君はみなぎわの光

蒼山れい

  1. 一 杣の宮の皇女〈1〉
  2. 一 杣の宮の皇女〈2〉
  3. 一 杣の宮の皇女〈3〉
  4. 二 わだつみの落とし子〈1〉
  5. 二 わだつみの落とし子〈2〉
  6. 二 わだつみの落とし子〈3〉

※この作品にはR-15相当の残酷な描写、軽度の性的な描写等が含まれます。

一 杣の宮の皇女〈1〉

 東の(そら)が薄ら明るくなるころ、私は臥所から這いだす。
 側仕えの婆は、年寄りには珍しく寝穢いたちだ。台盤所の鶏が甲高く鳴いてもいびきを立てている。毎朝主人(わたし)に起こされるというのは、仮にも侍女としていかがなものか。しかし婆の枕が高いおかげで、私も安心して宮を抜けだすことができるのだからとやかく言えない。
 腰まである墨色の髪は邪魔にならないよううなじで束ねて輪にして括り、下級の宮女が着る草色の袍と苅安色の裳を身につける。最後に頭から白い被衣をかぶれば出来上がりだ。
 鏡台の前に立ち、顔――特に目元――が見えないか確認する。私はよしと頷くと、控えの間でぐっすり寝入っている婆の横を抜き足差し足で通り過ぎた。
 私と婆がふたりで暮らす宮は、宮人たちから『杣の宮』と嘲笑まじりに皮肉られるにふさわしいぼろ家だ。何代か前の大皇(おおきみ)(みめ)がお住まいだったが、その方が亡くなられてからは朽ちるに任せていたらしい。
 取り柄といえば広さぐらいで、雨漏りはするし、床板はところどころ腐って抜け落ちているし、野分が吹き荒れようものなら蔀戸も簾も飛んでいって屋敷じゅうがめちゃくちゃになる。それでもなんとか住居の体裁を保っていられるのは、心ある宮人があれこれと手を貸してくれるからだ。
 そのうちのひとり、台盤所で働く飯炊き女の真赫(ますほ)が朝食を運んできてくれるまでに戻らなければならない。床下に隠しておいた沓を履き、私は朝靄に煙る森を歩きだした。
 杣の宮の蔑称のもうひとつの由来が、周囲を覆う鬱蒼とした木立だ。
 背の高い常緑樹が並び立つ一帯は昼でも陽の光が遠く、森と呼ぶべき闇を孕んでいる。夜明け前の今時分は青白い靄が波打つように揺蕩い、切れ切れに現れる樹木の影はぞくりとするほど黒い。
 夜露をたっぷりと吸いこんだ落ち葉が積もった地面に足を取られないよう、ざくざくと進んでいく。被衣を透かしても木立のむこうで揺らめく無数の影は確かに見えた。
 ひたひたと、落ち葉の上を這いずって追いかけてくるものの湿った息遣い。
 生きた人ではないもの、陽の当たらない場所――陰りに潜むもの。かれらを形容する名称は定かではない。
 昔堅気の婆は「あれ」や「それ」などとはっきり口にすることを憚るが、真赫などは、だれぞの邸宅に物の怪が出たとか都のどこそこに妖魅が出たとか、宮城の外の噂をかしましく話してくれる。すると宮の物陰のあちこちて何かがうごめくのだが、気のよい飯炊き女を怖がらせるのは忍びないので教えたことはない。
 宮の周辺をうろついている程度の小物であれば、気に留めなければちょっかいをかけてくることもない。
 子どものころ、髪を引っ張られたり足を捕まれて転ばされたり耳元でぼそぼそと話し続けられたりと、とにかく鬱陶しくてたまらず塩をぶちまけて「いい加減にしろ!」と一喝したことがある。以来、おずおずと窺うような視線は感じるものの、悪さをしでかす輩は今のところいない。
 塩をまいたのは『昔』の記憶に基づくとっさの行動だったが、こちら(・・・)でも効果は抜群だった。あれから常に革袋に詰めた塩を持ち歩くようにしている。
 靄を掻き分けてどんどん歩いていくと、やがて木立の切れ間が見えてきた。視界が開けてあたりがぼうと明るくなる。
 森のほとりは宮城の西側に接している。水色の静寂に横たわる殿舍を見上げると、釣り灯籠の残り火に照らされた縁に人影が佇んでいた。
 ほっそりとした少女だ。艶やかな墨色の髪に飾られたりんどうの花。白い袍に涼しげな萌黄色の背子を重ね、鮮やかな刺繍があしらわれた朱色の帯を締めている。
 肩にかけた領巾が揺れて、月明かりに光る露のようにしららかな面がこちらを向いた。
夕星(ゆうずつ)!」
 同じ造作をしているはずなのに、鏡の中の自分とは似ても似つかぬ可憐な笑顔。裳裾を絡げて階を下りてきた少女――双子の姉である明星(あかぼし)に歩み寄り、私は伸ばされた両手に応えた。
「会いたかったわ、わたくしの愛子(いとこ)
 指を絡めて額を寄せてくる片割れに、くすぐったく苦笑を返す。
「姉様はいつも大袈裟ね」
「だって、あなたとこうしていっしょにいられるのは暁降ちの今だけなのよ?」
 桃の花のようなくちびるを尖らせ、明星は不服を訴えた。
 都いちの佳人として知られた母の美しさをそっくり受け継いだといわれる姉――私が私自身を美しいと言い切るのは精神的に無理だ――は、ふっさりと生え揃った睫毛の奥に瑞々しい紫色の瞳を湛えている。夜明けを映す水面を思わせる、深く引きこまれる()だ。
 瓜をふたつ並べたかのようにに相似形の私たちだが、瞳の色だけは違う。
 私の瞳は、明星の言葉で表せば「夕映えに輝き渡る秋の稲田」、当代の大皇――父の言葉で表せば「禍々しき鵺の眼」であるらしい。夜闇で爛々と燃える朱金(あかがね)色の両目は、確かに化生じみていると思う。
 宮女は私の目は見た者を呪い殺すと噂している。お産で亡くなった母は、ふたりめの赤子の目を見てしまったから魂を吸い取られたのだと。
 私の前で視線を逸らしたり顔を隠したりしないのは、明星と仕えてくれている宮人ぐらいのものだ。大皇の御前に出るですから、足元まですっぽり隠れる(おすい)を被るよう厳命されている。
 莫迦莫迦しい。私が陰視(かげみ)――陰りに潜むものを視る異能を持つ人間――にしか過ぎないことは知っているくせに。
 明星を掌中の珠と慈しむ大皇が一方で私を疎んじるのは、私のせいで最愛の妃が亡くなったからだ。明け方に生まれた姉よりも遅れ、ようやく私が産声を上げた夕方には、母は白い花のごときかんばせを苦悶に染めて絶命していたという。
 母の血にまみれて泣く私の隣から明星を抱き上げた大皇は、「それは妖霊星(ようれぼし)だ。死を招く凶星(まがつぼし)の落とし子だ」と忌々しげに吐き捨てたそうだ。ゆえに私は夕星――滅びと災厄の象徴の名で呼ばれ、片割れには吉兆を告げる明星の名が与えられた。
 私は乳母というには薹が立ちすぎている老齢の婢とともに、森の奥の古宮に押しこめられた。それから十五年、大王の許しがなければ森の外へ出ることも難しい身の上だ。
「仕方ないわ。私といっしょにいたら、あなたまで母上のように呪い殺されてしまうと大皇はお考えなのよ」
 肩を竦めてみせると、明星は悔しそうに眉根を寄せた。
「そんなの、夕星のせいではないわ。産褥で命を落とすことは珍しくないと前に医女が申していたもの」
「そうね。……きっと大皇は、明星のように理解することが難しいのよ」
 大皇は母のことをたいそう寵愛していたそうだ。身分の低い母を正妃に迎え、彼女以外の女性を拒むほどに。
 母の死後、皇太子(ひつぎのみこ)を望む臣下の声にやむを得ず新しい妃を娶り、皇子(みこ)をひとり儲けている。私は直に会ったことはないが、明星は年の離れた異母弟をかわいがっているようだ。
神隼(かむはや)もね、夕星と話がしてみたいと言っていたの」
 私はぎょっとした。神隼は異母弟の名前だ。
 明星は力をこめて訴えた。
「あなたの噂を耳にして、わたくしに訊いてきたのよ。『杣の宮の姉上は皆が言うようにおそろしい方なのですか』って。もちろん違うと言ったわ。みんな誤解しているだけ。夕星ほど穏やかで、心が安らぐひとはいないと」
「買いかぶりだわ」
「本当のことよ。だって、あなたに出会えてようやくわたくしは自由に息を吸えるようになったのよ?」
 私の手を固く握り、明星は俯いた。
