきの目に、見る見るうちに涙があふれる。
「先生」
「そうか。僕は先生だったんだね」
「ええ、そうです。先生に出会えなかったら、私はきっとくだらない人生を送ったでしょう」
 そうか、みずきの中では、僕の罪はきれいさっぱり消されて、いい思い出だけが残ったということか。都合のいい人間の記憶のメカニズムに、驚いたと同時に、納得した。それが、人間が生きて行くための機能だったなら、きっと必要なことなのだろうと。
「そうか。いい人生を送っているんだね?」
「はい。あれから先生と同じ大学の建築学科に受かって、今は建築士をやっています」
「そうか、頑張ったんだね」
「はい。この歩道橋も、私が設計したんですよ。どうです? 美しいでしょ」
 みずきはそう言って、誇らしげに設置工事中の歩道橋を指さした。
「すごいな、みずきは」
 その言葉に、てれたようにほほ笑んだ。だが、急に真顔になって、聞いて来た。
「ねえ。先生は、今、どうしているの?」
「僕は、結婚して、子供がふたりいるよ」
「うわー、すごい。私は今、恋人募集中です。先生、誰かいい人いませんか?」
 本当に、うれしそうにそう言った。その顔に、僕もホッとしたんだ。
 そのとき、工事現場の人がみずきを呼んだ。
「はーい、すぐに行きまーす。それじゃ、先生。お元気で」
「みずきもね」
 そうして、ふたりは電話番号も交換せずに別れた。別れ際、みずきは思い立ったように、サックスを吹く真似をした。僕は、笑ってうなずいた。
 僕は、歳を取って思うだろう。みずきという、いい生徒がいたと。そして、心から愛した女性が、いたことを。


(終わり)

20191204-少女と出会った夏

20191204-少女と出会った夏

167枚。修正20220312。足柄山で出会った少女、みずき。彼女との鮮烈な出会いから、家庭教師を引き受けてしまう、僕。それから理性と欲望の葛藤の日々がはじまった。・・・誤字、脱字、意味不明個所を全面的に直した。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-03

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