死神は白いパンツがお好き

りょうすけ

死神は白いパンツがお好き

 八月の(おわり)、しつこい残暑が肌を焼いた日──。私は学校の屋上からダイブした。

 色あせたフェンスに足をかけ、パンツが見えるのも気にせず〝向こう側〟に降り立つと、すぐに靴を脱いだ。
 背筋を伸ばし、未練を断ち切るため深呼吸していると、生ぬるい黄昏の風が飛び降り自殺なんてやめろといわんばかりにぶつかってくる。
 地上十二メートルの景色は思いのほか開けていて、住宅街はおろか遠くにある富士山まで見わたせる。その山を一回拝み、よしッと声を出すと白く汚れたコンクリートの縁からすべるように落下した。
 足が離れ頭が傾ぐと心地よい浮遊感が生まれ、地面に叩きつけられるまでの短い間それはつづいていたけれど、私は自分が処女だったことを思いだし、馬鹿みたいに悔やんだ。
 好きな男の子はいた、と思う。もうよく覚えてはいないが。
 思いだそうとすると笑福亭鶴瓶みたいな目の細い男子が浮かぶのだが、こいつは絶対にちがうと思った。なぜなら私は自他共に認める面食いだからだ。
 とりあえず中身より外見を愛する普通の女子高生。たとえば卵だっていくら新鮮でも殻が汚れていたら食べる気にもならない。それと同じことだ。
 トップスピードに達したのか、どんどんと地面が近づいてくる。
 五メートル。あれ、今日は何曜日だっけ。
 四メートル。あ、彩音に漫画本借りたままだった。
 三メートル。一昨日買ったシャンプー、全然使い切れなかったな。
 二メートル。お父さんお母さん、ごめんなさい。
 一メートル。さよなら──。
 ゆっくりと目を閉じた。
 心地よい感覚を保ったまま、太陽に熱せられたグラウンドに墜落した。

 次に目を覚ましたとき、不思議と痛みはなかった。瞬きした視線の先、あざやかな夕焼け空が広がっている。巣に帰るのか、数羽のカラスが競うように横切った。
 いつもの景色だ。私がきらいな現実の、いつもの光景だった。
 眺めていると、私を差別した教師やクラスメートの顔が浮かんできて思わず舌打ちを放った。夕焼けが眩しくて手をかざすと、拒食症患者のように華奢な腕は落陽に染まり、不気味なほど橙色をしている。
 ゆっくりと拳をにぎり、倍の時間をかけて開いてみる。やはり痛みはない。あるのは起床直後のような感覚と背中がすこし痒いことくらいだ。
 けれど、屋上から飛び降りて痛みがないという時点で察しがついた。
 ――死んじゃったんだ。
 右手を見つめながら、生きてきた十七年をふり返ってみる。
 いろいろと問題が多い人生だったな、と苦笑した。普通にしていても生意気だと難癖をつけられシカトが始まり、私は孤立した。
 何が気に入らなかったのかはわからない。訊いてもムカつくの一点張りで具体的な事などだれも教えてはくれなかった。
 きっと生理的になんだろう。足の多い虫がきらわれるように、仕事帰りのお父さんが遠ざけられるように、こちらに非がなくても排斥されるのだ。だけど──。
 暮れていく空をにらんだ。だけど、そんなことで差別される覚えはない。不意にわき上がった悔しさで拳をにぎりしめると背中の痒みが増したような気がした。
 私の人生に意味はあったのだろうか。自分なりに一生懸命生きてみたけれど、胸を張ってこれだといえることは何もなかった。見事残ったものは処女膜だけだ。破られることなく残った無傷の処女膜。処女を悔やんでいたはずなのに何度か反芻していると、なぜかおかしくて笑いがこぼれた。
 翌朝、死体を発見するであろう教師たちの驚いた顔が目に浮かび、私は声を出して笑った。学校で死んでやった。ざまあみろ。これは愚かな教師たちへの復讐なのだ。
 笑うことにも飽きたので死体を確認すべく辺りを見渡した。本当に死んでしまったのだということを知り、変な話だが安心したかったのだ。
 しかし、死体はどこにもなかった。そんなはずはないと地面を調べる。ポリウレタンのグラウンドは昨日と同じで破損はおろか、血痕ひとつない。――おかしい、私は死んでいないのだろうか。
 傍にある校舎を見上げたがどこにも異常はなくて狐につままれた心境になった。いったいどういうことだろう。しばらく考えてみたが答えは出ず、もう一度屋上にいってみようと思った。あそこには脱ぎ捨てた靴がある。それが確認できれば飛び降りたという証拠になるはずだ。急いで屋上へつづく階段を昇った。

 屋上に出ると、フェンスの手前に見知らぬ男がいた。
 茶色の短髪で黒いスーツを着込み、中腰で何かの匂いを嗅いでいる。時折、恍惚な表情を浮かべてはいやらしく笑う。あまりの気持ち悪さに顔をしかめていると、それは私の残した靴だった。
「ちょっと! なにしてるんですかッ!」
 大声に驚いたのか、男は靴を落とした。恥ずかしさと怒りが混濁したまま近づくと、縮まる距離に比例して男は泣き顔になる。
「なにしてるんですか? それ、私の靴ですよね」
 万引き犯を見つけたときのGメンみたいに問いただす。男はヤンキー座りをしたまま、母親に悪戯が見つかったこどものように下を向き、
「だって、いい匂いだったから」
 と呟いた。
 〝いい匂い〟
 そのフレーズに顔から火が出るくらい恥ずかしくなった私は、
「ふざけんじゃねーッ!」
 と叫んで、変態行為をしている男の頬をフルスイングで平手打ちした。ばちーんと小気味好い音がして、男が勢いよく倒れた。
「い、痛い!」
 怒りの収まらない私はそのまま馬乗りになり、
「男がすぐに倒れるんじゃねーッ!」
 もはやわけのわからないことを口走ると、先程とは反対側、左の頬を思い切り叩いた。
「ご、ごめんなさい。お姉ちゃん、本当にごめんよ」
「ちゃん付けするんじゃねーッ! 馬鹿にしてんのかッ!」
 叫びながら幾度となく平手をふるうと、男はぎゅっと両目をつむった。目尻から涙がにじんで夕日が反射した。
「アァ! ごめんなさいごめんなさい! お、お姉さん──、お姉さんでしたッ!」
 男は何度も頭を下げると許しを請うように手を合わせた。おそらく十数発は叩いたであろう私もようやく落ち着いてきて彼からはなれた。
「君、マジで強すぎるよ。とても幽体とは思えないな」
 男は起き上がると神経質そうにスーツの汚れを手で払った。すごく背が高い。百九十近くあるだろうか、傍にいると圧迫感を覚えるくらいの長身だ。
「どういうこと? あなたって何者なの」
「ん、俺? 俺はねェ〝死神〟。知ってるでしょ? デスノートとかにも出てくるやつ。あれだよ」
「は? なにそれ」
「だからァ、君を迎えにきたの。お姉さん飛び降りたでしょ、あそこから」
 そういって、男は校舎の縁を指差した。
「で、そのまま硬い地面に──ドンッ! 思いきり叩きつけられた。華奢な体は見事壊れ──」
 男の鋭い眼が私に向けられた。「そして、君は死んだ」
 たしかにその通りだ。私は屋上から飛び降りた。いくつかの後悔をしたのち、地面に叩きつけられて死んだのだ。
 でも、いま目の前にいるこの売れないホストみたいな男がなぜ現れたのか腑に落ちない。詳しくは知らないが、普通お迎えにくるのは天使とかではないのだろうか。幼いころに観たアニメでもそうだったし、そのほうが気持ちよく天国にいけるってもんだ。それがよりにもよって死神だなんて、そんなことがあるのだろうか。
 私は悪いことはしていないし(かといって特に良いこともしていないけれど)、さっきまで清く正しい女子高生だったのに。可能な限り考えを巡らしたが、この男が現れた意味や動機が見えてこない。
「お? その目は疑ってるね。うんうん、わかるよ。普通は天使が迎えにくるからね。今日は木曜日だから天使一おっぱいの大きいミカエルちゃんの担当日だ」
 死神と名乗った男は空を見上げ、なにかを思いだしたのか口元をゆるませた。いちいちムカつくやつだ。
「無いんだけど──」
「ん、何かいったかい?」
「どこにも無いんだけど、死体が」
 視線を落とし、自分の体(男がいうところの幽体)を見た。さっきまでは気づかなかったがすこし透けているように感じる。くすんだグレーの床が体越しに見えて足がふるえた。
「ああ、カラダね。カラダは天界からの借り物なんだ。厳密にいえばこの世のモノのほとんどは神様から拝借してるんだよ。命が終わった瞬間に返却されるシステムになっていて、魂は輪廻転生のために昇華される。死んでみて初めて知る真実。どう、すこしは感動した?」
「そんなの嘘だよ。死んだあとも体はちゃんとあるじゃない」
 私は就学前に亡くなった祖父のことを思った。いつも優しかったおじいちゃん。ドライブするのが好きでよく一緒に出かけたりした。その祖父が棺の中で横たわり、もう動かないのが信じられなかった。
「あれは人間が混乱しないようにすり替えられてるんだ。つまりはダミーさ。君の遺体も、もうすぐすり替えられて縁のある人のもとに送られる」
 笑みを浮かべ、当然のように話す男の唇を見ながら耳を傾けた。納得がいかなかったが、それよりも訊きたいことがあった。
「で、なんであなたがきたの? そのおっぱいの大きい天使はどうしたのよ」
「うん、そこが問題なんだよね。通常、俺ら死神が担当する人間は極悪なやつらばかりなんだ。つい最近も無差別に八人殺害した死刑囚の魂をあの世に送ったんだけどさ。君も知ってるだろ? 五年前倫宿駅であった通り魔事件の犯人、アイツの魂だよ。――あ、もしかして君、かわいい顔して実はとんでもない極悪人なんじゃないの?」
 その言い草に声を出して笑った。つられて男も笑う。私は破顔したまま拳をにぎり、頭の高さまで持ち上げた。
「アァ、ごめんごめん。ウソウソウソ、冗談だよ冗談。最近の女子高生は冗談がきらいなんだよね。うんうん、わかるよ」
 また殴られると思ったのか、男は早口にそういった。お前は佐藤二朗か。
「それで、あなたがきた意味ってなんなの? ただの手ちがいってこと?」
「そこなんだよね。本来死神は黒い魂の匂いに導かれて下界に君臨するんだけど、君の、といってもまだ幽体だからあれだけど、魂はきっと白く澄んでいるはずなんだ」
「原因不明ってこと?」
「うーん、端的にいっちゃうとそうなるかなァ」
「呆れた、なんなのそれ。ちゃんと調べてよ、馬鹿じゃないんだから」
「そんなこといわれてもなァ」 
「仮にも神様なのに理由がわからないなんて、あなたってたいしたことないんじゃないの? もしかして新人君? 鎌も持ってないし。死神っていうんならそれらしいことしてみてよ」
「それらしいことって?」
「私がどういう人間か当ててみせてよ。まあ、無理にとはいわないけどねェ」
 鼻で笑うと男は怒ったのか、乱暴にスーツの内ポケットに手を突っ込んだ。そして手帳のようなものを取り出して顔の前で広げた。
「えーと、どれだ。──あった、これだな。いいかい、いうよ。君の名前は一ノ瀬マコト、十七歳。得意な科目は現代国語と社会。好きな芸能人は──、お、変わってるね、江頭二:五〇。しかし、中学時代そのことを言ったところクラスメートから道端に落ちている犬の糞を見るような顔をされたのでそれ以降公にはしていない。銀行員である父、優作と専業主婦の母、景子。そして三つ下の妹、彩音との四人家族。飼っているペットは柴犬のマル。愛用の下着は俺が大好きな純白パンツ。そして――」
 悔しいが当たっている。死神というのは本当なのだろうか。
「そして、なによ?」
 男の笑みが一段と強くなった。いやな予感がする。
「そして──、処女!」
 誇らしげに、そういい放ちやがった。
「処女?」
「うん、処女。キッスもまだな正真正銘のバージン、とってもおいしそう」
 いやらしい笑みが溶け出さんばかりに面貌に溢れた。なんだよこの顔は。もう一度言おう、なんだこの気持ち悪い顔面は。――よし、思い切り殴ろう。幼いころ習っていた空手をここで披露してやろう。
 渾身の右ストレートを男の顎めがけて放った。
「い、痛い!」
 体格の割にあどけないその声にムカついた私は、倒れた男の股間部分に狙いを定めて思い切り蹴り上げた。つま先が的確に〝ブツ〟を捉え、今度は相当痛かったのだろうピタリと動きが止まった。
 ひゅうひゅうと苦しそうな息遣いだけが屋上に流れる。処女をなめると痛い目に遭うんだよ、思い知ったか。
「ご、ごめんよ。俺、思ったことすぐ口に出しちゃうタイプの死神だから」
「それで、私はどうなっちゃうわけ?」
 男は生まれたての子馬みたいに震えながら立ち上がると、また手帳に目を落とす。せわしなく数ページめくって口を開いた。
「とにかく君が死んだのは事実だから一旦天界に上がってもらって、そのあと上層部に判断をこう形になるけど」
「上層部ってなによ、また別の神様ってこと?」
「うん、閻魔大王っていうおっかないオッサンだよ。俺すごく苦手なんだよね」
 なにかを思いだしたのか彼は身震いし、手帳を内ポケットに戻した。
「死神にも怖いものなんてあるの?」
「もちろんあるさ。ムカデに刃物に高いところに図々しいオバさんに、それと筑前煮」
「筑前煮ィ?」
「そうだよ、あの悪魔のような食べ物さ。想像しただけでも鳥肌が立つ。見るかい?」
「いや、見ないけど。でもどうして? おいしいじゃない、筑前煮」
「あんなものうまいわけないだろ。――ああ、やだやだ」
「変なの。おいしい煮物を怖がるなんて」
「怖いものは怖いの。――さあ、もう時間だ。俺の腕につかまって」
 筑前煮に相当いやな思い出でもあるのだろうか、早々に話を切り上げると右腕をこっちに伸ばしてくる。いわれるがまま、その腕につかまった。思ったよりも太い腕をしている。鍛え抜いたような、硬く張った筋肉が服の上からでもわかった。
 彼が空を見上げた瞬間、オーロラのような光が降りてきた。
「怖がらなくても大丈夫。すぐに着くよ」
 光が屋上を満たした刹那、私の意識は途切れた。

