心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その8 虎と女神と風の馬
十二月二十一日
なんとなしに不安というか、自分でもよくわからない心の迷いみたいなものがあって、よく寝られなかった。
レセプションで眠そうな夜番の女の子に部屋の鍵を渡すと、出発。小雨が降っていた。門を出たところにタクシーが停まっていたから、窓を軽く叩いて中で寝ていたドライバーを起こして、茶店子汽車站と書いたメモを見せる。
日中はどこも車と人だらけの成都市内も、朝早くだとほとんど車は走っていない。来たときの半分くらいの時間で、すぐに茶店子バスターミナルに着いた。ゾルゲ行きのバスは六時半と七時の二本だけれど、若爾蓋と書いたメモを切符売り場で見せると、何も聞かれないで七時の切符を渡された。
バスの前のほうは、労働者風の中国人が十人くらいで占めている。私の横に座っている中国人の女の子は、なぜか出発前からグッタリしていた。
珍しく何も問題なく、ほぼ定刻に発車。
都江堰のバスターミナルで停まって、お客さんを乗せる。都江堰の市内を出たころからだんだん雨がやんで、でも空はまだ灰色。バルカムから成都に来たときみたいに高速を通るのかと思ったら、川の反対側の細い道路を高速並みのスピードで走る。
食事休憩のときバスの外に出ると、空気はまだ湿っていたけれど高原の寒さに近づいている感じ、高度計を見たら、一〇〇〇メートルを越えていた。
そのまま順調にホーストレッキングで有名な松藩、チベット語でスンチュの町に着くのかと思ったら、途中のゆるいカーブではるか先のほうまでバスやトラックが数珠つなぎに停まっているのが見えた。その列の一番後ろに私たちのバスも停まると、エンジンを切る。
なんだかよくわからないけれど、言葉がわからないし、ひたすら音楽を聞きながら待つしかなかった。トイレに行きたくなっても、村も何もないところだったから、あきらめてどこか物影を探すしかない。
二時間以上はそうやって待っていただろうか、車の列に人が戻りだしたから、どうやら先に進めるらしい。私たちのバスも、お客さんが全員乗っているのをドライバーが確認して発車。
しばらくほかのバスを追い越したり追い越されたりノロノロ進むと、前が潰れた大型バスが二台、見通しの悪いカーブで正面衝突したらしい。その横をそろりと通り抜ける。両方のバスとも正面の窓ガラスが粉々に砕け散っていて、ドライバーが無事だったとは思えない。
細いカーブの多い道をスピードを出して走る車が多いから、こういうことはよくあるんだろう。洋子さんも、そう言っていた。
父や母が心配する気持ちもわかるけれど、事故なんて、日本にいても遭うときは遭うんだし。そう思いながら、あの人のことを考えた。
いつも運命なんて信じないと言っておきながらやけに迷信深い瞬間があったのは、もしかしたら、こんな様子を何回も見ていたからなのかもしれない。
あの人も私と同じでつまらないことあとあとまで考え込む性格だったから、とか、思っていたら、意外とすぐにスンチュの町に到着。日が差していた。くっきりした影を見るのは、久しぶりのような、そうでもないような。
スンチュからゾルゲは新しい道になっていて、トンネルを通るから峠越えはしない。どこかで撒いといてください、とノブさんに言われてルンタの束をいくつかもらったけれど、トンネルの中で撒いていいものだろうか。
だんだん木が減って草原地帯に入るころ、日が急激に暮れて景色が見えなくなる。
ゾルゲに近づくと、私がグッタリしてくるのと反対に横の女の子はスイッチが入ったように元気になって、あちこちに電話をかけて楽しそうにおしゃべりしている。彼女に、気力を吸い取られたような気分だった。
もう十時すぎ、ようやくゾルゲの町に着いた。
街灯は煌々と灯っているのに、町の中を歩いている人は見かけない。バスはターミナルの中には入らないで、正面の路上で停車。ただ座っていただけなのに、なぜかものすごく疲れた。ヨロヨロとバスを降りてトランクルームからバックパックを引っ張り出すと、ノブさんに教えられた宿に向かう。頬が切れそうな、ンガワ以来の寒さ。
ノブさん指定の宿は、ターミナルのすぐ近所だった。なんとか筆談で話をまとめて、一部屋五十元。ほかのところを探す気にもならないし、ちゃんと暖房が入っていたからよしとする。
のこっていたパンとビスケットを食べたら、倒れるように寝た。
十二月二十二日
目覚めは意外と、さわやかだった。
息も苦しくないし、一晩中暖房が入ったままだったからぜんぜん寒くない。外の寒さもむしろ心地いいくらいで、青い空を見上げると、なんだか気分がいい。
高原に、帰ってきた。
バスターミナルに行くと、朗木寺、タクツァン・ラモ行きは午後の二時発と書いてある。朝タクツァン・ラモから来たバスが、お昼に折り返してまたタクツァン・ラモに戻るらしい。
お昼ギリギリに宿をチェックアウトすることにして、町の中を散歩した。
タクツァ・ゴン寺が町の北側にある以外は、四角い中国建物が並ぶ中国の町だった。でも町を歩くチベット人はほとんどチベット服で、なぜか生地屋さんが多いのは、周りの遊牧地帯から巡礼ついでに服を作りに来る人が多いんだろうか。
タクツァ・ゴン寺はゆるやかな丘の東斜面に建つけっこうな規模のお寺で、一周を囲む塀に大小のマニ車が並ぶおなじみの造り。チベット服のおばあさんたちに混じって、私もマニ車を回しながらお寺を回る。一見ゆるやかそうでも私は坂道を上がるとすぐに息が切れるのに、おばあさんたちのほうは二、三人で話しながら、意外と歩くのが速い。みんなにこやかで、顔の黒さと皺の深さは気候の厳しさを物語っているんだと思う。
一周終わって、正面の門から中に入る。切符売り場みたいなのがあったけれど、誰にも何も言われない。お寺の中は、お坊さんの姿があんまり見えなくて閑散としている。お堂はみんな、鍵が閉まっていた。
宿に帰って、十二時前、本当にギリギリにチェックアウト。回族の食堂でお昼にしてから、バスターミナルの中で音楽を聴いて二時発のバスをひたすら待った。
待合室を行き交う人は、チベット服かエンジ色のお坊さんが多い。チベット服はみんな袖が地面に届きそうなくらい長くて、でもなぜか、ほとんどの人がその袖に手を通していなかった。
発車の三十分くらい前にターミナルの駐車場に出たら、フロントウィンドウに朗木寺と書いたバスはもう停まっていて、大きな荷物をいくつもトランクルームに押し込んでいる人がいた。私もバックパックを荷物と荷物の間に押し込むと、指定の座席に座って待つ。満席らしいのに、時間になってもなかなか発車しない。
二十分くらい待って、発車。何を待っていたのかは、よくわからない。
町の外に出ると、一面に草原が広がる。ただ広い草原と、青い空。遠くの山の端が、白く霞んでいる。車内に流れているこぶしの効いた素朴な感じの歌は、アムド民謡だろうか。
トンネルに入った。今日も、ルンタを撒く機会はなし。あとはひたすら草原を走って、四時半くらいにタクツァン・ラモ村に着いた。
大きなホテルのある十字路でバスが停まると、お客さんがみんな降りているから、私もそこでバスを降りる。その大きくて立派なホテルのことはあの人のノートには書いていないし、同じ十字路の角にあるはずのチベット人宿がノブさんのおすすめだったけれど、どうやらそこはもうなくなったらしい。
外国人がけっこう来ているからなのか、英語の看板がいくつか目に留まる。通りを歩いて最初に目に入ったホテルと書いた看板が出ているところの門をくぐると、中庭が広い駐車場になっていた。
庭の隅でチベット服の女の人がどこかに向かって一心不乱に五体投地礼を繰り返して、ちっちゃい子どもたちが鼻水をたらしながら元気いっぱいに走り回っている。建物から出てきたチベット服のおじさんにメモを見せながら身振りを交えて聞くと、ツインで一ベッド二十元。トイレが人民式でなく個室だし、シャワーもある。ほかを探しても同じようなものだろうと思って、そこに決めた。部屋の中をセントラルヒーティングのパイプが走っているのは、夜になったら暖房が入るんだろう。
サブザックを持って、外に出た。
タクツァン・ラモは四川省ンガワ州と甘粛省ガンロ州の境にある村で、私がいるのは甘粛側。村に一本のメインストリートを奥に向かうと、四川省ということらしい。ドゥクチュと呼ばれる小川の向こう岸に見えているのが甘粛側のセルティ寺で、奥の谷間にあるのが四川側のキルティ寺。なかなか複雑だった。
私がさっきバスを降りた十字路のあたりが一番栄えているらしく、パン屋さん、スーパー、食堂、露店の物売りと買い物する人でごった返している。通り沿いの大きな建物以外は平屋か二階建てで、泥かレンガの壁、スレート石やトタン板で葺いた切妻屋根。セルティ寺の建つ丘や村の奥の山には、針葉樹の森が広がっている。
大きなお寺が二つもあるからなのか、お坊さんの姿が多い。そしてチベット服の着用率が高くて、男の人はピンクとか派手な色の帯をなぜか腰の下でグルグル巻きにしているけれど、あれは、歩きにくくないんだろうか。
回族の食堂が何軒もあって、食べるのには困らなそう。長居してもよさそうな、のどかな雰囲気の村だった。
十二月二十三日
けっきょく暖房は入らず、なのに洗面所のお湯は出る。
九時くらいに、ようやく外に出た。とにかく寒い。
タクツァン・ラモは標高三二五0メートル、リタンよりは低くても、リタンよりかなり北に来ているから寒いのも当然。でも部屋の中で寝ているときはそんなに寒さを感じなくて、寝袋は使わなかった。服はほとんど、着たままだったけれど。
天気は、今日も快晴。
甘粛側のセルティ寺への車道を登っていくと大きな門があって、その横の切符売り場には、誰もいなかった。
本堂には行かないで、寺を一周する巡礼路に入る。セルティ寺の伽藍は針葉樹の森に覆われた丘の南側、壁には囲まれていない。ところどころに大きなマニ車のお堂があったり小さいマニ車の並ぶ回廊があったり、巡礼路の高いところから見下ろすと、お寺に人の気配はあまりなく静まりかえっている。
一周して村に下りると、もうお昼。
ノブさんが高地では疲れがたまりやすくて取れにくいと言っていたのは本当で、回族食堂でお昼にしてから宿に戻ると、急に眠たくなってきた。
三十分くらい休むつもりが、気がついたら一時間以上寝ていた。寝てばっかだなあ、私。
気力はなんとか回復して、キルティ寺に行った。村の南の森に覆われた灰色の岩山に向かって歩くと、どこがどう境になっているのか、いつの間にか四川省ゾルゲ県。緑色の瓦屋根が載った櫓のような建物は、回族モスクのミナレットだとあとで知った。
キルティ寺は、タクツァン・ラモ村の南の山から北に向かって流れるドゥクチュ川を挟んで僧坊が広がっていて、本堂は西の丘の上。ここも一周を囲む壁がない構造、あの人のノートには『オープンクラスタ型』とよくわからないコメントが書いてある。
その『オープンクラスタ』への入り口の門は造っている途中、横に切符売場の建物があってお坊さんがウロウロしてたのに、何も言われない。
ドゥクチュ川に沿って歩くと、お坊さんがニコニコしながらハローと声をかける。車道の突き当たりには、赤い壁のお堂がひとつ。香炉から針葉樹の葉を燃やす煙がモクモクと立ち昇って、その前で男の人が何か唱えながらルンタを撒いていた。その向こうの鉄線と木の板で柵を張られた先には、深くて薄暗い森と岩山。岩山の奥に、ドゥクチュ川は消えている。
私は赤いお堂をぐるりと回って、右へ。本堂を回る巡礼路が、枯れ草色の丘の上に続いている。どこから滲みだしているのか、草地に流れている水が厚く凍っていた。
急な坂を登った途中にベンチが作ってあるのは、おばあさんたちが休み休みグルグル回るためだろう。ベンチに腰を下ろすと、村の眺めがいい。遠くには、アメリカのメサみたいな赤い岩山。距離感はわからないけれど、けっこう高そうなその山のてっぺんにラプツェがあるのが見えるのは、あんなところに登る人がいるんだろうか。
風に舞ってどこからか、白いルンタが一枚。白い喋々のようにひらひらするのを目で追うと、さっき私が歩いてきた道を誰かが歩いているのが見える。洋服の女の子。オーバーサイズ気味の黒いアウトドア用ジャケット、首には白と黒のチェックのマフラーだかショールだか、そしてよくお坊さんが持っている黄色い頭陀袋を身体に斜めにかけて、ツーリストに違いない。そして黒い髪を後ろで束ねた、東洋人だ。というか、日本人だ。日本人に違いない。歩きながらとなりのトトロのテーマを大声で歌っているのは、日本人としか思えない。
近づいて目が合うと、その子は少し微笑んだ。
「こんにちは」
私が言うと、「こんにちは。やっぱり、日本人だと思った」私の隣に座る。「昨日、着いたでしょ? バスから降りるとこ見てて、日本人じゃないかなあって思ってたんだ。私、るりねです。よろしく」
歳は私と同じくらいだろうか、小柄な子。
「るりねちゃん? きれいな名前。どんな字書くの?」
「瑠璃玻璃の瑠璃に、サウンドの音。あんまり好きじゃないんだけどね。画数やたら多くて」
「そう? きれいな響きだと思うよ」
「ありがとう」
日に焼けてよく笑う、笑顔が似合うかわいらしい子だった。
「私、真理子。友だちとかはまりって呼ぶけど、なんか普通の名前で」
「私は、子の付く名前とかがよかったなあ」
彼女がそう言いながら眺めている先を見ると、ドゥクチュを挟んで反対側の丘にあるお堂で、さかんにルンタを撒いている人がいる。
一瞬、雪のように舞っているルンタに心を奪われていると、るりちゃんが「ねえまりちゃん、リンコル途中でしょ? 回ってから、お茶行こう」
立ち上がって、歩きだした。私もあとを追う。
「そのショール、かわいいね」
後ろから声をかけると、「これ? これはねえ、本当はイスラム教の男の人が頭に巻くものらしいんだけどね、知り合いに中東よく行く人がいて、もらったんだあ」歩きながら話していてもあんまり息が切れる様子がなく、「なんか、国によって色が違うんだって。白黒は、パレスチナ? 私、イスラエルあんま好きじゃないから」
丘を登りきると、その先のいくつもの丘の向こうには、雪をかぶった岩山。二人組みのおばあさんを追い越す。るりちゃんはときどききれいな声で歌いながら、けっこう歩くのが速い。
「息とか、苦しくないの?」
そう聞いたらまたニコリと笑って、「一ヶ月くらいかな、ずっとチベットだから、慣れちゃった」
私もチベットに来て一ヶ月近いのに、私はまだまだ息が切れる。
お堂の中に大きなマニ車がひとつ、その下に猫の死体があって、るりちゃんは猫を見つめる。
「オム・マニ・ペメ・フム」
そう言って大マニ車の周りを三周してから、お堂の外へ。そこから道は下り坂。
「あの猫ってさ、誰かがあそこに置いたのかなあ」
ラガンだったか、同じようにマニ車の下で猫が死んでいて、初めはチベットの猫だけにわざわざマニ車の下で死ぬんだろうかとかバカなことを考えたけれど、たぶん誰かが置いているんだと考え直してるりちゃんに聞いてみた。るりちゃんなら、知っていそうだった。
「うん、マニの回る下でさ、なんとかよく生まれ変わってもらおうって、チベット人の優しさだよね。私はそう思う」
モスクの横を通って、スタート地点に戻った。るりちゃんに誘われるまま窓ガラスに英語でメニューが書いてある回族の食堂に入ると、そこの女の人とるりちゃんは知り合いのようで、楽しげに何か話している。
ひと通り会話が終わったるりちゃんに、「チベット語?」
「うん。アムド方言だけど」
チベット語しゃべる日本人って、けっこう多いのかも。
るりちゃんは私と同い年で、チベットに来るのはこれで四回目。というか、海外はチベット、ネパール、インドばかり旅行している根っからのチベット好き。今回は、日本で中国の三ヶ月ビザを取ってからノブさんと同じように一ヶ月前船で上海に渡って、青海、甘粛のチベットを旅しているらしい。初めて会った気がしない、不思議に話しやすい子で、頭の回転が速い。
二人で飲むのは、イスラム教徒の八宝茶。お茶の葉のほかに木の実やらなにやら入っていて、氷砂糖を溶かしながらお湯を継ぎ足して何杯でも飲める。
アップルパイがおいしいけれど量が多いとるりちゃんが言うから、二人で半分づつ食べることにした。出来上がってきたアップルパイは確かに大きく、午後のお茶用にしてはちょっと持て余しそう。
るりちゃんが半分に切り分けながら、「ね、ビックリでしょ? たぶん、日本で食べたらなんだこりゃって感じなんだろうけどさ、ここだと、すごくおいしく思えちゃう」
要は、薄く切ったリンゴを小麦粉をこねた生地で包んでオーブンで焼いたものだけれど、最近は拌面ばかり食べていたから、変った味がすごくおいしく感じた。
るりちゃんが、「いいなあ」
「え?」
「左利きのエリーティズムって、あこがれる」
フォークを持つ私の左手を、見つめていた。
「そう? けっこう不便だよ。ハサミひとつ使うにも」
「左利きの人ってさ、右利きに対して、ある種優越感を持ってることが多いんだって。右利きとは、違う脳の使い方をしてるのかなあ」
あんまり、気にしたことがなかった。るりちゃんに言われて今初めて、そういうこともあるかもしれないと思う。
それから彼女は話題を変えて、「そうだ、まりちゃん、私の泊まってるとこに移んない?」
るりちゃんもツインの部屋に一人で、私の部屋より五元安い。
「うん、いいよ。明日、移ろうか?」
一ベッドぶんしか部屋代を払っていないから、隣のベッドに誰が来るかわからない。設備はどっちも変らないようだし、なら、るりちゃんと二人ですごしたほうが楽しそうだと思った。
「そうだね、明日チェックアウトして、ウチに来なよ」
「そうする。じゃあ、明日の朝、荷物持って行くよ」
これからしばらくは、るりちゃんといっしょ。
「るりちゃんは、どこで習ったの? チベット語」
「ラサ、ってことになるのかなあ。初めてチベット来たとき知り合った人がね、日本人なんだけど詳しい人がいて、教えてもらった。あとは、自習。でも最近は、アムド語とか覚えたい」
「習ったのは、ラサ語?」
「うん。でもラサ語ってトーンがあるから、こう、抑揚が激しくてフニャフニャした感じ。アムド語はいいよ。響きが暖かくてさあ」
るりちゃんは、アムドが好きらしい。
「るりちゃん、アムダーなの?」
「そうだね、アムダーかな。なんでアムダーなんて言い回し、知ってんの?」
「こないだまで、カム好きな自称カムパーといっしょだった」
「カムよりも、私はアムドだなあ。このへんとか、すごい好き。初チベットのときの、思い出の地」
「るりちゃん、なんでチベット来ようって思ったの?」
「なんでだろうねえ」そう言いながら、窓の外を見つめる。そんなこと考えてもみなかったかのようで、しばらく外の景色を見つめたあと、「初めは、どこでもよかったのかなあ。外国なら」ひとりごとのように言ってから、「遠くに行きたかったんだよね。なるべく、なるべく遠く。たまたま、私の遠くリストの中にチベットって候補があって、来てみたって感じ」
「それで、ハマっちゃったんだ」
「そう、なるのかなあ。その旅で、いい出会いがいろいろあったし、でもチベットって言葉、すごい遠いとこのようだけど、来てみると案外近かった」
るりちゃんは、あの人に会っているだろうか。
そう思っていると今度はるりちゃんが、「まりちゃんは、なんでチベットに来ようって思ったの?」
「なんで、かな」なんでだろう。それも自分でよくわからないまま、ここまで来ていた。「私も、遠くに行きたかったのかな」でも私の行きたかった遠くは、あの人が目指した遠くで、それがどこで、なんで私がそのあとを追う必要があるんだろう。「なんか、急にいろんなこと疲れちゃって。逃げだしたかったのかも」何から? あの人から? あの人から逃げるために、あの人のあとを追っている?
