ピリカの儚1️⃣

草也

ピリカの儚1️⃣


 男子一系の御門が二千六百年に渡って統治する単一民族の国だと、この国の為政者は、久しく高らかに謳いあげてきた。その一方で、ある北辺の少数民族を土人と規定した法律までが、未だに存在しているのである。
 だから、北辺の人々は西の王朝の理不尽な侵攻と支配に抵抗して、幾多の戦いを繰り広げてきたのである。学術の一部も、御門の正統性や単一民族論を否定していた。この国の西半分と東半分では、民族も文化も明瞭に違うとすら主張しているのである。
 だが、その北の国の悲壮で哀切な歴史は、全ての敗者の歴史の宿命として、時間の彼方に埋もれようとしていた。
 しかし、近年、ある小説がベストセラーになり、特異な民族が固有の古代文化を綿々と引き継ぐ、北の国のブームが到来したのである。


-半島の女-

 北のある地方の県都。男がある大学に通い始めたその年の盛夏。未だ、異様に蒸し暑い夜の八時頃。ある公園で開かれた、半島国に対する賠償協定と国防条約反対闘争の集会は、始めから不穏な雰囲気に包まれていた。激しい内部抗争を繰り返している、学生の二つの極左組織が激突するとか、それは見せかけで、談合した両派が騒乱状態を作って全国に名を馳せたいのだ、などと、風説が飛び交っていた。おびただしい機動隊員が配備されていた。
 デモ行進がスタートしたばかりから、あちこちで小競り合いが起きていたが、解散地点の駅前で、遂に、過激派の一団が暴走した。駐車していた車を次々に転覆させ、火炎瓶を炸裂させて炎上させたのである。制圧する機動隊にも投石したり火炎瓶を投げつける。激しく火柱が上がる。学生も機動隊員も、どちらも若い。険しい殴りあいが起き始めた。
 男も隣にいた機動隊員に何度も殴られた。その背後では写真を撮っている私服がいるが男は気付いていない。陰湿な殴り方だ。目があった。憎しみに満ちている。堪らずに、男が思いっきり殴り返すと隊員が転倒した。近くにいた数名の隊員が罵声を発しながら駆け寄ってくる。男は必死に遁走した。

 繁華街に紛れ込んで逃げ込んで迷路の路地の奥に身を潜めた。やがて、汗まみれの息も鎮まると侘しい焼肉屋がある。突然に空腹を覚えた。喉も乾いている。ポケットを探ると裸のままの数枚の札は無事だった。男は古びた引き戸を引いた。

 客はいない。カウンターの奥で、青いワンピースの女が後片付けをしていた。三〇半ばだろう。女の豊潤な笑顔が咄嗟に曇った。男が無言で問い返すと、眉間に怪訝な皺を刻んだ女が、「血が出ているわよ」と言う。「目尻よ」男が、思わず拭おうとするその腕を、「駄目よ」と、勢いよく掴んだ。何かは知らないが甘い果物の香りがする。男をニニ畳ばかりの小上がりの縁に座らせると、「消毒をしないと」と、奥に消えて、足早に薬箱を持って戻る。慣れた手付きで消毒を終えると、豊か房を揺らしながらガーゼで隠した。
、「水が欲しいんでしょ?」女がコップを差し出す。微カスかだが特徴的な訛りがある。敢えて確かめもしないが半島の女だ。二杯目を飲み終えて、初めて礼を言った。
 男がウィスキーのオンザロックを飢えた喉に一気に流して、「手際がいい」と、呟いた。「若い頃は看護婦だったのよ。それに、すぐに、わかったでしょ?」「そうよ。私は半島の生まれなの」「あの戦争中に家族でこの街に来たのよ」「父親の知り合いに誘われたの」「今でもあるけど、郊外の化学工場で父親は働いていたわ」「戦時中は、魚雷などに入れる爆弾の原料などを造っていたのよ」「そのせいだか、敗戦の間際には酷い空襲で。社宅を焼け出されて…」「それから、もう少し北に私たちの民族だけの部落が出来たの」「バラックばかりの粗末な暮らしだったわ」「でも、復興が進んんだら、跡形もなく取り壊されてしまったわ」「だからといって、何の感慨もないのよ」「何もかもが、惨めな思い出ばかりなんだもの」「戦後に、病院で働きながら資格を取ったわ」
 「シャツも酷く汚れているし…」「何があったの?」「…殴られたんだ」「誰に?」「デモだ」即座に納得した女が、「さっきも、お客さんが話してたわ」「半島の人よ」「だから?」「この国の学生は愚かなほどに呑気だって」「ご免なさい」「それから?」「…俺達は、この国に散々に酷い仕打ちを受けたが、訴える術もない。故国は独裁政権で開発ばかりだ。人民の戦争中の補償などは微塵も考えていない。とりわけ、在外の俺達は全くの蚊帳の外なんだ、って…」「あの学生達は、半島から来た労働者の戦争中の実態を知っているのか、って…」「その通りだよ。あいつらは天下泰平なんだ」「…俺もだな。わかっているつもりではいるが…そう言われてしまうと…」
 その時に、騒がしい話し声を連れて、引き戸が勢いよく開いた。半島の言葉だ。女も同じ言語で迎える。常連らしい初老の三人が小上がりに腰を据える。すっかり別人に化けた女が慌ただしく動き始めた。

