フラッシュバック症候群
ないしょのはなし
「皆には秘密ね。明日、世界が終わること」
そう言うと彼女は笑う。誰もいないプールの水は夕焼けの紫を反射しながら揺れている。
「クラスの皆は隕石で焼け死ぬけど、君だけはこの世のどこかでニコニコ笑ってていいよ。
私は許してあげる」
プールには夕日の色を吸い込んだ金木犀が浮いていた。どこか馬鹿にしたような甘い匂いがしている。
「……私はもう死んじゃうね」
彼女は靴を脱ぎ、裸足になった。死にかけの夕方の光が彼女を金色に染めていく。
「そうしたら君は許してくれる?」と問う。
「ごめんね。いじめ、止められなくて」
浮かぶ僕の死体に呟き、彼女は泣いた。
通り雨ぐらいの感情
好きだったのかもしれないと思った。
小学校からの友人の君に彼女ができたって聞いた。転部した先の部長の女の子。部活が変わってからの君はとても楽しそうで私もなんだか嬉しかったよ。いつのまにか彼女なんて作っちゃって、もう君は大人だね。
淡い橙色の空を隠すように灰色の薄い雲が広がる。誰もいない通学路一帯には青い草の匂いが漂っている。赤い傘をさすと雨の音が優しく聞こえた。雨はきっとすぐに止む。
素直に祝福できない私を許してね。多分、君のことが好きだった。変わらないでほしかった。水たまりを踏むと靴の土で赤褐色に染まっていく。この雨が止んだら忘れるぐらいの感情のはず。少しだけ君のことが憎いよ。
まつろは
祭られようがそうでなかろうが、人間の魂の重みには大差なんぞないのだと思う。
乳白色の和紙でできたランタン。そのなかのろうそくにマッチで火を灯せば、どこか懐かしいにおいが香った。じいっと炎の揺らぎを見つめ、見つめ、ふう、と息を吹きかけてみる。吐息が舐めるように炎を殺しにかかり、それでもちりぢりと音を立てたろうそくの紐がその命を繋ぎとめ、なんてことなかったみたいにまたぼんやりと光はうつろう。
くそがきは甲高く騒ぎ、下手くそにはしゃぎながらランタンを夜空へと放す。そうして、なんてことなかったみたいにまた煩わしく、どこかへと駆けていった。
祭られようがそうでなかろうが、人間の魂の重みには大差なんぞないのだと思う。
燃えあがれど、浮かびあがれど、どうせ末路は宇宙の塵。そんな事実一つが救済になるわけでもないのに、ずっと涙が出そうだった。橙色の灯火がおぼろげに滲んだ視界を握りこぶしでぬぐったぐらいで、今までのすべて帳消しにできるはずもなかった。どうしようもなく祭りは続く。ランタンは一つ、また一つと浮かんでいく。
ああ、馬鹿だ。馬鹿だ。みんな馬鹿だよ。全部、ぜんぶ潰えてしまえ。そうやって願いながら、そっと手を放してみても、ランタンが地に落ちてひしゃげることはなく、重力に逆らって頼りなさげに手のうちから離れていく、どうせごみになるなにかを、魂にも似た温かいなにかを、ただ、なすすべなく見送っている。
革命
彼女の話曰く、人生とは戦いらしい。
身に着ける物全てが防具であり、また武器である。隣に座る相手は良き仲間であり、時には恐ろしい敵である。
誰よりも努力したとしても、それが報われるとは限らない。他者を嘲笑ったとて、その者に罰が下ると決まってはいない。
「心優しき弱者は幸せになれるというのは幻想だ!」
彼女は大きく叫んだ。日は暮れて、空は紫色に染まり、黒い雲が横切っていた。踏切の警笛が響き、彼女の声をかき消そうとする。
「私は革命を起こしたい」
呟く。彼女の目は闘志に漲り、らんらんと輝いていた。
「髪を染めてみること。スカートを短くしてみること。勝てもしない相手に喧嘩を売ってみること。きっとその一つ一つが革命だ。社会に対して抗って、自分の居場所をもぎ取るんだ!」
特急電車が通り過ぎ、踏切が開く。住宅街が目の前に現れた。そろそろ分かれ道だ。
「まあ、まずはその長い髪を切ることからだな!」
勝てもしない相手に喧嘩を売って、ボコられて。頬の傷はまだジンジンと熱を帯びていて、痛かった。
「頑張ろう、一緒に」
勝手に人のことを仲間にしやがって。ちょっと不満だったけど、口には出さなかった。
革命はもうすぐなのかもしれない。
彼女が笑って別れを告げたとき、なんとなく、いじめられっ子の僕は思ってみたりした。
金色薔薇
花言葉というものが嫌いだ。
君は「花」というお題が出ると、いつだってこれみよがしに花言葉を題材にした小説を書くだろう。
夕顔は「罪深い人」。竜胆は「苦しむあなたが好き」。鬼灯は「偽り」。柘榴は「愚かしさ」。
万能感にかまけた人間は何かと言って、上から目線だ。ただ、そこに存在するだけの花に、こじつけで悪い意味をつける姿はなんと醜悪だろう。花から何の連想も出来ず、そんな言葉に頼る君は単純で愚かだ。