†††

 だれかに名前を呼ばれたような気がして、私は目を覚ました。
 すぐに視界に飛び込んできたのは、この世のものとは思えないほど綺麗な白だった。四方に真っ白な空間が広がり、まるで雲の中にでもいるようだ。
 溜息をつき、周囲を見回す。死神の彼はどこにもいなかった。
 こんな寂しい場所にレディーを一人にするなんて、と怒りが込み上がったが、すぐに襲ってきた心細さの方が優り、体がふるえないよう拳をにぎった。
 じっとしていると、肌寒くて毛穴が粟立ってくる。――ここは一体どこなのだろう?
「さあ、こっちだよ」
 ふいに彼の声がした。なんだ、いるじゃない。ゆっくりと声のしたほうに歩いた。すると突然、漆黒の大きな扉が現れ、私は息を飲んだ。
 ――荘厳という言葉を具現化するときっとこんな形になるのだろう。触れるのも憚られる格式高い黒。喜怒哀楽や冷たさや温かさ、思いつく限りの感情、感覚をまぜこぜにして作られたようなその扉を見ていると、なぜかとても厳しかった中学校時代の校長先生を想い出した。
 おそるおそる近づいて触れてみる。
「審判の門だよ」
 背後で彼の声がして体が波打った。ふり返ると、風景に負けないくらい真っ白なローブを着た死神が立っていた。物珍しそうに見ていると、彼は片方の口角を上げて微笑んだ。実に器用な笑い方だ。
「なに、その格好」
「これかい? これは天界の正装だよ。どう、似合うだろ」
 ローブの裾を持って広げると自慢そうにポーズをとる。
「死神って天使とはちがうんじゃないの? それ、天使みたいな格好じゃない」
「うん、そうなんだよね。細かくいうとちがう部署になるんだけど、ここではそういうことになってるんだ。俺も詳しいことは知らない」
 やはり新人なのかもしれない。真新しい服からでも想像がつく。そう思うとムカつく言動や仕草までもちょっと可愛く思えるから不思議だ。
 ていうか、全然似合っていない。まるでコスプレだ。笑わないように我慢していると可笑しさが怒涛のごとく押し寄せてくる。もうだめだ。私はお腹を抱えて大笑いした。
 彼はやれやれという顔をしたが、私が笑うのをやめるとすぐに凛々しい表情になり、
「さあ、この門をくぐってみよう。俺の上司がしびれを切らして待ってる」
 扉がゆっくりと開き、先ほどの光よりもさらに透明なものが溢れてきた。堪えきれず目を細めた。
「さあ、くぐってみようか」
 彼は同じ台詞を吐くと私を置いて光の中に入っていく。そのあとを追っていくと強い光が瞬いたあと、殺風景な場所に出た。だだっ広い世界だが、空も地面も緑も人工物も何もない場所、ただ真っすぐに道らしき光の帯がつづいている。
「なにが見える」
「なにって」
「君の目にはなにが映ってる?」
「特になにもないけど」
「本当に?」疑うように彼の声音が低くなる。
「本当だよ。私が嘘つきだとでもいいたいの?」
「そうか。よかった」
「よかったって? 勝手に納得しないで教えてよ、気になるじゃない」
 彼の顔(だいぶ高い位置にあるので首が疲れる)を見上げる。彼はどこかほっとした表情を浮かべた。
「ここは懺悔の間なんだ」
「懺悔の間?」
「死んだ人間や過ちを犯した人間が通る場所。それが自殺であってもね。ある者はここに悪魔を見たり、怪物を見たり、肉親を見たりする」
「私は何も見なかったけど」
「つまり、君は懺悔することはしていないということなんだ。極悪ではなかったんだよ」
「でも――」
 そういいかけて、口をつぐんだ。光の帯が終わりを告げて、また大きな門が見えたからだ。
「さあ、お待ちかね。閻魔大王様のいる間だ。覚悟はいいかい?」
 彼が固く締まった扉の中央に手をかざす。すると、地鳴りのような音がして少しずつ門が開き出した。緊張からかやけに喉が渇く。まるで数日間砂漠をさまよい歩いたかのようだ。もう死んでいるはずなのになんでこんなに喉が渇くのだろう、そう思っていると開いた隙間から今までとは違う温かな光が伸びてきた。行ったことはないけれど、天国はきっとこんな感じなのかもしれない。完全に扉が開くといつか聞いたような声が光の向こうから響いてきた。
「デュンケルか、待っていたぞ。さあ、入るがよい」
 轟く声に足がふるえた。情けないことに泣きそうになる。それを見かねてか、彼が優しく肩に手を置いた。
「大丈夫、なにも心配いらないよ。さあ行こう」
 彼の歩調に合わせて一歩、また一歩と足を動かした。適温の湯船のような温かい光の先、真っ赤な絨毯が見えてきた。天井からの光を讃えるように反射している。まるで血の海のようだ。しばらくして彼の足が止まった。
「着いたよ」
 その言葉と重なるように、雷のような轟音が耳を劈いた。
「貴様かァ。特殊な魂の人間というのは」
 突然、目の前に山のような鬼が現れた。怒りを表現した赤い顔にすべてを貫くような見開かれた眼、顔の半分近くを占めている口には牙が上下二本ずつ生えている。常軌を逸した事態に私は尻餅をついた。大鬼が声を出して笑った。
「存外可愛いところがあるのう。まるで小動物のようだな」
 鬼が喋るたびに鼓膜がビリビリと振動する。たまらず耳を塞いだ。
「大王様、この者は特に異常ありませんでした。懺悔の間もすんなり通ることが――」
「わかっておる。ワシを誰だと思うておるのだ」
「はっ、申し訳ございません」
 彼がふるえている。長身の体がとても小さく見える。どうしたらいいのかわからず、目の前にいる閻魔様と彼の顔を交互に見つめた。
「一ノ瀬マコトとやら、立つがよい」
 また雷鳴が轟いた。立とうとしたが迫力に押され、足が動かない。お腹に力が入らないのだ。何度か試みたが、やはりダメだった。
「そうか、ワシが怖いか。──ならば」
 山のような閻魔様がどんどんと縮んでいき、あっという間に人間サイズになった。
「どうだ、これで大丈夫だろう?」
 ふるえながらうなずくと、閻魔様は笑った。思いのほかかわいい笑顔だ。
「さあ、立って」
 彼がこちらに手を伸ばした。掴んでゆっくりと立ち上がる。背筋を伸ばすと世界が揺れた。眩暈だ。思わず彼の手首を強くにぎった。気分が悪い。息を整えるようにしっかり呼吸すると段々と気分は落ち着いてきたが、それでも非現実的な状況に体がついていかない。下を向いていると、ふむと閻魔様が呟いた。
「私は、どうなってしまうんですか?」
 絞り出した声はひどく弱々しい。
 また閻魔様が、ふむと声を出し、抽斗から黒革で作られたノートみたいなものを取り出してペラペラとめくった。
「自殺は思いのほか罪が深いのだ。まあ、他人を殺すよりは比較にならないくらいの微罪だがのう」
 手が止まり、ノートに落ちていた視線がゆっくりと私に向けられた。底の見えない真っ黒な眼、寒気が背中を突き抜けた。その瞬間、捕食される。そう思った。拒絶反応が体を叩いて膝が笑う。――いやだ、怖い、助けて、逃げたい。足が動くならすぐにでも彼の後ろに隠れたかった。
「どうかなさいましたか?」おそるおそる彼が訊ねた。
「うむ」
 閻魔様は何かを考えているようだった。それはほんの数秒だったが、永遠につづいていくのではないかと思えるほど永く感じた。
「小娘、ワシの眼をよく見るがよい」
 鋭い眼光が私を射抜いた。先ほどと同じ感覚が体を縛ったが、今度はいくらか優しい感じがした。泣きそうになるのをこらえ、数秒間見つめあった。何かを確認したのか、閻魔様は満足そうに破顔した。
「そうか、成程のう。よくわかった。――デュンケルや、小娘をあそこに連れていくがよい」
「あそことは? ――まさか」
「コルソルードだ」
「そんな」
 彼の顔が引きつっている。ありえない、と薄い唇が動いた。
「さあ、早く連れていくがよい。あとがつかえておるのだ!」
 机上にあった木槌を閻魔様が叩いた瞬間、右横の空間に扉が現れ、音もなく開いた。死神の彼は納得できない感じでお辞儀をすると、私を連れて扉の中へ入った。
 扉が閉まる最中、不意に閻魔様と目があった。慌てて頭を下げた私に、
「おもしろい」
 そう、言葉が降ってきた。何が何だかわからなかったが、疑問は閉まった扉とともに置き去りになった。