「……ねえ夕星。わたくし、ときどきお父様が怖いの」
 喉の奥から苦いものがこみ上げる。私は寄り添うように片割れの肩を抱いた。
 亡き后に対する大皇の恋慕は、日に日に母の面影を濃くする明星への溺愛にすり替わった。真赭によれば、適齢期を迎えた皇女(ひめみこ)への縁談をことごとく握り潰しているらしい。
「お父様はとてもおやさしいわ。でもね、わたくしを見る眸が……たまらなくおそろしいときがあるの。お父様の前から逃げだしてしまいたくなるのよ」
「大丈夫よ、明星」
 私は意識して明るい声をだした。
「万にひとつ大皇がおかしなことを考えていたとしても、母上の一族――和多(わた)氏が黙っていないわ。お祖父様……和多の氏長(うじのおさ)は、母上を無理やり奪い取ったことをひどく恨んでいるのでしょう? 更に愛娘の忘れ形見を苦しめるようなら、明日には七洲(しちしま)の湊という湊から舟が消えてしまうに違いないわ」
 母が生まれた和多氏は、かつて戦火を逃れて海を渡ってきた人びとの末裔だ。
 和多氏は優れた造船と航海の技術を持ち、七洲を統べる大皇に臣従を誓うかわりに庇護を求めた。それから二百年近く、和多氏は異国との交易に大いに貢献し、和多水軍と称される一大勢力にまでのし上がった。
 島国である七洲にとって海を制する和多氏はなくてはならない存在だ。すでに祖父との間に遺恨を抱えている大皇が同じ轍を踏むような真似はしないだろう。
「年賀の宴で会うたび、面白いお話をたくさん聞かせてくださったり、珍しい異国の品を贈ってくださったりするのだと話していたでしょう? 何かあったら、お祖父様に文を書くのよ。そうすればすぐに助けてくださるわ」
 異母弟同様、母方の祖父に会ったことはないが、明星には愛情を持って接しているようだ。
 ただ、私のことをどう思っているのかは謎だ――明星の前でも私の存在について言及したことはなく、そもそも会える機会が大皇が臨席している場に限られているので、明星も話題にしづらいらしい。
「国じゅうの湊から舟が消えたら大変だわ」
 明星は弱々しい笑みを浮かべた。私の肩に頭を乗せ、ため息をつくように呟く。
「夕星といっしょに和多の(さと)へ行けたらどんなにいいかしら」
 下向いた紫色の瞳は深く翳り、言の葉だけが頼りなく宙を漂っている。
「皇女であるわたくしは神隼のように皇太子にはなれない。もうすぐ十六よ。どこかの氏族へ降嫁するべきなのに、お父様はお許しにならない。……ずっとそばにいておくれと、そうおっしゃるのよ」
「いずれあなたにふさわしい縁談が整うわ。大皇だって、いつまでも駄々を捏ねてはいられないわよ」
「まあ、夕星ったら」明星のかんばせにようやく光が射した。
 片割れはおかしそうに噴きだすと、袖の下でころころと笑った。
「お父様をそんな風に言えるのはあなたぐらいだわ」
「私からしてみれば駄々っ子も同然よ。責任ある地位に就いている、いい年をした殿方がみっともない」
 正直な感想に、明星は我慢できないとばかりに肩を震わせている。
 私は彼女の手に手を重ねた。
「弱気になって悲観してはだめよ、姉様。いやなことをされそうになったら大皇だろうどだれだろうと、思いきり叫んで顔を引っ掻いて股関を蹴り上げてやりなさい。膝を一発ぶちこんでやれば、たいていの男は再起不能に陥るわ」
「ぶっ……」
 明星の頬がサッと赤くなった。恥ずかしそうに視線を泳がせる姉に、私は念を押した。
「護身用に先の尖った笄を髪に挿しているといいわ。遠慮なく手を刺してやれば、逃げる隙ができるから」
「夕星……ずいぶん詳しいのね?」
 私は咳払いでごまかした。「ええと、飯炊き女の真赫という者がね、世辞に通じていていろいろと教えてくれるのよ」
 実際はあちら(・・・)で聞きかじった知識なのだが――痴漢を撃退するには安全ピンが効果的だとか。
 安全ピンはないが、装身具である笄なら身につけていてもあやしまれずに済むだろう。
 明星は目を丸くして感心しきっている。気位の高い宮女に取り巻かれ、安易に下位の者と口を利こうものならこっぴどく叱責されるという姉にとって、台盤所の飯炊き女とは未知の存在に等しいのかもしれない。
 ……不憫な子だ。
 私も不遇だが、明星とて恵まれた環境にあるとは言えない。互いに憐れみ、傷を舐め合っている関係だとつくづく思う。
 それでも、幸せになってほしいのだ。
 この世界で得た、ひとりきりの私の『家族』だから。
「ああ、夜が明けるわ」
 遠くから朝を告げる鶏の声が聞こえる。
 名残惜しさをこらえ、私は片割れの手を放した。
「そろそろ戻らなければ」
「ねえ夕星……明日の朝、神隼を連れてきてもいい?」
 おずおずと尋ねる明星に、私は首を横に振った。
「私は皇子に会わないほうがいいわ」
「でも――」
「明星の言うとおり、とてもいい子なのでしょうね。だからこそ、いらぬ煙の火種は生まないほうがいい」
 明星は口をつぐんだ。
 聡明な姉のことだ、異母弟と私を引き合わせるリスクは承知しているだろう。
 二年間密かに続けてきた夜明け前の逢瀬とて――そろそろ潮時であることも。
「……わかったわ」
 明星はかすかに頷き、おもむろに黒髪に飾っていたりんどうを引き抜いた。
「これを」両手で差しだしながら、縋るように見つめてくる。
「忘れないで。わたくしは、いつもあなたを想っているわ」
「……私もよ」
 そっとりんどうを受け取り、私は胸を締めつけられる思いで微笑んだ。
「あなたほど愛しいひとはいないわ、姉様」
 また明日――そう言い交わし、私たちは別れた。
 灯りの消えた縁の奥へ消えていく明星を見送り、私は急いで森の奥へ駆けこんだ。
 両手で裾を絡げ、徐々に明るくなっていく森を一心に走る。まとわりつく陰りの気配にかまっている暇などない。
 慌ただしく宮にたどり着くと、まだ真赫は来ていないようだった。
 沓を床下に隠し、まだいびきを立てている婆の横を通って臥所に滑りこむ。
 脱ぎ散らかした宮女の装束を掻き集めて衣装櫃の底に押しこむと同時に、厨のほうから物音が聞こえてきた。
 いつものように僅差で遅れてやってきた真赭が朝食の支度をはじめたようだ。地味な浅葱色の袍に同系色の裳を重ねると、ふと鏡台に目が留まった。
 鏡を覗きこみ、そっけない髪型をまじまじと凝視する。いちど髪を解き、上のほうだけ掬って結い直す――いわゆるハーフアップだ。
 そこへりんどうの花を挿すと、なんとなしに気分が明るくなった。
 満足し、控えの間で熟睡している婆に声をかける。「婆、そろそろ起きてちょうだい」
「ふがっ」皺に埋もれた目をしょぼしょぼさせて婆は起き上がった。見事なまでの白髪が綿毛のように膨らんでいる。
 歯の抜けた口をもごもご動かし、「これはこれは媛様(ひいさま)、おはようごぜえます」と夜着のまま一礼した。
「おはよう。さ、早く顔を洗って髪を梳かしなさいな。真赫が朝食を作ってくれているから」
「おお、ありがたいことじゃ。今日の(さい)はなんでごぜえましょうなあ」
 いそいそと身繕いをはじめる婆に呆れつつ、厨に向かう。
「おはよう、真赫」
「こりゃまあ媛様。おはようございます」
 空腹を誘う匂いに満ちた厨には、下級宮女の装束を着たふくよかな女性が朝食の仕上げに取りかかっていた。
 張りのある赤銅色の肌はつやつやとして、色素の抜けた縮れ毛をひっつめている。ひと目で異国の血を引いているとわかる容貌だ。
 肌の色から真赫と呼ばれている飯炊き女は、白い歯を見せて笑った。
「きれいな花ですねぇ。媛様によくお似合いだあ」
「うふふ、ありがとう」
 袖をまくって手伝いを申し出ると、真赭は遠慮なく「そこの鍋から汁を椀によそってください」と言ってくれた。
 身支度を終えた婆が出てくるころには、ささやかだが温かい朝食の膳が並んでいる。
 こうして、杣の宮の一日がはじまった。

