月のほたる
腰かけられそうな三日月が、そっと在った夜。
橋の真ん中に、女の子もそっと在った。
夜空に三日月がぼんやりと在った夜。女の子は、そっと在った
腰かけられそうな三日月が、ぼんやりと在った夜。橋の歩道を照らす街灯、色だけは暖かそうな黄色の光の環のなかに、女の子は、そっと在った。
初雪がちらつき始めた八時過ぎ。ずりずりと橋を渡っていた私は、橋の中程でその子を見つけた。ピンクのスウェットの上下を着て、欄干に背をあずけてうずくまっていた。年のころは五、六歳だろうか。
「どうしたの? 大丈夫?」
女の子は私の声に反応して顔を上げた。その顔はとても白く、だが、寒さによる冷たい白ではなく、澄んだ中に暖かさを感じさせるような白だった。そもそも、震えてなどもいなかった。
辺りを見回したが保護者らしい人影もないし、車道には行き交うヘッドライトだけで、路肩に駐車している車もなかった。
「お父さん、お母さんはいないの?」
私の問に、これも澄んだ瞳で見つめてくるばかりで、何も答えてはくれなかった。
とりあえず、橋のたもとにある派出所に連れていこうと手を差し出すと、女の子は素直に握ってくれた。その小さな手はとてもやわらかくて、暖かった。伝わる熱が私の身体にじんわりと沁みてきた。
そして、私は女の子を連れ帰ってしまった。
今、自宅マンションの子供部屋で女の子はすやすやと眠っている。ずっとこの子の部屋だったように違和感がない。
なぜ連れ帰ってしまったのだろうか。
派出所には行ったが、パトロールに出ていたのか、警官の姿はなかった。それならば通報しようと携帯を取り出した私の手を、女の子がそっと止めた。私を見上げる澄んだ瞳には意思のようなものが感じられ、重ねられた手からはそれが流れ込んでくるようだった。だから私は言ってしまったのかもしれない。
「おじさんと一緒に来るかい?」
その言葉に女の子は微笑んで、重ねた手をきゅっと握った。
派出所に行く道すがらから不思議だった。手をつないで歩き始めた私は、街灯を三つ数える頃にある変化に気がついた。二年前のあの日から、歩く度に聞こえ始めたずりずりという音が止んでいたのだ。舞い降りてくる雪の欠片のように心持ちが軽くなった気がした。
だから連れ帰ってしまったのだろうか。
私はベッド脇のサイドボードにある写真立てに目をやる。写真の中にあるはずの顔は相変わらず見えない。
「結実、おやすみ」
見えない顔に向かってかけた一言は、暖房がききはじめた部屋に散って消えた。
部屋を後にしてリビングに入ると、私はソファーに身を投げ出すように腰を下ろした。目の前にあるローテーブルの上は、昨夜寝酒したままだ。
洗うこともしないグラスの半分くらいまでバーボンを注ぎ、一口すする。今夜は甘さを纏った香りも味もちゃんとわかる。昨晩までとは別の高級品のようだ。
それにしても、理由はどうであれ立派な誘拐犯になってしまった。親が警察に届け出をすれば、すぐに分かってしまうだろう。立ち寄った派出所、そこから乗ったタクシー、食料や日用品を買いそろえたコンビニエンスストア。それらの防犯カメラには確実に映っている。それに、タクシーの運転手やコンビニエンスストアですれ違った若い男女などは、だいぶ訝しんでいたように思われた。私が女の子に話しかける態度がおかしかったのだろうか? 三十九歳の私といても、年齢的に親子でも違和感はないはずだが。いや、所詮は私がそう思っているに過ぎないのだろう。
そもそも、なぜ女の子はあそこに一人でいたのだろうか? 虐待。そんな二文字が頭に浮かんではいた。しかし、顔には殴られた形跡もないし、痩せ細ってもいない。もちろん、服の下は分からないが。服といえば、全体的に薄汚れていない。ちゃんと洗濯はしてあるようだし、ぼろぼろでもない。肩までの髪も脂ぎってはおらず、ちゃんとお風呂にも入っているようだ。しかし、虐待はそれだけじゃない。無関心。記憶の澱をまとめて形にして、そのまま単語になった。最低限の世話はするが、まったく子供に興味がない親。
