ポチ日和 ver. Sarah

佐分来

 私は同居人から『ポチ』と呼ばれている、しがない雑種の老犬でございます。
齢を重ねること13、人間でいえば70歳くらいにあたる、言わばおジイちゃん犬です。
そのためかは定かではないのですが、この頃は同居をしている人間たちのご家族は私の事を『ポチさん』とサン付けで呼ぶようになりました。養って貰っている立場としては些か気恥ずかしいというか、勿体ないお言葉ではあるのですが、家の中で一番の年寄りでございます故に有難く承る事にしております。
同居している人間たちのご家族は総勢で4名、御主人のアキヒコさんと奥さんのサチエさん、それに2人の娘さん、長女のサナコさんと次女のカナコさんです。
 私にはコレといった仕事がある訳ではございません。
ですから1日のほとんどの時間は、割と広い玄関のコンクリート打設された土間の片隅に置かれた段ボール箱の中で静かに寝ております。箱の大きさは私の身体のサイズにピッタリでございまして非常に快適です。だからでしょう、いくらでも眠っていられます。
起きているのは、食事と散歩そしてご家族の話し相手を務めている間だけと言っても過言ではございません。昼間も夜中もありません、なにせ何時でも寝ているのですから。
 寝ているだけでご飯が食べられるという、まるで夢の様な生活を送る毎日でございます。
そんな私にも一応、1日の生活リズムというモノがございまして、ソレはほとんど毎日一向に変わりません。その私の決まり切った日常に変化があるのはご家族が揃って旅行に出掛ける時くらいでございまして、その場合にはサチエさんの知り合いのドッグシッターさんが私の面倒を見て下さいます。
このドッグシッターさんの家も中々に快適でございまして、そこでも私は普段と同じ様に1日中眠っております。本当にドルチェ・ヴィータ、甘い生活でございます。
 私の日常はどういうモノなのかというと、静かに太陽が昇るころ、トントントンと廊下に軽めに響く足音で眼を覚まします。
出来るだけ音を立てないように注意を払って静かに歩いて来るのは御主人のアキヒコさんです。頭を持ち上げて聞こえやすいように音が鳴る方向に少し首をかしげてみます。
 ホラ、当たりました。
歩いて来たのはヤッパリ御主人でした。
 毎朝、決まった時間に散歩に連れて行ってくれるのがアキヒコさん。
つねに御主人が連れ出してくれます。
たまに、本当にたまにサチエさんの場合もございますけれども、これはアキヒコさんが風邪なんかを召してしまった場合のみです。
今朝もいつもと変わらずアキヒコさんがリードを握ります。
「ほら、ポチさん、行こうか?」
壁に掛けてあるリードを手に取ってから毎日同じお言葉をおっしゃいます。
 御主人のお顔を拝見するたびに勝手にシッポが左右にパタパタと揺れます。
自分でも理由は解りませんが、シッポは右に大きく振れてしまいます。
左の眉毛も自然とピクピク動いちゃいます。
 同居している人たちのお顔を拝見するたびに何だか知れないけれど身体の中に暖かいモノが溢れ出て来るのを感じます。(注1)
 玄関を出てすぐの電柱にこの日最初のマーキング、
ま、オシッコというヤツでございます。
いつもの決まったコースを1人と1匹でユックリと歩いて行きます。
私も若い頃はグイグイと御主人を引っ張る様に歩いたものですが、だいぶ歳を喰いましたものでございますから最近はアキヒコさんの少し後ろをトポトポと歩く様になりました。
 歳を喰ったといえば...
アッと失礼、毎日会うミニチュア・ダックスフントのセント君です。
いつもの様に高校生のお嬢さんが散歩に連れて来ています。
鈍色というかダークなクローム・シルバーの毛並みが美しく輝いております。
彼は3歳のオスでして、若くてまだまだヤンチャ坊主でございます。
それ故か、私と会うといつもクルクルと1人で回って嬉しさを表現いたします。
感情を抑える事が出来なくなってくると私の周囲をグルグルと跳び回り始めてしまいます。
お嬢さんが握っている伸縮自在のリードを限界まで伸ばして私をがんじがらめにしてしまうので、アキヒコさんとお嬢さん、そして私はいつでも困ってしまいます。
 彼が私の周りを10周以上してからようやく落ち着くとセント君とお互いの近況を報告し合います。セント君とはお互いに匂いを嗅いで御挨拶を交わします。
『お早うございます、セント君』
『おやっとサァでございもす。今日は良か日にないもして喜ばしかこっでございもすな、ポチさぁ』
『今日の調子はいかがですかな?』
『テゲテゲでごわす』
『では、腰の具合はよろしいのですか?』
『足腰を痛めやすかぁ。こいは、おい達ダックスフントという犬種の宿命でございもす。
わっぜ、短足でごあんど?』
『そんな事はございませんよ。立派な御み足ではありませんか』
『んにゃ、んにゃ』
『私もこの頃は足腰が弱ってきて、おまけに吻(注2)の回りにチラホラ白髪が生えてまいりましてね』
『ないを言うちょいもす、ポチさぁ。まだまだお若いではございもんそ?』
『有難うございます、セント君』
『しっかいしもんそ。こいからも気張ってたもんせ』
『ハイ。アアッと、お互いの御主人さん達が先を急ぎたがっているようですね』
『じゃじゃ、まっこと、そん通り』
『では今日はこれで失礼いたします、セント君』
『ほいなら、また明日』
 町内をグルリと一周してから自宅へと帰還します。
 家に到着するとまずはお水補給でございます。
水入れに口先を突っ込んで舌を裏側に丸めて水を引き寄せる様にして飲みます。(注3)
喉の渇きを癒していると、奥さんのサチエさんが朝御飯を持ってきて下さいます。
セント君や他の知り合い(もちろん犬です)に尋ねた所、他所の家では晩御飯のみらしいのですが、我が家では最初から朝晩の2回、ご飯を頂けております。
 本当に有難い事でございます。
ご飯は通常、サチエさんの手造りのおじや風に柔らかく煮た御飯と、その上にコロコロが載せられたものです。コロコロというのはこの家独特の言い回しで一般には乾燥タイプのドッグフードとして知られている物でございます。何故コロコロと呼ぶのか、ご家族の内で誰1人としてその理由を知りません。
誠に不可思議な事象でございますな。
 サチエさんお手製のおじやは冷ご飯を出汁で煮たという物で薄味に仕上げられております。
具材は大抵の場合は超シンプルでして、今日はというと出汁を取った後の昆布と鰹節、鶏の胸肉、ニンジン、キャベツ、賞味期限ぎりぎりのチクワ、そしてブロッコリの芯の部分。
私の苦手なタマネギや生のエビなんぞは入っておりません(注4)
