坂の上の追憶
武部庄吉が病に倒れたのは、例年になく暑さが厳しかった夏の盛りだった。ひとり息子の修一は連絡を受けると、予定を一週間ばかり繰りあげて帰省した。
微かな後悔の念が胸をよぎる。修一が高校卒業と同時に就職し、郷里を離れたのは五年前のことだ。母親はその二年後に病死していたから、以来三年間、庄吉はずっとひとり暮らしを続けていたことになる。
修一は何度も〝一緒に暮らそう〟と誘ったが、この街で久しくクリーニング業を営んできた庄吉は、息子の誘いに応じようとはしなかった。身体が言うことをきく間は、馴染み客との付き合いをやめるつもりはなかったのだ。
そんな事情もあって、ご近所さんが日頃から暮らしぶりを気にかけてくれていたので、日課の散歩に数日姿を見せないのを心配して様子を見に行ってみると、その日の朝刊を手にしたまま、玄関先で倒れている庄吉が発見されたのだった。
聞けば春先から、体調がすぐれない日が続いていたらしい。心配した周囲の人たちは病院での検査を奨めたが、笑って相手にしなかったという。
「放っとけばよか。風邪ばこじらせただけじゃ」
いくら説得しても病院へ行こうとしない庄吉を見かねて、隣家に住む世話好きのおばさんが修一に連絡しようとしたが、庄吉はこれも許さなかった。
「いらんこつば、知らせんでもよか!」
そうこうするうちに、病状は悪化の一途を辿っていった。
一昨年に還暦を祝ったばかり、病気らしい病気も知らず、休むことなく個人経営の商売を営んできた肉体に対する過信、まだまだ息子の世話にはならないという自負、余計な心配をかけたくないという配慮……、いずれの思惑も悪意に根ざしたものではなかったが、それぞれが歯車のように噛み合って招いてしまった結末は深刻だった。
診断の結果は、極度の貧血。その原因を調べる精密検査で、胃の上部に全摘術が必要なほどに進行した癌が見つかった。潰瘍状となった病巣の一部からの出血が、立っていられないほどの症状を引き起こしていたのである。
正月に戻った時には、変わりなく元気そうだったのに……。飲めもしない酒を無理して呷り、真っ赤な顔で嬉しそうにニコニコ笑っていた父親の姿が思い出された。
主治医からは即時の入院と早期の手術を打診されたが、庄吉はすぐには首を縦に振ろうとしなかった。
「お客さんからの預かりもんば、片付けてしまわんといかん」
庄吉が営む店は静かな住宅街の中にある、住まいも兼ねた二階建てだった。一階の一部を仕事場に改装していて、「洗い場」は裏手に設けられていたし、「仕上げ場」は奥まった通りに面してはいたが、外交専門でやって来たこともあって、所在を知らせる看板や受付カウンターなどはなく、傍から見てもそこがクリーニング店だとはわからない。「仕上げ場」に隣接するガレージには、うす汚れた白い箱バンが停まっていて、スライド式のドアには黒い明朝体の文字で、『日乃出クリーニング』と屋号がプリントされていた。
集荷してきた衣類は、水にも溶剤にも滲まないランドリーペンで名字と日付を書き込んだタグが付けられ、「仕上げ場」にある大きな樹脂製の青いカゴの中に入れられる。部屋の中央辺りには、専用のビニール包装まで済んで配達を待つだけの衣類がずらりと吊るされてあった。
「カゴの中の預かりもんば、そのままにはしとられん」庄吉は言い張った。
修一は車で二時間ほど離れた街にあるコンビナートの工場で働いていたから、帰省できるのは週末だけだ。仕方なく個別に連絡を取って、事情を説明したうえで配達日を調整させてもらった。そうして、週末になるとナビ代わりの庄吉を助手席に乗せて、箱バンで市内を走り回った。
配達をしなくてもよくなった平日、庄吉が身体の調子と相談しながら、少しずつ仕事をこなしていった。やがて、カゴの中が空っぽになり、ハンガーに吊るされていた衣類もある程度片付いたのは、夏の後ろ姿が遠ざかる九月末のことである。
十月に入ってすぐに入院し、ほどなく胃の全摘術が執刀された。心配された転移もなく、およそ一ヶ月のリハビリ入院の後、庄吉は無事に退院した。
しかし、入院するまでの無理がたたったのと大掛かりな手術のせいで、体力は予想以上に消耗していた。さらに胃切除術後障害に悩まされ、満足に食事を摂れない日が続いた。当然のように食も細くなり、みるみるうちに痩せていった。
