試作
2018年、冬。僕は7年ぶりに米国から日本に帰国した。僕は誰にも相談することなく帰国を決めた。とてつもない異変が僕の中で起こっていたからだ。
どうやら僕は終末の救世主になってしまった。
僕は他人の心の中がわかるようになっていた。頭の中でその人の声が響く。その他にも異変はあった。僕の周りの人間は僕に対して性的欲求を覚えずにはいられないようだった。口に出さなくても僕にはわかる。心の声が聞こえてくるからだ。だが、中には僕に直接伝えてくる人たちも少なからずいた。そんな人たちから僕はジーザス・キリストと呼ばれていた。
人は誰しも創造主に憧れがあるのではないだろうか。敬虔なキリスト教徒であれば畏怖や尊敬こそすれど創造主に成り替わるなど考えなかったのかもしれない。だが、僕は違った。八百万の神々が存在する日本という国に生れ落ち、付喪神や仏様など、人間から神様になれる言い伝えがある文化圏から来た僕は創造主に成り替わることも出来るのではないかと考えていた。
外国人として差別され、理不尽な扱いを受けていた暗い少年時代を過ごしていた僕は、世界をたったの7日で急造してしまった創造主より僕の方がいい世界を創造できるのではないかと本気で思っていた。差別も理不尽もない誰もが生きる意味を感じられる世界に僕は憧れていた。それと同時に理想とは離れた現実を受け入れられないでいたのだ。それならば、と僕は自分の世界を作り出そうと子供時代に誓っていた。
そんな幼稚な考えに染まっていた僕はすんなりと自分がジーザスと呼ばれる環境を受け入れることができた。世界は僕を救世主として選んだのだ。異変に気付いた当初、僕はジーザスに次ぐ救世主に成ったのだと本気で思っていた。どうして僕が選ばれたのかはわからない。ただ、僕はいい気になっていた。
日が経つにつれ、僕の心を読む力は強くなっていった。聞こえてくる声はいつしか英語から日本語に変わっていった。そのおかげで僕は聞こえてくる想いの本質まで容易に理解することができた。それによると老若男女が僕に恋心を抱いていた。僕を目の前にすると誰もが尊敬のまなざしを向けているようだった。
そんなある日、さらなる異変が僕のもとに訪れる。僕の他には誰もいない寝室で誰かの心の声が聞こえてきたのだ。今までかなり長距離でも心の声は聞こえてきた。だが、それは僕の視野の中で認識した相手に限ることだった。それが、今回は僕の意識の外から声が聞こえてきたのだ。それはかつて僕の職場にいた女性の声だった。彼女のことは便宜上「バビロンの女」と記入させてもらう。バビロンの女とは新約聖書のヨハネの黙示録に登場する終末の救世主と相対する女型の敵対者だ。この先、僕を憎むことになる彼女は僕にとってまさにバビロンだった。
未来のことなど露知らず、この時の僕は単純に喜んでいた。なんの因果なのか知らないが、僕とバビロンの心が繋がったのだ。今まで以上に僕の力が作用した結果、今どこで何をしているかもわからないバビロンのことが僕には手に取るように分かった。なにか運命的な繋がりが僕とバビロンにはあるのかもしれない。それに、今までの一方通行とは違い、こちらが考えたこともバビロンに届いていた。
しかし、僕の想いとは裏腹にバビロンは憤慨していた。これから先、彼女がどこで何をしていようが、彼女の頭の中では僕の声が響いているのだ。普通の人生が歩めるはずがない。彼女の声は僕を攻め立てた。
『私の人生を返してよ!』