 あの戦争に敗れた後の保守政権は、戦勝国との間に、ある安全保障協定を結んだ。革新勢力が強固に反対したが押しきった。その改定が一年後に迫っていて、両陣営の対決が再び激しくなっていた。とりわけ先鋭だったのが学生で、学費値上げ反対や、民主化の独自の運動とあわせて、日毎に過激化していく。あちこちの大学が封鎖されたりしていた。ある極左政党が作った学生組織が台頭して、武装化に拍車をかけると、学生運動も分裂して陰湿な内部抗争が勃発していた。
 そんな時に、御門が倒れて病に臥したのである。後継の話がにわかに浮上した。御門には、三人の男子がいて、順当なら長子の太子が次期の御門なのだが、父に似て愚鈍なのだ。それに、あの戦争を挟んだせいで情況は輻輳フクソウしていた。
 御門に年の離れた異母弟がいる。母親は北の国の女だ。あの戦争には強硬に反対をし続けていた。この弟君を御門の第二子が心酔している。皇室は、長い間、二分されていたのである。
 革新勢力は御門の戦争責任の追求を再燃させて弟帝を支持したから、国論にさらに激しい亀裂が走った。
 こうした最中に、野党第二党の党首が街頭で刺殺される事件が惹起した。犯人は、あの戦争を指導した軍人グループの残党だったから、対立に油を注いだ。こうした状況にあって、半島国の問題も闘われていたのである。
 男は、こうした歴史の狭間の混沌とした政情の渦に飲み込まれて、格闘しながら我を失っているのだった。 男は大学の現況を否定している。とりわけ、学生運動の内部抗争で死者が出る事態に、男は震撼し憤怒した。
 そもそも、男には大学に進む明瞭な意思はなかった。街のごろつき等とも一戦交えるほど喧嘩に明け暮れていた。一方では、文学部の部員でもないのに、部長から頼まれて部の記念誌の巻頭の短編を書いたもりしていた。ある学科の成績が校内一だったりもしたが、他は振るわない。男は、担任とは馬が合わずに、浪人も覚悟をしていたが、校長が直々に声をかけて推薦してくれたのだ。校長は親鸞を信奉していた。男はその時に初めて、「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや、悪人おや」という思想を知った。「俺は悪人ですか?」と、問う男に、穏やかに笑みを浮かべながら、「そうななんだろ?だから、僕が救ってあげるんだよ」と、言った。
それ以前にも、その校長は、ある事件で男が停学になって謹慎していた時には、男の自宅を訪れたり、自分の官舎に下宿を勧めたりしていたのである。
 男にへばりつくこの状況の息づかいは、質の悪い亡霊のようなのだ。それと同じくらいに、男は矛盾の塊だった。この世界の全ては鵺なのかも知れない、と、男は思った。

