Fate/Last sin -33
辺りは薄暗かった。
しんしんと、何かが空から落ちてきて、冷え切った路面に降り積もっている。それは雪のように軽やかに舞い落ちていたが、雪ではなかった。思わず触れてみると、べったりと粘つきのある黒いタールのようなものが手に付く。ぎょっとして振り払ったとき、不意に前方から声が聞こえた。
「そんなものに触ってはいけない。呪いが伝染ってしまうよ」
楓は目を上げた。
辺りは見慣れたはずの、自分の通っている大学の構内だった。イチョウの並木と、レンガで作られた古風な門扉がその証拠だ。ぐるりと見渡すが、あたりには人一人いない。それどころか、普段灯っているはずの街灯も無く、降ってくる奇妙な黒い雪のせいで視界も悪い。葉も落ち、寂れた並木の果てが暗闇の中に滲んでいる。
声の主は、その暗闇と視界の狭間に立っていた。
「ここは、どこなの?」
楓はささやくような声で彼に尋ねた。姿の曖昧な彼は、白い髪が泥に汚れるのも構わず立ち続けている。その人影から声が上がった。
「ここは聖杯の中だ。君はついに勝利したんだよ」
「……現実世界ではない、ということ?」
「現実であって、現実ではない。この場所に形はない」
「……あなたが、風見をあんなふうにしたのね」
楓は鈴を転がすような、小さな声で言った。
並木の外れに立っていたアルパは、困ったように首を傾げた。
「君には、そう見えるかもしれないね」
「いったい何のために?」
楓の胸の内で、心臓が早鐘を打っている。アルパは困惑した笑みを絶やさずに答えた。
「聖杯が要る。私の中の、〈彼女〉の願いを聞き届けなければならない」
「彼女……?」
アルパは唐突に、白い制服に包まれた、自身の胸元を指した。
「十一年だ」
暗い視界のなか降る雪が一層激しくなって、彼の表情がかき消される。
「十一年間、ここにいる、彼女の意志に囚われてきた。いや……囚われたなどという言い方は誤解だな。私は、既に〈彼女〉そのものだ」
「どういう……」
「ただ一つだけを願っていた。十一年間、ただ一つだけだ」
白い制服の脚が一歩、前に進んだ。
「この世界から、魔術を消す」
アルパはそう言った。
「この世界にいる魔術師は全員殺害する。この世界の神秘を白日の下に曝け出す。魔術基盤は徹底的に破壊して二度と還らないようにする。そうすれば、もう二度と聖杯戦争は起こらない。英霊という概念も消える。どんな矮小な神秘でも、永久に失わせる。そこまでしてようやく、〈彼女〉は―――私は、満足するよ」
コツ、コツ、コツ、とアルパの足音だけが、虚ろな空間に反響していた。楓は足を引きずるようにして一歩後ろに下がる。息が上手くできない。
「どうしてそんなこと願うの? あなただって魔術師でしょう? そんな願い事は、矛盾しかしていないじゃない」
べたついた黒い雪が、徐々に吹雪のように速度を増して舞い上がっていた。楓は髪や肌に付いた泥を払いのけながら、アルパに問いかける。
「あなたはいったい何者なの? 〈彼女〉とは誰のことなの?」
「まだ分からないのかい?」
吹雪の中で、白い手袋をした手が楓の細い手首を掴んだ。慄いた楓はすぐ傍に迫ったアルパの顔を見上げて、紫水晶のような虹彩と視線を合わせ、息を呑む。
「十一年前、その〈彼女〉は聖杯の器に選ばれた。最後の時まで、どうして彼女が気づかなかったのか、私にも分からなかった。何度も忠告しようとした。けれど出来なかった。私は彼女の病を見なかったことにして、見殺しにしたんだ。聖杯戦争の最後の日、二月の初雪の日、彼女は何も知らないまま、五人目のサーヴァントとマスターを手に掛けてしまった。満ち足りた聖杯は、そこで彼女の肉体を聖杯に変貌させた。
君も知っているはずだ。その不運な十六歳の若い魔術師の名前を」
楓は殴られたような眩暈に、膝から崩折れた。
「――――なんて? なんて言ったの、神父………」
視界が回っている。十六歳の魔術師、と彼は言った。十一年前、楓は八歳で、ちょうど八個年上の姉は、十六歳だった。その聖杯戦争に、もう一人十六歳の魔術師がいた可能性はどのくらいだろうか?
