コネクト

うさみかずと

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高校野球で甲子園に行くことよりも大切なこととは。青春を野球に捧げた球児たちの後悔と歓喜の野球小説






プロローグ

西の空に落ちた太陽の赤が溢れグラウンドを染めた。
試合が終わり誰もいないはずのマウンドに二人の影が二つ。つま先がすり減って削れたスパイク、砂埃をかぶったグローブ。長く伸びた二人の影がグラウンドに映える。
白いユニフォームに黒色の野球帽が朱に溶けていた。
「あたるは進路決めたのか」
そのぶっきら棒な声にあたると呼ばれた少年は言った。
「京成大甲府に決めたよ」
「ほうか」
わたると呼ばれた少年は、嬉しそうに頷いた。そんなわたるの表情にあたるは笑みをこぼす。
「なに笑ってんだ」
「いや、なんとなくな」
あたるはそういうと今度は思いっきり口を開けて笑った。その姿を不服そうに見ていたわたるもつられて大声で笑う。一人しか立つことのできないマウンドに二人で立つ。そんなことは今までなかったことだ。笑うだけ笑って高ぶる心を落ち着かせた二人は、もうすでに暗闇に包まれた西の空を見上げていた。
「俺らがいれば甲子園なんて楽勝だ。そして高校では俺がエースだ。あたるは二番手」
「それは俺もうかうかしてられないな」
 沈黙の後二人は歩き始めた。あの山の向こうに太陽が完全に隠れる前に、今日が終わる前に、言いたいことや伝えたいことは腐るほどあって、もう一か月前から脳内で呪文のように唱えていたはずなのに、喉の奥に詰まって飲み込むことも吐き出すことも出来なかった。
「なあ。あたる」
「なんだよ」
 わたるは、歩みを止めて振り返り言った。
「俺、負けないから。神奈川のシニアでも結果残して必ず京成大甲府から推薦もらうから。だから・・・・・・」
 わたるの言葉にあたるはずっと胸のなかにあった自分の気持ちを語りだす。
「待ってる。わたると一緒に野球ができる日まで俺は。そして二人で甲子園に行くんだ俺のあとを任せられるのはお前だけしかいないと思っているから」
 あたるは、全てを語り終えわたるの反応を待っている。
 わたるは、目を逸らし少し照れながらあたるの帽子を取り上げた。
「テッ、あたりまえじゃん。甲子園を一人で投げぬこうとか肩が壊れるわ。あと俺の前じゃなくて後ろだ」
 最近導入された延長タイブレーク制度で分かるように一人のピッチャーに大きな負担を背負わせることは批判的な世の中になっている。このような制度は連投を危惧したものだった。
「あたる。俺と約束してくれないか」
 わたるが拳を固めあたるのまえに突き出す。
 あたるは、迷うことなく自分の拳をぶつけた。
 すっかりあたりは薄闇に包まれていてどこからともなくカエルの合唱が聞こえてきた。一番星が淡く光りだして夜はもうすぐそこまで来ている。
「俺はお前がいれば・・・・・・」


 
 朝・・・・・・。
 カーテン越しにこぼれる日差しをうっとうしく思いながら上体を起こす。左手で右腕をさわり右手を思いっきり固めた、がすぐに力を抜いた。時刻は六時半。目覚ましがなる三十分前。太陽の光が本棚に飾ってあるトロフィーに反射して目の奥に突き刺さる。ベッドからおきてかばんから飛び出した赤いグローブを手に取る。皮のいいにおいが重くけだるい体を覚醒させた。こいつで幾多の強敵に立ち向かってきたんだ。絶対的にピンチな場面でもまわりがもうだめだと諦めたときも、乗り越えてきたんだ。こいつとこの右腕で・・・・・・グラブをはめ目の前にある記念ボールを握り締めた。自分の一番自身のあるストレートの握りだ。窓ガラスに映る自分を睨んだ。投球モーションに入る、呼吸を動きとあわせ足が上がったところで一拍のためをつくる。下半身から始動して力が上半身に静かに伝わった。並進運動は終わり足が床に着地する上半身の捻りが開放された腕がむちのようにしなる。ガラスの向こうに見えたキャッチャーミットにボールは吸い込まれていく。バッターのバットが空を切る音が聞こえた。
 ボトっと鈍い音が部屋に響く、落としたボールを拾い上げると机に戻した。今日から俺は高校生になる。

 
桜舞う入学式から一週間が過ぎた。武田北高校に進学したあたるは、まだどこの部にも所属していなかった。放課後一人しかいない教室はいつもより数段広く感じていた。
「あたるくん。何やってんのグラウンドいくよ」
 グラブを片手にあっけらかんとした口ぶりで訊ねてきたのは、同じクラスの仙崎菜穂だ。彼女は、他の女子がソフトテニス部や卓球部に入部を決める中、早々に野球部にしかも選手として入部した野球大好き少女だ。身長は165センチくらいであたるより10センチ背が低く、スレンダーと言えば聞こえはいいが、その実態はまな板胸で引き締まったウエストに似合わない大きな尻。まるで理科室にある丸底フラスコのような体格をしていた。性格は男勝りであたるが最も苦手とする女子だった。授業中には長い髪を流しているが、今はおさげにしている。
あたるは、ああと曖昧な返事をしてまた目線をそらす。
「ねえ、いつまでいじけてんの」
 真新しいグラブを差し出すと机に置いた。あたるは一度手にしたがすぐに机に戻した。
「悪いけどそんな気分じゃないし、あとお前しつこい」
「なによ、こっちがせっかく誘ってあげているのにそれでも男なの」
「男だよ。股に立派なもんぶら下げて生きてらぁ」
 あたるが股間を指さして見せると、菜穂は呆れたようにあたるの前の椅子に座ると背もたれに顎をおき、ねえと話しかけて来た。
「本当に野球やらないの?」
「野球は、もういいんだ」
「けがしたから?」
 会話が途切れるのを待ってあたるは、鞄から一冊の本を取り出した。その本は、柔道整復師の専門書だ。柔道整復師とは、おもに整骨院の先生やスポーツトレーナーとして、脱臼、捻挫などの怪我に対して手術をしない「悲観血的療法」によって、整復、固定などの治療を行うことができる専門家のことであたるは、怪我をしてからずっと興味をもっている。
「あたる。ここにいたのか、さがしちゃったよ」
 視界を遮るように目の前に現れたのは、あたるが一番会いたくないやつだった。
「いまから部活に行くんだ、なぁ見学だけでも行こうよ。けがしたとは言えあたるは関東ナンバーワ・・・・・・」
「鳩ヶ谷。俺は野球はやらない、もうほっといてくれないか」
 鳩ヶ谷がそういい終わる前に席を立ち次の言葉を待たずにに教室をでた。途中菜穂の声が聞こえたがあたるは振り返らなかった。


 家までの道すがらあたるは少し昔のことを思い出していた。昔と言っても数か月前のことだ。自分が野球を辞めたあの日のことを・・・・・・。
 わたるが父親の転勤により甲州南シニアを去ってから半年。あたるは、中学最後の大会に向けて練習に励んでいた。山梨県で甲州南シニアと言えば名門中の名門で県内の猛者たちがこぞって集まる大所帯だった。一軍から三軍まであるチームであたるは、わたるが去ってからもチームの絶対的エースであり続けた。このときのあたるは、ストレートのマックススピードが140キロを超えており、京成大甲府以外の県外の強豪校からも声がかかっていた。当然のごとく全日本メンバーにも選ばれていて関東に蔵田中ありと名をはせていたのだ。しかしあたるの評価が上がるほどチームの戦績は低迷していった。それはチームがあたるに頼りすぎていたこととサウスポーの百瀬和多留を失ったことが要因だ。
 全国大会準優勝を経験した先輩たちが引退してからあたるは、チームの四番も務め、大事な試合は一人で投げぬいていた。中学生という成長期に無理な投球が原因で最後の大会前にあたるの右肘は爆発した。あたるの肘の状態を知った強豪校は次々に特待、推薦を取り消して何もなかったように去っていく。そんなことよりピッチャーが野球のすべてだったあたるにとって投げられないというのは死ぬことよりつらいこと、と同時にわたるとの約束であった二人で甲子園を果たせないということだった。
 甲子園に行けないのでは野球する意味はない。野球部を自主退部した後受験を控えた身として残りの数か月、あたるは死に物狂いで勉強に励み、進学校の武田北高校に無事に入学したのだった。
「今更野球なんてやったところで時間の無駄だ」
 あたるはアスファルトに咲く名のない花を思い切り踏みつぶして歩いた。つまらない今日が暮れていくのを眺めながら帰宅すると夕飯も食べずにベッドに入った。

 あたるの心に意を反し満開の桜が校舎と正門までの数十メートルを染めていた。
 鬱陶しいほどの桜の花びらと新入生獲得に動く上級生の勧誘の声が降ってくる。
 創立100年を超える伝統校が多い山梨県の中では武田北高校、通称北高は創立20年の新しい高校だ。歴史は浅いが県内の優秀な学生が集まる武田北高校の偏差値は60を超えていた。ここ数年は10人以上も国立大学に学生を送り込んでいて県内屈指の進学校になっている。
「そこのきみ、辛気臭い顔をしているね。どうだい軽音部に入らないか」
 ロングヘアーのビジュアル系かぶれの上級生が腰を曲げてあたるを見上げる。恰好とは裏腹に顔はのぺ~とした平目顔でロングより坊主が似合う顔をしている。
 あたるは背が高いものの昔見たく筋肉質ではないから話しかけやすかったのだろうか、手を振って断ると反対側の道から別の上級生が現れて通せんぼする。
「背が高いね。そんな君にはバスケが合うと思うな。素人歓迎だし、変な上下関係はなし。楽しく部活をしよう」
 すぐにサッカー部、ラクビー部の上級生が駆けつけてあたるに詰め寄る。
「サッカーやろうよ。うちは楽しいよ」
「何を言うか、ラクビーはいいぞ~。男のスポーツはなんといってもラクビーさ」
 あたるをめぐって部同士の威信をかけた勧誘合戦が始まった。汗臭い男たちにもみくちゃになる。あたるは心底うんざりしていた。はやく教室に行きたいと声に出して言うがあたるの声は雑踏に掻き消されてしまう。
「ちょっと待った!! 先輩方強引な勧誘は禁止されてますよ」
 女子の声だ。無法地帯と思われたこの場所にもそれなりの規則があったらしい。助かったと思い振り返るとあたるはすぐに顔をしかめる。
「この男は我々野球部に入部する予定である者です勧誘しても無駄ってものです」
 鳩ケ谷の野球部のもの宣言に気を悪くした上級生がすごく怖い顔で睨んだ。睨まれた鳩ケ谷はそそくさと菜穂の後ろに隠れるが無駄に大きい身長のため上手く隠れていない。
「おいおい、野球部さんよぉそれはないだろう。俺たちは真面目に勧誘しただけだぜ」
「先輩方が必死なのは認めますが、彼は迷惑してますよ」
 菜穂は上級生の威圧に一歩も引かず答える。
「ていうかきみはなんなの? マネージャーだったら野球部よりうちに入りなのよ。お菓子食べ放題だし絶対楽しいよ」
「おあいにく様です。私は野球以外のスポーツに興味がないの。それにマネージャーじゃなくて選手なんで」
 菜穂がそう言うと周りの上級生はバカにしたように一斉に笑った。どこからともなく飛び交う言葉は彼女の情熱を踏みにじるような言葉だった。
「きみ知ってるの? 女子は公式戦には出場できないんだよ。なんのために野球なんかやってるのさ」
「なによ。私は好きだからやってるのよ文句あんの」
「文句はないけど女の子には無理っしょ」
「バカにしないで!!」
 菜穂は上級生の一人に飛び掛かった。不意を突かれた上級生は地面に倒れた。
「あたる! 一緒に菜穂ちゃん止めてくれ。僕一人じゃとても・・・・・・」
 上級生の悲鳴、鳩ケ谷の叫び、菜穂の怒号。すべてが混ざり合ってどんちゃん騒ぎをしていると校門からから教員が飛び出してきた。
「お前ら何やってんだ、問題を起した部は1か月の活動停止にするぞ」
 その声に恐れをなした上級生が一斉に退き周りにはあたるたちしかいなくなると
「ふざけんな!!」
 という菜穂の叫びだけ響いていた。
「菜穂ちゃんそんなことより早く教室に行かなければ活動できなくなるって」
 鳩ケ谷は菜穂とあたるの腕を掴んで疾風のごとく校舎に入っていった。なんとか教室にたどり着き鳩ケ谷と別れた後も菜穂の機嫌は治らなかった。
「頭にきたわあいつら、そうでしょあたるくん」
「まぁ強引だったね。でも俺は野球部には入部しないよ」
 知らない間に手に持っていた運動部のビラの中には不思議と野球部のビラがなかった。それはあたるにとって好都合だが違和感があった。
 勧誘活動に野球部自体は消極的なのになんでこいつらは俺をしつこく誘うんだ
 野球というのは特殊なスポーツだと思う。集団スポーツの中で最もメジャーなのに新規参入者を受け入れない風潮がある。経験がものをいうスポーツだから正直、向き不向きが命運を分ける。つまりうまいやつは、どんどん試合に出場できるがへたくそは、悲しいくらい試合に出場できない。けがをして分かったことだが、野球は始めが肝心だ。指導者が速い球を投げろといったときに速い球を投げられた奴がすべてにおいて優遇される。うまいやつはとことんうまくなり、へたくそはずっとへたくそだから早い段階で見極めが必要なのだ。自分が野球に向いているかどうか。
「あたるくん、あたるくんてっば」
 あたるはハッとした。そうは言っているが腐っても野球部は学校の花形だ。勧誘に消極的などではなく勧誘する必要がないほど部員がいるのかもしれない。そうだそうに決まっている。一般の高校でも野球部員は春休みから部活に顔を出すのが基本だ。それなりの選手が揃っているなら好都合で、けがをして使い物にならない自分をしつこく勧誘するのはやめてくれとはっきり菜穂に言うこともできる。
「ちょっと聞いてるの」
――この耳元でうるさいこいつの声もいい加減うんざりしていたところだ
「いいよ。今日野球部の見学に行っても」
 さんざん自分の頭で自問自答を繰り返したあと、答えたあたるの言葉に菜穂は満面の笑みで言った。
「約束だよ。今日の放課後一緒にグラウンドにいくこと」
「はいはい」
 あたるがおざなりに返事をすると菜穂は嬉しそうに笑っていた。「変なやつ」そう心でつぶやいて一時間目の準備に取り掛かった。
 放課後、菜穂はあたるの腕を引き急ぎ足で教室を出た。校門から裏手にあたる運動部が使うグラウンドまでは、体育館と校舎をつなぐ通路を抜けると教員用の駐車場がある。その奥に見えるのがグラウンドでその面積の内訳をサッカー部と野球部が占めていた。木で作られたフェンスには90メートルと記されていて、まだ新しくきれいに緑の塗料が塗られている。
「ほら早くいこう。あたるくんをみんなに紹介するから」
「おいおい、俺はただの見学だぞ。そんな事されちゃ困る」
 菜穂はそんなことお構いなしにあたるの腕をさっきより強く引っ張った。あたるは軽くつんのめると菜穂の勢いに押されてどんどんグラウンドに吸い込まれていった。
 そして、三塁ベンチまで来たところで裏に建てられたプレハブ部屋からユニフォームを着た男子がぞろぞろとあらわれた、六人目が出てきたところでプレハブ部屋の扉が閉まる。
 あたるの予想よりはるかに人数が少ないのが悩ましいところだがその中で鳩ケ谷を見つけて少し安堵した。
「あたる!? よかった来てくれたんだね」
「見学だけだよ。仙崎がうるさいからさ」
 どうやら他の七人は菜穂とも顔見知りらしくあたるを置いてきぼりにして軽い冗談やたわいもない話が飛び交っている。菜穂は挨拶を一通りすますと確認する。
「斎藤さん。小角さんと大木さんは?」
「キャプテン達なら学校と今年度の予算について話し合いに行ってるよ。もうそろそろ帰ってくるはずだけど」
 斎藤と呼ばれた先輩がそう言うとみな一同にあたるに注目した。ひそひそと話しだした部員の中で我慢できなくなった部員の一人が口を開く。
「蔵田中って県内で十年ぶりに全日本メンバーに選ばれたあの蔵田中でしょ」
 あたるが頷くと、ほとんどの部員が一斉に「おおっ」とどよめきを上げ、声を高ぶらせた。         
「みんな盛り上がって何かいいことあったのか?」
 振り返ると三塁ベース付近に筋肉質の大柄の男とスポーツ眼鏡をかけたいかにも理数系の男がユニフォームを着て立っていた。少しずつ近づいてきた大柄の男はあたるを肩をポンと叩き嬉しそうに言った。
「よく来てくれた蔵田くん。きみのことは菜穂ちゃんから聞いているよ。肘を怪我したんだってな」
 大柄な体に似合わずきらきらと輝く希望に満ちた目。まだ春先なのに全身から噴き出す男の汗の匂い、なにより「人生全力疾走」みたいなオーラが気に入らない、あたるが最も関わり合いたくない人種だ。
「ところでお前は誰だ。まだ部員全員に自己紹介済ませてないなら今しろよ」
 大柄な男の隣にいる眼鏡は、感じが悪い印象を受けた。後輩とは言え初対面の人間に対してお前はないだろう。あたるは顔をしかめてそっぽを向きそうになったが、菜穂がすかさず釘をさしあたるの足を踏んづけた。
「一年三組蔵田中です」
「蔵田くん改めてこんにちは! 俺は主将の小角新平だ。そしてこっちの不愛想なやつが副主将の大木弘樹。ほらみんな自己紹介だ。二分で済ませよ」
 そう言いながら小角は、あたるに手の平を差し出した。握手を求められたあたるは断るのも気が引けるので一応手を握る。
 握られたその手はあたるにとって久しいぶりだった。ごつごつとした手はとても大きく皮が固くなっている。
右端の選手かから順番に自己紹介を始め男子の部員で一年生は、鳩ケ谷平和と中原忠之助の二人だけで主将の小角以外は皆二年生だった。最後に菜穂の自己紹介が終わると小角はみんなに声をかけた。
「よしじゃあ練習を始めよう。アップしてキャッチボールだ」
 再び男子部員たちが拳を挙げて「よーし!」と声をそろえる。なんとも軽いノリだった。
「仙崎はいいのか制服のままで」
「うん。今日はあたるくんの見学をサポートするって小角さんに言ったんだ」
「あっそ」
 練習が始まりノックまで終わるとバッティングに移行する。ここまで見て分かったことは、小角キャプテンを中心に他の部員たちがすごく仲がいいことだ。先輩後輩の嫌な上下関係もなければ、いざこざも確執もない。仲がいいことはとてもいいことだし、あたるもいかに練習の雰囲気が大事かということは承知しているが、この人達がやっているのは野球ではなく球遊びだと思っていた。
 あたるは、自分の横で声を出す菜穂を見てあることに気が付いた。
「なぁ仙崎、部員ってこれだけか? あと監督は」
 菜穂を頭数にいれていたが菜穂は女子だ。女子は公式戦には出場することが出来ない。菜穂を抜かすと一年生が二人、二年生が五人、三年生一人。八人しかいない。
「うん。これだけ・・・・・・監督はいないけど部長はうちのクラスの担任の佐原先生」
「えっ、あの佐原が部長!!」
 佐原先生は現国の教師で、まだ四十代前半ながら年を十ほど老いて見える中年教師だ。ものすごく優しい感じがして印象はいいがどことなく頼りなく人を怒ることが苦手な人だった。
あの雰囲気から野球を知っているのかもきわどい。
「どう? うちのチームは」
「どうって言われても・・・・・・」
 正直な話このチームが次の大会で甲子園に出場する確率と明日隕石が地球に落ちる確率。どちらが高いかと言われれば後者の方がまだ現実味がある。ノックを見ていてもしっかりグラブのしんでとっている選手はショートを守る人くらいで、イージーゴロをグラブの土手でとりファンブルする選手が目立っていた。ボールに対して一歩目の反応が遅いし、送球が頻繁にそれる。あれではダブルプレーなんて一生とることなんてできないだろう。
 バッティングもまともにバットにあたらない選手がいれば、ミートが上手くても力不足で内野の頭を超えるか超えないかの打球が目立つ。その中でもまだましだったのは、主将の小角と副主将の大木だ。小角は空振りが目立つが思い切りのいいスイングで、当たればボールをフェンス近くまで飛ばすことが出来る。大木は内角のボールに対しての反応が上手かった。厳しいコースも腕をたたみヘッドの長さを克服して快音を響かせている。が・・・・・・。それでも予選大会を一回勝てるか勝てないかがいいところだった。問題はピッチャーにある。このチーム唯一のピッチャーである鳩ケ谷は、中学軟式野球部出身でまだ硬球になれてはいなかった。走り込み不足もあって下半身が安定せずコントロールが定まらない。ストライクをとりにいく手先だけの投球でなんとか誤魔化しているもののあれでは、強豪私立のバッティングピッチャーにもならない。
「時間の無駄だったか」
 ぼそっとつぶやく。あたるのさみしそうな目を菜穂は心配そうに傍らで見ていた。
 午後七時。気温も下がり空は暗くなっていた。校舎からの放送部の生徒が部活終了のアナウンスを始める。
「よしみんなダウンして五分で帰るぞ。今日のカギ登板は仙崎か。蔵田悪いが付き合ってやってくれ」
 大木が偉そうに号令をかけると、部員全員が指示に従い各自ダウンを済ました後道具の片づけに移る。菜穂が教室に忘れたプレハブ小屋のカギをとりにかえっている間、あたるはベンチに一人腰を下ろしていた。その姿を見かねた小角はそそくさと近づいてきて隣に腰を下ろす。
「どうだった。蔵田くん見学してみて」
「はぁまぁ」
 曖昧な返事しか出来ないあたるを気にしない小角は続ける。
「みんなまだまだだけど、とてもやる気があっていいだろう。この夏はチーム一丸となって甲子園を目指して努力しているんだ」
「・・・・・・。甲子園それ本気で言っているんですか」
 甲子園と言う言葉に過敏に反応する。あたるの口調が変わった。
「小角さん。あなたたち程度のレベルの人が簡単に甲子園なんて口にしないでもらいたい!!」
 突然の大声にグラウンドの部員の誰もがこちらを注目する。しかしあたるはお構いなくまくしたてた。
「あなたたちはなぜ分からない。このチームの実力では逆立ちしたって甲子園は愚か、一回戦だって勝てやしない。なのに無駄な努力ばかりしてバカだと思わないのか、貴重な十代の時間をこんなことに費やして、野球は勝たないと意味がないんだ。努力しても甲子園に行ける可能性がなければ高校野球をやる意味なんてない。あんたたちの野球は野球じゃない思い出作りだ!」
 グラウンドに静寂が漂う。小角はあたるの言葉に圧倒されてなにも言い返すことができなかった。
「言いたいことはそれだけか? おい天才ピッチャー」
 代わりに口を開いたのは大木だ。手に持った一般的にトンボと言われる整備器具を置き二人に詰め寄る。
「お前はいままでの野球から何を学んだ? 答えろ」
 あたるは答えなかった。大木を鋭い眼光で睨み拳を固める。
「三振の奪い方か、それともホームランの打ち方か」
「だったらなんですか、野球はそれがすべてでしょう。どんなくそ人間でも上手ければ評価されるそれが野球です」
 そう答えたあたるを大木は怒ることもまた殴りつけることもしなかった。ただ哀れなものを見るように冷淡な目つきで見据える。
「そうか。お前は野球というスポーツから何一つ学ぶことが出来なかったのか。同情するよ、お前はかわいそうなやつだ」
「なんだと」
 ベンチのフェンスを飛び越えて大木に迫るあたるの姿に小角は我に返り二人の間に割って入った。しかし大木は口を開いた。
「何度でも言ってやるよ、お前は野球からなにも学ばなかった、いや学ぼうとしなかった大バカ者だ。そんなバカはなにをしたって良くはならない・・・・・・。興ざめだ。小角さん俺は帰る後はよろしく」
 大木はそう言い残しプレハブ部屋から荷物を持ってそそくさとグラウンドを後にした。それを見た他の部員が大急ぎでグラウンド整備を終えると駆け足で大木の後を追いかけていく。
「蔵田くんちょっとまた話をしよう」
 あたると大木のいざこざの板挟みにあいすっかり困惑した様子の小角は、それだけ言って大木を追った部員に続いてグラウンドを去った。一人残されたあたるはばつが悪そうに校舎を眺めていると、カギをとりに行っていた菜穂が不思議そうな顔をして戻ってきた。
「途中で小角さんに行き会ってあとは頼むって言われたんだけどなんかあったの?」
「うるせいなぁ! こっちは気分悪いんだよ、話しかけんな」
 そう吐き捨てたあたるは、頭を掻きむしり土を蹴った。舞い上がった砂ぼこりが春の夜風に乗って消える。
「あたるくん?」
 首を傾げながら近づいた菜穂を振り切りあたるは逃げるようにグラウンドを去った。
勝手なこと言いやがって。
 そして、七キロある家までの道のりを今持てる力の全力で駆け抜けた。胸が熱くなるのを抑えながら不意にこぼれた涙を乾かすように足を回転させた。

 

 何も聞こえない、真っ暗な世界にいた。
 上も下も右も左も分からない途方もない暗闇に一人でマウンドに立つ。
 叫んでも、声は届かない外から完全に遮断された世界。あたるは、見えない敵に向かって投球モーションに入る。
 それでも確かに聞こえてくるのは、諦めと嘲りの言葉たけだった。
 昔はよかったのに、天才もあれじゃ形無しだな、なにがエースだこんなボー玉じゃ使えない、過去の栄光、廃れた右腕、もう無理だろあの曲がった肘じゃ・・・・・・。
 違う、まだ俺はやれる。ここを抑えて証明してやる。
 踏み出した足が地面についた。下半身の力が上半身に伝わり連動して肘が遅れて出てくる。
 ぼとっ。
 バッターに向かって投じた白球は力なく目の前に落ちて転がっていく。
 いい加減諦めろよ。お前の肘は死んでるよ。
 耳元で囁いた悪魔の言葉にあたるは、恐るおそる右肘を見た。かつて剛腕とまで言われた右腕は、肩の先から粉々に砕け散ってマウンドに四散していた。
 さようなら。
 俺は、まだ・・・・・・。
「まだっ」
 あたるは、目覚めた。毛布を足で蹴り飛ばし、シーツは汗でぐちゃぐちゃになっていた。
「なんなんだよ」
 心臓の鼓動が速くなっていてバクバクと音をたてている。時刻は朝の七時。家を出る三十分前だった。あたるは、急いで制服に着替えると、朝食も食べずに家を出る。
「あたるくん。おはよう」
「あぁおはよ、えっなんでお前がここにいるんだ」
 玄関を出てすぐの角にひと際大きいエナメルバッグを背負い、バットケースを肩にかけた、セーラー服の女の子、菜穂がそこに立っている。
「ねぇそんなことよりピースから事情は聞いたよ。どうしたのなんでそんなことを」
「ピース? 鳩ケ谷のことか」
 鳩ケ谷平和だからピースってことね。
「悪いけど俺は忙しいから話しかけんな」
 駆け足で振り払うあたるに菜穂は必死についていく。国道沿いの歩道を歩いて、次の角を右に曲がると目の前に大きな橋が見える。そしてそこには大きな河川敷の野球グラウンドが見えた。ダイヤモンドの中心にあるマウンドは、ここからでもわかるくらい削れていて、ほぼ平地に近いものだったが、外野の芝や内野の赤土は綺麗に整備されている。あたるは、いつもここで歩みを止める。
「やっと追いついた、あたるくん速いよ」
「なんでだ?」
 追いつくのに必死で息を整えていた菜穂に振り返り言った。
「なんで、お前は野球をやっているんだ?」
「なんでって・・・・・・野球が好きだからかな」 
いきなりの質問に少し困惑した様子だったが菜穂は即答した。
「女に野球ができるかよ」
 空気が震える。自分が何を言っているのかわかっていた。でも、もう口を紡ぐことはできない。
「たとえだ、お前に野球が出来たとしても肉体的に男に敵うわけがない。ソフトボールがあるだろう。もしくはどこかのマネージャーとか、そっちの方がお前にとっていいんじゃないか」
 菜穂は何も答えなかった。あたるはため息をついて背を向け、再び歩き始める。
「待ってよ」
 腕を掴まれた。振り向くと菜穂は泣いていた。そして鬼気迫るように震えた声で答えた。
「女だからってだけで、勝手に決めつけないでよ!!」
 その声に散歩中のおじいさんが驚いて振り返ったが菜穂は続ける。
「男はいつだってそうだ。私が女だからって理由だけでバカにして」
 菜穂が掴む右腕に爪が食い込む。あたるは菜穂の肩にかかったバットケースから金属バットを一本ぬきだすと手提げバッグから硬式球を三つ取り出して渡した。
「そこまで言うなら投げてみろ。三球勝負だ、そして約束しろ。俺を抑えられなかったらきっぱり野球を辞めると」
「どうして私がピッチャーだって・・・・・・?」
 あたるは道を外れてグラウンドに足を向けた。
「バカにするなよ。その下半身と右の手のひらを見ればお前がピッチャーだということは野球をやっていた奴から見れば誰でもわかる。それとも女だから勝負をやめるか?」
「分かった。受けて立ってやる。私が勝ったら野球部の人たちに謝るのとその長くなった髪の毛をきって坊主にすること。いい!!」
 マウンドに立った菜穂は、打席に入るあたるから感じられる威圧感に圧倒されていた。
 右バッターのあたるは、若干のオープンスタンスで構のバットの位置を高く上げている。変な力みがなくスキがない。しかし絶対に打ってやるという気迫が伝わってくるのだ。
――負けたくない。絶対に負けない。
 静寂のあと、投球モーションに入る。ワインドアップから足を高く上げるために体を軽く前後に揺らした。勢いを使って右足を高く上げるときに軸足のかかとを上げつま先一本で体を支える。十分に力をためた後その力を一気に解放すると、下半身から上半身に力が伝わり腕がむちのようにしなる。
 キュイーーーーン。
 快音を残して打球はレフトの定位置をはるかフェンスも越える。がさっという音が響いて白球は奥の草むらに消えた。
「ま、まって」 
「ファールか、さぁもう一本こい!」
 マウンドで崩れ落ちそうになった膝に力を入れて菜穂は両目にあふれ出しそうになった涙をぬぐった。
な、なんだ今の球威は、女の投げる球じゃない、それにあのフォームは。
 なめていた。完全に油断をしていた。もしかしたら負けるかもしれない。そんな考えがあたるの頭の中を過る。
気持ちの整理がつかないまま菜穂が投じた第二球目は、インコースの胸元。ごつんと後ろの壁にボールが当たりあたるのバットが空を切る。
 なんてやつだ。ファールとはいえあれだけかっ飛ばされて物おじせずインコースに投げるなんて・・・・・・。なによりあいつのフォーム。そしてどこまでも強気なピッチングスタイル。ここ一番の勝負に対する挑戦。まるであの頃の。
「さっき言ったこと、謝るよ。女には野球が出来ないなんて言ったこと、お前は努力してきたんだな」
 菜穂はグラブで自分の顔を隠し、小刻みに体を震わせる。
「あ、ありがと・・・・・・」
「だからって、俺はお前なんかに負けるはずがない。そしてやっぱり気に食わない、絶対に打つ!!」
 ラスト一球。グラブに収まったボールを握りしめて菜穂は振り被った。この一球で自分の人生が決まると言ってもいい二人にとって今後を左右する一投は、ど真ん中に入ってきた。あたるは、バッターボックスぎりぎりまで思いっきり踏み込んで打ちに行く。
 その瞬間、ボールは軌道を変えあたるの方に向かって迫ってきた。シュートだと気付いた。あたるは両腕を綺麗に畳んでフルスイングした。打球は快音を残しセンターのフェンスに直撃する。金属バットの高音とフェンスの鈍い音が響くグラウンドで、マウンドに立つ菜穂は、静かに頬を濡らしていた。一片の曇りもない済んだ瞳から流れる涙にあたるは見とれていた。
「仙崎、お前に聞きたいことがある」
 あたるが声をかけると菜穂は我に返って、一目散に走りだした。
「おい待てって、どこに行くんだよ!」
 河川敷のグラウンドを離れて橋がある方向へ菜穂は走る。あたるは、荷物も持たずに追いかけるがランニング不足もあって持久力が現役時代の半分しかなかった。しかし諦めるわけにはいかなかった。自分の野球をかけた勝負に敗れた菜穂の精神状態では、橋の上から身投げする可能性もあったからだ。動かない足をなんとか動かして間一髪、菜穂の腕を掴むことが出来た。
「早まるな。たかが野球でなに命かけてんだ」
「うるさい! あたるくんに私の何が分かるのよ!」
 菜穂はそう言うとあたるの腕を振り払い笑顔で言った。
「大丈夫だよ。あたるくんが心配するようなことはしないし、もう野球部に入れなんて言わない。でも今日は帰るね、先生には適当に言っといて、じゃあ」
 菜穂は再び歩き始めた。うつむきながらとぼとぼ歩く姿にあたるはやきもきする。
「帰るって学校はどうすんだよ。おい仙崎!!」
 あたるの声は菜穂には届かなかった。大声で戻るように説得するも聞き入れるつもりのない、菜穂の背中をもう小さくなっていた。
「もう知らないからな、勝手にしろ!!」
 踵を返して来た道を戻る。時間を確認すると針はすでに八時五十分を指していた。あと五分でチャイムが鳴るだろう。それでもあたるは急ぐ気が起きなかった。