「まりちゃん、たぶん真面目だから、思いつめちゃう瞬間ってあるんだろうね。いいことだよ。たまにはそうやって逃げ道作んないと、自分をダメにしちゃうよ」
「そうかな? そう、だね。ありがと」
「そんで、これからどうすんの?」
けっきょくアムドに行こうと思っただけで、ほかに何も考えていなかった。
「ビザはあと一ヶ月残ってるし、延長ってできるんだよね? 電車かバスで、行ければラサ行って、ネパール行こうかな、とか」
「三ヶ月観光ビザだよね? 成都だと延長厳しいから、このへんだとスランとか蘭州は一ヶ月くれると思う。ラサで延長は無理だからね。ビザ延ばしてから自治区入ると、チベット正月前くらい?」
「スラン? って、どこ?」
「青海の、西寧。アムドの発音ではスラン、ラサ語だとシリン」
「るりちゃんは、これからどこ行くの?」
「私は、このへんしばらく滞在。ラサ行かないで、成都からカトマンに飛んじゃうかも」
「ラサは、行かないの?」
「ううん、行きたいは行きたいんだけど、来年の三月とか、あんま行かないほうがいいって。知り合いに言われた」
ノブさんも、そんなようなことを言っていた。
「知り合いって、ひょっとして仙人みたいな人?」
「仙人、なのかな? どっちかっつうと、何考えてるかわからない、魔法使いみたいな、一応日本人なんだけど変な人」
「ラサに住んでるとかって」
「住んでるみたいなもんかな。まりちゃん、会ったことあんの?」
「その、カムパーの人が言ってた。ラサに仙人みたいな日本人がいるって。ノブさんって人、知ってる? チベット語ペラペラで、なんかお坊さんみたいな雰囲気の、チベット何回も来てる人」
彼女はちょっと考え込んでから、「チベット語しゃべる人は何人か知ってるけど、ノブさん? 男?」うなづく私に、「ごめん、わかんない。私、人付き合いあんまりうまくないから、知り合い少ないし」
意外な発言。私なんか前から知り合いのような気がして、友だちとか多そうな子だと思っていたのに。
じゃあ、大澤って人、知ってる?
喉まで出かかって、でもそれは言いだせなかった。
「その魔法使いがね、来年は微妙な年だから、ラサには長居しないほうがいいって。ときどきそうやって、予言めいたこと言うんだよね、あの人は」
「で、どうするの? るりちゃんは」
「そうだね、いつもはけっこうラサにも長居するんだけどさ、自治区は様子を見ながら通り抜けて、インドにしばらくいようかなって。ネパールもなんだか様子がおかしいしね。マオイストとかマデシとか」
「インドって、どう?」
「どうって?」
「旅行しやすいとか、なんとか」
「いろんな意味で、人との距離が近いんだよね。触られたりとか、けっこういろんなことがある。騙されたりボられたり。でも、私は好きだなあ。まあ、デリーとダサムサラぐらいしか行ったことないんだけどね、私」
やっぱり、チベット関係の誰もがダラムサラを目指す。
「ラマさんって、会ったことある?」
「ラマ? ダライ・ラマ? うん、あるよ。公開謁見っての? 前はダラムサラで握手会みたいなのよくやってて、私アガっちゃってさあ、何か言わなくちゃって思ってて、大声でヤーデモォとか言っちゃった」
「どんな意味?」
「アムド語だからさ、敬語じゃないんだよね。よお元気? みたいな。周りのチベット人、失笑してた。そしたらギャワ・リンポチェが、キョラ・デモインナ、お前は元気か、だって。アムド語で返して、へへへって笑ってた。お茶目なんだよね。人の心を掴むのがうまいってかさ。ああいうのを、人によっちゃあオーラがあるとか言いだすんだろうね。本人は、特別な力なんて持ってないっていつも言ってるのに」
八宝茶の氷砂糖は溶けきって、窓の外を見るともう夕暮れ。時間のたつのが早かった。建物の中になぜかトイレがないからいちいち泊まっている宿まで帰る必要があるのが面倒だったけれど、るりちゃんといっしょにいるのは楽しくて、すっと話を続けていたい気分だった。
そのまま晩ごはんまで居座り続けたら、宿に帰ったのは十一時すぎ。やっぱり暖房は、動いていなかった。
十二月二十四日
クリスマス・イブ。
そうか、今日はクリスマス・イブだっけ。もう曜日の感覚がなくなっているし、クリスマスだとかもうすぐお正月とか、そんな感覚もなくなっている。
今日も、九時すぎになって始動。バックパックを背負って通りに出ると、この寒い中るりちゃんが、アイスをなめながら待っていた。
「ごめん、待たせちゃった?」
「ちょうどさっき、出てきたとこだよ。アイス買って。けっこう大きいザックだねえ」
「でも冬物全部着てるから、中身スカスカ。それよりさあ、寒くない? アイス」
見ているほうが寒々しいけれど、るりちゃんはへっちゃらだ。
「だって、チベット人よく食べてるよ。行こ、私ん家」
るりちゃんが泊まっている部屋は、私が泊まっていた部屋とほぼ大差のないベッドが二つあるだけの小さな部屋。テレビがないのが、五元の差だろうか。一応スチームのパイプは通っているのに、やっぱり冷たいままらしい。ただ通りに面した南向きだから、日中は窓からの日差しで暖かそうだった。
るりちゃんのベッドは掛け布団をきちんと畳んであって、その上に丸めて置かれているのは、チベット服。サイドテーブルには、木のお椀がある。部屋の隅に置かれたバックパックは、私のよりひとまわり小さい。その隣に、私のバックパックを置く。
「なんか、お寺みたいな香り」
ベッドに腰かけながらるりちゃんに言うと、「うん。チベット線香燃やしてるの。嫌なら消すけど」
チベットの線香は香港とかインドの甘い香りとはまた違う独特な香りで、嫌いではないし、むしろ買って帰って家で焚こうくらいに思っていた。
「いいよ、気にしない。タバコ臭いのは、嫌なんだけど」
「私、よくドミで線香燃やして怒られるんだよね」
「それ、チベット服だよね」
るりちゃんも自分のベッドに座ると、「寒いとこではね、チベット服が一番」広げて私に見せる。黒い生地で、毛布みたいな裏地付き。「でもねえ、これはジェクンドで買ったから、カム服なんだあ」
「青海省? アムドじゃあないんだよね」
「ユルシュル州は、もともとカム地方。しゃべってんの、カム方言」
「カム服って、アムドとどう違うの?」
「袖が短いのと襟が浅い、かな。カム服にもアムド服にも細かい違いがいろいろあるから一概には言えないんだけどね。まあ基本、私アムダーなんだけど、カムの女の人ってこう、キリっとしててかっこいい」
裏地が暖かそうで、私も一つ欲しい。
「そうなんだ。こないだのカムパーの人は、カムの男はアニキみたいだって言ってた」
「どうかな、イケメンは多いって話だけど。カムモ、カムの女ってさ、体格が大きくて堂々としてて、ラサなんかで商売してる人とか、頼りがいあるってか金持ちそうな感じがして、見てて安心感があるんだよね」
「アムドはどうなの?」
「やっぱし、イナカモンなのかなあ。ラサなんかであのまんまウロウロしてる姿はかわいいけど、シープのチベ服とか、片肌脱ぐと意外と細かったりしてさ」言葉を切って、思い出したようにフフフと笑った。
「どうしたの?」
「え? 私さ、こないだ夏に、前チベットで会った人たちと日本で会ったんだよね。そしたら男の子のひとりが、秋山さん、意外と細いねだって。失礼しちゃう。こっちだとほら、寒いから着ぶくれしてるでしょ? それが夏でTシャツだったもんだから。でも、そういや私も、チベット人片肌脱いだらけっこう細いなって思ってた。失礼だわ」
「いいなあ。私もチベット服欲しい。いくらぐらいなの?」
「ピンキリだよ。総シープ造りとかだと軽く千元越えるし、プメェって中央チベットの袖なし型だと、安いので百元しない。プメェなら、カトマンとかインドで作ったほうがいい生地で安く作れるよ。こっちのは、生地が厚いから日本だと暑くて着らんない」
「日本で着るの?」
「うん、私よく着てるよ」
「似合いそうだもんね。るりちゃんなら、チベット服で電車乗ってても、違和感なさそう」
「プメェはいいんだけど、この袖付きのカムのやつとかは、ある程度身長があって横にも大きくないと、ゴージャス感が出なくてだめ。私の身長じゃあ、横に伸びてもドラえもんみたいになるだけだし。そうだ、キルティ行こうよ」
そう誘われて、また今日もキルティ寺へ。
甘粛から四川への道を歩きながら、るりちゃんに「そういやさ、ンガワにもキルティ寺ってあったよね」
「そうだね。私ンガワには行ったことないけど、向こうのキルティのほうが規模は大きかったっけ?」
「同じなの?」
「うん。どっちもキルティ・リンポチェのゴンパ」るりちゃんも、お寺をゴンパと呼ぶ。「タクツァン・ラモのキルティが最初に建てられて、そのあとンガワとか、青海にも支店があるって、前坊さんが言ってた」造りかけの門のところで、知り合いなのか、るりちゃんはお坊さんとあいさつを交わす。「もう何日もいるから、覚えられちゃった」
巡礼路からちょっと登った本堂の前に出ると、大勢のお坊さんが集まっている。
「問答の試験中なんだってさ」
そう言って、黄色い頭陀袋から黒い一眼レフカメラを取りだした。デジタルでなく、昔のフィルムのカメラだった。
私がそれを見ていると、「オリンパスOM-2。小さくてそんなに重くないし、気に入ってるんだあ」
「るりちゃん、写真好きなの?」
「写真ってか、私の場合、カメラが好きなのかな。これとか、巻きあげるときの手の中で歯車がグルグル回る感じがたまんない。あとフィルムだと、現像するまで写真の出来がわかんないでしょ? そのドキドキ感がいい。いちおう予備でデジタルのちっちゃいやつも持ってるけど、めったに使わない。まりちゃんは?」
「私は、コンパクトだけ。写真撮る人、多い気がするよね。カムパーの人もでっかいカメラ持ってて、本人アマチュアだって言ってたけど、実はプロとかなんじゃないかな。そんな空気だった」
そしてあの人も、そんな写真を撮る人のひとりだった。
「旅行イコール写真みたいな、そんな人は多いんじゃないの? 私は撮った写真、人にあげたりとか。チベット人って写真大好きでさあ、家に行くと、家族の写真とかいっぱい飾ってあんだよね。撮った写真現像して渡すと、すんごい喜ぶの。そんならポラとかでその場で渡したほうがいいんだろうけどさ、そこをあえてフィルムなのは、やっぱり趣味の世界なんだろうねえ」
私にはどこの誰だかもわからない、スナップ写真の束。あの人も、撮って配ってまた撮って、それを配りに来る繰り返しだったんだろうか。
黄色いニワトリのトサカ帽をかぶってエンジ色のマントを羽織ったお坊さんたちが何人かづつのグループになって座っていて、その中心に、マントなしで立っているお坊さん。腕に鳥肌が立っているのは、やっぱり寒いんだろう。でもそんなこと気にもしないかのように、手に持った数珠を繰りながら、座っている側のお坊さんたちと何かを言い合っている。
チベット式の、問答だった。
立っているほうが質問側で、ときどき上下に開いた両手を打ち合わせる音がパンパンとあちこちから響く。座っている中のひとりが答え手のようだけれど、とくに決まってはいないのか、議論が活発になると座っている同士で話が始まったり、ときにケンカしているんじゃないかと思えるくらい激しく言い争っていたり、急に笑いが起こったり。そんなお坊さんたちのグループがいくつも、本堂の前が袈裟のエンジ色で埋め尽くされていた。
るりちゃんはお坊さんたちやそれを見物しているモコモコのチベット人にレンズを向けて、よく見ていると、シャッターを切る前に本人の了解を取っている。
私の隣に来てフィルムを交換する彼女に、「写真撮るとき、許可取ってるんだね」
「うーん、基本、そうね。私、五十ミリのレンズしか使わないんだけど、そうすると人の顔のアップとか、けっこう寄らないとダメなんだよね。一眼のこういう球の大きいレンズって、向けられると怖いからね、子どもとかばあちゃんとか撮るときは、カメラ出すまで時間かけて仲良くなったりしてる。それにね、チベットは、撮られたくない人も大勢いるから」
本堂の右手にあるお堂の前はジュニア部門で、中学生くらいの小僧さんたちがなかばつかみ合いのようになりながら、それでも楽しそうに問答している。
「るりちゃん、何言ってるかわかる?」
「私には、まだ無理だよ。アム語だし早口だし仏典用語だし。私、ラサ語もまだまだだもん」
「そのカムパーの人が、ラサ語カムじゃあ通じないって言ってたけど、アムドもだめなの?」
「カムのほうが、まだマシかな。アムドだと、ドクパなんか中国語もわかんない人まだまだ大勢いるよ」
「ドクパって?」
「遊牧民。でもアムドの言葉って共通度が高くって、微妙な語彙の違いはあるんだけど、たとえばレコンの言葉を覚えれば、ゴロク行ってもンガワ行っても理解はされるらしいんだよね。中央は、ラサとシガツェでもけっこう言葉違っててね、イナカの人のしゃべるのとかさっぱりわかんなかったりして、言葉ひとつでも大変だよ」
また何枚か写真を撮ったあと、「コルコルしよう!」
寺の周りの巡礼路を歩こうという意味だ。
本堂をぐるっと回りながら、「まりちゃん、チベット旅行記読んだ?」
「河口慧海? さあっとね。日本出る前に」
「この問答は、好きだったみたいだね。河口さん」
「うん、なんか楽しそう。修行っていうより、ゲームみたいだよね」
「でもねえ、あれで鍛えてるから、頭のいい坊さんってすんごい理屈っぽいんだよ」
活発に問答が続いている横を抜けて、川沿いの巡礼路に戻る。本堂そのものを回るのがナンコル、本堂を含めた今歩いている大回りの巡礼路がリンコルというらしい。
るりちゃんはスタスタ意外と早足で、「でも、あんなに坊さんがいて問答とか盛んなのは、アムドはいいよ。中央チベットだと、ゴンパの前坊さんだらけで真っ赤とか、見らんないからね」
「なんで?」
「政府の規制が厳しいんだってさ。昔は、デプン一万人、セラ五千人だっけ三千人だっけ? 今セラとかで三百人くらいだったかな、もっと少ないかも。一応この国にも義務教育があるから、十八歳だか十五歳未満の未成年はゴンパで修行できないことになっててさ、十年くらい前はラサのゴンパでも小坊主見かけたそうだけど、今ぜんぜんいない。人数制限とか、あるらしいよ。もちろん登録してない坊さんは大勢いて、黙認はされてるみたいだけど、ラサはとにかくうるさいみたい」
「どうなんだろ? 私、もちろん言葉わかんないしさらっと見てきただけなんだけど、一見何事もなく平穏って感じで、来年危ないとか言われてもピンと来ないんだよね。雲南から四川来るとき会った旅行者が、お寺とか箱ものは立派に造っても、中身は空っぽだって言ってた」
「それは、そうかもね。でもカムアムドは、頑張ってると思うよ。坊さんインドから帰ってたりしてゴンパの規模も大きいし。チベットの文化を守っていこうとかそういう頭のいいチベット人って、アムドが多いんだよね。自治区ん中とかは、微妙。ゴンパに坊さん少ないし、中国のスパイが多いから気をつけろとか」
「スパイ?」
「うん、アムドとかカムのチベット人は言うよ。ラサはいろんな人間がいるから、気をつけたほうがいいって。俺たちの周りにはそんなのいないって言うけど、まあチベット人のいるところには、どこにでもいるんじゃないかな」
