2019冬コミ 「依り依られ」試し読み

行為のシーンは載せてないので青年向けとはレーティングしてますが、オリジナルの成人向け小説です。冬コミで頒布予定の、250ページほどの商業誌並のページ数を誇る本です。

1・空虚


 ゆっくりと煙草(たばこ)を吸って、ゆっくりと煙を吐き出す。

 目の前に広がるのは中途半端な高さから眺める街並みと、少し陰(かげ)った山の斜面。手入れのされていない木々の隙間から見える景色は狭く、絶景とは程遠い。
 朝日に照らされる街を一人黙って眺めながら、彼は淡々と煙草を吹かしていた。

 ひと口煙を吸い込むたび口の中がイガイガとして気持ち悪い。鼻の奥に粘っこい臭いが張り付いているようで不愉快だ。
 だったら吸わなければいいじゃないかと思うだろうが、そう簡単に物事を割り切れないのが人間というヤツだ。

 なんてカッコつけて言ってみたけれど、要するに何となくやさぐれたくて、その演出に煙草を利用しているというだけのことだ。そういうと途端にカッコ悪く聞こえてくるが、実際カッコ悪いのだから言い訳のしようがない。

 とはいえ煙草が好きでないことは事実であり、喫煙ペースは週に1,2本。1日2本以上吸うことは滅多にないし、連日吸うことも珍しい。そのため先月買った箱はまだ半分も空いていない。

 ふう、とまた1つ煙を吐いて、携帯灰皿の中にぽんぽんと灰を落とし入れる。大して掃除はしていないが、中はまだ綺麗なものだ。

 雑然とした自然に包まれた、山というには物足りない場所の、開けた空間というには狭苦しい位置で、朝から一人立ち尽くして、何をするでもなく煙草を吹かす。

 そう思うと無性に虚(むな)しくなって、その虚しさが気持ちを落ち着かせてくれる。
 一人が好きとか他人が嫌いとか、特にそういうつもりはないけれど、多少そういう気(け)はあるのかもしれない。

 1本の煙草を長い時間をかけて吸い、あとひと口で吸い終わるだろうかという時に、不意に背後で木を踏む音が聞こえた。
 何の気なしに振り返って、ぱちぱちと瞬き。

「‥‥お、おはようございます」
「あ、どうも。おはようございます」

 おずおずと挨拶をされたので、つい挨拶を返してしまった。

 そこにいたのは、一人の少女だった。セーラー服に身を包み、右手には手提げの学生鞄。背は自分より10cm以上は低いだろうか。耳の後ろでおさげを作り、丸い眼を瞬かせながらこちらを見つめている。

 こんな時間にこんなところで、学生が一体何をしているんだろうかと思ったが、きっと彼女も同じようなことを思っているだろう。こんな時間に、いい年したおっさんがなにしてるんだろう、と。

 しばらく無言の見つめ合いが続く。ロマンチックというにはほど遠く、お互いあるのは戸惑いばかりだ。
 時間が経ってしまったせいで、手の中の煙草は吸う前に全て燃え尽きてしまった。灰が落ちる前に慌てて携帯灰皿で押し潰し、ポケットにしまう。

「‥‥ここ、良い場所ですよね」

 そうしていると、少しばかり意外なことに彼女が話しかけてきた。会話としては無難な切り口である。無言に耐えられなくなっただけかもしれない。
 どう言ったものか答えあぐねていると、彼女はそのまま言葉を続ける。

「私、時々来てるんです。多くないけど自然に囲まれてるし、休む場所はないけど一人だったら十分な広さだし、見える景色も割ときれいだし、それに――」
「――他に人がいない」

