閉じられた環

 その奇妙な谷を見つけたのは、私が調査の旅に出て約半年後のことだった。私の国では十年ほど前から人口の増加が問題になり始めていたが、ここ数年は特に問題が深刻化し、私の国の痩せた耕作地では全国民を養いきれなくなる恐れがあった。この状態でもし飢饉にでも襲われれば悲惨な事態になりかねないと判断した王は、人々を移住させられる土地を探すよう私に命じたのだった。
 私は近隣をくまなく歩き回った。古い地図は不正確なので、道々じぶんで地図を作らねばならなかった。私の国の南方には砂漠が広がり、北方には急峻な山地が長く東西に延びている。そのため、最初は探索の容易な東方と西方を重点的に調べたが、人の住めそうな土地にはすでに人が住んでいて、新たに移住できそうな土地はもうなかった。
 東西の探索を終えた私はひとつの選択を迫られた。北の山地を調べるか、南の砂漠を調べるかだ。私はしばらく考えた末に、北の山地から調べることにした。砂漠からは時おり交易のために砂漠の民が駱駝を引いて私の国へやってくることもあったから、人が住めないわけではないはずだった。だが、ただでさえ水の乏しい砂漠に我々の民が大挙して移住できるとも思えなかった。山地であれば、もしかするとどこかにまだ誰も気づいていない盆地が開けていて、そこに移住できる可能性がなくもない。そう判断した私は休む間もなく山地の探索を開始した。
 険しい山に分け入る旅は想像以上に苦しかった。だから道なき斜面をよじ登った先にその奇妙な谷が突然現れたとき、私は自分の目で見ているものが信じられない気がした。その谷間は西の峰から流れ出る川に沿って形作られたもので、(ゆる)やかな斜面が川を挟んで南北に広がっている。川は西の峰から東へ流れ下り、谷の東の端でまるで水門のように両岸から突き出た峰の間へ流れ去る。谷間全体がその水門の峰でぴたりと出口を閉ざされたようになっていた。
 晴れ渡った空の下で、豊かな陽光を浴びるこの谷はとても豊かであるように見えた。北の斜面には耕作地が整然と区切られ、畑は見るからに手入れが行き届いている。私のいる南の斜面には林が多く、随所から煙が上がっている。そして谷の斜面のあちこちに、多くの民家が散らばっていた。そう、ここにも既に人が住んでいるのだ。谷を囲む尾根から見下ろす私の目にも、耕作地や民家のまわりを行き交う人の姿が見えた。
 この谷間を見下ろした私が抱いた感情は、自分の国に知られていない谷間の国を見つけた興奮でもなければ、ここに人が住んでいると知った落胆でもなかった。私はこの谷間の奇妙な見た目にただ驚いていた。谷の全体がきれいに三色に塗り分けられていたからだ。谷間の北の斜面も南の斜面も、そして西の峰の麓の斜面も、それぞれが赤と青と黄のまだら模様になっている。正確に言えば、色が塗られているのは谷間そのものではなく民家だった。この谷の民家はすべて赤と青と黄のいずれかの色に塗り分けられていて、尾根から見下ろす私の目には、まるで谷間そのものが三つの色で彩られているように感じられたのだ。私は迷わずこの谷間に降りていった。手持ちの食料が尽きかけていたため、この谷の人に食料を分けてもらう必要があった。それに見るからに肥沃なこの谷であれば、私の国の人々を受け入れてくれる余地があるかもしれない。
 上から見ていたときはよく分からなかったが、実際に谷間へ下り始めてみると、私のいる南側の斜面には大きく盛られた土の山がいくつもあり、どうやら鉱山があるようだった。方々から盛んに煙が上がっているのは、鉱石を製錬する炉があるからなのかもしれない。ここは相当に豊かな谷間なのだと感じ入りながら、誰かに出会ったらいろいろと話を聞いてみようと考えていたが、人に出会うのに長く待つ必要はなかった。煙を上げる小屋から十人ほどの男たちがすぐに走り出てきた。
「あんた、いったい誰だ?」
「お前、赤なのか青なのか黄なのか、いったいどれだ」
「なぜ印をつけていない。掟破りは死罪だぞ」
 男たちは口々に詰問した。ここの鉱夫たちなのだろう。あちこちが破れた粗末な服を身にまとい、特に肘から手先にかけて砂(ぼこり)にまみれてひどく汚れている。膝から下も埃まみれだった。彼らの目には私に対する敵意と警戒心がありありと浮かんでいた。彼らの言葉は訛りがきつく聞き取りにくかったが、どうやら私と同じ言葉を話すようだった。彼らはみな頭や腕、あるいは腰に赤か青か黄の布を巻いていた。日焼けした彼らの顔に直射日光が照りつけ、額に汗がにじんでいる。
「私はここの谷の者ではない。山の下の国からやってきた。食料が尽きかけて困っているので助けていただくことはできないだろうか。それから、できればあなた方に相談したいこともある。この国の長に会わせてもらえるとなおありがたい」
 私は丁重に言った。彼らは私の言葉を理解したようだったが、さらに警戒心を募らせたようだった。
「おーい、よそ者が侵入してきたぞ!」
 男たちのうちのひとりが声をあげた。
「あなた方に迷惑をかけるつもりはない。ここにいることが許されないのならすぐにでも旅立つ。だが、せめて食べ物だけでも恵んでいただけないだろうか」
 私は険悪な雰囲気に危険を感じてそう言ってみたが、小屋からさらに多くの男たちが走り出てきて、わたしは綱でぐるぐる巻きにされてしまった。綱は赤と青と黄の三種類があった。そして私の口には容赦なく猿ぐつわがかまされた。
「われわれ赤の民がこの男を捕まえたのだぞ」
「何を言う、赤の分際で出しゃばるのではない。俺たち黄の獲物だ」
「馬鹿を言え、何を見ていたんだ、俺たち青の綱が一番にこいつを巻いたんだ。これだから黄は信用できぬのだ」
「おいおい、青なら青らしく振る舞え。俺たち赤に逆らうと容赦せんぞ」
 男たちは私を馬の背にくくりつけながら口論を続けていたが、やがて感情が激してきたのか仲間うちで取っ組み合いを始めた。男たちは獣のように相手の胸倉をつかみ、いまにも相手に殴りかからんばかりだった。わたしはこの隙になんとか逃げ出せないかと体をよじった。私の動きを察知して馬が(いなな)いた。それをきっかけに男たちはふと我に返ったらしく、争いをやめた。
「おい、喧嘩は後回しだ。まずはこいつを大神官さまのところへ連れてゆくのだ。ほら、赤、手伝わんか」
「喧嘩を始めたのはこの青のやつです」
「私はただこの黄の思い上がりを正そうとしただけで……」
 男たちは口々にそう言いながら、私をどこかへと運んでいった。