「何、スパイしてんだろ?」
「チベット独立なんとかとかさ、そんなんじゃない? このへんだと、まあ大丈夫なんだろうけど、ラサ行ったら私も気をつけてる。あんまり変な発言しないようにとか、無闇に人ん家行かないとか」
「ラマさんの写真ってさ、禁止だって本に書いてあったけど、あっちこっちで見かけるよね? あれとか、どうなの?」
「ラサじゃ、まあみんな隠し持ってるけど、公にはダメ。ここらへんのは、黙認? 坊さんよく、中国人来たら隠すって言ってヘラヘラしてるよ」
「なんで、ラサだと厳しいのかな?」
「中国政府の言うチベット、西蔵って、あくまでも自治区のことだからじゃないのか、だって。ここは甘粛だか四川だか、自治区には含まれてないからチベットじゃないらしいよ。ラサの魔法使いが言ってた。だから、四川のチベットとか小西蔵とか、変な言い方したり。ちっちゃいチベットいっぱい作ったのは誰よ。亡命政府からしたら、チベット人の住んでるところは青海も甘粛も四川も雲南もチベットだから、交渉とかしても言葉が違っていつまでも平行線。段違い平行棒」
チベット風に派手な色使いで塗られた大きな立派な門のある建物の前で、るりちゃんが立ち止まった。お堂かと思ったら、小学校と書いた看板がある。
るりちゃんがその看板を指さして、「この学校ね、キルティの私立の学校なんだって」歩いて、続ける。「チベット人って、昔からそうなんだって。公立の学校なんてなかったけど、お金持ちが慈善事業で建てた私立の学校があって、今でもアムドのイナカとか、ゴンパが建てた学校いくつもあるんだけど、ここの学校、政府の命令で閉鎖させられたんだって」
「それは、私立だから?」
「まあ、そんなとこなのかな。偉大な毛主席がどうのって、今でもそんなこと教えてるような政府だからね、チベット語とかチベット固有の文化とか、そういうのに分裂主義の臭いを感じるらしいのね。政府は少数民族の文化を保護してるって言ってるのに、チベット人がチベットの文化を勉強して何が悪いんだって、前アムドのチベット人が言ってた。その人、本土だと自由がないって歩いてインドに来たの。足の指がなくて、ヒマラヤを歩いてるときに凍傷にやられたって言ってた。本土行くって話したら、暖かい、いい靴を買えよって言ってた」
何か思い出したのか、一瞬表情が曇る。彼女はいつも楽しそうにすてきな笑顔をしているのに、ときどき思い詰めたような表情を作る瞬間がある。
「ごめんね、暗い話。この奥、行った?」
赤いお堂の先。るりちゃんは、いつものるりちゃんに戻っている。
「ううん、まだ。昨日はセルティとキルティ回って、るりちゃんに会って終わり。何があるの?」
「きれいだよ、谷間に小川が流れててさ。明日にでも、ピクニックに行こうか?」
「いいね。お弁当持って」
明日にでもあさってにでも、時間はいくらでもあるし、しがらみはないし。
赤いお堂を回って、折り返し地点。丘を登ると、昨日るりちゃんと出会ったベンチにおばあさんが二人座っている。
「デモォ!」
るりちゃんが言うと、おばあさんたちも「デモォ!」
丘の上を歩いていると、パンと手を叩く音とザワザワと人の声。問答が続いている。大マニ車のお堂で、るりちゃんはまた猫にオム・マニ・ペメ・フムを唱えながら三回回る。下り坂、モスク横を通ってゴール。
「お茶行こうか?」
「てか、お昼?」
るりちゃんが言って、私が答える。また、アップルパイと八宝茶。
「なんかレストランみたいなとこ入ったの、ひっさしぶりな気がする。いつも食堂って感じのとこで、面片とか拌面だったから」
私がそう言うと、るりちゃんはフフフと笑った。壁中にいろんな国の言葉が書いてあったりいろんな国のお札を貼った世界地図があったり、メニューも英語で、シェフ兼オーナー兼ウェイトレスの回族の女の人は、簡単な英語を喋る。
「むかあしはさ、ラブラン、ラモ、ゾルゲ、スンチュって、ツーリストの流れるルートだったんだって。そんで、ウェスタンは漢字が読めないからさ、この人どこで習ったんだか微妙な英語がしゃべれるから、ツーリストのたまり場になってたんだって。でも、私初めて来たとき場所違ってて、ふつうの民家だったんだよ。こんな小ジャレてなくて、食堂っていうよりまんま民家」
「でも、ツーリストいないよね。そういや私、こないだ成都下りるまで、ほとんどツーリスト見なかった」
「冬だもんね。まりちゃん、私が上海出てから最初に会った日本人だよ」
「冬はやっぱり、寒いから?」
「じゃない? でも、私は冬のチベット、好きだなあ」
「天気はいいよね。やたら寒いけど」
「うん。それに、ラサ行くとツーリスト少なくて、代わりに地方から出てきたチベット人が多くなんの。農民も牧民も暇になるから、いなかのチベット人がウロウロしててかわいい」
お客さんが入ってきた。原色の服と大きなカメラ、男女三人組の中国人。
男の子が私たちに何か言って、「はあ? わかんないよ」笑顔のるりちゃんが、日本語で答える。
「ギャのツーリストが増えて騒がしくなったってのもあるんじゃないかな。ここに外人が少なくなったのは」
「ギャって?」
「チベット語で中国人。一応正しくは漢人って意味なんだろうけど、チベット人の喋るニュアンス的には、いわゆる中国人、みたいに使ってると思うよ」
「るりちゃん、嫌い? 中国人」
「うーん、少なくとも、あんまり好きじゃあない、かな。ああいう、成金の子どもみたいなのは大嫌いだな。うるさいし、態度でかくて人をリスペクトすること知らない。でも、小吃屋のおじさんとか、苦労してる人にはいい人多いよね。だから、一部の日本人みたいにただギャだから嫌いってことはないけど、でもやっぱり、チベット人といっしょにいると、ね。不条理なこと多いから、完全に好きにもなれないなあ。まりちゃんは?」
「私は、わかんない。チベット人も中国人も、まだ十分見分けつかないし、まだよくわかんないよ」
「でもさ、まりちゃん、チベット人中国人って、分けてるでしょ? チベット人も、ここにいる人は中国人だよ。正しくは漢族とかチベット族だよ。こっちの言葉遣いだと」
「そうだよね、そうなんだよね。そうなんだけどさ、インド人はみんなターバンとかロシア人はみんなコサックダンスできるとかそんな次元なんだろうけど、チベット人が中国人って言われても、なんかピンとこない」
「中国語しゃべってないしね、チベット人。中国語弱いから、いい仕事もなかなか見つかんないって。たとえば今、本土で一、二を争うチベット語学者のチベット人がいたとしてさ、でも中国語の読み書き知らなきゃ、中国の統計では文盲ってことになるんだよね。なんか、それって変な気がする」
「自由がないってのかな? そういうのを」
「うん、この子たちとか」三人の中国人を見て、「根拠もよくわかってないのに、我が国偉大みたいなの小さいころからずっと教えられて、少数民族も中華民族ひとつの幸せな家族ってお話、ふつうに信じてるのね。でも少数の側から見れば、みんな中国人って絶対的多数の側から言われても、やっぱり昔から守ってきた大切なものってあって、簡単には捨てられないんだよね。言葉わかるようになると、チベット人が中国人小バカにしてるの、よくわかる」
「解放って言ってるんだっけ? チベットを」
「中国人が来てみんな幸せになったんならそれでいいんだけど、毎年何千人ものチベット人がヒマラヤを歩いて越えたり、それはやっぱり、インドにあって本土にない何かがあるんだよね」
また中国人の女の子が二人、入ってきた。先客の三人組と知り合いらしく、ひとつのテーブルについていっそう騒がしい。
「けっこう多いんだなあ。ギャが」
るりちゃんが、ちょっと嫌そうな顔をする。
回族の女の人が八宝茶のお碗にお湯を注ぎ足すと、「この人とかは好きよ。昔っから変わんない、よく聞くとよくわかんない英語とか、それでもちゃんと堂々と外人の相手してんだからすごいや」英語とチベット語のチャンポンで楽しそうに話して、「でもさ、最近は回とチベット人、仲悪いんだよね」
「そうなんだ。仲良く暮らしてるように見えるけど」
「ここは、今んとこそうだね。でも青海のほうとか、けっこう揉め事あるみたい」
「宗教とか?」
「チベット人がモタモタしてる間にさ、回とかサラールとかが入ってきて商売で儲けたり。回もサラールもギャも、まあけっきょくはよそ者が何様なんだってことかな」
「むずかしいことだらけだね。日本じゃ毎日、その日の仕事に追われてるだけで、私」
「うん」とだけ言って、彼女はお茶をひとくち。そして「セルティ行こうよ」
二人でセルティ寺の門に行くと、今日も切符売場には誰もいない。
巡礼路に入って、並んで歩きながらるりちゃんに「ガイドブックに書いてあったけど、向こうのお寺とこっちのお寺って、仲悪いって本当?」
「本当。チョー仲悪いんだよ。キルティの坊さん、セルティは中国寄りだって言ってた。セルティは、私来るときいっつも誰もいなくて、よく知らない」
「同じゲルク派なのに?」
「大きなゴンパがこんだけご近所さんだと、いろいろあるんじゃない? ラサのセラとデプンだって、けっこう仲悪いよ」
大きなマニ車がいくつも並んでいるお堂で、その中のひとつを椅子に座ったおばあさんがずっと回し続けている。それから本堂を見下ろしながら裏手の杉林の中を通って、白髪頭のお坊さんを追い越した。小さいマニ車が並ぶ回廊を通ると、ゴール。切符売場には、やっぱり誰もいなかった。
一度部屋に戻って休憩。夕方、二人で中華屋さんに入った。
「どこに行ってもストーブがある」
私がストーブを見つめて言うと、「中国ってさ、黄河だったか長江だったかで国を南北に分けるんだって。甘粛とか青海は北部地域だから建物みんなスチーム入ってるけど、四川とかチベット自治区は南部だから、最低気温がマイナス二十度とかなるようなとこでも電気毛布だけだったりしてさ、日本でもそうだけど、寒いとこほど暖かいよね」
そういうるりちゃんに、「でも、私たちの部屋、寒いまんまだよ」
「あはは、そうだよね。スチームのパイプはあるのに」
「冬だからかなあ?」
「冬だから、必要なんだよ」
そんな会話をしながら楽しく食べていると、ごはんもおいしい。
寒いし、小さい村だから夜が早い。もっとストーブで暖まっていたかったけれど、宿の入り口を閉められないうちに帰った。
この宿は三階建てで、一階は商店。階段を上がって廊下の一番手前にオーナーだか管理している家族の部屋、奥に客室がいくつかあって、突き当たりがトイレ。洗面所がないことに、あとになって気がついた。そのへんが、五元の差だったかもしれない。やっぱり、暖房は動いていなかった。
成都の二元ショップで買ったホーロー引きのカップでインスタントのコーヒーを飲もうとすると、るりちゃんも、木のお椀にコーヒーを淹れた。
「そのお椀、かわいいね。チベットの?」
「これはねえ、ラサで買った。ラポルって、西チベットの特産だって。人ん家行ったときとかお茶でもってなって懐からマイカップ出すと、チベット人すんごい喜ぶの。でもこれコーヒー飲んでるから黒くなっちゃってて、怒られる。ちょっといいやつなのに」
「いいやつとか、あるんだ」
「うん。安いのだといつまでもニス臭かったりしてさ、これは、百元以上したかな。でも店のばあちゃんと知り合いで、けっこうまけてもらったなあ」そして、ノブさんが緑色のコートでやっていたみたいにチベット服を頭からすっぽりかぶって木のお椀でコーヒーをすすりながら、「明日どうしようか」
「どうしようか、谷の奥? るりちゃん、ブラック飲むんだ」
「うん。まりちゃんも、コーヒーよりは紅茶的な感じだと思ってた」
もともとは、あの人の習慣だった。
「じゃあさ、私が起きれたらピクニック行こうよ。私が起きれたらね」
なぜか、私が起きれたらを繰り返するりちゃん。
寝るときもノブさんと同じで、チベット服の上に布団をかけていた。私は寝袋用シーツだけ使って、布団は二枚重ね。日記を書き終わってるりちゃんを見ると、すっかり寝に入っていた。
十二月二十五日
狭いツインに二人で寝ていると、部屋の中は思ったよりも寒くない。起きたら、二枚重なっていたはずの布団が一枚床に落ちていた。
七時すぎ、実質まだ六時前くらいだろうから外はまだ真っ暗なはずなのに、なぜかパッチリと目が覚めた。なるべく音を立てないようにヘッドランプを点けたり消したりしながら、今日もコーヒーとパン。るりちゃんは、小さい身体をさらに小さく猫みたいに丸くなって、チベット服の下からかろうじて靴下をはいたままの足の先が出ていることで、そこに寝ているのがわかる。
寝巻き代わりのジャージを着替えてもう一度ベッドの上に横になったら、部屋の外が明るくなったのに気がついて目が覚めた。
るりちゃんはチベット服ごと丸くなったような感じ、まだ起きる気配がない。足はチベット服の中に引っ込んで、手の指先がチラッと見える。二回も三回も私が起きれたらと言っていたのは、そういうことだったんだ。まあ、きちんと約束したわけでもないし、時間はいくらでもある。
るりちゃんを起こさないようにそっと、私は外に出た。
村の中心の十字路は、朝からけっこうな人出。その反対側、キルティ寺に向かう道を歩く。小川からは、湯気が立ちのぼっていた。
男の人はチベット服の高い襟を頭をすっぽり覆うようにかぶっていて、寒いところではチベット服が一番と言うるりちゃんの言葉に納得する。
空気がキラキラと、光っている。空気の中に細かい光の粒があって、なんだろうこれは。なんだかものすごく得をした気分になると、キルティ寺の本堂に登った。本堂前の広場には、今は誰もいない。ポーチに上がる石段に鳩が群れて、その鳴き声以外何も聞こえない。静かだった。
人の気配がして振り向くと、エンジ色のマントを羽織った白髪頭のお坊さんが、ゆっくりした足取りで歩いている。私なんて存在しないかのように、何かを確かめるかのようにゆっくりと歩いて、石段の手前で立ち止まった。お坊さんはそこで、動かなくなる。
私がその後ろ姿を見つめていたら、突然、鳩がいっせいに飛びたった。飛び去る鳩を見上げてから、お坊さんはゆっくり歩きだして本堂に入る。この人は鳩を驚かさないように、飛びたつのを待っていたんだ。そう思って、感心したというか感動したというか。
しばらくその場にぼうっと立っていたら、お坊さんたちがゾロゾロ本堂に集まりだした。若いお坊さんがハローと言いながら、私の横を走り抜ける。みんなおそろいの黒いフェルトのブーツ、それを脱ぎ捨てるようにして本堂に入っていく。石段はブーツだらけになったけれど、間違えて人のをはいたりしないんだろうか。
それから私はナンコルを一周、また一周、三周目のとき本堂横の出入り口の前に来たら、昨日のジュニア部門のお坊さんが何人も、勢いよく飛びだしてきた。みんな裸足で元気いっぱい、本堂隣の煙突からモクモクと煙を出している建物に入ると、出てくるときには手に手に湯気の立つ木の桶とおたまを持って、桶の中身がこぼれないくらい小走りに本堂に戻る。
「お粥?」