†††

「やあ、いらっしゃい」
 光の先から声が響いた。春の日溜まりのような優しい声音、安心する声だ。
 徐々に目が慣れていき、景色が鮮明になる。
「閻魔様から話は聞いてるよ」
 そこは空き部屋のように伽藍(がらん)とした場所だった。教室くらいの広さ、真ん中に古びた椅子がひとつ置いてある。声の主はその後ろにいた。死神の彼と同じくらいの背丈、白いローブを身にまとっており、大きな瞳と血色の良い唇。同じ格好だが、性別だけちがう。黒い長髪が風もないのにさらりと揺れた。若い女性だ。桜色の薄い唇が緩やかに湾曲を示した。
 彼がやるせない感じで息を吐きながらゆっくりと椅子に向かって歩き出した。その後ろ姿がひどく寂しそうにみえる。どうしてだろう?
「すぐには信じられないことってあるよなァ」
「まだいってる、百年前にもあったじゃない。あの子もそうなのよ」
 女性の視線が私を捉えた。
「でもなァ」
 彼が振り返った。第一印象とは違う、薄い氷のような視線。みぞおちがひどくこわばった。
「きっと〝彼〟の生まれ変わりなのよ。良く似てない? 目元なんかそっくりよ」
「あいつはまだ死んじゃいない。どこかできっと生きてる」
「呆れた、まだいってる。もう三百年も経つのに」
「とにかく、彼女が本当にそうなのか調べてくれ」
「いわれなくてもそのつもりよ。――さあ、あなたこっちにきて。一緒に楽しいことしましょう」
 女性が手招きする。警戒しながら近づいた。そのとき何の匂いだろうか、ふわりと良い香りが鼻をくすぐった。食パンが焼けるみたいな良い香り。落ち着く匂いだ。
「さあ、ここに座って。怖がらなくて大丈夫よ」
「いったい何が始まるの?」
 椅子に腰掛けながら女性の顔を見た。また黒髪がさらりと揺れた。香りが強くなる。この人の匂いだったんだ。
「君のルーツを調べる」
 次の言葉を待っていた私に死神の彼が口を開いた。はっきりとした口調、でも意味がわからない。
「ルーツ?」
「君がどこの誰で、何者なのかを知る旅に出るんだ」
「なにいってるかわかんないよ。私はただの女子高生――」
「俺もそう思っていたさ」
 女性の手が私の肩に置かれた。すらりと長い指、まるで蛇のようだ。
「無事に帰ってこられたら一緒に乾杯しましょう。上等なお酒があるの、閻魔様には内緒ね」
 彼女の言葉が聞こえた直後、またもや私の意識はブラックアウトした。
 一体これからどうなってしまうのだろう。不安だけが胸の中で反響した。