それでも、庄吉は諦めなかった。肉体の衰えを気力で補い、なんとか後遺症を克服しようと懸命に闘っていた。その不屈の闘志が、元の生活を取り戻してみせる、という渇望にも似た熱情に支えられていたことは言うまでもない。
そんな庄吉を変えてしまったのは、たった一枚の葉書だった。
いつもと変わらぬ朝の陽だまりの中、それは炬燵に置いた新聞の上に重ねられていたダイレクトメールの束に紛れ込んでいた。その葉書には花文様の切手が貼られ、裏面には薄墨の縁取りがしてあった。何気なく手にして文面に目を落とした庄吉は、しばらく彫像のように動かなかったという。
その日を境に、毎朝たっぷりと時間をかけて新聞の隅から隅まで目を通すことを日課にしていた庄吉が、新聞を手にすることすらなくなった。まるで飽くことなく続く人々の営為から、無理に目を逸らそうとしているかのように。自らを支えていた大きな何かを失くしてしまった庄吉は、これまでとは別人のように一切の闘いを放棄した。
正月が過ぎて間もなく、庄吉は誤嚥性肺炎を引き起こして緊急入院した。たまたま医局に居合わせた全摘術の執刀医は、ストレッチャーで運ばれて来た庄吉の姿を見かけて、その変わり果てた姿に目を丸くした。
半月あまりを病室で過ごし自宅に戻って来た庄吉には、仕事に復帰したいという意欲は感じられず、たとえ望んだとしてもそれが叶う状態でないことは、もはや誰の目にも明らかだった。
初雷が土中で眠る虫たちを驚かす頃、庄吉は淡々と〝店仕舞い〟を告げた。
「もう身体が言うこつばきかん」
庄吉の告白は、ほんの少しの戸惑いと深い諦念をもって受け入れられた。家族を支えてきた者が老いて退くことは、いずれは必ず訪れるもので避けては通れないし、その時がそう遠くないことを修一は覚悟していたからだ。
「父さん……、長い間、ごくろうさまでした」
短い沈黙の後、息子は居ずまいを正して、老いた父親に向かって深々と頭を下げた。
再び、父子の客先行脚が始まった。
入院前に先延ばしにしていた配達待ちの衣類が、まだ相当数「仕上げ場」に吊るされたままになっている。店を畳むのなら、すべてを片づけてしまわなくてはならない。その数は前回の半数にも満たなかったが、作業は遅々として進まなかった。庄吉の体力消耗が著しく、一日に配達できる数に限りがあったからだ。
最初のうち、馴染みの客宅の玄関先まで足を運び、長年の謝意と別れの挨拶などを交わしていた庄吉だったが、一ヶ月を過ぎた頃には助手席で道案内をするだけで、車内から出ることもほとんどなくなってしまった。
それでも大型連休の前までに、二人は残っていた衣類の配達をほぼ終えていた……。
車はしばらく前から砂利道を走っていた。路面状態は相当に悪く、土肌が露わになっている部分が目についた。処々にできた窪みには、朝まだきの雨が水溜りを拵えている。
「そこ、を……右、に曲がってくれんか」
助手席に座った庄吉が、蚊の鳴くような声で頼んだ。
「え? 何、右だって?」
年代物の箱バンは、いまひとつ感覚が掴めない。慌ててハンドルを切りながら、修一は傍らの老父にちらっと視線を向けた。
庄吉は窓に頭を寄せて、ドアにぐったりともたれかかっていた。いかにも辛そうに眉間に皺を寄せていたが、それでも道案内だけはきちんとこなしてくれている。
凸凹の砂利道が舗装道路に変わった。敷かれて間もないアスファルトの路面が雨滴を弾き、持ち直した空模様の雲間から零れる陽射しを拾っては、鈍色の空を映じている。
真新しい舗装道路は、売り出し中の分譲住宅地の導入路に繋がっていた。道路を挟んだ左手には、造りが似通った建売住宅が軒を連ね、反対側にはまだ整地したばかりの空き地がひろがっていた。その向こうは、今しがた通って来たばかりの砂利道である。
突っ切ると、なだらかな上り坂が続いていた。両側に広く設けられた歩道には赤煉瓦の石畳が敷かれ、沿道にはプラタナスの並木が伸びている。街路樹の数本おきに設置された街路灯は、その先端で二又のアーチを描き、明治時代のガス燈を模した灯具を両手にぶら下げていた。
