現実虚記憶
作成していた資料が消失した。
デジタル時代に適応した今の仕事場では珍しくないことだった。コンピュータの寿命は絶対ではなく、永遠の記録とでもいうものは、まだ創造されてはいなかった。
記憶を含め、僕らが残したいと思うものほど、よく消えるものだ。幼い日の記憶。よく遊んだ友人。子供のころに見た何か。両親の顔、声。何を思い何を考え生きてきたか。
妻の顔――もう離婚して十数年だ。まさかこんな大事なことも忘れるとは思わなかった。
あれだけ撮った家族写真も不思議と自分のもとを去っていた。新婚旅行の記念写真も。
気分転換で出かけた――馴染みの喫茶店もなくなっていた。
デジタライズされたものだけが例外ではなかった。現実もなにもかも、気づけば一生残るものなどなにもない。
がらんどうになった喫茶店の前で立ち尽くした。道を行く人はまばらで、この店を意識することもない。
人間という膨大な波の中で、喫茶店は押し流されていった。僕の記憶も、デジタライズされた仕事内容も。
「絶対的な記憶媒体なら――」
作り直した資料を同僚に渡していると、彼から思いもかけない話が飛び出してきた。
「ありますよ。最近開発されたものですよ。もちろん世間にはまだ公表はしてませんが」
「絶対なんてないさ」
「まあ聞いてください、これがすごいんですよ。本来は認知症患者のための補助脳として開発されたもので、脳にチップを埋め込むんです」
おもむろに彼は周囲をうかがった。誰も見てないことを確認すると、おもむろに自身の頭に手を伸ばした。
かつらが取れると、剃られた地肌が見えた。明らかに切断された跡が、わかる。
「やってもらったんだ、僕のコネでね。実験にはそうとうの自信があるらしい」
「調子は?」
「すこぶる良好。今朝の新聞の一面ならすらすら言えるね」
そういって僕は一面の内容を聞かされた。汚職政治家のスキャンダルだった。
「僕が言えばやってもらえますよ。向こうもモニターが大勢欲しいらしい。どうです?」
一週間後には僕の記憶は鮮明になった。
補助脳は僕自身の記憶をそのままコピーし、必要に応じて脳に伝達しているらしい。思い出したいことはすぐにはっきりと思い浮かび、覚えておきたいことを瞬時に暗記できるようになった。
かつらはわずらわしかった。しかし些細なことだった。
記憶が増えるというのは不思議なことだ。今まで気にもしなかったようなことも覚えてくる。それは見えているものの存在感が膨張するということだった。そしてそれに限界がないのだ。
仕事馬鹿だった僕には趣味が増えた。映画や音楽、ありとあらゆるものを覚え、堪能した。
覚えた映画を脳で再上映することも容易かった。深夜の誰もいない映画館で見たチープなラブストーリー。どこかで似たものを見た気がした。
しかし、僕に勧めた同僚は死んだ。自殺だった。
飛び降りという無残な死に方で、彼はまっさかさまに落ちて死んだ。文字通りに。
僕は悪寒がした。まさか補助脳じゃないだろうか――。
手術を行った企業への連絡をなんとかつけ問いただしたが、満足のいく答えはもらえなかった。
気づけば、深夜に見たあの映画館へと足を運んでいた。記憶の中で思い出せるのに。僕は補助脳に頼るのが恐ろしかった。映画館の感触を肌で感じたかった。リアルに。
上映される映画は前と変わらなかった。チープなラブストーリー。
ああ、これは――妻とも同じように映画を見た。面白くもない三流のラブストーリー。
キスとセックス、そして別離だ。
ふと隣を見ると、別れた妻がいた。あのころと変わらない姿で。
「さわらないで」
触れもしない記憶の妻が、また僕にそうけなし始める。
「なにが一流よ。何の趣味もない、つまらない男。一緒にいても何も楽しいことなんてない」
あの日の姿が繰り返される。妻の姿が何度も、何度も。
それが補助脳の見せる記憶だと、だんだん分かってきた。これはかつて、現実に体験した出来事だった。
自分の忘れていた記憶までもコピーして繰り返している。
妻との出会いが見える。両親の棺が見える。大学の卒業式の風景。たわいもない学生時代。
幼い日の思い出、エンドレス、エンドレス。
永遠に繰り返される。何度もリピートされる。反響する。
記憶の波が鋭利になって、僕の脳に突き刺さる。波が高鳴って、ああこれはのこぎりだ。
逃げるように動き出す足。人が、森のように密集していて、それらすべてが"僕"だった。
飛び出した映画館の先、道路に瞬くヘッドライト。
僕は最後に、僕の産声を聞いた。
現実虚記憶
ちょっと前に書いたものです。