 このおじやを見てその芳香を嗅ぐたびにアキヒコさんは「美味そうだな」と申します。
その通りで、大変美味しゅうございます。
 サチエさんはご飯をくれる前に必ず「お座り」と座る事を強要し『どっこらしょ』と私が佇まいを正してキチンと座り直すと次に「お手」と右手を差し出す事を要求し、ポイっと右手を出すと、「お替わり」と言って左手に変える事を命令してきます。
ご飯を私の前に置いてから「待て」と仰って、1人と1匹が数十秒間も無意味に見つめ合った後でやっと「よし」と食事OKの号令が掛かります。
この一連の何だか意味がよく解らないルーティンが終わってからようやくご飯を食する事を許して頂けるのでございます。
これには何か深い意味でもあるのでしょうか?
 チコちゃんならご存知かもしれません。(注5)
実は私『チンチン』なるポーズも出来るのですが、サチエさんは何故か一度も命じた事がありません。
不思議でございますな。
何故でしょうか?
理由はサッパリ解りません。
 与えられたご飯をハグハグ食べます。
私は犬でございますから当然『イヌ喰い』です。
よく噛まずにゴクゴクッと飲み込んでしまいます。
するといつもサチエさんは「ポチさん、よく噛んで食べなさい」と仰います。
犬ですから、どだい無理なお話でございます。
ですから無視して食べ続けます。
ハグハグッとモノの数分でお食事を平らげた後ゴクリとお水を一口ほど頂きまして、
それからは2度寝のコースへまっしぐらです。
 自分の小部屋、といっても段ボールの箱ですが、部屋の中に戻って横になります。箱の中には使い古した毛布が敷かれているのでコンクリートの土間の冷たさは伝わって来ません。
冬という季節が到来するとサチエさんが電気アンカなる物を敷いて下さいます。
そいつはポカポカと暖かくて心地良く眠る事が出来ます。
しかしながら、今はまだまだ秋が大盛況の真っ最中ですから、この電気アンカは不要です。
身体を横たえてから毛布に溶け込めるよう2、3度身じろぎをしてから眼を閉じますってぇと割合と簡単に数秒後には仄暗い(ほのくら・い)湖の底へと沈んで行く様に眠りの深い淵へと落ちて行きます。
 それでもズッと安眠を貪っている訳にはいかないのです。
1時間もすると御主人さまの出勤タイムがやってきますので、ね。
養われている身とあれば起きてお見送りするのが最低限の礼儀というモノ。
ホラ、足音が聞こえてきました。
よっこらせっと起き上がってから伸びを一発、その後に自動的に出てくる欠伸が1つ。
フアアァーッ...
『おすわり』と言われなくても、座ります。
 ん、何か座り心地が悪いですね。
御尻をモゾモゾ動かしてピタッとハマる位置を探りましょうか。
オッと、アキヒコさんが歩いてきます。
お見送りでしょう、サチエさんが御主人のバッグを大事そうに両手で抱えています。
「ポチさん、見送り有難うな」
アキヒコさんは私にそう言葉を掛けながら屈みこんで頭をポンポンしてくださいます。
ニコッと笑ってから立ち上がり、後ろを振り返ってサチエさんからバッグを受け取ると、
「いってきます」と奥さんに言います。
「いってらっしゃいませ」サチエさんがそう返した後、2人はチュッとしました。
 毎朝の事ですが、この光景を見ると私はいつも居場所を失います。
眼を逸らしてあらぬ方向を見つめるだけです。
 この歳まで生きてきて恋愛の1つもした事が無い私ですが、
何か、気恥ずかしいのでございます。
 さて、アキヒコさんが出勤してしまうと再びの惰眠タイムの再開です。
深くもなく浅くもない、ちょうど良い具合の微睡の中にしばし身体を横たえます。
たゆたう様な眠りを愉しむ私の耳朶に『ドンドタッ! ドンドタッ!』という激烈音が襲い掛かってきました。きっと長女のサナコさんでしょう。顔だけ上げて確かめます。
 やはり現れたのはサナコさんでした。
「遅刻、遅刻だっ! 間に合うかな? あ、ポチさん、行ってくるね」
少し乱暴に御み足を愛用のスニーカーに突っ込むと私にバサバサッと手を振ってからバタバタッと急いで出て行きました。これも毎日の決まり事のように起こる現象です。
 はてさてサナコさんは大学の授業に間に合うのでしょうか?
少し心配です。
ま、本当の所はあんまりしてませんのですけれども...
 もう少し早めに起きればいいのに。
LINEとかいうものを夜遅くまでポチポチしているからですよ、全く。
美肌と健康の為には睡眠が重要なのです。
 という訳で私は再び眼を閉じて眠りの湖の底へと降りて行くのでございます。
しばらくすると何やら良い香りが漂って来て鼻腔をくすぐり、私を微睡の淵から呼び戻してしまいます。人間たちのみが口にすることが出来る『昼食』というモノでしょう。
キッチンと呼ばれている場所がこの芳香の発生源なのでございましょうか、そちらの方向から胃の腑を激しく挑発するような芳醇な香りがしてきます。
けれども犬の私には全く関係の無い事、無視することに決めて目蓋を閉じるのですが、実は非常に気になってしまって、寝入るのに苦労します。
 そんな風に睡眠と覚醒の間をウロウロ彷徨っていますと『トントントン』とサチエさんの軽い足音の響きが近付いてきます。
おっと、お買い物ですかな、奥さん?
リードを手にするとサチエさんは「ね、ポチさん、お買い物に付き合ってくれる?」と言って私を連れ出します。ソコに拒否権など当然に存在していませんから、睡眠の欲求を抑えつけてモサモサと起き上がり、彼女の言われる通りにお買い物に付き添うだけです。
私の役回りはボディ・ガードという所でしょうか?
 しかしながら、この家の周辺はとても静かで落ち着きに満ち溢れた安寧な場所、奥さんの身辺警護の必要は全くございません。
夜中であっても女性が独りで出歩いて大丈夫な場所。
 普通に歩けば5分の所に位置するスーパーまで、のんびり10分かけて歩いて行きます。
サチエさんは、スーパーの店頭にポツンという感じで設置されている公衆電話の支柱にリードを結え付けて「じゃ、ココで待っててね」と言ってから店内へと入って行きました。
 独りで残された私。
いずれ戻って来てくれるのは十分に理解しているつもりなのですが、それでも鼻が勝手に『キューン』と鳴ってしまいます。奥さん、早く戻ってきてくださいね、御願いします。
 静かに黙って座っている私の前を様々な人々が行き交って行きます。
その内の大概がご老人です。
奥さんのお歳は45だそうですが、ここでは随分と若い方に分類されるのでございます。
ほとんどの人たちは私に気付いても何の反応も示しません。