坂道に沿って建ち並ぶ家々は、ガレージや中庭付きの瀟洒な造りの一戸建てが多い。家並みの合間を切り取っている小さな児童公園やスーパーマーケット、洒落たレストランなどは、パズルのピースが嵌まるみたく周囲に馴染んでいる。
閑静な郊外の住宅街。
修一は坂の頂上へ向かって車を走らせながら、不思議な感覚に捉えられていた。こんな街外れに来たことはないはずだったが、歩道の光景や雰囲気にどことなく見覚えがあったのだ。
坂を上りきってしばらく行くと、右手にロータリーがあった。中央部分の待機場にはバスが二台停まっている。青色のベンチを据えた屋根付きの停留所が、停車したバス越しに見え隠れしていた。
ロータリーを過ぎた辺りから、道は左に緩やかな弧を描く。
「あそこに……、向かって、くれ」
庄吉がわずかに腕を持ち上げて指差す先、カーブ沿いに建ち並んでいる二列八棟の団地群を目にした時、修一の胸の内でわだかまっていた予感が確信に変わった。
――間違いない。前に一度、ここには来たことがある。
それも記憶が曖昧になるくらい、ずっと昔のことだ。おそらく小学校に入る前。だとすると、二十年近くが過ぎていることになる……。
修一はロータリーをやり過ごして、団地の駐車場に乗り入れた。
「父さん、着いたよ」
無駄だとは思いつつ、父親に向かって声をかけずにはいられなかった。
この一枚だけは、庄吉自身の手で客先に届けて欲しかったし、本人もそのつもりでぶかぶかになった一張羅を着ているはずなのだ。だが、修一がそっと様子を窺ってみても、庄吉はぐったりしたまま動きだす気配はない。
溜め息を吐きながら外に出て、改めて周囲を見回す。いや増す既視感と収まりが悪い違和感、相容れない感覚が入り混じって修一を戸惑わせた。
駐車場の縁に沿って、取り囲むように幹を並べている大振りな桜の樹々には、確かに見覚えがあった。しかし、曇り空の下に佇む直方体の建物群は、修一の心の底に沈殿する記憶の断片とは少し違っていた。当時の棟はもっと少なくて、奥は空き地になっていた気がするのだ。実際、八棟の団地は造作こそ同じだったが、壁のくすみ具合や雨垂れの濃淡などを較べてみると、手前に近づくにつれて加齢臭が増していくのがわかった。
スライド式のドアを開ける。
リアシートの上に、A四サイズのプラスチック製書類ケースが置いてあった。半透明のプラケースの中には、折り畳まれたワイシャツがぴったりと収納されていた。
――これで、すべてが終わってしまうのか。
桜並木が満開の花びらを咲き誇らせていた頃、車内には包装用のビニール袋に包まった衣類が、隙間もないほどぎっしりと吊るされていた。樹々がすっかり薄桃色の衣を脱ぎ捨てた今、そこには書類ケースひとつが残っているだけである。他の衣類と違い、わざわざプラケースを使っている荷姿に庄吉の強い思い入れが感じられた。
その白い麻のシャツは、庄吉が最後に手がけた一枚だった……。
あの日、庄吉はシャツ一枚だけのために、「仕上げ場」の床に立った。
年代物のボイラーを叩き起こし、寝起きが悪い彼をなだめすかして、業務用の蒸気アイロンを立ち上げる。
前日、「洗い場」に陰干しにしておいたシャツを持ってくると、腰の高さほどのアイロン台の上で軽く捌く。
父親の仕事振りを目にするのは、ずいぶんと久し振りのことだった。幼い頃のある時期まで、修一は家業を継ぐつもりでいたから、アイロンを巧みに操る庄吉の後ろ姿は懐かしかった。五分足らずの短い時間内でシャツを綺麗に畳み込んでいく一連の動作の中で、皺くちゃにくたびれていたシャツが、卸したてのような張りと艶を取り戻すさまは、何かの魔法を見ている思いだった……。
庄吉はまず、左右のカフスを両手で丁寧にひろげると、左手で生地を引っ張って伸ばしながら、裏側からアイロンをかけていく。把手を掴んだまま操作できるレバーを指で動かすと、底面から噴き出す蒸気を生地にあてるくぐもった音がすると同時に、周囲に独特の匂いが漂った。
次に、庄吉は左右の袖にとりかかった。袖は脇下の縫い合わせをつまみ、背中側の袖を上にして縫い目を揃え、まずはカフスの時と同じように両手を使って皺を伸ばす。生地が伸びてしまわないように、アイロンは袖に対して上下に動かしていく。ひと通り袖を終えると、カフスのボタンを留めて袖襞を折り込み、折り目に沿ってそっと押しあてる。反対側にも同じ袖襞ができているので、こちらも肘から返して上から軽く押さえてやる。
