君はみなぎわの光

蒼山れい

  1. 【第一部 宮中炎上編】一 杣の宮の皇女〈1〉
  2. 一 杣の宮の皇女〈2〉
  3. 一 杣の宮の皇女〈3〉
  4. 二 海神の落とし子〈1〉
  5. 二 海神の落とし子〈2〉
  6. 二 海神の落とし子〈3〉
  7. 三 鯨の孤独〈1〉
  8. 三 鯨の孤独〈2〉
  9. 三 鯨の孤独〈3〉
  10. 四 北風の使者〈1〉
  11. 四 北風の使者〈2〉
  12. 四 北風の使者〈3〉
  13. 五 火群の宴〈上・1〉
  14. 五 火群の宴〈上・2〉
  15. 五 火群の宴〈上・3〉

※この作品にはR-15相当の残酷な描写、軽度の性的な描写等が含まれます。

【第一部 宮中炎上編】一 杣の宮の皇女〈1〉

 東の(そら)が薄ら明るくなるころ、私は臥所から這いだす。
 側仕えの婆は、年寄りには珍しく寝穢いたちだ。台盤所の鶏が甲高く鳴いてもいびきを立てている。毎朝主人(わたし)に起こされるというのは、仮にも侍女としていかがなものか。しかし婆の枕が高いおかげで、私も安心して宮を抜けだすことができるのだからとやかく言えない。
 腰まである墨色の髪は邪魔にならないよううなじで束ねて輪にして括り、下級の宮女が着る草色の袍と苅安色の裳を身につける。最後に頭から白い被衣をかぶれば出来上がりだ。
 鏡台の前に立ち、顔――特に目元――が見えないか確認する。私はよしと頷くと、控えの間でぐっすり寝入っている婆の横を抜き足差し足で通り過ぎた。
 私と婆がふたりで暮らす宮は、宮人たちから『杣の宮』と嘲笑まじりに皮肉られるにふさわしいぼろ家だ。何代か前の大皇(おおきみ)(みめ)がお住まいだったが、その方が亡くなられてからは朽ちるに任せていたらしい。
 取り柄といえば広さぐらいで、雨漏りはするし、床板はところどころ腐って抜け落ちているし、野分が吹き荒れようものなら蔀戸も簾も飛んでいって屋敷じゅうがめちゃくちゃになる。それでもなんとか住居の体裁を保っていられるのは、心ある宮人があれこれと手を貸してくれるからだ。
 そのうちのひとり、台盤所で働く飯炊き女の真赫(ますほ)が朝食を運んできてくれるまでに戻らなければならない。床下に隠しておいた沓を履き、私は朝靄に煙る森を歩きだした。
 杣の宮の蔑称のもうひとつの由来が、周囲を覆う鬱蒼とした木立だ。
 背の高い常緑樹が並び立つ一帯は昼でも陽の光が遠く、森と呼ぶべき闇を孕んでいる。夜明け前の今時分は青白い靄が波打つように揺蕩い、切れ切れに現れる樹木の影はぞくりとするほど黒い。
 夜露をたっぷりと吸いこんだ落ち葉が積もった地面に足を取られないよう、ざくざくと進んでいく。被衣を透かしても木立のむこうで揺らめく無数の影は確かに見えた。
 ひたひたと、落ち葉の上を這いずって追いかけてくるものの湿った息遣い。
 生きた人ではないもの、陽の当たらない場所――陰りに潜むもの。かれらを形容する名称は定かではない。
 昔堅気の婆は「あれ」や「それ」などとはっきり口にすることを憚るが、真赫などは、だれぞの邸宅に物の怪が出たとか都のどこそこに妖魅が出たとか、宮城の外の噂をかしましく話してくれる。すると宮の物陰のあちこちて何かがうごめくのだが、気のよい飯炊き女を怖がらせるのは忍びないので教えたことはない。
 宮の周辺をうろついている程度の小物であれば、気に留めなければちょっかいをかけてくることもない。
 子どものころ、髪を引っ張られたり足を捕まれて転ばされたり耳元でぼそぼそと話し続けられたりと、とにかく鬱陶しくてたまらず塩をぶちまけて「いい加減にしろ!」と一喝したことがある。以来、おずおずと窺うような視線は感じるものの、悪さをしでかす輩はのいまのところいない。
 塩をまいたのは『昔』の記憶に基づくとっさの行動だったが、こちら(・・・)でも効果は抜群だった。あれから常に革袋に詰めた塩を持ち歩くようにしている。
 靄を掻き分けてどんどん歩いていくと、やがて木立の切れ間が見えてきた。視界が開けてあたりがぼうと明るくなる。
 森のほとりは宮城の西側に接している。水色の静寂に横たわる殿舍を見上げると、釣り灯籠の残り火に照らされた縁に人影が佇んでいた。
 ほっそりとした少女だ。艶やかな墨色の髪に飾られたりんどうの花。白い袍に涼しげな萌黄色の背子を重ね、鮮やかな刺繍があしらわれた朱色の帯を締めている。
 肩にかけた領巾が揺れて、月明かりに光る露のようにしららかな面がこちらを向いた。
夕星(ゆうずつ)!」
 同じ造作をしているはずなのに、鏡の中の自分とは似ても似つかぬ可憐な笑顔。裳裾を絡げて階を下りてきた少女――双子の姉である明星(あかぼし)に歩み寄り、私は伸ばされた両手に応えた。
「会いたかったわ、わたくしの愛子(いとこ)
 指を絡めて額を寄せてくる片割れに、くすぐったく苦笑を返す。
「姉様はいつも大袈裟ね」
「だって、あなたとこうしていっしょにいられるのは暁降ちのいまだけなのよ?」
 桃の花のようなくちびるを尖らせ、明星は不服を訴えた。
 都いちの佳人として知られた母の美しさをそっくり受け継いだといわれる姉――私が私自身を美しいと言い切るのは精神的に無理だ――は、ふっさりと生え揃った睫毛の奥に瑞々しい紫色の瞳を湛えている。夜明けを映す水面を思わせる、深く引きこまれる()だ。
 瓜をふたつ並べたかのようにに相似形の私たちだが、瞳の色だけは違う。
 私の瞳は、明星の言葉で表せば「夕映えに輝き渡る秋の稲田」、当代の大皇――父の言葉で表せば「禍々しき鵺の眼」であるらしい。夜闇で爛々と燃える朱金(あかがね)色の両目は、確かに化生じみていると思う。
 宮女は私の目は見た者を呪い殺すと噂している。お産で亡くなった母は、ふたりめの赤子の目を見てしまったから魂を吸い取られたのだと。
 私の前で視線を逸らしたり顔を隠したりしないのは、明星と仕えてくれている宮人ぐらいのものだ。大皇の御前に出るですから、足元まですっぽり隠れる(おすい)を被るよう厳命されている。
 莫迦莫迦しい。私が陰視(かげみ)――陰りに潜むものを視る異能を持つ人間――にしか過ぎないことは知っているくせに。
 明星を掌中の珠と慈しむ大皇が一方で私を疎んじるのは、私のせいで最愛の妃が亡くなったからだ。明け方に生まれた姉よりも遅れ、ようやく私が産声を上げた夕方には、母は白い花のごときかんばせを苦悶に染めて絶命していたという。
 母の血にまみれて泣く私の隣から明星を抱き上げた大皇は、「それは妖霊星(ようれぼし)だ。死を招く凶星(まがつぼし)の落とし子だ」と忌々しげに吐き捨てたそうだ。ゆえに私は夕星――滅びと災厄の象徴の名で呼ばれ、片割れには吉兆を告げる明星の名が与えられた。
 私は乳母というには薹が立ちすぎている老齢の婢とともに、森の奥の古宮に押しこめられた。それから十五年、大皇の許しがなければ森の外へ出ることも難しい身の上だ。
「仕方ないわ。私といっしょにいたら、あなたまで母上のように呪い殺されてしまうと大皇はお考えなのよ」
 肩を竦めてみせると、明星は悔しそうに眉根を寄せた。
「そんなの、夕星のせいではないわ。産褥で命を落とすことは珍しくないと前に医女が申していたもの」
「そうね。……きっと大皇は、明星のように理解することが難しいのよ」
 大皇は母のことをたいそう寵愛していたそうだ。身分の低い母を正妃に迎え、彼女以外の女性を拒むほどに。
 母の死後、皇太子(ひつぎのみこ)を望む臣下の声にやむを得ず新しい妃を娶り、皇子(みこ)をひとり儲けている。私は直に会ったことはないが、明星は年の離れた異母弟をかわいがっているようだ。
神隼(かむはや)もね、夕星と話がしてみたいと言っていたの」
 私はぎょっとした。神隼は異母弟の名前だ。
 明星は力をこめて訴えた。
「あなたの噂を耳にして、わたくしに訊いてきたのよ。『杣の宮の姉上は皆が言うようにおそろしい方なのですか』って。もちろん違うと言ったわ。みんな誤解しているだけ。夕星ほど穏やかで、心が安らぐひとはいないと」
「買いかぶりだわ」
「本当のことよ。だって、あなたに出会えてようやくわたくしは自由に息を吸えるようになったのよ?」
 私の手を固く握り、明星は俯いた。
「……ねえ夕星。わたくし、ときどきお父様が怖いの」
 喉の奥から苦いものがこみ上げる。私は寄り添うように片割れの肩を抱いた。
 亡き妃に対する大皇の恋慕は、日に日に母の面影を濃くする明星への溺愛にすり替わった。真赭によれば、適齢期を迎えた皇女(ひめみこ)への縁談をことごとく握り潰しているらしい。
「お父様はとてもおやさしいわ。でもね、わたくしを見る眸が……たまらなくおそろしいときがあるの。お父様の前から逃げだしてしまいたくなるのよ」
「大丈夫よ、明星」
 私は意識して明るい声をだした。
「万にひとつ大皇がおかしなことを考えていたとしても、母上の一族――和多(わた)氏が黙っていないわ。お祖父様……和多の氏長(うじのおさ)は、母上を無理やり奪い取ったことをひどく恨んでいるのでしょう? 更に愛娘の忘れ形見を苦しめるようなら、明日には七洲(しちしま)の湊という湊から舟が消えてしまうに違いないわ」
 母が生まれた和多氏は、かつて戦火を逃れて海を渡ってきた人びとの末裔だ。
 和多氏は優れた造船と航海の技術を持ち、七洲を統べる大皇に臣従を誓うかわりに庇護を求めた。それから二百年近く、和多氏は異国との交易に大いに貢献し、和多水軍と称される一大勢力にまでのし上がった。
 島国である七洲にとって海を制する和多氏はなくてはならない存在だ。すでに祖父との間に遺恨を抱えている大皇が同じ轍を踏むような真似はしないだろう。
「年賀の宴で会うたび、面白いお話をたくさん聞かせてくださったり、珍しい異国の品を贈ってくださったりするのだと話していたでしょう? 何かあったら、お祖父様に文を書くのよ。そうすればすぐに助けてくださるわ」
 異母弟同様、母方の祖父に会ったことはないが、明星には愛情を持って接しているようだ。
 ただ、私のことをどう思っているのかは謎だ――明星の前でも私の存在について言及したことはなく、そもそも会える機会が大皇が臨席している場に限られているので、明星も話題にしづらいらしい。
「国じゅうの湊から舟が消えたら大変だわ」
 明星は弱々しい笑みを浮かべた。私の肩に頭を乗せ、ため息をつくように呟く。
「夕星といっしょに和多の(さと)へ行けたらどんなにいいかしら」
 下向いた紫色の瞳は深く翳り、言の葉だけが頼りなく宙を漂っている。
「皇女であるわたくしは神隼のように皇太子にはなれない。もうすぐ十六よ。どこかの氏族へ降嫁するべきなのに、お父様はお許しにならない。……ずっとそばにいておくれと、そうおっしゃるのよ」
「いずれあなたにふさわしい縁談が整うわ。大皇だって、いつまでも駄々を捏ねてはいられないわよ」
「まあ、夕星ったら」明星のかんばせにようやく光が射した。
 片割れはおかしそうに噴きだすと、袖の下でころころと笑った。
「お父様をそんな風に言えるのはあなたぐらいだわ」
「私からしてみれば駄々っ子も同然よ。責任ある地位に就いている、いい年をした殿方がみっともない」
 正直な感想に、明星は我慢できないとばかりに肩を震わせている。
 私は彼女の手に手を重ねた。
「弱気になって悲観してはだめよ、姉様。いやなことをされそうになったら大皇だろうどだれだろうと、思いきり叫んで顔を引っ掻いて股関を蹴り上げてやりなさい。膝を一発ぶちこんでやれば、たいていの男は再起不能に陥るわ」
「ぶっ……」
 明星の頬がサッと赤くなった。恥ずかしそうに視線を泳がせる姉に、私は念を押した。
「護身用に先の尖った笄を髪に挿しているといいわ。遠慮なく手を刺してやれば、逃げる隙ができるから」
「夕星……ずいぶん詳しいのね?」
 私は咳払いでごまかした。「ええと、飯炊き女の真赫という者がね、世辞に通じていていろいろと教えてくれるのよ」
 実際はあちら(・・・)で聞きかじった知識なのだが――痴漢を撃退するには安全ピンが効果的だとか。
 安全ピンはないが、装身具である笄なら身につけていてもあやしまれずに済むだろう。
 明星は目を丸くして感心しきっている。気位の高い宮女に取り巻かれ、安易に下位の者と口を利こうものならこっぴどく叱責されるという姉にとって、台盤所の飯炊き女とは未知の存在に等しいのかもしれない。
 ……不憫な子だ。
 私も不遇だが、明星とて恵まれた環境にあるとは言えない。互いに憐れみ、傷を舐め合っている関係だとつくづく思う。
 それでも、幸せになってほしいのだ。
 この世界で得た、ひとりきりの私の『家族』だから。
「ああ、夜が明けるわ」
 遠くから朝を告げる鶏の声が聞こえる。
 名残惜しさをこらえ、私は片割れの手を放した。
「そろそろ戻らなければ」
「ねえ夕星……明日の朝、神隼を連れてきてもいい?」
 おずおずと尋ねる明星に、私は首を横に振った。
「私は皇子に会わないほうがいいわ」
「でも――」
「明星の言うとおり、とてもいい子なのでしょうね。だからこそ、いらぬ煙の火種は生まないほうがいい」
 明星は口をつぐんだ。
 聡明な姉のことだ、異母弟と私を引き合わせるリスクは承知しているだろう。
 二年間密かに続けてきた夜明け前の逢瀬とて――そろそろ潮時であることも。
「……わかったわ」
 明星はかすかに頷き、おもむろに黒髪に飾っていたりんどうを引き抜いた。
「これを」両手で差しだしながら、縋るように見つめてくる。
「忘れないで。わたくしは、いつもあなたを想っているわ」
「……私もよ」
 そっとりんどうを受け取り、私は胸を締めつけられる思いで微笑んだ。
「あなたほど愛しいひとはいないわ、姉様」
 また明日――そう言い交わし、私たちは別れた。
 灯りの消えた縁の奥へ消えていく明星を見送り、私は急いで森の奥へ駆けこんだ。
 両手で裾を絡げ、徐々に明るくなっていく森を一心に走る。まとわりつく陰りの気配にかまっている暇などない。
 慌ただしく宮にたどり着くと、まだ真赫は来ていないようだった。
 沓を床下に隠し、まだいびきを立てている婆の横を通って臥所に滑りこむ。
 脱ぎ散らかした宮女の装束を掻き集めて衣装櫃の底に押しこむと同時に、厨のほうから物音が聞こえてきた。
 いつものように僅差で遅れてやってきた真赭が朝食の支度をはじめたようだ。地味な浅葱色の袍に同系色の裳を重ねると、ふと鏡台に目が留まった。
 鏡を覗きこみ、そっけない髪型をまじまじと凝視する。いちど髪を解き、上のほうだけ掬って結い直す――いわゆるハーフアップだ。
 そこへりんどうの花を挿すと、なんとなしに気分が明るくなった。
 満足し、控えの間で熟睡している婆に声をかける。「婆、そろそろ起きてちょうだい」
「ふがっ」皺に埋もれた目をしょぼしょぼさせて婆は起き上がった。見事なまでの白髪が綿毛のように膨らんでいる。
 歯の抜けた口をもごもご動かし、「これはこれは媛様(ひいさま)、おはようごぜえます」と夜着のまま一礼した。
「おはよう。さ、早く顔を洗って髪を梳かしなさいな。真赫が朝食を作ってくれているから」
「おお、ありがたいことじゃ。今日の(さい)はなんでごぜえましょうなあ」
 いそいそと身繕いをはじめる婆に呆れつつ、厨に向かう。
「おはよう、真赫」
「こりゃまあ媛様。おはようございます」
 空腹を誘う匂いに満ちた厨には、下級宮女の装束を着たふくよかな女性が朝食の仕上げに取りかかっていた。
 張りのある赤銅色の肌はつやつやとして、色素の抜けた縮れ毛をひっつめている。ひと目で異国の血を引いているとわかる容貌だ。
 肌の色から真赫と呼ばれている飯炊き女は、白い歯を見せて笑った。
「きれいな花ですねぇ。媛様によくお似合いだあ」
「うふふ、ありがとう」
 袖をまくって手伝いを申し出ると、真赭は遠慮なく「そこの鍋から汁を椀によそってください」と言ってくれた。
 身支度を終えた婆が出てくるころには、ささやかだが温かい朝食の膳が並んでいる。
 こうして、杣の宮の一日がはじまった。