その顔に『飼い主を待っている犬だな』という言葉を浮かべるだけで、サッと通り過ぎて行くだけです。
その方がコチラも気楽なのです。
 ヤッカイなのは子供、です。
「あ、ワンワンだぁ」とか何とか叫びつつ、けたたましい足音をパタパタと響かせながら遠慮会釈もないまま、ズンガズンガと近付いてきます。
私がまだ若い頃、三角形の耳が両方ともピンッと天を衝く様に屹立し、尻尾はクルッとサザエの様に丸まっていて、その上、全身が漆黒の毛皮で覆われているので近所の子供達は「オオカミ犬だぁー」と叫ぶなり急いで私から逃げ去ったものですが、年を喰ったせいでしょうか最近は逃げるどころか近寄ってきて「カワイイィー」とか言いながら頭をベタベタ撫で回してきます。人間と同様に犬も知らない他人に何の前触れもなく触られるのはイヤなものなのですが、ここで唸り声を上げたり、吠えたりすれば、コンプライアンスがうるさい昨今、騒ぎになる事はまず間違いないでしょうから、奥歯を噛み締めグッと我慢をしてグシャグシャと頭を撫で回される事に必死で耐えます。
ジッと堪えるしか、他に手段がないのでございます。
 今日はとてもラッキーでして、傍若無人な子供の姿は見掛けることがありませんでした。
15分ほどでしょうか、入って来る人、出て行く人、大勢の人々の色んな顔をツラツラと眺めている内に「ごめんね、待たせちゃって」とサチエさんが戻って来ました。
たくさんの物でプックリと膨らんだ買い物袋を右肩からぶら下げています。
 家へと戻る道すがら、少しだけ遠回りして馴染みの公園へと向かいます。
毎日買い物帰りに1人と1匹で立ち寄るのです。
別に特別な公園ではなく、何処にでもあるごく平凡なものに過ぎないのでございます。
ただ、公園の敷地には遊具が1つも見当たりません。
昔、私が若い頃はブランコやジャングルジム、滑り台など多くの遊具が設置されていたのですが、『こんなものは危険だ』と誰かが言い始めたのでしょう、何年か前に一斉に撤去されてしまいました。今では数十本の樹々と数台のベンチしかありません。
そのせいでしょうか、いつ立ち寄っても人影はまばらで、今日も人っ子一人おりません。
 サチエさんは何らかの目的を持ってこの平凡な公園にやって来たと言う訳では無いのです。
ただ、ただ、時間を潰す為だけなのでございます。
腰を下ろすベンチは常に決まっていて四角い公園の西側の柵沿いにポツンと1つ置かれている木製の何の変哲もないもの。肩から荷物を降ろし自分の横に置きます。
私はサチエさんと向き合う格好で真正面にチョコンと座ります。
 サチエさんは蒼穹を見上げています。
何をする訳でも無く、サチエさんは風に揺れる樹々を見て、葉擦れの音を独り愉しむだけなのでございます。
これはきっとサチエさんがカナコさんを慮ってそうしている事、娘が食卓に向って独りで食事できる時間を作ってあげようと、お気を遣っておられるのでしょう。
そして樹々の様子を眺める事に飽きると足許で座っている私に話しかけてくるのです。
「ポチさん、カナコは大丈夫かな? チャンとご飯食べてるかな?」
覆い被さるように腰をかがめて私の顔を覗き込みながらサチエさんは話します。
「カナコのこと、どうしたら良いと思う? どうしたら良いんだと思う?」
 サチエさん、大丈夫ですよ。
時間が全てを解決してくれます。
無理矢理に解決しようすれば必ず反動が来ます。
暫くはソッとしておきましょう。
カナコさんは、大丈夫です。
奥さんは彼女を見守ってあげさえすれば、良いのです。
彼女が安心して存在できる場所を作ってあげれば、それで良いのでございます。
サチエさんが勤めるべき役割は、厳冬期に部屋の中を暖めるペチカ、暖炉です。
娘さんが凍えてしまわないように、暖めてあげるだけで良いのです。
力を貸すのは彼女が再び自分の足で立ち上がろうとした瞬間です。
その時は必ずやって来ます。
今は静かに見守りましょう。
そういう事を伝えようと思っても人間に備わった高性能な物とは違い、私の声帯や口蓋、咽喉、口腔といった器官たちは言葉を構音できるような代物ではありませんので、慰めようとしてどんなに頑張ったとしても、
ただ、ただ「ハフッ、ハフッ」という少し荒めの息が断続的に漏れ出るだけなのです。
 お助けしたいのに何の役にも立てず、情けなさで胸が一杯になるのでございます。
「サナコも大丈夫なのかな? バイト先で知り合った随分と年上の男性に強く惹かれてるみたいだけれども。騙されたりしないか、少し心配。ねぇ、ポチさん。どう思う?」
 大丈夫ですよ、サチエさん。
サナコさんはとてもシッカリした娘さんです。
御自分で全てをコントロールできます。
今は『恋』に恋しているだけでしょう
いずれ時が経てば霧のように、その想いは消えてしまうでしょう。
「ハフッ、ハフッ」
 あぁ、歯痒い、言葉に出来ない。
サチエさんは、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、心に秘めた思いを一頻り吐露すると「そうだね。たぶん大丈夫だね」と独りで自分を納得させて「さ、帰ろ」と腰を上げるのでございます。
「話を聞いてくれてアリガトね、ポチさん」
 そんなお声まで掛けて下さって、何の役にも立たないコチラとしては恥じ入るばかりでして、身の置き場がなくなるのでございます。
雨でも降らない限り、毎日のようにこの公園でサチエさんは私に話をするのです。
 ここ最近は、カナコさんの話題ばかりで、私もツラい想いに囚われてしまいがち。
だからサチエさんを励ます為にも努めて明るく振る舞うようにしております。
 家へと戻る途中で催してしまいましたので、自分のオシッコが掛かっていない電信柱を選んでマーキングをいたします。私たち犬が排尿・排便をする時には何故だか解らないのですが身体が南北方向に向いてしまうのです。自分でも理由が見当たりません。
今回も自然と頭が南を向いてしまいました、不思議。(注6)
 家に到着するとサチエさんは玄関ではなくて庭へと私を連れて行ってくださいました。
今日のようなポカポカと暖かい秋の日中を過ごすには最高の場所です。
一面に植えられたハーブ、バジル、セージ、ローズマリーにタイム、裏鬼門には月桂樹の樹がドーンとそびえ立っています。ま、本当はそんなに樹高は高くないのですが、他が単なる草類ですからね、一際目立つのです。
そんな芳醇な香りを放つハーブたちに包まれて午睡を愉しみます。
 午睡の間はずっと香草塩を振りかけた分厚いステーキをハグハグ食べている夢を見ております。現実にはステーキを食した事など、無いのですが。