袖の次は衿である。生地と芯地を引っ張りながら、裏表の順番で両側を仕上げた後、庄吉はもう一度シャツをひっくり返して、衿台の真ん中辺りにアイロンを置いた。それから両手で衿先を持って、衿羽を巻きつける仕草をした。こうすることで、襟のラインが綺麗にカールして、畳み込む際に形が美しく整うのである。
前立ての仕上げは、左と右で違う。右の前立てにはボタンが付いているから、庄吉は直接熱した部分に触れないように裏返しにして、ボタンの裏からアイロンを走らせる。
左前立てに手をつける前に、後ろ身頃から処理していくのが庄吉流のやり方だった。
背中を下にしたまま胸をはだけ、霧吹きで充分に湿らせる。後ろ身頃の生地は薄く、アイロンの蒸気だと素通りしてしまうのだ。庄吉は薄い生地を傷めないように、さっと拭く感じで仕上げていった。
後ろ身頃を終えると、第一ボタンを留めて前立てを重ね合わせる。すると右の前立てが自然に下になるから、庄吉はここで後回しにしていた左の前立てを仕上げた。その後、ひとつ置きにボタンを留め、両手で優しく左右の前身頃をひろげてやって、優しく撫でるようにアイロンを滑らせる。
皺くちゃでくたびれていた麻のシャツは、庄吉の手によって見違えるようになっていた。どこにも皺ひとつなく、折り目と縫い目に沿って新品の頃の張りを取り戻していた。
庄吉は手を休めることなく、背筋を伸ばしたワイシャツを裏返した。左右の袖をアームホール(肩の付け根部分)から折り返し、肘の辺りで襟へ向けて直角に折り畳む。何気ない作業だが、カフスと袖襞の型を崩さないようにする手際は鮮やかだ。見頃を左右から折り重ね、裾を十五センチほど折り返したあと、それをさらに半分に畳む。表に返して、厚紙製のカラーホルダーを襟に嵌め込むと出来上がりだった。
丹念に時間をかけて、自らの最後の作品を丁寧に仕上げていた父親の姿は、今も修一の脳裏に焼き付いていた。庄吉が滑るようにアイロンを走らせたあとのシャツは、その純白の布地の処々に細い光の糸を織り込んだみたいに、淡い輝きを宿しているように見えるのだった。
戸口に立って、庄吉の動きをぼんやりと眺めていた修一の視線は、惹き込まれるように熱のこもったものに変わっていった。いつのまにか背筋を伸ばしていることにも気づいていない。そこには、長い間ひとつの道にひたすら人生を傾けてきた者だけが手にすることが出来る、凛とした佇まいがあった……。
ドアが閉まる音がして、修一は我に返った。
「どげんした、行かんとか?」
庄吉が箱バンに片手をついて立っていた。
「父さんも行くつもり?」
「当たり前じゃ」
庄吉は眩しそうに目を細めて団地群を見上げていたが、一歩を踏み出そうとした時、痩せた身体がぐらりと傾いた。
修一は慌てて駆け寄ると、庄吉に肩を貸した。
「すまんな」
そこは、いちばん手前の棟の三階だった。修一に支えられてなんとか階段を上りきった庄吉は、吹き通しの共用廊下の手前で立ち止まった。肩に回していた手を離し、しばらく息を整える。やがて、一張羅の襟元を正したかと思うと、修一に向かって右手を差し出した。シャツを入れているプラケースを「渡せ」、ということらしい。
何も言わず、すたすたと歩きだした父親の後ろ姿に付いていきながら、修一はその思いのほか確かな足取りに驚いていた。つい先刻まで、息子の肩を借りなくては階段すら上れなかったのである。ここ最近、ずっと続いていた膝から下の震えが、嘘のようにぴたりと止まっている。
廊下の幅は狭く、人がようやくすれ違えるほどに過ぎない。左手には煤けたクリーム色の壁が連なり、一定の間隔を置いて、ねずみ色の金属製のドアとアルミ製の格子が付いた小窓が並んでいた。
腰壁のような手摺り越しに駐車場を見下ろすと、ペンキが剥げかかった箱バンのルーフが目を引く。
庄吉が足を止めたのは、数えて六つ目になる扉だった。ドアスコープを中心にして、百円ショップで売っている木製のアルファベットが弧を描き、それを順に辿ると「OZAKI」と読めた。