 牢の中で私は与えられた食事をとり、それから背を壁につけてぼんやりと牢の中を見回した。壁の高いところにある小窓から薄い光が差し込んでいるところを見ると、まだ日没までは間があるのだろう。かすかな光の筋は独房の隅をひっそりと照らし、土の床に盛り上げられた(わら)の山を頼りなさげに浮かび上がらせている。独房の三方は厚みのありそうな土壁で、残る一方は太い木を組んだ柵になっていた。柵の一部が扉になっていたが、壁も柵も扉も頑丈な造りでとても逃げられそうにない。あたりには人の気配はなく、恐ろしいほど静かだった。
 囚われ人の私に出された食事ひとつをみても、この谷間の国が相当に豊かであることは明らかだった。だが、豊かではあっても平和であるとは言えなさそうだった。私を捕らえた男たちは私に対して険悪な眼差しを向けていたが、彼ら同士の間にも深刻な溝があるように感じられたからだ。
 私の観察が正しかったことは、その夜のうちに明らかになった。窓からの光が薄れて牢の中が完全な闇に沈む間際になって、男がひとり私の独房へやってきた。男は手にしていた松明を壁にかけ、牢の柵越しに私に話しかけてきた。暗闇に慣れ切った目には松明の炎ですら明るすぎ、私には男の顔や身なりをすぐに見て取ることはできなかった。だが威厳に満ちた立ち居振る舞いは私にも感じ取ることができた。男の衣服からは香を焚くような匂いが漂ってきた。
「お客人、このようなところに閉じ込めてしまって申し訳ない。だがこの谷では他所から来た者を牢に入れなければならぬ掟なのだ。わたくしはこの国の神官の(おさ)を勤めるサミルと申す者。そのわたくし自らが掟を破るわけにはまいらぬ。したがってそのお体こそ牢に入っていただく他に仕儀はなかったが、ここにいらっしゃる限りご不自由はおさせ申さぬ。ここはなにとぞ、わたくしの顔に免じてご辛抱くだされ」
 堂々たる口調だった。サミル師はそれから、これも他所者が現れた際の決まりごとなのだと断った上で、私にこの谷に入り込んだ理由を尋ねた。私はサミル師が信頼できる人物であると直感し、自分の国を襲いつつある危機と、自分が旅に出て諸国を放浪している理由を包み隠さずに説明した。サミル師はなるほど、と深く頷いた。
「理由はお分かり申した。残念ながら我らの谷はあなた方の民を受け入れることはできぬが、お客人、あなたには旅の糧をお渡しして、大切な探索を続けていただけるようお力添えいたそう」
 サミル師の言葉は私には残念なものだった。この豊かな国であれば私の国の民をある程度まで引き受けてくれるのではないかと期待していたからだ。私はそのことを率直にサミル師に問うてみたが、サミル師は残念そうな表情で首を横に振った。この頃には私の目も松明の光に慣れて、師の彫りの深い容貌や鋭い眼差しが見えるようになっていた。
「いまも申したとおり、残念ながらあなた方をお助けするわけにはまいらぬ」
「それも掟なのですか?」
「掟というだけではない。我らの谷は(いにし)えの世からもう数えきれないほどの長き年月にわたってひとつの問題を抱えておるのだ。その問題が存在するかぎり、谷の外の者を受け入れることはできぬ。あなたの国の民をここへ呼び込んで、我ら自身の問題の巻き添えにするわけにはまいらぬからな」
「その問題というのは、赤と青と黄に関わることなのでしょうか」
 私は思い切ってそう言ってみた。高潔な人であるらしいサミル師でも、こうも直接的に尋ねれば気分を害するかもしれない。だが私も必死だった。彼らが問題を抱えているということは、その問題を解決できさえすれば、我が国民を救う余地があるかもしれないということだ。私はこの谷に抱いた一縷の望みを、そう簡単に捨て去りたくはなかった。
 私の問いにサミル師は一瞬黙り込んだ。しばらく私の顔をじっと眺め、それからまた重々しい落ち着きのある声音で言った。
「お客人、どうしてそれをお知りになった」
 彼の口調は静かだったが、それまでにない凄味を帯び始めたように私には聞こえた。
「私を最初に捕らえた村人たちが、赤か青か黄のいずれが私を最初に捕まえたか口論していました。そして口論が激しくなるにつれ取っ組み合いを始め、いずれ血が流れるかと思うほど激しておりました」
 私がそう言うと、サミル師はため息をついた。
「あなたはさすがにお国の大役を任されるだけあって観察眼も鋭い。そこにお気づきになったのであれば隠しても仕方ない。よろしい、お話いたそう」
 サミル師はそう言って居ずまいをただし、話し始めた。
「わが谷にはあなたがお気づきになったとおり、三色の民がおる。赤の民と青の民と黄の民だ。この色の区別は、もう今では伝承を(さかのぼ)ることもできぬ、遥かな父祖の代より伝わったものだ。それぞれの色の民の顔かたちが異なるわけではなく、なぜどのようにして色の区別が定められたのかも既に忘れられてしまったが、いまもその区別は厳しく守られておる。そして、色の区別とともに、色の順位も伝えられた」
「色の順位というのは、最も尊い色があるということでしょうか」
「最も尊い色も、最も卑しい色もない。あるのは、赤より青が優越し、青より黄が尊く、黄より赤が上位だという決まりだけだ」
「では、永遠に回り続ける優劣の輪があるということになるのですか」
「そうだ。そしてそこに我らの苦悩がある。どのような問題が起ころうとも、そしてどのような解決を求めようとも、輪を追えばきりがなくなるからだ。たとえば、赤の民の畑にたまたま土砂崩れがあり、他の色の民に助けを求めなければならないとする。そういうことは時として実際に起こるものなのだ。そういうとき、赤の民は自分たちより尊い青の民に助けを求めるわけにはいかない。となれば、その求めは黄の民に向く。そして黄の民は、その助けに必要な物資を青の民に供出するよう命じる。あとはお分かりであろう。結局ぐるりと回って赤の民は誰からも助けを得ることが叶わなくなる。それでも助けを求めるといった話ならまだよい。これが土地や財産をめぐる権利のぶつかり合いや、罪を犯した者の裁きとなると、誰もが感情的になってくる。収拾がつかなくなって、憎しみと恨みが募る一方となる」
 話を聞くうちに私にも彼らの抱えるという問題のあらましが見えてきた。だが、それが問題なら彼らはどうしてこの問題を解決しようとしないのだろう。
「本当に色があることが問題なのであれば、その色の区別をなくしてしまうことはできないのですか。誰もがそこに問題があると理解しているのであれば、人々を説得することもできるのではありませんか」
「それができればどれほど良いであろう」
 サミル師は部外者の私の不躾(ぶしつけ)な質問にも淡々と言った。
「この国の民を導く神官としてはお恥ずかしいかぎりだ。だが、色をなくすという方法ではうまくいかぬのだ。我ら神官団はもう何度もそれを試みた。だが人々の心には幾世代もの長きにわたって色が絶対的な掟として刷り込まれておる。中には聡明な者たちもいて、彼らは色を棄てることをためらわぬ。だがそう考えられる者はごく少数にすぎず、大多数の者たちはそうは考えぬ。生まれたその日からずっと色があることを当たり前と考えて育ってきているのだから、無理もないといえば確かにそのとおりなのだ。我ら神官団が色を廃止すると言っても、一時的に、表面的に色が隠れるにすぎぬ。結局のところ、人々の心が色に染まってしまっておる以上は、その慣習を洗い落とすことができぬのだ。そして神官団の中でさえ、実は多くの者たちが本気で色を捨てるなどと考えることをできずにいる。それほどまでに色の掟はこの谷に深く根付いておる」
 私は彼の説明にもいまひとつ納得できなかった。何に由来するかも分からない血の色などに、なぜそこまでこだわる必要があるのだろう。だが古来からの風習というものは、その中で育った者にとっては時として強い力を持ち得ることがあるものだ。外から見れば奇異な風習でも、この谷の人々にはまったく違った重みを持ち得るということは私にも想像できなくはなかった。故国を離れて諸国を巡るうちに、私にもそのくらいの見識は身についていた。
「お話は分かりました。だが、私には依然この問題には解決の道があるように思うのです」
 私がそう言うと、サミル師の目が鋭くきらめいたように感じた。
「何か良い方法があるのであれば、ぜひお聞きしたい。我等はもう何代にもわたってこの問題の解決方法を探り続けてきた。我ら神官の最も大切な仕事は、この解決方法の探求だと言ってよいほどだ。この谷の我らにとってはそれほどの難題なのだ」
「たとえば、赤と青の民の子は、その血の半分が赤、半分が青です。そうなれば、黄の民はこの赤と青の民の子にどう接することになりますか。赤の民の血には敬意を払い、同時に青の民の血に優越することになり、結局黄の民と同等ということにはなりませんか」
「よいところに気づかれた。それはまさしくわたくしの八代前の大神官が考えた方法なのです」
「ということは、問題は解決しなかったのですか」
「解決せぬ。正確に言えば、問題のありかを別のところに移すだけだ。そして恐らくは物事をより深刻な方向に動かすことになるだろう」
 私は少し考えてみたが、サミル師の言わんとすることが理解できなかった。
「それはどういう意味でしょう」
「第一に現実の問題として、赤の民は青の民との婚姻を望まぬ。それを無理強いされることは、赤の民にとってはこの上ない屈辱なのだ。そして仮に二つの色の親を持つ子が生まれたとしても、彼らはこの谷の秩序を乱す存在として誰にも受け入れられることなく、賎民として生きるほかなくなる。そのような不幸な者たちを作り出すわけにはいかぬ。そこに思い至って、八代前の大神官はこの考えを放棄した」
 そういった者たちを受け入れるよう人々を説得するのが神官の役割ではないか、と私が思ったことを表情に読んだのか、サミル師は言葉を続けた。
