明滅する死後の夢 または 逃避行の行く先にて

明滅

 なにかの拍子で目が覚めて、ぼんやりとした頭で横を見れば、行儀良くシートベルトをつけた幼馴染が眠っていた。
 起きちゃった? と幼馴染の母親が前の席から声をかけてくる。
 大家族でもないのにうちの車は大きくて、六人分ある席の一番後ろに僕と幼馴染は座っている。
 まだ着かないから寝てろ、と運転席の父親が僕に言い、助手席の母親も賛同する。
 真ん中の席に腰掛けた幼馴染の父親が、髪がまだ濡れてて気持ち悪いだろう、とタオルを貸してくれた。
 タオルからは何度も行った幼馴染の家のにおいがして、頭をがしがしと拭いたら、それに混じってほのかに海のにおいを感じた。
 幼馴染は安心したように眠っていた。
 窓からは火事みたいな橙色の光がずっと差し込んでいて、目が痛かった。
 光から逃げようとして目をつむる。
 すると、だんだんと上のほうから眠りの闇が降ってきて
 おぼろげな、僕の子どものころの記憶は終わる。


「もしもし?」
『電話出るの遅すぎない?』
「……ごめん」
『間を作らないで。うっとうしい。こっちは急いでるんだから』
「今度はなに? またなにかしたの?」
『誰もいない?』
「いないよ。今、家に一人」
『人、殺しちゃった』
「は」
『すぐそっち持ってくから。用意しておいて』

ぼう力

「今日が十四日でしょ」
「うん」
「おぼんがもうちょっとでおわって」
「うん」
「そしたら、24時間テレビやって」
「うん」
「学校はじまる?」
「そうだね」
 ぼくが言ったらあわてて階段を上っていって、たくさんしゅくだいを手さげに入れておりてきた。
「もう夏休みおわっちゃう!」
「そうだよ。あ、みれい、朝顔のプリントまっ白」
 線だけの朝顔がいっぱいかかれた、かんさつ日記のしゅくだい。花がさいた数だけ朝顔の絵に、さいた花の色をぬって、いつさいたのかも書かなくちゃいけない。さいたらすぐにやらないとわすれちゃうのに、みれいのはまだなんにも色がぬられてない。
「のぞむ、色ぬりして!」
「なんこさいたの?」
「分かんない! いっぱい!」
 みれいが分かんないなら、ぼくも分かんない。でも、色えんぴつをわたされちゃったから色をぬりはじめる。ぼくのは毎日、どれぐらいさいてただろっ思って、自分のプリントをれんらくぶくろから出して見てみた。
 ぼくの家ぞくとみれいの家ぞくで、近くの海に行こうってなったのは夏休みがはじまる前で、だからしゅくだいはぜんぶそれまでにおわらせとこうって思ってた。ちゃんと毎日がんばって、あとのこってるのはかんさつ日記だけになったから、きのうは思いっきりあそべた。
 でも、みれいはちがったみたい。十五ページある漢字ドリルは三ページしかやってないし、計算ドリルなんてはじめのページがやりかけで終わってる。前の出校日に出したポスターも、ぼくがほとんどかいてたいへんだった。またやらされるのやだなあ。
「あ。あのね、赤いのがいっぱいさいてた」
「分かった」
 十二色ある色えんぴつのなかから赤をとる。よくつかってるから一本だけみじかいし、先っぽも丸くてつかいにくい。ぐりぐり力を入れてぬっていたら、みれいが小さな声でうーうー言いはじめた。
「うつすだけだから、計算ドリルより漢字ドリル、先にやったほうがいいよ」
 ぼくが言ったらすぐにつくえのすみに計算ドリルをよけて、少しこいピンクの漢字ドリルとノートを広げる。計算ドリルを見ると、五のだんまでは完ぺきなのに、六のだんになったらケシゴムをつかいすぎて、ページがまっ黒になってる。もうちょっとでページがやぶけちゃいそうだ。ぼくはかわりに答えを書いといてあげた。
「まんがのDVDかりてきたからおわったら見ようね」
「えー今見たい。なにかりてきたの?」
「えん魔くんと鬼太郎と妖怪人間ベム」
「こわいのばっかでやだ! セーラームーンとかのがよかったあ」
 みれいのお母さんが出かける前に入れてくれたカルピスのコップは、氷がとけてびしゃびしゃになってる。のどがかわいて、コップにのこってた氷水をのんだ。ほんの少しすっぱい気がしたけど、カルピスのあじはもうぜんぜんしなかった。
 時計のはりは長いのが「4」のところにあって、みじかいのが「1」のところにある。「5」と「12」のところに来たら帰ってきなさいって、お母さんに言われてるからまだだいじょうぶ。今日でおわるかな。明日はおとまり会なのに、このままじゃしゅくだい会になっちゃいそうだ。
「あのね、花火買ったんだよ。明日やろうね」
「花火? 前もやったじゃん」
「ちがうやつ。ぼんおどりで見たでっかいやつ。うちあげ花火」
「えー! すごい! あれって買えるんだ! 何こ? 何こ?」
「三こ!」
「すごい!」
「しゅくだいがんばろうね。明日楽しみだね」
「うん!」
 みれいはせんぷうきに顔を近づけて、わーいって言った。「わーい」が「アアアイ」みたいに聞こえておもしろい。ぼくもちかづいて、「ワレワレハウチュージンダア」って言ったら、みれいも「ミレーモウチュージンダア!」ってかえしてきて、もっとおもしろかった。
 カーテンのすきまからちょっと外をのぞく。空は水色でなんだかぜんぶギラギラしてる。多分、たいようのせい。絵でかくときは赤色だけど、本もののたいようは白くて、いたい。ちらっと見たらまぶしすぎて、すぐに目をつむった。とじてまっくらなのに、むらさきとかみどりのもやもやが、黒のなかにふわふわういてるのが見えた。
「ねーのぞむ、ちょっとあそぼーよ」
「えっだめだよ。先におわらせないと」
「だいじょうぶ! ちょっとだけだもん」
「だめ!」
「ねーえーいいじゃーん。五時までいるんでしょー。ちょっとだけだからー」
 もう一回、だめって言おうとしたら、みれいがわっとのしかかってきた。にげようとしても、こしをくすぐられて、わらっちゃってだめだった。くやしいから、ぼくもやり返す。くすぐったすぎて、なみだが出てきた。みれいの顔を見たら、みれいも泣いてて、それもおもしろくて、もっとわらえてきた。
 そのままくすぐり合ってたら、いきができなくて、くるしくなってきたからやめた。でも、もうなんだかしゅくだいする気になれなかった。みれいが上からボールをもってくる。時計を見たら、まだみじかいのが「1」のところで、長いのが「7」のところにあった。みれいがじっとぼくのことを見てきてる。だから、ぼくは、ちょっとだけだよって言った。


「はい、もしもし。はい、あらー、こんばんはあ。うん。ちょっとまっててね。のぞむー!」
「はーい」
「早川さんとこの。れんしゅうのことだって」
「なんだろ。もしもし、まさと?」
『あ、のぞむ? 明日さ、れんしゅうあるって』
「え!」
 カレンダーのよこにあるよていひょうを見る。
「十五日の金曜日でしょ? よていひょう、なんにも書いてないよ」
『まだおぼんだけど、コーチ、二十日からにゅういんするから、とくべつれんしゅうだって』
「えー……分かった、ありがと……」
『いいぜー。じゃあ、また明日な』
 ガチャンと切られる。
「なんだった?」
「明日、れんしゅうあるって……」
「えっ、おとまり会どうするの?」
「やりたい」
「みれいちゃんんちに電話しな」
「うん」


『もしもし』
「おばさん? ぼく。のぞむです」
『あら、のぞむくん。こんばんは。どうしたの?』
「みれい、いますか?」
『あー、あのね、今、おふろ入ってるのよ。かわりにおばさんがつたえとくわ』
「明日、野球のれんしゅうになっちゃった。多分、お昼までだけど」
『あらあら、そうなの。分かったわ、みれいに言っておくわね。ありがとう』
「ごめんねって言っておいて。おねがいします」
『はあい。じゃあ、また明日ね』
「はい。さよなら」


 夏の夕方の空ってへんな色してる。まだ空は青いのに、下のほうは黄色で、ちょっとピンクがまざってる。入道雲はクリーム色で、むらさきと青のかげができてた。ぼくの、少しへこんだバットはだいだい色にきらきら光っている。何回もスライディングしたせいで、体中どろだらけだ。顔についたどろを取ろうとして、ごしごしとこすったけれど、そもそも手も土だらけだったみたいで、まさとが大わらいしてきた。
「きったねー!」
「まさともじゃん!」
 グラウンドの大きな時計を見たら、みじかいのが6のところ、長いのが2のところにあった。
 こんなにれんしゅうするなんて思ってなかった。コーチ、はりきりすぎだ。でも、しょうがないか。おばさんに、お昼までって言っちゃったな。どうしよう。みれい、おこってるかな。あやまらなくちゃ。お母さんに、先ににもつ、もっていってもらっといてよかった。
 いそいでかたづけて、カバンをかたにかけて立ち上がる。
「のぞむ、もう帰んの?」
「うん。バイバイ、まさと」
「おー、またなー」
 走り出したら、地面とバットがちょっとすれて、音が鳴った。もっとへこんじゃう、と思って、あわててリレーのバトンみたいに高くもつ。
 グラウンドのみんなの声が小さくなっていく。それでもずっと土のにおいがする。むかい風がふいたら、ぼくまで風になったみたいだ。さか道をころびそうになりながら走っていくと、白くてきれいなみれいの家が見えてくる。
「のぞむくん?」
「おばさん! おそくなってごめん!」
 ぼくが走りこんできたから、うえてある木にとまってたセミがじいじい鳴きながらとんでいった。ホースで花に水やりをしているおばさんは、ぼくをちょっとふしぎそうな顔で見てくる。
「みれい、おこってる?」
「ううん、だいじょうぶよ。でも、みれいはいっしょじゃないの?」
「なんで? ぼく、会ってないよ」
「さっき、のぞむくんむかえに行くって出ていったのよ。本当に会ってないの?」
「うん……」
 少しの間、おばさんはなにか考えてるかんじの顔をしたあと、にっこりわらった。
「……入れちがいになっちゃったのかしら」
 ホースの水が止まると、アスファルトのにおいがする。きゅうに空気がかべになったみたいだった。あせでふくがくっついてる。うっとうしいな。とうふやさんの車がながしてるラッパの音が聞こえてくる。
「中でまってましょう。のぞむくんのお母さんがコロッケもってきてくれたのよ」
「えっ、でもみれいが」
「だいじょうぶ。おばさん、ちょっとグラウンドまで行ってくるわ」
「ぼくが見てくる!」
「あっ、のぞむくん!」
 おばさんがぼくのことをよんでるけど、ムシして、走ってきた道をもどる。空の色がなんだかこわい。黄色だったところはすごくまぶしいオレンジにかわってる。雲もこげたみたいな赤色で、もえてるみたい。ピンクがこいむらさき色になってる。上のほうの青も黒っぽくなってきてる。ホトケノザっぽい色がまざったぼくのかげが、長くのびてる。
「のぞむ!」
「まさと! みれい見なかった?」
「そう! お前帰ったあと、お前のことむかえに来たんだぜ。なんかすごいおこってた」
「まだグラウンドいる?」
「分かんない」
「そっか、ありがと」
「おーう」
 まさとに手をふって、また走る。むちゅうになってたから、道を歩いているセミをふみそうになった。
 さか道を下るのは楽だけど、上るのはくるしい。いきがぜえぜえする。グラウンドの青みどりのフェンスにもたれて、きゅうけいする。そのまま、中を見てもだれもいなかった。コーチも帰ったみたいだった。
「みれーい」
 大きな声でよんだはずなのに、セミの鳴き声がうるさすぎて、自分でもはっきり聞こえなかった。立ち止まったら、あせがたくさん出てくる。草のにおいがべたべたくっついてくるみたい。
 もう家に帰っちゃったのかな。ぼくの家に行ったのかも。どうしよう。そういえば、あっちのほうのアパートの近くに電話ボックスがあった。かけてみようかな。
 カバンからサイフを出して、中をかくにんする。後ろから風がふいてきて、ぼうしがぬげそうになる。
 さいふの中に入ってた五百円玉一つ、黒っぽい十円玉2つ、一円玉いっぱい。きれいな百円玉がぴかっと光ったとき、どこかからさけび声が聞こえてきた。
 びっくりしてサイフをおとしちゃう。じゃらじゃらお金がちらばる。電線にとまってたカラスが、げあってへんな声を鳴く。心ぞうがどきどきしてる。カラスがへんな声で鳴くと人がしぬんだよってだれかが言ってた。なんで今、思い出しちゃうんだろう。
 多分、グラウンドのトイレからだ。まわりを見ても、だれもいない。だれかよばないと。おばさん、まだ来てないの? どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 サイレンがながれはじめた。すぐ近くにスピーカーがあるから、すごく音が大きい。聞いてると、おなかのおくがぐっとしてくるしい。

『これは、しけんほうそう、です』

『きんきゅうじしんそくほう』

「あああ」

『まぐにちゅーど、はってんぜろの、じしん、が』

「ま……ま、ま」

『これは、しけんほうそうです』

「の……む、のぞ……のぞむ」

『まぐにちゅーど』

 今よばれた。
 今、よばれた!
 カバンを地めんにおく。でも、バットはもつ。ぼうしをかぶり直す。ふかく、ふかく。
 トイレに近づいてくと、どんどん声が大きくなってく。

「あああ、あ」

『これで、しけんほうそうを、おわります』

「うるせえよ!」
「いたい! いたい!」
「おいおまえいっぱつなぐれよ」
「ううっ、が、あ、こわい、こわい、いたい!」
「なあぜんぜんぬれなくていてえんだけど」
「あせりすぎじゃん、ろりこんかよっていうかうるせえっつてんだろいーかげんだまれ!」
「ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさい!」

 入り口からこっそりのぞいたら、くらいなかに、男の人が二人いる。こっちは見てない。二人の間で、ちっちゃな花のかざりがついたサンダルをはいた足がゆれてる。あつい。トイレのにおい、くさい。でも、しんこきゅうして、バットをにぎり直す。たいじゅうを後ろのほうにかけて、足を上げる。

 ぜったい今までで一番上手くうてた。

 やわらかいような、かたいような、よく分かんないかんじで手がびりびりして、音がなんにも聞こえなくなって、ちらっと赤い色が見えて、バットが当たった人は前のめりになってって、おくのほうにいた人はびっくりした顔になって、おさえてた手がはなれて、にぎられてたせいでまっ白になってる手が見えて。

「みれい!」

 手をつかんだら、なみだでぐしゃぐしゃな顔と目が合った。

「おいまてくそがき!」

 そんなの知らない。
 走れ!

 心ぞうがばくばくしてる。バットが手からはなれておちる。ぼくたち二人とも足はやいけど大人にはかてない。後ろから聞こえてくるおこった声がどんどん近づいてくる。こわい。でもふりかえらない。
「のぞむ! 来てる! こわい!」
「だいじょうぶ! 走って! 走って!」
 こわい。ピンクの色の雲。まぶしいだいだい色。青になってく。食べられてく。家に電気がついてく。足音が聞こえる。走れ。
「たすけてー!」
 みれいがさけぶ。心ぞうがばくばくしてる。あせですべった手をにぎり直す。かたく。ぜったいはなれないように。
 どうしよう。家のほうじゃない道を走ってる。帰れない。どうしよう。走れ。走れ! つかまるな!
 うわって後ろから聞こえてきて、みれいが、ころんだって言う。ちゃりん、とお金の音がした。

 あっ、電話ボックス。

 まがり角をきゅうにまがってみれいがこけそうになったからうけ止める。
「あいつらまだ来てない!」
「分かった!」
 もう一回まがり角。声はするけどすごく遠い。
 古いアパートが見えてくる。電話ボックスにかけこんでドアをおさえる。
「みれい! ヒャクトーバンして!」
「分かんない!」
「1、1、0!」
「お金は⁉」
「いらない! じゅわきもって!」
「もった!」
「赤いボタンおして! そしたら音鳴るから1と1と0おして!」
「まって早い分かんない!」
「かして!」
 お母さんに教えてもらったのを思い出しながら電話をかける。
「のぞむ来てる早く!」
 プーって音がする。すぐにボタンをおす。トゥルルルって音が長い。
「はやくはやくはやくはやく……」
「のぞむ!」
『どうしましたか?』
「あっ、たすけてわるいやつ来てる!」
『おちついて。ゆっくりせつめいしてね』
 がんって音がして、電話ボックスがゆれる。みれいがさけんでドアがあきそうになってぼくもいっしょにおさえる。
「グラウンドでなぐっておいかけてきて今いる! ドアあきそう! たすけて! 早く!」
「のぞむ!」
「さっさと出てこい!」
 ドアが開いてぼくたちは引っぱり出される。みれいの手をつかむ。頭からちが出てる学校のふくをきたほうはぼくのバットもってる。
「しねや、なめやがって!」
 せなかをバットでたたかれる。ぜんぶゆれる。いたすぎて息ができない。バットへこんだの分かる。何回もたたかれる。
 Tシャツのほうがみれいをつれてこうとする。そんなことさせない! みれいにしがみつく。そしたら顔を思いっきりけられる。またゆれる。ぐらぐらする。ちゃんとまわりが見えない。
 はなぢが口に入る。すごくまずい。みれいにしがみつく。このままじゃみれいもケガする。ぼくの下にかくそう。ぼくがまもろう。
 あ、足もたれた。まがんない、そっちまがんない。へんな音が体の中から聞こえる。ぎゃあってかってに声が出る。あつい。いたすぎてあつい。もう分かんない。
 しんじゃいそう。
 でも、みれいにしがみつく。はなそうとしてくるから、しがみつく。みれいもしがみついてくる。みれい、なんか言ってる。聞こえないなあ。
 上を見たら、ぜんぶぐしゃぐしゃで、色しか分かんなかった。青、赤、オレンジ。夕日で目がいたい。夕方のたいようもいたいんだなって思ったら、また顔けられる。
 頭からちが出てる。足うごかない。心ぞうがうごいてるのがくるしい。どきんってすると、いきがくるしくなる。くるしい。なんかよく分かんない。
 いたい? いたくなくなってきた? ちょっと思ったけど、ぜんぜんそんなことない。顔もたれて、グーでなぐられたら、やっぱりいたい。分かんない。……分かんない。
 まずい。あつい。まぶしい。ぐらぐら。
 なんか、分かんない。分かんなくて、ぼーっとしてきて、いたいなって、みれいがまだちゃんといっしょだなって。あ、ぐらぐらしてた歯とれた。そこからも、ち出てきた。まずいなあ。うがいしたいなあ。わかんないなあ。


 なまいきなんだよたてつきやがって、のぞむ、とっととくたばれしにぞこないしねほんところすぞ、のぞむ、おもしれえじゃんどんぐらいもつかやろうぜもうのびてきてるけど、のぞむ、しるかてめえだけでやれつーかてつかれてきたんだよはやくしねおれもあしいてえぎゃははしーねしーねしねしーねしねしね、しね!


「のぞむ!」

「なにやってるんだ!」

 音。
 とおくなる、音。
 ちかづいてくる、音。
 せなか、だれか、さわる。
 みえない。
 わかんない。
 あつい。
 さむい。
 からだのした、
 なんか、
 うごいてる。
 みれい、いる。
 ちゃんといる。
 なら、いいや。

解体1

 夕飯のコロッケは冷めている。いつの間にか番組が切り替わっていて、テレビのなかでは芸能人たちがクイズ大会をしている。
 電話から何分経った? なにをしていれば良い? 変に喉が渇いていて、やかんに入っている麦茶を飲む。ぬるいせいで、むしろ喉の渇きが酷くなったように感じた。
 親が帰省中で良かった。もし、あの電話に母親なり父親なりが出ていたら、彼女、どうするつもりだったんだろう。そもそもあの電話の会話は事実なのか。
 散々考えを巡らせていたら、ふいにインターホンが鳴り響いた。タイミング良く、テレビのなかの笑い声がその音に重なる。動けないでいると、激しく連打され、しまいにはドアを叩き始める。
「開けなさいよ!」
 叫び声で我に返る。まずい、叫ばれたら響く。走って、裸足のまま玄関に下り、ドアを少し開ける。
「いたっ!」
 その隙間から細い手が入ってきて、唐突に平手打ちされる。鋭い痛みが走ったあと、左頬がじんと熱くなる。
「……遅い。このグズ」
 そう言って外の熱気と共に滑り込んできた、黒髪の少女。
「……ごめん、美玲」
 少し吊った、大きな目でこちらを睨み、もう一度平手打ちしてくる。その拍子に、美玲の頬を伝っていた汗の粒が、ぽたりと落ちる。
「早くして。これ、中に入れるから」
 がさ、と音がして、外を見ると、大きな黒いビニール袋があった。こんな大きさの見たことないなあ、どうやって運んできたんだろう、とどこか冷静に思っている自分がいる。美玲がそれを掴み、引っぱろうとするが、なかなか動かないので、僕も手を貸す。一瞬、ぎょっとしてしまうような重さだった。
「なに、これ」
「死体」
 暑さで彼女の肌はほんのりと赤く染まっている。完全に袋が入ったところで、素早く戸を閉め、鍵をかけた。多分、見られてはいないはずだ。美玲は長く息を吐いて、へたり込む。僕も玄関の段差(最近知ったが、上がり框というらしい)に腰かける。
「冗談?」
「嘘だったら、あんたなんかに連絡しない」
「なんで、僕」
「精肉店の息子なら、解体ぐらいなんてことないでしょう」
「生き物の状態から解体していくのは、と畜場でやられる。僕らがやるのは、ある程度加工された枝肉っていうのを食べやすいように精肉することで……」
「長い。やったことあるの、ないの」
「厳密に言うとない」
「まわりくど」
 ビニール袋を足で押し、僕の前に転がす。
「なか、見てみてよ」
 そう言って、美玲は僕の目を見る。ある種の興奮状態にあるのかもしれない。瞳が水分の膜を纏い、揺れている。整った形に強ばった唇はいやに赤い。袋をさす指はかすかに震えていて、よく見ると爪の間に赤錆のような汚れがこびりついていた。
 視線に耐えられなくなって俯く。そこには袋がある。恐る恐る手を伸ばし、固く結ばれた口に触れる。結び目からぬめりのある汁が染み出てきて、指が滑ってしまい、なかなかほどくことができない。その様子を馬鹿にし、笑っている気配を感じる。じれったくなってきて、口を伸ばし、引っぱられて薄くなった部分に爪を立て、破いていく。
 最初に目に留まったのは、野球部特有の丸刈りにされた黒髪だった。
「早川……!」
 日に焼けた腕。細く整えてある眉。乾燥して少し割れた、厚い唇。見たことのない色をした目。
 よく見知った顔なのに知らないものに見えた。違和感を拭うことができないのは、あらゆる場所から出血しているからなのだろうか。時間はそこそこ経ってるようで、赤黒く変色した血が固まっている。
「……彼氏、だったんじゃないの」
「彼氏だけど?」
「なんで殺したんだよ」
「先に手出してきたのはあっち。正当防衛よ」
 気づいたらこうなってたって言ったって、普通こうなるものなのか? と一瞬思ったが、この場合、「普通」なんてないから考えるだけ無駄だ。そもそも僕は殺人現場に居合わせたことがない。
「どこで殺した?」
「家」
「おじさんは?」
「今、ベトナム出張中」
「何時ぐらいに……」
「あんた、やけに冷静ね」
「え?」
 美玲は立ち上がり、僕の横に座る。
「いつか、やるって思ってたんでしょう」
 唇が弧を描き、綺麗に並んだ白い歯が覗く。どうにもその様子が目に毒で、顔を逸らす。すると、背中を少し触られ、瞬間息が詰まる。そのまま、皮膚の内に手を突っ込まれ、心臓を直接撫でまわされる想像をすると、変な風に一度拍動したのを胸の奥で感じた。
「考えてたんでしょう。どこで解体するのかも、どうやって処理するのかも、どこに捨てに行くのかも。ちゃあんと」
 人さし指で背中をなぞっていく。首まで来ると、指を増やし、軽く掴む。
「人を殺したら、自分のところに来るって、信じてたんでしょう」
 首から手を離したら、僕の腕にそっともたれかかってきた。そして、さもおかしそうに、ふふ、と笑う。湿った笑い声だった。触れ合う場所から熱い体温が伝わってくる。
「傲慢」
 着ているシャツの内側で、僕の背中にひとすじ、汗が伝っていく。
 目を閉じ、一つ息を吐くと、美玲のほうに向きなおった。
「枝肉、捌くところがある」
「それで?」
「道具が一式揃ってる」
「それで?」
「血抜きもできる」
「それで?」
「父さん、汚れたエプロン着て外うろうろしてるから、近所の人にも怪しまれない」
「それで?」
「盆休みで業者も来ない」
 いつの間にか入ってきていた蠅が一匹、袋に留まって蠢いた。
 神様は、案外いるのかもしれない。今なら、やれる。僕が思い描いていた通りに、事を運べる。ありがとう。何年ぶりかの感謝の言葉を、心のなかで唱える。
 美玲は目を細める。その瞳の色に狂わされる。心臓がありえない速さで脈打っていた。彼女の興奮に、僕も飲み込まれていく。
「父さんたちはお盆が終わったら帰ってくる。だから、それまでに絶対終わらないといけない」
「どこに捨てに行くの?」
「櫻城町。あそこはゴミが多いから紛れると思う」
「分かった」
 時間は限られていた。タイムリミットは刻一刻と迫っている。テレビの笑い声が、開け放った戸の向こうから聞こえてきた。
 マスク、エプロン、ゴム手袋……カッパもいるな。必要なものを心のなかで数える。大丈夫。やれる。完璧に。
 からからに乾いた唇を少し舐め、口を開いた。
「……急ごう」
 何気ない一挙一動が目に焼きついて離れない。頭が茹だりそうだった。満足げな美玲と、土気色した早川を見比べ、ごめんな、と一言聞こえないように呟いた。