アルパは楓の手首を掴んだまま、目を伏せて彼女を見下ろす。
「望月花は十一年前に死んだ。……肉体の方は」
「……どういうことなの?」
頭から血の気が引いていく。けれど楓は堪えてアルパの顔を見上げた。膝に力が入らず、立つことが出来ない。それでも彼の表情は目から離さなかった。
アルパは薄い唇を開く。
「聖杯には例外なく、意思がある。聖杯の意思だ。この世に生まれ出たいという、出生願望が備わっている」
「……」
「望月花は、十一年前のキャスターのマスターに陥れられ、肉体を聖杯の降臨のための贄にされた。当然、不要になった肉体は死ぬ。だが信じがたいことに―――彼女は、死の間際に聖杯の意思を塗り替えてしまった」
「塗り替えた……?」
吹雪はいつの間にか止み、気がつけば、あたりの風景は一変していた。相変わらず視界は暗いが、そこは見覚えのある景色だ。
聖堂教会の礼拝堂、祭壇に立つアルパが、長椅子のひとつに座っている楓に言う。
「『この世に生まれ出たい』という聖杯の本能を、花は書き換えた。『この世全ての魔術を排斥する』―――と。一体どうやってそれが叶ったのか知る者はいない。ともかく、聖杯は塗り替えられた意志のままに、風見にいた魔術師、聖杯戦争のマスター達を、余すことなく殺し、呑み込んだ。十一年前の記録が明らかに乏しいのはそのせいだよ」
「……」
楓はこめかみを押さえた。魔術の見識がほとんど半人前の楓には頭の痛くなるような、気の遠くなるような話だった。姉が死んでいたという事実だけで息が止まりそうなのに、聖杯になった、と言われても想像もつかない。まして、聖杯の意思や、魔術の排斥と言われても、自分の手に負える話ではない、と楓は俯き、唇を噛んだ。
しかし俯きながらも、楓の手はスカートの裾を握りしめる。アルパは少し間を置いて、続きを語り始めた。
「そうして全てのマスターが殺された。私のマスターも例外なく。ところが聖杯は―――望月花は、最後の一騎になった私を殺す前に、問いを持ちかけた」
*
「何だって?」
凍えるような冷気が辺り一帯を満たしている。キャスターの声はその虚ろな広場の中に弱く反響した。泥と、血と、悪意で凝り固まった聖杯の中だ。
「だから、聖杯はあなたにあげると言っているの」
目の前に立つ少女はそう繰り返した。栗色の髪を二つに結い、刺繍の入ったワンピースを纏った、外見だけはごく普通の東洋人の少女だ。だがその姿は実体ではないことをキャスターは知っていた。彼女は、望月花は、この聖杯の中に溶けあって既に死んでいるはずだからだ。
「理由が不明だ。私は敵対していたサーヴァントで、しかも敗者だ。なぜわざわざ聖杯を私に?」
キャスターは慎重に問う。花は、目を細めて笑った。出会った時から、キャスターはその笑みが好きではなかった。十六歳の少女とは思えない、老獪さが滲み出ている笑みだった。
「少し考えればわかるじゃない。あなたしか生き残っていないからよ」
「君がいるじゃないか。君が使えばいい」
「なに言ってるの? もう死んだじゃない、あなたのマスターに騙されて。私自身が聖杯の意思なのよ。あなたが私に形を与えるの。そのためにあなたを残したのだから」
「……」
キャスターは詰めていた息を吐き出した。
「君の事だから、好きに願っていいという事ではないんだろう」
「当然よ。あなたが私に与えていい願いは一つだけ」
花は笑みを消した。
「あなたは受肉を願いなさい。私の、聖杯の泥があなたの肉体を形成するの。私の遺志は泥と一緒に、あなたの身体の一番深いところに永遠に巣食う。あなたはその身が滅ぶまで、私の奴隷になりなさい」
「―――私はこれでも神代を生きた英霊の端くれだ。人間の傀儡になど簡単に成り下がれるものか」
「笑わせないで? 自分の願望を叶えるために私という人間ひとり見殺しにした魂の、どこに英霊の高潔があるのかしら。あなたは所詮その程度の英霊なのよ」
キャスターには、目の前にいる少女が、一つの堅牢な要塞のように思えた。根底から、何かが普通の人間と違うのだ。その人間味の無さはかつての自分のマスターも同じだったが、望月花のそれは一段と異様だった。
まるで、自分の為すことが全て正しいと確信しているかのようだ。
「……一つ、聞いておきたい」
「どうぞ」
「なぜ、聖杯の意思を塗り替えた」
どうやって、とは聞かなかった。望月花ほどの能力に恵まれた魔術師の『やり方』には、ほとんど意味はない。重要なのは、なぜ、の方だ。
