Blue_Springer

 絶叫。絶叫。絶叫。
 体中の空気を全部吐きだす。
 悲鳴は、複雑に入り込む大地に跳ね返って、僅かな余韻を残して消えた。
 汗ばむ手のひらで橋の欄干を握って、大きくのけぞる。口は開いたままだ。そのまま大きく息を吸い込む。
 二度目の絶叫。
 けれど、それは耳障りな金切り声になることはなく、口から漏れた。
「お前、また失恋したの?」
 間の抜けた声が聞こえたせいだ。折角、人がいい気分で叫んでいたというのに、この男は。
 制服姿で自転車にまたがっているのは、幼い頃から腐れ縁続きの原田真嗣だ。かく言う私も制服姿な訳だが。
 無視を決め込んで、再び大きく空気を吸い込もうとした。
「おい」
 すぐ後ろから声がして、再び阻まれる。
 思わずぎょっとした。いつの間に、音もなく、私の後ろに来たんだ?
 そして納得する。こいつは自転車に乗っていたんだ。
 彼はきびきびと自転車から降りると、私の肩を掴んで強制的に向かい合わせた。
 こいつとは身長が頭一つ半ほど違う。顔を見る気など毛頭ない私は、視線を真っ直ぐに向ける。
 丁度、胸ポケットに付けっぱなしの名札に目線が揃った。
 こいつは、私の旋毛を覗き込んでいるんだろう。
 真嗣を無視することなど、私にとっては日常茶飯事の事で、ヤツにとってもそれは同じ事だ。
 普段は「寛容」を形にしたような、穏やかな性格なのに、私が視界の隅っこに入るものなら、直ぐにあれやこれやと突っかかってくる。真嗣の兄の言葉を借りるなら、それは過保護だと言うことだが、私にとっては迷惑極まりない行為だ。こいつは何がしたいんだ? 私の平穏な日常を乱して、何が楽しいというのだ。
 今も向かい合った真嗣は、何事かを語っている。
 そもそも、聞く気を持ち合わせていないので、何を言っているのか理解不能だ。
「聞けよ」
 言われて、ほっぺたをつねられた。
 仕方無しに、顔を上げる。東京タワーを、真下から見上げるような気分だ。グキッと首が鳴る。
「誰にフラれたんだよ」
 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐ、私を見つめている。
 むっとした。
「してない」
「はあ?」
「恋も失恋もしてない」
 きっぱりと言ってやった。そう、私は初恋だってまだだ。それを、どうすれば失恋が出来るんだよ。
 単なる憂さ晴らしだ。それくらい分かってるだろ?
 というか、「『また』とはどういう意味だ?」
 聞くと、ばつの悪そうな顔をして、僅かに目を反らした。何か隠しているときの仕草だ。何年も一緒にいればこれくらいのことは分かる。
 さあ、何と答えるか。耳を貸してやろう。
「近所迷惑だろ」
 話を逸らす。まあ、いい。こいつの常套手段だ。そっちに言う気がないなら、こっちも聞く気はない。
「この辺に民家はない」
 そう。この辺りに民家はない。私たちが暮らすのは、田舎の山間にある小さな町だ。電車すら通っていない、ど田舎だ。パスだって一時間に一本しかない上に、午後六時には最終が行ってしまう。何とも不便で、過疎化の進む小さな町。
 ここは、町外れからバスに乗って、一つ目の停留所。更にそこから十分ほど歩いた、小さな渓谷にかかる橋の上。その名も『呉橋』。あるのはせいぜい畑くらいで、あとは細い県道が、竜のように山肌をうねっているだけ。橋の上を通るのは、トラクターと時々乗用車くらい。人が歩いてるのは、ほとんど見たことがない。
 私の正論に、真嗣はほんの少しだけむくれた。
 見たことないと言えば、もう一つ。自転車に乗ってる人も、だ。こんな山道で自転車に乗るなんて、自殺行為も甚だしい。もしくは、相当のチャレンジャーか。
 でも、目の前のこの男は自殺志願者出もなければ、チャレンジャーでもない。たぶん探し物をしていたんだろう。『物』と言うより『者』なんだろうが。
 真嗣は大きく息をもらした。
「ちゃんと家に帰れよ。おばさん、心配してたぞ」
 例によって例の如くのお節介。余所様の家庭の事情に、いちいち首を突っ込まないで欲しい。というか、彼が探しに来るのもどうかと思うが。良いように使われてるだけじゃないか。
 私は無言のまま、ぶーたれた。意に介す気もないと言うように、わざとらしく脱力してみせる。
それを見て、彼はカチンときたらしい。
「お前な。おばさんの気持ちも考えてみろよ。毎日毎日、何が気に入らないのか知らないが、ちょっとは愛想良くしたらどうなんだよ? 家族なんだから」
 すぐにこれだ。家庭の事情に口を出す。放っておけよ。ただの第二反抗期をエンジョイしてるだけ。お前にそれは無いのか。
「個性を主張するのは良いが、絢の場合、周りの迷惑を考えないだけの、ただの自己中なんだよ。その辺ちゃんと理解してるのか? してないか。してるわけないよな。いつもいつも、お前がやってるのは、ちぐはぐなんだよ。大体、今日だって…………」
 始まった。ぐちぐちとお説教だ。それを聞き流しながら、心の中で毒づいた。
 バカかお前は。五月蠅いったらありゃしない。さっさと家に帰って、SNSで知り合ったとか言う可愛い彼女といちゃついてろ。お前はなんの権利があって、私の至福の時間を邪魔するんだ。
 あー、五月蠅い。五月蠅い。少しは黙ったらどうだ。鞄を持っていたなら、迷わずその頭を蠅のように叩いてやるのに。
 でも残念ながら、今の私は手ぶら。両手に何も持ってない。今頃、私の鞄は、遙か下を流れる川を、どんぶらこっこと下っているはず。こんな事なら、放り投げずにおけばよかった。
 あんたにとっては不幸中の幸い。
 ……ああ、違う。不幸なのは私の方だ。良いことは、こいつが全部かっさらって行きやがった。
 嗚呼、腹立たしい。
「聞いてるのか?」
 聞いてない。最初っから何も聞いてない。
 いっそ、呪いの言葉でも吐いてやろうか。
 でも待って。私、呪いの言葉なんて一つも知らない。それどころか、具体的に呪う方法さえ知らない。
 腹の中で、ぐつぐつと煮えくり返る苛つきをそのままにしながら、目の前に立つ男を精一杯睨んでやった。
 何事かを説く真嗣は、こっちの事など気にかける様子もない。
 しばらく経って、ようやく睨みが効き始めたようだ。
 真嗣は、私の目をはたと見つめると、急に黙り込んでしまった。
 そして目を反らす。
 どうやら私の睨みには、呪いの効果があったらしい。
 顔を背ける真嗣の頬は、僅かに赤らんでいる。具体的な効用として、発熱作用があるようだ。
 思わず心の中でガッツポーズをとった。
 いや、待てよ。私は夕日を背負っている。これはどうなんだ? 夕日の照り返しという線を、捨てきれない。
 やっぱり、私に呪いの類は実行不可なのだろうか。
 負けるな、私。呪うことが出来なくても、この睨みには、こいつが目を背けるだけの威圧感があるはずだ。
 現に、こいつは目を反らしている。
 うん、そうだ。それだって、なかなか悪くない。
 私は不良よろしく、真嗣を睨み続けた。
 どうだ、この威圧感。恐ろしくて何も言えまい。
 悦に浸っているところで、奴は声を上げた。
「お前、鞄どうしたんだよ」
 鞄? なんだよ、今更。それならあそこに「捨てた」
 端的にそれだけ伝えて、ヒーローよろしく遙か下方の清流を指さす。肩から指先までピンと真っ直ぐに。
 真嗣は私の指先を追った。
 鞄は浮きつ沈みつ、のんびりと川を下っている。
 数日後には、広い海原を漂っているに違いない。あのちっぽけな鞄の中には、浪漫がぎっしりと詰まっている。トムソーヤのように、大冒険を繰り広げるだろう。もしかしたら、遠く異国の地から、私の元に戻ってくるかも知れない。そしたら「よくやった」と褒めてやろう。
 そこまで夢想して、うなだれた。
 少し先にダム湖があるのを、すっかり忘れていた。大冒険どころかピクニックじゃないか。湖の底に沈んでヘドロにまみれて、終了。真夏の湖底で、ごみと判別不能のあいつが顔を出すのがやっとだ。
「お前、バカだろ」
 うなだれる私を見て、真嗣が言った。
 バカはお前だ。自分が脳天気な勘違いをしているのを、知りもしない。
 真嗣は、支えていた自転車を放りだして、川へ下りようと、急な斜面を下ろうとしている。
 そんなことをしても、もう間に合うはずがない。鞄はずいぶん遠くまで流れてるはず。そう思って流れの先を見ると、それは流木に引っかかっていた。
「危ないよ」
 一応声をかけた。欄干に手をかけて、下っていく彼の姿を見物する。沢まではおよそ五十メートル。相当な労力だ。
 私の声に、はたと顔を上げた真嗣が「お前も来い」と叫ぶ。
 しばらく考え込む振りをしていたが、下で喚いているので、仕方なく降りることにした。
 斜面には、川に下りるための細い道がある。道と言っても獣道と大差ない。腰ほどもある草が生え放題で、どこに道があるのかすら分からない。真嗣が踏みつけた草道を、そっくりそのまま辿っていく。
「なんで、捨てるんだよ」
 ばっさばっさと草を踏み倒しながら、真嗣が口を開いた。
「だって、なんか、イラっとしたから」
「鞄が?」
 訝しげに真嗣が振り返る。
「違うわっ」
 とぼけた返答に思わず蹴り飛ばそうとしたけど、止めた。ここで蹴ったら、川岸に死体が一つ転がりかねない。私は手を振って先を行くように促した。急斜面に足を取られて転げ落ちないように、真嗣のシャツの端を掴む。
「携帯、繋がらなかったけど、鞄に入れっぱなしなのか?」
 言われて、スカートのポケットを探ってみるが、それらしき物はなかった。
「みたいだね」
 あっけらかんと言うと、真嗣はわざとらしく大きな溜息をついた。
「どおりで繋がらないわけだ。完全に水没してる……」
 言いかけて立ち止まると、僅かに顔を引きつらせて振り向いた。
「確信犯?」
「さあ?」
 けろりと返す。私にとってそれは大した価値なんて無い。緊急連絡用、持ち運び可能公衆電話みたいな物だ。直通で、今野絢に繋がるってだけで。
 アドレスも大して登録してあるわけじゃない。自宅と家族とそれから真嗣くらいだ。携帯電話なんて無くたって、別にどうって事無いんだけど。親が「持て持て」五月蠅いから持ってるだけ。
 これ以上、私に文句を言っても仕方ないと思ったらしく、向き直って再び草道作りに専念する。