未来に実現する可能性はあるのでしょうか?
そうだと大変嬉しいのですが。
 酷暑の夏の日々と雨や風の強い日々を除いて常に昼間はこの庭がシエスタの場所でございます。夏と荒天の場合は私の部屋とも言える、玄関に置かれた段ボール箱が代替となるのです。夏は暑さと共に蚊が怖いのです。居間やダイニングに設置されたエアコンが吹き出す冷気が玄関まで充分に届いておりまして涼しく、何より蚊がプーンと飛んでいません。
「フィラリアに罹っちゃうから、予防薬をもらわないと。それに狂犬病予防ワクチンもね」とサチエさんは言って、年に一回私を自動車に乗せて曽布川動物病院へと連れて行くのです。(注7)
 曽布川先生は優しくて朗らかな方なので嫌いでは無いのですが、病院のあの雰囲気は苦手でございます。
特に注射が...
 香草ステーキが満ち溢れている夢の中を漂い移ろってウツラウツラしていると近寄ってくる足音にピクッと耳が反応しました。たぶんあの人でしょう。
ムクッと顔を上げてその方向を見ると予想通り、次女のカナコさんでした。
「ポチさん、お散歩行こう」
しゃがみ込んでリードを首輪に繋げながら彼女は言いました。
スコップやウンチ入れなどを収納したお散歩バッグをカナコさんは片手に持ち前後に軽くブランブランさせながら私を先導します。1人と1匹でユックリ歩いて行きます。
 カナコさんは私を救って下さった恩人でございます。
私は物心ついた時には既に独りぼっちでした。
野良犬として街中を放浪しなければなりませんでした。
苦しい毎日でした。
 来る日も来る日も、食糧探しに明け暮れる、そんな日常が続いたのです。
その頃の私はセント君よりもずっと若くて、生まれ落ちてわずか半年余り、赤ちゃんに毛が生えたような年齢で自分の生計を自分自身で立てて行かなければいけなかったのです。
そんな暮らしぶりがその後数ヶ月でも続いていたとしたら、私はとっくに死んであの世に旅立っていたでしょう。
 その窮状から私を救い上げて下さったのが、カナコさんでした。
長女のサナコさんと一緒に、あの件の公園に遊びに来ていたカナコさんが、余りの空腹の為に動けずに楠の木の根元でうずくまっている私を見付けてくださいました。
『このままじゃ、どうなるんだろ?』
そう思っている私に掛けられたお言葉が、
「ワンワンさん、だいじょうぶ?」
 カナコさんでした。
首を上げて声の方向を見ますと、可愛いお嬢さんが心配そうな表情を浮かべながらしゃがんでいました。
自分では『大丈夫ですよ』と答えたつもりでしたが、我が口から出たのは「ハフ、ハフ」という吐息だけでした。
その当時の私は子犬でとても小さかったのでしたが、あのころカナコさんは3、4歳でしたか、子供には手に余る大きさで、結局3歳年上のサナコさんが大事に胸の中に抱えてこの家に連れて帰ってきてくださったのでございます。
「ママ、ワンワンさん」
カナコさんがそうサチエさんに告げた時に、
「あら、可愛いわね」と笑顔で奥さんが答えてくれました。
 こうして私はミヤウチ家の一員になる事ができました。
 嬉しかったです。
実はミヤウチ家は飼っていた犬を亡くしてしまったばかりで、新しい犬を購入する手筈を整えつつあったのです。ジャーマン・ショート・ヘアード・ポインターをブリーダーさんから頂く段取りが出来ていたらしいのですが、サチエさんのその一言でその全てが引っ繰り返ったのでした。
私にとって本当に、僥倖でした。
 カナコさんは姉のサナコさんといつも一緒に遊んでいたそうです。
あの公園に2人だけで遊びに行ったのはそれが初めての事だったそうで、私と出逢ったのは単なる偶然に過ぎなかったのです。
今、私が願う事の1つは、本来ミヤウチ家の一員となる筈だったジャーマン・ショート・ヘアード・ポインターさんが幸せである事です。
ミヤウチ家と同じ様な暖かい家庭に引き取られていると嬉しいのですが...
素晴らしい環境を奪い取ってしまった、そんな負い目というか引け目を時々感じます。
 で、こうやって私は世界に1匹で放置された野良状態から脱出できたのでございます。
 ミヤウチ家の一員となった私は最初、物凄く頑張りました。
頑張って『立派な番犬となってこのご家族を御守りするのだ』と心に決めていたのです。
あらゆることに注意を払ってご家族を危険から護ろうとしてどんな物音にもビクッと反応していました。
 しかし3日も過ぎると、そんな事は不必要だと悟りました。
このミヤウチ家の位置する街はとても秩序が良ろしく安寧な場所で、危険な事など何一つ起こらない地区だったのです。私はその事を知って、徐々に惰眠をむさぼる怠惰な犬へと堕落していったのでございます。
 今ではすっかりノンビリなおジイちゃん犬になってしまいました。
 カナコさんと一緒にゆっくりと歩きます。
おっとマーキングをしなければ。
自分の尿だけが掛かっている場所はスルーしますが、マーキングをし忘れていたり、自分のヤツの上から他の犬が尿を掛けてしまった場所には、再度マーキングです。
自分の縄張りを主張したいのは、犬の性でございます。
 カナコさんと私は、昼間サチエさんと一緒にきた公園にやって参りました。
西側の柵沿いにポツンと置かれているベンチに彼女は腰を下ろします。
母親が座った同じ場所です。
私も先程と同じ様に彼女に向き合う様に真正面にポチッと座りました。
 カナコさんは私に話しかけます。
「ね、ポチさん。私、どうしたら良いのかな?」
「ハフッ、ハフッ」
「どうして、みんな私を無視するんだろ?」
「ハフッ、ハフッ」
「上履きを隠されたり、カバンをゴミ箱に捨てられたり、そんな事の方がまだマシだよ。みんなで私がまるで存在していない様に振る舞うんだよ。完全に無視してるんだ」
「ハフッ、ハフッ」
「透明な人間にされちゃった」
「ハフッ、ハフッ」
「いじめられるんなら、もっと直接してきた方が全然楽。言葉で攻撃された方がマシ。
よく『包丁が飛んできた』とか『弾丸』とかいうけど、言葉を掛けられるだけイイじゃん、って思っちゃう。『無視』ってもっと圧力が強いよ。
なんか、毒ガスか放射線みたいに感じる。知らない内にやられちゃってるっていうか。
何でだろ?
私、何か悪い事したのかな?
中学から仲良かったカナエちゃんも全然口きいてくれなくなっちゃったし。
中1の時に『カナコとカナエ、似てるよね』って話しかけてくれたのは向こうの方からだったのに、何でなんだろ?」
「ハフッ、ハフッ」
「完璧に無視、コレって『黙殺』ってヤツだよね。私、いない方が良いのかな?」
「ハフッ、ハフッ」
「邪魔な存在、なのかな?」
