8月32日
01
「ウソやろ」
夜空を見上げたまま、敦は呟いた。
彼の視線の先にいるのは、中学生ぐらいの女の子だ。
彼女は宙に浮かんでいる。
街灯の醒めた光に下から照らされたその顔は、陶器のように白い。
両目を固く閉じ、血の気のない唇を引き結んでいる。
切り下げた真っすぐな髪は小さな顔を縁取り、扇のように広がっている。
白いTシャツと、色あせたジーンズ。折り返した裾からのぞく、細い足首。
ラバーソールの赤いサンダルを履いた両足は、跳躍の勢いを留めてわずかに曲がり、両腕は羽ばたく途中のように、軽く開いている。
彼女はその状態で静止したまま、宙に浮かんでいる。
背後にあるのは八階建てのマンション。明かりのついている窓はそう多くない。
「ウソやろ」
敦がふたたび呟くと、後ろから「本当です」という声がした。振り向くと、いつの間に来たのか、大学生ぐらいの青年が立っている。
見るからにインドア派を思わせる細身で、ジーンズにマリンブルーのTシャツ姿。夏だというのに日焼けもしていない。
一重で涼やかな目は、容易にその考えを読み取らせてくれそうもない。
何なん、自分。
そう言いかけて、敦は突然、この青年に会った事があると思い出した。
彼の長い首。ちょうど右耳の下あたりに、オリオン座の三ツ星のように、斜めに並んだホクロのおかげだ。
そして当然のように、彼と会った時の不愉快な出来事もよみがえってきた。
02
いつもは立ちっぱなしの通勤列車だが、夏休みで学生がいないので、運が良ければ席が確保できる。
今朝の敦はその幸運を手にして、気持ちよく眠りこけていた。
連日の猛暑で参っているところに、二日続きで名古屋と和歌山の日帰り出張。昨夜の帰宅は十一時を回っていたのだ。
こういう時は一分一秒でも、可能な限り睡眠をむさぼる。感じるのははただ、甘美な車両の揺ればかり。
隣の女性がラップに包んだおにぎりを食べ始めても気づかないし、沿線の遊園地のイベント案内が大音量で流れても判らない。
ドア脇の席で、手すりに身を委ねて、敦はひたすら眠り続けた。
車内は立錐の余地もない、という程ではなかった。ここは大阪。やはり東京の殺人的ラッシュアワーとは次元が違う。人と人の間には多少の空間が残されている。
乗客の多くはスマホに見入っていたし、そうでなければ文庫本を読んだり、音楽を聴いたり。そして夏休みとはいえ予備校に通っているのか、問題集を広げたり、英単語を暗記している学生もいる。
しかし敦は周囲の事など一切関知せず、車両の動きに合わせて揺れながら、ひたすら眠っていた。
やがて列車はゆるやかな減速を始め、アナウンスが次の駅を告げる。
人の能力というのは不思議なもので、熟睡しているはずの敦の脳内に、下車、という明かりがほのかに灯る。そして嫌々ながらも覚醒に向かおうとしたその時、右の太腿に激痛が走った。
「痛っ!」
叫んだつもりだが、声の代わりにしゃっくりのような音が出ただけだ。 痛みを感じた場所に目をやると、誰かがシャープペンシルを突き立てていた。
太腿にぶっ刺されたシャープペンシル。
それを握っている手から腕、肩へと視線を移していった先にあったのは、見知らぬ青年の顔だった。
前かがみで身を乗り出している彼は、痩せて色が白い。目元が隠れるほどに髪が長くて、その表情を読み取ることはできず、首に三つ並んだホクロだけが目を引いた。
「な、何やねん」
ようやく出て来た敦の言葉に反応するかのように、青年はシャープペンシルを握った腕を引き、低い声で「さーせん」とだけ言った。
「さーせん、て、ちょい待てや!」
敦は青年をつかまえようとしたが、彼はそれをかわし、停車して開いたばかりのドアからするりと抜け出していった。
周りの乗客がただ呆気にとられる中、敦は青年の後を追って駈け出したが、ホームを流れる乗客の波に阻まれ、あっという間に見失ってしまった。
「それでや、マジでここ穴あいてん」
職場に着くなり、同期の村田に電車での出来事を話し、ズボンに残る穴まで披露したのだが、昼休みになる頃には社内で噂が広がり、総務の池本Bがわざわざ「大原さん、電車で通り魔に刺されたんやって?」と確認に来た。
最大限に誇張すれば、そう言えなくもないが、敦が事の経緯を説明すると、池本Bは「なんや」と、心底拍子抜けした顔つきになった。
池本BのBは「ババア」の略で、じっさい、彼女は「ババア」の条件を全て満たしていた。年、オーバー五十。態度、でかい。髪の毛、ぱさぱさ。あげればきりがない。
「そらえらい目におうたな。私もいつも気になっててん。満員電車でシャーペン片手に問題集やってる子な。そういう子に限って、足腰めっちゃ弱いし。電車揺れるたんびに、ふらふらー、ふらふらー、してるもんな」
「そうでしょ?電車のシャーペンは凶器ですよ」
「そやけど、さーせん、言うたのは、一応は謝ったわけやろ?」
池本Bはそのおっさん化したかすれ声で、「通り魔」を擁護するような発言をした。
「いやいやいや、そやったら、すいません、お怪我はありませんか?とか、もっとていねいに言わんとあきませんよ。さーせん、は絶対ないです」
「へーえ。若い子どうしの謝罪は、さーせん、で済むんかと思たら、大原くんは意外ときっちりしてるんやね」
「池本さん、若者をなんか勘違いしてませんか?」
「勘違いっちゅうか、理解でけへん。でもまあ、大したことなかって安心したわ」
とりあえずここで事情を説明しておけば、池本Bが社内に広めてくれるから、あとは放っておけばいい。ある意味、池本Bは重宝な存在だった。
しかし、放っておいて大丈夫なのは噂だけで、時間がたつにつれ、刺された傷は疼き始めた。
会社にいた間はまだ、多少気になる程度だったのが、帰宅して発泡酒を飲みながらレトルトカレーを食べ、シャワーを浴びる時に見てみると十円玉ほどに腫れて熱を持ち、ベッドに入る頃には、無視できないほどの痛みが出てきた。
とりあえず、冷やしておこう。
そう思った敦が傷に貼ったのはメントール臭も爽快な湿布薬だった。彼にとって「ひんやりする」と「冷やす」はほぼ同義語だったので、これで大丈夫だと思ったのだ。
そしてやはり、連日の睡眠不足もあいまって、彼はすぐに眠りに落ちた。
翌朝、二度寝して遅刻ぎりぎりで出社し、そのまま仕事。昼にカツ丼と穴子そばの定食を食べて戻り、ふだん睡魔に襲われる時間帯になっても、眠気がこない。その原因は右足の違和感だった。
痛い。右の太腿全体が、周期的に膨張しているような感じで、痛む。
何故だ、と思ってから、昨日の怪我を思い出す。
そういえば、一体どうなっているのだろうと、トイレに行き、個室で腰を下ろした。ズボンを下げ、昨夜から貼りっぱなしだった湿布薬をはがしてみると、傷の腫れ具合は十円玉からコースターへと一気に成長を遂げていた。
赤いコースターの中心に、ひときわ赤い点があって、それすなわちシャープペンシルで刺された傷だった。
恐る恐る腫れた部分に触れると、昨夜よりも熱い。冷やしたのに、何故だ。その時点でも敦はまだ、「ひんやり」の効果を疑っていなかった。
これを一体どうしたものか。思案にくれていると、トイレに誰か入ってくる気配がした。
「あああ何やねんあのボケはホンマ何遍言うてもわかりよらへんし脳味噌に虫わいとんちゃうけ」
念仏のように長い独り言、村田だ。
意を決して個室のドアを細く開け、「ちょっと」と声をかけると、村田は飛び上がった。
「びっくりした。何や、こわい事すんなや」
「ちょっと見てほしいもんあるんや」
「どんだけぎょうさん出たんか知らんけど、そんなもん見るわけないやろ」
「ちがうわ、アホ。昨日シャーペンで刺されたとこ、こんななってん」
言われて村田はようやく、うさんくさそうな顔つきのまま、ドアから身を乗り出して敦の腫れあがった傷を見た。
「こらまた、えぐい事なってるやん」
「やばいかな。医者行った方がええんやろか」
「ほっとくには、ちょっと、いう感じやな。そやけどお前、そこでよかったなあ。場所ずれて股間いかれてたら、いまごろ死んでるで」
やはりこれは医者だろうか。しかし帰りに寄るのも面倒くさいし、と思っていられたのは三時ごろまでで、そこから先はどんどん痛みが増してきて、定時になったらダッシュで病院に行くことしか考えられなくなった。
そういう時に限って、打ち合わせが長引いたり、客と連絡がつかなかったりする。ようやくデスクを離れることができたのは七時前だった。
いざ、医者へ!と勢いこんでタイムカードを押したはいいが、会社の近所でどこにどんな医院があるのかさっぱり判らない。とりあえずスマホで探すか、とポケットをさぐっていると、池本Bが階段を降りてきた。
一瞬迷ったが、ここは藁にもすがる思いで、「池本さん、この辺で一番近所の病院てどこですか?」と聞いてみた。
「病院?どないしたん」
そこで手短に、傷の具合を説明すると、池本Bは「えらい大変やん。それはやっぱり外科か皮膚科かなあ」と、とりあえず心配してくれた。
「もう、とにかく一番近いとこがいいんです」
「そうか」、と池本Bは少し考えた。
「そやったら、根室外科かな。近いは近いけど、行った人の話は聞いたことないわ」
「どこにあるんですか?」
「出て右曲がってケルンの隣のビルの四階。看板出てるやん」
看板出てるやん、の看板というのが、すっかり文字の薄れたところに油性マジックで上からなぞったような代物で、中の蛍光灯は薄暗く、入り込んでそのまま成仏した羽虫が一センチほどたまっている。
普通なら回れ右をして帰る案件だが、今の敦は切羽詰まっている。医者なら何でもいい、という気持ちでこれまた古びたエレベーターに乗ったが、その頃にはもう右足を引きずりながら歩いていた。
「こんばんは」
挨拶しながらドアを開けたが、待合室どころか、受付も無人だった。薄暗いとはいえ、明かりがついているので、診療時間であることは間違いないはずだが。
もう少し大きな声で「すいません」と呼びかけたところ、いきなり「診察室」とプレートのあるドアが開き、やたらと大きなマスクをかけた看護師が顔をのぞかせた。
妙に小柄、というか、小学生ぐらいの子供である。思わず敦が彼女を二度見していると、愛想のかけらもない声で「どうぞ」と言われたが、やはり子供の声だ。
いや、子供に見えるだけの成人なのだろうか。しかし足の痛みが敦にそれ以上考えることを放棄させ、彼はそのまま「失礼します」と診察室へ入った。
「どうしました?」
そう声をかけられた敦の目に、最初にとびこんできたのは二本の脚だった。白く、すらりと伸びたナマ脚。ピンクのナースサンダルをつっかけて、ぱかぱかと揺すっている。そこから視線を上げてゆくと、オレンジ色のニットのワンピースに、とりあえず、という感じで羽織った白衣。
さらに視線を上げると、肉厚の赤い唇に、上向き加減の鼻、つけまつ毛に縁どられた瞳がこちらを見ている。髪は宝塚の男役のように明るい色のショートカットだった。
「あの」と言ったきり、敦はしばらく黙っていた。どうしてこんな、誰もこないような医院に、ここまで人に見られることを意識したような格好の人間がいるのか。
「どうぞおかけ下さい」
そう促したのは子供看護師だ。敦が丸椅子に腰を下ろすと、女医は「足ですね」と言った。
「え、あ、そうですけど」
「右足をひきずってらっしゃる」
そう指摘されてようやく、敦は自分が何をしにここへ来たのかを思い出した。
「昨日、電車乗っててシャーペンで刺されたんですけど、それがどんどん腫れてきて、痛むんです」
「じゃあ、下脱いで、そこに横になって」
そんな説明など意味がない、といった様子で、女医は診察台を指した。この二人の前でパンイチはちょっと、と思ったものの、他に選択肢はない。敦は言われるままにズボンを脱ぐと横になった。
女医はその上向きの鼻がくっつくほど、敦の太腿に顔を近づけて傷を観察した。かすかに鼻息が肌をくすぐるものの、今はそれがどうこう、と考える余裕はない。
「切開ですね」
女医はそれだけ言うと、身体を起こした。
「切るって、ここをですか?」
せいぜい塗り薬と痛み止めをもらって帰るぐらいだと思っていたので、敦は思わず起き上がっていた。
