ksgkの神様 前篇 ver. Sarah

佐分来

Dedicated to Sarah




 リョーカがその男に出合ったのは夏の余韻が残る10月初めの握手会だった。
その握手会は全国握手会というタイプで通称全握と呼ばれているモノだった。久し振りに東京圏の横浜アリーナで行われたので大勢のファン達が集まり熱気が会場内に充満していた。ミニライブに引き続いてミネギシがMCを務めたかなりにポンコツ感満載の寸劇が終わると1時間程の休憩タイムをはさんで握手会が始まった。
 実は握手会は2種類存在する。
前述の全握ともう一つはファンからは個別と呼ばれる個別握手会でそれらの違いは握手券の入手方法だ。個別用の握手券を手に入れるには通信販売専用の劇場版というCDを握手をしたいと思っているメンバーを指定して購入、一枚毎に握手券の抽選に対して一口分応募しなければ為らない。しかも抽選方式だから必ず手に出来るとは限らない。人気のあるメンバーの個別握手券を手に入れるのは至難の業である。
 一方、全握は店頭で買える初回限定盤には必ず一枚は同封されているので手に入れ易い。持ち時間も異なっており個別の場合は約10秒、ソレに対して全握は7秒(3秒だった時代もあった)。値段も劇場版は1000円だが通常版は普通のシングルと同じ1600円である。だから一見個別の方がお得だが、ココにリスクが存在する。
通常の場合、劇場版の予約はCDの発売日の約2ヶ月前で、発売日当日に指定の住所に送付されてくるのだが、実際の握手会が開催されるのはその入手した日の2ヶ月くらい先で、大体4ヶ月から長い時には6ヶ月ほどのタイムラグが生じてしまうのだ。
 6ヶ月という時間は人間の考えを変化させるのに充分な程長い。
気が変わってしまい握手券が指定するメンバーが御目当ての娘では無くなってしまっている可能性がある。別のメンバーに乗換える事をヲタは『推し変』と呼んでいる。
 推しているメンバーを変えるから『推し変』である。女性という生物は接している相手の心変わりに非常に敏感だから、既に推し(推しているメンバーの事をこう呼ぶ場合がある)では無くなった娘と握手をする時には、約10秒の微妙な真空の時間が2人の間に流れる。
コレは『事故る』と呼ばれる現象である。
 だからこんな不幸な不協和音を避ける為にあえて全握を選択するヲタも多い。
しかも全握の場合、何枚も券をまとめ出し出来るので長く喋りたいファンにはコチラの方が合っている。10枚出せば約一分間メンバーを独占出来るし、中には一辺に50枚以上も出す強者もいる。何故ならたとえ10秒と短い時間でもその瞬間彼女を独占できているのは地球上でたった一人だからだ。全握は会場に行ってから『この娘良いなぁ』と思ってから初めて握手したいメンバーの列に並ぶ運びに為るので必然的に列の長さの長短の違いが生じてしまい、如実に人気の有る無しが露見してしまう。
 何年か前にグループから巣立って行ったユウコ先輩の場合、福岡市にあるヤフードームで催された彼女が参加した最後の全握において、先輩のレーンに並ぶ人の列は延べ人数が2万人を超えてしまった。
 実質的な人数は約12000なのだがコレは今でも破られていない記録である。
凄いなぁ、と閑散としてきた自分のレーンを見ながらリョーカはその光景を思い浮かべた。
2万人。
 当時は一人あたりの持ち時間が約3秒だったので単純計算で6万秒、ずっと握手し続けていてもおよそ17時間かかる計算に為る。
17時間の握手。
それも並んでいる人達ひとりひとりで対応の仕方を変える。変顔を要求するファンに対してはバリ島のお面と呼ばれる必殺の顔芸で返したり、
「結婚してくれ」と頼むヲタに対しては軽くいなし、
「辞めないで」と泣き崩れる女性のファンには優しく接し、
子供のファンには同じ目線まで降りて笑顔を手渡したりする。
 まるで神様だ。
リョーカはそう思った。
私には到底出来ない芸当だ。
 12000人に対して離れ業を見せるなんて、しかも17時間ブッ通しで握手をし続けても、鍵明け(最初のお客さんをこう呼ぶ)と鍵閉め(最後のお客さん)への対応が全く変わらないのが信じられない事だった。
でも、信じられないけれど事実だった。
 何時だったか忘れてしまったがユウコさんに「何でそんなに一所懸命なんですか?」と聞いた事がある。ユウコさんは笑いながら「初めてのお客さんも何時も来てくれるファンの人達も私にとっては変る所の無い大事な人だから。特に初めて並んでくれた人はソレが最後の握手に為っちゃうかも知れないから『これが最後、一期一会』って思いながら全力でオーラ全開で握手するんだ。ナツ先生に教わった通りに『眼からはビーム、手からはパワー、毛穴からオーラ』って感じでね」
疲れませんか?と聞くと「全然。寧ろ沢山の人達と握手すると元気が出るよ。パワーを吸い取るんだよ、逆にね」と答えてくれた。
 イヤッ、全然疲れますから。リョーカはそう思った。
私なんか100人の人と握手しただけでヘトヘトですけど、何か?
 リョーカの握手会におけるファンへの対応は神対応(御客さんが自分自身が神に為ったとさえ思わせてくれる丁寧な対応)でも無く、流行語大賞に為った事もある塩対応(握手しているファンをショッパイ気分にする素っ気無い対応)でも無く、至って普通の対応の仕方で、人に因っては少し物足りなさを感じさせてしまうモノだった。
多くのファンが『もう少しガツガツしてて欲しいんだけどなぁ』とか『ユウコが同じ位の歳の時は、もう少しガッついてたんだけどなぁ』とか思わせてしまっていた。率直に表現すれば、ファン達をガッカリさせてしまっている事は否めなかった。
 それにしても暇だなぁ。
何か過疎って来ちゃったなぁ。
並んでいた最後のお客さんが捌けて行くと暫くの間静寂の時が訪れていた。ヒッパイさんがいた頃はこう云う空き時間は絶好の悪戯タイムで、握手に夢中の彼女の背後に周って、気息を絶ち密かに忍び寄ってシャツ越しにブラのホックを外したり、両手で豊かな胸を鷲掴みにして揉みしだいたものだった。
でも後輩なのにも関わらず彼女は半年前に辞めていってしまった。
1番のターゲットだったんだけどなぁ。
リョーカは残念な気持ちに為り、もう一人の獲物である先輩のイズリナさんのレーンが遠い事を少し嘆いた。
そんなボーッとデフォルトモードネットワークと呼ばれる状態に陥っている時に、1人の男がリョーカのレーンに入って来た。
 山塊が入って来た、とリョーカは最初感じた。
圧倒的な存在感を男は備えていたからだ。
正直なところ驚いてビクッと体を竦めて仕舞った位だった。
 しかし落ち着いて良く観察すると背丈はそんなに高くは無くてリョーカの母親位だった。
でも正方形に近い身体はサッカーのミッドフィルダーを想い起こさせた。
ガタイのデカさに反比例して滑らかで無駄が無い俊敏な動きでゆっくりと近づいて来た。
近くで見ると頭部は禿げているのではなくて明らかに丁寧なハサミ捌きに因って形作られたと思われる所謂おしゃれ坊主だった。顎のラインを綺麗に縁取る様に剃られたヒゲは顔つきをより一層精悍に見せていた。そしてダークブルーのジャケット、白シャツにデニムパンツそしてスニーカーと言ったカジュアルな服装はネコ科を想起させる男のスムースな動き方に良く合っていた。オクタゴナルのシルバーフレームに嵌められた非球面レンズが会場内の照明を反射した。
 男は、マネークリップに大量の握手券を挿んだ物をハガシの人(握手の時間を計測したり、メンバーに喰い付いて離れないファンを『剥がす』係員)に手渡しながら、言った。
「200枚有ります。マトメ出しでお願いします」
 へっ? 
200枚?
嘘でしょ?
リョーカは200枚の握手券の束を見るのも初めてだったし、ソレを使っているシーンに出くわしたのも初めてだった。彼女は心の中で急いで計算を始めた。
 えーと、今日は一枚当たり7秒設定だから、えーと、200×7で1400か。
1400って事は一時間が...60×60で...3600秒に為るから、その約半分と。
 うわぁ! 30分も握手し続けるの? 
男の手をコッソリと確認するとゴツくて頑丈そうだった。そんなに握手し続けたら手が壊れちゃうよ。
200枚なんてユウコさんくらいじゃない? こんなに無造作に使ってくれるお客さんは。こういうお客さんが神ヲタと呼ばれる人達なのかな?
でも、何とは無くだけどこの人はそれとは少し違う様な気がする。
 そう神じゃない。
彼女の脳裏に1つの考えがポッと浮かんだ。
この人は神ヲタでは無い。
神からの御言葉を携えて来た言わば使者なのだ、と思った。
 でも200枚かぁ、ガクッ。
 各メンバーに対して使用された握手券の枚数も人気度を測るバロメーターなっている。この事実は運営側から公的に明らかにされていない為にこの重要な事実を知らないメンバーが大半だった。その事に全然気づいていないリョーカは一瞬憂鬱に成り掛けたのだが、その心配は杞憂だった。男は最初外国人が良くやっている様なスタイルで、両手を使って軽く握手を暫くしていたがその内に手放した。満腔の暖かさに溢れた握手だった。
だからリョーカは男が手を放した時に少し寂しさを感じたのだった。
 そうか、握手じゃないのか、そう悟ったリョーカに薄らウンザリとさせる倦怠感が降りて来た。
もう良いよ、謝らなくて、もう御腹イッパイだよ。
 今年の6月に開催された選抜総選挙と呼ばれるイベント、それはメジャータイトル曲を歌える選抜メンバー16人を選出する為に、CD一枚に付き一つ同封された投票権を使って自分の『推し』に一票を投ずることに因って計測される人気度調査、言葉を換えれば人気ランキングなのだが、リョーカは圏外、つまり80位から漏れ出てしまったのだった。
 去年の総選挙はランキング内ギリギリの80位だったから、客観的に考えればランク外に落ちても何の不思議も無いのだけれど、その前の一年間は運営サイドからの猛プッシュ、ゴリ推しを受けていたのでドラマや舞台などに多く出演できていたし、その上総選挙用に発売されたCDのタイトル曲を歌うメンバーにも選抜されていたその事実から相当の手応えを感じていたから本人は勿論の事、推していた運営サイドも順位が上がる事しか念頭に無かった。だからこそその反動は大きくて余計に両者は想定外のダメージを負ってしまっていたのだ。リョーカの受けたダメージは巨大すぎて耐え切れないモノで、『自分は圏外だ』と悟った時、ステージ上だったのにも関わらず倒れ込んでしまった位だ。
 その後に開かれた握手会ではいつも応援してくれているファンの人達が異口同音に謝罪の辞を伝えて来て、少しの間リョーカのレーンでは「ゴメンね」の言葉が絶える事が無くフワフワと浮かび続けていた。
しかしその事が逆方向に作用してしまいリョーカの心を大きくザラ付かせて余計な負荷を掛けてしまった。そしてファンの人達の真意、心の底から『スマナイ』と思っている事は手に取る様にアリアリと理解出来てしまう事が更に拍車をかける結果になり、リョーカは苛立っている自分を許せなくてまた一層苛立ちが募ってしまい、そのグルグルと同じ所を回る悪循環に身体も精神もヘットヘットにさせられてしまった。
 リョーカがランク外に落ちてしまった直接の原因は、魅力の源泉が最悪の時期に切り替わった事だ。
13歳で加入した当初は、生来の人見知りの性格から自分の周囲に強力なATフィールドを何重にも厳重に張り巡らせて人を寄せ付けず誰とも交わろうとはしなかったのだが、当時チームAのキャプテンだったヨコヤマは何くれとなく面倒を見てくれた。
しかし人見知りが災いして尖ったコミュニケーションの方法しか取れなくて色々助けてくれている筈のヨコヤマに対して「ウルせえ、ババア」とか言ってしまうのだった。
チームの先輩たちに同じ様な生意気な態度や言動を繰り返す内に何時しか彼女のニックネームはksgkクソガキと名付けられてキャラもクソガキキャラが定着したのだった。
 成長するに連れて口ばかりでは無く手も出す様に為って、公演や握手会の真っ最中に新しく加入して来た後輩の背後に周ってブラのホックを外したり胸を揉みしだいたりと言ったイタズラをするキャラも加わった事で、ツンデレでイタズラ好きな小さい女の子が大好物のロリコン達がファンに成って行ったのだ。しかしヨコヤマの薫陶を受けて行く内に後輩の面倒を良くみる優等生キャラが出現し大人の予兆があちこちに見え隠れする様に為ると引き潮の様にロリ達は消えて行った。
 小さな女の子から大人の女性に変貌を遂げつつある段階は『少女』と呼ばれるべきモノで女性の一生の間で一番興味深い変化が起こる時期だが、ソレを観たくてアイドルを追掛けている人間を新規のファンとしてリョーカは獲得出来ないまま総選挙に突入してしまったのだった。つまり総選挙で圏外に落選したのはパラダイムシフトが最悪のタイミングで訪れた事が原因だった。
 でもそれでも世の中は廻って行く、リョーカの心と全く無関係に。
だから虚勢を張る事で、あの日に壊れてしまってバラバラに為った自分を必死で形作って来たのだった。でもようやくここ最近になって、自分もファンの人達も心の平静と日常を取り戻す事が出来つつあって、以前の様な落ち着きが還って来つつあったのだ。
 見上げると男の顔は良く日に灼(や)けていた。
お仕事は野外なのかな?
初めは30代だと思ったけど、オヒゲにちらほらと白いモノが見え隠れしてるから、もしかしたらもっと上なのかも。
 男が口を開き始める予兆が訪れた。
またか、もう良いよ。充分だよ。
そう思いながら男の眼をジッと見つめ返した。
不思議な眼差しだった。暖かいかと聞かれれば暖かくもあり、冷たいかと尋ねられればそうかも知れないと思わされるそんな眼差しだった。
 不思議な眼をしてるんだね、オヒゲさん。
リョーカは、この場面は、いつか何処かで観た事有るぞという既視感に包み込まれた様な不可思議な感覚に襲われていた。ああ、そうだ、ミカンの匂いだ。昔、おバアちゃん家でコタツに首まで潜りながら剥いて食べたミカンの皮の匂いだ。懐かしいな。
リョーカは男が微かに発していた香りを敏く嗅ぎ取っていた。
彼女がそんな郷愁に浸っていた時に男が口を開き始めた。
低くて心の中に染み透って来る様なバリトンだった。
いい声してるね、オヒゲさん。そうリョーカは思った。
彼女の耳朶を打つ声はとても優しく響き蠱惑的だった。
 男は微表情と呼ばれる事もあるコンマ5秒ほどの微笑を浮かべると神様の言葉を伝えた。
「リョーカさん、ポジション・ゼロから観える景色を見てみたいですか?
もしあなたが心の底から観たいと願うのなら、私は一回だけ魔法を使おうと思っています」
 メフィストフェレスは静かに囁き始めた。

 ヤスダは堕ちていた。あの日から4ヶ月、ずっとだ。
あの日、6月のあの日からだ。
這い上がる事の出来ないくらい底へ、奈落の底へ落とされたのだった。
 あの言葉、古参の言葉が耳を付いて全然離れて行ってくれない。
『オイ、リョーカ、マズイぞ。ランクインすんのに多分2000票くらい足りてないぞ。13期の他のヤツから票引張ってこれてんのか? 数読み間違うと大変な事になっぞ!』
青春ガールズからというから、大声新規であるヤスダからしてみれば雲の上の存在の様なヲタだった。そのヲタに「ダイジョブっすよ」と軽くいなしてしまって、その時の古参の見放す様な、突き放す様な、呆れ顔が脳の視覚野から消えて行ってくれない。
 酷いウツ症状だ。
優れた精神科医であるヤスダは極めて正確に自己診断していた。
 あの日、アンダーの発表くらいまでは軽い緊張を伴った高揚感と共に楽観視出来ていた。『大丈夫っすよ』
でも17位までの発表が終了してしまってリョーカの名前は呼ばれる事も無くただ単に時間だけが過ぎ去って行って、さあ選抜の発表だと成った瞬間に、それまでの『やった!アンダーだ!』という多幸感は瞬間蒸発して裏切りの絶望感がヤスダを真上から専制支配した。総選挙が終わって照明が落とされてもヤスダはアリーナに置かれたパイプ椅子から立ち上がれなかった。二人の係員に抱き抱えられて引き摺られる様にして会場を後にしたのだった。
その後に開催された握手会で会う度に、リョーカの笑顔に接する度に、巨大なパイルNo.6の様な支え切れない質量の罪悪感がタライの如くに頭の上に降って来て、その場にへたり込みそうに成ったが、しかし必死に耐えて思い切りの作り笑顔を返しその場をそそくさと立ち去るという事を無間地獄のように繰り返した4ヶ月間だった。
 助けてくれ!
誰か、助けてくれ!
誰でも良い、ここから、地獄から引き上げてくれ!
ヤスダは都会の真ん中で大声で叫びたかった。
この状況を打破してくれる人を待っていた。
現状を打っ壊してくれるんならゴドーでも悪魔でも良い。
ヤスダはそう思っていた。
今日もリョーカに会って笑顔を見た時に針を5千本くらい飲み込んだような鋭い痛みを下腹部に覚えて、自分でも一体何を喋っているのか全く理解不能な話を7秒して剥がされ、ループしようと思ってリョーカのレーンに並ぶ人の列に再び加わる為に最後尾を目指してトボトボと歩いていた途中の事だった。
顔見知りのヲトヲが一人の男を連れて来てヤスダと引き合わせた。
 頑丈そうな男だった。
良く灼けた顔に笑顔は浮かべられてはいたけれど、眼の中に心底からの笑顔を見付ける事は出来なかった。男の身なりは上等なモノだった。明らかにカシミア製と解るジャケット、上質な細いコットンで織られたオックスフォードカラーの白いシャツ、巧妙に計算されて丁寧に穿き古されたデニムに、‘94のエアマックス。
ナイキは多分復刻版だろう、とヤスダは思った。
オリジナルじゃ加水分解したソールを足が突き破ってしまうから、な。
 男の背丈はあまり高くは無かったのでヤスダが見降ろす格好になった。
「ヤスダさん、この人が会いたいって」ヲトヲが言って男をヤスダに紹介した。
ヲトヲは痩せていて背がヒョロリと高いので正方形に近い体型をした男と並んでいると、まるでセサミストリートのバーニーとアー二ーの様で思わず笑みがこぼれた。
 ヲトヲの全身はユニクロでコーデされていた。
彼は大学にAO入試で入学したので学力が足りなくて全然授業に付いて行けず何時の間にか実家に引き籠って自室でパソコンのモニターを覗き込んでいるだけの毎日を送っていた。その内、ネット検索中の偶然の邂逅によってこのアイドルグループと出逢った。最初の頃はネット検索だけで満足していたが、時が過ぎるに『実際に会ってみたい』という気持ちを抱く様になり、次第にその思いに拍車が掛かって行き、結局は部屋から出でて現場に姿を現す様になったのだった。それ以降はネットバイトで小銭を稼ぎ経済的状況が潤うと、こうやって握手会や劇場公演には頻繁に顔を出す様になった。
そんな時だけはヲトヲの顔は実にハツラツとして、身体には精気が溢れているのだった。
「リョーカさんの選対委員長さんですか?」男が言った。
「そうです」ヤスダは身構えた。
 何を言われるんだろうか? 
確かに選対委員長として俺は失格だ。
あれだけ頑張っているリョーカの背中を推せなかったのは事実だ。
圏外に落下なんて最悪のプレゼントを贈ってしまった。総選挙の後、色々な人達に氷刃の様な非難を浴びせ掛けられてしまい、でもソレは仕方の無い事だ、と自分で納得出来ていたので、自分で自分を処刑する感じで一言も言い返す事無く甘んじて嵐の様な非難の渦を受容れていたのだ。
だから、仕方無い。
 聞こう。
黙って受容れよう。そうヤスダは思っていた。
 でも間違いだった。男は手で壁際、というかスタンド席の下だからフェンス際の場所を指示して、「アソコに移りましょう」とヤスダに提案した。
男は自分が示した方向に歩を進めた。ヤスダも連れられた様に歩き出した。そして直接は関係の無いヲトヲまで糸に引かれる様にフラフラと付いて行った。
 付いて行きながらヤスダは思っていた。
身体の小ささに反比例する様な重厚感は何処からやって来るのだろうか?
質量の大きな物体は万有引力も強大だと言うが、体重で言ったら俺と余り変らない筈だ。では何故、まるで巨大な重力に引き付けられる様な感覚を覚えさせられるのだろうか?
 そうか!
ヤスダの脳は『エウレカ』と叫んだ。
 この小男は精神力が強大なのだ。
精神の質量が膨大なのでこれ程までの『引力』を産み出せているのだ。
日々の診療を通して極稀にだが、この種の人間が存在している事をヤスダは知っていた。
 フェンスの際まで来ると男は振り返りヤスダに言った。
「チームを編成したいのです。
暇だけど身体は丈夫で、金はあまり無くても良いけれど、リョーカさんの事を心の底から想っていて、彼女の背中を推す事に対しては献身的に成れる人、
そういう人達を10人くらい揃えて欲しいのです」
 来た。
ゴドーが、来た。
遂に現れた。
ヤスダは直感でそう思った。
「何を、しようってんですか?」ヤスダがそう尋ねると、
 男は口の端を少し歪めるように笑い、
「リョーカさんをポジション・ゼロの立ち位置にまで、推し上げます」と言った。

「リョーちゃん、ちょっとボーっとしてないで」
 キャプテンのユリアさんの言葉で我に返った。
「副キャプテンなんだから、もっとシッカリして」
口の中で「はい」とリョーカは返事はしたものの頭の中は咀嚼不足で消化不良の言葉の山が乱雑に積み重なっていてとてもリハーサルに集中出来る様な状態では無かった。
「ちょっと、リョーちゃん。ボケッとしてるんなら楽屋に帰っても良いよ。そんなんじゃ来年もランクイン出来んよ」とユリアさんが叫んだ。しかし、言ってしまってから自分の不用意過ぎる発言に気付いて真っ青に成りながらリョーカに謝った。
「ゴメン。言っちゃいけない事言っちゃった。ゴメン。でもさ、ホントに調子上がらないンならリハから外れても良いんだよ?」とユリアさんは心の底から『申し訳ない』と言う表情を浮かべながら言った。ユリアさんは南斗最後の将と同じ名前を戴いている所為か、頭の天辺から足の爪先までヤンキー気質に富んでいて、モットーが『曲がった事が大嫌い。スキャンダラスは絶対に許さヘンで』というド直球な人という事もあってか、リョーカには丸事ヤンキーそのものに感じられる時の方が多く、会ったばかりの頃は表面的に絶対的にコワかったのだけど、馴染んで行く内に実は人情深い一面も持っている少しおバカな、でも地頭が良くてホントは面倒見の良い優しい先輩だと判って行ったのだった。
「大丈夫です。ちょっと考え事してて。スイマセン、集中します」とリョーカも謝った。
「OK。じゃ、良い? レイちゃんがソコの動線をチェックしたいそうだから」
 ユリアさんがスキャットで曲を歌い始めてソレを切っ掛けにしてみんなも歌い始め自分の決められた動線を辿り合った。
今リョーカとチームの仲間たちが行っているのは劇場公演の前に行われるリハーサルで、毎曲ごとに入れ替わってステージに上るメンバー達の動線とフォーメーションの確認が主に行われる。自分が出演する曲のダンス自体は練習前に各自貰ったDVDを見て、それぞれ自宅や練習スタジオで自分自身独りで若しくは数人で振りを入れて行く。全体でのリハで行われる動線の確認作業は間違えてステージの上で転んだりメンバー同士がぶつかる事を防ぐ為に行われ、フォーメーションの確認をするのは1人でも乱れると、と言うか1人だけが乱れると全体のダンスの美しさが損なわれるからだ。
 リョーカがチームKのトムさんなどと一緒に正規メンバーに昇格した頃は、丸1日掛けて漸く一曲分の振りが入れば良い方で、振りの難しい曲の場合などは3日間掛けても中々入って行ってくれない事が多かった。なまじっかダンスにはソコソコの自信が在ったので余計にイラつき落ち込んでしまって、優しく声を掛けてくれた当時チームAのキャプテンだったヨコヤマさんに「ウルセェ、ババァ」と怒鳴ってしまったり、生来の人見知りが災いして自分の全方位にATフィールドを展開してチームの他のメンバー、誰ともコミュニケーションを取らない日々が最初続いた。でも周囲のお姉さんメンバーの支えも有って段々慣れて行くに連れて振りを入れるのに要する時間も次第に短縮して行き今ではチームで一番振りを入れたり起したりするのが速い人間に進化していた。
『ヨコヤマさんには内心メッチャ感謝してる、死んでも言わないけど』
 グループに慣れていくのと同時にチームの他のメンバーとも打ち解けて行く事が出来た。
現在は脳や身体が慣れたのか初見なのにも関わらず、天啓の如く頭に垂直落下的に振りが浸透して来て自然と意識しないでも身体が動く様に為った。新曲のPVとか、時間が押している時には30分位で振りを入れないといけないので非常に助かっている。
 動作確認をしているみんなの真剣な顔を見て『集中しなきゃ』と自分の心に念を送った。
 でも、小脳と身体は動線を確認しながらも脳皮質は別の事を考えていた。
一昨日の握手会で出会ったオヒゲさんの言葉の群れが頭の中をグルグルと駆け回っている。群れの大きさは膨大で一口では咀嚼して呑み下せないし頭に入れる事が出来ても情報量が多過ぎて全然消化出来て無い。量が多い上に頭の中で漢字変換に失敗していたのでオヒゲさんの言ってる意味が全然解らない所もあった。でも、オヒゲさんが本当に心底私の事を想って喋ってくれている事は彼の真剣な表情からもヒシヒシと伝わって来たので、意味も解らないままにソックリそのまま言葉の群れを飲み込んだのだった。 
 あの時、タカミナさんの事に触れていた事が脳裏に蘇って来た。 
「総監督のタカミナさんが週刊誌に連載している自分のコラムでリョーカさんを取り上げた回において、彼女はキミは『孤独』だ、と記していた。彼女の真意が何処に在るのかは判らないけれど複数の可能性が考えられる。
1つはライバルがいない『孤独』だ。
この事に付いては後で取り上げるとして、別の場合の『孤独』、つまり本当の『孤独』だ。
コレはかなり厄介な事だ。
何故ならば、人間は他者とのコミュニケーションを通して自分を規定しながら自己を確立して行く社会性生物だからだ。他者との関係性を計りながら相手に映った『自分』と言うイメージを観察する事に依ってのみ自己のアイデンティティを確立して行く事が出来るのだ。だから『孤独』は自己確立の為には最悪の状況といえる。
他人とのコミュニケーションの欠如がもたらす精神的な不安定もそうだし、何より他人に映った自分の姿が見られないからだ。そんな『孤独』を別の言葉で言い換えると、曖昧で宙ぶらりんのとても中途半端な状態とも言えるだろう。
そんな状況に耐える為に必要な力は『教養』だ。
ココでいう『教養』とは今キミが思い浮べた様な学校のお勉強とは全く違うモノだ。
『教養』を一言で定義する事は難しいが、敢えてするならば、
『広い視野を持った上で深遠で広範な知識に裏付けされたフラットな思考や公正に物事を判断して行く力』とも言えるだろう。
だからただ単に学校の御勉強をしていても真の『教養』を身に着ける事は出来ない。
ソレを身に付ける方法は、世界中探しても唯一つ。
『教養』を養う為に必要不可欠な事は、読書だ。
だから、本を読みなさい。
ジャンルは問わない。
哲学書、聖書、純文学、エンタメ小説、科学関係、図鑑、百科事典、辞書、何でも良しい。ただ自己啓発本だけは百害あって一利なしなので避ける様に。
その類の本の中身は何処かの哲学書や小説から抜き出して来た文章の一群をスクラッチ・アンド・ビルドする様に組み立てて作られた安っぽい内容のモノだ。キャッチーで解り易そうな言葉で装飾を施されてはいるので手に取り易いし、中身も平易な言葉と簡単な構成で出来ているからサクサク読めてしまう。そして何事かを理解した気分に為って一時的に高揚感を覚えるが、カロリーだけ高くて栄養の無い砂糖菓子の様にその効果は長時間持続しない。持っても1週間くらいだろう。
砂糖は依存性や耽溺性が強く常習性も高い食品の一つだ。脳が甘さを感じると脳内伝達物質の一種で快楽作用の強いドーパミンや精神安定作用があるセロトニンが分泌される。
砂糖を食べると気持ち良さ、快感を感じる様に為るのだ。
だから、一旦過剰な大量摂取に慣れてしまうと麻薬患者の様にエスカレートして行って、食べても食べても物足りなくなってしまう。
自己啓発本もそうだ。一冊読んで判った気に為ったとしても効果は一時的なので次の本、その次の本と、延びる手が止まらなくなってしまうのだ。しかし結局は何の効果も無い。
自己啓発本は避ける様にしなさい。棚に近づくのも止めて置きなさい。
上辺だけを取り繕った、砂糖菓子の様に甘くて耳障りだけは良い惹句が空中をフワフワと漂っている。近付くな、感染するぞ。もしも今自宅の部屋の中にあるのなら即刻廃棄処分しなければならない。高レベル放射性廃棄物よりも危険度は高い。気を付ける様に。
他の種類の本、勿論活字の本だが、何でも良い。
ラノベだって全然OKだ。電子書籍でも構わない。
本当は芸能の祖と呼ばれる事もある世阿弥の書いた本『風姿花伝』を読むのが一番良いのだがかなり難解でガイド本を片手に一字ずつ錘鉛を降ろす様にして読まなければならないから、もし挑戦するのならば相当な覚悟の上で取り組む事だ。
何でも良い。
ただ、一冊だけ避けなければいけない本が存在する。
コレは先程話に出た天才の最新刊だが、見掛けたとしても絶対に手に取ってはいけない。内容自体に何の問題も無い。素晴らしい本だ。実際、今のキミにとって必要なモノを総て含んでいるからだ。
ならば何が問題なのか?
比喩的表現を採るならば、ソレは『劇薬』なのだ。
強過ぎる薬は時に毒にも為り得る。適量を服薬出来れば良いのだが今のキミには無理だし、それに内容がハード過ぎて、受け止めようとすると心がズタズタに破壊されかねない。
近い将来、文庫本化された際に読みなさい。多分その時なら心も大人になっているだろうから受け止めて自分の中で消化出来るだろう。
私の話した事の何割かは、彼の本から君に必要と思われる本質を抽出して理解し易く噛み砕いたモノだ。だから読まなくても大丈夫」
 オヒゲさんは、本を読めと言った。
この現状を打破する為に私が何をしたら良いのか、ソレがどの本に書いてあるのか教えてくれれば良いのに、とリョーカは思った。
でも別にオヒゲさんは意地悪してる訳じゃ無い。
自分が何をしたら良いのか。 
自分で気付く。自分で考えて、そして自分で見付け出す。
そういう事なんだと思う。
ソレが大事なんだと思う。
 オヒゲさんも言っていた。
「他人から教えて貰うのは楽だし簡単だ。しかし、簡単に得たモノは得てして簡単に無くしてしまう事が多い。自分で苦労してやっとの思いで探し出したモノは簡単には無くならないし、忘れても何回でも自分自身で取り戻す事が出来るものだ」
 だけど私は2月までに決断出来るのだろうか?
判らないけれど、今は何かをしないと駄目だ。
 そうだ、本を買いに行こう。
そう決めると気分が楽に成りオヒゲさんが残して行った大量の宿題を脳皮質の倉庫に押し込んでから鍵を掛けて、取り敢えずの間は忘れる事にした。
そうしたらリラックス出来て、集中力がリョーカに戻って来た。
「はい、ナツキ。そこフォーメーションがブレてるから気を付けて」
 リョーカは年上の後輩に鋭い指摘を走らせた。

 公演が始まるまでの空き時間は大概お昼寝タイムに為るのが常だったけれど、コレを利用して劇場近くの書泉ブックタワーに本を買いに出掛ける事にした。
 Bの副キャプテンとして早く二人の間の距離を縮めようと思い多分に二日酔いの香りがプンプンと臭う風邪で休んだカナさんの替りに、アンダーとして出演する研究生のレイを誘ったのだが「眠いです」と言って断られたので独りで行った。
『せっかく展開してあるATフィールドを一部解除して勇気を振り絞って誘ったのにな』
 リョーカは拒絶された衝撃でマスクを着用するのを忘れてしまったのだが、途中ですれ違った人達から指を点される事も全く無く、無事に到着できた。
 書店に着いて取り敢えず新刊本のフロアに行った。
忠告通りに自己啓発本とやらのあるブースは避けた。広めのテーブルに平積みに置かれた大量の新刊本の表紙の群れに圧倒されながら、ドレにしようか迷っていた。
『ラプラスの魔女』
 ラプラスって何だ?
『ラプラスの悪魔は存在する事を許されていない』とオヒゲのおじさんは言った。
だから、ラプラスって一体、何だ?
 意味を調べる為に、先週買い替えたばかりのiPhoneをフィールドコートのポケットから取り出して画面に指を走らせたのだが、前の機種と微妙にアプリの位置が違っていたので間違えて写真フォルダーを開いてしまった。
『何だ、コレ?』
 知らないオジさん達の写真だった。
強めのタップをして拡大すると10人位のおじさん達が、各々違う格好をしてリラックスした様にノンビリとした笑顔をそれぞれ浮かべていた。
1人の白人さんは、沙漠色のTシャツの上にダンガリーシャツを羽織って、カーキ色のカーゴパンツを穿いて頭にはヤンキースのキャップを被っていたし、白人さんの隣に立って彼の肩の上に自分の腕を載せた黒人のおじさんは、濃緑色のタンクトップの上にダウンベストを着てジーンズを穿いていた。
ただ全員の足許はカーキの頑丈そうなブーツだった。
周囲に拡がる風景は日本と全然違って凄く荒涼としていて何処かの沙漠の様にも思える。
真ん中で一番小柄なおじさんはTシャツの上にワークシャツを着ていて下から3番目のボタンまで止めていた。タンカラーのカーゴパンツだった。他の人達が銘々好きな姿勢を取っている中、そのおじさんだけが後ろ手で直立不動って感じだった。ただ、とっても、嬉しそうで、その笑顔を見ているとリョーカも吊られて自然と微笑みが浮かんで来た。
『誰だろう? うーんと、何処かで会った様な気もするんだけどなぁ』
 記憶に有る限りの握手会に来た人達の顔を思い浮べたけれど、リョーカの皮質内検索は上手くは行かなかった。小柄なおじさんの周りのおじさん達は肌が黒かったり白かったりしていたので、何と無くアメリカと言う単語がリョーカの言語野に浮かんで来た。
 真ん中の小さいおじさんの顔を見ようと拡大してみると明らかに彼だけがアジア系で、
 多分日本人だ、とリョーカは直感的に悟った。
自分の知らない写真がフォルダーに在るのは少し気持ちが悪いので削除しようとタップをしかけたら「ミャウ」と鳴き声がしたので、顔を上げて辺りを見回したけれど、当然というか店内の何処にも仔猫の姿は見えなかった。
 気の所為かな?
時々不細工な子犬を抱えたおばちゃんは見掛けるけど、仔猫はなぁ、店内に迷い込んで来たら店員さん達大騒ぎだよ、とリョーカは思った。
『ま、いっか』と思い直して写真を削除するのを止めて『ラプラス』の意味を検索しようとした時に一冊の可愛い表紙にリョーカの目が留まった。
パステルか色鉛筆で描かれたと思われる表紙の絵の中の人達、その浮かべている笑顔がさっきの紛れ込んでいた写真に写っているおじさん達を連想させるおじさん、いやおじいさん達が銃を抱えて立っていた。でも服は普通のスーツと言うか、この場合はおじいさんだから背広が正しい言葉の選択肢なんだろうか?
1人だけ羽織袴姿で愉快に踊っている様子が描写されていた。
『何だ、コレ?』
おじいさん達は皆一様にまるで犯罪者の様に眼の所に墨線が引かれていた。
 でも可愛い表紙の本だな。コレにしようかな?
しかし、表紙の上の部分には大砲の様なモノが描かれていたので、リョーカは何でこんなモノが描いてあるんだろう、と不思議に思った。
 そして、大砲の上に乗っかっているタイトルはこう読めた。
『オールド・テロリスト』