びょういん

 時計を見たら、長いのが「12」で、みじかいのが「7」のところにあった。昼間は白いけど、夕方になってくると、ぜんぶオレンジになる。どこ見てもまぶしくて、ちょっといやだ。早く夜にならないかな。
 お母さんも今日は帰っちゃって、ヒマだった。もってきてくれた新聞をひろげてみる。
「おてがら! 小学二年生!」
 タイトル(お母さんはミダシって言ってた)を読んでみた。
「みやたのぞむくん、八さい」
 自分の名前がのってるってへんな感じ。お父さんがふりがな書いてくれたけど、むずかしくて何が書いてあるのかよく分かんないや。でも、多分お母さんたちが教えてくれたことなんだと思う。

 おととい、ぼくたちをたすけてくれた岸さんって人が来た。アパートにすんでる、せが高いお兄さんだ。
 買い物から帰ってきたときに、ぼくがなぐられてるのを見つけたって言ってた。がんばったねってほめてくれたあと、下のおみせでアイスを買ってきてくれた。まだちょっとちのあじがして、いたかった。でも、すごくあまくておいしかった。

 きのうはまさとが来た。
 ぼくを見たらびっくりして、ちょっとなきそうになってて、おもしろかった。
「お前がつかまえたやつらさー」
「ぼく、つかまえてないよ」
「いいじゃん、つかまえた、で。そんでさ、さいきんずーっとケーサツの人たちがさがしてたんだって!」
「え、そうなの」
「うん。ほかにもいっぱいわるいことしてるらしいぜ! すげえな、のぞむ!」
 はやく元気になれよって言って、新しいバットをプレゼントしてくれた。黒くてぴかぴかしてて、かっこいい。まさとはぼくがピッチャーするの苦手なの知ってるから、とっくんもいっぱいしよーなって言って帰ってった。お母さんは家にもって帰るって言ったけど、すごくうれしくって、バットをふとんに入れていっしょにねた。

 まくらを使っていっしょにねてるバットが、だいだいいろに光ってる。まだ体がいたい。足もギプスがついててうごかせない。ほうたいがたくさんまかれてて、なんだかうずまきになったみたい。へんなの。
 ぼーっとしてたら、となりのベットから声が聞こえてきた。体をうごかせなくて、名前をよぶ。
「みれい?」
 なにも言わない。ぐすぐす。なき声だけがする。

「だいじょうぶだよ。もうなにも来ないよ」

「だいじょうぶ」

「ぼくがいるよ」

「こわくないよ」

 ぼくがしばらく話しかけてたら、小さな声が聞こえた。

「…………そっち行っていい?」

 いいよってへんじをする。そしたら、ベットから出てきて、ちょっと走りながら、ぼくのベットに入ってきた。がんばってずれて、二人でふとんにすっぽりくるまる。みれいとくっついてるところがあったかい。
「だいじょうぶ。もう、なんにもこわくないよ。ぼくがいるよ」
 ぎゅうっとだきついてくる。でも、体がいたすぎて、思わず、ぎゃってへんな声を出しちゃったから、みれいはすぐにやめた。
 お母さんが、ぼくがねつ出したときにやってくれるみたいに、ちゃんとうごくほうの手で、みれいのせなかをぽんぽんとかるくたたいてみる。しっかり開いてた目がそのうちねむそうになってきて、ぼくもちょっと安心した。
「……ママがね」
「うん」
「のぞむくんってやさしい子ねって言ってたんだ」
「うん」
「……やさしいからたすけてくれたの?」
 なんて言ったらいいんだろ。ぜんぜん分からなかった。
 みれいはじっとぼくのことを見てる。なみだのせいでうるうるした目が、夕日のオレンジ色になってる。


 ぼくってやさしいの?
 分かんない。
 みれいがぼくのことよばなかったら、気づかなかったかもしれない。
 でも、みれいがぼくのことよんだから、がんばったんだもんな。
 ほかの人がこまってたら、たすけたのかな。
 わかんない。


 なにも言えなくてしずかにしてたら、みれいがぼくのうでに顔をうめてくる。

「……行かないでね」

「やさしいんだったら、ずっといっしょにいてね」

「やくそく、して」

 みれいの声がふるえてて、かなしそうで、ぼくもなんだかかなしかった。

「うん」

「やくそく」

「ずっといっしょにいるから」

 しばらくそうやって言ってたら、すう、すうってねいきが聞こえてきた。ドアのむこうからだれかがパタパタ走る音がする。いそがしそう。それとも、にげてるのかな。ぼくたちみたいに。

 ──こわかったなあ。

 きゅうにじわってなみだが出てきて、あわてて大きくいきをすう。ないちゃだめだ。ぼくはないちゃだめだ。みれいはもっとこわかったんだから。うごかないほうの手がぶるぶるしてる。
 はやく夜になって。空、まっ黒になって。オレンジ色こわい。青もこわい。まぶしいのこわい。いたいのこわい。
 みれいみたいに目をつむってみたら、頭のおくの人に、しね! って言われた。
 そっか。ぼく、にげれないんだ。にげちゃだめなんだね。
 みれい、みれい。じゃあ、ぼく、がんばるね。みれいがこわくないようにがんばるね。ずっと、いっしょにいるからね。だから、今、ちょっとだけないちゃうの、ゆるしてね。

解体2

 切断。切断。血抜き。血。切れ。切れ。切断。切断!
 と、頭の奥では誰かが叫んでいる。
「あのさ、この買い物リスト……ってまだその状態?」
「いや、今から……」
「それ、さっきも言ってた」
 震えで包丁を落としそうになり、握りなおす。汗でビニール手袋のなかも、カッパのなかもむれている。
 いびきをかいてるみたいだ。社会科見学で、バスが隣の席になったときのことを思い出す。帰り、こんな風に大口開いて寝てたよなあ。なのに、口を見ると、乳児のような歯肉の桃色と、赤黒さが広がるばかりで素っ頓狂。台の角に散らばった歯が乳白色に光っている。
「歯、抜いたの」
 美玲がなんてことない顔をして、覗き込んできた。
「DNA鑑定がこわい」
「それなら、人の遺伝子気にする前に、自分の痕跡残さないようにしなさいよ。そのクソ長い髪どうにかしたら?」
 たしかに。長く伸びた髪が額に貼りつく。掻き分けたら、いくらか涼しくなった。
「ちょっとかがんで」
 どこからか取り出したゴムを片手に命令。言われた通りに体を丸くしてカッパのフードをあげれば、固くそれで髪を結ばれる。痛んだ毛先はすぐに美玲の指に引っかかるようで、小さく舌打ちされた。
「これからどうするの」
「首切って血抜き」
 もっと小さくなって。やりにくい、と言われ、今度はしゃがんだ。
「こわい?」
「……まあ」
 早くしないと血液が凝固してやりにくくなる。そのうえ、臭い始める。あと、内臓。腐る。切断、切、断、せ、つ、だ、ん。
 思考がうるさい。理屈は分かる。だからって人を、ましてや小学生のころから知ってるやつの首をいきなり切れるか。歯抜いたときもゲロ吐きそうだったのに。
 大きな包丁に歪んで映る僕の顔は青白く、死体、と連想するが、実際目の前に横たわっている早川の顔はこんな色をしていない。所詮、そんな表現はフィクションに過ぎず、今、目の前には途方もない現実が転がっている。
「顔?」
「うん」
「この馬鹿面が。ふーん」
 美玲の手が離れる。あいかわらず興味があるのかないのか分からない声色で、なんだか僕が殺したみたいで、いや解体してるのは他ならぬ僕で、違う、美玲が殺して僕が解体解体は罪で死体損壊は殺人に繋がってるのか死因ってなにそういえばなに、は? 死罪殺人解体? は? それで、それでそれでそれで? なんなんだろうこれ。
 数分間の思考は高速で、そのくせ堂々巡りだからきりがない。観念して頸動脈に狙いを定める。
 これは肉。ただの肉。死ねば肉。人も獣も関係ない。肉。肉。解体。切断。肉! 肉‼ 肉だっつってんだろ‼
「これ使ったら」
 ガラン、と背後で金属音がして、振り返り、息をのんだ。
「……なんで場所分かったんだ」
「あんたはクローゼットの奥にものを隠す」
 ひん曲がった黒いバット。細かい傷のせいで、それは曇った光を放っている。美玲の言うとおり、ずっと昔に親二人から取り上げられないよう、クローゼットの奥にしまったものだった。
「顔潰せば、少しはやりやすいでしょう」
 手袋をはめ、早川の顔に黒いビニール袋を被せる。そして、ビニール紐で口をかたく括る。顔面の凹凸が袋にくっきりと表れていて、妙にまぬけだ。
「ほら、早く」
 ピョン太みたいに。
 そう言う美玲の目は、あからさまな悪意に染まっていて、救えない、と思った。
 早川の重たい体を持ち上げ、床に座らせる。死後硬直が始まっているのか、意外にもしっかりした姿勢だった。生きてるみたいに。
 右手をぶらぶらと振って具合を確認したあと、転がるバットを拾いあげ、構える。このバット、どうしたんだっけ。ああ、入院中にこいつからもらったやつか。皮肉なはなし? 別に早川に恨みなんて微塵もない。

 やわらかいような、かたいような。手に伝わるしびれに懐かしさを感じる。野球を辞めてからだいぶ経つが、体はちゃんと覚えていた。復帰できるかもしれない。今まで聞いたこともない音を立て、袋がゆっくりと歪んでいく。
 端が溶け出し、狭くなっていく視界。やけに感覚は明瞭に研ぎ澄まされる。このままいったら、袋のなかまで透けて見えて、早川が吠え出すような気がして恐ろしかった。それでも、やめない。手が疲れてきたけど、やめない。
 ふいになにかが外れ、砕ける音がしたあと、一部分の抵抗感が弱まった。そこに狙いを定めて振り下ろすと、質量のある水音が聞こえる。脳味噌がどろどろ流れ出ているさまを想像したが、きっとあながち間違ってはいない。これは夢じゃなくて、全部、本物だ。狂ってる暇なんてこれっぽっちも存在していない。

「ナイスバッティングー」

 美玲は、自分が殺した恋人が、大嫌いな男によって壊されていくさまを、脳天気に見守っている。だから、僕は何度も、バットを振りかぶっていた。

ピョン太

 指に残った歯形からぷつっと血が出てくる。そんなにいたくないけど、血を見るのはいやだ。
「どうしたー?」
「かまれた」
 となりの小屋から、ニワトリのひよちゃんをかかえて、雅人がのぞきこんでくる。
「ホント、お前ピョン太にきらわれてるよなー」
「うるさい」
「望、持ち方悪いもん。ピョン太苦しそう」
 雅人はげらげら笑って、おれたちは仲良しだもんなー、とひよちゃんをなでる。ひよちゃんは、ごげえ、と鳴く。
 動物はあんまり好きじゃない。雅人がじゃんけん負けたせいで、無理矢理、いっしょに飼育係にさせられただけ。飼育小屋のすみで丸くなるピョン太は、鼻をひくひくさせてる。ぼくのこと、かんだくせして、赤い目はどこを見てるのか分からないからこわい。あと、変なにおい。
 小屋の空気はこもってるせいで、生あったかい。朝の当番の子たちが入れたキャベツはまだ残ってて、黒っぽく変色してる。銀色の水入れはだいだい色に染まってる。夕方。いやな時間。
「あっ、望! 四時!」
「えっ、あっ、本当だ!」
「あとやっとくぜ」
「いつもありがとう! じゃあねー」
「おー、またなー」
 外に放してるニワトリ二号、ぴよちゃん(ぼく、本当は見分けつかない)が、おげって鳴く。飼育小屋をぐるっと囲んだフェンスの近くに置いといたランドセルをしょって走り出す。
 学校から家、近くて良かったな。階段のはじに落ちてるワラジムシをふんづけそうになってよろめく。先週の入学式のときはいっぱいさいてたのに、桜はもう緑がまじり始めてて、少しきたない。時間がすぎるのって早い。
 足を大きく開いて走ってたら、ズボンがきつくなってるのに気づいた。今年も身長順、最初のほうだけど、ちゃんとのびてる。来年はもうちょっと大きくなりたい。指の血がなかなか止まらなくって、そんなに目立たなさそうだったから、ズボンでぬぐう。
 角を曲がったら、コロッケのにおいがし始める。もうすぐぼくの家。「宮田精肉店」って書かれたお店。女の人が店の前で話してる。
「ただいまー」
「おかえり、望」
「望君、おかえり。学校どうだった?」
「まあまあ!」
 レジで母さんと話してたのは雅人のお母さんだった。あいさつをしてから、店のうらにあるげんかんで、ランドセルと持ってく荷物を交かんする。
「はい、これ、小西さんに持って行ってあげて」
「はーい。あっ、雅人のお母さん、雅人に当番代わってくれてありがとうって言っといてください」
「はいはい。いつも仲良くしてくれてありがとね」
「うん! じゃあ、いってきまーす!」
 手をふって、また走る。
 最近、ずっと走ってる気がしてる。夕方が来ると、特に。あせってる。はやく夕日が見えないところに行きたい。でも、それよりも待たせちゃいけないって思ってる。息が苦しくても走りたい。金曜日の夕方がこわいんだ。ずっと、ずっと。だから、一人でいれない。あと少し。がんばらないと。
 いつも通り、見なれた白い家のインターホンをおすと、ドアが開く。
「いらっしゃい」
 まだ明るいから、電気が点いてない。うす暗いげんかんで立つおばさんの顔に、むらさき色とはい色のかげができてるせいで、なんだかすごく体調が悪そうに見えた。
「こんにちは。これ……多分、ソーセージです」
「いつもありがとう。部屋で待ってるから、行ってあげて」
 おばさんはそう言ったあと、急にせきこみ始めた。びっくりして、だいじょうぶですかって丸まったせなかをなでると、せきをしながら苦しそうに笑った。
 本当にどこか悪いのかもしれない。どうしよう、本当だったら。もし、おばさんが死んじゃったら。
 いやなことをつい考えちゃって、早くわすれようって、頭をぶんぶんふったら、二階から大きな音が聞こえた。
「望君、おばさん、だいじょうぶだから」
 げほってまたせきこんで、それ以上分からなかったけれど、多分、早く行って、と言いたかったんだと思う。くつをぬいで、階段をかけあがる。ろうかのおくまで。はやく、はやく。
「美玲」
 暗い部屋。いつもはきちんとならんでる教科書もぬいぐるみも、ぐちゃぐちゃに散らばってる。見たくないから閉めきってるのに、カーテンのすきまからだいだいの光が差しこんでいて、心ぞうがばくばくする。
「みれい」
 もう一回、部屋のすみっこで小さくなってる美玲によびかける。ちょっとはなれてるけど、ふるえてるのがすぐ分かって、なんだかぼくまで泣きそうだった。
「の、ぞむ」
 顔をあげずに手をのばしてきて、それをにぎって、となりにすわる。二人ともあせで手がしめってる。外はまだそんなに暑くないのに。夏の、死ぬほど暑い日をちょっと思い出した。なにかをたしかめるみたいにおたがいの顔とか、せなかとかをべたべたさわったあと、力いっぱいだきあった。
「……こわいね」
「うん」
 ぼくが返事をすると、かたがぬれて温かくなった。

 もう、あれから二年経った。
 二年前の、八月十五日金曜日を、ぼくたちはぜったいわすれない。
 あの日は、けっきょく、新聞のすみっこの小さな記事にしかならなかった事件で、もうみんなわすれてて、今日だって八月十五日じゃないただの金曜日なのに、ずっとぼくたちは夕方の光をこわがってる。

 息が苦しい。ぼくだけじゃなくて、美玲も走ったあとみたいに、ぜえぜえと吸ったりはいたりをくりかえしてる。つめを立てられるから、せなかがいたい。長くなってきた美玲の髪をぐちゃぐちゃになでる。ぐらぐらしてくるぐらい熱くて、でも、このままさわってないと死んじゃう気がして、殺されちゃう気がして、ずっとずっとはなれられない。

 これは、おまじない。むずかしい言葉で言ったら、ギシキ、多分。
 夕日が見えてくると、いつも不安になる。特に金曜日は一日中そわそわして、がまんできなくなる。だから、こうやってこわいもの同士、いっしょにいる。
 二人で走った、あのアパートにつながる道が歩けなくなった。電話ボックスに近づけなくなった。サイレンの音を聞くと、足がふるえるようになった。大きい声でどなられるのが死ぬほどこわくなった。
 あの日から、こわいものばっかり。でも、まだぼくのほうがマシ。
 美玲だって、アパートも電話ボックスもサイレンも大きな声もきらいだ。男の人もグラウンドも大っきらいだし、本当はこの部屋みたいな暗い場所もこわがってる。学校にもしばらく行けなかった。
 ようやく、最近、ちょっとずつ行けるようになってきた。それでも、金曜日はまだ外に出れない。ぼくたちの八月十五日はまだ終わってない。

「外に、だれもいな、い?」
「うん、いないよ」
「ほんとう?」
「うん。だいじょうぶ」
 本当のことは知らない。こわい。だれか待ちかまえてるかもしれない。でも、どうでもいい。
「だいじょうぶ」
 後ろに置いておいたバットをさわる。雅人がくれた、まだぴかぴかの、かっこいいバット。
 なぜか、バットだけは平気だった。あんなにこれでたたかれて、なぐられたのに、なんにもこわくない。美玲のなみだをぬぐいながら、右手でぎゅっとバットをにぎりしめたら、いつだってあの日、あいつらをなぐった感覚を思い出せる。
 神様。ぼくはこれを使えば良いんだよね。これで戦えば良いんだよね。神様、ありがとう。本当にありがとう。これがあるから、強くなれる。これで、守れる。なんでもできる。
「……みんな、きらい」
「うん」
「死んじゃえ」
「うん」
「死ね。死ね。死ね……」
 泣いてもいいし、おこってもいいし、死んじゃえって思ってもだいじょうぶ。美玲がしたいことをすればいい。そのために、ぼくがいるんだと思う。泣いてるのをなぐさめるのも、おこられるのも、死んじゃえって思うやつから守るのも、きっとぼくの役目。ぼくはやさしいから、美玲とずっといっしょにいる。金曜日、ぼくたちが、一人でいれるようになるまでは。
 でも、今まで美玲が死ね、なんて言うの聞いたことなかったのにな。美玲はなんにも悪いことをしていないのに、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう。そう思ったら、悲しくてしょうがなくて、ぼくはもっと力いっぱい、美玲のことをだきしめた。


 七時。窓を開けて、本当に空が黒に変わったか、かくにんした。月がぼやぼや光っている。菜の花のにおいがする風がふきこんできて、ぼくはちょっと目を細めた。つばみたいなにおいするから、菜の花ってあんまり好きじゃない。
 つかれてうとうとしてる美玲のほっぺをつついて、ご飯食べようって言う。良いにおい。そう思ってドアを開けたら、やっぱりおぼんに乗ったカレーの皿が置いてあった。
「──でね、雅人おかしいんだよ、センセーのはなしかんちがいしてさ──」
 溶けたトマトはまだらなオレンジ色。ひき肉が混じったルーを口に入れたらざらざらする。美玲の家のカレーは少しすっぱくてすごくおいしい。持ってきたソーセージはいつも通りの味。
「あっそうだ。これ、算数のプリント、宿題だって」
「えー計算ドリルもあるのに、ほかにも宿題あるの? いらなーい」
「だめだよ。ぼくもおこられちゃう」
「やだー、望やってよ」
 美玲はスプーンをにぎって、イカクするみたいにうなった。もちろん本当におこってるわけじゃないから、ぼくもふざけて、おーよしよしって頭をなでる。そしたら、美玲は楽しそうに笑う。カレーの黄色でくもったスプーンには、逆さまでぐにゃぐにゃのぼくの顔がうつってた。
 夜が来れば今日はもう平気だ。
 カレーを食べ終わって、一階に降りる。去年まではいっしょに入ってたし、美玲も毎回聞いてくるけど、なんかもうはずかしいから、おふろは別々だ。
 じゃんけんで負けて、今日はぼくが後。デザートのバニラアイスを食べて、『クレヨンしんちゃん』を見ながら美玲が出てくるのを待っている。
「望君」
「はーい」
「おばさん、町内会の話し合い行かないといけなくなっちゃった。おじさん帰ってくるまで、待ってられる?」
「うん、だいじょうぶ」
「ありがとう。帰りにジュース買ってきてあげる。そんなにおそくはならないと思うけど、ねむくなったら先にねてて良いからね」
「はーい。ジュースもありがとうございます」
 ぼくがおじぎをしたら、おばさんはにこってして出て行った。笑ったときの目の細め方とか、口がきゅっとなるところとか、やっぱりおばさんと美玲は似てる。母さんより年上らしいけど、おばさんは若くてきれいだ。
 アイスがなくなる。スプーンにまだ少し味が残ってる気がして、そのまま口に入れっぱなしにしてた。キンキンに冷えてたのに、すぐぬるくなる。明日から新しいえいがが始まるらしい。しんちゃんが未来のおよめさんといっしょに走り出す予告が流れる。今週はおしまい。
 次はMステ。あんまりきょーみない。CMにハデなかっこうした外国人の女の人、perfumeは知ってるなあ、あー始まる曲だ、はじまる、きょく、

 あっ。やばい。

 今日は月に一回の日だ、わすれてたって走り出してももうおそくて、八時のサイレンが鳴り始める。ふろから悲鳴が聞こえてくる。ぼくもいっしゅん動けなくなって、でも、さけびたくなるのを必死でがまんして、ふろのドアを開く。
「美玲!」
「のっ、」
 しけんほうそうですって女の人の声は、ふろ場だから余計にひびく。名前をよびかけて、また悲鳴をあげた美玲があわだらけのまま、ぼくをつきとばして走る。
「美玲、待って、落ち着いて!」
 ろうかのほうでなにかがわれる音がした。それと同時に美玲の泣き声も大きくなる。血の気が引いて急いでそっちに向かう。
 ゆか一面に水と花。花びんを置いてあったつくえはたおれてた。散らばったうすむらさきのガラスが電気できらきらかがやいてる。そこでちっちゃく丸まった美玲はずっと泣いている。
「……動いちゃだめだよ」
 サイレンはもう止まってた。ガラスに気をつけながら近づいて、美玲のせなかをなでようとする。でも、その手はばっとはらいのけられた。
「美玲、みれい、だいじょうぶだよ、ぼくがいるから……」
 泣いてばっかでぼくの声はとどかない。それでも手をのばして、またはらわれて、ぼくはそのままバランスをくずして、ガラスにさわってしまう。
「みれい……」
 手が切れた。ピョン太にかまれたときなんかよりもずっとひどく。気づけば美玲の手も切れていて、真っ赤な血があわにまざってゆかに落ちてく。けがしてる。なのに、さわれない。こんなに、さわりたいのに。なぐさめたいのに。
 もっと血が出るのは分かってたけど、こうするしかなくて、ガラスを拾ってく。いたい。こうしないと、美玲がもっとけがをする。ぼくがやらないと。はやく。はやく。
 右手いっぱいにガラスが集まった。そしたら、げんかんのドアが開いて、おじさんが帰ってきた。
「どうしたんだ、花びんか⁉︎」
 あわててこっちに来て、ぼくの手をつかむ。
「こんなに血が出てっ、さわっちゃだめだろう!」
 大きな声。足ががくがくし始めて、たおれそうになったら、おじさんがあわててぼくを支える。手を無理矢理開かされると、そのままガラスのかけらがぼろぼろゆかにこぼれる。血がいっしょに伝ってく。
 おじさんはぼくを見て、すぐにうずくまったままの美玲を見る。なにか言おうとして、口を開いていくのに気づいて、急いでぼくは声を出す。
「ぼくっ、ぼくがわった!」
 泣いてる美玲はぼくからもうにげなかった。ガラスがささらないように気をつけて、美玲の体にくっつく。
「ぼくがわった、ぶつかって、美玲、それでおどろいちゃって、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 美玲のこと、おこらないで。なんにも悪くないから、おこらないで。
 何回も何回も言った。手がズキズキして、美玲は泣きっぱなしで、もうわけわかんなかったけど、何回も言い続けた。
 そのうち、おじさんがぼくの頭をなでて、もういいよ、と小さな声で言われた。顔を上げたら、おじさんはなんだか変な表情をしていて、ああ、ゆるしてくれてないんだって思った。それでも、おじさんはぼくたちをやさしく立ち上がらせてくれて、みんなでそのままふろ場にもどった。血はぜんぜん止まってくれなかった。