†††

 最初に戻ってきた感覚は嗅覚だった。香ばしい匂いがして、ゆっくりと目を開けた。すると、視界に男の子の顔が広がっているのに気づき、私は「わっ」と大きな声を出して起き上がった。
「ママァ、へんなひとおきたよォ」
 こどもはベッドから降り、パタパタと足音を鳴らして部屋から出ていく。誰が変な人だ。体にかかっていた薄手の毛布を払い、そろりとベッドからおりた。
 ログハウス風の温かみのある室内。正面に小さな暖炉があり、くべられた薪がパチパチと音を立てている。
「あら良かったわ。目が覚めたのね」
 出入り口の向こうから三十代くらいの女性が顔を覗かせた。肉付きの良いふくよかな体型、中世のそれのようにベージュ色で丈の長いワンピースを着ており、胸元には十字架をあしらった銀の装飾品をつけている。何て返事をすればいいのかわからず、とりあえず会釈した。
「元気そうで安心したわ」
「あの私――」
「裏山の麓で倒れていたのよ。マフィスさん──、近所で刀鍛冶をしている男の人なんだけど、その人が発見したの。もうすこし発見が遅れていたら危なかったわ。あそこ獣が多いから」
 そういわれ、記憶を辿ってみた。夕暮れの屋上、黒スーツの男、真っ白な世界に光の帯、閻魔様の怖い笑顔にトーストのような良い香り。そして奇妙な椅子。それ以外は暗闇が浮かぶだけで何も思い出せなかった。
「空腹でしょう? すぐに用意するから降りていらっしゃいな」
 微笑んで立ち去る彼女の背中を見つめながら、頭の中は疑問符で埋め尽くされた。
 私は死んだはずだ。背の高い死神(デュンケルと呼ばれていた)と一緒にあの世に行き、そこで閻魔様と会った。そのあとよくわからない椅子に座らされて──。
 でも、たしかに死んだはずだ。ということは、あの人たちも幽霊なのだろうか。それにしては生き生きとしている。顔色も良いし、何よりとても温かい。私は思い出したように自分の体を触ってみた。
 ――体が、ある。
 制服の下、体温が手のひらを浸透してひどく懐かしい。
 ――ぜんぶ、夢だったのだろうか?
 だとしたら、ここはいったい。ひとしきり考えたが答えは出ず、そのうちにお腹が鳴った。誰かがしゃべったのかと思うくらいの爆音だ。短い時間逡巡し、彼女のご好意に甘えることにした。
 部屋を出ると、食欲をそそる良い香りがした。シチューのような甘い匂い。十畳ほどの室内には樫の木か何かで造られたテーブルがあり、その上に大小様々なお皿が置かれている。豆を煮込んだような料理に鮮やかな緑のサラダ、きつね色のロールパンとそれに美味しそうなスープだ。たったいま用意されたのか、ゆらゆらと湯気を立てている。
「さあ、席に座って。口に合うかどうかわからないけど」
 彼女が自嘲気味にいい、スプーンをテーブルの上に並べ出した。全部で四つ、三人家族なのだろうか? うなずいて椅子に座った。
「みんなァ、ご飯よォ。降りてらっしゃい」
 呼びかけに呼応するようにドタバタと大きな足音が聞こえ、奥の扉が勢いよく開いた。
「あっ、へんなひともいっしょだァ」
 先ほど私の顔を覗いていた男の子が真っ先にそういい、次いで後ろにいる中学生くらいの女の子が、
「こらっ、失礼なこといわないの」
 と男の子の頭を小突くふりをする。色が白くてとてもきれいな子だ。彼女と同じく丈の長いワンピースを着ている。よく似合っており、まるで絵画から抜け出てきたみたいだ。
「おねえちゃんもいってたじゃないか。へんなふくきたひとがうちにきたって」
 男の子の言葉と重なるように、女の子が今度は本当に小突いた。コツンと乾いた音がした。
「いたいな、なにすんだよ」
「あなたが余計なこというからでしょ」
「朝から喧嘩しないの、早く座りなさい。さあ、冷めないうちにいただきましょう」
 こどもたちは喧嘩を中断し、すぐに着席する。いただきますと手を合わせると、三人が呆気にとられた様子で私を見る。
「やっぱりへんなひとだァ」
 男の子がこらえきれないといった感じで笑い出した。ほかの二人もスプーンを持ったまま固まっている。
「ずいぶん変わった作法ね。どこのかしら?」
「――日本ですけど」
「ニッポン?」
 彼女たちはまた目を丸くする。そんなにおかしなことをいってしまったのだろうか、考えてみたが思い当たる節はない。
「その服も民族衣装か何かかしら? とても変わっているわ」
「そんな大袈裟なものじゃないです。これは学校の制服です」
「ガッコウ?」
「みんなで学ぶ場所です。知りませんか、学校」
 女の子が彼女に耳打ちした。しばらくして納得したのか、彼女が微笑みをこちらに向けてくる。気になる。何を話したのだろう。
 ぼんやり考えていると三人がスプーンを動かし始めた。カチャカチャという音と共に食卓に柔らかな空気が流れ始める。慌てて私もスープを口に運んだ。
「美味しいですね、これ」
「お口に合うようで良かったわ。どんどん食べてね」
 礼をいい、豆料理に手を伸ばした。
「お母さん、今日は聖王義がある大切な日だね。ちゃんと手順は覚えたから安心して」
 ガシャンと音がした。机上を茶褐色の液体が流れていく。女性が持っていたカップを落としたのだ。見ると手が震えている。
「あーおかあさん、おとしたぁ」
 男の子がからかうと彼女は無言のまま布巾でテーブルの上を拭いた。
「そ、そう。それならいいわ。大事な儀式だからしっかりね」
「大丈夫だよ。それよりもガイルのほうが心配だな。ちゃんとお留守番できるの?」
 女の子は手にしたパンを一口大にちぎると男の子のほうを見る。ガイルと呼ばれた男の子は頬ばっていたパンを急いで飲み込むと、
「できるよ! だってぼく、もうよんさいなんだから!」
 どこか誇らしげにいってのける。
 女性がうすく笑い、女の子も微笑んだ。食卓の空気が一段と柔らかくなっていくのを感じる。訊くなら今しかない。
「あのォ、ちょっといいですか?」
「何かしら?」
「――ここって、どこですか?」
「どういう意味かしら?」
「この世界のことです」
 三人が互いの顔を一度見合わせてから小首をかしげた。
「世界って、この国のことかしら?」
「そうです、というか全部」
「何も知らないってこと?」女の子がミルクをすすりながら言った。
 うなずいた。自分がなんでここにいるのかもわからない。私は飛び降りて死に、天界へ連れていかれた。そして閻魔様に会い、変な椅子に座らされて今に至る。説明してもきっと信じてもらえないだろう。不意にあの死神の顔を思いだし、沸々と怒りが湧いてきた。次に会ったら絶対に殴ってやる。
「ここはクプーロといって、ウォリガー国の北側に位置する村よ。人口三百人程の小さな村、産業は主にリスラムという花から取れる香料で、この国の女性はみんなその香料を身につけているの」
 彼女はそういうと胸元に輝く十字架の先端を指で回し始めた。すぐに爽やかな香りが漂ってくる。どこかで嗅いだことがあるような、懐かしい匂いだ。
「良い香りでしょう」
 私がうなずくと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「素敵なアクセサリーですね。ご主人からのプレゼントですか?」
 鈍色に光る十字架を見つめながら訊ねると、彼女は戸惑ったような表情になり、
「そうね」
 と、小さく答えた。その顔に仄暗い色が見えた気がしてこれ以上訊くのは野暮だと思い、
「おかわり、いいですか?」
 話題を変えようと空になったお皿を差し出した。彼女は立ち上がり、キッチンへと歩いていく。すぐに男の子が耳打ちをするように呟いた。
「おとうさんはゆくえふめいなんだ」
「行方不明?」
「ぼくがうまれたあと、ヴォルガやまにはいってそれっきり」
「それって――」
「うらにある、おおきなやまのことだよ。おとなでもあぶないから、ぼくたちはぜったいにはいっちゃいけないんだ」
「変なこと訊いてごめんね」
 男の子は首を横に振った。
「ぼくね、しってるんだ」
「知ってるって、お父さんの居場所?」
「ううん、ちがうよ。おかあさんがまいにちないてること、しってるんだ」
 伏し目がちにそう言った彼の声が震えていて、私は思わず男の子の頭を撫でた。上等な絹のように柔らかい髪だ。
「はい、お待ちどうさまァ」
 お皿が私の前に置かれるのを待って口を開いた。
「私に何かできることありますか?」
 彼女が驚いた顔でこちらを見る。
「急にどうしたのかしら?」
「いえ。ただで食事させてもらってるし、何か申し訳なくて」
 彼女は少しだけ戸惑っていたが、すぐに家の中を見渡す仕草をして、
「じゃあ、ガイルと一緒に留守番していてくれないかしら? 私とリリスが教会に行っているあいだだけでいいの」
 私がうなずくと、彼女は屈託なく微笑んだ。
 しばらくして食事が終わり、食器を片付けるとふたりは家を出て行った。
 一宿一飯の恩を返すため、掃除を始めた。床を掃き、雑巾で拭いているとガイルが不思議そうな顔をする。私は微笑んで床の上をすべった。
 同じように二階も掃除していると、ガイルと誰かの笑い声が聞こえた。男性の声だ。一階に降りてみると、あの死神が玄関の前に立っていた。
「あー! アンタこんなところで何してんの!? どこなのよここッ!」
 そう叫ぶと男は体を震わせ、驚いた顔で私を見た。その間の抜けた表情に怒りが込みあがってくる。小走りで駆け寄ると熊のような毛皮を着た胸ぐらを掴んだ。
「黙ってないで、なんとかいいなさいよ!」
 死神は事情が飲み込めないのか、困惑した顔でそばにいる男の子に助けを求めた。
「マフィスさんだよ!」
「え?」
「うらやまでおねえちゃんをたすけた、マフィスさんだよ」
 襟元を掴んだまま男の顔を凝視した。両の目尻に深いシワがある。身長もあいつより十センチは低いように感じられた。よく似ているがいわれてみれば少しちがうようだ。
「あっ、ごめんなさい!」
 急に恥ずかしくなり、手をはなして後ずさった。
「こんにちはお嬢ちゃん。ぐったり気を失っていて心配したが──、元気になって何よりだ。ちょっと、びっくりしたけどね」
 マフィスさんは襟元をさすりながら豪快に笑い、遅れてガイルも笑った。私もごまかすように力なく笑い、すぐに下を向いた。
「栄養をつけたほうがいいと思ってね、いろいろ持ってきたんだ」
 彼の右手には丸々とした麻袋が携われていた。開いた口から野菜や卵が見えた。私のために持ってきてくれたのだ。いきなり掴みかかってしまったが、なんて良い人なのだろう。
「エリーさんたちは教会に行ったのか? じゃあ、悪いけど上がらせてもらうよ」
 マフィスさんはそういうと大きな体を軽々と動かして台所に歩いていく。床下の扉を開け、保管庫に手際よく野菜たちを収納していった。
「いつももってきてくれるんだ。マフィスさんのつくるやさいは、さいこうにおいしいんだよ」
 ガイルは目を輝かせながらそういい、
「ねえ、マフィスさんいっしょにあそぼうよ。ぼく、おねえちゃんと三人でおにごっこしたい」
 彼の腕を取り、甘えた声を出す。
「嬉しい誘いだけど、これを教会に届けなくちゃいけないんだよ」
 マフィスさんは背負っている包みをポンと叩いた。
「そうだ、君たちも教会にいかないか? 今日はミサの日だから美味しいケーキが出るはずだ」
「ケーキ? やったァ」
 ガイルが無邪気な声を出して万歳をする。マフィスさんは微笑み、視線を私に向けた。少し戸惑ったがうなずくと彼もうんと首を動かした。
 戸締りをして、私たちは早速出かけることになった。

