遠い記憶
宮島にて
遠 い 記 憶
作 杉 山 実
59-01
2012年の秋、春山俊介は新幹線新岩国駅前の喫茶店で、青木彩矢と時間待ちの為にコーヒーを飲み始めた。
俊介には気に成る事が有ったが、別れる寸前まで言出せなかった。
コーヒーがテーブルに運ばれて飲み始めて、勇気を振り絞ってテーブルにスマートホンを置いた。
俊介はこれから新幹線で博多に帰る。
もう二十分で下りの新幹線がホームに滑り込む時だった。
そのスマートホンに一枚の写真が映し出されて、彩矢の顔は氷付いた。
二人は不倫の関係で付き合い始めて五年以上の歳月が流れていた。
彩矢は今年三十歳にもう直ぐ成る。
俊介は一廻り以上歳が離れた四十二歳で妻も子も居る。
「知られたのですね!良い機会ですから、お別れしましょう!」吹っ切れた様に、彩矢はそれだけ言うとキャリーケースを持って、喫茶店を直ぐに出て行った。
「彩矢!」と呼ぶが既に彩矢は喫茶店を出てしまった。
俊介は勘定を済ませて、慌てて後を追い掛けたが彩矢は既に振り返る事もしなかった。
スマートホンに映し出されていた画像は、彩矢が見知らぬ男性と楽しそうに微笑んでいる姿だった。
彩矢の恋人で須永亘、三十三歳で付き合い始めて半年程度だ。
どの様な入手経路で俊介の手元に渡ったのだろう?彩矢はレンタカーに乗ってもその事を考えていた。
月に一度の不倫旅行に行くのが俊介と彩矢の関係に成っていた。
元々携帯電話とメール、ラインでの連絡で、大体住んでいるのは話では生まれは栃木で、現在は東京に住んでいる。
(五年間楽しい時間をありがとうございました。お元気でさようなら、彩矢)それが最後のメールだった。
その後はメールもラインも携帯番号も全く繋がらない状態に成った。
彩矢はフェイスブック、ツイッターもするが、俊介には何も話していなかった。
俊介は暇な時間、フェイスブックで青木彩矢を検索してヒットしたのが去年。
それから時々覗き見ていたが、一ヶ月前偶然投稿の写真を発見してしまった。
だがその写真は一瞬で、彩矢の操作ミスで掲載されてしまった様だ。
その一瞬が俊介の知る事に成るのだから偶然は恐ろしい。
俊介には妻律子と今年中学二年生に成る娘葵がいる。
九州の福岡に本社が在る医薬品の卸商社、星原に勤務している。
星原は2020年では東京に支店が在るが、数年前までは福岡から営業が東京に出張で販路を開拓したのだ。
約十年前、営業に開拓チームが発足して、二人一組が交代で東京出張をして現在の営業所設立まで漕ぎ着けた。
俊介はその第二陣に配属されて、六年前から東京出張に行く事に成った。
医薬品の営業では、町医者とのコンタクトの為に接待も多く夜の営業活動も盛んだった。
俊介が始めて青木彩矢に会ったのは、接待で連れて行ったキャバクラだった。
場違いの様に見えた彩矢はその日がキャバクラ初日、初々しい姿に俊介は好感を持った。
週に二日間会社に内緒で働き出した初日で、理由は学生時代に奨学金を借りた為の返済で会社の給料だけでは生活が苦しくアルバイトを始めたのだ。
当初は切り詰めて生活をしていたが、東京の生活と職場に慣れたので思い切って夜の仕事を始めたのだ。
キャバクラでは指名客を獲得する為に、自分のアドレスを教える様に指導していた。
携帯を二台持っている人が多く、プライベートとキャバクラ用を持っている事を彩矢は知らなかった。
知っていても余裕が無いので無理な事なのだが、呼ばれた最初の客が俊介の席だった。
俊介はその初々しさと好みの容姿に好感を持ってしまった。
その日から、接待の無い日も律子の出勤日に合わせてキャバクラに行く様に成った。
既に俊介は結婚して子供も居たが、遠い東京の空の下では自由を満喫していた。
彩矢は栃木県から東京の大学に十八歳で来て卒業すると、そのまま東京のアパレルメーカーIOUに就職していた。
彩矢は長身で細身、笑顔が可愛い感じで八重歯が印象的で美人の部類に入る。
俊介は二度目で同伴出勤を彩矢に話した。
キャバクラでは同伴、指名は成績が上がるので、積極的に受ける様に指導されていたが殆ど断る彩矢。
それは昼間の仕事の関係も有って入店時間がぎりぎりで余裕が無いのが一番の理由で、二番目は知らない男性と夕食をしたくないのも大きな理由だ。
だが俊介は彩矢の嫌いなタイプでは無かったのと、店から積極的に指名を獲得する期間に成り俊介は対象の一人として同伴指名を受け入れた律子。
結婚をしている事は初めから知っていたが、積極的に喋る俊介に何処か惹かれる。
月に二度来店して同伴する様に成るまで時間はかからなかったが、彩矢の会社でアルバイト禁止の通達が有り誰かが会社に告げ口した様だった。
その為彩矢はキャバクラの仕事を僅か三ヶ月で辞める事に成った。
「困ったわ!会社にバイトが知られてしまったかも知れない!兎に角今回で最後に成ります」彩矢は俊介にその様に告げた。
僅か三回しか会っていない別れに、未練が一杯の俊介。
一方の彩矢はお金が欲しいので、別のバイトを考える必要に迫られていた。
「会社に見つからないバイト無いかな?」
「幾ら程稼げば良いの?」
「そうね、今の給料から考えると月に五万位有ればぎりぎり生活出来るかな?キャバクラも結構お金かかるから、実際は五万も残っていないかも知れないわ」
「五万か?俺と付き合ってくれたら五万払うよ!どう?」
「えっ?付き合うってSEXをするって事?」
直球で聞かれて恥ずかしくなる俊介だが、もう後には戻れない気分に成っていた。
恋愛遊戯
59-02
「唯会ってホテルに行くだけなら、僕は気がすすまないな!例えば食事をするとか、映画を見るとか、旅行にも行きたい!」
「恋人ごっこがしたいの?珍しいわね!妻帯者の春山さんがSEXでは無く恋人ごっこがしたいなんて?」不思議そうに話す彩矢。
キャバクラでも何度かSEXの付き合いを誘われた彩矢には、俊介の申し出は新鮮に聞こえた。
高校時代から何度も男性から誘われた事が有るが、殆どの男性は彩矢の身体が目的に思えていた。
事実初めての体験は高校三年の時で、高校のクラブの先輩だった。
テニス部の合宿に先輩が指導に来て彩矢は声をかけられて、その後二ヶ月程付き合って初体験をした。
高校卒業と同時に彩矢が東京の大学に進学して、そのまま自然に別れていた。
その後は学業とバイトに明け暮れ、バイト先の男性としばらく付き合ったが卒業と同時に別れていた。
容姿は清楚な感じには見えるが、それ程真面目では無いと自分では思っている。
事実今の会社でも出入りの業者の男性と付き合い関係も有ったからだ。
それでも「私キャバ嬢しているけれど、男性経験は少ないのよ!お客によく誘われるけれど行かないからね!それよりお金大丈夫なの?奥様に直ぐに見つかるでしょう?喧嘩に成るのは嫌だわ!離婚の原因の大半はお金なのよ!女の子が居るのでしょう?可哀想よ!」
「お金は妻に内緒の口座が有るから安心して!」
「何故?今給料って振り込みでしょう?上手に誤魔化しているのね?」
「誤魔化してはいませんよ!僕の父が残してくれた株が有るのです!嫁を貰う前に父が亡く成ったので名義が僕に成っているので妻は知りません!」
「へー株券が?」
「親父は沢山株取引をしていた様です!でも僕に残ったのは僅かな株券だけでしたが、増資とか分割を繰り返したので、今では大きな価値に成っています!少し売れば妻に迷惑はかかりません!」
「凄い!お金持ちなのね!」
「それ程は有りませんよ!彩矢さんと楽しむ程度は有ると言う事です!」
彩矢は今夜でキャバ嬢を辞める事に成っていたので、俊介を呼んで最後の別れをする予定だったが、意外な話しに進んで困惑していた。
「実は恋愛の経験が無いのですよ!」
「えーそれで?」益々驚く彩矢。
「妻とは見合い結婚で、女性と恋人って関係を経験した事が無いのです!だから彩矢さんと一度経験してみたいのです」
「でも疑似恋愛ですよ!それでも良いの?」
「勿論です!結婚して直ぐに子供が出来たので恋愛のまね事も無かったのです」
「変な感じですが、それで春山さんが楽しいのなら次回食事に連れて行って下さい!」
「本当ですか?」彩矢の承諾で喜ぶ俊介だが、次の言葉で嬉しさも半減した。
「それなら自然の成り行きで関係に成れるまで、食事だけって条件ならお受けしますわ!」
「、、、、、、、」しばらく考えて俊介は「僕が言い始めた事ですから、それでも良いです!お金もお支払いします!」
「えっ、お金は頂けませんわ!お食事ご馳走に成ってお金を頂く何て?」拒否はするが、彩矢には五万円のお金がは欲しい気持ちで一杯だった。
しばらくして時間が二人を引き離して、俊介は会社のカードで精算すると「今夜は何処の医者の名前を使うかな?」そう言って帰って行った。
彩矢には少し名残惜しい気分だったが、会社の経費でここに来ているので引き留められない。
別れると直ぐに俊介が来月の日程を連絡して(引き留めて欲しかったな!)とメールが書き添えられていた。
(横領は犯罪ですよ!)ジョークとも本気とも思えるメールを返信した彩矢。
その後は毎日の様にメールを送る俊介に、呆れながら応対をしていた彩矢。
翌月都内の小さな懐石料理店を予約していた俊介。
ホテルの近くの店で俊介には便利だったが、彩矢は電車を乗り継いで来る事に成った。
夕方から都内はゲリラ雷雨で、電車も遅れて会いに行くのが嫌に成って断る予定が、偶然遅れていた電車がホームに滑り込んで乗ってしまった。
この偶然が二人を結び付けるのだから、世の中何が起るか判らない。
最寄りの駅からタクシーに乗って料理屋に到着した彩矢は、雨に濡れて飛込んで来た。
「来られないかと思っていました!よく来られましたね」笑顔の俊介が店員にタオルを欲しいと頼み込んだ。
「約束だから無理して電車に飛び乗りました」
店員から貰ったタオルで髪を拭きながら言った彩矢。
「ありがとうございます」笑顔で感動する俊介の言葉が雷鳴でかき消される。
偶然電車が来て乗り込んだとは言えない彩矢は笑顔で「凄い雷雨だわ!」雷鳴に驚く。
「本当に凄い雨ですね!」
「帰れるかな?心配です」
「何処まで帰るの?」
「中野です」彩矢は適当に言ったが、自宅はもっと遠い立川で会社は池袋に在った。
自宅も本名も教えないのが、キャバ嬢の常識だったので適当に話していた。
しばらくして料理が運ばれて来ると、元々ビールが大好きな彩矢は一気に飲み干した。
「仕事で飲むお酒と味が違うわね!」嬉しそうにお替わりした。
俊介も酒は好きな方なので、この部分でも気が合う二人。
「僕一度も名前聞いて無かったね!僕は春山俊介三十六歳」
「青木彩矢二十三歳、今年四に成るの!」
「誕生日はいつなの?」
「十一月二十七日の射手座!」長い栗色の髪を掻上げて答えた。
住所さえ言わなければ支障は無いと思って正直に答えた彩矢。
しばらくして店員が「雨上がったのかな?やみましたね」そう言って表に客を見送って入って来た。
次々と運ばれて来る料理に「ここの料理美味しいでしょう?」と尋ねる俊介。
和やかに食事と酒が進む二人、彩矢は雨が止んだ事が嬉しかった。
変化
59-03
悪い人では無いわね!本当に恋愛経験が無いの?信じられないな?彩矢は食事をしながら観察をしている。
話しも上手で容姿も特別男前では無いが、普通のお兄さんって感じだわ?
俊介も、本当にお金が欲しかったのだろうな?キャバ嬢って感じは無いな、これで黒髪なら清楚なお嬢様でも充分通用するな!
お互いが観察しながら、お酒が進むと立ち入った事を聞き始める。
「奥様ってどの様な感じの人?歳は?」
「同い年で大人しい感じですよ!」
「すみません!立ち入った事を聞いてしまいましたね!私達の関係で私生活を話すのは止めた方が良いですよね!私も話しません!」
彩矢は自分の事を聞かれる事を恐れて直ぐに先手を打った。
その後は芸能界の話しとか二人の家庭に関係の無い話しに終始して、美味い料理と酒で和やかに成っていたが、再び雷鳴が響いて大粒の雨が戸を叩き付ける。
お互い酒が好きなので飲み始めると意気投合する。
「えっ、雨止んでいたのでは?困ったわ?」時計を見てもう帰る時間が近づいている事を知った彩矢。
「もう帰らないと電車が、、、」と言いかけた時、俊介が店員にタクシーを呼んで欲しいと頼んでいた。
同時に勘定も頼んで今夜の食事は楽しく終る筈だった。
店員が気の毒そうに「この雷雨でタクシーは来られないそうです!」勘定の用紙を持って言った。
「えー困ったわ!どうしよう?」彩矢の悲痛な顔に「ホテルなら呼んで貰えるかも知れませんよ!」そう言って元気付ける。
「春山さんはそこのホテルに?」
隣の高級シティーホテルに宿泊しているとは思っていなかった彩矢。
この料理屋も通路を歩けばホテルまで傘も必要無い。
近くにビジネスホテルも在るので、そこに宿泊していると思っていたので意外に思う彩矢。
お金を本当に持っているのねと思いながら、俊介の後ろを歩く彩矢。
自分も背が高いけれど、俊介の方が自分より高くて満足する。
中々自分と背丈が合う男性が少ないので、この点では合格だわ!でも不倫の相手だよね!その様な事を考えていると、ホテルのフロントに到着した。
その間にも雷鳴が響き豪雨がホテルの窓を叩き付けている。
フロントに交渉に行く俊介がしばらくして「駄目だ!タクシーは来ない様だ!泊るか?」
泊らない事に成っていたので、着替えも何も持って来ていない彩矢は戸惑う。
今月関係が無くても来月には二人に関係が出来る事は確実だと思う、唯今夜は心の準備と着替えが無いのだ。
だが雷鳴は轟き、大粒の雨が容赦なく振る。
「中央線が止っている様ね!この雷雨結構広い範囲で降っているのね!」チェックインを待っている女性の話声に彩矢は帰れない事を知った。
「このホテルの中にコンビニは無いの?」覚悟を決めると着替えが気に成る彩矢。
「反対側に在るよ!」俊介が教えると「待っていて、着替え買ってくるわ」そう言って歩いて行く。
この様にして偶然の雷雨で二人は始めて関係を持った。
この時俊介は今まで妻とのSEXでは感じた事が無かった相性の良さを感じていた。
彩矢も同じ様に今までの男性経験では得られなかった快感を得たのだった。
二人がその事をお互いに話したのは、随分日にちが経過してからだが、この時お互い長く付き合いたいと思っていた。
翌朝六時に彩矢は名残惜しい言葉を残して、ホテルから急いで帰って行った。
服装を変えて会社に行かなければ成らないので慌てて帰ったのだ。
幸い会社は十時出社の日に成っていたので、彩矢は自宅に帰って着替える事が出来た。
話が戻って
新岩国駅から新幹線に乗って福岡に帰る俊介は、窓の外の景色を見ながら遠い昔を思い出していた。
始めて結ばれた時の事は、六年近い歳月が過ぎても鮮明に蘇っていた。
何故問い詰めたのだろう?二人は不倫の関係で付き合い始めた筈、彼女に恋人が居ても良いのでは?自分から別れを切り出した様に思えて後悔が滲み出る。
自分は妻と子供に恵まれているが、彼女ももう三十歳結婚の事を考えても仕方無いと思い始めていた。
そうだ!謝ろう!俊介はそう思い立って彩矢の携帯番号を押した。
「この番号はお客様の都合でお繋ぎ出来ません!」のアナウンスが流れる。
「あっ!」今は飛行機の中だ?羽田空港に向う切符は自分が手配したのだった!と思い出して納得する俊介。
福岡の自宅に帰る前にもう一度彩矢に電話をして謝ろう!そう思いながら携帯の中に納められた彩矢の写真を見る俊介。
自宅では妻律子の携帯も見ないが、妻も俊介の携帯は見ないと云う暗黙の了解が存在している。
この六年弱、一度も彩矢との関係を疑われた事は無い俊介。
家に帰ると良い夫で良いお父さんを演じている様だと、自分では安心仕切っていた。
紅葉見物を目的に二度目の宮島旅行に行った二人。
一度目は錦帯橋から宮島の旅で、紅葉の美しさに魅せられての二度目の旅だった。
彩矢の希望で訪れたのだが、今回彩矢は自分から本殿での祈祷を希望していた。
自分の住所と名前を記帳して神妙な彩矢を見つめる俊介は、その様子に彩矢が何か特別なお願いしている様に思えた。
終始俊介は写真の男性が気に成り落ち着かない様子だったので、いつもの二人とは何か変な感じだった。
それは彩矢も感じていた様で、ぎこちない仕草が目立つ二人に成っていた。
宮島の紅葉も二人の目には昨年より鮮やかさが無い様に思えた。
博多駅に到着した俊介は再び彩矢の携帯に通話したが、前回と同じアナウンスが流れて繋がらない。
自宅に入る直前にもう一度かけてみよう、確か今の時間位に羽田に到着したと思う俊介。
半時間程経過して自宅近くの公園で再度携帯を鳴らすが、全く同じアナウンス。
仕方無くラインで謝る言葉を送って、自宅に入った俊介。
「お帰りなさい!」妻律子の声に現実に引き戻される。
もみじ饅頭の詰め合わせを土産に手渡すと「元気が無いのね?」律子は俊介の顔色を見て言った。
「そうか?夕べ沢山飲まされたからな!町医者の連中は酒飲みが多いから困る!」そう言って誤魔化した俊介。
寝言
59-04
律子は普段取引先の話を殆どする事が無いのに、その後も俊介が町医者の話をしたので不思議に思った。
変に携帯を触ると不審に思われる事を意識すると、確認出来ない俊介。
結局その後携帯を確認出来たのは翌朝会社に向う時に成っていた。
「あっ!」ラインに既読マークの無い事に思わず声が出た俊介。
「どうしたの?」その声に反応した律子に「何でも無い!」慌てて誤魔化したが、この時律子は俊介の態度に不信感を持っていた。
家を出ると直ぐに彩矢の携帯に電話をするが、昨日と全く同じアナウンスが流れて俊介は大きく落ち込んで会社に向った。
その日は小さなミスの連続で、彩矢の事を絶えず考えている自分が居る事を感じていた。
青木彩矢年齢二十九歳、今月の末には三十歳に成る。
住んでいるのは東京の中野、生まれは栃木、姉と弟が居て、現在の仕事はアパレルのメーカーだと思っている。
記憶の中で彩矢を捜す手掛かりを一生懸命に思い出そうとしていた俊介。
姉は彩矢と同じく東京に出て働いている様だが、美容師をしている意外何も知らない。
弟は昔野球で全国大会に行ったと聞いた事を思い出す。
「そうだ、高校野球で甲子園か!」
翌日資料を調べ始めるが、彩矢のひとつ下の年齢から十五年分の栃木代表の選手に青木の名前は存在していなかった。
同僚の女子社員が「春山さん!何を調べているのですか?」怪しまれて、自宅でもパソコンで調べるが全く判らない。
「嘘だろうか?嘘は言わない!彩矢はこの五年、、、、」
確かに最初は嘘を言ったかも知れないが、本格的に付き合い始めてから嘘は無いと信じていた。
確かにお互い家の話し、仕事の話は殆どしていない。
自分が薬品卸会社の星原に勤めている事も一度も話した記憶は無いと思った。
「俊介さんの事好きに成ったら困るから、私生活の事は聞かないわ!私も話さないからね」
始めて二人で温泉旅行に行った時彩矢は微笑みながら話した。
「そうだな!僕も聞くと彩矢を好きに成った時困るな!」
「でしょう!奥様と娘さんを棄てられないでしょう?」
そう言われて頷く俊介だったが、先月の雷鳴が頭の片隅に残っている様な気がした。
中央線の八王子駅で待ち合わせに成って、特急あずさの車内からホームの彩矢の姿を捜している俊介。
ホームに彩矢を見つけた俊介は彩矢の変身に驚きの表情に成っていた。
栗色の髪が黒に変わり肩の辺りで切り揃えられていたのだ。
その姿は清楚で美しいお嬢さんの姿で、俊介はその時の彩矢に惚れてしまったのかも知れない。
「どうしたのですか?」グリーン車の席に座った時、思わず尋ねている俊介。
「お嫌いですか?似合いませんか?」
「いいえ、今までのイメージと大きく違いましたので驚いただけです!素敵です!」
「姉が美容師をしているので頼みました!元々キャバのバイトをして無かったらこの様な黒髪でした」
「お姉さんが東京で?」
「はい、高校卒業と同時に東京で働いています」
「でも似合いますよ!ホームで見つけた時、別人で凄い美人だと思ったのですよ!」
「ありがとうございます」笑顔に成る彩矢。
俊介が彩矢との最初の温泉宿に選んだのは、それ程有名でも無い笛吹川温泉で甲府駅に予約していた温泉宿の迎えの車が待っていた。
開口一番宿の迎えが「春山様の奥様はお若くてお綺麗ですね!」そう言って出迎えた。
「ありがとうございます」笑顔で御礼を言いながら小声で「奥様なの?」と尋ねる彩矢。
綺麗と言われて悪い気はしない彩矢だが、この様な場所に有名な旅館が在るのかな?山と畑以外何も無い方向に車が走っていくと、遠くに富士山が見えて中々の景色に変わった。
到着すると広大な敷地に平屋の旅館が存在して、数部屋しか無いと説明されて再び驚かされるが、中庭の池にカルガモの親子を見つけて和める。
高級旅館で山梨・富士山を背に歴史に彩られる甲州塩山、笛吹川のほとり、天然温泉の露天付離れで甲州ワインと懐石料理を楽しむ、敷地三千坪にわずかな客室。
彩矢はこれ程贅沢な旅行をした経験が無かったので感動していた。
お食事処の個室には露天風呂が在り「この様な場所の露天風呂って、少しスリリングね!」彩矢が入りたいと言うので旅の勢いで二人は露天風呂に入った。
始めて広々とした明るい場所で彩矢の裸体を見た俊介は再び感動していた。
前回は雷鳴の中、取り敢えずの宿泊と始めてで彩矢の裸体も見ていなかった様だ。
色も白くて綺麗な身体に再び惚れる俊介。
翌日は昼まで旅館でゆっくりと過して、東京に帰って行ったが同じ様に八王子で彩矢は下車した。
友人の家に土産を届けるのだと言ったが、今考えれば八王子に住んで居たのかも知れない。
俊介は彩矢が本当は何処に住んで居たのだろう?思い出すがヒントに成る事柄はその時一度だけで、その後は品川か東京が出会いと別れに成っていた。
彩矢が立川に住んでいる事は全く考えもしていなかった俊介だ。
その後三年間は立川に住んでいたが、会社の寮の空きが出来て品川に引っ越す事に成る。
学生時代から約八年立川に住み、ボロアパートから漸く解放された嬉しさは俊介に「品川って便利よね!」の言葉に込められていた。
でも中野から品川に引っ越したと俊介は思っていた。
直営店も都内に数店在るので、女子寮が数カ所在る。
別れてから品川に女子寮の有るアパレルメーカーを検索したが、結局特定出来なかった。
「貴方宮島から帰ってから変よ!何か有ったの?」数日後不意に律子に尋ねられて「何も無いよ!疲れているのかも?」そう言って惚ける。
暗黙の了解でお互いの携帯を見ない事に成っているが心配に成っている俊介。
年が明けても彩矢から何の連絡も情報も掴めない苛立ちが、律子に疑いの眼差しを造っていった。
数日後、俊介は寝言で「彩矢!何処に行ったのだ!僕が悪かった!」と口走ってしまったのだ。
発覚
59-05
寝言に驚いて目を覚ました律子は俊介の浮気をいよいよ確信していた。
今まで一度も見なかった携帯を操作して、真夜中に動かそうとしたが思い当たる数字に反応しない。
だが翌朝俊介は携帯を律子が触った事を感じていた。
微妙に置いて居た場所と向きが反対に成っていたからだ。
妻に何かを悟られていると思っていた時、テレビのCMで指紋認証携帯の事が報じられて、俊介はこの携帯が発売されたら買い換え様と決めた。
相変わらず俊介は彩矢の事が頭を離れず、東京に出張の時は彩矢の足跡を追う。
訪問先も自然と少なく成って営業成績に影響が出始めたのは、三月に成ってからだった。
俊介の彩矢探しはエスカレートして、東京に在るアパレルの会社に電話で尋ねる様に成っていた。
青木彩矢は十一月に俊介と別れてから、背中を押される様に須永亘と親密に成って関係も出来て結婚を意識していた。
俊介程身体の相性は良くなかったが、優しい性格でこの人なら一緒に生活出来ると思い始めた。
三十歳の年齢と友人とか同僚が結婚するので、その刺激と焦りも有ったのは事実だ。
一番の決め手は同じ栃木の出身で、将来は栃木の工場に勤める事が条件で、東京で頑張っていたのだ。
三月に成って須永は彩矢にプロポーズをした。
それまでに十二月にはデズニーランド、一月にはUSJと宿泊して遊びに行って楽しんだ。
二月には俊介と行った河津桜見物に行き、下田の温泉に宿泊した二人。
俊介と遊んだ全く同じ道程で行った彩矢。
「彩矢さんは良い観光地を知っていますね!この旅館も最高です!」須永は大いに喜んで楽しんだが、彩矢は多少俊介に未練を持っていたのかも知れない。
その後も俊介と楽しんだ観光地、旅館を須永と一緒に数カ所行ったから思い出と未練も心の片隅に残っていたのだろう。
二人はその年の六月に結婚をしたのを俊介が知ったのは、須永のフェイスブックだった。
名前と顔だけは知っていた俊介は時々須永のフェイスブックを検索していたのだ。
だがこのフェイスブックの画像が俊介を完全に落ち込ませる結果と成った。
同時期に携帯電話も新しくして指紋認証で画面を見られる様に変えた。
律子は俊介に見つからない様に、毎回異なる番号を入力して調べていたが未だに解読出来ていなかった。
俊介の初恋で小学校の先生の誕生日が律子に判る筈は無かった。
「春山さんどうしちゃったの?元気は無いし営業でミスが多いし!」
六月の結婚式のフェイスブックの画像を見てからは、同僚の女子社員にも言われる。
律子は疑いの目で俊介を見ているが、今年に成ってから浮気の様子は全く無いので、証拠が無い唯の寝言?でも気に成る事には変わりは無かった。
数日後俊介が会社の同僚に連れられて帰って来て「奥さん!春山係長悪酔いされましてお送りしました」そう言って正体不明に成った俊介を連れて来た。
「すみません!ご迷惑をお掛けしまして!申し訳有りません!」平謝りの律子は娘の葵の手を借りて部屋に運び込む。
俊介は酔っぱらって話しも出来ない状態に成っている。
ワイシャツの胸ポケットから最近買ったスマートホンが転がり落ちる。
律子は不意に「葵!水を持って来なさい!」と命じてその場を離れさせると、俊介の指を持って携帯のボタンを押す。
携帯は指紋に反応して作動を始める。
「お母さん!お水持って来たわ!」
「お父さんに飲ませて頂戴!」そう言うと携帯を持って二階の部屋に駆け上がる。
直ぐに彩矢の名前を見つける律子は、直近の内容を読み始める。
何度かラインの送付が有るが、全く女性からの返事が無いのがよく判った。
去年の十一月十五日までさかのぼると(五年間楽しい時間をありがとうございました。お元気でさようなら、彩矢)の文章を見つけた時「お母さん!お父さん水飲まないわ!」階下から葵が叫ぶ。
「放って置きなさい!その内起きるわ!」投げやりな態度に変わった律子。
続けてスマホを調べる律子は徐々に興奮して来ると、ラインの彩矢のページを削除してしまった。
俊介の無様な泥酔の姿を見ながら「このラインの通話で楽しんでいたのね!これでもう見る事は出来ないわ!」そう口走ると携帯を胸ポケットにしまい込んで、背広を脱がせると放置してリビングに戻った律子。
「お父さん!何故沢山お酒を飲んだの?最近変だよね!」葵が不思議そうに言う。
「若い女に狂っているのよ!」
「えーーお父さん浮気しているの?不潔だわ!」
「そうよ!不潔なのよ!随分前から私達を裏切っていたのよ!」
「何故?浮気しているお父さんが荒れるの?」
「若い女に逃げられたので、未練が一杯で荒れているのよ!」
「何よ!それ!最低!」葵は既に半分涙目に成っている。
「真剣に考えないとね!明日実家のお母さんと相談して来るわ!」
「私もお母さんに付いて行くからね、不潔なお父さんと一緒に住めないわ!」そう言うと半べそで二階の自分の部屋に駆け上がって行った。
翌朝目覚めた俊介は昨夜のままの服装で驚いて「俺!どうしたのだ?」と叫ぶ。
「酔っぱらって会社の人に担ぎ込まれたのよ!覚えて無いの?彩矢!彩矢!と叫んでいたわ?彩矢って飲み屋の子?」嘘の話で揺さぶる律子。
「えっ!そんな事叫んでいたか?」そう言いながら胸のポケットから携帯電話を取りだして操作する。「、、、、、、、、」真剣な表情に変わる俊介。
「無い!無い!無く成っている!」大きな声で叫ぶ様に言う。
「何が?どうしたのよ?」
「だ、大事なメールが全て消えている!」悲痛な表情に成る俊介。
「得意先の人ならまた聞けば?早くパンを食べてよ!実家に行きたいのよ!」
「実家に?今頃何か用事か?」
「そうよ!とっても大事な用事が出来たのよ!お父さんにもお母さんにも相談して来なければね!遅く成りますから外で食べて来て下さい!もしかしたら泊って来るかも知れないわ!」強い言葉で言う律子。
尾行
59-06
律子の両親はお互いが教師で、退職後塾を開いて成功していた。
律子が結婚当初は共働きの教師の家庭だったが、今では塾の経営者に成って繁盛している。
今では小倉市内に三カ所の教室を持ち忙しくしていた。
教師の資格を持っている律子に、バイトに来て働かない?と冗談の様に実家に行く度に話す母親の喜子。
今日の律子はその母の言葉を思い出しながら実家に向っていた。
俊介のラインの中を覗いてしまって、自分が愛されていない事を痛烈に感じてしまった律子は半ば錯乱状態に成っていた。
元々見合い結婚で、成り行きで一緒に成った経緯が有るので、一度不信感が芽生えると一気に心に広がってしまった。
葵を連れて小倉の実家に向う律子の決意は固まっている様に見えた。
一方俊介はその日失意の底に有った。
彩矢とのラインの記録が全て消えてしまって、手掛かりも話の記録も思い出の写真も全て削除されてしまったからだ。
自分が酔っぱらって誤って削除したと思っているので、そのショックは測り知れない。
土曜日だが係長の俊介は当番で会社に向った。
頭の中は真っ白で、何故消したのだ!と呟く事の連続で、飲み過ぎを後悔していた。
俊介は彩矢との連絡方法を模索する事に必死に成っていた。
中野に住んで居る事、出身が栃木、恋人が須永亘、それ以外に?「あっ、そうだ!宮島のご祈祷の時、住所と名前を書いていた!残っている!」昨年の十一月の事だからまだ一年経過していない。
もう結婚している彩矢と連絡が出来てもどうする?心に問いかける俊介は、自分は何がしたいのか判らない。
唯、彩矢の声が聞きたい、謝りたい、話がしたい!変な別れが気に成って仕方が無かった。
「彩矢!結婚おめでとう!幸せになれよ!」そう言って別れたかったのかも知れない。
本心は彩矢の事が好きだったのかも?でも妻も子も有る身なので自分の都合だけで付き合っていたのかも?走馬燈の様に自分の気持ちと葛藤する俊介。
近日中に宮島に行って確かめて、何とか彩矢の連絡先を知りたいと思っていた。
一方小倉に行った妻の律子と娘の葵は、両親に会うと同時に葵が「お父さん!不潔なのよ!他の女の人と長い間付き合っていたのよ!」律子が躊躇う前に喋って泣き出して、祖母の胸に飛込んでしまった。
いきなりの事に呆然として祖母の喜子は「えっ、俊介さんが浮気を?」そう言って葵を抱きしめた。
「そうなのよ!もう六年も前からなのよ!私達は裏切られていたのよ!」
「六年も律子は気が付かなかったのかい?」
「上手に騙されたわ!」舌打ちして悔しがる律子。
「お父さんが帰って来たら相談しなさい!いつ帰って来ても大丈夫だからね!六年も浮気する男は駄目だわ!」
「そうなのよ!寝言で女の名前を呼ぶのよ!最低でしょう?」
「見合いの時から、将来は浮気する男かも知れないと思っていたのよ!律子が良いと言うから許したけれど、お父さんも心配していたのよ!」
「今頃?よく言うわね!」
「まあ、旦那の浮気だから慰謝料は貰えるわ!」
「貯金それ程無いわ、家建てているからね!」
「ローン残っているのでしょう?」二人は既に離婚の話しに成っているが、全く違和感が無いのが不思議に思える律子。
元々兄弟が無いので、将来塾の経営を律子にさせる予定にしていたが、俊介に持って行かれるのが気に入らない両親だった。
父の森田公夫が戻って子細を聞くと激怒「六年も前から愛人が?そんな男、別れなさい!」と叫ぶ様に言った。
その後三人は綿密に話合い離婚の方向で話し合うが、今の証拠は携帯の中の会話だけで相手の顔が見えない事だった。
「律子が興奮して消してしまったのは大失敗だったな!名前が彩矢だけでは?」
「ごめんなさい!興奮してラインの履歴を削除してしまったの?失敗?」
「あの男が相手の住所とか働いて居る所を知っているだろう?」
「それが少し変なのよ?去年の十一月に別れている様だけど、それ以降連絡が出来ない様なのよ!」
「律子は相手の名前も知らないのか?」
「はい!つい興奮して、、、、」
「律子!それならもう少し辛抱して尻尾を掴まないと離婚は難しいぞ!知らないと言われたら証拠が無い」
「えっ、もう顔を見るのも嫌だわ!」
結局三人は深夜まで話して、律子は我慢をして俊介の秘密を探る事に成った。
娘の葵を必死で説得して翌日の日曜日に自宅に帰って行った。
帰ると俊介が今週末急な出張に成ったと言い始めた。
律子達の苦悩を全く知らずに、早速宮島に調べる為に行こうと計画を立てていた。
「何処に出張?」
「岡山!急に頼まれてな!日曜日には帰る!」
「そう、判ったわ」
「お父さん達元気だったか?」
「ええ!塾が忙しくて講師が足らないので、土日だけでも手伝って欲しいと言われたわ」
「そうか?夏休みに成ると忙しいから手伝いに行けばいいよ!葵も一緒にな!」
「そうする!両親も喜ぶわ!ありがとう」作り笑顔で礼を言う律子。
早速今週末に何かをする様子に、尻尾を掴んでやるわ!と意気込む律子。
土曜日早朝から出掛ける俊介を見送ると、直ぐに尾行を開始する律子。
新幹線で行くのは判っているのでタクシーを呼んで、バスに乗って半時間程度で行くので先回りする。
縁の大きな帽子を深く被りバスの到着ターミナルで待つ律子は、探偵に成った気分だ。
岡山だと言ったが嘘の可能性が高いと思っている。
ノイローゼ
59-07
律子の予想した通り、新幹線のぞみに乗り込む俊介。
連れがいる様な雰囲気は無いので、一人で一体何処に行くのだろう?仕事?
