不可思議な国1️⃣

不可思議な国


副題
私が異民になったわけ

2015年晩秋


-福島の怒り-

 2011年3月11日、14時46分。激震(東日本大地震)が発生。わずか、30秒ばかりであったが、まさに、震天動地。ストーブを消してトイレに駆け込んだ。
 大津波が凄まじい勢いで悉くを飲み込む映像が流れる最中、3月12日、15時36分、原発(福島第1原発1号機)が爆発した。混乱し、震撼した。その後も、次々に爆発して、雨混じりの放射能が降り注いだのである。


デレスケヤロー。ウスバカヤロー。カンプラヤロー。

ホイド、ホイド、ホイド。

フザゲダヤロメラダ。デレスケヤロメラダ。ホイドヤロメラダ。

原発ブットンダ。放射能トビデダ。アノヤロメラ、ヒトゲノトジサ死ノ灰バラマイダ。

チギショー。
オララ、シンヂム。
チギショー。
ヨグモヤッテクッチャモンダ。
アノヤロメラ、
ゼッタイカンベンデギネ。

ンジャガラ、
オラ、タダガウ、タダガウ。

タダガウドー。
アダヤロメラニャ、マゲデランニェ。

ンダッペ?
ニシャラモンダッペ?
カンベンデギネベ?


 「東北人は温厚で忍耐強い。強奪も起こらない。整然とした態度は世界の誇りだ」と、とんまな政治家が胸を張った。農水大臣は、いざとなれば有り余る備蓄米を放出する、と、豪語した。しかし、避難所の親子が一つの握り飯を分けあい、民間の業者が大阪から食料を緊急に空輸し、福島の無人化した被爆地では空き巣が横行していたのである。障害者は取り残されて、避難所での差別も訴えられた。
危機管理の欠如を隠蔽するフィクションが、次々と編み出されたのだ。

 あの時、福島県民は本当に怒らなかったのか。
 原発が爆発した。巣を壊された蟻のように、否、蟻は危機回避の本能を持っている。蟻以下の無秩序で、四方八方に逃げ出したのだ。風向の放送すらない。まさに、管内閣は無政府状態だった。そこに、放射能が降り注いだのだ。
 彼らはいわきや茨城か、相馬、仙台方面に逃げるべきだった。しかし、風と共に福島や郡山に向かい、逃げ延びたと思った先が、自宅より放射能濃度の高い者もいた。
 しかも、最も放射能が降り積もった浪江の津島山中に1週間も留まったのだ。そこで、真っ白い防護服を着て、だが、身分を明かさない者達に、一刻も早く立ち去れと警告された、と、いう証言がある。環境省は秘密裏に放射能調査をやっていたのだ。何という不気味な縦割り行政だろう。まるで恐怖映画のシーンではないか。
 この国では、避難の際に、風向きすら思慮されなかったのだ。枝野も気象庁もマスコミも、一切報じない。「スピーディ」は極秘に封印されていた。県知事や避難自治体の長は風向きを考えなかったのか。自治体職員で、誰一人、警鐘を鳴らす者がいなかったのか。
 爆発直前に保安院が、「ベントは風向を考慮する。放射能は海上に流すから陸は安全だ」と、発表していたにも拘わらずである。あげくに、保安院は、「ソフトベントだから放射能はほとんど減少する」と、言っていたではないか。これらの発表を聞いて、私はひと安堵していたのだ。
 原発が爆発した瞬間にすべてが真空になった。何も報じられない。記者すら逃げ出していたのだ。
 公示になると選挙報道が消える類いの不気味な静寂だ。原発が爆発したのに、宮城や岩手の津波被害ばかりが情念たっぷりに報じられていた。絆だ、魂だと騒ぎ立てていたのだ。
 そして、未だに、すべての関係者が口をつぐみ、責任を放棄している。菅は省エネ住宅を建ててご満悦だ。枝野などは幹事長に返り咲き、何事もなかった様に厚顔だ。
 川内原発は避難計画すら確立していないのに再稼働をした。当該住民が経済を重視して容認したのだ。
 何と恥知らずで貧相で、無知で軽薄で、野蛮な国なんだ。

 2015年9月10日。50年にあるかないかという大雨で、茨城県に特別警報が初めて出されて大騒ぎになった。微に入り細に渡って避難指示が出された。
 あの時とは段違いだ。やり易い事はやるのだろう。しかし、常総市では、鬼怒川が決壊しても、非難指示が出されなかった地区があった事が明らかになった。そして十数名の行方不明者が出ている。その決壊箇所は予測されていて、水害のシュミレーションまで行われていたにも拘わらずである。
 相も変わらず、ことごとくに、この国の危機管理意識は弛緩し切っているのである。

 私は、あの時程、怒った事はない。怒髪天を衝く、悲憤糠慨、そんな生半可なものではない。発狂寸前まで怒った。これ以上怒ったら狂うと思い、異人という概念に辿り着いて、精神のバランスを辛うじて保っている。
 だから、長い間、言葉を無くした。と、言うより、言葉さえ無価値だとしか思えなかった。