僕はバビロンに謝った。僕は僕の力を制御できるわけではない。僕にはどうすることも出来ない旨をバビロンに伝えた。何度も謝る中で僕は思う、これは僕のせいではない。逆らうすべもない。そんな心の声もバビロンには届いていた。今までと違い、とてもやりずらい状況だ。心の中が暴かれるのはこんなにも不便なのかと僕は思った。思うに頭の中まで潔癖な人などこの世界には存在しない。誰もが上辺と本音を使い分けているというのに僕とバビロンの間にはそれが消えてしまっていた。
次の日、寝室で聞こえてくる声は増えていた。めそめそと自分の不運を嘆くバビロンと、急に起こった異変に状況が把握できていない男性の声だ。バビロンに続いて僕に敵対することになる彼の名を、ここでは「悪魔」と記させてもらう。バビロンから事情を説明された悪魔は僕に怒鳴った。事実を正しく表すならば、悪魔は僕が怒鳴ったと感じるほど強く想った。
『早くバビロンを開放しろ!』
僕は少しだけ怖くなった。なぜなら、悪魔の声は僕にとって聴き馴染みのあるものだったからだ。それは、ほぼ毎日職場で顔を合わせている先輩の声だった。僕は彼にぶっ飛ばされるんじゃないかと思った。
しかし、僕の心配は杞憂に終わった。というのも、僕は心を読むという力の他に、人を魅了するという力を有しているからだ。僕と先輩は職場では仲のいい先輩後輩関係を保った。内心で彼が僕のことをどう思っていようが、いざ僕を目の前にすると彼は僕に相反することはない。僕は内心しめしめと思っていた。もちろん僕の感情はバビロンと悪魔に伝わっている。しかし、この頃になると僕はそんな些細なことは気にしなくなっていた。魅了の力があれば、僕に危機は訪れるはずがないと高を括っていた。
そうして、僕の頭の中にはバビロンと悪魔がいる状態が続いた。バビロンは徐々に、だが確実に病んでいく。悪魔はバビロンを庇いながらも僕の魅了の力のせいで完全には僕に敵対できずにいた。
「二人とは死ぬまで一緒だ」
と、僕は開き直った。もはや、次はどんな力に目覚めるのか楽しみで仕方なかった。
ここで、遅ればせながら弁解させてほしい。この頃の僕はバビロンや悪魔同様、異質な状況に頭がパンク寸前で脳が正常に機能していなかったのだ。
僕は聖書を読むようになっていた。救世主としてこれから先の展開が記されていることを期待して、聖書に精通しようと考えたのだ。それと同時に、教会にも通うようになった。僕に顕現した力がキリストの能力なのだとすれば、教会に助言を求めるのが最善だと思ったからだ。悪魔も僕の考えに賛同した。悪魔はお互いがお互いを憎みあう共倒れ的な今の状況を打破するために、僕とバビロンと悪魔のリンクを切る方法が教会にあるのではないかと僕に提案した。
僕は悪魔の助言に従うことにした。せっかく手に入れた力を失うのはもったいないが制御できないのなら、僕の力はいつか破滅を呼ぶに違いない。多分、バビロンに対する後ろめたさもあったのだと思う。ここ最近、バビロンは泣いてばかりだった。僕は頭の中ではいつも馬鹿なことを考えている。たった二人とは言え、僕の思考が筒抜けになるのは気持ちのいいものではないのも事実だ。
僕は教会に通う傍ら、神社にも厄払いに行った。教会に行った時も神社に行った時も、なぜか僕の心は悪態で埋め尽くされていた。まるで、呪われている人間が神聖なところに足を運ぶことを恐れるように、僕の思考は呪いの言葉を溢れさせていた。僕の中のもう一つの人格が教会や神社を拒絶するような感覚。教会に訪れるたびに耳元で泣き声が聞こえてきて、ミサの途中で僕は退席してしまう。
まさか、僕に起こっている異変はギフト(贈り物)ではなくてカーズ(呪い)なのではないだろうか?
