銭の重みと仏ごころ

ある 一人の 僧侶 の話ー1 

昔、 一人の若き僧侶が旅をし続けていた。 あてのない修行の旅であった。 ただ、この 僧侶、 あまりにもりりしく、 顔立ちなど 端正 にできていたので、 行く先々の土地の娘たちが放ってはおかなかった。
寄ってくる娘たちから逃れるために、 編笠を深くかぶり、 顔を半分隠しての旅であった。
この僧侶がある町を訪れた折に、 不思議な娘と出会った。 たいがいの娘達は、この僧侶を見ると、 目を輝かせてはいたが、 その娘はそれだけではなかった。 じっと目の奥を覗きみると、 何か光るものがあった。
僧侶は、それがなんだか確かめたくて、また、 じぃーとその娘の顔を見続けてしまい、 結果、その娘に自分に好意を持っていると勘違いされてしまい、 娘の方は顔を赤くした。
それに気付いた僧侶は、慌てて。これはいかん、と 、顔を背け、編笠を深くかぶり直したのだが、 もう遅かった。 娘は完全にその僧侶に惚れ込んでしまい
その僧侶が行ってしまった後も、一日たりとてその 僧侶を忘れることができなくなってしまった。
それから半年後、その若き僧侶の方はと言うと、 食うや食わずのただ托鉢だよりの旅だったため、 その日の泊まる場所さえ事欠いていた。 ある日、 もう日暮れが近くなっているというのに、 今夜の寝床すら見つからなかった時、 遠くで野犬の集団の 鳴き声が近づいてくるのが聞こえてきた。 僧侶は。いかん、 このままでは襲われてしまう。 なんとか身を隠さねば。と、焦り始めていた。
野生化した犬の集団は、その数を頼りに獲物に襲いかかってくるので、 一匹の狼より恐ろしいと言える。 野良犬など見かけなくなったのは、ほんの 近年のことである。 
人の匂いを感じてか、 野犬の集団の声はもう近くまで 迫っている。 僧侶は。 襲われてはならぬ 、どう か御仏のご加護を賜らんことを。と、念じずにはおられなかった。
僧侶は必死に走った。 運が悪かったのは、 山の中でのことであったからだった。 当然人家など滅多にない。しかし、 日暮れの山道を駆け上って行くと、
幸運にも古びた寺が目に入った。
僧侶は。 あそこにかくまってもらうしかあるまい。
と、 杉の生い茂る道なき斜面をずり落ちるように下っていった。なおも、野犬たちは近づきつつある。
僧侶は、門の前まで辿り着くと、両手を使ってその門をドンドンドンドンと叩き続けた。
開けてくだされー。 野犬に追われております。 何卒、 この門を開けてくだされー。と、何度も何度も叫んだ。 振り返れば、先頭の野犬の集団は、もう間近に迫っていた。 ああー、これまでか。と、 目をつぶると、その瞬間、ギギーと門が少し開き、一本の腕がすっと出たかと思うと、僧侶はその腕につかまれて、 あっという間に中へと引きずり込まれた。
そして、それとほぼ同時に門は閉ざされた。
門の外では、何匹いるかわからぬ数の犬たちの鳴き声や、唸り声が聞こえてくる。僧侶は、冷や汗で全身がびしょ濡れになりながら、ゼェ、ゼェと、俯いたまま息を切らせていた。
お若いの、すんでのところであったのう。と、 頭の上から声が降りてきた。 僧侶は、うつろな顔で見上げると、 一人の老人がすぐ近くに立って微笑んでいた。この寺の住職と思しき老人は。まあ、 中へ入りなさい。と、優しく手招きをしている
僧侶は、まだ息が整わず、上ずった声で。あり、ありがとうございました。と、言うのが精一杯であった。住職は。 山犬には用心されよ。と、言うと、スタスタと 歩き始めていた。
僧侶がやっとの思いで、後について行くと、住職は。すまぬが、客人の足を洗わせる弟子もおらぬゆえ、 井戸端で足を洗って来てくださらぬか。と言った。
それを聞いた僧侶は、 お客扱いされていることに気づき。 滅相もないことでございます。 匿っていただいた上に、 座敷に上がらせていただくわけには参りませぬ。と、答えた。
しかし、住職は。 そう固いことを言うものでもあるまい。これも御仏のお導きとは思わぬか?。と、言うと、僧侶は。そうでございましたと考えを改め、 それでは遠慮なく上がらせていただきます。と、言い、 井戸端で足を洗うと素直に寺の中へ入っていった。
寺の中に入ると、どこもかしこも埃だらけであった