 外は寒風が吹きすさんでいた。鬱蒼とした梢が左右にゆれている。時折唸るように吹き、冷たいを通り越して痛い風が手足を攻撃してくる。
「その格好、寒くないか?」
 眉間にしわを寄せ、マフィスさんが心配そうに訊いてくる。
「寒いです。とっても」
 ガタガタと奥歯を鳴らしながら答えた。
「だろうな」
 と彼は笑い、
「じゃあ俺の家に寄っていこう。こどもの頃使っていた上着があるはずだから、貸してあげるよ」
 身を縮こませながら歩いていると、すぐにガイルの家と同じような作りのログハウスが見えた。
「ちょっと待ってて」
 マフィスさんが家の中に入っていく。家屋の前には大きな畑が広がり、先ほど届けてくれたものだろうか、葉を茂らせた野菜が植えられている。こんなに寒くても育つ野菜があるなんて。ぼんやり見つめていると玄関の扉が開いた。
「お待たせ」
 彼の手に黒い小熊がいた。もちろん毛皮がそう見えただけだが、彼が持つと親子熊のようだ。少し呆気にとられたが、礼をいうとさっそく着込んだ。見た目よりも柔らかな素材で出来ているらしく優しくフィットする。適温のお風呂に浸かったときみたいに温かい。思わず頬がゆるんだ。
「さあ、行こう。もうすぐ儀式が始まる時間だ」
 額に汗が浮かぶころ、前方に教会らしき建物が見えてきた。男の子が「わあ」と声を上げ、走り出した。そのあとを追うとすでに儀式は始まっているようで開かれた扉から厳粛な歌が聞こえてくる。最後列の席に私たちは着席した。
「あ、おねえちゃんだ」
 男の子が前方を指差した。色鮮やかなステンドグラスの下、壇上には綺麗に着飾った女の子たちが神父様から何かを手渡されている。
「リリスも十三歳になるんだな」マフィスさんが感慨深げに呟いた。
「これってどういう儀式ですか?」
「この国では女性は十三歳を迎えたら一人前の扱いを受けるんだよ。神父様から『オルブレン』と呼ばれる冠を頂戴して頭に載せ、神様に祈るんだ。ほら、いまがそのときだよ」
 壇上を見ると女の子は神父様の足元に跪き、右手を胸に当てて何やら言葉を発し始めた。一通り言い終わると神父様はにっこりと微笑み、後ろの台に置かれている宝石が施された華やかな冠を彼女の頭に載せた。満員の会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。マフィスさんも嬉しそうに両手を叩いている。
「スゴイや! おねえちゃん!」
 男の子も興奮気味に叫ぶと体を目一杯使って拍手をする。ほどなくしてまた厳粛な歌声が会場内に響き渡り、壇上には今日祝福された三人の少女たちが立ち並んだ。
「皆様、お集まりいただき誠に感謝いたします。ミューラ、リリス、マミアットの三人が本日、めでたく聖王の仲間入りを果たしました。偉大なる神のご加護があらんことを。皆様、今一度盛大な拍手を」
 神父様の言葉に会場が盛大な拍手に包み込まれた。本日の主役である女の子たちは照れたように微笑み、集まった人達に手を振っている。本当に綺麗だ。
「ちっ、マルクの奴にも見せてやりたかったな。行方不明なんかになりやがって」
「マルクさんって、彼女のお父さんですか?」
「ガイルが生まれてすぐ、ヴォルガ山に入ってそれっきりさ。村の男たち全員で探したが結局見つからなかった。あの山は危険すぎるんだ」
 見つけられなかったのがよほど悔しいのだろう、マフィスさんは歯ぎしりをして中空を睨んだ。
「マフィスさんはね、おとうさんのシンユーなんだよ」
 男の子がどこか誇らしげにいう。
「腐れ縁ってやつさ。アイツとは生まれた時から一緒だったからな。若いころはエリーさんを奪い合った仲――おっと、口が滑るところだった」
 おどけた顔で口元を押さえる彼に私たちは小さく笑った。
「マルクさんはどうしてそんな危険な山に入ったんですか?」
「わからない。奴は昔から用心深い性格でそんな真似をする奴じゃなかったのに」
「ぼくね、おとうさんはもうすぐかえってくるようなきがするんだ」
 男の子は笑顔で壇上の女の子たちに手を振っている。愛くるしい仕草に目頭が熱くなった。
「こんなにも帰りを待ち望んでいる息子がいるんだ、早く戻ってくるといいな」
「ええ、本当」
 儀式が終わり、外の広場に移動した。芝生敷の広場は中央に噴水があり、その周りに木製の丸テーブルと椅子が置かれている。教会の外は不思議と風が吹いておらず、とても穏やかだった。これも神のご加護だろうか。
「さあ、お待ちかねのケーキタイムだぞ。準備はいいか?」
「やったァ!」
 噴水の一番手前、長テーブルの上には美味しそうなフルーツケーキとティーポットが置かれ、私たちをもてなしてくれている。神父様のお弟子さんたちだろうか、同じように白い服を着た若い男性が数人出てきてケーキを小分けすると集まった人たちに配り始めた。その姿を見て男の子が走り出す。ケーキを受け取り、夏の日差しのように目を輝かせて食べ始めた。私も受け取るとケーキを口に運んだ。
「なんで来たの!」
 二口目を口に運ぼうとしたとき、広場を尖った声が満たした。皆が一斉に声のしたほうを見た。そこには男の子の母親、エリーさんが立っていた。
「ガイル、なんで来たの!? 家で待ってるっていったじゃない!」
 その剣幕に息を飲む。ただならぬ様子に会場がざわめきだした。先ほどまでの彼女からは想像もできない形相だ。男の子は泣きそうな顔をして持っていたフォークを皿の上に戻した。
「ケーキがでるからマフィスさんがいこうって。──ごめんなさい」
 彼女の目がマフィスさんに向けられた。怒りがこもった双眸に場の空気が乾いていく。
「どうしたんだ、血相を変えて。ガイルがきてはいけない理由でもあったのか?」
「それは──」
 エリーさんは言葉をつまらせ、私たちから逃げるように横を向いた。何かを隠している。まったくの勘だがそんな気がした。
「おかあさん、ごめんなさい。ぼく、おうちにかえるよ」
 ガイルが寂しそうに呟いた。さっきまでのような瞳の輝きは消え去っている。胸がズキリと痛んだ。
「どうかなさいましたか?」
 私たちのやりとりに気がついたのか、教会の中から神父様が現れた。瞬間、エリーさんの両目が驚いたように大きく見開かれた。
「い、いえ。何でもありません。お騒がせして申し訳ございません」
 彼女はすぐに謝罪の言葉を述べた。胸の前で祈るように組まれた手がふるえている。やはりどこかおかしい。
「そうでしたか。今日はとてもめでたい、皆が笑顔になれる素晴らしい日です。あまり大きな声を出すのは看過できませんねェ」
 エリーさんは再度謝ると男の子の腕を引っ張って教会の中へと歩いて行った。心配になり、私とマフィスさんが追いかけてみるとエリーさんと男の子は柱の陰に隠れるようにして身を縮こませていた。ひどく震えている。
「エリーさん、何かあったのか?」
 マフィスさんが話しかけると、彼女の肩が波打った。顔は陶磁器のように蒼白い。
「ごめんなさい」
「どうしたんだ? いつものエリーさんらしくない。一体何があった?」
 エリーさんはひどく浮かない顔をして下を向いた。ただならぬ気配に私とマフィスさんは閉口した。
「エリー! 決まったみたいよ!」
 静寂を切り裂くようにその声が響いた。同時に彼女の体が大きく揺れた。私たちが振り向くと、そこには中年の女性が立っていた。急いで走ってきたのか肩で息をしている。見開かれた両目が異常な雰囲気を醸し出していた。
「神従女はマミアットよ! リリスじゃないわ!」
「本当に!?」
 中年女性が大きくうなずいた。
「良かった──」
 エリーさんはか細い声を出し、そのまま足元から崩れた。
「おかあさん!」ガイルが大きな声を出した。
 すぐにマフィスさんが駆け寄り、抱き起こした。
「おいッ、しっかりしろ!」
 講堂に響き渡る彼の大声にも反応しないほどその体はぐったりしており、気を失っているように見える。
「大変だッ、どこかで休ませないと」
 マフィスさんが慌てた様子で周囲を見回していると、奥の扉から神父様が顔を覗かせた。
「どうかなさいましたか?」
「大変なんです、エリーさんが倒れてしまって。どこか休ませるところはないでしょうか?」
 神父様は音もなく近づいてくると無表情のままエリーさんの顔を一瞥し、
「それなら私の部屋をお使いください。どうぞこちらへ」
 そういうと踵を返し、ゆっくりと歩き出した。マフィスさんはエリーさんを抱きかかえると神父様と一緒に歩き出す。私とガイルもすぐにそのあとを追った。壇上の脇の細い廊下を抜け、突き当たりにある木製扉の向こうにマフィスさんたちの背中が消えていった。
「急ごう」
 ガイルの手をにぎった。小さな手はひどくふるえている。
「ぼくがきょうかいにきたからおかあさんは……」
 うなだれるガイルの頭をなで、彼の肩を優しく抱きしめた。
「それはちがう。そんな顔したらお母さんが悲しむよ」
「でも――」
 言葉を遮るように強く胸に抱いた。
「大丈夫。心配いらない」
 もういちど彼の頭をなでてからマフィスさんたちがいる部屋へと急いだ。扉を開けようと手を伸ばしたとき、白い服を着た男が出てきて立ちはだかった。死神の彼に負けないくらいの長身、煩悩を削ぎ落としたようなスキンヘッドが乗っている。熱を感じさせない冴え冴えとした眼が黒く光った。
 見た瞬間、鼓動がはねた。――コイツ、なんかやばい。
「入室はご遠慮ください」
 低い声だった。丁寧な物言いだがひどく威圧感がある。ガイルは驚いたのか泣きそうな顔になっている。
「なぜですか? どいてください」
 私は男をにらみつけると強い口調でいった。
「あなたたちは部外者ですから、お入れするわけにはいかない」
「部外者? この子はエリーさんの息子さんだよ」
 男はガイルを一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「リリスの弟か。お前も女に生まれていれば良かったのになァ」
「どういう意味よ?」
 男の眼がゆっくりと私に向けられた。
「部外者のお前に教える必要はない」
 なにいってんのコイツ。不快感でこめかみがヒクヒク痙攣する。
「おかあさんにあいたいよォ!」
 ガイルが大声で泣き出した。突然降り出したスコールのような激しい泣き声、狭い廊下に響いて耳を塞ぎたくなる。
「お願い。部屋に入れてよ」
「駄目だ。こどもは家に帰るんだな」
 野良猫でも追い払うような手つきで私たちを排斥しようとする。ふざけんなよ、このツルッパゲ。
「どいて」
 口から言葉があふれた。もう我慢できない。
「なんだと?」
 男が眉を寄せ、私をにらむ。
「どきなさいよ」