 あたるが学校に到着したときにはホームルームが終わっていて職員室に遅刻届をもらいにいく羽目になった。生徒指導部の剣道部の強面の先生に一言遅刻の理由を聞かれ適当に「寝坊です」と答えて僅かばかりのお小言をもらい解放されたのは一時限目の五分前だ。
「なにかあったのか?」
 たまたま居合わせた鳩ケ谷に事情を聞かれたあたるはめんどくさそうに相槌を打つと教室に戻った。いつもの席に菜穂の姿はなかった。あたるは、ふんっと鼻を鳴らし気だるげな佐原の現国の授業を受ける。黒板に書かれた文字をノートに写す。そんな単純な作業を続けることも出来ずに窓の外に見えるグラウンドを眺めた。「甲子園を目指して努力している」頭の中で小角の言葉がグルグル回る。設備が不十分なうえに個々の選手の能力は著しく低い、こんなやる気だけのチームが甲子園? ダサい、かっこ悪い、「女だからだって勝手に決めつけないでよ」。
 うるせぇ。
 うるせぇよ。
 時間が流れるように過ぎるのも忘れ、放課後になるまでずっと窓の外を眺める。
「おいあたるグラウンドに来い!!」
 鳩ケ谷の声で我に返ったあたるは怪訝そうに振り向く。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃない!! お前菜穂ちゃんとなんかあったのか?」
「別になんもねぇよ」
「なんもねぇならなんで菜穂ちゃんが野球部を辞めるんだよ!!」
 鳩ケ谷はあたるの眼前に菜穂の名前が添えられた退部届を差し出した。そしてあたるの腕を掴む。
「知らねぇよ。やっぱり女に野球は無理って思ったんじゃねぇの」
「誤魔化すな!! お前がなんかしたんだろ!!」 
 鳩ケ谷の鬼気迫る迫力に押されたあたるは眉を中央に寄せ目を細めた。そして観念したように今朝の出来事を鳩ケ谷に伝える。
「お前なんてこと言ったんだ!!」
 鳩ケ谷は勢い余ってあたるの胸倉を掴んだ。一方であたるは冷ややかな目で鳩ケ谷を見下し沈黙を貫いている。
「菜穂ちゃんはな、誰よりも野球が好きで頑張ってきたんだぞ」
「だから何だよ!!」
 あたるは鳩ケ谷の腕を乱暴に払うと立ち上がり今度は逆に鳩ケ谷の胸倉を掴み返す。
「お前らは間違ってんだ。野球はな野球っていうスポーツはな! へたくそが努力しちゃいけないスポーツなんだよ。まして女なんかもってのほかだ。甲子園なんて天地がひっくり返っても口にしちゃいけないんだ。弱者は強者の引き立て役気取ってればいいんだ。それで世の中まわってんだよ」
「なのにお前らは俺の周りで叶いもしない夢を口ずさみやがって!! 目障りなんだよ。消えろお前らクズは俺の視界から消えてなくなれ!」
 その瞬間。あたるの視界に映ったのは鳩ケ谷の握りこぶしだった。勢いよく繰り出した右ストレートはあたるの頬にクリーンヒットし床に腰をつける。
「言いたいことはそれだけか!!」
 鳩ケ谷の声は誰もいない教室に響き渡る。
「強豪校が強者って誰が決めたんだよ! 野球は勝った方が強者だろ。長い歴史の中でこのスポーツが世界中から愛されたのは弱いものが強いものに勝つことがあるからだ。チームの戦略、個々の意識で大番狂わせが起せるそれが野球の魅力だろ。けがのことは災難だと思ってるし、同情もしてるよ。だけど高校球児は平等に甲子園を目指す権利はあるんだ!!」
 鳩ケ谷は菜穂の退部届を机に置き背を向ける。
「俺はもうあたるを野球部には誘わない。でもな菜穂ちゃんの夢をバカにするな」
 沈黙の数秒の後、鳩ケ谷は教室を飛び出した。残されたあたるは机にぽつんと置かれた退部届を見つめる。黒のマジックペンで乱雑に書かれた文字と滲んだ名前が記された退部届。小さく深呼吸し目を閉じるとあたるは自分がすべきことを十分に理解していた。右手に持つ退部届の封筒を乱暴にポケットに突っ込むと無我夢中で走り出した。
 
 

 マウンド上で無邪気に笑う一人の男の子のことを思い出していた。相手がどんなバッターでもお構いなく自信のあるボールを投げ込んでいく。弱気なサインに首を振りどんな場面でも三振をとりにいく、そんな男の子がいた。
「あの男の子の名前は蔵田中、あたるくんかぁ」
 中学一年生の菜穂にとってマウンドで躍動するあたるの姿はまぶしく見えた。
今から三年ほど前のことだ。 
 
「おいあいつまた一人で壁に向かってボール投げているぜ」
「ガンガンうるせーよ」
 硬式の野球ボールをひたすらに壁に向かって全力で投じる。菜穂のボールを受けるのは野球グラウンドの端にある木の板だった。中学野球の軟式球をぶつけて跳ね返ったゴロをとるためにたてられた木の板は、軟式球より重く硬い硬式球によって破壊寸前まで傷んでいた。緑色に塗られた塗料ははげ落ち、所々に木くずが飛び散っている。
「この学校に野球部がないから嫌がらせのつもりなのか?」
「どうやら、シニアリーグの入団を断られたらしいぞ。まぁあいつは女だし当然か」
「だよなぁ。第一女が選手として甲子園に行きたいなんて夢持っちゃいけんぇよ」
 陽が落ち学校の下校時刻が近づいても練習を辞める気なんてなかった。そんな菜穂の周りを部活動を終え、家路を急ぐ同級生や先輩は皆聞こえるように辛辣な言葉を投げかける。
(おかしいよ、どうして性別が違うだけで夢を持つことも許してはくれないの?)
 自問自答を繰り返しひたすらに壁に向かってボールを投げた。菜穂にとって野球は自分の人生そのものだった。
 菜穂が野球と出会ったきっかけは母だった。父の仕事は企業のイベント・企画の立案で若くして現場責任者を任せられていた。そのため土曜、日曜、祝日は家にいることが少なかった。そのために自然と母と一緒に過ごす時間が増えていく。小学校に入学してからも当時人見知りが激しかった菜穂はうまく周りに馴染めず友達もいなかったことも少なからず影響しているのかもしれない。不登校が多くなり困った母が菜穂の前に差し出したものは使い古した茶色のグローブ。
「菜穂ちゃん。キャッチボールしようか」
 家に閉じこもってばかりの娘を外にだそうと母が考えた苦肉の策であっただろう。菜穂の父が大学時代に使用していたピッチャー用のグローブを菜穂に手渡した。小学一年生の菜穂にとってそのグローブは自分の顔くらい大きなサイズで、手入れが行き届いていたとはいえ、陽があたらないクローゼットの一角に長い間放置してあったグローブは、油が塗りこまれた皮の匂いと湿気で独特な匂いを放出していた。しかし、菜穂は不思議と嫌悪感は示さずに母の手からグローブを手に取り、昔からその使い方を知っていたかのようになんの躊躇もなく自分左手にはめ込んだ。
「気に入ったの?」
「うん。これでどうやって遊ぶの?」
「今から教えてあげる」
 それから、休日は母とのキャッチボールが菜穂の日課になっていく。物珍しさから近所の大人たちや同じくらいの子に話しかけられる機会が増えたことで菜穂の人見知りは少しずつ解消され、人とコミュニケーションをとることが苦痛ではなくなっていたのだ。
 しかし驚くのはそれだけではなかった。小学四年生になると菜穂は男子顔負けの剛速球を投げられるようにまでなっていたのだ。地域対抗の育成会の野球大会では、自分より体が大きい上級生を抑え、地区優勝を果たすなど才能の片りんを見せるようになる。
 もちろん中学校に進学した際は野球部に入部するつもりだった。
「うちは野球部がないんですよ」
 学年主任の先生にそういわれた。
「でも去年までは確かにあったじゃないですか」
「去年まではね。卒業生が居なくなってからは部員も少なくてね、あと他の部活動からの苦情もあってさ廃部にしちゃったんだよ。ごめんね」
 最近では集団スポーツをする生徒が少なくなっていて、特に野球は人気が下がり競技人口が全盛期の半分ほどになっている。そのかわり卓球やテニス、バトミントンなどの個人種目の競技が人気を博していた。中学校の部活も例外ではない。
 菜穂は学年主任に違うスポーツを勧められいろいろな部活の見学に行ってみた物のどれもやりたいとは思わなかった。
「私はやっぱり野球がやりたい」
 菜穂に残された選択は地元のシニアリーグ甲斐シニアに入団すること。
 真新しいユニフォームを身にまとい河川敷のグラウンドに入団テストを受けにいく。仕事で忙しい父にかわり母が同伴していた。入団希望者は菜穂を加えて十余名。挨拶を済ますと外野でキャッチボールを行っていた途中で遅れてきた監督と思われる中年の男性に呼ばれた。
「きみ女の子なんだって? じゃあうちには入れないな」
 その言葉に背筋がびくりとなる。
「でも私は野球がやりたいんです」
「それはさっききみのお母さんから事情を聞いたよ。硬式は危ないしなにかあったらうちは責任をとらなくてはいけないんだ・・・・・・分かってくれるね」
 半ば強制的にグラウンドを出された菜穂はそのまま入団テストを受けている選手を食い入るように見ていた。肩の強さ、足の速さ、どれをとっても自分が劣っているとは思わなかった。ただ自分が男でないという事実だけが菜穂の夢を断ち胸を締め付けていた。グラウンドをギュッと睨みながら悔し涙を流した。
 それでも菜穂は諦めることはしなかった。学校が終わってから河川敷のグラウンドを訪れ続けたのだ。風が強い日も小雨が降る日もバックネット裏のベンチで監督を待ち頭を下げた。いつしか厄介者扱いされ相手にされなくとも菜穂は足しげくグラウンドに顔をだした。
 そんなある日甲斐シニアが隣の市の甲州南シニアと練習試合をすることが決まった。
 見慣れた河川敷のグラウンドのマウンドに上がった少年はまだこの春入部したばかりの新一年生で初めてのマウンドも緊張より好奇心が勝る表情をしていた。試合が始まってすぐに菜穂はこの少年に魅了される。上級生相手に一歩も引かない強気の投球。抑えた時にはうれしさを爆発させる素直さ、なにより少年は菜穂が一人ぼっちと感じていたマウンドで躍動していた。
 そして七回を無失点で投げ切りお役御免となった少年は甲斐シニアのベンチに向かって叫んだ。
「これから三年間、蔵田あたるがいる限り南シニアは無敵だ」
 
あたる。蔵田あたるくん。

 退部届を提出した時、小角は驚きの表情を隠せなかった。菜穂も辞める理由を聞かれる前に会釈をしてその場から逃げるように立ち去ってしまい、行く当てもなくひとり朝の河川敷のグラウンドが見える土手に座り西の空に沈む夕日を見ていた。
「なにしにきたの?」
 菜穂は後ろの少年に声をかけると少年は黙って菜穂の隣に腰を下ろす。制服のワイシャツに汗を纏い熱気があふれだした少年の姿に笑みがこぼれる。
「もう女の子扱いは嫌だよ。あたるくん」
「うるせぇよ」 
 小さくつぶやく。菜穂は再び西の空を見つめる。
「お前野球辞めんのかよ」
「うん。勝負には負けちゃったし、でも満足してるの。初めて私の努力が認められたから。それにやっぱり女に高校野球は厳しいよ。選手じゃなくてもみんなの夢のサポートはできるもん。だからありがとう私にさ・・・・・・・」
 菜穂の言葉を遮るように立ち上がると、ポケットから取り出した退部届をその場でびりびりに破いて空へと投げた。四散した紙きれはつむじ風に乗って空高く舞い上がりやがて見えなくなった。
「あたるくん?」
「俺、わかんないんだ。ケガをしてから仲間だと思って奴が急に態度を変えたり、周りの大人も冷たくなった。俺は何一つ変わってないのに俺はただ野球が好きなだけなのに。どんどん変わってく周りと自分が怖いんだ」
 震える右手をじっと眺める。そして目の前の太陽からもれる真っ赤な光が滲む。菜穂はあたるの右手を自分の両手でそっと包み込んだ。
「私も怖かった。ずっと後ろ指を指されているようで、苦しかった。誰にも理解されなくて・・・・・・でも私は野球が好きなんだ。バカにされても理解されなくても自分を変えてくれたこのスポーツが」
「俺も・・・・・・変われるかな。俺もお前みたいに強くなれるかな?」
「きっとなれるよ」
 太陽が西の空に落ちる。あたるは遥かかなたを堂々と睨んでいた。それは蔵田あたるの揺るがない決意と引き換えに過去の絶望と決別した第二章となる野球人生が幕を開ける序章に過ぎなかったのだ。


 困惑する小角と大木以外の部員の前に二人が現れたのは練習時間が終了する三十分前だった。いたたまれないようにグラウンドに現れた菜穂の姿を見た小角は安心したように向かい入ようとしたがあたるの姿を確認した大木がその再開に待ったをかけた。
「何しに来た? 天才ピッチャー」
 駆け寄る部員と二人の間に割って入る大木はあたるに鋭い眼差しを向けた。しかしあたるはひるむことなく大木に近づくと周りの部員はあたふたと動揺したが小角が毅然とした態度で二人を見守っていたので他の部員も二人に委ねることにした。
「昨日は申し訳ありませんでした」
 ナイアガラの滝のように勢いよく頭を下げたあたるに攻撃されると一瞬身構えた大木は、気を取り直して尋ねた。
「なにに対して?」
 頭を上げる。まっすぐに大木を見据えるあたるの瞳には確かに自分の意思が宿っていた。
「甲子園を目指すことをバカにしたことです」
 大木は少しの沈黙の後ゆっくりと口を開くとなにか言おうとしたタイミングで我慢できなくなった小角が飛び出してきた。そして双方の肩に腕をまわし大きな声で笑う。
「大木もう許してやれ十分だ。蔵田もよく戻ってきた男を上げたぞ」
 ため息を漏らした大木は小角の腕をのけぞると練習に戻っていった。その姿を見届けたあたるはグラウンドに背を向け歩き出した。
「どこへ行くんだよ。あたる」
 陰に隠れていた鳩ケ谷が突然声をかける。
「どこって、帰るんだよみんなの野球邪魔したくないし」
「なにいってんの! 今日はしっかり最後まで見学して明日から練習に参加だ」
「で、でも俺は」
 小角の発言に全員しっかりと頷いた。
「いいよなぁ大木副キャプテン」
 一人ネットに向かっておきティーをする大木は手を上げ再び打ち込みを続ける。
「じゃあ改めて蔵田あたるくん。ようこそ武田北高校野球部へ。一緒に甲子園目指そう!!」



翌日。あたるはいつもより一時間早く目覚ましをならして五分で支度をした後ランニングを始める。現役時代は毎日続けていた朝のランニングは家から学校をめぐる五キロの道筋を快足を飛ばして走っている。まだ東の空の朝焼けは寝ぼけていて気だるそうに一日の始まりを知らせていた。うっすらと汗ばむシャツに目の前に聳える山から吹く爽やかな朝の風に体を浴びせながらあたるはそのストライドをどんどん広げていった。
 武田北高校の朝の練習は自主練と言う名目で存在しており、全員が集まってする練習は放課後だった。だからホームルームの時間まで各々が好きな時間に集まり好きな練習をして好きな時間に練習を切り上げるというスタイルが創部から受け継がれた伝統らしい。あたるがグラウンドに到着したときはすでに菜穂と鳩ケ谷がキャッチボールをしていて二人がこちらに気が付いたとき笑顔で手を振った。あたるはランニングの勢いそのままに二人に駆け寄る。
「他のメンバーは?」
 鳩ケ谷は柔道部が使用するウェイトルームを指さして答える。
「キャプテンはあそこで筋トレ、大木さんはロードランニングに行っててその他のメンバーは部室で休んでいるよ。そろそろノックでもするんじゃない」
「昨日説明を受けてびっくりしたけどこの野球部は本当に自由なんだな」
「まぁ人数が少ないししょうがないよ」
 そんな話をしているとプレハブ小屋から数人のメンバーがぞろぞろと姿を現してきてなにやらもめ始めた。一人の選手が納得いかないといった様子でその他のメンバーを困らせている。あたるは騒ぎの中心に駆け寄ると先輩たちはどうしたものかと考えていた。
「どうしたんですか?」
「いやさ、チャンがじゃんけんに負けたのにノッカーやんないって言うんだもん」
 チャンと呼ばれた二年生。高井仁は不服そうに首を振った。
「だって俺昨日もノッカーだったんだぞ。俺だってノック受けたい」
 わがまま言うなと説教する同じく二年生の斉藤達彦はあたるが唯一まともだと思ったショートを守る選手だ。
「それじゃ俺が打ちますよ皆さん守備についてください」
 その言葉に気をよくした高井はにんまりと口角を上げ一目散にセンターに走って行った。小柄だが足の回転が異常に速くあっという間にセンターの守備位置に到着してボールを呼んでいる。
「めちゃくちゃ足速いなぁあの人」
「そりゃそうだチャンさんは中学まで短距離走の選手で県の記録保持者だぞ」
「まじかよ。忠之助」
 中原忠之助は同い年のキャッチャーで中学時代鳩ケ谷とバッテリーを組んでいたそうだ。県内ではあまり有名ではなかったからあたるは細かなプレースタイルなど知らない。しかし中原はこのチームではセカンドを守っている。キャッチャーは他にいるのだ。
「あ、鈴川さんキャッチャーと球出しお願いします」
 鈴川利一はこのチームで一番大柄な選手で強面だった。いつもむすっとしていって上級生の間でも恐れられている。顔面凶器、悪人面などと揶揄される一方でその実は心優しい寡黙な男だと野球部以外に認知されることは今後もないだろう。
 あたるは改めて北高の守備陣の実力を図ろうとバッターボックスに入った。通常通りにサードからノックを打とうとするが、サードを守る二年生、原田正樹はサードの定位置を離れショートともとれるポジションに突っ立ていた。しかもよく見れば口元にはマスク、目にはおかしな眼鏡をかけていてユニフォームは着ているものとても野球をする格好ではなかった。
「あの~ 原田さん定位置に戻ってください」
「え、ここじゃないの?」
 素直に驚く原田に守備陣はけらけらと声を上げて笑った。ショートを守る斉藤が呆れながら定位置を教えると照れながらサードベース付近に腰を落としボールを呼んだ。
 あたるが打ったボールは鋭い回転がかかって原田を襲った。正面のボールに頭を抱えて避ける原田にまた笑い声が起こる。
「ちょっと速すぎるよ、それに今日は花粉がひどくて、もうちょっと手加減してくれないと・・・・・・」
「すいません」
「いいっていいって。そのくらいボールから目を離さなければ捕れるから、原田しっかりとボールをよく見るんだぞ」
 斎藤の言葉に原田は「わかった」と返答し、さきほどより大きな声であたるを呼んだ。あたるはさっきより気持ち緩くボールを叩いたが変に力を抜いたため当たり所を誤ったボールはゴロにならずライナーで原田の元へ飛んで行った。
 いてぇぇぇぇえ。
 そしてそのまま原田の顔面に激突。
「あちゃ~ バカだね今度はボールをよく見すぎだ」
 大の字で倒れた原田の鼻からは血がすごい勢いで流れ出しマスクを赤く染めた。練習は一時中断。ノッカーのあたる一人を残してみなプレハブ小屋に消えて行ってしまった。すると筋トレを終えたキャプテンの小角がゆっくりとあたるに近づいてきてポンと肩を叩いて一言。
「見えてきたな甲子園」
 あたるは苦虫を嚙み潰したような笑顔で一言。
「・・・・・・。どこが?」
 そしてそのまま今日の朝練は終了した。


「ねぇそんなに怒らないでよ」
 あたるは授業中ずっとイライラしていた。あのあとホームルームの前に原田の教室を訪れ頭を下げに行く羽目になったのだ。原田はそこまで怒っているわけじゃなかったが捕球できなかった自分の恥ずかしさを誤魔化すような言い訳を散々聞かされた挙句ホームルームには遅刻。今週は二度も生徒指導の先生に怒られることになったのだ。
「俺が悪いのかよ。初めて見たよボールよく見ろって言われて顔面に当てる人」
菜穂はいじけるあたるをなんとか慰めようと話題を振るがそれでもあたるはぶつぶつと文句をたれていた。
「だいたい、朝練が自由ってなんだよ。あとみんな細かなルールわかんないってこれでどうやって試合してきたんだ? こんなチームでどうやって甲子園目指せばいいんだ」
「あたるくん。いま甲子園って」
 甲子園。あたるがその言葉を口にするたびに菜穂はうれしさを噛みしめていた。
「よぉ。お二人さん」
「鳩ケ谷、お前友達いねぇのかよ」
「忠之助は彼女がいるから誘いにくいんだ」
「ピース小角さんが言ってた試合の件どうなったの?」
「いやあれはダメになったけど、そのかわり今日の放課後西高とグラウンドで練習試合することになったんだ」
「それはずいぶん急だな」
「でも西高との試合は伝統の一戦だから勝ったらみんな喜ぶぞ~」
「みんなって誰だよ」
「野球部のOBのことよ」
「しょうもなっ」
 そうは吐き捨てたもののあたるは試合と言う久しぶりの響きに気持ちが高ぶった。授業が終わると上級生が早くも試合の準備を進めていて菜穂とあたるは急いでユニフォームに着替えた。それから上級生と変わってインフィールドラインとネクストバッターズサークルの円にラインカーを転がして引いた。
「あたるくん。円が不格好すぎる」
 菜穂に注意を受けたあたるが円を描いたネクストバッターズサークルは正円とは言い難いほど縦長になっていてお粗末なものだった。負けず嫌いのあたるは何度も何度も円を描くがどうもしっくりこなかった。
「なんだ蔵田は不器用なんだな」
 そう声をかけてきたのはキャプテンの小角だ。貸してみろと言わんばかりにラインカーを手に取ると慣れた手つきで文句のつけどころがない綺麗な正円を描いて見せた。
「小角さん上手い!」
 菜穂が褒めたことに気をよくしたのかまんざらでもない顔をしてあたるに親指を立てた。
「蔵田はあんまりこういうことやってこなかっただろうからできないのは仕方ないさ。でもこういう作業も簡単に見えてなかなか難しいだろ」
「はぁ」
 そんなどや顔で言われても。
 それがあたるの正直な心境だった。こんな丸上手くかけたところで何だっていうんだろうか。それから上級生は試合の準備のため各自アップを始める。鳩ケ谷、中原も校内の掃除当番の仕事を済ませて合流した。一年生四人がすべてのラインを引き終わり上級生のアップに交ざった時同じくして武田西高校がグラウンドに到着した。人数は二十人ほどしかいなかったが北高と比べればその選手層は厚い。相手チームのキャプテンと小角は知り合いらしく顔を合わせるなり握手を交わしていた。
「ところで大木さん。西高って強いんすか」
 あたるの質問に大木は頷いた。
「うちより強いぞ。たいていの高校は」
 あまりにも参考にならない情報だが、武田西高は去年の夏の大会は一回戦負けだったがその内容は釜無川工業に5対4と善戦したらしい。ちなみに武田北高校はというと廃部寸前の三校の合同チームにサヨナラ負けを喫していた。
 アップ、キャッチボールを済ませいよいよ試合のスターティングメンバーが小角から発表される。
「じゃあお待ちかねのオーダー発表しまーす。呼ばれた人は元気よく返事しろよ」
 一番センター チャン。
 はい!
 二番ショート 斎藤。
 うす!
 三番 ・・・・・・。
 といったように一人ずつ名前を読み上げるスタイルはまるで小学生の草野球を思わせるほど緩くほんわかしたムードで行われた。そして七番ファーストと言われた時、小角はオーダー表から目を離しあたるに視線を向けた。
「蔵田いける? ファースト」
 まさか試合にいきなり出場できるなんて思ってもいなかったし、ファーストなんて久しく守っていないが、いけるかと言われていけませんなんて口にする野球人がどこにいるというのか。
「いけます」
 勢いよく答えると小角は「よしっ」と一言。そして再びオーダー表に視線を戻した。
 八番ライト 鳩ケ谷。九番ピッチャー仙崎。
 整列を終えるとピッチャーを任された菜穂は気合十分にマウンドに上がる。あたるは部室に転がっていたファーストミットを携え不安そうにマウンドを見守るが試合が始まってすぐにその不安は解消された。西高のバッターは菜穂の投げるボールにかすりもしなかったのだ。マウンド上で躍動する菜穂のピッチングフォームは、ケガをする前のあたる自身のピッチングフォームの特徴をとらえていてまるであの日の自分が蘇ったような感覚に浸る。三人目のバッターを抑えた後北高ナインはまるで優勝したような盛り上がりを見せていた。
「す、すげぇよ。三者三振なんて初めてみた」
 ベンチに座る原田は手を叩いて喜んでいる。小角が円陣を組み再びナインが活気に溢れかえる。この勢いで先頭バッターの高井が出塁を決めようものなら文句なしなのだが、案の定三球三振に終わった。
「そんな大振りであたるか、もっとコンパクトにだなぁ」
 ネクストの斎藤に小言を言われながら少し不貞腐れた顔でベンチに戻ってきた高井は、そそくさとグラブをつけてそっぽを向いていた。
 あたるの不安があっという間にぶり返してきたのはバッターボックスの斎藤の無気力な構えが原因だった。いまだに一度もバットを振らずだからと言ってボールを見極めているわけでもない。
「斎藤さーん。振らないとアウトになっちゃいますよ」
「ダメなの? アウトになっちゃ」
 衝撃的な言葉にあたるは何が何だか分からなくなる。しかも周りの反応と自分の反応があまりにもずれていて思わずキャプテンの小角に視線を向けた。
「蔵田、斎藤はバッティング興味ないから仕方ないよ」
 バッティングに興味ないから仕方ないってなんだよ。結局三振してベンチに戻ってきた斎藤にあたるは詰め寄ると「なに」と低い声で威圧する。
「なんで振らないんすか?」
「振ってどうなる? 同じ三振なら別に振らなくてもよくない?」
 気だるそうにそれだけ言い残すと斎藤はベンチの横のスペースで高井とキャッチボールを始めた。チームの中に自分勝手な人間がいれば組織として成り立たない。これは高校野球や他の集団スポーツに限った話ではない。本来ならそういう人物を注意しチームと同じ方向を向かせなければならないが、キャプテンの小角や副キャプテンの大木はまるで問題にはしない。危機感を感じているのは俺だけなのか?
 初回の攻防を終えあたるはチームの方針を疑い始めていた。