 12年前に頚椎を手術して、暫く、歌や大きな声すら聞けなかった。神経細胞が生理的に異常をきたしていた。それと同じように、生理が言葉を拒絶したのだ。

 福島県民は本当に怒らなかったのか。
 何人かの怒りを見聞きした。西郷村でいち早く放射能が検出され、村長は、「こんな遠くまで来るわけがない。風評被害だ」と、激怒して見せた。しかし、村は汚染されていた。
 一斉避難を拒否し続けた飯館村長の怒りは何だったのか。郡山市長は国や県の方針に逆らい、初めて学校の除染をやった。彼も怒っていた。しかし、その後の除染は一向に進んでいない。
 殆どは陳腐な怒りだった。だから、その後の選挙で福島の首長達はことごとく再選されなかった。ただ一人、桜井南相馬市長の世界に訴える怒りは論理的に思えた。
 随分と自殺者が出たが、100歳の老人の場合は凄絶な怒りだったろうと、私は思う。

 連合は怒っていたか。連合結成時に我が世を謳歌した電力総連はどうか。未だに、総括の弁は何も聞こえてこない。
 それどころか、1年後の県議選では、福島原発出身の民主党候補は、県の方針となった県内原発全廃をすら否定した。都知事選では都連合は細川ではなく舛添を支持した。
 そして、今や、春闘を安倍にやってもらっている有り様だ。 そもそも、松下政経塾の労使協調路線を思考の背骨にするこの組織は、いよいよ馬脚を現した。連合は存在理由すら問われなければならないのだ。

 立地自治体の被災者は、俺達は被害者だ、国に裏切られたと言い募った。しかし、彼らの大半は原発に積極的に賛成して利益を享受し、半世紀に渡って反対派を罵倒していたのではないか。
 原発推進派で相双のドンといわれた双葉町の町長が、支持者を引き連れて埼玉まで逃げ、最後に町は四分五裂した。この町長は辞任に追い込まれ総選挙で落選し、あげくに、ある漫画で被爆を訴えマスコミに登場した。私には滑稽で不気味な悲喜劇としか思えない。
 福島とはこんなに陳腐で下劣な県民性なのか。だとしたら、それはどの様にして作られたのか。

 私は満身で怒っていた。そしてあの時、私は言葉を失った。取り戻すのに4年かかった。しかし、本当に取り戻せたのかどうかすら、解らないのである。

 あの時、これは戦争だと思った。東日本一帯は国家の放射能に侵略され占領されたのだ。
 必定、日本のあの醜い戦争、明治維新以来の歴史に思いを馳せた。


-立ちすくむ人々-

 震災と原発爆発の直後、コマーシャルと全ての芸能、スポーツ番組がテレビから一斉に消えた。猥雑な笑いの日常が清浄な悲惨に一変した。
 私はある種の新鮮な感覚すら覚えた。この国が知性を取り戻し、災難を克服する叡知を獲得できる様な錯覚をすら感じた。
 しかし、その期待は瞬時に吹き飛んだ。
 通常のCMの代わりに広告宣伝機構のCMが流れる。金子みすずの詩、「絆」のイメージ映像、イナワシロコズというバンドの「フクシマ」の絶叫等がCM時間帯にキチンと入る。宣伝費の保険システムかと思った。

 「東北魂」「福島魂」「~魂」、聞いた事もない魂の大合唱だ。「大和魂」もこうして、戦争中の混迷に作られたに違いない。

 官房長官、東電、原子力保安院等の記者会見は中途で打ち切られた。「神は細部に宿る」と、言うが、肝心な所でCMが入るのだ。そして脈絡なく別なシーンに転換する。

 NHKの科学担当の解説委員が怒りを露に原発爆発を批判した。彼は二度と出演しなかった。

 西郷村の稲藁から高い放射能が検出された。村長が激昂して風評被害を訴えた。だが、数値が正確である事はすぐに確定した。

 「発災から1週間だ」と、言って、まるで記念日講演の態で、菅が記者会見に現れた。私は仰天した。
 4月1日、菅は背広に着替えた。フランス大統領が来日していた。私はこの事で、もはや爆発の危険はない、と、判断した。

 その後、芸能人やスポーツ選手の発言をいくつか聞いた。曰く、「お笑いの無力を知った」「こんな時にこんな事をしていて良いのか」等など。だが時を経ずに彼らは言った。「しかし、出来る事はこれしかない」「歌い続けられるのが幸せなのだ」等など。
 たちまち、被災地は連日、芸能や歌謡ショーの様相だ。炊き出しでお祭り騒ぎだ。異様だと感じたのは私だけだったのだろうか。
 勿論、福島には誰一人来ない。浜通りからはマスコミすら逃げ出し、食糧、ガソリンの輸送すら拒否されていたのだ。

 花見が自粛されていた。毎夜銀座で飲んでいると豪語するある情報番組のキャスターが、「いつも通り酒を飲もう。復興になる」と、岩手の酒造家を出演させて、花見をやろうとぶちあげる。
 プロ野球開幕の直前だった。読売新聞社主が予定通り開催しようとして、選手会が反対し延期された。