お坊さんたちの食事らしい。でもなんで、あんなに急いでいるんだろう。
下の道に戻ると、ちょっと危なっかしい木の橋を渡って反対側の丘に登った。谷間の手前のお堂と同じく、こっちのお堂の周りもルンタだらけ。白い煙を吐いている香炉の前では、洋服の男の人がルンタを撒いている。門の前で五体投地礼を繰り返している人、お堂の周りをグルグル回り続けている人。
お堂の裏手には、ちょっぴりと針葉樹の林。またチベットだけにヒマラヤ杉かと思っていたら、地面に私の拳より大きいくらいの松ぼっくりが落ちている。でもあとで調べたら、ヒマラヤ杉はマツ科らしい。
お堂の周り以外は一面原っぱで、丘の頂上にラプツェが見える。そこまで登る途中にも、地面にはルンタとビニール袋。ラプツェの麓に腰を下ろした。そして丸めたマフラーを枕代わりに寝転がって、空を見上げる。目を閉じていても、太陽が眩しい。遠くで、犬の吠える声。
「アロ!」と聞こえて片目を開けると、るりちゃんが立っている。
「こんなところで昼寝してたら、真っ黒に日焼けしちゃうよ」私と並んで横に座ると、「ごめんね。起きるはずだったんだけどなあ」
「うん、いいよ。なんか、安心した」
「何が?」
「るりちゃんってさ、一見、朝とか弱そうで、でも本当はすごくキッチリしてる子なんだろうなって思ってたら、やっぱり朝起きらんなかったから」
「何それ?」
「なんでも完璧な子なんだろうなって思ってたら、案外ふつうだったってこと」
「なんか、いいこと言われてんだか悪いこと言われてんだか」バタン、と私と同じように身体を倒して、「朝は、ダメなんだよねえ。前その、日本でチベ旅行者と会ったときさ、絶対ヤバいなってわかってたんだけど、起きたらもう間に合わなそうな時間で、すんごいアセって準備してなんとか間に合ったのよ。でも私、Tシャツにビーサンとかでね、そのビーサンも、カトマンで買ったふつうのゴムサン。私より四、五歳年上なのかな、そのチベ会に来てた女の人にね、なにあんたそのカッコ、さっきカトマンから帰って来たの、とか言われて激しくダメ出し。私的には、かなりお気に入りのTシャツだったんだよ。カトマンで買った、前から見るとセイム・セイムって書いてあって後ろにバット・ディファレントって書いてあるの。まあ確かに、近所のコンビニにでも行くようなカッコだったろうけどさ」
「なんか、想像できる」
「私、あんまり気にしないんだあ。日本じゃだいたい、いつも近所のコンビニに行くような感じ。なぜか、さっき起きた? ってよく言われる。それはそれで、正しいんだけど。まりちゃんは?」
「私? 私もあんまり。一応化粧品とか最低限持ってきたんだけど、なんか重いしもういいやとか思えてきちゃった。ヤバいのかな?」
「いいんじゃん? 日焼け対策ぐらいは、したほうがいいと思うけど」
「そうだね。でも、るりちゃんに言われても」
「私はいいの。ナチュラルな魅力で勝負」
「よくわかんない」
彼女はエヘヘと笑って、少ししてから歌を口ずさむ。チベット語らしい。
「いいメロディだね。どんな意味?」
一曲終わってからそう聞くと、「逐語訳でいい?」
「うん」
ちょっと考えてから、「青く澄んだ空に、真っ白い雲が浮かんでいる。汚れのないチョルテンの脇に、清らかな川が流れている。ここは、お母さまのいらっしゃるところ。そして私の遊ぶところ。花と、お花畑。ここは私のふるさと」突然、ガバッと起きあがって、さっきの歌のサビをチベット語で歌う。ディ・ニ・ポモ、ポモ・ンガラン・コルサ・レェ、ポモ・ンガラン・コルサ・レェ。
「るりちゃん、歌うまいよねえ」
私を振り返って、「練習したし、好きだから。実はねえ、バンドの雇われボーカルだったこと、あるんだ」
私も体育座りになって、「どんなバンド?」
「ロック的な? じいちゃんばあちゃんが、顔しかめるようなの。けっこういい線いってたんだよ。プロデビューの話とかあって、でもリーダーが、ある種職人気質ってのかな、プロになると自分たちのやりたいことができなくなるってさ、まあ実際その人、本職は職人さんなんだけど、それで人間関係のゴタゴタとかあって、やめちゃった」
ちょっと、遠い目をする。
「いつごろの話?」
「高校出て、働いてたころ。まだ十代ギリギリのころ。若かったなあ。私、金髪だったし」
「るりちゃん、大学行ってないの?」
「うん。なんで?」
「なんか、意外」
「そお? 私、大学行ける頭持ってなかったもん。そういや、まりちゃんは何してたの? 日本で」
「医療関係。専学行って、今までずっと。でも、疲れちゃったんだよね。私もいろいろと」
「まりちゃん、ひとりで思い悩む相があるもの」
「やっぱりそうかな? よく言われるんだ。表情がないとか、冷たそうとか」
「でも、知り合いが言ってたよ。ふだん表情に乏しい子がちょっと微笑むと、スゲェかわいいって。ニヤニヤしながら」
「ニヤニヤは、ちょっと」
「ほら、今の笑顔。ニッコリニッコリ」
「ありがとう。でも、私はるりちゃんがうらやましい」
「脳天気とか、よく言われる」
実際は、そうじゃない。この子はものすごくいろんなことを考えていて、あけっぴろげに見えて、でも本当の心の奥はめったに人に見せていないように思う。
彼女は立ちあがって、白黒のショールを巻き直す。「お茶行こ」
やっぱり、心の中は私には見えない。けれど、私も同じような性格だから、あんまり気はしない。るりちゃんも、それは見抜いているだろう。
八宝茶と、今日はチョコレートケーキ。ケーキというかチョコチップ入りのパンというか、でも、久しぶりに食べるチョコレートの味に感激。
「明日、これ持ってピクニック行こうか?」
るりちゃんが提案。
「いいけど、起きれんの?」
「努力はするよ。努力は得意だもん」
そして今日も、八宝茶の氷砂糖が溶けきるまで旅行の話。明日のピクニック用のチョコレートケーキを焼いてもらってから、キルティ寺のリンコルに行く。るりちゃんは、キルティ寺を回るのが大好きらしい。
並んで歩きながらるりちゃんに、「朝さあ、あれはなんだろ、氷の粒? 空気の中にキラキラ光るのがあってさ、きれいだった」
「細氷。ダイアモンドダストってやつ。雪になる前の氷の結晶に太陽の光が当たって光るんだって」
いろんなこと、よく知っている。「よくあることなの?」
「みたいだよ。私、朝起きらんないからあんま見たことないけど、寒いっても、このへんだと晴れてれば日中もう氷点下ってこと少ないから、私が起きるころには消えちゃうって」そしてまた、歌を口ずさむ。「ダライ・ラマ六世の詩、好きなんだ、私」
「今の歌?」
「うん。メロディはもちろん、最近のだけど」
「六世って、詩人だった人?」
「そう。なんか、苦しいような詩が多くてね、有名なの、知ってる? チャテ・トゥントゥン・カルモ、ンガラ・ショクツェル・ヨルダン、タリンギャンラ・ミンド、リタン・コルネー・レーヨン。オグロヅルよ、おまえの翼を貸してくれ、あんまり遠くには行かないよ、リタンを巡って帰ってこよう」
「ああ、私、リタンで七世の生まれた家って見たよ」
「その詩が、六世の転生がリタンに生まれるって根拠だったらしいけど、でもなんか苦しいよね」
苦しいという表現のしかたが、この子の感性なんだと思う。言いたいことは、なんとなくわかるような。
「るりちゃんは、転生って信じてる?」
「うーん、信じているような、どうでもいいような?」
昨日と同じようにおばあさんが二人、ベンチに座っている前を通る。るりちゃんが、「デモォ!」おばあさんたちも「デモォ!」
「現実的に考えると、魂ってどのへんの生物から備わんのかとかさ。たとえば、そんなのを商売にしてる人とかは、信じない。あなたの前世はナニナニです、って、確率的に一番多いのは普通の農民でしょ? 奴隷とかさ。でもあなたの前世農民ですなんてこと、めったにないし、前世知ったからどうなのよって、私は思う。だから、散文的には信じない。でもこう、人の縁ってのかな、たとえば、チベットのじいちゃんとかばあちゃんとか、他人と思えないようなときがあったり、まりちゃんもそうだなあ、あんまり気兼ねなく付き合えるような、そういう特別なシンパシーを感じる相手って、いるよね。そんなときは、前世のつながりとか信じてもいいかなって気分はする」
お互い近いものを感じたということなのか、るりちゃんも私がるりちゃんと自然に話ができたのと同じように、私に親近感を持ったらしい。
「不思議だね。私、るりちゃんと初めて会った気がしないの。私、ちっちゃいころから人見知りだから、知らない人と仲良くなるの時間がかかる人なのに」
「実は、前世で知り合いだったりして。へへへ」
マニ車堂、モスク、一周。一度帰ると、洗濯とか細かい用事があるから、暇なようでもあり忙しいようでもあり。
夜はふつうの回族食堂に行って、面片。小さな村で食べるところが少ないから、ローテーションで食べるところとものを変える必要がある。私は大きな町にいてもたいてい同じところで食べていたけれど、るりちゃんは食に関してはこだわっていて、食事場所はひんぱんに変えたいらしい。
宿に帰るとき、るりちゃんはスーパーに寄ってアイスを買った。
行儀悪くアイスをペロペロなめるるりちゃんに、「そういうのって、夏の風物だと思ってた」
「ん? おいしいよ。食べる?」
私に差しだす。
「いいよ、人のなめたアイスなんて」
へへと言って、また行儀悪くアイスをなめる。
宿に戻ると、いちいち管理人さんを呼んで部屋の鍵を開けてもらう必要がある。管理人さん家族の部屋にはストーブがあって、暖かそうなのがうらやましい。
るりちゃんと二人並んでお湯を張った洗面器に足を入れて、シャワーがないからせめてもと足湯に浸かると、一日歩いた疲れが取れて気持ちがいい。
深いため息をついてからるりちゃんに、「なんかさあ、シャワーとかなくても、気になんなくなっちゃったんだよね。頭と足は洗いたいけど、こないだ成都で袖口真っ黒だって気がついて、びっくりした」
袖口もそうだし、マフラーの白い部分とか、知らないうちに真っ黒くなっていた。
「そうだね、高地にいるとぜんぜん平気なんだけど、低地に下りると、服とかもんのすごく臭くなってるんだよね」
「リタンでね、ちっちゃい子が頭ドレッドみたいになってて、私もああなっちゃうのかなって思った。チベット人、ほんとにお風呂入らないんだね」
「牧民はね。ラサの人なんかは、頻繁にシャワー屋とか行ってるみたいだよ。頭はよく洗ってるの見る。前旅行者に、私ラサでも一週間ぐらいシャワーなしで平気ですって言ったら、ドン引きされた。それは日本人としてどうかと思う、だって。髪と足は洗うんだけど」
洗い終わったお湯を捨てるのに、トイレまで行くのが寒い。るりちゃんがジャンケンで負けたほうがお湯捨て係と言いだして、ジャンケン。私の負け。
「ジャンケン、弱いんだよなあ、私」
ひとりでブツブツ言いながらトイレに行って帰ると、るりちゃんはまたチベット服をかぶって、何かのノートを見ている。
「目、悪いの?」
メガネをかけていた。
「乱視がひどいんだけどそんなに悪くないから、なくても不自由しないんだよね。車の免許取るときあんたメガネしないとダメだよって言われて、それから」
ノートにはチベット文字、べつのノートを見てブツブツ言いながら、何か書き込んでいる。
「勉強? チベット語?」
「うん、たまあにね、ゆるーく。やんないと、忘れちゃう」
私は寝る支度をして、今日も一日が終わる。「何時にする? 明日」
私が聞くと、「そうね、八時くらい? 八時くらいに起こして」
彼女はノートから顔を上げて、答える。
「なんだ、起きるんじゃないの?」
「努力は、するつもり」
るりちゃんも寝る支度をすると、二人布団に入ったあとにまたジャンケン。私の負け。
「なんか、勝てないんだよね」
渋々起きあがって、電気を消した。
「足引っ張るとかなんとかして、起こしてね」
「るりちゃん、チベット服にくるまって春巻みたいになってるから、どこが頭か足かわかんないよ」真っ暗な中、天井を見上げて話を続ける。「どんなこと、勉強してるの?」
「今は、文章の読み方とか、文法? ひとりでチマチマと」
「難しいの? 基本は簡単だって聞いたけど」
「口語の基本的なのはね。単語さえ知ってりゃ、文の作り方は日本語と似たようなもんだから。でも文語になると、スペリング法とかが難しくて、ひとりでやってるとなかなか進歩しない。六世の詩とかさ、原文で理解したいんだけど、なんかチベット人独特のメタファみたいなのがあって、よくわかんないの」
「ほんと、好きなんだね」
「うん、なんかさ、ダライ・ラマって特別な存在でありながら、ふつうに人間っぽく悩んでる感じがね。ポタラにいらっしゃるときはリンズィン・ツァンヤン・ギャムツォ、ショルにいるときは遊び人、みたいな詩があってね、ショルってのは、ポタラ宮の麓の村。ポタラにいらっしゃるって自分に敬語使ってるのは、ダライ・ラマ六世って、自分を離れたべつの存在になってたと思うのね。五世があまりにも偉大でさ、周りから期待されて、実際いろいろ本書いたりしてそっち方面では期待通りだったらしいよ。でも、摂政とかモンゴルとかのドロドロしたのがいやになって、たぶん、すごく真面目な人だったんじゃないかって思うんだ、私は」
「恋人、いたんでしょ?」
「まあ坊さんとしては、真面目じゃなかったのかな。でもちゃんと師匠に袈裟返してるから、そのへんキッチリしてるよ」
るりちゃんの語るダライ・ラマ六世論を、私はぼんやりと聞いている。
「彼女が何人かいたのは、そうなんだろうけど、そのときそのときでその彼女をさ、愛してたと思うのね。そういう苦しさが、すごい伝わってくんの。意味考えると、こっちまで苦しくなる」
ぼんやりと聞きながらあの人のことを考えて、なんだかもう、お互い好きだったんだろうかとか、またよくわからなくなってきた。
「あの子は元気なんだろうか、みたいな詩がいくつもあんの。切ないよね、ふつうに人間的で。そうそう、チュウォ・チェウェー・セムネー、ドゥシェン・ニェンペー・セルソン、ニンドゥー・シウェー・ニャンゲン、スイ・セルロー・ジェーバ、ってのがあんの」
「どんな意味?」
「大きな河は船があれば心配ないけど、恋人が死んだ苦しみは誰が取り除いてくれるだろうか。たぶん、そんなことがあったんだよね。人一倍感じやすい人だったんじゃないのかな」
じわっと涙があふれて、こらえようと思えば思うほど、ポロポロポロポロ止まらなくなった。るりちゃんは、私が泣いていることに気がついている。
「あのう、ごねんなさい」
るりちゃんがそう言うのに答えようと思っても、もう言葉が出ない。彼女はそれ以上何も言わないで、私が落ち着くのを待っている。
なんとかようやく話ができるようになって、「好きな人が、いたんだよね」天井に向かって、しゃべり始めた。「今年の五月に急に倒れたって聞いて、でも彼まだ若いし、なんかいつも忙しそうに動き回ってる人だから、疲れてたのかなって、ちょうどいいから少し休んでもらおうかぐらいにしか思ってなかったのね。実家が静岡で、そっちで倒れて私東京だったから、お見舞いにもそのうち行こうかなって思って、私行って無理に元気そうにされても困るし、その程度にしか思ってなかったの。でも、急に容態が悪くなったって電話あって、そのまんま」
