ksgkの神様 後篇 ver. Sarah

佐分来

 ショーナンとオオヤマが連れ立って南欧料理の店に行ってから暫く経った後だった。
 投票活動が波に乗り始めて順調に回転して行く様に為った頃には、申し合わせた様に誰ともなく昼食を取るタイミングも意識的にずらす様になり部屋の中に誰も居ないという状況を作る事は無くなった。ウレシノもフジムラと一緒に寿司屋に連れ立っていて不在だったのでピザをデリバリーさせたサトウはアツアツの一切れを片手にスパコンの前に座った。
『一度使ってみたかったんだよね』
 そう思いながら、チーズとサラミのピザを咥えたままシリアルナンバーをタイプし始めた。500テラフロップスの計算力と500ギガの通信力の総合的な破壊力は凄まじい威力を見せ付け、普通のPCやタブレットでは1票投じるのに最低でも2分掛かる所を僅か10秒で完了してしまうという神の如くの光速を見せた。ヲトヲが使用する時などは6秒で1票を投じる事が出来るので、ソレを知ったウレシノがヲトヲと席を交換する事も多々あった。
『クソッ、一体どうやったら6秒なんて数字を叩き出せるんだ』
 サトウは思い通りに動かない自分の指を見降ろしながら、唇をギュッと噛み締めた。

「ウレシノさん、この薄らデカいスパコンさ、もうちょっと壁際に移動させられないかな」
「先生。私は一旦据えた筐体は動かしたくないんですよ」
「アンタは木村大作か」

「リアル総選挙ってできないのかな?」
「出来るだろ。前に『情熱大陸』でやったじゃんか」
「ああ、スマホを使ったヤツね」
「あの時はホルモンが1秒で消えて笑ったよ」
「人気無えなぁ」
「スマホを使わずにリアル総選挙をする方法は有る」
「どうするんですか?」
「マイナンバー使えば簡単ジャン」
「おい! みんな近所に新しいピザ屋が出来たぞ!」

「この前、A公演に行ったら運良くニャンさんが出演してたんだけどさ」
「どした?」
「いやぁ、笑ったのがさ、振りを容れ切って無いのか、それとも起こしきれて無いらしくって横の総監督をチラチラ盗み見ながら踊ってんの。だから周りと一拍ズレちゃっててさ、未だ覚え切れてないのかよって」
「イイんだよ、ニャンさんはそれで」
「右脳だけで生きてる人だからね」
「本当は、右脳も左脳も機能にそれ程の違いは無いんですが...」
「言語野が右脳にある個体も存在するしな」
「その通りです。右脳人間とか左脳人間とかって一種のオカルトなんですよね」
「そうなんですか?」
「そうです。或る機能によって優位に働く脳領域、コレを脳の機能局在と呼びますけど、例えば、言語に関しては左大脳半球に位置するブローカ野やウエルニッケ野が優位の活動を示します。前者は言語の文法や発話を担当していて、ソレに対して、後者は文章の意味を組み取る事つまり言葉を理解する機能に関係しています。でもこれらは特別なモノです。
確かに右大脳半球の方が空間認識の機能を発動している時に有意な活動をしますし、今言った様に言語に関しては左大脳半球が優位に働きます。しかし、左右の半球のどちらかが優位に活動するとは言っても実際には左右のどちらも活動を示します。言語機能と違って殆どの場合、或る機能に対して『局在』を示すと特定された脳領域が、その機能に対して一体どのような役割を果たしているのか、詳細まで解明されてはいません。解っているのは飽く迄も或る基準を超えた活動がその領域で見られる、という事だけです。その領域のニューロンは別の領域のニューロンと電気信号のやり取り、相互のコミュニケーションを取る事で機能を担っています。『機能局在』とは、ある特定の領域が独立して機能を果している事を証明している訳では無いのです。ですから右脳人間が芸術的で左脳人間が論理的だなんて事は決してないですし、そんな右脳人間、左脳人間等というのも完璧な誤謬です。
なんでこの様な間違った解釈が世間に広まったかというと昔、米国でロジャー・スペリーという人が癲癇治療のために患者の脳梁を切断して左右の大脳半球を分離したんです。
この分離脳の研究が知らない間に拡大解釈されてしまった挙句『右脳人間』とか『左脳人間』とか人口に膾炙される様になったんです。
分離脳の人と普通の人の振舞いが同様であるかのように敷衍されてしまった。
実際には、右脳と左脳で機能的な差はありません。生得的に左脳しかない人間もいるけど日常生活に支障は生じない事が解っています。
脳の機能が分離するのは出産後なので、脳という器官は人によって違うんです。
非常に個体差が大きい器官なのですよ。
言語野が右脳にある人もいる位ですから」
「カタい事言うなよ、ヤスダ君」
「そうだよ、いいじゃないか。高度な言葉遊びだよ」

「しかし何で指ヲタってあんな石ころ応援してるのかな」
「まあ、待て、サトウ。石ころだって信じる人からすれば立派な偶像だ。
ある特定のメンバーを応援してる人間にとってそのメンバーは言わば宝石だ。
色んな宝石が世の中にはある。ルビーやサファイア、ま、この二つは不純物が違うだけで基本は一緒だがな。アクアマリンも有ればアレキサンドライトもある。オパールやらアメジスト、エメラルドもあるし、パライバトルマリンとかタンザナイト、トパーズやら真珠、個人的には俺はムーンストーンが好きだな。ある作家は、アルマンダイン・ガーネットに惚れこんでいたそうだ」
「石ころに興味を抱くのは地質学者かタクマくらいだぞ」
「リョーカって何に当たるのかな」
「私の依頼者はフローレスのブルーダイヤと言っていたな」
「フローレスって?」
「ggrks」
「ダイヤの品質を表現する言葉に『4C』というものがある。
この意味する所は、1)Color(色)2)Carat(重量:=200mg)3)Cut(切り磨きの仕方)そして4)Clarity(瑕〔宝石のキズ〕の有無)だ。
このうちの(4)のClarityに関する言葉だ。Clarityは2つの条件から判別される。
1つ目は『インクルージョン(Inclusion)』つまり宝石中における含有物の有無。
2つ目は『ブレミッシュ(Blemish)』これは宝石の瑕疵の有無に関する事柄だ。
フローレス(Flawless:略称はFL)とは『Clarity』に関する等級の1つで、最高ランクを意味する。熟練したグレーダー(Grader:鑑別人)が顕微鏡を使用して10倍に拡大して観察しても、如何なるインクルージョンもブレミッシュも確認できないダイヤの事をいう。
寡聞にも世の中にフローレスランクのブルーダイヤが存在するのかどうかは知らないが、もしも存在するのなら最低でも10億は下らないだろう」
「10億っすか」
「彼に、私の依頼者によるとリョーカさんは二つ目だそうだがね」
「一つ目って?」
「ユウコだよ」
「やっぱ石ころとは大違いだ」
「まあ、待て。言い過ぎだぞ」
「そうだろうか?
君達の話を聞いたうえで私から言うとホルモンと言う女の価値はゼロだ。
ゼロは一万個集めてもゼロだし100万回掛け合わせても、ゼロだ」
「ショーナンさん、酷過ぎです」
「フローレスのブルーダイヤと言っても、リョーカはまだ磨かれていない原石だ。だからその価値に気付けない人の方が多い。ま、仕方の無い事では、あるがな」
「アイドルというか芸能界で成功する秘訣とか、あるのでしょうか?」
「私の依頼者は言っていた。心の中に『不良性』を持っているかどうかだと」
「不良と『不良性』とはどう違うのでしょうか?」
「頭の良い、と言ってもお勉強ができるという意味だが、優等生は効率を重視する。
彼等は、10インプットしたら100のアウトプットが返ってこないと、駄目だ。
関わった物事が駄目そうだと見切ると、直ちにソコから撤退する。
不良は上辺の見てくれだけが重要だ。
低レベルの者はプライドだけは高いから体面に拘る。
カッコ悪い事は彼等の自尊心を手酷く毀損するから、石に齧り付いてでも何事かを成し遂げようとはしない。他者の視線に敏感なレーダーが自分の外観・外見・恰好が泥に塗れる危険性を察知すれば、間を置かずに不良達はその現場から撤退する。
失敗したらどうするんだ、カッコ悪ィじゃんか。逃げるゾ、と。
だが『不良性』を心に宿す人間は違う。
逃げない。
周囲からの視線を全く気にしない。
置かれた状況の許で達成したい目標に向けて自分の出来る事のみに自己資源を傾注する。
他人の心無い揶揄や批判は気にしない。周りから認められなくても全く厭わないし、
たとえ村八分にされても『そんなの関係ない』のだ。
孤独を恐れない強靭さを心に備え、逆風の中でも力強く屹立する。
そんな態度を可能にするのが『教養』の存在だ。
好きなモノや嫌いなモノ、興味の無いモノや消えて貰いたいモノ。様々なモノを飲み込むだけの強靭さ。自分のしたい事をする為にしたく無い事をする柔軟さ。
ソレ等は総て『教養』から生み出される。
多種多様な本を沢山読む事、その行為だけが『教養』を育てて行くのだ。」
「ショーナンさんから見て『不良性』を持ち合わせているメンバーはいますか?」
「唯一人、ユウコだ」
「リョーカとユウコって似てるのかな」ニタが言った。
「顔は成長と共に似て来た様な感じがする、来てるゾ」フクヤが言った。
「後2人とも裸族」オオヤマが言った。
「ユウコは福岡ドーム公演を終えたその夜、ホテルの廊下を一升瓶を片手にパンツ一丁でウロウロ徘徊してたらしいな」ニタが言った。
「幾ら何でも浴衣位は羽織ってるだろ、他人の眼もあるだろうし」モリサキが言った。
「でもリョーカは人見知りが激しいからな」サトウがピザを口に咥えたままモゴモゴしながら言った。
「ユウコは人見知りし無さそうですもんね」ヲトヲが言った。
ショーナンが口を開いた。「私の依頼者に依ると、オオシマユウコと言う女性もかなりの人見知りらしいぞ」
「そうなんすか?」驚いたサトウが口を開いた拍子に、咥えたピザを落としそうになった。
「私の依頼者のPCに在った映像、彼女が5歳位の頃か、家族でイチゴ狩りをしているモノだったが、ソレを観る限り人見知りが無い訳では無さそうだ」
「へーっ?!?」みんながショーナンの顔を見た。
ショーナンが続けた。
「彼に言わせれば、彼女のハートは『ガラス製』で少しの衝撃でバラバラに破壊されるのだそうだ。だから彼女はソレを回避する為に自分のハートの周囲を厳重にATフィールドで何重にも取り囲んで自己崩壊を防いでいるのだ、と。
大人や目上の人そして同期は大丈夫だ。
コチラからぶつかって行ってもチャンと受け止めて対処してくれる。
だが目下のモノに対しては、彼女は上手く接触できない。
その理由は、子供というモノは残酷なまでに素直だから、相手の気持ちを慮ろうともせずに簡単に拒絶する事を厭わないから。
もしコチラからアプローチして拒否でもされたら自分が壊れてしまう。
だから彼女の方から目下のメンバーに話しかける事は無かったのだろう?
唯一の例外が、ムトウトムらしいではないか。
その事実を知ったタカミナ総監督が大層に驚いたらしいがね」
「そうですね。マユユと仲良くなるのにも1年以上かかってますもんね」ヤスダが言った。
「カシワギさんのケツが汚かったお蔭で仲良くなれたってドキュメンタリーの中でシリリさんも言ってますね」ヲトヲが言った。
「これはヤスダ君の専門だろうが、彼女は小学6年の3学期に長年住み慣れた横浜を離れて父親の実家がある栃木に引越しをしたという。周囲に誰も友人がいない状況下で頼れるモノと言えば、親だけだ。しかし最悪の状況が発生する。
母親が男と一緒に逃げてしまうのだ。
思春期のシュトゥルム・ウント・ドランクと呼ばれる時期には母親の存在がとても重要だ。
小さな女の子が大人の女性に変貌を遂げる時期、『少女』には母の存在が必要不可欠なのに、彼女にはソレが無い。コレはとても不幸な状況だ」ショーナンが言った。
「多分ですけれども、ユウコさんは自分の所為にしたのでしょうね。自分が悪い娘だから家族が壊れてしまった、そう考えたのでしょうね」ヤスダが言った。
「そうだと思う。だから自分が良い娘でいれば、再び家族は一つに為ってまたやり直せると思ったのだろうな」ショーナンが言った。
「だからか。ノロカヨさんが言ってました。ユウコさんはあのまま、見たままで裏表が無いと。でもそんな人間は存在しませんからね」
「どういう事?」サトウは2人のやり取りを傍で見ていて疑問を呈して来た。
「ペルソナだな」ショーナンが言った。
「そうですね」ヤスダが言った。
「ペルソナって何?」ヲトヲが訊いた
「ggrks」ニタが突っ込んだ。
「ヤスダ君が説明した方が速いだろう」
「ペルソナというのは『社会的仮面』と言われるモノで、相手によって微妙に対応が変わってくる事です。例えば、自分の家族に対する振る舞いと親しい友人に対する振る舞いは似ている様で全くと言っていいほど、違います。
会社の同僚や仲間への対応と街ですれ違った他人に対する振る舞いは全然違うモノに成りますしね。人はそうやって相手によって自分の対応を変える事でアイデンティティを保持しているのです。人は、自分が出演している場面によって少しずつその役割が違うのです」
「そう、だから彼女がしている事は、24時間オオシマユウコを演じ続けているのだ。
本心を隠し続けて絶対に表に出さない。
サッパリとした気性、明るくて奔放とも言える言動と人懐こさ、とは或る作家が横浜の女性を評して言った言葉だそうだ。私の依頼者によればそのままと言えるのだそうなのだが、丸々そんな人間なんか存在なんかはしない。
彼女は『良い娘』を演じ続けているのだよ、12の時からな」ショーナンが言った。
「ソレは、辛い」フジムラが項垂れた。
「孤独や憂い、闇といったダークなモノ達は深遠な淵よりも深い心のセントラル・ドグマの底に厳重に巧妙に秘匿してあるのだろうな」
「昔、歌番組で金髪白豚師匠と共演した番組で、収録中に師匠が『オオシマユウコの瞳は悲しみの碧く冷たい水を満々とたたえた湖』の様だ、って発言してスタジオ中をドン引きさせたらしいけど、流石に天才古典落語家、見事な形容じゃないか」ウレシノが言った。
「ヤツは本寸法しかしないからな」落語好きのニタが言った。
「そういや前にユウコヲタの人が言ってました。忙しさが一番のピーク時に化粧台の前に座って『お家に帰りたい』と泣きながら言ってるのをオカロさんが目撃していたと」
「ユウコのヲタに言わせると彼女の本当が見たくてヲタを続けてるんだってさ。
例えば、トシに『何で連覇逃してんだよ』と突っ込まれて『ウッ』って成った時みたいな、そーゆー本当のユウコがチラホラと散見できるのが嬉しいんだってさ」
「そういや握手会に初めて来た客が握手もしないで、いきなりユウコの頭をポンポンして激ギレさせちゃって即『出禁』になった事があったな」
「第2回の総選挙直前の握手会で、それまでは(これ以上アッチャンとの関係を複雑化させたくないから)『私は1位になんか成りたくない』って公言してたユウコにヲタの一人が『本当に1位に成りたくないのか』と問い詰められて、泣きじゃくりながら『本当は1位に成りたい』って答えてたらしいからな。そうゆうのが観たいんだろうな、ヲタ達は」
「彼女は誰も傷付けたくは無いし、誰からも傷付けられたくも無い。
だからこそ孤独を好み徒党を組まないのだろう」
「派閥を造りませんからね、ユウコさんは」
「運営からも一定の距離を常に置き続けてましたし」ヲトヲが言った。
「そういうさ『政治』みたいのが嫌いなんだろうよ。
でも何処でもそうだけど特にあの世界は『政治力』がモノを言うじゃないか。
映画のキャスティングにしろTV番組のブッキングにしろ、さ。
でも凄いよな。何物に対しても迎合せずにあの地位を自分の力だけで奪取したんだからな。
普通の人間じゃないよな。普通だったら『なびいちゃう』もんな」
「誰かが、『人間は政治的な動物』って言ってた様な気がする」
「政治嫌いなんじゃない?」
「馴れ合うのも嫌いなんでしょうね、きっと」
「イヤ、恐らく『馴れ合う』のが苦手、と言うよりも『馴れ合い』方を知らないのだろう」
「傍目には、とっても天真爛漫そうに見えますけど」
「小さい時に昼寝をしている御兄ちゃんの耳の穴に卵かけご飯を注ぎ込んだり」
「テーブルの天板の裏側に溶けたチーズを張り付け、冷えて固まったらベリッと剥がしてニコニコ食べる」
「そういう部分が、彼女の本質なのだろう」
「すると、ユウコさんは外交的で安定性の高いディレクタータイプを演じている」というヤスダの発言を引取って、ショーナンが続けた。
「不安定な内向的な性格、エキセントリックタイプ、だろう」
ショーナンは、言う。
「だが大したモノだよ。
私の依頼者から得た情報をまとめるとユウコと言う少女は物凄いヤツだな。
評論家と自称しているある男が彼女を評して『普通の子』と論述したらしいが、その男は何をどう見ているのだろうかな?
その当時ユウコという少女が背負っていたものは280余名のメンバーとその家族の未来、スタッフの生計、そしてファンが抱く希望。
そういったモノ全てが彼女の細い小さな肩に重く圧し掛かっていたのだから、普通の人間だったら『普通』でいられる訳が無い。圧力に耐え切れずに潰されるか、或いは自ら気を狂わせる事で対処するか、そのどちらかだ。
全く大したモノだよ。
重圧を一切外部に漏らさずに『普通』の態度で、振る舞えていたのだからな。
そんな通常ではない状況下でのほほんと『普通』でいられるヤツが『普通』な訳がない。
そんなコト、絶対に有り得ない。
まさに『バケモノ』だ、
種に於いて完璧なモノはその種を超える。
彼の言う通りだな」
「ダーウィンですか?」
「イヤ、ゲーテだ」
「明るく輝く太陽の様に見えているのは幻想で、あーちゃん、清川あさみさんが言う様に『月』なのでしょうね、本質的には」
「人見知りで暗く他者を傷付ける事を極端に恐れ、他人から拒絶される事を嫌い、大切に思っている人を喪失する事を嫌がる。ソレを隠し通せたのだ。本当に『化け物』だよ」
「昔、まだ地下アイドルだった頃に催されたファンミーティングで、自分のファンが他のメンバーと親しげにそして愉しそうに歓談している事にユウコさんはブチ切れして、ノロさんが懸命に彼女を宥め賺していたそうですからね」
「その頃はまだ、下地が見えていたのだな」

「ナツ先生が残っててくれればな」
「いきなり何を言い出すんだ?」
「だってさ、何時かの紅白の時、パルさんが振りを付けて貰って、その時に横で見ていたユウコが言ったじゃんか。『見る見るうちにパルさんの顔が変わって行った』って。
ナツ先生とリョーカを絡ませたら凄い化学反応が起きるとオレは思うんだよね」
「まあ、ユウコさんに言わせると『ナツ先生は振りを入れるのではなくて、ダンスの心を入れてくれる』そうだからな。矢張りソコはデカいよな」

「僕、友達がいないんです」ヲトヲはショーナンと2人で通い慣れた寿司屋のカウンターに座っていた。
「友人の多寡、多い少ないはあまり問題では無いな」ショーナンが言った。
「何が大切なのですか?」
「どんなにソイツが嫌なヤツでも、腹の底から嫌いなヤツでも、自分が窮地に立たされてしまった時にソイツが携帯している水を半分分けてくれる、そういうヤツが友達だ。
長年コチラは親友だと思っていたとしても、困った時に何もしてくれない。
別に特別な事をして欲しい訳じゃ無い。ソイツに出来る事を、指を一本上げて欲しいだけなのに、何もしてくれない。そういうヤツは友達では無い。単なる知り合いに過ぎない」
 ショーナンは日本酒に梅干しと鰹節を加えて煮詰めた『煎り酒』で割られた濃口醤油が一捌けされた真鯛を一貫、口に放り入れながら、ヲトヲの質問に答えた。
「ショーナンさん、僕の友達に為ってくれませんか?」
「私にとって君はもう既に友達以上の存在だ」
「何ですか?」
「君は、私の大切な、掛け替えの無い、仲間だ」
 ヲトヲは嬉しくなって塩とレモンで十二分に仕事が施された特牛イカを一口で頬張った。

 大きな紙袋を両手に1つずつぶら下げて部屋に戻って来たフジムラをニタの呆れた様な罵声が襲った。「何だい、君は毎回毎回。バカみたいに大量のお菓子を買って帰って来て。膨大な量の饅頭やら大福やらの波状攻撃で皆を閉口させている事に気付かないのかい? 何だい何だい、今回はどんな代物だい?」
「ズンダ餅、買って来ちゃった」嬉しそうにフジムラが答えた。
「こんなに沢山モチばっかり在っても仕様が無いじゃないか。本当に学習というモノをしろよ」ニタはそう言いながらも紙袋に手を伸ばしていた。
皆もニタと同様に上辺は呆れ顔を装っていたが内心のウキウキが表に出ない様にしつつ、紙袋からズンダ餅の包みを銘々に引っ張り出して行く。そして、とっくにモチに齧り付き始めているフジムラに倣うかの様に皆もズンダの包装をルンルン気分で解いて緑色の毒々しさ満載の餡に塗れた餅を頬張っていくのであった。
「ココのズンダは美味しいんですよね」ヤスダが言った。
「餅が自家製だからな」フジムラが早くも2個目の包みに手を伸ばしながら言った。
「枝豆は越後の黒崎産だからな、美味い筈だよ」ニタが言った。
「タカミナって将来政治家に成る心算なのかな?」ズンダを飲み込みつつサトウは言った。
「この前は田原総一郎に相当な勢いで焚付けられてたからな」ニタが言った。
「でも、大丈夫なのでしょうか?」ヤスダが困った様に言う。
「どゆ事?」
「彼女の本『リーダー論』読みましたけど、タカミナさんは自己分析を完全に間違えているんですよ。
『私に付いてコイや!』ってタイプの、つまり先頭に立って人を引張って行くタイプだと自分を分析してるんですね。
だから次の総監督は自分と全く違うタイプの人間、周囲の人達が思わず支えて上げてやりたくなるタイプ、ヨコヤマさんを選んだと言ってるんですが、違うんですよね」
「そうだな。
タカミナが総監督として機能出来ていたのは、裏バンが2人いたからだよな」
「そうなんですよ、サトウさん。
裏の大番長マリコ様と、ハマの小番長ユウコさんが2人して陰から彼女を支えていたからこそタカミナさんは総監督としてチャンと機能していた訳です」ヤスダが言った。
「2人が『オマエ等、フザケてんじゃねーぞ! タカミナの言う事をチャーンと聞けよ、
コラッ! チンタラポンタラしてるとシメるぞ、オマエ等!』って裏側で他のメンバー達の手綱を引き締めてたからタカミナは表で心置きなく総監督に専念できた」ニタが言った。
「マリコ様にシメられたら男でも完璧に畏縮するぜ。金玉袋がキューンと小っちゃく縮み上がっちまってまるで梅干しみたいに成っちまう」サトウが打ち込みを続けながら言った。
「迫力あるからな」
「ホンモノですしね」
「男でお稲荷さんが萎縮するなら、女性の場合は・・・」と、フジムラが言い掛けたのを遮ってニタが呆れた声で窘めて叱責した。
「君の発言は一々下品に響くんだよ。品性を疑われるぞ、全く!」
「だから裏バンの2人が次々に外側に出て行ってしまうとそりゃもう大騒ぎで、箍が外れた様にスキャンダルが頻繁に漏洩しちまう状況に為っちまった。下支えを失ったタカミナ総監督態勢が機能不全に陥ってしまったんだな。遂には最後まで裏番長2人に変わる支援要員は現れなかったな」そう発言したサトウにウレシノが囁く様に言った。
「自分が観る『自分』と他人が観た『自分』は違うモノなんだね」
「そうだな。自分を客観視するのは難しいって事だな」サトウが答えた。
「タカミナに政治家は無理だよね」ニタがボヤきが塗された声色で言った。
「活動が始まった最初期の頃は彼女達全員がグループの繁栄と言う目標をメンバーの内で共有化出来ていました。個々の目標も抱えつつも1つの大きな目標に向かって全員一丸と成って進んで行く事が出来た。だからタカミナさんの様な人でもグループを率いて行く事が可能だった。
でも現実の政治は真逆です。
対立する考えや全く違う目標を擦り合わせて、あちらを削り、こちらに盛って、漸く最大公約数たる妥協策を産み出して行く訳です。決してみんな満足できない結論を無理矢理に納得させる事が民主制下の政治です。みんな、それぞれにチョットずつ不利益を甘んじて引き受けさせることなんて、タカミナさんみたいな綺麗で一本調子の心の持ち主には到底無理だと私は思いますね」
「オデン持った旗ぼーに似てるシワシワのジジイの目は節穴なのかね」ニタが言った。
「ドコを見てるんでしょうか?」
「あんなんでよく政治評論家などと名乗れているな」
「ま、昔はソープから腰を振りながら実況中継した男だからな」
「タカミナには無理だよ」早くも7つ目のズンダの箱を空にしながらフジムラが言った。
「あんなに純粋な心を持っている娘に腹芸は出来ないだろうし、無理して寝業師の真似事をしちまえば遅かれ早かれ心身に異常を来して、特に綺麗な心はバラバラに破壊されちまうだろうよ。政治家なんて回避しとかなきゃ駄目だ、絶対に。
だって政治には多かれ少なかれ必然的に欺瞞が伴うもんだ。
ヤスちんの言った通り全員を心底納得させられる満点解答の様な政策なんてモノは絶対に産み出せない。だから絶対に何処かしらに欺瞞が潜むさ。
だがタカミナは嘘を嫌う。
観ただろ? 第一回の組閣騒ぎの時の映像を。
『オトナ達は何時も嘘を言う』そう言いながら彼女は泣きじゃくっていた。
ユウコも同様に嘘は嫌いだが、時には清濁併せ呑まなきゃいけない現実を覚えさせられてきた辛い人生経験があるから対応するだけの知恵や所作は身に付いてるさ。
だがタカミナは違う。
そんなに器用じゃない。
嘘を自身に寄生させるような寛容は持てない。
だから嘘を許せない。
政治に関わる様に為れば必ずと言っていい程欺瞞を引き受けなければ為らない場面が出現する。仕方無く受容れたとしたらソコから彼女の真っ直ぐな心はバランスを崩して行く。
タカミナは嘘も許せないけどソレを受容している自分自身も許せない。
だから無理矢理に自分を納得させていても自責の念が抗体の様に彼女の心を攻撃し始めるだろうよ」と、サトウが強い口調で言う。
「一種の自己免疫疾患ですね」ヤスダが言った。
「ああ、ガラスは固いけれど脆い。極僅かにでもヒビが入ってしまうと軽い衝撃でも簡単にバラバラに砕け散る。純粋で真直ぐな心ってのは、ガラス製だ。
欺瞞を隠し続けて行く内に心の中の葛藤が生み出した自分自身への不寛容に蝕まれ、損傷を受け続けた彼女のATフィールドが耐え切れず、遂に閾値を超えて消失した途端に、
こうだっ!」サトウはパンと手を1つ叩いた。
「ソレ以上は聞きたくありません、悲劇しか浮かばないじゃないですか」ヤスダは嘆いた。
「壊れた心と共に生きて行けるほど、人は図々しくは無いって事さ」サトウが言った。
「聞きたくありません、聞きたくありません」両耳を手で塞ぎながらヤスダが喚いた。
「ドッキリの時はさ、曲りなりにもっていうか形はどうであれメンバー達に謝罪は出来てたじゃないか。一応それで贖罪は済んでんだよ。だから心は壊れなかった」ニタが言った。
「破綻して、バーンッ! だっ!」サトウが天板を叩きながら叫んだ。
ヤスダは耳を塞ぎながらイヤンイヤンと赤ちゃんがむずかる様に小刻みに頭を振った。
「でも、最近物言いが似て来たよな」モリサキがサトウに話しかけた。
「何が?」
「ショーナンさんの話し方にソックリに為って来たって事さ」
「よせやい」口では否定しつつも満更でも無い顔つきで照れ隠しなのかサトウは顎をコリコリと掻いた。

「俺決めた!」
「どうしたサトウ、突然?」
「俺、トレーダー辞める」
「辞めてどうすんの?」
「まだ何をするかは皆目見当も付かないが、とにかく辞める。そして実業に付く。
もう虚業は沢山って事が今回、こうやってみんなで集団生活をしてみて良く理解できた」
「何か当てはあるのか? 先生」
「全くもって、無い」
「まあ、待て。早まるな」
「来てるモノが無ければ止めて置いた方が良いぞ」
「おいおい、目星くらい付けて置かないと駄目だぞ」
「人生を選択しようとするその態度は立派だ。
キミが何をするのかは判らないが、とある言葉を贈っておこう。
『こんなのは別に大した事では無い。私は大丈夫だ。私には出来る』
辛い時心の中でこの呪文を唱えると良い。
不思議と大抵の事は耐えられる様に為る」
「有難う御座います、ショーナンさん。家訓にします」
「お前、まだ独り身だろ?」
「自己暗示の典型例ですね」
「自分を騙すのだから寧ろ『自己欺瞞』と言うべきではないかな」

「危ねぇなぁ、タクっ」
「どうしたい、サトウの先生」
「今さ、買い出し行ったらさ、自転車に轢き殺されかけちゃってさ」
「大袈裟なんだよ、お前はさ。何でも大問題に発展させようとするだろ、何時も」
「だけどさ、前見てねぇのは、いかがなモノかと思うんだよね。コッチはさ、ピザを10枚も抱えてヨタヨタ歩いてるんだからさ、スマホ何かを見てんじゃないって話だよ」
「相手、JKか?」
「イヤ、オッサン」
「オッサンに突っ込まれるのはイヤだなぁ」
「だろ?」
「何で自転車乗ってる人達は傍若無人に振る舞えるんでしょうかね?」
「私がこの国を再訪した時、ま、何ヶ月か前だがね。1つ感じた事がある」
「何でしょうか、ショーナンさん」
「この国の大部分の人々は思考を他人に委ねている様に感じ取れたのだよ。自分でデータを収集して熟慮して物事を判別していかねばならない行為を全く他人任せにしている様な」
「そうかも知れませんね」
「自分の脳味噌を酷使する事でグルコースを消費してしまう愚を回避しているのだろうか。
だが、自分の頭で考えないで他人に思考判断を任せてしまうという事は、その他人に自分の意識や行動を乗っ取られて支配されている状況とも形容できるだろう。そんな受動的な態度でいれば自ら行動を選択するという能動的な振る舞いは取れっこない」
「TV番組で、納豆が身体に良いとか放送されるとスーパーの棚から商品が消えるのも、
恐らくそういうのが原因だな」
「自転車で突っ込んでくる奴等も同様だ。除けるとか避けるとかの選択肢がそもそも最初っから大脳皮質にインプットされてないので、何も考えずに真っ直ぐに進むだけなのだ。
『きっと相手が除けてくれるだろう』などという希望的観測に基づいた行動しかとれない人間が多い様だな。自分の観たいモノしか観れない人々が多いのだろうか?」
「メタ認知能力の不足、つまり想像力と鳥瞰的な視点の欠如が起因となって適切で俯瞰的な未来予測図を上手く描けないのでしょうね」
「人は結局、世界を自分の見たい様にしか見れないんだね」
「自分の意思で行動を選択するという概念が無いのだな」
「ソレで轢き殺されちゃ、堪らねっスよ」
「自転車で事故を引き起こすなんて考えもしませんからね」
「たとえ運転しているのが自転車であろうとも、もし重大な人身事故を起こした時に保険に加入していなければ、ま、殆どの人は考慮すらしていないだろうがね、
彼等を待っている未来は、持家ならば自宅売却、一家離散そして自己破産だ」
「そんなの頭の片隅に浮かんですら来ないですよ、きっとそういう人達は」
「物事を客観視する事が苦手な人達が多い印象も受けたな。
私がこの国を離れた当時は、まだまだ大勢の人が出来ていたと思うのだがね。
鳥瞰的な視点や想像力と言ったモノは活字の本を読書する事で養われていく。本を読むという行為に親しむ人々が減ってしまったのだろうか?」
「今、街の本屋さんは激減してますからねぇ」
「その点でリョーカは安心だ。あの世代にしては比較的本を読んでる方だから」

「俺、今週の個別当たってんだよね」サトウが言った。
「あ、ボクもです」とヲトヲが言った。
「選挙前に会っときたいな」とサトウが呟くと、モリサキが窘めた。
「無理だろ。時間が無いゾ」
「モリサキさんは当選しなかったんですか?」
「いや、3ブロック分当たった」モリサキは続けた。「こういう時に限って全部当たりやがるんだよな、悔しいな、会いたいな」
「誰が当選してるんですか?」とヤスダが尋ねると何と幸運なのか不幸なのかショーナンを除いた全員が当選していた。「ウーン、じゃ、こうしませんか? 一人一回ずつだけ会いに行くってのは?」
「賛成」モリサキが言った。
「賛成の反対なのだ」サトウが言った。
「いない人の分は残った人でカバーしましょう。じゃ、スケジュールを組みましょう」とヤスダは提案した。サトウは実に嬉しそうな笑顔を浮かべながらスケジューリングアプリを使って同時にチームのメンバー2人が不在の状況をなるべく作らない様に工程表をアッという間に組み立てた。
「ショーナンさんは当選しなかったんですか」ヤスダが尋ねた。
「最初から応募しなかった。この作業が有る事が判っていたからな」
「じゃ、私の握手券を一枚譲りますよ。証明書として保険証と社員証を2つお貸しします。
これで会場に入れる筈です。やっぱり、全員で会いに行きましょうよ」
「そうだな、そうするか。リョーカに投票してる事を伝えて安心させてもやりたいからな」
「ねえねえ、みんなでこのブレス付けてかない? チーム一丸って事で」とサトウはLEDを使用して綺麗な青色に光り輝くポリマー製のブレスレットをバックの中から取り出した。
「お前、そんなの何時も持ってんの?」ニタが言った。
「何時もじゃネェよ、たまたまだよ、たまたま」
「あれ、でも昨日買い出しの途中で仕入れたんじゃなかったでしったっけ?」とフジムラが不思議そうな顔をしながら言った。
「バーカ、バラすなよ」サトウが言った

 選挙期間中に催された個別握手会の最終日、鍵閉めはオヒゲさんだった。
オヒゲさんには全握ででしか会った事が無かったから個別でってのが新鮮に感じられた。だからリョーカは「個別でっての初めてだよね」と男に伝えた。
「報告に来た」男が言った。
「報告?」
男は左手に巻かれたブレス、綺麗な青色に光っているポリマー製のブレスを見える様に掲げて「この3日間でコレ付けて来た人、何人かいただろう?」と言った。
 リョーカが頷くと、男は「私の仲間、チームの人間だ」と言った。
 相変わらず彼の発する言葉の群れはとても優しくリョーカの耳朶の内で心地良く響いた。
みんなで合宿しながら投票している。そしてこの3日間に、一人一回限定の約束で握手に来た。今、仲間は不在中の私の分まで頑張ってくれている。だから、リョーカさんは、のんびりリラックスして来週の土曜日を楽しみにしててくれ。65パーセントはもう既に投票済みだ。何の遅滞事項も発生していない。全てはシナリオ通りだ。心配は全く不要だ。
男はそう言った。
『そっか、今日で3回目の握手だ。だからか。馴染んでるなぁって感じたのは』
そう思うと同時に下腹部の辺りに軽い疼きの様なくすぐったさを、彼女は覚えた。
 すると突然、リョーカは奇妙な感覚に包み込まれた。
短い10秒間が過ぎ去って行きハガシの人が男を剥がそうとしたのに対してリョーカは、
「ダメッ! まだッ! 話しがッ、終わって無いッ!!」ハガシの人をキッと睨み付けながら会場中に響き渡る大声を張り上げた。その剣幕の強大さと衝撃にハガシの人はビックリして手を男から離し、文字通り本当に跳び上がってしまってからコンマ数秒後ポトンッと着地した後は、ショックでそのままフリーズしてしまった。
 男は既に自分の手を完全に離して身体は出口を向いてスルッと立ち去ろうとしていたが、リョーカが両方の手で右手首をガッシリと掴んで離さないのを見て取ると彼女の方に向き直った。
 リョーカは言った。
「とても不思議なんだけど、オヒゲさん、あのね」リョーカは言葉を探す様に足許に眼を走らせた後見上げて男の眼を真正面から見詰めながら、言った。揺らいだ感情がリョーカの語気を微かに震わせた「どうして今、そんな眼差しで私を見ているの?」
 静かにリョーカを見ている眼、この人がこの類の眼差しを持っている瞬間に出逢うのは、コレが最初だった。
「どんな眼差しなんだい?」男は優しく尋ねて来た。
「まるで、私の事を『愛している』って感じの。好きな人に初めて出逢えた時みたい、な」
 指が白くなるほどキツく握り絞められたリョーカの右手の内側にソッと左手を差し入れて、ある場所を軽く押す事でリョーカの手から力を奪い取ってしまい、優しく男は彼女の右手から逃れた。左手も同じ様にして丁寧に振りほどくと、ヒゲ面の男は初めてリョーカに会った時の様にコンマ5秒位の微笑を浮かべて何も言わないまま踵を返して、霧が消え去る様にブースから、立ち去った。

「指ヲタって何でユウコ嫌いなのかな?」
「彼等は地上を這いずり回る事しか出来ない憐れな連中だ。そんな彼等の上、はるかに仰ぎ見るだけの青空をユウコは平然と悠々と飛んでいるんだ。撃ち落としてやりたいが彼等が所有する高射砲では全然届かない。地上という2次元に縛り付けられた人々は切歯扼腕、地団太を踏みながら指を咥えて羨むしかない」
「ヤツ等、怖いよな。愚か者は正常な判断が出来ないので何を仕出かすか判らないからな」
「レベルの低い人間ほどプライドだけは高いんだよね」
「何で、ですか?」
「努力次第で高められるモノを自分の中に発見できていないからだ、プライド以外は、な」
「自分の知ってるモノが、世界の総てだと勘違いしてるんだよ」
「世界は彼等の知らない事で満ち溢れているのにな」
「だから他人が自分と違う考えを持っているなんて、最初から考えも付かない」
「自分の考え、っつーても何処かから引っ張って来た他人の意見を、さも自分で考え抜いた末に手にしたもののように振る舞っているけどな、ま、その『自分の考え』と違う意見の存在が許せないんだよな。自分が、自分のみが正しい、正義であるって固く信じ切っているんだよね。だから、超厄介。人は誰でも間違いを犯してしまう、永遠に完成する事が無い存在だって事実に気付いてないってゆーか、気付けないってゆーか」
「自分は常に正しい、というのは実に危険な思考だ。
その誤謬が取るに足らないモノであれば大した被害を被らないで済む。
が、しかし遥かにクリティカルで真に致命的なモノだったら?
そういう所に思慮が及ばないと後々とんでもない羽目に為る可能性が高い」
「そういう独善的な態度って、何かしら選民思想に繋がってそうで、イヤだね」
「ホルモンは実際他のメンバー推しからは嫌われてるからな」
「人に好かれる才能、コレは天賦のモノだ。そして同様に人に嫌われる才能コレも天賦のモノだ。訓練や努力で習得出来るものでは無い」
「もうアソコまで行くと『愛』じゃないよな」
「時々『愛』は人を殺しちゃうんだよね」
「愛する人がいてその人に意識が吸い寄せられていると、自身の周囲に散在している他の大切な事に眼が向かないし、新たな発見も出来ない。感受性が鈍るからです」
「何か、同じ事を聞いた事があるような気がするな」