一 杣の宮の皇女〈2〉

 かつて私は夕星ではなく違う名前で呼ばれていた。
 七洲を治める大皇の娘として生まれる前――別の世界で別の人間として暮らしていた記憶がある。
 そこで日本という国で、東京という都市で、私は平凡な女子高生として生きていた。
 サラリーマンの父とデイサービスの介護士として働いていた母。中学生の弟は生意気だったが嫌いではなかった。
 友達がいた。部活は茶道部。人数合わせの幽霊部員だ。彼氏はいなかった。気になっているクラスメイトの男の子が――いたような、気がする。
 得意科目は……なんだっただろうか。小学生のころは『まんがでわかる! 世界の歴史』シリーズをよく読んでいた覚えがある。
 ああ、そうだ。日本史や世界史が好きだった。
 文字を読むのは苦手だが、まんがは好きだった。スマホの読み放題アプリで、昔の――母が知っているような古い少女まんが――を読み漁っていた。
 篠原千恵の『天は赤い河のほとり』に、ひかわきょうこの『彼方から』。大長編の『王家の紋章』は一回挫折して、いつかトライしてみようと考えていて……
 私は、なんという名前だったのか。
 憶えているのは全身を殴りつけられるような痛み。衝撃と言ったほうがいいかもしれない。
 ブツッと意識が途切れ――気がついたら四歳の夕星としてこの世界にいた。
 通学途中、乗っていた路線バスがトラックに突っこまれたのだ。車体がひしゃげて、砕け散ったガラス片がきらきらと光っていた。即死だったらいいな、と思う。
 享年十七歳。こちらでの年齢も加算すると三十二歳。立派なおばさんだ。
 覚醒するまでの四年を引いても二十八歳。もうすぐ二十九歳。どうあがいてもアラサーである。
 前世の記憶はどんどん曖昧になっていくのに、精神面では老ける一方だ。七洲では女の子は十四、五歳で結婚するのが当たり前なので、明星が大人っぽいと褒めるわけである。
 ちなみに大皇は四十代手前。おっさんがいつまでも女々しく娘に甘えんなよ、しかも一国の君主だろ! と腹立たしくもなる。
 前世の父だって娘から見ると洋服のセンスのない中年だったが、もっと頼り甲斐があったし父親の責任を果たしていたぞ……外見に関して大皇のほうに軍配を上げてしまうのは許してほしい。
 芽生えかけていた自我と記憶に折り合いをつけ、俗にいう毒親のもとに生まれてしまったがために辛酸を舐めている境遇を理解したのは七歳。このころ前世の名前を忘れ……夕星という人間に生まれ変わった現実を受け容れるしかなかった。
 だって、納得しなければ生きていけないではないか。
 育ち盛りの子どもはとにかく腹が減るのだ。すぐに眠くなるし、覚えなければならないことは山のようにあった。
 不慮の死を遂げた末、理由はわからないがせっかく生まれ直したのだ。
 私は生きたかった。
 だから夕星という名前で生きることを選んだ。
 まず生まれた場所。七洲と呼ばれる、日本に似た気候の島国。
 春夏秋冬があり、主食は米。これはとても助かった。お米おいしい。
 ただし文明レベルは二十一世紀の日本より遥かに原始的だ。水は井戸や川から汲んでこなければいけないし、日が沈めば灯火だけが頼りだ。
 何より、人間がころりと死ぬ。
 不謹慎な言い方だが、本当にあっさり死ぬ。特に身分の低い者ほど簡単に死ぬ。
 怪我や病気になっても、そもそも治療を受けられるのは高貴な身分の人間に限られているからだ。治療といってもせいぜい薬を煎じて飲ませたり、按摩や鍼灸のような施術を行ったりする程度――あとは呪術に縋るしかない。
 こちらの世界には『おばけ』がいる。
 陰りに潜むもの、人間にとってよくないものを退ける方法――あるいは、かれら(・・・)の力を借りて他人を害する方法――が存在する。見えないもの、不思議なものための付き合うための方法が呪術だ。
 私のような陰視は、一般的な集落ならひとりやふたりはいるものだそうだ。だが呪術を操る呪師(じゅし)は、きちんと修練を積まなければなれるものではない。
 私を育てた婆は、この呪師だった。
 といっても呪術の手ほどきは受けていない。「すっかり忘れてしまい申した」と言って教えるつもりはないらしく、陰視としての心がけは説いてくれた。
 陰りに潜むものを侮ってはならぬ。さりとて侮られてもならぬ――塩をぶちまけて怒鳴りつけたと言ったら、「ほんに気骨がある御子じゃあ」と歯の揃わぬ口を開けて笑っていた。
 のらりくらりとした婆との暮らしにほかの人間がまじったのは、夕星の名を受け容れたころだ。
 足腰が弱くなってきた婆を見兼ねて、台盤所で働いている真赫や、彼女と同郷の宮人たちが手伝いにきてくれるようになったのだ。真赫たちは私の目を見ても大袈裟に怖がったりせず、婆と同じく「媛様」と朗らかに接してくれた。
 ……父親から忌み嫌われ、宮の外に出れば腫れ物のようにつつかれて。重苦しい境遇にめげずにいられたのは、のんきな婆や真赫たちのおかげかもしれない。
 多少ひねくれたところは否めないけれど。大皇が一日に一回は調度の角に足の小指をぶつけて悶絶するよう心の中で呪うぐらいは許されるはずだ。
 明星に出会ったのは二年前。
 同じ日に生まれた姉妹なのだから出会ったというのはおかしいかもしれない。双子の姉の存在は知っていたが、いちども姿を見たことはなかったのだ。
 夏の終わりの黄昏だった。
 夕闇に呑みこまれようとする森の中から叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと駆けつけると、黒い影のような犬に襲われている女の子を見つけた。
 ひと目で悪しきものだとわかった。私は懐に忍ばせていた塩をありったけ犬に投げつけ、「いますぐ消えろ! さもないと次は御神酒をぶっかけるぞ!」と叫んだ。
 全身に塩を浴びたら犬はギャンと悲鳴を上げ、跳ねるように暗がりへ消えた。
 私は呆然とへたりこんでいる女の子に駆け寄り、息を呑んだ。
 美しい衣を無惨に汚した女の子は、私と同じ顔をしていた。きれいな紫色の瞳が涙を溜めて私を凝視していた。
 墨色の髪の両側をひと房ずつ赤い結い紐で束ねた女の子は、震える手を伸ばしてぎゅっと私の袖を掴んだ。
「あなたが……夕星?」
 鈴を振るようとはこんな声だろうかと思った。ぎくしゃくと頷くと、女の子――明星は顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
 のちに聞いたことだが、陰視ではない明星はこのときはじめて陰りに潜むものに遭遇したらしい。
 婆によれば、大皇が暮らす宮城は破邪の術によって堅固に守られており、本来悪しきものが立ち入る隙などないのだそうだ。だが顧みる者もいない杣の宮はいつしか術の守りを失い、闇深い森に数多の陰りが生まれてしまった。
 身ひとつで森に迷いこんだ女の子を悪しきものが放っておくはずもない。かれらとの付き合い方を婆から教授された私ならいざ知らず、煌らかな宮中で育った明星にとってみればどれほどおそろしい出来事だったか。
「あなたに会いたくて、会いたくて、逃げてきたの」
 私の手を握りしめ、ぽろぽろと涙を溢れさせながら明星は打ち明けた。
 狂気じみていく大皇の愛情に恐怖を抱き、少しずつ女になっていく自分の成長が厭わしいこと。
 大皇の怒りを買うことをおそれ、周囲はだれも助けてくれないこと。
 皇子を産んだ継母から激しく憎まれ、臥所に蛇を投げこまれたり宮の床や柱に獣の糞を撒き散らされたり嫌がらせを受けていること。
 苦しくて苦しくて、だれかに助けてほしくて――杣の宮に幽閉されている片割れの存在に縋りついたこと。
 拒絶などできるはずもなかった。
 胸の裡で長く凍えていた何かがゆっくりとほどけていった。
 どんなにやさしいひとたちに助けられ、支えられていても、私は孤独だった。
 人生を失い、故郷を失い、名前を失い、実の父親から母親殺しと忌み嫌われる娘として――夕星として生きるしかなかった。『私』はここにいるのに、夕星にしかなれなかった。
 憎しみでも憐れみでもなく、ただだだ夕星を――私を求めてくれたことが嬉しかったのだ。
 明星に出会って、『私』はようやく夕星になれた。私は夕星、明星の片割れなのだと心から思えたのだ。
「私も……あなたに会いたかったわ。明星、私の姉様」
 滑らかな白い手をおずおずと握り返すと、明星はハッと息を呑んだ。
 潤んだ瞳は雨に濡れるまつむしそうの花を思わせた。そこに光が灯ることを願い、私はほほ笑んだ。
「会いにきてくれてありがとう」
 明星は私の膝に崩れ落ちた。
 幼子のように咽び泣く姉の背を撫でさすりながら、私は生まれてはじめて(・・・・・・・・)満たされた喜びを噛みしめた。
 明くる日から私たちに秘密ができた。
 夜明け前のひととき、森のほとりでのささやかな逢瀬。側仕えの目を盗み、ともに過ごせる時間はほんのわずか。それでも二年の間、私たちは一日たりとも欠かさず約束を守り続けた。
 ――明日の朝も、この場所で。
 明星に会える。その希望があるからこそ、昏い森に閉ざされた宮での暮らしにも耐えられた。
 森のむこう――外の世界へ出たいという思いは常にあった。薄暗い陰りではなく、光を浴びて生きたいという願いが。
 だが、大皇に逆らえば今度こそ殺されるかもしれない。森の中に留まっているからこそ私の命は保証されているのだ。
 明星との逢瀬とて危うい綱渡りだとわかっている。いつまでも見逃してもらえるわけではないことも。

一 杣の宮の皇女〈3〉

 朝食の後片付けを終えると、真赫は台盤所へ戻っていった。私は婆とともに糸繰りの仕事に取りかかる。
 婆はもともと皇族の衣装を作る染殿で働く機女(はたおりめ)だった。私の側仕えとなった今でも毎日欠かさず糸車を回し、紡いだ糸を染殿に納めている。
 婆からは陰視の心得とともに糸繰りの技も教えこまれた。染殿で働いている宮人たちも、まさか皇女が糸繰り女の真似事をしているとは思うまい。
「昔むかしは、糸繰りや機織りは巫女(ふじょ)のお役目でごぜえました。忌服屋(いみはたや)に籠り、心静かに天地(あめつち)の声に耳を澄ませる。すると大気の流れや水のめぐり――海を往き、(おか)を駆ける人の世の移ろいが色鮮やかな布帛のごとく目の前に広がるのですよ」
 糸車を回しながら婆は語る。
 実際、婆は呪師であると同時に優れた巫女でもあった。豪雨や干魃、疫病の予兆を読み取ったときなど、宮に出入りする真赫たちにそれとなく伝え、大皇の耳にまで届くよう取り計らっていた。
 真赫によれば、婆の占は先代の大皇の治世から重んじられているのだそうだ。同時に畏怖嫌厭の対象となり、最下級の奴婢に落とされた。大皇からすれば忌み子の世話を任せるにうってつけの人材だったというわけだ。
 染殿に納める糸は、主に天領で飼育されている特別な蚕の繭から取れる絹糸だ。
 淡い翡翠色を帯びた繭からは、萌黄色に照り映える美しい糸が取れる。一般的な絹糸よりも細くやわらかいため、熟練の糸繰り女でなければ仕上げることが難しい。
 婆はこの特別な絹糸を取る役目を負う数少ないひとりだった。染殿から運ばれてきた繭を大鍋で煮てほぐし、糸車で丁寧に糸を紡いでいく。
 私が糸繰りを任されているのは一般的な白い繭だけだ。「(あめ)の糸をひと筋紡ぐまで、媛様の腕では十年でも足りませんのぉ」と笑われてしまえば、地道に研鑽を重ねるほかない。
 婆が回す糸車の音、古めかしい糸繰り唄を聞いて育った私にとって、糸繰り女の真似事はすんなりと身に馴染んだ。
 ほぐした繭から紡がれる一本の糸によって、私という人間とこの世界が結ばれる。するすると伸びていく糸の先から、言葉でも映像でも音楽でもない情報が波のように打ち寄せる。
 宮を囲う森に潜むものたちの息遣い、梢のささめき、風の匂い。
 広大な宮城で動き回る人びとの足音、話し声、色とりどりの裳の衣擦れ。
 台盤所で真赫がかまどの火を熾そうと息を吹いている。厩から響く嘶き、馬蹄の音。
 染殿では年若い機女たちがおしゃべりに夢中になり、機女頭からこっぴどく叱りつけられている。機織りの音色、染料を煮出す大鍋から立ち上る湯気の熱。
 宮城の奥へ意識を向けると、てらてらと玉虫色に輝く帳が雪崩れ落ちた。パシンッと鼻先で閉め出されてしまい、帳のむこうを窺い知ることはできない。
 呪術による守りは、単なる陰視に過ぎない私では突破は困難だ。破れたところで、大皇に知れれば謀反の疑いをかけられるに決まっている。
 糸車を回す手を止めてため息を噛み潰すと、婆がのんびりと口を開いた。
「御心が乱れておりますなあ、媛様」
 淀みなく糸を引きながら、皺に埋もれた瞳が私の手元を射抜く。
「仕方ありますまい。姉君がたいそう気がかりでいらっしゃるのだから」
 ……婆が見て見ぬふりをしてくれているのだと理解したのはすぐのことだ。
 杣の宮に囚われながら七洲の端から端まで見晴るかす眼を持つ巫女が、養い子が毎朝こっそり森の外へ抜けだしていることに気づかぬはずがない。
 二年間、婆は咎めも諫めもせず私の好きなようにさせてくれた。
 だが、いずれ糸の切れ目――片割れとともに紡いだ感傷を断ち切らねばならない日を宣告されることを、私は知っていた(・・・・・)
「……明星は、大切な『姉様』だから」
 紡ぎかけの糸に視線を落とし、苦い胸中を吐露する。
「幸せになってほしいの。私では(・・・)幸せにしてあげられないから」
 婆のように、はっきり見えているわけではない。
 明星を想えば想うほど感じるのだ。固く縒り合わさっていたはずの私たちは運命の手によって解きほぐされ、まったき一本の糸に戻ることはできないのだと。
 流れた時間のぶんだけ明星は遠ざかり、いつか決定的な別れがやってくる。二度と交わらぬ糸の先は、暁闇よりも暗い。
「私にできるのは、この宮で糸を引いて陰りに潜むものを視るだけ。明星のそばにいて、あの子を守ってあげることもできない」
 私の片割れ、私の愛子。
 同じ日、同じ父母から生まれたのに、私たちが置かれた天は違っていた。
 暁天に昇っていく明星を、私は地の底から見送るしかないのだ。杣の宮という牢獄から解き放たれない限り。
「ねえ婆。どうして大皇は私を生かしたのかしら」
 糸車の音がカランと止まる。
 婆の表情は凪いだ水面を思わせた。皮膚がたるみ、皺が波打つ小さな顔は、どこか人ではないもののように見えた。
「視界に入れることを厭うほど疎んじているのなら、死産なり病死なりと偽って幼いうちに殺してしまえばよかったのに。わざわざ幽閉して飼い殺しにする必要がどこにあるの?」
 口にしてしまえば、胸の裡に巣食う真っ黒な感情が噴きだした。
 明星への想いと表裏一体の、大皇(父親)への反感、理不尽な境遇に対する鬱屈――
 大皇を頂点とする完全な封建社会において、二十一世紀の平和な民主主義国家で生まれ育った『私』の人間性には異質で、異端で、無力だった。
 そう、無力! 圧倒的に無力!
 目が眩むような絶望に溺れ、もがきながら沈んでいく。
 ――どうしてこんなに苦しいの?
 婆ばパチリと瞬き、いつもどおりの気の抜けた笑みを浮かべた。
「はてさて。お聡い媛様ならば、『和多の白珠(しらたま)』と呼ばれた御方のことはご存じでしょう」
「……私を産んで亡くなった母上だわ」
「然様にごぜえます。大皇が白珠媛をお召しになったときの騒ぎといったら、七洲の地がひっくり返った有り様でした。和多の氏長の怒りは凄まじく……白珠媛自ら大皇の暴挙をお許しになるよう訴えられ、ようよう輿入れを承諾したのです」
 私は「え」と声を洩らした。
 拐かされた母自身が和多氏を説き伏せた――とは初耳だ。
 真珠のごとき白皙の佳人であったという母。慕わしさよりも苦々しさを覚えてしまう、朧げな存在。
「大皇と白珠媛は、それはそれは仲睦まじくいらっしゃいました。特に白珠媛は、御子がお生まれになる日を心待ちにしておいでじゃった。……命に替えても惜しまぬほどに」
 糸車がゆうるりと滑る。
 婆の手元から伸びる糸と意識が接続される。未知のイメージが内側から広がり、感覚のすべてが塗り潰された。
 濃い乳の香り。白い手首を飾る翡翠の玉環。
 半身とぴったり身を寄せ合い、温かな薄明かりの中でまどろんでいた。水のゆりかごを揺らす、張りのある女性の歌声。
 ――吾子や、吾子や
 ――早く其方(そなた)を抱いてやりたい……
 欠けたものなどひとつもない、満たされた幸福。狂おしい感情に胸を掻きむしりたくなり、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 私の中に入ってこないで!」
 紡いでいた糸がブツリと切れた。
 全霊の拒絶に、意識の結び目が引きちぎれる。婆はわずかに目を瞠った。
 私は道具を放り投げて立ち上がった。
 瘧にかかったように体が震えた。両手を握って歯を食いしばり、育て親を睨めつける。
「……母上の願いだから、大皇は私を殺さず生かしたの? だから母上に感謝しろと?」
「媛様――」
「ええ、そうね。私の母上はとてもおやさしく、慈悲深い方だったのでしょうね」
 息を吸いこみ、私は声を張り上げた。
「だからなんだというの!? 母上は死んだわ、私を産んだせいで! 母上が死んだから、私も明星も苦しんでいる。私は母親殺しの汚名を着せられ、明星は父親から母親の身代わりを強いられている。母上の亡霊に取り憑かれた大皇によって!」
「媛様!」
 婆の口調が一変した。
 反射的に身が竦む。本気で怒っているときの声だ。
 普段とは比べものにならないほど、怒った婆は怖い。錐のような視線が突き刺さり、喉が鳴った。
「そのような、死者を貶める呪詛を吐いてはなりませぬ。悪しき言霊は悪しきものを呼びこむ――そうお教えしたはずじゃ」
 呪詛――そう、私の言葉は呪詛だ。
 どれほど物分かりのいいふりをしても、自分を取り巻く環境を恨めしく思う心が呪詛を垂れ流している。  
 陰りは新たな陰りを生む。だからこそ異能を持つ者は感情のまま他人に害を及ぼさないよう、己を律しなければいけない。
「……忘れたわ、そんなこと」
 私は身をねじ切られるような心地で呟いた。
 床に打ち捨てられた糸が千々に乱れて波打っている。枯れ枝のような婆の指が無惨に断ち切れた一本をそっと摘まんだ。
 婆はしょぼしょぼとした目で糸を見つめ、悲しげに息を吹きかけた。
 糸は一瞬で真っ黒な翅の蝶――いや、蛾だ――に姿を変えると、ふよふよと覚束ない飛び方でこちらへやってきた。
 とっさに袖で打ち払うと、蛾はぼろぼろと煤になって崩れ落ちた。
「ゆめゆめお忘れなされるな」
 点々と袖に付着した煤の痕に、婆は重々しく唸った。
「なんのお役目も与えられずに天から降ろされた命などありませぬ。七洲の大皇と白珠媛の御子としてお生まれになったあなた様にもまた、今生で果たすべきお役目があるのです」
 私はくちびるを噛みしめた。
 ――明星に会いたかった。夕星(わたし)を愛してくれる、たったひとりの片割れに。
 沓も履かず裸足で宮を飛び出した。
 婆は引き留めなかった。私は禁を犯すほど蛮勇な子どもではないと、育て親はよくよく理解していた。
 薄暗い森の中をめちゃくちゃに走った。袖や裳裾が小枝に引っかかって破けてもかまわず、ひたすら走った。
 息が上がるころ、森のほとりまでたどり着いた。木立の切れ間に殿舎の屋根が見える。
 私は肩を上下させながら、暗がりの内側で立ち竦んだ。
 森のほとりに接する殿舎は使われておらず、普段は見回りの衛士しかいない。
 逢瀬のたびに明星と語らった殿舎の縁には、甲冑を身に帯びた衛士が立っていた。
 上背のある、年若い青年だ。
 金属製の短甲に負けず劣らず、浅黒い肌が鞣し革のように輝いている。真赫と同じ渡来民の混血なのだろうか。
 冑の陰に隠れて目元ははっきりとしないが、ぐいと引き結ばれた口に意思の強さを感じる。注意深く周囲を窺っている様子だ。
 一陣の風が吹いた。
 かぎ裂きだらけの袖と裳裾が棚引く。
 思いがけない強さに慌てて髪を押さえるが、りんどうの花が風に拐われてしまった。
「あっ!」
 光の中に舞い上がった青紫色の花は、籠手に覆われた青年の手に捕らえられた。
 喉が細く鳴った。
 りんどうの花を手にした衛士がまっすぐ私を見つめていた。鏃が撃ちこまれたような視線に胃の腑が竦み上がる。
 目が合った。
 瞳の色など判別できないのに、衛士が下瞼を押し上げたのがわかった。引き結ばれていた口唇がほどけ、何かを呟いたのも。
 衛士が階に脚をかけた。
 私は弾かれたように踵を返して駆けだした。
 森の影が激しくざわめく。陰りに潜むものたちが浮き足立って大気を揺らす。
 何度も何度も振り返り、衛士が追いかけてこないことを確認した私は、へなへなと腰を抜かした。
 心臓が耳に痛いほど跳ね回っている。
 噴きだした汗が目に入りそうになり、忙しなく瞬いた。
 ――あれ(・・)はおそろしいものだ。
 歯の根が噛み合わぬほどの震えとともに抱いた確信は、やがて予感に変わる。
 ――私は必ず再会する。
 晴天から打ち下ろされた雷霆のような、あの人物と。