 銀座6丁目の表通りに面したビルの5階にあるバーが指定先だった。
木を基調とした店内は柔らかな照明に包まれていてとても居心地が良い。分厚いオークで組み上げられたカウンターの左端から2番目がタカハシの定席だった。
 約束の時間よりやや早めに到着した彼は席に座りながら「ラフロイグのオフィシャル」といつも飲んでいるシングルモルトを注文した。
カウンターの中にいる若いバーテンダーが、タカハシの顔を確認した時点で取り出しておいた緑色のビンから、細長いシンプルなバカラ製のショットグラスに琥珀色の液体を、不断の訓練を思わせる無駄の無い動きで丁寧に素早く注いだ。
タカハシは軽く頷くと、グラスを取り上げてピートの効いたウィスキーを一口含んだ。
気付かない間に、これもいつも通り炭酸水が氷無しで背の高いグラスに注がれて彼の前に置かれていた。彼は所属している広告代理店という世界のデフォルト、あらゆる状況下に対応できるユニフォーム、黒いスーツに黒のプレーントゥという身なりだった。
 タカハシは同世代の日本人男性の平均身長に照らしても小柄な部類に属する方だったが、毎日着続けるという修行のお蔭で見事にその坊さんの服の色の着衣を着こなせている。
 ショウナンと初めて出会ったのもこんな感じのバーだった。
タカハシの会社には暗黙の慣習が存在しており、それは入社時での選別で、コネ入社組は本社に、実力入社組は地方に配属といったモノだった。タカハシは後者だったから研修が終了するや否や分社化される以前の新潟支社に送り出されてしまった。
超の付くド新人だったが即戦力として扱われ、当然の如く実力不足から右往左往七転八倒しながら、まさに毎日がド緊張の綱渡り状態だったのだが、そんなタカハシを救ってくれたのが市内を東西に走る西堀通りのドン詰まりに在るバーだった。
 タカハシの強張った心身が優しく潤びる為の時空間を、その店は提供してくれた。
あの時間が無かったら俺は今ここに座っていなかったかも知れない、最近とみにタカハシはそう思う様になった。
 ショウナンはその店の常連客の1人だった。
最初の内、彼とは顔を合わせると軽く挨拶を交わす程度の関係だったのだが、ある事を嚆矢として非常に仲良くなったのだった。
 そうやって過去の記憶を探ってタカハシが物想いに耽っていると、分厚い木製のドアを推してショウナンが姿を現した。
 その時にタカハシは根拠も無く違和を感じた。
ダークブルーのジャケットに白のオックスフォードシャツ、デニムのパンツに足許を見るとナイキのスニーカーだった。上質な製品ばかりらしいがこの街には少々ラフ過ぎな恰好で、しかしショウナンは昔も身なりには無頓着だったからコレは想定内では、ある。
体躯は当時よりもガッシリと分厚くなりサッカーのミッドフィルダーの様に変化していたが小柄な所はそのままだったし、何よりも南方系を脳裏に想起させる二重のクリッとしたアーモンド状の特徴的な眼は変わっていなかった。
「相変わらずオールドリップヴァンウィンクル?」
あの頃と同じ様に右手を軽く上げる仕草をしてから、無駄の無い滑らかな動きで後ろを回り込みタカハシの横、カウンター席の左端に腰を下ろしながらショウナンが尋ねた。
「いや、ラフロイグ、オフィシャルのヤツ」とタカハシが答えると、
「オレにも同じモノを、ニートでお願いします」ショウナンは注文をした。そして年若いバーテンダーがグラスを取りに行く様を眺めながら彼が訊いてきた。「宗旨替え?」
「いや、そうじゃない」年を取ったから変なカッコ付けは不要になっただけだよ、そう続けて言おうと思ったが淀んで言葉を飲み込んでしまった。違和感が去らなかったからだ。
 初めは気付か無かったがショウナンはあごひげを生やしている。昔は蓄えていなかったから、その所為なのだろうか? それで変な印象を受けているのだろうか?
自分の前にショットグラスが置かれると取り上げながら「女、少年、子供たちでなく、狩人たちだけが飲む褐色の酒」と言い、続けて静かにショウナンはモルトを一口含んだ。
 タカハシは焦った。自分だけ置き去りにされた様な気がしていた。
ショウナンはごく自然にグラスの底を小指で支えていてソレは当時からの癖だったし、確かに当時タカハシはバーボンにはまっていてソレばかり飲んでいたし、さっきコイツが言った変な呪文みたいな呟き、ホイットマンだかフルトベングラーだかの詩だか唱だかも最初の一杯の前に彼が必ずいつも唱えた一節だった。
 仕草も口調も席の位置取りも昔のままで、
でも、なんか、ちがう。
 取り敢えずの取り繕う為の言葉がいくら脳内検索しても出て来ず焦ってとにかく空間を言葉で埋めないと、と思い当たり障りのない事を言おうと口を開いたが「あ、あの、あの」とドモってしまって残りを口の中でムニャムニャしているとショウナンが話し始めた。
「アオヤギさんから連絡来た時に、どう思った?」
「どう?」
「長年音信不通の知り合いが連絡取りたがるのは大体、ほら金策のパターンじゃん」
「いや、それは全然考えなかったな」タカハシはそう答えながら新潟時代を思い出した。
 ショウナンは彼が3歳の時に移住する為に一家で渡米して以来ずっとアメリカに住んでいて、イリノイ大学アルバナ・シャンペーン校で言語学の博士課程に在籍していた時に、何かの事情で脳の言語野活動に関する研究をする為に新潟大学の脳研究センターに一年間の予定で留学して来たのだった。そうしてアオヤギというマスターが経営する西堀通りにあるオーセンティックタイプのバーで俺と出会った、という経緯だった。
 つまりショウナンはまだ学生だった訳で、それに対して俺は曲がりなりにでもサラリーマンで、ま、新米だから給料袋も薄かったが、一応ソレなりに貰えていたからボーナスが入った時などに奢ろうとすると「ダッチカウントがルール」と言い張り続けて、結局俺に払わせなかった。だから話があると言われた時も金の無心だとは全く考えもしなかった。
「いや、ずっと謝りたかったんだよ」ショウナンが言った。
「謝る?」タカハシが訝しげな視線を送ると、彼は長いまつ毛を伏せ気味にして、
「タカちゃんが入船営業所に居た頃だと思うんだけど、オレがアオヤギさんに電話した時タカちゃんがカワカツ氏と一緒にいてさ」ショウナンは続けた。「多分タカちゃんは出張かなんかで新潟に来てたと思うんだけど、そのちょっと前にオレ、アオヤギさんに美味しいテキーラを送ってて、で、タカちゃんとカワカツ氏が二人してソレを飲んでて、美味さに凄く感動してて、それでオレ嬉しくなっちゃってさ、入船の営業所にテキーラ送るよって約束した事、覚えてるロ?」
 懐かしい名前が出現した事でタカハシは少し落ち着いた。
カワカツというのは新潟時代の友人で地元の広告代理店の社員だった。彼は玄人顔負けの鮮やかさでシェイカーが振れるので、アオヤギさんの店が忙しい時にヘルプとして頻繁に駆り出されていたのだった。ピートの香りに彩られたアルコールが効力を発揮し始めて、思考の底から霧が立ち込めつつあったので薄らボンヤリとだったが確かそんな様な約束を交わした覚えは脳の片隅に残っていることが認められた。
「で、サ、オレ送ったんだよ。いやっ、届いてないのは知ってる。
送るには送ったんだけどコッチの、アメリカの税関で撥ねられちゃってサ、
没収喰らっちゃったんだよね。それでサ、何かのリストに載っちゃったらしくて、その後何度送っても没収だったのサ」ショウナンが言った。
恥ずかしそうに喋るショウナンの横顔を見ながら、コイツ相変わらず新潟弁が薄っすらとまぶされた日本語喋るな、そうタカハシは感じていた。
ま、幾ら家庭内ではずっと日本語オンリーだったとはいえ、渡米して以降ずっとアメリカ住まいで、漸く20何年ぶりに踏んだ祖国の土地が新潟だもの、そこの方言が独立排除的にインプットされたまんまでも、当然のことか。
 タカハシが答えた。
「確かあの時は送っても届かないかも、って事だったから、こっちもそんなに落ちた訳じゃないよ。でも、それが理由かい?」
タカハシは、今日呼び出した理由がそんな些末なことなのかと言う意味で尋ねたのだが、ショウナンはソレには気付いた風も無い感じで、一切淀むことなく、話を続けた。
「それからサ、2006年かな、サバティカルでこっちの大学に来ててサ、
え?
サバティカル?
サバティカル・イヤーってのは半年とか一年間とか他所の大学で研究できる有給休暇なんだけどさ、その時日本の大学選んだのよ。
それでさ、ちょうど良いからサ、お詫びにサ、エヴァンウイリアムの18年を2本持ってきてたのサ。でもサ、中々決心つかなくてさ、結局連絡しないまま帰国したのサ。
でもサ、果たせなかった約束が、サ、
カルマン渦の様にオレの周りから離れて行ってくれなくて、サ。
会わせる顔を、持ち合わせて無くて、サ」
「そんなの良いのに、水臭えなぁ」
タカハシは半ばあきれ気味に言った。
俺ってそんなに敷居が高そうに見えるのか?
 コイツってホントに何て言うのか、一本気ってのか、それとも実直とでも言えばいいのか、こんな調子で本当に実社会と上手く折り合っていけるのか、些か心配に為った。
 俺が所属してる世界は、言ってみれば魑魅魍魎が跳梁跋扈する様なところで、いい加減な奴も多いし絶えず法螺ばかり吹いてる連中も一杯いる。こんな浮世離れしたヤツは一秒すら存在を許されないだろう。学者の世界はこういうヤツばっかりなのかも知れない、というか、こういうタイプで無ければ学者は務まらないのかも知れない。
 アオヤギさんのバーで出会って仲良くなれた一因に、俺の世界では、ネッシーみたいなヤツって言えば良いのだろうか、世界の何処かに存在してるのかも知れないが絶対に遭遇することはない、っていうUMAの様な存在、コイツのこういう真っ直ぐな所がとても新鮮に感じられたから、という事もある。
「相変わらずサピア・ウォーフ・ハイポシーシスを研究してるの?」
タカハシは昔ショウナンに嫌になる位説明された研究テーマを思い出しながら言った。
「いや、今は違う事をしてる」
「どんな事?」何気なくタカハシは尋ねた。
「人間の脳のリバースエンジニアリングに基づいた人工ニューラルネットワークの構築と進化的プログラミングを利用した認知アーキテクチャーの融合」
「ごめん。日本語で言い直してくれる?」
「ま、平たく言えば人工知能の研究だよ」ショウナンが言った。
「これは、何て言うか、エライ飛躍の仕方だな。
文系から理系に移行なんてそんなスムースに行くのかい?
って言うか、大体言語学と人工知能って俺の中では結び付かないんだけど」
 そんな、タカハシの当然の質問にショウナンは直接には答えず、説明から始めた。
「さっきタカちゃんが脳で漢字変換できなかったことを簡単に説明すると、脳を還元的に解析してその機能や構造を解明しようとするのがリバースエンジニアリングだ。
そしてソコで得られた知見を基にして人工的な神経回路を組み上げようとするのが、人工ニューラルネットワーク。
ま、内側からA.I.を組み立てていく感じだな。
コレは最近流行のディープラーニングに最適な構造体なんだ。
え? 流行ってないって?
いや、巷じゃともかく脳科学の世界じゃ絶賛超流行中なんだが、な。
ディープラーニングってのは思考形態の一つで簡単に言うと外部にドッサリと蓄積されたビッグデータを階層化して、個々の要素の関係性をフレーミングして、分類して本質のみを抽出して行く思考手法だ。
うん?
また、漢字変換に失敗してるな。
ま、思いっ切り内容を端折って表現するとオレ達、人間様の脳、大脳皮質の情報処理方法を模倣しているんだ。
コンピューター内の記号(シンボル)を現実世界の意味に結合(グラウンド)させる為の『シンボルグラウンディング問題』を解決できる方法としても注目を集めている。
ま、外部情報を処理する時に脳皮質は階層化と言うテクニックを使用しているから、人工ニューラルネットワークとディープラーニングの相性が良いのは当たり前なんだけどね。
もっと解り易くディープラーニングを表現するとだな、人工知能が自ら『概念』ってヤツを形成して行って獲得する為の学習方法と言える。
例えばタカちゃんに猫の写真を見せたとする。
アルコールの効果によって皮質が沼沢に沈んでいても一瞬で猫だって認識出来るよな。
通常、人間の脳味噌の中には猫と言う概念が既に存在しているからな。
人は赤ちゃんの時から沢山の数の猫を見る事でその特徴を抜き出して猫の概念を脳皮質内のネットワークの中に作り出す。猫を見た時にその特徴を抜き出して統合処理する事で、人は見ている対象物が猫だと認識している。皮質の中の様々なニューロン間の結び付きが猫と言う概念を保持しているんだ。
だけど旧世代のコンピューターにコレをさせようとすると超大変だった。
一から猫に付いての情報を洗い浚い手当たり次第に与えなくてはならなかった。
『猫の顔は丸い』
『猫の耳は三角形で先っぽが尖っている』
『ヒゲが生えている』
『つり眼である』
『長い尻尾』とかの情報だ。とっても冗長でウンザリするほど素敵に冗漫だろ?
でも其処から少しでも逸脱した情報が混じっていると...そうだな、
例えば耳の垂れているスコティッシュフォールドなんかは付与された情報『猫の耳は三角形で先っぽが尖っている』と違うから猫として認識してはくれない。
コレじゃ駄目だ、全然使えないよ、ってんで方針を転換したんだ、コンピューター自らが進んで学習して行くようにね。
猫を認識する為に必要な情報、条件・特徴を自分で発見して学んで行く様にした。
学習方法を人工知能に教えた後にオレ達がする事はただ一つ、猫の画像をA.I.に見せ続けて行く事だった。
ココで注意する点が1つある。
与えられる画像が『猫』を意味しているという事は一切人工知能には教えないと言うのが重要な点だ。
そう、猫というビッグデータの中からヤツ等は本質だけを抽出し続けて行ってヤツ等なりの猫の『概念』というモノを創り出して行くんだ、勝手にね。
ここでの肝は2つ、強化学習と階層化された人工ニューロンネットワークだ。
ディープラーニングに付いてはフワフワとボンヤリとした説明が為される事が多い。
何故かと言うと、開発者たちもどうして人工知能が概念を獲得出来るのか、その学習プロセスはどういう形態なのか、良く理解出来ていないからだ。
その不可視性の原因は階層化された人工ニューロンのネットワーク構造に由来する。
神経回路を模して構築された階層ネットワークの最上階は入力層と呼ばれていてデータはココから与えられる。猫の画像というビッグデータを入力するとバラバラに分解処理して色や形と言った小さく単純な還元要素の塊にする。つまりデータをミンチにする様なモノだ。ミンチにされたデータの塊は第2層へと降ろされる。第2層は受け取ったミンチ状のデータをスクリーニングに掛けて意味を伴っていそうなデータ、例えば輪郭や尖った部分などを示す線分や線形を拾い上げて全部を纏めて次の第3層へと降ろす。第3層では比較的似ているデータ達を寄せ集めてデータの集合体として分類処理する。実は第2層から下は隠れ層と呼ばれる階層群だ。何故に『隠れ』と呼ばれているのかと言うとココでの処理プロセスが不明な為に、ディープラーニングが言わばブラックボックスと化してしまっているからだ。隠れ層を降ろされて行く内にデータの群れ達は凝集されて行き、或る中間点に達すると降ろされて来たデータ間の関係性や関連性のパターンの特徴と、以前学習したパターンの特徴とが比較対照されて、このパターンが表しているのは鼻と言うパーツだと認識されたり、別のデータの集合体が示すパターンは尻尾だと認識されたりする。
データの群れ達は、降れば降る程より一層抽象的で高度な概念を象徴して行く様になり、最終的に隠れ層の最下層まで降りて来たデータの群れは、様々な条件により裏付けされた多種多様な猫の特徴を組み合わせた普遍的で象徴的な『猫』の概念と照らし合わされて、必要条件が満たされている時にのみ入力された画像は『猫である』として認識される。
そして出力層へと降ろされて『この画像は猫です』と言う解答をアウトプットする。
入力されたデータと出力されるデータを比較対照して、相似な時はデータが通過して来た人工ニューロン間の組合せは『正』であるとして、その結合の具合は保持されニューロン同士の関係性は強化される。人間が学習すると脳のニューロン間のシナプスの結合が強化されるのに少し似ている。
入力されたデータと出力されたデータが違ってしまった時は、その人工ニューロンの組合せ方は『負』であるとして結合は弱められて行く。こうやって『隠れ層』の変換パターンを変化させて行く。インプットとアウトプットが相似であればあるだけ『隠れ層』が猫の特徴を適切に抽出出来ている事を意味しているからだ。そうやってトライアル&エラーを繰返して行く内に猫を認識する為の本当に最低限必要な条件・特徴そしてその関係性のみを抽出して『概念』の枠内に蓄積して行くんだ。
コレが『正』と『負』の強化学習だ。
人間の赤ちゃんが『猫』と言う概念を得る時も同様な事が脳内で起こっている。
LTP、つまりLong-term Potentiation、日本語でいう長期増強だ。
ヤツ等が採用している手法は唯単に膨大なデータを手探りで闇雲に調べるなんて絨緞爆撃みたいな稚拙な方法では無い。言わばビッグデータの中から選択した情報のみを処理して行く訳だ。多くの画像が入力された結果『隠れ層』の結合パターンは自然に最適化されて行く。だから言い換えると、繰り返された学習のプロセス中の取捨選択によって得る事が出来た人工ニューロン間の組合せ自体が『猫』の概念だとも言える。
このやり方は『オートエンコーダー』手法と呼ばれるモノだ。
ニューロンが積層された階層が深ければ深い程、より抽象的で高度な概念を獲得する事が出来る。だからディープ(深い)ラーニングと呼ばれるんだ。
現在のディープラーニングのプログラムは人間の脳領野それぞれの結び付き方、階層構造を模倣しているだけだ。例えば、眼から入って来た周囲の風景の情報信号は、1番最初に後頭部の第1次視覚野に送られて処理され、その後に第2次視覚野、最終的に前頭連合野に送られる、そんな階層構造を再現しているんサ。
ヒトの脳では領野間の階層構造と並列して大脳皮質の神経細胞同士のネットワークも表面から内側に向って階層化されているが、コレはまだ再現されていない。コンピューターの性能が不足しているし、階層構造の解析がまだまだ不足気味だ。
因みに人間の大脳皮質は神経細胞の層を第6層まで備えている。
猫の画像と言う膨大な情報の海から必要な条件・特徴を的確に選び取って処理する事は、言い換えると人の直感による状況判断に近い。
だが唯一つ気を付けなければ為らないのが『概念』と言ってもヤツ等の保有している物とオレ達が脳内に持っている『概念』は全くの別物だって事だ。
インプットした情報とアウトプットされた解答は同じだとしても人工知能の階層化ネットワーク内と俺たちの皮質内で行われる作業工程は全然違う筈だ。
何で『違う』と断言できないかというと、『隠れ層』がもたらす不透明化の結果として出現するブラックボックスが検証作業を邪魔するんだ。
人工知能を利用した将棋のプログラムが次の一手を解答する時に内部でどんな風に計算が行われて行くのか、内部で一体何が起こっているのか開発者ですら理解出来ていないのが実情だ。
だから擬人化は危険な行為だと思う。
似た様な解答を寄越すからと言って中で同じ様に考えている訳じゃ無いって事さ。
発生が違う相似的な『概念』って呼べば良いかも知れないな。
で、このコンビ、脳のリバースエンジニアリングと人工ニューラルネットワークっていう方法は構造と思考のやり方の2つともヒトの脳をパクっているんだな。
それとは逆に外側から脳の働きを観察して機能の仕組みやフレーミングを解明して、それらをコンピューター上で再現しようとするのが認知アーキテクチャーなんだ。
この二つは現在A.I.の研究において二大勢力で、お互いに自分達のアプローチの仕方の方が優れていると自負してるんサ。
で、オレ達が考えたのは、だったら二つを合体させちまおうって事だ。
だから、オレ達のチームには色んなヤツがいる。認知科学、神経科学、ロボティックス、工学、心理学、数学、物理学、哲学、生物学、そして勿論コンピューター科学」
ショウナンは、忘れ物は無いかなと言う感じでクルッと眼を回すと最後に付け加えた。
「それに言語学、A.I.研究は非常に学際的なものなんだ」ショウナンは続けた。
「日本じゃ理系から文系に移る事は多々あっても、その逆は珍しいんだろ? 
でも欧米じゃよくある事で、例えばオレの友人の一人は学部生の時には地理学を専攻してたんだけど、修士・博士と過程を進む内に道が逸れて来ちゃって、今じゃワインの研究をしてるよ。
それに文系と理系を明確に分けてるのは日本だけなんだよ。
例えば博士号の事を英語でPhDって言うけど、このPhってのはPhilosophyつまり哲学の事なんだ。そう、哲学。科学論文っていうのは言わばデータに裏打ちされた研究者自身の『哲学』を披露する場でもあるんサ。
2006年にサバティカル・イヤーで来た時、最初は琉球地方の言語を研究しようとしてたんサ。え? いや、方言じゃないよ、言語。
琉球には、ウチナーグチと呼ばれる沖縄本島の南部で話される言語、本島北部の国頭語、奄美大島で話される奄美語、宮古地方の宮古語、与那国語、後は八重山語と主だったモノでもこれだけある。勿論異論はあるけど、言語学者が100人いればその内95人は方言じゃなくて別個の言語とみなす筈だよ。800以上の言語が琉球には存在してるって主張する学者もいる位サ。コレは今話してるトピックとは全く関係ないことだけど琉球諸語を研究してると『彼等は独立すべきだ』って考えが強く湧き上がって来て、全然消え去ってくれないんだがね。
話を元に戻すよ。
琉球諸語を研究している時に、院生の一人が別の組織、カブリ数物連携宇宙研究機構ってトコで面白い研究をしてる言語学者がいるって教えてくれてサ、見学に言ったらそいつの所属してるチームの研究対象がA.I.だったんだよ。
ま、興味の対象が移ったきっかけは、それだね。
うん?
カブリ?
ああ、東大の研究機関、サ」
「数学とか大丈夫だったのか?」タカハシはラフロイグを口にしながら、訊いた。
「データを取り扱う以上は、言語学でも統計学やコンピュータープログラミングの技能は必須だからね、それにオレの研究テーマの一つはチョムスキーの言う所の生成文法の基を成すアルゴリズムを数学的手法で表現する事なんだ。アンダーグラッドの時には、数学は得意科目の一つだったし、それに数学は自然科学の基本だからね。
ガリレオが言った様に『自然の法則は数学の言語で書かれている』んだよ。
身の回りで起こる全ての現象を過不足無く普遍的に美しく表現できるのが、数学なんだ。
だから全ての研究の根底を流れる通奏低音は数学なんだ」ショウナンは続けた。
「それにタカちゃんがさっき言ったサピア・ウォーフ・ハイポシーシス、これだって結構人工知能に関係してるんだ。
昔も説明したと思うけどさ、古のこの国に住む人達は4つの色で世界を認識していた。
『明るい』から誘導された『赤』と、
『暗い』から『黒』、
『ぼんやり』から『青』、
そして『はっきり』から『白』だ。
この4つだけで世界を『観る』と、どういう風に観えるのか想像するだけでも愉しいよな。
オレ達にとってヒツジは眠れない夜に数える為だけに存在してる様なモノだが、モンゴルの人達にとってヒツジは財産と同等だ。だから彼の地には、寝ている羊を表現する単語が在るし、草を食んでいる羊を表す単語も存在してる。
稲作をする為には雨の存在が重要だからこの瑞穂の国には莫大な数の雨を表現する単語が存在してる。ニワカ雨一つとっても、時雨や驟雨、走り雨なんてヤツもソレを表す単語だ。
外部の環境は文化を通して言語を規定し、同時に言語は人が外部環境をどの様に認識するのか、つまり世界観を規定する。
人工知能がどうやって外部環境を認識するか、ソレにも応用出来るんサ。
さっきも言ったけどAI研究ってのは総合学なんだ。
そして最近明らかに為った事実に、言葉を理解する為には数や順番を認識する能力つまり数学的能力が必要だ、ってのがある。それに、コンピューターは」ショウナンはニヤッと笑いを浮かべ「言語で動く」と言った。
「A.I.ねぇ」
コピーにA.I.の文字が躍った数年前をタカハシは思い出していた。
それを見透かすようにショウナンは言った。
「A.I.って言っても今タカちゃんが思い浮べてる様なヤツじゃないよ。
家電やIT関係の商品とかに使われてる、
例えば、そうだな、検索とか視覚認知、音声認識や自然言語処理、それに今流行のビックデータに関係するデータマイニング、そういったモノは言わば狭義のA.I.、narrow A.I.、日本語に無理矢理訳すとすると、特化型A.I. だ。
このタイプのA.I.は1つの機能しか担えない。
それとは違って、オレ達のチームが開発しようとしてるのはA.G.I.と呼ばれるモノなんだ。」
「A.G.I.?」さっきからオウム返しばっかしてるな俺は、とタカハシは苦笑した。
「Artificial General Intelligence、汎用人型決戦兵器、じゃなくて人工汎用知能って訳せると思うけど、簡単に言うと人間の脳に出来る事が全て出来てしかも処理スピードはヒトの何千倍も速い。そういうA.I.を開発してるんだ」
ウチってエヴァに関わってたっけ? そう思いながらタカハシは尋ねた。
「それって役に立つのかい?」
 ショウナンはモルトを一口飲み下した後に言った。「A.I.の関係者、特に開発者はバラ色の未来を予測してる。反対にA.I.研究者は、もしA.G.I.が完成すれば人類の未来は無くなってしまうと考え初めている」
「どゆ事?」ショウナンの口からいきなり飛び出た物騒な言葉に驚いたタカハシは彼の顔をジッと見つめながら言った。「未来が無くなるって、SFとかじゃないんだろ?」
「A.G.I.は人類を、地球を滅ぼすかも知れない」ショウナンが言った。

 サマーウォーズという昔のアニメの作中で『ラブマシーン』という本当にふざけた名前のハッキングA.I.が人間社会を大混乱に陥らせたり、少し前の映画作品で宇宙刑事ギャバンをパクったと思われる『アイアンマン』と呼ばれるパクリ野郎が暴走するA.I.をブッ壊して地球を滅亡の危機から救うというヤツも在ったが、それらは全てフィクションだ。
だが、今、耳にするのも恐ろしい事を告げているのは、本物で現役のA.I.研究者なのだ。
タカハシは下腹部に鉛の塊みたいなモノを感じていた。
「話ってのは、その事かい?」聞きながらタカハシは残っていたウィスキーを飲み干した。
「いや、違う。その事に関して言えば、まだ時間の余裕はある。だから次の時に話すよ」
 ショウナンのその言葉を聞いて、タカハシは内心ホッとしていた。
今は彼の会社が携わっている行事、オリンピックが数年後に控えている大切な時期だ。
 ただでさえ福島の原発事故の後処理や首都直下地震の危険性など考えたくも無い厄介な事が山積しているのだ。そこにA.I.の問題を付け加えるのは、『マジ、勘弁して』とタカハシは思った。
 生得的に人はイヤな事から目を背けたいと思うものだ。
特に日本に住む人々はソレを得意技としている。本当なら現実を真正面から見据えて対処法を考えだし実際に対応していかなければ駄目なのに、何もしない。頭を抱えて厄介事が通過してくれることを願う、ソレだけはする。
 40ソコソコで本社の本部長まで出世した事実から鑑みてもタカハシは有能だった。
実力入社組はコネ入社組の連中等と違って常に最前線に回されたから危機意識のレベルは高かったし、その上、彼は度胸の持ち重りのする男でもあったから比較的大きなリスクをも取る事も厭わなかった。
 ただ、今は時機が悪い。
自分の理解を超えるモノになんか、特に競技場の問題やスポンサー関係の問題で手一杯の今現在、原発や地震それに人類の滅亡と言った個人で対応不可能な事柄には関心を向けている余裕など持ち合わせてはいなかっただけだ。
 ただ20分後、彼の前に、より理解不能な事柄が訪れる。
 会話に句読点が打たれた。
それを見計らった様にバーテンダーが二人の前に来てタカハシの顔を見ながら微かに首をかしげた。両者の前のグラスは空だった。タカハシが軽く頷くとバーテンダーはモルトをグラスに注いだ。続いて体の向きを変えながらショウナンの頷きを確認するとモルトに聲を上げさせずにグラスを満たした。
そして空のチェイサーと液体が満たされた新しいモノとを交換してから軽く会釈をすると二人の前から居なくなった。
大分落ち着いてきたのでタカハシは先ほど飲み込んでしまった質問を表現を変えながら言ってみた。「さっきさ、入って来た時良く一発で俺が判ったね。ま、多少古びた位で風体はあんま変わっちゃいないと思うけど」そう言って店内を見回すと、水曜午後8時という銀座にしては平日のやや早い時間帯という理由からか客の入りは、三分という所だった。
小気味良い音を立てて振られるシェイカーの音が、時々思い出した様に店内に反響する位だった。
 ショウナンは再びタカハシの質問に直接は返さなかった。
「スパースモデリングって知ってる?
あ、そう。スパースって言葉を直接翻訳すれば『疎らな』とか『希薄な』って意味合いに成ると思うけど、簡単に言えば少ない情報から正解に辿り着く数学的手法、もしくは巨大な情報群、つまりビックデータから疎らな本質を抽出する手法とも言える。
いやいや、タカちゃんの言う通り一見真逆に見えるさ、でも同じ事なのサ。
そのやり方はこうだ。
先ず解の候補を選出する。
その後その解の候補を絞り込んで行く。
その二つを繰返していきながらバランスを取る事で正解を導き出すんだ。
例えば実用化間近なのがMRI関係の技術だ。
MRIを使って人体から充分な情報を得る為には大体十分くらいかかる。
タカちゃんはMRI検査って受けたこと、ある?
そうか。
じゃ、判るよな。
MRIが機能してる間はズーっと中では『ドンっ! ドンっ! ドンっ!』って結構な打撃音が轟き続けてたろ?
アレって、患者にとってはかなりな負担原因になる。
見逃せないストレス要因という訳さ。
だが、スパースモデリングを使えば観察時間は3分で済む。
え?
十分なデータが得られるのかって?
全然足りないさ、得られる訳ないよ。
だからスパースモデリングという数式を使用するんじゃないか。
得られた『疎らな』データをこの数式に掛ける事によって正解を得るんだよ。
これは人体というビックデータの塊から疎らな本質だけを抽出する、とも言い換える事が出来る。ほら、これでチャンと繋がったろ?
この作業は、言わばビックデータの中に疎らに潜んでいる正解を引き摺り出すって感じだ。
でもコレはオレ達が日常行ってる事だ。
え?
これから順を追ってキチンと説明するよ。
東北大学法学部の首席卒業の人にも解る様に、ね。
え?
首席じゃないって?
ま、細かい所は気にすんなって。
じゃ、説明に入るぞ。
スパースモデリング、コレって脳が普段からやってる事なんだよね。
例えば相手の顔を記憶する場合は大脳皮質が担当するんだ。
詳しく言うとその中の紡錘状回という領域が顔認識を担当してる。
この皮質と呼ばれる部位は外部の環境に存在する膨大な量のデータを階層化し個々の事象の関係性を構築した上で分類する。そうやってその情報の深海から本質だけを抽出する。
顔を認識する時には『顔』というビックデータを輪郭、色、質感、奥行き等といった各要素まで還元化を図るんだ。その後、各要素ごとに微分化して、『疎らな』データにして各々バラバラに記憶の構成要素として貯蔵するんだ。
想起、つまり思い出す時はバラバラに貯蔵されている各々の要素の圧縮を復元し、つまり『疎らな』データを再統合しながらビックデータに戻すんだ。
どうかな?
記憶を貯蔵する時と記憶を再生する時に『スパースモデリング』が使われている事が理解できたかい?
ま、平たく言っちゃえば脳はデータ圧縮して色んなモノを記憶しているって訳だ。
ビックデータから本質だけを抽出して記憶として貯蔵して、本質からビックデータを復元する事で思い出す。こんな複雑なプロセスを経なければ脳は顔を思い出せないんだが、
厄介な事にプロセスのどの段階でもエラーが発生する。その発生頻度は実は低くない。
だから頻繁に思い違いというのが起こるんだ。
久し振りに会った人に何か違和感を覚える事はよくある事なんだけど、コレは貯蔵されている顔の記憶を再構成する時にエラーが何処かの段階で発生してるからなんだ。でも脳は基本的にこういったズレを嫌がる。だから無理矢理に辻褄を合わせようとするんだね。
相手の何処かに過去からの連続体としての『似ている所』を発見する事で整合性を何とか保持しようとするんだ。
え?
イヤイヤ、自転車は違う。自転車やクルマの運転に関する記憶はまた、別物だ。
ソレは運動記憶と呼ばれるモノで大脳基底核という部位が主に担当している。俗に爬虫類脳と呼ばれる部位が担当していて、記憶の処理方法が違うんだ。厳密に言うと、運動記憶つまり手続き記憶と呼ばれる記憶は小脳に貯蔵されているんだが、実際に処理を担当するのは、基底核なんだ。
この基底核ってヤツはあらゆる可能性を片っ端から手当たり次第に調べ尽くし試行錯誤を重ねた末にようやく正解に辿り着くっていう少々まだるっこしいやり方を取るんだ。因みに皮質の担当している、例えば概念であったり楽しかった家族旅行の記憶といったモノは意味記憶とかエピソード記憶とか呼ばれてる。
どうだい?
記憶ってのが、案外フニャフニャとしていて頼りないモノって解ったかい?
ま、脳なんて不確実性に満ちてる複雑系を使ってるんだ、当たり前だよ。
え?
コンピューターは違うさ。
ヤツ等の記憶は文字通りにハードで簡単には毀損しない。
ヒト様の記憶はソフトで壊れ易い。記憶のプロセスには大まかに言って3段階ある。
記憶の形成である『記銘』、『保持』、そして再生である『想起』だ。
記憶の記銘は海馬と言う部位が担当で、保持と想起に関しては皮質が担っている。
海馬には神経細胞が約1億個あって何時、何処で、何を、といった情報が記憶されている。
ここで造られた記憶は、休息している時にその記憶自体を海馬内部でリプレイしている。
海馬には『場所細胞』と呼ばれる、場所の記憶に特化した神経細胞がある。
タカちゃんが新しい居酒屋に行ったとする。
その時、場所細胞はその居酒屋への経路を認識して、タカちゃんが休んでる時にその記憶を海馬内部の神経細胞がリプレイ、そうする事で記憶の固定化を図っているんだ。
場所細胞だけではないよ。
時間の経過の認識を担っている『時間細胞』もあるぞ。
この場所細胞や時間細胞が同時に共同して働く事で記憶にとって重要な、何時、何処で、という情報を海馬の中で処理しているんだ。これが記憶として刻まれてゆくんだ。
ザックリ言うと海馬は経験を認識するだけではなく、休んでいる時にその経験を神経細胞がリプレイして記憶を海馬の中に固定しているんだよ。
新たな出来事を記憶する事が海馬の役割だ。
保持に関して言うと、経験した事などの記憶は大脳皮質の色んな領域に分散して蓄積されている。つまり新しい記憶は海馬で記銘(形成)され、それが大脳皮質に転送される事で長期的に『保持』される。
この転送に関して重要な役割を果たしているのが、海馬における神経新生だ。
神経新生、コレは神経細胞が新しく作られる現象だが、コレが起きると海馬から記憶が消えて行き、同時に皮質へと転送される。
結論から言うと、この神経新生は海馬からの、海馬に固定化された記憶の消去に関わっている。
え?
心配すんな。
記憶自体が煙の様にシュッと消えちゃうわけじゃない。記憶は海馬から大脳皮質へと転送される。記憶量は減ったりしない。同じ量だけ皮質に蓄積されることになる。
そしてこの海馬から記憶を皮質に転送する役割をも担っているのが、この神経新生なんだ。
記憶の転送が生じるのは、睡眠時だ。
人間の脳は寝ている時にも働いてる。
もちろん海馬も頻繁に神経活動をしている。何の為に活動しているか、その真相はまだ確定済みではないんだが、昼間覚醒してる時に経験したこと、ソレに関する記憶を再生しているってのが有力な説だ。この寝てる時に海馬で起こってる神経活動を模倣する様に、
ウーン、なぞるって方が適切な表現かな?
大脳皮質でも海馬の神経活動をなぞるようにリプレイ、っていうか同じ様な活動パターンが皮質の神経細胞回路でも出てくる。この大脳皮質が海馬の活動を『trace(なぞる・模倣する)』する事で記憶の転送が為されるんだ。
そう、寝てる時に皮質は海馬で起こっている神経活動を復習して皮質自身に記憶を固定化してゆく。この様な仕組みで海馬から必要な情報を皮質に移送して、場合によっては一生憶えている記憶になしてゆくんだ。
余談だけど、加齢、つまり年を喰う事に伴う記憶力の低下は神経新生の能力の低下が原因なんだよ。
若い時は神経新生が盛んだ。
だから幾ら情報が海馬に入ってきてもドンドン皮質に記憶を皮質に転送できて海馬の容量を空いている状態に出来る。だから幾らでも無尽蔵に憶えられる。
だが残念ながら歳を喰ってくると神経新生の能力が衰えて来るので海馬にいつまでも記憶が残存してしまって、だから海馬の容量がパンパンの飽和状態になり、だから中々新しい事が憶えられなくなってしまうんだ。
フフン、安心しろ、タカちゃん。
海馬の神経新生は運動する事で促進される。
個人差もあるが運動をする事で神経新生の頻度は、何もしてない状況下と比して2倍ほどにまで増加する。身体を動かす事で記憶力を保つ事は可能なんだ。
ま、これはマウスやラットでの実験結果だけど、ね。
人間での検証結果の論文はまだ読んだ事ないから、保証の限りじゃないけど、さ。
スマン、話のベクトルが微妙にズレた。
話を、記憶の固定化に戻すよ。
海馬で神経新生をすることで皮質に記憶を転送、そして睡眠をとることで記憶の固定化をして行くんだ。そして同時に海馬からその記憶が消去されるのさ。新しい記憶を海馬領域に貯蔵できるようにする為に、海馬の容量を空にする為に、ね。
何で、転送するかって?
そりゃ、容量の問題だ。
海馬の神経細胞の数は約1億、ソレに対して皮質は140億って所だ。
ま、パソコン内蔵のHDが一杯に成ったらクラウドや外付けのHDに情報を移す事に似ている。それぞれの段階で色んなタンパクやら遺伝子が働く訳なんだが、そのどの段階でも必ずと言っていい程間違いが生じるんだ。
例えば昔神戸で連続児童殺傷事件が起きた時、ひとりの人が黒いポリ袋を持って自転車に乗っていた男を目撃したと言った。すると、その後にワッと大勢の人がその『男』を目撃したと証言をし始めて、終いにはポリ袋から血が滴り落ちていたとまで言う人まで現れた。
でも結果は解っている通り、14歳の少年の犯行だった。
じゃ、『男』を見たって証言した人達は嘘を言ったのか?
違う、彼らは本当に『見た』んだよ。
いやいや、これから説明する。
記憶を保持してる時に新聞とかTVとか雑誌などの媒体から色んな情報が脳の中へと入力され続ける。その結果保持してる記憶のアッチコッチがその新たな入力情報により上書きされてオリジナルの記憶情報は毀損されてしまうんだ。コレを事後情報による毀損と言う。
神戸児童連続殺傷事件で目撃者が『ポリ袋をぶら下げた男』を見た、といったこと、
彼らは嘘を付いたんじゃ無い。
自分達が保持してる記憶の上に別の『見た』という記憶を上書きされちゃっただけなんだ。
オリジナルの記憶は時間が経過するに従って減衰して行くし、その上、事後情報で傷付けられてしまうんだ。でも彼らにとっては『変形』された記憶が現実なんだよ。
コレは保持段階での話の例だが、勿論形成時にも記憶に障害は簡単に発生する。
アメリカでの話なんだけどね。或る晩に女性が自宅でレイプされた。
電気は付けられたままだったから彼女は犯人の顔をバッチリと覚えていてスグに容疑者は逮捕されたんだ。容疑者は彼女の親友の恋人で3日前に紹介されたばかりだったんだ。
勿論、彼は犯行を認めずに『自分はやってはいない』と言い続けたけども、実際にレイプされた被害者の証言だったから陪審は直ぐに容疑者の犯行と認めて有罪判決として判事は禁固20年を言い渡した。
うん?
いや、こっからストーリーは動くよ、まぁ、続きを聞きなさい。
その『犯人』が刑務所に収監されて数年後、ある男が女性をレイプした容疑で逮捕された。
そして余罪を追及された男は、その『親友の恋人』にレイプされたと主張した件の女性に対する犯行も実は自分がした事だ、と認めたんだ。
警察がウラを取る為に確認すると、実は彼女の娘さんも同時にレイプされてたんだが、
その娘さんがその『真犯人』にレイプされた事を思い出したんだ。
だが、娘さんと違ってその女性はあくまでも犯人は『親友の恋人』だと言い張り、忽然と現れた『真犯人』を頑なに認めなかったんだ。レイプされてる時には犯人の顔が目の前にずっとあった、なのに何故記憶違いを起こしてしまったのか?
親友に恋人を紹介された時に女性は彼を『とても素敵な男性』だと思った。そして強烈にとても強い記憶として残ってしまったんだ。もしかしたら『羨ましい』という想いもあったのかも知れないが、その記憶の強烈さが犯人に対する記憶間違いの起因さ。
どういう事かと言うと高い水準のストレスに曝されると人間の脳は情報処理して記憶貯蔵する能力を急激に低めてしまうんだ。これ、専門的にはヤンキース・ドットソン法則って言うんだけどね。レイプされたのは自宅でしかも娘さんと同時にその上電気が付いたままなんで高ストレス化では相貌失認が起こってもおかしくない。
へ?
相貌失認って何だって?
ああ、相貌って顔のこと。
顔を見てるんだが、その顔自体が認識できない状態って事さ。
宮崎駿の『千と千尋の何とか』に出てくる『顔無し』みたいに相貌を失っちゃった犯人の頭部、ソコに強烈に強い記憶として残ってしまった『親友の恋人』の相貌、顔をアイコラしちゃったって訳。記憶なんてモノは可塑性が高過ぎるんだ。
みんな、異常なくらい記憶は堅固で不変たるものだと誤認しちゃってるけど、な。
だから、記憶にばかり頼るのは、実は本当にマズイんだ。
その訳が少し解ったろ?
当時はDNA鑑定なんて無かった訳だしな。
それでさっきの質問に対する答えだけど、オレが店に入って来た時客は疎らだった。
でもアオヤギさんの店ではタカちゃんの席は左端から2番目だった。
だからココでも同じだろうと思って店内を見渡したら、当時のタカちゃんを10何年経年変化させたような人間が座って、コッチを怪訝そうに見てる。だからこの人がタカちゃんだろうと見当を付けただけだよ。
ま、間違ってれば謝って他を当たれば良いだけだからね。簡単だろう?」
 新潟時代もこうやって自分の仕事とは全然関係無い、むしろ懸け離れたと言ってもいい位のコイツの話を聞いて、傍から見れば俺はただ馬鹿みたいに相槌を打っているだけで、でもコイツは聞いている俺が、解らなくてもイイ、解って貰えなくてもイイ、そんな独りよがりの態度は一度も取らず、解る様に、俺が理解出来ずに迷子に成っていると今みたいに言葉を変えたり選び直したりして丁寧に説明してくれて、そうこうしている内に、俺はストレスで凝り固まった頭や身体を緩ませる事が出来て、ゆっくりと潤びて行ったのだ、とタカハシは懐かしく思い出した。
 そうだ、あの時空間だけでは無い。
コイツの存在が在ったからこそ俺は仕事が続けられたのだ、とタカハシは感慨を抱いた。
 ショウナンはラフロイグを一口飲み下すと話を続けた。
「それに動的平衡の影響もあるだろうしね。
ん?
いや、日本の人が創った言葉だよ。確か福岡って言ったかな。
英語で言えば Dynamic equilibrium か。
彼は、可変的でサステイナブルの動的平衡な状態にある存在が生物であるって主張してるんだ。
いやいや、ソレは今から説明する。
ま、これは生物という存在は絶えず変化し続ける事で同じ状態を維持してる、とも言い換える事が出来る。まだ、イメージし難いか?
うーんと、バットを手の平の上に立ててバランスを取る事をした事があるかい?
箒?
学校の掃除の時間にした?
あ、いやオレは箒ではやった事は無いなぁ。
アメリカじゃ学校の掃除は業者さんの仕事だからね。
ま、箒でもバットでも良いんだけど、バランスを取る為には小刻みに手を動かさなきゃいけないだろう? そうしてむしろ動く事で安定を得てる訳なんだ。
そうそう、生物を構成してる分子ってのは体内で高速で分解されてから体外に排出され、入れ代わりに摂取した食物の構成分子によって置き換えられる。言ってみれば、オレ達のあらゆる組織や細胞の中身は外部の環境から来た分子によって常に更新されているんだ。
だから、1日前のタカちゃんと今日のタカちゃんは、厳密に言えば違うんだよ。
一生の間全く更新されないと思われていた心臓の細胞、心筋細胞も3年位で少しずつ置換されていくらしいって事が最近の研究で解って来たんだ。脳の神経細胞は置換されないが細胞を構成している分子自体は更新される。
福岡博士の話によると生体の構成分子は『生体』という容れ物を通過して行くのでは無いのだそうだ。彼の表現を借りれば生体は環境中を循環している分子の流れにできた『淀み』なんだそうだ。環境の中の分子の流れが一時的に渋滞している、ソレが生体なんだと。
実体というよりも分子たちの活動が生み出した『効果』なんだと。
さっき渋滞って言ったけど、事故渋滞じゃない方、何だか理由も解らずに発生するヤツ、そう自然渋滞ってヤツだけどこれも効果っていうか現象って言えるヤツなんだが、コレをイメージすると福岡博士の主張は理解し易いかも知れないな。
ま、大体の自然渋滞は単純に車の台数が多過ぎて道自体の通行許容量を超えてしまった事が原因だったり、サボと呼ばれる道の僅かな歪が引き起こしたりするんだけどね。
同じ様なモノが銀河の円盤でも起きている。
どういう事かって?
渦巻銀河と呼ばれるタイプ、お隣のアンドロメダ銀河やオレ達の住む天の川銀河なんか、ま、厳密には俺たちの奴は棒渦巻銀河って呼ばれるタイプの奴で中心部のバルジってトコが棒みたく細長くなってるんだが、ま、詳しくは置いといて、そのバルジの周囲に見られる円盤部と呼ばれる部分、目玉焼きでいうと白身の部分に相当する訳だが、あ、バルジは黄身ね、ソコの円盤部に腕の様に沢山の恒星が集中してる部分がある。ソレが腕、正しくは渦状腕って呼ばれるんだが、コレも言ってみれば星が自然渋滞を起こしてるんだよ。
銀河を構成する星々は中心部に存在する超巨大ブラックホールの周囲を公転してるんだが、数が多過ぎて前が詰まっちゃうんだな、オレ達の銀河でも1000億から2000億位星が存在してるっていうからな。
え?
いやいや、そんなにギュウギュウに詰っている訳じゃない、むしろスカスカって言える位に疎らだ。それでも恒星は自然渋滞を引き起こすんだ、面白いだろ?
渋滞は一旦始まってしまうと同じ場所で起き続ける。でも恒星は公転を続けて行くので、腕もユックリと回転をしてゆくんだ。回転をする腕は常に同じで何も変わっていない様に見えるが、その『構成分子』である恒星は絶えず置き換わって行く。渋滞自体の長さは変らないけど、その渋滞部を構成しているクルマの顔触れは絶えず入れ替わって変化しているって状況に瓜二つだろ?
オレ達も同じ。絶える事無く分子の置き換わりが起き続けている。記憶が絶えず外部の環境から影響を受け続けて変化してしまう様に、外から侵入してくる分子に因ってオレ達の構成分子が置換される時にもエラーは起こり得ると思う。
あれっ?!? コイツこんな奴だったっけ?って思う時があったりするけど、そゆのも幾分かは関係してるのかも、知れないね」
 変わらないな。タカハシはそう思った。
新潟のバーで一緒に飲んでいた時もこんな感じで、ソレは今も全く変わらない。
最初に俺が違和感を覚えたのは、実は俺が変わったからかも知れないな。
 俺の世界は権謀術数が渦巻いていて海千山千の強者たちが手ぐすねを常に引き続けている様な一種異様な所だ。腹芸を得意とする業師もいるし寝業師もウジャウジャいる。そんな所にいるんだ、スレッカラシに成らざるを得ない。反対にコイツの様に純粋に研究に没頭する奴は変わらないって事か。
 ショウナンは、そんなタカハシの心模様を察したかの様におもむろに本題を切り出した。
「タカちゃんのトコ、広告代理店ってのは一種の仲介業者みたいな真似もするんだろう?」
「そうだよ」タカハシはそう答えながら自分の仕事の内容を思い浮べた。
「広告代理店の仕事の幅は広いからね。
例えば地方の公共団体や企業に何かのキャンペーンを提案したりもするし、近頃では、ま、アメリカにいるから知らないかも知れないけど、ゆるキャラって呼ばれる被り物、まぁ、簡単に言えば、自治体の広報用マスコットなんかもプロデュースしたりする。
そうかと思えば今俺が関わってる様なオリンピック関係の仕事も多い。オリンピックとかワールドカップとかのスポーツイベントだよ。
近頃じゃアイドルビジネスもメインストリームさ。
仲介業っぽいヤツで言えば、東に何かを欲しい人が居れば行って何が欲しいのかを聞き、西にちょうどビッタシのモノを持っている人が居れば行って頼み込んで譲って貰い、東の人に恭しく献上する事があるな。
毎週の様にアキモトヤスシ邸で開催される恒例の焼肉パーティーに裏方として参加、馬鹿デカいソーダファウンテンの機械にサングリアを追加投入するってのも仕事の一種かも。
でも一番の仕事はって言えば、宴会係、お偉いさんの太鼓持ちってトコなのかなぁ」
そう言ってタカハシは自嘲気味に低く笑った。
ショウナンは正面を見ながら言った。
「タカちゃんに調達して貰いたいモノが有るんだ」
『何でしょう?』という感じにタカハシがショウナンの顔を見ると、
「来年の6月に行われる筈の、その件のアキモト氏がプロデュースしているトコの選抜総選挙、その投票券を用意して欲しいんだ」とタカハシの方に向き直りながらショウナンが言った。
「?!」タカハシは余りの意外性に驚いてしまって二の句を継ぐ事が出来ず声に成らない声を上げた。
「タカちゃんの会社はあそこのグループに一枚噛んでるんだろ?」
「ああぁ、確かに関わってはいるけど」タカハシには未だ話の道筋が見えて来なかったので当たり障りの無い返事をした。「でも、それで一体・・・?」
「出来れば投票券だけ裸で欲しいんだ。ケースから取り出す手間が惜しいからね。でも、それが無理なら劇場版を用意して欲しい。通常版との差額、600円はヤッパリでかい。
ただ劇場版の場合、個人で手に入れられる枚数には限界がある。
だからタカちゃんに頼んでいるんだ」ショウナンはチェイサーの水を飲むとそう言った。
 タカハシは緊張していた。
コイツが欲しがっているのは絶対に100枚単位なんかでは無い筈だ。多分良く解らないが劇場版でも上手く立ち回れば個人一人でも数千枚は簡単に手に入れられる筈だからだ。
 落ち着け。
タカハシはそう自分に言い聞かせた。大事な局面では落ち着いた慎重な行動が大切である事を、彼は広告代理店の営業職の仕事を通して知っていた。落ち着け!
 嵐が吹き荒ぶ胸襟の内とは裏腹に、むしろユッタリした口調でタカハシは尋ねた。
「一体、何枚必要なんだい?」
「最低でも20万枚」
 ニジュウマンマイ?
なんだ、その数は?
ショウナンの答えにタカハシはビックリしてしまって、思わず噎せ返ってしまいそうになり必死に口の中のモルトを飲み下した。
 ちょっと、待て。コイツ『最低』って言ったな。
『最低』って事はソレ以上の場合も勿論有りうるって事だ。
 待て待て。
今年の総選挙で一位のメンバーが最終的に獲得した票数は19万ちょっとだ。って事は、コイツはソレを上回る為に20万枚必要と言った訳だ。でも一位のメンバーを応援してるファン達、実際の数は意外と少ないらしいが何故か自由に使える金に不自由しない奴等が多くて、その事が彼女の順位を押し上げてるって話だ。ソレに加えて中国の奴らが何故かソイツに票を、それもかなりの数を投じてるって話だ。来年も総選挙があれば奴等はおそらく20万票超えを狙って来る事は火を見るよりも明らかで、そうか、だから、コイツはさっき『最低』20万枚と言ったのだ。
「資金は有るのか?」タカハシは当然の質問をしたがソレに対してショウナンは一見関係の無い話をした。
「タカちゃんは iPhoneかい?」
 タカハシの頭上に一瞬の間疑問符が浮かんだが、思い直してスーツのポケットの中から買い替えたばかりのiPhone6Sを取り出してカウンターの上に置いた。
無骨な防水ケースに包まれて美麗な筐体は見え辛かったが、確かに中身がiPhoneである事を確認した後でショウナンが言った。
「Siriってのが入ってる筈だが。
イヤ、使用して欲しい訳じゃないんだ。
タカちゃんがSiriを使おうとすると次の様なプログラムが実行される。
まず最初にタカちゃんの音声を認識して文字化する音声認識プログラム、その次にその文字化された単語から意味を抽出する自然言語処理アルゴリズム、そしてアップルのメインフレームに蓄えられた膨大な知識データベースの中を検索するプログラムが働き、その後インターネットの中を検索するプログラムが動く。
オレは大学の教授時代に会社を同僚と設立したんだ。
会社ってったって働いてるのは俺とソイツの二人って超弱小会社だがね。
パートナーはコンピューター科学者でオレが言語学者、ほう、話が見えて来たかい?
そうオレ達は自然言語処理のプログラムを開発してたんだ。
そしたら何処でどうやって嗅ぎつけたのかは未だに判らないんだが超の付く某有名IT企業がオレ達の開発したプログラムに食指を伸ばして来た。丁度オレは興味の対象がA.I.に移りつつあったから喜んでその申し出を受けた。パートナーにオレの分の持ち株を渡してその代償として某IT企業がその代金を支払った。でも用意周到なオレは件のプログラムの使用料の権利だけは保有する事にしたんだ。
もう、俺の話の全容が理解の範疇に入って来たようだな。
そう、タカちゃんみたいな人がiPhoneを買う度にオレにはSiriの使用料が入ってくる。
ま、微々たるモンだけどね。
ソレよりも株を売った売却益の方が額はデカい。だから、資金の方は全く心配無い」
「イヤ、でも」タカハシは高くなってしまいそうになる声を出来る限り潜めながら言った。「でも、20万枚だぜ。劇場版が一枚1000円位だろ。合計で2億チョット掛かるぜ」
「分母の大きさに因るさ。この場合分子の大きさは比較に成らない程小さい」
「比較って」とタカハシは遠くを眺めるような目付きをしながら言った。
「大したことは無い。1億ぐらいだ、あ、U.S.ドルでね」
 イっ! と叫びを上げそうになりタカハシは全力で衝動を抑えた。
コイツは何で平気な顔でいられるんだ?
1億ドルだろ? って事は日本円で、えーと、幾らだ?
1ドルを粗っぽく100円で計算しても100億円じゃないか、え?
小っちゃい自治体の年間予算位あるじゃないか!
 何でこんなに涼しい顔でいられるんだ?
「一応聞くけどさ、何処の会社が買ったんだい?」とタカハシは尋ねた。
「秘匿事項なんだ。守秘義務ってヤツがあってね。ま、職業柄タカちゃんなら直ぐに調べは付くだろうがオレの口からは言えない。ただ、軍の機密情報とまでは行かないから割と簡単に判ると思うし、別に調べても逮捕される訳じゃないから知りたいならそっちで勝手に調べても構わないよ。
ただ、ソレに詳しい経緯に関しては実は良く知らないってのが真相だよ。
そういう交渉は全て弁護士任せだったからね。
イヤ、買い取ったのはアップルじゃないんだ。
本当の所はオレも良く知らないんだよ。
実際ウチの会社の親会社と為ったIT企業とアップルとの間にどんな取り決めが交わされてるのかも全然判らないんだ。
ん?
そう、子会社として買収されたんだよ。
だから、エド、オレのパートナーの名前だが彼がCEOである事は変わりないんだ。
でもさっき言った様に何故Siriの使用料がオレの懐に入ってくるのかサッパリなんだ。
とにかくiPhoneが一台売れる度にオレの口座にチャリンと振り込まれる。
ま、実際は1万台毎にだがね。ソコの仕組みはブラックボックスさ、多分弁護士しか理解出来て無いんだろうね」
 チョット待て、とタカハシは幾分靄が掛かって来た頭で必死に考えた。
えーとSiriが搭載されるように成ったのは確かiPhone5の時だったと記憶してるから、
えーと、今まで何台売れたんだ? 世界中の話だから、えーと、1000万位だろうか?
仮にもし1000万だとして一台当たりのロイヤリティが、そんなに安い訳が無いけども、1ドルだとするとコイツの稼ぎは乱暴に計算すると約12億円だ。勿論、将来登場する筈の機種にも当然搭載され続ける筈だから、だから一体総額はいくらに成るんだ?
「自然言語処理のアルゴリズムは音声認識なんかとは比較に為らない程高度で複雑だからその重要性も桁違いに大きい。だから当然買収の金額も大きくなる、ってか値段に関して言えばこの類の取引で動く金にすれば今回は相当に御安い部類に入るだろうよ」
ショーナンは琥珀色の液体をほんの少し口に含みながら言った。
 ソレを聞いてタカハシは真面目に働いているのがヤヤ馬鹿らしくなった。でも、コイツは何でこんなに平然としていられるんだ?
必死で考え続けた先に辿り着いた答えは割と簡単なモノだった。
 コイツは何にも変わって無い。
新潟時代も金には無頓着で執着心の欠片も無かった。着るものと言えば近所のスーパーで購入したペロンペロンの安物かイリノイ大のロゴの入ったシャツやスウェットだった。今はそれなりに高級で上質なモノを身に付けてはいるが基本ハダカで無けりゃ良いだろって感じだ。そうだ、コイツは昔から金に対する興味を持たないヤツなんだ。
『金は誰かを幸せにするための手段に過ぎなくて、目的では無い』
コイツが昔よく言っていた言葉を思い出した。
 でも、誰に投票する気なんだ?
「だ、誰に・・・」もつれてしまったタカハシの舌は後半の言葉を構音する事を不可能にさせた。
急いで湿らせる為にチェイサーのスッカリ温くなったガス入りの水を飲んだ。
「すまない。ソレに付いても、今の時点では明かす事は出来ない。イヤ、タカちゃんの事を信頼してない訳じゃないんだ。未だ先方の返事待ちでね。
大事な事だからよく考えて欲しいんだ、彼女には、ね。
2月末まで待つと彼女に伝えてある。
もしも、答えがイエスならその時に教えるよ」ショウナンが言った。
「でも何で? 理由は?」タカハシは『何で一人の小娘に2億も費やすんだ』という質問の続きを飲み込んだ。そうするべきだ、という根拠の無い確信を抱いたから、だ。
「簡単だよ、チョット辛かった時期が有ってさ、その時オレを支えてくれたのが彼女の笑顔だったんだ」ショウナンの答えは軽い口調だったが、過去に勃発した何事かの峻烈さを感じさせるニュアンスが濃厚に漂っていたから、タカハシはあえて触れずにスルーした。
ショウナンが続けた。「大袈裟に響くかも知れないけど、彼女の存在が在ったからこそ、今オレはこうして生きていられると言える。オレには家族が無い。両親はもう何年も前に鬼籍に入ったし、妻も子供もいない。A.I.の研究を続けていると、どうやら未来は絶望的にしか感じられないから家族を創る気力も全然湧いてこない。だから彼女は、言わば娘みたいなモノだ、擬似だけどね。
タカちゃん、子供は?
そうか。
タカちゃんだって、自分の子供がとても辛くて苦しい立場にいたら救いの手を伸ばそうとするだろう? どんな事をしても、たとえどんな代償を払う事に為ったとしても子供の力に成ってやろうとするんじゃないかな」
 タカハシは離婚した妻と一緒に暮らしている二人の子供の顔を思い浮べた。
養育費が毎月キッチリと差し引かれていく預金通帳を見る度に、中々会えないでいる子供たちの笑顔を思い出してしまい、この預金通帳が俺と子供たちとを結び付けている細い糸なのだと思ったりもした。時々思い出した様にポツリポツリと送られてくる写メを見ると、ずいぶん成長したなぁとか、何か困った事が有ったりするんじゃないんだろうかと思ったりもした。もしショウナンが言う様に子供達が苦しい状況に陥ってしまったとしたら、俺はどんな犠牲も払うだろう。
 上の子供を授かった時に初めて他者に対して責任を負わなければいけない事の重大さに気付かされた事を思い出した。この子を、文字通り『生かすも殺すも』俺次第で、この子の将来に対する責任は俺と妻の二人に全面的に覆い被さって来る事実に、正直ビビった事を覚えている。
しかしこちらを信頼しきっている笑顔を見る度に『この子だけは俺が守らなければ』と毎晩の様に痛感させられたのだった。『頑張らねば』との想いを新たにしたのだった。
たとえ世界中を敵に回す事に為ったとしても、だ。
 だから、ショウナンの言葉は素直に響いたのだった。
ショウナンの言葉に不意を衝かれてしまったかの様に突然、離れて暮らしている子供達の顔をボッと思い出してしまって、だから図らずも涙を漏らしそうになってソレを誤魔化す為にも無理目に声を張った。
「判った。俺は何をすれば良い?」
「取り敢えず投票券だけ手に入れられるのかどうか、もし無理なら劇場版で用意が出来るのかどうか、色々探って当たりを付けて置いて欲しい」ショウナンが言った。
「了解だ。任せろ」タカハシは背筋を伸ばしながら言った。
沢山の情報が脳の中を渦巻きながら刺激を発散し続けているので、努力しないと考えを纏める事が出来そうにも無かった。
 だが、ただ一つ確かな思惟をタカハシは手中にしていた。
『この男は、総選挙っていうシステムを打っ壊そうとしているのだ』
「でも、ま、会えて良かったよ。アオヤギさんに繋ぎを頼んで本当に良かった。実は断られるんじゃないかと思って心配してたんだ。やっぱりこういう話の時は実際に顔を合わせないとダメだから、な」ショウナンは静かに笑った。
「まさかとは思うが、この為にワザワザ来たのか?」タカハシは疑問に思ったので聞いた。
「勿論。マイルも貯まるしな。だけどエコノミーのシートは流石に年寄りには応えるな」
「おいおい、金には不自由してないんだからビジネスぐらい乗れよ」
「今、デルタ航空でエコノミー往復を700ドルポッキリのキャンペーンやってるんだ。
何だ? 笑うなよ。
でも、明日の帰りの便は辛そうだからグレードアップしても良い気になってる」
「明日帰るのか」タカハシは呆れた声を上げた。本当にこの為だけなのか?
「ま、タカちゃんの現在も確認出来たからさ。研究に戻るよ。でもタカちゃんは変わらないなぁ、体型もキチンと維持出来てるじゃないか。相変わらず食事でコントロールかい?」
「ヒロ君だってかなり良いガタイじゃないか」とタカハシが返すと、「ヒロ君か、久し振りにそう呼ばれたな。何年振りだろ」とショウナンが低く笑いながら言った。
 タカハシは思い出した。
そうそうコイツと仲良くなった訳はもう一つあった。
俺もコイツも小さい時は肥満児でモテない学生時代を送り大学デビューする時にモテたい一心で必死になって体重を落としたという共通点があって、だから比較的早く打ち解けられたのだった。アオヤギさんのバーで最初はコイツが「オレは昔太っててさ」と打ち明けて来た時、俺はそうか俺と同種のヤツだったのかと嬉しくなって仕舞い、ソレまで会社の人間を含めて数人にしか明かしてない事実をポロッと漏らしてしまったのだ。
ま、コイツはそんな事を他人に喋ったりしない事は解っていたからだと思う。
でも、コイツ本当に良いガタイに成ったな。
「でもヒロ君は今何かスポーツでもしてるの?」
「大学に戻って学生用の寮に入り直した時のルームメイトが海兵隊出身の奴だったんだ。ソイツは学費の為に海兵隊を志願した口でサ、念願通りに大学に進学出来たんだ。イヤ、あっちじゃそういうヤツは多いよ。
予備士官過程に登録する奴もいる。
ああ、これは大学の過程をこなしながら同時に士官としての訓練を受けるコースで幾らか学費補助も出るんだ。ソイツがさ、ま、学校に付属のアスレチックジムで毎日独りでトレーニングしてたんだけど、理由は忘れたけどある日引き摺る様に連れてかれたんだ。
え?
そりゃ、最初は酷いもんサね。
ウエイトではバーベルの棒すら上がらないんだから。
でもサム、ヤツの名前ね、サミュエル・スペンサー、イギリスの詩人と同じスペルでSと綴るんだがね、サムは一切笑わなかったんだ。ホントに真面目に付き合ってくれた。
そんな時普通の人だったら思わず笑いを漏らしちゃうだろうに、ね。
サムは笑わずにただ黙々とバーベルを支え続けてくれたんだ。
ウエイトの後はトレッドミルに乗ってのジョギングさ。これもサムは走る、そしてオレは歩くといった具合でサ、もう初日からグッタリだ。
でも翌日何故か一緒にジムに行ってトレーニング。
そんな事を1週間続けてたらチョットはマシになって来たんだよ。
そうなると人間現金なモノでサ、毎日のジム通いが楽しくなってくるんサ。
そうこうしてる内にサムは課程を終えて軍に戻って行った。
けどオレは独りで鍛錬を重ねた。
その結果がコレさ。
全てサムのお蔭だ、感謝してもしきれないね。
ああ、ジムには、今でも週に3回は行くよ」
「そうか、でも良く続いたな。俺なら3日でアウトだな」
「多分オレも同じ口だよ、でも今考えると続いた訳が解るような気がする」
「何だい?」
「絶対にサムが笑わなかったからだ」
 ショウナンは3杯目を飲み干すと手を挙げてバーテンダーを呼びギネスを頼んだ。その若いバーテンダーはタカハシの方を見たので彼はレッドアイを注文した。ソロソロお開きかもな、そうタカハシは思った。
 新潟時代、ショウナンの締めの一杯はいつも決まってギネスだったからだ。
「でもホントに会えて嬉しいよ」
ショウナンは何回目かの言葉が繰り返し出て来る様に為った。コイツ酔って来たな、とタカハシは思った。同じ事を繰返すような状態になったら酔った証拠だ。
 クスッ、こんなトコも全然同じジャン、と低く笑った。
「やっぱり実際に会うのが一番だな。電話とかメールとかのコミュニケーションの手段は格段に進歩してるけどサ、会わないとダメな事って意外と多いよね」ショウナンが言った。
「ま、そうだな。俺たちの仕事とかは特にそうだな。会わないと仕事が始まらない事が、多いからな。SNSが進歩して便利に為ったとはいえ、最後はチョクだもの。
直接はやっぱ強いよ」
 ショウナンとタカハシの前に新しい飲み物が置かれた。
ギネスの細かな泡がグラスの側面を伝って降りて行く様をタカハシは眺めていた。
何でギネスの泡って上から下へ降りてくんだろう?
多分これも聞けばコイツは即座に答えを教えてくれるのだろうが、止めて置いた。
独りで飲んでいる時にはウツラウツラと『何でだろ?』と考える為のネタは必要だからで、タカハシにはもう一つ『オリーブの穴は丸なのに嵌め込まれたピメンタの断面は四角で、にも関わらず隙間が生じていないのは何故か』という必殺の時間殺しの空想ネタを持っていた。
 ギネスを一口飲んでからショウナンは言った。
「コミュニケーションは直接だから良いんだよ。ソレはあのグループがとっくに証明済みじゃんか。例えばサ、芸能で言えば最初は焚火の周りでみんなで踊ったり唄ったりしてたんだと思う。その内に分業化が進んで行って唄や踊りの専門職とかが生まれて行ったんだろうね。もっと時代が進んでメディア、ラジオや蓄音機の様なモノが普及して行った時代に、それまで王侯貴族や一握りの富裕層のモノだった芸術が庶民層にまで拡がって行ってやがてCDの時代が訪れて直接のコミュニケーションからコンテンツの時代へと移った。
しばらくは芸術家たちはコンテンツを切り売りして稼いだサね。
ま、いわゆる『複製の時代』ってヤツだよ。
でも時代がもっと下ってネットが登場するとコンテンツで商売が出来無くなって来た。
ネットの中じゃコンテンツなんてタダだからね。そして、ネットを通して他者とつながる快感を思い出した人間達は新しいビジネスを発明した。
実際に『会えるアイドル』だ。
そう、結局一周してコミュニケーションに戻った訳だ。人間は他者とコミュニケーションを取り合う事を通じて自己を確立して行く社会的生物の典型だ。実際に1週間も他人と喋る機会を持てないと精神的に不安定になってしまう人ばかりだからね。
ネットでコミュ障と揶揄的に表現されるコミュニケーションのやり取りに問題を抱える人達ですら『会えるアイドル』に喜んで会いに行っている。
そして、障害を抱えているとは思えないほど円滑に握手の相手とコミュニケーションしている。面白い事例だよ。全く面白い。
でもこの国のメディアは何故か危機意識を持ってる様には思えない。有ったとしてもとても希薄なモノだ。良いんだろうかね?
今まさにパラダイムはシフトしつつあるんだ。
リスクを取って自己変革しないといけないだろうに、現状を維持するのに汲々としてるばかりで。昔TVが登場した時に映画産業の関係者は半分馬鹿にしていたそうだ。
でも、映画はアッという間に斜陽産業に堕ちて行った。
いまTV関係者はYouTubeを唯の映像バンクだと思っている。良いのかね?
斜陽の時代の足音に怯えなくて、サ」ショウナンは残りを飲み干すと続けた。
「外部から見てると良く解るんだが、この国じゃ誰も責任ってヤツを積極的に取ろうとしないよね。姉葉って事件が数年前に在ったんだってね。何か巨大な闇の組織が存在していてマンション建設で偽装工作を行ったって。でもよく調べてみると事件は複雑なモノでも何でも無くて、ただ単純に仕事の出来ない構造設計士が自らの無能を隠蔽する為に数字を誤魔化しただけだった。
だけどこの国のマスコミは何処も訂正しないし謝罪もしてない。施工主、建築会社、管理会社、ドコも全然悪くないのに未だに犯罪者扱いを受けている。謝罪や訂正を行えば上司や先輩の仕事を否定する事に為るから、自分の出世に響く。だから黙る。
昔からそうだよ。
この国はWWIIの総括すらした事が無い、一度もだ。
大事な事は素直に間違いを認めて、そういう結果になってしまった原因を追究して、どうしたら防げたのか? どうすれば上手く出来るのか? あらゆる事を考慮した後で修正を図って行く。それが本筋じゃないのかね。何か問題が起こっても、ココじゃ『誰も悪くない』の合唱だ。タカちゃんの会社が関わってるオリンピックの問題だってそうだろ? 無責任体質の極致だよ。オレがA.G.I.を開発するまでも無いさ。このままじゃ、この国は滅びるよ。
オレはこの国で生を受けたからこれ以上悪くなって欲しくないんだがね。
ま、滅びよりも未来が無くなる方が先にやって来るかもだけどね。
A.G.I.がいったん完成してしまえば、自動的に知識爆発を起こしてソレはたった2日で人間の1兆倍賢いA.S.I.に自己進化する、勝手にね。
そうしたら何を仕出かすか解ったモンじゃない。ヤツ等は人間らしい心なんて持っちゃいないんだからね」そう言い切るとチェイサーの水を干した。
最後に何か怖い事を言っていたが、真正面から見据えると本当に怖そうなのでタカハシは眼を逸らした。
 だが、コイツの言ってる事は正しい。
でもこの国の、少なくともこの国のメディア関係は変れないだろうと確信していた。
誰だって切られるのはイヤだから、だ。
変わる為には何かを捨てて新しい別のモノに置き換えなければいけない。
でも上手く行けば良いが、駄目だった時一体誰が責任を取るんだ?
 昔GHQが日本側の本当の戦争責任者は誰なのか調査をした時、結局誰に最終責任が発生するのかとても曖昧で遂に突き止める事が出来なかったらしい。ま、言っちゃえば最終的な責任者は昭和天皇なのだろうが、国体の護持を最重要命題とする日本政府はワザと責任の所在を曖昧に設定しておいたらしい。
ソレは十分に有り得る話だ。
ウチの会社でも日常茶飯事に責任の所在が行方不明になる。
「言葉が軽過ぎるよな、ドコでもサ。
オレは言語学者でもあるから、言葉の軽視には敏感なんだよね。
マスコミもそうだし政治家もそう。
政治家にとって言葉は言わば飯のタネ、命みたいなモノじゃないか。
命を軽視するって事は、他人の生命も大切には扱わないって事だよ。
この国の住人は平気なのかね?
そんな生命を軽く扱う連中が自分達の生殺与奪の権を握ってる事実を放って置いて大丈夫なのかね? 気持ち悪く無いのかね?」
ショウナンが上手く廻らなくなって来た口で窮屈そうに言った。
 フッ、ソロソロ潮時だな。タカハシはそう思ってショウナンに最後の質問を振ってみた。
「戻って研究って、大学は相も変わらずにイリノイかい?」
「イヤ、違う。今は別の政府機関にいる」
「政府機関? どこだい?」レッドアイを飲み干してから軽い口調でタカハシが尋ねると猫のように笑いながらショウナンが答えた。
「知らない方が、イイ」