「この傷は化膿しています。切開して膿を出さないと治りませんよ」
言われて足をよく見ると、真っ赤に腫れた傷の中心部は、いつの間にか赤から白に変わっていて、どうやらそこが噴火口らしかった。
「つまり、針で穴あけるとかですか?」
「いいえ。切って、開く。だから切開」
「え、い、今から?今からですか?」
「待っていても悪化するだけです。大丈夫、麻酔はしますから」
いやちょっと待ってまだ心の準備が、と言いたいところだが、子供看護師は既に何やら用意しているし、女医はラテックスの手袋をはめている。
「横になって下さい。すぐに終わりますから」
子供看護師はそう言って、敦を再び仰向けに寝かせる。
いやこれマジでヤバい奴?でも外科の看板出てたし、と気持ちは千々に乱れる中、アルコールのひんやりとした感触が、熱を持った肌の表面を多少手荒にこすってゆく。そして子供看護師と思しき小さな手が、膝のあたりを押さえた。
「じゃあ麻酔打ちますね」
女医の乾いた声のすぐ後に、注射とは思えないほどの激痛が突き刺さった。
「痛ああああ!」
そう叫んだのか、声にならなかったのか、記憶にない。
03
「そや、お前のおかげでえらい目におうたわ。医者行っていきなり切開やで」
敦は怒りを隠そうともせず、青年を睨んだ。しかし相手は少しだけ口角を上げ、「僕はそのために、あなたの足を刺したんです」と言った。
「そのために、刺した?」
「はい」
彼は平然と頷く。
こいつはもしかして、危ない奴かもしれない。そう考えた敦は向こうの出方を待った。
「僕に刺された傷はすぐに化膿して、あなたは根岸外科へ行くことになる。そして傷口を切開するために麻酔の注射を打たれ、アナフィラキシーショックを起こして意識不明になる」
「意識不明?」
このままでは相手のペースにのせられてしまう。敦は腕組みをし、自分の記憶を検証してみた。
会社帰りに行った、閑散とした雰囲気の根岸外科。子供看護師と、ナマ脚でつけまつ毛の女医がいて、いきなり切開だと言われて注射を打たれ・・・
それから記憶が飛んでいる。今、右足に痛みはない。ということは、治療が行われた?しかしなぜ自分はここで、この青年と会話しているのだろう。
「あなたはまだ意識不明です」
青年は曖昧に口角を上げたまま、静かにそう続けた。
「いや、俺、ちゃんと意識あるからここにいるやん」
「ここがどこか、わかりますか?」
「どこって、会社の近所やし、本町ちゃうん。大阪の」
「じゃあ、今日の日付は?」
「えーと、八月。月末〆の書類作ったとこやし、三十一日」
「どれも違います」
いまだに落ち着いた様子の青年を見て、敦は本格的に駄目だと思った。これはもう別世界の住人である。刺された凶器がシャープペンシルだったのは不幸中の幸いだったのだ。あれが刃物なら命がなかったかもしれない。
「ほな、どうも」とだけ言って、敦は青年に背を向けた。コンビニ寄ってビール買って、さっさと帰って寝よう。そして足早に歩きだしたところへ、青年は尚も呼びかけた。
「ここは埼玉です。今日は八月三十二日」
あかん、マジヤバい奴。振り向くな。更に足を早めるその背中へ、また声がする。
「あなたがここにいるのは、あの子を助けるためです」
あの子を、助けるため。
敦は足を止めた。
そもそも自分が何をしていたのか、ようやく思い出して振り返り、夜空を見上げた。
「ウソやろ」
その視線の先には、宙に浮かんだまま静止している少女。
「本当です」
青年は敦に追いつくと、彼と並んで立った。頭ひとつほど、向こうの背が高い。
「ここは埼玉で、今日は八月三十二日」
「それとあの子と、何か関係あんの。ていうか、なんで空中で浮いてるねん」
「彼女の名前は宮前沙知。中学生ですが、八月三十一日の夜、このマンションから投身自殺を図りました」
「投身て、飛び降り?飛び降りて、ほんで、なんで空中でとまってるねん」
「それは、今が八月三十二日だからです」
「八月は三十一日でしまいやろ」
「いいえ、たまに三十二日があるんです」
「何?二月二十九日みたいなもん?」
「閏年ではありませんが、こういう日はランダムに出現するんです。五月三十五日とか」
「そんなもん聞いた事ないわ」
「彼女が飛び降りたのは、まさに八月三十一日が終わる瞬間で、そのまま三十二日に入り込んだんです」
「それで、止まってる?」
「いいえ、今も落下を続けています。ただ、この場所はとてもゆっくり時間が流れているので、止まっているように見えるだけです。ランダムに出現する日は、時間の流れにムラがあるので」
「そしたら、すごいゆっくり落ちて来るわけやし、怪我もせえへんやん。大丈夫やんか」
「時間の流れは遅くても、物理的な法則は変わりません。だから、彼女はどんなにゆっくり落ちているように見えても、着地した時にはその衝撃から逃れることはできない」
「つまり?」
「全身打撲。即死か、よくて数時間から数日生存の後、死亡。さらによくて、非常に重い後遺症が残る状態で生存」
青年はさして表情も変えずに淡々と話した。その事が却って敦を混乱させた。
「そこまで判ってるんやったら、なんで自分がどうにかせえへんねん。見てるだけか」
「僕には、できないから」
「できひんて、それはなんでや」
「死んでいるからです」
あかん。
こいつはマジでヤバい奴や。
尚も表情を変えない青年から視線をそらさないままで、敦は尻のポケットに手をやり、そこに携帯が入っていることを確かめた。
とりあえずこの場を離れ、警察に電話をして、あの少女を救出してもらう。宙に浮かんでいる、と伝えても信じてもらえないかもしれないから、マンションから飛び降りようとしている女の子がいる、と言おう。
敦は無言のまま踵を返すと、歩き始めた。
野良犬ではないが、走り出すと相手を刺激するような気がするので、平静を装ったまま、とにかくその場から遠ざかる。歩きながら、背後から足音が追ってこないかと神経を尖らせたが、何も聞こえてこない。
それにしても、ここは静かだ。
顔だけは正面に向けたまま、敦は目の動きだけで周囲の様子を確かめた。公営と思しき、無機質なマンションの敷地に、白々と並んだ街灯。緑地帯には夏草が生い茂り、駐輪場に並ぶ自転車の半分ほどはママチャリだ。明かりのついている部屋もあるのに、生活音がしない。夏の夜なのに、エアコンの室外機の唸る音すらしない。
まあ、深夜だから。
そう自分を納得させながら、敦は尚も歩いた。ようやくマンションの敷地を抜け、車道に出た。そこで右に曲がり、建物の陰に入って青年の視界から外れた。そう判断した瞬間に、走り出す。とにかく走って、コンビニでも牛丼屋でも、人のいそうな場所までたどり着き、警察に電話をするのだ。
道はなだらかな上り坂で、歩行者はもちろんのこと、行き交う車もなかった。やせ細った街路樹と青白い街灯だけが交互に並び、道路沿いにはどれも同じような顔をした戸建て住宅が続いてゆく。
これは逆方向に行ったほうがよかったか。
そろそろ息が上がってきて、敦はペースを落として尚も走ったが、家並みは途絶えることがない。どうもこの街は上にゆくほど年収が上がるらしく、家の敷地は徐々に広くなっていったが、依然として住宅以外のものには出くわさなかった。
ついに走るのをあきらめ、敦は歩き始めた。思い出したように吹き出す汗を拭いながら、とりあえず、警察に電話をかけようとする。
いや待て、ここは一体どこだ?
青年の言葉を信じるなら、埼玉県。しかし埼玉のどこか、さっぱり判らない。たしかこういう場合は、電柱を見れば、そこに住所を示す番号プレートがあるので、それを伝えればいいと聞いたことがある。
まずはパトカーにここまで来てもらって、そこから一緒にあの場所。女の子が空中に静止している場所まで戻ればいいか。
一番近い電柱のそばに寄り、番号プレートを探す。どうやら反対側らしいので、回り込むと、人がいた。
「うっわ」
思わず飛び退いたが、さらに敦を狼狽させたのは、そこに立っていたのがさっきの青年だという事実だった。
まさか。自分が慌てて見間違えているだけでは、と思ったが。彼の首筋にはやはり三連のホクロがあった。
「逃げないでください」
青年は責める様子もなく、そう告げた。
「に、逃げてへんわ。警察呼ぼうとしただけや」
思い切り逃げていたが、少なくとも自分は問題を解決しようとしていた。それを強調するため、ポケットを探って携帯を取り出す。
「ただ、住所がわからへんし、電柱見て確かめよとしてたとこやがな」
もうここはいきなり110番で、この危ない青年もろとも警察にバトンタッチしてしまおう。携帯を起動しようとした瞬間、「何やこれ!」と思わず叫んでしまった。
手にしていたのは携帯電話ではなかった。よく似た大きさと厚みだが、木製のケースのようなもので、組み紐のストラップがついている。樹脂で塗装したような光沢のある表面に、円形のマークがデザインされている。
「・・・て、これ、印籠やん!」
そう、敦が手にしているのは携帯電話ではなく、印籠。それも三つ葉葵の紋が入った、水戸の御老公の従者がドラマの山場で高々と掲げる、あの印籠だった。
「ちゃうねん、マジ電話するつもりやってんけど、何でこれ持ってるんやろ」
自分でも意味不明な言い訳が口をついて出たが、青年の視線は敦の手元に釘付けだった。
「その印籠は・・・倭可由様の言ったことは本当だったんだ」
これまでずっと、さしたる感情も浮かべてこなかった彼の顔には、驚愕、というべき表情が出ていた。彼はいきなり敦の腕をつかむと、「一緒に来てください」と引っ張った。
「いや、先に警察に電話せなあかんし」
「警察なんか呼べない。早く、こちらに!」
切羽詰まった青年の様子に半ば恐怖を覚えながら、敦は腕をつかまれたまま、引っ張られていった。青年はすぐ目の前にある家の門扉を推し開けて中に入ると、いきなり玄関のドアに手をかけた。
いくら何でも無施錠のはずがない、敦はそう思ったのだが、ドアはすんなりと開き、二人は暗い玄関に立っていた。
「いやこれ、あかんやろ、不法侵入やで」
住人に気づかれ、警察でも呼ばれたら自分もつかまる。だが青年はためらうことなく靴を脱ぐと「さあ、早く」と、敦をせかした。
もうどうなっても知るか。敦はやぶれかぶれな気持ちで自分も靴を脱ぎ、引っ張られるまま、真っ暗な廊下を歩いた。突き当りにあるドアを青年が開けると、中には煌々と明かりがつき、誰か人がいるようだった。
「ただいま連れて参りました」
青年はそう言って部屋に入ると、振り向いて敦を促した。
「すいません、夜分お邪魔します」
とりあえずそう言って入ると、そこは真新しい畳の香りがする和室だった。
六畳間で窓はなく、正面に床の間よりも広い板敷きの空間があり、全く読めない漢字の書かれた掛け軸が下がっている。その前に立てられているのはアナログ盤を一回り小さくしたほどの、銀色に光る金属の円盤だった。
そしてその前、こちらに背をむけてに座っているのは巫女だった。
「ご苦労であった」
言いながら、巫女はこちらを振り返る。丸顔で目が大きいので、十代のようでもあり、二十代にも見える。ほぼスッピンだが、口元にだけ紅をさし、その額には何かの花をかたどった髪飾りを戴いている。腰のあたりまである髪は、一つにまとめて背中に垂らしている。
「座るがよい」
そう言われて敦は腰を下ろした。ここはやはり、正座が無難だろうか。ふと横を見ると、青年は胡坐をかいている。巫女には丁寧な口調だった割に、寛いでいるではないか。彼は敦の視線に気づくと、「僕は足首が固くて正座できないのです」と言い訳をした。
「キヨアキよ、この者がわらわの示したお導きにより遣わされた従者か?」
「はい。間違いありません。お言葉の通り、三つ葉葵の印籠を持っていました」
青年は、敦がまだ握りしめていた印籠を引き取ると、恭しく巫女に差し出した。彼女はそれを受け取り、傍らにあった白木の三方に載せて、金属の円盤の前に置く。
その格式ばった振舞いを見るうち、敦の頭にある考えが閃いた。
これは、夢だ。
何故今まで気がつかなかったのだろう。ここまでわけのわからない事が次々と起こるなど、現実にはあり得ないに決まっている。とはいえ、自力で夢から醒めるにはどうすればいい?
