砂漠のエリオット

水鷺たかや

  1. 1話 エリオット、僕は君を愛しているよ
  2. 2話 エリオット、僕を見捨てないでくれ
  3. ‭3話 エリオット、君は卑怯だ‬
  4. 4話 エリオット、僕を忘れないでおくれ
  5. 5話 エリオット、君を忘れてしまうかもしれない

1話 エリオット、僕は君を愛しているよ

 エリオットは自身の小指の爪の先に奇妙な斑点を見つけた。指先にできたごまつぶのように小さいそれはなにものだ。エリオットは唯自分の右手の小指の爪の先を見て悲しんでいた。この斑点はなぜだか奇妙な揺さぶりをおこす。嗚呼、なぜこんな小さな白い斑点がとつぜん生まれたのだろう。エリオットは自分の指先の変化に陶酔した、嗚呼、嗚呼。泣いているのかいエリオット? それとも嘆いているのだろうか。僕はエリオットを見ていた、エリオットは小指の先の白い斑点を見てかるくうめいた、そして笑った。ちょうど、死に際の人間が浮かべる嘲笑のように。エリオット、泣かないでくれ、小鳥のさえずりをやめてくれ。二つの影が月光の下の砂漠に落ちた。なあアレックス。僕の名が呼ばれた。なあ、コイントスでどちらが死ぬか決めようじゃないか、エリオットは僕に言った。僕はただ、どうしようもない立場に置かれたまま。
「コインはあっても銃がないよ、この国は銃規制があるんだから」
「銃はなくても人は死ねる」
「僕は嫌だ、死ぬことも、エリオットを冷たく細い十の指で死なせることも」
 エリオットは儚げにため息を吐いて、それから地平を指差し、歴史に名を残すような黄土色の名画の名残めいた夕焼けを、こう、揶揄した。
「僕はあの世界の果てまでのどこかの道で自分の羅針盤に出会った、月光の砂漠は僕らを取り巻く容れ物を映している。僕はエリオット、夕焼けの名残が生まれた頃の砂漠の病院で血だらけの姿で生まれたんだ。人はそれを嬰児という。僕はただ生まれたままの姿で羅針盤の上に落ちたんだ。見ていてくれ、見ないでくれてもいい、僕はただあの夕焼けの向こうを指していつまでも悲嘆に暮れなければならない。僕は死ねないんだ。だからアレックス。エリオット、僕の名をよく覚えていてくれ」
 僕はまるで僕がエリオットになったかのように瞳を見つめ、その視線の先にある自分の薄い胸を見た。僕は生物学的には女だ、子供を産めるし砂漠のぬるま湯を見つけて産湯につけることもできる。運が良ければエリオットのような美しい子を抱けるだろう。だが僕はエリオットにはなれないことだけがわかっていた。ただその一点だけが僕を死にたい気持ちにさせ、紅の夕暮れにそばかすのような星屑を散りばめさせた。或いは、それは僕の眼球についたただの小さなほこりだったかもしれない。砂粒かもしれない、闇の中の砂漠の砂は白く細やかで、朝日に照らされるといたずらに温かみを増す。僕はエリオットのように儚く白い肌にはなれない。黄土色の僕は精神の何処かでエリオットを崇拝することを拒んでいた、でも僕にはエリオットしかいない、そう思わせる催眠的なまやかしがエリオットを包んでいた。嗚呼、エリオットは嘆いた。
「僕の白い肌を君のなめらかな金砂のような肌と交換できれば」
「そう言うなよエリオット、君の声はまるで川辺で囀る小鳥のようじゃないか」
 真っ白な陶器を滑らかになるまで磨き抜いたらエリオットの首筋のようになるだろう。僕はただ、その僅かな輝きの変化に見とれていた。ぼくはただエリオットの美しさのような声に聞き惚れていたかった。そして僕は悲しみに暮れる。いずれエリオットの素晴らしい均一の取れた肉体、すべてを備えたプロポーションとは似ても似つかない僕の、百人揃えても釣り合いの取れないようなおかしな身体がエリオットの目の前に曝け出され、エリオットよ見ないでおくれ、そう嘆くのだろう。夢の中の夜空は決まってまん丸い月をかげらせて存在させている。今夜は三日月だ、エリオットの瞳に月の影が射した。月光はエリオットの髪をきらびやかに輝かせた。
「アレックス、命を賭けよう」
 嗚呼、エリオット。僕の名前を呼ばないでくれ、囁いてくれ、抱きしめておくれ、そしてその冷たい指で首を絞めておくれよエリオット。頼むから死ぬだなんて途方もない戯言はやめておくれ。エリオット、僕は君を愛しているんだ。性別の壁なんて存在しない、僕は生物学的には女かも知れないが、精神的には男性から溢れる知性の欠片と彼ら男性がいつでも拾えるようにと散りばめている感受性をすべて奪ったとある男性と変わらない、冴えない小鳥のような存在だ。僕は嘆いている。僕は言える。
「エリオット、君に恋をしてしまいそうだ」
「やめてくれよ、」エリオットは冷えた言葉を放った。「僕らは月と太陽のように遠い。それに僕には君を愛する理由も、羅針盤の導きもないんだ」
 それは確かに赤毛の闇を残す北を指し示していた。十全たる僕に、エリオットはキスをしてくれない。夜を抜けた暁に口付けをしない。僕にはすべてわかっていた。だけど精神の何処かに眠るつぶやきは僕にエリオットの何もかもがわからないと教えようとしていた。やめなよ、君には愛する権利なんてない。エリオットはただ僕を見つめていた、月の光に呑み込まれて、溶かされ、消えてしまいそうな寂しさを感じた。そして微かな嫌悪感を見つけ出した。僕はエリオットを愛せない、それがだんだんと分かってくる。嗚呼、なぜ僕は紅の宵闇に焼けつくされ、北へ向かう羅針盤を手に入れることができないんだ。エリオット、僕を見捨てないでくれ。そして冷えた愛など持たず無機質に突き放しておくれ。
 僕は願い続けた。それが転落のように僕に調子の悪い印象をつなげ続けるものだからなぜだか本当に無意味な間隔で時間を測り続けているように感じられていた。そして完全な調子外れに陥ったとき、僕への強調は嘘くさい絵画のように、だまし絵のように突然目の前にエリオットの名残が訪れ、感じられ始めた。そして僕はエリオットを浮かべる僕にさよならを告げた。短い別れだと思っていた。
 安寧はすぐに訪れた。僕はベッドの上で奇怪な目覚まし時計に揺り起こされ、美しいあの人の夢を見たとおもった。僕は生物学的には女性だ。そして理性的な知性に飽きて、冴え渡るほどの叡智のまとまりを手に入れている。定められた運命に付き従うには十分な智慧だけど、『北』を目指すことはできない。ベッドから降りて鏡台の前に座り、赤色の髪をブラッシングした。エリオットは僕の体のどこにもいなかった。髪の毛の一本でさえ黄金の色には変わらない、僕にはエリオットでなければならない理由などどこにもなく、胸の膨らみから溢れるはずの母性も優しげな肩幅も腰のくびれもみな、嬰児の頃に奪われてしまった。出会えるはずの彼の姿、いずれ出会う親しい友人の黒髪、つまらない朝、僕はパンを食べ、パスタを茹でる水の貴重さを考えた。水の代わりに夢や願望で良ければパスタを茹でることができただろうに、あいにく米を炊くほどの水も貴重なものなのだ。僕は家を出た、仕事をしなくちゃならない。僕のそれは畑の上でひどく慇懃な友人たちとのおしゃべりによって消費される時間に対応していて、親しい友人が苦しそうに無邪気に笑うたびに働いた証明になる。いくつかの話題を提供しなければならない、僕はもっぱら黒髪の友人に夢の話をすることが多かった。今日はエリオットの話をすることに決めていた。ねえエリオット、友人に申し訳ないほど夢中になって言葉を伝えた、限りなく細やかなジョークを添えた。友人の反応はすこぶる良かった。ねえエリオット、黒髪の友人は真似をするように言った。
「エリオットだなんて、エリオットですって。夢見がちね。アリサ」アリサというのは僕の女性名だ。アレックスは僕の男性名、人はときたま僕をアレックスと呼び、或いはアリサと呼ぶ。
「そう? 僕は僕だよ、夢見がちだとは思わないけれど。エリオットはとても美しかったんだ」
「やんごとなきお方ね」
「そう、でもその代わり、とっても繊細ってこと」
 とにかく僕のエリオットへの賛辞は止まなかった。ありふれた言葉を駆使しても無限に語れるのではないかと思えた。無限に愛を語れるなんてすごいね、友人はそう言ったけど、僕はそれでも常識的見地から愛を語ることを難事のようにおもった。褒め諳んじることは幾らでもできるけれど、恋慕の情は幾らも伝えるとは言いきれない、いつまでも愛を語れる? そんな言葉、まるで迷路にでも迷ってしまうような倒錯感に苛まれたみたいだよ。
「でもエリオットはそうじゃないのね」
「僕とは比較できない、無限のあこがれなんだ」
「あこがれの中でふくらんでいくエリオットをとりまく景色が浮かんでくるわね」
 表層化された理解の言葉はどれも陳腐だった、僕も、黒髪の彼女も、友人に語るときの僕の顔は決して見れたものではないだろう。愛の言葉はいくらでも語れるとうそぶいた。まったくもって見れたものではない、なぜなら僕は不都合が生じるくらいに醜いからだ。この不器用な唇、紡がれる言葉、ナルシズムに満ちたエリオットは僕の中で違った形へと肥大化していった。立体的な感情が次第に平面化し、だんだんと速度を落としつるつるとした感覚に変わる、そして手のひらにあのエリオットの髪をすくい上げる瞬間が訪れた刹那、僕の中にあるあの美しい眉がひそめられることになるのだ。エリオットは一晩にして僕の全てとなった、そして現実に立ち返ると僕という赤毛と切り刻まれた愛への論拠があった。僕はエリオットの前で服をめくり、うぶな裸体を晒しているようなものだった。ため息を吐くと友人は心配してくれた。切なげに両目をうるわすと友人はハンカチを貸してくれた。涙を吸い込んだ布は友人にとって働きの証明のようなもので、僕は彼女にチップを支払わなければならない気持ちになった。幾つかの不都合が僕を支配した、とたんに懐は寂しくなり、僕という窓を開けて小人が友人の顔を覗き込んだ。ポケットの中にある愛情がすべてを支配していた。もうこの場所に小人が働くような素敵な空間は存在しないのに、僕はいつまでもエリオットについて語らい続け、ついには友人も呆れ返り。
「本当に存在したら素敵なのにね」
 そう言って皮肉げに笑った。エリオットはここにいると僕は前髪をかき分けて額を見せてしまいたくなった。その額の内側にはエリオットの完全なる肉体が今でも焼き付いている、青白い首筋に薄っすらと冴えた頬があって、二重に僕を偽る青々しい立ち姿とエリオットの軽い前髪があった。僕はこめかみを叩いて二度エリオットに呼びかけた。一度目は親しく、二度目は慇懃に。それはこれ以上ないくらいの冷たい反応が頭のなかでこだました。僕は自分自身の中にエリオットはかけらも存在していないのだと知った。細くしなやかな手足も、寂しげな微笑みも、全ては作り物めいたなにかとなっていた。そのなにかというのがいかにも心地よくて低俗で、世間的な風俗性を伴ったまがい物なのだ。エリオットはうそっぱちだ、誰かが僕の中でそう言い始めてから僕はしばらく放心していた。そして黒髪の彼女ではなく青髪のレジーナの存在に気づいた。レジーナはあくまでも現実的に僕を批判した、その中には愛情めいた言葉も覗けたけれど真実的な言葉は存在しなかった。憶測で語られる嘘めいた発言も多く、まるではじめから作り話だったかのように僕を落胆させる。聞いてもいない話を聞いていたような対応さえ取られた。見当違いな指摘を聞くたび、僕は本当にエリオットと出会いたくなり、現実に立ち返りエリオットと別れた。それが繰り返されていくたび僕のエリオットが肯定されていく気がした。だけど青髪のレジーナはどこまでも同じ調子で、場合によっては僕にとっての核心をつくことがあった。そのときにだけレジーナは自分本来の泣き顔を見せて何故だかおもしろおかしそうにエリオットを肯定する。彼女がエリオットを批判するとき、同時にエリオットは僕の中で肯定の言葉を探すようになった。
「だからエリオットは生きてはいないのよ」
「エリオットは永劫不滅だ、けっして消えることがない。子供じみた言い草かもしれないけれど、僕の知っているエリオットは君には伝えきれないほどの魅力を保っているんだ」
「あらそう。ではなぜエリオットは夢の中でしか存在していなかったのかしら。あなたの空想ではなくて?」
「もしかしなくても僕のエリオットは偏在しているはずだ。僕がエリオットを思い浮かべたとき、同時に世界の何処かで誰かがこの砂漠を思い描くように。果てしない砂地を掘り起こそうとする盗掘者だってエリオットを見つけられる。それは北という言葉に集約されるかもしれない。だって僕らはみんな羅針盤を持っていないんだからね」
「そういわれても。コンパスの一つや二つはいくらでもご用意できてよ」
「そうじゃないんだエリオットは」僕は予め定められていたようにこのタイミングで語気を荒げた。「途方も無いほど北という言葉に集約されていて、とてもシンプルで、そして彼女は象徴的なほどに美しい青い瞳をしている。その青さは月の満ち欠けと地平の向こうに存在する夕焼けに埋没するんだ」
「地平の向こうには虹の橋がかかっているじゃないの」
 レジーナは砂漠にかかった虹を指していった。いつの間にか世界は様変わりして、黒雲に陰っていた。レジーナの指は細長くてきれいで、指し示された虹の向こうは偶然にも北を指し示していた。僕は思わずレジーナの指に触れて、言った。
「その指はしまっておいてくれ。決してわがままを言うつもりじゃないけれど、レジーナの世界とは相容れないのがエリオットなんだ」
 僕は家に帰る時間が訪れはじめたことを思い出した。レジーナはオレンジを切り分けたような夕焼け空に気づいてエリオットの片鱗をそこに認めた。だけど決して存在だけは受け入れず、やはり繰り返すように、エリオットは夢の中の登場人物よ。と言った。黒髪の彼女は機械的に笑って、それがちょうどロボットのようで、僕は感受性の欠落でも感じ始めたように真冬の風と雲の冷たさを思い出して家に帰った。僕は眠ってくるよ、そう言って、レジーナはなぜかエリオットによろしくねと好意的に僕を送り出した。