 回が進むごとに菜穂のピッチングは冴えわたる。ストレートとシュートのコンビネーションを駆使して西高打線に安打を許さないどころかいまだまともなあたりを打たれていなかった。
「すごいぞ!スコアブックが0ばっかだ」
 原田の明るい声がベンチに響く八回の攻撃は六番の中原から始まる。西高のピッチャーは長いイニングの投球で確実に球威が落ちてきている。カウントツーボールからの三球目、肩口から甘く入ってきたカーブに踏み出した足で壁をつくると体の開きを遅らせ思いっきり引っ張った。打球は快音残しレフト前へ落ちる。
 ノーアウトでランナーが出た。
 七番のあたるは一打席目のヒットから警戒されて二打席連続のフォアボール。四打席目となるこの打席はピッチャーも勝負せざる終えまいと腹を決めていた。セオリーならここで送りバントもありうる西高ナインは中間守備をとり外野は定位置より深い位置に構えた。
「サインは自由にかっ飛ばせか」
 小角から送られた無駄に長いノーサインは北高ではかっ飛ばせのサインらしくあたるは堂々と構え、ピッチャーにプレッシャーをかけていた。相手バッテリーはバントの可能性も考え初球の入りを高めのストレートに決めたようだ。しかしあたるにとって浮ついたストレートほど打ちやすいものはない、それでもゴロやライナーでダブルプレーをとられないように意識的にバットをボールの二ミリ下に潜り込ませた。
 きゅいぃぃぃぃぃぃぃん。
 金属バットの気持ちのいい音が響き打球は定位置深く守るセンターの頭上を越えていく。三塁コーチャーの鈴川がぐんぐん腕を回す様子を一塁オーバーランの時に確認したあたるは快足を飛ばして一気に二塁を蹴ろうとする。
「ストーーーーップ」
 小角の声が鼓膜を揺らした。何事かと思い急いでベースに戻ると外野からの素早い中継プレーでいつの間にか本塁にボールが帰ってきていた。
「くそっ、深く守っていた分ボールに追いつきやがったか」
「ナイスバッチ」
 ベンチから菜穂が手を振ってエールを送るがあたるは知らん顔でフェンスを睨む。あと五メートル伸びていればホームランだったことへの悔しさが長打を打った嬉しさより勝っていたからだ。
 しかしチャンスであることは変わりない。西高は鳩ケ谷を敬遠し満塁策をとった。あたるは二塁ベース上で顔をしかめた。満塁。しかもノーアウト。この状況は一見入れ食い状態で得点のチャンスが無限にあると思うだろうが、それは裏を返せばピンチに変わる可能性も無限にあるということだ。まず塁がすべて埋まっているからタッチプレーがなくなりフォースプレーになる。八番の鳩ケ谷が敬遠されたことにより続く九番の菜穂、一番の高井、二番の斎藤に打順が回ってくる。九番の菜穂はピッチャーであるためむやみに打たせることは危険だ。かといって満塁でスクイズを選択できるほどバントは上手くないだろう。打球次第ではいとも容易くダブルプレーを奪うことができるのだ。
 相手バッテリーはゴロを打たせようと低め中心の配球をして菜穂を打ち取ろうとする。その中で菜穂はよく粘っていた。フルカウントまでもっていったが最後はストレートに力負けしてファーストファールフライに終わる。続く一番高井は簡単に打たされた。しかしボテボテの内野ゴロと高井の俊足が幸いしダブルプレーは免れたが状況は最悪なシナリオに進み始める。
 二番ショート斎藤くん。
 アナウンスが聞こえ、気だるそうにバッターボックスに入る斎藤はこのチャンスにも追い込まれるまでバットを振る気配すら感じさせない。さすがにしびれを切らしたあたるは三塁審にタイムをとり大木に詰め寄った。
「もう我慢できない。大木さんあの人代えてもらっていいすか」
 ベンチに座る大木は首を横に振る。それでも食い下がらないあたるを菜穂は必死になだめるがあたるは納得していなかった。
「いいから黙って見てろ。それとも代走をだそうか? ファーストなら正樹でも守れるしな」
 大木は三塁を指さすと無言で戻れと指示した。あたるは腑に落ちないながらも試合の進行を妨げることはしたくはないため渋々三塁に戻る。
 プレー。
 試合が再開する。バッテリーは一秒にも満たないサイン交換を終えるとすぐに投球モーションに入った。その瞬間あたるはスタートを切った。
「あのばか」
 大木が叫んだ時あたるはすでに本塁に向かって一直線に走り出していて、西高サイドもすぐバッテリーに声をかける。
『もうバッター関係ない俺が自分でホームを踏んでやる』
 その時、あたるの目に飛び込んできたのは斎藤がバットを振る姿だった。一、二の三で振りぬいた打球はピッチャーの頭を越えてセンター前へ綺麗に運ばれた。
「余計なことすんなって」
 口ずさんだ斎藤は颯爽と一塁を蹴って送球の間に二塁を陥れた。
二点。八回の終盤にこれほど大きな一打はない。当然ベンチはお祭り騒ぎであたると鳩ケ谷は手厚く迎えられるがあたるはなんともいえない表情で二塁ベース上の斎藤を見つめていた。
「どうした。辛気臭い顔して」
 打順が近づき一塁ランナーコーチャーから帰ってきた小角があたるの肩を叩く。
「いやその斎藤さんってなんで打てるのにバットを今まで振らなかったのか不思議に思って」
「それが奴なりの作戦なのさ」
「作戦?」
 眉間にしわを寄せてこちらに視線を向けるあたるに呆れながらも大木は口を開いた。
「たつは敵に極力情報を与えないように今まで無気力を装っていた。そして完全にたつのことを見誤ったピッチャーは考えもなしに重要な場面で簡単に甘い球を投じ、結果策にはまってタイムリーを打たれたというわけだ」
「そ、そんなこといわれても信じられませんよ。偶然に決まってる」
「そうかもな、でも一歩間違えばお前の暴走のせいでこの回は終っていたかも知れないんだぞ」
「そ、それはす、すいません」
「バツとして交代だ。最終回は正樹がファーストを守る」
 
 


 あたるがベンチに下がった最終回の守備は危なげなく終了し北高は西高との伝統の一戦を勝利で終えた。試合が終わった後各自練習をし、片づけまでして再びベンチ前に集合した。
「えぇ~ではではいよいよ明日に迫った春季大会のメンバーを発表しまーす」
 いよっ!待ってました!
 拍手喝采とともに小角と大木が現れその手には全員分の公式戦用ユニフォームがあった。
「っていうか公式戦って明日なんですか!!」
 その場の雰囲気に流されそうになったが寸でのところであたるは突っこみを入れた。
「そうだよ。知らなかったの?」
 中原は半笑いで答えると原田も「俺も知らなかった~」と言って笑いを誘い非常に和やかなムードに包まれる。
「じゃあ気を取り直して背番号一鳩ケ谷」
 番号順に名前が呼ばれて背番号を受け取った選手は一言意気込みをみんなの前で宣誓し流れ作業のように次の選手が呼ばれる。
「三番は蔵田だ」
 あたるは言われるがまま背番号を受け取るとチームメイトの視線をいっぺんに集める。
「と、とにかく初戦勝ちましょう。以上」
 言葉にならない盛り上がりを見せるチームメイトに呆れながらも久しく覚えたこの感覚は心地よいものであたるも明日の試合に胸を躍らせた。
「最後は仙崎。十番だ」
 女子選手である自分にも背番号が用意されていたことに驚き、きょとんとした顔をしている菜穂はフリーズした。
「いいんですか? 女子が選手としてベンチに入っても」
「そりゃだめでしょ。でもバレなきゃセーフ、仙崎はここにいる誰よりも頑張ってきたんだ。これくらいばちあたんないよ」
 震える手を抑えながら初めてもらう公式戦の背番号を受け取ると涙を流しながら胸にぎゅっと抱きしめた。その姿に感受性豊かな上級生や鳩ケ谷はもらい泣きしてるし・・・・・・、
 俺も泣いた方がいいのか。そう思って泣こうとしたがあたるの瞳は乾ききって涙のなの字も出なかった。
「私ベンチで一生懸命声出します!」
「いいや、声出すとバレるからできれば大人しくしててくれ」
 大木の冷静な物言いに今度は笑いが零れる。
「仙崎は鳩ケ谷が打ち込めれた時のために準備だ」
 小角の言葉がよほどうれしかったのか菜穂はその場でウサギみたいにぴょんぴょん跳ねる。
「でも鳩ケ谷お前が打たれたらおしまいだぞ」
「分かってるよ」
 あたるが釘をさすと鳩ケ谷は少し嫌な顔をしてつぶやく。
「ところで明日の相手ってどこなんですか?」
 小角は右上に黒目を動かして帽子のつばを触りわざと視線を逸らして言った。
「甲州商業高校」
 なんだって!!
 あたるは声を荒げた。その訳はあたるのシニア時代にさかのぼる。

山梨県の高校野球のメイン球場は甲府市にある小瀬球場だ。両翼九十メートル。センターは百二十メートルあり、外野は天然芝という全国的に見ても年季が入った球場である。三塁側先攻の北高のシートノックが始まる。ノッカーは原田が担当した。普通ならノッカーはチームの監督やコーチが打つものだが御覧の通りベンチに入るなり暑いからと言って麦藁帽を被った部長の佐原は、さきほど大会役員に注意されて機嫌を悪くし、今はそっぽを向いて居眠りをしている。十人しかいないチームは知恵を出し合いノッカーを当日じゃんけんで決めることになった。しかしながらここまで不格好なシートノックも珍しいだろう。ボールのまわりは遅いし、ダブルプレーの連携ではセカンドの中原が忙しく動いていた。本来なら控えの選手と交代しながらファーストに送球し、自分がノックを受ける順番になる前に守備位置に戻るのだが、人数が少ない北高にはそんな余裕はないのだ。内野ノックが終わるころには中原は肩で息をしていてアンダーシャツは汗をこれでもかと浸み込ませていた。それを差し引いて内野はまだいいとしても問題は外野だ。頭を超える大きなフライを追うレフトの小角は絶望的に足が遅い。上半身に筋肉をつけすぎたのか上と下のバランスがあっていないような気がする。ただめちゃくちゃ肩が強かった。センターの高井は足も速いし守備範囲が広く大抵の飛球ならキャッチすることができるが信じられないくらい肩が弱い。中原によればまともにキャッチボールができるようになったのは最近だという。人数合わせでライトに入った菜穂が一番上手いってどうゆうことだろうか。
 バックホームまで終えるとノッカー最大の見せ場キャッチャーフライがある。原田は得意になってフライを打とうとするがなかなか上手く上げることができずに結局最後は手を使って空高く投げた。球場は一瞬異質な空気に包まれたがすぐに笑い声に変わり北高のノックは終了した。
「おわった~」
 ノッカーの原田はどかっとベンチに座って中原に水を要求するとぐびぐびと飲み干してしまった。すでにくたくたになった中原はそのままベンチに座ると新しいアンダーシャツにさっそく着替える。
「どうした蔵田暗い顔して腹でも痛いのか?」
 小角のいらぬ気づかいに適当に相槌をして相手のノックをぬかりなく見ているとどうしてもキャッチャーの動きを目で追ってしまう。
「あの背番号十二。一年生だってよ」
 高井が指を指した選手は新一年生とは思えないフットワークを見せて球場を沸かしていた。
「中曽根元気。甲州南シニアの正捕手で県内ナンバーワンの実力の奴だろ。蔵田お前チームメイトだったんじゃねぇの」
 斎藤の言葉にあたるはピクリと体を震わせた。
「あんな奴チームメイトでもなんでもないっすよ」
 ノックの終盤で中曽根は三塁側ベンチのあたるを見つけるとみんなに分からないようににやつきながら中指を立てる。
「あの野郎」
 あたるはベンチの柵を強く握りしめた。


 甲州商業のピッチャーは十番をつけていてエースは温存。中曽根もベンチに座り上級生となにか話していた。一番バッターの高井はマスコットバットを二、三回振ると気合十分で打席に入る。主審の右手が上がり試合は予定通り始まった。サイレンの音が鳴りやまぬ間に初球のボール球に手を出した高井の打球は、バットの先っぽにあたったため特殊な回転がかかりサードのファンブルを誘った。まさかの先頭出塁で盛り上がる北高ベンチはすかさず送りバントのサインを繰り出す。ピッチャーはしつこくけん制をしたあとやや投げ急いで投球した。斎藤は内角高めの難しいコースを一塁線に転がし得点圏にランナーを進めた。
「初回からビックチャンスだ。頼むぞ蔵田!!」
 一塁ベンチを一瞬睨んで打席に立つとあたるはなにも考えずにピッチャーだけを見ていた。
『この試合絶対に勝つ!! 中曽根に地獄を見せてやる』
 浮足立ったピッチャーの初球を完璧にとらえると打球はあっという間に左中間を切り裂いた。
 唖然とするバッテリーを尻目にあたるは一気にセカンドを陥れ一塁ベンチに向かってほえた。甲州商業ベンチはあたるの態度に冷ややかな対応を醸し出していている。甲州商業の監督、佐瀬正文はベンチから身を乗り出すとバッテリーに無言の圧を与えた。その瞬間グラウンドに緊張が走るのをあたるは感じていた。甲州商業で名将と称えられている佐瀬監督は一昨年の夏の大会で山梨県を制覇し京成大甲府の五連覇を阻止した。古豪復活と騒がれ県内を挙げてOBたちが資金集めや応援団を募集し凄まじい熱気で甲子園に臨んだものの結果は二回戦敗退。当時中学生だったあたるの感想は、試合に出ている九人が同じような選手ばかりで爆発力とは皆無に等しく、堅実であるがゆえに全く面白みの欠けるチームという印象だった。
『名将も弱小公立校に先制されちゃ形無しだな』
 何はともあれバックスクリーンの電光掲示板には1という数字が記される。相手が慌てふためいている間にもう一点取ってやることは難しいことではない。
 四番の小角が打席に入るとネクストバッターズサークルに構える大木からサインが出された。この場面手堅くいきたいなら送りバントがセオリーだが小角の場合下手にバントさせるより打たせた方が確率は高いと判断したのだろう大木のサインは入念に時間をかけたダミーだった。バッターボックスの小角はいつもより顎が上がり全体的に力んだ様子だったが、相手ピッチャーがかなりテンパっていたため変化球が甘いコースに入ってきた。
 どりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
 叫びながら打った打球はその勇ましいスイングとは裏腹に力なくライトに打ちあがる。タッチアップには微妙な距離だが三塁コーチャーの鳩ケ谷は躊躇なく腕をまわした。
 あたるはサードのタッチをかいかぐると三塁塁審が腕を大きく横に広げた。この判定に甲州商業サイドは不服そうだったが塁審の判定は変わらずなおも得点のチャンスは続く。
「大木さんお膳立ては完璧だからあとは打つだけっすよ」
 三塁ベースからの生意気な声援に少し腹を立てながらも大木は内角の難しいボールをジャストミートしサードの頭を越えるヒットを放った。三塁ランナーのあたるは手を叩きながらホームに生還した。そしてあからさまにベースを踏むとベンチの中曽根を再び睨んだ。
『どうだ見たか!!』
 あれよあれよで二点を奪った北高は大木のすきを突いた盗塁で追加点を狙うも六番の鈴川が三振に倒れ初回の攻撃を終えた。
「あたるくん。はいファーストミット」
 菜穂から渡されたミットを手に取り守備につこうとすると再び菜穂に呼び止められた。
「なんだよ」
「あ、あのナイスバッチ」
「ふんっ、あんなくそピッチャーの球なんか打って当然だ。それより見てろよあいつらぶっ殺してやる」
 そう言い残しファーストの守備につくあたるを菜穂は心配そうに見送った。なぜなら菜穂にはあたるが殺気を帯びた獣のように見えたからである。
『どうかこの試合無事に終わりますように』
 この時は、まだベンチで一人そう願う少女の心を踏みにじる展開になるとは誰も思わなかった。
 

鳩ケ谷の球速は120キロいくかいかないかで細かな制球力は期待できない。つまりストライクとボールを投げ分けられることはできるがコーナーに狙って投げ分けることができないのだ。つまりバッティングピッチャーと変わりないということ。あたるは甲州商業のベンチをしきりに気にしている。先頭バッターは左バッターでややオープンスタンス気味で構えるとグッと鳩ヶ谷を睨んだ。
「ピース腕振ってけ~」
「後ろには俺たちがいるぞ」
 深呼吸をして、バッターを見据えるとノーワインドアップから投球モーションに入る。典型的なオーバーハンドの鳩ケ谷の第一投はど真ん中に入る失投になった。
 初球を狙っていたバッターは迷わずバットを振りぬくとものすごい当たりはセカンドの中原目掛け飛んでいく。
「わぁ」
 腰を抜かしながらグラブを出すと、そこにすっぽりとはまっている。捕ったというより入ったといった方が近いだろう。
「忠之助ナイス」
 アウトひとつに盛り上がる守備陣。球場のまばらな観客は草野球のような雰囲気に失笑する声がもれる。
「力みすぎだ、バカ」
 ベンチでは凡打した選手を佐瀬監督が叱咤する声が響きますますギクシャクした空気が漂っている。こうなるともう選手は監督のご機嫌をとることに重きを置き始めることをあたるは経験から知っていた。
「鳩ケ谷。ポンポン投げろ、あたふたしているうちに抑えちまえ」
 あたるの呼びかけに気をよくした鳩ケ谷は言われたとおりに間を置かず速いテンポでキャッチャーに投げ込んだ。すると幸なことにバッターはことごとく甘い球を打ち損じ三者凡退で初回を終えた。
「これ俺たちいけんじゃね」
 ベンチに帰ったとたんに陽気に話す上級生を知らん顔でベンチに座ったあたるは、この回からブルペンに向かった中曽根がどのタイミングで出てくるのかだけ気にしていた。
「よし追加点とるじゃん」
 北高ナインは初回の勢いそのままに攻撃に臨むもラッキーは何度も続くわけもなく回を進めるごとに調子を取り戻していくピッチャーに凡打の山を築いた。
 更に甲州商業は持ち前の安定感で徐々にバッティングにも火が吹き始める。ここまで奇跡的にバッターを抑えてきた鳩ケ谷がとうとうつかまり始めたのだ。
 五回の裏の守備で鳩ケ谷は先頭バッターにフォアボールで出塁を許し、続くバッターに送りバントを決められ、ヒット、デットボールとピンチを招いた。ワンアウト満塁。絶体絶命のピンチにサードを守る大木がタイムをとりマウンドに内野手を集める。
「すいません」
「鳩ケ谷お前のせいじゃないよ。バックスクリーンのHのとこ見てみろ。ほらヒット十本。これでよくここまでゼロできたと思うよ俺は」
「たつ。今はそんなこと言ってる場合じゃない」
「どうするんすか二点あるんで深く守ります? バッター三番だしセカンドでダブりますか」
 中原の提案にあたるを含め他の選手も賛成だった。ワンアウトで二点差。バッターは前の打席にヒットを放ちタイミングはあっている。
「いや中間守備でスクイズ警戒だね」
 驚いて振り向くとそこにはライトにいるはずの原田が立っていた。大木は帽子のつばを掴み前髪を上げて深くかぶりなおす。
「根拠は?」
「根拠もくそも甲州商業ってそういう高校じゃん。去年の夏に山郷学院戦で九回にした四番の意表ついたツーランスクイズみんな忘れたの?」
 忘れるわけがない。あのプレーはそれほど衝撃的だったからだ。去年の夏の準々決勝。一点差を追いかける甲州商業は相手のエラーをきっかけに攻め立てワンアウト満塁というチャンスを作った。四番として打席に入ったバッターはこの試合唯一マルチ安打を記録していて球場は、ピッチャーとバッターの一対一の勝負に固唾を飲んで見守っていた。緊張と興奮が織り交じる中、ピッチャーが足を上げた瞬間三塁ランナーがスタート切った。もちろんバッテリーはスクイズなんて警戒してはいなかったからウエストボールを要求しておらず、いともたやすくバントを許してしまう。これで同点。ピッチャーは三塁線のボールをファーストに送球するとその瞬間二塁ランナーが三塁ベースを蹴って本塁に突入したのだ。このプレーに慌てたファーストの選手が本塁に大暴投を投じ、あっという間に試合が終わった。ここ十年で一番衝撃的な試合。
「いやいや、この状況でしかも俺たち相手に同じことやるかね? 天下の商業様が」
 斎藤が両手を上げて呆れながら言った。しかし大木は深く考える。
「斎藤、お前の気持ちもわかるよでも甲州商業は絶対にこの夏もあれをやろうとしているはずなんだ。だとしたらこの場面でしない手はないだろ。相手は格下。しかも劣勢に立たされたこの場面で」
「俺たちを練習台に使うってことか、よし正樹の意見にのってみよう」
「大木さんそれじゃあ一回けん制いれますか?」
「いやそれはやめた方がいい」
 あたるの言葉に耳を傾ける。あたるは全員の視線がこちらを向いたことを確認し口を開く。
「佐瀬監督は用心深いからけん制なんてしたらサインを変えるかもしれない。こっちはなにも気づいてないふりをしなくちゃ」
「だったら定位置に守ってピースが足を上げた瞬間前進した方がいいな」
「だったら僕は大木さんの前に転がるようにコントロールしてみますよ」
「分かった。でもこの作戦は一回勝負で鳩ヶ谷が確実にストライクをとらないといけないからな。頼むぞ」
 審判の顔つきが明らかに怪訝そうになる前に内野陣は各ポジションに散った。
 佐瀬監督はベンチで仁王立ちをして微動だにしない。鳩ケ谷は意識的に三塁を見ないようにキャッチャーの鈴川のサインをじっくりと見ているふりをする。
『さぁ勝負だ。上手いことつられろ』
 あたるは念を込め、息をひそめた。
鳩ケ谷は足を上げるランナーはまだ走らない。大木は目を閉じていた。鳩ケ谷の重心が完全に本塁に傾いてけん制の可能性がなくなった瞬間だった。
「走った!!」
 ライトの原田の声が内野に聞こえる。
 大木はランナーとほぼ同時にスタートを切った。
 鳩ケ谷は内角のストライクにボールを投じて一瞬だけ大木に視線をうつす。
『後は頼みます』
 バッターは三塁線に綺麗に転がすと大木とランナーとの競争になる。三塁ランナーのスタートの良さからして相手はかなり練習を積んでいる。大木は目の前でバウンドしたボールをグラブに収めるとランナーは頭からスライディングをし始める。
「トスしろ!」
 鈴川は握り替えたら間に合わないと判断し、大木は態勢を崩しながらも懸命にグラブトスをする。ホームベースに片足をつけた状態で体を命一杯伸ばしキャッチすると審判の右手が高々と上がった。
「利一ファースト刺せるぞ」
 倒れ込みながら大木は一塁を指さし鈴川は思いっきり腕を振った。不慣れな体勢からの送球にベース手前で失速したが、あたるのグラブさばきで難しいショートバウンドを捕球すると後ろでアウトのコールが響き球場はどよめいた。
「よっしゃーー」
 思わず雄たけびを上げる鳩ケ谷と安心した様子の大木。ライトの原田は飛び跳ねながら喜んでいた。 
「やりましたね。大木さん」
 鳩ケ谷は地面に突っ伏したままの大木に手を差し出すとその手をとった大木が起き上がりバックスクリーンを見上げた。
「なんとか五回まできたがここからだな」
 五回の攻防が終了し大会役員と両校のベンチメンバーを外れた選手がグラウンド整備を行う。北高は部員全員がベンチ入りしているため甲州商業の選手に頭を下げてからミーティングに入っていた。甲州商業も佐瀬監督の前に和になって集まり指示を仰いでいる。
「お前らさっきのプレーはしょうがない。相手に読まれていただけだ気にするな。これから中盤に入るが相手ピッチャーはおそらく継続だろう。ここから難しいことは要求しないから七回までに終わらせ来い」
 佐瀬監督は人差し指で眼鏡のフレームをくいっと上げるとベンチ裏に気配を感じ振り返る。
「この回からいくぞ。松下、中曽根」
 


 スプリンクラーが絶え間なく水を小刻みに放出し夏にも似た熱気が爽やかな春の風に変わる。試合前のように真っ新になったグラウンドに足を踏み入れるのは気持ちがいいものだ。北高ナインは興奮冷めやらぬままベンチで再開の時を待っていた。
「それにしてもよく反応したな大木。俺何が何だか分からなかったぞ」
 小角は感心したように頷くと原田は俺のおかげだといわないにしても鼻歌を歌いながら存在感を出している。
「正樹の助言のおかげですよ」
「まぁ俺は細かな野球のルールは知らないけど分析とか得意だから楽勝っすよ」
 和やかなムードにも一人厳しい表情を浮かべるあたるを菜穂は気になって仕方なかった。整備のさなかずっと相手のベンチを気にかけている。
「あたるくんどうしたのさっきから変だよ」
 菜穂の問いかけにも応えない、あたるの視線の先にはベンチから出てきた背番号十二番の選手がいた。
「整備バック~」
 甲州商業の選手の一人が声をかけると元気よく返答し駆け足でグラウンドを去っていく。
「先頭バッターは蔵田からか、頼むぞチャンスを作ってくれよ」
 すっかり気をよくした原田があたるの背中を叩いて鼓舞するが、あたるは無反応で打席に向かう。ベンチ横のブルペンから颯爽とマウンドに上がる背番号一と中曽根の姿をグッと睨みながらゆっくりと歩みをすすめていた。
「なんだあいつ。後輩のくせにめちゃ顔怖かったんだけど」
「あたるくん」
 誰にも聞こえない声でつぶやく。
 
 投球練習も肩慣らし程度にしていた甲州商業エースの松下はラスト一球に思いっきり腕を振って投げ込んだ。中曽根のキャッチャーミットは乾いた皮のいい音を鳴らす。キャッチャーの二塁送球の妨げにならないように松下はマウンドにしゃがむとその上をレーザービームのごとく通過したボールはセカンドベース上に構えたショートのグラブにすい込めれた。
「よぉ。久しぶりじゃんお山の大将」
 ストライク送球を決めた中曽根はあたるに視線を向ける。にやついた憎たらしい顔を肩に乗せたバットではたきたくなる感情をグッと抑え打席に入る。その様子を心配そうに菜穂はベンチか見守っていた。
「野球をやめたと思ったのに今度は人数もいない弱小校で大将きどりか」
 主審のコールが聞こえてもなお、挑発を続ける中曽根にあたるの頭は沸騰しそうになっていた。
 松下はその初球、あたるの胸元をえぐるストレートを投げてきた。あたるは苦手な外のボールに対応できるよう打席のぎりぎりに立っているので思わずのけ反る。
「ストラーイク」
 電光掲示板のスピード表示は137キロを記録し明らかにさきほどのピッチャーとは格が違うことがわかる。
「おいストライクづらぁ。打てや負け犬」
 あたるは、中曽根の言葉に耳を貸さず、必死に配球を読んでいた。
『内角のコースをついてきた。さすがにエース。自信満々ってことか』
 中学時代。自身も140キロのスピードボールを投じていたあたるだがバッターとして140キロに近いボールを打った経験は浅い。
 二球目は外角のストレート。中曽根はあたるが無意識に打席の半歩離れたところに構えたことを見逃さなかった。おそらく一球目のイメージが脳裏に焼き付いていたのだろう。通常なら踏み込んで打ちに行くコースだがあたるは見送った。
 これでツーストライク。
「もうあとがないよぉ~」
『さすがにこれ以上真っすぐを続けるか?』
 中曽根のサインにここまで首を振らない上級生の松下はどうやら中曽根に全幅の信頼を置いているようだった。
 三球目。一球目とほぼ同じところを攻めてきた。あたるは目をガっと見開いて軸足を地面に噛みしめると下半身を安定させる。そして目線がぶれないように気を付けて下半身の力を上半身に伝えると感覚的に踏み出した足が地面についた瞬間、振り抜いた。
 金属バットの鈍い音が球場にこだまする。打球は擦れあがり高いキャッチャーフライとなった。ファールグラウンドを二歩歩いたところで中曽根がミットを構える。そしてその二秒後。主審がアウトのジャッジをした。
「残念でした。今のお前じゃ松下さんの球は打てねぇよ」
 中曽根の言葉を背中に受け止めあたるはベンチに戻ると被っていたヘルメットを叩きつけた。
「くそっ」
「おい蔵田、なにを・・・・・・」
「うるせぇ!」
 怒号が響く北高ベンチをニヤニヤしながら眺める中曽根は巧みなリードとキャッチングで後続のバッターを抑える。そして一目散にベンチに戻り打席の準備を始めた。
「さぁここからが地獄の始まりだ。お山の大将」
 

 そして攻守は入れ替わり、六回裏の甲州商業の攻撃。
 打順は守備で交代した七番の中曽根からだった。
「鳩ケ谷絶対抑えろ!!」
 ファーストからのあたるの声は中曽根の耳にもはっきりと聞こえていた。
『そうやって味方にプレッシャーを与えていろ。それがお前の持ち味だからな』
 中曽根は典型的なアベレージヒッターで中学時代の三年間の打率は四割を超えている。本来は中曽根も京成大甲府を志望していたが、長距離ヒッターを求める京成大甲府からは推薦をもらうことが出来なかった。しかし県内屈指の強豪公立校からの誘いはチームでもダントツで一番だった中曽根はその中から全員野球をモットーに堅実な守備と巧打者を求める古豪。甲州商業を選択したのだ。入学前から練習に参加していた中曽根の才能にいち早く気づき試合のメンバーに抜擢した佐瀬監督も高校時代は県内を代表するキャッチャーだったという。
 バッターボックスの一番後ろに構える。中曽根から力みや焦りといったものは全く感じられない。自然体で北高バッテリーがサイン交換を終えるのを待っていた。
わずか十八メートル先から鳩ケ谷の脳裏に送られてきたどこに投げても打たれるイメージは、ピッチャーの威厳を奪ってしまう屈辱のイメージだ。
投げる前から自分の敗北が決まってしまった打者に対してどんなモチベーションで勝負すればいいのか、マウンド上の鳩ケ谷には分からない。
 鈴川はアウトコースにミットを構える。もう開き直るしかない鳩ヶ谷だったが、あわよくばという気持ちを捨てきれなかった。中曽根は前足をホームベース上に一度浮かせ膝を軽く曲げながら後ろ足のくるぶしあたりまで足を揺らす。そしてその反動を今度は踏み出した左足のほうに移行しボールに伝える。
「振り子打法だと!!」
 外のボールを逆らわずに右へ運ぶ。打球はあたると中原の間を抜けてライト前のクリーンヒットになる。
「よぉ、また会ったな」
 オーバーランのあと一塁に帰塁しあたるの目の前に現れた中曽根は、ほくそ笑みながら一塁コーチにバッティング手袋を渡した。そしてすぐにサインを確認すると大きくリードをとる。
「なぁ他にピッチャーいないの? あれじゃお話にもならない」
「そのピッチャーからここまで無失点に抑えられているお前らの高校の程度が知れるな」
 ピッチャーの鳩ケ谷はあまりにも大きなリードが気がかりでけん制を入れる。しかし盗塁を目的としていない帰塁のためのリードでは簡単にランナーをアウトにすることはできない。
「そういえば、お前わたるに会ったか?」
 わたるの名前が出てきたことに動揺する。
「あいつ神奈川のシニアで結果出して京成に入ったぜ」
「何が言いたいんだ」
 中曽根のリード幅は変わらず大きいままだった。プレートを外し警戒する鳩ケ谷に一歩も引かない。
「鳩ケ谷気にすんな、早いモーションで投げるんだ。こいつはそうやってお前のリズムを狂わせたいだけだ」
 あたるの言葉で鳩ケ谷はようやくセットポジションに入った。
そして素早いモーションでバッターに投じる。
「がっかりしてたよ~、永遠のライバルの没落に」
中曽根は絶妙なタイミングでスタートを切った。


