ワディ
ワディ
私は泳ぐ。生ぬるい水の中を、なまぬるくなまぬるく泳いでいる。ぬめりととろみはここでは判別出来ないし、別にどちらでもいい。あのとろとろの正体はあまりにも私とあなたの剥きだしが溶けだして混ざり合ってもう何物でもなくなってしまった悲しさだ。
私の内臓は柔らかすぎる。柔らかいので、際限なくとこしえに吸収して、ぶよぶよになっている。境目はとうになく、肉体はすでにあたたかな液体だ。
耳の奥にたしかな振動を感じていた。骨を伝ってふるえるような歌が聴こえる。思わず片手で押さえると、感に入ったと勘違いしたのかガイドは「壮観でしょう」と陽気に微笑んだ。
「この川は」
流暢な英語で彼は身振り手振り続ける。
「元はワディなのです」
「ワディ? 」
「ここの気候は乾季と雨季が交互に来ることで成り立っているのはご存知でしょう。ワディは、雨季の時期だけ砂漠に一時的に出現する川のことなのです。今はすっかりアカシアが生い茂るオアシスですが、ここは本来砂漠だった」
「一時的な川だったはずがずっと枯れずに残っているのですか」
「その通り。ずっと向こうの山の麓から温泉が湧いてね。今のように豊かな川になった。温泉河川なのですよ」
「いつの話です」
彼は待ってましたと言わんばかりに得意げなウインクをして私の肩を派手に叩く。お国柄なのか、特に他意はないらしい。それから、昔のことです──と勿体ぶって話しだした。
*
富豪がその隊商に出くわしたのは旅の途中、砂漠荒野の只中のことであった。遠目に窺うに、商隊は多少混乱しているように見えた。何事かと自分の召使いを派遣して様子を伺わせ話を聞くところによると、商品奴隷の一人が衰弱しているので、ここへ置き去りにするのだという。彼は興味を抱き、直接商隊長に会いに行くことにした。
「どうしたのか。あなた方のこの騒ぎは、一体どういうことなのか」
「はあ。あの奴隷がもう使い物にならないもので、困っているのです」
日に焼けた肌に深い皺が刻まれた長は躊躇いがちにそう答えて、人集りの奥を身振りで示した。見ると確かに一人の若者が剥き出しの地面に横たわってぐったりとしている。
それにしてもその奴隷の容貌は不思議なものであった。浅黒い肌に長く黒い髪をひとつに編み込めて垂らしている。しなやかな体躯に整った顔の骨格。どこの国の者なのか、顎髭はまったくない。年齢は二十代前半ほどだろうか。身なりは質素だが、美しい。しかし一際目につくのはその耳だ。あるべき位置に耳殻がない。穴も塞がっている。
さらに、その傍らで心配そうにその奴隷を覗き込んでいる人物を目にするに至って、富豪は驚きを禁じ得なかった。
彼は横たわっている奴隷と同一人物と違えるほどに瓜二つだったのだ。
「なんということだ。彼らは──」
「“彼ら”と呼ぶべきか……。性別はありません。奇形の双子です」
二人は見世物用の奴隷であるらしい。
「わたくし共は「夙」、と呼んでおります」
「夙。どちらが夙なのだ」
「どちらもありません。見分ける必要もありません」
なぜと問おうとして、もっと訊くべきことがあると彼は思い直す。
「置き去りにすると聞いたが」
「心苦しいですがこうなってはもう仕方のないことですから。対として揃っていなければ商品価値もありませんし、置いていく他ないかと。価値のつかない商品を養う余裕はありませんで」
訝しげな富豪の視線に、長は居心地悪そうに自分の縮れた顎髭を撫ぜた。
「──この者たちは履物のようなもので」
「履物」
「二つで一組、両方揃って初めて機能するという。存在も外見も全く同じにすることによって価値が生じる、そのような存在なのです」
「片方だけではどうしても駄目なのか」
「見世物としてはまあ、金は取れません」
「もし同じように揃わなくとも休ませて恢復させて、普通の奴隷として使えば良いではないか」
「性別も耳もないこの外見では気味悪がって買い手がつかないのです。それに、全くの聾唖ではないですが、充分に聞こえぬ口も利けぬでは労働奴隷には向きません」