夢は眠っている間に見るもの。だとすれば、夢の中で眠りにつけば、逆に目を覚ますのではないだろうか。
そう仮定して、敦は固く目を閉じた。耳に入るのは巫女の装束がたてる乾いた衣擦れの音だけ。だがそれも少しずつ小さくなってゆく気がする。いい感じだ。いつも寝不足なのが、ここでは有利にはたらく。段々と深くなる呼吸を意識しながら、全身の力を抜いてゆく。
「居眠りしている場合か!」
いきなり固いもので頭をはたかれ、敦は目を開けた。見ると、巫女が檜扇を片手に膝立ちになっている。
「そなたには務めがあるというに、何をぼんやりしておる」
上から目線にもほどがあるが、女性からここまで厳しく叱責されると、かえって心疼くものがある。巫女は檜扇を脇に置くと、膝立ちで前に進み、掛け軸の前に立てられていた銀色の円盤を手に取って座った。
「見よ」
そう言いながら、彼女は携帯の画面と同じように、円盤をスワイプした。するとさっきまでただ部屋の明かりを反射していたその表面に、映像が現れた。言われるままに覗き込む。どこかで見た風景、と思ったら、さっきまでいた団地だ。防犯カメラのライブ映像とつながっているのだろうか。
巫女はさらに指先を動かし、カメラの視点を移動させ、画像を拡大する。円形のタブレットなんて存在したんだ、と思いながら、敦は身を乗り出していたが、ふと巫女の胸元に目が留まった。
デカい。
彼女が身に着けている朱色の袴はハイウエストだが、そこからバストが思い切りせり出している。和装だから身体のラインがはっきりしないが、これがニットならどえらい眺めになっているはずだ。
少し角度を変えて、何カップか検証してみようと、さらに身を乗り出すと、巫女が手にしていた円盤の表面が突然、中心から縁へと、真っ白に曇っていった。
04
「おのれ・・・」
苛立ちを含んだ巫女の声に、敦は「あ、鼻息かかりました?すんません」と謝っていた。
「鼻息などではない。そなたの邪念が御神鏡を曇らせたのだ。ただちに水垢離を行い、心身を清めて参れ。キヨアキ、案内せよ」
呼ばれて青年、キヨアキは「はい」と答えるなり、敦を引っ立てて廊下へ出た。
「何やろ、あのタブレット見ろて言われたから見たんやで。鼻息で液晶曇っただけやんか。怒り過ぎやで」
「あれはタブレットではありません。鏡です。さっきあなた、何か変な事を考えたでしょう。そのせいで倭可由様の念が乱れたんです」
「変な事、というか、まあ、彼女かなり胸大きいな、と」
「そんな事考えてたんですか!」
あからさまに馬鹿にした口調のキヨアキに、敦は思わず反論した。
「そやかて、自分も絶対そう思てるはずやわ。あれホンマ、半端ないで」
「やめて下さい」
キヨアキは冷たくそう言うと、別の部屋のドアを開けた。
「さあ、ここでちゃんと心身を清めて下さい」
そう言い残し、敦を置いて出ていった。
あらためて周りを見ると、そこは洗面室で、奥は浴室だった。洗面台には新品らしい歯ブラシやコップが備えてあり、タオルハンガーには清潔そうなフェイスタオルがかかっている。脱衣かごにはたたんだバスタオルも置かれていて、まるで高級旅館だ。
さっき走って汗もかいた事だし、まあいいか、という気持ちになって、敦は服を脱いだ。
浴室は壁から浴槽まで白一色。けっこうな広さがあり、ボディソープにシャンプー、トリートメントまで並んでいた。しかし浴槽に湯が溜まるのを待つのも面倒なので、シャワーだけ浴びるか、と蛇口を開き、湯音を調節していると「このうつけ者が!」という罵声がとんだ。
「へ?」
声のした方向。すなわち鏡に目を向けると、そこにはなんとあの、巫女が怒りの形相で映っていた。
「何を呑気に湯など浴びておる!」
「いや、でも心身を清めて来いって言われたし」
「いかにも。そのために水垢離を行えと言ったであろうが」
「ミズゴリ、て、何ですか?」
「水を浴びて穢れを洗い流す事に決まっておろう。そなたは本当に大学を出たのか?」
「一応。せやけど商学部やったし、ちょっと漢字とか弱いです」
「もうよい、さっさと水を浴びよ」
その言葉を最後に彼女の姿は消え、鏡には裸で茫然としている敦の姿だけが映っていた。
「な、何やねんホンマ・・・」
ここでまた湯を使うと同じことになりかねない。仕方ないので水を浴びて汗だけ流すことにした。
服を着て廊下に出たはいいが、何となく足元の様子が違う。暗いことに変わりはないが、さっきの廊下がフローリングだとしたら、これは板張り、という言葉が似合いそうな感じで、歩くとわずかにたわんで、軋んだ音をたてた。
たしかこっちから、と、来た道を戻ってゆくと、長い縁側に出た。一定の間隔で行灯のような明かりが置かれているので、周囲の様子は見てとれる。そこに面した部屋には格子の板戸がたてられ、白い砂利を敷き詰めた庭には、牛車が一台停まっていた。
なぜ敦がそれを牛車と認識できたかといえば、轅につながれているのが牛、それも黒い和牛だったからである。
一般家屋に牛車があるのも不思議だが、とりあえず、違う方向に来てしまったのだろうと思って、敦は踵を返した。だが牛車の方から「早う乗らんか」と、切れ気味に呼ぶのは巫女の声だった。
見れば、牛車の後ろは縁側に接していて、どうやらそこから乗り降りするらしい。ここで拒否するという選択もなく、敦は素直に歩いてゆくと腰を屈め、「失礼します」と牛車に乗り込んだ。
中は板敷きの上に茣蓙らしきものが敷かれていて、燭台が頼りない炎を揺らしている。巫女とキヨアキはそれぞれ藁で編んだ丸い座布団のようなものに座っていた。敦の分はないので、そのまま腰を下ろす。
「あの、これで、どっか行くんですか?」
とりあえず、そう質問すると、巫女は「そなた、自分が何のためにここにおるのか、判らぬのか?」と言った。
質問に質問で返すとは、けっこう不愉快な仕打ちである。もう十分に上から目線だとは思っていたが、敦にも我慢の限界というものがあった。
「そんなクイズみたいなこと言われても、正直、なんも話見えてけえへんのですけど」
そこそこ、苛立ってますよ、という気持ちで言い返すと、巫女はあからさまに眉をしかめてキヨアキの方を見た。
「そなたが薦めるものを招き寄せてはみたが、先ほどより無礼ばかりをいたす。もしやこれは、同じ呼び名なれど異なる者ではあるまいか?」
「そんなはずは・・・」と答えはしたものの、キヨアキの声には心もとなさがある。巫女は再び敦の方を向いた。
「そなたの名は大原敦、齢二十六、河内の国に住む者と聞いておるが、三浦道夫なる者を知っているか」
「ミウラ?ミウラミチオ?さあ・・・ちょっと浮かばへんのですけど、取引先とかですかね」
「やはり、人違いであったか」
巫女があからさまに嫌気のさした表情を浮かべる一方で、キヨアキは「待って下さい、小学校の同級生にいたはずです。あなたはクラスでオーハーと呼ばれていたでしょう?」と食い下がった。
たしかに俺のあだ名はオーハーやった、と頷きかけて、敦はその動きを一旦停止した。ここで知らない、と答えれば、自分は人違いであることが確定し、解放されるのではなかろうか。そうすれば、全く知らない場所ではあるが、タクシーを拾って最寄り駅まで行き、大阪へ帰ることは可能なはずだ。
「そして三浦道夫さんはミウゲと呼ばれていたはずです」
「あ、ミウゲ、ミウゲか」
思わずそう答えてしまい、まずいと気づいても後の祭りだった。
三浦は小学校の四年の時の同級生で、クラス替え当時、頭に十円ハゲがあったので三浦のハゲ、つまりミウゲと呼ばれていたのだ。
そういう身体的特徴を持った子供は、開き直ってギャグにでもしない限りいじめられる事が多い。めいっぱい綺麗ごとで言えば「いじられる」という奴だ。そしてミウゲはいじめられっ子で、ハゲが消えてもその役割を引き受けたまま、二学期の終わりにどこかへ転校していった。
「三浦さんが僕にあなたの事を推薦してくれたんです」
「いや待てや、そんなん知らんし。いきなり小学校の同級生が連絡してきたら、たいがいアホみたいな値段の鍋のセットを売りつけるか、あやしい宗教・・・」
はっと閃いて巫女の方を見ると、彼女はいきなり立ち上がり「わらわを邪教の徒と疑うか!」と叫んだ。
「もうよい、キヨアキ、こやつがお前の申す者である事は確かであろう。こやつを呼び出すという、わらわの役目はもう果たした。後はそなたらの好きにせよ」
それだけ言うと、袴の衣擦れにまで苛立ちを充満させながら、巫女は牛車を降りてしまった。
遠ざかる彼女の足音を聞きながら、敦はキヨアキに「ヤバいとこ指摘されて、切れてもたんかな」と話しかけた。
「言っておきますけど、倭可由さまはカルトとか、そっち方面の人ではありませんから」
「ほな、何やいうねん。ミウゲの話とか持ち出してきて、わけわからんわ」
「それについては、道々お話ししましょう。時間が勿体ない」
キヨアキがそう言って、低い天井から下がる紐を引くと、どこかで鈴の音がした。それをうけて、誰かが牛車の入口に簾のようなものを下ろし、車輪の軋む音とともに牛車がゆらりと動いた。
「ウソやん、これ、牛が勝手に歩いてんの?ていうか、どこ行くねん」
思わず立ち上がり、乗用車で言えばウィンドウにあたる小窓から外を覗くと、子供ほどの背丈の、全身真っ黒な何かが牛の引き綱をとって歩くのが見えた。
敦は無言で窓から離れると、さっきまで巫女が座っていた、円形の敷物に腰を下ろした。あれが何なのか、今は考えない方がいいような気がする。
やがて牛車は大きく揺れ、左へと向きを変えた。キヨアキは燭台を少し脇に寄せると、「今から、さっきの場所へ戻ります」と言った。
「さっきの場所て、あの、女の子が飛び降りてたとこか」
「そうです。倭可由さまがわざわざ、車を出して下さったんです」
「まあ、速さ的には歩くのと変わらん気もするけど」
とはいえ、座って行けるので楽は楽か、と敦は何とか安定する姿勢を求めて座り方を変えてみる。
「なあ、自分、なんでミウゲの事知ってるねん。ていうか、あいつ何でまた俺の名前出してきたんや。本気で俺が鍋買うとか、思ってるんやろか」
「三浦さんはあなたより一足先に、あの場所に来られました。バイクで出勤途中に、トラック同士の衝突に巻き込まれて、重体になったのです」
「なんや、あいつもおったんか。ほな別に俺に頼まんでも、あいつに助けてもろたらええやん」
「それが、緊急手術が予想外にうまく行って、あっさり意識回復されたんです。ただ、三浦さんは去り際に、あなたの名前を出して、この人ならきっと手伝ってくれると言いました」
「なんでミウゲが俺を指名するんや。ていうか、あいつなんで、俺が注射打たれて意識不明になること知ってるねん」
「それは違います。三浦さんがあなたを指名したから、僕が倭可由様の力を借りて時間を遡り、あなたをここへ連れてきたのです」
「時間を遡るて、そんなんできるわけないやん」
「できます。僕は死んでいるから」
「そやったら、あの子助けるのも自分でやったらええやん!」
「だから、それは死んでいるからできないんです」
「・・・もうええわ」
これが漫才なら袖へ引っ込むところだが、二人は牛車の中にいる。何とも間延びした車の揺れに身を任せながら、敦は「自分、そもそもなんで死んだん?」ときいてみた。
年齢的に考えられるのは事故死だが、線が細いのは何かの病気だったのかもしれない。
「殺されたんです。人違いで」
「え?殺人、事件?」
「そうですね。バスを待っていて、ある女性に、彼女がつきまとっている美容師と間違えて襲われました。僕のTシャツが、彼と同じだったんです」
そう言う彼が着ているTシャツは深いマリンブルーで、左右の袖と背中の襟元にシルバーのロゴが小さく入っていた。
「このTシャツは、従姉が新婚旅行のお土産にくれたんです。ハワイでも限定ショップでしか買えないレアものらしくて。おまけに僕の背格好がその美容師に似ていて、同じバス停を利用していたのも、間違えられた要因です」
「殺された、いうのは、刺されたとか、そういう事?」
「いえ、マニキュアの除光液をかけられて、ライターで火をつけられました。救急車が来た時は、まだ話もできたんですが、七時間後に死亡しました」
「それは・・・ご愁傷様で」
死んだ本人に言う言葉ではないのだろうが、敦の口から咄嗟に出たのはその一言だった。話の重さとキヨアキの淡々とした様子の落差が大きすぎて、どうにもついて行けない。
「もしかして、死んだんは何年も前のことなんかな」
「いいえ、明日、九月一日です。これがネットに上がったニュースです。エゴサーチなんて趣味じゃなかったけど、さすがに死亡記事は気になって」
キヨアキはスマホを差し出し、敦はそこに浮かんだ文字を目で追った。
「一日午前九時ごろ、JR西宮駅のバス乗り場で男性に火をつけてやけどを負わせたとして、会社員上田芳美容疑者(38)が現行犯逮捕された。上田容疑者は面識のない男性を自分の交際相手と思い込み、マニキュアの除光液をかけてライターで火をつけた疑い。男性は病院に搬送されたが重傷とみられる」
その短い文章を二、三回は読んだだろうか。敦は目をしばたくと「なあ、この記事が九月一日や、いうことは、明日やろ?ほな自分、まだ死んでへんやん」と突っ込んだ。
「僕は死んでいます。ただ、現在、八月三十二日には、時間を遡ってきているだけです」
「そうなん」
ゆるゆると、牛車は前へと進み続ける。
こういう時、喫煙者は煙草に手を伸ばすのかもしれないな、と思いながら、敦はまだ湿り気の残る髪を何度か指で梳いた。