 そう言うとカナコさんは私の両脇に手を入れて持ち上げる様にして立たせました。
ジッと私の顔を見つめるカナコさん。
その端正な造りの相貌を見ると犬の私ですらドキドキしてしまうほどです。
神様が全力でタクトを振って創り上げたような容姿に驚きを覚えずにはいられません。
「どうしよう」
「ハフッ、ハフッ」
「ネットで話し相手を見付けても良いけど、そこでも無視されるようになったら超ダメじゃん。そんなの怖くて、出来ないよ。
話を聞いてくれる人が欲しい。
私を受容れてくれる人がドコかに、世界のドコかにいてくれたら」
「ハフッ、ハフッ」
「もちろん、家族のみんなは聞いてくれるけど」
「ハフッ、ハフッ」
「ママもパパも、見守ってくれているのは、解っているんだけど・・・」
「ハフッ、ハフッ」
「LINEでお姉ちゃんとも話してるけど・・・」
「ハフッ、ハフッ」
「学校に行きたいけど、行って勉強したいのに、行けない」
「ハフッ、ハフッ」
「私、将来は脳科学の研究が、したいのに」
「ハフッ、ハフッ」
「このままじゃ、中卒で終わっちゃう」
「ハフッ、ハフッ」
「私、いなくなった方が良いのかな?」
「ハフッ、ハフッ」
「死んじゃった方が、良いのかな?」
 ダメです、ダメです。
あなたは私の命の恩人なのですから、死んではダメです。
私にとってあなたは必要な方なのです。
 夏休みが明けて2学期がスタートして間も無く、カナコさんはクラスの人たちから壮絶なイジメを受けるようになり、最初はスルー出来ていたものの、それは段々エスカレートするばかりで、担任教師に訴えても何の解決策もとってくれず役立たずに終わり、結局の所、彼女は高校に行くことを止めて、自室に閉じこもって毎日を殺しながら生きて行く様になったのでございます。カナコさんが部屋から出るのはお風呂とトイレ、そして昼食を取る時。そして午後遅く私を散歩に連れて行って下さる時のみです。
 私は無力です。
命の恩人が『死にたい』とまで思っている時に、何1つ出来ないのですから、ダメな犬でございます。私に出来る事といえば、痛がる素振りを見せないでひたすらに抱っこされているのを耐えている事だけでございます。(注8)
「どうしようか、ポチさん」
 カナコさん、あなたはとても優しいお人です。
私のような野良犬を拾って下さったのですから。
あなたがイジめられている理由は解りません。
しかし、どんな組織においても『イジめ』というものは存在するのです。学校だけではありません。社会に出てもソレはあるのです。解決しようとか、無理に対決しようとか、しなくても良いのですよ。『36計逃げるにしかず』という言葉もあります。
向こうが無視して来るのなら、こちらも構わないで何もしない、というのも一手です。
逃げる事は決して恥ではございません。
立派な作戦行動の1つですぞ。
「ハフッ、ハフッ」
 ああ、言葉に出来ない。歯痒い。
 カナコさんがその端正なお顔をヌーッと近付けて参りました。
その容姿にはドキドキします、犬なのに。
照れ隠しに舌でベロベロッとなめ回しました。
「キャッ、止めて、止めて、ポチさん!」
カナコさんが嬉しそうに悲鳴を上げます。
喜んで下さっていると判断して盛大になめ回し続けます。
「止めて、ってぇ!」
ベロン、ベロン。
 危険な空気がスッと消えて行きましたので、なめ回す事を止めました。
「もう、前髪がグショグショになっちゃったじゃん」カナコさんが言います。
でも、笑顔です。
先程の深刻さは消えていました。
「そうだね、あんまり気にし過ぎてもダメだね」
「ハフッ、ハフッ」
「お姉ちゃんがLINEで教えてくれた。通信制の高校もあるって」
「ハフッ、ハフッ」
 カナコさんは空を見上げて「あぁ、こういう空って碧落っていうんだよ、ポチさん」
私も同じ様に見上げます。
 空ですね。
 カナコさんは振り返って西の空に眼をやり
「ほら、ポチさん。夕日が綺麗だよ」と言いました。
あぁ、そうなんですね。(注9)
「帰ろっか、ポチさん」
ハイハイ、帰りましょう。
秋の日はつるべ落としでございますからな。
「ねぇ、秋の夕陽はつるべ落としって言うの、知ってる?」
「?」
「この『つるべ』って、笑福亭鶴瓶の『つるべ』、かな?」
「!」
 いえいえ、違います。
釣瓶(つるべ)でございます。
井戸の水をくみ上げる為に縄を結え付けた桶にございます。
秋の日の入りの早さを、手を離すや否やピューッと井戸の底の水面目掛けて落下して行く釣瓶になぞらえた『ことわざ』にございます。
 カナコさん、理数系は神の如くお強いのに、こういう言い回しには本当に弱いのです。
若干言葉使いも間違えておられますし。
しかし、誰にでも得意不得意があるものです。
やっぱり、人間だもの、でございます。
 でも、良かった。
笑顔になっています。
トポトポと1人と1匹で家路につくのでございました。
ミヤウチ家に到着して、私は玄関の土間の段ボール箱の中にスルリと納まりました。
 さて、夕ご飯までひと眠りです。
ウトウトしているとトントンと近寄ってくる軽い足音が響いて「ポチさん、晩ご飯ですよ」とサチエさんが声を掛けてきました。
有難うございます。
『おすわり』『お手』『お替わり』『待て』の一連のルーティーンが済むとお食事タイムです。
晩御飯もコロコロが載ったおじやです。
とっても美味しゅうございます。
「ポチさん、もっとよく噛んで食べなさい」
 無理です、奥さん。
犬なんだから、イヌ喰いしかできません。
美味しい晩御飯を頂きながらも、私の心はカナコさんの上に飛んでいます。
彼女は今、自室で独りさみしく召し上がっております。
毎回サチエさんが部屋まで運んで行くのでございます。
いつか、再び4人で食卓を囲める日がやって来るのを私は心待ちにしています。
 夕ご飯を食べ終えると、段ボール箱の部屋に収まって、寝ます。
 半覚醒状態をグズグズと続けて2時間ほどでしょうか「ただいまぁー」と声を上げながらサナコさんが帰宅してきました。手にしていたバッグを廊下に置いて「ポチさんの散歩に行ってくるね」と奥に声を掛けてから「さ、行こう」と私の首輪にリードを結え付けます。
お散歩バッグを手にしたサナコさんと夜のお散歩です。
 町内をプラプラそぞろ歩いていると前からセント君がやって来ました。
今回リードを握っているのはお嬢さんではなく、彼女の父親で一家の主、旦那さんです。
相も変わらずセント君は私の周りをグルグルと回ります。
あぁ、ギューギューにリードが絡んできます。
あー、動けなくなる。
私をがんじがらめにした後でようやく落ち着いたセント君とお話です。
『やぁ、セント君、今晩は』