「この前の震災の後さぁ、幸せ指数ってのが上がったジャン。何でかな?」
「幸せ指数って何だ?」
「幸福度指数の事ですね。そうですね、何故でしょうか?」
「震災当時多くの人が東北地方で悲惨な体験を強制された人々の姿をメディア等を通してライブで観た。そして思ったのだ。この人達よりは私はマシだ、と。
仮令どんな悲惨な状況下で暮らしていようとも、どんなに赤貧に喘いでいようとも、肉親を無くしたり家や財産を失った『可哀想』な人達よりも随分とマシだ、と。
その結果として幸福度指数が上昇したのだ」
「そんな・・・」
「辛いかも知れないですけど、多分、真実です」
「そうだな。御嶽山の噴火の時だって、ネットの中じゃ大勢の住人達が『メシ美味』って喜んで騒いでたもんなぁ」
「自分よりも下位の人間が存在すると言う事実を確認する事で自己のアイデンティティを崩壊の危機から救い出すのだ」
「ショーナンさんが言った事で怖いのは、そういう一部のネットの人達も我々と全然違わないという事です」
「どういう事?」
「自分よりも過酷な状況下で日々暮らして行かなければならない人々を比較対象とする事で、自分はまだマシな方だ、と優位性を確立させる事で自身を自己満足させているのは他ならない我々だ、という事ですから」
「ヤツ等と変わらないって訳か」
「イヤっ、そんな事は無い、と思いたい」

「しまった、失敗した!」昼食から戻って来るなりサトウが天を仰ぎながら叫んだ。
「俺、チャーハンを目一杯喰っちまった」同行していたニタも呟いた。
 何故なら笹掻きゴボウの気高い芳香がアクセントと成っていて薬味の卸し生姜が全体をピリッと引き締めているショーナンお手製の豚汁の香しい匂いが部屋の中一杯に充満していたからだ。「ショーナンさん、豚汁作るなら作ると言って下さいよ」サトウが抗議した。
「スマナイ。だが、声を掛ける暇も与えず『中華だッ!』と嬉しそうに叫びながら迅速に出て行ってしまったのは君達なのだが」
「さっきの御神籤に書いてあった通りじゃないか」ニタがサトウを見ながら言った。
「おみくじ?」熱々の芳醇なスープで握り飯を流し込みながらモリサキが訊いた。
「いや、いつもの中華屋さんなんだけど、あそこのテーブル席に、目立たないけど御神籤クッキーの自動販売機があるじゃん」
「ああ、あの小さなガチャガチャみたいなヤツですね」ヤスダが蕩け落ちるギリギリ寸前の里芋を、医師らしい器用な手付きで箸を操り、摘み上げながら言った。
「チャーハンを鱈腹喰った後にコイツが何を思ったか100円入れて御神籤を引いたのよ」「そしたらさ、内容が酷くてさ、頭に来ちまって」サトウが軽くイキりながら言った。
「どんな内容?」さほど興味の無い様子でフジムラが尋ねた。
「失せ物出ず。先走って失敗する。旅行、事故る。恋愛遠い、仕事険しい道のり、数日後に取返しの付かない大失敗を仕出かす危険あり、注意せよ。ほら、散々だろ?」
呆れ気味にニタが「読み終わるなり、この馬鹿がクッキーを握り潰しやがってテーブルの上にバラバラにブチ撒けちゃって、その後掃除すんのが大変だったんだから。チョットは考えてから行動しろよ。あの店出禁に為ったら一体どう責任取る心算なんだ」と言った。
「こういう小さな失敗は別の大きな失敗を引き寄せてしまうモノだから用心するに越したことは無いぞ」ヲトヲに豚汁の御代わりを渡しながらショーナンが言った。
「判りました、ショーナンさん。今後は気を付けて行動します」神妙な顔付をしながら、サトウが答えた。

「僕、何となく解った気がする」
「どうしたい、藪から棒に?」
「僕、戦争は颱風みたいなモノだとずっと思ってた。首を竦めて平身低頭していれば何時の間にか過ぎ去ってくれるモノだと思ってた。でも違うと思う。自分の手を血で汚してでも力尽くで終わらせないといけないモノなんだ。逃げちゃ、ダメなんだ」
「良い所に気が付いたな、ヲトヲ君。
始めるのは簡単だが終了させるのが困難なモノの代表が、戦争だ」
「有難うございます、ショーナンさん」

「これチョット酷いよなぁ」サトウが言った。
「何だいコレ?」
「去年の総選挙でリョーカがステージの上で吐いちゃってそのまま倒れ込んだじゃないか。
それを『可哀想だが、憐れだな』とか他のヲタが言ってやがんのサ、酷いよな全く」
「確かにデリカシーに掛ける発言だな」ニタが続けた。「でもネットってそんなモンだぞ」
他のメンバーの会話を静かに聞いていたショーナンが話しかけた。「サトウ君、その発言をしたヤツのIDを私のiPhoneに転送してくれないか?」
「良いですけど過去ログにあるヤツですし、情報とか何もかも不明で個人とか特定すんのは絶対に無理ッすよ」
「構わない、送ってくれ」
「了解です」サトウはiPadを操って、そのID番号をショーナンに送った。
 ショーナンは「ありがとう」とサトウに言ってから立ちあがってから、自分のiPhoneを手慣れた手付きで操作して情報を引き出しソレを確認すると或る場所へ電話を掛け始めた。
「Hello, 18X. This is 18A speaking. How is Fort Meade, can you adapt yourself in the new environment, Mike?...」と流暢に英語を操りながらも他者に内容を聞かれたくない様でスルッと自室に入って行ってしまった。
 モリサキとサトウは互いに顔を見合わせて外見の印象からでは英語に程遠いショーナンの顔とさっき聞いた流暢な英語を突き合わせて奇妙な感覚を覆われた事を確認し合った。
 電話を終えたショーナンが自室から作業部屋へと戻って来たのでサトウは訊いてみた。
「ショーナンさんって喋れそうに見えないけど上手いんですね、英語」
「そうだな。海外の暮らしが長かったからな」
「バーカ、アメリカ国籍って言ったろ。喋れて当然じゃないか」ニタが言った。
「アメリカですか?」サトウが言った。
「いや、色々さ」
「それじゃショーナンさんは何か国語、喋れるんスか?」
「英語、フランス語、スペイン語、インドネシア語、ペルシャ語、タイ語、タガログ語、ロシア語にアラビア語と朝鮮語、それに中国普通語」
「すっげ!」
「じゃ、ジャカルタ楽勝じゃないですか。クククク」傍で聞いていたヤスダが笑った。
その時、机の上でショーナンのiPhoneが震え始めた。
取り上げて着信したばかりのメールを読むとショーナンがポツリと言った。「さすがマイク。仕事が速い」
 開けて午前3時過ぎにヲトヲが忘れ物を取りに作業室に入ると玄関のドアが閉まる音がしたような気がした。一瞬『何だ』と気に為ったが『イヤイヤ』気の所為だと思い探していたケータイを机の上に見つけて手に取ると自室に戻って寝る作業に戻った。
 翌朝、朝食はショーナンお手製の洋風おじやだった。鶏の出汁が良く利いているトマトの風味が香り立つスープが、ほどよく煮込まれたニンジンや玉ねぎなどの香味野菜と非常に合っていて超絶の美味さだった。いつもの様にみんなで競う様に食べたのだが、思いの外おじやはアツアツで舌を火傷する者が続出してしまった。しかし、その喰いっぷりから『魔人』と呼ばれる事が定着し始めていたフジムラだけは熱さを物ともせずにワシワシと食い進んで行った。その様子を見ていたニタは「お前はブルドーザーか」と言い放ったのだが『魔人』は「グフフフフフッ」と不敵な笑みを漏らすだけだった。
「オハヨウ御座います。今日も一日宜しくお願いします、ユミパンさん」とTVモニターを見上げながらサトウが女性アナウンサーに向かって挨拶をした。
 モニターの中の彼女は原稿にチラチラと眼を落としつつ、ニュースを読んでいた。
「今日午前5時頃、世田谷区経堂の路上で男性が倒れているのを通り掛かった新聞配達員が発見しました。男性は頭部を鋭利な刃物で切断されており病院に搬送されて死亡が確認されました。警察は殺人とみて捜査を始めています。死因は頭部を切り落とされたことによる失血死と見られています。遺体が発見された場所には夥しい量の血痕が残されており、警察は殺害現場と発見された場所は同一とみて周辺の聞き込み調査を始めています。また頭部の口の中から拳大の石が見付かりました。コレはマフィアが裏切り者を暗殺する時によくやる儀式の『オメルタ』に酷似しているとの事です。コレは殺害された本人及び家族そして他の構成員に対して沈黙を要求する無言の圧力を意味すると言われるものです。
殺害された男性は近くに住むアガタヨシオさん(37歳)と見られており、警察は口中に残された石等から猟奇的な通り魔殺人の可能性も視野に入れつつ、主に怨恨による殺人と見て捜査を進めて行く方針です。では次のニュースです。昨日午後・・・」
TV画面に殺された男の顔写真が大きく表示されるとウレシノが声を上げた。
「アレぇ? コイツ知ってるよ。有名な指ヲタだ。そうか死んじゃったのか」
「へー、有名なんだ、コイツ」サトウが言った。
「うん。でもヤな奴でさ、指ヲタの連中からも嫌われてたらしいよ」
「ふーん。憎まれっ子、世に憚らないんだな」フジムラがおじやを掻き込みながら言った。
「でもこれで今回、指の連覇は苦しくなったかも知れないね」ウレシノが言った。
「何で?」ニタが尋ねた。
「・・・・・」オオヤマは黙っておじやを口に運び続けた。
「コイツ、毎年一人で1万以上投票してたみたいだから」
「ふーん、太い客だったんですね」猫舌のヲトヲがおじやに息を吹きかけながら言った。
「どっちにしろ今年連覇は無理に決まってんじゃん。俺達は何の為に投票してんだよ」とサトウが言った。
「そりゃそうだ。ククククククククク」ヤスダが低く笑った。
「来てるぞ」フクヤが言った。
 そんな仲間を静かにショーナンは見ながら満足げに微かに頷いた。
 そして心の中で呟いた、『状況終了』と。

 投票の最終締め切りは総選挙が行われる土曜日の前日、金曜の午後3時だった。
投票行動は順調に進んでいて、お昼を回った時には残すところ極僅かに成っていた。
 ところが有り得ない事が起きた。
 昼食から戻ったサトウは一旦自室に戻って歯を磨こうとした時に足許に見慣れぬ紙袋を発見した。「何だ、コレ?」そう言いながらサトウは紙袋を取り上げて覗き込むと中に未だ使用されてない投票券10000枚の束があるのを見つけ出してしまった。
アワアワと焦りながら作業室に出て来たサトウをみんなは最初は不思議な顔で見ていたが、彼に事情を説明されるとショーナンを除いた全員がパニックに襲われた。
「どうすんだよ、これ?!」
「間に合わないじゃんッ!」
「何でそんなトコにあんだよッ!!」
「オカシイだろッ!!!」
「ふざけんなよッ!!!!」
そしてサトウは3日前に寝ながら投票する心算で自室に運び入れていた事を思い出して、涙ながらに告白してみんなの前で深々と床に額を擦り付けながら土下座をして謝罪した。
「スマンっ! すっかり忘れてたッ!」
残りのメンバーは心の中でそれぞれ『ミスター残念が本領を発揮しやがったッ!』とか
『チキン野郎、何ヤラかしてんだよッ!』と何度も罵ったのだが、そんな繰り言なんかをグチグチと言っている余暇時間はもう1秒すら彼等には残されていなかった。
 ここで、ショーナンが動いた。
彼は急いで対応策を脳内検索して1つの解決策をひねり出した。
「このなかでタッチの速度が一番速いのはヲトヲ君だ。彼をウレシノさんのスパコンの担当とする。ルーターがブーストモードで使用可能なのは10分間だったな。よし、10個あるルーターを代わる代わる10分間ずつスパコンに回す。
そうだ、スパコンを連続でブーストモードにおいて使用する。
コレで大分仕事がはかどる筈だ。みんな協力してくれ」
更にショーナンはスパコンに予備のモニターとキーボードを繋いで2画面対応として、両手を片方ずつ駆使する事により2枚分同時に入力可能にセットアップした。
ヲトヲが、スパコンの前に坐して眼にもとまらぬ速度で16文字のシリアルナンバーを投票券2枚分同時に打ち込み始めた。残りのメンバーも自分の機体を操って作業を続けた。
 全ての作業が終了したのは、午後3時まで後30秒を残すだけという危うい橋、まさにティッシュペーパー製の橋梁を渡る様な綱渡りの行程だった。
ヲトヲが、スパコンを操るスピードは凄まじく神憑っていて、投票済を記録しておく為に一枚分を終えるとその券を二つ折りにするのだが、その時間が惜しくてピアニストの横で譜面をめくる係員の様に、横に立って投票券をヲトヲに見せる為だけの人員としてサトウをショーナンは配置した程だった。
ヲトヲが3時間弱で投じた票数は5609票で、コレは3秒当たり1票を投票した事になる。有り余るスパコンの能力を利用し2つのモニターを同時使用して投票サイトを2画面分表示させる事により、左の眼で見たモノは左手で、右目の情報は右手で、一気に投票券2枚分のシリアルナンバーを同時に入力する荒業を披露した故だった。彼のこの離れ業のおかげにより3時間で1万枚の投票をこなすという快挙を演じられたのだった。
 最後の16文字が入力された時、サトウの顔は涙と鼻水でグシャグシャに成っていた。
 その顔を見たメンバー達は『仕方ない奴だな』と静かに笑った。

 宴会が始まった。
開封済みのCDやクシャクシャに丸められたり二つ折りにされた投票権は引取りに来た産廃業者が持ち帰っていた。その時大量の投票券と劇場版のCDを見た若い作業員の一人が驚きの眼差しでゴミとチームの全員の顔をクルクルと見比べていたのを見て、ヲトヲが下を向いて必死に笑うのを堪えていたのだが肩が震え出してしまい最終的に耐え切れずに笑い出すとチーム全員が腹を抱えて大声で笑いだしてしまった。
 マックや家具の類いを引取りに来る予定の運送会社に頼んで同時にウレシノのスパコンも大学までの運送を委託する事が出来て午後遅くには部屋の中は何も無くなってガラーンと沈黙だけが残されたのだった。
 足繁く通ったり出前をお願いした寿司屋に出張して貰おうとヤスダが頼んだのだが
「店から離れられない」と丁重に断られてしまい、仕方なくニタが銀座の九兵衛に出張を依頼することにした。「クソッ! あの寿司が喰えねぇのか。残念だ。仕方ない九兵衛で手を打とう」とサトウが言った。
 ニタが九兵衛に電話を掛けると、最初は当日の依頼は受け付けていないと断られかけたのだが電話を引き継いだショーナンが二言三言囁くと、向こうの態度の柔化した事が直接聞いていなくてもあからさまに把握できた。
彼が交渉に3分ほど費やすと、出張調理にポロッと了承を得る事ができた。
洋食店や南欧料理店それに中華料理の方も店を離れられないと断られてしまい、仕方無くリッツカールトンのフランス料理の担当コックを呼ぶ事にした。ショーナンの囁く魔法の呪文の威力は絶大でここでも当日とって出しにも関わらず、万事OKとなった。
 だが、チーム・リョーカのメンバー達の口から漏れ出て来るのは、悔恨の繰り言のみで、
「あの五目チャーハンが食べたかった」と『魔人』が呟いた。
「俺、目玉焼き乗っけたハンバーグ」ニタが残念そうに天を仰ぐ。
「ペペ・・ロン・チーノ」オオヤマが項垂れながら途切れ途切れに呟いた。
 午後8時には九兵衛から寿司職人が2人、リッツ・カールトンからフランス料理担当のスーシェフを含む3人のコックがほぼ同時刻に到着した。
投票期間中はアルコールの摂取は一切認められていなかったので初めて酒というモノがこの日に部屋の玄関の鴨居を潜った。
ショーナンが、静岡市の清水区にある地酒専門店から取り寄せた数々の銘酒のラベルを見て、超が冠される程の酒好きのヤスダは思わず喉を鳴らした。
佐賀の『東一』純米吟醸山田錦49%生生無濾過斗瓶取り1升、
滋賀の『松の司』純米吟醸山田錦生生無濾過斗瓶取り1升、
奈良の『風の森』純米吟醸生生無濾過微発泡1升、
青森の『陸奥八仙』純米吟醸山田錦生生無濾過1升、
静岡の『開運』純米吟醸山田錦生生無濾過1升と『波瀬正吉』純米大吟醸生生無濾過しずく斗瓶取りを1斗瓶まるごと等の日本酒(無濾過なので清酒とは呼ばれない)、
そしてクリュグやヴーヴクリコ、クリスタルやモエ・エ・シャンドンと言ったシャンパン、
アンリ・ジャイエの手に為るエシュゾー‘86や、ブルーノ・ジャコーザが醸したバルバレスコ・レゼルバ・サントステファーノ‘08を始めとするワインの類いがあり、そして世界各地の著名なビールが大きなタライに氷と一緒に詰め込まれて冷やされていた。
 乾杯の音頭はモリサキが取った。
「皆さんッ! オメデトウ御座いますッ!!!
私達は無事に見事な偉業を成し遂げました。
最後はサトウ君がヤラカしてくれたお蔭で非常なるピンチを迎えましたが、ヲトヲ君の大活躍、神の如くの早業により何とか作業を全て終わらせる事が出来ましたッ!!!」
フジムラが声を上げた、「早く飲ませろッ! ッてんだッ!!!」
「判った、判った、ハイ、それでは皆さんご唱和ください。乾杯ッ!!!!!」
 モリサキの音頭が終了すると共にパラディドルを打った様にバラけて重なった『乾杯』の声が部屋に響き渡って壁に当たって反射した。
歓声が空気に拡散して薄まるのを見計らってショーナンが静かだが良く通る声でグラスを眼の高さに上げて、言った。
「リョーカに」
慌てて弾かれた様にサトウとニタが続いた。
「リョーカにッ!」
「リョーカに!」
「リョーカちゃんに」
「リョーカさんに」
「この一献のネクターはリョーカに捧げる奉杯とする」
「リョーカ・に」
「ズルいぞお前等、人に音頭の大任ばかり取らせやがって、リョーカに!」
「キテるゾ、リョーカに!」
「イイですな、最後に来てこの纏まらないデタラメさ加減は。リョーカに!」
 言い終わると各自、自分の好きな飲み物を有りっ丈の勢いで喉に叩き込んだ。
 祭りが始まった。
ココでも一番人気はショーナンが作った『鍋コワシ』だった。
無くなる事を恐れたショーナンが用意周到に力士専用クラスの2つの大鍋一杯になみなみと作成してあったのだが、メンバーたちの旺盛な食欲の前をして30分と掛からない内に2つとも綺麗に空っぽの状態に為ってしまった。
「仕方無ぇ。九兵衛の寿司でもつまむか」とサトウが言うのを聞いた寿司職人の一人が顔を顰めた。サトウは、中トロを一貫無造作に口に放り込んで乱暴に咀嚼すると飲み込んで一言、言い放った。「美味ぇ! あの親方んトコよりは落ちるけど、取り敢えずは美味い」
ソレを聞いた職人は苦笑するしかなかったのだが、サトウが投票期間中に良く利用した寿司屋の名前を告げると途端に2人の板前の顔が引き締まった。詳しく聞いてみるとその店は寿司職人なら知らぬ者は存在しないと言う位の超隠れた名店で、寿司職人ならば一度は訪れてその兄弟の披露する妙技、華麗なる手捌きを味わってみたい憧れの場所なのだと2人の内の若い方の職人が夢見るような眼差しのままで言った。何でも夜の予約は半年先まで一杯で尚且つ小さな店なので平日でも中々取れないのだと言う。
「あ、でも俺達予約とか無しでよく行ったよ、夜も昼も」サトウがそう答えると2人の眼は有り得ない位見開かれたのだが、よく出前も取ったと続けられると、『コイツ等、何者?』と寿司を握る手が止まってしまい、ウレシノに急かされて漸く我に返り仕事を続ける様な体たらくを顕わにしたのだった。
 もう一方のフランス料理のカウンターではフジムラとコックが揉めていた。
「イイからもっと厚めに切りなさいよ。ココにゃ、10人しか客いないんだから。厚めに切りなさいって言ってるの。イイじゃないの。そう端っこのトコ、10センチ位に切りなさいよ。俺、ギャートルズ喰いスンのが夢だったんだから。薄くすんじゃないってんのッ!
厚くしなさいよ。ソウソウ。それで良いのよ」
『魔人』は分厚いローストビーフに満足げな表情を浮かべて自分の席に戻った。
 しかし5分も経たない内に「もっと厚く切りなさいよ。15センチ位に切れば良いじゃん」とグルグルと永遠のループ行動に入ってしまいこの光景はローストビーフが枯渇するまで5分毎に繰り返されたのだった。
 宴会が進む内にみんなのヴォルテージが急加速で上がって行き誰からともなく1枚また1枚と服を脱ぎ出して行って殆ど全ての人間がパンイチ姿に為った。
開け放たれた窓から、泥酔したヲトヲが「リョーカァーッ! リョーカァーッ!」と外に向かって叫び出し、ソレに釣られて裏の家の犬が「オオーッ!」と遠吠えを始めてしまい、下の歩道を歩いていた通行人が『一体何事だ?』と上を見上げて、訝しげに首を捻った。
「俺、今から芸を披露します」と言い放つや否や、パンツ姿のサトウがフラフラと立ち上り、おもむろに最後の一枚を脱ぎ捨て、真っ裸になるや否や、割ってないサラの割り箸を一善、局部のサオとお稲荷さんの間に横から差し込んで腰を屈めるなり「むむむむむむむむむむむむ」と意外と静かな気合いと共に全身有らん限りの力を込めて踏ん張った。
つまり股間で割り箸を圧し折ろうという算段だった。だが、よく眼にする様な間伐材利用のモノではなく竹製の丈夫な割り箸は類い稀なる頑健さを披露して一向に折れようとせず、たちまち活動限界を迎えてしまったサトウは敗北を期して、その場にヘナヘナッと力無くヘタリ込んだ。
「どけッ! ミスター残念ッ!」と一升瓶を片手に持ったニタが立ち上ってサトウから箸を奪うとパンツを脱ぎ捨てサトウと同じ様に箸をサオの下に差し込み腰を屈めて唸りを上げ始めた。「むうむうむむむむむむうむうむむむむむむむむむううむううむっむうううぅ」とサトウよりも随分と長い間イキり続けていたのだが結局、力を使い果たしてしまいサトウと同じ様にペタッと床にヘタリ込んだ。
「お前等、何バカな事してるッ! 貸せッ! 俺が決着を着けてやるッ!!」とモリサキが静かにパンツを脱ぎ捨てながら立ちあがった。ニタから箸を受け取るといきなりターミネーターのテーマ曲を大声で歌いながら箸を自分のサオと御稲荷さんとの間に差し込んだ。
「だんだだん、だんだだん、だんだだん、ちゃららーちゃららーちゃららーちゃららーあー」そして腰を江頭2時50分でも無理な程思いっきり屈めて、大きな気合と共に全身の力を込め始めた。「はーーーーっ」その5秒後、諦めた様な音と共に箸が見事に折れた。
ソレを観ていたニタとサトウが「凄ぇぞ、モリサキっ!」と称賛の声を上げたのだった。
そんな仲間たちの様子を、オオヤマはニコニコ笑って静かに眺めながら、全裸で胡坐を組んで座り、野武士の様に盃を滑らかな所作で手繰っていた。
 みんなのメートルが上がって行くのと反比例する様に料理人のモチベーションは下がる一方で遂に一人の板前が「やってられるか!」と言いながら手近に転がっていた一升瓶をラッパ飲みし始めると、口火が切られたかの如くに残りの料理人達も銘々好き勝手に酒を飲み始めてしまって次々と仕事を放棄し始めた。そしてアルコールの所為で体が火照ってしまって最後の砦であるパンツすらも脱ぎ捨てる輩が続出する始末だった。
 気付くと料理人達も一糸纏わぬ姿に為っていて一升瓶をラッパ飲みする者、シャンパンを浴びる様に飲むスーシェフ、ビールのチェーン飲みを披露しているコックは先ほどの禍根を忘れた様で、あれだけ肉の攻防戦を繰り広げていたフジムラと肩を組んで何だか判らない歌を一緒に大声で唸り上げていた。ウレシノは何故か嬉しそうにその様子をiPhoneで撮影すると、即座にYouTubeに一切のモザイク無しでアップしてしまっていた。そして隣でワインをラッパ飲みしているフクヤに見せて二人で大笑いしていた。
「来てるゾっ!!」とフクヤが爆笑した。
「コレは混沌と言うヤツですね」ヤスダは一升瓶から直に酒を流し込みながら言った。
「カオスは人間の印象に過ぎない。この世界は総て調和と秩序で成り立っている」緑色のロリングロックの首の長い瓶に直に口を付けて軽くあおりながら、ショーナンが言った。
「成る程。人の心が世界を乱すのですね。クククク。でもこんなに贅沢をするとは」思いませんでした、とヤスダは言い「居酒屋とかで打ち上げるのかと?」と訊いた。
「貧しさに耐えるだけの窮乏生活を送っていると人は弱くなる。
そして興味深い事に貧しさに慣れ親しんだ頭と身体は一度『贅沢』と言う蜜の味を覚えた途端にもっと弱くなる。だから贅沢をする時はこの様に思い切り奢る。
こうして時々は思い切りの贅沢を味わって心と身体を慣らして置くのだ。
ま、所謂ワクチンみたいなモノだな」ショーナンが言った。
「しかしながら、些かコレは阿鼻叫喚の地獄絵図を痛感させられます」ヤスダが言った。
「そうだな。だが状況は更に収拾の付かないモノに成りそうだぞ」ショーナンが言った。
「ではソレに備えて我々ももう少しばかりアルコールを追加摂取して置く事にしましょう」
何も身に着けておらず生まれたままの姿をしたヤスダが、ショーナンに言った。
 部屋の中にいる15名の内、服を着用すると言った文明人として最低限のマナーを実践できているのは最早、ショーナン唯一人と成っていた。

 今年、2016年の3月26日と27日、横浜にある日産スタジアムで披露されたタカミナ前総監督の卒業コンサート。アイドルとしてのタカミナの誕生と死を見事に表現できていた2日間だった。それに先立つ事5日、3月21日パシフィコ横浜において開催された写真会にて6月18日に今年で通算第8回目となる45th.メジャーシングル選抜総選挙が、場所は新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟にて開催される事が運営サイドより発表された。
 そして総選挙の正しく前日の夜にリョーカは新潟の万代と言う繁華街に立地する白地に青のラインが眩しい飛行機会社が経営するホテルの12階からスッカリ灯りの落ちた街並みを見降ろしていた。時計の針が真夜中に近い事を告げていた。それでも眠る事を忘れた都会の喧騒がこの高さまで極僅かに伝わってきて窓ガラスを微かに振るわせている。
 リョーカが家にいると近づいてくる総選挙の圧力に圧倒されて浮付いた両親と妹が家の中をウロウロと動き回って、何くれとなく世話を焼こうとするのが煩わしくウザかったので地方で開催されるのは寧ろ好都合だった、『家、離れられるし♪』
 用意されていたツインの部屋で同室と成ったのは、仲の良い後輩のナーニャだった。
2人で一緒にホテルに併設されたビュフェレストランでお腹一杯に成るまで食べてから部屋に戻って、間を置かずにお風呂に入る事にした。
先輩に遠慮して先を譲ったのだが、パッパッと服を脱ぎ捨てたリョーカがいつまで経っても入ろうとしない事にナーニャは内心戸惑いを隠せなかった。
 入るか着るか早いトコ、ドッチかしてくんないかなぁ?
オオシマって苗字を持つ横浜育ちの小さくてカワイイ女の子はみんな裸族なのかなぁ?
 そんな彼女の想いとは裏腹にリョーカは一向に入る気配を一筋すら見せず、遂には窓から外の景色を覗きだしてしまったのだ。
オイオイ、向こうのビルの人から丸見えだよ、とナーニャは心配した。
 後輩のそんな思惑には些かの配慮を払う事も無く、リョーカの想いはビュフェで遭遇した蠱惑的なスウィーツの上に飛んでいた。
笹の葉っぱにくるまれた香りが綺麗な御団子。
翡翠?
見渡す限り原野一面の笹の葉っぱを集めてギュッとした感じ。
とても艶やかな表面で、何か碧色の宝玉を煮詰めて凝縮したような、そんな色をしている。
キレイ。
笹団子っていうらしい。
超ストレートなネーミングだ。何の捻りも無くてちょっとツマラない。
でも、超美味しい。
粒餡と漉し餡の両方があったけど、
 絶対に、こしあん。
サーヴの人に尋ねたら、東掘の5番に在るお店で手に入れられるらしい。
忘れず、絶対にお土産に買って帰ろうっと。
ママ、喜ぶぞ。
あれ?
ママ、粒とコシ、ドッチ好きだったっけ?
 ま、いっか。
両方、買ってこうっと。
店の名前、何だったっけ?
石川屋...だったかな...?
 ま、いっか。
サーブの人が言ってたっけ、このお店は弘化4年創業の老舗だって。
弘化4年って西暦で何年何だろ? って思って、ググったら、
すかさず『弘化4年は、西暦で1847年になります』って教えてくれた。
約170年前、だって。
 スゴイ。
私の生まれるメチャクチャ前じゃん。
江戸...時代...なんだよね?
凄く厚そうなナラティブが背中の後ろ側に潜んでいそうな感じ。
 ナラティブ...英語で『narrative』。
『narrativeとは、日本語に訳すと、物語に相当する』
そうオヒゲさんは教えてくれた。
『アイドルとして成功する為には、芸能界で役者として一角の存在に成る為には、
絶対的にこのnarrativeが必要不可欠なのだ』
とも言った。
私は、自分の力で自分の背中に『物語』を蓄えなければならないんだ。
どうやればイイのか、今はまだサッパリ、なんだけど。
 そんなコト考えてたら、何かお腹が減ってきた様な気がする。
オカシイな。
まだお腹の中には美味しかった夕御飯がタップシ残ってる感触があるんだけど、な。
 あ、そうそう。
サーブの人が別のお店の事、何か言ってたな。
確か、美味しい中華蕎麦屋さんが三越の近くに在るって言ってた。
ココも要チェックだ。
名前なんだっけ?
三平屋だったかな?
 暗い街を見降ろしながら、そしてリョーカの想いは次第にあの男の上へと移動して行った。
あの人に任せておけば全て大丈夫だ。
何の心配も要らない。
世界で一番安全な場所はあの男の横である事実をリョーカの直勘は鋭敏に嗅ぎ当てていた。
だいじょうぶだ。
だいじょうぶ。
 虚勢を張ってる訳でも無く、自分に言い聞かせている訳でも無かった。
 街並みを見降ろしながら2回目に会った時の握手会の事をリョーカは思い出していた。
依頼を受けてオヒゲさんが返した『30万票』という言葉にリョーカは正直驚いてしまって、思わず抗議の様にも響く少しキツイ口調で言い返してしまった。
『ヤリ過ぎだよ』
『ヤリ過ぎる位やって初めてちょうど良いのだ。これは、Mao Zedong 、マオおじさんの言葉だ。覚えておくと良い』
『マオおじさんって誰ですか』
『偉大な革命家だ』
 大丈夫だ。何の心配も要らない。
あの人に任せておけば大丈夫。
とても、そばにいる。
 あの男が贈ってくれた巨大な安心感が優しくふんわりとリョーカの全身を包み込んでいた。
リョーカは信じていた。
だいじょうぶ。
 男の存在がとても近くに感ぜられた。
彼はとても側にいてくれる。
あり得ない位、近くにいる。
護ってくれている。
だから、あの人が教えてくれた通りに、私はリンゴの木を植えて行けば良い、
たとえ明日世界が滅びようとも。
ただ、植え続けて行けば良い、
毎日。
 リョーカが大きい主窓の横に設置されている縦に細長い換気用の小窓を外に押し開けた途端に、海沿いの都市に特有の都会の臭いと潮の香りとが入り混じった、梅雨時の独特の生暖かい空気が歓楽街の喧騒と共に流れ込んで来て白いレースのカーテンを揺らし始めた。
「フフッ、風さんのオシリ」とナーニャが言った。
 リョーカが彼女の声の指し示す方向に視線を送ると風に煽られたカーテンが確かにお尻の様にふぅわりと丸く柔らかそうに膨らんでいた。
生き物の様にユラユラと動くカーテンを見詰めながらリョーカは思った。
 大丈夫だ。
何が起ころうとも、必ずあの人は私を護ってくれる、
たとえ明日この世界が滅んだとしても。
 リョーカは感じていた。
私は幸せだ、と。

 チームの仲間と料理人達が酔い潰れて眠りこけていた時、オレは窓際に立ってまだ暗い街を見降ろしながらピートの香りが綺麗な琥珀色の液体を飲んでいた。街は後数時間程で息を吹き返した様に活発に動き出すのだろうが、今は未だ大方の部分は息を潜めて静まり返っていた。
 褐色の酒を飲む。
この行為を『影を飲む』と表現したヤツがいるらしいが、天才だ。
きっとノーベル文学賞を獲っているに違いない。
 死んだ様に眠る街の中で僅かに命の存在をひけらかす様に新聞配達のバイクが朱色の帯を残しながら消えて行った。消え去るテールランプを眼で追いながら、オレは想った。
同じ空の下の違う街で今、キミも息をしているのだな、と。
ホテルの一室で静かに寝息を立てているのだろう。
隣のベッドの上で同じ様に寝入っているナーニャさん、彼女と同室だったから緊張する事も無く、さぞリラックス出来ただろうな。
「リョーカ」
 おっと、声に出してしまった。
振り返って部屋の中を確認した。
 良かった。
みんな死んだ様に寝ている。
今日は辛い一日に成るぞ、きっと。
チームの仲間達よ、リョーカと共に在らん事を。
 ウィスキーグラスを掲げると、琥珀色の液体が内部で揺れて、谷状に鋭く削り込まれたヒシカットと微かに泣き始めた氷と混ざり合って光のうねりを発生させた。レンブラント光線の様に、雲の間から琥珀色の夕陽が差し込む景色を想い起させた。
そして、頭を抱えながら電車に乗り込むみんなの顔を想像して静かに笑った。
 地上と上空5000mの天気図からすると開催地の新潟は遅くとも午後から雨だから風邪を引かないように気を付けろよ。今の時季の新潟、雨になると随分と冷えるらしいぞ。
それに、10時の新幹線に間に合うように起きられるのかい?
 一心に寝入っているチームの、名付けるならばチーム・リョーカのメンバー1人1人に対してユックリと錘鉛を降ろす様に視線を落として行った。
心の深淵から真実の感謝の念が湧き上がって来るのを感じて、オレは満足した。
 向き直って、再び窓から階下を見降ろすと薄い明るさに包摂され始めて、街は欠伸と共に起き上がろうとしていた。
 真実は美なり、美は真実なり。
キーツはそう言うが、世界は醜い真実の方が多数を占めているのではないか?
ソレよりも、そもそも真実は美醜の特徴を備えているのだろうか?
 ある脳科学者によると、美しいモノを美しいと判断する脳領域は、正しいモノを正しいと判断する領域と同じだという事だ。つまり人間は生まれながらにして『美』と云う非合理性を無条件に心地良く感じる生物なのだそうだ。
美しさと正しさ。
どう繋がるのだろうか?
正しさの方はともかくも美しさの基準はごく個人的なモノなのではないだろうか?
美しい嘘と醜悪な真実。
だから人々は醜悪な真実から眼を逸らして美しい嘘を信じようとするのかも知れない、
正しいモノとして。
 今1つだけ言える事は今回オレ達が成し遂げた事は美しさと正しさをシンクロさせる事だった。間違っている事を『美しい』と感じてしまう人間の脳は配線の具合が狂って設定されているのだ。
 リョーカ。
涼やかな花と綴る。
キミの事を想う度にオレの心には矢車菊が浮かんで来る。
一輪の真青い花が風に吹かれているシーン。
だが、たとえどんなに強い野分が、颶風が吹こうとも、オレがこの花を守る、
絶対に。
何があったとしても。
 青、青、鮮烈な青。
カンブリア紀に爆発的に発生した生物達が、地球史上初めて眼という器官を獲得できた生物達が、浅瀬で初めて出逢った色だ。
絶対的で独立排除的に高貴な、青。
青い色、つまりイスラムでいう最も神聖なる色だ。
そして青には聖母マリアを象徴する意味もある。
だから絵画に描かれたマリアは常に青いベールを被っているのだ。
 空が縹色に染め上げられて行く。
美しい。
コレは厳然たる事実だ
そして、オレがリョーカに心惹かれている事も、紛れの無い真実だ。
脳内で文字化した事により4半世紀も下の少女に、という事実を認めざるを得なくなった事で少し狼狽してしまうが、事実は事実として受け止めなければいけない。
 リョーカ、キミはとても不思議だ。
戦闘能力だったらオレの方が何千倍も上だが、何故かキミの方がオレより強い気がする。きっとキミは今日もリンゴの木を植えるのだろう。
それで良い。
ソレで充分だとオレは想う。
 一口モルトを啜った。
『明るい部屋で座って影を飲んでいる』
素晴らしい表現だ。
 そうだ。
相棒に倣ってこの言葉をオレの酒場での口切の言葉としよう。
 街は静かに復活の声を上げつつあった。