そういえば、君の小説が何かの賞に入った、と聞いたよ。題名はこれまた何とかって花の名前だったはずだ。あのだらしがない文章体でよくあそこまで上り詰めたものだ。随分と運が良かったな。僕はあの小説は嫌いだ。
いつか君は言ったな。僕の小説は、堅苦しい文章なだけで中身は詰まっていないって。まあ、多少は認めてやるけれど、君のは文法も滅茶苦茶なうえに中身が詰まっていない。そんな小説でよく賞が取れたものだ。そんな小説でよく僕に文句が言えたものだ。
え? 違うさ。そういう話じゃない。僕が言っているのは「忠告」だ。まあ、君みたいな才能もない人間に大賞をあげてしまう審査員の正気は疑うけど。
間違っているのは君だ。僕は四六時中、自分の作品を構成しているんだ。君とはわけが違う。君みたいに大衆受けを狙ったような寒い文章は書きたくない。僕が目指しているのはもっと上の段階なんだ。一緒にするなよ。
どうしてお前が評価されるのか分からないよ。僕だってこんなに頑張って書いてるのに、才能がないお前ばかり評価される理由が分からない。お前が初めて書いた小説だって、救いようがないぐらいくだらないし、つまらなかった。花言葉とか単純なモチーフに飛びついて、評価されたことをこれみよがしにひけらかしやがって。忘れないからな、一生。
お前という存在が嫌いだ。
Tuesday Girl
体育祭の後の夕焼けは、血みたいに真っ赤だった。またね、と彼女は言って、曲がり角に消えていった。
「彼氏の家に行くんだって」
そんな風に昼間、誰かが言ってたような気がする。思い出せないけど。転んで出来た傷跡は、まだジュクジュクと痛かった。あのとき、彼女は「消毒したほうが良いよ」と言ってくれたけど、痛いのは嫌だったから無視してしまった。それが今になって響いているのだから、随分とバカなことしてしまったなあって後悔している。
今日は火曜日。多分、再放送のマンガがやってる。昔、見ていたやつ。タイトルは思い出せないけど。
「彼氏といるとき、何してるの?」
そうやって聞いたら、彼女は少し顔を赤くして一言、「秘密」と答えた。その時の彼女の瞳が、いやに光って、揺れていたのが、なんだか気持ち悪かったのを覚えている。
「彼のこと、好きなの?」
数か月前の土曜日に誰かが聞いていた。そしたら、彼女は顔を林檎みたいにして、黙り込んだ。それを見て、皆が笑った。笑っていた。でも、思い出せない。彼女の笑顔も笑い声も、グニャグニャに歪んで、妄想なのか現実なのか分からない。最後にふっと、あの嫌な笑い方が浮かぶ。林檎じゃなくて、血のような赤に染まったあの笑顔が。女の顔が。
体育祭の後の夕焼けは真っ赤だった。彼女がどっかから流した、汚れた血のように。
彼氏とか彼女とか。そんなこと、どうでもよかったけど、あの娘は変わってしまったと思うと、少し寂しかった。あのとき、曲り角に消える彼女を引き留めるべきだったのか。分かんないけど、きっと自分には関係のないことなんだろう、
消毒をしなかった傷口は、いつまでも痛いままだった。
かんちゃん
あれから十数年経ちますが、未だによく分からない記憶の一つです。
幼稚園の年長だったか、と思います。私が通っていた幼稚園に一人、男の子がやってきました。名前はハッキリと覚えていません。ただ、私と、私の友達のゆうちゃんは、その子のことを「かんちゃん」と呼んでいました。肌は浅黒くて、やせっぽっち。でも、当時から背が高かった私を追い抜いてしまうほど背は高かったはずです。野球が大好きで、頭も丸刈りにしていました。
十月の中頃。お遊戯会の練習が始まったぐらいの時期でした。私たちの学年は「ピーターパン」の劇をやることになりました。私は何故かヒロインのウェンディ役になってしまいました。しかも、ラストの場面の担当です。本当は友達と一緒に小人役やインディアンの役がやりたかった。緊張やら恥ずかしさやらで、練習の始まりからやる気がなく、ピーターパン役のゆうちゃんと、何の役でもなかったかんちゃんと一緒に舞台袖で遊びまわっていました。
他の皆はきちんと体操座りをして、待っていました。長い緑色のカーテンが垂れ下がる舞台袖はまるで異世界のようで、三人で夢中になって遊びました。何度も先生に注意されましたが、全く聞かずに遊び続けました。誰が言ったのかは覚えていません。でも、なんとなく、かんちゃんだったんじゃないかな、と思います。
「かくれんぼ、しよう」
鬼はじゃんけんで負けたゆうちゃんでした。
いぃち。にぃ。さぁん。
ゆうちゃんは、先生に注意されながら大きな声で数え始めます。私とかんちゃんは、一番長くて分厚い、暗幕の後ろに隠れました。
よぉん。ご。ろく。
ゆうちゃんの声が次第に早くなっていきます。多分、はやく探しに来たかったのでしょう。
なな、はち、きゅう、じゅう!