  突然に、雷が鳴り響いた。近い。小上がりがざわめいて、帰り支度を始める。
 そして、再び、男と女は二人きりなった。あの乱闘ですっかり困憊していた男は、女の留守に酔い始めていたのだろう。次第に饒舌になる。
 「トヨトミの侵略もそうだが、半島を併合したんだ。口火を切ったのは、英雄と称えられているサイゴウや自由の旗手だというイタガキなんだからお笑い草だよ。地政学の弱味につけ入って他人の国土を蹂躙して。言語を奪い、名前を変えさせて。神社を建てて御門教を強制したんだ」
「私も酔いたくなったわ」と、女がグラスに手をかけて、「大丈夫よ。学生さんにはご馳走にはならないわ」と、ウィスキーを一口した女が真っ白い歯で笑った。
 「あの頃はいくつだったの?」「終戦の盛夏十一だったわ」「八つの時にこの国に来たから、半島の事は覚えているわ」「あの頃は私の名前もこの国のものだったんだもの」男は、その名前を聞かない。「御門を称える歌も随分歌わされたのよ」「神社にも何かにつけて参拝したし…」「急ごしらいのお祭りもあったのよ」「同じ国民だと思っていたのか?」「そうじゃないわ。生まれた時から半島の言葉で育ったし、幼い頃から事実を教えられていたもの」「半島の歴史も教えられたし…」「他の民族を占領して統治するなんて、そんなに容易く出来るものじゃないのよ」「だから、あの戦争の後には、世界中で植民地から独立の戦いが起こったんでしょ?」「だが、総裁などはこの国が半島や大陸、南方まで侵略したのは独立の一助だったんだなどと、ほざいている。盗人猛々しいとはああゆう輩を言うんだ」
 その時に、稲光が走ったかと思うと雷鳴が弾けて、寸分をおかずに土砂降りになった。どういう造りなのか、話しにも障るほどの雨音だ。女は、「こんな陽気の夏はいつものことなの」「こうなったら、もう駄目なのよ」と言って、ずぶ濡れの暖簾をしまった。

