週末のスーパーライダー

耳目みみめ

週末のスーパーライダー
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  9. 週末のスーパーライダー

簡単に言うとひねくれた男が2ケツで海行くだけの話です。

客観的に読むと全く面白くないです。しかもかなりプライベートな関係を一人称で説明なく語るので、よくわからないところも多いと思います。彼らの一日をぼや〜っとモニタリングする感じで読んでいただけると嬉しいです。

1

一人暮らしなのに、部屋じゃ吸わないらしい。猫が気になるのだと言う彼は、存外動物に甘い。灰皿代わりの空き缶に苦い享楽を押し付けて、前足を出した彼女をちっちと指先で押し戻す。俺もまあ、彼と似たようなもんなのだ、つまり。

サンダルを脱ぎ捨ててフローリングに舞い戻る。右手がまだ香ばしいがしかし、彼なら許してくれるだろう。

「ええ加減に寝えや。」
「むしろね、もうすぐ朝ですけど。」

瞳が冴えれば冴えるほど、部屋の彩度が上がってゆく。夜明け前らしい視界に、とろけていた脳もじりじりと稼働を始めた。息を吸う、その感覚すら明確だ。

紺青に沈んだ瑞々しいベッドルームは、清潔さをもみくちゃにしたような匂いに包まれている。しかしその一方で、隅の窓辺から漂うのは決して閑静でもない夜の、そう、ちょっとドヤドヤしている、世田谷らしい匂いなのだから不思議だ。すぐ下を走るスクーターと、本当に遠くから、遠くから聞こえる、若者たちの笑い声。近ければ眉根を寄せるくせ、遠方の騒がしさは愛しく思う、それが人間だろう。無意味なため息が俺を襲う。棗は何を思っているのだろう。空気が笑っている気がするのは、俺の自意識過剰か。わははは、あー、待てよー、おーい。若い叫びは楽しそうだった。

「……静かな夜ってあるんですかねえ。」
「あってどうするの、そんな怖いもん。」

深夜区、路地裏町在住の彼らを眺める俺たちはなぜだか妙にしんみりとしていた。出会ったのはせいぜい二年前程度なのだが、ずいぶん老けたようにも感じる。たかだか十分足らずを二、三回ほど繰り返し、嘘くさい生命を語ったのが動かぬ証拠かもしれない。

俺も彼も大差ないと言えばそうなのだが、やはり一枚上手なのは慣れっこな彼の方で、俺はそれがとても悔しかった。擦れたこの人の、無邪気な顔を見たいとすら思った。明け透けにならないその身体を無理に透かして、許されないものの全てに、暴力的、かつ日常を反芻させながら、噛みついては痕をつけた。明日のど真ん中に根をはれよと、全てのドアに触れておくことすら厭わなかった。どんな方法でもいい。手荒でも穏便でも構わない。そうだ、俺は、石鹸より清く、喧騒にも近い、彼の孤独の巣を踏み荒したいのだ。こうやって、何度も、そう、こうやって。

わあー、と青少年の歓声が再び向こうから流れてきた。俺ははっとする。しかしなんだ、つくづく住宅街とは言いづらい微妙な立地にあるな、このマンションは。だのにその一部屋を、彼は好んで借りている。どうにもわからない人なのは、出会った時から変わらないのだが。カーテンが柔らかい風を抱き、ふっと膨らんだ。窓の淵に手を伸ばすと、いいから、と止められる。そっか。そうだっけ。

「あなた、色々開けて寝るんでしたっけ。カーテンとか……なんか、意外だ。」
「うん? ……窓も、うん……。たまあに。うん。」
「えー? ははは、うん、起きてる? それで?」
「もおー……寝る……。」

半分くらい生のまま、厚手のタオルケットに包まって棗は不明瞭に言った。彼はよく眠る人だ。足元にすり寄ってきた猫も無防備にあくびをしている。夜に住めるのは青少年だけなのか。俺だってちょっとは眠い。立っているから起きている、たぶん横になったら眠ってしまう、その程度だ。お互い若くはない。確実に。疲労と眠気の境界線があやふやになる。

「明日は休み?」
「違ったら呼ばん。」
「それもそうか。あんた、自分本位ですもんねえ。」
「そお。一縷くんには甘えたいの。」
「おっ、かわいいじゃないの。」

枕に顔を押し付けて、棗が笑う。くぐもった声が「うふふ。」と言うのだ。そして、

「だからもう帰れ。」

この仕打ちである。だからってなんだよ。

「始発までは置いてって。」
「でも、飯はないよ。」
「飲みたいなー。棗さんの作った味噌汁……。」

俺の足元にまとわりついて、そのくせ外には出てゆかない猫が、「やー」と鳴く。猫は「にゃん」とは鳴かないものだ。ふと見るとばっちり目があって、ライム色の球体に、くるんと光が一周する様を見せつけられた。月よりは幾分かはっきりとした輝きだった。

「そおかぁ。一縷くん、白味噌、好き?」
「好き好き。なんでも好き。」
「俺のことは?」
「どうかな。」
「なんでもって言うたやん。」
「それは味噌の話ね。」

俺がちょっかいをかけすぎたのか、彼の声色がだんだん鋭くなってきた。もう諦めたのかもしれないな、だって、寂しいと言えばそれは嘘だが、寂しくないと言っても嘘になるじゃないか。俺たちはそう言う間柄だ。今日くらいは短い一夜にしてくれたって、いいだろうに。今にも色を変えそうな空を眺めてながら、頭では全く違うことを考えていた。

