君はみなぎわの光

蒼山れい

  1. 一 杣の宮の皇女〈1〉
  2. 一 杣の宮の皇女〈2〉
  3. 一 杣の宮の皇女〈3〉

※この作品にはR-15相当の残酷な描写、軽度の性的な描写等が含まれます。

一 杣の宮の皇女〈1〉

 東の(そら)が薄ら明るくなるころ、私は臥所から這いだす。
 側仕えの婆は、年寄りには珍しく寝穢いたちだ。台盤所の鶏が甲高く鳴いてもいびきを立てている。毎朝主人(わたし)に起こされるというのは、仮にも侍女としていかがなものか。しかし婆の枕が高いおかげで、私も安心して宮を抜けだすことができるのだからとやかく言えない。
 腰まである墨色の髪は邪魔にならないよううなじで束ねて輪にして括り、下級の宮女が着る草色の袍と苅安色の裳を身につける。最後に頭から白い被衣をかぶれば出来上がりだ。
 鏡台の前に立ち、顔――特に目元――が見えないか確認する。私はよしと頷くと、控えの間でぐっすり寝入っている婆の横を抜き足差し足で通り過ぎた。
 私と婆がふたりで暮らす宮は、宮人たちから『杣の宮』と嘲笑まじりに皮肉られるにふさわしいぼろ家だ。何代か前の大皇(おおきみ)(みめ)がお住まいだったが、その方が亡くなられてからは朽ちるに任せていたらしい。
 取り柄といえば広さぐらいで、雨漏りはするし、床板はところどころ腐って抜け落ちているし、野分が吹き荒れようものなら蔀戸も簾も飛んでいって屋敷じゅうがめちゃくちゃになる。それでもなんとか住居の体裁を保っていられるのは、心ある宮人があれこれと手を貸してくれるからだ。
 そのうちのひとり、台盤所で働く飯炊き女の真赫(ますほ)が朝食を運んできてくれるまでに戻らなければならない。床下に隠しておいた沓を履き、私は朝靄に煙る森を歩きだした。
 杣の宮の蔑称のもうひとつの由来が、周囲を覆う鬱蒼とした木立だ。
 背の高い常緑樹が並び立つ一帯は昼でも陽の光が遠く、森と呼ぶべき闇を孕んでいる。夜明け前の今時分は青白い靄が波打つように揺蕩い、切れ切れに現れる樹木の影はぞくりとするほど黒い。
 夜露をたっぷりと吸いこんだ落ち葉が積もった地面に足を取られないよう、ざくざくと進んでいく。被衣を透かしても木立のむこうで揺らめく無数の影は確かに見えた。
 ひたひたと、落ち葉の上を這いずって追いかけてくるものの湿った息遣い。
 生きた人ではないもの、陽の当たらない場所――陰りに潜むもの。かれらを形容する名称は定かではない。
 昔堅気の婆は「あれ」や「それ」などとはっきり口にすることを憚るが、真赫などは、だれぞの邸宅に物の怪が出たとか都のどこそこに妖魅が出たとか、宮城の外の噂をかしましく話してくれる。すると宮の物陰のあちこちて何かがうごめくのだが、気のよい飯炊き女を怖がらせるのは忍びないので教えたことはない。
 宮の周辺をうろついている程度の小物であれば、気に留めなければちょっかいをかけてくることもない。
 子どものころ、髪を引っ張られたり足を捕まれて転ばされたり耳元でぼそぼそと話し続けられたりと、とにかく鬱陶しくてたまらず塩をぶちまけて「いい加減にしろ!」と一喝したことがある。以来、おずおずと窺うような視線は感じるものの、悪さをしでかす輩は今のところいない。
 塩をまいたのは『昔』の記憶に基づくとっさの行動だったが、こちら(・・・)でも効果は抜群だった。あれから常に革袋に詰めた塩を持ち歩くようにしている。
 靄を掻き分けてどんどん歩いていくと、やがて木立の切れ間が見えてきた。視界が開けてあたりがぼうと明るくなる。
 森のほとりは宮城の西側に接している。水色の静寂に横たわる殿舍を見上げると、釣り灯籠の残り火に照らされた縁に人影が佇んでいた。
 ほっそりとした少女だ。艶やかな墨色の髪に飾られたりんどうの花。白い袍に涼しげな萌黄色の背子を重ね、鮮やかな刺繍があしらわれた朱色の帯を締めている。
 肩にかけた領巾が揺れて、月明かりに光る露のようにしららかな面がこちらを向いた。
夕星(ゆうずつ)!」
 同じ造作をしているはずなのに、鏡の中の自分とは似ても似つかぬ可憐な笑顔。裳裾を絡げて階を下りてきた少女――双子の姉である明星(あかぼし)に歩み寄り、私は伸ばされた両手に応えた。
「会いたかったわ、わたくしの愛子(いとこ)
 指を絡めて額を寄せてくる片割れに、くすぐったく苦笑を返す。
「姉様はいつも大袈裟ね」
「だって、あなたとこうしていっしょにいられるのは暁降ちの今だけなのよ?」
 桃の花のようなくちびるを尖らせ、明星は不服を訴えた。