待ち合わせ?何処かで彩矢って女が乗り込んで来るのだろうか?
本当に岡山なの?自由席の座席は七割程度の乗客で律子は直ぐに移動出来る様に通路側に座った。
自由席なので小倉駅で俊介の隣の席には年寄りのお爺さんが座ったので、誰も来ないのだと理解する律子。
律子の隣にも中年の男性が座って、殆どの席が埋まった様だ。
次は新山口、広島、岡山だが、一応岡山までの切符を握り締めて絶えず俊介の座席を見つめる律子。
本当に岡山に行くのだろう?新山口を過ぎた時にそう思う律子は緊張からトイレに向うが、反対側の車両に行かなければ俊介の横を通らなければ成らない。
トイレから戻ると同時に広島駅に滑り込む新幹線「広島ね!」窓の外を見て口走る。
席の在る号車に戻ると向こうの方に俊介の後ろ姿を発見「えっ、ここで降りるの?」慌てて反対側の乗降口に向う律子は、もう少し遅かったら逃げられていたわと思う。
荷物が殆ど無かったので助かったが、着替えの入ったバックを持って急いで降りる。
「やはり嘘だったわ!」岡山では無く広島で降りると、JR山陽本線の乗り場に向う俊介。
何処に行くの?待ち合わせの気配は全く無い様だわ?下りのホームに向う俊介。
一番線に次に入って来る電車の案内表示を見ると、岩国行きに成っている。
「岩国?戻るの?絶対に仕事では無いわ」俊介は一度も律子の方を見る事が無い。
どの様に神職の人に話して尋ねるか?変な聴き方をして変な人に成っても困る。
そう考えると色々な聴き方を考えると、纏まらない様に成っていた。
その時電車がホームに滑り込んで来て俊介は乗り込む。
遅れずに律子も異なる車両に乗り込んで何処に行くのだろう?と思った時、車内放送が宮島口に到着する時間を放送した。
「あっ、宮島!」あのラインの日にちは、宮島のもみじ饅頭を土産に持って帰って来たわ!宮島で彼女と再会するのね!律子はその様に決め込んで力が入る。
宮島で彼女と再会して何処かに泊るのだわ、バッチリ写真を撮って証拠にするわ。
行き先が判ったので安心の表情に成る律子。
しばらくして予想通り宮島口で俊介は電車を降りた。
律子も続けて降りて改札で切符を精算するが、行き先は決まっているので安心して遅れてフェリー乗り場に向う。
俊介の乗ったフェリーの次の便に乗り込む律子は、目の前に見えているので見失う事は無いだろうと思っていた。
大きな朱塗りの赤い鳥居が洋上に見えて、近づくとシーズンオフだが大勢の参拝客が居る。
律子は取り敢えずフェリーを降りると、大きな朱塗りの鳥居を目指す事にした。
次々と人を追い越して早く俊介に追いつかなければと必死に成った。
初めて訪れた律子には土産物店の多さと観光客に中々俊介の姿を中々見つけられない。
その頃俊介は厳島神社の切符売り場に着いて順番を待っていた。
前に並ぶカップルが「義彦さん知っている?」
「何を?」
「このお宮はね、恋人同士で二回訪れると神様が嫉妬して二人を別れさせるのよ!」
「えー本当なの?じゃあ二度と参拝出来ないのか?僕達!」
「何言っているのよ!違うわ!次は結婚して参拝に来れば大丈夫よ!」
「それって本当なのか?」
「有名な話よ!私の知り合いも二組別れたわ!でも結婚して参拝に来た友人は今も幸せよ!」
「そうなの?今年の紅葉時期は無理だから、来年の紅葉には結婚してから二人で来ようか?」
「えっ、それってプロポーズ?」
二人の会話を聞いて唖然とする俊介。
俺は彩矢と二年連続で参拝したな!それも帰り道で別れたよ!驚く二人の会話だった。
じゃあ、もう彩矢とは巡り会えないのか?失望の中参拝の券を買って回廊を歩く俊介。
去年、一昨年と紅葉の時期に来たが、初夏の宮島も悪い景色では無いと思いながら大勢の人の後を歩く。
途中で先程の話を思い出しながら本当だよな!二年連続参拝に来たからな、、、、、
厳島神社まで数分の場所に在る旅館に泊ってここに来たら、彩矢が感動して「何度も参拝したいわ!素晴らしいわ!」嬉しそうに写真を沢山写していた。
あの時は潮が引いてあの大きな鳥居の下まで行ったな、今日は一昨年船に乗った時と同じで満潮に成っている。
最初に来た時は弥山に登って楽しみ、鹿と遊ぶ彩矢はとても楽しそうにしていた。
去年も鹿に餌を与えて遊んでいる写真を写して欲しいと、スマホを俊介に預けた。
祈祷で何をお願いしたのだろう?須永亘との結婚をお願いしたのだろうか?目の前の鳥居を見ながらぼんやりと考えていた俊介。
その俊介の姿を律子が見つけたのはその時だった。
「あっ、あそこで誰かを待っているのかな?」独り言の様に言う。
俊介の見ているのは大鳥居だと直ぐに判るが、誰も近づく様子は無い。
一人でここに何を?律子は寂しげな俊介を見てそう思い始めた。
彼女との思い出を?それだけの為に宮島に来たの?女々しいわね!そう思った時急に歩き始めて本殿の方向に向う。
律子も後を追い掛けて回廊を急いで歩くと、俊介が神職の人に何か話しているのが見える。
しばらく話していたが、肩を落してとぼとぼと歩いて出口の方に向い始めた。
律子は直ぐに俊介が話していた神職の人に「すみません!先程の男性何を尋ねましたか?」
「貴女何方ですか?その様な話しは関係の無い方に話せません!」
「すみません!実は私の主人なのですが、最近ノイローゼで自殺するのかと心配に成って付いて来ましたのです!何を話しましたか?」
「奥さん?あの人ノイローゼ?でしょうね!変な事聞きましたよ!」
「何を聞いたのですか?」
「去年の十一月十五日にここで祈祷を受けた青木彩矢って女性の住所が知りたいと言うのですよ!」
「去年の十一月十五日、青木彩矢?」律子はその話しに驚いて言葉を失ってしまった。
別居
59-08
律子が呆然としていると、神職の男性が「個人情報ですからね、中々教えられませんよ!調べれば判るのですが、事件とかでなければ教えられません!」
「そうでしょうね!ご迷惑をおかけしました」
「御主人のノイローゼ早く治ると良いですね!」律子は御礼を言ってその場から去った。
だが俊介の姿はその後見失ってしまい見つける事が出来なかった。
私がラインの記録を消したから、ここの記帳履歴を調べに来たの?違うわね!初めから住所は知らないのだわ!去年この宮島に二人で来て喧嘩別れをしたのだわ?
だがそれは同時に俊介が青木彩矢を愛している証しだと思う律子。
心に深い傷を受けて、結婚してからの約三分の一の期間裏切られて、別れた女を捜しにこの様な事をする俊介に驚き。
青木彩矢に嫉妬している自分に気が付く律子だった。
もう俊介を捜す気力も無く、虚しい思いで帰路に、、、、
夜、律子は娘の葵に俊介と離婚する決意を告げた。
翌日両親にも離婚の意思を伝えて、逆に喜ばれて「慰謝料の代わりに自宅を貰いなさい!」とアドバイスを受けた。
俊介の母親が一人で博多に住んでいるので、追出してもその家で母親と暮すだろうとの考えだ。
両親は「家を貰ったら直ぐに売って小倉に戻って来なさい。マンションを塾の近くに買うからそこで生活して講師をして欲しいわ」そう言って次の生活の段取りまで話した。
「家を売ったお金は当分の生活費に使って良いの?」
「勿論よ!葵を良い学校に入れて賢い婿を迎えて森田塾を継いで貰うのよ!」
「お母さんの考え凄いわね!」
「これからの時代は少子化で、子供の教育費には糸目を付けない様に成るから、繁盛は間違い無いわ」そう言って決めつける。
翌日の夕方疲れた様子で元気も無く帰宅した俊介。
「岡山の出張どうでした?」
「どうって?」
「大きな赤い鳥居の近くに病院か薬局が在るの?」
「大きな赤い鳥居?」不思議そうな顔で尋ねる俊介は全く気が付かない。
「夏休みに成ったら実家の塾の手伝いに行きますからお願いしますね!」
「えっ、急にどうしたの?」
「塾が忙しくて講師が不足しているのよ!」
結婚当時両親は教師で一人娘は嫁がせて、老後は年金で二人旅行でもして暮す予定だった。
その時、先輩が塾を経営していたが、癌で入院したのでその間手伝った公夫。
だが先輩はそのまま他界、後を公夫に託して塾の経営をする事に成った。
二年後妻も退職したので一緒に森田塾に変更、その後は商才が有ったのか、生徒数の増加で三カ所に広げて本格的な塾経営をする事に成った。
律子の結婚当初では考えられない様変わりの実家の状況に成っていた。
「俺は夏休みの間葵と二人か?」
「葵は一緒に行くわ、環境に慣れさせないとね」
「どう言う意味だ!」
「将来小倉に住まなければ、塾出来ないでしょう?」
「いつから塾の経営をする話しに成ったのだ?」
「だって、両親が歳行ってからでは遅いでしょう?もうお父さんも六十代の後半よ!」
「律子の両親は経営の才能が有ったのだな!」嫌味の様に言う俊介。
「一人で羽を伸ばせるから良いでしょう?」
「、、、、、、、」無言に成った俊介。
これが二人の別居の始まりに成るとは、この時俊介は知る筈も無かった。
いきなり離婚を言い出さず徐々に慣れさせる方が、葵の為に良いとの両親の勧めに乗った律子。
相変わらず俊介はもやもやした気分で仕事に出掛ける。
夏休みに成ったら東京に行きたいが、今は既に東京営業所が在るので会社の用事で行く事は出来なく成っていた。
本当は俊介自ら東京営業所の勤務をしたかったが、流石に言出せなくて他の社員二人が東京に行った。
時前で夏休みに東京から栃木に行く予定を立てたが、何も目処が有る訳では無い。
彩矢は既にアパレルの会社を結婚退社して、須永亘の転勤を機に栃木に引っ越す準備に入っていた。
地元でパートに行き家計を助ける予定をしていた。
それは須永の家族の勧めで、子供が産まれるまで働いて子供が産まれたら子育てに専念する事にしていた。
だが彩矢自身は子供を直ぐに産みたく無いので、結婚前からコントロールをしていたのだ。
それは亘も彩矢の家族も誰も知らない。
それは彩矢の弟が脳に障害が有るから子供に遺伝するのでは?の不安が有ったからだ。
軽い障害で小さい頃から野球が好きで、障害者のチームで外野手をしている。
弟淳の事以外にも子供が産みたく無い理由が、心の中に潜んでいたのも事実だった。
夏休みに入ると律子は葵を連れて、車に荷物を段ボール五個分積み込んで小倉に行ってしまった。
「じゃあ、行って来ます!火の始末だけは気を付けてね」話した事はそれだけで、お金を少しだけ封筒に入れてテーブルに置いて行った。
家に誰も居なく成ると一層俊介は彩矢の事を思い出して、眠れない日々が続く事に成る。
盆休みに東京と栃木に行って、須永と彩矢の足跡を捜す予定にしているが、手掛かりは何も無い。
そうしなければ耐えられないのが今の俊介の気持ちだった。
その日から出会いから別れまでを記憶を頼りにノートに綴り始めていた。
律子が居たら絶対に書けないが、今は一人なので自由に書く事が出来る。
キャバクラでの出会いは今でも鮮明に覚えている俊介。
日記の様に書き始めるが、日時は既に定かでは無い。
封筒
59-09
順序立てて書き始めると、キャバクラで三度会ってから居酒屋そして初めて関係を持った。
その後は笛吹き川温泉、能登半島へのドライブ、北海道旅行二泊三日、九州一周二泊三日次々と思い出す俊介。
東京のホテルで過した事も何度も有るが、記憶に残っているのは遠方に行った事だ。
思い出すと少しずつ書き留めて五年間以上の彩矢と過した日々を書いていた。
それが決定的な証拠と成り、一気に離婚に進むとは考えてもいなかった。
盆休みに東京から栃木に向った俊介、丁度その時葵が学校の宿題の資料を自宅に探しに来たのだ。
テーブルの横に葵が使っている大学ノートが無造作に置いてある。
「お父さんが?」触ったのか?と思いながら手に取ってパラパラと見る葵。
「何!これ?」驚いてそのまま持ち帰る葵。
特別宛ての無い俊介は初めて外で会った懐石料理の店
きむら
を訪れる。
「春山さん!お久しぶりですね!」店主が覚えていて声をかけた。
「久しぶりなので、昼定食お願いします」
俊介はこの店で何度か昼の定食も食べたので、よく知っているのだ。
店は昼の客が引いて一段落の時で、店主も少し暇だったのと俊介に久々に会ったから話した。
「春山さんと一度いらっしゃった女性の方、先週いらっしゃいましたよ!」
いきなりの話しに「どの女性かな?」
「春山さんがお連れに成った女性は一人だったと思いますよ!他の方は全員男性でしたよ!」
「そ、そうでした!誰かと一緒でしたか?」
「三人で来られました!お母さんの様な女性ともう一人は同世代の男性でした!」
「夜ですか?」
「夜でしたよ!懐石を召し上がられて、片付けも終ったとか話されていましたね」
「片付けが終った?」
「あの話しは引っ越しじゃあないですか?春山さんとお付き合いされていると思っていたので、いらっしゃった時は驚きました」
俊介は東京初日から偶然彩矢の足跡に触れて興奮していた。
男性は須永亘で、もう一人は彩矢の母親か、須永の母だろう?引っ越す?栃木に帰ったのだ!
東京の最初の店で収獲が有った事が嬉しい俊介。
「親父さん!よく彼女を覚えていましたね!もう六年も前の事ですよ!」
「そりゃ、春山さんがお連れに成った唯一の女性で美人だったのと、雷雨で帰れなく成ったから印象に残ったのですよ!」
「美人ですよね!」嬉しそうに言う俊介。
「何故別れたのですか?中々良い娘さんでしたのに!」
「親父さんには言っていませんでしたね!僕は妻も子も居るので、中々彼女をつなぎ止められませんよ!」
「不倫だったのですね!」
「キャバ嬢ですよ!」
「えっ、キャバ嬢?そうは見えなかったな!先週の姿は若奥様って感じだったな!」
「生活費に困って一、二ヶ月キャバ嬢をしていたのですよ!例の学資ローンって恐いシステムでね!」
「じゃあ、春山さんは彼女の恩人だったのですね!」
「恩人って関係では無いですよ!」
「でもね、人は苦しい時に助けて頂いた恩は忘れないし、心に残る物ですよ!」
「そんなものですか?」
暇に成ったのと久しぶりに会った懐かしさで、懐石料理店
きむら
の店主は立ち入った話をした。
「彼女楽しそうでしたか?」
「私が見た感じではあの二人は仕方無く一緒に成ったって夫婦ですね」
「そんな事判るのですか?」
「丁度カウンターしか空きが無かったので、話が時々聞こえたのですよ!」
「どの様な話しですか?」
「女性が東京を離れるから、最後にここの料理を食べたいと連れて来た様ですね」
「彼女何度か来たのですか?」
「いいえ、春山さんと一度来られただけですよ!」
「それだけで、、、、、、、、」
そこまで話した時客が三人入って来て、店主は厨房に消えた。
俊介はここの店主はよく客を観察しているな?でも一度自分が連れて来ただけなのに、東京の思い出にこの店を選んだのは?もしかして自分の事を今でも忘れて無いのだろうか?そう思うと嬉しく成って店を出て他の場所を捜す事にした。
その頃思い出を書いた大学ノートが律子の手に渡り「お母さんこれを見て!」
手を震わせて受け取り読み始める喜子。
「何よ!これはあの男の、、、、、、直ぐに別れなさい!これが有れば大丈夫よ!離婚は確実だわ!」
「コピーしてノートを戻して、月末に話をするわ!」
このノートが決定的な証拠の品に成る事は確実だ。
六年前のキャバクラの出会いから、数回の旅行地と印象の書かれたノートの中には、一部SEXの相性の良かった事まで書かれていた。
中学生の葵が驚く様な内容も含まれていたが、敢えて口にしない葵。
「お父さんは不潔!」その一言に思いが込められていた。
「一緒に住みたくないわ!お母さんもう家に帰らない事にしてね!」泣きながら言うのが精一杯の抵抗だった。
俊介は何も知らず宛ての無い捜索の旅を終えて、二泊三日で帰って来た。
その数日後ポストに離婚届けにサインと捺印されて届いていた。
「これ?送り主も何も書いて無いな?」そう独り言を言いながら封筒を開いて、氷付く俊介だった。
別離
59-010
離婚届けと一緒に大学ノートのコピーの一部が同封されていて、理由はお判りですねと書かれていた。
「このノートを見られたのか?」机の傍らに有るノートを見る俊介。
これを見たら怒るだろうな!離婚か?この数ヶ月間彩矢の事を絶えず考えていた自分をかえり見て笑みが溢れた俊介。
確かに廻りから見れば気が付くだろうな?自分でも彩矢に去られて抜け殻の様に成っていた事に気付く。
しばらく考えて受話器を持つ俊介。
律子が電話口に出ると「判った!条件を書いて送ってくれ!悪かった!」一方的に告げると躊躇いも無く電話を切った。
律子も俊介の切羽詰まった様な声に何も喋る事が出来なかった。
六年間裏切られていたが、俊介の気持ちが自分に無い事が直ぐに判ったからだ。
電話を終ると母の喜子が「あの男何て言ったの?」
「何も言わないわ、条件を書いて送って欲しいだって、浮気じゃあ無いのね、本気だった!」
そう言うと律子は目に涙を貯めて無言で二階の葵の部屋に駆け上がって行った。
葵と抱き合うと一気に二人の泣き声が階下まで聞こえて来た。
数日後ポストに自宅を慰謝料の代わりに欲しいと書かれた便箋が一枚入った封筒が送られてきた。
葵は律子が引き取る事も同時に記載され、速やかに自宅を出て俊介の実家に引っ越す様に書いて有った。
俊介は彩矢との事が妻と子供に知られてしまった以上、何も反論は出来ないと覚悟をしていた。
手紙を見た翌日から自分の物を整理して、車で母の家に運び始めた。
母は一言「律子さんと別れるのかい?先生の家だからね!一段高いよね!」この様な事が起ると予測していた様に言った。
数ヶ月前にも「律子さんの実家、塾を開いて繁盛している様だね!お金が出来ると色々欲が出るからね!」意味有りの話をしていたのだ。
葵は二学期の授業は福岡で、来年から小倉に転校する事で話が纏まり、年内に離婚が成立する事に成る俊介と律子。
既に俊介は会社に東京営業所への転勤願いを出していた。
会社としては開拓した俊介が東京営業所に行く事は有りがたく、現在の所長も地元に戻りたい意向強かった。
話はトントン拍子に進み、来年から俊介は東京営業所の所長で赴任が決定に成った。
営業所長と言っても、地元東京で採用の女子社員一人荒木則子が俊介のマンション兼事務所に通って来るだけだ。
当初は男性二人と事務員一人だったが、一人は直ぐに退社したため二人に成ってしまった。
東京で採用しても中々勤まらないのが現状で、給与が福岡基準に成っているのが大きな原因だったが簡単には上げる事が出来ない。
地域格差は全社員の給与に影響するので致し方無い様だ。
俊介にはマンションが在る事、東京で再び彩矢に会える可能性も有る事が嬉しい。
頭では彩矢は東京を離れて栃木に行ったと判っていても、何処かで会える気がしていた。
2014年俊介は東京営業所へ、律子と葵は小倉の実家に向い。
三人が過した自宅は売却に出されて、春山の家族はバラバラでの生活を始めた。
一方須永亘と彩矢の夫婦も、亘の母親と彩矢の両親に子供を催促される様に成っていた。
「彩矢さんも三十歳を超えているのだから、早く孫の顔を見せて下さいよ!」
結婚して一年半が経過して催促の様に言う亘の母親真弓。
自分の母親雅美にも尋ねられて「淳君の事が有るから気に成って、、、、、」と口ごもる彩矢。
「大丈夫よ!先生も遺伝はしないだろうって言われたわ」そう言って安心させる。
だが内緒で避妊を続けている彩矢。
東京に引っ越して俊介は再び懐石料理の店
きむら
を訪れたが、店主は「東京の所長さんに成られたのなら、時々来て下さい!」そう言って微笑むだけだ。
「あの、、、彼女はあれから立ち寄りましたか?」
「いいえ、あれからはお越しに成りませんよ!」その言葉に落胆する俊介。
その後、彩矢と行った店とかホテルに行ったが、ホテルでは誰も覚えていない。
食事とかコーヒーを飲んだ店にも行ったが、見たと言う情報は皆無だった。
時間を見つけて栃木まで行ったが、栃木も広いので何もヒントの無い状況では捜す事も出来ない。
新幹線で小山、宇都宮、那須塩原、新白河の駅近くを散策したが手掛かりは全く無い状況。
それでも懲りずに時間が有ると足が向ってしまう俊介。
時間は容赦なく流れて年末近くに成った時、彩矢にも事件が起っていた。
隠れて飲んでいた避妊薬を須永の母親真弓に見つかってしまった。
「こ、これって!」驚き顔に成って尋ねる真弓。
「すみません!淳君の事が有ったので、どうしても子供を産むのが恐くて、、、、」
「遺伝は無いと先生にも言われたでしょう?亘と相談をして決めた事なの?」
「、、、、、、」俯いて何も言わない彩矢。
「亘も知らないのね!」そう言って怒り始める真弓。
この日を堺に隙間風が吹き始める家族。
実家の両親からも、何故その様な事を独断でするのだ!と強く叱られてしまった彩矢。
年が変わって2015年、彩矢は居たたまれなく成って、自分から離婚を申し出る。
「そうね、子供も産まない嫁は要らないわ!」真弓は強い調子で彩矢に言う。
亘は間に入っても両親の方を持つので、離婚は決定的に成った。
実家の両親も彩矢が避妊薬を飲んでいた事実から、弁明も出来ず離婚を承諾するが、彩矢を自宅に入れる事は無かった。
三十二歳の彩矢は自分で生活をする為に、再び東京に向う事に成る。
栃木の田舎では人目も有るが、東京なら後ろ指を指されずに生活が出来ると思った。
だが、何も特殊な能力も免状も無い彩矢には、昔の仕事の続きの様な仕事しかなかった。
投稿
59-011
両親にも見放されて、一人東京に戻った彩矢は婦人服の販売員を始める。
だが生活は苦しく昔住んで居たアパートよりも安いワンルームのアパートで生活を始めた。
今度は本当に中野に住み池袋の職場に向う彩矢。
同じ店員仲間に「もう少し化粧でもして、明るくしなければ陰気くさいわ」と陰口を言われる。
今の彩矢には化粧品を買うお金も節約する状況だ。
どこで歯車が狂ってしまったのか?俊介に須永との写真で問い詰められて、勢いで結婚してしまったが、地元の栃木に住める事に安堵感を持っただけなのかも知れなかった。
両親と同居してからは肩身の狭い生活と、子供の催促に徐々に嫌気が増大したのは事実だった。
姉の彰子も去年結婚したので、転がり込む訳にはいかない状況。
今の年齢ではキャバ嬢も熟女系の店に行くしか方法が無いが、時間が遅くて勤められないのが現状だ。
店の終りが九時に成る時も有るので、中々キャバクラの仕事は今の仕事との両立は難しい。
僅かな蓄えを食いつぶしながらの生活に成る彩矢。
数日後遅い時間に働けるスナックの求人を見つけて面接に行く。
出勤時間が早い日で九時、遅い日は十時、深夜は二時まで働く事にして漸く節約すれば生活が出来る様に成った。
既に初夏の風が吹く五月の中旬に成っていた。
この頃俊介は彩矢を探し疲れていた。
どうしても見つからないな?自分を彩矢が見つけても帰って来る保証は何処にも無い。
無言で恐い顔で喫茶店を出て行ったのだから、今頃は子供も産まれて幸せの絶頂なのかも知れない。
今更捜してどうする?毎日自問自答していた。
大学ノートも色々な事を思い出して書き綴るので、随分沢山のページが埋まっていた。
夏に成った時、パソコンを触りながら小説の投稿サイトを発見した俊介。
素人が詞とか文章を投稿して楽しむ場所の様だ。
もう彩矢を捜す事は諦め様、唯思い出を何か形に残しても良いのでは?実名は出せないが偽名なら良いのでは?学生時代自分で小説を書いて楽しんでいた事も有った俊介。
もしも奇跡が起って彩矢が見てくれたら、彩矢で無くても彩矢を知っている人が見て伝えてくれたら自分の気持ちが伝わるのでは?そう思い始めるが、本当にそれは奇跡だと書く前から思っている。
だけど、一度思いついたら書かずには終われなく成った俊介。
題名を考えるだけで、登録してから一週間が経過していた。
題名は「遠い記憶」に決める。
確かに初めて会ったのは2007年の秋なのだから、既に八年が過ぎ去っていた。
主人公は青山綾子に置き換えて、自分は夏木俊介にした。
それは彩矢が読んだ時、自分だと知って貰う為だが、流石に本名は書く事が出来ない。
キャバクラはスナックに置き換えて、自分の仕事は食品の卸問屋の営業にした。
俊介は思い出を噛みしめながら、書き始めるが中々投稿はしなかった。
恥ずかしい気持ちと、本当に彩矢の目に触れるのだろうか?実際は思い出を文章に残す事が目的だったと気を取り直して書く。
スナックの名前に「青い烏」と命名した俊介。
二十四歳の綾子は学資ローンの返済の為にスナックに勤める。
初日に偶然夏木俊介が取引先の社長を連れて店を訪れる。
出会いの気持ちは俊介が初めて彩矢に会った印象が細かく繊細に書かれていた。
それは本当に好きでなければ絶対に書けない文章に成っている。
髪型、スタイル、仕草が八年前の彩矢そのものに成っていた。
何度も何度も思い出す度に俊介の頭に彩矢の姿が完全に蘇って、一挙手一投足まで書かれている。
それはビールが好きで飲む姿を想像させる文章で、喉仏をビールが流れる瞬間まで描いていたのだ。
勿論、その時の彩矢では無いが、その後何度も思い出す度色々な場所での彼女の飲み方が文章に成っていた。
四百字詰めの原稿用紙二十五枚を書くのに、三ヶ月も要して書いた時、投稿してみたい気持ちに傾く俊介。
十月の初め、思い切って投稿サイトに自分の小説「遠い記憶」を投稿した俊介。
自分の文章がパソコン上に掲載される事が、不気味で誰かが読んで文句を言うのでは?その様な不安が過ぎった。
数人が読んでくれたのか、既読の数字が記載されると嬉しく成る俊介。
他の人の作品を見るとそこには天文学的な数字が並んでいて、同じ様に書いているのか?それ程面白いのだろうか?人気の作品を読んでみるが、何が書かれているのか良く理解出来ない文章だった。
「これは若い人の作品なのだ!自分は既に四十代半ばに成っているから、全く違うのだ!」そう理解して一話の投稿で様子を見る。
翌日期待をしてサイトに入るが、二十人程の人が読んでくれた様で、嬉しいやら恥ずかしいやらで二話目を投稿する俊介。
六話目を書きながら投稿してしばらくすると、感想が送られて来た。
「実話ですね!この綾子さんの事が大好きだった事が伝わりました!最後まで楽しみに読ませて頂きます」と綴られていた。
俊介は嬉しく成って「ありがとうございます。頑張って書き続ける支えに成りました」と返事を送った。
何処の誰か判らない多分女性だと思うが、この女性の感想に支えられて俊介は六話をスムーズに書き始められた。
六話は笛吹川温泉のシーンで、自分が初めて明るい場所で見た彩矢の裸体の美しさを表現した。
成人向けでは無いので、それ以上の描写は出来なかったが、それでも細かく臀部の曲線、乳房の膨らみを自分なりに表現した。
八年も前なのに鮮明に覚えている自分が或る意味恐い俊介。
翌日の二話は三十五人が読んでくれた様で、何か読者が身近に居る様に感じていた。
その日から、時間が有ると文章を書き綴る様に成っていた。
最初の人が再び感想を寄せて「綾子さんって幸せですね!これ程細かい部分まで見て貰って、私もこの様な男性と恋がしたく成りました」と感想が届いた。
同じ人だった。
大学入試
59-012
洋子と書いて有る感想に、その後も俊介は感想が届く度に返信をしていた。
いつしか洋子さんと云う、何処の誰か判らない人の感想を心待ちにする様に成っていった。
五話を投稿した頃から、既読数が徐々に増え始める。
そう成ると一層嬉しく成って来る俊介だが、若者向けのファンタジー小説の既読数に比べると微々たる人数だ。
洋子さんは一話が投稿される度に感想を書いて送る様に成っていた。
どの様な人だろう?年齢は?独身?感想文を見ている感じではそれ程若い人では無い様な気がする。
投稿間隔が長く一話投稿すると約一週間間隔を開けていた俊介、それは今後の書く時間を考えてゆっくり投稿していた。
六話位から洋子と云う女性は、文章の書き方、この様に書けばもっと良いとかアドバイスをしてくれる様に変わった。
どの様な人なのだろう?誰にでもこの様なアドバイスをするのだろうか?そう思いながらも文章の書き方を変更して洋子さんのアドバイスに従い書き直す俊介。
修正とかをしながら七話を投稿した時、年末を迎える程ゆっくりとした投稿間隔と修正で既読人数は殆ど無い状況に成っていた。
それでも洋子のアドバイスに沿って八話九話を一月に投稿すると、洋子からとても良く成ったわ、元々内容は素晴らしいと思ったのですが、書き慣れていない様なので出しゃばりましたごめんなさい!と感想が送られてきた。
二月に十話を投稿してから、急に読者数が上昇して俊介が驚く三桁の数字が刻まれる様に成った。
その傾向はどんどん上昇して、三月には日に六百人とか七百に成る。
俊介は気合いが入って書く早さもスピードアップされていた。
2016年四月には遂に日に一千人の大台に乗る勢いで、感想も複数の人から届く様に成る。
逆に洋子からは感想の数が極端に減ってしまった。
俊介が投稿しているサイトは(エブリディ)それ程大きなサイトでは無いが比較的真面目な作品が多い。
急に読者の数が増えたのには理由が有った。
阪和大学文学部准教授、葛城洋子四十三歳の影響だった。
洋子は投稿サイト(エブリディ)の顧問の様な仕事をしていて、良い作品を見つけるとアドバイスをして作家を育てる様な事をする。
沢山有る作品を全て読む訳では無いが、初めての投稿者とか興味が有る題名の作品を時々見る事が有る。
俊介の作品は洋子の目に止り、題名にも興味を持ってアドバイスを始めたのだ。
そして洋子は授業で学生に読む事を勧めたので、一気に既読者数が多く成った。
確かに読むと作者?主人公の綾子に対する思い、思い出が滲み出て作品の中に引きずり込まれるので、特に女子学生には人気が出て読者が急増した。
最初は返信をしていた俊介も沢山感想?応援のメールがサイト内で来る。
俊介は自分のペンネームを春木一夫と書き少し考えれば彩矢に判る様にしていた。
彩矢を青山綾子にして、姉青山美子、両親青山富雄、節子、野球の好きな弟は青山敦に成っている。
勿論妻と娘も夏木律子と藍とした。
律子は他に考えられずにそのまま使って、両親は森本君夫、佳子でコンビニの経営者で元銀行員の設定だ。
彩矢が結婚した相手が須藤豊、全く知識が無いので両親が資産家の設定に成っていた。
その阪和大学文学部に四月から入学したのが娘の葵で、将来の為に有名な大学の文学部に学び塾の経営者としての地位を確立させる予定にしていた。
大阪の親戚の家に頼み込んで下宿させて貰い通学する事に成っている。
父公夫の妹が大阪に嫁いで居たので頼み込んだのだ。
妹も塾の株主に名前を連ねているので、協力する事を惜しまない。
孫の猿橋梨花も葵と同級生で、同じ阪和大学文学部に入学したのでライバルで親戚。
昔から時々会うと仲が良いので環境も最適に成っていた。
「阪和大学の文学部卒なら、塾の将来社長に成っても充分だ!」公夫は入学が決まった時、葵と律子に言った。
「塾の社長が三流大学では生徒が集まりませんから、葵に頑張る様に言いました」律子は嬉しそうに話した。
私立では有名な大学で、地方の国立大学に行くなら阪和大学と云われている。
律子は鼻高々で入学式に同行して行く。
親戚の猿橋梨花と五人で入学式に向うと「残念ね!元御主人は娘さんの事ご存じなの?」
猿橋梨花の母に言われる。
「まだ葵が中学の時に離婚したので、その後は一度も会って居ませんし会わせていません!本人も会いたがらないので、勿論私も話しもしたく有りません!」恐い顔で言う律子。
凜花の母は少し嫌な事を言ったと後悔する程不機嫌に成った律子。
入学式で准教授の葛城洋子が紹介されると「有名な方ですよね!テレビにもコメンテーターとして出演されていますよね!」近くで囁く声が聞こえる。
