ラスト・クリスマス

バニラダヌキ

 クリスマス・イブの夜、ベースの北森冬也(とうや)は、リーダーのボーカルを叩きのめして所属事務所を馘首(くび)になった。
 渋谷のライブハウスで演奏している間は、なんとか感情を抑えていたのだが、打ち上げの席で酒が入ると、つい激昂してしまったのである。
 バンドの他のメンバーは、誰も冬也を咎めなかった。チャラい自分らとは毛色が違って、何事も一本気な冬也のこと、いずれそうなるだろうと思っていた。一方的に腹パンや膝蹴りを食らいまくったボーカル当人さえ、冬也が顔だけは殴らなかったことに、つまり次のライブにさしつかえないよう加減していることに気づいていたから、騒動が静まった後、逆に恐縮して頭を下げた。
 しかしマネージャーが、試験導入したばかりの社用小型携帯電話で事務所に報告すると、まだ居残っていたワンマン社長は、ここぞとばかりに冬也の懲戒解雇を通告してきた。社長自身のスカウトでインディーズから引き抜き、ようやくメジャー進出にこぎつけたメンバーの内、実は冬也だけが眼鏡にかなっていなかったのである。
 磨けば磨くほどオーラの増すボーカル、ボーカルほどではないが充分以上にスタイリッシュなギターとキーボードとドラム、その中でベースだけが垢抜けない。髪形と衣裳以外はロックより演歌が似合いそうな風貌だし、演奏自体も手堅いだけで華がない。いわゆる耳コピで始めた若いロッカーには珍しく、独学で譜面を読み採譜までこなす小器用さが、かえって災いしているのだ。高校以来のオリジナルメンバーにこだわるボーカルの顔を立てて、そのままメジャー・シーンに送りこんだのだが、すでに冬也が足手まといであることは、他のメンバーも、そして冬也自身も悟っているはずだった。
 マネージャーは長い通話を終えると、事務的な社畜顔に似合わず、あんがいしんみりした声で冬也に言った。
「懲戒解雇は勘弁してもらったよ。会社都合の退職になる」
 社長よりも彼らと行動を共にする機会が多いから、メンバー内での諍いの経緯は、知りたくないところまで知っている。暴力に走ったのは確かに悪いが、情状酌量の余地は多分にある。その場で事務所に報告したのも、社長が贔屓にしている小洒落た酒場をここまで騒がせてしまった以上、明日には社長の耳に入るからだった。社長と親しい常連客が、騒ぎに辟易して何人か姿を消している。そちらから話が伝わって激怒されるよりは、こちらから報告した方が、まだ事を穏やかに運びやすい。
 冬也は無言のままうなずいた。クリスマス・イブの夜でさえ、カウンターのささやかなツリーと、テーブルごとにあしらった(ひいらぎ)の小鉢だけで祝うような大人の酒場を、騒然とさせてしまった後悔の念が先に立っている。
「いつもの給料は、明日ちゃんと口座に入る。今日までの日割り分も来月に入る。あと、退職金の件なんだけど、君の在籍期間だと、残念ながら支給対象にならないんだ。まあ他のみんなも、今のところ同じ条件だからね」
「……はい」
「代わりに、そのスティングレイでどうだい?」
「え?」
 思いがけない話だった。冬也の希望を入れて改造されたその特注のエレキベースは、あくまで会社からの貸与品である。個人で注文したら百万は下らないだろう。冬也がインディーズ時代に使っていた自前の中古ベースは、数万そこそこだった。
 明らかにマネージャーの好意的裁量らしいので、冬也は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それから、失業保険の書類なんだけど、どこに送ろうか。現住所じゃまずいよね。実家に送る?」
「そのうち取りに寄ります。置いといてください」
 冬也は、それ以上何も言わずに席を立った。
 生酔いの胸焼けをこらえながら、マネージャーに一礼する。
 最後にマネージャーは言った。
「これからもベースを続ける気があるなら、僕個人に連絡をくれないか。たぶん、君はスタジオとかバックの方が、生きるタイプだと思うんだ」
 冬也は答えられず、再度、黙って頭を下げた。
 それから、まだ騒ぎの余韻を残している酒場の客たちや従業員にも頭を下げ、ベースのギグバッグと、使い古したボクサーバッグを肩に、ドアに向かう。
 さっきまでの仲間たちを、あえて振り返る気はなかった。どのみち自分と同じ、単細胞野郎ばかりである。殴られると知っていても、そっちに転がるしかなければそっちに転がり、気が変わればあっちに転がる。そうして良くも悪しくも、たぶん死ぬまで気ままに転がり続ける――そんな連中だった。
 店の外に出ると、さっきまでぱらついていた雨は、もう上がっていた。街路の雑踏も、倍はうるさくなった気がする。
「やっぱりホワイト・クリスマスは無理だったなあ」
「でも雨やんだからラッキー」
 連れ立って歩く若いカップルの、そんな屈託のない会話を聞き流しながら、冬也はただ黙々と歩いた。
         *
 冬也が渋谷駅から適当に乗りこんだ車内には、クリスマス・イブにもしっかり残業をこなした仕事人から、毎日がクリスマスの遊び人まで、百数十人分の悲喜交々が充満していた。
 しかし疲弊した仕事人たちの顔も、遊び人ほどではないが、けして暗くはない。今年も栄養ドリンクのCMに煽られながら一日二十四時間三百六十五日戦って――もちろん誇張はあるが、帰宅できるのは三日に一度、休日は月二回あれば御の字、そんな時期も珍しくない――期待以上に年収が増えたし、家で待つ妻子の機嫌も、クリスマスを重ねるたびに良くなる。昨年のイブが天皇陛下の容態悪化であまり盛り上がらなかったぶん、今年のイブは一昨年に輪をかけて華やいでいる。一九八九年、平成元年の師走、世はまさにバブル景気のまっ盛り――まさか翌年の春を待たずに株価が下落しはじめ、わずか四年ほどですべてが泡のように弾けてしまうとは誰も思っておらず、日本中が楽観的に泡立っていた年の瀬である。
 ――さて俺は、どこでクリスマスの朝を迎えればいいんだろうな。
 ギグバッグと並んでドア横に立ち、窓の外に流れる街の灯を眺めながら、冬也は迷い犬のように自由をもてあましていた。
 ここ一年ほど住みついていた吉祥寺の女の部屋は、昨夜、追い出されてしまった。ボーカルに本気になってしまったから、冬也とは住めないと言う。半年も浮気しておいて何を今さら、とも思うが、正直に言ってくるだけ、今までつきあった女の中では一番育ちがよかった。
 ボーカルを叩きのめしたのは、単なるケジメである。そのケジメだって、酒が入る前は省略しようと思っていた。ボーカルの女癖は高校時代から知っている。自分から言い寄るような面倒な事はしない。いつだって女の方から本気になる。ギターやキーボードも、一度ならず冬也と同じ目に会っている。ただし彼らは飽きっぽい(たち)だから、そろそろ替えたいと思った女が自動的に逃げてくれるので、逆にボーカルを重宝していた。ドラムだけは少々マゾっ気があるらしく、一度ボーカルに逃げた女が争奪戦に敗れて戻ってくると、嬉々として()りを戻している。しかし冬也は、どちらにも割り切れない性格だ。
 ――俺としちゃ、そーゆーのってメタルっぽくないと思うんだよなあ。まあ社長はビジュアル系の耽美派に仕立てたいらしいから、今さらどーでもいいんだけどな。
 そう居直りつつも、やはり今夜は飲まない方がよかったと思う。いや、どうせ飲むなら飲めるだけ飲んでしまえばよかった。下手にセーブしたのが、かえってまずかったのだ。
 元来、冬也は黙って飲むのが好きな質である。素面(しらふ)のときも、ほとんど不平不満を口にしないので、日々のストレスはけっこう溜まるのだが、飲んでいるうちにそれを忘れてしまう。酒に強いからいくらでも飲める。だから、どんなストレスも翌日まで持ち越さない。
 なのに今夜は、飲みはじめから何か黒い塊が胸につかえて消えず、厭な予感がして、意識的に酒の量を控えていた。しかし、あまりグラスを干すまいとたびたび喫煙し、箱が空になったのでボクサーバッグから買い置きを取り出し、それが同じ銘柄でも冬也の好まないメンソール入りであることに、吸ってから気がついた。買い間違えたのではない。あの女の煙草だったのである。部屋を出るときに間違って荷物に入れてしまったらしい。結局、その香りがきっかけで黒い塊を抑えられなくなったわけだが――あんな気分を、寝取られ男のフラッシュバックというのだろうか。
 酔い覚めのしらけた気分で、車両の揺れに身を任せる。
 長髪を茫々と波打たせ、ビスだらけのジャケットの胸元から妙な豹柄のベストを覗かせ、腰から下を黒光りするレザーパンツでキメていても、この大都会だと、楽器らしい物を抱えていれば誰も嫌悪の視線を投げたりしないからありがたい。若い連中は憧れの視線すら向けてくれる。とりわけ楽器に詳しい若者なら、その黒革のギグバッグがハードケースに近い堅牢性を備えた一級品であり、ならば中身が垂涎のプロ仕様であることもひと目で判る。
 電車は御徒町を過ぎ、次は上野駅、そんなアナウンスが流れはじめた。
 冬也は、行くあてのない自分が、なぜ渋谷から井の頭線でも東横線でもなく山手線内回りに乗ったのか、ふと思い当たった。
 冬也の実家は、上野から高崎線と八高線を乗り継いだ、群馬県藤岡市にある。今は上越新幹線でも高崎まで行けるようになったが、金欠時代が長かった冬也には、ローカル線の思い出の方が多い。バンドの連中も同郷だ。冬の上州名物、赤城おろしの空っ風にはロック野郎を育む成分でも含まれているのか、同じ市内に、氷室京介やBUCK―TICKを輩出した藤岡高校があった。冬也たちが上京する前、当時まだちっぽけな木造駅舎だった群馬藤岡駅の男女共用ポットン便所に入ると、『ATSUSHI、おうちみてきたよ!』などという丸文字の落書きが、板壁のあちこちに踊っていた。『ATSUSHI』の部分は『HISASHI』とか、他のメンバー名とか、ファンの押しによって色々変わる。しかし落書きの末尾には、ほぼ例外なく大きなハートマークが添えられていた。つまり、そんな片田舎まで東京の垢抜けた娘たちがぞろぞろと聖地巡礼にやってくるほど、ロック野郎はモテたのである。
 冬也は別の私立高校に通っていたが、そこにもロック好きのモテ志願者は多かった。そのうち本気度の高い連中が五人集まり、シャカリキのバイトやら親への土下座やらでなんとか楽器を揃え、半年みっちり練習してから文化祭デビューすると、やや古臭い純ヘヴィメタ指向だったにも関わらず、半月後には全員が童貞を捨てていた。そうして卒業後、勢いに乗って上京し、バイトしながらインディーズ界で順調に名を上げ、いよいよ今年はメジャーの入り口に立った。日本経済同様に順風満帆、前途洋々なのである。ただしベース以外は。
 上野はオイラの心の駅だ――。
 実家の父親が、ときおり遠い目をして口ずさむ懐メロのフレーズを反芻しながら、冬也は上野駅で山手線を降りた。思えばその父親も、若い頃に第二の井沢八郎を目ざそうと東京に出て、結局は実家に戻り、梨や椎茸を育てている。しかし見栄っ張りの冬也には、自分ひとり都落ちする覚悟など欠片(かけら)もない。
 冬也は新幹線や高崎線のホームには向かわず、たまたま近くにあった公園口改札を抜け、目の前の上野恩賜公園に向かって信号を渡った。
         *
 以前、冬也が似たような時刻に同じ入口から上野の森を訪ねたとき、直近の東京文化会館や日本芸術院はすでに灯が落ちて黒々とした影になっており、その奥にある国立西洋美術館や国立博物館まで足を運んでも人っ子ひとり見当たらず、上野公園全体が、暗い樹間に舗道灯だけが点々と続く陰気な場所に見えた。
 しかし、今夜はクリスマス・イブである。同じ上野の森にある寛永寺や上野東照宮はさすがに光っていないが、点在する西洋料理店や喫茶店の前庭では、華やかなライトアップや煌めくイルミネーションが夜通し光のタペストリーを描き、そのタペストリーたちを結ぶ樹間の道にも、酔い覚ましにそぞろ歩くパーティー帰りの一団、隣接する東京芸術大学の美術科や音楽科で何か華やかな行事を終えてきたらしい学生たち、あるいはベンチに集ってうらぶれたなりに騒々しい酒宴を催している浮浪者たちなど、舗道灯の光が届く遠近(おちこち)に人々の賑わいがあった。
 そのどれにも属さない冬也は、無意識に賑わいを避け、不忍池(しのばずのいけ)に下る細々とした坂道に足を向けた。
「テレカアルヨ。ヤスイヨ」
 坂の途中、いきなり片言の日本語で話しかけられ、冬也はぎょっと立ちすくんだ。
 声の主は、浅黒い中東系の青年だった。このあたりに多いと聞く、偽造テレホンカードの売人だろうか。ふと気づけば、左右にも背後にも同じような人影がある。両腕や背中に触れかねないほど身を寄せてくるので、冬也は思わず虎の子のギグバッグを抱きかかえた。
 しかし彼らは皆、人なつっこい笑顔を湛えていた。引ったくりや強盗よりも、あちらの国の露天商あたりに似合いそうな顔である。
「タノシイタバコアルヨ。ヤスイヨ」
 冬也の風体が、いかれたメタル野郎そのものなのを見て取ると、青年は、お勧め商品のジャンルを切り替えてきた。
「ゲンキデルクスリモアルヨ。チョットタカイ。デモスゴクヤスイヨ」
 言わんとする意味は解る。彼らの扱う商品の中では高価格、でも日本のヤのつく業者よりは激安、そう言いたいのだろう。
 冬也は、大麻は嫌いではない。しかし今は金が惜しい。覚醒剤はそもそも苦手である。