2話 エリオット、僕を見捨てないでくれ

 僕の夜の家の静けさは語るまでもなかった。単純に家具の上にものが並び、それぞれに印をつけてから改めて並べ直したような家だった。エリオットのことを思いながら眠ることは冒涜のような気がして、僕は一眠りするまでの時間を極力伸ばそうとした。コーヒーを一杯飲んで、眠気が来たら熱いシャワーを浴びた。そんなときに僕は自分が子を産める身体だってことにきづいて、なんだかいやになってくる。エリオットはきっと妊娠なんてしないだろう、子供なんて作らず、ただ永遠にエリオットで有り続けるのだ。熱いシャワーのあとに冷たいアイスを食べ、バニラの香りに酔っぱらうように眠っていった。夜明けのない夢が訪れた、そしてくれることのない太陽が空に照っていた。エリオットの姿を探してもどこにも見当たらず、青髪のレジーナの微笑みだけが存在していた。僕はぐるりと一回転し、砂漠の砂の細やかさに小麦粉のような感触を抱いた。きっとこの砂漠なら水や小麦粉のように変化してパンを焼くことも簡単だろう、渇望にあふれているのだ。エリオットはどこにも見当たらなくて、無言のレジーナが僕を見つめていて、なんだか薄気味悪かった。そう思うとレジーナは分離するし、結合もする。複数のレジーナから見つめられていると気づいたとき、僕は悲鳴じみた声を上げてたじろいだ。僕はとっさにエリオットの名前を叫び、夢から醒めるような勢いで北へ駆け出した。それがちょうど太陽の沈む方角になっていたため、僕はまだ夢の中にいることと、羅針盤のようなものを手に入れていることに気がついた。そしてエリオットは北へ北へと進んでいることを思い出し、僕は一切をかなぐり捨てる覚悟であるき始めた。乞食に金を恵み、怪我をした子供に服の袖を破って渡した。いつしか下着だけとなり、あまりの暑さについには裸になってしまった。エリオットはなんの経緯も知らずにこの僕の醜い裸体を見て、どう思うだろう。一瞬だけ鮮明な映像が頭によぎり羞恥があふれた。慌てて服を着ようにもどこにも衣服は見当たらない、周囲を見回しても僕が裸であること以外になんの疑いも持てなかった。エリオットはオアシスの前で立ちすくんでいた、ぐるりと囲んで生えた木々はエリオットの美しさを際立たせる存在で、水浴びでもしているのかと僕は胸を緊張させた。エリオットは僕に気づいた、どうやら覚えていてくれたらしい。
 さあ僕の話を聞いてくれ。僕は君に夢中なんだ。エリオットは僕の姿へ不思議そうな瞳で見つめて、しばらく呆然としながら僕の話にうなずき、そして透明なケープでもまとっているのかいと軽くジョークを交わし、それでいながらひどく真剣な瞳で誰かに服をあげてしまったのかなと経緯を聞かれながら僕はやかましそうに反応を返した。エリオットは鬱陶しそうに頷いた。
「君は他人のためにズボンまでくれてやる人柄らしい、やめておいたほうがいい。君はお人好しには向いていない、決して」
「そう言うなよエリオット。僕だって恥ずっかしくてどうしようもないんだ。上着を貸してくれないか」
「僕の上着はタダでは差し上げられないさ」
 皮肉めいた言い回しでエリオットは言った。それでいて何処かに匂い立つような優しさが見え隠れする。
「見ての通りいくらも払えないんだ」
「代わりに会話をしよう、僕らならいくらでも語らえるさ。ほら、僕の上着だ」
 エリオットはジャケットを放り投げた。それがきれいな半円を描き僕の手元にすっと落ちていく、唐突に涙が溢れた。感情は堰を切ってとめどなく流れていく。エリオットに出会えた、それが今は噛みしめるほどうれしかった。僕はエリオットの前でジャケットを羽織った、男物の洋服に袖を通すように、僕は非常に繊細な気持ちでいた。それでいながら……それでいながら、僕は突然ひどい快感をおぼえ、ふざけた愛情に流されるようにセックスというものを強く実感した。裸を見られていた、それがジャケットによって半分だけ隠され、晒された羞恥は象徴的に僕を気弱にさせた。エリオットはおかしむように笑った、それは僕を身悶えさせ、ついには官能さえ覚えてしまう有様だった。エリオットは不甲斐ない僕を見て言った。
「君はなぜだか楽しそうにしている、非常に不思議で、気味が悪い。まるで愛撫でもされているかのように頬を赤らめているし、まるで愛情でも授かっているかのように瞳に涙をためている。僕は正直に申し上げれば君に不快感を抱いているよ」
「そう言わないでくれ」
「そう仰られてもだ。仰られても、僕には君を侮蔑する多分の理由がある。それは正当だし、もっともらしいヴェールに覆われている」
「それでも僕は、狂ってなんかいない。色狂いじゃないんだ、発情したメス犬だとは思わないでくれ」
「思ってないよ。ただきっと、君の中に眠るもう一人の君を垣間見て、幻滅しただけさ」
「それはエリオットかい?」
「ううん、違うよ」
 エリオットはどこまでも澄んだ瞳で否定した。僕にはエリオットのなめらかな髪や優しい唇、それから母性愛さえ感じさせる胸にみとれ、微笑む理由があった。だけどエリオットは子供を持たない。女ではないのかもしれない、厳密には。その性別という垣根を超え、理解しがたい存在理由をその美しさによって僕に示したのだ。ああエリオット、僕に愛を教えてくれ。微笑んでくれエリオット、僕は人を好きになるきっかけがほしい。エリオット、愛しているんだ。だけどその愛情の一部から全部にかけてが相当歪んでしまっている。叩き直してくれないか、それとも僕から取り出して、きれいなまま僕に授けてくれないか。愛情はどうしても静かだった。エリオット、僕は君に夢中になってしまったみたいだ。僕がエリオットへの口上を述べている間に多くの無為な時間が過ぎた。なぜだかは分からないが黄昏は夜明けのあの強い赤みを帯びた地平を携えているかわたれに変わってしまった。僕は咳き込んだ、小さな粒が口から飛び出す。そいつがあの塩気に満ちた不快な砂粒であることに疑いの余地はなかった。レジーナが僕の足元にすがりついていたことに気づいたのは、僕がひとしきりの罵声をエリオットから預かっていた頃だった。その醜い言葉はどこまでも連続していて、連なった時間の渦の不気味さだけ僕を不安に貶めた。エリオットはきれいな声で僕を拒絶した、それが当然の成り行きのようだった。示し合わせたようにレジーナが現れた。まるでレジーナは今までの僕らの口腔のやりとりを聴いていたかのように静まった状態から立ち上がり。
「あなた達はきっと似ていない者同士なんだわ」そう言ってくれた。
「どうして」僕は言った。「そんなことはわからない。だってエリオットは僕の中で鮮やかに輝いている。いくつものシルエットに覆われ、隠れ、日陰に入り、蜜に浸っている」それから僕は泣いた。「エリオット。愛してるって言っておくれよ。嘘でいいから、結局、僕らは嘘に帰結するんだ。僕は男性の恥骨から生まれた、それは恥ずべきことで人にむやみに言いふらしていいものではない。でも、僕は結局いつまでも虚しいままの僕で有り続け、男性の変態的な偏執性に脅かされる日々を送っている。無意識に、求めているんだ」何度もシャクリを上げ、僕を見たレジーナは気の毒そうに言った。
「あらまあなんてことかしら。まるで犬の行脚に手を貸す盲人のよう」