二 海神の落とし子〈1〉

「海が見たいわ」
 いつだったか、明星が話してくれたことがある。
 大皇とその一族が暮らす(みやこ)は、山々に囲まれた盆地に位置している。生まれてからいちども京から出たことがない明星は、山並みのむこうの景色に思いを馳せては憧れを口にしていた。
「和多のお祖父様がね、わたくしの瞳は貝紫だとおっしゃるの。巻き貝から採れる美しい紫色の染料で、とても珍らかなのですって」
「貝から染料を?」
 そのころには糸繰りの仕事に励んでいた私は、好奇心で身を乗りだした。
 七洲で用いられる染料は主に草木から採れたものだ。鉱石を砕いて粉末にしたものを使う場合もあるが、糸や布帛を染めるにはあまり適さない。婆によると、鉱石の毒気にあてられて病む職工も多いのだという。
 貝から染料が採れるというのは初耳だった。私は片割れの両目をまじまじと覗きこんだ。明るく澄んだ紫色の瞳がはにかむ。
「不思議よね。お祖父様はお若いころ、大陸から渡ってきた貝紫の錦を見たことがあるそうよ。息を呑むほど鮮やかな紫色をしていて、ぴかぴかと照り輝いていたと教えてくださったわ」
(すめらぎ)への貢ぎ物だったのかしら?」
「いいえ。貝紫の錦は京へではなくて……南へ運ばれていったそうよ」
 明星の眉がかすかに曇る。
 単に南といえば、七洲の南方に接する島嶼群を指す。
 古くから海上の交易地として栄え、大陸にも七洲にも属さない独自の文化圏を持つ藩王国・伊玖那見(いくなみ)
 伊玖那見は巫女――かの国では神女(エィタ)と呼ぶ――が支配する呪術の国であるという。いずれの父から生まれたのではなく、いずれの母から生まれたのかが重んじられる母系社会で、歴代の藩王である大神女(ウルエィタ)の位は直系の女子が継ぐ習わしだそうだ。
 藩王国の呼称どおり、伊玖那見は大陸の国々や七洲から従属的な土地として見なされている。というより、伊玖那見の外交戦略そのものが他国に対し従順かつ友好的であるのだ。七洲にも年賀の祝いには必ず朝見の使者が訪れ、四方の海から取り寄せた貢ぎ物を山ほど献上すると聞く。
 (くん)の閨に南妓(なんぎ)ありぬべし――あらゆる君主の臥所に侍らぬ伊玖那見の妓女はいないという意味合いの古い風刺だ。伊玖那見は呪術と同じく音楽や舞踊が盛んで、旅女(ウロ)と呼ばれる女ばかりの旅芸人の一団が遠国まで赴いて巡業している。
 明星は幼いころにいちどだけ旅女の曲芸を宴席で目にしたが、たいそう華やかで楽しいものだったそうだ。色とりどりの薄布を翻して踊り子たちが蝶の群舞を披露し、当時の私たちと同年代の少女が玉乗りや綱渡りをやってのけ、大の男よりも巨大な蛇が笛の音に合わせて滑稽に踊ってみせた。
 私はなんとなく女性だらけのサーカス団をイメージしたが、不意に笑顔を萎ませて口をつぐんだ明星の様子からそれだけではないことを察した。
 あとでこっそりと真赫に聞きだしたところ、旅女は行く先々で芸だけでなく春を売る遊女の側面も持っているらしい。ゆえに、伊玖那見人の女性を指して南妓という蔑称が生まれた。
 大皇の御前で芸を披露したということは、その夜のうちに大皇の臥所へ召された旅女がいるわけだ。ひとりなのかふたりなのかは知らないが(別に知りたくもない)、すでに母の後釜として妃の座に就いていた継母や大皇の寵愛を狙う宮女たち、野心を持って彼女らに群がる人びとはさぞおそろしい顔をしたに違いない。
 残念ながら大皇の臥所に旅女が侍ったのは一夜限りで、明くる朝、後宮の池に女の亡骸が浮かんでいたという記録も残っていない。いっそ大皇のお気に入りになって後宮に居座り、継母たちと足の引っ張り合いを演じてくれれば、明星の不幸が少しは減ったかもしれないのに。
 このとき私は、狭い環境の中で育った明星が少女特有の潔癖さで旅女――伊玖那見人に対して抵抗感を覚えているのだろうと思いこんでいた。
「では、伊玖那見の女王への献上品かしら? かの国は本当に豊かなのね。南の海では美しい珊瑚や真珠がたくさん採れるのでしょう?」
 片割れの表情から翳りを拭い取ろうとわざとおどけてみせると、明星の肩がぴくんと跳ねた。
 祖父が貝紫と称した瞳が不安定にさざめき、下を向いた。
「夕星は……だれからの献上品だと思う?」
「え?」
「貝紫の錦を、だれが伊玖那見へ贈ったのか」
 明星が痛いほど両手を握ってくる。私はきゅっと鼻に皺を寄せた。
「和多氏が……ということ?」
 俯いたままの頭が弱々しく頷いた。
「でも、それはおかしいことなの? 七洲の海運は和多水軍が担っているのだもの。交流が生まれるのは自然ではない?」
「お母様の出自について、ある噂を聞いたの」
 和多の氏長の娘である母は、実は祖父の正妻の子ではない。
 豪族の長は複数の妻を持つが、祖父も例に洩れず正妻以外にも数人の側妾がいた。その中のひとりが私たちの祖母である――らしい。
 というのも、白珠媛の産みの母に関する伝聞はあやふやなものばかりなのだ。氏族の有力者の娘だとか、最下級の奴婢だとか、娘同様にお産で亡くなっただとか、はたまた愛娘を大皇に奪われた悲しみのあまり海に身を投げただとか、何ひとつ確かな情報を耳にしたことがない。
 母が大皇に輿入れする際にも、母方の血筋について大いにつつかれたそうだ。そのすべてを握り潰したのはだれなのか、問うまでもない。
 伊玖那見とは異なり、七洲は父系社会だ。母は和多の氏長の息女であり、掌中の珠と慈しまれた媛だった。それだけで母の身分は保証され、大皇無二の妃として生涯を全うした。
 だが、遺された私たち……特に、継母を頂点とする女の園で育った明星は違う。
 定かでない母の出自は、宮城の女たちにしてみればこの子を傷つける絶好の武器でしかない。謂れのない侮蔑を糞尿のように浴びせられ、片割れがどれほど涙してきたか――私がいちばん知っている。
 私は明星の手を握り返した。
「母上を産んだのは伊玖那見の妓女だった……かしら?」
 一拍の空白を置いて、明星はこくんと首肯した。
 莫迦莫迦しくなった私は鼻を鳴らした。
「好きなように言わせておきなさいな。後宮なんて息苦しいところで長年暮らしていると、自分勝手な妄想に取り憑かれて泥水の詰まった革袋のようになってしまうのよ。ぱんと弾けたあとは、こわぁい地獄耳の主がきれいさっぱり片付けてくださるわ」
「……じごくみみ?」
 顔を上げてきょとんとする明星に、私は首を竦めてみせた。「おそろしく耳聡いひとのことよ」
 大皇のような――とは、さすがに言葉にしなかった。
 宮城において、母の出自は一種のタブーだった。いまなお大皇の心を支配する母を貶める言動は、それこそ首と胴体が永遠の別れを迎える行為に等しい。
 愚かな末路をたどった宮女の噂話なら、真赫たちからいくらでも聞けた。継母ですら、夫の前ではけして母を侮辱するような真似はしないというのだから。
 片割れの耳に余計な『噂』を吹きこんだ宮女に同情はしない。近いうちに明星に仕える侍女の何人かが入れ替わるだろう。
「夕星は、ときどきわたくしの知らない言葉を使うわね」
 不思議そうに瞬いたあと、明星はふにゃりと笑みをこぼした。
 私は安堵して、コツンと頭を寄せた。
「宮に出入りする者たちのおかげで耳年増になってしまっただけよ。姉様のほうが歌も舞もお上手だし、器量もいいし、素直でやさしくてたおやかでいらっしゃるわ」
「まあ、わたくしの妹は褒め上手だこと。……ふふっ、そうね。夕星はどちらも苦手だものね」
 これは本当の話で、明星の歌と舞は素晴らしい。何度か披露してくれたことがあるが、身内の贔屓目を差し引いても神懸っている。
 管弦の類いもちょっと手習いをすればあっという間に覚えてしまうらしく、姉ながらとんでもない才能の持ち主だ。
 一方の私だが……糸繰り唄を口ずさもうものなら、婆からしょっぱい視線が飛んでくる。いちど真赫に聞かせてみたところ、「酔っ払いが歌う子守唄よりひどい」という感想を真顔で返された。
 どうやらリズム感を前世に置き忘れたらしく、舞はブリキの人形の盆踊りにしかならない。運動神経は悪くないはずなのだが。
 ひとしきり笑い、明星は憂いを押し隠すように睫毛を伏せた。
「夕星は強いわね」
「……そんなことはないわ」
 私はしかめっ面で否定した。
 強くなったわけではない。ただただ、悲観するふりばかり得意になってしまった。
「あなたがいるから、強がれるだけよ」
 明星は私の肩に額をこすりつけ、「わたくしも」とささやいた。
「わたくしも、あなたがいてくれるから……朝を数えてゆけるの」
 ――この子は何度、孤独な夜を迎えてきたのだろう。
 闇に怯え、朝が来ることに絶望し、救いのない日々を送り続けてきたのだろう。
「いつか」
 震えるくちびるが甘い希望を吐きだす。「いつか、夕星といっしょに、海が見たいわ」
「ええ……そうね」
 私は瞼の裏に、記憶に滲む海を思い浮かべた。
 この世界の海はどんな色をしているのだろうか。
 やはり青いのか、まったく別の色をしているのか。海風はどんな香りがして、波の音はどんな風に響くのだろうか。
 見てみたいと、心から願った。
 願わくは――つないだ手を離さないまま。

二 海神の落とし子〈2〉

 懐かしい夢を見た。
 眦に溜まった涙を拭い、私は床から起き上がった。
 いつものように下級宮女の装束に袖を通し、髪を結い、襲を被る。控えの間でいびきをかいている婆の脇を通り抜け、沓を履いて宮を出た。
 早朝の森には薄白く靄が漂い、草の露が冷たく裳裾を濡らした。木立のあわいに見え隠れする影から目を逸らし、私は森のほとりを目指した。
 ざわざわと揺らめく梢の陰影が私の心を掻き乱す。裳が絡みつく両脚が重い。
 ――私たちはどこにも行けないのだと思い知らされるかのようだった。
 昨日、逃げ帰ってきた私を出迎えた婆はうっそりと皺深い眸を眇めただけだった。いつもどおり糸繰りの仕事を行い、真赫が用意してくれた食事をおいしそうに平らげていた。
 何も言われずとも、私には理解できた。
 婆が終わりを口にした――それがすべてなのだと。
 樹影のむこうに殿舎の屋根が覗いた。
 私は息を呑んだ。
 殿舎の縁に佇んでいたのは明星ではなく、甲冑を長身に帯びた衛士だった。
 釣り灯籠の残り火に褐色の膚をてらてらとぬめっている。間違いない、昨日の衛士だ!
 どうして、と思わず口の動きだけで呟いた。
 呆然と立ち竦んでいると、周囲を警戒するように見回す衛士の顔がこちらを向いた。
 ひらりと揺れる襲の裾。
 視線が結ばれる。逃げなければと思うのに、鉄の矢で射抜かれたかのごとく動けない。
 瞬きすら忘れるほどの威圧感に、私は呑まれていた。
 衛士が階を下りてくる。
 不思議なことに、かれは足音どころか具足の軋みもほんのかすかにしか聞かせなかった。下生えの草を踏む音は、ささやかな葉擦れのようだ。
 近くに来ると、遠目で見るよりも背の高さが際立っている。小柄な七洲人の中では飛び抜けて目立つに違いない。
 手を伸ばせば襲の裾を捕まえられる位置で立ち止まり、衛士が口を開いた。
「――りんどう」
「えっ?」
 声がひっくり返った。
「りんどう。落とさなかったか、昨日。ここで」
 思ったよりも年若い声だった。
 襲の陰からおそるおそる窺うと、むすりと引き結ばれた口元が見えた。
 彫りが深い顔立ちだが、通った鼻筋と柔い線を描く眉がすっきりとした印象を与える。短甲の上からでも精悍な体躯をしているのがよくわかるが、頬や顎の鋭角はまろく、まだあどけない。
 何よりも、そのまなざしが――
 相対する者の胸にまっすぐ飛びこんでくるかのような銀碧(ぎんぺき)の瞳。
 明度の高い青緑に、波飛沫を思わせる銀の光沢がきらきらと散っている。
 光の加減によって黒ずんだ灰緑色にも、透きとおるような翡翠や瑠璃の色彩にも変化する。まなざしの強さと相俟って、眩暈を覚えるほど鮮烈だ。
「聞こえているのか?」
 青年――というよりも少年と表現したほうがふさわしい相手の問いに、はたとわれに返った。
「覚えはないか。りんどうの花だ」
「……あります」
 一瞬迷ったが、ごまかしきれる自信がなくて白状した。
 すると、少年はふっと口元をゆるめた。
「当たりだ。やっぱり」
 おもむろに腰へ手を伸ばす。
 帯に差された剣に息を詰めるが、かれはその横に差していた花を引き抜いた。
「ほら」
 可憐な鴇羽色の花――なでしこだ。
「りんどう、見つからなかったから」
「……この、なでしこを?」
「あげるよ、あんたに。花、髪に飾っていただろ。似合っていた」
 武骨な衛士にはあまりに不釣り合いな花をまじまじと凝視していると、ん、と促される。反射的に受け取ると、かれはにっこりと笑った。
 なんとも――気が抜けるほど無邪気な表情だった。途方に暮れながらなんとか「ありがとう、ございます」と返すと、うん、と軽く頷く。
「よかった、会えて。おれではないやつに見つかってしまったらと、心配した」
「あの、……あなたは」
 銀碧の瞳がくるりと瞬いた。
水沙比古(みさひこ)
 少年が冑を脱いだ。ほとんど白に近い茶色の頭髪がこぼれ落ちる。
 無造作にうなじで束ねただけの髪は癖が強く、あちこちうねりながらたくましい首筋にまとわりついている。それを鬱陶しそうに払いのけ、水沙比古と名乗った少年は眉根を寄せた。
「ここには来ないほうがいい」
「なぜ」
「おれがいる、理由がわからないか?」
 花を持つ手が震えた。
「……姉様は?」
「自分の宮でおとなしくしている。このあたりは、大皇の妃の息がかかった連中がうようよ」
「そう。……姉様がご無事なら、よかった」
 明星の逢瀬が継母に知られてしまった――禁を破った私たちがどうなるのか、いまごろ楽しみに舌なめずりしているに違いない。
 現場を押さえられたわけではないのが不幸中の幸いだ。
 もう二度とここで私たちが顔を合わせなければ、逢瀬の事実はないも同然なのだから。
 胸が引きちぎれそうだった。
 ――もう会えない。
 私の愛子、私の片割れ。何より恋しく、だれより愛した、私の明星。
 慟哭が喉元までせり上がる。わななく肩を不意に包みこまれ、体が跳ねた。
 顔を上げた拍子に襲が滑り落ちた。片手で私を抱きこんだ水沙比古は、殿舎のほうを窺いながら木陰に身を潜めた。
「ちょ、ちょっと!」
「騒いだら、ほかの衛士が来る。静かに」
 水沙比古の警告はもっともだった。私は置きどころのない心地で襲を握りしめた。
 しばらく周囲の気配を探っていた水沙比古だったが、やれやれと言わんばかりの顔で樹の幹に背中を預けた。
「悲しいのはわかる。でも、ここで泣いたらだめだ」
 取り繕いさえしない言葉が胸を刺した。
 眼窩の奥がカッと熱くなる。たちまち歪む視界に眉間に力をこめると、ぽんと頭を叩かれた。
「二の媛は、一の媛が大好きなんだな」
「……」
「落ちこむな。機会はある。おれが、作る」
「……どういう意味?」
 二の媛、というなじみのない呼称に戸惑いながら尋ねると、水沙比古はやわらかく笑んだ。
「頼まれた。親父どのから。二の媛の助けになるように」
「親父殿?」
「和多の氏長。おれの養父だ」
 溢れそうな涙が引っこんだ。
 ぽかんと目と口を丸くして固まる私に、水沙比古は首を傾げてみせた。
「むかし、和多の浜辺に流れ着いたおれを親父どのが助けてくれた。水沙(みなぎわ)で命を拾われた男児(こども)だから、水沙比古という」
 水沙比古は端的に語った。
 祖父は長らく幽閉されている孫娘を不憫に思っていること。なんとか救いだしてやりたいが、大皇に表立って歯向かうにはリスクが大きすぎること。せめて孫娘の助けとなるよう、養い子の水沙比古を密かに遣わしたこと。
 ぐるぐると思考が混乱する。
 証拠にと水沙比古が示したのは、右手首に巻かれた組紐だった。
 ずいぶんくたびれているが、元は鮮やかな赤色だったのだろうか。細い麻紐を数本用いて、小さな楕円形をふたつ重ねた紋様を連ね、見事に手環を織り上げている。
 繊細な模様は、前世で見かけた熨斗紙の上に飾る水引の結び目に似ていた。
「これ……舟乗りの……護符?」
 楕円形を重ねた紋様は開いた二枚貝を表し、航海の安全を願う祈りがこめれているのだという。和多水軍に属する舟乗りの証だった。
「うん。初めて舟に乗るとき、親父どのが巻いてくれた」
「では、あなたは――本当に?」
 水沙比古は眉尻を垂らした。「信じてくれるか?」
 森がざわめく。
 いつの間にか明度を増した空から光が射して、水沙比古の頭上で踊った。
 ああ、海のいろだ、と思った。
 さんざめくような光を孕んだ銀碧の瞳は、前世の、昼日中の陽射しに照り映える海を思い起こさせた。
 穏やかな晴天の、海原に立つ銀色の波頭。人びとの笑い声を吸いこんで、(かいな)を広げて横たわる青碧の水平線。
 懐かしい、狂おしい、『私』の記憶の底で光り輝く海のいろ。
 唾を飲みこんだ。涙はこぼれず、なのに泣き腫らしたように鼻腔の奥が痛む。
 笑うこともできず、私はぐしゃぐしゃの顔で頷いた。
「――……信じる、わ」
 すると、水沙比古は嬉しそうに笑み崩れた。
 その表情を目にした瞬間、私の脳裏に強烈なイメージが流れこんだ。
 夢の中に現れた、いまより幼い片割れ。固くつないでいた手を引き剥がされる。
 必死に伸ばした手を掬い上げるのは、褐色の大きな手。
 ……血にぬめる、燃えるような男のてのひらの温度が意識を()いた。
 はく、と呼気が震える。
 この子は――いつか人を殺す。
 私のために。私の剣となって、だれかの命を奪う。
「二の媛?」
 おそろしさのあまり硬直していると、水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。
 汚れのないまなざしに、確定した未来ではないのだと気付いた。
 婆ほどの実力者ならまだしも、私の先視など不安定であやふやなものだ。それこそ出会ったばかりの水沙比古の未来を見通すことなど不可能に近い。
 私は水沙比古の右手を掴んだ。
「お願い。ひとつだけ――ひとつだけ約束して」
「ん?」
「あなたを信じる。だから、どうか……私のために、ほかのだれかを……傷つけたり、こ、殺したりするようなことはしないで」
 水沙比古はなんとも言えない顔をした。
「……おれは、気が短いから」
「え」
「郷でも、よく喧嘩を売ってきたやつらを叩きのめしていた。あ、殺したりはしなかったぞ? 親父どのの養い子として恥ずかしくない腕っぷしを見せてやっただけだ」
 舟乗りは気の荒い者が多いと聞く。水沙比古も和多の若衆らしく喧嘩っ早いたちらしい。
「喧嘩は買わないでいいから! 私の陰口を言っているひとたちを全員懲らしめようとしたら、百年あっても足りないわ」
「む」
「私の助けになってくれるのなら、どうか堪えてちょうだい。……姉様に会わせてくれるのでしょう?」
 視線に力をこめて訴えると、水沙比古は困った風に頭を掻いた。
「一発ぐらい殴っても、大目に見てくれ」
 本当に大丈夫だろうか。ため息をつく私をしげしげと眺めていた水沙比古が、「次は、なんの花がいい?」と訊いてきた。
「努力する。でも、すぐに機会がめぐってくるとは限らないから。一の媛に会えるまで、好きな花、また持ってくるよ」
 なんともやさしい口ぶりで、水沙比古は問いをくり返した。
 糸車が回る音を聞こえる。紡ぎだされた糸がまったく新しい糸と絡まり、ゆるやかに縒り合わされていく感覚に頭の芯が痺れた。
 ――この子は、私の運命を連れてくる。
 善きも悪しきも何もかも、遠い外洋から種子を運んでくる波風のように。これから先、私の行く末は水沙比古とともにあるのだと強く感じた。
 凪いだ海を前にした思いで、私は天啓を抱き止めた。
「まつむしそう……」
 息を吸いこみ、ほほ笑みを返す。なでしこの花を胸に抱いて、水沙比古を見つめた。
「まつむしそうの花がいいわ。きれいな紫色の」