 県知事は、国の方針に盲従して除染の方針を示さない。伊達や二本松、郡山市長が独自の除染をぶちあげた。
 これらの現象は、一体、何なのだろう。
 日本人が得意な「思考停止」ではないのか。戦中、戦後もそうだったのではないか。経済の復興をだけを優先して、戦争を総括しなかった。真剣に総括するなら、天皇制の本質が問われなければならなかったのではないか。明治維新まで遡る必要がある。しかし、敗戦交渉そのものが、国体護持(天皇制維持)から出発しているのだ。総括ができるわけがない。
 原発事故の調査(総括)は民間と国会、政府の事故調で行われたが、その結論はどれだけ国民に共有されたか。少なくとも、国会は事故調報告を審議していない。
 福島の原発事故を日本人は経済の問題として捉えた。ドイツ政府は倫理として考え、原発廃止を決めて国民がそれを支持した。スイスもイタリアも国民投票を実施した。
 私は、原発の地下に電源を置く如くの愚鈍な日本人は、原発を扱う資格がないと結論した。そして、最も愚かだったのは福島県民ではないのか。
 異民になるというのは、当然、県民でもない。私は原発建設の時から反対してアカと呼ばれてきた。本懐である。


-懐疑-

 日本国憲法は第9条で理想を掲げた。しかし、現実に埋没して、論理的な帰結としての非武装中立を選択できなかった。
 経済の復興を果たした後に、アメリカ軍が駐留する日本に、理想の実現は片鱗もなかった。だから、安倍が集団的自衛権の行使を目指すのは、彼の論理では必然なのだ。自民党はそれを目指してきたのだ。
 今、阻止する方法は唯一つ、野党が議員を辞職し国民に信を問う、これ以外にない。この選挙に勝利して初めて、憲法9条は日本国民のものとなるのだ。しかし、それを望むのは絶望的だろう。この国の国民はそういう体質ではない。

 日本語は美しいのか。私は全く思わない。そもそも日本語って何なのだ。
 和語といわれるものは、弥生時代に朝鮮半島から来た民族が話していた言葉ではないか、という考えが私にはある。
 和語というのは古代のハングルではないのか。ハングルの助詞と助動詞で、漢語(中国語)をつないだのが日本語ではないのか。
 その頃、私の始祖の東北の縄文人は、例えばアイヌ語の様な、全く別の言語を喋っていたに違いない。
 東北にはおびただしいアイヌ語の地名が残っている。宮城県境が南限といわれるが、福島県の阿武隈、安達太良、猪苗代という地名や、岩城(磐城)、岩瀬、岩代などの昔の国名もアイヌ語ではないか、と私は思う。「イワ」は岩手や岩木山にも通じるではないか。

 東日本と西日本ではDNAが違うという。
 沖縄、京都、東北の人の顔の特徴は明らかに違う。

 歴史年表で、縄文時代から弥生時代に移行するという図式もおかしい。家康が幕府を開いて江戸時代と言うのとは訳が違う。
 縄文当時の人口は東日本が100万、西日本は10万だ。縄文人のほとんどいない西日本に朝鮮半島から大量の朝鮮人が来た。それを弥生人と呼んでいる。進んだ農耕技術を持つ弥生人が、原住民の狩猟民、縄文人に同化する筈がない。言葉も含めて縄文人を同化せしめた。その抗争の物語が古事記だ。そして、桓武が本格的な東北征討を始めた。田村麻呂アテルイの戦いだ。これが私の見解だ。以来、縄文人と弥生人、すなわち、東日本と西日本の闘いは続いてきたのである。

 島根県の海岸の温泉町で、私は別な国に迷い込んだ様な、奇異な感覚を覚えた。ハングルの看板が林立しているというだけではない。北陸のイントネーションはハングルに酷似している。
 これらの根拠で、血統を守り通してきた天皇家、すなわち藤原一族は朝鮮民族の一派だと、私は確信する。現天皇が、「韓国に里帰りする」と、言い、物議をかもした事がある。
 しかし、朝鮮民族を蔑視して、自らを大和民族と規定した者達は、いったい、何者なのか。彼らの自己統一性は何なのか。原初の朝鮮半島を否定して、彼らは存在の根元を確定できるのか。
 だから、朝鮮民族を蔑視するなと、私は言うのだ。秀吉も朝鮮併合も、侵略したのだから、ひたすら謝罪せよと言うのだ。


-日本人の評価-

 世界の日本人に対する評価を思い付くまま列挙する。

 満州事変を批判された日本は、1934年に国際連盟を脱退した。今の北朝鮮どころではない、世界の孤児となったのだが、世論は、「栄光ある孤立」として、これを支持した。
 日本は、1941年、アメリカに宣戦布告をしないで真珠湾を攻撃した。世界は「卑怯者」と批判した。日本海軍の総司令官の山本五十六は、日独伊同盟と日米開戦に反対しながらも、真珠湾の奇襲攻撃を決行した。
 私は労働組合の専従役員として労使闘争の根源を極めたと自負している。負け戦はしない、仁義が私の流儀のひとつだった。だから山本を私は否定する。
 特攻はアメリカ人を震え上がらせただろう。今日の私達がイスラム過激派の自爆を恐怖する以上だったに違いない。その根幹にある天皇教は、イスラム原理主義や北朝鮮の金一族専制支配以上に忌み嫌われただろう。
 日本人は「野蛮人」と烙印され、「イエローモンキー」と揶揄された。「猿の惑星」の、あの猿達のモデルである。
 戦後の日本製品は「猿真似」と批判された。
 「メガネをかけカメラをぶら下げ薄笑いを浮かべる」のが日本人だと言われた。
 「ウサギ小屋の働き中毒」とも、揶揄された。
 「ジャパンアズナンバーワン」が喧伝された直後、バブルは崩壊した。
 「失われた20年」は、敗戦を終戦と言い換える様なもので、主語、すなわち、主体を隠蔽している。なぜ「失った」と言わないのか。
 安全保障法制がかまびすしい。日本は「アメリカのポチ」と言われている。
 こんな日本人と、私は違うと思いたい。だから孤独を厭わないのである。


