俺、建井 崇夫。

芽里 武

俺、建井 崇夫。

特定の何かに属する人達を侮辱する意図はないです。あらかじめご了承ください。
テーマ「裏返し/宝物・宝箱」から連想して生まれた短編です。

俺、建井 崇夫

 吐息が白い。吸い込む空気が鼻をツンと刺激する。自然と垂れる鼻水をズッとすすった。耳がビリビリとしびれる。僕は駅に向かって閑散とした国道沿いを歩いていた。
 朝から曇天で気が滅入る。天気予報を確認しなくとも昼には雪が降り始めるだろう。引っ越して来る前はあんなに雪を楽しみにしていたのに、今では億劫な気分にさせられる。僕は去年暖かい地域から引っ越してきた。積雪について、ホワイトクリスマスだの、雪合戦だのといいイメージしかもっていなかった。日本海に面した県の降雪を完全にナメていた。雪が降るという認識から改める必要があるほどに完膚なきまでに打ちのめさせられた初冬だった。独りで生きていけるなんて考えをもっていたことすら改めさせられるほどに自然の過酷さを思い知らされた。それでも、職場の人は温厚な人が多いし、嫌味や人の悪口ばかり言う人も少ない。以前の生活と比べると今の方が幸せを感じやすい。
 目的の駅に到着した。形だけのタクシー乗り場。コンクリートのうちっぱなしでできた駅。不自然なほど白い壁は、長い間風雨に曝され、灰色にくすみ黒い筋がいくつも走っている。駅名が書かれた大きな看板だけは新しくしたようで、一層目立っている。急勾配の屋根が年間降雪量を物語っているように感じた。近くに人気のない二階建ての木造和風の建物。看板などは古びれてかすれてしまっている。かろうじてタクシーと読めた。母屋の隣に車庫らしきシャッターがある。昔はここからタクシーが出ていたのだろう。真新しいスロープを歩いて、節電のため作動しない自動ドアを手動でこじ開け、駅の中に入る。海に面した駅ホームから、激しい冷気が僕を襲ってきた。冷気がこれ以上吹き抜けないように自動ドアを手動で閉める。風が強いせいで閉めるのに力が必要だ。
 古びた駅構内に、比較的新しい自動改札機が目を引く地方の駅。切符売り場は自動販売機。左手に見える駅員がいたであろう窓口は、カーテンが敷かれ、ガラスの汚れ具合から長いこと開けられていない様子だった。改札機を通るとすぐに線路に面した上り線ホームと、片側一車線の線路を跨いだ連絡通路で結ばれた下り線ホームがあるだけ。下り線ホームの向こう側には防風林が植えられており、閑散としている今もその役割を健気に全うしている。それぞれのホームに四人がけの木製のベンチと時刻表が書かれている看板があるだけ。線路は一車線なので、すれ違うために電車が駅のホームで待機していることがある。今朝は下り線のホームで一両編成のワンマン電車がすでに待機していた。
 電車の中は暖かそうである。羨ましい。早く電車は来ないだろうか。厚着した服を捲り、腕時計を確認した。なんのこだわりもない機能性と安さを重視して二年前に買ったカシオの腕時計の針は七時三十二分を指していた。連絡通路側、改札を出て右手にある時刻表をちらりと見る。少し遠いところにあるし、角度的にここからは見えない。わざわざ移動して見に行くのも億劫になった。仕方なくスマホを取り出し確認した。電車が来るまで三十分以上もある。移動手段が徒歩しかなかったため、早めに出発したのだが失敗だったか。前の電車に乗れなくもなかったが、朝からジョギングまがいな運動はしたくなかった。特に急ぎの用事があるわけでもないし、厚着の下に汗をかきたくなかった。
 上り線の電車を待つ間、ベンチに腰掛けて本でも読もうかと左手のベンチの方へ向かった。すでに先客がいた。季節感を完全に無視した薄着―黄色いネルシャツと薄いベージュ色の薄手のスラックスを穿き、髪の毛は女性のセミロングほど長く、何十日も髪を櫛で梳いてないことを窺わせる乱れよう、横顔からでもわかる長く黒い髭―の男性が一人、座ったまま待機している下り線の車両の一点を見つめ、身体を前後左右に揺すりながら歌のようなものを口ずさんでいた。わりと大きい声で聞き取れないわけではないのだけど、内容はまったく理解できない支離滅裂なものだった。なんともいえない気持ちになりつつ、読書は諦めてベンチの更に二十メートルほどの奥にある、世界の片隅に追いやられた喫煙所―ぽつんとホームの端に銀色の屋根がスノコ状になっている巨大な業務用灰皿だけが存在する場所―でタバコのようなものを一服やるため、その人の前を通りすぎようとした。