一 杣の宮の皇女〈2〉

 かつて私は夕星ではなく違う名前で呼ばれていた。
 七洲を治める大皇の娘として生まれる前――別の世界で別の人間として暮らしていた記憶がある。
 そこで日本という国で、東京という都市で、私は平凡な女子高生として生きていた。
 サラリーマンの父とデイサービスの介護士として働いていた母。中学生の弟は生意気だったが嫌いではなかった。
 友達がいた。部活は茶道部。人数合わせの幽霊部員だ。彼氏はいなかった。気になっているクラスメイトの男の子が――いたような、気がする。
 得意科目は……なんだっただろうか。小学生のころは『まんがでわかる! 世界の歴史』シリーズをよく読んでいた覚えがある。
 ああ、そうだ。日本史や世界史が好きだった。
 文字を読むのは苦手だが、まんがは好きだった。スマホの読み放題アプリで、昔の――母が知っているような古い少女まんが――を読み漁っていた。
 篠原千恵の『天は赤い河のほとり』に、ひかわきょうこの『彼方から』。大長編の『王家の紋章』は一回挫折して、いつかトライしてみようと考えていて……
 私は、なんという名前だったのか。
 憶えているのは全身を殴りつけられるような痛み。衝撃と言ったほうがいいかもしれない。
 ブツッと意識が途切れ――気がついたら四歳の夕星としてこの世界にいた。
 通学途中、乗っていた路線バスがトラックに突っこまれたのだ。車体がひしゃげて、砕け散ったガラス片がきらきらと光っていた。即死だったらいいな、と思う。
 享年十七歳。こちらでの年齢も加算すると三十二歳。立派なおばさんだ。
 覚醒するまでの四年を引いても二十八歳。もうすぐ二十九歳。どうあがいてもアラサーである。
 前世の記憶はどんどん曖昧になっていくのに、精神面では老ける一方だ。七洲では女の子は十四、五歳で結婚するのが当たり前なので、明星が大人っぽいと褒めるわけである。
 ちなみに大皇は四十代手前。おっさんがいつまでも女々しく娘に甘えんなよ、しかも一国の君主だろ! と腹立たしくもなる。
 前世の父だって娘から見ると洋服のセンスのない中年だったが、もっと頼り甲斐があったし父親の責任を果たしていたぞ……外見に関して大皇のほうに軍配を上げてしまうのは許してほしい。
 芽生えかけていた自我と記憶に折り合いをつけ、俗にいう毒親のもとに生まれてしまったがために辛酸を舐めている境遇を理解したのは七歳。このころ前世の名前を忘れ……夕星という人間に生まれ変わった現実を受け容れるしかなかった。
 だって、納得しなければ生きていけないではないか。
 育ち盛りの子どもはとにかく腹が減るのだ。すぐに眠くなるし、覚えなければならないことは山のようにあった。
 不慮の死を遂げた末、理由はわからないがせっかく生まれ直したのだ。
 私は生きたかった。
 だから夕星という名前で生きることを選んだ。
 まず生まれた場所。七洲と呼ばれる、日本に似た気候の島国。
 春夏秋冬があり、主食は米。これはとても助かった。お米おいしい。
 ただし文明レベルは二十一世紀の日本より遥かに原始的だ。水は井戸や川から汲んでこなければいけないし、日が沈めば灯火だけが頼りだ。
 何より、人間がころりと死ぬ。
 不謹慎な言い方だが、本当にあっさり死ぬ。特に身分の低い者ほど簡単に死ぬ。
 怪我や病気になっても、そもそも治療を受けられるのは高貴な身分の人間に限られているからだ。治療といってもせいぜい薬を煎じて飲ませたり、按摩や鍼灸のような施術を行ったりする程度――あとは呪術に縋るしかない。
 こちらの世界には『おばけ』がいる。
 陰りに潜むもの、人間にとってよくないものを退ける方法――あるいは、かれら(・・・)の力を借りて他人を害する方法――が存在する。見えないもの、不思議なものための付き合うための方法が呪術だ。
 私のような陰視は、一般的な集落ならひとりやふたりはいるものだそうだ。だが呪術を操る呪師(じゅし)は、きちんと修練を積まなければなれるものではない。
 私を育てた婆は、この呪師だった。
 といっても呪術の手ほどきは受けていない。「すっかり忘れてしまい申した」と言って教えるつもりはないらしく、陰視としての心がけは説いてくれた。
 陰りに潜むものを侮ってはならぬ。さりとて侮られてもならぬ――塩をぶちまけて怒鳴りつけたと言ったら、「ほんに気骨がある御子じゃあ」と歯の揃わぬ口を開けて笑っていた。
 のらりくらりとした婆との暮らしにほかの人間がまじったのは、夕星の名を受け容れたころだ。
 足腰が弱くなってきた婆を見兼ねて、台盤所で働いている真赫や、彼女と同郷の宮人たちが手伝いにきてくれるようになったのだ。真赫たちは私の目を見ても大袈裟に怖がったりせず、婆と同じく「媛様」と朗らかに接してくれた。
 ……父親から忌み嫌われ、宮の外に出れば腫れ物のようにつつかれて。重苦しい境遇にめげずにいられたのは、のんきな婆や真赫たちのおかげかもしれない。
 多少ひねくれたところは否めないけれど。大皇が一日に一回は調度の角に足の小指をぶつけて悶絶するよう心の中で呪うぐらいは許されるはずだ。
 明星に出会ったのは二年前。
 同じ日に生まれた姉妹なのだから出会ったというのはおかしいかもしれない。双子の姉の存在は知っていたが、いちども姿を見たことはなかったのだ。
 夏の終わりの黄昏だった。
 夕闇に呑みこまれようとする森の中から叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと駆けつけると、黒い影のような犬に襲われている女の子を見つけた。
 ひと目で悪しきものだとわかった。私は懐に忍ばせていた塩をありったけ犬に投げつけ、「今すぐ消えろ! さもないと次は御神酒をぶっかけるぞ!」と叫んだ。
 全身に塩を浴びたら犬はギャンと悲鳴を上げ、跳ねるように暗がりへ消えた。
 私は呆然とへたりこんでいる女の子に駆け寄り、息を呑んだ。
 美しい衣を無惨に汚した女の子は、私と同じ顔をしていた。きれいな紫色の瞳が涙を溜めて私を凝視していた。
 墨色の髪の両側をひと房ずつ赤い結い紐で束ねた女の子は、震える手を伸ばしてぎゅっと私の袖を掴んだ。
「あなたが……夕星?」
 鈴を振るようとはこんな声だろうかと思った。ぎくしゃくと頷くと、女の子――明星は顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
 のちに聞いたことだが、陰視ではない明星はこのときはじめて陰りに潜むものに遭遇したらしい。
 婆によれば、大皇が暮らす宮城は破邪の術によって堅固に守られており、本来悪しきものが立ち入る隙などないのだそうだ。だが顧みる者もいない杣の宮はいつしか術の守りを失い、闇深い森に数多の陰りが生まれてしまった。
 身ひとつで森に迷いこんだ女の子を悪しきものが放っておくはずもない。かれらとの付き合い方を婆から教授された私ならいざ知らず、煌らかな宮中で育った明星にとってみればどれほどおそろしい出来事だったか。
「あなたに会いたくて、会いたくて、逃げてきたの」
 私の手を握りしめ、ぽろぽろと涙を溢れさせながら明星は打ち明けた。
 狂気じみていく大皇の愛情に恐怖を抱き、少しずつ女になっていく自分の成長が厭わしいこと。
 大皇の怒りを買うことをおそれ、周囲はだれも助けてくれないこと。
 皇子を産んだ継母から激しく憎まれ、臥所に蛇を投げこまれたり宮の床や柱に獣の糞を撒き散らされたり嫌がらせを受けていること。
 苦しくて苦しくて、だれかに助けてほしくて――杣の宮に幽閉されている片割れの存在に縋りついたこと。
 拒絶などできるはずもなかった。
 胸の裡で長く凍えていた何かがゆっくりとほどけていった。
 どんなにやさしいひとたちに助けられ、支えられていても、私は孤独だった。
 人生を失い、故郷を失い、名前を失い、実の父親から母親殺しと忌み嫌われる娘として――夕星として生きるしかなかった。『私』はここにいるのに、夕星にしかなれなかった。
 憎しみでも憐れみでもなく、ただだだ夕星を――私を求めてくれたことが嬉しかったのだ。
 明星に出会って、『私』はようやく夕星になれた。私は夕星、明星の片割れなのだと心から思えたのだ。
「私も……あなたに会いたかったわ。明星、私の姉様」
 滑らかな白い手をおずおずと握り返すと、明星はハッと息を呑んだ。
 潤んだ瞳は雨に濡れるまつむしそうの花を思わせた。そこに光が灯ることを願い、私は微笑んだ。
「会いにきてくれてありがとう」
 明星は私の膝に崩れ落ちた。
 幼子のように咽び泣く姉の背を撫でさすりながら、私は生まれてはじめて(・・・・・・・・)満たされた喜びを噛みしめた。
 明くる日から私たちに秘密ができた。
 夜明け前のひととき、森のほとりでのささやかな逢瀬。側仕えの目を盗み、ともに過ごせる時間はほんのわずか。それでも二年の間、私たちは一日たりとも欠かさず約束を守り続けた。
 ――明日の朝も、この場所で。
 明星に会える。その希望があるからこそ、昏い森に閉ざされた宮での暮らしにも耐えられた。
 森のむこう――外の世界へ出たいという思いは常にあった。薄暗い陰りではなく、光を浴びて生きたいという願いが。
 だが、大皇に逆らえば今度こそ殺されるかもしれない。森の中に留まっているからこそ私の命は保証されているのだ。
 明星との逢瀬とて危うい綱渡りだとわかっている。いつまでも見逃してもらえるわけではないことも。