-異民の風貌-

 異民は至るところにいる。ただ、未だ、随所での萌芽だから、統一して連帯はしていない。
 2012年の野田の自爆とも見える解散総選挙では、09年に政権交代を希求して民主党に投票した1000万人が、棄権した。そして、民主党政権は、あっけなく瓦解した。この人々は従来の無党派ではない。政権獲得を成就させたが裏切られて、敢えて、漂流せざるを得ない、新しい異民としての明確な意思表示なのだろう、と、私は考える。
 この時、膨大な異民が誕生したのだ。この現象は、被爆後の福島の首長選でも顕著に現れた。原発政策が曖昧な首長は押し並べて落選したのである。彼らは絶望はしてはいるが、新たな希望を捨ててはいない、と、私は信じたい。きっと、変革の新しい主体を求めているに違いない。
 原発や安保法制に反対するデモには10万人が結集する。彼らは怒っている。そして、その怒りに運動の論理を与えようとしている様に見える。結集の統一を求めていると確信する。異民の萌芽の核だろう。
 安保法制の今国会採決に反対する国民が6割いる。彼らの大部分とは自分を異民と自認してはいないだろう。しかし、安倍政権の国会方針に反対しているのは明らかだ。だから、この世論が廃案に追い込むエネルギーの根源だ。しかし、確実に廃案に追い込む為には、連日、50万人のデモが必須だ。その為には、連合はゼネストを提起しなければならない。議員辞職の方途もある。国会戦術の全てを駆使しなければならない。日本全土を革命前夜の様相に至らせる堅固な論理と覚悟がいる。憲法を守るために全てをかけて闘うというのはそういう事だ。生半可な国会戦術だけで阻止できる代物ではない。革命的エネルギーが必要だ。
 だから、私の夢想ともつかな提言が実践などできるわけもないのだが、もし、廃案にできたら、この国の民主主義は格段に成長するだろう。しかし、成就できないところに革命思想と歴史のないこの国の民意の限界があるのである。

 ソフトバンクの孫正義社長は震災に巨額の寄付をした。そして、原発を否定して太陽光発電事業に乗り出した。彼はモンゴル、インドなど全アジアを視界に入れている。人類に真に寄与する事業にたどり着いた彼は、幸せな異民だろう。
 小沢一郎を評価したい。94年と09年の政権奪還は、専ら、彼の功績だ。今、野党の末席で蔑みの視線に耐えて闘う彼に、惜しみない賛辞と激励を贈ろう。
 細川政権が崩壊した時、私は小沢をキーマンとする再度の反自民政権確立を予言した。小沢批判が吹き荒れていた村山政権下だったから、随分と非難にさらされたが自説は折らなかった。この国の政治情勢では小沢の500万の保守票は欠かせなかったのだ。政権交代の恐怖を和らげる高度な政治的効果だ。
 民主党政権樹立で、必然的に反革命が起きることは予測された。彼らは小沢を標的にした。これも当然だったが、小沢の予見と準備は万全だったのか。次々と小沢の秘密が暴露されて、ワキの甘さと対応にはいささか失望した。終極は、ある時期に、彼は一歩引いて、派閥運営を後任に任せるべきだったろう。

 予算削減の失敗、普天間政策の変転、公約違反の消費税増税、最賃政策の放置など、民主党政権は致命的な失敗を重ねた。その根源は政治センスの欠如だ。すなわち民主主義と組織統治の認識不足だ。
 鳩山のスキャンダルは選挙中に発覚したのだから、勝利しても大激震が予測された筈だ。だから、小沢を総理にすべきだったのだ。菅のむき出しの権力志向を打ち砕くべきだった。あるいは、小沢の願望通りに原口か細野が総理になっていたら、情勢はどう展開したのか。だが、二人とも決断の時期を誤ったのである。
 管は震災と原発対応を根本的に誤った。官僚を統制する強力な政治指導が必要だった。菅は視野狭窄だ。あの時、小沢との和解はできなかったのか。
 野田の解散権を絶対に封じるべきだった。輿石などは、所詮、教師上がりの労働組合主義者だったのだ。
 こうして民主党政権は自滅した。解散を宣告した野田の、安倍との最後の場面などはまさに自爆だったろう。彼らは未だに総括ができていないが、総括しようにも、あの失敗の連続は余りに致命的にすぎたのである。
 果たして、民主党は再生できるか。この問いは、連合は蘇生できるかと同じ位に難問だ。いずれにしても、中小零細労働者、4000万人の過半の共感をつくれない限り、困難だろう。

 総裁選に唯一挑戦した野田聖子はどうか。彼女の来し方は異民の資質を獲得したに違いないと、思わせる。安倍の退陣の仕様によっては、リベラルに触れる振り子を野田が握る可能性はある。初めての女性宰相を待望する空気が創れるかも知れない。ただし、野田がいかほどの政策を示せるのか、ブレーンが古賀という観点からしても、極めて曖昧だ。そもそも、この国のリベラルは、大勢の情念を体現しようと、必定、曖昧にならざるを得ない。民主党政権で、「思い」という言葉が溢れたのがその証左である。