「ご心配いただかなくても大丈夫です。僕はすぐに転生しますから」
キヨアキはやはり淡々とそう言った。
05
「ほら、ここに三つ並んだホクロがあるでしょう?」
「あるなあ」
そもそも、敦が電車で一瞬遭遇しただけの彼を憶えていたのも、そのホクロのおかげだった。
「僕が生まれた時にこのホクロを見て、三島の愛読者だった父は、これは運命だと思ったそうです。それで清顕という名前をつけたんです。だから、僕はすでに生まれ変わった存在であり、これからも転生を続けるのです」
「ちょっと待って。生まれ変わるのとホクロと自分の名前と、どういう関係があるねん」
「え?知らないんですか?三島由紀夫の「豊饒の海」」
「包丁農民?俺、ほとんど本とか読まへんし」
「そうですか」
「ほんで?生まれ変わる、いうのは?」
「いえ、忘れて下さい。少し自分語りが過ぎました」
キヨアキはそう言って筋肉などほとんどなさそうな細い足を組み直した。牛車はただ一定の速度でゆるゆると進んでゆく。退屈しのぎという目的も含めて、敦は話をつないだ。
「そやけど、自分は生まれ変わるからええとして、なんであんな、飛び降りしてる女の子を助けなあかんと思うわけ?あの子も生まれ変わるんちゃうんか」
「それはそうですけど、このまま死んだら、負けたままで終わってしまうから」
「負けるって、何に?」
「いじめた連中に、です」
「つまり、彼女は学校でいじめられてたという事?」
「そう」とキヨアキが頷くと、牛車が大きく揺れて、止まった。外から何か、チーチーと甲高い鳴き声のようなものと、足音らしきものが聞こえたかと思うと、誰かが牛車の後ろの簾を巻き上げた。
キヨアキは天井に頭をぶつけないよう、かがんだままで移動すると車を降りた。敦もそれに続いたが、足元には巫女の家で脱いだはずの靴が揃えられていた。
外に出るとそこは再びマンションの中庭だったが、誰一人歩いておらず、やはり静まり返っている。
二人を下ろすと牛車はまた前へと動き始める。方向転換はどこかで大回りするのだろうか。目をこらすと牛の脇にはやはり、子供ほどの背丈の黒いものがついて、一緒に歩いていた。
あれが何なのか、考えないほうがいいかもしれない。
意識して目をそらすと、こんどはあの、空中で静止している少女が目に入る。彼女の真下を、牛車は軋んだ音をたてながら通り過ぎていった。
「ほとんどあそこの時間は流れていないようです」
キヨアキは敦の傍に並んで立った。
「なあ、そしたらあの子は、夏休みが終わって、九月一日からまた学校行くのが嫌やから、このマンションから飛び降りたんか?」
「そうです」
「いっそ死んだろかと思うぐらいて、一体どんな事されてん」
「それ、言う必要あります?」
にわかに切り口上になったキヨアキに、敦は一瞬たじろいだ。
「いや、別に知らなあかんっちゅう事はないけど、参考までに」
「それはつまり、この程度のいじめだったら遊びの範囲内で、この程度なら自殺するのも仕方ないとか、そういう基準値があるという事ですか?」
「いや、そんなややこしい事言うてへんやん」
「だったら好奇心本位の質問はやめて下さい」
「なんもそんなやらしい言い方で俺のこと決めつけんでもええやんか。ただちょっと、大したいじめでもないのに、深刻に受け止め過ぎたんちゃうかと思っただけや」
「深刻かどうかはいじめられた側が判断する事で、我々第三者が認定できるものではありません」
敦は「わかったがな」とだけ答えたが、内心、何故ここまで噛みつかれるのかと、面白くなかった。キヨアキも熱くなりすぎたと自覚したのか、わざと抑えたような声で「遺書があるんです」と言った。
「そこにはいじめの首謀者である、三人の同級生の名前が書かれています」
「ほな、後でそいつらのせいやと判るわな。それで、何と言うか、仕返しにはなるわけか」
「なりませんよ」
キヨアキはそして、ゆっくり歩きだすと、建物の脇にある外階段へ向かった。敦もとりあえず後へと続く。
「上にあがるんか?」
「ええ」
「なんも階段使わんでも、エレベーターあるやろ?」
敦にそう指摘されても、キヨアキは「使えません」と却下した。
「ここでは時間の流れが極端に遅いと言いましたよね。つまり、エレベーターはあなたがその動きを感じることができないほど、ゆっくりとしか動かないんです。そして彼女の落ちる速度は、絶対にエレベーターよりも速い」
「なるほど」
そう答えたものの、敦はこの手の、物理学の匂いのする話題が極端に苦手だった。光の速度を超えると時間がどうのこうの、的な話は何回きいても判らない。彼の「なるほど」は納得したわけではなく、この手の話題はさっさと終わらせるに限る、という回避行動だった。
マンションの外階段は二階あたりまでは子供のたまり場になっているのか、アイスの棒や潰したコーラの缶などが落ちていたが、それより上はまるで月面のように静かで灰色の世界だった。
あちこちに染みのようなものが浮き出て、滑り止めのタイルはたいていどこかが割れていた。踊り場の隅には寿命を迎えたアブラゼミが仰向けに転がっている。そんな中で、キヨアキの声だけがコンクリートに低く反響した。
「いじめた側の名前が上がったところで、処罰されるわけでもない。仲良くしていたつもりで、ちょっとからかっただけでした、とでも言っておけばいい。まあ少しは人の噂になるかもしれませんが、しばらくしたら皆も忘れますから。そして彼らはのうのうと進学し、社会に出る」
二人はゆっくりと旋回しながら、上へ上へと進む。
「死んだ人間はただ、消えてゆくだけだ。大人になって同窓会を開いても、みんな仲良かったよね、とそれぞれが自分に言い聞かせて帰るだけです。人は見たくないものから視線を外すのがとても上手ですから」
敦は思わず「きっついなあ」と呟いていた。
「きついって、僕の言ってることがですか?」
「いや、この階段が」
もう六階まで上がっているのに、まだ続いている。自分はそう運動不足ではないと思っていたものの、階段といえばせいぜい駅で上がり下りするぐらいで、こうも一気に上がると意外と足にくる。
「大丈夫、あと一息ですから」
そして階段は八階でようやく終わった。目の前には中庭に面した長い廊下。その途中の壁に立てかけるようにして、ミントグリーンのリュックサックが置かれている。だが敦の目をひいたのはリュックサックよりも、その上にのっている真っ白な猫だった。
身体を丸めて寝そべってはいるが、首だけ起こしてじっとこちらを見ている。その大きな目は片方が水色で、片方が金色だった。
なんや、この猫。
そう言おうとした寸前、猫が口を開いた。
「遅かったわね」
人間に比べると、少し小さくて高いが、明らかに女性の声。まさかと思いながら「知り合い?」とキヨアキに小声できくと、「いいえ」と答えがある。
猫は尻尾の先だけを左右にくねらせながら、「散歩の途中だったの」と言った。
「今夜は窓が開いてたのよね。ゴキブリが出たからってママが殺虫剤まきすぎちゃって、何だか変な匂いが充満したから、メルちゃんの身体に毒だって、換気してくれたの。あ、メルちゃんって、あたしの事よ。それでさ、ちょっと散歩してみたわけ。お月様も出てるし、風も気持ちいいから、思いのほかいっぱい歩いちゃって、ここまで来たらあんたたち二人が、あの女の子見上げておしゃべりしてるじゃない?てっきり助けてあげるんだと思ってたら、どこか行っちゃうし、本当に無責任、って呆れてたんだけど、まあ戻ってくるかもって、ここで待ってたのよ」
それだけ一気にしゃべると、白猫はまた尻尾をくねらせた。キヨアキは「僕らはこれでも急いで戻ったんです」と言って、「ちょっと、どいてもらっていいですか?」としゃがみ込んでリュックサックに手をかけた。
「もう、強引ね」
白猫メルは不満げにそう言ってリュックサックから降りた。キヨアキはためらう様子もなく、ファスナーを開けると、中から子猫の写真が表紙のノートを取り出した。
「アメリカンショートヘア。ちょっとありふれてるわよね。まあ、器量良しの子だとは思うけど」
メルはどうやら、相当プライドの高い猫らしい。言葉の端々に、白猫サイコー!が滲み出ていた。キヨアキはメルの言葉には答えず、ノートをぱらぱらとめくってゆく。そして途中でその手を止めた。
「これだ。彼女の遺書。読んでみますか?」
差し出されたそのノートを、敦は受け取らなかった。
「いらんわ、そんなもん」
「そんなもん、って、彼女の命がけの告発ですよ。そして人生最後の言葉だ」
「そやけどあの子はまだ死んでへん。そやし、そこに書いてあるのは遺書とはちゃうねん」
敦がそう言うと、キヨアキはほんのわずか、眉を持ち上げた。
「でも、このままだと彼女は死ぬ」
「そやから、まだ死んでへん、言うてるがな」
敦は廊下の手すりから身を乗り出した。その真下に、落下し続ける、少女の背中が見える。気がつくと、キヨアキも隣に来ていた。
「自分はそもそも、あれを止めようとしてるんちゃうんか」
「そうです。そのためにあなたを呼びました」
「そやのに、何をどうしたらええのか知らんのか」
「はい。ただ、三浦さんからあなたを紹介されただけです」
「ほんで、ミウゲ、三浦は俺のこと、何て言うてたんや?」
「四年生の新学期、あなたが最初に、三浦さんの頭にハゲがあると指摘したそうですね」
「え、俺?俺が言うたって?」
全く記憶にない。敦が憶えている限り、クラスの誰かがそれを発見して、三浦のあだ名が「ミウゲ」になり、いつの間にかいじめられっ子になっていたのだ。
「三浦さんによると、あなたの第一声は、おまえ、ここ、なんでハゲてんねん、だったそうですが」
「いや、マジで憶えてへんけど」
背筋が冷たくなり、やがて倍の勢いで暑くなったかと思うと、汗が流れ出る。
「もしかして、ミウゲは俺に復讐するつもりで、ここに来させたんか?」
06
「話は最後まで聞いて下さい」
キヨアキは非難めいた口調でそう言った。
「三浦さんは確かに、円形脱毛症がきっかけでいじめられるようになった、そう言いました。でも実際にいじめていたという同級生の中に、あなたはいなかった」
「そ、そやろなあ」
セーフ、と内心で叫びながら、敦は手すりから身を引いた。
「四年生の秋に、遠足に行きましたよね?」
「遠足は春と秋の二回あったな。春は近場で、秋はバス乗って行くやつ。でもどこ行ったか憶えてへんわ」
「国立民族学博物館です」
「へ?万博公園の?あそこ四年やった?アホみたいにでかいお面とかあるねんで」
「見学は班行動でしたよね」
「いや、そんなん憶えてへんし」
「班行動だったんです。遠足の前の週に班分けがあって、いじめられっ子の三浦さんはどこの班にも入れてもらえなかった。その時、うちの班に入ったらいいじゃないか、そう言ったのはあなたでした」
記憶にない。
そもそも、記憶力には自信がないというか、つい最近の事でも細かい部分は全く覚えていない。
なのに付き合う女はたいてい記憶力が良く、元カノの葉子など、「あんた三か月前にもこの店で同じもん頼んで、こんなん食べたことあらへんわ、て喜んでたやん」といった突っ込みばかりで、別れの原因はほぼ記憶力のギャップだった。
「三浦さんは、あの時は本当に救われる思いだったと言いました。そんなあなただから、きっと彼女の事も助けてくれると推薦してくれたんです」
一瞬ではあるが、敦は三浦と元カノ、いや全世界の記憶力の良い人間を憎んだ。お前たちの記憶している事を、いちいち人に言わなくていいから。多少の記憶が抜け落ちていても、支障を来さない人間の方が多数派に違いないのだ。
「じゃあ、少数派はどうするのよ」
そう口を挟んだのは白猫メルだった。
「え?お前、なんで俺の言うてへんこと判るねん」
「なんであたしのこと、お前呼ばわりするのよ」
だって猫やもん。
そう言いそうになって、いや、もうばれたかと、敦は焦った。
「あんた、猫のことずいぶんと馬鹿にしてるみたいだけど、人間の考えてることなんか、ダダ洩れなのよね。言ってないから伝わってないなんて、おめでたいにも程があるわ」
「そんなん、知らんがな。猫なんか飼うたことないし」
「猫、なんか」
メルは耳を伏せ気味にしてそう言うと、「あなた、まだあたしの質問に答えてないわよね」とたたみかけた。
「何やったっけ」
「少数派って、そう言いましたよね」と、口を挟んだのはキヨアキだ。
「そう、少数派の問題よ。この人みたいに記憶がまばらでも支障を来さない人が多数派らしいけど、じゃあ色んなこと憶えてる方はどうなるのって事。忘れちゃいました、で全部チャラなわけ?」
「お・・・自分、なんでそんな議論ふっかけてくるねん。猫は人間の問題なんか気にせんでええねん」
「何言ってるの。我々飼い猫はね、人間に寄生して生きてるんだから、人間の問題は放っておけないの。地球温暖化とか、どうしてくれんのよ」
「いきなりスケールでか過ぎるわ。とにかく俺は」
敦がそこまで言った時、背後で物音がした。メルもぴんと耳を立てる。振り向いてみると、一番近くの部屋のドアが、開こうとしている。
ヤバい、誰か起きてきた。
別に悪いことをしている気はないのだが、真夜中に団地の廊下に入りこんで猫と議論しているというのは、あまり喜ばれる行為ではない。二人と一匹は口をつぐんで動きを止めたが、その間にもドアはゆっくりと開く。現れたのは幼稚園児ぐらいの男の子だった。
「パパ?外国のお仕事おわったの?」
この夜中に、男の子はTシャツに短パン姿、裸足のままでドアを押さえている。彼がパパ、と呼んだせいで、キヨアキもメルも自分は無関係という態度を決め込んで敦の顔を見た。