一 杣の宮の皇女〈3〉

 朝食の後片付けを終えると、真赫は台盤所へ戻っていった。私は婆とともに糸繰りの仕事に取りかかる。
 婆はもともと皇族の衣装を作る染殿で働く機女(はたおりめ)だった。私の側仕えとなった今でも毎日欠かさず糸車を回し、紡いだ糸を染殿に納めている。
 婆からは陰視の心得とともに糸繰りの技も教えこまれた。染殿で働いている宮人たちも、まさか皇女が糸繰り女の真似事をしているとは思うまい。
「昔むかしは、糸繰りや機織りは巫女(ふじょ)のお役目でごぜえました。忌服屋(いみはたや)に籠り、心静かに天地(あめつち)の声に耳を澄ませる。すると大気の流れや水のめぐり――海を往き、(おか)を駆ける人の世の移ろいが色鮮やかな布帛のごとく目の前に広がるのですよ」
 糸車を回しながら婆は語る。
 実際、婆は呪師であると同時に優れた巫女でもあった。日照りや干魃、疫病の予兆を読み取ったときなど、宮に出入りする真赫たちにそれとなく伝え、大皇の耳にまで届くよう取り計らっていた。
 真赫によれば、婆の占は先代の大皇の治世から重んじられているのだそうだ。同時に畏怖嫌厭の対象となり、最下級の奴婢に落とされた。大皇からすれば忌み子の世話を任せるにうってつけの人材だったというわけだ。
 染殿に納める糸は、主に天領で飼育されている特別な蚕の繭から取れる絹糸だ。
 淡い翡翠色を帯びた繭からは、萌黄色に照り映える美しい糸が取れる。一般的な絹糸よりも細くやわらかいため、熟練の糸繰り女でなければ仕上げることが難しい。
 婆はこの特別な絹糸を取る役目を負う数少ないひとりだった。染殿から運ばれてきた繭を大鍋で煮てほぐし、糸車で丁寧に糸を紡いでいく。
 私が糸繰りを任されているのは一般的な白い繭だけだ。「(あめ)の糸をひと筋紡ぐまで、媛様の腕では十年でも足りませんのぉ」と笑われてしまえば、地道に研鑽を重ねるほかない。
 婆が回す糸車の音、古めかしい糸繰り唄を聞いて育った私にとって、糸繰り女の真似事はすんなりと身に馴染んだ。
 ほぐした繭から紡がれる一本の糸によって、私という人間とこの世界が結ばれる。するすると伸びていく糸の先から、言葉でも映像でも音楽でもない情報が波のように打ち寄せる。
 宮を囲う森に潜むものたちの息遣い、梢のささめき、風の匂い。
 広大な宮城で動き回る人びとの足音、話し声、色とりどりの裳の衣擦れ。
 台盤所で真赫がかまどの火を熾そうと息を吹いている。厩から響く嘶き、馬蹄の音。
 染殿では年若い機女たちがおしゃべりに夢中になり、機女頭からこっぴどく叱りつけられている。機織りの音色、染料を煮出す大鍋から立ち上る湯気の熱。
 宮城の奥へ意識を向けると、てらてらと玉虫色に輝く帳が雪崩れ落ちた。パシンッと鼻先で閉め出されてしまい、帳のむこうを窺い知ることはできない。
 呪術による守りは、単なる陰視に過ぎない私では突破は困難だ。破れたところで、大皇に知れれば謀反の疑いをかけられるに決まっている。
 糸車を回す手を止めてため息を噛み潰すと、婆がのんびりと口を開いた。
「御心が乱れておりますなあ、媛様」
 淀みなく糸を引きながら、皺に埋もれた瞳が私の手元を射抜く。
「仕方ありますまい。姉君がたいそう気がかりでいらっしゃるのだから」
 ……婆が見て見ぬふりをしてくれているのだと理解したのはすぐのことだ。
 杣の宮に囚われながら七洲の端から端まで見晴るかす眼を持つ巫女が、養い子が毎朝こっそり森の外へ抜けだしていることに気づかぬはずがない。
 二年間、婆は咎めも諫めもせず私の好きなようにさせてくれた。
 だが、いずれ糸の切れ目――片割れとともに紡いだ感傷を断ち切らねばならない日を宣告されることを、私は知っていた(・・・・・)
「……明星は、大切な『姉様』だから」
 紡ぎかけの糸に視線を落とし、苦い胸中を吐露する。
「幸せになってほしいの。私では(・・・)幸せにしてあげられないから」
 婆のように、はっきり見えているわけではない。
 明星を想えば想うほど感じるのだ。固く縒り合わさっていたはずの私たちは運命の手によって解きほぐされ、まったき一本の糸に戻ることはできないのだと。
 流れた時間のぶんだけ明星は遠ざかり、いつか決定的な別れがやってくる。二度と交わらぬ糸の先は、暁闇よりも暗い。
「私にできるのは、この宮で糸を引いて陰りに潜むものを視るだけ。明星のそばにいて、あの子を守ってあげることもできない」
 私の片割れ、私の愛子。
 同じ日、同じ父母から生まれたのに、私たちが置かれた天は違っていた。
 暁天に昇っていく明星を、私は地の底から見送るしかないのだ。杣の宮という牢獄から解き放たれない限り。
「ねえ婆。どうして大皇は私を生かしたのかしら」
 糸車の音がカランと止まる。
 婆の表情は凪いだ水面を思わせた。皮膚がたるみ、皺が波打つ小さな顔は、どこか人ではないもののように見えた。
「視界に入れることを厭うほど疎んじているのなら、死産なり病死なりと偽って幼いうちに殺してしまえばよかったのに。わざわざ幽閉して飼い殺しにする必要がどこにあるの?」
 口にしてしまえば、胸の裡に巣食う真っ黒な感情が噴きだした。
 明星への想いと表裏一体の、大皇(父親)への反感、理不尽な境遇に対する鬱屈――
 大皇を頂点とする完全な封建社会において、二十一世紀の平和な民主主義国家で生まれ育った『私』の人間性には異質で、異端で、無力だった。
 そう、無力! 圧倒的に無力!
 目が眩むような絶望に溺れ、もがきながら沈んでいく。
 ――どうしてこんなに苦しいの?
 婆ばパチリと瞬き、いつもどおりの気の抜けた笑みを浮かべた。
「はてさて。お聡い媛様ならば、『和多の白珠(しらたま)』と呼ばれた御方のことはご存じでしょう」
「……私を産んで亡くなった母上だわ」