 さよなら、と日直が言って、みんなもそれに続く。先生があいさつし終わらないうちに、クラスからはどたばた人が出て行く。
 ぼくはランドセルに自分の荷物を入れると、となりの席のいすを出して、つくえのなかをのぞいた。二日分たまったプリント。少しらんぼうな入れ方でおれてしまった紙のはじをきれいにして、専用のファイルに移していく。
 先生もいなくなったぐらいに、雅人がぼくの前の席にすわった。せもたれに顔を置いてこっちを見てくる。エサの生ゴミが入ったふくろはちょっとしめってて、ぼくのつくえが暗い茶色にぬれていった。
「すっげー量だな」
「そうだね」
「いっつもお前、大変だろ。こんなに」
「全然! 平気だよ」
「じゃあ、今日もさ、美玲んとこ行くの」
「うん」
 金管クラブの練習する音がする。かん高いラッパ。たいこは地鳴りみたい。あとは遠くから聞こえるみんなの声。それ以外の音が急になくなって、変に思って顔を上げれば、雅人が変な顔をしてぼくを見つめていた。
「……やめろよ」
 低い声だった。おこってる。なんで? いつものことなのに。
「美玲と付き合ってんの」
「えっ、違う!」
「カノジョじゃないのに女子にやさしくしてんの変」
 カノジョ。こいびと。そんなんじゃない。美玲はぼくの友だち。
 そういえば学校終わったあと、もう女子とは遊ばない。体育のきがえもバラバラだ。ぼく、変なのかな。でも、なんで雅人おこってんだろう。ごめんって言ったら、もっと変な顔になって、あ、間違えたってコウカイした。
「……なんであやまんだよ」
「……おこってる、じゃん、か」
「おこってねえよ」
 なにか言いたそうに口をパクパクさせても、そのあとになにも言葉が出てこなくて、雅人は頭をかく。ぬれたつくえの、木のにおい。太陽の光でほこりがきらきらして見える。

「…………お前だって、かわいそうじゃん」

 いっしゅん、なにを言ってるのか分かんなかった。まばたきをしてるうちに、ぼくのことをかわいそうと思ってるんだって分かって、思わず、えって小さな声が出た。
「美玲だけじゃないじゃん。お前だって、あんなほねバキボキにされて、おれ、あのとき、お前ホントに死んだって思ったし、あとそれも美玲だろ」
 先週の花びんのきずを指さす。まだばんそうこうだらけの手をつくえの下にかくす。
「なんでまたけがしてんの、そんな風にならなくてももういいじゃん、望、野球もやめさせられたじゃんか」
 美玲の世話のせいで。それを聞いたしゅんかん、カッと一気に顔が熱くなった。
「世話じゃない!」
「あんなの世話だろ!」
 身を乗り出したせいで、ふくろがゆかに落ちる。
「ピョン太と同じ! 二年も経ったのに外にも出れない! 望も学校しばらく来れなかったのに! 望のことたよってばっかでなんにもがんばってねーだろ!」
 急に手がかたくていたくなって、ハッとなったらぼくは雅人の頭をたたいていた。ごめんって言う前に、雅人の目にみるみるなみだがたまってって、グーでそれをゴシゴシこすってうつむく。
「……コーチが! 望まだぜったい! 野球やりたいはずって! おれも! 望と野球、し、たい……望ばっか、なんで……」
 うううって長い泣き声がし始めて、ぼくまで泣きそうで、だけど、必死でがまんして、鼻水をすする。
「……ごめん」
「なんでっ、望があやまんだよぉ……!」
「…………ごめん」
 ごめん、しか言えなかった。なにを考えてるのか、ぼくも分かんなくて、ずっとずっと、ごめんってつぶやいてた。おじさんのときもそうだった。なんで自分のことなのに、こんなにわけ分かんないんだろう。
「……当番、今日お前やれよ」
 真っ赤な目。でたらめななみだのあとが太陽でてらてら光ってる。課外のサッカーをやってるやつらの声。ホイッスルがぼんやりひびく。
「いつも、代わって、やってん、だか、ら、望が、ぜんっ、ぶ、やれ、よ、四時、過ぎても!」
 答えるひまもないぐらい早く、ぼくのかたをつかむ。
「明日! 練習あるからっ! いつものグラウンドで! 絶対……ぜったい来いよ! あげたバット持って来いよ! 約束だかんな⁉︎」
 じっと見つめあっても、ぼくはうなずかなかった。なにが正解か分かんなくて、うなずけなかったから。並んだ二つの目は真っ黒で、あ、バット、美玲の家に置いてきちゃったって、変なところで思い出したぼくをつきとばして、雅人はもう一回、約束ってさけぶ。そのまま教室から走り去ってしまった。
 しばらく動けなかった。時計を見たら、もうちょっとで四時。四時十五分が下校時間だから、とにかく飼育小屋に行かないとおこられちゃう。ぽつんと残された生ゴミを拾う。

 野球。
 やっぱり、ほんとは、やりたい。
 でも、グラウンドはこわい。
 でも、みんなといたらこわくないかも。
 でも、それでみんなにめいわくかけたらやだな。
 でも、やっぱりやりたい。
 でも、美玲、どう思うのかな。
 でも。でも、でも。

 ひよちゃんもぴよちゃんも、ここって鳴きながら金あみの向こうのにわとり小屋でうろちょろしてる。二つに仕切られた飼育小屋は、今日もむし暑くて変なにおい。ピョン太は鼻をひくひくさせて、キャベツを食べている。
 夕方。チャイムが鳴る。みんなは帰っていく。ぼくは帰れない。
 こわい。ざわざわする。ぼく、一人だ。一人なんだ。
 こわくてうずくまると、ふくろからゴミがばらばら落ちる。それに気づいたピョン太がよってくる。しなびたニンジンのかけらをかじりながら、ぼくを見上げる。ピョン太の小さな目には、もっと小さくなったぼくがうつってる。
 正面から手を出すのだめなんだっけ。気をつけながら、手をのばす。少しざらざらした手をゆっくりなでても、ピョン太はかんでこなかった。
 もしかしたら、今日はいけるかも。おなかとおしりの下にすばやく手を入れて、後ろからかかえこむ。そしたら、今までがうそみたいに大人しいまま、ピョン太はぼくにだきかかえられた。
 なでてるときに感じてたよりもずっとピョン太は温かかった。夕方をこわがってるぼくより心ぞうが早く鳴っている。ピョン太も生きてる。美玲といっしょだ。
 なんとなく外に出る。空が真っ赤だ。久しぶりに見た、こんなに大きな金曜日の夕日。それでも、なんにも変わらない。二年前、小二のときとおんなじで、とけたトマトみたいなどろどろした赤色は目がいたくなるぐらいまぶしかった。
 学校のすみっこのちっちゃな飼育小屋は、周りに何本も木か生えてるからほかの場所よりうす暗い。学校は多分みんな帰って空っぽ。これじゃだれにも見つけてもらえない。ずっと、ずっと。
 帰らないと。
 そう思ったら、急にピョン太があばれ始める。ぼくのむねをけって、無理矢理地面に降りる。中に入れようとして、ぼくはもう一度手をのばす。


 ピョン太がはねた。

 茶色の毛が何本かぬける。

 黒い目がきらきらしてる。

 いつも見えないおなかが見える。

 口が開いてピンクの舌と長い歯が見える。

 全部おかしなぐらいゆっくり動いていく。

 バットを持つ美玲と、目が合う。


「ピョン太!」
 キーッって今まで聞いたことない大きな声で鳴いてふっ飛んだピョン太の体は、フェンスといきおいよくぶつかる。急いでかけ寄ろうとする。後ろからTシャツのえりをつかまれる。のとがつぶされる。
「なんで、来ないの」
 しりもちをつく。美玲がぼくの前に立ちはだかる。ぼくの顔をのぞきこんでくる。かたにさらさらかみがかかる。なみだがぼたぼた落ちてくる。
「なんで夕方になったのに来ないの!」
 ほおがいきなり熱くなって、そのあといたくなって、美玲がビンタしたって気づいたらもう一回、今度は頭をたたかれる。
「なんで来ないの⁉︎ 夕方なのに! もうこんな時間なのに!」
 体を強くゆさぶられて、おされて、ぼくは地面にたおれる。思わずうめく。ピョン太がギィギィ鳴く。美玲がそっちを見る。バットが手から落ちる。
「美玲やめて!」
 手をのばす。でも服をつかめなかった。大またで近づいて、美玲はピョン太をふみつける。
「やめて! やめてってば! 美玲!」
 美玲がふむたびにギィと声がする。フェンスがギシギシ鳴る。こしにしがみついておさえようとしても、今度はぼくがはらをけられる。声といっしょにつばが出る。くつに血がついてる。
「死んじゃう! ピョン太死んじゃうっ、死んじゃう! やめてよおぉ!」
 振り回した手が顔をひっかいて、美玲がいたいってさけんで、かみをつかんできて、ぼくたちはもみくちゃになって、地面に転がった。
「あぁああっぁあああ!」
 ゼッキョウ。「あ」が次第に言葉に変わる。
「ふざけんなあぁッ!」
 美玲とぼくの頭が強くぶつかって、ぎんっと耳鳴りがして、目の奥がゆれて、光が飛んで、あぁあっとぼくの口からもさけび声が出て、血が、口が切れて、おさえこもうとする手が、美玲をだきしめようとする手が、土の味が、砂ぼこりが、ピョン太の鳴き声が、ぐちゃぐちゃになって、からまって、どうしようもなくなって……

「望のせい」
 
 とつぜんだった。美玲がすん、と大人しくなって、そんな風に言った。
「ピョン太が死ぬの、望のせいだよ」
 ぜえぜえ、息をすったりはいたりして、美玲を見る。見開いた黒目は夕日のせいで、明るい茶色になっていて、真ん中の黒い点まではっきりと分かった。目から入りこんだ空の色が染み出したみたいに、ひっかききずが赤く染まっていく。
「かわいそう」
 ピョン太はもう鳴かなかった。フェンスの近く、明らかにおかしなリズムでふるえてる。
「ピョン太、苦しんでるよ」
 望のせいで。
「……みれいが、やった、んじゃん、か」
 ガチガチ歯が鳴る。手もふるえてる。まるで、もうすぐ、ぼくも、死んじゃうみたいに。
「うん。でも、望が、早く、帰ってこなかったからじゃん」
 ぼくに向かって指をまっすぐさしてくる。指の先に集中するせいで、寄り目になってく。周りがぼやぼやして、色しか分からない。色しか。二年前の、あの日と同じで。
「びょういんっ」
「無理だよ、見てよ」
 今度はピョン太をさす。茶色の毛がどろで余計に黒くなってる。足あとの形の黒のよごれから、体がふるえるたびに血がにじむ、吹き出す。
「助かると思う?」
「たす……かる……助かる! ぜったい!」
 ぼくが言ったら、美玲は目を細める。ほおについたなみだのあとがゆがんでる。つまんなさそうな、顔、だった。
 ふいに立ち上がり、美玲はもう一度、ピョン太をけり飛ばした。
「死ぬよ。望のせいで」
 ぼくの名前のところを、はっきりと、ゆっくりと言う。ピョン太をぐりぐりふみにじる。そうすると、ピョン太はちゃんと反応する。いたがってる。
「や、めて」
「死ぬよ」
「死、な、ない」
「すぐ死ぬよ」
「まだ生きてる!」
 さけんだ。足をつかもうとしても、よけられて、フェンスにぶつかる。でも、そのひょうしに美玲ははなれて、すかさずぼくはピョン太の体をだきしめる。熱い。まだ生きてる。生きてるんだ、ぼくらといっしょだ、生きようと、してるんだ。
 急に、せなかがあったかくなった。見ると、美玲がぼくにぴったりくっついてきていた。そのまま、ほおをさわってくる。なみだでびしょびしょの顔。あの日から何回も何回も見てきた表情。ぼくの耳に、息がかかるぐらい近づいてきて、そっと口を開く。

「……やさしいんでしょ、望」

 心ぞうが、変な風に、動いた。
 のどにつまった息が苦しくて、はっ、とはき出すと、美玲は笑った。
「ピョン太、死ぬよ」

 首をぶんぶん横にふる。だけど、美玲はやめてくれない。

「今、苦しんでるんだよ、ずっといたいんだよ」

 ピョン太をさわってるぼくの手に、美玲は手を重ねる。

「こんなになって生きたいって思う? 苦しいでしょ、いたいでしょ、死にたいでしょ、かわいそうでしょ」

 どろどろして、べたべたした、ピョン太の体。ぼくを、よくかんでた、あんなに元気だったはずの、体。
 
「はやく」

 やさしいんだったら。

 美玲は、落ちてたぼくのバットを拾って、わたしてくる。

 バットが光る。

 美玲の鳴き声、
 かまれたきず、
 ガラスのきず、
 雅人が泣いてる、野球、
 バット、ふりかぶる、ピョン太、ほね、
 ピョン太、まがる、おれる、ピョン太、やだ、ピョン太、いやだ、いやだいやだ、いたい、ピョン、太、

「助けて、あげなよ」


 あの日みたいに。


 ──美玲は、そしたら、泣き止むの?


 今日は、金曜日。
 夕方がこわい日。
 カーテンは閉め切らないと。
 ぼくの部屋はずっと明るい。


「げつようび」

「きたら」

 クローゼットの中で、なにかがごとん、と鳴る。無理矢理つめこんだバットがきっとゆれている。

「ぼく、おこられる、みんなから、きらわれる」

 ぼくの部屋はずっと明るい。たいそうすわりでひざを見てたら、自分の以外にも点々と血がついていた。

「こわい、こわい、こわい……」

 ぼくにだきついている美玲はうれしそうで。

「でも、わたしはいっしょ」

 金曜日なのに、美玲の部屋にいない。
 金曜日なのに、ずっと部屋は明るい。

「望の味方だよ」

 ……ピョン太。

解体3

 どこもかしこもかたい。
 股関節にそって出刃包丁を入れ、足を持ち捻る。がぼ、と間抜けな音を立て、ようやく太ももが外れた。
 容量がつかめず闇雲に切って、刃が骨から抜けなくなったときの傷跡が、手のうちにある太ももに幾筋も残っている。でも、もう分かった。切るんじゃない。外すほうが感覚としては近い。
 試しに膝の辺りを触る。骨と骨との繋ぎ目におおよそ見当をつけ、周辺の筋を断ったあと、包丁を持つ手に力を込める。肉に刃がめり込んでいく。ある程度まで行ったところで捻れば、先ほどと同様、朱色の断面が見え、伸びきった健を切ると、太ももと膝が分離した。
 首と肩を回す。マスクを一旦外してため息をつく。疲れた。どこもかしこもかたくて、嫌になる。
 先に指を切り落としておいた手。短くなった指の下、手のひらにはかたいマメが無数にできていた。それをなにげなくなぞると、僕の指の軌跡に赤い模様が生まれる。
「これは?」
「……多分、腸、だったと思う。長いし」
「これも猫砂とまとめとけば良いの」
「うん。烏がつつくかもしれないから、なるべく小分けにして」
 マスクをしてるとはいえ、切り刻んだ腸内に溜まっていた汚物と血液が混じり、ポリバケツは異様な臭気を放っていた。それに顔をしかめながら、美玲は隣の台まで運んでいく。
 ふいに彼女が声をあげ、振り返ると、転ぶあと一歩手前の体勢から立て直す様子が見えた。中の液体が少し床で跳ねる。
「色々落ちてる。転ぶところだったじゃない」
 気づかないうちに、切り終えたパーツたちが台から落ちてしまっていたようだった。美玲が踏んだらしい、なにかしらの部位が床と擦れて、赤茶けた跡を残している。
「嫌なもの踏んだ」
 汚ならしいもののように摘んだそれは、早川の性器の一部だった。
「……もう勃たないわね」
 あはは、と小馬鹿にした笑い声で、そのままそれをバケツに放り込む。腸の残骸と共に性器がたぷん、と揺れる。
「……付き合ってたんじゃないの」
 マスクを戻しつつ聞く。台の上になんとなく転がしたままの早川の首。袋から早く出してやらないといけない。
「だから、最初に言ったでしょう。正当防衛だったのよ」
 鬱陶しい、と言わんばかりの冷たい声色で、僕を睨みつける。乱暴に置かれたバケツが傾きそうになり、また正しい形で台の上に収まる。
「じゃあ、なにされたんだよ」
 猫砂を取り出し、黒いビニール袋に小分けにしていく。僕の問いかけを無視して。その様子が無性に癪に触り、手を止め、口を開く。
「美玲、なにされ……」
「それ、あんたが知ってなにになるの」
 言葉を遮り、強い口調で返す。
「なんにもならないよ」
「じゃあ、知らなくていいじゃない」
「僕は早川を解体してる」
 殺してもないのに。
 返事はない。それどころか台から離れ、作業場の戸を開き、カッパも脱がないで僕の家へ入っていこうとする。
「おい!」
 肩が大げさに揺れる。僕に背を向け、扉の前で立ち止まる美玲に近づく。
「……美玲も、切れよ」
 持っていた包丁を渡す。こちらを見ようとせず、包丁も触ろうとしない彼女に痺れを切らし、無理矢理手を取って、それを握らせる。すると、間髪入れず、美玲は包丁を床に叩き落とした。
「いや」
「美玲が殺したんだろう」
「解体はあんたが引き受けた」
 そう言ってこちらを見上げる。その目の、縮んだ瞳孔の色を見た。
「だから、全部、あんたがやるの」
 思わず掴みかかっていた。ゴム手袋についた血液で美玲の体が汚れる。頬を伝う汗が一粒、彼女の顔に落ちる。
「…………どうして、俺が、こんな目にあってんのか、分かってんのかよ」
 それ以上、なにも話せなかった。舌の上まで出かかった言葉を必死で飲み込んで、どうしようもなく息を荒くする。ただ、煮えつつある心をじっと理性の縄で縛りつけていた。
「あ、はははっ……」
 沈黙を破ったのは美玲の笑い声だった。長く、長く、乾いた笑いが響く。その音の波で、この狭い箱のなかに溜まった血が震えるようだった。
「……でも、あんた、断らないじゃない」
 刃を突きつけられる。
「ピョン太も、指輪も、今日のこれも。今まで断ったことあった?」
 床に落ちた包丁のではない。彼女の言葉の切っ先だ。純粋な、悪意だけの、殺意だけの、言葉。
「嫌って言ったら、大人しく捕まったのにね」
 ゴム手袋を外して、頰に触れてくる。いやに丁寧な手つきで、その細くて綺麗な指で、こちらのマスクを奪い、顔中に飛び散った血をなぞる。
「皮の下に、暴力性が詰まってるのよ、あんたって……そんなんだったら、優しいふりなんてしないでよ」
 蛍光灯の明かりが透明ビニールを透かし、美玲の顔にはまばらな赤い模様が散る。他人の体液でどろどろに汚れた姿。そのくせ、彼女は美しいままだった。ずっと、ずっと昔から。だから、いつだって、自分だけがひどく穢れた生き物に思えてくる。

 俺ばっかりが汚い。
 ぼくばっかりが悪い。
 そんなに嫌なら、そんなに嫌いなら、もう構うなよ。
 ずっと、辛いんだ。

 そんなこと、やっぱり今日も言えないままだった。

恋人

『タン』 人間で言うと舌のこと。
『レバー』 人間で言うと肝臓のこと。
『ミノ』 人間で言うと胃のこと。
『コブクロ』 人間で言うと……。
 
 店頭に並んだ動物の臓器を見てたって、大して物珍しさは感じない。棚に設置された小さなテレビには、再放送のアニメが映ってる。かなり昔に見てたやつだ、多分。原色じみたクソガキどもの冒険譚が、俺の目の上をつまんないまま滑っていく。名前、なんだっけ。えっと、たしか……
 あっ、と思い出した瞬間に店の扉が開き、ベルの音と共に客が入ってくる。しまった、もう忘れた。なんとなくむしゃくしゃした気分で決まり文句を言う。
「いらっしゃい、ま、せ……」
 目の前に飛び込んできた光景に、歯切れが悪くなった。テレビのなかから、わあ、と大声が、音量を下げてるせいで小さくあがり、目をやると、地面から現れた大百足が主人公の体を食い千切ってしまうシーン。
 目の前の客。ていうか、客なのか、こいつ。
 どこだったか見覚えのあるセーラー服を着た女子。肩で息をしてて、しかも、むちゃくちゃ泣いてる。俺と目が合うと、なにかスイッチが入ったらしく、なおさら泣き始めた。
「え、ちょっと……」
 カウンターから出る。女子の前に立つと、エプロンを掴まれて首が絞まった。
「なに、どうしたんですか、あの」
「…………かくまって、ください……」
「はあ?」
 か細くてしおらしいって表現がぴったりの声で、俺は本当に率直に、めんどくさいと思った。なんだ、こいつ。振り払おうにも、全体重をかけてきているらしく、終いにボタンが弾け、女子はエプロンと一緒に尻餅をついた。
「ほんとうに……ごめんなっ、さい、ッ……かくまってほしいんです……」
 お願いします、と繰り返してきて、ひたすらめんどくさい。進まない会話にイラついて、がしがし頭をかく。別に痒くないから、頭皮が痛いだけなのに。
「……事情、聞きたいんですけど」
「後で話すから……ちょっとで良いんで……」
 ここまで来て、本当に匿わないと先に行けないことにようやく気づいて、しょうがなく、プッシュ式の消毒液を棚から取ってくる。
「これ、して」
「えっいいんですか」
「早くして」
 今が店番中で良かった。腹いせに、大量の消毒液を手にかけてやり、カウンターの奥にある、家に繋がる扉まで案内する。
「今、何時……三時までで良いですか、十五分間」
 時計を確認しつつ聞くと、女子はやや不服そうな顔をしながら、首を縦に振った。ぱっと見、年下だ。天パの髪は走ったのか乱れてる、みたいないらない分析をして、玄関に放り込む。
「あ、生徒手帳とかありますか」
「あるけど……」
「貸して」
 手渡されると、素早くズボンのポケットにしまう。
「なにか物とかなくなってたら、通報しますから」
 不満の声が聞こえると同時に、俺は扉を閉めた。
 店頭に戻ると、再放送のアニメはもうラストシーンになっていた。なにがあったのか、主人公の体も綺麗にくっついていて、間の場面をどうにも思い出せないまま、聞き覚えのあるエンディングが流れ始める。
 床に長い影ができてることに気づいて、顔をあげる。すると、なかを覗き込む男女が店先に立っていた。男のほうと目が合う。二人は顔を見合わせると、店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「あの、すみません、ちょっと人を探していて」
「はい」
 喪服を着た女がスマホを操作し、俺にそれを差し出す。なんとなく予想はついてたが、液晶にはさっきの女子が映ってた。
「……ごめんなさい、見覚えないです」
「そうですか……」
 女は肩を落とす。
「やっぱり駅のほうだよ。あいつなら行きかねない」
 俺、見てくる、と言い、学生服の男は店を出ていった。女は小さく息をつき、スマホを鞄にしまう。
「ごめんね、もし、ここにこの子が来たら、連絡してほしいんです」
 今度はメモ帳を取り出し、さらさらとボールペンで連絡先を書く。
「一丁目の小西です。えっと、私出ないかもしれないんですけど、お願いします」
「え、小西?」
「ああ、はい」
「死んだんですか」
 女は、しまった、というような表情をした。真珠のネックレスが日の光に照らされて、やわらかく光る。失礼します、と早口に言い残し、女も店を去った。
 店内は再び静寂を取り戻す。アニメは終わり、今度は刑事ドラマに切り替わる。出産する女。遺体で発見された、その夫。カウンターのガラスに、動揺した自分が歪んで反射している。