 都いちの佳人として知られた母の美しさをそっくり受け継いだといわれる姉――私が私自身を美しいと言い切るのは精神的に無理だ――は、ふっさりと生え揃った睫毛の奥に瑞々しい紫色の瞳を湛えている。夜明けを映す水面を思わせる、深く引きこまれる()だ。
 瓜をふたつ並べたかのようにに相似形の私たちだが、瞳の色だけは違う。
 私の瞳は、明星の言葉で表せば「夕映えに輝き渡る秋の稲田」、当代の大皇――父の言葉で表せば「禍々しき鵺の眼」であるらしい。夜闇で爛々と燃える朱金(あかがね)色の両目は、確かに化生じみていると思う。
 宮女は私の目は見た者を呪い殺すと噂している。お産で亡くなった母は、ふたりめの赤子の目を見てしまったから魂を吸い取られたのだと。
 私の前で視線を逸らしたり顔を隠したりしないのは、明星と仕えてくれている宮人ぐらいのものだ。大皇の御前に出るですから、足元まですっぽり隠れる(おすい)を被るよう厳命されている。
 莫迦莫迦しい。私が陰視(かげみ)――陰りに潜むものを視る異能を持つ人間――にしか過ぎないことは知っているくせに。
 明星を掌中の珠と慈しむ大皇が一方で私を疎んじるのは、私のせいで最愛の后が亡くなったからだ。明け方に生まれた姉よりも遅れ、ようやく私が産声を上げた夕方には、母は白い花のごときかんばせを苦悶に染めて絶命していたという。
 母の血にまみれて泣く私の隣から明星を抱き上げた大皇は、「それは妖霊星(ようれぼし)だ。死を招く凶星(まがつぼし)の落とし子だ」と忌々しげに吐き捨てたそうだ。ゆえに私は夕星――滅びと災厄の象徴の名で呼ばれ、片割れには吉兆を告げる明星の名が与えられた。
 私は乳母というには薹が立ちすぎている老齢の婢とともに、森の奥の古宮に押しこめられた。それから十五年、大王の許しがなければ森の外へ出ることも難しい身の上だ。
「仕方ないわ。私といっしょにいたら、あなたまで母上のように呪い殺されてしまうと大皇はお考えなのよ」
 肩を竦めてみせると、明星は悔しそうに眉根を寄せた。
「そんなの、夕星のせいではないわ。産褥で命を落とすことは珍しくないと前に医女が申していたもの」
「そうね。……きっと大皇は、明星のように理解することが難しいのよ」
 大皇は母のことをたいそう寵愛していたそうだ。身分の低い母を正妃に迎え、彼女以外の女性を拒むほどに。
 母の死後、皇太子(ひつぎのみこ)を望む臣下の声にやむを得ず新しい妃を娶り、皇子(みこ)をひとり儲けている。私は直に会ったことはないが、明星は年の離れた異母弟をかわいがっているようだ。
神隼(かむはや)もね、夕星と話がしてみたいと言っていたの」
 私はぎょっとした。神隼は異母弟の名前だ。
 明星は力をこめて訴えた。
「あなたの噂を耳にして、わたくしに訊いてきたのよ。『杣の宮の姉上は皆が言うようにおそろしい方なのですか』って。もちろん違うと言ったわ。みんな誤解しているだけ。夕星ほど穏やかで、心が安らぐひとはいないと」
「買いかぶりだわ」
「本当のことよ。だって、あなたに出会えてようやくわたくしは自由に息を吸えるようになったのよ?」
 私の手を固く握り、明星は俯いた。
「……ねえ夕星。わたくし、ときどきお父様が怖いの」
 喉の奥から苦いものがこみ上げる。私は寄り添うように片割れの肩を抱いた。
 亡き后に対する大皇の恋慕は、日に日に母の面影を濃くする明星への溺愛にすり替わった。真赭によれば、適齢期を迎えた皇女(ひめみこ)への縁談をことごとく握り潰しているらしい。
「お父様はとてもおやさしいわ。でもね、わたくしを見る眸が……たまらなくおそろしいときがあるの。お父様の前から逃げだしてしまいたくなるのよ」
「大丈夫よ、明星」
 私は意識して明るい声をだした。
「万にひとつ大皇がおかしなことを考えていたとしても、母上の一族――和多(わた)氏が黙っていないわ。お祖父様……和多の氏長(うじのおさ)は、母上を無理やり奪い取ったことをひどく恨んでいるのでしょう? 更に愛娘の忘れ形見を苦しめるようなら、明日には七洲(しちしま)の湊という湊から舟が消えてしまうに違いないわ」
 母が生まれた和多氏は、かつて戦火を逃れて海を渡ってきた人びとの末裔だ。
 和多氏は優れた造船と航海の技術を持ち、七洲を統べる大皇に臣従を誓うかわりに庇護を求めた。それから二百年近く、和多氏は異国との交易に大いに貢献し、和多水軍と称される一大勢力にまでのし上がった。
 島国である七洲にとって海を制する和多氏はなくてはならない存在だ。すでに祖父との間に遺恨を抱えている大皇が同じ轍を踏むような真似はしないだろう。
「年賀の宴で会うたび、面白いお話をたくさん聞かせてくださったり、珍しい異国の品を贈ってくださったりするのだと話していたでしょう? 何かあったら、お祖父様に文を書くのよ。そうすればすぐに助けてくださるわ」
