きょくちたんけんか

書肆彼方

きょくちたんけんか

 少女カトレアはとっても後悔していました。くたくたブロッコリーのクリームシチューを鍋いっぱい夕食にすっかり食べてしまったからです。寒い夜でしたので体はポカポカになりましたが、おなかがタップンタプンで今にもはちきれんばかり。
「あたしの体のほとんどは牛乳とブロッコリーでできているわね」
 ブロッコリーのツブツブがミルクで花を咲かせたら、カトレアのおなかは黄色いお花畑になって、クルクルおどりながらいくらでも花摘みができます。だったらシチューをたらふく食べたのも悪くないわと、クスクス笑いました。そんなカトレアを青みがかったグレー猫のチラはちらりと見て、あったかだるまストーブの前でどっしり横になっています。チラはカトレアのちいさな宮殿を治める女帝マリア・テレジアで、カトレアは忠実な召使いでした。
「ねえチラ、あたしは激動の王妃マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュがいいわ」と、カトレアは主張しましたが、チラはちらりと見るだけでキャスティングの変更はありません。「ああ、なんてかわいそうなカトレア! でも待っていなさい。白馬に乗った王子さまがガラスのクツを手に、あなたのもとにやってくるの。ええ待ちます。待ちますとも!」
 へんてこりんなオペラもそこそこに食器を片づけ、ネグリジェに着がえたカトレアは、ホットハチミツレモンと手編みカバーの湯たんぽをかかえて寝室にむかいます。湯たんぽでベッドが温まるのを待つあいだ、アンティークのナーシングチェアに深くこしかけ、大きな窓から庭をながめるのは毎日の楽しみです。
 ゆげの立つマグをふーふーちびちび飲んでいると、空にぽつねんとうかぶ黄色い宝石はガス灯のように夜の国をほんのちょっぴり明るく照らし、カトレアのハチミツレモンものぞいていました。
「あなたも飲みたいの?」
 カトレアは思いついて机の引きだしから、ねじねじの赤いガラスペンにペンレスト、インクボトルと便せんを取ります。ガラスペンをインクボトルに入れるとブルーブラックを吸いあげ、ふちで余分なインクを落として便せんにさらさら字を書き始めました。

 まんまるおつきさんへ
 おげんきですか?
 こよいはあなたがおきれいだったのでふでをとりました。
 あなたはいつもひとりぼっちだけど、あたしもどくしんよ。
 ぱぱとままはきょくちたんけんかで、あたしをおいてどこかにでかけてるの。
 まあ、ねこのちらがいるしなんとかやってるわ。あなたはいかが?
 てぃーたいむにごしょうたいしますのでいっしょにおはなししましょう。
 それではごきげんよう。      
                  あなたのとおいゆうじん、かとれあより