「一縷くんも仕事ないの?」
「そう、一日中フリー。」
「じゃあ、ええよ。寝て、起きて、食べてけば。」
「ええ、なんか妙に素直ですけど……。」

何を企んでんだと言わせもせず、棗は朗らかに続けた。俺が振り向いても、顔色を変えたりはしない。

「でも、代わりにデートして。」
「……デート。」
「デート。してくれやんのなら、飯もない。」

そんなの極論だ。しかも横暴だ。元はと言えば、味噌汁がどうのとか言ってふざけた俺が悪いのかもしれないが。

「わかりましたよ。デートね、でも、俺みたいな奴とどこ行きたいって言うんですか。」
「うーん、海。」
「……そうか、海か……。」

入り込む外の空気と、やんやん鳴く猫を連れてベッドへと戻る。彼は海と言った。海底三万マイルより奥にあるその心を、もっと深く沈めるとでも言うのだろうか。そんなの馬鹿げてる。俺はタオルケットをめくり、おどけた声を出した。

「何で行こうか。」
「バイク。一台しかないけど。」
「俺が運転するんですか?」
「してよ。エスコートして。」
「しょうがない人だな。」

冷えた足を差しこんで、つめたいつめたいと逃げる身体を追いもせず、そっと布団に埋まってみる。猫も鳴くのをやめ、爪の先で丸まった。眠れるかな、どうかな、夜も明けるのかな、すぐに。いやに小さく感じる体温と、交わらない呼吸が安堵を呼び、あんなこと言ったってこの人は、と何度か確認する。瞼が意識を失い始め、視点も定まらなくなる。呼吸のたびに生きた心地が抜けてゆき、自我が消えつつあると感じた。そうだ。忘れていた。俺たちは今、境界線を越えようとしているのだ。朝と夜の明確なラインを、心だけで。

「一縷くん。」

棗の声は優しかった。虚しいほどに。

「……なによ。」
「ちゃんと起きてな。」
「そりゃこっちの台詞です。」

この時間帯には結局、どこにだって永住することはできない。明仄区は眠れる街だ。ビルも道路も関係ない。ほんの少しの休息に、日頃「生活」を送る全てが鎮まるのだ。俺だってそうだ。きっと彼も。

2

ビー、と鳴ったのはどちらの携帯か。俺は少し寒いかなと考えながら、音のする方に手を伸ばした。ほら、タオルケットを忘れた腕が、やっぱり少し寒い。

「……なんでアラームつけてんの。」

音の主は棗のiPhoneだった。色が違うのでよくわかる。と言うかそもそも、俺の携帯はどっかのテーブルにでも置いてきたはずだ。多分ダイニングあたりだろう。

「……今、何時。」

からからになった声で棗が言う。多分ほとんど起きていないのだろう。俺は掴みっぱなしの黒い板で、勝手に時刻を確認する。彼は指紋認証も数字のパスワードも掛けていないのだ。このご時世にこの体たらく、狂っているのかと言われれば、まあ、だいたいそれで間違いない。

「九時。」
「起きなん……。」

流動体さながらの生身をタオルケットから覗かせた彼は、二重の線が少し滲んでいた。惚けた表情のまま俺の後ろを見つめている。まだ覚醒しきらず、手のひらで強引に顔をこする姿が、いたいけで笑えた。

「……なんや。」
「いえ、別に。」
「可愛くな。」

ぴんと真っ直ぐ、布団についた腕をなぞる。身をよじるついでに片足を下ろし、笑うような声で彼は言った。

「夜はおぼこい顔しとったのになあ。」

なるほど、俺も大概か。背を向けた棗の裸足を追って、マットレスを軋ませる。しわくちゃのタオルケットはそのままだったが、まあいいだろう。

それにしても、ちゃんと朝だ。数時間前とは打って変わって、部屋全体に週末の匂いが充満している。直接差し込む天然的な輝きに、眼球がぎゅっと収縮した。

そう言えば、と思ってベッドの角に目をやると、いたはずの丸いシルエットは忽然と姿を消し、代わりにゆるいパン生地のようなものがべろりとフローリングに寝そべっていた。彼に似てふてぶてしい子だ。日中特有の細い目が俺を見ている。微笑みかけてもその表情は変わらない。俺は諦めて寝室を出た。棗はすでに風呂場にいるようで、ノイジーな水音が、わずかに滲み出ていた。

キッチンに突っ立って、勝手に淹れたコーヒーを啜っていると、風呂場から棗の声がした。ドアを開けているのかシャワーの音も漏れる中で、流暢に「一縷くーん。」と俺を呼びつけている。半ばくわえるようにカップを持ったまま、俺は彼の元へ向かう。ダイニングを過ぎてすぐ、木一枚の先にある脱衣所はもくもくとし、熱気と湿り気を帯びていた。

「なんです?」

濡れた頭を覗かせて、棗は笑っていた。シャワーの音はしないが、湯気は健在だ。肩についた毛先はどことなくぬめりを帯びているようにも見える。一方長い前髪は奥へと押しやられていて、白い額には水滴が伝っていた。
彼は俺の手元を確認すると、笑ったまま茶々を入れた。