「それはいいさ、レジーナ」エリオットが笑った。「僕たちはどうしようもない部分を抱えてどうしようもないやりとりとやり口で生きている。その中で幾つか選択肢を間違ってしまったとしても、例えようのないリアリティはいつも僕らを真実へと導く。アリサ、それで君の名は合っているね?」
「いいや違うよエリオット。僕はあくまで僕なんだ、僕に徹して、僕で有り続けなければならない。ありふれているかもしれないけれど。僕が僕でなくなるのは、道端を歩く貧しい老人にパンを恵むくらい珍しい行為なんだ。ありえないと言ってもいい。エリオット、君はそう言わなくてもいい」エリオット、そういうたびに僕は噛みしめるような悲しみが襲った。それでも僕は自分であり続けることを望んだ。
「エリオット」レジーナはいった。「アリサを助けてあげましょう」そう言ってからスカートのホックに手をかけ、やめた。「彼女は控えめに言って下半身が丸出しで、かわいそうなくらいぶさいく。ねえエリオット、めぐんであげましょう」
「レジーナといったっけ?」
「いいえ初お目見えでしてよ。でもレジーナであっていますの。何たる偶然でしょう」
「僕は君をよくしらないけれど、アリサを助けるためにズボンを恵んでもいい」そう言ってからエリオットは恥じらいなんて微塵もないようにズボンを脱いだ。「ほら、アリサ、僕は僕。君は君。ズボンを恵むわけじゃない、忘れないでくれよ。これは君への貸しだ。羅針盤の半分なんだ。北から東、南にかけて示されている。ただ西だけはない、なぜだか分かるかね?」
「いいや、さっぱりだよ」そう言いながら僕はズボンを履いた。
「僕のジャケットには半分の羅針盤が埋め込まれている。それは血液と比べて差し障りないほど、いや、これは皮膚と変わらないほど僕自身である。君にはきっとなにもわからないだろう。でもいいんだ、わすれよう。レジーナ、僕を温かいキャンプまで連れて行ってくれ。オアシスの横は冷える。まるでバドミントンでサーブを打たれたみたいに風が切りつけてくるんだ」
 エリオットがキャンプに運ばれるまでに僕は二度、砂漠に足を取られつまづきそうになった。キャンプにはちょうど手頃な壁があり、石塊でできたその壁にエリオットは無心で頭を打ち付け続けた。ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。
「僕はエリオットだ! 僕はエリオットだ!」
 乳白色の泡がエリオットの足元に溜まっていく。そして青空のようにきれいな青の髪をしたレジーナがエリオットの背中を擦っていた。
「ねえエリオット、あなたは疲れているのよ。きっとそうよ。私、レジーナ。あなたを愛しているわ」
 僕はその一言で体中がかっかするような怒りを覚えていたことに気づいた。その怒りの矛先は言うまでもなくレジーナの恋慕によって生まれたエリオットの奇行にむけられたのである。
「エリオット、頭を打ち付けるのはやめろ。君のなめらかな額に石塊の銃創でもついたらどうするつもりだ。やめるんだエリオット、君は誰のものでもないが同時にすべての人間の所有物になっている。言っている意味がわかるか?」
「わからないよ」がんっ「永遠にわからない。僕達の花弁は閉ざされてしまっている、僕は誰のものにもならずただひたすら南を目指すだけだ」
「南?」僕は一瞬耳を疑った。なぜなら彼女はエリオットとして北へ進んでいたはずだったからだ。そして僕の羅針盤も、ズボンも、どれもが北を示している。寸分の狂いもなく。或いはデタラメでもつくように。「君は北を目指していたはずだろう」僕には吐き捨てるような感触があった。「永遠に北を目指し続けるって、そう約束した」
「南だよ」どんっ「不可能だ」どんっ「僕らは結婚する気もないし」どんっ「こうして、分かり合えないときを共有している」どんっ「僕らは愛し合うことのメリットを持たない。僕の羅針盤はポロシャツの北へと言う言葉だけさ」
「ええ」レジーナが賛同した。「エリオットは賢いわ。だから壁に額を打ち付けているのね。正直、私には想像もつかない葛藤が彼にはあるのよ」
「彼?」僕は思わず聞き返した。「エリオットは女性だ、それは疑いようのない真実じゃないか」
「いいかしら? 物事の重みはそれぞれの基準で決まるものなのよ。私はエリオットは男性だと思った、ペニスが付いているし、睾丸も存在する。たとえそれが醜いものであったとしてもね、でも、だからこそエリオットが苦悩するのよ」
「まったくもって不可解だ」僕は肩をすくめて気の利いたバーを探しにキャンプを放浪した。かわたれの地平のオレンジはまだ色濃く残されていた。むっと蒸気を発した橙色の太陽は濃紺のキャンパスの上に描かれる。唐突に、僕はエリオットがレジーナと性行為に浸っているのではないかと思うようになった。その妄想はとめどなく溢れ、どうしようもない臨界点に達して僕を苛立たせた。レジーナを殺してやる、そう思ったのは不運にも素敵なバーを見つけた瞬間だった。店内は落ち着き払った雰囲気に満ち溢れ、なぜだか定期的にショットグラスを飲み干す粗野な男がいる。カウンターで入褐色のジン・マリオネットを注文してしばらく待っている間に涙色の青白さをもつレジーナが不幸をもたらす元凶だという言葉と無限にパンを焼けるオアシスが丁度ここから西に存在するという話が聞こえ、僕はレジーナが不幸に巻き込まれると直感した。ジン・マリオネットは塩を振られて出てきた、それが砂漠の砂の苦味を思い出させ一瞬不愉快な気持ちになった。バーテンダーは言った。
「お客様、私共はしがないバーテンダーでございます。どうかご無理はなさらないよう。挨拶のようなありふれた言葉は必要ありません」
「僕は僕の生命を奪われようとしている」
「ええ」バーテンダーはなんでもないことのように微笑んでいた。カイゼル髭がよく似合う。「生きていれば一度や二度はそういう事も御座います」
「僕は芸術家になれない! 僕は、エリオットに奪われてしまった。エリオットに対する鬱憤や怨嗟といった何かを取り返すには僕はエリオットになるしかない。彼女は浮気をしている! それもレジーナというごく親しい間柄の女性とだ!」
「ええ」カイゼル髭が妙に似合うバーテンダーは微笑を湛えた。「人は、そういうふうにできているのです。一人の女性が一人の女性を愛するまで、そう長い時間は取りませんよ。私の友人にジルドレという男がいますがこれまた傑作で、おっと」話しすぎましたね。瞳が告げていたので僕は彼に話を促した。
「ジルドレはとても紳士的な男性なのですが、2日で恋に落ち結婚し、一晩のセックスで別れを告げました。これは何も冗談ではありません、全てがそっくりそのままの真実なのです」僕は瞳を一瞬そらした「よく聞いてください、ジルドレはただの異性愛者ではない。筋金入りの臆病者なのです。ジルドレはわがままだ、でも同時に優しくもある。よろしければご紹介をしましょうか。あなたのとなりでちびちびと――」
「その男はあまり愉快に聞いているとは思えないが」僕は会話を遮るように行った。
「隣のジルドレは小心者なんですよ。なのに一晩でめくるめく倒錯の世界に陥る。彼は絵が得意だ、ぜひ現実で目覚めたらアール18番街の私の店に来てください。美味しいスープとパンをごちそうしますよ」
「スープに豆は?」
「ご希望で?」
「いえ、好奇心です。ただの」僕は言ってから、アール18番街という言葉をなんとなく頭で諳んじた。それからレジーナとエリオットのキャンプに戻り、情事が行われているであろう扉を開いたところでもう一段階深い夢に入った。