 警察のポスターや政府広報では、ヤクに手を出すとひとり残らず廃人化するように謳っているが、冬也にとって、大麻はリラックス効果が優れているぶん高価なヤミ煙草、つまりタノシイタバコそのものである。覚醒剤に関しては、確かにハマりすぎて廃人化した同業者を知っているが、冬也のバンド仲間は、皆なぜか合わない体質だった。頭が冴える前に嘔吐したり、役に立たない方向に錯乱してしまうのである。遊びにも休みにも向かず、ライブやギグにはなおのこと役に立たない。それも上州名物赤城おろしの効能だろうか。
「あー、間に合ってるから。俺はいらんから」
 事を荒立てないように、冬也が軽い調子で言うと、男たちはあっさり納得し、軽く笑い合いながら離れて行った。遠ざかる笑い声の中に、「オレワイラン?」「オー、イラン!」、そんな愉快そうな声も聞こえた。イランから出稼ぎに来て、落ちこぼれた連中なのだろう。
 冬也は気を取りなおして、不忍池の畔に出た。
 池を巡る遊歩道にも、所々にグループやカップルの影があったが、ニキロほどの周囲をたどるうちには、孤独に浸るのに格好な暗い林もある。
 冬也は途中の自販機で缶コーヒーを買い、そんな寂しい樹間の、池に面したベンチに腰を下ろした。ベンチはまだ少し湿っていたが、尻が濡れるほどではない。
 誰もいない思って腰を据えたのに、林の奥にもベンチがあるらしく、年輩の男たちの陽気な濁声(だみごえ)が聞こえてきた。
「やっぱり都内は炊き出しが旨いよなあ」
「行き倒れになるときも都内に限るぞ」
「そうなの? どこだって同じじゃないの? どうせ死ぬんだし」
 話の内容に興味を覚えて冬也がチラ見すると、奥の東屋(あずまや)で浮浪者が三人ほど、カップ酒を手にクリスマス・パーティー、もとい世間話だか浮浪話だかを交わしていた。
「いや全然違うんだなこれが。俺、夏に新宿あたりを根城にしてたら、西口公園で仲間が行き倒れになったのよ。なんか肝臓、いや腎臓だったかな、とにかく持病こじらせて。そしたら、なんか区役所の福祉パターンにドンピシャとかで、ロハで入院して体なおして、今じゃ都営アパートに住んで生活保護受けてる。週に一度はボランティアの姉ちゃんたちが来て、掃除洗濯までやってくれるとよ」
「へえ、俺も糖尿の持病があるから、いつぶっ倒れてもおかしくないんだわ」
「じゃあ新宿行けよ。池袋でもいいかな。千葉や埼玉で倒れたら、たらい回しにされてるうちにお陀仏だぞ」
「そりゃありそうだわなあ。おまわりとか役所とか、しょせん税金頼みだからなあ」
「ここいらはどうなんだろうね」
「こんだけ賑やかなら、税金もしこたま入るんじゃねえか」
「でもビンボそうな家も多いぞ」
「お前にビンボとか言われたら人間しまいだわなあ」
「うん、言ってる俺もそう思うわ」
「俺は生活保護なんぞ御免だね。窮屈でやってられん。動けるうちはせっせと缶拾いして、動けなくなったらあっさり死ぬのさ」
「そのわりにせっせと炊き出しに通って、キリスト様にペコペコしてるじゃねえか」
「食えるうちは食い、食えなくなったらあっさり死ぬのさ」
「そりゃビンボだって金持ちだって、食えなきゃあっさり死ぬわいなあ」
 彼らの緊張感のない会話を聞いていると、冬也も徐々に気が休まってきた。
 ――ううむ、やっぱ人生、ヘヴィメタありバラードありブルースあり、ドリフの全員集合だってアリだよなあ。
 あんがいゆったりした気分で缶コーヒーを啜りながら、今後の算段を立てる。
 ――とりあえず今夜は、昨夜のようにカプセルホテルに泊まって、明日から泊めてくれそうな奴に当たりをつけよう。万年インディーズの顔なじみなら、メジャーから落ちこぼれた俺なんか、話の種に喜んで泊めてくれるだろう。それとも、追っかけの女の誰かに電話して――あの手の娘たちは、基本、打算より感情で動くから、俺みたいなポジションでもスキマ需要があるはずだ。まあ、そうトントン拍子にはいかないにしろ、明日には口座に給料がまるまる入る。当分は、宿にも飯にも困らない。
 さしあたって今夜の有り金は――。
 確か三万くらいはあったはず、と、ジャケットの懐を探る。
「……ありゃ?」
 いつもの内ポケットに財布がない。
 あわてて外ポケットや隠しポケット、さらにパンツのポケットを探しても、ハンカチくらいしか見つからない。知り合いに配りきれなかったライブの招待券が一枚出てきたが、終わったあとではただの紙くずだ。着替えくらいしか入っていないはずのボクサーバッグを念のためかき回しても、やっぱり着替えしか入っていない。
 まさか、さっきの外人連中が――いや違う。そのあとで自販機のコーヒーを買ったとき、まだ財布はあった。っつーことは――。
 自販機からここまでの過程を子細に思い出そうとしても、ずっと上の空だったことしか覚えていない。
 それから冬也はベンチと自販機の間を、あわただしく、あるいは這うようにゆっくりと、厭になるほど往復した。
 結局、元のベンチに座りこみ、ただ嘆息する。
 ――ど、どーすんだよ俺。
 現金が一円もなくなってしまった。キャッシュカードは財布の中である。クレカもテレカもしかり。銀行の通帳なんぞは、実家の机の引き出しに置き去りである。交番に落とし物の届けを出せば、電車賃くらいなら貸してくれると聞いたことがあるが、ホテル代は貸してくれるだろうか。
 ――いや待て。ベースがあるじゃないか。昔の安物のベースだって、質屋に持ちこんだら何千円か貸してくれた。このスティングレイならきっと何万も――いや待て。質屋に見せる免許証がない。このところ身分証としてしか使っていなかったから、やっぱり財布の中に入れっぱなしだ。じゃあ保険証とか――うわ女の部屋の引き出しに置いてきちまったよ吉祥寺の。
 冬也は両の掌で顔を覆い、うなだれるしかなかった。
 ――ああ俺の馬鹿。俺の不幸は、いつだって俺自身が呼んでいるのだ。
 暗澹たる冬也のベンチをよそに、林の奥の東屋では、まだ浮浪者たちの酒宴が続いている。
 もうすぐあっちの仲間になるのかもしれんなあ、などと自嘲しながら、冬也が聞くともなしにうつむいていると、
「そういや去年のクリスマス、この公園で宝くじ拾った奴がいたよな、年末ジャンボの」
「おう。確かアメ横の乾物屋の親爺だろ。イブの飲み会で羽目はずして、朝帰りの途中に拾ったとか聞いたぞ」
「あれ、どうなったんかなあ」
「んなもんハズレに決まっとるわ」
「あれ? お前ら知らなかったの? 一等と前後賞、合わせて九千万になったってよ」
 そんな景気のいい話が聞こえてきたので、冬也は、つい耳を立てた。
「げ」
「マジかよ」
「ああ。俺、今年はずっとここいらを回ってたから、ニュースでやらない話だって、たいがい知ってるんだ」
「でも、拾った宝くじだろ」
「バレたら捕まるぞ」
「馬鹿正直に交番に届けたんだよ。半年たっても落とし主が出てこなくて、拾った奴のもんになった。現ナマ拾ったのと同じ理屈だ。あの親爺、取手にでかい家建てたとさ」
「でもあの乾物屋、店が家じゃなかったか?」
「うん。一階に店出して二階に住んで。それが今は常磐線で通勤してるわけよ」
「そろそろ隠居するつもりなんじゃねえか、もう歳だし」
「アメ横の店売ったら、また何千万、いや今だと何億か」
「ほんと金って、あるところにばっかし集まるのよなあ」
「あの宝くじ、どこに落ちてたんだっけ」
「知らんわ」
「俺知ってる。確か下町風俗資料館の――」
 彼らの声は、依然として陽気そのものだった。全てを失って久しい彼らには、他人の大当たりもあくまで他人事、珍奇な話題のひとつにすぎないらしい。
 ――くれ。一割でいいから俺にくれ。万札一枚でもいい。
 などと本気でツッコみそうになっている自分に愛想を尽かし、冬也は力なくベンチを離れた。
 落ちこんでいても仕方がない。とりあえず交番に行こう。もし交番で金を貸してもらえなかったら――ドラムのアパートが下北沢にある。気のいいあいつなら頭を下げやすい。問題は、ここからそこまで何十キロあるのか見当もつかないことだが――まあ、夜が明ける前にはたどり着けるだろう。
 冬也は、哀愁を帯びたブルースのコードで歩きはじめた。クリスマスらしいバラードの気分には、とてもなれない。ましてヘヴィメタなど、遙か彼方の聖夜である。
 どこに最寄りの交番があるかわからず、不忍池に沿って上野駅方向に戻っていると、遊歩道の水際の、石畳が敷かれた休憩スペースに、奇妙な影がわだかまっているのが見えた。
 赤く塗られたでかい(そり)。その横に、赤い帽子をかぶった赤い服の巨漢。のみならず、鹿よりも大きな角の生えた獣たちが、少なくとも数頭――。
 赤い服の巨漢だけなら、今夜は街中に看板を持ってうろついているが、橇とトナカイの群れまではさすがに見かけない。映画かドラマ、あるいはCMとかMVのロケだろうか。いや、わざわざ当日の夜にやっているからには、今まさにテレビで流れているバラエティーの中継に違いないと思い、冬也は邪魔にならないよう、その場を迂回しようとした。
 しかし、周囲にいるはずのカメラやら照明やら、スタッフ連中がどこにも見当たらない。あくまで暗い水際の一画で、白髪豊かなサンタクロースが、白髭の口元にパイプを咥えて悠々と一服つけ、橇の引き綱からハーネスを解かれたトナカイたちが、てんでんばらばらに池の水を飲んでいるだけである。それも明らかに本物のトナカイだ。子馬や鹿に細工した偽物ではなく、まして作り物や着ぐるみでは絶対にない。
 冬也は思わずその場に立ち止まり、旨そうに煙を吹いているサンタクロースの顔を、しげしげと見つめてしまった。
 ふと、サンタクロースの視線が冬也の視線に交わった。
「……お前さん、まさか(わし)らが見えとるのか?」
 冬也は憑かれたように答えた。
「はい」
 一瞬サンタクロースは大きく目を見開き、それから愉快そうに破顔した。
「もしかして、お前さん、昔から色々見える(たち)じゃろう」
「はい」
 冬也は正直に答えた。
「……毎年、お盆になると、死んだ祖父さん祖母さんが茶の間で笑ってたり……夜中に墓場の横を通ったら、でっかい蛍みたいな人魂が、うようよ飛び回ってたり」
 人に言うと妙な顔をされるので、いつしか誰にも話さなくなった、幼い頃の思い出である。稲川淳二や一龍斎貞水ならウケるであろう話も、なぜか冬也が語ると相手に引かれてしまう。
 しかしサンタクロースは、さすがに疑義をただしてこなかった。
「もっと妙なもんも見えたんじゃないか?」
「……幼稚園の頃、裏の川で河童と遊んでました。あと、年とった猫って、けっこう人の言葉でしゃべりますよね。たまに猫じゃ猫じゃとか踊るし」
 実は陰気なガキの妄想だったのではないかと、今は自分でも疑っている幼時体験を、事実として語れる相手が目の前にいる事実――冬也はなんとも久しぶりに、甘美なノスタルジーの世界に浸っていた。
 サンタクロースが、上機嫌な笑顔で言った。
「かわいそうに、お前さんは頭がおかしいんじゃな」
「…………は?」
 聞き間違いかと思ったら、サンタクロースは満面に笑顔を浮かべたまま、
「人間、死んだらそれっきりだ。人魂は大気中のプラズマ放電現象だ。河童なんぞ、この世にいるわけがない。猫はにゃあにゃあ鳴くだけだ。当然、儂らだって、この世にいるわけがない。サンタクロースはパパだ。だからママがキッスする。どんなに浮気性のママだって、こんな百貫デブの老いぼれにキスするわけがなかろう」
「………………」
 まさか全否定されるとは思ってもいなかったので、冬也は愕然とした。
「お前さんがそんなキテレツな頭でギンギラギンなナリをしとるのも、脳味噌が腐っとる証拠じゃ」
 そ、そこまで言うか――。
 冬也は愕然を通りこし、憤激してしまった。
「ほっほっほ」
 サンタクロースは、あっけらかんと笑いながら、
「すまん、冗談じゃ冗談」
 ――そうか冗談か。冗談なら、まあここは許してやろう。
 冬也は懸命に気を静めた。しかし内心の怒りは治まらない。
「で、クリスマス・イブのサンタクロースとして、お前に聞いとかにゃならんことがある」
 サンタクロースは真顔になって言った。
「お前は今年一年、ちゃんといい子にしてたか?」
 ――よし、この流れなら納得できる。てか、初めからちゃんと、そう聞いとけよ。
「はい、いい子でした」
「嘘じゃな」
「嘘じゃありません。ちゃんと真面目に働いてました」
 不本意なスポットでのギグだって、フヤけた音楽番組のゲストだって、事務所の指示どおりに唯々諾々とこなしてきた冬也である。
 しかしサンタクロースは、
「それが正直な話だとしても、わしゃ『いい子か』と訊いたんだぞ。お前さん、大人になってから何年たっとる」
 ――ケンタ前のおっさんみたいな善人面しやがって、そーゆーのアリかよ、おい!
 冬也はついに逆上した。
 サンタクロースの赤い襟元を、白髭といっしょに掴み上げ、
「なめやがって糞爺い! スマキにして不忍池に沈めたろか!」
 そう叫んだ直後、冬也の後ろ頭を、正体不明のとてつもない鈍器が、ごん、と横殴りに張り飛ばした。
「ぐえ」
 冷たい地べたにうずくまり、涙ぐみながら後ろを見上げると、赤鼻のトナカイが、草食獣らしからぬ三白眼で冬也を睨んでいた。
「こんガキ、スマキにして池に沈めましょか親方」
 なぜか関西訛りでそう言いながら、宙に掲げた前脚の(ひづめ)を、ぷるぷると震わせている。
 ――いかん。この手合いに、ハンパな態度を見せてはいかん。
 冬也は明瞭に主張した。
「すみません冗談です冗談」
 サンタクロースが、声高にトナカイを叱りつけた。
「こらルドルフ、手を上げる前に儂に相談せいと、いつも言っとるじゃろう」
「……すんまへん親方」
 ルドルフはすなおに頭を下げたが、ちらりと冬也に向ける陰険な目つきには、まったく反省の色がなかった。
