忘却

第一章

第一部

鼻がムズムズする。
朝焼けが夜空を染め上げていく。
「朝か」
舘花弓が目覚めたのは、早朝のことだった。覚醒と共に右肩辺りがやけに温かいことに気づく。微かな音が耳に入ってきて、次第に大きくなっていく。
「ゴロゴロゴロ」
それは、ニボシが喉を鳴らす音だった。まったく、人懐っこい猫だと独り言ちしながらも、平安な一日の始まりを迎える。寝たまま手を組み伸びをして、ノソリと状態を起こす。立ち上がり大きく深呼吸して、まだ小さなニボシの温かい身体を両腕で大切に抱きかかえ、一階へ降りる。
リビングの扉の前に立ち、ニボシを左腕に抱き替え、そっとノブを手前に引くと冬の乾いたツンとした空気がヒューと音を立てて全身を包み込んだ。弓の身体は反射的に前傾になり細かく震える。
「ニャー」
「オマエも寒いか~」
冷たい風に吹かれ、目覚めたニボシの目は憂鬱さを映して、私に訴えかける。
「ストーブ、だろ?」
スイッチを入れると、ものの五秒で絶妙な機械音をたてガスに着火し、これまた乾いた風が今度は温かさを引き連れて足元に吹きかける、ニボシはガスの燃える音に反応して私の腕から飛び降り、早々と暖をとっていた。ニボシの薄情さを傍目で見ながら、テーブルの上のリモコンを取りテレビの電源を入れる。刹那、若いアナウンサーの肉声が朝のリビングに響く。
「…今日も寒さの厳しい一日になりそうです」
幾度となく聞いたセリフだ。そうだ、寒いのだ。それも一年中、この島国の四季は数年程前に消えてしまった。何年前だろう、多分、子供の時の記憶だ。それほど雪の降らない冬が終わり、草木たちが温かさを感じ始め春が始まり、次第に新緑に列島が飲み込まれ、そして黄、赤と葉の色が移り変わり、北風に吹かれて葉が落ちて、そして長い冬が始まった。突然誰かがスイッチを切ったかのように。あれ以来、草木の芽吹きを見ていない。庭の大きなクスノキも葉を落としたまま立派なその巨体だけを残して、もう何年も沈黙を守り続けている。「この惑星は氷期にはいりました。」専門家先生方曰くそういうことだった。終わらない冬が始まって数年がたったころ世界規模で降雪量が跳ね上がった。ここ数年で雪に飲み込まれた都市は数えきれない。始まりはモスクワ、そしてロンドン、ニューヨークと名だたる都市が雪と雪に追われてきた北方難民たちによって静かに消えていった。七年前に東京を失ったこの国は首都を福岡に移し、何とか国家として機能していたが海外からの難民受け入れに寛容過ぎたのが仇となり日本という単一民族国家は多民族多人種共生地域として変貌を遂げ、年に数回起こる異民族によるテロによって平和でふんぞり返っていたこの国の国民たちは初めて触れる日常の崩壊に恐れをなし海外への移住を余儀なくされ、南へ南へと国民の移動と共に日本は更に細長く伸びていった。日本の細長さが限界点に達した時、北から南へと次第に日本という国はその名前を過去のものにしていき、徐々に消えた。国の機能は個人へと移り、外交と呼ばれていたものは個人レベルの交渉となった。真の個人主義の誕生は人類が氷期を目の当たりにして完成したのだった。地球を覆っていた人類の社会活動は今はその姿を赤道下のみに落としている。しかし、すべての人類が赤道下に移動したわけではない。北には、スノーマンとよばれるなんらかの理由から社会から孤立し、故郷に残る人々がいた。そして、私の仕事は赤道社会活動共同体、通称ESACの観察特派員。初めは、氷期の進行とスノーマンたちの生活を監視し記録するのが主な業務だったが民間輸送会社連合が北方セーフライン輸送網を予算不足と人手不足を理由に凍結してからというもの歩荷としてスノーマンたちへ生活必要物資を輸送することが主業務となっている。今日も極寒の中、足を雪に飲まれながら、彼らに物資を届けねばならないのだ。
「よーし、いってくるわ」
早々と朝のルーティーンを済ませ、ニボシに留守番を任せESACの物資ハブへ。ハブに着くと今日の分の物資がこれでもかと半ば嫌がらせのように積まれていた。今日はやけに多いと配達先リストを確認すると、リスト上に見新しいコードを発見した。それを配達用応用コンパス(タブレットのようなもの)に打ち込むと、配達場所はここから東に三キロの丘を指し、配達物は生活消耗品と食料、それと、、見慣れない文字がそこにあった。
「Kodak 35mm negative film 20本…か」
なつかしい、フィルムカメラなど昔に何度かみたことある上、家にもインテリアとして飾ってはいるもの一度も自分で撮ったことはなかった。弓は大きく背伸びをして、新しくこの極寒の地に来たスノーマンとの出会いに期待を膨らませ東へ向かった。

第二部

忘却

忘却

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-06

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