『汝の愛と彼女の美しさは永遠なれ』

 翌日の早朝にみんなと一緒にバスに乗ってHARD OFF ECOスタジアム新潟に到着するや否や、何度も同じ動作を確認する単調なリハがリョーカを待っていた。
 何度も同じことを繰り返し繰り返し行っていって振りを起こして行く内にテンションも高ぶり、ソレに伴って身体の恒常性を司る視床下部から分泌されたアドレナリンの所業か何も感じなかったのだが、ナーニャに「お腹減りません?」と指摘されて漸くリョーカは自分がお腹が減っている事に気付かされたのだった。
 朝が早かったので今朝からは何も食べていなかったのだ。
仲良しの後輩、ナーニャとアエリと3人でバックヤードに用意されているケータリングのブースに食事を取りに行った。同じテーブルを囲んで食べ進む内に、2人の旺盛な食欲に触発されたのか何時もよりも多めに食べてしまったのだが何故か全然足りずにお腹充填度は70パーセントという感じだったのでおかわりする為に席を立とうとしたら、総支配人のシノブさんが象の様な巨体を左右に揺らしながら近寄って来て、リョーカに声を掛けた。
彼女は少しでも細く見えて欲しいという希望からか、黒のワンピースの上に黒のニットのカーディガンを羽織っていた。
「そんな食べて大丈夫?」とシノブさんが尋ねた。
去年はステージの上で嘔吐してしまって大事な舞台を汚してしまったからその事を心配してる事もあるだろうし、勿論リョーカの身を気遣っての言葉でもあると、彼女は思った。
 リョーカは「だいじょうぶデース」と明るく元気に答えて温かい料理が並ぶブースの方にスタスタと歩いて行った。
『ホントに大丈夫か?』とシノブは思ったが、まぁ、選挙の速報結果によれば去年よりも大幅に票を伸ばして11000票以上も上増しされていたから、ランクインはまず間違いなかろうというスッタフ全員の予測を思い出して無理矢理に自分を納得させる事で一安心は一応の所できたのだった。
安心したらしたで、今度は彼女自身が空腹を覚えてしまった。
 さて、メシだ。
小腹を満たす為にケータリングサービスの配膳カウンターの所に行って、ドレにしようか、10分以上もさんざん迷った挙句に、政ちゃんのタレカツ丼(ロース特大盛り)と、白寿のうま煮ソバ(特盛)、せきとりの鳥唐揚げ半身を3つ(カレー味)そして「一個取ろうとしたら何個も繋がって出て来ちゃったんだよね」と言い訳しながらの創業弘化四年、老舗である市川屋の笹団子を10個、選び取った。
コボさない様に苦労しながらテーブルまで運び、さ、いただきます、の件に成って同席していた若い男性スタッフが目を目いっぱい見開きながら「コレ、まさか全部食べちゃうんですか」と訊いてきたのでシノブは「あぁ? 一口づつチョットづつ食べて後は残すよ。私だってカバじゃないんだから一度にこんな沢山食べられないよ」と答えた。
 だが、15分後には山盛りだった4つの容器は素っ空かんに為っており、小林尊をも楽々と超えるその早業に驚いた彼は空っぽの容器の群れと満足げなシノブの顔を見比べながら『こりゃ、結婚は30万光年の遠く彼方だな』と痛感したのだった。

 そのホスピスはヴァージニア州北西部のアーリントン記念墓地の10マイルほど東の、空気のきれいな土地に位置する瀟洒な外観の建物だった。
オレは第82空挺師団時代のスナイパー仲間を看取る為に何百マイルもかけて到達したのだった。
 彼の名前はボウヤァと言った。
世界最高の観測手であるオレの相棒、サミュエル・スペンサーを取り合った事もある位の凄腕の狙撃主で恐らくスナイピングの腕だけだったらオレを凌いでいたと、今となっては素直に思える。オレ達の部隊は紛争状態のアフガニスタンへ派遣されて、ソコでイスラム野郎と何度も戦闘を繰り広げて何百人ものテロリストを無力化する事に成功し続けていた。
 当時、彼と彼の観測手から成るチームと俺達は一種の競争をしていたのだとも言い得る。
オレと彼はチーム単位で殺した敵の数を競う様に、狙撃の成功記録を互いに塗り替え続けて行ったのだ。彼の存在が無かったならオレはカールス・ノーマン・ハスコックIIの出したレコードを塗り替える事など到底不可能だっただろう。
 アフガンで戦闘を続けて数ヶ月経過した頃に、オレは馬鹿ばかりの陸軍では珍しい大学卒という学歴を持っていたので上官から「士官に任官すると給料が倍だ」という白い嘘を丁寧に吹き込まれて本土に在る予備士官学校に入学する事になった。
 一方ボウヤァはアフガンに残った。後に陸軍特殊部隊の精鋭であるデルタフォースからリクルートされた。そこで彼が所属した部隊はイラクに遠征したのだが、彼の地でも彼は多くの敵兵を無害化し続ける事で同僚の兵士からは畏敬と畏怖の念を込めて『ビル・ザ・ネイラー』と呼ばれていたらしい。
一般的に言っても、射撃した後は鉛の粉塵を全身に浴びているから、直ちにシャワーを浴びて有害なゴミを即座に洗い流す事が肝心なのだ。でないと鉛中毒になる恐れがある。
無論オレ達が使用している弾丸はハーグ条約を遵守してジャケット、つまり鉛の中身を真鍮で被甲されたモノだけに限定されてはいるが、高温高圧のガスを受けて飛翔して行く弾丸のケツは被甲されていない。その剥き出しの鉛は火薬の爆発によって容易に溶融してマイクロレベルの微粒子となり燃焼ガスの一部を成す。
引き金を落とし銃口を弾丸が飛び出す時に、バックブラストと呼ばれる後ろ向きの爆風がオレ達射手の身体全体を襲う。だから一仕事終えた後の兵士は全身が鉛の粉塵まみれだ。
 だから軍ではウルサイ程に、清潔を保つ様に指導される。
最前線だとしても毎朝歯を磨きフロスもしてヒゲを剃る。精神衛生上の為という事も勿論あるだろうが、同時に鉛中毒を防ぐという、そういう実利的な面も持ち合わせている。
オレも必要な時以外は毎朝ヒゲを剃っていたものだ。
 ま、ムスリムの人々の中に溶け込む為に、ヒゲを蓄えている時は別の話だったが。
 戦闘を終え駐屯地に帰ってくれば、冷たいかも知れないが綺麗な水のシャワーを浴びて身綺麗にして、味はコックの腕次第だがともかく量だけは豊富な食事を摂る事が出来る。
しかし特殊部隊は行動目的自体が特殊だという事情もあって、作戦内容によっては中々駐屯地に帰還できない事もある。それでも戦闘の後は水で濡らしたタオルなどで顔を拭ったり、川の流れで汚れた手を洗ったりして可能な限り清潔な状態を保持する事に努める。
 オレ達が活動していたアフガンは有難い事に三日続けての作戦行動は無く比較的戦闘も疎らだったから清潔を保つ事はそれ程難しい事では無かった。
ボウヤァのいたイラクも連日続くゲリラ攻撃に悩まされていたらしいが、毎日駐屯地に帰還していたそうだから、鉛の点においてはヤツも心配していなかった様だ。
 だが深刻な事に彼の使用したバレット社製の50口径のスナイパーライフルの弾倉には劣化ウランの弾頭を備えたカートリッジが込められることもしばしばだったそうで、その所為なのか詳細は不明だが、軍を除隊後すぐに彼は肺ガンを発症してしまった。
 伝手を頼ってオレに連絡が来たのが余命半年も無い状態の時で、看取る筈の家族を持っていない彼の面倒を見る為にこの病院に呼ばれたのだった。
オレは除隊した後は戦争後遺症の影響から真艫に働く事が出来ずにいて戦病者手当だけで慎ましく暮らしていて、暇を持て余していた。だから連絡を受けた時に何の躊躇もせずに駆け付けたのだった。
オレの記憶の中の米国陸軍最上級軍曹ウィリアム・ジェファーソン・クワーク、通称名ボウヤァは190cmに極僅かに届かない身の丈をした筋骨隆々の巨大な男だったし、
アイリッシュらしいブルネットは短く切り揃えられてはいたがフサフサと豊かだった。
 でも再会した時にはガリガリに痩せてしまって身長も10cm位縮んでしまった様にも見えたし、何よりもアレだけ綺麗だったブルネットの髪の毛が抗がん剤の影響でツルっと1本残らず抜け落ちてしまっていた。だから余りの変貌ぶりに、初めはオレの脳は認識をせず誰なのか判別不能の状態に陥って仕舞い、暫く当惑の感情に囚われた事を昨日の様に鮮明に覚えている。
 ある朝、走行距離が10万マイルを超えているボロボロのマツダMX-3を運転して定宿にしている安モーテルを出発し、ホスピスに到着すると既にボウヤァは息を引取っていた。
 その日の早朝に誰にも気付かれる事無く亡くなったそうだ。
その事を看護師の1人から聞かされて、何でオレは昨夜付き添ってやらなかったのか、と激しく後悔した。昨夜、オレはPTSDの発作に苦しんでいる内にウッカリとiPhoneの着信音をオフにしてしまっていて机の上で震え続けるケータイに全然気付けずにいたのだった。
朝は寝坊をしてしまいバタバタしていたから履歴のチェックにも気が回らず間抜けな事に病院に到着してから戦友の死を知らされたのだった。
 看護師が出て行った後、未だ会話をしているような沈黙が訪れた部屋の中でベッドの脇に座りながら、病院特有の硬いマットレスに静かに横たわる彼を見降ろしていた。
 誰にも知られずに独りで逝くなんて、淋しい末路だな。
誰でも良い、誰かに見送って貰う事で心安らかに、静かに旅立てるのに、な。
誰でもイイ、誰でも。
オレの様な人出無しでも誰もいないよりは、余っ程マシだ。
 この数か月間の事を思い出して悲しみの感情が起こり掛けた。
2人で良く軽口を叩き合って過ごした、楽しくも哀しい手錠付の旅に出掛けた様な数ヶ月だった。
『オレみたいにAccuracy International の.338ラプアだけ使ってりゃ良かったんだよ』
『バカ、2000フィート以上向こうにいる相手に、そんなポンコツじゃ全然届きゃしないじゃないか。神のみぞ知るって具合でブッ放す訳にはいかないんだよ、大尉殿』
『デルタじゃ、.408シャイタックを用意して貰えなかったのか?』
『グリーンベレーと違ってデルタはな、倹しいんだよ、この税金泥棒が! 大尉殿』
 彼には弟と妹がいたが、何か大事をヤラかしてしまってからは全くの音信不通なのだと、ほんの3日前に告白された。兄弟は他人の始まり等と言うけれど、家族など厄介事の源泉なのかも知れない。唯他人よりも少しDNAの重なりが多いだけで結局は別の個体だ。
 オレは天涯孤独ながら寂しいとは思った事は無いが、コッチの方が気楽なのかも知れない。
ふと、彼の死に因ってイスラム野郎にとっての脅威が少し減衰したな、と思った。
 彼の綺麗で安らかそうな死に顔を見る度に悲しみの情動に心を揺さぶられたのだが、特殊部隊隊長という職業がもたらす長年の訓練が湧き上がってくる悲しみを直截に表現する事を抑制させてしまい、傍から見たら、何と冷たい男なのだろう、と思われても仕方の無い位に冷静に物事を対処出来たのだった。
対象者を凋落させる為にはあんなに見事に感情を表せるのにな、とその技術にも対して静かな悲しみと同時に怒りすら覚えたのだったのだが、それも湧き立つという事態も一切なくオレの心の中に巣食い続けている感情をコントロールするシステムが瞬時に封殺した。
 呆然とも表現できる白い時間を暫くの間過ごした後で、廊下に出て葬儀社に連絡を取り葬儀の手配の一切合切を依頼した。
すると翌日にアーリントン記念墓地に埋葬される事が決まった。
 良かった。
アソコには沢山の戦友が眠っているからだ。
これで彼も寂しい思いをする事は無いだろうと安心したのだった。どの道通ったとしてもオレも間を置かず直ぐに逝く。だから仲間と天国でビールでも飲みながら楽しく談笑しててくれ。イスラム野郎をいっぱい殺した正義の戦士は天国で24人の処女にかしづかれて優雅な毎日を送るそうだから、ま、精々楽しくやっててくれ。
出来得るならば、少しで良いからオレの分のビールを残して置いてくれると、嬉しい。
オレはそう願った。
 彼は立派な戦士だった。だからケネディの隣に埋葬される権利は十分備わっている。
受付デスクが設置されているエントリーホールに歩いて行きコンピューター内の患者の氏名が掲載された名簿ファイルから彼の名前を削除する作業をしている時にデスクに付いているオバちゃんから話しかけられた。大柄で男爵イモに箸を2本突き刺したような体型をした60代位の白人のオバちゃんだった。昔は綺麗なプラチナブロンドだったろうが、今は自然脱色してしまっていて殆ど白髪に成っていたけれどそれでも年に比較すれば豊富な量を誇っていた。何と呼ばれる髪型なのか全く知らなかったがカリフラワーにソックリだった。
だから、彼女の外観は頭方から順に、カリフラワー・男爵・割り箸と形容できた。
 ま、典型的なアメリカのオバちゃんだ。
デカくて(香水の着け過ぎで)臭くてウルサイ、字面だけ見れば『怪獣』と同義だ。
「日系の方?」
「そんなようなモノです」
「そう、ソレは良かった。あのね、アナタのお気の毒なお友達の部屋の棟の一番奥の部屋に日系の方がいらっしゃるの。もし良かったら話し相手になってあげて欲しいの。
ココに入院してから誰も尋ねて来ないばかりか手紙やお花も届けられた事が1回も無いの」
同朋とはいえ何の面識もない人間を訪ねて行くのは正直気が進まなかったけど、マダム受付はオバちゃん(怪獣)としての資質をすべて備えていた。
 だから猛烈な御喋り魔だった。
余程暇を持て余していたと見えて、マダム受付は言葉の津波をオレに浴びせ続ける事30分と少しの間に、オレは彼女の娘夫婦と孫娘、そして息子夫婦と孫息子2人について相当な量の知識を得ていた。人心収攬術に関して研鑽をイヤと成る程積まされたオレは表面上においては非常に穏やかで微笑を絶やさない上手な聞き手を擬装してはいたが、内心は超ウンザリだった。そして軽めの頷きを繰返す事にも疲弊して来たのだった。
 詰まる所、脱出したかったのだ。
だから腰を上げた。

 院内案内図に依ると彼の部屋は左棟の一番奥に位置している様だった。
「良い話し相手に為れればいいのですがね」
オレはそう言い残すと、戦友との思い出を反芻しながらオレはユックリと歩いて行った。
 ココでは狙撃される心配が無い事が有難かった。
窓が開け放たれていて鳥の鳴き声が聞こえてくる。
敷地内の森は、とても賑やかだった。
 人の創る美術は総て自然の模倣だ。
おっと、『美術』では無くて『芸術』だったかも知れん。
誰が残した言葉だったっけ?
ランボウか、いやアリストテレスだったか?
 いずれにせよ、自然は美しい。
この『現象』を超える事は不可能だ。
 可哀想な日系人か。
一瞥を流して気が合いそうだったら話し相手に成れば良いし、苦手タイプだったら部屋を間違えた事にして引き返してしまえば良い。そう思っていた。
件の部屋の引き戸は開き放たれていた。だから自然と内部の様子が視界に飛び込んできた。
そこに、懐かしい顔を見付けてしまった。
 ショウナン・ヒロ。
ショウナンはオレがイリノイ大学の学生だった頃にドミトリーでルームをシェアした男だ。
 全くの偶然だが、彼とオレは瓜二つで一卵性双生児と言っても誰も不思議に思わないほど、気持ち悪い位に似ていた。コレも偶然だがオレの誕生日が12月24日で彼のが25日と1日違いという事も後押ししたのか、会った5分後には肩を組んでビールを回し飲みする仲となった。邂逅して5分も経たずにオレ達2人は莫逆の友となったのだ。
級友からは『エンドウ豆が鞘の中に2つ』とよくからかわれたモノだったが、オレ達はソレを逆手に取って入れ替わってお互いに成り済ますという悪ふざけを頻繁に仕掛けたのだった。最初の内は直ぐに見破られたモノだった。だがお互いに相手の事をよく観察して特徴や癖を分析し演技の研鑽を積むと、成り済ましの振舞いは次第に自然な印象を周囲に与えるようになり、フォールセメスターが終わる頃にはお互いの演技は完璧なレベルへと徐々に近付いていった。
 完璧に相手を演じられる様になっても、最初の内は周囲の人々をからかうだけだった。
だがこの悪戯は次第にエスカレートして行き、遂にはオレ達がソフモアの時にショウナンが当時付き合っていたエミリとオレがデートをするという今考えるとしてはいけない事を実行してしまい、その晩モールでのウィンドウショッピングからの帰りに、彼女の部屋で危うくベッドイン直前まで行ってしまうという事もあった。
エミリは、フランス系アメリカ人の母と日系3世の父を持った超が冠されるほどの美人だったからそのままヤッてしまっても構わなかったのだが、後後ショウナンとモメるのが厄介に感じられたのでオレはホームワークがドウとかコウとか、かなり強引なこじ付けをしてそそくさとその場を後にしたのだった。同級生から550ドルで手に入れた、白黒の塗装がまだ明確に残った警察払い下げのクルマを走らせ自室へと戻る間ずっと『勿体ない事したのかも知れん』と後悔にも似た思惟を抱いていた。
 後ろ髪を引かれるってのはこういう事を言うのだな、とその時思ったモノだった。
 幸いにもその悪戯自体はエミリにもバレず、オレの危うい情事未遂事件もショウナンの知る所とはならなかった。オレは自分が幸運の付いて回る男であるとこの時に自覚できたのかも知れない。その後経験する事になる戦場での戦闘シーンにおいても敵の放つ弾丸は何故かオレだけは避けて飛翔し、反対にオレの発射する.338ラプアは吸い込まれる様に当該対象に着弾する事を繰返したのだった。
 ショウナンとオレは偶然だがメジャーも一緒で、ソレは言語学だった。
 彼は西海岸の裕福な家庭に育ったから、そのままスンナリと大学院へと進学した。
オレも進学したかったが手許不如意で、日本から留学している身分としてはアルバイトで稼ぐ事自体が違法で、隠れて労働してもバレたりすれば強制送還される恐れがあったから怖くてできず、おまけに直前に自己資金がショートしてしまって学部の卒業自体も怪しくなってしまったのだった。
そんな時に大学内で開催された何かの催事の中で陸軍による新兵募集のキャンペーンが行われていて、オレの様な小男にもフライヤーが1枚配られた。それによって志願すれば米国政府が卒業資金を負担してくれることを知り、しかも入隊条件の中にVisaがシッカリしていれば、つまり合法的に入国していれば米国籍はおろかグリーンカードの所持すらも必要では無い事を見つけ、その当時は比較的平和だった事も背中を推して、その場で入隊手続きを終えたのだった。
 それがオレとショウナン、鞘の中のエンドウ豆の2人を分かった原因だった。

 空いている入り口に立って少しの間黙って彼の事を静かに見ていた。昔に比べると体は2回りほど小さく縮んでしまっていて恐ろしい程に痩せて顔色は良くなかったけれども、彼の眼の中には未だ辛うじて精気が宿っている事が見て取れたから、少し安心した。
 驚かせる事を回避するために、オレは静かに声を掛けた。
油の切れた転車台が回る様にユックリと彼が首をコチラに向けた。
 驚いたのか、口を丸くOの字の様に開け続けて中々声を出せない様だった。
「どうしたい、相棒?」オレは暗くならない様に気を付けながら、務めて軽めに訊いた。
「スキルス性の胃癌なんだ、相棒」ショウナンが言った。
彼の声音はグシャグシャにしたフライヤー紙みたいに皺枯れていて聞き取り辛かったが、意外にも声量は大きくシッカリとしていた。
「ステージは?」
「末期も末期さ。余命は後、保って2ヶ月くらい、だそうだよ」
「そうか」オレはそう言ってから、部屋に入る前から既にソコに置いてある事は認識済みの、白い壁に立て掛けてあったパイプ椅子を組み立てて彼の横に座った。
「何で、ココが解った? 誰にも知らせてないのに...」
「偶然だよ。
オレの戦友が今朝早くに亡くなってね。
ここ何か月か彼の傍に付き添ってたんだ、が...」オレが言った。
「そうなんだ。それは気の毒に...」最後の方はお悔やみを言う時の定法を踏んで口の中で言葉の群れをムニュムニュと押し潰しながら、ショウナンが言った。
「ウッカリしてたな、全然気付かなかった」
「いや、入院したのは昨日の午後だったから」
「誰にも、って、ご両親は?」
「とっくに鬼籍に入ってるよ」
「他に家族は?」
「いない」
「大学で付き合ってたエミリとはどうなったんだい?」
「修士課程2年の時に別れたさ」
「そうか」
「相棒、今は何をしてるんだい?」
「何も。除隊して以来何もしてない。時々PTSDの発作を起こしちまうんだ。
誰もそんな扱いが厄介なベテランを雇わないよ。
揉め事の種感が満載じゃないか?」
「そうか。軍隊では何をしてたんだっけ?」
「最初は空挺部隊でスナイパーさ。その後士官学校を経てから特殊部隊の隊長をやってた」
「特殊部隊って言うと・・・」
「俗に言うグリーンベレーってヤツだ。ソコでオレはアルファ作戦分遣隊通称Aチームの隊長をやってたんだ。
オイ知ってたか?
アソコじゃ語学が非常に大切に扱われてるんだぞ。
オレは18週かけて11種類の言語をマスターさせられた。
フランス語にスペイン語、インドネシア語にタイ語、タガログ語にロシア語とペルシャ語、アラビア語に中国語、そして極め付けは朝鮮語だ」
「へーっ、凄いな。僕なんか満足に喋れるのは英語とフランス語とスペイン語くらいだよ」
「何を言ってんだ、新潟弁があるじゃないか」
「そっか、ウッカリしてた」
 オレが大学時代にショウナンの成り済ましをする時に一番注意を払っていたのが、言葉遣いだった。外見からではあまりバレたりはしなかったのだが、言葉遣いが少しでも変だと直ぐにバレたのだ。その事実からも如何に人が言葉に敏感かが解る。
その時に人間は言葉に頼って生きる動物なのだと悟ったのだった。
 勿論新潟弁交じりの日本語を使う機会は結局来はしなかったが、オレはコイツの喋る癖や直ぐやってしまう振舞い、語彙選択における嗜好などを完全にマスターしたのだった。
「ドレぐらいに喋れるようになったんだい?」ショウナンが尋ねてきた。
「現地住民クラスだよ。ソレでないと仕事に成らないしね」
「そりゃ、凄いな」
「ま、仕事だしな」
「イラクとかに派遣された口かい?」
「オレの部隊は第5特殊部隊グループに所属してたからな。ココは担当地域が中東、中央アジアそれにアフリカの角なんだ。結局、アフガンに派遣されたよ」
ショウナンはコチラを気遣いながらオズオズと質問をしてきた。「一杯殺したのかい?」
「ま、仕事だからな」
「じゃ、死の存在は身近って訳だ」
「ソレがそうでもないんだ。
一般の...民間人たちはみんな知らない様だがオレたちの仕事は戦闘が主願じゃないんだ。
ホントの目的は現地住民を組織化してゲリラ部隊を編成する事の方が主目的なんだよ。
そうでなきゃ長い時間と沢山の金を使って部隊員に11ヶ国語もマスターさせる訳が無い。
そういう目的があるから現地でのサバイバル能力も大切な要素だし、住民を凋落する為の人心収攬術や人心掌握術も重要になってくるんだ。
オレ達は破壊と殺人を最優先事項とする軍隊にあって唯一と言っていい、モノを生み出す為の部隊なんだ。
ただ、勿論戦闘は、する、当たり前の話だが、な。
降り掛かる火の粉は払わないと」
ショウナンがオレの発した『人心収攬術や人心掌握術』という言葉に眼を炯炯と輝かせ始めた。オレには超馴染の香り『死(タナトス)』が彼の全身から放出されていたが、その両方の眼だけはキラキラとした『生(エロス)』で満ち溢れているようになった。
「そうか、じゃ君はチームの編成のプロなんだね」
「そりゃ、勿論。それが仕事だから、ね」
「君に頼みが有る。ココには誰も知り合いがいないし友人や大学の同僚達にはホスピスにいることすら伝えてないからチョット困ってたんだ」
「何だい? オレに出来る事なら何でもするよ。だから遠慮しないで言ってくれ」
「頼み事は、2つ有る。
1つ目はある男に謝罪をして欲しい。
出来れば昔僕達がしてた時の様に僕に『成り済まし』て彼に謝って欲しいんだ。
2つ目は少女、今僕が命の灯を燃やし続ける事を可能にさせてくれる原動力、生きる力を僕に与えてくれる大切な人、彼女の背中を推し、彼女を高みへと押し上げて欲しいんだ。
2つ目の頼み事を実行する為にはお金がいる。大金が掛かる。
でも、お金の事なら大丈夫さ、資金の心配は要らない」
「意外だ。大学教授って儲かるんだな」
「違うよ。教授なんて薄給さ。教授の仕事で儲けた訳じゃ無い。
教授をしてた時に、別の学部でコンピューターを教えていた知り合いと1つ小さな会社を設立した。僕たちは自然言語処理を担うアルゴリズムを開発してたんだ。
会社を設立した後、それほど長い時間もかからず僕らは優秀なプログラムを作成する事に成功した。そしたら、それから程無くして超が100個くらい付く様な有名なIT企業から連絡が来た。僕たちの会社を買収したいって言ってきたんだ。
僕はその頃ちょうどA.I.を本気で研究したいとシリアスに思い始めてたからその申し出を有難く受ける事にした。
相棒、君はiPhone派かい? Android派かい?
なるほど、良い選択だ。
その、僕達が開発したプログラムは。君も持ってるiPhoneの中のSiriに適用されてる。
君みたいな人がiPhoneを1台買う毎に僕の口座にお金が振り込まれる。それ自体はホントに微々たるモノだけどね。ま、厳密に言うと、10000台毎に振り込まれるんだが、ね。
でも実際の買収金額は物凄かったよ、正直驚いた。
お金にあんまり興味を持てない僕ですら些かビックリした位の金額だったよ」
ショウナンは、何かを嬉しく感じているのか、疲れも見せずにそこまで一気に喋った。
「ビックリって、どの位?」
「1億」
「そりゃ、『些か』ビックリだなぁ」とオレがそう返すとショウナンは静かに笑った。
「そうなんだ。だから資金の心配は要らない」
「で、2番目の少女に対しては一体、何を如何すれば良いんだ?」
「その資金を使って彼女に『ポジション・ゼロ』をプレゼントして欲しいんだ」

 ショウナンの話を聞いた時、オレは驚いて声を上げてしまった。
プロの特殊部隊員にあるまじき、自制を欠いた行為だった。だが、それぐらいオレの思慮の範疇を大幅に飛び越えていたから、だった
「何だい、そのヘンテコりんなシステムは? インチキ、いやまるで詐欺じゃないか。選挙なんて銘打たれてはいるけど、要は単なる人気投票だろう?」
「そうだよ。だってCDを購入しさえすれば1人何票でも投じられるんだから。1人1票の正式な選挙とは全然違う」ショウナンが言った。
「ソレにお前の話で全然納得のいかない事の最右翼が一番人気の奴に票を投じてる人間が1000人弱って、そんなの有り得るのか? 一体一人で何千票入れてんだって話だよ。
最早ソレは人気投票ですら無いじゃないか。単なる経済力の競争に過ぎないぞ」
「正確な数字は不明なんだけど僕の調査した所では、前回の総選挙で彼女が獲得したのは19万票だった。彼女に対して10000票以上入れた人間は3名、5000票クラスが8名、1000票クラスが30名って所だ。コレでもう合計は10万を超える。上位41名が殆どを占めていて残りの投票数がその他大勢の950名によるモノなんだ」
「そんなのホントにインチキじゃないか。
いや、よく考えてみろ。一番の被害者は彼女自身だぞ。
内側の世界に留まってる間は、ソリャ良いさ。
だが、いずれその娘だって外側の世界へと跳び出して行かないといけないんだろ?
そこで彼女を待ち受けてるのは過酷で辛い『現実』だぞ。
おいおい、みんな騙されてるゾ。
イヤ、確かに女性はオレ達の様な馬鹿なオトコ共と違ってシビアに現実を捉えてはいるが勘違いさせられてしまうだろ、そんな扱いを受けてしまえば。初めは自分の人気なんかは所詮虚栄で張りぼての偽物なんだって思っていたとしても、人は誘惑に弱いから現実から眼を逸らして虚構の世界を本物だと本気で信じ込まされちゃうモンなんだ。
ソイツを応援してるファンとやらは其処ら辺に考えが至って無いのか?
認知バイアスという名の陥穽へと突き落としてしまう様なモノだぞ、ソレを承知した上でヤッているのか? それとも無残な結果に終ると知った上で敢えて残酷な結末を見る事を楽しみにして投票しているのか?」
「みんな騙されてるんだ、運営に。メンバーもお客も。ソレを解った上で騙されてる奴等もごく少数いるが、大抵のお客は何も考えていないので、ただ直截に騙されているだけだ。
だが僕は、違う。全部を理解した上で盛大に騙されてやる」ショウナンが言った。
「アキモトとかいう男は何てヤツなんだ。無知で馬鹿な小娘どもを集めて調教を施し、働かせられるだけ働かせて不要になったらポイ捨て、なんて、そんなの酷過ぎるじゃないか。
そんなのに大金を注ぎ込むなんてこと、止めとけ。金をドブに捨てる様なモノだぞ」
「彼女は、リョーカは僕の希望なんだ。彼女の存在が今僕に圧し掛かっている絶望を希望へと昇華してくれている。無機質で灰色の僕の人生に彩りを与えてくれる存在なんだ」
「大体構成員に規律を守らせようともしない組織は碌なモンじゃないんだ。
規律は絶対に遵守されなければならない。
逸脱を1つでも許せば組織全体が退廃の奈落へと堕ちてしまうからだ。君たち一般人は、戦場じゃ出鱈目に弾丸を撃って敵を殺してると思うだろ?
違うんだ。
規律で雁字搦めの許にオレ達は交戦している。
ある兵士の行動がROEつまり交戦規定に抵触してしまったら、例えその行為によって部隊の全滅が回避できたという献身的なモノだとしても、彼はJAGつまり法務総監から吊るし上げを喰らって軍事法廷に引き摺り出されて裁かれた後それ相応の処罰を受ける事になる。
最悪の場合は死刑すらあり得る。
新兵訓練の時は正しい型からは一切外れさせない。射撃訓練もジムナスティックも奴等にさせるのは厳格に正常な型のみだ。正当な型だけを踏襲させる。
規律だ、規律が支配してるんだ。
歌を歌いながらの行進が良い例さ。
正当から少しでも外れた『型』、つまり癖は本当に曲者なんだ。
一旦悪い癖が身に付いてしまうと矯正するのに多大なる労力を要してしまう。悪い『型』を身に付けた人間はプリオンやガン細胞の様に周囲に悪影響を及ぼして、他者をフォースのダークサイドに引き摺りこんでしまうんだ。
昔、『腐ったミカン』理論とかいうモノに断固反対した髪の長い教師がいたそうだが、残念ながら彼は完全に間違ってる。『腐ったミカン』は速やかに排除されなければならないんだ。
だが、実際の戦場は違う。
演習で習った事、正しい型を実戦では一切しては為らない。
実際の戦場における射撃対象は、動かない標的紙じゃないんだ。
コチラ側が放った弾丸に当たらない様に必死に動き回って逃げまくったかと思うと、逆にコチラ側に弾丸を雨霰の様にプレゼントしてくれるんだ。
例えば戦闘機が敵の攻撃を回避するのに一番有効な方法は失速状態に自らを陥らせる事だ。
でもそんな事をしたら直ぐに墜落するから誰も試みなかった、F-22が登場するまでは。
F-22は常に失速状態を維持しながらコンピューター制御による力技で無理矢理、普通に飛行できる。この特徴は機体のステルス性の向上にも寄与してるが、そんな訳でF-22は殆どのケースで撃墜されない。常時失速しているという『間違った動き』がソレを可能にさせている。こういう具合に演習場の外部の世界では、型から外れた邪道なヤリ方を採用しなければ直ぐに殺されてしまう。でも、規律は厳格に適用される。弁明の余地は一切無いし例外も存在しない、というか、させないんだ。
『終わり良ければ全て良し。終わりこそ常に王冠です』
そんなんでは、全く無いんだよ。
昔の関東軍が良い例さ。
退廃が内部に蔓延した軍隊なんてロクな事をしない。
勿論、オレが所属していた組織は特別かも知れない。何て言ったって、命のやり取りをしている訳だからね。でも、どんなローカルルールだろうが、例えソレが悪法だろうが何だろうがルールはルールだ。ソイツ等は『恋愛禁止』ってクソみたいなルールを承知の上で加入して来たんだろ?
守るのは当たり前じゃないか。サルだって守れるよ、ソレ位。
息苦しいだって?
フザケタ事を言う。
お前さんもアンスロポロジーの授業で習ったと思うが芸術ってのは抑圧の下から生まれ出ずるモノだぞ。アイドルだって芸術家の端くれだろ? 芸術家を志すのに一番大切な事を教えてないなんて、そんな腐った様な組織に大事な金をくれてやる事は無い」
「今の僕には、お金は何の価値も無い。リョーカの笑顔が見られるなら全然構わないさ」
「その、アキモトとかいうプロデューサーは本を渉猟した経験とか、無いヤツなのか?
お前さんも勿論知ってると思うけど『泣いて馬謖を斬る』って有名な言葉があるだろ?
そのサシハラとかいう小娘を、歌も踊りも喋りもイマイチだったのを、そのアキモトとかいうヤツが『面白いねぇ』の一言と供に、何かと面倒を見ることで人気者にさせた、そのプロデューサーとしての成功体験を大切にする余り、物事の真の要諦ってヤツを見失ってしまう事になった。その小娘の事件が勃発する以前にも似た様な事態が起こったって先程、お前さんは言ったな。その小娘、サシハラとは別の小娘はコトがバレちゃった時に、即時解雇されたけど結構ガッツがあるヤツで再挑戦した。新期生オーディションを勝ち抜いて再びそのグループに加入したんだろ? それはそれでチャンとしたカムバックじゃないか。
そのサシハラって小娘にも同じことをさせれば良かったんだよ。
本当にその小娘を応援する気持ちがあるヤツなら、仮令どんな事があっても応援し続ける筈だろ? そうしときゃ、現在起こりつつある崩壊なんて、その兆候すら顕在化しなかったと思うぜ。だってさ、そのグループじゃ飛び道具だけしか人気が得られなくなっていて、最早正統派の人間が成功できなくなってるんだろ? 正統派が成立しない世界なんて継続してやっていける訳なんて無いってことくらい、素人ですら理解できる超簡単なことだよ。
世界の調和と秩序ってヤツは、ほんの小さなアリの一穴が発端となって脆くも崩れ去るって事態になるんだ。これはどの斯界でも共通なコトだとオレは思う。
そのグループ組織全体を守るためにアキモトは、サシハラって『馬謖』を泣きながらでもその時に、斬り捨てなければならなかったのさ。
傍から見たら無慚で無慈悲な処理に映るかも知れない。だが、ソレは必要な外科的処置だ。
ガン細胞は早期の段階で切除手術するのが、化学治療や放射線治療・免疫治療が進歩した現在でも、第一選択肢になる訳だし、な。
それとも、あれかな?
サシハラって小娘が、もう既に偉大な集金マシンへと変貌を遂げていたので、その金の卵を産むアヒルが勿体無くて馘首できなかったのか?」
「ソレは僕の調査が及ぶところじゃないよ」
「確かに経済の力は無視できない要素ではあるが、もし本当に真相がそうなら、ソイツは金の亡者、金を使ってるんじゃなくて『金に使われている』相当哀れなガリガリ亡者だぞ。
だからヤメとけって、そんなトコにお前さんの稼いだ血と汗の結晶を注ぎ込むのは。
勿体無いじゃないか?」
「さっきも言ったろ? 今の僕にとってお金は何の意味もないんだ」
「大体、その娘はポジション・ゼロとやらの位置に付いてみたいと思っているのかさえ、判ってないじゃないか。むしろ余計な御世話かもしれないぜ」
「イイんだ、余計でも。不要なお節介にしか為らなくっても、それでも良い」そう言うと彼は吸い飲みから水を少し飲んだ。少量だったが時間を掛けてユックリと飲み下した。
「咳一つするのも大仕事になっちまった。なるだけムセない様に気を使ってるんだ」と、ショウナンは不要な言い訳をした。
 アメリカにも吸い飲みって売ってんだな、とオレは不思議に思った。
そして彼にあまり負担を掛けたくなかったので、一先ずこの話題から離れる事にして「ま、取り敢えずその事は横に置いておくとしてだな、何故その娘にソコまでハマっちまったんだい。
その訳を説明してくれよ」オレはショウナンに乞うた。
「2006年、僕はサバティカルイヤーを利用して東京大学に居たんだ。最初は琉球地方に残る独自の言語群を発掘するつもりだった。ある日、1人の院生に引き摺られるようにして行った秋葉原で一人の少女に出逢ったんだ」ショウナンが言った。
「そいつがリョーカとかいう小娘なんだな」
「違う。
その日、250人しか入れない小さな劇場で毎日公演をしている地下アイドルのグループがあって、その公演に行ったんだ。凄かった。勿論、公演自体のレベルは御世辞にも褒められたモノでは無かったけれども、熱気が凄かったんだ。ステージの上でパフォーマンスを披露している側とソレを熱心に観ている観客の両方が放出してる熱量がハンパ無かった。
その時理解できたんだ。アイドルビジネスの根底を流れる通奏低音は結局、SEXだってね。
巧妙に秘匿されていたその本性が詳らかに開示されてしまった瞬間だったね。
そう、そのグループが行う公演のセントラルドグマはSEXだ。
劇場舞台袖に屹立する2本の柱はリビドー、男性器の象徴とも思えてくるのさ。
劇場内に渦巻く生物としての根源的な欲求、両者が発散する膨大な熱量が渦を巻いて巨大な奔流と化し劇場の中を畝って練り歩いて行くんだ。
欲望をぶつける側と受け止める側の間の攻防が続く内に双方がドロドロに溶解して交り合い融合して凝集していき、カオス的な構造となって劇場の内部に充満して行く感じなんだ。
まるで空気自体に色が付いたようにね」
「何色だ?」とオレは馬鹿な事を訊いてしまった。
「もちろん、」ショウナンは静かに笑いながら「桃色だよ」と答えて、言葉を続けた。
「濃厚で密度の恐ろしく高い空気さ。息苦しくなる位の、ね。こんな世界が地球上に存在したんだって、まるで新しい天体を発見できた様にも感じれたんだ。
小さな密室の中に充満した熱狂の高まりが絶頂を迎える頃になると覆っていた装飾が剥ぎ取られてしまって理性によって眠らされていた動物としてのヒトのメスとオスとして覚醒するんだ。SEXに潜む巨大なエネルギーがメンバーと観客の両者の内部で変化を起こして熱エネルギーとして放射されるんだ。まさに『散逸』さ。
そして放出された巨大なエネルギーが劇場全体に充満していき全体を自律的に一つの構造に作り替えて行く。両者を隔てている見えない透明な壁が、もし存在していなかったら、彼等と彼女等はその場でSEXをおっ始めていたかもね。
でも当たり前かもね。アイドルを遊女に例える人もいるけれど、遊女の源は巫女なんだからね。巫女は処女の少女から選ばれる。何故なら巫女は神様の『遊女』なんだからね。
ファンにとってアイドルは正に神様、逆もまた真なりで、アイドルにとって自分を支えてくれるファンの人は神様なのさ。根底にSEXが潜んでいても全然不思議じゃない。
僕にとってそんな世界は初めてさ。フィールドワークでもお眼に掛かれなかったよ。
そして僕の両眼はある1人の少女に釘付けに為った。
彼女がステージのドコに居ようとも、真ん中だろうが端っこだろうが裏に引っ込んで不在の時でさえも彼女から眼が離せない。ブラックホールの巨大な重力に取っ捕まった哀れな宇宙船の様に僕の視覚野を彼女が専制支配して全然離してくれないんだ。
まさに僕は彼女の虜囚さ。
関取と形象されることもある巨大な身体のノロさんやツインタワーと形容された背の高い2人、アキモトさんとミヤザワさんですら記憶の片隅にすら残っていない。
その特異点、彼女の名前は、オオシマ・ユウコという。
小っちゃいんだがね、とてもパワフルな少女さ。
仕事の方が忙しくてその後に劇場に行けたのはたった1回、最初連れて行ってくれた院生の子を、今度は僕が引き摺る様にして行った。
彼女は更にパワーアップしていたよ、トンデモない位にまでに、ね。
僕にはダンスの良し悪しは、ハッキリ言って判らない。でも1つだけ確信を持って言える事は彼女のパフォーマンスには無駄が一切無い。ペレがフィールド上でパフォーマンスを披露する時に彼の動きには無駄が一切無くて常に最短距離を進む。だから速い。
ソレと同じなんだ。彼女は常に最短距離を進んでいるんだ」
「成る程。直接見た訳じゃないけど何となくその娘のダンスは想像出来るな」オレは整った環境さえ用意できれば、ソイツは優れた兵士になる素質は十分備えていると思った。
舞踊は武闘に通ずる。古来そう言い交されてきたが、当たり前の話だ。優れた踊り手は左右のシンメトリーが良く取れているし、同様にシンメトリーが取れた兵士程優秀だからだ。
出来ればソイツをグリーンベレーの一員として育て上げてみたいモノだ、とオレは思った。
「握手会には一回だけ行った。
その頃はいまだシステムの構築が途中段階だったし、グループ自体の人気もそれ程じゃなかったから1人当たり30秒位は握手の持ち時間が与えられたんだ。
イヤーっ、緊張したね。
人生であれ程緊張した事は無かったし、コレからも再び訪れる事は多分無いだろうね。
緊張のあまり視野狭窄に陥っちゃってキューっと音を立てて縮まって行くんだ。あの頃はユウコさんも結構ガツガツしてたからオーラ全開で来られちゃってさ、何話したのか頭には少しも内容が残ってないんだよ。脳が記憶の形成に失敗しちゃったんだろうね。
それでアメリカに帰国してからもネットで彼女の事を追掛けてたんだ。そして何年か前のNHK紅白歌合戦の壇上からグループからの卒業を発表したんだが、別に僕はその事自体を驚きはしなかった。
コアなファン程その日が近付いてきている事を、ヒシヒシと感じていたからね。
ただ、最後は現場に立って見届けなければと言う想いはあったよ。
だからその翌年の3月に国立競技場で開催された春コン、そして6月に行われた卒業コンサートと卒業公演に参加した。秋葉原の劇場で行われた最後の公演、凄かったよ。何人ものファンの人達が、チケットを手に出来なかった人達が劇場を取り囲むように路上で立ち尽くしているんだ。僕は幸いにも超遠距離枠という海外にいる人専用のチケット応募枠を使って当選していたから中に入れたんだけどね。でもその時熱狂的なファンの一人が作成してきた法被を無理矢理に着させられてね、ちょっとヤンキーみたいで恥ずかしかったな。
その前日に味の素スタジアムで開催された卒業コンサートは良かったよ。
国立と味スタが二個一のコンセプチュアル・コンサートとして構成されていたんだ。
アイドルとしてのオオシマユウコの誕生を1日目で表現しておいて2日目にアイドルからつまりファンにとっての神から人間に還俗して行く行程をゴンドラに乗ってステージから家へと還って行くという演出方法を採用する事で非常に巧みに体現できていたのさ。
1人のアイドルの『誕生』と『死』さ。
初日の『誕生』の時、ユウコさんが岩を割って跳び出して来た時には思わず『孫悟空か、お前は』って笑っちゃったんだけどね」一気に喋って疲れたのか ショウナンは其処で1つ大きな溜息を吐いた。
そして暫く経ってから話を再開した。
「卒業コンサートの前日に、その年の総選挙が同じ場所で開かれていた。雨が降っていてね、正直参加を見送ろうとも思ったんだが、虫の知らせってヤツかな、行く事にしたんだ」
 少し水を飲んで喉を湿らせてからショウナンが言った。
「2014年6月7日第7回選抜総選挙、アリーナBブロック16、109番」
「何だい、そのマントラ(真言・呪文)は?」オレは訊いた。
「僕にとって運命の数字さ。その時まで卒業するユウコさんと同時に、彼女が所属していたグループの応援を辞めて一緒に外側の世界に出ようと思っていた僕を、再び内側の世界に引き摺り戻した宿命の番号だ」
『オイオイ、ただの席の番号じゃないか、大袈裟な奴だな』
そう言おうと思ったが彼の真剣な表情がオレを実際に発話する事から遠ざけさせた。
 ショウナンは続けた。
「その席は外周ステージの真横という、通称『神席』と呼ばれるとても鑑賞環境に優れた席でね、沛然たる雨にさえ見舞われて無きゃ最高だったと思うよ。メンバー達が自分の眼の前5メートルの所で踊ってるんだからね。手が届く様な近さ、夢の距離、さ。
そして、ある曲の演奏時に一人の少女が僕の目の前に降り立ったんだ、ふんわりと。
秋葉原でオオシマ・ユウコと出逢った事をファースト・インパクトと形容すると、ソレはセカンド・インパクトと呼べるかも知れない。
重力の影響を一切感じさせない彼女の踊りは文字通りオオシマ・ユウコの重力に囚われていた僕を一瞬で解放した。そして境界線を跨ごうとしていた僕の足を止めさせて、内側の世界に引張り戻したんだ。
彼女は雨の中で足許も悪いのを気にした素振りも全く見せず、サイズが不適合なウェッジソールをパカパカさせながら何度も綺麗なターンを決めるんだ。彼女の真横で踊っていた他のメンバーが驚いて二度見したくらいだった。
でも何よりも手の指の先まで、そして脚の爪先まで神経の筋が一本ピッと通っていて全然歪んだりしないんだ。イヤ、指の先までと言うよりもその先の空間までもキチンと意識して彼女の心が通されているんだ。全ての動作の細かい意味まで把握していて身体を動かしている様に微細な所まで気が配られていたとても丁寧な踊りだったね。
このグループの殆どのメンバー達が目指すダンスは基本、ユウコさんの様なモノだ。
質実剛健というか、バックダンサーの踊り、しかも男性のヤツ。
ユウコさん、踊っている時はとっても男前なんだよ。
だが彼女の踊りはソレとは全く異質のモノだった。
今言った様に、ユウコさんの踊りは『剛』、そうだな、ラオウの様なダンスだと言える。
あの柔らかそうな印象の有るマユシさんですら基本『剛』のダンスを踊る。
ソレに対して彼女のダンスは『柔』、そう、トキのソレだったんだ。
その時、彼女の踊りは僕を優しくフンワリと包み込んでくれたんだ。
『踊りは心から発し、そして心へと還る』
まさに、その言葉通りだ。心から発せられた舞踊は他人の心を確実に打ち抜いて魅了する。
彼女の踊りからは確かに彼女の『心』を感じ取る事ができたんだよ」
『踊りは心から発し、そして心へと還る、って、
確かソレは、音楽についてJ. S. バッハが言った言葉じゃなかったか?』
そう突っ込みを入れようかと思ったが、オレは静かに黙って、話の続きを待っていた。
「ナツ・マユミという振付の先生の言葉に『踊りを見ればその人の本質が解る。踊りにはその人の本当が現れる』というのがある。
彼女のダンスを見た時、僕はこの時、この娘はとても真面目で丁寧な人なんだと確信した。
でも僕にとってそのグループは『オオシマ・ユウコと愉快な仲間達』という、少々歪んだ認識状態だったから、その少女が誰なのか全然判らなかったんだ。
彼女もまた『One of them』だったから。
だから可能な限りその娘についての情報、着ていた服、地色が赤でミニのフレアスカートのワンピ、ベージュ色で背の低いウェッジソール、右のコメカミ辺りに付けた銀色の太い針金を折り曲げて作られた様な星の形をした髪飾り、長い手足に少し茶掛かったロングかおかっぱのロングの髪、そういった情報を脳の記憶回路に記銘した、死に物狂いで、ね。
その晩ホテルに帰ってから僕は必死になって探した、ネットでね。
少しでも情報が欲しいから普段は行かないような掲示板に書き込みをアップしたりもした。
でも駄目だった。
ネットの中の住人の人達は予想に反して優しかったけれど異口同音、一様に『判らないヤ』と言うだけだった。
帰国してからも探し続けたさ、研究そっちのけでね。
何ヶ月間か探して、結局見付けられなくて諦めかけた時にYouTubeから僕にお勧め動画を知らせるメールが送られて来た。何気なく観ると中にその娘がいた。それはあるケータイゲームのCMフィルムで、彼女は画面の一番右端で大きくて丁寧な踊りを披露してた。
左足を半歩前に出す振りの時に彼女だけクイッと足首に捻りを入れててとてもディテールのシッカリしたダンスだった」ショウナンが言った。
 ほう、ソイツも優秀な兵士に為る素質を持っていそうだな、とオレは思った。
「演技の間中ずっと『息がつんでる』んだ、彼女」
「途切れないのか、集中力が?」
彼はコクリと小さく頷くと、話を続けた。
「でもさ、見つけられる訳が無かったんだ」とショウナンが苦笑交じりに言った。
「何故だい?」
「僕は彼女の身長を160位だと踏んだ。そして周囲のメンバー、誰一人として顔を知らなかったからハカタかナンバのどちらかの支店の娘だと思っていたんだ。
しかし、違ってた。
彼女の身長は当時150を少し超える位だったし、それに本店の娘だった。
前提条件が、そもそも間違っていたんだ。それにね」ショウナンは上げた顔を、コチラに向けながら、言った。「さっき、真面目で丁寧な性格の娘だって言ったよね?」
「あぁ、確かに」オレは言った。
「彼女、オオシマ・リョーカの二つ名はksgk、クソガキって呼ばれている娘だったんだよ」

