フルーツヨーグルト

紬いと(ito.)

フルーツヨーグルト
  1. 林檎.1
  2. 夕張.2
  3. 二人の距離.3
  4. フルーツヨーグルト.4

◯完結済みの作品◯

「林檎編」
「林檎」「──え? 私?」「より、グミとラムネ」夕張ワールドは気ままに襲ってくる。気の強い女として周囲からも見られている林檎。大学の男子生徒からは距離を置かれ、男は苦手な生き物として見ている。けれども、同じサークル内の夕張の事だけは本気で嫌いになれずにいた。何かと話が合わない二人の、切なくて、おかしな会話が今日も始まっていく。


「夕張編」
彼の過去に触れる──夕張視点で語られるエピソード。林檎、元は苦手な女だった。母親の手作りフルーツヨーグルトは思い出の味。大切だからこそ、忘れたい想いがそこにはあった。


「二人の距離編」
 それとなりに、夕張とは分かり合えているつもりでいた──。一人取り残された私と他人のヨーグルト。二人の心はすれ違ってしまう。いつものようにサークルへ向かう途中、ある女性と話しているのを見かけた林檎は……。


「フルーツヨーグルト編」
どんな形でもいい──少しでも夕張を助けたいから。 ほどけた時の中で想い出の味は蘇る。

林檎.1

林檎.1

 どうしてこうもやる気が無いものか。
 すれ違いざまに顔を見れば
 生あくびとケタケタ笑う鳴き虫の喝采。
 人間はみんなこうなわけ?
 信じられない。
 そしてその中でも群を抜いている人物がいる。
 世の中があらゆる方向へ日々変化。
 複雑に交差していることは私も知っている。
 けど、これだけは許せない。
 ──この男だけは!



「混ぜるな危険んん! 本日で151回目と12種の過ち!」


 人さまに向けて指をさしても許されるのは、きっと探偵や刑事、または物珍しい対象を見つけた時だけでしょうね。けれど、全部を無視して、私はある特定の人物にその失礼な行為をしなくてはならなかった。

「林檎」

「──え? 私?」

「より、グミとラムネ」

 まただ。
 またこのパターン。
 夕張(ゆうば)ワールドは気ままに襲ってくる。

「それと、チョコにマシュマロ」

 勢いよく決めたはずなのにな。
 さっきの威勢は夕張のたった一言で、ものの見事にへし折られてしまった。
 一階の隅、談話室が私達のサークル活動の部屋。ドアを開けた瞬間の私の叫びはどこへ行ったのだろう。うな垂れた頭を夕張へ向けると、いつもの眠たそうなタレ目と視線がぶつかる。

「何よ、その目は」

「疲れないのかなって思って見てただけ」

「ケンカ売ってるのかしら」

「いんや。何それめんどくさそう……」

 タレ目のくせして眉間にシワを寄せるから、余計に目が細くなっている。
 


 いかにも私と性格が正反対なこの男は、これまで出会った腑抜け男の中で三本の指に入る呆助(ほうすけ)で間違いない。そして、同じサークルに所属している人物でもある。初対面では気づかなかったけど、かなりの変人だ。一見するとごく普通の大学生で、背も割と高いからか一部の女子から密かな人気があるとかないとか。それと理由はよく知らないけど、サークル内では白衣を必ず身に付けている。その装いに下駄を履くからか異様な近寄りにくさが増していた。

「人のことジッと見てなに。まさかと思うけど……」

「勘違いしないでよね。あんたは敵」

「え!?」

 夕張は急に目を剥き出しにして、持っていた『例の物』を静かに机へ置いた。

「そ、そんなに驚くこと? あの日が始まりよ。夕張も覚えてる事でしょ」

「いつ始まったの? ちょっと待ってよ。俺は始まってない」

 オロオロと夕張がうろたえている。何だかいつもと様子が変だ。どうしたのだろう。
 私は不思議に思い、夕張の近くへ歩み寄った。すると、夕張は「わっ」と変な声で一歩後退りしている。その様子を見て、私の中で小さなイライラ虫が表情をひきつらせていく。
 本当に何なんだろうこの男は。

「ねぇ、ちょっと聞いてる? 忘れたとは言わせないから。夕張が私にしたこと」

「何もしてないよ、林檎にそう思われるようなことなんて」

「白々しいわね。だいたいさっきまでしてたじゃない! 何なのよ、グミにラムネって。ほんっとに信じられない」

 私は夕張の使っている机の上を両手で叩いた。その振動に例の物もカタッと宙に浮く。すると、目と鼻の先にいる夕張の顔がみるみる変化。そして、ぶつぶつと何かを言いながら大きく背伸びをしてみせた。

「あー……びっくりした」

「あんたと話してると、調子狂う」

「さっきさ、林檎が俺のこと好きとか言うからだろ」

 今何て言った?この男、気は確かなの?どこをどう間違えたら、私が夕張に告白紛いのことを言うわけ。知る限りではそんな空気はみじんも感じられなかったはず。

「そろそろ病院に行った方がいいよ、夕張」

「だって、『勘違いしないでよね。あんたが好き』って言ってたじゃんか」
 そこか。開いた口が塞がらない。

「そのタイミングで告白する女がいたら、水着を着て構内を歩いてあげてもいい」

「え! 林檎、水着持ってるの? 赤とかやめてね。ちょっとイタイから──」

「ちょっと! 何で私なのよ」

「で、でもさ、林檎がその格好で歩いても、余計に怖くて誰も近寄れない──クククッ」

 夕張はもう耐えきれませんと言わんばかりに、腹を抱えてうずくまり肩を震わせている。
 本当にこの男は失礼な男だ。
 だいたい、何で私が夕張に告白してもいないのに勘違いをされ、おまけに赤い水着を着る事になっているの。だいたい、そんな派手な水着……持ってない! 問題はそこじゃないけど。
 夕張が「はぁ~」と、本日二度目の背伸びをしながら、こちらをニヤついた顔で見ている。
 目がパチリと合い、苛立ちと恥ずかしさで体温が上がっていた。