聖書によると、ジーザス・キリストは30日間悪魔の試練に耐えたのだという。僕はすでに3か月もバビロンと悪魔の心のリンクに苦しめられていた。ジーザスと比べて三倍近く呪いと向き合っている僕はジーザスより遥かに優れた救世主になるのではないかと、内心期待していた。バビロンの声も、悪魔の声も、冷静に考えてみれば呪いに他ならなかった。姿はなく、声だけが聞こえてくる。不吉な予感しか感じない。
そう思うと、僕の精神はどんどん病んでいった。休日は何もせず、毛布にくるまっていた。
『死ね』
バビロンの声がする。
『なんとかしろ』
悪魔の声がする。
僕は悪くない。
僕の能力が呪いだと思ったとたん、僕は怖くなった。何度も教会に通い、自分の症状が治まるように祈った。なんで、心の声が聞こえてくるんだ。なんで、皆僕のことを性的な目で見るんだ。ここにきて、僕は初めて自分に起こっている異変に危機感を感じた。悪魔が言うようになんとかしないといけない。
日本に帰ればなんとかなるかもしれない。最悪でも、病院で診てもらえる。帰国は僕にとって異変を抑える最後のチャンスだった。そうして、僕は帰国するべく、チケットを購入した。ピロリン、とパソコンが鳴る。
しかし、このチケットの購入こそ悪夢の始まりを告げるベルだった。それは悪魔の高笑いから始まる。悪魔は僕に囁く。
『死ね』
今まで、呆れながらもなんだかんだ僕の味方に付いていた悪魔は僕に完全に敵対した。僕の魅了の力が尽きた瞬間だった。魅了から解放された悪魔の行動はえげつなかった。僕の銀行口座の暗証パスワードを変更したのだ。僕はいつもネットで銀行口座を確認していた。その時、いつか魅了の影響を受けなくなった時のために悪魔はパスワードをどこかメモしていたのだ。僕は目の前がぐらついた。今まで魅了の力があったから僕はどこか強気だった。その力を失った途端、遠隔から悪魔は攻撃を始めたのだ。何度も口座を開けようとして失敗する僕を悪魔は声に出して嗤った。それを悪魔以上に嗤っていたのがバビロンだった。
『死ね!死ね!死ね!死ね!』
バビロンは何度も繰り返す。それは本心からの言葉だった。僕は悪魔とバビロンが直接会うことなく僕を殺すことが可能だとその時初めて理解した。
「調子に乗っていました。すいませんでした」
僕は何度も二人に謝った。二人を何か月もの間、混乱させてたこと。自分のせいじゃないと開き直ったこと。いまだ解決策を提示できていないこと。僕は人生で一番腰を低くして謝った。自分の命が脅かされるなんて考えたこともなかった。いままでリンクを些細な悪ふざけくらいにしか受け取らず、まさか二人がここまで怒っているなど思っていなかった。
『早く死ね』
悪魔からの返答は単純なものだった。
しばらくすると唐突に喘ぎ声が聞こえてきた。バビロンだ。僕はじっと時間が過ぎるのを待った。もう長い間リンクで繋がれているのだ。バビロンにもプライベートがある。いつかは起こるだろうことだったし、少し惨めだが仕方ないことだった。そして、僕は知ることになる。バビロンの相手は悪魔その人だったのだ。お互い面識のない二人が僕という事象を通して知り合い、関係を深めていた。この時、僕は悪魔にバビロンを盗られたと思った。先に心が繋がったのは僕なのに、その僕を差し置いて悪魔と関係を持ったバビロンにも僕は怒りを感じた。
そんな僕を無視するかのように、恐らく本当に思考の隅に追いやるために、バビロンは行為に集中した。悪魔は二人の心をじっと観察する僕を気持ち悪がった。
『結婚して』
喘ぎ声とともにバビロンの声が聞こえてくる。バビロンの肉声が悪魔の聴覚を通して僕の頭の中に入ってくる。
『駄目だ』
悪魔は短く断る。
『なんで?』
こんな超自然的な災厄を経験したのは世界で私たち二人だけなのに…バビロンはそう言いたげだった。
『将来結婚したい人がいる』
悪魔の中にいる大事な人のイメージが僕な中に、そして僕を通してバビロンの中に流れ込んでくる。