私は思わず勢いよくグラスを煽った。さっきまで高級品だった酒は安物に戻っていた。
思考を切り変えたくて、別の可能性も考えてみる。例えば、母子家庭で母親は夜の仕事。いたずら半分で外に出てしまって迷子になった。虐待よりもすんなり落ち着くように思える。女の子には虐待特有の乾いたような悲壮感もなければ、媚びたような笑顔をすることもなかった。眠る前に一緒に食事をした時も、そんな雰囲気は感じられなかった。一言も喋りはしないし、鈍くもあるが、私の言葉への反応はちゃんと温度を感じさせてくれた。虚無感漂う心持ちではないように思われる。それならば……。
いまさらながら、親の気持ちを考えて胸が痛くなった。私もかつては親だったのに……。
同時に、ただ、とも思う。もし迷子であるならば、なぜ私についてくる意思を示したのだろうか? 派出所で私の言葉に対するあの握ってきた手。その手から伝わる確かな意思。
ダメだ。考えても埒がない。結局、単純な話だ。すべきことをしなかった報いは受けることになるだろう。私はこの子の親ではないのだから。
私はいつの間にかソファーで眠り落ちていた。
腕時計を確認すると早朝五時過ぎ。まだカーテンの隙間から陽は漏れてきていない。
伸びをしながら起き上がり、間続きのダイニングへとよたよた歩く。
椅子に投げっぱなしのコートを羽織り、その足で子供部屋へと向かう。
そっとドアを開けて中を覗くと、規則的な寝息が聞こえてくる。ぐっすりと眠っているようなので一先ずは安心する。
私はコンビニエンスストアで地元紙を買いたかった。ひょっとしたら、何かしらの記事が載っているかもしれない。それに女の子の朝ごはんも必要だ。
マンションを出て、一階に併設しているコンビニエンスストアへと歩く。
起きてすぐに気がついたが、今歩いているこの瞬間も、あのずりずりという音はやはり聞こえてはこない。それに、晴れだろうが雨だろうが感じていた空気の粘りけも気にならない。まるで違う世界線に飛び込んでしまったようだ。吹きつける寒風さえも心地よい。空いていた穴をやわらかな光が埋めてくれたようにも感じる。
「ひどいな。この自分勝手さは」
一言呟いて、私はコンビニエンスストアのドアをくぐった。
買い物を終え、自室に戻り子供部屋を確認する。まだ夢の中のようだ。
出たときを逆になぞるように、ダイニングの椅子にコートを引っかけ、そのままリビングへと向かい、ソファーにおさまる。
そういえば、煙草を吸いたくならないことに気がついた。二年前に復活した煙草は、朝の目覚めには欠かせないものになっていたのに。これもあの子の影響だろうか。
私はテレビをつけて、買い物袋から地元紙と缶コーヒーを取り出した。
まだローカルニュースの時間には早いが、ひょっとしたら全国ニュースでは取り上げているかもしれない。
音だけを拾いながら、地元紙の一面から目を通し始める。
確か原稿締め切りは午前一時だったはず。昔読んだ小説にそんなことが書いてあった。それならば、一時前に警察から情報が入っていれば記事になっているかもしれない。
そう思い捲っていくが、全国欄はもちろんのこと、地元欄になってもそれらしい記事は載ってはいない。
まだ事件にはなっていないのだろうか? いや、報道協定というやつか? それなら捜査は始まっているのだろう。それとも……。
嫌な考えが頭をよぎる。
そもそも、警察に届け出はしているのだろうか? 連れ帰っておいてなんだが、そんな親なら、あの子があまりにもかわいそうだ。もし、そうだとしたなら、いっそのこと私の子供に……。その考えに至ったことに愕然とした。私はあの子を自分の子供にしたかったのか? 会ったばかりの子に対して、そんな感情が奥底で芽生えていたのだろうか?