 彼女を遮って、彼が言う。しかし間違っていなかったらしく、彼女はこくりと頷いた。

「全然整備されてなくて汚いし、見晴らし悪くて大した景色は見えないし、特に空気が美味しいわけでもないし、休憩場所としても利用しづらいし、北に面してるから日当たりも悪いし、道の整備も中途半端で来づらい。だけどそのおかげで全然人がやってこないから、1人になりたい時にはもってこい。だから、良い場所だね。僕もそう思うよ」
散々けなしているようだけど、それは正直な感想だった。今言った通りの理由で自分はここにいるのだから。
「キミは、こんな時間にいるってことは学校サボり?」
「いえ‥‥あ、いや、サボりです。もう少ししたら行こうと思ってますけど、遅刻はする気です」

 正直な子だった。その口ぶりから、多分初めてではないんだろうなと思わせる。

「えっと、おにいさんも、サボりですか? 学校、とか、仕事とか」

 やや遠慮気味に尋ねる彼女の言葉に、彼は苦笑いをこぼす。

「気を遣わなくていいよ。さすがにおにいさんってガラじゃないでしょ」
「そうですか? 十分お若く見えますけど」
「‥‥そりゃ、どうも」

 きょとんとして小首を傾げながら、あながち社交辞令でもなさそうな彼女の言葉に割と本気で嬉しいと思ってしまった。それこそがすでに心はおっさんになってしまっているという証であると気づいて、ちょっとヘコんだ。
 実際まだ20代ではあるが、就職して数年経って落ち着いてくると、さすがに若者とは言い難くなってくる。

「まあ、残念ながら僕は違うよ。今日は遅(おそ)出勤なんだ。昼前に行けばいいから、まだ時間はあるよ。ちなみに学生じゃなくて社会人ね」
「そっか。お仲間ではなかったんですね」

 儚く微笑む彼女は、言葉ほど残念そうではなかった。
 さすがに社会人になると、学生のように気軽にサボることは出来ない。サボればそれだけお金という直接的な形として痛手(いたで)を被ることになるし、最悪職そのものが危うくなりかねない。

「煙草、体に良くないですよ」
 ゆっくりと近づいてきた彼女は隣に並んで、狭く切り取られた風景を見下ろしながら言った。特に責めているようではなく、会話を続けようとしてくれているようだった。

「知ってる。だから普段はあんま吸ってないよ。何日かに1本くらいかな。なんとなくやさぐれたい気分の時に、ここに来て吸ってるんだ」
「そうなんですか。じゃあ、今日はやさぐれたい気分なんですか?」
「うん、そういうこと。何があったわけでもないんだけど、疲れたっていうか物足りないっていうか、ちょっとだけ悪いことしてみたい気分、みたいな」
「成人してるなら、悪いことでも何でもないじゃないですか」
「ごもっともです。本当の罪は犯せない小市民(しょうしみん)なものでして」

 ふ、と鼻を鳴らす程度の小さな笑いを2人で漏らす。

「なんか今の仕事、どことなく枯れてるような気がしてさ。別に上司に苛(いじ)められてるとか仕事が出来ないとかそういうのはないけど、同僚と遊んで騒ぐこともないし、恋愛なんかも自分も周りもさっぱりだし、このままでいいのかなーとか、僕なにしてんだろーとか、色々よく分かんなくなってきて、考えるのも疲れるからここに来て、思考停止の時間を満喫してるんだよ」

 ついつい自分のことを語ってしまったのは、恐らく彼女が自分と何の関わりもないからだ。不満を吐きだす以上の意味はないし、それを聞いた彼女も彼を救う必要はない。話す意味がないから、話す。その行為に意味などなかった。

「で、キミは学校サボって何しに来たの?」

 会話の流れだろうと思って尋ねると、彼女はしばらく黙ってから静かに答えた。

「私も、似たような感じです。最近、学校があんまり楽しくなくて。イジメとかそんなんじゃないんですけど、特別仲のいい子もいないし、勉強が出来るわけでもないし、将来の夢があるわけじゃないし、親ともそんなに話しないし、なにすればいいのかなってわからなくなることが多くて、そういう時になんとなく悪いことしたい気分になっちゃって、ここで時間潰して遅刻してみるんです」
「なるほど、それは悪いことだね」
「ごもっともです。常習犯なので、先生にもちょっとだけ目をつけられてます。お母さんにはどうにかバレてませんけど」