 ペン先をコップにつけ、水中でインクがゆらりと漂い混じります。ガラスペンを布で拭いてからペンレストに置き、便せんを花がら封筒に、チラの肉球シーリングスタンプで封をして完成です。
「いいことチラ、今から少しだけ目をつぶってなさい」そう言い残し、カトレアが玄関から外へかけだしていくのをチラはちらりと見ていました。夜に外出してはいけないと、パパとママから言われていたのに。
 町はずれのカトレアの家には庭と少しばかりの畑もありますが、今やプルシアンブルーに溶けてひっそりと静まり返っていました。冬の夜気で白い息を吐き、草花の眠りをさまたげないよう忍び足で庭の小径を通りぬけます。石積みのそばに赤いピラーボックスがどっしり立ち、ところどころ黒い染みが年齢を感じさせます。差しだし口に手を伸ばし、書き立てホヤホヤの手紙を投函したらコトンと喉を鳴らします。冷たくなった手をさすり、自分も食べられてしまわないうちに帰ろうと振り返ったら「にゃっ」。
 カトレアはびっくりして思わずきゃあと声をあげますが、こちらをじっとり見るチラの仕業に気づき、眉をしかめます。「もうチラ!」
 しまったことにカトレアの声で庭が目を覚ましたようです。ふんわり暖かな夜風が庭のほうから草をなでてサラサラさざめき、スズランがぽおっと白く輝きます。ポピーやチューリップは頭をあげ、畑からアスパラがニョキニョキニョキニョキ、アオバズクもポーポーポーポー。
「まあどうしましょう。春まで起こしてしまったわ」
 カトレアはどうしたものか、まごまごしていると、誰かが手をひっぱり庭へ誘われます。星のイルミネーションで飾られた華やかな会場は動物たちの舞踏会でにぎわっていました。
カトレアはうれしくなって手をふりほどき、サルとウサギの楽隊が奏でるワルツに合わせてクルクル踊りはじめます。タンブラーに星や青草、色とりどりの花を入れてかき混ぜたみたいに周囲の景色はなめらかに流れ、音楽に身をゆだねました。
ティーカップ・ワルツを心ゆくまで楽しんでからイスにすわって休んでいると、タイミングよくポニー給仕がポットをシルバートレイに乗せ、こちらにやってきます。ポニー給仕はポットをかたむけ、ピスタチオグリーンのカップにショコラショーをそそぐと、ふんわり甘い匂いがしました。
「お嬢さま、クレーム・シャンティイはいかがでしょう」
 カトレアは目を輝かせ「もちろん、たっぷりと!」
 真夜中のこんもりクレーム・シャンティイのショコラショーはなんておいしいのでしょう! フワフワとろっとろでほっぺたまでとろけ落ちてしまいそう。もう何杯でも、ショコラの海におぼれたってかまわないわ、とカトレアは思います。白いテーブルクロスの丸テーブルにはフレジエが四角く切ってガラスのケーキ台に、フランボワーズピュレのてらてらの赤は「早く食べて、早く食べて」と、カトレアにしゃべりかけてくるようです。
「しゅくじょのたしなみではお誘いを何度かお断りするものだけど、彼女は少なくとも一〇回は〝食べて〟とあたしを誘っていますわ。あまりお断りするのはしゅくじょとしてよろしくないですこと」
 隣席のバセット・ハウンド紳士をちぐはぐな会話に巻きこんで、口のまわりがクレーム・シャンティイだらけの〝しゅくじょ〟は、おしとやかにケーキサーバーでフレジエを皿に取りわけます。バター多めの濃厚でなめらかなクレーム・ムースリーヌに甘酸っぱいイチゴがじゅわっとはじけ、アンビバージュが染みこむしっとり生地にほんのり香るキルシュはちょっぴり背のびした気分。フレジエを二つ……いいえ、三つぺろりと平らげ、もうちょっとだけ踊りを楽しもうと席を立ちますが、チラのことが気にかかり、うしろ髪引かれる思いでピラーボックスにもどりました。
 華やかな夜会の明かりはどんどん遠のき、しんとした静けさがあたりを支配する石積みのむこうは真っ暗で見えません。
「チラ、どこにいるの?」カトレアは不安げに石積みを越えます。
 何かがおかしい。あるはずのピラーボックスはこつぜんと姿を消し、幹がうねり生気を失った枯木がたくさん、カトレアを見おろすように立っていました。もしや道をまちがえたのでは。ひきかえすと石積みはバラバラにくずれて家も庭もなく、薄墨色の森がずっと広がっています。
「チラ、チラ!」ガラリと変わった景色。押しよせる恐怖に胸が押しつぶされ、何度もチラを呼びますが、深閑とした森にただ響き渡るだけでした。
 何もできずに立ちつくしていると遠吠えが聞こえて、ギシギシギシ、ギシギシギシギシ……今度は枝のきしみが声となり、カトレアにこう言いました。