私は頭を振って思考を飛ばそうとした。ちゃんと親元に返してあげなければ。
それでも一度張り付いた思考は中々剥がれてはくれなかった。ちゃんと返すから、罪もつぐなうから、もう少しだけ。せめて一日だけでも……。
そんなせめぎあいをしていたせいで、いつの間にか女の子がソファーの脇に立っていたことにも気がつかなかった。
「や、やあ、おはよう」
とっさに出た言葉にも、女の子は優しく微笑んでくれた。
寝癖のついた髪が跳ねている。まだ眠いのか、眼をこすりこすりしている。
私は見入ってしまった。顔の見えなくなった自分の子供に重てしまった。目の前にあるのは、無くしてしまったが故に、もう手に入らないと分かっいるが故に、ただ諦めと共に渇望するしかなかったものだった。
「お腹すいたでしょ? 朝ごはんにしよう」
こくんとうなずく女の子をバスルームに連れていき、石鹸で手を洗ってあげる。
そういえば、昨晩はお風呂に入れてなかった。ごはんのあとはお風呂だな。いや、その前に歯磨きか。でも、食後すぐよりは三十分程時間を空けた方が良いともいうし。
普段、自分のことはどうでも良かったのに、女の子のことをあれやこれや考えているこの状況に充足感を覚えた。
頼む。少しの間だけでも……。
そんな思いがまた頭をよぎった。
その日、私は会社を休んだ。どうせたまった有給だ。何の問題もない。
女の子は眠っている。ソファーで私の太腿に頭を乗せて眠っている。まだ正午前だ。お昼寝には早すぎる。寝る子は育つというが、それで夜眠れなくなったら困りものだ。
私は洗い立ての髪をそっと撫でてみた。くせのない真っ直ぐな髪は触り心地がとてもいい。私の使っているシャンプーの匂いも、女の子からはまるで別もののように香る。なんというか、女の子の匂いだ。
この気持ち良く間延びした時間を、本当は何の心配もなく過ごしていたはずだった。ただ、普通に過ごしてさえいれば続いていたはずの時間。
二年前の初夏。結実が死んだ。
梅雨があけて、短い夏が始まろうとしていた矢先だった。
前年の十月。私は仕事を辞めて東京からこの地へと家族共々引っ越してきた。大学の先輩が継いだ会社に転職するためだった。市は違うが、私もこの県で生まれ、実家に一人暮らしの母親を考えると近いに越したことはなかったからもある。最初妻は反対したが、役付き待遇で給料が上がるのと、親と同居するわけではないので、最終的には折れてくれた。四歳になる結実にとっても、小学校前ならあまり影響がないとの判断もあっただろう。結実とは一つ約束をした。夏になったら実家近くのほたるが光る川に連れていくと。結実はまだほたるを見たことがなかった。餌で釣るようなとは思ったが、嬉しそうに頷く結実を見て私は安心した。そこで好きな絵を思いっきり描いたらいい。そんな風に思った。
引っ越しを機に、今のマンションも購入した。新天地での滑り出しは上々だったはずだ。
しかし、やがて妻がおかしくなり始めた。秋も終わり、冬に入って年も越していた。最近、疲れた、食欲がないとの言葉が口癖のように出るようになっていた。専業主婦の妻は、結実の幼稚園の送り迎えしか外に出ることはなく、むしろ、なるべく外には出たくないという風にも思えた。そんなこともあり、妻は友人関係を上手く構築できずにいた。そして二月のある日、妻は爆発した。
日曜日だったその日、夕食の準備をしていた妻が、突然叫び声をあげながらテーブルの上の皿を床に叩きつけ始めた。驚き、必死に止めるも、妻はおさまることはなく、しまいには寝室にとじ込もってしまった。やがて叫び声は泣き声に変わり、部屋の外にまで漏れてきた。翌日になって多少落ち着きはしたものの、心配だった私は会社を休み、妻を心療内科へと連れていった。そこでの診断は季節性情動障害というものだった。気候性うつともいうらしい。日照時間が関係しているらしく、それでも冬が終わり、日照時間が長くなる春先以降は回復していくとのことだった。それまでは投薬と日照治療でなんとかなるとの見立てだった。妻は宮崎県出身で、それに比べれば日本海側のこの地ははるかに日照時間が短い。生まれ育った環境の違いも影響したのかもしれない。