「何勝手に飲んでんの。」
「だめでした?」
「だーめ。それよりタオルとって、ちっちゃいの。」

俺は片手を簡易収納に突っ込み、中に積まれた灰色のフェイスタオルを一枚取り出す。折り畳まった部分が露わになる程、柔軟剤の匂いも広く漂うようになり、しみじみ「他人」を実感する。俺は特段意味もなく、匂いの元を棗の顔に当てた。なんでや、と飛び出した声に、ふと育ちを見出したりもする。

「それだけ?」
「そおよ。」

頬でタオルを受け取った棗は上機嫌に言い切ると、毛先の水気を切り始めた。別に見ている必要もないだろうと踵を返した俺に、彼は「一縷くんもシャワー使ってええよ。」と声をかけ、そのまま鼻歌を歌い始めた。なんの曲かはわからなかったので、「じゃあ、あとで。」と返し、俺は脱衣所を出た。手に持ったままのコーヒーは徐々にぬるくなりはじめ、酸味が際立つようになっていた。ため息を苦味で誤魔化すのは、二十歳を越えてからついた癖、かもしれない。

しとしとダイニングに戻ると、ソファの陰から現れた猫と挙動が重なった。こいつは本当に足音を立てない。猫だから当たり前かもしれないが。彼女は俺を見上げ、お前だけ良いもん飲んでるな、と言いたげにやーと言い、自分用の皿に目線を移した。いや、確かにコーヒーは淹れたが、猫の飯まで入れていいわけではないだろう。俺は動物を飼ったことがないので、なおさら。

「ごめんな、もうちょっと待ってろ。」

俺が言うと、猫は首を振りながらダイニングを出て行った。俺の言葉がわかったのか、聞いてすらないのか、真相は不明だが。乾いた餌皿を横目に、アイボリーのソファに腰を下ろす。食い込むほど身体が沈むこの柔らかい素材には、未だ慣れない。彼はよくここで微睡んでいるらしいのだが、俺には当分無理そうだ。肩の力が抜け切らないまま、またコーヒーを啜る。やはり時とともに酸化しつつあるようで、すでに微妙な味になっている。カーテンの隙間から漏れる朝日もなかなかに眩しい。素晴らしい環境とは言えないはずだがやけに居心地が良く、休日も休みなく動き回っていた過去を彷彿とさせた。なんだろう、いやに不思議だ。休日を保障されなくなった今、これほどにも穏やかな時間の流れは、俺にとって「いやに不思議」以外の何物でもなかったのだ。

どうにも覚め切らない頭でぼやぼやと考え事をしていると、先ほど何処かへ消えたはずの猫が首を振りながら戻ってきた。しかも、後ろに棗を引き連れて。

「こいつ、ドライヤーもさせてくんないの。」
「あー、さっきから、飯、ほしそうにしてましたよ。」
「あげてよかったのに。」
「適量がわからないもんで。」

俺が頭をかくと、棗も肩にかけていたタオルで髪を拭きはじめた。言葉の通りまだ濡れているそれは束になり、普段よりも色濃く存在している。紅茶に牛乳を混ぜたみたいな色だ。

「猫、にゃーんは?」

ふと手を止めて、棗は優しい声で猫に言った。少しかがんで、彼女の様子を伺っているようだ。細やかな沈黙が流れる。さすがの俺もこいつ何言ってんだ、と思ったし、猫もそうだと信じていた。

「やー。」
「よーし。」

しかしあろうことか、彼女は答えてみせた。至極当たり前のように。俺は目を丸くする。棗は満足そうに猫を撫でてすっくと立つと、キッチンの収納から餌の袋を取り出した。

「すごいな。賢い。」
「そりゃ、俺の猫だから。」

棗はなんでもなく言う。それから、袋を振ってガサガサと音を出し、猫を寄せると、皿の半分くらいまで餌を流し込んだ。ざーっと言う断続的な音と、からからと言う高い音が混ざって飛び出る。こう言う些細な生活音が、美しい音楽を生むのだ。

待ち望んだ朝食に飛び跳ねた猫は棗の足元に滑り込み、挨拶のように鳴きながら食事を始めた。咀嚼の間に「やっや。」と漏れる声がなんとも間抜けだ。

「一縷くんも風呂浴びてきな。」
「じゃ、お言葉に甘えて。」

底の色が透ける程度には減ったコーヒーをぎゅっと飲み干して、俺は立ち上がる。

「それ、洗おっか。」
「自分でやりますよ。」
「飯作るついで。」

結果、カップは強奪された。

3

突如として風呂場のドアを引っ掻きにやってくる猫を追い返したりもしつつ、適当にシャワーを浴び、ドライヤーもそこそこにダイニングに戻った。

猫の朝食から二十分も経っていないはずだが、室内にはいかにも「食卓」の匂いが充満していて、キッチンに立つ棗も、当然だが存在していた。いつのまにかカーテンが開け放たれている。変に白いなとは思ったが、どうやら電気をつけていないらしい。朝日にだけ染まったダイニングは、健康的で綺麗だ。