「まだ五分しか経ってない!」
「さっき、あんたのこと探してる人たち来ましたよ。もういいでしょう」
 学生証を差し出すと、ひったくるように取り返す。納得してない様子の女子を、厚かましいやつ、と思いながら、裏口から店の外に追いやる。
「……ありがとうございました」
 一応、女子は会釈をした。できればもう来ないでほしい。強く風が吹いて、長くなった俺の髪がばらばらと乱れる。はためくセーラー服のスカート。そこから感じる、柔軟剤かなにかの甘ったるいにおい。伏せた垂れ目のまつげの長さとかは、どことなく彼女に似てるようにも見えた。
「……あんたさ」
「なに?」
「小西さんとこの親戚なの」
 俺が聞くと、女子の顔は真っ赤に歪む。吹きすさぶ風のなか、俺の疑問をそのままに、彼女はどこかへ駆けていった。

 やっぱりだ。
 リビングの隅、広報やら古新聞やらで隠すようにして、小西のおばさんが亡くなった知らせが入っていた。通夜は昨日で、今日は葬式だ。
 長くもったほうだと思う。平均がどの程度かは知らないけど。俺が小四の春だったから、もう四年も経ってる。最後にお見舞いに行ったのも、いつだっただろう。ずっと行かせてもらえなかった。ありがとう、とか言われたんだっけ。放射線治療のせいで帽子をかぶっていたおばさんの、笑顔とか腕の細さとかをうっすらと思い出した。
 あ、そうか。父さんも母さんも、葬式に行ったんだ。思い返せば昨日の夜も、父さんがどっか行ったと思ったら入れ替わりで母さんも出て行った。
 まだ、許されてない。ていうか、まだ、怖がられてる。
 店に戻る。外は暗くなり始め、ぽつぽつ電灯が灯っていく。客も、二人も、誰も来る気配はない。薄暗い外と対象的なせいで、店の中がやけに明るく感じて、細いため息をつく。立て付けの悪いドアが風で揺れてた。
 少し動揺してた。自分のことを殴り飛ばしたい気分だった。なんでって、妙に落ち着いてたから。おばさんが死んだことを、なんだかすぐに納得してしまったから。
 父さん、母さん。あの女子。セーラー服。喪服の女と制服男。みんな、葬式に行って、きっと泣いていた。
 俺も泣きたかった、はず。だって、小西のおばさんだ。そう思えど、何度も思えど、涙は出てこない。それよりも、寂しげな彼女の背中が浮かぶ。
 カレンダーを見ると、もう来週で十一月も終わりだ。今月はなしか。でも、むしろこんなときだから呼ばれるかもしれない。そう思った瞬間に、レジ横に置いてたスマホが震え、ボタンに触れてみれば、彼女からの日程連絡が液晶に映し出されていた。


 キン、と響いた高音に顔を上げると、白球が空高く飛んでいくのが目に入った。そのまま追ってくと、校庭の後ろのほうに植えられたなにかの木のなかに混じり消える。テニス部だかの一年生が走る声。部によってランニングの掛け声が違うのは知ってるけど、どこにも入ってない俺はそれをいつまでも覚えられないままだった。
 校舎の二階から見下ろす。同級生だったら、意外と誰が誰だか判別できた。隣のクラスの陸上部。ソフトボール部の女子。野球部の輪の中心に立つ同級生。
 強い風が窓を揺らす。人のいなくなった教室は寒い。申し訳程度の暖房もまだギリギリ十一月だから許可が出てなくて、スペルを書く手が次第にかじかんでいく。はあ、と息を吐き、手を擦ると、ざらついた消しかすの存在を感じた。
 パタパタ、という音と、金属が触れ合う音、笑い声。吹部がここも練習で使うみたいだ。追い出されるに決まってる。さっさと片付けて教室を出た。
 すり減った上靴で引きずり気味に歩く。ほこりっぽい独特な廊下の空気。下る階段の下から上ってくる三組の担任がさよなら、と言う。俺も軽く頭を下げる。
 下駄箱の付近はなぜかいつも湿気が多かった。どの上靴の中敷きもそれにやられて、茶色のカビが生えてる。もちろん俺のもだった。下駄箱の塗装は剥げて毛羽立ってて、その棘が刺さらないように気をつけながら靴をしまった。
「あっちー!」
 どたばた水分補給に来た野球部員。背が低くて黒豆みたいになった一年生が、急いで準備をする。そのあとにごぼうのような二年生、同級生が入ってくる。そのなかの一人と目が合い、とっさに逸らす。
「なに、宮田クンまたベンキョー?」
「……ん」
 どうせなにを言っても同じだったと思う。真面目! と叫んだあと、短い返事を小馬鹿にした内緒話が始まって、聞こえないふりで白い運動靴を履く。
 ふいに肩を押される。傘立てにぶつかりつつ、大きく一歩踏み出して体勢を立て直す。バレないように軽く後ろを見ると、小柄な影。
「おおい宮田クン怒ってんじゃんかあ、マサ」
「おー」
 ボールを片手に持つ早川雅人の声から逃げるみたいに、俺は校舎を出る。


『六時 私の家』


 簡単なメール。LINEはいつまでも教えてもらえない。
 頚椎から背骨をたどって、そのまま背中に腕をまわす。さらさらした毛先が手に巻きつく。それを左手で弄りつつ、右手で後頭部を撫でる。
 首元に顔を埋めてくる。やわらかい唇の感触。首を絞めるように這う指が、次第に上がってきて、俺の耳を包む。冷えた軟骨ごしに、彼女の熱を感じてた。
 なにも言わないのが、ここ数年でできた唯一のルールだった。
 だから、おばさんのことは聞かない。葬式のことも。親戚のことも。
 相手の好きなようにさせてたし、自分も相手を好きにしてた。
 少し首に違和感を覚える。見ると、美玲は軽く歯を立ててる。痛くない。押されてるなあ、と思うぐらいの力だった。
 金曜日の儀式。今では彼女が呼んだときだけ。学校の連中には絶対にバレないように。ルールは喋らないことのみ。そう分かってても、腰から下に手をやるのは、どうしても気が引けた。
 なんとなく気づいてはいた。この儀式の先になにがあるのか。中学生になってから、聞くようになった単語。
 でも、それも口には絶対に出さなかった。心のなかで言葉の形にもしなかった。
 これ以上、なにかが変わるのがこわい。今のままで良い。ずっとこのままで良い。なにも、願っちゃいけない。そんなことをいつも考えながら、静かに美玲のことを抱きしめている。


 店の戸を揺らす風はどんどん強くなって、ついにはがちゃん、と大きな音が鳴る。忘れてた。シクラメン入れといてって言われてたんだった。そう思っても時すでに遅しで、扉の向こうには破片と土と花がぐちゃぐちゃに散らばってる。
 玄関から道具を取ってきて、外に出る。重い塊に入ったみたいに風は強くて、一瞬息ができなくなる。しばらくして、はっと吐き出した息は白くなって、ああ、もう冬が来るなあって思った。
 はめた軍手は手袋代わりにもなる。爪の間に土が入る感覚。破片で手を切らないように気をつけて拾う。謝らないと。許してもらえるかな。
 そんな感じで片付けてると、急に視界に靴が入ってきた。新品っぽいスニーカー。ぴたっと俺の前で止まってる。
「……こんばんは」
 声。多分、誰が立ってても驚いてたと思うけど、そのなかでも特に予想外の人が立っていた。
「この前の」
 思い出した、隣町の中学だ。セーラー服が揺れ、あの甘ったるいにおいが香る。
「あなたが、宮田君?」
 少し戸惑いながら、小さく頷く。そしたら、にへ、と嬉しそうな笑みを浮かべた。


「あたし、新井和泉っていうの」


 物珍しそうに、内臓を見つめる目。新井和泉、と名乗った女子は、冷たい商品ケースの縁に手をついている。
「一人で店番してるの?」
「うん」
「お父さんとお母さんは?」
「自治会のなんか」
「ふーん」
 もう客も来ないだろうから、その横で俺も中身を見続けてた。ふいに、新井和泉は指をさし、俺に聞いてくる。
「あれってタン?」
「うん」
「タンって舌だよね。なんか焼肉屋さんで見るのよりグロい」
「あれ、豚の。いつも牛タン頼んでんじゃないの。普通に豚のも置いてあるだろ」
「へー、詳しい」
「そりゃここの息子だし」
 なんか機嫌が良さそうな表情でこっちを見てくる。そんな風に見られると居心地が悪くて、すっと目を逸らす。
「じゃあ、あれは?」 
「ツラミ。頰肉、かなり貴重」
「あれは?」
「ハツモト。大動脈の辺り。軟骨っぽい」
「じゃ、あれ」
「見た目で分からない?」
「分かんなあい」
 猫なで声を出してもたれかかってきた。それを押しのけ、口を開く。
「ハツ。心臓」
 俺の返事を聞き、新井和泉はハツのパックを手に取る。綺麗な形に整えられた爪が乗る指で、その中身を一つずつ数えていく。そうして、最後の一つを呟いて、意味ありげな視線を送る。
「じゃあ、この数だけ、生き物が死んだことになるんだね」
 パックの表面が蛍光灯に照らされて、虹色にてらてら光ってる。ワイン色の身に、血管浮き出る肌色の肉。普段は考えないのに、その塊の持ち主だったはずの鶏を目の奥で想像する。飼育小屋に閉じ込められた二羽の鶏が走り始めたらはっとなり、慌てて頭を振って妄想をかき消した。
「それが?」
 返事はなく、部屋は静かなままだ。沈黙は手持ちぶたさで、宙ぶらりんになった俺の言葉をごまかすみたいに、新井和泉の手からハツを取ろうとする。しかし、ぐい、とそれを止める抵抗感があり、逸らしていた視線を戻せば、きらきらした彼女の目とばっちり合ってしまった。
「……やっぱり、宮田君、すごい」
 はあ? とあげた声も無視されて、ハツを戻した手で俺の手を握る。
「ちょっと」
「宮田君、うさぎ殺したことあるんでしょ」
 唐突に、夢にも思ってなかった思い出を口にされ、俺は思わずその手を振り払った。冬も近くなってきたのに、じわ、と汗が滲んだように感じる。
「なんで知ってるんだって思ってる? 和泉ね、美玲のいとこなの」
 顔にクエスチョンマークが出てたのか、新井和泉は種明かしをする。じり、と大げさに後ずさりすれば、彼女も一歩踏み出してくる。
「宮田君のこと、こっそり聞いてたんだ。ちっちゃい美玲を守って、でも、うさぎを殺せるって、その……暴力と正義の……ううん、そういうことできる宮田君って……」
 言葉が上手くでてこないのか、新井和泉の目玉はぐるぐると泳ぎ、両手もなにかを表現しようともみくちゃに動かす。
「……さいっこう!」
 初めて受けた、このまぎれもない本物の好意に、なんだか拍子抜けしてしまって、俺はずるずると尻もちをついた。なんだこれ。こいつの目、ハートが浮いてる。きっもちわるい!
「ずーっと会いたかった! ねえねえ、あたしね! 多分ね、宮田君のこと分かってあげれるよ! 和泉分かるもん!」
 しゃがみこんで俺の体にしがみついてきて、離れろよお! って叫んでも全然効果なしで、最終手段で軽く突き飛ばすと、商品ケースにぶつかって、それでもにへにへ笑ってる。
「あいたかったあ……」
 ぎゅっと膝を抱えて丸くなる仕草。そんなところでぼんやり美玲の姿がよぎって、本当に血が繋がってるんだなあ、と思った。思っていたら、ぼろぼろ泣き始めて、とうとう俺は困り果ててしまった。


「……じゃあ、先生からはこのぐらいだけど、なにかノゾムのほうからはあるかな?」
「ないです」
「本当?」
「はい」
 俺が言うと、前田先生は鼻から一つ、ため息をつく(って表現であってんのかな)。バインダーに挟んだ書類をぺらぺらめくる。
「あっ、そうだ、高校は? まだ一年あるけど考えてる?」
「そんなに……受けれるところ受けます」
「そうか……まあ、そうだよね、うん……」
 うーん、と声をもらし、顔をしかめる。そのときに見えた目元のしわは意外に深くて、あいかわらず前田先生、年齢分かんないなって思った。白粉かなんかで余計に分からない。
「ノゾムは頭良いからさあ、どうだろ、あっ花田第一とかどうっ? この調子で三年もいけば余裕だよ! 授業もマジメに受けてるし」
「あんまり良いところに行って苦労するのも嫌です」
「そっ……か……いやでももったいないよ! ねっ?」
「もっと受験に近づいたら考えます。まだ分かんないです」
「うーん、そうだよね、分かんないよね……」
 多分、俺の高校について、先生はそんなに興味ない。もっと他に聞きたいことがあって、俺を引き止めてる。俺が自分から言い出すのを待ってる。
 哀れんでるのも、媚びてるのも違う、このなんともいえない笑顔。なるべく明るく、話しやすい空気、と心がけてる様子がひりひりと伝わって、情けないような、許せないような気持ちになった。
「……本当にない?」
「ないです」
 きっぱり言う。目は見なかった。
「じゃ……あ、そうだね、そろそろチヒロも来ちゃうからこの辺にしよっか!」
「ありがとうございました」
 荷物を手に持つための、屈む動作をお辞儀代わりにして、早足で廊下に飛び出す……
「あっノゾム!」
 つもりだったけど、先生の声に引き止められ、イラつきながら振り返る。
「なんですか」
 しどろもどろに先生は口を開く。
「なんでも話せる相手って周りにいる、かな」
 恥ずかしさやら怒りやらで一気に頭に血がのぼる。でも、それを表に出したら負けだから、います、とだけ吐き捨てて、出来るかぎり静かに戸を閉めた。
 金井千尋が廊下にしゃがみ込んで宿題のプリントを進めてた。ファイルを下敷き代わりにして、もらったばかりのプリントはもうくしゃくしゃだ。扉の向こうで先生がチヒロー、と呼ぶ。金井千尋は乱暴に紙をしまい、俺をちら、とも見ずに横をすり抜けて教室に入る。
 誰かが、きっとなにか書いた。いじめ調査の事前アンケートに。
 廊下に置かれたストーブのガスの臭い。鞄からマフラーと手袋を取り出して、ほんの少しストーブにかざしてから身につけた。うなじの部分と手のひらだけ、ちょっとあったかい。マフラーに鼻を埋めれば、いつもは感じない自分の家のにおいがして、妙に安心した。


「げっ」
「げーなんて言わないでよお」
 校門横の竹林から私服の新井が飛び出してくる。冬なのに短いスカートでクソ寒そう。
「学校は」
「行ってなーい」
「あっそ」
 シッシッと手で払っても、その手まで握られて、同級生にこんなところ見られたら、これ以上なにを言われるか分かったもんじゃないから、慌てて振り払う。
「はるばる来たのに冷たい」
「あんたが勝手に来てるだけだろ」
 そう言った瞬間、かすかに、一、二、と元気の良いかけ声が聞こえてきた。しまった、どっかの部が学校の周りをランニングしてる! 気づいたからには早歩きを始める。でも、俺のそんな心配を新井は知るわけもなく、のんびりと後ろをついてきた。
「ねえ、こっから遊びに行こうよって足早いっ、置いてかないで!」
「ついてこないでくれる」
「やだ、せっかく来たのに! 待ってよお!」
「あああ、もう叫ぶなよ!」
 叫ぶなという注意を叫んでしまって、ハッとなったときにはもう遅い。こっちを見てくる一年生の視線から隠れるように、坂道を下って住宅街へ入る。
「で、今日なにする?」
「なにもしない」
「えー、あっ櫻城のゲーセン行こうよ、楽しいよお」
 ほとんど走るようにして新井はついてきてた。体力もないのか、息を切らしはじめたのが少しかわいそうになって立ち止まると、彼女は嬉しそうに目を細めて隣に並ぶ。
「俺、宿題やりたいから帰ってほしいんだけど」
 突然の来訪以来、新井は事あるごとに俺のところに来るようになった。基本的には今みたいに、どこかに行こう、遊ぼうってべたべたひっついてくる感じ。俺はそのたびに拒否ってるけど、反応は日によって変わる。
 そっかー、と言って帰ってしまった日。悲しそうに黙ってしまった日。不機嫌に泣き始めた日。
 今日はしつこい日だった。
「じゃあ、あたし、宮田君の家行きたい! 宮田君、頭良いんでしょ、知ってるよ。勉強教えてよお」
「親いる」
「今日、木曜日でしょ?」
 漫画の登場人物みたいに顔に手をやったら、新井はけらけら楽しそうに笑う。もう完全に我が家のスケジュールを覚えたらしい。木曜は親が二人ともいない日だ。逃げ場をなくしてどうしようもなったから、俺はしばらく黙り込んでいた。
「いや?」
「……やだよ」
「和泉、宮田君と仲良くなりたいだけだよ」
 夕方の淡い黄色の光が新井の顔を照らしてる。嫌だ、と言いつつ、足取りはしっかり自宅へ向かっていて、そんなとこから、自分がもう諦めていることを知った。
「なんで」
 住宅街を抜け、三丁目と一丁目の境の横断歩道に出る。夕焼けにぼんやりと同化する赤信号を見上げて立ち止まる。
「俺じゃなくてもいいだろ」
 びゅう、と風に包まれ、一瞬息ができなくなる。小柄な新井は道路に押し出されるのを堪えて地面を踏みしめる。
 ふいに手に熱を感じる。見ると彼女は俺の手にまた触れてきていた。さっきみたいな逃がさない、という意思を感じるような触り方ではなく、なにかを確かめるような触れ方だった。
「……みんなね、和泉のこと、分かってくれないから」
 そう呟いたら、次第に瞼が下がっていって、最後には完全に閉じられる。黙ってしまったまま、動こうとしない。ようやく青緑に変わった信号も点滅し始め、再び赤に灯る。ただ、目の前を通る車たちが生む風の音を聞いている。


「美玲さ、ここ来たことあるの」
 熱めの麦茶を一応、机の上に出せば、新井はこんな風に聞いてきた。
「あるよ」
 ありがと、と小さくお礼を言い、コップを両手で持って飲みはじめる。熱がって少し怯んだあと、ちびちびと。
 風で窓がガタガタ揺れてる。こんな日はどうせ客は来ない。来ても呼び鈴鳴るし。店先はなんだかんだ言って寒いから、部屋にいたほうが良い。
「ほんとに幼なじみなんだね」
「まあ……」
 復習途中で放りっぱなしのプリントの、古びた紙のにおいに、新井から漂う甘ったるい匂いが混じる。美玲の匂いとは似ていないような気がした。どんな匂いかは思い出せないけど。
「前来たのっていつ?」
「最近」
「へーえ。美玲、意外と甘えんぼうだもんね」
 甘えんぼう? そんな印象なんてなかったから少し困惑してると、新井はまた口を開く。
「宮田君は……」
「なに?」
「……宮田君は、美玲のこと好きなの」
 まばたきの音がしたようにも感じた。美玲の顔とかよりも、儀式のときの、その、肌のやわらかさなんかが急に蘇ってきて、やばいってなったところで、ふう、と麦茶の熱さを冷まそうとする新井の息が聞こえ、妄想を乱暴に振り払った。
「…………俺のことばっか聞くなよ」
 これでも絞り出した答えだった。新井はそれを聞いて笑う。彼女はふにゃ、と顔がやわらかく崩れるみたいな笑い方をする。多分、こういうのを「破顔」って言うんだろうな。
「そうだね」
 熱さを我慢して一気に麦茶を飲み込めば、心臓らへんまで焼けていくようだった。胃に届いた、と感じたぐらいで、麦茶のにおいが鼻を抜ける。舌の先が火傷でひりひりしてる。
 新井は少し考えるみたいに俺の部屋を見回した。会話のきっかけになるようなものもない、汚い部屋を。そうして、結局、俺の顔を見て、もう一回、あのふにゃふにゃした笑みを浮かべた。
「和泉はね、美玲のこと嫌いなんだ」
 変に照れ臭そうだった。なんか、恋バナでもしてるみたいだ。俺はコップを机に置いて、頬杖をつく。これを聞いて、どう反応するのが正解なんだろ。無言を、続けろって合図だと取ったのか、新井はぽつぽつと話し始める。

「……美玲って、完璧じゃん」

「綺麗だし、勉強できるし、運動神経良いし」

「学校でも人気者でしょ、多分」

「…………絶対、馬鹿にされてる、あたし」

 綺麗かは分かんない。運動神経は良い。勉強はちょっと違う。美玲は数学だけ壊滅的にできない。でも、そんなことを言って、話の腰を折ったら悪いから、黙って聞いている。

「なんにも言ってこないし普通に話してくれるけどね」

「なんか……」

「その、あの……ね、一緒にいるだけでね、あ、あたしって、ダメなんだなあって思えてね」

 嫌い、と小さく唱え、膝を抱えた。まばたきの数が多くなった気がする。息を吸って、ぱくぱくと声を出そうとする。無理に発した言葉は途切れ途切れで、聞き取りづらい。

「あ、のね、あたしね、和泉ね、い……ずみね、い、い、いじめられてるんだけどね!」

 声が上擦り始める。

「みんなダサくて馬鹿でクソガキだからホントは全然仲良くならなくても良いし、良いし……でも馬鹿なやつらに馬鹿にされてるのが和泉一番ムカつくんだけど、だってあたし馬鹿だけど馬鹿なの分かってるだけマシだしアイツら集団じゃないと死ぬみたいだし! 死ねば良いし!」

 死ねば、のところで堪えきれなかったようで涙が落ちた。そこからは糸が切れたみたいにぼろぼろ涙が流れ、膝を濡らしていく。

「…………なに言っても、負け惜しみみたい……」

 力まかせに目を擦る。どんどん赤くなってくのが少しかわいそうになり、ティッシュを二枚渡す。

「目、腫れるよ」

 一瞬目を丸くして、すぐに子どもみたいにくしゃくしゃな泣き顔になる。その表情を隠すように、ティッシュを目元に押し当てた。

 しばらくはお互い喋らなかった。手持ち無沙汰でティッシュに涙が染みていくのを見つめている。部屋がだんだんと薄暗くなっていき、時折のぞく新井の瞼にも濃いめの影を落としていた。
「……みやたくんさ、ひとり、へいき?」
 やがて深呼吸を三回ぐらい繰り返す。そうして、顔を隠したまま、俺に聞いてきた。
「うさぎ、ころしたの、ちゃんと、りゆう、あったでしょ」
 ほぼ断言に近かった。文章にしたら、きっと最後のところにはてなマークはついてない。思ってもない台詞に、心臓が速く鳴り始める。
「り、ゆう、わ、わかっ……てもら、え、ないまっまんま、ひ、ひとりなの、さみしく、ない?」
 理由。分かってもらえないまま。
 兎を殺した次の週初め。ざわめくクラス。担任が俺を呼ぶ声。早川雅人の視線。
 母親が俺の肩を揺さぶる。父親が怒鳴る。震える手。
 飼育小屋に合わせる手。花。軽蔑の、まなざし。
 新井が顔を上げる。充血して潤む目は変に揺蕩ってて、俺のと微妙に合わない。なんだか今の俺じゃなくて、俺の思い出を見透かされてるみたいだった。
「……宮田君は、平気なのかな」
 また断定。急に綺麗な発音に戻ってる。自分の気持ちを伝えようとして開きかけた口をなんとなく閉じ、視界を半端に遮っていた前髪を額の脇に寄せた。
「そういえば、宮田君って髪伸ばしてるの?」
 その様子を見ていた彼女が聞く。ちょっとためらう感じの素振りを見せて、でも、すぐに俺の前髪に触ってくる。出来かけのニキビに小さな手がかすって、ほんの少し痛かった。
「野球、やってたんだよ、昔」
「うん」
「もう坊主にしなくてよくなったから」
「……そっか」
 瞳の光がちょっとの間、消えた。退屈そうに目を細め、小さく鼻をすする。せっかく寄せた前髪は乱されて、また視界をばらばらに隠す。
「……髪短いと、嫌なこと思い出すから、切りたくない」
 少年野球のやつら、というか早川雅人の顔がよぎる。自分の立場を忘れたくなって瞼を下ろす。そんなんで、嫌なことは消えないけれど、誤魔化すぐらいの効果はあってほしかった。
 甘い匂いが強くなる。頰の辺りに淡く熱を感じて瞼を上げると、新井は思ったよりも近くにいた。逆光で暗くなった姿。膝立ちになり、頰を包み込もうと両手を近づけてきてる。
「あは、」
 そう笑う顔は赤い。俺は拒まなかった。すると、新井は俺に触る。
「あたし、好きな漫画があるんだ」
 脈絡もない話題。なに、と聞く。思ったよりも声は掠れていた。麦茶飲みたい。
「岸純一って人の、『隣人』って漫画なんだけどね、最近読んだの。すごく好きだったんだ」
 うっとりしてるって表現がこんなにしっくりくるのも珍しいと思う。また視線がおぼつかなくなる。目が合わなくなる。
「誘拐された女の子とね、誘拐犯の甥の恋愛物でね、最後、甥が女の子、殺すの。それで自分も死んで終わり。おわりなの」
 唇が動き、半開きで止まる。喉が渇いて、こんな状況なのに麦茶のことばっか考えてしまう。
 勉強机から振動音。スマホになにか、通知が来た。目玉の裏に、長くて黒い髪。美玲だ。俺に連絡してくるやつなんて、美玲ぐらいしかいない。麦茶。美玲。すぐ返信しないと。喉が渇いて苦しい。
「宮田君、だめ、あたしのこと見てて」
 知らず知らずのうちにぼやけていた視界がクリアになる。そこにはやっぱり俺を見てないくせに、自分を見ろって言う新井がいる。意思が次第に奪われてく気がした。