 「あげくの果てに、従軍慰安婦や徴用工なんだ」「でも、この国の政府は事実すら否定しているわ」「そうだ」「自分がそんな目にあったら、いったい、どうするのかしら?」「子供だったから良くはわからなかったけど、あちこちに理不尽があったのよ」「近所の人が連れていかれるのを見たんだもの」「綺麗な人だった」「普段は座敷に幽閉されていたのよ。狂女だと、母親が言っていたの。恋人が出兵させられて。すぐに戦死して。狂ったんだって」「そんな人を見たことがある」「あなたも?」「豊潤だが陽炎のような女だった」「そうでしょ?あんな病気は魂が抜けてしまうから、余計に怖いんだって、母親が言ってたわ」「魂はみんな清浄で狂ってしまった肉体には棲めないから、北辺の泰山に飛んで行くんだって…」「だから、泰山は聖ヒジリの山なんだって」「隣の県にも似たような伝説があるって聞いたわ」「怖いのはその女じゃない。そんなにしてしまった情況だよ」「そうね。…でも、真から狂った人は、やっぱり怖いわ」「…見てしまったんだもの」「どういうわけだったのか。その女がふらふらと歩いていたの」「夏休みの暑い日だった」「後をつけてしまったの」「御門の神社の鳥居を潜って。五〇段ばかりの石段を上るのよ。その中頃で、女が立ち止まって…。杉の大木の根本に蛇がいたの。白と青の…。二匹とも驚くほど大きくて。絡み合っていたわ。あの時は何をしているのかわからなかったけど」「女もずうっと見続けていたわ」「階段を上りきると社ヤシロがあって…。その縁に腰をかけた女が何かを叫んだの。何度も何度も…。その声が深い森に木霊していたわ。そしたら…。スカートの中に手を入れたの」「一人だったのか」「どうしてそんなことを聞くの?」「さぞかし怖かっただろうと思ったんだ」「…そうよ。一人だったわ」「そんな人が慰安婦にさせられたのよ」「そんな仕打ちを受けたんだもの。怨みは根深いのよ」「五〇年や一〇〇年で、忘れられる様なものじゃないな?」「そうだわ」「俺はカンミノ御門とタムリマロに侵略された、一山百文の隣県の生まれなんだ。ジョウモンの子孫でカムイの同胞だよ。その上に、最近は原発まで造られてしまったから。略奪され、蹂躙され、支配された者の怒りがわかるんだ」「そうだったのね」「俺自身が底辺の当事者なんだ」「俺そのものが怒っているんだ。義憤なんだ。腹の底からわかるんだよ。公憤なんだ。怒ってばかりで生きているんだ」
 「あの侵略戦争がいかに誤りだったかは、世界を敵に回して完敗したことで明らかなんだ」「そうよ」「保守党の総統が、普通の国になりたいとか憲法改正なんて言っているが。せめて、戦争経験者の全てが死に絶えるまで。まあ、戦後百年としても、あと八十年は待つのが礼儀だよ」「半島の恨みはもっと続くわよ」「だって、トヨオミの理不尽で不条理な侵略から四〇〇もたつのに、恨みは未だに消えていないんだもの」「だから、チンピラ右翼の総統に煽られて、あたふたと付和雷同するなって言ってるんだ」
 「この国の西半分は渡来人も多かった。というより、俺から言わしたら、御門を始め渡来人の国なんだよ」「そうよ。半島人は真底ではそう思っているもの」「御門はミマナが故郷だと口走ったことがあるし、総統なんかもクダラがご先祖かも知しれないんだ」。それなのに、何かといえば敵呼ばわりして、どうするんだ」「歴史には少しは謙虚でいるがいいんだろよ。それが、最低限の礼節ってもんだよ」
 気が付くと、男は布団の上にいた。薄い夏掛けも開ハダけて、汗にまみれている。ガラス窓の直ぐ向かいは隣家の古びた壁ばかりの景色だが、僅かな隙間から煌めく光が溢れている。日が高いに違いない。
 身体の節々が痛い。顔を撫でると右の目尻にガーゼが貼ってあった。何が起きたのか。男の記憶は茫茫と定まらない。