二 海神の落とし子〈3〉

 和多の郷から遣わされた少年、水沙比古はするりと日常に溶けこんだ。
 翌日には衛士の黒金(くろがね)に連れられて堂々と宮に現れた。唖然とする私を前に、満面の笑顔のかれは困り果てた様子の黒金から「和多の郷の出で、白珠媛の御子のお顔をひと目見たいと頼みこまれちまいまして」と紹介された。
 黒金は真赫と同郷の宮人だ。呼び名どおり真赫よりもっと色黒で、ずんぐりとしたヒグマのような体躯をしている。もじゃもじゃとした髭まみれの強面だが、水汲みや薪割りなどの力仕事を快く引き受けてくれたり、傷んだ床や戸を修繕してくれたりする親切な男性である。
 もうひとり、真赫や黒金と同じく宮に出入りしているのが木工の白穂(しらほ)だ。かれは黒金と対照的に針金のように痩せていて、腺病質なのか常に顔色が悪い。
 寡黙でめったに口を開かない男性だが、手先が器用で細々とした生活用品を簡単にこしらえてくれる。糸繰りの道具も、すべて白穂が作ってくれたものだ。
 真赫たち三人は渡来民の混血で、出自ゆえに宮中では苦労が絶えないという。ほかの宮人の目が届かず、浮世離れした婆や外界の事情に疎い私しかいない宮でなら気を張らずに過ごせるようだ。爪弾き者だからこそ私たちの境遇に同情し、手を差しのべてくれる。
 水沙比古が黒金に接近したのも、『和多の郷人に助けられた孤児』という身の上を巧みに利用してのことだった。和多の縁者というだけで、宮中では針の筵に置かれに等しい立場になるからだ。大型犬めいた人懐っこい性格も助けて、面倒見のよい黒金や真赫にすぐにかわいがられるようになった。
 婆は水沙比古の正体に気づいているのかいないのか――いや、気づいていないはずがない――「若禽(わかどり)のような威勢のよいおのこだこと。何やらこちらまで張り合いが出ますのぉ」とのんびりと笑うばかりだ。もともと人を食ったようなところのある巫女だが、近ごろはますます何を考えているのかわからない。
 水沙比古は約束どおり、宮を訪れるたび野の花を一輪携えてくる。
 明星の瞳によく似たまつむしそう、宵の空の色をしたききょう、愛らしい黄色の花が群がって咲くおみなえし。秋の翳りが日に日に色濃くなると、緑から赤へと見事な濃淡を描くかえでを一枝。
「いつもありがとう」
 美しく色づいたかえでの枝を受け取ると、水沙比古は眉尻を垂らして肩を竦めた。
「次は難しいかもしれない」
「え?」
「このごろ、警備が厳重だ。騒がしい。宮城じゅうがそわそわしている」
 脱いだ冑を無造作に放りだし、あぐらを組んだ膝に頬杖をつく。真赫たち以上に水沙比古は身分に頓着しないらしく、私はそれがなんとも新鮮で嬉しかった。
 水を張った盆にかえでの枝を挿しながら、「もうすぐ祭が近いからよ」と答える。
「祭?」
新嘗祭(にいなめのまつり)よ」
 新嘗祭とは、その年の新穀を皇の祖神(おやがみ)である照日子大神(てるひこのおおかみ)月夜見比売(つくよみひめ)に供え、大皇とその妃が食することで収穫の感謝を捧げる祭祀だ。
 年賀の祝いのように各地から豪族の首長を招くわけではないが、国産みの神の(すえ)として王権を打ち立てた皇にとって欠かせない祭事に数えられる。あちこちの天領から供物や献上品が運びこまれ、人の出入りも増える。宮中の取り締まりが厳しくなるのは自然な成り行きだ。
 水沙比古はこてりと首を傾けた。
万祝(まいわい)のようなものか? 和多の郷では、漁期の終わりに海神(わだつみ)に感謝と祈りを捧げる祭を開く」
「和多の民は、海神――深多万比売(みたまひめ)を信仰しているのだったわね」
 海の底の宮に住む女神・深多万比売は、見目麗しい乙女とおそろしい竜蛇、ふたつの姿を持つという。多情で苛烈、奔放な性状の持ち主で、嵐の海に沈んだ舟乗りは水底の御殿に連れ去られて永遠の虜にされてしまうとかなんとか。
「ああ」水沙比古は神妙な顔で頷いた。
「祭祀を怠れば海神の機嫌を損ねて大変なことになる。大昔、祭祀をおろそかにしたら何年も不漁が続いた挙句、大津波に湊がひとつ呑まれたそうだ」
「まあ……」
「氏長の娘が生贄になると言った。沖に出した舟の舳先から海に飛びこんだ。その後、ようやく海神の怒りが解けたそうだ」
 思わず眉根が寄る。
「そこは若者ではないの? 深多万比売は、恋多き女神なのでしょう?」
 少年の口元がニヤッと笑った。
「なんだ、二の媛は知らないのか。海神は半月(はにわり)だ」
「はにわり?」
「豊かなおなごの体に、男のあれ(・・)がついている」
 私はぎょっと目を剥いた。
「あっ――あれって」
「男も女も抱ける体なんだ。嵐に乗って若い舟乗りを攫い、恋人を追って海に身を投げた娘も連れていく」
 じわじわと耳の先まで熱くなる。莫迦みたいに口を開けたり閉めたりしかできない私の顔を覗きこむように身を乗りだした水沙比古は、右手首の護符を掲げた。
「だから和多の女たちは、夫や恋人が海神に見初められないよう二枚貝の紋様を織りこんだ手環を編んだ。一対の貝殻のように、恋しい(つま)をどうか連れていくなと願って。続いた習わしが、護符になった」
「――なるほど」
 二枚貝の紋様が女神の多情を退けるものだったとは。私は火照った頬を押さえ、なんとか「興味深い話だわ」と返した。
「女でも男でもあるなんて……自由気ままな神様なのね」
 水沙比古はきゅっと下瞼を持ち上げた。
「寂しいんだ。ひとりぼっちだから」
 不意に染み入るような声音に、私は瞬いた。
 手環のたわみをもてあそびながら、水沙比古は淡々と呟く。
「日の神と月の神のように、まぐわえる相手にめぐり会えなくて。海神の宮に連れ去られた人間の魂は、いつかあぶくになって消えてしまう。だから寂しくて寂しくて、また嵐を起こして舟乗りを攫うんだ」
 ――海の底は、暗くて冷たいから。
 まるで見てきたかのような口ぶりだった。気圧されて言葉を失う私に、水沙比古はへらりと笑った。
「おれ、七つか八つぐらいの歳で海に流されたんだ。運よく和多の浜に流れ着いたが、名前も、生まれ故郷も、何もわからなかった。ひとつだけ――海の底の、真っ暗な闇だけ憶えている」
「何……も?」
「うん、何も。手がかりになりそうなものも身に着けていなかったと、親父どのが言っていた。たぶん、異国の生まれだろうとしか」
 幼い水沙比古はまともに言葉を話すことすら覚束なかったらしい。記憶も行き場もない少年を手元に引き取り、根気強く教育を施した恩人こそ祖父だった。
 親父どのと呼ぶ声音や表情の端々には曇りのない敬愛が滲んでいる。愛され、慈しまれて育った子どもらしい素直さだ。
 ちくりと胸を刺した羨望に目を伏せ、私は笑みを返した。
「あなたが深多万比売に連れていかれなくてよかった」
 水沙比古は小さく瞬いた。
「寂しい闇の淵ではなく、陽が照らす陸の上へ、お祖父様のいらっしゃる和多の郷へ逃れてくれてよかった。きっといとけない幼子を連れていくのが忍びなくて、神様が情をかけてくださったのね」
「……二の媛は変わっている」
 思いもよらない評価に眉を持ち上げると、水沙比古は片手で髪を掻き混ぜた。
「海神から逃げ延びられてよかったなんて、親父どのにしか言われたことがない」
「助かることが、どうしていけないの」
「浜に打ち上げられたおれを見つけた和多の衆は、海神の許に送り返そうとした。海で溺れた者は海神の供犠となる。おれを助ければ、海神の怒りを買うと考えるのが当然だ」
 絶句する私に、水沙比古は浜に流れ着いた人間――ほぼ水死体であるという――は海に還される習わしなのだと説明した。たとえ息があっても、助かる見込みは限りなく低いからだとも。
 ならば、なぜ祖父は水沙比古の命を救ったのだろうか?
「知らぬ」
 当の水沙比古はあっけらかんと言い放った。
「親父どのに尋ねても、助かったのだからよいではないか、役目があるから生き延びたのだろうと言われた。そう感じたから、助けたのだと。おれを舟に乗せたら海神の祟りが下ると和多の衆が騒いだとき、海神の呼び声を退けたおれほど心強い護符はないに決まっていると笑い飛ばして、自分の舟に乗せてくれた」
 水沙比古は息を吸いこみ、眉尻を下げて破顔した。
「だから、郷でいちばんの舟乗りになろうと思った。嵐にも負けぬ、おれが乗る舟は和多でいちばん安全だと誇れる舟乗りに」
 まぶしさにも似た感覚に、私は両目を眇めた。
 護符の巻きつく右手が伸びて、私の手を握った。唐突な接触に肩が跳ね上がる。
「安心してよいぞ、二の媛。おれを手元に置いておけば、どんな不運も逃げていく。和多の氏長の覚えもめでたい最強の護符だ」
 白い歯を見せて笑う少年につられ、私は思わず笑声をこぼした。
 潮風に育まれた水沙比古の手は、大きく精悍で、海原を照らす太陽のように熱い。
 この子が救われ、いまここに在ることに、ただだだ感謝した。
 水沙比古の手に比べればあまりに細く、弱々しく、糸繰りしか知らない私の手。誇れるものだと何もないけれど、ありのままの私でいいのだと、不思議なくらい自然に思えた。
「頼りにしているわ」

三 鯨の孤独〈1〉

 祭の日が近づいてきても、閉ざされた宮で暮らす私の周囲になんら変化はない。
 下級の宮人は、あちこちの準備に連日駆りだされて慌ただしいようだ。真赫のおしゃべりの八割は仕事に関する愚痴になるし、手先の器用な白穂は殿舎の修繕やら祭で使う道具類の製作やらに酷使されて見るたびに顔色が悪くなっていく。かれのために婆が特製の薬を煎じてやるのも例年のことだった。
 水沙比古は黒金やほかの衛士とともに、各地から運ばれてくる献上品を倉院へ納める力仕事に従事している。
 舟と陸のあいだを重荷を担いで何十回と往復することに慣れている少年は、現場でたいへん重宝されているようだ。宮へ顔を出すたびに腹を空かせているので、真赫に頼んで多めに炊いてもらった米で握り飯を用意しておくようになった。
 今日も元気に腹の虫を鳴かせながらやってきた水沙比古は、三個並んだ握り飯にパッと表情を輝かせた。
「食べていいか!?」
「どうぞ、召し上がれ」
 律儀に私の許可を得てから勢いよくかぶりつく。
 世界が変わっても体育会系男子の食べっぷりは見応えがある。前世の弟も運動部員だったから、わが家の炊飯器は毎朝八合フル炊きだった。
 日焼けした頬をいっぱいに膨らませた水沙比古は、余計に小さな男の子に見えた。もぐもぐと忙しない口元に米粒がひとつふたつくっついている。
 思わず笑みがこぼれた。
「お弁当がついているわよ」
 米粒を取ってあげると、銀碧の瞳が瞬いた。まだ浅い喉仏がごくんと浮き沈みする。
「おべんとう?」
 不思議そうな表情に、しまったと思った。
「えっと、口元についた食べ滓のことよ。本当は、外出先に持っていく食事のことなんだけれど」
「妙な言い方をする。二の媛は」
「そ、そうかしら?」
 水沙比古は指についた米粒を舐め取りながら、両目をくるめかせた。
「たまに思う。ここではない国から来たのではないか。二の媛も」
 息を呑んだ。
 懐かしい世界の海の色をしたまなざしは、胸の奥に秘め隠した感傷を見透かしているようだった。
「……どうして、そう思うの?」
 戸惑いを取り繕うことも思い浮かばず、私は率直に尋ねていた。
 水沙比古は次の握り飯にかぶりつきながら首を傾げた。
(いさな)を知っているか?」
「いさな……くじらのことだったかしら。潮を噴く、山のように大きな魚でしょう?」
 明星から聞いた祖父の話によれば、この世界の海にも鯨が存在し、七洲では昔から捕鯨が行われているらしい。和多の郷では、鯨の肉は祝いの席でふるまわれる特別なご馳走なのだという。
 水沙比古はこくりと首肯した。
「そうだ。鯨は、群れで海を渡ってくる」
 少年の口元に笑みが広がる。
「海面が盛り上がったかと思うと、黒い山が現れる。ひとつじゃない。どんどん黒い山が立ち上がって、舟より大きな尾びれを翻して海に飛びこむんだ」
 巨大な海洋生物の群舞を思い浮かべているのか、興奮と感嘆がこもった語り口に鯨の尾びれが立てる波の音が聞こえてくる気がした。
 水沙比古から強烈な潮の香りが吹きつけた。一瞬のまぼろしは、前世の『私』が知るものによく似ていた。
「だが、たまに群れからはぐれてしまうものがいる」
 口調を変えた水沙比古の声に、潮風のイメージはふっと消えた。
 最後の握り飯を咀嚼しながら、水沙比古は「昔、群れからはぐれた鯨の仔を見た」と言った。
「たった一頭、ずっと和多の沖に留まっていた。舟が通りかかると、親やほかの鯨ではないかと思って近づいてくるんだ。ぶつかって舟が沈んだら大変だ。漕ぎ手が艪で頭を叩くと、慌てて逃げていった」
 迷子の鯨は、何度も舟に近づいては追い払われるということをくり返していたらしい。探している群れは、とうに遠い外洋へ泳ぎ去ってしまっていたのに。
 満足に魚を獲ることもできない幼子が生き延びれるはずもなく、ある朝、とうとう和多の浜辺に動かなくなった鯨の仔が打ち上げられた。
「鯨の仔は傷だらけで、虫の息だった。こんな風に、おれも流れてきたのかと思った。鯨の仔は助かるのかと親父どのに訊いたら、『鯨は陸では生きられない』と首を横に振った」
 握り飯を平らげた水沙比古は、白湯を一気に飲み干すと息を吐いた。
「忘れられない、鯨の仔の眼が。射干玉のような眼が海水に濡れて……泣いていた。じっとおれを見つめて、自分はなぜここにいるのかと、どこへ向かえばいいのかと、叫んでいた」
「その仔は……どうなったの?」
 こわごわと尋ねると、水沙比古はきゅっと眉根を寄せた。
「死んだ」
 わかりきっていた答えだった。苦い感情が喉を塞いで、「そう、よね」と呟く声は掠れていた。
 頭のどこかで、鯨の仔が助かればいいのにと考えていた。やさしい大人が手を差しのべて、水沙比古のように救われたらよかったのにと。
「二の媛は、ときどき、鯨の仔と同じ眸をする」
 水沙比古は空っぽになった椀をいじりながら、そっと私を窺った。
「二の媛を見ていると、ひとりぼっちで途方に暮れていた、あの鯨の仔を思いだす。帰る場所も向かう場所もわからなくて、ずっと泣いている」
 本当に涙が出るかと思った。
 名前もわからなくなってしまった『私』の感情が強く揺さぶられた。
 帰れるものならば帰りたい。『私』の家に。『私』の世界に。
 すり切れた記憶が駆けめぐり、やがて紫色の双眸が浮かんだ。
 いつかいっしょに海が見たいと言った明星のまなざしが楔のように胸の奥深くまで突き立てられる。
 ――私の片割れ、私の愛子。
 私を夕星(わたし)たらしめる、たったひとつのよりどころ。私が迷子の鯨ならば、明星は波間に見えた湊のあかりだった。
 けして届かない、希望という名の絶望。
 鯨は陸では生きられない。明星が立つ場所に私は存在できない。
 余計なものばかり視る両目をくりぬいても、私は暗い夜空へ墜ちていく夕星だ。
「わたし――」
 眼球がひりひりと痛む。眉根を寄せて水沙比古を見つめると、浅黒い指が目元に触れた。
「落ち着かない」
 水沙比古はむすりと呟いた。
「え?」
「その顔だ。二の媛が泣いていると、ざわざわする。ここが」
 少年はもう片方の手で冑の胸元を叩いた。
「……泣いていないわ」
 自然と苦笑が洩れた。
 水沙比古の手の熱が瞼に染みて、視界が滲んだ。
 ぽろりとひと粒、瞬きのあいだに涙がこぼれ落ちる。水沙比古の表情がぎゅっと歪んだ。
「我慢するな」
「そんなつもりはないのよ。ただ……私はいつも泣いている姉様の慰め役だったから」
 涙の痕を拭おうとして阻まれた。親指の硬い腹が頬をなぞる。
「我慢してきたのか。一の媛のために」
 水沙比古の追及に言葉を見失う。
 明星の前で涙したことがあっただろうか。あの子の腕に抱きしめられたことがあっただろうか。
 出会ったときから逆だった。だって『私』は明星より年上で大人だから。
 ――ならば夕星(わたし)は。ここにいる私は、いったいだれ?
「二の媛?」
「……明星のためなんて、聞こえのいい理由ではないわ。私は、弱くてみじめな自分を認めたくなくて泣けなかっただけよ」
 皺が寄るほど裳を握りこむ。強張った肩がぶるりと震えた。
「水沙比古は、和多の浜に流れ着く前のことを憶えていないと言ったわね」
「うん」
「私はね……私は、憶えているの」
 育て親の婆にすら打ち明けようと思ったことなどなかったのに、鉛より重く凝った感情はつるりと喉の奥から押しだされた。
「七洲に、この世界に生まれる前の記憶があるの。そこで『私』は……幸せな子どもだった。恵まれていたと思うわ」
「名前は? なんと呼ばれていたんだ、そこで」
 私は泣き笑うように顔をくしゃくしゃにした。
「わからないの」
 銀碧の瞳が揺れる。水沙比古は驚いたように息を呑んだ。
「最初に忘れたのは自分の名前だった。次は友達や家族の名前。声も、顔も……だんだん曖昧になっていくの」
 前世の父母や弟の顔を思いだそうとしても、まるで滲んだ水彩画のようにぼやけてしまう。
 新聞を読む父の空返事、それに怒る母の小言。変声期を過ぎたばかりの弟は、どんな声で「ねえちゃん」と呼んでいたのだろうか。
 聳え立つ岩壁が少しずつ波に削られるように『私』が失われていく。
 止めどない虚しさの中に取り残された夕星(わたし)は、死を待つばかりの迷子の鯨だ。
「何度も何度も、鯨の仔のように考えたわ。どうして『私』は死ななければならなかったのか。どんな役目を負ってこの世界に生まれてきたのか。いまも、わからないままよ」
 婆の言うとおり、夕星()の生に意味など本当にあるのだろうか。
 熱くて大きなてのひらが両の拳を包みこんだ。
 爪が食いこむほど折り曲げた指をそっと広げられる。しっかりと私の手を握り、水沙比古は下から覗きこんできた。
「親父どのがおれを助けたときの話。憶えているか」
「……ええ」
「役目があるから、おれは生き延びたのだと言われた。きっとおれの役目は、ニの媛を助けることだ」
 水沙比古は白い歯を見せて笑った。呆気に取られるほど晴れやかに。
「おれは二の媛の従者(ずさ)だ。従者の役目は、主人の助けになることだ」
「水沙比古の主人は、お祖父様ではないの?」
「少し違う。親父どのは、二の媛の助けになれと言った。だから、おれは二の媛のためにここにいる」
 ぎゅ、と水沙比古の手に力が入る。
 海色の瞳が揺らめいている。自分の視界が水気を帯びているのだと気づいた途端、ほろほろと涙がこぼれ落ちた。
「私の――そばにいてくれるの?」
「いるよ」
「私、きっと一生この宮から出られないわ。明星のように降嫁することもない。和多の郷にも帰れないかもしれないのよ」
 水沙比古は眉尻を垂らした。
「帰れないのは残念だが、二の媛がひとりぼっちで泣くよりずっといい」
 どこまでもやさしい言葉に、とうとう嗚咽が洩れた。
 水沙比古の両手を額に押し戴いて俯くと、後頭部に尖った鼻先が触れた。
「二の媛の護符になるよ。二度と嵐の海で迷わないように、おれがいっしょに泳いでいく」
 私は震えながら水沙比古の手を握り返した。
 海の底にも似た暗い森の宮で、私はかけがえのないよすがを手に入れた。
 手繰り寄せた糸の先に待つものを、私たちはまだ知らなかった。