 ノーアウトでランナーをセカンドに進められた北高バッテリーは続くバッターにフォアボールを与える。球威が落ちてきた鳩ケ谷のストレートは低めのコースに到達する前にお辞儀してボールになってしまう。
 得点圏にランナーをおいた甲州商業は前半とは作戦を変えて先の塁を一つひとつ進めてきた。アウトを献上しランナー二塁、三塁の形をつくると一番バッターがきっちりとライトの定位置深くにフライを上げる。あたるは中原の五メートル後ろにライトからホームまでの中継ラインをつくり原田の送球を待ち構える。
 原田の動きが変わった。数秒前まで捕球体制に入っていたが突然右手で目線を隠すようなしぐさをするとそのまま懸命に腕を伸ばした。しかし非常にもボールはグラブをかすめて青い芝の上に突き刺さった。
「やばっ!!」
 ショートの斎藤の声が内野に響き渡る。原田の視界はたしかにボールを捕えていたが捕球する瞬間、昼下がりの太陽と重なり目測を誤った。更に慌てた原田は見当違いの方向へ歩みを進めていた。
「原田さん! ボールうしろっす」
 ランナーはベースを駆け巡りボールが内野に帰ってきたころにはバッターランナーは三塁に到達していて、あっけなく同点に追いつかれてしまった。
「何やってんすか!」
 あたるは思わず叫んだ。奇跡的にここまで守ってきた二点が泡のように消えた。
たった一つのミスで完全に試合の流れが相手に傾き始める。打ち損じたゴロがイレギュラーしたり、打ち取ったあたりが内野と外野の間に落ちたりいままでのラッキーが手の平を返したように不運なヒットが続く。守備のリズムが合わなければ簡単なゴロやフライも捕球することさえ困難になる。あたるはこれ以上点が離れるのを危惧しミスをした選手に対して上級生にも関係なく辛辣な言葉をぶつけた。しかしそれは更にチームの雰囲気を悪くしただけで何の解決にもなっていないことをあたるは知る由もない。
 最後のアウトをとったとき北高ナインはバックスクリーンを見ることはなかったが思わずため息をついた。打者一巡の猛攻、途中から何点取られたか数えるのをやめた。
 ベンチに戻る選手の目は淀んでいた。敵うはずのない敵に善戦しあわゆくば勝てるかもしれない希望を一瞬にして壊されたショックは想像以上に重い。
 キャプテンの小角が檄を飛ばすも甲州商業エース松下の前ではただの戯言にしか聞こえない。
 あたるはベンチでふんぞり返って試合の最後を見守る。松下は赤子の手を捻るようにバッターを抑えると涼しい顔をしてマウンドを降りた。甲州商業の選手がホームに整列する。
「あ、そうかコールド負けしたのか」
 グラブをはめてベンチを飛び出した斎藤がファールゾーンとフェアゾーンの境の白線の前で立ち尽くす。
 審判の注意を受け、一同は放心状態のまま整列を済ますと誰もいないスタンドを見上げた。
「負けたんだな俺たちは」
 ポツリとつぶやいた誰かの言葉に頬を熱い涙が流れた。
 すすり泣く音がそこらかしこから聞こえるグラウンドで、一人バックスクリーンを鋭い眼光で睨みつけるあたるは、己の噴門あたりからこみ上げられる苦くて熱い胃液とは違う憤りの感情を喉元で抑えていた。
 暗い。こんなにも暗い。かつて自分を纏っていた光は傲岸極まりない中曽根の周囲を照らしていた。あたるの前に立ちはだかった敵は粗削りの鉄鉱石の中から煌々と輝くクリスタルのように白く発行している。
そして中曽根と松下から感じた選ばれた側の人間であることを隠そうともしないその横柄。
 ふざけるな。憤怒の感情が五臓六腑を噛みちぎり、踏みにじり、捩れ合う。舌を焼き尽くすほどの怒りを覚える。言葉にならない音だけの叫び声を自分の中で聞く。その声に覆いかぶさるように別の声が聞こえてくる。
 俺もかつてはそっち側の人間だったよ。
 いつもそこで目が覚める。夜半をとうに過ぎた外はまだ暗闇が支配している世界。甲州商業に敗れてから一週間。あたるはあの日の出来事を夢の中で何度も何度も繰り替えしていた。
   
 

「こんなんじゃまだだめっす!もっとやらないと」
甲州商業に敗れてからあたるは練習に明け暮れた。今までの北高のメニューの三倍の練習を課し、チーム全員を巻き込んで猛練習を始めていたのだ。練習時間の増加により北高は休日の練習試合で連戦連勝を誇り、ナインたちは勝つことへの喜びを実感していた。
「チャンさん。キャッチボールから両手を使って捕ってください」
「斎藤さん練習からしっかりバット振ってください」
 放課後のグラウンドはあたるの声だけが響き渡り隣接する他の部活動と相まみれる雰囲気ではなくまるで陸の孤島と化していた。野球部以外の部活が適当な時間で切り上げそそくさと身支度を済ませて下校していくのが見える。
雲一つない空の下、時おり悪戯な初夏の風が今どきの女子生徒の短いスカートを捲し上げ男子の心を穏やかな気持ちにさせる。それを青春と言うならばグラウンドで汗を流して体を酷使することはなんと愚かな所業だ。そう思う生徒は少なくないだろう。
しかし小角は今まで以上にやる気に満ち溢れているあたるとそのやる気に必死についていこうとする他の部員の様子を誇らしげに感じていた。
「よし、今日はここまであとは片付けて帰るぞ」
 練習が終わるころにはもうすっかり太陽は山々の陰に隠れていて、斜め四十五度の角度に月が見える。都会ではよく星が見えないなんて話を聞くが、北高のグラウンドから六等星だって肉眼で確認できるときもある。
「五月の夜ってこんなに暑かったか?」
「地球温暖化ってやつだろ。あ~あいっそのこと地球女化とかならいいのになぁ。萌え萌えに萌えちゃうてきな」
「原田さんさいてーです」
 原田のくだらないジョークにすかさず菜穂が突っこみをいれる。「おっと菜穂ちゃんがいたわ」自分の頭をコツコツと叩く原田を見て笑い声がグラウンドに響く。あたる一人を除いて、
「じゃあ今日のカギ登板は仙崎か、蔵田お前仙崎についてやれ夜道は危ないからな」
 小角はそう言うとエナメルバックを肩にかけ他の部員とともにグラウンドを出ようとした。
「小角さん、ちょっと・・・・・・」
 レフトのフェンス沿いに先に帰ったはずの大木が待ち構えていた。小角は首を傾げたが大木の神妙そうな表情が気になってまたしている部員に先に帰るよう伝えると大木が歩いて行った方へ足を向けた。どうやら体育館裏の倉庫前に向かったらしい。
「小角さん今の現状をどう見る?」
 スポーツ眼鏡を人差し指で元の位置に戻し上げる大木の顔は月夜の雲の陰に隠れてよく見えないが声の低いトーンからあまりよく思っていないことが証明できる。
「俺はいい雰囲気だと思うぞ。練習量を増やしたことによってみんな格段に上手くなっているし、なにより蔵田の気合がチームを引っ張ってくれている。何が不安なんだ大木?」
「今小角さんが言ったことのすべてだよ」
「どういうことだ?」
 大木は小角に一歩詰め寄る。月にかかった雲の一片が途切れ月の光が大木の煩雑な顔を映した。
「小角さん、キャプテンのあんたが蔵田を見誤ると夏の大会前にチームは崩壊する」
 その言葉に小角はたじろぐ。心配が顔全体の神経にあっという間に伝わって反射的に鼻をピクピク動かせた。


「カギ登板なんてめんどくさいよなぁ。しかもカギ登板って名目でグラウンドの最終見回りしないといけないなんて、時間がもったいない」
 あたるは帰りの道すがら隣を歩く菜穂に愚痴っていた。
「あたるくんもっとゆっくり歩いてよ。歩くの速い」
 あたるの歩幅は菜穂より広く、すたすたと歩いて行ってしまうため菜穂には会話をする余裕がない。ましてせっかく着替えた制服のシャツに汗がにじむのを嫌がっていることなど考える頭もないだろう。
「お前が歩くのが遅いんだろ」
「うっさいなぁ、こういう時男は女の子に歩幅を合わせるものなの!」
「お前が女扱いすんなって言ったんだろ。都合よく女になるな」
 そう言われてあからさまに不機嫌になるのを感じる。「それはたしかに言ったけど・・・・・・」独り言のようにぶつぶつとつぶやく菜穂を尻目にあたるは立ち止まると東の夜空に見えるオレンジ色に光る星をグッと睨みつけていた。
「どうしたの?」
「いやなんとなくだけどあの星嫌いなんだ。明るすぎて」
 あたるが指を指したその星は春の大三角の一つである牛かい座のアークトゥルスで一等星よりも明るいゼロ等星だ。都会の街にも負けない、淀んだ空気にも負けないほどのまばゆい光を何光年も離れたところから放っている。
「綺麗だね」
「だからこそ腹が立つんだ。あいつ等が強く光り続ける限り他の星たちはその光に埋もれてちまう。俺はそんな奴らに負けたくない、必ずぶっ倒してやる」
 あたるは自分の右腕を掴んで強く握りしめていた。やるせなさと悔しさと腹立たしさが入り混じった心が暴れだすのを必死にこらえている姿に菜穂は何も言うことが出来ないでいた。


 五月も中盤に差し掛かり高校生にとっては憂うつな学校にとっては通例の行事である中間テストの時間割が発表された。一年生は高校に入学し初めてのテストでどの生徒も肩を落とし絶え間ないため息を漏らす。それは菜穂も同じだった。
「テストかったるいよ~」
「テストなんて前日に勉強すればいいだろ」
「あたるは頭いいのかうらやましいなぁ」
 昼休みは三人で過ごすのがお決まりになっていた。あたるはお弁当に入ったお手製の握り飯を頬張るとくちゃくちゃと咀嚼音をならす。その音を怪訝そうな顔で聞く菜穂はあからさまな咳ばらいをするとあたるを睨みつけた。
「食べるか喋るかどっちかにしてよ、汚いなぁ」
「なんだよ細かいこと気にすんな」
「気にするよ、デリカシーのない人嫌い」
「お前に嫌われても別にどうとも思わないけどな」
「何よ腹立つなぁ」
 すっかり置いてきぼりにされた鳩ケ谷はそんな二人のやり取りを眺めながら購買で買った焼きそばパンをかじっていた。
「そういえば今日からテスト期間に入るから部活の時間が短くなるよね」
「え、そうなの!!」
「そうだよ。佐原の話し聞いてなかったのあたる」
 聞いてなかった、全くもって一言も、それほどあたるの頭の中は野球のことでいっぱいだった。そんなあたるはこれから始まるテスト期間が終わるまでの数週間、部活動の時間は二時間に限られ十分な練習時間を確保することが出来ない。野球の強い強豪私立やスポーツに力を入れている職業高校は特例として部活動の時間を確保することが出来る。それに対してどうしても進学第一、勉強第一に考える普通高校は例外なく部活動の時間を厳しく制限されてしまう。
「練習量を落としたらなおさら勝てないじゃないか、今日の放課後キャプテンに相談してみるか」
「え、あたるくんそれ本気で言ってるの?」
 菜穂はあたるの発言に思わず失笑する。
「あたるまじでそれは無理だろ。赤点とったら厳しい補習が待ってんだぞ」
 鳩ケ谷も困惑するほどあたるの目は本気だった。
 まいったな。先輩たちともめなきゃいいけど
鳩ケ谷の切なる願いは今日の放課後に儚く散ることになるのは目に見えていた。 
 
「却下だ」
 制服のワイシャツのボタンを外しながら冷めた口調であたるを一括するのは大木だった。
「なんでですか」
 あたるも負けずにくってかかる。双方はお互いに視線を合わせさっそく一触即発の雰囲気が漂う。
「まぁ待て、お互いの意見を聞こうじゃないか、な、なっ」
 小角はその大きい体を捻じらせて二人の間に割って入ると大木は眼鏡を一度外し、丁寧に持ち合わせたハンカチで拭くともう一度かけなおして口を開いた。
「テスト週間に今までの練習量を続けるもしくは量を増やすと確実にテストの点が落ちる。落ちた部活は部活動強化週間を校長からもらえないからだ」
「でたよ」
 あたるは吐き捨てる。
「あんたらそうやって言い訳ばっかり、本気で甲子園行きたいんですよね? だったら勉強する間も惜しんで練習しないとこのチームの戦力じゃ無理ですよ」
「だからこそだ」
 今度は大木が声を荒げる。
「強豪校は俺たちと違って野球エリートを県内外から集めているそれこそ幼少期から期待されて育った逸材たちをね、そんなことは誰が見ても分かる、なのに強豪校と同じ練習をして元々の差が埋まると思うか?」
 大木は演説口調であたるというより部室にいる全員に話しかけていた。数人の上級生はうんうんと首を小さく縦にふり大木の意見に同調している。その様子をまじまじと見ていた大木はさらに続ける。
「だとしたら俺たちの武器はなんだ、あいつらになくて俺たちにあるのは知恵や戦略だ。短い時間でいかに効率よく密な練習ができるかに重点を置いた方が闇雲に練習量を増やすよりよっぽど勝つ可能性は広がるだろう」
 部室内で拍手が起こる。あたるを茶化すように手を叩くのは原田だ。あたるはその大きな瞳を横目で動かすと原田の座るベンチに視線を移し眉間にしわをぐっと寄せ睨みつけた。
「だいたいさ、蔵田って生意気だよな。新参者のくせに試合でちょっと活躍したからってもうリーダー気取りでさ」
「何がいけないんですか」
 あたるは怒りを押し殺したように小さく言うと、原田は立ち上がり距離を詰める。
「ほらほら、その言い方だよ。むかつくんだよなお前俺たちのことバカにしてんだろ、先輩は敬うもんだってシニアで教わってこなかったのか」
「はっ、意味わかんないっす」
 一触即発の空気に鳩ケ谷や中原は今日に限って菜穂が日直当番でこの場にいないことを悔やんだ。菜穂ならばあたるの暴走を止めることができる、しかし自分たちにはそれが出来ないのだ。
「二人ともやめろって、これから練習なんだからな、な」
 小角が大量に汗をにじませながら二人の間に入るがあたるは小角を押しのけ原田にくってかかる。
「バカにしてるっていいますけど、バカにされることを言ったりしたりする方に問題があるんじゃないんですか、尊敬されたいなら結果を出してくださいよ足手まといなんすよ」
「てめぇ」
 その言葉にカッとなった原田は感情的にあたるのユニフォームを掴む。
「殴るんすか、そうやって年が上ってだけで暴力で片付けるんすか?」
 なおも挑発を繰り返すあたるに原田は拳を振り上げる、
「いい加減にしろ!!」
 声を荒げたのは大木だった。その声に原田はハッとして我に返るとあたるを掴んでいた左手を離し自分の太ももをその手で叩いた。
「俺は原田の肩を持つわけではないが蔵田今のはお前が悪いぞ、原田は過去の実績や技術的なことはお前に敵わないかもしれないが、このチームにとって大切な戦力なんだ、仲間なんだ。俺はキャプテンとしてチームの仲間を悪く言うことは許すことができない」
 小角の言葉は静かながらはっきりとした意思がありこの場を制するには十分すぎた。
「それでも俺は勝ちたいんすよ、たとえチームの雰囲気を悪くしても倒したい相手がいるんすよ」
 拳の中を爪が突き刺さる。しかしそれは本心からの言葉だった。
「じゃあ、一人でやれよ」
 高井は呆れたようにそう言い放つと途中まで着替え終わっていたユニフォームを脱ぎジャージ姿で部室を出て行ってしまった。
「俺も今日の練習は参加しねぇ」
 高井に続くように斎藤たち二年生は部室から退場していく。
「鳩ケ谷、中原お前らどうする?」
 去り際の斎藤の言葉には上級生特有の威圧を感じる。「お前らどうなるか分かってんだろうな」という従わざる終えない態度だった。
 ――すまん、あたる。
 先に腰を上げたのは鳩ケ谷だった。チームで一番背丈が大きい鳩ケ谷の背中は申し訳なさそうに丸くなっていて、中原はそんな鳩ケ谷に付き添うようにして二年生の元へ向かう。その姿を見送って大木があたるの前に立つと、
「結局お前はなにも変わらなかったな、小角さんこうなってしまった以上全体練習はテスト期間中はなしでいいですね」
 小角は黙って頷く。
「蔵田、お前の気持ちは分かったでもな野球は個人競技じゃないチームスポーツだ。お前のやり方じゃ俺たちはついていけない、だがもしお前が一選手として戦いたいのであれば俺は少しでも力になってやりたいと思ってる」
「そういうことだ、テスト週間のこの二週間は俺たち放課後グラウンドに来ないから好きに使っていいぞ、せいぜい赤点をとらないようにな」
 小角と大木が部室から出ていくとあたるは一人立ち尽くし苛立っていた。
「お疲れ様です・・・・・・あ、あれあたるくんみんなは?」
 何も状況がつかめていない菜穂は問いかけるがその答えは返ってこなかった。
 

 大木は一時間目の現国の時間、黒板に古分の読解が書かれていて特進クラスの面々はつらつらとノートに現代語訳を書き続けている。大木は古典が苦手だった。現代で使われている日本語とは全く違う、英語のようなものなら単語と文法のニュアンスで理解することはできるが、古典は文の意味をきちんと理解できないと正確に読解することができないからだ。
「全く昔の日本人はなんでこんな回りくどい表現を使ったんだろう」
 誰かに聞こえない程度のつぶやき。そしてため息。
 恐れていた事態が起こってしまった。
 大木の頭にあったのは昨日のあたると同級生との間にできたいざこざだった。
 蔵田中。あいつは地雷だ。関東というくくりで見ればうちの県はそこまでレベルは高くない、野球が盛んで多くのシニアチームやボーイズがある神奈川県や埼玉県に比べれば個々の選手の技量も指導者の指導力も格段に劣ると思っている。その中であたるはその関東の猛者たちを相手に躍動した。本来なら県外の強豪校か県内でも屈指の名門京成大甲府に入学するのが妥当だ。しかしそんな男が設備も部員も十分とは言えない進学校へ入学してきた。仙崎があたるをグラウンドに連れてきた時、大木は危険な匂いを嗅ぎ取っていた。力を持つ人間が加わることによってチームの戦力は当然のように強化される。だが当の本人はチームを自分の手段としか考えない、それどころかチームとしての勝利より個人としての屈辱を晴らすことにしか野球をやる意味を見出していないようだ。小角が言ったように甲子園に行くにはあたるの力が必要だ。この男を軸に組み立てないと絶対に勝てない。しかしそれはあまりにも危険だった。チームにおいて利己的で横暴な奴の存在ほどこれまでのチームとしての団結力をいとも簡単に吹き飛ばしてしまうものだ。まるで爆弾のように。
「ねぇ弘樹いつまで読解に苦戦してるの? もうチャイムなったよ」
 先ほどから思考を巡らせ心ここにあらずの大木に声をかけてきた少女は艶のあるショートカットの前髪を自然にわけ、右側の方についている少し黄色がかすれたヘアピンはずっと昔に大木がプレゼントしたものだ。特進クラスで一番男子から人気のある彼女は大人の魅力という点では原田のクラスにいる谷口奈々子に一歩劣るものの、とろんとした二重まぶたに長いまつげ。顔の輪郭はシャープというより丸く、あと五年もすれば確実に非の打ち所がない美人に成長するであろう。
「あぁありがとう旋律」
 旋律とかいてメロディーと読ませる。初めて彼女の名前を見た人で今まで一発で読み方を言い当てた奴はいなかった。
「またなにか考え事?」
「いや特には」
 大木は旋律から視線を外し窓の外を見た。グラウンドは綺麗に整備されているが所々に練習をした後が残っている。
「嘘だね」
「えっ」
「だって弘樹は昔から嘘つくとき私の目を見てくれないから」
「そんなことは」
 大木が振り向くと旋律は弘樹をじっと見つめて、
「しっかり私の目を見て」
 大木の顔を見つめる旋律の顔は至って真剣だった。動揺を隠せない大木はさっと席を立つと次の授業の教科書を手にとり精一杯の笑顔で、
「なんでもない」
 とだけ言って教室の引き戸に手をかけた。
「ちょっとまだ話は終ってないってば」
「大丈夫、本当に困ったら相談するから」
 無理やり続けて教室から退出し、理科実験室を目指し廊下を歩くと谷口奈々子とその取り巻きの女子たちとすれ違った。大木は眼鏡をくいっと一度上げると呆れた口調で、
「おい正樹、女のけつを追いかける暇があったら勉強したらどうなんだ」
 しれっとその取り巻き付近にいた原田を捕まえて言った。
「いやぁ大木副キャプテン、誤解だってば」
「鼻を伸ばしてたぞ、わかりやすいなぁ」
 そう言うと、原田は怪訝そうに大木に詰め寄ると指をさして、
「しょうがないだろう俺たちは思春期だよ! 特進クラスほどではないけどテスト前は勉強ばっかで・・・・・・、いろいろと溜まってんだよ!」
「お前は年中発情してんだろ、頼むから事案を起さないでくれよ」
 原田は大木の心無い一言にショックを受けたようだ。そのまま倒れるように大木の肩にもたれかかると恨めしそうに顔を歪ませる。
「お前はいいよなぁ、旋律ちゃんがいるから」
「なんでそこであいつが出てくる?」
「だってそうだろ、小学生の頃からの幼馴染なんてやりたい放題じゃないか」
 大木はだんだん原田が不憫になってきたがいい加減このノリに付き合うのもめんどくさくなってきたのでやむなく原田を優しく突き放す。
「じゃあ、俺は理科室行くんで」
「ちょっと待ってくれ! お前がもし旋律ちゃん狙ってないならぜひ俺に紹介してく」
「いや、絶対にそれはない」
 言い終わる前にぶった切る。原田のことは同じクラスの斎藤がなんとかするだろう。
「大木! アドバンテージがあるからってのろのろしてると横から持ってかれるぞ!」
「分かってるよ」
 背中越しに聞こえる原田の言葉に右手を上げて答えると大木は小さくつぶやいた。

 昼休みになると一階の食堂には学年関係なく様々な生徒が群がる。しかし運動部というのはつまらない伝統を作る癖があるものだ。一年生は新チームになるまで食堂を利用してはいけないとか、坊主頭が強制で何ミリ以上伸ばしてはいけないとか、弱いチームほど伝統、伝統とまくしたてる。大木は上級生たちで騒がしくなっている食堂を素知らぬ顔で通り過ぎると持参した弁当を片手にグラウンドに向かっていった。
「おぉ大木遅かったな」
 斎藤が大木を手招きして呼ぶとベンチにはもう二年生が集合していた。ベンチ前でキャッチボールをしているのは高井と原田だ。野球歴の浅い二人はチームの中でわりと仲が良くいつも一緒にいる。
「俺昼飯まだなんだよ」
「特進クラスは大変だな」
「そんなこともないけどな」
 斎藤はベンチから腰を上げるとバットを持って二人の前に立つ。
「トスやろうぜ」
 金属バットを肩にのせ原田に山なりのボールを投げさせると、膝を柔らかく使って緩いボールを打ち返す。ボールはワンバウンドで横にいた高井の胸に返ると、高井は不格好なステップで斎藤に投げ返した。金属バットとボールがぶつかる音が心地よい。殺風景なグラウンドはそれだけで賑やかになったようだ。少し前まではこうやってグラウンドに人が集まることもなかった。大木や斎藤がまだ一年生だった時、この学校の野球部は当時受験戦争真っ只中だった三年生たちのはけ口のような場所だった。
国立大学現役合格者を輩出させたい学校側は躍起になっていた時期がここ数年あった。指定校で進学する人はごく一部の秀才だけで、どれも有名難関私立校の名が並んでいる。ひと学年は百人程度しか在籍していないが、その中でも上位、中位、下位がしっかり分かれていて、二年生が終わる頃には自分の将来がしっかりと把握できるようになる。そうなると先生たちは生徒の判別を無意識のうちに始め、成績下位の指定校推薦すら漏れた生徒にはあまり興味を示さなくなる。その大半が野球部の当時の三年生たちだった。彼らはひどくやさぐれた様子であった。ユニフォームも着ないでグラウンドに入ると入念なアップも行わず、好き勝手にバッティングを始める。大木たち一年生は入部して一週間経ってからももっぱら球拾いでろくに練習もさせてもらえなかった。「なんだこれは」大木は毎日そう思いながら怒りを抑えてきた。
「これじゃあ何のために野球部に入部したのかわからない」
 小さくつぶやく。大木は自分自身に野球の才能がないことは十分知っていた。しかし、勉強の傍らでちょうどいい息抜きになるし、ある程度の運動不足は解決できる。これは市役所に務めている厳格な父に高校で野球をやるためについた建前だ。大木弘樹はこの野球というスポーツがたまらなく好きなのである。だからこそこの仕打ちは許されなかった。自分ではない他の誰かのために貴重な時間を使うことほど愚かなものはないとずっと心に抱いていたからだ。
「ごめんな、こんなことばかりで」
「あ、いえ別に」
 その日、三年生が片付けもせず押し付けて帰った後のことだった。薄暗いグラウンドで球拾いをしていた一年生と、一緒に球拾いを手伝っていた小角は申し訳なさそうに大木に言った。
「まったくです。これじゃ奴隷じゃないですか」
 大木が不貞腐れたように言うと小角は顔を蒼くして俯いていた。
「小角さん、他の二年生はどこです?」
「みんなやめていったよ」
 小角は視線を上げレフトの最深部を見つめるとゆっくり歩きだした。大木もその歩みにつられ歩き出す。
「やめたんですか?」
「あぁ、恥ずかしい話だ。大木たちが入部してきた二週間前に俺を除いた全員が受験を理由に退部届を出したんだ」
「受験ですか?」
「あぁ表向きはそう言うことになっている」
 表向き。大木は全てを理解した。あんな横暴な三年生たちの下で野球をやっているのがバカらしくなったのであろう。
「小角さんはなぜ残ったんですか」
「甲子園に行きたいんだよ俺。だから野球部に残った」
 一瞬冗談だと思った大木だったが小角の目は真剣そのものだった。しかし甲子園はあまりに飛躍しすぎている。小角は外野まで転がっていた糸がほつれたボールを拾い上げユニフォームの袖で汚れを落とすと、深くため息をつく。
「分かるよ、甲子園なんて行けるわけがないって思う気持ち」
「いえ、夢は大きい方がいいと思います」
「夢じゃなくて本気なんだ」
「小角さんあそこにもう一球ありますよ」
 大木は小角の後方にもう一球ボールを見つけた。小角は大木が指をさす方向に進むとおそらく最後の一球を拾い上げ手中に収めた。
「ありがとな」
 かごいっぱいになった練習球はどれもやつれていて見るに堪えない姿だ。きっともう何年も手入れをしていないのだろう。
「よしみんな部室に集合してくれ、整備組も途中でいいから一回集合だ」
 一年生が三々五々と部室内に集まってきた。グラウンドにブラシをかけていたのは高井と原田で、三年生たちがバッティングをしてへこんだ打席の穴埋めをキャッチャーの鈴川が担当し斎藤は弱くなったネット補習をしていた。最後に部室に現れた斎藤が「一年揃いました」と報告してドアを閉める。どの顔も疲れ切っていて達成感とは程遠い、誰もが「なんでこんなことしなければいけないのか」と戸惑いを胸に抱いているようだった。その中でただ一人の上級生小角は丸く陣をとった大木たちの正面に立った。ぐるりと顔を見回しながら、その場に漂う不信感を敏感に感じ取った様子だった。大木たちは一切の無駄話をせずじっと小角の言葉を待っている。グラウンドの近くにあるガソリンスタンドの従業員の元気な「オーライ、オーライ」が微かに聞こえた気がした。
「みんなごめんな、これじゃ野球楽しくないよな」
 小角は後ろ手を組み背筋を丸めた。そして深々と頭を下げる。
「でもみんなはやめないでほしい、お願いだ」
 大木たちの戸惑い表情が増えた。顔を見合わせて首を傾げる選手もいる。あたりまえだ、続けるかやめるかは個人の自由だ、という空気が無言で渦巻いているのを小角は感じ取っていた。そして一度深呼吸をして、
「三年生の身勝手な態度を知りながら俺は見て見ぬふりをしてきた。いつかこの人たちは引退するからそれまでの我慢だと、同級生には言ってきたけど、それもとうとう収まりきらない事態まで来てしまった。もし三年生が引退してもお前たちまで退部してしまったら俺は大会にでられない。頼む、俺は本気で甲子園に行きたいんだ」
 小角が深々と頭を下げてから、一年生たちの反応を見回している。依然として困ったような表情を浮かべているのが二人、何が何だか分かっていないのが一人、どうでもいいやという態度の奴が一人。大木はそのどこにも属していなかった。
「あほくさ、やってられませんよ」
 グラウンドが一気に凍り付く。他の一年生は青ざめていて、しかし斎藤は至って冷静に大木の顔を観察していた。
「大木・・・・・・」
 青ざめていたのは小角も同じだった。それでも大木は怒りを抑えることができなかった。
「それは小角さん個人の思いでしょう。我慢してくれって言ったって俺たちのこの貴重な三か月をどぶに捨てろというんですか」
 突き放すように大木は指摘する。
「いや、そういうつもりじゃ」
「そう言うつもりでしょ、だいたい同級生がやめたのも、三年生が調子づいたのもあなたが問題から目をつむってきたからですよね。自業自得じゃないですか」
 一年生の視線が小角に再び注がれた。小角も当然、意識しているだろう。顔を赤く染めて地面を見ていた。必死に怒りを押し殺しているようだ。
殴られる。
大木はそう覚悟した。二年生が一年生の前で一年生に恥をかかされたのだ。先輩の威厳を守るために全員の前で焼きを入れるのは妥当だ。
「そうだな大木、お前の言う通りだ」
 小角は荷物をまとめるとかろうじて苦笑を浮かべ部室を出ていく。
 小角がドアを閉めたとたん微かなざわめきが大木の耳に入ってきた。
「お前面白いな気に入ったぜ」
 肩を叩いて斎藤が呆れたように零す。
斉藤達彦、たしか中学軟式野球部出身で五年ぶりに中野中を県大会に導いた代のキャプテンだ。一年生の中でも独特な雰囲気を持っていて、はやくも三年生からマークされている。いつもは飄々としてこれといった執着心がない素振りを見せているが妙に鋭い勘が働くのも事実だ。
「たつ、お前茶化してんのか」
 大木がグッと睨みつけると斎藤は肩をすくめた。
「茶化したわけじゃないってただ正論ぶちかますにも相手は先輩だぜ、小角さんが三年生にこのことをチクったらリンチされるんじゃないか」
 穏やかな笑みを浮かべる斉藤は他人事のようにそう言って、
「ほらお前ら早く帰る支度しろよ、今日は俺がカギ登板なんだからな」
 力の抜けた声で斎藤が続ける。
 斎藤の言葉に促されるように同級生の面々がそそくさと出口へ向かう。どいつもこいつも面倒ごとは勘弁してと言ったように眉をひそめ目を泳がせていた。
 次の日の放課後、大木は学生服のボタンを外して上着を脱ぎながら部室のドアを開けた。
「ちぇーす」
「うす」
 短い挨拶を終えると高井がグラブを磨いている。固形のオイルを乾いたタオルに付着させるとこれでもかと塗りたくっている。
「塗りすぎだろ」
「これくらいでいいんだよ」
 黄色い外野手用のグラブは大木が使う内野手用のグラブと比べると縦にとても長くなっていてボールを補給するポケットが深い。これは野球のポジションの中で外野は一番守備範囲が広いためで、遠くのボールをできるだけ捕球できるよう施されたものだ。
「お前とキャッチボールするとグラブベットベトになるんだよ」
「磨く手間が省けていいだろ」
 高井が嬉しそうに左手にはめたグラブをあげた。ミズノマークが誇らしげに光っている。
「他の連中は?」
「知らね、ただ小角さんはさっきまで三年生たちといたぜ」
「あっそ」
 掃除当番もなければあと五分もすれば全員が揃うだろう。そうしたら三年生がグラウンドに到着する前に一通りのグラウンド整備を終えていなくてはならない。雑用のような扱いを受けるのは癪にさわるがやるべきことはしっかりやったうえで堂々と上級生を非難したかった。
「あれ、お前らグラウンドでないのか?」
 さっきまではスムーズに開閉していた部室のドアが急に建付けが悪くなったようにギギギと音をたてる、姿を見せた斎藤の制服の下に見え隠れするユニフォームは不自然なくらい真っ白だった。
「だってまだみんな来てないじゃないか」
 高井はグラブの外側に靴磨き用の艶出しを入念に塗っていたが一度手を止め顔を上げる。斎藤は右肩にかけていたエナメルバックを自分の席に放り投げるとおもむろにグラブを取り出すとグラウンドに目を向けた。
「小角さんがせっせとバッティングケージを準備してんだよ」
「先輩が、なんで」
「わかんないけど、一応手伝いに行ったほうがいいだろ」
 急いでグラウンドに飛び出すと小角はぱぁっと明るくなって笑みを見せる。
「今日から一年生もバッティングできるぞ!」
「まじすか」
 最初に喜びの声を上げたのは高井だった。マウンドにバッティングピッチャー用の防御ネットを運んでいた斎藤は驚いたように近づいてきた。
「どういう風の吹き回しだよ?」
「さぁ」
 大木は首を横に振る。掃除を終えてグラウンドに現れた鈴川も困惑した様子で制服のまま小角に挨拶をする。
「ほら俺が投げてやるからみんなどんどん打てよ」
 野球初心者の高井は真っ先にバットを握りしめて打席に入る。
「七球交代でどんどんまわしていくから他は守ってくれよ」
 小角の手引きに半ば強引に外野の守備位置についたが、高井は力任せにバットを振るだけで一向に前にボールは飛ばない。小角が投じた緩いボールはそのほとんどを後ろの丸ネットに吸い込まれていった。
「高井、バットが外をまわっているぞもっとコンパクトに・・・・・・」
 そうやってアドバイスを受けるうちに高井のスイングは少しずつシャープになり始めた。そして最後の一球でようやく外野までボールが飛んだ。
「次打ちたいやつ!」
 センターを守っていた斎藤がレフトを守る大木にグラブを突き出した。
「たつは打たなくていいのか」
「いいよ、バット振ると手が痛くなるから」
 斎藤はにやにやしながら大木に打席を譲ると勢いよくセンターに走ってきた高井となにか話し始めた。
「大木ぃ、次俺だかんな」
 ライトを守る原田の声が響く。
「大丈夫だ原田! みんな平等に打たせてやるから」
 この距離からでもわかる原田の笑顔。やはりみんな打ちたかったんだな、大木はそう思った。
 夏の大会を控え県内の高校は最後の追い込みと言わんばかりに休日は練習試合を消化していた。武田北高校野球部はそんな世間一般の常識とはかけ離れている。もしかしたらそんな世間が非常識なのかもしれないが高校野球の世界では前者が正しいのだ。
 全員に投げ終わった小角は誰よりもいい笑顔になっていた。大木は気を使って「今度は小角さんが打ってください」と申し立てたが小角は首を振って断った。
「小角茶番は終ったか」
 ジャージ姿の三年生がグラウンドに現れたと思うとおもむろに金属バットを鈴川から取り上げてウォーミングアップもせずに打席に入り、にやにやしたその他の三年生はバッティングネットの裏に陣取った。
「ほらお前ら打ったんだろ、速く守備つけよ」
「これってどういうことですか」
 大木は疑問を投げかけたが三年生はなんだ知らないのかと言った表情をしてすぐに薄ら笑いを始めた。その内の一人がマウンドを指さして、
「お前ら一年のために俺たちの引退まで雑用やるってよ」
 言った。
 小角の横顔から血の気が引いていくのがわかった。
「小角さん」
 大木はマウンドに立つ小角にだけ聞こえるようにつぶやく。
「それでいいんすか?」
 返事をするかわりにこくりと首を縦に動かした。そのこぶしは諦めたように力なく肩から垂れている。大木は不甲斐ない先輩のかわりに拳を固めて身体を震わせていた。