住職が高齢であるため、 掃除が行き届いていないことは、すぐに想像できた。ましてや、 弟子もおらぬというのでは仕方がないことと 僧侶は思い、 あちこちあまりジロジロ見ないように気をつけた。
ただ、 本堂に安置されている観音様の立像が埃をかぶっているのには。おいたわしや。と、 思う僧侶であった。
座敷に上がった後、 しばらくしてから住職は夕食を運んできてくれた。 そして。 どうじゃ、 般若湯でも酌み交わさぬか?。と、砕けたことを言った。
それを聞いた僧侶は。いや、 私は飲んだことがございませぬゆえ。と、断ると、 住職は。 固いのう、
いっぱい飲んで、 旅の垢を落とすのも修行の一つと思われよ。と言うと、すかさず。ささ。 と言って、
膳にある茶碗に般若湯を注いだ。
僧侶は、初めて口にした酒というものに。 これはうまい。体の疲れも取れるようだ。と、 心の中で思った。 住職も手酌で飲み始めると、 こんなことを言った。なに、こんな山奥で久しぶりに人に会えたのが嬉しいのよ。ささ、どんどん飲まれよ。 酒、いや般若湯は。と、言い直すと。 もう一瓶あるからの。
と、上機嫌だった。
僧侶は、住職の陽気な人柄に触れ、つい注がれるままに、グイグイ般若湯を飲んでしまい、相当酔ってしまった。 これはいかぬ。と、思った時は既に遅く
天井は回り始めていた。 いかん、 目が回る、 なんとかせねば。と、片手で何度も 膝を打って酔いを覚まそうとしたが、とうとう正気に戻れず、 横倒れになったまま眠り込んでしまった。
その様子を見ていた住職は。こりゃいかん。 そんなところで寝ていると風邪を引きますぞ。と、声をかけたが、僧侶は。もう飲めませぬ、もう飲めませぬ。と言う 寝言を繰り返していた。
住職は。よいよい。旅の疲れが出たのであろ。 と言うと、僧侶に優しく布団をかけてやった。そして
膳を片付け、灯を消すと。まあ、 ゆっくり休みなされ。と、僧侶に向かって呟くと、 障子を閉め、 部屋から出て行った。
翌朝、 住職が部屋を訪ねると、 僧侶はもう起きていて、 布団は脇にちゃんと畳んでいた。 そして、
正座して住職を待っていたようだった。 住職は。
おつむは痛うないか?。と、僧侶に尋ねると、僧侶は。 大丈夫でございます。 昨晩はたいそうご馳走に預かり、 誠にありがとうございました。と、すっきりした顔で礼を言った。
すると住職は。若いのう。 わしはおつむが痛うてかなわんわ。と言いながらホッホッホッホッと笑っていた。
住職は、僧侶の前に正座すると。 これからどうなさる。と、きり出した。 すると、僧侶は。 お世話になり、先々の心配までしてくださるなど、 誠にもったいなきお言葉でございます。と、 深々と頭を下げた。そして。 この先もただ御仏の御導きに従うまででございます。と、言った。 それを聞いた住職は。
あてのない旅をこの先も続けるということか?。と、少しだけ不満そうな顔をした。
そして、こう続けた。どうであろう、もうしばらく、ここに逗留しておらぬか?。 そなたがもし気に沿わぬというのでなければ、 ゆくゆくは、 この寺の跡を継いでもらいたいものだが。と、言った。
それを聞いた僧侶は。 滅相もないことでございます。 私のような未熟者に頂戴できるお話ではございませぬ。と、断った。 それを聞いた住職は少し残念そうな顔つきになり。 やはりだめか。と、ポツリと言った。
それを見ていた僧侶は、気の毒に思いつつ、 どう考えてもこれだけの大きさの寺に魅力を感じない若者がいないわけがないと思い、思い切って聞いてみた。差し出がましいことではございますが、 本当にお弟子様はいらっしゃらないので ございますか?と。 すると住職は、頭をかきながら、こう話した。
実は、いるにはいるのだが、と言うか、 おったにはおったのだが、三年前に叡山へ修行に行くと書き置きをして、姿を消してしまったのだ。と、言った。
僧侶は。やはり、いらっしゃったのではございませぬか。で、 書き置きには何と記してあったのでございますか?。と、尋ねると。住職は。それが、三年経ったらまた戻ってくると書き置きには記してあった。と、答えた。
それを聞いた僧侶は。 三年目とは今年のことでございますよね?。と、問うと、住職は、ばつが悪そうに。そうなんじゃが、 果たして、 あ奴、 本当に戻ってくるかどうか、、、。と、言って 言葉を濁した。
