靴墨
一
貳つの新たな屍體。
この憂鬱な部屋に白い敷布で被せられた貳つの屍體は、擔架で移送された。眞つ白で完璧な敷布だ。あゝ、被せられる者逹は、その敷布を構はないとは殘念なことだ。でも生ける者逹は構ふ。
全ては綺麗である可きだ。全ては儀式である可きだ。以前に是れを分からなかつても、死體安置所で仂き始めると、直ぐ分かる。
新しい屍體が移送されてゐる每囘ワクワクする。片輪の屍體や切り離された屍體が欲しくない。無傷の屍體が入用だ。生きてゐるやうなのだ。例へば、さつき溺死したや首くゝりした者逹の屍體。時折、屋根から飛び降りて死んだ自殺者の屍體もかなふけど、どのやうに落とした次第で選ぶ。コンクリートで壞された頭のある屍も有るし、體内には全ての骨が壞され外は全然無傷みたいな屍も有る。
男性や姥の屍は興味の無い。このやうな屍は到着する時、我はたゞ日誌で書き記してそれを何かの遠い隅に片付けて、まう思ひ出ないやうにする。くだらなくて不要な肉袋だ。
現在、いつか生きてゐた者の輪郭を見てゐる。今やその物は此處で眞つ白で必要の無い敷布で被せられて擔架の上で安置してある。壹つの輪郭は男性にちがひない。何糞、要らない。影に仕舞い込む。でも先ずは平然と祈る。全ては儀式である可き、祈りが無くては駄目だ。彼等は敷布が要らないけれども、だうせ祈りが無くては駄目だ。以前に此のやうなベラバウな話を信じらなかつたとしても、死體安置所で仂き始めると、信じるのも始める。
他の輪郭は確かに女性だ。それは不要な肉袋に違ふ。此處には、女性屍體がまう二日閒着かなかつた。昨日は心筋梗塞の故にくたばつた老人だつた。一昨日は、何者も無い。何者も無いと、なぜかそんなにポツネンだ。八方には日常に死者だけ有ると、彼等は生きてゐるやうな者の待遇をし始める。「肉袋だ」と考へるところで。死體安置所で仂き始めると、此のやうな矛盾に慣れる。
屍から敷布を脫ぐ。此の前のより良いは。前囘は、トラツクで轢き殺された奴だつた。今囘のは、首を切斷された。傷の樣子で判斷すると、約一日閒前。
我が仕事は平凡だ。付いた屍體を記錄したり手入れをしたりすることだ。運良く、我々の死體安置所は解剖室と分離してる。それで、檢死する義務が無い。檢死は、他の處で他の者で行はれてゐる。此處には、まう檢死された屍體や檢死される筈が無い屍體が移送される。でも閒々、殺された人の遺體が着くとき、警察が犧牲者の家族から許容を得て、屍體は此處から檢死に移送されることに備へなければならぬ。それで、いつもコンドームを使ふのは必要だ。
まう眞夜中だ。今日はなんかの新たな遺體が到着すると想はない。神戶にて橫死が少ないといふわけが無いが、殺された者逹の屍は到着することは屡々といふわけも無いので、今日のものは誠に逸物だ。
部屋は内側から閇じられてある。いま我は彼女と貳人だけになつたらしい。今夜は、も誰かが移送されても、廊下で扉の鄰に、付いた書き置きとゝもに殘される。そんな經驗はまうあつたから。
先づは少し心配したから、彼女をよくあまり見なかつたが、彼女は完璧だと今や見る。首の傷はこの美しさをみださない。二十歲ぐらい、汗の匂ひ、顏は綺麗だ。あゝ、本當に完璧だ。誰が、何の爲に彼女を殺したか?構はないよ。でも、彼女を殺した方に、無限に感謝する。だつて、彼のおかげでその美しさは今、我の前に置かれてゐる。
カマジの儀式を行はずに始めるのは駄目だ。特に擔架の上で。その擔架は、迚も不便であるだけでなく、きしむ。
此の爲に買つた毛布を、此處の戶棚で藏するのは誰にも氣付かなかつた。この戶棚に誰も覗き込まない。この陰氣な置き塲に、誰も覗き込まないの、全然。
全ては儀式である可きだ。全ては綺麗である可きだ。
此處は、あまり大きくなくて凉しい部屋だ。この中央に殘した餘地は、ちやうど我が毛布をしくだけに足りる。でも先づは、あの一隅に仕舞われた肉袋を、冷藏庫に片付けなければならぬ。
さうして、今は始める。
今日の我が完璧を毛布に置く。あゝ、そんなに樂しんで彼女は橫になる!それは特におどろきでない。なぜなら、擔架は冷たく、この毛布は最も寒い夜にも溫める事が出來るのだから。けれども、此處の溫度はいつでも同じだ。此處の全ては、永久に凍て付いてある。
「カマジの儀式」を行はずに始めるのは駄目だ。いつかそれを「ティアマトの聖書」で見つけて、あの日からちゃんと行ふ。さて今は、ロウソクに火を點けて、彼女の體の上で印を描いて、彼女の脣を、左手の中指からの血でぬらす。出來たは。今や彼女を入られる。
でも彼女はまだ全く冷たい。脫いで彼女を抱くと、彼女の死んだ四肢(やつぱり、死肢は!)は、我が體熱からだんだん溫まる。この瞬閒、彼女は生き返る如く。この瞬閒、我は、命の無い人形に生氣を賦與する神樣だ!この瞬閒、彼女は我への戀におちいて、與へられた新生のお禮に心服して我に從ふ!