「こんな羞恥は初めて」

「まー。本当に着るわけじゃないし、良かったね」

 何それ。

「ちょっと! 私のことからかってたの?」

「だって林檎、いつも同じことでガミガミ煩い」

「それは、あんたが悪いのよ」

「で、何でダメなの? ヨーグルト味のお菓子だって世間では発売されてる。俺は新しい味の化学変化を楽しみたくて、懲りずに実験してるだけだよ」

「そういうことじゃ……ない。そもそも! 夕張のチョイスは変! お菓子じゃないものも入れてるじゃない」

「化学変化には、時に科学者の冒険とロマンも必要なんだよ」

「また馬鹿なこと言って。全然心こもってないけど?」

そう言うと夕張は、聞いてるのか聞いてないのかわからないけど、手元にある翡翠色(ひすいいろ)のマグカップを持った。

「何で、果物じゃなきゃダメなの」

 そう一言呟く。
 周りから見ればどうでも良いと取れる話しをしているうちに、日はもう傾き始めていた。西日が差し込み、夕張の髪が透けて見える。憂いを帯びた顔をしてるせいか、斜め向かいの横顔に綺麗だと錯覚してしまうのが悔しい。
 
 私は夕張に、息を飲む瞬間が度々ある。
 呆助(ほうすけ)だけど、女の私から見ても嫉妬してしまうから。
 肌は男のクセにキメが細かそうで、どちらかというと白くて透明感がある。髪はアッシュかな? 明るめの茶色だけど猫っ毛で、いつも違うところに寝癖が出来てる気がするけど。
 それすら自然に見せてしまうのが夕張という男。
 やっぱり変人だよ。
 口を少し尖らせている夕張を見て、そう思った。


「日も暮れてきたし、帰るかな」

夕張は立ち上がりマグカップを片付け始めた。その後ろ姿を見ていつもの言葉を投げかける。

「ねぇ、逆に訊くけど何で果物じゃダメなの」

 毎回してる問いだけど、いまだ真面目に答えてくれたことはない。

「林檎も、物好きだよね」

「同じサークルとして、ただ知りたいだけ」

「他の人あたりなよー。いつも俺ばっかり責められて可哀想」

「他の人って言っても、私とあんた以外、顔合わせることほとんどないわよ」

「確かに、このサークル自由だしね。名前と顔が一致しない人、沢山いるよな」

 夕張と私が立って並ぶと、割と身長差がある事に改めて気付かされる。
 それから夕張が私の方を見ると、手を軽く挙げドアに手を掛けた。いつも通りの幕引きだった。

「んじゃ、またな。お疲れさん」

「はいはい。……お疲れ」


 こんな風に私達は、意味もない様なことをこの一室で日々繰り返していた。
 でも実はと言うと、私の周りの男でまともに会話をしているのは、夕張ただ一人だけだった。けれど、同性からは私も一部で人気はあるらしい。女友達からは一応頼りにもされている。だけど同じ大学の男からは、キツイ女だとか、冷たい奴とか、終いには姑扱い。いつしか、私の中で男は苦手な生き物で嫌うようになっていた。
 だけど不思議なことに、夕張のことだけは本気で嫌いにはなれずにいた。


 * 


 家までの帰り道に、頭の整理をするため空を見上げた。目をつむると、夏の夕暮れ時の風が肌を触る。少しだけ気持ちが良い。ふとした時、頭の片隅で夕張の眠たそうな横顔が浮かんでしまう。
 
 私も変人なのかな。
 そんなことを思いながら、アスファルトをちょっとだけ蹴り上げた。

夕張.2

夕張.2


 今日も一日が過ぎていく。
 ストンと胸の中に、重い鉛のような物が落ちていくのが分かる。
 当たり前だ。毎日、毎日、そう言い聞かせながら俺は惰性で生きているから。

 


 大学を出て、ものの10分程度で自分の部屋へ帰ることができるのは有り難い。寮生活をしているため、寝る場所には困らないのが利点だ。それと、食べることにはそれほどこだわりは無い。
 夏の夕暮れ時の風が頬を触る。少しだけ気持ちがいい。ふと、さっきまでいたサークルの光景が浮かんできた。気が強くて、物好きで、何でかいつも俺に食ってかかる女。ほうっておけば良いのに。俺が言うのも何だが、かなりの変わり者だと思う。
──林檎。もとは苦手な女だった。



 当時を振り返ると、嫌でも自分の過去に触れなければならない。記憶の断片にこびりついて離れてくれないからだ。今日は変だ。すこし遠回りして帰りたい。冷たい物でも買って帰ろうかと思い、大学近くのコンビニへ向かった。コンビニの駐車場に、男子高校生だろうか?数名が集まりながら何やら楽しそうに話しているのが目に入った。鞄が大きく重たそうだ。きっと、部活の話しや好きな女の話しで盛り上がっているんじゃないだろうか。俺は横目に見ながら店内に入り、カップのヨーグルトアイスを購入。帰ろうとすると、下駄が珍しかったのか、先ほどの高校生に凝視されてしまった。それに、高校生を見ると思い出してしまう。自分にもそんな時代があり、あの頃の俺は不甲斐ない少年だったということ。


