秋祭り
「りんごあめって、案外怖いものなんだね」
少しいかつい顔の店主がさしだしたそれを受け取って、紗江はそう呟いた。店主はそれを聞いていないようで、新しい飴を作るのに必死になっている。安心した僕が、どうして、と聞くと、
「変に小さいの、これ」
と言った。
紗江の生白い手に握られたそれは、確かに昨日僕が剥いたものより小さかった。僕は、しかし、それの異質さにさして違和感を持たなかった。飴の屋台の脇によけた僕たちの隣を、彼女と同じ飴を買った少女が駆けていった。連れ合いの男の子のところに行き着いた少女は、うまそうに林檎飴の表面をなめている。
でも、まずくはないよ
「食べたことあるの」
そりゃ、子供の頃に
僕がそういうと、紗江は手に持った飴をじっと見つめて、赤い口を大きく開け、それをかじった。硬質の音が鳴って、きれいな丸だった輪郭が欠けた。紗江は、しばらく口をもごもごさせた後、息をついて、
「まずい」
と言った。
本当?
「りんごってこんな味だったかなあ」
僕の方に差し出し、食べてみて、と彼女は言った。遠慮して小さく噛むと、林檎は、やはり林檎だった。
こんなもんだよ
「絶対違うよ。こんなに小さくされて、味が落ちたんだきっと。勝手に小さくされたんだ、かわいそう」
彼女は真っ白な顔をして、つまらなそうに呟きながら、あめをゴミ箱の中に入れた。そういえば、紗江の薬の時間は大丈夫だろうか。ポケットに手を入れて時計を 探しながら周りを見ると、先ほど少女らがいたほうから、山車の内の一台が車庫を出てこちらに向かっているのが見えた。山車の前では、おしろいをつけた女姿の男たちが着物を着て、手に持った錫杖を地面に突き出し、こすり、しながら歩いていて、鈴のような鉄輪の音が聞こえていた。ポケットの中の手が携帯電話を探り当て、見ると13時38分。薬の時間までは、まだ大分あった。僕は14時30分にタイマーを設定して、携帯をしまった。
ここにずっといるのもなんだし、動こうよ。
山車でも見よう。
僕が誘うと、紗江はうなづいて僕の腕に細い白磁のうでを通した。
山車は門前の大通りを通っていく予定なので、人も大体そちらに行ってしまって、神社の中は屋台の前の通りでさえ閑散としていた。彼女を人ごみに入れるわけにもいかないので、山車は境内から出るのを見よう、と思って、歩きだし、しばらくして鳥居に近づくと紗江は僕の腕を引っ張って、
「あそこまで見行かなくてもいいでしょ」
と言った。もう動きたくなかったのだろう。9月まで延びた残暑のせいで、汗がこめかみの辺りをつたっていた。
大丈夫?
「少し疲れた、来るときにも通ったんだから、わざわざ人ごみに行かなくてもいいでしょ?」
鳥居に行くだけ、と説明しても、彼女が嫌と言い張るので、近くにあった紅葉の木陰に二人で座った。
山車はたくさん人を引きつれて、車庫から次々と流れてきた。
先ほどの女形、太鼓役、笛役。おびただしい人の塊が綺麗に整列して目の前を通るたび、紗江は、
「怖いね」
と言った。
目の前を女形の列が通り過ぎる。うんざりした顔の大人たちの脇で、小さな杖を持ったやはり小さな女形が列を無視して先走っては母親にしかられている。
「あの子はかわいいね」
うん、かわいい
「私以外にかわいいって言った」
理不尽だろ、それは
それが女の良い所でしょ、と言って彼女は立ち上がり、神社の奥へ歩き出した。秋晴れと言うには少し暑すぎる空気のせいか、幾分か彼女にも血がめぐってきたようで、肌がやわらかな色をしていた。
どこに行くの
「社。山車、あきちゃったの。おんなじようなのばっかだもん」
作り手がかわいそうだな。
「そんなのしらない」
彼女はいやに冷徹だった。ポケットから携帯を出して時間を見ると14時02分。もう少しで薬の時間だった。
紗江、薬
「しらない、そんなの」
そう言って、紗江は逃げるように走って行き、僕は携帯をしまって、あわてて後を追った。
意外にも、社前の広場には人が何人か集まっていた。隅に居座っている楓の木の傍でひっそりと、輪になって何かを見て、笑っている。紗江はその輪を少し離れて見ていた。近寄って声をかけると、