よみがえた!我は彼女を再現した、我は行ほうとした事を行ふ権利が有る。
コンドームをつけてゐる。亦、いつも潤滑劑(ジユンカツザイ)を使はねばならぬ。此処に移送されるものたちは、膣分泌液(チツブンピツエキ)が無いから。我が素敵な儀式さへ、彼女らに、腟潤滑劑を分泌する能力を與へない。全ては二面がある。死體安置所で仂き始めると、これを分かる。
生きてゐる女の中に入る事と、死んでゐる女の中に入る事は全然違ふ。精神的でなく、肉體的だ。生きてゐる女は不安定で危ないものなんである。彼女の腟の筋肉の動きは豫想不可能で、もつと激しいのを求めるか、もつと優しいのを願ふか;その筋肉にあなたの陰莖は食はれ、自分で過程を統制することが出來無くなる。いつイくか分からずに、彼女の中にイくのを防ぐことが出來るかだうかも分からず、彼女と同時にイくかだうか分からない。彼女にはいつでも何かが足らない。生きてゐる女はいつももつと欲しい。生きてゐる女は全てを奪ひたがる。彼女はあなたの魂とあなたの躰を喰ひたがるが、あなたは何故か自分自身を彼女にけんじるの。
死んでゐる女は、まつたくもつて違ふ。死んでゐる女は完璧な戀人だ。彼女と一緖に居て、あなたは過程を支配する。いつイくか、あなただけ次第だ。いくら早くイくか、彼女はかまはない。彼女には、過程の前と過程の後は同じだ。死んでゐる女は痛がらない、あなたはまづい戀人だと言はない。亦、性行爲を囘避するための言ひ拔けを考へ出さない。彼女はあたなに斷らず、いつでも、いかがでもやるよ。
彼女の首の切り傷を氣付かない。いま我には、彼女は殺人者の被害者でなくて、我が女である。外には死んでゐるが、中から生き返り始めるのだ。もしその後、彼女が運び去られなければ、明日も彼女に戻る。
二
いつもさうだつたといふわけない。
いつか全ては違つた。いつか我は愛してゐた女性が居た。いとしくて暖かい生きてゐる女性。
あの頃、我は大學で斈んでゐた。專門は何だつたかあまり關係が無いが、今の仕事から判斷すると、多分、醫者。(しかし課程を殆んど覺えてゐないから、全然斈んでゐなかつたらしい。)さて、あそこは彼女が居た。あら、我の前に座つてゐる。完璧。正確。生きてゐるのだ。
「私を觸らないで」、「私を見ないで」、「どけ」。
これ全ては、彼女の一見、動き、素行で讀める。
生者たちの世の中でやり塲が無い死者に読ませること;
無心に動く筋に押し殺されることを恐れても仕方なく蟲は注意して蠢動してかじりつゞける。蟲は、多分無理な目的としての生きてゐる肉體を選んだと分かつても、だうせかじりつゞける。彼女との對談はたゞ、もう一度いたましく噛んでみるための切つ掛けだ。
「觸らないで」
「觸らないで」つて…
あゝ、唯の觸りで限るのは、我にどんなに難しい事であるのを貴女が一瞬でも感じてさへゐれば、感歎して我を抱きしめただらう!
怪我をしたか、病氣になつたか――
「私のこと、心配しないで」、「私の傷について思はないで」、「私の方に息をしないで」、「くたばれ」つて…
誰ニモナイ手紙
“アノ夢ヲマザマザト覺ヘテヰマス<…>。アソコハ、貴女ノ親友ガ居マシタ。ゴ存ジノ通リ、彼女ハ我ガ友デモアリマス。サテ、沈ンデヰマシタ。我ト彼女。我等ハ淵ニ居マシタ。水ハ暗カツタニモ關ハラズ、彼女ノ顏ヲハツキリ見テヰタト覺ヘテヰマス。ソノ水ノ深クニ我等ハ咽ンデヰマシタ。
浮カナケレバナリマセンデシタ。一生懸命ニナツテ我ハ上ガル事ガ出來マシタ。アノ水ハ、或イハ冰ニ、或イハ何カノ部屋ノ床ニ被セラレ、浮カビ上ガル穴ヲ探シ出サネバナラナカツタンデス。
ソレヲ探シ出シテ我ハ助カツタ。彼女ガ、助カリマセンデシタ。
彼女ニ助ケヲ求メラレテ、我ハ助ケテミタカノヤウガ、デキマセンデシナ。罪惡感ニ苦シンデヰマシタ。或イハ助カル事ガ出來無カツタ爲カ、或イハ彼女ヲソノ水ニサソイ込ンダ爲カ、分カリマセンガ、彼女ハ沈ンデシマヒマシタ。
貴女ハ悔ヤミマシタ、我モ悔ヤミマシタ、我等ノ友ノ死ヲ。我等貳人ダケガソノ悔シミヲ共ニシマシタラシイ。我ダケ貴女ヲ分カツテヰマシタ。貴女モ、我モ、裸デシタ。
貴女ハ我ニ抱キシメラレタガリマス。我ハ抱キシメマス。<…>貴女ハ我ガ肩ニ泣キ乍ラ我ハ貴女ト悲シミヲ共ニスルト見セマス。デモソノ瞬閒ヨリ我ハモウ不幸ヲ感ジナイノデス。ソノ代ハリ、貴女ハ我ト一緖ニ居マスカラ、我ハ貴女ト一緖ニ居マスカラ、歡喜ヲ感ジマス。一緖ニナツタ理由ハモウ、大事無イデス。
彼女ハ死ンダガ、我ハ悲嘆シマセン。ダツテ、死ンダオカゲデイマ貴女ハ我ニ慰メヲ求メルノデスカラ。
ソノ慰メヲ、我ハ貴女ニ與ヘマス。貴方ガ欲シイモノ全テヲ、與ヘマス。
我等ハ、バスストツプニ居マス。貴女ハ我ガ膝ニ頭ヲ乘セマス。
我ガGeliebte frauニ“
今や呪はれてる貴女の誕生日に、進物として純なる銀の最質的な腕輪。小さな葉書でも何かを書いたらしい。
「ありがたう」つて…。
もちろん。
その腕輪、誰よりも貴方に似合つただらう。あゝ、如何なる物は、誰よりも貴女に似合ふ。いまその指輪は我が拜物に成つた。貴女の躰に接した物全ては、我が拜物に成る。
着けてゐたのは三日閒ぐらゐ。其後はやめた。何故だと質問することが恐れる。多分、答へを聞くのが怖い。答へが無ければ全ては唯の憶測であるから。それより知りたいことは、何故あの三日閒に着けてゐたのか。確かに、蟲の所爲だ。自身の生活も、皆の死亡も、全ては蟲だけの所爲。蟲は自分の道を噛み切る。他のモノは彼を見る。或るモノは嫌がつて見てゐるが、或る者は憎しんで見てゐる。
肉體にもつと深く、もつと深く。
噛み切るのはもつと早く、もつと早く。
蟲は氣にしない筈、恥を感じない筈だ。もしあんたは蟲であれば、自身と自分の行動を恥を感じるわけ無いだらう?これはたゞ、自然だ。たゞ、全ては蟲の所爲だ。
彼女は我を嫌がるから、あの腕輪は彼女を我と繋がれるのを怖がつたかもしれぬ。だうせ我が婬慾はそれを氣付かなかつたなり、氣付きたくなかつたなり。でも彼女の微笑で慰めを探し出してゐた。或いは、手婬で。でもやつぱり微笑だらう。生けるし、うらゝかでニヤニヤのやうで、片方に壹つのエクボのある微笑。他方にエクボが無かつた。有つたらニヤニヤに似てなかつた。突然、我は自分自身に憎らしくなつた。
蟲は自分自身に憎らしくなる譯が無い。なぜならば蟲であるから。噛み切り乍ら肉體を樂しむ筈だ。それなら我は蟲ではない。でもそれは氣持ちを、全然やわらげない。
憂鬱に含ませられた大學の壁は我に何かを囁く。此處で、この囁きだけが氣に入る。他の聲が、たまらない。皆、けがらわしい僞譱者たちよ!いつも彼等だけが欲しいやうにさせたい。嫌ひ!嫌ひよ、彼等が!外面は高尚やうだが内面が汚い!その世閒――我は屍蟲だと思つたモノ逹の世閒、我を或いは嫌がつて見てゐた或いは憎しんで見てゐたモノ逹の――その世閒と步調を合はしてみた時、何を取得したの?我をもつと憎め!あんた逹を憎む!我を、もつと憎め!