 もともとヨーグルト好きには母親の影響があった。ごく普通の家庭に生まれ、父親も含め3人家族。母親は俺が子供の頃から、よく手作りのフルーツヨーグルトを作ってくれていたからだ。少し酸っぱいけど、林檎や桃が入っていたり、キウイが入っていることもあった。中学校に上がってからも冷蔵庫には必ず作り置きされていて、俺にとってはそれが当たり前の毎日だった。
 しかし高校1年の頃、両親は少しのことで言い争うようになり、ケンカを理由に別居することになっていた。当時の俺は、無意識に父親を責めていたと思う。学校の問題があるからと、自然と母親が家を出る形になったことが、おもしろくなかったのだろう。今となっては、その日を境に両親の言い争う声も聞かずに済むし、俺自身にとっては良かったのかもしれない。
 けれど、あの優しい笑顔と冷蔵庫の中のフルーツヨーグルトは、全て過去に変わり思い出になってしまった。


 *


 親には親の理由がある。子供には理解出来ない境界線が知らないうちに引かれている。そんな風に自分を納得させるしか日々をやり過ごす手段がなかった。


「父さん。なんで母さんは出ていったの」

 母親と別居してから半年が経ち、ようやく面と向かって聞くことができた。夜の静寂な食卓に食器の音が響く。父親はサラリーマンで仕事も真面目。愛想はあまりないけど、少なくとも優しい父親だと思うからだ。少しの沈黙のあと、一口だけビールを飲み、俺の方を見てきた。

「父さんが悪いんだ。母さんは悪くない」

「それじゃあ、答えになってないよ」

夕張(ゆうば)、お前には辛い思いさせたな。本当にすまないと思ってる」

「すまないって……何だよ。謝るなよ。ねぇ、母さんは今どこに住んでるの?」

「母さんは同じ地域にアパートを借りてる。近くのパート先で働いているらしい」

「そうなんだ。いまも連絡は取ってる?」

「別居してても、夫婦だからな」

「母さん、戻ってくるかな……」

 そう父親に訊いたのか、それとも自分に言い聞かせたかったのだろうか。父親が答えられない理由があることは、これ以上話さなくても分かっていた。
 


 本格的な冬の気配が近付いていたある日。
 父親の目を盗んで、母親のいるパート先へ行くことを決めた。別居していても、ときどきご飯を作りに来てくれたり、俺の様子を見に家に帰ってきてくれている。今の状況をもっと知れば、もしかしたら考えを改めてくれるかもしれないと思ったからだ。父親は父親なりに、家族のために言葉少なくとも、この先の未来のことを考えているんだと伝えたかった。
 足取りは速くなる。直接パート先は聞いていないが、買い物袋に入ったままのレシートをたまたま取っておいたから予想はできていた。そこは一件のスーパーだ。
 店内に入ったけどまだ昼過ぎだからか、母親の姿はなかった。家に帰ろうとも思ったけど、せっかくなのでもう少し店の外で待つことにした。立ったままでは凍えそうで、備え付けの自動販売機で暖かいココアを買った。自転車置場の隅でその暖かさを感じながら待っていると、例えようのない時間の流れを感じてしまう。ココアが半分ほどなくなった頃、聞き覚えのある声が耳に届いた。
 少し細めで、長い黒髪の女性だ。
「──母さん」はやる気持ちを抑えて足早に着いて行く。すると、従業員入り口の近くから一人の男性が話しかけていた。とっさに自分の身を隠すため、電柱と塀の陰に隠れる。


「出勤早かったですね。今日もすごく寒い」

「おはようございます。本当ですね、冬が近付いてる証拠です」

 親しげに二人は会話していて、俺は戸惑っていた。せっかく話しかけようとしていたのに、この寒い中待ってたんだぞ。あの男はいったい誰なんだろう。
 もう一度様子を伺った瞬間。無意識に俺の手から、持っていたココアが地面に落ちてしまった。足元に茶色い染みがみるみる広がっていく。慌ててその缶を拾い上げ、気付けば自分の足はその場から逃げ出していた。

 ハァッハァッハァ──心臓が苦しい。目の前に焼き付いて離れない母親の楽しそうな姿。手。あの男は誰なんだ。もうそれすらどうでも良い。とにかくあの場所から1ミリでも離れたい。
 その日以来、諦めと無力さとで、自分の中の大切な何かが崩れ去ってしまった。


 *


 結局、大学に入学した頃に両親は離婚。それを聞いても、もう何も思わなかった。正直、どうでも良いとさえ感じられる。我ながら生意気に成長したものだと思う。それと、ひとつだけ変わってしまったことがある。それは、果物が苦手になったことだ。食べられないわけじゃないが、食べたいと思えない。

 大学に入ってからはいまに続く寮生活がスタートし、少し気も紛れて良かったと思う。俺は持て余した時間をどう過ごすか悩んでいた。サークルの掲示板をたまたま見つけて、あまり騒がしくないのが条件だったから、人気の無さそうな分野にしようと目を配った。すると、ある文字が目に留まる。懐かしい響きがそこには書いてあった。