「それに考えてみるがよい。いまは永遠に循環する力関係の中で、ある意味では赤と青と黄の民が偽りの平衡を保っておるのだ。赤が青と手を組もうとしても、黄がそれを妨げれば赤の目論見は崩れる。どの色の民も、他の色の民と手を組んで優位に立つことはできぬ。だから三つの色は競い合ってはいても、いずれも決して決定的な勝利を収めることはできぬのだ。ここで仮にあなたの方法で二つの対等な民を作り出せば、しばしの平和は訪れるやもしれぬ。だが異なる二つの集団ができれば、いずれ対立が起こることは避けられぬ。人とは畢竟(ひっきょう)そういうものだからだ。対立はいずれ抗争となり、全面的な戦いが起こることになろう。そして二者の争いを調停する第三の民が既にないとすれば、どちらかがどちらかを完全に制圧し、最悪の場合は一方が一方を殺しつくすまで、戦いは止まぬかもしれぬ。そのような将来の禍根を我らがみずから作り出すことは許されぬ」
 私はしばらく師の言葉を頭の中でなぞってみた。確かにサミル師の言った懸念はないとは言えない気がした。だが私はさらに別の方法を思いついた。
「では、もう少し踏み込んでみましょう。すべての血を混ぜてはいかがですか。例えば、赤と青の民の子が、黄の民と子をなせば、赤と青と黄の血を引いた子ができることになる。そうなれば、もはや(いさか)いの理由がなくなるではありませんか」
「お客人、よく考えてみられよ。そうして生まれた子の中に、それぞれの色の血がどういう割合で入っておるだろうか」
 そう言われて私はすぐに自分の論の欠点に気がついた。私は自分の方法なら赤と青と黄が全て混じり合うと単純に考えたのだったが、たしかにその割合は等しくない。赤と青の血を半分ずつ引く人物が黄の民と子をなせば、その子には半分は黄の民の血が入ることになる。そして残った半分を、赤と青の血が等分する。つまり、赤と青の血は四分の一ずつということになる。
 私はサミル師の明晰な頭脳に感じ入らずにはいられなかった。この男は愚か者ではない。真の賢人であり、知識と知恵の人なのだ。そして何より、彼はこの問題を私などよりずっと長く深く考え続けてきたのだ。
 私が自分の計算を説明すると、サミル師は深く頷いた。
「そう。そして黄の血が濃い分、赤の民は依然この者を下に見て、青の民はこの者を見上げることだろう」
 だが私は諦めきれなかった。
「では、この黄の血が半分残っている者が、さらに赤と青の民がなした子と夫婦(めおと)となって子をなせば、いかがでしょう」
「考えてみなされ」
 私は頭の中で計算を続けた。何度か計算を繰り返し、結果に誤りがないことを確認して、私はふたたび自分の非を理解した。
「たしかに、赤の血が三、青の血が三、黄の血が二の割合になります」
「そうであろう。六代前の大神官の時代に、ある神官はこの計算に生涯のすべてを費やした。彼は文字通り寝食を忘れて計算に没頭した。しかしどれだけ計算を重ねても、赤と青と黄を等分にする方法は見つからなんだ。彼は死の床についてもなお六十世代以上かかる血の混ぜ合わせを計算していたと伝えられている。彼は望む結果を手にすることなく死んだ。そして五代前の大神官がこの問題に終止符を打った」
「ということは……」
「どうしても三つの色の血を等分に混ぜる方法はない」
 大神官は言い切った。
「なぜなのですか。巧みにやればうまく等分に混ぜる方法があるのに、それを見落としているだけということはありませんか」
 私は食い下がった。自分の国を救うためにはこの谷の問題が解決されねばならないと思う以上に、私はこの問題自体の深みに捉えられつつあった。私は若いころ地図作りの技を学ぶうちに、必要な技能として諸々の算術についても学んだ。そして算術の計算は常に私の悦びとするところだったのだ。
 だが大神官はまた首を横に振った。
「お客人、あなたなら理解できるであろう。子は両の親の血を半分ずつ引き継ぐ。算術で言えば、二で割ることになる。代を重ねれば、祖父母の血を四等分に引き継ぎ、次の代は曽祖父母の血を八等分に引き継ぐ。さらにどれだけ代を重ねても、それが十六等分、三十二等分、六十四等分となるだけだ。十六を、三十二を、六十四を、等しく三つに分ける方法はない。二の除算を幾たび繰り返しても、三の除算には決して届かぬ」
 私は大神官の言っていることを即座に理解した。私はこの国の歴代の大神官たちに畏れにも似た敬意を覚え始めていた。たしかに単なる血の組み合わせだけでは彼らの問題は解決できないのだ。私にもようやくこの谷の苦しみの根の深さが分かってきた。私の理解が進むのを見届けたようにサミル師が言葉を続けた。
「どこまでも血の偏りが残る限り、たとえそれがほんの六万五千五百三十六分の一であろうが、人々はその血の偏りを厳しく詮議していまと同じことを続けるだろう」
 何とか方法はないものか。私が思案するあいだ、サミル師は何も言わずに私の様子を見ていた。沈黙の中で壁の松明がはぜる音だけが聞こえた。私はサミル師の算術に誤りがないことは理解していたが、それでも現実的な解決法がないか必死で考えた。だが結局名案は浮かばなかった。
「あなたのおっしゃることが正しいようです。たしかにあなた方の抱えておられる問題は深く、容易に解決する方法はない」
 サミル師は頷いて言った。
「さよう。無論我らとてただ手をこまねいて今の状況を受けれているわけではない。現実の世に起こる三つの色のさまざまな(いさか)いには調停者として裁定を下し、また我らの神には問題解決の秘法を授け給わるよう常に祈願を怠らぬ」
「最後にひとつだけ聞かせてください。これだけ多くの人がいて、何かのはずみで過ちが起こり、血が混じってしまうことはないのですか。この国の道徳を疑うわけではないが、どんな国でもときにはしきたりに背を向ける人間が現れるものでありましょう」
 これを聞いてどうなるものでもなかったが、気になったので聞かずにはいられなかった。だがサミル師の答えは容赦のないものだった。
「隠し立てしても(せん)ないこと。もちろんそういう(やから)が現れることがないとは申さぬ。人間とはそういうものであるし、実際に過去にそういうことが起こりそうになったことは何度もある。だが、我々はそれをいつも未然に防いできた。血が混じると問題が今以上にややこしくなる。我ら神官団はいまの状態が良いと思っておるわけではない。だが、物事の収集がつかなくなって酷いことが起こることは何としてでも避けねばならぬ。せめてもの束の間の平和のために、我等は掟を厳密に実行しておるのだ」
 サミル師はそう言うと立ち上がった。
「さて、話が長くなってしまったが、お客人、あなたにもこの谷の事情を理解いただいたであろうからお伝えしておこう。明日にはこの谷で年に一度の祭事が催される。我らの神に生贄を捧げ、我らに与えられたこの問題の解決を願うのです。それが済むまではここに入っていていただくことになる。だが祭事が終われば、先にもお伝えしたとおり、あなたに食糧を差し上げて、谷の外へお連れ申す。あなたは引き続きあなたの任務を果たされるがよい」
 サミル師がそう言い残して立ち去ると、私はふたたび完全な静寂と闇の中にひとりで取り残された。陽が沈む前に独房の隅に(わら)束が山積みにされていることに気がついていたので、そちらにいって体を横たえた。ことの成り行きからくる緊張のため体は疲れ切っていたが、すぐには寝付けず、私はしばらくサミル師との問答を思い返していた。
 ひとりになると私はふたたび自分の使命を思い出し、何とかしてこの谷の問題を解決した上で、自分の国の民をここへ移住させられないかと考えずにはいられなかった。だがどうしても三つの色の民の血を等分に混ぜる方法は思いつかなかった。サミル師の言ったとおり、そもそも算術として二の割り算をどれだけ繰り返しても三つに等分することは不可能なのだ。
 私はこの谷に三つの色というしきたりをもたらした神だか父祖だかを呪いたい気持ちだった。色が三つだから物事が難しくなるのだ。これが四つの色なら、簡単に片がつくというのに。
 そこまで考えたところで私の思考が一瞬止まった。私はがばと飛び起きるようにして上体を起こし、闇の中で考え続けた。三つの色を等分に混ぜる方法はない。そのとおり。だが四つの色なら等分にできる。例えば、赤と青と黄に加えて、仮に白があったとしよう。一方で赤と青の子を作り、他方で黄と白の子を作り、この子どもたち同士が将来また子を作れば、四つの血が等分に混ざる。簡単な計算だ。
 私はついさっきこの谷の神と父祖に向けた呪いを、こんどは己れの愚かさに向けた。なぜサミル師と話しているときにこのことに気がつかなかったのだろう。この谷の問題を解決してから我が国の民を呼び入れることばかり考えていたが、我が国の民こそが解決の切り札ではないか。我らを白の民とすればいいだけの話なのだ。サミル師を呼ばなければならない。彼にこの案を伝え、我が国の民を呼び入れる相談をするのだ。私は牢の中で大声を張り上げた。
「サミル様! お話ししたいことがある! どうかもう一度ここへおいで頂けませんか! 解決の方法を見つけたのです!」
 だが誰も現れなかった。これだけの静寂の中で私の声が誰にも聞こえないはずはなかったが、なんど叫んでも誰も現れなかった。私は居ても立ってもいられなかった。だが人が現れない限りどうしようもなかった。
 やがて私は叫ぶのに疲れて黙りこんだ。静寂がふたたび私を押し包んだ。いずれ明日にでも彼らが来るのを待つ以外に仕方がない。サミル師がなんと言おうと、しょせん私はここでは囚われ人なのだ。国を救う目処が立ったことに私は当分のあいだ興奮し、将来への希望に思いを馳せていたが、やはり疲れには勝てず、いつしか眠りに落ちた。