 ぺろりと舌を出しながら彼の言葉を真似る。

「とはいっても、結局こんなことしか出来ないんですけど。私もショーシミンなんでしょうね」

 あまり意味が分かっていなさそうに、彼女はその言葉を繰り返した。多分、これが所謂(いわゆる)ジェネレーションギャップというやつなんだろう。
 そこまで話し終えると、再び無言の時間が流れ始めた。

 やたら親しげに会話を続けてしまったが、正直言って彼は人付き合いが苦手とは言わないが、得意というわけでもない。初対面の女学生を相手にして、普段だったらきっと何を話していいかわからずまごついてしまったことだろう。それでもこんなに饒舌(じょうぜつ)に言葉を交わせているのはきっと、今の心境のせいだ。

 戸惑う余裕もないほど、空虚な心境の。

 語った通り、特別嫌なことがあったわけではない。しかし同じように、良いこともない。
 何もないというのは、想像以上に精神を疲弊させる。一切の刺激を与えられなければほんの数日で気が狂うと聞いたことがあるが、今ならその理由の一端が理解出来るような気がする。
 少し大げさかもしれないが、実際それくらい参っているのだ。日々の空虚さに。

 恐らく少女も、それに近い心情なのではないだろうか。でなければ、こんな偶然出会った得体の知れない大人と親しく会話を繰り広げるなど出来ないだろう。サボり常習犯とはいえ、基本的には大人しそうな雰囲気だし。

 ――不意に、ひとつ思いついたことがあった。

 それはどこまでも最低の思いつきだった。ともすれば、取り返しがつかなくなるほどの。
 しかし彼は今、どこまでも気分が沈んでいた。思考は後ろ向きに一直線で、取り返しがつかなくなるならそれはそれでアリかもしれない、なんて考えてしまうほどに。

 はあ、と煙草臭いため息をついて、携帯を取り出した。電話帳から一番通話頻度の高い番号に繋(つな)ぎ、耳に当てる。少女はその動きに気づいて不思議そうに見上げてきながらも、音をたてないように少しだけ息を詰めた気配を見せていた。

「おはようございます、秋紀(あき)です。すいません、朝起きてから気分が悪くて、さっきも朝ごはん戻しちゃって。すいませんが今から病院に行ってこようと思います。仕事に出れるようでしたらすぐに向かいますが、場合によっては休みを頂いても構わないでしょうか。‥‥はい。‥‥はい。昨日、少しだけ余裕があったので、今日の分は半分程度は終わらせています。‥‥はい、わかりました、ありがとうございます。早めに復帰出来るようにしますので。‥‥はい、‥‥はい。それでは、失礼します」

 ピ、と通話を切ると、少女は少しだけ驚いたように目を丸くしていた。

「僕も今日、サボることにしたよ」
「いいんですか?」
「良くはないけど、今は忙しくないしどうにでもなるよ」

 なるほどと頷く少女に、彼は感情の薄い声で提案する。

「キミも、もう今日は学校サボっちゃえば?」
「‥‥そうですね。それもいいかもしれません。でも、さすがに一日時間潰せる場所は思い当たらないです。服だって制服ですし」
「ウチ、来なよ」

 続けてそう提案すると、さすがに少女は目を大きく見開いて驚きを露わにする。

「‥‥え、ええっと、いや‥‥でも‥‥さすがにそれは‥‥」
「いいじゃん。時間潰せるし、誰かに見つかることもないよ。悪いこと、したいんでしょ?」

 少し強引に勧めると、少女は一度俯いてから小さく息を吐いて、顔を上げた。
 そこに浮かんでいる表情は――笑顔だった。

 ――ただし、その笑顔に感情といえるものは乗っていなかったけれど。

「‥‥はい。じゃあ、お邪魔させて下さい」


「まあ、適当にその辺座ってよ」

 言われるまま、少女は彼のマンションの一室にちょこんと腰を下ろした。

 今日出会ったばかりの、見知らぬ男の、ひとり暮らしの家である。誘っておいてなんだが、はっきり言って正気の沙汰ではない。こんなもの、何かしてくれと言っているようなものである。