「失恋、してないのか?」
 ようやく半分ほど下りたところで、妙に改まった声が落ちてきた。足は黙々と道をつくっている。
「はあ?」
「失恋してないのか?」
 繰り返した。しつこいな。さっきも言ってたけど。
「だから、失うような恋はしていません」
「本と「黙れ!」
 食い下がる真嗣を一喝した。しばらく考え込むように黙っていたが、「そうか」と気の抜けたような声が微かに聞こえた。
「何をどう勘違いしたのか、サッパリだっ!」
 前を歩く背中に向かって、叫んだ。
 その直後だ。私はおかしな声を上げる。
「ひゃあ?!」
 特攻隊のように飛んできた蜂を、反射的に両手で払いのけた。子供の頃に刺されて以来、蜂は天敵だ。
 しっかり掴んでいたはずの、真嗣のシャツが、ひらりと舞う。
 あ。
 支えを失って身体がぐらりと傾いた。
 スローモーション。
 眼下に岩だらけの川岸が見える。あれが三途の川にならなきゃ良いけど。視界の隅っこに見えた真嗣は、大きく目を見開いて、これでもかと腕を伸ばしている。
 たぶん届かないなぁ、なんて呑気に考える。
 そう思っていたのに、あろう事か奴は急斜面で大きく飛び上がった。そのまま私の頭を引き寄せて抱える。到底無事に着地なんて出来るわけもなく、草で覆われた斜面を二人で転がり落ちる。どすんと身体を岩に打ち付けてようやく止まった。
 頭がぐるぐると回る。片足を川に突っ込んでいるようで、さらさらと肌を撫でる流れが心地良い。

 たぶん気を失っていたんだと思う。私は大きな岩の上でうつぶせにのびていた。
 はっとして顔を上げる。視界いっぱいに汚れたシャツ地。真嗣が体を起こしていた。
「ねえ」と腕を掴む。
 ……反応がない。
 たくましい腕を掴んで、私も起きあがった。
 そして、固まる。
 ……え? なにこれ?
 無意識に真嗣に擦り寄った。紅葉色の着物が風に揺れている。
 え? なにこれ?
 掴んだ腕を揺するが反応が無い。どうやら真嗣も状況を理解していないようだ。
 そこには、紅葉色の着物を着た女が、居た。
 ただ居るだけならいい。彼女は、宙に浮いている。宙に?
 妙に白い足が、風に揺れる着物の間からちらりと覗く。腰まである長い黒髪の中に、小振りで形の良い顔があった。それは美しい笑みをたたえている。
「久方ぶりの獲物じゃ」
 嬉しそうに女は言った。

 女は、『呉葉』と名乗った。
『呉葉』だって? この土地に生まれ育った人間なら、必ず一度は耳にするその名の持ち主は、伝説上の人物だ。あの悪名高き『妖女・呉葉』。「いい子にしないと呉葉が食べに来るぞー」と子供の頃に脅かされたことのない人間は皆無。ここじゃあ、日本の現総理大臣の名前よりも有名人だ。平安時代とかの大昔に、ごく普通の夫婦が不妊に悩んだあげく、第六天魔王とやらから、やっとの思いで授かったのが『呉葉』だ。彼女は妖術を使って、一時は朝廷のお偉いさんに気に入られるも、なんやかんやでこの土地に追放されて、旅人を食らう鬼になった。それを通りがかったお坊さんに、退治されたって話。
 それが、この人?
 言い伝えでは、絶世の美女だって……。確かに良く見てみれば、作り物みたいな綺麗な顔をしている。良くテレビで見る、愛嬌のある可愛らしい顔とは大違いだ。生き物とは思えない涼やかで、能面のように無機質な顔の作り。それでいて、完璧なまでの笑みを作っている。
 汗ばんでいたはずの肌が泡立った。思わず、半袖のブラウスから伸びる腕をさする。
「その願い、叶えてやろう」
 有無を言わさない言葉の終わりに、彼女は大きく腕を振った。紅葉色の袂がふわりと舞う。
 そして言った。
「さあ、好きに足掻くが良い」
 彼女は口元を満足そうに引き上げると、風に溶けるように姿を消した。
 さらさらとせせらぐ川の中で、私と真嗣とだけが呆けている。
 残ったのは、私たちの左手の小指をしっかりとつなぐ、細くて白い糸だけ。

 糸は解くことが出来なかった。繋がりあったそれは、意思でもあるかのように青白く仄かに光を放っている。
 五メートルでも離れようものなら、それはピンと張りつめて自由を奪った。岩だらけの川の中で何度も転びながらようやく悟った。
 何をするにも、こいつと居なきゃいけないのか。そう思うとうんざりした。
 真嗣は何事もなかったかのように、あっけらかんとしている。事態の深刻さを全くもって分かっていない。引きずられるようにして急な斜面を戻っていく。身長差のせいで巧くバランスが取れない私を、ほとんど真嗣が担いで登ったようなもんだけど。
 びしょ濡れの鞄を自転車のかごに突っ込んで、同じように濡れ鼠の高校生が二人、とぼとぼと山道を登っていく。なんと滑稽な姿よ!
 案の定、携帯電話は見事に水没して、電源すら入らなかった。急な山道を登りながら、水の滴る小さな物体を振ってみる。
「振るな、振るな」
 自転車を押す真嗣が、咎めるように言った。
「振ると、基盤に水入ってダメになるぞ」
 その言葉にジト目で返すと、「自分のせいだろ」と返された。
 確かに、自分のせいだ。鞄を放り投げるようなことをしなければ、こんなことにはならなかったんじゃ……。全ての元凶は私か……。そもそも何で鞄を投げたんだっけ?
 うなだれる私に、真嗣が言った。
「学校帰りにでも、修理に出せばいいだろ」
 問題は、そこじゃないんだけど。
 黙り込む私の頭に、大きな手が着地する。
「気にするな」
 そう言われても、なあ。

「家出する」
 ようやく帰宅した私は、母さんの背中にそう告げた。
 七月の生ぬるい風のおかげで、濡れた制服はすっかり乾いている。
 隣には苦い顔の真嗣。刺客として差し向けられたのに、すっかり寝返る形になって、当人は居心地が悪いのかもしれない。
 とやかく言われる前に、荷物をまとめて家から逃げ出した。
 私の行くところなんて分かりきってるのか、母さんはまとわりつくようなため息を漏らしただけで、何も言わなかった。

 真嗣の家は、自宅から五百メートルくらい離れたところにある。間に幾つか畑を挟んだお隣さんだ。
 幼なじみと言っても、ここ数年家に上がることなんて無かった。久しぶりの原田家の廊下で、うろうろと視線を泳がせた。受け入れられるかどうか分からないこの状況で、なんだか居心地が悪い。
「あれ、誰かと思えば、絢じゃん」
 聞き親しんだ声に振り向く。二階から男が覗き込んでいた。
「章兄」
 久しぶりに顔を見るその人物は真嗣の兄、章俊だ。私たちより5つ年上。現在、東京の大学に進学中。たぶん夏休みで帰ってきているんだろう。
 自分の声が弾んでいることに気付いた。理由は明確。昔からよく遊んでくれた章兄が、大好きだったから。
「久しぶりだなぁ、元気だったか? 相変わらずちっちぇえなぁ」
 そう言って、頭をわしわしと撫でる。
「今日は、どしたのよ。晩飯食いに来た?」
「家出してきた。しばらく厄介になるので、あしからず」
「女の子は普通、女友達の家に行くもんじゃね?」
「心は男だから問題ない」
「はい。はい」
 大きな手が諭すように、頭の上で跳ねる。
「真嗣は、願ったり叶ったりだな」
「ん?」
 どういう意味? 聞こうとして遮られた。
「絢っ!」
 ムスッとした不機嫌な顔が、狭い廊下に立っている。
 それを見た章兄が、意地悪な笑みを浮かべた。幼い頃に、真嗣をからかって遊んだ笑みと、ちっとも変わらない。章兄は私に何か耳打ちしようと、顔を寄せてくる。
 なになに。どんな嫌がらせをして真嗣を困らせるの?
 私は思わず笑みを漏らす。こんなことは久しぶりだ。楽しい。
 でも、章兄の耳打ちは結局聞けなかった。ドスドスと音をたてて迫って来た真嗣に、肩を掴まれてひっぺがされたから。
「わっ」
 抜けるような声が、口から発射される。
 バランスを崩して、そのままひっくり返るのかと思いきや、真後ろに立つ真嗣の胸に体当たりして、どうにか転倒は免れた。
 相変わらず不機嫌を露わにしている真嗣に腕を捕まれると、引きずられるように階段を上がった。
「痛い」文句を言えば。
「当然だ」と返ってくる。何を怒っているんだ?
 真嗣の自室に押し込められる直前、階下を覗き込むと、相変わらずにやにやとしている章兄が、こっちを見上げていた。
 つんのめるように部屋になだれ込む。畳みがみしっと音をたてた。
「お前はいつも強引だ」
 私は不満を露わにする。折角の楽しい会話が台無しだ。この男、それが分かっているのか? ……たぶん分かってないだろうな。
 荷物が部屋の隅に放られたのを見届けて、私は一つしかないクッションを陣取った。
 部屋を見渡す。居心地が悪くない程度に片づいてる。
「何飲む?」
 真嗣は、さっきまでの不機嫌さを廊下に置いてきたようで、けろっとしている。
「ファンタグレープ」
「麦茶ね、待ってろ」
 リクエストは無視された。麦茶しかないのなら、わざわざ聞くな。
 真嗣は私を残して、足取り軽く階下に戻っていく。まだ廊下でにやついていたと思われる章兄と、何か言い争っているのが聞こえた。