 余裕を持って7時半にセットされたiPhoneのアラームアプリが痺れを切らしかけた8時、諦めた様に最初の男が動きを見せた。
最初に目を覚ましたのはヤスダだった。
『ウッ、未だ酔いが全然、醒めていない』
 酩酊状態が続いていたが起き上がり、霞む両目を擦りながらも部屋の中を見渡すと綺麗に片付いていた。料理人達の姿は無く、そしてショーナンの姿も見えなかった。毎日みんなで囲んで食事を摂ったテーブルの上には大鍋に一杯の鶏肉入りのケンチン汁と手拭いが掛けられた大皿が一枚乗っていて、捲ると30個ほど塩で握られた御結びが盛り付けられており、ヤスダがその山から一つ取り上げてみると未だほのかに温かかった。
「ショーナンさん、いませんか」ノックもそこそこに、ショーナンの使っていた小部屋のドアを開けると、中には誰の姿も見えなかった。
ガランとした部屋の内部には、空虚という文字が空気中を漂っているだけで、シンプルな家具、シングルベッドと簡素な机と椅子が置き残されているだけだった。
 ヤスダは、それでも何かを発見できるのではないかと、微かな想いと共に部屋の天井から床まで見渡した。すると、視覚器官は知覚して脳に情報信号を送っていたのだろうが余りにも想定外の事物な為に皮質が認識できなかったと思われる、ド派手な意匠が眼にキツイ高島屋の紙袋が床の上に9つ置かれているのにヤスダは漸く気付く事ができて、1つ手繰り寄せて中を覗き込むと封筒が一つ入っており、ホイッと取り上げると封はされておらず、『何なのかな?』と中を確かめると、内側から本日の総選挙用の無記銘の招待用アリーナ席のチケットが1枚出て来た。
『ショーナンさん』粋な事してくれるぜ、とヤスダは思った。
 まだ何か入っている事に気付いて中を覗き込むとソコには帯封が施された1千万円の束が2つ寝転んでいた。

 オレはHARD OFF ECOスタジアム新潟のトイレの個室で腰掛けて装備の再確認をした。
戦闘用ベストのモール・システムに取り付けたシースに収納してある特殊加工が施されたセラミックブレードを装備するCIA御用達のナイフ、通称マッドドッグ、幅広の刃面を備えた物が一振りとタントーブレードが一振り、で合計2本。ベストの下はBDU、バトル・ドレス・ユニフォーム、端的に言うと市街戦用のグレーの迷彩模様の戦闘服だが、特殊なアラミド繊維で織られており、ある程度の耐熱耐炎そして耐刃性を有している優れ物だ。
足許はアフガンでも使用したゴアテックス製のブーツだが、最新型でビブラム製のソールは多少の対人地雷は物ともしない特製品である。
天気図からすると絶対に大雨になるから下着は速乾性の高い化学繊維製品だった。
身体を濡れたまま放置すると体力の消耗具合は著しいテンポで進行して即座に行動不能なレベルにまで達してしまうから、その点は繊細なまでに気を配っておかなければいけない。
 お次に、オレは50円玉一巻と穴の直径と長さにピッタリ合う様に特注したバネを1本取出して、新たな武器を制作し始めた。
コインの穴にバネを差し入れると正にジャストサイズで緩くもキツくも無くシュッと無音で収まった。バネの端の飛び出た耳の所を折り曲げ、箸に巻き付ける事でサイズを大幅にダウンさせて携行し易くしたガムテープを千切って貼り付ける。コレは布地を痛めない為の養生だ。そしてフィールドジャケットのポケットから丈夫なナイロン製の靴下を取り出すと50円玉一巻を入れて口を封じ、即席のブラックジャックを作り上げた。
運営の皆さん、金属探知機など何の役にも立たんよ、とオレは低く笑った。
硬貨が何枚かとナイロンの靴下、無ければコンビニのレジ袋でも代用可能だが、この2つがあれば非常に使い勝手が良くて戦闘能力が高く有用な武器を作成できるからだ。
小銭と靴下、会場内に持ち込むな、とは言えないだろう、な。
 足許に置いてある高島屋の紙袋から丸められたタオルの塊を取り上げた。
柔らかな被覆の中から些か奇妙な形状をした小型の双眼鏡を取り出すと丁寧に折り畳まれていたランヤードを解いて首に掛けた。ザッと眼を走らせて軽い点検を終えるとクイックリリース出来るアタッチメントハーネスを使ってベストのモールシステムに固定する。
第5世代の超小型暗視ゴーグルだ。
それを取り付け終わってからジャケットのポケットの内に在る米軍専用のIRも照射可能なシュアファイア製のLEDライトを手で触ってその存在を確かめた。
漆黒の闇の中では有効なカップリングだ。先程のゴーグルと組み合わせると真の闇の中でも楽々と行動が可能となる。
 ヤスダ達の話を総合すると『指ヲタ』といわれる人物たちはそれほど危険な訳では無い様だ。しかし、常にあらゆる状況に即した対応策を考え出し、最悪の事態に備えて準備を整えておくことが戦術だ。戦術とは『某時期・某局面における軍事計画と実施』である。
 オレはAチームの隊長だったから、勿論戦術のエキスパートだ。
考えるよりも早く、脳味噌と身体が反応して用意を整え始める。
 勿論、コレはジョークだ。
何も考える事もせずに衝動的・刹那的に行動するのは、バカ以外の何者でもない。
 その生涯において、戦闘とは全く無縁の人間ばかりの日本人相手に些か過剰過ぎる位の重装備である、と自覚はしていたので、己の呆れるほどの用心深さに自嘲めいた冷笑が、自然と浮かび上がってきた。ヤリ過ぎかもしれない。
しかし『指ヲタ』の中にも向う見ずなバカがいたり、ジム通いの肥大化した筋肉野郎が、自分は武闘派だ、等と勘違いして無鉄砲な凶行に及ばないとも限らないから、そんな非常事態に備えた細やかな装備を揃えておいたのだ。
 前回と同様に、今回もこの国には密入国した。
この国の人間は海が他国との障壁に為り得ると信じ切っているようだがオレの様な人間にとっては全ての海岸線が税関無しの出入り口と同じ。現在のオレの身分はCIAの特殊工作員としてある政府機関に登録されている。オレの様な人間が大手を振ってこの日本を闊歩できる様に担保してくれているのが日米安全保障法体系と言う便利な代物だ。
そしてコレも前回同様にオレの行動範囲の総ての監視カメラ、家庭・会社・駐車場・街頭そしてコンビニに設置されたカメラにすら、オレに関する記録は一切残されていない。
 何故か?
マイクがプレゼントしてくれたAI型マルウエア、Stuxnetをオレはネットの中に放流した。
厳密に言うと情報収集や遠隔操作などを担当する補助的なプログラムのDuquとFlameが2つ付随しているのだが面倒臭いので1つとオレは看做している。この可愛い仔猫ちゃん達はオレの指示にも従うし、自分で考えて行動する事もある。放流された瞬間から彼女達は自律的にネットに繋がれた全てのサーバーとパソコンにケーブルや無線を経由して侵入して筐体の内部の何処かに潜み巧妙にその存在を隠して続けている。そのPCが家庭や会社のモノで脆弱な能力しか持ってない時は、自らを圧縮してコード化した上でステガノグラフィーとして表面上は画像とか映像とかのファイルに化ける事でその身を隠匿する。
 彼女達のその侵入方法は実に巧みだ。
パラサイトがホストに感染する時に『免疫寛容』という手段を用いるが、ソレによく似た手法を仔猫ちゃん達も取る。一度潜り込んだら内部環境に合わせ自分をさも正常なソフトの様に擬装したり、或いは自分自身をバラバラに分解して機器内部の至る場所に分散して配置しておく。こうしてウイルス対策ソフトを無力化するのだ。
バラバラに分解された彼女達の各パーツは相互に連絡を取り合いまるでアルカイーダの様に任務を分担してクラスター的に各自の判断で独自に問題処理する。侵入したサーバーが監視カメラ用の物だと判断するとオレに連絡して指示を仰ぐが、オレからの返答が何も無ければ自律的に処理を進めて、方々の端末のカメラから送られてくる映像をサーバーが記録して行く傍から記録媒体上のデータを悉く破棄してしまうのだ。定期的に寄越す報告によってバラ撒いたマルウエア達が与えられた仕事をとても上手に熟して行った事をオレは知っていた。
 つまりこの国にオレの痕跡は一つも無い。
 オレが彼女達に与えた命令は3つ。
その1番目はこの国の何処にもオレの記録を残存させない事だ。
その目標を達成する為には彼女達は何事も厭わない。
たとえ彼女達が為したその行為によって社会が大混乱に陥っても何の痛痒も感じる事無く働き続ける。だって彼女達は人間の様な感情が無いのだから。
知らない画像をファイル内に見つけた奴が削除しようとしても無駄だ。
敏感な仔猫ちゃんは直ぐに察知して既に用意してある別の隠れ家にミリ秒単位でお引越しを完了してしまう、アナタがタップ完了する何秒も前に、ね。
可愛い仔猫ちゃんは今、この国のほぼ全てのサーバーに潜んでいる。
このグループに関心を持った人間のスマホにも感染し、潜伏している。
全国津々浦々、とにかくウジャウジャ、いる。
 別にオレに何か特別な考えがあった訳でも無い。
勘だ。
ただ戦場では勘は重要なのだ。戦闘は流動的で絶えず変化を続けて行く。そしてその変動に柔軟に適応出来た者だけが生き残る事ができるのだ。外部からの情報が途絶された環境下では頼れるモノは己自身の勘だけだ。
今回どうやらTVの生中継が有るらしい。もし不測の事態が発生してオレの情報が漏出しそうになればオレが何もしなくても可愛い仔猫ちゃんが働いてくれて放送自体をシャットダウンさせる手筈だ。既にTV会社のサーバー及び全会社員のPCにも仔猫ちゃんが潜んでいて動き出す時を静かに窺っている。おっと、スマホにも、な。
ヤスダ達の話によると運営サイドもかなりの数のカメラで撮影をするらしいが、誠に残念でした。運営会社はもとより子会社の撮影担当会社のサーバー及び全社員、メンバー全員や公式サイトにアクセスした全ての人達のPCにも一匹の仔猫ちゃんが其々雌伏している。
おっと、スマホにも、な。
 あぁ、そうだ。チームのみんな、スマナイ。
みんなの記念写真やオレが写った写真はあと数時間以内に消去される。それらの写真は、思い出として手許に残して置きたいのだろうが、どうか我慢してくれ。
オレの勘が告げるのだ。己の足跡を一切残すな、と。
イベントが終わって映像を撮り終えた運営の撮影スタッフが映像記録を移す為にSSDをスロットに差し込んだ瞬間に総ての記録が異次元に素っ飛ぶ。
オレは撮影スタッフが気の毒になってきてしまった。
彼等の今日の労働は何も生産しない。全くの無駄働きだ。
でも、まぁ、給料は支払われると思うから、ご勘弁を願う。
オレが参加した握手会でも至る所でカメラが何台も回されていたが、このケースではオレが写っているシーンのみ削除する様に指令してあった。だが、今回は総てカットだ。
その理由は費用対効果だ。この場合の費用とは時間を意味する。
 一番最初の仔猫ちゃんが運営のコンピューターシステムに侵入を開始したのは、オレがリョーカと初めて接触した全握を遡る事約一カ月ほど前だ。
ま、本物の人工知能プログラムでは無いから自己進化は出来ないが設定された目標を達成するのに邪魔な障害が発生したと認識すると即時に問題点を洗い出して自身のプログラムの修正を施す事でトラブルに対処して行く性格を持っている。
あれ、この特徴って自己進化の範疇に入るんじゃないのか、マイク?
 ま、その疑問に構っている暇は、今は無いから、一旦脇に措いておくとするか。
彼女達は自律的に自己複製を繰返すとシステム内の色々な場所に自分の分身を隠匿して別の筐体に移住できる機会を虎視眈々と窺っていた。日本の皆様、戦争は始める前から、どう終えるか、終わった後どう処理を進めて行くか、考慮してから取り掛かるモノだよ、
フフン。
 首尾よくリョーカのスマホとPCに侵入できた仔猫ちゃんから情報が上がり始めたのが、『初会』の10日前。だからリョーカがオレに関する情報を求めてグーグル検索を駆使し始めた事も手に取る様に解った。
 ゴメン、リョーカ。
キミがアクセスしたサイトは総てフェイクだ。
相棒に関するあらゆるデータは、彼がホスピスに入院する前、既に彼自身の手でネットの内側の隅から隅までチリ1つ残さない様に綺麗に掃除されていた。キミが手にしたモノは『何の情報も無いと返って疑われる』というオレの意見に従って、相棒と一緒に新設した物だ。大部分が真実で核心のみが作りものだ。本当に秘匿しておきたいことを虚偽とすり替え、周囲を真実で取り囲んでおくと、人間は勝手に全てが真実だと勘違いをしてくれる。
セントラル・ドグマは真紅の『嘘』であるのにも関わらずに。
 それから、タカちゃん、済まない。
実は君のiPhoneの中にも仔猫ちゃんが1匹欠伸を噛み殺しながら潜んでいる。
バーで初めて会った時に、途中でトイレへと席を立った隙を見計らってスルッと仕込んで置いたモノだ。だからリョーカと同じ様に、君の得た情報も全てフェイクだ。
 そして今やそのフェイクのサイトすら存在していない。
 あ、あと1つ。些か言い訳染みた弁解に響くだろうが、リョーカ、キミのプライベートに関しては一切タッチしていないから。
着替える所は全く覗いてないし、相棒の情報によるとキミが部屋に居る時は裸の事が多いそうだから、個室内に居る時にカメラは一切回してない、だからその点はご安心を。
 でも昨日、向かい側のビルに居た人達に見られたりとかしなかったのかい?
本当にホテルでも真っ裸だったのか、確かめて置くべきだったかも知れないな。
 掌中のiPhoneのパネルを1回タップすればこの周辺一帯全ての電源、非常用の予備電源すらも瞬時に喪失させる事が出来る。
このスタジアムの近傍に病院等の医療施設は無いから胸が痛む事故は発生しないだろう。
 そう、オレは前回密入国した時にこのスタジアムを下見した。
関門をスルリと抜けて入り込み建物の内部も隈なくウロついて全ての構造を把握してある。
その後、周辺を探索して脱出が必要な時に使用出来る経路も見付けてある。今朝は開場時間の3時間前に来て周辺を再探索して変化してないか確認しておいたのは言うまでも無い、コレ等は全て変哲もない些末な事、必要最低限の偵察行為に過ぎないのだ。
 全ての事象がほぼ完璧だ。
 ここまでの事物の流れはシナリオ通りに粛々と進行している。
もし不測の事態が勃発したら速やかに撤退行動に移る。ソレだけだ。
目標達成も大切な事だが、生き残る事が肝心なのだ。ソレがゲリラの本質だからだ。
まず有り得ない事だが、数々の僥倖が体制の味方をしてショウナンの所まで辿り着けたとしてもヤツがベッドから離れられない事は一目で判る。彼の安全は時空間の懸隔が完全保証してくれている。
 これがAチームのやり方、用意周到と呼ぶべき類いのモノだ。
サミュエルソン、ビットマン、マイク、シュナイダー、ゴードン、ミキュレック、ミラー、ランドール、ベルソン、パーシー、ウェールズ。
お前達と出逢えた事と、そしてチームから1人の戦死者も出さなかった事、その事がオレの誇りだ。
オレ達米軍は誰一人として見捨てたりはしない。
戦場に置き去りなど絶対にしない。部隊員全員で基地に帰還する事が、それが隊長であるオレの最優先事項だ。昔の何処かの帝国陸軍とは訳が違う。
 ビットマンの名前と顔を浮かべた時に少し笑いが漏れてしまった。
ビットマンはファーストネームがマイケルで、その所為だと思うが副長のサミュエルソン准尉から「入る部隊を間違えてるんじゃないのか? 機甲化師団は向こうだぞ」と事ある毎にからかわれていて、その度に「戦車の時代はもう過ぎ去りました」と返すのが常だった、そういうお約束事の様な2人のやり取りを思い出してしまったからだ。
 そして今や親友とも呼べる仲のマイク。
彼のくれた疑似AI型マルウエアは役に立った。総額が10万ドルでは安かった。
次回があるのならば、今度はもう少し支払金額をはずもうと思う。
ODA-5121、第5特殊作戦グループ第一大隊B中隊第一Aチーム。良いチームだった。
 だが、今回編成したチーム、『チーム・リョーカ』もまた良いチームだったよ。
みんな素晴らしいヤツばっかりだった。ま、1人だけ少し残念な奴もいたが、な。
 オレは投票を無事に終える事が出来た時に慟哭しているサトウの顔を思い浮べて笑いを再び、漏らしそうになった。

 ヤスダがショーナンの部屋から大部屋へと戻る頃、三々五々みんなは起き出して来て、まだ泥酔状態と形容できるボロボロの身体に鞭を打ちつつ何とかこうとか服を身に付けた。
 文明人としての最低限の身嗜みを漸く整え終わった時に、いきなりドアが乱暴に開け放たれて掃除のオバちゃん達が10人位何も言わずに入って来た。終始無言のオバちゃん達は、チームの仲間達を有無をも言わさない圧倒的な迫力で一掃、ヤスダ達は箒で払われる様に追い出されてしまった。フジムラなどは最低でも御結びを2個は確保しようと相当に粘ったのだがカビキラーをシュッシュッと顔面10cmの所で噴霧されて、為す術も無く撤退させられてしまった。
 外へと追い払われた仲間達は建物を見上げながら口々に愚痴っていた。
「メシ、どうなっちゃうのかな?」フジムラが心配そうに言った。
「アイツ等、全部自分らで喰っちまう心算だぜ」サトウが部屋を見上げながら、言った。
「ま、廃棄処分に為るよりはマシさ」ニタが苦しそうに喘ぎながら言った。
「おい、お前達、タクシー来たぞ」手配した車を指し示しながらモリサキが言った。

 全ての窓という窓を全開させた上に外気循環も全開のタクシーが3台連なって東京駅の八重洲口に到着した時、サイドに『饂飩処もりさき』と記されてある白色のハイエースとモリサキのカミさんがチームの連中を待ち構えていた。
チームの仲間達の荷物を預かって貰う為に駅へと向かう道すがらモリサキが連絡を取っていたのだった。モリサキの妻は長身のスラッとした美人で化粧気の無い昭和の香りが漂う顔立ちにボブの髪型がよく似合っており、その長軀を洗い晒した露草色のコットンシャツと亜麻色のチノパンツの中へと滑らせ入れていて、少し、イヤ、相当に素敵だった。
「アンタ等、酷い顔してんねぇ」モリサキのカミさんが顔を顰めつつも笑いながら言った。
「よう、カアちゃん、有難い。」
 じゃ、みんな荷物、ココに入れてよ、と言いながらスライドドアをモリサキは開けた。
 荷室内に用意されていた段ボール箱を展開して仲間達はそれぞれ荷物を梱包し始めた。
「ショーナンさんの話では、この時季の新潟は雨が降ると相当に寒いらしいから防寒対策だけはシッカリと、な」そう言いながらニタは不要なモノを箱に封入した。
段ボールに荷物を押し込み布テープで封をしてマジックでデカデカと『佐藤』と記名するとモリサキの奥さんに向かって「パソコン、新品だから気を付けてな」とサトウは言った。
「任しときな、ズンがズンがッ! 踏ん付けてやるから」
「相変わらず豪快だなぁ、奥さんは」苦笑しながらサトウが言った。
「おう、早くしないと新幹線、出ちまうぞ」
 敗残兵の様な足取りで、チーム・リョーカの面々はホームに向かって歩き始めた。

 臨時ダイヤとして組まれた『とき361号』新潟行が、東京駅の22番ホームを静かに離れたのは定刻通りの9時52分だった。総選挙に参加する人間にとっては万事が好都合であるこの列車に関しては、全ての指定席はグリーン車も含め丁度1ヶ月前の5月18日午前10時ポン打ちの段階で綺麗サッパリと瞬間蒸発していた。
 だから素直な人達は諦めて1本前の列車に変更するか、または早めにホームに来て自由席の為の列に加わるか、のどちらかを選択したのだった。
だが、この呪われた運命の不幸な『とき361号』が上野を出発して大宮に近付く頃には列車内は軽いパニックに襲われ始めていたから、結果的に言うと前の列車を選択した方が正解だったのである。
 不幸の予兆は始発駅の東京で発車のベルが鳴り終わる寸前に5号車の車内に駆け込んできた9人の男達が持ち込んできた。もうその時点で車内は軽く込み合っており、自由席もほぼ満席でチラホラと立っている乗客も見られる位だった。だから、その男達9人は軽く内部を見渡して空いている席が皆無な事を確かめると仕方無さそうに座席に寄り掛かりながら通路に立つ事を選択したのだった。しかし彼等の内2人は嗅覚鋭く空席を探し当てて、通路を隔てて仲良く並んで座る事が出来たのだった。その2人は申し合わせた様に着席後1分も経過しない内に爆睡し始めた。その事自体は別段迷惑な行為でも無かったのだが、やがて3列シートの端のC席に座った野武士のような風貌の男が静かに鼾をかき始めた。
男のイビキは次第にエスカレートして行って、仕舞いには離陸直前の戦闘機が発する位の大音量を生み出す様になってしまった。そのデシベルは凄まじく周囲の乗客達は反射的に手で耳を塞いだのだが、そんな薄い遮蔽物など全くお構い無しに易々と貫通して、轟音は哀れな彼等の鼓膜を激しく震わせ続けていった。すると野武士に釣られた様に通路を隔てて隣りに座った土の香りがしそうな純朴な外見の男が、今回は一切の序章無しでいきなりのクライマックスレベルで削岩機の様な歯軋りを立て始めてしまった。この彼等のイビキと歯軋りの二重奏に、辛抱堪らず5号車から脱出を図る乗客もチラホラと出現し始めた。
その様子を不安げに眺めていた山ガール様のファッションに身を包んだ女子大生3人の横には、短軀のラグビー体型をした男が立っていた。彼女達は3列シートに仲良く腰掛けながらも気遣う様にチラチラと男を見上げていた。先程からグラグラと男の体が前後左右に傾いで揺らぎ続けていたので大惨事を避ける為に、彼女達は注意を払っていたのだった。
しかし男は彼女達の気持ちに一切御構い無しにグラ付き度合いを深めて行って、上野駅を出発する時になって発車のショックで転びそうになり、一旦は「うっ!」と軽い呻き声を漏らしながらも何とか耐えて持ち堪えたのだが、その後ポイントを通過する度に左右からの連打を喰らったボクサーの様にフラ付き、最後に列車が本線に戻る時の衝撃が止めの一撃だった様で、我慢し切れずに形の整った女子大生達の太腿目掛けて失速状態に陥ったまま錐揉みスピンしながらダイブしてしまった。ヒーッと声に為らない悲鳴を上げた彼女達だったが、間一髪降ろしていた肘掛けがシールドの役割を果たしたので直接男の身体に触れずには済んだ事は不幸中の幸いだった。思わず彼女達は隣に立っている端正な顔立ちをした男に救いを求めるような視線を送った。するとソレを合図としたかの如く「グフェッーフェッーフアッ」と盛大な音を立てつつ、イケメン男は甘く凶悪な感じに熟れ切ったリンゴの様な肌にネトッと絡み付く酒精そのモノとも言える悪臭高いオクビを、彼女達に頭の上から浴びせ掛けてきた。その極悪な腐臭に彼女達は殆ど気を失いかけてしまった。
この発せられた一発のオクビを端緒として残りの男達も一斉に瘴気を孕んでいるとさえ形容できる程のゲップを盛大に漏らし出し始めた。これまた不幸な事にこの日は肌寒く、乗客の健康を気遣った車掌が冷房を切って送風のみに設定していた事が、この阿鼻叫喚の悲劇を助長した。男達の吐き出す甘く腐った呼気は、エアコンからの送風に乗って車内に充満していき、濃厚で密度の高い『腐界』を形成し始めていた。
 穢れから逃れる為にゲルマン人の大移動よろしく乗客達は他の車両へと脱出をし始めた。
膝の上に圧し掛かったラグビー体型の男が邪魔で動きが取れないであろう件の女子大生達も、どう工夫をしたかは全然不明なのだが何とか虎口を抜け出せていた。
先頭車両と最後尾を除いて新幹線の客車は1車両当たり座席が85席備え付けられてはいるが通路には最大でも30人位しか立てない。つまり、収容人数は多くて1客車当たり120人弱なのだ。だが5号車を脱出した乗客達が殺到した為に他の客車はほどなく収容限界を超えてしまってキチキチのギュウギュウ詰めになってしまった。加えて大宮や高崎からもソレなりの人数が乗車して来たから、混雑具合に余計な拍車が掛かり埼京線も斯くありと言わんばかりの超過密ラッシュ状態に陥ってしまっていた。
 高崎で乗って来た、事情を知らない乗客の一人が『何故5号車がガラガラなのに他の車両はギチギチに人が満載されているんだろう?』と首を傾げて不思議がりながら、自動開閉機能がオフにされた5号車のドアを手で空けて中に入ろうと一歩踏み入れた瞬間に、車内に満ちている濃密で凶悪な腐臭が放つマイクタイソン級の左フックからの左右の連打を全身に浴びて一瞬で意識を朦朧とさせながらも辛うじて這う様に他の車両に移動したという珍事も起きた。彼がコジ開けた事によって開放されたまま放置されてしまったドアを閉めて、件の客車内満腔の腐敗臭が他の客車内へ侵襲する事を防ごうという気力が一筋すらも湧かないのか誰もピクリとも動こうとしないので、ある少年が決死の覚悟で閉めにいった。
 必死の形相で閉め終わると少年は振り返ってデッキに視線を這わせた。
何がしかの称賛を少しは期待して振り返ったのだが、HPがほぼゼロの人々にはそんな気力すらも残されては無く、視点の定まらぬ眼で呆然と見詰め返されるだけだった。
 少年は思った。
『まるで野戦病院みたいじゃないか』
少年に野戦病院の経験は勿論なかったが、本能がソレと悟らせたのだった。
 ドアに嵌め込まれた色付きのガラスを通して少年は5号車の中を覗き見た。
その内部で9人の男達は、それぞれ好き勝手な恰好で寝ていた。
3列シートを贅沢に独り占めして寝る者もいれば、2人掛けシートをボックス風に向い合せにして、何故かソコは行儀良く靴はキチンと脱いでから向かいのシートにドーンと足を載せて寝ている者もいた。
少年は必死に考えようとした。
『コレは一体何なのだろうか?』と。
 だが、何1つ考えは浮かんで来なかった。
『考える』という事は、言ってしまえば『言語化』だ
言葉という非常に高度に抽象化された概念を駆使して眼の前の曖昧な状況や自分の内側のモヤモヤしたモノを明晰化し意識化して行く作業である。
だがワンピースとポケモンのみに耽溺していた彼には、眼前に広がる情景を的確に表現する為の語彙を持ち合わせていなかった、というよりも必要な『言語』すら体得できずにいたから、何の思惟も皮質上に浮んで来なかったのだ。
 しかし、ある感情が彼の心の中に、フツフツと心に湧き上がってきていた。
彼の内に湧出した感情を言語化すると、
『自由だ』
ボクには手の届かない『自由』がドア一枚を隔てた場所に滔々として存在している。
少年は真に悔しさを覚えつつ、そう思い知らされた。
実際に彼の脳裏に浮上した言葉を列記すると『たった9人で全部、使いやがって』だが。
 そして、彼の心に残存していたモノは、the Deadly Sinsの内EnvyとAngerだった。
 越後湯沢駅で清楚なガーリーっぽい恰好をした女子中学生2人が乗車しようとしたのだがデッキの中にはペナルティキックの時にサッカーゴール前に形作られる壁が如くに立錐の余地なく人が立っていて、その充填された人の群れに気圧されてか、2、3歩程後退りしながら「次に、します」とだけ言って早々に乗車を諦めさせられてしまった。
 不穏な空気と疲労困憊した乗客がパンパンに詰まった『とき361号』が新潟駅の14番線に入線する数分前、9人の傍若無人の男達の中で最初に目覚めたのは、端正だが何処かしら鳥っぽい顔立ちをしたサトウだった。
「おう、オマエ等、起きろ。着いたぞ」
 ヲトヲを除いた8人は列車が提供する振動の所為かアルコール自体はスッカリ抜け出てしまっていたから、霞みがかった頭はともかくも身体はシャッキリ・ポンだった。
「ある乗り鉄によると振動が内臓を小刻みに揺り動かし続けるので乗車飲みは酔わないのだそうだぞ」普段からボーッとした顔立ちなのでアルコールの影響なのか判別付かないが、とにかくボーッとした面構えのモリサキが根拠の全く感じられない与太話を皆に話す。
「そうか」全然納得してない感満載でニタが取り敢えず、その場しのぎの相槌を打った。
 チームの全員がホームに降り立ち、時間を確認して余裕がある事を知るとサトウは、
「じゃ、二日酔い防止の為にラーメン、喰いに行くか」と言った。
「三越の並びにある三吉屋にするぞ」モリサキが言った。
「あそこのスープは澄んでいてサッパリしているのにコクがあるから美味いんですよね」
「あの、僕は、面だか屋の方が良いんですけど・・・」
 そう小声で呟くヲトヲを完全に無視して、仲間達は新潟駅の万代口へと歩みを向けた。