 異母弟同様、母方の祖父に会ったことはないが、明星には愛情を持って接しているようだ。
 ただ、私のことをどう思っているのかは謎だ――明星の前でも私の存在について言及したことはなく、そもそも会える機会が大皇が臨席している場に限られているので、明星も話題にしづらいらしい。
「国じゅうの湊から舟が消えたら大変だわ」
 明星は弱々しい笑みを浮かべた。私の肩に頭を乗せ、ため息をつくように呟く。
「夕星といっしょに和多の(さと)へ行けたらどんなにいいかしら」
 下向いた紫色の瞳は深く翳り、言の葉だけが頼りなく宙を漂っている。
「皇女であるわたくしは神隼のように皇太子にはなれない。もうすぐ十六よ。どこかの氏族へ降嫁するべきなのに、お父様はお許しにならない。……ずっとそばにいておくれと、そうおっしゃるのよ」
「いずれあなたにふさわしい縁談が整うわ。大皇だって、いつまでも駄々を捏ねてはいられないわよ」
「まあ、夕星ったら」明星のかんばせにようやく光が射した。
 片割れはおかしそうに噴きだすと、袖の下でころころと笑った。
「お父様をそんな風に言えるのはあなたぐらいだわ」
「私からしてみれば駄々っ子も同然よ。責任ある地位に就いている、いい年をした殿方がみっともない」
 正直な感想に、明星は我慢できないとばかりに肩を震わせている。
 私は彼女の手に手を重ねた。
「弱気になって悲観してはだめよ、姉様。いやなことをされそうになったら大皇だろうどだれだろうと、思いきり叫んで顔を引っ掻いて股関を蹴り上げてやりなさい。膝を一発ぶちこんでやれば、たいていの男は再起不能に陥るわ」
「ぶっ……」
 明星の頬がサッと赤くなった。恥ずかしそうに視線を泳がせる姉に、私は念を押した。
「護身用に先の尖った笄を髪に挿しているといいわ。遠慮なく手を刺してやれば、逃げる隙ができるから」
「夕星……ずいぶん詳しいのね?」
 私は咳払いでごまかした。「ええと、飯炊き女の真赫という者がね、世辞に通じていていろいろと教えてくれるのよ」
 実際はあちら(・・・)で聞きかじった知識なのだが――痴漢を撃退するには安全ピンが効果的だとか。
 安全ピンはないが、装身具である笄なら身につけていてもあやしまれずに済むだろう。
 明星は目を丸くして感心しきっている。気位の高い宮女に取り巻かれ、安易に下位の者と口を利こうものならこっぴどく叱責されるという姉にとって、台盤所の飯炊き女とは未知の存在に等しいのかもしれない。
 ……不憫な子だ。
 私も不遇だが、明星とて恵まれた環境にあるとは言えない。互いに憐れみ、傷を舐め合っている関係だとつくづく思う。
 それでも、幸せになってほしいのだ。
 この世界で得た、ひとりきりの私の『家族』だから。
「ああ、夜が明けるわ」
 遠くから朝を告げる鶏の声が聞こえる。
 名残惜しさをこらえ、私は片割れの手を放した。
「そろそろ戻らなければ」
「ねえ夕星……明日の朝、神隼を連れてきてもいい?」
 おずおずと尋ねる明星に、私は首を横に振った。
「私は皇子に会わないほうがいいわ」
「でも――」
「明星の言うとおり、とてもいい子なのでしょうね。だからこそ、いらぬ煙の火種は生まないほうがいい」
 明星は口をつぐんだ。
 聡明な姉のことだ、異母弟と私を引き合わせるリスクは承知しているだろう。
 二年間密かに続けてきた夜明け前の逢瀬とて――そろそろ潮時であることも。
「……わかったわ」
 明星はかすかに頷き、おもむろに黒髪に飾っていたりんどうを引き抜いた。
「これを」両手で差しだしながら、縋るように見つめてくる。
「忘れないで。わたくしは、いつもあなたを想っているわ」
「……私もよ」
 そっとりんどうを受け取り、私は胸を締めつけられる思いで微笑んだ。
「あなたほど愛しいひとはいないわ、姉様」
 また明日――そう言い交わし、私たちは別れた。
 灯りの消えた縁の奥へ消えていく明星を見送り、私は急いで森の奥へ駆けこんだ。
 両手で裾を絡げ、徐々に明るくなっていく森を一心に走る。まとわりつく陰りの気配にかまっている暇などない。
 慌ただしく宮にたどり着くと、まだ真赫は来ていないようだった。
 沓を床下に隠し、まだいびきを立てている婆の横を通って臥所に滑りこむ。
 脱ぎ散らかした宮女の装束を掻き集めて衣装櫃の底に押しこむと同時に、厨のほうから物音が聞こえてきた。
 いつものように僅差で遅れてやってきた真赭が朝食の支度をはじめたようだ。地味な浅葱色の袍に同系色の裳を重ねると、ふと鏡台に目が留まった。