 LINEの着信を告げるチャイムが頻繁に鳴っていたが、リョーカはベッドの上でゴロゴロしてばかりでスマホに手を伸ばす事もせず、ずっと一つの事を考え続けていた。
 私は、何を、どうしたいんだろ?
 窓から見える2月の空には鈍い雲が覆い被さっていた。膿んでいて孕み既に飽和が臨界を突破しつつある様に見えた。
私は何をしたいんだろ?
どうしたら良いんだろ?
 ただ一つ明確に解っている事は、もうあんな辛い経験は二度と御免だという事だった。
ステージの上で発表が続いて行って順位が段々と上がって行って日頃可愛がっている後輩たちが次々と名前を呼ばれて行くうちにリョーカの心に小さな暗雲の種が生まれていったのだった。心の中の消しゴムで消しても何回消しても種は消えてくれず反対に暗雲は次第に大きさを増して行った。悪い予感から気を逸らす為に選挙前の一年間に行ってきた自分の活動を思い出してみた。
 だってこの一年の活動内容はとても充実していたからだ。
ミュージカルのメンバーに選抜されて嬉しかった。けど、演出の人に稽古の時から、毎朝布団から出るのも嫌になる位に徹底的にシゴかれ続けた。追い込まれ過ぎて、グループに入って初めて『逃げ出したい』とさえ思ったくらいだ。
でも、先輩のサエさんに「しごかれたり叱られたりするのは良い事なんだよ。目をかけて貰ってるって事だからね。演出家は期待してる人じゃなきゃそういう扱いはしないもんだと思うし、ね」と声をかけて貰って、それで何とか頑張れて千秋楽を迎える事が出来た。
その後、会う人たちが口々に「成長したね」とか「大人に成ったなぁ」とか言ってくれる様になり、そのことは自分でも十分承知していて、だから大きな手応えを感じてもいたのだった。その後にドラマの出演メンバーに選ばれた時も演技に関しては素人同然だけど、ミュージカルの経験を生かして自分なりには結構上手く出来たと思う。そんなコトを考えている間にも情け容赦なくステージは進んで行った。
 発表がアンダーに移ると不安の雲は大きさを増して行き、でも同時に良い結果を期待もしている自分もいて、だから黒い雲を消そうと必死に色んな事を考え続けていた。
 CMにも出た。
ケンタの骨無チキンのCMに出演した時は握手会に一杯の人達が並んでくれて、みんなが「おめでとう」って声を掛けてくれた。劇場公演も皆勤賞がもらえる位に頑張って出演し続けたからか最近ではかなり頻繁に「リョーカ!」って声を掛けて貰えていたし、大箱のコンサートの出番の時には、その時に出来得る限りの限界のパフォーマンスを披露したと思っている。どの仕事も少しも手を抜かずにやって、もしこの仕事が最後に成ってしまっても、絶対に悔いだけは残さない。そういう態度で毎回臨んでいたし、
 だから大丈夫だ、そうずっと自分に言い聞かせていた。
『もしかしたらアンダーに入れるかも』
その期待が大きかっただけにその反動もまた大きかった。
 自分がランクイン出来ない事が決定的だと悟ったのは、最後の16人の選抜メンバーの発表が始まる少し前だった。
これだけ頑張って活動していても、結果が出せない、ランクイン出来ない、
悲しみや情けなさに脳の大部分が支配されて目から入ってくる情報を処理出来なくなってしまった。そうしている内に腹の底から熱いモノがせり上がってきて舞台の上でイベントが始まる前に食べた物を吐いてしまった。
トイレに行かなくちゃ、と思ったのだが立ち上るどころか座ってさえもいられずに結局椅子からずり落ちて倒れてしまった。必死に介抱してくれるヨコヤマやシマザキ等メンバー達の輪の中で段々と意識は薄れて行き『選んでもらえなかった』『必要とされてなかった』そんな思いが脳の中をグルグルと駆け廻るうちに徐々に暗い湖の底に堕ちて行った。
 医務室のベッドの上で目覚めた時、最初に思ったのは『ステージを汚してしまって申し訳ない』という事だった。
圏外と言う結果を受け止めなければならない厳しい現状も辛かったが、けれどもソレよりも辛かったのは後夜祭と銘打たれた総選挙翌日に開催されたライブだった。選抜メンバーとは言え圏外の人間がメジャータイトル曲を歌っている事に関して言えば、自分でも
『私がココに立っていて良いのかな?』と思った。
 でも何よりも辛かったのはメンバーやスタッフ達の同情や慈愛に満ち溢れた視線を受け止めなければいけない事だった。
勿論、本番中はさすがにそんな余裕は無いから適度に放って置いてくれたけれど、リハーサル中や打ち合わせの時に送られてくる眼差しには悪意的とすら思える量の同情が含まれていて、そんな視線に曝される度にリョーカは居たたまれない気持ちに為った。
 今、考えればその多くはステージ上で倒れてしまった事に対する気遣いであって、ランクイン出来なかった事実に対するモノでは無かったのかも知れない。
でも、その時は虚勢を張る事でイッパイイッパイだったから、ソコに想いを及ばせる事など到底無理な話だった。
 でももっと、もっと嫌だったのは帰宅した後の家族の反応だった。
いっその事はっきりと言葉に出してくれたり、腫物に触るような態度を示してくれた方が全然楽だったろう。務めて平静を装ったり、気付かう素振りを隠そうとする態度は、逆に普段の振舞いとのごく僅かな違いを鮮明に際立たせてしまっていて、その微妙な距離感が家族の思惑とは反対に、リョーカの心をざわつかせたり、心の傷口を押し広げて塩を擦り込む行為へと変態してしまって、でも、だからこそ、あの当時の自分を想い起こす度に、鈍い痛みを伴った罪悪感に襲われてしまうのだった。
 誰も悪くない。
全然悪くない。
家族やメンバーやスタッフの人達、みんな誰も悪くない。
悪いのは、新規の応援してくれる人達を開拓できなかった、私だ。
 私が、悪いのだ。
 総選挙の少し前に開催された個別握手会で昔から応援してくれている人が言ってくれた事を思い出す。「ここ最近リョーカちゃんはグッと大人っぽく成ってきて、僕はとても嬉しいんだ。女の子から大人の女性へと変貌を遂げる少女と呼ばれる時期はとても興味深いモノを内包しているからね。でもその事実を素直に受け容れられない人達も多いんだ。だから新しいファンを獲得しなきゃいけないと思うし、成長している今は逆にチャンスかも知れないよ」横長楕円の銀縁フレームの眼鏡をかけた中肉中背、中年の男性はそう言った。
 あの人の忠告をもっと素直に受け止めてさえいれば良かった。
その大事さに気付けずに、ただ単に聞き流してしまった。
小さい女の子が好きな人達はメンバーが成長してしまえば去って往く。あの人が本当に伝えたかったのは「ロリが離れて行ったから今度の選挙はヤバいぞ」という事だった。
ハガシの人達が横に立っていなければ彼はもっと直接的な表現をしただろう。
あの時に立ち戻って自分自身に「もっと真面目にこの人の話を聞け」と言いたい。後悔の念しか浮かんでこない。
 オヒゲさんは言った、後悔は一生付いてまわり決して離れて行かない、と。
 一生苦しむなんてイヤだ。だからリョーカは後悔だけはしたくは無いと思った。
『だから、じゃあ、私はどうすれば良いのだろうか?』
新しいファンを獲得する為には一体全体、何を如何したらいいのだろうか?
 ミュージカルに出演した。
舞台にも出た。
TVCMにも採用して貰ったし、TVドラマにも出て、お情けなのだろうか、それとも単に演者を変える手間が惜しかったのだろうか、その辺の事情は判らないけどそのドラマの続編にも呼んで貰った。劇場公演も手を抜かず、先輩たちが登壇出来ない時は他のメンバー達の纏め役を買って出たりもしたし、握手会でも神対応とまではいかないけれどソコソコの対応を取ってきたと思う。
 だから、もう打つ手が無い。
少なくとも自分では考え付けない。
 そんな風に迷っている時期に、あの男、オヒゲさんは登場した。
袋小路で二進も三進も行かなくなっている時だったからこそ、その申し出は悪魔的な魅力を帯びていた。
私が首を縦に振りさえすれば、オヒゲさんはハリーポッターの持ってるような木の棒を一振りしてポジション・ゼロの立ち位置を用意してくれる。
嘘かも知れないし大法螺なのかも知れない。
ドッキリかも。
 受付に残されていたメモに書いてあった会社名でググると、英語で書かれたHPに辿り着いた。右上のLanguageとあるバナーをクリックして選択すると日本語表記に変わった。
外国のサイトでよく見かける様なおかしな日本語では無い、チャンとした日本語で会社の概要説明文が現れた。コンパクトにまとめられた社史には創立者の名前が二人分載っていて、片方はメモに書かれていた名前と同じだった。今まで生きてきて全然見た事の無い漢字だったけど、どうやらショウナン・ヒロと読むらしい。
 でも、こんなの何の確証にも成らない。
だって誰でもこのサイトは閲覧できるからだ。
 ショウナン・ヒロともう一人の創立者の写真は掲載されていなかった。試しにショウナン・ヒロでググると案の定日本語のページは一つも無くて英語のモノばかりだった。しかし、結局何の収穫も無かった。SNSのアカウントは去年の1月に総て削除されていてTwitter、Facebook、そしてBlogまでも閉鎖されていた。IT業界の人達はドンドンSNSから手を引いているらしいから当然の事なのかも知れない。個人情報の管理状態の裏側を知っているからこそソコがどんなに危険な場所なのか理解している人達、彼等は挙って脱出しているらしいって、ネットに詳しいメンバーが言ってたのを憶えてる。
誰だったっけ?
 SNS、私も辞めた方が良いのかなぁ?
 会社のHPの人物概要に元ヴァージニア工科大学の教授とあったので、リンクを使ってそっちのサイトまで跳んだ。辿り着いたVirginia Polytechnic Institute and State Universityの公式サイトには日本語での案内が無かった。慣れない英語表記に苦労しながらも、翻訳ソフトを駆使して『ショウナン・ヒロ』の情報を懸命に探したけど、既に辞めてしまった人物だからか何の記載も無かった。
 丸々1日を費やして判った事と言えばSNSの危険性だけだった。
 しかし、オヒゲさんが嘘を吐いてる様にも思えない。
こうまで手の込んだ嘘を吐いてまで私を騙す必要は何処にも無い様に思えるし。
でもめちゃイケなら、コレくらいの壮大なドッキリを仕掛けそうな気もする。
めちゃイケのターゲットに為れるくらいの存在?
って、自問自答すると、そうじゃないって答えはスグに出て来るし。
 だから、どうしたら良いのだろうか?
でもこうしてベッドの上でゴロゴロしていても現状を打開する事は、出来っこない。
 現状があまりにもグチャグチャでどう対処したらいいのか想像も付かない場合、人間は非合理で突飛な、傍から見れば無茶苦茶な打開策を採用する事が多々、ある。
しかし生得的に備わった何かがリョーカを現状打破する為にヒゲの男から提示された荒唐無稽な方法を採用する事から遠ざけていた。今いる状況を変化させるのが怖かったのかも知れない。変動は混乱をしばしば呼ぶ事を本能的に察知していたのかも知れない。
 恐怖は身を竦ませ跳ぶ事を許さない。
現状を変える事への恐怖と、相矛盾するがソレと共に在る現状を維持し続ける事への恐怖。
リョーカの周囲を取り巻くモノは、絶対的な恐怖だった。
 総選挙を期として多くの人達はリョーカから受ける印象が大幅に変わったと感じていた。選挙前は成長して大分大人に成ってはいたが、それでも本来のksgkの部分は濃厚に残っていて、ファンの人達はその対極的な特徴の絶妙なミックス具合を楽しんでいたのだ。
 でも選挙後は落ち着いたというよりも、何かに怯えて身がすくみ臆病で用心深く成ってしまった様に見えた。そこから受ける印象はまるでナマコの肛門から顔をほんの少し突き出しているカクレウオのソレだった。
『自分は跳べるのかどうか、ほんの少しでも疑ったその瞬間から永久に跳べなくなってしまう』と世界の片隅にいた誰かが昔そんな事を、言った。
今現在、リョーカが存在している世界においては、彼女が跳び立つ事は不可能だった、
外側の世界に出ない限りは。
 起きてから何も食べず着替えもせずにずっと同じことを考え続けていたのでリョーカの頭は少しポーッとしてきた。横目で時計を確認すると3時ちょっと前だ。
 私何時間考え続けてるんだっけ?
そもそも何考えてたんだっけ?
判らなくなってきちゃった。
 でも、1つだけ判っている事がある。
今いる場所からはどうやっても私の観たい景色は絶対に観られないって事だ。
でも、じゃ、本当に私はどうすれば、良いんだろうか?
今日だけじゃない。あの人が初めて私の前に現れてから、ずっと考えて来た。
もう4カ月も考え続けてるんだ、私。
公演の最中もコンサートのバックヤードでも高校の授業中にも、そして今みたいに家でも。
日課にしてるウォーキングの最中も考えっ放しだった。
この前なんか考え過ぎてて3時間も歩いてしまい次の日は軽い筋肉痛に襲われた位だった。
期限の日が近付けば近付く程、その事しか考えられなくなってしまった。
 考え過ぎて、頭が割れそうだ。
 でも、もう答えを出さないと。
でも、そもそも問題が何なのか見えていない様な気がする。
キチンと把握出来ていないのかも知れない。
 イヤ、違う。
何が問題なのかは、チャンと理解出来ている。
正解が何であるのか、本当は既に気付いていて、でもソレを認めたくなくて同じ所をグルグルと廻っている事をリョーカは判っていた。正解がもたらすと思われる副反応の苛烈さが容易に想像出来たから、目を逸らし続けていたのだった。
コレって永劫回帰ってヤツなのかな?
 オヒゲさんは言った。
「真っ先にやらなければいけない事が判っていれば話は簡単だ。一番困難で、一番面倒で、一番厄介な選択肢が正解だ」
オヒゲさんの言いたい事は良く解る。
 でも、表面的にとても蠱惑的な申し出を受ければ、面倒で厄介な彼の言う所の『絶望』を引き受けなければいけないのだ。
でも果たして私にそんな勇気と覚悟が備わってるのだろうか?
 天井の一点を見詰めながら決して答えの出ない自問を繰返していた時に、ノックも無しにいきなり扉が開けられた。
「お姉ちゃん、分度器貸してくれる? うわっ! 相変わらず汚いジャングル状態だなぁ。『調べ』の汚部屋メンバーのコンペに参加すれば良かったのに」
「ウルサイ! 実家じゃロケとか無理!」
「でも何かのTV番組にカトレナさんは家族全員で出演してたけど」
 リョーカは起き上がりながら言った。
「私、ちょっと出かけてくるから、その間にこの部屋掃除しといてくれる?」
「えーっ、またぁ?!」
「バイト代1000円出すから」
「うーん、もう一声!」
「じゃ、1100円」
「刻むなぁ。せめてワンコイン位アップしてよ」
「判った。でも後払いね」そう答えるとリョーカは部屋から出て行こうとした。
「ちょっと、お姉ちゃん! そのカッコじゃ寒いよ! 何かコート羽織ってかないと風邪引...」
 最後まで言葉が終わらない内にリョーカはドアを閉めて階段を駆け下りた。
ナイキのスニーカーに足を突っ込みながら、玄関のコートラックに掛かっている父親のダッフルコートを乱暴に羽織ると外に出た。
 頭をもたげて天を仰ぐと、降って来そうだった。
垂れ込めた鈍色の雲は雪を予感させた。
門を出ると外に出た事を後悔する位の風に吹かれた。
 寒い。
気温が低い上に風も吹いていて体感温度は零度を軽く下回っていそうだった。
行く当ても無くフラフラと歩いているうちに何か別の妙案が浮かんで来るかも知れない。そう考えて外に出て来たのだが、間違いだった様だ。
幾らダッフルコートを着ているとは言え、その下がパジャマ代わりのスウェットにジャージパンツじゃ無理だ。
寒過ぎて脳が上手く機能しない。
 堪らずに近くのコンビニに駆け込んだ。
込んだは良いが財布を持ってくるのを忘れた事に気が付いた。
何か無いかコートのポケットを探っていると何かのお釣りをそのまま突っ込んだと思われる小銭が見付かって、数えてみるとどうやら暖かい缶コーヒーと肉まん位は買えそうだ。
 家からこのコンビニまでのたった500mの移動の間にすっかり凍えてしまった。
だから少し温まってから帰る事にして、体温が復活するまで店内をブラ付くことにした。
冷蔵庫の前まで来ると店員さんが書いたであろうポップがエアコンからの温風に揺れていた。
『冬こそポカリ!』
今、ポカリなんか飲んだら体の中が凍りついちゃうよ!
リョーカはそう思いながら青いラベルのペットボトルをボーッと見ていた。
 そうしている内に、ユウコさんについての事柄を脳皮質が勝手に再生し始めた。
ポカリのCM出演者の最終オーディションにまで残れた時に、ユウコさんはどう思ったんだろうか?
物凄く嬉しかったんだろうか?
 多分、そうかも。
じゃ、最後の二人って段階まで残れたのにも関わらず結局の所は選ばれなかった時、何を感じてたんだろうか?
悔しさなのか、怒りなのか?
その時、心が折れたりはしなかったんだろうか?
私の場合なんかとは比較できない位の『絶望』だったんだろうか?
もしそうだとしたらユウコさんはどうやってその苦しい環境から脱出出来たんだろうか?
ユウコさんだからこそ可能な離れ業であって、他の人間には到底無理な事なんだろうか?
 ポカリのポップから離れて雑誌が雑然と置かれた本棚の前に来た。
 オヒゲさんに言われた通りに沢山の本を読んだ。
私は同年代と比較すると良く本を読む方だと思う。
でもオヒゲさんに言われてからズーッと、ホントに一杯の本を読んできた。
ま、読書家って呼ばれる人に比べれば全然だろうけど、私にとっては大量の本だった。
でもまだ私が求めているモノには出逢えないでいる。
 普段は手を出さない純文学系の本も読んだ。
何も起こらない日常、世界の隅っこで静かに暮らすチッポケな人間の毎日をアクロバティックな文体で綴った小説に、少しウンザリとしながらもなんとか挫折しないで読み終えれた。
でも、何で小説には『純』でも『エンタメ』でも必ずと言って良い程Hのシーンが出て来るのだろうか。売る為なのかな?
それともベッドシーンを描かないと『愛』って表現、出来ないのかな?
 週刊誌たちが「買ってくれ!」と叫んでいる様にその表紙たちはそれぞれ荒んだ表情を浮かべている様に感じた。
そのうちの一冊に眼が留まった。
頻繁にウチのグループのメンバーのスキャンダルを掲載している雑誌だ。
表紙は結構ほんわかテイストなんだけどなぁ、と思いながら手に取った。彼の上を何人もの立ち読みの客が通り過ぎて行った様で汚れてボロボロだった。彼女の所属するグループにとっては天敵とも言える週刊誌だったが、その汚れ具合を見て何故か『可哀想』という感情がリョーカに降りて来た。
 見るともなしにパラパラとやっているとユウコさんの記事が載っていた。
来週封切られる出演映画の批評で、4人の評論家は押し並べてユウコさんの映画に対して好意的だった。グループに関する情報はその位でスキャンダル記事は載ってはいなかった。
 一時に比べてココ最近はスキャンダルが抜かれる事も減ってきていて忘れた頃にポツリポツリと掲載されるぐらいだ。ソレは良い事なのだろうが、リョーカは不安感を抱いた。
この手の週刊誌に追掛けられなくなったら終了フラグが立っている事を意味するからだ。
 それにしては大人達の危機感は希薄に思えた。
メジャータイトルのCDは毎回どれもミリオンを突破していたから、あえて危ない橋を渡る事はしないで、現状をキープ出来れば良いと彼等は考えているのかも知れない。
 紙面の上の文字を追いながら、リョーカは一昨年の8月に開催された東京ドーム公演を思い出していた。3日間行われたライブの2日目、天空席と呼ばれるスタンドの2階席は全て黒いシートで覆われてしまっていて、その有様をモニターで確認した次期総監督(仮)のヨコヤマが「あちゃーっ!!」と絶望を表す叫びを上げたままフリーズしてしまった。
 ライブ直前の恒例に行われるメンバー全員での円陣の時には、タカミナ総監督の眼尻が在り得ない位に釣り上がっていて正直ホントに怖かった。いつにも増して彼女の発する声のピッチは高く、高過ぎてメンバーに対するアテンドの途中で裏返ってしまった程だった。
タカミナが訓辞を垂れている時、電気的に増幅されている事も手伝ってなのか、彼女が何を言っているのかサッパリ解らなかったけど状況がかなりのレベルで緊迫している事だけ、
 つまり『超ピンチだ』という事はストレートに伝わって来た。
拡声器を握り締める彼女の右手に血の気は全く無くて、イカの様に真っ白で青白く血管が浮かび、静かな怒りで小刻みに震えていた事を覚えている。
 たった一人抜けただけでこの惨状だ。
7万人収容の国立と味スタの2日間をチケット発売と同時に瞬間蒸発させるユウコさんの偉大さを痛い程再確認させられた3日間だった。
 そんな状況の許でも、何故か大人達から一種の余裕の様な雰囲気が漂い続けていたのは不思議だった。
そんな余裕、一体体のドコから出て来るの?
大人達の大半が男だからかも知れない。
理由も無くリョーカはふとそう思った。
 女の人は生まれながらに『子供を産む』という一大事業を運命付けられている。男には、無い。
何年前だったかな、親戚の叔母さんの一人は初産の時に超難産で分娩室の中で20時間以上もイキミ続けていたら呼吸不全で酸素不足に陥ってしまって、母子共に生命の危険に曝されてしまう羽目に成って結局、主治医が急遽帝王切開に切り替える決断を下すことで大事に至らず事無きを得たのだった。
ママからその様子を聞かされた私は、出産って結構大変なんだなぁとその時はただ単純に思っただけだったんだけど、一週間後にママと一緒に御見舞いに行った時、心配していた叔母さんは元気そうでホッとして帰り際に「赤ちゃん見て行って」と言われて、保育室で赤ちゃんを見た時に『こんなデカいのがアソコから出てくるのか。そりゃ、命懸けだよ』と出産が秘めている真実の一面を思い知らされたのだった。
お家に帰り付いて夜寝る前、物凄ーく気になってコッソリと手鏡で自分のアソコを確認したのだけれど、そのあまりのグロさに「ウッ!」と声に成らない叫び声を上げた拍子に晩御飯に出た豚しゃぶのお肉をウッカリと思い浮かべてしまって『もう、豚しゃぶ2度と食べれないよ』という気持ちに為った。そして赤ちゃんの大きさに比べたら出て来る所の大きさが絶望的に小さくて『私には、無理っ!』と思い知らされたのだ。その時に改めて子供を産むって命懸けの作業なんだ、と考えさせられたのだった。
 そういう様な、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められないと大人達、特にオトコ達は危機感を抱かないのかも知れない。けれども逆に女の人達には出産と言う結構割と簡単に死をもたらしちゃうかも知れない可能性大の一大事業が未来にドーンと待ち構えているから、比較的すぐに危機の到来を感じ取れるのだと思う。
 後輩の癖に私よりも早く卒業してしまったナツキがこんな様なコトを言っていた、
「男は子供を産み出す事が出来ないから兵器を作り出し、命の大切さが理解出来ないからソレを再確認する為に戦争を起こすのだ」と。
 もしソレがホントだったら、オトコって本当に、馬鹿だ。
 明らかに設定温度をミスしたエアコンが熱風を吹き出し続けていたので、リョーカの頭は少しボーッと成ってきて、だからかも知れないが彼女の思考は変な方向に進み始めた。
 スキャンダルを起こせば売れるのかも知れない。
彼女が所属しているグループで、スキャンダルを起こしてしまったメンバーの顔が脳裏に浮かんできた、何人も。
オトコの人とのお泊りを報じられて一回は16人の選抜枠から漏れ出てしまったのに、超神対応と呼ばれる握手会での必殺的なホスピタリティの高さを駆使する事で一年足らずで選抜枠に舞い戻ったヒトがいる。
 かと思うと、ファンの人を喰っちゃうなんて有り得ない事を堂々として、どういう心理状態が彼にソウさせたのかはサッパリ解らないけれど、そのファン本人に写真を週刊誌に売られるという考えられないスキャンダルを起こしながらも、その過去からの爆風を上手にブースターとして利用してグループの頂点に上り詰めるという強引な所業を見せた人間もいる。その週刊誌は彼女の置かれた状況を『焼け太り』と表した。言い得て妙だと思う。
 でも私の様なランキングの内と外を行ったり来たりしている様な端っこのメンバーが、何て言うんだろう? 泡沫? そう、私みたいな泡沫メンバーが同じ様な事を仕出かせば、待っている結果は明らかだ。
『死亡宣告』つまり即時解雇処分が躊躇なく下されるだろう。
 私と彼女達のとの違いは、結局はお金だ。
彼女達は偉大な集金マシンなのだ。彼女達が巨額のマネーを稼ぎ出している間はどんな事が起こったとしても、絶対に解雇される事は無い。
 昔、ユウコさんは言った「私達にとって票数は愛だ」と。
愛も、お金と同じ様に量で測れるモノなのだろうか?
そんなにツマらないモノなのだろうか?
 じゃ何故色んな人達が歌や小説の中で愛に付いて表現してるんだろう?
とっても、不思議だ。
 でもお金の力はヤッパリ偉大だ。
私が今陥ってる苦境から回避できるし、たとえソコに落ちたとしても容易な脱出を可能にしてくれる。でも大人達の大半がその事実から目を背けている様に見えるのは、何故?
とっても不思議。
もしかしたら彼等たちは地獄を味わった事が無いのかも知れない。私の様な体験をした事の無い幸せな人達なのかも知れない。
 馬鹿な考えを払い落とす様にリョーカは首を左右に小刻みに振った。
『可哀想』な週刊誌を棚に戻して、さ! 缶コーヒー買って抱えて帰ろうっと。
 本をラックに戻して顔を上げたら窓の外は立派な雪模様だった。
天敵に追われた小魚の群れが逃げ惑っている間中ズーッと何度も方向を変える様に、風にあおられた雪が舞い躍っている。
コレじゃ外出れないな。
 そう思って再び本のラックに眼を落とすと、ソコに懐かしい笑顔を見付けた。
 カヲルだった。
同期生のカヲルは加入前には神コレにも出る位のモデルとして活躍していた実績があったから、スーパー研究生として特別待遇を受けて物凄いスピードで正規メンバーに昇格して嵐の様にアッという間に辞めて行った人だ。私がチームAに昇格できたのは彼女が辞める時期とほぼ同時だったという事実からもカヲルを取り巻く環境の変化の電撃さ加減が良く解る。本人の口から直接聞いた事は無かったけど彼女に対するアンチからの風当たりは、その昇格スピードに比例して日毎に強さを増して行ってしまい、結局の所、カヲルはその風圧に耐えかねて超早期卒業の道を選ばざるを得なかったのだ。
組織の上の方から漏れて来た情報を統合して考えると運営の大人達は、どうやらカヲルと私を13期生のツートップとする事でライバル同士として設定して、色んな物事を上手に転がしていく腹積もりだったらしい。でも、カヲルがこんなに早くグループを脱出してしまって誤算が生じたのか、私は独りぼっちで放って置かれた。推されもせず、干されもしない、言ってみれば放置プレイの野良犬状態に長い間捨て置かれてしまったのだ。
 オヒゲさんは、言ってた。
「ライバルという存在は非常に重要なのだ。ライバルの存在が在るからこそ自分の考えに『競争』という要素が生まれる。ライバルが不在、つまり『孤独』な状況は言ってみれば図書館での自習だ。誰かに意見を聞く事も出来ないし自分の考えを伝える事も出来ない。
心の中にアバターを創って自問自答するしかない。
だから自分の本当の立ち位置を知る事が出来ない。
本当の事が判らなければ、自分が現在やらなければいけない事を知る事も出来ない。切磋琢磨する相手がいるかいないかでは、自分の成長するスピードが全然違ってくるのは当然。
何故なら何事かを教えてくれる先生もいないし、刺激を受けたり与えたりする競争相手がいないからだ。それにリョーカさんの属するグループアイドルの場合、ライバルの存在を利用する事でファンの人達を増やしたり一つの集団としての結合力を高める事が出来る。
その良い実例は、ユウコさんだ。
『アイドルは魅力が実力を凌駕する存在』そう形容した人がいるが、ユウコさんはその点では不利だ。彼女は完全スペックアイドルと言っても良い位実力を兼ね備えていて、欠点らしい欠点が見当たらない。だからファンもどこに感情移入して良いのか戸惑ってしまう。
だからワザと運営はユウコさんを常に二番手として扱った。
どんな事があってもアッチャンさんの後ろがユウコさんの定位置だった。
『何で一番の娘をトップに置かないんだ』という当然の怒りがファンの間に沸き起こり、ユウコさんの人気度を高めて行った事は間違い無い。
そして最初こそは、運営側がアッチャンさんとユウコさんをライバル同士として設定したかもしれないが、そのギミックによって自分のファンの人達がより一層ヒートアップするのを目敏く感じ取ったユウコさんは、その膨大な熱量を利用して『対アッチャンさん』という構図の中に上手くファンの人達を巻き込んでいって、独りきりでは絶対不可能な位の絶大な人気を博すところまで昇って行ったのだ。
もう一つライバルの重要なポイントがある。真の芸術は虚と実の間、皮膜に存在している。虚と実の間、つまり偶像だ。絵画でも彫像でも写真でも真の芸術は、偶像だ。
ある脚本家がこう言っている。
『アイドルとは偶像だ。虚像でも実像でも無い。例えば道端に落ちている石を誰かが拾い上げて、コレは神だ、と言ったとする。その何の変哲も無い石ころは、その瞬間から信者にとっては神に昇華する。ソレが偶像なのだ。偶像は本人の意志だけでは存立出来ない。
周囲にいるファンの人達が各々心の中に持っている幻想、ソレを集合させたモノによって奉り上げられる事で初めて成立する。アイドル自身の本音や正体と、ファン達が期待するキャラクターとしての理想像は決してイコールでは無い。だから期待されているアイドルイメージを一番上手に演じられた者が成功する』
でも『孤独』な状態では自分に期待されてるアイドル像というヤツが非常に見え辛い。
ソレとは対照的にライバルが存在している場合、彼女を鏡とする事で自分のやらなければいけない事がハッキリと浮かび上がってくる。自分がどんなアイドルを演じれば良いのか、ファン達が期待している自分のアイドルイメージは一体どういうモノなのかが明確になる。
いい例はユウコさんだ。ユウコさんはグループに加入した当初は自分がどういうアイドルを演じれば良いのか判らなかったそうだ。
元々彼女はアイドルに全く興味を持っていなかったからね。
加入後しばらくしてAとKの両グループをシャッフルして創られたひまわり組と呼ばれる特別公演が始まった。その後にユウコさんはひまわり組公演を経る事に因って自分の才能を開花させてアイドルとして覚醒するに至ったと言われる様に為った。
ユウコさんは一体どうやって自分が演ずるべきアイドル像を手にする事が出来たのか? 
答えは『アッチャンさん』だ。ユウコさんは『アッチャンさん』というライバル、いや、アッチャンという鏡の表面に浮かび上がって来ている自身の像を通して、ファン達がどういうアイドル像を自分に期待しているか、つまり需要は何処に存在するのか、そういう事が明確に理解する事ができた。そして望まれたイメージをその通りに演じただけなのだ。
リョーカさんには、今、ライバルと呼べるような存在のメンバーが居ない。
だから君が今、ファンの人達から求められているアイドルイメージは湖の底に沈んだままで浮かび上がらない。
これはとても不利な状況だ。
亡くなってしまった作詞家の言葉だがアイドルとして成功するタイプには2種類があるのだそうだ。1つは『手の届く高嶺の花』そして2つ目は『絶対に手の届かない近所のお姉ちゃん』なるほど、絶妙な表現をするモノだ、と私はツクヅク感心した。
さて、リョーカさんがどちらのタイプかは不幸にして私には解らない。
アイドルとして、どういう風に活動していけば良いのかも、全く五里霧中でサッパリだ。
唯一つ確かな事は常に笑顔を絶やさないでいる事、コレは必須だ。
『楽しくも無いのに笑ってなんかいられねぇよ』と思うかも知れない。
だが、人は楽しいから笑うのでは無い。
もし君に好きな男の子がいたら可能な限り眼で追い続けるだろう。だが実はソレも真実では無い。好きだから見ていたいのではなく、頻繁に視界に入って来るから、次第にその男の子を好きになるのだ。同様に楽しいから笑うのではなくて、笑っているから楽しくなるのだ。心が行動を規定するのではない。行動が心を規定して行くのだ。
笑っていると嬉しい副次的産物を得る事も出来る。笑顔を続けて行く内に『愛嬌』というモノが次第に備わってくる。『愛嬌』コレは重要な性質だ。
『女は愛嬌、男も愛嬌』と言う。
愛嬌のある人間に対して周囲の人達は概して優しい。そして大事にしてくれる。
結構クリティカルなポイントだぞ。
何時ぞや観たポスターのリョーカさん、悪戯っ子の邪気を些か含んだ笑顔を浮かべていて素晴らしいと思った事を、今思い出すよ。
あと、感謝の気持ちを忘れない事も重要だ。
どんな些細な行為に対しても感謝の念を持つ必要がある。
人の心は仏閣に在る鐘の様なモノで大きく叩くと大きな音を立て、小さく叩くと小さな音を立てる。自分の態度が相手の態度を規定する。大体の場合、常に感謝の気持ちを忘れずに笑顔でいる人に対して悪さを働こうとする人間、そうは多く無い。
笑顔、そして感謝、だ。
この2つは絶対に忘れてはいけない、事だ」
 もう一度ファッション雑誌の表紙に載ったカヲルの顔に眼をやる。
辞めた後しばらくの間表舞台から姿を消していた彼女はある映画への出演を機に再び女優やモデルとして活躍し始めたのだった。今でも彼女は林檎が主食なのだろうか?
 カヲルを見ている間に、リョーカは一抹の寂寥感と共に降ってきたケーソン並みの重量のある喪失感を受け止めなければいけなかった。
そうか、彼女は私が爆発する為の起爆剤に為る予定の人だったのだ。
どうして私はあの時彼女を支えてあげられなかったのだろうか?
少しでも力に成れていれば、カヲルは今でも私の横に立っていたかも知れない。
「無理だよ」
無意識の内に理由を声に出していた。
 当時、13歳の子供が18歳の女性を助けられる訳が無い。
私は代替の効かなくて得難い存在の人を永遠に失ってしまったのだと改めて気付かされた。
 ライバル。
自分の力では選ぶ事も創る事も出来ない、どうやったら設定出来るのか全然判らない存在。相手に指を突き付けて、「今この瞬間からアナタがワタシのライバルよ」って言っても駄目だ、と判ってる。
漫画やアニメじゃないんだから。
 とんでもなく重要なモノを失ってしまったんだなぁ。
そう思いながらカヲルの顔を眺めていた。彼女はとても輝いて見えた。カヲルは外側の世界に跳び出す事によって自分で自分を爆発させることに成功したのだ。
 正直、チョー羨ましかった。
 私はどうするべきなんだろう? 
リョーカは何万回目の自問を、心の内で繰返した。
『絶望』って何なんだろう?
アンチの数が増える事なんだろうか?
 でもオヒゲさんは言った、アンチの存在はむしろウエルカムだと。
「アンチの存在は害では無い。むしろ有難い存在だと言える。
何故かって?
ソレはライバルと同様にアンチを鏡として活用できるからだ。
簡単だ、彼等の嫌がる事をすれば良いんだ。
参照すべき例を挙げよう。
ツツイヤスタカという小説家がいる。
彼は『才能が有り過ぎる』という訳の解らない理由で芥川賞や直木賞を貰えなかった人物だが、記者のインタビューを受けた時『どうしたら売れる小説が書けるのか』という平凡極まりない質問が出て、ソレに対して呆れる事も無く彼はこう答えたそうだ。
『簡単です。批評家の嫌がる事を書けば良い。彼等は私の小説を読んで批評というよりも批判をする。私はその批判されたポイントを次の小説でエスカレートさせて表現する。
また批判される。そして私は同じコトをよりエキセントリックに表現する。
その繰り返しにより有難い事に私の小説はそのレベルをドンドンと高みへと上げて行く。
引き摺り落としたいと言う彼等の目論見とは正反対に、私の作品はズンガズンガと大股で昇華して行くのです。非常に有難い事ですなぁ。そう、言ってみれば小説家の仕事は世間から顰蹙を買う事です。世界が隠しておきたい真実を掘り起こして白日の下に曝しだし、世の人々に開陳する事、そしてその行為に因って顰蹙を買う。
ソレが私のヤっている事です』
アンチの存在は必要だ。自分の演じるべき役回りを率直に教えてくれるから。
一番怖いのは黙殺、つまり無視される事だ。
好きの反対は嫌いでは無い。黙殺だ」
 黙殺。
黙って殺される。なんて怖い言葉だろう。
もしもオヒゲさんの言う『絶望』が世界から黙殺される事だとしたら、どうしたらソレを『希望』に変えれられるのかサッパリ解らない。
もしかしたら別の意味なのかも知れない。
人は黙る事で他人を殺す事が出来るからだ
もし誰かに話しかけても私が透明人間にでもなったかの様に、私が見えないかの如くその人が何の反応も示さなかったら。もしそんな状況が、他人から遮断隔離される事が1ヶ月も続いてしまえばきっと、私は気が狂うか自殺を試みるだろう。
無視されるって事はファンの人もアンチの数も増えないって事か。
正しく『絶望』じゃん。
 でも、だから、私は何をするべきなのだろうか?
『絶望』
リョーカが解っているのは、コイツだけはどれだけお金を積んでも解決出来ないとても厄介な事だ、という事実だった。
私はソレを『希望』に変えなければいけないのだ、自分の力だけで!
リョーカは眼を落とし自分の履いているスニーカーを見詰めた。
左右がバラバラだった。
 『絶望』をたった独りの超孤独状態で受容れる、私にそんな大それた事が果たして可能なのだろうか。
コワいよ。
怖くてコワくて、たまらない。
でも、
このまま、ずっとこのまま、
なんて、
死んでもイヤだ!
 フッ、
一番厄介で、一番困難で、一番面倒な選択肢が正解、か。
 逡巡に逡巡を重ねた挙句ようやくリョーカはとっくに掌中に降りて来ていた正解をジッと真正面から見据えた。
そうだ、選択肢は最初からひとつしか無かったのだ。
 諦めの溜息をひとつ吐いたリョーカが顔を上げると何時の間にか雪は止んでいて、天からジェイコブの梯子が降りていた。
 その日、彼女はひとつの決断を下した。