 男は肩をすくめ、また馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
 部屋に入ろうと体を滑り込ませると、男の手が伸びてきて腕を掴まれた。
「放してよ」
 声に呼応するように無骨な指が食い込んでくる。
「放してっていってるでしょ」
 男の眼は変わらず私をにらみつけている。食い込みが強くなった。
「放せよ、聞こえないの? このハゲ頭」
 男の顔が引きつった。「貴様。誰に向かっていって――」
 私は短く息を吐きだすと、顎めがけて拳を思い切り放った。捉えたと思った刹那、手応えはなく虚しく空を切る。扉の前に男の姿はなかった。状況を把握したのと同時に左側頭部に衝撃が走った。ハンマーで殴られたような感覚。視界が揺れ、床に膝をついた。
「まだやる気か? 嬢ちゃん」
 涙でにじんだ視線の先に勝ち誇った笑みが見えた。痛みで霧散した怒りが込み上がってくる。
「馬鹿に──、するなッ!」
 立ち上がる反動を利用して、もう一度拳を放った。男は上半身をスウェイし、拳を難なく躱す。絶対に一度殴ってやると決めた私は執拗に拳を繰り出した。だけど命中しない。スピードに変化をつけてみたが柳の枝を相手にしているようにすべて受け流されてしまう。くそ。
「どうした、もう終わりか?」男の口元がいやらしく崩れた。
「うるさいッ!」
 一旦距離を取り、低い姿勢から相手のエリアに飛び込んだ。ローファーが床を捉え、小気味好い音を立てる。勢いよく踏み込んで右の拳を突き出した。男は棒立ちのまま私の腕を掴み、次の瞬間、ふわりと投げ飛ばされた。まるで合気道だ。受身も間に合わず、激しく床に叩きつけられた。
「──痛ッ」
 あまりの衝撃に息がつまる。脇腹に手をやると差し込むような痛みが跳ねた。今まで経験したことのない痛み。やばい、肋骨が折れたかもしれない。
「女の分際で指図するからだ。すこしは反省したか?」
 男の笑みが濃くなった。ふざけるなッと叫びたかったが脇腹の痛みで声が出ない。歯を食いしばり何とか起き上がる。男が馬鹿にしたように笑った。
「騒がしいですね。いったい何事ですか?」
 扉が開き、神父様が出てきた。男は何事もなかったかのように涼しい顔で神父様の後ろに立った。その歯牙にもかけない態度がひどく神経に障る。くそ。
「おや、この子は」
 神父様の目線がガイルに落ちた。
「エリーの息子、ガイルだそうです」
 私が答える前に男が口を開いた。
「そうでしたか。彼女はいまベッドで寝ています。過労かなにかでしょう、心配ありませんよ」
 神父様は微笑み、ガイルの頭を優しく撫でた。苦しそうな息遣いをしている私に気づいたのか、
「おや、どうなさいました? お怪我をされているようだ」
 そういうと音もなく近づき、痛む左脇腹に手をかざした。
「すぐに良くなりますよ」
 神父様の手が徐々に光りだした。蛍のような光、太陽みたいに温かい。三回ほど明滅すると一気に明るくなった。光の粒子が私を包み込み、脇腹の痛みが消えた。
「あっ」
 目の前で起きたことなのに信じられず、しばらく自分のお腹を見つめた。これは一体なんだろう。体がふるえている。怖さじゃない。奇跡を目の当たりにしたことにふるえているんだ。もう一度神父様の右手を見ると、ぼんやり光る甲に大小四つの目玉のような模様が浮かんでいる。その目玉がぐるりと動き、私を睨んだ。驚いてのけぞると、神父様が感心したような声を出した。
「あなたにも見えますか」
 言葉の意味がわからず、神父様の顔を凝視すると彼が深く笑んだ。恥ずかしくなり視線をそらすとガイルの艶のある髪が目に入った。そうだ、何とか部屋に入れてもらえるようにお願いしなければ。
「あの──」
 神父様の豊かな微笑みが私を捉えた。
「なんでしょう?」
 深い笑みはそのままで彼が答えた。
「中に入っては駄目なんですか?」
 突然神父様の笑みが消え、目つきが鋭くなった。驚いてつばを飲み込んだ。
「私の弟子が付き添っているので、看病は無用ですよ」
 人が変わったかのような冷たい声。どういうことだろう。
「でも、この子がひどく心配していて」
 涙を拭っているガイルの肩に手を置いた。
「お願いします」
 神父様の目を強く見据え、懇願した。
 神父様はすこし沈黙したあと、
「わかりました。では特別にお入りください」
 扉の前から体をどかす。
「オーウェン様ッ」
 男が叫んだ。劈くような音、ひどく不快な声だ。
「それでは他の者に示しがつきませんッ」
「シーガルお黙りなさい。私が許可したのですよ、何かご不満でも?」
 神父様の鋭い視線がシーガルと呼ばれた男に突き刺さった。くっきりとした喉仏が大きく上下動する。
「ですが、部外者を――」
 神父様はゆっくりと首を振った。
「心配には及びません。彼女らはエリーさんの関係者、それに素晴らしい発見がありましたから。ああ、今日はなんと良い日なのか」
 神父様が私を見た。顔は笑っているが、どこか不気味な感じがする。気のせいだろうか。
「行きましょう。エンドロフ様に新しい神従女のご報告をしなければ」
 男はうなずき、私たちの横をすり抜けるようにその場を立ち去った。小さくなっていく背から目をはがし、すぐに部屋へと入った。午後の光が緩やかに差し込む窓際、ベッドの上にエリーさんは寝かされていた。額には白いタオルが置かれている。どうやら熱もあるようだ。気配に気づいたのか、丸椅子に座っていたマフィスさんが振り向いた。
「精神的な過労みたいだな」彼が短く言った。
「おかあさんッ」
 ガイルが駆け寄り、力なく伸びたエリーさんの手を握る。
「おかあさんッ、めをさましてよ」ガイルは必死な表情で呼びかけた。
 マフィスさんはゆっくりしゃがみこむとその手を大きな掌で包み込んだ。
「大丈夫だ、すぐに良くなる」
「ほんとう?」
 マフィスさんは力強くうなずいた。ガイルは安心したのか、また泣き出した。
「では、私たちはこれで失礼いたします」
 神父様のお弟子さんがふたり、私たちに目礼すると部屋を出ていった。 
「精神的疲労って一体なにがあったんですか?」
 寝ているエリーさんの顔を見つめながら私は行方不明になっているマルクさんのことを思った。
「詳しいことはわからない。俺も数ヶ月前に出稼ぎから戻ったばかりで、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった」
 マフィスさんが額のタオルを取り上げてひっくり返す。エリーさんが苦しそうに身じろいだ。
「マルクがいなくなって四年。きっと無理をしていたのだろうな」
 そういい、深く溜息をついた。傍で心配そうに見つめるガイルの頭を撫でた。
「神従女って、どんなことするのかな」
 呟くと、マフィスさんがどうしたと声を出した。
「リリスが神従女に選ばれなかったと知ったとき、エリーさんとても安心した顔になったから」
 マフィスさんは窓の外に目をやった。何かを考えているようだった。思慮深い横顔を見つめながら彼の言葉を待った。
「神に仕える者たちの身の回りの世話だと聞いてるが。十三の少女にできることだからそれほど難しいことではないはずだ」
 マフィスさんは私のほうを見ることなくそう言った。私も同じように窓の外を見た。緩やかな日差しの向こうに滄溟に似た青空が広がっている。リリスが甲斐甲斐しく世話をする姿を想像した。映画のワンシーンのように素敵だが、印象とは違う神父様の冷たい眼が気になった。
「何かおかしい気がする」
「おかしいって?」
 マフィスさんが強く私を見た。ひと呼吸おいてから口を開いた。
「うまくいえないけど、そんな気がする」
 我ながら馬鹿みたいな直感だが、そう思うのだから仕方ない。
「女の勘ってやつか」マフィスさんの頬が心なしか緩んだ気がした。
 私はうなずいた。またエリーさんが身じろいだ。額からタオルが落ちかけ、すぐにマフィスさんが直した。
「エリーさんの怯えた様子と神父様の言葉、ぜったい何かある」
「考えすぎだよ。この村は平和そのものだ。ボルガ山は国の危険指定区域だが、近づかなければ問題はない」
 マフィスさんはそこまでいうと父親のように力強く笑った。本当にそうなのだろうか。脳裏にスキンヘッドの男の言葉が浮かんだ。
「おかあさんがめをさましたッ」
 ガイルが叫んだ。エリーさんが身じろぎ、ゆっくりと口を開いた。
「ここは──」
「神父様の部屋だ。事情を話したら快諾してくれた。過労で倒れたんだ」
 マフィスさんの言葉を一字一句逃さぬようにエリーさんは真剣な顔で聞いていた。傍で心配そうに見つめているガイルに気づくと、「ごめんね」と短くいい、小さくうなずいた。
「とりあえず、ゆっくり体を休めるといい。ガイルやリリスのことは心配いらない、俺が面倒をみるから」
 エリーさんは安心したように微笑んだあと、ありがとうといった。マフィスさんは照れ臭そうに頭を掻き、タオルを取り替えてくるよと席を立った。
「ぼくもてつだう!」
 ガイルもそのあとをついていく。二人が出て行った途端、部屋に静寂が満ちた。張り詰めた空気が少し息苦しい。
「ねえ」
 エリーさんが呟いた。 
「換気をしてくれないかしら」
 私はベッドの奥、引き違い窓の片方を開け放った。冷たい風が顔にぶつかり、思わず目を細めた。
「気持ちいいわね」
 エリーさんがこどものような声を出す。かなり肌寒かったが、熱がある彼女にとってはちょうど良いのだろう。
「名前──」
 エリーさんが思い出したようにいった。「あなた、名前は?」
 まだ自己紹介もしていないことに気づき、私はコホンと咳払いをして、
「マコトです。一ノ瀬マコト。名前とお転婆な性格でよく男の子に間違われます」
 冗談をいうと彼女は口元だけで笑った。
「お水、飲みますか?」
「お願い」
 ベッド脇の木製机に用意されていた水差しをグラスに傾けた。エリーさんがゆっくりと起き上がる。倒れないよう背中に腕を回し、グラスを口元へ運んだ。
「おいしいわ、ありがとう」
 彼女は微笑み、また体を倒した。息を吐くと窓の向こうを見つめ、よく晴れてるわねといった。
「ええ、本当」
 私も同じように外を見た。穏やかな日差し、上空には筋状の雲がいくつか確認できる。まだ風が強いのだろう、心なしか空もくすんでいるような気がする。彼女が窓のほうを指さし、もういいわと言ったので立ち上がると静かに閉めた。すぐに冬の気配が消え、しばらくしてドタバタと足音が聞こえてガイルたちが戻ってきた。マフィスさんの手には木桶が携われており、なかには水が張られていた。体を起こしているエリーさんに驚いたのか目を丸くする。