「ж☆んア%に気をつけろ!」
 急にその薄着男が大声を出したので思わず見てしまった。完全に目と目があってしまった。その男の瞳は、僕を見ているようで見ていなかった。肌は日焼けなのか汚れなのかわからない濃い色で顔中の髭という髭が伸びちらかっていた。毎食は食べていないのだろう。頬はコケ、唇は乾燥し、痛々しいほどにささくれていた。その顔はどこか見覚えがあるような気がした。そう思った瞬間、ギロリと男の焦点が僕に合い、その瞳の奥のナニカに気圧され、すぐに目を逸らして足早に社会的に隔離された場所へ向かった。
 タバコのようなものを取り出し、燻らせて楽しみながら先ほどの男をチラリと見た。最初に見たときと同じように対向のホームの電車を見つめながら、身体を前後左右に揺らしている。
 そういえば、あの手の人たち―こういう言い方は少し差別的ニュアンスが入っているのだろうな。少し自己嫌悪を覚えるが仕方がない。彼らのような人達と接する機会は今までなかったし、積極的に関わろうと思えるほど、僕の器量は大きくないのだから。彼らの闇に飲み込まれてしまうのでは、と錯覚するほど恐れてさえいる。特別になにをされたわけではないのだが―を、こっちに来てから見かけることがなかったな。前の、いや、職と土地を転々とする中で、都会といわれる都市部では割と駅で見かけることはあったのだが、こと偏狭の田舎に限っては外で見かけることが珍しかった。それだけに、今日のこの遭遇は何か意味でもあるのではないか、と悪癖の妄想が顔を覗かせる。
 昔から、世間一般から可哀想と勝手に同情されたり、無条件で蔑まされたり見下されたりする人達を目の当たりにすると、僕の弱い心はキュッとなってしまい、彼らがなぜそうなってしまったのか、その正当性を確保するために妄想をしてしまう悪癖を僕は持っていた。僕はその妄想癖にかなり苦しめられた。妄想している間は、集中力をかなり削がれてしまい、作業や会話に集中できなくなってしまう。しまいには、妄想の中で勝手に感動してしまい、うるりとセルフお涙頂戴をしたことすらあった。当然周囲からは、白い目で見られていただろう。脈絡もなく突然泣き出すやつはさぞ気味が悪かっただろう。最初は、大丈夫? と心配してくれるのだが、事情を説明したくても、断片的で支離滅裂。自分の伝えたいことを相手に伝わるように話せる能力が当時の僕には備わっていなかった。次第に、あいつは話を聞かないヤバイ奴だと認識を改められ、自然と人が離れていった。孤独になった僕は余計に妄想の世界に逃げこんだ。目に入るものすべてを妄想の材料にした。その悪癖は高校生になるまで続いた。高校で将棋部に入り、それに熱中することで自然と妄想癖は影を潜めていった。今日の今日まで意識することもないほどに。その悪癖がまたちらりと顔の出し始めた。
―なぜだろう。
 新しいタバコのようなものを取り出し、燻らせて体内に吸い込む。冷たい空気と馴染み深い臭いが鼻腔を刺激し、脳内に快楽物質を発生させる。フーッと煙を吐き出す。煙と白い息が混じったそれは日本海から吹き付ける風にあっという間に、形だけのタクシー乗り場の方へ流されていく。静まり返った駅のホームではときどき吹き付ける強い海風が耳を駆け抜ける音と、薄着男の歌らしきものが微かに聞こえてくる。
―結構大きい声で歌っているんだな。
 ベンチの方をチラリと見ると、彼はこちらを凝視しながら歌っていた。目と目があった。笑っていたように感じた。ゾッとして、目を逸らし背を向けた。落ち着くために煙を目いっぱい吸い込んだ。ゆっくりと吐き出しながら考える。
―なぜだ。いや、意味なんてないはずだ。彼らはそういう人達なのだ。不安定な人達なんだ。そうだ、昔、同じようなことがあった気がする。あれは小学生の頃、電車で通学しているときに彼らを目撃して妄想しているときだった。