 宮田君、あのね、その甥ってね、

 甥はね、ミヤって言うの、ミヤだよ。

 宮田君、ミヤに似てるの。

 ──あたしね、


 サイレンの音が遠く聞こえる。冬。夕方でももう外は真っ暗で、この部屋もお互いがかろうじて見えるぐらいで、そのくせ変に暑いから触ってる部分の境界だけははっきりしてて、まるで夢のなかにいるみたいだった。
 手のひらに汗が滲む。小さく息をついて、制服のズボンでそれを拭う。
 カッターを握りなおして、新井の白い腕に刃を当てる。
 目を逸らしたい。でも、そんなことをして、血管を深く切ってしまったら。きっと俺は責任がとれない。だから、この光景が焦げつくほど目を開いて、腕を見つめる。
 新井はかたく目を閉じている。震えが掴んでる腕ごしに伝わる。
 早く済まそう、と決心する。
 カッターを、横にずらす。出来る限りかすかな力で押し当ててる刃は、新井の皮膚を薄く切っていく。
 こわばった体から血が滲む。力抜いて、と言ったけれど、新井の緊張はなかなか解けない。肩を軽く叩くと、ようやくほんの少し目を開く。

「終わったよ」

 俺の顔と小さな傷を見比べ、ふにゃふにゃした笑みを浮かべた。それがとても満足げだったから、掴んでいた手を離す。くたくたの新井はそのまま、床に大の字に寝転んだ。
「あはは……すごいね、ほんっとーに……すごいねえ……」
 愛おしげに傷を見つめ、なんならちょこっと垂れた血を舐めてる。新井は声は少しずつ湿り気を含み、笑いながらまた泣き始める。
「みやたくん、やさしいね……ちゃんとみててくれたね、ちゃんと、切ってくれたんだね……」
 体を起こして、俺の体に腕を回す。苦しいぐらいに甘い匂い。頰にやわらかい感触がした。新井の唇が触れている。たしかに触れている。なのに、状況が状況だから、ああ、キスされてるなあ、とぼんやり考えるしかなかった。
「……みやたくん、すき、だいすき、死んじゃうぐらいすき……あえてよかった、あえて、よかったあ……」
 涙がひっきりなしに俺の手に落ちてきて、すぐにぬるく冷める。すっかり冷えた麦茶をやっと飲むと、重たく粘ついていた口内が溶かされて、舌にはざらざらとした茶葉だけが残った。


『隣人』
 あ、しまった。ドラマとか映画とかしか出てこない。
『隣人 岸純一』
 ミヤも入れたほうが良いかな。
『隣人 岸純一 ミヤ』
 出てきた。
 もう真夜中で暗いから、スマホの白い光は目に痛い。トップヒットで出てきたのは、古臭い絵柄の漫画の一コマ。「おれ どうせだめなやつだからなあ。」ってなんだかセンチな台詞。その横には頭がかち割れたミヤの画像。ミヤの後ろに空白を置いてみたら、「美少年」とか「かっこいい」とか、そんなワードがひっついてきてうんざりした。
 ミヤは他人の感情を上手く読み取れない性格らしい。Wikipediaにそんなことが書いてある。唯一安心するのは小動物を殺しているとき。それが高じて、誘拐犯の叔父から逃げる途中、主人公に手をかける……。
 どうも、新井は無茶苦茶に勘違いしてるみたいだった。
 少し似た名前。盗み聞きして勝手に膨らませた妄想。お世辞でも俺はかっこいいって言われるタイプの顔じゃない。あとサイコパスじゃない、はず。新井が好きなのはミヤで、俺はミヤじゃないし宮田望だ。

『あたしね、宮田くんに、殺されたい』

 スマホを放り出して目を閉じる。ブルーライトが刺さったままで、ずっと眩しい。人の腹にナイフが刺さって血が流れていく想像をする。別にそれは楽しくなるような光景じゃなかった。


『渡したいものがあります。空いてる日ありますか。』


 マフラーに顔を埋める。家のにおいに、甘ったるいにおいが染みついてる。自分のものじゃないみたいで違和感。明日から冬休みだし、一回洗おう。
 ざり、と足音が聞こえ、顔を上げると、向こうから体操服姿の美玲が歩いてきた。素早く立ち上がり、俺も駐輪場からプール裏に入る。
「はい、これ」
「なにこれ」
「この前のお礼って、おじさんとおばさんに言えば分かると思う」
 部活をやってる連中から見えないよう、フェンスの土台の横でしゃがみ込む。渡されたのは茶色っぽい缶。多分、クッキー。
「帰ったあとでも良かったのに」
「今日予定あるから」
「そっか」
「うん」
「わざわざありがとう」
 俺が言うのを聞いて、美玲は立ち上がろうとするが、またすぐにしゃがんだ。
「どうしたの? 部活抜けてきてるんでしょ?」
「……声変わりした?」
「え」
「声低い」
「ほんと?」
「うん、びっくりした」
 そういえば、儀式のときに会ってるけど、ルールのせいでこんなにしっかり話すのは久しぶりだった。不思議そうに美玲は俺を見つめる。
 ふいにチャイムが鳴り響く。やばっランニングの時間だ、と彼女は言う。
「ごめん、もう行くね」
「うん、じゃあ」
「またね」
 美玲は走り出し、俺も三分ぐらい待ったあと、素早く校門のほうに向かう。


 ねえ、宮田君。

 セックスしてみようよ。

 知ってるよお、それぐらい。

 多分、みんなまだしたことないから。

 ……え?

 こども、できるの?

 それ、を、ここに、入れるの?

 ……そういう、こと、なん、だ……

 …………やっぱ、ちょっと考える。


 家に帰るまで、先週の記憶を繰り返して再生した。リスカの手伝いをしてるとき、そんな風に言われて、で、知ってる限りの知識を教えたら、顔を真っ赤にして新井は帰ってった。
 新井のなんにもなかった腕には、俺が引いた分だけ傷が残ってる。同じ中学の不登校の先輩がやってるのを、『隣人』の主人公がやっていたのを真似したリストカット。まだ自分じゃこわくてできないんだと。吊り橋効果だよ。「こわい」のドキドキを勘違いして、そんなことを頼んできただけだ。新井のこと、嫌いじゃないけど、とびっきり馬鹿なんだろうなあ、とも思う。
 俺は直球ではいじめられてない。どっかといえば、見世物に近い。ピョン太の一件直後はそれはそれはひどい目にあったが、しばらくすれば遠巻きに眺められ、たまにちょっかいだされて、はしゃがれる程度。おもちゃだ。だから、新井のほうが多分、辛い。でも、俺は新井が羨ましかった。学校を休ませてくれる親がいることとか、なにも気にせず美玲に会えることとか。
 新井は馬鹿だ。馬鹿でかわいそうだ。いじめられてたって逃げる場所は他にもあるのに、そもそも話を聞いてたら友だちもいるみたいなのに、誰も分かってくれないって、もっと新井のことなんか分からない俺のところに来た。馬鹿にされてるやつらが一緒にいたって、余計に惨めなだけなのに。リスカなんてしなくて良いのに。セックスだって言葉しか知らないくせに。
 甘いにおい。クッキーの缶からは薄く美玲の家のにおいがして、でも、気づけばマフラーに染みついたにおいの奥にも美玲がいるような気がして、そこからはもう鼻が馬鹿になったのか、よく分からなくなった。
 美玲はもう金曜日も外に出られる。儀式もきっともうすぐ必要なくなる。嫌われ者の俺と人気者の美玲が二人っきりで会ってたのがバレたら恋人認定、二人揃って地獄行き。そんなの二人とも嫌なんだからもう本当は会わないほうが良い。じゃあ、新井は美玲と俺を繋ぐ、最後の共通点になるのか。今までの事件は、全部なかったことになってしまうのかな。誰にも理由を分かってもらえないまま。美玲にどんな感情を向けたら良いのかも分からないまま。

 顔を上げたら、いつのまにか家に着いていて、記憶と変わらない真っ赤な顔した新井が立っていた。
 ゴム買った、調べてきたって言って、それっきり。続きは言わない。なにかを待ってる。俺になにかを期待してる。頼りきってる。みやたくん、とぎこちない唇の動き。
 あ、ああ、あ、だめだ。
 お前、なんだよ、やめろよ、こんな悪い冗談。
 ああ、でも、当たり前だ。だって、こいつら血の繋がりがあるもん。
 なんか、泣きたくなるぐらい、その姿が思い出のなかの小さな美玲そっくりで、思い出したくもないのに消毒液のにおいがまざまざと鼻の奥で香った。
 良いよ、と言葉にしてしまったのも、記憶の向こう側の飼育小屋にこもった熱気でのぼせあがったみたいな感じだった。
 どうせ客も来ないからって閉店のプレートを早々にかけ、部屋の階段を新井の手を引いて駆け上がる。夢みたいに遠い、多分本当はすぐ近くで、下校する小学生の声が脳味噌のなかで反響して、ぶち破る勢いで開いた扉から部屋に倒れ込んで、ずっと回ってない頭で指で手で心臓で、ボタンは弾ける、ちょっとしか膨らんでない胸をショッピングモールで大安売りされてる白いブラが隠してる、白い兎が弾ける、そのときに彼女のTシャツから見えてた白いブラのこと、熱気のこと、ぐらぐら煮立った甘い匂いのこと、茶色く濁った血のこと。
 他人事みたいに開いたスカートの奥、ズボンの上に当てられた手、みっともなく表面が溶けていくのに頭はどんどん冷静になってどうしようもなくて、彼女の股の間を引っ掻いた指がようやく濡れていって、痛がってんのか泣いてんのか全然分かんねえ声出すなよ、くそが、くそが、全部クソッタレだよ、どうにもなんねえんだよ、泣くな、俺も泣きそうになるから、聞いてんのかよ、てめえだよ!
 口の端に唾が溜まる。暑いからかそれとも泣きたいからか、鼻水が出てきて少しすする。ゴムを破ればゴムのにおいはするし、触られてればちんこは勃つし、ネットの広告で出てくるみたいなAV女優と似ても似つかない、はだけた服の下の子どもっぽい体と、そこに自分がつけてしまった傷たちに、気持ちいいとかそんなのどうでもよくなるぐらい絶望してて、消毒液のにおいがする約束も兎もリストカットもお前のしてきたのは全部間違いだって、世界のどこかの、それこそ身近のいつだって正しい立場にいるやつにぶん殴られたかった。
 彼女の黒目には俺の記憶のなかにいる人が反射してる。訳も分からぬ涙をこぼす彼女は彼女でミヤを見てる。俺の目を通して、俺と似た名前の、イケメンサイコパス、俺と似てない、生きてない人間を。彼女がまばたきすると、目玉の向こうで幼馴染の顔が大きく歪んだ。

 足の間の穴に半分くらい挿れ終わったぐらいに、本当に小さな声で、痛い、と呟いた。そのときにはしっかり目が合い、俺も彼女のことをたしかに見つめてた。でも、返事も聞かないまま、俺の体をどかそうと触れてきた手に苛立って、腰を押さえつけて一気に突っ込んだ。そうしたら、ぼろぼろ流れた涙と同時に、まぬけに股から血が流れる。引き抜いてもゴムに絡みついてきた血を指ですくって、口に持っていくと、苺みたい、と苦しそうに新井は笑って、薄っぺらい舌でそれを舐める。


 あたしだってね美玲みたいになりたかっただって美玲は髪も綺麗あたし天パがコンプレックスでねああいう長くてまっすぐな髪憧れなのでももう良いよ諦めきれないけど良いよあたしみんなより大人みんなより強いもうなーんにも怖くない! アハハ!


『タン』 人間で言うと舌のこと。
『レバー』 人間で言うと肝臓のこと。
『ミノ』 人間で言うと胃のこと。
『コブクロ』 人間で言うと子宮のこと。


「面談あったのか」
 あったよ。大量に出たゴミ袋。表面に映る面談日程表。大掃除。父さんの声。
「なに話したんだ?」
 学校のこと。転がってるゴミ袋。半笑いで歪む父さんの顔。
「それだけじゃ分からないだろ。クラスとか進路とか」
 クラスとか進路のこととか話したよ。廃品回収場に持ってこうとおんぼろデカ車に積むゴミ袋。埋まってくトランク。冬の晴れた日のキツイ寒さ。
「……高校はどうするんだ」
 決めてない。玄関先に置いてあった、開きかけのゴミ袋。しゃがんで口を縛りなおそうとすれば、半開きの窓の向こうから母さんの掃除機の音、ごうごうと。
「高校は、好きなとこ行けば良いぞ。父さんも母さんも反対しないから。そうだ、お前、将来の夢ってなんなんだ、父さん知らないな」
 ない。口の両端を持って引っ張り、表面が薄くなってくゴミ袋。うまく縛れない口。
「じゃあ、高校の間に色々経験して……」
 うちの店、継いじゃだめ? 口の両端を持って引っ張り、ちぎれそうになってくゴミ袋。うまく縛ろうとしない口。
「そんな、うちのことを気にしないでも」
 怖いんだろ、俺のこと。口の両端を持って引っ張り、ちぎれたゴミ袋。うまく回ってくれない俺の口。
「違う」
「じゃあ野球選手になりたいってでも言えば満足かよ!」
 ゴミを投げつける。叫び声と一緒に吐き出した白い息に隠れて父さんの顔は見えなくて、そのまま家に駆け込む。ゴミのなかに混じってたコンドームまでどうにでもなっちまえ。


 短い一年が終わって、短い一年が始まって、短い冬休みが終わって、短い三学期が始まる。
 冬休みの思い出。幼馴染のいとことセックスしたこと。父親と喧嘩したこと。以上。


「やばい、先生来るっ、はやくはやく」
 教室後ろのロッカー付近にたむろした女子の声。直後に響く朝のチャイム。突っ伏してた顔を上げ、ホームルーム前の読書タイム用の本を机のなかから出す。読み終わっても本を変えてないから、もう見飽きた夏休みの推薦図書。開くだけ開いて、あとは窓の外を見て時間を潰す。
「あっマサ、それチョコかよお」「バッカ見んなよ!」「なに早川、チョコもらってんの? あの人から?」「うっせうっせ、非リアはシコっとけ」「うわあ、そーいうこと知ってんのキモ」「お前も知ってんだろ」
 ホームルームで、来週から始まる期末のテストのこと、それとバレンタインだからってチョコを持って来たら没収するって前田先生が話す。先生が忙しそうに教室から出ていくと、斜め後ろの早川雅人たちが話し始める。俺は授業の準備をして、また机に伏せる。
「みんなオトシゴロだから恋もするだろーけど、だってえ」「ギャハハ、まずお前が結婚しろっつーのババア!」「え、でもマエダってカレシいるでしょ指輪つけてるもん」「じゃあヤりまくりじゃん。お前、樋口センセーに聞いたみたいに Do you play sex? って聞いてこいよ!」「アハハッキモーい」
「つーか、今、宮田クン動かなかった?」「あはは、宮田クンだってオトシゴロじゃんかあ」「なに、宮田クンのこと好きなの? チョコあげてこいよお」「やだ、本気でやめて、ウザい」「急にマジじゃん、嘘つくなって、じゃあお前──よ」「────だよ、知らないの?」「え、だって────ハハッ」

「おい」

 声がして顔を上げる。頭上には冬なのにずっと日焼けの名残で黒いままの早川雅人の顔。
「聞いてんじゃねえよ、キモいんだよ」
「ごめん」
 それだけ言って顔を下げる。舌打ちの音がする。チャイムの音がする。早川雅人の行動に引き気味な同級生の笑い声がする。


『明日、一緒に帰れますか。』


 昨日の夜に来たメールは一日中頭から離れなかった。テスト週間で部活がないから、授業が終われば皆はすぐに帰っていく。荷物の整理に手間取ってるフリをして、全員いなくなったタイミングを狙って教室を出る。
 すり減った上靴で引きずり気味に歩く。ほこりっぽい独特な廊下の空気。下る階段の下から上ってくる一組の担任がさようなら、と言う。俺もさよなら、と小さく返す。
 冬でも湿気の多い下駄箱から靴を取り、かかとを履き潰しつつ校門に向かう。かなり待ったから、ほとんど生徒もいない。すれ違うやつらも俺が帰る裏門ではなく、正門の方に走っていく。
 鬱蒼と茂る竹林。その影にしゃがみ込んでた彼女の毛先が、北風でばらばら揺れる。
「美玲」
 校則を守ってきっちり結んだ一つ結びを揺らしながら立ち上がる。最後に後ろを確認し、本当に誰もいないのが分かると、二人で歩き始める。
「……急にどうしたの」
 美玲の白い肌には空の光も影もそのまま綺麗に映る。頬の辺りは橙色に、鼻筋の影は濃い紫色に。
「バレンタインでしょ?」
 薄く笑って、鞄から取り出したのは赤い包装紙に包まれた箱だった。毎年変わらない、いつも通りの、見慣れた箱だった。はい、と差し出されて、俺は戸惑う。受け取らないことを不審に思ったのか、美玲は訝しげな表情になる。
「どうしたの?」
「……い、らない」
「え」
 動きが止まる、二人とも。まばたきするのにもすごく体力がいる。こめかみがびくびく脈打って、顔中の筋肉を持っていってるからだった。
「もう、会うの、やめよう」
「なんでっ、どうしたの、」
「分かんないんだよ!」
 俺の叫び声で、美玲の肩が大きく揺れる。足がすくんでるのが見える。ああ、やっぱりまだ大きな声、怖いんだ。こんなに時間が経っても、まだ。
「…………美玲のこと、全然分かんないんだよ……もう……」
 行かないでねって小さな声。望のせい、と言ったときに飛び散ってた血の色。毎年変わらない包装紙。まだ残ってる事件の爪痕。
 どれが美玲で、どうして一度突き放して、なんで今も一緒にいようとするのか、俺にはもうなにも分からなかった。
 彼女がこっちに手を伸ばしかけて、俺はそれをやわらかく止めると、諦めたみたいに箱を鞄に戻す。
「……分かった」
 なにか考えているように目を閉じて、口を開く。
「でも……最後……最後で良いから、明日、家に来て……もう、やめるから」
 肩にかけた鞄の紐を握る。その手は、力がこもってるからか、それとも別の感情からか、震えている。俺は手を伸ばす。しかし、そこに届く前に、美玲は勢いよく走り出す。


「あ、ああぁ、ん、ああっ」
 体の下で新井が揺れている。肩が丸く縮こまったところでもう一往復したら、少し腰が上がる。それに気づかないふりをしてると、苦しそうに甲高い声を出す。規則的だったなかの動きが無茶苦茶になり、背骨から脳味噌まで伝った気持ち良さで息が詰まってイった。ゴムの内側に精液が溜まる。汗で髪が貼りつく。
「ん、ふふっ……かみ、ながあい……あは」
 嬉しそうに目を細めて、俺の頭をぐしゃぐしゃにしてくる。汗の湿気で巻き上がった天然パーマは、濡れて少し伸びた今の俺の髪と、多分同じくらいの長さ。
「きもちーね、えへへ……」
 でこにキスされる。そのまま下がって瞼にも。甘いにおいでぐちゃぐちゃで、頭がずっとぼーっとしてる。また一本増えた傷から、新井が荒く呼吸するたびに血がかすかに漏れ出ている。
 冬休みから決まって毎週木曜、こんなことを続けてるせいで、すっかりお互いセックスに慣れてしまった。もう新井は痛がらないし、ずっと気持ち良さそうにしてる。最初みたいな悲惨な感じが薄れた分、中一でこれって今後の人生どうすんだろうな、とも思う。なんか、そもそも長生きしなさそうだけど。こういうやつほど図太く生きるのかな。
「……みやたくん、どうしたの? げんきない」
 とろん、と溶けたままの目で俺を見てくる。
「きもちくなかった?」
「……ううん」
「そう?」
 不思議そうな表情でしばらく俺を見つめたあと、またふにゃふにゃ笑って抱きついてきた。
「みやたくんがげんきないと、いずみもかなしいよ。だって、みやたくん、あたしのかれしだもん」
 彼氏?
 ちっちゃな手で髪を子どもをあやすみたいに撫でてきて、居心地悪いような、変な気分になる。
「……俺、新井の彼氏?」
「うん。あたしは、そうおもってるよ」
 頬ずりしてくる。そうして、顔を見合わせ、ぱちぱちとまばたきする。
「ねえ、あしたもあおうよ。明日もあそぼう、チョコ食べようよ、セックスしても良いよ」
 美玲の顔と、橙色に照らされた手の震えがよぎる。それと一緒に、今日の早川雅人の睨む目からバットで骨を折られたあの日までの記憶が一気に流れていく。
「宮田君、あたし、不安なの」
 笑顔が消える。背中に回してた手で、肩を掴む。
「あたしのことを、愛してるの?」
 目玉は涙でつやつやしてる。その目のなかの俺を見つめても、新井の視線はどこかうつろなまま。


『四時半 私の家』


 いつも通りの一日。
 早めに登校して机で寝て、先生の悪口と自分に向けられた笑い声を聞いて、チャイムを聞いて、給食食べて、掃除して、誰もいなくなってから教室を出る。
「宮田君」
 珍しく目深に帽子を被った新井が校門前で待っていた。俺の顔を見ると、手を差し出してきて、なにも言わずにそれを取る。生ぬるい手だった。
「あたし、分かるよ」
 風にあおられて、坂道を早歩きで下る。
「宮田君があたしのこと、殺してくれるなら、宮田君が怖いもの、あたしが殺したげる」
 住宅街に繋がる道じゃないほうに手を引かれる。ずっと避けてた道へ。淡く紫がかった灰色の雲が、黄色の空にたなびき、俺の記憶は嫌でもあの日に戻ってく。
「新井、」
 嫌だ、と喉元まで声が出かかって、口をはくはくと動かす。洗いたてのマフラーの他人事みたいな柔軟剤の匂いを飲み込む。破った約束が脳裏にちらつく。電話ボックスを横目に見る。青緑のフェンスが見える。
 地域の野球チームの練習も今日は休みで、誰もいないグラウンドにずかずかと入っていく。もう行き先は分かりきってた。ボロボロの公衆トイレに足を踏み入れれば、不快なアンモニア臭が鼻につく。
「ここでしょ、聞いてきたよ」
 新井は立ち止まる。彼女の足元の影は、薄暗い個室の闇と混じり合って長く長く伸びる。
「……見て」
 そう言って帽子を外し、こちらを見てくる新井の姿に息を呑んだ。
 髪が、あの天然パーマだった髪が、綺麗なストレートになっていた。つやつやと手入れしたてらしい黒髪が、入り口から射し込む夕日の光をおぼろげに反射する。
「今日ね、ストパーかけて来たの。どう?」
 息が上がってくる。立ちくらみがして、膝に手をついて呼吸を整えようとするが、全然意味がない。目玉が燃えてるみたいに視界が白くなって、頭まで血がのぼって、脈打って、全身が大きな心臓になって、左手を膝についたまま、右手で抑えてももうめちゃくちゃで、暑くもないのに汗が滲む。
「あたし分かってる、宮田君の心までほしいって言わないよ、でも今日はあたしのこと……あたしのことを好きになって、あたし宮田君のこと大好きだから、」
 震える顔を上げる。
 泣き出しそうな笑顔で両手を広げて、口の奥の闇まで見えて、新井はちゃんと俺のほうを見てて、なのにどうしても目が合わせられなくて、伝う汗が風で冷たくて、湿気と夕焼け色の髪が、まっすぐになった髪が、伸びた黒髪が、思い出す、思い出したくない、待って、