「然様にごぜえます。大皇が白珠媛をお召しになったときの騒ぎといったら、七洲の地がひっくり返った有り様でした。和多の氏長の怒りは凄まじく……白珠媛自ら大皇の暴挙をお許しになるよう訴えられ、ようよう輿入れを承諾したのです」
 私は「え」と声を洩らした。
 拐かされた母自身が和多氏を説き伏せた――とは初耳だ。
 真珠のごとき白皙の佳人であったという母。慕わしさよりも苦々しさを覚えてしまう、朧げな存在。
「大皇と白珠媛は、それはそれは仲睦まじくいらっしゃいました。特に白珠媛は、御子がお生まれになる日を心待ちにしておいでじゃった。……命に替えても惜しまぬほどに」
 糸車がゆうるりと滑る。
 婆の手元から伸びる糸と意識が接続される。未知のイメージが内側から広がり、感覚のすべてが塗り潰された。
 濃い乳の香り。白い手首を飾る翡翠の玉環。
 半身とぴったり身を寄せ合い、温かな薄明かりの中でまどろんでいた。水のゆりかごを揺らす、張りのある女性の歌声。
 ――吾子や、吾子や
 ――早く其方(そなた)を抱いてやりたい……
 欠けたものなどひとつもない、満たされた幸福。狂おしい感情に胸を掻きむしりたくなり、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 私の中に入ってこないで!」
 紡いでいた糸がブツリと切れた。
 全霊の拒絶に、意識の結び目が引きちぎれる。婆はわずかに目を瞠った。
 私は道具を放り投げて立ち上がった。
 瘧にかかったように体が震えた。両手を握って歯を食いしばり、育て親を睨めつける。
「……母上の願いだから、大皇は私を殺さず生かしたの? だから母上に感謝しろと?」
「媛様――」
「ええ、そうね。私の母上はとてもおやさしく、慈悲深い方だったのでしょうね」
 息を吸いこみ、私は声を張り上げた。
「だからなんだというの!? 母上は死んだわ、私を産んだせいで! 母上が死んだから、私も明星も苦しんでいる。私は母親殺しの汚名を着せられ、明星は父親から母親の身代わりを強いられている。母上の亡霊に取り憑かれた大皇によって!」
「媛様!」
 婆の口調が一変した。
 反射的に身が竦む。本気で怒っているときの声だ。
 普段とは比べものにならないほど、怒った婆は怖い。錐のような視線が突き刺さり、喉が鳴った。
「そのような、死者を貶める呪詛を吐いてはなりませぬ。悪しき言霊は悪しきものを呼びこむ――そうお教えしたはずじゃ」
 呪詛――そう、私の言葉は呪詛だ。
 どれほど物分かりのいいふりをしても、自分を取り巻く環境を恨めしく思う心が呪詛を垂れ流している。  
 陰りは新たな陰りを生む。だからこそ異能を持つ者は感情のまま他人に害を及ぼさないよう、己を律しなければいけない。
「……忘れたわ、そんなこと」
 私は身をねじ切られるような心地で呟いた。
 床に打ち捨てられた糸が千々に乱れて波打っている。枯れ枝のような婆の指が無惨に断ち切れた一本をそっと摘まんだ。
 婆はしょぼしょぼとした目で糸を見つめ、悲しげに息を吹きかけた。
 糸は一瞬で真っ黒な翅の蝶――いや、蛾だ――に姿を変えると、ふよふよと覚束ない飛び方でこちらへやってきた。
 とっさに袖で打ち払うと、蛾はぼろぼろと煤になって崩れ落ちた。
「ゆめゆめお忘れなされるな」
 点々と袖に付着した煤の痕に、婆は重々しく唸った。
「なんのお役目も与えられずに天から降ろされた命などありませぬ。七洲の大皇と白珠媛の御子としてお生まれになったあなた様にもまた、今生で果たすべきお役目があるのです」
 私はくちびるを噛みしめた。
 ――明星に会いたかった。夕星(わたし)を愛してくれる、たったひとりの片割れに。
 沓も履かず裸足で宮を飛び出した。
 婆は引き留めなかった。私は禁を犯すほど蛮勇な子どもではないと、育て親はよくよく理解していた。
 薄暗い森の中をめちゃくちゃに走った。袖や裳裾が小枝に引っかかって破けてもかまわず、ひたすら走った。
 息が上がるころ、森のほとりまでたどり着いた。木立の切れ間に殿舎の屋根が見える。
 私は肩を上下させながら、暗がりの内側で立ち竦んだ。
 森のほとりに接する殿舎は使われておらず、普段は見回りの衛士しかいない。
 逢瀬のたびに明星と語らった殿舎の縁には、甲冑を身に帯びた衛士が立っていた。
 上背のある、年若い青年だ。
 金属製の短甲に負けず劣らず、浅黒い肌が鞣し革のように輝いている。真赫と同じ渡来民の混血なのだろうか。
 冑の陰に隠れて目元ははっきりとしないが、ぐいと引き結ばれた口に意思の強さを感じる。注意深く周囲を窺っている様子だ。
 一陣の風が吹いた。
 かぎ裂きだらけの袖と裳裾が棚引く。
 思いがけない強さに慌てて髪を押さえるが、りんどうの花が風に拐われてしまった。
「あっ!」
 光の中に舞い上がった青紫色の花は、籠手に覆われた青年の手に捕らえられた。
 喉が細く鳴った。
 りんどうの花を手にした衛士がまっすぐ私を見つめていた。鏃が撃ちこまれたような視線に胃の腑が竦み上がる。
 目が合った。
 瞳の色など判別できないのに、衛士が下瞼を押し上げたのがわかった。引き結ばれていた口唇がほどけ、何かを呟いたのも。
 衛士が階に脚をかけた。
 私は弾かれたように踵を返して駆けだした。
 森の影が激しくざわめく。陰りに潜むものたちが浮き足立って大気を揺らす。
 何度も何度も振り返り、衛士が追いかけてこないことを確認した私は、へなへなと腰を抜かした。
 心臓が耳に痛いほど跳ね回っている。
 噴きだした汗が目に入りそうになり、忙しなく瞬いた。
 ――あれ(・・)はおそろしいものだ。
 歯の根が噛み合わぬほどの震えとともに抱いた確信は、やがて予感に変わる。
 ――私は必ず再会する。
 晴天から打ち下ろされた雷霆のような、あの人物と。