「今日は野球部の活動休みなの?」
 掃除が終わっていつもなら真っ先にグラウンドに向かうはずの大木が校門に足を運んでいたことに気が付いた旋律は不思議そうに声をかける。
「いやまぁ、ほらテスト週間だし勉強しないと・・・・・・」
「そうなんだ」
 その口ぶりはなにもかも見透かされた気がして大木はだんまりを決め込んだ。 
 旋律にしてみれば大木からろくな反応がないことはいつものことだから、とっくに慣れてしまっているのか、初めから明確な答えなど期待していないのか、旋律は軽快な声色でしゃべり続けた。
「鈴川君が教えてくれたけど今年の一年生ですごい子が入ってきたんだってね」
 大木は曖昧に頷いた。頷きながら右手でくいっと眼鏡を上げると隣にいた旋律が目の前に立っていた。
「よかったね、ホームラン打てる子探してたじゃん」
 旋律は空手のままバットを振る仕草を繰り返す。
「さぁ、ツーアウト満塁の絶好の場面でバッターは大木選手、追い込まれてから走者一掃のサヨナラ満塁ホームランか!?」
 大木は肩をすくめて見せた。
「残念ながら追い込まれてからのおれのバッティングは単打しかないよ、ホームランなんて夢のまた夢だって」
「でも絶好のチャンスでナイスタイムリーヒット、すごいすごいサヨナラ勝ち」
「ところが二塁ランナーの正樹が舞い上がって途中でこけてホームベース上でアウト。延長戦突入」
「あははは! 原田君ならありえるね」
 旋律が天を仰いで笑う。幼少期からの付き合いだが特別歌が上手いわけでもなく、テレビでよく見る若い人気声優みたいな声質でもないのに笑い声だけはよく澄んでよく空に響いた。心地よいほどにどこまでも。
「どうせこれから暇なんでしょ」
 旋律は大木に視線を向けて言った。
「暇じゃないよ、勉強しなきゃ」
「やだちょっと付き合って」
 意中の女の子に上目づかいでそう言われれば頷かない男などいないだろう。堅物な大木少年もその例外なく言われるがままについて行った先は五月の日差しの明るさとは縁もない町はずれにあるほぼ無人のバッティングセンターだった。平日とはいえ近所に住む子供たちがボールを打つ金属バットの間延びした甲高い音や、絶えることを知らない楽しい声が飛び交うことのない荒涼とした風景に時勢の流れを感じざる野球離れが見られた。旋律に促されるまま少ない小遣いをよたよたになっている機械に投じるとガガガとアームが動く音が聞こえてきてその一秒後にこちらに向かって真っ黒になった軟式ボールが放たれる。大木は思わずため息をこぼしそうになったがお腹にぐっと飲みこむといつものように無駄のない動きで確実にボールをマシンでとらえた。間の抜けた金属の甲高い音が大木と旋律、あと居眠りをしているバッティングセンターのおじちゃんしかいない空間に響き渡る。
「ナイスバッチ」
後ろで聞こえる黄色い声援に気分をよくした大木は打ちごろに設定したストレートを次々と打ち返していく。
「まぁこんなとこか」
二百円で二十五球も投げてくれるとはかなり得した気分になる、おかげでいい運動になった。
「なんだか懐かしいな」
「なにが」
 ベンチに座っていた大木に旋律はおしぼりを手渡して言った。
「一年前の弘樹はここで鬼のように打ち込んで野球部でのうっぷんを晴らしてたよね」
「そうだっけ」
「そうだよ、深くは聞かないであげたけど、三年生とぶつかりあったんでしょ」
「はぁ」
 ここでさっきのため息が漏れた。当時の自分は旋律に知らないうちに気をつかわせていたのかと思うと気が滅入ってくる。今にして思えばどうしてそんな面倒なことに首を突っ込んだのか分からなかった、ただその時はそうしなければいけないと思ってしまった。
 小角が三年生の雑用係に降格してから大木たち一年生の待遇は僅かだが改善された。バッティングも守備練習も小角が主体ならグラウンドを使うことが許されたのだ。他のメンバーは気にも留めなかったかも知れないが大木は誰かひとりが嫌な思いをしてまで野球をやろうとはどうしても思えなかったのだ。
「先輩こんなバカみたいなこともうやめませんか」
「あっ」
 グラウンドに戦慄が走った瞬間だった。どこの高校の野球部でも一年生が三年生に意見し、たてつくなど御法度で、暗黙の了解で絶対的な服従を強いられている。その禁忌を大木は自ら破った。
「おいおい、こいつ何年だっけ?」
「やばくね、俺らに反抗するとか小角まじ一年の教育どうなってんの」
 グラウンド整備を一人でやらされていた小角は血相を変えて駆け寄ってきた。
「すいません、大木にはあとでいってきかせます」
「それだけじゃたりないなぁ、おいけつ出せ」
「えっ」
 三年生の一人が近くに転がっていた金属バットに手を伸ばし小角の尻を思いっきりフルスイングした。
「あぁぁぁぁぁ」
 べちんと音が響いて小角は思わず膝を地面に落とす。
「なぁなぁ小角君、きみのたりない頭で考えようよ。俺たちは何年だ」
 バットのグリップで四つん這いになってお尻を抑えている小角の頭をコツコツとこずいた。苦痛に顔を歪ませながらも小角は笑顔を作り言った。
「三年生です」
「わかってんじゃん」
「やめてください! 小角さん関係ないじゃないですか」
「うるせえぇよゴミが!」
 大木は不意に肩を思いっきり押されそのまま地面に倒れ込んだ。その上から金属バットでぐりぐりとお腹をねじ込まされる。その力があまりにも強く過ぎて息ができなくなる。
「おい一年よく見てろ俺たちに逆らうとこうなるんだよ」
 道具の片づけをしていた斎藤たちが固唾を飲んでこの状況を見ていた。三年生の逆鱗に触れることを恐れ蛇に睨まれた蛙のごとくその身を固めている。
「先輩! 大木はもう反省してますからやめてやってください」
 その空気を察した小角が咄嗟に飛び出してきた。
「俺に口答えすんじゃねぇ」
 威嚇された小角はそれでもめげることなく食い下がり続ける。
「これ以上部員が辞めたら来年から試合ができなくなっちゃいます」
「それがどうした!」
 大木のお腹から金属バットの圧力が消えた、大木をしめていた三年生は小角に詰め寄り胸倉を掴んで激しく身体を揺らした。
「関係ないんだよ、野球部の存続とか俺たちには!」
 静寂がグラウンドを包み込んだ。小角の目から涙がこぼれる。
「関係ないって・・・・・・」
 三年生はそのまま小角を押し倒しその前に立ちはだかった。
「俺たちが試合できればいいんだよ、運よく九人いるからな。それにこんな弱小野球部、学校の誰も期待していないし、なくなったって悲しむやつもいねぇ、俺たちの代で打ち止めなんだよ!」
「俺は甲子園に行きたいんだ!」
吐いて捨てたようなセリフに対抗するように小角の叫びは薄暗いグラウンドをこだました。
「甲子園ってお前ばかじゃねぇの」
 その場にいる三年生の誰もがそう言って笑った。小角は悔しくて悔しくて涙をグラウンドに流していた。自分の夢が心無い連中に軽蔑され消えた時大木はぐっとくちびるを噛みしめて一握の砂を拳に握りしめた。
 バカはお前らの方だ。大木は自分の無力さに嫌気がさした、そしてこの気持ちの元凶となった野球というスポーツに心底愛想が尽きた。
 ――やめてやるよ、こんなバカな部活。
 三年生がいなくなっても大木と小角はその場を動くことはできなかった。
 
 次の日から大木は部活には顔を出さなかった。大学進学を目指した勉強のカリキュラムを自ら作り他のことに気をとられないように一切の隙間なく予定を入れた。
「あれ弘樹部活は?」
 隣のクラスの旋律の問いかけにもぶっきらぼうに答えてグラウンドも見ずに校舎を出る。
「弘樹、部活ないなら一緒に帰ろうよ」
「そんな気分じゃないから」
「気分じゃないって帰る方向ほぼ一緒だし」
「あぁそうか」
 なにかと世話を焼きだがる旋律だったがこの時ばかりは気やすく声をかけるのもはばかれた。
「じゃあ俺勉強あるから」
 それだけ言って旋律と別れると大木は自室の机に向かっていた。自分は大学にいくんだ。その思いとは裏腹にペンが進むことはなかった、やがて集中力も切れて持っていたペンを思いっきり壁に投げつけた。
「くそ!」
 頭に上手く酸素がまわらない、それどころか血管の一つひとつになにかが突っかかったようだった、血液循環に異常をきたし、感情が高ぶる。鏡の前で心に反して無理やり作った笑顔を映したら恥ずかしい自分がそこで笑っていた。
「どうすればいいんだ!」
 大木は心の奥底で叫んでいた。自分は悪くない、悪いのは・・・・・・。
 朝になっても大木は思い悩んでいた。そしてその答えを求めている自分に気が付いたが答えを出すための方程式が思い浮かばない。
大木を心配した旋律が家を訪れてくれたがそれでも大木の心は晴れなかった。それどころか世話焼きの旋律が鬱陶しく感じた。
「旋律いま何時だと思ってんだよ」
「だっていつもならこの時間に家を出てたじゃん、朝練とかないの」
「ないよ、ほっといてくれ」
「おかしいよ、なにがあったのかしらないけどもう一週間たつよ。夏の大会だってあるのに・・・・・・」
 玄関口に立つ旋律に背を向け再び二階の自室に戻ろうとしていた大木はその言葉でなにかがはじけ飛んだ。
「うるせぇな! 頼んでもないのに人の家までおしかけてうざいんだよいいかげん」
 口から言葉が飛び出した瞬間、驚いた旋律の顔が目に飛び込んできた。そしてなによりそう口走った自分自身が一番驚いた。
「ご、ごめんなさい」
「あ、ちょっとまっ・・・・・・」
 遅かった。俺は最低な男だ。
 大木は二度寝することも、旋律を追いかけることも出来ずにいた。
「弘樹、なに大きな声出して旋律ちゃんはどうしたの?」
 台所から聞こえた母の声に我を取り戻し、事の成り行きを説明する羽目になった大木は母の怒りも買うことになってしまい、家にもいずらくなって足早に学校に向かった。道中制服のボタンが取れかかっていることに気が付いていらいらしていたので思いっきり引きちぎって全速力で走った。息ができないほど速く、激しく、まるで自分の行いを戒めるように、
 ごめんな、ごめんな旋律。俺はゴミだよ。
 やがて肺の限界をこえ立ち止まると遠目からグラウンドが見えた。目を細めるとそこに人影が一つ確認できる。
「こ、小角さん」
 大木は走っていた、近づくたびに金網フェンス越しに見える小角の背中はどんどん大きくなっていく。
「小角さん!」
 大量の汗を流しながら黙々とバットを振っている小角に呼びかける。
「お、大木か! 久しぶりだなどうだ元気か」
 小角は三年生にやられたことなどなかったかのように屈託のない笑顔を大木に向けて言った。
「なにやってるんですか」
「なにって朝の素振りだよ、毎日三百回振るって決めてんだ」
 大木は金網フェンスを強く握りしめる。
「なんで・・・・・・」
「なにって甲子園に行くためだよ」
「小角さん、バカなこというのやめてくださいよ。甲子園なんて行けるわけないじゃないですか、それにいつまでもこんなとこにいたらどんな仕打ちにあうかわかったもんじゃない」
「そうかもな、でもだからって俺がこの部をやめる理由にはならないよ。それに俺は野球が好きなんだ。お前も好きだろ・・・・・・野球」
 その時大木の体中が熱くなった、そして顔を伏せると視界がぼやけ乾いたアスファルトが濡れていることを知ったのはその少し後だった。
 小角は笑顔を崩すことなく一歩踏み出すと、
「今日は火曜日で部活は休みだ。放課後俺の行きつけの場所にいかないか」
 そう言われてついて行ったのがいま旋律と一緒に来ているバッティングセンターだった。二人で散々打ち込んだ後ベンチで休憩する大木にスポーツドリンクを手渡すと小角はどかっと横に腰を下ろした。
「ごちそうさまです」
「いいっていいって」
 勢いよくペットボトルのキャップを開けてグイっと飲み干した。この瞬間を全身が求めていたようだった。爽やかなクエン酸のすっぱさが心地よく感じる。
「小角さん、あの時はすいませんでした」
「あの時?」
 小角は首を傾げたが大木は続けた。
「はい、あの時俺が余計なことを言わなければこんなことには・・・・・・」
「なんだ、そんなことか気にすんなってそれより大木」
「はい」
「部に戻ってきてくれないか、みんなの前で惨めな姿を見せて甲子園なんて言っちゃったけどやっぱり部員がいないとどうしようもなくてさ」
「でも・・・・・・」
「三年のことは気にすんな、あんなのあと数か月でいなくなる連中だ。それに俺たちはなにも悪いことはしてないしなんかこのままじゃ悔しいだろ」
「はい」
 小角はその反応を見て嬉しそうに頷いた。
「野球っておもしろいスポーツでさ、いろんな人がいるんだよな、意地悪なやつも真面目なやつもみんな野球が好きで野球やってんのになんで野球のこと嫌いになるんだろ。野球自体はなんも悪いことしてないのにな。きっと三年生も野球好きなんだよ。それに大木は俺に謝ったけど俺は感謝してんだ。あいつらの思い通りになる必要がないって気が付かせてくれたのは大木なんだぜ」
 今度は大木が首を傾げる番だった。
「俺は今まで三年生におびえながら野球をやってた。おかしいなって思ってもそれは先輩だから仕方ないって諦めて意見するなんて考えもしなかった。でもそれって楽しくないよな大木があの時それを俺に気がつかせてくれたんだよ、だから野球部に戻ってくれよ俺が甲子園に行くためにお前が必要だ」 
 小角は咄嗟に大木の手を握っていた。その圧に腰が引けてしまったがすぐに大木は小角の手を握り返した。
「分かりました。俺はあなたが甲子園に行くために全力を尽くします」
 一度そう決めてからはもう迷うことはなかった。

「へぇそれであの時いきなり坊主にしたんだ」
 旋律が大木に訊く。意地悪な口調ではなかった。
 大木は困ったように旋律の目を見ると、少し怖気づいたか下を向き、
「わるかったよ。あの時は」
 とすまなさそうに言った。旋律は、
「いいよ。プレミアム信玄餅くれたから」
 と言葉を繋げた。
 閑古鳥が鳴くバッティングセンターを二人が出る頃には太陽が西の山々の陰に傾き始めていた。しぼったばかりの夕日の赤がどこにいても見渡せる富士の山にかかる。そんな幻想的な風景をもう十七年も見てきた。
「でも嫌なことされたんでしょ、三年生に」
 髪をまるめ野球部に戻った大木は三年生が引退するまで休部していればよかったじゃんと斎藤に言われ苦笑したが、それは三年生から逃げるようで嫌だった、今にして思えば些細なことであり、くだらないことだが個人的な感情や事情で扱いが変わるなんてことは生きていれば日常茶飯事だ。野球も社会も道理に合わないことばかりだ。
「三年生が引退するまで続いた嫌がらせや暴力も人間観察の一環としてみればどうってことなかった」
「ふぅん」
 あまりにも含蓄のある達観したことを言う大木に旋律は万感の表情でそう言った。
「それで今年は甲子園行けそう」
「行けそうじゃなくて行くんだよ」
「そう断定するのは弘樹らしくないね」
「目標を叶えるために必要なことは思い込みと努力だ、それもバカがつくくらい大きな思い込み」
「それも小角さんの受け売り」
「前半はね、後半はオリジナル」
 はにかみながらつぶやいた大木の嬉しそうな顔に旋律もつられて笑っている。合理的な思考で堅物、先の見えない不確実なことに否定的で滅多に感情を顔に出すことがなかった大木からそんな自信ありげな言葉が出てくるようになったのは小角のおかげだと旋律は分かっていた。
 グラウンドの外から球拾いでも腐らず恥じずに頑張っていた大木をずっと見ていた。もし自分だったらこんな不遇な状況に耐えられるだろうか、そんなことを思いながらグラウンドを眺めていた。
 クラス替えで仲のいい友達と離れてなかなか新しいクラスの雰囲気に馴染めなかった。そのうちクラスの中心的な男子から名前が変だとからかわれ心底自分のことが嫌になっていた小学三年生の頃、たった一人変じゃないと言ってくれた男の子の背中はいつの間にか大きくなりまた遠くなる。
「うん?」
「何でもない、ところで勉強はどう?」
 何気ないやりとりをしているうちに薄闇が空を覆い月が浮かび始め二人は自然と家路を急いでいた。県内屈指の進学校の生徒がテスト期間中に太陽が見えなくなるまで遊び歩いているなんて勘違いされたら北高ブランドの沽券に関わると学年主任から耳にたこがでるほど言われているからだ。
「それじゃ、また」
「うんまた学校でね」
 旋律と別れた後、部屋に戻った大木は市役所勤めの父が帰ってくる時間まで黙々と机に向かっていた。
大木が住む市と隣町を隔てる川に掛かった橋。帰り道、河川敷のグラウンドに見た三つの人影。一つは遠目からでもわかる県内最強の京成大甲府が愛用するジャンパーを纏っていた。そしてあと二つは見慣れた制服。それがなにを意味するのか大木は気が付かないふりをしてノートを埋めていた。 

乾いた風が吹きつけてくる。喉の奥が水分を欲してランニングを中断する。走り出したら何かが変わるなんて信じてはいないし、これから先信じようとも思わないがそれでも走らずにはいられなかった。あたるはグラウンドの端から端まで何往復も走り続けている。頭の中にあるのは自分をうすら笑う中曽根の顔だ。あたるにはそれが許せなかった。
「あたるくん今日もランニング?」
 ベンチに座って休憩しているあたるに声をかけた菜穂は真っ白なユニフォームでグラブを持っていた。
「ねぇもう意地はるのよそうよ。先輩たちだってきっと分かってくれる」
「ちょうどいいやちょっと付き合えよ」
 あたるはピッチャー用のグラブを手に持つとマウンドに登っていく。あの事件から三日が経っていた。菜穂は何も言わずにホームベースの後ろに立つと胸の位置にグラブを構えた。マウンドを噛みしめる。放課後になっても菜穂以外の部員はグラウンドには顔を出すことはない。
久しぶりのマウンドに立つ。もう自分を見に来ていた県内外の強豪校のスカウトや黄色い声援を送る女子たちはいない、後ろで守る頼もしい仲間も、いや仲間なんて元々いなかった。いつだって自分一人で戦ってきた。自分が抑えれば勝ち、打たれれば負けた。簡単なことだ全てはおれ次第、他のメンバーは足を引っ張らない程度に頑張ってくれればそれでよかったのだから楽なものだろう。
「七割の力で投げるから、怖かったら逃げろよ」
 ホームでグラブを構える菜穂は気合を入れてグラブを二回叩いた、ムッと眉間にしわをよせた顔で「怖くない!」とぶっきらぼうに言った。おそらく怖かったら逃げろと忠告されたことが気に入らなかったのだろうあたるはため息をつきながら投球モーションに入った。
 十分すぎるランニングの効果もあってすんなり足が上がった、左足が上がりきったところで息を一瞬とめ、前にいきたい力を軸足の親指にためる。我慢できなくなったタイミングで体が並進運動をはじめ一気に力を解放した。
『いい感じだ』
 そう思いボールを放そうと思いっきり腕を振った瞬間、指から肘にかけて電流が走った。
「ひゃあぁぁぁ」
 菜穂の叫び声とあたるの苦痛の唸り声が同時に誰もいないグラウンドに響き渡る。
「もう殺す気か、手前でわんバンしてこのノーコン・・・・・・」
 異変に気が付いた菜穂が駆け足でマウンドに向かうとあたるは真っ青になりながら自身の右腕を抑えていた。
「わりぃけど、氷作ってくんない? 力はいらねぇんだ」
 菜穂がプレハブ小屋に走って行くのを確認し天を仰いだ。さっきまで掻いていた汗とは違う粘着き上がり不快なにおいがする、体の底から湧きだしたようなどろどろした負の感情があたるの全身を包み込んでいるようだ。
「俺はもうあの頃の俺には戻れないのか・・・・・・」
 あたるは野球が好きだった。甲子園に行きたいという思いが再び芽生えた矢先にその芽を狩られてしまった。中学の頃勝つために技術を習得し、身体を鍛え自分の身体に変化が訪れるたびに、乾いたスポンジが水分を吸収するように野球を覚えていくたびに、あたるは自分の成長を実感できた。自分よりでかい相手を抑えた時の高揚感、厳しい場面を抑えきった時の充足感。
それがなにより楽しくて野球にのめり込んでいたあの時。努力して結果をだせば得られる周りからの惜しみない称賛と抱えきれないほどの名誉。自分は野球だけやっていればいいと思っていたあの頃・・・・・・。野球を失って気が付いた俺は野球以外なんにもないつまらない人間だということ。
「あたるくん、アイシング作ったからベンチまで来て!」
 菜穂の声が聞こえてあたるは、とぼとぼとマウンドを降りていく。菜穂はそんなあたるを労わるように手際よく肘にアイシングまいた。
「肩はいい」
「だめ!」
 アンダーシャツの上から不自然に盛り上がった右腕は寂し気にあたるの体にぶら下がっていた。
「大丈夫なの? ねぇあたるくん!」
「うるせぇな耳元で騒ぐな、大丈夫だよ」
 乱暴な口調で菜穂を一喝したあたるはばつが悪そうに視線を逸らした。無言のまま時が過ぎ携帯のアラームが鳴る。どうやら菜穂がアイシングの時間を計っていたらしい。
「たいぶ力が入るようになった、ありがとな」
「うん」
「・・・・・・仙崎トス投げてくれよ、軽めにボール打っておきたい」
「・・・・・・わかった」
 二人は用具倉庫にある古びたボールが山積みになっているかごを片方ずつ持ってティーネットの前まで運んだ。菜穂はかごにまたがりボールを掴みやすいように半分くらい空間を作ってトスをあげる。あたるの鋭いスイングはボロのボールでも関係なく快音を鳴らしいていた。
「そのまま連続で頼む」
 大きなフォームで動きを確認した後、トスのスピードをあげてほとんど足をあげずに体の捻りだけを意識して打っていく。足をついた状態でバットのトップの位置を確かめながらインパクトの瞬間までバットを握らないようにした。
「仙崎どう?」
「いいと思うよ」
「そうか」
 短い会話を挟んで半箱打ち終わると、あたるはスイングをやめ額の汗をぬぐった。
「んっ」
バットのグリップを差し出して顎をクイッとあげた。困惑している菜穂に、
「交代」
 そう言ってかごからどくように促すと菜穂が腰をおろしていたところにどかっと座り息をついた。
「私打たなくてもいいんだけど」
「ちげぇよ、俺が疲れたから休みたいだけだ。その間の時間がもったいないからお前に打たせんの」
 横暴な態度をとるあたるだが菜穂はあまり腹が立たなかった。口調こそ乱暴だが自分のことをただの練習サポートとしてではなくパートナーとして扱ってくれていると感じたからかもしれない。
――それでももっとましな言い方あるでしょ。
菜穂は納得していないように装いながらもバットを構えた。
「お前さ、なんで最初から肩にバットのせてんだよ。体育のソフトボールじゃねぇんだぞ」
「そんなこと言ったってバッティングなんて普段から練習してないし、私投げるの専門だもん」
「うるせぇ、お前はプロか、高校野球はピッチングとバッティング両方できて一流なんだよ。今からかっこいい打ち方教えてやる」
 再び腰を上げたあたるは菜穂の後ろに立つと握ったバットのグリップの上から手を添えて高い位置におさめた。
「こうすれば見てくれだけは強打者だろ」
「うん」
 そうつぶやくのがやっとだった。菜穂は胸の鼓動が早まるのを感じていて、それがあたるに見透かされることを恐れて耳を赤らめた。
「よしじゃあ打ってみろよ」
 緩く投げられたボールに一、二の三でバットを振るが一キロほどある金属バットは菜穂には重かった、いつもより高い位置に構えた分なおさらスイングが遅れ鈍くなる。打球はネットに吸い込まれる前に地面にぶつかった。
「やっぱ難しい」
「ほらどんどん行くぞ」
 テンポよく上がるボールを叩くこと十分あまり、ティーバッティングがこんなに疲れる練習だとは菜穂は思わなかった。五十スイングしただけで腕はだるくなり、下半身は汗が滲んでいた。野手がこんなに大変なことを毎日しているとは、バッターは三割打てれば一流と言われる理由がわかる気がする。ネットに収まったボールを倉庫に片付け終わったあとあたるは時間を確認した、
「仙崎ピッチングやれよ」
 部室に放置してある手入れの行き届いていないキャッチャーミットの埃をはたき、試合で使う新しいボールを菜穂に投げ渡した。
「いいの」
「お互いに毎日走ってばっかじゃ陸上部になっちゃうからな、それに俺のクールダウンのついで」
 二つ返事でマウンドに上がった菜穂は軽いキャッチボールを済ませたあとあたるを座らせた。
「打者九人! 球種とコースはお前が決めろよ、一人目左バッター」 
 菜穂は頷いてアウトコース低めを要求する、あたるはアウトコースぎりぎりのところにミットを構えた。コントロールを重視する今どきのピッチャーには珍しいワインドアップ、大きく振りかぶるのは男子と比べて小柄な体格を補うために投球フォームに勢いをつける目的だと予測できる。あたる自身もスピードボールを投げるために体の使い方を試行錯誤していた時期があった。菜穂が男子のような威力のあるボールを投げる理由は他にもある左足が高く上がる時、同時に軸足の踵も上がることだ、つま先一本で体を支えることができる一瞬のためが、併進運動の際さらに勢いを増すのだ。
 振り上げた足が着地した。そこから上半身の回転が始まる、下半身から伝わった力が上半身へ移行し順番に肩、肘、指先へと繋がっていく。
 おんぼろのミットが嬉しそうに音を鳴らした。あたるのミットは一ミリも構えていた位置から動いていなかった。
「ストライクだ、どんどん投げて来い」
 菜穂は次々とコースを要求し、見えないバッター相手に気持ちよく投げ込んでいく。手元でノビるボールは実際のスピードより速く感じる。あれだけの豪快なフォームでコントロールを崩さないのはよほど強固な下半身を必要とするだろう、あたるは菜穂の体型が丸型フラスコであることに納得した。
「疲れてくると足が腰のベルトまでしか上がらなくなるな、変化球もスピードのあるシュートとスライダーだけで緩い球が投げられない。チェンジアップくらいは投げれないとそのうち打たれるぞ」 
打者九人を投げ終えた菜穂は大きく息をついてあたるの話を聞いている。
「緩い球って難しいんだよね、カーブとかチェンジアップとか」
「それじゃあ打たれるって、120キロ後半のボールは逆に打ちごろの球だぞ」
「でも、あたるくんも緩い球投げれなかったじゃん」
 痛いところをつかれたあたるは聞こえないふりをして部室に向かった。
「もう帰るぞ、今まで勉強してなかったから今日はやらないとやばい、赤点とったら大木の奴に何を言われるかわからんからな」
 朝練も兼ねて続けている家から学校までのランニング通学と新しい日課として一日百本の素振りを始めたおかげであたるはテスト前の大事な授業で惰眠を貪っていた。シニアに所属していた生活に戻りかけているためノートをとることも忘れて野球のことばかりを考えていた。そのたびにノートを見せてもらっている菜穂には申し訳なく思う気持ちはあるがそれでも頭の中は野球のことでいっぱいだった。
 放課後、まるで陸の離れ小島のように人っ子一人いないグラウンドを帰る二人はどこまでも続く土手道を歩いていた。主にこの町に流れる荒川は富士川水系の一級河川で、昔はカワセミやホタルが舞いヤマメやザリガニがたくさん棲息していた清流だと聞いたことがある。しかし僅か半世紀にも満たない間に川は汚れ、いつの日か川の生物は消えてしまった。最近では綺麗な川に戻そうとする自治体のボランティアが清掃やゴミの不法投棄防止を呼び掛けるポスターをよく見かける。ランニングコースとしても利用されるこの土手道は近々舗装されサイクリングができるようになるというが舗装工事が行われている気配も感じさせず、お年寄りの散歩道がよく似合っている。
前方からすごい勢いでこちらに向かってくる人影が見えた。小さかった影は大きくなって徐々にその歩みを緩めていく。そして二人の目の前で完全に停止した、膝に手をつき呼吸を整えている時間あたるはなにも言葉を発することができずに立ち尽くしてしまう。
あたるは知っていた。この道を全速力で駆け抜けるのは自分と運動不足解消の域を優に超えたストイックな中年おじさん、そして。顔を上げとめどなく流れた汗をぬぐった少年の顔は晴れやかだった。
「ただの勉強高校の彼女連れだと思ったらまさか蔵田中とはね」
「・・・・・・わたる」
 あたるが今一番会いたくない相手が突拍子もなく目の前に現れた。運命のいたずらによって引き裂かれた二人がお互いの立場を入れ替えて出会った時、それは双方にとっても良い出会いではないと菜穂は感じ取っていた。