「宮田君が、美玲のことをっ」



 げえって蛙の鳴くような声がし、手に伝わる鈍い手応えに眼球をかすかに下へ動かすと、新井の顔が俺の拳で歪んでいくのが見えた。
 そうと認識した瞬間に小柄な体が崩れ落ちて個室のドアにぶつかる。殴った衝撃で傾いた重心を戻す動きで肩にかけていた鞄が跳ね上がり中身が床に散らばる。帽子がふわふわ落ちてく。
 殴り抜けられた横顔のまま目を見開き声をあげようとするがすぐに落とされた拳に潰される。ぶつかる骨と歯が硬い。口が動いてる。腕を掴んで抵抗してくる力ごと顔に叩きつける。吹き出した鼻血が涙がぬめる。狙いが定まらないから襟を掴んでしゃがむ。殴るたびにドアと頭が衝突する。髪がちらちらオレンジに紫に光ってる。
 暴れて跳ねた足が鞄の中身を蹴る。ハサミが視界端のタイル床で滑る。手を伸ばしてそれを握り新井に馬乗りになる。
 前髪を掴んで顔を上げさせるとほとんど白目をむいてる。鼻血が垂れてだらしなく涎が糸を引いてく、ゆっくり、ゆっくり、と。さらさらした毛が、殴ってるときに剥けた皮に絡みついて、俺の肉との境界を裂く。
 長くなった髪にハサミを入れても、上手く切れない。ちぎるみたいに少しずつ切られ、新井は俺の手から逃げようと身をよじるけれど、そのせいで頭皮が引っぱられて余計に顔を歪める。
 鷲掴んだ髪の束の最後の一本が切れ、新井の頭は床に落ちる。ごんって音がした。



 ──あああ


 ま……ま、ま


「ママ!」



 劈いた泣き声が耳に刺さり、我に返る。
 夕焼けなんてもんじゃない赤さに染まった両手は痛みで痺れてて、長さがバラバラの髪がうねって纏わりついてる。
「あ゙ああぁあッ! ゙いだいぃいっあぁ゙あああぁあ!」
 火がついたように顔を抑えて、新井は絶叫する。髪はざんばらで、タイルの血痕がばたばた勢いよく増える。アンモニア臭と血生臭さと、そんななかでも強く香る甘いにおいに吐き気が込み上げ、感じた手の痺れと血の赤さが、六年前にこの場所で自分がしたことをありえないぐらいリアルに思い出させる。
「あ……あぁ……あ……」
 ガチガチ歯が鳴る。のたうちまわる新井を見てられず、足をもつれさせながら俺は走り出した。
 心臓がばくばくしてる。ハサミが手から離れて落ちる。空の色が怖くてしょうがない。焦げた赤色の雲、すみれ色の影、群青に飲まれつつある空は橙色。北風の流れに逆らって、邪魔者みたいに坂道を転げ落ち走る。
 全部間違えた。
 間違えた。
 間違えたんだ。
 四時半、素直にあの白い家に向かえば良かったのに。
 頭の中で響く泣き声が何重にもなってめまいがする。
 追いかけてくるから逃げる。なにかなんて分からなくても走れ、走れ! 捕まるな!
 曲がり角を急に曲がって、とうとう俺の体は宙に浮き、地面に叩きつけられる。

「のぞ……む……?」

 額がひりひりする。呼ばれた名前に顔を上げると、生暖かい液体が鼻のほうまで伝ってく。
「はやかわ」
 声の主は早川だった。そして、その隣では見慣れた長い黒髪がひらめいていた。綺麗な白い家の前で二人は寄り添い、手を繋いでいる。
「てめえ」
 顔を歪めた早川はずかずか大股でこちらに近づいて、その足で俺の頭を踏みつける。目玉のなかで火花が散る。コンクリートに皮膚を削られ、反射的に早川の靴に触ったら、一瞬力が弱まる。
「……んだよ、それ……なんで血まみれなんだよ、あ⁉︎」
 肩甲骨辺りを思いっきり踏まれ、俺の喉から唾液と一緒にまぬけな嗚咽が飛び出す。何度も何度もやたらめったら蹴られて、息ができない。
「きもちわりいんだよてめえは! 頭おかしいだろ!」
 地面に擦られて絡まってた新井の髪が鋭く目に入る。まるでさっきの仕返しみたいに。
「いっつもなに言ってもろくに反応しねえ! 死んでるみたいな顔しやがって!」
 脳味噌をぐちゃぐちゃにされる。視界がブツ切れに歪む。鼻血で溺れる。入り込んだ砂が歯肉を刺す。
「死ね! ここで死ね! 早く死ね‼︎」
 踏まれた拍子に右手の指が曲がらない方向に捻じ曲がり、ぎゃあ、と叫ぶ。悲鳴に怯んだのか、力が止んだ。
 指を抑えて咳き込む。鼻血のせいか喉が切れてるせいか分からないけど、血の味がして気持ち悪い。吹く北風は冷たいのに、傷が熱を持ってるから感覚がめちゃくちゃになる。脂汗が伝って地面に落ち、俺は何度も白い息を吐く。
 ふいに左腕を持たれる。力が上手く入らなくて、そのままにしてたらぺた、となにかに触れた。
「……抵抗しろよ」
 重たい頭を上げると、早川と目が合った。並んだ二つの目は真っ黒で、頼りなさげに揺れていた。掴まれた左手は早川の頰に押し当てられてる。
「ほら、ぶん殴れよ、そしたら殺すから。殺してやるから。早く」
 頭が回らない。なにも考えられない。失敗したってことばっかりがちらちらして、心臓までズキズキ痛んでた。

「…………ご、め、ん、まさ、と」

 白目が丸くなり、黒目がきゅうと小さくなる。それと同時に雅人の目の淵から涙があふれた。

「なんで‼︎ お前が謝んだよ‼︎」

 頰にぼろぼろ涙が落ちてきて、俺の鼻血と新井の血をまぜこぜに流してく。熱を持った傷に涙が染み込むのは、痛くてたまらないのになぜかすごく温かくて安心した。
「なんにも考えてねえくせに謝んな! なんにもっ分かって、ない、くせに!」
 握り拳で乱暴に涙を拭うと、雅人の顔に俺の血の跡ができる。
「……ごめん」
「分か、ろ、うとも……し、てないくせに……!」
「…………ご、めん……」
 濡れた手で頰を殴られる。けれど、そこには力が入ってないから全然痛くなくて、生温かいぬめりだけを残した。
「なんで……なん、で……お前、そん、な、に、なっ、ちゃった、んだ、よ……」
 ふいにサイレンが響く。ひゅ、と自分の喉の奥が鳴ったのをはっきり感じた。血の臭いの濃さとサイレンの音で切羽詰まった呼吸になる。痛みのせいじゃない冷や汗が背中をゆっくり伝う。ざり、と音がし、驚いた表情の雅人と俺は細長い影に包まれる。

「みれ、」

 目を見開く。
 本物の、さらさらした黒髪が別の生き物のように揺れる。
 前髪が動作したときの風で散らばり、流し目に俺を見ながら早川の頬に触れる。
 かすかに開いてた口が閉じて、三日月みたいに吊り上がり、まぶたは伏せられる。
 唇が触れ合う。

「……あははっ」

 顔が離れると、美玲はこっちを見て、大笑いし始めた。目を細め、眉を少し下げ気味に、白くて綺麗に並んだ歯を見せる。怯えも怒りもなにもない、長い間忘れてた美玲の本当の笑い方だった。
 他人事の響きのまま、サイレンがボケ老人の脱走を伝える。あんなに怖がってた音が鳴っているのもお構いなしで高らかに笑い続ける。
「小西」
 早川に優しく微笑みかける。呆然としてその手が脱力し、俺は地面に倒れ込む。美玲はつかつかと俺に歩み寄り、耳元で囁いた。

「──うらぎりもの」

 笑みが消えて、今まで見たことないぐらい、冷たい色で瞳が光った。瞬間、ひん曲がったほうの手をスニーカーで踏みにじられ、俺は涙目で声を上げる。
「もう行こう」
 魂が抜けたような表情の早川を立ち上がらせて、頬にもう一度、キスをした。これ以上ないほど満足げな笑みを浮かべると、俺のほうには振り返らず、二人は白い家のなかへ消えていった。
 体内には女の悲鳴とサイレンが残ったままだった。

解体4

 コンコン、とスチール階段を下る音が、頭上から聞こえる。僕は息を詰め、それが消えていくのを待っていた。背後の壁はいやに生暖かく、日中の名残を感じさせる。シャツのなかを伝う汗の感覚。それすらも痛みだと感じてしまうほど、神経は尖りきっている。
 バタン、と店のなかに入ったのを確認すると、手早く黒ビニール袋をゴミ箱に放り込み、路地裏を出る。ジジ、と虫の羽音のようにピンクのネオン管が鳴っていた。

『櫻城中心街』県有数の歓楽街。
 櫻城町は、七十年代に起きた土砂崩れで壊滅した村が大元だ、と地域学習の授業で教わった。住宅街はうちの高校の生徒もよく住んでるいたって普通のエリアだが、櫻城駅の周辺の繁華街、中心街はそうとはいかない。飲み屋・居酒屋、ゲーセン、キャバクラ始め水商売、ラブホ街、伝統ある援助交際。尾ひれがついた噂だとヤクザもいるとか。下手に僕みたいなクソガキが深入りしてはいけない場所だ。そんなところで僕はうろうろと死体を捨てている。
 煙草の吸殻がこびりついた路地を歩く。ガキが走り回ってたら目につく。焦りが顔に出ないよう、脳味噌がなにか危ない物質に浸されていくのをそのままに進み続ける。
 スマホを見ると、集合時間の九時は刻々と近づいてきている。居酒屋の香ばしい匂いが喉元に纏わりついて、込み上がる吐き気をこらえる。人の群れを避けたら、前を行くサラリーマンに、大学生に、客引きの男が声をかけるのが見える。つくづくタイミングが良い、と思った。あと数年、あと少し、美玲が殺すのが遅かったのなら、僕はあそこで簡単に捕まえられた。また垂れ流れる危険物質で熱帯夜と体の境界が滲む。執拗に暗記した次のゴミ捨て場の位置を脳裏に巡らせながら、煌々と灯るまばらなネオン看板を流し見する。


 中心街は周りを人工の川で囲まれている。城のお堀のようになった街と住宅街を繋ぐ大きな橋に来たところで、僕は走り出す。約束の九時を少し過ぎてしまったからだった。空になったリュックは凹んで頼りなく背中に貼りつく。僕とすれ違う人たちの妙に腑抜けた笑顔と、道端に座り込む浮浪者のうろんな表情。ドライヤーのような熱風のなか、橋を抜けると暴力じみた喧騒がほどけていく。待ち合わせのバス停に行くまでに、また新しい汗の流れができる。
 白地に赤い線が引かれたバス。無数の駅名のなかに「菊里」と僕らの街の名が光るそれの前に、迷っているみたいに佇むジャージ姿一人。僕が走ってくるのに気づいて、美玲はバスに乗り込む。僕も出発する寸前に飛び乗り、リュックから下げたパスケースを叩きつけるようにして料金を支払う。
 ぜいぜい、と呼吸すると、喉が焼けるみたいに熱を生んだ。幸い乗客はまばらで、肩を大きく上下させ、優先席に座りながら息を整える。奥の座席を一瞥したら、美玲が落ち着かない様子で真っ暗な窓の外を見つめていた。
 向かいの窓に自分の姿が映っている。汗だくでみっともないから、奥の景色にピントを合わせる。「次は」と業務的にアナウンス。塾とか飲食店が流れ、やがて街灯のみが点々と現れる。冴えきった頭で電柱を数えていると、「きくさと」と運転手が言い、老婆一人と共に僕らは降車した。
 距離を開け、ただ同じ方向に進んでいるだけの他人を装う。老婆が曲がり角に消えたのを確認したら、先を行く美玲が振り返る。その顔にわずかに浮かんでいた焦りを、僕は見逃さなかった。ひとまず安心させようと大きく頷く。街灯の白々しい光に包まれて、歯がゆい気持ちのまま歩き続けていると、見慣れた僕の家が見えてくる。そこからはほぼ二人同時に走り出す。鍵をズボンのポッケから取り出し、涙目になった彼女に押し倒されるように家に飛び込んだ。
「どうしよう!」
 美玲の体が震えている。わなわなと慄く手で肩からかけていた鞄からビニール袋を出す。
「一個捨てれなかった! どうしたらいい⁉︎」
 どうしよう、と小さく叫び、パニックに陥り始めた彼女をつい抱きしめる。生々しい音を立てて、ビニールが床に落ちる。
「どうしよう、どうしよう……!」
 白黒する瞳で僕を見つめてくる。扉の磨りガラスから差し込む月光で、伝っていく汗がおぼろげに光る。
「大丈夫、まだ時間あるから、考えよう、大丈夫だから」
 僕が言うと、背中に手を回し、また、どうしよう、と世界の終わりみたいな声で呟いた。こわばった体の力が抜けるよう、背中をさする。かすかな彼女の吐息で鎖骨が温かく湿るのを感じる。


「それで、また、散歩の人が来て……捨てられなかった」
 落ち着いてきた美玲はぽつり、ぽつり、と状況を説明してくれた。
 一箇所に集めて捨てた際の発見されやすさを考慮して、僕は櫻城の中心街、美玲は住宅街に点在する公園のゴミ箱を周った。ランニングのフリをして順調に捨てていった美玲だったが、同じように街中を散歩する夫婦に遭遇。一度や二度ならまだ良かったものの、ルートが近かったらしく、三度目にゴミ箱に捨てているところを目撃されてしまった。中身こそ見られてはいないけれども、これ以上遭遇してしまったら、さすがにまずい、と思い、逃げ回っていると集合時間が来てしまった。
 まとめるとこういう話だった。
「私、朝一で櫻城に捨てに行く」
「駄目、女子は一人で行かないほうが良いし、どうして今夜捨てに行ったのか分からなくなる」
「……そうだった」
 明日が燃えるゴミの日だから今夜決行したのだった。電気もクーラーも点けていない自室は蒸し暑く、僕は髪を掻きあげる。
「今から捨ててくる」
「どこに?」
「近所のゴミ捨て場」
「見つかったらここにも捜査が来ちゃう。そしたら、真っ先に疑われるのあんたよ、精肉店なんて」
 どうしよう、と美玲は体操座りでまた俯く。大人しく捕まったって強気な発言をしたわりに、相当慌てている様子だ。回らない頭を必死に掻き回して考える。親が帰ってくる時間も迫ってきていた。
「これだけ小さいなら他の肉と一緒に、違う、山なんてないし、トイレに流せば……駄目だ」
「海は?」
「海は浮いてくるかも……」
 美玲が放った一言を否定しかけた瞬間、カチン、となにかが噛み合う音がした。
「……海」
「なに?」
「肉の詰め方覚えてる?」
「新聞紙で包んでから、一枚のビニール袋で二回包む」
「それ、完全一致じゃないんだけど、昔あったバラバラ殺人で使われた包装の仕方なんだ」
「そうなの?」
「包み方も、あとに教えた縛り方も、専門職の人が使ってるちょっと特殊な方法で、調理師とか医者とか、漁師とか」
「あ」
「うん。あと、釣りする人なんかも使う」
 大方僕が言いたいことを察したらしく、美玲は息を吸う。
「……見つかっても、多少、捜査が撹乱できるってこと?」
「……五分五分。慣れてないってプロが見たら分かるかもしれないし、袋も破れたら意味ないかもしれないけど」
 逃げ切れる可能性もある。
 僕がそう言う。彼女は俯きがちに、分かった、と小さく答える。
「……明日」
「明日?」
「明日の夜。藤井海岸にしよう」
『藤井海岸』長年整備されていない、近場の海。大昔、美玲の家族と遊びに行ったときに見た、凶悪な形の岩場が脳裏をよぎる。
 頷くと、彼女も僕の目をまっすぐに見つめ頷き返す。カーテンの隙間からのぞいた月の光で、その顔は青く陰っている。
「……とりあえず、今日はもう寝よう」
「うん」


 眠ろう、と言ったは良いものの、疲れているのに目は冴え、今晩もろくに寝られそうになかった。一応客だから美玲を僕のベットに乗せ、かたい板の間にクッション一つで寝転んでいる。クーラーを点けたが、風呂を入っていないせいでシャツからは強く汗の臭いがしていた。やはり疲労を理由にして怠けるのは良くない。一念発起し立ち上がると、もう寝てるものと思っていた美玲が半ば身を起こす。
「どこ行くの」
「シャワー浴びてくる。美玲も入りたいなら先良いよ」
 あれだけ走り回ったんだから美玲もよほど不快だろう。青いシーツのシワに入り込むように長い黒髪が弛んでいる。
「いい」
「そっか」
「でも、行く前にちょっとこっち来て」
 寝れないから、と言う。暗い部屋に映える白い腕をこちらに伸ばしてきて、その手を取る。引き寄せられ、ベットに座ると、案の定、僕の体に腕を回してきた。シャツに顔を埋めてくるから、少し狼狽して、美玲の肩をやわらかく押す。
「汗臭いよ」
「私も汗臭いから良いの」
 観念して僕も美玲の背中を撫でた。一瞬体がこわばって軽く跳ね、またすぐに脱力する。ちょっと大きめなジャージの空白ごしの肌のやわらかさと、そのさらに奥の骨のかたさ。こんなんだったっけ。さっき慌てて触ったときは分からなかった。よく知ってたはずなのに、数年ぶりに密に触れた美玲は妙な弾力があって、まるでパック詰めされた生肉みたいだった。
 よじって強引に向き合ってた体に力を込められ、ベットに押し倒される。ギッ、と木が鳴る。昔、じゃれあっていたときにも感じた匂いと、汗のにおいがする。ばらばらと顔を撫ぜる互いの伸びた髪は、僕が美玲の頭を乱すたびに深く混じり合っていく。その流れを掻き分け、首の皮膚にかすかに浮かんだ骨を辿れば、やがて美玲が鎖骨に歯を立ててくる。じわ、とした淡い痛みと熱に戸惑っていると、唇にやわく触れられる。口の薄い皮膚一枚を通した指の細い骨の存在。ジャージの繊維をさらさらと下のほうへとなぞりつつ、空いた右手で僕も美玲の頰に触れたら、乱暴に掴まれる。指に吸いついてきて、彼女はんう、と赤ん坊のような声を出す。その拍子に左手が尾てい骨を掠めてしまい、美玲の体は大きくしなる。
「…………シようよ」
 熱い吐息と共に、美玲は言う。湿度を含み揺れるまなこ。恋人みたいに繋いで捕らえられた手に絡みつく唾液が、震えのせいでくちゅ、とかすかに鳴る。
 喉になにか貼りついたように声が出ず、僕は黙って首を振る。
「和泉は良くて、私は駄目なの?」
 甘い匂いと血生臭さが遠く記憶のなかで蘇る。そうやって思い返す余裕すら与えない、と言わんばかりに視線で射抜かれて動けずにいると、取られた右手をわずかに下ろしたジャージの下へ、そのなかの下着へと導かれる。刺繍だかなんだかのざらつきを通り越し、やわらかい布地に触れさせられる。
「濡れてるでしょう」
 湿り気が布に滲んでいる。巻きつけたままだった左腕を解き、逃げようと顔を逸らすが、今度は美玲が首に絡みついてそれを許さない。
「あんた、右の指折られたときから、ちょっと歪んでるじゃない? だから、多分、私の好きなところに当たるのよ」
 触って、と耳元で囁かれ、落ちてきた汗が僕の首筋をむず痒く流れていく。強引に当てられる下着のなかのそれは、ひどく熱く、蕩けていて、僕はなんだか泣きそうになった。
「…………ゴ、ム、ない」
 情けなく掠れた声で発した言い訳だった。実際、避妊具なんてなかった。それを聞いて、美玲は女じみた、それでいて昔の名残をどうしようもなくとどめた笑みをこぼし、目を細める。
「ねえ、どうして私が早川殺したのか、知りたい?」
 中指がぬかるんだ穴に沈んでいく。は、と小さく息をついて瞼を下ろし、身震いしたら薄目でまた僕を見つめる。
「ここに、無理矢理、出そうとしてきたの」
 精液を。
 夢のように声はおぼろげで、ただ、ひん曲がった中指が感じる、弾力のあるヒダの感触だけが鮮やかだった。
「気持ち悪くって。それで殺しちゃった」
 そう言って口角を上げれば、透明な糸が口内で光る。
「……僕のこと、殺し、たいの?」
 含み笑いの密やかな空気の震え。額を寄せ、耳たぶを軽く齧り、内緒話でもするみたいに囁いてくる。
「そう。私、あんたのこと、大嫌い。死ぬほど嫌い。憎くてしょうがない」
 きゅう、と膣が締まる。鼻にかかった声の波が揺らぎ、絡みつけていた腕を解いて、眠たげな子どものような乱暴さで美玲は自分の目を擦る。
「もう、おかしくなりそう」
 俯きがちに、乱れた髪が美玲の顔を覆う。腹の上に乗る美玲の肢体の重み。少し身じろぎするたびに鳴る粘着質な音と、垂れてくる粘着質な液体。ぬるぬるする。皮膚感覚も、思考回路も。
 ふいに美玲は首を小さく振る。そして、ジャージのファスナーを下ろそうとする。そこでハッとなり、僕は慌ててその手を止める。
「美玲だめ、」
「……大丈夫、あんたが心配するようなこと、なーんにも起きないから」
 子どもをあやすみたいに言う。

「私、子宮、壊れてるのよ」

「…………え?」
 さざなみのような音が全身から聞こえ、血の気が引いていく。力が抜けて、左手がシーツの上に落ちる。美玲が体を起こすと、中指の角度が変わり、一瞬たじろぐような様子を見せたあと、楽しげに笑い始める。
「ねえ、どんな気持ち? 私、子ども産めないの。中身、馬鹿になっちゃった。あんたが何回出したって子どもできないの。クソガキなんて孕みたくないけどさあ、これじゃ私オナニーのおもちゃみたいじゃない? おっかしい。あんたも笑えるでしょ? ねえ?」
 頭が真っ白になる。冷めた血液が沸騰していく。目玉がまた燃えてくる。知ってる。駄目だ、これ、駄目だ。荒くなり始めた息を整えようと、必死で歯をくいしばる。駄目だ、今だけは。
「あんたがあの日、もっと早く来てくれたら良かったのに。あんたが中途半端だからこんなになったのよ、分かってたでしょう、もう戻れないのよ」
 サイレンが奥底で響く。よく分からない場所でバチバチ色が明滅する。感覚が歪む。自分が溶ける。待って、駄目なんだ、やめて、やめろ、やめろってば!
「あはは、もう限界、こんな思いになるぐらいだったら死んだほうがマシだった。あんたが変に私のこと助けたから、こんな、こんな……あんたの、せいで……」



「責任、とって」



 肉と骨がぶつかる音。
 意識が引き戻される。
 頰に残る熱と、鋭い痛み。
 美玲は僕に平手打ちした手で、頰を包み、ぐっと顔を寄せてくる。
「…………やっと、その顔、私に見せたわね」
 浮かんでいた笑顔は消える。作りもののように精巧な顔立ちのなかにあったのは僕の手を踏みつけたときに見せた、絶対零度のまなざしだけだった。
「なによ、その手。私のこと殴ろうとしたの」
 荒いままの呼吸でまた白む視界の端には、たしかに攻撃の形にかたく握りしめられた僕の左拳がある。
「今、あんたがどんな顔してるか教えてあげる」
 睫毛同士が絡まってしまいそうな近さで、お互いまばたきする。
「目を血走らせながら睨んで、大きい犬歯を剥き出しにして、涎も垂れそうで、ビクビク痙攣して、はあはあ息吐いて、」
 口に出すのも汚らわしいように吐き捨てる。
「まるで獣」
 獣。けもの。
 歯の根が合わない。恐怖とも怒りとも分からぬ、なにか激しい感情が心臓の奥底から湧いてくる。
 気づいてなかったんだろうけど、と美玲は続ける。
「その顔で、私をレイプしたやつを殴った。その顔で、ピョン太を殺した。どうせ、その顔で、和泉のこともボロボロにしたんでしょう」
 そうか。
 そうだ。
 そうだったんだ。
 この顔だ。
 僕は、人間じゃなかった、んだ。
 過呼吸になってくる。また、自分が自分でなくなっていく。汗が目に入って痛い。焦点が合わなくて、美玲が肌色のなにかになって溶けていく。肌色の肉に、肉が雅人に、だめだ、まさ人、美れい、みれい、僕は、いやだ、痛い、いたい、俺が、色だけに、こわい、助けて、たすけて!