‭3話 エリオット、君は卑怯だ‬

 乳白色のそれらはすべてが歪んで見えて、繊細な指でも何もつかめず、実際のことなんてなにもあらず、また、ところで僕は夢を不快と仮定したけれど本来はアジのソテーみたいに気軽なもので。プラスチックを食べるのはやめなさいってお母さんが言った。それからジルドレの顔が浮かんで、どうしても会いたいって強い気持ちになって、それから僕はとても切なくなってアール18番街を目指そうと心に誓う前に目がさめて何にもかもを忘れた。お父さんがバーテンダーとキスをしていた。
 アール18番街というメモを枕元に見つけた。僕は何気なく読んで、それからなんの心当たりもなかったのでとりあえず笑って過ごした。その日の僕の職務は畑にウネを作って、とうもろこしの苗木を植えることだった。食物は不思議な育ち方をする。たんぽぽは上空にむかって根を張るし、チェリーの木は年中問わず実をつける。とうもろこしはよく育った、乾きと絶望の土によく馴染み、飢えと衰えの砂地に愛を寄せる。とろとろに溶けた愛情を注いでやるととても甘いコーンができた。甘すぎることはない、その逆として、愛情が足りなさすぎることはあり得なかった。ポップコーンを知っているだろうか? 味をつけて食べるものである。それがちょうど甘くないコーンによく馴染む。世界一幸福な栄える国の郵便配達員は僕のとうもろこしを好んで食べてくれる。同僚の黒髪の彼女はとつぜんレジーナを貶めた。
「レジーナはきっと人の世界を知らないのね。だからおしゃべりばかり、決して悪いことではないけれど、真実の瞳を持つあなた方なら彼女が郵便配達員になったアヒルのような性格をしていることもお見通しでしょう。生真面目がすぎるのです。まるで何かに取り憑かれているかのよう」
「それで」私は呆れたように言った。「彼女をけなして何か手に入ったかい?」
「ええ、まあ。お気に入りのさくらんぼ畑を守ることはできましたわ。ほら、チェリーがたくさん地面に植わっています」
 黒髪の彼女が示したのはプチトマトの苗の群れだった。彼女はいま自分が何を栽培しているのかも知らないのだ。不幸そうな顔ひとつせず、まるでそれが唯一の幸福であるかのように。彼女はただプチトマトをいろいろな果物に例えて育てている、彼女には自分が親身になって水をやったその赤い実の甘さやどこの誰が食するのかといったことが全くわからないのである。
「このチェリーの群れを見てください、とても立派でしょう? 美しい桜色をしてるわ。まるで昨日のエリオットのよう」
「そうかもしれないね」僕は哀れみに満ちた声で言った。「それがエリオットの一部を象徴する、チェリーの群れかもしれない」彼女の言うエリオットの意味に気づかないまま。
「どうしてこうも美しい実がなるのでしょう? つやめいていて、明るく朗らか。まるで象牙のように美しい光沢。ああ、この群れを食べてくださる方々はなんと幸福なのかしら。とても甘い、チェリー」
「きっと彼女は幸福なのだろう」
「ええ? あら、不思議な語感ね」
 僕は一人で彼女の妊娠の可能性について考えた。月の初めのものが来るに従って僕はありえない妄想を展開するようになる。それが日付的にも感覚的にもちょうど今日起こったもので、そいつはどうやら妊娠という妄想を幾度も僕に想起させる。僕は今日も、生理だった。想像の中で黒髪の彼女は美しい赤子を授かった。段々と成長するに連れて生意気になっていき、最終的には無口でニヒルな青年になる。口癖はオー。愛情を求めすぎて半狂気的に口癖を連呼する。オー、オー、オー、チェリー! ほんのりと酸味が走り、僕は目を覚ましたように黒髪の彼女を見た。悠々と歩いている。
「あなたのとうもろこし畑にはレジーナが喜びそうな愛情が詰まっているわね」
「それはそうだよ。愛してあげればとうもろこしはよく伸びるんだ。かわいいだろう。僕の声を聞くと彼らは震えるんだ。きっと嬉しくて仕方がないんだろう。僕はこの畑が大好きなんだ」
「あらまあ、ご執心だったのね。さぞ可愛いでしょう。私もよ。チェリーの群を見ると心がときめくの。まるで恋をしているかのようにね。胸が誰かに押されて、鼓動が鳴るみたいに。心拍数はいくつも上がっていくわ。それから血液が循環する中でだんだん熱くなって、まるでもうどうしようもないみたいにドキドキしちゃうの」
「へえ、素晴らしいじゃないか。そのチェリーの群れはさぞ幸福だろう。僕だって君に育てられたいと思っているさ」
「あらそう。レジーナに食べさせてあげたいわ。きっと彼女もとても気分が良いでしょうから」
「そうかもしれないね」
「ええ、レジーナは今日はお休みかしら?」
 その一言がなぜだか僕の嫉妬心を燃やした。痛みが訪れる、胸が苦しんでいるんだ。僕は彼女の透明な自給自足の姿を見つめているのがやっとだった。
「それはどうだろう。レジーナのカカオの木はいつまでも轟々と実っている。だいぶ大きいよ、そして繊細でコクがある。美味しいチョコレートになる、深みは欠けているけれどキレ味がいいからね」
「ええ、私もレジーナのカカオの木は大好きよ。ところであのカカオ、パパイヤに見えないかしら?」
「どうだろう」僕にはそうは見えなかった。どういう意味かも測りかねたけど、それ以上深く突っ込むことはしなかった。パパイヤというのはカカオの木の専門家でさえ首をひねるような表現だ。だから僕はそれきり口をつぐんだ。だって話す理由も意味もないだろう?
「アール18番街に行ってくるよ」僕は告げた。
 バーテンダーは僕を見つけると笑んで、夢とは違ってココアをショットグラスでおごってくれた。
「ようこそいらっしゃいました」自慢のカイゼル髭も見当たらなかった。「当店へご来客いただき誠にありがとうございます。あなたはココアのお客様ですよね?」
「何故わかったんですか?」
「長年勤めていると自然とわかるものなんです。あなたは髪の香りがココアと仰られている。これは私の一つの特技なんです、あなたは次にピクシーマリオネットを頼むべきです」
「なぜですか?」
「なぜといわれても。必然的にそうなってしまうとしかいえませんね。お節介だとよく言われますが、最後にはいつも感謝されます。私自身のコース料理です。どうぞ、ココアは無料です」
 僕には退屈でわけのわからないことがいくつかあったけれど、バーテンダーにゆだねてみることにした。それが最善手かどうかはわからない。多分きっと違うだろう。その意識は最初に出されたココアに口付けを交わしたときからはじまった。
「いい塩梅だ」僕は言った。それが三杯目のカクテルを飲んだときに決められた取り決めのように発された言葉である。
「キャロットジュースです」
「ありがとう、次は牛乳かな?」
「いいえ、ピクシーマリオネットです」
「それも悪くないけれど。牛乳が飲みたいよ」
「飲んでみればわかります」
 言われたとおり、実際にピクシーマリオネットを飲んでみるとその強烈な酸味と後味の良さに僕は虜になった。隣に男が座った、夢の中に出てきたジルドレとそっくりだ。彼は無骨でごわごわとした声でいった。
「ザン・ギブリン」
「こちらお出迎えの牛乳です」
「いつもありがとう、重要な選択を間違えてしまうところだったよ」
 ジルドレは愛想もなく言って、カウンターに置かれた醤油をそのまま飲んだ。そして震えるような声で。
「塩気が強い。水をくれ」
「こちらカフェラテでございます」
「ありがとう」
