病床のコクーン

はじまり

退院して10年目の入院、
あの子は山の上にいた。
再発したのだ。
以前入院した精神科病院第八病棟だ。
山の上とはその病院のことだ。

そこへ行くには八甲田山へ向かって国道を登って行く。
その八甲田山の裾野、雲谷に大きな病院はあった。
その八階が第八病棟だ。
みな青森の人はその病院へ行くことを山へ行くと言った。

「薬か…」
「ここはどこ……」
「寝てるのか…」
「いや起きてる…」

「なんでここいるんだ、」
「どこだここは…」
「ここは病室…」、
「違うのかな、やわらかい枕と布団だ。」

どこだここは…かすんだ光の中に明るい電球が見える。
昼なのか夜なのか思い出せない。

「寝てたのか……、起きてるのか」

最初の入院からあの子の青春は布団の中。
もう何年経ったのか。
幻聴、幻覚、妄想の苦労と共生する。
それは無意識に体が自分自身を苦悩から守る力だった。
あの子は妄想の世界を旅し、聞こえる幻の声の友と語り合い、
時を越えて見えるものは何かを友に伝えた。

布団の中、脳の中の見えない世界で、彼は生きていた。
そしてそれは三次元の空間に投影され、自然の風景と重なった。
あの子の「聞こえるもの」は目に見えるこの世界と融合し、一つの風景となった。

八階の窓からは眼下に街の夜景がきれいに見えた。
カーテンがその夜景をさえぎり、分厚い割れないガラス窓が外の世界と内の世界を分けていた。
窓はわずかしか開かず、体がすり抜けて飛び降りできないようになっていてた。
清とした四人部屋ではあの子だけが布団の中で丸まっていた。

他の入院患者は病室から出て談話室でテレビを見たり、オセロに興じていた。
発病からの10年の記憶はどこかへ溶けてしまった。
あの子が今わかるのは楽になったことだった。

再発したあの夜、頭の中で耐えられないくらいの幻聴の饗音、
頭が膨れて街を飲み込み、街が頭の中になだれ込み破裂しそうになった。

あの子は平成25年の12月28日、
大雪がおさまった、夜の外へ飛び出した。

いつもとは違う階段を下りていく足音を聞いて、二階の自室にいた父ははっとした。
いつもとは違う、叩きつけるような早足で階段を降りる音。
直感で異変を感じ、反射的に部屋の扉を開けて、階段に飛び出て、大きな声であの子の名を呼んだ。

「どこへ行く!」
あの子に声は届かなかった。
あの子は二階から父が呼び戻す声が聞こえないのか。
振り向きもせず、玄関を力いっぱい押し開けて、雪降る夜へ飛び出した。

手には孫の手、10年前は包丁だった。
幻聴の声の源を突き止めに飛び出したのだ。
あの子の後を追って父は階段を駆け下り玄関の外へ出た。

道路はモーグルのゲレンデのようにこぶだらけで、
10センチから30センチの厚さの凍った雪に覆われ、つるつる凸凹だった。
その直線の道を北へ走り出した。

あの子の父が手間取って冬靴をはいて、慌てて後を追ったときは、もうあの子は50m先を疾走していた。
あの子はナイキのトレーニングシューズを履いていたが氷結した路面には無力だった。
ピエロのような滑稽な足の動きで、凍った雪の道を器用に全力で走って行った。
道は5メートル幅の雨どいのようになっていた。滑ったらその道の深い真ん中に滑り落ち、通り過ぎる車にいとも簡単に轢かれてしまう。
道の両脇は雪の壁となっていた。
車がすれ違える道は、今雨どいのようになり、一台がその真ん中をやっと通ることができた。

あの子の大怪我と事故死を意識して父は叫んだ。

父はあの子の名前を大声で呼んで
「危ないから走るのをやめて戻っておいで」と叫ぶとあの子は足を止めた。
父はもう言葉が届かないと思ったのに、あの子の足が奇跡のように止まり、
そして体がこちらを向いたと思ったら、その先の緩やかな曲がりのところで戻ってきた。
声が届いたのでは無かった。
ナイキの夏靴をはいているのに気が付き冬靴に履き替えようと、
家の玄関目指して一目散に戻って来たのだ。

向かってきたあの子は車道の真ん中に突っ立っていた父の前で止まると思ったら、
脇を通り過ぎ一目散に玄関めざした。
あの子の父は脇を通った瞬間、あの子の肩をつかんだ。
「あっ…、」

あの子は前のめりに道路へ倒れて、手を前にして滑り込んだ。
あの子の父はすぐに首根っこをつかんで、もう走れないようにあの子を押さえ込んだ。
そして車に轢かれないように、その一軒隣向かいの家の前の道脇の雪の壁に引きずって行き、
あの子の体を人の丈ほどある雪の壁に押し沈めた。
もうそれしかあの子を救う手段が思いつかなかった。

それでもあの子を押さえつけている父の手を振り払おうと応戦した。
両足に力を入れて、父の腕から逃れようと操り人形のように宙ぶらりんのまま足をばたばたさせた。
足は走っているが、滑って空まわりだ。

この氷の道で父は助かったと思った。
力では負ける息子だった。
冬靴をはいていた父は足をしっかり地面につけて、
あの子を押さえつけで、捕まえることができた。
夏靴を履いていたあの子の足は氷で滑って雪面で全く無力となった。、
あの子はただ父の腕に抱えられた子犬のよに足をばたつかせ氷の道の上で観念した。
もう逃げ切れなかった。

通り過ぎる車は速度を落とし、ゆっくりと凸凹に揺られて通り過ぎた。
騒ぎを起こしているだろう親子を見て誰も止まって声をかけて助けてはくれない。
横目に関わりを避けるかのようにただ通り過ぎていった。
大声を上げて、あの子はなにかを伝えようとしていた。

その間、あらゆる義憤をあの子は父にぶつけた。
父は「そうだな」、「そうだな」と、幾度も声を出した。

親子喧嘩と勘違いした雪壁の内側の家の老夫がブロック塀の門から出てきて
格闘しているあの子と父の頭の上から見下ろして
「なにしているの」と声を掛けて来た。

あの子の父は「警察呼んでください。」
「110番お願いします。」
「へ」と気が抜けた返事が返って来た。

同じ言葉を老夫に繰り返しお願いした。
もう赤子のようになっているこの老夫は
何も驚くことなく何もなかったかのようにゆっくりと家に入いった。
それを窓のカーテン越しに見ていた老父の妻がゆっくりと受話器を取り、ゆっくりと110番した。

パトカーが来るまでの40分雪の中はなぜか寒くはなかった。
あの子の父は両腕であの子の首を羽交い絞めにして
雨どいのような氷の道の上で滑りこまないよう足を踏ん張り、
道路脇の雪の壁に自身も一緒に埋まりながら耐えた。

ほんの一瞬あの子の腕から力が抜けた。
あの子の父は見逃さなかった。
今がその時だと思った。
「さあ、家に入ってゆっくり話そう。」
首を押さえつけた腕をほんの少し緩め父は、あの子をゆっくりと引き起こし家の玄関まで導いた。
小さな奇跡が起きたと感じた。

玄関に入ったのもつかの間、
あの子は器用に父の後ろに周り込み、
体をひるがえして父の首を孫の手でまた押さえつけ絞めつけた。
落ち着いた心がまた熱くなり、
「俺の靴をよこせ」と叫び、
靴を履き替え、外へとまた飛び出す準備をしていた。
その時、ドアベルがなり、遅れて警官が来た。
パトカー三台と黒いワンボックスカーが来ていた。

ドアを開けて、「こちらですか」と警官が聞いてきた。
警官が外に5人、そして一人玄関に入って来たらあの子は静かになった。
降参したかのように腕を抱えられ、言われるままに静かに頭をたれて、静かに警官の問いかけに答え、
ワンボックスの黒い車の後部座席におさまった。
一瞬のことのように警察官は手際よくあの子を後部座席に収めたのだ。

警官があの子の父に「病院へ行きますか。」と確かめた。
「病院にはひどく言ってください、でないとこんな時間では今夜病院に受け入れてもらえないので。首を絞めて、人を傷つけるに及んだと言ってください。」
すでに午後9時近くになっていた。
もちろん診察時間はとうに過ぎており、夜間担当の医師がいるが、命の危険がない限り受け入れてくれないという。
電話をするあの子の父の脇で、警官は一言一言小声で言うことを伝えた。
あの子の父はそれを淡々と繰り返した。
その狙い通り事は運んで、警官6人の付き添いのもと、
あの子は山の病院へ入院の手はずとなった。

あの子はパトカーでなく警察の黒いワンボックスカーに乗せられ山の上の病院へと連れられていった。
10年前に通りなれた裏にある夜間用入り口から入り、警察官6人に付き添われ診察へ入った。
あの子の父と母は後から診察室に入った。あの子はもう落ち着いていた。

母が事に気が付いたのはあの子と父が玄関で警察と大事になっていた時だった。
2階でお笑いの番組を見ていた。
子供のころ中耳炎で右耳が聞こえなくなり、外で父が母を呼ぶ大声も聞こえずにいた。
何も聞こえず気が付かず、まったく起きていることに気づかず、年末のお笑い番組を見て笑いの中に時間を過ごしていた。

警官が玄関に来た時、母は物音がしてあの子の声が聞こえ、
「ママ」と呼ぶあの子の父の声を聴いて、初めてどうしたかなと思い、二階のテレビ部屋から階段の下をのぞいたのだ。
そこにはあの子と父と警察官がいた。寝耳に水の事態だった。

まるで隕石が落ちたかのように万分の一の確率で起きることが、日常のお笑い番組の裏で起こったのだ。
再発だけは避けたいとあらゆる努力をしていた母は山へ向かう車の中で泣いた。

父はもう連れて帰りたいと思った。
しかしまた外へ飛び出されたらもう体力も心も持たないと思った。
決して望まなかった、決して起こしてはならない再入院を目の前にして、父は今起こっていることを傍観しようとした。
あの子が飛び出すまでに見ていたテレビのバラエティーのように無理に笑いに変えようとした。
そんなことしかできなかった。
「なんで今日なんだ。12月28日だぞ‥‥」本当にお笑いだ‥‥

あの子は夜勤の医師を目の前にし気持ちが落ち着いたのか、静かに答えていた。
「入院したいのかい?」「はい」「じゃこれにサインして」
ボールペンを渡されたあの子は任意入院の申し込み書にサインを試みたが、
どうしても手が鉄のように動かない。
右手がまったく動かない、誰かに押さえられているように動かない。
右手に左手を重ね力を入れて名前を書こうとするが一向に動かない。
右手がそのまま石になり、もう自分のものでなくなったのかと思った。手が動かない。