 もっとも、本当にそう思っているのだとしたら話は別だが。

 男のひとり暮らしである。6畳1間の小さな安アパートでも十分なのだが(実際学生時代はそうしていた)、一応社会人だという誰に見せるのかもわからない見栄もあり、彼は8畳のリビングと小さなキッチン、そして仕事用の6畳の部屋がついた小綺麗(こぎれい)なマンションに暮らしていた。

 リビングにはベッドとローテーブルに座椅子、そして数個の3段ボックスとテレビといったシンプルなレイアウト。仕事部屋は大きめのパソコンデスクと本棚があるだけのやはりシンプルな内装となっていた。
 少女はその部屋の、ベッドの上に腰掛けていた。

「‥‥なんか飲む? えーっと‥‥」

 その位置に少し思うところがなくもなかったが、とりあえずキッチンに立って客用のコップを出しながら、そういえば名前も知らないことに気がついて苦笑を浮かべる。

「今更だけど、キミってなんて名前なの?」

 少女は一度目を丸くして、すぐに同じように苦笑を浮かべた。

「私は、真咲(まさき)紗希(さき)です」
「僕は高崎(たかさき)秋紀(あき)だよ。紗希ちゃん、でいいのかな」
「ふふ、ちゃん付けはやめて下さい。慣れなくて、なんかくすぐったいです」
「そっか。じゃ、紗希で」
「はい。では私は秋紀さん、でいいでしょうか」

 自己紹介をし合って、秋紀はふと棚を漁る手の動きを止めた。
 自分は何も、彼女に飲み物を振る舞うために家に連れ込んだわけではないのだ。

 ではなんのために、なんてことは問うまでもないだろう。男の家に、女がいるのだ。することなど、限られている。
 紗希を見ると、視線が合って目を伏せる。秋紀は一瞬の逡巡の後、コップをその場に放置して彼女の目の前までズカズカと歩み寄った。

 ギシ、とベッドに半身を乗り上げて紗希を至近距離で見つめる。紗希は俯いたままぎゅ、と唇を引き結んだが、逃げる様子は見せなかった。
 望んでいるかどうかはわからない。けれど、拒絶はしていない。ここまでのこのこと着いてきたことを考えても。
 ただひとつ、なんとなくだがわかることがあった。

 紗希は、疲れている。

 自分と同じように、何もない空虚な生活に。
 だから今彼女に手を出すことは、その部分に付け込むということだ。自分よりいくつも幼い少女の、弱い部分に付け込むということ。

 拒否しないからといって、同意の上とはとても言えない状況。
 煙草を吸ってやさぐれることなんかとは明らかに質が違う、今度こそ完全な犯罪だ。言い訳のしようも、酌量(しゃくりょう)の余地もないだろう。
このまま行けば、確実に人生が終わる。歪んで、壊れて、二度と戻れなくなる。もしそんなことになったら――

 いや、そうなっても――別にいいんじゃないだろうか。

 普通に就職もして、親との関係も薄くなった。特別親しい友人などいない。なんとしても守りたい大切な人もいない。自分に何かあって、困るのは自分1人だ。
 その捨て鉢な思考はどこまでも彼を鬱屈(うっくつ)させ、考えることを放棄させていた。
 結局、秋紀の行きついた答えはそれだった。

 ――もう、なんでもいいや。

 紗希の頬に触れる。紗希はわずかに身を震わせたものの、それ以上の動きは見せなかった。ゆっくりと、紗希の体を仰向かせる。やはり彼女は何の抵抗もしなかった。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥

3・歪み


 数日の間を空けて、日曜日の昼前に紗希はやってきた。
 チャイムが鳴ったので出ようと思うと、その前に外側から鍵が開けられ紗希が現れた。
 休日に来るのは初めてだったのでその来訪には少し驚いたが、この間の紗希の様子を見ていれば意外というほどでもないだろう。

「こんにちは、秋紀(あき)さん」
「いらっしゃい」

 今日の紗希はいつもの制服ではなく、白いパーカーの首元からは黒のタートルネックシャツが覗いており、下はタイツとショートパンツという組み合わせ。そして髪は首元で1つに結んで肩から垂らしている。

「どうかしました? 私服の大人っぽさに見惚(みと)れてましたか?」

 まあ、いつもよりは大人っぽいが、いかんせん顔立ちがどう頑張っても幼いのでなんとも言い難い。

「‥‥うん、すごく、大人っぽいよ」

 頑張って言ってみたが、どうしてもわざとらしくなってしまった。

「それより、今日はずいぶん早いね。こんな時間からシたくなったの?」

 秋紀の中では紗希といえば、という部分があったのでついそんなことを口走ってしまった。しかし紗希は気を悪くした風はなく、少しだけ恥ずかしそうに手で口元を隠す。

「い、いえ、そういうわけではないんですけど‥‥あっでも、もし秋紀さんがシたければ、お応えしますけど」
「ああ、ごめん。僕もそういうつもりではなかったんだけど」

 ひらひらと手を振ると、紗希は窺うようにちらちらと視線を送ってくる。きっと、ヤらせろと言えば本当にすぐ応えてくれるのだろう。

「‥‥えっと、今日は、学校も開いてないし図書館も人が多いので、ここで勉強させてもらえたらと思って」
「ああ、そう。うん、好きにしてくれていいよ」

 どうやら、ずいぶんとココが気に入ってしまっているらしい。というよりは、唯一の逃げ場所とでも言ったほうがいいのかもしれないが。

「なんか飲む? 一応ココア買ってあるけど」
「あ、ありがとうございます。実は私も秋紀さんに差し入れです」

 紗希は手提げ鞄のノートや教科書の横からペットボトルのコーヒーを取り出した。スーパーとかでよく安売りしているアレだ。

「あー、僕あんまりコレ好きじゃないんだよね。味が作りものっぽくて不味いから」
「わ、そうだったんですか、ごめんなさいっ」

 特に遠慮する気もない秋紀の言葉に、すぐ鞄にしまおうとした紗希の手を取って、ひょいっとペットボトルを取り上げる。

「でも、時々その不味さを求めたくなるんだよね。今コレ見たら飲みたくなってきた。せっかくだからもらっておくよ。ありがとう」

 気遣いというほどのものではなく、それはそれで割と本心だった。とくとくとコーヒーをコップに注いでいる様子を見て、紗希はどう反応していいか困ったような息を漏らした。

「で、ココアどれがいい? 粉と缶とペットボトルがあるよ。アイスでもホットでも。あと、1個だけやたら高いヤツも買ってみたけど」

 ここぞとばかりに学生と社会人の違いを思い知らせてみる。別に、そういうつもりで買っていたわけではないが。

「高いのにします。なんか悔しいので」

 正直者の紗希であった。
 やたら高級だった紙パックココア(ストロー付きの飲みきりのヤツ)を渡し、秋紀は仕事部屋に向かう。

「僕もちょっとだけ仕事するから、そっちで好きにくつろいでて」

 言って不味いコーヒーと共にパソコン机に向き合うと、紗希がローテーブルを運んでこちらの部屋にやってきた。

「こっちにいてもいいですか?」
「好きにしなよ」

 若干雑な返答だが、別に嫌なわけではない。
 そこからはぱちぱちとキーボードを打つ音、ノートのページをめくる音、コップが机に当たる音、ストローでココアを飲む音、それだけが部屋の全ての音となった。

 秋紀はあまり、紗希の存在を気にしてはいなかった。2人の関係上、あまり気を遣うものでもないと思っていたから。
 紗希も同じなのか、背後で聞こえる物音からは動揺や気まずさは特に感じられない。それこそ、図書館で近くの机に座る他人を気にしていないような自然さで。