「いや、パパちゃうし。ほら、全然ちがう顔してるやろ?」
精一杯の愛想の良さで、敦は彼に語りかけた。
「パパじゃないの?まおくん、パパと会った事ないからどんな顔かわかんない」
おっとまさかの母子家庭。パパは海外単身赴任、で今まで押し切って来たようだ。
「そうかあ、とにかくおじさんはパパちゃうねんわ。今、ここで大事なお仕事の話してるねん。ボクはもう、ママのとこ戻って、はよ寝なあかんで」
「ママはお出かけしてる。まおくん喉がかわいた。ジュースかお水くれたら寝る」
「はあ?出かけてる?オカンどこほっつき歩いとんねん!合コンでも行ってるんか!」
思わず本音を漏らすと、メルが「ちょっと、やめなさいよ!」とたしなめた。
「何でもええわ、とにかくもう中入って寝とけや」
もうこうなったら愛想もへったくれもない。ただでさえ危機的状況なのに、子供の相手など無理だ。しかし男の子は口をへの字にしたまま、敦の顔を見て動かない。
「ジュースかお水」
「・・・そんなもん冷蔵庫にあるやろが。ホンマしゃあないな」
子供など説得するだけ時間の無駄だ。敦は男の子が押さえていたドアを開けると、中に入った。さっさとジュースでも何でも飲ませて布団に戻らせるのだ。飲み過ぎて後で寝小便たれようが、知った事ではない。
靴を脱いで廊下に上がると、何とも言えない匂いが鼻をついた。濡れたまま放っておいた洗濯物だとか、出し忘れていた生ごみだとか、お部屋の香水だとか、そういうものの入り混じったような匂いだ。
「まおくん、台所はどこやねん」
「こっち」
男の子は先に立って案内する。廊下の先のダイニングキッチンは、生活感があるような、ないような、不思議な空間だった。
流しは乾ききっていて、洗い籠にはプラスチックのコップが一つ転がっているだけ。床には中味の詰まったゴミ袋がいくつも置かれ、二人がけのテーブルの半分には大小さまざまな空のペットボトルと、お菓子の袋やおにぎりのフィルム。残り半分はヘアアイロンにマニキュアなどの雑多なメイク用品とスタンドミラーが占領していた。
敦は自分のワンルームマンションと比較して、「まあ、似たようなもんやな」と一瞥し、冷蔵庫のドアを開けた。
軽い。
まるで店頭の展示品かと思うほど、冷蔵庫のドアは軽くて、そこにあると期待していたペットボトルや麦茶ポットの類いは一切なかった。それどころか食品らしきものがほとんど見当たらず、確認できたのはイカの塩辛と缶チューハイが五本、そして「もちプル小顔パックシート」だった。
「まおくんのオカンは相当ワイルドやな」
念のため開けてみた野菜室には液状化したきゅうりと茶色に変色した酒粕。冷凍庫には今川焼と大量の保冷剤が入っていた。
「ジュースかお水。飲みたい。のーみーたーい」
まおくんは敦にもたれかかって催促を繰り返す。
「いやこれ、悪いけど何もあらへんで。とりあえず水道の水で我慢してや」
冷蔵庫のドアを閉め、敦は洗い籠からコップをとると、水道のレバーを上げた。
何も出てこない。
「何やこれ、断水してんの?」
レバーを思い切り上げても、水の流れる気配すらなかった。
「しゃあないな。まおくん、ママはいっつも買い物とかしたら、どこに置いてるんや?」
こうなったら買い置きを探すしかない。まずはしゃがんで流し下を開けようとすると、「水道のレバーを戻せ」という声がした。
「は?」
「レバーを戻せと言うに」
その苛ついた声は、巫女のものだ。慌てて声のする方を見ると、テーブルに置かれたスタンドミラーに、彼女の顔が映っている。
「え、何してるんですか、そんなとこで」
思わず敬語になってしまうが、巫女は軽く眉間にしわを寄せて「先に水道のレバーを戻せ」と繰り返す。
「いや、これ、断水してるんですよ」
「断水ではない。お前は今日の日付を忘れたのか?」
「ええと、八月三十二日、ですか」
「そうじゃ。その場所では、時間の流れがとても遅い。水道のレバーを上げたままにしておけば、やがて大量の水が流れ出す、という事だ」
「つまり、水は出てくる途中?」
「その通り。放っておけば水は出っ放し。水道代が跳ね上がる」
「まあ、母子家庭らしいから、節約せなあかんやろな」
敦はとりあえず納得して、水道のレバーを元に戻した。
「今お前は、蛇口から水が流れ出るよりも速く、レバーを上げて、また下げた、という事になる。外部から来た存在であるお前やキヨアキは、別の時間軸に乗っているが故なのだが」
もはや、話の内容は敦の理解を超えようとしている。そこへ再び「ジュースかお水、のーみーたーい」の声がした。
「ん?ちょっと待って。俺とキヨアキが外から来た、別もんやっちゅうのは判るとして、この子は何やねん。何で普通にウロウロしてるわけなん?」
「その幼きものは、命が尽きかけておるからの」
「えええ!!」
言われて敦はまおくんの顔を凝視した、所謂「ガン見」というレベルだったが、そこまで生命の危険が迫った状態には見えない。伸び気味の髪と、まつ毛の長い、ややたれ気味の目と、少し荒れた唇。
「さっきから水だジュースだとやかましいが、その童は干からびかけているのじゃ」
「何それ、今話題の脱水症状?あかんやんか」
「慌てずともよい。少なくとも八月三十二日の内は、どうなることもあるまいて」
「それを先に言うてえや。びっくりしたで」
敦は大きく息をつき、あらためてスタンドミラーを覗き込んだ。
「なあ、質問なんですけど、ここにおるのは意識不明とか死んでる奴とか、そんなんばっかりですか?」
「八月三十二日は次元の位相が通常とは異なる。故に、そこに存在する精神体も異なる形で表出するわけじゃ。加えて時間の問題があるのだが・・・」
「あ、もういいです。判りました」
きいた自分が馬鹿だった。敦は少し話の方向を切り替えることにした。
「で、あの、キヨアキですけど、あいつ自分は死んだけどすぐに生まれ変わる、みたいな事言うてるでしょ?あれホンマですか?」
「輪廻転生は仏教関係の話じゃからな、わらわの管轄外じゃ」
「つまり、よう知らん、と」
敦がそう念を押すと、巫女は軽く眉根を寄せた。
「知らぬとは言うておらん。だがよく考えてもみよ、釈迦でさえ人間に生まれるまでに畜生として生まれることを繰り返したのじゃ。そなたら凡百の人間が来世でもまた人間、しかも衣食住満ち足りた生活ができると思うか?何を根拠に、その部屋の窓にはりついておる羽虫には生まれないと言い切れるのじゃ」
「ほな、キヨアキの来世は、昆虫?」
「それは、ものの喩えにすぎん。まあ、羽虫と人間と、どちらに迷いが少ないときかれれば、羽虫かも知れんが」
「そうですか」
頷いてみせながら、敦はもう少し巫女が鏡から遠ざかってくれないかと考えていた。そうすればあの豊かなバストを再び拝めるのだが。ところがその瞬間、スタンドミラーは縁から白く曇り始め、巫女の「つくづく賤しき男」という言葉も小さく途切れてしまった。
「あかん、またやってもた」
無理を承知で、スタンドミラーをつかんで、何か映らないかと振っていると、白猫メルが駆け込んできた。
「あんた何ダラダラしてんのよ。いま、時間風が吹いてヤバいことになってるのに!」
07
「時間風て、何がどうヤバいん?」
全く話が呑み込めないまま、敦がそう質問すると、白猫メルは「知らないの?ありえない!」と言い捨てて姿を消した。
「何やねん。知るかそんなもん」と言いながら、敦もその後を追おうとしたが、冷蔵庫のドアにもたれているまおくんと目が合った。
「お水、ないの?」
「いや、ちょっと、やっぱり外で何か飲もか」
さっきの巫女の言葉が本当なら、命が尽きかけているというのを置き去りにもできない。まおくんの手をひいたまま、素足に運動靴を履かせて玄関から外に出ると、手すりから身を乗り出しているキヨアキの背中が目に入った。
「なんか、ヤバいって?」
そう声をかけながら、横に並んで下を覗き込む。
「あ」と、思わず声が出た。
飛び降りる途中で静止している少女。その姿勢が明らかに変わっている。さっき見た時には頭と背中はほぼ同じ高さだったのが、今は頭がかなり下がっている。
「少し落ちました」
キヨアキは視線を少女の方に向けたまま、そう言った。
「猫が、時間風がどうこう言うてたけど、何のこと?」
「時間風が吹くと、その場所の時間が一気に流れます。流れる時間は、さっきみたいにコンマ何秒のこともあれば、数秒、あるいは数分」
「数分も進んだら、間に合わへんやん。数秒でも無理や。その風は、いつどこで吹くかは判らんのか」
「予測はほとんど無理です。時間嵐みたいに、一気に何時間も進むものなら、前兆はあるでしょうけど」
「話にならんな」
手すりから身を乗り出したまま、下を眺めている敦に、キヨアキは「行きましょう。急がないと」と声をかけた。
「しゃあないな」と向き直ると、まおくんがじっとこちらを見ている。キヨアキはすでに、女の子のリュックサックを肩にかけて階段を駆け下りはじめていた。
「まおくん、一緒に降りよか」
「お水かジュース、あるの?」
「それは後で探しに行くし、とりあえず下に降りよな」
そう言って、彼の手を引いて歩き出したものの、幼児の足は短い。一段ずつ確かめるように降りるその速度に、敦の忍耐が続くはずもなかった。
「やっぱり、自分で降りんでええわ」と言うなり、まおくんを脇に抱え上げて階段を駆け下りる。人が見れば完全に誘拐現場だが、その背中に何かが飛びつき、肩へと這いあがった。
「うわ!」と立ち止まると、「早く行きなさいよ」と声がする。白猫メルだ。
「何や、お前何してるねん」
「見ての通り、あんたの肩にのってるわ」
「なんでや!」
「だって自分で歩くと疲れるんだもの。ここまで上がってくるの、大変だったのよ」
どうして幼児を脇に抱え、猫を肩にのせたままで階段を駆け下りなくてはならないのか。敦はすでに、今この場所でその問いに答えはなく、考えるだけ無駄だと学んでいた。ただ、振り落とされまいと食い込んでくるメルの爪がリアルに痛い。
「お前、爪立てるのやめろや」
「だったらもう少し、静かに降りなさいよ」
「無理やっちゅうの」
ようやく階段を下りきって、まおくんを地面に下ろすと「もっと、だっこ」としがみついてくる。白猫メルは彼の頭を踏み台にして飛び降りると、のせてもらった礼も言わずに前を歩いてゆく。
「まおくん、おっちゃん今、遊んでるヒマないねんけど」
そう言ってはみたものの、離れそうもないので、仕方なくまた小脇に抱えて歩き出す。まおくんは嬉しそうにきゃあきゃあと笑い声をあげた。
「これの何がおもろいんじゃ」
ようやくキヨアキに追いつくと、彼は宙に浮かんだままの少女を見上げていた。頭頂がほぼ真下を向き、その両腕はまだ羽ばたくのをあきらめていない、といった風に空気をつかんでいる。彼女の姿は上から見下ろしていた時よりも、地面に近づいて見えた。だからといって、手がとどく距離ではない。目測だが、二階の屋根あたり、といった高さか。
「脚立あったら、何とかなるかもしらんな」
「あれば、ですけどね」
キヨアキは少女のリュックサックを肩にかけたまま、腕組みをして夜空を見上げている。
「自分、あの女の子を助けたい、いう割に後ろ向きやねんな」
「現実を冷静に分析しているだけです。あと、質問ですけど、どうしてその子を連れてきたんですか?」
「え?この子な」
まだ脇に抱えたままだったまおくんを地面に下ろし、敦は「水飲ませたらんとヤバいらしいけど、オカンが留守やねん。後で自動販売機でも探すわ」と言った。
「自販機、無理ですよ」
キヨアキの言葉は冷ややかだ。
「え、でも俺、金は持ってるで」
スマホは印籠に姿を変えていたが、小銭入れは無事だ。敦はポケットから取り出してその姿を確かめた。
「お金は入れられるでしょうけど、自販機が動く速度はとても遅い。さっきのエレベーターと同じです」
「つまり、どんだけ待っても出てけえへん?」
「或いは、強い時間風が吹いたら、出てくるかもしれません」
「自分、やっぱり後ろ向きやな」
「前は向いています」
「そやったら、一つでも何かアイデア出してみろや。急に時間が流れるやら、脚立あらへんやら、自動販売機動かへんやら、あかん事ばっかり言うてもしゃあないやろ」
「じゃあ、あなたはどうなんですか?」
「俺?俺はただ、呼ばれて来ただけやないか」
実のところ、敦に何か策があるというわけでもない。ただ、何とかすべきだと思いながら、キヨアキと同じように落ち続ける少女を見上げているだけなのだ。
「あんたたち、本当に役立たずね」
そう口をはさんだのはメルだ。まおくんはその声に反応して「にゃんこ」と手を伸ばしてつかまえにかかる。彼女は瞬時に飛び退くと、また敦の背中を駆け上がり、肩の上にのった。
「小さい子って本当に嫌。猫の嫌がることばっかりするのよ」
「俺はお前にのられるのが嫌やねん」
「あたしがここにいるのは、その子が嫌なことするからよ。あたしのせいじゃないわ」
「ホンマにどいつもこいつも」
いきなりの八方塞がり。
敦は苦々しい思いで少女を見上げる。飛び降りた彼女がこれからどうなるかは決まっていて、自分は何もできず、ただ見ているだけしかない。
事態は最初からこうだった。いや、最初の方がましだったとも言える。少なくとも自分は、彼女が地面に激突する運命だとは知らなかったのだから。ただ、奇妙な格好で空中に浮かんでいる人間がいるという、せいぜいが違和感ほどのもの。
ふいに、頬の辺りを何かが軽く撫でた。
メルの尻尾か?そう思った瞬間、視線の先にあった少女の姿が、すっと動いた。
落ちる!