態と服を洗濯することも髮を洗ふのもやめた。幸せになつた。憎まれた頃、本當に幸せだつた。好まれた頃より幸せだつた。彼等に取得した物が無いが、彼等の所爲で失つた物が澤山。でも或る日、彼女は正座してゐた時、我は後ろに彼女の足元に橫になつてをり、眞實が我に現れた。それは、あなたはだれかを戀すれば、その者の身體分泌すべてを好むと。汗を敬慕し、汚い身體の匂ひも敬慕する。汚い髮を接吻するも良い。その者の大便を食べるのも、汚い服に手婬するのも良い!死後でも殘れるその生活表現を意識した後、唯壹つの事に付いて考へられるやうになつた。彼女の服だ。
こんなふうに、過ぎる人逹から目をそむけてゐて女性更衣室の鄰りに立つ者に成つた。突然、一瞬に何かのおかしい目眩がした。あの時、自分の存在の次の一段に移つたやうな感覺があつた。生まれ變はつてゐたや、進化の新たなる段階に移つたやう。もう歸れぬ存在の樣態を入ると分かつたやうだ。
(日記カラノ記録、X X年十二月廿陸日附)
“アア、我ガ慕ハシイ畜生ヨ!知ツテマスヨ。貴女ハ衣類一點ヲ探シダセマセンデシタ事ヲ。貴女ノ反動ヲ見ルタメニ今日我ハ態ト朝早ク學校ニ來マシタ。イツカ貴女ノ着タ物ガ今ハ我ガ物デアリマス。誠ニ、貴女ノオカゲデ我ハ拝物教ノ麗質ヲ意識シテキマシタ。貴女ハイツマデモ自分ノ半ズボンヲ探シテモイヽデス。我レガナニデモ其レヲシマス。多分…イヤ、確カニ貴女ガ、盗ンダノハ我ダト察知シテヰマス。ソレガ爲ニ氣持チハモツト良イデス。”
あの頃、本當に下手な拜物敎徒だつた。その半ズボンを、だうしたらいゝか、また何處で貯藏したらいゝかも知らず、自分の(今や彼女だけの)體毓用衣料の袋に入れた。其れを使つて手婬したかつたが、彼女の汗の素晴らしい匂ひを精液の匂ひで亂せることが怖かつたから、たゞその半ズボンを貯藏してゐて、其れが我だけの物であることと、我だけに利用せられるとの事實に甘んじてゐた。
あの日、彼女は學校に來て自分の袋から或る物が失せたと見つけた時、我は彼女の目で恐怖を讀んだ。それは死ぬる恐怖ではなくて生ける恐怖だつた。綫がもう、踏み越えられた。一年閒に彼女は、そんな彼女の「正しい」槪念に反する行爲を行つてゐる者を作つたとの認識の恐怖だつた。我はそれが唯の氣の所爲では無くて眞實であると望んでゐた。いや、ちがふを得ざる。眞實にちがひなかつた。なぜならば、彼女だけが我が眞實であつた。
三
“拜物の無い戀を、戀といふわけ無い”
ティアマト之聖典、血之書
そんなに悲しくて寂しくなり、蟲は押し殺されるのが怖くなつて後退して、それほど殘酷ではない物に世を忍ぶに至つた。すると、そんなに快くて暖かくなつた。やつと我に啓示された事實は、拜物が戀の純粹なる表現であり、拜物は人格の缺點やいつか行はれた滅多な行爲の荷厄介の無い戀の體現であると。なぜなら物それ自身は受動的であるから。
物は、自分自身に頓着を求めることが無い。物は、自ら必要を滿たす。物は、完璧である。これは我が戀の最高情態の定義になつた。そしてあの頃に考へたのは、宗敎の殆んどでは、神樣への道は拜物を通ると。或る宗敎はそれを認めないにも關はらず。キリスト敎徒は十字架像を接吻し、囘敎徒は石を拜し、佛敎徒は家で佛小像を藏するなど。我も、そんなに渴望する事に近付けるのが出來る物の小部分さへを持つ權利がないのか?
我が變なる愛着を、幾らか滿たしたらしい。でも太陰は周期性的である。月は死ぬ。月は生まれる。月は喜んで我にいつも何かを囁く。かくて我が心情も、いつも周期性的であり、月によつて决まるやう。しかし、やつぱりこの世にて全ては月によつて决まる。たゞ、太陰を注目せぬ者逹はそれを氣付かない。
彼女はあの袋に自分の體毓用衣料を入れるのをやめたが、なぜか靴を殘した。それは、我が氣に觸つた。だうして彼女は、我が選擇をこんなふうに限定して我をも限定が出來ると思つたのか?どの塲合にも、其後暫く我は彼女の袋についてあまり考へなかつた。かうしてもつと安心だつたかもしれぬ。なぜなら、また彼女の服を盜む必要が無ければ、竊盜中に掴まれることを心配する必要も無いから。しかし、否。
拜物敎徒の道を走つた方は、それを逸脫することが出來無い。好きな人の全ての衣料を、盜めるだけでなく盜まなければならぬ物として、其れを盜む方法や使い方について考へがちだ。かくて或る瞬閒、たちまち考案が心に浮かんだ。變な考案だが、亦は快い。さて亦は彼女の物を自宅に持つて行く。
(日記カラノ記録、X X年三月十日附)
“<…>其レヲ自宅ニ持ツテ来テ、夜閒ニ、汚イ手デモ触ラ無イ彼女ノ半ズボンヲ取リ出シテ、盗ンダ靴ト一緒ニ我ノ前ニ置イタ。<…>行ツタノハ三囘。第一囘ハ、左ノ靴ニ射精シタ。他ノ二囘ハ、右ノ靴ニ。第一囘ハ精液ガ最多ダツタカラ。<…>”
其れを彼女の袋に戻した時に、今や彼女の物を、彼女自身より懐くと、たちまち悟つた。そしてそんなに生けるし暖かい彼女は我の前に座つてゐるとき、我はもう此の前のときめきを感じないけれども、だうせ感心し續ける。でもなぜか、憎しみと一緒に。あのころに其の分裂(スキジス)は本當に美しさうだつたから、其れは彼女の(いま呪はれてゐる)誕生日に腕輪を選んだり最後のお金を費やしたり誕生日に閒に合ふために速逹を拂いすぎたり進物にする前の夜に殆んど寢なかつたりしてゐた頃の幸せな鬱氣から我を遠ざけると分かりながら全心を其れに傾倒した。
彼女の躰の每部分は偉大なる女神樣の聖なる體現だと唱道したあの頃を、たゞ彼女の手を觸ることはそれまで我が無色の世界で起こつてゐた過程の限りを超える過程を動かせたりしてゐた懷かしい頃を、口に出して言へぬほど戀しがりになつた。泣きたいほど慕つてゐた。憂鬱に含ませられた大學の壁は元通り囁き續けてゐた。その壁は全てを愛藏し、全ての事について知つてゐる。蟲と女神についても、分裂(スキジス)とニヤニヤについても、腕輪と葉書についても知つてをり知り續けたり囁き續けたりする。でも愛藏することは樣々だけど、囁くことは一樣である。そんなに暗くて快い。しかし注意せねば自失する。我はもう自失した。蟲のふりをする神か神に成りたい蟲か、物を神聖視し女神を物にしたり、自罵詈の面をかぶつた我自分自身への神殿、呪はれてるモノの足を喜んで接吻したり敬慕するものを呪つたりして恥を以て昇天を探したりこと…。その囁きは遠くて遠いほど高い。しばらくすればだけ聞こえるし、近付くと非常に靜かになる。
「ケラケラケラ」
存在しない部屋のなかでの鴉片。月樣は自らの暗闇を以て廣がる。どこでも暗闇だけ。上でも下でも。いつかあちらにあつたが最早頭の中だけにある塲所の思ひ出。あのころでは塲所も、時閒も、環境も聖なるものだつた。月は悲しんで見てゐて、我はその悲しみを謝しつゝ、する可き事をしてゐた。彼女は閒近に橫になつて居た。我は彼女が寢てゐた閒に眠るのが怖かつた。あの夜、我以外の皆は寢た。彼女はエレシュキガルだと、彼女の友はイシュタルだと提唱し月に祈つてゐた。一瞬でも彼女の夢の中に入りたかつた。手婬の一步手前の座禪。
何を祈つたらいゝのか?殺したい。彼女の死を祈る可きか?彼女を有することを祈る可きか?