『だったら、どうして今ここにいるの』
ベットが軋む音がする。バビロンの喘ぎ声は大きくなっていく。何かが無機質に擦れていく。きっと今現実に会っている二人の間には会話なんてなく、言い訳程度に心の中で会話をしているのだ。
『俺は今俺たちを覗いている奴が嫌がることをしたいだけだ』
突然、僕の中に水が流れた感触がした。それは蒼く、冷たかった。チャポン。きっとバビロンが泣いているんだ。
『お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!死んでよ!』
バビロンは突然僕に怒鳴った。僕はただ毛布に包まることしかできなかった。
その日から悪魔は毎晩のように誰かと性行為をしていた。魅了の力があった頃、僕に好意を持ってくれていた女性たちを順番に相手にしていた。バビロンはそんな悪魔を見て、恨めしそうにただただ不平をこぼした。
『お前がしたいことは代わりにこの俺が代行してやる』
悪魔はバビロンを無視して僕にそう言った。
僕の頭は煩悩の塊だ。だから、悪魔は僕の代わりに出会った女性を片っ端から手を出した。たとえば、全身にピアスを開けるなどの取り返しのつかない行為も悪魔は彼女らに強制した。最初は皆嫌がっていたが、次第に悪魔に丸め込まれていく。中には、僕の魅了の効果が切れているにもかかわらず、まだ僕を思ってくれている女性もいた。そんな子たちに悪魔は言うのだ。
『あいつはお前が思っているような男じゃない。試しにあいつが今考えていることを教えてやるよ』
やめろ!その子に手を出すな。
『はやくやれ!しっかり聞き耳立てておくからちゃんと俺に聞こえるようにしろよ、だってさ』
僕はそんなこと思っていない。そう言い切れない自分がいた。僕にはもう悪魔が僕の心を読んでいるのか、悪魔に言われるままに心を操られているのか、わからなくなっていた。心臓がバクバクと鳴る。僕は泣いた。そして、大声で笑った。
そうだ。はやくやっちまえ。どうせ僕には関係ない。
そんな心の声が悪魔を通して、彼女たちにも伝わっていく。そして、彼女たちは絶望の中、悪魔との行為に沈んでいく。
僕は一睡もすることなく、笑いながら悪魔から聞こえてくる声に聴き耳を立てた。
『やばい。あんたのこと好きになってきたかも』
バビロンが僕に囁く。趣味の悪い女だ。だが、悪い気はしなかった。僕では躊躇して出来ないことも悪魔は叶えてくれる。まるで玩具を手に入れた気分だ。そう思うと笑いが止まらなかった。
『ねぇ、私たちもヤろうよ』
うるさい。悪魔に相手してもらえよ。僕はジーザス・キリストだ。どうせ誰とも交わることはない。神さまがそれを許さない。ならば、僕は計画を立てて悪魔が実行する。きっとそれがこの世界の楽しみ方だ。
『神さま!なんでジーザスとはヤれないようにしたの!?』
知るかよ、そんなこと。
次の日、起きるとバビロンや悪魔以外の心の声が聞こえていた。僕の能力がまた増したのかと思った。だが、そうではない。聞こえてくる声は若干のノイズが入っていた。例えるならラジオから流れてくるようなそんな音声だ。僕の心の声も彼らには聞こえていなかったらしかった。というより、誰も僕の存在に気付いた様子がない。それもそのはず、無数の声は僕ではなく、悪魔と繋がっていたからだ。
悪魔はテレパシーを使って世界中に僕の悪口を言っていた。
『お前の弟のせいで俺の人生はめちゃくちゃになった!』
声の中には僕の兄のものも混ざっていた。
『そんなわけない!いい加減なこと言うな!』
兄は僕のことを擁護してくれた。
『あいつは俺の自慢の弟だ。今だってアメリカで頑張ってるんだ』
僕はそれなりに家族からの信用があった。
『じゃあ、お前、弟が昨日何やってたか知ってるか?』
悪魔の冷笑に僕の背筋は凍った。やめろ!
『あいつ、一日中毛布にくるまって何もしてなかったんだぜ』
やめてくれ!なんでもするから、家族の期待を裏切るようなことだけはいわないでくれ!