僧侶は。ならば、 お待ちになった方がよろしゅうございませぬか?。どのようなお方か存じませぬが
お帰りになれば、 きっとこのお寺を盛り立ててくれましょうぞ。と、住職を励ました。
そう言われて、住職は。 負けん気だけは強かった奴だが、そうなってくれれば嬉しいが。と、 少し笑みが出た。それを見た僧侶はすかさず。 信じてお待ちくださいませ、 きっと戻って来てくれましょうぞ。
と、言った。
それを聞いた住職は。そうかのう、 戻ってくれれば良いが。と、俯いた。
僧侶は、朝食を食べ終え、膳を片付けた後、 住職に向かってこう言った。 ご住職様、 匿っていただいた上、 お泊めいただくなど、 誠にかたじけなく存じます。 このうえは、 ご住職様の身の回りのお世話をさせていただきとうございます。 薪割り、 洗濯、 掃除など何なりとお申し付けください。 すると住職は。 そうか、そうか。と、喜んで、 こう言った。
それでは、すまぬが、寺の掃除と、境内で作った野菜とわらじを売りに行ってもらえるかの?。 ついでに、売れた銭で般若湯を 一瓶買ってきてくれたら嬉しいが。それを聞いた僧侶は。 たやすいことでございます。それだけでよろしいので?。と、 問い返すと。なに、年をとると体が硬くなるゆえ、 身の回りの細々としたことは自分ですることにしている。ただ、町で般若湯を買うのが少し気が引けるのよ。と、 ばつが悪そうに正直に答えた。
僧侶は、その姿を見て、 いくら御仏に仕える身とはいえ、こんな山奥で、 一人暮らしをしている老人が
酒を唯一の楽しみとしているのは、決して間違ったことだとは思えなかった。
そこで僧侶は。たやすいことでございます。 その他にも必要なものがあれば、 買ってまいります。 どうぞ、 お気になさらず、 何なりとお申し付けください。と、言った。 それを聞いた住職は。 すまぬのう。それでは他に必要なものは、紙に したためておくゆえ、頼めるかのう。と、 にっこり笑った。
僧侶は。それでは、 境内にある野菜の収穫から始めさせていただきます。ただ、 これだけ広い境内に植えられている野菜を、全て町まで売りに行くには、 ひと月近くかかるかと思われます。それまで、 ご厄介に預かりたいのですが、 かまわぬのでございましょうか?。と、言った。
それを聞いた住職は。何を申される。 手伝ってもらうのは、こちらの方なのだ。 何日でも気が済むまでいてくだされ。なんなら、 ずっといても良いのですぞ。と、笑いながら言った。しかし、その目元は悲しそうだった。
それを見た僧侶は、 こんな山奥で一人暮らしをしている老人を哀れに思った。そして、 そろそろ自分も根をおろす時機が来たのではないのか 、などと ふと思ったりした。僧侶は、一旦視線を下ろしつつ、
思案した。さらに、しばし間をおいて、 住職に思い切ってこう問うてみた。
ご住職様、いかがでございましょう。叡山に修行に出られているお弟子様がお帰りになるまで、私がご住職様のお世話をさせていただくというのは?。
それを聞いた住職は、余程嬉しかったのか、 抱きつかんばかりに、満面の笑みを浮かべ。良い、良い、 あ奴には、もう帰って来なくても良いと、文を送るゆえ、ずっとそなたにいてもらいたい。と、言った
僧侶は。文を送られては困りますが、 お弟子様がお帰りになられるまでというお約束で、お願い申し上げます。と、言うと。
住職は。わかった、わかった。いつまでもいてくれ
頼む。と、ポロリと本音が出てしまった。 そして、
その目が潤んでいるのを見た僧侶は、 相手に期待を持たせてしまったことは、 良いことであったのだろうかという気がして、 なんとなく気まずい思いがした。
だが僧侶は、とにかく、 お弟子様が帰って来られるまで懸命に働かねばと、気を取り直し、 まずは、 境内にある畑の野菜の取り入れに掛かった。

銭の重みと仏ごころ

銭の重みと仏ごころ

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-01-19

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