 ユニフォームの胸に刻まれたKESEIのエンブレムに、黒のラインが入った伝統の縦縞、山梨県高校野球のイメージをがらりと変えた圧倒的長打力と投手力で伝説の五期連続夏の甲子園出場と県内最高の甲子園ベスト4進出記録は未だに破られていない、その強さは健在で県内で京成大甲府の校歌を歌えない野球少年がいないほど甲子園を目指すもの誰もが一度は憧れる無敵京成。
 そのチームジャージを纏った百瀬和多留が目の前にいる。最後に別れた時と比べて背丈が五センチも伸びあたるの身長を上回っていた。しかしそれだけではない地道な走り込みで培われたであろう下半身はシャープテックのロングパンツ越しから筋肉がぎゅっと詰まったように引き締まっていることがわかる。
「中曽根からチラッと聞いたよ、ケガしたんだって」
「あぁ」
「それでなんでまた野球部のバックなんて肩からぶら下げてんだ?」
おかしな抑揚も間もなく淡々と質問するわたるは所々に甲州弁が見え隠れしていたあたるの知る昔のわたるとはまるで別人だった。常に自信に満ち溢れ、威厳な態度であたるに接するその姿は天下の剣豪が一般人に道を尋ねる様子に似ていた。
「甲州弁抜けちまったな」
「一年も向こうにいれば自然と抜けるよ、まさか野球部なのかあたる?」
「そうだ、武田北高校の野球部だよ」
「ふぅん」
 あたるを見るわたるの目は冷ややかだった。過去に自分に向けられていた競争心や嫉妬の眼差しをまったく感じられない。
「じゃあ、俺行くから」
その屈辱に耐えかねたあたるはわたるが何かを口にする前に立ち去ろうと菜穂の腕を引いた。この場から早く逃げだしたいその一心でわたるに背を向ける。
「逃げるのかよ」
 背中から聞こえてきた声にあたるの足は止まった。そして追い打ちをかけるように、
「約束を忘れちまったのかあたる。残念だよ」
 振り返る。わたるの薄ら笑いが西日に映えていた。
挑発ともとることができるわたるの揺さぶりは確実に二人の耳に届いていた。しかしそれ以上にあたるを惨めにさせたのはなにも言い返せない自分自身だった。
「行くぞ仙崎」
 顔を背け再び背を向けそう小声でつぶやき菜穂の腕を引いたが、菜穂はそこから一歩も動くことはなく、わたると相対していた。
「おい、仙崎」
「あなたに蔵田中の何がわかるの」
 あたるの声を掻き消すように菜穂はわたるに反論した。するとわたるはさっきまでの薄ら笑いをやめて真剣な表情になって菜穂をしっかりと見据えた。
「わかるさ、少なくとも君よりは。」
「嘘よ」
「嘘じゃない、俺は今日まで蔵田中に勝つために努力してきたからな」
「それも嘘よ」
 それは本当だと思うぞ、あたるは心の中で菜穂につっこんだが事態はそんなことで収拾する場合ではなくなっていた。
「あたる、お前の彼女うるさいよ」
「わたるお前は大きな勘違いをしてる、まず仙崎は彼女じゃないし俺は約束を忘れたわけじゃない。今も甲子園を目指して野球をやってる」 
あたるは腹をくくった。わたるに一歩近づいて身構える。
「冗談だろあたる。お前のところの高校で甲子園? 無理に決まってんだろ、それこそ無駄な努力だ。目を覚ませ、球遊びがしたければ草野球で十分だろ、甲子園に行ける可能性がない高校で三年間頑張ったってなにが楽しいんだよ」
 過去に自分が言った言葉がブーメランのようにわたるの口から帰ってきた。わたるの言葉は正論だ、それは一番あたる自身がわかっている。それでも今さらわたるの言葉に頷くつもりはさらさらなかった。
「俺は本気だ、お前を倒して甲子園に行く」
「道端の雑草が桜やヒマワリに勝てるかよ」
 わたるは小声で吐き捨てて、
「そこまで言うなら教えてやるよ、あたるの言ったことがどれほど恥ずかしいことか」
大きなため息をついてわたるは土手を下って行った。視線の先には少年野球で使われるような野球場がある。
「都合よくバットなんて持ってないだろうからグラブをはめてくれ」
 少しだけ盛り上がったマウンドのプレートを足でならし、ジャンパーのポケットから硬球を取り出したわたるは大きく深呼吸して空を仰いだ。
 あたるも思わず同じように空を見た。そしてバックからファーストミットを取り出してホームベースに向かい腰をおろしてキャッチングの構えに入った。
 わたるが見上げている空は二人が再会を約束したあの日の空に似ていた。再会を果たした高校球児に似つかわしくない黄昏時の空、菜穂は白線の外側から固唾を飲んで見守っている。ボールがはっきり見える時間はもう残り少ない。
「ストレートを投げる」
 わたるはあたるの構えたファーストミットを睨みつけると大きく振りかぶった。胸を反らし、大きく伸び切った全身を今度は小さく折りたたんだかと思えば弓なりに柔らかくしなった体躯からムチのような左腕を振り下ろした。中学時代、快腕と名を馳せた百瀬和多留のノビのあるしなやかなストレートに筋力が加わったことによって威力が増していた。唸るようにミット目掛けて迫ってくるボールにあたるは不覚にも腰が引けていた。腰砕けながらも反射的に差し出したミットに収まったボール、不様にも尻もちをつき制服のズボンが汚れた。
「これが甲子園を目指すということだ」
 わたるはそれだけ言うとマウンドを降りて地面にしり込みしているあたるを起こす。
ファーストミットに入った硬球をポケットに戻した。
「今日は二人の決別の日にしよう、俺はもっと先に行く」
 この世の不幸を全て背負ったような顔をしたあたるが俯く姿を菜穂はただ黙って見ているしかなかった。


 全開になった窓から心地の良い風が教室の中に入ってきた。クラスの女子がつけている制汗スプレーの柑橘系の爽やかな香りが鼻をつついた。テスト週間のため出席番号順に並べられたあたるの席は廊下側の席の前から三番目の席で、授業を受けている。憂うつな気分を隠し切れずにどこか上の空のあたるの背中を菜穂はじっと見ていた。
四時間目の数学の授業が始まると今度は頭を抱えてひどく考えこんでいる。時おりノートに何かを書き込む様子を見せるがすぐにペンをおきふてくされるように惰眠をとり始めた。
重症だと思った。あたるにとって百瀬和多留という選手の存在がこれほどまで大きいとは思わなかったのだ。菜穂は少なからず責任を感じていた。しかしあの時わたるはあたるを試すような言動で明らかに挑発していた、いつもなら飛び掛かからないにしろ強い言葉でまくし立てるくらい威勢のあるあたるがしおらしくしていることに腹がたった。
 ――あれだけ言われてなんで言い返さないのよ。
 そう思った瞬間、自分の口が動いていた。
 それから一言もしゃべることもなかったが思い出すだけで悔しい、何度もムッとしながらあたるの背中を睨んでいたがなんとも張り合いがない背中にやきもきする。
それでも野球をやめてからひたすら勉強に明け暮れていたはずだ。なにも甲子園常連の京成大甲府高校野球部に入部することがすべてではないし、なのに、どうしてそんなに見下すのだろうか。どこの高校にも平等に甲子園を目指す権利はある、もちろん武田北高校野球部に入部したからってその権利が剥奪されることなんてない。菜穂は野球をやっている男子のそういうところが大嫌いだった。だからあたるにはそうはなってほしくない。新たな目標を見つけて勉強していたことは努力であり、人から残念がられるようなことではないと思う。
菜穂は知りたかった自分が思い通りにいかないことやどうしようもいかないことに直面した時あたるはこれまでどうやって自分の気持ちと折り合いをつけてきたのか。
 十二時のチャイムが鳴る。ノートにペンを擦りつける音と殺気立つような集中力が支配し殺伐とした教室は緊張が解けたように騒がしくなる。菜穂は声をかけるのもはばかれる気に病んだ背中を後ろから見つめた。
「いつも通りにしなくちゃ」
 そうつぶやいてみたもののなかなか最初の一歩が踏み出せず、気が付けば教室を出て廊下の人波に流されながら食堂がある一階に向かっていた。

「なんとかならないかな」
「なんとかっていわれてもなぁ、放っておけばいいんじゃない」
 昼休みの食堂はたくさんの人で溢れかえっていた。どうやら今日は通常のカレーにチーズが無料でトッピングされ、ラーメンは通常の麺より1.5倍多いらしくたまたま居合わせた鳩ケ谷と中原に事情を説明してもこれといった解決策もでなかった。菜穂が座ったところから、体つきのいいラクビー部の先輩たちがテーブルいっぱいに並べられたラーメンとカレーをもくもくと口に運ぶのが見える。「この間のやつなんだけど・・・・・・」先輩の一人がなにかを思い出したように勢いよく喋りだした。くちゃくちゃと咀嚼音を周囲にまき散らしながらげらげら笑っている。時おり見える口の中の食べ物にきたないと心につぶやきながら今も教室で無気力で空を眺めているであろうあたるのことを考えている。だから中原の放っておけばいいんじゃないと言った投げやりな発言にまた腹が立つ。
「そういう問題じゃなくて」
「まぁ、菜穂ちゃん俺もあたるに声かけてみるからさ」
「ピースは余計なことしないで」
 間に割って入り仲を取り持とうとする鳩ケ谷につい感情的になる、そんな時嫌な顔一つしないで聞き流してくれる鳩ケ谷の優しさにいつも甘えてしまう。
「テストが終わってからじゃあだめか」
 中原の言ったことはもっともだ。県内トップの進学校だけあってテスト範囲は広く、大学進学を早くから意識づけるために問題の出題の仕方もいろいろと手の込んだものになるというのを佐原が今日の授業中に気だるそうな声で告知していた。
「それじゃダメ、だと思う」
 根拠は? と聞かれたら答えに困ってしまうがとにかくそれからでは何もかも遅くなってしまう気がする。
「でも菜穂ちゃん、テストで赤点なんかとったらそれこそ部活できないよ。それにあたるは頭がいいからきっと大丈夫だし」
 鳩ヶ谷が諭すようにこの場を収める。そもそも勉強の息抜きのための部活動という括りの中で真剣に活動している部は野球部と簿記部くらいだろう。簿記部は普通高校でも日商簿記を学べるよう週に二回講師を招いて三年生の教室で勉強している。勉強の息抜きに勉強するというのはある意味でバカなんじゃないかと思ってしまうが、卒業までには部員の半分が日商簿記二級程度なら合格してしまうというから驚きだ。
「わかったよ、でもやっぱり放っておけないんだよね」
 呆れる中原は勝手にどうぞと肩をすくめて自分のクラスの教室に戻っていく。
「気を悪くしないでね、忠之助の彼女はあいつが他の女子と喋るのを気持ちよく思わないらしくて見つかったら面倒なんだ」
「うん、ありがとピース」
 誰にどう思われようがなんと言われようがあたるのことを気にかけないことはできなかった。春の甲州商業戦で受けた屈辱をチームのみんなを巻き込んでまで晴らそうと意気込んでいたあたるが、たった一球のストレートを受けただけで気力を失ってしまうほどだ。
「でもきっと私がなんとかして見せる」
 二人がいなくなった食堂で一人意気込んでみた。

 その日の放課後の空は重く垂れ込んだ鉛色だった。そういえば今日の朝、テレビの中で好感度ナンバーワンのアナウンサーが昼過ぎから夕方にかけて天気が崩れると予報していた。雨が降りそうな曇天の空を見上げるとおでこのあたりをぐぅっと押さえつけられたように何とも言えない気だるさがのしかかってくる。それは教室のベランダから見上げた空でもグラウンドで見上げた空でも同じだった。
いつもなら放課後の掃除を早々に切り上げて得体の知れない何かにとり憑かれたようにレフトフェンスからライトフェンスの端から端まで走っているあたるの姿が見当たらない。
「よぉ遅かったな、あれなんで制服?」
 部室のドアを開けるとそこにあたるはいた。この前まで斎藤が陣取っていたベンチに座りファーストミットを磨いていた。
「電気くらいつけたら」
 薄暗かった部室に蛍光灯の明かりが一瞬で広がってあたるの表情がしっかり見えるようになる。目を細め、眉間にしわを寄せて口をすぼませながらファーストミットのポケットを見つめる。念入りに磨かれたファーストミットを左手にはめ、右手で拳をつくると一度ぱちんとならした。オイルが染みた皮の湿った音がこの狭い空間に響きその余韻を僅かに残している。それからあたるはゆっくりこちらに首を向けて言った。
「わりぃ、つけんの忘れた」
「誰もいないと思ったから女子更衣室によらなかったのに」
 そう言うとあたるは短く返事をしてそそくさと部室を出て行った。菜穂は制服の上着をハンガーにかけるとシャツ越しに膨みかけの胸を恨めしそうに睨んだ。十六歳の体は自分の意志に反して丸みを帯びて柔らかくなっていく。
「頑張ろう」
 雨が降るのか降らないのかわからないどっちつかずの曇りの日はどうしても余計なことが頭を過ってしまう。菜穂はそんな大嫌いな空の下で待つあたるを追いかけるように部室を出た。
「軽くキャッチボールしようぜ」
「うん」
 五メートルほど離れたところからふわりと投げた菜穂のボールをあたるは右手をミットの下に添えることなく雑にキャッチして、てきとうに投げ返した。それは徐々に投げる距離を離しても変わらず、試合を意識した実践的なキャッチボールではなく肩慣らしにもならない気持ちが入っていないキャッチボールだった。もともと塁間を投げるのが精いっぱいのあたるは送球の遅れをカバーするために素早いステップを意識し誰よりもキャッチボールを大切にしていた。
「あたるくんしっかりやってよ」
「やってるよ」
嘘だった。白球は口ほどに物言う。穢れを知らない白球は当事者の気持ちや考えていることを良い意味でも悪い意味でも伝染させてしまう。
 あたるの無気力はキャッチボールが終わってバッティングでも同じだった。トスされたボールをネットに打ち込むが昨日までと金属バットとボールがぶつかった時の音の質が明らかに違っていた。
「今日も投げたいから受けて」
 空模様を気にしていたあたるが早々に練習を切り上げようとしたのを見兼ねた菜穂は半ば強引にあたるをキャッチャー役にホームに座らせるとマウンドから百パーセントのボールを投げ込んだ。あたるに対しての自分の気持ちを一球のボールにのせて何度も何度も投げ込む。頭上で蠢く重く濁った雲を吹き飛ばすくらいのミットとボールがぶつかる衝撃がグラウンドにこだまする。その音が響くたびに菜穂はあたるの心をノックし続けた。
「仙崎もういいだろ」
 二十球ほど菜穂の球を受けたあたるはマウンドに返球することをやめこちらに歩いてくる。
「まだ、足りない」
「もう十分だって」
 短いのやりとりの後、あたるは菜穂のいるマウンドに上がると手渡しでボールをわたした。
「私まだ投げたりないから戻ってよ」
「もういいってお前の球はめちゃくちゃはしってるし、雨も降ってくる」
「嘘つかないで」
「嘘じゃないって」
「じゃあなんでもっとわくわくした顔でとってくれないの!」
 菜穂がそう怒鳴った時グラウンドの空で蠢く雲がその動きを止め雑音が消えた。手足が震えた。こみ上げてくる怒りを堪えながらまっすぐあたるを睨んだ。
「何言ってんだお前?」
 首を傾げ踵を返して部室がある方向へあたるは足を進める。
「誤魔化さないでよ! 不甲斐ないのは自分のせいでしょ!」
 あたるの足が止まった。そしてゆっくりと空を仰いだ。
「自分の気分で周りを巻き込んで、勝手に思い悩んでまるで子ども。そんなんだからなにもできないんだ、だからあなたは一人ぼっちなのよ!」
 一人ぼっちという言葉にあたるは過剰に反応する。振り向きざまに菜穂を見る顔は熱を帯びていて瞳孔は全開していた。
「お前に俺の何がわかるんだよ、公式戦のマウンドにも上がれないくせに偉そうなことを言うな!」
 はじめは自分に向けられた言葉だということに気が付かなかった。あたるが鋭い眼光で自分を見ていると認識した時、菜穂は全身に怒りを震わせた。菜穂は唇を激しく噛みしめながら、その数秒後はっとした表情で自分を眺めるあたるを見ていた。まるでこれまでの人生を否定されたようだった。いつかに菜穂の知らないところで、クラスメイトたちが彼女のことを「野球バカ」と罵っていることを菜穂は知っている。
 不意に涙が込み上げた。
「仙崎、すまんそんなつもりじゃ」
 慌てて視線を落とすとあたるが困った顔をして詰め寄ってきて両腕を掴み数回頷いていた。
「私の野球は間違ってない」
 菜穂は懸命に顔を上げた。あたるの前でもう涙を見せたくはない。こんなところで泣くわけにはいかなかった。
「でも、やっぱり私には越えられない壁はある、夢に向かって努力してもどうしようもないこと。だけどあたるくんにはその夢を叶えられるチャンスがあるの、北高は強豪校の引き立て役なんかじゃない」
 僅かに声がかすれた。あたるは耳を赤らめながら視線を落とし菜穂の体から手を離した。
 菜穂はあたるの壊れた右腕を優しく撫でるとマウンドにあたるを残して部室に戻った。あたるが座っていたベンチに腰をおろした菜穂は気が付くと頬にぽろぽろと涙が流れていた。
 ――おかしいなぁ、なんでだろ
 自分の機能が壊れてしまったのかと思った。お酒など飲んだこともないのにひどく酔っぱらった人みたいに全身が赤くなり、熱を感じる。とまれ、とまれと思っても自分の意志に関係なく涙が出てくる。止まらない涙に菜穂は慌ててユニフォームを脱ぎ乱暴にバックに押し込めると制服に着替え外に出た。菜穂は誰もいないところを探して学校の敷地を走ると体育館裏の薄暗い場所に駆け込んだ。
 そして、パンパンに膨れたエナメルバックに挟まれて、暗がりでかがんで、今度は声を出して泣いた。熱い涙を流しながらふと菜穂は思った。何が悲しかったわけでもなく、私はただおもちゃを買ってもらえなかった子供のようにわんわん泣きたかっただけなんじゃないかって。
 そう思ったらなんだか笑えてきて、菜穂はどうしようもなく暗く、果てしなく明るい気持ちになった。涙を拭って立ち上がり、スカートについた少し湿った土をはらい、歩き出した。

私は野球が大好きなんだ。

「眠いからねる」
 そう母に告げて、菜穂は家に帰るとすぐにベッドに入ってしまった。勉強もしなくてはいけないけれどテストは土日を挟んだ火曜日からだ。明日から頑張ればなんとか間に合うはずだ。
 心地よい疲労が深い睡眠に誘う。
「ちょっと菜穂、あんた今日お父さん早く帰ってくるのよ」
 様子を見に来た母の声を頭の片隅で聞いたような気がした。
 
菜穂は夢を見ていた。

目の前にある色あせた木の板。至る所にボールの跡や風化して腐りかけた木のカスが崩れ落ちかけている。中学生の時周りから嘆きの壁と陰で囁かれていた大嫌いなその板が懐かしく感じた。菜穂が立っているその後ろにはたくさんのギャラリーがいて隣にあたるがいた。
「どうしたの?」
 と菜穂は言った。ひそひそ声がノイズのように反響して掻き消されそうになる。
「これ、渡しきた」
 あたるに手渡されたのは縫い目が解れ、皮の変色したぼろぼろの硬球だった。
「これが仙崎の努力の成果か」
 ポケットに手をつっこみ三日月並みの前傾姿勢で十八メートル先の木の板を眺めながら言った。
「コントロールがいいのも納得だ」
「時間があれば投げ込んでたから」
 今度は周りの音がなにも聞こえなくなった。展示用のショーケースの中にいるような静けさと、見上げた空には星があった。
「もう夜? いま何時?」
 菜穂が言うと、
「星が見えるなら夜だろうな」
 あたるが答えた。
「なんで?」
「夢だからだろう」
「じゃあ何してもいいのかな」
「モラルの問題だろ」
 おどける菜穂をまっすぐに見て、あたるは淡々と言った。
「最後の一球、かわりに投げてくれ」
 あたるはそう言って、菜穂は頷いた。大きく振りかぶり狙いを定める。
「マウンドで待ってる」
 

 目が覚めたのは深夜だった。
 正確な時間を知りたくてスマートフォンを起動するとくっきりと三時十七分と液晶に表示されていた。
 おかしな夢だったな、と思いながら、台所へ水を飲みに行く。そういえば夕飯を食べなかったことを思い出した。菜穂は戸棚にあったインスタントラーメンの封を開けた。
 まだ夢の余韻が抜けない。お湯を入れた器のラップの内側が湯気で白くなる様子を眺めながら、菜穂は太ったらいやだな、とぼんやり考えていた。
 夜空の星がこの町を照らす、今夜は月が見えない。夏に近づいて行っているのにしんとしている静かな夜だった。

 

 走り始める理由は分からない。しかしそう言った理由はあとからついてくるものだ。
あたるはチャイムが鳴り終わった瞬間教室を飛び出していた。テストは惨敗した。このテスト週間全く勉強などしていなかったがどの教科も六割は取れている自信はある。夏の甲子園予選大会の抽選まであと二週間と少しもう時間がなかった。二年生の特進クラスの教室を勢いよく開けると運動部とは縁もゆかりもなさそうな人たちがぽかんとした顔をしながらこちらを見ていた。
「何だ、いきなり」
 約束もしていなければ告知もしていないし、小難しく理屈っぽい大木に会いに行くのは気が進まなかったが、練習前に大木と話をつけておく必要があった。
「お願いがあってきました」
 大木は周りの視線を気にかけながら席を立ちあたるを厄介者扱いするような目でじろじろ睨んだ。
「お前のお願いなんて聞きたくない」
 苛ついた口調で吐き捨て、大木がエナメルバックを肩にかけた。
「じゃあ勝手に言います」
 あたるはこの男がどうしてこんなにも自分とそりが合わないのか不思議だった。
「何も言わないで僕の言うことを聞いてください」
 大木の眉がすっと上がった。
「バカなことを」
「今のままでは甲子園なんか無理です」
 あたるの言葉に教室中からくすくすと笑い声が聞こえた。大木は笑い声がした方をグッと睨みつけた後あたるを見据えて首を横に振った。
「だったら一人でやれ」
「それで解決するならやってますよ」
「あのな蔵田、お前のやり方じゃ他が付いてこないんだよ。少しは頭を使え、それともお前の頭は帽子をかぶるためにあるのか?」
「お願いします」
 あたるは膝につきそうなくらい深々と頭を下げた。
「チームってのは個人の気持ちの反映だ。だからチームの和を乱す者は嫌われる。お前だって経験がないわけじゃないだろ」
「でも」
「とりあえずここじゃ迷惑だグラウンドに行け」
 大木はあたるの目の前に立ち、いきなり制服のネクタイに手を伸ばした。あたるはのど輪をかけられるのではないかと思ったが、次の瞬間には手を放していた。
「ネクタイも曲がってるわ突然押し掛けるわ、まったく失礼な奴だな」
「すいません」
「蔵田、ここまで来たこと熱意は認めてやる。でもな俺を含めチームのみんなを思い通りに動かしたいなら一人でどうにかすることだ」
 引き際だ。これ以上思いを伝えて続けても、この頑固者の心に響くわけがない。あたるは唇を噛みしめながら頭を下げ、特進クラスを辞去した。大木相手になんの作戦も考えずに先走った自分自身の軽率さに腹が立ったが、今さらどうすることも出来ない。しかしあたるは大木がネクタイを締め直した時に表情を一瞬やわらげたような気がしていた。確かめようにも時間を巻き戻すことなどできないが。