 隣に布団が並んでいる。鼻孔を熟れた桃の香が走り抜けた。すると、微かに歌声が聞こえ始めた。途切れ途切れに、階下からだ。耳を鋭くすると、暫くして、半島の歌に違いないと思った。その途端に、朧気オボロゲに昨夜の記憶が蘇って。おずおず探ると下着は着けていた。だが、見渡す限りにはズボンもシャツもない。小さな卓袱台の上に煙草が置いてある。煙草を吸う青いワンピースの女の姿態が、紫煙のように過ヨギった。マッチも灰皿もある。豊かな乳房と尻の幻影が脳裏を掠める。手を伸ばして取り寄せて、数少ない両切りの煙草の一本を取り出すと、すっかり、湿っている。昨日もそうだった。今朝も、暑い上に酷く湿度があるに違いない。あの機動隊員のひきつった顔が浮かんだが、いったい誰の表情なのか、男は未マだ気付いてはいない。喉が乾いている。卓袱台には水差しとコップもあった。水を飲み干すと、昨夜の激しい雷雨の記憶が蘇った。その合間、合間に女の姿態が浮かび上がってくる。煙草に火を点けて紫煙を深々と吸い込んだ。
 やがて、階段が軋キシんで女が現れた。弾んだ挨拶をかけて、「大丈夫かしら?」と、男の顔を覗き込む。記憶から抜け出てきた女に曖昧に頷くと、安堵の笑みを浮かべて、「みんな洗ったわ」と、言いながら、後ろ姿できしんだ窓を開けた。大輪の花柄の半袖シャツに、ゆったりした紫紺のスカートだ。鮮やかな青いエプロンを着けている。夕べも同じ色のワンピースだった。こんな色が好きに違いない。あの人もそうだった、と、男はこの女を初めて見た刹那の軽い衝撃を噛み締めている。妖しく揺れる尻が眩しい。
 「驚いたでしょ?」と、振り向かずに話しかけて、「本当は下着も洗いたかったんだけど」「脱がせる勇気がなかったわ」と、振り返ると真っ白な歯で笑みをつくった。「後で着替えを買いに行ってくるわ」「そしたら銭湯に行きましょ?」女が自分の極彩色の下着を何枚か干し始めた。
 男にようやく現実が蘇った。「…何時なんだろ?」「もうすぐ昼よ。店に食事の用意をしてあるわ」男は、この階下が夕べの店なんだと初めて悟った。
 洗濯物を干し終わった女が、重い乳房を揺らしながら卓袱台の脇に腰を下ろして、数個の煙草を取り出すと、「あなたのも買っておいたわ」「ヘビースモーカーなんだもの」女が吐き出した煙が幻影の名残の様にたなびいている。
 「…ここでは、眠っただけなんだろうか?」「どうして?」「何を心配していたの?」「そうよ。すっかり、酔ってしまったんだもの」「…私もだけど。階段を上がるのが難儀だったわ。でも、あんなに楽しかったのは初めてかも知れない」「この国にあなたの様な青年がいるとは思っていなかったんだもの」「半島の男も何となく肌が合わない気がして…」「どうしてこんな風になってしまったのかしら?」「あんな御門の同化教育を受けて。親には即座に、それを否定されるし…。いつも私の身体のなかで、異質の価値がぶつかり合っていたんだもの」「いったい、自分は何人なんだって…。幼い頃から矛盾に満ちた疑問を実感していたんだわ」「思春期にこの国に渡って…。酷い差別も感じたけど、その人達だって戦渦は等しく味わったんだし…。戦争が済んだら、忽ちの内に敗者になってしまったて。虐げられてきた私達が一夜で勝者なんだもの」「でも、それだからといって、ずうっと抱いてきた不条理の感覚が癒されたわけではないのよ」「いったい、民族って何なのかしら…。自分のことさえ判然としないんだもの」「…あの戦争が混沌としすぎたからなのかしら。いつでも無国籍の根無し草みたいな気分なんだもの」
 「話題のあの小説の話をしたでしょ?。『儚』の連作だわ」男が頷く。「貧しさの余りに、この国の歳の離れた男の妻となっていた半島の女が、闖入者の若い北の国の男と計らって、夫を殺害する話があるでしょ?」「余りに奇妙で現実離れした場面なんだもの…。計らったって言ったって…。女は夫と閨ネヤの最中なんだもの。そんなことってあるのかしらって。疑っていたんだけど…」「夕べ、あなたと話をしていたら…。何となく、わかったような気がしたんわ」
 男は女の短い浴衣を羽織されて、階下に降りて食事をした。女が買い物から戻ると男は着替えた。暫くしてして並んで銭湯に行った。戻ってきて女が男の下着を洗った。
 そして、再び、洗濯物を干す女の尻を男が眺めているのである。「喉が乾いたわ」と、女が言う。「あなたはどうするの?帰るの?」「もうすぐ、店を開けるんだろ?」「今日は日曜よ。定休日なの。どうするの?」「帰る用事も特別にはないけど…。帰らない理由もないだろ?」「だったら、また、あの小説の話をしたいわ」