花は一瞬虚を突かれたような顔をして、すぐに目を伏せる。キャスターは畳みかけた。
「なぜ魔術の排斥を、根絶を願う? 私を受肉させてまで生き延びて目的を果たそうとする理由は何なんだ? それほど憎かったのか、君を殺したすべてが」
「そうね」
花は静かに、遮るように答える。
「そう。憎いわ。そもそもこの世界に魔術が無ければ、私は、魔術師になることはなく、聖杯戦争に参加することもなく、こんな運命を辿ることはなかった。だから全員殺してやりたかった。自分の運命に報いたかった。そう答えることは簡単だわ。私だけが極悪人で済むもの」
力のない声が響く。
「でも違うの。これは、……これは、私の妹のため」
花は苦しげに胸の内を吐露した。
「私、本当に、こんな儀式で死ぬと思っていなかった。絶対に聖杯は私のものだと思っていたの。でも負けてしまった。あろうことか、死んでしまった。私が自業自得で死ぬなら、まだ大人しく死ぬわ。けど私、わたし―――妹に魔術を継がせることは絶対に嫌なの」
キャスターは目を見張って、その言葉を聴いていた。ついさっきまで堅牢無比の要塞だった魔術師が、ただの十六歳の少女に変貌している。
少女は輪郭を震わせて囁くように言った。
「あの子は魔術師になってはいけない。あの起源は、魔術師として生きていくには辛すぎる。こんな策略や狡猾や残虐が蔓延る世界に、あの子を、楓を招き入れたくない。楓は何も知らず、ただ普通の人間として幸福になってくれればいい。でも私が死んだら、彼らは必ず楓に魔術を教えるわ。
だから、この世界から魔術そのものを奪わないとならない」
最後の一言を口にした瞬間、望月花は少女から魔術師の顔に戻った。キャスターは深く胸を打たれて彼女を見下ろしていた。
自身のマスターを思い浮かべる。彼と望月花は似ていると思っていたが、根底から違うのだ。花はひとりの人間を真摯に想うことを知っている。空想上の全人類ではなく、ただひとりのために、世界を覆すことも厭わない。
キャスターはゆるやかに首を振り、花に言った。
「では今ここで、君の代わりに私がそれを願おう」
「本心から、それを願える?」
花は目を上げてキャスターを睨んだ。
「聖杯は生半可で気軽な、思い付きの願望なんて叶えやしない。それが願いではないことくらい理解するの。魔術基盤の破壊なんて魔術師のあなたには無理。だから―――」
「あの子だけが、願える。こんな運命からの脱却を。こんな醜い世界の破壊を。あの子に聖杯を捧げる日まで、私は絶対にあきらめない」
*
いつの間にか景色が変わって、そこは風見の南に位置する海岸だった。
空には重く雲が垂れ込め、相も変わらず黒い雪が吹雪いて体に叩きつけられる。じっとりと重い湿った砂に、緩慢に繰り返す潮騒だけが響いていた。
「今まで辛かっただろう」
呆然と座り込んだままの楓の膝の上から、その白い手を取る。赤い令呪が三画、呪いのように刻まれた手だった。アルパは十二画が刻まれた右手でその弱弱しい手を包む。
怯えたように、楓がわずかに身をよじった。彼女の肩は震えていた。
空に、深い暗黒が口を開いている。
「君だけが、あれに正しい形を与えられる。花が私に託し、私が君に与える、最後の希望だ」
「……姉さんが」
ささやくように口にした楓の双眸から、瞬きと共に透明な雫が零れ落ちる。
「本当に、そう言ったの?」
「そうだ」
「あなたはそのために、今まで生きていたの?」
「そうだ」
「……最後に、こうするために?」
そうだ、とアルパは繰り返した。楓は俯き、しばらく沈黙したまま動かなかった。
思考の奥で、〈彼女〉の気配がする。肉体が十一年前の聖杯によって与えられたものである以上、切っても切り離せなかった気配だ。明瞭な言語を操らなくても、直接行動を起こさなくても、はっきりと感知できる。自分のものであって、自分のものではない意思。それが、肉体の奥で蠢いている。
楓の答えを確信しているのだ。
そしてそれはアルパ自身も同じだった。十一年という歳月をかけてゆるやかに折られてきた楓の心は、きっと花の願望に共感する。
だから―――
「楓」
令呪の刻まれた手を強く握る。その口でただ一言告げるだけでいい。この世界は、魔術とは決別する、と。世界は、それに逆らうことはできないのだから。
楓の目がアルパの顔を見上げた。