 鏡を覗きこみ、そっけない髪型をまじまじと凝視する。いちど髪を解き、上のほうだけ掬って結い直す――いわゆるハーフアップだ。
 そこへりんどうの花を挿すと、なんとなしに気分が明るくなった。
 満足し、控えの間で熟睡している婆に声をかける。「婆、そろそろ起きてちょうだい」
「ふがっ」皺に埋もれた目をしょぼしょぼさせて婆は起き上がった。見事なまでの白髪が綿毛のように膨らんでいる。
 歯の抜けた口をもごもご動かし、「これはこれは媛様(ひいさま)、おはようごぜえます」と夜着のまま一礼した。
「おはよう。さ、早く顔を洗って髪を梳かしなさいな。真赫が朝食を作ってくれているから」
「おお、ありがたいことじゃ。今日の(さい)はなんでごぜえましょうなあ」
 いそいそと身繕いをはじめる婆に呆れつつ、厨に向かう。
「おはよう、真赫」
「こりゃまあ媛様。おはようございます」
 空腹を誘う匂いに満ちた厨には、下級宮女の装束を着たふくよかな女性が朝食の仕上げに取りかかっていた。
 張りのある赤銅色の肌はつやつやとして、色素の抜けた縮れ毛をひっつめている。ひと目で異国の血を引いているとわかる容貌だ。
 肌の色から真赫と呼ばれている飯炊き女は、白い歯を見せて笑った。
「きれいな花ですねぇ。媛様によくお似合いだあ」
「うふふ、ありがとう」
 袖をまくって手伝いを申し出ると、真赭は遠慮なく「そこの鍋から汁を椀によそってください」と言ってくれた。
 身支度を終えた婆が出てくるころには、ささやかだが温かい朝食の膳が並んでいる。
 こうして、杣の宮の一日がはじまった。

一 杣の宮の皇女〈2〉

 かつて私は夕星ではなく違う名前で呼ばれていた。
 七洲を治める大皇の娘として生まれる前――別の世界で別の人間として暮らしていた記憶がある。
 そこで日本という国で、東京という都市で、私は平凡な女子高生として生きていた。
 サラリーマンの父とデイサービスの介護士として働いていた母。中学生の弟は生意気だったが嫌いではなかった。
 友達がいた。部活は茶道部。人数合わせの幽霊部員だ。彼氏はいなかった。気になっているクラスメイトの男の子が――いたような、気がする。
 得意科目は……なんだっただろうか。小学生のころは『まんがでわかる! 世界の歴史』シリーズをよく読んでいた覚えがある。
 ああ、そうだ。日本史や世界史が好きだった。
 文字を読むのは苦手だが、まんがは好きだった。スマホの読み放題アプリで、昔の――母が知っているような古い少女まんが――を読み漁っていた。
 篠原千恵の『天は赤い河のほとり』に、ひかわきょうこの『彼方から』。大長編の『王家の紋章』は一回挫折して、いつかトライしてみようと考えていて……
 私は、なんという名前だったのか。
 憶えているのは全身を殴りつけられるような痛み。衝撃と言ったほうがいいかもしれない。
 ブツッと意識が途切れ――気がついたら四歳の夕星としてこの世界にいた。
 通学途中、乗っていた路線バスがトラックに突っこまれたのだ。車体がひしゃげて、砕け散ったガラス片がきらきらと光っていた。即死だったらいいな、と思う。
 享年十七歳。こちらでの年齢も加算すると三十二歳。立派なおばさんだ。
 覚醒するまでの四年を引いても二十八歳。もうすぐ二十九歳。どうあがいてもアラサーである。
 前世の記憶はどんどん曖昧になっていくのに、精神面では老ける一方だ。七洲では女の子は十四、五歳で結婚するのが当たり前なので、明星が大人っぽいと褒めるわけである。
 ちなみに大皇は四十代手前。おっさんがいつまでも女々しく娘に甘えんなよ、しかも一国の君主だろ! と腹立たしくもなる。
 前世の父だって娘から見ると洋服のセンスのない中年だったが、もっと頼り甲斐があったし父親の責任を果たしていたぞ……外見に関して大皇のほうに軍配を上げてしまうのは許してほしい。
 芽生えかけていた自我と記憶に折り合いをつけ、俗にいう毒親のもとに生まれてしまったがために辛酸を舐めている境遇を理解したのは七歳。このころ前世の名前を忘れ……夕星という人間に生まれ変わった現実を受け容れるしかなかった。
 だって、納得しなければ生きていけないではないか。
 育ち盛りの子どもはとにかく腹が減るのだ。すぐに眠くなるし、覚えなければならないことは山のようにあった。
 不慮の死を遂げた末、理由はわからないがせっかく生まれ直したのだ。
 私は生きたかった。
 だから夕星という名前で生きることを選んだ。
 まず生まれた場所。七洲と呼ばれる、日本に似た気候の島国。
 春夏秋冬があり、主食は米。これはとても助かった。お米おいしい。
 ただし文明レベルは二十一世紀の日本より遥かに原始的だ。水は井戸や川から汲んでこなければいけないし、日が沈めば灯火だけが頼りだ。