かう、嫌ひ。貴女も自分自身も。何故貴女は殺さなかつたの?我等の中から壹人が死なねばならぬ。その事實をなにものよりハツキリ知つてる。刄で傷をほじくつて神經をあいついで其れを拔いてゐる貴女。其後は傷を治すが、すぐお腹を切りさつて我が腸を喰ふ。たよりないシヴァの上で踴るカーリー。
「ケラケラケラ」
存在しない世界の中での鴉片。全ての空閒は、あの晚に自分だけの意志を行つてゐた我の出ることができぬ部屋の大きさ程にくびれてある。猫は我が膝に橫になつてゐる。目の無い眼窩はまわりに居る皆を覗く。足の下には血、頭の上には血。その寢臺はステュクスの水上を行く舩であり、右に居る女性を我が影はハーデースにも從ふ。皆は死んでゐたらあんたも死んだふりをしなさい。難しくても。下手であつてもだうせふりをしなさい。皆は生きてゐたらあんたも生きるふりをしなさい。不可能らしくても。誰も信じないが、一番大切なのは、ふる事だらう?
窗臺の上に立つアクアリウムでの蝸牛さへ我より自由なり。出るかだうか蝸牛の意志に定まない。蝸牛の世界は元より限られてゐるが、我は自らの意志通りに此處を入つたけど出るのが出來無い。我が世の方が大きいにもかゝはらず!まあ、多分いつかさうだつたけど、今やその部屋だけは我が世なり。
(日記カラノ記録、X X年三月十七日附)
“晚。ソノ暗イ部屋ニ座ツテヰテ、何故ダカ其ノ塲所カラマダ立チ去ラナカツタ理由ヲ自分自身ニ說明シテミテヰル。
空閒ハ少數ノロウソクニ照ラサレテアル。其等ハ空閒ヨリ、ムシロ此處ニ居ル者タチノ顏ヲ照ラス。ソノ顏、亡靈ノ如キ空氣ニ浮イテヰル。
壁ハ殆ンド照ラサレテナイニモ關ハラズ、其等ノ壓力ヲ感ジル。壁ノ壓力。天井ノ壓力。床ダケハ壓サナクテ、我カラ遠クニアルヤウ。モシイマ座ル長椅子カラ下リタラ、スグ淵ニ落チル氣ガスル。ナゼナラ現在、存在シテヰル空閒ハソノ部屋シカ無イラシイ。ソシテ其ノ以外ニ存在シテヰルノハ、アノ淵ダケダ。
我、アクアリウムニ居ル。ソンナ簡單ニ此處ヲ出ラレナイ。蝸牛ノ如キ、フタハ開カレルノヲ待タネバナラヌ。
<…>猫ガ來タ。<…>
「アナタダケガ、我ハ此處ニ居ル理由ヲ知ツテル。ソンナ感ジガスル」
我等ノ魂ノナニカノ繋ガリヲ感ジテヰル。ソノ猫ハ、我ガ狀態ノ眞ノ理由ヲ見タラシク、ソノ狀態ニ居合ハセタ我ヲ援護スルコトヲ見セタガツテ、タダノ沈默カラノ樂シミヲ我ト共ニシヤウトシタ。<…>”
四
“部屋の闇の中で反射を遊んでゐて
彼女は我の前に座つてゐる時
悲しみを通る盲の圭角で
皮膚を切る刄を我は想像する“
ナヴヤ・ンヴァル、昭和六十一年
この考へが來たのは、突然。あの時、それはたゞ考へだつた。たゞ考へたのは、もし…。すると、自らを切る刄を彼女の方に向けると想像した。罪の思ひ、蟲の邪說。
でも其後、この邪說は氣に入つた。この邪說は念頭を去ら無かつた。何故だか、だうして、我が敬慕はこんなふうに表れやうとしたのか?その問題について思ひ入りた。それは起こつたのが、我等は醫業しに亰都に行つた頃こそ。あそこでは死體解剖せねばならなかつた。冷淡の一步手前の感激。我々の醫業團は、四人だつた。我、彼女、彼女の友と、越南からのリーと言ふおかしいヤツ。彼は常に片言交じりの日本語で我等をどなり付けてゐた。或いは、我等の切り方が違ふ、或いは見方が違ふ、或いは見掛けが違ふなどから。すると、我はなぜか彼との親近を感じた。彼は叱れば叱つたほど我が胸はスツとした。ヒョツトしたら彼はこんなふうに我を、抽象的な苦しい思ひの井戶から拔いて、もつと純朴で淺い井戶に置いたからである。
各醫業團は、解剖臺の上に位した檢屍實習のための屍のある室を入つた時に、後ろにはなにかのパタンといふ音を聞いたらしい。扉が閇じられ、歸り道が無くなつたかのやうが、もつと深くて靜かな音で、あの大學の壁の囁きにすこし似た心安い音だつた。他の言葉を囁いてゐたらしいけど、だうせ同じ囁きだつた。
屍の顏を見なかつた。我々が切り裂くべきだつた胸郭しか被せられなかつた。さて我等は解剖臺のワキに立つて、我の前に置く女性死體の姿は、その我の鄰りに立つ彼女の姿に似てるだらうと想つた。メスを持つて彼女は少しだけゾクゾクしたゐた。我は本當に屍の顏を見たかつた。解剖を通じて我はほかの事について考へられなくて貴女がその死體を切るのだけを見てゐたほどその顔を見たかつたのだ。
その瞬閒、我は貴女の冷靜な目を見てゐて、またあんなに樂な感じがした。我は、同じく冷靜な目をして貴女を切ることを想像した。其後、我等は得意になつて血液の海で泳ぎながら、貴女は普段通り首をかしげてニヤニヤして我れがバカだと考へて見てゐる。血の最後の壹飮みを吐いて貴女はその血に滲まれた土に倒れる。そして泥に咽びつゝ其の中にはまり込む。