         *
 少々の目眩(めまい)を残しながら、冬也はなんとか立ち上がった。後ろ頭は触る気にもなれない。
「いやはや儂としたことが、ちょっと悪ノリしすぎたようじゃ」
 サンタクロースは、ばつが悪そうに帽子の横をかきながら、冬也に頭を下げた。
「なにせ人間の大人と話すのは、百年ぶりだったもんでな」
 冬也も恐縮して頭を下げた。
「いや俺も、モノホンのサンタに会うのは生まれて初めてなもんで……」
 酒場を出るときの、後味の悪さが脳裏に蘇り、
「……まあ、なんつーか、お互い腹ん中の黒いとこは、ちょこちょこ小出しにしといた方がいいですよね。あんまし溜めこむと、キレて仕事しくじったりするし」
「お前さんが言うと、妙に説得力があるなあ」
 サンタクロースは、しみじみと言った。
「儂もこの仕事を十七世紀近くやっとるが、近頃、さすがにストレスが溜まるよ。とくに、こないだの大戦後はやりにくい。仕事中に子供が目を覚ましても、儂の姿にまったく気づかんのだ。儂らがこの世にいると信じている頑是ない子供さえ、どこか信じきれない疑いの根っ子を、この世に生やしちまっとる。まったく世知辛い時代になったもんじゃよ」
 サンタは、橇に置いてあった大きな袋を担ぎ出し、中から古めかしいガラスの小壜を取り出した。
「ほれ、頭を出せ。薬を塗ってやろう」
 ――へえ、サンタが担いでる袋は、傷薬まで出てくるのか。
 他の中身も気になったが、袋の口がすぼまっているので、冬也には覗けなかった。
 近くのベンチに、サンタクロースと並んで腰を下ろす。背板に乳製品メーカーのロゴがプリントされた、レトロ狙いの木製ベンチである。
「切れてはおらんが、けっこう腫れとるな」
「いえ、大したことないです」
 本当は、触られるとけっこう痛い。しかし背後では、まだルドルフが警戒心に充ち満ちた目つきで冬也を睨んでいるし、他のトナカイは無表情で何を考えているんだかわからないものの、全頭がルドルフの手下らしいので弱味を見せたくない。
 サンタクロースは、冬也のたんこぶあたりに、指でなにやら塗りつけた。
「――ま、こんなもんか。ひんやりして気持ちいいじゃろう」
 確かにミント系の冷涼感があった。昔、祖父さん祖母さんが使っていた漢方薬のような匂いもする。北欧あたりの薬草だろうか。
「お詫びの印に、お前さんにも、何かプレゼントをやろう」
「マジですか?」
「おうよ。今年の日本は景気のいい家が多くて、儂らの出番が少なかった。儂らの仕事は、誰にもプレゼントをもらえない子供が相手じゃからな。プレゼントの(もと)が、袋にけっこう残っとる」
「プレゼントの素?」
 冬也は意外に思って訊ねた。てっきり、サンタの袋はドラえもんの四次元ポケット的な仕組みだろうと思っていたのである。でなければ、世界中の子供のリクエストに即応できるはずがないからだ。
「儂らの業界では『聖精(スピリッツ)』と呼んどる。下界にもあることはあるんだが、目に見える物としては存在しない。強いて言えば『望ましい共生のための精粋(エキス)』――そんな形のない物だ」
 サンタクロースは袋の口を開いて、冬也に覗かせた。
 なんだかよくわからないぶよぶよした塊が、袋の中でもぞもぞと蠢いている。色も形も、なんだかよくわからない。しかし、ちっとも不気味な感じではなく、ほのかな温もりが冬也の頬まで伝わってくる。
 サンタは袋に手を入れると、塊の一部を、むち、とちぎって冬也にさしだした。
 冬也は両の掌をお椀にして、その鶏卵ほどの塊を受け取り、
「……つきたての丸餅みたいですね」
 餅より軽いが、感触は似ている。
「欲しい物を念じれば、それに変わるぞ。まあ正確には、想念を具現化するためのエネルギーに変わるわけじゃがな」
 冬也は根性を入れて念じた。
「………………」
 サンタクロースも真剣に見守っている。
「………………」
 しかし一分ほど念じても、変わる気配がない。
「…………………………」
「…………………………」
 三分たっても、依然としてつきたての餅である。
「……俺の根性が足りないんでしょうか」
「お前さん、何が欲しいと念じたんじゃ?」
(かね)
「まさか札束とか念じておらんだろうな」
「だめですか?」
「あのなあ、そもそもお前さん、念じただけの札束、実物を見たことがあるのか?」
「ありません」
「まあ、たとえそれらしい札束をでっちあげても、どうせ使えまいよ」
 サンタクロースは、子供に諭すように言った。
「たとえば万札百枚の束が十束あるとする。本物の日本銀行券なら、その千枚全部の番号が違う。新札じゃなければ記号だって違うかもしれん。そこいらがいいかげんな札を、お前さんが勝手に作って使ったらどうなる?」
 紙幣番号の形式以前に、冬也は一万円札の表にいるのが福沢諭吉であることは知っていても、裏の鳥が何の鳥で何羽いるかさえ思い出せない。当然、半端な偽造犯として逮捕されるだろう。
「……五百円玉なら、かなり正確に作れそうな気が」
「あれを一万個も二万個も持ち歩いたら腰が抜けるぞ」
 冬也は慄然とした。インディーズ時代に楽器屋でバイトしていたから、レジ用の棒金――銀行が両替する硬貨五十枚の包みは扱い慣れている。五百円玉だと一本で二万五千円。十本あっても二十五万。仮に一千万円あったら――腰にくるどころか、フォークリフトでもないと動かせない。
 冬也は次善の策を口にした。
「じゃあ、いい女にします」
 サンタクロースは絶望的な顔になって、
「だからなあ、好みの顔とか体格とか見てくれはともかく、お前さんは人間の女の脳味噌とか胃袋とか骨盤の構造とか指十本ぶんの指紋とか――」
「はいはいはいはい、わかりましたわかりました」
 冬也は両手でサンタクロースの苦言を制した。
「子供銀行セットとか、リカちゃん人形くらいにしとけってことですね」
 けしてサンタクロースに皮肉を言ったわけではない。自分の知的レベルを嘆いたのである。
 そこに後ろから、ルドルフが口を挟んできた。
「親方」
「おう?」
「昔、アメリカの片田舎で、哀れな男ん子に、優しい両親をプレゼントしましたろう」
 ――なんだなんだ、俺を邪魔する気か。
 そう思って冬也が見返ると、ルドルフは陰険な三白眼ではなく、むしろ冬也に同情的な目をしていた。
「おう、忘れもせんわ」
 サンタクロースは懐かしげにうなずいて、
「まだ小学校にも上がっとらん、あのちっこい坊主な。ありゃあ、一世紀に一度の荒事(あらごと)だったなあ」
 ――荒事?
 冬也は、サンタクロースの言葉に少々違和感を覚えたが、子供に親をプレゼントするというのは、確かに尋常ではない。孤児に里親でも世話したのだろうか。
「儂も、あそこまでの無茶は滅多にやらんのだが、なにせ煙突から忍びこんでベッドの坊主を見たら、血を吐いて真っ青になっとったからなあ。あわてて容態診たら、肋骨が折れとるは肺がつぶれとるは、あっちこっち傷だらけだわ――かわいそうに、もう息もしとらんで、すっかり冷たくなって……」
 死んでたんかい――。
 いよいよ話がおかしくなってきたので、冬也は思わず身構えた。
 ルドルフは沈痛な面持ちで、
「そうでしたなあ……そんで靴下の中の手紙読んだら、両親(ふたおや)に毎日毎日ぶん殴られて、泣いて謝っても許してもらえんで、クリスマス・イブだっつうのに何ひとつもらえんどころか、力いっぱい蹴り飛ばされて……」
「『サンタさん、おねがいですから、ぼくに、あたらしいおとうさんとおかあさんをください。』――あれには泣いたわなあ」
「おいらも千年ぶりに泣きましたで。生活が苦しゅうて喧嘩ばっかりしてる両親を、昔の優しい両親に戻してくれとか、似たような願いは前にも聞いとりましたけど、あんなちっこい子が、実の両親をまるまる別のに取っ替えたいなんぞ、よくよくのことですわ。おまけにその親ども、瀕死の息子をベッドに突っこんで、悪仲間のトリップ・パーティーに出かけとった。ありゃ人間やおまへん。畜生ですわ」
「そりゃ畜生に気の毒じゃ」
「まったくでんなあ。――で、親方が下界の時間軸を曲げて、橇ごと前の晩に戻って、そんで俺らがストリート・ギャングに化けて、遊び帰りの親どもを夜道で襲って、目方(めかた)が倍になるまで鉛弾(なまりだま)浴びせて、死骸はミシシッピ河に沈めて――」
「うんうんうん。それから儂が州の役人に化けて、あの子を良さげな家に養子縁組させてやってな」
「世話してやった子なし夫婦、ほんまいい人たちで、よろしゅおましたなあ」
「あれこそが天の配剤、天のお方の御加護なんじゃよ」
 冬也はふたりの話を――もとい、ひとりと一頭の話を聞きながら、聖者が優しさを全うすることの厳しさに、思わず身震いしていた。ラストだけ聞けばハッピーエンドだが、細かい経緯は聞きたくなかったような気がする。とくにトナカイたちの担当部分はドス黒い。
 ルドルフは冬也を一瞥し、それからサンタクロースに言った。
「あのでんで、こいつに女、都合できるんちゃいまっか? たちの悪いヒモに食いもんにされとる哀れな女、このあたりにゃ、ようけおりまっせ。そのヒモ、俺らがヤーさんに化けてボコボコにして池に沈めて、親方が区役所の戸籍係に化けて――」
 冬也はあわてて遮った。
「いやいや、やっぱり女はやめときます」
 沈められるヒモを憐れんだわけではない。他に確かめたいことが、頭に浮かんでいたのである。
「なんでやねん」
 話の腰を折られて不機嫌そうなルドルフに、冬也は訊ねた。
「『下界の時間軸を曲げて前の晩に戻って』――そう聞こえたんですが」
「おうよ。聖精(スピリッツ)ちょっと使えば、そんくらい軽いで」
「去年の今夜――去年のクリスマス・イブにも戻れますか?」
「昨日も去年も、千年前も一緒や」
 ルドルフの言に、サンタクロースが補足した。
「もともと時間なんてものは、人間が環境変化に対応するための目盛(めもり)にすぎんのじゃ。日本銀行券なんぞより、よっぽどいじりやすい。そもそも儂らが下界の時間をいじれなかったら、あの橇がどんなに速くたって、ひと晩で世界中にプレゼント配って回れるはずがなかろう」
 言われてみれば、もっともである。
「じゃあ、俺も戻れるわけですね、これの力で」
 冬也が、掌のなんだかよくわからないものを掲げてみせると、
「それだけあれば、いっぺん往復するくらい楽勝じゃが……」
 サンタクロースの顔と声は、明らかに難色を示していた。
 ルドルフも、冬也の肩を蹄で軽く叩き、
「あんちゃん、何をたくらんどるか知らんが、よくよく案じないとあかんぜ。とくに他人の生き死にに関わるのは危ない。親方や俺らと違って、あんたは下界のしがらみに縛られとる。下手あ打つと、変わった未来の責任、あんちゃん自身がとらにゃあならん」
「責任とるって……」
「そりゃ変わり方しだいやがな」
 サンタクロースも、そのとおり、とうなずき、
「最悪、今のお前さんが消えちまうこともあるぞ」
 冬也は、先ほど大雑把に思いついたことを、改めてじっくり反芻してみた。
「――やっぱり、ちょっと行ってきます」
 サンタクロースとルドルフは、当人がそう決めたのなら仕方がない、そんな表情で顔を見合わせた。
 ルドルフが冬也に言った。
「それ、落とさんように懐にでも入れとけや。あんちゃん、そそっかしそうやからな」
 続いてサンタクロースが言った。
「あと、あんまり長居するんじゃないぞ。行きっぱなしも御法度じゃ。あっちには、当然あっちのお前さんがいる。同じ世界に同じお前さんを何日も飼っとくほど、この世界は鷹揚にできとらん。せいぜい一日くらいにしとけ」
「はい」
 もともと朝までには済むはずの用事である。
 冬也は、なんだかよくわからないものを胸の内ポケットにしまいこみ、ベンチの背もたれから背筋を離してちゃんと伸ばし、じっくり息を整えた。
 去年の今月今夜に戻る――願いははっきりしているが、具体的に何をどうすれば戻れるのか、なかなかイメージできない。
 まごついている冬也に、サンタクロースが助言した。
「慣れないうちは、何かはっきりした目盛をいじるのがコツじゃな。たとえば、西から陽が昇って東に沈むのを、一年ぶん想像するとかな」
 なあるほど――。
 冬也は左手の腕時計のライトを点灯した。時刻も年月日も同時に表示されるデジタル・ウォッチである。現在【SUN/23・30 06/1989 12・24】――1989年12月24日、日曜日の午後11時30分を過ぎたばかり。冬也の目論見(もくろみ)を果たすには少し早すぎる気もするが、あちらで時を待てばいいだけのことだ。馬鹿な自分でもできるだけ確実に念じられるように、その1989が1988だった時点まで秒単位で逆算的にデジタル表示を戻す、そんなイメージで攻めることにする。平たく言えばアナログ時計の針を365回、いや730回、逆回転させるのと同じことである。
「行けそうかな」
「はい、たぶん」
「儂らは、まだここでしばらく休んどる。お前さんもなるべく早めに帰って、面白い土産話でも聞かせてくれ」
 サンタクロースにうなずいて、冬也は目を閉じた。
 そして、目を閉じる前には小刻みに増えていた秒表示が、逆に減算される様を想像する。秒が00まで減ったら、同時に分も1だけ減算され、時も日も曜日も月も同様に、連動して逆行することにする。そうした想像上の逆行を徐々に加速させてゆくと――やがて月の数字さえ目まぐるしく10から9に変わり、6から5などはほんの一瞬で変わり――。
 そんな想像を、目を閉じたまま続けること数分、
「わ」
 冬也は唐突に尻餅をついた。
 座っていた椅子をいきなり後ろに引き抜かれるような不意打ちだった。
