全失病

 言葉を失ったら。感情を失ったら。存在を失ったら。君はどうするのだろう。

「病院を出ましょう」
 と提案をしてきたのは佳織だった。
 僕は必死で止めようとしたが、中々その思いは伝わらないようだった。
「当然空にも来てもらうからね」
 えー……。
「どう言おうと絶対付いてきてもらうわよ」
 佳織は窓を眺めた。その瞳が少しだけ揺れていることに僕は気づいた。

 作戦決行はそれからすぐのことだった。病室を颯爽と抜け出し、駐車場のカブに乗った。
 免許を持っているのか謎だったが、
「とばすわよ~」
 佳織の性格なら免許の有無はあまり関係ないのかもしれない。
 僕は不安を抱きながらその後ろに乗った。キーはいつの間にか佳織が盗みだしていた。
「あ、あなたたち!」
 玄関で慌てる看護師を尻目にカブは走り出す。
 今までお世話になりましたー!、と声をあげる。この言葉が届いたかはわからないが、頭を下げておいた。

 目的地はどこ?、と尋ねる。
「……」
 気づいていないようだ。
 僕は佳織の肩を少しつつく。佳織は察した様子で、思案した後答えた。
「目的地は学校よ。私たちが昔いた場所」
 確かにこの道は学校へと続く道だ。
 だが以前とは大きく異なる景色だった。人の手がしばらく加えられてないためか、草は思うがままに生い茂り、ゴミは野ざらしになっている。道に横たわる人やフラフラとさまよう人の顔に生気はない。比喩でもなんでもなく、眼前に広がるのは滅んだ街の景色だった。
 どれもこれも、あの病のせいだ。

 二年前、とある病が現れた。それはまず人から言葉を奪う。そして次第に感情が奪われる。最期には、存在を失ってしまう。ある日忽然と、姿を消してしまうのだ。
 病気の進行は人によって違い、ずっと言葉のみ失ってしまった人や、発症して二日で存在を失った人もいるという。それに規則性はなく、いつ自分が消えるのかその恐怖に怯えながら、人は日々を生きている。
 世界中の医学者が治療法に臨んだが、根本的な治療は確立されることは今日としてなかった。いや、今や医療機関さえ機能しているのか怪しい世界だ。もう研究をし続けている人はいないのかもしれない。だがいつしかこの病気の名前だけが、知れ渡っていった。全失病、と。
 病気が蔓延し始めて最初の一年は地獄だった。所詮人は動物なのだと知った。隠してた本性、衝動が露呈し、秩序の世界はあっけなく崩壊した。僕は家族も、友人の多くも亡くしてしまった。今生きていることがわかる知人は、佳織だけだ。
 僕たちが先ほどまでいた病院は、この街で唯一機能している施設だろう。病院というか、拠点というのだろうか。そこに集う人々が協力し、ここまで生き残ってきた。でも僕たちはそこを抜け出した。後悔は不思議と無かった。

 道路が分断されていたり、野蛮な人々を回避したりと、そうこうしている内にようやく学校へとたどり着いた。もう空は茜色に染まっている。
「さ、中に入りましょ」
 佳織はカブを乗り捨て中へと入っていく。僕もそれに続いた。
 学校は、まあ予想通り、荒れ果てていた。よからぬ輩が根城としていないことだけが救われたけど。
「ここだね」
 佳織は一つの教室の前で止まった。
「初めて病気に遭遇した場所ね」
 ここが僕たちの始まりであり、終わりでもあったのだと思う。

「沢城」「はい」「柴咲」「はい」
 なんてことのない出席確認の時間。今日も退屈な日が始まるのかと、窓の外を眺めている。
「新海」
 自分の名前を告げられ、僕は頬杖をつきながら返事をする。
「はい」
「……新海」
「……? はい」
 そこまで小さな声ではなかったはずだが、聞き返された。
「おい、新海、居るんなら返事をしろ」
「してますって」
 そう言っても教師はまるで反応しない。まるでこちらの声が一切届いていないかのように。
「全く……鈴木」
「はい」
「……おいさっきから何なんだ!」
 教師は名簿を教卓に叩きつけた。乾いた音が響く。
「あまり大人をなめるもんじゃないぞ」
「あ、あの……」
「どうかしましたか?」
 あの様子は正気じゃない。そうすぐに悟った。
「な、なんだなんとか言ったらどうだ……?」
 生徒の数人が近づいていく。
「や、やめろくるんじゃない! くるなあ!」
 教師は体を丸め込み、それ以降どんな言葉をかけても動かなくなった。
 これが全失病の初期症状だと知るものは、当時まだ少なかった。

「ここが私の席」
 その後ろが僕の席だった。
 窓沿いの席だった。僕らは昔のようにそこへと座る。
「そして私は後ろを振り向いて度々話してた」
 同じように佳織は振り返る。
「……今も話せたらよかったのにな」
 全失病の初期症状、人の言葉がわからなくなる。佳織は僕どころか、人の言っていることが理解できない。自分は喋ることはできても、それでは言葉を失ったのと同義だ。
「これ見てみて」
 佳織が取り出したのは、赤色の髪留めだった。
「小学生のとき、空がプレゼントしてくれたもの。私、嬉しくってずーっと思ってたんだ」
 知らなかった。その髪留めは佳織のことだから、すぐに捨ててしまったものだと思っていた。
「もしかしてちょっと引いた?」
 そんなことはない、と頭を振る。
「……そっか。どんな顔をしてるのか、見たかったよ」
 次の症状の段階、人の感情がわからなくなる。人の顔に靄がかかり、感情を読み取れなくなる。自分の言葉も感情を伝えても、それが返ってくることはない。
「いやだなぁ」
 佳織が小さく呟く。
「私このまま居なくなるなんて、いやだよ」
 末期症状の一つ、それは肌が驚くほどに白くなること。佳織の肌は透き通る程に白い。それこそいつか消えてなくなってしまいそうな。
「ねぇ私のこと覚えていてくれる?」
 存在を失う。それは誰の記憶からもいなくなること。誰からも忘れられて、まるで最初から居なかったかのように、消えてしまう。残るのはその人物が一番大切にしていた物だけだという。
「最後にちょっとだけ、伝えてみようかなって思います」
 佳織は笑顔を浮かべた。泣きそうな、笑顔だった。
「きっかけはなんてことないんだけど――」
 突然、佳織の言葉がわからなくなった。ノイズのようになって聞こえなくなる。そうか、これが全失病の言葉を失うということか。
 それにしても、今だとは。
「――」
 わからない。何を言っているのか全く。佳織はこんな中で生きていたんだ。
「――」
 頼む、あと少しでいいんだ。ほんのちょっとでいいから。
「――そういうわけで」
 ようやく鮮明になった時、それは聞こえた。
「ずっとずっと前から、好きでした」
「……! 僕も――」
 途端、カツンと音がする。見れば赤い髪留めが落ちていた。その髪飾りをとる。
 揺れるカーテンに斜陽が差し込む教室で、僕はただ一人立っていた。
 なぜ、どうしてここにいるのか、全くわからなかった。
 ただただ髪留めを見つめて、流れた涙だけがきっと知っているのだと、僕は感じた。

全失病

全失病

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-12-05

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