 どれくらいそうしていただろうか、不意に後ろから柔らかいものが触れ、頬が触れるほどの距離に紗希が現れた。

「秋紀さんって、何のお仕事してるんですか?」

 疲れたのか飽きたのか、紗希が秋紀の首にさばりついて興味深げにパソコンの画面を覗く。そこには別段楽しいものは何もなく、線や数字がずらずらと並んでいるばかり。

「ざっくり言えば事務仕事だよ。こういう表作ってお金なんかの計算したりするのが基本。あとちょっとしたサイトをデザインしたり文章書いたり、簡単なプログラム組んだりもしたことあるよ。一応理系だったから、ひと通り知識はあるしね」
「へえ、すごく色々なことが出来るんですね」
「大きい会社じゃないから、一人で色々兼業(けんぎょう)しなくちゃいけないんだよ」

 おかげで幅広くスキルを身につけることは出来たが、そのせいでひとつのものに打ち込むということをしなくなった。それも今の荒(すさ)んだ心を形成する一因となっているのかもしれない。

「秋紀さん、お腹空きませんか?」

 急に話題を変えられ、意識すると確かに少し腹が減っていた。時計を見ると時刻はすでに昼過ぎ。昼食には少し遅いくらいの時間だ。

「何か作りましょうか。それとも食べに行きます?」

 紗希の提案に、しばらく色々と考えを巡らせ、

「紗希、今日時間は?」
「お昼は外で食べるって言ってますし、夕飯までに帰れば大丈夫だと思います」

 それを確認して、秋紀は机に放っていた車のキーを取った。

「じゃ、どこか食べ行こうか。あと、ついでに買い物しに行かない?」
「はいっ」

 紗希は迷わず笑顔で頷いた。



 遠くの街に出かけて適当な店で昼食を取り、その後買い物のために店をいくつか回る。

 買い物リストは女物の私服を数着と、食器類を少々。それからおやつや飲み物も少し買い足して、あとは細々したものをぶらぶらと店を回りつつ探してゆく。
 説明はしていないが、完全に紗希が滞在することを考えての買い物だった。紗希も大きな反応を示すことなく、それを受け入れている。

 車で何軒か店をハシゴして後部座席が賑やかになりはじめ、最後に何かあればと思ってショッピングモールに立ち寄っていた。

「ちょっと離れただけなのに、なんだかすっごく遠くに来たみたいですね」
「そうかな。別に珍しいものもないし、そんな感じはしないけど」

 リストを確認しながら、秋紀は適当な返事をする。紗希は特に気にした様子もなく嬉しそうに秋紀の隣を歩いていた。

「とりあえず今はこんなもんでいいかな‥‥。紗希、他に何か欲しいものある?」
「んー‥‥多分、大丈夫だと思いますけど。今でもそんなに困ってないですし」

 ぴったりと秋紀に寄り添うようにしながら、手元のメモを覗き込む。
 と、その時通りかかった若者向けの小物屋の前で、不意に紗希が足を止めた。

「あ、秋紀さん、ここ寄って行きましょう」
「ええ‥‥僕、場違いっぽいからイヤなんだけど」
「欲しいものがあるんです。そういえば、買おうと思ってたの思い出しました」

 秋紀は抵抗の意志を見せるものの、ずるずると紗希に引きずられるように店内に入る。

 そうして紗希に連れて行かれた場所は、キーホルダーやストラップのコーナー。可愛らしいものからシンプルなものまで、色々な種類がそろっている。

「なに、こんなのが欲しかったの?」
「そうなんです。ほら、これにつける物探してて」

 紗希が取り出したのは、秋紀の部屋の鍵だった。そこには今は何もつけられておらず、確かに見失いそうで不安ではある。

「別に、ここで買わなくたって家にあるもの適当につければいいじゃん」
「そう思ったんですけど、せっかくだから秋紀さんとお揃いに出来たらいいなって思って。だってこの鍵が、私と秋紀さんの唯一の繋がりって感じがするじゃないですか」