「自分で例えるのは些かおこがましいが、差し詰めオレは円卓の騎士ランスロット卿ってトコだな。動けないキミ、アーサー王に成り替わって国中を飛び回り華麗に剣を振るう」
「道理でキミの力が十人力の理由が解ったよ」
「それは息子のガラハッドだろ」
「オッと、文学通のスナイパーだ」
オレ達は顔を見合わせて短くククッと笑った。
「ドレぐらい票を投ずれば確実なのかな?」オレが訊いた。
「去年の1位が20万弱だから、最低でもソレ以上だろうな」ショウナンが答えた。
「口座を一つ作るからソコに資金を振り込んでくれ」
「僕の口座から直接じゃ駄目なのかい?」
「ああ、この手の工作の時には足が全く付かない口座の方が何かにつけて都合が良いんだ。
任せてくれ。破壊工作はオレ達の得意分野だ」
「別に、僕は総選挙を破壊してくれって頼んでいる訳じゃ無いんだけど」
「たった1人の人間に対して一辺に20万以上投票するんだぞ。システムの根幹が揺らぐ。
と言うよりも、こういう状況に陥ってもトップが危機感を持てないなら、このシステムには終了フラグが針山の様におっ立つさ。20万人のファンが自分の小遣いを必死に貯めて買った一枚を投じても、1人の金持ちが道楽で20万入れても結果的にそのシステム内では全然変りが無い事実をお客たちは突き付けられるんだからな。何割かは余りの馬鹿馬鹿しさに気付いて外側に離れて行っちまうかも知れないぞ。そうなったらビジネスとしての観点から見ても最悪だ。お前さんの言う通りに、その『総選挙』とやらが件のグループにとってアルファでありオメガであるならば、全てが終わり、世界の終焉の時を迎えるのさ。
生き延びる為には新しい違う魅力にあふれたモノを創造して行くしかない。
ソレが出来なければ早晩立ち行かなくなることは必至じゃないか。創造する為には先ず破壊しなければならない。ビルの上に違うビルをもう一個建設するなんて不可能なんだから。
伝統ってのはそうやって出来て行くんだ。
米軍が何故ずっと世界最強でいられ続けるのか、知ってるかい?
アソコは常に変化し続けているんだよ、変わらないでいる為に、ね。
良いと思ったモノは柔軟な姿勢で素早く採用するし、不要と判断したら仮令一時期は非常に上手く機能したシステムでも一切の情け容赦無く切り捨てる。そうやって常時組織自体を新陳代謝させて行く事を怠らない。だから常に最強なんだ。
伝統ってのは破壊と創造の、言わば連続体だ。
運営がその組織を『伝統』にしたいと言う意志が在るのなら、ヤルしかない。
他に道は無いんだよ」オレは怒涛の如くに喋った。
話が始まって以来胸に閊えていた何モノか全部を一気に吐き出す様な勢いで、喋った。
喋り終えると、何か霧の様なモノが晴れ渡った気がして、静かにひとつだけ息をついた。
ショウナンはそんなオレを見ていて、何かピンっと閃いた様に顔を明るくした。
「そうだ、良い事を思い付いた。
僕は全財産をリョーカに残して行く心算だったが、でも少し修正を図って基金を作ろうと思う。目的は、リョーカを幸せにする事、ただソレだけだ。
管財人は僕の顧問弁護士に依頼する事に為るけれど、だが代表は、君だ。
何があっても君は生き延びて少しでも長い間リョーカを見守っていて欲しい。残念だが僕はそれほど長く生きられないからな」そう言ってショウナンは吐息の様な笑いを浮かべた。
「了解」
「さっき言った様に大学時代みたく僕に『成り済まし』て、タカハシという僕の旧い友人に謝罪をして欲しい。そしてリョーカに接触して彼女の真意を探り出して、もし彼女が、心底望んでいるのであればポジション・ゼロをプレゼントして上げて欲しい。
接触方法かい?
握手会が一番手っ取り早いと思う。
握手会は全国握手会と個別の2種類存在しているけれど、全握の方だな。
100枚くらい握手券を使えば10分は喋られるからね」
「しかし何故お前さんのbody doubleをしなければ為らないんだ?
別に正々堂々と代理人として2人に接触すれば良いじゃないか。もし身代わりがバレでもしたら疑われてしまって、最悪の場合、もう何も信用して貰えなくなる危険性が高いぞ」
「君なら大丈夫。ソフモアの時、僕の代わりにエミリをデートしただろ? あの時よろしくやるチャンスを君は避けてくれた。ベッドの上まで行く様なそんな最接近な状況、しかも相手は僕のステディだ。それでも全くバレなかったんだ。長い事有って無いタカちゃんはおろか、実際に会った事の無いリョーカは疑いを持つ機会も無いよ」
「知ってたのか?」オレは些か動揺しながら訊いた。
「ああ、でも君なら絶対最後の一線は越えないって判ってたから心配して無かったよ」
「でも代りに女の子と握手しろっ、てのはなぁ」オレは天井を見上げながら言った。
「僕はここを動けない。長時間のフライトにも耐えられそうにないし、ね。でも一回位は彼女と握手をして会話を交わしてみたいじゃないか」
「お前さんの代わりにオレが話したとして、ソレが一体何なんだ?」
「馬鹿だな、アバターって映画観てないのか?」
「その頃はアフガンで手持ちの弾丸を消費するので手一杯だったんだよ」

 HARD OFF ECOスタジアム新潟のフィールド上に特設されたアリーナ席に、サトウとニタが並んで座っていた。
「何で俺がお前の隣なんだ」サトウがニタの顔を見ながら言った。
「仕方ないだろ。チケットの席はクジで決まったんだから。その席、引いたキミが悪いんでしょう?」ニタは素っ呆けた口調だった。
「ショーナンさんの横が良かった」
「何だ? お前、ショーナンさん、苦手じゃなかったのかよ?」
「何で苦手なんだ?」
「よく衝突してたじゃないか。何時だったか、アイドルとは何ぞや、って話に為った時にショーナンさんが『如何わしい行為を伴わない風俗』って言った時なんか、怒って思わず腰を上げかけてたじゃないか」
「そんな事は無い。ソレはお前の気の所為だ」
「嘘付けって」
「ショーナンさんはオレに人生を、生きる意味を与えてくれた人だぞ。尊敬してる人物にそんな事をする訳が無いじゃないか」
 ニタはまだ何か言いたげだったが、結局、諦めた様に首を左右に振った。
「お前、アレどうする?」そんなニタの態度に気付いてない風にサトウが訊いてきた。
「アレって、何のこと?」
「アレは、アレだよ」
「だから、アレって何だよ?」多少の苛立ちがニタの口調に刺々しさを加味した。
「紙袋に入ってた『札束』だよ」サトウが『札束』という単語の所だけ声音を可能な限り低くしながら、ニタに伝えた。するとニタは得心が行ったという顔付きになって、
「あぁ、アレね。アレなら、別に貰っといても良いんじゃないのか?」と低い声で答えた。
「そうか」とサトウは言い「俺は、あの金はショーナンさんに突き返す。俺には不要だ。
俺は、さ、ニタ、そーゆー心算でこのチームに参加した訳じゃない」画然と続けた。
 そんな物言いのサトウを見詰めながら、ニタはシミジミとした口調で、
「お前、言ってる事が一月前と真逆だぞ」と言った。

 ヲトヲは独りで考えていた。
二日酔いの疼痛が専制支配する自分の頭に叱咤激励を飛ばしながら、考えていた。
イヤ、二日酔いというよりも未だ酩酊状態が昨夜から継続中と言った方が正確だった。
だから酷いモノだったが憑き物が落ちた顔付きをしていた。
 考えていた。
今朝、嵐の様に舞い込んできた掃除のオバちゃん10人に蹴飛ばされる様に追い出されて、
外に出た後で何事にも慎重なヲトヲは忘れ物は無いか、自分の荷物をチェックした。
すると初日にショーナンから手渡されたカードと部屋の鍵が煙りの様に消えていた。
周りで同じ様に荷物チェックに勤しんでいる仲間に確かめると同じ様にカードと鍵だけが見事なまでに回収されてしまっていた。
ショーナンとの思い出に記念品として貰って置こうと思っていたのでヲトヲはガックリきたが、自分のiPhoneの中にはショーナンや仲間達と撮った写真が沢山保存されている筈なので、ソレが頼みとなり何とか落ち込む事から回避できていた。
 そんな事よりもヲトヲはショーナンに伝えたい事を、1つ産み出せていた。
 それは自分の未来を選択する事だった。
今日の朝、起きたら真っ先にショーナンさんに報告しようと思っていたのに、既にあの人は去ってしまっていて何も伝えられなかった。だから自分は今どうすれば良いのか、イヤ、何をしたいのか、身じろぎもせずにジッと考え続けていた。
チームのみんなとした籤引きの結果、ヲトヲはアリーナ席Aブロック1という超神席、正面ステージの脇で丁度外周ステージが延びて行く際という席を引き当て、仲間全員から羨ましがられたのだが、そんなのよりもショーナンの隣の席の方が良かったと感じていた。
『僕は一体、何をするべきなんだろうか?』
頭蓋骨の内側で颶風が渦巻いていて脳細胞全てが混乱の極みにあったから、素面の時なら簡単に出る解等が中々出てこなかった。胃がムカムカして吐き出したいのに、吐くモノが内に何も残ってない、でも重篤な吐き気には襲われ続けている、そんな状況に似ていた。
しかし漸くエントロピー全開の、文字通り混沌としたヲトヲの皮質がようやく彼自身が何をしたいのか、何をするべきなのか、の解答をノソノソと出し始めていた。
 ヲトヲは確信した、『僕はもう一度ショーナンさんに会わなければならないのだ』と。
そして、こう告げなければならないのだ、と渇望した。
『僕は大学に戻って一から勉強をやり直します。そして将来はコンピューター関係の仕事に就こうと思っています』
僕はショーナンにそう報告したかったのだ。
その時、彼が自分に掛けてくれる筈の言葉がどんなモノなのか、とても楽しみだったのに。
 ヲトヲは顔を屹立させ、周囲を見渡してショーナンの顔を探し始めた。

 オオヤマはモリサキの横に静かに、野武士の様に座っていた。
「やっぱ、アリーナは良いな。天空席は惨めだからな」モリサキが言った。
「・・・・・」
「雨、大丈夫かな、降って来そうだぞ」
「・・・・・」
「さーて、ペンライトを、っと」
「・・・・・」
「腹減らないか? でも、外の売店で飯を買って喰う時間は、もう無さそうだな」
「・・・・・」
「ラーメン喰っといて良かったよ。でも今朝のお結びとケンチン汁喰っときたかったな」
すると、オオヤマが黙ってカロリーメイト・ブロック・チョコ味を差し出して来た。

「先生、雨どうですかね。降りそうじゃないですか」ウレシノがフジムラに言った。
「おーっ、今、ポツンって来たぞ。ヤバいなコレ」
「来てるゾ、雨の先兵隊が」フクヤが天を仰いで、言った。
「放線菌の匂いがしてきたな」フジムラが鼻をヒクヒクさせた。

「今初めてTVを点けた方は何が起こっているのか全然お分かりにならないと思いますが、おそらく今ワタクシの目の前では大変な事が起こりつつあります。
ただ今眼の前で起こりつつある状況を表現できる語彙を探す為言葉の森を彷徨っていますが一向に見付けられません。先ほど総選挙が始まる少し前からポツポツと雨が振って参りましたが、ココに来てその激しさを増してきておりまして今や沛然たる勢いであります。
アリーナ席の皆さんは入り口で手渡されたピンク色のカッパを一様に着用しています。
まるで桜が一斉に花を咲かせた如くの景色です。
あー、でもコレ、こんなに凄い雨ではカッパ着ててもずぶ濡れですね。
皆さん、雨、とても辛そうです。
ここ新潟はHARD OFF ECOスタジアム新潟から実況中継でお伝えしております、第8回選抜総選挙、ワタクシ、ミヤネとカトウさんとで実況してまいりましたが、
いやー、大変な事が起きましたね、テリーさん」
 スタジアム内に特設されたスタジオの中は軽いパニックに襲われていた。
卒業したり不出馬だったメンバーを除くと、去年の選抜メンバーはワタナベマユを1人残すだけで、あとの全員がもう既にその名前を呼ばれてしまっていたからだ。
「コレ、あれでしょ? 去年の2位からカシワギさんが17位に落ッこっちゃって替りに、エーと誰だっけか」テリーが助けを求める視線を横にいるオオシマ・ユウコに送ると彼女はテリーにだけ聞こえる様に小さく囁いた。「あ、そうそう、ムカイチさんね、彼女が入れ替わってジャンプアップで16位だったんだよね。それで残りのメンバー達は、アンダーからの単純な、言わば順当昇格組な訳でしょ? だから何の不思議も無いんだけれども、サ」
テリーが感謝の意を眼で伝えるとオオシマは軽く頷いて彼の後を引取って話し始めた。
「そうですね。
選抜の中自体では入れ替わりと言うが順位の変動はあるんですけどメンバーの構成自体は変っては無いんですね。ま、卒業したり出なかったりでスグ下にいた娘達が上がってくる事は理解出来るんですよね。翻って他の常連組を見ると、これ、去年の1位のサッシーが6位にランクダウンした位でそんな変化が無い。去年の選抜からは常連の現役で言うと、カシワギちゃんが抜けてミーオンが入ったんですよ。
で、今、3位までの発表が終わってマユユを除いて、去年の選抜メンバー全員出ちゃったから、コレは新しく若い子が入って来るって事ですよね。
しかも最低でも2位。いきなりこのポジションは凄い、の一言です」
「イヤッ、でもオオシマさんもいきなりの2位だったじゃないですか」と実はユウコヲタのミヤネが言った。「しかし、5位にムトウさんで4位にサヤ姉、ソレで3位にジュリナさん。コレ一体誰が次呼ばれるんでしょうかね? アアっと、2位の発表に行くようです」

「そういう訳で1位を獲れなかった事は大変悔しいのですが、この総選挙の選抜メンバーに新しい人が入ってくる事はとても素晴らしいです。新しい『血』が入る事によって新陳代謝が進んで世代交代が起こって行かなければ、このグループに未来は無いからです」
 マユはサシハラの方をチラリと一瞥してから視線を観客へと戻した。
「真面目にコツコツと努力を重ねてきた人間が報われるなんて、本当に素晴らしいです。
でも、本当に悔しいです。だから、もし来年も総選挙が開催されるのであれば、私はこの悔しさをバネに変えて1位を獲得したいと思っています。
本日は雨の中遅くまで本当に有難う御座いましたッ!
次に名前を呼ばれるであろう新しいメンバーに盛大なる拍手と声援をお願いしますッ!」
 結局2位で終わったワタナベマユが思いっきりのお辞儀を披露し頭をピョンと跳ね上げ起き直りスッと背筋を伸ばした。そして晴れ晴れとした笑顔を見せながら踵を返して2位の椅子に着く為に階段を昇って行った。

「ワタナベさん、敗れたとはいえこの21万票と言う数字は大したものです。
いやー、『凄い』の一言しかありません。それでは皆さん彼女に盛大なる拍手をッ!」
司会進行役のトクミツが高齢に似つかわしく無い大声を上げてワタナベを祝福した。
「さあ、一体誰がこの展開を予想したでしょうか。去年の覇者であるサシハラさんが敗れ今また一昨年の女王のワタナベさんが2位にランキングされるという大波乱。誰が1位に呼ばれるのか全くと言ってよいほど判りません。それではトクミツさん、そろそろ1位の発表に参りましょうか?」同じく司会のキサさんが興奮気味のトクミツに進行を促した。
「そうですね。雨脚も一層強さを増して来ました。天もこの波乱の展開に驚いているのかも知れませんね。それでは参りましょう、栄光の第1位の発表です」
 リョーカは眼を閉じて静かに俯いて気息を整えながらその時を待った。
『絶望』の到来を。
 そして、その時が、来た。

 トクミツが封筒にハサミを入れて、開封した。
「第8回45thメジャーシングル選抜総選挙、栄えある第1位。
最終獲得票数、えッ?
イヤっ、大変失礼いたしました。
最終獲得票数33万4千とびとびの1票・・・」
 リョーカのウエルニッケ野が情報を処理するのを中断しまっているのか、耳朶が拾った筈の音を彼女は全く理解出来ていなかった。
真の静寂が彼女の上に訪れていた。
 すると肩を突かれたので顔を上げてソチラを見ると、小学校から同級で同期のアイガサモエが顔を涙でクシャクシャにしながらも、飛び切りの笑顔を渡して来た。
「オメデトウっ! 凄いじゃんッ! やったじゃんッ! 1位だってッ!」ホラ、早く立って挨拶しなよ、と彼女に促されて漸くリョーカは立ち上がった。
ピョコンと深く一礼をすると7万人の観衆が地鳴りの様に響く大歓声を上げた。
その歓声がリョーカの聴覚を元通りに戻した。
 約束を守ってあの人は奇跡を叶えてくれた。
今度は、私の番だ。
 スッと顔を上げて真正面を見据える。
そして静かに歩み始めた、絶望を受容れる為に。

 リョーカはコレも涙で顔をグシャグシャにしたシノブさんから1位の盾を貰うと観客の方に向き直ってもう一度ピョコンとお辞儀をした。そして彼女が受容れなければならない最初の『絶望』を真正面から見据えて、辛い告白を観衆に向かって始めた。
「私の名前はオオシマ・リョーカといいます。多分TVの前の皆さんや、もしかしたらこのスタジアムの中にも私の事を知らない人がいると思います。と言うよりも、知ってる人の方が珍しいかも知れません。だから、もう一度、言います。
私の名前はオオシマ・リョーカです。
皆さんは『何でこんな無名のヤツが1位なんだ』と思ってるのが解ります。
私がココにこうして立っているのには理由があります。
全てが始まったのは、ソレは、去年10月の握手会での事でした。
レーンに並ぶ人の列が途切れたのを見計らった様にある男の人がやって来ました。
その人は私にこう告げました『リョーカさんがポジション・ゼロから観える景色が心の底から観たいのであれば、私は魔法を一回だけ使おうと思っています』と」

「と言う訳です。アナタが私をこの世界に引き摺り戻したのです」オヒゲさんが言った。
リョーカは嬉しかった。
真面目にやっていればこういう風にもファンの人を獲得出来るんだ。
しかもユウコさんの重力を振り切って私がこの世界に引き戻したんだ。
そう考えると少し自信が湧いて来た様な気がした。
「では本題に入ります。
本来であれば敬語を使わなければいけないのでしょうが、敬語というモノは、使用すると責任の所在が不明になり、加えて何か問題が発生した時に原因を究明する検証作業の障害になります。今からお話しする事はリョーカさんにとってとても大事な事です。
だから、以降は敬語を敢えて使用しない事にする」と男が告げた。
 リョーカは感じた、男のモードがファンの1人という立場から教官の立場に変化したと。
 男は話を続けた。
「ある1人の天才が著した小説の中に、世の中の誰もが知っているのにも関わらず、正視する事が死ぬほど恐ろしいのでソレから眼を逸らして最初から無かった事にしてしまっている『事実』を固体化した言葉の一群がある。
ソレはとても悲しい『事実』だ。
彼が述べた事柄の要点は、次の様なコトだ。
『太古の昔から人間は自分の生き方など自由に選べた事は無い。
ほんの一握りの人間、優秀な頭脳を持ち、自分の資質に目覚め、備わった能力を伸ばせる優れた教育環境を手に入れる事が出来て、自分に厳しい訓練を課し、自身を律して行ける。
そういう選ばれた人間のみが自分の人生を選択できるのだ。
そうではない、残りの殆どの人は上位にいる他者の命令に従って生きているに過ぎない。
皆が自分の子供には、自分の人生は自分で選びとりなさい、と教えるが、選び方そのものを教える事は無い。何故なら自分も人生の選択などした事が無いので選び方など判る筈も無いからだ。自分の知らない事や経験していない事など教えようが無いのでソコは静かにスルーする。もし子供達が選択の仕方を問うたとしたら、狼狽えながら稚拙なレトリックを使って誤魔化し、その場をやり過ごすだけだ』
彼はそう述べている。
だがリョーカさん、あなたは選択する事に成功した。
高校での成績がどのようなモノかは判らないが、TV番組を見る限り地頭は良さそうだし、自分自身でも優秀なダンサーである事を自覚している。
このグループに加入して優れた環境を手に入れる事も出来た。
そして毎日の様に自ら訓練を課し研鑽を積んでいる。
アナタは『0』を『1』にする事に成功したのだ。
コレは誰もが出来る事では無い。
ただ今回、アナタの持つ『1』を『100』に飛躍させる事に我々は失敗した。
スマナイ。
心から申し訳無いと思っている。
だが今リョーカさんが必要としているモノは謝罪の言葉では無い。
私もソレ位は理解している。
アナタが今必要としているモノ、ソレは背中を推し続けてくれる新たなファンだ。
いや、新規のファンの獲得方法だ。
握手の仕方を見れば判るが、アナタは割合と淡白だ。ガツガツしていない。
私の前推しであるユウコさんと初めて会ったのは彼女が17歳の頃だから、ちょうど今のリョーカさん位だがアナタに比べれば遥かにガッツいていた。
誰と握手しようかな、とウロウロ迷っているファンの人の手をガシっと無理矢理に握って『オオシマ・ユウコです。ヨロシクお願いしますッ!』と冀(こいねが)っていた事を、私は目撃している。
だが、自分の性格を無視してまでも無理にガッツいても駄目だ。
そんな事をしても早晩底が割れてしまう。
キャラというモノは自分で作るモノではなく、周囲の人間に依ってユックリと付けられていくものだ。
恋は『落ちるモノ』で『するモノ』では無い。
ソレと同様に、キャラも自分で設定するモノではなく、周囲にいる他の人がアナタの内側から見付け出してくれるものだ。私がこのグループを見続けて大体10年ほどになるが、その間無理なキャラ変をした人間や自分でキャラ設定をした人間で成功した人を知らない。
最初こそ自分で設定したかも知れないが時が経過するに連れて周りが新たなキャラを発見して、一緒になって盛り上げてくれる、そういう過程を経たヒトが成功していると思う。
ほほう、納得が行っていない顔付きをしているな。
アー写の事は勿論、知っているだろう?
そうだ、いわゆる宣材写真だ。
アー写を選ぶ時に、マネージャーさんとか他の大人達と一緒に選んだと思うが。
やはり、そうか。
数多ある候補写真の中から1枚を選び出す時に、君の選んだ1枚と周囲の大人たちが選択した1枚は同じだったかね?
なるほど。
アナタが『コレが良いと思う』という写真と、大人たちが選択した写真は違っていた、と。
マネージャーさん達が選び出した1枚は、リョーカさんにとって不本意な写真だった、と。
で、どちらを採用したのかね・
やはり、な。
大人達の選び出した1枚をアー写として採用する事になった、という訳か。
で、周囲の、運営の大人たちではなく、TV局のスタッフや取材に訪れた人々の、その件のアー写に対する評判は、ドウだったのかな?
すこぶるよろしい、と。
この事実から判る事は、ただ1つ。
意外と自分は自分自身の事を理解していないという事だ。
周りの大人たちの方が、リョーカさんがより一層魅力的に映える1枚の写真を選び出せる理由は、彼等がアナタよりも客観的にリョーカさんという人物を捉えられているからだ。
自分で自分自身の事を認識しようとすると、認知バイアス...
うん?
そうか、別の表現を使おう。
平易な言葉で言い直せば、先入観、思い込みや何の根拠も無い決め付けなど、そういったモノ達によって眩惑させられてしまい視野狭窄に陥った結果として広範なデータを客観的に見据える事が不可能になる、そういう状況に導くアルゴリズムのことを、認知バイアスと呼ぶ。アルゴリズムとは『計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる一連の秩序だったステップ』のことだ。
特定の計算ではなく、計算をする時に従う方法のことだ。
君が何かを思ったり、考えたりする時、気付いていないかもしれないが、脳の神経細胞達は一生懸命に『計算』をしているのだよ。
さて、そういう状況下では冷徹で正確な判断を下す事は出来ないのだ。
おや、脳内で漢字変換に苦慮している様子が顔に浮かび出でている、な。
では、言い換えよう。
自分自身の事を評価する時に、どうしても主観的な判断が、自分が『コウ、ありたい。
自分の望む通りであって欲しい』という願望が事実から己の眼を逸らせさせてしまうのだ。
キャラに関することも同様だ。
自分では、主観が邪魔をして、他者のような客観的で公正な判断が出来ない。
だからリョーカさんも無理をする事は無い。
無理して自分でキャラ付けをする必要はない、ということを意味している。
むしろ、しない方が良い、と言えるだろう。
周囲の人間が付けてくれたksgkというキャラ、アナタは本来人見知りで真面目でコツコツ頑張る人だ。だからそのキャラ設定とはズレがある。
だがそのズレを怖がったり嫌がったりしてはいけない。
アナタが成長して行くに連れて周囲にいるファンの希望、アナタがこうあって欲しい、という期待も徐々に変化して行くと思う。
アナタが為すべき事は、アナタのファンが期待するアイドル像を完璧なまでに演じる事だ。
たとえ、ソレが本来の自分とは懸け離れたモノであっても、だ。
こんなの本当の私じゃない。アナタはそう思うだろう。
でも最重要なことは、ファンの求めるオオシマ・リョーカを演じる事だ。
彼等の期待に応える為にそこは寛容な心を持たなければならない。思春期の女性の多くに備わる狭量な潔癖性は不要だ。ソレは皮質の小部屋に仕舞って鍵を掛けて置く様に。
まだ、怪訝そうな顔付きをしているな。
アナタは将来女優として活動して行きたいのだろう?
ならば、求められるアイドル像も与えられた役の1つと考えれば良い。
役者の仕事は、『役』に身体を貸す事だ。主たる存在は『役』であって、役者はソレを表現する為の容れ物、媒体に過ぎないという事を忘れない様に。
ただ、『役』を演じる上で1つ気を付けなければならないのは『媚びてはいけない』という事だ。『媚びる』と人間の精神は歪む。だから媚びたり卑屈に為ったりしてはいけない。
卑屈さは、心を歪ませるだけでは終わらずグシャグシャに捻じ曲げて仕舞う。結果としてスポイルされた精神は当該の人物に物事をフラットに観る事を許さない。
つまり公正で精確な判断が出来なくなるのだ。
媚びず阿らず諂わず卑屈にならず背筋を伸ばしてファンの人達に接する事、満腔の誠実さを持って、だ。地に足を付けて日々精進を続けて行けば直接には目に観えなくても小さな変化が積重なって行き、漸くオオシマ・リョーカが演じなければならないアイドル像も後から振り返ってみれば大きく変化している事だろう。伝統とは小さな変革の積み重ねから生まれるモノだ。創造と破壊の繰り返しで、伝統というモノは創られて行くのだからね。
そして変革を起こし続ける為に必要なモノは冷たく燃える怒りの炎だ。
『真面目に努力をし続けている私が何故報われないのだ?』という気持ちで良いと思う。
ユウコさんもソウだったと思う。
『全ての面においてグループで一番の私が、何故3列目なのだ? 何故フロントにすら入れないのだ?』と静かに怒りを燃やし続けたのだと思う。
彼女か燃やし続けたのは、赤い熱く燃えたぎる怒りではない。
青白い小さな炎、冷たく静かに燃える焔。
今のアナタに必要なのは、種火や埋み火の様に小さな青白く静かに燃え続ける怒りだ。
赤く燃え盛る『怒り』は人間から正当な判断能力を奪う。身体感覚をも麻痺させるから、上手に身体を制御できなくなる。そんな状況で物事に対処でき得ると思うかね?
そうだ、落ち着いて冷静に青白い怒りの炎をコントロールする事が必要となる。
ソレともう一つ大事な事を忘れない内に伝えて置く。
『初心忘るべからず』こんな言葉を聞いた事は無いかな?
物事に失敗した時に『初めてこの事業を志した時の想いを心に蘇らせろ。そうすれば再び起き上がってやり直せる』世間の人達はこんな風に間違ってこの一文を理解している。
つまりは誤解だ。
その捉え方は完全に間違いだ。
何故なら最初に何事かを成さんと志した時のアナタと、その後、今現在、失敗に遭遇して苦境に陥っているアナタは同じ様に見えるが、違う人間だ。
例えば最初に企図した時点から5年が経過していたと仮定しよう。
その歳月、5年の間にアナタは何をしていたのかな?
ただ漫然と時が過ぎるのを眺めていた訳では無いだろう。
目標の実現に向けて何らかの努力を重ねて研鑽を積んで来たのだろうと思う。
その長い経験が5年前のアナタと、現在のアナタを違う人間にしている。
違う人間なのだから最初に抱いた想いはもう既に有効では無くなっている。期限切れだな。
ならば、どうする?
目標自体が最初と変わっていないのなら話は非常に簡単だ。
その時点、その地点で、もう一回新たな『初心』を打ち立てるのだ。
目標を達成する為に現在と言う時間軸に於いてアナタは何を成さなければ為らないのか、状況を慎重に見極めて、問題点は何なのか、ソレは何処に存在しているのか、どうすれば解決出来るのか、どういう対応策を取るべきなのか、ソレ等を充分考え抜いた後で実際に問題に対処して行く、そういう『想い』だ。
芸能の始祖、世阿弥は言った『人生の中のどのステージに於いても初心は創造でき得る。幼児の頃の初心と少年期の初心、青年期の初心と老いさらばえた老人の初心はそれぞれ違うモノ、違っていなければオカシイのだ』と。
蹉跌や挫折を、その苦しみを味わった事の無い人間など存在しないだろう。
年老いても確実に挫折は何の前触れも無くコチラ側の都合なんぞには一切のお構い無しに遠慮会釈なくいきなり不躾に訪問してくる。だから、人間50歳になっても『初心』を構築する事は必然で不可避な事、また可能な事である、とも言える。もし、『初心』を再構築する事が可能でなければ人生の難局面を打開する事自体が不可能に為るのだから、ソコで全ては終了。そんな状態は人間に生き続ける事を許さない。でも、実際はそうじゃない。
全員とは言えないが、殆どの人々は死を選択する事無く転んだ後も人生を継続し得ている。
何時でも、どんな状況下でも、何度でも、人は新たな『初心』を打ち立てる事が可能だ。
さて、表現の仕方を変えてみよう。
挫折を味わった時に冷静さを取り戻し、視点を変えて鳥瞰的に状況を見据えると話はまた別の側面を見せ始める。失敗は自分に足りないモノ、必要だけれども今のアナタには備わっていない不可欠なモノ、その存在に気付かせてくれる非常に有難く得難い代物だという事である、とも言い得る。
挫折や蹉跌は別の角度から見れば好機なのだ、アナタの味来の行動に指針を与えてくれるコンパスとしての役割を持つ得難く貴重なモノ、だ。
だが、ソレを役立つモノとして捉える事が出来るか否か、全く持ってアナタ次第だ。
初心は、どんな時でも、どんな状況の許でも自分が望みさえすれば心の中に確立できる。
だから、失敗を恐れるな。
石につまずいて転ぶ事を怖がる必要は無い。
自分を見詰め直すチャンスに転化出来るのだから、な。
ま、成功する確率が明らかにゼロならば、話は別だ。
その時は目標実現の為に歩いて行く道を変える。
他の道筋が無いか周囲に眼を走らせて懸命に探索する。失敗する事が端から判っているのに『ワザ』と転ぶのは時間の無駄だから。
ドレが(駄目かも知れないが)敢えてチャレンジする価値のある行為なのか、たとえ失敗したとしても転んだ事で何かを得られるのか否か、何かを手に入れる事が出来たとしてもソレがアナタの残りの人生にとってプラスなのかマイナスなのか、それとも全くのゼロなのか、よくよく考えてから行動する様にしなさい。
マイナスだって悪い事では無いかも知れない。
何故ならマイナス×マイナスはプラスに転じるからだ。
ソレと比較すればゼロは無価値だ。
ゼロは1万個足し合わせても、100万回掛け合わせても、結果として手の平に残るモノは、ゼロだ。ゼロはどんなに努力を重ねても、永久にゼロのままだ。
だから、何が大切なモノなのか、よく見極める。常に考える。
考えるという行為が実際には何を意味するのか、知っているか?
『考える』とは、簡単に言えば、言語化する事だ。
周囲の環境の中に満ち溢れているモノや現象を言葉にしようとするとその過程において(言葉にしようとしている)対象に付随した多くの辺縁情報を捨て去る事になる。
だが、ソレ等を捨てる事によって、他者に対して対象に付いての事柄を正確に伝達できる可能性が高まるし、物事を簡素化・抽象化できる。そして、抽象化する事で複数の事物を一度にまとめて思考する事が可能になる。
『考える』とは、高度に抽象化された言葉という概念を駆使する事で、身の回りにおいてのたくっているカオス的な状況や、アナタ自身の内側でドロドロと煮えたぎっている何かを、シンプルに納得できる形にする、つまり明晰化し意識化することを可能にするための前作業、そういう行為、ソレが『考える』だ。
幾分か、難しく響くかね?
でもアナタは起きている間は常にこの行為をしている、無意識の内に、な。
ただソレを意識の上に昇らせて実行する様に心掛ける、それだけ、なんだよ。
たとえ目標自体が変化したとしても、『考える』事が自覚的に出来る様に成っていれば万事OK。比較的スムースに態勢を整えられるし、変化自体にも真正面から対応できる筈だ」
 いきなり大量の情報を与えられてリョーカは軽いパニックに襲われたけれど、男が本当に大切な事を伝えようとしている事は理解できたので言葉をありのまま飲み込む事にした。

 口を閉じて黙りこくり、静まり返ってしまった観衆にリョーカは静かに話し続けた。
「私は尋ねました。『どうやったらそんな事が出来るのですか?』男の人は笑顔を浮かべながらこう答えました。
『簡単だ。20万票入れてしまえば、良い』そして、彼は続けてこう言いました。
『2月まで待つ。その間充分に考えて考え抜いてから答えを選択して欲しい』と。
そうです。
私がココに今こうして立っていられるのは、その人に『魔法』を使ってくれる様にお願いしたからです。ポジション・ゼロから観える景色が、本当に私の観たい景色なのかどうか確かめたかったからです。『魔法』を使う事無しでは、私は一生観る事は出来なかった、と思います。今はまだ、コレが本当に、私の見たい景色なのか、その景色なのかどうかは、ちょっと判らないのですけど、
でも、少し違う様な気もして来ています」

 男の話は終わらなかった。
「物事を見極め、見定める眼を持つことが大切だ。
ユウコさんは優れた選抜眼を持っていた。
自分の前にあるモノを、自らの努力で変えられるモノなのか、努力したとしても何の変化も起こせないモノなのかを峻別して、自分の努力が及ばないモノは無視して放置しておく。
自分の努力の影響が及ぶ事物に対してはソレ等を2種類のカテゴリーに、自分が今現在に為さなければいけないモノ、今はやってはいけないモノに分類してから、現在状況として『為さなければいけない事』のみに対して自分の持てる全てのリソースを遠慮や躊躇する事無しに惜しみなく注ぎ込む。
彼女はソレが出来ていた。
だからリョーカさん、今のアナタが為さねばならない事、ソレは目の前にある物事を分類する事だ。人間は偶然の結果として生得的に獲得した才能のみ、自分の努力で伸ばす事が可能だ。言い換えれば、生まれ出でた時に備わっていない特質を後天的に習得することは出来ない。どんな過酷な訓練を自らに課しても叶わない。せいぜい、できる事と言ったら知識として脳内の片隅に保存できる位だ。
だから注意深く事象を観察して、その本質だけを抽出する様に。
一切の主観性を排除して冷徹な視点から物事を判断するのだ。
変えられる事なのか、変えられない事なのか?
変えた方が良いのか、変えない方が良い事なのか?
変えられる物事の内、ドレを最優先で処理しなければならないのか?
そもそもの大前提として、今時分はアクションを起こすべきなのだろうか?
アナタが考慮しなければならない事は、多いぞ>
努力を傾注する対象が判別できさえすれば、事の大半はもう済んだ様なものだ。後は日々努力を続けて行けば良い。
先ほど言及したキャラの変更、コレは『今やってはいけない事』の一つなのだと思う。
自分は現在という時間軸の上で未来を創り出して行く為に何をするべきなのか、自分の頭で考えなさい。他人に教えて貰うのは楽だし簡単だ。だが得てしてそういうモノは意外と簡単に消失して仕舞いがちだ。自分で考えて苦労して得たモノは簡単には消え去らないし、たとえ無くしてしまったとしても再び自分の力で取り戻す事が出来る。」男は、一旦言葉を引取った後に一瞬空を見上げて『次に何を話すべきか』と暫くの間考えた後、ゆっくりと話を繋いだ。「握手だがね、『初会』『裏』『馴染』という言葉がある。
由来は省略するけれど握手会も同じ様なモノでは無いかな。
『初めまして』の1回目、
『また来たよ』の2回目、
そしてコレからは『ズット来るね』の約束の3回目だ。
『釣り』と呼ばれる行為が横行しているらしいが誰もが全員釣り師に為る必要は、無い。
出逢った時に感じ取った誠実で素直な気持ち、ソレを握手という行為を通してお客さんに伝えて行けば良い。リョーカさんの心から発した感情や想いといったモノはお客さんの心へと伝わって行き、握られたお客さんの手から再び心はリョーカさんの許に還ってくる。
そういうモノだと思う」

 会場内にいる観客やTVの前で画面をジッと凝視している人々はひとつの重大な事実に気付いてしまった。いや、とっくの昔に悟っていたのだがソレから眼を背け続けて、その事実を自分の中で『本当』では無かった事、単なる誤謬であるのだ、と巧妙なすり替えをしてしまっていただけだった。
その認知バイアスの罠に気付かされてしまったのだ。
不透明な大きな神の『見えざる手』で無理矢理に頭をグイッと捻じ曲げられて、真正なる『事実』を見せ付けられてしまったのだ。
 虚構だ。
総ては虚構なのだ。
こんな総選挙なるシステムは、大いなる幻影に過ぎなかったのだ。
 リョーカを1位にする事でその魔法使いが具現化した観念は、この総選挙というイベントはただ単に規模がデカくなっただけの『村』の内輪のお祭りに過ぎないという事実だった。
規模があまりにも巨大なので、何か物凄い事なのだとみんなが勘違いをしてしまっていただけ、という悲しい現実を突き付けられた観衆たちはただ只管に黙りこくる以外に出来る事は無かった。決定的だったのは外側の世界の住人に向かって、男が『王様は裸だッ!』と叫んでしまった事だった。表面は煌びやかに装飾を施されてはいるが実際は上辺ばかりで中身は空っぽの只の張りぼてに過ぎない本質を、永遠に隠しておきたかった『真実』を外側の人達に知られてしまった。運営サイドとファン達が知らず知らずの内に結託する事で巧妙に隠蔽していた事実を、たった1人の男の行動が、その秘匿しておかねばならないシステムの本質を被覆する為に使われていた遮蔽を力任せに引っ剥がされて、白日の許に曝されてしまったのは、まさに、痛恨の一撃であった。
 全てが『幻想』いや単なる『影』に過ぎない事が露顕してしまった瞬間だった。
一向に衰えを見せない鋭い勢いの冷たい雨に打たれている観衆たちは、濡れそぼる喪家の狗だった。そんな彼等の心模様を敏感に察知した様に、リョーカは優しい口調で辛い告白を続けて行った。

