きんもくせい (第弐稿
最終電車の灯りがちいさくなっていく。乗客たちは足早に階段を駆け上がって行き、ホームには私だけが残っていた。冷たい風にぶるりと身を震わせ、のろのろとした足取りで改札のフロアまで上っていくと、がらんとした空間にどこかで鳴っている電子音がピンポンとやけに大きく響いていた。タクシー乗り場には行列が出来ていて、切れ目なくやってくるタクシーが客を積んでは走り去っていく。列の最後尾に付こうかと考えているとスマホの着信音が鳴った。たかしからのメッセージだった。
『まだか。腹へってるんだけど』
文末にしかめっ面の絵文字。私は家とは反対の方向へ歩き出した。
寝静まった住宅街を歩きながら、数時間前に職場で起こった出来事を思い返していた。ヒキガエルのようにでっぷりとした腹を露わにしながら全裸で仰向けに横たわる中年男性。狭い部屋を埋め尽くす悲鳴が自分の声だと気がつくまで一瞬の間があった。急遽店じまいとなり、他の娘たちは早引けしてしまい、静まり返った控室には有線の音楽だけが流れている。店のガウンに身を包み色褪せたソファーに縮こまるようにして座り待っているとふたりの男が入ってきた。ひとりは小柄な中年でもうひとりは若く、ふたりとも同じようにくたびれたスーツを着ていた。ドラマで観るような刑事のイメージにあまりにも重なるので現実感が薄れていくような気がしてくる。年上の刑事がパイプ椅子を引き寄せ向かい合うように座った。若い方はドアの脇に立ったままだ。
「遅くまでお待たせしちゃってすみませんでしたね。あ、着替えもまだでしたか。連絡が行き届きませんで、どうも」若い刑事の方をちらりと見て目で叱責する。
「いえ……」
「ええと、あの男性……お客さんですが、やはり事件性は無いようです。詳しくは鑑識の結果待ちとなりますが、どうやら突発性の心臓病のようですな」
「そうなんですか……」
「身元も分かってご家族にも連絡がつきました。遺体はすぐに病院が引き取りに来るって話です。いやあ、それにしても災難でしたね」
「それじゃあ、もういいんですか」
「はい、もちろん。長い時間引き止めちゃってごめんなさいね。またあとでお話を伺うことになるかもしれないけど、ま形式的なものだから」
刑事たちは愛想笑いを浮かべ部屋から出ていき、入れ替わるように店長がやってきた。
「遅くまで悪かったね。タクシー代出そうか」口では気遣うような風を装ってはいるが、その表情には売り上げが台無しになってしまった苛立ちが垣間見える。私は壁の時計をちらりと見て言った。
「いえ、まだ終電に間に合いますから」
ぼんやりとしながら見慣れぬ路地を足の向くままに歩き続けた。突き当たった丁字路を曲がろうとしたその時、角のむこうから現れた人とぶつかりそうになった。「ごめんなさい」突然のことに慌て、見ると街灯に照らされたその人影は小柄な少年で、中学生くらいだろうか。
「いえ、こちらこそ。気をとられてました」
その少年は左手に細い杖をもっていた。影になっていてよくわからないが、どうやら白い杖のようだ。顔をあげ私の方を見る。が、その視線は私を捉えることはなく、左右の眼はそれぞれが独立した意思をもっているかのようにぎょろぎょろと別々の方向を向いていた。街灯の弱々しい光のなかに浮かぶその顔は整っていて、美しくも儚げな印象がそこにあった。
「こんな夜更けに出歩いて、大丈夫なの」口をついて出たことばに、なにを言っているんだろうと思う。
「はい、いつものことなので」にっこりと微笑む。
「あ、あの。もしよかったら……」
「はい」
「ついて行ってもいい。怪しいものじゃありませんので」
「もちろん。ぼくでよかったら」
「いつもこんな時間に出歩いてるの」
ふたり横並びで歩く。ピンヒールと杖の硬質な音だけが路地に響いている。
「はい。ぼくのような体だとかえって都合がいいんです。暗いのは平気ですし、静かな夜は音がよく聞こえて安全だから」
「なるほどね。ところで、どこに向かってるの。なんていうか、目的地はあるのかな」
「金木犀の香りがするので行ってみようかなと思って」
「きんもくせい。こんな寒いのに。もう十二月だよ」
「でも香りが届いているんですよ。たしかにこっちの方から。ぼくは耳もいいけど鼻も利くんです」
「ほんとうかなあ」
「ほんとうです。さあ、匂いが強くなってきた。もうすぐですよ」
少し歩くとそこには小さな公園があった。公園のまんなかには一本の木があり、黄金色の細かな花が咲き乱れ、四隅の灯りに照らされて幻想的な佇まいを見せていた。だが私にはその香りは感じられなかった。
「わあ、きれい。でも匂いはしないけど、なんでだろ」
「どうしてかな。ぼくにもわからないけど、もしかしたら心が存在を受け入れられずにいるのかもしれませんね」
「存在を受け入れる……どういうことだろ」
「うまく説明できないけど……香りだけに集中してみたらどうかな」
私は目を閉じて鼻から大きく息を吸ってみた。冷たい空気が鼻孔をくすぐる。だがやはり花の香りを感じることはできなかった。目を開けてみると、そこは灯りもなく闇に包まれた公園だった。目の前に木があり、やがて暗さに慣れた目に映ったそれは先ほどとはまるで違っていて花どころか葉すらまるでない姿をしていた。そのとき私は少年の姿が消えていることに気がついた。
「ねえ、どこに行っちゃったの。冗談はやめてよ。ねえ」
だが応える声はなく、その呼びかけは虚しく闇に消えていった。そのときコートのポケットの中でスマホが震えた。私は真っ暗な公園に立っている裸の木を見上げると、固く目を閉じた。そして大きく、ゆっくりと、身体中に行き渡るように冷たい空気を吸い込んだ。
きんもくせい (第弐稿