バタバタと騒がしい音が近づいてきます。舞台の上なので、隠れられる場所は限られています。ああ、あっという間に見つけられちゃうな、と少し残念に思いました。かんちゃんは、くすくす笑っていました。しかし、しばらくしても一向にカーテンが開かれる気配はありません。不思議に思い、こっそりとカーテンの隙間から顔を出しました。
「誰もいないでしょ」
かんちゃんはそう言って、また笑いました。舞台の上は誰もいませんでした。ゆうちゃんも、体操座りをしていた子たちも、先生たちも。お遊戯室は空っぽでした。
「俺がやったんだよ」
かんちゃんは得意げでした。どうやったの、と聞いたら、魔法、と答えました。
「これ、拾ったんだ」
暗幕から出て、かんちゃんがスモックのポケットから取り出したのは、白い石でした。ちょうど大人の奥歯のような形だったはずです。特にその魔法について説明することなく、かんちゃんは、あげる、と石を差し出してきました。もらえないよ、と私は言いました。
「もうすぐ、俺、いなくなるから」
かんちゃんはそうやって、私の手を無理やり開き、石を握らせました。その台詞が心の中で引っ掛かりながらも、私たちはしばらく西日が差し込むお遊戯室で遊びました。
かんちゃんと遊んだ記憶はこれが最後です。それ以降は思い出そうとしてみても、ぽっかりと空洞になってしまったように、何にも思い出せません。何か写真が残っていないかと思って、アルバムを引っ張り出してきたこともありました。ところが、家のアルバムはおろか、卒園アルバムにもかんちゃんの姿はありませんでした。
幼稚園当時、住んでいた町からは八年前ぐらいに引っ越しました。引っ越した先で、たまたま同じ幼稚園の子と出会い、仲が良くなったこともありました。
中学生になったある日、席替えをしたら、大嫌いな男子の隣になりました。度々、私の悪口を陰で言ってくるので、本当に嫌いな男でした。一刻も早く席替えをしたい、と願う日々。英語の時間では向かいあって、作業をしなければいけないため、非常に苦痛でした。ところが、向き合って話していると、何とも言えない懐かしさがあり、変に感じて、改めてそいつの顔をまじまじと見つめました。
あ、と声を上げそうになりました。そいつは野球部で、頭は丸刈り。肌は浅黒くて、痩せている。背は一八〇近くあって、私よりも圧倒的に大きい。これ以上は思い出が崩れてしまうので、考えるのはやめてしまいました。
イエスの血は見えるか
「神の裁きの日は近い」
帰り道にある古びた民家の塀には、一つ、黒い看板がつけられている。よくあるキリスト教の看板。物々しい聖書の文句。小学生当時の私にとっては、軽い恐怖の対象だった。
少し自転車を停め、難しい顔をして、彼女はその看板を読み上げる。
「なあに、これ」
「え、知らない? よく貼ってあるじゃん」
「ないよ、こんな怖いやつ」
「なんかあれだよ、聖書の引用文書いてあるんだよ」
「へー」
珍しく、お互いの部活の終了時間が重なった。私たちの通学路はまったく違う方向だけれど、一緒に帰りたい、と言って、彼女は私についてきたた。
五時。一年の終わりも近づき、冬の寒さもますます厳しくなってくる。夜の訪れもどんどん早くなり、夏ではまだまだ明るいこの時間でも、とっくに辺りは青さを含んだ闇に沈んでいる。
「神の裁きってさ、どんなんだろ」
「さあね。世界滅亡とか?」
「やだなあ。クリスマスも近いのに」
「もうクリスマスって年でもなくない?」
それに何年も前からこの看板貼ってあるよ、と付け足す。刺すような冷たさの風が吹き、私はくたびれたマフラーに鼻をうずめる。洗ってからしばらく経つが、緑色のそれからは、甘い柔軟剤の匂いがした。
「クリスマスプレゼント、何にするか決めた?」
「別に欲しいものないから、お金もらう」