「猿」
と言った。
見ると、輪の真ん中で地味な服を着た芸人が猿回しをしていた。綱を片手にしっかりと握り、猿にボールの上を歩かせている。
ああ、これを見に集まってるんだね
「怖いね」
綱で首をゆるく縛られた猿は宙返りをして地面に降り、会釈した。顔を上げると胸は大きく反らされて、足も偉そうに開かれている。始終目は人を睨んでいるが、綱には逆らおうとはしていない様子である。
大丈夫、逃げないよ
「それが怖いの」
輪の中の一人、ブラウスを着た女が猿に手を伸ばし、頭を撫でている。続いて半ズボンを履いた男子、老婆、老いぼれの男……
たかられた猿はさすがに息苦しそうにもがいている。人間たちはそれに気がつかないかのように腕を伸ばし、猿の堅く整った毛並みを侵していく。
紗江のほうを見る。白んでいた肌は、もうほのかに赤くなっていて、りんごあめみたいだと思った。しかし、その顔はあれよりもずっと大きい、ホモサピエンスの形をしていた。
「やめてよ」
彼女がそう言った時、猿の綱が芸人の手から離れた。猿は人の股をくぐり、それを見た観客は、きゃ、と猿みたいな悲鳴をあげて逃げ出した。逃げるものを追いたくなる性質を彼らは知らないらしい。猿は、まずブラウス の女を追い、次に女の逃げた先にいた、老いぼれの男に狙いを変えた。男は軽い悲鳴をあげて走り、広場をぐるぐると回った。猿は、近くに他の人間がいるのを 見るとその度に標的を変え、楽しそうに追い立てている。隙をみて境内を出ようとする人もいるが、追い回された他の人がすぐにやってくるので逃げるに逃げられない。境内の砂利は猿と人とに蹴り上げられて、絶え間なく軽快に鳴っていた。今標的になっている半ズボンの男子が猿に追いかけられたまま、広場の外へ出ようとして、老婆に大声で止められた。どうすればいいのか分からなくなった少年は、老いぼれの男の方へ走っていき、猿をなすった。
「なんで、あの人たち外に猿を連れて外に行かないの」
だって、混乱するだろ、街が。
「つまんない」
僕と紗江は、それらを蚊帳の外でずっと見ていた。脇に芸人の男がうずくまって、しきりにどうしようと呟いている。紗江は動こうとしない僕と芸人を一回ずつ見て、
「私行くわ」
と言って駆け出し、広場の真ん中で手を広げて仁王立ちした。危ない、と思って僕は走り出したが、遅く、また標的になって、頭を振りながら走っていたブラウスの女が、紗江の隣を通り抜けた。猿は横目で見つけた紗江を睨み、広場の砂利をまた蹴って、高く飛んだ。紗江は、手を広げたまま、笑っている。
「紗江っ」
目をつむった僕は、猿の着地する、あるいは紗江の倒れる、そのときに鳴るはずの砂利の音が長く鳴らないことを不思議に思い、目を開けた。
紗江は、猿を抱いて、そこに立っていた。
猿は赤い顔を彼女のやはり赤い顔に、同極でつく奇妙な磁石のようになすっている。
「かわいいね、お前」
紗江はそう言って、猿の渇いた唇に口付けた。
僕はもう、何も言えなくなってそこに立ちつくしていた。何がなんだか分からなかった。彼女は僕のそばを離れ、猿を抱き、口付けしたのだった。僕は彼女にそれらをまだ許されていなかった。ようやく、
大丈夫?
と訊くと、紗江は、
「私、今最高なの」
と言って、こちらに近づき、芸人の隣で猿を降ろして、
「大事にしてね、首輪なんか駄目だよ」
と言った。彼女の顔は、本当の猿みたいに赤かった。携帯のアラームが鳴って、薬の時間を知らせた。
紗江、薬
バックを探ろうとする僕の手を引きとめて、、紗江は
「やめたの、それ。決められたくないの」
と言って、広場の出口へ歩いていった。僕を引き止めた彼女の手は、今までで一番熱かったな、と僕は思いながら、
「それも、いいね」
と呟き、白い砂利を蹴って彼女を抱きしめた。僕の体もいつの間にか熱くほてっていて、いつもより熱い体と体が合わさる。少しくるしい。「嫌?」と訊くと、紗江は「もう」と言って、僕の腕にキスをした。
猿がまた跳ねたのだろう。僕たちの後ろで、きいという甲高い声と、気持ちのいい砂利の音が聞こえた。
秋祭り