-広島と福島-

 二十代半ばに、労働組合を結成して間もなく、転勤拒否を理由に理不尽に解雇されて、法廷闘争を闘っていいた。その夏、
広島と長崎の原水禁世界大会に派遣された。
広島のある分科会で、運動の風化を嘆く意見が相次ぎ淀んだ雰囲気が覆う。思い余って発言した。「嘆きからは何も生まれない。ノーモアヒロシマで象徴し、祈りと反核だけを主張する情緒的な運動が正しいとは思わない。リメンバーパールハーバーには意思がある。あの戦争は苛烈な現実だったではないか。投下したアメリカ帝国主義も、無為に降伏を遅らせた日本軍国主義も打倒の対象だ。理不尽な解雇と闘っている、福島には原発があり反対して闘っている。いずれも、あの戦争の総括をしない日本資本主義の為せる業だ。地域や形は違っても共通の敵と闘えば連帯できる。風化などしない」そうした趣旨だ。
 原爆記念館に行き息を飲んだ。展示された手記から、内容と近くの住所を選んで訊ねた。初老の婦人が怪訝に迎えたが、理由を話すと、暫く迷った末に、招き入れた。陰惨な体験を詳細に聞いた。帰って機関紙を送ると、丁重な返礼が届いた。
 そして、40年後、福島の原発が爆発して放射能が降り注いだ。病床の私は死を決意した。
残留放射能の検知体制も儘ならない状況で、直ちに被爆の極少化と風評被害が声だかに叫ばれた。一方、避難地域でない所からも多数の県民が県外に逃れた。県が顧問として招請した長崎大の教授は、雨水も飲めるほど安全だと放言した。未開の原住民を叱責するが如くに、「正しく怯えよ」などと、戯言を繰り返す。避難者は補償金で遊び暮らしているなどの非難がさっそく出始める。ラドン温泉もそうなのだから放射能は体に良いのだなどと、言い出す者まで現れる始末だ。
 しかし、ある市長は国と県の方針を無視して学校の除染を始める。自殺者が相次いで、福島県は粉々に分裂した。避難地域になった原発立地自治体などは、原発建設当初から深く亀裂していたのだから、当然の帰結だ。

 広島はどうだったのか。
四年経った今も、私の家は除染されていないが、福島の比ではない。私は自らが放射能に直撃されて初めて、あの若い日の発言の傲慢や婦人の悲哀に気付き、深く恥じた。
広島では、放射能の放出は暫くの間と言うより、手遅れになるまで秘匿されて、未だに闇の中なのであるだ。
黒い雨と手つかずの放射能にまみれ、何も知らされない人々は再建に立ち上がったのだ。被爆し続けたのだ。被爆者はブラブラ病などと差別され続けた。アメリカだけが密かに研究者を送り込み被爆の経過を観察したが、治療はしなかった。
 被爆者運動の顕在化は、1953年のビキニ環礁における第5福竜丸の被爆まで待たざるを得なかった。だが、福竜丸の乗員もマグロが売れなくなるという理由で金銭で闇に葬られた。
これが、日本という国の真裸の姿なのである。
 広島には欺瞞に築かれた平和都市の疑いもある。それは、原子力関連の研究施設を誘致して再建しようという福島の為政とも低通するものだ。
 当時の広島市長が復興予算を獲得するために、あの平和宣言で採択したという、ドキュメンタリーがNHKで放映された。残留放射能の除染政策がどうだったかは全く触れられていない。
 福島の被爆は詳細まで記録が集約され、総括されなければならない。しかし、それすら、広島でなされなかった様に不可能だろう。情緒の国民は激震の記憶が薄れれば、後は非論理の世界を漂うばかりなのだ。


-日本感傷主義の限界-

 戦後70年の安倍談話というもの、あれは、いったい、何なんだ。「朝鮮侵略をいつまでも子供達に謝罪させたくない」と、言う。歴史の責務は、誰もがいつまでも負うのだ。まして、侵略した側の責任は重い。解消するためには真の和解をする以外にない。それには、強靭な歴史観と思想が要るのである。
 安倍は集団的自衛権発動の事例として、有事に朝鮮半島から脱出する母子を持ち出した。次いで子孫の謝罪だ。情で政策を彩るなどヒットラーの手法だ。この男は薄っぺらな感傷主義のチンピラ右翼である事を自ら暴露し続けている。
 その上、この談話は、朝鮮侵略と併合、日清、日露戦争の総括の不十分さを露呈し、新たな火種となった。 いずれにしても、村山談話に変わるものとはなり得なかった。竜頭蛇尾はこの男のいつものパターンだ。必定、黙殺されるだろう。
 この感傷主義は、第1次安倍内閣で教育基本法に、『愛国心』をごり押しで挿入したのと酷似している。心などというものは国家に規定されるものではない。思想や信条は、まさに、自由なのである。
 私にはこの国に対する愛国心などは欠片もない。誰かに侮蔑されたように、紛れもないアカなのだろう。しかし、辛苦の中で闘いながら生きる人々に、限りない連帯を感じる。大和政権に収奪された幻の始祖の国の誇りを取り戻したいと切望している。これからもその為に生きる。
 韓国や中国との真の和解など簡単だ。靖国神社問題と慰安婦、徴用工問題を解決すれば良いのだ。仮に、新たな賠償事案が発生したとしても、両国の要求を全て飲めば良い。天皇すら行かない神社と、僅かな金と謝罪に拘泥し続けるなど陳腐の極だ。その拘泥を私は日本感傷主義と言う。これを捨てられない限り、この国はいびつなままなのだろう。
 1950年代後半に、彼の祖父の岸信介が総理になった時に、『戦中回帰『の批判が巻き起こり、『昭和の妖怪』と揶揄された。戦中に商工大臣として戦争政策遂行の中枢にいて公職追放された老人が、保守政権の政局の狭間から最高権力を握った。戦後もわずか10年の事だ。
枢軸同盟国だったドイツやイタリアの戦後に、こんな事があったのだろうか。
 日本はヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと三国同盟を結び、世界の三分割支配を企んで敗北した。世界制覇の思想は三国とも同じだ。しかし、ナチもファシズムも世界史的に否定されているが、日本のそれは曖昧だ。『軍国主義』として一部軍首脳、政治家、経済人の責任が問われたのみだ。天皇を頂点とする体制翼賛機構の総括は手付かずだった。私は日本型のナチズム、ファシズムを『天皇主義』と命名する。