「私は願わない」
多くの令呪が刻まれた腕を振り払った。立ち上がり、正面からアルパと対峙する。彼は呆気に取られてその様子を見ていたが、やがて口を開く。
「理解が不可能だ。君は自分が何を言っているか、分かっていないだろう」
身を切るように冷淡な声だった。
「……あなたこそ、私のことを分かっていないよ」
楓は凛とした声色でそう告げたが、すぐに悲しげな表情を浮かべた。
「姉さんが私のことを想ったのと同じように、私もこの十一年間、姉さんのことを想ってきたの」
「なら、どうして姉の遺志を無駄にする?」
アルパは明確に怒りの感情を向けてきた。そうだ。それは怒りだと、楓は肌で感じる。何度も味わってきた感覚だ。苛立ち、憤慨、そして少しの焦燥。何度も、自分に向けられてきたから、よく分かる。みんな、私に苛立っていた。無能だから。臆病だから。役立たずだから。姉さんの代わりになれなくて、自分が何なのか分からなくて、ずっと怯えていた。
でも、今は違う。私は恐れない。私が同調するべきは、この魔術師ではない。
楓は冷たい空気を吸い、一息で口にした。
「私が魔術師を否定したら、姉さんまで否定してしまうことになるから」
「―――」
彼はわずかに動揺したようだった。楓は迷わず畳みかける。
「魔術師なんて恐ろしくて醜いだけで、世界には要らないものだと決めてしまったら、私の姉さんはどうなるの? 姉さんだけじゃない。クララさんや、香月さんや、もっと他の魔術師だってそう。最初から、みんな人間だった。姉さんも、姉さんを殺した魔術師も、人間だよ。要らないと言って簡単に捨てられるものじゃない」
「―――魔術師が人間だと?」
アルパは虚ろな暗い眼で楓を睨みつけた。
「何も知らないで、よくそんな能天気な言葉を吐けるものだ。そう言っていたという女はとっくに、この聖杯の生贄になった。ああ確かにあの女は、魔術師である前に人間だっただろう。浅慮で愚かなところが特にそうだ。浅慮で愚かだったから、私に利用されて死んだ。善良で愚鈍な者から死んでいく、そういう世界だからだ」
十二画の令呪が刻まれた彼の腕が、空を掴むように横に振られた。次の瞬間には、その手は見慣れない長い杖を握っている。孔雀色と白の刻印の入った大蛇が巻き付いた大きな杖だ。
「そんな世界のどこに美徳がある? 根源の到達、神秘の掌握など嘯いて、結局誰がそれを可能にした? 魔法に辿り着けても後の残りが全員死んでいたら意味がない。いいかい、楓、魔術師の中で最も弱いのは善良な者、次に弱いのは冷酷なだけの無能、最後に残るのは人間をやめていった化け物だけだ。もう魔術は世界にとって悪でしかないんだよ」
「――――っ」
口を開きかけた楓の足元に、何かが素早く絡みついた。
「!」
悲鳴を上げる間もなく、重く湿った砂浜から何かが次々に楓に飛びつき、身体を締め上げていく。それは白い大蛇だった。人の身長ほどもある無数の大蛇が、暗灰色の砂から這い出て、楓の動きを封じていく。
気がつけば、辺りの砂浜だった場所は一面、蛇の群れで埋め尽くされていた。
見慣れた風見の風景が、張りぼてが焼け落ちるように崩れて燃え落ちていく。黒い雪が一層激しく降り注ぐ。
その吹雪の中、ただ一人で立つアルパが氷のように冷たい声で言い放った。
「もういい。君はそこで見ていろ。私は君と、この世界の全てに、心の底から失望した」
「――――!」
待って、と叫ぼうとしたが、口を塞がれているせいでくぐもった呻き声しか出ない。視界が熱く、ぼやけていく。泣くな、と自分を叱っても、涙は次から次へと溢れて止まらない。
魔術師は、姉さんは愚かなんかじゃない。世界から消えた方が良い存在なんかじゃない。
どうして分かってくれないんだ。
あなたは、姉さんの遺志を誰よりも知っているくせに!
アルパは白い背を向けて、轟音を立てて荒れている海辺まで静かに歩いていく。
彼が聖杯を使う気なのだと、楓は直感した。十一年前に出来なかったとしても、今の彼になら出来てしまう気がした。しかし口を塞がれ、手足の自由を奪われた今の楓にアルパを止める手段は無かった。
「――――! ――っ待って、―――!」
無数の蛇に締め上げられ、体中が軋みあがる。楓は窒息寸前の身体を何とかよじらせてもがく。救いを乞うように喉を震わせて叫んだのは、いつも脳裏に閃く、彼の呼び名だった。
「セイバー!」
Fate/Last sin -33