「あー、そうなるかー」
「あんたは?」
「セグウェイ」
「無理でしょ」
「無理じゃない」
もう行こう、と言うと、膨れた面持ちのまま、彼女は自転車を動かし始める。手袋をしていない私の手は、寒さのせいでひりひりと痛んでいた。彼女がはめている赤色の手袋がうらやましい。クリスマスプレゼントは手袋にかえようかな、と少し思った。
前からおばあちゃんが歩いてきた。もう進んでいるのかいないのか、よく分からない速度で、これまた老齢らしいパグが、おばあちゃんの後ろをついてくる。挨拶をすると、返され、私たちは一人と一匹とすれ違う。その間、なんとなく黙る。赤地に大きく、クリスマスツリーが縫い付けられた服を着たパグの、苦しそうな呼吸が静かに響いた。
「さっきの犬、クリスマスの服、着てた」
「可愛かったね」
「……そういえば、あんたの手袋と、私のマフラーさ、クリスマスの色だね」
「本当だ。良いじゃん、季節感あって」
車のヘッドライトが背後から私たちを照らす。慌てて横道にそれる。電灯も少ない田舎道では、歩行者から進んで避けなければいけない。夜道じゃ気づかれにくい。轢かれる。
「クリスマスの色の意味ってなんかあるらしいじゃん?」
「ああ、らしいね」
「知ってる?」
「昔、聞いた気もするけど、忘れた」
私が言うと、彼女はポケットから携帯を取り出す。彼女の手袋はスマホ用だったらしい。素早い指さばきで操作する。
「あ、でた。えっとね、赤はキリスト教のシンボルカラー。神の愛とキリストの贖罪の血を象徴しています。また、愛と寛大さの意味もあります」
「ふーん」
「クリスマスに用いられるヒイラギは一年中葉がある常緑樹。その生命力から永遠の命、神の永遠の愛、春の訪れを象徴します……だって」
「へー」
「なんか、怖くない? キリストの血なんて」
「え、でも、愛とか寛大とかの意味もあるから、プラマイゼロじゃない?」
「そうだけどさー」
顔をしかめて、彼女は手袋を外す。そして、それを鞄が入った自転車かごに放り込んだ。
「なんか嫌じゃない? 誰かの血の色の手袋とか、飾りとか見て、クリスマスだーって騒いでたって思うと」
「……そういわれると、なんか気持ち悪いけど」
「でしょ?」
「でも、緑とセットでクリスマスの色だし」
「まだ言うか!」
彼女はそう叫んで、私のマフラーをもぎ取ろうとしてきた。私は慌てて、それを避け、かごの中の手袋を奪った。その瞬間、マフラーの端を掴まれ、動きが封じられた。
「真奈のマフラー、緑でずるい」
「別に良いじゃん。もう離してってば、沙也加」
沙也加はマフラーを離そうとしない。しばらく、じっと見つめあったあと、同時に吹き出す。
「じゃあ、交換しよう。でも、あげないからね。学校、また始まったら返してよ」
「やったー、ありがとう」
奪った手袋を手にはめる。寒さからくる痛みが和らいだ代わりに、首が風にさらされ、一気に鳥肌がたった。
「こんな風に、人のものを無理やり奪ってると、神の裁きにあうよ」
「……かもね」
目の前に信号が現れる。暗闇の中、ぼんやりと赤い光が浮かんでいる。この信号を渡れば、もう私の家だ。二人で顔を見合わせる。
「次、会うのは、もう年明けたあとだね」
「そうだね。あー、一年はやいなー」
「ねー。じゃあ、またね」
「バイバイ。メリークリスマス」
「うん、よいお年を」
手を振って、青信号を渡る。今朝の天気予報曰く、明日は雪が降るらしい。手袋に残った僅かな熱を逃さないように、ポケットに手を入れて、家路へと急ぐ。
「神の裁きの日は近い」
なんとなく戒めみたいに呟いてみる。すると、今年も終わってしまうなあ、と少しだけ名残惜しい気分になったのだ。
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