夜勤の医師は待ってくれていたが、手がまったく動かないのを見て、この言葉を口から発した。
「自分で書けないなら、医療保護入院だな。いいな。」
それでもあの子は書こうともがいたが、いくら手に動けと指令を送っても、鉄のように動かない。
夜勤の医師は十分待ってくれた。

失われた希望があの子を無表情にした。
捕まえられた野良犬のようにあの子はサインをあきらめ、看護師に連れられ、従順に医療保護入院の準備のために隣の診察室へと連れられていった。
それを静かに父は見た。母は見た。もう終わりだ、観念するしかない。父はそう思った。

また長い長い夜だった。
何もかもが終わり、山から下る道から見る師走の街明かりはいやなくらい静かに美しかった。
またここを毎日行き来するのか。
あきらめと一緒にこれからのお金の心配とともに、単調な見舞いの日々が来ることを思った。

今日もあの子は病床のコクーン。
10年の時を経て、また布団の中で眠っている。
この世界にいるかな、
いやあの世界にいる。
宝の苦労をして、三次元の世界から飛び出し、
再び亜世界の中で宙ぶらりんになり一人旅に出た。
もう時間も空間もない。
ただベットの四角い世界の中に丸く布団にうずくまり、
魂は永遠の空間へと旅に出た。
さあ、こっちの世界に戻って来いよ。

8病棟

陽が昇った。
ここはどこだ!ガチャンと音がするところだ。
知らない自分が絶叫していた。
幻聴が大音響をたて、体の中を走りぬけ、皮膚をずたずたに切り裂き、もう限界を超えた。
眠っている自分と絶叫している自分がいて、罵声が聞こえる。
何日ここにいるんだ。
ここは保護室だ。
ガチャンの部屋だ。
自由時間に耐えられなくて大声だして、大暴れするものが入れられるところだ。
なんで自分がここにいるんだ。
罵声を発しているからだ。
ここで上杉謙信が死んだとか、なんだとか、意味もないことを言っているからではないか。
誰と話しているんだ。
そうだあいつだ。
うるさくしつこく話しかけてくるあいつだ。
だから耐えられなくて罵声を発するのだ。
いや、罵声を発するのはあいつだ。
俺は静かだ。
あいつのためにここにいるんだ。
…気が付くと、大部屋にいる。
ここはどこだ、この部屋はガチャンじゃないぞ。
鍵のかかる鉄格子の扉はもう目の前にはない。

もう保護室から出て病棟に戻り幾日かたっていた。
薬で意識の中で、時間は進むことはなかった。
何かがスイッチになり、この世界に一瞬舞い降りてそして気が付く。たわいもないことで。

カーテンの向こうから聞こえてくる声で気が付いた。
ここは大部屋だ。
病室のカーテンは閉まったまま、薄暗い。
薬で幻聴から相手にされなくなって布団の中で丸くなり、今はゆっくりと眠っている。
目を瞑り、時がたち暗闇の中にいるとそこからまたあの世界へと入っていく。
光が差し込み、そして思いもしなかった人と出会い、話し、そして時間を旅する。

気が付くと面会室にいた。
ふとこの世界に帰ってくる瞬間がある。
朦朧とした薬の作用の中で「面会だよ」
そのアナウンスは魔法のようにあの子の目をわずかに覚ました。
気が付くとあの子の父と母が目の前にいた。
あの子は父に幻聴の話をした。
規則で大部屋で病気の話は禁止だとあの子は思っていた。
が、ここ面会室なら話せる。
だれにも話を聞かれることのない面会室があの子にはありのままも話せる部屋だった。

「僕は処置入院なのそれとも普通の入院?!」
「幻聴がそう言うんだ」
「普通の入院だよ」
「じゃ、そう幻聴に言っておく」
「もう疲れた行く」

ほんの数分、あの子はこの世界に降り立った。
面会室の扉を開けて、ふらふらしながら病室へ戻っていった。
そして4人部屋の病室の布団の中でまた丸まってしまう。
そこが安住の地。
ほんのわずかしか起きていられない。
薬ですぐ眠気がやってくるのだ。
眠っても幻聴が足音を立ててやってくる。

幻聴は嘘をつき、だまし、落とし込む。
それでも耳を傾けるのを止められない。
それは有って有る誰かだった。
そして今のたった一人の知り合いだった。
幻聴さんと呼ぶようになっていた

この頃だますのがへたくそになってきた。
同じ手を使っているからあの子は幻聴さんだと気が付くようになってきた。
聞こえなければと願うのに
静けさが苦痛だ。
そして幻聴さんはぽかんと開いたところへやってくる。
ひとつの言葉を落としていくと、それが始まりとなり、妄想が芽生える。
それがどこへ行くのか、脳は知っているが、止める事ができない。
それは有り余るほどの自由時間があるからだ。何が楽しみがあるだろう。
病床のコクーンには楽しみはない。
心休まる時も無く、幻聴を相手に押し問答が繰り返される。

天井の蛍光灯がそれを見ている。
布団の中で丸まっているあの子は繭の中の蛹のようにしか見えない。

夜8時半のアナウンスで薬の時間。皆さん集まってください。
一人一人並んで薬を待つ。口を開け、コップの水と一緒に何粒かの錠剤を飲み干す。
小さな白い錠剤。そんな小さなものが繭の中に眠るあの子の脳を日々違ったものにする。
あの子はそれが大切なものだと少しずつ気が付いてきた。
不安は消え、順番を待つ列に並び、口を開けコップの一杯の水と一緒に何粒もの錠剤を飲み込んだ。
疑いも不安もない。何分か経つとあの子は感じ始める。
幻聴は元気に意味も無いことを語り続けるのに、あの子は声を聞きながら眠りに付く。

眠っているのだろうか起きているのか、いや眠っている。いやでも聞こえてくる。
もう今自分がどこにいるのか、どうでもいい。
幻聴が元気に喋り捲ろうが眠っていることに変わりはない。
ただ意識は目覚めている、でも体は寝ているのだ。
大部屋の規則を破って病室に話好きの若い人が集まり、話し声が飛び交っている。
会話でなく、自分よりはるかに年を取った隣人が勝手に自分のことを話し、集って来た若い人が聞いている。
布団の中に包まり寝ているのだが
そのうるささが心地よい。

あの子の父、母は水曜と土曜日に面会に来る。
時間はあの子がいいという午後8時
「今日はどうだった」
「人間になってきた」
「今までなんだったの」
「へびだった」
「皮膚がずたずたに切り裂かれる・・・
蛇の脱皮だ。
幻聴さんのうるさいストレスでそうなるのだ・・・」と。

「黙知衆(もくちしゅう)」
「黙知衆になっているんだ」
「これは修行だ」
「何・・」
「知っていることをべらべらしゃべらないこと」
「べらべらしゃべると鉄格子のところに入れられるんだ。」
「だれが教えてくれた言葉」
「誰も」
「自分で思いついたの」
「…」
「すごいじゃない」
「どんな感じ、黙るの『黙』と『知』」
「黙っている事は知なんだ。」

「グレート愛坂さんみたいに知っていることを誰も聞いていないのべらべらしゃべる人がいるんだ」
就労支援事業所で会った有名大学の哲学科を卒業した人を覚えていた。
もう60を過ぎているのに自分は発病した28歳のままだと思っている人だ。
あの子には強く記憶に残っているのだろう。

「聞いているの」
「聞いていない・・・でもいい人だよ」
「黙知衆じゃないから」
「知っていてもしゃべらないように気をつけているの」
「そうだよ、喋りまくると周りの人が調子悪くなるからね。」
「そして悪い人に思われるから…」
「気をつけてるんだ」
「ん…」
「黙知衆になって自分を守っているんだ」
「ん…」

あの子には頭の中に思い出せる人が何人かいる。
悪い人の思い出ではない。
人と違う、独特な風貌と動きをする人だ。
そんな人に親しみを感じるようだ。
そんな人たちが妄想の中で行き来する。
やさしい思い出が行き来する。

長い間話した後、朦朧としてきた、
我慢も限界を過ぎたのにまだ面会室から立とうしない。
いつまでも面会室にいたいのだな。そのうちに薬の時間になり、それも過ぎてしまった。

「薬の時間だよ…」しぶしぶ面会室のスライド扉を開け、談話室へ、
もう誰もが薬を飲み終えて、談話室の思い思いの場所でテレビを見たり、雑誌を見たり、誰かと話し込んだりしていた。
あの子は薬の棚の台車の前に行き
「すみません薬」
「はい」
あの子の親は看護師に気を使っていた。
こんな遅い時間になり迷惑だったかなと。
薬の時間まで面会が食い込んでしまった。

あの子の後を追ってあの子の親も面会室から出た。
副作用が気がかりだった。
どんな薬を飲んだいるの知りたくて袋の錠剤に関心があったが、それを見分けることはできなかった。
朦朧としているのが副作用なのか、それとも病気なのか。
薬を渡されたあの子は口を開け、何粒もの薬を口に運んで、
「さよなら」を言って大部屋の廊下へ消えていった。
もう寝る時間だったのだ。
さびしそうに大部屋の自分のベットに向った。
廊下の曲がり角で後ろを振り返り。
「またね」その一言であの子の親はほっとしてエレベーターに乗った。

あの子の父は、あの子が持つ回復しようとする力を認め、信じた。
それだけががむしゃらに不安な心に道を創ってくれた。

次の面会日

「なんだっけ、あれ、あれ、動物だ、
何だっけ。首伸ばしてがぶっと噛み付いて話さないやつ。
うー、わからない、
なんだっけ、…亀…、亀だ、亀だ。噛み付くんだ」
「すっぽん!?」
「亀なんだ。そう亀なんだ。夜にやってくるんだ。
最初はコップを触ったり、僕のものをいたずらして音を立てるんだ。そして始まるんだ。」
「幻聴、妄想」
「どっちでもない。頭の中で騒ぐんだ」
「大変だね」
「罵声、罵声、罵声さ。」
「意味も無く難しいことを終わり無く早口で話し始めるんだ。グレート愛坂さんみたいに。」
「一度話を始めて噛み付くと、もう終わらないんだ。
いつまでも話が終わらないんだ。それもものすごい速さで話すんだ。
何を言っているのかわからないけど、ずっと聞いてあげないといけないんだ。」
「すっぽんだ、すっぽんだよ。わかるわかる。いきなり噛み付いて、愛坂さんみたいに、
誰もまねできないような速さで難しい理屈を話し始めて、」
「こんなこともわからんのかばか者!て最後は」
「そうだろ」
「うん」
「その罵声か」
「苦しい?」
「苦しくない」
「それはよかった」
「…それはもしかして、お前が助けてくれると知ってくるんだよ。
お前は助けているんだよ。
そうお前しか相手にしてくれないからってやってくるんだよ。
お前がすっぽんを、亀を助けているんだ。」