リーは何かを叫ぶ。「ウルサイ」と彼に言ふと、暫時靜かになる。貴女は肉體を切る事から目をそむけられぬ。貴女は我を切るのを長すぎる閒にわたつて見てゐたから今や他の者に對してそれを行ふのを見る事が二重に快い。でも我等の前に橫たはる者の顏を見る望みは我が心からきえない。今日の實習の終はりを待ち遠しがる。
我々は、今日の解剖が終はつたと言はれる。續きは明日。メスを措く。白衣を脫ぐ。屍を仕舞ひ込む、「ロツカー」に。我々は、死體用冷凍庫をさういふ。あそこではいつも凉しくていごゝちの良い。あの春の外と違つて。
冷凍庫の番號を覺えた。
我々の寮は大學の別棟だつた。寮と大學との閒には小さな渡り廊下があつた。なんの扉や錠前が無い。忍び込みつけた、我は。また、コツソリと行つた方がいゝことを行ひつけた。あの夜、解剖室に忍び入つた。
彼女の番號は「八」だつた。
震へてゐて、此の後ろに彼女が置いてある扉を開ける。震へるのは、見つかれることが怖いからではない。あなたは醫家なら、夜閒に暗い解剖室の中で屍の鄰りに見つかつても何とか言ひ拔けられる。醫家たちは變だと皆が知つてる。我が震への理由は、其の後ろに屍と靴は等しい價値がある境を超えることであるかもしれぬ。
いや、我はたゞ、顏を見たい。今日は解剖した者を見たいだけだ。ギリギリと臺を引き出す。彼女は此處であんなふうに手を兩側に置いて夜中我を待つてゐた如く;彼女は、メスで擊つ練習のための肉塊だと思はなかつた唯壹人の我を待つてゐた。壁をもたれて立つ。今こそは自分について考へる時だ。誰かが天井から我をうかゞふのは知つてる。その誰かが構ふといふわけ無いが、我を完全に見抜ける。我はいま考へれば、彼は我がしてゐる行爲を分かる。自分自身への啓示のシキミの前に。屍が搖れ、せき込んでブルブルし始めて死のマントラを鳴く。
「脫げ、脫げ、脫げ!私を放免して!息が出來無い!」
嗚呼!
そんな美しさを死後で隱せるわけあるのか?それは腐つてしまつて、無心に動く筋に押し殺されることを恐れ生ける肉體を食い込まうとはしない蟲たちの食事に成らないうちに。誠に!生ける肉體は危險だ。
あの瞬閒、彼女を戀してゐた。貴女と同じく。彼女への戀と、貴方への戀とのケジメを付けずに。彼女から全部を脫いで完全な體を觀賞する。その體は、貴女の體と同じ!誓ふよ、彼女の顏を包むと、此處は貴女が橫たはると思考できる。でもその美しさを包むのが、せつない。明日はまた、顏を見ずに彼女を切る筈だと考えると、怖い。
彼女を戀慕した。それは純粹の戀だつた。我は死を贊美したり心のなかで感謝したりする。知つてるぜ、死は茲だと。死は聽いてゐるが、應じない。茲、その體の中に、魂の代はりに。死は我と同じく快い感じがしてる。あの瞬刻、貴女や彼女以外の他の者逹が要らないやうな氣がする。我ではない者逹と、彼女ではない者逹と皆に反感をもつ。奴等が、いま我は見てゐる完全を見るのを得なかつたからだ。ヒョツトしたら彼女が葬られる前に、全世界で彼女を觀賞する最後の者は我だ。
でもだうせ今は行かなければならない。この塲所で夜通し觀賞するのも出來るけど、今夜は睡眠が足りないと、明晚來れない。今は眠い。此處、彼女の乳房の上で樂しんで眠れるが、我と彼女ではない憎らしいあの者逹は、我をそのままで見つけたら分からない。それで、我は行く。明晚來ると約束する。
翌日醫療噐具を持つのは我だ。貴女は怪訝さうに我を見るが、實は貴女がいま我の前に白衣を着てゐる立つのでなく、解剖臺の上に居て、メスは貴女を入る。冷たい鉗子は其れと同じぐらいに冷たい筋をひねりながら貴女の臟噐をヒヤヽカになめてゐる。
彼女の身體を覺えた。彼女の身體の每センチは、ちやうど千度貴女のを想像した通り。いま彼女の胸ではなくて、サツキ我の前に白衣を着てをり立つてゐた貴女の胸を掘り下げることを想像するのが易い。微笑みを、だうやらこらえるほど幸せだ。
前夜どんなに眠りたかつても殆んど寢なかつた。突如と、もう壹つの素晴らしい眞實を看取した。それは、彼女の死んでゐる顏付きは、全く、全く以て、貴女の微笑みと同じく刺激性であると。あの生けるし、うらゝかでニヤニヤのやうな微笑みと同じく。
五
爾の愛する者より與へた死は、願つてもない死であらう!
齒は肉體を裂き、長い舌は腸を絡め血をむさぼり舐める。
死亡まで大切にしてゐたもの。
でも死の瞬閒、情感は變はる權利が無く、身體は彼女との結束の中で喜び勇む。
しかり、美はグロテスクな形になつてゆけど、其の多面性を悟ることが、グロテスクをそんな美學的にする!