 ジルドレは何度か醤油を飲みカクテルを頼みを繰り返した。だが一向に酒類は出される気配がなく、ショットグラスには代わる代わる牛乳とカフェラテが注がれ続けた。病的なほど執拗に、まるで永遠に動き続ける水飲み鳥のようだった。
「塩気が強くて死にそうだ」ジルドレは観念したように言った。
「こちらピクシーマリオネットです」
「酒か」ジルドレは意外そうに言った「てっきり水が出てくるものと思っていたが」
「これからはピクシーマリオネット以外は出さない。私の脳がそう告げています」
「そうなのか……」ジルドレはピクシーマリオネットを一息で飲み干し、大きくため息を吐いた「生まれつき酒に弱くて、アルコールは一切ダメなんだ」僕に向けて醤油くさい息を吐いた。
「ううん、そうなのかい」僕は言った「ところで君はジルドレという名前の男ではないかね?」
「どうしてわかったんだ? たしかに俺はゲイだ」
「ゲイ? いや、なんとなく、その醤油を飲む前からジルドレだと気づいたんだ」
「因縁めいた話だ。いや、運命か? 俺は女に興味はないが男にも興味がない。もしかしたら俺はゲイではなくカカオの木かもしれない。甘いミルク、濃厚なコク」
 彼が酔っているのは明らかだった。それも十分に熟成された濃密な空気のなかで、明瞭な世界に陥るように陶酔さえしている。
「俺はカカオだ」ジルドレはそう言いながらカフェオレを飲み干した。
「ピクシーマリオネットとはどういう意味で?」
「ただの存在ですよ、お嬢さん」
「僕をお嬢さんとは二度と呼ばないでくれ」
「失礼。リトルガール」
「僕は女じゃない、男でもない。半分の生を受けた中で女性という仮初の入れ物を授かっただけだ。僕の額の裏にはエリオットという女性がいて、愛し合っている。いや、一方的な愛情だ。それはよくわかっているが、それでも僕は青髪のレジーナより夢の中のエリオットを愛するんだ」
「よくわかりませんね。ギルティバリウムをどうぞ」
「その一方的なカクテルの提供が僕は非常に不愉快に感じる」
 僕の中の羅針盤は北を告げていた。そのときようやく、僕はお酒とともに自らの体内にエリオットが宿されていることに気づいた。赤ん坊を孕んだが如く、そしてお腹の中のエリオットは酒気をまとって放り投げられた。
「私のカクテルにはなんの罪もありません」
「やめろ、君の特技だかコース料理だかなんだか知らないが。ジルドレに水を一杯やってくれ。でなければ彼は死んでしまう」
「水をくれ」ジルドレはステーキに添えられたポテトのように言った。
「いいでしょう、水を出します。これは私のポリシーなんですがね、醤油を飲んだお客様には決して水を出さないと決めているんです。それを破らせたのはあなたが初めてだ」
「御託はいい、さっさと水を出せ。ジルドレは渇いているんだ、どうしようもなく、寂しい。そして今にも死んでしまうかもしれない。全ては君が水を出さなかったことから始まる。バーテンダーさん、あなたは悪魔だ」
「そう仰られると無意味に反抗したくなります」
「いいから水を出せ」
 バーテンダーは舌打ちをしてから大ジョッキに入った水をジルドレに出した。
「ありがとう、君の名前はなんていうんだ?」
「アリサだ。アレックスでもいい」
「ありがとうアリサ」
 アリサという名前を僕は嫌っていた。ジルドレは僕に感謝をし、お礼がしたいと言った。僕はジルドレに性交渉を持ちかけた。ジルドレは快くうなずき、ホテルでズボンを脱いだ。肛門を差し出し、指を挿入してくれといった。僕は何が何だか分からないままに人差し指を添えて第二関節を折り曲げゆっくりと指を挿入した。ジルドレは悲鳴をこらえるようによく唸って、犬のように吠えた。つまらないベッドだった。汁気のある液体が垂れ、ジルドレは最後に絶頂し嘔吐した。彼の嗚咽は止まらなかった。それが夕方頃のバーで飲みすぎた醤油によるものだということは白いハンカチについたシミのようにひと目でわかった。ジルドレは泣いていた、本当にのどが渇いていたんだといった。僕はそれを信じたし、受け入れもした。ジルドレはどこまでも素直だった。僕はジルドレに最高の愛撫を提供してやることに決めた。なぜかは分からないがわからなくても差し障りのない問題だ。
「本当はここまで心を許すつもりじゃなかったんだ」ジルドレはさり気なく言った。
「なら許さなければよかった」
「違う。俺は本当は、ペニスを使うつもりだった。それが俺の使命だと思った。俺のペニスは生きているんだ」
「でも使わなくてよかったよ。僕は君に股を開くつもりはなかった。ただ単純に性的倒錯感に溺れたかっただけなんだ」
「君に出会えてよかった」
「僕は不幸なめぐり合わせだと思っているよ」
「半分はね」それは醤油のことだった。
 僕らは裸で戯れていた。それは昨晩の夢の中と状況は違えど一致するものがあったのである。僕は性的興奮を味わっていた、それはまるで満席の劇場の舞台上で踊るようなものだった。愛に満ちていた、僕は実感しているのである。最後のお別れにキスをした、そのキスは通常のものよりいくらか親密だった。だがそのキスには首筋への愛撫といったすれ違いが内包されている、僕はもちろん性交渉を断った、アール18番街で出会ったジルドレは奇妙なくらい真剣に僕を見つめ、沈黙は場を支配していた。しんと云う音が聞こえた、耳奥から沈黙の音が響き続ける。誰かが、これは僕の頭のなかにいる住人、もしかしたらエリオットが、もう終わった、そう言った。
 僕とジルドレの性交渉は受胎の機会を得ずに終わることになった。何も問題はない、決して、傷つかないものだ。永遠は夜明けの地平から訪れ、僕は眠れない夜を過ごした。ベッドの上ではなく、木でできたベンチの上で僕は神経質に天井の模様の変化を眺めながら木目の違いを偏執的に調べ続けたのである。幾つかの時間が過ぎ、幾つかの黙祷が訪れた。瞑想した。僕はエリオットと出会わない夜を経験して、エリオットは本当に架空の存在なのではないかと感じるようになった。僕の頭のなかにある羅針盤は半分に割れていて、それはエリオットのジャケットの形をしている。下着だったかもしれない。とにかく、エリオットの衣服というものになっていた。彼女、あるいは彼は女性であり男性であり、そしてエリオットであった。どうあがいても変えられないものがその思考の形のなかに幾つも偏在している。エリオットは複数の居場所を持っていたかもしれない、僕の中で膨れ上がる彼の肖像は無意味に誇張され、何度もグラデーションを重ねながら美しく仕上げられていった。エリオットの沈黙は心地よいものだった、まるでトリップでもするかのようにきれいな思考だけが抽出されていった。レジーナがエリオットと絡み合った。エリオットは金貨をポケットから取り出し、レジーナにこっそりと渡した。その金貨には金銭的な価値など一切なく、刻印された老紳士の顔への美術的な交渉以外は認められないものであった。いつの時代のものだろう、淡い、そして色あせている。どこか懐かしい響きとともに複数の印象が重なり合っていた。エリオット。僕は呟いた、あの美しい指で触れられたら僕はどうなってしまうだろうか。想像の世界への美は色褪せないように思えた。もし永遠という価値があるのなら、それは確かなる手応えとともに実在していた。エリオットに触れられる姿を想像して、女であることを自覚させられ、感触……手のひらで女を掴み、掴まれ、愛撫する。ひらひらとした世界が存在していた。僕は静かに目を瞑り、開き、愛の実感を伝えていた。心臓から声を出した、レジーナ、君は卑怯だ。僕はエリオットの象徴である羅針盤を夢見ながらつぶやいた。
「エリオット、君は卑怯だ」