二 わだつみの落とし子〈1〉

「海が見たいわ」
 いつだったか、明星が話してくれたことがある。
 大皇とその一族が暮らす(みやこ)は、山々に囲まれた盆地に位置している。生まれてからいちども京から出たことがない明星は、山並みのむこうの景色に思いを馳せては憧れを口にしていた。
「和多のお祖父様がね、わたくしの瞳は貝紫だとおっしゃるの。巻き貝から採れる美しい紫色の染料で、とても珍らかなのですって」
「貝から染料を?」
 そのころには糸繰りの仕事に励んでいた私は、好奇心で身を乗りだした。
 七洲で用いられる染料は主に草木から採れたものだ。鉱石を砕いて粉末にしたものを使う場合もあるが、糸や布帛を染めるにはあまり適さない。婆によると、鉱石の毒気にあてられて病む職工も多いのだという。
 貝から染料が採れるというのは初耳だった。私は片割れの両目をまじまじと覗きこんだ。明るく澄んだ紫色の瞳がはにかむ。
「不思議よね。お祖父様はお若いころ、大陸から渡ってきた貝紫の錦を見たことがあるそうよ。息を呑むほど鮮やかな紫色をしていて、ぴかぴかと照り輝いていたと教えてくださったわ」
(すめらぎ)への貢ぎ物だったのかしら?」
「いいえ。貝紫の錦は京へではなくて……南へ運ばれていったそうよ」
 明星の眉がかすかに曇る。
 単に南といえば、七洲の南方に接する島嶼群を指す。
 古くから海上の交易地として栄え、大陸にも七洲にも属さない独自の文化圏を持つ藩王国・伊玖那見(いくなみ)
 伊玖那見は巫女――かの国では神女(エィタ)と呼ぶ――が支配する呪術の国であるという。いずれの父から生まれたのではなく、いずれの母から生まれたのかが重んじられる母系社会で、歴代の藩王である大神女(ウルエィタ)の位は直系の女子が継ぐ習わしだそうだ。
 藩王国の呼称どおり、伊玖那見は大陸の国々や七洲から従属的な土地として見なされている。というより、伊玖那見の外交戦略そのものが他国に対し従順かつ友好的であるのだ。七洲にも年賀の祝いには必ず朝見の使者が訪れ、四方の海から取り寄せた貢ぎ物を山ほど献上すると聞く。
 (くん)の閨に南妓(なんぎ)ありぬべし――あらゆる君主の臥所に侍らぬ伊玖那見の妓女はいないという意味合いの古い風刺だ。伊玖那見は呪術と同じく音楽や舞踊が盛んで、旅女(ウロ)と呼ばれる女ばかりの旅芸人の一団が遠国まで赴いて巡業している。
 明星は幼いころにいちどだけ旅女の曲芸を宴席で目にしたが、たいそう華やかで楽しいものだったそうだ。色とりどりの薄布を翻して踊り子たちが蝶の群舞を披露し、当時の私たちと同年代の少女が玉乗りや綱渡りをやってのけ、大の男よりも巨大な蛇が笛の音に合わせて滑稽に踊ってみせた。
 私はなんとなく女性だらけのサーカス団をイメージしたが、不意に笑顔を萎ませて口をつぐんだ明星の様子からそれだけではないことを察した。
 あとでこっそりと真赫に聞きだしたところ、旅女は行く先々で芸だけでなく春を売る遊女の側面も持っているらしい。ゆえに、伊玖那見人の女性を指して南妓という蔑称が生まれた。
 大皇の御前で芸を披露したということは、その夜のうちに大皇の臥所へ召された旅女がいるわけだ。ひとりなのかふたりなのかは知らないが(別に知りたくもない)、すでに母の後釜として妃の座に就いていた継母や大皇の寵愛を狙う宮女たち、野心を持って彼女らに群がる人びとはさぞおそろしい顔をしたに違いない。
 残念ながら大皇の臥所に旅女が侍ったのは一夜限りで、明くる朝、後宮の池に女の亡骸が浮かんでいたという記録も残っていない。いっそ大皇のお気に入りになって後宮に居座り、継母たちと足の引っ張り合いを演じてくれれば、明星の不幸が少しは減ったかもしれないのに。
 このとき私は、狭い環境の中で育った明星が少女特有の潔癖さで旅女――伊玖那見人に対して抵抗感を覚えているのだろうと思いこんでいた。
「では、伊玖那見の女王への献上品かしら? かの国は本当に豊かなのね。南の海では美しい珊瑚や真珠がたくさん採れるのでしょう?」
 片割れの表情から翳りを拭い取ろうとわざとおどけてみせると、明星の肩がぴくんと跳ねた。
 祖父が貝紫と称した瞳が不安定にさざめき、下を向いた。
「夕星は……だれからの献上品だと思う?」
「え?」
「貝紫の錦を、だれが伊玖那見へ贈ったのか」
 明星が痛いほど両手を握ってくる。私はきゅっと鼻に皺を寄せた。
「和田氏が……ということ?」
 俯いたままの頭が弱々しく頷いた。
「でも、それはおかしいことなの? 七洲の海運は和田水軍が担っているのだもの。交流が生まれるのは自然ではない?」
「お母様の出自について、ある噂を聞いたの」
 和田の氏長の娘である母は、実は祖父の正妻の子ではない。
 豪族の長は複数の妻を持つが、祖父も例に洩れず正妻以外にも数人の側妾がいた。その中のひとりが私たちの祖母である――らしい。
 というのも、白珠媛の産みの母に関する伝聞はあやふやなものばかりなのだ。氏族の有力者の娘だとか、最下級の奴婢だとか、娘同様にお産で亡くなっただとか、はたまた愛娘を大皇に奪われた悲しみのあまり海に身を投げただとか、何ひとつ確かな情報を耳にしたことがない。
 母が大皇に輿入れする際にも、母方の血筋について大いにつつかれたそうだ。そのすべてを握り潰したのはだれなのかどと、問うまでもない。
 伊玖那見とは異なり、七洲は父系社会だ。母は和田の氏長の息女であり、掌中の珠と慈しまれた媛だった。それだけで母の身分は保証され、大皇無二の妃として生涯を全うした。
 だが、遺された私たち……特に、継母を頂点とする女の園で育った明星は違う。
 定かでない母の出自は、宮城の女たちにしてみればこの子を傷つける絶好の武器でしかない。謂れのない侮蔑を糞尿のように浴びせられ、片割れがどれほど涙してきたか――私がいちばん知っている。
 私は明星の手を握り返した。
「母上を産んだのは伊玖那見の妓女だった……かしら?」
 一拍の空白を置いて、明星はこくんと首肯した。
 莫迦莫迦しくなった私は鼻を鳴らした。
「好きなように言わせておきなさいな。後宮なんて息苦しいところで長年暮らしていると、自分勝手な妄想に取り憑かれて泥水の詰まった革袋のようになってしまうのよ。ぱんと弾けたあとは、こわぁい地獄耳の主がきれいさっぱり片付けてくださるわ」
「……じごくみみ?」
 顔を上げてきょとんとする明星に、私は首を竦めてみせた。「おそろしく耳聡いひとのことよ」
 大皇のような――とは、さすがに言葉にしなかった。
 宮城において、母の出自は一種のタブーだった。いまなお大皇の心を支配する母を貶める言動は、それこそ首と胴体が永遠の別れを迎える行為に等しい。
 愚かな末路をたどった宮女の噂話なら、真赫たちからいくらでも聞けた。継母ですら、夫の前ではけして母を侮辱するような真似はしないというのだから。
 片割れの耳に余計な『噂』を吹きこんだ宮女に同情はしない。近いうちに明星に仕える侍女の何人かが入れ替わるだろう。
「夕星は、ときどきわたくしの知らない言葉を使うわね」
 不思議そうに瞬いたあと、明星はふにゃりと笑みをこぼした。
 私は安堵して、コツンと頭を寄せた。
「宮に出入りする者たちのおかげで耳年増になってしまっただけよ。姉様のほうが歌も舞もお上手だし、器量もいいし、素直でやさしくてたおやかでいらっしゃるわ」
「まあ、わたくしの妹は褒め上手だこと。……ふふっ、そうね。夕星はどちらも苦手だものね」
 これは本当の話で、明星の歌と舞は素晴らしい。何度か披露してくれたことがあるが、身内の贔屓目を差し引いても神懸っている。
 管弦の類いもちょっと手習いをすればあっという間に覚えてしまうらしく、姉ながらとんでもない才能の持ち主だ。
 一方の私だが……糸繰り唄を口ずさもうものなら、婆からしょっぱい視線が飛んでくる。いちど真赫に聞かせてみたところ、「酔っ払いが歌う子守唄よりひどい」という感想を真顔で返された。
 どうやらリズム感を前世に置き忘れたらしく、舞はブリキの人形の盆踊りにしかならない。運動神経は悪くないはずなのだが。
 ひとしきり笑い、明星は憂いを押し隠すように睫毛を伏せた。
「夕星は強いわね」
「……そんなことはないわ」
 私はしかめっ面で否定した。
 強くなったわけではない。ただただ、悲観するふりばかり得意になってしまった。
「あなたがいるから、強がれるだけよ」
 明星は私の肩に額をこすりつけ、「わたくしも」とささやいた。
「わたくしも、あなたがいてくれるから……朝を数えてゆけるの」
 ――この子は何度、孤独な夜を迎えてきたのだろう。
 闇に怯え、朝が来ることに絶望し、救いのない日々を送り続けてきたのだろう。
「いつか」
 震えるくちびるが甘い希望を吐きだす。「いつか、夕星といっしょに、海が見たいわ」
「ええ……そうね」
 私は瞼の裏に、記憶に滲む海を思い浮かべた。
 この世界の海はどんな色をしているのだろうか。
 やはり青いのか、まったく別の色をしているのか。海風はどんな香りがして、波の音はどんな風に響くのだろうか。
 見てみたいと、心から願った。
 願わくは――つないだ手を離さないまま。