『ポチさぁ、おやっとうさぁでございもす』
『今日は2回目ですね』
『じゃじゃ、そん通り。こいは何ち言う奇跡でございもはんか?』
『大袈裟ですね』
『んにゃ、んにゃ。
コゲなデカい街で再びお会いできるのは奇跡っちゅうモンでごあはんど?』
『夕ご飯は如何でしたか?』
『晩御飯は、久々に良かドッグフードでございもした。ホンのこつ、美味かぁ、
何つぁならん、まっこて良か味やっでなぁ』
『そうですか、それは何よりです』
『申し訳ございもはん。ダンナさぁが先を急ぐもんで。これにて失礼をば、仕らねばいけもはん』
『わかりました、ソレでは』
『そいでは、また』
 セント君はご主人様と暗闇の中に消えて行きました。
 しかし嗅覚ハウンド系の長頭種は訛りがきついですな。
彼が何を言っているのか時々サッパリ理解できない事がござい...、いえ、多々ございます。
ま、今回は『夕食は美味かった』という事だけは解りましたけども。
 サナコさんは私を連れて、あの公園に行きました。
西側の柵沿いにポツンとある件のベンチ、母親と妹が座ったまさにその位置に同じ様に腰を下ろしました。私も同じ様に向き合う格好で真正面に座ります。
傍に立つ電燈がLEDの無機質な白い光を放っていて、1人と1匹を冴え冴えと暗がりの中から照らし出します。
 サナコさんは腰を屈めて私の顔を覗き込むような姿勢を取りました。
彼女はカナコさんにソックリでとても端正な相貌、容姿をしています。
順番からいえば、カナコさんがサナコさんに似ていると言わなければいけないのでしょうが、まぁ、似ています。
それでも違いはありまして、カナコさんが落ち着いた怜悧な印象を人々に与えるのに対して、サナコさんは愛嬌に溢れていてとても快活な感じです。
「ねぇ、ポチさん、聞いて。今日ね、あの人が来てくれたんだよ。そう、いつも話してるお客さん。
週に1、2回しか来ないからバイトのシフトが上手くハマらないと会えないんだよね。
今日はお会計の時に、さ、2人きりになれて、いっぱいお喋りが出来ちゃった」
 サナコさんは大学に通いつつも御自分の御小遣いを捻出する為にネット・カフェなる所でアルバイトを為さっておいでです。そのネット・カフェをよく利用されるお客様がいらっしゃるそうで何度か接客するうちに声を交わすような関係に成り、いつしか恋に落ちてしまったのでした。
 彼女の話をまとめると、そのお客様は50歳くらいのオジサンで、鏨で岩を削った様な相貌をしており、短躯ながら非常に丈夫そうな身体付きをしているらしいのですが、口調には満腔の優しさが感じられ、話す内容も知的センスに満ち溢れているのだそうです。
 いつでしたか、『ギャップ萌え、だね?』とサナコさんは仰っておりました。
私が思うに、広範な知識と豊富な経験と深い教養に裏打ちされた『知性』に憧れているだけなのではないでしょうか?
「あの人、私がバイクに、バイクに乗ってるって言ったら、とてもビックリしてた。
彼が『そういうイメージ、ないな』って、言ってた。
『ミヤウチさんが、バイクに乗ってるんだ、何か、凄いね』って。
あー、今日はラッキーな日だ。
嬉しいな。
私の名前、いつの間にか覚えてくれてたし、あんなに色んな話が出来て、超ラッキー。
でも、あの人、ガラケーなんだよね。
スマホならLINEのID交換できるのになぁ。
あのね、タッチパネルが指を認識してくれないんだって。
そんな事あるのかな?
どう思う、ポチさん?」
「ハフッ、ハフッ」
「私のこと、どう思ってるのかな?」
「ハフッ、ハフッ」
「嫌いじゃないとは、思ってるんだけど」
「ハフッ、ハフッ」
「また、会いたいな」
「ハフッ、ハフッ」
「今日はね、ほらこの前までバイト1ヶ月くらいお休みしてたじゃん? 講義の関係で。
『ミヤウチさんは辞めたって聞いてたんだけど。今日会えて、チョットびっくり』
だって。
『病気でもしてたのかな? って思ってたんだけど、
そうか講義だったんだ、
良かった、元気で』
って。
ね、絶対、私の事、好きだよね?
違うかな?」
 サナコさん、向こうさんがあなたの事を特別な存在だと感じているのはまず間違いのない所でしょう。でも50歳ですよ。あなたは20歳のお若い女性です。少し無理があるのでは無いでしょうか。向こうさんだって大人なんだから、そこは気付いている筈です。
「あー、どうしよう? もし付き合う事が出来て、結婚とかにまで発展したら、パパにどうやって紹介したらいいのかな?
絶対ビックリするよね、絶対に」
 サナコさん、とても嬉しそうですが、それは単なる妄想です。
まぁ、良いですかね。
大人の男の人みたいですから、サナコさんを傷付ける様な真似はしないでしょう。
「あー、どうしよう?」
サナコさんはそう言うと
「告る?」と私に訊いてきました。
 おいおい。
 しばらく私の顔を見つめ続けて「フッ」と一息の笑みをこぼした後、「行こっか?」と言って立ち上がりました。
 家に戻って段ボール箱にクルンと納まりウツラウツラしていると「ただいま」と言いながらアキヒコさんが帰宅しました。
ご主人様が私を見て一言「お、ポチさん、散歩行くか?」と訊いてきました。
本日、5度目の散歩でございます。
 1人と1匹でブラブラと歩いて行くと、我が家の近所のコンビニにアキヒコさんは立ち寄りました。店先でユラユラと揺れている宣伝用の幟のポールにリードを結び付けてから「ちょっと、待ってって、な」と言って彼は店内へと入って行きました。
『キューン』
鼻が自然に鳴ります。
5分ほど経つと、レジ袋を手にしたアキヒコさんが戻って来ました。
「お待たせ」
そう言って、彼は歩き出しました。
目的の場所は件の公園、あのベンチ、座る場所はもちろん同じ所です。
 家族の絆って深いのですね。
私も同じ様に真正面に向き合って座ります。
 アキヒコさんは袋からビールを一缶取り出し、プシュッと蓋を開けてゴクゴクっと飲みました。缶から口を離すと「フゥ」と軽く息を漏らします。
彼は私の顔を覗き込みます。
ジッと見詰めたまま、何も言いません。
独りで何かを考えているのでしょう。
会社での事とか家族の事、奥さんやサナコさん、そしてカナコさんの事。
10分ほどでしょうか、私の顔を見続けた後、残ったビールを飲み干してから、
「ありがとな、ポチさん」と言って、
「さ、帰ろっか」と腰を上げました。
 御主人と一緒に家路を急ぎます。
 家に着いて段ボール箱の自室に納まりました。
今日も、何だかんだで割りと忙しい1日でした。
さぁ、これでユックリと眠る事が出来ます。
お休みなさい、フガフガ...

