ら んらら
ラザニアをうまくつくれた日は、手をつなぐときめている。そうでもしないと、節操なく、きみに触れてしまいそうで、というせんせいに、わたしは、いやいや、遠慮せずに、無節操に、触れていいんですよ、と思う。皮膚を、撫でてくれていいし、肉の上から、骨の感じを、確かめてくれてもいいし、なんなら、わたしの、むきだしの部分すべて、なめてくれてもかまわない。重い、なんて、せんせいは言わないでしょ。
テレビから流れてくるラブソングが、みんな陳腐にきこえたときに、きみのことを思い出すよ。きみは、冬の雪となった。ひだりのまつ毛から結晶となり、冬のものとなった。きらきらとつめたいものとなり、町のあかりがきえた瞬間に、いっしょにきえた。さびしかったね。海にふる雪のことをしっていて、雪になったのだから、どうせきみ、海のなかにふればいいのにと思った。海の底に蓄積される、結晶のきみを想像して、むなしくなった。どれもきみで、どれもがきみじゃなくて、いずれは、海のなかのいきものの欠片と、おりかさなり、いりまじり、わけがわからなくなるのが、よかったのに。今夜はラザニアをうまくつくれたから、わたし、せんせいと、手をつないでるよ。せんせいのゆびは、細くて、爪は、やや長いけれど、きれいにかたちがととのえられていて、それから、せんせいは、いいにおいがする。かわいいスカートをはいているところが、好き。
せかいはね、もうはんぶんくらい、だめっぽいの。
きみが雪になってから、すこしずつせかいは、おかしくなっているから、ときどき、もしかしたらきみって、神さまだったのかも、と考えるときがある。こんやは半月で、ラザニアをうまくつくれた日で、空と海がはんたいになって、空が海で、海が空で、星がしずんで、くじらが飛んで、あの瞬間に、きえたはずのきみの声が、なんだか、きこえてくるような気がする。
ふゆ。
ら んらら