(一)電車の奇人たち

 僕は家から少し離れた私立の小学校に電車で通学していた。
 彼をはじめて見かけたのは、小学五年生になったばかりの春だった。一応の義務とばかりに同じ方面に帰宅するグループと金魚のフンよろしく一緒に下校していたときだった。
 その日、グループのリーダー格のマサシ君が一両目の先頭に乗ろうと言い出した。この時間おもしろいものが見れるから見せてやる、と息巻いていたのを覚えている。取り巻きの子たちは、大げさとも取れるリアクションでマサシ君をおだてていた。マサシ君の親はどっかの大きな会社の社長だったっけか。いつも黄色い私服を好んで着ている印象があったな。僕に対して、格別意地悪をしてくるわけでもなく、かといって積極的に話しかけてくるわけでもなく、存在は知っているが、無視するわけでもなく、用事がないので構うことがない、といった態度はいつも邪険にされるか、腫れ物のように扱われていた僕としてもありがたかった気がする。意地悪といえば、取り巻きの毎日違う派手な靴―今でもどこで売っているのかわからない、蛍光色一色だったり、緑と赤と水色を墨流し(マーブリング)して染めた配色だったり、とにかく奇抜な、かといって、ランニングシューズではなくてスニーカー、バスケットシューズのような靴―をいつも履いていたヨシタカ君を思い出す。僕の妄想タイムを狙って驚かせてきたり、妄想タイムが終わると目の前でこっちを見てコソコソと仲間で話し合い、ケタケタと笑っていたりして、当時はかなり感じが悪かったと記憶してる。他の子たちはあまり覚えていない。特に話すこともなかったような気さえする。もしかしたら、僕自身がその子たちに興味がなかったのかもしれないな。
 そんな子達と一緒に、僕は、一両目の先頭の右端に陣取った。春の夕暮れ、傾き掛けた日差しが差し込む車内の座席はまばらだった。いつも乗っている車両と違うので、見知った顔は一人もいなかった。マサシ君は次の次の駅まで待ってな、と言っていた。それを聞きながら僕は、先頭車両から見えるいつもと違う景色と運転する車掌さんを見ながら、物心つくくらいに見たアニメ『銀河鉄道999』のような妄想に浸っていたと思う。電車のドアが閉まり、発車した。隣では取り巻きがマサシ君に何が見れるのか予想を発表していた。
 次の駅は繁華街にあり、大勢乗り込んできた。まばらだった席はすべて埋まった。
 目的の駅に到着した。僕達は、その異質さからすぐにマサシ君が何のことを言っていたのか、誰のことを言っていたのかすぐに理解した。妄想していた僕でさえ、電車内の空気が変わったことを察して、すぐに周りを見渡した。視線をたどると、開く前のドアに視線が集まっていた。そのドアには、降りる人のことなどまったく気にせず、何を焦っているのか、誰かに先を越されまいとドアに張り付き、後ろの乗客をぎょろりぎょろりと睨む小柄な男がいた。その空気の異質さは小学生で妄想癖のある僕でも一見するだけでわかった。いや、正確には彼を見ている周りの空気で察したのかもしれない。奇異なものを見る嫌悪の視線。僕が妄想で失態を犯したときに送られる視線に似ている。だけど、ここまで禍々しくない。これが本当に人が人を嫌悪する視線なんだと感じた。僕の心がキュッっとした。
 彼は我先にと降りる人を押しのけて乗り込み、僕達に構うことなく我が物顔で僕達の陣取る先頭の右端へ入ってきた。僕達がまるで存在してないかのように振る舞い、押しのけられた。その最中、僕は彼と目が合った、彼は僕を見ているようで見ていなかった。目が合ってるのに彼は僕を見ていなかった。常にほくそ笑んでいたのを覚えている。どうして今まで忘れていたんだろうか。
 僕達は、イソイソとその場から少し後方に離れて、話始めた。
「絶対あの人じゃん。マサシ君、そうでしょ?」取り巻きの誰かが言っていた。
「そうそう。でも、これからだよ。面白いのは」クスクスとマサシ君は思い出し笑いをしている。
「えー。楽しみすぎるー! なんだろうなんだろう」そういえば、興奮すると二回同じ言葉を繰り返す子がいたな。
「しっ。あんまりはしゃいじゃダメだよ。絡まれたくないからさ。これから禁止な。大声で笑ったりしたら罰ゲームあるから、よーい、スタート!」思えばマサシ君は、先生みたいな言い回しが好きだった。
 電車は次の駅に向けて走り始めた。
 あの彼は両手ともつり革につかまり、上半身の体重をすべてかけて、チンパンジーのように脱力した状態で進行方向を見据えていた。万歳した状態で軽く腰を引き、お辞儀するかのように腰を曲げている状態だ。身長は160cmあるかないか。腕が異様に長いことも連想に拍車をかけた。着ている土色の長袖もそうさせたのだろう。落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回している。たまに後ろを見る姿はまるで動物園で見たおサルさんのようだった。