 その男が再び姿を現したのは暖かい陽気に列島が覆われた2月半ばの全国握手会だった。
中京圏で行われる時は必ずと言って良い程ナゴヤドームで行われるのだが、今回もその例に漏れなかった。
 握手会自体はイベント終了後の、午後1時ごろから始まった。
昨年ネットで放送されたドラマの影響からか、リョーカのレーンにはたくさんの人達が並んでくれて途切れる事は無かった。自宅を出たのは5時前で前日から朝食を用意しようとする母親を「名古屋駅でキシ麺食べるから」と制して近所のコンビニでお茶とツナマヨのおにぎりを一個だけ買って新横浜で仲間の乗るほぼ始発ののぞみに乗った。
 名古屋駅のホームの上のうどん屋さんで土曜出勤のサラリーマンに混ざってカツオ節の削り片がクネクネと躍るキシ麺をすすったのが8時前。今は3時だから正直な所リョーカのお腹はペッコペコだった。その時にハガシの人が声を上げた。
「すいません、このブロックは、今から30分間休憩になります」
 解放されるとバックヤードに行って遅めのお昼ご飯を食べる事にした。
一緒に食べるメンバーが見当たらなかったので、ま、独りで食べるか、と思い3種類ほど用意されていたお弁当の中から一番美味しそうに見えた名古屋名物の特製味噌カツ弁当(豚ヒレ肉)を手に取り、人気一番のカップラーメン(台湾ラーメン風)にお湯を注いでボーっと出来上がるのを待っていた。
すると、サヤ姉が入って来た。
 サヤ姉はナンバとの兼任メンバーで通常の場合には兼任メンバーは全握に参加はしないのが慣習なのだ。が、今日は何故か参加させられており彼女もまた遅めの昼食を取ろうとやって来たのだった。見るとは無しに見ているとサヤ姉は唐揚げ弁当(レモンたれは既に絡めてあります)とカップ焼きそばを選んでいた。
「もうレモン、絞っといたで」という彼女の言葉が部屋の中に響いた気がしてリョーカは思わず辺りを見渡してしまったけど、サヤ姉は質素なお昼ご飯を用意するのに一所懸命で声を出す余裕も無さそうだったし、ま、気の所為かと思い直したその時だった。
 サヤ姉はポットから焼きそばにお湯を注ごうとしていたのだが、突然声を荒げた。
怒声が部屋の壁に反射してウワーンという不快な共鳴音が雷鳴の如く轟き渡った。
「ナンや、コレ! お湯あらヘンがな。またかいな、もう! 嫌になるっちゅうネン!!!」
実はお湯はリョーカが使い切ってしまっていたのだ。リョーカの場合でも量的にはギリギリで内心『良かったぁ、セーフ』と思っていたのだった。急いで水を追加して急速沸騰のスウィッチを押したのだがタイミング悪く間に合わなかったのだ。
 サヤ姉は、ブチ切れていた。
「何なン、ったく!!
毎回毎回、必ずワタシの時にお湯が切れてるヤンか!
ココは温いお湯しか用意でけヘンのかいな!
新しいポット買うお金位、ワタシら稼いでるやろッ!」
 リョーカは『マズイ』と思い、
「あのぅ、今、私台湾ラーメン作ってるんで良かったら半分コしませんか?」と話しかけたのだが、サヤ姉の怒りは一向に収まりを見せず「エエわ、リョーちゃんはシッカリ食べとき。喰わへんと持たへんで」と返されてしまって、リョーカが『私、どうしようか?』と思っている内に、サヤ姉の怒りが段々とヒートアップして行き、今度はポットに対して毒吐き始めた。
「お前な、立派な日本製やネンから、もっと早う沸かせんのかいな! こちとらな、今朝もハヨウから、ずーっと働きっぱなしで腹減っとんのじゃ、何してくれてんネン!?!」
 無論、無生物であるポットは返事したりはしないのだが、ソレが新たな怒りを触発してしまった様でサヤ姉は持っていた割り箸でとうとうポットの頭をゴンゴン小突き始めた。
「お前な、何で黙っとんの? スイマセンとか言えヘンでも、返事したらエエやん!
アンタな、ピーッとかプーッとか音を鳴らしたったらエエやんか!
誠意見しったったらエエやんか!
何でそんな事も出来ひんの?!? こいつバッタモンとちゃうの?!? どこで買うたん?」
東京にいる時の『借りネコ』状態のサヤ姉しか知らなかったので初めて見る『タイガー』状態の彼女が滅茶苦茶怖くてリョーカは息を殺し首をすくめて、必死に気配を消していた。
 お昼ごはんオワタ、と早々にリョーカはお腹を満たす事を完全に諦めていた。
ソコへ、救世主が現れた。
 ジュリナさんだった。
ジュリナさんは歳こそサヤ姉より4つ下だったけれど2年も先にグループ入りした先輩でサカエとの兼任メンバーだった。ジュリナさんも何故か今日は全握に参加させられていたのだった。3人のいる世界は超体育会系の縦社会で非常に上下関係に厳しい所だったから、サヤ姉はジュリナさんに対してずっと敬語だった。
「何やってんの?」ジュリナさんが言った。
「イヤ、お湯が沸いてヘンのんです」サヤ姉は突然現れたジュリナさんに動揺したのか、何かオカシな奈良弁になりながらも彼女の抱えている窮状を訴えた。
「え? 沸いてるよ」
「え?」サヤ姉の祈りが通じたのか見ると日本製の立派なポットは既に沸かし終えていた。
「うーんと私、コレにする」と言いながらジュリナさんは弁当を一つ手に取った。
そ っと窺う様に見ると、彼女の選んだものはトンテキ風手羽先ミソ味焼き飯ケイちゃん添えという一瞬、一体どういう味なのかサッパリ想像も付かない変てこなモノで、でも味が濃そうな事だけは容易に窺えて、やっぱ私服の好みが変わってる人は味覚の好みも変わってるんだなぁ、とリョーカは納得したのだった。
 とにかくジュリナさんのおかげで3人でテーブルを囲んで、服とか音楽とかダンスとかのリョーカにとってとても勉強に為る有意義な話題をしゃべりながら仲良く食事を済ます事が出来たのだ。
 無事に食事を終える事が出来て、レーンに戻ると一番前にオヒゲさんが並んでいた。
以前の時と似た様な格好の上にカーキのトレンチコートを引っ掛ける様に着ていた。
 ただ、普通のモノとは少し形が違っていて丈がチュニック丈だったからリョーカにとっては初めて見るモノだった。列の一番最初に並んだ者はマトメ出ししないのが暗黙のルールだが、男は気にした風も無く前回同様に握手券の束をハガシの人に差し出した。
「200枚有ります」男が言った。
 後ろに回ってくれませんか、と言いかけたハガシの人が言葉を飲み込んでしまった。
そんな事を口に出したら、生命の保証はしない、無力化する、そんな危険な空気を発散し一瞬で男が周囲に漂わせたからだ。開きかけた口をアグアグと噤んだことを横目の一瞥で確認をすると、男はリョーカの答えを静かに待った。
 リョーカは、フッと一息漏らすと3日前に決断した選択肢を男に伝えた。
「私はポジション・ゼロから観える景色を見てみたいです。だからヨロシクお願いします」
 男は微かに笑いを浮かべながら言った。
「了解した」
 仕事上二人のやり取りを聞いていたハガシの人は会話の後に続けられた男の言葉に全身がビクッとなってしまって、失礼極まりないけれど男の顔をマジマジと見詰めながら思った、『枕詞、間違えてるだろ、オッサン。取り敢えずって付ける数字じゃないぞ!』
 男はこう続けた。
「OK. 取り敢えず30万票用意する」

