さすれば救世主

♯40 さすれば救世主

 お父さん、お母さん、お元気ですか。僕はこれから、お二人に会いに行きます。
 お爺ちゃん、お婆ちゃん、しばらく僕の面倒を見てくださって、ありがとうございました。
 柊。お前もそっちで待っていてくれてるよね。大丈夫、一人になんてさせないから。安心しろよ。
 僕はお前の親友だから。


「エジプト神話では自分の死後、冥界に行って“真実の羽根”と自分の心臓を天秤にのせて、釣り合いが取れればアアルという名前の永遠の楽園──天国のようなものに行けるらしいですよ」

 だが、悪事を犯していると心臓は重くなり、羽根との釣り合いが取れず、天秤は傾いてしまうらしい。天秤が釣り合わなければ、アメミットという鰐と獅子とカバを掛け合せたような化物に、心臓を食べられてしまうのだ。
 ……という話を後輩の夢野に聞かされた。
 放課後の屋上は暮れた空に照らされて、オレンジ色の光に包まれている。
 僕の手にした紙パックのカフェオレは、限界までストローで吸い上げられて凹んでいた。中身は殆ど残ってないけれど、話を聞いている間、暇潰しに吸い込み続けたらこんな感じになってしまった。

「南先輩は悪人ですから、死んだらアメミットに心臓を食われてしまうんですよ」

 風になびく髪の毛を抑えつつ、夢野は赤い縁の眼鏡をくいっと上げてそう言った。

「いや、ここ日本なんだけど。なんでそんな話するんだよ。僕が悪人なら死後は地獄だろう?」
「地獄じゃあ、あなたの両親と会えてしまうじゃないですか。南先輩は独りきり、孤独に冥界へ行くんです」

 夢野に背中を向けて、僕は屋上のフェンスに肘をかけていた。ここから見える街並みに視線を落としながらぼんやりしていたら、態々夢野が来て、謎に話し始めたのだ。
 僕の両親は中学生の時に交通事故で死んだ。今は母方のお婆ちゃんの家で暮らしている。
 僕の両親の事、夢野に教えた記憶はないし、そもそも学年も出身校も違うし、彼女とはけして親しい間柄ではないはずだが、どこで知ったのだろう。

「……なんで僕の親、地獄に落ちたって決まってんだよ」

 とりあえず反論してみると、夢野は鼻で軽く笑った。

「南 詩鶴(みなみ しづる)という人間を産んだあなたの両親は大罪人ですからね」

 流石にカチンと来て、僕は夢野を睨みつける。彼女は腰に手を当てて、嘲笑うような顔をしていた。

「いきなり僕のこと悪人呼ばわりして、なんの用だよ」
「当然の仕打ちでしょう? 南先輩の両親が事故ったとき、先輩もその場に居合わせて一緒に死んじゃえばよかったのに」
「んだと。てめぇさっきから好き放題言いやがって、いい加減にしろよ」

 本格的に僕がキレ始めたのを見て、夢野は少しだけ怯んだように見えたが、視線を逸しながらも小さな声で言い募る。

「ホントはこんなこと言われる原因だって、わかってるくせに。わたし、知ってるんだから」

 確かに夢野の言う通り、こんなことをされることに全く覚えが無いと言えば、嘘になるのだ。そのことに関して、後ろめたいとは少しも思ってないが。
 僕は黙り込んで、夢野の言葉を受け止める。

「兄は自殺ではありません。あなたに殺されたんですよ!」

 ああ、やはり。フェンスに寄りかかるようにして、夢野の方に体を向けた。彼女は得意げに口角を釣り上げていた。まるで刑事ドラマで犯人を追い詰める刑事そのものにでもなったみたいに。
 僕の手の中で、カフェオレの紙パックは握り潰される。
 ……夢野の兄──夢野 柊(ゆめの ひいらぎ)は俺の親友だった。
 彼女の言う通り、先日隣町の山の中で遺体で見つかった。死因は自分で崖から飛び降りた自殺であると、警察は判断した。実際遺書も見つかったので、誰もが彼の死を自殺と判断するしかなかったのだ。