 何より、人間がころりと死ぬ。
 不謹慎な言い方だが、本当にあっさり死ぬ。特に身分の低い者ほど簡単に死ぬ。
 怪我や病気になっても、そもそも治療を受けられるのは高貴な身分の人間に限られているからだ。治療といってもせいぜい薬を煎じて飲ませたり、按摩や鍼灸のような施術を行ったりする程度――あとは呪術に縋るしかない。
 こちらの世界には『おばけ』がいる。
 陰りに潜むもの、人間にとってよくないものを退ける方法――あるいは、かれら(・・・)の力を借りて他人を害する方法――が存在する。見えないもの、不思議なものための付き合うための方法が呪術だ。
 私のような陰視は、一般的な集落ならひとりやふたりはいるものだそうだ。だが呪術を操る呪師(じゅし)は、きちんと修練を積まなければなれるものではない。
 私を育てた婆は、この呪師だった。
 といっても呪術の手ほどきは受けていない。「すっかり忘れてしまい申した」と言って教えるつもりはないらしく、陰視としての心がけは説いてくれた。
 陰りに潜むものを侮ってはならぬ。さりとて侮られてもならぬ――塩をぶちまけて怒鳴りつけたと言ったら、「ほんに気骨がある御子じゃあ」と歯の揃わぬ口を開けて笑っていた。
 のらりくらりとした婆との暮らしにほかの人間がまじったのは、夕星の名を受け容れたころだ。
 足腰が弱くなってきた婆を見兼ねて、台盤所で働いている真赫や、彼女と同郷の宮人たちが手伝いにきてくれるようになったのだ。真赫たちは私の目を見ても大袈裟に怖がったりせず、婆と同じく「媛様」と朗らかに接してくれた。
 ……父親から忌み嫌われ、宮の外に出れば腫れ物のようにつつかれて。重苦しい境遇にめげずにいられたのは、のんきな婆や真赫たちのおかげかもしれない。
 多少ひねくれたところは否めないけれど。大皇が一日に一回は調度の角に足の小指をぶつけて悶絶するよう心の中で呪うぐらいは許されるはずだ。
 明星に出会ったのは二年前。
 同じ日に生まれた姉妹なのだから出会ったというのはおかしいかもしれない。双子の姉の存在は知っていたが、いちども姿を見たことはなかったのだ。
 夏の終わりの黄昏だった。
 夕闇に呑みこまれようとする森の中から叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと駆けつけると、黒い影のような犬に襲われている女の子を見つけた。
 ひと目で悪しきものだとわかった。私は懐に忍ばせていた塩をありったけ犬に投げつけ、「今すぐ消えろ! さもないと次は御神酒をぶっかけるぞ!」と叫んだ。
 全身に塩を浴びたら犬はギャンと悲鳴を上げ、跳ねるように暗がりへ消えた。
 私は呆然とへたりこんでいる女の子に駆け寄り、息を呑んだ。
 美しい衣を無惨に汚した女の子は、私と同じ顔をしていた。きれいな紫色の瞳が涙を溜めて私を凝視していた。
 墨色の髪の両側をひと房ずつ赤い結い紐で束ねた女の子は、震える手を伸ばしてぎゅっと私の袖を掴んだ。
「あなたが……夕星?」
 鈴を振るようとはこんな声だろうかと思った。ぎくしゃくと頷くと、女の子――明星は顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
 のちに聞いたことだが、陰視ではない明星はこのときはじめて陰りに潜むものに遭遇したらしい。
 婆によれば、大皇が暮らす宮城は破邪の術によって堅固に守られており、本来悪しきものが立ち入る隙などないのだそうだ。だが顧みる者もいない杣の宮はいつしか術の守りを失い、闇深い森に数多の陰りが生まれてしまった。
 身ひとつで森に迷いこんだ女の子を悪しきものが放っておくはずもない。かれらとの付き合い方を婆から教授された私ならいざ知らず、煌らかな宮中で育った明星にとってみればどれほどおそろしい出来事だったか。
「あなたに会いたくて、会いたくて、逃げてきたの」
 私の手を握りしめ、ぽろぽろと涙を溢れさせながら明星は打ち明けた。
 狂気じみていく大皇の愛情に恐怖を抱き、少しずつ女になっていく自分の成長が厭わしいこと。
 大皇の怒りを買うことをおそれ、周囲はだれも助けてくれないこと。
 皇子を産んだ継母から激しく憎まれ、臥所に蛇を投げこまれたり宮の床や柱に獣の糞を撒き散らされたり嫌がらせを受けていること。
 苦しくて苦しくて、だれかに助けてほしくて――杣の宮に幽閉されている片割れの存在に縋りついたこと。
 拒絶などできるはずもなかった。
 胸の裡で長く凍えていた何かがゆっくりとほどけていった。