二 わだつみの落とし子〈2〉

 懐かしい夢を見た。
 眦に溜まった涙を拭い、私は床から起き上がった。
 いつものように下級宮女の装束に袖を通し、髪を結い、襲を被る。控えの間でいびきをかいている婆の脇を通り抜け、沓を履いて宮を出た。
 早朝の森には薄白く靄が漂い、草の露が冷たく裳裾を濡らした。木立のあわいに見え隠れする影から目を逸らし、私は森のほとりを目指した。
 ざわざわと揺らめく梢の陰影が私の心を掻き乱す。裳が絡みつく両脚が重い。
 ――私たちはどこにも行けないのだと思い知らされるかのようだった。
 昨日、逃げ帰ってきた私を出迎えた婆はうっそりと皺深い眸を眇めただけだった。いつもどおり糸繰りの仕事を行い、真赫が用意してくれた食事をおいしそうに平らげていた。
 何も言われずとも、私には理解できた。
 婆が終わりを口にした――それがすべてなのだと。
 樹影のむこうに殿舎の屋根が覗いた。
 私は息を呑んだ。
 殿舎の縁に佇んでいたのは明星ではなく、甲冑を長身に帯びた衛士だった。
 釣り灯籠の残り火に褐色の膚をてらてらとぬめっている。間違いない、昨日の衛士だ!
 どうして、と思わず口の動きだけで呟いた。
 呆然と立ち竦んでいると、周囲を警戒するように見回す衛士の顔がこちらを向いた。
 ひらりと揺れる襲の裾。
 視線が結ばれる。逃げなければと思うのに、鉄の矢で射抜かれたかのごとく動けない。
 瞬きすら忘れるほどの威圧感に、私は呑まれていた。
 衛士が階を下りてくる。
 不思議なことに、かれは足音どころか具足の軋みもほんのかすかにしか聞かせなかった。下生えの草を踏む音は、ささやかな葉擦れのようだ。
 近くに来ると、遠目で見るよりも背の高さが際立っている。小柄な七洲人の中では飛び抜けて目立つに違いない。
 手を伸ばせば襲の裾を捕まえられる位置で立ち止まり、衛士が口を開いた。
「――りんどう」
「えっ?」
 声がひっくり返った。
「りんどう。落とさなかったか、昨日。ここで」
 思ったよりも年若い声だった。
 襲の陰からおそるおそる窺うと、むすりと引き結ばれた口元が見えた。
 彫りが深い顔立ちだが、通った鼻筋と柔い線を描く眉がすっきりとした印象を与える。短甲の上からでも精悍な体躯をしているのがよくわかるが、頬や顎の鋭角はまろく、まだあどけない。
 何よりも、そのまなざしが――
 相対する者の胸にまっすぐ飛びこんでくるかのような銀碧(ぎんぺき)の瞳。
 明度の高い青緑に、波飛沫を思わせる銀の光沢がきらきらと散っている。
 光の加減によって黒ずんだ灰緑色にも、透きとおるような翡翠や瑠璃の色彩にも変化する。まなざしの強さと相俟って、眩暈を覚えるほど鮮烈だ。
「聞こえているのか?」
 青年――というよりも少年と表現したほうがふさわしい相手の問いに、はたとわれに返った。
「覚えはないか。りんどうの花だ」
「……あります」
 一瞬迷ったが、ごまかしきれる自信がなくて白状した。
 すると、少年はふっと口元をゆるめた。
「当たりだ。やっぱり」
 おもむろに腰へ手を伸ばす。
 帯に差された剣に息を詰めるが、かれはその横に差していた花を引き抜いた。
「ほら」
 可憐な鴇羽色の花――なでしこだ。
「りんどう、見つからなかったから」
「……この、なでしこを?」
「あげるよ、あんたに。花、髪に飾っていただろ。似合っていた」
 武骨な衛士にはあまりに不釣り合いな花をまじまじと凝視していると、ん、と促される。反射的に受け取ると、かれはにっこりと笑った。
 なんとも――気が抜けるほど無邪気な表情だった。途方に暮れながらなんとか「ありがとう、ございます」と返すと、うん、と軽く頷く。
「よかった、会えて。おれではないやつに見つかってしまったらと、心配した」
「あの、……あなたは」
 銀碧の瞳がくるりと瞬いた。
水沙比古(みさひこ)
 少年が冑を脱いだ。ほとんど白に近い茶色の頭髪がこぼれ落ちる。
 無造作にうなじで束ねただけの髪は癖が強く、あちこちうねりながらたくましい首筋にまとわりついている。それを鬱陶しそうに払いのけ、水沙比古と名乗った少年は眉根を寄せた。
「ここには来ないほうがいい」
「なぜ」
「おれがいる、理由がわからないか?」
 花を持つ手が震えた。
「……姉様は?」
「自分の宮でおとなしくしている。このあたりは、大皇の妃の息がかかった連中がうようよ」
「そう。……姉様がご無事なら、よかった」
 明星の逢瀬が継母に知られてしまった――禁を破った私たちがどうなるのか、いまごろ楽しみに舌なめずりしているに違いない。
 現場を押さえられたわけではないのが不幸中の幸いだ。
 もう二度とここで私たちが顔を合わせなければ、逢瀬の事実はないも同然なのだから。
 胸が引きちぎれそうだった。
 ――もう会えない。
 私の愛子、私の片割れ。何より恋しく、だれより愛した、私の明星。
 慟哭が喉元までせり上がる。わななく肩を不意に包みこまれ、体が跳ねた。
 顔を上げた拍子に襲が滑り落ちた。片手で私を抱きこんだ水沙比古は、殿舎のほうを窺いながら木陰に身を潜めた。
「ちょ、ちょっと!」
「騒いだら、ほかの衛士が来る。静かに」
 水沙比古の警告はもっともだった。私は置きどころのない心地で襲を握りしめた。
 しばらく周囲の気配を探っていた水沙比古だったが、やれやれと言わんばかりの顔で樹の幹に背中を預けた。
「悲しいのはわかる。でも、ここで泣いたらだめだ」
 取り繕いさえしない言葉が胸を刺した。
 眼窩の奥がカッと熱くなる。たちまち歪む視界に眉間に力をこめると、ぽんと頭を叩かれた。
「二の媛は、一の媛が大好きなんだな」
「……」
「落ちこむな。機会はある。おれが、作る」
「……どういう意味?」
 二の媛、というなじみのない呼称に戸惑いながら尋ねると、水沙比古はやわらかく笑んだ。
「頼まれた。親父どのから。二の媛の助けになるように」
「親父殿?」
「和多の氏長。おれの養父だ」
 溢れそうな涙が引っこんだ。
 ぽかんと目と口を丸くして固まる私に、水沙比古は首を傾げてみせた。
「むかし、和多の浜辺に流れ着いたおれを親父どのが助けてくれた。水沙(みなぎわ)で命を拾われた男児(こども)だから、水沙比古という」
 水沙比古は端的に語った。
 祖父は長らく幽閉されている孫娘を不憫に思っていること。なんとか救いだしてやりたいが、大皇に表立って歯向かうにはリスクが大きすぎること。せめて孫娘の助けとなるよう、養い子の水沙比古を密かに遣わしたこと。
 ぐるぐると思考が混乱する。
 証拠にと水沙比古が示したのは、右手首に巻かれた組紐だった。
 ずいぶんくたびれているが、元は鮮やかな赤色だったのだろうか。細い麻紐を数本用いて、小さな楕円形をふたつ重ねた紋様を連ね、見事に手環を織り上げている。
 繊細な模様は、前世で見かけた熨斗紙の上に飾る水引の結び目に似ていた。
「これ……舟乗りの……護符?」
 楕円形を重ねた紋様は開いた二枚貝を表し、航海の安全を願う祈りがこめれているのだという。和多水軍に属する舟乗りの証だった。
「うん。初めて舟に乗るとき、親父どのが巻いてくれた」
「では、あなたは――本当に?」
 水沙比古は眉尻を垂らした。「信じてくれるか?」
 森がざわめく。
 いつの間にか明度を増した空から光が射して、水沙比古の頭上で踊った。
 ああ、海のいろだ、と思った。
 さんざめくような光を孕んだ銀碧の瞳は、前世の、昼日中の陽射しに照り映える海を思い起こさせた。
 穏やかな晴天の、海原に立つ銀色の波頭。人びとの笑い声を吸いこんで、(かいな)を広げて横たわる青碧の水平線。
 懐かしい、狂おしい、『私』の記憶の底で光り輝く海のいろ。
 唾を飲みこんだ。涙はこぼれず、なのに泣き腫らしたように鼻腔の奥が痛む。
 笑うこともできず、私はぐしゃぐしゃの顔で頷いた。
「――……信じる、わ」
 すると、水沙比古は嬉しそうに笑み崩れた。
 その表情を目にした瞬間、私の脳裏に強烈なイメージが流れこんだ。
 夢の中に現れた、今より幼い片割れ。固くつないでいた手を引き剥がされる。
 必死に伸ばした手を掬い上げるのは、褐色の大きな手。
 ……血にぬめる、燃えるような男のてのひらの温度が意識を()いた。
 はく、と呼気が震える。
 この子は――いつか人を殺す。
 私のために。私の剣となって、だれかの命を奪う。
「二の媛?」
 おそろしさのあまり硬直していると、水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。
 汚れのないまなざしに、確定した未来ではないのだと気付いた。
 婆ほどの実力者ならまだしも、私の先視など不安定であやふやなものだ。それこそ出会ったばかりの水沙比古の未来を見通すことなど不可能に近い。
 私は水沙比古の右手を掴んだ。
「お願い。ひとつだけ――ひとつだけ約束して」
「ん?」
「あなたを信じる。だから、どうか……私のために、ほかのだれかを……傷つけたり、こ、殺したりするようなことはしないで」
 水沙比古はなんとも言えない顔をした。
「……おれは、気が短いから」
「え」
「郷でも、よく喧嘩を売ってきたやつらを叩きのめしていた。あ、殺したりはしなかったぞ? 親父どのの養い子として恥ずかしくない腕っぷしを見せてやっただけだ」
 舟乗りは気の荒い者が多いと聞く。水沙比古も和多の若衆らしく喧嘩っ早いたちらしい。
「喧嘩は買わないでいいから! 私の陰口を言っているひとたちを全員懲らしめようとしたら、百年あっても足りないわ」
「む」
「私の助けになってくれるのなら、どうか堪えてちょうだい。……姉様に会わせてくれるのでしょう?」
 視線に力をこめて訴えると、水沙比古は困った風に頭を掻いた。
「一発ぐらい殴っても、大目に見てくれ」
 本当に大丈夫だろうか。ため息をつく私をしげしげと眺めていた水沙比古が、「次は、なんの花がいい?」と訊いてきた。
「努力する。でも、すぐに機会がめぐってくるとは限らないから。一の媛に会えるまで、好きな花、また持ってくるよ」
 なんともやさしい口ぶりで、水沙比古は問いをくり返した。
 糸車が回る音を聞こえる。紡ぎだされた糸がまったく新しい糸と絡まり、ゆるやかに縒り合わされていく感覚に頭の芯が痺れた。
 ――この子は、私の運命を連れてくる。
 善きも悪しきも何もかも、遠い外洋から種子を運んでくる波風のように。これから先、私の行く末は水沙比古とともにあるのだと強く感じた。
 凪いだ海を前にした思いで、私は天啓を抱き止めた。
「まつむしそう……」
 息を吸いこみ、ほほ笑みを返す。なでしこの花を胸に抱いて、水沙比古を見つめた。
「まつむしそうの花がいいわ。きれいな紫色の」