 次の駅に着く直前、車線変更のためなのか知らないが、操縦席から車のウインカーのような音が軽快なリズムでチッカ、チッカと鳴り始めた。そのリズムに合わせて、彼は例の体勢まま腰を左右に振りはじめた。さながら、日曜の夕方の二世帯家族アニメのオープニングの飼い猫のように。
 たしかにその日も雲一つない『今日もいい天気〜♫』だったけど……!
「っぷ」思わずヨシタカ君が噴出す。それを皮切りにこらえ笑いが僕達の中で起き始めた。
「っっふ、ヨシ君、罰ゲームっふっ、なっ」ニヤニヤしながらマサシ君が言ってたのをよく覚えている。
 僕達がクスクスこらえ笑いをしながらじゃれ合っている様子を、首だけを百八十度回転させてなんとも言えない表情―喜びの顔。いや、なにか悪巧みを思いついたような顔。とにかく不気味な笑みを浮かべた顔―であの彼は凝視していた。なぜ、あれを今のいままで忘れていたのだろう。僕がそれに気がついたからなのか、ウインカー音がきえたからなのか、ギュルンと首を回して真正面を向き、また上半身を脱力させて木からぶらさがるチンパンジーのような体勢に戻った。
 次の駅に着くと、新しい乗客が乗ってきた。
「ったりぃー。席空いてねぇーじゃん。ふっざけんなよー。かったりぃー。あー、まじ座りてぇーだっりぃ」黒のジャージに金色の模様が入った私服のお兄さんとミニスカートをはいた綺麗なお姉さんが乗ってきた。
 今考えると行動や服装から高校2年生くらいだろう。彼らが乗ってきた駅周辺は、繁華街で働く人達、特に夜に働く人達が好んで住む地域だと繁華街で遊ぶようになってから知った。
 お兄さんはあの彼と隣のつり革につかまり、お姉さんは車掌さんの真後ろの壁に背をつけてストンと座り込んだ。僕の身長と位置からは派手な豹柄のパンツが見えていた。僕は見てはいけないものを見てしまった気がして急いで目を逸らした。
「なぁ、エリ。お前、今日一年の後輩イジめて泣かしてただろ」お兄さんは携帯電話を常に弄っているお姉さんに話しかけた。その携帯電話には当時の僕の筆箱くらいの大きさのストラップがついていた。今でも何のキャラクターだかわからない、なにかの動物のような、悪魔のようなキャラクターのぬいぐるみがついていた。
「えー? あれはあの子が調子くれすぎだったから、シメただけっしょ。一年のクセにあれはまじでイキりすぎっしょ。先輩としてシメてやんのが、親切よ。親切」携帯電話を弄るたびに、大きなキャラクターが揺れる。
「ふーん。ま、正直、どーでもいいけどよー」お兄さんは周りをキョロキョロと見渡す。その視線は、あの彼をとらえた。エリお姉さんのスカートを鼻息荒く注視しているあの彼を。
「おい、エリ。やべぇ奴にパンツガン見されてんぞ」ゲラゲラと笑いながら、お兄さんは大きい声でお姉さんに伝えた。
「はぁ!? まじふざけんなよ!」大声をあげて、あの彼を睨みつけるお姉さん。その表情の変わりように僕は軽く女性に対してトラウマを抱くほどだった。
 サッと立ち上がりあの彼に向き合ってお姉さんは続ける。
「てめぇ、タダじゃすまさねぇからな。出すもの出せんだろうな! おい! この場で出せねぇなら、親でもなんでも呼ばせるからよぉ! 五万もってこいや! ああ! てめぇ!」車掌さんとこちらを仕切る壁を大きい音を立てて蹴る。今にもあの彼の胸倉につかみかかりそうな勢いだった。その横で、お兄さんはニヤニヤとあの彼を見下ろしている。
 あの彼は、オタオタと人々を押しのけて車両の後方へ消えていった。
「エリぃ、ダメじゃねぇか。障害者様をイジめちゃぁよぉ」お兄さんはニヤニヤ笑いながらお姉さんに話かけている。
「はぁ? まじ障害者とか関係ないっしょ。人のパンツガン見して許される理由になんの? 障害者ならなにしてもいいわけねぇっしょ!」
「ちげぇねぇ」ゲラゲラとそこでまた大声でお兄さんは笑った。僕達は完全に静まり返ってしまった。肝心のあの彼はいなくなってしまうし、お姉さんは怖いしで、早く電車から降りたかった。
「そういやぁよぉ、ダチがあーいう連中集めてよ、万引きさせてるらしいんだわ。今度、一緒に見にいかねぇ?」
「えー? 気が向いたらねー」相変わらずお姉さんは携帯電話を弄っていた。ストラップのくそ馬鹿デカいぬいぐるみが一瞬をこちらを見て笑ったように見えた。
 ゴンッ!!キーーーーーーーッ!!!
 電車が急停車した。僕達はあの彼がいたスペースへ慣性の法則で放り出される。僕は頭を打ってその場で気絶したらしい。