「葵、あの准教授のゼミを受けなさいよ!テレビに将来CMする時役に立つかも知れないからね」
「えっ、お爺さんの塾そんなに大きく無いわ」
「馬鹿ね!私が社長に成ったら大きくして、葵が社長に成る時にCMするのよ!」
「お母さん、それならあの教授お婆さんだわ!」そう言って笑うが、律子は本気の様で呆れる葵だ。
確かに塾の経営は順調で、今年の学生も断る程の盛況に成っている。
父親の公夫から、将来葵に良い婿を迎えれば福岡にも塾を開いて大きくしたいな!その為には必ず良い大学に行って、良い婿を捜して塾を大きくしなさい。
そう言って受験した国立大学を逃したが、私立の有名校に行けば充分取り戻せると言われていた。
葛城洋子のゼミは人気が高く難関だったが、葵は見事選ばれて同じ様に応募した凜花は外れた。
葵の将来は前途洋々だと家族全員大喜びに成っていた。
生きる為に
59-013
葵が下宿して大学に通い出した頃、青木彩矢はスナックの仕事と昼間の仕事に疲れて過労による風邪で倒れていた。
食事も規則正しくしないで、昼間の仕事は立ち仕事で客が多いと昼休みも正確には出来ない。
夜は店が終るとスナックに飛込み、客の勧める酒を飲んでいたからだ。
病院で規則正しい生活をして、食事も規則正しく食べて下さいと言われる程偏っていた。
「この様な生活を続けていたら、大病に成りますよ!」強く言われても今の生活をする為にはバイトは必要だった。
婦人服の店は十時開店、遅い日は早朝の四時に自宅に帰る事も有るので、睡眠時間も極端に短い。
婦人服の店は遅番と早番が有るので、遅番の日は夜婦人服の店を出るのが九時を過ぎる。
俊介も投稿を初めて半年以上経過しているが、彩矢を知っている人も本人も全く読んでいないと思う。
それらしき感想文も入らないので、日に千人以上の人が読んでも中々彩矢の元には届かないのだと思った。
彩矢は本を読む人だったかな?と遠い記憶を蘇らせると、何処かで待ち合わせの時単行本を読んでいた事を思い出す。
この小説が完成した頃に巡り会えるのだろうか?その様な空想が次の文章を書き続ける力と成っていた。
「どうしたの?その頭?」婦人服店の同僚が三日間の休み明けの彩矢の髪型を見て驚いた。
「イメージチェンジよ!」
「それってチェンジし過ぎだわ!」短い髪を見て驚きの表情で言った。
セミロングの髪から短いショートの髪型に成っていたのは、髪を乾かさずに眠るので風邪に成ったと決めつけていた。
それ以外にも乾かす時間も節約したい事情も有ったので、疲れて少しでも早く眠りたい彩矢。
夜のスナックでも同僚もママも彩矢の変身に驚く。
奇しくも店の名前が俊介の小説に出る「青い烏」と似た「赤い鳥」と云う名前だ。
「お客の島田さん悲しむよ!彩矢の黒髪に惚れていたのに」
島田とは税理士先生で、彩矢を目当てにやって来る五十代の男で仕事以外私生活は殆ど不明だ。
彩矢は昼間の仕事が休みの日、スナックの仕事も休みたいとこの日ママに申し出た。
医者が休養をした方が良いと言うので、店の休みの日水曜日をスナックも休む事にしたのだ。
この休みでスナックの出勤日が週五日に成るので、多少身体が楽に成ると思った。
店で一番仲の良い弓子が十時に入店して、彩矢の復帰を喜んだが髪型に驚いて「失恋?」と大きな声で言った。
「まさか!その様な時間は無いわ」夜の仕事は五日間休んで久々だった。
「島田先生今夜は来ないのかな?驚くのに!」
「二日前に来て残念そうに帰って行ったわ」
その様な話をしていると、しばらくして本当に島田先生がやって来た。
「今夜も彩矢さんは休みか?」店内を見渡して言うと、続けて「新人の子が入ったのか?」
奧のボックス席に彩矢を見つけて言う島田先生。
カウンターに座ると弓子がおしぼりを手に「彩矢今夜は来ていますよ!」そう言って笑顔でおしぼりを手渡す。
「トイレか?」トイレの方向を見る島田先生。
「それより、久々に新人が入ったらしいな?」
「何処に?」
「誰も新人は入っていませんよ!」
「あそこのボックスに!」
「あの子は彩矢さんですよ!間違えたのね!」そう言って笑う弓子。
「えっ、黒髪でセミロング?超ショート?えー」驚く島田先生。
しばらくして「島田先生!いらっしゃいませ!」彩矢が目の前に来て尚更驚く島田先生。
「どう?似合う?」そう言って一回転して見せる。
「何故?その髪型に?ぼ、僕は前の方が良かったな!」
「シャンプーに時間かかるし、ドライヤーの時間も長いから思い切って切ったの!」
「でも切り過ぎだろう?男と変わらないよ!」
「でも当分美容院行かなければ、節約出来るわ」
「えー、彩矢さんの節約は判るけれど!そこまでしなくても良いだろう?」
「先生がお金出してくれるの?」
「同伴もアフターもしてくれない彩矢に僕が?」
「先生!彩矢は誰とも同伴もアフターもしてないのよ!」弓子が横から教える。
「ちょっと待って!来週から水曜日休みに成ったから、火曜日の夜ならアフターは出来るかも?」
「ほ、ほんとう!それなら是非僕と!」
「先生!奥様もお子様もいらっしゃるでしょう?もしも好きに成ったら困るから、、、、考えるわ」
「僕は独身だよ!今も昔もずーと独身!」そう言って胸を張る。
「本当ですか?知らなかったわ!」二人が声を揃えて言った。
「だから、良いだろう?記念すべき最初のお客に僕を!」
「何か買って下さるの?」弓子が横から強請る。
「何が欲しい?弓子には買わないが、彩矢には何でも買ってやろう!何が欲しい!」
「わあー大きく出たわね!流石税理士先生!」弓子が言う。
結局来週の火曜日のアフターを約束して、プレゼントはその時迄に考える事に成った。
二時間程楽しんだが、客が増えて彩矢が前から消えると島田先生は帰って行った。
俊介の小説は綾子と楽しい旅行のシーンから代わり、妻の律子の知る事に成り家を追出される様に実家に出て行く主人公。
別れてから本当に好きだった事を思い知らされる主人公、逆に愛されていなかった事を知った律子の怒りが描かれている。
俊介は時間が経過して、自分の行った行為が律子を傷つけたと考える様には成っていたのだ。
嵐の予感
59-014
翌火曜日、予定通り島田先生は嬉しそうに(赤い鳥)にやって来た。
「待っていたわ!先生に買って貰いたい物はドライヤー」
「ドライヤー?安い物で良いのだな!」
「だってドライヤーが壊れたから、髪の毛切ったのよ!」
「えーー」驚く島田先生。
乾かす事が出来なくて風邪に成ったと思っていた彩矢。
確かに古いドライヤーが壊れて、それさえも中々買わない彩矢。
ワンルームマンションには小さな冷蔵庫、小さな箪笥、小さなテレビ位しか無く、質素な生活をしている。
少しでも蓄えを増やして、自分が年老いた時の為に貯蓄をしている。
もう結婚をする事も無いだろう?両親が年老いたら弟淳の面倒を自分が見なければ成らないと考えていたからだ。
その為には少しでも蓄えが必要だと考えている彩矢。
姉の彰子が結婚して幸せに暮すには、弟淳を自分が引き取る事が使命の様に思うのだ。
須永と結婚した理由のひとつに将来近くに住めば面倒を見る事が出来る希望も有った。
だが須永の家族は淳の病気が遺伝しないのか?その事ばかりを言って毛嫌いしていた。
「ドライヤーで良いのなら、最高級品を買ってやろう!」スナックが閉店に成る前に二人は近くの寿司屋に入った。
今夜は早番だった彩矢は二時に店を出る事が出来た。
店は二時で通常は閉店だが、片付けとか遅い時間まで居る客で遅い時は三時まで営業している。
「初めてだな!彩矢と食事に行くなんて?」嬉しそうな島田先生。
「当たり前でしょう?私同伴もアフターも初めてよ!」
「嬉しいな!自分で好きなドライヤーを買いなさい!」そう言って財布から五万円を取り出して手渡す島田先生。
「本当にこんな高いドライヤーを買って良いの?」
そう話しながら入った寿司屋も深夜営業の店では高級店だ。
「美味しいわ!こんな美味しいお寿司食べたのは何年振りだろう?」そう言って涙ぐむ彩矢。
「おいおい、寿司を食べて涙流すなよ!」その姿に驚く島田先生。
彩矢に高級寿司は俊介と昔食べた北海道の寿司以来で、その光景を思い出して涙を流していた。
今頃は奥さんと娘さんに囲まれて幸せに暮して居るのだろうな?あの時何故別れたのだろう?そう考えると涙が止らない彩矢。
「どうしたのだよ!」驚く島田先生。
「わさび、私わさびに弱いのよ!」泣きながら言い訳をする彩矢。
寿司も随分長い間食べていない彩矢。
インスタントラーメンを食べる回数の方が断然多かった。
この夜を境に島田先生と彩矢は何度かアフターに行く様に成った。
貰ったお金で安いドライヤーを買って、残りは貯金をしていた。
この東京の空の下に俊介も住んでいるとは考えてもいない。
俊介の住んでいるのは両国のマンションで、東京営業所兼住まいに成っていた。
俊介の投稿小説は口コミで人気に成り、次の話を心待ちにする読者の感想が驚く程届く。
だが相変わらず早くても一週間に一話のペースでの投稿に成っている。
小説では妻律子の実家は、コンビニ大手のフランチャイズ店を五店舗運営して大成功している設定だ。
家を追出されて実家に身を寄せている主人公に、同情のメールが届く。
俊介の小説では別れた綾子はお金持ちの妻に成っているが、心の何処かで今も主人公の事を思い出す。
五月に成って葛城洋子が新入生にも、(遠い記憶)を読む様に勧める。
既に知っている学生も居たが、改めて内容を簡単に話して勧めた。
この日葵は授業を休んで、祖母の病院へ見舞いに行っていた。
「恥ずかしいよ!態々大阪から見舞いに来て貰って、今頃この歳で盲腸に成るなんて考えもしなかったわ」喜子は見舞いに来た葵に言った。
「この様な機会で無ければ帰れないわ!おばあさんの元気な顔を見て安心した!明日帰るからね!」
「今夜は自宅で食事かな?」
「久しぶりだから、お爺さんと三人で食事よ!」
「甘えて何か買って貰いなさい!何か欲しい物有るの?」
「そうね、、、、!彼氏かな?」笑いながら答える葵。
「それは大丈夫よ!お爺さんがお眼鏡に叶う、葵の好きな旦那様を見つけるわ、だから今は一生懸命に勉強しなさい!」祖母に言われて照れ笑いで病院を後にした葵。
彩矢の勤めるスナックの友達、大町弓子が歳の離れた妹が大阪から東京に来るので遊びに連れて行くとママに休みを頼んでいた。
デズニーランドに二人で泊って遊ぶのだと言った。
「お母さんが再婚して妹が産まれたので、私と十歳離れていてまだ大学生なのよ!」
殆ど一緒に暮して無い様だが、妹は可愛い様で東京に遊びに来る様に再三誘っていた様だ。
「大丈夫よ!私遅く迄出るから楽しんで来て!」彩矢は一日休みを貰える様に成って元気を取り戻していた。
島田先生とのアフターで多少気分的にも財政的にも余裕が出来た事も大きい。
葵は小倉から大阪に戻ると、友人に授業の内容を尋ねて受講出来なかった分を取り戻す。
「それからね、葛城教授がね!推薦のネット小説面白いわよ!」
「えっ、葛城先生ネット小説を読まれるの?」
「そうみたいよ!先日の授業の中で(エブリディ)ってサイトの中の小説を押していらしたわ!」
「私一度もネット小説を読んだ事無いわ!」
真理子と云う友人は自分の携帯を取り出して、投稿サイトを画面に出して「これだわ!このサイトの中の(遠い記憶)って作品がお勧めなのよ!」
「でも素人の作品でしょう?何故?」
「それが面白いのよ!繊細で作者が主人公の女性が好きだってよく判るのよ!葵も読んで見なさいよ!」葵は気乗りしていなかったが、真理子から詳しくサイト名と作品名を聞かされた。
意図的
59-015
俊介自身この小説の結末をどの様にするか?全く決めていなかった。
唯彩矢との思い出を書きたかったのと、自分の気持ちを出来れば彩矢本人に伝えたいだけだった。
勿論その中には、別れるまで気が付かなかった家族の話しも含まれている。
葛城洋子は作者の恋人に対する思いが繊細に、赤裸々に綴られて興味をそそり、不倫がどの様に家庭を崩壊させていくか?これ程リアルな作品は無いと思って読んでいた。
葵は真理子に勧められたので仕方無くサイトを捜して「この作品なの?作者が春木一夫?臭い名前ね!一夫だって?昔の名前と一字違い?山と木?変なの?」独り言を言いながら読み始める。
「主人公が俊介?お父さんと同じ名前じゃん!不潔な名前は同じなのね」
また独り言を言う葵。
「何よ!奥さんの名前が律子なの?お父さんとお母さん!全く同じだ!子供が葵なら笑いだね!」呟きながら読む顔色が変わったのは三話を読み終えた頃だった。
一話だけ読んで終ろうとしたのに、俊介と律子が気に成り読み続けてしまった葵。
顔色を変えて次々時間も忘れて読み続ける葵は、半ばパニック状態に変わっていた。
「これって、お父さんが書いたの?それしか無いわ!大変だわ!」そう口走ると携帯を通話に変更して「お母さん!」早く電話に出てよ!」呼び出し音に苛立つ葵。
授業中の為葵の電話を聞いていなかった律子。
今では塾生の為に教壇に立つ律子は、教師も板に付いてきて中々評判が良い。
一時間後、再三着信の有る葵に電話する律子。
「お母さん!何故直ぐに出ないの!」怒る様に言う葵に「授業をしていたのよ!小学生の授業!急用なの?何度もかけて!」
「大変なのよ!お父さんが、お父さんの小説、小説が日本国中に、お母さんの悪口が、、」
「何を訳の判らない事を言っているの?お父さんって誰?」
「私のお父さんよ!」
「不倫のお父さん?どうして小説なのよ?薬屋よ!関係無いわ!」
「ネットの小説にお母さんと私の事を書いて有るのよ!」
「馬鹿な事を!あのスケベーで女の尻を掻く事は有っても小説が書ける話聞いた事無いわ!そんな事で興奮して何度も電話したの?」
「だって私達の事、あれ程詳しく書ける人他に居ないわ、主人公が俊介、愛人が綾子、主人公の妻は律子よ!子供は藍って私の事よ!」
「偶然でしょう?作者は?」
「春木一夫、お爺さんもお婆さんも出て来るよ、森本君夫と字は違うけれど佳子よ!こんな偶然無いでしょう?」
「、、、、、、、」絶句する律子。
「何処に載っているの?」気に成り始めた律子が尋ねると、サイト名
エブリディ
と題名(遠い記憶)を伝えた。
直ぐにサイトを探し始める律子だが、夜の授業が始まる時間に成る。
心の中ではまさか?あの俊介が小説を書いた?一度も見た事は無いわ?でもあの大学ノート?苛々して教えられなく成って、プリントを配布して要点だけを話した律子。
授業が終ると直ぐに携帯に飛び付く様に持つと、サイトを検索して目的の(遠い記憶)を捜す。
ログイン登録で益々苛々する律子は「葵の見間違いよ!あのスケベー浮気男が小説?信じられないわ!」独り言を言いながら目的の小説に辿り着いた。
「遠い記憶?春木一夫?」そう読みながら顔色が変わる律子。
しばらく読むと「これ何よ!あの人に間違い無いわ!恥さらしが!馬鹿じゃ無いの!」
既に少し読む手が震えて「許せない!」携帯を通話に変えて、俊介に電話をする律子。
丁度次の話を書いている最中だった俊介は着信を見て「えっ、律子!葵に何か有ったのか?そんな事では電話はかけないよな!」着信音を聞きながら無視する。
大学生に成っているから、合格の知らせでは無いよな!そう考えていると呼び出し音は十数回鳴って切れた。
だが
しばらくして再び鳴り響く着信音「お前の両親が亡くなっても俺には関係無いからな!」携帯に怒る様に言う俊介。
三年以上連絡も無い元妻から再三の電話にうんざりして、三度目が鳴った時「何用だ!」携帯を耳にあてると「何変な物を書いているのよ!直ぐに削除しなさいよ!名誉毀損で訴えるわよ!」
「小説の事か?」
「実名で私を書く何て最低!早急に削除して下さい!判った!」それだけ言うと直ぐに電話は切れて、俊介の話も何も聞く耳は無かった。
その日も沢山の読者から、感想と激励、これからどう成るのか?との質問が届いて次の話を投稿していた。
久しぶりに洋子から(上手に書ける様に成りましたね!この後クライマックスに向けてどの様に展開するのか楽しみです。頑張って下さい!)と感想文が届いていた。
「もう直ぐ彩矢にも届くのに、今辞められない!」独り言の様に言うと、次の話へ進む俊介。
その頃律子は両親に相談して、対策を考える事にした。
だが内容を取り敢えず読んで、本当に律子と葵の事を書いているか?それが直ぐに判るか?を確かめると言う公夫。
スナックの友人弓子も歳の離れた妹とデズニーランドで遊んで、ホテルに泊っていた。
「お姉さん!最近学校で話題に成っているネット小説の主人公の勤めているスナックが、お姉さんの店によく似た名前だわ」
テーブルに置いた店のライターを見て言う。
「何て名前なの?」
「青いカラスよ!お姉さんの店も赤いカラスでしょう?」
「馬鹿ね、この字は鳥よ!烏はこれ?」ボールペンで書いて「似ているけれど違うのよ!」
「そう何だ!同じ字に見えたわ!」
「スナックの話しなの?」
「お姉さんも読んでみたら?面白いわ!多分この作者、主人公の彼氏だね!もの凄く細かい事まで書いているのよ!女子大学生の間では流行っているのよ!」携帯を見せる桜田里央。
「面白いか?少し読んでみよう」携帯を取上げて読み始める弓子。
告訴
59-016
歳の離れた妹がどの様な事に興味を持っているのか?好奇心から読み始めた弓子がしばらくして首を傾げ始める。
「お姉さん!どうしたの?合わないの?この様な不倫の話は嫌い?」
里央が尋ねると「この綾子って主人公、私の知っている人にそっくり!」
「何が?顔は写真じゃないし、姿も見えないのに何故そう思うの?」
「ビールの飲み方、喋り方仕草が本当にそっくり!恐い程だわ!細かい顔の感じも襟足の感じまで似ているわ」
「そんな!この小説のモデルがお姉さんの知り合い?嘘でしょう?」弓子の言葉に驚く里央。
「読んでみるわ、私の携帯に出して貰える?」
携帯を差し出すと里央がサイトを探し出してアップしている。
その間も読み続ける弓子。
「青い烏と赤い鳥?これも意図的なの?」店の名前まで知っていて書いているの?気味悪く成る弓子。
もしかしてこの作者、彩矢のストーカーなの?でも聞いた事無いわ、その様な話は?結局途中まで読んで、他人のそら似だと考える事にした弓子は妹と楽しんでいた。
翌日律子の父公夫が読んで「律子これは完全に名誉毀損だ!強く言って削除しなければ弁護士に頼んで訴えると言いなさい!本当にけしからん!私がコンビニのオーナーに成っているのも我慢が出来ない!」
「そうでしょう?俄成金が離婚に力を貸した様な書き方でしょう?」
「最後まで読む気にもなれん!即刻通達しなさい!」
「今夜もう一度連絡して削除する様に言います!」
「駄目なら会社に通告しなさい!営業を隠れ蓑にして小説を書いているとな!会社に言われたら流石に困るだろう?」
「お父様!名案ですわ!首に成ったらどうする事も出来ないでしょう?」
「この中に出て来る綾子が例の彩矢だな」
「そうです、青木彩矢ですよ!人妻の様ですが居場所は知らない様ですね!それでこの様な小説を書いた様ですわ」
「人妻に未練を持っているのか?馬鹿な男だ!」
律子は仕事が終る頃に電話をする事にした。
東京の営業所の所長に成っている事を知らないので、星原の時の状況で考えていた。
夜律子の電話に中々出ない俊介、用件は小説の削除だと判っているので話をしたくないのだ。
三回目の電話で漸く電話に出る俊介。
「考えてくれたでしょうね!まだ掲載されているわ!」
「名前も違うし、お前だと誰も判らないよ!」
「律子って私の名前よ!忘れたの?勝手に使って許せない!」
「お父さんもご立腹よ!何がコンビニのオーナーだ!と怒っていらしたわ!兎に角明日夕方六時迄に削除しなければ、法的に訴えるとお父さんが言っていたわ、既に弁護士にも内容を見せたそうよ!」
「えっ、弁護士に?」
「慰謝料の請求は確実よ!勿論私も葵も慰謝料の請求をさせて貰うわ!今夜一晩よく考える事ね!」
「それ程悪くは書いて無いと思うけれどね!」
「何言っているの?私が貴方を身ぐるみ剥いで追出した事に成っているわ!自分が六年も私達を裏切って不倫していたのよ!」
「、、、、、、、」
「青木彩矢って女に逃げられて、取り戻す為に僕は君が好きだ!って、訴えているの?馬鹿じゃ無いの?既に結婚して子供も二人位居るわよ!未練たらしい!兎に角明日の午後六時ですよ!判ったわね!過ぎると裁判に成るわ!覚悟しなさい!」それだけ怒鳴る様に話すと一方的に電話を切った律子。
直ぐに事情を葵に電話する律子に「お父さん泣いていたでしょう?お母さんの怒り凄いからね!」
「学校でこの小説読んでいる子多いの?」
「あの有名な葛城洋子先生が推薦したらしいわ」
「何故?知名度の高い先生があの駄作を推薦したのよ!葵一度調べて!俊介と知り合いなの?」
「その様な事は無いと思うわ!お父さん福岡で先生は大阪でしょう?会う事も無いでしょう?偶々じゃ?」
「兎に角調べて見て、裁判に成ったら有名人の力は大きいからね」
律子は元夫の小説を何故?有名な葛城洋子准教授が推奨するのか?それが理解出来なかった。
最後通告された俊介は続きが書けなく成った。
どうしよう?彩矢が見つけてくれると思っていたのに、元妻律子に先に見つかり裁判に成るかも知れないと言われて頭を抱えて、その夜は一睡も出来なかった俊介。
翌日弓子は土産を持ってスナック(赤い鳥)に出勤した。
「お休みを頂いてありがとうございました」土産をママに差し出す。
「彩矢さん、今夜は何時出勤だっけ?」時計を見ながら言うと「今夜は九時からの日だから、もう直ぐ来ると思うけれど、どうしたの?」
「昨日遅く迄頑張って貰ったから、特別に土産買って来たから」
その様な話をしていると客が二人入って来て、早番の女の子は客の所に行った。
その後もお客が二人入って来て、九時五分前に彩矢が小走りで店に飛込んで来た。
彩矢の姿を見つけて弓子が駈け寄ってきて「昨日はありがとう!」御礼を言うと同時にメモ書きを手渡した。
「何?これ?」
「ネットの小説サイトの場所!」
「ネットの小説?何?デビューしたの?」
「違うわよ!何度読んでも貴女の事を書いていると思ったのよ!だから気に成って、一度読んで見て!」
「遠い記憶って題名なの?私知り合いに作家とか文章書く人居ないけれどね!後で見るわ!ありがとう」首を傾げながら着替えに向った彩矢。
間一髪
59-017
真夜中の二時お客が空いて弓子が「見た?」そう言って駈け寄って来た。
「忙しかったからまだ見てないわ」そう言って携帯を持つ彩矢。
投稿サイト(エブリディ)は直ぐに出て来て、作品名を入力するが全く反応が無い。
しばらく触っていると弓子が「読めた?似ているでしょう?」そう言ってトイレから戻って来た。
「それがその様な名前の作品に辿り着かないのよ!」
「うそ!私の携帯持って来るわ」しばらくして「ほら、ここに有るでしょう?」スマホの画面に(エブリディ)のアイコンを見つけてタッチして「あれ?無い無く成っているわ」
「作者は?」
「作者はね一夫、名前何だったかな?主人公の女性が青山綾子で男性の方が夏木俊介って云ったかな?」
「えっ、俊介!本当に俊介って主人公なの?」
「確かそうだったわ、俊介さんに何か心辺りが有るのね」
「どんな内容?教えて?」
「帰ってから本気で読もうと思っていたから、流し読みしただけよ!でもこの綾子って女性の細かい仕草とか表情の描写が彩矢と瓜二つなのよ!それで気に成って教えてあげようと思ったの!何か気に成るの?」
「覚えている場面を教えて頂戴!」
「そうね、この二人は不倫ね!別れても俊介は綾子の事が忘れられないのよ!奥さんに不倫が見つかって追出されるのよ!」
「奥さんの実家って金持ち?」
「コンビニを五店舗経営していたかな?本当に心辺りの有る話なの?」
「いいえ、少し興味が湧いたのよ!」と誤魔化したが彩矢が大きく動揺しているのは弓子には判った。
「明日に成ったら、更新されて読めるわ!私も読むわ」
「奥さんに子供さんは女の子が一人よね!」執拗に聞き出そうとする彩矢。
「読んでないのに何故知っているの?中学の女の子が一人だったわ」
徐々にこの作品を書いた人が俊介の関係者の可能性が高いと思い出した彩矢。
俊介が文章を書く話は一度も聞いた事が無かったからだ。
もしかしてこの作者は自分を捜しているの?弓子の話を聞く限り主人公は綾子に惚れて昔を懐かしみながら色々な場所に行く様だ。
明日に成れば読めるので、正確な事が判るだろうと思いながら、自宅に帰るが眠れない。
昨夜再び電話をした律子、期限の六時を過ぎても削除する気配が無いので、律子の親父が電話をしてきて漸く削除に同意させたのだ。
三時間遅れて午後の九時に削除された。
彩矢がログインした時間に丁度削除作業が完了していた。
「二度とこの様な事はやらない様にな!会社にも迷惑がかかり、君も仕事を失う事に成る」
釘を刺されて無念の気持ち一杯で、その後は酒を浴びる様に飲んで行きつけの居酒屋の店員と客に運ばれて帰った。
「彩矢が見つけなくて、何故鬼嫁が見つけた!」大きな声で叫ぶ俊介。
翌日から様子を探る為に探偵を雇って、俊介の自宅付近の調査をする程念を入れていた公夫。
今、スキャンダルが表に出ると塾生が激減するのは確実だから、慎重に成っている。
翌日から投稿サイト(エブリディ)にメールが殺到して、何故読めなく成ったの?の問い合わせに運営は異例の(人気の遠い記憶は作者の都合により投稿が中止されました。詳しい事情は全く把握出来ません)の文章が表紙に出た。
俊介はそのサイトをもう見る事が無く成っていたので、騒ぎを全く知らない。
「彩矢!ごめんね!作者の都合で投稿を削除したって、表紙に書かれていたわ!」
弓子が夜彩矢に謝ると「私も見たわ、運営も判らない様だった」
「全てメールのやり取りだから、何処の誰が何処から投稿しているか判らない様だわ」
「本人宛にメールは送っている様だけど返信が無いのでどうする事も出来ないらしい」
「あの小説の作者は彩矢の恋人だよね!」
弓子にズバリと言われて赤面しながら「違うわ!」
「不倫していたのよね!誰にも言わないから安心して!男の奥さんに見つかって別れさせられたのでしょう?」
「違うわ!私が彼を振ったのよ!」
「えーー嘘でしょう?彼貴女の事が忘れられなくて、小説にして訴えているのよ!このままで良いの?」
涙目を上に向けて彩矢は「運命よ!もう遠い記憶なのよ!」そう口走るとトイレに走って行った。
弓子は今でも彼の事が好きなのだと確信したが、翌日も次の日もサイトに小説が復活する事は無かった。
公夫は調査会社からの資料を見て「東京営業所の所長をしているのか?」と驚いた。
調査員は「東京での様子も調べますか?」
「そうだな!一応調べて置いた方が今後の為にも良いだろう」
公夫は俊介の行動の把握に力を入れた。
そして律子に「あの男既に東京に行ったそうだ!」
「えっ、女をもう捜し出したのかしら?」
「一応今の生活を調べて貰う様に手配した!」
「あの彩矢とか云う女とだけは一緒にさせないわ!」
「その女は結婚しているのだろう?あの男の元を去ってからな!」
「青木彩矢が何処の誰か調べて無いので、全く知らないのよ!どうやら俊介も知らないのでしょう?不倫だからお互いが知らない方が良いと、小説にも書いていたわ」
「だが、あの小説で捜し出したかも知れない!」
「もしも、その様な事に成っていたら許さない!」恐い顔に成る律子。
毎日必ずサイトを覗いて溜息が出るのが彩矢の日課に成っていた。
その彩矢に更なる不幸が訪れるとはこの時考えてもいなかった。
最愛の死
59-018
夏が終る頃公夫の元に調査会社の男がやって来て「社長さん!あの春山俊介には女の影は有りませんでした。これが調査書です」分厚いレポート用紙をテーブルの上に置いた。
「結論から申しますと、仕事が終ると殆ど毎日近所の居酒屋に行きます。場所柄相撲関係者が多く、話し相手も下っ端の力士が多いですね。女の影は全く有りませんでした」
「一ヶ月以上調べても仕事を適当に終えると飲み屋通いか?」
「少し前までは小説を書いていて、殆ど夜は自宅に籠もっていた様ですがね」
「成る程!女の影も無いのだな!もう調査は良いだろう!」
「この青木彩矢って女も捜しましょうか?」
「手掛かりが何も無いだろう?」
「それを捜すのがプロの仕事ですよ!時間と費用はかかりますが捜せない事は有りませんよ!」
「本当なのか?あの男より先に捜して会えない様にして貰えたら助かる!」
藪内と云う探偵は、公夫が金ずるだと考えて縁を切るのを躊躇ったのだ。
葛城准教授にも学生から「推薦の小説面白かったのに突然削除に成って読めません!何とか成らないのですか?」と沢山の学生から質問攻めに合っていた。
葛城准教授も運営と同じで、登録のメールに伝言を送る以外に手立ては無く、二日に一度はメールを送っていた。
だがサイトそのものを削除している俊介に見る事は出来ない。
自分が推薦した責任も感じている葛城准教授は、新たな捜索方法を模索する様に成っていた。
削除された初夏が過ぎ秋も過ぎ、冬の到来が近づいた頃、彩矢も完全に諦めて昼間の仕事とスナックの仕事を頑張っていた。
相変わらず週に一度か二週間に一度、島田先生に誘われて夜の食事に行く事も日課の様に成っていた。
三十五歳の誕生日を迎えて直ぐ(淳がインフルエンザを拗らせて昨日死亡)の呆気ないメールが届く。
父の泰三からの簡単な文章に呆然とする彩矢。
将来自分が面倒を見ようと考えていたのに、早すぎる死は彩矢から完全に気力を失わせてしまった。
(直ぐに帰ります!)メールを返信すると簡単な物を持って新幹線に飛び乗る為に東京駅に向った。
何処をどの様に歩いて来たのか判らない程気が動転している彩矢。
化粧も何もしていない涙目の彩矢、その姿を九州福岡の本社での会議を終えて戻った俊介が見つけた。
大きな声で「彩矢!」と叫ぶが、改札が混雑して中々通過出来ない俊介。
彩矢は間違えて東海道新幹線の出口に来た様で、東北新幹線の乗り場に向って足早に消えてしまった。
漸く改札を出ると、直ぐにSuicaで東北新幹線の改札に入る。
下りのやまびこに飛び乗った彩矢を追い掛けて、荷物をぶら下げ階段を駆け上がる俊介。
ホームに上がった時、無情にも新幹線の扉は閉まり二度と開く事は無かった。
髪は以前に比べて短く化粧をしていなかったが、間違い無く彩矢だったと確信する俊介。
しばらくして冷静に成ると、俊介は彩矢の行き先は遠くでは無いと思った。
遠いならもっと早いはやぶさとかに乗る筈だ!次の電車で追いついても既に下車しているのでは?俊介は諦めるしか術が無かった。
でもあの姿は、何か急用だったのだ!栃木の小山、宇都宮、那須塩原、そのどれかの駅で下車すると考えていた。
でも今見た彩矢の姿はとても幸せには見えなかった。
髪の毛は以前より極端に短くて化粧も殆どしていない。
服装も質素だったと、脳裏に焼き付いた先程の姿を思い出す。
幸せには程遠いと決めるまで時間は殆ど要さなかった。
先程の姿を思い出すと、栃木に住んでいるのでは無くて東京に住んでいるのだ。
何か急用で慌てて栃木に帰ったのだと決めつけるが、次の策は何も無い俊介。
でも俊介には数年振りに見た彩矢が益々新鮮に写って、自分が恋している事実を知らされた。
その後俊介が行った行動は、途中で放り投げた小説の完成に力を注いで、この自分の小説の中だけでも彩矢を蘇らせ様とした。
実家に帰った彩矢は「淳君!起きてお姉さんが帰って来たよ!」遺体に縋り付いて泣き声も涸れる程泣いていた。
姉夫婦が来たのは翌朝で、主人の仕事の関係で昨夜は来られなかったと言い訳をした。
通夜から葬儀も家族葬なので、殆ど弔問客も少なく「淳君!寂しいね!ごめんね!」彩矢一人が絶えず淳の亡骸から離れなかった。