声を出す間すらなく、全身が総毛だつのを感じたが、少女の身体はわずかに落下しただけでまた静止した。
「ふおおお」
溜息とも安堵ともつかないものが、敦の胸の奥から吐き出されてきた。その思いは肩にのったメルも同じだったようで、ひときわ強く爪をたてるなり、地面へと飛び降りたが、全身の毛を倍ほども膨らませている。
キヨアキは相変わらず宙を見上げているようだったが、いきなりしゃがみ込んで膝に顔を埋めてしまった。
「い、今のがさっき言うてた、時間風?」
そう問いかけると、キヨアキは顔を伏せたまま、くぐもった声で「そうです」と答えた。
「こんなに続けて吹くなんて、次はもっと大きいかもしれない」
「もっと大きい、ってつまり時間がもっと流れる、いうことか」
しゃがみ込んだままのキヨアキの傍に立ち、敦はあたらめて少女の姿を見た。少し落下した分、距離は縮まった。だからといって、手の届く高さではない。しかし、さっきまでが二階の屋根なら、今は二階の窓、あたりだろうか。
脚立でもあれば、という線はもう消えた。でも何かに登れば、あの少女の、虚空へ差し出された腕に、指先に届くのではないだろうか。
あらためて周囲を見回す。マンションの中庭にある、いちばん背の高いもの。それは何台か停まっている軽自動車だった。しかしどうやって動かす?その他に目につくのは、ゴミ箱。高さ一メートルにも満たないこの物体に乗ったところで、少女の身体に降れることは不可能だ。
他に何がある?
生い茂った夏草と、花壇の仕切りに使われているブロックと。他には、誰かが捨てたらしい、折れた傘のビニールが外灯の明かりを反射している。
他に何がある?
屋根に穴があいた駐輪場の、乱雑に停められた自転車。チャイルドシートのついたママチャリがやたらと目立つ。
「そうか、これでいこ!」
言うが早いか、敦は駐輪場へと駆けだしていた。まずは一番手前に停められている、黒い自転車をひっつかむ。施錠されている前輪は地面から浮かせ、後輪だけで引いてゆくと、少女の真下に横たえた。
「自分も手伝えや」
まだしゃがんだまま、顔だけをこちらへ向けているキヨアキに呼びかけると、彼はゆっくりと立ち上がった。
「自転車、どうするんですか?」
「見ての通りや。あそこに積んでったら、けっこうな山ができるで」
そう説明すると、キヨアキは一瞬、何か言いたそうに口を開いたが、無言のまま後についてきた。敦は駐輪場に引き返すと、停められた自転車を片っ端から運んでいった。
鍵も何もついていない、雨ざらしでサドルのひび割れたもの。風になびくよう、ハンドルに色とりどりのテープをつけた子供用。黄色とピンクの縞模様に塗装されているもの。目につく限りの場所に反射板の貼られたもの。スポークが何本か抜け落ちたもの。昨日買ったばかりのように、傷ひとつついていないもの。
中には鍵が壊され、すんなり動くものもあれば、ご丁寧に前後ダブルロックという強者もいる。それらを引きずり、持ち上げ、転がし、敦は静止している少女の下に自転車を積み上げてゆく。そしてキヨアキもまた、やや遅いペースではあったが、同じ作業に加わっていた。
とはいえ、最初こそ勢いがあったものの、敦はふだんから特に鍛えているわけでもなく、肉体労働者でもない、一応はホワイトカラーである。しばらく運び続けるうちに息が上がってきた。そこへ追い打ちをかけるように「まおくんもやるの」と、まおくんが乱入する。
「ちょっと、あかんて」
本人は手伝っているつもりだろうが、持ち上げた自転車にほとんどぶら下がるようにしている幼児は邪魔以外の何物でもない。
「まおくんまだ小さいから、これは無理やねん」
「できる。まおくん小さくないもん」
「できひん、ちゅうねん。な、ちょっと猫と遊んで待ってて」
そう言いながら、白猫メルの姿をさがすと、彼女は駐輪場の屋根で香箱をつくり、文字通り高みの見物を決め込んでいた。
「お前、何そこでのんびりしてるねん」
「だって自転車なんて運べるわけないじゃない。邪魔もしたくないし」
「それやったら、まおくんの相手したれや」
「小さい子は嫌いって言ってるでしょ」
「ホンマ、ムカつく猫やな」
額に流れる汗を拭い、集めた自転車に目を向ける。まだそれは山、と呼ぶには心もとない塊でしかなかったが、今はただ、一台また一台と運ぶしかないのだ。
08
「あーしんど」
唸り声をあげながら、敦は引きずってきた赤い自転車を、さらに自転車の山の上へと押し上げた。
一体何台あるのか、いちいち数えてもいないが、彼とキヨアキが駐輪場から移動させてきた自転車は、円錐に近い形に積み上げられていた。
遠目には現代アートに見えなくもないが、それを感じさせるのは自転車という素材の持つ動的要素と拮抗する静的均衡、ではなく、円錐の上に浮かんでいる少女の存在だった。
「よっしゃ、いけそうや」
額の汗を拭うと、敦はキヨアキの方を振り返った。
敦よりもペースは遅いとはいえ、同じく自転車を運んでいたキヨアキだが、涼しげな顔で立っている。
「自分の出番やで」
「は?」
「山のてっぺん登って、あの女の子をつかまえるんや。俺より自分の方が身長あるし、体重軽そうやし」
「無理です」
「いけるて。めいっぱい手ぇ伸ばしたら届くって」
「そういう問題じゃないです」
「いや大丈夫やって」
「だから僕は、そういう心配をしてるんじゃなくて」
「何が心配やねん。だるいこと言うなや」
頑なに動こうとしないキヨアキに、敦は苛立ちを隠さない。大股に歩み寄り、その腕をつかんだ。
そのはずだったが、彼の掌には、何の手ごたえもない。
目測を誤ったかと目をこらすと、敦の右腕、手首から先はキヨアキの左腕の中に消えている。
「うわ、何やこれ!」
反射的に肘を引くと、敦の右手はキヨアキの左腕から抜け出た。
「嘘やん。自分、見えてるのに触られへんやんか」
「死んでますから」
きわめて冷静に、キヨアキはそう説明した。
「そやけど、チャリンコ運んでたやん」
「物体に触れることはできますが、生きているものに触れることはできないのです。死者というのは霊的存在ですから」
「ちょっと待って。そしたら、俺のことシャーペンで刺したんは、あれはなんでできたん?」
「あの時、僕は直接あなたに触れてはいない。まあ、死者が物体を移動させるというのは、それなりに精神力を消耗しますから、今の僕は自転車を運んだせいで十分に疲れてはいます」
いきなりそんな事を言われても、敦の口からは「へええ」ぐらいしか出てこなかった。ここへ来て頭真っ白である。
「ちょっと、もたもたしてるヒマないでしょ」
下から声がする、と思ったら、白猫メルがキヨアキの脛から首だけ出してこちらを見上げている。
「何やもう、気持ち悪い真似すんなや!お前は化け猫か」
「その言い方は化け猫に失礼よ。化け猫や猫又なんて、滅多になれるもんじゃないんだから」
「ああ、もうええし。これ以上ややこしい事言わんといてくれ」
少し気を落ち着けようと、敦はキヨアキに背を向けた。目の前にある自転車の山。そう、これを積んでいる間ずっと、彼はキヨアキに後の作業を任せようと思っていた。なので、実のところ、気持ちが切れてしまっているのだ。
後ろから、キヨアキの声がした。
「最初に言いましたよね。僕にはできないから、あなたを呼んだって」
「そんなもん、憶えてへんわ」
「憶えてないんじゃなくて、最初っから聞いてなかったんでしょ?」
メルの突っ込みはいちいち癇に障る。
「うっさいわ。そういう肝心なことをさらっと言う奴の方がたち悪いねん」
こうなっては仕方がない。敦は振り向きもせず、自転車の山へ歩み寄った。突き出したハンドルに手をかけ、重なり合ったフレームやホイールを一つ一つまたぎ、踏み越えて、上へと進む。
自転車を積み上げていた時は、自分が上るとは想定していなかったので、アプローチのしやすさなど一切考慮していない。ただ適当に積み上げられた金属の足場は、体重をかけた途端に大きく傾くこともあった。
慌てて目の前に突き出しているペダルをつかむと、今度はそれが回転する。
「痛たたたた」
ハンドルの先に思い切り肩をぶつけ、思わず声が出る。スニーカーならまだしも、会社帰りのままなので、足元はビジネスシューズ。しかも要求されるのはアクロバティックな動きである。はっきり言って股関節がどうにかなりそうだった。
「あかんわもう。明日もう筋肉痛で歩かれへん」
そう言いながらも、敦はどうにかこうにか円錐の頂上へと身体を移動させた。見上げると、落下している少女はほぼ真上。少しでも安定する体勢をとるため、斜めに突き出したハンドルを両足で挟みこんで立ってみる。
バランスはなんとかとれそうだ。背筋を伸ばし、真上へと両手を差し延べる。
届かない。
彼の中指の先から、少女の指先まで、どんなに背伸びしてもあと五十センチはある。もう一台、自転車を積めば何とかなるだろうか?しかしすでに目ぼしい自転車は全て、この山の一部になっている。そして、もう一台のせたところで、その上に今ほど安定した姿勢で立てるかどうかは疑問だった。
「もう、駄目だったら!」
またしてもメルのブーイング。黙ってろ、と言ってやろうとそちらを向くと、駄目出しされているのは自分ではなかった。
「まおくんも上にいくの」
「駄目って言ってるでしょ!あんた邪魔なのよ」
まおくんにとっては、この自転車の山はジャングルジムにしか見えないらしい。上ってこようとするのを、メルが短パンの裾をくわえ、ぶら下がるようにして引き留めていた。
「子供は呑気でええわ」
思わずため息交じりの呟きが漏れたが、自分の言葉を耳にした瞬間、閃くものがあった。
「そや、まおくん、こっち登って来い」
「ちょっと、何言ってるのよ!」
メルはまおくんの短パンをくわえたままで叫ぶ。
「ええねん。こうなったらジャリでも何でも使わなあかん。メル、お前がまおくんを先導するんや」
「あたしが?」
二人がやりとりしている間にも、まおくんは自転車を踏み越え、敦の立つ頂上を目指している。身が軽いのはいいが、しょせん子供の手足、思うよう障害を越えられずに立ち往生してしまった。
「ああもう見てらんない」
メルはぴょいぴょいと跳ね、まおくんの先に立った。
「ほら、あたしの後をついておいで」
さすがは猫というべきか、メルは最短かつ安定したルートを瞬時に見分けていた。あとはコミュニケーションの問題というべきか。たまに「しっぽ触るんじゃないわよ!」という怒号がとんだが、まおくんは終始ご機嫌でにわかづくりのアスレチックを楽しんでいる。
「見て、まおくん一番!」
ついに自分のいる場所までたどり着いたまおくんを、敦は「おーし、ようやったな」と褒めたたえた。
「ほな、ええか、まおくん。上にお姉ちゃんおるやろ?」
言われてまおくんは天を仰ぎ、落下途中の少女を見つめて「うん」と答えた。
「今からおっちゃんがまおくんのこと抱っこするし、まおくんはあのお姉ちゃんの手ぇつかんで引っ張るんや」
「わかった」の声と同時に、敦はまおくんの両脇に手をそえて背中から抱き上げた。
「超気合いの入った裏返しの高い高い」とでも言うべき動作だが、まおくんは怖がる様子もなく、嬉しそうな笑い声をあげている。