 同衾の後に、女は不感症なのだと呟いた。
 海外のある作家に、この二人のいきさつと似た短編がある。古イニシエの厳格な一神教に帰依する民族の不感症の大学生の娘と、中年の売れない異教徒で異民族の作家が、深夜の侘しいバーで出会う。豊満で男好きのする容姿のその娘が不感症だと呟き、作家が治癒してやろうと豪語して、二人は抱擁するのである。ところが、作家が痴戯を凝らして払暁まで悪戦苦闘しても、娘の不感症は重篤なのだ。だか、終に、娘の民族性を侮蔑するある単語で罵倒すると、娘が初めて愉悦に達するという小品だ。究極の体位は立っての後背位だと、作家は書くのである。
 男はそれを真似て、開いた貧しい押し入れの前に女を立たせて、こんな体位は初めて、と、口走る女の背後から射精した。果たして、女のうわごとは真実だったのか、男には知る由もない。ましてや、女の症状が快癒したかなどとは、男もそうだが女にすら確信がないのだ。男は女の民族性はおろか性分すら、皆目、知らないのだ。不感症のなんたるかさえ判然とはしていないのではないか。ましてや、女の民族の恥辱を罵倒して陶酔に導く踏ん切りなどはある筈もない。第一、男そのものが性交の不思議に無知だったのである。全ては男の若さばかりの痴情であったのだろう。