「ヨーグルト愛好会+α……乳酸菌好きはここに集え! かぁ。人気なさそうだな」

 それが印象だ。そんなことを呟く隣で女の声がする。

「ヨーグルト愛好会+α! 最高の響きね。まだ人数的には間に合うかな」

「間に合うと思いますよ」

「あなた、誰ですか?」

「このサークルの記事読んでたんですよ。人気なさそうですよね」
 そう話しかけると、その女の顔は(いぶか)しげに俺を見上げた。何だか怒っているようだ。

「入る気もない人に、そんなこと言われたくありませんけど。
 私はヨーグルト大好きなので! 失礼します!」

「え……」

 これが林檎との出会いだった。



 いつからか、自分の名前が嫌いになっていた。「夕張(ゆうば)」まるで果物をイメージさせる名前だからだ。勝手な偏見だけど、あの掲示板の前にいた女の名前も、のちに林檎だと知り同じ目で見てしまう。
 そう、俺たちは同じサークルに所属していた。

 ヨーグルト愛好会+αは思った通り人数の少ないサークルだった。活動もほとんどしていないし、先輩もたまに顔は見るけど幽霊に近い。でも、俺にとっては都合が良かった。気ままに過ごせるし、時間潰しにはちょうど良い空間だから。よく顔を見合わせている人物は、林檎くらいだ。林檎は気の強い女で、何かと構内で噂になっていた。歩く赤鬼、なんて異名も付けられて気の毒な女だと思った。何を好んで、口煩く他人の芝に入り込むのか。反感を買うだけなのに理解し難い。だから俺はあまり関わらないようにしていた。話しかけられても基本は適当に流すか、誤魔化すだけ。
 だけど林檎は手強く、俺の空間に土足で踏み混んでくる。


「夕張はさ、なんでヨーグルト好きになったの?」

「とくに理由はないかな。林檎は?」

「私は手作りしてるから! とくに果物を入れるのは格別ね」

「手作りしてるんだ。でも俺はプレーンが好きかな」



 ごくたまに林檎は普通の女に見える。当たり前だけど、いつも怒っているわけじゃないからだと思う。付き合いが長くなると、あの怒りっぽい性格もからかいがいがあるものだ。確かに俺の周りの男どもは、あいつには気をつけろと忠告を促してくるけど。
 けど、その言葉の本当の意味を知ることになる。

「夕張! 聞いて。手作りヨーグルト持ってきた」

 サークルに入ってから何週間かして、いつも顔を合わせている林檎の声色が一段と明るい。俺がいつもの窓際の席に座っている時のことだった。
 小さな可愛いらしい容器を目の前に置く。

「これ、良かったら食べて! 先輩たちにはまた今度持ってくるつもり」

「ああ……えっと、いいよ。俺は自分のあるから」

 誤魔化そうとした。何となく嫌な予感がしたからだ。

「遠慮しなくていーよ! ほら、食べて」

 林檎はそう言うと、自信満々に容器の蓋を開けた。自然と目に映るのは、どこかで見たことのあるものだった。スプーンを差し出してくるから仕方なく手に持とうとしたが、うまく持てないことに気付く。
 手元を見ると微かに震えていた。
 馬鹿馬鹿しい……。そう思い、手元に力を込めた。一切、林檎の気持ちなど考えもしない。ただ自分のためにその手が動く。鼓動が速くなっていることは、自分でも分かった。
 ひとくち、口元に運ぶ。

「……おいしくない」

 感情もなく、反射的にその言葉が低く口をついていた。
 我にかえっても遅い。
 張り詰めた空気のせいで、あいつの顔を見なくてもどんな表情をしているのか想像がつく。

「もういい。返して」

 林檎は俺から容器を奪うと片付け始めた。俯いたままで何も言わない。だから嫌だったんだ。林檎は距離感ってものを知らなさ過ぎる。
 この日を境に、もう口を聞かなくなるだろうなと思っていたがその逆だった。懲りずにサークルには来るし、俺の食べいてるヨーグルトに対して口出しするようになっていた。
 
 俺は一体、何に執着しているんだろうか。
 相変わらず、今日もヨーグルトに合いそうもないものを混ぜて食べる。
 お気に入りのマグカップに入れるのは譲れないけど。

「何も味がしないな」


 *


 音がする。笑い声と様々な色で会話をする声。
 遠くに聞こえる飛行機の進む音や風が草木を揺らす音。
 足音が聞こえる。多分、林檎だろう。
 また、懲りずに同じことを聞くに違いない。半ば諦めつつある、今日この頃だ。

二人の距離.3

二人の距離.3


 今日も一日が過ぎていく。
 フワリと胸の中に、軽い羽のような物が落ちていくのが分かる。
 何故なのか、はっきりとしないけれど。
 きっと、毎日、毎日、その時間のために生きているから。



 普段と変わらない道を歩いていく。サークルへ向かう途中の煩い声にも耳を傾けながら、今日も一定のリズムで迷いなく進む。一階の談話室へはもちろん建物内から行けるけれど、私は決まって外から遠回りしていた。閉鎖的と言ってしまえば、建物の中に居るというだけで、この環境は閉じ込められた空間だから。少しでも鳥の鳴き声や風の音を聴きたい。そうすることで、不思議と落ち着いた気持ちになれた。
 良く晴れ渡った夏空の下、鼻から緑の香りを吸い込んでいる時のことだった。
 私はある人物を意外な形で目撃してしまう。