4話 エリオット、僕を忘れないでおくれ

 畑へたどり着いた。僕はレジーナの姿を認めた。なぜか悔しかった。レジーナはカカオの木へ生殖を行っている。いや、違う。僕の不器用な直感は外れた。レジーナは妊娠していたのだ。それがいつごろから始まっていたのかはわからない、カカオの木の下で静けさとともに眠り、起き上がり、実情のない世界で目覚め、素晴らしき地平と乾いた砂漠に諦観する。感情は何も動きを見せなかった。ただ時間だけが過ぎていた、それから自由も。僕は生きている。レジーナの腹の中の子もそうだ、僕らは生命を実感していた。レジーナは女のその身体の一番いやらしいところで僕を見つめた。カカオの木は孕んでいた。
「あらアリサ。ねえアリサ、私、結婚したの。あなたに一番に知ってもらいたくて。ジルドレという男性よ、一目惚れなの。今度、あなたに紹介してあげるわ」
「いい」
「そういわないで」
「その男は知っている、昨日寝たんだ。ベッドの上で喘いでいた、彼はゲイだ」
「あら? あら、なにをいっているのかしら? だってもなんでもなく。あなた、正気? ジルドレと寝たですって、冗談じゃないわ」
「君は君の中に眠る女の中にある最も嫌味ったらしい気配に陥っている」
「よくわからないわね」
「それが僕を不快な気持ちにさせた。僕は知らなかった、そしてジルドレは誠実なように見えた。僕は彼と寝た、ベッドの上で彼は肛門を。それは性器でないにも関わらず、痙攣させたんだ」
「嘘おっしゃい。アレックス!」それは僕が男性になったときの名前だ。「嘘つきの薄らぼけがいるわよ! アレックス、アリサ!」
「本当だよ」
「嘘よ、嘘に決まってるわ!」
「君はエリオットと寝た、おあいこだよ」
「そんなことは知らないわ。何を言っているの? あなたの妄想でしょう。私はエリオットだなんて存在、この指先の爪の白斑ほども知りはしないわ」
「その言動がすべてを物語っているんだ! 僕の想像から放たれたエリオットを返せ! 透明な時空を返してくれ、僕に!」
「あなたに差し上げられるのは、助産婦に抱かれたあの日に落とした愛情の断片だけよ。クリスマスイブにあなたが授かった言葉の数々を思い出させてあげましょうか」レジーナは殺気立った様子で一息にすべてを言い切った「愛してる私のリトルガールリビングデッドのような歩き方ねとても賢い子よ名前を呼んだわブッサイクな左手ね薬指に結婚指輪をはめてくれるのは誰かしら」
 沈黙を待った。腐りゆく死体みたいに膨らんだ、レジーナの唇からは来なかった。静けさの中で砂粒が口に入った。じゃりじゃり。つばを吐いた、レジーナは僕を下品な動物の交尾でも見るように侮蔑を込めて眺めいた。ほんのり苦味が残っている。静けさはなかった嘘みたいに蜃気楼が突然伺えて、そこにエリオットの影があった。僕は我が目を疑った。眼球に虫でも住み着いてしまったと思った。でも何度か凝視し続けているうちにエリオットは消えてしまった。
「それが」僕はエリオットの姿に気づき言葉に詰まった。「ええと、僕への愛の讃歌だということはわかったよ」
「くだらないわね。どこを見ているの? まるで夢遊病患者のよう」
「失礼な、ええと。ああ、もうどうにでもなるがいい」
「どういうことかしら、私はレジーナ。正気を保って、アレックス」
「僕は正気、いや、べつに……違う! 僕はエリオットを見たんだ、あの蜃気楼の向こうで。あの18番街のオアシスのずっと北に!」
「あらそう、ねえアレックス。こうしましょう。あなたは私の下僕になるの、従順な従僕に、そして第二の夫となって、私の家で家政婦みたいに働くのよ」
「冗談じゃない! よくそんなことが言えたものだ、まるで、中世のおとぎ話みたいな言い草じゃないか! 僕が家政婦に? ふざけるな、僕は決して君の言いなりになんかならない。調子にのるなよレジーナ、僕の給料はいずれ君を上回る。カカオの木なんてとっくに飛び越して、バナナの木を生やしてやるんだ! 孕ませてやる、一生僕の子供の面倒を見ていろ!」
「あら、乳白色の空。たおやかな雲の切れ間。燦々と太陽が輝いているわ」
「ふざけるな」
「いたって本気よ。ただ、そうね、浮気をされたのなら結婚は諦めようかしら」
「それはやめておいたほうがいいだろう。僕はただベッドの上で感謝をされただけなんだ」
「あら、やっぱりあなた雌豚ね」
「そうかもしれない」
 僕は罵倒を罵倒と受け取らなかった。ただ単純に本当の豚がいて、人間がいて、女性というカタチがいて、雌豚という呼称があって、それで僕にささやきかける悪魔がいる。それだけのことだった。もし僕に雌豚という呼称以外に最適な呼び名があるならそれは精神の充実に一致したアレックスという名前だろう。エリオット、アレックス。僕らに呼び名が生まれたとしても何も問題はない。レジーナ、罪深い女性だ。ジルドレは彼女の何に惚れ込んだのだろう、少なくとも僕はレジーナの高慢な性格には何一つおもうところはない。形骸化した女という性は直感だけを残していた、彼女に対していわゆる生理的な嫌悪を与えたのである。僕はひねくれものだ、だから統一もなければ分離もない。現状と乖離した直感は稀に男の想像力さえ持ち始める。レジーナはジルドレの子を孕んだ、それは途方もない夢のようである。なぜ彼女は妊娠したのだろう。僕は不思議に思った、なぜかは分からないが、僕は真実を見る気さえ失せていた。生理だからだろうか? 妊娠という言葉に飽きてしまった、ジルドレが孕めばよかった。昨晩の悲鳴じみた絶叫は受胎と等しい。僕の中でジルドレは妊婦になった。レジーナは言った。
「あなた、良からぬ妄想をしているような顔をしているわね。面白くないわ」
「僕はエリオットの子を産みたい」
「ああら、あらら。子を産みたいだなんて、一端の女の子になったつもりなのかしら。アレックス、無理は言わないわ。あなたは子を産まないほうがいいわ。エリオットというのがどんな男性かわからないけれど。あなたの妄想というだけではないのでしょう。だってあなたは徹底的なリアリストだものね」
「それは秘密だよ、レジーナ」
「公然の秘密というやつよ。あなたがリアリズムの中でしか生きられない狂奔的なリアリストだということは私はよく知っているの。ねえリアリストさん、あなた、こんど面白いお話を聞かせてちょうだいよ。あなたの生命をよく教えて、きっと子育ての参考になるわ。だってわがままな赤ん坊そのものなんですもの」
「僕の命の形はどうでもいいだろう」
「教えてちょうだい。あなたは四角いパンと三角形のパンのどちらを好むの?」
「僕はどちらも好まない。正方形のパンなら家に常備されているけれど、有り余っているというほどではない。僕は自分でもリアルを求めていると思う、でもリアリストと呼ばれるいわれはないね」
「ならナショナリズムでも始めなさい。資本主義はおしまいよ」
「どうかな」
「どっち付かずの態度はあなたを貶めるだけよ」
「先進的な諧謔はどうだろう。コメディアンになるのさ」
「あなたにジョークが言えて?」
「ラブラドールは愛に飢えている」
「あら、素敵な詩ね。ドールと人形をかけているのね」
「ラブと愛情さ」
「嘘おっしゃい。だってあなたは先進的なリアリストなのだもの」
「ポッスルの大統領が聞いたら卒倒するようなジョークを言ってやろうか」
「面白いわね。聞かせて」
「和盆人は米を好まない。飽きているのさ」
「それのどこに皮肉があるのかしら」