両親も障害者の子供の葬儀を盛大にする事は出来ずに、ひっそりと行うと決めていた。
「まだ、三十歳だよね!淳君、天国で彼女を見つけて幸せに成ってね!」納棺の時に彩矢が泣きながら言うと、母の雅美が堪らず号泣していた。
生まれてから障害者と判って、苦労をして育てた時間を走馬燈の様に思い出していた。
淳の葬儀から戻った彩矢は抜け殻の様に成っていた。
「弟さんが亡く成ったって聞いたよ!これ少ないけれど」島田先生が彩矢に御佛前をそっと手渡したのは、翌週の火曜日の夜だった。
「先生!ありがとうございます!何か元気の出る物を食べさせて!」
「よし、アフターに行こう!一杯食べたら元気が出る!河豚にするか?」
「えっ、河豚を食べさせて貰えるの?嬉しい!」今夜の彩矢は淳君の事を忘れたかった。
深夜の町に歩き出す二人、彩矢は寒さのだけでは無く心が寒くて、珍しく島田先生と腕を組んで抱きつく様に歩いていた。
今まで我慢していた島田喜一は、彩矢が本気で自分の事を好きに成ってくれたと思い始めていた。
短い髪はいつの間にか伸びて、ショートボブにセット出来る程に成っていた。
「彩矢のコートは寒そうだな!良いのを買ってやろうか?」
十二月の深夜を歩くには似合わないと思った島田先生。
食べ始めると「河豚を食べたのはいつだったかな?」遠い記憶の中を捜す彩矢は急に涙が溢れて来た。
埋まる心の不安
59-019
俊介と山口から山陰に行った時に食べた事を思い出していた。
「河豚で感動して、涙を流されると僕が辛いな!」驚いて言う島田先生。
島田喜一先生は店では税理士先生と呼ばれているが、公認会計士で渋谷に事務所を構えて税理士を数名抱える中規模の会計事務所だ。
結婚していない話は嘘で、過去に結婚は一度したが僅か二年で別れて独身だった。
KS会計事務所の看板が渋谷のビルに設置されたのは十年以上前で、結構有名な会計事務所だった。
河豚料理の店で「彩矢の髪も少し伸びたから美容院に行ったらどうだ?ドライヤーも買ってやったから風邪も大丈夫だろう?」
「でもこの数ヶ月、自分で前髪切るだけだったのよ!伸びた?」
「まだまだ前の様には出来ないけれど、弓子の様な髪型には出来るだろう?」
「ボブ?好きなの?先生は?」
「今は余りにも自然だろう?」財布から一万円札を取り出す。
「じゃあ、今度の水曜日行って来るわ!浜松町のリステッドホテルで食事ご馳走して貰える?」
「えっ、夕方の食事か?」驚いて尋ねる島田先生。
「こんなに色々して頂いて、何か御礼を、、、、、、、」口籠もる彩矢。
「何が食べたい?ステーキか?和食か?」
「隣の棟に懐石料理のお店で(きむら)って店が在るの、そこで食事がしたいな」
「お易い御用だ!何時にする?」嬉しそうに尋ねる島田先生。
「六時で如何ですか?」
「判った!予約して置く!」
「翌朝は仕事が有るので、八時には出ますが宜しいですか?」
「私も仕事だから、一緒に出よう!」張り切る島田は漸く自分に気を許してくれた事を喜んで楽しい時間に成った。
例の投稿小説も気には成ったが、不確実で俊介が本当に自分を捜しているとはとても思えなかった。
最愛の弟淳君が死んだ今、気の抜けたビールの様な心境を支えてくれる何かが欲しかった。
一方の俊介は久々に見た彩矢が夢の中に表われて「たすけてーー」と叫ぶ事が有る。
それは窶れた姿を見たからだが、それが本当に彩矢だったのかも疑い始める。
いつも彩矢の事を考えているので、幻影を見たのかも知れないと思う。
彩矢を見てから小説が書けなく成っていた。
自分が思っていた結婚をして、子供も産まれて幸せに暮していると信じていたからだ。
あの質素な服装にあの髪、化粧の無い窶れた姿は小説の結末に繋がらないと思い始めると、完全に止ってしまったのだ。
幸せに暮す彩矢に巡り会って「凄いわ!小説を書いてくれたのね!私も本当はあの時俊介さんの事好きだったのよ!ありがとう!」そう言われて嬉しく成る自分の姿を想像していた。
今は誰の目に触れる事が無い小説だが、書き始めたので最後まで完成させ様としていたが、完全に挫折した。
公夫は探偵の藪内にその後の調査の状況を尋ねた。
適当に調査費用を頂こうと思っていたのに、意外な催促に藪内は慌てて星原の東京営業所を見張る事にした。
何か成果を伝えなければ、調査の依頼を打ち切られるので焦る。
両国の事務所兼マンションに入る荒木則子の姿を見つけたのは、張り込みしてから三日後だった。
毎日決まった時間にマンションを訪れるので、藪内は気が付いたのだ。
十五軒程のマンションなので、それ程沢山の人が出入りは無い。
事務所兼のマンションに使っているのは、一階の三軒程で他の階は全て住居のみだった。
三十台後半の荒木則子は美人では無かったが、藪内探偵には問題では無かった。
適当に可能性が有る様にレポートを作成して、写真を写せば時間稼ぎに成るからだ。
その日から、この荒木則子の監視と尾行、写真撮影を始めるが遠い。
十二月の中旬、水曜日久々に美容院に行った彩矢は伸びた髪を弓子の様なショートボブにして、居酒屋
きむら
に向った。
勿論隣のリステッドホテルに島田先生と泊る準備で荷物を持って行く。
島田先生は待ち合わせの居酒屋
きむら
に予約を入れて、奧の座敷に席を確保していた。
十分前にホテルのロビーに到着すると、バッグをフロントに預ける。
「島田の連れです」と言うと直ぐに調べて「お部屋に入れて置きます」とフロントの係が言った。
何も持たずに雷雨の中、隣のコンビニに着替えを買う為に行った事が昨日の様に蘇る。
既に十年近い昔の事だったが、あの時雷雨で泊って無かったらどの様な筋書きに成ったのだろう?懐かしい思い出を噛みしめて居酒屋に向う彩矢。
今夜の居酒屋は賑やかで「島田で予約していると思うのですが?」店員に伝えると、奧の座敷に案内された。
俊介さんはここの常連の様だったけれど、何度か私と来た後も来たのかしら?ちらちらと客の様子を見ながら奧の座敷に案内された。
店主も彩矢の姿を一瞬見たが、髪型とか服装で中々判らない。
それに今夜は結構忙しいので、気にも留めずに見送っていた。
部屋に入ると「おお!綺麗ですね!見違えました」島田先生が感嘆の声を発して出迎えた。
「掘り炬燵の在る部屋にしましたよ!今夜は結構寒いですからね」
「年末寒波襲来ですね!」そう言いながらコートを脱いで、対面に座る彩矢。
「中々良い居酒屋知っていましたね!懐石のコースにしましたよ!」
「ありがとうございます」少し恥じらいを見せて御礼を言う彩矢。
これからこの島田先生と初めて一夜を過すと思うと、自然と態度に出ていた。
この一年間色々な物を頂き、ご馳走に成って島田先生の気持ちは充分判っていたが、受け入れる気持ちに成らなかった。
だが最愛の淳君が亡くなって、今心に大きな空洞が出来た事は事実だ。
誰かに埋めて貰わなければ、既に耐えられない自分がそこに居た。
驚愕
59-020
「取り敢えずビールかな?」
「はい、生ビールお願いします」嬉しそうに答える彩矢だったが、懐石料理が運ばれて食べ始めると、既に彩矢は涙目に変わっていた。
島田先生は彩矢が度々泣くので泣き上戸なのか?美味しい物を食べて感激しているのか?不思議に思う。
「また涙目に成っているのか?」思った事をぶつけて見た。
「こんな美味しい料理を頂いて感激しています」
「だが、この店には来た事が有るのだろう?」
「いいえ、店の女の子、そう弓子さんに聞いて知っていたのです。でも実際に食べると美味しくて感激してしまいました。先週も河豚で泣いちゃいましたね!ごめんなさい!」そう言って誤魔化す。
「確かに河豚も美味しいし、この懐石も美味しいが涙が出る程では無いと思うがな!」
「私には涙が出る程美味しいですわ」
彩矢は必死で俊介との思い出を消そうとしていたが、料理を食べる度に思い出して言葉が消えてしまう。
島田先生は不思議に思っていたが、今それを聞くとこれからの時間が終ってしまう様な気がした。
ゆっくり時間を要して食事が終ると、店の客も半分程に成り店主も少し手が空いていた。
その時島田先生の後を付いて歩く彩矢の姿が目に止った。
何処かで見た様な気がしていたが、直ぐには思い出さない。
二人が出て行って、しばらくして店主は彩矢を思い出したが、俊介に言うべきか?迷う。
二人が夫婦には見えなかったからで、俊介の事を思うと言えないと思う。
五十代後半の男と三十代半ばの二人は不倫カップルに見えたのだ。
彩矢が部屋に入るといきなり「先生!私、私、淳君が亡く成って寂しいの!たすけてー」そう言って抱きついた。
「そうなのか?寂しいのだな!東京に一人でいつから住んでいるのだ?」
「大学生の時から結婚するまで、離婚してまた舞い戻って来たので、もう十五年近く住んで居る事に成るわ!でも今程寂しい気持ちに成ったのは初めて、、、、、、先生たすけてーーー」
彩矢の唇を島田先生の唇が覆って言葉を遮った。
「恥ずかしいから、お風呂は別々で灯りを消して下さいね」
彩矢は自分の姿を見せたく無かったのかも知れない。
離婚してから一度もSEXの無かった彩矢は久々に男の腕に抱かれたが、何か物足りなさを感じていた。
それは俊介に初めてこのホテルで抱かれた事を思い出していたからだった。
島田先生も彩矢を抱きながら何かを感じていたが、敢えて口には出さないで翌朝七時に朝食を食べて彩矢を浜松町の駅までタクシーで送った。
何か暗い物を感じると、島田先生は躊躇わずに彩矢の後を付いてタクシーを降りていた。
階段を駆け上がる彩矢を見つけると、尾行を始めている自分に気が付く。
彩矢がどの様な生活をしているのか、あの暗い雰囲気は何処から来るのかが知りたくなった。
出来ればその場所から救い出したい、そして心の底から愛し合いたいと考える島田先生。
一度結婚には失敗して、二度と結婚はしないだろうと思っていたが、何処か影の有る彩矢に惹かれる自分を抑えられなかった。
夜の仕事をしているが、合ってないと以前から思っていたし本人にも話した事が有る。
「生活の為よ!仕方無いわ!」そう言って微笑む姿は、何故か島田先生の目には虚しく写った。
改札を入る彩矢は新宿方面のホームに向う。
少し離れて付いて行く島田先生は、事務所に電話をして今日は午後から行くと伝えた。
ホームに電車が滑り込むが、ラッシュの時間ですし詰め状態だ。
見失わない様に彩矢を見るが、少し身長が高いので遠くからでも確認が出来た。
仕事は確か池袋だと話していたが、一度今の時間なら自宅に戻るだろう?何処に住んで居るのだろう?その様な事を考えていると、新宿で人に押し出される様に彩矢は降りた。
慌てて島田先生も後を追って降りる。
エスカレーターに流れる様に乗り込む彩矢は、一度も振り返らない。
昨夜の事を思い出しているのか?仕事の事だろうか?足は中央線のホームに向う彩矢。
既に停車している電車に乗り込むので、遠くでは無い様だと考える島田先生。
二人が乗り込むのを見計らった様に、快速電車は走り始める。
僅か四分で彩矢は電車を中野駅で降りた。
「ここに住んでいるのか?」独り言を言いながら間隔を開けて尾行をする。
有り難い事に一度も振り向く事は無い。
中野駅から十分程歩くと古い木造のアパートに消えた彩矢。
「えっ、ここに住んで居るのか?」思わず言葉を失った島田先生。
既に築五十年から六十年は経過しているだろうと思う造りだ。
二階に上がるのを見届けると、島田先生も恐る恐る階段を上がると二軒並んでいる。
ドアの処に青木彩矢とマジックで書いた紙が挟んで有るので、郵便とかが届いた時に判る様にしているのだろう?
凄い処に住んで居るのだな!驚きながら階段を降りると住所を調べて事務所に連絡して付近の不動産屋を捜して貰った。
若い女性の住む家では無いと決めつける島田先生は、直ぐにでも彩矢をこの生活から救ってやりたいと思う。
今度は島田先生の目に光る物が滲み出ていた。
近所の不動産屋に飛込んで尋ねると「あのアパートですか?家賃は三万ですね!敷金も合わせても五万程度で入居出来ますよ!」不動産屋の店員は微笑みながら話した。
「女の人も住んで居るのか?」
「年寄りの水商売の人か外人さん位ですかね!若い女性は住まないでしょう?用心が悪いからね!」
島田先生は池袋に近い物件を捜す事にして、取り敢えず溜息を付きながら彩矢の住まいに程近い不動産屋を出た。
森田公夫の処へ調査書が届いたのは週末だった。
星原東京営業所の場所と写真(この女性が一緒に仕事をしていますが、お探しの青木彩矢と思われます)と荒木則子の写真も数枚添えられていた。
お年玉
59-021
福岡の探偵社の藪内が東京に何度も行けないので、東京の同業者に頼んだのだ。
荒木則子は人妻で東京事務所に働きに来ていて、年齢とも一致したので決めつけて報告書に写真を公夫に渡したのだ。
書類が届いた頃を見計らって電話で「塾長、今後も調査を続けましょうか?青山彩矢が事務所に通いで来ていますので、これ以上の事はもう無いでしょう?」
「そうだな!既に離婚した男が女と生活しても関係無いから、これで打ち切ってくれ!請求署の金額は近日中に口座に振り込む」
「判りました!一先ず調査完了と云う事で終りましょう」藪内は電話を切った。
夕方律子に「これが青山彩矢だ!人妻で星原の東京営業所の事務として雇っているらしい!小説の投稿で既に見つけていたらしい!」
写真を手に取って「この女、綺麗?不細工な中年女に熱を出して信じられないわ!携帯の中の写真はもう少し綺麗だった様な気がしたけれど、初めて会った時から十年も過ぎれば中年の叔母さんじゃないの!」もう記憶の中にしかない彩矢の写真は忘れていた。
「もう小説も削除されたし、あの男も女を見つけたので安心しただろう。終りにして忘れなさい」公夫の説得で漸く納得した律子。
調査書を律子に渡さないで、公夫はこれ以上恥をさらしたくない気分で机にしまい込んだ。
翌週水曜日彩矢が休みだと知っていながら店にやって来た島田先生。
「いゃっしゃい!島田先生!曜日間違えていませんか?」ママが笑顔で出迎える。
「偶には他の子と飲みたいと思って来たよ!弓子で!」
「えー私で良いの?同じ様な髪型だけど、私の方が少し長いでしょう?このショートボブが良いの?」
「向こうのボックスで歌でも歌おう!」
「はーい、先生の希を叶えましょう」カラオケの器具とマイクを二本持って、ボックス席に向った弓子。
「弓子は懐石料理好きか?」
「いきなり?私それ程和食好きでないわ、懐石料理って次々出て来る料理ですよね」
「実は高級店を知っているのだが、ご馳走しようか?浜松町のリステッドホテルの並びに在る(きむら)って懐石料理の店だ」
「美味しそうだけれど、それならステーキをご馳走してよ!懐石は彩矢に食べさせてあげて!好きみたいだわ」
「そうなのか?深夜に懐石している店無いからな、今度話してみるか?」
その後数曲歌うと一時間程で店を出て行った島田先生。
彩矢の話を確かめに来たのだが、予想した通り昔誰か好きな男と(きむら)に行ったと思った。
そう考えるとやきもちを焼きたく成った島田先生だが、その彼氏とは今は既に会えない悲しみがあの涙に成ったと理解していた。
深夜の営業なので、女の子確保の為に送るって話は聞いたが自宅までは送ってないのだろう?あのアパートを見たら少し恐い気分に成ると思う。
このスナックの近くに既にマンションを捜していた島田先生。
タクシーにてワンメーター程度で帰れる場所、仕事場の洋服店の場所は知らないが、その場所なら安心出来ると購入の段取りをしている。
問題は簡単に受け取って貰えるか?自分が住んでいる場所を調べたと怒り出す?色々な事を考える島田先生も彩矢に完全に惚れている事を自覚していた。
新品のマンションを買って自分と一緒に住もう!とプロポーズしたい気持ちは充分有るが、簡単には受け入れる筈は無いと思う。
細かい条件に一致するマンションの案内が届いたのは昨日だった。
家賃十万程度でこれなら受け取って貰えるのでは?タクシーでそのマンションに到着すると三階に上がって行く。
小さなビルで五階建ての三階部分が全て住居に成っている。
一階は小さな事務所が入っているので、人の出入りも少ない様だ。
鍵で部屋に入ると広々とした三十平方メートルのワンルームの様で、風呂場と台所、トイレが別に成っているので一人で住むには充分だ。
島田先生は気に入ったので、家具とベッドテレビ等を買い入れてから彩矢にプレゼントする予定にした。
バルコニーから東京の冬空が目に飛込む。
正月明けからここに住めば彩矢の気持ちも変わるだろう?そう思いながら夜空を眺める島田先生。
髪型を変えて少し女性らしく成って客の受けも良く成った彩矢。
島田先生との一夜が気分的にも楽にさせた様で、年末の仕事は三十日まで働くと張り切る。
洋服店も三十日まで営業で、三十一日、一日の二日間だけ休みだ。
二日から初売り福袋の販売が忙しいのは決まっている。
(赤い鳥)の正月は五日からの営業に成るので、開店はゆっくりとしている。
島田先生は年内ぎりぎりに家具調度品、テレビ等を設置して彩矢にお年玉プレゼントとして見せる準備を終えた。
十二月の三十日の九時過ぎに島田先生はやって来た。
「先生、年末のお忙しい日に来て頂きましてありがとうございます」ママが嬉しそうに挨拶をした。
「今夜彩矢はまだ来て無いのか?」
「もう直ぐ来ると思いますよ!店の掃除で少し遅れると連絡が有りました」
「そうか、待たせて貰うぞ!今夜は彩矢に用事が有るのだ!」
そう言うとボックス席の方に向って進むと勝手に座った。
弓子は今日から休んで田舎に帰った様だ。
「先生今夜は一時で閉店しますので宜しくお願いします」ママが向こうから大きな声で伝えた。
しばらくして彩矢が来ると「お待ちかねよ!」指さして島田先生を教える。
「いらっしゃいませ、押し迫ってお越し頂いてありがとうございます」笑顔で側に来た。
「ここに座れ!」
「着替えてからよ!」そう言う彩矢の袖を引っ張って横に座らせる。
「初詣に行こうと思う、一緒に行ってくれるか?」いきなりの話しに驚く彩矢。
明るく
59-022
「初詣に?」
「田舎に帰るのか?」
「今年は正月無いのよ!淳君が亡く成ったから無理です」呆気なく断られる島田先生。
「そうだったな!じゃあ、一日俺と付き合って欲しい!神社には行かないけれど彩矢と過したい」
「二日から初売りだから、一日は遅く遊べませんわ」彩矢は一度身体を許したので再びの要求だと思って拒否しようと思っていた。
「昼間食事をして一時間でも良いから付き合って欲しい!」強引に誘われたので、昼間の一時間程度なら食事をしても良いと約束をした。
一月の元旦彩矢にとって驚くべき事件が勃発しようとしていた。
着飾る予定も着物も無いのだが、一番上等の洋服を着て大好きな鍵の形をしたネックレスを着けて薄汚いアパートを出る。
このネックレスは俊介が誕生日に買ってくれた物で、彩矢の宝物のひとつだ。
その時「これはね、免税店で買ってきたから、店員に尋ねたら日本には輸出して無いらしい」俊介が誇らしげに話した。
「有名ブランド品ね!確かにこの形の見た事無いわね!ありがとう大事にするわ」
その場で直ぐに首に着ける彩矢は、嬉しそうに俊介の前で身体を一回転させて喜んだ。
その姿を目を細めて見る俊介の満足そうな顔がそこに有った。
町は正月気分で着飾った若い女性が歩き、店先には正月の飾り付けが一杯で気分を盛り上げていた。
交差点で信号待ちの時、横の電気店は元旦から売り出しで、テレビの放送を流している。
時計を見ると待ち合わせの時間まで少し間が有るので、寒さを避ける為に電気店に入って大きな画面のテレビに目を移す彩矢。
正月のワイド番組にコメンテーターが数人並んで、今年の抱負を話していた。
「葛城准教授の今年の抱負はどの様な事でしょう?」司会の男性が尋ねると、葛城洋子が「昨年私の推薦したネット小説が途中で途切れてしまって沢山の方にお叱りを受けて申し訳有りませんでした、作者の方もしも今この番組をご覧でしたら私まで是非ご一報下さる事をお願い致します。何処の何方か全く判らず困っています」
「葛城先生、変わった抱負ですね!何か手掛かりが有るのでしょうか?」
「はい、小説の題名は(遠い記憶)と言います。作者は多分ペンネームでしょうが春木一夫さんです。もしも彼をご存じの方がいらっしゃいましたら私までご一報下さいます様宜しくお願い致します」深々と頭を下げる葛城洋子。
生徒や運営に責められて苦肉の策を思いついての生放送での告白だった。
打ち合わせに無い発言に驚く放送局、司会者も「見つかると良いですが、面白い作品なのですか?」とホローをするのが精一杯で、急遽CMを流した。
呆然とテレビを見ていた彩矢は一瞬息をするのを忘れた程の衝撃だった。
しばらくして気持ちを取り直すと、この放送を見てきっと俊介さんが連絡するわ!巡り会えるかも知れない。
私の事を捜す為に書いた小説の様だと弓子さんが話していた。
本当に俊介さんなら、、、、、、そう思うと興奮して心臓の鼓動が聞こえる程気分が良く成っていた。
CMが終ると全く異なる話題に成って、葛城洋子さんの姿が画面に映らない様に成っていた。
彩矢は葛城先生が俊介さんの小説を推薦していた事を知った。
女子大生の間で流行していたのは、学校で葛城先生が推薦したからだと理解した。
確か弓子さんの妹さんも関西の大学だったから、弓子さんに伝えたのだわ。
その様な事を考えていると時間が過ぎ去っている事に気が付いた。
携帯電話が鳴り響いて我に返った彩矢だが、着信の相手は弓子だった。
「今!見た!」開口一番オクターブ高い声で言った弓子。
「見たわ、弓子さんの話本当だった!」
「彼氏?彼氏でしょう?彼氏が彩矢を捜しているのよね!」
「、、、、、、、、、、、」その言葉に嬉し涙で答えられない彩矢。
「嬉しいの?嬉し涙よね!」
「誰にも言わないでね、まだ決まった訳では無いからね、お願いね」
涙声から絞り出す様に弓子に頼む彩矢。
「判ったわ!誰にも言わない!今から初詣に行くから、彩矢の恋人が帰って来る様にお祈りしてきます!」弓子は励ます様に言った。
遅れてしまって急いで待ち合わせの場所に向う彩矢。
時計を見ながら彩矢の姿を捜す島田先生。
「先生!ごめんなさい!混雑していて遅れました」息を切らせて明るい笑顔で挨拶をする彩矢。
「おめでとうは駄目だったね!」嬉しそうに島田先生が彩矢に言う。
タクシーを止めて乗り込むと「先ずは食事に行こう!少しは飲めるだろう?」そう尋ねると彩矢のネックレスに目が止る。
いつも着けているのは一目でイミテーションだと判るが、今日のネックレスは本物だと見抜いていた。
有名ブランドの品物だと直ぐに判った島田先生。
自分で買う筈が無いが、誰か恋人でも出来てしまったのか?気に成る。
ビールを飲みながらさり気なく「良いネックレス着けているね!」と尋ねた。
「ありがとう!」ご機嫌で答える彩矢を見て、島田先生は好きな男に貰ったのか?と勘ぐった。
「随分昔よ!忘れる程ね!」その言い方は決して暗くなくて、まるで今も恋している様に見えた。
刺身を食べてビールを飲むが、いつもよりも明るくて飲み方も早い彩矢。
島田先生も一緒に飲みながら気に成って「何か良い事が有ったのか?」
「いいえ!何も無いわ!でもこれから有る様な気がするの?それで嬉しいのかな?」
ドキッとする島田先生は、自分がこれから連れて行く場所を既に知っているのか?と思うが知っている筈は無いとビール瓶を持って、彩矢のグラスに注ぐ。
「先生!お腹が空いて来たから、お寿司貰っていい?」
「適当に握って貰えるか?」板前に注文する島田先生。
「正月のテレビって沢山の人見ているのかな?」急に尋ねる彩矢。
俊介が先程のテレビを見ていたのか?その事が気に成っている。
求婚
59-023
「今頃は駅伝を見ている人が多いだろうな?」
「そうなのね、駅伝見ているの?」急に元気が無く成る彩矢。
「誰か知り合いでもテレビに出ているのか?」変な事を尋ねる彩矢に不思議な顔に成る島田先生。
「誰も出て無いわ、それ程有名人知らないわ」惚けると握り寿司を口に入れる。
しばらくして「後一時間程度付き合って欲しい!良いだろう?」
「ほろ酔いで気分も良いから、少しなら付き合いますよ!何処に行きますか?」
寿司屋を出ると直ぐにタクシーを止めると乗り込んで「彩矢にお年玉をやろうと思ってな!」そう言って彩矢の手を両手で握って行き先を運転手に伝えた。
「先生が私にお年玉を?品物ね」
「直ぐに判ったか?」
「何買って下さるのかしら、楽しみだわ!宝石?高い物は無くすと大変だから要りませんよ!」
「それは高く無いのか?」島田先生が触ろうとすると、直ぐに自分で持って触らせない彩矢。
「おー、よほど大事な物なのだな!私に触らせない!」
「安物だから、恥ずかしいだけですよ!」
その様な事を話しているとタクシーは目的地に直ぐに到着した。
「お店無いけれど?」タクシーを降りて廻りを見る彩矢。
「このマンションに用事が有るのだよ!付いて来なさい」
「えっ」正月早々真っ昼間から、マンションに連れ込まれるのか?とドキッとする彩矢。
小さなエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを押す島田先生に「お友達の家ですか?」
怖々尋ねる。
三階に着くとポケットから鍵を取りだして「最近薄暗いと見え難い!鍵を開けてくれないか?」
「友達の家じゃないの?」
「今は誰も住んで居ないが、近日中には女の人が住む予定だ!」
「えっ、先生の愛人さんの、、、、、」そう言いながら鍵を開けると、島田先生が彩矢のお尻を押す様に部屋の中に押し込む。
電気のスイッチを入れると、真新しい家具の臭いがして、窓にはピンクのカーテンが新春の陽光を遮っている。
日当たりの良い部屋だと直ぐに判るし、女性の部屋だと一目で判った彩矢。
「素敵な部屋ですね!女の方喜ばれますね!私に見せて合格か聞きたかったのね!」
「そうだよ!その通りだよ!」
「合格ですよ!先生センス良いですね!ベッドも大きいし箪笥も素敵です」
「そうか?喜んで貰えて嬉しいよ!早く引っ越して来なさい!」
「えっ」そう言って振り返った彩矢の目の前に島田先生の顔が有った。
「彩矢!好きなのだよ!」顔を引き寄せられて唇が近づく。
「先生!わ、わた、わ、、、、、、」そのまま被さる唇に驚きと感謝で動けない彩矢。
「今の住まいは、、、、、、余りにも、、、、、」唇が離れるとそう言う。
「み、みた、、、の、、」再び唇を奪われる彩矢は島田先生に尾行されていたのだと知った。
「密会に使う為ならお断りします!」唇が離れた時、強い語気で言う彩矢。
「ごめん、ごめん!その様な気持ちは全く無い!彩矢のアパートが気に成って、ここにしたのだが今まで通りの家賃を私に払って貰えば差額は援助しよう、勿論鍵は彩矢しか持たないで良い!」
「ここは家賃のマンションですか?」
「そうだ、だから気にする程高くは無い!今住んで居る場所は余りにも危険な場所だ!」手に持っていた部屋の鍵二つを彩矢に差し出す。
「私先生の女には成りませんよ!」
「判っている!本当に私を好きに成ってくれたら、結婚しよう!それでどうだ!」
「えっ、結婚?」島田先生の言葉に驚く彩矢。
「本気だ!私の事を疑っているのか?本名はこれだ!店では税理士先生に成っているがな!」名刺を差し出す島田先生。
「KS会計事務所、所長、島田喜一、住所は渋谷なの?」名刺を受け取って読む。
「店では今までと同じで税理士先生で頼むよ!」笑顔に成ると、そのまま窓際に行って一気にカーテンを開ける。
「何もしないから、安心してくれ!彩矢が私を受け入れてくれるまで待つよ!だからこのマンションを遠慮せずに使って欲しい!」
「、、、、、、、」
「駄目か!」
「嬉しくて、、、、、言葉が出ません!」既に何度か危険な事は有った彩矢。
でも転居する為の費用を考えると、引っ越しは諦めていたのが事実だ。
「それなら受け入れて貰えるのか?」
「これ程色々頂いても、待って頂いてもご希望に添えるか判りませんがそれでも宜しいのですか?」遠慮しながら言う彩矢。
「もしかして、彩矢には好きな男が居るのか?そのネックレスの男か?」
「、、、、、、
「図星か?」
「違います!もう随分前にお別れした人です」
「成る程!別れても好きな人なのか?」
「好きな人が居たら先生とこの様な関係には成りませんわ、でも先生と結婚なんて考えられません!」
「僕は待つよ!彩矢が本気で考えてくれるまで!だから遠慮無くこのマンションを使ってくれ!」
「ありがとうございます」漸く笑顔が溢れる彩矢。
今のアパートを見られてしまったら、仕方無いとも思うが結婚を迫られるとは考えてもいなかった。
でも運ぶ物って衣類位で殆どの物はこの部屋に揃っていると見渡す。
「先生が全て揃えて下さったの?」
「気に入るか判らないが、直ぐに住める様にと思って急いで揃えさせた」
確かに殆どの物を一週間程で揃えた島田先生、断られたらどうするか?そこまで全く考えていなかったと、大笑いをして帰って行った。
夜、仕事関係の新年会が有るので急いで彩矢を残して、、、、、
遺産
59-024
葛城洋子の必死の決行も俊介は見ていなかった。
年末から母聡美の具合が悪く成って、入院に成ってしまったのだ。
心臓は昔から多少悪いと云われていたが、寒さと気温の変化で悪化して倒れたのだ。
これは東京での仕事が出来ない状況に成る事を意味していた。
年末に本社に挨拶に行き病状を報告して了解を貰って、年明けには福岡に戻る事に成った。
東京の人間を採用するまで、課長が兼務して東京に行く事に成る。
俊介も時々は東京に出張に行って課長の補佐をする事が条件に成っていた。
聡美は病床で俊介が驚く事を話した。
それは俊介が貰った倍程の同じ株を持っているから、それを売って入院費に使って欲しいと言ったのだ。
「お、お父さんが僕に残してくれた株券の倍?同じ会社?」
「昔は配当金が無かったけれど、最近は配当金が届くので生活の足しに使っているのよ」
「ち、ちょっと待って僕は大半を売ってしまったよ、この七~八年で、、、、倍?」
「そうだろう、女の人と付き合っていたからね、、、、」
「えっ、知っていたの?」
「先生のお嬢さんと一緒に成る時から、不安は有ったわ!でもお父さんが勧めたから、俊介は従ったのよね!」青白い顔で俊介に言う聡美。
「それより、、、、」と言いかけて言葉を止めた俊介。
自分も株には全く興味が無く、親父に貰ったままで値段も見る事が無かった。
実家の住所を変更して無かったので、律子の目に触れる事は無かった。
或る日配当金が届いて、初めて株価を見ても驚かなかったが、分割を繰り返して千株だった株が大きく増えているのを知った。
母はそれも知らず、父の遺産として受け取り箪笥にしまい込んだ様な状態の様だ。
だが全く売却していなければ、相当沢山の株数に成っているので入院費の問題では無い様な気がした。
父は先見の明が有ったのだろうか?今更ながらに驚く俊介。
「無いな!あの様な鬼嫁勧めたからな!」思わず言葉にしてしまった俊介。
「鬼嫁?今も一緒だったら、私の事で喧嘩だろうね!」母は苦笑いをした。
その律子は正月早々怒り狂っていた。
母の佳子がテレビを見てしまって、正月早々森田の家では祝う気分も吹っ飛んで対策を考える事に成っていた。
「まさかあの葛城准教授が、テレビで訴えるなんて信じられないわ」葵が言うと「間違い無いわ、急にテレビで今年の抱負って聞かれた時だわ」再び説明する佳子{「昨年私の推薦したネット小説が途中で途切れてしまって沢山の方にお叱りを受けて申し訳有りませんでした、もしも今この番組をご覧でしたら私まで是非ご一報下さる事をお願い致します。何処の何方か全く判らず困っています」