「私を見なさい!」

 ビンタされて、ぼくは声をあげる。

「良い? あんたは獣よ、畜生よ。でも、今から私は獣じゃなくて、あんたの理性に話しかけるの、人間に話しかけるの、人の言葉で聞きなさい」

 みれいが僕のことを、あせをぼたぼた垂らして、必死に見つめてくる。

「全部、あんたのせいよ」

 あう、あうって、赤ちゃんみたいな変なこえがぜんぜん止まらなくて、美玲は顔をくしゃくしゃにしながら、俺の肩をゆさゆさ揺さぶって語気を強める。

「お願い、そうやって獣になって逃げないで、なんにも考えれないフリしないでっ。なんにも分かんないからってまた言い訳するつもりでしょ、あんたいつもそうじゃない!」

「今だけ目を逸らさないで!」

 目と目が合い、み玲のまっ黒な瞳孔に食べられちゃいそうで、それでも目を逸らすことは決してできない。

「私を助けてくれたのも、私と約束してくれたのも、ピョン太を殺したのも、和泉を殴ったのも、雅人を解体したのも、あんたなの」

「我を忘れてても、私を助けちゃったのはあんたなのよ、獣じゃないの、獣のなかで人間がそれを選んだの、今の苦しみは全部自業自得よ」

 みれいの目が、きらきら、潤む。

「もう戻れないのよ、あの日私を助けたから、あんたは罪を犯しつづけるのよ、これからもずっと」

 白い肌がまっ赤になって、ぜえぜえ、と息が荒くなる。

「責任とってよ、あの日を清算しなさいよ、今ならできるのよ、はやく、はやくっ、早く私のこと、殴って、犯して、好きに壊しなさいよ、早く!」

 ──刹那。

 それは、絶対に偶然だった。
 押しのけようと、手に力を込めたとき、右手が滑り、美玲のなか、奥底を引っ掻いた。


「あんっ」


 美玲の息が詰まり、焦るような顔をする。
 二、三回、深い呼吸を繰り返したあと、ぎゅっと目を瞑って、悔しげに、ひとすじ涙を流し、俯く。
 なかが一瞬広がって、きつく、きつく、小刻みに震えながら中指を締めつける。
 喉の奥からか細く、高い悲鳴が聞こえた。


「──おぇッ、げッ、ええ、かはっ、ぅ、げえぇえっ……」


 イったんだ、と理解した瞬間に込み上げた吐き気をそのままに、僕は床に向かって盛大に嘔吐する。びちゃびちゃ下品な音を立て、胃液が跳ね返る。鼻水と汗が汚らしく混じり合い、僕の顔を余計に醜くする。さして飲み食いしてなかったから、黄色っぽい液体のなかに固形物は見当たらなかった。

「……………ねえ……わたしの、こと……きらい、なんでしょ……?」

 ひどく揺らいだ、小さな声で美玲は言う。なにも答えることもできないまま、胃液に映る自分の顔を見つめ続けている。

指輪

「和泉、怖がってたよ。望のこと」
 ベットの上に寝転んで、美玲はゆっくり口を開いた。儀式のルールがとうとう破られた瞬間だった。窓から差し込む夕方の光はあいかわらず眩しくて目が痛かった。
「なんか、叔母さんたちには、望がやったって話してないみたいだったけど、私には教えてくれたよ。死ぬほど怖かったってさ」
 三週間経った今も早川にやられた傷はむちゃくちゃに痛む。特に右手の指。なにも持てないから、しばらく学校も休んでる。休みたいって言ってみたら、父さんも母さんも意外と簡単にそうさせてくれた。怪我をした日も、階段から落ちたって言ったらそれ以上は聞かれなかった。
 メールが来て、久しぶりに外に出た。寒さは少しだけ和らいでて、もうすぐ春が来る気配が街には漂ってた。
「望、なんで和泉と付き合ってたの?」
 体を起こして、美玲はベットから俺のことを見下ろす。やけに楽しげで、それがとても不安で、目を合わせずに部屋をあちこち見てたら、ピンク色のゴミ箱に使用済みのコンドームが入ってるのに気づいた。それからも目を逸らし、茶色の机に置かれた、二つのカルピスのグラスに浮いた結露を数える。
「……そっちこそ」
「え? 私が誰かと付き合っちゃ駄目? なんで? 望だって和泉と付き合ってたのに?」
 ちらっと横目で美玲を見る。笑いながら、口に手を当てる。その指にはキラキラした指輪がはまってる。子どもっぽいデザインなようにも見えたけど、それにしてはやけに光り輝いてた。
「ていうか、本当なんで和泉なの? 接点ないじゃん」
「それは、」
「言わなくて良い。当ててあげる」
 しぃ、と人さし指を立てる。そして、俺の額辺りを指す。
「初めて会ったのはママのお葬式の日。で、そのあとつきまとわれて、ズルズル付き合ってた」
 ほんのり笑いつつ、少し間を置く。
「違う?」
 居心地の悪さは消えなくて、俯いたまま、小さく首を縦に振る。そしたら、美玲はやっぱりねって手を叩いて、機嫌良さげに声を上げた。
「ぜーったい葬式の日だって思ってた! 和泉いつもそんなんなの。空気読めなくて、自分が注目されてないと拗ねるし、最近なんて変な漫画読み始めて、会うたび勧めてくるし、余計に悲劇のヒロイン気取りひどくなっちゃって、ママの葬式だってママが主役なのに大泣きして、勝手に出てっちゃった。私たち葬式そっちのけで走り回ったの。あれ、絶対嘘泣きなのにね!」
 高笑いはますます甲高くなっていく。風で窓が揺れるたび、橙色の光線が部屋を貫く。美玲の制服のスカートが動きに合わせて、かさかさ音を立てる。俺たちの間に変な空気が立ち込めていくのを感じてた。暖房から流れる温風とは違う、なんだかぬるぬるして、生温かいそれが完全にこの空間を飲み込もうとした瞬間、バンッと誰かが叩いたように窓が鳴った。
「本当、頭悪くて迷惑」
 ひどく冷めた声色。それを合図にしん、と部屋は静かになる。妙な空気に変わり、沈黙が俺たちを包む。重さがあるみたいに纏わりつく。美玲はなにかを待ってた。なにも言わずに。俺もそれを分かっていた。だから、唾を飲み込み、顔を上げた。
 不思議な表情だった。そこに感情があるのは間違いなかった。はっきりした二重瞼の下に光る大きく切れ長な目。見下ろされているから、長く豊かな睫毛がそれを飾るように並んでるのが見えた。白い肌に乗る、高く通った鼻筋や頰は夕方の光でよく染まる。真一文字に結ばれた薄い唇が自然な赤さに血色良く色づいてる。皮膚の裏に隠してるのは怒りじゃない。恐れでもない。喜びでもない。精巧で、なにも間違いがない。作りものに見えた。だけど、細い首筋に浮かぶ骨の輪郭や、スカートと靴下の間の肌にはりめぐる青い血管の模様が、たしかにこの人間は生きてるんだと物語ってる。俺はそのとき初めて、彼女を綺麗だと思った。
「……否定しないの」
 口を開け閉めする動きの一つ一つすら目の奥に焼きついて、まるで生きた彫刻を見てるみたいな気分になった。
「……なにを?」
「ぜんぶ」
 彼女のほうへ向き直る。もこもこした絨毯からはみ出たフローリングに触れると、ひんやりと冷たく、しかし、すぐに俺の体温が広がってぬるくなる。
「私が勝手に誰かと付き合っても良い? 和泉は頭が良い? そもそも望は和泉と付き合ってたの?」
 ゆっくりと、確かめるように言葉を発する。
「もしかして、和泉のこと、好きだった?」
 嘘はつけない。つくつもりもない。でも、なにも言えなかった。半開きのままの口から少しのぞいた彼女の白い歯。間違った答えを言ったら、それに噛みちぎられるって変な確信があったから。黙っていると、沈黙は傷に響くのを知った。右手と、背中が鈍く、膨らんでいくみたいに痛む。
「どうせなんにも考えてなかったんでしょ」
 俺が答える前に美玲はそう吐き捨てる。薄暗い部屋。白い壁に伸びた赤茶けた影は別の生きもののように揺らめく。つやつやした膜で湿った目玉の端には、ピンクの肉が埋まってる。
「誰のことも好きじゃないし、分かろうともしてないじゃん」
 望っていつもそう。
 棘が見えた、ような気がした。裏切り者、と言ったあの瞬間にも見えた棘。気づかない間に育ってたのか、それとも、初めから美玲が持ってたものなのか。ほとんど初めて彼女から向けられた明確な敵意と拒絶に俺は戸惑った。怒りこそ向けられたことはあっても。
「望は馬鹿だね。かわいそうになっちゃうぐらい。和泉も馬鹿。早川も馬鹿。私の周りは馬鹿ばっか」
 ふっ、となにかを思い出したみたいな顔をした。すると、また嬉しそうに唇を曲げて含み笑いをする。
「ああ、でも、望は馬鹿だけど、勉強は得意だもんね、ふふ」
 湿ってる、と直感で思った。今まで散々馬鹿にされてきたけど、それでも聞いたことがない。こういう笑い方が本当の「嘲笑」なんだと知った。
「来年、受験だね。勉強得意な望はどこ行くの? 花田第一? 私は櫻城って決めてるの、近いし」
 担任との面談の風景がよぎる。
 花田第一。ここら辺でも有名な進学校。
 俺たちの住む菊里町から一番近い櫻城高校は、その近いからって理由と偏差値が低いからって理由で色んなやつらが受験するところ。美玲だって数学以外は勉強できるんだから、櫻城はもったいないって散々言われるだろう。
「……決めてない」
「あっそ」
 なにか考えるみたいに美玲は口に細い指を当てる。唇が押されて、やわらかそうに凹む。銀の指輪はわざとらしく朱色にきらめく。どこかでそんな光を見たような気がするのに、どうしても思い出せない。
「あ、これ?」
 俺の視線に気づき、彼女も指輪を見る。窓のほうにかざすと、部屋中に夕日の光がまばらに反射する。ちゃちな飾りも光れば、それなりに綺麗だ。
「どう?」
「似合ってる、と思う」
「ふーん。私、これ好きじゃないんだけどね」
 正直に言えなくて空気を読んだら、そうやって一蹴される。俺はまた黙ってしまう。見つめ合っていたのは、多分、ほんの数秒間だった。それでも、その空白のひどい居心地の悪さで時間感覚はむちゃくちゃに歪む。息苦しさを感じ、自分が息をしていなかったと気づいたところで、美玲はふいっと視線を逸らす。そのまま、くたん、と壁に寄りかかり、両足を伸ばした。
「……ねえ、聞いてよ。これね、三万するの。デパートで万引きしたんだよ、すごくない?」
 早川たちが教えてくれたんだよ、という言葉の割にはつまらなさそうに、指輪を見つめてる。俺は俺で美玲が万引きをしたってことに大した興味を持てずにいた。そんなちっぽけな驚きよりも彼女がこれから俺に罰を与えるって予感への恐怖のほうが、今は数十倍勝ってた。傷はいつまでもずくずく痛む。
「でも、いらなくなっちゃった。デザインダサいもん」
 彼女は指輪を外して、そっと両手で握りしめた。背中を小さく丸め、瞼をわずかに伏せる。その姿はどことなく祈りのポーズに似ていた。やがて顔を上げると、また美玲は笑った。
「そうだ。望、これ返してきてよ」
「え」
「名案名案。ね、良いでしょ?」
「待って」
「なに?」
 美玲は目を細める。その瞳に宿った光で、たしかに彼女が本気で言っているんだって分かった。視線に怖気づいてしまっていたら、彼女は笑顔を崩さずに大きく舌打ちする。
「なにって言ってるじゃん。ちゃんと聞いてんの?」
「ごめん」
「謝罪とか今求めてないんだけど」
 ほんとイラつく。
 そうやって乱暴に言い放ち、俺の目の前に指輪を投げ捨てる。俺はそれを目で追う。ごん、と絨毯ごしに指輪が床と衝突し、重たい音を立てた。
「早く決めて」
 美玲は言う。
「自分で決めて」
 選択肢は二つだ。
 この指輪を取るか、取らないか。
 この頼みを引き受けるか、受けないか。
 美玲の罪を肩代わりするか、しないか。
 ちゃんと、二つある。
 どっちを選ぶのも、俺の自由なんだ。
 好きにすれば良い。
 すきに。
 俺が、決めれば、良い。
 俺が。
 ……俺が。

「…………なんで?」

 自分でも気づかない間に、俺は床に落ちた指輪を拾いあげていた。握りしめると手のひらにゴツゴツした装飾が刺さる。かさぶたにそれが擦れて痛い。それでも強く、強く、このまま潰れちまえ、と願うほど握りしめてた。
「なんで、そんなこと、するの」
 半笑いで美玲は俺に聞く。その笑いもすぐに消える。
「なんで」
 急かすような声色で言われて、からからになった口をようやく開く。
「……俺は」
「俺?」
 美玲はぐっと顔を近づけてきた。
「いつから、自分のこと、そんな風に呼ぶようになったのよ」
 少し見開いたせいで黒目が小さくなる。長い睫毛に縁取られたそれに吸い込まれそうになる。
「似合わない」
 唐突に頰に触れられ、背筋に震えが走る。さながら蛇に睨まれた蛙だった。美しく成長した美玲のことが恐ろしくてたまらないのに、身動き一つとれない。

「教えて。どうして、私のこと、守ってくれるの」

 細くて白い指が唇をなぞり、そのまま口内に侵入してくる。無理矢理口を開かされ、舌を掴まれる。

「ねえ。ちゃんと答えて」

 表面を撫でられた、と思ったら、一気に喉奥まで指を突っ込まれ、酷い吐き気が込み上げる。じわりと汗が滲み、吐き気を堪えようとしたら、干からびていたはずの口の端からだらしなく涎が垂れる。その間も舌は撫でまわされている。

「昔、みたいに」

 気が、狂う。
 現実感が消えていく。
 気持ち悪い。
 こわい。
 目が、口が、指が、ぜんぶが。
 し、ぬ。
 殺され、る。
 早く言わないと。
 殺される。
 美玲に。
 食い殺される。

「僕、は」

 早く。

「なに?」

 はやく。

「ぼく、は、ぉえ、ひゃ、やさひぃ、げぇ、ゃさし、ぁら」

 ころされる。

「もういっかい」

 しぬ。

「僕、は、優、しい、から」

 口から指をずるりと引き出すと、唾液が糸を引く。何を思ってるのか、何を考えてるのか、自分でも分からなくて、唾液にまみれた彼女の指が夕日に照らされ、てらてら光ってるのを黙って見つめていた。
「私、望のそういうところがね」
 美玲は笑った。薄くて形の良い唇が持ち上がり、目は安心したように細められる。
「…………だいきらい」
 そう呟くと、彼女は濡れた指をちろ、と舐めた。
「大っ嫌いよ。あんたなんか」
 力が抜けて、手から指輪が落ちる。
 頭のなかでその音が響く。
 心臓を掻き毟るみたいに、美玲の声が反響する。
 今も響いてる。


 帰り道。
 そのまま彼女が指輪を盗んだデパートに行った。
 係の女の人に言ったら色んな大人が飛んできて裏の部屋に連れてかれた。
 名前とか学校名とか聞かれてるうちに父さんと母さんが部屋に駆け込んできた。
 なんでって聞かれたからなんとなくって答えた。
 ぶん殴られた。
 痛かった。
 産まなきゃ良かったって言われた。
 こっちだってそんなこと頼んでなかった。


 警察の人に本当にやったのは君? って聞かれたけど、そうですって言っておいた。
 金額が金額だからこっぴどく叱られた。
 でも、学校には連絡しないって言われた。
 甘いなって思った。


 それでも、学校に行ったらなんとなく噂が広まってた。
 多分、言いふらしたのは美玲なんだろう。
 風の噂で「宮田望がいじめられています」って事前アンケートに書いたのは早川だって知った。
 風の噂で新井はまだ櫻城駅付近でふらついてるって知った。
 三年生になって早川とクラスが離れた。
 早川とも新井とも美玲ともそれ以来話してない。


 担任はまた前田先生だった。
 前田先生は三年の途中で病気になった。
 知らない先生に担任が変わった。
 受験した。
 櫻城高校を受けた。
 色々言われた。
 受かった。
 卒業した。
 前田先生は教師を辞めた。


 高校でも友だちはできなかった。
 勉強は難しくなかった。
 だから授業中は暇で散々考えた。
 美玲は次はなにを頼んでくるんだろう。
 なんとなく、人を殺して、と言われる気がした。
 もしそうなればうちの加工場で解体するのだろう。
 バラバラにしたらどこに捨てに行こうか。
 パンッと銃声が鳴り、少し開いた窓からグラウンドを見下ろすと、体操服姿の美玲が走り出すのが見えた。
 ゴールしたあと、地面に座って友だちと楽しそうに話してるのが見えた。
 吹き込んだ生温い風で数学のノートがぺらりとめくれる。


 夏休みが来る。
 部活にも入ってないから長くて暇な夏休みが来る。
 宿題をして、宿題をして、終わって、飽きてきて。
 そのぐらいにお盆が来る。
 父も母も田舎に帰省するが連れていってはもらえない。
 毎年そうだともう慣れたもので、冷蔵庫から残りもののコロッケを取り出して、今日も一人で夕飯を食べる。
 テレビをつけるとニュースキャスターが最近起きた殺人事件の続報を伝え、そのあとには地方のレジャースポットの紹介が始まる。
 行楽シーズン。
 楽しげな家族連れがプールで遊ぶ姿が映る。
 プールや海へ最後に行ったのはいつだったか。
 ああ、多分、小学生の頃、美玲の家族と行った以来だ。
 海で遊んだ思い出はまったく残っていなくて、なぜだか帰りの車の記憶ばかりが巡る。
 ずっと、ずっと、自分だけが夕焼けのなかに取り残されている。
 瞼の裏はいつだって眩しい。
 それでも、煩わしかった夏の橙色の空は、世界は、ようやく青に沈みゆく。
 どれほど長かろうが、どうしようもなかろうが、時間は立ち止まらずに進み続ける。
 夜は来る。


 ふいに電話が鳴る。
 コウシュウデンワと書かれている。
 少し考えて、僕は受話器を取る。


「もしもし?」

逃避行

 薄暗い無人駅がぼおっと檸檬色に染まり、電車がやってくる。夜も更けてきて、まばらだった人影もとうとうゼロになった。予想通りの人気のなさ。二人揃って降りたら目立つだろうと、時間をずらして集合することに決めたのは間違いじゃなかった。駅付近のベンチ、監視カメラに映らない場所に腰掛けていると、聞き覚えのあるヒールの音が響く。それに反応して、改札のほうを見る。
「みれ……?」
「あはは……」
 現れた美玲は苦笑いする。僕も困惑する。彼女の着るワンピースの裾を、なぜか小学生になるかならないかぐらいの子どもがしっかりと掴んでいたのだった。
「なに、その子?」
「いや、あの、迷子? らしくて……」
 子どもは苦手だ。美玲もそうらしく、若干怯えたようにも見える笑みを貼りつけたまま、子どもに問いかける。
「どこ行きたいんだっけ?」
「さくらぎちょう」
「え、櫻城?」
 ネオンがギラギラ灯るあの街。こんなガキが? しかも、こんな時間に?
「ここ。おじちゃん住んでんの」
 背負ったリュックから子どもはスマホを取り出し、僕らに見せる。液晶に映っていたのは乗り換え案内のページだった。聞いたこともない、多分ずいぶん遠くの駅名から、矢印が伸び、最後には「櫻城」に行き着く。
「途中で乗り間違えてるみたい。逆方向来ちゃってる」
「『藤井海岸』って『櫻城』と路線一緒だよね」
「多分」
 そう言うと、美玲はちらっと子どもを見下ろす。少しキツめの、でも、大きくなったらモテるんだろうなって顔立ちの子どもも彼女を見つめ返す。美玲が困った様子でこっちを見るから、僕はしゃがんで子どもに目線を合わせる。
「こっちじゃなくて、向こうにも入口あるの見える?」
 踏切のほうを指さすと、子どもは頷く。
「そこから入ってしばらく待ってたら、そのうち電車が来るから。それに乗って……」
「待って、メモする」
 子どもはスマホのメモ機能を起動する。画面に触れ、キーボードが表示されたら、慣れた手つきで文字を打ち込んでいく。
「良いよ」
「えっと……来た電車に乗って、ここから七番目の駅がね、『櫻城』。着いたら『さくらぎ』って言われるから、ちゃんと聞いておくんだよ」
「七番目が『さくらぎ』……分かった」
「……でも、櫻城町って少し危ないところよ? その……おじさんは駅で待っててくれてるの?」
 美玲もしゃがみ込んで聞く。すると、子どもは顔をくしゃっと歪めて首を横に振った。僕と美玲は顔を見合わせる。
「…………ママとねケンカした」
「お母さんと?」
「うん。なお君ん家……あっ、おじちゃんの家ね、前行ったからもっかい行く、ケンカしたから」
「家出ってこと?」
 美玲はどちらかといえば僕への確認の意味を込めたように言う。子どもは意味をきちんと分かってるのか知らないが、うん、と一応頷いた。この年で家出とは大したものだ、とのんきに思っていると、子どもはスマホを見ながら、もう行く、と言った。
「ついてかなくて大丈夫?」
「また誰かに聞く」
「でも」
「美玲」
 彼女の肩を掴んで引き止める。その拍子に、僕の肩に引っかけてあったリュックのなかで、ビニールががさ、と音を立てる。美玲は子どもを見て、僕を見て、観念したように頷いた。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん。ね、どこ行くの?」
「え?」
 子どもはもう一回、どこ行くの? と聞いてくる。唐突な質問に戸惑った美玲の代わりに僕が言う。
「だから、あっちの改札の、」
「あっ、違う違う、違うってば」
「ん……? あ、僕たちのこと?」
「うん。そう」
 今度は僕が困る番だった。海、と答えれば良い。相手は子どもで、きっとなにも思わない。でも、それを、そのおじちゃんとやらに言ったらどうしよう。人が寄りつかない場所だと、櫻城町に住んでるなら知ってるだろう。この肉片が見つかったら、おじちゃんは僕らを不審に思うかもしれない。めんどくさいことになった。
 そんな風に、一瞬の間に考えを巡らせていると、美玲が口を開いた。
「私たちも家出してきたの」
「へえー」
「二人でね、ママから逃げてるんだ。だから、ここで私たちと会ったの秘密ね。ママに捕まっちゃう」
「あーそっか。じゃ、かなめと会ったのも秘密」
 かなめ。それが子どもの名前らしい。しーっと人さし指を立て、子どもは初めて笑った。
「ばいばい」
「うん。さよなら」
 子どもは大きく手を振ると、踏切のほうへ駆けていく。手を振り返す美玲をなにげなく見れば、その横顔は笑っていながらもどこか寂しげで、なんとなく見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、閉じる踏切のバーの向こうに小さな後ろ姿が消えてしまうまで黙っていた。
 ふいに意を決したように彼女は立ち上がる。僕も立つと、生温かい風が吹いた。潮のにおいを強く感じる。美玲にもらったヘアゴムから出た後毛は、僕の顔をくすぐるみたいに揺れた。彼女も自分の長い髪を押さえながら、静かに俯いている。
「…………ごめん」
 余計なことして。
 下を向いているのと、身長差とが相まって、彼女の表情はまったく分からなかった。
「気にしてないよ」
 僕が言ったら、彼女は手をこちらに伸ばしかけ、でも、すぐにそれを引っ込める。
 かんかん、と高い音が響き、駅のホームに電車が入っていくことに気づく。良いタイミングだったみたいだ。子どもはちゃんとあれに乗れるだろうか。警告機の赤い光が闇を切り裂くように光っている。
 美玲は電車を見送ると、歩き始めた。僕も追いかける。藤井海岸へようこそ、と書かれた看板は潮風でぼろぼろに錆びていた。横目でそれに気づけば、僕らは朽ちたアーケードの下を通り、商店街の遺跡に足を踏み入れる。
「懐かしいね」
「……うん」
 そう返事をした。歩幅の差で美玲にすぐに追いついて、抜かしそうになり、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。彼女の履くヒールの音が遠く響く。
「ここさ、昔、家族で来たよね」
「うん」
「藤井海岸なんて遊ぶとこ、ほとんどないのに楽しかったよね」
「うん、すごく楽しかった」
 こんな場所でもかつては賑わいがあったのだろうか。シャッターが開いてる店は当然なく、店名すら読めなくなるほど年月にさらされていた。タイル貼りの地面は所々剥がれ、粉っぽく破片を散らしている。
「この通りでこけたの覚えてる? 海岸まで競争して、あんた、負けそうになって、ムキになっちゃってさ」
「覚えてるよ。痛かったな」
 ぴたと美玲は立ち止まった。僕のスニーカーの裏と破片が擦れて、ざり、と音を立てる。
「美玲?」
 しばらくなにも言わず、彼女は伏せた目をしばたたかせる。その視線の先、美玲の足元には一匹、蝉が仰向けになってひっくり返っていた。死骸かと思ったら、ジッと一つ鳴く。羽をばたつかせて、そのま地面をすれすれにでたらめな低空飛行をし、また死んだように少し離れた場所で転がった。
「…………ここで、競争なんかしたことないわよ」
 美玲はぽつり、とそう言った。
「覚えてないなら、覚えてないで、良かったのに」
 商店街全体に張られた屋根は穴だらけで、そこから射す月光が僕らをまだらに照らしている。能面のような、作りもののような彼女の面持ち。かすかに、さざなみの音を風が運んでくる。海で遊んだ、ということは覚えているのに、いくら記憶を辿ろうとどうやって遊んだのかは蘇ってこなかった。
 美玲の手に触れる、恐る恐る。しっとり汗ばんだ、お互いの手のひらが溶け合うように馴染んでいく。昨日の夜とは違う、肉の臭いがしない触れ合いだった。やがて、彼女は僕の手を優しく握り返してきた。そうして、また歩き出す。僕は口を開いた。