るりちゃんはときどき小さくうんと言いながら、私に話をさせるように、そうやって心に溜まっているものを吐きださせようとしているんだろう。
「お葬式にも行かなかった。お墓も見てない。コウちゃんがもういなくなっちゃったの、認めたくないんだろうね。あの人、私が心配するといけないから何も言うなって、言ってたんだって。バカ。ほんとバカ。体調あんまりよくなくって、それで実家帰ってたらしいのね。でも誰にも、私にも言わないで、ほんとバカ」
「なんだったの? 原因は」
「何も聞いてない。聞きたくなかった。まだ認めたくないのかも。今でも、どっかこのへんフラフラしてんじゃないかとか、ときどきメール入ってるんじゃないかって、思っちゃう」
また涙が流れだすと、言葉を切った。るりちゃんは黙って、私が話を続けるのを待っている。
「チベットが、好きだったんだよね、彼。毎年通ってて、倒れる前も準備しながら、今の仕事早いとこ片付けてチベット行くって」
「それでまりちゃんも、チベット来たんだ」
「うん。よく考えたら私、コウちゃんのこと、何も知らないの。なんでそんなに、寝ても覚めてもチベットだったんだろうって。コウちゃんにとって、チベットって何だったんだろうって。何してたんだろう、何を見てたんだろうって。そう思ったら、急にどうしても行ってみなきゃって、仕事も辞めて、家も引き払って。私もバカ。バカだよね。でももう、どうしようもなかった。コウちゃんに会えるわけでもないのに、こうやってコウちゃんの足跡追って。私、何してるんだろう」
涙はなんとかおさまって、私はまた天井を見つめている。静かだった。ときどき、犬の吠える声しか聞こえない。
しばらくしてからるりちゃんが、「ねえ、まりちゃん」
「うん?」
「どんな人だったの?」
どんな人だったんだろう。「魔法使い、みたいな人」
るりちゃんから借りた言葉だけれど、それが一番ふさわしいように思えた。シャイで怒りっぽそうで、でも本当はものすごく周りに気を配っていて、そしてけっきょくつかみどころのなかった人。
るりちゃんはひとこと、「ありがとう」
また沈黙。涙を拭いて、鼻をかんだ。
「るりちゃん?」
「うん?」
「ごめんね」
「うん、いいよ」
「ありがとう、おやすみ」
十二月二十六日
いつの間にか、クリスマスが終わっていた。
起きあがってるりちゃんのほうを見ると、やっぱり布団とチベット服と一体になって丸くなっている。しばらく布団を頭からかぶってお坊さん座りでぼうっとしていると、隣の布団の塊がモゾモゾと動いた。
「るりちゃん?」
声をかけると、「うん、起きてる」
くぐもった眠そうな答えのあと、はうっと言いながら、布団とチベット服の中からるりちゃんが現れた。
「さむっ!」
そう言って、またチベット服をかぶって元の姿勢に戻ろうとする。
「ええっ、起きたんじゃないの?」
「起きてるよ。今何時?」
「八時」
今度はゆっくり、チベット服を頭からかぶるようにしながら上半身を起こした。
メガネを探しながら、「オハヨ。ね、努力したでしょ?」
「うん、そうだね」るりちゃんのぶんもコーヒーを淹れて、「気分はどう? 早起きの」
「そうねえ、まだ、気持ちよく寝てると覚醒の間の気持ちいい瞬間の中間くらいかな」
「ほとんど寝てるってことじゃん」
「へへ、大丈夫だよ。起きた起きた」
昨日の夜のことで気まずい空気を作ってしまったようで私はそれを気にしていたけれど、るりちゃんはいつものるりちゃんのようであり、でももしかしたら、私にそう思わせないように気を使っていたのかもしれない。
朝は、毎日変わらずパンとコーヒー。それから昨日のチョコレートケーキとお茶、カメラを持って、二人でキルティ寺へ。るりちゃんは、黄色いお坊さんの頭陀袋を肩から斜めに下げている。
小川沿いに赤いお堂に着くと、るりちゃんは、木の柵が開いているところから谷に続く道に入った。
「柵してあるげど、いいの?」
「うん。誰もなんにも言わないし、みんな入ってる」
原っぱには人が歩いた道があって、前のほうには、谷の奥に向かって歩いているチベット服のグループ。小川を越えた左側の岸は崖と、鬱蒼とした針葉樹の森。右側の草原は、リンコルの丘に続いている。目の前の崖には、チベット文字が刻んであった。
「なんて刻んであるの? あの字」
「観音菩薩のマントラ。ばあちゃんたちがよく唱えてるやつ。オム・マニ・ペメ・フム」
「意味は?」
「オム・マニ・ペメ・フムってのは、サンスクリットなのよ。日本でも、真言ってそうだよね。チベット語だと、キェー・ノルブ・ペマチェンとかだっけ。蓮華の中の宝石、みたいな意味。観音の慈悲の力で、救ってもらおうってことなのかな。自分だけじゃなく、すべての衆生を救ってくださいって、ばあちゃんたち、毎日毎日オム・マニ・ペメ・フム」
「いいね、なんか、そういう優しさって」
崖の縁にたどり着くと、なんだかシュールな虎の像があって、その奥に洞窟がぽっかりと口を開けている。洞窟の入り口には、ラプツェ。さっきのチベット服グループが、ルンタを撒きながらキーホホとかなんとか叫んでいた。そしてホウと大きな声を出しながら、洞窟の中に入っていく。
私たちも、ラプツェを回って洞窟の中へ。入り口は横に広いけれど、天井はるりちゃんでも屈んで入るくらい低い。その先で急に天井が高くなって、車が三、四台入るくらいの広いホールになっていた。
目が慣れると、天井からいくつもつららが下がっていた。そこから滴り落ちる水滴が凍って、平らな地面にも氷の柱。ホールの真ん中にある石の台に、灯明が静かに灯っている。チベット服グループは、壁に沿ってホールを右回り。ヘッドランプを持って来ればよかったと思っていたら目の前の地面が白い光に照らされて、るりちゃんが小さい懐中電灯を持っていた。
「ここは?」
思ったのと違って、私の声はあんまり反響していない。
「パンデン・ラモの洞窟。タクツァン・ラモっていうでしょ? タクツァンは虎の巣、ラモは女神。虎の巣と女神の、女神のほう」
「それで、さっきの虎?」
「まあ、あれはちょっと、どうかと思うけど」
私たちもチベット服グループのように壁沿いをぐるっと回ると、ホールの一番奥に、白い布がたくさんかけられた大きな石筍があった。
るりちゃんがその石筍を下から上まで照らして、「パンデン・ラモ・ランジョン。自然にできあがったパンデン・ラモの像だって」
「女神?」
「パンデン・ラモ、日本だと、吉祥天。チベットの守り神で、青くてラバに乗った怖そうな人。たいていのゴンパの壁画に描いてあるよ」
そう言われると、ラバだか馬に乗った人の形に見えるような、見えないような。
るりちゃんが続ける。「鍾乳石だから、自然にできたには違いないけど」
「なんとなく、仏像に見えなくもないね」
「でも、これがペルラモだってなったのは、あとあとのことだよね」
「昔っからご神体だった、みたいな?」
「うん。キルティ・ゴンパって、建ったの十八世紀くらいでけっこう最近なんだよね。もとはキルティ一世がここを瞑想の修行地にして、四世だったか五世だったか、あとの時代になってゴンパにしたんだって。キルティ一世ってツォンカパと同時代で十四、五世紀だけど、グル・リンポチェ伝説があるんだから、もっと仏教よりも前から修行者が篭るようなところだったんじゃないのかな」
「ボン教? とか?」
「そんな感じの。アムドって、ラパっていう神降ろしとか、シャマニズム的なものがまだあちこちに残ってるんだって。たぶんもうずっと昔から、もしかしたらチベット人よりも前の人たちとか、この洞窟見つけてさ、これだけ大きな石筍がポコンとあるのって、やっぱり不思議じゃん? そんで、これをご神体として崇めるローカルなカルトがあって、仏教はそういうのを取り込んでったんじゃないか、って、ラサの魔法使いが言ってた。魔法使いだけに、そんなことチョー詳しいの。変な人」
気がついたらチベット服グループは外に出て、グループとはべつにチベット服を着た若い女の人がひとり残っている。私たち三人、並んでご神体を見上げていた。
その人は革とフェルトのチベット服の右肩を脱いで、後ろに垂らした右袖は、銀色のお碗をいくつも並べたような飾りが付いた革のベルトに挟んである。大きな銀のショルンが、重たそう。両手に毛布にぐるぐる巻きにした赤ちゃんを抱えていて、るりちゃんと私が顔をのぞき込もうとすると、彼女は私たちに赤ちゃんを見せる。まだほとんど生まれたばかりのようで、スヤスヤと眠っていた。
「やーん、かわいい!」
思わず二人、そろって声を上げた。るりちゃんが話しかけて、その母親が答える。
「生まれてから一ヶ月くらい。って言ってると思う」
なんとなく三人で歩くと、壁の穴からどうやら石の柱をぐるっと回って向こう側に抜けられるようになっているらしいところで、チベット人の母親がるりちゃんに何か熱心に話しかける。
穴はようやく人一人這って入れるくらい、そこの岩の表面は、磨かれたようにツルツルだった。るりちゃんはオーヤオーヤと相槌をうつと、穴の出口のほうへ。毛布でくるんだ赤ちゃんを母親が穴の奥に入れるのを、るりちゃんが受け取っているらしい。奥から戻ったるりちゃんは、赤ちゃんを抱いている。母親ももがきながら穴に入って反対側から出てくると、るりちゃんから赤ちゃんを受け取った。彼女は何度も、たぶん感謝の言葉を連発しながら外に出る。
私とるりちゃんだけが、ホールの中に残った。
「何してたの?」
「誰にも聞いたことないからよくは知らないんだけど、これたぶん、くぐると悪いカルマを取り除くとかそんなたぐいの穴だと思うんだよね。まりちゃんも、やってみる?」
るりちゃんはそう言いながら黄色い頭陀袋を私に渡して、穴に入って足をバタつかせながら反対側に抜けた。
私から頭陀袋を受け取りながら、「おケツが小さいと、こういうとき便利よねえ」
私もるりちゃんにサブザックを持ってもらうと、穴に頭を入れる。岩の表面がツルツルなのは、こうしてチベット人が通り抜けているうちに磨かれたからだ。手探りでつかみどころを見つけるとヨッ小さな声を出して、おケツが引っかかったらどうしようとか心配しながらも、なんとか抜け出せた。
サブザックをかえしてもらって、また頭を低くして洞窟から出る。
「こういう、洞窟とか岩山の聖地ってさ、あんな感じの、カルマを見るとことか自然にできたナントカとかあって、楽しい。岩に浮き出たアの文字とかさ、これはそう見えるねとかこれはイマイチとか」
るりちゃんが言うのを聞きながら振り返ると、洞窟の入り口は中で燃えている灯明の煤で真っ黒だった。
またチベット服のグループが来て、ホウと叫びながら洞窟に入っていく。私たちは木の橋でドゥクチュ川を渡ると、さらに上流へ。両側は切り立った崖で、狭い谷をドゥクチュ川がチョロチョロ流れている。崖の上のほうは、真っ暗な深い森。
「仙境だねえ」
るりちゃんが、楽しげに言う。
大きな岩を回ると岩場にそこだけ土になった急坂があって、坂の上にはまた洞窟。
「あれは?」
私が洞窟を指して言うと、「タクツァン・ラモの、タクツァンのほう。虎の住む穴らしいよ」
「いるの? 虎って」
「チャンドラ・ダスって人の百年くらい前の辞書だと、チベット語のタクって言葉はベンガルタイガーのことで、チベットに虎はいないって書いてある。でも、虎って中国とかにも昔はけっこういたんだよね。チャンドラ・ダスは中央チベットしか行ってないし、昔はいても不思議じゃないんじゃないのかな」
「まあ、何か住んでそうだよね。虎じゃなくてもさ」
「大昔はここも森林地帯だったろうから、虎とかいたんじゃないかな。今はこのへんにチョロチョロとしか残ってないけど」
「中国人が、切っちゃったの?」
「カムのほうはそうらしいけど、こっちはどうなのかな。もっと昔からじゃない? この谷とかは聖地だから誰も手え付けないんだろうけど、燃料取るのと牧畜でだんだん森が少なくなって、気がついたらって感じなのかな」
「ああ、カレドニアとか、そうだね」
「島?」
「ううん、新しいほうじゃなくて、スコットランドとかローマ人が来たころは大森林地帯だったんだって。今は、チベットみたいな草原だけど」
「牧畜やるとこ? やっぱり、家畜放し飼いにするとダメらしいよ。環境ナントカ学部の学生が言ってた」
坂のちょっと上流側にある岩の間から水が滲みだしていて、ドゥクチュ川はここから始まっている。水は流れていないけれど、川のように細い谷はそこからもっと先に続いていた。
るりちゃんはときどきラララと何かのメロディーを口ずさみながら楽しそうで、後ろを歩く私の気持ちもなんだか軽くなる。
彼女は振り向いて、「オベロンとティタニアが住んでいそう」
「私は、エルフだと思ってた」
立ち、止まって、ひといき。
「まりちゃん、ファンタジー好きなの?」
「うん。私、ちっちゃいころから本ばっか読んでる子だった」
また歩きだすと突然細い谷が開けて、周りを岩山に囲まれた広い野原に出た。
わっ、と思わず声をあげると、るりちゃんがちょっと得意そうに、「ね、きれいでしょ」
谷はさらに右のほうに細く続いていて、野原には石を積んだケルン。山羊だか羊だかの糞が落ちているということは、家畜を追って来る人がいるんだろうか。でも今は、鳥のさえずる声しか聞こえない。
「お昼にしよっか?」そう言いながらるりちゃんはあたりを見回して、「あそこがいい」
岩山に向かって急に始まる斜面の麓、大き岩を指さす。テーブル状になっていて、よじ登ると私とるりちゃん、それにもう一人くらい寝ころんでちょうどいいような広さ。二人並んで体育座りになると、谷のもっと先を見つめる。
「写真、撮る人だったんだよね。仕事も、アシスタントだかなんだか写真関係だし、趣味でもよく撮ってたみたい」るりちゃんに、昨日の話の続きを聞かせている私。「チベット行って、写真撮って、帰ってきて、お金作ってまたチベット。ときどき、私コウちゃんにとって必要ないんじゃないかとか、思ったりしてさ」
「出会いのきっかけとか、なんだったの?」
「なんかもう、すっごい言うのも恥ずかしいくらいベタなんだけどね、私が勤めてた病院に、入院してきたの。初め妹さんと仲良くなって、ふつつかな兄ですがよろしく、って。彼、油断してるとよくベッドからいなくなっててね、困った患者さんだった。先生も、呆れたり、怒ったり、私が怒られたり」
思い出ばかりが、よみがえる。また涙。
それに気づいたるりちゃんが、「ごめん」
「うん、いいの。大丈夫」
昨日あんなに流れたのに、まだまだ涙が止まらない。るりちゃんが、トイレットペーパーをちぎって私に差しだす。
「ありがと」空を見上げると、白い雲。「なんか、初め無愛想で怖そうな人だなって思ってたの。でも本当は、すごい人見知りで恥ずかしがり屋なのね。大きくした写真をアルバムみたいにしたの、見てたことがあって、何見てるんですかって聞いたら、はにかんで、でもはにかんでるの隠そうとしながら見せてくれて、チベットの写真だった。写真展かなんかに出すの選んでたみたい。空が東京じゃあり得ないような群青で、きれいな写真ですねって言ったら、ものすごく喜んでた。かわいかった」とりとめのない話だけれども、るりちゃんに話していれば楽な気持ちになれそうで、考えなしに言葉が出てくる。「彼、住んでんの近所だったんだよね。一人暮らしで時間も不規則だとかで、なんか、私が世話してあげなきゃって雰囲気だった。私が半ば押しかけるような感じで、そのうち世間並みに付き合ってた」
気持ちが一段落ち着いたというか、ようやく涙もおさまった。「ごめんね。なんか、変な話」
るりちゃんは私にほほえみかけて、「お昼食べよ!」
二人でムシャムシャと、チョコレートケーキを食べる。ちょっぴり、涙の味がした。
「コウちゃん、カムパーの人がね、知り合いだって言ってた。そういや、ラサの魔法使いとも知り合いらしい。大澤っていう、いつも不機嫌そうで、るりちゃんみたいなフィルムのカメラが好きな人」
彼女はすまなそうに首を横に振ってから、「でもラサの魔法使いなら、私よく知ってるから紹介するよ」
「ありがと。そうだね、考えとく。何を知りたいんだか知りたくないんだか、なんかもう、よくわかんなくて」笑ってみせて、とりあえず、この話はここで終わり。「どんな人なの? ラサの魔法使いって」
「はっきり言って、変人。魔法使いってよりも、ぬらりひょんとかのが近いかも。私は、アブーって呼んでる。アム語で兄ちゃんって意味。私の師匠」
「ぬらりひょんって、妖怪じゃん。チベット語の、師匠?」
「うん。言葉もそうだし、ここ連れてきてもらったりとか。無理矢理チベット名付けられたり」
「るりちゃん、チベット名ってあんの?」
「戯れだったんだけどね、瑠璃音って名前がチベット人には発音しづらいから、チベットではチベ名のほうが覚えられやすいって。まあ私、自分の名前あんまし好きじゃないからいいかって」
「どんな名前?」
「ルモ・ドンメ、縮めてルドン。ルモはナーガ女で、ドンメは灯明って意味。実は、けっこう気に入ってたりしてる」
また二人で、遠くを見つめる。
るりちゃんが小さい声でラララと歌うと、「チベット人の歌声ってさ、私、好きなんだよね。日本の民謡歌手みたいに、高音でクルッてなったり」
「るりちゃん、歌ってよ」
「えっ! やだよ恥ずかしいもん」
「いいじゃん、私とるりちゃんしかいないよ」
それからまた二人無言になって、スッとるりちゃんが立ちあがる。
「特別だよ」
大きく息を吸ってから、チベット語で民謡調の歌。うまいし声もきれいで、特技があるってうらやましい。
気持ちよさそうに歌い終わると、「デデン・カウェージョン・ニ、ンガイ・パユル・インソン。平和な雪の国は、私のふるさと」
彼女がニッコリしながらそう言って座ろうとしたら、突然拍手が聞こえる。びっくりして二人その方向を見ると、白人の男の人が近くの岩の上で起きあがった。
るりちゃんは、「やだもう、チョー恥ずかしい」真っ赤になっている。
「ハロー」
私が言うとその人は日本語で、「日本人ですか?」
日本語って、意外と国際的に通じるのかも。
彼はフィル。カナダ人で、昨日ゾルゲから来たらしい。日本語がわかるのは前日本に住んでいたからで、この人も彼女は日本人だったと、なぜか過去形。
私の英語力には限界があるしフィルが知っている日本語にも限界があったものの、話しているうちになんとなく会話の規則ができあがる。るりちゃんはフィルの話すことを理解しているはずなのに、なぜかあんまり話したがらない。
頭はモジャモジャ、髭もボウボウ、なんだかすごく大変な旅をしてきたように疲れた感じの人だったけれど、どうやらいつもそんな感じらしい。
「ごめんなさい。私たち、騒いじゃって」私が泣いているのを、見られただろうか。
「いやあ、すてきな歌声を聞かせてもらったよ」
「何してたの? ここで」
「メディテーション」
瞑想って、よくはわからない。でもそういえば、この間デチェンで会ったドイツ人のおじさんも、それっぽいことをしていた。
るりちゃんが、「まりちゃん、岩の上のあっちとこっちで大声で話してんの、なんかマヌケじゃない?」
そう言われると、そうかもしれない。私とるりちゃんはもう少し先に歩いていくことにしたけれど、フィルはしばらく瞑想を続けると言って、その場に残った。
「瞑想って、はやってんのかな?」
浮き石と腰くらいの高さで刺のある灌木が多くなって、歩きながら話すのにはけっこう注意力がいる。
なのにるりちゃんはときどき私を振り返りながら、「ネパールとかインドには多いよ、ナントカ瞑想センターみたいなの。私はよくわかんないけど、白人とかそういうの好きだよね。神秘主義?」
小川が流れている。でも、どこに流れているんだろう。さっきの広場はここより下流なのに、水が流れていなかった。
谷の幅が少し狭くなったと思ったら、さっきの広場みたいにまた広くなる。ちょと高台になった岩場に場所を見つけて、体育座りで休憩。
るりちゃんがチョコレートケーキの残りをつまみながら、「さっきはビックリしたねえ。まさか人がいるとは」
「るりちゃん、何恥ずかしがってんの? おかしかった。いつも大声で歌ってんのに」
私も、るりちゃんのチョコレートケーキに横から手を出す。
「そんなに大きな声、出してないよ。てかこれ、私んだよ」
「こんなの焼いたら、やっちゃんよろこぶかな?」
「誰それ? てかまりちゃん、自分のは?」
「さっき、食べちゃった。姪っ子いてね、ケーキとか作って持ってってあげると、すごいよろこぶの」
「まりちゃん、お菓子作るんだ」
「うん。お母さんが、大好きだからね。私もちっちゃいころから手伝ってるうちに、料理とか好きになってた。ちょっと工夫してとか、こう、知恵絞ってる瞬間が楽しくて。そんぐらいだなあ、私、趣味って言えるの」
「似合うよね。いいね、私、食べるのは得意だけど作るのぜんぜん」
るりちゃんの眺めるほうを見ると、あれは鷹か鷲か、大きな鳥が悠然と、羽ばたきもしないで空に輪を描いている。
「お兄さん? お姉さん?」
「姪っ子の? 私の、お姉ちゃん。お姉ちゃん家けっこう近所だから、休みの日とかよく遊びに行くの。お菓子持って。お姉ちゃん、かなりノホホンとした人なんだけどね、私が一人でチベット行くって言ったら、お父さんとお母さんには反対されたけど、お姉ちゃんはすごい応援してくれた」
「いいね、きょうだい仲いいって」
るりちゃんは膝の上に顎をのせて、谷の上流を見つめている。
「るりちゃんは? きょうだい、いる?」
遠くを見つめたまま、「私? 一人っ子」そして立ちあがって、「帰ろっか、そろそろ」
私に手を差しのべる。その手をつかむと、るりちゃんに引っ張ってもらって私も立ちあがった。
「静かでいいとこなんだけどさ、一人じゃ来ないほうがいいって、アブーが言ってた。正直、私は何回も一人で来てるけど」
「それは、襲われるとか?」
「まあ、石橋を迂回して泳いで川渡っちゃうような人だからさ、動物もおっかないし、やっぱり高地だし、ケガとかそんなのもひっくるめて注意しときなさいってことだと思う」
「るりちゃん、高山病ってなったことある?」
「あんまりない。私高地に強いみたいで、たまに頭痛いなってことはあるけど、無理に動かなきゃ大丈夫だなあ。まりちゃんは?」
「私もそんなに。来る前は心配してたけど、意外と気の持ちようなのかな、思ったほどキツいことはないなって。まあ、人にもよるんだろうけど」
そこから折り返して、帰ることにした。
広場に戻ると、フィルはもういない。誰か向こうから、大きな声で話しながら歩いてきた。大きなカメラを持った中国人、大学生くらいの男の子で、私たちに何か声をかける。
「わかんないよ」
笑顔でそう言って、るりちゃんはスタスタと早足。私もそのあとを追う。
「あのうるさいの、なんとかしてほしいんだよね。あと、東洋人は誰でも中国人だと思うとこ。日本人嫌いなくせに、誰が日本人かわかんないの」
虎の巣の横を通りながら、るりちゃんはちょっと嫌そうな表情。
「やっぱり、嫌いなんだ」
「成金の子どもはね。何年か前からバックパッカー旅行みたいなのがはやっててさあ、使い方もよく知らない一眼とか持ってチベット来てるけど、彼ら、なんか珍しい動物でも見に来てるような感じなんだよね。あれじゃあ、いつまでたっても仲よくなんかなれないよ。ギャとチベット人」
「動物園の、動物みたいな?」
「白人もそう。いまだに東洋人見下してるようなやつらってけっこういて、私、あんまり好きじゃない」
「だから、フィルとも話さなかったの?」
「あれは、恥ずかしかっただけ。彼は、いい人だと思うよ」
ドゥクチュ川を渡って、ラプツェを右回りしながら狭い谷を抜けだす。不思議な安心感が湧いてくるのは、あっちが妖精の世界でこっちが人間の世界だからだろうか。
「るりちゃん、ステージとか立ってたんでしょ? そんなに恥ずかしがってて大丈夫だったの?」
「もう、昔のことだもん。それに、ノリってものが大事だよ」
「ふうん」
若いお坊さんが何人か、ドゥクチュ川の水で野菜を洗っている。リンコルは歩かないで、川に沿って村に下ることにした。
くたびれた感じで歩いているフィルを見ると、「アロ!」るりちゃんが声をかけた。
フィルも誘って、三人でいつものレストランで八宝茶。フィルもやっぱり日本から船で中国に渡って、北京、蘭州、ツォエ、タクツァン・ラモ。ここにしばらく滞在のあと、蘭州から西寧、ラサに行ってネパールに抜ける計画だそうで、チベットは初めてだけれど、ネパールとインドには何回も行っているらしい。瞑想の話になると突然アツくなって、日本語の単語混じりで話が止まらなくなる。
「ジェダイなんだよ、チベットは」
フィルが言って、るりちゃんが答える。
「マスター・ヨーダ? 私、じつはスタートレックのほうが好き。ギャラクティカの昔のシリーズもいい」
どうやらるりちゃんはSFマニアだったらしい。私には、何を言っているのかさっぱりだった。
「でもエピソード6は好き。イウォークって、チョーかわいいよね。チベット語しゃべってるし」
「ジェダイ・ナイツは?」
「なんか、怒りを捨てなさいとかどうこう言ってるわりにはけっきょく戦争やってて、あれってどうなのとか思う」
「それはまあ、映画だからね。でも、ジョージ・ルーカスは東洋思想の影響を強く受けていると思うんだ」
「黒澤映画好きなんでしょ? ルーカスもスピルバーグも。ある種、オリエンタリズム?」
「いや、ジェダイの思想は、表面的なオリエンタリズムではないよ」
フィルもるりちゃんも激しく盛りあがって、るりちゃんがそんなに話好きな子だとは思わなかった。私は置いてけぼりだったけれど、頭のいいお坊さんは理屈っぽいと言っていたるりちゃんがけっこう理屈をこね回してフィルと話している姿を見ているのは、なんだか楽しい。
話はあちこちに飛んで、宗教のことから、インドのお菓子とか、アジアの屋台文化、チベットの歴史、日本のサブカル、またSF。そうしているうちにすっかり夜になり、そのまま晩ごはん。
私が初めに選んだ宿に泊まっているらしいフィルにさよならを言ってから、帰り道、やっぱりるりちゃんはアイスを買う。寒い部屋に戻ると、また足湯。
「るりちゃんて、あんなに議論好きだとは思わなかった」
「彼は、話してておもしろい。極端なんだよね、私。フィルは、ふつうに変な人だからいいけど」
「ふつうに変な人って、どんな人よ」
るりちゃんがせえのと言って、ジャンケン。また私の負け。
「なんで勝てないのかなあ」
ブツブツ言いながら、洗面器を持ってトイレに行く。帰ってくると、今日もるりちゃんはチベット語の自習中。
右手の中でペンをくるくる回しながら、「ごめんね。なんか、二人だけで盛りあがっちゃってさあ」
「べつにいいよ。るりちゃんの、新たな一面を見た気がした」
「めんどくさい外人だと私、何も話さないんだけどね。実際、英語そんなに話せないし、向こうもコイツ言葉わかんないならいいや、みたいになるし。一番めんどくさいのは、日本人だね」
「私、ほとんど旅行者と会ってないもん」
「日本の男子って、めんどくさいよ。人に聞いてほしいひとりごととか言う子、多いと思う。話したけりゃ何か振ってくれれば、私も日本語話せなくはないからちゃんと答えるけど、なんか誰に話しかけてんだかよくわかんない子って、私あまのじゃくだからついつい黙っちゃって、感じ悪い女だなって思われてるんだろうなあ」
「ああ、香港で会った日本人の女の人が、日本の男の子ダサいって言ってた」
「今、若い子の旅行熱とかそんなに高くないみたいだけど、十年くらい前とか、自分を探してますみたいな自分に酔ったような子が多かったらしいよ。でも、自分を探してるんなら、このへんに落ちてないのは確かだよね」
「なんで?」
「我執を捨てろってのが、仏教でしょ? 自分が自分がってのが苦しみを作りだすから、自分かわいいってのなくそうって、修行するんじゃん? と、私は思う」
準備して、二人布団に入って天井を見上げる。せえのと言いだすのはるりちゃん。そして、どうしても勝てない私。
「いや、もお」
「まりちゃん、弱すぎ。話になんない」
「るりちゃんが強すぎ」
「ふだんの行いがいいから、ペルラモがついてるんだよ」
チベット服を頭まで引き上げるるりちゃんに、「息苦しくないの?」
電気を消して、私もモゾモゾと寝袋シーツの中に入る。
「私、顔になんかかぶってないと寝らんないもの。日本で、風邪引いてもいないのに、よく私マスクするの。あの息苦しさって、たまんない」
「変な子だとは、なんとなく思ってたけど」
「人に害には、なってないもの」
「るりちゃんがマスクしてビーサンでゆらゆら歩いてるとこ、見てみたい。日本で会おっか?」
「実は、バッチリ決めてっちゃったりして。まりちゃん、帰国はいつごろ?」
「それが、決めてないんだよね。来ることばっかり考えて、あとは何も。変でしょ? チベット行こうって思ったら、いろいろ調べて準備して、でも、どこ行って何しようとか、何も考えてなかったの。ううん、どこ行って何すればいいのか、わかんないの。でもチベットには絶対行かなきゃって、思ったのね。私のほうが、るりちゃんよりよっぽど変な人だよね」
「気持ち、わかるとは言わないけど、そういうのって、あってもいいかもね」たぶん、チベット服から顔を出してこっちを見ているようで、「でも、まわりビックリしただろうね。まりちゃん、急にチベット行くとか言いだしてさ」
「そうだね。私、考えすぎて何もしないってか、基本、思い悩んじゃって何もできなくなるんだけど、たまあに突然何も考えないで走りだすことがあって、看護師になったのもそう。私の高校、けっこうな進学校でね、先生にそこそこの大学ならふつうに入れるって言われてたんだけど、ある日突然、私看護師になりますって。先生もお父さんもお母さんも、みんなビックリしてた。まあ、そのときは私の人生だからって好きにさせてもらったけど、今回はさすがに」
「そうとう、怒られた?」
「お姉ちゃんはコウちゃんのこと知ってたから、今行かないとあんた一生後悔するよって。お父さんお母さんは、ずっと気まずいまま。でもね、私のお父さん、若いころは苦労人だったみたいで、自分のやりたいこと何もできなかったらしいのね。テレビで海外の紀行ものとかあると必ず見てて、そういうの好きなんだと思う。私が男の子だったら何も言われなかったんだろうかとか、ときどき考える。るりちゃんとこは?」
