選択電車
きっとそうだったはず
咥えていた煙草を手にする。僅かに火が残っており、とても痛くその光景が焼き付いた。とてももう一度吸いたいとは思わない。目の前にあった屑籠に放り込んだ。
少し歩くと下りの階段があった。
覗くと下は真っ暗で、何一つ音がしない。自分はしかし躊躇わずに階段を降りていった。
傷んだ革靴がこつこつと弱い音を鳴らす。するとまた煙草が欲しくなった。上着の内側を探る。残念ながらもうなかった。
いつまでも続くと思った階段は終わった。
暗闇だと思っていたが、まったくそうではなく、虫の集る蛍光灯が駅のホームを照らしていた。
柱を見ても壁を見ても何も無い。これでは電車の来る時刻が分からない。どこにも行けぬ。しばらく待つしかないと自分は思った。
帽子についた炭をはらっていると、左の方から電車がやって来た。
二両編成で、真っ白な車体。もとより詳しくないが、それでもこのような電車は存在しないことを知っていた。
電車は自分の前に扉をよこすように停止し、扉の開閉を以て自分を呼んだ。素直に従うことにした。
中は外見と違い普通であり、今まで乗ったことのあるものと大差がない。
向かい合うように両端に座席が置かれており、均等に吊り革が垂れている。突っ立って電車を待った自分は、何を意図するでもなく右側を選んで座った。
座席は大変柔らかく、僕の身体を下から支えた。
電車が動き出す。行先を告げることも無い。
ただただ線路に従って前進を始め、車を越す速度で僕を運んだ。
時折、窓の外を何かが走った。
僕は目を疑った。右から左からと次々に走り去って行った。
電車のように白かったと思うが、形は小さな火の玉に近い。
そうかと思えば、今度は左の方へしか行かなくなった。左側からその何かが走り去って行くことはなくなった。僕はそれに酷い嫌悪感を感じた。絞めてやりたいと思った。僕はあの時以来初めて怒った。
僕は怖くなった。
もう見たくないと思った。
座席を立ち、向かい側の席に移動した。こちらの座席も同じように柔らかく、私は満足した。
これでもうあの何かを見ることは無い。背後を走り過ぎたところで、見えなければ脅えることは無いのだ。このまま終点まで座っていたいと思った。
次第に私の服類が小さくなった。
帽子が頭を絞めるので脱いだ。鞄を持ち合わせていなかったので床に放った。今度は靴がきつくなった。靴下ごと脱いでしまって、これも床に投げた。
服ももうだめであった。上着も下着も何もかも捨てた。とても身軽になった。私の気分は良かった。
捨てた服などは消えた。どこへ消えたかと気になったが、観念してまた座席に座った。
アナウンスが流れた。
とても無機質な女の声がようやくですよと語りかけた。
私はようやくか、と思った。とても長かったように感じる。駅に着いたらそいつに文句を言いたかった。
電車は減速を始め、しかしゆっくりと地上へ登り始めた。そう言えば私は階段を降りてここまで来ていた。もう何週間前だろうか。忘れても仕方がなかった。
私は席を立った。
電車は地上にたどり着き、真っ白な光が窓から差し込んだ。とても眩しくて、けれども目を開けていられた。
電車が止まったことを感じ取り、ゆっくりと扉の前に立った。
開いたら大きな声で文句を言ってやろう。私はなぜここに連れてこられたのだろうか問おうと思った。
扉が開いた。
私は引かれるように電車から降り、ホームにたった。
私は大きな声で文句を言って見せた。
目の前にいた人々は笑いを返してきた。私の訴えに返る言葉は無さそうであった。
私は次なる文句をもっと大声で言ってやろうと、叫んだ後に大きく息を吸った。
その時になってようやく気づいた。
私はあれから、一度も呼吸をしていなかった。
選択電車