<了>



注1:犬と飼い主との関係について。
飼い主はイヌに見つめられるとオキシトシンが体内で大量に放出される事が解っている。
オキシトシンは、別名『絆ホルモン』とも呼ばれ、主に母親と子供との信頼関係に関わるホルモンである。
例を挙げると、
1)出産時に大量に母親の体内で分泌されて陣痛を誘発する。
2)赤ちゃんにオッパイを吸われるとオキシトシンの分泌が促され、この分泌されたオキシトシンの働きで母乳が出るようになる。授乳中は母子の両者ともにオキシトシンが体内で大量に分泌され、この事により母子の絆が強まることが解っている。
3)心を癒したり、身体の苦痛を和らげる働きがある。
4)相手の気持ちを読み取る能力(共感力)を上げる。
5)オキシトシンの濃度が高いと、対象者への愛情は高まるが、見知らぬ他者に対しては排他的になり、しばしば攻撃性が高まる。子育てをしている動物は警戒心が強く不用意に接近してくる他者を攻撃することが多いが、この現象もオキシトシンの効果である。
尚、この欄で『愛情』と表現したが、多くの動物の場合『愛』という情愛は持ち合わせていない。単に生得的に遺伝子的にプログラミングされたアルゴリズムに従って行動しているだけである。母親が我が子を守るのは、自分の子供を『自分の所有物』と見做しているからであり、『愛情』を持っている訳ではない。愛情という高度で複雑な感情を持っているのは一部の哺乳類に限られる、と科学者たちは主張している。
イヌにみつめられて体内のオキシトシンの量が増えた飼い主は、よりイヌと触れ合う様になり、飼い主とのスキンシップが増えたイヌの体内でもオキシトシンが増加して、飼い主をより見つめる様になる。コレが繰り返される事で飼い主とイヌとの絆は強固なモノに成って行く。最終的にはお互いの顔を見るだけで両者のオキシトシンのレベルが増加する様になる。違う種の動物同士間において触れ合ったり見つめ合ったりする事でオキシトシンの分泌量の増加が見られるのは人間とイヌだけである。これは麻布大学獣医学部の教授の菊水健史らよって2015年に発見された事実である。
イヌの心情は身体の動きから解る。
人の眉に当たる部分(眼の上)や耳の動きには、イヌの感情が現れる。イヌの好き嫌いや警戒心は、こういった身体の各部分の動きの『左右の差』となって表現されてくる。
たとえば、飼い主と再会した時には、尻尾を(イヌ自身から見て)右方向に大きく振って、左目の上の部分(眉に相当する部分)がより大きく動かす。一方で見知らぬ人間を見た時は、尻尾を左側へ大きく振って、左の耳がピクピクとより速く動かす。爪切りなどの嫌いなものを見た時は、右耳を大きく下げて、嫌悪感を表す。
またイヌは、左右の鼻腔を同時に使って、クンクンと匂いを嗅ぐことが出来る。未知の獣医師と初めて会うような緊張する場面では、右側の鼻腔により多くの空気を取り込む。

