チャンス

  その男はとても平凡だった。産道を通ってこの世に出てくる時に、才能という才能を全て、母親の腹の中に置いてきたらしい。子供の頃から、十人でかけっこをするといつも五番目、学力も特に秀でていない、容姿は人混みに紛れると目立たない。仕事をするような歳になっても、稼ぎは、高校時代の同級生数名のちょうど真ん中。とにかく、普通の人間であった。
 男は、普通の会社に十数年勤め、社内で普通に働いていた、普通な女性と、普通な恋をし、普通な式をあげ、財布の紐は握られ、嫁の尻に敷かれる普通の生活を営んでいた。
 そんなごく普通の夫婦にやっと子供ができ、その子が十歳になるとき、男は市街地に家を構えることにした。特に豪勢でも、貧しそうな感じでもない普通の家を。
 そして、普通な夫婦の子は平凡に育ち、彼らは一般的な幸せを手に入れていた。男は時折、普通に嫌気がさし変わりたいと考えたが、結局、普通から脱するアイディアでさえも、他人が一度は考えつくようなものばかりだったので、何もできなかったし、その都度、現状の幸せに満足することにしていた。
 ある日、男が眠っていると枕元に人の気配を感じた。泥棒かと思い、慌てて目を覚ますと、夜の闇の中により一層濃い闇が佇んでいた。男は驚いて、声をあげようとしたが、声は声にならず、体も恐怖で竦んでいた。
「お前、変わりたいか」
 影が声を発した。男は突然のことに、もう一度聞き返すことしかできなかった。
「だから、お前は変わりたいのか」
 声から少し、苛立ちを感じられた。男は声を出せないかわりに、首を縦に振った。
「その反応も、平凡だな」
 黒い何かの嫌味に腹を立てることができるくらいには、冷静になってきたので、男は問いかけた。
 「どちらさまでしょうか」
 「そんなことはどうでもいい。お前は変わりたいんだろう、だから俺がお前に有名になれるチャンスをやる」
 「はぁ」
 男は状況が掴めないまま、黒い影からチャンスを与えてもらった。と言っても有名になるチャンスをやるとだけ残し、跡形もなく居なくなってしまったのだが。
 カーテンから射し込む光と、目覚ましのベルの音が男に朝の訪れを告げた。昨日のことは夢だったのだろうと、男は思いながら、妻に話すと、「きっと疲れすぎよ、しっかり休みなさい」とだけ言われた。「それもそうだな」男もそれ以上返す言葉が見つからなかった。
 そして、男はそんな出来事も忘れて、歳を重ねていった。病気を患うことも大きな怪我をするわけでもなく、ごく普通の人生を普通に全うし、家族に見守られながら死んでいった。普通のお墓が建てられ、彼はそこに安らかに眠っていた。
 それから彼の死後、大きな戦争が起き、文明が滅び、新しい文明が生まれた。その文明の中で暮らしていた人々は、ある時、今まで見たこともない石碑を見つけた。それが町中で噂となり、悪戯っ子がそこで宝探しをしていると、骨が見つかり、大騒ぎとなった。
 その後、その骨が自分たちの前に文明を築いていた人類のものだとわかり、骨は新しい文明の教科書掲載され、文明が滅びるまで、語り継がれた。
 「ほら、有名になれたろう」
 風にのって聞き覚えのある声が。

チャンス

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-09

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