 翌朝早く、私は男たちに叩き起こされた。三人の屈強な男たちがまだ私の寝ているうちに独房に入ってきて、一人が私を押さえつけ、一人が私の腕と上体に縄を巻きつけ、もう一人が私に猿ぐつわをかませた。彼らはみな黒い服を着ていたが、一人は袖に赤の、もう一人は青の、最後の一人は黄の帯を巻きつけていた。私は抵抗も反撃もできないまま彼らに引き立てられて独房から出た。
 私は腹をたてるよりもむしろ混乱していた。昨夜話したとき、サミル師は今日の祭事さえ済めば私を谷の外まで送ると言っていたではないか。それがなぜこんな扱いを受けなければならないのだ。だが事情を聞こうにも猿ぐつわのせいでこちらからは何も話せず、男たちも私には何も説明してくれなかった。
 私が連れて行かれたのは、谷の西の斜面に(しつら)えられた祭壇だった。祭壇の前方には無数の人々が集まっていて、赤と青と黄の集団に分かれて祭壇と向い合っていた。祭壇の脇には赤と青と黄の三つの楽団が陣取り、順に交代しながら音楽を演奏している。よく晴れた空に太鼓の音が吸い込まれ、澄んだ笛の音が谷間を駆け巡った。ほかに祭壇の周囲に百名ちかいの黒装束の男女が集まり、群衆と向かい合って立っていた。おそらくは神官団なのだろう。よく見ると彼らも袖や襟に赤か青か黄のしるしをつけている。
 祭壇は大人が十人ほど楽に乗れる広さの木の床を太い柱で支えたもので、切り立った斜面の側に赤と青と黄の縦縞の幕を張りわたしてあった。祭壇の中央に大人の背丈の半分ほどの大きさの像があり、赤と青と黄の布切れが無数に結わえられている。その色とりどりの布のせいではっきりとは見えなかったが、像は頭の異様に大きな人を形どったものであるようだった。斜面と反対の、人々が集まっている側には祭壇に上がるための三本の階段があった。祭壇は昇ったばかりの朝日を浴びて輝いて見えた。
 やがて祭壇の前の群衆の中から娘たちが進み出てきた。赤の民から一人、青の民から一人、そして黄の民から一人の、合わせて三人の娘たちは、それぞれの色の民の長老とおぼしき老人たちに付き添われ、祭壇に登る階段の手前へと進んだ。みな一様に怯えと恐怖の表情をその顔に浮かべている。昨夜サミル師が言っていた生贄とは彼女たちのことなのだろうと私は想像した。みな若く美しい娘たちだった。娘たちはそれぞれ赤と青と黄の色の服を身にまとっていた。自分の家の色なのだろう。清冽な朝日に照らされて、彼女たちの服の色はどれも悲しいほど鮮やかに私の目を打った。この谷の問題が深刻であることは理解できるが、だからといってこの娘たちが生贄に捧げられることはやはり無情な仕打ちだと私は思った。だが一方で、これだけの犠牲を払わなければならないほど、彼らにとって三つの色の問題は根深いのだろう。娘たちの顔に浮かぶ悲しみは、この谷のすべての民が父祖の代から背負ってきた悲しみでもあるのだ。
 私は自分がこの場でどうなるのか想像がつかなかった。サミル師がここに現れれば事態が好転するのではないかという期待に私はすがった。彼はこの谷間の国の大神官なのだ。彼がこれだけ大きな祭事に現れないはずがない。彼が現れれば私の身に起こった何かの手違いに気づき、私を解き放ってくれるに違いない。
 そんな私の希望は、しかしあっけなく打ち砕かれた。サミル師は確かに現れはしたが、私を押さえつけている男たちに無言で頷いただけで、すぐに祭壇に上がってしまった。サミル師は昨夜、牢の柵越しに向かい合ったときよりもさらに威厳に満ちて見えたが、師は私には声をかけなかったどころか、私のような一介の捕虜には目もくれないといった様子だった。黒の装束に身を包んだ彼は、ただここにあるべきものがあることを確認したにすぎないという様子で落ち着き払っていた。一体どういうことなのだ。私は不安を覚え始めた。何が起ころうとしているのか分からなかったが、私にとっては好ましからぬことが起ころうとしていることは間違いないように思えた。陽が差して暑くなってきたこともあって、私は全身にじっとりと汗をかいていた。
 そのとき突然、祭壇の横の楽団の音楽がやんだ。それを合図に群衆のざわめきも収まっていった。ほんの一瞬、谷間を深い静寂が覆った。風が吹き抜ける音だけが聞こえ、それもすぐにやんだ。それから祭壇の上のサミル師が、大音声(だいおんじょう)で群衆に向かって語りかけた。