 
 いつものように外野を走ってひと汗かいてから何かを始めるということは出来なかった。あたるは鳩ケ谷たちとラインカーでバッターボックスや塁線をグラウンドにかき道具を準備していた。誰一人無駄口を叩くことはなくグラウンドができあがるまで五分とかからなかった。
 あたるは大木たちがまだグラウンドに来ていないことを確認するとベンチの前で素振りを始めた。バットの重みを感じないゼロポジションを探るように構えると空気を切り裂くようにバットを振り抜く。今まではピッチングの箸休め程度でしか考えていなかった素振りだが集中力を高めるにはとても最適だった。ひと振りごとに邪念を消してひと振りごとに心を空白にしていく。上級生との確執や菜穂とのいざこざ、負けたくない相手のこと。四六時中頭の中にある悩ましいことがその時だけは姿を消していた。
「お疲れさまっす」
 不意に中原の声が聞こえ後ろを振り返ると高井と原田が足早に部室に入っていく。あたるは会釈だけしたがうまくコミュニケーションをとることができなかった。その後も二年生と顔を合わすと気まずい沈黙が流れるだけで完全にチームから孤立していることを実感した。これではシニアの時と同じだ。しかしあたるはチームに溶け込むために先輩たちに忖度する気にはどうしてもなれない、自分の意思を貫いた上で甲子園を目指したいと覚悟を決めていた。そのために自分が何をしたらいいか打開策を必死に探していた。
「おう蔵田元気か」
「あ、はい」
 あたるを見つけると笑顔で近づいてきた小角は周りの空気など気にしない様子で喋りかけてきた。
「今日の全体練習は守備を中心にまわしていこうと思っているんだが」
「いいんじゃないですか」
「そうか、そのあとに、お、蔵田あそこのバッターボックスお前がかいたのか?」
 話の腰を折るように小角が目に入ったバッターボックスを指さして尋ねる。
「まぁはい」
「うまくなったな、やっぱセンスある奴はライン引きも上手いんだな」
 ポンと肩を叩かれあたるは自分が引いたバッターボックスを見た。小角の性格から今の言葉は嫌みではなく本心から言っていることは理解できたが、面と向かって褒められることだろうかと首を傾げたくなる。
 あたる以外のメンバーはテスト期間中しっかり勉強して溜まったうっ憤を吐き出すように、二週間ぶりの全体練習はアップから活気がった。中でも一番声を出しているのはキャプテンの小角だった。夏の大会が終われば本格的に受験勉強が始めると言っていたが本来ならそれでも遅いくらいだと教務主任の先生が言っていたことを思い出す。あくまで部活動は勉強の息抜きでしかないから夏休みを返上して太陽の下で汗を流す高校野球などなくなってしまえばいいと居眠りをしていたことがばれたあたるは昼休みに呼び出されお小言をもらったことがあった。そこまで教務主任が野球を毛嫌いするのは分からないが冷静に考えればそうかもしれない。余計なことだと分かっていても無意識に考えてしまい、守備練習でもボールをミットから零したりカバーできる送球を逸らしたり散々だった。そんな時にいつもならショートの斎藤やライトの原田が野次を飛ばすのだが、知らん顔してポジションの土をならしていた。あたるは焦っていた、チームから疎外され居場所をなくしてやめた中学時代の記憶が蘇る。練習が進むにつれていつの間にか声も出なくなり、無言でボールを追いかける時間が増えていく。守備練習が終わってバッティング練習に移行しても変わらなかった。
「あたるくん、次バッターだよ」
 マウンドで菜穂が自分の名前を呼んでいる。バッティングピッチャーを買って出た菜穂は三人目のバッターにあたるを指名したのだ。あたるはレフトからかごに集めたボールをマウンドにいる菜穂に手渡すと促されるまま右打席に入った。キャッチャーの鈴川のミットに吸い込まれたボールは相変わらずいい音をならしている。
「ストライク」
 鈴川がつぶやく。初球をあっさり見送ったあたるをマスクの奥からあざ笑ったように聞こえた。蒼い顔になるあたるに間髪入れずに二球目を投げ込む。シュートだった。あたるは体を開いて対応しボールを捉えたが打球は上がらずゴロになった、サードの守備範囲に飛んだボールを大木がさばいて一塁に置いたネットに送球する。
「あと二打席」
 鈴川はあたるに二本の指を立てて見せた。菜穂は鈴川とサインを確認すると今度はタイミングを外してクイックモーションでストレートを投げてきた。あたるは体勢を崩され中途半端なスイングになった。なまじバットをボールに当てるのが上手いあたるにとって一度振り出したバットは空振りすることはなく力なく打ちあがった打球はファーストのネットの前にポトリと落ちた。
 三打席目はあってないようなものだった、会心のあたりがでないことに焦りを感じていたあたるは菜穂との勝負以前の問題で自分のスイングが全くできない。内角のシュートを二つファールにしたあと外角に頭になかったスライダーを投げ込まれ見送り三振。あたるはマウンドに一礼して打席を外し、次のバッターである高井に代わったが言葉を交わすことはなかった。再びレフトのポジションについたあたるの元に鳩ケ谷とピッチャーを交代した菜穂が走ってくる。
「今日は私の完全勝利だね」
「あぁ」
 曖昧な返事と無理やり取り繕った笑顔は菜穂にどう見えているだろうか、そんなことが気になってしまう。
「ピースに教えてもらったんだスライダーなかなかよかったでしょう」
「まぁ」
 菜穂はあたるを三打席抑えたことがよほど嬉しかったらしく終始興奮していた。
「ところで土日の練習試合は県外の高校が来るんだっけ」
「あぁ」
 そういえばバッティング練習に入る前に小角が思い出したように言っていた。たしか長野県の農業高校だ。
「楽しみだね、あたるくんまた活躍してよ」
「そうだよな、それしかない」 
 チームの信頼と発言力を得るには試合で結果を残すことが一番手っ取り早い方法だ。あたるは口を閉ざしたまま頷いた。



 目が覚めたのは、さっきまで見ていた悪夢のせいか、正解は暑苦しくて打った寝返りで机の脚に体をぶつけたからだった。あたるはゆっくりと上体を起こし大きく首を横に振ったあと立ち上がった。体の節々が痛む。更に頭痛もひどかった。手も足も軽く痺れていてまるで自分の体ではないようだった。それでも小刻みに足を前に踏み出すと空になったビール缶とぶつかった。頭痛で額を揉むとべとべとした汗が指にまとわりついてあたるは思い出したようにスマートフォンの時計を見る。まだ朝の五時だった。
 台所の蛇口を捻って流れる水をそのままがぶ飲みすると、少しだけ頭痛が収まった。あたるは頭を振って頬を強く叩くと、バットを持って家を飛び出し避難訓練などでよく集合場所として使われる近くの広場まで歩いてバットを構えた。グリップの感触を確かめながらバットを振りだすが、全く手応えがなかった。足の開きの角度やバットの構えを高くしてもどうにもしっくりこない。それでも素振りを繰り返す。あたるは恐怖心に狩られていた。野球をやってきて始めて感じる不安。やばい、やばいと心の中で繰り返すが答えがでてこない。登校するぎりぎりまの時間までバットを振ったが結果は同じだった。
 あたるが見た悪夢とは土日の試合のことだ。誰よりも結果を欲していた試合だった。五番ファーストで出場したあたるは、初回に相手のミスも重なって一死一、二塁のチャンスに緩い変化球で誘われ力をためきれずにボールを引っ掛けて一気にダブルプレーをとられた。振り返ればおかしな予兆はこの時からあった。その裏の守備につく時、あたるは落ち着こうとぐるりとグラウンドを見回した、先発を任されマウンドに登った鳩ケ谷を隔てて見える大木と視線が合うとなんとなく目を逸らした。心臓の鼓動が早くなる。アンダーシャツに嫌な汗が染みこんできた。
あたるとは対照的に気合十分の鳩ケ谷は丁寧なピッチングを見せた。スピードボールこそ投げられないが硬球に慣れた指先は際どいコースに投じるだけの技術を可能にしていた。四死球で自滅し試合を崩すことがなくなったのは人知れず努力を重ねていた裏付けだと中原が試合中に漏らしていた。
鳩ケ谷の努力に応えるように北高はよく守っていた。回が進むにつれて制球力が甘くなったボールを打ち返されるが、味方のファインプレーに助けられて辛うじて失点を免れている場面が続く。
 お互いに無得点のまま最終回まで進んだ。練習試合のため延長戦には入らないが、九回表の攻撃もあと一本が出ずにベンチは重苦しい空気が漂っていた。
最後までヒットを打つことができなかったあたるは守備についた。その姿をベンチから見送った菜穂は沈黙の表情を浮かべている。胸の前で手を組み、唇をきつく噛みしめていた。そのやるせない表情がかえってあたるを追い込んでいた。お前は関係ないんだ、これは俺の問題なんだ。
ここまで粘りのピッチングを見せていた鳩ケ谷のスタミナも底が見えてきた。
 先頭バッターに出塁を許すと、送りバントで一死二塁にピンチを広げられた。続く右打者はこれまでの全ての打席で強引にボールを引っ張っていた。大木は斎藤に目配りをして三塁線に二、三歩移動すると、頷いた斎藤が三遊間をその分詰めた。キャッチャーの鈴川はセンターの高井を左に誘導させ外角にミットを構える。あたるには三人の意図が理解できた。プルヒッター気質とはいえ内角に失投しなければ外野を超えるようなパワーはない。一打サヨナラの場面なら最悪の場合シングルヒットは仕方ない。しかし三塁線を抜かれて長打にすることは絶対に許してはいけないのだ。
 鳩ケ谷と鈴川のバッテリーはあたるの予想通り外角中心のリードを展開した。
初球は、見逃してボール。二球目に手を出してきたが三塁側の外側に切れファールになった。やはり引っ張てきた。状況を考えると右方向を狙っていくことも得策だが、バッターにそんな素振りは見えない。三球目に不意をついた緩いカーブで空振りを奪いストライク。追い込んでから鳩ケ谷は一度首を振り、頷いた。二塁ランナーを目で確認してから鈴川のミット目掛けて腕を振った。鳩ケ谷が選択したのは先ほど投げた緩いカーブだった。バッターがストレートを狙っていると予測したのだろう。ストライクからボールになる外角低めのコースに決まれば手首をこねてサードゴロだ。
 その思惑通り早々にタイミングが崩れ腰が砕けた。打ち取った。しかし予想に反して三塁側ではなく一塁側のあたるの前に打球が飛んだ。とりあえずツーアウトだ。あたるは打ち損じ勢いが死んだ打球を処理しようと前進する。ミットを出したその瞬間、打球の角度が微妙に変化した。小石か何かにあたったのか、イレギュラーしたのだ。突然不規則に変わった打球に反応が遅れファンブルするとバッターランナーはもうすぐそこまで迫ってきていた。
「あたる、トスしろ」
「いや、俺がいく」
 鳩ケ谷がカバーに走るがあたるはそれを制し自らベースを踏むと直進してきたバッターランナーとベース上で交錯した。あたるはそのまま地面に倒れたが、守備妨害をとられない限りプレーは継続する。
「バックホームだ!」
 サードの大木の声が聞こえた。暴走だ、なめんな。あたるはすぐに体勢を整える。
「あたるボールをかせ」
 鳩ケ谷の指示を無視し、力任せに腕を振った。しかしボールは鈴川のミットを大きく逸れ、あたるの腕にはなにかが弾けたような痛みが走る。冷静さを欠いたあたるは自分が肘を壊していることも忘れ全力で投げてしまった。試合は終わり選手全員が整列する。チームメイトの悔しそうな顔を見ているとあたるは胃の奥がきりきりと痛み出した。
 俺のエラーのせいだ。
 あたるは自分を責めるが次の日も満足な結果を出すことができなかった。
自分が打って活躍すれば強引にもチームを思い通りに動かせると信じていた。しかし試合が始まればチャンスで絶好球を打ち損じたり、ピンチの場面で致命的なエラーをしたり、ここ一番で気持ちが空回りして実力を発揮できない。あたるは不思議で仕方なかった。今までの試合は普通にやっていれば活躍できた。しかし、あの時ばかりは普通がわからなくなっていた、あたるは自分がどうやってバットを振っていたのか、どうやってボールを捕っていたのか、全てにおいて野球というスポーツが分からなくなっていた。失敗した後、チームのみんなは切り替えて行こうと声をかけてくれたが、切り替えられるわけもなく、反対にチームが自分をどう思っているのかが気になってしまう。上級生にあれだけの暴言を吐いたのだから結果が伴わない自分をきっとバカにしている。そう思えば思うほど心は焦り、判断が難しくなった。格下と見ていた相手ピッチャーにいいように抑えられてはチームが勝てるわけがない。こんなはずじゃないと自分の世界に入って苛立ちを露わにしたら悪い空気は伝染する。二日間で二連敗を喫し、あたるは八打数一安打と低迷。最後の打席に放ったヒットもどん詰まりでふらふらと上がった打球が運よくレフトの前に落ちたヒットだった。
試合が終わり部室で敗戦ミーティングが始まった。二試合とも敗戦の原因は自分にあるはずなのに「すいません、俺のせいで負けました」と素直に言い出せなかった。
「まったく原田もチャンも右中間でおみあいはないだろ、どっちかが声出して捕りいけよ」
 斎藤があり得ないと言ったように両手を上げる。オーバーなリアクションで周りの笑いを誘っているがその実は微かな怒りを醸し出していた。
「せっかく菜穂ちゃんが打ち取っても意味ないじゃん」
「でも実際に打たれましたし、先輩たちは責められませんよ」
菜穂がフォローに入るが、斎藤はまだ腑に落ちてはいないようだ。
「悪かったよ、どっちかっていえばライトのボールだったしな」
 原田はそう言って謝るとようやく部室の緊張が解けた。そしてそのまま今後の課題に話題は移っていった。意見を出し合い最終的に小角がまとめて大木がその内容は活動日誌に記録していく。
「・・・・・・ということで抽選会まであと一週間だ。テストも終わってひと段落着いたことだし明日から朝の全体練習を復活させたいと思う、今日はこれで解散するから遅刻しないように」
 小角はそう言ってミーティングを締めるとあたるは椅子に座ってバックに入っていたスポーツ飲料水をゆっくり飲みながら他のチームメイトが着替えて帰るのを待った。何度思い返してみても負けたのは自分のせいだと思った。その事実は噛みしめなければいけない。中学時代にシニアでエラーをした選手に「責任を感じないから反省もしない、だからお前はいつまでも下手くそなんだ」と偉そうに言っていたことを思い出す。あの時そう言われたあいつはどんな気持ちだったのだろうか。
「あたる、どうした? もしかして怪我したのか?」
 上半身だけ着替えた鳩ケ谷に声をかけられ、あたるはドキッとして顔を上げた。
「いや、大丈夫」
「ホントかい?」
 隣の椅子に鳩ケ谷は腰を降ろし、心配そうな眼差しを向ける。
「昨日の試合でぶつかったじゃん」
「あぁ、あれか特に問題ないよ」
「あたる」
 鳩ケ谷はあたるとの距離を詰め、体を寄せた。
「交錯しそうになったら今度はアウト優先じゃなくてしっかり逃げてくれよ」
「そうはいかないだろ、しかも俺、打ってもないし、なんとかして貢献しなくちゃ」
「そうじゃなくて俺はもうあたるに怪我してほしくないんだ。それにあたるはバッティングがいいんだから、守備で怪我なんてしたらもったいないだろう。俺だって頑張っていつかは三振を奪えるようなピッチャーになるんだ。そうしたらもうあたるの所にはボールは飛ばさせないよ。あたるが打てばチームは勝てるんだから」
 はにかみながら鳩ケ谷は立ち上がる。あたるはその場から動くことができなかった。
 あたるは最後に着替えを終えた。途中外でみんなが着替え終わるまで待機していた菜穂に遅すぎると怒られたが言い返す気力は残っていなかった。鳩ケ谷の言う通り俺が打てばチームは勝てる。つまりは打てない俺にはチームにとって価値はないと受け取れる。打てない、守れない、投げられない状態が続けばチームに迷惑をかけることになる。このまま消えてしまいたい。このまま消えてしまえばどれほど楽だろうか。
 邪念以外の何ものでもないが一度芽生えた悪心はそう簡単に積まれることはない。あまりの不甲斐なさに嫌気がさしたあたるは、台所の冷蔵庫に常備してあった母の缶ビールを一気に飲み干した。人生初のビールはテレビコマーシャルで流れている有名人が爽快に飲み干しているように気持ちのいいものではなく、ただひたすらに喉をやく痛みと口の中を支配する苦さを残しただけだった。

あたるの不調は続いた。朝練の時も放課後の練習の時もあたるのバットから快音が聞こえることはなくなっていた。このままではいけないと思うたびに体は言うことを聞かなくなる。そして何もできないまま甲子園予選大会の抽選会の日を迎えてしまった。昼休みが終わると部長の佐原に連れられ学校をあとにする小角と大木を教室の窓からあたるは見送った。
くじを実際に引くのは小角だ。春の大会の結果ではベスト4に残った、山郷学院、甲州商業、大日本航空、京成大甲府高校が各ブロックの第一シード権を獲得している。通常シードとは強豪校が序盤で対戦することを避けるために作られているためノーシード校はどこのブロックに組み込むかによって引退が先延ばしになる確率が上がるので抽選会のくじから勝負が始まっている。山梨県の高校は野球が盛んな埼玉や神奈川と比べると比較的少ない。シードを獲得すれば四回勝利すると確実に甲子園の切符を手に入れることができるのだ。
 今日の放課後には対戦相手が小角の口から発表され、練習後には背番号が配られる。上級生はそろそろ落ち着きを隠せない頃だろう。六時間目終了のチャイムが鳴り響いた。足早にグラウンドに集まった選手たちは何も言わず練習の準備をする。小角と大木がなんとも言えない顔でグラウンドに戻ってきたのはその三十分後だった。
 自主練習を中断しベンチ前に集合すると小角の口からはっきりと初戦の相手は京成大甲府だと聞いた。その時の、メンバーの永遠とも思える静寂は計り知れない。一番当たりたくない高校とよりによって初戦で対戦するわけだから、悲壮感が漂うのは当然だった。
「どうした、対戦相手なんてどこでも同じじゃないか」
 そう言った大木の横で小角の顔は穏やかではなかった。無理やり作った笑みも分かりやすく引きつっていた。とんでもない失態をしたことはくじを引いた本人が一番よく分かっている。
「可能性はある」
 次に口を開いたのは原田だった。
「可能性って、勝つ可能性のことっすか」
 中原が尋ねると原田はにやりと笑みを作った。原田の自論はこうだ。京成大甲府は戦うごとに強くなり完成されていくチーム。しかしエース榊原は春の大会で調子が悪く、かなり打たれていたし、後続のピッチャーも例年に比べれば良くない。格下相手に序盤はバッティングも荒くて思うような形で得点できてない。
「ということは、原田の自論からすると京成に勝つには一番初戦が確率は高いってことか」
 間髪入れずに斎藤が補足すると高井と目があう。
「これ、やりようによってはワンちゃんあるんじゃね」
「そうだよチャン、どうせ甲子園狙うんだから初戦とか関係ねぇよ」
「俺なんか行ける気がしてきました!」
そんな声がおのずと上がり小角はすっかり笑顔を取り戻していた。
「よぉしみんなで京成倒すぞ!」 
 小角のかけ声で全体練習に移行する。アップのために外野まで走っていく上級生の姿をあたるは一歩下がって冷めた目で見ていた。
「冗談じゃない」
 誰にも聞こえない音量で叫んだ。まるで自分以外のメンバーが遠くへ離れていく感じがした。百回やっても千回やっても勝てるはずのない敵に対して、適当な理由をつけ闘志を燃やす。そんなものは気休めにもならない。玉砕することが分かっていて挑むなんてなんてばかばかしいんだ。そう思うともうどうでもよくなってきて、目の前で大声出して練習しているチームメイトのことが急に浅ましい存在に成り下がっていた。自分でもうんざりするしかし頭の中のもやもやは止まらなかった。
練習後、あたるの感情が爆発した。小角から手渡され背番号をあたるは受け取らず、その場に立ち尽くした。不穏に思ったメンバーがあたるの動向を見守っている。
「俺はいらないっすよ、どうせ戦ったところで勝てるわけないっすもん」
 開き直ったあたるにすぐさま飛び掛かり胸倉を掴んだのは原田だった。額に血管を浮かばせ呼吸を荒げて「ふざけんなよ、てめぇ!」と猛り狂った。
「他の高校ならともかく京成大は無理っす、勝てない相手と知りながら戦うなんてありえない、俺のかわりは最近仲良くなった図書委員の田中くんに頼むからそれで許してください」
「てめぇ!」
 拳を振り上げた原田を他の部員が懸命に抑え込む、あたるは抵抗するつもりがないのに鳩ケ谷と中原に両腕を掴まれ原田との距離を遠ざけられる。
「部内暴力なんておきたら廃部になるぞ!」
 興奮した原田が大木の一声で弾ける怒りを無理やりお腹におさめるように生唾を飲み込んだ。いっそのこと殴ってくれればすんなり辞められたのにと舌打ちをついたあたるだったが、その数秒後には原田が突拍子もなくその場にしゃがみ込んだ。
「頼む、だったら夏の大会だけでも部にいてくれ」
 ――はっ。
 あたるは勿論のことだが、この場にいたみんなが固まった。
「おい原田土下座なんてみっともないことしてんじゃねぇ!」
 斎藤がすごい剣幕で怒鳴りたて原田を力づくで立たせようとするが原田は抵抗し、さらに地面に額があたるまで深く頭を下げた。
「ちょっと、やめてください」
「やめねぇ」
 意味が分からなかった。夏の大会を直前に不貞腐れて開き直ったこんな自分勝手なやつに頭を下げる原田にあたるの思考は追いつくことができず、目の前にいる男に恐怖さえ感じた。
「意味わかんなねぇ、あんたにはプライドってのがないのかよ」
「俺には、このチームしか好きな野球できるとこがないんだよ!」
 世の中の全ての音が遠ざかる中で、唯一その叫びは汗の匂いが漂うグラウンドにこだまする。原田はしどろもどろになりながらも続けた。
「俺はお前と違って野球が下手だ。だから中学のチームメイトにもやめた方がいいって言われたし、努力しても試合じゃ使えないって監督に言われたりもしたよ。でもさ、野球って下手くそは続けちゃだめなんてルールないだろ。下手くそだって上手いやつと同じように努力できる環境があったっていいだろ。このチームは、小角さんは、下手くそな俺が頑張れる環境を作ってくれたんだよ。そしてようやく九人揃った、だから俺は勝ちたいだけなんだ。俺の信じた野球で俺をバカにしたやつらと戦ってみたいだけなんだよ。だから頼む、力を貸してくれ頼む」
「原田もう十分だ頭を上げてくれ。頼む」
 小角はブラックアウトしかけた原田に優しく声をかける。あたるはその必死な姿に体を強張らせ、駆け抜ける悪寒に耐えていた。
「蔵田、バットを持て」
「はっ」
 大木はバッティング手袋もつけないままバット右肩に担ぎ空いた手でもう一つのバットを指さした。
「どっちかが先にバットを振れなくなってぶっ倒れるか勝負だ。俺に勝ったら野球をやめようがお前の好きにしろ」
 グラウンドの視線があたるに向けられた。
「上等だよ、やってやる」
 もとは自分から振り上げた拳だ。ここで引くわけにはいかなかった。


 昔、甲州南シニアの野手陣が試合の後の課題練習でバットを持ったまま内野に均等に散らばりコーチがいいという間で強制素振りをしていたことがあった。あたるの記憶が正しければその試合はことごとくチャンスで凡打を量産し、過去最高の残塁と勝負弱さを相手チームに吐露した内容でコーチが怒り狂った日だった。こういう時は関係ない投手陣にもコーチの火花が飛んで、野手が終わるまで永遠に外野を走らされる。
「いつまで走るんだよ、くそ早く終わんねぇかな」
 あたるはレフトからライトまでの距離を十往復したあたりから数を数えなくなっていたため横で同じペースで走るわたるの独り言に答えることができずにいた。
「なぁあたる、いつ終わると思うよ」
 何でもいいから答えもくれとわたるが頻りに視線を送るのであたるは内野を一通り見回して言った。
「今、コーチが時計を気にしてた。たぶん六時には終わるだろ、正味一時間ってところだな」
 あたるの見解にわたるは納得したのか額の汗を拭って地面に落とすとあたるの一歩前に躍り出た。
「じゃああと、二往復だな。あたるどっちが先に走り切るか勝負しようぜ」
 そう言ってわたるはフライング気味にスパートをかける。あたるはその背中を追いかけるように足の回転を上げた。
「ちょっと待てよ、ずるいぞ」
 野手の素振りはその後あたるが予想した通り地域で流れる六時のチャイムが鳴った時に終了した。そこまでは明確に覚えているのにあの勝負は最終的にどっちが勝ったのか、あたるは思い出すことができなかった。ただ一つ言えるのがあの時の野手の素振りの本数や素振りをしていた時間よりもはるかに長く今、バットを振っていることだ。
「おら、どうしたもうばてたか」
 大木はそう言いながら六秒に一回というペースでフルスイングしていた。
「まだ、余裕ですよ」
 あたるも負けじと同じペースでついて行く。部員全員が固唾を飲んで二人を見守る中、七時から始まったこの勝負は九時に差し掛かろうとしていた。
「これはいつ終わるのかな」
「もう先生は黙ってて!」
 菜穂にそう言われ困ったなぁとつぶやいたのは部長の佐原だった。大方の予想でいつまでも消灯されないグラウンドを見兼ねた学年主任か誰かが佐原を遣い、早く下校しろと促しに来たのだろう。結局は菜穂や、鳩ケ谷に押し込まれ、一度職員室に戻ると今度は部長として責任をもってこの場を監督することを任されたらしく今に至っている。
 ――くそもう手の感覚がない。
 あたるはグリップから零れた血を確認すると大木の表情を窺う。お互いに素手で、もう二時間近くフルスイングしている。スイングはゆうに千を超えていた。百スイングで皮が擦り切れ痛みを感じた。二百スイングで血豆ができ、三百スイングで血豆が固くなった。四百スイングを超えると固くなった血豆がつぶれ、両手がしびれてきた。五百スイングで下半身が驚くほど重く感じ、七百スイングに差し掛かったところで両手のしびれがなくなり今度は腕がつりはじめ、そこから急激に握力がなくなっていった。
「おい、なんだそのスイング、力抜いてんじゃねぇよ!」
 呼吸を乱しながら大木は語尾を強める。その場にいた者には分からないだろうがその言葉があたるに向けられた煽りではなく、弱気な気持ちになっている大木が自分自身にムチを打って鼓舞している言葉だとあたるにははっきり分かった。夏が足音を立ててもうすぐそこまで来ている熱帯夜に水分もとらず、ただひたすらにバットを振っているのだ。いつ体に異常が来てもおかしくない。大会前にバットが握れなくまるほど素振りするなんて最も愚かなことだった。熱血スポコン、昭和の野球。そう言ってバカにしていた過去の自分に笑われていることは自覚していた。でも、あたるはスイングをやめることができなかった。それは目の前の大木に負けたくないという気持ちよりも、このまま振り続けたら一体その先にどんな景色が見えるのか、気になってしまったからかも知れない。過去の自分が見ようともしなかった景色の先に今の自分が欲しがっているものが僅かだが薄い霧となって浮かんできている。
「まだ行けるぞ! 俺は!」
 あたるは満身創痍でグリップをまるで雑巾を絞るように握りしめ今できる最大のフルスイングをする。
振り切ったところで膝から崩れ落ちた。
「あたるくん!」
 真っ先に駆け寄ったのは菜穂だった。地面に倒れ込んだあたるの頭を自分の膝に乗せ口にペットボトルを傾ける。ずいぶんと前から菜穂の手の中にあったペットボトルの水は、菜穂の体温で温められすっかり常温になっていたがあたるの体を癒すには十分すぎた。
「まったくだらしねぇな」
 はるか上から聞こえてきた大木の声にあたるは左手に掴んでいたバットをようやくはなした。
「すげぇな、すげぇよ大木さん」
 大木はバットを杖代わりに使いながら立っていたが、斎藤から差し出されたペットボトルを掴むことができずにいた。
「あたりまえだろ、俺はお前より一歳長く生きてんだ。たつ、ごめんそのまま飲ましてくれ」
 大木は一口分だけ飲むと腰をおろして、恐るおそる手の平を開いた。丸まった五指の骨がぴきぴきと音を立てる。その分だけ両手が小さくなっていた。
「あぁあ、これじゃあ明日から満足に練習もできないよ、後輩なら空気を読んで早めに降参しろって、どうしてくれんだ」
 グラウンドに静かに寝転んだ大木は仰向けになりながら夜空に向かってつぶやいた。
「すいません、じゃあ空気読めないついでに教えてください。大木さんはなんで野球やってんすか?」
「野球が好きだからだ。それ以外になにがあるんだ」
 あたるの心の中のもやもやはいつの間にか消えてなくなっていた。
「そうですね、俺も同じです」
 思いがけない言葉でもなかったが、あたるは自分の声が少し掠れていることに気が付く。
安堵の息が漏れると今度は眠たくなり欠伸のついでに流れた涙をそのままにグラウンドの照明が落ちる。何事かと焦るチームメイトの耳に聞えてきたのは
「ごめーん、終わったと思ってブレーカー落としちゃった」という佐原の声だ。
 真っ暗闇に包まれたグラウンドの中で街から絶えず発せられる灯りや月や、一等星の眩い光に照らされながらもその輝きを潰されてたまるかと必死に命を燃やす六等星の姿をあたるは見た気がした。

 小瀬球場のロッカールームに入るなり、ベンチの先から興奮冷めやらぬ熱気を感じた。前の試合が延長戦に入ったことで第二試合の武田北は十分な準備をしてから球場入りできた。ベンチの入れ替えで涙を流す球児とすれ違ったとき、数時間後の自分たちと被ってしまい、あたるは脳裏に浮かんだイメージを慌てて払拭する。スタンドから両校の部員たちがグラウンド整備に駆り出されている間も敗れたチームから勝利したチームへエールを送る声が聞こえてくる。
「いいよな、俺たちなんか応援ないもんな」
 スパイクの紐を結び終えた高井がぼそりと悪態をついた。
 勉強第一の武田北では夏の野球部応援は自由参加となっており、まして夏休み前で授業も残っているこの時期に他の生徒が球場に足を運ぶわけがないのだ。
「嫌々応援されるよりましだろ」
 斎藤がグラブにボールを二、三回叩きつけたところで小角がロッカールームに戻ってきて満面の笑みを浮かべ告げる。
「じゃんけん勝ってきたぞ! 後攻だ」
「よし!」
 試合前のじゃんけんでも負けるより勝ったほうがいい。小角はオーダーを読み上げる。四番まで読み上げてオーダー表から視線をあげた。
「蔵田、五番ファーストだ」
「小角さん」
 あたるは唾をのんだ。今のバッティングの調子がベストとはかけ離れていることは自分がよく分かっている。
「打順を下げてくれませんか、今の俺じゃあとても役に立ちそうにない」
「そういうことじゃねぇんだよ」
 深く帽子を被りなおしながら、原田は不愛想につぶやいた。
「みんなで決めたんだ。五番ファーストは蔵田だ」
 平穏な顔で小角は繰り返す。
「あの日から今日までの二週間、お前の態度を見てきた。その評価だよ」
 追加された言葉にあたるは目を細めた。
「勝つぞ」
 にやりと笑った小角があたるの背中を叩いてロッカールームを出て行った。小角を追いかけるようにベンチに出ると、スプリンクラーから放出される水の粒子と夏の日差しがぶつかり合ってマウンドに小さな虹を作っていた。一塁側スタンドに陣取るのは驚異的な数の部員たちと全校生徒からなる応援団、極めつけは太陽の光を反射し、ビームを放つ勢いのブラスバンド楽器だ。
「円陣をくもう」
 大木の呼びかけにベンチの前に集合する。
「相手がなんであれ臆するな、やってきたことを信じよう」
 敵を前に固くなったチームメイトをなだめるように大木は言った。
「勝とう、勝ってこのメンバーで甲子園に行こう」
 小角のかけ声であたるたちは整列準備に入った。あたるの視線の先には一年生ながらベンチ入りし背番号をもらったわたるの姿があった。
 ここにいる誰もが武田北の敗北を疑わないだろう。しかし少なくともここにいる十人は本気で勝ちに行っている。その強い意志が奇跡を起こすことだってあるはずだ。あたるはそう言い聞かした。
「両校集合!」
 武田北の夏が始まる。その日のうちに終わるかも知れない夏が。