「なんかうまそうな匂いですけど。」
「もっと褒めやんと。」
「匂いだけでか!」

菜箸を動かして茶化す棗の髪は、もうずいぶん乾いているようだった。呼ばれる前にキッチンに踏み入れると、彼は食器棚の方へ振り返り、

「適当に持っていきよし。」

と言った。時々訛りがきついのにも、もう慣れた。

「何がいるんです?」
「取り皿。あと箸。」
「棗さん、コーヒーは。」
「飲む。」

会話は淡々と進む。関係性は言葉に現れる。

「一縷くん、結構食うよね。」
「えー……?」
「なーに? 俺の記憶違い?」
「いや、うん、食います。」

ほら、やっぱりそうだ。彼がからかおうと言うなら俺は甘受する、また、逆も然り。コーヒーマシンに豆を入れながら、そんなことを考えていた。二杯分のメモリに合わせて容器を豆で満たし、ガラスサーバーで水も注ぐ。こう言うマシンは単純だし、便利だ。当たり前ながら。

抽出音を聞く暇もなく、俺は食器を持たされた。重なった薄い陶器に、当たり障りない箸が二膳乗っている。棗はソファとローテーブルではなく、もっと簡素で線の細いテーブルを食卓に指定した。本当に場所を取らない、ほとんどお一人様用のダイニングテーブルだ。少々背が高く、備え付けかもわからない椅子すら子供を許さない作りになっている。俺はそこそこ狭いテーブルの真ん中に皿を置き、もう一度棗の元に戻る。すると今度は、まあるい木に入った味噌汁が待ち構えていた。


あれよあれよと朝食の運搬を行い、コーヒーまで出揃った頃、棗が部屋の隅にあった丸椅子を引っ張ってきた。俺が座るのかと思えばそうでもなく、彼は椅子を設置してすぐ、自らの腰を落ち着かせていた。なんなんだ。よくわからないまま、元からあった軽そうな椅子に座る。目の前では、棗が静かに手を合わせている。俺もそれに従った。そして、食事が始まった。

俺は汁椀を手に取る。昨晩の彼が言った通り、どうやら白味噌だ。淡い色の味噌汁は久々に見たな。口を寄せると、なめらかな湯気が顔を包んだ。

「……。うまい。」

目だけで棗を見ると、こっちがむず痒くなりそうな優しい顔をしていた。涙袋の浮き出た眦は、昨日と打って変わって健全な光を宿している。テーブルの下に猫が潜っているようで、爪先にさらさらした毛が触れた。それももう、あまり気にならなかった。

「味噌汁に卵、入れるんですね。」
「おいしいやろ。」
「おいしいです。料理上手って聞いてたけど……。」
「知世から?」
「あの人、割となに食ってもうまいよって言うから。」
「あいつは「食えたらそれで」な子やさけ。」

確かにそうだと思いながら、しっかりと固まった白身をつまむ。火の通った卵には案外弾力があるものだ。卵と青菜の下から現れた人参も、ぱっと口に放り込む。飯なんて適当に済ませそうな人が丁寧な和食を用意するものだから、実は少し驚いていた。偏見だけで失礼をかますわけにもいかないので、黙ってはいるが。茶碗に盛られた白米はしっとりと朝日を映していて、ところどころに梅の欠片が見えた。彼曰く、こうすると腐りにくくなるのだそうだ。

「一縷くんは料理好き?」

テーブルの真ん中に置かれた煮物を取り分けながら、棗が言う。俺は人参を飲み込んで、

「好きとか嫌いとか、考えたことがないです。」

と答えた。少々面白みに欠けるが、事実だった。棗の目が俺を見る。

「食べるのは?」
「好き。」
「じゃ、これも食べて。」

その言葉とともに差し出されたのは、いかにも煮てありそうな大根の乗った皿だった。受け取りつつも、認識に歪みがないか確認する。

「これは?」
「普通の煮物。昨日のやけど。」

なるほど、全く問題なさそうだ。手に収まった皿の底が、じんわりと温かい。見た感じじゃあ大根と鶏肉が煮込まれたもののようだ。色と香り的に、しらつゆかなにかで味付けされているのだろう。

「あ、でもどうやろ。味薄いかな。」

そう言いながらも、彼は自分の皿の大根を箸で割っている。関西は醤油とかも薄口なんだっけ。上品な彼を真似て大根を二つに割る。染み出した水分が皿に溜まった。味噌汁があれだけうまくて、煮物はまずいなんてことありゃしないだろうと、ある種の思考停止状態で口に入れる。そしてまあ、予定調和に全然うまい。そりゃそうだ。よく味が染みているのだが、なんだろうな、くどくも塩辛くも感じず、口当たりがあっさりとしているのだ。俺が思った通りにしらつゆが使われているんだろうけれど、それだけが理由と言うわけではないだろう。どこか朝のような味だとも思った。煮崩れているわけでもないのにあまり噛ませてくれない大根を喉に通して、感想を告げる。

「大丈夫。めちゃくちゃうまいです。」
「関西舌なんちゃう?」
「……いや……多分……ただただ飯がうまいってだけだな。」
「ほんまかあ?」

棗が笑った。たぶん本当に嬉しいんだと、俺にでもわかるような笑い方だった。

4

洗った食器を水切りに並べながら、棗が呟いた。

「一縷くん、ほんまにようさん食べたなあ。」
「そうですか?」
「俺が食べないだけ?」
「それはね、ありますよ。」

キッチンから届く彼の声が「そおかぁ。」と言う。暗くなってから会うことの多い俺たちにとって今日と言う日は貴重であり、簡単な返事ですら妙に親密な言葉に聞こえた。俺はソファに埋もれるのが少し怖くて、前のめりになった。