「寝てなくて大丈夫なのか?」
 エリーさんは短くうなずき、
「ありがとう、だいぶ良くなったわ」
 微笑みながら答えた。マフィスさんは安心したのか、ほっと息を吐き、「そうか」と短くいうとテーブルの横に木桶を置いた。
「おかあさんッ」
 ガイルが弾かれるようにエリーさんに駆け寄ると抱きついた。その勢いに彼女の体が少しよろめいた。慌てて手を差し伸べようとマフィスさんが右手を出したがエリーさんは大丈夫よと小さく呟いた。
「ガイル、心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」
 いいながらガイルの頭を優しく撫でた。ガイルの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。相当心配していたのだろう、私も泣きそうになった。
「まだ熱があるようだ。もう少し眠ったほうがいい」
 エリーさんの額にマフィスさんは手を当て、優しく微笑んだ。エリーさんは小さくうなずくと体を倒した。すぐに木桶のなかの濡れタオルを絞って彼女の額に充てがう。ありがとう、とエリーさんは唇を動かした。マフィスさんの分厚い掌を見つめていると、先ほどの神父様が起こした奇跡を思いだした。
「神父様ってすごいですね」
 三人の目が私を捉えた。構わず続ける。
「ああいう能力ってなんていうんでしたっけ、ヒーリング?」
「神父様がどうかしたのか?」マフィスさんが不思議そうな顔で訊いてくる。
「知らないんですか? あの奇跡を」
 マフィスさんの眉間に深い皺が刻まれた。
「きせきってなあに?」
 ガイルは大きな目を輝かせながら私を見る。
「怪我したところが、あっという間に治っちゃうんです」
 マフィスさんが目を見開いた。眉間の皺が消え、代わりに額に皺ができた。
「その話、本当か?」
 私がうなずくと、「いや、でもまさか」と口を動かした。
「信じられないかもしれないけど本当なんです。右手がぼうっと光って、それが痛む箇所に触れた途端、すぐに治ったんです」
「すごーい!」ガイルが感嘆の声を上げた。私はまたうなずいた。
「そんなことが──」
 マフィスさんは呻いたがそのあとすぐに、
「それならエリーさんの過労も治してもらえるかもしれないな」
 と言葉をつづけた。
「神父様はさっきお出かけになられたから、帰ってきたらお願いしたらいいかも」
 ガイルがまた歓喜の声を上げた。希望が部屋に溢れ、室内の温度がいくらか上昇したような気がする。
「さすがは神父様だ。そんな凄いことが可能だなんて」
「手の甲に目玉の模様があったんです。きっとその模様が奇跡の秘密――」
 そこまでいったとき、エリーさんが起き上がって叫んだ。
「あなた〝アレ〟が見えるの!?」
 鼓動が盛大に跳ねた。驚いてエリーさんの顔を凝視した。
「え、あの」
 うまく言葉が出てこない。もう一度彼女が大きな声で言った。
「【デスペラードの紋様】が見えたのね?」
 鋒のように尖った視線が私に突き刺さる。その迫力に思わず首を縦にふった。
「ああ、なんてこと」
 エリーさんは力なく言葉を漏らすと両手で顔を覆った。一体どうしたのだろう。心配したマフィスさんがエリーさんの肩に手を置いた。
「いますぐ逃げなさいッ」
 エリーさんの病人とは思えない力強い視線が私に衝突する。意味がわからない。
「一体どうしたんだ?」マフィスさんが真剣な顔で訊いた。
 エリーさんは少しためらう素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「あなたは出稼ぎでいなかったから知らないだろうけど、この村は変わってしまったの」
「変わったって?」
 エリーさんはみじかく顎を引いた。
「三年前、東の大国グラードからエンドロフがやってきてこの村は支配されてしまった」
「支配だって? 馬鹿な。そんなこと神父様がお許しになるわけが──」
「彼が協力者なのよ」
「なんだってッ!」
 マフィスさんが大きな声を出した。すぐにまずいと思ったのか、辺りを見回して声をひそめた。
「どういうことだ?」
「絶対に他言しないって約束できる?」
 エリーさんの鋭い目が私たち三人に向けられた。うなずくと彼女はひとつ息を吐き、その先をつづけた。
「いまの神父様は──、偽物なの」
 マフィスさんが唾を飲み込むのがわかった。彼女が発した偽物という言葉が頭の中をぐるぐると飛び回る。
「その話、誰に聞いたんだ」
「見たのよ」
 エリーさんが震えだした。両腕を抱えるようにぎゅっと縮こませ、恐ろしいものを目の当たりにしたように顔色が青ざめていく。ガイルが消え入りそうな声で、おかあさんと呟いた。
「あの日、アイツは神父様に仕えていた少女を喰ったのよ」
「アイツ?」マフィスさんの眉根が寄った。
「エンドロフッ、あの悪魔のことよッ」
 エリーさんが叫んだ。
「名前はリーシャといった。ひどく暑かった日の夕暮れ、ヴォルガ山の麓で見つかったの。自分がどこからきたのか、そして誰なのかわからないようだったわ。憐れに思った神父様は少女を自分の屋敷へと連れて行った」
 エリーさんの肩が大きくふるえている。いまにも発狂しそうなほど表情が崩れた。
「そこにエンドロフがいた。あいつは何もわからず震えていた彼女を──、突然喰ったのよッ」
 場の空気が一瞬で凍った。ガイルは意味がわからないのかきょとんとしている。
「そんなこと」
 マフィスさんの顔が歪んだ。
「少女を飲み込んだエンドロフは鬼のように見えたわ。この世のものではない、アイツは地獄からきた悪魔よ」
「まさか、神従女というのは」
「エンドロフに捧げる人身御供よ。数年間身の回りを世話をさせて霊力を高めてから喰らうつもりよ」
「なんてことだ──」
 エリーさんの瞳が私に向けられた。
「あなたはかなりの霊力があるわ。デスペラードの紋様が見えたんだもの。そんな娘をエンドロフがほうっておくはずがない。気づかれる前に逃げるの」
「逃げるってどこに」
 助けを求めるようにマフィスさんを見つめた。
「とにかくこの村は危険だ。今日中に隣町のルウェンドに移ろう。あそこには昔からの知り合いがいるんだ、心配ない」
 エリーさんは安堵したように息を吐いた。「お願いね」
「リリスや村の人たちはどうする? 全員を説得して移動させるのは不可能かもしれない」
「村人全員がいなくなるのは不自然よ。時間をかけて少しずつ避難させる。神従女は決まったばかりだから奴らも油断しているに違いないわ」
 マフィスさんが口を開こうとしたとき、室内に何者かの声が響いた。
「匂ウ、匂ウゾォ──。霊力ヲ持ッタメスノ匂イダァ──」
 不穏な空気とともに天井が歪んだ。中央から大きな手が現れ、あたしたちめがけて飛んできた。
「危ないッ!」
 マフィスさんが叫んだ。あたしとガイルを抱えると超人的な動きで巨手を躱す。目標を失った手は床をえぐり取り、天井の歪みに戻っていった。
「ちょッ、何なのあれ!」
 あたしの声に反応して巨手が見え隠れする。異様な光景に体がふるえた。
「どうやら、狙いはきみのようだ」
「冗談でしょ?!」
「かまえるんだッ、くるぞ!」
 歪みが渦を巻き、巨手がすごい速度で伸びてきた。
「床を蹴れッ!」
 いわれるがまま床を蹴った。すんでのところで躱すと、巨手がテーブルをバラバラににぎりつぶした。
「こわいよぉ!」
 ガイルが泣き声をあげた。マフィスさんはガイルを引き寄せると自分の後ろに立たせ、
「安心しろ、だれも死なせはしないッ。マルクが帰ってくるまでこの村は俺が守る!」
 マフィスさんが吼えた。伸びてきた巨手に向かって体当たりを食らわせる。巨手が呻き、ずるりと落ちてきた。
 眼前に悪魔が現れた。毒々しい紫の皮膚、額には短い角が二本生え、その下にある一つ目がぎょろりとこちらを睨んでいる。非現実的な光景に脳が追いつかない。
「化物め──」
 マフィスさんが吐き捨てるように呟いた。これは悪夢だろうか──。足が冗談みたいにふるえ出した。
「怖いかい、お嬢ちゃん」
 マフィスさんが呟いた。額から大粒の汗が流れ落ちる。泣きそうになるのをこらえてうなずいた。
「だろうな。正直、俺も怖い。だけど心配無用だ、俺の命にかえても、ここは突破するッ」
「ケーッケッケッケェ。ドブ臭エ人間ドモガホザクンジャ──、ネエヨ!」
 悪魔が巨手を振り払った。突風が起こり、後ろに吹き飛ばされる。悪魔が耳障りな笑い声を上げた。
「ケーッケッケッケェ、脆イ脆イネエ。瓦落多ミテエニ脆弱ナ人間ドモハヨォ、イイ加減ニクタバッチマエヨ!」
 悪魔が巨手をこちらに向けた。掌がロケットの噴射口のように光りだす。なにかヤバい。
「伏せろッ」
 巨手からエネルギー弾が発射された。急いでしゃがみこむ。高熱をまとった物体が頭上を通過し、そのまま壁に衝突した。
 爆音と爆風、焦げたにおいが鼻をつく。まるでテロだ。パニックになりそうな思考の中、ガイルの身を案じた。彼は無事だろうか。すぐに視線を上げた。
 マフィスさんがガイルに覆いかぶさっている。壁の破片が背中に落ちてはいるが、怪我はないように見えた。
「チッ、ネズミノ分際デ俺ノ攻撃ヲ躱ストハナァ。仕方ネエ、コッチヲ先ニ殺シテヤル」
 悪魔が掌をエリーさんに向けた。私がやるしかない。ふるえる足で何とか立ちあがった。
「ケーッケッケッケェ、震エテルジャネエカァ」
「うるさいッ、いいからかかってきなさいよ!」
 叫んで身構えた。足の震えは変わらない。けれど、戦うしかないんだ。
「ケッケッケェ、身ノ程シラズノ餓鬼ガ調子ノッテンジャ──、ネエヨ!」
 悪魔がふたたびエネルギー弾を発射した。私は覚悟を決めた。一度死んだ身だ、二回死んだって同じことだろう。拳を握り、光弾を思いきり殴った。
 分厚いタイヤを叩いたような手応えがあった。足に力を入れ、歯を食いしばって押し込んだ。光弾は拳の先でバウンドし、悪魔に向かって飛んでいく。
「シャラクセエッ!」
 悪魔が巨手を振り払った。光弾がぶつかり、炸裂する。発生した爆風で後方に吹き飛ばされた。
「ケーッケッケッケェ、弱イ、弱イネェ。弱スギテ泣ケテクルネェ。ニンゲンハ大人シク俺タチノ云ウコトヲ聞イテリャイインダヨ」
 悪魔の嘲笑が室内に響いた。頭を打ったのか、視界がぐらぐらと揺れる。吐き気をこらえて立ちあがった。
「ケーッケッケッケェ。マダヤル気カイ、オ嬢チャン。大人シクオネンネシトイタ方ガイインジャナイノカ」
「──なさいよ」
「アァ? 何ダッテェ?」
「口閉じなさいよ。あんた〝息がにおう〟のよ」
 悪魔の表情が変わった。こめかみに血管が浮いて、肩が小刻みにふるえだす。悪魔にも羞恥心があったとは驚きだ。