 
 
 そうだった。目を覚ますと病院だったんだ。
 僕は、ほとんど吸殻になったタバコらしきものを設置された灰皿に押し付けて捨てた。新しいものを取り出して、燻らせる。
 脳震盪と妄想癖でどこからが現実でどこからが妄想なのか記憶が定かではないが、あの彼の表情は確かに薄着男の表情と似ていた。
―気味が悪い。
 人間は、その場に適さない、その場の目的に則さない存在を目にすると嫌悪感を覚える生き物だと本で読んだ記憶がある。それは、人間が社会を築いて進化、進歩してきた上でごく自然なことだとか。あの彼も喫煙者である僕もそういう意味では同じなのかもしれない。喫煙は身体に悪いことだと流布されて、副流煙は身体に悪いものだと周知され、その場に適さない存在となった喫煙者。さしずめ人工障害者と言ってもいいんじゃないかな。
 フーッと煙を吐き出し、薄着男の方をゆっくりと見る。遠くのベンチに座っている彼は、こちらを見ていなかった。身体を揺らしながら、何か口を動かしているが何も聞こえない。
 僕はほっと安心した。
 なんだ、こちらを見ていたように感じたのは、ただの僕の妄想だったか。
 吸いかけのものを灰皿に投げ捨てた。
 線路からガタンガタンと音が聞こえる。もう、三十分も経ったのか。腕時計を確認する。カシオの針は七時五十九分を指していた。徐々にガタンガタンという音は大きくなっている。ようやく暖まれる。本当に今日は寒いな。
「ガタンガタン。ガタンガタン。」
 随分大きいな。もう来たのか。
 電車が来るであろう方向を見た。それは薄着男が座っている改札の方だ。目の前には電車ではなく、薄着男がいた。僕の目と鼻の先で寒さに震えながらあの表情で「ガタンガタン!ガタンガタン!」と僕に叫んでいた。
 反射的に下を向くと、泥まみれになってくすんだ蛍光色一色の靴が目に入った。
                                       (了)

俺、建井 崇夫。

お読みいただきありがとうございました!!読者がテーマを意識できる作品になっているか不安ではありますが、地道に精進していきます。
タイトルのアナグラムが裏テーマです。

俺、建井 崇夫。

上り線の電車を待つ間、ベンチに腰掛けて本でも読もうかと左手のベンチの方へ向かった。すでに先客がいた。季節感を完全に無視した薄着―黄色いネルシャツと薄いベージュ色の薄手のスラックスを穿き、髪の毛は女性のセミロングほど長く、何十日も髪を櫛で梳いてないことを窺わせる乱れよう、横顔からでもわかる長く黒い髭―の男性が一人、座ったまま待機している下り線の車両の一点を見つめ、身体を前後左右に揺すりながら歌のようなものを口ずさんでいた。わりと大きい声で聞き取れないわけではないのだけど、内容はまったく理解できない支離滅裂なものだった。なんともいえない気持ちになりつつ、読書は諦めてベンチの更に二十メートルほどの奥にある、世界の片隅に追いやられた喫煙所―ぽつんとホームの端に銀色の屋根がスノコ状になっている巨大な業務用灰皿だけが存在する場所―でタバコのようなものを一服やるため、その人の前を通りすぎようとした。

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