 確かに、何も持たない2人の、それがたった1つの共通の所有物だ。多分紗希としては、何でもいいから目に見える形で秋紀との繋がりを作りたいだけなのだろうが。

「ていうか秋紀さんは、今何つけてるんですか?」

 ポケットを漁られ出てきたその鍵には、やたら汚い上に聞き慣れないどこかの会社のロゴが入った千切れかけのストラップがつけられていた。

「‥‥なにこれ」
「なんか、今の部屋に引っ越してきた時に段ボールの底に転がってた」
「もう、そんなんじゃダメですよ。もっと可愛いのにしましょ」
「いや、お願いだから可愛いのだけは勘弁してよ‥‥」

 その店以外にもショッピングモール内を数ヶ所連れまわされ、最終的に白い毛玉なのか犬なのかよくわからない、謎めいたキャラクターのラバーキーホルダーが採用された。ちなみに紗希の選ぶやたら可愛らしいものに耐えかねた秋紀の苦肉の案である。

「むぅ、もうちょっと可愛いのが良かったけど、まあ仕方ないですね」
「僕はこれが限界だよ‥‥」
「なんかオジサンくさいですよ」
「だってオジサンだもん」
「まだ20代のくせに何言ってるんですか。せめて40歳くらいになってから悩んでください」

 紗希のオジサンの基準は40らしい。少し安心したような、これからが不安のような。

「じゃあ、もう満足した? そろそろ帰ろうか」
「はい、満足しました。また必要なもの思いついたら、また買いに連れてってもらっていいですか?」
「うん、言ってくれれば買ってくるし」
「はい、ありがとうございます。‥‥あ、そういえば」

 ふと思い出したように手招きされて、背伸びする紗希に耳を寄せる。

「ゴムは、買わなくていいんですか?」

 耳元で囁(ささや)かれて、うっと言葉を詰まらせた。

「これから一番必要なんじゃないですか? 私は別に、なくてもいいかなって思いますけど」

 はあ、と重いため息を吐いて出口に向かって歩き始めると、紗希もちょこちょこと後ろをついてくる。

「‥‥それこそ、紗希と一緒の時に買うわけにはいかないでしょ。また買っておくよ」
「ふふ、そうですね。今日の分はまだありますしね」

 そうなのだろうとは思っていたが、やはり今日もその気らしい。

「なんだったら、今すぐにでもお店のトイレとかでしちゃいます? すごくドキドキすると思いませんか?」
「冗談でも勘弁してよ」
「そうですか? 秋紀さんがしてくれるなら、私は全然いいんですけど」

 本当に、後先考えないこの思慮(しりょ)の浅さは、これも若さなのだろうか。

「じゃ、帰ってからゆっくり、ですね」

 そして、この素直さも。

 紗希のこういう部分に、自分は依(よ)っているのだろうと思う。
 なら、紗希はいったい自分の何に依(よ)っているのだろう。
 何もない、紗希と違って若さという名の未来さえ持たない自分なのに。

 分からないけれど、出来ればそれを失いたくはない。そんなことを、漠然と思ってしまうのだった。

2019冬コミ 「依り依られ」試し読み

こんな感じの、全体的に沈んだ雰囲気のお話です。エッチシーンがメインではないので、いわゆる使える本ではないと思いますが、手を抜いて書いたわけではなく頑張ったので、心情面共々楽しんでもらえると嬉しいです。気になった方はゼヒ、会場にて手に取ってみてください。頒布価格は1000円です。
今のところ通販の予定はありませんが、今後大阪のイベントにはまた参加すると思うので、もしそっちで来られる人がいればゼヒそちらでも。
それでは、会場にてお待ちしております(˘ω˘人)

2019冬コミ 「依り依られ」試し読み

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-12-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1・空虚
  2. 3・歪み