「棗さん、海行きます?」
「行く。」
「じゃ、もう少ししたら行こう。」

そう言い切った瞬間、背もたれからはみ出していた猫の身体が落ちてきた。どうやら俺が体勢を変えたせいでバランスが狂ったらしかった。驚く俺と猫を見て、棗は笑い声をあげる。猫はしばし硬直していたが、すぐに持ち直し、棗の立つキッチンへと消えていった。きっと二度目の朝食でもねだるつもりなのだろう。やー、と言う声が物欲しげに聞こえたのは、俺の勘違いではないだろう。棗が猫に言う。

「さっき食べたやろー。」

ごもっともである。しかし相手は猫だ。飼い主のありがたいお言葉が響くわけもなく、しつこく鳴いては餌をせびっている。

しばらくは攻防を続けていた棗もやがて呆れたのか、キッチンを離れこちらに寄ってきた。ただし猫を引っ付けて。

「もお、行こ。埒あかんわ。」
「準備しましょうか。」

やー! と抗議する彼女をほったらかしにして、棗はダイニングに背を向ける。俺はと言えば、猫の必死な声に足を止めかけて、容赦なく服の裾を引かれたところだ。

「甘い顔すると、猫はすぐ調子乗る。」
「詳しいですねえ。」
「飼い主やさけ。」

ふっと息を吐く音が聞こえた。それから彼は玄関で待っていていいと言い、寝室に消えた。俺はなんとなく鏡を見てから、ほとんどないような荷物を持ち、言われた通りに玄関で彼を待った。なぜかキッチンの端に置いてあったiPhoneもしっかり回収済みだ。

彼はバイクで海に行きたいらしいのだが、中型だろうしニケツはともかく、ヘルメットはあるのだろうか。俺はそんなことを考えていた。俗に言う杞憂ってやつだ。

もはや言うまでもなく、棗は普段使っていないヘルメットを引っ張り出して戻ってきた。なんの変哲もなく黒いそれには、どう見てもギター用であろうステッカーが貼ってある。誰が貼ったかなんて容易く想像できるので、何も言わずに受け取った。

「運転よろしく。」
「ま、飯のお礼ってことで。」

俺の軽口を聞きながら、棗はポールハンガーに引っ掛けてあったグレーのヘルメットを手に取った。おそらく普段から使用しているものなのだろう、傷は多いが、埃は付着していなかった。

「一縷くん、バイクの免許持っとる?」
「え、今更だなあ。」
「無免運転はごめんやで。」

そう言って靴を履き始めた棗は、どこか子供のような顔をしていた。休日は人を幼くするなと、俺は半ば言い聞かせるように思考する。棗のバンズはローカットで、当たり障りなく綺麗な藍色をしていた。一方で俺の革靴は履き古された焦げ茶色で、どうにも草臥れている。不釣り合いなくらいがいいのだと、俺も靴に足を通した。ヘルメットは一旦置いて、靴紐を結ぶ。棗はさっさと立ち上がって、つま先で床を鳴らしながらこちらを見ていた。

「一縷くんは、手、おっきいなあ。」
「身長と比例するとか、なんとか。」
「だから俺はちいさいの?」

言葉を少し食い、棗が顔を寄せる。突飛な発言をいくつか呟いたかと思えば、今度はこうだ。膝に手をついて、毛先を揺らしながら俺を覗いている。額が触れるか触れないか、目と鼻の先に、目と鼻の先がある、なんてなんだか笑えた。愛の代わりに信頼と慣れがあるスキンシップは、存外心地よいものだ。こんなにも軽くて。

「単に遺伝って線は?」
「どーかな。」

棗の滑らかな指が、俺の作業を妨害する。結んでいた靴紐を解いて、左手の自由まで奪っていった。

「ちょっと。」
「だって、へたくそ。」
「結べてるんならいいじゃない。」

俺が言うと、棗は笑いながら膝をついた。彼の意図は、いつでも読めない。

「だーめ。俺がやったげる。」

と、宥め賺すような声で言われたので、もう諦めて俺は手を離した。そのまま後ろについて全くの無抵抗を示すと、棗も満足したようだった。流れるような手つきで、ただの紐だったものが、無機質な蝶に変えられてゆく。俺はそれを見ていた。上手だな、とかそんなことを考えながら。

5

それから俺たちは、棗の愛機にまたがって旅に出た。湘南の海を目指した、ちょっと古臭いデートってやつだ。東名高速に滑り込み、スピーカーで音楽をかけた。高速道路じゃ聞き耳を立てるやつもいるまいと、不釣り合いなシガーロスを垂れ流す。棗は「聞き慣れた曲。」とでも言いたげに、途切れ途切れながら鼻歌でなぞっている。当然声は聞こえないが、とんとんと指で腹を小突かれたりする上に、なにより背骨に響く振動が、彼の鼻腔共鳴をあらわにしているのだ。だから俺も、聞こえない声で歌った。空気が震えるだけの歌声は、なんとなく切なかった。

棗はデートなるものを要求していたが、もちろん、このツーリングも俺とってはただの外出だった。正直彼の言うデートもよくわからなくて、特に気を使ったりはしなかった。それでも棗は楽しそうで、俺の腰にしがみついては、時々ちょっかいをかけてきた。

途中のサービスエリアで水を買い、よくわからない土産物を見て、二人ではしゃぐふりをした。当然お互いに東京在住なのだから、東京土産なんて買う必要もない。それでも棗は女のように物色し、自分の名前が書いてあるハンカチを見つけては面白そうにしていた。