 背骨や腰骨が歪むほど不自然なポーズでの尻餅だったが、連日昼夜二回それぞれ二時間超のパフォーマンスで鍛えたロック野郎のこと、反射的に後ろ手で地を支え、なんとか難を逃れる。
 冬也は動悸を静めながら周囲をあらためた。
 サンタクロースやトナカイたちの姿はどこにもない。橇も消えている。不忍池の彼方に見えるビル街の灯は先刻よりもやや暗く、まばらになった気がする。なにより冬也のいるその場所にベンチがない。地面には石畳も敷かれておらず、冬也とボクサーバッグとギグバッグは、乾いた土の上に放り出されていた。
 念のため腕時計を確かめると【SAT/23・36 41/1988 12・24】――間違いなく目を閉じてから数分後、曜日と年表示だけが去年に遡っている。秒の部分は、見ている間にも42、43、44と増えていくので、今現在の時の流れは正常に進んでいる。
「やった……」
 冬也はギグで難度の高いコードを完璧にキメたときのような、脳内麻薬のオーバーフローを感じた。数分前まで念頭にあった、去年のイブに戻る本来の目的よりも、確かに戻れたという事実そのものが、冬也の心を多幸感で満たしていた。
 まさかのサンタクロースとの遭遇、そしてタイム・スリップの成功――。
 そんな破天荒な体験を、たとえば去年のクリスマス・イブ、吉祥寺のアパートで初めて手料理を食わせてくれた彼女に、シャンパンを飲みながら話してやったらどんな顔をしただろう。
 思えばこの一年、冬也は子供の頃から変わらない心底の本音を、彼女に晒したことがなかった。それは紛れもなく彼女に惚れていたからであり、本当の自分が、最新型のスティングレイよりも中古の安ベースが似つかわしい未熟な男であることを彼女に悟られ、愛想を尽かされたくなかったからである。しかし、どのみち本音の知れない男なら、顔がいい方が勝つに決まっているのだ。
 冬也は、ふと計画を全面変更したくなった。
 今、まさにこの時間、あの吉祥寺のアパートでは、一年前の冬也とまだ浮気していない彼女がシャンパンを飲みながら、ありもしない将来の話で盛り上がっている。ならば今の冬也は上野公園なんぞうろうろしていないで吉祥寺を訪ね、一年前の自分になんらかの助言を与える方が建設的なのではないか。しかし上野公園から吉祥寺までは、下北沢の倍以上離れている。冬也は依然として一文なしである。電車に乗る金がない。まるまる歩きとおす自信もまったくない。
 ――いや待て。もらった聖精(スピリッツ)とやらに祈れば、タイム・スリップさえ実現してしまうスグレモノ、瞬間移動(テレポート)くらいお茶の子のはずだ。
 冬也は懐の内ポケットから、例のなんだかよくわからないものを取り出した。
「ありゃ……」
 鶏の卵くらいあったはずの塊が、ピンポン玉より縮んでいる。重さもおおむね半分くらいか。時間を一年移動するだけで、半分に減ってしまったのである。吉祥寺まで瞬間移動したらどこまで縮むか見当もつかないが、おそらく一年後のイブには戻れなくなってしまう。
「……やめた」
 冬也はあっさり翻意した。
 一年前の能天気な俺に、今さらそこまでしてやる義理はない――。
 冬也は、やはり安ベースの似合う未熟な男であった。
 それでもまだ心にわだかまる一抹の未練を、冬也はあえて振りきって、当初の計画を実行することにした。
 大それたたくらみではあるが、けして複雑ではない。アメ横の乾物屋より先に九千万の当たりくじを拾う、それだけの話である。いつ拾えるかはまだ判らないが、どこで拾えるかは知っている。小一時間前、もとい来年のイブに、浮浪者のひとりが確かに言っていた。『下町風俗資料館の横の植えこみ』である。
 そのこぢんまりとした区営博物館なら、冬也も上京後まもなく、仲間と覗いたことがあった。館内に昔の長屋や商家や駄菓子屋が再現され、古い街頭紙芝居の実演などもあり、田舎の昔とはまた違った、都会の下町らしいノスタルジーが楽しめた。その建物は、今いる不忍池の東側を、南に数百メートルほど進んだ先にある。
 目論見を実現しても、ルドルフに警告された『他人の生き死に』には関わらないはずだった。宝くじの落とし主は結局名乗り出なかったのだから、当選したことを知らないまま諦めたはずである。拾った乾物屋はアメ横の土地持ちだから、あえて拾わなくとも金には困らない。ならば冬也が先に拾っても、他人の生死には関わらない理屈である。そして当選した年末ジャンボ宝くじの換金期間は、翼年の正月明けから一年間だと、去年の大晦日のニュースで確かに聞いた記憶がある。つまり来年の歳末に戻っても、ぎりぎり換金できるのだ。
 それが本当に実現できる計画なのか、実は冬也にも確信はなかった。さすがに最高額の当たりくじだと、胴元の銀行では当選者の名前や住所だけでなく、どこで買ったとかいつ買ったとか、うるさく聞いてくるらしい。身分証明は実家に頼めばなんとでもなるが、その宝くじがどこで売られたかまでは知る由もない。しかし、買った本人が最後まで名乗り出ないのも確かなのである。
 換金できれば一発大逆転、できなければ一夜の夢――。
 一夜の夢でもかまわない、と冬也は思った。札束の山よりも得難い夢を、すでにサンタクロースからもらっているのだから。
 冬也はボクサーバッグとギグバッグを肩に、速めの8ビートで歩きはじめた。
         *
 冬也が目にする去年の上野公園は、先ほど歩いた来年のイブよりも、明らかに賑わいが足りなかった。若い連中はそこそこ見かけるが、大人が少ないのである。公園を取り巻くビルの灯も、歩を進めるたびにまばらさが目立ってきた。気のせいか風までが冷たくて鋭い。
 未曾有の好景気の中で迎えたクリスマス・イブでも、この国は、やはりあの方(ヽヽヽ)が象徴する国なのであり、その方が危篤の床にある以上、多くの企業や団体が、華やかな催事の自粛を心がけている。昭和という長い激動の時代がいよいよ過ぎようとしていることを、年輩者の誰もが予感し、それぞれの来し方において深い感慨を抱いている。あるいは北海道択捉島から沖縄与那国島に至るこの弧状列島そのものが、太古から存する地霊として、なんらかの際立った終端を悼み、地上で蠢く国民たちの異質なこれからを、少数の賢明な経済学者と共に、深く憂慮しているのかもしれない。
 しかし、まだ若い冬也は、ジャケットのジッパーを顎まで上げて、風を凌いだだけだった。気温は翌年と大差ないのである。ただ乾いているから鋭く感じる。確かに去年の、いやこの年の歳末は、いつも冬らしく晴れていた気がする。
 やがて冬也が覗きこんだ下町風俗資料館の横の植えこみも、乾いた風にざわついていた。
 林の一画を整地した立派な植えこみだが、前に来た初夏のような新緑はもちろん見られない。舗道灯のおぼつかない光の下、植えこみのほとんどは、冬枯れた低木の枝が風に耐えているばかりだった。
 しかし、その一隅の花壇に、冬也は思いがけないものを見た。大小様々の、色とりどりの花々が、夜風に揺れていたのである。
 ――こんな真冬にも、こんなに色々な花が咲くんだ。
 冬也は花々の健気(けなげ)さに心をうたれながら、やはり自分は夢の中をうろついているだけなのではないかと、少々不安になった。冬也の記憶にある冬の花は、田舎の生け垣で見る山茶花や椿、公園の水仙、あとは路傍の雛菊くらいである。しかしそれは単に、ポインセチアやプリムラ、あるいはクリスマス・ローズといった瀟洒な花々で冬の庭を飾る趣味人が、冬也が生まれ育った田舎には少なかっただけで、冬に咲く華麗な花は、世界中にいくらでもある。そしてここが現実の日本の一部である証拠に、花壇のすぐ傍にある低木の茂みの根元には、その場にきわめて似つかわしくない、雑色の流動物がぶちまけられていた。
 ――あのなあ、吐くなとは言わんが、少しは場所を考えて吐けよ。
 節操のない酔漢たちがしばしば路傍に臨時開店してしまう、いわゆる小間物屋の不定形店舗である。しかもバイパス沿いのジャスコほど広大に開店している。のみならず小間物屋の周辺には、開店時に自分のズボンや靴でも汚したのか、丸めたティッシュがいくつも散乱し、チラシを折りこんだポケット・ティッシュの空き袋まで、無造作にポイ捨てしてあった。
 ――あのなあ、大人なんだから、こーゆー恥の上塗りはやめとけよ。
 冬也は中学時代から、何かと大人ぶりたがるヘヴィメタ・キッズとして、味見程度に酒をなめていた。高校に上がってからは、酒飲みに寛大な土地柄もあって、半ば公然の修行に入った。とくにバンドの連中とは、吐いて吐かれた仲である。それでも花見で吐くときはできるだけ人目につかない遠くの物陰で吐くとか、仲間の家で吐くときは便所に駆けこんで飛沫もきっちり始末するとか、皆、それなりに礼儀をわきまえていた。上州育ちのロック野郎は、あんがい公衆道徳にうるさいのである。
 見た目の不快感に加えて、日本酒を痛飲した小間物特有の臭気に辟易し、冬也はその場を離れたくなった。しかし、これから誰かがこの辺りで別の貴重な落とし物をするのは確実だし、ことによったら、すでにどこかに落ちているのかも知れない。
 小間物屋から目をそむけつつ、冬也は植えこみの中をひととおり探し回った。
 残念ながら、宝くじらしい紙片やそれらしい袋は、どこにも見当たらない。
 ――ま、朝までの長期戦もアリだからな。
 冬也はそう覚悟して、資料館前の遊歩道にあったベンチに足を向けた。
 途中、あの花々に気を惹かれ、花壇の前に立ち止まる。
 否応なしに例の小間物屋も目に入るが、そこはそれ脳内補正でシカトしているうち、
「……あれ?」
 冬也は、つい独りごちた。
 なるべく見ないようにしていたので今まで気づかなかったが、小間物屋の奥、低木の枝葉に紛れて見えにくいあたりに、丸めたティッシュよりも大きくて角張った、何か白いものが落ちている。
 小間物屋を迂回し、横から茂みを掻き分けて、おそるおそる拾い上げてみると、それは明らかに封筒だった。それも、何か中身の入った封筒である。
「……ガッチャ?」
 さすがに指が震えて、糊付けされていない封筒の口を、なかなか開けない。指をぷらぷらと振って震えを落ち着かせ、なんとか中身を引っ張り出し、舗道灯の明かりに向けて見ると――。
「……ガッチャ!」
 ズバリ、年末ジャンボ宝くじが十枚、透明なビニール袋に収められている。
 冬也は、恩人とも言うべき可憐なクリスマス・ローズやプリムラにしっかり頭を下げてから、そそくさとその場を離れた。あたりに他の人影は見当たらないが、無意識のうちに広い遊歩道を避けて、誰も来そうにない樹間の小道をたどる。
 やがて資料館から充分に離れると、冬也は樹間の園灯の下に立ち、封筒の中身を確かめた。間違いなく、連番十枚の宝くじだった。しかも、さっきは気づかなかった購入時のレシートまで、封筒の底に隠れていた。
 ――完璧!!
 十中八九、さっきの小間物屋を開店した酔っ払いが、ティッシュやら何やらいじっているうちに、うっかり封筒ごと落としてしまったのだろう。あとから気づいたとしても、たかだか三千円の損失、あそこまで鯨飲馬食できる懐具合なら、そうは苦にならなかったはずだ。むしろ、あそこで開店した事実そのものを、そっくり忘れてしまった可能性が高い。いずれにせよ、すでに冬也の換金を阻む者はない。
 冬也は寒風に向かって思わず胸を張った。
 ――ゲロっぱき野郎の明るい未来、風と共に去りぬ。そして俺には、新しい未来の風が吹く。
 冬也は意気揚々と、元の休憩スペースに向かって、樹間の小道を歩きはじめた。
 来年の今夜にはどの場所からでも戻れるのだろうが、来年の様子を知らない場所から下手に戻って、そこに新しいベンチでも置いてあったらただでは済まない。こちらに来たときは、座っていたベンチが消えたから尻餅で済んだだけで、逆だったらどうなるか見当もつかない。ベンチで足が切断されるのか。それとも同一空間に物質が重複して、いつか読んだSF漫画のように大爆発するのか。
 ――映画の『ザ・フライ』みたいに、遺伝子レベルで融合したりしてな。蝿男じゃなくて、恐怖の木製ベンチ男。
 そんなおどけた想像をするほど、冬也は浮かれきっていた。
 気が大きくなってみれば、免許証や保険証の他にも、身分証になるものがあるのを思い出す。秋に台湾でライブをやったとき作ったパスポートを、渋谷の事務所に預けてある。今の冬也には、上野から渋谷まで歩くくらい楽勝に思えた。途中で夜が明けたとしても、事務所が開く時間までに着ければいいのである。交番や財布は後回しでいい。まずは銀行で換金の相談、それが最優先だ。
 ――しかし九千万か。ちょっと半端な額だよな。今年の年末ジャンボなら、ジャスト一億でキリがいいのにな。
 などと、虫がいいにもほどがあることを考えながら、冬也は悠々と歩を進めた。
 そろそろ林が尽きると思う頃、不忍池を巡る遊歩道の明かりが、木の間隠れにぼんやりと見えてきた。
 ――よし、ゴールまで、もうひと息。
 高揚に任せて冬也が足を速めたとき、斜め前の木立の奥で、なにか人影らしいものが動いた。
 冬也はびくりと背筋をこわばらせた。別に悪事を働いているわけではないが――いや発覚する恐れがないだけで立派に悪事を働いているから、できるかぎり他人の目は避けたい。
 足音を忍ばせながらそちらに目を凝らすと、細道からかなり外れた林の奥で、確かに人影が蠢いていた。
 ――女?
 冬也は思わず立ち止まり、さらに様子を窺った。
 目が暗がりに慣れているので、遠目でも、おおよその見当はつく。明らかに、白っぽいコートを着た小柄な女である。後ろ姿なので顔は見えないが、背中にかかるセミロングのワンレンからして年は若そうだった。