『今あいつが考えていることも俺にはわかる』
悪魔は僕を無視して続ける。
『どうやって誤魔化そうか、必死で考えてやがる。とんだクズだよ、お前の弟は』
僕は出来るだけ何も考えないように無心になった。そうしないと悪魔が僕の心の内を言いふらすからだ。
それから、悪魔は僕の考えていること、起こす行動を世界中の人に伝えて回った。四六時中僕の心を覗いている悪魔には僕の行動など、すぐ先読みできた。まるで、僕はコントローラーを握られたロボットのように悪魔に言われた行動をなぞる様になった。自分で判断しなくなった僕はまるで空っぽの人形みたいだ。
『そうだよ。お前は空っぽだよ』
精神的に落ち込んでる僕を悪魔は追い打ちをかけるように罵倒した。
朝は悪魔による風評被害に落ち込んで、夜は悪魔の性行為を操れる全能感に酔いしれた。部屋から出ていく頻度はどんどん少なくなっていった。沢山泣いて、沢山笑った。そうして僕は徐々におかしくなっていった。朝と夜でまったく別の世界にいるみたいだった。悪魔もバビロンも、朝は僕の敵で夜は僕の味方みたいだった。僕は朝日が怖くなっていった。
何も考えないようになって数日、思い立ったように僕は銀行に向かった。手持ちの現金が尽きたからだ。悪魔に銀行アカウントを乗っ取ってからちょうど一週間くらいのことだった。僕は悪魔が僕の貯金を使っていないことを祈りながら銀行にパスポートを持って行った。バビロンは悪魔に告げ口する。
『あいつがお金を引き出す前に全額移動させなよ』
朝のバビロンは僕にどうしても野垂れ死にしてほしいらしい。冗談じゃない、僕は思う。だが、リンクのことを思い出してすぐに謝る。すみません、何でもしますから銀行のお金に手を付けないでください。
結論から言うと、僕の貯金は無事だった。悪魔は
『俺、優しいから』
と、言っていた。バビロンは
『なんで?』
と、首をかしげていた。
僕は、ありがとうございます、と何度も呟いた。帰り、僕は教会によった。しかし、教会は開いていなかった。僕は教会の玄関前で崩れ落ちた。大泣きした。なんで僕がこんな目に遭わないといけないのか。僕が何をしたというのか。僕は何千、何万回も神さまに助けを求めた。許しを乞うた。それなのに聞こえてくる声は悪魔とバビロンだけ。神さまの声は一度も聞こえてこなかった。僕がこんなに苦しめられているのは誰のせいだ。なぜ誰も助けてくれないんだ。もし、この世界に神さまが存在しているなら、僕が殺してやる、と思った。でも、僕には出来ない。僕はただの人間だからだ。よくわからないテレパシーも魅了の力も僕の努力で発現したわけじゃない。
『お前がしたいことは俺が代わりに全部やってやる』
気づけば空は暗くなり、夜になっていた。この夜、悪魔は僕の代わりに神さまを殺した。
僕は怖くなって悪魔に問いかけた。
「お前は誰だ」
すると、悪魔は僕の心に語り掛けてくる。
『俺の名前はルシファー』
ルシファーとは、旧約聖書と新約聖書のどちらにも出てくる堕天使の名前だ。聖書の中では「明けの明星」と呼ばれ、アダムとイブの楽園追放の原因となる禁断の果実を渡したとされるのもこの堕天使・ルシファーと言われている。ルシファーは創造主にもっとも近い姿をした天使といわれていた。しかし、旧約聖書に記されているようにアダムの出現により、ルシファーの立場は揺らぐ。地上のすべての生き物はこのアダムとイブに従うことが創造主によって義務付けられたからだ。そうして創造主への反抗としてまんまとアダムとイブを貶めたルシファーは次に創造主に戦争を仕掛ける。そこで敗北した堕天使・ルシファーは悪魔として地獄に投獄される。ルシファーは新約聖書でもジーザス・キリストに試練を与える。そこで彼は言った。
『神ではなく、俺に祈りを捧げろ。そうすればお前の願いをかなえてやろう』
悪魔が僕の願いをかなえた結果、神さまはいなくなった。そうなれば誰かが神さまの代行をしなくてはいけない。世界中の人達と繋がって、神さまを殺すほどの実行力がある悪魔は、なぜか神さまの座には興味がないようだった。それならば、と僕は立候補した。世界を変えたいと常日頃から考えていた僕だ。この流れに乗らない手はない。神さまが出来ること、それは世界の改変と世界中に届く命令だ。すなわち、神さま命令を世界に轟かせることができる。まず最初の神さま命令は
「地獄に堕ちろ、悪魔」
次の瞬間、かなり大音量の悪魔の声が僕の中で響く。たった一言で僕は悪魔を地獄に封印することに成功した。もう悪魔の声はしない。僕は聖書に記されている最後の聖戦を生き残ったのだ。そう思った。神さまは僕が間接的に殺してしまった。だが、悪魔もといルシファーは僕の神さま命令で未来永劫地獄の炎に爛れるのだろう。悪魔はどこまでいっても悪魔だ。どれだけ僕に慈悲を見せてくれても、どれだけ心を通わせたと思っていても、悪魔は結局世界の敵だ。ならば、滅した方がいい。神さまも死んで、悪魔も死んで、今日この日から新しい世界が始まる。僕を悩ませたテレパシーもお役御免、明日にはなくなっているだろう。ならば、今できることは何だろう?