 大学はロックアウトをしている。次の日の夕刻に安アパートに戻ると、温厚な大家が顔をしかめた。刑事が訪ねて執拗に尋問されたと言うのだ。逮捕されるかも知れない。アルバイトで得たばかりの僅かな金と着替えだけを持って、男は出奔した。当てはない。北に向かう夜行の鈍行に飛び乗った。
 さりとて、男には向かうべき新しい地平の目安とてさらさらもないのだ。男は長い間、情況と交わりあえずに、時代の構成から取り残されていたのである。
 男は何をするのでもなかった。季節の移ろいに寄る辺なく身を任せて、思惟ともつかない夢遊に耽溺していたのである。男の神経は無闇と暑かったあの夏の日々と同じ様に、かなり病んでいたに違いない。或いは、あの盛夏から今まで、男の狂気の収まることはなかったのだろうか。
 男は十六の夏に初めて精神科で診察を受けさせられたが、爾来、虚蝉ウツセミを漂う虚無の様に神経を病んでいたのである。
 だが、それにも増して世相が混濁していたからなのか、男の狂気は時代の風に紛れ込んでしまっていたのかもしれないのだ。


-女医-

 高校ニ年の夏休みに入るとすぐに、男はある精神病院で診察を受けさせられた。男の急激で異様な変化に、我が身の危険をすら感じたであろう父親の半ば強制な説得に応じたのだ。
 男は柱時計の秒針の進む音も気に障って眠れずに、夜毎に様々な妄想に浸るようになっていた。それでも耐えきれずに少しばかりは眠るのだが、その僅かばかりの安息も悪夢にうなされるのだった。
 それまでは夢などは殆ど見たこともなかったが、覚醒と幻覚の合間に次々と男を襲うのは、悍オゾましい夢ばかりだ。
 肉色の雲が脳裏一面に広がったかと思うと、忽ちの内に塊となり女体が現れる。義母だ。自慰をしながら手招きをしている。甘美な肉ではない。蒙昧で自堕落な姿態だ。この女は狂ってしまったに違いないと、男は思う。近くの巨木の陰には、やはり裸の義妹が息を殺している。あの女も狂気に取り憑かれているに違いないのだ。そして、男も裸なのである。義母や義妹へのおぞましく淫らな妄念はおろか、父親の殺害をすら妄執する有り様だから、見た目にも異風だったに違いない。父親が危機感を抱いたのも当然の成り行きだったのだろう。
 昨夜からの熱波が冷めきらぬまま、追い討ちをかける様に、朝方から、かってない蒸し暑い日だった。
 男を迎えたのは女医だった。看護婦の姿は見えない。義母に似た爛熟した身体を白衣に隠した女は、幾分は若く見える。三〇半ばだろう。その女医が大きな瞳を更に見開いて男を見つめながら、問診を始める。時折には、真っ白い歯で笑みを創るのである。
 その瞳に映った自分をとらえながら、男は不可思議な気分に陥った。何故かは知らないが、この女が同類であるかのような錯覚に気付いたのである。男には生母の明瞭な記憶はない。父親とは疎遠が久しい。義妹はおろか、実妹とも反りが合わない。そんな男が、知らずにいた血脈の姉と突発に遭遇した類いの感性に捉われたのである。
 女医は膝頭を組んだり外したりしながら、一通りの問診を済ませると、極彩色の水玉模様が散りばめられたカードを広げた。何に見えるかを言え、と言う。
 この時には、男の混乱は頂点に達していた。この検査に男は知識があった。精神状態を分析する常套の手法なのだ。
 男の不安は、入院の診断が下った場合にあった。今しがた、病院の駐車場に入りがけに、異状な集団と遭遇したのだ。十数人の似たような風貌の一群が、監視の男に導かれて無気力に歩いていた。
 ここの患者だと、侮蔑の視線を浴びせながら、父親が言う。
皆、眼差しが虚ろだ。前の者の肩に両手を掛けたり腰に手を繋げたりして、とても一人では歩み得ない風情なのである。精神を病む人間を間近に見たのは初めてだった。悪寒が走った。もしかしたら、自分もあんな容貌になってしまっているのではないか。不眠などは単なる気のせいだったのではないか。精神病院の検診を高をくくっていた自分を悔いた。
彼らはそれぞれが何かを、休むこともなしに呟いていて、時折には甲高く奇声を発する者もある。自己を全く失っている有り様なのである。狂えば自己を喪失する現実の恐怖を、男は初めて悟った。絶対に本物の狂気に陥ってはならないと覚悟した。 とりわけて、最後尾の女は異様だった。他の者達はくすんだ一団の塊と化しているのに、なぜか、この女だけが鮮やかな青いワンピースを着て、一人、途切れているのだ。三十路半ばの豊潤で艶アデヤカやかな女である。
 男の眼前まで来た女が立ち止まった。稚拙な行進は女を取り残してぐずぐずと歩み去る。女が傍らのベンチに座った。宙をさ迷う大きな瞳が潤んでいる。すると、にわかに裾をめくった。無防備な下半身から一群の濃密な陰毛が現れた。そして、躊躇いもなく、女が股間に手を忍ばせて自慰を始めたのである。男は万華鏡の幻影の様な有り様に目が眩んだ。
 「どうかしたのかしら?」「見て、感じたままを正直に言えばいいのよ」女医の赤い唇が、別な生き物の様に濡れている。「むしろ、正直に言ってもらわないと困るの」
 問診は難なくやり過ごしたつもりだが、これは勝手が違う。ここに至って、正常を装う答などは男に出来得る筈もないのだ。最早、感じたままを答えるしかない。
 入院は身震いするほどに恐怖だが、狂っている筈がない。あの後で、玄関のガラス戸に写した姿は、あの患者達とは明らかに違っていたではないか。目に力を入れてみた。焦点は定まっていて、むしろ険しいくらいだったではないか。あの者達は茫茫として、すっかり無表情だったが、俺は違う。笑顔までを写すことだって出来たじゃないのか。
 或いは、ノイローゼくらいの診断は下りるかも知れないが、服薬や通院程度であれば止むを得ない。そういえば、この女医はさっきの患者の女にも良く似ているではないか。この女とまた会えるなら、それもいいのではないかと、思ったりもした。
 「どうかしたかしら?」女医が、また、足を組み替えた。太股の奥までが覗けそうな風情なのである。「解るでしょ?」男が頷く。「だったら、始めましょうか?」
 女医がカードを広げて、男が答えるゲームが始まった。数枚目の模様は異様だった。「これは何に見えるかしら?」「どう?」「…蛇が…」「蛇?」「そう」「蛇がどうしたの?」「白い蛇と青い蛇が絡まっている」「どんな風に?」「複雑だ」「何をしていると思う?」「思った通りに言って欲しいわ?」「……交尾…」「驚いたわ」「だって、あなたが初めてなんだもの」「実はね。私もそう思ったのよ」「そうなのよ」女医が姿態を屈めてくねらせた瞬間に、白衣の下に隠れている乳房が覗いた。重厚な肉の塊が揺れた。「蛇の交尾って、見たことあるのかしら?」「ない」「そうよね」「あなたは?」「面白い人ね。知りたいの?」「ないわ」
 「読書は?」「好きだ」「今はどんな本を読んでいるのかしら?」「『原発の儚』」「あの覆面作家の最新巻ね。私も読んでいるところよ」「今、あの海岸に建設しようとしている原発が、一〇年後には爆発するという話でしょ?」「近未来の予告だよ」「本当に原発が爆発すると思う?」「必ずするよ」「この県はどうなるのかしら?」「ある学者なんかは、拡散した放射能は東の高原にまで降り積もると言っている」「すぐそこね?」「風速が平均の場合の計算だよ。風が強かったら、この街だって人が住めなくなるんだ」「あなたも建設には反対なの?」「推進している奴らの気が知れない。北の国を愚弄してるんじゃないか?首府の埋め立て地にでも作ればいいんだ」「過激なのね」「公憤だよ」「公憤?」「そう」「儚シリーズは?」「みんな読んでる」「私もなのよ。何だか嬉しいわ。あのシリーズの何に共感するのかな?」「…論理、反骨、反権力、義憤…公憤かな。それに…」「何?」「…禁忌の暴露だな」「それって?」「御門制と性だよ」「随分と端的に表現できるのね」「作家が誰かわからないのも面白いわね?」「作品は独立するから、誰が書いたかなんてたいした意味はない」「あなたも書くんでしょ?」「書く」「読んでみたいわ」「駄目だ」