注2:吻について。
吻とは、額から鼻先に掛けてのクチバシ状の部分の事。イヌの祖先であるオオカミ(ハイイロオオカミ)から遺伝的に遠い犬種ほど吻の長さが短くなる傾向にある。
もちろん例外はある。
ちなみにオオカミの学名はCanis lupusでイヌはCanis lupus familiaris。つまり同じ種である。(厳密に言うとイヌはオオカミの亜種:98.8%の遺伝子が共通)
ダックスフントは嗅覚ハウンド系と呼ばれるグループに属しており、祖先のオオカミから遺伝的に遠い犬種である。

注3:イヌの水の飲み方について。
2015年に『アメリカ科学アカデミー紀要』に掲載された論文が、イヌの水の飲み方の詳細を報告している。
それによると、イヌは舌を下側(舌の裏側)へと丸めたまま水を引き寄せる様にして水面上に小さな『水柱』を形成してから、舌を口内へと戻しつつその『水柱』の先端をパクッと咥える様にして飲んでいる事が解った。
猫も同様の飲み方をするが、舌を口内へと戻す際の加速度はイヌの方が大きい。

注4:イヌが避けなければならない食材について。
イヌに与えてはいけない食材は主な物で、
1)白ネギ・青ネギ・タマネギ・ニラ・ニンニクのようなネギ属の植物。
2)生のエビやカニ。
3)チョコレートなどテオブロミンを含んでいる物。
4)キシリトールを含んだ食品。
これ等の食品をイヌが食べてしまった場合、数時間から半日程度で嘔吐や下痢などの症状が出る可能性がある。
まず、1)のネギ属についてだが、これらには酸化作用を持つ硫黄を含んだ香りや味の成分がある。(主な物は硫化アリル)この成分が赤血球を破壊してしまう。イヌの赤血球には酸化に抵抗する為の抗酸化物質が少ない。赤血球の内部には酸素の運び屋であるヘモグロビンが存在しているが、硫化物はこのヘモグロビン分子を酸化して大きな塊にしてしまう。
この塊が赤血球の細胞膜を破壊する事で結果的に深刻な貧血を引き起してしまう。
生タマネギのケースでは『体重1kgあたり30g(中玉なら6分の1程度)を3日間食べ続けた場合』に重い症状が出た事があるという報告がある。固形分だけではなく、煮汁にも注意が必要である。ちなみにネコもNG。
2)のエビやカニだが、甲殻類や魚介類には『ビタミンB1を分解する酵素』が含まれている。この酵素が加熱されずに摂取され続けると、ビタミンB1欠乏症につながる。
初期症状として、食欲低下や成長不良、唾液の分泌量の過多があげられる。
生でなければ可食はOKである。
3)のチョコレート類だが、含まれる苦み成分のテオブロミンは肝臓で分解されるのだが、イヌの肝臓では分解されにくく、人間と比べた場合3倍ほど長く血中に残存する。それが筋肉や脳、腎臓や心臓などに悪影響を及ぼす。その結果、嘔吐などに始まり興奮やあえぎ、失禁などが引き起こされる。なおネコも避けなければならない。
4)の一般的な人工甘味料であるキシリトールがイヌでは低血糖を引き起こすケースが報告されているので要注意である。
ま、ドッグフードだけを与えているのなら安全です。

注5:筆者は、イヌに何でこんな事をさせるのか、その理由を知りません。悪しからず。

注6:排泄時にイヌが向く方向について。
イヌが尿やフンをする際、身体が南北方向を向きがちであるという観察結果が、2013年に動物学の専門誌である『Frontiers in Zoology』で報告されている。それによるとイヌは地磁気を感知していている可能性があり、そのことから排泄時に身体が南北方向を向きがちであるのだそうだ。ちなみにイヌは尿を掛けてマーキングをするが、自分の尿だけが掛かっている場所に対しては再度マーキングをしない事が実験によって判明している。

注7:フィラリアについて。
寄生虫が心臓に住み着くフィラリア症の予防薬が、本当に毎年必要なのかと疑問に思うかも知れないが、これは必須である。媒介者である蚊によって幼虫(ミクロフィラリア)に一度感染してしまうと根治が難しいからだ。渋谷の駅前の銅像で有名な秋田犬の『ハチ』の死亡原因もフィラリアだった。
なお、狂犬病予防の為のワクチン注射も必須である。この病気は発症すると死亡率100%である上、狂犬病を罹患したイヌに噛まれる事によって人間も感染するからだ。
人間の場合もワクチンを打っていない場合に発症すれば死亡率は100%である。
感染しても発症前にワクチンを打ちさえすれば大丈夫なのだが。
日本は狂犬病のイヌがいない『清浄国』の1つではあるのだが、それに安心してワクチン接種を怠っていると再び狂犬病の『発生国』に戻ってしまう危険性があるので、飼い主は絶対に狂犬病ワクチン接種を忘れてはならない。
この2つは飼い主の義務であると言える。

注8:抱っこの仕方。
脇に手を入れて抱っこするというやり方はイヌにとってとても痛い、という事が判明している。これはイヌの骨格の特徴および体重の3分の2を前足で支えているという事実から来ているものだと思われる。

注9:イヌの色覚について。
人間は赤・青・緑の3色を識別できる。イヌは赤色を識別しにくい色覚タイプなので夕陽が人間と同じ様には見えていない可能性が高い。

参考文献:
Newton ニュートンプレス
Nature
Science

ポチ日和 ver. Sarah

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