せんせいに恋をしている、あるひとりのにんげんの回想

(すきなひとのこと、すきじゃなくなったとき、あたしは、あたしで、いられるのだろうか)

 そもそも、あたし、というのは、つまりは、ぼく、のことであり、正確には、ぼく、であり、正確には、って、正しくて確かに、確実に、ぼく、であるというのは、なんだか、おかしい。あたしは、ぼくで、ぼくは、あたしで、あたしも、ぼくも、ひとりのにんげんで、たまたまちょっと、あたしと、ぼくの境界線が、あやふやなだけ。いちばんしっくりくる一人称って、じぶん、なのだろうか。じぶんは、こう思う。じぶんだったら、それはしない。じぶんは、じぶんは、じぶんなら、じぶんのこと。
 なんだか、かたくるしいなあと思いながら、あたしは、つめの先で、缶のふたをあけた。これは、プルトップ、というなまえ。あらためて、あたまのなかで、正式名称を唱えてみると、くりかえしていないのに、ゲシュタルト崩壊してるみたいな感覚になる。寒空のした、公園のベンチは、つめたい。自販機で買った、缶のコーンポタージュ。これ、あたしとしてはぜったい、夏も、販売してほしいところ。スカートってさ、あし、冷えるのよ。とくに夏はさ、くつしたも、レギンスもはかないし、サンダルで、今日みたいに、みじかいスカートをはいたときに、冷房のきいた電車とか、お店って、けっこうきつい。コーヒーや、紅茶よりも、あたしは断然、コーンポタージュ派で、底にたまったコーンを、ばかみたいに必死になって出そうとしてるときが、わりと好き。きょう、待ち合わせをしているひとは、すこしだけ、せんせいに似ているひと。写真で見る限りは、ほんとうに、すこしだけ。くちびるの形と、前髪の流し方だけで、ほかはぜんぜん、せんせいには似ても似つかないひとなのだけれど、わずかでも、せんせいを感じられるならばと、連絡をとった。想像しているよりも、かなり、やばい傾向にある、という自覚は、ある。おかねは、まったくいらなくて、とにかく、せんせいのことをイメージしながらできるひとであれば、正直、どんなひとでも、かまわないと思っている。(暴力をふるわない、やさしいひとがいいけれど)
 しかし、もう、本格的に、冬だ。
 この頃は、十二月なのに、春みたいな陽気の日もあったけれど、きょうは、真冬の寒さで、あたらしいコートを買ってよかった、という感じ。ロングの、ダッフルコートで、相手のひとが、スカートをご所望だったので、ベンチのつめたさをやわらぐことができて、ほんとうによかった、と思うようにしている。日常の、どんなに些細なことでも、よかったと思えることは、心からよかったと思うようにしないと、さ、くるしいんだよね。みたされないもので、世界は、あふれているから。うまくいかないことばかりでも、死にたくないし、おいしいごはん、まいにち食べたいし、せんせいに、いつかほんものの、あたしの好きな、正真正銘の、せんせいに、好きって言ってもらえる日が、来るかもしれないから。

(あたしは、ぼくで、ぼくは、あたしで、すきなひとは、きっと、ずっと、えいえんに、せんせいで、これから逢うひとが、どんなにすばらしい人格者でも、あたしにはぜったい、せんせいしかいない)

 こういう、妙な自信がわいてくるときほど、にんげん、油断大敵だったり、する。
 お待たせ、といって現れたひとは、くちびるの形や、前髪の流し方どころか、笑った顔も、せんせいに似ていて、あたしは一瞬、ひるんだ。凍えそうなくらい寒い、ある十二月のことだ。

せんせいに恋をしている、あるひとりのにんげんの回想

せんせいに恋をしている、あるひとりのにんげんの回想

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-22

CC BY-NC-ND
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