そのうちに晩御飯の時間になった。
あの子は晩御飯のアナウンスを無視して話し続けた。
あの子の母が「晩御飯の時間みたいだよ」と言うと、
ためらいながら面会室の窓から談話室を眺め、ちょっと椅子から腰を上げて、ドアに手を伸ばした。
そしてまた座って話を始めた。
すっぽんの話を繰り返した。
聞くとそれは毎晩でなくたまにやってくると話した。
あの子の親はそんな一言で、毎日でないんだ良かったとちょっと安心する。
そしてまたあの子は腰を上げて、面会室の引き戸を開けてどこで食べようかと思案していると、
それを察した看護師が、「面会室でご飯だべますか」と声をかけてきた。
あの子はにっこりとした。
ご飯を取りに行くと、看護師が面会室に夕食を持って来てくれるという。
あの子はにもう一度にこっとして、いすに座り続きを話し始めた。

あの子の母はかぜのひきかけか、少し疲労を感じていた。
それでもマスクをして目だけはあの子の話に焦点を合わせた。
母の目を見て、病院の夕飯を食べながらあの子は話し続けた。

すっぽんはたまに夜にやってくる。
晩御飯を食べた後の午後七時頃だ。
カタカタと音を立てて来たよと知らせると、怖くなる。
そして話し始める。ゆっくりだが、だんだん早口になり、止まらなくなり、
延々と意味のないことを理屈でもあるかのように話し続ける。止めることはできない。
罵声を発するのは、あの子でなく、そのすっぽんだ。
「こんなこともわからんのかばか者」とか、…、頭の中が張り裂ける。
それが朝なのかどうなのかもわからなくなる。でもしっかりと寝ているそうだ。そんな夜を昨夜はすごしたそうだ。

食事がおわり、盆を下げると、面会室に戻ってきた。
薬はと聞かれるとあの子はもう飲んだと答えた。
母は朝から調子が悪く、長い話にもうふらふらしてきたのか、
「ごめん、もう帰る」
「ああ」
「またね」
「ああ」
あの子はドアを開けて、ゆっくりと椅子から立った。まだまだ話したいのがわかった。
大部屋の廊下を自分の病室に向かって歩いていき、途中で振り返り手を振った。
ちょっと肩を落として、大部屋に消えていった。
なぜか廊下を遠回りをして部屋に帰っていく。
閉鎖病棟の鍵の音はしっかりしている。
ガチンと音とを立てて、こちらとあちらとを分けている。その音が印だ。
鍵が開いて、ドアの外へ出れば静かな廊下だ。
8階の窓から裏庭が見える。外灯できれいな雪景色になっている。
杉の木がまたねと言っているみたいに雪の重みで頭をたれている。

エレベーターのボタンを押すと、8階にすぐエレベーターはやってくる。
広い移動ベットが入る大きさのエレベーター。
そこに入ると、あの子の父と母は気が落ち着く。
「今日一杯話していたね」あの子がさびしさを見せないだけでもほっとする。
この病院は一階が地下になっている。山のくぼ地に建てたからだ。
2階が本当の1階。2階のボタンを押すと、エレベーターは静かに下りて行き、すぐに着く。
ドアが開くと、いつもの出口。
夜間用の裏廊下にまわり、鉄の扉を開けて、廊下のクランクカーブを3回通ると、夜間用の裏玄関に出る。
雪が降る夜、息が白くなり寒さが肌をきゅっと締める。
今日も終わった。
そう感じて、車に乗り、山から街へと帰っていく。

外泊…

携帯の電話が鳴った。
先生からの電話、
そろそろ外泊はどうですかとの問いだった。
「はい、先生の言うとおりにします。」
「では日曜日から」
「いいですね。そうしましょう」
先生は元気良く乗り気の声だった。
二泊三日の外泊が決まった。

あの子の父は3回もナースステーションに確認し、その日の手はずを整えた。
帰還の第一歩となる外泊は家で過ごせるようになる練習だ。
その実験的練習の成果を見て、退院を目指す。

まだあちらの世界にいるあの子は病気が再発した部屋に戻ってきて、いいのだろうかと不安を感じる父だった。
朝に迎えに行くと、あの子は布団の中で丸まっていた。
声をかけると繭の中から抜け出てきたように、
「あれ退院」とあの子は言った。
「ん…外泊、退院の練習」
あの夜にあの子が履きかけた雪用のブーツを持っていった。
そのブーツを履いているのを見ると、入院前の散歩に行くあの子の背中が見えた。

わかってるのだろうか。
まるで退院するかのようにすべての荷物をまとめて手にしていた。
それを止めはしなかった。

ガチャンと鍵が開いて、あの子は外へでた。
エレベーターを降りて、ホールを歩くと、自動ドアが開いて、その先の冬の世界へ。

車のエンジンをかけると、あの子はドアを開け、後部座席に洗濯物と、全部の荷物を載せて、扉を閉めた。
いつもは乗らない助手席に座った。
大きく弧を描いて病院の駐車場を回転して、街へ帰る道へと出た。
長い下り坂になる。松の森をぬけると、まっすぐの坂道が街へ向かう。

「広い風景」
あの子が一言発した。
死んだ魚のような目をしていたが、バックミラーで見た目はさめていた。
喜びの小さな光が目に見えた。予想外だった。
薬の深い朦朧とした世界のコクーンの中にいたあの子の心が小さな感情を表した。
何も言葉も交わさず、車は下界へと白い坂道を下っていった。

坂を下り最初の信号に来た時には目は再び沈んでいた。
あの子の親は緊張していた。
またあの聞こえない声がやってくるのではと。

昼を待たずあの子の希望で中華屋に入った。
静かにチャーシュー麺を注文し静かに待って、出てくると黙々と食べた。
二泊三日の外泊が始まった。

短い旅を終えて家に着くとあの子はベットの中でコクーンとなり、眠りの世界へ。
夜ご飯は父がチャーハンを作った。大盛りを食べて、そのままベットの中に。
母は体調を崩し、一日中寝ていた。お昼は一緒にやっと行けたが、帰ってきたら、床の中に戻った。
ただ淡々と時間がたち、そして
夜は静かに過ぎた。

翌朝は早起きだった。
父が起きたのを知ると、あの子も降りてきた。
1階のダイニングで目玉焼きの朝食を取る。
その時、父の心臓は鼓動を早めた。
何か不穏な雰囲気を感じた。
イラついているあの子、どうしたのか。狭いダイニングをうろうろ歩き回る。
足の動きは硬く、床に当たる音も硬い。

「どうしたの」
「いらいらする」
それ以上言葉をかけるのをやめた。
あの子は薬の時間を覚えていた。
8時、朝の薬を口にした。数分後、
「はあ、楽になった」その言葉を聞いて、父はほっとした。

ただただまた時間は過ぎて行った。
夜まであの子は繭の中にいた。
布団の中に丸まってあの子はじっとしていた。
妄想のあの世界にいたのか、それとも薬の副作用の朦朧とした意識の中か、わからない。
一日がただ過ぎた。

その夜は深夜に除雪車がやってきた。街の人は「ブル」と呼ぶ。
轟音を立て、誘導員の無線機でやりとりが、
さらにうるさく除雪車のぎらぎらとしたヘッドライトに照らされた外の明かりの中で響き渡る。
いつもならあの子はそれで目が覚めて、眠れない夜をすごす。タイミング悪く、今夜は来たなと父は思った。
もう来てしまった。眠れなかったら仕方ない、なるようになるしかないのだ。
ブルがいつ来るかはわからない。
路面を雪が凍って20センチ近くの暑さになると、時を見計らい予告もなくブルは来る。

あの子の部屋の扉は開くことなく、また部屋の灯りも付くことは無かった。
「寝たのか?!」部屋の中を確認することはせず、あの子の父は時計を見てただ床に入った。
寝る前の薬はこんなにも効くのかとほっとした。
あの子は起きることなく、布団の中に丸まっていた。
眠りを見届けたあの子の父も夜の薬を飲んで、ほんの数分もたたずに眠りに落ちた。

帰る朝、あの子はもう起きていた。父は年に一度の健康診断日、卵焼きの朝食を用意した。
食べ終わると、あの子は薬を探した。
見つからない!
父は不安を感じで、まだ体調が悪く暖かい布団の中で寝ているあの子の母を仕方なくを起こして薬をたずねた。
母は機嫌悪く、下に降りてきて、
「ここにあるでしょ、なくなったら今すぐ病院もどるようになるんだよ」と荒々しく声を上げた。
それはあの子に聞こえなかった。父はほっとした。
母はその後、急に優しい声になり、あの子に声をかけた。

父が出た後、母と子は言葉を交わした。
もうおしゃべりのあの子でない。一緒にテーブルにすわり、ちょっと言葉を交わし、そしてあの子はまたベットへもぐりこんだ。
昼も食べずに
そして…無事夜はやってきた。

帰る前の夕食はあの子の望みでまた中華屋へ、
餃子とラーメンを食べて、山の上の病院へあの子は戻った。
一日はこんなにもそっけなく過ぎた。

ガチャンと鍵が開き、すぐ身体検査。服を着替え、母と一緒にあの子は病室に戻って行った。
笑うことも無く、
「あ、退院でなかったんだ」
「ごめんね、外泊、またあるから」
帰り道、父と母は静かに山道を下りた。
ほっとし、心はわずかに軽くなった。

外泊その2

足早にまた4日が過ぎた。
外泊報告書に次の希望はその週の土、日、月と記した。
連絡が先生からも病院からもなかった。
金曜日、母が面会に行ったとき確認したら了承されていた。
翌日、更年期で二十年も早起きできないでいるあの子の母が早起できて、父と一緒に迎えに出向いた。
迎えに早くいって外泊の一日が長くなるようにと早起きとなった。