-太陽暦と太陰暦-

 私が似ているという祖父は養子で郵便局員だった。嫁いだ教師の祖母が結核で死んだ。次に嫁いだ、祖母の妹もやはり教師だったが、祖父と相前後して結核で死んだ。父が幼少期の出来事だと、聞いた。
 私が5歳の時に父母は離婚した。何故か、あまり家にいない教師の父のさしたる記憶もなく、幼い頃から、警察官の夫を亡くした曾祖母に育てられた。この曾祖父は警察署長で退官した後は、民政党の熱心な支持者だったが、臨終の間際に皇居の方角に端座して遥拝したと、聞いた。
 老人との暮らしだから、家事は随分としたが、五衛門風呂を炊くのが日課だった私は、何故だか、5月5日のこどもの日、端午の節句に菖蒲湯に入ろうと、その事に気が付くまで、何度か思った。しかし、この地では、太陽暦のこどもの日には菖蒲は、未だ出回らないのであった。
 太陰暦から太陽暦に変わっても、菖蒲の生育時期が変わらないのは自然の道理だ。本来の端午の節句は、一月遅れの旧暦なのだ。6月に曾祖母が用意した菖蒲で自ら炊いた菖蒲湯は、しかし、こどもの日とは縁もゆかりもないものだった。風習の謎と、この国の暦の不可思議に気付いた原初の体験である。
 そして、あっという間に、菖蒲湯も柏餅の風習もなくなった。年老いた曾祖母がそうしたものを用意する気力も無くしたからなのか、時勢だったのか、知る由もない。しかし、菖蒲のあの大人びた香りだけは、遠い夏の日の記憶に、未だにある。


-旧正月と忠臣蔵-

 同じ頃、旧正月に二つの、そして一度限りの記憶がある。
 一つは子供達の門付けだ。「ひとつ目の鍬先に金銀茶釜が~」などと、はやし歌を歌いながら近所の家を回って、菓子などを貰う。
 もう一つは、団子刺しだ。何の木だったのか、小枝の多い木に米粉で加工されてけばけばしく彩色された小判などを刺す。団子は曾祖母が作った。1955年頃の体験だが、翌年に二つとも、一瞬に、姿を消した。何故なのか、未だに解らない。
 忠臣蔵に至れば、最早、ブラックジョークにもならない。ある時まで、討ち入りの日は太陽暦の12月だと信じていたが、それにしては雪が少ないとも思っていた。実際の決行日が、旧暦、すなわち、1月末だと知ったのは、かなり後年だ。
 笑う事も出来ない歴史の改竄だが、平然と受け入れているこの国の国民の不気味さは、時おり、私を震撼させる。


-正月-

 共産党独裁のかの中国の正月は、春節といい国民的大行事らしい。日本流に言えば旧暦で行われる、いわば旧正月だ。韓国もそうだと聞く。
 私も、散々に言われたが、共産主義を嫌悪しアカと蔑称して、歴史と伝統を声だかに主張する日本の保守主義者や、一部の大衆は、振り返って恥じるところはないのか。
 万世一系の天皇の大権である暦を西洋暦にして、中国から伝来した24節季をそのまま当てはめるという曲芸を恥ともせずに、「和魂洋才」と言い募った御都合主義の明治の長州人も、憲法解釈を都合良く強弁する、安倍というチンピラ右翼の総理の如くに分裂していたのか。
 中国や韓国と、日本とどちらの国民が、アジアの自然と成り立ちや風習を大事にしているのか。
 幼い頃、正月三が日は金を使う事を禁じられた。正月は平穏に過ごす、金は不浄なものだという、明治生まれの曾祖母の教えだった。大晦日には風呂で丹念に洗った。石鹸は貴重品で、何とかカズラという植物が良く泡立つた。御節があったかどうか。餅や干し柿、干し芋、雪にサッカリンを注いで食べた。近所の子供達を集めて、自作の凧を揚げ、羽子板などをした。急な坂での橇。田んぼでのスケート。押しくらまんじゅう。日がな飽く事なく遊びがあった。
 59年頃にテレビが来た瞬間に、それらは押し並べて無くなった。子供達が野原から消えたのか、大人びた私が自然の摂理でそうしたものから離れたのかどうかは、もはや、記憶の彼方である。。
 今はどうか。言わずもがな、正月の風景は、元日から初売りに並ぶ報道で始まる。それを新しい一年の景気のバロメーターにするのだ。国民の大多数が選択したのだろうが、私は興醒めている。
 そして、「門松や冥土の道の一里塚」という、一休禅師の句が妙に耳に残る歳になった。
 盆踊りは、高度成長のただ中に、我々の世代が『金の卵』ともてはやされて、一斉に首都に出たが、残った村では、やり手がいなくなり早々となくなってしまった。いったい、それくらいの価値観しかなかった習俗や風習というものはどこから来たものなのか、気にかかっている。