「葛城先生、変わった抱負ですね!何か手掛かりが有るのでしょうか?」
「はい、小説の題名は(遠い記憶)と言います。作者は多分ペンネームでしょうが春木一夫さんです。もしも彼をご存じの方がいらっしゃいましたら私までご一報下さいます様宜しくお願い致します」深々と頭を下げる葛城洋子。}
「こんな感じだったわ!よく覚えているでしょう」
「だが既に荒木彩矢と一緒に仕事をしているから、あの男が葛城先生の要求に応えるとは思え無いがな!」公夫が否定する様に言った。
「お爺様、探偵が調べた資料お持ちですか?私に見せて下さい!お父さんを奪った女の顔を見たいわ」葵が恐い顔で迫る。
「葵も見たかったのか?」
「当然だわ!私のお父さんを盗み取った悪い女の顔を見たいわ!」
公夫はしまい込んでいた調査書を探しに隣の部屋に行く。
律子は「俊介はもうネットに小説を出さないと約束したのよ!何故あの先生が煽るのよ!上手な小説だとは思えないのに!」
「葛城って先生、別の仕事でもしているのでは?」
「あっ、そうかネット小説のサイトを運営されているのだわ、昔も推薦の作品有ったってゼミの先輩から聞いたわ」
「それなのよ!だから自分が推薦した手前投稿が消えて困っていたのだわ」
三人が話している時に資料を持って来た公夫。
テーブルの上に置くと葵が直ぐに広げて、写真をスマホで撮影して資料の一部も撮影する。
「葵!その様な資料撮影してどうするの?」
「別に何もしないけれど、お父さんを盗んだ女の事を研究するのよ!将来私も結婚するから、旦那さんに注意しなければ駄目でしょう!」
「ハハハ、葵には将来の森田塾を経営出来る婿を捜してあげるから心配無い!」
「女癖の悪い男は駄目ですよね!お爺さんの様な人で無ければね!」佳子が公夫を持ち上げる。
「私が少し焦ったのが失敗だったのよ!ほんと!思い出しただけでも腹が立つわ!」律子が怒る。
「大丈夫よ!投稿はされないと思うわ!お爺さんと約束したのだから、、、」
すき焼きを食べ始める四人もお酒が入ると、俊介の悪口に終始していた。
正月の五日に彩矢は簡単に荷物を纏めると、段ボール箱に詰めてタクシーで引っ越しを完了した。
殆どの大きな物は隣の住人に差上げたりして片付けた。
自分の荷物が段ボール箱で八個しかない寂しい引っ越しに、自分でも呆れていた。
それでも隣の女性はテレビと箪笥、冷蔵庫、ベッドを受け取って喜んでいた。
「ありがとうね!これで布団を敷かなくても良いわ」そう言って嬉しそうに、前歯が抜けた口を広げて微笑んで彩矢を見送ってくれた。
この叔母さんに何度か危険な場面で助けられた事が有ったので、恩返しが出来たと思った。
決して良い物では無いが充分使える品物だった。
島田先生は店の人には絶対に言わないから、彩矢も私の事は今まで通り接して欲しいと言われていた。
五日は代休で洋服屋は休んでいて、店に出るのは九時の予定に成っていた。
ネット上で葛城准教授の発言が話題に成っていたのを、彩矢はその日に知った。
予定に無い発言に困惑した放送局、ネット小説サイト(エブリディ)との関係とかが話題に成って、問題の春木一夫は何者か?色々な憶測が掲載されていたが、どれも彩矢が俊介を捜すヒントに成る物は無かった。
勇気
59-025
弓子の話を聞いた感じでは自分の事を俊介が書いた様に思えたが、実際俊介が小説を書く話は聞いた事が無い。
今自分が判る事は、弓子が話した自分に似ている綾子を主人公の俊介が捜しているストーリーだけだ。
先日のテレビでの訴えで、投稿が再開されたら自分も読んで確かめられると考えながら、毎日の様に投稿サイト(エブリディ)を開いて見ている彩矢。
全く同じ事をしているのが娘の葵と元妻の律子。
「既に十日が経過したけれど再開された形跡は無いわね」律子が葵に電話で尋ねた。
葵は「ネットで葛城先生も話題に成って、あの番組今週から降板に成ったわ!無謀な訴えだったわね」
「お父さんの気が変わらなければ良いのだけれどね!」律子のこの一言が波乱を起こすとはこの時、知る筈も無かった。
葵は母律子の言葉で父俊介が投稿再開を考え始める可能性が有るのでは?そう考え始めると釘を刺す事を思い付いた。
翌日俊介の携帯が鳴ったが、見覚えの無い番号に誰なのだろう?そう思いながら「もしもし、何方様ですか?」
「私、私よ!」
「私って言われても?」
「流石に不潔な男は娘の声も忘れたの?」
「ああ、葵か?携帯の番号も知らないから、いきなり私と言われても判らなかったよ!中学生の時から、、、」
言葉を遮って「そんな事どうでも良いわ!用件だけ言うわ」
「葛城先生から頼まれてもネット小説は再開させないでね!これ以上私もお母さんも苦しめるのは止めて、、、、、、」最後は泣き声に成る葵。
意味が全く判らない俊介は慌ててリダイヤルをしたが、呼び出し音が切断される。
俊介が今度は律子の携帯に電話をしたが、呼び出し音だけで出る様子は無かった。
葛城先生って誰だ?ネット小説の再開を頼まれた?去年の義父からの以来から投稿も中止しているのに?意味が判らないし、葵の泣き声は何を意味しているのだろう?困惑の俊介。
打ち合わせが終って着信履歴に俊介の番号を見た律子は、用事が有ればまた電話が有るだろうと無視した。
夜自宅に帰ってから急に気に成り始めた俊介が、久しぶりに投稿サイト(エブリディ)にログインした。
表紙に自分の事が書いて有るのに驚く俊介。
(作者の都合で連載が休止に成っています。引き続き連絡を試みておりますが、一月五日の時点では再掲載の目処は有りません!)と少し大きな文字で書かれている。
ログインは一般読者として携帯からのログインだから、自分の小説は全く見る事が出来ないので、沢山のメールも葛城洋子からの連絡も読む事は無かった。
携帯で(私は春木一夫さんを知っています!どの様な事を連絡すれば良いでしょうか?)俊介は余りの事態に自分を第三者に見立ててメールを送った。
しばらくして(ほ、本当ですか?葛城の方から明日連絡させます。このアドレスで宜しいでしょうか?)と返信が届いた。
葛城?葵が話していた先生?ネットの管理者?葵が何故?ネットの管理者を知っているのだ?疑問が次々と湧くが葛城が何者なのか?は判った俊介。
もしもネットの管理者なら断ろう、今再開したら確実に義父に訴えられると考える。
結局返信を躊躇った俊介は何も出来なかった。
一月一杯母は入院が決まり、俊介は会社と病院の往復状態に成っていた。
葛城准教授の元に、ネットの会社から俊介のメールの話が伝わったのは、一月の終りの日曜日だった。
月に一度だけ顔を出す葛城洋子に、一通だけ変わったメールが有りましたと伝えた。
葛城洋子はそのメールの内容を詳しく聞いたが、その後は返事が来ないので悪戯だと思って連絡しなかったと担当者は伝えた。
洋子は届いたメールを見て「試しに送って見るわ、反応が無ければ仕方が無いけれど!」
今は何か手掛かりが欲しい一心だった。
(私は葛城洋子と言います。阪和大学の准教授で国文学を教えています。春木一夫さんをご存じでしたらお伝え下さい!投稿を再開して頂きたいのです)と書いて連絡先のアドレスを書き加えた。
そのメールを受け取った俊介は全ての疑問が解けた。
あの文章をアドバイスしてくれた洋子は葛城洋子准教授で、葵の学校の先生なのだ。
あの小説の読者が増えたのは葛城先生が生徒に推薦したのだろう?だが運悪く生徒に葵が居て自宅で騒動に成って律子と両親が知る事に成ったのだと理解で来た。
彩矢に読んで欲しくて投稿した小説が、葵から律子、律子から義里の両親に伝わりこの様な事態に成ったと漸く判った。
(判りました!春木に伝えます!)俊介は直ぐにメールを返信した。
洋子は大きな声で「このメール本物よ!春木って人に伝えるって連絡来たわ!」急に笑顔に成っていた。
これで自分の立場が保てるのと、この作品を世に出したい気持ちが実りそうだと胸を撫で下ろした。
夜に成って俊介がパソコンから自分のサイトにインすると、信じられない程のメールが入っていて、とても読める状況では無かった。
取り敢えず洋子さんのメールを探し出して、訴えると言われて投稿を諦めました。
事実とは多少異なるのですが、実在の人が自分だと怒り狂って困っていますとお詫びと一緒に送った。
しばらくして洋子から(この小説が事実に近い話だとは最初から判っていました。
そして敢えて自分は春木さんが何処の誰だとは追究はしませんが、貴方が主人公に成って綾子さんを捜されている事は大体判ります。
将来小説として世に出されるならお手伝いは致しますが、今は愛する人を捜す事に専念して投稿を再開して下さい。
どの様な結果が待っているのか?それは私にも彼女にも判りませんが、最後まで頑張って下さい。告訴されたら私が全力でお守り致しますし、この様な文章では裁判にも成りません!安心して下さい)と返事が返ってきた。
気懸り
59-026
俊介は敢えて洋子さんのままで付き合う事にした。
(友人から洋子さんを頼りにすれば助けて下さるとお聞きしました。何処の何方かは敢えてお聞きしません!ひとりの読者として今後もアドバイスを頂きたいです。宜しくお願いします)
(判りました!私もその方が気は楽です!頑張って下さい)
二人のメールの再開と同時にサイトの整理と、今までの投稿を再投稿する為に準備を始めた俊介。
新しく書いた部分はその後少しずつ投稿する予定にして、小説の最後は洋子さんとのメールの中で大体決まっていた。
だが再開するまでには暇な時間を使っても一ヶ月程度は必要に成る様だ。
削除をしてしまったので、最初から元の原稿の手直しが必要だった。
記憶と残っている原稿、そして自分が新しく書いた部分の構成が必要だった。
俊介としてはもう一度一話から再度投稿する事にした。
俊介の投稿再開準備を全く知らない彩矢は、マンションを貰ってからも島田先生とアフターを付き合っている程度で進展は無かった。
唯、肉体関係はあのホテル以来全く無く、島田先生も多少遠慮して付き合っていた。
二月に入って「どうだ!慣れたか?今までのアパートとは違うだろう?」
「ありがとうございます。大変助かっています。昨日先生に教えて頂いた口座に約束の家賃振り込んでおきました。安くして頂いてありがとうございます」
「今夜は彩矢にお願いが有るのだが?」
「何でしょう?私に出来る事なら致しますわ!」
「今度の彩矢の休みの日に、俺の家に料理を作りに来てくれないか?」
「えっ、料理を?」
「一度彩矢の手料理を食べてみたい!彩矢のマンションには行かないと決めているから来て欲しい!勿論食事が終ったら返って良い!タクシーで直ぐ近くだから大丈夫だ!」
「先生!私料理上手では有りませんよ!」
「だが、一応は主婦していたのだろう?」
「じゃあ再来週の水曜日二十二日、先生は何が食べたいの?」
「何でも良い、彩矢の得意料理で良い!」
「じゃあ、寒いからシチューでも作ります。材料買って持って行きます」
「これ渡して置く」財布から一万円札を取り出して手渡す島田先生。
「お金頂けません!」拒否をすると「ワインも一本買って欲しい、そう言って無理矢理手渡した。
二人はお互いに遠慮しながら徐々に打ち解けて、彩矢の気持ちの中に島田先生の存在が大きく成っていた。
本気に結婚を望まれているのか?殆ど冗談だと思っていた。
何故ならKS会計事務所の看板を渋谷の駅前で見たからだ。
自分と島田先生ではレベルが異なり過ぎるから、遊びで付き合う為に自分に言ったのだと理解していたが、事実奥さんは居ないのは間違い無い様だ。
そして今晩自宅に招かれて、料理を作って欲しいとお願いされて本当の気持ちが判らなく成っている彩矢だ。
水曜日は昼間の洋服店もスナックも休みなので時間は有るのだが、と思いながら誘いに応じてしまった彩矢。
島田先生は彩矢の休みの先週の水曜日にスナックに行って、弓子に彩矢に好きな人が居るのか?と確かめていた。
弓子は「居ないと思いますよ!昔はどうやら不倫で付き合っていた男性がいた様ですが、結婚で別れてからは誰も居ませんね」
「その不倫の男の事は知っているのか?」
「知りませんけれど、彼女が二十代の時に別れている筈ですよ!」
「もう三十六歳だから、六~七年程前の事か?彼女が着けている鍵型のネックレス見た事有るか?ブランド品だ!」
「いいえ、彼女店にその様な高価な装飾品着けて来た事無いですよ!それにそんな高い物持って居るのですか?」弓子が驚く様に言った。
「正月に会った時着けていた!」
「じゃあ、あの彼氏かな?」
「あの彼氏?知っているのか?」
「ネット小説の話しですよ!それも今は削除されて掲載されていませんが、私の見た感じでは案外図星かも?」
「どう言う事だ?もう少し詳しく教えてくれ!」身を乗り出す島田先生。
「もう削除された小説の主人公が彩矢によく似ていたのですよ!その綾子って主人公を俊介って男が捜しているストーリーなのですよ!私も流し読みしただけで、じっくり読もうと彩矢に教えて読もうと思ったのですが削除されていました。ですから彼女は全く読んでいません」
「小説の話か?偶然似ていたのだろう?」
「でも私が少し話したら、彩矢凄く興味を持っていましたよ!」
「内容にか?」
「登場人物と内容ですね!作者は春木一夫って名前で、不倫の話で彩矢が綾子なら彼女の事に成るのでしょうね」
この様な話しを事前に聞いていた島田先生。
その二十二日、ネットに再開された小説、遠い記憶の一話が掲載された。
時間の経過と共に弓子も彩矢もサイトを見る回数が極端に減っていた。
逆に葵は学校で葛城准教授が「皆さんに読んで欲しいと言ったのに、削除されてしまった小説が復活するかも知れません!」二月の十日前後に発表していた。
律子に葵が連絡すると「その様な事は無いと思うわ、お爺さまと約束しているから大丈夫だわ!もしも約束を破ると許さないとお爺さまがお怒りに成るわ」
そうは言ったが気に成る律子はその後何度か携帯に電話したが、全く出る事が無いので怒って会社にまで問い合わせていた。
会社の事務員が「お母さんの具合が悪く、入院されていまして会社も休まれます」と話したので、小説の投稿よりも母親の看病だったと安心していた。
事実葵に聞いてから毎日の様にサイトを調べていたが、再開される気配が無かった。
新婚模擬
59-027
安心していた二人だが、昼過ぎ先ず葵が見つけて「お母さん!あの小説が再開されている!」驚きの声で叫ぶ様に電話をしてきた。
「朝は無かったのよ!直ぐに調べるわ!沢山?」
「一話だけよ!でも律子は既に登場しているわ」
「直ぐに抗議をするわ!許せない!約束を破って!」怒る律子は直ぐに俊介に電話をした。
怒る律子に俊介は「運営の人が名誉毀損には成らないって、そんなに悪く書いて無いから大丈夫だって!頼まれてね!沢山の読者の要望だよ!君も第三者として楽しんで!」
「馬鹿な!直ぐに父に相談します!覚悟なさい!」けたたましい声で怒ると電話が終る。
直ぐに公夫の処に駆け込み事情を説明する律子に「今から弁護士に相談に行って来る!安心しなさい!」押さえる様に話す公夫だが、約束を破られて怒りがこみ上げていた。
だが弁護士は「この一話だけでは何も判りませんし、訴える事も不可能です!塾長とか娘さん、お孫さんが明らかに侮辱される様な文章が出て来なければ無理ですね」
「それではこのまま放置しろと?」
「そうでは無く、侮辱に当たる文章とか明らかに悪意があるとかが、、、、、」
公夫は結局恥をかいて帰宅する事に成った。
確かに一話では人物紹介の様な文章で、律子が俊介の妻だと云うだけの話で全く論外だ。
「数話見なければ、弁護士も何も出来ないと言ったよ!」落胆した様に言う公夫。
律子は「じゃあ、このまま恥を晒して針の筵なの?耐えられないわ!」
一方午後から買い物をする為に市場に向う彩矢は、島田先生に美味しい物を食べさせ様と張り切っていた。
今日は俊介の事は頭に無く、サイトの検索もしていない。
あの葛城先生の話も結局無駄だったと、既に半ば諦めていた。
そして小説そのものが、俊介が自分を捜していると思う事も半ば自分の妄想の様に思っていた。
弓子も時々見ているらしいけれど、あれからそれらしい話も立ち消えていた。
島田先生に教えられた住所に行くと、高級マンションが目の前にそびえ立ちその豪華さに驚いて、足が前に進まなく成った彩矢。
この様な高級マンションに住んで居る島田先生が?私に求婚?嘘だわ?夢だわ?飲み屋の女を遊んでいるのだわ!そう思うと踵を返したく成る彩矢。
だが、マンションに住ませて貰って色々して貰っているので、騙されていても仕方無いか?求婚されてちょっぴり夢を見た自分を笑って扉を入った。
インターホンを押すと「彩矢さん!いらっしゃい!扉が開いたらエレベーターの中のボタンで部屋番号を押して、目的の階に着くよ」島田先生の声がインターホンの向こうに聞こえる。
「豪華なマンションで驚きました!」開口一番彩矢が島田先生に発した言葉だ。
「さあ、入って下さい!男ひとりだから整頓されていないよ!」
「広いですね!リビングも!台所はここですね?」
彩矢には新聞に折り込まれていた都心に出来る高級マンションの間取りそのもので、驚きの連続だ。
「彩矢さん今夜は何をご馳走して貰えるのかな?」買い物袋を覗き込む島田先生。
「先生!ワインを冷やして下さい」早速袋から白ワインを差し出す彩矢。
「料理が出来る迄、風呂でも入って来るか!」そう言って冷蔵庫にワインを入れると、風呂場に向った。
風呂って?もしかして帰れない?そう考えながらビーフシチューを作り始める。
大根と生ハムのサラダも同時に作る彩矢。
今夜は兎に角島田先生に喜んで貰う、これが一番の目的だと献立を考えて来たのだ。
しばらくして、鼻歌が風呂場から聞こえる。
島田先生も楽しそうだ!良かったと心が和んでいる彩矢。
ご飯を捜すとジャーの中に合ったので、予定通りパセリのライスを作る事にした。
彩りとかを考えて、レシピー本を読んで研究した成果を実践する。
島田先生は風呂で充分時間を要して食事の準備を待った。
しばらくして風呂から上がった島田先生はバスローブを羽織って、ダイニングに白髪交じりの髪をタオルで拭きながらやって来た。
「どうだ?使い易いキッチンか?」
「はい、広いですから使い易いですわ」笑顔で忙しそうにする彩矢。
「ビールでも飲んで待つとするか?リビングでテレビでも見るか!」
「はい、ビールをお持ちしますわ!沢山冷蔵庫に冷やして有りました」
島田先生は新婚生活なら、この様な感じだよな!昔結婚した時はまだまだ会計士見習いで給料も安くこの様な生活は出来なかったなぁ!もしこの様な生活なら二人は上手くいったのだろうか?元々性格が違っていた様な気がするが?その様な昔を思いだしながらリビングに座ってテレビを点けた。
夜に成って葵が確認の為に律子に電話をしてくると、律子は公夫に聞いた話を膨張させて怒りをぶちまけた。
「何故?既に女の人と交際しているお父さんが、私達の事を世間に拡散する様な事を書くのよ!」
「あの葛城って先生の差し金よ!煽てられて小説家に成れるとでも言われたのでは?」
「馬鹿馬鹿しい!色呆けの戯言が小説なの?面白く無い!私絶対に許さないわ!」
怒って電話を切る葵は直ぐに俊介に電話した。
着信音を見て葵だと判った俊介は用件が予想出来るので無視していた。
その後二三度かかったが、一度は母親の世話で聞いていなかった。
「私を無視するのね!お父さんが泣く様な事をしてあげるわ!許せない!」
電話にも出ない俊介に憎悪が日増しに高くなる葵。
島田先生はダイニングテーブルに並んだ料理を見て「おおー彩矢さん上手だね!素晴らしい」色とりどりの料理に喜ぶ島田先生。
「お待たせしました!美味しいか期待出来ませんが召し上がれ!」
「ワインを開け様!彩矢も飲むだろう?」ワインのコルクを開け始める島田先生は手慣れた感じだ。
「少しなら!」笑顔で答える。
自分の料理を見て「白にしたけれど赤が良かったですね!」そう言って照れる。
「僕は白が好きだから、これで良いよ!」
ワイングラスに注ぎながら笑顔で言う島田先生には最高の時間だった。
「これがビーフシチューでしょう、これは大根と生ハムのサラダ、サーモンの塩漬けでウオッカが少し入っているのよ!」ワインを飲み始めると料理の説明を始める彩矢。
破滅
59-028
楽しい時間は過ぎ去り、名残惜しい島田先生は彩矢にここに泊って帰る様に勧めたが、彩矢は着替えも無いから今夜は返りますとキスだけするとタクシーで自宅に帰った。
島田先生も執拗に迫って嫌われても困るので、この場は身を引こうと我慢していた。
「私にはこの様な贅沢な生活は似合いません!先生とは身分が違い過ぎます!」エレベーターの中で呪文の様に独り言を言っていた。
先程も食事の最中「僕との結婚考えて貰っているかな?今夜の様な気分を毎日味わえるなんて最高だよ!」
「お口に合いました?」
「勿論ですよ!料理は味も彩りも最高でした!お上手です!」島田先生は絶賛した。
彩矢が自宅に帰った頃、弓子が電話で「大変よ!小説が再開されているわよ!」叫ぶ様に言った。
「えっ、今日は見てなかったわ!今までの投稿が全て読めるの?」
「違うわ、一話だけ投稿されているけれど、明日以降二話三話と投稿されるから直ぐに読めるわ」
「判った!直ぐに読んで見るわ!ありがとう」
電話を終ると直ぐに携帯で小説サイトに入ると(遠い記憶)を検索する彩矢。
手が震えて小さな画面をスムーズに触れない。
「有った!」叫ぶと同時に文章を読み始める彩矢。
主人公の紹介の様に、夏木俊介が紹介されている妻が律子で子供が中学生に成っている。
妻の実家がコンビニのオーナーで五店舗を経営している。
二十四歳の綾子は学資ローンの返済の為にスナック(青い烏)に勤める。
「私に似ているわ」独り言を呟く。
初日に偶然夏木俊介が取引先の社長を連れて店を訪れる。
出会いの気持ちは俊介が初めて彩矢に会った印象が細かく繊細に書かれていた。
それは本当に好きでなければ絶対に書けない文章に成っている。
髪型、スタイル、仕草が八年前の彩矢そのものに成っていた。
「これってキャバクラで俊介さんに会った時?」読みながら思い出そうとするが、一話はその部分で終って、弓子が話していた自分の姿を見た俊介の気持ちの描写が無かった。
「次の話で判るのかな?これ俊介さんが書いたの?青い烏と赤い鳥似ているけれど、知っている筈無いし」独り言を言いながら同じ文章を何度も何度も読み返して、まるで文章を暗記する様に成っている彩矢。
確かに勤めている場所を知っていたら、この様な事をしなくても店に来れば直ぐに会える。
俊介は小説を多少修正しながら書いていた。
律子の家族に対する部分を多少柔らかい文章に変えていた。
次が待ち遠しいと思いながら、酒の影響も有って携帯を持った状態で眠ってしまった彩矢。
俊介は以前と異なって沢山書いて有るので、週に一話の投稿では無く週に三話の投稿を考えていた。
二十二日の次は二十四日の昼に投稿予定で、パソコンを操作していた。
一話を投稿しただけで、反響の大きさが良く判り嬉しく成る。
殆どは再開を喜ぶメールで、早く以前の話の処まで投稿して欲しいとの願いのメールも数十有った。
一応律子家族に誠意を見せる為に書き直したので、整合性とかを調べる作業も残っていた。
翌日婦人服売り場へ行っても何度と無く携帯のチェックをする彩矢。
だが状況は変わらない、かかってきたのは島田先生からの御礼の電話で最後に「益々彩矢と一緒に暮したく成った!早く返事が欲しいな!新婚旅行はハワイに行こう!」とまで話は進んだ。
「ありがとうございます!私には勿体ない様なお話で、まだ信じられません!」
「嘘では無い!本当の事だ!本気だ!考えて欲しい!」と懇願する島田先生。
彩矢の頭の中では小説の更新がいつ行われて、本当に俊介が書いているのか?そして自分を捜しているのか?それだけが気に成る。
だがその日は更新がされず彩矢の期待は翌日に先延ばしに成った。
二十三日の夜、信じられない事件が起るとは誰も予期していなかった。
星原の東京営業所の入っているマンションの前に、帰宅の時間から人影が見えた。
パーカーを頭から被った人物が、荒木則子を尾行し始めたのだ。
勿論俊介の娘葵が、荒木を青木彩矢と間違えて尾行していた。
再三俊介に電話をしたが相手にされず、それなら自分と母を棄てさせた青木彩矢に直談判を試みる為にやって来た。
葵は気が変わって自宅に押し掛けて、この青木彩矢の亭主に二人の関係を教えてしまおうと考え始めた。
荒木則子を見れば見る程、母に比べて若いだけで容姿は断然異なると思う。
荒木は電車を新小岩で降りると、駅前の繁華街から直ぐに住宅地に入って人気が無く成って自宅に着く少し前に振り返り「きゃーー」と大きな声を発した。
駅から尾行されている事を確認したので声を発したのだ。
驚いたのは葵で、見つかってないと思っていたのに急に叫ばれて逃げる体制に成った。
だが荒木の家族と近所の人が路地から出て来て「奥さん!どうされました?」
「変な人が尾行して!」そう言って葵を指さした。
数人の人に直ぐに取り押さえられて「交番に連れて行け!不審者だ!」
「何だ!若い娘じゃないか?」
「おい、この子ナイフを持って居るぞ!」
「えー奥さん危なかったね!この子知っている?」
覗き込んで「知らない人です!」
「お前!何で奥さんを尾行した?」
「、、、、、、、、」口を真一文字にして何も言わない葵。
サイレンの音が近づいて、駅前の交番から先に警官がオートバイで到着した。
事情を説明する近所の人、則子も警官に駅から尾行されていたと話す。
住民が取上げた折りたたみのナイフを警官に差し出した時、パトカーも到着して「乗って貰おうか?」葵をパトカーに乗せる。
その間も一言も喋らない葵、どの男が彩矢の旦那か判らないので、黙秘を決めていた。
警察で喋れば自然と青木彩矢の旦那さんには聞こえて、破滅だとまだ考えている葵だ。
親子の再会
59-029
葵は名前を尋ねられても何も言わない。
「荒木の奥さんに何か恨みでも有るのか?」
「大ありよ!父を盗んだ女よ!」それだけ言うと再び何も喋らない葵。
持ち物から身元が判る物は何も無い為に、交番所から葛飾署への連行が即座に決まる。
「泊って貰って明日取り調べだ!正直に喋れば情状酌量に成ったのに残念だったな!」
「あの女が不倫していると旦那さんに教えてやれば?」捨て台詞の様に言う葵。
「?荒木の奥さんが誰と不倫しているのだ?」警官が尋ねる。
「私の元父よ!」
警官が「何処の誰?お前は誰?携帯以外何も持ってないし、暗証番号も教えなければ何も判らない!」それだけ言うと葛飾署に連行された。
「あの娘!貴女が不倫して自分の父を盗ったと怒っていますよ!心辺り有りますか?」
「えっ、私が誰と不倫するのですか?彼女の名前は?誰ですか?」怒り出す則子。
亭主も「お前誰かと間違われているのか?ナイフ持って居たから危なかったぞ!」そう言って驚いた。
「誰と間違われるのよ!今考えると事務所から尾行されていた気がするのよ!」
「事務所って?」警官が尋ねると、説明をする則子。
星原の東京営業所だが、最近は前の所長さんがお母さんの病気の看病に帰られてから営業課長さんが兼務で、一ヶ月の内十日程しか営業所には来られませんと説明した。
「前の所長さんは独身ですか?」
「はい、離婚されていましたね!でも去年の十二月に帰られましたよ!」
「その所長さんの事でしょうか?」
「違うと思いますよ!その所長さんは思い人がいらっしゃる様です!時間が有る時、その女性を思い出して小説を書かれていましたね!」
「小説ですか?素人さんでしょう?」
「そうですよ!ネット小説に投稿されていた様です!」一二度尋ねられた事が有ったので、荒木則子は知っていた。
「でも、途中で投稿を中止されて元気が無かったですね!」
「何故?」関係は無いと思ったが気に成る警官が尋ねた。
「実話の様で本人からクレームが出た様です」
「素人は実話しか書けないからな!有りそうな話だな!題名とか覚えていますか?」
「いいえ、一度教えて頂いたけれど忘れましたね、記憶が無く成ったとか記憶何とか?だったと、思いますが興味が無くてすみません!」
警官はどう考えてもあの娘と荒木則子が食い違っている様に見えて、明日娘が話すまでは無理だと判断した。
一晩葛飾署に泊められた葵は何故この様に成ってしまったのか?刺しておけば気分も良かったのに、昨夜は腹立たしくて眠る事が無かった。
朝からの取り調べで葵は昨日の叔母さんに自分が話した事を伝えたか確かめた。
「荒木さんは意味の判らない話だと驚かれた様だ」
「旦那さんを騙す為に芝居をしているのよ!悪い女はそんな事は平気でするのよ!」
「名前も言わないが、君は関西の人か?」
「君の元のお父さんと荒木さんが浮気をしているのか?」黙って頷く葵。
半分涙目に成っている葵。
「名前と住所を言わなければ帰れないぞ!荒木さんを恨む気持ちは判るが、お父さんに直接言わないで何故荒木さんを狙った?」
「あの叔母さん知らないって言っているの?」
「今なら、別に何も事件には成ってないから、住所と名前を言えば身元引受人に来て貰うが、言わないのか?」
「、、、、、、」
「君の元のお父さんと荒木さんは関係無いと思うが、何故あの荒木さんに拘るのだ?」
「それは、調査会社にお爺さんが調べさせたの!」
「資料を持っているのだな!」頷く葵。
二人の警官に説得されて渋々携帯から調査の写真を出す葵。
そして自分の名前は森田葵だと話、阪和大学の一年生だと話し出した。
「確かに、これは荒木則子さんの写真だ!間違い無い!」
「えっ、荒木則子?違うよ!荒木彩矢ですよ!警察も騙すのね!恐い女だわ!」
「おいおい、この写真の女性は荒木則子さんだよ!誰が荒木彩矢だと?」
「調査会社の資料に書いて有った!」
「しかし、娘さんは一流の大学に通っているのに簡単に騙されたのだね!」
「そんな、騙されたの?じゃあ青木彩矢は何処に?」
「それは警察では判らない、調査会社に地元の警察が事情を聞きに行くが詐欺の可能性が高い!この様な調査会社が時々居る様だ!傷害事件に成っていたら取り返しがつかない事に成ったな!」
その言葉を聞いて項垂れる葵、その後は泣き崩れて無口に再び成った。
直ぐに調査会社に地元の警察が向って、身元引受人は両親に来て貰う事に成った。
本当は律子だけで良いと思ったが、父親にも確かめたいと警察は思った。
何も知らない俊介に電話がかかったのは朝の十時だった。
荒木則子さんを娘さんが襲おうとした事情を聞いて、驚く俊介は直ぐに投稿小説を削除した。
必ず小説の話に成って自分が巻き込まれる事が予感されたからだった。
サイトは閉鎖せずに小説のみを削除して、今後の成り行きを見る事にする。
同じ様に律子にも葛飾警察から呼び出しの電話が有り、気絶する程驚いていた。
父の公夫に話さなければ塾の授業に影響が有るので、仕方無く話した律子。
まだ事情が判らないので、葵が東京に行って青山彩矢さんと間違えて、荒木則子さんを尾行して警察に捕まっていると説明した。
公夫も調査書を思い出して「荒木ってあの男の愛人の青木彩矢では無いのか?」
自宅に電話をして妻に直ぐに調査書を持って来る様に指示したが、顔面は蒼白状態に成っていた。
「取り敢えず私は葵を迎えに行きます!詳しい事が判れば連絡します!」
律子は急いで飛行場に向う準備に入った。
同じ様に福岡空港に向う俊介、警察に呼び出されては拒否が出来ない。
何故荒木さんを、、、、俊介は唐突な出来事に驚くだけで意味が判らなかった。
病気?怪我?