神さま命令。その力はまだ僕の手の中にある。世界を変える力がある。きっと、今日が審判の日だ。その証拠に世界中から拍手喝采が聞こえる。バビロンを除いては。彼女は悪魔のために泣いていた。
差別も理不尽もない、誰でも生きる意味を見つけられる世界を造ることが僕の夢だった。今日がその夢を叶える日だ。だから、僕はバビロンを滅さずに放っておいた。心配するな、バビロン。僕は君にも生きやすい世界を作る。
「神さま命令です。みんな隣の人には優しくしてください」
世界中から声がする。
『はーい!』
僕は周りを見渡す。すると、僕の周りでは人々がお互いに対して親切になっている。これこそ、僕が思い描いた世界だ。
『おい!なんで優しく教えてやってるのに何も気づかいができないんだ!』
しかし、親切心が伝わらず怒り出す人の声が僕の中に入ってくる。どうしたらいいんだろう?僕は考えた。
「神さま命令です。人に怒る前に自分で何とかしましょう」
ならば、もっと神さま命令で人の行動を限定しよう。
僕は考えられる限りの命令を出し続けた。やれ、お金は賢く使えだの、やれ、犯罪に手を染めるなだの、そういう類いの偽善的な命令だ。これで世界は少しずつ良くなっていく。僕がそう望んだからだ。中には神さま命令に逆らうものもいた。例えば、僕が神さま命令で犯罪者のそばにいる人に走って逃げろと命令する。大抵の人は命令通りに犯罪者のそばから去る。だが、そうでない人もいる。刑務所に勤務している看守は刑務所から離れることはできない。こういった事情がある場合、該当者にはバグが出る。彼らは僕が命令した直前の行動を何度も繰り返す。バグが出たらすぐに分かった。近くに居た人たちが僕に訴えかけるからだ。僕はその声を頼りに何度も命令を細分化して上塗りする。
「神さま命令です。犯罪者の近くに居て、かつ、そばから離れられない人は犯罪者が改心出来る手助けを自分の身の安全が確保できる場合にのみ、手伝ってあげてください」
という風に。バグは一晩に何度も起こった。僕はそれを出来るだけ正していく。僕はこの一晩に出来るだけのことをしたかった。なぜなら、僕には長い間神さまの代役をするつもりがなかったからだ。僕はジーザス・キリストであったとしても、人間だ。世界の声を毎日のように聞き続ければ頭がパンクしてしまって廃人になってしまう。だから、僕はこの一晩の間に出来る限りのことをして神さまの力を誰かに譲ってしまおうと思っていた。
バグは少しずつ減っていく。それでもずっとバグが出続ける人がいた。バビロンだ。彼女のバグは何度神さま命令を修正しても一向に治らなかった。僕の考える最高の世界を拒絶し続けていたのだ。その姿は新約聖書に登場する「バビロンの女」とダブる。魔獣にまたがったバビロンの女は神さまとジーザス・キリストの敵として記されていた。
『私は誰でもいいからヤりたい。ねぇ、声聞こえてるでしょ?誰でもいいから今からヤろ?』
バビロンがテレパシーを使って悪魔の代わりを探し始めた。僕は考える。悪魔を退治したのに未だ僕を拒絶するバビロンは間違いなく、かの敵対者だ。神さま命令は次第に彼女一人に対して行われるようになる。彼女を正常に治すことがおそらく僕の最後の使命なのだ。
「自分を大切にしてください」
『今からヤろ?今からヤろ?今からヤろ?今からヤろ?』
こんな簡単な神さま命令でも彼女はバグってしまう。
「衝動で短絡的に自分を売るようなことはしないでください」
『今からヤろ?今からヤろ?今からヤろ?今からヤろ?今からヤろ?』
「人の話を聞けよ!」
そして、僕が予期していなかった出来事が起こる。
バビロンが自殺した。