朝一番の空気はさらに清んでいた。
上り坂の山への道は晴れて日が射していた。
真っ白な八甲田山の山脈が見え、その手前の山が日の光で銀色に輝き、心がそれだけで明るくなった。
あの子の父も母もほんのちょっとしたうれしさで気が焦っていた。
あの子はベットの中で丸くなっていた。「はーい、迎えに来たよ。」
「あれ、外泊」
昨日言っておいたのに記憶があいまいだ。
「そう、さあ着替えて」
「今日、何日」
「21」
「21?」
いつまで
「23日まで」
「え、何回」
「また二回寝るの」

あの子はゆっくりとふらつきながら着替えて、閉鎖病棟のドアの前に立った。
入るときとは違って、簡単に鍵が開き、外へとでた。
前と違ってもっと無口だった。
言葉も無く、今日も車の助手席に座った。

「さあ、今日どうする。」
返事も無く、車はまた坂を下った。
今度は何の言葉も無く、まっすぐ前を見て座っていた。
父は言葉をかけるのをやめ、良くしようと努力するのも頑張るのもやめていた。

今日はそうだ「降りる生き方」このまま坂道を下りて行くのもいいさ。
最近たまたま手にした本からそれを知った。
誰もが上え上がろうと無理をする。
良くなろう、治そうと、無理をする。
そうではなくそんなことを止めて今日をただあるがままに生きてはどうか。
降りていくのだ。
無理を止めて、弱い自分になり、そして誰かと支えあい、生きていければいい。
助けてもらえるようにそこへ降りて行くのだ。
調子が悪くなってもいいさ。生きていればいいさ。

バックミラーであの子の様子をうかがった。
新しい道を見つけたような、うれしいような、そんな思い中、気持ちを新たにして、
どんな時を一緒に過ごせるのか、楽しもうと思うものの、やはり暗い影が背中についている。

今回は家に帰ってすぐとんかつ屋へと向かった。
早めの昼食だった。いつも大盛りのとんかつ定食だが、今回はみんなでかつ丼をたのんだ。
この店の一番料理なのに今まで一度も頼んだことが無かった。
あの子の目はまだ死んだ魚のように白くかった。それでも目の前に来たかつ丼をゆっくりほうばった。
「おいしかった?」
「おいしかった」この答えが最初の会話だった。

お腹か一杯になって家に帰ったら、そのままあの子はベットに入った。
静かに寝息を立てて眠った。
「…、…、」
布団の中で丸くなっているが、魂は眠っているわけではない。

頭は眠っているのに、魂はあの扉を開けて、あの時の小学校へと行っていた。
「ここだ、ここから始まったんだ。」

あの子は教室にいた。そしてその日は小学校6年の春の日にいた。
女子生徒を笑わせてちょっと喜ばせようと、ひねりにひねった話しや、しぐさをした。
それが、思ったように行かなかった。
そんな小さなことから小さな疑惑が生まれ、それが大きなもぐらの山となり、聞こえない声が聞こえるようになった。
他の男子は女の子に馬鹿にされている、俺が何とかする。それには何とか女の子にうけないと…
寝床の中で布団にまるまり、繭となったあの子の思いの中で6年生の春は続いた。
もう何ヶ月も続いていた。

「あの時だ、自分が病気になったのは。」
「ただみんなを楽しく盛り上げようとしたのにみんな相手にしてくれなかった。」
「なんで苦しくて暗いんだ。」
「どうしてみんな暗いところにいるんだ。」
「苦しいことのどこか楽しいんだ。」
「みんなを楽しませ、笑わせようと、いろいろ演技したんだ。」
「だれも気がつかない。」
「どうしてだったんだろう。」
「だから女の子はだめだ。」
「男だって…」
そこからは時間は消えた。
時計はいらない。
そして旅に出た。

体はどこにあるのかはもうどうでもいいことだった。
ただただ重い、それが錨のように体を深い海の底へとしばりつけた。
そのまま海の底に魂が沈められていうような気がした。

面白いことを記憶の断片から拾って、
それを浮にして水の上へと顔を出して息をした。
あの子は沈まないようにコルクになった。

あの子の世界が創造された。
天地創造はあの子にもできた。
そしてそこへあの子は毎日いた。
この世の時計が正確に時を刻み、一秒一秒が過ぎていくが、
あの子の時計は違う。
進むことも止まることも無かった。
時間のない世界なのだ。

まだ正午を少し過ぎた時間なのに、あの子はすでに長い時間を繭の中で過ごした。
わたしたちが瞬きする時間でさえあの子には一日となることもある。
それがあの子の繭の中の世界の時間なのだ。
また夜が来た。
外食に出た。

同じ中華屋で同じ定食を注文し、満腹になり、そして同じことを繰り返し、山の道を登って行った。
あの子の父と母は病棟が閉まる時間まで戻らなかった。
9時に裏口から入り、外来者の名簿に名前を書き、静かな裏廊下をゆっくり歩き、
いつものランやシクラメンの花を見て、二つの廊下の角を過ぎて、エレベーターのドアにたどり着き、
そしてボタンを押した。
静かにエレベーターは降りてきて、ドアが開いた。
そこへ無言で静かにあの子と父母は乗り「8」を押す。
エレベータ―は静かに上昇し、8階に着きドアが開いた。

またあのなじんだ病室の匂いがしてきた。
そしてその匂いにほっとした。
無事、帰った。何事もなく。これで大丈夫か。
あの子は良くなったか。
そう感じた時、病室の匂い、それが安堵の匂いだった。

インターホーンのボタンを押し、
「ただいま戻りました。」
ナースステーションにいる誰かに聞こえるように大きな声で伝えると
「はーい」と看護師の声が聞こえた。
電動の鍵が開く鈍い音がした。
スライドドアがするすると軽く開いて、その向こう側に看護師がいた。
「どうしますか?」
「ここでいいです。」
あの子は食後の薬でもう朦朧としていた。
別れる寂しさも無く、ドアの向こうに着替えのバックを持ってすっと消えた。
父は侘しく思ったが、あの子が寂しく思うよりはいいと思った。
あっけなくまた外泊は終わった。

エレベータ―のボタンを押すとエレベーターはすぐに来た。
ただ今回は7階で止まった。
ドアが開き、「あれ先生…!」「今帰りですか」あの子の主治医に出会ったのだ。
「今日早い方よ!」
「お疲れ様です。」
主治医はゆっくりとエレベーターに足を踏み入れた。
寝る前の回診から戻って来たのだ。
もう70近い女医先生だが、疲れた様子は見えなかった。
この仕事が本当に好きなのだ。
「外泊どうでした。もうそろそろですね。」
「三ヶ月ですから!」
「またすぐ外泊しますか、それとも退院ですかね」

退院と病気が治ることは無関係だ。否、病気が治るなどどだれが思っているのだろうか。
危機を脱して落ち着くことが入院の終わりであり、退院の入り口だった。
入院期間は三ヶ月と決まっていた。
「そうか」父は思った。
今度こそ。
それはどんな意味だったのか。

今度こそ…

退院

明日退院です。
後はお父さんお母さんで頑張ってください。

前回とは違い知事の許可無く退院となった。
最初の入院の時の退院とは違い、希望がかすんで来た。
長い何かとの付き合いになるなと感じた。

最初の退院の時はこれで終わった後は良くなるだけ
あの子がこれからまた友達が出来て、勉強も出来て、恋もして
また戻るんだ…なんて根拠の無い希望に満ちて、大きなお祝いをした。

二度目の退院は静かだった。
家に戻りあの子はゆっくりと布団の中で繭になりぐっすりと寝た。
そして毎日がまた次の朝になると「今日」になるような、時間が止まったような日々が始まった。
薬は退院前の一錠から、マーブルチョコレート並みに掌一杯の薬になった。
日々、薬の副作用に耐えながら、サバイバーの暮らしが始まった。

入院中休んでいた就労支援事業所にもまた通い始めた。
あの子の父が事業所にもう通えないと話すと、送迎しましょうかとなった。
車が迎えに来ると、あの子は無言で出かける用意を始めた。
入院前とは違う。
今日は行くぞと力が入って、足早に片道30分を歩いた。
なんの苦も無く。
帰りも同じだった。
今は意志が見えないくらい、一日をぼうっとして過ごしている。
強い薬で脳の働きが止められていた。
暴れることのないようにおとなしく眠らせているのだ。
ただ言われるままに動いた。
意思があるのかないのかもわからない。
家族も事業所の職員にもわからなかった。

迎えに来てもらっても
その日の出勤の予定を全く覚えていなかった。
玄関から迎えに来たよと声を掛けられると、
「よし」と言って、布団の中から、芋虫のように這い出てて来て、着替えを始める。
待っているとネクタイまでして身支度して、
ゆっくりだが車に乗って来た。
無表情でまだ眠そうだった。
車に揺られると体も揺れた。
街の真ん中の事業所が入っているビルに着くと、
ゆっくりと下りて、4階までエレベーターで上がった。
エレベーターを降りて目の前のドアを開けると事業所だ。

「こんにちは!」
「おー、調子どう」
「お疲れさん」
「おー!ぺんぺん!」
と声が上がった。
それにも無反応だった。

入院前はしゃべりすぎて、
「どーどー」
「わかった」
「しずかに」
と言われるほどだったのに、話し出したら止まらなかった。
事業所内をあっちからこっちへと動き回っていた。
それがまったく話さなくなっていた。
事業所の職員も利用者メンバーも静かに受け止めた。

今は出勤したら、小上がりで横になり、
毛布をかぶり眠る。
それを誰も起こさなかった。
変わったしまったとも思わなかった。
再発して退院して来たらそうなると。

仕事はしなかった。
3時になると送ってもらう。
それがあの子の一日だった。
それが来る日も来る日も続き、調子を崩したり、戻ったり、
綱渡りのような再々入院を避ける日々の暮らしと工夫。
そして季節はゆっくり過ぎた。

大みそかまで無事にすごし、そして正月を迎え、
春、夏、秋、冬と過ぎ、それがいつのまにか3回まわった。
そしてあの子と関わる人と父と母にはも3年が過ぎた。

あっという間ではないが、毎日が同じようにやってきて3年が過ぎただけだ。
今では時の過ぎゆくことは時計の刻みとは関わりなかった。
何も起こらず、淡々と過ぎた。
ただそのために日々が消費されていく。
しかしあの子の時計は一秒も変わっていなかった。
時間はもうあの子にはない。有って有るもの。
体だけは3年分は過ぎた。
容貌も変わった。
お腹か出て足には肉が付き、顔も丸くなった。
そして髭が伸びた。