 女は冬也にまったく気づいていないらしく、こちらに背を向けたまま、ゆらゆらと体を揺らしている。その揺れ方が、どうも怪しい。宙に浮かんで揺れているとしか思えないほど、足元と地面が離れて見える。あまつさえ女のいる方から、すすり泣きのような、か細い声も聞こえてくる。
 ――これはもしや、稲川淳二や一龍斎貞水が、お盆の深夜番組で語りだすタイプの女?
 それでも、なぜか冬也は恐怖を感じなかった。そもそも陽気なサンタクロースがイブの夜空を橇で飛び回る世の中、陰気な女が冬休みに彼岸から帰省してきたって、なんの不思議もないわけである。むしろ、ついさっきまでおめでたの境地に達していたせいか、お神輿(みこし)をかついで葬儀場にねりこんでしまったような、場違い感が先に立った。
 ――さわらぬ神に祟りなし。
 そう割り切って、冬也がこっそり立ち去ろうとしたとたん、女が奇妙な動きを見せた。
 白いコートのベルトを外し、両手に掲げ持つ。
 それから背を伸ばし、両手を高々と上げて、ベルトの端を宙にある何かに結びつけるような仕草をする。
 同時に、樹木の枝がかさかさと揺れる音が聞こえてくる。
 冬也の目は、さらに暗闇に慣れてきて、ずっと気になっていた女の足元の実態も見えてきた。宙に浮いているのではない。女は大ぶりの庭石の上に立ち、うんしょうんしょと伸び上がっている。
 あらためて女の手先に目をやると、立木の枝に結びつけたベルトの下端は、すでに輪っかの形に結んであり、女はその輪っかを自分の首に――つまり彼岸から帰省した女ではなく、これから彼岸に渡ろうとしている女なのである。
「やめろ馬鹿!」
 冬也は後先を忘れて、林の奥にダッシュしていた。
「お願いだから首吊りはやめろ!」
 正味の話、冬也は脊髄反射だけで行動していた。
 実は冬也には、首吊りに関して重大なトラウマがある。まだ幼稚園に上がる前、近所の浪人生が三度目の受験に失敗して精神を病み、夏頃、ついに首を吊った。それも、吊るなら自宅で吊ればいいものを、わざわざ夜中に冬也の家の畑に忍びこんで、梨の木にぶら下がった。どうも梨の大好きな浪人生だったらしい。そして冬也も梨が大好きだったから、朝のお散歩の途中、実り具合が気になって畑を覗いたら――キリンのように首を伸ばした浪人生が、梨といっしょに実っていたのである。
 女が前のめりになって庭石から足を離した瞬間、冬也は、かろうじて女の背中を抱きかかえた。
 間に合った安堵より先に、冬也は思わず顔をしかめた。
 ――うわ、酒臭え。
 やたらと揺れて見えたのは、酔っ払った末の、いわゆる千鳥足(ちどりあし)だったらしい。
 止めないで止めないでとお決まりの哀訴、そして身も蓋もない鼻声のすすり泣きを混然と繰り返しながら、女は冬也の腕の中で身悶えしつづけた。じたばた振り回す足の(かかと)が冬也の向こう(ずね)を連打するが、ほとんど痛くない。それほど女は小さくて軽かった。しかしそれは、ここ一年の冬也が馴染んでいた吉祥寺の彼女との比較であって、首のベルトを外して地面に据えてみれば、頭の先は冬也の顎あたり、あくまで中肉中背である。
 女はその場にうずくまり、わっ、と号泣しはじめた。
 ――うわ、こんだけ離れても、やっぱり酒臭え。
 それでも、その酒の匂いがどうやらお上品系の洋酒らしいので、さほど不快には感じなかった。高価なワインやブランデーで泥酔した女と、安い日本酒や焼酎で泥酔した女には、冬也が思うに、レクサスと耕耘機の差がある。
「……まあ、今んとこ、何を言っても、無駄だろうけどさ」
 冬也は地面に片膝をつき、女の肩にそっと片手を置いた。
「せめて酔いが醒めてから、もういっぺん考えてみろよ」
 聞こえているのかいないのか、女はぐすぐすとしゃくり上げつづけている。
 そのまま放置するわけにもいかず、冬也は両手を肩に添えてみた。
 女はだしぬけに身をよじり、冬也の胸にすがりついてきた。
 再びわあわあと号泣モードに入ってしまった女の背中を、冬也はせいぜい優しく抱いてやった。
 ――ま、こーゆー高そうな女には、ふつう触れないからな。ちょっとボリューム足んないけど。
 などと呑気にかまえているうち、ある重大な事実に思い当たり、冬也は愕然とした。
 ――いやまて!
 抱いている泣き上戸(じょうご)の感触を、おそるおそる、あらためて両の手で確認する。
 ――これってモロに他人の生死に関わってないか、俺ってば。
 しかし関わらなければ死んでいたはずの女は、今、冬也の胸に顔を埋め、わあわあと酒臭い息を吐きながら、熱い涙を流しまくっているのである。今さら、もう一度ぶら下げるわけにもいかない。
 赤鼻のルドルフが言っていた「そりゃ変わり方しだいやがな」、サンタクロースが言っていた「今のお前さんが消えちまうこともあるぞ」、そんな二つの言葉が耳に蘇る。この場合、冬也はいったいどんな責任をとることになるのか。
 ――ああ俺の馬鹿。俺の不幸は、いつだって俺自身が呼んでいるのだ。
 もはや年末ジャンボさえ自分と一緒に消えてしまったような気がして、冬也は、ただ放心するしかなかった。
 即身仏と化した冬也に同調するように、やがて、女の号泣も静まってきた。
「……すみません」
 いささかのしゃくり上げを残しながら、女がつぶやいた。
 蚊の鳴くような声は、いかにも若く、奇妙なほど上品だった。
 我に返った冬也は、レザーパンツのポケットからごそごそとハンカチを取り出し、娘にさしだした。
「……ほら」
 とりあえず、それしか責任を取る端緒が思い浮かばなかったのである。
 遠慮がちに受け取って、うつむいたまま、ちまちまと涙を拭う娘をその場に残し、冬也は立ち上がった。
 娘はぴくりと身じろぎして、冬也に顔を向けた。
 まともに顔を合わせるのは、それが初めてである。
 上目遣いの心細げな瓜実顔に、冬也は目を見張った。
 こ、これは、もしかしてモノホンのお嬢様――。
 お嬢様顔、という顔面造作の分類が日本語にあるのかないのか、冬也は知らない。しかし、冬也が演歌顔で他のメンバーがロック顔、そんな社長の分類法だって、冬也が『嫁に来ないか』を歌いそうな顔をしている以上、あながち無茶とはいえない。ならば、お嬢様顔だって、あってもいいわけである。それはつまり、小学校でクラスの女子をたばねていた土地成金の娘のような作為的上品顔すなわちタカビー顔ではなく、中学時代にクラスでなんとなく浮いていた、けして存在感は強くないのに他の女子とは明らかに違った世界観を漂わせ、ならばイジメられても不思議はないのに他の女子もなんとなくお雛様扱いしていた女生徒――そんな顔である。当人はいっさい自慢しなかったが、噂によれば母親が鎌倉時代から続く上州有数の旧家の出、そんな育ちの女子だったらしい。
 冬也はどぎまぎしながら言った。
「……いや、別に警官呼んだりしないから」
 関わってしまった以上、自分の責任の具体像を探るためにも、今すぐ別れるわけにはいかない。
「ほら、俺、あっちに荷物、ほっぽりだしてきたから」
 冬也がもとの小道に戻ってボクサーバッグやギグバッグを回収していると、林の奥から娘が現れた。
 庭石の近くにでも置いていたのか、冬也同様、ふたつの荷物を携えている。ひとつは飾り気のない茶革のポシェット、もうひとつは冬也のギグバッグを縮小したような形の、黒いハードケースである。
「へえ、バイオリンやってるんだ」
 娘も、林の奥より明るい小道に出て、ようやく冬也の全貌と所持品を把握し、
「……デーモン閣下のお仲間の方ですか?」
「あ、いや……あそこまで吹っ切れない質なんで、どっちかっつーとアイアン・メイデンとか、日本だと日和(ひよ)る前の44MAGNUMとか、LOUDNESSみたいな方向で……」
 娘は微妙な笑顔を浮かべ、こくりとうなずいてみせた。
 あたしへびめたなんてわっかんな~い、と言わないところがお嬢様なんだよな、と冬也は思った。
         *
 冬也とお嬢様は、とりあえず遊歩道のベンチに腰を据えた。
 冬也は相変わらず一文なしだし、お嬢様もコートは泥まみれだし薄化粧は流れてしまったし未だに千鳥足でしか歩けないしで、外の街に繰りだすには不都合だった。
 冬也はお嬢様が冷えて風邪でもひかないか気になったが、幸い北風は樹木で遮られ、お嬢様のコートやマフラーも上等のカシミアらしいから、酒の火照りを保てるだろう。
 むしろ、お嬢様のお顔の色を拝見するかぎり、まずはアルコールを薄める水かお茶でもさしあげたい。
「小銭ある?」
 今さら見栄を張ってもしかたがないので、冬也はすなおに訊ねた。
「俺、財布落として一円も持ってないんだ。二三百円でいいから、貸してくれないか」
 お嬢様はポシェットを探って革財布を取り出し、いきなり一万円札を渡してきた。財布の中には、まだ何枚も同じ札が入っているようだ。
 冬也は万札を押し返し、思わず親爺臭い説教モードに入ってしまった。
「あのなあ、こんな見ず知らずの怪しげな男に、夜の公園でいきなり札ビラ広げちゃいかんだろう。あんた、まともに歩けないんだし、財布かっぱらわれるだけならまだいいけど、最悪、口封じに押し倒されるとかな。世の中、金持ちや善人ばっかりじゃないんだから」
 お嬢様は目を丸くして、それから頭を垂れると、めそめそしゃくり上げはじめた。
「すみませんすみません……」
 ――うわ俺の馬鹿。やっと泣きやんだ泣き上戸に、説教してどうすんのよ。
 冬也は泡を食って言い足した。
「いや別に怒ってんじゃないんだよ。俺はあくまであんたの将来を考えてだな」
 それも説教だ説教、などと自分につっこんでも、今さら手遅れである。お嬢様のすすり泣きは止まらない。
「……とにかく借りるわ。百円玉三個な」
 音を上げた冬也は、お嬢様が手にしている財布から小銭だけつまみ出して、少し離れた自販機に走った。
 ときどき振り返り、お嬢様がまた手頃な枝を探しに出たりしていないか、あるいは妙な虫が寄ってきていないかチェックする。
 冷たいペットボトルを二本仕入れて戻り、
「ウーロン茶とポカリ、どっちがいい?」
 お嬢様はまだめそめそしながら、それでもしっかりボトルを見比べてウーロン茶を選び、お嬢様らしからぬ勢いで、半分以上も一気飲みした。
 待つことしばし、どうやら気分も落ち着いたようなので、
「少しは酔いが醒めた?」
「……はい」
「さっきのこと、覚えてる?」
「……はい」
「説教の話じゃないぞ。その前の、あっちの林ん中で……」
「……はい」
「忘れちゃえよ。どうせ酔った勢いの気まぐれだろ」
 今度は返事がなかった。
「弱いんだろ、酒」
「……みたいです」
 みたいじゃねえよ弱いんだよ、と、また説教しそうになって、冬也は口をつぐんだ。
 するとお嬢様は、
「今夜、初めて飲んだんですが……」
 冬也は少々驚いて、お嬢様の横顔を見入った。
 年は冬也より下らしいが、少なくとも成人式は過ぎている。これまで冬也が見てきた若い女は、ほとんどが未成年の内から飲んでいた。しかし考えてみれば、冬也のテリトリーが野蛮すぎただけで、お嬢様の育成環境ならば、法令遵守も当然だろう。
「じゃあ、いっしょにいた奴らが悪い。そいつらとは、もうつきあうな」
「でも、同じ専攻の人たちですから」
「専攻?」
「東京芸大の器楽科で弦楽――バイオリンを専攻してます」
 ――うわすげえ。マジで高嶺の花。
 冬也は腰が引ける以前に、ただ感心してしまった。
 同じ高校の秀才クラスから、東京芸大の絵画科に受かった男がいた。二年のときに油絵で全国レベルの賞をとり、美術以外の科目も常に学年トップだった。数学や英語まで完璧にできないと、国立の芸大では油絵を描かせてもらえないのである。一見いいとこの坊ちゃんふうで性格も円満、ただし胡乱なヘヴィメタ・キッズたちとは一度も口をきいたことがない。
 冬也が言葉に窮していると、
「……私、エレキギターはよく知らないんですが、その、ギター以外にも、アンプとか、色々使って音を出すんですよね」
 お嬢様の方から訊いてきてくれたので、冬也は嬉々として応じた。
「うん。でも俺が使ってるこのベースだと、ふつうはアンプやエフェクターに頼るとこも、自分でけっこういじれるから、まあ腕次第っつーか、色々だよね」
 そっち方向の話題なら、高嶺のバイオリンも地べたのベースも、基本は一緒である。
 お嬢様はうつむいたまま、訥々(とつとつ)と言った。
「……バイオリンは、もちろん演奏技術も大切ですけど、楽器そのものが一番大事なんです」
「うん、わかる。俺、前に楽器屋でバイトしてたから」
 同じ腕前の奏者がアコースティックの生音(なまおと)で勝負するなら、当然、楽器の個体そのものがどこまでいい音を出せるかが(きも)になる。もちろん楽器も奏者も聴衆もすべて生物(なまもの)だから、それらが一体となって生じる結果としての感動や陶酔はまた別の話になるが、たとえば、冬也のバイト先で目玉にしていた数万円のバイオリンを弾いて、百万のバイオリンと同じ音を出せる奏者がいたら、それは天才バイオリニストではない。マジシャンか詐欺師である。
「……今夜、クラスのパーティーで、花京院さんのバイオリンを貸してもらったんです」
 ほうほう、お嬢様のお仲間だけあって、やっぱり名前がお嬢様っぽいのな――などと感心しつつ、冬也は黙ってうなずいた。
「……前は、同じビソロッティを使ってたんですが、秋頃、花京院さんがストラディバリウスを使い始めたので、私、なんどもお願いして……それでも貸してくれなかったんですが……」