 男は話を続けた。
「今回の総選挙でアナタは圏外に落ちてしまった。
ソレに先立つ一年間のアナタの活動の充実振りを見る限り普通ならあり得ない事だ。
コレには、恐らく福岡で開催された事も多分に影響している事と思う。
だが、視点を変えてみるとコレはむしろ好機とも言える。
新たなファンを開拓する為には何をするべきなのか、自分に足りてないモノは何なのか、長所は何処にあるのか、自分で自答して模索しながら答えを見つけ出すチャンスでもある。
と、いうよりもコレを好機にするか否かは、総てあなた次第だ。
アナタはここ一年で随分と成長して大人になった。
小さな女の子が大人の女性に変貌を遂げつつある段階、『少女』と呼ばれるタームに相転移したのだ。パラダイムシフトに追随できない人間は多い。だとしたら、今手にしつつある新たなる魅力で新規のファンの人達を開拓して行けば良いのだ。
『大いなる不幸はしばしば大いなる栄光を呼ぶ。だが同時に大いなる破滅をも齎し得る。
どちらに転ぶかは全く本人の志の高さと時の運による』
これは、私の友人がおしえてくれたモノで中国の古い言葉らしいが、真実だ。
『志』を高く掲げる事は自分の心掛け次第で何とかなるが、『運』の方はソウはいかない。
だがキミのボスであるアキモト・ヤスシはこう言った『人生で成功するか否かは、1パーセントの努力と99パーセントの運で決まる』と。コレはおそらく正しい事実だ。
だが彼は重要な事を告げていない。
多分大切な事はメンバーが自分で考えて気付いて欲しいと思っているからだと推察出来る。
彼の言葉の後に続く隠された文章はこうである、と私は思う、
『日々努力を継続していなければ、運が眼の前に転がってきた時に掴む事が出来ない。
それどころか転がって来た事にすら気付けない』
そうだ、日々の努力と意志の高さが運を呼び込むのだ。
総選挙で上位に位置するメンバーは結局の所、少数のコアなファン達の大量投票によってその位置を確保している。だがそんなモノは外側に出てしまえば何の効力も発揮出来ない。
内側でしか通用しない幻想の力だ。
『美しくも愚かしい事』コレは仏教の言葉だが、総選挙と言うシステムは『残酷』だ。
TVでライブ放送されるからあまっさえ悲劇的な公開処刑とも言える。
しかし『残酷』なモノは『残酷』であればある程、『美しい』のだ。
『愚かしい』コレは形而下のモノ、物質として形の有るモノを指していて世俗的なモノを指す。そして世間の人々は世俗的なモノほど興味を示す。何事が起こっているのかは全く理解できないけれど、TVの液晶画面の中で少女達が泣きながら御礼を言ったりとか、怒りや不満を態度で示したりする、この『総選挙』という世俗的で御世辞にもあまり上品とは言えないコンテンツを民衆は、だから、好む。
そう、総選挙は『美しくも愚かしい事』なのだ。
幻想なのだ。
幻の人気に支えられた人間、その最たる例のサシハラという女性はソレを知ってか知らずかは判別しないがどうやら運営に関わってプロデューサーとして活動して行く様だ。多分無意識的に理解しているのだろう、自分がオタサーの『女王』に過ぎないと言う事実を。
元々ドルヲタのサシハラだ、ヲタ達の心を手玉に取るのは自分の指を上げるよりも簡単な事だろう。彼女のように、小さく閉じた内側の世界で、心の中を手に取る様に解っている見知ったヲタ共を相手に商売をする分には人気が幻想でも良いだろう。
だが、リョーカさんは将来的にはいずれ境界線を越えて外側に出て女優として活動をして行くのだろう? ならばアナタが獲得しなければいけないのは幻の人気では無くて、実体に裏付けされた確実なファンの応援だ。1人が一度に20万入れても、20万人が一票ずつ入れてもこのグループの内側では効果は同じだ。
だが、一辺外側の世界に出たら状況は一変する。
内側の論理やルールは基本的に一切通用しない。
『内側』の特殊な環境に特化して適応できた者は別の全く違う環境に移行させられた場合、多くは絶滅への道程を辿る。外側に出て成功した人がいるか思い浮べてごらん?
ユウコさん以外に思い付くかね。
彼女だけが成功しているのにはチャンと訳がある。何故なら彼女は元々外側の世界の住人だったんだからね。外のルールや慣習は熟知しているのだから成功して当たり前なのだよ。
そうだ、外側の世界はキミの知らない事で満ち溢れているのだ」

 リョーカは言った。
「その人は私に言いました。勝負は外側の世界に出てからが本番なのだと。
今は孵卵機のような隅々まで整備が行き届いた環境の許で修業をする時なのだと。
そして修業中の身では『闌ってはいけない』と。
コレは能の言葉だそうです。
修業している人間は『是風』つまり正しい型のみを只管にやり続けなければいけない。
少しでもソコから外れた型『非風』に走ってはいけない、と教えてくれました。
『非風』を使うのは外側の世界に出てからだ、と。
内側の世界で修業する事を通じて、外側でも通用する切札を用意する事に専念しなさいと言われました。そして切札は隠し持って置く様にとも教えられました。使用する直前まで秘匿されていなければ切札の威力は半分以下にまで減衰してしまうから注意する様にとも。
彼は教えてくれました、昔の人の言葉にも『切札』を隠し持つ事が重要だ、と告げているモノがある、と。世阿弥という昔のおじさんが言った『秘すれば花』が、ソレだそうです。
もしも『非風』に走らなければ人気が出ない様ならば、そのシステムには意味が無い。
自分に訓練を課して研鑽を積むのに良い場所だ、と割り切って雌伏していれば良い、と。でも私は一回で良いからこの景色を観てみたかった。
観れなければ、私にとっての要不要が判断できないと思ったからです。
だから彼に『魔法』を使って貰ったのです。
私は、彼に『魔法を使って下さい』と頼みました。そしたら、彼はこう答えました。
『了解だ。30万票、用意する』と」

「先ほど『志』の高さに触れたが、私がユウコさんの次にアナタの背中を推そうと決めたのは、リョーカさんのある言葉がきっかけだった。
去年の総選挙のムック本に掲載されたインタビューの中でアナタはこう言っていた
『私は将来オオシマ・ユウコを超える存在になる』と。
無謀だとも身の程知らずとも言える発言だが、私はソコに『志』の高さを見て取った。
あんな偉大な存在であるオオシマ・ユウコを超える事など、彼女の身近な場所にいる筈のメンバーならば余計に無理だと最初から尻込みするのが落ちなのに、公式本の中で高らかに宣言してしまえる無鉄砲とも思える突破力に私は魅了されたのだ。
今現在はミュージカルで一緒に仕事をしたミヤザワさんが目標らしいが、去年抱いていた気持ちを忘れないでいてくれれば良いと思っている。
ソレに最初から『無理だ』と諦めてしまえばソコで終わりだ。
しかし『私には可能だ』と思い続けていれば大抵の事を成し遂げられてしまうモノだ。
アナタは『ユウコさんを超える』という偉業に挑戦する資格を既に手にしている。
その証拠は、私だ。
ユウコさんの巨大な重力に惹かれ続けて囚われの身となっていた私を解放し、そして外側の世界へ出て行く為にこの村との境界線を跨ごうとしていた私の脚を止めさせて再び内側の世界へと、村へと引き摺り戻したのは、リョーカさん、アナタなのだから。
不可能だと思える事を可能にさせる魔法の呪文がある。
今後役に立つだろうから教えて置こう。
『こんなのは大したことはない。私は大丈夫だ。私には出来る』
阿呆らしく響くだろうが、意外と効果があるから覚えて置いた方が良い。
一番になる最も早い方法は、トップに君臨している人間を倒す事だ。その様に目標を設定しておけば努力するベクトルの方向や強さは明確に理解できるし、自分の到達度合いすらもハッキリと判別できる。
『ヤツを倒す』
非常に簡単で明確・明瞭な目標だ。そうしてそのラスボスを倒せた時には果たしてアナタは一番手に立っている事だろう。
だが勘違いをしてはいけないよ。ラスボスは今内側にはいない。
だから残された幻想と戦わなければいけない。
コレは中々に面倒な作業だがラスボスは外の世界に出て行ってしまったのだから、
ま、仕方が無い事だな」

「その人は言いました。私が不用意にした発言で『私はオオシマ・ユウコを超える存在になる』ソレが彼が私を推しにする決め手だったそうです。今考えると余りに不用意過ぎて自分でもゾッとするのですけど、彼は『自分には可能だ』と思い続けていれば出来ない事はそんなに無いと言いました。
自分の観たい景色があって、でも今立っている場所からでは絶対に観られない時は、人はその景色が見える所まで行かなければいけない。今いる場所を離れる為に一歩を踏み出さなければいけない。でも、その景色が見える場所に辿り着くまでの道のりの途中には必ずと言って良いほど辛くて辛抱出来ないと思うような事が待ち構えている。
だけど、本当に心の底からその景色が観たいと望んでいるのなら大抵の事には耐えられる筈だ。と、彼はそう私に告げました。
私も本当にそうだと思います」

「大抵の人間は自分が何者であるか気付いていないし、探り当てる為の方法も知らない。
と言うよりもむしろ何者でも無いのだ。立派な自立した人間とは一体どういうモノなのかキチンと把握できていないし、どうやったら立派で自立出来ている大人に成れるのか、
その方法すら理解出来ていないのだ。だから彼等は類型に頼る」
「るいけい?」
「そうだ、類型だ。人はこうであるべきだ、という考えだ。
サラリーマンなのだからこうでなければならない。芸術家なのだからこういう具合に振る舞うべきだ。弁護士をしているのだから中身はどうであれ、せめて上辺だけでも清廉潔白に見えなければならない、等という考え。
別の言い方をすれば『ステレオタイプ』というヤツだ。
そういった世間に流布しているお定まりのイメージ、言わば偏見に囚われて自分を定型の鋳型に嵌め込んでしまう。だが、この宇宙は全ての構成要素が蓋然性、つまり確率に支配されている不確定なモノだ。そう、物事は総て偶然に決まる。神はサイコロを振るのだ。
『ラプラスの悪魔』は存在する事を許されていない。
そんな状況下で確定的に振る舞えているという事は、自分を類型に身を委ねて自らの頭で考えていない愚か者であるという事実を大声で世界に発信している事を意味する。考えもしないでステレオタイプというテンプレートに自分自身を無理矢理に嵌め込む固定観念に捕われた憐れな囚人だ。
私はアナタにそんな馬鹿な人間になって欲しくないのだよ。
不確定で曖昧なフワフワとしたこの宇宙の中で自己を確立させて行くという事は、砂の中に埋もれたパズルのピースを1つずつ探し出して拾い上げ、正確に正しい場所に嵌め込み組み上げて行くと言った地道な行為によってしか成し遂げられない。辛く苦しくてそして長い間続く作業なのだ。だからアナタがしなければいけない事は唯一つ、ソレは自分自身を欺瞞する事なく公正に見詰めて不断の努力を重ねて行く事だ。
『たとえ明日世界が滅びるとしても、私は林檎の木を植え続ける』と言ったルーマニアの男がいたが、その通りだと思う。たとえ明日自分が死ぬ運命にあるとしてもやらなければいけない事をやり続けて行く。とても当たり前の事だが、誰もが出来ている訳では無い。
コレも極少数の限られた人だけが気付いて実行しているに過ぎない。
そして『切り札』を用意する事だ。
『秘すれば花』と言った人がいる。
後世の人々は色々な解釈をしたが、正しい解釈は『相手を瞬時に抹殺できるような必殺技を1つ隠して持っておけ』だ。『切り札』は使用する直前まで秘匿されなければその効力は無いに等しい。自分にはコレが有る、そういうモノを1つ用意して置く様に。
努力して研鑽をつんで獲得して置く様に。
『林檎の木を植え続ける』とはそういう事だ、と私は思っている。
自分だけが持っているモノ、実力がトップレベルのモノ。
ひとつだけでも、そういうモノを持っている人間は強い。
たとえ逆境の時に直面しても必要以上に狼狽えずに済む強さを持てる。
そしてそういう人間ほど、他の人に対して寛容な態度を取れる。
強さは余裕に繋がり、余裕は寛容を生み出すからだ。
そして寛容さは人々を惹き付ける。
人は寛容な人物、明るくて快活で稚気や愛嬌に優れる人間を好む。
その人の近くに行きたいと思い、寄り添いたいと思い、そうして無意識にソレを実行する」

 リョーカは、押し黙って俯いて項垂れてただ濡れそぼったまま下着までグショグショにしてしまっている観衆に対して、静かに語りかけ続けた。
「ただ、その景色が一体何なのか。まだ私には判っていません。将来は女優として活動して行きたいので、ソコに行けば景色が見えるのかも知れません。でも今の私には女優として活動して行く能力は備わっているとは思いません。だから今は内側の世界で精進を続けて外側で通用する様な力を身に付けて行きたいと思っています」

 ヒゲの男は不意な質問をリョーカに投げ掛けた。
「売れる為には、芸能界で成功する為には、何が必要なコトだと思う?」
あまりに唐突で、あまりに直截的な問いだったので彼女は少し狼狽えてしまった。
「...あ...あの...、よく判らないんですけど...もしかしたら、明るさとか...性格の良さ...とかじゃないんですか?」
「確かに、人々が好意を抱いたり、傍にいたいと願う人物像は、先程述べた様に、快活で明るい性格そして稚気や愛嬌に優れている上に人懐っこい、そういった人柄ではあるが、
それだけで芸能界において成功を収められるか、といったら、答えは『No』だ。
性格が良いに越した事は無いけれど、別に人柄が最悪でも売れている人間はゴロゴロいる。
もちろん事務所の力というモノがかなりの比重の大きさを占めている事は間違いない、が、それだけではない。
言ってしまえば、ソレは『運』なのだ。
適切な時期に、適切な場所にいて、適切な状況下において適切な方法で対処でき、適切な役回りを演じられるだけの、非常に得る事が難しい『運』。
役者として成功するか否か、は、果たして『当たり役』を得られるか? 得られた役を1つでもモノに出来るか如何か? に、彼・彼女のその後の全てが掛かっている。
で、それだって『運』に左右されてしまう。
しかし、コレばっかりは自分の力ではイカンともし難い部分が大きい。
では視点を変換して考えてみよう。
『運』とは、何だろうか?
殆どの人は、こう考えるだろう、『偶然にもツキに恵まれる事』と。
間違いではないが、完全なる解ではないと私は思う。
『運』を信じている人は大勢いる。
毎朝、家を出る前に何らかの験担ぎをする人も多いだろう。
靴は必ず左から履くとか、ドアノブは右手ではなく左手で開ける、とか。
ランカスター大学の心理学者サリー・リンケナウガーによると、自分には『運』が有ると信じる事で将来的な行動が変わり、その事により未来が良い方向に転換するのだ、という。
思い込みが人の未来を変えるのだそうだ。
『運』とは人の心が創り出す幻想なのだ、心理的作用に過ぎないのだ、と彼女は告げる。
真逆に聞こえるかもしれないが、物理学の見地からいえば、『運』は存在する。
万物の基礎にあるものが量子力学だからだ。量子力学によれば、この世界の根源的な物質である素粒子は全ての面において不確定だ。存在している位置も不確定だし、その運動量も決まっていない。全てがランダムだ。ランダム性はこの世界を構成するあらゆる素粒子の基本的性質なのだ。現実世界の分子の動きについてどれだけ情報を持っていたとしてもどうしても排除できない量子力学特有の不確定性が将来への見通しを真っ黒な濃霧の内部に潜ませてしまう。つまりラプラスの悪魔は存在できない。そこに『運』が生じる。
言うならば量子力学が示す不確定性は人間世界の運や不確かさ、ランダム性の原点である。
人間の想いが宇宙の姿を定める訳では無いのだ、と量子力学は我々にソッと耳打ちする。
全てを決定するのは『偶然』なのだ、と。
では、私の考える『運』とは何なのか?
この地球上には約76億の人間が存在している。
社会的生物である人は物理的に生存してゆく為に社会というシステムを創り上げて来た。
同時に我々の意識や意志といったモノも相関しあっており、触発したりされたりで相互に影響を及ぼし合っていて、宇宙からの俯瞰的な視点で見れば、ソレ等は融合されて1つの大きな流れを形成している様に見做せるだろう。イワシのような小魚たちが大きな群れを形成してその瞬間瞬間に何度も方向を変えながら海の中を泳ぎ回る、いみじくもその様な光景に似ている。その枠組みを考慮した上で『運』とは何なのかを再考してみると、ソレは人々の期待や希望の集合体なのかもしれない、と私は思う。
『こういう風に成って欲しい』
『コレが実現すればなぁ』
『世界がこんな感じに変革して行ければ良いのに』
そういった無意識な想いが世界のアチラコチラで生まれ出でて次第に寄り集まって最終的には大きな奔流へと成長して行く。その流れに上手く乗る事が出来る人間を『運が良い』と称しているのだ、と思う。『運が良い』人物とは、大勢の他の人々が無意識の内に応援してしまっている人なのかも知れない。
ジョナサン・コーラーというノース・ウェスタン大学の統計学者によると、直感には反するかも知れないが『付いている』という状況は統計学的に高確率で起こり得るのだそうだ。
次の実験を、例として挙げる。
『コイン投げで表裏のどちらが出るか?』を記録することを考える。
10回投げて7回連続で表が出る確率は2パーセント程度に過ぎない、が、投げる回数を100回まで拡大すれば表が7回続けて出る確率は31.75パーセントにまで高まる。
枠組みが拡大されれば、この例の様に確率は高まる。7回連続で表が出た、という特異的な事も平均化されるからだ。ただ単に人間は変ったパターンに眼を惹かれ易いだけなのだ。
ただソレだけ、だ。
だから『付いている』などと錯覚をしてしまう。
だから、彼に言わせると、統計学的に成功に近付く為の秘訣は、たった1つ。
諦めずに挑戦を続ける事、だそうだ。
我々がコントロールできるのはチャレンジの回数だけだから。
確かに、ソレは真実である、様にも見える。
『運』を引き寄せるモノ、人々の期待を受ける為に必要な事とは、チャレンジの継続。
役者に関していえば、オーディションに受かる為の秘策は、何回も挑戦を続ける事、とも表現できるな。
他者から期待を得るには、言い換えると他者からの歓心を買うには、どうすれば良いのか?
人間はどんな場面でも意味のある『narrative』を見出そうとする傾向がある。
この複雑な世界を理解する為に我々は様々な出来事に一定のパターンや意味を見出そうとする。ま、時には間違った結論に至るのだが、な。
うん?
『narrative』とは何なのか? と尋ねたいのだな?
言わなくても判る。
質問の文字列がキミの顔に浮かび上がって来たから、な。
ナラティブ(narrative)とは日本語で言えば『物語』の事だ。
人間の大脳皮質は生得的な性質として『narrative』を強く求める。
『何らかの目的があって物事はそうなっている』
『あらゆる自然現象には目的がある』
『あらゆるモノは何かの目的の為に、恐らくは意思のある超越的な何者かの為に存在する』
このように、人は、この世の万物・出来事に対してあまねく因果関係を求めるものだ。
たとえソレが事象たちの数々が偶然に重なって起きた現象連続事例だとしても、だ。
一連の因果関係が術繋ぎとなった『糸』が、それは人々が抱く『幻想』に過ぎない訳だが、その『糸』が、私の言っている『narrative』に当たる。
だから、概して背後情報としての『narrative』が付属した人物が、アイドルひいては芸能の世界に所属する人として成功しているのは疑問を差し挟む余地の無い事かも知れない。
人々がソレを、『narrative』を好むのだから、むしろ必然的にそうなるのだ、とも言える。
人々が個々に抱く『期待』や『希望』を集めた流れが『運』であり『narrative』だからだ。
フム、今一つ得心が行っていない顔をしているようだ。
なら、『narrative』で装飾された人物としての良い例を知っているから、ソレを伝えよう。
キミが所属するグループの公式ライバルの存在は勿論承知しているな?
そうだ、坂道グループだ。
その坂道がシリーズ化して姉妹グループができた事も御承知かな?
よろしい。
その通り、去年の8月に結成された新規の坂道シリーズ、第2号だ。
そのメンバーの内の1人の『少女』が蓄える事に成功した『narrative』についての話だ。
1998年9月に長崎市で生を享けたその少女は、最初はキミのグループを応援していたが、後に坂道シリーズ第1号が発足した時に『このグループは私だけのモノだ』と思い込んでそちら側に転んだ、言ってみればこの世界の何処にでも遍在している、いわゆる普通の娘だった。やがて、そんな平凡な少女に変貌の時機が訪れる。
それは坂道シリーズ第2号の第1期生募集オーディションだった。
第1号の方の第2期生募集には何の関心も払わなかった彼女だったが、コチラの方は記念受験の心算でフラーッと応募した。
もちろん本人はおろか御両親も合格する事など夢にも考えていなかったが、彼等の思惑とは裏腹に、既にこの時に『運命』は転がり始めてしまっていた。
ま、『運命』などというモノが存在するのならば、だが、な。
第1次オーディション、つまりキミもよく知っている、書類審査は簡単にパスした。
実はこの時に、運営側の大人たちによって彼女に与えられたカテゴリーの枠組みは『S評価』だった。通常の場合はA評価が合格を意味する。もちろん、ココでいう『合格』は第1次審査をパスするという事ではなくて、最終オーディションにおいての合格という意味だ。
そうだ、彼女は最初の段階で全てを突破、既に最終合格を勝ち取っていたのだよ。
キミのグループで言えば1期生のニャンさんがソレに当たるが、S評価のSはSpecialのSでAを超える存在という格付けになる。
シンプルに表現するならば、S評価の意味する所は『何としてでもその娘を、採れッ!』だ。
そうだ、漸く理解できた様だが、彼女は最終審査を受ける前から合格が決定していたのだ。
つづく福岡で開催された第2次オーディションもすんなりとパスした、当然といえば当然だが。ここでの興味深い事実は、写真と現実は違ったという事だ。運営の大人たちが募集用のフォームに添付されていた写真から受けた印象は、おとなしやかで清楚な可愛い少女というモノだったが、実際に会って判明したのは、彼女は非常に明るく快活で物怖じせずお喋り好きでとても人懐っこい性格の持ち主だった事だ。しかし、それはマイナス評価には為らず、返ってプラスな点だと好意的に捉えられた。
ま、心理学的な面から述べると、最初に接した情報が全てを決めてしまうから当たり前だ。
最初に受容れた情報が全体の枠組みを構築するので、後から入って来る情報はその枠(専門用語でフレームと呼ぶ)を何ら揺るがす事は無いし、組み立てられた枠組み自体も非常に強固なモノなので滅多な事で変化したり毀損されたりはしない。
話がズレてしまったな、語りの本筋を彼女の上に戻そう。
トントン拍子に話は進み彼女は第3次オーディションに参加する為に上京する。
2015年8月20日に行われた第3次審査にも楽々合格し、記念受験の筈なので終了したらさっさと帰郷する予定であったのを変更、翌日21日に行われる最終オーディションに備えて運営側が用意したホテルに宿泊する事になった。その夜、まさかココまで残れるとは露程も予測していなかった両親と少女は、彼女の姉も交えてケータイのTV電話で家族会議を開いて、少女の今後について話し合った。結果として出た答えは彼女の意志を尊重するというモノであった。家族は彼女の応援に努める事にして、明くる21日の最終審査に備えて少女に付き添う為に翌朝、母親は急ぎ東京へと空路を取った。
この道すがらに母親の胸中に異変が生じる。
全面的に澄み渡った碧空にポツンと黒く小さな雲が突然生まれ出でる様に、母親の心の中にも不安の核が生成された。搭乗している飛行機が航路を辿り東京へ近付くに連れてその不安の種は大きく育っていき、遂には母親の心全体を専制支配して仕舞うほどに成長した。
『このまま、何とか46とかいうアイドルグループに入ってしまったら娘の将来は一体、ドウなってしまうのだろうか?』
『せっかく、超が冠される進学校に入学できたのに、大学とかはドウするのだろうか?』
『芸能界って、魔物の巣窟ってイメージしかない』
『怖くて怖くて、たまらない』
ヒトは未知の存在を怖がるように生得的にプログラムされている。
もちろん生存戦略の一環として、だ。
知らないモノにヨチヨチと無防備に近づいて行ったとして、もしその対象が捕食者だったら、その行動は即時に致命的な結果、つまり『死』に繋がるからだ。
太古の昔、ヒトの祖先が東アフリカの大地溝帯に隣接する森林地帯から出て、疎らに灌木が育つ草原であるサバンナ地域へと進出した時、ボサボサっと生えているブッシュの陰から全身茶色の毛むくじゃらで巨大な捕食者が何の前触れもなく突然襲い掛かってくる現場に何度も遭遇した。その茶色の捕食者は非常に恐ろしい存在だった。だが、後年にヒトが言葉を獲得してその捕食者に『ライオン』という名前を付けると、不思議な事にその恐ろしさが少し軽減される事になった。『ライオン』と名付けられた生物の脅威自体が全然削減された訳では無く実際そのままなのだが、その生物は既に見知っていて『未知』のモノではもう無くなったから、というヒトの心理的な理由だけで恐怖心が若干だが和らいだのだ。
如何に単純な存在か判っただろう? ヒトというモノが。
そうだ、未知の生物に名前という概念を付加させる、そんな事だけで認識する恐怖が低減するのだ。ヒトにとって『未知』つまり『知らない』という事がどんなに恐ろしい事か、よく理解できるエピソードだな。
母親にとって『何とか46』は未知の存在で、恐怖の対象でしかなかった、のだ。
チョット考えれば容易に判る事だが、結果が出てからであっても幾らでも辞退を申し出る事は可能なのだし、慌てる必要など世界の何処にも存在していないのだが、この時母親はパニックに襲われてしまっていたから、正常な判断能力を失ってしまっていた。
羽田空港から少女が宿泊しているホテルに直行した母親は娘を強引に郷里へと連れ戻そうとする。少女はそれまで親に反抗した経験など一切無かったから、どうやって歯向かったら良いのか判らず、母親に押し切られる様に最終審査を目前にしてほとんど強制的な帰宅を余儀無くされようとしていた。
ここで驚いたのは、運営サイドだ。
自分達がS評価を与えた少女が、何だかよく解らない理不尽な理由で母親に無理矢理連れ戻されようとしている、最終オーディションを受ける事すらしないで。
運営の大人たちはあの手この手、種々の手練手管をフル活用して母親に翻意を促すが、我が子を芸能界に巣食う『魑魅魍魎』から護ろうとする『母』の決意はダイアモンドよりも硬く、結局少女は最終審査に臨む事無く母親と2人で故郷長崎に帰ってしまった。
さて、帰宅した少女を待っていたのはオーディション結果を発表するニュース番組だった。
復路の間中ズッと泣き通していて涙も枯れ果てた彼女に出来る唯一の事は、呆然とTVの画面を眺め続ける事だけ、だった。傍からその少女の様子を見た母親は先程とはベクトルが異なる、まさに真逆の絶対的な恐怖・不安に駆られてしまう。
『もしかしたら、私はとんでもない間違いを犯してしまったのではないのか?』
状況は全然違うのだが再びパニック状態に陥った妻を目撃して、狼狽えた父親はダメで元々、慌てて坂道シリーズの運営サイドに連絡を繋げる、
『後先考えず、妻が短絡的な行動を取ってしまった。本当に虫の良い話ではあるけれども、最終オーディションの受験、今からでも間に合わないだろうか?』と。
運営サイドにとってはこの電話は、まさに天から降って来た甘露のようなモノだったろう。
なにせ眼の前で取り逃がしてしまった大きなお魚さんが、向こうの方から彼等の網の中に勝手に飛込んで来てくれたのだから、な。
運営の大人たちは少女の両親に申し出る。
『明日と明後日、福岡国際センターで坂道シリーズ第1号のコンサートが開催されますので、娘さんとご一緒に観覧されてみてはいかがでしょうか?』
翌々日の8月23日に母親は旦那さんと少女の3人で招待を受けたコンサートを観劇する。
ライブを生で観た母親は、良い意味での衝撃を受けて少女のグループ参加を全面的に認める事になった。
これでホッと胸を撫で下ろした運営サイドは、想定外の、だが、嬉しい困難に直面する。
その事態を打開する為に苦心惨憺する事になった。
そのまま最終オーディションを受けないままで少女を加入させて仕舞えば、他のメンバーやヲタたちから総バッシングを受ける事は自明の理、火を見るよりも明らかであるからだ。
だから大人たちは一計を案じ、彼女の為だけに坂道シリーズ第2号のアンダーグループである『ひらがな』バージョンを創設する事を計画立案し、そして実行した。
結果的に大人たちのシナリオに描かれた通りにヲタたちの反発は最小限で済んだし、それどころか反動的に少女は絶大な支持を得る事にまでも成功した。理由は次の様なモノだ。
『無思慮で無分別な母親が自分の意のままに振る舞った暴挙のお蔭で、危うくアイドルとしての道を閉塞されかけてしまったこの不幸な少女の背中を推してあげよう。彼女を力の限り応援する事で新たなるスターとして芸能界の、いや遍く一般の『世界』で光輝く存在へと押し上げるのは我々だ。彼女を応援する我らこそが神に選ばれし人間なのだ』
そんなこんなで少女は絶好のスタートを切る事に成った。
今現在、彼女は人気ランキングでいうとグループ内でNo.1を争う非常に高い位置にいる。
加えて、来年の年末12月に講談社から発売される彼女の1st写真集『ここから』は爆発的な売れ行きを見せる。ほどなく18万部超の売り上げを誇る事に成るだろう」
男が発した、その言葉に引っ掛ってリョーカは顰め面の様な顔付きをしながら、
「何で未来の事が、来年の事が判るの?」鬼が笑うかも、と言ってから口角を上げて表情を微笑へと変化させながら、尋ねた。
「何?
何で、来年の事が判るのかって?
ふふん、それは私の友人の1人がジョン・タイターだから、とだけ言っておこう」
そういう説明だけしてから、男は本筋の話を先に進めた。
「ま、紆余曲折があったが結果オーライで少女は偉大なアイドルへの道を歩み始めた。
そうだ。その『紆余曲折』が彼女の背中に激甚なる『narrative』を蓄えさせたのだ。
アイドル、坂道シリーズの事を何も理解していない、いや理解しようともしない大馬鹿で短絡的な母親に人生をスポイルされかけてしまった世界で一番不幸で物凄く可哀想な少女。
まさしくドルヲタ受けのする状況じゃないか、ね?
しかし、私は何事も複数の違う視点から同時に対象物を観察する様に訓練付けられている。
こういう時には決まって昔の指導教官の言葉が皮質内でリフレインするのだ。
『100本の論文があったとしたら、その内の70本には何処かに何かしらの誤謬つまり間違いが含まれている。そして残りの30本は頭の天辺から足の爪先まで徹頭徹尾、全てがデタラメだ。そういう心構えをもって論文精読に臨みなさい。でないと偽物に騙される』
で、だ、そういう理由から、私は違う視点からこの状況を眺めてみた。
すると私が最終的に得た結論はドルヲタ達が抱く考察とは掛け離れた側面を照らし出した。
少女の御両親、父親と母親は両者とも教師だそうだ。
だから母親は高等教育を受けた、いわばインテリ層に属する人間だと推察できる。
確かに教師という人種は世間知らずだ。
社会人生活を経験してから教師になる人間は皆無で、大概は学生からそのまま直接に教師の職業に就くのが普通だ。
大学を卒業したばかりのポット出の青二才が『先生、先生ッ!』と呼ばれ、持ち上げられてヨイショされる。世間一般の荒波に揉まれる事無く過ごすから、自分のコモンセンスの範囲外、言い換えれば『想定外』の出来事が持ち上がった時に柔軟に対処できない。自動車の運転教習所で一番厄介な生徒が弁護士、医者、そして学校の教師だというのも納得だ。
全員が『先生』とチヤホヤされている人間ばかりだし、毎日行う仕事量のほとんど全てがマニュアル通りに始まって、シナリオ通りに進行し、譜面の指示通りのコーダで終了するから、な。故にコレ等の『人種』はアドリブに慣れていない。
彼等の人生の脚本は、常に『決め打ち』の連続体のみだ。
変化の激しい状況、現実ってヤツに臨機応変に対応できなくなるのも、ま、何となく理解可能な範囲ではある。
だが、この件の母親はそうではないとしたら?
豊かな教養を備えて、世界を冷徹に見通すだけの普遍的で客観的な視野を持っている聡明で賢明な人間だとしたら? 複雑で混沌としていて一瞥しただけでは容易に理解できない現実の世界を『敷衍』していけるだけの能力を持ち合わせているとしたら?
事実、自分の娘であるこの『少女』に『考えを練る』人間になって欲しいという願いを込めて『ねる』と名付けた女性だ。
その可能性は充分あり得る、というか、ソウに違いない、と私は推測する。
『寝る子は育つ』から採ったとか、ネルドリップのコーヒーが好きだ、という浅薄で下らない理由から、ではないのだから、な。
この母親が眼前の困難で厄介な状況を真正面から見据えて、対応策を練り上げ実際に対処して行くだけのタフさを身に着けている、そのような世の中でも稀有な存在だとしたら?
お話は、180度ガラッと変わる。
少女が坂道シリーズ第2号のオーディションを受けたいと相談を持ち掛けて来た時、母親は独りでジッと熟慮する。
野村総合研究所の出した分析結果によると近い将来に日本における職業の49パーセントがAIによって取って替わられてしまい消失するそうだ。母親がこの研究結果を知っていても全然おかしくない、というか教師としては当然知っていなければいけない分析結果だ。
だから、『知っていた』と仮定する。
すると次の様な帰結に着地する。
少女は小さな頃から読書が大好きだったお蔭で聡明で頭脳明晰な女性へと育つ事が出来た。
彼女が通う高校は長崎県でも1、2位を争う程の進学校だ。
このまま進学すれば有名の2文字が冠される位の超優良大学へと行けるだろう。だが、AIが発達した未来の世界では学歴等というモノは何の意味も無くなってしまう公算が大きい。
実力を蓄えた者のみが通用する、まさに『適者生存』のダーウィンの世界だ。
色々な分析を鑑みるに人間に残された唯一とも言って良い職業分野は『クリエイティブ』なフィールドだ。そこしか残されていない。厳密に言えば、現在は未だロボティクスは人間の手の働き具合を完全再現できていないし、その実現までにはシンプル構造の人工筋肉の開発等を要するので少なくとも後10年位は掛かりそうだから、理容師や美容師などの『職人』やとび職や左官屋の様な『ガテン系』関連の仕事は残るが、この子は何といっても女性で、加えて飛び切り素晴らしく手先が器用な方ではないので、それらの仕事は選択肢の対象外にせざるを得ない。
それに、最近見知ったニュースによれば、どうやらホタテの貝剥きくらいは現在の稚拙なロボットによってでも相当なレベルで実現できているらしい。そういえばハモの骨切りを担うロボットも完成したとも聞いた。だから、もしかしたら、ロボットの手の精巧さ加減が人間のソレに追付くのに10年も掛からないかも知れない。
だったら、この『何とか46』のオーディションは先行きが不透明な未来に直面しなければいけないこの娘にとっての旱天の慈雨に成り得るかも知れない。
少なくともチャレンジさせてみる価値は十二分にある。
この中間点の結論に到達した母親は、次の段階としてネットの世界に溢れる様に漂っている『何とか46』や『こうとか48』と呼ばれるアイドルグループの動画を渉猟してみる。
もしかしたら、物事を表層からしか捉えられない人々はこの母親を『ネットに山ほど存在しているアイドルグループの情報に接しようともしないで、何ら考察する事無く短絡的・感情的にアイドルというモノを忌避しようとするアホなヤツ』と揶揄していたかも知れないが、彼等の母親に対する認識と事実は『錯誤』の状態に陥っているだろう、と私は推察する。だから、非常に高い確率で彼等の考えは根底から全くの間違いかも知れない。
そう、母親は凄い勢いでネットに満腔状態のアイドルに関する情報、特に『何とか46』というグループと、同じ様にアキモトという男が総合プロデュースを手掛けているキミ達のグループの両方の情報を収集して、大脳皮質をフルスロットルでブン回し、分析する、
運良くこのグループに加入できたとして、その次に一体どうやったら『売れる』のか? と。
それを解明する為にも、母親の考察・解析は自分の娘である少女の上に移行する。
少女の特徴を心の中で羅列して分類、その長所と短所を挙げて行く。
もしかしたら、正確を期す為にノートに箇条書きしたかも、な。
最初に取り掛かったであろう特徴は、恐らく少女の外観的な要素から、だろう。
複雑で込み入っており一筋縄では上手く解読できない内面に関する事柄については一先ず横に措いておいたに違いない。簡単な方から片付けて行く方が結果として総量的な負担が少なくなるからだ。
少女の容姿について母親は、親の欲目を務めて排除しつつ最大限の客観性を持って精査しただろう事は想像するに難くない。何せ、娘の一生が掛かっていると言っても過言は無いのだから。しかし、私が確認した一葉の写真から得た情報の限りでは、少女の容姿容貌に関して目立った瑕疵は認められないから、比較的簡単な作業に終わっただろう。
母親は自分の娘を分析する。
現代を生きる女性の例に漏れず、少女の手脚はスラリとして長い。
『手』の方はヲタの人々が形容的に使用する言葉の『猿腕』ぽいが、シュッと優雅に発達しているし、『脚』の方も一流アスリート程とはいかないまでもソコソコ整った形状をしている。何よりも重要な事は、身体のシンメトリー、左右整合性がキチンと取れている事だ。
ヒトは『対称性』に整然とした美しさや心地良さを無意識の内に感じ取っている。
Phenotype(表現型:遺伝子によって発現された形質の型)においてlateral symmetry(左右対称性)の均斉が美しく取れているという事は、少女が保持している遺伝子の優秀性を外部に向ってアピールしている事でもある。遺伝的に優秀であるという事実を外観の情報から把握でき得るので、だから人々は一般的に左右対称性に優れた人物を好むのだ。
因みにダンスが上手い人が何故モテるのか? という質問には色々な説があるが、有力な説(科学論文誌のNatureに掲載された論文から)によると、優れたゲノム(遺伝子のワンセット)を保持している人ほど左右対称性に優れている。そして左右のシンメトリーが精度良く取れている人ほど中心軸線が(ヒトを上から見た時に)身体のド真ん中を貫いていて容易に重心コントロールが可能な為にダンスを上手く踊る事が出来るから、だそうだ。
つまり『ダンスが上手い人物』は優れた遺伝子を保持している蓋然性(可能性)が高い。
生物が生殖のパートナーとして優れた遺伝子を持つ個体を選択したがるのは当然の事だな。
コホン、話が些かズレたので、元に戻す。
シンメトリーの整合性に加えて、身長の問題もクリアしている。
高身長、例えば170cmを超えるような女性は、たとえその娘が絶世の美女であったとしても『何とか46』というグループでは成功を望む事は難しい。
カヲルさんの事を覚えているだろう?
グループにおける適切な身長は160cm前後で、それよりも低い場合には何の問題にもならないが、大きい場合はイッて精々165が限界だろう。ソレがカヲルさんがブレイクできなかった要因の1つである事は、まず間違いない。
この少女の身長は159cmだから理想的な範囲内に存在している。
運動能力もオリンピックを目指す様な一流のアスリートと比較すればポンコツだろうが、普通の高校生を念頭に置くならばそれ程悪いモノでも無い。普通のレベルだろう。
欠点として挙げられる部分はボディ的に色気が全く無いという事だ。
オッパイは御世辞にも大きいとは言えず、オシリも子供の域を抜け出せていない。
が、ドルヲタの全員がオッパイ星人と言う訳では無く、むしろ色気を感じさせない『棒』の様な身体付きが醸し出す『清純性』を好む人々もその数は多いので一方的に不利な状況ではない。だから、容姿関連については、概ね良好という印象を母親は受けただろう。
次に相貌(顔)についてだが、芸能界のトップに君臨する女性と比べれば戦力的に劣る事実は否めないものの『何とか46』というグループ内限定で比較すれば遜色は全然無い。
少女の容貌(顔)のベクトルは『綺麗』という方向ではなく、どちらかというと『可愛い』とか『可憐』という方角に向いている。これはドルヲタ受けのするベクトルなので非常に有効的ではある。特に眉間の辺りから漂い出す『純粋無垢』そうな雰囲気が、受けそうだ。
続いて次に、母親は少女の内面について分析をしただろう。
少女は両親の転勤に伴って3~7歳までの約5年を東シナ海に浮かぶ五島列島の中通島で暮らした。居住したのは奈良尾という地区だったのだが、隣近所が全員とも親戚関係にある様な友好的で濃厚な付き合い方をしている場所で、両親ともに教師という聖職者だった関係もあってか、余所者にも関わらず少女を含めた3人の子供たちは地区全体から非常に可愛がられて、大いなる善意と愛情の中でスクスクと育まれていった。
五島列島は隠れキリシタンの島々であったので少女の家の近傍にも教会が建立されており、華美な装飾はそれほど施されてはいないけれど全体としては威厳を抱かせるほどの立派な威容を誇っている建物の敷地内で陽が西に傾くまで遊び続け、そのまま他人の家でご飯を御馳走になる事もよくある日常の一コマだった。
もしかしたら、コレは完全に私の想像だが、
五島列島名産の五島うどんの地獄炊きでも御馳走に成ったのかも、知れんな。
ん?
地獄炊きというワードに引っ掛ったようだな。
何、言葉の響きほど恐ろしいモンじゃない。
五島うどん、これは小麦粉と塩水で練った生地を1.5mmの細めに手延べ製法で伸ばした乾麺だが、列島特産の椿の種子から抽出した椿油を塗りながら伸ばして行く事で生まれる独特の風味とコシの強さが特徴となる逸品だ。このうどんを釜揚げにして、漬け汁の代わりによく溶いた生卵に醤油をタラーッと一周掛け廻して、ソコに微塵切りにした青ネギと細かめの鰹節を振りかけたモノ、それをタレとしてうどんを頂くという非常にシンプルだがとても奥深い味を醸し出している料理。この豊葦原瑞穂の国、八州の島々のあらゆる片隅に遍在する変哲もない、心を温めてくれて、ホッと人心地付かせてくれる家庭料理だ。
この国にも未だ、こういう場所が残っているのだ、とこの少女の存在が証明してくれる。
そんなノンビリとした環境の中で伸び伸び成長したお蔭か少女は快活で明るい性格、稚気や愛嬌に優れ、人懐っこくて物怖じしない、よく笑いよく喋る、他人から好かれるタイプの人間へと成長した。田舎、それも島育ちだからか全身から『純一無雑』の空気を周辺に発散していて、そこも好ましい点ではある。もちろん少女も人間である以上は心の内側にドロドロとした沈殿物を抱えてはいるのだろうが、母親の眼から見てもその様な心の深淵に潜んでいるだろう醜悪な実情を、少なくとも表面から窺い知る事は出来なかった。
少女のこの性格が、島から本土(長崎市内)に戻った時にプチ厄介事を呼び込んでしまった事があった。市内の小学校に転校した際に、あまりに明け透けに人懐っこいのでイジメの対象に成り掛けたのだ。幸運にも大事に成らずに済んだものの、ソコは気を付けないといけないかも知れない。何せ『何とか46』は女性の集団だから、だ。
女性の集団内での妬み嫉みや当てこすり、鍔迫り合いや足の引っ張り合いの多さは簡単に想像できる。が、今まで分析してきた中でクリティカルな欠点は差し当って見当たらない。
これなら、何とかイケるかも。
そう結論付けようとした母親の頭上に大きなエクスクラメーション・マークが浮かんだ。
少女が抱える決定的に致命的な欠点に気付いてしまったのだ。
彼女には、瑕疵が、一切無い」
「かし?」
「そうだ、瑕疵だ。
瑕疵とは『傷』や『欠点』の意だ。
私は先程、アイドルとして、そして芸能界で成功する為には『narrative』が必要である、と言った事を覚えているかい?
どうすれば『narrative』を蓄える事が出来るのか。
ソコに至る為には様々な道程が存在し得ると思うが、『瑕疵』もその一つに成り得る。
瑕疵、傷が『narrative』を生み出すのだ。
リョーカさん、アナタは未成年だから知らなくて当然なのだが、シャンパンという種類のワインがある。コレは発泡性のお酒で、グラスに注ぐと炭酸飲料の様に泡がシュワシュワっと弾け出してくるワインだ。グラスの底から無数のビーズが連なって湧き出てくる様相がとても優雅な印象を人に与えるので、よく言祝ぎの宴に提供される飲み物だ。
ある人物はコレをネクター(nectar)、つまり『神々の飲み物』と呼んだほどだ。
全然関係無いが『神々の食べ物』つまり神饌はアムブロシアー(ambrosia)と言う。
両方の言葉ともにその由来はギリシア神話からだ。
ワインの産地別、種類別に異なる様々な種類のグラスを提供し始めたのはリーデルというグラスメーカーだが、ま、彼等が始めた訳では無いと思うが、シャンパン用は主に2種類のグラスに大別される。祝宴などで使用される丸いお椀の様な形をしたカップ(碗状部)を備えたクープグラスと細長い筒の様な形状のフルートグラスだ。余談だがクープグラスの碗状部は、かの有名なマリー・アントワネットの乳房を模してその形状が創られた、と言われている。
この2種類のグラスの両方、碗状部の底の内側に眼には見えない位の極微の傷が付けられている、勿論ワザと、だ。
目的は、シャンパンを満たしたグラスをテーブルの上に静座させている時にでも、術繋ぎに連ねられたビーズの珠の様に底から小さな泡が次々と優美に立ち昇る姿容を披露する事で食事をする者の眼を愉しませたいから、だ。プクプクと昇って行く珠の様な小さな泡の連なりの軌跡が人々の関心を惹きつけ、彼等の心の中に『物語』を生み出す事によって、テーブルの上を行き交う会話を弾ませる。
そうだ、グラスの底に穿たれた1つの微小な『傷』が『narrative』を産む。
非常に手を掛けて丁寧に作られた高級なシャンパンになるとグラスに注いでそのまま一晩ほど放置しておいても、翌朝に手でステム(足)の部分を持ってワインをグラスの内部でクルクルと回すと、たちまち生き返った様に再び底から泡のビーズを放出し始める。
この様に『narrative』は簡単に消失しない」
 ふーん、『傷』か。
じゃ、やっぱりスキャンダルって必要なのかな?
そういう想いが頭の片隅を過り掛けた、そんなリョーカの心の内を見透かすかの様に、
男は次の言葉を紡いだ。
「私は、何もキミに『スキャンダルを起こせ』などと勧めている訳では無い。
そんな仕様も無い事は一切考えない様に。
努々(ゆめゆめ)想うなかれ。
人には各々キャラクターがある。
ユビさんの様にスキャンダルを糧にして伸し上がっていける人間の方が余程珍しいのだ。
大概の場合は奈落の底に転落したまま弩壺にハマってしまい、終了となる。
キミは非常に真艫な性格をしている。不器用とも形容できる位に真面目だ。
だから、スキャンダルを自分のリソースとして利用できるほど厚かましくも無いし、図太くも無い。もし、そんな図々しい性格なら、普段からもっと上手く立ち回れているだろう」
 内心を読まれて一瞬ビクッとなったが、男の言う事はまさしく的を射ていたので、
『ヤッパリな、そんな簡単な事じゃないモンな』と、リョーカは想い直す事にした。
「シャンパンの話題から離れて、実在のアイドルの例を挙げよう。
アッチャンさん。
彼女は、他人を惹き付ける魅力が遥かに実力を凌駕してしまっているが故に、悲劇的だが自分のポンコツっぷりを必要以上に自覚させられてしまった。飛び越せそうもない川幅の大河を一息に『跳べッ!』と命令されて甚大なる恐怖のあまり身が竦んで一歩も動けなくなってしまう。そんな怯えている彼女を見て義侠心やpaternalism(パターナリズム:父親的温情主義)に駆られた人々がアッチャンさんの背中を推す。この時に彼女に『narrative』が蓄えられたのだ。
ユウコさん。
実力はグループ内で右に並ぶ者が絶無なのにも拘らず、その存在が完璧で取っ掛かる箇所が無い、つまり『傷』が無い故に御客さんも運営サイドも応援する切掛けを掴めないままズルズルと放って置かれた結果として何となくアッチャンさんの影に隠れてしまっていた。
が、後ろに控えるジョーカーとしての役回りが彼女にとっての『傷』へと変幻してユウコヲタ達の間に『実力はNo.1なのに何故捨て置かれるのだ?』という怒りを産み出した。
彼等が第1回の総選挙で爆発させた紅蓮に燃える怒りの炎。
『narrative』が優子さんの背中に装着された決定的な瞬間だ。
ユビさん。
スキャンダルを起こして、名目上だが、都落ちして福岡に流されてしまったという『傷』。
ま、彼女についてコレ以上は言及するに及ばないだろう。
生臭すぎて貴種流離譚というには、ほど遠い話だから、な。
以上の3つは、キミにとって卑近な人物に関して、『傷』が『narrative』に昇華した例だ。
では話を、島育ちの『少女』に戻す。
母親はハタと気付いてしまった、自分の娘『少女』には瑕疵が無く、故に『narrative』が産まれる事は無い、という重大でクリティカルなウィーク・ポイントに。
容姿もソコソコ、真面目で明るく快活、物怖じせず人懐っこい性格。
地頭は良く、その上学業成績も優秀。
つまり、ヲタたちにとって応援する為の『取っ掛かり』が見当たらないのだ。
ソコで母親は一計を案ずる。
折角、掌中に収めることが出来た千載一遇のチャンス、AIが支配する時代を生き抜いていける特別な職業への登竜門だ。
ここでソレを失う訳にはいかない。
母親は冷徹に、そして客観的に事態を分析する。
そして『少女』が第3次オーディションを通過して最終審査に臨む、と成ったその時に、用意してあった乾坤一擲のシナリオを発動させる。
羽田空港に到着すると脇目も振らず『少女』が宿泊しているホテルに直行。
有無を言わさぬ厳然たる態度を示しながら娘を長崎に連れて帰ろうとする。
そこで運営側のスタッフ達が低温状態で大した引き留め策を講じる事をしなかったならば、
『あ、何か私、取り乱してしまいました。大変に申し訳ありません』とだけ言って、娘を連れ戻す事を中止、そのまま最終オーディションへと参加させるだけ、だ。
だが、運営の大人たちは必死で慰留した。
母親の描いたシナリオ通りに、思い留まらせようとし、全力で引き留めた。
あの手この手の慰留策を講じて『少女』を最終審査に臨ませてくれる様に懇願したのだ。
ここで母親の心の中に小さな『期待』の種が生成された。
『この大博打は、上手く行くかもしれない』という期待だ。
ホテルからの去り際に一人のスタッフが、母親が隠し抱いている『期待の種』を芽吹かせる一言を、告げる。
ソレは『ネルちゃん、本当にアイドルになりたいのだったら、もっと深くご家族の皆さんと話し合った方が良い』というモノだった。
運営側が何の希望も持たない人物にそんな『未来』を予期させる言葉を掛ける事は絶対に無い。何事かが起きる、そんな有望な見込みがあるからこそ、ハッキリ言ってしまえば近い将来に必ず行われるであろう第2期生オーディションに再び参加して欲しいと切望しているからこそ、心の底から湧き上がってくる言葉だ。
スタッフの醸し出す濃厚な引き留めムードを振り払って娘と共に機上の人となった母親は芽吹いた『期待』が大きな葉っぱを拡げる事を感じざるを得なかっただろう。
機内で『少女』の発した唯一の反抗の言葉、
『お母さん、コレで満足した?』
これ等は母親の耳朶を打ったのだろうが、内耳が変換したであろう電気信号は皮質に何の変化も起こす事は無かっただろう。彼女の、母親の想いは『少女』の輝ける未来へと飛んでいただろうから、な。
帰宅してTVに流れる坂道シリーズ第2号の最終オーディションの結果発表のニュースを呆然と眺めている『少女』の姿を見て母親は『よしっ! この娘は本気でアイドルになろうとしている』と1人得心が行っただろう。
他者に無理矢理何かをさせようとしてもダメだ。
その当人が心の底から真に本気でヤル気に成らない限り、周囲の人々の働きかけは結局何一つも動かす事は無く、全ては無駄に終わる。
西洋の諺にこうある、
『水を飲ませる為に馬を井戸のある場所へと連れて行く事は出来る。だが、馬に無理矢理水を飲ませる事は、誰にも出来ない』と。
ウマが自発的に飲もうとしない限り、何も起こらないのだ。
周囲の人々が出来る事は、ウマに、より良い環境を用意してあげる事だけ。
この時、ウマは、イヤ、『少女』は自ら進んでアイドルに成りたいという強い願望を持った。
ポヤポヤした記念受験ではない、本気の本気へと相転移は起こったのだ。
これで娘の覚悟を確認できた母親は次のフェーズに移行する。
浅薄で無分別な思考に支配されてしまい、短絡的なパニック行動を犯してしまった愚かな『母親』を演じたのだ。
娘の将来が掛かっているのだ、その演技はまさしく何かが憑依した如く、恐ろしく真に迫っていただろう。その証拠として『パニック』が伝染した夫(父親)は驚天動地の狼狽え方で取り乱しながらも運営サイドに連絡を繋げた。
その電話の内容、運営側が申し出た明後日の坂道シリーズ第1号の福岡国際センターで行うコンサートへの観劇の招待、それを連れ合い(父親)から聞いた時に母親の中で『期待』は『確信』へと昇華した事だろう。
そして翌々日の8月23日、コンサート自体の素晴らしさにも心を揺さぶられた母親だが、何よりも感激したのは自分たち一行を歓待した運営サイドの大人たちの態度だった。
『少女』を上にも下にも置こうとしない、その高く厚い処遇を見るに連れて母親は内心でガッツポーズをしながらこう独りごちたろう、
『コレで、この娘はもう一生喰いっぱぐれる事は無い』と。
最終オーディションを受けなくても私の娘は合格している事はまず間違いない。
バカで愚かな『母親』の存在が『少女』に応援する為の取っ掛かりである『傷』を生み出し、その『傷』が紡ぎ上げる『narrative』がヲタたちの心を引っ掻き乱して沸騰させる。結果として彼等は否応なしに『少女』を高みへと昇らせようと力の続く限り必死で押し上げるだろう。彼女の背中を推し続けるだろう。
『勝ったッ!』
母親は心の中で、そう北叟笑んだ(ほくそえんだ)に違いない。
リョーカさんは『穿ち過ぎている考えだ』と、思うかね?
だが、強ち(あなが・ち)単なる妄想だと一笑に伏せられるかな?
もし私が母親ならば、『ダメ元』とばかりに実行してみる蓋然性は、かなり高い。
失敗しても失うモノは少ない、イヤ殆んど無いのだから、な」
 ウエッ!
リョーカは少しばかりの嫌悪感と共に男の伝えた『真実』(仮)を皮質内で反芻した。
もしオヒゲさんが言ってる事が真実だとしたら、その『ねる』とか言う女の子の母親って、スゴイ。いや、凄いっていうよりも、怖い。
自分の娘に『傷』を負わせてまで、売れさせようとするなんて、チョット非常識だ。
ホントに一か八かのメチャクチャなギャンブルじゃん。
 男は、そんな彼女の心模様を外面の態度から感じ取って口の端を歪めた。
微笑に見えなくもなかった。
そして、ヒゲの男は次章へ移る前に、この話題を終わろうと章のコーダの言葉を紡いだ。
「私は別に、キミに自分を『傷』付ける様な自傷行為をしろと言っているのではない。
本当に、努々考えてもいけない。
『傷』とは取りも直さず(=言い換えると)『蹉跌』とか『挫折』の事だ。
『蹉跌』ならばキミはもう既に充分な位、味わさせられている。
去年の総選挙でランキング外に落ちてしまった事だ。
それはキミにとって大きな瑕疵、『傷』となって未だにジュクジュクと膿み続けている。
ソレ以上は必要ない。
キミは、言わばシャンパン・グラスだ。
私がこれから実行しようとしている作業、キミに30万票を投ずるという行為は、キミという優美な『シャンパン・グラス』に甘露たる液体を注ぎ入れるというモノに過ぎない。
キミが負った『傷』から小さなビーズ珠の連なりが優雅に立ち昇って行く様子を世界の人々に披露する為に。
『傷』から産み出される『narrative』の輪郭を際立たせてその存在を強調させる為に。
クリュッグ(Krug)という名前の非常に価値の高いシャンパーニュ(champagne:仏国のシャンパーニュ地方で作られる真のシャンパンの事)がある。その昔、英国王室ダイアナ皇太子妃がその夫であるチャールズ皇太子との初夜において飲んだという伝説のネクターだ。
私は、これからチームを編成する。
名付けて『チーム・リョーカ』だ。
近く来たる陽光煌めき風薫る初夏に、我々が注ぎ入れる液体を、クリュッグにするのか、
単なる炭酸が溶け込んだ水道水にしてしまうのかは、全くもってキミ次第だ。
あ、付け加えて言っておこう。
近い将来にキミが役者として独り立ちした時には、もう『傷』は必要なくなるだろう。
キミが演じる『役』が、キミにとっての『narrative』になる。
当たり役を得た俳優・女優が、その後大きく育っていく事実がそれを証明している。
現実と作劇の違いに気付く事が出来ずに錯誤に惑わされる人々が、『役』=『役の中の人(個人としての役者)』と混同してしまう位の莫大な『narrative』が付加されるのだから。
私は、何時か近い将来に訪れるであろう、その日を楽しみに待っている」