「和盆の総理は手を叩いて笑うよ。そりゃそうだ、だって俺も米はしばらく食べていないからってね。もちろん冗談さ、でも和盆の国ではパンを食べる習慣のほうが根付きやすい。あえて言えば和盆は米よりも麺だ。そして麺を食べたあとは決まってパンを食べたくなる。同じ小麦だからね」
「嘘も大概にしなさい」
「徹底的なリアリズムはいつもナンセンスなのさ」
「あら、ならこの会話もナンセンスになるのかしら?」
 そういったレジーナの声は震え、肉体は歪んでいた。存在は薄弱と化しているのであった。
「事態は深刻なほど無意味な領域に突入している。君の存在は不明瞭だし僕も結局男女の垣根を飛び越えきれていない。いわば憧憬だね、田舎娘と変わらないよ」
「あらじゃあ私の妊娠もナンセンスね」
「君の場合はね」
「レジーナ、子を産むのをやめなさいとはいわれないのよね。だって途方もないじゃない、そんなこと」
「まあ確かにそうだね。結局のところ、僕は疲れ果てているんだ」
 ポケットに入っていたガムを食べた。銀紙はくしゃくしゃの状態でポケットの奥に潜んでいた。
「あなた、人と話しているときにガムを食べるのをやめなさいな」
「物事は非常に深刻だ」
 僕はガムを噛みながら左ポケットに入っていた薄荷キャンディーを口に放り込んだ。
「どうしてそう、くだらないことをするの?」
「重大な領域まで持ち込まれている。いつかエリオットと再開できるかもしれない。僕はエリオットと会いたいがためにこのナンセンスな世界に足を踏み入れているんだ。君には羅針盤の価値もわからないことだろう。だけどあえて問うよ、レジーナ。君はどうして羅針盤を持っていないのにエリオットと付き合うんだ?」
「そういわれてもさっぱりだわ。おあいにくさま、あなたの複雑な精神の乖離に付き合うつもりはなくてよ」
「まあそう言わずに、キャンディーでも舐めるかい?」僕の左胸ポケットからココアキャンディーが出てきた。
「いらないわよそんなもの」
「ナンセンスだ、非常にナンセンスに入ってきている。心地いいよ」
「気色が悪いわ」そう言いながらもレジーナはココアキャンディーを受け取って舐めた。「私のカカオを使っているのね」
「偶然の一致さ」
「とっても不可思議になったわね」
「君のカカオは君の知らないところであらゆる使われ方をしている。怖いと思わないか? ある朝食べたチョコレートが君のカカオの木から栽培されていたと知る。君はなんの因果かそれに気づかず生活していた。カカオの木はいつまでも栽培されているのに、君が気づかないほど味を変えられて世に届けられているんだ」
「決して怖いとは思わないわ。だって嬉しいじゃない、それだけ気に入ってくれたってことよ」
 レジーナは胸を張った。それは主張する必要のない行為だったかもしれない。それでも彼女は僕に自分を誇示してみせた。それが誇らしいものであると教えるために。
「そう思える君なら僕と結婚してもいいかもしれない」
「あら、気が変わって家政婦をする気になったの?」
「エリオットは必ず君の元を訪れる、僕がエリオットと再会する。それまでの手順を一つ踏むだけさ」
「勝手になさい。止めはしないわ」
「絶対にエリオットは渡さないよ」僕は言ってから、アール18番街へ向かった。そこから先には僕は行くつもりはない。エリオットは砂漠から出ることができないはずだ、だからこのしなびた街でエリオットと遭遇するまで干からびた日々を過ごす。夢を見かけた。眠気は限界まで届きそうだった。僕はもう一度目をつぶると眠ってしまうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ僕はバーで一番安いカシューナッツを頼み、家に帰って寝た。
 夢の中で僕はジルドレと出会った、彼は息が臭かった、大きな子供がいるんだと言いながらカカシを指差した。顔が近い。それなのにジルドレはまだ足りないと僕の手を取って口づけした。粘液が糸を引いた。風が吹いた。僕はジルドレの頬を平手で張った。ジルドレは呆け、殴られた箇所を視線で追って首を回し回転を始めた。僕はジルドレの反対側の頬を張った、レジーナが出てきた。ジルドレの瞳の中で青い髪が踊り、僕の右頬がレジーナに打たれた。当然のように僕は左回転を始め、それから左頬を叩かれるまで回転を続けた。左頬をぶったのはエリオットだった。
「エリオット、ずっと探していたんだよ」僕は綺麗なお金を見つけた財布のようによろこんだ。
「うるさいな。放っておいてくれてもいいじゃないか。レジーナと情事を交わしていたんだ。君には関係ないだろう」
「そう言わないでエリオット。僕は君を心の底から愛しているんだよ」
「放っておいてくれ。レジーナはどこだい?」その声はよく響いた。
「どこにもいないよ」
「嘘を言うな。隠しているんだろう、でなければ神隠しにあったんだ。心配だよ、レジーナはいないのかい」
 エリオットは随分衰弱しているように見えた。少なくともその一瞬だけは。
「羅針盤はどうしてしまったの?」
「君に半分をあげた。僕の羅針盤は機能しなくなってしまった。シャツだけじゃ物足りない、ズボンだけじゃ寂しい。ジャケットを返しておくれ」エリオットは嘆息していた。
「嫌。そうなったら僕は何の変哲もない裸の女に逆戻りじゃないか」
 僕の中にあるフェミニズムは息絶えていた。乾ききった局部はジャケットを必要としていないようだった。
「僕の羅針盤はジャケットに縫い込んであるのさ。よく見てごらん」
 言われてジャケットを確認する。裏地に半分の羅針盤が縫い込まれていた。僕はそれを思いきり引き剥がした。半分の羅針盤を僕はエリオットから奪ってしまっていたのだ。
「エリオット、これが君の半分の羅針盤なんだろう」
「ありがとう、助かったよ」それからエリオットは僕のジャケットを見て悩ましげにため息を吐いた。「僕は男になりたい」
「男? どうしてそんな素っ頓狂なことを思いついたんだい」
「ペニスがほしいのさ。君にもついていない象徴というか、何か形のあるものがいい。僕は完全なる男だと証明できる何かが。それがあれば僕は天使にだってなれる気がする」
 僕はその言葉に感激した。そして思わず両腕を広げ抱きついた。
「エリオット、君の意見は大いに賛成だよ。確かに君はペニスが必要だ。僕が持っていたら君を天使にしてあげられるのに」
 それから逡巡して、憂鬱気味なエリオットの前で僕は沈黙を噛み締めた。沈黙は砂糖菓子より甘かった、ジルドレを利用しよう。そう思って、そしてエリオットを妊娠させることを思いついた。つまり彼女の胎内でペニスを作るのだ、子を産まなければいい。出産だけを拒み続けて痛みと苦しみでどうしようもなくなって、ずっと妊婦の状態で固定してしまうのだ。そうだ、エリオット。君に天使になれるチャンスをあげよう。幸い夢の中のジルドレは未婚だ。それに僕の思考の中で飼いならされている。ペニスの一つくらい貸し与えてくれるだろう。ジルドレ、君はペニスを切り取って僕に渡しておくれ。僕がそう念じると目の前にジルドレの局部が現れた。ジルドレが落ちてきた。レジーナに裸にされてしまったのだろうか。ジルドレは哀れにも僕にジャケットを貸しておくれといった。僕はここぞとばかりにペニスの切断を要求した。彼は頷かなかった。意味深長に局部を隠し、それは不可能な相談だよアレックスといった。僕は怒った。アレックスという名を大切にしているからだといった。ペニスを渡さないと許さないぞと凄みを利かせた、それでもジルドレは断り続けた。エリオットはジルドレに透明なケープを渡したのである。
「寒いだろう」透明なケープは本当に目に見えなくて、嘘のように思えた。