二 わだつみの落とし子〈3〉

 和多の郷から遣わされた少年、水沙比古はするりと日常に溶けこんだ。
 翌日には衛士の黒金(くろがね)に連れられて堂々と宮に現れた。唖然とする私を前に、満面の笑顔のかれは困り果てた様子の黒金から「和多の郷の出で、白珠媛の御子のお顔をひと目見たいと頼みこまれちまいまして」と紹介された。
 黒金は真赫と同郷の宮人だ。呼び名どおり真赫よりもっと色黒で、ずんぐりとしたヒグマのような体躯をしている。もじゃもじゃとした髭まみれの強面だが、水汲みや薪割りなどの力仕事を快く引き受けてくれたり、傷んだ床や戸を修繕してくれたりする親切な男性である。
 もうひとり、真赫や黒金と同じく宮に出入りしているのが木工の白穂(しらほ)だ。かれは黒金と対照的に針金のように痩せていて、腺病質なのか常に顔色が悪い。
 寡黙でめったに口を開かない男性だが、手先が器用で細々とした生活用品を簡単にこしらえてくれる。糸繰りの道具も、すべて白穂が作ってくれたものだ。
 真赫たち三人は渡来民の混血で、出自ゆえに宮中では苦労が絶えないという。ほかの宮人の目が届かず、浮世離れした婆や外界の事情に疎い私しかいない宮でなら気を張らずに過ごせるようだ。爪弾き者だからこそ私たちの境遇に同情し、手を差しのべてくれる。
 水沙比古が黒金に接近したのも、『和多の郷人に助けられた孤児』という身の上を巧みに利用してのことだった。和多の縁者というだけで、宮中では針の筵に置かれに等しい立場になるからだ。大型犬めいた人懐っこい性格も助けて、面倒見のよい黒金や真赫にすぐにかわいがられるようになった。
 婆は水沙比古の正体に気づいているのかいないのか――いや、気づいていないはずがない――「若禽(わかどり)のような威勢のよいおのこだこと。何やらこちらまで張り合いが出ますのぉ」とのんびりと笑うばかりだ。もともと人を食ったようなところのある巫女だが、近ごろはますます何を考えているのかわからない。
 水沙比古は約束どおり、宮を訪れるたび野の花を一輪携えてくる。
 明星の瞳によく似たまつむしそう、宵の空の色をしたききょう、愛らしい黄色の花が群がって咲くおみなえし。秋の翳りが日に日に色濃くなると、緑から赤へと見事な濃淡を描くかえでを一枝。
「いつもありがとう」
 美しく色づいたかえでの枝を受け取ると、水沙比古は眉尻を垂らして肩を竦めた。
「次は難しいかもしれない」
「え?」
「このごろ、警備が厳重だ。騒がしい。宮城じゅうがそわそわしている」
 脱いだ冑を無造作に放りだし、あぐらを組んだ膝に頬杖をつく。真赫たち以上に水沙比古は身分に頓着しないらしく、私はそれがなんとも新鮮で嬉しかった。
 水を張った盆にかえでの枝を挿しながら、「もうすぐ祭が近いからよ」と答える。
「祭?」
新嘗祭(にいなめのまつり)よ」
 新嘗祭とは、その年の新穀を皇の祖神(おやがみ)である照日子大神(てるひこのおおかみ)月夜見比売(つくよみひめ)に供え、大皇とその妃が食することで収穫の感謝を捧げる祭祀だ。
 年賀の祝いのように各地から豪族の首長を招くわけではないが、国産みの神の(すえ)として王権を打ち立てた皇にとって欠かせない祭事に数えられる。あちこちの天領から供物や献上品が運びこまれ、人の出入りも増える。宮中の取り締まりが厳しくなるのは自然な成り行きだ。
 水沙比古はこてりと首を傾けた。
万祝(まいわい)のようなものか? 和多の郷では、漁期の終わりに海神(わだつみ)に感謝と祈りを捧げる祭を開く」
「和多の民は、海神――深多万比売(みたまひめ)を信仰しているのだったわね」
 海の底の宮に住む女神・深多万比売は、見目麗しい乙女とおそろしい竜蛇、ふたつの姿を持つという。多情で苛烈、奔放な性状の持ち主で、嵐の海に沈んだ舟乗りは水底の御殿に連れ去られて永遠の虜にされてしまうとかなんとか。
「ああ」水沙比古は神妙な顔で頷いた。
「祭祀を怠れば海神の機嫌を損ねて大変なことになる。大昔、祭祀をおろそかにしたら何年も不漁が続いた挙句、大津波に湊がひとつ呑まれたそうだ」
「まあ……」
「氏長の娘が生贄になると言った。沖に出した舟の舳先から海に飛びこんだ。その後、ようやく海神の怒りが解けたそうだ」
 思わず眉根が寄る。
「そこは若者ではないの? 深多万比売は、恋多き女神なのでしょう?」
 少年の口元がニヤッと笑った。
「なんだ、二の媛は知らないのか。海神は半月(はにわり)だ」
「はにわり?」
「豊かなおなごの体に、男のあれ(・・)がついている」
 私はぎょっと目を剥いた。
「あっ――あれって」
「男も女も抱ける体なんだ。嵐に乗って若い舟乗りを攫い、恋人を追って海に身を投げた娘も連れていく」
 じわじわと耳の先まで熱くなる。莫迦みたいに口を開けたり閉めたりしかできない私の顔を覗きこむように身を乗りだした水沙比古は、右手首の護符を掲げた。
「だから和多の女たちは、夫や恋人が海神に見初められないよう二枚貝の紋様を織りこんだ手環を編んだ。一対の貝殻のように、恋しい(つま)をどうか連れていくなと願って。続いた習わしが、護符になった」
「――なるほど」
 二枚貝の紋様が女神の多情を退けるものだったとは。私は火照った頬を押さえ、なんとか「興味深い話だわ」と返した。
「女でも男でもあるなんて……自由気ままな神様なのね」
 水沙比古はきゅっと下瞼を持ち上げた。
「寂しいんだ。ひとりぼっちだから」
 不意に染み入るような声音に、私は瞬いた。
 手環のたわみをもてあそびながら、水沙比古は淡々と呟く。
「日の神と月の神のように、まぐわえる相手にめぐり会えなくて。海神の宮に連れ去られた人間の魂は、いつかあぶくになって消えてしまう。だから寂しくて寂しくて、また嵐を起こして舟乗りを攫うんだ」
 ――海の底は、暗くて冷たいから。
 まるで見てきたかのような口ぶりだった。気圧されて言葉を失う私に、水沙比古はへらりと笑った。
「おれ、七つか八つぐらいの歳で海に流されたんだ。運よく和多の浜に流れ着いたが、名前も、生まれ故郷も、何もわからなかった。ひとつだけ――海の底の、真っ暗な闇だけ憶えている」
「何……も?」
「うん、何も。手がかりになりそうなものも身に着けていなかったと、親父どのが言っていた。たぶん、異国の生まれだろうとしか」
 幼い水沙比古はまともに言葉を話すことすら覚束なかったらしい。記憶も行き場もない少年を手元に引き取り、根気強く教育を施した恩人こそ祖父だった。
 親父どのと呼ぶ声音や表情の端々には曇りのない敬愛が滲んでいる。愛され、慈しまれて育った子どもらしい素直さだ。
 ちくりと胸を刺した羨望に目を伏せ、私は笑みを返した。
「あなたが深多万比売に連れていかれなくてよかった」
 水沙比古は小さく瞬いた。
「寂しい闇の淵ではなく、陽が照らす陸の上へ、お祖父様のいらっしゃる和多の郷へ逃れてくれてよかった。きっといとけない幼子を連れていくのが忍びなくて、神様が情をかけてくださったのね」
「……二の媛は変わっている」
 思いもよらない評価に眉を持ち上げると、水沙比古は片手で髪を掻き混ぜた。
「海神から逃げ延びられてよかったなんて、親父どのにしか言われたことがない」
「助かることが、どうしていけないの」
「浜に打ち上げられたおれを見つけた和多の衆は、海神の許に送り返そうとした。海で溺れた者は海神の供犠となる。おれを助ければ、海神の怒りを買うと考えるのが当然だ」
 絶句する私に、水沙比古は浜に流れ着いた人間――ほぼ水死体であるという――は海に還される習わしなのだと説明した。たとえ息があっても、助かる見込みは限りなく低いからだとも。
 ならば、なぜ祖父は水沙比古の命を救ったのだろうか?
「知らぬ」
 当の水沙比古はあっけらかんと言い放った。
「親父どのに尋ねても、助かったのだからよいではないか、役目があるから生き延びたのだろうと言われた。そう感じたから、助けたのだと。おれを舟に乗せたら海神の祟りが下ると和多の衆が騒いだとき、海神の呼び声を退けたおれほど心強い護符はないに決まっていると笑い飛ばして、自分の舟に乗せてくれた」
 水沙比古は息を吸いこみ、眉尻を下げて破顔した。
「だから、郷でいちばんの舟乗りになろうと思った。嵐にも負けぬ、おれが乗る舟は和多でいちばん安全だと誇れる舟乗りに」
 まぶしさにも似た感覚に、私は両目を眇めた。
 護符の巻きつく右手が伸びて、私の手を握った。唐突な接触に肩が跳ね上がる。
「安心してよいぞ、二の媛。おれを手元に置いておけば、どんな不運も逃げていく。和多の氏長の覚えもめでたい最強の護符だ」
 白い歯を見せて笑う少年につられ、私は思わず笑声をこぼした。
 潮風に育まれた水沙比古の手は、大きく精悍で、海原を照らす太陽のように熱い。
 この子が救われ、いまここに在ることに、ただだだ感謝した。
 水沙比古の手に比べればあまりに細く、弱々しく、糸繰りしか知らない私の手。誇れるものだと何もないけれど、ありのままの私でいいのだと、不思議なくらい自然に思えた。
「頼りにしているわ」

君はみなぎわの光

君はみなぎわの光

七洲を統べる大皇の娘として生まれた夕星には前世の記憶がある。だれにも打ち明けられない秘密を抱え、暗い森の古宮に隠れ住む日々。心の支えは双子の姉媛・明星だけ。しかし海を越えてやってきた男が燃え落ちる星の運命を変えた――なんちゃって古代日本風・異世界転生ファンタジー。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-02-02

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