僕が変えていった世界を彼女は自分の存在を犠牲にすることで明確に拒絶したのだ。僕は焦った。世界をよい方向に再構築している満足感が先行して、罪悪感を感じていなかった。それが間違いだというようにバビロンは死んでしまった。僕は神さまの代行を始めて、初めて敗北感を覚えた。もっとうまくやれたのに。僕にならだれも傷つかない世界を造れるはずだったのに。
「神さま命令です。バビロン、生き返ってください」
心の中でバビロンに声が聞こえる。彼女は僕に罵声を浴びせた。それでも僕はホッとした。彼女は無事生き返った。神さま命令は本当に何でもできるらしい。
『お前が造った世界は最悪。こんな世界で生きてて何の価値があるの?』
それだけ言うとバビロンはまた死んでしまった。
死後の世界からバビロンの声がする。どうやら、死後の世界では自分が好みのハーレムが作れるらしく、彼女の興奮する声と端から順番ずつまぐわおうとする計画が僕の中に流れ込んでくる。僕は嫌気がさした。見て見ぬふりをしてやり過ごそうとしたが彼女の声は誰よりも大きくて無視できなかった。
バビロンなんてゲイになればいいのに…
『あ、私ゲイだ』
神さま命令を使うつもりはなかった。ただ、心の中で思っただけだった。それなのに、バビロンはゲイになってしまった。
『全然楽しくない。死のう』
さっきまで興奮していたバビロンの声は急に冷たくなり、やがて無言になった。
彼女は死後の世界でも居場所をなくし、消滅してしまった。
どうすればいいのか?
「神さま命令です。神さま、生き返ってください」
端的に言うと、僕は神さまという立場を一晩で投げた。僕には世界を構築するなどという大義は重荷でしかなかった。やってみて、駄目だったのだ。僕の責任でバビロンは存在さえなくなってしまった。たった一言、心の中で悪態をついただけで彼女は消えてしまった。意図していない結果ではある。世界にこうなってほしいという思いもあった。だが、人一人の命は僕には大きすぎたのだ。
「最後に一つだけ。僕の頭の中の声を消してください。お願いします」
こうして、僕は神さまではなくなった。
次の日の朝、僕はまた喘ぎ声で目を覚ます。バビロンと悪魔だ。二人とも消滅していなかった。頭の中の声を消してくれ、という願いも無視された。
『きゃー!助けて!!まだあいつの声が聞こえる!マジで!助けて!』
『きもいきもいきもいきもい!!!』
もういい加減にしてくれ。僕はどうしたら解放されるんだ。いっそ誰かに殺されて楽になりたい。
『自分で死ねよ』
悪魔に頼んだって僕を殺してくれない。
『そうそう、これを終わらせられるのはお前だけ』
今更、許してなんてもらえない。
『わかった。俺がお前を殺してやる。だから日本に帰ってこい』
症状が悪化したのか、兄の声さえ鮮明に聞こえる。ありがとう。すぐにでも日本に帰るから、その時はよろしくお願いします。
その後、僕は頭の中の声を無視するために睡眠薬を買いに行った。もう無理だ。自分で何とかしようと思ってた僕が馬鹿だった。日本に帰ればすべてが終わる。それまで、誰の声も聞きたくない。寝てる時だけが誰にも見られていない、邪魔されない安全地帯だ。最近は寝ていても誰かの罵声で起きることがある。そんな時は決まって動悸が激しくなって過呼吸気味になる。睡眠薬を使っている間だけが頭がぼーっとして苦しみがない。誰の声も聞こえなくなる。本当に僕はこのまま廃人になっていくのかな。そう思いながら僕は睡眠薬を飲み続けた。
『神さま!お前は何がしたいねん!!!』
誰かが僕を擁護してくれている声がする。僕は思う。どうだっていいよ、もう。庇ってくれてありがとう。でも、どうせ誰が何をしたって現状は変わらない。僕はきっと前世で最低な行いをしたんだろう。だから、これは罰なんだ。そう思わないとやっていけないから。
『お前を助けたる!!はよ、帰ってこい!!』
ありがとう。ちゃんと俺を殺してください。
そうして、何も解決しないまま、アメリカから帰国する朝を迎えた。
試作