 私は、偏屈だ。
 それは自分でも十分理解している。つもり。素直に人の言うことは聞かないし、思ったことを何でも口には出さない。誤解されることは多々ある。と言うか、何を誤解されているのか自分では分かってない。周りから良くそう言われる。あの真嗣が言うのだから、真実なんだろう。
 要するに、私は一匹狼なんだ。
 そんな私の隣には、とてもじゃないが狼が一匹で太刀打ちできないであろうゾウがいた。
 それが真嗣。
 小さい頃は、私の方が大きかった。その頃の真嗣はゾウじゃなく、小さなイルカだったんだと思う。住む世界が違う、イルカ君は狼の恐ろしさなんて気にすることもなく、何のこだわりがあるのか、私の周りをしつこく泳ぎ回った。それが苦だった訳じゃない。ただ、ずっと違和感があった。私たちには、決定的に違う何かがあるのを幼心に知っていた。
 それが何なのか、未だに分からないけれど。
 とにかく、ファーストコンタクトがいつだったのか、全く覚えていないほど付き合いの古い幼なじみは、イルカから見事にゾウに進化を遂げ、変わらず私の周りをのんびりと歩いている。あいつの今後の予定は、クジラにでもなるつもりなんだろう。小さな狼なんて気にもしない、大型ほ乳類。
 生物の進化について思案を巡らす私の横で、唐突に溺死したはずの携帯電話が、息を吹き返した。
「うわぁ?!」
 我ながら間抜けな声を上げた。ブーブーと、マナーモードに設定されたそれが、足下で喚き散らす。
 慌ててストラップを引き上げて画面を覗き込むが、残念。ディスプレイは死んだままだ。それどころか沈黙して動く気配すらない。
 きょろきょろと辺りを見回して、見つけた。
 折り畳みテーブルの下に隠れるようにして、青い塗装の携帯電話が、LEDを点滅させながら震えている。
 着信が続いていることから察するに、どうやら電話のようだ。メールの着信を一分に設定しているなら話は別だが。たぶん、それはない。
 鳴りやむ気配のない着信に業を煮やして、青い携帯電話を引き寄せる。もしかしたら母さんが心配して真嗣にかけてきてるかも……と思って首を振った。それはないな。
 そう考えながら、手は勝手に携帯電話を開いた。
『大坪友梨香』
 ディスプレイに表示された文字。
「誰だ?」と首を捻る。
 相変わらず着信が続く。
 どうしようか、代わりに出ておくか? それとも放置? 放っておけばそのうち留守番電話サービスに繋がるかな?
 青い携帯電話を持って、どうするべきか考えあぐねていると、耳が階段を上がってくる足音を探知した。
 シュタッ、という効果音が似合いそうな勢いで立ち上がり、襖を開ける。
 青い携帯電話の持ち主は、間抜け面で階段の上段手前で立ち止まった。お盆に並んだグラスの中の麦茶が、踊るように跳ねる。
 私は、右手に持ったままの携帯電話を、真嗣に向けた。
「電話」
 ずいっと向けられたものを見て、間抜け面がさっと表情を変えた。見られちゃまずいものを、見られたような顔だ。僅かに口元を引きつらせている。
 着信はまだ続いていた。
「この大坪って誰だ?」
 真嗣は、私が言い終わるのを待たず、持っていたお盆を押しつけると、無言で携帯電話をひったくるように奪って、ドタドタと慌ただしく階段を下りていく。奴はその勢いのまま、サンダルを引っかけて、外に出ていってしまった。
 礼ぐらい言ったらどうなんだ?
 私はお盆を持ったままクルリと身を翻して、何事もなかったかのように部屋に戻った。
 小さないたずらをするように、真嗣の分のグラスを空っぽに空けてやった。

「そういえば」
 原田家の食卓で、私は爆弾を投下した。
「大坪友梨香って誰? 例の彼女?」
 沈黙。
 柱時計の振り子が刻む音と、私の咀嚼音がやけに大きく聞こえる。
 世間話に夢中になっていた真嗣母も、黙っている。
「ばっ! ちがっ!」
 真嗣が静寂を破って、咳込んだ。
 苦しげに、ゴホゴホと鳴りやまない咳を見かねて、背中を拳で叩いてやる。
 ついでに僅かな親切心から、私のグラスになみなみと注いであったファンタグレープを、差し出してあげた。
 章兄が、わざわざ買いに行ってくれたファンタグレープだ。なんて優しいお兄さんだろう。
 よろよろと伸びる手にグラスを持たせると、真嗣はそれを一気に飲み干してしまった。
「あ~」
 私は思わず声を上げた。
 ちょっと分けてあげるだけのつもりだったのに、ひどい。
 真嗣は空っぽのグラスを握りしめて、目に見えない何かと格闘している。
 いいから。それ返して。
 空になったグラスを取り返して、ファンタグレープをなみなみと注ぐ。
 その間、横で何か騒いでいたけど、私の耳には入っていない。
 葡萄色の液体でいっぱいになったグラスに満足して、それに口を付ける。もう誰にも渡さん。
 向かい側で章兄が、「間接キスだ~」と嬉しそうに言っているのも気にしない。そんなのは今更な話。
 私がファンタグレープを飲み干す間、家族に向かって弁解を吐く真嗣に、怒りの眼差しを送り続けた。
 それを何と勘違いしたのか、最後に私に向けて言った。
「違うからな」
 だから、何がだ。

 糸は、ハサミを使っても切れなかった。
「物質的に存在してないんじゃないのか?」
「それはどうだろ?」
 私は糸を右手でつまみ上げてみせる。現にこうして触れてる。
「でも、誰にも見えてない」
「まあ、確かに」
 そうだ、私たちが不自然なくらいに離れないことを訝しく思う以外、誰もこいつの存在に気付いていない。普通に着替えることが出来たのも、今考えると不思議なことだ。袖に腕が通るはずがない。そう考えると、私たちの身体に直接接触している以外は、影響がないと言うことなのか……。良く分からない。
「そもそも、呉葉なる人物は本物だったのかな?」
 その問いに、真嗣はぎくりと肩を震わせた。
「本物だから、こんな不可解なことを出来るんじゃないのか?」
「まあ、確かに」
 さっきから、それしか言っていないような気がする。ってか、なんで一瞬びびったんだ?
 問いつめようとジト目で見やると、誤魔化すように糸を弄び始めた。私の指から延びるそれを摘むと持ち上げて左右に振っている。もちろん私の腕も一緒に上がって、操り人形のように、空中でカクカクと手が動いた。
「やめてよ」
 不機嫌を前面に出して言っても、止める気配がない。
 されるがままだった左腕を伸ばして、真嗣の腕を掴み返す。
「やるのか、コノヤロー」
 無駄だと分かってるけど挑発する。すると、珍しく怪しい笑みを浮かべて、真嗣が言った。
「やれるもんなら、やってみやがれ」
 言われるまでもないわ。
 掴んだ腕を放す。あぐらを掻いていた足を解いて、肩を蹴るように強く押した。身体の大きさから、びくともしないかと思ったが、それは簡単に倒れていく。
 瞬間、真嗣が私の手首を掴んだ。
「ちょっ」
 声を上げるのが早いか、引っ張られて真嗣の上に倒れ込みそうになる。でも、すんでの所で畳に手をついてどうにか止まった。私の下で、奴がにたりと笑っている。
「何すんだよ」
 それに向かって凄んでみせる。橋の上の時のように睨んでみるが、あの時のような効き目は現れない。真剣な瞳が私を射抜く。
 腹が立って、脇腹をくすぐった。
「やめろ」の声と一緒に、笑い声が弾けた。相変わらずここは弱いんだな。笑い転げる真嗣を見て、得意な気分になった。

 私たちは文字通り、兄弟のように育った。とにかく何をするにも一緒だった。よく遊んで、よく喧嘩をした。同じ釜の飯を食ったし、一緒にお風呂に入ったこともある。まあそれは子供の頃の話だが。何度も言うが、その頃は私の方が身体が大きかった。ほんの数センチってとこだけど。
 それがいつしか、追い抜かれるようになった。身長だけじゃない。私より遅かったかけっこや、下手くそだったキャッチボールだって、いつの間にか抜かされていた。それを見て、私は焦った。
 このままだと、置いていかれる。
 いつからか、取っ組み合いの喧嘩をしなくなった。真嗣が本気で私に怒りをぶつけることは、なくなったのだ。
 そうして、私たちの間には、いつの間にか線が引かれた。二人の差は、縮まるどころか開くばかりで、焦りは嫉妬に変貌した。どうして自分が女なのか、理解できなかった。
 女に産んだ母さんを恨んで、母子関係はぎくしゃく。どうせなら男に生まれたかった。
 そうしたら、私たちはきっとただの幼なじみじゃなくて、良い友達になれたんだと思う。

 あっつい。
 寝苦しさに目を覚ました。喉がカラカラだ。ぼんやりと寝ぼけた視界に、見知らぬ部屋が写る。
 どこだ、ここは。
 ごろりと寝返りを打つと、ばちんっと音を立てて、足が生暖かい物に当たった。
 近距離に横たわった巨体を、しばらく見つめる。
 そして、ようやく合点がいった。
 ここは真嗣の部屋だ。
 以外にも幼い真嗣の寝顔を、まじまじと見つめる。
 久しぶりにじゃれ合って疲れたのか、いつの間にか寝ていたらしい。寝るまでの記憶があやふやだ。これまた久しぶりに、腹がよじれるまで笑った。結構、腹筋が鍛えられたんじゃないかな。
 テーブルの上の、すっかりぬるくなった麦茶を発見して、飲み干した。
 網戸の窓から、涼しい風が吹き込んでくる。
 敷いた覚えのない布団の上で、真嗣がぐうぐう眠っている。気を使うように開けられた半分のスペースは、今まで私が寝ていたところなんだろう。
 傍らに屈み込んで、じっと様子を伺った。
 糸が月影の元で、輝きを増しているように見える。
 つくづくこの男を、羨ましいと思う自分がいた。何でもないように、私の欲しいものを全部持っているこの男を、そう思わずにいられようか。
 広い胸も、程良く筋肉のついた長い手足も。
「どうして、私の物じゃないんだ?」
 ああ、悔しい。どんなもんだと見せつけるように、この男はのんきに腹を掻いている。
 以外にも引き締まった腹筋が、月明かりにさらされた。
 私は目を背ける。
 もう見ていられない。
 はあ。大きくため息。
 これ以上、無い物ねだりをしても仕方ない。
 盛大に舌打ちをしてから、背を向けて布団の上に丸まる。
 どうせなら「転校生」が良かった。「オレがアイツで、アイツがオレで」だ。そうすれば何の苦労もなく、こいつの全てを手に入れることが出来たのに。
 嘲笑うかのように、真嗣が夢の中で何事か呟いている。聞く気もないし、興味もない。両手で耳を塞いだ。
 同じ布団で寝るなんて、何年振りだろう。
 すっかり大きくなってしまったこいつの隣は、何とも狭かった。