 ――ほうほう、どっちの家もお金持ち。でもそっちのお嬢様は、もっとすっげーお金持ちの子なのね。
「でも今夜は、花京院さんも初めてお酒を飲んで、すごく機嫌がよくて……」
 ――なるほどなるほど、そっちのお嬢様は、たぶん笑い上戸なのね。
「……私の方が、ちょっと、いい音で弾けました」
 ――それはたぶん本当なんだろうな。泣き上戸は、たいがい自分を過小評価するもんだし。
「でも、いっしょにいたみんなは、私も花京院さんも同じくらい巧いって……」
 ――そこいらは、その場にいなかった俺にゃわからんよな。音の好みは人様々だし、その場の空気ってもんもあるからな。仲間内の微妙な力関係とか、キャラかぶりとかな。
「パーティーが終わって、送ってくれるっていう人もいたんですが、私、泣いちゃいそうだったので、ひとりでタクシーに乗って……」
 ――だから、そこで強引に送らない男どもの気がしれんのよ。こんな良さそうな()と、楽々ラブホ直行じゃん。既成事実成立じゃん。やっぱ、あの手の大学の男なんてのは、お育ちのおよろしいお上品なお坊ちゃまばっかし揃ってんのかなあ。
「……この池の、あっち側のほとりに、水上音楽堂がありますよね」
「あ、うん。クリスマス・コンサートとか、やってたみたいだね」
「……もうとっくに終わってて、誰もいませんでした」
「あ、そう……」
「運転手さんに、あの近くで停めてもらって……タクシーを降りて、暗い音楽堂のステージに、ひとりで上がってみたんです」
「で、弾いてみたとか? バイオリン」
「はい」
「そりゃ絵になるだろうなあ。俺も聴いてみたかったなあ」
「だめです」
「ま、やっぱこのナリじゃ、クラシック聴かせる客じゃないか」
「……違います……バイオリンが、だめなんです……」
 お嬢様の声のトーンが、途中から、妙に陰にこもってきた。
 冬也は、ある種の音楽的な、それもロック方向の予感を覚え、本能的に身構えた。
 も、もしかしてこれは――メランコリックなバラードを、スローテンポのア・カペラで、それともキーボードだけ軽く乗せるくらいで、たっぷり三分くらい聞かせといて――客がしみじみ静まりかえってるところで、いきなり――
「私のバイオリンがだめなんですう!!」
 ――うわ、やっぱシャウトかました! しかもほとんどデスメタル!
 ここは俺も最強のリフを繰り出さねば、と冬也は反射的に両の手指を奮わせた。
 しかし、お嬢様には精一杯のシャウトだったらしく、次のトーンは、もう元の細い声に戻っていた。
「……この子、高校の入学祝いにパパが買ってくれて、それから、ずっとお気に入りだったんですが……」
 ――この子? どの子?
「やっぱり、どんなに弾きこんでも、花京院さんのバイオリンみたいな音は出してくれません」
 ――ああ、人の子じゃなくて、膝に置いて撫でさすってるケースの中身の話ね。
「私がもっと巧くなればいいんだ……ずっとそう思ってたんですが、やっぱり今夜、そうじゃないってはっきりわかってしまって……今までずっと可愛がっていたこの子が、なんだかとっても情けない子みたいに思えてしまって……そんなふうに思ってしまった自分も、もっと情けないみたいな気がしてきて……」
 ――そ、そーゆーことだったのか……。
 その気持ちなら、冬也にもわかる気がする。
「……でも、それは、情けないとか思っても仕方ないよね」
 冬也は、できるかぎり真摯に言った。
「俺も、高校んときバイトして買った中古のベース、プロになるまでずっと大事に使ってたけど、こっちのスティングレイ使いはじめたら、やっぱ全然違うんだよね。元のベースもしばらく部屋に飾っといたんだけど、結局、宅急便で実家に送っちまった。たぶん物置に突っこんであると思う。でもやっぱ、自分の出したい音が出せるかどうかが、一番のキモだから」
 今のお嬢様をお慰めするには、そんなドライな話ではなく、安物ベースを擁護するハッピーな後日譚でも、でっちあげた方がいいのだろう。しかし、それができない程度には、冬也もプロのミュージシャンだった。
 案の定、お嬢様は浮かない顔のまま、黙ってうつむいている。
 ――ううむ、この短調(マイナー)な曲調は、もはや強引に長調(メジャー)にアレンジするしかあるまい。
「でもさ」
 冬也は、からりと明るい声で言った。
「そんなに飲んで、ちゃんとバイオリン弾けるなんてすごいじゃん。俺もライブの前に軽く一杯ひっかけたりするけど、二杯も三杯もひっかけたら、もう指が酔っ払っちゃって、とてもとても」
「こんなに飲んじゃったのは、そのあとです」
「は?」
「弾いてから、暗いステージに座りこんで……パーティーのお土産にいただいた、ブランデーのボトルがあったので……ひと息に全部……」
「あ、ミニボトルね」
 ブランデーは甘くても、ウイスキーや本格焼酎なみに強い。
「これくらいの大きさ、ミニボトルっていうんですか」
「うわ」
 お嬢様の手つきを見て、冬也は絶句してしまった。どう見てもフルボトルである。
 ――いやあんた、それイッキしたら、下手すりゃ俺だって首吊る前にぶっ倒れるから。
 アルコールに弱いどころか、先天的大酒豪だったのである。
「……エリザベート王妃国際音楽コンクールって知ってますか?」
 お嬢様の方は、酔っ払いにありがちな脈絡のなさで、ころりと話題を変えてきた。
「あ? ああ」
 冬也は面食らいながらうなずいた。
「まあ、名前だけなら」
 総合的な楽器店でバイトしていたから、クラシック方向でも、それくらいの知識はある。チャイコフスキー国際コンクールやショパン国際ピアノコンクールと並ぶ、世界三大音楽コンクールのひとつである。開催場所は、確かベルギーのブリュッセルだったか。出るだけでも一流、入賞イコール世界的音楽家、そんな権威のあるコンクールらしい。ロックだったら、ビルボードのシングルチャートでHOT40に食いこむ、そんな感じだろうか。
「……来年のバイオリン部門に、花京院さんと私が出るんです。専攻の先生や学部長が強く推してくださって、参加のための手続きや渡航の準備も、こまごまと整えてくださって」
「すげえじゃん!」
 話題がみごとに転調したので、冬也は我が事のように喜んだ。
「もう日本じゃ立派なプロってことだろ?」
「ただの学生です。国内の音楽コンクールなら、ふたりとも、ほとんど優勝してますけど」
「それってオリコンなら同列一位だから!」
「でも、ブリュッセルで優勝できるのは、花京院さんだけです」
 お嬢様は、あくまで悲観的だった。
「私は、たぶん一度だけ弾いて……あとは観光旅行の人たちといっしょに……」
 もう流す涙も尽きました――そんなお嬢様の横顔を見つめながら、冬也は思いきって訊ねた。
「ちょっと話が変わるけどさ」
「……はい?」
「君は今、欲しいバイオリンとかある? その花京院さんのバイオリンと同じか、それ以上の音が出せるみたいな」
「どうしてそんなこと訊くんですか」
「畑違いだけど、同じミュージシャンとして、まあ今後の参考に」
「……あることはあります」
 言うだけ悲しいんですけど――お嬢様はそんな横顔で、それでも同じミュージシャンとして、詳しく答えてくれた。
「国際コンクールの話が決まったとき、今年のクリスマス・プレゼントは新しいバイオリンにしようって、パパが言ってくれたんです。それで、先生の伝手を頼って、パパとあちこち探して回ったんですが、横浜の骨董商――弦楽器専門の方のお店に、きちんと調整されたストラディバリウスがありました。去年まで使っていた演奏家の方がお亡くなりになって、御遺族が、そのお店に委託されたんだそうです。先生の紹介状もありましたから、お願いして、試しに弾かせていただきました」
「いい音が出たんだ」
「はい……それはもう不思議なくらい、思いどおりの音が」
 お嬢様は、その音を思い出したのか、うっとりと夜空を見上げた。
 しかし、その夢見る瞳とはうらはらに、
「……でも、やっぱり夢だったんです。その席では、お値段も折り合ったんですが、お店の御主人が委託された方に連絡したら、事情が変わったのでその値段では売れないと……足元を見るような方ではないと御主人もおっしゃってましたから、たぶん別の演奏家の方が、御遺族に直接打診したんだろうと……」
 すでに吹っ切れた横顔の、それでもなお夢見るようなお嬢様の視線を追って、冬也も冬の夜空を見上げた。
 東京にしては、澄んだ星空が見えた。周囲の街の灯が、いつもの年より少なかったからかもしれない。
 冬也は、腹をくくって言った。
「これも、あくまで参考までに――そのストラディバリウス、いくら?」
「始めは五千万でいいとおっしゃっていたんですが……今は一億以上でないと……」
「格安じゃん」
 バイト先で音楽雑誌もずいぶん読まされたから、ストラディバリウスという半ば伝説化したブランドのバイオリンが、どんなに安くても数千万、由緒によっては何十億で取引されていることを、冬也も知っている。同時に、その伝説的名器の価値はあくまで伝説であって、たとえば冬也のバイト先にも看板代わりに飾ってあった三百万の新品の方が、客観的にはいい音を出せる――そんな調査結果があるのも知っている。しかし、音そのものを聴くのは鼓膜というただの器官でも、音楽を聴くのは人の心である。楽器も奏者も聴衆も、すべては人の心が動かす生物(なまもの)なのだ。
 すでに冬也は、自分の責任の取りどころを悟っていた。昨日までなら目を剥くような金額でも、今夜の冬也には余裕である。
「それって一億でも買いだよね」
 元の予算に宝くじの賞金を足せば、一億四千万までは出せる勘定だ。
「でも、私の家は……よそのお家よりは豊かなんですが、花京院さんのお家ほどではありませんから」
 そう言って儚げに微笑するお嬢様に、
「あのさ、君、俺からのクリスマス・プレゼント、受け取ってくれない?」
 冬也は軽い調子で言いながら、懐の内ポケットを探った。
「はい?」
 怪訝そうに冬也を見つめるお嬢様に、例の封筒をさしだす。
 お嬢様が警戒して身を引くので、
「いや別に妙なもんじゃないよ」
 中身の連番十枚も、引き出して見せる。
「知ってるかな、年末ジャンボの宝くじ」
 お嬢様は、まだ警戒を解かず、
「……でも、いただけません。あなたが買った宝くじなんでしょう?」
「あ、そこんとこは気にしないで。ここだけの話、実は俺、サンタクロースだから」
「は?」
「で、これもちょっと見ただの今年の年末ジャンボだけど、ここだけの話、実は当たりくじなんだ。前後賞合わせて九千万、大晦日の抽選会で当たることになってる。まだ誰も知らないけど、サンタの俺がそう言ってんだから間違いない」
 お嬢様の疑い深い顔が、ふと緩んだ。宝くじといっしょにビニール袋に入っていた、レシートに気づいたのである。
「……サンタさんは、上野の宝くじ売り場でプレゼントを買うんですか?」
 無事にジョークだと思ってくれたらしく、くすくす笑っている。
「――な~んちゃって!」
 冬也も軽く笑って言った。
「こんなナリでも、人並みに一攫千金の夢は見るってことね」
「はい」
「でもほら、音楽だって、夢のやりとりみたいなもんじゃん」
「はい」
「たとえばさ、俺、中学の音楽の授業で、ドビュッシーの『月の光』とか初めてレコードで聴かされたとき、目をつぶって聴いてたら、ほんと夜空が見えたわけ。すっげー綺麗な、なんつーか、静かで優しくて、自分が溶けちゃいそうな夜空ね。で、音楽の先生も、授業しながら自分でピアノ弾いてみせたんだけど、学校のピアノなんてろくなもんじゃないし、先生だって中学で音楽教えてるくらいだから、レコード出せるピアニストになんか勝てっこない。でも、目をつぶって聴くと、ちゃんとおんなし夜空が見えるんだよ。なんか自分が溶けちゃいそうな夜空」
「……わかります」
「で、俺も単細胞だから、思わずピアノ弾きたくなったりしたわけだけど、やっぱほら、なんかピアノって柄じゃないし、まあ聴くだけでいいやとか思ってるとこで、こんどはロックに目覚めちゃったわけだ。まあ最初はカッコ優先で洋モノにハマったんだけど、よく見りゃ日本でも、俺みたいな平べったい顔で、ちゃんとロックやってるお兄さんたちがいるわけよ。だから、こりゃ俺でもイケるんじゃないか、なんて思ったりして、高校入ってからバンド始めたのね」
 実はそっちの理由は半分以下で、半分以上は女子にモテるためだったのだが、そこは当然省略する。
「で、その頃、日本のLOUDNESSってバンドが仲間内でウケまくってて、アルバムに入ってた『Milky Way』って曲を聴いたんだ。そしたら、なんかいきなり、すごい夜空が見えちゃって。中学の授業んときより、もっと綺麗な夜空」
「『ミルキー・ウェイ』――聴いたことありませんけど、綺麗なバラードとかですか?」
「いや、もうギンギンのヘヴィメタ。ヘッドホンで聴かないと、三軒先の家の親爺が怒鳴りこんでくるくらいハードなやつ。鼓膜に悪いから、クラシックの人は聴かないほうがいいよね。でも、それヘッドホンでガンガン聴いてたら、やっぱり夜空が見えたんだ。それが『月の光』よりもっと広くて深くて、なんつーか、夜空に溶けるんじゃなくて、宇宙に吸いこまれちゃうみたいな。宇宙だから、もう何も音なんてしない。自分の息だって聞こえないくらい静かなの。音だけでいうと、もう雪がしんしん降り積もってる冬の夜の白川郷、みたいな。ヘッドホンでは、もう工事現場でドリルが十も二十も唸ってるみたいな曲やってんのに、聴いてる俺の気持ちとしては、タイトルどおり、果てしない銀河に行っちゃったわけだ」
「……わかるような気がします」
