芥川龍之介『蜜柑』より

鯨鹿

 ある曇った冬の夜である。私は横須賀線鎌倉駅にて、上り大船行きの電車のロングシートに腰を下して、ぼんやり発車のメロディを待っていた。寒色の電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を覗くと、うす暗いプラットホームにも、後にくる東京行きを待つ人影さえ跡を絶って、唯、ケージに入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに吠え立てていた。これらはその時の私の心情と不思議な位似つかわしい景色だった。私の頭の中には言いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套のポケットへじっと両手をつっこんだまま、そこに入っているスマホを取り出す元気さえ起らなかった。
 が、やがて発車の笛が鳴った。私はかすかな心のくつろぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の駅がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまえていた。ところがそれよりも先にけたたましいヒールの足音が、階段の方から聞こえ出したと思うと、間もなく車掌の「駆け込み乗車はおやめください」という構内アナウンスと共に、二十三四の娘が一人、慌ただしく中へ入って来た、と同時にドアは閉まり、一つずしりと揺れて徐に列車は動き出した。一本ずつ視界を区切って行く駅の柱、置き忘れられたように灯の消えた広告版、それからホームにひとりぽつねんと佇むスーツの男――そういうすべては、窓に写る私の虚像の中に、未練がましく後へ倒れて行った。私はようやくほっとした心もちになって、ポケットから手とスマホを取り出しながら、始めて懶い瞼をあげて、前の席に腰を下していた娘の顔を一瞥した。
 それは肌の色そっくりの茶髪の、一昔前の不良のようなケバい化粧をした、如何にも田舎者らしい娘だった。しかもこの真冬に足や肩の露出の多い服を着ており、スパンコールで装飾されたギラギラと眩しいバッグを抱えている。私はこの娘の下品な顔立ちを好まなかった。それから彼女の服装がふしだらなのもやはり不快だった。最後にその駆け込み乗車をするような愚鈍な精神が腹立たしかった。だから私は、一つにはこの娘の存在を忘れたいという心もちもあって、スマホの電源を入れてツイッターを開いた。
 しかしそのTLをスクロールしても、やはり私の憂欝を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切っていた。政治問題、芸能人の結婚、誹謗中傷、プロモーション――索漠としたツイートからツイートへほとんど機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、私の前に坐っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。この寒色電灯と、この田舎者の不良娘と、そうして又この平凡なツイートに埋っているTLと、――これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切が下らなくなって、読んでいたスマホを抛り出すと、又窓枠に頭をもたせながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。
 するとカーブに差し掛かったのか、突然車両が大きく揺れ、拍子に娘のバッグがひっくり返った。その瞬間、蜜柑が凡そ五つ六つ、私の足元にばらばらと降って来た。思わず息を呑んだ。その生き生きとした色彩が私のぼんやりとした意識を引き戻したのだ。彼女が転がった蜜柑を集め始めるのを横目に、私はその一つを拾い上げた。
 一点の斑もない、正真正銘の蜜柑である。いったい私は今まで蜜柑をこうまじまじと眺めたことがなかったのだが、その時初めて蜜柑とはこんなにも美しい果物である事を知った。しかし同時に、私にはあの不良娘とこの美しい蜜柑とが氷炭の如く相容れない物に思えた。
「すいません、ありがとうございます」
 他の蜜柑を全て集め終えて、彼女は私に礼を述べた。拾った一つを返そうとすると、彼女は首を振り、断った。
「それ、差し上げます。もし、よろしければ。甘くて美味しいんですよ」
 別段私は蜜柑が欲しくて眺めていたのではなかったのだが、どうやら彼女の目にはそう写ったらしい。しかし、彼女は見かけに依らず丁寧な言葉遣いをする。
「では、頂きます」
 私がそう言うと、彼女はにこりと笑みを零した。そうして改めて対岸の席に戻ろうとしたのだが、突然、何か思い出したかの様に振り向いて聞いた。
「あの、これって東京行きます?」
 彼女は東京へ行くのか。
「いや、これは大船行きだから、東京までは行きませんよ」
「まぢですか」
 その台詞を聞いて、私は思わず笑ってしまった。心当たりのない彼女は、少し驚いた様子で私の笑うのをきょとんと眺めていた。
「まぢだよ」
 私はそう言って笑って見せた。
 暫くして列車は減速を始め北鎌倉に到着した。自動ドアが開き、冷たい外気がすうっと足元に流れ込んで来た。例の如くホームには人影も絶えて、今にも消えそうな電灯が点滅している。ここで次の列車を待つのだろう、娘は私に会釈をすると、ヒールをカツカツと言わせて車両を降りた、と同時にドアは閉まり、一つずしりと揺れて徐に列車は動き出した。その間も勿論あの娘が、私の後ろのホームに立っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。しかしその気配さえ、私の心情など無関心に後ろへ倒れていく。
 私は蜜柑の皮を剥き、その一片を口に放り込んだ。しかしそれは、私には少々甘すぎた。

芥川龍之介『蜜柑』より

芥川龍之介『蜜柑』より

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-05

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