-このクニ、ニッポン?ニホン?-
 この国、日本の正式な国名はニッポン国だという。
 しかし、サンフランシスコ講和条約受諾演説で、吉田首相はニホンと言っている。安倍もまちまちだ。天皇すらニホンと言う。
 一人の人間が一貫してニッポンと言うのを聞いた記憶がない。
 高揚している時はニッポンと言っているようだ。サッカーの応援などで、確かにニホンとは言いにくい。オリンピックではニッポンの大連呼だ。平穏な気分や文節ではニホンと発している様に見える。この国では国名までが情緒に左右されるのか。
 国名の由来すら定かでない。国歌の解釈も分裂していて、国旗の起源も解らない。いずれにしても、この問題は専門家に解析を任せたい。
 自分の国名をゴチャゴチャにして平然としているのは確かなのだから、すべての国民の精神分析が必要ではないのか。こんなポンチ絵の様な陳腐な国は、おそらく、世界にはないのではないか、とだけ言い置く。


-西暦と元号-

 中学の時、誕生日の記載だったのだろうか、何気なく西暦を使ったら、中年の男性教師に酷く咎められた。持ち前の反骨で理由を聞いたら、日本人なら元号を使えと吐き捨てて立ち去った。それ以来、元号は一切使わない、と、決めた。
 いったい、元号に拘る者と、西暦を通す者とでは、人種すら違うのではないか、と、思う。やたらに元号で話す者に、悪戯で、時おり、西暦を聞くと狼狽えながら換算する。
 政治家が国会で、元号と同時に西暦を併用する時ほど滑稽な事はない。
 元号で状況を区切り、時代と称して歴史を語り、疑問を抱かない民族とは、いったい、何なのか。
 元号を持つ国家は日本だけだ。そして、元号は天皇の即位期間だと言うのだから、あげくの果てには戦争中は皇紀を使っていたと言うのだから、ちゃんちゃら物だ。
 別に、キリストを起源とする西暦を絶対視しているわけでは、全くない。西暦も歴史を計る便宜的なものだ。使いやすいものが良いだけのことだ。元号の無用な拘りと非比較性、混乱が煩わしいだけなのである。


-いじめ-

 小学6年の時に、同級生の少女のわずかな金が紛失した。日頃から素行の良くないある少年を大半が疑い、教師も、断定こそしないものの、執拗に彼を追求した。少年は泣きながら否定し続ける。
 たまりかねた私が一喝して騒動は止んだ。少年が歩み寄って礼を言う。後でその教師に、さしたる理由もなく、酷く殴られた。父親が教師だったから、その程度に出鱈目な連中なのだ、と恨みもしなかった。
 敗戦直後に日教組は、「教え子を二度と戦場に送るな」と、声高に総括したが、何のことはない、子供達を相手に絶対君主を気取るこんな教師は、ごまんといたのだろう。
 中学二年の時に、孝子という同級生が、臭いと囃し立てられて泣いていた。腋臭ワキガだと、誰かが言う。私は一喝した。
 少女の潤んだ視線を何度か感じた記憶がある。随分と後になっって、海外では腋臭が性的魅力だと聞いた。もし、本当なら、彼女は妖艶に変幻しただろうか、と、考えたりもしたが、還暦も随分越えれれば言う事もない。
 私は物心ついた頃からガキ大将だった。弱い者を守る、理不尽な攻撃には体を張る、親分の鉄則だ。
 そのまま大人になり、曲折を経て労働組合の専従役員になり、全うした。そもそも労働組合は弱い者を助けるのが仕事だ。満足して感謝している。
 息子が中学二年の時に、額に赤で犬と書いて帰って来た。咎めると、教師に書かれたと言う。すぐに自宅に電話した。酔って強弁する日教組の役員だというその男を、散々に脅かして謝罪させた。
 ある組合で、重大な局面で、一人だけ違う意見を表明した中年の女性組合員が、若い組合員に陰湿ないじめにあった。私は人権擁護委員会に訴えさせた。
 子供の世界も大人の社会も、昔からいじめは蔓延している。利己主義の当然の帰結だ。資本主義はその要素を多く含んでいる。淘汰のエネルギー源だと言っても過言ではない。
 中学の頃、利己主義と個人主義の違いを教師に聞いたら、利己主義は悪で個人主義は善だと答えた。私は未だに拘っている。個人主義を肯定的にとらえられない。ミーイズム、リバタリアンなどは全てリベラルのなれの果てではないか。
 この国はピラミッドの重層構造の様に格差や差別、そしていじめが連なった社会だ。しかし、誰もそれを言わない。
 子供の自殺が明らかになる度に、対処の是非を論じて、仕舞いには頭を抱えるパターンの繰り返しだ。何をか言わんや。