長はあれこれ言い訳を述べる。
「しかし物珍しかろうが」
「はじめは面白がるのか分かりませんが、じきに慣れてすぐつまらなくなります」
「そんなものかい」
「そんなものです」
「まだ充分美しいに」
「はあ。まあ、見せ物ですからそれなりに整えてはおりますが。それにしたってそろそろ潮時ではあるのです」
もう三十になるのです──との長の言葉に富豪は驚いた。何か通常の備えの欠けている者はその分何かが研ぎ澄まされて、肉体の衰えも遅れるのだろうか。富豪は次第に「夙」と呼ばれるこの存在に興味を惹かれていった。
「よしでは買おう」
「はあ。今何と」
「その者たちを私が買おう」
長は戸惑いつつもその代金に欲をかいて、素性も知らぬ富豪にこれ幸いと二人を売り渡した。
夙が富豪に買われて数日が経過した。
衰弱していた方の夙は、充分に休ませ水を飲ませ、乳や干しイチジクの菓子を与えて滋養を取らせたら、あっけなく健康を取り戻した。片割れの夙を引き離さず傍に置いてやったのも良かったのかも知れない。井戸のそばで休憩したときついでに水浴びさせたら、すっかり美しく見違えた。
はじめの頃は新しい主人を警戒していた夙であったが、富豪が思いのほか人の好い人物と分かってからは次第に緊張を解いていった。物好きで人の好い好奇心旺盛な変わり者──端的に評すれば富豪はそのような人物であった。
商隊の長が言っていたほど、夙との意思の疎通は特段困難な訳ではないのだと、富豪はやがて気づいた。あの商隊長が夙を見限ろうとした本音は、衰弱ではなく年齢的な価値低下にあったのかも知れない。
夙は自ら望んで夙であるのらしかった。「私たちは本来ひとりの人間として生まれてくるはずでしたから」というのがその言い分であった。それならばと富豪はその片割れ同士を離れ離れにさせぬよう、共に出来る見張り仕事を割り当ててやった。
夙の意思疎通方法は特殊であった。直接声を発声することも出来るのだが、それ以上に流暢に用いることの出来る伝達法を持っている。振動だ。夙の言葉は骨から響く。骨を伝って耳に届く。それはときに意思であり、感情であり、歌であった。遠く離れていても、その震えに乗ったメッセージははっきりと相手に届くのだった。耳の塞がっている夙にとって、どうやらこちらの方が互いに苦もなく行える伝達の方法なのらしい。
あるときそのことに富豪が触れると、夙はたいそう驚いた顔をした。
「聴こえるのですか」
「聴こえるというか、伝わるのだ」
夙と夙は顔を見合わせた。
「そのように言われた方はご主人が初めてです」
言われて富豪も驚く。
「では、誰もが聴こえているわけではないのか」
黙り込んだ夙の、けれども骨から伝わる振動は輪郭が不明瞭のままぐるぐると蠢いていた。
「私もきっと何かが欠けている不具なのだろう」
その夜、宿営の見張りをしている夙を訪ねて、富豪はそう語った。荒野砂漠の渺漠とした風景は、夜になると余計に人の寂しさを呼び寄せる。どこか遠くでジャッカルが鳴いている。
「どうも平均になりきれない」
そう言って笑う富豪の、心の奥底に何があるのか夙には知り得ないことだった。
「知らないものを見たいのだ」
富豪は夙にそう語った。
「私が元いたのは豊かで発展した都市だった。けれど退屈だった。幸い私の一族は裕福だ。ならばその富を用いて知らないことを知ることも出来ると思ったのだ。そして、そのために旅立って正解だった。そうしていなければお前たちを知ることもなかっただろう」
夙はだまって聞いている。
「お前たちも今までずいぶんと苦労しただろう」
「この見た目ですから、仕方がありません」
「お前たちは、どこからの者か。生まれはどこか」
「私たちは生まれながらの流浪の民です。売られ捨てられ、売られ捨てられの繰り返しですから、出処も正体も杳として知れません」
そうか、では私が勝手に結論付けようと富豪は少年のように笑った。
「お前たちは、きっと鯨なのだ」
鯨を見たことがあるか、との富豪の問いかけに夙は頭を振る。