庄吉が躊躇いがちに呼び鈴を押すと、扉の奥でかん高い電子音が小さく鳴った。後ろ姿を何気なく見つめていた修一は、父親の肩が緊張で固く強張っていくのに気づいた。
チェーンを外す音がして、蝶番を軋ませながら重たげに扉が開いた。五十絡みの痩せた女性が、ドアノブを握ったまま半身を覗かせて言った。
「入院したって聞いとったけん、心配しとったんよ。もう大丈夫とね?」
そこでようやく、女性は庄吉の背後にいる修一に気がついた。
「あら……、どなたかしら?」
くだけていた口調が改まっている。
庄吉のことを気遣っている割には、彼女自身が健康そうには見えなかった。血走った目の下にはくっきりと隈ができていたし、たくしあげたシャツから覗く肌の色艶も悪い。それでも身体のどこかに病を得ているわけではなく、芯の部分はしっかりしてそうだったから、そんな風に見えるのは何か心を煩わせていることがあるのかもしれない。
「息子たい」
「あっ、いつも御贔屓にして頂いて、ありがとうございます」
唐突に、しかもぶっきら棒に紹介されて、修一は慌てて頭を下げた。
「まあ、懐かしいわぁ、ご立派になられて……」
その口振りから、女性が修一の幼少の頃をよく見知っていることが窺えた。それは修一の頭の中にある、界隈の情景に対する奇妙な既視感とも符合する。
「店ば閉める」
ちょっと散歩に出かけてくる、家の者に言い置いていくような口調だった。
「え?」
一瞬、女性は身を固くした。しかし、受け入れるべき現実の感触を確かめているうちに、緊張の糸がほぐれたのか、少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。予感がしていたのかもしれない。
「残念だけど、ご自身で決めたことですものね」
女性は目元を淋しげに緩めて言った。
「汗かきベソかきの商売も今日で終わりたい」
庄吉の無理に張り付かせた作り笑いが痛々しかった。
「これからは、息子さんと御一緒に?」
「いやいやぁッ!」必要以上に大袈裟な仕草で手を振り回しながら語気を強めて、
「蓄えはある。息子の世話にはならん」
相変わらず武骨で寡黙な庄吉だったが、いつもより少しだけ饒舌で、真っ直ぐな気持ちを吐露する父親の姿は、息子にはことのほか新鮮に映った。
「ほれ……」
突然、庄吉は女性に向かって、手にしていたプラケースを押しつけるように差し出した。
「お客様からお預かりしていた衣類を配達して回っているんですよ」
庄吉の態度があまりにもぞんざいだったので、修一が慌てて言葉を添えた。
女性は受け取ったプラケースを何気なく見つめていたが、やがてハッとした目線を庄吉に向けた。
「これは、拓哉の……」
見る間に眸から涙が溢れだす。
「お二人とも中に入って」
女性は涙を拭って二人を招き入れようとしたが、庄吉は首を振って拒んだ。
「まだ、配達が終わっとらん」そして、言葉を繋いだ。
「もっと早く、来るつもりやったが。……遅くなって、悪かった」
それだけをいい終えると、庄吉はさっさと背を向けた。この後も予定がある、というのは明らかに嘘だったが、修一は黙っていた。体力もそろそろ限界に近づいているにちがいない。
「ありがとうございました」修一も慌てて後を追う。
通し廊下を曲がった処で、老父は壁に身体をもたせかけて息子を待っていた。
車に乗り込むまでの間、庄吉は息子の肩を借りずに駐車場を歩き通した。階上から二人を見送っているかもしれない件の女性に、余計な心配をかけたくなかったのだろう。他人に弱みを見せることが何より嫌いだったから、最後まで体力の衰えに気づかれまいと懸命だったのだ。
修一は運転席のドアを開けながら、これが最後のつもりで団地を見上げた。予想した通り、女性の姿が手摺り越しの遠目に見えている。目線に気づいたのか、女性は軽く会釈して小さく手を振った。
その瞬間だった。記憶の海の底で凍てつく、回想の欠片を閉じ込めていた氷塊が、何の前触れもなく溶けて流れだした。同時に修一の意識の表層に解き放たれた、追憶の数々がとめどなく浮かび上がり、数十年前のある情景となって脳裏に結実する。