「ほら、まおくん、手ぇ伸ばしてみ。お姉ちゃんの手に届くか?」
言われてまおくんは思い切り右腕を伸ばす。それにつられて敦はバランスを失いそうになったが、何とか踏みとどまった。まおくんの細い指先は少女の白い指先に触れ、たよりない動きではあるが、中指と人差し指とを握りしめた。
「よっしゃ。ほな、ちょっとだけ引っ張ってみ」
まおくんが引くのに合わせて、少女の指先はゆっくりと動く。
「そうそう。そしたら次は、一回手ぇ開いて、もう一回、ちゃんと手ぇつなぐんや。そう、ほんで、ずーっとこっちに引っ張ってきて」
虚空をつかんでいた少女の掌を、まおくんの小さな手がしっかりと握りしめ、敦の「そーろと、やで。慌てんでええし」という声の通りに引き寄せる。十分に近づいたことを見極めて、敦は「よっしゃ。これで大丈夫や」とまおくんを胸の前まで下ろした。
「まーだー。まだ下りないの。まおくんもっとだっこして!」
「ごめん、おっちゃん腕が疲れてきてん。また後でやるし、先に降りてて」
不満げなまおくんを足元に下ろし、飛び退いたメルに「後は頼むで」と声をかける。そして敦は再び頭上へと向き直った。
足元の安定をいま一度確かめてから両腕を伸ばし、まず少女の左の手首をつかんで引き寄せる。そして右の手首も。
宙に浮かぶ彼女は何の抵抗もなく動いた。まるで重さなど無いように感じるが、身体としての手ごたえはある。彼女は本当に、生きているのだろうか。
「気をつけて!」
ふいに、キヨアキの叫ぶ声が聞こえた。
これまでずっと、黙って眺めていたくせに、何を今さら「気をつけて」だ。少しむっとしながら、敦は少女を引き下ろして抱き留めた。
まだあどけなさの残る顔立ちで、くっきりとした眉が印象的だ。ほんのわずかに開いた唇から、白い歯が見える。十四、五歳の女の子の顔をこんな間近で見ることなど、本来ならまずあり得ない。一応はラッキー。
その考えを打ち砕くかのように、敦は自分の身体がバランスを失い、後ろへと傾くのを感じた。
そこから先は何がどうなったのか判らない。
ただ、何か大きな力に捕らえられて、振り回され、あちこちぶつけられたような感覚だけがあったが、それがどのくらいの長さだったかも定かではない。ふと我に返ると、敦は少女を抱えたまま、自転車の山の上に倒れていた。
いや、自転車の山、というのは正確な表現ではない。さっきまで彼が立っていたその山は、いま彼が倒れている、その場所を中心としてクレーターのように大きくへこんでいたからだ。
どうにか身体を起こすと、キヨアキがひしゃげた自転車を乗り越え、近づいてくるのが目に入った。
09
「よかった。無事でしたね」
「何やこれ。どうなってんねん」
「彼女が落ちてきた衝撃を、自転車が吸収してくれたんでしょう」
「へ?そうなん?もし自転車なかったら、俺はどうなってたんや?」
「たぶん、大変なことに」
「それ知ってて、俺にこんな事やらせたんか?」
「いえ、ついさっき、もしかしたら、って思ったんです。だから、気をつけてって、言いましたよね」
「アホ!遅いんじゃ!」
それ以上何を言う気力もなく、敦は少女を抱きかかえ、四苦八苦して自転車のバリケードを抜けた。
「この子、どこに連れてったらええんや?」
「とりあえず、人目につかないところに」
「・・・ほな、あの階段にしよか」
二人は先ほど上ったマンションの外階段へと向かった。敦はそこで少女を下ろすと、階段の三段目に座らせた。ぐったりと、目を閉じたままの彼女が倒れてしまわないよう、壁際に身体を寄せておく。
「ちょっと、忘れ物してるわよ」
その声に振り向くと、白猫メルとまおくんが立っていた。まおくんは背負っていた少女のリュックサックを下ろすと、「はいどうぞ」と差し出す。それを受取りながら、敦はキヨアキに文句をつける。
「これ、自分が持ってた・・・」
言い終わらないうちに、周囲がほの明るくなった。かと思うと鋭い光が差し込み、その光源は見る間に中空へと駆け上って、圧倒的な光と熱をもたらした。だがそれも一瞬のことで、光の中心はそのまま天を滑落してゆくと、最後にオレンジの残像をゆらめかせて消え、辺りは再び夜の闇へと沈んだ。
その短く、かつ急激な光の移ろいにつれて、捉えどころのない風が渦巻き、揺れ、吹き抜けていった。そして地の底から湧き上がるような、大気の唸りともいうべき音の塊が辺りを包みこみ、やがて現れた時と同じくらい唐突に消えていった。
「今の、何?」
まおくんから受け取ったリュックサックを手にしたまま、敦は誰に、というでもなく問いかけたが、この場でそれに答えられるのはキヨアキだけだった。
「時間が流れたんです」
「時間が、流れた?」
「八月三十二日が、今の一瞬で、過ぎてゆきました」
「へ?今のあれ、一日やったん?」
キヨアキは頷くと、腕時計を見た。
「さっきまで我々は八月三十二日の、午前零時をわずかに過ぎたところにいました。そして今は、八月三十二日、午後十一時五十九分」
「そうか、まあ、とにかく、間に合ったわけやな」
細かい所はよく判らないが、結果オーライだと判断して、敦は手にしていたリュックサックを少女の脇に置いた。
「ほな、この子は九月一日になったら目を覚ますわけやな」
「そうです」
「そやけど、この階段をまた上がって行かへんという保証はどこにあるねん?」
「それは・・・」と言いよどむキヨアキを制するように、「あたしがついてる」とメルが宣言した。
「は?お前が?」
「あたしはこの子と一緒に、家までついて行く。でもって、そのまま飼い猫になるから」
「まあ、それはお前の勝手やけど、そもそもお前、どっかの飼い猫とちゃうんか」
「そうよ。今夜はちょっと散歩に出てきただけ。でも、この子には猫が必要だから、あたしがついて行く。あたしのママはきっと泣くわ。メルちゃんが迷子になって帰ってこないって。それは判ってる。チラシとかいっぱい作って、近所のポストに入れまくって、スーパーとかパン屋さんとか、図書館やクリーニング屋さんにも貼ってもらうんだわ。そう思うと、とても悲しいけど、あたしはもうママのところには帰らない。この子と一緒に行く」
「そういう事するし、猫は犬より恩知らずやとか言われるんやろ」
「かもね。でも猫って人間が思ってるよりずっと、色んな事考えてて、色んな役目があるの。ママならきっとわかってくれると思う」
メルは座っている少女の膝に飛びのってうずくまると、「じゃあね」と言った。
「お、おう、ほなな」
敦は中途半端に頷くと、少女とメルに背を向けた。傍ではキヨアキが「お元気で」と言っている。そして歩き出すと途端に、まおくんが「だっこ」とまとわりついてくる。
「あーはいはい」と、適当にいなしながら、敦はこの後どうすれば大阪まで帰れるのかと考えていた。
「だっこ。だっこして」
「すまんな、おっちゃん、大阪帰らんならんし」
「だっこして。まおくんジュースかお水飲むの」
「はい?あ、ジュース?」
すっかり忘れていた。そもそも何故まおくんが自分たちと会話できるのかといえば、脱水症状で死に瀕しているからなのだ。
「あかん、どないしよ。九月一日まで、あとどれくらい時間あるねん」
「時計じゃ一分切ってますけど、実際のところ僕らがどのくらい動けるかは、何とも・・・」
キヨアキの煮え切らない返事を聞くうち、脂汗が額ににじむ。今夜だけでどれほどの汗をかいた事か、そう思いながら額を拭った時、閃くものがあった。
「そや、あの巫女さんとこ行ったらええんや」
さっき牛車でここへ来る前、穢れを祓えだの何だの言われて、シャワーを浴びたではないか。あそこなら水があるはずだ。
「とりあえず、アポをとらんと」
敦は駈け出すと、一番近くに停まっていた白い軽自動車のサイドミラーをひっつかんだ。
「もしもーし!すいません!もしもし?」
大声で呼びかけてみるが、返事はない。
「何やってるんですか」
追いついたキヨアキは、呆れたような顔つきをしている。
「何て、巫女さんは鏡があったら連絡できるんちゃうんか」
「それは、倭可由様の側からの話であって、こちらから鏡で呼び出すなんてできません」
「せやけど、巫女さんかて、あの女の子だけ助けてまおくんは放っとくのはおかしいんちゃうか?」
「あの女の子は、僕が倭可由様にお願いを立てて、しかるべき手順を踏んで、あなたを呼び出してもらったんです。今のあなたみたいに思いつきじゃない」
「思いつき?そんなん・・・」
言い返そうとする間にも、まおくんは「お水飲む。ジュースかお水」と繰り返す。
「あーもう!あの巫女さん、絶対気づいてんのにスルーしてるわ。もしもーし!」
サイドミラーに何度叫んでも、鏡には深夜のマンションが映るだけで、何の変化も浮かばない。キヨアキは背後から「さっきの、あの自転車の山が崩れたのは、たぶん倭可由様が手を貸してくれたんだと思います。でなければ、あなたはとても無傷ではいられなかったはずです」と言った。
「それは、つまり、彼女が俺に特別な感情を?」
「いえ、そうじゃなくて、たぶん今、倭可由様は疲れていて、僕らと話をする余裕はないだろうと」
「何やねんもう!」
苛立ちのあまり軽自動車の窓ガラスを拳で殴ってしまうが、痛むのはこちらの手だけだ。「ちくしょ」と唸りながら、もう一度軽くガラスを叩いた時、敦の視線はあるものに釘付けになった。
ドリンクホルダーに置かれた、スポーツドリンクのペットボトル。
容量五百ミリリットル。
「よっしゃ!まおくん、ええもん見つけたぞ!」
そう叫ぶなり、敦は足元に落ちていたこ石ころで力任せにガラスを叩いたが、何の変化もない。
「あかん、こんなもんちゃうし」
敦は軽自動車から離れると、花壇の仕切りに並べられているコンクリートブロックを手にとった。助走をつけ、大きく肩を引いてから、角を思い切りガラスに叩きつける。
わずかに、軋むような音をたてて亀裂が生じた。
「もう一発!」
こんどは両手でブロックを持ち、亀裂めがけて打ち下ろすと、わずかに穴が開き、三度目でついにガラスは砕けた。そこから腕をつっこんでロックを外してドアを引く。ドリンクホルダーからペットボトルをつかみとると、まおくんに差し出した。
「ほら、さらやぞ。思いっきり飲めや」
「ふた開けて」
「ふた?こんなんも開けられへんのかい」
急いでキャップを緩めてやると、まおくんは飛びつくように敦の手からペッとボトルを奪い取り、一気に飲み始めた。しかしその重さをうまく支えられず、あふれたスポーツドリンクは勢いよくまおくんの喉元を伝って流れてゆく。
「あかんあかん、何もったいない事してるねん」
慌てて敦が手を添えてやると、ようやくまおくんは落ち着いて喉の渇きを癒し始めた。
「はーあ、これほとんど哺乳瓶のノリやな。ジャリは何やっても手がかかるわホンマ」
敦のぼやきなど関係なく、まおくんは心ゆくまでスポーツドリンクを飲むと、「げふ」と大きなゲップをしてから、「もういい」とペットボトルを手放した。中にはまだ少しだけ残っている。
「ほなこれ、蓋しとくし、まおくん持っとけや」
「もういい。まおくんねんねする」
そう言ううちにも、まおくんの瞼はほとんど閉じてゆき、足元はふらつき始める。敦は慌ててペットボトルを脇に挟むと、まおくんを抱きとめた。