59-030
小倉に比べて便が多い福岡空港から飛んだ俊介が夕方到着した。
律子は夕方羽田空港に到着して葛飾署に向う。
「お父さんが迎えに来られた!」
「何故?親父には会いたくない!追い返して下さい!」葵は警官に怒る様に言うが「両親が揃われてから釈放に成るから、お父さんにも感謝しなさい!福岡から急いで来られたのだよ!」
「女の尻を追い掛けている助平に用事は無いわ!」
中学生で感受性が強い時に棄てたか棄てられたので、相当父親嫌いに成っていると思う警官。
俊介には別の警官が色々と尋ねて、状況の説明をしていた。
「それでは娘は青木彩矢さんと荒木則子さんを間違えたのですか?」
「ナイフを持っていましたから、少し間違えば傷害事件に成る処でした」
「でも何故間違えたのでしょう?」
「奥さんの実家のお父さんが探偵社を雇われて、俊介さんの行動を調べていた様ですね!」
「えっ、既に離婚して数年経過しているのに何故?」
「それは判りませんが、その探偵社が悪質で一緒に働いて居た荒木さんの写真を写して、青木彩矢さんだと報告した様です!」
「えっ、それで葵が?」
「荒木さんの御主人の前で暴露して、関係を断とうした様ですが、逆上していたらナイフで刺したかも知れませんね!」
「何と言う事を!何も関係の無い荒木さんに、、、、」言葉を詰まらせる俊介。
「兎に角何も無かったので、お母さんが来られたら一緒に帰って下さい!」
「その探偵社もここに?」
「いいえ、福岡で地元の警察に叱られているでしょう!」
「それで終りですか?」
「義里のお父さんが訴えられたら、犯罪には成りますが大した罪には成らないのでは?」
「、、、、、、、」
「娘さんに先に会われますか?」
「本人が会いますか?一応身元引受書には署名させて頂きます」
俊介は葵が自分に会う事は絶対に無いと思った。
自分の彼女をもしかしたら、殺害したかも知れないのに自分に会う筈は無いと、もしも荒木さんに何か起っていたら自分はどの様にお詫びをしたら良いのだろう?そう考えると背筋が冷たく成った。
身元引き受けのサインを終ると俊介は「葵の事は元妻に任せます。私は荒木さんにお詫びに行って来ますのでこれで失礼致します」警官にその様に言うと「それが良い様だな!娘さん相当興奮しているからな!」そう言って俊介の申し出を受け入れてくれた。
俊介は新小岩の駅前で洋菓子を買って、荒木の自宅に向った。
もう既に暗く今夜は羽田空港の近くにでも宿泊するか、そう思いながら荒木の自宅に向った。
荒木に事情を説明して謝ると「悪質な探偵社を雇われていたのですね!それにしても既に別れて何年も経過している元の亭主の調査をするなんて、相当悪い人達ですね!所長さん別れて正解でしたね!」そう言って褒められた俊介。
「兎に角大事に成らずに幸いでした!本当にご迷惑をお掛けしました」深々と頭を下げて俊介は荒木の自宅を後にした。
「彩矢!大変よ!また投稿消えたでしょう?」
「そうなのよ!更新されるのを楽しみに待っていたのに、消えて終ったのよ!何も書いて無いでしょう?心配に成るわ」
夜遅く成って(遠い記憶の作者、春木一夫さんが急な病気で入院されましたので、再開を延期したいと申し出が有りましたので、ご連絡致します)の文章が掲示された。
「何?再開して直ぐに病気で延期?どう成っているの?」弓子が携帯の画面を彩矢に見せて怒る。
「病気って書いて有るわ?入院って癌?事故?」急に心配に成る彩矢。
「彩矢の彼氏だね!その心配顔はそれ以外無いわね!島田先生が聞いたら悲しむわよ!相当彩矢にお熱だからね!」弓子が冷やかす。
その島田先生は彩矢の休みの前日には必ずやって来る。
最近では火曜日以外にもランダムでやって来て、彩矢と過すがアフターは火曜日以外は彩矢が受け付けない。
一週間に多い時は三回、少なくても一度は会っている二人。
最近では冗談が通じ合うのか笑い声もよく聞こえる様に成っている。
店の女の子の間では「島田先生は彩矢さんに本気かも知れないわ」の噂が出る程だ。
自宅に帰ってもサイトを出して、病気で入院の文字を見つめる彩矢。
本当に俊介さんだろうか?本当に自分を捜しているのだろうか?本当は私の事なぞ忘れて家族で楽しんでいる?
もう少し詳しく聞いておけば直ぐにでも連絡が出来るのに、ラインも削除してしまったから連絡は無理!床についてもその様な事を考えながら熟睡出来ない。
東京から帰った俊介は洋子にメールで事件の事を、名前を伏せて報告した。
俊介は投稿を辞めたいと申し出たが、洋子の「綾子さんを諦めるの?」の言葉に方法を模索する事に成った。
洋子はもう部分的に投稿するのは難しいので、最後の手段は一気に最終回まで一度に発表するか、本にして出版する方法が有ると教えた。
しばらく考えてから俊介は、纏めて一話ずつ洋子さんに送りますから読んで下さいと返信した。
最終回まで読んで頂いて、修正して一気にサイトに掲載したいと申し出た。
今回の事件の痛手が残っていると思う洋子は、この申し出を受け取る事にして、直接のアドレスを俊介に送って来た。
結局俊介も彩矢もお互いの気持ちが判らず、別れた時の状態を引きずっているので、あと一歩が踏み出せない。
「好きです!貴女の事が今でも好きなのです!」大きな声で言いたいが「今頃変な事言わないで、私には旦那様も子供も居るのよ!今頃大昔の事を言われたら困るわ!家の中に波風を立てて!何を考えているの!」お互いが同じ様な事を考えていた。
気に成る投稿
59-031
公夫は今回の事件を探偵社の藪内の偽証が原因で、孫娘が大恥を受けてしまったと告訴をする事にしてしまった。
この事がどの様な事態を招くのか考えもしないで、怒りが収まらなくて暴走したのだ。
法外な慰謝料と藪内が業界で仕事が出来ない状態に追い込むと息巻いていた。
当初調査費を返金しますので、今回の件は穏便に済ませて欲しいと頼んでいたが、公夫の怒りが収まらず法廷に持ち込まれる事に成った。
だがこの態度に藪内探偵社は暴力団系の仲間に相談、その日から森田塾の周辺に暴力団関係の人間の嫌がらせが始まり、徐々に学生の数が減る事に成る。
以前投稿していた文章までは何も問題は無く進み、その後の話が洋子に送られたのは桜の花が満開に成った頃だった。
弓子が彩矢に「全く再開されないわね!」と話をすると「もう忘れたわ!私を捜していると言う話も本当か?」心にも無い事を言って自分を諦めさせ様としていた。
「でも彩矢には心辺りが有ったのでしょう?」
「もう五年も前の事よ!変な期待をしただけね!」
「そうね、今は島田先生に、、、、、、」言葉を濁らせる弓子。
弓子は先日島田先生に問い詰められて「好きな人が居る様な気がするのだけれど、弓子!何か知っているなら教えて欲しい!」
態々高級寿司をご馳走されて問い詰められた。
島田先生にはマンションを与えて求婚しても、はっきりとした返事をしない彩矢に痺れを切らしていた。
口ではいつまででも待つとは言ったが、例のネックレスと時々意味なく泣いた姿が心に残って本当に待っても良いのか?心配なのだ。
「先生も彩矢と既に関係有るのでしょう?何が望なの?」
「結婚したいのだ!」
「えーーー」弓子の声が裏返った。
「本気なの?税理士先生の奥さんに?ほんとう?」
「私は本気だ!それも本人に話したが中々返事を貰えない!だから誰か好きな男が居て忘れられないのでは?」
「、、、、、、、、」
「何か心辺りが有るのだろう?教えてくれ!」執拗な問に弓子が先生は本気だと思い始めた。
「前にも話したでしょう?彩矢ね、昔不倫していたのよ!」
「不倫か?前に聞いた話か?もう少し詳しく教えて欲しい!」
「五年間以上ね!でも自分から別れたと言っていたわ!自分も結婚をしたのだけれど上手くいかなくて離婚で東京に戻って来たのよ!それからは昼間洋服店、夜はスナックで働いているでしょう?」
「それは知っている!その不倫の相手とよりを戻したのか?」
「いいえ、一度も会ってないし、話もしてないと思うの!」
「五年も六年も一度も会ってないし、話もしていない男を思っているのか?自分から去って?馬鹿げた話だ!」
「そう、そうなのよ!本当に馬鹿げた話なのよ!」
「好きなら直ぐに確かめれば良いじゃ無いか?」
「それがお互い名前以外殆ど知らなくて、電話番号もお互い別れた時に消してしまったのよ!ライン電話かな?だから確かめる事も話す事も出来ないのよ!」
「男は諦めて奥さんの所に帰ったのだろう?」
「それが男は離婚した様なのよ!」
「何故その様な事が判るのだ!電話も住所も知らないのだろう?」
「それが、、、、、」口籠もる弓子。
「弓子さん!教えて欲しい!私は彩矢を幸せにしてやりたい!東京であの様な生活、、、、」今度は島田先生が口籠もった。
「実はネット小説に彩矢の元彼が投稿したかも知れないの?」
「以前に聞いた話と同じか?彼氏は小説を書くのか?」
「彩矢はその様な事は聞いた事が無いと言うのですが、小説の中の主人公が彩矢そのものだったのです」
「彩矢は認めたのか?」
「彩矢は読んで無いのです。私が読んで彼女に伝えたら急に削除されていました」
「じゃあ弓子が、主人公が彩矢に似ていると思っただけか?」
「はい、そうです!登場人物が夏木俊介と青山綾子なのです。不倫で愛し合った二人が別れて、俊介が綾子を忘れられずに捜す話でした」
「彩矢の彼氏の名前が似ているのか?」
「そう、全く同じで俊介だったのです」
「偶然だろう?結末は?」
「途中までしか投稿されずに削除されました」
「まあ、素人の作品だから、途中で行き詰まって止めたのだろう?彩矢の昔の彼氏とは関係無いだろう?」
この言葉に弓子はまた最近再開された事や、現在病気で休止に成っている事は話せなかった。
それでもサイト名と題名だけは島田先生は聞きだして帰った。
手帳に書き留めた時、自分の名刺が床に落ちた事が判らずに、弓子が帰ってから気が付いて「KS会計事務所所長、島田喜一!何処かで見た記憶が有るわ」そう思いながらポーチにしまい込んだ。
島田先生は以前聞いた時はそれ程気に成らずに、聞き流したが今回は気に成ってしまった。
翌日渋谷に買い物に行った弓子は「あっ!あれだ!」と看板を見上げて絶句した。
大きな会計事務所所長、即ち社長さんだと驚いて看板に見とれてしまった。
「彩矢に本気で惚れている?」そう口走ると弓子の心は決まった。
何処の誰かも判らない男を思い続けるより、金持ちの先生の妻に成った方が断然良い!でも先生は身分を彩矢に隠している。
どの様に二人をゴールさせるか?二人が一緒に成れば多少でも自分にも恩恵が有ると思い始めると、力が入る弓子。
二月に再開された小説は再開される事無く初夏が近づいていた。
洋子と俊介の小説作成はその後も二人三脚で進む。
俊介が原稿を送り、洋子が文法とか誤字、脱字を修正する作業分担がいつの間にか出来上がっていた。
校正
59-032
その後、島田先生、彩矢、弓子、そして森田の家族が時々サイトを検索していた。
一番気にしていたのは島田先生かも知れない。
森田公夫が訴えた藪内探偵事務所は、いつの間にか故意に騙したのでは無く、間違えたので自分達が調査費を返却したので問題無いと主張を始めた。
その間違えた調査資料で、荒木則子を問い詰め襲ったのは全く我々の調査資料とは別の問題だと主張した。
間違えればナイフで殺傷の可能性も有ったので公夫は譲れない。
四月からの生徒数は以前に比べて減少して、世間の噂では暴力団関係者に脅迫されている様だ!に成っていた。
どちらにしても示談しかなく、示談金の額と新聞に謝罪文の掲載を主張で拗れて行った。
六月に成って公夫は葵がこの様な事に成ったのは、元父親俊介が投稿小説を掲載した事が大きいと主張し始めた。
裁判所は新たな問題の提示に苦慮していた。
今回の藪内探偵社の偽報告書とは別の物だと藪内の弁護人は主張、だが実際その小説が何処にも無いので真意が判らない。
裁判官は再開された場合、一応参考書類として読ませて貰うと言った。
公夫は自宅で「今後小説が再開された場合、この際だから名誉毀損でこの小説も訴えるのはどうだろう?」
律子が「病気で遅れているけれど再開の可能性は充分有るわ、今回葵がこの様な事件を起こした背景も判るので訴えましょう!」
「そうだな!葵も気が晴れて、あの葛城准教授の名誉も壊さないと気が悪い!」
「あの先生が推薦しなければ、この様な事件は起りませんでした!」佳子も一緒に怒る。
「全てはあの男の不倫が原因だ!今更ながらに許せない!」
「そうよ!律子も葵も何も悪く無いわ、葵が起こした事件も気持ちを考えれば理解出来るわ」喜子もそう言って、三人の話は小説が再開されたら名誉毀損で訴える事で一致していた。
俊介の小説も書く時間が少なく中々前に進まない。
母聡美の再びの入院と東京の事件の後、課長が出張を減少させてしまい俊介が行く回数が増えたのだ。
漸く完成に近づいたのは盆休みに成って、連続休暇が出来たので一気に進んだ。
葛城洋子も夏休みは時間が有るので、校正もスムーズに進み(この調子なら、今月中に終るわね!)のメールを送った。
(ありがとうございます。最後は巡り会って終りにする予定で変更しました。近日中に送りますので読んで下さい)
(楽しみだわ!現実でもその様に成れば良いですね)
(ありがとうございます。僕はそれだけが望ですが、彼女が結婚して幸せなら、おめでとう!と言って、あの時何故って?は聞かない事にしています)
(それが良いわ、今の生活は壊したら駄目よ!)
(僕の生活は壊れてしまいましたけれど、彼女の生活は壊してはいけないと思います。だから彼女しか判らない時と場所を書く予定です)
(えっ、場所も時間も書かずに終るの?じゃあ会えないの?)
(小説では会えますが、現実はどう成るでしょう?先ず小説を彼女が読んでいるか?今でも自分の事を覚えているか?そして愛しているか?家族が居て幸せなら来ないと思います)
(でも意味深な話ね!作品的には面白いけれど、春木さんはそれで良いの?)
(判らなければそれまでですからね!運ですね)
メールが終って洋子も俊介も疲れた表情に成っていた。
俊介の彼女への思いやりと、自分の思いを諦め様とする姿が目に浮かんだからだ。
作品としては面白いが、投稿しても読んでもいないし、例え読んだとしても会う事が無いかも知れないと思うと心苦しい。
数日後最終話を洋子に送り付けると翌日に成って(最高よ!この様な結末に、、、感動よ!ネットで駄目なら本にしましょう。私の知り合いに出版社の社長が居るから、見せるわ!きっと喜ぶわ!)
(ありがとうございます。本に成るのは素晴らしいですね)
(ネットで駄目でも本なら買う意志の人しか買わないから、内容も緩和される筈だわ)
その言葉は名誉毀損の問題を俊介に伝えていた。
(取り敢えず投稿したいのです!)
(それって、彼女の誕生日が近いのかな?)
(、、、、想像にお任せします)
(図星だわね!九月か十月には載せましょう)
(宜しくお願いします)
数日後、洋子は再び最初から読み直して、二度目の校正を初めて彼の意志を尊重したいと思った。
知り合いの出版社社長、小杉克に電話をして「面白い小説が有るのだけれど本に出来ない?」
「自費出版なら多少駄作でも良いけれど!普通に出すなら売れないから難しいな」
「私の推薦でも?」
「先生の目は確かだけれど、今ネットに押されて出版物は売れないぞ!」
「一度会いましょう、是非読んで貰いたいわ!ネットでは人気だったのよ!」
「先生が授業で読むのを勧めたのだろう?」
「よくご存じですね!」
「過去に五冊程紹介されて、出したけれど殆ど売れなかったな!」
「でもその中の三冊は自費出版だったから儲かったでしょう?」
「まあな!今回はどちらだ!」
「自費は難しそうだわ、普通のサラリーマンらしいわ」
「それなら、難しいと思う!」
「まあ、一度時間を下さいよ!来月東京に行くからその時に!」
「じゃあ、時間またメール下さいよ!時間作ります」
「ありがとう!」
葛城准教授はネットに投稿しても、再び事件が勃発する危険を感じていた。
偶然か?
59-033
九月に成って深夜の寿司屋で島田先生が彩矢に「もうそろそろ返事を貰っても良いだろう?随分時間が過ぎたのに何も言わないな!」
「色々考えたけれど、先生とは住む次元が違うと思うのです。先生は有名な会計士さんで私とは釣り合いません!先生は冗談でおっしゃったので、今まで何も言われなかったのだと、、、、」
「馬鹿な!私は彩矢にじっくりと見て貰って決めて貰おうと時間を充分与えていたのだよ!」
「えっ、先生を見る?」
「それで決めて欲しいのだよ!私は本当に本気で彩矢を妻に迎えたいと思っている」
「でも先生と私では釣り合いません!」
「ネックレスの男を待っているのか?手紙かメールでも来る予定でも有るのか?」
敢えて投稿サイトの話はしないで尋ねる。
「また先生はネックレスの男性で責めるのね!もう随分前の話で顔も忘れましたよ!」
「もしもまた付き合って欲しいと言われたら?どうする?」
「、、、、、その様な事は絶対に有りません!だって電話番号もお互い知らないのよ!勿論住所も!どうして連絡するの?それも私が番号を変更したのよ!」
向きに成って話す彩矢は自分に言い聞かせる様に言った。
「そう怒らずに冷静に返事が欲しいだけだ!」
「じゃあ、今年一杯、いえ十一月一杯待って欲しいです!」
「理由は?」
「、、、、、、、何となくです」
彩矢には俊介の小説が今も気に成っていた。
もし自分を捜す為に小説まで書いているのなら、自分も諦められないと思う。
弓子さんの話では俊介は離婚して、妻も子供も一緒には住んで居ない。
そして自分を捜しているのなら?会いたい!会って謝りたい気持ちが有る。
「本当に十二月に成ったら返事が貰えるのだね?」島田先生は念を押す様に言うと、彩矢は小さく頷いた。
数日後葛城洋子は東京に来ていた。
風雲出版の小杉克に会う為に来週投稿する俊介の小説(遠い記憶)の原稿を持ってやって来た。
「葛城先生!気合いが入っていますね!」開口一番白髪の髪を掻上げながら言い、如何にも文学を学んだ感じの男に見えた。
小杉は有名大学の文学部に席を置き、若い時には小説家を目指し色々な賞にチャレンジをしていた。
最終選考には各種の賞で残るのだが、結局表彰される事は無く作家活動を断念していた。
その後は自費出版を中心に出版の仕事に転向して、既に三十年の歳月が流れていた。
「中々良い店を知っていますわね!」暖簾を手で押して入って行った店は、あの(きむら)だった。
「小杉社長!お久しぶりです!」店主の紀村が態々厨房から出て来て出迎えた。
「随分ご無沙汰していましたね、今夜は有名な先生をお連れしましたよ!」
軽く会釈をする葛城を見て「あっ、テレビで時々拝見しています」紀村が笑顔で軽くお辞儀をした。
紀村も自分が知っている俊介の小説の話をここでするとは考えても居ない。
「ここの親父も昔は文学青年だったのですよ!見えないでしょう?いつの間にかペンが包丁に変わったのですよ!なあ!」
照れ笑いをしながら「社長!冷やかさないで下さいよ!中学生の頃の話しですよ!」
「だがな!この親父その時賞を貰ったのですよ!私の手が届かなかった賞ですよ!羨ましい話だ!」
「子供の賞を貰っただけですよ!作文コンクールですよ」
「金賞ですか?」洋子が口を挟んだ。
話ながら奧の座敷に案内された二人。
「そうですよ!全国大会の一位ですよ!大した男です!」小杉が言うと照れ笑いで「もう勘弁して下さい!料理を運びます」
父親が料理店をしていたので後を継いだ形だが、現在の場所に来たのは隣のホテルが開業した時だった。
「あれで結構本を読むのですよ!批評も的確で以前は読んで貰った事も有るのですよ!」
「この作品にも懐石料理の店が登場しますね、何だか似ている様な気がしますわ!」
「先生は相当その作品に惚れていますね!電話の声で判りましたよ!」
「それ程確かなら、もう一部コピーして来れば良かったわ」
「また僕が読み終わったら、読んで貰いましょうか?」
そこへ料理が運ばれて来て、お酒を飲み始める二人。
しばらくして葛城先生が「実はこの作品を投稿すると、作者の義里の父が名誉毀損で訴えて投稿差し止めに成る可能性が有るのです」
「それは内容が実話に近いって事ですね!」
「そうですね、実話で無ければ中々書けない部分も沢山有りますからね」
「素人の作品は実話が多いか、意味不明の空想作品が多いのですよ!」
「ですから、話題性は多いと思いますよ!」
「成る程!先生の意図は判りました!面白いなら本にしても良いかも知れないですね」
「それに、作者の娘が先日新小岩で事件を起こしていまして、警察に一晩泊らされた様です!」
「それも中々話題ですね!傷害ですか?」
「未成年でそこまでは無かった様ですが、作者の愛人と事務員を間違えた様です!」
「それは、その事務員さんには災難だ!」
「親子の確執、夫婦間の問題、義里の父親の暴走!中々面白いでしょう?」
「不倫による家族の崩壊がテーマかな?」
「本人は自分の愛がテーマだと思っていますが、私には後者の方が強い様な作品に成っていますね」
「一度読ませて頂きます!新小岩の事件も調べてみます。唯今出版が三冊重なっていまして、その後に成りますよ!」
「お願いします!この料理美味しいですね!」葛城洋子は料理を堪能していた。
感化
59-034
小杉が読むのを待っていたが、中々読む時間が出来ない様で、葛城洋子は見切り発車でサイトに掲載する事を決めたのは十月に成ってからだった。
その動きをいち早く入手していたのは意外にも島田先生だった。
弓子に聞いていたサイトを調べて、情報を聞き出す為にサイトの関係者に近づいていたのだ。
その島田先生が昼間「弓子頼みが有る!」切羽詰まった声で電話を掛けて来た。
「先生が私に電話って珍しいわ!急用?」
「例の小説が明日十二時掲載されるらしい!私を助けて欲しい!彩矢に小説を読ませない様にして欲しい!読んで私の元から去られるのが辛い!助けてくれ!御礼は充分させて貰う」
「えっ、本当に明日掲載されるの?」
「間違い無い!私はサイトの関係者に聞いた!」
「えっ、先生そこまでするの?」
「そうだ!私は彩矢に、、、、」
「でも彩矢も時々サイトを見ている様だわ!どの様にして見せないの?」
「そうだ!携帯を紛失させてはどうだ!」
「でも新しいのを買うでしょう?」
「来月末までで良い!もう少し早くても大丈夫かも知れないが、取り敢えず隠して欲しい!頼む!」
島田先生の懸命の頼みに、何処の誰かも判らない男に未練を持つのも良く無いと考える弓子は頼みを聞く事にした。
その日の夜、彩矢がトイレに行った隙に携帯を自分のバックに電源を切ってしまい込んでしまった。
しばらくして彩矢が「携帯が見当たらないわ!弓子知らない?」と尋ねた。
「先程の団体客、彩矢と同じ様な携帯持っていたわ!間違えて持って帰ったのかしら?」
「えーー困ったわ」
「明日にでも持って来るわよ!」
「でも携帯が無いと色々困るわ」
「暗証番号が判らなければ開かないでしょう?」
「それはそうだけれど、連絡とか出来ないし!困ったわ!」悲痛な表情の彩矢。
心では悪いと思いながら、彩矢の為よ!我慢してね!心の中で詫びる弓子。
店が終ってもしばらく捜していた彩矢は、溜息をついて自宅に帰って行った。
新しい携帯を買うのも高価で中々直ぐには買えない彩矢。
翌日島田先生の言った通りサイトに(遠い記憶)全四十話が一気に掲載された。
弓子が確認した頃、島田先生も確認をして、弓子に礼を言って彩矢の携帯を買い取ろうと申し出た。
だが二人共小説を読む時間が無く、そのまま仕事をして時間が有る夜に読もうと考えた。
葵、律子も殆ど同時に小説の投稿を確認して、二人は直ぐに読み初めて自分達が悪く書かれて居るのかを確かめ始める。
律子から公夫に直ぐに連絡が届いて、公夫は弁護士にいきなり「名誉毀損で訴える!」と大声で言った。
弁護士にサイトに目を通して、直ぐに処理をして欲しいと頼み込む。
裁判が決するまで掲載の差し止めを申請出来ないのか?と詰め寄る。
弁護士も全く読んでいないが公夫の勢いに負けて、サイト運営者に連絡をした。
十二時に掲載されて、十六時にはサイトの運営者に弁護士が連絡するスピードだった。
運営側の一人河野は葛城先生から予め問題が起ると聞いていたので、弁護士に「運営で検討して対処致します」と返事をしていた。
「早いわね!読む間も無いわね!」葛城洋子は連絡を貰って呟いた。
夜仕事が終って読もうと思った島田先生は、既に削除されて(遠い記憶は内容に個人を傷つける部分が有るとの指摘で、話合いが終るまで休止致します。再掲載の時期は未定です)と再び表紙に掲載され削除の時間は午後六時に成っていた。
俊介は予想をしていたが森田家の執念を感じて、この短時間に彩矢が読む筈が無いと思った。
だが短時間で流し読みをして涙を流していた女性が一人居た。
「何処の誰なの?こんなに愛されていたの?信じられない!会いに、、、、」独り言で絶句していた。
その日を境に何も苦情を言わなく成ったのは娘の葵だった。
自分が間違えて荒木則子に嫉妬して、家庭を壊された事実を暴露して同じ様に壊そうとした事を恥じていた。
翌日「葵!また暴走したら駄目よ!サイトの小説は取り敢えず削除されたからね!」
葵が再び彩矢を捜すか、父親の俊介を襲う事を懸念した律子の電話での警告だった。
結局律子も途中まで読んで、削除されたので最後まで読んでは無かった。
「お母さん!もうお父さんを許してあげて、、、、、」声の詰まる葵。
突然の言葉に「な、なにを、、言い出すの?葵!」驚いて言葉が出ない律子。
「お父さん、、本当に彩矢さんの事好きだよ!もう私達の入れる隙間は無いのよ!」
「何を、、、、、、」
「私小説を最後まで読んだのよ!お父さんは彩矢さんが大好きなのよ!ただそれだけ、、、、でも会えないのよ!話をして謝りたいのか?おめでとう!が言いたいのよ!何も言わず突然別れたから心残りなのよ!邪魔をするのは辞め様!会う事が出来無いのに必死なのよ!、、、、、、、」途中から涙声に変わった葵。
「お父さんに同情してどうするのよ!不倫して私達を騙して、お爺さんの事まで書かれて侮辱されたのよ!許せないわ!」
「毎年、彩矢さんの誕生日に待っているって、最後に書いて有るわ?会えないのに待っているらしいわ!そんな事出来るの?」
「何処で待つのよ!」
「判らないわ、二人の思い出の場所って書いて有るだけよ!だから私達にはもう手が届かないの!ゆるしてあげましょう」
「変な小説に感化されたのね!冷静に成りなさい!」で怒って電話が切られた。
葵の話で一層憤慨する律子だったが、小説を読もうとしたが既に読めなかった。
企み
59-035
「弓子さん、既に小説は削除された様だ!彩矢の携帯はもう返してやってくれ!」
「もう良いのね!確かに小説は読めなく成っているわ!またトラブルなのね!」
「まあ、内容を読む前に削除されたが、弓子さんは読んだのか?」
「いいえ、読もうと思ったら既に消えていたから、全く読んでないのです」
「私も読もうと思ったのだが、全く読めなかった」
「私は以前流し読みを十話程は読みましたけれど、詳しく読んでないのです」
「何が問題に成っているのだ?」
「詳しくは判りませんが、作者の家族がクレームを出しているのでは?離婚された奥さんとか?少し内容にその様な文章が有りましたからね」
「まあ、何か問題を抱えている事は確かだな!彩矢をその中に巻き込むのは防がねば成らん!もしも結婚と成れば揉め事が耳に入らない様に海外に行かせるのも考えている」
「えっ、海外に彩矢を?」
「そうだ!理由は夜の世界の垢を流す為とでも理由を付けて、知り合いの会社の仕事を手伝わせたい!一人で行くのは不安だろうから、その時は弓子さん一緒に行って貰えないか?」
「えっ、海外って何処ですか?」
「ハワイで友人が旅行会社をしているからな、その辺りなら良いと思う!一年程行ってくればこの騒ぎも収まっているだろう?」
「流石は先生ですわ!それなら国内のごたごたも彼女には聞こえませんね!ハワイ良いなあ!」
弓子は既にハワイに行った気分に成っていた。
島田先生は今の騒ぎが彩矢の耳に入ったら、本気で彼を捜し始めて自分は見捨てられると思って自分も会えないが最善の方法を考えたのだ。
来月中に返事が貰えたら直ぐに準備を整えさせて、正月明けには一緒にハワイに連れて行こうと計画を立てた。
携帯が手元に戻った彩矢は早速サイトを覗いて「えっ」と驚きの声を発した。
(遠い記憶は内容に個人を傷つける部分が有るとの指摘で、話合いが終るまで休止致します。再掲載の時期は未定です)
弓子に「これってどういう事なのかな?見た?」自分の携帯の画面を見せた。
「私も見ていなかったけれど、何か揉め事に成っている様ね?」覗き込んで言う。
「これって最近掲載されたって意味かな?」
「内容を見るとそんな感じにも思えるけれど、私最近見ていなかったから判らないわ」
彩矢がサイトを見ない様に携帯を隠したのが自分だと、心で詫びている弓子。
島田先生からこれからも色々お世話に成るので、取って置いてくれと五十万の現金を受け取った弓子。
彩矢の為にしたのよ!何処の誰とも判らない男を待つより、お金持ちの先生の妻に成るのが幸せに決まっているのよ!と決めつけている。
何事も起らず彩矢は島田先生との約束の期日を迎えてしまった。
溜息を付きながら島田先生からの食事誘いを聞いた。
十二月五日の水曜日、夕方一緒に食事行く約束をした。
「一度一緒に行った懐石の店に行くか?」その様に言われたが、彩矢には俊介との思い出が有る場所で結婚の承諾はしたくは無かった。
結局島田先生の行きつけの渋谷のレストランで会う事に成った。
丁度同じ頃俊介の携帯にショートメールが届き(お父さん!彩矢さんに会えたかな?私はお父さんの味方だよ!頑張って!)葵から意外なメールが届いた。
(ありがとう!小説を読んだのか?)俊介は葵に返信をすると(私、間違っていたわ!お父さんが彩矢さんに会う為に素晴らしい小説を書いたわ!)
(ありがとう、でも会えなかった!また来年だ!)
葵はネットに投稿されて直ぐに彩矢の誕生日が来るのだと推測していたのだ。
(彩矢さんの誕生日は知らないけれど、会えなかったのね!掲載時間が短すぎるよ!お爺さんが意地悪したのよね)
(また来年だ!ありがとう葵!)
(お父さん!ファイト!)でメールは終った。
あの短時間でも葵は小説を読んでくれたのか?そして自分を応援してくれていると思うと、先日の失望の日が忘れられると新たな力が湧いてきた。
俊介は二十六日から二十七日に彩矢を待つ為に、思い出の場所に行って待っていた。
だが、姿も見えず失望の中帰って来たのだ。
微かな期待は失望に変わり脱力感が支配していた矢先のメールに、喜びが湧いて来た。
同じ日洋子から(ネットでは投稿が出来ない状態ですが、私の知り合いの風雲出版の小杉社長が本の出版に前向きで検討するとの電話が有りました。来年三月を目処に検討されます)
(ありがとうございます。自費出版でしょうか?)
(違いますよ!小杉社長が読まれて納得されたら、出版に成る予定です。忙しくて半分程度読まれてメールが届きました)
(既に読んで頂いたのなら、期待出来ますね!)
