三十八歳の逡巡

月らくだ

三十八歳の逡巡

三十八歳の逡巡

 三十八歳になって、僕は急にもてるようになった。魔法にかけられたみたいに。もちろん、勘違いだっていう可能性もある。満員電車で小柄な女性が僕の脇にすっぽり収まって離れなかったからって、それは僕のフェロモンのせいじゃないだろう。それとも、フェロモンが出てるのか?三十八歳はそういった境目なのか?会社の後輩の女の子が、みんなで食事に行った時に酔っぱらって僕にしなだれかかってくる。何度も腕に触れたり、いい匂いのする頭を僕の肩にそっとのせたりする。僕が見つめても、目を離さない。少し潤んだ瞳だ。二人きりで、かつ彼女の唇に大きなヘルペスができていなかったら、僕は彼女にキスしてしまったかもしれない。駅まで向かう帰りの道のり、彼女は周りを気にせず僕の腕を取る。僕らは腕を組みながら、歩道橋を渡る。
 バーで一人で飲んでいた時に、隣の二人組の女性に声をかけられたこともある。僕らは三人で別の店に飲みに行った。二人とも三十代で、子供がいた。僕が童貞だと言うと、笑いながら、じゃあ私達が教えてあげる、と言った。帰りに、二人から連絡先を訊かれた。女達は何でも共有する。助け合って生きていく本能が染みついているのだ。彼女達は僕の童貞を肴に、後で二人で、あるいはさらに何人かの同志で、猥談に興じるだろう。女達は、いくつかの仮面をさっと付け替えることができる。そして恐ろしいことに、その全てがみんな本物なのだ。
 僕が急にもてはじめるようになったことを、僕の恋人は気づいているかどうかわからない。僕の恋人は人間関係に関して勘が鈍いのだ。きっと他の女性よりも男性ホルモンが多いのだと思う。自分の道をぐいぐいと進む。だから、周りが自分のことをどう思っているかあまり気を向けないし、人が何を考えているかにあまり興味を向けない。大体どんな人間とも上手く付き合うが、それは自分がやりたいことをやるためだ。自分とは関係ないところで誰が何をしていようと、ほとんど興味がない。行動には興味を向けるが、状態は目に映らない。だから、僕が他の女性と二人きりで飲みに行く日にはいつも綺麗なシャツを選んだとしても、いつもよりも念入りに髭を剃り、髪をセットしたとしても、全然気づかない。僕は時々自分が男性と付き合っているのかとさえ思う時がある。僕が仕事の帰りに髪を切ってきたとしても、新しいシャツを着てきたとしても、彼女は全く気づかないかもしれない。ただ、匂いには敏感なので気をつけなければいけない。
 僕はずっと女性を求めている。女性の柔らかさと温もりに対する性的欲求。何でも受け入れてくれる母性、永遠に変わらぬ新鮮さと美しさを。でもそんなものはどこにもない。僕にはわかっている。会社の後輩にしても、子持ちの二人組にしても、二、三回セックスすればもう欲望を喰らい尽くしてしまうのだ。後に残るのはわずらわしさと気まずさ。あるいは面倒くささ。そしてそんな風に感じている自分と人類全体に辟易する。次々聴ける美しい音楽のように、女性がやって来ては消えていけばいいのに。どうしてそうならないんだろう。僕は愛なんていうものを信じていない。信じていたのは三十歳までだ。男と女の間に愛なんてものはない。本当に。あるのは欲求だけだ。ただ、愛という言葉が、いつの頃からか人々にうけただけに過ぎない。親と子供の間には愛はある。でも、男と女の間に愛はない。愛という言葉は、本来、親と子供の間にある感情を、血の繋がりで結ばれた人間同士にある感情を指し示す言葉なのだ。それを誰かが男と女の間に転用し始めた。それで、愛という言葉が、男と女の関係が、ややこしくなってしまった。愛前提で恋愛が語られ、愛という虚構の建前なしではセックスしてはいけないような雰囲気が広まった。セックスするのは愛があるからではない。セックスしたいからセックスするのだ。時には子供を作りたいからセックスするのだ。
 僕がいくらそんな熱弁をしたところで、うんうんそうだね、と言って、セックスさせてくれる女の子はどこにもいない。愛という言葉はあまりに深く人々の心に根をおろしてしまった。だから、僕も愛を信じているふりをする。なぜだか全く理解できないが、女性は他に恋人がいる男性に体を許すのを敬遠するので、僕は冗談交じりに童貞を標榜することになる。女性達はみんな童貞、ただし本当に童貞ではない童貞、が好きだ。私が教えてあげる、これはだたの慈善活動、という免罪符を得られるからだ。理由なしにはセックスできないほど、愛は人々の心に汚らしい欺瞞という蜘蛛の巣を張ってしまっているのだ。
 僕が次第にもてるようになったのも、そんな風に愛という言葉を消えてしまうほど研ぎ澄ましていったからかもしれない。酒に蒸留を重ねて水にしてしまうように。純化。僕は愛という贅肉を落として、欲望という筋肉を身につけ始めた。僕は愛で女を抱かない。嘘や言い訳のない欲望。でなければ、慈しみからくる同情。ただ、皮肉なことに、人間誰でも毎日パンだと飽きてしまう。それがどんなに豪華なパンだとしても。パスタも食べたいし、ステーキも食べたい。ポテトチップスだって食べたくなるし、ビールに飽きたらワインやウィスキーを飲みたくなる。それは当たり前のことだ。食べ物だったら誰も責めない。ただ、女のことになるとみんな一斉に責めたてる。
 なぜだ。