「あれって……夕張(ゆうば)?」

 良く知る人物が見知らぬ女性と二人で話している。ちょうど談話室の窓際から近くの「憩いの場」とでも言うのかな。学生達がよくここで話しをしたり、部活動に勤しむ人達のランニングコースになっていたりする。思い思いの時間の使い道がここには漂っていた。
 サークル内へ向かうには、その前を通過しなければいけないのに、本当に気まずい。どうしようかと悩みながら歩いているうちに、足取りが重くなっていく。表情がわずかに伺えるほど近くなった頃、少しだけ違和感を覚えた。その違和感は何だろう。私は自然と歩みが止まっていた。

「…………」

「良かったら、食べて? じゃ、じゃあ……帰るね」

 聞こえたのは本当に弱々しいその一言だけ。その女性は夕張の前から立ち去っていく。つられて女性の後ろ姿を目で追ってしまったけど、視線をゆっくりと戻した。私はすぐに、さっき感じた違和感はこれだと解った。
 表情が何ひとつ変わらないことに、違和感を覚えるということ。
 夕張は私に気付きもせず、その表情のままサークル内へ向かったみたいだ。
 その手には小さな紙袋が提げられていた。



 何となくだけど、見てはいけないものを見てしまったという罪悪感に似た思いが生じていた。
 少し気まずい空気をドア越しに確かめながら、中へ入る。
 案の定、今日も二人しかサークルにはいないみたい。夕張はいつもの席に座っていた。

「おはよう。今日も相変わらず、やる気のない顔をしているのね」

 私は入ってそうそう投げかける。
 あれ、いつもどんな風に会話してたかな。日々の言動を思い返してみたけど、大抵は夕張が第一声を発することが多いことに気付く。だから変な感じなのか。相変わらず何も喋らない。もしかして、さっきのあの女性が関係しているのかなと考えてみた。その間も、他愛もないことをポツポツと振ってみるけど、夕張は黙ったまま何も喋らなかった。私はいつものイライラ虫が余計な方向に進んでしまわぬよう抑えていた。けれど、性格上それは長続きしない。


「あのさ、さっきから人の話し無視するなんて失礼だよね」

 それでも夕張は机の上の紙袋を見つめている。

「それ、なに?」

「……知らない女が無理矢理渡してきた」

 喋った。夕張の口から久々に言葉が出る。
 それにしても、無理矢理ってどういうことなんだろう。あの女性に貰ったものなら、それもおかしい。違和感はあったものの、親しげに見えたのも事実だから。すると、袋の中から丸い容器が取り出された。いつも使っているスプーンを持つと、その容器の蓋を開ける。それは、ヨーグルトだった。てっきりまた変な物でも入れて食べるんじゃないかと、夕張を見てしまう。だけど再び、その違和感を覚える。
 明らかに今日の夕張は変だ。
 いつも変人であることには違いないんだけど、そういう感じとはちょっと違う。
 表情が違う。何でこんなに、寂しげで、暗いんだろう。

「ヨーグルトだよね。……食べるの?」

「食べるよ」

 即答だった。少しだけ、胸の中がザラザラとした気持ちになる。
 前のことを思い出したからかもしれない。
 そう考えた時には、その口元にヨーグルトを運んでいた。けれど、その手はすぐに止まってしまう。不思議に思い言葉を探していると、夕張が急に激しく咳き込み始めていた。私は思わず近くまでいき、戸惑いながら夕張の背中を少しだけさする。触れた肩や背中がひどく熱い。口元を抑えながらむせ返る姿を見て、ただただ心配な気持ちなっていた。
 やっぱり今日の夕張は変だ。具合が悪いのかもしれない。

「……ちょっと、大丈夫? 具合、悪いんじゃないの」

「悪い――もう、平気だから──」

 背中でゼーゼーと呼吸している姿は、今までの夕張とはかけ離れて見えた。西日の差し込む同じ一室。普段は見惚れてしまうその綺麗な横顔やいつもの軽口はなく、苦しそうに目を赤くする、ただ一人の人間がいる。夕張は静かに息を吐くと、目の前にあった容器に蓋をし始めた。

「やっぱり……すっげーおいしくないわ」

「ねぇ、ちょっと──本当に大丈夫?」

「これ、やる。林檎は好きだろ」

「やるって……。あんたのでしょ?」

 それだけ喋ると、何も答えずにそそくさと部屋から出て行ってしまった。



 さっきの夕張の表情や手から伝わった体温が、グルグルと頭の中で渦を巻く。
 それとなりに、夕張とは分かり合えているつもりでいた。個人的なことを知らなくても、そういうのとは違う何かで……繋がっていると思っていたから。
 一人取り残された私と他人のヨーグルト。
 寂しい。夕張に対してこんな風に思うのは初めてだった。いつもただ腹立つことばかりなのに、ああいう姿を見たことがなかったから。ぼうっと考えてしまう。
 何の気なしに取り残されたヨーグルトの蓋を開けると、それはフルーツヨーグルトだった。私が好きなヨーグルト。
 

 この日を境に、夕張はサークルに姿を見せなくなった。

フルーツヨーグルト.4

フルーツヨーグルト.4

 たった一枚の紙に、たった一言に、人はどんな気持ちを込めるんだろうか。簡素な文も書いたことに意味があり、見るだけで伝わるんだろうか。放たれる言葉は、そこに想いがあれば伝わるんだろうか。少なからずそうであってほしいと願ってしまう。できることなら……その想いが柔らかく、優しいものでありますように。
 今はただ、あなたにもそうであって欲しい。