 どんなにやさしいひとたちに助けられ、支えられていても、私は孤独だった。
 人生を失い、故郷を失い、名前を失い、実の父親から母親殺しと忌み嫌われる娘として――夕星として生きるしかなかった。『私』はここにいるのに、夕星にしかなれなかった。
 憎しみでも憐れみでもなく、ただだだ夕星を――私を求めてくれたことが嬉しかったのだ。
 明星に出会って、『私』はようやく夕星になれた。私は夕星、明星の片割れなのだと心から思えたのだ。
「私も……あなたに会いたかったわ。明星、私の姉様」
 滑らかな白い手をおずおずと握り返すと、明星はハッと息を呑んだ。
 潤んだ瞳は雨に濡れるまつむしそうの花を思わせた。そこに光が灯ることを願い、私は微笑んだ。
「会いにきてくれてありがとう」
 明星は私の膝に崩れ落ちた。
 幼子のように咽び泣く姉の背を撫でさすりながら、私は生まれてはじめて(・・・・・・・・)満たされた喜びを噛みしめた。
 明くる日から私たちに秘密ができた。
 夜明け前のひととき、森のほとりでのささやかな逢瀬。側仕えの目を盗み、ともに過ごせる時間はほんのわずか。それでも二年の間、私たちは一日たりとも欠かさず約束を守り続けた。
 ――明日の朝も、この場所で。
 明星に会える。その希望があるからこそ、昏い森に閉ざされた宮での暮らしにも耐えられた。
 森のむこう――外の世界へ出たいという思いは常にあった。薄暗い陰りではなく、光を浴びて生きたいという願いが。
 だが、大皇に逆らえば今度こそ殺されるかもしれない。森の中に留まっているからこそ私の命は保証されているのだ。
 明星との逢瀬とて危うい綱渡りだとわかっている。いつまでも見逃してもらえるわけではないことも。

一 杣の宮の皇女〈3〉

 朝食の後片付けを終えると、真赫は台盤所へ戻っていった。私は婆とともに糸繰りの仕事に取りかかる。
 婆はもともと皇族の衣装を作る染殿で働く機女(はたおりめ)だった。私の側仕えとなった今でも毎日欠かさず糸車を回し、紡いだ糸を染殿に納めている。
 婆からは陰視の心得とともに糸繰りの技も教えこまれた。染殿で働いている宮人たちも、まさか皇女が糸繰り女の真似事をしているとは思うまい。
「昔むかしは、糸繰りや機織りは巫女(ふじょ)のお役目でごぜえました。忌服屋(いみはたや)に籠り、心静かに天地(あめつち)の声に耳を澄ませる。すると大気の流れや水のめぐり――海を往き、(おか)を駆ける人の世の移ろいが色鮮やかな布帛のごとく目の前に広がるのですよ」
 糸車を回しながら婆は語る。
 実際、婆は呪師であると同時に優れた巫女でもあった。日照りや干魃、疫病の予兆を読み取ったときなど、宮に出入りする真赫たちにそれとなく伝え、大皇の耳にまで届くよう取り計らっていた。
 真赫によれば、婆の占は先代の大皇の治世から重んじられているのだそうだ。同時に畏怖嫌厭の対象となり、最下級の奴婢に落とされた。大皇からすれば忌み子の世話を任せるにうってつけの人材だったというわけだ。
 染殿に納める糸は、主に天領で飼育されている特別な蚕の繭から取れる絹糸だ。
 淡い翡翠色を帯びた繭からは、萌黄色に照り映える美しい糸が取れる。一般的な絹糸よりも細くやわらかいため、熟練の糸繰り女でなければ仕上げることが難しい。
 婆はこの特別な絹糸を取る役目を負う数少ないひとりだった。染殿から運ばれてきた繭を大鍋で煮てほぐし、糸車で丁寧に糸を紡いでいく。
 私が糸繰りを任されているのは一般的な白い繭だけだ。「(あめ)の糸をひと筋紡ぐまで、媛様の腕では十年でも足りませんのぉ」と笑われてしまえば、地道に研鑽を重ねるほかない。
 婆が回す糸車の音、古めかしい糸繰り唄を聞いて育った私にとって、糸繰り女の真似事はすんなりと身に馴染んだ。
 ほぐした繭から紡がれる一本の糸によって、私という人間とこの世界が結ばれる。するすると伸びていく糸の先から、言葉でも映像でも音楽でもない情報が波のように打ち寄せる。
 宮を囲う森に潜むものたちの息遣い、梢のささめき、風の匂い。
 広大な宮城で動き回る人びとの足音、話し声、色とりどりの裳の衣擦れ。
 台盤所で真赫がかまどの火を熾そうと息を吹いている。厩から響く嘶き、馬蹄の音。
 染殿では年若い機女たちがおしゃべりに夢中になり、機女頭からこっぴどく叱りつけられている。機織りの音色、染料を煮出す大鍋から立ち上る湯気の熱。
 宮城の奥へ意識を向けると、てらてらと玉虫色に輝く帳が雪崩れ落ちた。パシンッと鼻先で閉め出されてしまい、帳のむこうを窺い知ることはできない。
 呪術による守りは、単なる陰視に過ぎない私では突破は困難だ。破れたところで、大皇に知れれば謀反の疑いをかけられるに決まっている。