「これ、俺のや。」

と、ピンクのハンカチを持っている棗は、どうにもアンバランスで可愛かった。

公道に降りてからは信号で止まるたびに少し笑いあって、青年のようにふざけた言葉を交わした。

「事故るって。」
「ええやん。心中、心中。」
「なーにが心中だ!」

今日の棗は、普段よりもいくつか自由に見えた。俺だってそうなのかもしれない。

やがて人の数が増え始め、スピーカーは黙らざるを得なくなった。流れる曲は巡りに巡っていて、中途半端に途切れた「ばらの花」の間奏は、甲高いピアノ玩具のような音だけを鼓膜に残していった。

信号が切り替わるのを待っている最中、棗は隣のハイエースを眺めながら言った。

「一縷くんは優しいなあ。」
「優しくしたいんですよ。あなたみたいな人にはね。」

信号の色が青に変わる。優しくしたいと言ったのは、本当に俺なのかな。棗の温度を感じながら、こうるさい街を走った。鎌倉なんて、いつぶりだろうか。

6

バイクを適当な駐車場に止めるなり、棗は散策しようと言い出した。海に行くのはどうしたのだと思ったが、まあべつに、それでもよかった。ヘルメットはヘルロックにくくりつけて、俺たちは街に繰り出した。当然休日の鎌倉なんてものはゴチャゴチャしていて、とてもリラックスはできない。でも、それがいいんじゃないか。休みっぽくて。ちなみに、棗のバイクに付いていたヘルロックは、ヘルメットが二つ止められる仕様になっていた。

「人ばっかや。」

一歩先を歩きながら、棗は言った。着物の女の子たちとすれ違う。そして、俺も答える。

「そりゃそうですよ。今日、日曜日でしょ。」
「日曜日なあ。なんか、贅沢やねえ。」
「そうですか?」
「うん。贅沢な使い方してるわあ。」

店の前に飾られた扇子を見ながら、彼は声を弾ませた。

「贅沢な、一縷くんの使い方。」
「なんだと!」

彼は嬉しそうに前を行く。すいすいと迫り来る通行人をかわし、それでもどこかゆったりと、ただ道を歩いている。人波の中でも、彼はこんなに鮮明だ。俺のように背が高いわけでもなく、きっと紛れやすいだろうに。不思議な人だ。所々に散りばめられた、色濃い過去のエッセンスが、彼にはよく似合う。どこにいたって馴染むくせ、どんな景色の中でも浮き彫りになり、孤立する。妙ちくりんな存在だった。

そんな彼でも、俺のことを置き去りにしないよう、時々振り返って笑うので、もうどうしようもなくなって、少し無理やり隣に並んだ。手を繋げばいいのか、とも思ったが、その必要はなさそうだった。それ以降の棗はぴとりと俺に付いて離れず、もう前を歩こうとはしなかった。他人の目は気にならなかったし、誰も俺たちを見てなどいなかった。

棗は鎌倉に来たことがほとんどないと言い、小町通りを存分に満喫していた。と言っても、あまり買い物はせず、ただ店の並びを眺めたりするばかりだった。数年ぶりに訪れた割には見覚えのある店も多く、俺もそれなりに観光らしいことをしたのではなかろうか。

うろうろと街中を練り歩き、時には店だけでなく、興味本位で細い路地に入ったりもした。学生の頃だって、こんな無意味に歩き回ったことはなかった。けれど、理由もなく楽しいと感じるのは、ずいぶん久しぶりだった。

「見てえ、一縷くん。ちんまい赤べこおる。」

ふと彼が足を止める頃には、もう大通りは抜けていた。一瞬で人混みは消え去るものだ。

喫茶店と思しき店の前で、棗は立ち止まった。そしてその目線の先には、先ほどの発言通りに首を振っている小さな赤べこがいる。鎌倉に店舗を構えておきながら、赤べこを置いておく店も店だが、棗は棗で着眼点がおかしいだろうと思うと、ちょっと笑えてしまって、困った。

「なにわろてんねや。」
「いや、すみません。」

目敏い彼は呆れたように呟いたが、すぐに持ち直して、赤べこに笑いかけた。そして、店のドアに手もかけた。

「もう二時なんだよ、一縷くん。」

へえ、そりゃ初耳だ。

赤べこの喫茶店は思っていたより薄暗くて、静かな内装だった。オレンジ色の照明がほんのりと弱く照らしていて、それがなんとなく落ち着いた。俺たちは適当にコーヒーとサンドイッチを頼むと、ちょっとだけ赤べこの話と、棗が買った金属の栞の話をして、時間の流れを楽しんだ。やがて運ばれてきたコーヒーは、独特な色使いのカップに入っていて、その話も少しだけした。サンドイッチはマスタードが効いていて美味しかったが、俺はどうもぼんやりしていて、棗の作った卵入りの味噌汁を思い出していた。

そして俺と棗はゆっくりと遅めの昼食をとった。本当に、ひたすらゆっくりと、魂が眠りそうになるほど。

7

「ようさん歩いて、きけたわ。」

残り半分くらいのコーヒーをちびちびと飲み、棗は静かに言う。

「きけるって、なんだっけ。疲れる、みたいな意味でしたっけ?」
「そおよ。一縷くん、だいぶ毒されてきたな。」
「おかげさまで。」

ふとテーブルを見ると、空になった皿に、使用済みのナプキンが四角く折って置かれていた。彼は結構マメな人間だった。俺は手早くまとめて、その辺にやってしまったりするから。渋い焦げ茶の木材は、照明を受けて艶めいている。少しベタつくのがまた、懐かしい。