私は楽観視していた。しかし、妻は春を過ぎても落ち着くことはなく、梅雨に入るとなおのこと悪化した。それでも梅雨があければと、私はなるべく妻の負担を減らすように努力はした。そんな状態だったせいか、妻は結実にはまったく感心がないようで、加えて私まで結実を二の次に考えてしまっていた。それは、結実は聞き分けが良くて、ある程度のことは自分でできたせいもあるのかもしれない。今にして思えば、甘えたくても甘えられず、仕方なく手間のかからない良い子を演じるしかなかったのだろう。私達は親の顔色をうかがわせていたのだ。
そして、最悪の日がやってきた。決して忘れることのない七月三日。
一日から妻は東京に行っていた。梅雨があけたせいか、幾分回復傾向にあったので、東京の友達に会ってきてはどうかと進めていた。妻は渋ってはいたが、私から東京の友人にお願いして、わざわざ迎えにきてもらい、半ば強引に連れ出してもらった。きっと気分転換になると思ってのことだ。正直、私も息をつきたかったものあるし、会社で立ち上げた新規プロジェクトもあり、そちらに頭も身体も使いたかった。
私はいつものように夕方会社を抜けて、幼稚園に結実を迎えに行った。夕飯の準備をしたら、また会社に戻るつもりだった。急いでいたせいで、結実が何か話しかけてきてもそぞろだった。私はキッチンに向かった。
私の記憶はそこから飛んでしまっている。次に思い出されるのは病院で死因を聞いている場面からだ。転んだ拍子にダイニングテーブルの角に頭を強く打ちつけたのが原因とのことだった。死に顔には傷一つなく、眠っているようだった。急ぎ駆けつけた妻は、私をひどく非難した。当然のことだ。
結実の葬儀が終わると、その日のうちに妻は出て行った。
いつも病院からここまでの場面は、映写機がカタカタと流すモノクロのフィルムのように頭に映しだされる。
しかし、その前の抜けた記憶は、いくら思いだそうとしてもダメだった。そればかりか、結実の顔まで記憶から抜け落ちた。記憶どころか残る写真を見ても、顔の部分だけ認識できなくなってしまった。
私は音量を絞ったテレビの画面を見つめている。幼児が行方不明というニュースは流れてこない。
夕方のニュースでも、深夜のニュースでも流れることはなかった。
結局、私は三日間の有給を取り、女の子と過ごした。その間もニュースが流れることはなかった。不安を抱えながらも満たされた幸福感に浸っていた。
女の子はまったく手のかからない子だった。だから多少の心配はあったが、その後仕事にも出ることができた。待つものがある家の空気は、今まで孤独に暮らしてきた空気を一変させた。寝酒も必要なくなっていた。
あっという間に一週間が過ぎた。それでも行方不明のニュースはまったく流れない。普通なら、あれだけの痕跡があれば即逮捕されているはずだ。やはり、届け出をしていないのか。それならそれでかまわない。
家には女の子のためのものが増えていった。店員に選んでもらった服。読み聞かせの絵本。お絵描き道具。
嬉しいことに私の顔も描いてくれた。そういえば結実は私の顔を描いてくれたことがあっただろうか? もし描いたならばこんな感じだったんだろうか。白い画用紙に三日月が描いてある。そこには女の子が腰かけている。それに向かって、橋の上に立つ私が手を振っている。夜は決して暗くなく、明るい藍色で塗られ、浮かぶ月は白いが、画用紙の白ではなく、女の子の顔色のように優しさを内包したような白だ。絵の才能があるのでは? などと親バカなことも思ってしまう。
「ねえ、夏になったらほたるを見に行こうか? きっときみなら上手く描けるよ」
そうだ。結実とも約束していたんだった。見せてあげたかった。
急に頬を伝った涙を、女の子の短くてやわらかな指が拭ってくれた。
私はそっと抱きしめた。
二週間を過ぎてもニュースは流れない。それならば。休日の今日、密かにしたためた計画を実行しよう。
私は女の子を買ったばかりのチャイルドシートに座らせ走り出した。向かうは水族館。もちろん、絵描き道具も持ってきている。
水族館に着いて入場券売り場に並ぶ。私達の前には十人程が列を作っている。みんな親子連れだ。
午後一の陽射しは冷たく眩しい。珍しい冬の晴れ日。イルカショーは外せないな。
そんなことを考えていると順番がきて、私は堂々と口にする。
「大人一枚と子ども一枚お願いします」
ガラスの向こう側に一瞬沈黙があった。まずい。不自然だっただろうか?