 糸車を回す手を止めてため息を噛み潰すと、婆がのんびりと口を開いた。
「御心が乱れておりますなあ、媛様」
 淀みなく糸を引きながら、皺に埋もれた瞳が私の手元を射抜く。
「仕方ありますまい。姉君がたいそう気がかりでいらっしゃるのだから」
 ……婆が見て見ぬふりをしてくれているのだと理解したのはすぐのことだ。
 杣の宮に囚われながら七洲の端から端まで見晴るかす眼を持つ巫女が、養い子が毎朝こっそり森の外へ抜けだしていることに気づかぬはずがない。
 二年間、婆は咎めも諫めもせず私の好きなようにさせてくれた。
 だが、いずれ糸の切れ目――片割れとともに紡いだ感傷を断ち切らねばならない日を宣告されることを、私は知っていた(・・・・・)
「……明星は、大切な『姉様』だから」
 紡ぎかけの糸に視線を落とし、苦い胸中を吐露する。
「幸せになってほしいの。私では(・・・)幸せにしてあげられないから」
 婆のように、はっきり見えているわけではない。
 明星を想えば想うほど感じるのだ。固く縒り合わさっていたはずの私たちは運命の手によって解きほぐされ、まったき一本の糸に戻ることはできないのだと。
 流れた時間のぶんだけ明星は遠ざかり、いつか決定的な別れがやってくる。二度と交わらぬ糸の先は、暁闇よりも暗い。
「私にできるのは、この宮で糸を引いて陰りに潜むものを視るだけ。明星のそばにいて、あの子を守ってあげることもできない」
 私の片割れ、私の愛子。
 同じ日、同じ父母から生まれたのに、私たちが置かれた天は違っていた。
 暁天に昇っていく明星を、私は地の底から見送るしかないのだ。杣の宮という牢獄から解き放たれない限り。
「ねえ婆。どうして大皇は私を生かしたのかしら」
 糸車の音がカランと止まる。
 婆の表情は凪いだ水面を思わせた。皮膚がたるみ、皺が波打つ小さな顔は、どこか人ではないもののように見えた。
「視界に入れることを厭うほど疎んじているのなら、死産なり病死なりと偽って幼いうちに殺してしまえばよかったのに。わざわざ幽閉して飼い殺しにする必要がどこにあるの?」
 口にしてしまえば、胸の裡に巣食う真っ黒な感情が噴きだした。
 明星への想いと表裏一体の、大皇(父親)への反感、理不尽な境遇に対する鬱屈――
 大皇を頂点とする完全な封建社会において、二十一世紀の平和な民主主義国家で生まれ育った『私』の人間性には異質で、異端で、無力だった。
 そう、無力! 圧倒的に無力!
 目が眩むような絶望に溺れ、もがきながら沈んでいく。
 ――どうしてこんなに苦しいの?
 婆ばパチリと瞬き、いつもどおりの気の抜けた笑みを浮かべた。
「はてさて。お聡い媛様ならば、『和多の白珠(しらたま)』と呼ばれた御方のことはご存じでしょう」
「……私を産んで亡くなった母上だわ」
「然様にごぜえます。大皇が白珠媛をお召しになったときの騒ぎといったら、七洲の地がひっくり返った有り様でした。和多の氏長の怒りは凄まじく……白珠媛自ら大皇の暴挙をお許しになるよう訴えられ、ようよう輿入れを承諾したのです」
 私は「え」と声を洩らした。
 拐かされた母自身が和多氏を説き伏せた――とは初耳だ。
 真珠のごとき白皙の佳人であったという母。慕わしさよりも苦々しさを覚えてしまう、朧げな存在。
「大皇と白珠媛は、それはそれは仲睦まじくいらっしゃいました。特に白珠媛は、御子がお生まれになる日を心待ちにしておいでじゃった。……命に替えても惜しまぬほどに」
 糸車がゆうるりと滑る。
 婆の手元から伸びる糸と意識が接続される。未知のイメージが内側から広がり、感覚のすべてが塗り潰された。
 濃い乳の香り。白い手首を飾る翡翠の玉環。
 半身とぴったり身を寄せ合い、温かな薄明かりの中でまどろんでいた。水のゆりかごを揺らす、張りのある女性の歌声。
 ――吾子や、吾子や
 ――早く其方(そなた)を抱いてやりたい……
 欠けたものなどひとつもない、満たされた幸福。狂おしい感情に胸を掻きむしりたくなり、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 私の中に入ってこないで!」
 紡いでいた糸がブツリと切れた。
 全霊の拒絶に、意識の結び目が引きちぎれる。婆はわずかに目を瞠った。
 私は道具を放り投げて立ち上がった。
 瘧にかかったように体が震えた。両手を握って歯を食いしばり、育て親を睨めつける。
「……母上の願いだから、大皇は私を殺さず生かしたの? だから母上に感謝しろと?」
「媛様――」
「ええ、そうね。私の母上はとてもおやさしく、慈悲深い方だったのでしょうね」