「貴様ァ! コノ俺ヲ愚弄シタナァ!」
 悪魔が咆吼した。とたん、体から念波のようなものが排出される。急いで身構えた。
「小娘ェ! ブッ殺シテヤルゾッ!」
 大声を上げて突進してきた。すさまじい圧力、まるで大型トラックだ。直撃を食らったらまずい──。床を鳴らし、素早くサイドステップする。
「馬鹿メッ! ソレデ躱シタツモリカァ!!!」
 こちらの動きに合わせて悪魔が床を蹴った。強烈なタックルが脇腹を直撃して窓際まで吹っ飛ばされた。
 全身に走る痛み、かすむ視界、口内に広がる血の味──。なんでこんな思いをしなければならないのだろう。脳裏に死神の男の顔が浮かんだ。
「ケーッケッケッケェ、今サラ後悔シテモ無駄ダゼェ。ニンゲントハ本当ニ愚カナ生キ物ダヨナァ」
 悪魔がよだれを垂らしながら近づいてくる。途切れそうな意識の中、私は勝機を探した。だけど眼前の悪魔を倒せるような妙案は小指の先ほども出てこない。絶体絶命。そんな言葉が脳裏をよぎった。
「逃げ──、るんだ──。早く──」
 マフィスさんのかすれるような声が思考を中断させた。彼の背中が微かに動いた。
「ケーッケッケッケェ、死ニ損ナイ共ガァ。コノ俺様カラ逃レラレルワケ──、ネエダロ!」
 悪魔が最後の仕上げとばかりに念波を繰り出した。濃密なエネルギーで空間の景色が歪む。──くる。足に力を入れ、立ちあがった。
「クタバレッ!」
 悪魔の体が光った。──爆発する。床を蹴ってエリーさんのいるベッドまで走った。
「伏せてッ!」
 叫びながらエリーさんに覆いかぶさった。瞬間、世界が真っ白になる。すべてを無に帰す色──、轟音が耳朶を蹂躙した。
 死んだと思った。生き返った体はふたたび消え失せてしまった──。そう思った。
 視界が正常になり、感覚が戻ってくる。──指先が動く。まだ生きているようだ。体の下、エリーさんの鼓動を感じる。よかった、彼女も生きてる。
 なんとか体を起こしてマフィスさんのほうに目を向けた。彼は顔を上げて小さくうなずく。ふたりも大丈夫だ。
「ケーッケッケッケェ! テメエラ虫螻ガ俺様ニ勝テルワケネエンダヨォ」
 悪魔の嘲笑がひどく癪に障った。怒りが沸々とわいてくる。このまま負けっぱなしなんて私らしくない。絶対に一発殴ってやる。
 お腹に力を入れ、立ちあがった。貧血のように視界が揺れる。倒れないよう眉間に意識を集中させて悪魔をにらんだ。
「ケーッケッケッケェ、ニランダッテ無駄ヨォ。オ前ハ俺様ニハ勝テネエッ」
「うるさい! やってみないとわからないでしょ!」
「死ニ損ナイガ偉ソウニホザイテンジャ──、ネエヨ!」
 巨手が唸りを上げて飛んできた。躱す間もなかった。ガードしようとした左腕にぶつかり、骨が折れる音が体を駆けた。
「ケーッケッケッケェ! クダラネエ、ニンゲンノ覚悟ナンテ所詮、蟻ノ糞ミテエニチッポケナ物ナンダヨォ」
 殺される。初めてそう思った。痛む左腕を押さえながら後ずさる。死が音もなく近づいてきた。
「コレデ、終ワリダ」
 巨手が天井に届きそうなほど伸ばされた。筋繊維が収縮し、きりきりと音を立てる。最大の攻撃が降ってくるのは明らかだ。腰を落とし、無事な右腕だけで身構えた。
 死ぬわけにはいかない──。ガイルもマフィスさんもエリーさんも、私が護らないでだれが護るんだ。負けたくない。眼前の悪魔、恐怖、自分自身にも──。私は──負けない!
 巨手が風を切りながら飛んできた。拳をにぎり、大声を上げて前方に向かって突き出した。劈くような衝突音、湧き上がった閃光、手応えの先に顔を歪めた悪魔が見えた。
「ナンダ、ソノ姿ハ!?」
 悪魔が叫んだ。何をいっているのかわからない。構えを崩さずに間合いを詰めた。
「貴様ァ、天使ダッタノカァ!」
 窓ガラスに自分の姿が映った。くすんだ制服の後ろ、背中に真っ白な翼が生えている。翼竜のようなそれは意思とは無関係に大きく羽ばたいた。これはいったいなんだろう。
 体中に力がみなぎってくる。細胞ひとつひとつが目覚めたような感覚──。左腕は動かないが、何とか戦えそうだ。構えを深め、悪魔をにらんだ。
「チィッ! 天使ダカラッテ、イイ気ニナッテンジャ──ネエヨ!」
 悪魔がエネルギー弾を放った。先ほどよりもさらに大きい光だ。ぐんぐんと加速し、私目がけて飛んでくる。躱すことなんて微塵も考えなかった。右手を開いて前方に向けた。掌に意識を集中させる。光の粒子がどんどんと集まってきた。イケる──。心をトリガーにして、エネルギー波を解き放った。
 濡羽色のエネルギー弾と黄蘗色のエネルギー弾が衝突する。湧き上がった轟音が空気を揺らし、窓ガラスが鳴いた。音の間を縫うように悪魔が巨手を伸ばしてくる。体を捻って、もう一度エネルギー弾を放った。今度は命中した。悪魔が後ずさる。好機。床を蹴ると敵の懐に飛び込んだ。がら空きのボディーに渾身の右拳を叩き込む。完璧な手応え、悪魔がうめいて口から黄土色の唾液が流れ落ちる。すぐに腰を落とし、浮いた踵に向かって足を払った。
 悪魔が後方に倒れた。馬乗りになろうと近づいた瞬間、敵が上半身だけを持ち上げてなにかを飛ばしてきた。左足に衝撃が走り、たまらず床に膝をつく。よく見えなかったが〝攻撃を受けた〟のだ。
「ケーッケッケッケェ! 食ラワセテヤッタゼェ! 必殺〝ディリティリオ〟!」
 脛の辺りにいやな熱を感じた。見ると皮膚が紫色に爛れている。触ると焼けるような痛みがあった。
「オ前ノ寿命ハアト一時間モネエ! セイゼイ苦シムンダナァ」
「どういうことよ!」
「俺ノディリティリオハ解毒不可能ナ猛毒ヨォ。食ラッタ場所カラ徐々ニ腐リ始メ、ソレハ一時間モシナイ内ニ全身ヲ蝕ムノサァ」
 猛毒というワードに体がふるえた。皮膚は紫を通り越し、黒に近い色になっている。私は死ぬのだろうか。
「そんなの嘘だ! デタラメいうな!」
「信ジヨウト信ジマイトオ前ハ死ヌ、魂ダケ奪ワレテナァ。ソウイウ宿命サァ!」
 悪魔が巨手を振り払った。腕を立ててしっかりガードしたが、こらえきれず後方に弾かれた。壁にぶつかって意識が飛びそうになる。コイツ、マジでヤバい──。
 悪魔の嘲笑が室内に充満した。毒の影響なのか、吐き気がこみ上げてくる。霞む視界で何とか身構えた。
 敵が間合いを詰めてくる。こちらの攻撃を警戒しているのかすぐには近づいてこない。歯を食いしばり、右腕を前に向けた。
 先手必勝。渾身の力を込めてエネルギー弾を放った。視界が黄蘗色に染まり、悪魔に向かって伸びていく。衝突したと思った瞬間、敵の姿が消え、巨手が真横から飛んできた。気づいたときには遅かった。がっちりと捕まれ、身動きが取れない。
「ケーッケッケッケェ! 毒デクタバル前ニ握リ潰シテヤル」
 巨手の圧力が強くなった。バラバラにされたテーブルが脳裏をよぎる。焦燥感が体をかけた。このままじゃ、まずい──。
 岩のよう硬い指が食い込んでくる。思いきり身をよじったが外れない。耳障りな敵の笑い声が木霊した。
「ケーッケッケッケェ! 死ニ損ナイニコレヲ食ラワセテヤロウ」
 悪魔が大口を開けた。真っ赤な口内、その中がみるみるうちに光り始めた。エネルギー弾がくる──。
 目の前が白く染まった。観念して目をつむる。すると、どこからか声が聞こえた。
 ──諦めちゃダメだ──。
 知らない男の人の声。でも、どこか懐かしい。うっすらと目を開けた。
 ──さあ、闘うんだ──。
 その声に首を振った。もう無理だよ。体は動かないし、呼吸も苦しい。酸欠なのか、目もチカチカしてきた。
 ──大丈夫、きみならできるさ──。
 無責任な言い方に腹が立ったが、それよりも息苦しさの方が勝った。とにかく現状を打破しなければ──。
 絞めつけがどんどん強くなってくる。少年漫画の主人公じゃあるまいし、都合よく変身なんてできるわけがない。焦りだけが内側をかけた。
 悪魔の口内からエネルギー弾が発射された。焼けるような高熱、死を予感させる光景、ガードしたいが腕が動かない。
 ──光は味方だ。怖がることはない──。
 頭蓋で声が響いた。お父さんみたいな優しい声音。安堵する波長、しかしエネルギー弾は眼前まで迫っている。
 私は覚悟を決めた。刹那、エネルギー弾が体に衝突する。終わった、と思った。
 だけど、私は生きていた。五感は冴えわたり、どういうわけか巨手からも逃れて悪魔と対峙している。
 ──健闘を祈る。きみが〝この世界〟を救うんだ──。
 そう声がして、それきり何も聞こえなくなった。胸が熱い。生まれ変わったような感覚に鼓動が跳ねた。悪魔をにらみ、身構える。
「クソッタレガァ! 餓鬼ガ調子ニ乗ルンジャネエ!」
 敵の焦りが手に取るようにわかった。何度攻撃を受けても倒れない私に恐怖している。もう一度悪魔をにらみつけ、口端だけで笑ってみせた。
 敵が小刻みにふるえたあと、勢いよく飛びかかってきた。背中の翼が反応して、私は中空を駆けた。目標のサイドに舞い降りると渾身の右ストレートを脇腹に放つ。捉えた。鈍い音がして悪魔がくぐもった声をあげた。
 敵の双眸に敗北の色が浮かんだ。右の掌を開いて意識を集中させる。いまなら聖の力が使えるはずだ。
 黄蘗色とはちがう、瑠璃色の光が掌に集まりだした。まるで早朝の海のように美しい色。 いける──。
 叫んでエネルギーを解き放った。
 海が悪魔を飲み込んでいく。毒々しい体は浄化されたように色を失い、形が歪み、あっという間に消滅した。静寂が狭い室内に広がった。倒したのだろうか──。
「すごい──。勝ったぞ」
 声のした方へ振り向いた。起き上がったマフィスさんが信じられないという顔で私を見つめている。
「きみはいったい、何者なんだ?」
 短い時間考えたが答えなど出るはずもなく、ゆっくりと首を横に振った。私がこの世界を救う? これからのことを思うと不安しかない。
「とにかく、ここを離れよう。手伝ってくれ」
 マフィスさんはそういい、ガイルとエリーさんを抱きかかえた。窓ガラスに映る、翼の生えた自分が小さく微笑んだような気がした。

死神は白いパンツがお好き

死神は白いパンツがお好き

JKが悪魔と闘うお話です。 主人公覚醒編なので回収されていない伏線があります。 続きはそのうち書きます。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-25

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著作権法内での利用のみを許可します。

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