俊介はネットに掲載されなくても本に成れば彩矢の目に入ると期待をする。
十二月に成って、彩矢は島田先生と約束の渋谷のレストランに向う。
「彩矢さん!その服は僕が先日プレゼントした物ですね!お似合いだ!」嬉しそうに迎える島田先生。
「はい、先生に頂いた洋服を着て参りました。ご返事はお判りですね」
「判った!ありがとう!待った甲斐が有った。嬉しいよ!」
食事が始まると「私はまだ先生の妻に成る事に自信が無いのですよ!」
「洋服屋の店員と夜のスナックでの仕事だから?」
「、、、、」頷く彩矢に「実は一年間程、夜の仕事の垢を落してから、私は彩矢を妻に迎えたいのだが?」
「?意味が判りませんが?」首を傾げる彩矢。
「ハワイに一年間程仕事留学して欲しいのだよ!」
「ハワイ?あのハワイですか?」驚く彩矢。
「私の友人がハワイで旅行社をしているのだが、日本人の案内係を捜しているのだよ!それで行って貰えたら嬉しいのだよ!私も会えないのは残念だが、彩矢さんも心身共にリフレッシュ出来ると思うのだよ!」
「、、、、、、」驚いて声も出ない彩矢。
ハワイへ
59-036
「いきなりハワイに行けと言っても戸惑いますよね!実は弓子さんと二人で一緒で行って欲しいのですよ!」
「えっ、弓子さんも一緒に行くのですか?」急に笑顔に変わる彩矢。
「私は最初一緒に行きますが、仕事が有るので直ぐに帰って来ます!現地の友人の指導で日本人の観光客相手のお世話の様な仕事ですから簡単ですよ!」
「英語は必要無いのですか?」
「日本人のお年寄りが大半らしいですよ!だから日本人の人が良いのです!一年程ハワイで過せば健康的に昼間の生活に慣れますから、夜の仕事は忘れるでしょう」
彩矢は弓子と一緒に行けるのなら、ハワイも悪く無いし島田先生の言葉通り、夜の仕事から昼間の生活に変われるのでは?島田先生の優しさを感じていた。
「帰って来たら結婚式をしてけじめを付けてから、一緒に生活を始める事にしよう!」
「ありがとうございます。そこまで私の事を考えて頂いて涙が出ます!」そう言って目頭を押さえる彩矢。
翌日彩矢が弓子に話すと、聞いていると言って一緒に行こうと乗り気に成っていた。
すっかり彩矢は弓子の話に乗せられて、ハワイでの生活の話に終始して、夜の仕事も昼間の仕事も辞める決意を固める。
意外とスナックのママは二人が辞める事に抵抗を見せないで、喜んでくれたのだ。
勿論裏で島田先生のお金が動いているのは、弓子には直ぐに判っていた。
年が改まって2018年、一月俊介の元に葛城洋子から(小杉さんが読み終わって、とても面白い作品でしたとの評価でした。近日中に自分の友人に読んで貰って評価が良ければ製作に取りかかると連絡が届きました)
(友人って?何方なのでしょう?出版関係の方でしょうか?)
(違う様ですよ!昔は文学青年で賞も受賞された方で、小杉さんが信頼されている方です)
(いよいよ、自分の小説が本に成ると思うと気持ちが高ぶりますね!)俊介は大いに期待を持った。
同じ頃弓子と島田先生と一緒にハワイに向う準備に毎日が忙しい彩矢。
長年勤めた洋服店とスナックは年末で退職して、必要な物を取りそろえて一月の終りにハワイに向う事に成った。
島田先生は二泊四日の弾丸旅行に成る予定だ。
確定申告の時期に重なりゆっくりと旅行気分に成れない事情が有る。
本当は年始に直ぐに行く予定だったが、弓子と彩矢の準備が遅れて月末に成ってしまった。
二月に成って懐石料理の(きむら)に風雲出版の小杉が原稿を持って訪れた。
「紀村さん、電話で話した面白い小説を出版するのだが、一度読んで貰えないか?」
「誰の作品だ!自費出版か?」
「素人だよ!以前葛城先生とここに来ただろう?その時に頼まれた作品だよ!中々素人の作品は売れないから、自費出版なら構わないと思っていたのだが、でも読んで見ると中々リアルで面白い!体験談で無ければ書けない内容だった」
「体験談?何の体験談だ?」
「不倫から離婚だよ!ネットに掲載して元嫁に名誉毀損で告訴されているらしい」
「それは曰く付きだな」
「まあ、話題性が有るので売れる可能性も有る!紀村さんが読んで良ければ三月には出版してはと思っている」
「責任重大だな!」そう言いながら大きな封筒に入った原稿を受け取る。
「これなら、十万文字か!」
「流石鋭いな!十万文字に少し足りない、一千五百円以下で売りたいので理想かも?」
紀村は封筒から出して「遠い記憶ってタイトルか?春木一夫ってペンネームか?」
「多分そうだろう?中々本名では出さないだろう?それでも元嫁に訴えられたのだよ!」
「それじゃ、預かって読ませて貰うよ!」
その後小杉は一人で飲み始める。
しばらくして店が混雑して奧の部屋で、ひとりで飲んでいる小杉に部屋を変わって貰う為に従業員が行くと「御主人!た、大変です!」顔色を変えて厨房に飛込んで来た。
「どうした?」
「小杉社長の意識が有りません!」と叫ぶ従業員の女性。
紀村は直ぐに包丁を置いて奧の部屋に急ぐ。
小杉を一目見る成り「動かすな!救急車だ!」と叫んだ。
脳溢血か?脳の障害は直ぐに見て判った紀村。
しばらくして、店を若い者に任せて救急車に一緒に乗り込む紀村。
その後手術の甲斐も無く、小杉は翌日の朝死亡が確認された。
数日後葛城洋子の元へも訃報が届き、呆然としてしまう洋子。
懇意にしていたが、東京と大阪なので中々用事が無い時は会わない二人。
しばらくして冷静に成った洋子は春木の小説を思い出した。
小杉さんが本にしてくれると期待をさせてしまって、今更小杉社長が亡くなられて中止に成りましたとは言いに悔い状況。
彼が失意の底に落ちてしまうと考えると、メールをする事が出来ない。
早く別の出版社を捜して出版に結び付けたいと思い始めた。
だが素人の小説を出版してくれる出版社は見当たらないのが現実だった。
訴えたネット小説の掲載は、藪内探偵事務所の問題とリンクしている事が判明したので、結審するまで投稿は禁止に成ってしまった。
公夫は律子に「どうだ!投稿は出来なく成っただろう?」
「藪内探偵事務所は中々諦めないですね」
「裏に暴力団とも関係しているから、強気に成るのだろう?弁護士には長期戦は覚悟だと言ってある!目的のひとつは達成した」公夫は嬉しそうだ。
示談交渉だけなのだが、中々話合いに応じない公夫と藪内だから、暗礁に乗り上げた状態だった。
今と成ってはお詫びの文章も必要無い公夫。
塾の生徒は明らかに減少しているが、それは自分達が原因だとは思っていない。
この頃律子達と葵は既に殆ど会話が消えていた。
託された原稿
59-037
島田先生は一日だけの新婚旅行の気分を味わって、嬉しそうに日本に帰国した。
久しぶりの彩矢との肉体関係は島田先生に安心感を与えた。
これで当分は日本の出来事は彩矢達には伝わらないのも心に余裕を与えていた。
騒動が終り来年の春には日本に帰るだろう?それまでに新婚家庭に必要な物を揃える事を考えていた。
新婚旅行はハワイへ、それは既に実現したので彩矢が何処に行きたいのか?希望を叶え様と色々想像を巡らせる。
結婚式をする事を約束したから、場所も彩矢の希望を聞いてからだ。
六十歳に近い島田先生が子供の様に夢を描いていた。
春に成ると俊介は自分の本がもう直ぐ出版されるのだと、期待を持って待っていたのだが洋子からも出版社からも何も連絡が無い。
サイトは洋子との連絡の為に閉鎖せずに置いて有る。
最近では表紙の断りも消えて、応援メールも殆ど無く成って(遠い記憶)は題名の様にサイトの中でも遠い記憶に成っていた。
今年から教授に昇格した葛城教授も小杉が亡くなってから、ゼミの授業で(遠い記憶)の話題をする事が無く成って居た。
いつも気に成っている葵が四月のゼミの授業時に「去年教授が推薦の(遠い記憶)ですが、サイトでも書籍でも全く見ないのですが、どの様にすれば読む事が出来ますか?」質問をした。
俊介の娘で事件を起こした張本人だとは知らない。
「森田さんは少し読まれましたか?」
「全て読んで感動したので、他の人達にも読んで頂きたいと思いまして、教授に読む方法を教えて頂きたいのです」
「えっ、森田さんは最後まで読んだの?」短時間しかサイトに掲載されていなかったのに、どの様にして読んだのか?驚く葛城教授。
「はい、短時間で最後まで読みました!教授の推薦された通り感動しました!特に恋人がいつ来るかも判らないのに、ひたすら待ち続ける俊介に涙が止りませんでした!」
「そうですね、私も感動しました!実話の様でしょう?」
「実話です!」葵の言葉が教室に響いた。
「えっ!何故実話だと?」
「待っている姿が目に浮かんで、、、、、、」涙ぐむ葵。
「森田さんはそれ程感動されたのですね!物語が実話の様に成ったのね!皆さんが読める様に努力しますので、もうしばらく待って下さい!」で話を終る葛城教授。
授業の後も考え込む葛城教授、何故急に森田葵があの様な話をしたのだろう?
教授室に戻ると事務員に森田葵の学生調書を持って来る様に頼んだ。
しばらくして届いた書類を見て「この子も両親が離婚しているから感動したのね!実家は学習塾か?」独り言の様に読み上げる。
葛城洋子は境遇が似ているので感動したと決めつけたが、あの六時間の間に一気に読んだ人が何人か居るのだ!もしも前からあの小説の中の綾子と云う女性が読んでいたら、六時間で読んだ可能性もゼロでは無いと思った。
五月に成って俊介は痺れを切らして、洋子にメールを送り付けた。
春先は母の具合が悪く、再び病院に入退院を繰り返していたので忘れていた。
メールを受け取った葛城洋子は返事に苦慮していたが、事実を伝える必要が有るとメールで小杉の病死を伝えた。
勿論他社が引き継いで出版して貰える様に交渉していますと付け加えた。
(そうですか!病死ですか?)落胆の文章が届く。
俊介は直ぐに風雲出版を調べると、サイトが既に閉鎖されて見る事が出来ない。
事業を引き継いで過去の書籍は別の出版社が発売はしている様だ。
小杉のワンマン的な出版社だった様で、小杉が亡くなった時点で閉鎖も致し方無かったのだ。
懐石料理店の紀村は、小杉の事件後全く預けられた原稿の事を忘れていた。
ゴールデンウイークの休みに、店の掃除と整理をしていて棚の片隅の原稿袋に気が付く。
「あの日に預かった原稿か?」救急隊員が来た時、棚の上に置いた記憶が残っていた。
「小杉の最後の仕事だったのか?」そう言いながら原稿を取り出す紀村。
この作者の春木一夫って何処の誰なのだろう?本が出版されると心待ちにしていただろうな?そう思いながら読み始める紀村。
しばらく読んで「こ、これは!」と口走っていた。
結局紀村は最後まで一気に読み切り、大きく溜息を吐いた。
この作品の女性はこの店に何度か来た?作品の中に登場している店は明らかに自分の店の様な気がする。
小杉はそれを知っていて、自分に読んで欲しいと頼んだのだろうか?
間違い無い!小杉はこの作品を読んでここが舞台に成っていると思ったのだ。
それはこの登場人物が昔この店を訪れた?作者も?そう考えるが咄嗟には何処の誰なのか思い出さない。
小杉は作者に綾子さんをプレゼント出来る可能性が有ると思ったのか?
紀村は掃除をする為に休みの店に来たのに、完全にこの原稿に惑わされてしまい暗く成るまで読み続けていた。
自宅に原稿を持ち帰り再び最初から読み始める紀村。
奥さんが「どうしたの?急に原稿を読み始めて、小杉さんはもう依頼しないでしょう?」と覗き込む。
「この原稿な、小杉が亡くなった日に持って来たのだよ!その後今日まで忘れていて読み始めたのだけれど、店が登場して私の事も書いて有るのだよ!」
「えっ、それって店のお客さんなの?」
「多分そうだと思うのだけれど、何処の誰なのか判らない!思い出せない!」
「いつ頃の話なの?」
「多分十年近く前だろう?でも何度か来ている様だな、店の細かい事が書いて有る!豪雨の時に女性と店に来た様で、女性は初めての様だが男性は何度か来ている様だ!」
「小杉さんこの作品を本にする予定だったの?」
「多分そうだと思う!不倫の恋愛小説だが、中々リアルで面白い!お前が読んだら泣くだろう?」
「えっ、私が泣くの?本読んで泣く事、、、、有ったわ!昔漫画を見て笑い転げて涙が出たわ!」そう言って大笑いをする紀村の奥さん。
心に雷鳴
59-038
数日後、紀村の奥さんは主人の留守に原稿を読んで涙を流して「可哀想ね!この二人会えたの?」そう言って尋ねた。
「実話に近いのだろう?会えて無いと思うな!でも頭の片隅に誰か?は居る様な気がするが思い出せない!」絶えず思い出そうとしていた。
「これ本にしたら売れるかも知れないわね、この思い出の場所って何処なの?興味有るわね!」奥さんは小説の世界に思いを馳せる。
「二人共うちの店に来た人だけれど、思い出せない!男性は何度か来ている様な気がするが女性も二度か三度来られたのかも知れない!」
「そうなの?それじゃあ尚更思い出してよ!小杉さんの為に、二人を会わせてあげなさいよ!」
「あっ、そうだ!昔テレビに出ていた大学の先生なら判るかも知れない!小杉さんに原稿を渡した様な気がする!」
「誰よ!直ぐに電話をして聞けば男性は判るから、女性も直ぐに判るわ!」
急に力が入る二人は、今度は大学の先生で行き詰まる。
翌日ネットの検索で漸く葛城教授を捜し当てた二人。
早速電話をしたが葛城教授は「私も二人の名前も職業も知らないのですよ!男性の名前は判るかも知れませんが、彼がその彼女を捜す為に書いた小説ですから無駄ですね!作品としては素敵でしょう?」
「はい、中々上手に書けていると思いますね!小杉さん店にこの原稿を持って来られた時に倒れられたのですよ!何か私に捜して欲しいと言われている様で、、、」
紀村は敢えて自分の店も登場していますとは言わなかった。
判らないのなら仕方が無いと諦めてしまった。
夏が過ぎて秋が来ると(今年も頑張って!お父さん!)葵のショートメールに背中を押される様に俊介は小説に書いた場所に一泊二日で向った。
前日母の聡美がさり気なく「明日から出張だろう?気を付けて行っておいで!」そう言って見送った。
母には自分が何をしているのか、既に見破られて居る様な気がした。
娘の葵も彩矢の誕生日を知って居る訳でも無いが、何となく秋だろうと思ってメールを送ったのだ。
だがそれは失意が増して、俊介が疲れ果てて帰るだけだった。
その頃、漸く藪内探偵と和解が成立していたが、森田の家の人以外に誰も知りたくも無いし、何事も無く終った。
勿論サイトに掲載出来る様に成っているが、誰もその事を俊介に伝える人も居ない。
葵は相変わらず律子達と口を聞かないので当然耳には入っていない。
ハワイでの仕事は楽しくて弓子と彩矢は中々日本に帰るとは言わない。
島田先生の友人も二人が居て助かるので離さない。
島田先生が正月休みを利用してハワイに迎えに向うと、友人から「先生!直ぐに帰っても確定申告で忙しくて、新妻とは楽しめ無いだろう?本人もハワイの水に慣れて楽しく仕事をしているから、三月まで置いてやれば?」
「まあ、直ぐに結婚式をする時間も無いな!」
「今夜は新婚気分を味わって、一人で帰ってくれ!彼岸過ぎに必ず送り届ける」
その様な話をしている処に、彩矢が入って来て笑顔で挨拶をした。
信じられない程日焼けをして、元気で明るい感じに成っていた。
どちらかと云えば色白だったのに、見違える様な肌の色に成っていたのだ。
「先生!お久しぶりです!ハワイは楽しいですね!見て下さい!日焼けが凄いでしょう?」
褐色の腕を見せて言う彩矢は元気溌剌だ。
「本当は連れて帰る予定だったが、この男に頼まれて三月まで居て貰う事にしたよ!仕事が終ったらホテルに来てくれ!食事をしよう!」
「はい、判りました!丁度老夫婦が同じホテルに宿泊していますから、早めに伺います」
そう言うと笑顔で再び事務所を出て行く彩矢。
その後島田先生は一晩だけ彩矢と楽しんで翌日には一人寂しく帰って行った。
確かにこの時期は一年で一番忙しい島田先生だ。
その後島田先生の友人は先生を脅かせる為に、彼岸の少し前に二人を日本に帰らせる事にした。
勿論島田先生には内緒で、確定申告の終った日にハワイを旅立って帰国した二人。
飛行機の中で「日本に帰ったら何がしたい!」
「先ずは美味しい日本料理が食べたいなあ!」
「そう!私も同じ!ハワイの日本料理美味しいけれど、何かが違うのよ!」
「浜松町に美味しいお店が在るからそこに行きましょうよ!」
「それって、リステッドホテルの近くの店?」
「えっ、弓子知っているの?」
「ええ、行った事無いけれど噂で聞いたわ」
弓子は島田先生が彩矢を連れて行ったのだろうか?でも少し変な尋ね方だった様な?少し気に成ったが、会話が終って眠る事にする二人。
久々に日本に戻った彩矢は急に思いだした様に小説サイト(エブリディ)を検索してサイトに入って確かめる。
絶えず頭の片隅には俊介が居るのを感じていた。
島田先生ともう直ぐ結婚だと判っているが、心の炎は小さくまだ燃えているのを知っていた。
「誰かに連絡?」急に尋ねる弓子に「両親に連絡しようかと思って」そう言って誤魔化してサイトを見る。
既に何処にも(遠い記憶)の記述も無く、以前は表紙に書かれていた文章も消えていた。
「ふぅーー」大きく溜息を吐いて「行きましょうか?」羽田からモノレールに乗り込むと時計は夜の八時過ぎに成っている。
タクシーで懐石料理店
きむら
に向うとお客のピークは過ぎて、空席が目立つ店内に入った。
大きな荷物を入り口近くに置くと、カウンターに座る二人。
「いらっしゃいませ!」中から店主の紀村が出迎えると「あっ!」と声が裏返った。
咄嗟にこの女性じゃあ?「何度目かですね?豪雨の時にいらっしゃいましたね!」思わず尋ねてしまった。
「よく覚えていらっしゃいますね!もう随分昔ですのに、、、」と言った彩矢の背筋に突然何故か雷鳴が響いていた。
帰国
59-039
紀村は完全に記憶が蘇っていた。
この女性の名前は知らないが、この小説の原稿を書いた人は九州から仕事で来ていた春山さんだった。
仕事も自宅も知らないが時々横のリステッドホテルに宿泊して、食事に来てくれた事を思い出した。
「彩矢!良いお店知って居るわね!私取り敢えずおトイレに行って来るわ」
「懐石定食で良い?」
「はい!お願いするわ!」
弓子が消えると「昔一緒にいらっしゃった方からの預かり物が有ります、自宅に有るので持って来させます」
「えっ、何方からの預かり物?」不思議な顔の彩矢に「そうですよ!この品物は貴女以外には必要の無い物です!半時間程で届きますから持って帰って下さい!」
「はっ、はい」
彩矢には意味不明の話だ。
この店に自分が来る事を俊介さんは知らない筈だし島田先生かな?
何故?私宛の預かり物がここに届けられたのだろう?不思議そうな顔をすると「どちらの鞄が貴女のですか?そこに入れて置きますので自宅で見て下さい!」
「はあ、、、」意味が判らないまま彩矢は鞄を指さした。
彩矢はこの店を過去三回訪れていた。
一度は雷雨の時俊介と、二度目は結婚前に須永と須永の家族で、三度目が島田先生と来た。
人生の転機にこの店に偶然来ているのか?でも俊介さんと来たのは一度だけの筈なのに誰が何をこの店に預けたのだろう?いつ手渡せるか判らないのに「あの、、、」と尋ね様とした時、弓子が戻って来ると紀村は口に人差し指で内緒と言った。
紀村は厨房の奧に消えると自宅に「おい!原稿の主が現われた!直ぐに持って来て欲しい!渡してあげる!」
「えっ、本当なの?私顔が見たいわ!男の方女の方?」
「女性だ!海外に行っていた様だ!」
「良かったわね、ロマンチックだわ!誕生日いつなの?」
「知らないよ!破れない様にして持って来て欲しい!頼んだよ!」
奥さんは目頭に涙を貯めて、電話を終って拭き取っていた。
「良かったわ!」嬉しそうに呟いた。
毎日の様に「思い出しなさいよ!可哀想じゃ無いの」が最近の口癖だった。
でも女性の方が本当に独身?子持ち?今度はその事が気に成る奥さんは、直ぐに電話で確かめずには我慢出来ない。
「男の人が誰か判ったの?」
「ああ!春山さんって九州の人だ!最近は来られないが良く知って居る」
「綾子さんって女性は独身?」
「見た感じでは独身の様だな、海外から今帰って来たらしい。同僚か友達と一緒だな!鞄のステッカーからみてハワイに旅行?いや長い間行っていた様だな!持って来たら入り口に有る茶色の鞄に袋のまま入れて貰えるか?知り合い一緒だから見せると騒ぎに成る」
「春山さん!可哀想だね!毎年一人で彼女を待っていたのよね!でも独身なら望有るわ!直ぐに行くわ」急に元気に成った。
カウンターの前なので紀村は「ハワイに旅行でしたか?」食事が始まると尋ねた。
「違うわよ!旅行会社の仕事を手伝っていたのよ!」弓子が食べながら答える。
彩矢は先程の話が頭に残って食事が進まない。
「彩矢!日本料理食べたいって騒いで居たのに、進まないわね!美味しいわね!御主人の料理最高!」ビールも飲んで気分が良く成った弓子が褒める。
しばらくして料理の調理が終ると、再び紀村がカウンターの中から「二人共独身ですか?」と尋ねた。
「この人はもう直ぐ結婚!玉の輿!私は独身の婆に成りそう」そう言って微笑む。
「えっ、結婚されるのですか?」驚いて尋ねる紀村。
結婚するなら、あの原稿は不味いだろう?と思った時、妻の顔が玄関に見える。
「いらっしゃいませ!」と挨拶をしながら店に入ると、直ぐに大きな荷物が四個程在るが、直ぐに茶色の鞄を見つけた。
大きく手を振って入れるな!のアクションをする紀村だが、奥さんは早く入れてこちらに来いと勘違いをした。
丁度カウンターからは見えない角度に成るので、鞄の中に押し込む様に原稿を入れ終ると厨房から入って行く。
「入れて来たわ!」
「止めてと言っただろう?結婚するらしい!」
「えっ、結婚?じゃあ駄目じゃないの?取って来るわ」再び厨房から出ると、既に鞄は彩矢の隣に移動していて鞄の袖に財布が入って居た様で「久しぶりの日本料理で美味しかったわ!今夜は私が払うわね」
「そう?ご馳走様!もう直ぐお金持ちに成るから良いか!」そう言って笑う弓子。
既に店内には弓子と彩矢しか客は残っていなかった。
二人はタクシーを呼んで大きな荷物を積み込むと満足して帰って行った。
「大変だぞ!あの様な原稿読んだら破談に成るぞ!」
「旦那さんに成る人に見せるかな?」
「違うよ!あの小説を読んで冷静で結婚出来るか?と思った!」
「私なら結婚止めるわ、ロマンチックじゃないの?何処で待つのかな?」
「お前は呑気だよ!」呆れる紀村だが、もう元に戻す事は出来ないと思う。
春山がもう随分店には来てないので連絡の方法も無い。
タクシーは弓子のマンションを経由して、彩矢のマンションに到着した。
運転手に手伝って貰ってエレベーターに荷物を載せると、大きく溜息を吐く彩矢。
約一年半近く留守にした自宅に帰るので、気が抜けた様に成ったのかも知れない。
マンションの部屋に入ると「カビ臭いの?」そう言いながら、カーテンを大きく開いて窓を開ける。
春先の空気が一気に室内に流れ込んで、外はいつもの夜の景色が目に飛込む。
色々な電化製品のコンセントを入れて、最後に開いていた冷蔵庫の電源を入れて扉を閉める。
羽田で買った飲み物を冷蔵庫に入れ様と、茶色の鞄を開いて大きな封筒を見つける。
(きむら)の御主人が話していた物ね、何なの?原稿の包を取り出してペットボトルのお茶を持って冷蔵庫に放り込む。
左手に持った包をテーブルの上に無造作に置いた。
その封筒から原稿が飛び出して彩矢の目に飛込んだ。
表情が一気に変わる彩矢「何!なんなの」原稿が飛び出して、遠いの文字が封筒からはみ出していたのだ。
手元に
59-040
遠いの文字に「こ、これは?」直ぐに封筒から原稿を取り出した彩矢。
あれ程待っていたのに、今頃何故あの料理屋さんに有るの?
遠い記憶 作者 春木一夫
直ぐに同じ物か?誰かが悪戯で預けたのでは?弓子?違う!店に行く事は今日決めた。
島田先生は今夜の帰りは知らないと思いながら読み始める彩矢。
「これは、間違い無いわ」一話は自分が読んだもので、今でも暗記している文章だった。
二話を読み始めるともう文字が涙で霞み始める。
新岩国駅前の喫茶店でスマホの画面を見せられて、言葉も無く去って行く自分の姿が描かれている。
俊介以外絶対に知らない事実。
この文章は俊介自身か、俊介の知り合いが書いた事は間違い無いと確信した。
読み始めた彩矢はもう途中で止める事は出来ない。
勿論内容は妻と離婚して、自分の事を愛している事実が各所に書かれて自分に会いたい事が書かれて居る。
約二時間以上の時間を忘れて読み続ける彩矢は、最後の文章でもう涙が流れて文字が見えなく成っていた。
(綾子と僕は時計の長針と短針だ!君の誕生日に針が二回重なる時、僕は身体が動く限り二人の思い出の場所で毎年君を待っている!この小説を読んで、もし少しでも僕の事を、、、、、、
最後に書き終わった日時が書き留めて有って、2017,9,20に成っていた。
自分の誕生日は既に二回過ぎている事が直ぐに判った。
この文章を読んで時間と場所が判るのは、この世に私しか居ないと思う彩矢。
俊介さんは既に二年も待っていたのだ!そう思うともう彩矢の涙は止らない。
夜が明けるまで何度も何度も同じ文章を呪われた様に読んで朝が来た。
最後の文章が流れているのは、自分が結婚して子供も居て幸せに暮していたらどうしようの躊躇いだった事がよく判る。
八時頃に成ってようやく自分を取り戻した彩矢は、原稿を渡してくれた(きむら)に行って俊介の住所か電話番号を聞こうと思った。
そして何故この原稿が(きむら)に預けられたのか?それが知りたいと思った。
今年の自分の誕生日まで待てる気がしなかった。
今直ぐにでも会いたい、自分の事を死ぬ程愛している事はもう充分過ぎる程小説を読んで判った。
昼の食事も提供しているので、昼間でも(きむら)は営業していると思っているので、支度をしてマンションを出様と思った時、携帯が鳴り響いて「彩矢!昨日帰った様だな!ハワイから電話で教えられたよ!俺を喜ばせ様と早く成った様だな!」島田先生の声が携帯から聞こえる。
「はい」
「元気が無いな!疲れているのか?時差呆けか?」
「はい!」味気ない返事の連続。
「今夜会えないのか?」
「はい」
「本当に彩矢か?どうしたのだ?結婚式の打ち合わせもしたいから、今月中に一度会おう!」
「疲れて居ますので、またの機会にお願いします、それでは!」一方的に電話を切ってしまう彩矢。
「おい!どうした!」既に切れた電話に大きな声を出す島田先生。
島田先生が直ぐに弓子に電話をして確かめると、昨夜は日本料理を食べて元気でしたと答えた。
「何か変わった事は?」
「何も有りませんよ!(きむら)って料理屋で懐石定食を食べただけですよ!」
「何!(きむら)?浜松町の?」
「そうですよ!美味しかったですよ!」
島田先生は(きむら)で何か有ったのか?と執拗に尋ねたが、弓子は全く何も無くタクシーで帰りましたと答えた。
だが気に成る島田先生は夜、急遽
きむら
に行く事にした。
彩矢は昼前が忙しいと思って少し時間を遅らせて、一時過ぎに(きむら)に入った。
「いらっしゃい」と紀村の声に呼び込まれる様に入ると、運良く客は数人が居るだけだった。
「昨夜は、、、、」
紀村は驚きながら「あっ」っと言い、彩矢の腫れた目が寝不足を現しているのが判る。
「少し待って下さい!カウンターを片付けますからね」紀村が店員に食事の終った器を片付けさせる。
彼女が再び訪れる事は予測出来たが、まさか翌日の昼に目を腫らせて訪れるとは思いもしていなかった。
「焼き魚定食お願いします!」カウンターに座ると遠慮しながら注文をする彩矢。
しばらくして紀村が彩矢の前に来て「どの様にして原稿を手に入れたのか?でしょう?」紀村が先手を打った。
「はい、春山さんが持って来たのですか?」
紀村は出版社と小杉の説明をして、この店から救急車で運ばれて亡く成った事、本に成らなかった訳を話した。
自分も随分棚に置き忘れていて、約半年振りに読んで感動したが登場人物と舞台が自分の店に成っている事に気が付き、作品の作者が誰か判らずそのまま時間が過ぎたと説明した。
「昨夜、貴女を見た時急に思いだして、作者が春山さんだった事も思い出しました!」
「私、青木彩矢と申します。名乗るのが遅く成りました。すみません!」と謝った。
焼き魚定食が目の前に並べられたが、箸を付けないで聞いている。
「召し上がりながらどうぞ!」
「はい」と答えるが箸を付けない。
「春山さんは?ここへ来られないのですか?」
「最近は来られませんね、九州に帰られた様ですね」
「えっ、九州ですか?」
「一度その様な話を聞いた事が有ります」
結局会社の名前も電話番号も知らないと紀村が答えて、ようやく箸を持って食事を始める彩矢。
「あの小説の最後に思い出の場所って書いて有りましたが、判るのですか?長針と短針の意味も?」
「はい、私には直ぐに判りました!話をした事が有るのです。でも私の誕生日までは随分時間が有るので、もっと早く会いたいのです。お待たせ頂いて申し訳なくて、春山さんが今年は諦めるかも知れないでしょう?」涙声に成る彩矢。
「大丈夫ですよ!動けなく成るまで毎年待つって書いて有りましたよ!元気を出して下さい」元気付ける紀村。
時計の針
59-041
彩矢は紀村に自分の携帯番号を伝えて何か判れば連絡が欲しいと頼んだ。
結婚間近ですかの話は紀村の方から出来なかった。
昨夜連れの女性が話した事だが、今その様な事を聞ける雰囲気では無かった。
夜、その(きむら)に島田先生が訪れて、彩矢の写真を見せて「この女性が昨夜こちらに来たと思うのだが?」と尋ねた。
紀村はハワイからの帰りに友人の方と一緒に食事に来られましたと答えた。
島田先生は躊躇もしないで「私の妻に成る女性なのだが、昨夜何か有りましたか?」
紀村は平然と「何も有りませんでしたよ!疲れた様子でした!」その様に答えた。
島田先生はそれでも執拗に紀村の手が空くのを待って、色々と尋ねて最後は惚気て帰って行った。
紀村は貰った名刺を妻に見せて、大きな会計事務所が渋谷に在る事を知ると、これ以上彩矢の応援も躊躇する。
どちらが幸せに成れるか?考え込んでいた。
だが二日後、島田先生は彩矢に強引に会う事を強要した。
「ハワイから帰って変だぞ!何か有ったのか?」
「いいえ、何も有りませんわ!疲れただけです」
「結婚式はいつする?四月か五月?いや六月の花嫁も良いな!」
「は、はい」曖昧な答えの彩矢。
心の中には俊介が大きく広がり島田先生の存在は小さく成っていた。
久しぶりに会ったので、関係を迫りたいが隙を見せない彩矢。
結局式の日取りと場所は近日中に彩矢から連絡する事で別れた。
だが数日経過しても全く連絡が無いので催促すると「こんなに日焼けした姿で花嫁衣装は無理だわ」
「それなら式は無しにして、引っ越して来るか?」
「駄目よ!文金高島田に白無垢は着たいわ!」
「じゃあ、どうするのだ!」
「日焼けが収まるまで待って欲しいです!」
「いつまで?」
「秋に成ったら収まると思うのよ!」
「秋まで待つのか?」
「その代わり新婚旅行も兼ねて遠くで結婚式をしましょう」
「外国か?」
「違うわ!宮島に在る厳島神社で式を挙げるのよ!素晴らしいでしょう?」
「えっ、広島のか?」
「そうよ!昔行った時に結婚式を挙げていたわ、素敵だったのよ!だから私憧れていたのよ!」
「秋か、随分待たされたのだから、もう少し待つか!」
「ありがとう先生!嬉しいわ!」急に甘えた声で喜ぶ彩矢。
確かに色が黒くて白無垢は似合わないので、一生の記念に成る結婚式を迎える女性の気持ちとしては判る様な気がした。
だが彩矢は全く異なる事を考えていた。
成るべく引き延ばして俊介に会いたい、島田先生には悪いけれど結ばれるなら俊介だと既に心に決めている。
弓子は元のスナック(赤い鳥)に戻って働き始める。
彩矢も昼間の仕事を見つけて働く事にした。
島田先生は働かなくても良い、花嫁修業で料理とか生け花を習えと勧めたが、歳を考えると仕事の方が向いていると押し切った。
これ以上島田先生の世話に成ると困ると思い始めたのだった。
島田先生は弓子に彩矢の行動は監視して欲しいと、昼間の様子を調べさせていた。
その弓子に彩矢が「相談が有るのだけれど!」そう言って店が休みの昼休みに誘った。
弓子は何事なのかと思い行くと「弓子さんだけには本当の事を話すわ」そう言って小説が見つかった事を話し始めた。
そして自分に協力して欲しいと懇願されたのだ。
弓子は島田先生からも、彩矢からも頼まれて困ってしまう。
だが彩矢は原稿をコピーして準備していた。
「この小説を読んで決めて欲しい!彼の気持ちが伝わるわ!」原稿用紙を袋に入れて手渡たした。
弓子は彩矢の頼み事は島田先生と別れる手伝いをする事だと直感で判った。
だがハワイにも連れて行って貰ってお金も貰っているので、中々彩矢の希望には添えないと思っている。
押し付けられる様に原稿を貰って帰る弓子。
その日から読み始める弓子は、自分が読んだ部分も全て彩矢を綾子に見立てて読み始めた。
話の途中から弓子は自分も、二人を引き裂く手伝いをしていたのだと自己嫌悪に陥って来る。
二人が会えたチャンスは何度か有ったが、先生と自分が邪魔をしていたと思い始めた。
そして最後の俊介の言葉(綾子と僕は時計の長針と短針だ!君の誕生日に針が二回重なる時、僕は身体が動く限り二人の思い出の場所で毎年君を待っている!この小説を読んで、もし少しでも僕の事を、、、、、、
最後に書き終わった日時が書き留めて有って、2017,9,20に成っていた。
「この小説を読まれたら困るので、ハワイに送ったのだわ!私も片棒を担いだの?可哀想な、、、、、、」そう考えると弓子は涙が流れ出て大泣きをしてしまった。
少なくとも二年も彼は来ない彩矢を待ち続けた事に成る。
(そんなに愛されて断る女性は居ないよ!)心の中で叫びながら自分が彩矢の幸せを、そして俊介の幸せも奪ったと思い始めた。
翌日弓子が売り場に現われて「彩矢!私力に成るわ!貴女が俊介さんと巡り会える様に手助けするわ!頑張って!それからごめんね!」
「何が?謝って貰う事有ったっけ?」
「いゃ、いいのよ!それよりどうすれば良いの?何でも言って!」
「弓子さん私の誕生日知って居るでしょう?」
「勿論よ!十一月二十七日よね!あっ、彼に会える日だね!」
「そうなの!今は彼に会うにはその日にその場所に行かなければ会えないの!」
「長針と短針が重なる時間って一日二回確かに有るけれど、判らないわ?」そう言って首を傾げた。
宮島へ
59-042
彩矢は弓子に誕生日までは島田先生との結婚は出来ないと、日焼けが原因で結婚式を秋以降に延ばして貰ったと話した。
「誕生日までに会う方法は無いの?」
「二人で行った(きむら)の御主人が何かご存じかと聞きに行ったけれど、知らない様だったわ!本にして出版される予定だったのに、出版社の社長さんが急死されたのよ」
「不運が付きまとうのね!可哀想な人だわ」弓子は小説を思い出す。
「そうなのよ!」そう言う彩矢は既に涙目に成っている。
弓子は自分も島田先生に頼まれて、彩矢の携帯電話を隠してハワイに同行したのよ!とは言出せない。
「一応島田先生との結婚式は宮島の厳島神社で挙げる約束はしたのよ!」
「えっ、俊介さんとは?」
「勿論結婚式までには見つけるわ!結婚式は私の誕生日十一月二十七日にするのよ!大安だから!」
「どう言う事なの?その日に俊介さんと会えるのでしょう?結婚式するなら会えないでしょう?」
「弓子さんは島田先生が、その日に結婚式をする様に一緒に応援して欲しいのよ!」
「意味が判らないけれど、俊介さんには会って島田先生と結婚すると伝えるの?変なの?」
「明日にでも厳島神社に式の予約を入れるわ!」
「えっ、手早いわね」
「有名な場所だから満員かも知れないわ」
不思議な笑顔の彩矢、確かに今は日焼け状態で白無垢は似合わない。
そんな彩矢の思いとは裏腹に俊介は二年連続で会えなかったショックで、今後も続けられるか?自問自答していた。
その最大の理由は本の出版も無ければ、ネット投稿もされていないので、彩矢が読んでいる確率が極めて低い事だ。
自分で書いて、その文章に苦しめられる事に成っている俊介。
(お父さん!今年も頑張って会いに行ってね!必ず思いは叶うと思うからね!)応援してくれるのは一番反対していた娘の葵と、母の聡美の口には出さない応援だった。
一番良く知っている紀村夫婦は、今も原稿を渡した事を後悔していたが、その後彩矢も島田先生にも連絡する事が無かった。
もしももう一度来て尋ねられたら、葛城教授の事を話してしまおうか?でもあの会計士の先生の嫁に成る事の方が幸せに成れる様な気がしている二人だ。
「多分もう一度涙を見せられたら喋ってしまうわ!」が妻の気持ちだった。
島田先生に誘われると、食事には行くが適当に理由を考えて関係を拒否する彩矢。
厳島神社の式には誰も呼ばない事で、先日島田先生は納得した。
唯一弓子さんにはお手伝いも兼ねて来て貰う事に成っていた。
島田先生は弓子を信頼しているので、嘘の話で安心している。
もしも小説を読んでいたら不信感を持っただろうが、知らないので不信感は無い。
弓子は彩矢が誕生日に厳島神社で挙式をする事態が嘘で、思い出の地が宮島では?と考えていた。
島田先生との式を出来るだけ引っ張って、思い出の場所に行こうとしていると思う。
判らないのは広い宮島の何処で会うのだろう?時計の長針と短針が合う場所?それは多分二人しか知らないのだろう?