リョーカは、圧倒的な質量の沈黙に押し潰されて呆然とし、口を開く事すらも許されず、沈黙したまま冷たい雨に打たれ続けて下着がグショグショに濡れそぼつのにも構わずに首をガックリと落とし切っている観客に、暖かく柔らかい微笑みを渡しながら、思った、
『大丈夫だよ。こんなの微かな傷にさえ、ならないから』

「最初に尋ねた事、『アナタはポジション・ゼロからの景色を観てみたいですか?』というモノ、コレはとても簡単な魔法で実現できる。
アナタが望むのであれば私は20万票以上を投ずる用意が出来ている。そんな怪訝な顔をしないで欲しい。たかだか2億ポッチを費やすだけなのだから、ね。
資金は潤沢に準備できているから状況次第で幾らでも投票数は増やせる。
本当の事を言えば一回とは言わずに何回でも魔法は使える程資金は潤沢だが、使用するのは一回で充分なのだ。
何故なら去年80位、そして今年は圏外。そんな君がポジション・ゼロを獲得するなんて『奇蹟』に近い、と言うよりも『奇蹟』そのものだ。
『奇蹟』を1つ願う時には、その代償として同じ重さの『絶望』を引き受けなければならない。しかしながら、もしリョーカさんが『絶望』を受容れるだけの『覚悟』と『勇気』を持っているのならば、アナタの中で『絶望』を『希望』へと昇華できる。
変化を起こすのはリョーカさん、アナタだ。
アナタ自身の手で『希望』へと変化させるのだ。そうして晴れて『希望』を手にする事が出来た時にはもう既にリョーカさんは魔法を必要としなくなっている筈だ。
ソレが私が魔法を使用するのが一回限定である所の理由だ。
『希望』を手中に収めた時にアナタは『タフ』な人間になっているだろう。
『タフ』と言うのは厄介な事を真正面から見据えてあらゆる対応策を考慮した上で最善と思われる方法を選択して実際に対処していく人物の事だ。
天才の言葉に依れば『最優先事項が把握出来ていれば答えは簡単だ。一番厄介で一番困難で一番面倒な選択肢が正解だ』なのだそうだ。全くその通りだと私も思う」
 男は莞爾と笑いながら続けた。
「運が微笑んでくれればアナタの努力次第で『絶望』を『希望』へと昇華出来る。その時にはアナタはどのポジションでも望み通りに手にする事が出来るだろう。
だが気を付けなければ為らない事が1つだけ、在る。
アナタが真ん中の立ち位置に居る時、周囲の人々はこぞってアナタをチヤホヤと扱うし、誉めそやすし、甘やかすだろう。
だが、勘違いをしてはいけないよ。
アナタが受けるのであろう厚遇は、アナタが特別な存在だからなのでは無い。
アナタの立っている位置が特別なだけだ。
その位置が彼等の対応を引き寄せているだけだ。ソコを勘違いして『自分は特別なのだ』と思い驕り高ぶってしまうと事態は最悪なモノへと転じる。
驕慢は傲慢を呼ぶ。傲慢な精神状態で研鑽を積み精進を重ねて行く事は、ほぼ不可能だ。
人はそれ程器用では無い。
歌を忘れたカナリアは、無残にも打ち捨てられる。
ソレと同じで努力する事を忘れて現状維持に甘んじてしまえば、早晩積み上げてきた貯金を使い果たしてしまい後に残るのは無残な残滓だけだ。ポジション・ゼロと言う『特別な場所』でもね、そんな特別な場所から少しでも離脱してごらん、刻を置かずに周りに優しく微笑んで守っていてくれた大人達は1人、2人と消え去って行き、結果的に誰もアナタを歯牙にも掛け無くなる。そうなったら、惨めだ。1回でもトップの位置を経験しているだけに余計に情けなくて辛い。その上周りのメンバーの眼が気に障る。当人たちにそういう心算は全く無くても、アナタはその視線に一筋の憐憫の情を感じる。
『可哀想に』
そんな状況に耐えられるかね? リョーカさん。
ソレが嫌で必死にポジションにしがみ付くかね、ホルモンさんの様に?
それともそんな事には一切御構い無しで、一瞥すら、注意すら払う事無く背筋を伸ばし顔を上げて前をシッカリを見据えながら屹立して、その高貴とも形容できる背中姿のままに自分を律し続けていくかね、ユウコさんの様に?
どちらを選ぶかはアナタ次第だが、正解は決定的に明白だ。
人の振舞の基盤は、強固な岩盤の場合もあれば、軟弱な沼沢の場合もある。
岩盤を選択するのか泥沼を選ぶのか、自分で決めなさい。
ただ、ワタシの希望を言えば、アナタの様な人は固い岩盤の上で立ち振る舞って欲しいと思っている。
たとえ辛くても、ソコから得るモノは決して少なくない筈だ。
だから、謙虚でいなさい。
常に謙虚に振る舞う事が重要だ。
だが、人は煽てやオベッカ、おもねりに満ちた甘くて優しい嘘に弱い。
お世辞だと判っていても耳に優しく触れてくる言葉の群れに抵抗する事は難しい。
現実には耳障りのする意見の中にこそ本当に大事なモノが潜んでいる。ソレは有益な情報を湛えた豊饒の海だ。ジンジンと耳が痛くなる様なキツイ批判の中に本質が存在している事を全ての人は無意識の内に理解しているのだが、人は脆くて弱い悲しい生物だ。
心躍らせる誘惑の囁きに負けて、易きに流されてしまっても仕方が無いのかも知れない。
じゃあ如何したら周囲の人達が施す高待遇にも舞い上がってしまわずに自分を律して行けるのか?
ココでもキーワードは『オオシマ・ユウコ』だ。
振付の先生のマキノ・アンナはユウコさんの事をこう評した、『ユウコちゃんはバケモノだ』何故『バケモノ』なのか?
第2回の総選挙で見事に1位を獲得して次のメジャータイトルのポジション・ゼロ、つまり彼女がセンターポジションに据えられる事に為った途端に環境は激変し、周囲は態度を豹変させてチヤホヤし始める。
『大声』の時では干されてPVの登場時間はトータル1秒未満だった。
第1回の選挙で2位を獲得してからも不遇で不動の2番手扱いが続いた。
そこからの真ん中のポジション獲得だ。
激変、正真正銘の環境激変が勃発する。
待遇は一変して彼女を上にも下にも置かない様に為る、まさしく『厚遇』だ。
ま、センターと言えばトップだから周りの大人達も厚い処遇で接する、さ。
そんな甘くて優しいおもねりの中では自分自身を喪失してしまっても仕方無い事だ。
しかし彼女は違った。
周囲の環境の変化にも戸惑わず甘く優しい嘘にも惑わされる事も無く、選挙前となんら変わる事の無い努力を日々続けて精進を重ねて研鑽を積む事を倦まなかった。そんなユウコさんの態度を観たマキノ先生は思ったのだ『オオシマ・ユウコはバケモノだ』と。
大人達が発する金星のブ厚い大気の様に恐ろしい程にまで高密度の接遇にも自分を見失う事も無く、自分を律し続ける。ユウコさんは自分に対して一番に不寛容なのだ。そんな事出来る人間等ソウソウ存在しはしない。御釈迦様ぐらいじゃないか? そんな芸当が可能なのは。だからマキノ先生は言ったのだよ『バケモノ』だ、と。
ユウコさんに比べれば、アナタは普通の人間だ。
だから真ん中の立ち位置に居る時に周囲から受ける高遇に惑わされて自分を見失いそうになるかも知れない時に、激変する環境に耐えかねて暖かくて柔らかい陥穽へと誘われて、思わず陥落してしまいそうな時、このマントラを心の中で唱えるのだ。
『私は特別な存在じゃない。私の立っている場所が特別なだけだ』と。
若しくは『オオシマ・ユウコはバケモノだ。そして私も『バケモノ』に為らなければ駄目だ』と。2番目の方が解り易いかな」

「彼は言いました。私の様な大半のファンにさえも顔を覚えられていないようなメンバーがポジション・ゼロを望む事は一つの『奇蹟』を願う様なモノだと。
一昨年に80位で、去年には圏外に落ちてしまった様な私が第1位を望む事は『奇蹟』』を願うに等しい事だ、と。
そして1つの『奇跡』が叶った時は、続いて必ずバックラッシュが襲ってくると。
『奇蹟』を一つ願う時には、その代償として同じ重さの『絶望』を引き受けなければならない。でも、もしも私が『覚悟』と『勇気』を持って『絶望』から眼を逸らす事無く受け容れれば、私の内で必ずソレを『希望』へと変えられる、と」

『私は特別な存在では無い。私の立っているこの場所が特別なだけだ』

「私はアナタのボスの様に自ら言葉を紡いでオリジナルの文章を創り出す程の才能は残念ながら持ち合わせていない。だから今のリョーカさんが現状を打破する為に必要な事を含んでいる一節をある映画のセリフの中から抜き出して置いた。
この言葉は、ある男が自分の息子に対して行った言葉だ。
『自分の願望はあらゆる犠牲を払い自分の力で実現させるモノだ。
他人から与えられるモノでは、無い』
そう、自分の実現させたい事は自分自身の力をフルに発揮する事で手にするモノだ。
例えば同じ金額、10億円の資産を持っているとしても、ソレを自分の才覚を使う事で稼いだのか、それともただ単に運に恵まれて宝くじに当たる事で手にしたのかでは大違いだ。
アクシデントが彼を襲って資産を無くしても自分の力で稼ぎ出した男は再び同じ額の資産を手にする事は十分に可能だが、宝くじ派の方は絶望的だ。何故なら彼は金の稼ぎ出し方を知らないからだ。
私が用意するポジション・ゼロの立ち位置は、単にリョーカさんが飛躍をする為の機会に過ぎない。その後に、自分を律して行って大跳躍できるかどうかは全くアナタ次第だ。
夢は見ているだけなら愉しいし楽だ。
自分が抱えているだけなら壊れないし損なう事も無い。だが冷凍保存したままなら絶対に叶わないし、何も得られない。
でも解凍して、夢を目標として再設定した途端に愉悦は苦痛へと変化する。
私のこの申し出を聞いたばかりの今、簡単に返事は出来ないだろう。
だから来年の2月頃までは待つ。
よく考えて欲しい。
私の申し出を受けて魔法を使うのか、それとも自分の力だけを頼んで独立独歩で行くのか、全てはアナタの胸先三寸の内にある。どちらを選択しても私はソレを尊重する。
無理強いはしないよ。
本当によく考えて欲しいのだ。
ただどちらを選んだとしても、決して後悔だけはして欲しくは無い。先ほど言及した天才がこうも言っている『後悔はずっと傍に居て一生付き纏い離れて行ってくれない』と。
私はね、リョーカさんに後悔だけはして欲しくない。後悔という厄介なモノに付き纏われたまま残りの人生を過ごしていて欲しくないんだ。
そして全ての選択肢には何らかの間違いが付随している事は弁えて置いて欲しい。
人が何かの選択をする時、例えばAとBという二つの選択肢があったとして、Aを選んだ瞬間に、既にもうその選択が可能な機会は過去の向こう側に過ぎ去って仕舞って消失し、後に『間違えた』と思ってヤリ直そうとしても、過去の時点に戻って再び選択をやり直す事は不可能なのだ。だからBという選択肢が、本当の正解だったのか確かめる方法は無い。
もしかしたらAよりも重篤なレベルで間違えた選択肢だったかも知れないし、な。
結局、過去の選択の場面において何が正解だったなど、誰にも解らない、という事だ。
だから、私はこう考える、『全ての選択肢には何かしらの間違い、誤謬が含まれる』と。
そうすると、決断する時に少しだけ心が軽くなる。僅かでも間違いが少ない方を選択しようと出来得る限りデータを収集して、問題点が何なのかを探り当てて解決策を模索する。
考えて、考え抜いてから決断し、決断で来たら適切な時局面で速やかに実行する。
決断と言うのはとても辛い作業なんだよ。何かを得るという事は何かを捨てるという事を意味するわけだからね。AとBを両方を一辺に手にする事は不可能だ」

『オオシマ・ユウコはバケモノだ。そして私もバケモノに成る』

「だから私は逃げません。
真正面から『絶望』を受け止めます。
気概を持って受容れて自分の内で『希望』へと変えて見せます。
だから、ココで皆さんと1つのお約束をしたいと思っています。
私、大島涼花は近い将来、大島優子を超える存在になります。
決して後悔はさせません。
だからこれからも応援、よろしくお願い致します!」

「舌ベロを出した写真が有名な、白髪で蓬髪の博士が看破した様にこの宇宙は相対的だ。
絶対的な基準点が存在しない以上、どちらが前で後ろか、上なのか下なのか、右か左か、混沌として判別は不可能だ。アナタ方のグループのメンバーは良く『前に進む』と言う。
だが、どの方向が前なのか解るかい?
フフン、判らない様だな。
では、お教えしよう。
リョーカさんの進みたい方向、ソレが『前』だ。
その方向に向かって私達はアナタの背中を推す。
推し続ける。
もしもアナタの目の前に大きな壁が立ち塞がってあまりに高過ぎて手が届かず乗越えられそうに無かったら、拳を握って風穴開けて打ち破れ。
イイか、リョーカ、
自分を信じるな。オレを信じろ。お前を信じるオレを信じろ。
お前なら出来る。
だから、跳躍べッ!」最後に男が静かに叫んだ。
リョーカは矛盾していると思ったけれど、言葉の群れは素直に心の中に飛び込んで来た。だが、1つの疑問符が頭の上に浮かんだので立ち去ろうとしている男に急いで訊いた。
「それも映画のセリフですか?」
男は口の端で笑いながら言った。
「偉大な作品だ。」

「本日はッ! 本当にありがとうございましたッ!」
 リョーカは深々と頭を下げてフルのお辞儀をした。
一瞬の間を置いてから、球技場全体に覆い被さっていた重苦しい激甚なる沈黙を爆発的な歓声と怒号が吹き飛ばして地面ごと揺り動かした。
 リョーカは今日初めてスタジアムの中を、客席を見渡す事が出来た。
彼が教えてくれた言葉、
『自分の願望は、あらゆる犠牲を払い自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるモノでは無い』
 そうだ。
私がやらなければいけない事は一人また一人と地道に応援してくれる人を増やす事だ。
そして、来年は応援してくれる人の力と自分の力で再びこの舞台に戻って来る事なのだ。
 不安を全く感じていないと言えば、嘘に為る。
でも、私には『あの人』が付いていてくれる。
『あの人』、そう、オヒゲさんが守ってくれるのだ。
このスタジアムの何処かから私を見守ってくれている。
そうに、違いない。そう思ってアリーナにふと視線を落とした時、見付けた。
 この場から『あの人』が立ち去ろうとしていた。

 リョーカのスピーチが終わってお辞儀したのを見終えるとショーナンは立ち上がって、足と前の座席との狭い空間を少しでも広げて貰う為に周囲のお客さん達に向って、
「スイマセン。出ます。スイマセン」と声を掛けた。
「ショーナンさんッ!」と呼ばれたので、声の方向を見るとヤスダがいた。
彼も立ち上っていて、ターミネーター2のラストでシュワルツネッガーがやっていた様に親指を突き立てて『イイね』とサムズアップをしていたので、ショーナンも同じ様に親指を立ててヤスダへと想いを送った。そして、心優しい人々が苦労して拡大してくれた僅かな隙間を通って通路へと出た彼は、頭部を覆っていたフードを外してリョーカの方を振り向きながら白い大きめの使い捨てマスクをずらして笑顔を彼女に渡そうとした。
 その瞬間、リョーカと互いの視線が絡み合って、彼女の眼が点になったのを視認できた。
マスクを掛け直しオクタゴナルのメガネに付いた雨の飛沫を親指で拭ってから踵を返し、アリーナ席の出入り口へと歩みを進めたショーナンの上に、リョーカの悲鳴とも絶叫とも表現できる、しがみ付く様な叫び声がマイクを通さずに直接降って来た。
男を発見できた時にもう1人の自分が彼女の耳許で『この機会を逃がしちゃうと、もう2度と逢えないと思うよ』と囁いたから、リョーカは必死だった。
必死に叫んだ。
「おじさんッ!」
「オヒゲのおじさんッ! 待ってッ!!」
「一度で良いんですッ!!! チャンと眼を見て御礼が言いたいんですッ!!!」
「だからお願いですッ!!!! 一度で良いから握手会に来てくださいッ!!!!」
ウグッ
「30万票を投票してくれた事に、じゃないです。私に『絶望』を受容れて『希望』へと変える為の『勇気』と『覚悟』をくれた事に対して御礼が言いたいんですッ!!!!!」
「止まってッ!!!!!!」
「お願いッ!!!!!!!」
エッ、
「振り向いてッ!!!!!!!!」
「おじさんッ!!!!!!!!!」
ウー、
「おい、ヒゲっ! 止まれよッ、バカっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 男は一向に足を止めようとしなかった。
だから出来る事ならステージから駆け下りてオヒゲさんのカッパの裾を踏ん付けてでも止まらせたかったけれど、彼がくれたこの大切な舞台を離れる訳にはいかなかったから、呼び止める事を諦めて、リョーカは一心不乱に祈り始めた。
何モノにでもイイから、縋り付く様に祈った。
 神様お願いです。
目を瞑って手を合わせて祈り続けた。
指が白くなる程にキツく握り締めて有りったけの想いを尽くして祈った。
お願いです、神様。あの人の足を止めさせてください。
お願いです。あの人が立ち止まって振返ってくれる様にしてください。
あの時『バカ』だなんて言ってしまって御免なさい。
取り消します。
あの時に『死んじゃえ!』なんて思ってしまって御免なさい。
コレも取り消しです。
だからお願いです。
私の願いを聞き入れて下さい。
 幼稚園の時、5歳の時に家の近くを探索していたら、ある魅力的な男の子と出逢った。
そこは随分長い間空き家だったのだが、数ヶ月前位に5~6人のおじさん達がやって来て外装やら内装を直したり交換してたりしていた。今思えばリフォーム業者の人達だったのだが、そんなに簡単でも無い工事が終わって1週間位経った時に、お父さんとお母さんと男の子の3人家族が引っ越して来たのだった。
初めて出逢った時に男の子はサッカーボールを器用に操り華麗にリフティングを続けていた。私より握り拳1個分ぐらい背が高かったけど、同じ年くらいに見えた。
しなやかな身体の使い方は猫科のソレを想い起こさせるもの、ううん、水中を優雅に遊泳するイルカのソレだった様にも覚えている。彼のその素敵な姿にボーッと見惚れてしまっていたら、パッと顔を上げると、コッチに一瞥を流して来てニコッと朝日の様な蠱惑的な笑顔を渡して来てくれたのだった。
運命だと思った。
当時はそんな言葉は露程に知らなかったけれども、子供ながらにコレは『運命愛』だと思ったのだった。
でも私は狼狽えてしまって、どうしたら良いのか判らないでいたら何だがとても恥ずかしくなってしまって、逃げる様にその場を立ち去ってしまったのだ。
 その時、私は逃げるように早歩きしながら、こう願った。
『神様、お願いです。あの子とお話しが出来る様にして下さい。友達同士にしてください。出来れば私と同じ幼稚園にあの子が通う様にセッティングして下さい、同じクラスで』
家の周辺には私の通っている幼稚園しか無かったから、男の子が転入してくる可能性は高かったけれど、いくら待っても男の子は転入して来なかった。
『チッ、神様の役立たずっ!』
そう思ったけれど『小学校に通う様になれば自然に出逢えるか、校区同じだし』と気を取り直して、それから毎日の様に男の子に会いに行った、ってか遠くから眺めてるだけだったから、眺めに言ったと言う方が正確だ。お家の前まで行ってもピンポンしたり、外で見掛けても声を掛ける勇気なんて全然湧いて来なかった。男の子はお家の庭で独りで遊んでることが多かったから話し掛けるチャンスなんてゴロゴロしていたのだけれども生来の人見知りの性格が災いして話し掛けるなんて夢のまた夢、本当に遠くから眺めてるだけ、だった。でもそれで良かったのだ。眺めてるだけで満足だったのだ。
小学校で同じクラスになれれば良いや。
そう思っていたが、今となって冷静に考えると男の子の正確な年齢も把握していないのに、何を根拠にそんな勝手な思い込みが出来たのか、我ながら不思議だ。
 その年の秋口に、早々にインフルエンザに襲われた私は約1週間ベッドから離れられずにいた。起き上がれる様になって直ぐに、もう全力少年ダッシュで男の子のお家に彼を眺めに行くと姿は無くガランとした空気だけが濃厚に漂っていて、急いでお家に帰ってママに尋ねたら、ご近所の奥様方の情報網から引き出した答えを何の屈託もなく教えてくれた。
男の子の一家は本当の家の建て替えをしていてその間だけソコを一時の仮住まいとしていただけだったのだ。そして漸く建て替えが完成したから本当のお家に戻って行ったのだ、と教えてくれた。
 余りのショックに涙は一滴も湧いて来ず代わりに浮上して来たのは、怒りの感情だった。
『何だよ、神様。
そういう大事な事は前もって教えて置いてくれないと、ダメじゃん。
神様の利用規約にチャンと書いて置いてくれないと。
そういう事情を知ってたら、もっと積極的に行ったのに。
なけなしの勇気を振りぼって声を掛けたのに。
死んじゃえ! 神様なんか、死んじゃえ! バカ、神様のバカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、カバ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカっ! 神様なんか、死んじゃえッ!』
って、あの時、そう本気で思ってしまった。
 だから取り消します。
お願いします。
『死んじゃえッ!』なんて思ってしまって、ゴメンなさい。
『バカっ!』って繰り返し言ってしまって、ゴメンなさい
ただ、あの人が立ち止まって、振り向いてくれるだけで良いんです。
チャンと眼を見て御礼が言いたいんです。
だからお願いです、あの人の足を止めさせてください。
私のお願いを聞いてくれたら代わりにどんな事でもします。
どんな重たい罰も受けます、だから、
お願いします。
 お願い!
神様!!!!!
お願い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?!!!??!!!!?!?!???
 スタジアムに張り込めていた雰囲気が変わった事に気付いて、リョーカは顔を上げた。
雨音も停止していた。
球技場を支配していたのは耳鳴りが痛いほどの静寂。
 神様、アリガトウ。
 男は、その歩みを止めていた。