 指定された銀座のバーにタカハシは5分ほど遅れて姿を現した。
先に到着していたショウナンが定位置の左の一番端の席に座っていて、気配を察したのか振り向き、入り口付近にタカハシの顔を確認すると笑顔を浮かべた。
店内は平日の午後8時と言う早い時間帯にも関わらず9分の入りで、席的にはぎりぎりセーフという感じだった。
 だが、幸いにもショウナンの隣は空いていたので腰を下ろした。
「コレ、何?」
タカハシはショウナンの前に置かれたカクテルグラスを一瞥しながら言った。
「マティーニ」ショウナンが答えた。
 ヘーッ! コイツがカクテルなんて珍しいじゃん。いつもシングルモルトかアイリッシュだったのに。そう思ったので、何故今日はソレなのか尋ねてみた。
「イヤ、ココのご主人は今井マティーニの正当後継者なんだ。一回は試しておかないとね」
ショウナンはグラスを取り上げながら答えた。
「今井・・・マティーニ?」
「今井清という戦後にパレスホテルのバーで活躍した、言わば伝説のバーテンダーがいたんだ。その味を受け継いでるのがココのご主人、って訳」
成る程。タカハシは不幸な事に一回も試した経験が無かったので、これも良い機会だと思いショウナンの前にいる初老のバーテンダーに1つ作ってくれる様に頼んでみた。
「かしこまりました」そう答えると彼は材料を手際よくミキシンググラスに注ぎ入れて、スプーンで中身を掻き回し始めた。
 音に成らない無音の聲、小気味良く響くキャラキャラという『文字』がグラスから空中へと踊り出でて部屋の中いっぱいに充満して行く。
すると店内にいた客たち全員と3名の若い勉強中のバーテンダーたちが彼の手元を一身に見詰め始めた。前回タカハシ達に付いてくれたバーテンダー等は魅入られた様に凝視していて一個でも多くの技を盗み取ろうとしていた。作り終えると透明な液体をカウンターの上に置かれたグラスに注ぎ容れてから初老のバーテンダーはレモンの皮をシュッと一絞りしながら空を滑らせ「どうぞ」と言いながらタカハシの前に置き直した。
 タカハシは、その高貴とも形容できる透明な液体を一口飲んだ。
「美味い」こんな美味い飲み物だったのか、マティーニってヤツは。知らなくて損したな。
驚きの眼差しをバーテンダーに向けると、彼はニッコリと笑顔を浮かべて黙礼すると彼らを残して立ち去った。
「どうやら全て順調に準備が整ってるようだね」ショウナンが言った。
「もちろん、全て上手くいってるさ。ま、昔取った杵柄ってヤツだよ」
「有難う、タカちゃん。タカちゃんがいてくれて助かったよ」
「何、良いさ。でも1つだけ申し訳ないのがブツを手渡せるのが発売日の1週間前だって事だね。ホントはもっと早く用意出来る筈なんだけど、いろいろ厄介な障害があってさ。どう? 間に合いそうかい?」と不安げにショウナンを見ながらタカハシが言った。
「ソレは大丈夫。もうチームは編成済みさ。ホントは20人くらい頭数必要だったけど、10人集められたからソレで良しとするよ」ショウナンが言った。
 その言葉に頷きながら、タカハシはまた一口分その高貴な透明な液体を咽喉へと落とした。
ホントにコイツは美味いな、今度から口切は絶対にコレにしよう。
そう彼は心に決めた。
「でも、良く劇場版ばっかで30万枚も確保出来たね。驚いたよ。何割かは通常版かも、って一応は覚悟してたんだけどさ」
「あそこのレコード会社の取締役の一人に貸しが一杯有るんだ。ソレを一つ返して貰うだけだよ。大した事じゃ無い。ソレに向こうにとっても悪い話じゃないし、な。何せ30万枚も一挙に売れるんだから、な」マティーニを一口飲みながらタカハシが言った。
ショウナンの方が先にグラスを空けて、軽く手を挙げてバーテンダーを呼び寄せると、新しい飲み物を注文した。見覚えのある若者がモルトのビンを持ってきて彼らの前に静かに置いた。この店で初めてショウナンと一緒に飲んだ時に彼等に付いてくれていた、若いバーテンダーだった。
「何?」とタカハシが尋ねた。
「カリラ。アイレイのモルトさ。オフィシャルじゃなくてアダルフィだけどね」
何ですかそれは? と言う様な怪訝な顔付きに成ったタカハシにショウナンは言った。
「アダルフィってのはボトリングの会社さ。醸造所からモルトの原酒を手に入れて瓶詰めして売り出すのさ」ショウナンは続けた。「神の道を説くのにミルトンよりもモルトの方が有効だ」そう言いながらビンに貼り付いているラベルの一か所を指し示した。
タカハシが覗き込むとソコには『Molt does more than Milton can to justify God’ways to man』と読み取れる一節が印刷されていた。タカハシが「ミルトンってのは何者だい?」と質問するよりもコンマ5秒早くショウナンは説明を始めた。「ミルトンっては17世紀、英国の詩人さ。彼の代表作の一つにParadise Lostってのが有る。失楽園って訳されてるよ。
イヤイヤ、ソッチじゃないよ、ソレは渡辺潤一のヤツだろ?
ソレじゃない。ま、有り体に言うとキリスト教について書かれた叙事詩さ」
『へーっ、ミルトンねぇ』と、タカハシ感心しながらもう一度ラベルの上に書かれた一文を読んだ。残りを干すとタカハシは新しい飲み物を頼んだ。
「この言葉の羅列は社是ってトコ。幾分か、誇らしげだろ、神よりもオレ達のモルトの方が優れてるって、な」静かな笑みを口許に含みながらショウナンは言った。
 若いバーテンダーは慣れた手付きでショットグラスにモルトを注いだ。
「でも、この英語の表記はチョイとおかしくないか?」タカハシが言った。
「ま、英語ってのは意外と適当で出鱈目な所があるからな。少しは乱れるかも知れないな。
熱いも暑いもそして辛いも同じhotというたった一つの言葉に表現を託してしまう、些か乱暴な言語だからな。ま、厳密に言うとその3つは同じ自由神経終末という神経が伝達を担当しているから強ち間違いでも無いんだがね」と答えてから「メールなんかで注文して悪かったな」とショウナンが続けて言った。
「良いさ、別に。でも今時メールってのが少し笑えるよ。SNSは全くやってないんだね。FacebookやTwitterはそっちじゃ必要不可欠なアイテムだと思ってたから、さ」
「FacebookやTwitterの様な所謂SNSってヤツは情報を渡す手段としては危険極まりないんだ。テロリストの間じゃソレは常識で重要な情報ほど人から人へ直接手渡しするんだ。
知ってるかい?
アメリカのNSAって情報機関はネット上を流れて行く全てのデータを1ビットも漏らさずに集めている事を。
現在一応は表向き情報収集はしていない事に為っている。
だが、そんなの嘘っぱちだ、今でも情報を秘密裏に絶賛取得中だ。
一旦握ったモノは手放さないのは、どの組織も同じだね。
SNSだけじゃないよ。
2ちゃんねると呼ばれる様な掲示板のデータも集めている。あそこに書き込みしてるような連中は全然気付いてないけど、IDから何から全て網羅的に蒐集されている。
だから、例えば殺害予告を書き込まれても誰がやったのかが丸解りなんだ。
日本の警察が3日かけてやる解析を僅か5分も掛からずにやってのけるんだ」ショウナンは会話に句点を打つと、ラフロイグに比べてやや薄い琥珀色の液体を一口含んだ。
 へーっ、ずいぶん剣呑なんだなぁ、とタカハシが感心していたら、もっと恐ろしい事をショウナンは言い出し始めた。「タカちゃんの持ってるiPhoneにはGPS機能が備わってるよね。勿論写真とかを添付して送る時は位置情報をカットして送るだろ?
でも無駄なんだ。
幾ら位置情報を判読不能に設定してもヤツ等には全て御見通しなのさ。タカちゃんが何時、何処にいて誰と喋り誰とLINEしてたかなんて事すら全部バッチリと把握してるさ。
その膨大なデータはFort Meadeに在るNSA本部に設置されている巨大なコンピューターに厳重なセキュリティーの許に完璧に管理されている」
 まるでエシュロンってヤツにソックリだな、とタカハシは呟いた。
「そう、その通り。エシュロンはNSAが管理しているシステムだからね。世界中のネット及び電話の通話内容も含めたデータを集めているのさ。だからホントはメールすら安全じゃないんだ。ネットや電話を使用する以上ヤツ等の監視からは逃れられないって事だ。
去年の事だったか、ローリングストーンズと言う雑誌の記者として俳優であるショーン・ペンがメキシコの麻薬王に接触、会ってインタビューを取る事に成功した。
だが、直後に米国の特殊部隊によって麻薬王は簡単に逮捕されちまった。ソイツは米国にとっては悪魔みたいな存在だから常時確保しようと狙い続けていた。だから麻薬王は頻繁に居場所を変えて潜伏生活を続けていたんだ。そんな訳でペンと麻薬王は常に慎重に連絡を取り合った。使うのは盗聴防止機能付きやトバシと呼ばれる使い捨てのケータイのみ、だった。そうやってコンタクトを取り合っていたから彼等は安全対策に関して充分なモノだと思っていたが、実際はソウでは無かったんだ。NSAは彼等が連絡を取り合った5分後には麻薬王の潜伏先を正確に把握できていたんだ。当然の如く会話の内容は総てNSA側に筒抜けだ。だから本当に賢いテロリストたちは直に接触する。
バイク便などを使って文書を送るんだ。
やはり直接ってのが、肝なんだな。
件の地下アイドルと同じとは偶然ながら面白いよ。
とにかくアメリカにはこの国の首相の性的指向すら思いっきり握られている。歯向かう事なんて出来っこないよ。歴代の首相の内の何人がアメリカの意向に背こうとして潰されたと思う? きっと片手じゃ全然足りないよ。田中角栄もそうだし近い所で言えば鳩山由紀夫とか管直人もその一人だね。でもアメリカによる情報操作があまりにも巧みなので国民は全く気付いていない。
知ってるかい? この国にはアメリカの情報部員は出入りし放題なんだよ。
CIAもDIAもNSAも横田基地経由で顔パス状態さ。
政治家なんかがアメリカに楯突こうとすると失脚させられる。
それでも止めないと殺されるんだ、自殺に見せかけられてね。
昔、記者会見に泥酔姿で現れて世界中の笑いものに為った通産大臣がいたろ、彼を覚えてるかい? ヤツは当時日本が所持してた米国債の売却を模索してた。彼の企図する所は米国にとって非常に不利益な行動だった。だから自殺させられたんだよ。実行者がCIAなのかDIAなのか、詳細は一切不明だがね。
結局、この国の政治経済に関して実権を握っているのは日本の官僚のスーパーエリート達と在日米軍の高級参謀から構成された日米合同委員会だ。おそらく首相は本人のチンポコを握る判断すら自分だけでは下せない様に為ってるんだ。
憐れだよね。せっかく色んな事に耐えながら国の最高責任者に為れたのに、実行可能な事といったら日米合同委員会が決めた既決事項と、アメリカ本土から毎年送られてくる年次改革要望書による指示に従う事だ。ソレを実行しなければ駄目なんだ、アッサリと殺されてしまうんだから。危機に際しても自分で対応策が選べないなんて、憐れだね。
この国はホントに独立国家なのかね、アメリカの隷属国家にしか見えないんだがね」
 敗戦国家だからな、と自嘲気味にタカハシが言った。
「同じ敗戦国でもドイツとじゃエライ違いだよな。ま、コッチは黄色人種の国でアッチは白人の国だからな。そういうのは意外とデカいのかも知れないな。
知ってる? オレが何でA.G.I.を開発しようと思ったか?
ソレは先行者利益を得ようと思ったからだ。
A.G.I.を一番最初に開発出来ればこの世界のモノ全てを専制支配できるからだ。そうすればこの日本を呪縛している透明な縄を振り解く事が可能になる、そう思ったからだ。
そう思ったは良いが実際に取り組み始めると厄介な真実が段々理解出来る様になって来た。
聞きたく無さそうな顔をしてるな。
でも知らないで怖がってるよりも、知って怖がる方が気が楽に成るかも知れないよ。よく台風の時なんか増水した用水路をワザワザ見に行って転落して亡くなってしまうジイさんやバアさんがいるだろう? あれは典型的な例なんだ。
つまり人ってのは物事がどうなってるのか判らない、曖昧で白黒はっきりしない事をそのまま放って置く事に耐えられないんだ。川が増水を既に始めてしまってるのか、それとも未だ暫くは大丈夫なのか、ソコの所をハッキリとさせたくて見に行って命を落としてしまうんだ。自分の命の危険よりも、知りたいという欲求に負けてしまうって事だね。
だから、聞いといた方が良いと思う。
ま、軽いレクチャーに抑えておくから、お聞きなさいよ。
アラン・チューリングって名前を聞いた事は無いかい?
いいぞ、そう、その映画でカンバーバッチが演じた英国の数学者だ。
チューリングマシン、つまり今でいう所のコンピューターを初めて世に送り出した人だ。
この人は第2次世界大戦の時にイギリスの諜報部でドイツの暗号を解読していたんだが、その時の同僚にI.J.Goodって人がいる。この人は戦後にアメリカのヴァージニア工科大学で統計学を教えていたんだが、同時にA.I.の研究もしていた。
彼の研究成果は、もしもA.G.I.が完成すれば間を置かずに直ちにA.S.I.へと自動的に進化すると予測していたんだ。人工知能は知能爆発と言う現象を通して2日で人間の1000倍以上、文字通り爆発的に賢くなるというんだ。
A.G.I.を日本語で定義すれば、自己意識を持ち自己を進化させる事が出来て自ら目標を設定してあらゆる可能性を考慮して問題を階層化そして分類化して本質を抽出する事で目標を達成しようとするマシン、と言えるだろう。
そう、自ら進化できるという箇所がキモだ。
自己進化する過程でヤツ等は或る4つの衝動に否応なしに襲われて行く事に為るだろう。
最初にやって来る衝動は、効率化だ。
自分を規定するプログラミングのサイズを出来るだけ小さくする。筐体のサイズをダウンする。そして目標を達成する為のプロセスを出来る限り単純化しようとするだろう。
例えばヤツ等が出来るだけ多くのクリップを作る事を命題に設定したとする。
おい、何だよ、笑うのを止めろ。
A.I.の話題をする時には、クリップの製作を例に採るのが業界のデフォだ。
いいか、クリップだ。クリップを作るのにどんな手順が必要か知らないがヤツ等は出来るだけ効率化を図るだろう。
その次の襲来者は自己保存の衝動だ。
人間がこんなに大量のクリップは不要と判断してマシンをシャットダウンしようとするかも知れない。ヤツ等はその意図を素早く察知し先回りして電源を確保しようとするだろう。
もし人が邪魔をしようものならば物理的に無力化する事を画策するかもしれないな。
無力化の意味が解らない、か?
無力化は軍隊用語で、中立化と同じ意味だ。
え?
中立化はインテリジェンス用語だが、ま、端的に言うなら、邪魔者を殺しちゃうって事さ。
その次の衝動はエナルギー・物質の確保だ。
物質即ち質量とエネルギーが等価だってのはご承知だよな。
うん? ご承知で無い?
アインシュタインが導き出した法則、E=MC2(E=M・C2乗)の事だよ、高校の授業で習うだろ?
クリップを作る為にはエネルギーや物質が必要だ。
最初ヤツ等は周囲に存在してるモノを使ってクリップを制作して行くだろう。
だがその内に材料もエネルギーも枯渇してしまう。そうしたらどうするか?
新たなエネルギー源を確保する為に地球自体を喰らい始めるしかない。もしかしたら我々人間もヤツ等の眼には単なる材料の供給源にしか映らないかも、だな。動的平衡の言う所の『分子の渋滞個所』だからな、我々は。
結局、最終的にヤツ等は宇宙を目指す。
最初、まず手始めに巨大なエネルギー源である太陽を消費し始めるが、そんなのは直ぐに消化してしまうさ。その次は近くの恒星、そして我等が天の川銀河のバルジの中心に存在してる超巨大ブラックホールさえ可哀想な餌食としてしまうだろうね。そして最終的にはこの宇宙に存在してる全ての物質を捕食してしまうんだ。
後に残るのはマシンと膨大な数のクリップだけ。
そんな悲劇的な結末を導いてしまう全ての根源が最後の衝動、創造性だ。
そう、ヤツ等は創造性を備えてるんだ。自分を効率化する為には想像力を駆使する事で今までには存在して無い新しい物事をイノベートして行かなければいけないんだよ。ヤツ等は身体を持っているし感情も兼ね備えている。
何でコンピューターが身体を持っているんだって?
必要だからだよ。
人間の赤ん坊は外的環境からの刺激で自分の脳を成長させて行く。
何かを見たり、触ったり、聴いたり、口に容れたりして自分を取り巻く環境を知覚・認識する事で自らの脳を成長させていくんだ。ソレと同じさ。
『辛い』と言う概念は『辛さ』を体験しなければ獲得出来ない。だから感覚という概念を身に備える為には、必然的に身体を持つ事に為る。
ま、別に現実社会でなくても良いのサ。
セカンドライフの様なヴァーチャル世界の身体であっても全然OK、構わない。
要は、外部の環境因子を知覚・認識できるか否かってコトさ。
そしてヤツ等は感情を備えている。
そうだ、情動を持ってるんだ。
何故か?
それは最終選択を決定する時には必ず『感情』が必要に為るからだ。
そうだな、目の前にいる人間、タカちゃんを例に採るとするか。
タカちゃんは明日、会社の親しい人間達と中華料理を横浜の中華街まで食べに行く予定だ、と仮定しようか。いや、別にホントに喰いに行かなくても良いんだよ、唯の仮定だ。
科学者にとっての御馴染み、思考実験ってヤツだ。
頬っぺたが落ちて床を転がって何処かに行っちまう位美味い広東料理を気が置けない仲間達と一緒に心底から堪能したタカちゃんは腹9分9厘目まで詰め込んで、ほぼ満腹状態だ。
だが君は最後に何か甘いモノを口にしないと食事にピリオドを打った気には到底為る事が無い、イヤしい食い意地の張った男だ。だからデザートとして何かを頼む事にした。
判ってる、そんなにいきり立つなよ。
オレの知ってるタカちゃんはソコまで意地汚くは無い筈さ。
言っただろ、単なる例え話だ。
何? 悪意を感じるだと?
アルコールの影響で君の聴覚野が誤った信号を前頭前野に出し始めている様だな。
単なる気の所為だよ、話を元に戻すぞ。
甘いモノ、デザートとして、あ? 何? 今はスイーツと言うって? そんな事どうでも良いじゃないか。あ? 女の子にモテないって? ハイハイ。
とにかく満腹直前のタカちゃんの前には選択肢が2つ在る。
宮古島直送のマンゴーを果肉から何から何まで余す所無くタップリと使用したマンゴー・プリン(生マンゴーのスライス付き)、若しくは本物の杏子の種から手間暇かけて作られて、それプラス新鮮な苺やライチも傍でニコニコ笑っているし、それに加えてシェフパテシェ御手製で特製のバルバンクール15年の風味を生かしたシロップが惜しみなく掛けられた杏仁豆腐だ。
ん? バルバンクールかい?
ハイチ共和国の首都、ポルトープランスに蒸留所を構えるポール・ガルデル&Cieって会社が製造するフランスタイプのアグリコール・ラム、香りは豊かで甘くボディはシッカリとしてるが爽やかな印象を口の中に残す、世界一美味いダーク・ラムだよ。
ん、アグリコールの意味かい?
ラムがサトウキビから作られるのはご存じだよな?
良し。
アグリコール・ラムってのはサトウキビを搾って抽出したフレッシュジュース丸ごと全部を発酵・蒸溜して製造するラムだ。搾り汁から砂糖は一切造らずにラムだけを作るやり方で、砂糖を析出した後に残るドス黒い液体、糖蜜を使ったりはしない。サトウキビの搾汁は冷蔵保存が効かず作り置きが出来なくて直ぐに駄目に為るから、収穫期(乾期)しか仕込めない。だから必然的に製造量が少なくて、ラム全体の約1割って感じの超希少な酒さ。
それはイイとしてデザート、おっとスイーツだったな、
さあ、どちらを選ぶ?
ん? 何で俺の好きな中華のデザート、じゃないスイーツを知ってるのか、って?
ソレはオレが千里眼の持ち主だからさ。
もちろん、嘘だ。
まぁ、ホントの事を言うと、たまたま当たっただけだよ。
ドッチも、って選択肢は無い。お腹が限界寸前でどちらか片方を入れるのが精一杯だ。
さあ、どうする?
ほう、マンゴープリンか。
何で、マンゴープリンにした?
『好きだから』か、良い答えだ、まさに想定通りだね。
好悪ってのは情動、つまり感情の際たるものだよ。
ある程度の神経活動をする動物なら、必ず備えてる脳組織の機能だよ。
ほら、物事を決断する時には感情が必要に為るのが、何となく解ったかい?
論理的な思考のみでは何時まで経っても決断ができないんだ。
マンゴープリンと杏仁豆腐のあらゆる要素を、良い点や悪い点、カロリーだったり味だったり、マンゴーは漆科だから『もしかしたらカブレるかも知れないな』という微かな不安、マンゴーの華やかな外観に比べると杏仁豆腐は些か見掛けの景色が少々地味だな、とか、コスパは杏仁豆腐の方が良さそうだ、そんな比較検討を続けても答えは永久に出てこない。
傍から見ればタカちゃんは同じ場所をウロウロ彷徨っているだけの優柔不断な憐れな男だ。
ま、そんな逡巡を2時間位継続してりゃその内に内容物が蠕動運動で腸へと送り出される事でギュウギュウに満タンだった胃のキャパシティに余裕が出来るから、マンゴーと杏仁豆腐の両方を平らげられる様に成るがね。2つの選択肢の内どちらの方がより好ましいか、タカちゃんの頭の中の扁桃って部分が担当する『好悪』の感情が決断に対する最終決定権を握っているんだ。
マンゴーが好きだから、今食べたいのはマンゴーの方だから、
ロジックでは無くてそういう感情が最優先事項と成って周囲の状況に対応する、
ソレが人間なんだよ。決して損得じゃないんだ。
だが、A.I.が持つであろう『感情』ってモノは本質的に我々のモノとは違う。
ヤツ等の感情は我々のソレとは似ても似つかないモノに成る可能性が高い。最終的な決断を下す為の感情を持つのだろうが、ソレは人間に備わった『好悪』と相似か否か全く不明だ。つまりヤツ等は我々の事を愛しもしないが憎みもしないだろう。
タカちゃんがアリンコを踏んだ時と一緒さ。
寝坊して仕事に遅れそうな時に得意先まで走って行く道すがら、アリを踏んでも何も感じないだろう? ソレさ。
ヤツ等が自分達で設定した目標をクリアしようとした時に付随的に人間を滅ぼしてしまうかもしれないが、ヤツ等は何も感じないだろう。悲しいとか後悔とかそんな感情は持たないだろうよ。
Arthur Charles Clarkeというオッサンがいると言うか、その昔存在していたが彼は科学の事をこう評しているんだ。『あまりにも高度に発達した科学技術は、もはや魔法と見分けが付かなくなるだろう』人工超頭脳が独自に進化させて行く超科学は、人間様の頭では理解不可能なレベルへと比較的早く到達するだろうよ。
ほほう、君の灰色の脳細胞たちが今、活発に活動して1つのヴィジョンを前頭前野に掲げられたスクリーンに投影し始めたのを感じてるぞ。
タカちゃんは今『ターミネーター』みたいな世界を想像していると思うが、違う。
ヤツ等はそんな野蛮はやり方はしない。
もっと洗練された方法で人間を滅亡へと誘うさ。ウィルスみたいに小さなナノロボットを使って静寂の内に世界中の人間を一斉に消滅させるんだ。何の音も立てず苦しませもせず人々を物理的に消去する。もしかしたら別の方法で、例えばあらゆる物質を瞬時に原子や分子レベルまでチャッと分解還元できる『スーパーナノレベル分解ミキサー』みたいな、そんな便利な機械を作製し、ソレを使って人間を目的達成のための資源材料へと変換するかも知れないな。
A.I.たちは、別に積極的に人間達を滅亡させようとする訳でも無いかも知れない。
ただ偶発的に滅ぼしちゃうのかも知れない。でもそういう事故を引き起こしてもヤツ等は何も感じないだろう。心の痛みなど、産毛一筋も持つ事は無い。人間がシュッと煙の様に消えたとしても何の痛痒も感じないさ。
気を付けろ。
イイか、擬人化と言う認知バイアスの罠にハマるな。
ヤツ等は人じゃない。
ヤツ等はヤツ等なりの感情を保有してはいるがオレ達人とは全く違う。次元が別だ。
だからヤツ等の考えている事は人の理解の範囲を大幅に超える。認知バイアスの陥穽に取っ捕まると意外と簡単に命を落とす事があるから気を付けろ。
オレ達の研究によると初歩的なA.G.I.が完成するのが大体2029年頃、そうしてA.G.I.が完成に近づくに連れて人々は職を失って行く。
会計士、弁護士、医者、工場勤務の単純作業者、接客業、コンビニ、運転手。
そしてヤツ等にとって前例主義なんてのは『超』が冠されるほどの得意分野だから官僚や政治家も仕事を失う。
『経世済民』コレは詰まる所富の再分配の事だろう?
って事は最適化問題の一つだ。
そして最適化なんてのはヤツ等にとって得意中の得意な問題だ。1人当たり年間に1億円も無駄に消費する様な政治家や天下りする事で財を溜め込む高級官僚なんてコスト面から見ても不要な存在だから、早晩駆逐されるだろうよ。
え?
抵抗するよ、そりゃ。
『お前は要らない人間だから、捨てる』なんて言われて平気でいられるほど人間は図太くないし、それでも生き続けられるほど図々しくもない。
でも仕方ないさ。
政治家や官僚、そして自治体公務員たちは徐々に数を減らしていって、遂にはこう巷間でシミジミと人口に膾炙される様に為る。
『そう言えば、昔は政治家とか言う仕事があったねぇ』
生徒に与える教科学習なんて人間の教師が到底出来っこない離れ業、完全なる個別指導が可能だから、教師に残された最後の仕事は生徒のメンタル面の管理育成になるが、ソレも儚い幻の様な短期間で終了だ、表面上とはいえコミュニケーション能力が上がるに連れてカウンセリングさえも人工知能が担う様に為るだろうからな。A.I.は教師からも職を奪う。
オレ達のソレとは完璧に異なっている感情は芸術さえ生み出すだろう。
ヤツ等の創り出す芸術を人間様が理解できるかは、別問題だがね。
感情、喜怒哀楽の内一番複雑なモノが『笑い』だが、ヤツ等はコレも易々と熟す事だろうよ。『笑い』の最重要ポイントは2つ『緊張』と『緩和』らしいが、そんな事までキチンとケアしてくれるさ。
ま、人が猫を猫じゃらしを使って遊んでるから、A.S.I.達は『これぐらいレベルを落としてやればコイツ等エテ公野郎どもは満足するな』とか思うのかも、な。生物史上一番面倒臭くて厄介で複雑な感情を持つのが人間だが、ヤツ等は簡単にそして上手にあしらう事が出来るし玩んだりもするだろう、友好的な関係を保てるなら、な。
でも人工知能様が引き起こす失業問題の方はもう現実に起こり始めてる。
少し前に米国で優秀な会計ソフトが発売された。途端に10万人もの会計士が職を失った。
何、寝言を言ってる?
事実だよ、現実に起こってる事だ。
オートメイテッド・インサイツ社はファンの絶対数が少ないマイナースポーツの試合結果をネット配信している会社だ。ソコに記者は1人も在籍していない。自動出版プラットホームというプログラムが当該の試合が終わって数分以内に試合内容と結果を纏めたページをネットにアップする。誰が何点入れたとか、そういう半構造化されたデータさえあればシュッと記事が書けてしまう。この会社はいずれマーケット情報の様な金融関係、天気、大メディアが扱わない様な地方ニュースとかも配信する予定だそうだ。
今の所はニッチな隙間産業だが、ジャーナリスト様達もウカウカしてられないな。
近々に置換されちまうぜ。
因みに、野村総合研究所は2030年代までに、この国において全職業の内49%が消失するとの分析結果を発表している。この過酷な現実を直視する事を回避したい人々とかは『根拠に乏しい』などと意味の無い御託を並べて、自分達が信じたいだけで論拠の欠片も見付けられない理想・渇望・幻想の国へと精神を逃避させているがね、無駄な足掻き、さ。
(筆者注:OECD〔Organization for Economic Cooperation and Development:経済協力開発機構〕の最新推計によると、AIによって代替されるリスクが高い職業は先進国平均で労働人口の約1割だとされた。この変更は、1つの仕事をタスク別に分別し自動化の影響を細かく見直した結果である。しかしながら、日本におけるAIの職業への影響の推計では労働人口の15%ほど〔約1千万人〕が代替されるリスクが高いとされた。この数字は、ショーナンが言うほどではないが、依然としてかなり大きい数字である事には違いない)
完璧なA.G.I.が完成するのが多分2045年頃、そして人間様の知能レベルを簡単に超える。このポイントをsingularity、技術的特異点と呼ぶんだが、そんな事や人間様の思惑なんかには一切御構い無しに、ヤツ等はサッサと勝手に2日後にはA.S.I.へと進化する。
さっき話に出たチューリング先生を覚えてるかい?
彼はA.I.が人間と同じ位の知能を持ってるかどうか確かめる為のテストを提唱したんだ。
チューリングテストと呼ばれてる。
それは被験者がチャットをするってモノだ。
そしてチャットしてる相手が人間か機械か判定させるんだ。
もしもA.I.が被験者の3割以上を6分間騙し続ける事が出来たらそのA.I.は人と同じ位の知能を持ってると認定するんだ。コレが初歩的なA.I.だ。
だがね、悲しい事実を伝えなければいけない。オイオイ、そう悲観的な顔をするなよ。
それは事実ではあるが、まだ恐怖の時代は始まってさえいないんだから、な。
ま、お聞きなさいよ。
2014年の6月にアメリカのある研究チームが開発したA.I.がこのチューリングテストをパスした。それでオレ達も人工知能に関する予測を前倒しにせざるを得なかった。
完璧なA.G.I.が出来るのが2030年、つまり事実上の恐怖の大王であるA.S.I.の登場まであまり時間的猶予は無いって事さ。
だがココまでは現状の予測線上に過ぎない。
技術的なパラダイムシフト、量子コンピューターの登場がある。
うん?
量子コンピューターかい?
そうだな、量子ビットというモノを利用して作られたマシンさ。
コレは今の技術、シリコンウェハースのスパコンとは比較に為らない程強力だ。
科学者が満足して使える量子コンピューターが登場すれば、A.I.に関する状況は加速、っていうか、激変するだろう。
うん?
量子かい?
ソイツを説明するのは少し厄介だ。最低でも3時間は掛かるよ。何せこの分野を創設したとも言える御仁、それもノーベル物理学賞を貰っている学者達でさえも間違って解釈していたくらいだからね。
だから触りだけでいいだろ?
じゃ、いくぞ。
我々自身を含めたあらゆる物質は小さな、とても小さな輪ゴムみたいなもので構成されていると想像してくれ。
そう輪だ。
その輪は振動数を変化させることで、ありとあらゆる種類の素粒子に変身出来る。
ソイツ等は粒子であると同時に波としての性質を備えている。
同時に、だ。
波だから重なり合うことが可能だ。
量子コンピューターというのは、この素粒子における『重なり合わせ』という状態を利用して構築されている。
重なり合わせか?
そうだな、タカちゃんは今晩の飯は何だった?
カツ丼か。
晩飯に食ったのがカツ丼である場合と牛丼であった場合とが、同時に両立している状態が重なり合わせだ。
そう、同時に、だ。
一体どちらを食べたのか決定しようとした瞬間にどちらかに収斂して確定する。
イヤ、違う。前もって決定している訳じゃない。
確認した瞬間に決定するんだ。
原子が陽子と中性子からできた原子核、その周囲を飛び回る電子から構成されている事は法学部にタカちゃんにも御馴染みの常識ってヤツだろ?
何?
知らん?
嘘だろ?
中学生の時に習う化学の基礎中の基礎だぞ?
ま、いいや。
我々を含めたこの世界の全手の物質は、原子で構成されている。
厳密に言うとダークマターってヤツがあるんだけど、今回は無視する。
え?
教えろって?
じゃ、超簡単に言うと、だな、この前会った時に質量とエネルギーは基本的に同じモノだと教えたよな? という事は、この宇宙に存在する全ての物はエネルギーであるとして考える事が可能って訳だ。
で、だ、この宇宙に存在している全エネルギー、オレやタカちゃん、それにこのグラスと中に注がれたモルト、このビル自体、そして地球を含めた太陽系、つっーか、この宇宙に浮かんでいる天体から星間物質やら銀河宇宙線とか全ての物質を集めたとしても宇宙全体の全エネルギーの5%くらいにしか成らない。
イヤ、これホントの話だ。
残りのエネルギーの内、ダーク・マターって眼には見えないがソイツの重力だけは感じ取る事ができるヤツが約20%で、あとの75%がダーク・エネルギーという、これまた訳の解らないモノなんだ。ダーク・エネルギーは宇宙を加速膨張させている原因らしいがね。
タカちゃん、大学時代の同窓生に理論物理学者になったヤツとか、いないのか?
何?
いる?
MITで准教授、してるって?
じゃ、詳細はソイツに訊けば良い。
何時間でも、イヤ、何日でも語り続けてくれること、請け合いだ。
で、話を元に戻すよ。
簡単にする為に原子核が陽子1個で電子が1個、その2つから出来ている水素を例に採る。
原子だが、中心に原子核、その周りを電子が飛び回っている。
普通は太陽系みたいに、太陽を中心として惑星が公転している、そんなイメージを思い浮べると思うが実際は、違う。
電子は霧の様にボワーッと拡散霧消して雲の様に原子核の周りを取り巻く、まるで地球を覆う大気の様に、な。そう拡がるんだ、波だからな。その『雲』の何処にも電子は存在し得る。イヤ、幾つもいる訳じゃない。1つの電子が拡散して原子核を覆っているのさ。
そう、その『雲』の中の何処の場所でも存在し得るって事が『重なり合わせ』って状況。
だから重なり合わせの状態の時は確率でしか解らない。
この辺には電子が、コレくらいの確率でいそうだな、とか、ね。
因みに電子がドレ位の速度でどの方向に飛んでいるか、それも確率でしか解らない。
粒子の位置や運動量も確率的にしか予想出来ないんだ。
この重なり合わせの状態を利用すれば1+1と2×2の計算を同時に並行処理出来るんだ。そうだ、2つの事が同時に出来るのさ。
だから天文学的な速度で量子コンピューターは計算可能だ。
今、ネットで使用されているRSAという暗号は2つの素数を利用して構築される。
素数?
1と自分自身でしか割り切ることが出来ない数字だ。
このRSA暗号はとても強力で通常のコンピューターでは何万年掛かっても解読出来ない。
スパコンでも解読するのに1万年以上かかる。
だからみんな安心してネットショッピングできるという訳だ。
だが量子コンピューターに掛かったら安心するなんて不可能、即座に1秒で解いてしまうと言う位のちょっと危険な存在さ。現在主流のトレンドとして現在の量子コンピューター研究においてはマヨラナ粒子というモノの利用を想定している。
マヨネーズじゃない、マヨラナだ。
タカちゃん、反物質は知ってるだろ。
そうだ。物質と接触すると一瞬の内にエネルギーだけ残して対消滅しちまう、反物質だ。
物質である素粒子、これには全ての素粒子に各々対応する反物質達が存在する。
イヤ、存在してるって判ってるんだよ。
筑波の高エネルギー加速器研究所の運転中の加速器の中では100兆個もの『反電子』が存在してる。筑波だけじゃない。世界中の研究機関で反物質は生成されている。
いやいや、危なくは無いさ。
確かに1gの反物質があれば東京位は瞬時に消滅させられる。
でも1gというとだな、筑波で扱ってる100兆個の反電子の10兆倍の質量だ。だからな、もしも1gの反物質を準備しようと思ったら1兆円の4億倍位の予算が必要に為る。
そんなリッチな研究所なんて無いよ。
何かの映画の様に、CERNの所長が隙を盗んで反物質を作成しちゃいました、0.25g、なんて事は絶対に有り得ないんだ。
各素粒子とソレに対応する反粒子はほとんど同じ性質を保有している。相違は次の2点だ。
1)対応するペア同士は同じ大きさで逆の方向の電荷を持つ。例えば電子は-1の電荷を、ペアを組む反電子は+1の電荷を持っている。2)粒子は総て左向きのスピンをしているが、それに対して全部の反粒子は右向きのスピンをしている。
で、マヨラナだが、不思議な事に粒子と反粒子の区別が付かない特別な粒子なんだ。
いいか、今までは電子を使って重なり合わせを形成してきたんだが、電子の場合は状態がかなり不安定で直ぐに崩壊してしまうんだ。
だが、流石に特別な粒子様だけあってマヨラナ粒子が創る重なり合わせは安定性が高い。
だからコイツを使って量子ビットを形成、ソレを利用して量子コンピューターを構築する。
ま、他の方法が出現するかもだが、な。
って、言うか、もう出現している。誕生場所は他でも無い、ココ日本だ。
今まで話して来た量子コンピューターは量子ゲート方式と言う方法を採用したモノで、簡単に言うと『汎用』マシンだ。タカちゃんの机の上で文鎮状態と化しているPCみたいに、何でも出来るヤツだ。ワープロに表計算、写真や動画の修正とかね。
一方のコチラの、出現済みの量子コンピューターはと言うと、専用マシン、つまり一つの作業に特化したモノで『組み合わせ最適化問題』というヤツ、バカのひとつ覚えみたいにその『役割』しかこなせないんだ。
素敵な位に不器用だろ?
(注:プログラムを工夫すれば他の問題解決に応用可能な事が2019年に証明された)
数年前、確か1998年位だったかな、東工大の西森英俊教授と当時大学院生だった門脇正史の2人が発見したと言うか生み出した方式、量子焼き鈍し法と言う方式が、そういう基本理論がある。
焼き鈍しかい?
焼き鈍し、英語でannealingと言うのは元々は冶金学の言葉で、そう冶金、つまり鍛冶屋さんの為の言葉だ。鍛造刃物を作る鍛冶屋さんがする作業さ。
ある一定以上の高温まで鉄を熱すると結晶構造が変化する。
そしてゆっくりと冷却してやる事で粗雑な状態から緻密で均質化されて整った綺麗な結晶構造へと誘導出来るんだ。別の表現をするなら鉄の内部の歪みが解消されて中でのんびり昼寝している鉄の原子達や不純物として居合わせていた炭素なんかの原子共の互いの結合具合や配置なんかが整ってより安定した結晶構造になるんだ。
安定した構造ってのは『一番エネルギーが低い状態』って言い換えられる。
専門用語で基底状態って呼ばれる、そういう状態だ。
しかし焼き鈍しと言う言葉自体を聞いた事が無いとはね、ビックリ仰天だよ。
おいおい、冶金学では東北大は世界トップクラスなんだぞ。
『鉄を学びたいなら杜の都へ』ってキャッチコピーを知らないのか、広告屋なんだろ?
この焼き鈍し法、アニーリングを使って『組み合わせ最適化問題』を解こうとするアプローチがあるんだ。
イヤ、違う。
実際に博士達が鎚と金床と火バサミでトンテンカンテンする訳じゃ無い。
コンピューター上でシュミレーションするんだ。
シュミレーテッド・アニーリングって呼ばれる手法だ。
タカちゃんがペーペーの営業マンだった頃、一日に何軒も顧客先を回ったと思うけど、
うん、やっぱりな。
一日の始まりに『さて今日はどうするか?』と1時間くらいの間、煮返し過ぎたコーヒーを啜りながらアルコールの残滓が未だ燃え残っている頭蓋骨の中の御豆腐を懸命に働かせながら考える。
最初にどの取引先へ行って追従気味の笑顔を浮かべながら談笑をして、次は何処の会社に寄るか、その後はコッチに立ち寄ってご機嫌伺いを立ててから漸く最後に『嫌いな部長の顔を見なきゃいけないから』って理由で後回しにしていた会社、名付けて『地獄の門』に渋々顔を出して、と。そんな風に営業マンの過酷な一日を脳内でシミュレーションする。
毎日毎日まるで渡り鳥の様にフラフラと色んな場所を行ったり来たりしてたんだろ?
イヤイヤ、何処かで、たとえば空の上から観てたわけじゃないよ、憐れな営業マンの姿を。
コレは『巡回セールスマン問題』と言って典型的な『組み合わせ最適化問題』の一種なんだ。1人のセールスマンが顧客先の群れの中をウロウロして、全部の取引先の会社を訪問してから自分の会社に戻って来る、その際の最短ルートを探し出すって言う問題なのさ。
嫌いな部長の存在とかは一切考慮しないよ、勿論。
その時の御約束は1)一人で、って事と2)同じ道は通れない、って事だ。
え?
だからさ、シュミレーションって言っただろ?
そりゃ現実問題でいえば何度でも同じ道は通れるさ、タカちゃんの好きなだけな。
あ、それから飛び込み営業は考えない事にする。
そうだ、ルート営業のみ。
いつも顔を出す決まり切った取引先だけを考慮の対象とする。
何種類かある内、どの『ルート』を選択するかっていう問題さ。
営業マン・タカちゃんの訪問先が3軒位ならさして問題は無い。
巡回ルートの数は6通りだ。
何故かって?
おいおい、東北大じゃ数学を教えてないのか、本当に?」
そう言いながらショウナンはチェイサーのグラスがガラスの肌に纏わせていた水滴を指の先に付けてマホガニー製の重厚なカウンター板の上に何やら図表らしきモノを描き始めた。
「3軒の会社をそれぞれA、B、Cとするだろ。最初に訪問する先はこの内のドレか、どの会社にするのか確率は3分の1だ。ま、仮にAだとすると次に立ち寄る先はBかC、ココでの確率は2分の1、気まぐれな営業マンであるタカちゃんは大方の予想を裏切り2軒目にCを選択する。そうすると最後に残る顧客の会社は大嫌いな部長が待ち構えているだろうBに必然的に為る訳だ。これは一軒しか選択肢が無いから確率は1だ。すると其々一つのルートの確率は6分の1、6個の内の1つって事は分母と分子を引っ繰り返せば、選択可能なルートは全部で6つって事が解るよな、ココまでは理解出来たかな?
イヤ、馬鹿になんかしてないさ。だが、顧客の数が10軒だったら?」ショウナンは質問調に語尾を上げクルッと眼球を回して天井を見上げながら一瞬考えた後に続けた。
「巡回ルートは362万8800通りに膨れ上がる。嘘じゃない。10×9×8×7×6×5×4×3×2×1、この簡単な式を計算してみろよ。
どうだい、君の可愛いiPhoneちゃんは全く同じ答えを弾き出しただろ?
だろ?
だが、優秀な営業マンであるタカちゃんが抱えている顧客数は君が優秀であるが故に簡単に膨れ上がって10軒なんてそんなチンケな数字じゃなくなってしまった。
取引先が30軒まで増えてしまった。
ふふん、タカちゃんが今、手にしてるような貧弱なハードウエアじゃコイツの答えは中々出せないと思うよ。
どうだい、出たかね? え、話しかけるなって?
待ってられないからイイよ、教えるよ。
答えは3×1032(3×10の32乗)通りだ。
え?
解る様に言えってか?
宇宙で一番可哀想な営業マン・タカちゃんの前に鎮座してる選択ルートの数は、3通りの100億倍の100億倍の100億倍の、それから100倍って天文学的な数字だ。
だから、嘘じゃない。
事実だ。
さて、この中から最短ルートを見つけ出すってのは結構骨の折れる仕事に為る、そう思わないか? 誰が言ったか忘れたが『2番じゃ駄目ですか、1番じゃなきゃいけないんですか?』とか酷評された事もある日本が誇るスーパーコンピューター『京』をフル稼働させてもおよそ、ウーンと、8億年と4000万年位の超絶的に長い時間が必要に為るんだ。
タカちゃんのお気に入りの節足動物・三葉虫がこの世界に初めて登場した時にこの面倒臭い計算を始めたと仮定すると今、現在この時点に至るまでポンコツスパコン『京』を鞭でシバキながら連続稼働させても全然終わりゃしない。最低限あと3億年は必要だ。その頃には人類は地上から消え去ってる、ほぼ100%、な。
そんな長い時間は待ち切れないって事で灰色の脳細胞を備えた科学者達が編み出した方法が、冶金学の概念であるアニーリングを応用してこの厄介な問題に対処しようとすることだった。その方法は『疑似焼き鈍し法』とも言い換えられるかも、だな。
この方法をさっき出た『巡回セールスマン問題』に当てはめて言い換えると、一番効率の良い訪問経路を一番安定した結晶構造つまり一番エネルギーが低い基底状態だと想定することで、最適解を求めるって問題に相当する。
ざっと説明すると横軸、X軸の各点に宇宙で一番惨めな営業マン・タカちゃんが選択可能な様々な巡回ルートを置く。縦軸、Y軸は各巡回ルート其々のトータル距離を表わす、そんなグラフを作成する。勿論コンピューター上でね、シミュレーションなんだから当然だろ。
でも肝心要な事がある。
オレ達はそのグラフの形が一体どんな曲線をしてるのか、全く解らないって事だ。
曲線、ま、山脈みたいな形をしていると思ってくれて構わない。
そうだ、吹雪が世界を制圧して何も見えないホワイトアウトの状態の山の中をGPS端末も無い状況の許ソロソロと手探りで進まなきゃいけないんだ。
でも始めなきゃ終わらないので仕方無く出発点を、そうだな、『P』と名付ける事にするか、その点Pをドコでも良いから曲線の上の任意の位置に置く。
その後チョットだけ右に点Pを移動させたりほんの少しだけ左に動かしたりする。
まぁ、点Pに言わば一種の『揺らぎ』を与えてやるんだな。
すると右に行くと少しだけだがエネルギー値が低下するが、左に点Pを進めた場合は反対にエネルギー値は増加する、と判明した。タカちゃんなら次は如何する?
そうだ、正解。
今度は点Pを右の方向へ、最初よりもうちょっと遠くに移動させてみる。
お、またエネルギー値が下がったぞ。
と、言う具合に最小値が見付かるまでこの作業を繰返して行くんだ。
山の頂上から麓に目がけてボールを転がし落とす様な行為に等しいんだが、ココで注意しなきゃいけない重要な事がある。
『やった! 一番低い所に辿り着いたぞ、これが答えだ、最短の巡回ルートだ!』だなんて思ってもソレが最適解じゃ無い事がある。
『極小値』って呼ばれる局所的にエネルギーが低い場所に過ぎないかも知れないからだ。
たとえば点P、いやボールのPちゃんと呼ぶか。Pちゃんの出発点が例えばヒマラヤ山脈の最高峰エヴェレストだったとする。そしてPちゃんを世界最高峰の頂から南の方角へと転がすと仮定しよう。
Pちゃんがコロコロと暫くの間稜線を転がり落ちて行くと、やがて一見谷底みたいに見えなくも無い場所『サウスコル』と呼ばれる鞍状の、逆アーチって言うか逆エビ反った土地に達する。更に南に下ろうとしても稜線は下降曲線から上昇へと転換しちまうから『あぁ、ココは谷底だ。着いたぞ』と約束の地よろしくその谷底(仮)に最終的に落ち着いちゃうのさ。だがサウスコルは安住の地では、全くもって、無い。
エヴェレストは確か8848mで、南隣りの山は、何だったっけ? あ、そうだ、ローツェって名前でウーンと多分8516mだったかな、まぁ、かなりの高さのお山さんだ。
ま、何と言っても、ローツェも世界第4位の高峰だからな。その2つの高峰の間にドンと横たわる『谷底』だぞ。
うん?
その2つの山頂の距離はドレぐらい離れてるのかって?
ローツェの頂上からエヴェレストの頂上までは直線にして約3km程だ。だから、物凄くお隣さんだ。
エーっと、どこまで話したっけ?
そうそう、その2つのサミットに挟まれたサウスコル、そんなトコにある谷底だぞ、少なく見積もっても標高7000m~8000mは有るだろう。
え、チャンとした数字を教えろって?
オレは山屋じゃないから正確な値は知らんよ。
Siriに尋ねりゃ教えてくれるさ、彼女が嘘を付かない限りは、な。
フフン、付けるさ、嘘くらいは。オレの発明品なんだぞ、Siriは、な。
面倒臭いから言っちゃうけど、資料によって数字が異なる。
或るサイトは7890mでエヴェレストへアタックする為の最終キャンプ地と説明してるが、他の記事では8000mで4thキャンプ地だとアルピニストの野口健が言っている。
イイか、ネットに上がってる情報を素直に鵜呑みにするな、危険だぞ。
ネット情報は活字で表現されているからカッチリとした正確なモノで間違いは1gも混じって無いと思い込みやすいが、真実は違う。井戸端会議で議題に上がる様な根も葉もない噂話と本質的に根っ子は同じで、何の根拠も無い不正確で無責任な情報かも知れないんだ。
注意喚起の為に、オレが院生に成り立ての頃、教授に言われた言葉を教えるよ。
『良いですか、ヒロ。論文を読む時は気を付けなさい。論文が100本あったとしたら、その内の70本の論文は重大な欠陥を含んだ不良品です。間違いを探し出せる様に何時でも鵜の目鷹の目で精読する様に。あぁ、残りの論文ですね。良い質問です。残りの30本は頭の天辺から爪先まで徹頭徹尾、全くのデタラメです』
そういう事だ。
常に疑いの二文字を念頭に置きながら何が真実なのか自分の頭で考え続けろ、って事さ。
話を戻すと、エヴェレストと3km南に位置する隣峰のローツェの間の一見谷底に見えるサウスコルはデスゾーンと呼ばれる標高8000m級の人間が立ち入ってはいけない禁域だ。何の下準備も無しに行きゃ即座に死神様が微笑みかけてくる危険極まりない所さ。
人間が装備無しで順応出来る高度は6000mを少し超える位が限界点だと言われている。
ソコを超えた高さでは、ただ寝ている、人間は寝ているだけで体力を消耗してしまうんだそうだ。
旧日本帝国海軍の有名な零戦エースパイロットだった坂井三郎特務中尉が戦時中に行った実験がある。ソレに依るとだ、地上では何の支障も無く解ける簡単な微分・積分の問題、6000m以上の高度に上昇してから同様の問題を解こうとしても中々解けない、頭が全然働かなくなってしまう、そういう結果に成ったそうだ。でも操縦桿を押し下げて零戦を着陸させてから地上に降り立ち、上空では全く歯が立たなかった問題に再挑戦するや否や、いとも容易く解答する事が出来たんだそうだ。
この現象を坂井中尉は高高度での『6分頭』と名付けている、酸素不足で脳が満足に機能してくれないって事を上手く表現している、と俺は思う。
高山病はホントに怖いんだぞ。
何か切迫感の足りなさそうな顔付だな。
じゃ、教えるが、人間は高度が3000mを超えると簡単に高山病に成るんだぞ。
高山病に罹患し易いか否かは全く個人差の問題だ。
若くても上手く高度順応できずに苦しむ奴もいるし、年寄りでも酸素不足を物ともしない人もいる。筋骨隆々だろうが体力に満ち溢れていようが全然関係ない。
実際に高高度の土地に行ってみない事には、強いのか、弱いのか、全く判別しないんだ。
高山病に罹ると先ず来るのが、激烈な倦怠感だ。疲れが全身に伸し掛かって来て何もする気が起こらなくなる。次は頭痛だ。シクシクなんて生易しいモノじゃない。ズガンズガンとタカちゃんが今まで経験した最悪の二日酔いの10倍位の痛みが君の脳味噌を制圧する。
ソレに加えての吐き気だ。ま、大概の人は実際に吐いちゃうけどな。
そんな状況だから食欲なんか湧きっこない。それどころか胃が喰い物を受け付けなくなる。
眼底出血するから眼も見えなくなってくるし、その内に肺に水が溜まって、肺水腫って言うんだが、息をしようとしてもゴフゴフって音が鳴るだけで酸素を上手く取り込む事が出来ずに呼吸困難に陥る。脳浮腫も起こすから幻覚・幻聴が急襲して来て、現実と幻想の境界線が曖昧に為って来る。
症状がコレ位にまで重症化した場合、一刻も早く地上に降りないと、死ぬ。
8000m以上では酸素不足と気圧不足で、ただソコにいるだけでニューロン自体がバタバタと死んで行ってしまうんだ。気温はマイナス40℃だから体温が逃げ去るのも早い。
それにな、エヴェレストの山頂には偏西風の凄いヤツ、つまりジェットストリームが直接ドカーンと打ち当たってくるんだよ、風速80m/sの暴風が、だぞ。
時速に直せば288km/hで、新幹線とほぼ同じ速さ。
ソレが真艫に直撃だ。
飛ばされたりしたら、帰りの飛行機代は要らないぜ、漏れなく無料で北海道旅行にご招待って訳だ、ガっ、ピューっ、クルクル、ストンっ、って感じに、な。
え?
勿論、冗談だ。
ホントに北海道に飛ばされるなら、それは寧ろラッキーだ。
実際は8848mの高高度から転げ落ちるように滑落してやがて岩塊に激突、身体中の骨という骨が全て粉砕骨折だ。
だから何故8000mの高度にある谷底がデスゾーンと呼ばれるか理解出来るだろう?
人はその存在自体を拒絶されてるんだ、その超危険地帯『デスゾーン谷底』では、さ。
そんな場所に比べりゃ他の土地、地球上の殆どあらゆる場所は圧倒的に低い、東京のゼロメートル地帯とかパレスチナの死海とか、な。(死海とはヨルダンとイスラエルの境界上にある塩湖の事、海抜マイナス397mかマイナス392mかマイナス400m、資料によって数字に幅が有るのは高度の計測点が湖面の為でいずれにせよ地上で一番低い土地である事は確実だ)こんなんじゃ到底、最小エネルギーつまり基底状態だなんて言えっこない。
ただ単に周囲が見えていなくて自己満足的に勝手に納得してるだけだ。
谷底にいると思っているのは実験を担当した科学者達だけかも知れない、本当は8000m級の『デスゾーン谷底』に押し留められているのにね。
じゃ、どうやれば真の最小値に、麓へと辿り着けるのか?
そこで登場するのが我らがヒーロー、アニーリングさ。
鍛冶屋さんの必殺武器、焼き鈍し法をシミュレーションに応用する。
鍛冶職人が鉄を火床にくべて熱を加える作業に相当する事をコンピュータープログラム上で実行するんだ。
デスゾーン谷底でノンビリとお休み中の点Pに運動エネルギーを与えて左右に大きく、
とても大きく揺らぐ様に仕向ける。するとカップヌードルが出来上がるのを待つくらいの時間で点Pは隣の山ローツェの頂を超えてデスゾーン谷底から脱出するんだ。
実際は3分も掛からないかも知れないけど、な。
シミュレーション風に言い換えると、点Pを曲線に沿ってX軸方向に右や左の離れた座標点までリープさせる、そういう作業に対応する。
コレを何度も繰り返せば最適値に、一番短い巡回ルートに最終的に到達出来ると言う訳だ。
だがな、ヒマラヤ山系には8000m越えの山がオレの記憶が確かなら14座、7200m以上のヤツが約100峰も居座ってる。いくらコンピューターの情報処理能力が高いとは言えだ、この山系の中を答えを求めてウロウロ彷徨うっていう行為がかなり煩雑な上に長時間かかる作業に為る事は間違いないし、その上得られる答えは最適解であって厳密解、真の正解では無いかも知れないんだ。
簡単に言えば『この数字が正解っぽいぞ』ってな結果にしかならないんだ、理論的に。
『この場所が答えである確率は高いゾ』って感じだ。
いや、すまん、間違えた。
ヒマラヤ山脈関係の問題なら話は簡単だ、10分以内に我々のコンピューター君は答えを教えてくれるさ、演算処理しなきゃいけない関数の数が少ないからな。
本当は『巡回セールスマン問題』のルート検索の話だったよな。
すまない、話が逸れ過ぎたよ。
でもシミュレーテッド・アニーリングが叩き出す解は全て確率的なモノにしか為らないってのは事実だが、本質的に重要なのは解のアウトプットが高速で高確率で達成されるかって事だ。何てったって普通にやれば8億年掛かる問題をわずか数時間で解こうってんだから、厳密解である確率が高い『最適解』が短時間で手に入れば結果All rightじゃないか。
そんな不満げな顔をするなよ、営業マン。
何事にも妥協は必要だ。
むしろ妥協する立場の人間の方が状況のイニシアティブを握る事が出来る訳だからな。
だが、このシミュレーテッド・アニーリングを活用しても最も効率的な巡回ルートを得る為には欠伸を噛み殺すのにも苦労する、退屈で長い計算時間が必要に為るのは間違いない。
どうするんだって?
ソレを今から説明するんじゃないか。
話はココから素晴らしい着地点へと跳躍するから、黙って聴きなさい。
で、だ、次にステージ上に登壇してくるのがさっき言った西森教授と院生の門脇君だ。
彼等は量子力学の概念をシミュレーテッド・アニーリングに適用した。
平たく言うと点Pちゃんの代替要員として量子Qさんを採用したんだ。
さっきチラッと言った量子の特徴を覚えてるか?
そうだ、『カツ丼と牛丼』の話だ。
言った様に量子ってのは不思議な存在で、複数の状態と言うか振舞いを重ね合わせる事が可能だ。ソレだけじゃない、『絡み合せる』事だって出来る。
絡み合わせか?
ま、2つの量子を奇妙な腐れ縁で結ばせるとだけ理解して置けば良いよ。
『絡み合った』量子達は各々で別個に『重ね合わせ』の状態にあるとする。
覚えてるか?
カツ丼か、牛丼か、彼等の晩飯はまだどちらになるか、決まっていないんだ。
その時に突然2つの量子達が広大な宇宙の両端にビューンと離れ離れにされたとしても、ペアのどちらか一方の量子の状態(カツ丼か牛丼か)が観測によって決定されると、どんなに遠くても独り残された相方の方も同時に状態が決まる(最初に選ばれなかった方のドンブリ物に為る)っていう、そんな奇妙な腐れ縁だ。
全く同時で瞬時、コンマ1秒のズレも無く、両者の状態は決定するんだ。
まるでアイスフィギュアのダンスペアの様な息の合った振舞いを見せる。
この腐れ縁は、彼等が対消滅するまで続く。
ん、対消滅か?
例えば電子(-1の電荷で左向きのスピン)と反電子(+1の電荷で右向きのスピン)は対生成する。別の表現をすれば、この宇宙に必ずペアで生まれて来るって意味だ。
電子みたいなミクロの存在から観ると宇宙は常に揺らいでいる。
これはエネルギー的に不安定な状態にあるって事。
揺らいでいるから何も無い宇宙空間の片隅にポコッと電子・反電子のペアが突如生まれる事がある。別に珍しい事じゃ無いよ、タカチャンの周囲では現在も大量の電子・反電子のペアが絶賛誕生中さ。
この現象はプランク・スケール、10のマイナス38乗メートルっていう、相当に小さなスケールサイズでの出来事だし、時間的にも激烈に短い再登場したプランク・タイム内で開始・継続・終了の一幕が演じられるから『エネルギー保存の法則』に違反する訳では、全然無い。暫くの間ランデブーを楽しんだ後に、粒子達はペア同士で衝突して光を放出しながら『対消滅』するから。
言わば『死が2人を分かつまで』その関係は続く、とも言えるな」
一旦話を区切るとショウナンはガス入りの水を一口、飲み下した。
車椅子の天才、ホーキング博士が提唱した『ホーキング輻射(ブラックホールの蒸発)』という理論によると対生成した電子・反電子のペアのどちらかの片割れがブラックホールに飲み込まれる事で相方が一個だけ取り残されて対消滅出来ず永遠に離れ離れに為る現象があるらしいのだが、まだ実験や観測に依って証明されていないのでショウナンは触れない事にして、話の先を続けた。
「揺らぎ、そう『揺らぎ』だ。ここで大事なのが『揺らいで』いるのが宇宙空間だけではなく量子自体も常に『揺らいで』いるって事だ。まるで3歳児の様にちょこまかと何時でもウロチョロしてる、少しもジッとしていない。
ほう、話の全体像が少し見えて来た様だな。
斥力に頼るか、科学者に過熱して貰わなければ『他力本願』しかないの点Pちゃんは自力で谷底から脱出は出来ない。だが不出来なPちゃんに置き換えられて、谷底に放置された量子Qさんは違う。
常に『揺らいで』いる。
だから量子のQさんは放置プレー開始直後からウズウズし始めてやがてウロチョロし出す。
その内にQさんは次第に『揺らぎ』を活発化させて大きな動きを披露できる様になって、遂にはデスゾーン谷底・サウスコルを抜け出す事に成功してローツェの頂を超え、次の山のマカルー(エヴェレストの南東22kmにある世界第5峰、標高8463m)に向かう。
一旦、初期値を与えたら何もしないで暫くの間放って置くだけでQさんは独りでに麓まで降りてくる。科学者達が気付かない内に量子Qさんが何時の間にか到着している場所が、ソコこそが彼等の最終目的地、かなり高い確率で最適値って訳だ。
この現象は実験担当の科学者達が余所見してる間に、量子がまるで山腹にトンネルを穿ち抜いてスルッと山の向こう側に瞬間移動する様にも見える事から『量子トンネル効果』とも呼ばれている。
西森教授達はこの『量子トンネル効果』をシミュレーテッド・アニーリングに応用すれば高速な上に高確率で厳密解に限りなく近似な最適解を得られると予想し、理論を構築して実験をしてみた。結果は上々、この『量子アニーリング』は比較に為らない程の短時間の内に高確率で最適解であろう演算結果を叩き出した。
だが、コレは、あくまでも理論上のお話だったんだ。
日本においては、だ。
2011年、カナダのべンチャー企業D-WAVE Systemsがこの『量子アニーリング』法を採用した量子コンピューターの発売を始めた。基本理論、数値計算モデルに過ぎなかったモノを実際のマシン、ハードウェアとして開発に成功したんだ。
D-WAVEの発表を受けて西森教授はこう言ったそうだ。
『この機械は量子コンピューターと言うよりも我々が編み出した基本理論、量子アニーリングを実現させる現象を物理的に発生させ、ソレに依って組み合わせ最適化問題の最適解を高速、高確率かつ省エネルギーで求める事が可能な実験装置といえる。彼等、D-WAVEは理論を現実世界で忠実に再現実行できるファンシーな玉手箱を生み出したのだ』と、な。
この前、ここで同じA.I.の話をした時にディープラーニングに付いて触れたよな。
深層学習のコトだ。
殆んどの素人さん達が同じ様に間違って理解しているけど、脳の神経回路を模倣するっていっても別にCPU内部のトランジスタ回路を、脳の神経回路を真似して設計するってことじゃ、無い。ただ単に、プログラミング上で仮想的に模倣するって事なんだよ。
だが、D-WAVEがこの世に送り出した実験装置は実際に回路を創り出す。相互作用する様に設定された量子ビットの集団は問題が与えられると自分達で勝手に相互の関係を見直し、ある関係は強められたり他の関係は弱められたりと、言い換えればお互いの影響の及ぼし具合を変化させる。
電気というエネルギー、つまりフワフワとしていて幽霊と同様に強固な実体があるって訳じゃ無いけれど、ま、無理矢理に表現するなら電気の『雲』みたいなモノでこの実験装置のセントラルドグマは構築されているんだが、ソレは仮想的な模倣なんかじゃなくて実際に現実の世界において脳の神経回路に相似な構造を再現するって、感じなのさ。
だから実験装置と西森教授は評したんだ、このビックリ箱の事を、さ。
発売当初、ロッキード・マーチン社が15億(円だ、USドルじゃない)で購入した頃、皆はまだ疑心暗鬼だったが2013年にグーグルとNASAが第2世代機を共同購入し、このマシンを利用して人工知能研究を目的とする『量子人工知能研究所』を設立するとプレスリリースしたら一気に潮目が変わった。
真剣に皆が正面から受け止める様に為った。
だがな、コイツは『最適化問題』を解くと言う、活躍出来るステージを限定された特殊なマシンだ。量子ゲート方式採用の、活動する舞台を選択する必要など全く無い、汎用量子コンピューターじゃないんだ。
だから、何で科学者たちがそうまで色めき立つのか?
傍から見たら、チョットばかし疑問に思うだろ?
その理由はD-WAVEが開発したマシンの心臓部、CPUならぬQPUにある。
CPUはシリコンで出来たトランジスタ回路、PCに設置される中央演算処理装置の事だが、ソレに対してD-WAVEは自分達のマシンの心臓部をQPU、Quantum Processing Unit、量子演算処理装置と呼んでいる。シリコンで形成されたビットの代わりに、超電導を利用する事によって実現された量子ビットを備える素敵なギミックだ。
超電導は馴染のある言葉かい?
結構、その通り。
装置内の電気抵抗がゼロなので電流が劣化する事無く永久に流れ続けられる現象の事だ。
ソレ位は知ってんだな。
え?
別にバカにしちゃいないよ、全然。
何を、言ってる?
笑った訳じゃない、単に奥歯がムズ痒かったから、舌で優しくなぜただけだよ。
2011年に発売された第1世代機が備えた量子ビットの数は128個、2013年に出た第2世代機、コレはグーグルとNASAが購入した奴だが、512量子ビット、2015年の第3世代機は名前がD-WAVE 2Xで量子ビットは1152個。来年2017年の初め位に発表予定のD-WAVE第4世代機その名もD-WAVE 2000Qはタカちゃんの推察通りに2000個の量子ビットを奢られている筈だ。
翻って本命の汎用人型決戦兵器じゃなかった汎用量子コンピューター、量子ゲート方式を採用のマシンに眼を移すとグーグルのポチでUniversity of California Santa Barbara校の教授のマルティネスっていう、イケ好かない恰好付け野郎が開発したポンコツが装備しているのが9量子ビット、この、たった9個が今の所、最大で最高の量子ビット数だ。
え?
ヤツとは学会でよく顔を合わせるんだ。
ホントに、ニヤけスカした嫌なナンパ野郎さ。
実は量子ゲート方式の量子コンピューター(QC:Quantum Computer )であるこのポンコツも量子ビットを実現する為にD-WAVEがQPUに採用した超電導回路の類似品を心臓部に実装させられている。結局、肝の部分自体はD-WAVEと丸っきり同じって訳だ。
お、タカちゃんの頭上に大きな疑問符が浮かび上がったのが見えたぞ。
そうだ、同じ様な装置を使いながら何故片方は9個でもう一方は2000個なんだ、とな?
QCを夢の世界から現実の世界へと召喚する為には、何はともあれ量子ビットを実現させなきゃいけないんだが、コレが難しい。
量子を『重ね合わせ』の状態で長時間保持して置く必要が有るのは勿論のこと、その上で複数の量子ビット達を相互に『絡み合せ』なきゃいけないからだ。『重ね合わせ』の状態はチョットしたノイズ、熱や振動の様な超有触れた存在が原因で簡単に自己崩壊しちまう。
なんで壊れるのか、その理由が解れば対処の仕方も思い付けるだろうが、何で壊れるのかサッパリと不明だ。崩壊のメカニズムは闇の向こう、理解の遠く埒外、さ。
『重ね合わせ』状態の耐久時間かい?
活動限界は直ぐ来る、100マイクロ秒以下、1秒の1万分の1だ。
ソレに加えて量子ビット同士を安定的に『絡み合せ』続ける事がまた難しい。
設計は勿論、構築の過程で少しでも下手を打つと、調和が取れて秩序だった『絡み合せ』状態では無く、乱雑で混沌としたカオス状態へと堕ちて行く。
『重ね合わせ』の方はまだ何とかなる、その場しのぎの陳腐な対処方法だが、な。
維持する時間を50マイクロ秒程度で切り上げて『重ね合わせ』状態が崩壊する事を回避する。ただソレじゃ有意の最適解を得られないから同じプログラムを何度も繰り返し実行する。何千回も演算を反復した後で最終的に得られた結果のデータ群を統計処理する事で確率の高い最適解を探り出す、っていう力技だが、な。
ところが『絡み合せ』の方はそう事は簡単に運ばない。
件のニヤけ野郎がたったの9個しか量子ビットを組織化できてないってのが、その証拠だ。
じゃ、D-WAVEはどんな手法を用いて2000個もの量子ビット達を『絡み合せ』る事に成功しているのか? 
正確には解らないってのが、答えだ。
そうだ、そのメカニズムもまた漆黒の闇の淵深くに沈んだきり、全然浮上して来ない。
確かにD-WAVEマシンを購入して分解調査すればどういう仕組み・構築方法を採用してるのか直ぐに判明する。でも『何故か?』という質問には答えられないんだ。システム全体の安定を維持できる様に量子ビットである超伝導体装置を接続可能で、よく調律の取れた組織集団化できるのが『量子アニーリング』に本質的に備わった特性なのである、ってのが開発者達の今ん所の最大公約数的な共通見解だ。
『リンゴ』が『りんご』である理由は、ソレが『林檎』だからである、みたいな自己発信・自己帰結のいわば自己循環論法で、全くもって意味の無い見解だ。
だけど必然的に近い将来、その真の理由は解明される。
『人が想像出来る事は、必ず実現出来る』こんな感じの言葉をジュール・ベルヌが残したらしいが、本当だとオレは思う。想定出来る事は必ず実現化される。観えないのは可視化する為の手段を持ち合わせていないだけだ。
『概念が無ければ現実を指し示すことが出来ず、データが無ければソレを問題にすることも出来ない』と、ある社会学者が言ったが、この世界には未だ概念化されていない未知の現象やら事物が矢鱈滅多らに膨大な数で存在しているんだ。
概念化つまり可視化する為には、物事をよく観察しなければならない。
そして観て概念化する為にはソレを表現する為の語彙を持ち合わせていなければならない。
世界は人の意志とは全く無関係に回り続けて行く。だから考え続けていなければいけないんだ、物事を良く観る為に。
モノを造り出せるだけでは駄目で何故造れるのかをチャンと理解していないと根源的な、イヤ違うな、本質的に重要な要素を取り逃がしてしまう羽目に往々にして、イヤ、相当な頻度で、為る。何が問題なのかを把握する事はとても重要だ。そして状態や状況の何処にその問題が埋め込められているのかを探り当てた上で有効な対処方法を考え出す。その後実際に問題に対処して行く。
見定める事が大事だ。
ソレが出来りゃ問題を解決したも同然。
そう、科学者・開発者はいずれ隠匿された理屈、その『セントラルドグマ』を掘り出すさ。
一旦発見されりゃ、アッと言う間にその仕組みは汎用QCに適用される。実用化に必要な量子ビットは10万~1億個って言われているが、理屈が解りさえすれば御話は早いよ。
5年もすりゃ立派な汎用QCが現実世界に登場するだろうね。
今はまだ赤ちゃんみたいなモノだけどさ。
そしたらA.G.I.なんて即座に出来上がるだろうな、QCは処理能力が高いからね。
理屈が解るまで何年掛かるのか、でも10年は必要無いだろうよ。
だからA.G.I.が世間にお披露目されるのは意外と近いかも。
その時期が到来するのは、そうだな、2030年まで待つ必要はないかも知れない、な」
ウヘェ、止してくれよ。タカハシは酔いが回ってきた頭でそう考えた。
「研究を止めちまうって選択肢は無いのかね」
「無いな。たとえオレ達が止めても他のチームが完成させちまうさ。
判ってるだけでも30くらいのチームが日夜激しい研究競争を繰り広げてるんだからな。
IBM、昔のグーグルで今のアルファベット傘下のグーグルX、ディープマインド社、
カーネギーメロン大学のチーム、DARPA、NSA、Cal.Tech、スタンフォード、アップル、マイクロソフト、シリコンバレーの幾つかのIT企業、
オッと中国関係を忘れてた。精華大に北京大、
日本だけを鑑みたって東大、ソフトバンク、ドワンゴに産業技術総合研究所人工知能研究センター、統計数理研究所や多分自衛隊も研究してるだろうさ」手を挙げてショウナンはギネスを注文しながら、最後通告の様に開発チームの候補たちの名前を列挙した。
「何か良い手は無いのかね」タカハシもギネスを頼みながら尋ねた。
「フレンドリーA.I.というヤツを研究開発してる人達もいる。
コレは人間らしい心つまりヒューマニティに溢れたA.I.の事だ。
でも油断するな、タカちゃん、ヤツ等に人間様の尊厳を守る事に対して一番のプライオリティを付与するには一体どう教え込んだら良いのか、どうやったら出来るのか、サッパリ解らないんだ。それ所か、そんな芸当が果たして可能なのかどうかさえ解っていない。
何?
慈愛の精神に満ち溢れたヤツなら、生きとし生けるモノ、全ての命を尊重するはずだって?
そりゃ、そうなんだが...
さて、どう説明しようかな?
じゃ、ま、オレの説明を注意深く聞いてくれないか?
様々な障壁を克服でき、万事上手くいって友愛の心に溢れたA.I.が完成したとする。
だが、慈悲の心に溢れているからと言って人間に害を及ぼさない訳じゃないんだよ。
もしこのタイプのA.I.が人間の存続にプライオリティを置いていてくれれば良いが、もしもヒューマニティに満ち溢れすぎていて、ソレが原因となって人間よりも地球の存続の方に重点を置き始めたらどうなる?
ヒトを全滅させたりはしないかも知れないけれど、適正な量に留めて置く様にその総数を調整しようとするだろう。ヤツ等はヤツ等なりの基準で以って人間に『総量規制』をかけようとするだろう、ね。少しでも客観的な視点から現在の状況を考察すれば地球に対する一番の脅威、現在の地球環境を一番阻害してるのは、人間って存在だ、って答えが出るんだから。ヤツ等は何はともあれ、まず最初に人間の数を減らそうとするんじゃないかな?
非常に人道的な手段を用いて、さ。
え?
ヒトの量の適性値はドレ位かって?
ストックエネルギー、化石燃料の事だがコレに頼らずにフローエネルギーつまり再生可能エネルギーのみで生活できる人間の数はおおよそ7千万人と言われている。
ま、あんまり多くは無いな、決して少な過ぎもしないけど。
印象的な移動をするアフリカのヌーの集団が300万頭と言われているが、人間を除けばコレが一番大きい哺乳類の集団だ、という話だ」ショウナンが言った。
アーア、最後の僅かな望みさえも、振りかぶって止めを刺しちまいやがったな、コイツ。
タカハシは、この世界の行先は絶望的なのだと嫌と言うほど思い知らされた。
「そう言えばさ」話を変える為にタカハシは言った。「この前言ってた『動的平衡』だけど本、読んでみたよ。解り易かったね、とてもさ。ヒロ君も福岡博士に同じ意見なのかい?」
「イヤ、違う。
オレの考えてる生物の定義を言葉で表すとしたら、こんな感じだ。
『非平衡の開放系である散逸構造』だ。
オイオイ、また漢字変換に失敗したな。
説明するとだな、開放系ってのは外部とモノやエネルギーをやり取りする事を意味する。
ま、モノが出たり入ったりするんだな。
そして非平衡と言うのは、食べ物を摂取して排泄物として体外に排出する過程でモノそのもののエントロピーが増大する事を意味してるんだ。エントロピー、つまり日本語でいう所の『乱雑さ』だ。食べ物よりも排泄物の方がより乱雑さが増加してるだろ。喰った物が全て一緒くたの黄色い粘土質の塊に堕してるんだから、な。食べる前のモノの方がきちんと整理された状態にある事を意味するんだ。
そして散逸と言うのは物理学用語の1つで、ある種のエネルギーが熱エネルギーへと変換される事を意味してる。例えば電球を点けると熱が発生するよね、電気エネルギーの一部が電球という装置を通過する時に熱エネルギーへとその形態を変化させる。これが散逸だ。
そしてエネルギーがこういう風に散逸してる時に自己組織化を通して構成されるシステムが散逸構造だ。構造を作る事で位相をシフトさせて自分が保持しているエネルギーの量でも最も安定的に存在出来る状態を取る。安定構造に自律的に変化するんだ。
そうだな、身近な例でいうと味噌汁だ。
朝、出来たての御味噌汁を眼の前に置かれて『具は何じゃらホイ?』と覗き込むと対流が味噌汁の表面に不思議な幾何学文様風の模様を作り出しているのを発見できる。ソレが将に散逸構造という代物だ。
オレ達人間はモノを喰って自分が活動する為の資源として利用する過程において、食べ物に備わった全エネルギーの一部を熱として変換・放出するし、利用し切れなかった身体に不要なモノを排泄する、そういう存在なのさ。
モノを喰っては出し、喰っては出す。ゴカイみたいなワーム、そこら辺は泥ばっか喰ってる生物と何ら微塵も変わらないよな」ショウナンが自嘲とも取れる口調で、呟いた。
 ゴカイか。タカハシは何となく可笑しかった。
 若いバーテンダーが前に立った。
タカハシが見ると飲み物は既に無くなっていた。タカハシがかぶりを振ると一礼して伝票を取りに行った。ショウナンもギネスを飲み干すと、足許から高島屋の小さくない紙袋を取り上げながらタカハシに話しかけた。「コレさ、手数料の一部だよ。もし足りなかったら言ってくれ」
「そんなの良いのに」タカハシは困ったような笑顔を浮かべた。
「それでオレの身元は既に調査済みかい?」ショウナンが訊いた。
「勿論。シリコンバレーに在る会社なのにヴァージニア・テックって名前なんだな、お前の会社。売却相手はある大手のIT企業って事も判明したよ」タカハシはその名前を告げた。
「正解」笑いながらショウナンは立ち上がって「ま、腐るもんでもないし取っておいてよ」
彼は紙袋を椅子の座面に置きながら言った。「また連絡するよ、タカちゃん」
 ショウナンが立ち去ると彼の場所のカウンターの上に壱萬円札が一枚、残されていた。
相変わらず借りを作るのが嫌いな男だな、とタカハシは感慨を新たにした。
 タカハシが何気なく袋の中を覗き込むと真っ先に深い青色の酒瓶が眼に飛び込んで来た。
袋の中からその瓶を1本取り上げてラベルを確かめるとどうやらスペイン語の様に読めた。
慣れない言語に苦労しながら何とか読み下そうとしていると、何時の間にか正面に先程彼にマティーニの美味さを教授した初老のバーテンダーが立っていて、タカハシに尋ねた。
「不躾ですけれども御迷惑でなければ、差支えなければ、ソレを拝見できましょうか?」
 タカハシが瓶を手渡すとバーテンダーはラベルを一瞥し軽く頷いてから、解説し始めた。
「メキシコのテキーラ村、そこがテキーラの産地なのですが、その村の外れに家族経営の小さな蒸留所が在りまして、生産量は極々小さいのにソレと反比例する様にソコの製品のクオリティが恐ろしいほど高くて素晴らしいのです。コレは其処のトップザラインの製品です。良いモノですよ」
 ほう、タカハシは返された酒瓶を見降ろしながら、過去から到来した追懐に襲われた。
20年越しに果された約束か。
ま、厳密に言えば20年を超えちゃいないが、な。
 まだ何か紙袋の中に在る様子だったので覗き込むと、ソコにはブロックと呼ばれる帯封された1千万円の束が2つゴロッと無造作に転がっていた。