 *



 人はどれだけ他人の心を知っているんだろう。話せば分かり合えるとか、昔からの知り合いだからとか……そもそも、それ自体が無理難題な話しで。

 いつものようにいつもの場所にいないから、そこにあるはずの景色が一枚切り抜かれたみたいだった。どこか味気なく、物寂しい。サークルに姿を見せなくなってから何週間か経ち、改めて夕張(ゆうば)のことを何も知らなかったんだと思い知らされる。憎まれ口、変人、西日に照らされた綺麗な横顔、面倒臭そうな顔、いつも別のところにできる寝癖、たまに見せる寂しげな瞳。ほら、表面的なところしか知らない。

「何してるのかな……今頃」

 ポツリと呟いても誰にも届かない。つい最近までまじめに参加していたサークル部員の一人が、突如として現れなくなった。こんなにも私の中で、大きな出来事になるなんて思いもよらなかった。例えるなら、よく言う心にポッカリ穴が空いたような気持ち。夕張のいつもの場所には、木漏れ日が揺れている。机の上をなぞる度に、これまでの出来事が嘘みたく思えた。
 そんな事を考えていると、窓際を通した視線の先にある人物を捉えた。誰かを探しているようで、辺りを見回している。どこかで見たような……。そうだ! あの日、夕張と親しげに話していた女性に良く似ている。私は考えるよりも先に、談話室を飛び出していた。その女性は肩を落としながら帰ろうとしている。理由はないけれど、会わなきゃいけない気持ちに駆られていた。


「あの! す、すみません──突然話しかけてしまって。私はここの大学に通ってる者です。……失礼ですが、夕張くんのお知り合いの方ですか!?」

 知らないうちに全身で呼吸していた。こんなに走ったのは久しぶりで、まだ脈が速い。その女性は驚いた様子で私を見ている。それはそうか…誰でも不審がるに決まってるよね。なかば落胆していると、その女性から声をかけられた。

「大丈夫ですか? ごめんなさい、ちょっと驚いてしまって。あなたは夕張の──お友達ですか?」

「あ……えっと──はい! そうです。友達です」

 反射的に答えてしまう自分に、それこそ驚く。その女性に向き直ると、すぐに懐かしい感覚が蘇ってきて、誰かに雰囲気が良く似ていた。

「そうなんですね。実は私、夕張の母親なんです」

「え……! お母さん──なんですか?」

 見た目が若く見えただけに驚いていた。戸惑ったけれど、少し困ったように微笑んでいる顔がそっくりで、目元なんか特に夕張に似ている。前に二人が話している姿が親しげに見えたのは、そのせいだったんだ。でも何故、わざわざ頻繁に大学まで会いに来ているんだろう。そういえばあの日……夕張は母親と会っていたことになるけど、その直後から様子が変だった。体調が悪いのかと思っていたけど、あの日以降サークルで見かけなくなったことに関係があるのかと考えてしまう。

「あの……少しだけ、お話し聞いても良いですか? 今日もあの子、いないみたいだから」

「は──はい。私で良ければ」

 緊張して言葉遣いが変になる。状況に流されるまま、近くのベンチで少し話しをすることになった。


 *


「そうですか……あの子は元気にしているんですね。良かった」

 静かに、そして寂しげに笑っていた。私は無責任で酷いことをしている。夕張のことだって、知ってる範囲内で話すことしかできないくせに。
 お互いに上辺だけで、詳しいことは何も話さなかった。違う、話せなかったのかもしれない。
 そんな会話を続けている時、夕張の母親がふいに呟いた。

「あの子を──傷つけてしまって」

 控えめで女性らしい声には、似つかわしくない言葉だった。隣りを見ると、真っ直ぐ前を見つめている。私は無理に繕っていた笑顔を辞めた。その一言を私にくれた意味は何なのか解らないけれど、何か理由があるのかもしれないからだ。

「迷惑も考えずに、あの子が昔好きだったものを持って会いに来るなんて……」

 手に持っている袋にシワがよっている。淡々と話しているけど、とても一言一言が重い。私に話しているというより、自分自身に語りかけているみたいだ。これ以上、私に聞くことはできないんじゃないかな。聞いたとして何ができるんだろう。そんなことをひたすら考えていた。
 すると、夕張の母親は再び困った顔をして「ごめんなさい、こんな話しをするなんて。林檎ちゃん? だったかな。これからも夕張のこと、どうぞよろしくお願いします。仲良くしてあげてね。根は素直で良い子だから──」と、それだけ残し帰ろうとしている。
 頭の中ではいくつも整理できないことだらけだ。
 けれど、私はこういう性格だから仕方ないじゃない。

「あの! その袋って夕張くんに渡したかったものじゃないんですか?」

 自分でも気付かないうちにそう口走っていた。

「サークルはヨーグルト研究会+αって言うんです! えっと──だから、ヨーグルトは今も好きです……食べてくれます。喜んでくれます! きっと」

 何をどう伝えたかったのか解らないけど、とにかく引き止めたかった。本当の事情は何も知らないし、またお節介で終わるかもしれない。もしかしたら、私にもできることがあるかもしれない。ただ、それだけだった。