『聞け、皆の者
今年もまたイツワチエの神に感謝と犠牲を捧げる日が来た
赤の民
青の民
黄の民
みな健やかにこの日を迎えたことをイツワチエの神に感謝せよ』

 サミル師の言葉に続いて群衆が谷じゅうに響きわたるような歓声を上げ、同時に何本もの太い竿が押し立てられた。竿には横木が渡されて穀物の束や丸焼きにされた豚や鶏が大量に吊り下げられ、無数の花束で飾り付けられている。群衆の怒号のような歓声が谷に響いてこだました。サミル師は続けた。

『青の民
黄の民
赤の民
次なる一年(ひととせ)もまたイツワチエ神のご加護のあらんことを願い、犠牲を差し出せ』

 祭壇の前に控えていた娘たちが、付き添いの長老たちの手を離れて階段を登り始めた。先ほどと違って群衆は静まり返り、固唾を飲んで祭壇を見つめている。娘たちの全員が歩みを揃えて階段を登りきると、サミル師は彼女らを神像の前にいざない、横一列に並ばせて何かを語りかけた。娘たちはこわばった表情で頷き、言われるがままに神像の前に(ひざまず)いた。
 ふたたびサミル師が群衆に向き直って声を張り上げた。

『我ら黄の民、赤の民、青の民、(いにしえ)の世より伝わりたるしきたりを固く守り
父祖より託された谷の地に平和と豊穣を保ちて、
今日までまた(つつが)なく一年(ひととせ)を重ね来たりぬ
これすべてイツワチエ神の加護によるもの
我らここに大いなる感謝を捧げ、次なる一年の平和と繁栄を祈願するものなり

しかれども、我ら色の(くびき)に繋がれたれば
時として各々の色の民のあいだに諍いの絶えぬこともまた真実なり
ゆえに我らはここに美しき処女(おとめ)らをイツワチエ神に捧げ
色の等しく交わる秘儀を乞い求むるものなり
神よ
憐れみもてこの処女らを納め
我らに安寧をもたらす深遠なる智慧を明かし給え』

 サミル師がそう語り終わると三つの色の楽団が突如として大地を叩き割るような大音量で太鼓を打ち鳴らし、大気を切り裂くような鋭い音色で笛を吹き鳴らした。大小の鐘が激しく乱打され、すさまじい大音響が祭壇を覆い尽くした。
 やがてサミル師が右の手のひらを前方に向けて持ち上げた。すぐに楽の音がやんだ。

『そしてまた
今日は新たなる(にえ)をここに引き連れ
イツワチエ神に捧げんとするものなり
ここにあるは谷の外より我らが国に迷い込みし彷徨(さまよ)い人
この(おのこ)をも生贄として
我らが(いにしえ)より伝わる掟を固く守りたる証しとせん』

 ふたたび楽団がけたたましい音を立て、そこに群衆の歓声が重なった。そして私を引き立ててきた男たちに向かってサミル師が重々しい表情で頷くと、黒づくめの男たちは綱を強く引っ張って私を無理に立たせ、先ほど乙女たちの一人が登った階段に私を無理やり押しやった。
 ここへきて私はようやく何が起ころうとしているのか明確に理解した。私の背筋を冷たいものが走った。心臓が激しく打ち、その音が自分でも聞こえるようだった。私には私の国を救う使命がある。こんなところで騙し討ちにあって命を落としている場合ではなかった。私は力の限り体を動かし、全身に巻きつけられた綱から自由になろうとしたが、私の両脇と後ろにいた黒装束の男たちが恐ろしい力で私の体を押さえつけ、そのまま体を抱え上げられるようにして祭壇の上へ運ばれた。祭壇で男たちは私の両手を後ろにねじり上げ、私の首を後ろから掴んで押さえつけた。手首と首筋の骨が砕けるかと思うほどの痛みが走った。
 ふたたびサミル師が群衆に告げた。

『見よ
我らの谷の平和を乱し
イツワチエ神の下しおかれた秩序を奪わんとする外界の間者
我らはまずこの者を(ほふ)り捧げて
イツワチエ神に問わん
いかなる秘法もて血を交えなば
三色の等しき混合に至るかを
父祖の世より問い続けてきた我らが平穏への願いを
いまこそ聞き届け給え』