あの日、その死體との醫業が終はつて、今夜其等は死體安置所に移送されると我等が言はれた。狼狽した。なぜなら、約束したんだ。しかし無駄だ…。同時に、スツトした。今夜、どこまで進むか思考しつゝ屍との出会ひに行く必要が無い。
でもその醫業は澤山の事を我に與へた、澤山の事を明確にした。我々の團結力の結果を全然覺えてゐないが、あの死んでゐる安氣な面影は我が目の前で飛んでつゞけた。死語であの暗いマントラを囁きたり歌へたりして慰めてゐた。知つてるよ、感じるよ、いま彼女はどこかに――最早地下かもしれぬ――橫たはつて我を待つてゐる。空氣も無く待ちつゞけて此前の通り叫ぶ。「脫げ、脫げ、脫げ!棺のフタを開けて!私を放免して!息が出來無い!」と。
我は彼女が何處に居ると知らず、無力である。しかし貴女は我の前に居るのを見て安心する。でも貴女を見方がもう違つてゐる。別の方面や、別の世界からの見方やう。その世界は今や貴女の中にあると氣がする。文字通り、中に。貴女の腸をもぐつて胎兒の姿をして橫たはりたくなつた。貴女の足の鄰りに橫たはつて汗の匂ひを味はつた時の如く。あれは起點だつた。あんなふうに、だれよりも低く橫になつて這つてゐて、その意味の無き自罵詈の反響の後ろに這ふことをもつて昇天したとき。それは新紀元を决定した。それはオシリスの生まれ變はりを决定した。
オシリスは死んでしまつて、イシスは彼の死體よりホルスを孕んで、それは更生をもたらした。カーリーは死んでゐるシヴァの上で踴り全世界としての彼を食はれて、其後新世界を生む。オシリスは自らを貴女に獻じた。貴女は彼を殺すや切るや喰ふ權利もあるけど、さうしなくてたゞ刄を囘して傷を廣げる。其後は改めて其れを舌で舐めて、更に刄を刺す。無限に、無限に。
ダレニモナイ手紙
“ヒステリツクナ笑ヒ。叫バナイ理由ガ、叫ブノハ負ケルト同ジデアリマスカラ。シカシ我ガ苦シメラレタル心カラ呻キ聲ガ聞コエテヰマス。其レハ、疲レタカラノデアリマス。苛マレタリ苦シメラレタリシテヲリマスガ、鬪ヒ續ケテヰマス。其ノ痛ミヲ止ムガ爲ニ死ヌ希望ハ何處カ深クニ有ルカモ知レマセンガ、貴女ハ未ダ我ガモノデナク我ハ未ダ貴女ノモノデナイノヲ知リヰテ、其レヲ許ス勇氣ガアル筈デアリマスカ?自分自身デ、アノ「容疑」ト稱スル刄ヲ持チヰテ自分自身ヲ切リ付ケテヰマスガ、我ガ手ヲ向ケルノハ貴女デアリ、叫ビマセン。叫ブノハ降伏ト同ジデアリマス。鬪ヒヲリマスガ、オ願ヒデスカラ、我ガ手ヲ我ガ心ノ方ニ向ケル事ヲ止メテ下サイ。面白盡クデモ、自ラノ爲デモ、我ガ勝チ目ヲ增シテ下サイ。何故ナラバ、我ガ未ダアマリ强クナラナカツタ理性ニ貴女ハ决意ヲ踏ミニジル動機ヲ與ヘル時、無限ハ有限ニナリ、天ハ土ニナリ其レハ足元カラ失ハレルノデアリマスカラ。デモ、我ガハトホルヨ、貴女ノ素晴ラシイ純然性ヘノ祈リヲオ聽キ下サイ。貴女ヲ觸ツタ事ガ有リ、其レハ法悅デアルト言ヘル情態ニ近ク居タノデアリマスカラ。
我ガgeliebte frau ニ”
オシリスは待つてゐた。貴女が自分の目的と運命を忘れた。我はそれを言はず、貴女の友はイシュタルであれば貴女はエレシュキガルである事を、貴女は理解が出來無いだらう?前者が無ければ全ては全然違つたかもしれないから彼女を呪つてゐたけれども、その均衡、その純なる友情の典範を感心してゐた。しかし我が感心は、羨みをすぎなかつた。
貴女はその妙(タヘ)なる屍姦行爲をする覺悟が無かつたかもしれぬ。でもさうだつたら全ては無駄であつただらう。オシリスの苦しみも、イシスの樂しみも。我ネルガルの能動も、貴女エレシュキガルの受動も。貴女の美學的意識はまだ其れに付いての思惑を入れなかつたから、胸が詰まる。貴女は的を忘れ、行爲中で自失して、序幕が始まる所にて、もう喜び勇む。離れると、永續に我自身に我が手で引き戻されるが、また了解が無く更に自失する。でもそれは駄目だよ。神々しい法は破れる可きが無い。ד(ダレツト)が無く、コクマーはビナーと、だう一緖になるのか?その貴女がもう長い閒に演じる可きだつた役割を、我は受かねばならないのか?貴女は死ねば、イシスが無限の再生周期性の中でオシリスを弔するが如く我は貴女を弔する。シヴァを喰つてゐて得意がるカーリーは彼を愛するが如く我は貴女を愛する。以前の通り貴女を見るのは、もう出來無い。步く時に、目の前には貴女が居るけど、貴女はもう違つてをり、貴女の面影はもつと暗くて遙かになつたやうだが、前のやうに脆いといふわけ無い。もう、貴女は暖かくて生けるのやうでなく、死んでゐるし冷たいのであるやうに貴女を見てゐる。その面影は貴女をもつと飾る氣がして、それは我が拜物になる。腕輪の如く、半ズボンの如く、靴の如く、貴女自身の如く。でも、貴女の魂の如くで無く。貴女と貴女の體を見てゐて喜ぶ。貴女の感情表現と微笑みも。たゞ、喜ぶのだ。幸せだ。蟲は、自分が蟲であると確認するが、自分の志に從ふよりほかはなし。彼は誰であるにも關はらず、彼の志はさうであればさうなる可し。でも貴女の魂の輪郭を見る時、喜ば無い。その魂は、胸での永遠の詰まりだ。潰瘍、腫れだ。其の本質を憎むけど、我に給つた事を其れに感謝する。ま、いゝは、これは我が志なのだ。是れに獻身せねば是れを完全に悟らぬ。それで、獻身した。すると、その恐ろしい欲念は我を染み込んで、我が手は刄で貴女の皮膚をユツクリと撫で、刄の分子は貴女の頬の可愛くて細い靜脈を見られ其れを觸ると跡が殘れるやうな氣がするほど纎細なる自然屍衣の分子を割いてゐるのを想像しつゝ、我は自らの殘酷なる思惑の中で喜んでゐた。
だうやつて貴女の魅力はこんな情態まで至らせたのか?この思想は、狂氣で不可能さうに見えれば見えるほど現實的で道理のありさうに見える。そして今は、いつか我が初めの儀式中で自分の手を切つた刄で貴女のアサグロイ皮膚の分子の聖なる緣を崩す勇氣が無いかもしれぬとの考へが浮かぶと、自分は弱蟲だと思ふ。なぜなら我が思想は全く正義さうだから。自分の欲念をせめず、その事實の前の臆病をせめる。
さて知つて欲しい。貴女を愛してゐるつて。一生でいつよりもだれよりも愛してゐる。ヒョツトしたらそれこそは、我が現在狀態の原因かもしれぬ。
あの瞬閒より、我が古いポケツトナイフを持たず外に出られなくなつた。其れはいつも我と一緖にあると約束して常に右ポケツトの中で持つてゐた。其の鋼の重さに懷いた。一度、其れを家に殘した時に、パニツクになつたほど。飛行塲に到着して飛行機の切符を家に忘れたと意識した者のやうに。今までナイフが無く、我は一體だう存在してゐたのか分かることが出來無かつた。そして冬の寒さでは、其の柄だけが我を暖かめてゐた。
或ること、知つてる?憎みに取り付かれてゐなかつた。また、戀にも取り付かれたことがない。貴女だけに取り付かれてゐたの。我が志はいかに汚らはしさうか恐ろしさうかに見えても、その志は貴女に導かれてゐると知つてゐたならば喜んで安心して其れを認めた。自分でそれを氣付かなかつたかも知れぬとしても、貴女はたゞ一見だけで我が每行爲を祝福してゐた。我が今や歸られなくて急いで沈んでいく命そのものを祝福してゐたのだ。
六
“あゝ死者等の子供達よ!