 ひとつ、言っていなかったことがある。
 原田真嗣という男は、良い意味で目立つらしい。これは私の主観じゃないから、いまいち理解できないが、一般的にはそうらしい。
 百八十センチ近い身長と、人気イケメン俳優似の幼さを残す端整な顔に、知的な黒縁眼鏡をかけて、終始胸キュンものの低音ボイスを発しているにも関わらず、それを意にも介さないナチュラルさが女子には堪らない。らしい。
 飽くまで、一般女子の話だ。
 他校の女子生徒が物見遊山に訪れるほど、田舎にしては完成度の高い男子高校生とのこと。
でも、私にはいまいち分からない。
 確かに、イケメン俳優にはちょっとは似ているかもしれないけれど、別に騒ぐほどのことじゃない。幼い頃から少なく見積もっても、週五で顔を突き合わせている私にとって、真嗣は真嗣以外の何者でもない。イケてるかどうかの話じゃない。それ以前の問題なんだ。
 と、私が言ったところで、加熱する女子たちをどうこうするのは不可能だ。実際、そこら辺の男どもより寛容で懐の広い真嗣が、高校入学以来、苛立っているのは何となく察している。それくらい、奴らの攻撃は容赦ない。何てったって、「ただのご近所さんA」の私にさえ、とばっちりが来るのだから。

 放課後に、携帯電話を修理に出した帰りのことだ。
 真嗣とスマートフォンについて議論をしながら、ぶらぶらと歩いているときだった。
「原田さん」
 話に割って入る声があった。
 隣で、真嗣が息を飲むのが分かった。口の中で「大坪さん」と小さく呟く。聞き覚えのある名前に、私は顔を向けた。
 オフホワイトのシフォンブラウスに、デニムスカートという出で立ちの、同年代らしき女子が対面していた。非の打ち所も無いほどに、しっかりと化粧をしている。長いつけ睫毛の間から覗く瞳は、真っ直ぐと真嗣に向けられていた。
 彼女が『大坪友梨香』なのか? どこかで見たような顔をしている。向こうも、私の顔をチラ見して、何故か動揺しているようだ。一瞬、視線が泳いで不安げな表情を見せた。
「こんにちは」
 鈴を鳴らしたような、清らかな声が聞こえた。愛らしいそれは、私にではなく真嗣に向けられたもの。さっきまで動揺していたのが嘘のように、すっかり立ち直っている。
「こんなところで会うなんて、偶然が続きますね」
 真嗣はしまったという表情で、眉間にしわを寄せた。
「ちょっと携帯を修理に出しに行ってたんだ」
「壊れちゃったんですか? 連絡取れなくなっちゃいますね。どうしよう。相談したいことがあったのに」
「いや。俺のじゃなくて、こいつの」
 そう言って、私を指さす。「代替え出してもらったから、問題ないよ」
「それなら良かった」
 良かった? 何に対して「良かった」と言っているのか。頭の上で飛び交う会話に興味を示さない私を、真嗣がちらちらと気にしている。
「あの。この後時間ありますか? お話ししたいことがあるんです」
 上目遣いで身体をくねらせた。
 なんだろ、これ。ああ。媚びを売ってるのか。空きっ腹の中で、嫌悪感がむくむくと育つ。こんなものじゃ空いたお腹は、満たされない。
「大坪友梨香」は私の存在など、石ころぐらいにしか思ってない。さっきから、完全無視を決め込んでいる。
 まただ。真嗣といると、良くこんな扱いをされる。
 彼女の態度に、不快感を露わにした真嗣が、ぴしゃりと言った。
「悪いけど、もう君の相談にはのれない。君の不安を取り除くのは俺じゃないだろ。どうしてもと言うなら、しかるべきところに相談した方が良い」
 二人の間でぼんやりと立っていた私の手を取ると、くるんと方向転換した。わざわざ来た道を引き返すと、タイミング良く信号の変わった横断歩道を渡って、反対側の道を駅の方へと歩きだす。途中、もの凄い形相で睨み付ける『大坪友梨香』が見えた。
 完全に呪われたな。

 そもそも足の長さが違うのだから、こいつの早足にについて行くには、小走りになるしかない。
 握られた手が汗ばんでいるのは、この際気にしないことにしよう。
「違うからな」
 まだ不機嫌を引きずっているのか、真嗣の声がいつもより低い。
「わかったよ」
 私を引きずる背中に向かって、言った。
 何が「違う」のかは、言われなくても分かってる。『大坪友梨香』は真嗣の恋人じゃない。
 例の噂は嘘だったってわけだ。どうして『大坪友梨香』と知り合ったのかは、深く聞かないことにした。これ以上早足になられたら堪ったもんじゃない。
「あの娘、どっかで見た顔だった」
 私の声に反応するように、繋いだ手がきつくなった。
「ばーか」
 真嗣が、聞こえるように呟く。ムッとして手を振り解こうかと思って、やめた。理由? そんなものは、特にない。
 ショーウィンドウに映った影が、飽きもせずに追いかけてくるのを見て、『大坪友梨香』に似た顔をそこに見つけた。
 私?

   *

 その夜のことだ。
 さすがに高校生にもなって同じ部屋で寝るのはどうかと、私は一階の座敷で寝ていた。真嗣の部屋の丁度真下だ。糸が天井を突き抜けて垂れているのを見ていると、なんだか蜘蛛の糸のカンダタのような気分になってくる。仄かに光を放つ糸を眺めてるうちに、ゆっくりと眠りの海に船を漕ぎだしていった。
 固く思考を閉じた私の耳に、さらさらと流れる水の音が、静かにノックした。
 接着剤で閉じられたように重たい瞼を、どうにか少しだけ開ける。
 真っ白な世界だった。
 そこに、私は立っている。
 足下を流れる水が冷たい。その冷たさに、ゆっくりと体温を奪われていくようだ。
 白いと思っていたその場所は、濃い霧に覆われた沢だった。薄い緑色が、白一色の中にぼんやりと浮かび上がっている。
 ここは……、呉橋の下だ。
 そう思うと同時に、視界が少しだけ晴れて、霧の向こうに佇む世界が輪郭を現す。
「ちと、遅かったのう」
 耳元で声がした。驚きと一緒にほんの少しだけ飛び上がって、その方向に視線を泳がせる。
 鮮やかな赤が、私を見下ろしている。呉葉だ。やっぱり裸足の足は、ふわりと浮かんでいた。
「何が遅いっていうの」口を開いて、気が付いた。声が出ない。
 彼女はそれを知っているかのように、唇で綺麗な弧を描いて微笑んだ。
「これは、妾がもらってゆくぞ」
 言うが早いか、その腕の中に真嗣が現れた。長身の真嗣を、鮮やかな紅葉色の着物が隠すように、すっぽりと包み込んで、悠々とその身体を抱えている。
「ようやっと、道連れが手に入った。お主には礼を言わねばなるまい」
 そう言って、見せつけるように真嗣の額に唇をあてる。彼は眠っているようで、ぴくりとも動かなかった。
「やめて」私は、声にならない悲鳴を上げる。
 真嗣を引きずり降ろそうと、手を伸ばそうとするけど、身体は氷のように冷たく固まって、指先すら動かすことが出来なかった。
 呉葉は、そんな私の様子を見て、楽しげに笑った。何とも無垢で穢れた笑み。
 薄れていた霧が、また濃くなってくる。ゆっくりと二人の輪郭が解け合って、白い闇の中に消えていこうとしている。
「行かないでっ」必死に叫んで追いすがろうとするのに、身体は動かない。
 私は一人、取り残された。
 霧はどんどん濃くなって、真嗣を取り返そうとする私の思考すら飲み込んだ。

 あまりの寒気に、目を覚ます。暗闇の中で、柱時計がチクタクと時を刻んでいる。
 今まで見ていたのが夢だと気付いて、ほうっと息を吐き出した。今度はちゃんと身体が動く。
 蒸し暑いはずの夜の中で、私の身体は妙に冷えていた。
 それに気が付いて、勢い良く身体を起こす。
 何も考えずに、闇の中を手探りで真嗣の部屋まで、ひたひたと歩いた。
 わずかに軋んで開いた襖の間から、静かな寝息が聞こえる。それを聞いて、私は安心した。
 大丈夫、ただの夢だ。
 自分に言い聞かせながら、傍らに座り込む。
 私の不安など知る由もなく、真嗣は深い眠りに落ちていた。
 そっと手を伸ばす。汗ばんだ腕は驚くほどに温かかった。冷え切った身体に、ゆっくりと血が通うように、じんわりと体温が上昇する。
 私はそのまま、身体を横たえた。
「私のだ」
 呟いた言葉は、夢の中で言ったのかもしれない。

   *

 この数日間の学校生活といったら、苦痛以外の何者でもなかった。
 真嗣は何があったのか、糸で繋がった日から、いつも以上に私にべったりだった。
 あまりの金魚のふん状態に、あらぬ噂まで囁かれる始末。
『どうやら付き合ってるらしい』
 たまったもんじゃない。根も葉もない事実に、私が怒り心頭している横で、こいつは何も言わずにただニコニコと上機嫌。やめてくれ本当に。おかげで私の精神は崩壊の一歩手前だ。
 私が否定すればするほど、周りは信じてくれない。どうしたら良いんだ、もう。
 そんなときだ。突然、五、六人のすらりとした高校生らしからぬ女子に囲まれた。
 派手な顔をした女が言った。
「あんた。幼なじみかなんか知らないけど、いい気になんなよ」
 その後は言葉の暴力。名誉棄損で訴えられるんじゃないかと思うほどの悪口雑言。その衝撃があまりにも強過ぎて何も言えない。
 血相を変えた真嗣がどこからか駆けてきて、私の肩を掴んだ。
「こいつに構うな」
 すっかりしょぼくれた私の手を引いて、真嗣は堂々と校内を突き進んだ。
 以降、そこかしこで聞こえるささやきに、過剰反応してしまう。
 こいつは分かってない。守ろうとすればするほど、私への風当たりは強くなる一方なのに。
 四日目にして、とうとう私の精神は、ぽっきりと折れてしまった。
 周りのちょっとした所作にいちいち被害妄想を膨らませて、頭の中は自己嫌悪でいっぱい。さすがの真嗣も、私を私から守れるわけもない。それでも、日を追うごとに心を閉ざしていく私に、付きっきりだ。
それが更に波風を立てて、悪循環以外の何物でもない。
 面白いことに、私がネガティブになればなるほど、糸はどんどん伸びていった。それと比例するように、私は真嗣を避けるようになった。