 私の首を押さえつけていた手が、無理やり私の顔を上向かせた。大人の上半身ほどの長さもある反り返った大刀を持った男が、サミル師の背後から現れたのが見えた。男は腰から下こそ他の黒装束の者たちと同じものを着ていたが、上半身は何も着ておらず、その腕といい肩といい腹といい、恐ろしいまでに筋肉が鍛え上げられている。あの三日月のように反り返った大刀も、恐らくはひどく重いはずだが、男はそれを片手で軽々と持ち、研ぎ上がり具合を確かめるかのように刃先を眺めている。
『構えよ』
 サミル師が表情を変えることなく叫んだ。男が大刀の柄を両手で持ち、足を広げて刀を振りかぶった。
 私は必死で声を出そうとした。私は赤と青と黄の血を等分に混ぜる方法を知っているのだ。彼らがそれを求めているなら、私を生贄として殺すのではなく、私の案を聞くべきなのだ。それによって彼らは長く求めた平安を得て、私の国の民は新たな居住の地を獲得し、そして私自身も生き延びることができる。だが口に固くかまされた猿ぐつわのせいで、私はただ呻き声を上げるのみで意味のある言葉を口から出すことができない。私は必死でもがき続けた。黒装束の男たちはいまや全力で私を押さえつけにかかっている。だが私も命懸けだった。彼らの強い腕に掴まれながら、体をねじり、首をねじった。
 そのとき、何かが裂ける音がした。口にかまされていた猿ぐつわが急に緩くなった。猿ぐつわの布が、もがいた拍子にどこかで裂けたのだと私は気がついた。
「待て」
 私は必死で叫んだ。だがずっと猿ぐつわをかまされていた口は私の意思に反して言葉にならない奇妙な声を上げることしかできなかった。
「待て」
 私はもう一度言った。私の口から出た音は、今度は先ほどよりはもう少し言葉らしく響いた。
『斬れ』
 サミル師が叫んだ。大刀を持った男が私の方に歩み寄ってくるのが分かった。だが私も負けずに叫び返した。
「待て。私は三つの血を等しく混ぜることができる。赤と青と黄の血を等しく引いた子をなす方法を知っている」
 最後は絶叫に近かった。群衆がどよめいた。
『斬れ』
 ふたたびサミル師が叫んだ。だが群衆が口々に叫び出した。
「待て」
「その者に話させろ」
「この者は我らに平安をもたらす者だ」
「イツワチエ神がこの者の口を借りて語っているのだ」
「イツワチエ神が我らに使者を遣わされたのだ」
「サミル様はなぜ神のお告げを聞かぬのか」
 凄まじい騒動が巻き起こった。そこから何が起こったのか、私は細かいことを思い出すことができない。群衆が祭壇に殺到し、黒装束の神官たちと激しく衝突したらしいことまでは見当がついたが、そこから先はあまりにたくさんの人が入り乱れて、喧騒と混乱以外のなにものでもなかった。群衆と神官団が私の体の奪い合いを始め、私はいつの間にか神官から引き離されて、気がつくと群衆の人垣の後ろで谷の者たちに介抱されていた。私の隣では三人の生贄の乙女たちが、怯えきった表情で若い男たちに守られていた。
 やがて祭壇の群衆が口々に「その男を前へ出せ」と言い始め、私は綱で体を巻かれたまま、口だけは自由になって祭壇の中央へ押し出され、腕と背中をきつく押さえつけられた。私の目の前ではサミル師が谷の男たちに両腕を取られ、祭壇の床に組み伏せられている。棍棒や刃物を手にした群衆が我々二人を取り巻いていた。
「さあ、そこの者、三つの色を等しく混ぜる方法を言え」
 サミル師を押さえつけている男の一人が私に向かって言った。
「この男の言うことを聞いてはならぬ」
 サミル師が呻くように声を上げたが、谷の男たちの目は私に集まっていた。私はサミル師が本当に憎むべき敵なのかよく分からなかった。彼が私を生贄にしようとし、私を斬れと言ったことは事実だったが、昨日の夕刻に堂々とした態度で私と話していた大神官の彼が人々に組み敷かれている様は、どこか悲しむべき光景であるようにも思えた。
 だがいくら憐憫の情を抱いたからといって、私がいまここで殺されて構わないということにはならない。私が首尾よく谷の者たちを納得させなければならない立場にあることは、彼らの疑念に満ちた眼差しを見れば明らかだった。彼らはただ私の案を聞くことに同意しただけであって、それが彼らにとって受け入れられるものでなければ、彼らはすぐにでも儀式を再開し、ためらうことなく私を生贄として殺すだろう。私はいちど深く呼吸をして心を落ち着け、話した。
「赤と青と黄の三つの民がどのような組み合わせで子をなそうとも、赤と青と黄の血が均等に混ざることがないということはあなた方もご存知であろう」
 私がそう言うと、誰もが目に不信感を浮かべたまま、そうだというように頷いた。
「この谷に住むあなた方の中だけでどう婚姻を組み合わせようと、あなた方が望む結果を得ることはできぬ」
 私のすぐ近くに立つ若い男が私の方に一歩にじり寄った。私はその男が私に抱く不信と怒りをまざまざと感じることができた。こめかみを汗が伝って流れた。
「だが、外の血を入れれば物事は解決する。たとえば、外の者と赤の民が子をなすとしよう。そして、あなた方の中で青の民と黄の民が子をなすのだ。この子たちが次の代に子を産めば、その子はちょうど四分の一ずつ異なる血を引くことになる」
 私が一気にそう言うと群衆がざわついた。サミル師が再び叫んだ。
「この男の言うことを聞いてはならん。谷に災禍を呼び込むだけだ。よそ者をこの地に入れてはならぬ」
「あんたがその外の者になろうというのか」
 サミル師の言葉をさえぎってある男が私に言った。
「あなた方の数は多い。私ひとりが入ったところで何の力にもならぬ。だが私はあなた方に第四の民を提供することができる。私の国から同胞を連れてくることができる。元はといえば、私は故郷で増えすぎた同胞が住むべき新たな土地を探すために旅をしている途上でこの谷に迷い込んだのだ。私をいったん故国へ帰してもらえれば、あなた方が望むだけの数の同胞を、男も女も連れてこよう。もちろん私はこの谷を乗っ取るつもりもない。あなた方の何人かが同行者として我が国へ来てもらえれば、あなた方自身がその目で移住する民を確認することもできる。あなた方が我が同胞を受けれいてくれるならば、私は同胞のうち特に謙虚で忍耐強く、よく働く者たちを選ぶと約束しよう」
「ならぬ。この男を生贄に捧げよ。イツワチエ神に智恵を求めよ。よそ者を導き入れてはならぬ。この谷を破滅に導いてはならぬ」
 サミル師が叫んだが、谷の者たちはサミル師に鋭い一瞥を投げただけで仲間内で相談を始めた。私は息を詰めて議論の成り行きに耳を傾けたが、どうやらやがて私の提案を受け入れるものが多数を占めたようだった。
「お客人、あなたの案を我らはいったん受け入れることと致そう。だがあなたご自身がおっしゃったとおり、あなたの国の者がこれに乗じてこの谷を襲うなどということがあってはならぬ。我々自身の目であなた方の国とあなたの御同胞を確かめた上で、あなたのみならず御同胞も信頼を置くに足ると確信できれば、そのとき初めて正式にあなた方を受け入れることと致す。それまでは我らの客人としてご相談にお乗りいただければと思う」
 私は解放された。与えられた住居はこんどは独房ではなく、監視の者こそいたがきちんとした家屋だった。谷の者たちが毎日やってきて、私たちは今後の段取りを計画した。そして祭礼から一週間の後には、最初の使者が私の国に派遣されることが決まった。

