ビリー

 最近なにかの拍子に昔の出来事を思い出すことが多くなった。街を歩いていてふと目に入った看板がトリガーとなり、記憶の底の一番深いところ、何層にも溜まってしまった滓の下でひっそりと眠っていた過去の出来事が勢いよく浮かび上がってきて鮮明な映像として再生されてしまったりする。それが良い思い出ならば何も問題はないが、たいていの場合そのようにしまい込んである記憶は自分でも忘れてしまいたいものであるのが常なので始末に負えない。無力な我々としては苦笑いを浮かべるか、意味もなく鼻歌を歌いだしたりするしかないのである。
 その日わたしは動画サイトでビリー・アイリッシュのPVを観ていた。すると突然あの感覚がやってきた。そのとき現われたのは小学校で同級生だったひとりの女の子だった。記憶の中の彼女はどことなく顔立ちがビリー・アイリッシュに似ていて、退廃的な雰囲気も共通していたように思える。以下便宜的に彼女のことをここではビリーと表することにしよう。
 ビリーはクラスの中で浮いた存在であった。いじめられていたわけではなく、また暴れたりするわけでもなかった。ただいつも孤立していた。わたしの記憶の中にいる彼女はいつもひとりでいた。他の子たちも、彼女を嫌っていたというよりもどう接すればいいのか計りかねていたような気がするし、彼女の方でも付き合いを必要としていなかったのだろう。少なくともわたしにはそのように見えた。
 またビリーはとにかく大人のいうことを聞かなかった。反抗的という表現ですら彼女には物足りなさを感じてしまう。授業中になにか他のことをしていて注意されたとき、彼女は椅子を倒す勢いで立ち上がり、怒りを露わにしながら教師を睨みつけた。教師は経験浅い若い女性だったので、感情的になってしまいヒステリックになにか罵倒の言葉を投げかけたように覚えている。また、わたしを含めたクラスの全員が緊張感に耐えられぬ思いで息を殺して成り行きを見守っていたことも。次の瞬間、ビリーは駆け出すように後ろの扉から出ていってしまい、その日は戻ってくることはなかった。あとを追うように教師も出ていってしまい、教室の中には弛緩の空気とざわめきで満たされていた。そんな中で、わたしは後ろの棚に置き去りにされてしまった彼女のランドセルを妙に気にかけていた。
 そんな彼女だったが、不登校にならなかったのは、今思えば家庭より学校の方がまだましだったからなのかもしれない。その当時も彼女の家庭環境に関しての様々なうわさ話を耳にした。どこまでが本当の話だったのかは分からず仕舞いではあったが。
 そういえばこんなこともあった。ある天気のいい日の昼休みだったと思う。わたしは教室で本を読んでいた。ほかの子たちは皆校庭に遊びに出てしまい、室内はひっそりとしていた。遊びに興じている声が外から聞こえてきて、いっそう静けさを感じる。すると背後から「ねえ」と呼びかけられた。ひとりだと思っていたわたしはぎょっとして振り返ると、そこには彼女が、ビリーが立っていた。突然のことに言葉を失ったまま見つめているわたしに、彼女は言葉を続けた。「なに読んでるの?」
「え? これ? えっと、『ライ麦畑でつかまえて』です」
 なんで敬語出ちゃったんだろうと動揺しているわたしにはお構いなしに、彼女はそばに来て本を覗き込んだ。「面白い?」
「面白い・・・かな。でもよく分かんないかも」
「ふうん」彼女が表紙を見ようと屈みこんだので、わたしは本を閉じて手渡した。彼女はじっと表紙を見て、それから裏返してみたり中をぱらぱらと開いてみたりしていた。そして「ありがとう」と返すと、ぶらりとした足取りで教室から出て行ってしまった。話したのはたしかそれっきりだったと思うので、彼女がその本を読んだのかどうかは分からない。
 不思議なことにビリーとの中学校時代の記憶は全くない。学区の関係で小学校のほぼ全員が同じ中学校に進学したというのに、だ。私立に行くような環境にあったとも思えない。彼女の記憶は小学校を卒業と同時にぷっつりと途絶えてしまっている。
 ところがその数年後、中学を卒業し、高校も大学も卒業したそのあとにわたしはビリーに出会うことになる。会社の勤めを終え、地下鉄のホームで電車を待っていると、線路を挟んだ向こう側のホームに立っている女性に気がついた。すぐにわたしはその女性がビリーだと分かった。ブルーのシックなドレススーツに身を包み、とても穏やかで華やかな雰囲気を発していて、小学生のころのあのエキセントリックな印象はまるでそこには無かった。だがわたしには直感的にそれが彼女だと確信できた。隣には高級そうなスーツを着た男性がいて、ふたりは楽しそうに話していた。やがてわたしの視線に気づいた彼女は一瞬訝しげな表情を浮かべたが、すぐにわたしのことを思い出したのだろう、満面の笑顔を浮かべ軽く会釈した。わたしもそれに応じて頷き、軽く手を振った。そのとき電車が我々の間に割って入り、駅から出ていくとホームには彼女たちの姿は消えてしまっていた。家に帰るとすぐに本棚に向かいあの本を、『ライ麦畑』を探した。だがそれはどこにもなく、それからも結局見つけることはできなかった。

ビリー

ビリー

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-25

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