 昼休み。ご飯を食べる気にもなれずに、開きっぱなしの教科書の上に突っ伏した。
 教室内の浮かれた空気の中に、ぽっかり空いた穴。それが私。近づくなオーラを、全身の毛穴から垂れ流す。
 ごんっ。鈍い音をたてて、後頭部に何かが押しつけられた。
 圧倒的な孤独感と自己嫌悪に浸っているのを邪魔するのは、一人しかいない。
 わざとらしく大きくため息をつきながら、のろのろと頭を上げた。
 二つのお弁当箱を片手で持った真嗣が、ずいぶん高いところから見下ろしている。
「飯だぞ」
「いらない」などと言おうものなら、無理矢理連行されて、口の中にお弁当箱ごと押し込まれかねない。ちゃちゃを入れてくるクラスの男子を無視して、真嗣と教室を出た。
 屋上には誰もいなかった。
 そりゃそうだろう。こんな炎天下に、わざわざ太陽に近づこうなんて考える奴はいない。真嗣は殊勝な男だ。
 どうにか人間が生きていけそうな日陰を見つけて、並んで座る。
 ドライヤーで吹かれたような風が吹き抜けた。汗ばんだ肌に、ブラウスの生地が張り付いて、気持ち悪い。
「ほら」と差し出されたお弁当を受け取る。真嗣母のお手製だ。
「お前さあ」
 夏バテって何ですか? みたいな顔でご飯をもぐもぐと租借しながら、真嗣が言った。
「何すか」
 せっかく作ってもらったのに、残すわけにはいかないと、私も同じ彩りのそれを口に運んだ。
「最近、元気ないよな」
「…………」
「呉葉のこと気にしてるのか?」
「…………」
「そりゃあ何ともないこと無いけどさ、そんなに気にすることじゃないだろ」
「…………」
「普通に生活できてるし、今のところ特別困ることはないだろ。なあ?」
「それはお前だけだ」と言いたいのを、おかずと一緒にかみ砕いて、飲み込んだ。
 真嗣は、黙ったままの私に、少し焦ってる。いつもはこっちが答えなくたって、勝手に自己完結するのに、今日はやけに様子を伺ってきた。
 私は黙々とご飯を飲み下した。早くここから去りたい。
 この二、三日二人きりでいると息が詰まる。こんなことは今まで一度も無かった。
 真嗣の一挙手一投足に、うろたえる自分がいる。何かがおかしい。
「帰ったら、呉葉のところに行こうか。話して、糸を解いてもらおう」
 声が、ほんの少しだけ気落ちしている。私が黙っているのを、肯定だと受け取って言った。
「大丈夫。絢は、俺が守ってやるから」
 その言葉に、思わず立ち上がった。
「ばかっ」
 腹の底で渦巻く色んな思いを、上手く言葉に出来なくて、子供じみた罵りを吐きだすのが精一杯。空になったお弁当箱を真嗣に投げつけて、灼熱の屋上から出ていった。
 階段を下る上履きの音が、やけに廊下に響く。
 何で私はこんなに弱いんだろう。
 真嗣に甘えようとしている自分がいるのを知ってる。でも、そんなのは許せない。私とあいつの間にはマリアナ海溝よりも深い溝があって、絶対に埋まることはない。対等な立場になることすら出来ない。
 どうせ私は一匹狼で、あいつはクジラなんだ。最初っから住む世界が違ってたんだ。分かってて甘えようなんて、あまりにも愚かだ。そんなことしたら、広い海で溺れ死ぬのが関の山。
 私は、一人じゃ何もできない弱い人間だってこと、とうの昔に知ってたはずだ。
 階段の途中でうずくまって、小さく鼻を啜った。

「帰ろう」と声をかけられる前に、私は席を立った。どうせ同じバスに乗ることになるのに。本当に私はバカだ。
 私の様子を伺うように、真嗣が後を付けてくる。なんて思うのは自意識過剰。ただ帰り道が同じだけ。
 いつものように、隣に座ろうとする真嗣を睨み付けた。彼はそれを見て小さくため息を付くと、ひとつ前の座席に腰を下ろす。
 私はバスの中で、目の前の広い背中を、ずっと見つめていた。お互いに何を考えているのかなんて、もう分からない。分かっていた事なんて、一度も無いけど。
 いつものバス停で、真嗣だけが降りた。
「待ってろよ」去り際にかけられた声が、妙に耳に残る。
 私はそっぽを向いて、聞こえない振りをした。ちっぽけな意地ばかり張って、全然素直じゃない。
そして、私は再び呉橋の上に立った。

 雑草の生命力が羨ましい。たった数日前に、踏みつぶして作ったはずの草道が、きれいさっぱり消えている。手の付けようがないほどに生き生きと生える草の林に、ためらいながら手を伸ばす。真嗣がやったように、上手く踏みつぶして道を造ることが出来ない。それでも、照り返しの強い、ひび割れたアスファルトの上にいるよりは、マシだった。遙か下には、涼しそうな川岸が見える。
 一人だって大丈夫。
 前のように急な斜面を転がり落ちるかもしれないし、下では何をしたいのかサッパリ分からない呉葉が待ち受けてるかもしれないけど、一人でだって立ち向かえる。私はそんなにやわじゃない。それに、呉葉なんて始めからいなかったのかも。
 二人して頭を打って、変な幻覚を見ていただけかもしれない。
 きっとそうだ。相変わらず左手には白い糸が絡まってるけど、これだって直に見えなくなる。結局なんなのか分からないまま、おかしな夢が覚めるに違いない。
 私は幾つか擦り傷を作っただけで、無事に川岸まで下りきることが出来た。
 騒がしい虫の音と岩を打つせせらぎが、妙にざわめく心を落ち着かせる。
 前回来たときに倒れ込んでいた、平べったい大きな岩の上に、鞄を放って座り込んだ。
 自分で作った草道を下から見上げて、真嗣が来るのを待つ。
 でも、待てど暮らせど、斜面を下ってくる人影は現れない。
 時間は無為に過ぎていく。まだ高い場所にいた太陽が大きく傾いて、日差しが鋭く目に刺さる。
 おかしい。真嗣も呉葉も誰も来ない。
 渓谷の底で、私は一人。
「真嗣ーっ」
 立ち上がって頭上にかかる呉橋に向かって叫ぶけど、山肌にぶつかった声が反響するだけで何もない。もう一度叫んでみたけど、結果は同じだった。
 ふと、借り物の携帯電話の存在を思い出して、鞄から引っぱり出す。数えるほどしか登録してないアドレス帳を開いて、迷わずに電話をかけた。もちろん真嗣にだ。
 発信音の後、僅かな間をおいて声が聞こえた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
 それを聞いた途端に、悲しくなった。とうとうクジラにまで見捨てられてしまった……。
 パチンと音をたてて、携帯電話を閉じる。そのままスカートのポケットにねじ込んだ。
「男はどうした?」
 ポケットに入った手が抜けきらない状態のまま、耳元で声が聞こえた。それに反応した身体が、空を裂く勢いで振り向く。
 さっきまで私が座っていた場所に、呉葉がいた。
 無意識に、一歩二歩とすり足で後ずさる。
 彼女は岩に腰掛けて裸足の指先で水面を撫でていた。気怠げな視線をなげると、怪しい笑みを浮かべて言った。
「随分と、長く延びているのう」
 恐怖が、むくむくと心を支配する。
「いくら待ったところで、あの男は来まい」
 夢の続きを見ているような錯覚が、緩やかな目眩と一緒に襲ってきた。
「聞いておるのか?」
 返事どころか、微動だにしない私に、呉葉が聞いてくる。
「な、なんでそんなことが分かるのよ」
 うわずった声がこぼれた。その事にほんの少しだけ安心する。呉葉は嘲笑うように鼻を鳴らした。
「見ればわかるわ」
 五月蠅かったはずの虫の音が、ぴたりと止んでいる。不自然なほどに響くせせらぎの中に、呉葉の艶めかしい声だけが、はっきりと聞こえた。
「この糸、解いてよ」
 震える声で、私は言った。
「ほう?」
 水面を弄んでいたつま先を、ゆるりと止める。
「こんなの邪魔で仕方ない。早く、ほどいて」
 言い終わる前に、呉葉はゆっくりと立ち上がり、私を見下ろした。
「解いて良いのか?」
 試すような視線が突き刺さり、堪らずに目を反らした。呉葉はそれが可笑しかったようで、くつくつとのどの奥で笑っている。そして、言った。
「糸が解けるとき。それは、縁が切れるということだ」
 その言葉に、私は顔を上げる。
「どういうこと?」
「どうもこうもない。そういうことだ」ちらりと糸を見やって、ぼそりと呟いた。「そこまで延びきっていれば、解けているも同然か」
「どういうこと? 全然分からない」
 繰り返す私に、呉葉は一笑する。
「分かる気が、無いだけではないかのう。好きにするが良い。お主が真に願えば、その糸は切ることも、解くことも出来る。お主次第じゃ」
「じゃが」糸を見下ろす私に、彼女は続けた。「後悔する頃には、とうに為す術がなくなっていることだろうよ」
 顔を上げたときには、呉葉の姿は消えていた。
 急速に闇に飲み込まれていく渓谷の底に、一人取り残される。戻ってきた虫の音の中に、絡まった思考がゆっくりと沈んだ。