 幾度かの使者のやりとりの後に、私の同胞はこの谷に受け入れられた。谷の者たちは私にこの谷の王となることを強く求めた。
「サミル師がイツワチエ神に呼びかけたとき、あなたがその呼びかけに応えて我らに智恵を授けてくださった。あなたは我らの救済者なのです」
 私がいくら固辞しようとしても彼らは聞き入れなかった。彼らはあの祭礼の日に生贄となっていた三人の乙女を私に(めあわ)せることまでも決めてしまった。彼女らはイツワチエ神に捧げられた乙女たちであり、私はイツワチエ神から遣わされた救済者なのだから、あの乙女たちは私の妃とならねばならないというのが彼らの理屈だった。私は彼らの要求に戸惑った。だが、もともとはよそ者である我が国の民がこの谷に移り住むのであるから、私が王として新旧の民を取り持つことが求められる機会もあるかもしれない。長く考えた末に私はそう判断し、王となって彼女らを妻とすることを受け入れた。私たちの婚礼の日には、私の故郷からの移住者たちを正式にこの谷に受け入れる祭りが併せて執り行われた。
 私はすべての民に向かって語った。
『ここに私は王となった。この谷の永遠に栄えんことを願い、私は公平かつ公正に王としての勤めを果たすことを誓う。そしてまた私はあなたがた全員にも同じことを願う。古来よりこの民に住みたる者たちは、新たに(きた)った者たちを寛容の心で受け入れてもらいたい。新たにこの谷に移り住む者たちは、謙虚と感謝の念を忘れず古くからの住民と親しんでもらいたい。長き(いさか)いの時は去った。新たな国を作るのは私の役目であると同時に、あなたがたひとりひとりの心の持ちようにも大きく依拠するものである。あなたがたが心のうちに血の色の区別や新旧の民の壁を思い描くなら、諍いが絶えることはないだろう。しかしあなたたちが心から平和と繁栄を乞い願うなら、平和と繁栄は必ずあなたたちに訪れる。喜びも苦しみも、分け隔てなく分かち合おうではないか』
 もちろんこのような言葉ひとつで長年の慣習が絶えるはずもない。だが人々が色の(くびき)からの解放を喜ぶ気持ちはどうやら本物だった。その後もさまざまな言い争いは絶えず、訴えごとも相次いだが、それでも谷の民はみずからの足で一歩ずつ前に進み始めた。人々の心の変化は私の期待をも越えるほどで、それは私にはある意味では嬉しい誤算とも言うべきものだった。ひとつには、この谷の赤と青と黄の三つの民に加え、我が祖国の民が加わったことが人々の変化を促したことも大きかったと思う。
 私の気がかりは、いまとなってはただひとつのことに集中していた。サミル師をどう扱うか、それだけを私は決めかねていた。いまだに口を開けば私を声高に非難し、呪詛(じゅそ)のごとき警告を発し続ける師を、民はみな怖れていた。いまは婚礼の祭典の興奮で誰もサミル師の言動にそれほど注意を払ってはいないが、いずれ落ち着いて日常に戻れば、師の言葉にそそのかされて古い考えに戻る者が出てこないとも限らない。先のことを考えれば、サミル師の問題を放置しておくことはできなかった。
「サミル師、わたしはあなたに対する敬意をいまだに抱き続ける者です。あなたが私と私の解決策を認めないことに心を痛めているのです。いったい何があなたをそれほど怒らせているのでしょう。私はこのとおり率直に頭を下げて、あなたのお考えを伺いたい」
 ある日私はサミル師を訪ねてそう話しかけた。サミル師はいまでは、かつて私が捕らえられていた独房に起居していた。独房の柵のこちら側と向こう側で、私とサミル師は座る場所を入れ替えて(あい)対していた。
「王よ、そなたはこの谷に魔物を解き放った。犯してはならない罪を犯し、開いてはならない門を開いた。偽りの平和の中で災厄がその門からこの谷に忍び込み、谷は災厄に食い尽くされるであろう」
 サミル師は目に私への敵意をみなぎらせて言った。
「犯してはならない罪とは何なのでしょうか。私はこの谷の民の苦しみを取り除こうとしているのです。そしてこの谷の民自身が、私の考えに賛成してくれたのです」
「そのことがまさにそなたの犯した罪だ。見ておれ、次には必ず災厄が来る」
「災厄とはいかなることなのでしょう。その災厄の正体を知っていれば、防ぐ手立てもあるのではありませんか。そのために、サミル師、あなたのお力をお借りすることはできませんか」
「その日がくればそなたにも災厄の正体が見えよう。そしてそうなったときには全てが手遅れだ。私がこれまであらゆる手を使って守ってきたものをそなたは悔恨とともに知り、自分が地獄への一本道を転がり落ちていることを理解するはずだ。この谷の民すべてを道連れにしてな」
 私がどれほど智恵を懇願し、助力を求めてもサミル師は私を責めるばかりだった。私は暗い気持ちで、いまは王宮と呼ばれ始めた私の住居へと戻った。そしてその日を最後にサミル師は谷から姿を消した。師がこの世からも姿を消したと知る者は、私と、私を補佐してくれている谷の古参の数人に限られていた。
 それから日を経ずして、冬の終わりに木々の芽がひっそりと膨らみ始めるように、谷間に喜びの予感のようなものが漂いだした。新たな命が女たちの腹に宿り始めたのだ。私の三人の妃たちも相次いでその腹に子を宿した。そして待ちわびた子らの誕生の知らせは、谷の空気を一変させた。それまではまだ新旧の民の間には語られぬ壁があり、赤と青と黄の民の間にはかつての序列が隠然と残されていたが、いよいよ血を混ぜた子がこの世に生まれ出で、赤子たちの体の重みをはっきりと腕に感じたとき、人々はこの谷に訪れつつある新たな現実を実感したのだ。時代の変化をもたらす息吹が谷を包んでいた。
 生まれた子どもたちが成長するにつれ、人々の意識の変化はいっそう早まった。いまはまだあどけないこの子らが次の子を宿す頃には、古い三つの色の血と私の故郷から移り住んだ者たちの血は完全に等しく混ざることになる。民衆の心はいまやその将来をはっきりと見通して、過去のしきたりは急速に力を失っていった。
 人々は勤勉に働いた。この谷には神官と農夫と鉱夫という大きな三つの生業(なりわい)があった。人々は希望を持って各々の仕事に(いそし)しんだ。畑を耕す者たちは谷の北の斜面の開墾を進め、谷に豊かな食料をもたらした。南の険しい斜面の鉱山では、男たちが深い坑道をさらに力強く掘り進めて鉱脈を追い、女たちが鉱石を鍛え上げた。農民には(すき)(くわ)、鎌といった道具がもたらされ、神官たちに美しい祭具や神殿の建材が提供された。神官団は谷の神を(まつ)り、民の婚姻や葬式などの儀式を司った。王としての私の役割は、もっぱらそれらの富の分配と民の争い事の調停だった。