小さな娘が夜半に迷い
潜んだ獣が深紅のまなこで狙う
漆黒の毛を揺らしつつ
鋭い爪で柔らかな肉を裂き
骨は不老の薬となるであろう
逃れられぬ 逃れられぬ

 ここにいてはいけない。胸さわぎがしてとにかく声の聞こえない場所へ、逃げるように走ります。朝になったらどこにいるのかわかりますし、もしだれかいれば助けてもらえるでしょう。でもじっとしていれば彼らが言うように恐ろしい野獣に……
 息をあげ、ひざ丈ほどもある灰色の枯葉をパリパリ乾いた足音を立てながら森の中をただひたすら前へ前へ。すると突然、なにかにつまずき枯葉の海につんのめります。
 うううっとうなり声をあげ、ゆがんだ顔を盛りあがる枯葉にむけます。痛めた右足をずるずる引きずって山を必死にかき分けると、そこには白い牡鹿が倒れていました。カトレアと同じ右足に傷を負い、血を流し倒れていたのです。
 カトレアはすぐにネグリジェの裾フリルをやぶって傷口に包帯を巻き、もだえる白鹿の首にほおを寄せます。そばに折れた矢、切っさきにはべっとり血がついています。狩りで仕留め損なったのでしょうか——でも、誰が矢を抜いたのかしら——カトレアは不思議に思いました。
 白鹿のそばに横たわり、優しくなでていると水滴がこぼれ落ちるのがかすかに聞こえてきます。カトレアの細い足首は腫れてズキズキし、額からは汗がにじみ、どうにも喉が乾いていたので白鹿を置き、耳をそば立てながらゆっくりゆっくり音のする方へ近づきます。
 覆われた枯葉に隠されて、苔むした岩のくぼみに溜まる青く光った水が一滴ずつ、そばの石に当たって濡らしていました。顔を近づけ舌をぺろりと落ちる水をなめます。しずくはカトレアの喉をうるおすだけでなく、足の痛みをいやし、胸の恐怖をやわらげていったのです。金色のシジミチョウがたくさんやってきて岩に、カトレアに宿り、こう歌いました。

愛らしい花よ
我らの蜜を口にし
昼中は人として
闇夜に胡蝶となれ
青き羽の姫
トパーズに息吹を

 カトレアは胡蝶の羽をゆっくり広げ、青い鱗粉をキラキラ散らします。
 血の匂いに誘われた獣が風を切って走り、夜陰に浮かぶいくつかの赤い眼がギロリとこちらをにらみつけるとたちまち水は枯れ、シジミチョウたちはふっといなくなります。白鹿のもとに駆け寄りますが残っているのは血痕だけ。獣のねぶるような鼻息がいたるところから、囲まれているのは明らかでした。
 もしかして白鹿は獣の群れに……カトレアは胸を押さえてしゃがみ、顔をうずめて肩をふるわせました。すすり泣く少女の美しい肌に牙を入れようと、獣たちは我先にじりじり距離をつめてきます。
「白鹿さんごめんなさい。白鹿さんごめんなさい」
 カトレアは獣など目もくれず、自分の渇きを満たすため、白鹿を犠牲にしてしまったことを悔い、赦しを乞うていたのです。
 久しいご馳走に、たまらなくなった貪欲な獣がいっせいに飛びかかったまさにその瞬間、カトレアの手首を何者かがつかみ、消え去ります。猛獣をぐんぐん引き離し、シカバネの木立ちが前からうしろへ勢いよく流れていきます。カトレアは戸惑いながらも包まれる手のぬくもりだけはっきり覚えていました。
「どうか手を離さないで」すきとおるような少年の声。無言で手首を強くにぎりかえして答えます。
 白鹿と背に乗る青い羽の胡蝶はあっという間に森をぬけ、広い野原では月光環を放つおぼろ月がふたりを見守っていました。
「舞踏会へ誘ったのは白鹿さんね」
「あなたは悪夢から狙われていたのです、青い羽の姫よ。グレー猫が警告したので、わたくしがあなたを夢現へ引きこみました。しかし狩人の弓で打たれ、獣に捕まるところでした」
 少年の股にネグリジェの裾布が巻きつけられているのを見たカトレアは目をそらして悲しそうにうなだれ、「あたし、あの……」。
 少年はすっと手を離し、包帯に触れてからにっこりほほえみました。
「あなたの父君と母君に命じられていたことです。それと」少年の言葉をさえぎるように、遠吠えが黒い森から聞こえてきます。「猶予はありません。早く月に」
「でも白鹿さん、あなたが!」
「東雲で彼らは消え去るでしょう」
「また……また会えるかしら」
「願えば、きっと」
「うん。ありがとう」
 そう言って少年のほっぺにそえたカトレアの唇はほのかな春の色香を、トパーズへの吐息はしばしの別れを告げて————
 机にうつぶすカトレアの右手にはひびが入った白鹿のガラスペンレスト、コップにはゆらゆら揺れるブルーブラックの水が月を隠していました。ぼんやり窓の外をながめていると、あまりの寒さにぶるりとふるえます。急いでカーテンを閉め、湯たんぽでほかほかのベッドにもぐりました。そばにいたチラは、ほつれたネグリジェの裾をチラリと見て目をつむります。
「ねえチラ」頭いっぱいにかぶったかけ布団からカトレアの声がします。「きょくちたんけんかって何かなぁ」

きょくちたんけんか

きょくちたんけんか

小川未明『月夜と眼鏡』のふんわり感が心地よく. 『La Blanche Biche』

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
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