 のろのろともと来た斜面を上がりきった頃には、辺りはすっかり暗闇に飲み込まれていた。
 あれから何度か真嗣に電話をかけてみるけれど、相変わらず繋がらない。
 やっとの思いで呉橋に戻ったのは、最後のバスが行って一時間もたった後だった。ずいぶん長い間、沢で待ちぼうけをくっていた。
 とぼとぼと、夕闇に沈む山道を歩く。ほんの数日前に、真嗣と二人でびしょ濡れになって歩いた道と、同じとは思えない。
 そう思うと、激流に呑み込まれるように、私の心はねっとりと重い自己嫌悪に浸かってしまった。
 簡単には浮上できそうにない。いつも隣で、引きずり上げてくれていた真嗣もいない。
 私は、ひとりぽっちだ。
 ポケットに忍ばせていた「お守り」を取り出した。
 それはペンケースに入るサイズの、白くて細長いカッターだ。ずっとポケットに入れていたせいで、それ自体に体温があるように生ぬるい。
 解放してあげよう。そう思った。
 カチカチと刃を出す。その音が妙に大きく聞こえる。
 糸に刃を当ててみるも、何度も試したように切れることはない。それでも、同じ動作をブリキのおもちゃのように繰り返した。言いようのない絶望に支配される。ぽっかりと空いた黒い穴に、落ちるように。
 脱力する腕に、カッターの刃をあてた。
 自分が何を考えているのか、分からない。
 空っぽの心が、紙を切るように腕を切り裂いた。一拍遅れてパックリと口を開けた傷口から、原色のような赤い血が滲み始める。不思議と痛みは感じなかった。
 そのまま、血で汚れたカッターを糸に押しつける。
 それは、いとも簡単に切れてしまった。
 はらりと手から滑り落ちる糸は、血に染まっている。
 あまりのあっけなさに、私は呆然と立ちつくす。静かに時間が流れるだけで、何も起こらなかった。
 意志を持っていたように思えた糸は、今はただの糸くずと変わりない。
「真嗣?」
 不安になって、その名前を呼んでみた。
 口の中で唱えるように。
 いつもなら、呼ばなくても飛んでくるのに、そんな気配は毛ほどもない。
 大股に走る靴音も、間抜けな声も、いくら耳を澄まして待っても、何も聞こえてこない。
 ただ、私と真嗣を繋いでいた糸の残骸が、足下に落ちているだけだった。
 怖くなって、汚れた糸を拾い上げる。それを小指から垂れ下がった糸に結びつけた。
 急いでいたせいで歪んだ結び目は、血で汚れて黒くなっている。
 結んでみたところで、糸は無言のままだ。
『糸が解けるとき。それは、縁が切れるということだ』
 呉葉の言葉が、蘇ってきた。
『後悔する頃には、とうに為す術がなくなっていることだろうよ』
 あの美しい妖女は、何と言っていただろうか。
 靄のかかる記憶の先で、ようやく見つけた言葉に血の気が引いていく。腕から、血が垂れ流されているからだろうか。
 熱の籠もったアスファルトの上を、冷気が滑る。
 ブラウスの中で、背中を冷や汗がつっと一筋伝った。がくがくと、自分の手足が震えているのが分かる。
 違う。違う。違う。そんなことない。
 頭をもたげる一つの考えを、振り払うように叫ぶ。けれど、それは声になる前に肺から漏れてしまった。
 恐ろしいほどの威圧感と、無数の視線。
 思わずスカートの端を両手で握る。傷口から流れ出す血が、スカートを染めた。
意を決して振り返る。
 そこには考えていたようなものは、何一つ無かった。
 ぼつりぼつりと続く古びた電灯と、闇に飲み込まれる路だけだ。自分の心音が、五月蠅く音を立てている。それ以外は、何一つ変わらない見慣れた日常。
 本当に? それはいつもの日常なの?
 振り返ったまま硬直した私に、誰かが言った。
「誰っ!?」
 絶叫に近い金切り声は、闇に吸い込まれ、反響すらしない。
 カサカサと風に揺れる木の葉の中に、呉葉の嘲笑が聞こえる気がした。
 私は、弾かれたように走り出した。
 何度も往来した馴染みの路は、初めて来た場所のように知らぬ振りをする。
 不気味だった。
 生ぬるい空気は、どんよりと重く身体にまとわりつく。両手で空気を掻いた。
 足が重くて、思うように前に進まない。まるで悪夢を見ているように。
 息苦しさに喘いでも、真夏の干上がりそうなプールの中で溺れているようで、満足に酸素が取り込めない。
 無数の視線は、まだ私を追いかけてくる。いくら必死で走ったところで、呉葉にはただの暇つぶしでしかないことを知ってる。あの女にまんまと乗せられた自分を呪う。
「バカバカバカバカ」
 全力で駆けながら吐き捨てた言葉は、ただでさえ苦しい呼吸を更に苦しくさせただけで、何の役にも立たない。自分の愚かさに、いい加減飽き飽きしているところだ。日頃から適度な運動を心がければ良かったとか、ちょっとでもたくましい精神力を身につければ良かったとか、そんなことが酸欠の脳内を駆けめぐる。
 有り難いことに朦朧とし始める頭を無視して、両足はせっせと私の身体を運んでくれていた。
 電灯に切り取られた空間だけが、白々と居座っている。それを幾つも横切った。
 ようやく、求める生け垣を視界の端に捉える。安堵と疲労が足を重くした。がくりとひざが折れた。転倒だけはどうにか免れる。生け垣の門をくぐる頃には、息を整えながらとぼとぼと歩くのが精一杯だった。
 生け垣に寄りかかり、息を整える。全身が、酸素をくれなきゃ動かんと、我を張っているのだ。
 門をくぐる。
 顔を上げて硬直した。
 いつもであれば煌々と付いている家の明かりが、一つもなかった。じりじりと闇に浸食されるのを受け入れるように、瓦屋根の家屋はそこに鎮座している。家の中からは、全く人の気配がしない。
 思わず玄関に走り寄る。引き戸に手をかけるが、開くことはなかった。かつて私を快く迎えてくれていた扉は、今は硬く閉ざされている。不審者よろしく引き戸をこじ開けようとするが、叶わない。戸を壊す勢いで叩きながら、叫んだ。
「真嗣! 真嗣!」
 叫んだつもりでも、慣れない距離を走ったせいで、ほとんど声が出ない。すぐそこにチャイムがあるというのに、それには手を伸ばさず、ひたすら扉を叩き続ける。闇は鈍い打撃音を一瞬で吸い込んで、何も残してはくれなかった。
 諦めに似た後悔が、叩く手を次第に緩めさせる。ゆるゆるとその場に崩れながら、必死に自分を叱咤する。泣きそうだ。いや、もう泣いている。いつから泣いているか、もう分からない。腕を切ったときからか、暗い夜道を疾走する最中か、扉を叩きながらか。とにかく、顔面は汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
しばらく感じなかった無数の視線が、戻ってきたようだった。
 生け垣の間から、門の影から、暗く押し黙る家の中から、ぬるい土の中から、あの女が見ている。
「何なのよっ! 見てないで出てきなさいよっ!」
 怒声は思いのほか、闇を貫いた。何でも飲み込んでいた闇の中に、余韻を残している。
「卑怯者っ! 何とか言ったらどうなのっ! あんたみたいな性悪女、独りで洞窟にでも籠もってれば良かったのよっ! あんたの道楽に、真嗣を巻き込まないでよっ!」
 庭木がざわざわと揺れる。呉葉があざ笑っているかのようだ。怒りに喉が詰まりそうだった。その怒りの半分以上は、自分に向かっていることを、良く分かっていた。悔しさと腹立たしさで、再び涙が滲んでくる。それを誤魔化すために、聞き分けのない子供のように、地団駄を踏んだ。
 もう、自分が何を喚いているのか、良く分からない。
「妾は、何もしては、おらぬ。そなたらが、勝手に始めた事だろう?」
 闇の中に微かな光を発しながら、呉葉は私の前に姿を現した。ゆっくりと、感情のない声音が響く。
「違うっ! あんたのせいだ!」
 狂気漂う美しさに、目がくらむ。それでも、私は彼女に牙をむいた。
 呉葉は地面を舐めるように、ゆっくりと近づいてくる。形のいい長い指が、つうっと頬を撫でた。ぞっとするほどに冷たい。
 でも、逃げ出す気など毛頭ない。
「お主は、一度でも願わなかったか?」
 どきりと心臓が跳ねる。呉葉はそれを分かっているように、口端を上げた。
「欲しいものがあるのだろう? それを、一度でも願ったことは無いのか?」
 妖艶な声音が、脳天に突き刺さった。まるで言葉で嬲るかのように、それは私を責める。
 言わずとも、彼女はその答えを知っている。
「願ったわよ。何度も」
 私は顔を上げ、叩きつけるように言った。いくら強がったところで、呉葉の妖術の前に、私はただの小虫でしかない。それでも強がった。例え芋虫に変えられようとも、ベットとして永遠の時を呉葉と共に過ごすことになっても、私にはそれを恐れないだけの理由があるのだ。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。顎を上げ、両の眼に闘志を宿して、睨み付けた。橋の上で真嗣にしたそれとは、全く違っていることを確信している。私は、呉葉を呪ってやるつもりはない。
 けれど、ただ一つ。ただ一つだけ、譲れないものがある。
「真嗣を返して」
 それは、自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
「彼が欲しい。それ以上は望まない。だから、返して」
 長い間、心の中でずっと燻っていたものが、ようやく形を為した瞬間だった。
 認めてしまえば簡単なことを、何を躊躇っていたのか、今はもう分からない。ほんの数時間前まで、それは酷く歪み捻れて、本来の姿から遠く離れていた。バカな私はそれが真の姿であると、歪んだ心を祭り上げていた。本当は全く違うということに、ほんの少しでも気付けるだけ大人だったら良かったのに。成長を拒んだ結果が、これだ。やっとの思いで大人の階段を〇・五段くらい登ろうとしている。凝り固まった足を、階段からひっぺがすのに長い時間がかかった。こんな事になるくらいなら、大人になろうと足掻く自分と、少しでも戦えば良かったんだ。
 なんて、今は言い訳をしている場合じゃない。他にやることがあるだろっ。目の前に転がった大きな問題が。
 呉葉には私の頭の中身が見えているのか、相変わらず口端を上げている。けれど、見下ろす瞳の中に、哀愁が一滴だけ混じっているのは、気のせいだろうか。
 ガラス玉のように色を変える呉葉の瞳に、僅かに光が宿る。
 相変わらず嘲笑を顔に張り付けているけれど、さっきまでとは明らかに何かが違っている。戸惑う私を、触れたままだった指は優しく撫でた。
「良く、分かっているではないか」
 あまりの冷たさに頬が痺れてしまったのか、指先から仄かに温もりを感じる。
「お主の欲するのものを、妾が本気で手に入れようとなどと、どうして思う? お主らのことは、ただの戯れじゃ。暇を持て余していたところに、丁度子ネズミが二匹、転がり込んできただけのこと。生かすも殺すも妾の自由だが、いい加減、殺生は飽き飽きしておる。始めから命を奪うつもりは、毛頭ありはせん」
 呉葉は一歩引き、指先が名残惜しそうに離れる。そのまま私に背を向けた。
「だが、その糸がお主らの縁であることは、変わりない。選択を違え、自ら切ってしまったということが、どういうことか良く分かっておろうな。いくら繋ぎ直したところで、一度切れてしまった縁は、元には戻らん」
 その言葉に愕然とする。膝から力が抜けて、その場にへたり込む。剥き出しの膝がタイルに擦れた。
「しかし」呉葉は、続けた。
「術が一つもないわけではない」
 うなだれる私を、呉葉は振り返った。地面に墜落していた視線が上がり、縋るように彼女を見つめた。
「夜が地上を支配しているうちは、妾の力が世の理を狂わせる。切れた縁も夜のうちは、繋がったままではないかのう」
 つんのめりながら呉葉に縋り、着物を両手で掴んだ。
「勿体つけないで教えてよ」
 さっきまでの覇気はどこへやら。口から出たのは、何とも頼りない声だ。
 どうせ、呉葉には言う気は無いんだ。もしかしたら、ただの戯れ言かも知れない。……それでも。
「教えて。どうしても手に入れたいの……」
 情けない。呉葉を前に泣くものかと決めていたのに。懇願はあっけなく涙に呑まれた。
 きっと、呉葉はさめざめと泣く私を見て、笑っているに違いない。食ってかかってきたバカな子ネズミは、ころころと表情を変えながら、結局彼女の足下で泣いているのだから。
 けれど、落ちてきた言葉は、想像していたものと違った。
「日が昇るまでに、あやつを探し出せ」
 その言葉に、私は顔を上げた。
 呉葉は笑っていた。いや、ほほえんでいた。今まで見てきた嘲笑とは全く違う、慈悲を与える仏のほほえみ。第六天魔王の申し子は、何の気まぐれを起こしたのか、私に手をさしのべている。
「勘違いするでないぞ。お主に手を貸そうというのではない。妾の気まぐれじゃ。決してお主を哀れに思ったからではないぞ」
 そう言って、ぷいと顔を背ける。
 今ので分かった。なんてことない。呉葉は妖術が使えて、何百年も生きてはいるが、ただのツンデレだ。
 呆然と見上げる私の頭の中を探ったのか、呉葉は仏のほほえみが嘘のように目をつり上げた。
「惚けておらずに、さっさと行け。夜は短いぞ」
 それだけ言うと、呉葉は煙のようにふわりと消えてしまった。
 残された私は、原田家の玄関先で、ぼうっと空を見つめた。『日が昇る前に真嗣を見つける』呉葉の言葉を繰り返す。
 待ってっ!
「探して、それからどうすればいいの?」
 立ち上がって叫ぶが、呉葉が居るであろう闇は、だんまりを決めている。肝心なところを教えてくれなかった。あの女、やっぱり楽しんでいるんだ。そう思うやいなや、ざわざわと風が吹き始める。
『見つければ、自ずと分かるわ』
 怒った呉葉の声が風の中に響いた。