「そうか。見てしまったら、お前たちは姿形まで鯨になってしまうかも知れないな」
私は見たことがあるのだ、と富豪は記憶の中の海を眺める。
「あれはもう同じ生き物とは思えない。畏怖の念を抱く大きさもそうだし、何かが明らかに違う。そしてあれには耳がない。いや、ないのではなく外から見えないだけらしいのだが──やはり、そのときも私は感じたのだ。私は」
鯨の歌を聴いたのだ──富豪はもう夙に語っているというよりかは自分に語っているように夢見心地だった。
「お前たちはきっと鯨なのだ」
悲劇が起きたのはその二日後だった。
夜半、富豪の宿営が強盗に襲われた。ラクダやヒツジ、金銀の品や高価な紫の織物はことごとく奪われ、何人かの奴隷たちと共に富豪も殺された。真反対の方向で見張りに当たっていた夙は遅れて駆けつけ、その時には既に全てが手遅れだった。
あと一日か二日分行けば、砂漠を抜けられるはずだった。それなのに富豪は感情のない顔の、違和感のある大きな物体に成り果てている。
しばらくその顔を眺めて、夙はどちらともなく富豪を背中に担いだ。奴隷仲間の何人かが咎めたが、夙の尋常でない怒りの瞳に怯みそれ以上は何も出来なかった。
崩壊した宿営を出て、夙はひたすら歩き続けた。
空が白み、夜が明ける。気温はみる間に上昇する。
野生の獣に襲ってくれと言っているような状態ではあったが、運良く山の麓の険しい岩場に辿り着いた。
そこで漸く夙は富豪だった屍体を背中から下ろす。この岩場の洞窟に主人を埋葬するためであった。
多分、と夙は思い返す。
私はきっと嬉しかったのだ。自分を商品として扱わずひとりの人間として接してくれたこと。異常とではなく、鯨と評してくれたことが。だから今初めて他人のために感じているこれは悲しさなのだ。私はすでに三十になる。あと幾年生きられるやも分からない。それならばここに主人を埋葬して体を守り、やがてそのまま一緒に死んでも悔いはない。そのように思われた。
突如として地震が起こった。
なんの前触れもない、大きく激しい縦揺れであった。山が目覚めたのかも知れない。夙は富豪の屍体を庇う余裕もなかった。ただ地面に伏せて耐えているほかなく、そうしているうちに目の前の岩場に罅が生じて裂け、そこから水が噴き出した。
いや、水ではない。温泉だった。
温泉は豊かに湧き出で、見る間に川をつくり富豪の遺体を流し去った。夙は慌てる。でもそう思ったのは一瞬で、あっという間に自らも呑みこまれる。
──あたたかい。
目を閉じたら、二度と開けなくなった。身体の溶ける感覚がする。
夙の二つに分かれていた身体はようやくひとつとなり、本来の様子に収まる。鯨となる。
この生温かさは、涙と同じ温度だ。そうか、私は全身で泣いているのか。それはなんと心地好いことか。
私は歌う。悲しく、優しい歌を自由に歌う。
わたしの命はとうに尽きてしまった。それならばここで眠ろう。平和なる偉大な山、その岩地に抱かれて。
そのとき地は震え、サレムの山々は騒ぎ立った。そこは水場となり、川となった。湯気をたてあふれ流れる。
私は思い出すだろう。自らの故郷を。その水の豊かさを。
私は泳ぐ。生ぬるい水の中を、なまぬるくなまぬるく泳いでいる。ぬめりととろみはここでは判別出来ないし、別にどちらでもいい。あのとろとろの正体はあまりにも私とあなたの剥きだしが溶けだして混ざり合ってもう何物でもなくなってしまった悲しさだ。
私の内臓は柔らかすぎる。柔らかいので、際限なくとこしえに吸収して、ぶよぶよになっている。境目はとうになく、肉体はすでにあたたかな液体だ──。
*
「──そんな言い伝えがあるのです」
ガイドは自慢気に満面の笑みをつくった。
「なんてね。本当のことは分かりません。でもまあ、雰囲気が出るでしょう。そろそろ移動しますか。車を出します」
ガイドは大振りなジェスチャーで“ついて来い”と私を促す。耳の振動はまだ治まらないままだった。振り返りざまもう一度だけ川をかえりみると、青黒くゆったりと翻る尾鰭を視線の隅に見た気がした。
了
ワディ