「何やねん、いきなり寝落ちすんなや」
「水分補給したから、もう大丈夫なんでしょうかね」と、キヨアキも覗き込む。
「そやけど、こいつをあの部屋に戻したとしても、オカンはいつ帰ってくるねん」
もしかすると、五分後にも帰宅するのかもしれない。あるいは、あと一日。その間、まおくんは何もない部屋で待ち続けるのだ。
「ええわ。ここに寝かせとこ」
「ここって、車の中、ですか?」
「そや。いくら何でもこの車見たら、誰かが警察呼ぶやろ?そしたらまおくんの事も見つけてくれるわ。後ろのドア開けてんか」
言われて、キヨアキは車の後部ドアを開けた。
「ガラスとか、落ちてへんやろな」
キヨアキは後部シートを一通り撫でまわしてから、「大丈夫だと思います」と答える。彼と入れ替わるように、敦は寝入ってしまったまおくんを後部シートに横たえた。飲み残しのペットボトルは足元に置き、ドアは開いたままにしておく。
「これで俺は、車上荒らしの前科一般や」
「自転車の器物損壊もカウントされると思いますよ」
「それは自分もやろ。とにかく、早いとこ逃げろっちゅう事やな」
敦は軽自動車から離れると、団地の敷地を出るべく歩き始めた。キヨアキもすぐについてくる。
「なあ、ここ埼玉やろ?新幹線の始発で大阪帰ったら、ギリギリ会社間に合うと思うんやけど、東京駅までどうしたらええやろ」
「心配しなくても、倭可由様がしかるべき方法で帰らせてくれるはずです」
「そうなん?ほな、また巫女さんのいた家まで戻るのんか」
ちょっとした距離があったように思うが、まあ朝まではまだ時間がありそうだ。ちょっとした解放感に包まれて、敦の足取りは軽くなった。
「俺は大阪戻って、ほんで自分は、ええと、どうするんや?」
「僕は生まれ変わる。転生するんです」
一点の疑いもない口調で、キヨアキはそう答えた。
「なあ、そやけど自分、ホンマは死にたなかった、いうか、もっと長生きしたかったんちゃうんか?」
10
「いいえ。僕は長生きなんかしたくなかった。これでいいんです」
キヨアキの口調に迷いはなかった。
「なんでそこまで言い切れるん」
「だって、僕の祖父も、父も、髪が薄い、っていうか、はっきり言ってハゲてるんですよ。しかも三十代前半から。おまけに僕は祖父や父にそっくりだと皆から言われますから、確実に同じようになるはずです」
「つまり、ハゲんの嫌やし、若いうちに死にたい、と。何やそれ」
「当事者には切実な問題なんです」
「そやけど、ハゲなんかカツラとか植毛とかあるし、スキンヘッドでもええやんか。うちの爺さんとオトンなんか、耳に毛ぇ生えてんねんぞ。見たことないか?耳の穴にびっしり剛毛生えてるおっさん、それがうちのオトンや。我が親ながらドン引きやで。しかもそれが自分の将来カウントダウンや。なあ、間違ってたらごめんやけど、自分、もしかして、いじめられてた事あんのちゃう?」
一瞬の沈黙の後、キヨアキは「なぜそんな事を言うんですか?」と問い返した。
「いやもう単純に、あの女の子を、いじめられたままで死なせたらあかんて、そこまで親身になる理由は何やろうと思って」
「そうですか」と言って、キヨアキはかすかに笑った。
「これは僕の持論ですけど、一度でもいじめられた事のある人間には、何か印のようなものがついていて、一生消えないんじゃないかな。だからあなたも、僕の印に気づいた」
「いや、そういうわけではないけど」
「言い訳はいりません。確かに僕はいじめられていた。中学校に入ってからです。たとえばあなたの同級生、三浦さんみたいにはっきりした理由があれば、まだましだったかもしれない。でも僕はただ単に、僕が僕だからという理由でいじめられた。そのせいで中学は一年生の秋から行っていないし、高校も通えなかった。それでも大検を受けて、地元から遠く離れた大学に入りました」
「それでええやん」
「僕としては全てリセットしたつもりだったけれど、現実はそう甘くない。中高をとばして大学に通うのは、自動車教習所抜きで高速を走るようなものです。はっきり言って心の折れそうな事の連続でした。そして僕は、僕じゃない人と間違えて殺された。正直言って、これで完全にリセットできる、という解放感があります」
「完全に、リセット?」
「何のいいところもなかった人生を終わらせて、次に転生するんです。まっさらな人生をやり直すんだ」
「いや、もうリセットできてるやん。大学入ったんやろ?心折れそうやとか言うけど、俺なんか毎日折れまくりやで。客はわがままばっかり言うし、上司は細かいし、先輩クセ強いし、電子レンジつぶれたし」
「あなたは何があっても大丈夫です。強い人ですから。一緒にいてよく判りました、でも僕は駄目なんです。些細な事で、とにかくすぐに落ちてしまう。僕はもうこれ以上、落ちるのは嫌なんです」
これまでの冷静さとはうって変わって、振り絞るような口調でそう言うと、キヨアキは敦をおいて駈け出した。
「うわ、待てや!お前、自分だけ繊細な人間で逃げ切るつもりかコラ!」
慌てて敦はキヨアキの後を追った。捕まえてどつき回す、ほどのことはないが、言ってやりたい事はある。いやその前に、このまま放っていかれては、大阪に戻れなくなってしまう。
キヨアキの逃げ足は速く、見る間にマンションの敷地を抜けると、二車線の車道を越えてその向こう、公園らしい緑地の並木道を走ってゆく。それを追って車道に出た敦を、強烈な光が照らした。
一瞬、足がすくむ。
光のくる先を確かめようとしたが、何かが激しくぶつかる感覚があって、気がつくと敦は宙に浮かんでいた。その下に見えたのは、250ccの黒いバイクにまたがった巫女だ。
襷で袖をたくし上げ、緋袴の足元はライダーブーツ。右足を軸に車体を反転させて停まり、こちらを見上げている。
ヘルメットはつけず、分厚いゴーグルをかけていたが、その底に光る冷たい瞳が敦の視線と交錯する。朱をさした唇の両端をわずかに上げて、彼女は笑っていた。
「マジでドSや」
その言葉を口にする余裕もなく、敦の意識は途絶えた。
アラームが鳴っている。
腕を伸ばして枕元の携帯をつかみ、アラームを止めると敦は起き上がった。
Tシャツにトランクスといういつもの格好だが、右太腿の白い絆創膏がやけに目立つ。
昨夜、仕事帰りに医者に行き、切開して膿を出してもらい、抗生物質と痛み止めをもらって帰ってきたが、その甲斐あって、もうほとんど痛まない。
ここから三十分はほぼ自動操縦。身支度を整え、シリアルに牛乳をかけたものとアイスコーヒーで朝食。食器を洗い、ついでに歯を磨いて家を出る。
外は快晴で、今日も暑くなりそうだ。十分ほど歩いて駅まで行き、いつもの電車のいつもの車両に乗る。うまい具合にドア脇の空間を確保すると、壁にもたれて携帯を取り出す。この時間にニュースをチェックし、世間の動きを多少は把握するのだが、政治、経済よりもスポーツ新聞系のネタを見る時間の方が長かった。
まあ大体、ネットのニュースは見出しで引っ張っておいて、中味はさほどでもない、というものが多い。だから「新手のミステリーサークル?一夜のうちに謎の自転車オブジェ出現」というニュースも、大して期待せずに見たのだった。
「埼玉県草加市の公団住宅敷地内において、駐輪場の自転車約三十台を一カ所に積み上げるといういたずらが発生し、住民を困惑させている。
いたずらは昨夜十一時半から本日零時十五分という、きわめて短時間に行われたとみられるが、目撃者はおろか、物音を耳にした住民すらいないとの事。しかも自転車の半分近くは変形しているという。また、同じ時間帯に現場付近で乗用車の窓が割られ、中で眠っていた幼児が保護されており、警察では二件の関連性を含めて捜査している。ネットでは、新しいタイプのミステリーサークルではないか、という意見も出ているが、真相は定かではない」
敦はこの記事を何度も読み返した。それから別の事件について、おぼろげな記憶を探った。
JR西宮駅、バス乗り場、火をつける。
列車が停まる。ここはいつも降りる駅ではない。しかし敦はそこで下車すると、人の流れに乗って歩き、JRへと乗り換えた。
大阪より西、神戸方面へはふだん、ほとんど向かわない。仕事をはじめ、友達に会うのも映画を見るのも、たいがいは大阪だし、出かけるとしたら神戸よりも京都だった。なので西宮駅など今まで降りたこともなかったが、それでも今朝は来る必要があった。
列車を降り、改札を抜け、北口へ出る。ロータリーのバス乗り場には人が並んでいて、敦はその中にキヨアキの姿を探して歩いた。
いるのか、いないのか。いなければ、それでいいのか。いれば、どうするのか。
やせて色白、背が高く、少し長い髪で、深いマリンブルーに銀色のロゴが入ったTシャツ。首筋には三つ並んだホクロがある。
そんな青年がいるのか、いないのか。
一人ずつ、バス待ちの列に並ぶ人間の姿を確かめながら、敦は足早に歩いた。汗が噴き出してくるのは、暑さのせいか、切羽詰まった気持ちのためか。
そしてもうあと数人というところで、敦は足を止めた。
キヨアキだ。人を寄せつけないような、伏せた目線で手元の携帯をじっと見つめ、耳にはイヤホンをつけて立っている。
しかし、彼にどう声をかけるべきなのだろう。
逃げろ?いきなりそんな事を言えば、こっちの正気を疑われる。
敦はその場に立ちつくした。せっかくここまで来て、俺は何もしないのか?
いや、何もしなくていいのかもしれない。
今ここに、キヨアキが無事でいる。つまり、俺がわざわざ動かなくても、大丈夫という事ではないか?
そう思い、駅へ引き返そうと振り向いた時、彼とすれ違った者がいた。
つん、と鼻をつく匂いに、反射的にそちらを向くと、ショートヘアで黒いワンピースの女が、妙に力のこもった足取りでキヨアキの方へ歩いて行く。
左の肩に大きなトートバッグをかけ、右手には、キャップのないプラスチックのボトル。それを見た時、敦はさっきの匂いが何だったかに気づいた。
とっさに、駈け出して後ろから女の腕をつかむ。
きゃーっ、という悲鳴をあげて彼女は敦を振り払おうとし、その拍子にボトルの中味が地面に流れた。
瞬く間に揮発性の臭気がたちこめ、辺りは騒然とする。キヨアキもまた、顔を上げると、何事かと周囲を見回した。
一瞬、彼と敦の目が合ったが、キヨアキの表情に言葉をつけるなら「は?」といったところで、彼はすぐに手元の携帯に視線を落とした。
「ちょっと!放して下さい!」という苛ついた女の声に、敦は我に返り「あ、さ、さーせん」と手を緩めると、猛ダッシュでその場を後にした。
ちょうどホームに入ってきた列車に飛び乗り、空いたシートに身を沈める。汗と動悸が収まるまでの間、敦はじっと目を閉じていた。
どの位そうしていたのか、そろそろ大阪駅かと目を開くと、「次は三宮」というアナウンスが流れた。思い切り逆方向である。
どうせ遅刻。観念して携帯を取り出し、思い切って病休のメールを入れることにする。体調不良の伏線はあるのだから、後は池本Bが勝手に話をふくらませてくれるに違いない。
メールを打ち終えて顔を上げ、敦はひとり呟いた。
「とりあえず明石まで行って、明石焼きでも食べよかな」
外には九月一日の、真夏と変わらない陽射しが降り注いでいる。
8月32日