「フルーツ……ヨーグルトなんです。あの子が昔好きだった」

「預かります。私が必ず──夕張くんに渡します! 約束します」

「本当はこういうのやめようって、何度も思ってたの。だから──」

「そんなの寂しいです! 私が、そうしたいんです。お願いします──彼に笑っていて欲しいんです」

 少しの間があいてから、柔らかく微笑んでくれた。

「ありがとう、林檎ちゃん」

「いえ、私のワガママですから」

 今度は本当の笑顔だった。
 私は大切な気持ちを預かることにした。
 当てなんてないけど、もう一度夕張に会いたい。会わなきゃいけないんだ。
 今ならはっきりそう言える。
 どんな形でもいい──少しでも夕張を助けたかった。


 *


 それから私は、大学の構内を闇雲に駆けずり回っていた。こんなことなら変なプライドを持たずに、連絡先を聞いておくべきだったと後悔している。こんなことなら、もっと笑って他愛もない話しをすれば良かった。そんな後悔が胸の内をかき乱しては詰まり、繰り返し問われる。果たして今やっていることは夕張のためになる? 解らない。本当は罪滅ぼしのためなんじゃないの? 解らないよ。自分のやっていることが、誰かの幸せに繋がっているのかどうかなんて、考えたこともなかった。

「お願い! 夕張(ゆうば)が……どこにいるか教えて欲しいの」

 以前、夕張とよく話しをしていた一人の幽霊サークル部員の男を捕まえて話しを訊く。授業が終わり、他の生徒達が通り過ぎていく中で異様な空気を出している私に、どこか怯えているようだ。

「つ、ついさっきまでは一緒に講義受けてたよ。だけど、その後はどこかに用事があるとかで一階の」

「わかった! ありがとう」

 話しを途中で切り上げ、私は残る体力で走り始めた。一階に向かったならサークル部屋の近くを通るかもしれない。そんな気がしたからだ。
 いつもの外回りの道へ向かう。周りを注視しながら走っていると、見覚えある後ろ姿と下駄の足音が聞こえた。反対の方向へ向かっている。大学の構内から出るみたいだ。
 間に合わない。もう無理だよ、走れない。
 だからお願い、気付いて。

『……待ってえええ! 止まってえええ! 夕張──!』

 憩いの場にいるほとんどの生徒が何事かとこちらを凝視している。そして、私は探し続けていた人物をようやく見つけられた。数メートル先で振り返る夕張の姿がはっきりと浮かび上がる。
 良かった……安堵と共に、久しぶりに顔が見られたことへの喜びを感じている自分がいた。


「り、林檎……?」

「──あ、あんたを探してた……」

 完全に面食らっているのか、驚いた様子でこちらを見ている。
 多分、酷い顔をしているんだろうけど構わず続けた。
 早く伝えたいから。

「サークルに来て欲しいの」

「ごめん……それは無理。もう俺は、サークルには行かないよ」

「お願い──今日は、今日だけはサークルに来て欲しいの! ……お願いします」

 こんな風に真剣に訴えることなんてなかった。理由を詳しく話す前に気持ちで訴えるなんて。だって、もとはと言えば夕張が勝手にいなくなるのが悪いんじゃない。気持ちがぐちゃぐちゃだった。今にも泣き出しそうで、喉の奥に力を込めて我慢することしかできない。頭を下げる私をどんな風に見ているんだろう。体勢を夕張の方へ戻すと、目を細めて困ったような顔をしていた。

「行きたく……ないんだ。ごめん」

 たった一言、耳に届く。
 ああ、こうやって人は、傷付くことで知るんじゃないかな。その人が自分にとって特別で、どんなに大切な人だったのかを。夕張の顔をまじまじと見ながら、そう思ってしまった。
 言いようのない時が流れる。
 さっきまでの喧騒は何処へ、といった感覚に襲われてしまう。

「……わかった。突然話しかけてごめん。そういえば最近はね、悠々自適に過ごせてたわ。変な言い争いもしなくて済むから。じゃ、じゃあ──元気で」

 また、思ってもないことを言ってしまった。私こそ呆助じゃない。ほんっとにカッコ悪い。このぶつけようのない怒りや悲しみを、どうしていいか分からないまま、夕張に別れを告げた。これで良いはずがないのに、約束したのに……と、やりきれない気持ちでいっぱいだった。


 *


 日も傾き始めて、また西日が部屋を埋め尽くしている。私は結局、何もできないままサークルへ戻って来てしまった。部屋に備え付けの冷蔵庫を開けると、そこには約束のものが入ったまま。

「泣いた赤鬼……こんな気持ちだったのかな。はぁ──どうしてこうなんだろう」

「赤鬼って……自分で認めるんだ?」

「べ、別にそういう訳じゃない! だけど、いなくなってから気付くこともある」

「ふーん……そう。だけど本来、赤鬼はもっと優しいはずだけどな」

「──ていうか、赤鬼ってあだ名付けたの誰よ! そもそも私は」

「そうやってすぐ怒るから、違う意味で付けられるんだよ、林檎は」

「……ゆ、ゆうばさん? なんでここに」

「そっちが、今日だけは来て欲しいって泣きつくからだろ」

「泣ひついてな──なゃい!」

「それと、俺に用があるんでしょ? なに?」

 冷蔵庫の前で屈んでたから全く気付かなかったけど、紛れもなく本物の夕張がそこにいる。見上げた先にいる懐かしい顔があまりにも近距離で、言葉を噛んでしまった。

「絶対に来ないと思ってた……」

「うん、俺もそのつもりだった。けどさ、林檎の様子があまりにも変だからさすがにね」

「あ、あれは確かにおかしいよね──ははっ」

 さっきの態度、怒ってないのかな? って言うつもりだった。だけど、これから話すことは、本当の意味で怒らせてしまうかもしれないから言えない。だからこそ、約束は果たしたいのだと強く決意していた。