三 鯨の孤独〈2〉

 前世の記憶という秘密を水沙比古に打ち明けてから、状況が劇的に変わった……ということはなかった。
 何しろ、水沙比古自身が以前と変わらぬ態度で接してくるのだ。打ち明けた翌日、どんな顔で迎えればいいのか悶々と悩んでいた私に、かれが発した第一声は「今日は握り飯をいくつ食べていい?」だった。
 私の頭がおかしいと思わないのかと尋ねると、水沙比古は仔犬のように両目をくるめかせて不思議がった。
「二の媛は陰視なのだろう? なら、徒人にはないものを持って生まれてもおかしくない」
 和多の郷にも陰視がいたが、かれらは忌避されるどころか尊ばれる存在だったらしい。
「陰視は風や潮の流れを読むことがうまい。だから舟乗りになると重宝される。おなごであれば、嫁入りまで海神の社に巫女として奉仕する。海神の巫女になった娘と縁づくと海難に遭わないと信じられているから、嫁に欲しがる舟乗りは多い」
 土地が違えば境遇も違う。和多の郷に生まれた陰視を羨ましく思った。
 もしもと考えたところで詮ないことだ。出会ったときからまっすぐ私の目を見る水沙比古がそばにいてくれる僥倖を噛みしめ、私は祭の足音を遠くに聞いていた。
「一の媛に会えるかもしれない」
 いつものように宮を訪れた水沙比古は、いつもより緊張した顔で告げた。
 粗末な古宮には隙間風が吹き抜けるようになり、寒がりな婆のために真赫が調達してきてくれた火鉢が欠かせない季節になった。
 熾したばかりの火をつついていた私は、うっかり火箸を取り落としそうになった。
 慌てて周囲を見回す。
 ほかの宮人は来ておらず、糸繰りの仕事を終えた婆は疲れたと言って控えの間で午睡を取っているはずだ。
 私は火箸を灰に突き刺し、甲を脱いであぐらをかいた水沙比古のそばへ膝行った。
「姉様に会えるかもしれないとは、どういうこと?」
 声を潜めて尋ねると、水沙比古は眉間に皺を作って唸った。
「今日、阿倶流(あくる)という舎人(とねり)に話しかけられた」
 水沙比古によれば、阿倶流は皇太子――異母弟の神隼に仕えているらしい。
「神隼の……?」
「二の媛と会えなくなってから、一の媛は食事が喉を通らないほど消沈しているそうだ。心配した皇太子は、密かに手引きして二の媛を一の媛に会わせようと考えていると言っていた」
 ぎゅっと胸を引き絞られる。水沙比古は私の表情に眉をひそめた。
「一の媛の侍女に満瀬(みつせ)という娘がいる。阿倶流の姉で、一の媛に会うために協力してくれるそうだ」
 まさに渡りに舟と言わんばかりのお膳立てだ。だが、私は警戒せずにはいられなかった。
「それは……神隼の名前を使って継母上(ははうえ)が私を誘いだそうという罠ではない?」
 水沙比古は束ね髪に指を突っこんで掻きむしり、ううんと唸った。
「阿倶流の素性について探ってみた。北征将軍(ほくせいしょうぐん)の推薦で皇太子の側仕えに上がったらしい」
「北征将軍? 風牧(かざまき)の氏長の?」
 風牧氏は、ここ三十年あまりで台頭してきた新興の豪族だ。
 もともと七洲の東にある平野部を勢力圏とする地方豪族で、良馬を生産する馬司(うまのつかさ)の一族と知られる。
 先代の氏長のころから騎馬兵団を組織し、七洲の北方に暮らす異民族――北夷(ほくい)の征伐で武功を挙げた。
 確か、私が生まれる前後に大規模な征伐が行われたはずだ。北夷の民は壊滅的な被害を受け、わずかな生き残りは北限の海峡を越えた氷波弖(ひはて)列島まで追いやられたと聞いた。
 華々しく凱旋した当代の氏長は北征将軍の称号を賜り、一気に大皇の側近としてのし上がった。
 もちろん、古くから皇に仕えてきた中央の豪族たちが快く思うはずもない。
 継母は中央の豪族のひとつである希賀(きが)氏の出身だ。風牧氏とは対立関係にあり、目障りな継子を計略にはめるためだけに手を結ぶとは考えにくい。
「北征将軍は大皇の寵臣だわ。継母上は関与していないとしても、その舎人から大皇の耳に入ったりしないかしら?」
「危険がないとは言い切れぬ。だが……一の媛に近づくまたとない好機だ」
 水沙比古はまっすぐ私を見つめた。
「二の媛はどうしたい? おれは、二の媛の判断に従う」
 私の従者だと言った少年のまなざしは、胸の奥から容赦なく感情を引きずりだした。
「会いたいわ、姉様に」
 水沙比古はほほ笑んだ。「うん」
 私は迷いながら言葉を継いだ。
「でも、見ず知らずの人に運を委ねるのは……不安だわ」
 袍の袖口をいじりながら訴えると、水沙比古はにたび頷いた。
「二の媛の気持ちはわかる。なあ、阿倶流に会ってみないか?」
「えっ!?」
 予想外の提案に仰天した。
 水沙比古は肩を竦め、「その気があるなら連れてくる」と言った。
「で、でも、皇太子の舎人が私のところに来たなんて知られたら……」
「大丈夫だ。あいつはおれと似たようなものだから」
 七洲人らしからぬ色素の薄い髪を引っ張り、水沙比古は目を細めた。
「阿倶流は異人(まれびと)だ。北夷の血が混じっている」
「え……でも、風牧の氏族の出なのでしょう?」
「いや。宮人のあいだの噂では、北夷の略奪に遭った女が産み捨てた鬼子らしい。境遇を憐れんだ北征将軍が姉の満瀬ともども養い子として引き取ったそうだ」
 鬼子という単語にどきりとした。
 水沙比古によれば、阿倶流は鮮やかな赤毛と白珊瑚のような膚を持つ隻眼の少年なのだという。
 異民族の特徴が濃く出た容姿のせいで、周囲からは腫れ物に触れるかのごとく扱われているそうだ。後見人である風牧の氏長をおそれて水沙比古や真赭たちのようにあからさまな差別はされないものの、宮中では異分子だった。
「杣の宮は爪弾き者の吹き溜まりと言われている。阿倶流がここへ来ても不審に思われることはない」
「周囲の認識を逆手に取るというわけね」
 それでも危うい綱渡りには違いない。
 ふと、灰に埋もれた熾火が目に留まった。ゆるやかな明滅のリズムに合わせ、カラリカラリと糸車の音が聞こえてくる。
 燃え立つような銅色が脳裏に閃いた。
 広野を吹き抜ける北風(あなじ)の乾いた匂い。草の海を駆ける駿馬の群れ。
 赤い染め糸の束が炎のごとくうねっている。いいや、これは人毛だ。
 長髪を風に靡かせた人物がゆっくりと振り返る――
 かれ(・・)の顔が向き直る寸前、炭が爆ぜる音にイメージが弾け飛んだ。
「どうかしたか?」
 水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。
 私は息を吐き出した。
「糸が手繰り寄せられている……」
「いと?」
「人と人を結ぶ縁の糸……と言えばいいのかしら。それが強く引っ張られている。阿倶流という舎人と会うべきなのだと感じたの」
 糸を引く手は潮流に似ているかもしれない。
 目に見えずとも確かに存在する、大いなる力のうねり。
 ――私という舟の航路は、水沙比古なくして定まらない。
「あなたは鶚のようひとね」
「みさご?」
覚賀鳥(かくがのとり)よ。昔話を知っている? 七洲の平定の途中で行方知れずになった皇子を探して、かれの妃が国じゅうを旅するのよ」
 ある浦を訪れたとき、「がくがく」という不思議な海鳥の鳴き声が聞こえた。
 もしや海鳥に姿を変えた皇子が自分を呼んでいるのではないかと思った妃は、沖まで舟を出して探し回った。しかし海鳥は見つからず、妃は悲嘆に暮れた。
「そこへ一艘の小舟が通りかかるの。小舟にはみすぼらしい身形の漁師が乗っていて、何を悲しんでおられるのかと尋ねるの」
 妃は涙ながらに、不思議な声をした海鳥を捕まえてくれないか、もしかしたら姿を変えた夫かもしれないのだと訴えた。
 すると、漁師は魚籠(びく)の中から大きな蛤を取り出し、妃に差し出した。
「覚賀鳥はなかなか姿を見せないから捕まえることは難しい。けれど、あなたの夫はこの蛤のように対の貝殻を忘れたことはありません……そう言ってほほ笑む漁師は、実は行方知れずの皇子だったという内容よ」
 貝が口を閉じるように両の()をぴったりと合わせてみせる。
 貝覆いの遊びに使われる蛤は、あわびと同様に男女の和合を象徴する。
「私は背の君を探す妃ではないけれど、覚賀鳥に導かれた彼女はこんな気持ちだったのかと思うわ。水沙比古は、どんな荒波にも果敢に飛びこんでいく私のしるべの鳥よ」
 水沙比古はむず痒そうに口を引き結んだ。
「おれは……二の媛の従者だから。主人を助けるのは当然だ」
「とても感謝しているわ。ねえ水沙比古、何かお礼にできることはないかしら」
「別に、礼なんて」
 しきりに後ろ首を掻いていた水沙比古は、思いついたように「あ」と呟いた。
「髪紐」
「髪紐?」
「うん。ちぎれそうなんだ、ぼろぼろで。二の媛は糸繰りが得意なのだろう? それなら、紡いだ糸で髪紐を編んでくれないか」
 水沙比古は後ろを向いて束ね髪の根元を見せた。
 使いこまれた様子の髪紐は、いつぷつりと切れてしまってもおかしくない。
「わかったわ。切れないように丈夫な糸で作るから」
 かれにはどんな色の染め糸が似合うだろうか。髪色が薄いから、明るくて鮮やかな色がいいかもしれない。
 水沙比古は銀碧の瞳を細め、嬉しそうにはにかんだ。
「楽しみだ。とても」
 少年の笑顔は、火鉢の熱よりも温かく私の胸に沁みこんだ。

三 鯨の孤独〈3〉

 森に閉ざされた古宮の夜は長い。
 蔀戸をぴっちり閉めきっていても吹き抜ける隙間風がすすり泣き、燭火を不安定に震わせる。闇のささめきは冷たい波濤となって打ち寄せ、くすくすと笑いながら手招きしているかのようだ。
 幼いころは衾を頭から被り、耳を塞いでじっと聞こえないふりをしていた。あまりに強い『声』で呼ばれるときには、魔除けの護符を妻戸に貼った塗籠の中でひと晩過ごすこともあった。
 塗籠の中の息苦しい暗闇を思いだすような夜だ。ぐいぐいと後ろ髪を手繰り寄せようとする力を感じ、私は明るい灯火の近くに居座った。
 夕餉のあとは、繕い物などの細々とした手仕事を済ませてから床に就くのが常だ。だが、今夜は水沙比古から頼まれた髪紐に取りかかるつもりだった。
 まずは髪紐に使う糸を選ぼうと並べてみたのだが、これがなかなか決まらない。
 手元にある染め糸には限りがあり、しっくり来る色が見当たらない。……試しに染めていない絹糸を出してみると、いちばんよく思えてしまった。
 絹糸本来のまろやかな真珠光沢は美しいが、これだけでは物足りない。
 唸りながら悩んでいると、控えの間で休んでいるはずの婆がひょこひょことやってきた。
「媛様、よろしゅうごぜぇますか」
「どうしたの?」
 このごろ、すっかり痛みを訴えるようになった膝で億劫そうにいざって近づいてきた婆は、懐から小さな布包みを取り出した。
「どうぞ、これをお使いなされ」
 皺に埋もれた瞳を細め、婆はうっすらほほ笑んだ。
 戸惑う私の手をやさしく取り、布包みを持たせる。見た目よりも少し重い。
 視線に促されて中身を開くと、翠緑の輝きが現れた。
 思わず息を呑む。
 布に包まれていたのは、皇だけが身に帯びることを許される天の糸の束と、そっくりな色合いをした手環だった。
 翡翠をくりぬいて作られた腕輪には、細かい装飾が彫りこまれていた。
 幾何学的な独特の紋様からは呪力を感じる。舟乗りの手環と同じく、これもまたまじないを施した護符なのだ。
 ――不思議と見覚えのある手環だった。
「これは……」
「ずっと婆めがお預かりしておりました。白珠媛の形見の品にごぜぇます」
「母上の?」
 婆は頷くと、衣の袖でそっと目元を押さえた。
「この天の糸は、産まれてくる御子のためにと白珠媛御自ら紡がれたもの。白珠媛がお隠れになられた際、ひと束は一の媛様にと大皇に献上いたしました。こちらは、二の媛様のための天の糸にごぜぇます」
 私はおそるおそる天の糸に手を伸ばした。
 滑らかな翠緑の絹糸は人肌の温もりを帯びていた。柔い女人の()に触れたような。胸の奥がツキンと痛んだ。
「では、この手環は……」
「こちらは、白珠媛がお隠れになるまで身につけておられたものです。白珠媛の母君から譲り受けたのだと」
「私の……お祖母様?」
 翡翠の手環は硬く、ひやりとしていた。
 手に取った瞬間、ざぶんと押し寄せてきた波に頭から呑みこまれた。
 銀のあぶくが輝きながら天上へと昇っていく。透きとおるような翠玉(エメラルド)色の水の上で、ゆらゆらと光の網が揺蕩っている。
 私は海中を漂っていた。白い砂地にいくつも陽射しの柱が立ち、小さな魚の群れが鱗をきらめかせて泳いでいる。
 砂地の先には碧い珊瑚の森が広がっていた。色鮮やかな宝玉のような魚たちが舞い踊り、遠くにはゆったりと水中を滑る海亀の影が見えた。
  ――なんて美しい光景なのだろう。
 もっと近づきたくて深く潜ろうとした刹那、ぐんと上に引っ張られる感覚があった。
 みるみる海面まで浮上し、大きく息を吸いこんだときには婆の前に戻ってきていた。
「何か視えましたかえ?」
 探るような婆の問いに、私は呼吸を整えながら首肯した。
「南の……夢のように美しい海の底の景色が流れこんできたわ」
「手環の持つ記憶にごぜぇましょう。白珠媛の母君は、南からお渡りになられた妓女だったと聞いております」
 私はまじまじと婆を凝視した。
 育て親は手環を取り上げると、恭しく私の右手に通した。まるで誂えたように、私の手首はぴったりと環の内側に嵌まった。
「強き力を持つ巫女でありながら訳あって国を追われて流離い、たどり着いた和多の郷で氏長に見初められたそうです。白珠媛のご幼少のみぎりにお隠れになられ、いずれ自らのお血筋に巫女の才を持つ御子が生まれたならばこれを渡すよう言い残されたと」
「お祖母様は――伊玖那見の神女でいらしたの?」
 明星から聞かされた母の出自にまつわる噂話を思いだす。私と片割れは、本当に海のむこうの異国の血を引いていたのか。
 婆は静かに頷いた。
「白珠媛の御子を取り上げたのは、この婆めでごぜぇます。息を引き取られる寸前、おふたりめの御子……媛様の御目を確かめられた白珠媛は『この子こそ、母御前の血を継いだ常夜大君(ティダゥフージェ)愛児(いとしご)に違いない』とおっしゃられました」
 常夜大君――伊玖那見で信仰される女神の名だ。
 海の彼方にある夜の食す国(ネィラエィラ)を治める精霊の女王。生と死を司る太母神。
 伊玖那見の女王たる大神女は、常夜大君の憑坐なのだという。かの国では女神の神託こそ重んじられ、大神女の占によって政が行われている。
「南では、闇を見通す金の瞳は夜の女神の恩寵のしるしとされているのだとか。白珠媛の母君も、媛様と同じ朱金に輝く御目をお持ちだったそうです」
 母殺しの鵺の眼と蔑まれてきたこの両目は、顔も知らない祖母から受け継いだものだったのか。手環の表面を撫ぜると、染みるよう波動が伝わってきた。
 そこには、やさしい祈りと祝福だけがあった。
「母上は……私を疎んだりしていなかったのね」
 ほろりとこぼれた言葉に、婆は皮膚のたるんだ瞼を伏せた。
「最期まで媛様のことを案じられておりました。女神の恩寵を賜ったために苦難の道を強いられた母君と同じ不幸を味わわぬようにと、願い続けておいででした」
「もしかして……婆に私を託したのは、母上なの?」
 婆はうなだれるように首を縦に振った。
「この婆めは、いちどは大皇によって不吉なるものとして首を刎ねられる定めにこぜぇました。それをお救いくだすったのが白珠媛です。奴婢に落とされた身に天の糸を紡ぐお役目を与えられ、これまでどおり占をせよとお許しくださった……大恩あるお方にごぜぇます」
 胸の裡にすうと冷たい風が吹きこんだ。
 婆が私を育てた理由は母への恩返しだったのだ。そうでなければ、乳飲み子を抱えながら粗末な古宮での暮らしに耐えられるはずもない。
 ささくれた心を拾い上げたのは、婆の口から出た名前だった。
「十六年、心をこめてお育て申し上げました。いつか媛様が護り手を得られるまで、大切に大切に」
「護り手?」
「水沙比古殿ですよ。あの若子は、媛様の剣となり翼となる定めの者。あなた様の許へ天命を運んでくる風の鳥」
 節くれ立った老女の手が手環をつけた右手を包みこむ。婆はくしゃりと笑みを崩し、私の手を撫でさすった。
「あの若子が現れてからというもの、媛様の未来(さき)を視ることができなくなりました」
「えっ!?」
「力が消えたわけではありませぬ。あなた様が婆の手を離れ、御自ら護り手を選ばれたから。だからこうして、白珠媛の形見をお返し申し上げたのです」
 私は困惑を隠せないまま尋ねた。
「確かに、水沙比古は私の従者になると言ってくれたけれど……私はこれからもずっとこの宮で暮らしていくのよ? 婆だっていっしょでしょう?」
 婆は薄い眉を垂らして笑った。
「ええ、ええ。それもよいでしょう。ますますお美しくなられる媛様のおそばで送る余生ほど得がたきものはございますまい。ですが、天から(こぼ)れた黄昏の星は、一介の糸繰り女には過ぎた宝」
「婆?」
「媛様、夕星媛。これだけはわかります。あなた様には特別なお役目がある。母君が憂えた苦難もまた、避けられぬ。けれども、迷うことはありませぬ。あなた様には心強い護り手がついておられる」
 婆は私の手を押し戴き、かすかに声を震わせた。
「どうか、天地の加護があなた様にありますように。この命が果てる日まで祈りましょう」
 糸車の回る音が聞こえる。
 軋みを上げながら回り続ける運命の輪は、抗いがたい別れの予兆を運んできた。
 私は――片割れだけでなく育て親も失うのか。
 あまりに唐突で残酷な、幼年期の終わりの幕開けだった。

四 北風の使者〈1〉

 叩きつけるような雨は朝から降り続いていた。
 新嘗祭の準備の合間を縫って訪ねてくる水沙比古と黒金が屋根の修繕をしてくれたおかげで、ひどい雨漏りを免れることができた。
 まだ昼日中だというのに、雨に降りこめられた森は薄暗い。
 しかし、陰りに潜むものたちも激しい雨脚に辟易しているのか、木の下闇でじっとうずくまったままだ。軒先に置かれた水瓶を打ち鳴らす雨音だけが響いている。
 私は白と緑の絹糸で髪紐を編みながら、雨音のむこうへと尖らせた意識の先端を伸ばしていた。
 白糸を地に緑の糸で幾何学的な紋様を描いていく。翡翠の手環に彫りこまれているものを真似たまじないだ。魔を退け、身に帯びたひとの魂の緒を私の許へ結びつけるように。
 髪紐が編み上がるころ、雨に紛れて近づいてくる足音が聞こえた。
 ひとりではなくふたりぶん。どちらも篠突く雨などものともしない足取りで泥濘を進んでいる。
 葉陰に隠れた小鬼が息を潜めてふたりを見送る。――かれらこそがおそろしい存在であるかのごとく。
 濡れ縁に続く階がギシギシと軋む。雨避けに閉めた蔀戸を来訪者が叩いた。
「二の媛」
 従者の少年の声に立ち上がった。
 蔀戸を開けると、簑笠を纏ったずぶ濡れの水沙比古がホッとしたように表情をゆるめた。
「阿俱流を連れてきたぞ」
 水沙比古の背後に佇む人影が俯きがちに礼をした。長身の水沙比古よりいくぶん小柄だ。
「よく来てくださいましたね。どうぞお入りになって火に当たってください」
 ふたりを招き入れ、火鉢のそばまで案内する。
 躊躇を滲ませて簑笠を取った阿俱流の姿に、私は既視感を抱いた。
 火明かりに黒い冠を被った結髪が赤銅色に輝いている。雨に濡れたままの面は冬の満月のように真っ白だ。額が広く、鼻筋が通っている。
 右目を白布で覆い、左目は藍方石を思わせる深い青色を湛えている。私や水沙比古と同年代の少年だが、ひどく翳りを帯びたまなざしをしていた。
 位の低い官吏であることを示す浅縹の朝服を纏った阿俱流には、文官というより武官らしい印象だった。袍の袖口から覗く両手は逞しく、細い筆ではなく駿馬の手綱を握るほうが様になりそうだ。
 ふと、阿俱流から乾いた風の匂いが漂ってきた。
 草いきれ、獣の息遣い。刹那のイメージは瞬きの合間に掻き消えた。
「二の媛。紹介する。こちらが風牧の阿俱流だ」
 水沙比古の言葉に続き、阿俱流は深々と叩頭した。
「お初お目にかかりまする。皇子様(みこさま)の御側付きを勤めさせていただいております、名を阿俱流と申します」
 老成した印象の落ち着いた口調。私は違和感へと変じた既視感に困惑した。
 ――かれのほうではない(・・・・・・・・・)
「あの、阿俱流殿。不躾な質問かもしれないけれど、ご兄弟はいらっしゃる?」
「……同母姉(いろも)がひとりおりますが」
「えっと、兄か弟はいないかしら。あなたと同じ、赤い髪の」
 阿俱流の肩がぴくりと揺れた。
「いいえ。私の身内は姉だけにございます」
 きっぱりと否定され、私は思わず口をつぐんだ。
 水沙比古が不思議そうに首を傾げる。「何か視えたのか?」
「阿俱流殿とお会いする前に、かれとよく似た赤い髪の若者の視線(・・)を感じたの。てっきり阿俱流殿かと思っていたのだけれど……」
 同母姉とは、明星の侍女をしている満瀬のことだろう。ほかに兄弟がいないのであれば、私が占を読み間違えたのか。
 ゆっくりと面を上げた阿俱流と視線が絡む。藍方石の隻眼は凝乎(じっ)と私を見据えていた。
「噂どおり、皇女様(ひめみこさま)は陰視でいらっしゃるのですね」
 鋭利な錐を刺しこまれるような視線に気圧されながら頷く。
 水沙比古がさりげなく私の傍らに移動し、阿俱流の視線を肩で弾いた。
「心当たりはないか。何か」
「……いいえ。申し訳ございません」
 阿俱流はツと目を伏せた。
 私は慌てて首を横に振った。
「こちらこそごめんなさい。どうか気にしないでくださいね。私の勘違いかもしれないし……」
「二の媛でも失敗するのか?」
「もちろんあるわ。私は本当に視えるだけ(・・・・・)なの。きちんと巫女や呪師の修行をしたわけではないから、視えた結果を自分なりに読み解くしかないのよ」
 水沙比古の質問にこそこそ答えていると、阿俱流が口を開いた。
「私も身近に陰視の者がおりましたゆえ、いつでも望みのままに視えるわけではないと存じでおります。むしろ、望まぬものを視てしまったがために苦しむことのほうが何倍も多い」
 少年の声は染み入るように静かに響いた。
 阿倶流はふっと息を吐きだし、「本日は、皇子様より言伝をお預かりしてまいりました」と告げた。
 私は両手を握りしめた。
「水沙比古から話は聞いています。姉様……明星媛と私を会わせたいと」
「はい。一の皇女様はお食事も喉を通らず、宮に籠りきりのご様子。姉宮様をご心配なさった皇子様は、二の皇女様のお顔を見れば元気を取り戻されるのでは――とお考えなのです。幸い、私の姉が一の皇女様にお仕えしておりますので、姉の協力があれば難しいことではありません」
「私は、この宮から出ることを禁じられているの。ましてや明星媛と密会したと大皇に知られれば……皇太子である神隼親王はともかく、手引きをしたあなたや姉君は無事では済まないわ」
 もちろん私も、阿倶流と引き合わせた水沙比古も許されない。露見すれば四人仲良く晒し首だ。
「ご心配には及びませぬ。必ずうまくいきます(・・・・・・・・・)
 阿俱流は淡々と言い切った。
 まるで確定した未来を知っているかのような口調に私は言葉を飲みこみ、水沙比古は眉をひそめた。
「ずいぶんな自信だな」
「根拠はございます」
 阿俱流は水沙比古の視線を受け流し、隻眼を私に向けた。
「新嘗祭の日、大皇とお妃様が日月の両神に供物を捧げるため祭殿にお籠りになられます。神事のあいだ、多くの朝臣や宮人も祭殿の周辺に待機しております。宮中の警備も祭殿に集中する……つまり、それ以外への注意が薄れるということです」
「まさか、神事のあいだに明星媛と会おうというの?」
「然様にございます。皇嗣であらせられる皇子様は祭殿近くの殿舎でお過ごしいただかねばなりませんが、皇女様方は神事でのお役目はございませぬ。宮女に扮した二の皇女様を姉宮様の許へお連れするには、またとない好機かと」
 阿俱流の提案は、荒唐無稽と断じるには魅力的だった。
 そう、これは好機(チャンス)なのだ。再びめぐってくるかどうかわからない、最後かもしれない神様の気まぐれ。
 阿俱流の誘いを断れば、明星に二度と会えないままで終わるかもしれない。
 生涯幽閉の身である私と違い、いつか明星は然るべき相手の許へ降嫁する。あの子が花嫁となって宮城を旅立つ日は遠くないはずだ。
 そうすれば、私たちは今度こそ離ればなれになる。前世の記憶のように、鈴を振るうような笑い声や、夜明け色のまなざしや、寄せ合った肩のぬくもりが、少しずつ風化していく日々に怯えながら生きていくのだ。
 ――いっしょに海が見たいと願った片割れの幸せを願えるように、手を離すためのさよならが欲しい。
 波間に覗く湊のあかりに焦がれた迷子の鯨が暗い海へ漕ぎだすために。私が、片割れがいなくても夕星(わたし)であれるように。
 私は水沙比古の衣の袖をつまんだ。
 銀碧の瞳が振り向く。目が合うと、かれはふっと口元を綻ばせた。
「二の媛はどうしたい?」
 風が吹いた。
 鯨の仔を沖へと押しだそうとするような風が首筋を吹き抜けた。
 風に乗って海原へ翔んでゆく鳥の影が瞼裏をよぎる。私を呼ぶ声。
「私は――姉様に会いたい」
 水沙比古は頷いた。
「おれは助けるよ。二の媛が望むなら」
 その言葉に背中を押され、私は阿俱流に向き直った。
「阿俱流殿。明星媛にお会いするために、どうか力を貸してちょうだい」
 阿俱流はかすかに左目を眇めた。
「もとより、その所存。皇女様方、引いては皇子様の御為、身を粉にして働かせていただきたく思います」
 浅縹の裾を捌き、阿俱流は低く一礼した。冠の上で火明かりがチラチラと揺らめいている。
 私たちの密談を隠すように、雨音はいよいよ激しさを増した。顔を上げた阿俱流は、計画の詳細について語りだした。
 水沙比古の傍らで、私は期待と不安に押し潰されそうになりながら糸車の音を聞いていた。
 善きものも悪しきものも運んでくる、運命の轍の軋みを。