 この谷の国で初めて全ての四つの血、すなわち、かつての赤と青と黄の民と、そして私の故国から移り住んだ者たちの血を等しく引いた子が生まれたときのことを、私は決して忘れることがないだろう。私がこの谷で王となって早くも十七年の時が過ぎていた。私は老い、病に伏せることも増えていたが、この出来事は私の心を奮い立たせた。この日が来ることを見届けるために、私は王という地位を引き受けたといってもいい。ついに長年の労苦が報われたのだ。
 この最初の子の誕生を祝うために谷全体で祝祭を開くことを、私は王になって以来長く夢見てきた。だが、実際にはその祝祭は行われることはなかった。その頃には、人々はもう四つの血へのこだわりをほとんど忘れていたからだ。改めて過去の悪習を掘り起こすこともない。私はそう考えて祭りを取りやめ、個人的に神への供養を捧げるにとどめた。
 そしてまた、そのときには現実の問題として心を配るべき懸案もあった。この谷の民が勤勉に働くほどに人々は豊かになり、人の数が増えていたのだ。もともと限られた土地しかないこの谷で、人々は次第に土地を巡って争うようになっていた。農民は耕す地を求め、鉱夫たちは新たな鉱脈を探し、神官団は僧院の拡張を望んだ。
 初めのうちは些細な口論や、時おり起こる集落間の揉め事程度だったものが、日を追うにつれて頻繁になり、深刻の度を増していた。私のもとに寄せられる訴状は増える一方で、近年では谷全体を険悪な空気が覆うようになっていた。それでもしばらくは人々は忍耐を重ね、私の調停に不承不承ながらも従っていた。だが不満は表面下に溜まり続け、鬱屈した怒りが人々の顔を険しくした。人々の間に敵意と緊張が高まっていった。そしてある日、突如として感情の爆発が起こった。
 きっかけは小さなことだった。南東の斜面の高いところに新たに掘られていた坑道で、鉱夫たちが排土を積み上げていたときに大きな石が斜面を転がり落ち、小さな畑につながる水路を壊してしまったのだ。その畑は小さなものだったが、運の悪いことにそこは神殿に捧げる聖なるホールンの果樹を育てる大切な畑だった。この一件に農民たちは激しく反応した。
「あいつらは我らの畑を損なおうとしたのだ」
「ホールンの果樹を傷つけるために石を投げ落としたのだ」
「いったい誰があいつらの食うものを作っていると思っているのだ」
 農夫たちはそう主張して私のところへ激烈な訴えを持ち込んだばかりか、鉱夫たちへの農作物の提供を止め、自衛団を組織して警戒にあたると主張し始めた。
 鉱夫たちも黙ってはいなかった。
「やつらが畑を耕せているのは我々が農具を作っているからだ」
「我々がいなくなって、やつらは手で地面を掘れると思っているのか」
「我々に食料を差し出さなければ奪い取るまでだ」
 鉱夫たちはそう言って盛んに刀や槍などの武具を作り始めた。それを見た神官団は声を荒げた。
「両者の争いがイツワチエ神の怒りを招いている」
「血が流れればこの谷は永遠にイツワチエ神の呪いを受けることになる」
「イツワチエ神の怒りを鎮めるためには、新たな神殿を建立して盛大な儀式を行わねばならぬ」
 彼らは声高にイツワチエ神の呪いを語っては谷の民の不安を煽り立てた。そして不安が募れば募るほど、農民は鉱夫を罵り、鉱夫は農民を糾弾して、それがさらに神官団の脅しを強めることとなった。
 物事が取り返しのつかないことになる前に手を打つ必要があった。私はすぐさま谷の民を集めて語りかけた。
「私はこの国に安寧をもたらすために王となった。かつてこの谷では赤の民と青の民と黄の民がいがみ合い、幾世代にもわたって不安と(いさか)いが続いていたのだ。それを克服し、血の壁を乗り越えたのはそなたたちの努力があったからではないか」
 だが老いた私の声に往年の力はなく、民たちは納得しなかった。
「そうです、そして我々が築いた安寧をこの鉱夫たちが打ち壊そうとしているのです」
「何を言うか。事を荒立てた張本人はお前たち農夫の方だ。お前たちの身の程をわきまえぬ強欲が全ての元凶だ」
「王よ、惑わされてはなりませぬ。彼ら双方の傲慢がイツワチエ神の怒りを呼び、今日の不安を呼び起こしているのです。イツワチエ神への寄進を大幅に増やし、神の怒りを鎮めねばなりませぬ」
「黙れ、お前たち神官団に神具を捧げ、神殿の建立資材をもたらしているのは誰だと思っている」
「そう言うお前たち神官団や鉱夫が毎日腹いっぱい食うことができるのは、我々農民が畑を耕しているからだということを忘れたか」
「その畑を耕す農具も俺たちが作ったのだ」
「そなたらが平和に畑を耕し、土を掘る事をイツワチエ神が許している理由が理解できぬのか。我ら神官団は常に神に許しを請い、繁栄を願っているのだぞ」
 私の前で彼らの代表者たちは醜い言い争いを続けた。このとき私は気がついた。私の目の前に集まった彼らは私よりもずっと若い。かつての谷を覆っていた赤と青と黄の血の苦しみは、彼らにとってはもう過去の話なのだ。彼らにとっての現実とは、血の掟とはまったく関係のない、農夫と鉱夫と神官の対立に他ならなかった。
 私はあらためて自身の老いを思い知らされた。私の時は過ぎ去りつつあった。この問題を裁くのは、本当に私の役目なのだろうか。私はしばらくそんな思いにとらわれたが、やはりこれが私が果たさなければならない役割なのだと思い直した。私がこの谷にいまの状況を作り出したのだ。そこに問題が起こったのであれば、それは私自身が解決しなければならない問題だ。だが何と重い荷であろう。私は心にも体にもひどい疲労を覚えた。
 私はその日から老いた体に鞭を入れるように谷を歩き、人々と会い、彼らの声に耳を傾けた。そしてその結果は私を愕然とさせるものだった。谷のいたるところに憎しみと反目が広がっていた。どうして私はいままでこのことに気づかずにいたのだろう。どうして事態がここまで進むまで手を打たずにいたのだろう。
 私は来る日も来る日も彼らに語りかけ、融和を説いた。谷の民の間では、私の王としての権威はまだ辛うじて保たれているようだった。彼らはともかくも私の話に耳を傾け、その場では私の言葉に従おうとする様子も見せた。だが、それは決壊した大河の土手に一人で小石を積み重ねるような行いでしかなかった。私が人々と話す間にも、勢いを増した濁流のように憎しみが谷じゅうに渦巻いた。
 ある日ふたたび神官団と農夫たちと鉱夫たちの代表者が私のもとに集まった。私はこれまで民から聞いた話を彼らに聞かせ、民のひとりひとりにはまだ他者に対する寛容の心が残っていることを話した。だが彼らの表情はこわばったままで、ただ王たる者の前にいるからというだけの理由で忍耐強く私が話し終わるのを待っていた。そして私が話し終わると彼らは恐ろしい顔で私に詰め寄り、口々に要求を突きつけてきた。
「王よ、土を耕し谷の民に日々の(かて)をもたらす我らを保護したまえ。神官団も鉱夫たちも、我らの地を一歩も侵さぬこと、そして今回の争いの補償に彼らの土地の一割を我らに与えることをお命じください」
「王よ、この谷に繁栄をもたらす道具作りの技を持つ我らを保護したまえ。農夫たちも神官団も、我らの地を一歩も侵さぬこと、そして今回の争いの補償に彼らの土地の一割を我らに与えることをお命じください」
「王よ、この谷にイツワチエ神のご加護をもたらす我らを保護したまえ。我らの地を一歩も侵さぬこと、そして今回の争いの補償に彼らの土地の一割を我らに与えることをお命じください」
 できることなら私はその場から逃げ出したかった。老いて弱った私にこの裁定は荷が勝ちすぎていた。このとき私の脳裏に浮かんだのは、遠い日にサミル師が投げかけた私への激しい非難だった。年月を経て、私はようやく師の言わんとするところが分かった気がした。かつてこの谷は血の掟に縛られ、かろうじて危うい平衡を保っていた。そして今にして思えば、師はその平衡を保つことに生涯を捧げていたのだ。
 私はひどく疲れていた。年来の老いに加え、日々精力的に谷の人々と対話を重ねた末にそれが無駄であったと知ることは、その対話に要した労力の何倍もの疲労を私に残していた。ここまでくれば血を見なければ収まらないといわんばかりに殺気立った民の代表者たちを前に、老いた私にできることはもう多くはなかった。私は先人の知恵にすがるほかに、目の前の問題を解決する方法を見出すことができなかった。
「そなたたちはみな他の民を尊敬せねばならぬ。鉱夫たちよ、谷の民を傷つけるための武器を作るなど狂気の沙汰だ。イツワチエ神の怒りで谷全体を滅ぼしたいと願っているのか。鉱夫たちは神官団に従え。そなたらの道徳を神官団に負うのだ。神官団の意思は鉱夫の意思に優先すると心得よ」
 勝ち誇った顔の神官団の代表に、続いて私は話しかけた。
「神官団よ、そなたらは現世に関わるものを何も生み出さぬ。神に仕えるそなたたちが現世の労苦から解放されねばならぬのは当然であるとしても、だからといってそなたら自身も日々の糧がなければ生きてはゆけぬ。そのことを忘れてはならぬ。農夫たちに逆らうな。彼らが谷に食料をもたらすための日々の営みを、決して妨げてはならぬ。農夫の存在は神官団より尊いことを理解せよ」
 ついで私は農夫たちに言った。
「そなたらの日々の労苦には感謝している。だがそなたたちとて、農具なしには畑をいまのように深く耕すことはできず、水路を縦横に掘ることもままなるまい。常に鉱夫たちに感謝せよ。彼らへの敬意をくれぐれも失ってはならぬ。鉱夫の仕事は農夫の上にあると知れ」
 それから私は最後に全員に向かって言った。
「よく考えるのだ。そなたたちの不満はわかるが、だからといって怒りと憎しみに任せて己れの要求ばかり通そうとすれば、この谷は取り返しのつかぬ殺し合いの泥沼にはまることになる。それでお互いに最後の一人まで殺し尽くして、いったい後に何が残るというのだ。誰かが我慢しなければならないときは、皆がその忍耐を分かち合え。それでこそ我らはこの谷に住む幸せを分かち合えるのだ。これまで我々がやってきたようにな」
 三者の代表者たちは頭を下げて去っていった。際どいところだったと私は思った。もはや事態は一触即発というところまで進んでいたことは間違いなかった。辛うじて私に残された権威の最後の一滴が、何とかその破局にいたる一歩を押しとどめたにすぎない。
 彼らが心から納得してはいないことは分かっていた。私自身もこれが理想的な解決でないことはよく理解している。だがほかにどうしようがあったのだろう。彼らが退出したのを見届けて、私は居室に戻って寝台に体を横たえた。
 寝台で横になり、私は大きく息を吐いた。これまでの人生の出来事が、断片的に私の意識を駆け抜けた。私はいったいどこから来てどこへたどり着いたのだろう。私はこの谷に何をもたらしたのだろうか。
 答えは分かっていた。結局は大きな輪がひとつ閉じただけなのだ。私は自分が死ぬまでこの円環から逃れられないことを悟った。だが私の命ももう長くはないだろう。やがて私はこの円環から抜け出ることになる。その先に伸びる道のどこかで、私はサミル師とふたたび出会うのだろうか。そのとき私は彼に、私が自らの手で開いた円環をふたたび閉じたことを告げるのだろうか。
 サミル師の鋭い非難の眼差しがふたたび私の脳裏をよぎった。そして私の意識を闇が襲った。

閉じられた環

閉じられた環

作者本人は人種・職種等の間の序列を肯定していません。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-12-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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