弓子は自分が先生に頼まれて行った事を何度も彩矢に喋りたい衝動に成った。
もしも自分が全てを喋れば、彩矢は直ぐに島田先生の元から去るだろう?そう判っていても中々言出せない。
五月の連休が終った頃、彩矢は一人で宮島に向っていた。
自身三度目の訪問だが、初めて一人で向ったのだ。
ネットと電話で予約は終っているが、一度現地でスタッフと打ち合わせをして欲しいと言われたからだ。
二度来たのはいつも紅葉の頃で、弥山も木々が青々としている今の季節は何か違う様に感じた。
2012年の秋、俊介と別れた時から既に七年の歳月が流れて、彩矢も三十七歳に成っている。
俊介さんは四十九歳?随分歳を取ったのね!私があの時逃げなければ、、、、、
結婚式をする係の人が「珍しいですね!奥様に成られる方お一人で来られるのは初めてです」そう言って驚いた。
「彼と一緒に来る予定だったのですが、仕事で来られなく成りました」
変な言い訳をする彩矢。
全て貸衣装で二人だけの式をすると伝えて、住所は今のマンションを記載した。
「既に一緒に住んでいらっしゃるのですね!」
「はい!ですから形式だけで、写真も欲しいのでお願いします」
彩矢の髪は既に元の長さに戻っているので、美容師との打ち合わせで地毛を生かした感じにする話に成った。
丁度一組の挙式がこれから行われるので、見学に行きませんか?と誘われる。
厳島神社は水面が欄干まで有り、海上には海水に浮かぶ大鳥居の姿が素晴らしい景色だ。
その中を新婦が白無垢で朱の回廊を歩くと思わず「綺麗だわ!」と口走る彩矢。
「青木様もお美しいので素晴らしい結婚式に成りますわ」係が空かさず褒め称える。
「ハワイに一年程居たので、まだ日焼けが残っていまして、、、、」そう言って照れた。
「籍は既に?」
「いいえ、入籍は式の後と決めています!」
「それなら二人の名前を書いて置きましょう」
打ち合わせが終ると夜の飛行機で東京に戻った彩矢。
羽田空港からモノレールで浜松町に到着すると、足はそのまま懐石料理店
きむら
に向った。
「いらっしゃい」と言った紀村は驚いた顔をした。
いよいよ、尋ねに来たのだろう?葛城教授の事を言う時が来たと覚悟を決めた。
手伝いに来ていた妻も店内に出て来て、彩矢を見てそう思った。
「今夜は御礼に来ました!これは宮島のお土産です」もみじ饅頭の包を差し出した。
「こんなつまらない御礼では御礼に成りません、結婚式が終りましたら主人と一緒にまた寄せて頂きます」
「宮島に?」
「はい、秋に結婚式を宮島でしますので、打ち合わせに行って来ました」
「そうだったのですね!それはおめでとうございます」急に笑顔に成った紀村夫婦。
敢えて御主人は何方でしょうとは聞けないが、嬉しそうな彩矢の顔で全てが解決したと思った二人。
運命の場所へ
59-043
彩矢が帰ると二人は宮島で式を挙げると話していたので、奥さんは島田先生だと言い、紀村は春山さんと巡り会ったと主張した。
だが、どちらにしてもあの笑顔は本物で、幸せに成れたのだと確信していた。
宮島の旅館の予約は既に島田先生が行い。
二人は露天風呂付きの特別室の在る高級旅館で、部屋から大きな鳥居が見える位置に在る。
同じ旅館に弓子の部屋も予約して、三人だけの宮島旅行が計画された。
二泊三日で十一月二十六日、二十七日の宿泊に成っている。
島田先生はその後も食事に誘うが三回に一回程度しか応じない彩矢。
その為心配に成る島田先生は再三弓子に様子を尋ねるが、弓子は先生の奥さんに成る為に緊張している様ですよ!最近では経理とかの簡単な勉強もしている様ですと嘘の情報を流していた。
夏には淳君の盆の墓参りに田舎に帰ってしまい、二週間も戻らなかった彩矢。
毎日の様に墓を訪れて墓石に問いかける姿は、不思議な光景に写っていた。
(淳君!お願いだから俊介さんに合わせてね!もし会えなかったら淳君の処に行っても良いかな?俊介さんを裏切って島田先生と一緒になれないからね~七年も私を捜しているのよ!私の事を心から愛しているのよ!私も俊介さんを愛しているわ!昔も今も!)行く度にその様に話し掛けて、もしも会えなかったら自殺するしか道が無いと思い始めていた。
島田先生には口では言い表せない程世話に成っているが、俊介の気持ちを知ってしまった以上もうどうする事も出来ない自分がそこに居た。
十一月二十七日が本当に大安に成るか?仏滅に成るか?彩矢には運命の時が迫っていた。
「最近会う回数が少なく無いか?」遂に島田先生が痺れを切らして電話で言った。
「私は結婚式と宮島旅行が新鮮な形で迎えられるので楽しみにしていますが、先生は結婚前から同棲の様な生活がお望みですか?」そう言われて、自分も歳だから同棲の様な事は望まないと言わざるを得なかった。
適当に食事で誤魔化す彩矢に翻弄されている島田先生も、彩矢に惚れているので致し方無い。
会うと結婚式の話と宮島の話をして期待を持たせる。
島田先生は宮島には行った事が無かったので、彩矢の話は新鮮だった。
島田先生が予約した旅館は2012年に俊介と泊まった同じ旅館で、何か変な気分に成っている彩矢。
誤魔化しながら秋を迎えると、日焼けしていた弓子と彩矢は完全に元に戻って、美人の彩矢に島田先生も満足で「もう白無垢が似合う様に成ったな」そう言って心待ちに成った。
半年以上誤魔化しながら付き合うのも後僅かだと思う。
十月に成って葵が再び(お父さん!もう直ぐだね!今年も行くでしょう?頑張ってね!)
(本当に読んでいるのかな?読んでいなかったら馬鹿みたいだよ!最近は自信が無いのだよ!自分だけが馬鹿な事をしている様な気がしている!誰も見てないし辞めても誰も怒らないだろうし、笑わないだろう?)
(弱気だね!あの小説を書いた時は絶対に会えると思ったのでしょう?)
(でもネットにも投稿して無いし、本にも成ってないからな!)
(私が一緒に行ってあげるよ!行こう!何処なの?)
(それは言えない!でもまだもう少し先だからな!)
(十一月なのね!遠慮しなくても良いよ!一緒に行くから寂しく無いでしょう?)
あれだけ毛嫌いしていた葵一人が応援をしてくれる嬉しさは俊介には複雑だった。
いよいよ島田先生と彩矢がそれぞれ別の気持ちで宮島に向う十一月が訪れた。
東京から新幹線を使うのも、飛行機を使うのもそれ程時間は変わらないが、弓子が一緒の方が彩矢は気分的に楽なので飛行機にした。
二十六日葵も俊介が休みを会社に提出している事を知って(やはり、行くのね!何処なの?教えて?私も行くから、今度も誰も居なかったら寂しいでしょう?)
(何故?今日だと判った?)
(会社に尋ねたの?今日から三日も休みを取ったでしょう?)
(会社に尋ねたのか?仕方の無い葵だな!今夜は宮島に泊るのだよ!紅葉が綺麗だから明日見に来なさい!)
(やった!お父さんとデートだね!彼女に会えなかったら私が慰めるよ!もしも会えたらどうしよう?その時考えるわ!行くわよ!)
葵は父俊介がショックで自殺でもしないかが心配だった。
三年も宮島まで行っていたのだと思うと、また涙が頬を伝った。
既に彼女と別れて七年が経過して、親父も来年五十歳に成るので今年が限界?そう考えながら明日宮島に行く準備を始めた。
俊介は何度も訪れた宮島の風景を見ながら、厳島神社にお参りをして近くの旅館に入ると仮眠をする事にした。
明日葵が来る頃には殆ど判っているので、葵を連れて土産物店でも散策して鹿と遊ぶ事を考える。
島田先生達が宮島口に到着したのは、三時少し前「ここからフェリーに乗るのですよ!」フェリー乗り場を指さす彩矢。
「飛行機に乗っても遠いな!」自宅を出たのが八時半、広島空港までは早いがそこから約三時間で、疲れを感じている島田先生。
「早く旅館で一服したいな!」
それでもフェリーに乗ってから大きな赤い鳥居が見えて来ると感動したのか、身を乗り出してカメラのシャッターを切る。
弓子は既にこの宮島が二人の会う場所だと察していたが、どの様な形で会うのだろう?いきなり目の前に俊介と云う男が現われる訳は無いし?
顔を見ても判るのは彩矢だけだから、島田先生に気づかれずに会うのだろうか?
色々考えていると宮島に到着して「厳島神社の横の旅館ですから、歩きましょう」彩矢は先頭に立って歩き始める。
弥山が紅葉して美しい景色が目に飛び込む。
「おお!鹿が居るな!奈良公園の数とは比較に成らないが、気を付けないと食べ物狙われるぞ!」島田先生は奈良公園には行ったと話ながら左右を見渡して歩く。
土産物屋が建ち並ぶ通りに入ると鹿は姿を消した。
右にも左にももみじ饅頭の看板が有り、店先には沢山の種類のもみじ饅頭が並べられている。
別れの時
別れの時
59-044
厳島神社が近づくと、彩矢は心臓が飛び出している様な鼓動を聞いていた。
もし俊介さんが来なければ自殺も選択肢のひとつに成っている。
会えたら何を喋ろう?直ぐ近くに居るかも知れない。
約束の時間に会うなら、既に今日この宮島に来ている筈だ。
そう思うとキョロキョロと廻りに目を配る彩矢。
その様子に「どうした?」と島田先生に言われて「先生!そこの角を左に曲がれば旅館です」そう言って誤魔化す。
人混みを避けて旅館の前に到着した三人は、荷物を係に預けてチェックインをする。
「一服したら神社をお参りするか?」
しばらくして係に案内されて、島田先生と彩矢は露天風呂付きの特別室に向った。
新婚旅行も兼ねているので、仕方無いのか?本当に二人は結婚式を明日するのか?弓子は後ろ姿を見送りながら考えてしまう。
すると仲居が「お食事は六時半からお食事処にて三人ご一緒で賜っています」と説明した。
彩矢が頼んで三人で食事成っていたのだ。
島田先生は嫌な顔をしたが「弓子さんひとりで食事をさせたら、先生が恨まれますよ!」の言葉で渋々承諾した。
今夜久々に彩矢と関係を持てるので、機嫌を悪くしたら明日の結婚式も不味いので承諾したのだ。
一服の島田先生を残して、結婚式場に明日の段取りを尋ねに行く彩矢。
「御主人はご一緒では無いのですか?」の問に「疲れたと言って旅館で休んでいます」
結婚式は明日の二時からの予定で、写真撮影も含めて一時間少々だと説明を受けた。
御主人様も十二時過ぎには着付け等に来て下さいと念を押される彩矢。
既にお金は振り込んでいるので、キャンセルに成っても誰も困らないと思う。
旅館に戻ると島田先生が一緒に神社を参拝したいと言ったので、三人で回廊を散歩の様に一緒に歩く。
既に潮が満ちて回廊は海水の中で大きな鳥居には、既にライトが照らされて幻想的な風景に変わっていた。
「あの鳥居の場所まで行けるのか?」
「潮が完全に引けば歩いて行けますよ!でも大潮とか色々有る様で長靴が必要な時も有る様です」
「不思議な光景だな!あの海の中に歩いて行けるのか?」
海面を見ながら島田先生が言った時、弓子は或る事に気が付いた。
もしかして、明日俊介さんに会えなかったら彩矢はここで死ぬの?自殺?そう考えると海面を見つめる彩矢の眼差しがそれを暗示している様に見えた。
しばらくして三人は旅館に戻り女性二人は大浴場に、島田先生も一人で大浴場に向った。
間髪を入れずに「お風呂に行きましょうか?」と彩矢が弓子を誘ったからだ。
部屋に露天風呂が在るが小さいのと、島田先生と今入りたくない気分だった。
六時半にはお食事処に三人が集まって、細やかな宴会が始まった。
「島田先生、彩矢!結婚おめでとうございます」弓子がお祝いの言葉を述べて、杯が進むが島田先生はビールを一本程度で飲むのを辞めてしまった。
これからの事を考えてセーブをしたと二人は思っていたが、口には出さないで宮島と結婚式の話で食事は九十分程で終った。
「明日私は十一時半頃から着付け、先生も十二時過ぎから着替えですから、弓子さんは式まで公園の紅葉でも見物していて下さい綺麗ですよ!」
お食事処を八時過ぎに出ると各自の部屋に消えた。
「ようやく二人に成れたね!露天風呂に入るか?」島田先生は待ちかねた様に彩矢を誘った。
覚悟は決めていたのか、拒否はせずに一緒に露天風呂に入る彩矢。
窓から宮島の朱色の大鳥居がライトアップされて、浮き上がって見える。
七年前
「綺麗ね!去年はもう少し向こうの旅館だったから、大鳥居が屋根しか見えなかったわね」
「本当だな!この旅館に決めて良かったね」
「また来年もここに来たいな!」
「彩矢は宮島が好きだね!今日も鹿に追いかけ回されていたね」
「それは俊介さんが焼き芋を買って、私のポケットに入れたからでしょう?恐かったのに!」
「ごめん、ごめん!」俊介の唇が彩矢の次の言葉を遮った。
もう七年も経つのに覚えているわ、この風呂での会話を思い出していると急に島田先生の手が身体を、、、、、急に我に返る彩矢。
その後は島田先生に身を任せる彩矢。
風呂からベッドに移ると、今度は彩矢が先生を求める。
いつもは無い積極的な行動に驚きながら、興奮する島田先生。
しばらく間が有って再び彩矢が「先生!ありがとう!好きよ!」そう言って唇を絡めて再び求める。
今までに絶対に無かった彩矢の行動に、すっかり張り切り頑張ってしまった島田先生。
しばらくして疲れたのと満足で終ると、思い出した様に「喉が乾いた!」そう言ってビールを要求したので、彩矢は冷蔵庫からビールを取り出し二人で飲み始める。
「美味い!最高だ!これからも宜しく頼むぞ!」
「こちらこそ、お世話に成りました!言葉では言い尽くせません!本当にありがとうございました」ビールを飲みながら涙ぐむ彩矢。
「嬉し涙か?もう一杯入れてくれ!」グラスを差し出す先生。
もう眠るだけなので嬉しかったのか?満足したからなのか?次々飲み干す島田先生。
今夜は島田先生に対して感謝の気持ちを表わした彩矢だった。
一時間程二人で飲んだが、彩矢は殆ど飲まずに相手をしていた。
その後一人で簡単に露天風呂に浸かると、完全に酔っぱらった先生は「彩矢も早く寝なさい!」そう言うと直ぐに眠る。
数分で高鼾に成ってしまった島田先生。
しばらくして彩矢は露天風呂に入って長い時間身体を洗い、髪も洗って乾かすと化粧を始める。
鏡の中の顔は不安と期待で満ちあふれていて、下着を着けてバックから鍵のネックレスを取り出すと首に着けた。
洋服を着ると自分の荷物を纏めてキャリーバックに詰め込む。
高鼾の島田先生の処に行くと「先生!長い間ありがとうございました」小さな声で言うと深々とお辞儀をした。
テーブルの上に手紙を置くと急に先生が「彩矢!」と叫んだ。
驚いたが寝言の様で再び寝息に変わっていた。
時計を見ると既に時間は夜中の三時を指している。
キャリーバックを転がす音が深夜の旅館に響き渡って不気味な感じだった。
抱擁
59-045
フロントに向うと薄暗く、小さな灯りがひとつ付いている。
「すみません!すみません!」二回程呼ぶと、中から夜勤の男性が仮眠中なのか眠そうな顔で出て来た。
「朝までこの荷物預かって貰えませんか?」
「どうされましたか?特別室のお客様ですよね!」鍵を見て言う。
「懐中電灯貸して貰えますか?」
「えっ、お一人で行かれるのですか?女性一人は危険でしょう?」
「連れが先に行きましたので大丈夫です」
「そうでしたか?旦那さんが先に行かれたのですか?それなら大丈夫ですね」
男は懐中電灯を彩矢に渡して、バックをフロントの中に入れて彩矢を夜間の出入り口に見送った。
(綾子と僕は時計の長針と短針だ!君の誕生日に時計の針が二回重なる時、僕は身体が動く限り二人の思い出の場所で毎年君を待っている!この小説を読んで、もし少しでも僕の事を、、、、、、)
小説の文章を思い出して最初に宮島に来た時の俊介の言葉を思い出していた。
「一日二回干潮に成るのだよ!その時この場所まで歩けるのですよ!まるで時計の針の様に正確にね!」
「そうなら今居る私達は時計の針?」
「そうだね!僕が長針で彩矢が短針かも知れないな」。。。。。。既に十年も前の言葉を思い出した彩矢。
懐中電灯を持って暗闇の大鳥居の方向を見る彩矢。
観光客がちらほらと散策に来ているのだろうか?海だった場所に灯りが見える。
今夜は月の光も雲に遮られて薄暗く地上を照らしてはいない。
夜の十一時迄ならライトアップされている大鳥居も今は薄暗い。
石灯籠の場所から足元を照らして歩くと、石の階段が海だった場所に続いている。
既に殆ど潮が引いているので、全く濡れる事が無い。
所々に小さな小川の様な流れが有るが、そこさえ歩かなければ充分靴で歩ける。
徐々に大きく成る大鳥居、殆どはカップルの様で三~四組が同じ様に見学に来ている様だ。
月の光が雲間から偶然大鳥居の柱を薄明るく照らした。
そこに男が一人何処を見ているのか?立ち尽くしている姿が見えた。
彩矢の方向に頭を上げたその顔は間違い無く俊介だった。
「あっ、俊介さん!」急いで歩く彩矢はそう叫んでいた。
遠くから彩矢の声を聞いて「彩矢!彩矢なのか?幻では無いよね!」俊介も駈け寄ると、お互いが顔を確認して抱き合っていた。
「ごめんなさい!」
「僕こそ、ごめんな!」そう言う俊介の唇に吸い寄せられる彩矢の唇。
小さな拍手が外人観光客から二人の耳に届いた。
大鳥居に歩いて来る事が出来る時間に、数人の外国人観光客が来ていたのだ。
唇が離れると「お誕生日おめでとう!」俊介が小さな声で言った。
「ありがとう、最高の誕生日に成ったわ」そう言う目には涙が溢れて、再び抱き合う二人。
「私から、七年も待たせた俊介さんにプレゼントが有るのよ!受け取って貰える?」
「えっ、僕もこれを、、、」ポケットから取りだしたのは指輪のケースだった。
「これは、、、、、」
「婚約指輪だよ!今彩矢の指に指輪が無かったから、思い切って出して見た!離婚したのか?」
小さく頷く彩矢は指輪のケースを受け取って箱を開ける。
「ダイヤ?」直ぐに俊介が取り出して、彩矢の左手を持つと「変わってなければ丁度だと思うのだけれど!」そう言って指輪を指で持つ俊介。
「何故知って居るの?」
「昔、ストローの袋を指に巻付けていたよ!」
「えっ、そんな物を持っていたの?」驚く彩矢の薬指にダイヤの指輪が綺麗に入った。
「ほら、ぴったりだ!」
「嬉しいわ、ありがとう」左手を月の光に照らして嬉しそうに言った。
「彩矢のプレゼントって何?」
彩矢が今度は右手で指をさした方向には、厳島神社の社殿が暗い闇の中にぼんやりと見える。
「何?あそこに何か有るのか?」
大きく頷いて「今日、あそこで私達の結婚式を挙げるのよ!」
「えーー、彩矢と僕の結婚式?」
「そうよ!今日は大安だから、もう半年以上前から予約していたのよ!」
「嘘!嘘だろう?会えなかったらどうしたの?」
「会えると信じていたから、あの小説を読んだ時に決めたの、、、、、」涙ぐむ彩矢。
「あの小説でこの場所が判るのは彩矢だけだからな!」
「だから今日の二時から挙式よ!二人だけの?違うわ!友人が一人参列してくれるわ」
「僕にも一人、今日ここに行く様に後押ししてくれた娘が参列してくれるだろう?」
「えっ、娘さんが一緒に来られて居るの?」
「今日来ます!彩矢に会えなくて寂しい時に慰めに来ると言ってくれたのです」
「素敵なお嬢さんね!」
「初めは怒って反対していましたけれど、小説を最後まで読んで感動したと、今では僕の強い味方に成ってくれました」
「私は涙で文字が読めなく成りました」
しばらくして昔話をしながら二人は旅館に向って歩き始める。
「俊介さんと別れた日、社殿でお祓いを受けて祈祷していたでしょう?私、何をお願いしていたか知って居ますか?」
「、、、、、、、、、」俊介はその時の光景を思い出す。
彩矢に恋人が出来た事を既に知って居たので、その恋人と結ばれます様にとお祈りしていたのだと思っていた。
「あの時ね、俊介さんと結婚させて下さいとお願いしていたの、妻帯者で子供さんもいらっしゃって無理を承知で神頼みしていたのよ!」
「えっ、そんな、、、、、、、」絶句する俊介。
「でも叶えられたわ!随分時間がかかって、お婆さんに成っちゃったけどね!」
その言葉にもう耐えられない俊介は、涙で月が滲んで見えていた。
「ごめんな!知らなくて、、、、、、、」涙声で必死に言葉にして言った。
しばらくして俊介の泊っている旅館に荷物を持って移動する彩矢。
その後ろ姿をフロントの男性が不思議そうに見送っていた。
プレゼント
59-046
旅館の前に二人が着くと「ここは?」彩矢が建物を見上げて言った。
「そうだよ!初めて宮島に来た時泊った旅館だよ!娘が来るので大きい部屋に変えて貰って良かった」
裏口から入ったので、ホテルの人には全く判らない。
「身体が冷えてしまいましたね!大浴場に行って来ます」俊介は四時過ぎの朝風呂に向うと言うと、彩矢も一緒に浴衣を持って付いて行った。
大浴場の入り口で鍵のネックレスに気が付く俊介が「そのネックレス着けていたのですね」
「はい、私の宝物ですから、大切な日には必ず着けます」笑顔で言った。
「ありがとう」再び抱き合う二人。
しばらくして浴衣姿に着替えて部屋に戻った二人は、七年振りに愛を確かめ合った。
島田先生では味合え無かった安心感が彩矢の身体から溢れ出ていた。
朝七時前に成ってようやく目覚めた島田先生は「彩矢!」と呼びながら隣のベッドを見る。
眠った形跡の無い様子に飛び起きて、露天風呂からトイレを捜して荷物が無くなって居る事に気が付く。
フロントに電話をして確かめるが要領を得ない。
その時テーブルの上の封筒に漸く気が付く島田先生。
その中には島田先生に対する御礼の言葉が延々と綴られて、自分の様な人間が先生の奥様に成る事が許されないと書かれていた。
その最大の理由は心の中に別の男性が居る事で、もうこれ以上自分と先生を裏切る事が出来ないと書いて有った。
「何故?まだあのネックレス男を思っているのか!」そう言って怒る。
直ぐに弓子の部屋に電話をする島田先生。
「彩矢が逃げた!逃げてしまった!」叫ぶ様に言う島田先生。
「逃げたのでは無いでしょう?元に戻ったのですよ!」
「えっ、弓子は知って居たのか?」
「先程彩矢から連絡が有りましたよ!彼に会えたと嬉しそうに言いました」
「そんな事は許せん!取り戻してやる!近くに居るのか?」
「もう戻りませんよ!先生も諦めた方が宜しいと思いますが?」
「何故だ!」
「今の先生は彩矢にとって、とても親切で良い人ですが、携帯を隠してハワイに連れ出した事を知れば悪い人に変わりますよ!どの道先生の元には戻って来ませんわ、ここは黙って身を引くのが最善の方法ですよ!私も本当の事を彩矢に言いたく有りませんからね!彼氏の小説を事務所に送りますので、一度読んで下さい!納得されると思います」
それだけ弓子が話すと、島田先生の方から怒って勢い良く電話が切れた。
島田先生は朝食を食べると結婚式場に連絡をして、急遽取り消しを頼もうとした。
「島田様での結婚式の御予約は頂いておりませんが、何かのお間違いでは?」係に言われて呆然とする島田先生。
当初から結婚をする予定が無かった事に腹を立てて、急いで宮島を後にする事にした。
丁度同じ時刻に俊介の娘葵が旅館にやって来て「お父さん!嬉しそうね!もしかして彩矢さんに会えたの?」笑顔で尋ねた。
「葵の応援のお陰だ!これから厳島神社で結婚式をするのだ!葵も出席してくれ!」
「えっ、結婚式?そんな簡単に出来ないでしょう?」
「それが、彩矢からのプレゼントだった!」
「そんな素敵な事!素晴らしいプレゼントを貰ったのね!おめでとう!お父さん!」
自然と二人の目から涙が溢れ出ていた。
その頃彩矢は白無垢の着付けの最中で、弓子が島田先生の様子を伝えに来た。
「綺麗だわ!先生は今頃フェリー乗り場に向っているわ」
「先生には本当に悪い事をしたわ!」
「そうでも無いわ、だから気にしなくても良いのよ!」
「でも、、、、」
島田先生が宮島口に渡った頃、俊介と彩矢の結婚式が始まった。
「綺麗な奥様ね!お父さんも素敵よ!」葵がスマホで次々と写真を写す。
朱塗りの欄干に紋付き袴の俊介と彩矢の白無垢が映えて一層引き立つ。
海上に大きく浮かぶ大鳥居を背に、次々と写真を写す専属のカメラマン。
二人の結婚式は喜びの中で終って、その日の夜は四人で宴会に成った。
翌日昼頃四人は一旦それぞれの場所に帰って行った。
彩矢はマンションの引っ越しの準備を既に終っていた。
俊介に会えた場合も会えなかった場合も、このマンションを出る事を決めていたからだ。
数日後、島田先生の元に弓子が送った小説の原稿が届いた。
当初は読む気がしなかった島田先生だったが、宮島からの帰りにやけ酒を飲む為に浜松町に近い懐石料理店
きむら
に飛込む。
閉店近くで殆ど客は無く、その姿を見た紀村は結婚式が春山さんと彩矢だと直ぐに判った。
やけ酒の島田先生に紀村は二人の事を話した。
それは小説の中の話だが、殆ど実話だろう?二人の思いを察して許してやりなさいと諭されたのだ。
その話は自分の意地悪で会えない時間が延びた事を思い知らされる事に成る。
翌日紀村の話が無ければ、永遠に読む事は無かった(遠い記憶)の原稿を読み始める島田先生。
最後の(綾子と僕は時計の長針と短針だ!君の誕生日に時計の針が二回重なる時、僕は身体が動く限り二人の思い出の場所で毎年君を待っている!この小説を読んで、もし少しでも僕の事を、、、、、、
最後に書き終わった日時が書き留めて有って、2017,9,20に成っていた。
読み終わった時、自分が行った愚かな行為を恥じて目頭が暑く成っていた。
少なくとも三年も待つ事は無かったし、この文章の意味が判った彩矢の行った行動も充分理解出来た。
翌週には彩矢は東京から福岡の俊介の自宅に転がり込んだ。
母の聡美は自宅を改造して、一緒に住みたいと言う彩矢に感動した。
二年後
薮内達が仕掛けた風評被害で、小倉の森田塾はいつの間にか生徒数が減って三カ所の塾が一カ所に成っていた。
葵は実家には帰らず福岡の会社に就職して、一人暮らしをして俊介に時々会うのを楽しみにしていた。
そんなある日、彩矢は福岡の病院で男の子を産んで、母の聡美が「春山の家にも漸く跡取りが生まれたわ!」そう言ってガラス越しの新生児を俊介と一緒に見ていた。
「高齢出産で心配したけれど良かった!」
「名前は決めているのかい?」聡美が笑顔で尋ねる。
「春山厳って名付ける予定です!」
「強そうな名前だわね!」
「僕達の縁を結んで頂いた厳島神社から一字頂きました!結婚の七年も前に彩矢は二人が結ばれる様にお願いをしていたのですよ!」
「そんなに昔に?まだ律子さんと一緒の時だね!でも彩矢さんは年寄りに親切だ!良い奥さんだよ!」
しみじみと話す聡美はこの二年間、彩矢の介護と看病で元気に成っていた。
嬉しい俊介と聡美が病室に戻ると、彩矢が「巌!可愛いでしょう?」と笑顔で言った。
四人の楽しい生活が始まった時だった。
翌年、その幸せを書き加えて、待望の小説「遠い記憶」が本に成って出版された。
実に俊介が書き始めて十年の歳月が流れて、本当に遠い記憶の物語だった。
完
2020,02.04
遠い記憶