狂言誘拐者からの手紙

秋津 澪

十代の頃、いまよりもっと精神が不安定だった時に書きました。太宰治と久坂葉子を好んでそうな文体ですね。

 兄さん。
 これ迄いちどとして貴男をこうよんだことはなかったけれども、いま初めてわたしは貴男を兄さんと慕うのです。兄さん。わたしは、好い妹ではありませんでした、いな悪い妹でありました。こんなわたしを赦してくださるかしら、いいえ赦してはくださらぬでしょう、然るにわたしは、貴男をとつぜんに兄さんだなんてよぶのです。けれども断じてわたしは兄さんに甘えたいというのではないのよ、信じてくださるかしら。
 わたしは兄さんのことを慕わなかったとお思いでしょうね、ひがみ屋の貴男ならば、ほんの一寸恨んでさえいらっしゃるかもしれません、でもそんなのは兄さんの認識の誤謬よ、わたしは兄さんを愛していました、ほかのどの女よりも愛していました。と云って、兄さんと恋愛したいだなんておもっていやしないわ、兄さんが余り女に好かれなかったことを、からかってみただけなの。あら、眉をそむけないでくださる? せっかくのチャームポイントが台無し、兄さんは素敵よ、妹の私からみればね。
 冬の夜、高層マンションの屋上で、いくたびわたしはくるしいもの思いに耽ったことでしょう。十六の時分、わたしは妻子あるひとと愛し合っていた、それはいまではまぼろしの如くにおもわれるけれども、あの刹那刹那はわたしのむねに、いたみを伴なう閃光を曳き残しているの。あの甘くおもおもしい感情、かの沈鬱な花々、ひとときしか咲くことを赦されぬ薔薇、たといそれがきえうせてしまったとしても、それはけむりのように高く昇り、そうして、黄昏に融かれてしまうのです。あの一瞬は永遠だった、彼もそうおもっていてくださっていたら、うれしいのだけれども。
 然るにわたしは、ある晩にべつの男の愛撫をうけてしまった、いいえ非難しないでください、わかってる、わかってる、おのが醜さを、わたしはこれでもかという程に自覚している、わたしは醜い、愛の奴隷だ、さながら愛するために生まれて、愛されるために苦しんで、愛するために死ぬような。私は獣、それで好い。
 そうして、真冬の夜の空気はつめたかったのだけれども、冷えた空で吸う煙草はおいしいわね、低温で燃やすのが、煙草を美味にするひけつよ、けれどもわたしの胸は燃えさかっているがゆえに、この恋の味ほど苦いものなんてないのです。なんでも、適切と云うものがあります、それがものごとを愉しむ方法です、わたしはそれを識りません、だれからも教わっておりません、いまどき英才教育だなんておかしいわ、そうお思いになりません? そんなもの、わたしになんにも教えなかった。兄さんはおもわないかしら、強いものね。
 兄さん。
 告白いたします、わたしには性癖というものがあるの、変なことを考えていらしてなくって? ちがいます、そういう話じゃないわ、わたしは絶望に身を撚ると、高いところからおのが身をつきおとして、地に打たれる夢想に耽るのよ、いくどもいくども、わたしは飛び降りるの。落ちるわが身は空を切って、したから吹きつける風がここちよい、そして地に打たれて砕け、わたしの肉体は、とるに足らぬ物質へと還元されるの。それはなんという悦びでしょう、なんと鮮烈な瞬間でしょう、これも永遠なのね、この瞬間もとわに吸われるの、わたしは変態よ、異常性癖者。
 兄さん。私は、だれかに誘拐されたいのです。なにか力づよい腕にがしと抱かれ、そうして、なにか美しいところに運びこまれたいのです、この痛みばかり充ちた世界で、私はおのが脚であるくのが怖いのです、これは横暴な希みなのかしら。