 息を吸いこみ、私は声を張り上げた。
「だからなんだというの!? 母上は死んだわ、私を産んだせいで! 母上が死んだから、私も明星も苦しんでいる。私は母親殺しの汚名を着せられ、明星は父親から母親の身代わりを強いられている。母上の亡霊に取り憑かれた大皇によって!」
「媛様!」
 婆の口調が一変した。
 反射的に身が竦む。本気で怒っているときの声だ。
 普段とは比べものにならないほど、怒った婆は怖い。錐のような視線が突き刺さり、喉が鳴った。
「そのような、死者を貶める呪詛を吐いてはなりませぬ。悪しき言霊は悪しきものを呼びこむ――そうお教えしたはずじゃ」
 呪詛――そう、私の言葉は呪詛だ。
 どれほど物分かりのいいふりをしても、自分を取り巻く環境を恨めしく思う心が呪詛を垂れ流している。  
 陰りは新たな陰りを生む。だからこそ異能を持つ者は感情のまま他人に害を及ぼさないよう、己を律しなければいけない。
「……忘れたわ、そんなこと」
 私は身をねじ切られるような心地で呟いた。
 床に打ち捨てられた糸が千々に乱れて波打っている。枯れ枝のような婆の指が無惨に断ち切れた一本をそっと摘まんだ。
 婆はしょぼしょぼとした目で糸を見つめ、悲しげに息を吹きかけた。
 糸は一瞬で真っ黒な翅の蝶――いや、蛾だ――に姿を変えると、ふよふよと覚束ない飛び方でこちらへやってきた。
 とっさに袖で打ち払うと、蛾はぼろぼろと煤になって崩れ落ちた。
「ゆめゆめお忘れなされるな」
 点々と袖に付着した煤の痕に、婆は重々しく唸った。
「なんのお役目も与えられずに天から降ろされた命などありませぬ。七洲の大皇と白珠媛の御子としてお生まれになったあなた様にもまた、今生で果たすべきお役目があるのです」
 私はくちびるを噛みしめた。
 ――明星に会いたかった。夕星(わたし)を愛してくれる、たったひとりの片割れに。
 沓も履かず裸足で宮を飛び出した。
 婆は引き留めなかった。私は禁を犯すほど蛮勇な子どもではないと、育て親はよくよく理解していた。
 薄暗い森の中をめちゃくちゃに走った。袖や裳裾が小枝に引っかかって破けてもかまわず、ひたすら走った。
 息が上がるころ、森のほとりまでたどり着いた。木立の切れ間に殿舎の屋根が見える。
 私は肩を上下させながら、暗がりの内側で立ち竦んだ。
 森のほとりに接する殿舎は使われておらず、普段は見回りの衛士しかいない。
 逢瀬のたびに明星と語らった殿舎の縁には、甲冑を身に帯びた衛士が立っていた。
 上背のある、年若い青年だ。
 金属製の短甲に負けず劣らず、浅黒い肌が鞣し革のように輝いている。真赫と同じ渡来民の混血なのだろうか。
 冑の陰に隠れて目元ははっきりとしないが、ぐいと引き結ばれた口に意思の強さを感じる。注意深く周囲を窺っている様子だ。
 一陣の風が吹いた。
 かぎ裂きだらけの袖と裳裾が棚引く。
 思いがけない強さに慌てて髪を押さえるが、りんどうの花が風に拐われてしまった。
「あっ!」
 光の中に舞い上がった青紫色の花は、籠手に覆われた青年の手に捕らえられた。
 喉が細く鳴った。
 りんどうの花を手にした衛士がまっすぐ私を見つめていた。鏃が撃ちこまれたような視線に胃の腑が竦み上がる。
 目が合った。
 瞳の色など判別できないのに、衛士が下瞼を押し上げたのがわかった。引き結ばれていた口唇がほどけ、何かを呟いたのも。
 衛士が階に脚をかけた。
 私は弾かれたように踵を返して駆けだした。
 森の影が激しくざわめく。陰りに潜むものたちが浮き足立って大気を揺らす。
 何度も何度も振り返り、衛士が追いかけてこないことを確認した私は、へなへなと腰を抜かした。
 心臓が耳に痛いほど跳ね回っている。
 噴きだした汗が目に入りそうになり、忙しなく瞬いた。
 ――あれ(・・)はおそろしいものだ。
 歯の根が噛み合わぬほどの震えとともに抱いた確信は、やがて予感に変わる。
 ――私は必ず再会する。
 晴天から打ち下ろされた雷霆のような、あの人物と。

君はみなぎわの光

君はみなぎわの光

七洲を統べる大皇の娘として生まれた夕星には前世の記憶がある。だれにも打ち明けられない秘密を抱え、暗い森の古宮に隠れ住む日々。心の支えは双子の姉媛・明星だけ。しかし海を越えてやってきた青年が燃え落ちる星の運命を変えた――なんちゃって古代日本風・異世界転生ファンタジー。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-02-02

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