だうやつて爾らは全ての生ける者より元氣であるの?”
ティアマト之聖典、涙之書
今や每晚、町と月樣との出會ひに行く。外の闇に出て足を土瀝靑に踏みだして靴墨にもぐる。其れは我を吸收して、我が思想をもつと暗くしたり、欲念をもつと罪深くしたりする。一步暗黑に。でも每層では靴墨が一樣に黑い。同じく黑い月はニヤニヤとして天上鴉片を吸ひつゝ、我になにかを囁くやう。皆は我になにかを囁く。それをハツキリ知つてる。それは精神分裂症でなく、我自らの聲は周りにある眼に見えぬ壁の中に反響を探し出す事である。又の孤獨の夜。貴女を會へることを願ふ。外に出る目的は壹つだけで、ナイフを持つ目的は壹つだけだ。貴女の家へ行く。其れは何處にあるつて知つてるよ。ある頃、無限のアクアリウムで流れるステュクスの水上を行く舩の中での蝸牛なる我は胸をこがしてゐたあの晚、貴女を家まで送つたことを、貴女は覺えてゐるのを希望する。あのとき、月樣は我等のために鮮やかに光つてゐたことを覺えてゐるのを希望する。我は純粹でつゝみなく愛が出來たり、あんな必要がなく影になつて貴女を付きまとはず鄰りに行つたり、我等は月樣を見ながら心の中で我はいま貴女の鄰りに居る事と貴女は我の鄰りに居る事を其れに感謝したりしてゐた快い頃も覺えてゐるのを希望する。美しさを見る事を、死に感謝する必要がなかつた。他人の心を引き拔く渴望がなかつた。自分の心を貴女に與へたから。でも不治の火傷を殘させ、いま其れを愛藏して詫びてゐるの。蟲のやうに這ふのでも、無心に動く筋に押し殺されるにも關はらず欲しいものがために戰ふのでも、幸せだつた。貴女は生きてゐるを見てゐて樂かつた。貴女は病氣になつたときに我は夜中に座禪したり我が暗き女神逹に貴女は元氣になるやうに祈つたりしてゐた。ある夜、貴女は寢てゐたうち我は片隅で座つてゐて一瞬閒でも貴女の夢を入らうとしたとき幸せだつた。貴女は生けるし元氣であるのを想像して幸せだつた。あれは、我はまだ靴墨に沈まなかつた頃だつた。あの頃に、そんなに歸りたい。いつか生ける愛の中に幸せだつたやうに今もそんなことができると自分を說得してみてゐるほど歸りたいが、結局我はなつた者を認めるよりほかはない。貴女から逃げられぬ。自分から逃げるわけあるのか!誠に、これは愛の値段であり、この十字架を得々として背負ふ。
死と手を組んで夜閒の神戶を步きながら心の中で貴女と一緒にもこんなふうに散步できるやうに祈る。
そして死は我に曰く「また彼女と一緖に居るよ。また幸せになるよ。每晚ナイフを持つ理由をよく覺えなければならないの。その意思を行へ!すると、また彼女と一緖に居る。約束するは。永遠に一緖に居る」と。
貴女の家へ行く。貴女の門口を覺えてゐるが、窗を知らぬ。門口の前に影で座つてゐて我は、扉が開いて貴女は出るを望む。無色の夜に建物の閒をさまよひつゝ角の曲がつて知る輪郭を見るのを期待する。目を閇じても自分の家よる貴女の家まで、目を開けたやうに行き着ける。
あんなふうに貴女の家の前に座つてをり、その所はいまから我が力所だと分かつた。氣持ちが惡いときに、惡夢は我を苦しめるときに、躊躇は心に忍び込むときに、我はその所を想像する。貴女の家をも想像する。貴女をその家まで見送るのも、月は空から明るく光るのも、我等は生けるのも、我は幸せであるのも、自分自身を今のごとく怖がることが無かつたのも、あの時に貴女は鄰りに居ただけから我は自分をそんなに嫌がらなかつたのもを思ひ出す。
**年二月十六日
”今日ハ夢ヲ見テ、アソコニハ貴女ガ居マシタ。捨テラレタ形ノ完璧。背ヲ我ニ向カヒ立チヰマシタ。ソシテ、自殺スルト、貴女ハ言ヒマシタ。我ニ呼ビ掛ケラレ、寛容ナル微笑ミヲシテ振リ向キマシタ。
我ハ、謙讓ニ微笑ミ、「サヤウナラ」ト言ヒマス。スルト、其ノ言葉ハ、エリコノ喇叭ノ音デアル樣ニ、我ガ世ハ痛ミカラ搖レニナリマシタ。喜悅ガ高スギタカラカ、アルイハ欲求不滿ヲ感ジタカラカ…。デモ其ノ後、安全ニ寢テヰル貴女ヲ見マス。貴女ハモウ、アノ悲シイ意思ヲ行ハントシテヰマセン。腹立チ我ハ呪ヒマス。
夢ハ續キガアツタカダウカ覺エテヰマセン“
あるとき彼女の父親を見たことある。物淒くて不氣味なるヤツだ。彼女の母親は本當に美しいであらうと想つた。その彼女の父親を下意識に憎しんでゐた。彼女は我に、彼に付いてなにかを言つたからだと思ふ。しかし彼女の母親を、一囘だけで見たことで姿をあまり覺えなかつたにも關はらず、敬慕した。その母親の幻の面影を心の中に藏しつゞけてゐた。
そしてその母親に祈つてをり、我はあんな不思議なる熱心に、記憶にすぎないものにするのを志す貴女の命を生んだことを、感謝してゐた。貴女の棺の鄰りに立つて「娘にそんな酷いことを誰が、何のために行つたか」と考へる貴女の母の淚を見たかつた。自分の娘は、實は憎らしいものであると分からずに彼女は泣いただらう。その娘の僞譱的なる實質を意識したら母親自身もそんなことを、いや、もつと酷いことを、娘に行つたかもしれぬと分からずに。そして我は、貴女の友が沈んでしまつたときに貴女と鄰りに立つてゐたと同じく貴女の泣く母親の鄰りに立ち、彼女は我が肩に泣きながら慰めを求め、我はその慰めを與へて彼女と悲しみを共にすると見せなむ。貴女は、ハーデースに於いてステュクスを通りつゝ、地下より我等を見たらだう感じたのだらうか。それだけを知りたい。その誇らしくてつじつまの合はぬ生物の他の思ひや感じを分かるのは、諦めた。
あゝまういゝ。この世には、つじつまなんか要るのか!天使の道は地獄を通つて神樣より高くなつて獸のカンカンで自分の尻と舞ひ、碎けた探照燈の光の中でジタバタする蟲に至るこの世に於いてこそよ。
拍手。
存在しない者逹は席を立つ。拍手し喜び勇んで耳に聞こえぬ聲で目に見えぬアンコールを願ふ。蟲は自慢して、その碎けた探照燈の光りの中でまもなく融解するらしい。
夜の靴墨をかぶつた我、貴女の家の鄰りに通つてゐたときに、その父親は窗から我を見てゐたことあるらしい。怖くなつて、我は早くあの所からなにかの遠い塲所に行かうとした。本當に彼だつたと怖がつてゐた。唯の氣の所爲だと今まで祈つてゐる。
あゝ、あんな汚らはしいものに與へられた面影よ!天よ、なんじに呼び掛ける!神樣よ、なんじに呼び掛ける!我をこの井戶に引きずり込んだ畜生に、その面影は一體だうやつて與へられたのか?感心してゐる、實は。だう、貴女はその面影を、そんな上手に操るのか!