-抑止力-

 北朝鮮や尖閣諸島を巡る抑止力の議論は、お笑い草ではないか。
 北朝鮮が戦端を開くのは韓国だろうし、通常戦力ではなく核を使わなければ公算が立たないではないか。その瞬間、北朝鮮はアメリカによって滅亡させられる。これが北朝鮮の抱える最大の矛盾だ。
 中国やインドがさしたる時を経ずして、歴史上、最大の軍事大国になるのは必定だ。日本が抑止力で御せる相手では、到底ない。
 今や宇宙から攻撃できる状況だ。しかし、サイバー攻撃にはどう対処するのか。地球温暖化や人口問題には深刻に対処しているのか。
 本当に戦争を考え、人類の未来を思う時、各党の軍事の抑止力の論議などはは稚議に等しいのではないか、と、思ったりする。


-男と女の歌-

 歌謡のよもやまなど考えた事はなかった。今も、とりわけ、真剣なわけではない。
 ただ、ある瞬間に、ふと、思い付いたのである。この国の歌は、殆ど全てが男女の関係性を表現しているのではないか。他に考える事はないのかと、思う程に、飽きもせず、若きも実年も、Jポップも演歌も、ひたすら手を変え品を変え、時には性交の場面すら想起させながら、昼日中から恥じらいもなく、延々と繰り返し歌う。
 こんな民族は他にもあるのだろうか。
 万葉集もそうだと聞く。源氏物語に至っては性愛小説ではないのか。
 古代ギリシャは哲学者や科学者を輩出した。古代中国の百家争鳴も現代中国の基盤を形成している。他国では、論理の命脈が歴史を貫いているのではないか、と、考えたりするのである。
 この国の、とりわけ若者はいつもバカ笑いをしているのではないか、と、思えてならない。手を叩きながら笑う。チンパンジーに似ている。原始の無知をあからさまにして、ありのままの自分だと歌う。世界にひとつの花だと歌う。しかし、花は群生している。そうでなければ種は残せない。個を歌い類は歌わない。
 私の若い一時期、フォークソングがあった。反戦歌があった。ジョン・レノンがいた。
 若者は怒っていた。意義を申し立てた。革命を夢想した。自己を表現するためには論理が必要だったのである。


-現代史を教えない歴史教育-

 これなどは、愚鈍な私には、酷く理解しがたい事案だ。
 義務教育の歴史の教科書はあるのだ。現代史も記載されている。しかし、明治維新辺りで高校受験になり、あとは教えられないままにバタバタと中学を卒業する。高校では日本史は選択科目になる。1949年生まれの私が、まさにそういう経験をした。こうして、この国の現代史を全く知らない若者が輩出されてきた。今やアメリカと戦争した事も知らない者までいるという。韓国や中国に対する侵略の歴史も、当然、知らないだろう。
 なぜ、こうした事が起きるのか。文部省と日教組が談合でもしなければ、こうした事にはならないのではないか。誰も問わないし答えない。争点にもならない。
 教えなければならないものは、教えれば良いだけの事ではないか。それが戦後70年に渡って放置されている。この国は極めて異形ではないか。
 現代史、しかもヒットラーと同盟して世界制覇を企み実行した日本の戦争が、義務教育の場で子供達に一切伝えられないのは異常の極みだ。
 相争ったフランスとドイツが歴史認識を共有して、ナチズムを徹底して総括し批判し続けている現実と比較すれば歴然だ。
それが放置される社会、放置する国民、この日本という国がたぐいまれに異様なのだ。曖昧などという程度のものではない。無責任の極みだ。
 第一次安倍内閣は、戦後レジームの総決算という陳腐な基本方針を打ち出して、突然、愛国心に拘泥した。すったもんだのあげく、愛国心という文言を教育基本法にごり押しして書き込ませたのである。チンピラ右翼が言いがかりをつけるがごとくに、この甲高い声の持ち主は、国民の内心に土足で踏み込んでかき散らかしたあげく、愛国心のかけらもない自己中心な閣僚達の相次ぐ不祥事で退陣した。ポンチ絵の様な政権だった。
 その男が、政治音痴の民主党の自滅に乗じて、彼の祖父の如くに再登板した。暫くは景気の回復を隠れ蓑にしていたが、憲法改正が至難と見るや、閣議で憲法解釈を変更し、安保法案で馬脚を現した。こんなチンピラ右翼が総理になり、一強などと囃したてるこの国の民意は、もはや、うんざりだ。



草也

労働運動に従事していたが、03年に病を得て思索の日々。原発爆発で言葉を失うが15年から執筆。1949年生まれ。福島県在住。
筆者はLINEのオープンチャットに『東北震災文学館』を開いている。
2011年3月11日に激震と大津波に襲われ、翌日、福島原発が爆発した。
 様々なものを失い、言葉も失ったが、今日、昇華されて産み出された文学作品が市井に埋もれているのではないかと、思い至った。拙著を公にして、その場に募り、語り合うことで、何かの一助になるのかもしれないと思うのである。 
 被災地に在住し、あるいは関わり、又は深い関心がある全国の方々の参加を願いたい。

不可思議な国1️⃣

不可思議な国1️⃣

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-27

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