テレビだけは見た。
テレビの映像がもう一人の誰かのようにあの子のお相手となった。
画面の映像はめまぐるしく変わって行く。
あの子は何を見ていたのか。
反応がないのか、あるのかもわからない。
ただあの子の時間が過ぎることない「目」はテレビに向いていた。
あの子の心はどこかの次元に有って、テレビの画面はそこにあったのだろうか。
時には次元の一面になり、そこの世界の縦か横かになったのだろう。
よく見たのは大河ドラマだった。
大河ドラマも3つ目になった。
歴史ドラマがあの子にわずかな変化を起こした。
それは髭だった。

あの子の時は戦国時代、
そして真田昌幸の髭に反応して、同じような髭を生やした。
それがあの子を何かから守ってくれていると感じた。

髭を生やして、あの子はこの世界へほんの一歩だが足を降ろした。
ほんのひとさじの安心の一歩をこちらの世界へ降ろした。

「ひげそれ!」
通っている作業所の仲間が言った。
「いやだ!」
「ひげそれ、仕事して稼げるぞ!」
「いい。」
「ひげそれ、彼女できないぞ!」
「いい!」

「ハハハ!・・・・・」

それが息をして生きているこの三次元とあの子の次元の最初のコンタクトだった。
あの子は何かの言葉がカギになり、一瞬で妄想の世界に飛んで行ってしまう。
あの子の言葉には主語がなくて、あの子のその瞬間に意識の中の目に見える光景を話し出す。
テレビで見ているものはドラマでなく、それは今起きている現実だった。
それが楽しくて、それを録画するように脳にすべて記録し、それを妄想として何度も再生した。
眼が見ているのは現実の光景ではなく、脳から投影される妄想の記録だった。
それがあの子にとっての今だった。
退院した後はあの子の言葉には主語がなくなった、
ただ形容詞と擬音の意味不明の言葉をはっする。

「金色のピカー、ドドドド、バキーン…、あははは!」

誰もあの子の話すことを理解できなかった。
しかしそれは統合していないとりとめもない世界ではなく、
良く聞けば、しっかりとした土台の上に築かれたあの子の意味ある世界の話だった。
しかしあの子のことを理解できる人はいなかった。
しだいにあの子は無口になり、語ることを止め、そして一人その世界に浸った。
あの子に悩みは無かった。
誰からも理解されなくてもあの子は悩みもしなかった。
目に見えない友がいてそして仲間がいた。
三年が過ぎようとしていたのに
なんと不思議なことか。あの子は孤独ではなかった。

あれから!

また一年がただ過ぎた。
あの子には一日も過ぎていない。
いつも毎日だ。
来る日も来る日も布団の中であの子は今日を生きていた。
口の奥底から意味のない思考の流れが脳みそに流れ込み、思考回路を縦横に流れていった。
あの子が求めようが求めまいが関係なく思考は口の奥底から沸き上がり、脳の中の暴れ馬のように走り回った。

その馬をあの子は野放しにして思うままに走り回らせていた。
それがあの子の毎日だった。
あの子の意思に関係なく、あの子の脳の中を思うままに走りぬいていた。
あの子の意思に関係なく、その思考にあの子の意思は無意識に追従した。

頭の中にその思考が毎日空に浮かんでは消える雲のように途切れなく流れていった。
晴れも曇りも関係ない。
それに喜びも悲しみもない。
その思考がただ流れ続けた。
そして深く重い疲れが目の奥に座り込む。

その思考をあの子は幻聴といった。
幻聴が何かをあの子はわからなかった。
それを意味も分からず幻聴といった。

その声はどんな声だったのだろう。
あの子に聞こえてきたTVで見た刑事ドラマのセリフとあらすじが意味もなく流れた。
意味のないことだと知っていたが、それが流れた。
あの子が意味のあると思ったことは流れなかった。
ただただ縦横無尽にあの子と無関係で意味のない言葉の羅列が思考として頭の中を流れた。

背中を丸めて布団の中で繭のように固まったあの子の頭の中をその思考が走り回り、
それがあの子の思考を乗っ取っていた。
それがあの子の日々だった。
病床のコクーン!
いつ成虫になるのだろう。

小さな変化があった。
それは5年前のこと

この再発の前

ある昼間のTVで出版社の絵のコンテストのお知らせ。
あの子と母が見ていた。
描いてみたらとあの子の目の前にはがきとカラーペンが用意された。
あの子は弱い意識の中でペンをつかみ5分ほどで書き上げた。
そのはがきを母は送った。
そしてあの子はコンテストを通り、
その出版社の通信の絵画教室の生徒に推挙された。

小さな意思が生まれた。
やりたい!
やりたい!
やりたい!
それは飛び出して行った。
仕事だ。
仕事だ。
仕事だ。
あの子の向こうの世界の中に、この世との橋が架かり、
その橋を渡ってこっちへ来た。
あの子には絵画教室への入学が仕事を持つことであった。
こちらへ意識が戻ってきた。
あの子のこの世界はそれでも頭の中の思い込みの世界だ。
通信生になることはあの子にとってこちらの世界の一員になることと思い込んでいる。
そこで仕事を得たと!

あの子の母は喜んだ、父も喜んだ。
学費が高額だった。
5年間で250万円。
それを年金で払うからいいかと。
学校へ行きたいというあの子の願いが叶うなら250万円は安いと。

それから数日後、出版社から担当者が来て面談があった。
40代のベテランらしき女性担当者はスラックスに身を包み、
足を組んであの子と向かい合った。
あの子の両脇には母と父が。

「誰の真似でもなく、オリジナルです。いいですね、著作権の問題がありません。」
「出版社ではコンテンツの新しいキャラクターを必要としています。」
「似ていたりすると使えないんです。でも誰のコピーでもありません。使えます。」
「可能性ありますよ!勉強してください。」
優しい口調で柔らかい声で、しかしはっきりと、絵のことを話した。
誰の真似でもないいい絵だと。

あの子は顔が緩み小さな笑みがあった。
まるで振り返ることのなかった日々に誰からが自分のことを見てくれて、
何か認められていたのは感じた。
しかしあの子の頭の中ではあいまいだった。
何が起こったのかも。
ただ目の前の女性が自分に苦悩を持ってきたのではなく、
話してくれているのだと。
話かけてくれたことだけが分かった。
それだけだった。
あの子は曖昧なまま入学手続きの書類に必要事項を記入して判をついた。
それだけだ。

コンテストで送ったドイツワールドカップのイメージのはがきの絵は返してはもらえなかった。
あの子の父はそれを写真に収めた。

出版社の女性との出会いはそれっきりだった。

それから数日後入学の通知が来て、教材が届きそして毎月のリポート提出が始まった。
あの子がこちらに帰ってきたときは、それが彼の意思だった。
向こうへ行ってしまえば、もうそれは遠のいた。リポートのこともなにもかも消え去ってしまう。

あの子の母は毎月、リポートを提出させるために、3日間という日を設けて
あの子と交渉した。
課題の絵を描けるようにと絵具と画用紙が用意された。
月にわずか二日だがテーブルに座り、あの子は画用紙に向かった。
二日で課題を仕上げた。

母はあの子のテキストにすべてフリガナを振り、一緒に読んだ。
そして課題に一緒に取り組んだ。
あの子は言われることに妄想や思い込みから、意味不明の反論をしたり、理屈をこねた、
あの子の母はそれでも、「わかった」「今はこうして・・・」と、
適当でもとにかく二日間のタイムスケジュールを順を追ってこなし、最低限の絵をかかせ、郵便局から送らせた。
そして送った後はご苦労さんとお祝いをした。
その夜にはレンタルDVDを借りて映画を見ながら酎ハイとつまみを用意した。
あの子と母と父とで映画の時間を過ごした。
あの子はそれを楽しいと思った。

あの子にはそれだけだった。

そしてまた同じ次の日が来るだけだった。

課題の絵を描いているときは、あの思考が頭の中を走ることはなかった。
あの子はそれを知っていた。
その時はあの重い、重い疲れはなかった。
ただ絵を描いて集中力を使い果たし、深い疲れと眠気がやって来て長い長い間寝た。
それが波を起こした。
でもその波はすぐ静んだ。

あの子の母は偉かった。
入院を念頭に、それに備えて課題を早めに終わらせ貯めていたので、
再発入院中はそれを送って時をつないだ。
あの子は絵の通信教育の学生であることを覚えていたのだろうか。
母は退院した後、テーブルに同じように画材と画用紙を置いた。
何も言わず、課題を読み上げて、あの子に筆を握らせた。

意識があるのか、自分がやっていることを知っているか母にはわからなかったが
あの子は絵を描き、課題を仕上げて行った。
終わると深い疲れと眠気がやって来た。
父と母は課題が終わるごとにお祝いをした。
なんの祝いなのかあの子は知ってたのだろうか。
無表情のまま祝いの第三のビールとポテトチップの大袋を平らげ、布団に入った。

ふと目覚めたあの子の意識が自己に帰還し、言葉を自分自身に語った。
「…ああー!僕はここにいるが外が良く見えない。曇りガラスを通して見ているようなんだ。
絵を描くのは楽しい、課題だってわかる。でもそれが遠くに見える。
長い長い手を伸ばして遠く遠くに見える画用紙に『わたし』は描いている。
絵を描いているときは、あの声は聞こえてこないし、TVのセリフが意味もなく頭の中を流れて行かない。
それをああ…どう伝えられるんだ。」

そして気は遠のき、深い疲れと眠気の中に体は丸くなりコクーンのように動かなくなった。

あの子は繭の中で一人、意味のない思考の羅列の止まることのない流れに頭は飲まれ、意識を失ったかのように、その意味のない物語が頭の中でとどまることなく語られていた。
あの子はこの世界と内世界の境界がどこなのかも知らずに生きていた。
境界などどうでもいいことだった。
体の感覚もそうだった。
外の暑さ寒さも曖昧だった。
体の感覚のセンサーがずれていた。
真夏に冬の格好をし、真冬に半袖のシャツで短パンの時もあった。
あまりにも可笑しくあった。

そして母とあの子の努力は最後の課題を仕上げた。
母はだましだまし課題をあの子の前に用意し、一つ一つを仕上げ、この日を迎えた。
5年の月日が流れた。
母はあの子は良くやったと。
何のためだろう。

あの子は兄弟がそれぞれ上の学校へ行くのを見てきた。
5人兄弟。
一番上の姉は東京の大学へ、一番上の兄は群馬の大学へ、下の妹は東京の専門学校へ、そして二番目の兄は、中卒、夜間高校に受かったものの中退。
あの子は発病し高校を2年休学し、そして中退した。
結果中卒。
あの子は上の学校へ行きたいと願った。それも強く。
その願いが叶うならと、大学へ行くほどの学費がかかるこの絵の通信課へ入学した。
ということをあの子がこちらの世界へ来て意識がさえているときに言葉にしたのだ。
父はほっとした。
無理やりやらせたんではなかった。
あの子の主訴だったんだと。