俺が物思いに耽っているうちに、隙を見てか棗が微睡み始めていた。薄暗い店内ではこうもなるか、寝不足だろうしとその姿を見ていると、伏せた彼の目がこっちを向いた。かち合った目線はなかなか離れない。見つめ合うと言うほど緻密ではない瞳の邂逅ののち、彼はこう言った。

「そんな顔せんの。」

その時の俺がどんな顔をしていたのか、結局彼は教えてくれなかった。

そのあとの棗は本当に眠ってしまって、そして何故だか俺もそれでいい気がしてしまって、冷めてゆくコーヒーと彼の寝顔を見ながら、少しの時を過ごした。無駄な休日こそが最も素晴らしいのだ。

棗が起きる前に会計を済ませ、微妙にどこだかもわからないこの場所で、俺は「生きているな」と実感していた。目の前のこの人も、たぶん、生きている。だから眠るのだろう。窓の向こうに見える春の気候は、ゆっくりと暮れつつあった。今日は日没も早いのだろうか。

店を出た俺たちはまたうろうろと徘徊を始め、古本屋に入ってみたり、散歩中の犬に手を振ったりした。最初は寝惚けていた棗も、再び外の空気を肌で感じ、ほとんど元に戻っていた。世界が彩度を下げてゆく。見上げた空はそれなりに雲が多く、決していい天気ではなかった。春なんてそんなもんだ。

「あ、ねえ。」

細い階段を降る手前で、棗は俺のジャケットを引いた。思わず足が止まる。

「なんです。」
「見て。」

彼が突き出した、人差し指のずっと向こうを見る。そしてそこには、海があった。

「海やん。」
「ほんとだ。海ですねえ。」
「どうしよ。デート終わっちゃう。」
「帰るまで終わりませんって。」

どうしよ、と言うわりに、棗は嬉しそうだった。海に行きたいと言う言葉は、あながち嘘でもなかったらしい。彼はぱたぱたと階段を下って、踊り場で俺を見上げた。

「一縷くん、はようおいで。」
「はいはい。」

もうだいぶ暗くなった空を背負って、彼は俺を見ている。彼の目から、俺はどう見えているのかな。わからないことばかり考えてしまうのは人間のさがだと言うことにして、階段を下った。そろそろ始まっているであろう夕焼けの輝きは雲に隠れてしまって、あまり見えない。裂け目から覗くわずかに色づいた光だけが、時間の流れを示している。俺たちの休日もじきに終わる。車がいないのをいいことに道路を横断して、砂浜へ降りた。夕方に香る潮の匂いは妙に不穏で、いけないことをしているような、もう退っ引きならないような、そんな気持ちになった。

「海や。」

棗が細い声で言った。波の音が、全てをかき消してゆく。春先だからだろうか。人はほとんどいなくて、ずっと向こうの、もっと繁華街に近い方に、ちらほらと輪郭が見えるだけだった。どうやらここらは、侵入可能箇所のなかでも端っこにあたるようだ。本当に入ってもいいのかは、わからない。

「ありがとおなあ、一縷くん。」
「安全運転についてですか?」
「……うん。」

俺が茶化すと、彼はそれを甘受するように目を細めた。俺たちの関係が、あらわになってゆく。なにもない砂浜が、全てを暴き始めた。棗は波打ち際によって、海水に指をつけている。冷たいだろうに。その横顔は、風で乱れた前髪のせいで、よく見えなかった。

8

それからの俺たちは、浜辺を歩きながら、時々止まりながら、小さく会話をしていた。言葉の数も声量も少ないし、なにより、本当に小さな会話だった。小さな、小さな、幼い時に読んだ童話のような、寝る前の灯りのような、会話だった。そこには嘘も本当もなかった。

「あなたには、幸せがわからないんだろう。」
「うん。」
「俺もです。その感覚が、掴めなくて。」
「生まれた時から。」
「そう。」
「教わらなかったから。」
「ええ、全く。その通りだ。」

暮れ時の潮風が目にしみる。彼の髪をはたいて、バタバタと乱暴に過ぎて行く。春なのに、こんなに寒い。海は、いつでも畏怖の対象だ。波の音が響いて、俺たちの会話が少しずつ大きくなってゆく。

「お揃いや。」

棗のあどけない訛りが、今だけは妙に胸を打つ。少しだけ黄ばんだ、でも灰色の世界を背負って、彼は嬉しそうに言う。

「一縷くんは、ずっと一人なんだ。ずーっと。」
「多分ね。」
「それって、よくないんちゃう。好きな人なんてようさんおるのに、なんで、嘘、つけやんの?」
「……なんでだろうな。なんでだろう。嘘がいけない事だとは、思っていないけど……。」

冷気に晒されて赤くなった顔が、大人の目と、子供の笑顔を同時に宿している。本当にあやふやな人だ。そう思った。

「一縷くんは、俺のどこが好きで、一緒にいてくれるの?」
「全部ですよ。……惹かれてるんです、あなたは、俺と同じで一人だから。」
「そおかぁ。」
「人としてよ?」
「もお、わかってるのに。」