5話 エリオット、君を忘れてしまうかもしれない

「ありがとう、本当に寒かった。心の奥まで冷え切っていたんだ。君の髪は本当に綺麗だ、素敵な髪だね、エリオット」ジルドレはケープをまとう動きをした。
「僕の名前をどこで?」
「もちろん風の噂さ」
「そんな噂があったとは驚いたな。誰が流しているんだい」エリオットは肩をすくめた。
「わからない、アリサかも知れないしバーのマスターかもしれない。自分は噂が落ちていることを発見して拾い上げただけだ。それは巷の井戸端会議を盗み聞きすることによく似ている」
「君は盗みを働いた」
「そう言ってもらってかまわないよ。どうせ大した噂じゃない」
「盗みは悪いことだ。とくに噂を盗むのはいい加減な世界を生み出すことに加担する重罪だよ」
「そのいい加減な世界の住人が君なんだよエリオット。俺にとっても君は格好のターゲットだ。君を狙って世界中の人々が噂という名のトマトを投げる」
「トマトは食べるものだ」
「その常識が通じないものも中にはいる。悲しいことに、投げられたトマトはソースを作らないんだ。非常にナンセンスな世界だよ」
「現実のトマトとは限らない」
「よくわかったねエリオット。なあレジーナ、エリオットは賢いかい?」ジルドレの言葉はいつにもまして寂しげだ。
「それはあなたにとっての尺度かしら? それならとても賢いということになるわ。だって愚か者ですもの。その透明なケープをお脱ぎなさい、売女が着るものですよ」
「俺が寒くなってしまう」
「下着を返してあげるわ。それと、ペニスをお切りなさい。服を全て返してあげる」
「そんなの、怖くてできないよ」
「変わることが?」
「そうじゃない」
「痛みがあるんだろう」エリオットが言った。
「違う、刃物を向けられることが怖いんだ。俺には刃物は凶器に見える。人を傷つけるための武器だ。そんなものがこの世に存在することが怖いんだ」
「臆病者」僕が言った。ジルドレの味方はどこにもいなかった。
「好きに呼べ、それでも俺は決してペニスを切らない。切り落とすことでペニスを奪われることが怖いんじゃない。人を傷つける人間に囲まれることが怖いんだ。和盆の国では銃の使用が認められていない。それは国民の一人ひとりにまで同意が求められ、国民はそれをよく承知している。なんの取引もなく銃を使用しないと言っているんだ。長物……刀も認められていない。良く言えば平和ということだが、悪く言えば怯えているのさ。銃を持つ世界に興味を持つ存在がいないと言えば嘘さ。それでも、和盆は銃社会を認めていない。刀をすてた和盆に誰が住みたいと思う? 最近の和盆の国民は銃を握ったことがないんだ。だから想像もできない。銃のない世界だからペニスを切ることも承知しない。ぬるま湯と呼べばいいさ」
「本当かしら」レジーナが言って、エリオットも続いた。
「よくわからないね。銃ってなんだい? 和盆という国もよくわからない。聞いたことがないよ。もしかしてそれは日本という国だろうか」
「日本だって? 聞かない名前だ」ジルドレは聞き返した。
「知らないならいい。小さな島国さ」
「和盆の国は最高だよ」ジルドレは何気なく言った。それでもどこか怯えた風の気配があるのは仕方のないことだった。彼はペニスを切らないといったけれど、周りの三人はそれを押しのけたかった。「和盆なら、俺のペニスを切るだなんて言わないだろうね」
「僕はエリオット」唄うような調子だった「僕は女だ。ペニスがほしいけれど、永遠に手に入らない。ペニスがあれば北へ行けるのに。こんなところで立ち止まってしまう、これからペニスが生えてくる可能性はゼロだ。なんの見込みもない、作り物のように毛が生えているだけさ」
 僕はここぞとばかりに口を挟む。
「君が妊娠すればいいのさ。男の子を胎内に宿すんだ」
「赤ん坊は僕じゃない。腹の中で何事かをわめく、全く別の生き物さ」
「赤ん坊は夢を見るかな。もしそうなら、君のお腹にはある日突然生命が宿る。ここはそういう世界だ」
「僕は妊婦になるってことかな。それは別に構わない。ただ北を目指す旅はここで終了ということになるけれどね」エリオットの唇は震えていた。
「それでいいんじゃないかな」僕は言った。これでエリオットは僕の手中に収まるのだ。
「僕は悲しいよ。意地悪な友人の導きさえあれば北へ行けるのに」そう言いながらエリオットは羅針盤の半分同士をつなぎ合わせ完全な羅針盤を作った。黄金色に輝いていた。「僕は完全な羅針盤を手に入れた。北という表示はどこまでも変わらず、砂漠の地平はもう黄昏を過ぎて闇に呑まれてしまった」
「夜の次は朝が来る。暁の朝焼け空は黄昏に見劣りしないよ」
「それが正常な時間の流れなら何一つ文句はないんだけどね」
 エリオットが言ったと思ったとき、僕の目の前に醜い僕とレジーナとジルドレが立っていた。僕は急に自分がエリオットになった気がした。そして子を作ろうと思った。それが僕に与えられた最後のチャンスだったのかもしれない、でもそうなるとエリオットは僕ということになるのだ。
「僕は誰だ?」
 そう言ったとき、目の前の僕はとつぜん僕にキスをした。接吻は短く、ただ触れるだけのものだった。
「君はエリオットさ」目の前の僕はいった。
「そう言われると不思議だ」
 それから僕は天使になれる気がした。それは夢の中の断片だった、だけど醜い僕と交わされる接吻は非常に不気味で、とても気持ちが悪いものだ。だけど僕は目の前の自分に文句を言う気は起きなかった。エリオットは、僕にとって最後の恋人だ。それは夢の中だけの話であり、目覚めると溶けてしまう甘い嘘だった。僕はエリオット、お腹に子を宿している。よくわからない生命が僕のお腹の中から。「やあ、こんにちは」そう言っているのがわかった。翌朝目覚めたとき、平らな胸と痩せこけた腹を見て、そこにエリオットが宿っている気がした。
「ああエリオット、ようやく現実にやってきたんだね」
 僕が言ったとき、腹の虫が鳴いてパンとスープが欲しいといった気がした。僕は久しぶりにパンを焼こうと思った。たっぷりの水を使って、たっぷりのトマトソースを使って。お腹の中をどうでもいいパンで満たしてやるんだ。

砂漠のエリオット

砂漠のエリオット

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