坂口安吾「桜の森の満開の下」について

秋津 澪

 坂口安吾が好きです。
 「堕落論」で有名なかれは、かれ独自の「堕落」という生き方によって、あらゆる社会の価値基準から降りてしまい、自我の底へ堕ちて往って、卑俗に生きることをおそれず、唯一の基準、自己にのみ従った。かれの小説は、「孤独」「ふるさと」「花」を表出させる。たぐいまれなる明晰性と、堕落の態度によって、社会のしがらみから解放されたかれには、真実が視えた。それゆえに安吾は評論によって、文明を、社会を、伝統を、そして日本を斬った。評論のほうが人気なこと、それが私にはすこし淋しいけれども。小説だって、とってもいいんですよ。

 今回話題にするのは「桜の森の満開の下」、傑作と名高いですね。
 私の解釈を述べてみたいとおもいます。

 まず「女」は、男の恋の相手であると同時に、世界の不条理を象徴しているとかんがえています。けっしておもうとおりにならず、私たちをふりまわし、そしてくるしめるもの。私たちは世界が要請する宿命をうけいれ、従うしかできないのです。男はそんな残虐な世界に、恋してしまっているのです。安吾もきっと、そうだったとおもいます。

 「桜」、そしてその「花びら」、これはただ恐怖を呼び起こすものではない、私たちをどうしようもなく惹きつけ、ぞっと肌をあわだたせるおそろしい印象を与えながらも、ひとがどうしようもなく求めてしまう、なんらかのものです。私はそれを、生きる意味を与えるものだとかんがえます。
 安吾にとってそれは、人生そのもの、そして恋愛、そのあたりではないでしょうか。いかに生きるか、いかに愛すか、安吾はそれを考えることを生きる意味としているように私にはおもわれます、かれはそればかりを文学の主題の根源にしました。生活上でもかずかずの女性を愛しましたし、「恋愛論」に、それらを花にたとえた文章が発見されます。人生、恋愛、それは私たちをいつもくるしめているだろう、それが与える幸福なんてくるしみと比すればすくないようにおもう、そうであるのに、私たちはそれに執着してしまう。それがぞっと恐ろしく感じる瞬間、かれはそれを、桜の森の満開の下の情景に託しました。その瞬間、それこそ「生きる意味をあたえるものは幻である」という意識が浮かぶときであるとかんがえます。
 むろん安吾のいだくものも幻にほかならない、なぜといい、たとえ生そのものを生きる意味としても、人間は、やがて死ぬからです。恋愛感情は、いつか消えるからです。私たちは、それらをぎゅっと抱きしめ、ひっしで大切にしようとする。しかしそれらは、どうしようもなくはかないものであるはずです。そう、生きている理由は、虚無感によって揺らぐのです、ゆえに旅人は、桜の森の満開の下で、ばたばたと死んでいきました。「二人でいるほうが恐ろしい」、それは愛し合う恋人がいるほうが、より孤独を感ずるという人間の心理が存在するからです。そこから生きる理由が剥奪されれば、より虚無は耐えがたいものになるからです。愛している、恋人もまた愛してくれている、しかし私たちはお互い孤独な存在であるから解りあえない、そして「ずっと一緒にいること」の厳然たる不可能性の実感、そんな意識だとかんがえます。

 男が最後にみた「虚空」、これは人間の意識が内包する「私たちの生は、死んだら終わりである」「生きることに意味はない」という真実の虚無をしめしていて、かれはそれに、絶対的な孤独を見ていたとかんがえます。安吾にはニヒリズムがありました、かれは「それは思想ではない、人間そのものに附属した生理的な精神内容だ」と指摘しました。堕ちれば堕ちるほどに、この真実はふかめられていったことでしょう、かれをきびしく追い詰めたでしょう。いくらひとに愛されても、いっさい癒えることのないつめたい孤独を、この虚空は与えるのです。そう、「堕落」は、孤独を真実のものとするのではないでしょうか。「淋しいから愛されたい」、そんな意識さえも浮かばない、絶対的な孤独。

 有名なラストです。

 「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」

 ぞっとするほどに美しいシーンですね。
 不条理な世界の上に、男の焦がれていた人生・恋愛の幻が滴り、その幻を払ってみると、かれじしんがはらむどうしようもなき虚無がかれのまえに現出する、するとやがて、不条理な世界(女)そのものが、かれが抱きしめ焦がれる花となるのです、生きる意味を与えるのです、かれは不条理を不条理であるがゆえに愛したのだ、そして、やがて男には、人間が必ず迎える宿命、「死」が訪れる。かれは死ぬ、男の姿の霧消した跡には、不条理な世界と、虚無があるのみ。自己が死したのち、かれはそこになにをも期待しなかった。生きることがすべて、死んだら終わり、これがかれの持論であった。
 人生から、幻である花が見えなくなると、いかに生きるか、いかに愛すかの主題を払い落とすと、おそろしい虚無が、世界の不条理が、いつも安吾に迫ったのであろうとおもいます。しかし、このおそろしい残酷な真実こそ、かれには美しかったのである。惹きつけたのである。これらが美しいからこそ、それさえも花と化させ、烈しく求め、抱きしめたのである。それが、死してのち幻となるのを知ったうえで。
 この全体をおおう、がらんどうの世界こそが、かれの抱いていた「ふるさと」ではないでしょうか。
 
 純文学にしかできない表現方法で、かれはかれの抱くものを芸術として立ち昇らせました。私はこの小説の、ぞっとするほど美しいラストをイメージすると、安吾がいだいていた「ふるさと」に、すこしだけ触れられたような気がするのです。

坂口安吾「桜の森の満開の下」について

坂口安吾「桜の森の満開の下」について

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-01-13

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