蒙昧な意識の世界の中にあってあの子は課題をだし続けた。
薬はあの子の脳を曖昧なものにした。そしてそんな曖昧な意識の中で課題に向かった。
あの子の才能の一割も出し切ることはできなかっただろう。
それでもあの子の独特な一味が絵の中に見えた。
その才能を省略し、描き続けた課題の絵。
独特な味が一つ一つの絵に有った。
母はそれでいいと思った。
最後の課題は静物。
リビングルームの絵だ。
ソファーとテーブル。
歪んだ部屋の中に、歪んだソファーとテーブル。
色は独特な赤と緑、背もたれは斜めに傾くが、テーブルがその安定を維持した。
薬の副作用がなかったらどんな絵になっていたのだろう。
限界まで踏ん張り、そして手を抜いてもあの子は課題を仕上げる。

母はそれを天晴と思った。
最後の課題が仕上がり、郵便で学校に送られた。
長い長い月日が過ぎた。
そしてあの子は何か一つのことを成し遂げたのだ。

新しい地で

時は流れた。
あの子には一日も過ぎてはいない。
目が覚めればまた同じ朝だ。
いつものお客さんが来て、とりとめのない物語を話し始める。
それにまたただ向き合い、その物語にまた飲み込まれ、同じ一日を過ごした。

あの子は来る日々、病気の苦労を和らげる技を身に付けた。
傷にカサブタができるように日々の心の痛みや傷に上手にカサブタを作る技を身に付けた。
あの子の日々の苦労はあの子にしかわからなかった。
ただぼうっとして空想と妄想の中に沈溺し、
夢想の森を彷徨い、ただ食べて寝る暮らしをしている暢気ものだと
彼を知らない者にはそうしか見えなかった。
ただ一人の世界であの子は生きていた。
理解されることを一つも望まず、その日をまた生きた。
そしてまた朝が来て、同じことが始まる。
あの子には朝が来るが、翌日になることはなかった。

変わらぬ日々に一瞬扉が開き、予期もせぬ大きな転移が起きた。
あの子の両親の引っ越しで、あの子は宮城へと引っ越した。
引っ越しが何かをあの子は知らなかった。
あの子の今日が消えてなくなることを恐れた。
今日のお客さんがいる場所が消えてなくなる。
なぜあの家から別の家に行くのか理解できなかった。
決して変わることのないあの子の居場所はそこしかなかった。
いつもの窓、いつもの本棚、いつもの棚の上の置物、それがあの子のゆがんで行く空間を真四角に保っていた。
その置石が無くなる。
それは理解できないことだった。

あの子の両親の父母、そうあの子の祖父母は高齢になり、大きな病気を抱えていた。
その祖父母のそばに行くためにあの子の両親は今のすべてを置いて、宮城への引っ越しを決めた。
ゼロからのスタートを決めた。
それをあの子は飲み込めなかった。
そして有りえないことだった。
目の前の空間が揮発し蒸発し消えてなくなる。

あの子の父と母があの子に引っ越しのことを何月も前から小出し、小出しに話していった。
理由も時期もあの子が飲み込める一口一口にして、それを一さじ、一さじ食べさせるように、話していった。
そしてあの子の心も準備で飲み込んでいると受け止め、引っ越しの1か月前に引っ越しの日を伝えた。
あの子は理解し、そして納得したと考え、最終確認であの子に確かめた。
あの子は両親に「わかった」と言っていたが、それはあの子は心配させまいとそう言っただけだった。

引っ越しの予定の日が迫って来た。そしてあの子は自身が消滅する日を予見した。
そしてそれは恐れに代わり、恐怖の中に陥った。

引っ越し三日前の荷物かたずけの時、あの子は調子を崩した。

「どこへ行くの」
とあの子は父に聞いた。
「えっ、話してたでしょう。
引越し、山の家に行くんだよ。」

「引越ししないよ!いつ決めたの。聞いていない。」

あの子はまるで記憶がないかのようだった。
大事にしていた木製の手作りの海賊船ブラックパール号の梱包を拒んだ。
「引越しするんだよ。」
「これどこに置くの。」
「ここに置く。」

あの子の父と母は来たかと思った。
昨日は自分で片づけると言っていたが、翌朝には引越しなど知らないと言った。
ほとんどの荷物は梱包を終わり箱に詰められ後は積み込みを待つだけだった。
残ったのはあの子のへ屋にあるものだけだった。

明日、違う家にいる。
それはあの子の脳と時間を止めた。
理解不能なのだ。
今日という日をあの子は終わりなく目を覚ませば繰り返し繰り返し生きた。
あの子には昨日の記憶はなく、明日という言葉はなかった。
あの子には今日なのだ、いつでも。
今日以外のことはすべてわかりえない理解不能のことだった。
目が覚めれば、そこはいつもの部屋だった。
それがそうでなくなる!
!あの子は気が狂いそうになった、全体いや!それが心の声だった。

荷物がすべて車に積まれ、あの子の部屋にある荷物だけになった。
その時、一瞬の機会がきた。
幻聴のお客さんがあの子から離れたのが見えた。
点になっていた目が柔らかくなった。
父の友人が手伝いに来てくれて、二階に上がって来た。
そしてあの子に「よー、さあ運ぶか」と声をかけた。
その瞬間だった。
あの子の父は、「じゃーこれ下に持っていくよ、いいね」
「うん」
「じゃ、ケースの箱から」
「さあ、そっち持って」
「重くないな二人だと」
「ありがとう」
ブラックパール号とアクリルケースは対だった。
永久に動かすことはできないと思っていたが、
ほんの数分で運び出すことができた。
あの子の思考が緩んでこちら側に来た瞬間だった。

それからは流れるように進んだ。
いや流れるように動きを止めないで、あの子の父はあの子の為に進めた。
こちらへの扉が開いている次元があの子の思考が別の思考へと上書きできる機会だった。
あの子の今日は一瞬で入れ替わる、そしてあの子はそのことに気づかない。
記憶が無いのだ。
まったく違った今日になってもあの子は気が付かない。
目の前にある今日が今日になる。
昨日の今日は全く記憶にない。

引っ越すなら、「今日」を入れ替えると、記憶の無いあの子には
入れ替わったは今日があの子の何年もいる居場所にすり替わるのだ。

あいまいな中に事は流れ、荷物がすべてトラックに積み込まれ、あの子は何かを納得し、
午後には父母、あの子とトラックに乗り、宮城へ向かって出発した。

「さあ、ジュース買おうか!」
宮城の家には引っ越しに備え毎月一度は行っていた。
夕方出発し、高速に乗る前にコンビニにより、飲み物とパンを買った。
その時の掛け声を掛けた。
それはさあ出発の合図だった。
あの子はその宮城への旅のモードに入ってくれた。
不安のない、先のわかる行事だ。
いつもの仙台の山の家へ行くときのいつもの行程だ。
代わりのないいつもの日になったのだ。
あの子は引っ越しをスルーした。
大きなパニックの源となる出来事を絶妙なタイミングと言葉のつながりで脳を混乱させることなく
日常の変わらぬ日々の幻影の中の今日としてただその日が過ぎた。
三次元では大移動だったが、あの子の意識の中では何も変わっていない、どこにも行っていない。
変わらぬ今日として今日を無意識の中で思考回路を一切刺激せずにただ過ごせたのだ。

コンビニでジュースとパンを買って、車に戻り、そして車は高速のインターへと向かった。
今回は日の沈んだ夜でなく、それより2時間ほど早い夕方だった。
そしていつもの自家用車ではなく、トラックだった。
トラックの運転席の窮屈な三人席だった。
会話もなく、いつもの移動になった。
我慢強く椅子に座り、あの子は眠ることも無く、無口で真正面を見つめ、ただ座り続けた。
そしてサービスエリアで予定通り止まり、フードコートで遅い夕食を取った。
ただのカレーライスだった。
いつもそうだ!
なんでもいいから美味しいもの食べてというが、たのむのはカレーかかけそばだった。

ひどく疲れて、朦朧とした旅の後、夜遅くあの子は新しい地に着いた。
あの子の意識の中ではまるで一瞬のことだったのだろうか。
しかし深いあいまいさとだるさの中、あの子は宮城へ引っ越した。

宮城の山の家はあの子には何年も住んでいた部屋となった。
今日敷いたばかりの布団はもう何年も敷きっぱなしの布団になった。
今日の記憶ではもう何年もなじみのある万年床であった。
あの子にはそれでよかった。

あの子は新しい地に来たのに、そこは新しい地ではなかった。
もう何年も前から、いや生まれた時から住んでいるところとなった。
あの子は引っ越したのだった。
ここは長く住んでいるところであり、
以前の家は記憶の中だがそこも今も長く住んでいるところだった。

蔵王の麓に山の家はあった。
別荘地のゲートをくぐり、松川をかかる橋を渡り、そして登っていくと高い丘の森の縁に山の家はあった。
漆黒の夜空に澄んだ空気と冷たい風が吹いた。
その二階の一角にあの子の部屋があった。
そこに運ばれたあの子のお気に入りの本棚にブラックパール号が置かれた。
そして折り畳みのテーブルの上に、宇宙船模型ニューファルコン号が飾られた。
その二つがのあの子の座標軸だった。
その二つとあの子の作る三角があの子の今日だ。
それがあの子が自分の場所と認識する座標だった。

無意識に記憶を消しているのだろうか、あるいは記憶がないのだろうか。
しかしあの子の父はまさにあの時を捉え、次元ワープ抜けて、あの子を隣の世界へと瞬間移動させることに成功した。
あの子の心が傷つくことなく、認識されることもなく、病気を悪くさせることもなく。
奇跡だった。
否、あの子は本当は知っているのだ。
無意識ではなく、奥深くにあるあの子の目に見えない意思がそうできたのだ。

その後

部屋に積まれた箱の山の中にあの子は寝ていた。
ブラックパール号とニューファルコン号はテーブルの上に置かれ、
その他の荷物は箱のまま部屋の中に積まれたままだった。
その箱を一つ空けては中身が外に出され、
そして幾日か経ってからまたひと箱空けられと部屋は無造作に散らかっていった。
そのさまざまの物の海の中にあの子は眠った。