白線が引かれたコンクリートの駐車場は、緑が目に沁みる芝生の広場になった。閑散の中に点在する車は、すべり台やブランコなどの遊具に取って代わった。
広場の一隅――。楽しげにキャッチボールに興じている二人の男の子がいた。頭ひとつ背が高くて、足許に紺色のブレザーを無造作に脱ぎ捨てているのは修一自身だ。ブレザーも臙脂色の半ズボンも新調してもらったばかり。白いシャツだけは、前日に庄吉が整えてくれたものだった。
修一が投げる青いゴム製のボールをたどたどしくキャッチしている、水色の園児服を着た男の子。黄色い帽子が芝生の緑に映えて似合っていた。ボールを捕球する度に、団地のほうを見上げては得意げに手を振っていた。見上げる男の子の視線の先、階上から手を振りながら笑っていた若い女性は紛れもなく……。
「父さん、ちょっとここで待ってて」
踵を返して、修一は団地へ駆け戻った。二段越しに階段を上り、息を弾ませて辿り着いた時、女性はまだドアの外に佇んでいた。
「あの……、何か?」
戸惑いを隠せないまま、おずおずと尋ねる。
「それ……、父の最後の作品なんです」
意味がわからなかったらしく、女性はもの問いたげな目線を投げて寄こした。
「商売をやめると決めた後、父はそのシャツだけを二日がかりで仕上げたんです。ずっと前から決めていたんだと思います。傍で父の仕事振りを見ていて、情熱と言ったらいいのか……、込める想いが伝わってきました」
どうして最後の一枚にこのシャツを選んだのか……、修一はその理由を知りたかった。その答えはきっと、シャツの持ち主である拓哉という青年が持っている。
「あの、それで……拓哉君は、今?」
女性の腕の中で、プラケースが軋むようにカタリと鳴った。
「……交通事故でした」
悪い予感がしないではなかった。
「去年、大学を卒業して就職したばかりだったのよ。これから、たくさん親孝行してもらおうって思ってたんだけどね」
女性は淋しそうに笑った。
「このシャツは、あなたのお父様が、拓哉の就職祝いに買ってくださったものなの」
庄吉が手がけた最後の作品には、やはり身に着けていた者への強い思い入れが託されていたのだ。
「ずっと前に一度だけ、拓哉と遊んでもらったことがあるんだけど、憶えてらして?」
「いえ……、すいません」
修一は咄嗟に嘘をついた。
「そう……、残念だわね。でも、拓哉はあなたのことを憶えていたわ。一人っ子で母子家庭だったから、急にお兄さんができたみたいで、よっぽど楽しい思い出だったのね。いつか、あのお兄さんにまた会いたいって、よく言ってたもの。いつかまた会える気がするんだって」
幼き日々、刹那をともに過ごした男の子の不慮の死。生前、再会することなく別々の道を歩んできた二人が、時を隔てて、いっぽうが人生の幕を閉じることで再び交錯する、その不思議な縁に想いを馳せた時……、修一は頬を伝う涙の感覚に戸惑った。
「拓哉のために泣いてくださるのね」
「いつか……」修一は、尋かずにはいられなかった。「拓哉君が生きていたら、僕は会うことができたでしょうか?」
「どうかしらね」
伏せた目を上げた時、その眸の中には女性本来の爛漫な明るさが萌していた。
「さあ、もうお行きなさいな」そうして悪戯っぽく微笑んだ。「強がりのお父様を早く休ませてあげてね」
このまま別れてしまったら、何かとても大事な機会(チャンス)を手放してしまう気がした。
気力に引きずられて衰えていく父親を立て直すことができるとしたら、それは目の前の女性をおいて他にいない。生きていく大きな柱だった拓哉という存在を失くしてしまった今、それに変わる存在になれるとしたら……。
「待って下さい!」
修一は、自分でも驚くほどの大声を出していた。
運転席のドアに手をかけ、車内を覗き込む。庄吉は目を閉じて、蹲るようにして眠っていた。起こさないように気を配りながら、そっと身体を潜り込ませる。
「よろしくお願いします」
互いに頭を下げた先刻の光景が、修一の脳裏をよぎった。
一生分の汗をかき、一生分の涙を流したのなら、あとは笑って過ごせばいい。
低く垂れ込めた灰色の雲の切れ間から、金紗を纏った陽光が射し込み、坂下の街並みを照らしていた。
「父さん、行こうか」
箱バンがそろりと動き出す。
坂の上の追憶