四 北風の使者〈2〉

 波音が聞こえる。
 遠く遠く打ち寄せる潮騒は、乾いた北風によって運ばれてきた。冷たく冴えた空気に混じる草の匂い。
 視界を開くと、そこは白金色の草原だった。
 平原を覆う背の高い枯れ草がいっせいに風に揺れ、彼方の山脈(やまなみ)から射す斜陽を浴びてさざめいている。草の波間を駆けてゆくのは、軽やかに鬣を靡かせる駿馬の群れだ。
 水色と黄金色が溶け合って輝く(そら)には真白い星がぽつりと浮かんでいた。
 宵の明星――夕星だ。
 甲高く口笛の音が響き渡る。
 二度、三度と口笛が続くと、駿馬の群れがぐるりと向きを変えてこちらへ駆けてきた。迫り来る蹄の音に逃げなければと思考のどこかでおののいていると、視界の後方から小さな人影がふたつ飛びだした。
 野火のような赤い髪。枯れ草を掻き分けて駿馬の群れへ走り寄っていったのは、私の肩よりも小柄な男の子たちだった。
 ふたりの男の子は口々に声を張り上げながら――聞き慣れない異民族の言葉だ――鼻息の荒い馬たちをなだめていく。日頃から馬の扱いに慣れているとわかる手際のよさだ。
 手分けをして馬の数を確認した男の子たちは、先ほどとは違う音程の口笛を吹いた。ひとりが馬たちを先導し、もうひとりが最後尾について追い立てる。
 先導役の男の子がすぐそばを通り過ぎた。
 曲線的な紋様が染め抜かれた布を頭に巻き、揃いの紋様で衿を飾った上衣を着ている。赤く日に焼けた頬に散らばったそばかすがいっそうあどけない。
 すれ違う刹那、髪とは対照的な深い青色の瞳が私を視た(・・・・)
 藍方石を思わせる双眸がきゅっと弓形に線を引く。強烈な既視感に息を呑んだ私は、そこで夢から醒めた。
 隣の控えの間からは婆のいびきが聞こえる。蔀戸を下げたままの室内は暗く、まだ起きるには早い時間帯だ。
 すっかり眠気の吹き飛んでしまい、褥の中で何度も寝返りを打った。とうとう堪えきれなくなって起き上がり、身支度を調えて宮を抜けだす。
 明け方の森には、あちこち霜柱が立っていた。
 だれにも踏まれていない白い絨毯の上を歩き回り、沓で霜を踏みしだく戯れは、二度目の幼少期でも不思議と夢中になったものだ。冬になると軒先に垂れ下がった氷柱を叩いて澄んだ音色を楽しんだ。
 かじかむ指先に息を吐きかけながら薄暗い森の中を進む。木立の切れ間に殿舎の屋根が見えてきたあたりで立ち止まり、陰からそっと森の外を窺う。
 殿舎の軒先に人気はなく、釣り灯籠の火が物寂しげに燻っていた。巡回の衛士はいないようだ。
 明星の姿が見当たらないことは、だだ悲しく切なかった。肩を寄せ合って語らった階のあたりをぼんやり眺めていると、廊のむこうからだれかが歩いてくる。
 慌てて木の幹に隠れると同時に、釣り灯籠の下に冠を被った宮人が現れた。
 身分の低さを示す浅縹の朝服。赤銅色の結髪が残り火に淡く光る。
 ――阿俱流だ。
 驚く私を、藍方石の左目がまっすぐ捉えた。
 阿俱流は迷いのない足取りで階を下ると、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます、皇女様」
 隻眼を細め、阿俱流は朗らかに挨拶した。
 愁いを帯びた第一印象が強かっただけに、私は面食らって瞬いた。形容しづらい違和感に産毛がちりちりする。
「お……はようございます。あの、阿俱流殿はどうしてここに?」
 新嘗祭まで日もないので作戦会議のために近く再訪すると聞いていたが、てっきり水沙比古と連れ立って来るとばかり思っていたのに。
 阿俱流は思慮深げに答えた。
「一の皇女様からのお預かりものを姉に『二の皇女様にお渡ししてほしい』と頼まれました。お届けに上がった次第です」
「姉様から?」
 片割れの名前に心臓が跳ねる。
 阿俱流は懐から布包みを取りだした。恭しく差しだされたそれは、片手に収まるほど小さい。
 もどかしく震える手で受け取ると、見た目どおり軽かった。布包みを開き、きらりと瞬いた光が瞳を射抜く。
 光の正体は鋭く磨かれた銀の笄だった。私の手で握るのにちょうどよい長さで、赤い花を模した珊瑚の飾り珠があしらわれている。
「これは――」
「揃いの笄を一の皇女様がお持ちになっていらっしゃいます。再会の約束の証に、祭の当日につけてほしいとおっしゃっていました」
「姉様は、こたびの密か事をご存じなの?」
 私の問いに、阿俱流は短く首肯した。
「姉を通じて手筈をお伝えしております。妹君にお会いできると知れると涙をこぼして喜ばれ、食欲も戻られたご様子でした」
「ああ……そうなの。それはよかった」
 滲んだ涙を袖で拭い、私は布包みごと笄をそっと胸に抱いた。
 きっと次の逢瀬が今生の別れになる。この笄は互いの手を放すための約束の証であり、いつか思い出のよすがとなるものだ。
「ありがとう、阿俱流殿。約束の証は確かに受け取ったと、どうぞ明星媛にお伝えして」
 水沙比古よりもいくらか低い位置にある隻眼にほほ笑みかけると、阿俱流はきゅっと左目を眇めた。
 その表情に既視感がよみがえる。炎のように揺れる赤銅色の髪が眼前にちらついた。
 ――あの男の子だ(・・・・・・)
 今朝の夢に現れた男の子とまったく同じ()で私を見ている。グンッと意識を引き寄せられる力を感じ、たたらを踏んだ。
 かれが私を覗きこもうとしているのか、それとも私がかれの意識野へ潜りこもうとしているのか。双方の力が拮抗しながらぐにゃぐにゃと入り乱れていく。
「……ッ!」
「おっと」
 耐えきれずによろめいた肩を大きな手が受け止めた。カメラのシャッターを切るように接続が遮断され、どっと汗が噴きだした。
「いかがされましたか、皇女様」
 阿俱流は涼しい笑顔で尋ねてきた。
 私は深く呼吸をくり返しながら、少年を凝視した。
「阿俱流殿……あなた、陰視だったの?」
「いいえ」
 さらりと返された否定に面食らう。
 阿俱流はクツリと喉を鳴らし、私の肩から手を離した。
阿俱流(わたし)は陰視ではございません。しかし近しい者に陰視がおりましたので、徒人よりもいくらか勘が鋭いたちなのです。おそらくは血筋なのでございましょう」
「血筋?」
「私と姉の満瀬は、火守(クウィル)の巫女の流れを汲む生まれなのです」
 耳慣れない響きの言葉。くうぃる、と口の中でくり返すと、冷たい風の匂いを嗅ぎ取った。
「北夷の民が自ら名乗る呼称です。こちらの言葉では『聖なる火の番人』という意味になります。北夷の民は火を司る炉の女神(オルヘテ)を篤く信仰しており、女神から火を授けられたことで厳しい寒冷地でも暮らしていけるようになったという伝承があるのです」
「あなたたち姉弟は、確か……その……」
 水沙比古から聞いた出自の噂を思いだして言い淀んでいると、阿俱流はおかしそうに笑った。
「北夷の男に略奪された女から産まれたという話でしたら間違いですよ。私の父は風牧の将で、武功の褒美として北夷の巫女を妻に賜ったのです」
「その巫女殿が母君?」
「ええ。しかし時経たずして父は戦傷が原因で亡くなり、身重の母は北夷の郷へ帰されました。私と姉は、伯父に当たる養父の迎えが来るまで母の郷里で育ちました」
 阿俱流は言葉を切ると、皮肉っぽく口端を吊り上げた。
「いずれにしろ、宮城(ここ)での私たちが『鬼子』であることに違いはありますまい。杣の宮に幽閉されている皇女様には、われらの思いがよくよくおわかりいただけるのではないでしょうか」
 青いまなざしが私の両目を覗きこむ。母親殺しの鵺の眼と父親に忌み嫌われた、呪いのような朱金色の瞳。
 くちびるを噛んで俯くと、右手首の手環が視界に入った。
 この手環を母に託した顔も知らない祖母は、私と同じ色の瞳を持っていたという。
 手環に宿る亡き(ひと)のぬくもりにやさしく励まされ、視線を上向ける。
「そうね。自分ではどうしようもない理由で疎んじられる悲しみや腹立たしさは、私にも覚えがあるわ。……でも、自分が何者であるか最後に決めるのは、自分自身の心だとも思う」
 阿俱流に向けて語りながら、私は自分の気持ちを見つめ直していた。
 婆が言っていたような、生まれてきた役目はまだわからない。
 だが、夕星という人間は、確かにこの世界の命の連鎖のひとつなのだ。母から子へ連綿と紡がれてきた血脈の糸の末端が、いまここにいる私なのだ。
 ――ここは夕星の世界であり、『私』の世界でもあるのだ。
 手環と同じ紋様を織りこんだ髪紐の持ち主を思い浮かべる。私がどこで生きようと、そばにいて助けてやると笑った少年の海色のまなざしを。
 水沙比古の想いに報いたい、あの子に恥じない主になりたい。南の海の温かな波にも似た感情に思わず眉尻が垂れた。
「私は鵺でも鬼でもなく、人の心を持って生きていきたい。死ぬまでこの森から出られないとしても……人として、大切なひとの幸いを願い続けたい」
 阿俱流の口元から笑みが消えた。
 かれはツイと片眉を持ち上げ、首を傾げた。
「二の皇女様は、生涯幽閉という身の上にご納得されているのですか?」
「……神隼親王のおかげで、もういちど明星媛に会える。どこかへ降嫁される前にお別れを申し上げて、どうか幸せにとお伝えできる。それだけでじゅうぶんよ」
 困惑気味に答えると、阿俱流は「なるほど」と呟いた。
「皇女様は物分かりのよいお方でいらっしゃる。身を引き裂かれるほどに定めを恨んだことなどはい、素直な気質をお持ちのようだ」
 どこか刺々しい台詞だった。眉をひそめる私に、阿俱流は頬を歪めた。
「あなたは、本当の意味で孤独ではないのですね。一の皇女様と違って」
「え?」
「私には、一の皇女様のご心中が痛いほどわかります。たったひとりしかいない(・・・・・・・・・・・)、何もかも分かち合って生まれてきた半身だけなのに。失うなんて……奪われるなんて、許せない」
 足元の影まで射止めるような、凍えきった声だった。暗く燃える藍方石の瞳に思わず後退る。
 阿俱流はひとつ瞬いて笑みを刷くと、慇懃に頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。他愛ない戯言と聞き流していただきたく思います」
「あなたは――……」
 私は夢の中に現れた男の子たちを思いだした。姿かたちも声も相似形のふたりの男の子。
 どちらかが阿俱流なのだとしたら、かれには姉以外の兄弟がいるはずなのだ――おそらくは私と同じ、双子の片割れが。
 何かを見落としている気がした。テスト用紙の解答欄に誤って隣の問題の答えを書いてしまったような、すぐそこにある真実に手が届かない焦燥感。
 継ぐべき言葉が見つからないまま立ち尽くしていると、阿俱流が朝服の裾を捌いた。
「そろそろ衛士が見回りにくる時間でしょう。また改めて宮にお伺いいたします」
「そう……ね。私も朝食までに戻らないと」
 阿俱流はちらりと笄を一瞥すると、舌舐めずりする蛇のようにほほ笑んだ。
「きっと皇女様には珊瑚の赤い花がお似合いですよ。いまから拝見するのが楽しみです」

四 北風の使者〈3〉

 朝ぼらけの宮城に太鼓の音が響き渡る。
 夢の名残が醒めやらぬ空気を震わせる重低音に、陰りに潜むものたちがざわついている。祭の日には人間ではないものの気配も浮き足立って落ち着かない。
 太鼓の音を数えながら、私は鏡台と睨み合っていた。
 古ぼけた鏡にはしかめっ面の少女が映りこんでいる。普段は適当にまとめているだけの髪をきっちりと双髷に結い、慣れない化粧をしているせいか自分の顔ではないかのよう。
 白い袍の上に晴れやかな花浅葱の背子を重ね、更にひらひらとした玉虫色の領巾(ひれ)を肩に掛けている。鮮紅色の裳を着ければ、皇族のそば近くに仕える上級宮女の出来上がりだ。
 下級宮女の扮装では明星が待つ殿舎まで近づきにくいから……という理由で阿俱流が用意してくれた装束である。上級宮女は男性皇族に見初められることもある身分なので、華美な装いが好まれるのだ。
 双髷の根元には珊瑚の飾り珠がついた笄を挿している。阿俱流が言ったとおり墨色の髪に赤い花が映えているような気もするが、似合っている自信はない。
 眦に紅を差した朱金色の双眸は、戸惑いを浮かべて私を見つめ返していた。袖や領巾で隠せば目立たないはずだと阿倶流は言っていたが、本当にうまくいくのだろうか。
 ため息を噛み潰していると、外から蔀戸を控えめに叩く音がした。
「二の媛、起きているか?」
 水沙比古の声に、ようよう観念して立ち上がる。
「ええ。いま開けるわ」
 蔀戸を開けると、冑を脇に抱えた水沙比古が立っていた。
 銀碧の瞳がきょとんと瞬く。不思議なものを見るまなざしに居心地の悪さを覚え、とっさに顔を背けた。
「おはよう。寒いから、中へ入って」
「あ……ああ」
 水沙比古は蔀戸をくぐると、そそくさと火鉢のそばに腰を下ろした。
 いつになく挙動不審な様子に私までいたたまれなくなってしまう。お互いに黙りこんでいると、育ち盛りの少年の腹の虫が切なげに鳴いた。
「あ」水沙比古が間の抜けた声を洩らし、仔犬のような目でこちらを窺う。
「……昨日、真赫が持ってきてくれた(しとぎ)がまだ残っているの」
「食べる!」
 元気のよい返事に思わず笑ってしまった。
 粢は米粉と水を混ぜて捏ねたものを丸めた、団子や餅に似た菓子(くだもの)だ。日常的な軽食ではなく、祭の日に神前に捧げられたあとで特別にふるまわれる。
 子どものころは、祭のあとに真赫が持ってきてくれた粢を炉端で焼いて食べることが楽しみだった。
 固くなった粢を草の葉で包み、火鉢の灰の中へ埋める。しばらく待つと灰の熱で蒸し焼きになる。
 焦げた草の葉を剥くと、ふわりと甘い湯気が広がった。
「熱いから火傷しないようにね」
「うん」
 水沙比古はふうふうと息を吹きかけてから粢にかぶりついた。見てくれは立派な若者なのに、こういうところが男の子のままなのだ。
 私も自分のぶんの粢にかじりつく。米粉の素朴な甘みが妙に懐かしい。
 年を取って固いものが食べづらくなった婆は、細かく切った粢を甘葛煎を薄めた汁で煮てもらい、やわらかい芋粥のようにして食していた。
 前世でも、デイサービスで働いていた母が老齢の利用者には焼き餅入りのお雑煮ではなく小粒の白玉が入ったお汁粉をふるまうのだと話していた記憶がある。どの世界でもお年寄りの食事で気をつけるポイントは同じらしい。
 丈夫な歯と旺盛な食欲を持つ水沙比古は、粢を三個ぺろりと平らげた。
「うまかった!」
「それはよかった」
 白湯の入った椀を渡すと、水沙比古は腹を撫でさすった。
「粢なんて久しぶりだ。和多の郷にいたころは、万祝のあとに親父どのがこっそり食べさせてくれた」
「私も同じよ。甘い菓子なんてめったに食べられないから、とても嬉しかった覚えがあるわ」
 七洲で甘味料はとても貴重だ。舶来品である砂糖はほぼ出回っておらず、宮中の台盤所で用いられているのも甘葛煎や水飴ばかり。
 それすらも稀少で、甘味料を使った菓子を気軽に食べられるのは皇族や高位の豪族に限られる。
「水沙比古は削り氷を食べたことがある?」
「けずりひ?」
「薄く削った氷に甘葛の煮汁をたっぷりかけて、夏の盛りに食べるの。とても冷たくて甘くて、それはそれは美味だそうよ」
 以前、明星が教えてくれた菓子だ。おそらくかき氷のようなものだろう。
 冬のあいだに天領の池で作った氷を切りだし、夏まで氷室で保存しておく。毎年蒸し暑い季節になると台盤所に運びこまれ、大皇の計らいで後宮の妃嬪や親王、内親王に削り氷がふるまわれるのだそうだ。
「明星はね、暑い夏の日に食べる削り氷が菓子の中でいっとう好きだと話していたわ。異母弟の神隼もお気に入りなのですって。私は食べたことがないと言ったら、とても気まずそうな顔をしていたわ」
 水沙比古は眉根を寄せた。
「羨ましかったのか。一の媛が」
 私は手元の椀に白湯を注ぐと、少し冷ましてからそっとすすった。
 火鉢の灰の中で熾火がちろちろと燃えている。赤い揺らめきを眺めていると、胸の奥がさざめいた。
 澱のように凝っていた感情がよみがえる。白湯を飲み下しても消えない苦味に頬が歪んだ。
「みじめだった……かもしれない」
 空になった椀を持つ両手に力が入る。
「悲しくて、恨めしくて、あの子が憎らしく思えた。立場の違いは明星のせいではなのに」
 片割れの苦しみを、だれよりも知っているはずなのに。行き場のない、許しがたい怒りを明星に抱いてしまった。
「明星が大好きよ。何より大切で、だれより幸せになってほしい。でも本当は、私にはないものを当たり前のように持っているあの子が……少しだけ嫌いだった」
「一の媛に会うのをやめるか?」
 水沙比古が声を落として尋ねる。
 私は首を横に振った。
「明星に会いたいのは本当よ。最後にきちんとお別れを言いたいの」
「……これが最後でよいのか」
「危険は何度も冒せないわ。それに私たち姉妹の年齢を考えれば、明星の降嫁は遠くないはずよ。あの子はようやく大皇から自由になれるの。その邪魔をしたくない」
 カランと椀が転がった。
 身を乗りだした水沙比古が左手を掴んでいた。ぎゅ、と力をこめられ、かすかな痛みに眉をひそめる。
「水沙比古?」
「二の媛は……」
 もどかしそうに口を動かし、水沙比古は言葉を押しだした。
「このまま杣の宮に囚われたままでよいのか。外の世界へ――大皇に怯えずともよい場所へ逃げたくはないのか?」
 私は息を呑んだ。斬りこむような阿俱流のまなざしが銀碧の双眸に重なる。
「逃げるって……いったいどこへ?」
「和多の郷ならどうだ。二の媛が望めば、親父どのは喜んで迎えを寄越す」
「そんなの、無理よ」
 泣きそうになりながら頭を振ると、水沙比古は「なぜ」と低く唸った。
「大皇に疎まれているのなら、こちらから出ていけばいい」
「そういう問題ではないの。大皇は、私に死ぬまでこの宮に留まるよう命じたのよ。外へ出たいと言えば殺される。私だけでは済まないわ。婆も真赫たちも、あなたまで巻き添えにしてしまう」
「……こんなに暗くて寂しい森の奥で、糸繰り女の真似事をしながら生きていくのか? 和多の氏長の孫娘、内親王である貴い媛が」
 悔しそうに奥歯を軋ませる水沙比古に、私は眉尻を下げて笑いかけた。
「大皇の治世が続く限り、幽閉が解けることはないでしょう。でも、そうね……何年か何十年か経って神隼が皇位を継いで世情が変われば、もしかしたらお許しが出るかもしれない」
 右手を少年の手に重ねると、強張った肩がわずかに弛緩した。
「明星から聞いた異母弟は、聡明でやさしい子だというから。私の身の上を憐れんでくれるかもしれないわ。もしも外へ行けるようになったら……私を和多の郷へ連れていってくれる?」
 水沙比古は瞳を揺らし、ぐっと口元を引き結んだ。
 会ったこともない異母弟の恩情など、あてになるかどうか定かではない。所詮はこの場しのぎの慰めでしかないと、かれもわかっているはずだ。
 ――それでも。
 叶わないと知っていても願わずにはいられない想いがある。片割れのぬくもりとともに。
 左手首を掴む右手がほどかれ、代わりに右手を両手で包まれた。
「約束する」
 少年の手の温度と、刻みこむような声の強さに、私は呼吸を忘れた。
「和多の郷でも、海の果てでも。二の媛が望む場所まで連れていくよ。おれが、必ず」
 いつか見た海の色を宿した、その眸が。
 ひたむきな表情から視線が逸らせない。時が止まったかのように見つめ合っていると、控えの間から婆の唸り声が聞こえてきた。
 揃ってハッとする。外からすっかり明るくなっていた。
 太鼓の音がいよいよ大きく鳴り響く。祭のはじまりを告げる合図だ。
「そろそろ行こう。人目につかないうちに阿俱流と落ち合わないと」
 水沙比古は冑を被りながら呟いた。
 慌てて火の始末をしていると、褐色の指先が口元に触れた。
「二の媛。出る前に鏡を見たほうがいい」
「え?」
「紅。取れているぞ」
 粢を食べたときに落ちてしまったのだ。不意打ちに固まる私へ、水沙比古は両目を細めた。
「おれが差してやろうか?」
「ばっ……こんなときにからかわないでちょうだいっ」
 羞恥をごまかすために小声で怒鳴ると、少年は喉を鳴らして片手を振った。
「残念。せっかく従者の役得にありつけると思ったのに」
「役得、って」
 滲むような朝の光にふちどられた横顔がほほ笑む。
「似合っている。普段から二の媛は美人だが、めかしこむといっそうきれいだな」
 ぽかんとする私を置き去りに、水沙比古は「外で待っているよ」と出ていってしまった。
 のろのろと鏡の中を覗きこむ。映りこむ少女の頬は、明らかに化粧ではない紅色にほんのりと染まっていた。