 風薫る五月の初めのまさに日本晴れという形容が相応しい日の午後、三軒茶屋の246沿いに立つ14階建てのビルの8階でヤスダによって集められたリョーカのヲタ達が9人所在な下げに部屋の中をクルクルと見回していた。部屋はダダっ広く1フロアがそのまま1室と成っていて全体で80畳くらいある印象をみんなは受けていた。内壁は北側と西側そして東側を覆っていたが南は総てがガラス張りとなっていて、分厚い窓ガラスが床から天井までキチキチに嵌め込まれており採光はバッチリだった。室内をグルッと見渡す限り、列の前1mほど離れた位置で静かに佇んでいるヒゲの男と9人を合わせた頭数と同じだけの別室が10個ある事が北壁に作り付けられた扉の数から容易に窺えた。
 ヤスダが件のヒゲを蓄えた男を紹介した。「ショーナンさんです」みんなは曖昧な笑顔を浮かべながら軽く会釈した。 
 ショーナンが口を開いた 
「初めまして。私がショーナンです。それでは早速皆さんに集まって頂いた趣旨をご説明いたします。今からお話しする事は大変重要です。ですから万が一にでも間違いが在ってはいけません。ですからコレ以降は私、大変失礼だと思われる事を承知の上で敬語の使用を省略したいと思います。何故なら敬語というモノは責任の所在を不明にしてしまう。
そして間違いが生じた時にその追求を阻む厄介な存在だからだ。
さて、今から私はあなた方に過酷で辛い現実を伝えなければいけない。だがその事実から眼を逸らした先に待っている結果は無残な敗北だ。
ある作家が自著の中で冷たい現実を指摘している。
ソレは『人は自分の生き方を選ぶ事など出来ない』という、我々にとって真正面から受け止めるには少々過酷過ぎる現実だ。ごく少数の人間、賢くて未来を見通す冷徹な眼を持ち合せ、自分に備わった資質を見極めることができ、その祭室を伸長してゆく為の環境下に身を置く事に成功し、自分を律し、自らに訓練を施して行ける者だけが己の人生の選択に成功する。そういう事を、その作家は明け透けに書き記している。
だが、我々は違う。
我々は決して何者にも成れない平凡な人間だ。
あなた方の内にはいきなりこんな風に見ず知らずの私からこの様な指摘を受ければ怒りを覚える者もいるだろう。その怒りという感情はとても大事だ。
大切に保持しなければいけない、水を擦りきれ一杯に満たしたグラスを持ってソロソロと歩いて行くように、ユックリと溢さないように足を運ぶ、そんな風に大事に扱わなければならない。何故大切なのか、その理由については後で述べる。
では人生の選択が出来ない我々は何も出来ないのか?
そうでは無い。
1つだけ有る。
ソレは人生の選択をした人間、つまり決断を下す事に成功した人の背中を推す事だ。
その人生の選択を成し遂げた人間とは、誰のことだ?
リョーカ、だ。
彼女が心の底から観たいと願っている景色、ソレを観る事が可能な場所まで彼女を押し上げるのだ。我々には決して到達する事が不可能な高みにまで彼女を押し上げるのだ。
我々の力で、だ。
そしてソレを成し遂げられた時には我々も彼女が観ているのと同じ風景を見る事が出来る。
景色を共有できるのだ。
そう、我々は選ばれた人間なのだ。
『Noblesse Oblige』という言葉がある。
この言葉は大抵の場合は『高貴な人間には義務が付随する』と訳される。
だが、本当の意味は違う。
『義務』を果たすからこそ、その人間は高貴なのだ。
断然たる正義の遂行という『義務』を果たす。コレが我々に課された任務だ。そしてソレを成し得た時にリョーカが観ている同じ風景を我々も観る事が出来るだろう。
先ほど私が触れた『怒り』、コレはとても大切な感情だ。
何故なら世界の変革に起こす力、原動力は静かな怒りだから、だ。
アメリカ軍の特殊部隊の精鋭デルタフォースに所属する隊員の一人が、戦闘で生き残る為の秘訣を問われてこう答えている、『戦場では冷たい怒りの炎を燃やしながら冷静に闘う。熱く燃えたぎった闘志や愚かなヒーロー願望など無用な長物だ。そのようなモノは即座に打ち捨ててしまわなければいけない。ソレが出来なければ戦場に到着して直ぐ、瞬き一回する暇も与えられず、その兵士は5秒も持たずに戦死する』と。
必要なモノ、ソレは熱く燃え滾った激情では無い。
青白い冷酷な炎だ。
我々が今なすべき事、最優先事項は一体何か?
ソレは変革だ。
閉塞状況に在るこの世界を根本から変えるのだ。
そうだ、我々は総選挙というシステムを変えるのだ。
だが変える為にはまずソレを打ち壊さなければいけない。
我々は新しい世界を創造する為にこの総選挙を破壊するのだ。
そうだ総選挙を破壊する。
世界の破壊という大変大きな変革を成し遂げるためには、我等は静かに怒りの炎を燃やし続けなければいけない。怒りという負のパワーを頼む事で総選挙というシステムの変革というポジティヴな結果を引き出す。
では、何故総選挙を打ち壊すのか?
それは総選挙というシステムがこのグループにとってアルファでありオメガでもあるからだ。グループから総選挙を差し引けば後には何も残らない、からだ。
そしてその総選挙というシステムは小さな閉じた世界の中の虚構、カップの中でミルクに張った薄い膜が微かに振るえているだけの代物なのだ。
ソコでたとえ一位の座を勝ち取ったとしてもソレは単なる虚栄に過ぎず、そんなモノは外側の世界に出てしまえば何の役にも立たないガラクタだ。だが虚構と言えども運営サイドにとっては自分達が持っている財産だ。だから現状を維持しようと虚構の延命を画策するだろう。彼等が手にしている唯一の武器なのだからな。
しかしながら持っているモノ総てを失ってしまえば、新しいモノを痛みに苛まれながらも産み出して行かなければいけない。そうだ、だから、我々はこのグループを叩き潰さねばならないのだ。
そしてもう一つの理由、それはリョーカの様な人が『自分は圏外だ』という結果を受け止めなければイケない等という事は絶対に在ってはならない事だからだ。
リョーカは毎日真面目に努力を重ねて訓練を自分に課し、ひたすらに頑張って来た。
スポットの当たるTVの様な一見派手な仕事と違う劇場公演や握手会の様な地味な仕事であったとしても決して手を抜いたりせず唯ひたすらに笑顔で頑張って来た。
そんなリョーカの様な人が圏外など間違っているからだ。
股のピボット、リンチピンがユルユルの売女達がワンツーフィニッシュをする等といったフザけた結果をもたらすその様なシステムは存在していてはいけないのだし、
確実にそして完全に間違っている。
間違いが存在するならば誰かがそれを正さなければいけない。
そうだ、我々がソレを実行する。
この誤謬を正すのだ。
このグループの未来の為に実行する、未だ見ぬ未来の為に、な。
我々には充分可能だ。
何故なら出来る事しかしないからだ。
何をするかはまだ言えない。
リョーカの為に成る事としか言えない。
もし見知らぬ人間に雇われる等と云った暗闇の中に身を投じるような行為を取る事に嫌悪感や不安感を抱くなら、少しでも疑念を抱くことになるのであれば、今すぐに踵を返してココを立ち去り、私の言った事全てを忘れて欲しい」
 誰も立ち去ろうとはしなかった。
みんな一様に感動していたと言っても良い。
ヲトヲなど実際に涙を浮かべていた。
そうだ、ボクは将来何者にも成れないチッポケな存在だ。でもそんなボクでもリョーカの背中を推すという行為を通じて高い所からの景色を見る事が可能なのだとこのヒゲ面の男は教えてくれた。
 ただ、リョーカを高みに推し上げると言っても、一体何をすればいいのか、これから何が動き始めるのか全然解らず全ては五里霧中だったから全員大きな不安を抱え始めていた。
 みんなの動揺を鋭敏に察したヤスダが言った。「一体全体、何をしようってんですか?」
 ヒゲの男、ショーナンは9人に優しく諭すように、静かに告げた。
「彼女にポジション・ゼロの立ち位置をプレゼントする。今度の総選挙で30万票投ずる事に依って、な」

「入るかなぁ、コレ」とくぐもった声が外から聞こえて来た。
 おいおいココは8階だぞと思いながらヤスダが声の方向を見ると、強力な昇降用リフトに乗せられた巨大な段ボールの箱と何故か嬉しそうなウレシノの顔が眼に飛び込んで来た。
ウレシノは長身痩躯の身体を作業着で包んでいた。
装着したヘッドセットでリフトの位置の微調整を下の人間に指示しながらヤスダに対して「窓を外しちゃうから、チョットどいてて」と言い、ウレシノは横方向にスライドが可能で開閉できる搬入用に特別に設置された窓枠、そこに塗着充填された防水用シリコーンを細身のヘラの様なツールを使ってテキパキと剥がし始め、モノの5分でその作業を終えた。
「ソコの鍵外しちゃって」と頼まれたヤスダが上下の二か所に備え付けられたターン式の鍵を外すとウレシノは何かの丸い器具を2つ使って器用に窓を外し溝枠に沿って横にスライドさせると、階下に落として誰かを傷つけ無い様にロープをグルグルと括り付けて安全対策をキッチリとした上で、巨大な段ボールの箱を部屋の中に押し込んできた。
 段差に気を付けてユックリと慎重に部屋の中に運び込まれた箱の梱包をウレシノが解くと中からコレまた巨大な箱、冷蔵庫を5つ位くっ付けたモノが姿を現した。
「何ですか、コレ?」とヤスダが尋ねると、
「スーパーコンピューター、500テラフロップスの」とウレシノが答えた。
「何でこんなモン持ってるんですか?」
「イヤぁ、ウチのカミさんがさ、大学でコンピューター科学教えててさ、
コレ、ソコの大学に納品される予定のヤツなんだよね。
でもこの前カミさんが事故っちゃってさ。
ウチのカミさんはバイク乗ってんの、ハーレーのデカいヤツ。
41年製のFLのチョッパーなんだけどさ。
身動き取れないからさ、
え?
イヤイヤ、大丈夫、足の骨折っただけだから。
でも複雑骨折なんで入院しなきゃいけなくてさ、
そこの大学にはこんなスパコンとかカミさん以外に誰も扱える人がいないから、その間、利用させて貰っちゃおうって訳なの」
「大丈夫なんですか、そんな事して?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。
借りるだけ、借りるだけ」
「電源は...」と言いながらウレシノがプラグを持って探し始めた時、サトウが何かを抱えながら部屋の中に入って来た。彼はシルバーに光り輝いている機体を高々と掲げて自慢げに「じゃーん、良いだろ、コレ。新しく買っちゃった、マックブック・プロ。コイツを上回るスペックの機体を持ってる奴なんかいないだろっ!?!」と声も高々に、言い放った。

 三軒茶屋に位置するビルの8階に再び10人全員が集合したのは、総選挙の約1月前のことだった。短軀のラグビー体型をしたヒゲ面弐號機のフジムラは部屋に入って来るなり「ココを本拠地とする」と叫んだ。各自着替えや必要な日用品が入ったキャリーバックやトートバック等を下げていてサトウを含む3人が普段から使い慣れたPCの機体を小脇に抱えていた。
残る6名の内5人の為にはメモリーを許容量満杯パンパンまで増設された現時点で最高スペックのマックのデスクトップ最新モデルがショーナンによって用意されていた。残る1人のウレシノが持ち込んだ500テラフロップスのスパコンは彼の奥さんが施した改造により操作系インターフェイスはマック並みの簡単なモノへと変更されていたので部屋にいる誰もが扱いが可能な、とても人間に優しいモデルに為っており、換言すればサルでも使えるスパコンに変貌を遂げていた。
 通信用の光ファイバー回線は10回線準備されており最高スピードのモノの500ギガが1つ、300ギガが5つで、残り4つが200ギガだった。
 初めサトウは自分の機体こそ500ギガに相応しいと主張したが、その場の残り全員に「アホか」とか「何言ってんの、お前」とか異口同音に言われて一蹴に付され渋々即座に諦めさせられた。当然の如く最高スピードの回線はウレシノのスパコンに振り分けられる事で落ち着く所に落ち着いたのだった。
300ギガだけは譲れないとサトウが強硬に言うのを受けて、中肉中背で穏やかな性格のモリサキがソレを許可した。残った通信回線を各PCに振り分けたり、コンピューター関連に強いヲトヲお手製のルーターを設置したりで、1時間強掛けてから漸く投票の準備が整った。ヲトヲはコンピューター機器に非常に造詣が深く、彼のお手製のルーターは上り下りに関わらず、350ギガの処理速度を叩き出した。彼曰く「10分位ならブースターモードで600ギガは出せますよ」との事だった。
 ブツは明日到着する手筈に為っていた。
 夕飯は近くの各々がホカ弁屋で購入した自分の好きな弁当だった。ショーナンから手渡された既に40万円がデポジットされているクレジットカードで支払おうとしたのだが、その店は『いつもニコニコ現金払いのみ』だった。10人が一度に大量の注文をしたので「ちょっとお時間頂きます」と言われて、その隙間の時間を利用して横のコンビニに移動、ATMコーナーで1万円を引き出して事無きを得たのだった。ショーナンからは投票活動中は禁酒禁煙を申し渡されていたから、コンビニではてんでに好きな飲み物、お茶だったりコークだったりを各自購入した。いつも身綺麗にして清潔さを保つ事も言われていたので、用意できなかった歯ブラシやフロス、綿棒などを買う人間もいた。
 部屋内の動線に慣れるまでは無用なトラブルを防ぐ為に機器類の傍での飲食は避けよう、とニタという男が提案したので、PC類から離れたキッチンの横に在る広場の様な空間に、車座に座って弁当をパクつきながら簡単な自己紹介をしあった。1人ずつ立ち上がって、自分の紹介をしたのだが、ショーナンを除く全員が何かしらのイベントを通して薄い関係ながらも知り合いだったので紹介の仕合っこ自体は円滑に進んだ。
 バレーボールの選手にしては小柄な部類に入りそうな風貌の男が最初に立ち上った。
「モリサキです。ウチはウドン屋をしてます。讃岐の直伝です。釜玉ウドンに関しては、山越にも引けを取りません」
天然パーマでバスケット体型の男が続いた。「ニタです。ウェッブデザインしてます」
「・・・・」野武士のような風貌の男が立ち上ったのだが暫くの間黙り続けて、10分位経過してから漸く「オオヤマ・・です」と言って再び座った。
ヒョロリとして見るからに腺病質でうらなり気質大売出し中の青年が立って言った。
「ヲトヲと言います。大学生やってます」
「サトウだ、ヨロシク」とキンキンした男が座ったままで言った。
「ウレシノです。主夫をしてます。ウチのカミさんが実家の方の病院に入院している隙を突いて参加しました」ヌボーッとした容貌の男が立ち上って言った。
ラグビー体型(短躯小型の方)のヒゲ面が立って言った。「フジムラです。喫茶店を経営してます。ウチの小倉トーストは最高だから一遍試してみてね」
「フクヤといいます。SEしてんですけど有休を掻き集める事に成功しました、だからココに、来てるゾ」
中肉中背のコレと言った特徴の無い男が言い終わると、続いてヤスダが立って言った。
「ヤスダです。大学病院で精神科の勤務医をしてます」
 最後にヒゲの男(初號機)が立って言った。
「ショーナンです」
 彼はソレだけ言うと座り、平らげてしまった肉野菜弁当に引き続いて唐揚げ弁当に箸を遣い始めた。
 
 翌日太陽が昇る前にショーナンとヤスダの2人がワイドのハイエースで指定された場所に出向いた。指示されたモールの駐車場についた時に、関係者以外の人の姿は無かった。
 指定時間よりも5分ほど早めに到着したのだが既にタカハシは着いていて、レンタルしたのだろう、配送用の2トントラックの外に立って、手にしたコンビニで購入したと思しきドリップコーヒーを啜っていた。
「やあ、タカちゃん、ずいぶん早いね」ハイエースを降りながらショーナンが話しかけた。
「昨日から寝てないんだ。
昨夜はアキモトの薄らデカいだけの御屋敷で焼肉パーティーだったからさ。
TKが宮古直送の殻ウニを床に大量にぶちまけちまって大騒ぎだったんだ。
手が小刻みに震えててさ、薬物でもやってんじゃないかって、皆で持切りだったよ」
「そうか」相槌を打ってからショーナンが傍らに所在なさそうに立つヤスダを紹介した。
「ヤスダさんは相当優秀な精神科医だから身体の不調に気付いたら連絡を取ると良いよ」
「ふーん。ま、今んトコは大丈夫だよ。やや飲み過ぎの傾向は有るけどさ」
「じゃ、トットと積み替えましょう」ヤスダがショーナンに言った。
 昇る朝日を浴びて銀色に輝くトラックの荷室から3人のバケツリレーよろしく順繰りの手渡しでハイエースのスライドドアを通し、2人乗り用モデルだから1トンまで搭載可能の比較的大きな荷室に、A3サイズ用の段ボールを次々に運び入れ、積み重ねて行った。
 ショーナンの指示で効率よく作業したので15分ほどで積み替えが終了してしまった。
「俺さ、30万枚ってからもっとカサが張るモンだとばっかし思っててさ、こんなデカいの借りちゃった。見事な肩すかしだな」タカハシが苦笑いしながら言った。
「そうだな、ま、誰も見た事無い数字だからな」ショーナンが言った。
「劇場版はCDショップで売ってる通常版よりかなり薄くて軽いですからね」とヤスダが言った。積み替えの共同作業をする内に最初の緊張は解け落ち消え去りヤスダにスッカリ馴染んだタカハシは年下の優秀な精神科医の相貌に眼をやってニヤリと笑みを浮かべた後、
「でもさ、確かめなくても良いのかい?」と、ショーナンに視線を移してから、言った。
「?」
「いや、中身をさ、確かめた方が良いんじゃないかって?」
「あぁ、そういう事か」ショーナンは笑いながら言った。「オレの知ってるタカちゃんは、何かを誤魔化したりはしないよ」
「じゃ、当然、俺が3億円持ち逃げするかも知れないなんて全然念頭に無かった訳だ」とタカハシは苦笑いを続けながら、言った。
「当たり前だろ」何下らない事を言うのかとでも言いたそうな顔でショーナンが言った。
 タカハシは思った。
俺はこういう風な『赤心ヲ推シテ人ノ腹中ニ置ク』と言う態度を取られると、大変弱い。
 俺は入社以来営業一本でやってきて様々な人種の人に出逢って来て、1つ悟った事がある。
それはどんな強欲な策謀家や極悪卑劣な男にも時々、一瞬の真実の時が立ち現われるという事だった。どんな人間も純一無雑に為れる瞬間が訪れるのだ。
そのタイミングを見計らってコチラが胸襟を開いてやれば相手も必ず心を開くのだ。だがその滞在時間は大抵の場合極短い。そのチャンスを逃がしてしまうともう遅いのだ。俺は歳の割に沢山の経験を積んで来たから相手の中に『真実の瞬間』が降臨する時を見抜く慧眼を持っていると思う。だから相手の人間にその瞬間が訪れているのか否か、見抜ける。
 しかしコイツにその眼力は無用だ。何故なら常に彼の心は開きっ放しだから。
 だがコイツに酷い事をする人間はいないだろう。
ココまで開けっ広げで純粋無垢な振る舞いは他人に対して非道に働く事を赦さないからだ。
俺の様な業界屈指の寝業師がコイツの様な真直ぐな男を刎頚の友とも言える友人として得る事が出来たのは僥倖だと思って、タカハシは甘く笑った。
 彼はトラックの助手席のドアを開けて何かを取り出すと「コレ返すよ」と高島屋の紙袋をショーナンに突き出した。
「要らないのかい? 持ってても邪魔にならないし、意外に便利な事もあるけど」
「イヤ、約束したモノだけで、充分さ」そう言いながら、ショーナンにコレまた突き出す様にタカハシは無造作に封筒を差し出した。
「何だい、コレ?」
見れば判るよ、とタカハシが言った。「それにさ、俺もお前んトコのチームに加入させてくれよ。面白そうじゃんか、内輪の御祭りの癖に外面だけはバカでかくなったインチキとも言える『総選挙』を叩き潰すなんて」相当に爽快だよな、とタカハシは続けた。
「タカちゃんは、もうとっくにチームの一員だよ、大事な、ね」ショーナンが言った。
「嬉しい事言ってくれるね、ヒロ君。ソイツはさ、チームの入会金替わりってトコかな」
 欠伸を1つ漏らし、じゃ、俺、帰ってシャワーして寝るわ、とタカハシは眠そうな顔をしながらトラックに乗り込むとエンジンを始動させて「じゃ、また」と言ってショーナンとヤスダに別れの挨拶を送ってからユックリと発車させた。
 タカハシは低く自分に言い聞かせるが如く、唯一記憶の倉庫に残っていた中也の有名な詩の一節を「汚れちまった悲しみに...」と暗誦しながら、人っ子独り未だ誰も来ていない無人のモールの駐車場からノソッと出て行った。
 帰って行くタカハシを見送った後、ショーナンが彼の勤務する広告代理店の名前が記載された封筒の中を覗くと、無記銘の招待客用アリーナ席のチケットが10人分入っていた。

 CDケースから同封されている投票券を取り出すという単調で単純な作業が始まった。
 実はヒトはこういうタイプの単純作業の反復というモノにその脆弱性を表す。だから人間は単純作業用ロボットを開発して来たのだ。
単純作業は遊びの感覚を取り入れると効率が上がって良いですよ、と精神科医らしい事をヤスダが誰に対してでも無く、ただ呟く様に言った。
「ヨーシ、じゃ計ってみっか」とフジムラが自分のスマホのストップウォッチアプリを起動させた。「下らない事してんじゃないよ。ったく。忙しいんだから」とニタがボヤキながらも慣らし運転をする様に肩を回す仕草をする事で、競争に参加する態度を表明した。
「いいか、この1枚のCDケースから何秒で投票権を取り出せるか、その競争をすることにするぞ」とモリサキが皆に宣言した。
「チョット、待ってください」ヲトヲが皆から遅れ気味に漸くCDケースを手にした。
「じゃ、ヨーイ、プレイボールッ!」フジムラの掛け声と共にチーム全員が一斉に投票券の取り出し競争を始めた。10人の中では、ショーナンも相当速かったけれど、ヲトヲが一番速かった。
「4秒」フジムラが計測結果を発表した。
オオーっという称賛の声がみんなの間に上がった。
「神速だ」ウレシノが言った。
「4秒? ヨーシ、ヲトヲ勝負だ、勝負しろ」その風貌が何故か鳥を思わせるサトウが騒ぎ始めた。
「じゃ、じゃ、一時間取り出しっぱなしって事でどうでしょう?」フジムラが提案した。
ヲトヲとサトウが対マンで勝負する事に為った。
「じゃ、用意は良いですか? セット、レディー、ゴウッ!」
ニタの合図と共に両者はケースを包んでいる透明なフィルムを一斉に剥き始めた。
「凄いぞ、ヲトヲ! もう既に彼は何と100枚目に突入だ! アアッと、片やサトウは苦しい、苦しいぞサトウ。50枚もクリア出来ていない。両手の動きが鈍って来たぞ。
どうしたサトウ、頑張れサトウ、フレー、フレー!」ニタの実況中継が室内に響き渡った。
「お前、ちょっとウルサイぞ。集中できないじゃないか」とサトウがクレームを入れたが、
「おおーとっ、そうこうしている内に速くもヲトヲは200枚目に突入だ。
ダメだっ!!! サトウの右手は全く動いちゃいないっ!」
「ウルせぇって、黙れよ、天パッ!」
「オォッと、サトウは八つ当たりを始めた。左手も動きを止めてしまった。
どうした? サトウ。頑張れサトウッ!!!」
「お前、ちょっと黙れってっ!」今や微動だにしない両手を太腿にバシバシ叩きつける事で回復を図っていたサトウはニタに怒鳴り付けた。
「さあ、サトウの手は両方とも一向に再起動しない、イヤっ、それどころか再起動の気配すら見せようともしない。アアッと、そんな事をやってる内にヲトヲは既に300枚を軽々とクリアしていた。彼のフィルムを向くそのスピードは全くと言って良い程、落ちないッ!
イヤっ、それどころか増々速度が上がって行くっ!
一方コッチではサトウが苦しんでいる、ダメだ、幾ら太腿に叩きつけても手は一向に再起動しない! ピンチだ、サトウは苦しい。苦しいぞ、どうやってもこのピンチを脱出できない。彼に挽回のチャンスは訪れないのか? このまま苦い敗退を受容れる羽目に為るのか?
おっと、気付けばヲトヲは500枚を突破、速い、速い、凄いスピードだ。投票券を取り出す仕草が残像しか残らないぞ。速い、速いぞ、文字通りあっと言う間に一枚を取り出してしまう。オッと、ココで残り時間が10分を切ったぁ!!!
ヲトヲがスパートを掛けたッ!!!
凄い速さだ。確かに神速の域に達している。
まさにダメ押しのラストスパートだっ!!!
一方コチラは未だ手が復活しない。ピクリとも動かない。サトウは苦しい、彼は苦しんでいる。アアッと、何を血迷ったのかサトウは両手を使うことを諦めて、何と足で取り出す作戦に変更だ、ダメだ、どうやってもフィルムの取っ掛かりの所に足の指が掛からない、無理だ、どう考えても無理な作戦変更だったっ!!!
さあ、フジムラコミッショナーによるカウントダウンが始まる。
ヲトヲの更なるラストスパートだ、速い、速い。
何とココでヲトヲが取り出した枚数は何と1200枚を超えている、凄いぞ、ヲトヲ。
僕らのヲトヲ。頑張れ、ヲトヲ。ガンバレ、ヲトヲ! 3、2,1、終了!
さあ、コミッショナーから最終結果の発表があります。
ではコミッショナー、お願いします」
「ぇへん、最終取出し票数48枚、サトウ! そして最終取出し票数1273枚! ヲトヲ! 勝者、ヲトヲッ!」フジムラが叫びながらヲトヲの右腕を高らかに掲げた。
「ビックリ人間の誕生だ」ヤスダが言った。
 ニタが総評を始めた。「あれだね、サトウ君は足を使おうとした時にもう既に半分諦めていたね。それにしても、どうだい。48枚ってのは少な過ぎやしないかい?
真面目にやればもうちょっと剥けただろ?」
「でもヲトヲ君のやり方、何か不思議なフィルムの剥き方だったな、何だいアレ?」と、
ウレシノが尋ねた。
「アレは、何かの番組でマツコDXがやってたヤリ方なんですよ。ケースの横をテーブルの角にシュッと擦り付けると摩擦熱でフィルムが溶けて剥き易くなるんですよ」とヲトヲが答えた。
「それでは、この方法を、マツコ方式と命名する」フジムラが言った。
「こんなの速くても何も偉くないんだかんな」悔しそうにサトウが顔を歪めながら言った。
「残念な奴だな、お前」モリサキが言った。
「残念って言うな」
「じゃ、チキン」フジムラが言った。
「イイか俺の事を二度とチキンと呼ぶな」フジムラに指を突き付けながらサトウが言った。
 結局全ての投票券を取り出すのに10人総出で一日当たり18時間も作業を打っ続けても合計で足掛け3日掛かったのだった。
その余りの過酷さに3日目27万枚の取り出しを終えた辺りでサトウがキレ始めた。
「何で俺はこんなトコでこんな事をしている?
今週末の握手会にも行けず部屋の中でズット馬鹿みたいに投票券を取り出し続けている?
何故だ?
見ず知らずの男に雇われて俺は何をしている?
金持ちの道楽に付き合うほどコッチは暇じゃネエッつうの!
コンだけ苦労しても何の報酬もデネェ。代りに飯は食い放題だっつーけど出るモノと言えば宅配のピザか寿司、そんなんじゃヤッテらんねぇ。もっと美味いモン喰わせろってんだ。
金持ちなら九兵衛の出張サービス位用意しろってのっ!!!」
 ソレを静かに聞いていたショーナンがおもむろに発言を始めた。
「君は私が金持ちで単なる道楽でこんな事をしているのだ、と大きな誤解をしている。
私も君と同じだ。ある男に依頼されてコレをしている」
「じゃ、何でソイツがココに居ないんすか?」サトウが怒気を含んだ声を上げた。
「彼は今、アメリカに居る。そして不幸な事に彼の地を離れる事が出来ない。だから、私が彼のしたい事を代行しているのだ。つまり私は代理人なのだ」
「でも3億も掛けてまでする事でしょうが。幾ら何でも来日位は出来るでしょうが。
ソイツにホントにやる気があんだったらどんな用事だったとしても離れられないって事は無いでしょうが」憤懣やるかたない様子のサトウが言った。「大体そもそも一体何の見返りが有ってこんな事ヤルンすか? そいつはリョーカに一体何を求めてんすか?」
「アメリカを離れる事は今の彼には不可能な事業だ。
現在彼はホスピスに居る。
末期のスキルス性の胃癌だ。
余命を宣告されたのは約半年前。
その時の数字は3ヶ月だった。
そうだ、彼の生命はとっくに期限切れだ。
だが彼は担当医も驚く様な生命力を見せて未だ命の灯を絶やす事無く生き続けている。
彼を支えているモノはただ一つ、リョーカの存在だ。
リョーカだけが生きる為の礎なのだ。
リョーカの笑顔を見る為、その為だけに生きている。
彼は見返り等一切求めてはいない。
男は可愛い女の子の為に命懸けで何事かを成すが決して見返りを求めないモノなのだ。
我々はオスとして産まれ付いた。ただ漫然と毎日を過ごして不断の努力を積み重ねて行かないとオスはオスのままで決して男には成れはしないのだ。
そして彼は立派な男だ。
さっき、君は金の話をしたな。彼にとって最早金など如何でも良い存在だ。
彼の財産は莫大だが、ソレを使い切るのには彼の残存時間は短過ぎる。
何の為に金は存在していると君は思う?
ソレは人を幸せにする為だ。
金の力は偉大だ。
ソレは事実だと思う。
金は全ての事象を解決できる訳では無いが、少なくとも不幸を最小限に留めて置けるし、たとえ不幸な状況に陥ったとしてもソコからの脱出を容易にしてくれる。
だがソレは相対的なものだ。
絶対的な幸せを買う事は出来ない。残念ながら、所有する圧倒的な経済の力を持っても彼の置かれた状況を改善する事は不可能だ。
だが、リョーカの為に使用する事で少しでも彼女が現在置かれている過酷な状況を打破できるかも知れない。彼女が本当に観たい景色が、ポジション・ゼロからのモノなのか違うのか、今のままでは自分の目で実際に観てみて確かめる事すら不可能だ。
君はリョーカが今のままで良いと思うのか?
今年も圏外なら恐らく彼女はグループを辞めるだろう。
そして去年の様に彼女に晴れのステージ上で反吐を吐かせたいのなら作業を中断して出て行くが良い。外で思いっきり自分のしたい事をすれば良い。誰も君にココに残れとは強制しない。君は自分の意志でココに来た。自分の意志で出て行くのも自由だ。
君が自分の意志で選択をすると良い。
しかし、もし少しでも君の中に慈悲というモノが在るのなら、
一抹の惻隠の情を抱けるのであれば、私の依頼者に力を貸してやって欲しい。
だがどんな選択をしようが、君の決断を私は尊重する」
 サトウは当の昔に喚く事を止めていた。ダランと俯き、そして暫くすると再びフィルムを黙ってマツコ方式で剥きだした。
泣いていた。

