ドッペルゲンガー
この世には自分と瓜二つの人間がいる。
もしその人間に出会ってしまうと死ぬ。
そんな話がある。
芥川龍ノ介が死ぬ何日か前に自分とそっくりな人間に出会ったというエピソードは有名だ。
僕も小説を書いていた時期にその“ドッペルゲンガー”かもしれない不思議な現象を何度か体験した事がある。
友達と初めて訪れた喫茶店でアイスコーヒーを注文しようとしたら、店員さんに「あれ、今日は珍しくアイスコーヒーですか? いつもモカシャーベットなのに」と言われた事があった。
初めていったキャバクラでも席についた女の子に「この前クラブのイベントでDJやってたでしょ?」とか言われた事があった。
小説を書くと僕によく似た“誰か”が現れ、その“誰か”と僕が勘違いされる。
「昨日、武蔵小山の駅前にいたね」
「さっきバスの中で歩いてるところを見かけたよ」
「なんであんな時間に東横線に乗ってたの?」
単なる人違いだろうと思って僕が否定しても、完全に僕本人だと思い込んでいる目撃談が後を絶たなかった。
それで僕もだんだん偶然とは思えなくなり、ひょっとしたら本当に“もう一人の自分”がいるんじゃないか?と、半ば本気で信じ始めた。
僕自身は一度も僕とそっくりな人を見た事がない。
でも小説を書くと、たまに目の前の現実世界を逸脱して、白昼夢を見ているような感覚になる事がある。
そんな時、ひょっとしたら僕の意識は本当に肉体を離れて、この現実世界のどこかで遊んでいるのかもしれない。
人の意識が白昼夢で起こす臨死体験のようなもので、肉体の束縛から逃れた意識が遊びすぎると、もう肉体には帰って来れなくなり、もう一人の人間として実体化し、僕のふりをしてこの現実世界を生きている。
だからドッペルゲンガーに出会った人間は代わりに死ぬ。
これは人が死んだ時に初めて明かされる生命の神秘だ。
“人が何故生まれて、何故死ぬのか”の命題はその人自身がその人生の中で解かなくてはいけないルールになっている。
ドッペルゲンガーに出会った者は、生きている間にその答えを知ってしまう。
自分とドッペルゲンガーが鉢合わせした時に、死神とサードマンの間で、死と生の境界線を決める対話が始まる。
今死ぬべきなのはどっちか?
死ぬべきでないのはどっちか?
芸術家や哲学者、あるいは宗教家といった、この世の神秘的な領域を探求するタイプの人間たちは、その表現や思索を通して、生命の神秘や宇宙の神秘を解明しようとする。
時にその探求心と意気込みが、ドッペルゲンガーをこの世界に回遊させてしまうのかもしれない。
僕自身が僕のドッペルゲンガーに会わずに済んだのは、きっと僕には生命の神秘にたどり着くまでの探究心や意気込みがあまりないからで、芥川龍ノ介ほどの探求心と意気込みがあったら、僕もドッペルゲンガーに出会って死んでいたのだろう。
過去に夭折した偉人や天才の中には、きっとドッペルゲンガーに出会って死んでしまった人たちがたくさんいる。
いずれ死ねば分かる事だから、僕は結論を急がない。
それ以来、僕のドッペルゲンガーに出会った人たちの報告はパッタリなくなった。
ドッペルゲンガー