五 火群の宴〈上・1〉

 久しぶりに触れた森の外の空気は、細かい棘のようにピリピリと皮膚を刺した。
 水沙比古に連れられ、人目を避けながら後宮に向かう。日の出と同時に新嘗祭がはじまったので、祭殿から離れた後宮付近は人が出払って異様なほど静かだった。
 後宮の入り口である唐門の前に、浅縹の朝服を着た阿倶流が待っていた。
 私たちに気づくと、かれは伏し目がちに一礼した。その姿に覚えのある違和感が頭をもたげる。
「お待ちしておりました」
 だが、それを口に出す暇はない。だれかの目につかないうちに移動しなければならない。
「おれはここで待っているよ」
 水沙比古が冑の下でほほ笑んだ。下級の衛士は後宮の中まで入れないからだ。
「二の媛が伝えたいことを、正直に伝えてこいよ。心残りがないようにな」
「……うん」
 途端に心細くなり、私は途方に暮れて銀碧の双眸を見上げた。
 水沙比古は励ますように私の手を軽く握り、阿倶流に視線を移した。
「おれの主を頼んだぞ」
 藍方石の隻眼が瞬く。阿倶流は短く頷いた。
「確かに承った」
 水沙比古に見送られて唐門をくぐる。記憶にある限り、はじめて後宮に足を踏み入れた。
 宮城はふたつのエリアに分けられる。大皇が朝臣とともに政務を行う外朝と、皇族の居住区である内朝だ。
 大皇の妻子が暮らす後宮は内朝の北側に位置し、宮中で最もきらびやかでありながら陰惨極まる毒花の園だ。その頂点に君臨する継母は、さしずめ女王を気取るとりかぶとだろうか。
 もしも母がお産で命を落とさなければ、明星とともに私も後宮で暮らしていたのかもしれない。複雑な気持ちで周囲を見回していると、先導する阿倶流が口を開いた。
「一の皇女様は最奥の御殿にお住まいです。私の姉とともにお待ちになっております」
「ほかの侍女たちはどうしたの?」
「姉の手筈で、皇子様のお世話へ回るように仕向けてあります。最低限の侍女が残っていますが、一の皇女様は神事が滞りなく行われるようお祈りするため、早朝からお部屋に籠られていることになっております」
 つまり、明星は万全の人払いをした状態で待機しているわけだ。阿倶流と満瀬の手際のよさには感嘆させられる。
「明星媛は、ずいぶん満瀬殿を信頼しているのね」
 苦しいばかりの後宮での生活で、ひとりでも心を許せる相手が片割れにいることが嬉しかった。
 私の台詞に、阿倶流は横顔をわずかに強張らせた。
「……姉は私と違って、明朗で他者の懐に入ることに長けておりますゆえ。皇女様方と同年という点も親しみを覚えていただけた理由のようです」
「満瀬殿はわたしたちと同年なの?」
「姉も私も、今年で十六になります。私たち姉弟は双子なのです」
 私は阿倶流の顔を凝視した。
 少年は前を向いたまま、独白のように語る。
「幼いころから互いを半身と思ってきました。生まれ育った北夷の郷でも、九つで引き取られた風牧の氏族でも、この京でも……私たちは女神に祝福された特別な魂を分かち合って生まれてきたのだから、半身を欠かすことがなければ何が起きても――」
 不意に口をつぐみ、阿倶流は肩越しに振り向いた。
「申し訳ございません。余計なことまで申し上げました。どうかお気になさらぬよう」
「……あなたにとって、満瀬殿は失いがたい半身なのね」
 阿倶流は眉間を歪め、伏し目がちに笑った。
「わが身と引き替えでも欠かせぬもの、と。何より近しく……ですが、ときどきこの世の端と端にいるのではないかと感じるのです」
 阿倶流の独白を聞きながら、私は内心で動揺していた。
 いままで視たヴィジョンを振り返ってみる限り、かれには双子の兄弟(・・)がいるはずだ。それとも、幼少期を過ごした北夷の郷では訳あって満瀬も男児として育てられたのだろうか。
 乳幼児の死亡率が高い七洲では、魔除けの意味をこめて一定の年齢まで子どもの性別を偽って育てるという風習があるそうだ。疫病が猛威を振るった時代には、幼い皇太子に皇女の衣装を着せて疫神から守ろうとしたこともあったと婆が話していた。
 ――違う。目が合ったかれ(・・・・・・・)は男の子だった。
 直感は警告のように鋭く訴えてくる。思わず立ち止まると、阿倶流が振り向いた。
「皇女様?」
「……満瀬殿も、あなたのような赤い髪をしているの?」
「然様ですが……それが何か?」
 怪訝そうな阿倶流の表情に、なんと尋ねればよいかわからない疑念が喉を塞ぐ。口ごもっていると、阿倶流がハッと息を呑んだ。
「こちらへ」
「えっ」
 片手を引かれて殿舎の陰に連れこまれる。覆い被さってきた阿倶流に目を白黒させていると、「お静かに」と小声で耳打ちされた。
 視界を塞ぐ阿倶流の肩越しに、縁の板を鳴らす足音と話し声が近づいてくる。とっさに袖で口元を覆った。
 きゃらきゃらと響く声から察する限り、若い宮女たちが通りかかったらしい。雀のようなおしゃべりと歩みを止める様子もなく、宮女たちはさっさと立ち去ってしまった。
「……行ったようですね」
 阿倶流は隙のないまなざしで周囲を見回し、素早く身を離した。
 心臓が固く縮こまったままで、うまく呼吸ができない。ぱくぱくと口を動かしていると、掴まれたままの手を引っ張られた。
「ほかの者に見つからないうちに急ぎましょう。一の皇女様の宮まであと少しです」
 頷く間もなく歩きだす。もつれそうな足で必死に浅縹の背中を追いかける。
 阿倶流の手は水沙比古の手と同じぐらい大きく、種類の違う武骨さを纏っていた。体温が低いのか、どこかひやりとする。
 焦燥と緊張で白昼夢の中をさまよっている気分だ。いくつかの建物を通り過ぎ、ひと際大きな殿舎が見えると阿倶流が指差した。
「あれです」
 大皇の愛娘が住まう宮は、主人の身分にふさわしく立派で手入れが行き届いていた。
 黒々とした屋根瓦にまぶしいほど白い壁、色鮮やかな丹塗りの柱。夜になれば、軒先の釣り灯籠からあかりが絶えることはないのだろう。
 ここで片割れは大勢の侍女に傅かれ、暗い森の闇に怯えることも知らず暮らしてきたのだ。突きつけられた境遇の差に羨望とも嫉妬ともつかない感情が沸き上がるが、一瞬で冷めて虚しさが広がった。
 ――私が欲しかったものは、明星にとって幸福だったのかわからない。
 阿倶流に導かれて階を上がると、縁の奥からひとりの少女が現れた。
 しゅるしゅると裳裾が床板を擦る音。腰を屈め、片脚が引きずるようにゆっくりと歩いてくる。
 ……女性にしては背が高い。阿倶流と変わらない身長の持ち主ではなかろうか。
 白い袍に褪めた朱色の背子、藤色の模様が入った領巾と浅葱色の裳。上級宮女としては落ち着いた色合いだが、刺繍入りの帯が上品で美しい。磨いた赤銅のごとく艷めく髪を双髷に結い上げ、金の簪を挿している。
 氷雪から切りだしたような白皙の(かお)。化粧をしているが、目鼻立ちは阿倶流そっくりだ。
 両眼揃った藍方石が柔和な線を描き、しずしずと伏せられる。
「お待ち申し上げておりました」
 ざらりと掠れた声がささやく。一礼する少女を前に立ち尽くしていると、阿倶流が「姉の満瀬です」と紹介した。
「子どものころに患った病の後遺症で喉が潰れ、片脚が満足に動かせぬ身なのです。見苦しいと思いますが、どうかご容赦を」
「まあ、そんな……見苦しいだなんて」
 慌てて首を横に振ると、満瀬は面を上げてほほ笑んだ。
 阿倶流と相似形の顔立ちは、どちらかというと鋭角的で女性らしからぬのに、紅を刷いたくちびるをゆったりと持ち上げる様は息を呑むほど婀娜っぽい。深紅に煙る睫毛の陰に隠れた青い瞳は、底知れぬ吸引力を秘めている。
 一瞬、視界がぐにゃりと歪んだような感覚に襲われ、私は彼女の双眸から視線を逸らした。
 満瀬の目をまっすぐ見ては危ない(・・・)
 とっさの判断だった。あからさまに顔を背けたりせず、不自然でないよう鮮やかな口元に視点を置く。
「一の皇女様からお聞きしていたとおり、二の皇女様はおやさしい方でいらっしゃる」
 満瀬は歌を口ずさむようにささやくと、領巾を揺らして来たほうを示した。
「どうぞこちらへ。一の皇女様がお待ちになっておいでです」
「私は御座所までお供できませぬゆえ、ここに控えております」
 阿倶流は素早く満瀬に目配せをすると、床に片膝をついて頭を垂らした。
 弟の一瞥を受け取った満瀬は、「これより先はわたくしがご案内いたします」と誘った。
 私は面食らった。当然のように阿倶流もいっしょだと思っていたからだ。
 しかし、皇太子の舎人とはいえ一介の宮人に過ぎない阿倶流が皇女の御座所を訪うことなど許されるはずもない。満瀬とふたりきりになる状況は容易に予想できたのに、ひどく狼狽してしまった。
 満瀬は私にかまわず裳裾を引いて歩きだした。元来、許された時間は少ない。
 私は双子の姉弟のあいだでうろうろと視線を迷わせ、観念して満瀬の背中を追いかけた。
 殿舎をぐるりと囲う縁を回りこむと、明星の宮は複数の棟で構成されているのだとわかった。建物のあいだには透廊が渡され、明るい庭がよく見えた。
 冬も近いのに甘やかな花の香がどこからか漂う。ひよひよとさえずる小鳥の声、穏やかな晩秋の木洩れ日。
 人の手が行き渡った、陰りなどどこにもない清らかな箱庭。私の知らない、片割れが生きてきた世界の景色(ながめ)
「この宮は、大皇が(さき)のお妃様をお迎えする際に造られたと聞いております」
 不意に満瀬が振り返った。
「え……?」
「お妃様のため、選りすぐりの(たくみ)を七洲じゅうから呼び寄せて造らせたそうです。冬枯れの季節にも花が絶えぬよう、庭には大陸渡りの珍かな草木を植えられているとか」
 なるほど、と私は素直に納得した。
 大皇の寵姫の住まいともなれば、後宮で最も贅を凝らした宮であるに違いない。母亡きあとも、彼女の忘れ形見である明星の揺籃とされても不思議ではない。
「母上――白珠媛に対する大皇の寵愛の深さは、私もよく聞き及んでいるわ。きっと大皇は、白珠媛の思い出が残る宮で、明星媛を慈しまれることを心の慰めとしたかったのでしょうね」
 だが、その選択は大皇の傷心を本当に癒したのだろうか。愛妃への追慕は長じていく明星への執着にすり替わり、あの子の心にこそ影を落としている。
「一の皇女様は、この宮を牢獄だとおっしゃいました」
 満瀬の声は冷え冷えと響いた。
 思わず身を竦めると、赤い花のようなくちびるがうっすら笑う。
「真綿のような鉄で作られた鳥籠。籠の中で生まれ育った小鳥は飛び方など知りませぬ。だから自分はどこにも行けない。そも、自分は片方の翼しか持たずに生まれ落ちた。もう一方の片翼もまた、暗い森の奥深くに籠められてしまっているからなのだと」
 ――わたくしたちは、どこにも行けない
 明星のささやきが聞こえた気がした。透廊に佇み、閉ざされた庭を見つめる片割れの姿を幻視した。
それでもいい(・・・・・・)と、皇女様はほほ笑まれました。片翼がいてくれる、それだけでよいのだと」
「……明星媛は、いずれ然るべき氏族へ嫁がれるわ」
 幻を打ち消すように私は頭を振った。
「いまは大皇が許さなくても、和多の祖父や、ほかの豪族たちが黙っているはずがない。昔は異腹の兄弟姉妹であれば皇女が皇子の妃となることも珍しくなかったけれど、近親間の婚姻は血の濁りを呼ぶという巫女の占があってからは忌避されている。明星媛と身分が釣り合う未婚の男性皇族は神隼親王だけ……つまり、明星媛は皇の外へ出ていかなければならないのよ」
「大皇は果断の君であらせられる」
 低く喉を鳴らし、満瀬は爪先の向きを直した。
「そのご気性がいかに苛烈であるか、二の皇女様もご存じでしょう。武を好み、七洲(くに)を麻のごとく乱しかねないと知りながら和多の氏族から白珠媛を奪い去った。まさに赫日の(みこ)たるお方」
「満瀬殿。何が言いたいの?」
 訝しんで尋ねても、満瀬は答えないまま進んでいく。
 やがてたどり着いた殿舎の縁に立ち、視線だけ投げて寄越した。
「さあ。あなたの片翼がお待ちです」
 笑みのまま閉ざされた紅唇を睨み、私は満瀬の横を通り過ぎた。いまはとにかく明星が最優先だ。
 殿舎の蔀戸は下半分が取り払われ、簾が垂れ下がっている。私はそろそろと簾に近づき、小声で片割れを呼んだ。
「姉様……明星?」
 勢いよく簾が跳ね上がった。
 袖を掴まれて室内に引きずりこまれる。床に倒れこんだ私を跨がるように、だれかが覆い被さってきた。
 墨色の髪が帳となってさらさらと流れ落ちた。真白い単衣を羽織っただけの明星が私を凝視している。
 あまりにしどけない出で立ちに唖然とした。簾越しの薄明かりに、ほっそりとした少女のシルエットが単衣を透かして浮かび上がる。
「あ、明星?」
 戸惑う私をひたと見つめ、明星は吐息をこぼした。珊瑚色のくちびるが震え、どこか艶かしく綻ぶ。
「このときを待ち焦がれていたわ、夕星。わたくしの愛子」
 白魚のごとき十指が私の頬を撫で、頤を伝い、やさしく首に巻きついた。
 恍惚と上気した頬。朝露に濡れたまつむしそうの花にも似た双眸は、怖気立つほどの狂気に輝いていた。
「どうかわたくしといっしょに、ここで死んでちょうだい」
 私の首を絞め上げる片割れの両手が、ぎちりと軋んだ。