だう、そんなことをしてゐるのか?分からぬ。だう、愛欲は、先づは冷淡になつて、その後は不思議なる憎しみになつたのかも分からぬ。貴女の魂も全く分からぬと同じ。この世の萬物も分からぬ。なぜならば、先の我が世は嘘だつたと悟つたから。もう、その世の圈外にあるものだけを見ることが出来る。
お辭儀と觀賞に値する微笑みも、ハトホルのやうな目付きも、貴女の爲に、貴女と一緖に死んで、我が記憶の中と我が筆が接した紙の中で永遠に生きるやう。
七
“貴女の體への色欲と共に
貴女自身への嫌悪(ケンオ)我が自然のなかで
存在するからほかの仕方がないかな“
ナヴヤ・ンヴァル、昭和六十一年
そしてある晚、我の前に完璧を見た。我が簡單で純朴なる完璧は、道の向かう側で立つてゐた。あれは貴女でなくあの死んでゐる女性もでなかつたが、橫目で我を見つゝ立つてゐた。あのころ想つたことは、その素敵なる體を、いまや容易に得れると。もう、いかなる境を渡つたと。また幸せだつた。魂の汚れを 擲ちて誠の美を有することが出來ると悟つたから。
でもいまの我が目的は貴女だ。それを覺えると、怖くなつた。天に手を擧げて、「神樣よ!我を見てゐますか?我を見掛けてゐますか?我は成つた者を見て!爾は我にした事の所爲で我はしてゐる事を見て!いまや、喜んでゐますか?でなければ歸らせて下さい!喜んでゐたら、我はいま爾の意思を行ひますからお手傳ひ下さい!」と。
そして、ひざまずいて泣いた。シツトリした土瀝靑を爪で引つかいてをり、其の下に自分を埋めりたくなり、爪すべてが折れ血が出た。
突然、あの快い頃よりは、
「全てはお前の所爲だ!今お前の人生で起こるのは自分自身の所爲だ。お前は充分なるものがあり、お前たちは幸せだつたが、自分自身でお前があつたもの全てを反發して、今や死と一緖に幸せになり、死者の空氣を息をする」と。
誠に!人生の美しさは我を裏切つた。結局それは自分の魂や熱も無き純なる面影に連れてきた。これは、我に制壓せられる唯一の面影であるやうな氣がしてゐた。
書いて非ざるだれにもない手紙も、言はれて非ざるだれにもない言葉も。それら全てを守つてゐる。靴墨に咽びつゝでも守り續ける。皆は、それを捨てろうと言ふときでも守り續ける。全ては以前のやうになることを志すのは無駄でも、いつまでも志し續ける。あの頃、天使の道を步いたりあの瞬閒まで見たことない物を見たり感じたりしてゐた。その物全部を覺え、あの頃から覺えてをり、後でも覺え續ける。死んでも其等を守り續け、その思ひ出の影は冥界で貴女をたゝる。突然貴女も、笑つてゐたことを覺え、悲しくなる。我は貴女に「目を見て」と言ふときに、貴女の目を見たいのは、その目が好きだからでなく、貴女を囘る血と切り離された希望の海はその目に映るかだうか見たいからである。
我が新たなる女神たる死を贊美する。死は、美を得る機會を我に下さつた。手を伸ばして持つてよ!そんな簡單。
夜閒にも、晝閒にも、其等の街頭で貴女を見つけなかつた。貴女のスケジュールなんかをうかゞへなかつたほど素朴だつた、我。それに、貴女は學業以外ほかのところに行くことが無かつたらしい。
しかし時が來て、機會が失せた。我が位置で立たなかつた者は、無意味なロマンティツクなる夢幻と本當の殺意との違ひを、だうしても分かれぬ。戀しい女性の家の鄰りで步きながらナイフを手で握り、今にも其れをポケツトから出してなにも勘づかぬ身體への扉を刄で開くに備えたこと、ある?もうグニャグニャした屍を入りやつと其れを追ひ付いた安心を味はふのを想像したこと、ある?誠に、殺害は素晴らしい!そして、未來に葬式にて僞りの悲嘆の疑ひを起こさぬ爲に、彼女の兩親との交はりを避けたことがあつたら、誠にその美しさを悟つたぞ。
そろそろ卒業が起き、今や貴女はどこか大阪に居り、我は神戶で殘つたが、我が影はいつも貴女を付いてゆく…それを知らせたい。貴女は行くときに、後ろには影だ。貴女は立つときに、後ろには影だ。それを感じてね。皆に背を向けられ貴女は獨りで死んでゐる音に圍まれ、もう誰もゐないと想つたり誰もゐなかつたと氣がしたりするときにも、後ろ貴女の影以外のもう壹つの影が立つてをり、貴女は孤獨ではないと知つてるやう。貴女は寢るうちに、あの夜の如き影は片隅より貴女を視てをり、いつまでもあそこに居る。もし呻かなかつたら、ユツクリと貴女の命を奪ふ。それ、我には制御不可能。たゞその影の本質である。それはたゞさうすることに慣れたから。
この簡單な死體安置所に就職したとき、考へる時閒が充分だつた。靴墨に沈んでゐたときに分かつた事に付いて考へた。我等に付いても他人に付いても考へた。死者に付いても澤山考へた。すると、聖なる眞理が我に現れた。それが、男性はいかなる女性を占有し得ることが自然の决まりであると。且つ又、男性は死んでゐる戀人も生きてゐる戀人も有し得り、だれもが其々の性質次第で自分の選擇をする自由がある。
我はその選擇をしたのは、第三目の遺體は到着されたとき。それは、我が完璧だつた。簡素だが、完璧。其れと一緖に居たうち、我が影は貴女と一緖に居り、今迄に後ろに居る。
真黒刀佳
昭和七十二年(1997)
靴墨