「ま、そーゆー夢のやりとりにハマっちゃって、ロックで食うしかない連中が出てきたりするのも、いわゆるひとつの音楽ってやつかな、と」
「……そうですね」
「で、だ」
 冬也は、宝くじの束をひらひらさせながら、
「これも今んとこ、ただの俺の夢だけど――君、あと一週間だけ、代わりに俺の夢を見ててくれないか?」
 お嬢様が微妙な笑顔のままなので、冬也は畳みかけた。
「まあ、最悪でも三百円は必ず当たるし。そしたら、あのバカ野郎とか俺に腹立てながら、正月にお汁粉でも食ってさ」
 そう言って宝くじをさしだすと、お嬢様は、ようやくおずおずと受け取ってくれた。
「あと、もうひとつ」
 冬也は、なるべく押しつけがましくないように、しかしまっすぐな目で言った。
「俺の夢なんか、お汁粉食ったら忘れちゃっていいけど、君の本当の夢は、ずっと見ててほしいんだ。これからもずっと――かわいいお婆ちゃんになって、縁側で猫抱いて日向ぼっこしたりするまで、ずうっとね」
「……はい」
         *
 借金だらけで首を吊る人間から見れば、一億の楽器を親に買ってもらえずに首を吊るお嬢様など、ただの鼻持ちならない大馬鹿だろう。しかし両者にあるのは、実は同じ(かさ)の欠乏――夢の喪失なのである。その意味では、あの浮浪者たちのように、一日空き缶を集めてワンカップと握り飯と魚肉ソーセージか柿の種を手に入れればその日の夢が叶い、充分に叶わなければ慈善団体の炊き出しで遠慮なく叶え足し、笑って眠れる者たちのほうがよほど幸福、天国の住人なのかもしれない。
 ――ま、俺はどっちも不向きだから、煉獄でうろうろしてりゃいいさ。これだけやったら、うっかりミスの責任もチャラになるだろうしな。あっちに帰ったら、覚悟して下北沢まで歩けばいいさ。
 そう楽観しながら、冬也は、お嬢様を公園の外の大通りまで送って行った。
 タクシーも無事に拾え、恥ずかしそうに深々とお辞儀してくるお嬢様に、
「あと、しつこいけどもうひとつ、これは絶対守ってね。簡単なことだから」
「はい?」
「どんな酒でも、ひと瓶イッキは禁止」
 酔いが醒めて白くなっていたお嬢様の顔が、また紅潮した。
「……はい」
 ――うん、これなら、もう大丈夫。
 また何かあっても首吊りだけはないだろう、と冬也は確信した。
 タクシーに乗りこむ前に、ふとお嬢様は冬也に向き直り、財布をごそごそして、
「……どうぞ」
 千円札三枚と百円玉を三個、冬也にさしだした。
「あ、いや、あれはあくまでプレゼントだし」
「でも、さっき……サンタさんは一文なしなんでしょう?」
 冬也は苦笑して、すなおに札だけ受け取った。
「ほら、さっき三百円借りたから」
「サンタさんは、ずいぶん細かいんですね」
「細かいついでに、ウーロン茶はプレゼントのおまけってことで」
「あと、お名前と電話番号、教えてください」
「えーと、住所はフィンランドの雪ん中。電話線がきてないから番号なし」
「でも……宝くじって、当たる確率はほとんどゼロですけど、当たるかもしれない確率なら、百パーセントじゃないですか」
 君の方がよっぽど細かいじゃん、とは口にせず、冬也は受け取った札を掲げてみせた。
「あれはもう俺の夢じゃなくて、君の夢だから。俺だって、いちいち番号なんか覚えてないし」
 お嬢様は数瞬とまどっていたが、また深々とお辞儀して、タクシーに乗りこんで行った。
 動き出すタクシーの後部席から、こちらを振り返って手を振っているお嬢様に、冬也もひらひらと手を振って見送った。
 やがてタクシーは、他の車列に紛れて見えなくなった。
 冬也は元の公園に向かって踵を返した。
 他の通行人から見れば、仏像のような慈顔を浮かべているが、自分では悟っても憐れんでもいない。何事も深く考えていないだけである。
 あの池の畔の休憩スペースに戻る前、ふと思いついて水上音楽堂に足を向け、お嬢様が言っていた、無人のステージに上がりこむ。
 けっこう広いステージの前には、それに輪をかけて広い、千人以上入りそうな客席が半円に広がっていた。頭上を覆うドーム状の屋根は光を通すらしいが、全面を密な鉄骨が支えているので星空はほとんど見透かせず、今はただ深閑とした暗い空間である。
 ――こんなとこで夜中にひとりで弾いたら、絵になるどころか、そりゃ首吊りたくもなるよなあ。
 そう思いながら、ステージの中央に進む。
 足元にこつんと何かが当たり、客席の方に転がってゆくので、冬也はあわてて拾い上げた。マーテルのコルドンブルー、やっぱりフルボトルだった。中身は一滴残らず飲み干されている。
 ――ううむ、お嬢様、恐るべし。
 笑顔を引きつらせながら、傍に置いてあったギフト袋の空箱にボトルを戻し、舞台の隅に片づける。
 中央に戻ってデジタル・ウオッチを点灯してみると、現在【SUN/00・40 17/1988 12・25】。ずいぶんこっちで過ごしたような気がするが、着いてから一時間ちょっとしかたっていなかった。
 ――考えてみりゃ、来たときの三分後でも五分後でも、いつにだって戻れるんだよな。
 そう思ったが、なんとなく無理をしたくない気がして、やっぱり翌年の同じ時刻に戻ることにした。わざわざこのステージに上がったのは、あくまで役所が仕切る野外音楽堂のこと、夜中に人はいないし機材の置きっ放しもないと知っていたからである。
 コツをつかんでいるので、帰りは速かった。目をつぶってほんの三分ほどで、顔に当たる乾いた夜風が、雨上がりの湿った空気に変わる。目を開けてみると、案の定、空気以外に何も変わった様子はなかった。もちろん細かい部分は変わっているのだろうが、どのみち暗くて見えない。デジタル・ウオッチの表示は【MON/00・43 29/1989 12・25】、おおむね計算どおりだった。
 胸の内ポケットを探ると、あのなんだかよくわからない餅のようなものは、消えてなくなっていた。つきたての餅のようなぬくもりが、微かに残っているだけである。
 ――うわ、ぎりぎりセーフ。
 長居は無用と足早に音楽堂を出て、冬也は不忍池を巡る遊歩道をたどり、サンタクロースたちがいた、あの休憩スペースに向かった。
「チョト、オニイサン」
 遊歩道の横から、不意に聞き覚えのある声をかけられ、冬也はびくりと立ち止まった。
「ソコノ、アナタ」
 あのイラン人らしい密売人たちが、揃って手招きしている。
「……いつもびっくりさせるのな、あんたら」
「ビクリシタノ、ワタシ」
 代表交渉役らしい青年が、首をすくめて言った。
 それから冬也に何やらさしだし、
「コレ、アナタ?」
「おお!」
 青年が手にしている財布を見て、冬也は歓喜の声を上げた。
「おおおおお!」
 思わず両手で引ったくってしまったが、青年は気を悪くした様子もなく、仲間たちと〔やれやれ〕というような視線を交わし、
「コマッタヨ。ワタシタチ、オマワリサンキライ。コウバン、イカナイ。デモ、アナタイナイ」
 財布の中身をざっと確認すると、ほとんど落としたときのままだった。金もカードも免許証も全部入っている。免許証の場所だけ一番前に変わっているのは、その顔写真で落とし主を判別したからだろう。
 ――しかしこいつら、よくネコババしなかったもんだよなあ。
 冬也の内心を見透かしたのか、青年は言った。
「ワタシタチ、ショウバイ。ドロボーチガウ」
 あいかわらず人のいい露天商のような顔をしている青年に、冬也は両肩をばんばん叩いて礼を言い、ちょうどポケットにあった三千円をさしだした。
「これ、とっといてくれ。拾ってくれたお礼だ」
「オレイ?」
 青年は札を受け取って、仲間たちと何やら小声で相談したのち、仲間のひとりから何やら受け取り、それを冬也にさしだした。
「オレイノ、オレイ」
 冬也には読めない文字とカラフルな柄が印刷された、一箱の煙草である。
「タノシイタバコ」
 あくまで商取引にこだわる質らしい。
 冬也はありがたく受け取って、
「――じゃあ俺、行くわ。あんたら商売がんばれよ。風邪ひくなよ」
「バカワ、カゼヒカナイ」
 あっちの国でもそうなのか、と冬也が感心していると、青年は残念そうに、
「ニホンノ、ジョーク」
 最後にウケたかったらしい。
 冬也は大真面目に返した。
「俺も風邪ひかない」
 お互いバカかいな――そんな冗談が言外に成立し、二人とも、にやりと笑う。
 手を振り合って別れる間際、青年は言った。
「インシャラー」
 他のイラン人たちも、冬也に同じ言葉をかける。
 その異国の常套句なら、冬也も洋画の中で聞いたことがあった。
 冬也は笑顔で返した。
「インシャラー」
 もっとも意味はよく知らない。異国の挨拶か何かだろうと思っている。
 ――世の中、善人ばかりじゃないのは確かだが、悪人ばかりじゃないのも確かなんだよな。
 冬也は弾んだ足取りで先を急いだ。
 結局九千万円は夢と消えたが、上野駅で降りたときの鬱々たる気分を思えば、今の気分は上々である。身につけている物は何ひとつ増えていないが、何ひとつ減ってもいない。脳味噌だけが、ずいぶん軟らかく膨らんだ気がする。サンタクロースへの土産話も増えた。
 ――でも、まだあそこで休んでるかな。上野で一泊ってわけにもいかんだろうしな。
 行く手に目を凝らし、不忍池の畔にルドルフの鼻らしい赤い光を認め、冬也は安堵した。
 どでかい橇や赤い巨漢やトナカイの群れも、確かに同じ場所にわだかまっている。
 あちらも冬也の姿に気づいたらしく、サンタクロースが手を振りはじめた。
 冬也は手を振り返しながら、その休憩スペースに近づいて行った。
「おう、あんちゃん、早かったな」
 ルドルフが、先に陽気な声をかけてきた。
「はい。でも、実はけっこう色々あったりして――」
 冬也がさらに近づくと、
「……あんちゃん」
 ルドルフの声が、急に沈んだ。
 鼻の光も、急に暗くなった気がする。
 ルドルフは眉をひそめ、
「あんちゃん……他人の生き死にに関っちまったな」
 最初に殴られたときよりも、さらにドスの利いた声である。しかし怒りの声ではない。ルドルフの目は、沈痛そのものだった。
 隣のサンタクロースを見ると、さっきまで振っていた手が、今は難しげに顎の白髭をまさぐっている。
 冬也は当惑し、
「……えと、まあ、確かにそんな流れもあることはあった、みたいな……」
 そうルドルフに返しながら、ギグバッグを横のベンチに置こうとして、冬也は硬直した。
 ギグバッグの黒革の奥に、乳製品メーカーのロゴが透けて見えた。ベンチの背もたれにペイントされていたはずのロゴである。
「え?」
 ギグバッグは、確かにロゴの前にある。
 しかし、目の迷いかと思って見直すと、見えないはずのロゴは、さらに明瞭になっていた。
「……え?」
 冬也はおそるおそる、自分の掌を目の前に上げてみた。
 掌を透かして、不忍池の対岸の樹木と、その外に立ち並ぶビル群の灯が見えた。
 サンタクロースが、どうしようもなく低い声で言った。
「最悪、今のお前さんが消えちまうこともある――そう言ったじゃろう」
 冬也は、なぜか、放心していなかった。
 てっきり脳味噌が真鱈の白子のようになるかと思ったが、むしろ、軟らかく膨らんだままに感じる。
 ――やはり、あのお嬢様を、その場でもう一度ぶら下げるべきだったのか。それとも、お嬢様の夢に引導を渡して、泣いたまま帰すべきだったのか。しかし、それはない。そんなことをする俺がいたら、俺が叩きのめす。
 いずれにせよ――ヘヴィメタ野郎は、いかなる際にもクールにキメなければならない。
 冬也は、掌の向こうで輝きを増してゆく街の灯をながめながら、
「……はは、こうして見ると、ケバい東京の灯も、なかなか綺麗なもんですね」
 サンタクロースとルドルフは、何も言えずに佇んでいる。
「俺なんて、初めから、こんくらいでよかったんですよ。半透明くらいで……」
 他のトナカイの群れは、草食獣らしい優しさと諦念をたたえた瞳で、黙然と冬也を見守っている。
「……初めから、自分なんて半分くらいで生きてりゃよかったんだ。あとの半分は、惚れた女にでも、あっさりくれてやっときゃ……」
 半透明の冬也が、さらに薄れてゆく。
「じゃあ――」
 冬也が最後に別れの挨拶を言ったのか、感謝の言葉を言ったのか、サンタクロースにもルドルフにも聞き取れなかった。
 いつしか、また小雨に煙りはじめた夜の公園で、長い沈黙の後、
「……あいつ、消えちまいましたなあ」
 赤鼻のルドルフが、しんみりと言った。
「なんや、かえって気の毒しましたわ」
 サンタクロースは、職責に似合わない憂愁の色を顔から振り落とすように、軽く頭を振った。
「まるっきり消えたとも限らんさ。責任の取り方は人様々じゃからな。そこいらの配剤は、天のお方にお任せするしかなかろうが――」
 そう言いながら、本来のもっともらしい訳知り顔――地上のすべての愛し子たちを枕辺で見守る好々爺の顔に戻り、
「――ま、今日は御子息のめでたい誕生日、あの方もそれなりに手加減してくださるだろうよ」
「そうでんな……」
 それからサンタクロースとトナカイたちは、橇の準備を整え、夜空に飛び立った。
 見かけの古さとはうらはらに、その橇は上野の雨空を、天に続く孤峰の氷壁を駆け上がるように、速やかに上昇した。
 みるみる遠ざかる不忍池を後に、ほどなく低い雲を抜けて星空に達し、悠々と水平飛行に移る。
 そして、やがて糸月や朝日が昇る東の空ではなく、まだ星夜の続く西の空――中央アルプスを越えて、日本海の彼方に消える。
 冬也の帰りを待って、予定以上の休憩を挟んでしまったが、彼らには、まだまだクリスマス・イブの仕事が残っているのだった。

         *

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「――おい、冬也」
 ドラムの声が聞こえたような気がするが、冬也は、まだ夢の世界から抜けきっていなかった。
「おい、冬也!」
 さらに肩を揺すられ、眠りに就く前の酒席と今の意識が、わずかだが重なってくる。
 ――あ?
 目をしばたたきながら、横にいるドラムの顔を認めた頃には、うたた寝の夢の記憶など、どこかに霧散してしまっていた。
 ――あれ? 俺……寝てた?
「うわこら冬也」
 ドラムとは逆の横から、キーボードが冬也の顎の前に灰皿を突き出した。
 ――え? え?
 眼下の灰皿に、煙草の灰がぽとりと落ちる。吸われないまま白くなった、長い灰だった。
「俺もそこそこ長く生きてるけどさ」
 キーボードは呆れたように言った。
「煙草くわえて座ったまま寝る奴、生まれて初めて見たわ」
 残り半分の煙草を口にくわえたまま、寝ぼけ(まなこ)できょろきょろする冬也に、他のメンバーもマネージャーも苦笑している。
 テーブルの向かいから、ギターが言った。
「そーゆーいい煙草吸ってるからだよ」
 手を伸ばし、冬也の前に置いてある煙草の箱を取って、
「俺も一本もーらお」
 さっそくライターで火を着け、深々と一服し、うっとりと目を閉じる。
「……こりゃ本場もんだわ」
 冬也はめいっぱい混乱していた。
 ――え? え? え?
 うたた寝する直前の記憶が、しだいに蘇ってくる。
 ――えーと、バッグから出した煙草を吸ったら、間違えて持ってきたあの女のメンソール入りだったんで、それで思わずボーカルに腹を立てて――。
 しかしボーカルは向かいのギターの右隣で、いつものイケメン顔を、なんの乱れもないベストの上に乗せている。冬也の注目に気づくと、思わず恐縮して顔を伏せたりもしている。女の押しに弱いだけで、根はいい男なのである。
 ――そうか。俺はムカつきをこらえているうちに、なんか悪酔いして寝ちまったんだ。
 周囲を見渡せば、クリスマスの飾りつけも小洒落たなりに品のある、大人の隠れ家的な、社長好みのいつもの酒場である。
 冬也はほっとして、グラスの水割りを干した。
 ――でも、なんかやっぱりおかしいような……。
 そもそもギターが持っていった煙草は、どう見ても例のメンソールではない。冬也には読めない字が印刷された、異国風の派手な箱である。
 冬也は目一杯悩んでしまったが、
 ――やめ! もう何がどうでも気にしねえ。
 ウイスキーのボトルを鷲づかみにすると、グラスにどぼどぼ注ぎこみ、
 ――だいたい好きな酒、妙にケチったりするから調子狂うんだよ。
 冬也はひと息にグラスを干した。氷はほとんど残っておらず、すでに生粋のストレートである。
 ギターの左隣で、マネージャーが言った。
「変わった匂いの煙草だね」
 ギターはご満悦で胸を反らし、
「そりゃもう、いいクサが入ってますから」
「え?」
 マネージャーは顔色を変え、
「それって、まさか……」
「大丈夫っす。コナじゃあるまいし、アメリカやカナダじゃみんな平気で吸って――」
 言い終わらないうちに、マネージャーはギターの口から煙草を引ったくり、大あわてで灰皿にこすりつけると、ナプキンを広げ、灰皿の灰を全部ぶちまけた。煙草の箱もそこに乗せ、さらに冬也の前の灰皿も引ったくってぶちまけ、一切合切、ナプキンごと丸めてビジネスバッグに突っこみ、
「…………あのね」
 メンバー全員を、蛇のように鋭い社畜の瞳で見渡して、
「君らはもう、チンケなアマチュアじゃないんだから。『次の夏は武道館だ!』とか社長がはりきってるんだから。まあジャンル的に、女性関係はそうそううるさく言わないけど、お願いだからクサとかコナだけは――」
 いつもの説教を食らいながら、ドラムが冬也に耳打ちしてきた。
「アレどこで仕入れたん?」
 冬也はグラスを干してから、
「いや、俺、買ってねえし」
「うわ水くせえ」
 するとキーボードが、
「六本木のハウスじゃねーの? こないだの水曜の」
 冬也は、ストレートの連杯がいい具合に回ってきて、
「そう言や、あそこだったかな」
 そもそも、寝ている間の夢がまったく思い出せないように、寝る前の記憶さえ今は曖昧になっている。
「こら、そっちの三人、聞いてるか」
 マネージャーが釘を刺した直後、背広の内ポケットで携帯が鳴った。
 ボーカルが、事務所の女性社員を真似て言った。
「あの、マネージャー。会社からお電話が入っております」
 今どきのイケメンは、これくらいノリが良くないと女が寄ってこないのである。ちなみに小型携帯電話は機体も通信料もまだ高価なので、個人使用は一般化していない。
 まったくもうこの連中は、などとぶつぶつ言いながら、マネージャーは通話を始めた。
「あ、社長! こんな遅くまで、お疲れ様です」
 初めはしきりに頭を下げていたマネージャーの顔が、通話が続くに従って、クールな彼には珍しく面白いように千変万化してゆく。怪訝そうになったり、かなり驚いたり、いきなり輝いたり――『MHK―BS』とか『音楽世界』とか、巷に名高い放送メディアや雑誌メディアの名称も、たびたび口にしているようだ。
 やがて、最敬礼に近いお辞儀をしながら、マネージャーは通話を終えた。
「……驚いた。マジに武道館、いや東京ドームだって夢じゃない器なのかな、君たちは」
 いちおうリーダーに祭り上げられているボーカルが、興味津々で訊ねた。
「なんか、すっげーいい話みたいっすね」
「ああ。だからこそ、ああいったクサだのなんだのは、もう金輪際だめだぞ」
 マネージャーは説教を駄目押ししてから、
「四月の初旬にMHKのBSで、ちょっと思いきった音楽特番を生放送する。クラシックやJ―POP、演歌からロックまでジャンルを問わず、期待の新人を一挙に集めて入学入社シーズンを盛り上げる――そんな、紅白に匹敵する大企画だそうだ。鳴り物入りで始めたBSがイマイチ普及しないから、新し物好きの口コミをここでどーんと盛り上げよう、そんな腹だろうね」
「その話、もう知ってますけど」
 ボーカルは、拍子抜けしたように言った。
「でも俺らは関係ないでしょ。出演者、もう決まってるし」
「今さっき、急に追加のオファーが事務所に入った。ロックのジャンルで、予定の(エックス)とBUCK―TICKに加えて、君たちにもゲスト出演して欲しいそうだ。つまり彼らの対抗馬みたいな扱いだな」
 メンバー全員の目が点になった。
「……マジですか?」
 ボーカルもそれ以上の言葉が出ない。
 さらにマネージャーは、
「あと、番組の翌日、別口で『音楽世界』の対談が入った」
「え? ちょっと待ってください」
 キーボードが口を挟んだ。
「あれってクラシックの専門誌ですよね」
「対談相手の御指名らしい。その相手が、なんと朝比奈琴音(ことね)だとか」
「そりゃなんでまた……」
 キーボードはその名前を知っているらしいが、冬也を含めて他のメンバーは、まったく心当たりがない。
「それって誰?」
 ボーカルがキーボードに訊ねた。
 冬也も他のメンバーも、キーボードを見る。
「若手では、もしかして世界一の女流バイオリニストだよ」
 ちなみにキーボードは、(エックス)のYOSHIKIに憧れて、ドラムは無理でもピアノならイケるんじゃないかと、クラシック系に足を突っこんでいる。ただしYOSHIKIのように幼時からピアノに秀でていた天才とは違い、あくまで女にもてたくてミニ・キーボードから始めた電子派だから、譜面に明るい冬也に色々教わったりしても、まだアコースティックは荷が重い。それでも冬也と違って、今もクラシック系の雑誌を読みかじっている。
「春にベルギーの国際音楽コンクールで優勝した人だ。あっちの大御所たちに見初められて、オーストリアとかドイツとかイタリアとか、あっちこっちで直々にレッスン受けながら、一流オーケストラで弾いて回ってる」
 あの世界三大コンクールのひとつか、と冬也は思い出した。昔の受賞者ならバイト時代に聞いたことがあるが、今のクラシック界には縁がない。
「顔は?」
 ギターが単刀直入に訊ねた。
「うーん……綺麗っちゃ綺麗かな。なんか大人しそうな、お嬢様っぽい顔してる。ぶっちゃけ地味系だよね」
「じゃあ俺はパス」
 ボディコン系が好きなギターは、あっさり投げた。
「会ったって話すことないもん」
 そう言やそうだよなあ、と揃って懐疑的な顔をしているメンバーに、マネージャーが言った。
「いや、ごめん。最初に言っとくべきだった。そっちの対談は、冬也君だけでいい」
「は?」
 冬也が面食らっていると、
「『音楽世界』の対談は基本的に一対一だから。つまり朝比奈琴音本人が、北森冬也個人と話したがってるわけだな」
 ――な、なんで?
 冬也は仰天した。他のメンバーも呆気にとられている。
「……実は、冬也の幼なじみ?」
 横のドラムが言った。
「昔、冬也の小学校に、都会からワケアリの子が転校してきたんだよ。で、俺らみたいな田舎のガキに、毎日いじめられてたんだ。それを冬也が、颯爽と助けてやった。でもその子はワケアリだから、じきに都会に連れ戻されて、でも、ずっと冬也が忘れられなくて――」
 ドラムの長々としたボケに、冬也より先にギターがツッコんだ。
「そりゃどこのラブコメだよ」
 すると横のキーボードが、真面目な顔で言った。
「たぶん、俺らのアルバムとか聴いて、わかったんじゃない? 他とは違う、ベースの確かな音楽性、みたいな」
 それには冬也自身がツッコんだ。
「その無茶振り、力いっぱいスベってるぞ」
「いやスベってない。だっておまえ、俺がライブで無茶苦茶やったアドリブとか、あとで譜面にしてからかったりするだろ。ふつうできないぞ、そんなこと」
 ボーカルがうなずいて、
「あ、それ、俺も思ってた。たぶん冬也は、絶対音感あるよな」
「またまたぁ」
 冬也は軽く流した。女がらみの罪滅ぼしに持ち上げてくれるのはいいが、見え透いたお世辞はかえって居心地が悪い。居心地を良くしようと、またグラスを干す。
「……いや、当たってるかもしれない。実は、僕もそうなんじゃないかと思ってる」
 マネージャーまで言いだすので、冬也は面食らった。
「まあ、それはちょっと横に置いといて――ここだけの話なんだけど、先のMHKのオファーも、社長の裏情報だと、どうも朝比奈琴音の事務所が関わっているらしいんだな。つまりその生放送に、彼女もクラシック系の最大の目玉として、急遽出演することになった。前にMHKがオファーしたときは『うちの朝比奈は日本の音楽バラエティーに出る必要も暇もありません』とか、けんもほろろに断られたらしいんだが、今夜になって、君たちと共演できるならスケジュールを都合する、と。MHKとしては、是が非でも世界の朝比奈が欲しいわけだ。まあ、君たちが近頃、オリコンの上昇株なのも間違いないしね」
 ほほう。すると、これはいよいよ、その女と冬也がらみ、謎が謎を呼ぶ急展開――。
 仲間たちの妙な視線を一身に浴びてしまった冬也は、しばし挙動に窮し、もはや何杯目か見当もつかないグラスをごくりと干したのち、
「……ま、どうでもいいじゃん。どうせ先の話なんだし」
 ぶっきらぼうに居直って、あっちこっちのグラスに、どぼどぼとボトルのウイスキーを注ぎながら、
「さあさあ皆さん、飲んで飲んで。パーッといきましょう。バカになりましょう」
 セリフのわりには、ずいぶん腹の据わった声である。
 ボーカル以外の全員が、目を丸くしながら、こう思っていた。
 ――うわ、三木のり平の物真似をする三船敏郎みたいな新沼謙治。なるほどマジな失恋は、ここまで男を大きくするのだなあ。
 ボーカルだけは、こう思っていた。
 ――よかったよかった。もう冬也にシメられる心配はなさそうだ。
 もとよりすっかり居直ってしまった冬也は、何ひとつ深く考えていなかった。
「ま、お嬢様でもなんでも、俺がワッショイしますよ。対談上等。終わったら飲みに誘って酔いつぶして――」
 こんな有様であるから、実はタノシイタバコ以外にも、不可解な変化があることに――レザーパンツのポケットの中でハンカチと重なっていた一枚の余剰チケットが、いつの間にか消えてしまっていることに、気づくはずもない。
 それに気づかないくらいだから、去年のクリスマス・イブ、おかしなロック野郎から借りたハンカチに妙な紙片が挟まっていたのを、とりあえずコートのポケットにしまい、翌朝になって思い出した娘がいることも、なおのこと知るはずがない。
 また冬也だけでなく、バンドの連中もマネージャーも、確かに目にしていながら気づけなかった意外な事実があることを――その噂の女性バイオリニストが、実は今日の午後、マスクとマフラーで公衆の目を眩ましながら成田に降り立ち、そのまま渋谷のライブハウスに直行し、最前列に陣取って、主にベースの熱演を最初から最後まで食い入るように見つめていたことなど、神ならぬ身の彼らには知る由もない。
 そしてライブ終了直後、付き添っていた母親と女性マネージャーに急かされ、ウイーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートに備えるべく、後ろ髪を引かれる思いで成田空港にとんぼ返りしていったことも、朝比奈琴音と少数の関係者以外は、誰ひとり知らなかったのである。
         *
 ともあれ、そうした人智の及ばぬ(こと)どもを、過去と現在と未来の聖夜に、人知れぬままゆるゆると溶かしこみながら――。
「♪ ら~~す、くりすます ♪ あ、げぶゅ、まぃはぁ~~~ ♪」
 渋い酒場のクリスマス・イブは、毎年恒例、一夜限りの無礼講へと移調し、
「♪ ばとぅ、べり、ねく、で~~ ♪ ゆ、げびるぁうえ~~ぃ ♪」
 他の常連客やマスターや従業員、さらには夜半近くに合流した社畜社長まで巻きこんで、底なしの午前様へと突入してゆくのだった。



                            【終】



   【後書き】

 さて、ここから先は、あくまで先の一連の出来事を筆記した老爺による余談であるが、朝比奈琴音一家の名誉と、名誉とは言い難いもののけして不実ではない北森冬也の人生をかんがみて、ほんの一筆、書き残しておきたいと思う。

 去年の大晦日の夜、この世界にはロック野郎を装うサンタクロースが実在することを悟ってしまった朝比奈琴音が、いやまさかいくらなんでもそれはないだろう、由々しき偶然が重なってしまっただけなのだと思い直して両親に――さすがに首を吊りかけたところだけは省略して両親に相談し、元日早々、父親といっしょに近所の交番に出向いたところ、詳しく説明すればするほど「いやそれは結局、正価で譲ってもらったのですから、拾得物ではなくお嬢さんの所有物です」と言われてしまい、「でも日頃なにかとお世話になっている朝比奈さんのお宅のことですから、いちおう調べてみましょう」とも言ってくれたのだが、しばらくして家に寄ってくれたその巡査は「やっぱり年末ジャンボは、遺失物届も盗難届も日本全国で一件も出ておりません。レシートまでお持ちなのですから、換金しても法的にはなんら問題ありません」と満面の笑顔で敬礼するばかりだったので、謹厳な実業家である朝比奈氏は興信所を使って(くだん)のチケットを手がかりに調査を始め、じきにそれらしい男は見つかったものの、クリスマス・イブには吉祥寺のアパートで別の女性と過ごしていたことが判明し、琴音がその男の写真を見るとどうも微妙に顔が若いし表情にもしまりがないしで確信が持てず、ならば信じがたいことだがこの世界にはやはりサンタクロースが実在してたまたまその男に化けたのだろうか、あるいはイブにだけ替え玉か何かを使ってサンタ活動に従事するのかもしれない、いずれにせよこれはもう自分自身で真実を探るしかあるまい、と琴音が決意した頃にはすでにベルギー行きの準備が迫っており、やがてブリュッセルでサンタクロースが言っていた『君の本当の夢』を叶えたとたんにヨーロッパ中を行ったり来たりでほとんど日本に帰れなくなってしまい、夜ごと異国の空の下でくしゃくしゃのチケットを眺めながら、結局、行動を起こすまで一年かかってしまった――そんなこんなの経緯があったことを、一方の冬也は、翌春、ぎこちないお見合いのような琴音との対談を終えた後も、まったく知らなかったのである。
 まあ何年か後には、冬也もそれらの経緯の大凡(おおよそ)を知ることになるのだが、今は現実べったりの大人になってしまった自分でさえ幼い頃は夢と現実の区別がつかなかったくらいだから、根っから芸術家肌で現実離れした妻などは大人になってもそんな夢を一時的に信じてしまったのだろうと、お互いサンルームで猫を抱きながら日向ぼっこする白髪の老夫婦になるまで、数十年間、ずっと思いつづけていた可能性は高い。人気バンドの一員からは数年で落ちこぼれ、そこそこのスタジオ・ミュージシャン兼アレンジャーに落ち着いてしまった影の薄い夫を、世界を股にかける芸術家の妻が、そんな一夜の夢に重ねて珍重してくれるなら、なんの不都合もなかったわけである。
 ともあれ、冬也が何も知らないのは、どこかの誰かさんの配剤が、元来、この複雑きわまりない下界をたった六日ででっちあげ、あとはほとんど下界まかせにするほど大雑把らしいから仕方ないとして、行動開始を一年も先送りにしてしまった琴音個人の心情には、客観的に、やや解しかねる向きもあろう。しかし、そのチケットに印刷されていたライブの日付が、あくまで翌年のクリスマス・イブだったことを思えば、ロマン派を志す若き女流バイオリニスト、しかも根は内気そのものの娘心としては、むしろ自然なクレッシェンドであり、またそれに続く渾身のフォルティッシモだったともいえよう。
 もし琴音が、異国の夜の寂しさに耐えかねて、再びブランデーのフルボトルをひと息に飲み干していたら、いきなり空港に走って国際線に飛び乗って真夏の吉祥寺を騒がせる、といったカプリッチオ的な展開もありえたのだろうが、それを禁じたのは冬也自身なのだから、すべては冬也に下された天の配剤なのである。
         *

 そして最後に、広範かつ公平な視点から、この日本における聖夜の心得として――。

 ヘブライ語で「インシャラー」と言おうが、ラテン語で「デウス・ウルト」と言おうが、本来、その意味は同一である。

   ――すべては神の御心のままに――

 国民の多くが唯一神を信じない日本にも、ほぼ同じ意味の宗教的慣用句が、古くから存在する。

   ――(いわし)の頭も信心――

 それはちょっと違うのではないか、とおっしゃる糞真面目な方々は、次の大仰な言葉を代用してもいいだろう。

   ――人事を尽くして天命を待つ――

 しかし、どうせ意味が同じであるなら、むしろ次の慣用句の方が、天国の神様だの極楽の仏様だの八百万(やおよろず)の神だの、正体の定かではない奉り先を選ばないぶんだけ、大半の日本人にとって、大いなる聖夜の福音になりうるのではないかと思われる。

   ――あとは野となれ山となれ――

ラスト・クリスマス

ラスト・クリスマス

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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