五 火群の宴〈上・2〉

 ――いったい何が起きているの!?
 気道を圧迫される苦しさに体が強張る。
 なんとか明星の両手を引き剥がそうともがくと、爪の先に皮膚が食いこんだ。肉を破る鈍い感触のあと、桃花色のくちびるから悲鳴が洩れる。
 ぱたたッ、と頬に熱い雫が降りかかった。
 裳がまくれるのもかまわず脚をばたつかせると、体勢を崩した明星の手が首から離れた。
 そのまま明星を突き飛ばし、床を這って後ろへ逃げる。
 両手の甲に掻き傷を負った明星は顔を歪め、すすり泣くように唸っている。髪を乱し、着崩れた単衣から白い肩をあらわにした姿は、幽鬼じみて空恐ろしかった。
「ひどい……ひどいわ、夕星……」
 泣き濡れた紫色の瞳が恨めしげに睨んでくる。どこまでも純粋に私を責める、幼子のような目で。
 私は唾を飲み下した。
「明星、あなた……自分が何をしようとしたのかわかっているの?」
 尋ねる声は震えてしまった。片割れは柳眉を曇らせ、痛ましい緋を滲ませる手を伸ばした。
「あなたこそ、どうしてわたくしを拒むの。わたくしは、夕星といっしょに果ててしまいたいのに」
 眩暈がした。
 この子は――本気で私を殺そうとしたのだ。
「なぜ」
 片割れの血にまみれた指先を握りこみ、驚愕と怒りを吐き捨てる。体の底から震えが沸き起こり、視界が涙で歪んだ。
「こんな莫迦なことを」
「莫迦なこと?」
 明星は引きつったような笑みを浮かべた。
「そう……夕星にとっては莫迦なことなのね。夕星だけがわたくしのすべてなのに、夕星は違うのね」
 青ざめた面にじわじわと怒りが広がっていく。明星からはじめて向けられた敵意に、私は息を呑んだ。
奼祁流(たける)が教えてくれたとおりだわ。あなたはわたくしを見捨てた。わたくし以外の人間に心を寄せて、ひとりで幸せになろうとしている!」
 悲鳴じみた糾弾は甲高く耳を打ち据えた。
 私は呆然と明星の台詞を反芻した――私が明星を見捨てた?
「まっ……待って。待ってちょうだい、明星。言っている意味がわからないわ。私があなたを見捨てただなんて、そんな――」
「和多の郷から氏族の若者が杣の宮へ遣わされたと聞いたわ。お祖父様が、あなたを守る従者にするために」
 思わず言葉に詰まる。明星はきつく眉を吊り上げ、「名は水沙比古」と吐き捨てた。
「ずいぶん仲睦まじいそうね。まるで妹兄(いもせ)のようだと」
「それは……水沙比古はお祖父様の養い子で、私を助けるよう言いつけられているからよ。従者ならば主を助けるものだと、心を尽くしてくれるいい子だわ。下心なく自分によくしてくれるひとがいれば、好ましく思うのは当然でしょう?」
 私は頭を振った。
「あなたの言い分は支離滅裂よ。水沙比古がいるからといって、なぜ私が明星を見捨てたことになるの? 一日だってあなたを忘れた日はなかった」
「うそよ」
 切り捨てる声は硬く凍りついていた。
 明星はゆらりと立ち上がり、単衣の裾を引きずって近づいてきた。
 簾を透かして射しこむ秋陽がはだけた裸体をぼんやりと浮かび上がらせる。まろやかな胸乳のふくらみ、雪原を思わせる薄い腹、太もものあいだの淡い陰り。
 あと一歩で手が届く距離で立ち止まった明星は、冷え冷えと見下ろしてくる。
 そこで、ふと気がついた。
 少女の柔肌に赤い痕が花びらのように散らばっている。首筋から両脚の内側まで、至るところに。
 背筋がぞわりと粟立った。一瞬、明星から鉄錆の臭いが漂う。
「明星……?」
「うそつきだわ、夕星は。わたくしの気持ちなんて知りもしないで、お父様の目の届かない場所で大切にされて、のうのうと安穏を貪っているくせに」
 これが本当に片割れの言葉だろうか。
 私を愛子と呼んでくれた声は、いまや前世の『私』へ無慈悲に降り注いだガラス片の雨のよう。切り刻まれる心が苦鳴を上げる。
「杣の宮での暮らしを聞くたび、夕星が羨ましくて仕方なかった。あなたは顧みてくださらないお父様を恨んでいたけれど、わたくしには、やさしい大人に囲まれてお父様やお継母様(かあさま)に怯える必要もない生活は夢のように見えた」
「羨ましい……?」
 明星は口元を歪めた。
「そうよ。いっそ憎いほど、夕星が羨ましかった。大好きなのに、胸が引きちぎられるように嫉妬していた」
 まつむしそう色の両目が涙に沈み、少女の頬を流れ落ちていく。
 秋陽にきらめく金色の雫が明星の足元で砕け散った。
「夕星を嫌いだと思うたび、どうしてわたくしたちは別々の心と体を持って生まれてきてしまったのだろうかと悲しくなったわ。あなたがいなければ、わたくしは空を飛ぶ夢すら見れないのに」
 ほろほろと涙を流しながら、明星は失敗したような笑みを浮かべた。
「お父様に愛されないと苦しむ夕星は、心底かわいそうでいとおしかった。白珠媛の写し身でしかないわたくしでも――明星(わたくし)だからこそ必要としてくれるあなたを、愛することが唯一の救いだったの」
 私たちは似た者同士だった。
 互いの疵を舐め合って、寂しさや悲しみを分かち合おうとした。ふたりだけの殻に閉じこもり、来るはずのない朝を待ち続けた。
 ……つないだ手を離すことが裏切りならば、確かに私は明星を裏切ったのだ。
 泣きたいのに涙が出てこない。両目はカラカラに乾涸びて、瞬きのたびに痛んだ。
「夕星、わたくしの片翼。わたくしにはあなたしかいない。あなたが離れていくなんて耐えられない。だから、どうかいっしょに死んでほしい」
「……私を置いていくのは、明星のほうでしょう」
 声が震えるのは動揺か、それとも苛立ちか。私はよろめきながら立ち上がり、同じ目線で片割れを睨めつけた。
「明星こそ、私の何がわかるというの。生まれただけで母親殺しの罪を被せられ、化け物がうろつく森の古宮に死ぬまで閉じこめられて。見たくもないものを見てしまう目を持っている、それだけで化け物だと忌み嫌われる私の何が!」
 明星の表情が変わった。
 戸惑い、驚愕、納得、反発――手に取るように感情の揺れ動きがわかった。
「皇女として何ひとつ申し分のないあなたなら、嫁ぎ先にだって困らないはずだわ。なんならお祖父様の手を借りて、和多と親しい豪族に降嫁することだってできる。一生大皇の許につながれた私と違って、堂々と外に出ていけるじゃない!」
 そうだ。私だって、明星が羨ましかった。妬ましかった。大嫌いだった。
 この子を不憫だと憐れんで、この子の疵を労りながら自分の鬱屈を和らげようとしていた。本当に救いたかったのは、自分だった。
 どこまでも私たちは平行線で、同じものになどなれなかった。
「夕星は、本当にお父様がわたくしを手放すと思っているの?」
 おそろしく平坦な口調で明星が呟いた。
 不意に陰影が濃くなったような、明星が遠ざかったような感覚に襲われる。足元がすっと冷たくなった。
「わたくしこそ、お父様に囚われた虜」
「……正嫡の皇女を然るべき相手へ降嫁させずにいるなんて、お祖父様が黙っていないわ。何より、白珠媛の遺児を目障りに思っている継母上や希賀氏が許さないはずよ」
 乾いた笑声が響いた。
「お父様にはだれも逆らえないわ」
 白魚のような指が胸元から腹部へと素肌を伝い落ちていく。点々と浮かぶ赤い痕跡をたどるように。
「ただひとり、荒ぶる赫日の王を慰撫できたのは白珠媛だけ。お父様は軛が外れた牡牛(こというし)のようなもの」
 明星はぎりりと下腹部に爪を立てた。臍のくぼみの下――やがて子を孕む場所。
 再び鉄錆の臭いが鼻先を掠めた。真っ赤なストロボを焚かれたように視界が眩み、私は呻いた。
 先ほどからまとわりつく、この不安感は……何?
「ねえ、夕星。お父様は仰せになったわ。いずれわたくしに、ご自身の御子を産ませたいと」
「……なんですって?」
 私は耳を疑った。
 明星は、あるかなきかの微笑を湛えている。
「この祭が終わったら、お継母様を廃してわたくしを妃に迎えるつもりだそうよ。わたくしに産ませた御子に皇位を譲りたいけれど、近すぎる血が皇統に障りをもたらすことを危惧されているようね。その代わり、わたくしが女児を産んだら神隼の妃にしようと笑っていらっしゃったわ」
 脳裏に大皇の顔が思い浮かんだ。玉座の上から石のごとき冷めた眸で私を見下ろす、実の父親の顔が。
 喉を突き上げる吐き気に耐え切れず、私は嘔吐した。
 胃液と少量の吐瀉物が紅い裳に染みを作る。火傷したように喉が痛い。
「狂っているわ……」
「そんなこと、最初からわかっていたでしょう?」
 おかしそうに肩を揺らし、明星は乱れ髪を搔き上げた。
 唐突に理解した。片割れは、私を地獄への道連れに望んでいるのだ。
 苦しみも嘆きも絶望も等しく分かち合い、風切り羽を奪われた双翼で奈落の底まで墜ちていこうと。
 満瀬から聞いた、明星の言葉がよみがえる。――片翼がいてくれる、それだけでいい。
 私には、明星は救えない。明星もまた同じ。ならば末期をともにして、母が待つ死の国へ行くしかない。
 私の明星。だれより愛しい、私の片割れ。
 私は――この子のために死ぬべきなのか。
「いやよ」
 ガラス片の雨の中から、耳目を塞いで怯えていた森の夜の片隅から、叫びを上げる。
「私は死にたくない。私の命は私のものよ」
 泣きたくて、泣けなくて、涙の代わりに頬についた片割れの血を拭い取る。
 握りしめた拳が軋んだ。
「いっしょには死ねない。私は……生きるわ。生きたい。どんなに苦しくて、みじめで、明日が見えなくても。だれのためでもなく私のために、斃れる日まで」
 陽の翳りに佇む明星は「そう」と呟いた。
 笑みすら消えた面は、玉座の上の大皇()に似ていた。
「やっぱり、夕星はわたくしを見捨てるのね」
「姉様」
「出ていって」
 明星は近くの鏡台に置かれていた小物を鷲掴み、力任せに投げつけた。
 足元で金属音が跳ねる。赤い珊瑚の花を咲かせた笄がカランと転がった。
「いますぐわたくしの前から消えて。出ていきなさいッ!」
 床にぶつかった際に瑕がついたのか、飾りの花弁の部分が欠けていた。私の髪に挿しているものと同じだったはずの花は、不揃いになってしまった。
 もう二度と戻らない。――戻れない。
 かける言葉など見つからず、私はくちびるを噛んで爪先を外に向けた。
 簾をくぐる刹那、うなだれた明星の背中が震えていた。
 すり切れそうな嗚咽が追いかけてくる。私はわが身を抱きしめ、歩廊を駆けだした。

五 火群の宴〈上・3〉

 明星の宮を出るまで、私は終始無言だった。
 部屋から飛びだしてきた私の姿に、満瀬は藍方石の双眸を眇めただけだった。まるで、こうなると知っていたかのように。
「汚れを落としましょう。お召し物も替えたほうがよろしいかと」
 言われるがまま用意された湯で顔と両手を清め、真新しい背子と裳に着替える。満瀬は慣れた手つきで私の化粧を直すと、外に控えていた阿俱流を呼んだ。
「二の皇女様がお帰りです」
 私の首元に視線を留めた阿俱流は、眉をひそめた。
「……一の皇女様は?」
「後のことはわたくしに任せておきなさい。|手筈どおり《・・・・・・》二の皇女様を頼みましたよ」
 満瀬は有無を言わさぬ口調で弟に命じた。阿俱流は眉間の皺を濃くしながらも、黙して私の手を取った。
 ふわふわと覚束ない足取りで阿俱流の後ろをついていく。来た道を戻りながら、停止していた思考が徐々に回りはじめる。
 ――明星に負わせてしまった傷は、大丈夫だろうか。
 真っ先に思い浮かんだのは、白い手の甲に浮かんだ赤色だった。
 脚が止まった。
「皇女様?」
 阿倶流が怪訝そうに振り返る。
 いつの間にか宮を出てすぐのところまで戻ってきていた。後方を仰げば、壮麗な殿舎の屋根が変わらず秋陽に照り映えていた。
「いかがされました?」
「明星が、怪我を」
 絞め上げられた首がじくじくと痛い。息苦しさと明星の両手に爪を立てた感触がよみがえり、全身に震えが走った。
 うまく呼吸ができない。私は阿倶流の手を振り払い、両膝から崩れ落ちた。
「皇女様!?」
 阿倶流が驚いたように声を上げた。慌てて伸ばされた手に背中を支えられ、なんとか倒れこまずに済んだ。
 苦しい。苦しい。いまなお少女のほっそりとした十指が首に巻きついている気がして、私は胸を掻き毟った。
 このまま死ぬのではないかと気が狂いそうな私の耳元で、阿倶流がささやいた。
「皇女様、ゆっくり息を吐いてください。息を吸うのではなく吐きだすのです。ゆっくりと……そう」
 私の背中を撫でさすりながら、阿倶流は冷静にくり返した。かれの声かけに合わせて長く息を吐いたり、敢えて止めたりしていると、ゆるやかに胸の圧迫感が薄らいでいく。
 やがて自然な呼吸が戻ってくると、「落ち着かれましたか」と尋ねられた。
 恐怖と息苦しさから溢れた涙がすっかり頬を濡らしていた。返事が形にならず、私はなんとか頷いた。
 私の肩を抱き、顔を覗きこんでいた阿倶流は目元を和らげた。
「それはよろしゅうございました。……立って、歩けそうですか?」
 にたび頷き、浅縹の腕に掴まってよろよろと立ち上がる。
 阿倶流は何かに迷うような表情を浮かべながら口を開いた。
「少し……休んでまいりましょう。近くに、皇子様が一の皇女様とお会いになられる際に使われる小さな宮がございます」
 阿倶流に導かれるまま、もつれそうな脚を必死に動かした。
 明星の宮からそれほど離れていない場所に建っていたのは、こぢんまりとした殿舎だった。日頃は閉め切られているせいなのか、やはり人気はない。
 阿倶流の助けを借りて階を上がり、簾をくぐる。仲の良い異母姉弟の逢瀬の場にふさわしく、室内は小綺麗に整えられていた。
 几帳の前に小柄な人影がちょこんと座りこんでいた。
 七つか八つという齢の女の子だ。色白の、人形のように愛らしく品のよい面立ちには不思議と見覚えがあった。
 肩の下で切り揃えた涅色の髪を色糸を使って両脇で結い、はぎ色の短袍と白地に秋草模様が入った裳を纏っている。身形から察するに、女性皇族の侍女見習いとして働く女孺(めのわらわ)だろうか。
 手持ち無沙汰に短袍の袂をいじっていた女の子が顔を上げる。くりくりとした萌黄色の瞳が瞬き、阿倶流と私を認めるとまろい頬にパッとももの花が咲いた。
「姉上!」
 とっさに「え」と声が洩れた。
 勢いよく飛び上がった女の子は、小動物を思わせる動きで駆け寄ってきた。
「はじめまして、杣の宮の姉上。ずっとお会いできる日を楽しみにしていました!」
「まさか……神隼親王ですか?」
「はいっ」
 女の子――女孺に扮した異母弟は元気に頷いた。
「阿倶流殿、いったいどういうこと!?」
 動揺しながら問い詰めると、阿倶流はいささか気まずそうに目を伏せた。
「皇子様のたってのご希望でお連れしました」
「お、お連れしたって……いまは神事の真っ最中よ? どうやって気づかれずにここまで……」
「……人形(ひとがた)で皇子様の写し身をこしらえ、神事のあいだであればそれを皇子様だと周囲が認識するよう、まじないを施しました。念のため、皇子様には女孺の姿になっていただいてからこちらへ」
 私は呆然と尋ねた。「あなた……呪師だったの?」
「私ではありません。姉に呪術の心得があるのです」
 阿倶流の答えは端的だった。かれは私の肩を押して座らせると、立ち尽くしたままの神隼に声をかけた。
「皇子様。姉宮様は少々体調が優れないご様子。あまり大きなお声は出さず、座ってお話しになっていただけますか」
 この少年も、これほどやさしげな口調で話せるのかと思った。神隼は途方に暮れた顔で阿倶流と私を見比べたあと、素直に腰を下ろした。
「あの……夕星姉上。阿倶流と満瀬を怒らないでください。ぼくがお願いして、ふたりに協力してもらったのです」
 神隼は胸元でぎゅっと両手を握りしめ、両の眉を垂れ下げて訴えてくる。私は苦い唾を飲み下した。
 私の表情から批難を感じ取ったのか、異母弟はくちびるを噛んでうなだれた。強張った小さな肩が痛ましい。
 まるで私が悪役ではないか。さっきから沈黙している阿倶流を睨みつけると、なんとも言いがたい表情が返ってきた。
 ……私にどうしろと!?
「神隼親王。お顔を上げてください」
「はっ、はい」
 びくりと震えた神隼は、神妙に私の顔を見つめている。頼りなく揺れながら逸れることのない視線に、出会ったばかりのころの明星を思いだした。
 嗚呼――この子も躊躇なく私の目を見るのか。
「本来、私たちはこうしてお会いすべきではなかった」
「それは……」
「私は鵺の眼を持つ呪い子。それゆえ杣の宮に隠された身なのです。皇太子たる親王にお目通りするなどもってのほか。立場ある者が軽率なふるまいをすれば、罰せられるのはおそばに仕える宮人たちです」
 引き結んだ口の下に皺を寄せ、神隼は頷いた。
 明星が言っていたとおり聡明な子なのだろう。澄んだ瞳は賢しげで、どうかそのまま成長してほしいと思った。
 私は小さな手をそっと取った。戸惑いを浮かべて瞬く面を覗きこみ、ほろ苦い気持ちで笑いかける。
「でも、ひと目でも私の弟宮のお姿を見ることができて嬉しいです」
 神隼の表情がみるみる明るくなる。両手で私の手を握りしめ、「ぼくもっ」と口を開いた。
「夕星姉上にお会いできて、とても嬉しいです。明星姉上からお話を聞くたびに、どんな方なのかなってずっと考えていて――」
 片割れの名前に頬が強張る。些細な変化を見逃さなかった神隼は、「あ……」と声を震わせた。
 開きかけた花が萎むように、幼い皇子の表情が翳った。
「明星姉上は……お元気でしたか?」
 やわらかな少女の指の感触がまとわりつく首元が疼いた。私は意味もなく口を開閉させ、苦い飴のような言葉を押しだした。
「悲しんで……傷ついていたわ。でも、私は……明星を助けてあげられなかった」
 神隼の手に力が入った。異母弟は頭を振るい、泣きそうな声で言った。
「ぼくが、姉上たちをお守りしたいのに。でも、できないのです。ぼくは……ぼくは……皇の血筋と希賀氏の権勢を守るためだけの傀儡だから」
 私は絶句した。十歳にもならない童が口にするにはあまりにも惨い事実だった。
「昔から父上の関心はぼくにありません。父上にとって、ぼくはご自分の|控え《・・》でしかないのです。母上も希賀のおじいさまも、ぼくを次の大皇にすることで頭がいっぱいだ」
「神隼……」
「でも、明星姉上はやさしかった。母上がひどいことをしても、ぼくといっしょに遊んでくれました。お歌や筝を聞かせてくれたり、和多の氏長から聞いたという外つ国のお話をしてくださったり……勉学で博士たちに褒められたと言ったら、『神隼はがんばり屋さんね』と笑って頭を撫でてくれるのです」
 萌黄色の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。私が手を伸ばすよりも早く、神隼は衣の袖で目元を拭った。
 だれも知らないところでひとり、悲しみを呑みこむことに慣れた仕草だった。
「ぼくは明星姉上が大好きです。明星姉上のために何かしてさしあげたかった。……夕星姉上に会えれば、またお元気になってくださるかもしれないと思いました」
「私、は」
 あの子が牢獄と呼んだ場所に置き去りにしてきた。ともに死のうと伸ばされた手を振り払って逃げてきた。
「明星といっしょに、生きられない」
 ――あなたといっしょに生きたかった。
 ふたりで迎える朝を願い続けた。その気持ちは嘘ではない。
「私たちも同じよ、神隼。明星は大皇の空しさを埋めるための、私は悲しみを紛らわせるための傀儡に過ぎない。これからは、そばにいてあげることさえ」
「……どこでなら、姉上たちはいっしょにいられますか?」
 神隼の言葉に思考が途切れる。
 瞬き、私はまじまじと異母弟を見た。明るい虹彩をほのかに光らせ、神隼は続けた。
宮中(ここ)ではないどこかなら、姉上たちはいっしょにいても咎められないのですか」
 潮騒のようによみがえる、声が聞こえた。
 海が見たいとささやく、片割れの声が。
「和多の郷」
 自分の口からまろびでた答えに、私は肩を震わせた。
 神隼がハッと息を吸いこむ。「和多の氏長なら姉上たちを守ってくれますか?」
 眩暈がした。大皇のおぞましい企みを祖父が知れば、今度こそ反旗を翻しかねない。
 七洲の海を掌握した和多水軍の一斉蜂起――国を引き裂く内乱の幕開けだ。
「だめよ。それは……」
「でも、このまま明星姉上が……姉上たちが苦しむ姿を見たくありません!」
 神隼は激しく首を横に振った。
 縋るようにも、訴えるようにも思える強さで握りられた手に、心が揺れる。
「姉上」
 半分しか血のつながらない、はじめて会った私の弟。懸命に見上げてくる瞳に、こみ上げる衝動のまま抱きしめた。
「ゆ、夕星姉上?」
 神隼が戸惑いの滲んだ声で呼ぶ。こんなにも小さな背中で、危険を顧みず異母姉を助けようとしていたのか。
 ――どうして私たち姉弟が苦しまねばならないのだ。
 大皇の思惑どおりに運べば、明星は父親の子を孕まされ、神隼は異母妹であり姪である娘を妃に迎えるのだ。
 青年になったかれは、どんな気持ちでその娘を妻と呼ぶのか。生まれてくる子を待ち受けるものは、汚れた不幸と絶望だ。
 ふつりと何かが切れた。
 幼き日の感傷を引きちぎって、憎悪が脳裏を真っ黒に染めた。ただただ大皇を殺してやりたいと思った。
「もうこりごりだわ」
 そっと抱擁を解き、神隼の頬を両手で包みこむ。
 不思議そうな顔をする異母弟に向けた笑みは、おそらく酷薄だった。
「ありがとう、神隼。おかげで目が覚めたわ」
「え……?」
「あきらめる前に、戦うべきだったのよ」
 明星。私の片割れ、私の愛子。
 あなたと生きる、明日が欲しい。
 たとえ別れの運命(さだめ)を覆せなくても。希望に輝く暁天へ笑ってあなたを送りだせる、幸福な未来が欲しい。
 血塗れた糸を手繰り寄せる、罪を犯したとしても。
「あなたの力を貸してくれる?」
 ささやいて問いかければ、神隼の喉がコクリと鳴った。
 互いの瞳に危うい炎を探し求める私たちの傍らで、阿倶流は無言で佇んでいた。
 来るべきものを待つように、静かな憂いを帯びた顔で。

君はみなぎわの光

君はみなぎわの光

七洲を統べる大皇の娘として生まれた夕星には前世の記憶がある。だれにも打ち明けられない秘密を抱え、暗い森の古宮に隠れ住む日々。心の支えは双子の姉媛・明星だけ。しかし、海を越えてやってきた男が燃え落ちる星の運命を変えた――影と光のあわいを駆けめぐる、古代日本風・異世界転生譚。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-02-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted