聖夜(イヴ)の待ちぼうけ

よしの かい

聖夜(イヴ)の待ちぼうけ

キッチンで大きな物音がした。
鍋を落としてしまったのだろう、同時に短く甲高(かんだか)い叫び声が聞こえて来た。
「─ママ、だいじょうぶ?」思わず立ち上がりかけ、さやがそう声をかけると、
「うん─」とだけ生返事が聞こえただけでまた(せわ)しない包丁使いが響いた。
「─チャンネル、変えといてよ。時間になったら」ガスコンロのバーナーが強くなる音に混じって念を押すように母が言った。
テレビの横にあるデジタル時計は六時半になろうとしている。
「─ママ、あと三十分だよ」そう声を張った時今度は吹きこぼれた何かが熱を帯びたコンロで蒸発する音が聞こえた。

「─よし!そこよそこ!連打連打っ!」ソファにあるウサギをもじったクッションを抱きしめ興奮した様子で母が声を上げる。
ボクシングファンと言う訳でもないらしいが無敗記録を更新しているイケメンの選手がお気に入りでタイトルマッチの観戦は決して見逃さない。
「─ほら見なさい!負ける訳ないんだからっ!」やがてゴングが鳴り響き仰向けにマットに沈んだ相手の外人選手を指差した後、まるで我が事の様に小鼻を膨らませ諸手(もろて)を挙げ勝利に歓喜する母は娘の目にも近寄り難い人格に映るのだった。

「─ きょうもおそいね、パパ」そう言うと、
「─明日の分の品出しをしてるのよ。─ったく、要領が悪いったらないんだから。店長のくせに部下を遣うことさえ下手くそでさ─」母は眉間(みけん)(しわ)を寄せ吐き出すようにそう言うと形の良い唇を大きく開いて付け合わせの人参のグラッセを一口に頬張った。
「─あのね。おんなのひとのあつかいは、むずかしいんだって」特製のドミグラスソースを肉汁の滴るハンバーグに丹念につけながらさやが言うと母は咀嚼(そしゃく)している口元を美しく長い指先で覆うようにして、
「─ま、あの人にはそうなのよね」そう言って鼻から笑い声を洩らした。
父母はあからさまに性格が真逆で、気の強い母はいつも無遠慮な物言いを父にぶつけている。そのくせたまの晩酌でちょっとの酒に酔うと父にぴったり寄り添い酔眼を見据(みす)えては鼻にかかった声で甘えたりするのだった。
二人が衝突するのを見たことがない。どんな母の暴言をも父は笑いながら受け止めるからだ。
狭い街中で大手のチェーンのケーキ屋で店長をしている優しい父が誇らしく自慢だった。
明日提出する宿題の作文のテーマも父にした。
時折、母と買い物に行き通りがけにそっと(うかが)い見る店での父はシュークリームみたいな形の純白の高い帽子を被り、明らかに他の店員とは異なる出で立ちをしている。こちらに気づくと笑みを向け、並んでいるショーケースの中のケーキを上手にトングで取り分け箱に(なじ)める仕草もスマートに見え好きだった。
「─ねえ、ママはどっちがすきなの?ボクシングの人と、パパと」またそう訊くと母は真っ直ぐに娘に眼を向け間を置かずに、
「強い人がすき。」とだけ応えた。

「─へえ!スゲエなぁ。サーちんとこ、父ちゃんがケーキ屋なんだあ」
作文の発表が終わり拍手をしながら同じ班のマサルが歓声を上げた。
「どこよ?おみせ」すかさずタイチが口を挟んだ。
「しらなかったあ!いーなぁ、ケーキ屋さん─まいにち、ケーキたべてるの?」口々に向けられる羨望(せんぼう)の声と眼差しが心地良かった。


「─どこよ?─あ。あれか─?」タイチが指し示す指の先に背高の帽子が見えた。
その日の放課後、せがまれて下校途中に友達を引き連れ店に来ていた。
「おれんち、このみせによくくるけど、きづかなかったなあ─」師走を迎えトナカイに曳かれたサンタを描いたスモークの施されたウインドウの隙間から爪先立ちをしながら、まだ夕刻前で客もまばらな店内を窺うようにマサルが声を(ひそ)めた。

「─何だ、まだ寝てなかったの?」その日も遅い時間に父は帰宅した。
「あしたはもう、どようびだもん─」そう応え靴を脱ぐ父親の姿をまじまじと見つめた。
「─ほら、今日はさーちゃんの好きなチョコレートケーキ─」廃棄処分になるからと時折洋菓子を持ち帰ってくれる。いつもの優しい笑顔と差し出された四角い箱を交互に見た時不意に、
『─なあ、ちょっと、せがひくすぎねえ?』笑いを噛み殺したようなタイチの父を揶揄(やゆ)する声が耳に蘇ると、さやは払うように首を振り甘える仕草でその腕にしがみついた。

「─いつか、コーヒーより美味しいココアを看板にするお店を持つんだ─」幾度か聞いたことのある台詞を言い(たの)しげにキッチンに立つ父はその晩、久方ぶりに手間をかけてココアを作ってくれた。
初めに鍋にココアパウダーを入れ弱火で丁寧に煎る。パウダーの色が濃くなり香ばしい匂いが漂ったら一度火を止め牛乳を加え照りのあるペースト状になるまでよく練り、また牛乳を少しずつ加えながら更に練り込む。ココアが完全に溶け込んだら鍋を弱火にかけ静かに全体をかき混ぜ沸騰寸前でまた火を止め、緩く温めて置いたマグカップにゆっくりと注ぐ。
「─わあっ!めっちゃおいしいっ─!」さやが感嘆の声を上げると、
「─ホントにたまに作るから、こんなもんに手間かけられんのよ」母はまたそんな悪態を吐きながら笑ったが一口(すす)り飲み小さく、
「─おいしい」と呟いていた。
その晩はチョコレートケーキと美味しいココアの余韻(よいん)で満ち足りた気持ちで眠りについた。
微睡(まどろ)みの中でどこか遠くで一瞬だけ母の(いきどお)る声が聞こえた気がしたが深く心地の良い眠りから醒めることはなかった。

香ばしい匂いで目覚めリビングに行くと朝食を支度していたのは父だった。
「きょうは、パパもおやすみなの?」土日は店も特に忙しく殆ど休日が合うことがない。嬉しげにそう訊くと父は笑って、
「─有休休暇が余り過ぎててね。会社の人に休むように言われたんだ─」そう応えて忙しげにキッチンに向かった。母はテレビの前に背を向けるようにしてどうやら爪を磨いている様子だった。
「ママ、おはよう─」そう声をかけたがこちらを振り返ることもなく、
「─おはよう」と短く返答するだけだった。咄嗟(とっさ)に明らかな不機嫌さを感じ取ったが執拗(しつよう)な詮索は更に機嫌を損ねてしまう要因になることを知っている。
「─けさは、フライパントーストなんだね。おいしいんだよね─」キッチンを振り返り努めて明るくそう言うと鼻歌を歌いながら父の背に向かった。
やはり店の残り物だが食パンを持ち帰り冷凍して置く。ラップだと小分けにしても剥がすのが大変だがジップロックなら張り付きが弱くて使い勝手が良い。焼く時はフライパンで焼く。弱火で徐々(じょじょ)解凍(かいとう)しながら焦げ付きに気をつけて両面を焼きあげると実に香ばしい、トースターで焼いた物とは格段に違う旨味の深いトーストが出来上がるのだ。
マーガリンを薄く塗り、その上にブルーベリージャムをたっぷり落としていただくと自然に顔が(ほころ)んでしまう。
「─はい。ママのぶんだよ」いつもよりふんだんに落としたジャムを見せるように皿を差し出したが母は、
「─うん。」とだけ応え無表情に受け取った。
言葉少なに食事が済み暫くすると母は(おもむろ)に立ち上がり寝室に向かった。
「─ねえ、パパ。どうしたの、ママ。なにか、あったの?」声を潜めそう訊いてみると、
「─あのね。昨夜、ちょっとね─」父は苦笑してそれだけ応えた。
寝室で休んでるとばかり思っていた母はやがて綺麗に化粧を施し以前参観日で憶えのあるお洒落な装いで出て来た。
「─どこに、いくの─?」さやが不安げに訊くと、
「ちょっとね─」とだけ応え、これも特別な時にしか着ないシックなベージュ色のカシミアのコートに袖を通しながら玄関に向かった。
追い(すが)る様に後をついて行きドアを開けると寒風が入り込み同時にすぐ近くで『カア、カアカア─』と烏の鳴き声が聞こえて来た。母は途端に眉を吊り上げると小さく舌打ちをして、
「何よ、縁起でもない。バカ鳥め─」そう詰りつけ出て行った。

夕刻になり帰宅した母は出がけとは打って変わり上機嫌だった。
「─ねえ、たまには外で食べようか?─」にこやかな表情でさやにそう言った。
「─え。だいじょうぶなの?」父がおずおずと言葉を挟むと母は、
「いつも切り詰めてるんだもん。たまにはいいじゃない」とにこやかに応えた。

程なくクリスマスを迎える夕刻の街中は(きら)びやかなイルミネーションとクリスマスソングに包まれていて、雑踏を行き交う人々の足取りもその喧騒を愉しむ様にどこか浮き立っているようだった。
行く先のすぐ目下でセキレイが敷き詰められた石の隙間に何かをついばんでいる。ついばんではお尻を振りちょこちょこ歩く姿が可愛らしく思わず近づこうとすると、(にわ)かな一鳴きを放ち大振りの羽を広げて羽搏(はばた)螺旋状(らせんじょう)に宙を舞った。(つが)いで動いていたのだろう、もう一羽が(まつ)わりつく様にその動きに加わると短い鳴き声を交わしながら人々の頭上を波を描きながら飛び去って行った。
気づくと一歩先を歩く父母は肩同士が触れるくらいに近く、頭一つほど背の高い母の方から父の短い歩幅に寄り添っているように見えた。

「─おいしかったねえ、えびのドリア」帰宅し変わらず機嫌良さげな母を見つめながら嬉しげにさやが言った。
終始(なご)やかに談笑を交わしながらの食事は愉しく何よりも久しぶりの家族揃っての外出が嬉しかった。
「─パパ、もうねちゃったんだね」寝室に眼を遣りそう声を潜めると母は切れ長の眼を細めて頷いた。
元々酒を(たしな)まない父はグラスワインを二口ほど口にした後、目の周りを真っ赤に染め何が面白いのか口元を緩めっぱなしにヘラヘラしていた。
何かを話す度に掌を宙にひらひらさせる様子が可笑しくて幾度も口に含んだジュースを吹き出しそうになった。
「─あのね、さーちゃん。ママ、お正月過ぎから夕方まで家にいないから─」二人分のマグカップにアップルティのティーパックを差し湯を注ぎ終えた後、母が唐突にそう言い眼を上げた。
「─え」驚いた眼を向けると母は穏やかな表情を崩すこともなく、
「─パパね、お仕事辞めるんだ。ケーキ屋さん─」と言いカップの淵に口を付け熱さに眉間の皺を寄せながら紅茶を一口啜り、
「─今日はお仕事の面接に行って、一発で決めてきた。今度はママが働くのだ」笑みを浮かべ何故かちょっと愉しげにそう言った。咄嗟に返答に窮していると、
「─ずっとじゃないから。だから、いる間、たくさん遊んでもらいな」そう言って今度は歯を見せて笑った。

クリスマスを一週間後に控えた日曜が父の最後の仕事の日だった。
その日、母は前の晩に買い込んだ食材を使って朝早くから忙しくしていた。
「─なにつくるの?ママ」さやが訊くと、
「─コロッケとボルシチ」と応え、
「どっちもジャガイモ使うから、めちゃ買ってきた─」そう付け加えビーツを乱切りにしながらこちらを見て笑った。
どちらも父の大好物だ。
コロッケは熱々のジャガイモの皮を剥いたあと丁寧に潰し玉ねぎのみじん切りを加えまた混ぜ合わせる。次いで生クリームを入れ練り込むように混ぜ、少量の塩だけで味を調える。人参や他の食材、調味料は使わない。お好みでウスターソースをじんわり沁み込ませた揚げたてを箸で割り、口の中に入れると途端に舌一杯に旨味が広がる。もうちょっと細かく箸を入れケチャップを加えるとまた全然別な味わいになる。出来上がりを想像しただけで、はしたないが(よだれ)が溜まる。
ボルシチは定番とまではいかないが母の得意料理の一つだ。
「─今日はね、特別な日だから。パイ生地で包み焼きにするの。ほら─」そう言って冷凍パイのシートを見せてきた。
「─ねえ、ママ。どうしてパパはケーキ屋さん、やめちゃうの?─また、だれかにいじめられたから─?」聞き(よど)んでいた問いかけを思い切って口にした。以前、売り上げが落ち込み店を経営する元請けの上司に罵倒され、『やめたい─』と洩らしていたことを思い出していた。肩を落とし項垂(うなだ)れた横顔の眼鏡の奥の眼が悲しげだった。わざと話を聞いていない振りでテレビの画面に向かっていたが一瞬だけ眼を逸らし眼が合うと父は『─ごめんな。弱っちくて─本当に─』そう小さく呟き薄く笑っていた。

母は調理の手を止め一瞬俯いたが少しの間の後、
「─違うのよ。きっと、ずっと辛かったの。本当は苦手なお仕事だったの。だけど、さややママを守ろうとして頑張ったの。─もっと、自分に見合った仕事がしたいって。─この前、初めてママに言ったの。─本当に─辛そうに─。あまりにも急だったから、驚いて─ちょっとだけキツイこと言っちゃったんだけど─あゝ、そうか。本当にずっと─ずっと、我慢してくれてたんだって─。ジッと顔を上げないパパ見てたら、分かって─。いいよって。いつも、頑張ってくれて─ありがとう─って。そう応えたらね─パパ、─ごめんって─クルって背を向けて、動かなかったの─その背中見てたら、─何だか涙が出て来てね─」俄かに声を(うる)ませてそう応えた。

ミモザサラダの上にパセリのみじん切りを散らし、テーブル一杯に色合いも鮮やかな見事な料理が並んだ。
テレビの横にあるデジタル時計が八時半を過ぎても父が帰宅する様子はなかった。
「─あ。ママ、この人テレビに出てるよ」母がお気に入りのボクシングの選手を指差してさやが声をかけた。

画面一杯に白熱した過去の試合のダイジェストが映し出されている。
「─やっぱり、このひとがすき─?」釘づけになっている風に見える母に問いかけると少しの間の後、
「─負けない人が好き。」とだけ応えた。
「─パパは─?パパは、─やっぱり、─よわっちい─?」かつての父の台詞を借りてそう訊いた時同時に、
「─たまには、負けたらいいのよ─」映像を見つめたまま吐息に近い(かす)れた声が聞こえた。
「─え」思いも寄らない言葉に思わず訊き返すと少しの間の後、
「─負けたことのない人なんてダメよ」と言った。
ぼんやり画面を見つめているその瞳が微かに潤んで見えた。
「─強さからくるだけの優しさなんて、信用できない。─パパはね、弱いんじゃないよ。優しいから、人を傷つけたくないから、だから弱いフリをしているの。─それにパパがこの人みたいに強かったら、何でも言うこと聞かされちゃいそうだもの。─パパはね、ママの言う事何でも聞いてくれるもん─」そう言って画面を見据えたまま、
「─昔ね。まださやがお腹の中にもいない頃。めちゃイケメンの恋人がいたの。─だけど、ひどいことされて、別れて─。毎日ずっと悲しくてね、─泣いてた。─その時、一番傍にいてくれたのがパパだった─。毎日、毎日─電話をくれては、ママのアパートに来て─ただ、ずっと近くにいて、ママが泣くのを見ててくれた─。何だか安心してね。─変な言い方だけど、パパがいてくれたから、きっとたくさん─いつまでも泣けたんだと思う。─ハンカチを差し出して涙を拭いてくれるより、─ぎゅっと肩を抱きしめてくれるより─ずっと傍にいてくれる人。優しい人なの、あの日から─昨日も、今日も。明日も─きっと、ずっと─優しい人─。大好きだよ。─パパは、弱っちく見えても、─負けない。─絶対に負けない人だから─」そう言った語尾が震えると不意に泣き顔になった母のその瞳からぽろぽろと大粒の涙が(こぼ)れ落ちた。
母の泣き顔を初めて見た─。
華奢(きゃしゃ)な肩を震わせ溢れる涙を拭うこともせず、母は泣いていた。不意に優しい父の笑顔が浮かび重なり、さやの眼にも涙が込み上げ掛けた時唐突に、
「─そうだ。迎えに行こう。」泣き()らした目元を手の甲でぐいっと拭いながら母が言った。

師走の夜気はやはり冷たく、指先の爪までが痛むほどに感じた。
時折、車道を行き交う車のライトが照らす母の頰が紅潮して見える。
昨年のクリスマスにプレゼントされたコートが温かかった。何枚も描いた憧れのピンク色のコートを着た自分の絵がサンタさんに届いたことが嬉しかった。
手袋越しに繋いだ母の掌が冷たく感じた。さやは一旦指を(ほど)くと繋いでいた方の手袋を母に差し出した。
「─あ。ありがとう─」母は立ち止まり片方だけの手袋を着け自分の手にもすっぽり収まったのを確かめると、
「─何だ。ママの手も、さーちゃんとあまり変わらないのね」そう言って笑った。
再び繋いだ裸の掌は互いの温もりで指先まで温かくなった。

もう遅い時間でとうに閉店しているはずにも関わらず、店内にはまだ煌々(こうこう)と明かりが灯されていた。
電源の落ちた自動ドアの前に立ち自分の白い息を入り口のウインドウに吹き掛けた後、勝手を承知しているドアを力を込めて開けかけた時突然、怒声が洩れ聞こえてきた。
『─だからよ、管理がなってねえから混ざり物があったりすんだろうがッ─!』濁声(だみごえ)を上げ仁王立ちで父を見下ろす男がいた。他に店員は見当たらずショーケース越しにいる父は身を硬くして深々と頭を下げている。身体つきもがっしりした大きな男は、入り掛けているさやたちに気づいたがこちらを一瞥(いちべつ)しただけでまた悪びれる様子もなく吊り上げたギョロ目を父に戻し、
「─どうしてくれんだよッ、えッ、子どもが口にするもんなんだッ、危ねえだろうがッ!」そう言いながら混入していたと思しき何かの破片のようなものをショーケースの上に乱暴に置き指し示した。
父は、明らかに狼狽(うろた)え萎縮していた。引きつらせた顔の片方の頰を卑屈に歪めていた。時折、母にやり込められ困り果てた時に見せる表情だった。
「─テメエ、舐めてんのか?何笑ってやがんだ─」確かに不遜(ふそん)に笑っているようにも見える表情に男が怒りを超え蒼白(そうはく)に父に迫ろうとし、黙っていられなくなったのだろう母が間に分け入ろうとした次の瞬間、さやがちょこちょこと男の前に立った。
「─おじさん。わたしのパパなんだよ。─とってもね、─とっても、やさしいんだよ─」やっとそう言って男を見上げた。小さな両の腕を精一杯広げ父を(かば)い男を通せんぼする形で、への字に結んだ口元に(つぶ)らな瞳には一杯に涙がゆらゆら揺れていた。
男は気圧されたように呆然とさやを見つめていたが暫くの間の後、
「─あ。あゝ、─そうか。あれだ、─ま。─あれだな─。仕方ないやな─そうか。うん。いや─もう、いいわ─」俄かにたどたどしくそう言い挙動不審の仕草で父に向かって小さく手を上げ次いでさやに眼を向けると、
「─ごめんね?」打って変わった(しゃが)れた猫なで声でそう言い残しバツが悪そうにそそくさと店を出て行った。

「─カッコよかったよ。さーちゃん」温め直したボルシチを皿によそいながら母が笑った。
「─ごめんな。最後の日なのに。─またカッコ悪かったな、パパ─」声色を落として俄かに父が項垂れた。さやは静かに首を振ると、
「─すてきだよ」と応えた。
「─え」意外な風に父が眼を向けると、
「─いつだって、ひとをきずつけたりしない。そんなパパのやさしさが、すてき」もう一度、そう言った。
「─あ。─ありがとう─」間を置いて返されたその言葉と共に父の頰が紅くなった。
「─あのね。ママからおそわったんだよ。パパのすてきなところ。─ママがね、だいすきだって。パパのこと」ワインのコルクと格闘している母を悪戯(いたずら)そうに見、そう言うと同時に、
「─わあッ!ダメッ、なんて、─このおしゃべりッ─!」慌てて娘の言葉を(さえぎ)ろうとした母のその頰が見る見る、父と同じ紅に染まった─。



─了─

聖夜(イヴ)の待ちぼうけ

聖夜(イヴ)の待ちぼうけ

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-15

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