『探せ』と言われたところで、どうして良いのか分からない。
 真嗣のケータイに電話をしても、相変わらず繋がらない。章兄にかけてみても、それは同じだった。試しに原田家に駆けてみたが、暗い家の中で虚しくコールしているのが、外から聞こえるだけだ。
途方に暮れること数分。
 その間、視線は埋もれたヒントを探し出そうと右往左往する。
 ふと血に汚れた自分の左腕が目に入る。止血もせずに振り回していたせいで、血がブラウスにまで飛び散っていた。真新しい傷口からは、未だにじくじくと血が流れ出していた。傷を見たせいで、今まで気にもしていなかった痛みが襲う。
 思わず舌打ちをした。
 痛みに対してだけじゃなく、ブラウスにこびり付いたそれは黒く変色して、ちょっとやそっとじゃ落ちなそうだ。もう、このブラウスは捨てるしかないな。
 気まぐれな思考が、勝手に別のところへ走り出そうとするのを、その糸は繋ぎ止めた。生気を失い、汚れてだらりと足下に垂れ下がった私と真嗣をつなぐ糸が。それは足下で四、五回うねってから、生け垣の向こうの闇に溶けている。
 慌てて糸を結び直してからこちら、それがどこに延びているのかということを、すっかり忘れていた。
 糸の指し示す方向は、明らかに原田家ではない。自分のバカさに、何度目かの舌打ちをする。たぶん、まだ私たちを繋いでいるであろうそれを、力一杯引いてみた。
 案の定、糸は意とも容易く、闇の中からずるずると引き出されてくる。
 けれど、全く手応えがない。
 まずい。まずい。まずい。
 頭の中で、けたたましく鐘が鳴る。安眠を情け容赦なく妨害する、目覚まし時計のアラームのようだ。糸はされるがまま、引き延ばされては足下に積もっていく。
 どうしよう。この先に何も繋がっていなかったら? あの闇の向こうで、呉葉が太巻きの糸を置いているだけだとしたら? そんなことを考えながら、必死で糸を引いた。泣くのを堪える。鼻を啜る音が、夜闇を埋め尽くした。
 細い糸は、既に膝までこんもりと積もっていた。
 夜に響くすすり泣きを不審に思ったのか、近所のおばさんが生け垣から中を伺うように顔を出した。原田家の玄関先で怪しげなジェスチャーを繰り返す不審人物を認めると、小走りに近寄ってくる。
「誰かと思えば、絢ちゃんじゃないの」
 おばさんは私の有様を見て、一瞬言葉を失った。足下に積もる糸は、当然見えていないだろう。
「転んだ」
 聞かれる前に先手を打つ。腕の傷と泥だらけの格好から、一番分かりやすい答えを導いた。全くの嘘だけど。
 おばさんは、私が泣いている理由を知っているようだった。
 おもむろに近づいてきて、慰めるように言った。
「絢ちゃん。泣いてても何も始まんないよ。まーくんだったら、大丈夫だよ」
 驚いた。もしかして、みんな知ってるの? 知らないのは、私だけかも知れない。
 でも今は、驚きよりも焦りや悔しさの方が勝ってる。
「そうかな……。もう会えなくなっちゃったら、どうしよ。どこにも居ないんだよ。いつも側にいたのに」
 やばい。また切なくなってきた。泣きそう。
 肉付きの良い手が、優しく肩をさする。
「まーくんだったら、大丈夫だよ。あんたが信じないで、誰が信じるんだい」
 勝手に涙が溢れてきて、ぽたぽたと流れ出す。堪らずに俯いた。
「……うん」
「事故っていっても、ちょっと車に当たったくらいだよ。大したことないよ。きっと」
 ……事故?
 涙を拭いながら、顔を上げる。
「事故って何?」
 私の言葉に、今度はおばさんが驚く。
「まーくん、学校の帰りに事故に遭ったって。救急車が来て大騒ぎだったんだから。知らなかった?」
 なにそれ。聞いてない。
「知らない……」
 だから、真嗣は来なかったんだ。
 そこまで考えて、血の気が引いた。
『縁が切れる』ってそう言うこと? 『永遠』に『縁が切れる』ってこと?
 改めて、自分のやらかした事の重大さを理解した。そんなつもりじゃなかった。まさか……死んじゃうなんて……。
 暗闇に溶ける糸の先を想う。
 お願いだから、繋がっていて。
 私は走り出した。糸が示す方へ。

 それは幾つもの電灯の下を通過し、やがて市街地へと続く山道に出た。ここまで来ると、電灯などほとんどない。鬱蒼とした木々のせいで、月明かりも頼りにはならない。変質者や幽霊でも出そうな、不気味な山道をひた走った。
 途中、何度も躓き転んでは身体中に擦り傷を作った。ローファーを履いた足には幾つも肉刺が出来て、地面を踏みしめる度に酷く痛む。
 息はとうにあがって、焼けるように肺が痛い。それでも、立ち止まりはしなかった。止まるのは簡単だ。辛さに負けて止まったら最後、二度と前に進めなくなる事はわかる。そうしたら、きっと諦めてしまうから。
 スカートのポケットの中で、携帯電話が何度か喚いていたけれど、自分との戦いで忙しくて、構っている暇がない。たぶん、母さんか父さんが、行方の知れない娘を心配して電話を鳴らしているんだろう。僅かな罪悪感が心をかすめる。でも、それはすぐに消え去った。
 ごめんね。帰ったら、いくらでも叱って良いから。だから今は走らせて。
 携帯電話は短いコールを残し、ついに喚くのを止めて黙り込んだ。両親が諦めたのか、電池が切れたのか。どちらにせよ、それから着信が鳴ることはなかった。
 唯々、呉葉の言葉を信じて走っている自分が、間違っているんじゃないかと思えてくる。それでも、信じずにはいられない。今は、それしか縋るものがないことを知ってる。
 私はたった一つ、どうしても手に入れたいもののために、走るんだ。
 時折吹く風のざわめきと、五月蠅いほどの虫の音の中に、乱れた息の音と靴音が放り込まれる。
 暗く沈む道の上の、僅かに光を発する糸だけが頼りだった。それ以外、確かなものなんて無かった。私と真嗣を繋ぐたった一本の糸。何とも頼りないそれに縋る以外、他に出来ることは何もない。

 東の空が、僅かに白んでいる。夜に隠れていた山端が、輪郭を現した。
 どれだけの時間を、走り続けていたのかわからない。糸を追い始めたのが、遠い昔のように感じた。
 疲れ切った身体は、走る事を拒んでいる。
 悪い夢を見ているようだ。
 どんなに必死に走っても、全然前に進まない。明けていく空を見上げて、独り夜の中に取り残される感覚に陥る。それでも足をどうにか前に出す。そうすることで、私のすぐ横で、今にでも飲み込もうとする絶望を追いやった。
 滝のように流れる汗と、蒸し暑さに喉がちりちり痛む。
 絶望はどうにか私の足を止めようと、ついに激しい目眩を繰り出してきた。
 それでも、諦めたくない。
 もう、足を引きずるのが精一杯だった。