答えがなくて寝てしまったのかと思ったら、「ウチは、放任主義」ちょっと間をおいて、「自由奔放」
今度こそ、寝てしまったんだろうか。続きがなくて、答えを待っているうちに私も眠っていた。
十二月三十一日
大晦日。
タクツァン・ラモの日々は、リンコルを歩いて問答を見物して、妖精の谷を散歩してフィルと話して。ひとりだったり、るりちゃんとだったり。
母方の親戚は仲がよく、私が小さいころは、年末年始は母の実家に親戚一同が集まるのが我が家の習慣というか儀式で、私はそれが楽しみだった。お正月に向けて大人たちが忙しく準備に追われている様子をみているのはなんだかワクワクしたけれど、最近は準備する側だったり、病院の中でお正月をすごしたこともある。
今年はまったくの自由で、フィルと初めて会ったとき彼がいたほうの岩に登ると、何をするでもなくただ空を見上げて、流れる雲を見つめていた。
小鳥のさえずりに混じって、るりちゃんの声。ブツブツとお経を暗誦しているようなのに、なぜか本人はそう認めないでただのひとりごとと言い張る。身体を起こして声のほうを見ると、谷の入り口からるりちゃんが、手に持った一メートルくらいの木の棒をブンブン振り回しながら歩いていた。私に気がつくと、手を振る。岩をよじ登って、私の横に座った。
「その棒、何?」
「犬対策」
ニンマリしながら、答えるるりちゃん。
「犬?」
「昨日さ、セルティの向こうの村に行って、犬が暴れ回ってんの見たの。チベット人がビビるくらい。チョービックリ。私も、こりゃヤバいって思ったわけ」
私はもとの姿勢に戻って、また雲を見ながらとりとめのないことを話しだす。
「なんか、不思議だよね」
「犬が?」
「じゃなくって、たとえばね、日本で生活してると、毎日毎日働いて、家に帰って寝て、また起きて。同じことの繰り返し。そんで気がつくと、一週間が終わってて、一ヶ月、一年。今ここでこうしてるのって、私の責任で何をするのも自由で、なんにもすることないようで、いつの間にか一日終わって、一日長いようで、もう何日? すぎた日数えると、あっという間」
「まりちゃん、そろそろやることなくなって飽きてきた?」
「ううん、そんなことないよ。毎日が新しい発見。昨日は、フィルに中国のインスタント麺はお湯で戻さないでそのまんまバリバリ食べるって、教えてもらった」
「まあ小さい村だから、ときどき退屈はするね」
「退屈とかじゃあ、ないんだよねえ」
るりちゃんは毎日なんだかんだやることがあるから、退屈はしていないはずだ。よくメモを取りながらお坊さんと話をしていて、そうやって言葉の練習をしているらしい。チベット文字も、右手の中指にペンだこができるくらい練習していた。でも、そんなところを私に見られるのを、なぜかやたらに恥ずかしがる。
「そろそろ、出よっか」
両腕で膝を抱えたるりちゃんが、私を見ながら言う。約束したわけではないけれど、話の流れ的に、次に行くのは甘粛省ガンロ・チベット族自治州のサンチュ県、ラブランに決まっていた。
「いつにする?」
私が聞くと、「あさって」
「明日とかじゃ、ないんだ」
「一日、心の準備が必要」
私も膝を抱えて、「なんかさあ、コウちゃん、何やってすごしてたんだろうなあって、思う。突然ポンと行って、帰ってくるの。途中連絡がなくなる理由はなんとなくわかったけど、半年とかいなくなられると、コウちゃんにとって私ってなんなんだろうって、思ったりする。一度ね、聞いたの。私とチベット、どっちが好き? って」
「それは、すごい難しい質問だよね。カテゴリーが、まったく違うじゃん?」
「うん。そうなのはわかってたんだけど、私もいやらしいけどね、そう、聞いてみたかったの」
「で、なんて?」
「チベット」そのときは、なかば冗談のようでもあり、でももう、本当の意味を確かめることもできず。「お互い、好きだとかあんまりそんなこと言わないでウヤムヤなまま付き合ったような感じだったんだけど、どうなのかな」
「不器用だったんじゃない? お互い」
「そう、かもね。私にとって、コウちゃんってなんだったんだろうとか、コウちゃんにとって、チベットってなんだったんだろう」
日が陰った。一日の中に四季があるって、誰が言ったのか。ちょっと太陽が雲に入っただけで、急に寒くなる。
私もるりちゃんも、寒いときに備えて服は着込んだまま。暑くなっても乾燥した気候のおかげで汗が気にならず、草原のチベット人がいつでも分厚いチベット服ですごしている理由がよくわかった。
「るりちゃんは、なんだと思う? チベットの魅力って」
「三色パンみたいなとこ、かな」
「三色、パン?」
「噛むほとに滋味が出る、みたいな」
「わかんない」
「いろんな味わいかたがあってさ、要約するのが、難しい」
「で、三色パン?」
「カニパンでもいいよ。足からにしようか、ハサミにしようか、お目々も捨てがたい、とか。私、チョー好き」
「やっぱり、わかんないや」
雲の中から、太陽。
「今日は大晦日だよ。明日から、新しい一年」
彼女はそう言って、立ち上がる。
私も、あんまり思い悩んでもしょうがない。「わかってるつもりなんだけどねえ」立ちあがって、「お茶行こ」
るりちゃんを誘って、村に戻る。
「チベットのお正月って、いつ?」
るりちゃんを振り返りながら聞くと、「地方によって。ここは中国の旧暦と同じで、ラサとかカムのほうだとチベット歴ってのがあって、だいたい旧正月の一ヶ月あとになるんだけど、最近はなぜか同じ日って年が多いんだよね。来年も、ギャもチベットも同時にお正月」
「どんな感じ?」
「ひたすら飲んで食って、みたいな。こっちのほうだとゴンパで法要とかあるんだけど、ラサは大きなお祭りとかなくて、ただ飲んで食って。アブーとか知り合い多いから、お呼ばれに連れてってもらうと楽しいかもよ。ラサ行くんだよね?」
「うん」決めたは決めたけれど、行ってどうしよう。「どんな人なの?」
「アブー? 彼はねえ、謎。大いなる謎。日本が生んだ、世界に誇る謎。謎が服着てバター茶飲んでツァンパこねてチベット語の歌口ずさみながら歩いている感じ」なんだか、楽しそうに話するるりちゃん。「前ラサで、旅行者何人か集めてランクルツアーに行ったことがあんの。ご飯食べるとき私たちとじゃなくて、彼必ずランクルの運ちゃんとかチベット人チームでいっしょに食べるのね。誰が払うかでケンカみたいになってたりとか。そうかと思うと、インドで道に迷ったネパール人に親切に道教えてたり。順応性が高い人なんだよね。でも日本人相手だとなぜか人付き合い悪いからさ、ランクルツアーとか行くと、私がフォローしないと危険な発言が多くてチョーめんどくさい。まだラサにいるはずだよ。ロサー終わったら、ネパール行くとか言ってたかな」
谷を出ると、赤いお堂の裏を回ってリンコル。
「何してる人なの?」
「それも謎。なんかわかんないけど、よくチベット各地に出没してるみたい。気が向いたら、チベット人に日本語教えることもあるって。フリーで一回いくらみたいな仕事してるから、一年の半分働いて半分チベット、とか」
「そういう生活も、あるんだねえ」コウちゃんの暮らしも同じ、日本で休みなく働いて、チベット行って。
「あんまり、人にはすすめられない生き方だけどね。まあ、私も似たようなもんだけど」
「るりちゃんは、今、仕事とかは?」
「バイトしてお金貯めて、チベット。似たようなってより、まるっきり同じだね。着の身着のまま、フラフラと」
いつものおばあさん二人組みが、歩いている。私たちを見て、「デモォ!」るりちゃんが「ヤーデモォ!」
「るりちゃん、どんなバイトしてたの?」
「いろいろやったよ。キャンギャルとかもやったし、テキ屋とかもやった。フード関係は好きだったなあ。コンブ干したり、みかん取ったり、サトウキビ刈ったり、シャケさばいたり。不景気っても探せばいろいろあるもんでさ、旅行中に会う人って、けっこうそんな人いるよ」
フィルが疲れたような感じでトボトボ歩いているのに、追いついた。インスタントのラーメンを、硬いまま袋からボリボリ食べている。
「ああやって食べたほうが、おいしいんだって」
るりちゃんに言うと、「私、よくやる。日本でも」
「ああまあ、るりちゃんなら、ねえ」
「何か?」私にそう言ってからフィルに、「ハァイ!」
「ニューイヤーイブだねえ」
あんまり関心なさげに、フィルが言った。
「パーティーでもする?」
私が言うと、るりちゃんは乗り気になって「いいねえ。どこにする?」
なかば無理矢理にフィルも誘う。ぜんぜん乗り気ではなさそうなのに、彼は嫌とは言わない。
「いつものレストランで、夜。オーケー?」
そう言って最終的に決めるのはフィル、いつもの回族レストランに集合することになった。
キルティ寺の本堂に行くフィルと別れて、私たちはリンコルを続ける。
「最初、白人にしちゃあ珍しく自己主張しない人だなあって思ってたけどさ」前を歩きながら話しているるりちゃんは、棒を持っていない。「私たちに合わせてくれてんだよね、彼。そのへん東洋的ってか、実はジェダイの騎士なのかなあ」
「それはいいけど、るりちゃん、棒は?」
一瞬立ち止まって、「気いついちゃった? 実は私も、アレっとは思ってたんだけどね」
「犬とか、そんなに怖いもんなの?」
「飼い主が半野生だもの、チベット犬もワイルドだよ。チベット人もときどきビビってるくらいで、マスチフっての? 牧民とかのでっかい犬って立つと私くらい身長あったりするし、狂犬病って、発病したらほぼ百パーセント死ぬんでしょ?」
「私もけっこう調べた。インドとか、ふつうに狂犬病の野犬がウロウロしてるとかって。でも、噛まれたあとに予防注射効くからね」
「注射の針がまたヤバいって話じゃん? でもそう考えてくと、何もできなくなるしね。とりあえず、犬には近付かないようにしてる。猫はチョー好き」
というか、るりちゃん自身がどこか猫っぽい。
マニ車堂で、二人でオム・マニ・ペメ・フムと言いながら大マニ車を回す。そして、回族モスクが見えるとゴール。
夜にフィルと集まる約束だけれど、いつものレストランに行ってお茶のついでにお昼ごはん。るりちゃんとあさっての計画を話す。
ここは小さい村なのに交通の便はよくて、ガンロ自治州の州庁があるツォエ行きのバスは一日二本。お昼のバスでツォエに行って一泊、次の日にツォエからサンチュ、ラブラン。その次は、サンチュに行ってから考えればいい。
サンチュ県のラブラン寺はツーリストが多いから、一応なんでもそろっているらしい。ネカフェに行って、いい加減、家族にメールしなくては。
「るりちゃん、何日くらい滞在の予定?」
「予定は、未定。ラブランはちょっと騒がしいから、もしかしたら青海のほうに行くかも。ここに戻ってくるのもアリだなあ。大タンカとかチャムとかあるしね。まあ、このへんウロウロしながらお正月、かなあ」
「騒がしいんだ、ラブラン」
「そうね、昔っからの観光地だから、英語人口がそれなりにいてウェスタン多くて私はちょっと。でも、ラブランが大きなゴンパだからチベット人の巡礼者も多くて、悪くはないと思うよ」
「るりちゃんて、西洋人旅行者そうとう嫌いだよね」
「そう、かな? フィルとかは好きよ。別れた彼女にいつまでも未練たらたらだったりとか、かわいい。でも、日本の女子はナメられてんだかなんだか変なちょっかい出してくるのがウザかったりして、ウェスタン男ちょっとめんどくさい。オバハンはオバハンで、自分のルール人に押しつけてくるようなとこあって、タカビーな感じがやなんだよね。まあ、一番めんどくさいのは日本の男子だったりするけど」
「言葉通じるから?」
「あとさ、旅人同士で誰がイニシアチブ取るかみたいな、自慢話とか聞かされんのチョーめんどう。とくに女の子の前だと変に張り切っちゃう子とか、彼は彼女に気があってみたいのとか、人間関係がね。一番ムカつくのはさ、チャイ語使いが頼みもしないのに横から口出して通訳みたいなことするの。実際チベット人もチベット人同士チャイ語使ったりしてるし、やっぱり公式には中華人民共和国だからチャイ語使いがチャイ語使うのわかるんだけど、私はチベット語使いたいもん。せっかく習ったんだし」
「なんで、チベット語習おうと思ったの?」
「よく言われるんだけどさあ、なんでだろうねえ。前世の因縁かもよ」
「信じてないんじゃなかったの?」
「あれえ? そうだっけえ?」とぼけた感じでそう言ってから、「チベットの人たちと、チベットの言葉で話してみたいって思ったの。そういうのに、あんまり深い理由ってないよね。私はたまたまここに来て、何かシンパシーを感じたってだけ。なんの得にもなんないもんね、チベット語しゃべれても。チャイ語のほうが、よっぽど使えるもん」
「住もうとかは、思わないの?」
「こっちに? それは、難しいよ。外人が中国住むって、ビザとか仕事とか考えると、結婚でもしない限り無理」
「しちゃえばいいのに」
「チベット男と? やあだ。絶対いや」
「なんで?」
「働かないんだもん。それに、好きになったのがたまたまチベット人ってのはあり得るけど、チベット人だから好きになるってのは私絶対ない。チベット人、確かに美男美女が多くてさ、カムの男はイケメンが多いとか言ってる日本の女子は多いけど、私、イケメンに萌えたりとかべつにないし、ただイケメンのチベタンってだけじゃあ、いっしょになるメリットないもの」
「男女の仲がけっこうルーズだみたいなこと、河口慧海に書いてあるよね」
「河口慧海って、もんのすごく生真面目な人だったんでしょ? でも道徳観念ってのは社会的な背景でもって変わってくるもんじゃん? 私、チベット人じゃないからなんとも言えない。けど、オヤジが女の子のおケツとかペロンって触ってたり、女の子もヘラヘラしながらちょっとやめてよくらいな感じなの見ると、セクハラとかは気の持ちようなのかなってときどき思う。私はもちろん、触られたら大声出すけど。このへんアブーと二人で周ること多いんだけどさ、そうすると、お前はこいつと一つのベッドで寝てんのかってよく聞かれたり、ひとりでいるとチベット男すぐヤリたいって言って寄ってくんのとかちょっとウザいけど、まあそれはそれで、ね。日本じゃないし、しょうがないのかなって」
「言い寄られたことって、あるんだ」
「よくある。お前とヤリたいって。私は、あんたとはヤリたくないって言い返すけど」
「るりちゃん、かっこいい」
八宝茶の氷砂糖は消えて、お茶の味も薄くなってきた。一度宿に戻って日課の細かい用事を済ませてから、夕方二人でレストランに行く。フィルはもう来ていて、ストーブに当たりながら、いつものように疲れた様子で八宝茶をすすっていた。
「やあ、早いね。何にしようか」
何にと言われてもパーティー用の料理とかあるわけでもなく、三人がそれぞれチャーハンを頼む。
「ビールでも、飲む?」
るりちゃんが言って、「マリは?」
フィルに聞かれると大いにうなずく私。ビールが三本、ささやかな年越しのパーティーになった。