 マウンドに上がる鳩ケ谷の顔は蒼かった。ファーストを守っていると不安と緊張に押しつぶされそうになり、震える背中にタイムをかけ「気楽に行こう」とよりそってやりたい気持ちをあたるとセカンドを守る中原は抑えていた。県内一の強力打線と大迫力の応援団を前に気楽に行けるわけがない。鳩ケ谷は武田北が京成大甲府に勝つための重要な作戦のほとんどをその右肩に背負っているのだ。投球練習が終われば審判の試合開始の号令と共に大音量の声援と選手を後押しするブラスバンドが奏でる京成マーチが蜂ヶ谷に牙をむくのだ。あたるもピッチャーだったから、こういう時あのマウンドの上がいかに孤独かを知っている。しかし、ピッチャーがボールを投げなければ試合は成立しない。怖気づき、重圧に押しつぶされそうになっても敵前逃亡だけは許されない。
「プレイボール!」
 審判の号令と球場になり響くサイレンの音。鳩ケ谷は振り被り第一球を投じた。一番バッターの望月が初球を慎重に見極めネクストバッターに何かを伝えた。初球は見送れのサインが出ていたのが幸い、ストライクをとることに成功した。
「かっせかっせけ・い・せい、かっせかっせ
け・い・せいかっせ・かっせけいせいレッツ・ゴー」
 軽快なかけ声と特徴的なファンファーレが鳩ケ谷のお腹目掛けて飛んできた。メドレー方式で演奏が続く京成マーチは京成大甲府の攻撃中は鳴りやむことはなく、県内全ての野球小僧はその気品あふれる勇壮な応援に心を打たれるものだ。しかしその数年後にほとんどの野球小僧の夢を打つ砕くことになる。
 甘く入った二球目を簡単にレフト前に運ばれると球場は大興奮に包まれた。マウンドの鳩ケ谷の顔がますます蒼くなり、帽子をとったり、アンダーシャツの袖で額を拭ったり落ち着かない。二番の井上がベンチで立ち尽くす中村監督のサインをじっと見ている。セオリー通りならここは送りバントをしてくるが、強打を誇る京成大甲府なら強引にも打ってくるだろう。井上は春の選抜甲子園大会でチームで一番打率が良かった選手だ。セットポジションに入った鳩ケ谷は一塁ランナーの望月を見ることも出来なかった。
「鳩ケ谷リードでかいぞ!」
 あたるの呼びかけでようやくプレートを外し、一塁を確認したがその顔は明らかに血の気が引いていた。
「VICTORY、勝利を掴めよけ・い・せい」
 ボディーブローのようにじわじわと鳩ケ谷を追い詰める一塁側スタンドの応援で思わず投げ急いでしまい手元を狂わした。井上の背中にあたる。三番の秋山が左打席に入る。このままではまずい、そう思ったあたるは咄嗟にタイムをとりマウンドに駆け寄った。
「あたるごめんどうしよう」
「あそこでセミの合唱聞こえないか?」
 半べそをかいて声を震わせた鳩ケ谷の背中に手をやりあたるは優しい口調で言った。バックスクリーンを指したあたるの指先を見るために後ろを振り返った。
「ピース頑張れ!」
「鳩ケ谷みんないるぞ」
 スコアボードの上、高々と上がった日の丸の旗が翻っている。山に囲まれた盆地には強風が吹き荒れることはないが、レフトからホームベースに向かって弱い風が吹き抜けていた。速球派ではない鳩ケ谷には向かい風は好ましくない。緩い変化球を投げるときは、思いのほか変化するボールにコントロールを狂わせる、しかし今はその風が後ろで守るみんなの声を届けてくれた。
「頼むぞ鳩ケ谷」
 再びプレートに足をかけ鈴川のサインを覗いた。相変わらず、全てを掻き消すほどの応援がグラウンドを支配していた。セカンドの中原に目をやると、さりげなく帽子とベルトを触って合図を送った。あたるはじりじりと一塁線に近寄り守備位置を変えた。バッテリーが選択したのはストライクから見送ればボールになるカーブだった。原田が事前にまとめあげた京成大甲府の各バッターの対策では、秋山はどんどん初球を打ってくるバッターで特に緩いボールを得意にしていた。初回の押せ押せの場面なら必ず打ってくると判断した。膝元に緩く落ちてきたカーブを迷わず、秋山は叩いた。金属の弾ける音と凄まじい打球が一塁線を襲う。打球は低く唸りを上げベース前で跳ねた。守備位置のほぼ正面だったが下手にグラブを出して弾かれることを危惧したあたるは顎を引き状態が浮きあがらないようにすると、そのまま迫りくる打球を体で止め前に落とした。素早くボールを拾ってベースを踏むと斎藤がセカンドベースで呼ぶ声が聞こえる。打球が速すぎて一塁ランナーの判断が少し遅れていた。要求された所へステップを踏んで送球すると、二塁審のアウトコールが上がりマウンド上の鳩ケ谷がガッツポーズした。
 二死三塁。ダブルプレーをとったがピンチであることには変わりない。
 あたるは胸をさすりながら、二本の指を立てアウトカウントを内野に伝える。四番バッターの高橋が滑り止めで使われる松脂スプレーをバットのグリップに満面に振りかけ右打席に入る。京成大甲府の声援がさらに勢いを増した。春の選抜甲子園大会で京成大甲府のベスト8に貢献し、四試合で十八打数八安打、ホームランも一本打っている。
 ストレートが二球外れた。これ以上カウントを悪くしたくない鈴川は慎重にサインを送る。鳩ケ谷とショートの斎藤が頷き大木はチラリと斎藤に視線を送った。右手をぱっと開いて、閉じた。鳩ケ谷は足を高く上げゆったりした動作で鈴川のミット目掛けて腕を振った。シンカーだった。バッティングカウントでバットを振らない四番は京成大甲府にはいない。ましてストレートが抜け気味でコントロールに苦しんでいると思っていればストライク欲しさに投じたゆるいストレートなど格好の狙い球だ。しかしその心理こそバッテリーの真の狙いだった。ゆるいストレートだと思い打ちにきたボールは内角低めに沈むシンカーだ。しかし一度打つと決め始動してしまえばバットは途中で止めることは容易ではない。大木は高橋が踏み込んだ瞬間引っ掛けてサードに飛んでくることを予測していた。タイミングを外され窮屈なスイングで打ち返した高橋の打球は狙い通りゴロとなったが打球のスピードが異次元だった。ライン線に詰めていた大木が右に体を反応させ、寸でのところでグラブを出すと、確かな衝撃が左手に走る。
 ――上手く入った。
 大木は流れるようにファーストに送球すると高橋は悠々アウトになった。先制のホームを踏めなかった望月が苦しそうにこちらを睨んでいる。初回の攻撃をなんとか無失点で切り抜けた。
「よしこれからだ」
 ベンチに戻る選手たちに活気が出てきた。

 京成大甲府の先発ピッチャーはわたるではなくエースの榊原だ。右の本格派の榊原は180センチを超える巨体で、その投球スタイルも豪快だった。投球練習の時から全力のボールをテンポよく投げているが構えたところへいまひとつ決まらずキャッチャーを忙しなく動かせていた。
「お前そういえばいつの間にシンカーなんて覚えたんだ?」
 あたるはベンチの最前列で菜穂から手渡された水を飲みながら榊原のピッチングを食い入るように見ていた鳩ケ谷の隣に腰を下ろした。
「あれは、菜穂ちゃんに教わったシュートを俺が投げるとシンカーみたいに落ちたってだけだよ」
「なるほど」
 あたるはシュートを投げていた時の感覚を思い出した。ボールを中心から少しずらして握り、腕を振る時に中指に力を入れるとシュートの回転がかかる。鳩ケ谷の場合はスピードがない分、シュート回転しながらボールが重力に負けて落ちているのだ。鳩ケ谷としては不服そうだったが、結果オーライだ。それでもあのマウンドに上がれば誰もが驚くスピードボールを投げたいと思ってしまう気持ちはよく知っている。
「球速はあるけど細かなコントロールの調整ができてない。選抜から間に合わなかったな」
 後方で原田がつぶやいたように榊原は球威こそあり、三振も多いがそれなりに失点もあった。この二週間、京成大甲府のデーターを調べ上げちょっとしたしぐさやくせ、傾向を一通り選手に伝えていた。これが原田のなりの戦い方だった。
 先頭の高いが打席に向かう直前、斎藤が一冊の文庫本を投げ渡す。
「もう一回速読してけ」
 高井は学校の図書館から借りた林真理子の「葡萄が目にしみる」を一秒もかからずに速読すると颯爽と打席に向かった。相手からすれば打順が近い選手がベンチの後列で文庫本を片手に持っている姿は相手からしてみれば奇妙でからかうには十分すぎるがあたるたちは本気だった。その理由は至って一般的だ。野球に限らずスポーツで大事なことは、見る力だ。
 見ると言ってもただ視力がいいという意味ではなく動体視力のことを指している。パラパラとページを流し読みすることで脳裏に活字が拘束に表示されていく、この動作を続けることで動体視力が鍛えられ速く動くものがよりはっきり見えるようになるという理屈だ。
 右打席に入った高井が体を小さく丸め構える。榊原の初球は高めに浮いた。電光掲示板のスピードガンには146キロと表示されていたが高井はしっかり見極めていた。二球目は内角を突いてきた、高井は腰を引くことなくしっかり打ちにいく。金属バットの鈍い音が聞こえた、その球質の重さに力負けしてショートゴロに終わる。
「速いけど、当たるぞ」
 凡打にも練習の成果がでた武田北ベンチは盛り上がりを見せた。
 一打席は球筋を見るだけのつもりで打席に立っていた斎藤は三振に倒れたがフルカウントまで投げさせた。どうやら今日の榊原は変化球のコントロールが定まらずストライクをとるのも苦労している様子が伺える。続く大木はストレートを外野まで打ち返したが球威に押され平凡なレフトフライになり、三者凡退で攻撃は終了したものの、手応えは確かにあった。あたるは最後にベンチを出て、一塁に駆け足で向かう。
 一塁側ベンチにわたるの姿がなかった。名将と呼ばれる京成大甲府中村監督におごりはない。わたるが出てくる前に試合を優位に進めなければ。そんな思いがあたるをよぎった。

 試合が動いたのは三回裏、武田北の攻撃だった。
 榊原のストレートがすっぽ抜けて高井の左ひじに直撃した。ベンチ前で準備していた大木にも鈍い音が聞こえるほどだった。高井は痛みに耐えかねその場でしゃがみ込んだ。
「チャン、大丈夫かよ!」
 ネクストバッターの斎藤がベンチからコールドスプレーを持って高井の左ひじに振りかけた。冷却してもなお苦痛の表情を浮かべている。主審に促されようやく立ち上がり一塁へ向かうが左ひじを押さえたままだった。小角は斎藤にバントのサインを出し、手を叩いて選手たちの注目一斉に集める。
「チャンが体張って作ったチャンスを生かすぞ!」
「さて、行ってみるか」
 気楽な調子でそう言っていた斎藤だが打席に入るや否や鋭い視線で榊原を睨みつけていた。榊原は高井に死球をあてたことを気にも留めておらず、嫌がらせのようにたいしてリードをしていない高井にけん制を繰り返している。榊原はバントの構えをとる斎藤に対して高めのストレートでフライを上げさせようとしたがこれをきっちり一塁線に転がした。
「大木先制点もらうぞ」
 ネクストで顔を真っ赤にしながら騒いでいるのは小角だ。榊原の気を紛らわそうというのか滝のように流れる汗をそのままに声を張り上げている。
 ロージンバックを乱暴に叩き落し、榊原は若干の苛立ちを見せる。一度プレートを外して投げ難そうにしている榊原に大声援が後押しする。変化球を見送った大木は、神経質にボールの縫い目を確認し、キャッチャーのサインに首を振る榊原のリズムは狂わされていた。二年生からエースを背負い順風満帆な野球人生を送ってきた榊原は度が過ぎる完璧主義者と聞く。変化球が上手く決まらず、格下相手に思うようなピッチングができないのであれば己の不遇を許せないはずだ。本来ピッチャーというポジションは特別なもので、投げるという動作には高度な技術と筋力、そして努力ではどうすることもできない生まれ持った野球センスが必要だった。しかし人間は精密機械ではないため、全試合同じように投げられるわけではない。些細な問題で歯車が合わなくなることはよくあることだ。むしろそれは肉体的な要因より精神的な要因の方が感覚を狂わす。苛立ち冷静さをかけば自慢のストレートもたちまちボー球と化す。外角に入ってきたストレートを大木は逆らわずに右へ打ち返した。快音を残し打球は一二塁間を抜けた。ワンバウンドしたボールをライトが押さえホームにストライク返球が帰ってきた。三塁を回ったところで高井は慌ててベースに戻る。榊原の自滅から巡ってきたこのチャンス。序盤で少しでも優位に立てば後半も十分に戦える。得点圏にランナーを背負ったことで榊原の目の色が変わった。大舞台で数々のピンチを乗り越えてきた彼にとってこの程度の場数は誰よりも踏んでいる。力みまくった小角に対して余裕をもって投げ込んだ榊原に軍配が上がるのは必然的だった。
 一打席目にショートゴロに倒れたあたるは狙い球をストレートに絞るのをやめていた。大木に投じた失投を榊原が再び投じる可能性は低い。カウントはワンストライク、ツーボール。これまでの三球は全てストレートだったが、少しずつキャッチャーの構えたコースに近づいてきていた。際どいコースにストレートを投げ込まれれば今の自分にはまともな打球を打ち返すことはできない。あたるは上手くいく確証がないまま公式戦を戦うことの怖さを感じていた。タイムをとり、打席を外す。ヒットを放つイメージを固めるためにバットを振ると、バッティング手袋の下でテーピングを巻いた両手に軽い痛みを感じた。
 ――迷っている時じゃない。
 必ず打てるとは言い切れないが打つために最後の二週間、バットを振った努力を信じるしかなかった。ストレートがぎりぎり外れた四球目。勝負をかけるなら次の球だと思った。スリーボールになるとストライクをとるためにカーブを投げる傾向がある。榊原のカーブはストレートとの球速差が大きくバッターは虚を突かれ見逃してしまうことが多いがバッター有利なカウントでバットを振り抜くことができなければもう狙い球はない。ミートの瞬間、ボールの感触は皆無だった。芯でしっかりとらえたようで榊原の股下を通過しセンター前へ抜けていく。三塁ランナーの高井がガッツポーズしてホームベースを駆け抜ける。二塁に到達した大木も珍しく感情をむき出しにしていた。あたるは一塁ベース上から電光掲示板のスコアボードに一点が刻まれたことを確認し、大きく息を吐いた。ベンチでは、もう勝利したような盛り上がりで溢れ返っている。ベンチ裏にあるスイングルームで居眠りをしていた佐原も顔を出すほどだった。このまま追加点が欲しい武田北だったが後続の鈴川はサードのファインプレーに阻まれ大木とあたるは進塁できなかった。
「やったね、あたるくん!」
 ベンチでは菜穂が飛びつかん勢いであたるを迎えた。鈴川はいつまでも悔しそうにグラウンドを睨んでいたが先制点をとったことに変わりはない。しかし同時に王者の逆鱗に触れてしまったこともまた変わりなかった。

 
 京成大甲府の攻撃は六回に牙をむいた。
 四回、五回をなんとか抑えた鳩ケ谷だったが、毎回背負うランナーと威圧するような大声援の重圧に集中力と体力を使い果たしてしまっていた。先頭バッターに粘られ末に、最後は甘く入ったカーブを右中間に運ばれると動揺のせいか次のバッターにも四球を選ばせてしまった。長打を打たれれば確実に逆転を許す場面で九番の榊原に代打が送られた。内野陣がマウンドに集まる。
「ボールは見極められて、打球も上がり始めました。もうゴロゴロ作戦は無理です」
 鳩ケ谷が宣言したように緩い球を低めに集め、ゴロを打たせる作戦はもう通じない。京成大甲府のバッティング練習は常に全国を意識しているため、マシンのスピードを常時、140キロに設定している。ならば100キロそこそこの変化球を低めに集めれば打ち急ぎ、引っ掛けさせることでゴロを打たせる。この作戦を原田から提案された時、ここまで上手くはまるとは思わなかった。引っ掛けても打球が速いから簡単に内野を抜けるであろうと心配したが過去の成績や二週間に渡る秘密の偵察で得たデータからおおよそに内野の守備位置を変えることで対応ができた。長打を打たれなければ案外点は入らないと実感できたのは嬉しい誤算だ。
「いい作戦だと思ったけどまぁよくここまでもったよ、見てみ後ろを、ほらヒット十本」
「たつ、今はふざけている場合じゃないぞ」
 大木が他人事のように言った斎藤を穏やかな口調で律する。
「歩かせて満塁にしますか、その方が守りやすい」
「いや、満塁で上位打線はまずい」
 あたるは中原の意見を跳ねのけたが他にいい案が浮かぶ見当もつかなかった。
「勝負します。打たれるかもしれないけど」
 力ない声で鳩ケ谷が言った。
「無理すんなよ、原田がくれたデータにもなかった選手だ」
 斎藤が忠告した。
「そんなこと言ったら次の望月も歩かせることになります」
 鳩ケ谷が吐き捨てた。
「ここはバッテリーに任せるしかない、利一頼むぞ」
 鈴川は頷いてあたるたちは各ポジションに散った。再びマウンドで一人になった鳩ケ谷はなにかを探しているような目つきでボールをしきりに触っていた。その姿は励ましさや気休めを一切拒絶し、自分の世界に深く入り込んでいる。とにかく心を折られるなよ、あたるは心の中で声をかけ腰を落とした。
 その初球だった。データにない背番号二十の選手が低めのカーブに上手く合わせ振り抜いた。打球は高々とレフトに上がり風をもろともせずぐんぐん伸びてフェンスに直撃した。それを見て二塁と三塁の真ん中にいたランナーはスタートを切り一気に三塁を回った。小角がフェンスからのクッションボールを処理している間に一塁ランナーも二塁を蹴っている。
「小角さん、俺んとこ早く!」
 中継のため斎藤はホームを結ぶ線上に入り叫ぶ。肩の強い小角はレフトフェンス最深部からワンバウンドで斎藤に返球すると斎藤は素早くバックホームした。三塁も迷わず回ったランナーとのクロスプレーになる。鈴川は難しいハーフバウンドを懸命にミットに収めそのまま真っ直ぐにスライディングしてきたランナーと衝突した。両者は地面に倒れ込んだ。しかし鈴川はミットを高く上げた。
「アウト!」
 武田北ナインは一斉に声を上げ審判の判定を待ったが予想に反して審判の腕は横に開いた。
「セーフ、走塁妨害! セーフ」
 その判定を聞いたときに激しく言い寄ったのは鈴川だ。タッチの際に走路に入ってしまったのは故意ではなく偶然だと必死にアピールするが認められなかった。場内放送でも説明が合った通り、コリジョンルールが適用されランナーの生還が認められた。コリジョンルールとは本塁上の激しい接触プレーを避けるために作られたルールでランナーの危険走塁やキャッチャーの走路妨害を防ぐために与えられたペナルティーだ。スコアボードに二点が刻まれる。背番号二十の選手に代走が出されお役御免になると、スタンドからベンチから祝福の声が響き渡った。あたるは彼が三年生だということに気が付いた。原田のデータに上がってこなかったのもこれまで公式戦の出場機会がなかったからだと伺える。強豪校で三年間ようやく掴んだ背番号。あの迷いのないスイングには彼の三年間が詰まっていたのかも知れない。京成大甲府のベンチで満面の笑みでチームメイトに囲まれている彼の姿にあたるは敵ながら心を打たれた。鳩ケ谷にとってもこんな形での逆転は本望ではなかっただろう。勢いづいた京成大甲府の打線はもう止まらなかった。どんなにコースを突いても、不意をついた変化球を投げても打球は外野の頭を越えていく。今までの接戦が嘘のようにワンサイドゲームに成り代わっていく。最後のアウトを取った時には点差が七点も開いていた。

「すいません」
 鳩ケ谷がベンチの壁に持たれかかり涙を流す。他の選手も悲壮感に漂うベンチであたるはそれを横目で見ながら、両手を股の間に挟んで項垂れた。このままでは次の回の終了とともにコールドゲームが成立してしまう。京成大甲府の二番手ピッチャーには百瀬和多留がコールされた。投球練習を見る限り十分に準備してきたようだ。この炎天下の中で汗一つ欠かずに淡々と投げているわたるをあたるは眺めることしかできなかった。
「責任を感じる必要なんてない! お前はよく投げてくれた!」
 先頭バッターの小角は打席に向かう途中にベンチに踵を返し言った。
「最後の夏、俺はみんなのおかげで大好きな野球を存分にできた。本当にありがとう。だからそんな顔するな、笑え」
 主審が急ぐように小角を注意すると「すいません」と言いながらそそくさと打席に走る。
「なんでキャプテンのあんたがそんなこと言うんだよ、これじゃ諦めたみたいじゃないか」
 そう言い放ったあたるの言葉に一度だけ振り返った小角は笑っていた。あたるはネクストバッターサークルに立ち拳を固める。悔しい、試合はまだ終わっていないのに諦めるとかありえない。そんな思いとは裏腹に小角の笑顔の意味が分からない。
「蔵田、お前は諦めるの語源知ってるか?」
 下を向き体を震わせるあたるの肩に腕を組んだ大木が打席に立つ小角を見ながら言った。
「諦めるって願いが叶わずに思いを断ち切るって意味で使われるけど、本来は明らかにするって言う意味なんだぜ」
 わたるの快速球に小角はコース関係なくフルスイングする。
「単に諦めただけでは悔いだけが残る、だけど一生懸命頑張った奴にはどうして自分の夢が叶わなかったかって明確に分かるんだ。だから納得して諦められる」
 二球目には鋭く曲がるスライダーをフルスイングする。バットとボールが二十センチも離れていた。両者の実力の違いは明らかだったが敵わない敵に対して小角はこの勝負を誰よりも楽しんでいるように見えた。
「あの人は、どうして甲子園に行けなかったのか自分の中で明らかにしたんだ。三年間努力して自分と向き合い続けたあの人の最後を誰もが称賛できるものにしなくちゃいけない、だからお前も小角さんを認めてやってくれ」
 キン!
 金属の鈍い音が響く打球は平凡なサードゴロ。軽快なステップと正確なスローイングで小角は一塁を駆け抜ける前にアウトを宣告された。
「行ってこい、お前もかつての友に伝えたいことがあるんだろ」
 五番ファースト蔵田くん。背番号3
 アナウンスで自分の名前が呼ばれた。かつてあのマウンドの上を争っていたわたるが待ち構えている打席に一歩、また一歩ずつ歩みを進める。
「蔵田! この打席はお前だけのものだ。しっかり振ってこい!」
 ベンチに返らず一塁コーチャーに残った小角の声が聞こえる。
 あたるは打席に入り、わたるを見据えた。菜穂は高鳴る鼓動を押さえつけるために胸を鷲掴みにしてあたるの一挙手一投足を目に焼き付けようと顔を上げる。打席に入るあたるに視線を投げかけるがその表情はヘルメットのつばに隠れて見ることができない。あたるは肩にバットを乗せたまま念入りに足場を固めていた。わたるは冷ややかな目で時間稼ぎをしているあたるを眺めている。ベンチに残った選手たちは身を乗り出してこの勝負を見守ることに決めた。
「こい!」
 ようやく顔を上げた。打席の一番後ろに立って十分に打ちに行く体勢を作るとバットを構えた。わたるは不敵に笑うと大きく振りかぶって投球モーションに入った。シニアで初めてわたるを目にしたとき正直ここまでの投手になるとは思わなかった。それでもわたるは何かとあたるをライバル視してどんな練習にもついてきた。そんなわたるをあたるはいつしか認め、二人はライバルでありながら唯一無二の親友になっていった。
「ストライーク」
 内角に切り込んできた切れ味抜群のストレートにあたるのバットは空を切った。小角に投げ込んだストレートは段違いの威力がある。わたるが本気で抑えに来ている証拠だ。グリップを強く握り直し、目を見開いてわたるを睨みつけるこんな自分を惨めだと思った。ケガをして野球から逃げた自分がまた縋るように野球という世界のとば口に立っている。ああなんて惨めでかっこ悪いと心底思った。野球と縁を切るために進学校に入学したのに、この期に及んで自分には野球しかないと思わされた己を恥じた。マウンドに上がれなくなった自分より、今も堂々とマウンドで躍動しているわたるや思いのままにグラウンドを駆け抜ける中曽根に嫉妬している自分自身が本当に嫌いだった。
「ストライーク」
 またも内角を抉る、今度はスライダーだった。見送ればボールともとれる球だったがあたるのバットは止まらなかった。
もし、まだそんな自分を好きになる方法があるなら。
さっきまで感じていた風が止んだ。夏の日差しが二人の肌を焼く音が聞こえる。わたるはキャッチャーのサインに二度も首を振った。大した奴だ先輩のサインに首を振るなんてみんなができることじゃない。低めに決まるボール。ストレートのようだが明らかにスピードが違う。フォークボールだ。あたるはバットを止めて見送るとワンバウンドしてキャッチャーのミットに収まった。振ってくると予測したわたるがムッとした顔つきになり、キャッチャーからの返球を不満そうに受け取り、ロージンバックを手にとった。どうやらわたるはあたるに自分のボールを触れられたくないらしい。そんな細かな心情もあたるには手にとるように分かった。
「あたるくん打って!」
 菜穂の声が聞こえる。他の選手たちより一オクターブ高い彼女の声援はあたるの耳によく聞こえた。
「タイム」
あたるは試合を早く進めたい主審の怪訝そうな態度を尻目に打席を外した。ベンチで祈る菜穂の背中に映える背番号10。本当は誰よりもこの舞台に立ちたかったはずの菜穂は性別の違いでその夢を断たれた。
「そうだよな、引き立て役じゃ悔しいもんな」
 もう一度大きく息を吸い込む。今度は即決でサインが決まったらしい。わたるが投球モーションに移った。あたるは口を瞑り呼吸を合わせる。指先からボールが離れる瞬間、弾けるような音がした。内角に迫るボールをしっかり見据えた、あたるはまるで鬼のような形相になり強引に踏み込んだ。ケガをして野球から離れ、漂うように生きていた一年間を真っ向からぶち壊し、新たに踏み出そうとしている道に向かってバットを始動させる。
「ストライクバッターアウト!」
 気持ちいいくらいにミットの音が耳元で響き渡り、あたるは暫く動くことができなかった。

 最後のバッターが三振に倒れ武田北の夏は終った。終わってみれば七回コールド16対1完敗だった。サイレンが鳴ってあっという間に整列が終わった。ホームベースに並んだ京成大甲府の選手たちによる校歌斉唱が始まる。何度も聞いたことがあるメロディー、何度も口ずさんで覚えた歌詞、憧れの縦縞のユニフォーム、あたるが欲しかった全てを持ってわたるは校歌を歌っていた。
「なぁ仙崎」
 隣で涙を流して立っている菜穂にあたるは声をかけた。場内に流れる京成大甲府の校歌に掻き消されてしまったことを都合よく続ける。
「俺は今すごく悔しいんだでも嬉しくも思ってるんだぜ」
 ふわふわと足下がおぼつかない選手たちはベンチを次の試合を戦うチームのために明け渡し球場の外に出た。三年生の小角が引退して明日からチームは再び人数が足りない状態でスタートするわけだがあたるの心は決まっていた。
「ところで、あたるくんさっきなんて言ってたの?」
 佐原にとらせた記念の写真撮影も終わり落ち着いた菜穂があたるに問いかけた。
「なんでもない」
 あたるはそう言って駐車場に止めてあるバス目掛けて走り出し、スタンドのはるか向こうに広がる山々に目を転じる。チクショー悔しいなこの野郎。風の中に涙を吹き飛ばしならあたるは走った。しっかり負けて、しっかり悔しがれた。野球は敗者に厳しいスポーツだ。善戦しても、健闘しても敗退した事実は変わりない。それでも甲子園を目指して戦う権利は誰にだってある。俺は三年間でそれを証明しよう。
「あたるくん! ちょっと待ってってば」
 菜穂を先頭にくたびれたユニフォームの選手たちが追いかけてくる。
「遅いって! 早く帰って練習しようぜ」
 真っ青な空の下で叫ぶ。背を向けた球場からは金属バットの弾ける音が風に乗って聞こえてきた。
                 

コネクト

あらすじ
中学時代、甲州南シニアに鳴り物入りで入部した蔵田中は、マウンドで躍動していた。中学二年生の時に全国大会で準優勝を成し遂げことでオールジャパンの世代別代表メンバーにも選出され一気に全国区の有名投手に成長し、県内外の強豪校からの推薦を早々にもらったあたるだったが、入学する高校は最初から決まっていた。
チームの二番手投手で、サウスポーの百瀬和多留は、あたるの良きライバルでもあり親友でもあったが父親の転勤を理由にチームを離れてしまう。あたるとの別れ際にわたるは二人しかいないグラウンドのマウンドの上で約束を取り立てた。それは県内でも屈指の強豪校である京成大甲府高校で再会し共に甲子園を目指すことだ。二人にとって甲子園は夢だった。そして二人なら甲子園出場も敵わない夢ではないと信じていた。しかし、わたるが抜けた穴は大きく試合の勝敗はあたるのピッチングに左右されようになってしまう。負けず嫌いのあたるは、勝つためなら手段を選ばずところ構わず味方にも激しく叱責し、身勝手なふるまいをとるようになった。そのことでチームメイトとの間に確執が生まれ、その溝が埋まることがないままあたるは過度の練習のせいで肘を故障してしまう。マウンドに上がれなくなったあたるは京成大甲府高校の推薦を取り消されグラウンドでも居場所をなくしついには野球をやめてしまう。野球の未練を断ち切るため必死に勉強して入学したのは県内でもトップの進学校武田北高校だった。そんな時九人しかいない野球部の女子選手、仙崎菜穂は執拗にあたるを野球部に誘ってきた。あまりにも菜穂がしつこいのであたるは冷やかしもかねて久しぶりにグラウンドに顔を出すが、一回戦も勝てるかどうかわからない野球部にいたのは、無駄に熱いキャプテンと小難しそうな副キャプテン、試合で一度しかバットを振らない奴やルールもろくに知らない奴。それでも甲子園を目指していると豪語するキャプテンの小角に我慢の限界と喰って掛かった。あたるはチームを侮辱するが、副キャプテンの大木に「お前は、野球からなにも学べなかった可哀そうな人間だ」と一喝され、自分はなんのために野球をやっていたのか答えられず、再び不貞腐れてしまう。そんなあたるを心配して尋ねてきた菜穂に「女には野球なんかできない」と八つ当たりし、怒った菜穂があたるに条件付きの一打席勝負をしかけた。それは菜穂があたるに勝てば野球部のみんなをバカにしたことを謝罪し、もし菜穂が負ければ菜穂が野球をやめるというものだった。
進学校の弱小野球部で、甲子園を目指して奮闘する部員たちとかつての天才ピッチャー、そして公式戦に出られなくとも野球を続けるたった一人の女子選手は、高校野球で何を学び、何を得ることができるのか、高校野球で甲子園に行くことよりも大切なこととは。青春を野球に捧げた球児たちの後悔と歓喜の野球小説。

コネクト

高校野球はだれもが甲子園を目指していい。そこに向かって努力する大切さを伝えられたら幸いです。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-15

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著作権法内での利用のみを許可します。

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