「兄の日記に書いてありましたよ。あなたが殺したんだ」

 夢野は言いながら肩にかけていたスクールバッグから一冊のA4ノートを取り出して、僕によく見えるように掲げる。
 柊は高校生にもなって日記をつけるような、マメな男だった。僕もその青い表紙のノートに見覚えがあった。教室で熱心に書き物をしているから、勉強かと思えば、その日記だったんだっけ。日々の何気ない出来事を綴る日記を、中学生から書き続けているのだと話していた。軽く覗き見しただけでも、本当に下らない日常の出来事しか書いてないのだとわかった。購買のパンが安売りしてただとか、帰り道に良いカフェを発見しただとか、放課後はよく僕と屋上で過ごしただとか。
 どうしてそれを夢野が所持しているのかは知らないが。勝手に兄の私物を漁ったのだろう。
 そのノートの一番最後のページを開くと、夢野は僕に突き付けてきた。
 
『詩鶴が俺を殺そうとしている気がする。おかしい。もしかしたら本当に殺されるのかもしれない。おかしい。怖い。でもおかしい。俺達は親友なのに、こんなのおかしい。今日、帰ってこれないかもしれない』

 汚い文字で書き殴られた、その文章。見た瞬間に、どうしようもない遣る瀬無さが胸に溢れてきて、泣きだしてしまいそうになる。
 夢野はノートを抱きしめると、愛おしそうに表紙を撫で付けて言った。

「兄はこの日記を書いて、その日出かけて、本当に二度と帰ってきませんでした。自殺、なんて言われているけど、兄は自殺なんかしない。そんな人じゃないから。だから、あなたに殺されたんだ」

 眼鏡越しに潤んだ瞳。夢野も泣きそうだった。でも、確かに僕のことを仇のように強く睨み付けている。
 僕は紙パックに挿したストローを口に咥えて、噛み潰した。吸い込んでみても、もうカフェオレの風味しか感じられない。

「……ほら、何も言い返せないでしょう。さっきから黙りこくって! 兄を殺したから何も言えないんだ! この人殺し!!」

 僕は握り潰して変形した紙パックを、彼女の顔目掛けて投げ付けた。夢野は咄嗟に手を翳して、顔面への直撃は免れたが、僕の行動に相当驚いた表情をしている。

「は、人殺し? 僕が? ……何も、知らないくせに」

 僕はいい加減、彼女のキンキンする声を聞くのも嫌気が差して来ていた。突然現れて、エジプトの話とか始めるし。両親は地獄に落ちたとか、僕は冥界に落ちろとか、意味のわからない話を始めてきて、柊の言う通り、相当頭のおかしな妹だったらしい。
 カフェオレの紙パックをぶつけられて、夢野は目を瞬かせていたが、すぐに反論してきた。

「何も知らない? いいえ、私は兄のことは何でも知っていた! 日記だって毎日読んでいたし、兄はいじめられていたってことだってわかってる!」
「きめぇブラコン自慢はどうでもいいんだよ。それに、いじめのこと知っていて、なんもできなかったんだろ。じゃあ、てめぇはブラコン止まりのただの傍観者じゃねぇか」

 低い声で僕が言うと、夢野は黙り込んだ。
 そう。柊は、いじめを受けていた。物がなくなったり、壊されていたり。ただ、柊は、その犯人を見つけることができなかった。親友である僕にいじめのことを相談してくることが何度かあったので、それなりに悩んではいたようだが、かと言ってそれが原因で自殺したわけではない。遺書にもいじめは受けているが、それで死ぬつもりはないと書かれていた。

「……あんたはあいつの遺書の内容、知ってるか」

 訊ねてみると、彼女は控えめに頷く。

「あの山で、兄の鞄が見つかって、その中に遺書も入っていて、家族だからその内容も警察に見せられました。でも、書いてあったのは自分が死んだらバイトで稼いだお金は家計の足しにしてほしいとか、先立つ不幸をなんとかとか、そんなのばっかりで、どうして死ぬのかについては孤独感を感じるとか、なんだかぼやけた内容ばっかりで。自殺じゃなくて先輩に殺されたからそうなんだろうって、思ってました」
「ふうん」

 僕は彼女の話の内容にはそれほど興味を示せず、素っ気ない返事しか返せなかった。
 夢野は胸の前で両手を握りしめて、言い募る。

「遺書には先輩のこと書かれてませんでしたけど、でも、日記には書いてあった。親友が自分を殺すなんて思わないですもんね。兄は最期まで、南先輩に殺されるなんて、認めたくなかったんですよきっと! なのにあなたが殺した! 兄の思いを裏切ったんです!」
「そんなつもり、ないんだけどなあ」