 リョーカを含めてスタジアムに詰め掛けた全観客とスタッフ全員が男の一挙手一投足を注視していた。みんな、男が次に何をするのか、固唾を飲んで見守るしか無かった。
球技場に備え付けられた全てのスクリーンヴィジョンは男のその背中姿を捉えて全面に映し出していた。男は立ち留まったままスックと背筋を伸ばし直すと、背中をリョーカに向けたまま滑らかな動きで右の手の平を宙に高々と挙げた。
だから次第に皆の注目は後姿そのものより屹立する右腕に移って行き、やがて何モノかに誘導される様に関心は一点に、男の右手、5本の指を綺麗に伸ばし揃えられた手の上へと焦点を結実しつつあった。そんな観客達の心の移ろいをなぞった様にヴィジョン達は希望通りのイメージを表出しつつあった。
衆目が集中する中で男は人差し指を残して残りを折り畳み込んで『1位はリョーカだ』という事実を誇示するが如く、天に向かって高らかに人差し指1本を突き上げた。
 激しさはそのままだが規模を霧状に変えた微細な雨が男の指を濡らし続けて、照明の光が夜空に向って妖しく反射していた。
暫く掲げた人差し指を引っ込めて、替りにシュワルツネッガー張りに親指を突き出して、『サムズアップ』を形象する事で、男はリョーカに祝福のメッセージを贈った。
その刹那、凄まじい大爆発が耳を塞いだ手の平をも貫通する轟音と昼間と見紛うばかりの光輝と共にスタジアムに襲いかかって来て、全てを蹂躙して専制支配した。

「やっぱ火薬の量多すぎたかなぁ」特殊効果の担当者のオカダが言った。
『イヤそうじゃなくて、タイミングが早過ぎでしょ。タイムシートじゃリョーカが玉座に着いての花火打ち上げの、そして紙吹雪舞の、でしょ!』と同じく特効担当のサオリが、内心で激しい突っ込みを入れると、ソレを素早く察した様にオカダが顔を向けて、言った。
「手が滑っちゃったぁ」
 オカダは50過ぎのオッサンなのにも関わらずに、舌を少し出してテヘっと笑った。
『キモっ! 今更テヘぺロかッ!? オッサンっ!!』サオリは心の中で舌打ちをした。

「良くやってくれた。さすが相棒」
 パソコンのモニターが良く見える様に上半身を支える部分が折り曲げられてグッと持ち上げられたベッドの上で男が言った。そしてモニターの中でヒゲ面の男がした様に点滴のチューブが繋がれた右手をユックリと高らかに掲げた。
そして彼女の栄光の第1位を示す様に人差し指だけを突き上げた後で暫らくしてから親指を立ててサムズアップをしてリョーカを祝福した。そうしてまるで一大事業を成し遂げた様に腕を下ろすと真正面の壁の一点を見詰めてから、莞爾と笑った。
「満足だ。もう何も思い残す事は、無い」男が言った。
 眼を閉じると短かった人生のアレやコレやがとても懐かしく思い出されて脳裏を走馬燈の様に駆け巡り続けた。
「有難う、懐かしい、何もかも、懐かしい」
 彼の心の速度が光に近付いて行くと周囲の物事の進み方がユックリと徐々に遅く成って行った。そして遂に光速に達すると時計の針は刻む事を突然止めた。
息を引取る前の溜息を大きく1つ吐くと、内部電源を全喪失して彼は活動限界を迎えた。
そして身体から魂だけが抜け出て行って、あとに残された身体は脱力して崩れ落ち、腕がダランと力無くぶら下がった。
 ホスピスの窓の外には以前リョーカがコンビニで見たのと同じ様なジェイコブズラダー、別名『天国への階段』が雲の間に散見される碧空から地上へと静かに降りて来つつあった。

 動揺がまだ冷めやまぬスタジアムのステージの真ん中に立ち尽くしながらリョーカは、歩み去って行く男の背中を呆然と見ていた。
『もう、会えないんだね』
彼女の合理的な思考回路はそういう結論を導き出していたけれど不思議な事に、本能は
『何か近い将来に会える様な気がする』という別の結論をリョーカ自身に告げていた。
 気が付くと、シノブサンが横に立っていてリョーカに静かに言った。
「また、会えるよ。心の底から願っていれば必ず、会える。
ヒトってそういうモンだから。
巡り合いたいって気持が2人を引き寄せるんだよ」
「はい」
 リョーカは男の背中に視線を置き続けたまま、答えた。

 火薬量を明らかに間違えた一歩間違えれば大惨事という巨大な花火の余波はその収まりを一向に見せずスタジアムを動揺させ続けていて、全観衆の関心が逸れた隙を縫いオレは再び歩み始めた。出入口の所まで来ると後ろから小走りにカッパ姿のヤスダが追い縋って来て、「やりましたね、僕達」と言った。
「ああ、ガツーンとやってやった、な」
「これで変わりますかね、何か?」
「変わらないだろう。運営の奴等にとってはコレは偉大な集金システムだ。機能する限り臆面も無く続けて行くだろうな」オレはヴィジョンの方に視線を送りながら、言った。
 丁度、戴冠の儀式が終わってリョーカがシノブさんという牛の様な巨大な女からマントを肩に羽織らせて貰っている所だった。
 沛然としていた雨が静かに落ち着いて来た。
「来年もやりますか、同じ事を?」とヤスダが訊いて来た。
「イヤ、違う事をするつもりだ」
「何ですか?」
 その時、左胸のポケットに収めたiPhoneが震えてメールの着信を教えた。「スマナイ」とヤスダに断ってから開いてみると相棒からだった。
『良くやってくれた。有難う。じゃ、また』
短い文面だったが彼が無事に最後まで見届ける事が出来た事を知った。
 オレは任務を遂行できた喜びと責任を果たせられた達成感に包み込まれた。彼にリョーカの笑顔を贈れて本当に嬉しかったし、正直ホッとした。
アフガンで闘う方が余程楽だよ、相棒。
ヤスダは何か問い掛けたそうだったが、慎み深い彼は何も言わなかった。
 オレは再び、「スマナイ」とヤスダに詫びてから言った。
そぼ降る雨が顔を濡らし続けて顎の先から滴り落ちていたが何も気にならなかった。
「アメリカのフォートミードという所に3つの頭文字で表される政府機関が存在している。
私の友人の1人、マイケル・ストーンという男がソコで勤務しているのだが、先日彼が私にあるプレゼントをくれた。ソイツはStuxnetというAIタイプのマルウエアだ。
オリジナルは2010年に作成された15000行のプログラムだが、今日までの6年間で彼が自分の趣味として改良を続けていて行数も大幅に増えているから正確にはその増強版と言うべき代物で改良進化バージョンと形容できる。
能力を比較すれば、前者がマウスなら後者は仔猫ちゃん位の能力が有している。
ソレを使って総選挙自体丸ごと乗っ取る腹心算だ。
1人何票入れようが1票分しかデータに残らない」
「そいつはまた、爽快ですね。まさにリアル総選挙だ」楽しみだなぁ、とヤスダは言った。
「所詮、コイツは『村』の内輪の御祭りに過ぎない」
「規模が大きくなっただけ、ってヤツですね」
「そうだ。ホットミルクの表面に張った薄い膜が、震えているだけなんだ」
「プルプルと...」
「ヲタ達が騒ぎ立てる事に因ってのみ、な。
しかし、規模が規模だけに、ソレに加えてだれが言い出したか知らないが、国民的行事等という大仰なお題目が付加されたから、眩惑された人々が付和雷同的に一斉に騒ぎ出す」
「でも、だから、結局の所、投票結果がどうであれ何も変わりはしないし、重大で深刻な何かが起こったとしても、変わる事など絶対に無い。
見慣れた日常が、そのまま続いて行くだけ、継続が可能な限り...ですか?」
「本当は変らなければいけないんだ」オレは続けた。「新しい物事を創り出して自ら変わって行かなければ未来は無いんだ。永遠に訪れない。でも変革する為には何かを捨てなければいけない。何かを得る為には今自分が手にしているモノの内からドレかを切り捨てなければいけないんだが、ソレは非常なる痛みを伴うとても辛いモノだ。だから変化の必要性に気付いていても必死に気付かない振りをして現状維持に努める事に没頭する、ただ只管にね。そうしている内に危急存亡の秋が訪れてしまい滅びの時が『こんにちは』と挨拶をしながらノックの音も起てずに乱暴にドアを唐突に開けてくる。
ただココまで組織が巨大化してしまうとそう簡単に崩壊はしないだろう。
巨大化の過程では組織の内側で物事の淘汰が進んで行き最後に残ったものが寡占的に支配する。つまり多様性が失われてしまうんだ。そして多様性を失った組織は環境の変化に対してとても脆弱だ。初期メンを見ると良い。顔一つとってもとても『多様的』だろ。
だが最近加入してくる新人は整った顔立ちと均整のとれた体型を備えている美形ではあるけれど金太郎飴の様にとても均質だ。顔の特徴すら似通った者達ばかりさ」
「やはり滅びの時は、近いのでしょうか?」ヤスダが心配そうに尋ねて来た。
「巨大タンカー、10万トンクラスの奴だが、これ位の大きさになるとエンジンを切って逆進を掛けても中々停止しない。慣性で5~6キロ進んでしまう。ソレと同じさ。
前総監督のタカミナは『オオシマ・ユウコ』は看板だ、と言ったそうだが、違う。
ユウコは心臓、つまりエンジンだ、飛び切り優秀な、ね。
エンジンを失っても慣性で進む。
進んでいる間に代替のエンジンと成り得るメンバーを探し出して新たに据え付けなければいけないのだが、どうやら運営にその気は無い様だ、表面的には。
さっき言った様に何かを得る為には何かを捨てなければ為らない。
だが誰だって切り捨てられるのはイヤだ。
だから誰かが事態の重大さに気付いて声を上げない限り、何も変わらないさ。
自分達を取り囲む環境は絶えず漸次的に変化し続けてるんだがね。
巨大な組織は一気に崩れ落ちたりはしないだろう。あちらでボロッ、こちらでポロッ、といった具合に徐々に徐々に細部で破壊が進んで行ってある時に、大きな樹木が声を上げて倒れて行く様にドサッと崩壊して行くだろうね」オレはヤスダの眼を見据えながら彼の心に突き通す為に、可能な限り静かに告げた。
「デルタって、インテリなんですね」ヤスダが言った。
「オレの知る限りデルタの隊員は2人の例外を除いて皆、筋肉バカのゴリラ野郎だ」
「え? ショーナンさんはデルタじゃないんですか?」
「オレ自身はMOS18Aと分類されている」
「何ですか、MOS18Aって?」と言ってから俯き加減に考えて少し間を置いてから閃いた様にヤスダは顔を上げて、オレと一緒にシンクロ気味に叫んだ、「ググれッ、カスっ!!」
そう言い合ってオレ達は顔を合わせて爆笑した。
 他者の持つ違う考えに自ら近寄って行って、自分自身をグラつかせ揺さ振りを掛ける事で自分の思考を止揚できる人を、インテリと呼ぶんだ。
 オレは、違う。
国家に擦り込まれた『正義は常に米国と共に在らん』という概念が何度消しゴムを掛けても心の中から消せないケチな元軍人だ。そう言おうとして思い直し、口の中で消化した。
 ヤスダが口を開きかけ、また何かを言おうとした時に、別の方向から声が飛んで来た。
「派手だねぇ!」
 飛来して来た方を見ると、タカハシが笑いながら立っていた。
「花火をあそこで上げろとオレが指示した訳じゃ無いんだがね」オレは向き直りながら、彼に弁明する様に、言った。
「原爆でも落ちたのかと思ったよ」タカハシが言った。
 ヤスダはタカハシがオレと2人きりで話したがっているのを素早く読み取ると、言った。
「アレ、本当に貰ってしまって良いんでしょうか?」
「勿論。みんな良くやってくれたからな。ま、1人残念なヤツもいた様な気もするが」
オレがこう答えるとヤスダは低く「クク」と笑い、そうかも知れないですね、と言った。
「じゃ、また何時か何処かで」オレがそう声を掛けると、ヤスダも「はい。今度チームを編成する時もまた呼んで下さい」じゃ、また何時か何処かで、と言って、彼は姿を消した。
「何か悪いな。追い払ったみたいで」タカハシが言った。
「良いんだ。必要な事は全て渡してあるから。
それにしても珍しいね。タカちゃんがカッパ着てこんな所に来るとは」
「俺もチームの一員って事を再確認したかったのさ」タカハシがスッキリした様な笑顔を浮かべて「巨大な山塊の様なモノを俺たちの様な小さい存在が倒す。滅多に無い事じゃん」
「ジャイアント・キリング」オレがそう呟くと、タカハシは頷いた。
 コイツはオレがショウナン・ヒロであると信じ切っている。
疑う気配は微塵も感じ取れない。
これなら銀座で初めて会った時に、オレをショウナンだと思い込ませる為に大量の情報を一度にドバっと与えて脳皮質の疑義を吟味する領域である前頭連合野を軽いパニック状態に陥らせる事によって脳領域の活動を停止させて正常な判断能力を奪ってしまい、コチラの思い通りの効果を得られる、という人心収攬術の1つを使うまでも無かったのだ。
 ま、グリーンベレー時代に培った技術の一つなのだがな。
 その時、出入り口のアーチの所にいたスタッフの1人が、黒のスタッフジャンパーを着た背の高くて痩せた若い男が、インカムで何かをやり取りした後に此方に歩いて来て、
「あのう、ウチのアキモトがお会いになりたいそうです」とオレに伝えてきた。
厳密に言えば間違った敬語の使い方なのだが気にせず「アキモト?」オレはこの組織のトップの男の名前を、その若者にオウム返しに繰り返した。
「はい、もし宜しければ只今から係りの者がお迎えに参上するそうです」
判った。了承した。と若い男に伝えると彼はインカムを操作して情報を上に上げる作業に取り掛かった。
タカハシがオレの肩口をチョチョイっと引張りながら耳許に顔を近づけて来て、囁いた。
「おい、良いのか? こう言っちゃなんだがココの運営には輩っぽいのがウジャウジャしてるんだ。アキモトは知ってるし真艫だが他のヤツ等がヤバそうだ。運営会社の社長の背中には倶利伽羅紋々が入ってるって噂まである位だぜ。呼び出しにノコノコ乗っかって部屋まで行ったら何されるか判らないぞ。止めといた方が良いんじゃないのか?」
 オレは驚いた。
タカハシの顔を見直してしまった位だった。そして彼の表情を見て再度心底驚愕してしまった。
真に、彼はショウナンの身を気遣っている顔をしていたからだ。
彼は広告代理店の営業と言う世界に所属している、それもこの国で最大手の会社だ。
40ソコソコで本社の本部長というからかなりのヤリ手なのだろうし、それ故に経験豊富な熟練した策略家、言わば相当な業師の筈だ。そんな男が心底から他人を心配している。
 本気でショウナンの身の安全保障を気遣うなんて...
相棒、お前は良い友人に恵まれたな、オレはそう、切に感じた。
「大丈夫だよ、タカちゃん。
運営だってソウソウ馬鹿じゃないだろう。変な事はヤラかさないさ。
ソレよりもオレと一緒の所を運営に見られるとヤバいぞ。
社長の椅子が遠のくぜ」
「社長ねぇ」タカハシはキナ臭そうに笑いながら、言った。
「また機会を作って飲もうよ」オレそう伝えるとタカハシは、
「女子供では無く狩人たちの為の琥珀色の液体」と答えた。
「判ってるジャン」
「これってホイットマンか何かかい?」とタカハシは聞いた。
「イヤ、フォークナーだ」オレは続けた「でも惜しいなぁ。微妙に間違ってるぞ。少年という単語が抜けているし、『琥珀色の液体』では無くて、正しくは『褐色の酒』だ」
「えぇ? 俺の『琥珀色の液体』って方が言葉の響き、全然良くないか?」
「失礼な奴だな。彼はノーベル文学賞を貰ってるんだぞ」
 オレとタカハシは顔を見合わせながら、笑った。
無邪気に笑うタカハシを見ながら、『コイツと会うのはコレが最後か』と想い、淋しさとも形容できそうな感情がオレの心に湧出している事に気付いて、少し戸惑った。

 タカハシが立ち去って3分ほど経つと退場規制が始まって出入り口が閉じられた。
閉じられる前の僅かな間隙を衝いて脱出に成功できた多くの観客がオレの横を通り過ぎて外へと出て行ったが、誰も声を掛けて来なかった。
雨の飛沫のお蔭で前方が見え辛く煩わしいので眼鏡をジャケットのポケットに仕舞った。
どうせ、伊達だ。
 その時に、ふと気付いたのだった。
『正義は常に米国と共に在らん』
そうだ、正義なのだ。
コレを否定する事はオレ自身を、オレが戦場で行ってきた全ての行為を否定する事になるし、オレがこれまで処理して来た対象者をも否定する事にもなる。自分で自分を否定してそれでも生きていける程、人間は図々しくは無い。
誰でも良い、自分自身でも良い、誰かに肯定して貰わなければ駄目なんだ。
そう思った刹那、脳裏を小さな丸いアンパンマンの様な顔がスッと通過したけれど直ぐにシャットアウトした。
『自分を信じるな、俺を信じろ、お前を信じる俺を信じろ!』
ショウナンから教えて貰ったこの言葉は、ある偉大なアニメ作品の象徴的な台詞だそうだ。
オレも本当にそう思う。
自分自身を肯定できる程、人は自分を信じていない、と言うか、信じられないだろう。
そんな時に周囲の尊敬を集めるアニキが『自分で自分を信じられないのは当たり前だ。
だが、俺は全幅の信頼を持ってお前を信じている。だからお前は自分の為すべき事を為せ』と言ってくれたら、どんなに心強いだろうか。
存在への全面的な肯定を他者から得られる事に勝る幸福は、ちょっと見付け辛いだろう。
 正義か。
『正義に従うのは正しい。
最強の力に従うのは必然である。
力を欠いた正義は無力だ。
正義を欠いた力は専制支配である。
力を欠いた正義には異議が唱えられる。悪人の種が枯渇する事など無いのだから。
正義を欠いた力は糾弾される。
だから、正義と力を融合する必要があるが、その為には、正義が強くなるか、強いモノが正しくなるのかのどちらかでなければならない。
正義は論議の種に為る。
力の有無は非常にハッキリとしていて論議の余地はない。
そのため人は正義に力を付加できなかった。
何故なら力が正義に反対して、ソレは正しくなく、正しいのは自分であると力が主張したからだ。
こんな訳で、正義を強くする事ができなかったので、強いモノを正しいと定めたのである』
 今回、オレ達のチームが行った事は、『正義』に力を与える事だったのかも知れない。
ま、今オレの横にオルテガ(José Ortéga y Gassét)が立っていなくて良かったと思った。
 空白の隙間を縫って、ある小説の一節が浮かんで来た。
『人の振る舞いの基盤は強固な岩盤の場合もあれば軟弱な沼沢の場合もある』
そうだ、基盤だ。
基盤が必要なのだ、固い岩盤の様な。
この相対的な宇宙の中で確固として歩みを進めるには絶対的な基準点が必要なのだ。
 その時、皮質の視覚野が小さな丸いアンパンマンの様な顔を再度再生したが、スルーした。
だから退役した将兵の多くが精神を病んでしまうのは、仕方の無い帰着なのかも知れない依って立っていた『軍』というオリハルコンで構築された基盤を失ってしまったのだから。
振る舞いの基盤を失ってもなお正気を保っていられるほど人は厚かましくも強くも無い。
 そんな徒然を考えながら3分ほどタカハシと未だ互いに会話を交わしている様な沈黙に耐えていると一人の中肉中背の男がオレを迎えに現れた。
画面での情報から顔だけは見知っている。
トガサキとか言う男だ。
彼は昔は総支配人だったのだが、何かスキャンダルを起こして今は別の部署に飛ばされているらしい。先に彼が声を掛けてきた。
「何様とお呼びすればよろしいのでしょうか? 失礼でなければお名前を伺えますか?」
「ショーナンと申します」オレが言った。
「ウチのアキモトが御眼に掛かりたいと申しております。部屋までご案内いたしますので御足労ではありますが、私に付いて来て頂けますか?」
さすがに元総支配人だけあって彼の敬語はチャンとしていた。
「判りました。御同行いたしましょう」とオレは答えた。
 トガサキに先導される形でオレは連れて行かれた。
「物凄い爆発でしたね。TVの視聴率も凄そうです」とオレが彼の背中越しに言った。
「いえ、何かトラブルが発生した模様で、リョーカが叫び始めた頃から配信がストップしてしまってTV局側が復旧に手間取っていて、だから今TVに映像は流れてないそうです」
 コイツの顔を見なくても、トガサキが顰め面を浮かべている事が解る。
視聴率ゲットの絶好機を逃したんだから、な。
オレのタップ1つで一体何千万円、損したんだろうかね?
幾つか階段を昇って廊下を渡ったりした後、2人の警備員が仁王像の阿と吽の様に脇に立っている門の様な所を潜ると「もう直ぐです」と振り向き様に告げられ、どうやら最後らしき階段をトガサキが昇り始めた。オレの推察通りに、このスタジアムに1つだけ設置されている特別貴賓室に行くらしい。彼があまりにもユックリと昇って行くので、コイツどっか悪いんじゃないのか? と思い、経路を熟知している所為か、ツイツイ先に行きたくなる衝動がほんの少しだけだが、オレの心の中に芽生えてしまった。
 そんな茶目っ気は今は無用だ。
 昇り切った先のフロアを見てオレは驚いた。
黒いスーツを着た180センチ位の背丈の頑強な体躯で鋭い目付きの男達が広めの廊下の中に11人確認出来たからだ。何者かは聞かなくても解ってはいたが素知らぬ顔でオレは尋ねた。「何ですか、この物々しい様子は?」
すると足を止めて振返ったトガサキが、自慢する様に言った。
「総理がいらっしゃっております」
 オヤオヤ、何とコレはオレにとっては好都合。
奴さんにとっては最悪の事態だな、と思った。
サムの無念を晴らす絶好の機会に恵まれるとは何たる幸運なのだろうか。
ヤツは、この国の宰相は才能に恵まれているな、と思った。やってはいけない事をやってはいけない時にやってはいけない場所で正しくやってしまう、という。
お友達の開催するお遊戯会に来たばかりに奇禍に遭うとは夢にも思わないだろうな。
この宇宙で絶対に遭遇してはならない真に『災厄』と言える超危険人物と接触してしまうとは。素早く館内に眼を走らせると一枚のパネルを見付けて記憶済みの内容を確認した。
 モチの論だが、館内の3D地図は脳皮質に叩き込んである。眼を瞑っていても行動可能だ。
 エプスタイン少佐が何時も口癖の様に言っていたな。
ユダヤ系のくせに何故か軍人一家だという出自だった人物だ。
『状況から脱出するのが上手いヤツがスマートマンで、状況に侵入するのが上手いヤツがワイズマンだ。俺達は両者の特徴を兼ね備えていなければならない。判ったな』
ユダヤの旧い言い伝えだそうだが、特にオレの様なスナイパーは当然身に付けておかなければならない必修の特質だ。オレは壁に設置してある避難経路を記した館内案内図を横目で再確認しながら、そんな事を思い出していた。
 この貴賓室に続く経路は1つ、先ほどオレ達が通って来た通路のみだ。非常用通路は廊下の反対側に備わっているがソコには当然SPが何人か配置されているに決っているから脱出経路としては使用できない。だが、虎口から脱出する経路は主に2つ想定してある。
『スナイパーという人種は片道の特攻作戦など絶対に採用しないのだよ、君達』とオレは思った。
そして強かで不敵な面魂の持ち主という事実を隠す様に、物々しい雰囲気に対して若干の緊張を身に纏わせた人畜無害で存在感の薄いキャラに擬態して敵の目を欺く用意をした。
 先に進もうとすると1人のSPに誰何を受けたが、トガサキの「アキモトのお客様です」の一言で身体検査も無いままに『さっさと行ってくれ』と言わんばかりに、追い払う様に雑に手を振って先に進むように指示された。
 オイオイ、だらけ過ぎだ。
 オレは正直な所拍子抜けしてしまった。
金属探知機で検査済みという事もあるだろうがそれにしても弛み過ぎている。
一体この国の警察の規律は大丈夫なのか、オレは不要な心配をしてしまいそうになった。
こんな緊張を強いられる厳戒態勢下では普通の人間ならばビビッて動きが硬くなるのに、ソレも見抜けず『普通』の『人畜無害』の人間をやり過ごしてしまうとは、な。
オレ様の擬態が完璧という事もあるのだろうが、こんな状況で多少の緊張を虚飾しているとはいえ『普通』でいられる人間はいないという事実を疑う術も知らない感じだった。
人は強大な緊張の許では無意識に視床下部からの命令を受けた副腎皮質がアドレナリンやコルチゾールなどの攻撃兼防御用のホルモンの放出量を増大させるので、当該の人物はその状況に特有の匂い物質を身体から発散する。オレ達はその匂いを敏感に察知できる様に研鑽を積んでいる。だがコイツ等はその類の訓練を全く受けていない様子だった。
 本当に呆れ果ててしまって、ソイツの眼を見上げると先ほど『鋭い』と感じたのは気の所為だった様で、弛み切っていて薄らボヤけていた。
現在のコイツ等にそこまで要求するのはちと酷かもしれないな。
上の者の驕慢は下の者に増長を赦してしまう。それは心に隙を生み出し態度を弛緩させ、油断を導く。よくよく観察すると彼等は守るべき対象よりもアイドルの方に関心を向けている様だった。たとえ訓練を受けた精鋭達であろうともSP如きはオレの様な実戦経験豊富な特殊部隊員にとってアマチュアに産毛が生えたレベルに等しい。だから11人全員をも無力化するのに何の支障・障壁も無い。だが、SPに選ばれるくらいだから優秀なのだろう、と推量する。ゲリまみれのバカ宰相1人を処理する為に、有能で前途有望な11人の若者から命を奪う行為を働かなければならない事に些か微小な嫌悪感を覚えたのは事実だった。
 だがコレで少なくとも11人の生命は確保できる。コイツ等は簡単に隔離できるからだ。
 後は首相の周りに何人いるかだが、
「スイマセン。あのう、総理の周りは警護官の方が一杯なのでしょうね?」とオレが尋ねるとトガサキは前を向いたまま「いえ、総理に付いて部屋まで同行しているのは2人です」と答えた。
 そうか、2人か。
付随的被害としては比較的少ない方だが、と思った。
しかし残される2人の家族たちの事を思うと暗澹たる気持ちになった。
バカな首相を警護する為に警察に入省した訳でも無いだろうに、こんな小娘達の総選挙とかいう馬鹿馬鹿しいイベント会場でムザムザとプロの殺し屋であるオレに...
 おっと、オレとした事がウッカリ見落としていた。前を歩くトガサキの腰には伸縮タイプの警棒型スタンガンがクリップを使って取り付けられていた。考えるよりも先に手が伸びて気付く暇も与えずに素早く手中に収めた。脇のポケットに滑り落としながらホッとした。
これで2人の優秀な警察官を殺さずに無力化できる。
 しかし、オレ達の様な特殊部隊員は非常に優秀な泥棒になれる、と痛感した。
Aチーム全員で窃盗団に転職したら大仕事が出来るな、オーシャンズ何とかというマイナーリーグの奴等とは比べるべくも無いメジャーの凄いレベルのヤツだ。
 今回編成したオレのチーム・リョーカの仲間の言っていた『岩手の事件』の影響でコイツは腰に剣呑なモノを佩いていたのだな、と推察できたが、今のオレにとっては寧ろラッキーな展開で、胸を撫で下ろした。ま、実際にはしてないが。
 ホッとした弾みにリョーカの顔が不意にオレの視覚野で再生されてしまった。
あの時、個別で会った時にリョーカは複雑な表情を浮かべていたな。リョーカの小さく丸い顔を思い浮べると心の底に湧き立ってくる暖かいモノを感じてオレは少し感動を覚えてしまい苦労して表情に出さない様に自制を働かせた。
 でも無理だった。
視覚野に浮かんだ彼女は、よくやる様に両方の頬っぺたをアンパンマンみたいにプクッと膨らませていたから思わず『またやってるな』と薄い笑みがこぼれてしまった。
リョーカの事になると何故かオレは精神のコントロールが随分と怪しくなってしまう。
 何故だろう?
どんな危険な作戦でも常に精神状態の制御は完璧だったのに。従事した作戦現況がどんなに悲惨で凄惨なモノであっても何の違和感も覚える事無く、精神状態は凪の様に平穏そのものに自制出来ていたのに。
 あの娘の存在は不思議だ。
リョーカの側に行くと安心できる。
まるで彼女の横が世界で一番安全な場所である様にオレには感じられるのだ。
超一流の戦士であるオレの安息の地があんな小娘の横だとは、な。
非常に興味深く、面白い。
 リョーカは大丈夫だろう、とオレは思った。
今後どの様な『絶望』が彼女を襲うのかオレにも皆目見当も付かなかったから昨晩チームの仲間が寝静まった頃に、フェイルセーフとして可愛い仔猫ちゃん達に2番目と3番目の命題を追加で与えておいた。
仔猫ちゃん達に与えられた2番目の命題は、リョーカに関する全てのネガティブな表現をネット上から徹底的に一掃する事だ。目的遂行の為ならばあらゆる手段をも使用可能にセッティングした。他のサイトに転載されても彼女達は艪櫂の及ぶ限り追って跳び掛かりズタズタに引き裂いて消滅させる。そしてネガティブ情報の発信元を突き止め可能な限りの手段を講じて鎮静化を計る。どうしても埒が明かない時には、ネットに接続された端末であれば必ず1匹は仔猫ちゃんが潜んでいるので内部で大騒ぎを始めて機体を使用不能に追い込む。それでも懲りずに発信を繰返そうとする輩に対しては最後の手段として、端末もろとも発信者を排除する事で強制的に沈黙させる。
彼女達には一瞬の逡巡の時間も無いし、一抹の憐憫の情も持ち合わせてはいないから、何の躊躇いも無く彼等を抹殺するだろう。だってヒトじゃなくてマシンなんだもん。
 コレで少しでも彼女に降り掛かってくる『絶望』を多少は軽減できるはずだ。
ネットに巣食う声だけデカいマイノリティに悩まされる事無く、リョーカが自分の為すべき事だけに傾注できる様にした、まあ、最低限の安全策というかalleviationだ。
 3番目の命題は『可能な限りの全ての手段を用いてリョーカの安全を確保しろ』というモノだがまだ発動させていない。下手をすると地球自体を滅ぼしかねないのでチョットだけ躊躇したのだ。定期的にオレが仔猫ちゃん達に連絡を入れてさえいればこの指令は絶対に発動されないので、地球の皆さん、どうか御心配無く。
 それに皆様にとって悪い事ばかりじゃない。
仔猫ちゃん達は、ネット端末の内部に巣食うウイルスやらトロイの木馬とかを駆逐する、手当たり次第、全てだ。そして絶え間なく侵襲しようとする他のマルウェアを一匹残らず瞬時に噛み殺す。ま、世界最強のウイルス対策ソフト、ファイヤーウォールという所だ。
コレはオレからのささやかなプレゼントだ。どうか心して受け取って欲しい。
リョーカ、写真フォルダーに入っている見知らぬオジさん達の写真、アフガンで戦っていた頃のオレとAチームの仲間だがソレ自体がコード化されたキミの守護天使の『可愛い仔猫ちゃん981021號』だ。だから、大事にしてやってくれ。
 コレは地球の皆様には内緒の話なのだが、彼女には特別に4番目の命題を与えてある。
キミの保護を最優先事項として常時監視下に置き、キミに直接的な被害が及びそうになると自動的に命題No.3のプロテクトを解除、近くにいる仲間のプロテクトも同時に解除し、そして総動員を掛けて君を守護する様に指示してある。
 ま、大した事は出来ない。
例えば、飛行中の旅客機を墜落させて障害をクリアするとか、そこいら辺をウロチョロしている今や走るコンピューター塗れのポンコツへと堕落した当代の自動車に侵襲して車体制御用のチップ共を制圧支配して駆動・制動・操舵のコントロールユニットを乗っ取って搭載されたブレーキ用のカメラで確認しながら当該の対象に直接ぶつけて無害化する事ぐらいだ。ま、一番可能性が高いであろう『危険』の排除方法としては対象の持つスマホのバッテリーを爆発させる事だろうな。だが、彼女の活躍する機会は当分訪れないかも知れない。今後しばらくの間は公安の監視がキミに付くだろうから、いささか奇妙だがその事によりリョーカの安全は保障される。
必然的に今からオレがする事も『絶望』をリョーカの上に覆い被らせる結果と成るのだろうが、彼女なら『勇気』と『覚悟』を持って自分の中で『希望』に昇華出来るだろう。
大仕事になると思うが彼女にはソレに挑戦する資格は既に備わっている。何と言ってもアイドルに何の興味も関心も無かったオレの心を奪う事に成功した人間だからだ。
 最初は単なる依頼を受けただけだった。
全くキミに興味なんかは無く、それどころか名前も顔も判らなかった。
ただ初めて話を聞いた時に、総選挙とやらの内輪のお祭りで一昨年80位、去年が圏外。そんな箸にも棒にも掛からない位置のヤツがいきなり1位を奪取すれば痛快だろうな、と思ってしまっただけだ。
 初めて握手会で会った時、オレはキミの事など何も知らなかった。
ショウナンに手渡されたキミの情報で一杯に為ったファイル、情報はソレだけだった。
あの時タカミナの事も喋ったけれども、本当は彼女の事なんて何も解って無かった。
彼女の身長が、後20センチ高ければ良いAチームの隊長になるだろう。投票している時のチームのみんながする雑談を通してオレはキミや他のメンバー達の情報を獲得して行ったのだ。ヤスダ達のお蔭で自分の全く知らない世界を体験できた様な気がする。
 よく巷説にある『その人の事が好きだからより一層詳しく知りたくなる』という言葉。
 これは間違いだ。
対象の人物に関する情報が自分の中で増加するに連れて、その人に好意を抱く様になり、遂には好きになるのだ。チームのみんなと同じ部屋で過ごした1ヶ月、キミに関する情報量は増えるばかりで、心奪われるのは必至、そんな状況だったんだよ、リョーカ。
対象に関する知識の量が増えれば増えるほど、該当する対象への感情は好意的に成って行く心理的作用。オレ達がゲリラ要員を獲得する時に使う手段とは反対方向からの行為だ。
『知識に因る対象突入法』
約半年かけて得た知識。それも机上のモノでは無い実際の、身体的な知識だ。だから相当に強力でその靱性は高く簡単には毀損しない。
 そうだよ、リョーカ。
オレはあの時、最後の個別で会った時に本当にキミのヲタになれたんだ。
来年の今頃どうしているだろうか。天狗にならずに自分を律して行けられていれば良いが。
 イヤ、大丈夫だ。
彼女は、大丈夫。
たとえ明日世界が滅ぶとしても、リョーカはリンゴの木を植えるだろう。
彼女は、植え続けて行くだろう。
そしてオレは来年その木に果実が実るのを自分の眼で確認するだろう。
 1つだけ希望を言えば、頼むから勘違いしてオレの事を神様だとは思わないでいてくれ。
オレは依頼者の代理人に過ぎない。
だから神様では、無い。
むしろキミの方が神様だ。
キミに関わる事が無かったら、サムの仇を討つ事など夢のまた夢。
キミがオレに千載一遇のチャンスをくれたのだ。
 アリガトウ。
オレにとって、ksgkが神様だ。
オレはそうだな、さしずめ神様からの啓示を携えて来た天使という所かな。
背中に12枚の翼を蓄えた、残酷な天使。
 オレの相棒たる『神様』はキミに総選挙第1位という『絶望』を賜った。
そしてコレはオレからのささやかな贈り物だ、汚いジジイの首など不要だろうが、な。
「此方の部屋です」とトガサキが重厚そうなドアの前で立ち止まった。
 周囲に人影は無い。
『そりゃ、そうか』
 今し方通ってきた通路が唯一の侵入経路だし、SP達のダラケ振りを見れば別段驚く事でも無かった。廊下の先に11人の警護官が暇そうにしているのが見えた。幾ら何でも反対の位置につまり非常口の前に最低でも1人位は配置して置くべきだが、それすらもしてないとは、弛緩し過ぎだ。でも独りきりで仕事じゃ寂しいモンな、坊や達。
 この後、コイツ等がどんな処罰を受けるのか判らないが決して軽くは無い筈だ。
だが総て自分のミスだ。自分のケツは自分で拭け。
 iPhoneを軽く1回タップすればこの周辺一帯全ては皆平等に純然たる真の闇に覆われる。
輝ける闇の中に消えたオレを探し出す事は不可能だ。
ソレは暗がりに陰翳を見付けようとする児戯に等しい。

 戦闘が始まる直前に訪れる静寂。
オレは嵐の少し前、この静謐の一瞬が、好きだ。
 トガサキが扉を開けて振り返りざまに言った。
「どうぞ、お入りください」
 オレは部屋の内部を一瞥して人員の配置を確かめた。
さあ、Time to Hunt,

<了>


参考文献:ジェイムス・バラット「人工知能 Our Last Invention」ダイアモンド社
:村上龍「オールド・テロリスト」文芸春秋 他
:島本和彦「アオイホノオ」小学館
:大泉洋「大泉エッセイ」角川書店
:「Newton」2017年5月号 ニュートン・プレス
:楠みちはる「湾岸ミッドナイト」講談社
参考アニメーション:細田守「サマーウォーズ」
 :庵野秀明「エヴァンゲリヲン新劇場版・破」カラー
 :中島かずき・ガイナックス「天元突破グレンラガン」
 :虚淵玄「魔法少女まどか☆マギカ」「PSYCHO‐PASS」

ksgkの神様 後篇 ver. Sarah

ksgkの神様 後篇 ver. Sarah

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-15

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著作権法内での利用のみを許可します。

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