 やっとの思いで山道を下り、広い国道に出る。空はさっきよりも、だいぶ白んでいる。
 急がないと。日が昇っちゃう。
 時折すれ違う車の運転手は、特異な目で私を見やる。ボロボロの制服姿で足を引きずる姿は、不審者丸出しだろう。もしかしたら、何かの事件に巻き込まれたのではないかと、勘ぐっているかも知れない。けれど幸いなことに、わざわざ車を止めて、事情を聞きに来る人はいなかった。今は、一秒でも時間が惜しい。
 救急車で運ばれたと聞いて、真嗣の居所は何となく察しが付いていた。
 山の麓に佇む市民病院だ。この地域には、救急外来がそこにしかない。
 案の定、糸は市民病院の夜間通用口に続いていた。
 最後の力を振り絞って、地面を蹴る。足の肉刺が潰れて激痛が走った。でも、止まっちゃだめ。あと、もう少しだから。
 不格好なフォームで、夜間通用口をくぐる。受付の看護士が、私を見て呼び止めたけど、聞こえない振り。
 救急外来には、ほとんど人がいなかった。
 糸を辿って、いくつかの扉を素通りする。鉢合わせた救急医が、驚いて戸口で立ちつくしている。さっきの看護士が追いかけてきて、肩を掴んだ。たぶん、けが人か何かと間違えられたのかも知れない。実際、あちこち傷だらけだけども、どれも病院にかかるほどのものじゃない。「ほっといて」と掠れた声をどうにか絞り出して、手を振り払う。それでも、彼女は追いすがって来た。ゴールは目前だというのに。
 廊下で言い争う声を聞きつけて、一番奥の処置室から人が顔を出した。見覚えのある顔。
「章兄っ!」
 叫ぶ。
 名前を呼ばれた当人は、驚いたように、素っ頓狂な声を上げた。
「絢?」
 それを聞いて、看護士は怯む。
 制止を振り切り、目を白黒させる章兄に向かって走った。
 ちらりと窓から覗く空は、恐ろしいほどに明るい。
 だめ。まだ、だめ。
 空へ向けて、真嗣に向けるように睨んだ。
 あんたは、私と縁を切りたいの? 私は、絶対に、嫌なんだからね。
 章兄に体当たりして、ブレーキをかける。章兄はうめき声を上げながら、受け止めてくれた。
 処置室になだれ込んだ私を、中にいた医者と看護士は何事かと振り返った。パイプ椅子に座ったおじさんとおばさんは、寄り添うようにして、うつらうつらと船を漕いでいる。
 呉葉は縁を繋ぎ直す方法を、具体的に教えてくれなかった。「自ずとわかる」と言っただけ。でも、私はどうしたらいいのか分からない。
 あの女、やっぱり騙してたんだ。一瞬だけ優しく感じた指先を信じた私がバカだったの? 違う。違う。呉葉だけのせいじゃない。
 私は振り払った。止めようとする看護士の手と、状況説明を求める章兄の声と、何をどうしたらいいのか戸惑う自分自身を。
 そして、真嗣の居るベットまで一気に距離を詰めた。
 未だに状況を飲み込めず、呆然としている医者を押しのけて、ベットに眠る人物に向けて言い放った。
「どこにも行かないでっ、ずっと側にいてよっ! 大好きなの。だから……」
「死んじゃダメ」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
 私の決死の告白は、その場には不釣り合いな雰囲気を残して響き渡る。
 チラッと見えた糸は、顔を出したばかりの陽光を浴びて白く光っていた。
 騒々しさに目を覚ました真嗣の両親と、追いかけてきた看護士が目を白黒させている。たぶん章兄は、あのにやり笑いを堪えているんだろう。
 そんなことは、どうでも良い。
 今の今まで真剣だった私の頭は、高い崖の上から、パニックと言う名の海に、ぽとりと蹴落とされた。身体はカチコチに固まっているのに、頭は音をたててフル回転。
 ベットに横たわった真嗣は、肩肘をついて、上半身を起こしていた。
 バチリと目が合う。
 危篤状態でもなければ、大怪我をしているわけでもない。ましてや、死んでもいなかった。それどころか、良く眠ったような清々しい顔をしている。どこからどう見ても、私の方が重傷だ。
 真嗣は突然の見舞客を見て、何が起こっているのか分かっていないようだ。絵に描いたような、間抜け面を向けている。
 そりゃそうだろう。分かるはずがない。私の事故に遭ったような格好を見て、怪訝な顔をしたかと思ったら、すぐに顔面を真っ赤にした。
 そうして、ようやく気が付いた。
 私は、今時絶対に無いような青春ドラマのように、劇的に登場して愛の告白をしたのだ。
 愛の告白? そんなんじゃない。愛とか恋とかそんな甘酸っぱいものじゃない。厚い友情。確かな家族愛。そういう類のもの。ここに来る前、そう自覚したじゃないか。
 ……本当に?
 頭の中で問いかけるのは、どことなく呉葉に似た自分の声。
 違った。独占欲? 私は、真嗣を自分のものにしたいだけ。ただそれだけ。
 ……それをなんて言うの?
 それは……。
 真嗣の赤面が伝染する。夜通し走り続けたせいだと思っていた胸の鼓動が、おかしなリズムを刻んで飛び跳ねた。
 まさか……。……そんな!
 ここまで、三秒。
 外野がにわかに騒ぎ出す。最初に聞こえたのは、章兄の「やった!」と言う叫び声。その後はそれぞれが何か言っているけど、私の耳には良く聞こえない。
 頭の中の靄ははっきりと晴れて、バラバラのピースが音をたててはまっていく。まるでパズルみたいに。
 私は……、ずっと、真嗣のことが、好きだったんだ……!
 憧れや妬みだと思っていた感情は、あまりにも純粋な『好き』って想い。

 たっぷり四秒はフリーズしていた私は、事の重大さに気付いて、血の気が引いていく。
 人前で告っちまった!
 しかも家族の目の前で。しかも病院の処置室で。医者や看護士にもばっちり聞かれた!
 なんて事を! なんて事を! なんて事を!
 顔を真っ赤にしたままの真嗣に反して、きっと私は真っ青になっているに違いない。
 真嗣が僅かに身じろぎする。
 その動作に恐れおののいて、思わずびくりと飛び上がった。その動作でスイッチが入ったように、身体のあちこちが痛み出す。たぶん一瞬の間だけ、身体と頭のリンクが切れてたのかもしれない。
 真嗣の手がゆっくりと伸びてきて、口が何かを言おうと動き出す。
 視線は固まったまま。
 手が触れるまで、数ミリ。
 身体は素早く、クルリと回れ右。
 考えるよりも早く、私は逃げた。
 潰れた肉刺が痛いのは思いっきり我慢。
 見事とは言い難いスタートダッシュを決めて、処置室から飛び出した。
 無人の処置室を幾つか素通りしたところで、後ろがざわついていることに気付く。ちらりと振り返ると、素足の真嗣が医者や家族の制止を振り切っているのが見えた。
 まずい。追ってくる。
 前を向き直して必死に足を動かす。
 走っているのは気持ちだけで、実際は足を引きずってよたよた歩き。こんなのすぐに捕まっちゃうよ。
まるでゾンビ映画だ。逃げまどうのは、ゾンビの方だけど。
 土壇場で逃げた私を、ハンターはぐんぐんと追ってくる。あいつ、本当に事故に遭ったのかよ。ぴんぴんしてるじゃないか。
 足はどこに逃げようとしているのか、暗い廊下を抜けて、だだっ広いホールに出た。その向こうには、鍵のかかった正面玄関。
 暗いロビーには、窓から天使の梯子がかけられていた。
 もう逃げ場所がない。
 そう思うと同時に、左腕がぐんっと引かれた。
 バランスを崩した身体がゆっくりと傾く。
 視界が不自然な角度に傾いて、硬そうな床が迫る。衝撃に備えて身体が強張った。
 けれど、倒れることはなかった。代わりに二本の腕が後ろからにょっきりと伸びてきて、私の身体をしっかりと抱いたのだ。背中には広くて温かい真嗣の胸が、ぴたりとついている。
「逃げんな」
 頭の上から降ってきた声を聞いて、ゆっくりと身体の硬直を解く。
 急に寄りかかってきた身体を支えきれずに、真嗣は私を腕に閉じこめたままその場に座り込む。
 どうやら、もう逃げられそうにない。
 あちこち悲鳴を上げていた身体は、久しぶりに座り込んだせいか、痛みが少し和らいでいる。
「逃げてない」
 相変わらず口から出るのは、天の邪鬼な言葉。
「もう逃げるなよ」
 そう言って真嗣は腕に力を込める。腕の傷が擦れて少しだけ痛んだ。
「逃げてない」
 強情な私は繰り返す。言ってから、さっきまでのパニックが嘘のように引いているのに気が付いた。心臓は相変わらずバクバグと五月蠅いけれど、不思議と落ち着く。
「さっきは素直だったのにな」
 真嗣が、耳元でクスリと笑った。
 それを聞いて、また顔に血が上ってくる。私は、黙り込んだまま回された腕を抱えて俯いた。汚れてうなだれていたはずの糸が光を取り戻して、私と真嗣を繋いでいるのが、良く見える。
 お願いだから、もうそれ以上何も言ってくれるなよ。きっと何も答えられなくなる。
 そんな私の心情を知ってか、真嗣は言った。
「別に何も言わなくても良いけど」
 ふう、大きく息をつく。それが耳にかかってくすぐったい。いつもだったらきっと怒ってる。でも今日は満身創痍なの。だから、腕の中で大人しくしていることにした。
「俺も、好きだよ」
 何とも穏やかで優しい声で言った。こんな声は初めて聞く。きっと、見たことも無いくらい、優しい顔をしているのかもしれない。
 それを想像した途端に、体中がむず痒くなった。どうやっても手の届かないところが、うずく。心臓の ちょっと上辺り。少しだけ身じろいで、右手の親指で胸を押した。バクバクとおかしいくらいの鼓動が、指先から伝わってくる。
 もしかしたら、心臓の病気かも知れない。不安になってきた。
 そんな私の不安を余所に、真嗣は繰り返す。
「ずっと、好きだった」
 ……知ってる。やっと気付いた。
 身体を捻って、真嗣がどんな顔をしているのか、見てやろうかと思ったけど、止めた。疲労困憊しているせいか、しっかりと抱きしめられているせいか、身体が思うように動かなかったから。
「絢はバカだから、一生気付かないと思ってたよ」
 私も、そう思う。でも、バカはお互い様。
「呉葉に礼を言わないとな。欲しいものが、手に入ったって」
 呟くように言った言葉に、今度は私が小さく笑った。本当に小さく。
 妖女呉葉は、最初から全部分かってたんだ。私たちが、それぞれ何を欲しがっているのか。
 ……もかしたらしたら、幼稚な私に、気付かせるために、呉葉が、わざわざ罠を、仕掛けて、くれたのかも。それとも、真嗣も共犯? ……まあ、どっちでも、いいや。なかなか、悪くない、結果、だから……。
 ゆるゆると思考が停止していく。
 くらくらと目が回って、腕の中でへたり込んだ。
 私の様子がおかしいことに気付いた真嗣が、身体を傾けて覗き込んでくる。
 目は開いてるはずなのに、だんだん視界が暗くなっていく。
 さっきまで、東側の窓から吹き抜けのロビーに光が射し込んでいたのに。
 もしかしたら、疲労と脱水症状かも知れない。バカみたいに泣いて、バカみたいに走り続けたから。少しだけ貧血も混じってるかも。
 優しいだろうと思っていた真嗣の表情は、私を心配するあまり間抜けな顔に戻っていた。
 焦って何か喚いているようだけど、声が遠くて良く聞き取れない。
 ばたばたと、いくつかの足音が近づいてくるのが、微かに聞こえた。
 真嗣は、泣きそうなほどに情けない顔で、私の身体をきつく抱きしめる。
 されるがままの私は、どうにか腕を伸ばして、その柔らかい髪に触れた。
 大丈夫だよ。一度、切れたはずの糸は、前よりも、強く、太く、繋がっているから。なあんにも、心配ない。
 意識が途切れる寸前。か細い声で呟いた。
「大好き」って。

Blue_Springer

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いつも暗いテーマになりがちなので、青春っぽい話を書いてみました。
少しは明るい内容になっていれば、良いのですが。

Blue_Springer

学校帰りの絢と真嗣が橋の下で出会ったのは、『呉葉』と名乗る、紅葉色の着物を着た女だった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-29

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著作権法内での利用のみを許可します。

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