 僕はフェンスから手を離すと、ゆったりとしたペースで夢野に歩み寄って行った。彼女は僕の急な接近に身構えて、数歩下がる。

「な、なんですかっ、こないで……人殺し!」

 逃げ出そうとした彼女の腕を強く掴んで、引き止めると、僕は口角を吊り上げた。夢野の眼鏡の奥が揺れる。

「確かに僕は、柊の最期に立ち会ったよ」


 ──なあ、柊。遺書書こうよ。一緒に。
 何気無く、日常会話として僕は彼にそう持ちかけた。柊は変な顔をしていた。
 なにお前、死にたいの? 柊はいぶかしむような顔で聞いてきた。だから、どちらかといえば、そうかも、と答えて。

「やめとけよ、そんなの。俺、悲しいしさ」

 僕は柊のワイシャツの襟を掴んで、無理やり立ち上がらせると、顔を近づけて言った。

「親友なら、親友の行動を否定したりしない。認めて、寄り添って、できるだけ協力するもの。だと、思うんだけど、なあ? 柊どう思う?」
「……わかったよ。一緒に遺書を書いてほしいんだっけ? 俺は別に死にたくないけど、それで詩鶴が満足するなら……やるよ」

 元々友達の居なかった根暗な柊。僕が唯一できた友達で、僕が柊の親友だから、僕を失いたくない柊は、ちょっと強引にお願いすれば、何でも言うことを聞いてくれた。
 そうだ。彼に遺書を書かせたのは僕だった。
 書けたら見せあいっこしよう、なんて言って僕らは互いの遺書を交換した。柊の遺書は、両親に向けて、先立つ不幸をお許しください。から始まっていて、親友はいるけど、時々無性に寂しくなるとか、どうしようもなく孤独だと感じる、なんて書かれていた。

「へー、柊、僕がいるのに、寂しい気持ちになるんだ」
「ばっ、内容についてはあんまり触れるなよ! そ、そういうときも、あるだろ……」

 柊は慌てて自分の書いた遺書を奪い取って、鞄に舞い込んだ。それから、僕の書いた文を読んで、やっぱり変な顔をしていた。

「父さん母さんに会いに行くって、」
「ああ、柊には教えてなかったね? 僕の両親なら死んでるよ」
「えっ……ごめん」
「別に、気にしなくていい」
「……それより、なんか、俺も死んでる前提で書いてねえか? この遺書。縁起でもないこと書くなや」

 そう言われて僕はただ、ニコニコ笑っていた。そうだよ、だって、僕より先に、柊は死ぬんだから。とは、言わなかった。
 遺書も書けたし、死に場所を探しに行こうか。
 僕がそう言い出したとき、流石に柊は嫌そうな顔をしていた。でも、断らないはずだ。柊は僕のお願いを何でも聞いてくれるのだから。
 実際に柊は隣町の山までついてきてくれた。

「なあ、ホントに山なんか来て、詩鶴……死ぬつもりなのか」

 思い詰めた顔で、柊は訊ねてきた。流石に不安にさせ過ぎただろうか。申し訳ないな。そう思って、僕は優しく笑いかけた。

「冗談に決まってるだろ。ちょっとした登山だよ。楽しもう?」

 この山には、景色のいい崖があるんだ。柊と一緒に見に来たかっただけだよ。そう言って、僕らは山道をゆっくり進んでいった。

「遺書なんて遊びに決まってるし、僕が死にたいっていうのも半分嘘だから。柊は何も気にしないでよ」
「半分、本気なんじゃないのか」

 崖のそばまで来て、柊はやっぱり思い詰めたような、険しい表情で僕を見ていた。
 崖から見える空は黄昏に染まり始めていて、朱色の光が下に見える街のビルを照らして、窓ガラスに反射したオレンジが美しかった。

「ねえ柊」

 背負っていた荷物をその辺に置いて、景色を楽しもうよ、と提案した。柊は黙って頷いて、荷物を僕の鞄の隣に置く。
 崖から夕焼けを楽しむ僕の隣に、柊がやってきたので、僕はおもむろに口を開いた。

「柊。いじめの件なんだけど。お前の物がなくなったり壊されたりしていたとき、犯人はクラスにいて、柊が困ってる様子を見て楽しんでいるんだろうね、悪質だねって言ったけど、僕は正直、困っている柊を見るのは心が痛かったんだよ」
「……? ん?」

 柊は半分わかっているのか、怯えたような表情になる。その横顔を、夕焼けの赤が彩っている。綺麗だって、思った。

「お前の上履きが隠されて見つからないとき、僕も探してあげたよね。そのとき、必ず上履きを見つけるのは僕だったね? それで気付いてくれるかなぁなんて思ってたけど、柊、鈍いよ」
「詩鶴……? 何言ってるか、わからないんだけど」

 もしかしたら、本当は知っていたのかもしれない。けれど、気付きたくない、そんな思いが答えを隠し続けていたのだろう。

「なんでそんなことを僕がしたのか。柊は、わかってくれないんだろうね。僕ら、親友なのにさ」

 そう言って、僕は思い切り柊の背中を蹴り飛ばした。僕も落ちるくらいの勢いでやった。だから、柊は空を掴んでいたけれど、つかまれる場所なんてどこにも無くて、崖から体は投げ出され、あっという間に谷底に真っ逆さま。
 そのときの。諦めたような柊の顔が、脳裏に焼き付いている。


 一通り話し終えた頃には、空に群青が差していた。赤の名残か、空の一部は濃い紫をしている。
 夢野はわなわなと震え、そうして喚き散らした。

「やっぱりあんたが殺したんじゃない‼」

 キンキンと、本当にうるさい声だ、と思う。
 それに、僕は柊を殺したんじゃない。

「違う。助けてあげたんだ、親友だからね」
「たすけた……?」
「夢野にはわかんないよ」

 理解されなくていい。
 柊は僕の親友だったんだ。
 柊は僕といても、たまに寂しそうな顔をしていた、僕は柊の親友なのに、親友の心を満たしてあげられなかった、理由はわからない、きっと生きている間、僕が柊を救えることなんてないんだろうって気がした、柊をいじめてみたのも、いじめられているけど心の支えとなる人間、つまり僕が側にいることで、柊は救われるかと思ったのに、柊はただかなしそうだった、僕じゃ柊を救えないのかもしれないと思って、でもそれはすぐに否定できた、何故なら僕には、柊を助ける一つの方法が思いつけたから、だから、実行に移して、あとは、僕が柊の側に寄り添ってやれば、それで完成なんだ。

 僕の心臓は、羽根よりも重くない。
 僕は最低な人間だけど、わかっているけど、全ての罪に、罪悪感なんて微塵も覚えてないから、僕は逆に救世主でいられるのだ。

 気がつけば夢野は胸の前でナイフを構えていた。きっと、兄が大好きすぎた妹は、仇討ちがしたいのだろう。

「死んじゃえ」

 言われなくとも。
 僕は未だに夢野の腕を掴んでいたから、それを放して、素早くナイフを握る方の腕を掴んだ。夢野が驚きと焦りに表情を歪ませた。僕の腕を振り払おうと抵抗しているが、所詮年下の女の子の力でどうこうできるわけもなく。
 僕は夢野のナイフを持った腕を引いて、
 僕の腹に、思い切りナイフを突き刺した。

「えっ……? えっ、あ、いや、いやだ、離して……」

 夢野がナイフを落とさないように、掌でしっかり包んで、ナイフをズブズブと深く腹に沈みこませる。
 痛い。熱い。なのに、冷たい。腹部の灼熱は僕の予想を遥かに超える痛みで、死んじゃう、そりゃそうだ、死のうとしているのだから、そう、これでいい。
 僕の腕に力が入らなくなると、夢野が無理にナイフを引っ張って、カラン、と無機質な金属音とべったりとした赤色を纏って、ナイフが落ちる。
 腹からも、口からも、粘着く鮮血が溢れて辺りに鉄臭さが充満する。
 夢野はその場に座り込んでしまった。ぼくはまだ、膝をつけない。ここで倒れたら、二度と起き上がれないだろうから。激しい痛みに思考がおかしくなりそうなのに、脳はやけに冷静に機能した。
 同じ死に方じゃなきゃ、柊に会えないだろ?
 一歩一歩が重たい。進まない。熱い。それでも進め。どうにか伸ばした手でフェンスを掴め。まだ力はある。乗り越えろ。

「はー、はー、はー、ひぃ、ひー、ひい、らぎ、」

 穴のあいた腹を抑えていたせいで、指先は血で滑る。それでもフェンスを登り、そして、待っていて、

「柊、大好きだ」

 お前のところに行くのだ。



***
罪悪感、天秤、紙パック飲料で三題噺。
詩鶴と柊は本当の親友というものがわかってない歪な友情で結ばれていました。詩鶴は柊のこと、本当に大切に思っていたのか、よくわかりません。そして詩鶴は死んだって柊のところにはいけないのでしょう。地獄に行くこともできず、自覚のない罪の重さでアメミットに心臓を食われるんです。

さすれば救世主

さすれば救世主

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-09

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