同じ布団にくるまり、朝が来て、夜が来てまた朝が来た。
そしてまた朝が来て、夜が来た。それが何度も続いた。
そして薬がなくなる日が近づいた。
あの子の母は苦労して山を越えた隣町に転院先の病院を見つけて薬をもらいに行くことができた。
精神科は簡単に病院を変えられない、担当の医師から、新しい担当の医師へとつなげられるのだ。
でなければ薬が無くなってももらうことができない
「薬がなくなるのですが、前の病院でもらっていたのと同じものを出せるのでしょうか。」
・・・それができないと言われた。
そんな制度は後になって知った。
それができなければ薬をもらうために青森に行かねばならなかった。
一度は病院の紹介状が間に合わず青森へ行った。
父と母は綱渡りのように薬を手に入れてた。

それは台風20号の時だった。一日早く出発した。
10月11日の夜に青森に向かった。
次男のいる弘前に向かいそこに泊めてもらい、翌日病院へ向かった。
もうなつかしさを感じる光景になっていた。
もうこの土地に属していないんだ。
そんな寂しさを感じた。
いつもの坂を上ると病院についた。
そしていつものように待合室で2時間を待った。
そして先生と話し、薬局へ。
そして薬が手に入った。
それがどんな安堵か。
安心への鍵を手にした保証の安堵だ。
そしていつものように、夕食をとりにあの子の望むところへ行って、食べ終わるとすぐに出て
そしてその日は青森の家ではなく次男がいる弘前の家へと帰った。
そして翌日宮城の山の家に向かった。
あの子はただただ朦朧としていた。
長い帰りの高速道路の旅も一度も目をつぶることなくいつものように起きていた。
5時間という時間を感じないのだ。
感覚は本のページをめくるように、1ページめくったらもう宮城の山の家だった。

そして一か月がたち、薬が無くなり新しい病院へ行く日が来た。
病院へ行くには峠を越えた。
二度目には途中、猿の群れに会った。猪もいた。
一か月前は青森の街中に住み、なんでも歩いて済んだ。
今は車で何分も運転して目的地に向かう。
車の中で変わらずあの子は薬で朦朧としていた。

引っ越しの大きな変化の中で病気を再発させ入院させるわけにはいかないと、
あの子の父母はあの子の病院を見つけることを最優先させていた。

青森では通院は病院の通院バスがでていて、歩いて駅まで行けばそれで通院できた。しかし今は違う。

「青森は良かったな!」
とぼろっとつぶやきがでた。

引っ越しは親の都合だった。
あの子の父と母にはこの引っ越しを乗り越えることは奇跡を期待することだった。
あの子に理不尽な無理を掛けることだと知っていた。
しかし宮城の父母のためにはどうしても必要なことだった。
どちらかも取ることはできなかった。
遅くなる前に宮城行を決めた。
あの子に無理をさせることは承知だった。
申し訳ない!
だから調子を崩してしまっての再入院の一文字が頭に浮かんだ。
それをどうにかやり過ごしたかった。

苦しさと、あやふやな中、
青森のあの子の部屋と山の家のこの部屋は隣の部屋となり
青森の部屋の扉を開けて、あの子は山の家の部屋の扉から入った。
青森の扉を開けたらそこは山の家だった。
あの子に引っ越しは起きていなかった。
扉の間の380Kmはあの子にはなかった。
あの子の意識の中では青森のあの部屋の扉を開けたら、山の家の部屋の中だった。
青森から山の家に移ったことは意識の中にはあったのだろうか、
ないようにあの子の父母には思えた。

リスパダールで朦朧とした意識があの子の世界だった。
幻聴と妄想、幻覚の世界があの子の地球だった。
目が覚めればあの子はその世界に放り出された。

それは何も止めるものはなかった。
ふとした疑問が頭に持ち上がるとそこから妄想が始まった。
昔の記憶が今日になり、それは現実になり、それが思考のすべてを飲みこんだ。
それが日々であり、どこにいるかは意識の曖昧さの中にあった。

ある時は、思いが一瞬で戦国時代に、
「この城の鉄砲の仕掛けは・・・」
そんな関心の糸が次々と伸びて、
それは思いもつかない終着駅に着いていた。

次の瞬間にはあの子の意識は、大きく飛んで小学校の同級生にあった。
同級生、江里子は自分に話しかけてきたのは自分に仕掛けを作り、彼氏にしようとした!?

その理屈は鉄砲の仕掛けがその結末となる。
その結びつかない江里子と鉄砲があの子の頭の中ではつながりがあった。

あの子は好感を持たれた外観だった。
好意を抱いて近くなろうとする子はいつもいた。
そして近くなるとあの子の不思議さと、場違いの一言で誰もの心が冷めた。
それがいつもの結末だった。
好き嫌いでなく。
そしてまたあの子は一人になった。
そして妄想の中で女の子は引き続き在り続けた。
幾度も目の前に現れ、あの子も江里子も中学生だった。
昨日のことではなく今のこの時のことだった。
思い出でも以前のことでもなく。
失うことも寂しさもない。
あの子の別れも壊失もない。
だからあの子は今を話すことが難しかった。
今、昨日、以前、これから・・・それがないのだ。
今しかなく、時間もなく、意識の中であらゆることがありえた。
まるで4次元のようだった。
それでも時間は流れた
変わらぬ毎日
江里子はいつもそこにいて同じことを語る。
あの子にはそれがその一時のこととしてしか意識されない。
毎回初めてのことなのだ。

幻聴、幻覚、意味もなくやってくる不安、胸を締め付けられる寂しさ。
それをやり過ごす技をあの子は試み続けた。

不安をやり過ごす。
来る日も来る日も同じことが続いた。一日が終わり眠りにつく、そして目覚め、また同じ苦労の繰り返し
耐え続け、日が過ぎた。

薬が変わった。
リスパダールからエピリファインに。

峠の向こうの大きな病院の老医師がいった。
「初めてだなこんな量は!
ここには6mmgなんてないから3mmgを二つにしましょう!」

それが始まりだった。

リスパダールは飲むと、まどろみ、あいまいにしてくれる、だから助かっている。
エピリファインはファインとあるように、なんでもものごとがはっきときっぱりと見えてくる。
もちろん現実だけではなく幻聴や幻覚もはっきりしてくる。

薬がかわり、あの子の世界も変わった。
朦朧として、あいまいな日々の中に小さな光が差した。
焦点の合わない歪んだぼやけた世界
あいまいさの中に何かが見て、それがくっきりと見えてきた。
考えも水に浮かぶ泡のように、生まれては形になる前に消え
なにかになることはなかった。
それが煙が柱になり、形になりはじめた。
あの子の自我の宇宙誕生の始まりだった。

最初に見えたのはなんだったのだろう。
目覚めたかのように、あの子は自分の今の姿を見たのだ。
そして今まで知らなかった苦悩をあの子は知った。
あいまいだった記憶の中に自分の年齢を知り
すべてが霧のような時間の止まった世界だったのに
現在に降りてきたのだ。
悲しみの始まりだった。

エピリファインは使者だった。
真っ暗な世界から徐々に見えるようにないり、そしてあの子の目の前にはっきりと見えるようになった。
「ほらこれがお前だ」
朝が来ても、それが朝だとは知らなかった。
否、知ることはなかった。
時間のない世界にあの子はいた。
そしてカーテンは閉まり、暗い部屋の中で時計は空回りするだけだった。

エピリファインはあの子の時折覚ました。
向こうの世界からこちらに連れてきてしまった。
安住の不安のない向こうの世界。
冷徹なエピリファインは正気に目覚めたあの子に今を見せた。
真っ黒な泥の波に変わった不安があの子を襲う。
胸が締め付けらえ、そして鏡に映る自身の姿が見えた。
涙がこぼれ、なぜ僕がと
何もない手の中に握っていたのは魔法の杖だった。
それを一振りすれば、この向こうに行けると念じたが、
無いも起こらなかった。
不安が黒く黒く深く重く、そして手ではぬぐい切れないほどの霧になった。
そして限界に達した。
無意識に立ち上がら外に飛び出した。
何かを探さないと、
あいつを探さないと
あそこだ
あの道の先だ
進め、
進め、
ただ歩いた。
そして腹がすいた。
家に帰らないと。

赤いランプが回っている。
それがぼんやりと視界の中で近づいてきた。
そしてドアが開き、
その後はわからない。
気が付くと家の玄関にいた。

パトカーに保護され家まで送ってもらっていた。

母が玄関で
「すみません、ありがとうございます。」と
「通報があったんで連れてきました。」
「それなければしないんですけど」
「よく見ててください」

あの子の深い闇は薄くなり、おなかが減っていたことだけが強い意識となった。
あの子の母は慣れていた。
ざまざまな出来事に積み重ねで、あきらめ、そして受け入れ、あの子を見ていた。
「はい、晩御飯」
同じものばかり食べていた。
ハンバーグと白いご飯
それを来る日も来る日も食べていた。
何も考えずにお腹が満たされた。
夜の薬を飲むと、静かなけだるさと朦朧とした気配があの子を包み、
寝床へと連れ去った。

あう、エピリファインが消えた。

苦労の日々

その苦労が良い苦労になりますように。
それが毎日の祈りだった。
薬の蒙昧な世界は日々あの子を頭の中の世界へと深く深く引き入れた。
もう時間も場所も蒙昧になり、はっきりとわかることは自身の脳が見せてくれる今の幻だった。
それは今まであの子が見てきたものを投影して再現した。
記憶の中にしっかりと残った映像と記憶。
あの子の1秒も耐えること無しにすぎることはなかった。
どんなに苦しいことだろう。

わたしたちが日々の暮らしを生きることは、ただ黙っていても過ぎていった。
あの子にはそうではない。
一秒一秒楽になれるよういろいろ工夫して生きなくてはならない。
それだけで精一杯だった。
時は一日一日と規則正しくやってきては暮れていった。
曖昧だった声もはっきりとした言葉になり、
印象でしかなかった幻聴の声は、言葉を持った。
そしてそれは謎解きの鍵、そして次の妄想へのつなぐ鍵となり、広がった。
そのあてどもない自動思考の止まることのない会話の流れは止めることのできない苦行だった。

目が覚めた時、何者かに許されたのかなと思えるような日もあった。
体が軽く、思考も回った。
「はあ!楽だ。」
嬉しくなった。
軽い足取りで階段をおりて、居間の扉を開ける。
薬を飲むのも忘れて、藤で編まれた椅子に座る。
カーテンから漏れる朝の木漏れ日も心地よく思えた。
「薬は」と聞かれて、「あ、忘れてた」
そして扉につるしたお薬カレンダーから今朝の薬を取って、袋を切り、錠剤を掌の取ってそれを口に
そしていっぱいの水‥・・・
その後はもう意識がこの世界からまた朦朧として曖昧な世界へと