「とりあえず、席に座らない? それから話したいことがあるの」

「──ん、わかったよ。それにしても、相変わらず人来てないなー」


 落ち着いて、大丈夫。ちゃんと渡せる。今度こそ逃げない。
 夕張はいつもの席に座ると少し眠たそうにしている。それだけのことなのに、そこにある風景に色が戻って見えるなんて、可笑しな気持ちだった。決意した私は、無言で夕張の目の前に一つの袋を差し出した。一瞬で彼の顔が引きつっているのが分かる。

「なにこれ、どういうつもり」

 見覚えのある袋なのかイライラしていた。その姿を見て何故だか辛くなり、これまで一方的に夕張の行動を否定し続けていたことを、悔やんでいる自分がいた。だけど、今はそれを考えていても仕方ないことも解っている。

「私はあんたのこと何も知らない」

不思議そうにこちらを見る夕張。お願いだから、聞いて欲しい。それだけなの。軽く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。

「あのね──今日、あんたのお母さんに会った」

「ちょ、ちょっと待った──意味が、解らない。なんで林檎が、母さんに会うんだよ……」

「偶然だったの。前に夕張と親しそうに話してる女の人がここから見えて、気になって話しかけた」

 顔が熱く、恥ずかしくなる。夕張も深い溜め息を漏らしながら俯いている。

「あの時、見てたのか。あーあ……油断してた」

「うん、ごめん。急にサークルに来なくなったあんたが……心配だったの」

 素直な気持ちをようやく伝えることができた。怒りだすことを覚悟していたけど、だんだん張り詰めていた空気が解けていくのが伝わってくる。緊張の糸が切れたのか、拍子抜けなのか、夕張は肩をおろしいていた。私もホッとして気が緩んでしまいそう。
 少し寂しそうな目で、白衣のポッケに手を入れて黙ったまま動かない。その目はやっぱり、夕張の母親に良く似ているなと思う。
 根は優しい子だからと言っていたっけ。
 本当は、私も知っていたんだと思う。

「こんな性格だから、また余計なことしたかもしれないけど──」

「……ごめん」

「なんで謝るの」

「前に林檎が手作りのヨーグルト持ってきた日にさ、酷いこと言ったから。本当はずっと頭の片隅で気にしてた。だけど見ないふりして……そのうちどうしようもできなくなって、うやむやにした。完全に林檎に甘えてたよな、俺──」

「ううん。もう、いいの……もう、いいよ」

 また同じ表情で困ったように笑う。それだけで、胸がいっぱいになった。ぐちゃぐちゃになっていた心に優しい光が差すように、気持ちが溢れそうになる。初めての感情だった。
 多くは語らなくても、二人の間に優しい時が流れていた。
 それから夕張が、目の前にある袋にそっと手を伸ばし中身を取り出すと、その容器の上に小さなメモが乗っていた。

「……メモが入ってる」

「手紙かな」


 夕張はその手紙を、ただジッと見つめていた。何が書いてあるのかは解らないけど、きっと大切な気持ちが書かれているに違いない。私は約束を果たせたのかな。
 人はどれだけ他人の心を知っているんだろう。多分、見えている部分はその人のほんの一部分にしか過ぎないのかもしれない。
 感情を露わにする夕張を初めて見た気がする。本当の事情も、彼にとって何があったのかも知らないけれど。抱えてきたものや想いが大きすぎて、吐き出すタイミングを見失っていたんじゃないかと……そんな風に思えた。


「──ッ──母さん……」

 声を押し殺して、両の頬に涙が零れる。きっと、夕張だって私なんかに見られたくないはずだ。
 だけど、ごめん夕張。私は……嬉しいよ。
 喉の奥で我慢できなくなった想いが溢れてしまう。

「林檎が泣いてどーすんの」

「だって……だって」

 鼻をすすり、フルーツヨーグルトをひと口ゆっくりと運びながら、夕張は何かを呟いた。
 西日に照らされる綺麗な髪の下で、口元は少しだけ口角が上がっている。
 これまで見た中で一番柔らかい表情をしていた。
 そんな夕張を見てしまっては心臓が持たない。
 身体中が脈打つような感覚を私はこの日、初めて知った。


✳︎


 ほどけた時の中で想い出の味は蘇る。
 あの時の夕張は何て言ってたんだろう。「──ん、おいしい」きっとこんな風に言っていたんだと、そう思うことにしてもいいかな。
 すぐには照れくさくて無理かもしれないけど、少しずつでいい、素直になりたい。
 あなたのことをもっと知りたい。
 そう、思ってるから。

フルーツヨーグルト

こちらの作品も構想から年月が経っていましたが、何度も推敲を重ねて完成しました。テーマは恋なのかどうか…な展開ではありますが、必要な部分を落とさずに書けたと思います。主人公は果物に例えたかったので、このような名前に。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

フルーツヨーグルト

青春×センチメンタル×会話劇×ヨーグルト=? 「林檎編」「夕張編」「二人の距離編」「フルーツヨーグルト編」誰かが誰かを強く想う時、些細な願いでもそれは広がっていく。そんな物語です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-04

Copyrighted
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