それでも「はい。大人一枚、子ども一枚ですね。合わせて二千百円になります」と返ってきたので、私は胸を撫で下ろした。大丈夫。私達は親子だ。もう本当の親子でいいはずだ。
私達はペンギンの行進を見てははしゃぎ、イルカショーでは最前列でびしょ濡れになり、それで風邪をひいてはいけないと、熱いラーメンをふうふうしながら食べて、海底トンネルでマンタの白い腹を眺めた。その都度女の子は絵を描いた。そこには常に手をつないだ私達がいた。
夕方の五時になると、辺りはもう真っ暗になっていた。
女の子は寝息を立てて背負われている。
起こさないように、そっとチャイルドシートに座らせて、家路へとついた。
出会ってから今夜で、ちょうど一ヶ月経過した。
夕方の六時。もう夜空になっている空を見上げてみると、あの日と同じように腰かけられそうな三日月が、ぼんやりと在った。
雪がひらほら舞い落ちるなか、私は橋の真ん中に女の子をみつけた。欄干に背をあずけて、そっと在った。
あの日と違って女の子は立っていた。そして、私を見つめる顔は嬉しそうでもあり、さみしそうでもあり。
黄色の街灯の環の中で、照らされる雪はまるでほたるのように見える。
「やあ、待っていてくれたのかい?」
近づいて声をかけた私に、女の子はそっと右手を差し出した。
あの日と逆に、今度は私が握った。
その瞬間、二年前の抜け落ちた記憶がよみがえった。結実の顔もはっきりと見えた。その顔は女の子だった。
キッチンに向かう私に、結実は何かを渡そうとするようにすがりついた。私はそれを軽く払った。そう。ほんの軽くだったんだ。ドンッと鈍い音がして振り返ると、結実は倒れていた。結実、結実、と必死に呼びかけても返事はなかった。大きくて澄んだ黒い瞳が、ただの黒に変わっていった。それは幼い頃に見た、飼い猫が死に逝く様に似ていた。
倒れた結実の側には白い紙が一枚あった。さっきまで丸まっていたのか、完全には広がりきってはなかった。それでも見えた絵には、結実を真ん中に、左に私が、右に妻が描かれていた。仲良く三人で手をつないだ絵。
私は叫びだしそうになるのを、必死に両手で押さえた。飲まれた声が黒く渦巻いた。
救急車を呼んで到着するまでの間に、私は絵をキッチンで燃やした。救急車が到着しても、私のせいでこうなったことは黙っていた。私のせいではない。取り返しのつかない恐怖が、私をそんな思いにさせた。
そうだ。私は醜い親だったんだ。
「ありがとう。すべて思い出したよ。きみは初めからなかったたんだね。いや、私の中だけに在ったのかな」
もの言わぬ女の子はふっと消えた。残された握っている私の手が光っている。
手を開くと、その光が澄んだ優しそうな光をはなちながら舞い上がった。
私はそれを追うように手を伸ばした。
光は三日月を目指すように舞い上がり続ける。
ふっ、と私も舞い上がったような気がした。だが、追い求める光は遠ざかっていく。
ドブン。
私をいきなり包んだ水の冷たさが心地よい。
見上げる川面の先で、ほたるが舞うように光の線を描いていた。さらに先の揺れる三日月を円で囲むように。
やっと楽になれる。
私はもう一度、ありがとうと呟いた。
月のほたるに向かって。
了
月のほたる