「でもここ、イスラム教徒だよね」
私が言うと、「ムスリムでも実際飲む人は飲んでるしね。ここだと、外人相手の商売だし」
るりちゃんのあとにフィルが、「決まりごとを守っているかで、信仰の深さは測れないよ」
知っている単語の意味から推測しているのか、フィルは私とるりちゃんの会話をけっこう理解しているようだった。るりちゃんはときどき、実はフィルって日本語ぺらぺらなんだよと言う。私たちに話す英語もどうやら使う単語と文法を選んでいるようで、わかりやすい文章。
あとで聞いたら、日本の大学で英語を教えていたらしい。日本に住んで日本人の彼女がいて、なのにチベットへの想いが深く、なんとかリンポチェがどうのとかの話になるとるりちゃんと熱く語りだすから、ときどき私は置き去りになる。
でも単純に東洋の神秘みたいなのが大好きなのかと思うとそうでもないらしくて、「たとえば瞑想を極めると空を飛べるとか、そんなこと、僕は信じていない」
フィルがそう言うと、るりちゃんが「じゃあ、なんで毎日岩の上で瞑想してるの? 何を目指しているの?」
「自分の感情をコントロールすること。究極的には、それが心の平和」
心の平和。るりちゃんは、自分なんてものはここらへんには落ちてないと言っていたけれど、心の平和は、探して見つかるものなんだろうか。
みんなもう一本づつ飲んで、パーティーはおしまいにした。
「嫌いじゃないんだけどさあ、弱いんだよね」
るりちゃんは赤くなっていて、「おひらき?」フィルが完璧な日本語でそう言うのを合図に、三人椅子から立ちあがる。
宿に帰ると、コーヒーを飲みながら足湯の時間。るりちゃんが持っている大きな瓶入りのコーヒーは、上海で買ったと言っていた。
「瓶は重いから小袋入りのインスタント買う、って、カムパーの人が言ってたよ」
「重いんだけどさあ、袋入りだと濃さの調整ができないじゃん?」
「そんなの、お湯の量で調整すりゃあいいんじゃないの?」
彼女はハァと大きなため息をついてから、「そういうことは、もっと早く教えてよ。私今まで、ずっとこの重たいの持って旅してたんだよ」
「私のせい?」
ハハハ。それからジャンケン。
「ジャンケンする意味、あんのかなあ」
今日も、私がお湯を捨てに行く。まだ二回しか勝っていない。
部屋に戻るとるりちゃんが、「当番制にする?」
「いいよ、あと一日でしょ?」
「まりちゃんはさ、考えすぎなんだってば。頭の中で、思考の歯車がグルグル回ってる音が聞こえてきそうだもん。考えすぎるから、あいこの次は必ずチョキ出したりとか、チョーわかりやすい」
「そうなんだよねえ、何事も」
枕元に積んであった本の間から、コウちゃんの写真集を取って眺める。
「写真?」
「うん。コウちゃんの、忘れ物」
「見せて」
ほかの人だったら、たとえば洋子さんとかノブさんだったら、隠していたかもしれない。なのにるりちゃんには、はいとふつうに手渡せた。
彼女はパラパラとめくりながら、「ゴンパ写真集?」そして真ん中あたりに挟んであったスナップ写真を一枚づつ見て、「この人、知ってる」
赤い袈裟の、お坊さんの写真。
「どこの人?」
「キルティ。ここの坊さんだよ」
コウちゃんの心に少し近づいたようで、ありがとうと言って返された写真の中からその一枚を抜き出すと、ただじっと眺めていた。
るりちゃんが歯を磨きながら、「明日、探しに行こうか? その坊さん」
私は、写真を眺めている。エンジ色のマントをかぶってやや振り向くような感じの、シニア部門で問答しているようなお坊さん。バックの建物は、言われてみればキルティ寺の本堂かもしれない。
「たぶん、本人に渡す用の写真だよね、それって。渡してあげたら、喜ぶと思うよ」
るりちゃんはそれ以上何も言わないで、歯を磨いている。
「そう、だね」
私も歯を磨き始めると、るりちゃんはトイレに行って、返ってきたら交代で私がトイレ。
部屋に戻ると、るりちゃんはチベット服の中。握った右手だけが見えている。
「ジャンケン、ポン!」と言いながら顔を出した。私の勝ち。
「ええ、うそお」
またチベット服の中に、顔を引っ込める。
私は上着と軍隊ズボンを脱ぎながら、「いいよ、電気消して」
いつもは、るりちゃんが言っている言葉。
「ちぇ。まあ、たまには勝たせてあげないとね」
ノロノロと起きあがったるりちゃんが、部屋の電気を消す。
ベッドに戻るるりちゃんに、「おやすみ」
私の二〇〇七年は、静かに終わった。
西暦二〇〇八年一月一日
新しい一年、新しい気分、か。
寝袋シーツを脱ぎ捨てるようにして起きると、横のベッドでるりちゃんが、チベット服をマントにしてお坊さん座りをしている。小さなメモ帳を見ながら身体をゆすってモゴモゴと、お経の練習らしい。
「あけまして、おはよう」
いつもの寝起きの声とは、違っていた。
「どうしたの?」
あいさつ抜きでそう聞くと、「たまには、そんなこともあるよ。今年もよろしくね」
「うん。よろしく」
「まりちゃん、何か言いたそう」
「べつに。雪でも降るんじゃんとか、そんなこと思ってないよ」
「なら、いいけど」
コーヒーを飲んでからキルティ寺の本堂に行くと、まだ誰もいない。僧坊のあちこちからは、読経の声が聞こえる。ジャケットのポケットから昨日の写真を取りだして見ると、確かにこれは、本堂前。
ナンコルをグルグル回っていたら、お坊さんが集まりだした。るりちゃんが知り合いを見つけて声をかけると、そのお坊さんは立ち止まる。
「まりちゃん、写真」
写真を渡すとるりちゃんはお坊さんに走りよって、すぐに二人の周りにお坊さんの輪ができた。みんなマントを胸の前で合わせて顔だけを出している。
あとから近づく私にるりちゃんが、「インド行ったって。この坊さん」
写真を渡したかったと思う私と、そのお坊さんに会わなくてよかったと思う私。同時に、まったく逆のことを考えている。どうしてだろう。でも、決まった。ネパール、そして今回でなくてもいい、インドに行こう。
本堂から銅鑼の音が響いて、お坊さんたちは建物の中に。
「おととし、インドに行ったんだって。私会ったのは、二〇〇二年だったかな? アブーといっしょに部屋に呼ばれて、お茶飲んだりしたんだ」ちょっと間を空けて、「ごめんね、なんかさ」
「るりちゃん」
「え?」
「ありがとう」
「う、うん」
どっちから言いだしたわけでもなく、二人で妖精の谷を歩いた。
フィルがいる。いつものように岩の上に仙人のように座って、硬いままのインスタント麺をバリバリ食べている。
「ハァイ!」
るりちゃんが、大きく手を振る。
岩の麓に近づいて、「私たち、明日出るよ」
フィルはインスタント麺を食べる手を止めないで、「ぼくはもう少しここにいるよ。たぶん夏河で、また会おう」
なんだかそっけないような感じだけれど、それがこの人流らしかった。
私たち二人は、谷のもっと奥へ。
「四〇〇〇メートルくらいあるんだっけ? あの山、手が届きそうだよね」
目の前の岩山を眺めながら私が言うと、「と思うでしょ? それがさ、意外と危険」
「試したんだ」
「うん、もちろん。そして後悔したさ」
笑ってはいても、るりちゃんの話す感じからすると、けっこう大変な思いをしたっぽい。
「獣道みたいな、シープ道? 辿ってったんだけど、途中から見失っちゃってさ、崖にこう、へばりつくような感じになって、滑落一歩寸前。危なかったなあ。アブーに言うと怒られるから、黙ってたけど。そういう危険行為とか、激しく怒るんだよね、あの人」
「女だから、とか?」
「そうじゃあないんだよね。チベット奥地とか女の子が一人で旅するのは危ないって言う人もいるけど、最低限気をつけることって、世界中どこ行っても同じじゃん? そうじゃなくって、山登るのに準備足りないとか、そういうのが許せないらしいの。ときどきめんどくさい」ちっともめんどくさそうではなく、「まあ、心配してくれてんのはわかるしさ、小言は多いんだけど、必要以上におせっかいってこともないし間違ったことは言わない人だから、私も黙ってるけど」
「香港でね、オーバー三十くらいの日本の女の人に会ったの。麗江までいっしょに行ったんだけど、その人、旦那さんがいるんだって。でも旅行好きな人で、一ヶ月とか、旦那さん置いて一人で旅行行くんだって。そうやって旦那さんのことほったらかしのようでも、すごい好き合ってるんだろうなってのが言葉の端々から感じられて、あんなのって、うらやましいって思った」
「いつもいっしょじゃなくても、お互い心は結びついて、みたいな?」
「うん、そんな感じ」
突然、るりちゃんは立ち止まって、「まりちゃん?」
「え?」
「おなか空いた」
そのひとことで、村のほうに帰ることにする。
「まりちゃんはさ、その、コウちゃん? と、そういう関係でいたかったのかな? なんだか、絵に描いたようなプラトニック」
「どうだろうねえ」
るりちゃんの鼻歌を聞きながら広場に戻ると、フィルはもういない。
「いいよなあ。フィルもるりちゃんも」
「何が?」
「なんかさあ、主張できないんだよね、私。フィルは大人だから、人に合わせることができるじゃん? でも、みんなの意見を出させておいて、最終的にそれを一番無難な方向に落ち着けるようにまとめる、みたいな」
「私は、いつもうるさいよね」
「ううん。自分の意見をしっかり持ってて、それをきちんと人に伝えられる人って、うらやましい。キャラもあるんだろうけど、るりちゃん曲がったこと言ってないし、キツいこと言われても許せるような。私は、主張できないし、だからって人に合わせられるわけでもないし、言いたいこといつも飲み込んじゃって、あとになってブツブツ言うような」
「そんだけ自分で分析できてりゃあ、いいじゃん。それを活かして、明日がんばりなよ。なんちって、私、えらそうなこと人に言えんのかって」
パンデン・ラモの洞窟には、チベット人巡礼。大きなカメラバッグを持った中国人の女の子二人組とすれ違った。中国人ツーリストは男女問わず原色のジャケットが大好きで、遠くからでもすぐに見分けがつく。
その後ろ姿を見ながら、るりちゃんに「チベットの人たちは、どう思ってるのかな? 中国人のこと」
「今の発言、チョー危険。私だからいいけど、チベット人には絶対聞いちゃあだめだよ」
「なんで?」
「政治的な、さ。ギャもチベット人も中華民族はひとつってギャは言ってるけど、現実には、やっぱりそうでもないからね。チベット人、ギャ嫌ってる人は多いし、ギャだって、こっち住んでる人はチベット人を小バカにしてるし。地元じゃ仕事ないから、しょうがなく来てる感じ。だから政府がいくら移民奨励しても、ラサのギャなんか二、三年でお金貯めて帰っちゃう人、多いらしいよ。でもチベット人って口がうまいからさあ、ああいう我が国偉大みたいな成金連中なんかには、まったく気づかせないんだよね。今、すごい流行りでしょ? ラサの観光客の九十パーセント以上はギャ成金なんだって。ギャ成金の来る観光地って、ロクなことにならない」
「そういやギェルタンが、コウちゃんの写真とぜんぜん違ってた」
「私、デチェン方面には行ったことないけど、相当ひどいってアブーが言ってた。でも公にはギャは嫌いだとかは、なかなか言えないからね。ギャ主導の変なかたちの開発に心を痛めてるチベット人も、多いんだろうけど」
「言ったら、どうなるの?」
「ふつうに観光で来てるぶんにはわからないけどさ、つまらない発言のせいで、ある日突然人がいなくなる世界なんだってさ、ここは。ヒマラヤの向こう側で、私、いろんな話聞いた。メールの内容がもとになって、逮捕とかもあるんだって。逮捕っても、つまらないことなんだよ。チベット人、ただチベット人として暮らしたいだけなのに、それを分裂主義だとか反動分子だとか四字熟語みたいに漢字並べて。でもね、チベット人って強い人は本当に強いから、刑務所でひどい拷問とかされても、絶対に自分の意思を曲げない人とかいるんだよね。拷問だよ? 暗黒の封建時代から解放してやったって言ってる一方で、まだそんな中世の魔女裁判みたいなことやってさ」何か彼女の心に来るものがあったのか、少しおいて、「ヒマラヤの向こうで、いろんな話聞いた」
もしかしたら、少し涙ぐんでいたのかもしれない。
ドゥクチュ川に沿って二人何も言わずに歩いて、キルティ寺入り口の門のあたりでるりちゃんが、「何、食べよっか? 最後のお昼」
「アップルパイ」
私が答えると、「私も、そう思ってた」
いつものレストランに行ってアップルパイを二つ頼むと、ここの人は、必ず通りの反対側の店にリンゴを買いに行く。
窓越しにその様子を眺めながら、るりちゃんが「なんかさ、私が初めて来た何年か前と比べても、この村もものすごく変わっちゃったけど、あの注文されてからリンゴ買いに行くとことか、ちっとも変わってなくて安心する」八宝茶をすすって、「こないだ、ストパーかけて真ん中分けの日本だったらチーマーみたいな男の子たちがね、ごはん屋でストーブの周りにたむろってて、そこにキルティの坊さんが入ってきたら、みんな立ちあがって坊さんにストーブの近く譲ってた。上下の関係とか家族大事にするとか、世の中が変わってもチベット人はやっぱりチベット人なんだなあ、って、安心する」
「人のと壁が、あんまりないのかな。けっこうフレンドリーってか、そんな感じだよね、チベット人って」
「よく言えば、ひとなつっこい。悪く言えば、なれなれしい。まあウェルカム精神旺盛で、家に来いとかお茶飲んでけとかね。とくに日本人はチベット人受けがいいってか、日本人でチベット語しゃべると、お前いいやつだって言われる」
「同じ仏教徒だと思われてるって、ことなのかな?」
「それもあるし、やっぱりギャが嫌いってのもあると思うよ。昔っからけっこう親日的な部分はあったみたいだけど、中国が反日教育とかやってると、その反動もあるよね。それにチベット人、意外と外の世界の出来事知ってるから、アメリカが助けてくれるとか、信じてる人いたりしてね」
「むずかしいよね。政治とかさ」
「うん。なんか、そっち方面でアツくなっちゃってる人もいるけどさ、私は、そういうのはいっさい抜きにして、ただチベット人と楽しく付き合ってこうってだけ」
最後のアップルパイを食べてから夕方もう一度キルティ寺を回ると、タクツァン・ラモの日々は終わり。晩ごはんは、いつもと違う回族食堂。
「明日は甘粛だから、暖かいよ」
拌面を食べながら言うるりちゃんに、「冬だから、ボイラー止めてるとかじゃないの?」
「あり得る話だから、怖いよね」
「でも私たち、冬だからしょうがないやとかチベットだからしょうがないやとか、言っちゃうんだろうね」
帰り道、星がきれいなことに今になって気がついた。でも寒さに負けて、早足で宿に戻るとパッキング。お湯捨て、消灯と初めて二連勝した。
「なんか、悔しい」
そう言って部屋の電気を消するりちゃんに、「実は今まで、勝たせてあげてたの」
彼女はチベット服に巻かれながら、「ふうんだ。明日は、ゆっくり起きるの?」
「うん、そうだね」ちょっと間をあけて、「るりちゃん?」
「んん?」
「楽しかったね」
心の中の雪の国~私のチベット旅行記~ その8 虎と女神と風の馬