風が吹くたび、棗は無邪気に笑った。俺はそれを見ても、なかなか笑えなくて、むしろ苦しくなったくらいだ。淡墨をまいたようなほの暗い海辺で、こんなに綺麗に微笑む男が、いるなんておかしい。この世は狂ってるんだと、確かにそう思った。

「でも、こんなに楽しかったの、初めてや。ちゃんとデートだった。」
「そうですか?」
「うん。一縷くんは、ちゃんと俺のこと、好きだから。俺もそうだし。俺たちだから、できたんやろな。きっとな。」

こんなに悲しい好きがあるのか、それとも、人間を愛すると言うのは、こう言うことなのか。穏やかな純愛は男女間の恋愛に比べるとあまり理解されないが、俺と彼の間には、確固たる「それ」が存在していた。俺たちの発する愛と言う言葉は、いつでも他意を含まず、単純だった。

「幸せかもって思ったよ。一縷くんといるとな、俺は幸せなのかもって。でも、冷静になると、どうかな。許せてない気もする。」
「何がです。幸せな自分が?」
「ううん。幸せが。俺じゃなくて、幸せが。幸せに生きるって言う、概念が、だめだった。おかしいって思うの。」

棗が足を止め、向き直る。彼の瞼は曇天に埋もれて見えた。こんなにもシュールに、愛を語っている。愛と、幸福は、付随しないのだと。つまらない小説みたいな現実が、俺たちにとっては愛しくてしょうがない。

「それとも、俺がおかしいの?」
「いいや。おかしいのは世界ですよ。愛の定義が、狂ってるんだ。」

足元は不確定で、力を込めれば込めるだけ、砂が崩れて、ぬかるむような感覚に襲われる。実際は一滴も濡れていない灰色の浜辺に、俺たちは立っていた。これから濡れるんだと思った。潮が満ちるよりも早く。感情が揺れ動き、その輪郭は激しくぶれて定まらない。俺が、と言った彼の声が、俺の中の何かを叩き割った。ガラスのようだ。弾け飛んだ破片は、虚しく音を立てて地に落ちた。

声が震えていたが、それでも俺は答えた。

「幸せじゃなくても、いいじゃないか。」

真っ直ぐ見据えたはずの棗は何処にもおらず、ただ抽象画のように歪んだ砂浜が見えるだけだった。海の落とした幼子が、そっと頬を伝う。ただ、熱を感じた。潮風だけが冷たい。

「あなたは芸術なんだ、棗さん。あなたの世界は、あなたの手に収まるものじゃないんです。だからあなたは不幸なんだ。そんなもの、抱え込んでいたら……でも……。」

棗の手が頬を掬う。何も言わずに、その手は触れている。慈しむような動きに、どうにもたまらなくなって、嗚咽を噛んだ口で私欲を話す。薄汚さなんて今更だ。俺たちはもともと、美しい人類ではないのだから。

「不幸なんてなんの問題でもない。不幸でも、生活があれば、それでいいんだ。あなたも俺も、そう言う人間で、きっと死ぬまでこのままです。だから、お願いだ。」

なあに、と指が動いた。涙が砂に還らないのは、彼のおかげだった。

「ただの男になんて、ならないでくれ。」

そう言って彼を抱き締めた時、ようやく俺自身が、棗の心に触れられたような気がした。はじめてだった。これほど彼を、近くに感じたのは。腕に力を込める。潮風の通る隙間がないように、そこにある背中を抱え込む。

棗は俺に抱かれたまま、小さく歌を歌っていた。なんの歌かはわからなかったけれど、細やかなメロディだった。時々その手が俺の背中を撫でて、ちょっとだけ身体を揺らす。身をよじっているわけではなくて、それは単なるリズムだった。

波の音と、心臓の音、そして棗の小さな声が、美しい音楽として俺の身体に響いていた。

週末のスーパーライダー

「今日はありがとおね。楽しかった。」

ヘルメットを二つ、手にぶら下げて棗が笑った。俺は無意味にバイクの座席を叩く。もうすっかり冷え切っていて、手のひらから温度が吸い取られてゆくのがわかった。

俺たちの週末はこれでおしまいだ。明日の俺も、明日の棗も、それぞれ仕事に追われる予定が入っている。だけど、時は過ぎるし、曜日も変わる。季節は巡り、人は老いる。俺だってそうだ。当然彼も。

「暇ができたら、またきますね。」
「うん。」

待ってる、とは言わない。それでいい。心待ちにする必要はない。俺たちはお互いに、孤独を抱く必要があったからだ。

「次は、秋の海がいいな。」

もう暗い中で、彼の笑顔は夕暮れの色を強く残していた。決して美しくはない、少し黄ばんだ、灰色を。

週末のスーパーライダー

ご精読ありがとうございました。

恋愛、結婚、家庭、幸福。いつまで経ってもイザコザした話だと思います。もっと優しくて、誰も傷つかない、大きくて単純な愛が、きっと最善なんだと思います。愛とは? そして幸せは「幸せ」か? 永遠のテーマです。

週末のスーパーライダー

とかくこの世は生き辛かった。 独特の感性を持つせいで幸せを掴めない一縷は、普遍的な愛を愛せない男・棗と時折夜を共にする。他人とも恋人とも取れない不確かな二人は、棗の提案でちょっとした「デート」をしてみることに。 こじれた大人たちが正しい愛の形を探す、ありふれていてどこか寂しい人間譚。

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