 会社のエレベーターに乗りこむと、先に乗っていた事務の女の子と目が合う。こんにちは、と僕は言う。彼女は柔らかで少し戸惑いのある笑顔を浮かべて、じっと僕を見る。僕は、何か?という表情で眉を上げる。
「いい色に焼けてるな、って思って。マリンスポーツかなんかやってるんですか?」
「ええ、そうなんです」
「ああ、やっぱり」
「嘘です。休日、公園でゴミ拾いをしてるんですよ」
「へえ。えらいですね」
「今度、一緒に拾いに行きません?なかなか気持ちいいですよ」
「ええ、いいですね」
 八階に着いて、ドアが開く。僕は先に降りる。降り際に、後でメールします、と言う。
 はい、と彼女はにっこり微笑って応える。
 僕はやっぱりもて始めている。


 そして休日の午後、僕は事務の女の子と駅で待ち合わせる。
 私、ちゃんと軍手を持ってきましたよ、と彼女は屈託のない笑顔で言う。純粋な子なのだ。僕は、実はいつも行ってる公園が工事を始めちゃったんだ、と言う。「遊具を新しく取り替えるらしい。すべり台とか、ブランコとか」
 あら、と彼女は言う。「じゃあ、別の公園に行きますか?」
「いや、他に散らかってる公園を探すのも面倒だし、今日はここら辺をぶらぶらしない?」
「そうですね」と彼女はまた屈託のない笑顔で応える。
 僕らは街中を散歩しながら色んなことを話す。休日はいつも何してるの?とか。彼女は、大体家でのんびり本を読んで過ごしてます、と言う。どんな本?と僕は訊く。最近の小説、と彼女は応える。僕はよく小説を読むが、最近の小説だけは読まない。彼女の好きな作家の名前は聞いても全くわからない。ナオさんの好きな作家は?と訊かれて、僕は、夏目漱石、と応える。
「知ってる?夏目漱石の脳は東大医学部に保管されてるんだ」
「へえ、不思議」
「後何百年かしたら、『明暗』の続きが読めるかもしれない」
 ぶらぶら歩いた後で、僕らは街の大きな本屋に行く。そこで三十分間程、それぞれ思い思いに本を眺めて過ごす。僕は、彼女のために『それから』を買って、プレゼントしてあげる。
「気に入らなくて、途中で読まなくなっても、僕は全く傷つかないから大丈夫」
 彼女は僕をじっと見つめる。
「僕も人から薦められた本を読んで面白いと思ったことなんて一度もない」
「じゃあ、なんで買ったんですか?」
「うーん、気まぐれ?」そう言って、僕は笑って見せる。
 それから僕らはまた街を散歩する。ゆっくり辺りのお店を眺めたり、色んな話をしたりしながら。僕らはいつしか手を繋いでいる。僕が、こっちに行ってみようよ、と横道を指した時に、彼女の手を取ったのだ。彼女は少し黙ったが、嫌がるそぶりは見せない。僕は、深い意味はない、友好の証だ、といった風に自然と手を離したり、また繋いだりする。神社を見つけて、お参りをする。おみくじ。僕、大吉、彼女、中吉。大吉の恋愛、『積極的に行けば叶う』。彼女は、ナオさんは彼女いないんですか?と訊く。僕は、いないよ、残念ながら、と応える。