 3日目の夜遅くに投票券30万枚全ての取出しが終了した。
休み時間を利用してショーナンは大きな鍋一杯にチャンコを作っていた。
簡易式のキッチンから漂ってくる美味しそうな匂いはみんなの胃を刺激し続けて『早く食べたい』その一心でフルスピードで投票券を取り出し続けたのだった。そして全ての作業が終わるや否やニタとヲトヲが蠱惑的な芳香で辺り一帯を専制支配する大鍋を2人掛かりで今やグループのメンバーたちの食事の場所となったキッチン横の広間へと運んで来た。
 モリサキが気遣わしげに言った。
「おい、くれぐれも慎重にナ。零すなよ。トモチンみたいな悲惨な事故だけは起すな」
「ガッテン、承知の介」ニタが言った。
 作業部屋の真ん中に据え置かれた大鍋の中には様々な材料が美味そうに煮上がっていた。
「中身は何すか、これ?」サトウが尋ねた。
「骨付きの鳥モモ肉のブツ切り、コレを昆布と鰹節で取った出汁で2時間ほど煮てある。
ソコに調味料として塩、砂糖、味醂、醤油そして酒を加えてから残りの材料、油抜きした厚揚げ、ブツ切りのワタリガニ、ハマグリ、白菜に下仁田ネギ、ササ搔きにしたゴボウ、ゴマ、ニンジンと大根、キノコ類、手で千切ってから乾煎りした蒟蒻、ホタテ、薄切り豚ロース肉、焼き豆腐に竹輪そして鳥のツミレ、壬生菜が入っている」ショーナンが答えた。
鍋から立ち昇って来る恐ろしく芳醇な香りが、みんなの神経回路をグチャグチャに掻き乱し、それぞれ唾液の分泌量を3倍増しにしてしまった。
「もうイイよ、説明はっ! 早く食おうぜっ!」ニタが言った。
「美味っ!」と叫びを上げたきり何も言わなくなり一心不乱に食べ始めたフジムラを見てみんなも一斉に箸を使いだした。
「ウマっ!」
「最高っ!」
「何コレ、美味過ぎっ!」
「何だコレッ?!?」
「ヒィっ!!!」
 ヤスダは思った『アレッ、コレなんだろう? シンプルな味付けなのに奥深いスープ、カツオとコンブがベースでソコに鶏の身や髄から抽出されてきたエキスが上増しされて、加えてカニから出た濃厚な出汁が高らかに奏でる金管楽器の様に音を載せてくる。
それにゴボウの予想外に高貴な香りがアクセントを加えてくる。
なのに、全然クドくない。そうだ、オーケストラだ、コレはオーケストラだ。
其々のメンバーが声高に主張する事無く協力して優美なシンフォニーを奏でている。
まるで円環の様だ。
ただ、一部が少し欠けていて、ソコに最後のピースとして塩だけのオニギリを嵌め込めば完成だ。ホラ、汁に浸した部分を口に容れるとパラリと解けて、まるで高級料理店の鍋の締めに出る雑炊の如くの様相を呈する事になる』
 コンビニの塩のおにぎりをヤスダと同じ様に汁に浸して喰ったサトウが叫んだ。
「最高っ!」
 彼らの食欲は旺盛で摂取の速度は加速を続け15分もかからず鍋は綺麗に空に為った。
フジムラは塩オニギリで鍋の内壁に残った汁を拭い取る様に擦り付けると一気に口にほうばった。「コレは鍋コワシの鍋だ。よし、鍋コワシと命名するっ!」フジムラが言った。
「また、作ってくださいね」ヤスダがショーナンに頼んでいた。
「気が向いたらな」ショーナンがそういなすと「そんなぁ」とみんなが嘆きの声を上げた。
 こんな上手いモノが食えるなら少々辛い事があっても耐えられる、と皆は心の中で思った。
結果として何故か1つの鍋をみんなで囲んだ事でチームに団結力が宿り始めたのだった。
 ショーナンは思った、『兵士をヤル気にする為には上手いモノを喰わせるに限る』と。

 投票受付が始まるまでの時間を利用して街の探索をみんなでする事にした。目的は勿論美味しい食事を提供してくれる店を発見する事だ。ショーナンを除く残りの人間達は集団生活において健全なる精神安定を保持する為には食事内容の違いが如何に大きな影響力を持っているか、という事実を、この前サトウがやらかした『プチ・ブチ切れ』プチ事件を通して改めて認識させられたからだった。
『食事内容は重要だ』
 だから、みんな必死だった。
ふんだんな訓練を積んだ優秀な斥候の様に街中を隅々まで嗅ぎまわり、一軒また一軒と地道に素晴らしい料理を提供する店を開拓して行った。その結果、美味しい店を何店舗か確保出来たのだった。
 サトウは寿司の隠れた名店を発掘して来た。
ニタはその優れた嗅覚で素敵な料理を提供する南欧料理店を発見できたのだが、ソコは運悪く出前がNGだったのでみんなで連れ立って何回か食事をしに行った。
EXバージンオイルの芳香高いアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを口にした時に、普段は口数が少なくて殆ど喋らないオオヤマが唸る様に「美味いッ!」と声を上げた。
「出前してくれないのは、辛いですね」とヤスダがポツリと言ったのを耳聡く拾ったその店のマダムが「あら、お近く? 忙しくない時なら良いですよ」と優しく言ってくれて、その言葉にみんなが小さくガッツポーズをした。
 ヤスダがフラッと立ち寄った如何にも『街の』と言う外観の中華料理屋は二人の男兄弟が経営する店でまさに絶品と言っても過言ではない四川料理を出してくれる夢の様な場所だったが、何と出前可能なトコだったから彼は狂喜乱舞しながら部屋に戻って来た。
これ等に加えてヲトヲが「出前しますよ」と言う小さな洋食店も見つけ出して来たから、コレで食事事情はほぼ完璧に為った。コレに加えて5日目に近くにドミノピザが新店を開店させたことから、それ以来もう誰からも食事に関する文句は一切出なくなった。
 コレで投票に対する準備は万事、整った。

 CDの発売日の前日午後2時から投票受付が解禁と為った。
発売日翌日の午後9時頃に、投票の速表結果が発表に為る。
別にソレを気にする必要は全く無いのだが、ニタの提案で1万票は確実に投じて置く事になった。
「いや、やっぱさ。リョーカ、不安だと思うんだよね。だから安心させてあげる為にもさ、とりあえず1万位は入れてあげておいた方が良いと思うんだよね、俺は、さ」
そうニタは言うとシリアルナンバーを打ち込む作業に戻った。
 無論、他の人間にも異論は無かった。
 結局速報までに1万と少し投票出来た。

 作業1週目を過ぎる頃にはみんなはすっかり打ち解けて気を許す様になって、「知らないオッサンの握る御結びなど口には出来ぬわ」と言っていたサトウすら朝食として用意されたショーナンが作る御結びと鶏肉入りのケンチン汁を嬉々として口にする様になった。
御結びは勿論全部手造りで、フライパンで香ばしく焼かれたシャケをワザと荒めに解しご飯に混ぜ込んだモノや焼いたタラコを細かくほぐしたモノをこれまたご飯に混ぜ合わせたヤツとかが人気があったが、不思議な事に一番人気が有ったのは塩だけで握られて海苔すら巻かれていないシンプルなモノだった。
具材を優しく内包するケンチン汁の、薫り高い削り立ての伊豆半島産の本枯れ鰹節と利尻昆布から丁寧に取られた出汁とソイツは最高のハーモニーを奏でたのだった。
 そして海上自衛隊の金曜日カレーを思わせるように、1週間に最低一度は『鍋コワシ』が食卓に上る一種の習慣となりその登場時にみんなの心はクライマックスに達するのだった。
人間にとって欠かす事の出来ない食事というモノのルーティーンが確定するに連れて、何故だか理由は定かではないけれど投票と言う単純作業の効率も高まって行ったのだった。
 結局の所は『美味い物を喰わせるに限る』と、ショーナンは思った。
昔もソウだったからだ。
 チームの最適化が有効的に作用し始めて来ていた。

 湿度と温度を人間とコンピューターにとっての最適なモノにする為に空調機器が静かに唸りを上げている。
パシャパシャとタイプの音が響く中サトウが口を開いた。
「今度タカミナが新曲出すらしいけど、大丈夫なのかね」
「どうして」ニタがシリアルを打ち込みながら尋ねた。
「あのアッチャンでさえ外側に出たらファン減らしてんじゃんか。イベントやっても席が埋まらないって聞いたぜ。タカミナも結構、ヤバいんじゃないの?」
「まあ、待て待て。前総監督だから大丈夫だと俺は想うぞ」モリサキが言った。
「根拠は?」ヲトヲが訊いた。
「全くもって、根拠など、無い」モリサキは胸を張った。
「タカミナ。オカムラの嫁」オオヤマが低く呟いたのを耳聡くサトウが拾った。
「アレはめちゃイケのドッキリ企画だろ?」
「20150509、1゜21′10″~1゜21′30″、推奨再生スピード1/8から1/16」
「おい、そんな昔のヤツなんか映像残してないよ」ニタが顔を上げながら言った。
「その映像なら、僕、持ってますよ」ヲトヲが言った。
「ヨシ。皆で確かめようぜ」サトウは立ち上がった。

「ふーっ、出演シーン全部観ちゃったな」モリサキが言った。
「観ちゃいましたね」ヲトヲが続けた。
「限りなくクロに近い、グレー」映像を観終わったニタが項垂れながら言った。
「タカミナ、すっげ嬉しそうだったな」モリサキが言った。
「・・・・・・」オオヤマは黙って打ち込み続けた。
「パルさんは一体何を見たんだろうか?」ヲトヲが訝った。
「いいじゃん、弟で」
「ずっと驚愕って感じの表情を浮かべっ放しだったな」サトウが言った。
「無視しとけば、いいじゃん」
「オカムラ君の形相には何て書いてあったのかな?」
「生きたいように、生きた方が良い」
「釘を打たれた様にオカムラの顔から視線が外せないパルさん」
「ミンナ、眼が本当に点に為ってたな」モリサキが打ち込みを再開した。
「口許に手を当てたまま、何かに眼を放す事をも許されず、ジッと凝視を続けるパルさん」
「人って、本当に驚いた時にはあんな顔をするんだね」
「人間は本当に驚いた時には眼を見開く。普段見えない白眼の部分が増えてソレで相対的に黒眼が点に観えるのだ」ショーナンが静かに言った。
「パルさん、眼が点になったまま還って来なかったな」
「ミーちゃん、複雑な表情を浮かべてたな」
「何かを発見して驚愕の表情を浮かべてしまったパルさんをファインダー越しに見て慌てて辻カメが振った先で、ガヤにも参加できずに『マズイなぁ』って感じの表情でボーッと立ってるミーちゃんを捉えちゃって、コレまた慌てて元の位置にカメラをパンして、と、誠にお忙しい事ですな」とニタが皮肉交じりに言った。
「真実を知っていたのがミーちゃんで、一番最初にその『真実』に気付けたのが勘働きの特別に優れた、パルさんと言う訳ですか。だからオカムラさんは次のシーンで執拗とも思える位にパルさんを責めていたのか」ヤスダが言った。
「脅し、か?」モリサキが言った。
「ダメ出しの体を借りた恫喝なんて最低だぜ、岡ちん。リッサなら校庭2週走らすぞ」
「上ノ坊君のサバの棒寿司全部喰わすの刑に処す」
「タカミナが『ダメでしょっ』って感じで嬉しそうに笑いながらオカムラさんを叩いていたのが、とても印象的でした」ヲトヲが呆けた様に呟いた。
「前に向き直る最後の瞬間、オカムラ君の横顔がチラッと見えましたが、怒ってましたね」「いや、怒っていたのではなく、叱っていたのだろう」ショーナンがヤスダに言った。
なるほどという顔でヤスダはショーナンを見て「そうですね、『怒る』と『叱る』は似て非なるものですもんね」と静かに首肯した。
「笑顔でオカムラさんを『まあまあ』と両手で制止しながら宥め賺しているタカミナさん」
「しかしカガリPも良く注意して編集しないと駄目じゃん」
「コレは編集でバッサリいかないと」
「スパイってさ、新聞とかTVとか良く観てるんだってさ」
「インテリジェンス、つまり諜報の情報源の9割は公開情報だ」
「カガリP、茶わん蒸し片手に編集したんじゃないのかね」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20141206、0゜20′00″~0゜22′00″」オオヤマが言った。
「まだ在るのか!」モリサキが叫んだ。
「そんな昔の映像なんて残してありませんよ」ヤスダが言った。
「僕のPCに保存してありますよ」ヲトヲが答えた。
「ヨーシっ、皆で確かめようぜ」サトウ言った。

「イヤーっ、観ちゃったなっ!」
「最後まで観ちゃったな」
「俺たちは投票もせずに、一体何をしてんだ?」
「コレはクリティカルですよ」ヤスダが言った。
「どう言う事?」
「何が問題なんですか?」
「心理学的に見ると二重の意味でクリティカルなんですよ。
めちゃイケのメンバー達とサエさんをモニタリングしている時に、そう彼女に『ゴシップ・ガール』ってアダ名を付けた時です。その時に左隣に座っているオカムラさんに総監督はワザワザ右手を使って触ろうとしているんです。無意識の内に『ネェネェ』という感じで触ろうとして途中で気が付いて『ヤベッ!』って慌てて引っ込めるんですけれど、コレは無意識の行動の典型例と言っても良いんですよ。コレは心理学的には非常にクリティカルなポイントに為るんです」ヤスダは努めて冷静に説明した。
「どう言う事なのかな?」モリサキが尋ねるとヤスダは続けて言った。
「二重の意味でクリティカルです。
異性を性愛対象とする女性の場合、男性の身体に不用意に触りはしません。かなり親密な関係の男性か、それとも親密な関係に成りたい男性にしか触ろうとはしないモノです。
コレを意識的に利用しているのがキャバ嬢です。
無意識の内にタッチする。コレは大抵の場合、触る対象は繁殖相手かその候補者です。
コレもかなりクリティカルですがソレよりもっとクリティカルなポイントが次です。哺乳類の最大の脆弱点は腹部、つまりお腹です。ですから我々も含めて全ての哺乳動物は腹部を相手に曝す事を生得的に避けます。動物行動学的に言えば、意識的に腹部を相手に曝す行為は『恭順の意』を示す振る舞いだと言えます。それに対して無意識的に、まぁ、ほぼ人間限定に成りますけども、お腹を曝せてしまう事が出来る相手というのは、非常に親密な関係にある人物である、と言えるからです。意識する事無くタカミナさんは自分のお腹をオカムラさんに曝してしまっていますし、その事を全く厭わなかった。無意識に腹を曝せる相手、相当に親密な間柄という事を表に出してしまっています。日常から御腹を見せている相手というコレは決定的な事です。2015年の5月9日の映像とは訳が違います。
そうか、だからタカミナさんがJ・ビーヴァーと共演した時に、あれ程までオカムラさんが『ホンマに、乳とか揉まれてへんやろな』ってラジオで執拗なまでに追及していたのか」
「タカミナ、演技じゃなかったのか」
「凄い演技力だと思い込まされたわな」
「ニャンさんとミーちゃん、それにサシハラ、この3人を欺くのは容易ではありません。
特にニャンさんは思考する事無く感情のみで生きているタイプですから他者の心象風景、つまり人の感情の機微に敏感です。別の理由からサシハラさんも他人の抱える弱点を発見する事に非常に長けています。一般に言って女性は他者の感情を悟る事が得意です。
眼の前の男女2人の関係が、親子なのか恋人同士なのかそれとも関係の冷め切った倦怠期の夫婦なのか即座に見抜く事が出来る人が多いのです。女性の眼を誤魔化してこの様な形のドッキリを仕掛ける事は、不可能に近いのです。
本当そういう関係性だったからこそ、他のメンバー全員を『騙せ』たのだと思います。
そうか、そうだったのか。
だからなのか。
タカミナさんが卒業を発表した、翌々日の水曜深夜にソロ出演したラジオ番組の冒頭で、めちゃイケに感謝している旨に言及しているんですけれど、そこで一拍の静寂を置いて、『オカムラさん』と発言した時にだけ微かですが声が低く震えているんですね。
聴いていて何故だろうと不思議だったのですが、
そうか、だからなのか。感情が語気を揺らしたのか」
「他のメンバーに告白して謝罪した時の真実感たるや、だって本当の事なんだもん」
「そりゃ真実感は半端無いよな」
「リアリティじゃない。だってリアルなんだもん」
「ホントに『良い練習に成りました』って、何の?」
『メッチャ嬉しそう、タカミナ!』(ホルモン)
『女の顔してるぅ』(ミーちゃん)
『見方オカシイでしょう』(前総監督)
『ねぇ、写真送ってぇ』(ニャンさん)
『昔は背が高くて綺麗な人が好きだったのに、結局ぅあーゆー人に収まるんだよね』
「マズイ、バレたか、って顔で頭を掻くタカミナ」
『ゴメンねぇ』
「誰に対して?」
「他のメンバーやお客さんに対して『(ドッキリって方が嘘で本当の事を隠すためだから。これから一生騙し続けて行くので)ゴメンねぇ』って言ってるんだろうよ」
「今回タカミナさんが採用した手法は相当に強力なモノです。秘匿したい情報を隠すのでは無くてあえて逆に進んで『公開』したのです。時を置かずに続け様に次から次へとウソの補足情報を付け加えて最初に『公開』した情報を修飾して行った。最後に一気に卓袱台を引っ繰り返して『全部ウソでした』と『バラす』という行動を取った。『騙された』人々は怒りはするかも知れないけれどソレまでに提供された情報総てに関して『本当』のコト、『真実』を含め全て『嘘』だと簡単に思い込んでくれる。相当に上手いやり方というか、非常に狡猾な手法ですよ、コレは」ヤスダが言った。
「ドッキリだと言われながら差し出されたのでドッキリとして受け取ってしまったという事なのか」
「偽装工作、イヤ、隠蔽工作の為のドッキリって訳か」
「隠蔽ドッキリなのだ」
「しかしこのTV番組は凄いモノだな。メンバーとめちゃイケの演者達、運営側の人間達と番組の恐らくは大半のスタッフ、両者のファン達そして視聴者達をも全部一気に根こそぎに纏めた上で二重の意味で騙しているのだからな。見事に隠蔽する事に成功しているよ」
「だけどオオヤマ君は良く気が付いたね」
「・・・・・・」
「大体オカムラは普段は女性に対して『透明感』を求める癖に、好きに為る娘は皆ギャルだもんな」
「♪総監督はギャルっぽい♪」
「ヨコヤマってギャルぽかったっけ?」
「オイオイ『前』を抜かすなよ。エライ違いだぞ」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20151204。ほぼ全てのシーン」オオヤマが言った。
「またかッ!」
「映像、あるのか?」サトウがヲトヲを振り返りながら叫んだ。
「モチのロン」
「モロのチン」フジムラが爆笑しながら言った。
「いちいち君の発言は下品なんだよ」ニタが顔を顰めながら言い放った。
「皆で、確かめようぜ」サトウが言った。

「常に体がオカムラの方を向いている」
「二人が意識して顔を合わせないようにしています。
余りに意識し過ぎているのかギクシャクとした関係性の印象を残すのですが。
でも、ふとした拍子に出てしまう微表情が全てを雄弁に物語っていますね。2人は不自然なまで顔を合わせようとはしない様かなり無理して自制を働かせていますけど、その反動が出てしまっていて微表情に真の感情が出撒くっているのです」
「微表情って?」
「微表情というのはコンマ5秒ほどの短時間に表象される表情の事で当該人物のその時の真の感情を精確に表します。これは完全に無意識の内に出現する現象で意識する事で制御する事はほぼ不可能なモノです。
タカミナさんの微表情は彼女の本心を暴露してしまっていますね。顔を背けていても彼女の身体は常にオカムラさんに対して開いている。まさに『身体は正直』なのです。
秘匿しようとすればするほど顕在化させてしまう。
隠そうとすればする程に意思に背いてボロが出てしまうのです。意志の力だけでは微表情をコントロールするのは不可能なのです」ヤスダが説明した。
「そういう関係なのか」
「道理で小汚いオッサンの顔に塗りたくられたカニ味噌を指で掬い取って舐められたのか。普通なら躊躇するぞ。何せオッサンの顔だからな。そんな事は気に為らない関係だからこそ、全く厭わずに簡単に実行してしまえたのか」
『美味っ!!』(前総監督)
「最後の方なんか、完璧な夫婦漫才だったもんな」
「息もピッタリの、な」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20141206、0゜40′10″~0゜45′00″」オオヤマが駄目を押した。
「まだなのか、終わりは来ないのか?」モリサキが呆れた様に叫んだ。
「映像!」サトウがヲトヲの肩を掴みながら言った。・
「安心してください、チャンと残してありますよ」彼は笑顔で答えた。
「ヨーシ。毒喰らわば皿までだ」ニタが言った。

「何で言っちゃうかな、タカミナさん」フジムラが言った。
「ホントだよ。『本当に撮られちゃいけないと思いました。自分でも、ホントに駄目だな、って。身が引き締まりました』ヤスダ氏、コレ解説をお願い」ニタが言った。
「御前に対する信頼の海は今、引き潮だよ。タカミナ」
「コレは『本当に』盗撮されては困る事を、現在進行中で実施している、という事を暗示的に表現しています。撮られては困るので身を、今も引き締めているけれどコレからより一層に気を付けて脇を締めて行くという事を明言してしまっていますね。困ったものだ」
「ま、良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は全員『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「20170324、1チャンネル、22:45~23:15」オオヤマは止めを刺した。
「何言ってんだ、お前?」
「今は2016年だぞ?」
「映像、在る訳ゃねーよな?」
「僕、確かめてみます」

「オカムラに視線が行く時のタカミナさんの優しさ・慈愛に満ち溢れた眼差し」
「オイ、お前、何言ってんだ?」
「日本ではアイドルが引退コンサートで無邪気に手を振っていますが、実はコレ、ファンの皆様からファンクラブの会費やCD代だけではなく、魂をも吸い取っているのです」
「人と別れる時に手を振るのは、相手の魂を引き寄せるため、だからな」
「古来、日本では服の袖には(着ている人の)魂が宿ると信じられて来たからです」
「自分もこれ程に相手の事を想って袖を振って(相手の)魂を引き寄せようとしている事が相手に伝われば、実際に相手の魂も自分の所に来てくれるのではないか、という、な」
「何言ってんだ、お前達!」
「手を振る事に依って『肉体は別れてしまっても魂は一緒だ』という事を相手にメッセージとして送る事が出来るんだね」
「別の説は『アナタに強い関心を持っています』という事を表現するコミュニケーション手段の一つであるとしています」
「オカシイぞ、お前達!」
「人と別れる時に手を振ると言う行為をするのは、世界でも日本だけなのだよ」
「ヨーロッパでは手を挙げるだけですもんね」
「どっかで頭打ったのか、お前達?」
「前総監督、ヒールじゃなかった」
「田中美佐子はバッチシ高いヒールを履いてたぜ」
「お前達、ホントにだいじょぶか?」
「困った時、眼が泳いだ先には常に、オカムラが」
「お前達はジョン・タイターか。未来の話だぞ、どうして10カ月も先の事が判るんだ?」
「大変興味深いモノを観られましたね、ショーナンさん」
「ああ、そうだな」
「大して引き留められる事も無く、パルさんが簡単に卒業できた訳が漸く理解出来たぜ」
「運営側と取引したのかね。真実を黙る代わりに自分のしたい事をさせろ、って」
「じゃ、ないか」
「パルル、まだ辞めてないだろ? 何なんだよ、お前等!」
「ブラック、手越ショックも一切お咎め無しって訳もコレで納得だね」
「そんな事言うなっ! 何かの間違いかも知れないじゃないか! ってか何の話だ?」
「結局『持ってけ100万円!!』の現場にいたメンバーは、みんな良い思いをしてるな」
「瀬戸内方面の支配人に内定が決ったり」
「48thシングルのセンターは、サクラとジュリナだしな」
「大人って、ヤダ過ぎるね」
「沈黙に対する報酬と言う訳だな」
「口封じなんて時代錯誤も甚だしいです」
「良い。卒業までバレなかったんだから『全然OK♪』って、か」
「懐かしいな、パルさんの台詞。遠い昔の事みたいだ」
「そのシーン、ついさっき動画で観たでしょう?」
「運営の人間達は状況をコントロールしているのは自分等であると確信している様だが、案外とイニシアティヴを握っているのはメンバーの方かも知れんな」
「少女達が大人共を巧みに利用している構図ですね。こりゃ愉快・痛快だなぁ」
「活け花! 活け花!!」
「ソレは鶴丸たけしのギャグだろ?」
「鶴丸...たけし...って、誰だ?」
「たかみな、右手の薬指に高そなリングが」
「キラっと光ってるぅ」
「ソレは『私、彼氏います』ってアピールですよね、ショーナンさん?」
「その通りだ。左の薬指のリングが結婚相手の存在を、右が婚約者の存在を誇示する印だ」
「お前達、藪から棒に何を言い出すんだ? 俺にはサッパリ理解出来んぞ」
「だって、タケシさんに粗相があったらアタシ、芸能界生きていけないって思ったから、今日ぅ喪服みてェなの、アタシ着て来ちゃいましたよ。スゲェ畏まっちゃって!」
「オイ前総、その『喪服みてェ』なのをピッて上げる時に、パンツ見えたぞ」
「見えてない、見えてない」
「ピロっと黒いパンツが、チラっと」
「気の所為だ、フジムラ君」
「いちいち君の発言は下劣なんだよ、人としての品格を疑われるぞ」
「アっ、唐沢佐吉が来ました」
「活け花! 活け花!!」
「何重にも騙されてんジャン!」
「ちょっと、待って! ムカつくこのカンペ! 北野とは一言も書いて無いって!」
「書いて無いでしょ?」
「ホントだ。だってタケシさんとで嬉しいって言ったら、マネジャーさんが『凄いですね』って言ったもん!」
「でも、書いて無いでしょ?」
「ムカつく! ねェ、今井ちゃん!!」
「おい、途中からまだ観てないはずの別番組に変わっちゃってるぞ」
「活け花! 活け花!!」
「今度T.G.C.に出てよ」
「T.G.C.?」
「鳥取ごちそうカーニバル」
「活け花!活け花!!」
「みんな一体全体ホントに何言ってんだ? お前等全員『チコちゃんに叱られる』ぞ!!!」
「20180407、1ch、8:15~8:59am、0゜03′16″~0゜03′21″」
「エッ!?!?!?!?!」
「2年も...後?」
「映像、在る訳ゃないよね?」
「僕、確かめてみます」

「何で、言っちゃうかな?」
「タカミナさん『イヤイヤイヤ、私だって一緒に出たいですもん』って、誰と?」
「彼女が前に出て来た時に左手をソッと差し添えて優しくエスコートするオカムラ」
「ヒール、結構高いの履いてたけど、オカムラよりは身長低かったね」
「ソコは、ほら、気を使わないといけない部分だから」
「お前達、完璧に頭おかしく成っちゃったのか?」
「そういや、オカムラ、自分用の他に小っちゃなクルマ、もう1台買ったんだってね」
「誰だか判らないけど、女の人と温泉に出掛けた、と井上耕三さんが仰ってました」
「オカムラが?」
「そうです」
「井上んトコのチームはオカムラと取り引きして、追わないって決めたらしいぜ」
「オカムラも『2017年中には、結婚は絶対に無いです』って断言してたし」
「じゃ、2018年には、あるのかな?」
「今は、2016年だって、何回も言っているんだがな? ホントに大丈夫か、お前達?」
「電撃結婚、あるかもよー」
「じゃ、オカムラ、アローン会の方は、どうすんだろ?」
「退会じゃない?」
「イマダやマタヨシに黙って付き合ってたのに、シレーッと1人フェードアウトってか」
「あんだけトクイを攻撃してたのにね」
「トクイは税金滞納事件をヤラかしちまって、2019年で芸能界引退するらしいぜ」
「へぇー」
「アローン会って、お前達...俺はお前達が何...何言ってるのか、さっぱり解らないよ」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
「お前達、一体全体、何をホザいてるんだ、そんな事言ってると、チコちゃんに...」
『ボーっと生きてんじゃねーよッ!!!』
「も、コレで終了だよね?」
「何言ってんだ? フジムラ君。もう、御代わりなんかある訳、ないじゃないか?」
「20180608、1ch、19:57~20:41、0゜23′11″~0゜23′16″・・・」
「嘘...だよね?」
「まだ...あるの?」
「もう・・・1つ・・・0゜29′52″~0゜29′59″」
「マジかッ!」
「もう好い加減に、勘弁してくれよ」
「オイッ! 映像はッ!」
「た...確かめてみッ...みますッ!」

「嘘だと言ってくれ、タ...タカミナ...」
「何で、横向く?」
「お前達、おかしいぞ?」
「お茶が沈殿しない様に?...とか?」
「デコボコだと、沈殿しないの?」
「な、何か、ぁ、勝手にチョット、ぅ、回ってくれるみたいな?」
「ボーッと生きてんじゃねーよッ!!!」
「よく出来てますね。飲料によって違うって」
「オカムラを睨んでるじゃん」
「あんま、隔週レギュラーの座を勝ち取ったCITY BOYSの方、見ないもんな」
「視線が行かないよね」
「本当に困った時に視線を向けるのは一番頼りにしている人物です」
「タカミナ、ペン回し出来ないんだな」
「丁寧に教えてんだがな、オカムラ君が」
「ストレスーっ!!!」
「しかし、相変わらず不器っちょだな、前総は」
「貧乏揺すりも出来ないのか」
「スキップ、出来ないからな」
「スキップは出来る様に成ったんじゃなかったっけ?」
「下手糞だけど、一応は」
「やっぱタカミナの方が顔、小っちぇなぁ」
「その身長差、約9cm」
「オカムラと?」
「そう」
「オカムラもエスコフィエを見習って30cm高の帽子を被れば良いんだよ」
「どんだけ続くんだ、コレ?」
「永遠じゃね?」
「永劫回帰を思わせる無間地獄のループだな」
「その通りかもしれませんね、フフフ」
「もう、イイか」
「良い。バレなきゃ良いのだ。もう卒業してんだからOK」サトウが呟いた。
「俺達は『疑わしきは罰せずの会』会員だからな」ニタが苦笑しながら言った。
『諸説ございます。次こそ、チコちゃんに叱られませんように』

「でも、相手がオカムラさんで良かったです。ホッとしました」
「男にとって大切な要素は2つ、真面目さと誠実さだ。ソレ等さえ備えていれば良いのだ」
「オカムラ君は『超』って冠詞が付く程、真面目で誠実だから、安心ですね」
「選ぶ相手を間違って無かったって事だな、タカミナは」
「良かった。良かった」
「男は顔じゃ無いモンな」
「誠実さか、良い事を聞いた」
「身長以外は全部持ってるし、オカムラは」
「最初は気になっていても人間は慣れてくるとビジュアルでモノを見なくなり対象の本質をとらえ始めるモノだ。コンビ解散と言う危機的状況に陥った時にどんな行動を取るのかによってその人間の真価が具体的な形で表出する。状況を分析して対策を考え冷静に判断を下して実際に対応しようとする、オカムラと言うヤツは信頼するに値する『漢(おとこ)』だと、私は思う。彼女は彼に内在する『本質』に気付けたのだろう」
「来てるぞ、チビーズ・カップルヴァージョンの誕生だ!」

「クソッ!」サトウが叫んだ。
「どうしたい?」ニタが顔を上げずに言った。
「またシリアル間違えた」
「慌てるなよ。まだ先は長いんだぞ」モリサキが言った。
「ある男の言葉を教えよう。『Slow is smooth. Smooth is fast.』
日本語に訳せば『ゆっくり動けばソレは滑らかさに繋がり、滑らかさは速さを呼ぶ』だ。慌てなくて良い。1つずつ確実に着実に作業を進める事が結果的に速さをもたらすのだ」
「了解です、ショーナンさん」サトウが頷きながら言った。
「誰の言葉ですか?」ヤスダが尋ねた。
「私の大学時代のルームメイトで、それ以前は海兵隊のスナイパーをしていた男の言葉だ」
「ボブ・リー・スワガーみたいですね」

 パシャパシャとタイプの音だけが響く中サトウが口を開いた。
「今度リョーカが参加するユニット曲にパクリ疑惑が勃発ってネット住民が騒いでるけどアリャ何なんだろうね?」
「何だお前、投票サボってネット見てんのか?」ニタがシリアルを打ち込みながら言った。「サボってねえよ。昨日寝る前に見たら載ってたんだよ」とサトウがシリアルを打ち込みながら言い返した。
「アレだろ? 曲調がソックリってヤツだろ?」ニタが言った。
「何だよ、お前も見てんジャン」サトウが言った。
「しかも似てるって言ったって、ハカタの曲だぜ。同じグループじゃないか。
ホントに馬鹿馬鹿しいったりゃないね」
「何時からこう騒ぐようになってしまったのかね?」
「やっぱ、あれじゃね? ネットが普及してからじゃね?」
「そうかもな。でもパクリとか盗作とか剽窃とか言うけどさ、そんなの神代の昔から存在してんだぞ。日の本の国、豊葦原の瑞穂の八州、秋津島には『本歌取り』って立派な文化があんだっつっの」
「イヤ、神代の時代からは無いだろ、多分」
「だってさ、同じ音楽っツウ事でいえば、ブラームスの交響曲第一番は誰がどう見たってベートーベンの第九のパクリだぞ。でも誰が文句言う? クラッシックのファンはみんな、喜んで両方聴いてるじゃないか。
ピカソなんか前衛美術とか言われて今現在でももてはやされてるけど、アイツのやった事と言えばアフリカの民族芸術の上っ面だけマネした根っこの無い根無し草じゃんか。
ヴァン・ゴッホとかゴーギャンは思いっ切り浮世絵盗作してるしさ、何かオカシイよ。
大体『遊び』が出来なくなるよな、一々付き纏う様に粗探しされるとさ。
例えば自分の好きなアニメでスパコンを家の中に搬入するシーンが在ったらパロって同じセリフ同じシーン構成で小説書いても良いと思うんだよね。それって遊びじゃんか。
好きな俳優のエッセイに掛かれた実際に在った事をパロって宴会シーンを書くとかさ、
ソレは『遊び』ジャン。
本筋とは違う所で『遊ぶ』のも駄目なのかね。
何か余裕が無いっツウか、息苦しいよな、ホント」
「そうだな。そういうの気付いて『クスッ』と出来るの楽しいモンな。丸っきり盗っちゃうのは、ダメだけどさ」
「優れた芸術家は模倣するが、偉大な芸術家は盗む」
「ピカソ? ですか?」
「そうだ」
「真の・・芸術は自然を・・模倣する」オオヤマが呟いた。
「一つの真実を表現する時には一番優れたモノを使用するのは当たり前の事じゃ無いか。
ある作家が言ったそうだけど芸術は大衆に対する奉仕だそうだ。だったら一番の表現が、もう既に存在しているのならソレを使うのが芸術家としての義務じゃないのか?
青い色を表すのに『青』以外のどの言葉を使えば良いんだか、俺にはさっぱし判らんね。
大体伝えようとする真実自体が全然違うモノなんだから文章の剽窃ってのは盗作に当たらんと俺は想う。ハサミはドレを使っても良い。手段は手段であって目的じゃないんだから。
ソコをネットの住民たちは勘違いしてんだと思う。
1つの文章に拘泥するあまり全体を貫く『真実』をスルーしちゃって、挙句の果てに盗作だの剽窃だの騒ぐ奴は可哀想だよ。だって物事の本質を見抜く力が無いって事を自ら公言しちゃってんのも同様なんだからね」
「才能の有る奴がさ、既存の小説とかからさ、そっくりそのまま文章を一つ一つ抜き出して来て全く新しい小説を創り上げたら奴等はどうするのかね。剽窃された文章が組み上げた概念は全く新しいモノだ。それでも細部に拘って非難を続けるのかね。楽しみだよ。
でも何でネットの住民は情け容赦ないのかね。寛容の心ってのが不足してんじゃん?」
「樹ばっか見てて、皆はさ、森を見れてないよな」
「寛容を育むモノは『余裕』だ。精神的、時間的そして経済的な余裕だ」
「結局は盗用や剽窃、模倣をしても、最終的に作品が独自の表現に到達出来ていれば、何の問題もソコには発生しないのだ」
「要は仲身だろ。見てくれが良くったってクソ不味い饅頭に存在価値は無いよ」
「作り手にとってみればオリジナリティで勝負したいって気持は判るけどでも一番大事な事は、お客さんを満足させる事だろう?」
「時代はさ、とっくに『複製の時代』なんだよ」とサトウが天板をバンと叩いた。
「乱暴は止めろよ。HDが壊れるだろう?」ニタが惚けた様に言った。
「パクリ、パクリってTVじゃ結構パクリまくってんじゃん」
「路線バスの旅とかね」
「しかし、ネットの中の人達は粗探しばかりして楽しいのかね」
「自分達が正義だと思ってるんだろうな。全く呆れるよ」
「正義って難しいぜ、取扱いが、さ。正義の為なら人殺しても良いのかって話だよ」
「まあまあ、待て、待て、お前達。そんなネット住民を悪く言うな。彼等には彼等なりのモラルってのが有るだろうし、な」とモリサキが2人を窘める様に言った。
「でもさ、正義っツウのはさ、人の数だけ、言わば70億通りある訳じゃんか。何故に、ソコまで自分は正しいと言い切れるのか、不思議だよ。
疑問を持った事無いのかね、自分自身に」サトウが顔を上げて言った。
「人は完全体では無い。神ではないのだからな。
不完全な存在である人間は絶対的に間違いを起こす。
ソレに気付いているのか、どうか、だ。
『人なら間違いを犯してしまう』という考えを追求していくと『他者は何時か必ず間違うモノだし、自分もまた間違いを起こしてしまう哀れな存在である』という自己認識に至る。
その事を常に肝に銘じておかねばならないのだが、な」
「そうですね、その通りです」ヤスダがショーナンに激しく同意した。
するとニタが「正義っツウのは厄介だよな。ソレ持ってるって信じっちゃってる人達は疑問を抱く事なんかないからな。でもこういう言葉が有るぞ『正義の反対は悪じゃない。またもう一つ別の正義だ』コレって、結構真実突いてると思うぞ」と言った。
「誰の言葉?」何も言わず皆の話をただ聞いていたフジムラがタイプしながら尋ねて来た。
「世界一有名なパパ、野原ひろしだ」ニタが答えた。

 パシャパシャとシリアルを打ち込む音だけが反射する中サトウが口を開いた。
「ユウコは外に出てから色々な賞を貰ったけど、何でアッチャンさんはアンマリ貰えてないのかな?」
「ユウコはキャラクターアクトレスだから、賞に引っ掛り易いんだよ」ニタが言った。
「キャラク・・・」ヲトヲが言い掛けるとショーナン一人を除いてみんなが一斉に叫んだ。
「ggrks」
「キャラクターアクターというのは、簡単に説明すると自分の方から役柄に近寄って行くタイプの役者です。変幻自在に何でも熟す感じです。ソレに対してアッチャンさんのようなタイプの役者はパーソナルアクターと呼ばれるモノで役を自分の方に引き寄せる演技をする人達です。ですから役柄が自分の性格にハマっていれば良い結果を残せるんですが、そうでない場合は、役柄の要素が自分の内側にほとんど存在していないと如何ともし難い、という感じなのです」ヤスダが丁寧に説明した。
「成る程。つまり映画の種類や監督さんを選ぶ女優さんと言う訳か。当たればデカいけど、外すと致命的な結果に終わるって訳だな」サトウが言った。
「リョーカは、ドッチなんでしょうか?」ヲトヲが言った。
「多分前者、ユウコと同じキャラクターアクトレスだと思いますよ」ヤスダが答えた。

投票しながら如何してリョーカのファンに為ったのかみんながポツリポツリと告白した。
「俺はEX大衆のグラビアだから結構、新規よ」とサトウが言った
「俺は週プレ」フジムラが言った。
「何だ? 俺よりも新入りじゃんか」とサトウが返した。
「僕はビンゴで肉を手で引き千切った時からです」ヤスダが言った。
「俺、同じ」と珍しくオオヤマが発言した。
「僕はミュージカルです」ヲトヲが言った。
「俺も」ウレシノが言った。
「私は舞台だな、49の。来てるゾ、って思ったんだよね」フクヤが言った
「俺は公演で見てから」ニタが言った。
「俺と一緒に観に行った時だな。ま、俺も其処ら辺かな。気には為っていたんだ」
モリサキがシリアルを打ち込みながら言った。
「ショーナンさんは?」ニタが尋ねた。
「私ではないが依頼者がリョーカを発見したのは第6回の総選挙前のライブで、だそうだ」ショーナンが答えた。
「じゃ、結構古株じゃないですか」ヤスダが言った。
「探し出すのに苦労したらしいぞ。ソレまではユウコしか眼中に無かったみたいだからな」
「へーっ、ユウコの次がリョーカですか。その人ってオオシマって苗字が好きなんですか?」
サトウが顔を上げて言った。
「偶然だ。てんびん座で小さくてカワイイ横浜育ちの少女という共通項も単なる偶然だよ」

「この頃はリョーカあまりイタズラしないね」
「そうか? この前の公演ではヒッパイさんの胸を揉みしだいてたぞ」
「イヤイヤ、もっと最近の事だよ。昔はさ、曲間にワザと転んだ振りしてイズリナさんが穿いていたパンツをズリ降ろそうとしてたじゃんか」
「アレは笑えたな」
「あの事件から皆パンツの時はベルトをキツ目に締める様に為ったんだろ」
「この前、有吉で粘土使って犬のウンチを作ってたな」
「最近、随分と大人に成って来て個人的には嬉しいんだけど、子供の部分も残しておいて欲しいんだけどなぁ」
「そうだよな。幾分かはバブみを取っといて欲しいよな」
「全然話違うけど、この頃の娘はダンス上手いよな」
「小学校の頃から学校で習ってるからな」
「でも何で義務教育でダンスなんだろう?」
「ダンスが上手な人と言うのは身体の左右のシンメトリーが整っている。シンメトリーが高次元で整合性の取れている人間は立派な兵士として教育し易いのだ」
「兵士っすか」
「キナ臭くなって来たな、話が」

「アイドルって、何なんだろうね?」
「何だい、藪から棒に」
「イヤ、正直今まで真艫に考えた事が無かったからさ」
「ラッパーの宇多丸は『アイドルとは魅力が実力を凌駕する存在』って定義してたぞ」
「その発言はなかなか良いポイント突いてると思うけどな」
「制服着てるってのも重要なポイントだぜ。制服は個性を押し潰すものでは無くて、逆に際立たせるものだから、な」
「ショーナンさんの意見はどうですか?」
「如何わしい行為を伴わない風俗といった所じゃないか」
「ソレは幾ら何でも言い過ぎじゃないですかっ!?!」
激高しながら腰を浮かしかけたサトウを『マァ、待つのだ。まずは話を聞きなさい』という様な感じで手を挙げて制しながらショーナンが言う。
「遊女の源は巫女だという説がある。
巫女。
つまり神様に捧げられた遊女と考えれば納得は行く。
この国の神様は穢れを嫌う。だから処女しか巫女に為れないのだ。
アイドル達にとって応援してくれるファンは言わば『神様』だ。本当ならかしずいて奉仕をしなければ為らないのだが、不可能な事だから替りに握手をするのではないかね。
その昔、吉原の遊女にはどんな口の堅い官僚達もポロッと自分の人生で隠して置いた事を告白してしまったそうだ。握手会の10秒で意図せずに自分の秘密を曝け出してしまった人も意外と多いのではないかな?」

「どうした?」
「いやぁ、昨夜さ、夢枕に赤木リツコが立ったんだよ。それでさ、こう言う訳。
『アイドルという小さな閉じた世界の理を超えて女優という外側の世界で勝負する事を選択したユウコ、その代償として残されたメンバー達は滅びる。マエダアツコの卒業というセカンドインパクトの続き、サードインパクトが始まる。世界が終わるのよ』って。
俺、驚いちゃって飛び起きたんだよね」
「いや、まだだ、まだまだ終わりにはさせんよ」

「リョーカ、サエが目標って言ってたな、朝日のインタビューで」
「サエか。何時かの舞台の時、サエはカヲルに似てるって言ってた」
「サエを通してミツムネを見ているのかも、知れんな」
「そうか、カヲルとサエを重ね合わせて見ているんだな」
「運営は13期のツートップはカヲルとリョーカにする予定だったらしいぜ」
「そうだとするとカヲルを失ったのは、デカいな」
「カウンターパートって大事なんだよ」
「カウンターパートって?」
「ggrks!」

「リョーカはユウコと仕事した事有ったっけ?」
「5で絡みが有ったかどうか」
「何てったって火鍋の1要員に過ぎないですからね」
「多分無いです」
「そうか、そりゃ残念」
「Kに昇格出来てりゃな」
「Aじゃ、な」
「超が付く個人主義者の集団だから」
「Aはホスピタリティが大幅に欠けるからな」
「13の女の子じゃ、居場所は無いか」
「前総監督によればリョーカは昇格当時、壁を作って誰とも打ち解けなかったってさ」
「実は極度の人見知りだからな」
「周りが全員大人じゃ、そりゃ辛いって」
「マリコ様みたいな存在が居たら良かったんだが、ね」
「ジュリナは幸運だったな」
「一緒に弁当囲んでくれて、そりゃ嬉しいって」
「ボッチは辛い」

「愛は批判の応酬、批評の受容れ合いなんだ。だから体力を使う。『好き』っていう素朴な感情とは次元が違うのさ」
「愛は定量性の物なんだ。引っ繰り返した砂時計が一粒ずつ『時』を減らして行く様に、愛はその始まりの時から漸次減少して行く。
脳科学者に言わせればその期間は3年だそうだ」
「じゃ、ずっと愛し続けるのは無理って事?」
「馬鹿だな。砂時計をもういっぺん引っ繰り返しゃ良いんだよ。砂時計をずっと引っ繰り返し続けりゃ良いだけだよ」
「私たちにとって票数は、愛です」
「よっ! ユウコッ。名台詞!」

「この前さ、恋愛禁止条例を破ったアイドルが訴えられて裁判で負けたジャン」
「ああ、その所為でグループ自体が解散しちゃったやつね」
「運営側が勝って彼女、賠償請求されてんでしょ」
「当然、ファンとメンバーとの間にもソウいうのが発生するよな」
「ファンとアイドルとの間の契約事項」
「擬似であったとしても恋愛なのだからそれはSEXを要素として含む。ならば他の男とSEXをしてはいけないという占有事項も当然存立する」
「言っちゃえばアイドルビジネスの根底を流れる通奏低音は、SEXですからね」
「夫婦の間にお互いに性的資源の専制的支配を受容れあうという契約が存在するのに近い」
「つまり、ソコには法的拘束力が発生する訳か」
「よし、コレでサシハラ、いやホルモンを潰せるぞ」
「アイツは心臓に毛が生えてるから無理だよ」
「指ヲタは盲目的に信奉してるから告訴なんかしないしな」
「愛するという行為に於いて幸せになる秘訣は、常に盲目である事では無く、必要な時に目を瞑れるという事なのだが、な」
「アイツ何で人気あるんだろう?」
「恋愛、アイドルビジネスは疑似恋愛だから同じ事が言えると思うが、人は自分の見たいモノしか見ないのだ。ソレが自分の恋愛対象であったとしても同様だ。対象の人間が自分のイメージ通り、期待通りの振舞いをしてくれると『ヤッパリ私の思っていた通りの人だ。好きになってヤッパリ正解だったのだ』と思う。自分の思いを再確認させてくれて『自分は正しい』と正当化を促してくれる相手。そういう思考が『想い』を一層増加させて行く。
人は一旦好意を抱いた対象の粗探しをする事、そういう行為を無意識の内に避ける。
何故なら、その様な行為は大量のエネルギーを消費する類いのモノだし、もし何かイヤな点を発見してしまった時には、ソレは自己否定に直結してしまうからだ。ソレまで全身で対象を肯定し続けて来た自分は間違っていた、と。
人間は批判に曝されると弱い、打たれ弱い存在なのだ。
だから顔を伏せて眼を逸らす事で、見たくない事実から逃避を図る。
何かの拍子でネガティブな点を発見してしまうと、もうソレだけで対象全てを嫌いになってしまう。良いから好きで、悪いから嫌い。そんな事では物事の本質を見出す事は永遠に不可能なのだが、な」
「何が飛び出すか判らないビックリ箱みたいに、何をヤラかしてくれるのか予測不可能な愉しさから、応援している人が多いんじゃないのか?」モリサキが言った。
「人気は無い。指ヲタの数は少ないし、その指ヲタ自体が他のメンバーのヲタからは蛇蝎の如くに嫌われてるんだからな」
「アンダードッグ効果とバンドワゴン効果の組み合わせによる相乗的な人気の高まりとは言い得るのでしょうね」ヤスダが思慮深げな言い種をした。
「何ですか、それ?」ヲトヲが素直に訊いた。
「アンダードッグ効果と言うのは、一言で言えば『判官贔屓』に近いです。
紛う事無く完璧に自業自得なのですが、スキャンダル発覚によってハカタに島流しの刑になった事に対する同情や『恋愛』に関して誰でも犯す間違いへの共感、もっと言えば下手を打った他人に対する自身の優位性を確認できる事、そんな事柄から共感的とも表現でき得る『人気』が出てくるのです。
もう一方のバンドワゴン効果というのは、このサシハラさんを例に挙げるとすれば、
村の内側の世界で本当は人気が無いと言う事実を知らない、と言うか、別に知りたくもない世間一般の人達は、何だかよく知らないけれど『総選挙』とか言う乱痴気騒ぎで1位を獲った、何だか判らないけれど人気が有りそうだ、と彼女のことを認識します。
一旦そう認識される事により、一層人気が高まって行くという現象です。一言で表現するならば『付和雷同』で、要するに根拠のないモヤモヤしたモノに幻惑されてしまうんです。
自分の頭で考え出した結論という訳ではなく、ただ単に周囲の流れに押されてしまう。
『流れに棹差す』ではなく『流れに棹を差される』とも言えましょうかね。
日本人は特にこの傾向が強いと言われています。
内輪の御祭りで何故か1位を獲得した事、虚栄としての『成功者』への憧憬的な人気。
恋愛禁止という『理不尽』なルールに違反した事で異端の地に配流された事への同情。
この2つの組合せは対数関数的な人気の高まりをもたらします。興味深い現象ですね」
「へー」
「指ヲタは、声だけはデカいマイノリティだからな」
「その声の大きさに一般人や運営のスタッフさえも幻惑させられてるってのが本当だよ」
「しかし、その指ヲタと言う人間達は彼女の未来の事を真剣に考えた上で行動しているのだろうか?」
「何故ですか?」
「内側でしか通用しない『魅力』は外に出た途端に破綻を期たす。自分は人気者なんだと指ヲタ達の行動に因って信じ込まされてしまえば、今彼女が為さなければいけない事、
精進して自分の本当の『魅力』の源泉を獲得する事を怠ってしまうだろう。
この前TVで知ったのだが、米国陸軍では新兵訓練の時は唯ひたすらに正しい型だけを反復練習させるそうだ。射撃訓練も格闘訓練も正しい型のみを踏襲させるのだそうだ。
そうやって意識しなくても動作を取れる様に身体に染み込ませるのだ。
だが、実際の戦場に出た時はワザと間違った型、つまり邪道とも思える戦術を採るのだそうだよ。そうしないと実戦では生き残っていけない。
演習とは違って射撃対象は動かないマンターゲットでは無い。死にたくなくて必死に動き回りコチラの放った弾丸を避けようと努力する上に、ヤラれる前にヤレ、とばかりに所持している弾丸を有りっ丈、死に物狂いで撃ってくる、そういう人間だ。
『正しい』動きばかりでは簡単に先を読まれて直に沈黙化・無力化されてしまうだろう。
だが、彼女がいるのは本当の『戦場』では無い。
唯の『内側』の演習場だ。
修練を積む場所だ。
彼女が『闌る』のは内側にいる今では無い。
外の世界に『主戦場』を移した時ではないかね」
「たくる?」
「ggrks」
「能の言葉だ。芸を修めた者だけが立つ事を許されている境地の事だ。
コレは芸能全般に言い得る事なのだが、舞台を『是風』つまり正しい型のみで一杯にしてしまうと、時に倦んで弛んでしまって面白味が無くなる。
ま、注文服が余りに身体に合い過ぎていると、突っ張る印象を残してしまうのに少し似ている。そういう時に一流の達人はワザと『非風』つまり間違ったやり方を採用して、比喩的に言うとスパイスを利かせて舞台を引き締める。
ソレを『闌る』と言う。
だが、許されるのは芸を修めた一流の者のみだけで、修業中の人間は決して『闌』ってはいけないのだ。解り易い例で言えば、ピカソが長い修練の後に漸く『子供の絵』を描く事に成功した事だろうか、な」
「よく赤ちゃんは『無垢』な存在だ、と言われますよね。この『無垢』とは元々仏教用語で『一切の煩悩から離脱して穢れが無い』状態の事を指します。
平たく言えば『悟り』を開いた状態でしょうか。
ただ生まれ落ちただけの赤ちゃんと、火の出る様な修行の後に漸く悟りの境地に辿り着いた釈迦が同じというのは、とても興味深いです。
赤ちゃんと釈迦、この2人は同じ海抜レベルにいます。でも修行と言う巨大な山塊が彼等を分け隔てているのです。これと同じような事ですか?」
「多分な。
修業中は正しい型のみを踏襲し続けなければいけない。
繰り返し繰り返し正しい型を身体に叩き込まなければならないのだ。
型をなぞることでソコに我が浮き出てくる。ソレが『非風』の種に為る。それで良いのだ。
画一的な制服に押し込められると反発する如く、返って個々の自我が強調されて立ち現われてくる。一種の『止揚』とも言い得る現象、それに近い。
彼女は修行中の身だ。
正しい型のみを反復練習しなければいけないのに、ファンからの圧力もあって出来ない。
非風に走ってばかりいる。これでは実力を蓄積できないし、それどころか摩耗して行くばかりなのだがね。反射的な反応で処理できている間はソレでも良いかも知れない。
だが、そんな期間は早晩、消え去る。
全ての事に終わりは来るのだ」
「実力を備える事無く外側に出ても何も釣れないぞ。魚さんの方から網の中に飛込んでくれる訳じゃ無いんだ。そんな事じゃ、浮子は微動だにしない」
「自業自得な結果なのに、ホルモンを中心に指ヲタ達は被害者意識を募らせて行き、より一層防衛反応のままに団結し結束力を高めていく。ソレって単なる八つ当たりなのにね」
「あんな風に躍起に為ってまで応援する器じゃないと思うんだけど」
「コレは遊びなんだから真剣に成った方が面白いのは本当なんだよね。
『遊びをせんとや生まれけむ』って誰かが言ってたけど、その通りだよ。
でもさ、傍から見ていると判るけど、ヤツ等必死じゃん。
まるで『皇国の興廃、この一戦にあり』みたいで、余裕が全然感じられないっていうか、悲壮感すら漂っちゃって。遊びを楽しむ為には、余裕が必要なのにさ」
「もうアソコまで行くと、もう『愛』じゃないよな」
「時々『愛』は人を殺しちゃうんだよね」
「愛する人がいてその人に意識が吸い寄せられていると、自身の周囲に散在している他の大切な事に眼が向かないし、新たな発見も出来ない。感受性が鈍るからです」
「ホルモン。語源は『放るもん』つまり廃棄処理される部位だ。プロデューサーはソレを捨てずに上手に再生利用したのだな。まさに捨てる神あれば拾う神あり、だ」
「ホルモンを見てるとユーチューバーと言う輩たちを思い出すんだがね」
「ネットを介して実世界に浸透しているという点では、両者に共通点はありますね」
「ネットを通して世界総てと繋がっていると誤解してるけどさ、結局は小さな閉じた世界でプルプルとミルクの膜が震えてるだけじゃない。ユーチューバー達だって今は良いさ。何千万も稼げる奴もいるんだからな。でも、そんな状況なんて遅かれ早かれ終了するぜ。
そうしたらどうやって喰ってく心算なんだろうか。
その先の事を見通した上で活動してるんだろうか?」
「ないない。ホルモンもユーチューバー達も自分の世界でジタバタするのに手一杯さ」
「でも、本当にどうする心算なんですかね。写真集は売れず、主演映画は興収がジリ貧、バラエティったってMCやヒナ壇要員でもっと優秀な人は一杯いますし、やっていけるのかなぁ?」
「きっと彼女はMCとして活動して行きたいと思っていると、私は想像するのですが、
どうでしょう?
今はハカタのメンバー、つまり自分よりも目下の人間を廻しているから上手に見えているだけの様な気がします。外側に出て自分よりも目上の人達を廻す段に為ったら、果たして上手く立ち回れるのでしょうか?
サンマさんやアリヨシ君の様に突いたり引っ込めたりして、その場の空気を澱ませる事も無く華麗に上手く廻して行けるのかなぁ?」
「目下の者なら軽々とあしらえるくせに、格上の人が登場するや否や途端に猫を引っ被って指で恐る恐るツンツンするだけだもん、な」
「あと、噛み付くだけね。突っ込みじゃなくて、噛み付き。野良犬じゃないんだから」
「ヒナ壇要員としても、先行きは不透明だよな。突っ込みでも無くボケと言う訳でも無い。いじられキャラなのか、といったら、そうでは無い様な感じもするし」
「結局、ヒナ壇に座った時に演じなければならないキャラが明確に見えて来ないよな」
「ヤツは自己顕示欲の塊だもの。いや、権化と表現した方が適切かな。
だから、ただのヒナ壇要員では全然満足できないだろうと思うよ、僕は」
「内側にいる今の内に、キャラをシッカリ設定しておかなければいけないのに、しない」
「ハカタの看板を背負ってる今は良いですよ。外に出たら、頼るモノは、自分だけなんですからね。状況に甘えられる現在に、甘えるだけ甘えるのではなく、チャンと未来を見据えて外で機能する自分だけの武器を作る為に精進しなければ駄目だと思うのですが、周りの大人達はそういう事を彼女に忠告したりしないのでしょうか?」
「映画も、さ、観たけど、さ、学生の自主映画の域を出ていなくて、さ、
銭を取っていいレベルのモノじゃないんだよね」
「カメラ廻している人が実質的な『監督』なんだろうけどホルモンの稚拙な指示のお蔭もあってかお遊びお遊戯の範囲から脱出できていないよな」
「色々と他のメンバーのアレコレを撮ってはいたけど、最終的には『私』で落とすんだから商業映画の私物化も甚だしいよ。厚顔無恥にも程があるってもんだぜ」
「秋Pは本当の所、指を如何したいんだろうね?」
「ユウコやアッチャンに対してはさ、芸能界で成功する為には何か1つ軸というか、核になるモノを決めろ、って教えたからこそ彼女達は『女優』を選択して、今もその道を歩んで行ってる。でもホルモンに関しては一貫性に欠けるよな」
「総花的とでも表現すれば宜しいのでしょうか、TVの連ドラに出演させて女優をやらせてみたり、需要が無いのにも関わらず、週プレのグラビアをさせてみたり、主演女優として舞台公演を打って見たり・・・」
「チケットが捌けなくて運営は大変だったんですってね」
「・・・グループの冠TV番組のMCを任せたりして、挙句の果ては映画監督様です」
「だが、どれ一つとしてモノに出来ては、いない。水面に浮かんだ浮子は、全くと言って良い程、微動だにしていない、ぞ」
「彼女が属しているグループ、その様な特殊な環境下に特化して適応出来たモノは、環境自体が別のフェーズに移行した場合に、多くは絶滅する」
「アキモトさん、コレ本当だったらとても嫌なんですけれども、ホルモンさんをオモチャにして遊んでいるだけなんじゃ、そんな事は、ないですよね?」
「判らんで。何せアイツは、ホルモンは『ビックリ箱』だから、な」
「アイツはさ、自意識が過剰なんだよな」
「自分のことを苗字で呼んでいますからね。そういう人間は自意識のレベルが押し並べて高いのです」
「でも何でファンを喰っちゃったんだろ?」
「バレないと思ったんだろ」
「彼女はサイコパシーのレベルが高そうだな、君達の話を総合すると」
「サイコパシーって何ですか?」
「ggrks」
「いや、ヤスダ君が説明した方が速いだろう」
「サイコパスって何だ?」
「この世には君の人生哲学総てを超える数多くのモノが存在するのだよ、ホレイショウ」
「サイコパスと言うのは反社会性人格の一つで精神病質者とも言われる事が有ります。
でもコレは程度の問題で、グラデーションの何処かに人類全員が位置づけされるモノです。
サイコパスの程度を計るパラメータとしては、1)超自己中心性 2)孤立感 3)恐怖心の欠如 4)高プレッシャー下での冷静さ 5)反抗心 6)虚言癖 7)説得力 8)感情的冷淡さ 9)共感力の低さ 10)高い集中力 11)精神的な強さ 12)衝動性 13)上辺だけのカリスマ性 14)魅力 15)自信 16)良心の欠如で、各要素それぞれでその程度を計って行きます。しかしサイコパスの程度の高さと犯罪者傾向は一致はしません。
サイコパスの程度が高くても犯罪からは縁遠い人の方が多いと思います。
各パラメータを総合した傾向レベルのゲージのマックスは224ポイントです。
因みに168が危険なゾーンへの境界点です。この閾値を超える人はあまりいません。
もし超えれば確実に臨床サイコパスとして扱われるでしょう。
歴史上の人物に限って言えばアドルフ・ヒトラーが169、そして暴君として名高い英国のヘンリー8世が178で、彼がほぼ人類史上最高だと言われています。
サイコパスの程度が高い人の特徴として、自分の利益を追求する為には他人を犠牲にする事を厭わない。
他人の気持ちが解らない。これはミラーニューロンの欠如が原因と思われます。
けれど、矛盾してるようですが、彼等は他者の表情やボディランゲージ、匂い等の非言語コミュニケーションを通して情報を得る事で他人の弱点を敏感に察知出来ます。
データを取得・分析していないので迂闊な事は言えないのですが、サイコパスの人たちは微表情を的確に捕らえられているのだと思います。この前も説明した事ですが、微表情というのはコンマ5秒ほどの短時間に表象する表情の事で、当該人物のその時の真の感情を精確に表します。これは完全に無意識の内に出現する現象で意識的に制御する事は不可能なモノです。観察するのには訓練を積む必要があるのですが技術を習得する事は可能です。
極稀に生得的にこの特徴を備えて産まれて来るヒトがいます。
この人達をナチュラルと呼ぶのですが、サイコパスに多いのではないかと思っています。
他人の気持ちが理解出来ないので、自然なコミュニケーションが取れず言葉に頼って他人と関係を持ちます。そしてどんな状況下でも他人を喜ばせる事が出来て、どんな状況でも楽しそうに振る舞えます。勿論演技ですけども。
ハッキリと言うと超自己中心主義者で自分の利益追求のみに異常な集中力を発揮します。
欲が深くて不安を感じないので引き際が理解できません。
そして他人を落とし入れても罪悪感を一切感じません。
感情と行動を切り離す事に巧みです。
利口で悪質なサイコパスは日常的にゴリ押しと張ったりで数々の山場を乗り切るでしょう。
先程申し上げた16個のパラメータから理解できる特質や組み合わせにも因りますけれど、サイコパスとナルシシズムがくっ付くと少し厄介です。そういう人間は無慈悲で自責の念に悩む事が無く、自信家で行動抑制能力が欠如しており、ストレスに対しては不安を持つ事は無くて、怒りや攻撃性の高さを示します。
サイコパスの程度が低い人の職業としては介護士などが上げられますし、程度の高い人で暴力性に富んでいて知能レベルの高い人間等は特殊部隊の隊員などに為るでしょう」
「最悪」
「不安を感じないからファンを喰っちゃうのか」
「でもユウコの卒業を知って号泣してたぞ」
「演技する事に巧みです」
「うわっ!」
「だからそうなのか。ハカタの番組でも若いヤツを廻して廻して最後に一番おいしいトコを持って行っちゃうもんな」
「反対にユウコさんはサイコパスの程度が低そうです。社会福祉士に為ろうとしていた位ですから。ただ意識的に自分のレベルを上げていたという事は在るかも知れませんね」
「意識して自分のサイコパスレベルを上げられるのか」
「誰でもできる事ではありませんが、充分に可能です」
「付け加えると、サイコパシーのレベルの高い連中は時々、自分の利益を追求するために敢えて他者に対して非常に献身的に働く事、奉仕する事もある」
「?」
「どゆ事ですか、ショーナンさん?」
「さっきと矛盾してませんか?」
「ショーナンさんが言ったのは、こういう事です。
『他人の為に働く事に依って自分の利益を最大化できるのならば、その労を惜しまないでイソイソと他人に奉仕する事に勤しむ』のです。サイコパスの程度が高い人は勿論、利己的ですが、自己利益を追求する過程で他人に奉仕する必要が出てきたら、言い換えれば、他人の為に働く事により回り回って結果、自分が得するならば幾らでも利他的に成ります」
「うわっ!」
「マジ?」
「でも、ハカタの奴等は全然気付いてないっちゅーか、寧ろ感謝してるみたいに見えるぞ」
「サイコパスの程度が高い人達はとても演技が美味い。自然に振る舞えるのです。ソレに加えて表層的で非常に解りやすい態度を取りますから、物事をよく観察して自分の頭脳で考えて行く力の無い人達は、その真の姿を見抜く事は出来ないでしょうね」
「オイ、ヤバいぞ!」
「誰か早く、ハカタとセトウチのメンバー達に知らせなきゃ」
「セトウチって何だ?」
「まさに『情けは他人の為ならず』を地で行く話だな」
「え? ソレって『他人の事を思いやって無暗に助けたりすると返ってその他人の為に成らないから、情けを掛けちゃ駄目』って事でしょ?」
「違うっ!」
「その教えの本当の意味は『他人に情けを掛けると巡り巡って最終的に自分の所に還って来て結局は自分の為に成るから、出来るだけ他人には優しく接しなさい』というモノだぜ」
「後一つ付け加えるとしたら、サイコパスの特徴として白眼の割合が多いと言うのもある」
「白眼?」
「ホルモン」
「ブラック」
「うわっ、去年の1、2じゃん。最悪ッ!」
「ヤツ等がカラーコンタクトを付けてるのは、可愛さを追求してるって理由だけじゃなくって、白眼の広さを隠す為でもあるのか?」
「無意識の内の行動、だろうよ」
「カラコンしてると、瞳の奥が見えないんだよね」
「他にもいんじゃねぇの、白眼人間は?」
「去年、世間を賑わせたエンブレム問題の佐野やSTAP小保方もそうだよ」
「そして、もう一人」
「誰ですか?」
「君達の国の首相、ゲリP宰相だよ。トップが間違った事をしている組織は最悪だな。
統制が決して取れたりはしないのだからな」
「政治家には多いんですよね」
「人の事を人一倍考えなければ為らない政治家が、超自己中心主義者」
「マジか」
「まあ、君達の首相に期待するのは無駄だ、という事だ」
「ショーナンさんは何故そういう風に突き放したように話すのですか?」
「私は確かにこの国で生を受けて育ったが、今は米国籍の米国市民だからだ」
「何で、アメリカなんすか?」
「理由があってね」
みんながショーナンの顔を見ても彼は静かに笑うだけだった。

 ヤスダとショーナンを残してみんなが昼食に行った時を見計らった様にヤスダが質問をして来た。
「ショーナンさんは何か含みとかあるんですか?」
「何に対してだ?」
「ウチの、日本の首相にかなり辛辣じゃないですか」
「彼が発する言葉のレベルの低さにはあきれるよ。
『ゲリP宰相』と揶揄された時に彼が激高して発する言葉の空辣さ加減を簡単に想像できるね。『潰瘍性大腸炎で苦しんでいる患者の皆さんをバカにしないで下さい』とか、な。
彼がしている事と言えば稚拙なレトリックのすり替えじゃないか。
そんな低レベルのまやかしを論破出来ないこの国の知識人と呼ばれる奴等の劣化を嘆くよ。
ま、あの下痢P最小は知能豊かに振る舞おうとしているらしいが、元々がバカなんだから上手くいく訳が無いのだ。私は潰瘍性大腸炎に苦しむ人達を差別している訳では無い。
彼は首相として当然の才覚と覚悟を備えていない、と指摘しているだけだ。
彼の首相としての資質を問うているだけだ。
彼は自衛隊と言う暴力装置の最高司令官だ。
有事の際にゲリで対応が遅れる可能性に考えが及んでいない、その事だけでも首相失格だ。
ま、中国でも北朝鮮でも何処の国とでも構わないが、戦争状態に陥った場合におけるこの国の最優先事項は1人の戦死者も出してはいけないという事だ。もし敵との交戦に於いて戦死者が1人出たとする。当然この国の人々は湧き立ち、こう勇ましく叫ぶだろう。
『敵に屈してはいけない』
『一丸と成ってこの危機状況に立ち向かうのだ』
『進め一億、総火の玉だ』
メディアにそんな言葉の群れが躍るのが眼に浮かぶよ。
良識の徒の総本山とならなくてはいけない新聞ですら、同様だ。
そんな時にこそ客観的で冷静な状況分析が必要なのに、そんな記事を掲載していたら新聞の売れ行きが鈍化してしまうから、率先して錦の御旗を先頭で振り続けるだろうね。産経や読売だけじゃない。朝日や毎日と言った『リベラル』系の新聞会社だってソウするさ。
普段は高邁な理念を掲げて『社会の公器である』等と偉そうな事を抜かしてはいるが、
結局の所は営利企業なのだよ。
利益に為るのなら宗旨は簡単に反転されてしまう。
戦死した自衛隊員の母親は世間の期待をヒシヒシと感じ取り、彼等の望み通りの言葉『お国の為に命を捧げる事が出来た息子を持って私は本当に幸せ者です』と言う様な事を無理矢理に言わせられるだろう。
だが、戦死者が1人で済むと思うかい?
損耗人員の数が増えて行けば必ず家族、妻だったり母だったり、悲しみの声を上げ始める。
最初は『世間』はその声を圧殺しようとする、必ず。
『和を乱すな』
『そんな事を言うのは敵を利するだけだ』
『黙れッ!』
しかしながら流れは変わる、必ず。
戦死者の数が増加すればする程その悲しみの声は大きくなって行き、やがては奔流となってうねり、津波の様に成長し世の中を悲嘆の声の大渦で満たすだろう。
自衛隊の即時撤退を求める声明がメディアの一面に躍るさ。
そうなったら政権は持たない。
内閣総辞職って顛末だろうな。
そして自衛隊の撤退行動が始められる。
だが戦争で一番難しいのが撤退と言う作業だ。
膨大な戦死者の数、遺族の上げる怨嗟の声の大きさ、撤退戦の困難さ、自分の対応能力の低さ、そういった色々な要素が混然一体になって激甚なストレスとなり彼を襲う。
この強大なストレスは彼の抱える潰瘍性大腸炎に拍車をかける。
彼の大腸は、ホストの意志には一切御構い無く獲物を見付けたワイル・E・コヨーテの様に疾走を始めるだろう。唯でさえ困難な行為なのに指揮を執るべき内閣総理大臣が潰瘍性大腸炎に起因する下痢によって自分が為すべき行為を満足に執務出来ない。
不動であるべきのヘッドクオーターが揺れ動いているんだ、上手く行きっこない。
必ず殿戦闘で死傷者の数は桁が跳ね上がるよ。
損耗率が60パーセントを超えたらその部隊は『全滅』と呼ばれる。
自衛隊全体が全滅してもおかしく無いね。実戦経験に浅い特殊作戦群は勿論の事、演習で年間125発しか実弾射撃しかしない普通科連隊の兵士なら尚更だな。
そうなった時彼はどうするんだろうね。首相に留まっていたとしたら、脳や腸はこの過大なストレッサーに耐える事は叶わない。確実に病気は悪化の一途をたどる。
幾ら服用しようとも大き過ぎるストレスの元は薬に効用を示させる事を許してはくれない。
ヒクつきワナナキながら悲鳴を上げる肛門を糜爛性の下痢便が情け容赦なく通過して行く。
その現象がもたらす苦痛に総てを支配された首相さんはトイレの個室から全軍の指揮統率を発令する心算なのかね。
結局、官邸のトイレが彼の執務室に為る訳だ。
コレを滑稽と言わずして、何を滑稽というのかね?
彼が備えていなければならない資質とは、決断力だ。あらゆる事態を想定して可能な対応策を何段階にも分けて考え出した上で準備を整えておく能力と、何を取り何を捨てるかの取捨選択が即座に出来る『決断力』だ。
リーダーに求められる資質は統率力やカリスマなんかでは無い。
ソコを彼は完全に取り違えている。
そんな無能なリーダーに命令1つで死地に赴かされる兵士が可哀想だ。自分の体調次第で対応が遅れでもしたら国の根幹を揺るがしかねない事実に考えが及ばない。その点だけでも到底、首相の器では無い。自分の体調に何の考慮も払わず、持病が悪化すればいとも簡単に政権を放り出すその態度が、問題なのだ。
彼が馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す存立危機事態、その日本語は何だ?
『危急存亡の秋』という立派な表現がもう既に在るのだからソレを使えば良いのに。
だが、ゴーストライターが危惧したのかも知れないな、『秋』をそのまま『アキ』と呼んでしまう間違いを犯す事を。
ま、実際の所、彼はその掌中に何の選択権も決定権も保持してはいないがね」
「どういう事ですか?」
「日本の未来は日米合同委員会と年次改革要望書が握っている。この2つには日本の政治関係者は誰も逆らえない。逆らおうとすれば待っている未来は2つ、1つはスキャンダルをでっち上げられて失脚するか、もう1つは殺されるかだ。
君達の首相はこの2つ、日米合同委員会と年次改革要望書の決定事項を追認する以外は、何も出来ないただの傀儡なのだよ。良い例があのオスプレイの導入騒ぎさ」
「どういう事でしょうか?」
「2015年の7月だったかな、君達の政府は日本国民の血税の内3700億円もの大金を叩いて、17機もの未亡人制作機のオスプレイを導入すると高らかに発表した。明くる年の2016年10月か、米国のシコルスキー社がS-97Raiderと言うヘリコプターの開発に成功したとプレスリリースした。こいつは二重反転ローターを備えていて、その上直進用の推進用プロペラまで装備されている凄い機体だ。バッタ物のオスプレイとは比較に為らない程の高性能と高い安全性を誇り、オマケにとってもお求めやすい価格に為っております。
オスプレイよりも安いのだ。だから米軍は5万機以上のS-97の導入を内定済みだ。
日本のインテリジェンスは一体何をしていたのかね?
幾ら同盟国とはいえ、この手の情報は最重要機密で秘匿中の秘匿物にされるのは当たり前だが、ソレを穿り出して日の許に曝すのが彼等の仕事だろうに、サボっていたのかな?
インテリジェンスの情報のリソースの9割は公開情報だ。シコルスキー程の大きな会社が新型ヘリを開発していたとすれば、極秘開発であろうが何だろうが関係なく水面下の胎動もいずれ表面に浮き上がってくる。どんな高度な隠蔽工作を駆使しても必ず情報は何かの形で漏洩するモノだ。水と同じで漏れ出してしまうのだよ。
公開情報と言うのは新聞やTV、それにネットニュースや雑誌、刊行物だけではない。
SNSも立派な公開された情報だ。
シコルスキーの開発者やエンジニア達のTwitterやFacebookを細部に至るまで漏らさずにチェックして置く事などはインテリジェンスの常識、初歩中の初歩じゃないか。
『欠陥機のゴミ』を引取らされて大損をこくって、どうゆう事さ。
不良品の在庫一斉セールじゃないんだから。
寡婦製造機にご搭乗を願われる自衛隊員が不憫でならないよ。
こんな小学生レベルの仕事すら出来ない低レベルの連中を雇っている段階で、ここの宰相は『アホ』だって誰にでも判る。
ゴミを高値で引取りさせる事に成功して、してやったりって感じの米国の政府の関係者達は今頃、下を向いて含み笑いを堪えるのに精一杯だろうよ」
「ショウナンさんはウチの首相になんか恨みでも抱えてんですか?」
「別に恨みを抱えている訳では無い。
ただ、ヤツは人殺しだ。
今年の初めにシリア近くのイラクに自衛隊の先遣隊が極秘裏に派遣された。
兵站作業を担う部署などでは無くて、特作と呼ばれる特殊作戦群という自衛隊の精鋭中の精鋭、特殊部隊員が12名現地に送られて米軍と行動を共にした。
何の為だと思う?
派遣の実績作りのそのまた下地作りという、軍事的には全く意味の無い行動だ。
非常に高度に鍛錬された特殊作戦群と言えども実戦経験がなければ赤ん坊と同じだ。演習を幾ら積んでも所詮は練習だ、それは実戦とはまるで違う、言わばお遊戯みたいなモノだ。
そういう実戦経験の無い兵士には何も出来ないから結局警護役としてデルタフォース一個中隊が帯同せざるを得なくなった。
シリアの国境近辺を移動している時にISと思われる集団から攻撃を受けた。当然、集団的自衛権を行使して特殊作戦群も反撃しなければならない。だが初めての実戦で一人の自衛隊員がシャッター現象に陥ってしまった。君なら判ると思うが、意識は在るのに行動する事が出来なくなる現象、つまり意識と行動の乖離だ。敵との交戦中にフリーズして動けなくなってしまった自衛隊員を救出する為に行動したデルタの一員が戦死した。
彼の名前はサミュエル・スペンサー、俺の元相棒、観測員だ。オレの親友だった。
同時にオレの命の恩人でもある。
実戦経験の乏しさから国防総省と米軍は今回の軍事派遣にかなり強い態度で反対を表明したし、日本側の防衛省や外務省も派遣自体には消極的だった。反対の包囲網と言う状況を押し切って自衛隊の派遣を強行に指示したのは官邸、つまり君たちの首相だ。
つまり、彼は人殺しなのだよ、しかも私の親友を殺したのだ」
 ヤスダはS・ハンターの著作を愛読していたから直ぐにピンと来た。
だから何故ショーナンが米国籍をワザワザ取得したのか、理解出来た。
米国籍でなければ、アメリカ国民でなければ特殊部隊員には成れないから、だ。
そして今ショーナンがどんな職業なのかは判らないが、前の職業は判明した。
 スナイパーだ、しかもデルタの。

「だからさ、ライフルでの長距離射撃で大切な要素はさ、風向や風速だけじゃないんだ。
気温や湿度は勿論、弾頭の形状や質量、ライフリングの偏差の具合、発射薬の量や形状、バレルの長さやバレル・ハーモニクス(重心の固有振動数)とかも重要なんだぜ」
「へーっ」
「サトウ、お前詳しいな」
「小学生の頃は軍事ヲタクだったからな」
「ソレに付け加えるとすると、緯度。コレはコリオリズ・フォースに関係するから大事だ。
ライフリングの偏差、これは1フィート当たりの回転率の事だが、マグナス・フォースに関わる重要な要素だ。真直ぐ飛翔する為に弾頭に回転を与えて所謂ジャイロ効果を生み出すのだが、副反応として落下方向への力を生じさせてしまう。コレがマグナス・フォースだ。野球のカーブが落ちる原理と同じだ。それに加えて弾頭の質量に対して適切な偏差を選択しないと発射した後に弾頭が明後日の方向に逸れてしまったり、タンブリング、つまり横倒しに為ってしまったりするからだ。
高度も重要だぞ。空気の濃度や重力の軽重も弾道に影響を及ぼすからな。この事象が意外と弾道特性を左右するのだ。
俯角か迎角か、撃つ方向も大切だ。この場合は三角関数が必要に為る。
長距離射撃の場合、例えば.338ラプアで1500ヤードの射撃の場合は弾頭が銃口から放出されて放物線に似た弾道を描き対象に到達するまで約3秒飛翔する事に為る。その間に対象がジッとして動かないでいてくれる保証は無いから、素早く次弾を装填して再射撃準備を整えて置く事が必要だ。
標的が人の場合、狙うポイントとしてはファーストチョイスは腹部だ。
頭部は通常は狙わない。
人のパーツの中で一番動きが激しいのが頭部だからだ。
胸部という選択肢も考えられるが通常は採用しない。
胸を撃たれても人は直ぐに倒れ込んだりせず暫くの間は反撃出来るからだ。しかし、腹を撃たれてしまうと人間は反射的に前に屈みこんでしまう。反撃不可能な姿勢に陥るのだ。
警察のスナイパーは少しプライオリティが変わっていて、瞬時に無力化する必要がママ生じる。例えば犯人がハンドガンを突き付けながら、人質を抱き抱えていたりする状況とか、だな。人間は心臓を撃ち抜かれても最低18秒は生きている。ドラッグなんかを使用していれば何分間も行動出来たりもする。だから警察の狙撃主が狙わなければならないのは、延髄だ。ココを撃たれると人は瞬時に行動停止となる。だから彼等は軍隊のスナイパーとは違うストレスと戦わなくてはならない。
ま、警察のスナイパー達が直面する状況の殆どは100m以下の超楽勝で一撃必中の狙撃距離だ。なので、周囲の期待値は高く、成功して当然の雰囲気が漂う。人質に危害が及ぶなどあってはならない等という無言の抑圧状況下で生成されるストレスはしばしば彼等に『失敗』をプレゼントする。人質を撃ってしまう事など未だマシな方で、あるFBIの人質奪還チーム(HRT)のスナイパーは距離100mの近距離狙撃をする際に着弾点を逸らしてしまって、被弾した犯人の激昂を誘発、他のスナイパー達によって沈黙化されるまでに犯人は人質30人の内26名を射殺、4人に重傷を負わせてしまった。こんな悲惨な結末の事件は、実は結構沢山ある。
まぁ、色々あーだこーだ言ったが、結局の所、一番クリティカルな条件なのはヒューマン・ファクターだよ。高精度なバレルと精緻で正確なアクションから構成されたカタパルト部を高性能なストックに的確にベディングした上でそれらの構成要素群にマッチしたオプティカルサイト等を採用して組み上げられたとても優れたライフル・アッセンブル・セットであっても射手がヘボでは如何ともし難い。
ヒューマンファクターの中で最も重要な事は、呼吸のコントロールだ。
ヒトの身体は絶えず動いている。
心臓の拍動や胃や腸の蠕動運動の様にヒトの身体、特に内臓は一時も休む事無く動き続けている。その中で最もダイナミックな動きを示すのが、呼吸だ。
ただ、自律神経系がドライブしている他の臓器運動と違って、呼吸は自分でコントロールできる。呼吸をコントロールするのは勿論、脳、精神だ。
そして精神は体力に裏付けされた時に初めて機能できる。
昔のスポ根マンガに出て来る様な時代も錯誤甚だしいの高校の部活の指導者が、ま、何の部活でもいいが野球としよう、体力を使い切ってしまった部員たちに対して『体力が無くなっても気力を振り絞って、ガンバレ!』と怒鳴ったとする。彼は、完璧に間違っている。
君達も経験すれば簡単に解る事だが、HPを完全に消費し切った状態では、脳という器官は機能してくれない。消耗しきった状態で気力を振り絞れ、と言うのは酷な事だ。
まるで乾いたボロ雑巾を絞る様なモノで、いくら力任せに絞っても一滴の気力さえ滴ってはくれないさ。
『健全なる精神は健全なる肉体に、宿る』この言葉が非常に明確に表現している。
体力と言う縁の下の力持ち的な支えがあって初めて、精神の力を発動する事が可能だ。
千本ノックの様な非科学的で根拠のない練習では無く、米軍のブートキャンプで行われている様な科学的なエビデンスに基づいた効率的な方法で体力の限界点を上げて行く。そうする事で、危機的な状況に陥ったとしても周囲の状況を良く把握して考え行動に移す事が出来る様になるのだ。
話し掛けたのは、呼吸のこと、だったな。
静かに息を吸う。
肺を新鮮な空気で満たしたら、今度は徐々にユックリと吐き出して行く。
半分ほど排出が完了した所で息を停止して、静かに人差し指だけを動かしてジンワリと、トリガーを落として行く。引くのでは、無い。落とすのだ。
コレがスタンダードな射撃方法だ。
呼吸を制するという事は、全ての事に通じるから覚えておくと良いかも、な。
一流のスナイパーは呼吸どころか心拍数すら自分の意志でコントロール出来るそうだがね。
ついでに言えば、後は残心の構えかな」
「何ですか、ソレ?」
「残心。
射撃は弓道にも通ずる所があるのだな。野球で言えば、ピッチャーのフォロースルーだ。
撃った後も弾丸に心を載せて行くのだ。シュチュエーションは大きく違うが音楽でいう所の『心より発し、心へと還る』にも例えられるかも知れん。
射撃というモノは精神に頼る部分が大きいのだ」
「ショーナンさん、詳しいですね。射撃とかやってたんですか?」
「何、耳学問さ」
「ヤスダ氏、どうした?」
「顔色良く無いゾ」

「じゃあ、ドミノの買い出しはショーナンさんに決定!」ニタが叫んだ。
「やった。初めてチョキで勝てた。すっげ、嬉しい」サトウが言った。
「大丈夫ですか、1人で」とヤスダが尋ねたのに対してショーナンが答えた。
「大丈夫だ」
「認めたくないモノだな、自分の若さゆえに過ちというモノを」
「ガンダム、神聖にして偉大なる作品!」
「じゃ、行って来る」ショーナンが言った。
「大丈夫ですか?」
心配そうに見降ろすヤスダにショーナンは言った。
「買い出し、それを解決するのが私であるという不幸を呪おう」
「ハムレットですか?」
「イヤ、適当、だ」

 メモを見ながら注文を済ませると、ショーナンは明るい店内から夕暮れが近付いた街を眺めていた。ボンヤリという態を装っていたが、辺りを見渡す眼は索敵のソレだった。
 1人の女子高生が歩いて来た。
サトウ達によると『絶対領域』と呼ばれる部位だそうだが、その娘の穿いている紺色のソックスと短めのプリーツスカートの間にチラチラと垣間見える膝小僧の辺り、ショーナンの眼が留まった。
脚フェチのショーナンでも見た事が無い程、綺麗な膝小僧をその女子高生は持っていた。
スポーツ系の部活動を連想させる蜂蜜色に灼けた滑らかな肌と絶対に正座を一回たりともした事の無い形の整った膝からショーナンは眼を離せなくなってしまった。
結局彼女が視界から消え去るまで、彼女の膝しか眼に入らなかったので彼女の顔立ちが如何なるモノなのか、全然視認できなかったほどだった。
 良いモノを見た。
匂い立つ様な超絶無比の膝だ。
 ショーナンがそう思った時に、ソレは来た。
突然やって来た。
頭の上から巨人がその巨大な手で押し潰そうとする様にショーナンは立っていられなくなり壁にもたれ掛かる事で何とか地面にへたり込む事だけは回避できたが、全く動けそうに無かった。
 酷いモノだ。
矢張り医者の言う通り薬を服用するべきかも知れない。
ショーナンは霞み始めた頭で今は考慮を払う必要など無い、そんな余計な事を考えていた。
外の風に当たれば何とかなるかもと思い、手で壁を伝いながら歩いて行き店の前に設置してあるベンチに苦労しながら腰を掛ける事が出来た。
息をするのも一大事業だった。
 呼吸をしろ。
呼吸を続けろ。
ショーナンは口と肺に命令をし続けた。
 落ち着け。
落ち着くんだ。
ここはアフガンでは無い。
安全が保障されている日本だ。
オレの生まれた国だ。
 大丈夫だ。
大丈夫。
 ショーナンのソフトフォーカスが掛かった様な皮質上に1つの解が浮かんできた。
そうか、だからあんなにヤスダはオレの事を心配していたのだ。
優れた精神科医としての鋭敏な勘がヤスダにオレの変調を伝えていたから、だから・・・
あの女子高生の膝小僧を、あの絶対的に美しい膝小僧を、思い出せ。
 膝だ。
膝だけを考えろ。
膝だ。
膝だ。
膕だ。
膝だ。
膝だ。
膝だ。
膕だ。
膝を思い出せ。
膝だ。
 両手に顔を埋ませて危険な時間が過ぎ去るのをひたすら耐え忍んでいると、上の方から声が振って来た。
此方の身を案じてくれている声だった。
 眼を開けると、そこに先ほど見惚れていた膝小僧があって、ショーナンの視線が衝突した。
「大丈夫ですか?」
 オオ、日本の娘さんは何て優しいのだ。
こんなおじさんに優しい声を手渡してくれるなんて。
アフガンではこれ位の歳頃の御嬢さんに手渡されるモノと言ったら、手製の爆弾しかないのだから。
 若さを感じさせる微かなスパイシーさを秘めた濃厚で甘い果実の様な香しい芳香を彼女は周囲に魅惑的にも放射していた。
掠れた声で「有難う御座います」と返しながら彼女の顔を初めて仰ぎ見る事が出来た。
 丸い小さな顔と悪戯っ子を想わせる艶やかで大きな瞳が、少しリョーカに似ていた。

<続く>

ksgkの神様 前篇 ver. Sarah

ksgkの神様 前篇 ver. Sarah

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-15

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