「……海に行った、帰り」
 
「美玲、寝てたから、覚えてないかもしれないけど」

「夕焼けを、見たんだ」

 こんな風に手を繋いで歩くのなんて何年ぶりだろう。思い出せないけれど、それこそ小学生以来かもしれない。

「火事みたいに真っ赤で、皆の顔もオレンジ色になってて、眩しくて」

「全部、本当に綺麗だったんだよ」

 青い闇に僕らをは沈む。まるで深い海の底にいるように錯覚する。細やかな穴からのぞく月光が、群青の暗がりを生白く明らかにする。

「それはちゃんと覚えてる」

 湿って重たい空気を掻き分けるみたいに進む。汗で滑る手を握りなおす。
 前、遊んだときもきっとこんな風に手を繋いだ。なんとなく、覚えてないのに確信めいたものを感じていた。手を繋いで笑った。笑って遊んだ。遊んで手を繋いで笑って、笑って、なにも知らずに、ただ、子どもたちは刹那の幸せを噛みしめていた。もうすぐ、自分たちの身になにが降りかかるのかも、知らずに。

「だから、綺麗な夕焼けを見ると、なにしたのか思い出せなくても、美玲と遊べて楽しかったなあって思い出せるんだ」

 でも、もうその子どもはいない。
 小柄で能天気にはしゃいでいたはずの少年も、少し勝気に輝くような笑顔を見せていたはずの少女もいない。その代わりにここで息をしているのは、生気のない表情でこわばる美玲と、根暗で馬鹿で最低な僕の二人で、一体なにをしてるんだろう、と思った。
 人々に捨てられ静まる街。思い出のなかに取り残された道。僕らの手と手のわずかな隙間にあったのは、絶望的なまでの時間の隔たりと濃密な死の気配だった。死んだ子どもの抜け殻を被って、ただの犯罪者なんかが無知の真似をして、そんなの滑稽なだけなのに、そんなことしたってあの日からのすべてを帳消しにできるはずもないのに、僕らはどうしようもなく生きつづけている。僕らは知りすぎた。僕らはあまりに罪を犯しすぎた。

「覚えてなくてごめん」

 ふいに目が眩む。白黒する視界に戸惑い、まばたきをして宙を見上げると、屋根は途切れ、商店街の終わりを告げる。

「……でも、今日は、月が綺麗だから、覚えてられる、から」

 街灯もない、無粋な闇は久しぶりに月の眩しさを感じさせた。目が痛くなるほど青い夏空とは似ても似つかない群青の闇と、月光の明るさに向かって、すべての罪悪に対する懺悔の言葉を唱えたくてしょうがなくなった。目の前にはフジツボだらけのブロック塀と、真っ黒な海が広がっている。

「絶対……忘れないよ」

 ──僕が死んでも。

 そうやって答えた瞬間に、手を強く引かれ、僕はよろめき目を瞑る。

「…………約束して」

 無理な体勢で転ぶのを堪えた。音波の形が分かるぐらいに近くから、彼女の声がした。目を開くと、美玲の顔があった。

「私のこと、忘れないで」

 返事も待たないで、彼女は僕の唇に触れようとする。唇と唇が重なる瞬間、はっとして身をこわばらせる。彼女のおぼろげな体温が伝わってくる。
 しかし、僕たちがキスをすることはなかった。ぽた、と落ちてきた水滴が頰を伝い、唇を濡らす。かすかに流れ込んでくる、温かいそれは海水と同じ味がした。

「わすれ……ない、で……」

 雲が流れ、月は陰る。指を絡ませて、恋人みたいに、なにか確認するみたいに、手を繋ぎなおす。密に接する手首ごしに彼女の脈拍を感じる。僕は、忘れない、と何度も繰り返した。ぽつぽつと夕立のように涙は落ちてきた。
 体勢を立て直して彼女を抱きしめる。そのうち、美玲も僕の背中に手を回してくる。
 僕のほうが低かったはずなのに、いつのまにかこんなに背丈の差が生まれていた。すっぽり腕のなかに収まる、小さな彼女を僕は恐れている。そうでありながら、僕は彼女から離れられないでいる。
「……行こう」
 胸元に埋めた顔を上げ、美玲は言った。もう、時間がなかった。


 藤井海岸は海水浴場ではない。
 浜辺に降りる階段を見下ろすと、満潮で歩けそうな場所は少ない。そのうえ、階段自体が老朽化が進んでいて、下手すれば崩れ落ちてしまいそうだった。そうしたら、海面からのぞく鋭い岩に串刺しにされるか、叩きつけられるかして死ぬ。あの岩場がこの海岸にほとんど人が寄りつかない一番の原因だった。人が寄りつかないから、防犯カメラすら付近には設置されていない。
「あそこから落とそう」
 赤錆だらけの双眼鏡が一つだけ置かれた岬を指さす。美玲も頷いた。リュックから袋を取り出す。岬へ移動する。
 黒いビニールで包んだから中身は見えない。ぶよぶよして、ひんやりと冷たいそれに触れていると、じわじわと僕の体温が滲んでいく。
「私やるよ」
 美玲は言ったが、僕は首を振った。
「僕が、やりたいんだ」
 それ以上はなにも言われなかった。リュックを下ろし、海を覗き込む。転落防止の柵に少しもたれかかったら、それだけでぼろ、と一部が崩れて、ちょっとゾッとした。柵から離れる。
 普通に落とそうと思って、でも、すぐにやめる。海のほうに向きなおり、腕を肩より少し高く上げた。


 手ばっかシューチューしてっから、上手くなげれねーんだよ

 そーそー。もってるほうの足、前に出して

 反対の足上げて

 体重かけながらふみ出して

 地面に足が着いたら

 一緒に上半身を回転させながら腕を振り下ろして

 上手い上手い

 で、肘が伸びきったところで、


『手を離せ』


 肉塊が空を切る音に混じって、雅人の声が聞こえた気がした。
 軌跡は綺麗な直線を描く。黒い袋は飛んでいく。早く、そして遠くまで。どこまでも、永遠に、そのまま飛んでいってしまうようにも思えた。それでも永遠なんてありえなくて時間は止まらないから、やがて袋は闇に吸い込まれるみたいに見えなくなって、最後にはちゃぷん、と水に沈む音が響いてきた。
 上がった片足を下ろし、またまっすぐに立つ。長く息を吐いて、耳をすませた。淡く吹く風で、服が揺らめく。波の音。想像以上に大きくて重たいその響きは巨大な生き物の寝息のようで、空気と僕の体内に巡る血液をびりびりと震わす。それ以外にはなにも聞こえなかった。呪詛の一つでも聞こえれば良かった。でも、深海へと沈みゆく、細胞のひとかけらまで死に絶えた肉が、聞き慣れたあの声を発することはもうなかった。
 そっと手に触れられる。触り返すこともできずに呆然としていたら、今度は包み込むように手を握ってきて、僕は思わず彼女の手を振り払った。
 はっとして、美玲のほうを向く。振り払われて宙ぶらりんになった手に、彼女はもう片方の自分の手を重ねる。
「もう、帰らないと」
 伏し目がちに、美玲は言った。何時なのかは知らないけれど、夜の深いところにいるのは分かっていた。
 リュックを拾いあげる。乱れた髪を耳にかけ、黙って僕は歩き出した。しかし、三、四歩ほど進んだ辺りで足を止めて、振り返る。
「美玲」
 背後に広がる海の黒さとは対照的な、彼女の白いワンピースがひらめく。急かしたわりに動こうとしない美玲に、今度は僕が手を伸ばす。その手に彼女は触れてこなかった。

「…………このまま、ふたりで、逃げない……?」

 そうやってかすかな、波の音にかき消されてしまいそうな声で美玲は言った。
 くら、とふいにめまいが襲う。溶けた視界と彼女の台詞に困惑して、は、と疑問符のような、ため息のような短い息を吐いた。
「なに、言って」
 もし、逃げたら。
 行方不明者の恋人。
 同時に消えた、その二人の「幼馴染」。
 そんなの怪しまれるに決まってる。
 今までの苦労が全部水の泡になる。
「……明日、多分、早川の家の人たち、警察に通報するよ」
 ──あ。
 そうだ。
 なんで、気づかなかったんだろう。
「明日」、警察に通報。
 早川が死んでからこんなに時間が経ってるのに、美玲のスマホにも、ましてや僕の家にもなんの連絡も来てない。
 そんなのおかしい。
 だって、そんなの、まるで「まだ誰も早川がいなくなったことに気づいてない」みたいじゃないか。
「私、明日の夜まで早川と旅行してることになってるの」
 美玲は淡々と続ける。
「遠くまで行く予定だったけど、新幹線の関係で急に中止になって、早川は私の家に泊まってた。あいつ、今家族と仲悪いから、旅行中は連絡すんなって言ってたのよ」
 唐突な予定変更。
 意図的に遮断していた連絡。
 帰ってくるはずの日に戻らない息子。
「待って、それじゃあ」
 ふいに背後から風が吹く。息ができないほど強く、そして、生ぬるく。雲が漂い、また月が顔を出す。
「殺人。死体損壊。死体遺棄」
 彼女は乾いた笑い声をあげた。
「あんたが手伝っても手伝わなくても、一番最初に怪しまれるのは私」
 泣き腫らして血のように赤く潤む瞳。月の光を吸い込んで、綺麗な黒髪は艶めく。空を仰ぎながら高笑いし、美玲はよろよろと転落防止柵に手に置いてうずくまる。
「あー、おっかしい! あんた本当に馬鹿! 考えたらわかるでしょ⁉︎ 私が疑われないはずないじゃない!」
 火花が散るみたいに、 星々はたくさんの色に燃え、夜空を彩る。大きな月を背に、青く陰る彼女は笑う、泣く。
「なんでいつもそうなの、なんで助けちゃうのよ、あんたがそんなだからまた我慢できなくなるのよ、ねえ‼︎」
 次々にこぼれる大粒の涙が水晶のようにきらきらと光っていた。頭を抱えて、絶叫する美玲に一歩、二歩と近づく。

「同情してるのか知らないけど後始末もできないくせにいっつも変に手出してさあ!」

「ピョン太も和泉も早川もあんたの中途半端な優しさに壊されたのよ!」

「そのせいで傷ついてるのもあんたじゃないの⁉︎」

「なに考えてるのか、なに思ってるのか、一回だって話したことある⁉︎」

「嫌いなら嫌いって言いなさいよ‼︎」

「私がどんな思いであんたに話しかけてたかなんて一回も考えたことないんでしょ⁉︎」

 丸まった肩に触れると、勢いよくはねのけられる。それでも細い体を抱こうとすれば、癇癪を起こした子どもみたいにじたばた暴れる。胸を握り拳で何度も叩かれ息が詰まりつつ、むちゃくちゃに振り乱す髪を掻き分けて彼女の頰を両手で包む。
 唇を、美玲の唇に押しつけた。
 その拍子に飲み込んだ叫びの端くれが、僕の喉奥をむずがゆく震わせる。ひっ、と変な声を出し、彼女の体が硬直する。途切れる悲鳴。涙で濡れる手のひら。ぎゅう、と服にしがみつかれ、かすかに瞼を開いたら、見開かれた目がまどろんだように、それでいてひどく悔しげに、ゆっくりと細められていくのが見えた。

「…………のぞ、む……」

 ほとんど吐息と同じくらいの囁きに強烈な違和感を覚え、すぐに、そうやって彼女が僕の名前を呼ぶのがとても久しぶりだったからだと気づいた。
 そっと顔を離して、ただじっと見つめ合っていた。細やかに揺れる美玲の眼には僕が映っている。光の加減のせいで自分がどんな表情をしているのかまでは分からない。そうしているうちに、力なく彼女はもたれかかってきて、温かく胸の辺りが湿っていく。
「……ほんと……ず、るい……そうやって……いつも……」
 絞り出すように、憎たらしげに言う。
「ごまかさ……ないでよ……だいきらい……だいっ、きらい……」
 嫌い、と何度も繰り返す最中、美玲、と小さく一度呼びかけると、僕の顔を見る。その表情がくしゃ、と崩れて、彼女は口をかすかに開く。
「…………こ、こ……わい」
 そうやって言う。
「……こわい…………こわいよ……」
 縋りつかれて、熱にうなされる子どもをあやすみたいに、背中をとんとんと軽く、断続的に叩いた。嗚咽のせいで切れ切れになり、聞き取りづらい言葉を遮りたくなくて、呼吸すらまともにできなかった。
「なんで……助けて、くれるの……なんで……なん、で……」
 美玲は僕の腕に顔を埋め、僕もまた彼女の髪に顔を埋める。とても長い時間そうしていて、やがて体を離し、立ち上がろうとすると、逃さないと言わんばかりにきつく、きつく抱きついてくる。
「行かないで!」
 一人にしないで。
 小さく叫んで、僕の動きに引きずられるように半端に立ち上がり、美玲は顔を上げる。
「わっ、わたし、悪い、子だから、望、いないと、べんきょ、うできない、がっこ、いけな、い……い、こわいっ、殺されちゃう、またひところしちゃう……」
 息を大きく吸い、ゆっくり吐き、迷うように黒目が動いて、わななく唇から言葉をこぼす。
「のぞむがいない、と、生きて、けない、の……」
 締めあげようとするみたいに両手で僕の首に触れる。僕もそれに片手を重ねる。髪が強い風で混ざり合う。一瞬息ができなくなる。

「ぜん、ぶ、なかったことに、できな、いってわかって、るけど」

「だっ、だれ、も、わたしたちのこと、し、ら、ないばしょで、やりな、おせ、せ……たら、いいのにってずっと、おもっ、てた」

「ゆるして、なん、て、いわな、いから」

「のぞむ、」

 涙でしとどに濡れた頰を拭ってやれば、瞼を下ろし、その隙間からまた新しい流れが生まれる。

「…………ずっと、いっしょにいたいよ……」

 泣きじゃくる彼女に頬寄せる。柔らかな皮膚の下、巡る血の温かさ、輪郭を構成する骨組みのかたさ。
 互いの生を確かめあうような触り合い。美玲が生きているという実感は今まで何度、僕の心臓をざわつかせただろう。例えば、こんな荒れた海のように。でも、今はなぜだか穏やかな気持ちだ。
 耳の奥、こめかみ、首の太い血管。心臓は規則正しく脈を打つ。命の音はなににも掻き消されず、ひどく鮮明に僕の体中から聞こえていた。僕も、ちゃんと生きているんだ。そんな風にようやく悟った。背中を押すみたいに、風がいっとう強く吹く。

「美玲」

 そう呼べば顔を上げる。
 互いの視線が交差する。
 僕は瞼を細めて、笑う。
 美玲の肩に両手を置く。
 ゆっくりと、口を開く。



「──甘えんなよ」



 渾身の力を込めて、彼女の体を押し出した。
 転落防止柵は容易に崩れ、美玲の肢体は宙に浮く。
 なにか掴もうとして、細い手が伸びる。

 鼓動の音だけが聞こえる。
 コマ送りのように世界は動いていく。
 重力は完全に消え去っている。
 浮遊した感覚のなか、僕は彼女に手を伸ばす。
 互いの視線が触れ合う。



「  」



 空気が震えた瞬間に世界が正常に動き始める。重力を取り戻した彼女は白い残像になる。甲高い悲鳴が闇を劈いて長く伝わる。最後にはどぽん、と音がして断末魔は不自然に途切れる。

 息をするのを忘れていた。走ったあとみたいに呼吸は乱れ、僕の思考を妨げる。すう、と吸い込んだ酸素は血液に溶け込み、体中を巡る。内臓に溜まる二酸化炭素で流れは浸されていき、また汚れきった気体となって僕の体から吐き出される。その繰り返しのうちに、血液は二酸化炭素と一緒に、臓腑の奥底に隠していた感情まで吸収してしまって、吐き出す空気は次第に笑い声へと変わっていった。
 
「ばーか!」

 思いっきり息を吸い込んで叫ぶ。

「あっはは、はは……は……」

 子どもじみた言葉は夜の空気に溶けて消えていく。

「ふざけんなよ、くそったれが」

 馬鹿みたいに、久しぶりにゲラゲラと笑い、痛む腹を抑える。ずっと笑ってるのに、木霊する僕の笑い声は反響して切れ切れになっていて、それもなんだかおかしくって余計に笑い転げた。

「なーにが一人じゃ生きてけないだ、散々寄生しといて死ぬまで面倒見ろってことかよ、ほざきやがって」

「全部あんたのせいってどのツラ下げて言ってんだよ、兎でヒス起こしたのも指輪盗んだのも人殺したのも全部お前の勝手だろ」

「いっつもお前のなかじゃお前が一番かわいそうなやつでほんっとめでたい頭してるよなあ……こっちだって苦しんでるのに、汚れ役ばっか押しつけて尻拭いさせんのも、いい加減しろよ」

「お前のせいで人生台無しだ……お前の周りの連中も馬鹿しかいない……反吐が出る」

「イキって……ははっ……正義振りかざす野郎も……すぐ股開く、クソガキも……お前の、過保護親も……ジジイもババアも……」

「全部……おまえの……せい、で……」

 おかしい。死ね。殺してやる。ばーか。あほ。消えろ。死ね。しね! 殺す! 殺した! もうなんにもない!

「──だいっきらいだ‼︎」

  美玲の最期の顔! 笑えてしょうがない! 目がありえないぐらい開いてて、泣いてたせいで真っ赤で、口から少しだけ白い歯が見えてて、「あ」の形だったのが次第に弧を描いて、なんだか泣きそうな顔になって、なぜだか嬉しそうな顔になって、それで!

 それで。



『 す』


『き』



「…………違う」

 乱暴に頭を掻き毟る。括っていたゴムがとれて、痛んだ髪が視界を遮る。

「違う! 嫌いじゃない‼︎」

 脳内でなにかがばちばちと音を立てて、切れていく。それに呼応して、せき止められていた感情が涙と一緒になって流れ出る。

「違うんだ! 僕も好きなんだよ!」

 やさしいからたすけてくれたの?
 やさしいんでしょ、望
 私、望のそういうところがね、だいきらい

 そんなんだったら、優しいふりなんてしないでよ

「美玲だから助けたんだ‼︎ 美玲が死ぬほど好きだから助けたんだ‼︎」

 みれいがぼくのことよんだから、がんばったんだもんな。
 美玲は、そしたら、泣き止むの?
 僕、は、優、しい、から

 そんなに嫌なら、そんなに嫌いなら、もう構うなよ。
 ずっと、辛いんだ

「違う‼︎ ちがう……! 好きなんだよ……死ぬほど好きなんだよ‼︎」

 なにも嫌いじゃない。誰も嫌いじゃない。父さんも母さんもおじさんもおばさんもピョン太も新井も雅人も誰も、美玲も、嫌いじゃない。なにもかも嫌いたくない。全部、好きだ。そのなかでも美玲が一番で、守ってあげたくて、あのときだって死んでもいいって思えて。
 セックスしたかったんじゃない。恋人になりたかったんじゃない。好きになってほしかったんじゃない。ただ、普通の、幼馴染に戻りたかった。家が近くで、親同士も仲が良くて、昔はよく遊んで、今はもう遊ばない。それで良かった。美玲が、一人で、幸せに、歩いていけるなら、それで良かった。よかった。充分すぎるぐらいだったんだ。

 柵の向こうに踏み出そうとして、黒い海面を覗き込む。生白い月の光が崩れて散り、また集まって丸い形を成す。黒の中の白は、闇を切り裂くような明るい正しさを纏ったものではなく、罪人を誘い引きずり込むような禍々しい冷たさを感じさせた。それが恐ろしくて、苦しくて、逃げ出したくて、死にたくなくて、どうしても一歩先へと足を進めることができなかった。
 立っていられなくなってその場に崩れ落ちる。月だけが僕のことを見つめている。裁こうとしているのだろうか。嘲笑っているのだろうか。

 ぜんぶ、ぼくのせい。
 どうして、あの時ちゃんと、みれいがすきだからだよって言ってあげられなかったんだろう。ごめんなさい。うそついてごめんなさい。

 全部、ぼくのせい。
 ごめんね、ピョン太。いたかったよね。苦しかったよね。つらかったよね。ごめんね。ぼくのこと、きらいままで良いからね。いつかまた会ったら、ぼくをかみ殺して良いからね。

 全部、俺のせい。
 新井のことだって嫌いじゃなかった。こんな俺を頼ってくれて嬉しかった。でも、一緒に死ぬ気持ちにはなってあげれなかった。ごめん。殴った痕はもう消えた?  髪は元の長さにまで戻った? ごめん。あんなに傷だらけにしてごめん。

 全部、僕のせい。
 好きだと言えなかったこと。ピョン太を殺したこと。新井を殴ったこと。
 犯してきた間違いが山積みになって意思を持つ。その刃の切っ先が向けられるのが自分ではなく、周りの人間だなんて本当にどうにかしている。雅人さえ、最後まで見捨てようとしなかった親友さえ、僕は解体した、生を蹂躙した、裏切った。腐るほど言われた「優しさ」なんてもの、僕の身の内には微塵も存在せず、醜悪なほどの自分かわいさでこの命は浸されていた。恥。恐れ。盲信。希望。この期に及んで、死にたくないと僕は自分で自分を守ろうとしている。
 誰か、僕を殺してくれ。ここから踏み出せない僕を突き飛ばして、裁いてくれ。償わせてくれ。消してくれ。そう望んだって背後から手が伸びてくるわけもなく、僕はただ泣き叫ぶことしかできなかった。

 美玲。
 好きだ。
 そんな言葉じゃ足りないぐらい好きだ。
 死んでも良いぐらい好きだ。
 殺したくなるぐらい好きだ。
 好きなんだ。
 すき、だった、んだ。

「うそじゃ、ないんだよぉ……」

 好きとか愛してるとかそんな言葉を吐き出すだけなら簡単で、じゃあその思いは嘘偽りでないのだと証明するためにはなにをすれば良いんだろう。死んでも良いのに死ねない。好きと言っても返事をしてくれる人はいない。喀血するほど繰り返す、陳腐な愛の言葉が意味を持つことは二度とない。もう遅い。もう、なにもかも手遅れだ。
 服にはほんの少しだけ、自分以外の熱が残っていた。それを逃したくなくて、身を縮める。
 纏わりついた蒸し暑さを、わずかな美玲の体温を冷ますように、やわらかく生ぬるい風が吹く。強い潮のにおいは、ぼんやりとした子ども時代の思い出を呼び覚ます。

 ぼくの家族と、美玲の家族で一緒に行った海の帰り道。海のにおいと美玲の匂い。差し込む夕日。ぼくは安心して目を閉じる。

 その記憶を反芻するように瞼を下ろす。冷えた涙の痕を伝って、また新しく熱い涙が垂れ流れていく。

 人間の記憶は脆く儚い。
 さっきまで一緒にいた女の顔を思い出そうとしても、はっきりとした像を結ばず、無邪気に笑う少女の顔になり、包帯を巻く虚ろな目をした少女の顔になり、悪意を持って嘲笑う少女の顔になり、また靄がかかった女の顔になる。
 女が輪郭を持たぬ口を開くと、いやに生々しく唾液が糸を引く。
 僕はそれが恐ろしくてしょうがなかった。
 伸ばす手もなく、呼びかける資格もなかった。
 どうすることもできずに、泣きながらおぼろげな記憶をなぞっていると、女の体は次第に溶けてゆく。
 そうして、最後には、瞼の裏の闇のなかで女の姿はほどけてしまった。
 ふわりと、命の重力を奪われた白い残像は、ゆっくりと、深海まで、地獄まで、落ちていく。
 それでも、僕は生きている。
 美玲がいなくたって、僕は、生きていた。

明滅する死後の夢 または 逃避行の行く先にて

明滅する死後の夢 または 逃避行の行く先にて

道中地獄行き #4 「どうしようもない二人の夏休みの思い出」 *暴力表現・性表現を含みます。 小学2年生、夏休み。穏やかな野球少年「望」は幼馴染「美玲」が性的暴行を加えられていたところを身を挺して助けた。しかし、その事件をきっかけに二人の人生は大きく狂い始める。そして、高校1年生、夏休み。美玲は殺してしまった恋人の死体処理を望に依頼する。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2019-12-11

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  1. 明滅
  2. ぼう力
  3. 解体1
  4. びょういん
  5. 解体2
  6. ピョン太
  7. 解体3
  8. 恋人
  9. 解体4
  10. 指輪
  11. 逃避行