 十七の夏、私は事件を起こしました。
 狂言誘拐。
 この、もはや有りふれてしまった事件をおこしてしまったこと、迷惑なことはわかっているわ、然るにわたしはそれをおこした、なにか烈しくいたましいものがわたしにそれを引き起こさせた、それがなにかというのを、ほかでもない、あなたに説明したいのです。
 それというのも、わたしはあの妻子あるひとと別のかたを愛してしまい、みずからの恋をもてあまして、その余りの巨大な情念をもちきれなくて、そうして、どうしたら好いかわからなくなって、けれども観念は、わたしを誘拐なんかしてくれなくて、いつものように醜いわたしのことなんか無視をして、そうして、わたしはついにおのが身を、意志でもって誘拐することにしたのです。
 わたしは醜いひと、罪ぶかき魔女、そのひとは十六の冬にわが身を愛したかたではありません、別のひと、そのひとは三十をこえたばかりで、特別に美男ではないわ、腕もなんだかみょうに毛深くて、お酒ばかりのんでいるひと。でも彼ってとてもかわいいわ、優しいひと。
 そうして、恋人からの愛はわたしをくるしめて、もういやになって、わたしは、そのかたに抱かれました。
 もうどうすれば好いのかもわからない、自分がどうしたかったかもわからない、どこかへ行きたい、もっと美しい場所へ行きたい、ここは生き辛い、だれかわたしを強引に連れ去ってほしい、でも彼はそんなことしてくださらないわ、なぜといってやさしいから、これは皮肉です。
 わたしはある場所へ行きました。家族へ、あんなにも嫌悪していた、憎悪さえしていたあの家へ手紙をおくり、真夏の都会は夜でも暑い、手がふるえる、独りきりだ、これからどうしよう、そんななかで、そのひとに邂逅したの。
 兄さん。
 つぎにしるす、拙い詩のような手紙のなかみを、兄さんは信じてくださるかしら。信じてくださらなくても好いわ、けれどわたしはこれを書く、なにかがわたしに、それを強いるから。
 彼は夢のような美青年で、しかしなにか沈鬱なものがその顔を翳らせ、そのいたましい色香は、わたしに欲求をかんじさせました。
「 あなたはだれ?」
「 僕は万有引力さ。君を誘拐しに来たんだ」
 そしてわたしは彼に抱かれた、もとめられて抱かれるものの悦び、兄さんにこれがわかるかしら。気がつくと、わたしの肉体は空を切り、下からは強烈な風が吹きつけ、みるみるうちに地は接近し、そのなかで、かれのうつくしい顔は、あんなにもわたしがきらっていた波にも似ていて、それでもわたしは、彼に身をゆだねて、そうして、わたしは、最後の瞬間に、かれの本当の名前を見出したの。それは死でした。…

 兄さん。
 そろそろ終わりにするわね。貴男はわたしを責め立てるでしょう、私の醜さ、異常性癖、けれどもやはりこれだけは、言うつもりはありませんでした、けれどわたしの手をなにかが動かすの、あんなにもわが唇はかたくなにつぐんでいたのに、ああ、これだけは言わせてください、わたしは兄さんを、愛していた、こころから、こころから貴男を、愛していました。貴男からのキスを、ひたいでいいから享けたかった、いちどでいいから貴男に抱擁されたかった、然るに貴男はわたしに目もくれなくて、わたしを軽蔑して、ああいくたびわたしは、ベッドで嗚咽をもらしたことでしょう、わたしが誘拐されたかったのは貴男、ただ貴男だけ。わたしは兄さんだけを愛していた、なのに貴男はわたしにつめたい目ばかりをむけ、わたしをなにかとるに足らぬもののようにあつかい、そうして、わたしはこの事件におこすに至ったのよ。
 兄さん。
 いまでも、胸にのこるかのあこがれが、たびたびわたしに、眩暈を感じさせます。貴男はひどいひと、悪そのもの、ひとを傷つけてばかりのわるい男。
 兄さん。
 こんな醜い妹でごめんなさい。この手紙はもしかすると、逆恨みの手紙なのかもしれない、ああこんな自分がいや、壊したい、いっそ壊してしまいたい。
 兄さん。
 もしこんなわたしを赦してくださるのなら、ああそんなことはないでしょう、決してないでしょう、でももし赦してくださるのならば、いちどで好いから、この弱いからだを、やさしく抱きしめてほしい。それはなんという悦びなのでしょう、想像することさえもできないのだけれども。
 兄さん。
 わたしは、貴男のことを、まだ、愛しています。

   貴女のように生きられなかった、妹より

狂言誘拐者からの手紙

狂言誘拐者からの手紙

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-22

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