 「診断だけど…。そうね。あなたは正常だわ。あえて言えば、気鬱ね。気の迷いみたいなことよ。悩み多い年頃だもの。ニキビみたいなものだわ。若さの特権なのよ。悩まない青春なんで無意味でしょ?そう思わない?」「思う」「そうでしょ?でも、不眠は困るわね。若いから余り勧めたくはないんだけど。睡眠薬を飲んでみる?」「そうね。薬は矢鱈に飲むものじゃないのよ」「あなた?」「簡単で、覿面テキメンな治療法があるのよ」「私が発見したの」「聞きたい?」「毛を剃るの」「頭はもちろん…あなたのは短いから。全身よ。脇の下も…陰毛もよ。どう?」「毎日が暑いでしょ?今年は特別だわ。こんな陽気だもの。誰だっておかしくなるわよ」
 「あなた?」「秘密を守れるかしら?」「私だって、そうなのよ。鬱陶しくなると、剃るの。夕べも剃ったばかりだもの」「やってみる?」「ジクジク考えていたのが嘘みたいに、さっぱりするわよ」「どうしたの?」「そうね。初めてだものね」「どうしようかしら…」「いいわ。あなただったら。特別に診てあげようかな?」

 「私は、あなたのお父さんの教え子なのよ。国民学校6年の時だわ。あなたのあの家にも何度も行っているのよ」「そうなの。あなたのおむつも代えたのよ」「驚いたでしょ?」
 「離婚したばかりの先生が急な出張で困っていて、一晩だけあなたを預かったのよ。覚えてる?」「あなたがテーブルの角にぶつかって、ひどく泣いたの」「余りに辛そうだったから。医師の卵だもの。診てみようと思って。脱がせたら、赤くなっていて。ここが痛いのって聞いたら、頷くから…。膨らんで。腫れてるみたいだったんだもの。可哀想で…。思わず、舐めてしまったの」「ご免なさい」「覚えてる?」「ねえ?」「覚えてる」「あんなこと。忘れるわけがない」「ご免なさい」「謝ることなんてないよ。治療だったんだろ」「勿論だわ」「だったら、いいじゃないか。また、ぶつけたら?」「どうして欲しいの?」「治療?」「…治療だもの」「だから?」「…いいわ」
 「思い出したわ」「儚シリーズの第六巻だわ」「女医と学生が蛇の交尾を見るシーンがあるでしょ?」「あのモデルになった場所は特定されているのよ」「鯉の滝だ」「そう」「だから?」「行ってみたいわ」「あなたと私の不思議な因縁が解明できるかも知れないでしょ?」「先生には絶対に秘密なのよ?」
 三日後の日曜にバスに乗った男はある寂れた史跡で降りた。そこの駐車場に女の車は既にあったのである。



草也

労働運動に従事していたが、03年に病を得て思索の日々。原発爆発で言葉を失うが15年から執筆。1949年生まれ。福島県在住。
筆者はLINEのオープンチャットに『東北震災文学館』を開いている。
2011年3月11日に激震と大津波に襲われ、翌日、福島原発が爆発した。
 様々なものを失い、言葉も失ったが、今日、昇華されて産み出された文学作品が市井に埋もれているのではないかと、思い至った。拙著を公にして、その場に募り、語り合うことで、何かの一助になるのかもしれないと思うのである。 
 被災地に在住し、あるいは関わり、又は深い関心がある全国の方々の参加を願いたい。

ピリカの儚1️⃣

ピリカの儚1️⃣

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-27

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著作権法内での利用のみを許可します。

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