おもてとうら

あおい はる

 しあわせの温度は、きっと、にんげんの体温に、ちかいとおもう。せんぱいの、つめが、ぼくの皮膚に、やわらかく食い込んでゆく瞬間、目の前が真っ白になり、雪のなかに埋もれたみたいな感覚に、なる。わずかに息が、つまる。町の動物園にいる、とらのことが、せんぱいのつぎに、好きで、どうか、しなないで、と祈ってる。好きなものには、いつも、そうやって祈るくせが、ついてしまっている。交通量の多い、夕方の車道が、こわい。週末の、高速道路も。車、というのは、べんりだけれど、やはり、こわいな、ともおもう。漠然としているけれど。
 いつかの頃に、好きだった女の子のこと、いまでもときどき、おもいだすけれど、そこにはもう、恋だったものの残骸が、色褪せて、横たわっているだけ。せんぱいが、ぼくにふりかざす、権力や、支配力のうらがわには、恐れ、みたいなものが、見え隠れしているから、ぼくは、せんぱいの横行を、いとしく感じている。とらには、週に一度、逢いにいくけれど、果たして、ぼく、というにんげんを、彼が認知してくれているかは、わからない。こういうとき、ひとの言葉しか話せないって、ふべんだ。とらは、昼間はだいたい、おりのなかでねむっている。じっと見ていると、耳が、ぴくぴくとよく動くので、ねむっているふりを、しているだけなのかもしれない。動物園が閉園したあとは、おりのなかで、なにをしているのだろうか。飼育員さんもいなくなってから、ひとり、なにをかんがえ、なにをおもっているのだろう。さびしくはないか。もし、さびしいようなら、ぼくにすがってほしい。その、するどいつめは、ようしゃなく、ぼくの皮膚に、あとを残して、いっしょうきえない傷を、ぼくはたいせつにしよう。ぐちゃぐちゃの、どろどろにされたい願望には、底がない。おちてゆくばかりの感覚に、希望はないが、永遠におわらない快楽だけが、あたまのなかを麻痺させる。それだけで、にんげん、生きてゆけるとおもう。せんぱいの声が、なんだか、いやに、ぼやけてきこえる。二十二時。

おもてとうら

おもてとうら

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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CC BY-NC-ND
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