病気の症状か薬の副作用かはどちらでもよかった。
目が覚めた時から眠るまで、あの子はやってくるお客さんに工夫した。
あの子にはそれがリアルだった。
聞こえないものが聞こえ、見えないものが見える・・・・・
それはリアルだった。
それと薬がどんなものなのかも曖昧だった。

意味もなく落ち着かなく、不安が満ちた。

あの子が小学校に入学する前、父はギターの弾き語りの仕事で月曜日になれば県外に出た。
日曜日の早朝に帰って来ると、仮眠をして家族でピクニックに出た。
その時は札幌に住んでたので、発寒川沿いに河川公園があり、
サンドイッチを用意して家族で散歩に出た。
公園にはさまざまな遊具があった。特別な場所だった。
あの子は公園に心地よい場所を見つけて、石や砂で何かを作り、そして一人遊びを始める。
何かが戦っていたり、周りが見ていてわからないが物語が進んでいた。
カチーン、ジコジコ・・・と言葉ではなく擬音で物語が語られていた。
それを兄弟たちは見ていて面白いと思った。
お昼になるとシートを敷いて、ランチが始まった。
いつもピーナッツバターと卵のサンドイッチ、いい時は唐揚げ。
そして手作りのクッキーが並べられた。
姉、兄があの子を探しに行って連れてくる。
サンドイッチをもらうと、またジ「コジコ」とか口からうれしい声をあげて食べた。
朝、10時にでて午後の4時には帰ってくる。
そうしたらビデオを見る。
ポリアンナやデズニーの映画だ。

そして夜にはあの子の父はイエスキリストの絵本を読み聞かせした。
教会へは行かなかったが、なぜかあの子の父はイエスキリストの物語を寝る前に読んでくれた。
他の本は読んでくれなかったが、子供の聖書物語を体一杯で表現して読んでくれた。
あの子の思いの中にはイエスキリストはリアルだった。

今のあの子にはイエスキリストの物語と戦国時代とスターウォーズが混じり、カオスな物語が頭の中にあった。
苦しく自分の思いとは関係なく、感情が暴走する時、あの子はイエスを見た。
イエスが一線を越えないで、狂気の世界に足を踏み入れることを止めてくれた。
あの子の父の聖書物語の読み聞かせはどこまであの子の心に刻まれたか。
キリストの、人の行いではなく恵みによる救いは深く刻まれた。
それがあの子が破瓜してしまうことから守ってくれたが、
聖書物語はあの子の幻聴と妄想でカオスだった。
しかしあの子は間違いなく救われていた。
あの子の心にはイエスがいた。
どんな意味違いの物語しか記憶になかったとしても。

桜祭り

春になり桜が満開になると何年も前のことをあの子の父は思い出した。
あの子を人込みで見失ってしまうことばかりあったので、
決して祭りというものには行くことはなかった。
もう退院して時間がたっていて、落ち着いているだろうと
あの子を連れてあの子の母と父は弘前城公園桜まつりへと出かけた。

コンビニのトイレに入って、一分も経たない間のことだった。
あの子は消えた。
弘前城には2万人の人出だ。
そこに紛れ込んだらもう探しようがなかった。
計り知れない不安と「やってしまった」と深い後悔が圧倒した。
迷いなく一直線に祭り会場の特別交番へ届け出た。
全署、全パトロールカーの動員で捜索が始まったが、
見つからなかった。

日が傾くころあの子の母と父は桜まつり会場特設交番から本署に行き、事情聴取を受けた。
生まれた時からの話を長い時間をかけて話した。
またこの繰り返しか。
あの物語をまた一つ誰かに語った。

時は流れ、日は暮れ、雨が降りそうだった。
黒い重い雲が空を覆い、不安をあおった。
絶望感が漂い、あきらめがそこまで来ていた。
「では署で待ってもらいましょう!」
主になって連絡を取ってくれていた婦人警官から言われた。
そう夜になるのだ、そしてただ待つしかない。
久しぶりの花見、楽しい夜が逆転して、暗い不穏な取り返しのつかない夜になったと。
少しの覚悟と淡い期待、外を見るともう真っ暗だった。
ただただ生きていることを願うだけだった。
そしてその時、連絡が入った。
婦人警察官が
「見つかりました」と
「ここから4キロ離れたバイパスの眼鏡屋さんが駐車場に座り込んでいる人を見つけて通報してくれました。」
「ひげが生えている特徴から間違いないと思います。」
「今、パトカーで戻ってきます。待っていてください。」
ほんの10分もしたら黒いワンボックスカーが到着し、乗せられてきたあの子が降りてきた。

「どうしてたの」
あの子の父は何もなかったかのようにあの子に聞いた。

「散歩に行ってた」
「はい、お見上げ」
あの子は父の手にラーメンの100円割引券を渡した。
「ラーメン食べたの」
「ん、」
「ありがと」
「美味しかった」
「ん。」

それが警察署での最初の言葉だった。
弘前桜まつりの5月3日一番の人出だった。
あの子の父母、兄夫婦と祭りの前にコンビニのトイレに入った30秒の間にあの子はふらっと外に出ていったのだった。
一瞬で妄想にに飲み込まれ声が聞こえてきた。
そして一瞬でそこは「本能寺の変の日」に
弘前の城下町は本能寺にそしてあの子は声を聞いた「信長の逃げ道を探せ」
その声に引かれて、足は外へと向いた。
「急げ逃げ道を探して信長を助けろ」
速足でお堀に沿って歩き始めた。
そして記憶は飛んだ。
信長の逃げ道を探し、そこを速足で歩いているうちにそれは散歩の場に変質していた。
気が付くと腹が減っていた。

ふと見ると目の前に山岡家ラーメン店が、
「あ、、ここ来た」
暖簾をくぐり、ポケットの中をまさぐると小銭があった。手に握り、食券販売機に800円お金入れるとランプがついた。
醤油ラーメンのボタンを押すと、食券が出て来た。
カウンターに座り、待ってるとラーメンが出て来た。
「いいにおい」
空腹の腹にラーメンスープがしみた。
気がついたら、最後の麺をすすり終わると。
「はい、くじ引いて。」
と店員さんに言われた。
くじを引くと当たりだった。
100円の割引券が当たった。
ラーメン屋の暖簾をくぐって外に出ると、足がもう体を支えられなかった。
お腹も満たされ、体も温まった。
足が動かない。
そのまま外に出てしゃがみこんだ。

そのラーメン屋の向かいが眼鏡屋さんだった。
眼鏡屋さんの女性店員があの子に気が付いて、通報した。
全パトカーで3時間も探し続けていたが見つからなかったが、
この電話で終わった。

パトカーが着くとあの子は名前を聞かれ「はい」と
そしてそのまま弘前署に
あの子の父と母は待っていた。
生活安全課の捜索の警察官と婦人警察官が付き添っていた。

「良かった」
そしてなんにも言わなかった。
「何してたの」
「散歩」
「へー」

道に迷い、わからなくなったら、歩いて青森まで帰ろうとして、闇雲に東へ向かって歩いたらバイパスに出た。
その道はわかった。
それを歩いて青森へ帰ろうとしていたのだ。

あの子の母も父も涙が目に滲んだ。
そして笑顔を作った。
まるで本当に散歩から帰って来たところを待っていたように振舞った。
あの子の足はもうくたくただった。
疲れが顔に見えた。
「帰ろうか」
そのまま車に乗り、青森に向かった。
家に帰り、あの子は静かに階段を上り部屋に入り静かに眠りについた。

2021年

カレンダーは一枚破り取られそのままだった。
あの子は居間の吹き抜けの二階に面した部屋を繭の寝床とした。
万年床が積み重なる脱ぎ捨てた服や洗濯上がりの服の合間に埋もれて見えた。
窓は開けられることなく、薄いカーテンが半分開いて光が部屋に漏れた。
静かな山の暮らしは夢の世界、
この山の家にお客さんは遠慮なく訪れた。
静かな姿と気配だけの友は言葉を得て大声でしゃべっていた。
あの子は
「だはんで・・・・わかったか!このスパイスは剣の色を・・このツボを押すと・・どうだ、整った・・・聞こえて、これをほれ混ぜると・・・」
来る日も来る日もあの子は客人を相手に静かにするように説教をし、「わかったか黙れ」と恫喝し・・・
そして階下の居間の降りてくる。
母はそれを日々聞いた。
一日一日とそれが怖さへと変わっていった。

なぜ怖くなるのかはわからなかった。
あの子の母はあの子の表情がこわばりちょっとしたことで怒りだすのを…・
嫌になっていた。
朝ごはんがパンでなっただけで,目が鋭くなり、
母親の目の前に立ち
上から母を見降ろしてにらんだ。
それが訴えだった。
「パンを食べたい」
それを言葉で言えない。
言葉をにらみに変えて…・母に向いた。

あの子はどこの世界にいるんだ。
おい、どこにいるんだ。
母はどうやってあの子に触れたらいいのかもわからない。
ただそっとしておくしかない。
あの子にこの世界の言葉は通じない、
あの子だけの言語があった。
言葉の音は同じでも意味は違った。
そしてあの子だけの言葉があり、それは音は同じでも意味は違い、それがいまだにわからないままだ。
あの子はあの子の言語を使って話しかけてくる。
あの子の時空は3次元ではなく、なんなんだと。
上は上でなく、昨日は昨日でなく、もはや交信不能だった。

ただ、苦しいのだけは見て取れた。
顔が歪み、何かを訴えている。
そして何か工夫してその苦しい重荷を取り去ることが出来ると
下へ降りてきて穏やかにテレビの前に座った。
スイッチを入れて音がでる。
画面は見ているが、意識はどこかへ行っている。
力尽きて、体だけになって魂はどこ変え行って休んでいる。

そして立ち上がり、マネキンのように同じ姿勢で固まっている。
それが解けると、この世に降り立ち意識が顔に表れ、
リビングのカウンターに座り、彫刻を始める。

病床のコクーン

病床のコクーン

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. はじまり
  2. 8病棟
  3. 次の面会日
  4. 外泊…
  5. 外泊その2
  6. 退院
  7. あれから!
  8. 新しい地で
  9. その後
  10. 苦労の日々
  11. 桜祭り
  12. 2021年