「もてそうなのに」と彼女は言う。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないです」
「もしかして、眼鏡、忘れた?」
「ちゃんとコンタクトしてます」
「ユリちゃんは彼氏いないの?」
「いたら、来ないです」
 なぜ?という言葉を僕はこらえる。
 夕暮れの中をさっと風が駆け抜ける。
「さて、そろそろご飯でも食べに行かない?」と僕は言う。
「いいんですか?」
「こっちのセリフだよ」と言って僕は笑う。「一番イタリアン、二番和食、三番焼肉」
「一番」と彼女は笑って応える。


 気持ちよくご飯を食べて、シャンパンを一本空けて、彼女は結構酔っぱらっている。テーブル越しに、僕の指を弄んでいる。女の子に会う前には必ずきちんと爪を整えている僕の指を。僕の恋人はもちろんそんなことには気づかない。僕は彼女の口にチーズを運んでやる。彼女は目を閉じて、小鳥のように口を開く。僕は自分と彼女のグラスにワインを注ぎ足す。彼女は僕をじっと見る。それから、嘘つき、と言う。
「何が?」
「だって、もてないなんて絶対嘘でしょ」
「本当だよ」
「嘘。絶対信じない」
「ご勝手に、どうぞ」
 もし僕が恋人がいると言ったら、彼女はひどく落ち込むだろう。可哀想なあまり、胸が痛むほどに。なぜだ。僕に恋人がいようがいまいが、そんなことは関係ない。僕は彼女が好きだし、彼女も僕を気に入ってくれているみたいだし、何の障壁もない。セックスしたい。それはとても心地いいだろう。きっと素敵な時間になるだろう。
「今日、私を誘ってくれたのも気まぐれ?」と彼女が訊く。
「気まぐれじゃないよ」と僕は応える。「前から気になってたんだ」
「どんな風に?」
「素敵な女性だなって」
「私も気になってたの。色が黒くてかっこいいなって」
「色黒が好きなの?」
「好き」彼女は僕の指をいじりながら言う。「ねえ、もっと一緒にいたい」
 色黒が好きなのは、僕の恋人と同じだ。


 セックスしたい。
 でも、僕は彼女を駅まで送って、そのまま帰す。彼女はさみしそうに笑う。別れ際に、また、誘うよ、と僕は言う。うん、と彼女は頷く。でも、二人とも次がないことはなんとなくわかっている。もし、次があっても、その時は既にこうした心の通い合いは失われてしまっているだろう。
 僕は反対側のホームで彼女の姿が見えなくなるのを見守る。
 なぜだ。
 なぜ、セックスしない?
 僕は電車に乗り込みながら考える。
 もしかすると、愛がまだ僕の心の片隅に巣食っているのかもしれない。

三十八歳の逡巡

三十八歳の逡巡

男と女の日常を描いた掌物語です。 (過去作品はこちらから → https://slib.net/a/24408/)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted